2018.11.14 Wednesday

プロセスとしての信仰、決断としての信仰(1)

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    先日公開した

     

     

    では、結婚を起点として配偶者が結婚に当たって信者であることが問われることについて、思うところをたらたらと述べてきましたが、Facebook上のミーちゃんはーちゃんのコメント欄では、さまざまな事例が報告されました。

     

    Facebook上のコメントから

    その中で、ミッション系の小学校に入学するために洗礼を受けて、その後、一切教会に顔を見せない事例とか、まぁ、さまざまな事例が紹介されました。こういうのは、キリスト教徒あるいはクリスチャンといえるのだろうかどうか、ということを問うものでした。

     

    まぁ、にわかで始まって、にわかで終わる人(種まきのたとえで言うと、道路の道端にまかれるタイプ?とか)、キャンプに行って信じた気になるものの、キャンプが終わった瞬間に元通り(ミーちゃんはーちゃんのかつての姿w)に戻るタイプ(茨の中にまかれたタイプとか)、本人の努力や意思とは全く関係なく、よき地にまかれてぐんぐん育つタイプとか、まぁ、一口にキリスト者もどき、クリスチャンもどきにも、色々あるわけでございます。さすが、イエスさまだけあってたとえが面白いなぁ、と思いました。

     

     

     

    まぁ、結婚するために信仰者になりたいといって、信仰を全うするタイプの方も見てきましたし、まじめな信仰者だと思っていたら、とんでもないDV夫とかもおられたりしますし、まぁ、世の中、色々なわけで、一般化する危険性も前回の一連の記事の中で触れました。

     

    今回は、ある時間断面できって、観測し、その時点の標準でのみ判断することの危険性を考えて見たいと思います。

     

    プロセスとして生きる中で日々告白する信仰者からの素朴な疑念

    個人的には、信仰というのはプロセスだと最近は思っています。一瞬のある時間軸で切断して、その時点でのみ観測される事実に基づき議論したら、まずい部分があるのではないか、と思うのです。

     

    特に、結婚相手の配偶者を選ぶときにある一時点で、信仰告白(その内実がどうであれ)「イエスを信じた」「イエスを救い主として信じた」と公に表明しているかどうかだけが問題になり、その内実を問わないような側面が決断主義にはあるように思います。実際に、ミーちゃんはーちゃんも永らくそのような決断主義的キリスト教を信徒説教者としての生き方を続けてきました。今となっては、ほとんど黒歴史みないな過去で思い出したくもないですが。

     

    この決断型の信仰告白は、アメリカ系のキリスト教によくみられるタイプのものです。このタイプのキリスト教(これもキリスト教だと思っています)の場合、イエスを信じたということを人前でいうことが何より重要視されている側面があります。このようなスタイルが生まれてきたのは、アメリカでの伝道、宣教と呼ばれる方法が、前回もご紹介したようなウェスレーブラザーズあたりからジョージ・ホィットフィールドを経て、そして、2世の砲のウィリアム・フランクリン・グラハム先輩にいたるまで連綿と続く、野外伝道集会と呼ばれるヨーロッパから新大陸に渡ってきた移民を中心とする非自覚的なキリスト教徒が再び奮起する(リバイバル)するような形で、キリストへの再回帰というか、大人としての明確な回心を表明させるという文化の中ではぐくまれてきたものだと思うのです。

     

    『イエスを信じたといわせたら、一丁上がり』というキリスト教

    KDK神学会という大阪の枚方(『まいかた』ではなく、『ひらかた』、と読みます)市で開かれている牧師信徒の研修会や工藤信夫さんの牧会事例研究会でお世話になっている牧師先生が、その研究会であるとき、こんな話をしてくださったこと(大意)があります。「私たちがやってきた伝道活動、あるいは宣教活動は、何がなんでも『イエスを信じた』と言わせるようなもので、『イエスを信じた』と言わせれば信仰者、クリスチャン一丁上りみたいなものであった」と。それこそ、ラーメン屋さんのラーメンや、あるいは豆腐屋さんの木綿豆腐なのか絹ごし豆腐でもあるかのように信仰者をとらえている側面が、示されるような表現であるようにも思います。

     

    この牧師先生は非常にまじめな方で、非常に良い方なのですが、ご自身の過去の伝道というよりは宣教の在り方を反省して、悩み、迷っておられるお姿を時々垣間見させてもらっています。その方が別の時におっしゃたことで印象的であったことがあるのですが、信徒の方から、「クリスチャンは神様がそばにおられるので、迷ってはいけない、悩む必要のない存在なのだから、先生がそんなに迷ったり悩んだりしないでください」と言われることがある、ともおっしゃっておられました。そんな一度「わたしはイエスを信じる」といったことぐらいで人間は変わったりはしないはずなのですが、どうも、アメリカ型のキリスト教の影響の強い信仰者の方々だと、イエスを信じるといった瞬間に一気に、不動心を持ち、何事にも動じない完璧なクリスチャンの出来上がり、あるいは、牧師は、そのようなキリスト者の範たるべし、というイメージをお持ちの方も少なくないようです。確かに、そういうことを思わせぶりな聖書箇所はあります。例えば以下のローマ人への手紙は、そういうニュアンスを感じさせるかもしれません。

     

    【口語訳聖書】ローマ人への手紙
    12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

     

    神には不可能はない、と書いてあるけれど…

    これって、本当に一瞬にして作り変えられるんでしょうか。確かに、聖書には、「神には不可能なことは何もない」と書いてはありますが、一瞬にして、人を変えてしまうことは本当に、神の方法なんでしょうか。そして、信仰告白した瞬間に、完璧な存在に作り替えられ、その造りかえられた完璧な人間が出来上がるのでしょうか。そして、悩むこともなく、迷うこともなく神の特攻隊のような感じで、様々な困難を強行突破できるタイプの人に代わるといえるのでしょうか。本当に?

     

    でも、福音派界隈を徘徊しておりますと、そのような言説を時々お聞きすることがあります。そして、信仰さえあれば、不可能はない、というナポレオンの発言まがいのようなことをお聞きしたりします。確かに神には不可能はないと書いてありますが、人間に不可能はないのでしょうか。信仰告白したくらいで神と等しいものになるのでしょうか。むしろ、我らは、神の養子に過ぎない、神に受け入れていただいたものに過ぎない、という現実があるのではないでしょうか。

     

    個人的には、上にも書きましたように、キャンプの度に何度も信仰告白しなければならず、キャンプから帰ればすぐ元の木阿弥七日、元の姿に実に簡単に戻るふがいない信仰者だったこともあり、本当にそのような厳しい仮説というか、前提は成立するのかなぁ、と思います。

     

    決断主義の教会からプロセス志向の教会へ移って気が付いたこと

    元々いた決断主義的な教会の中で長らく過ごしてきたのですが、まぁ、その決断主義的な、あるいは断定的な聖書解釈のアプローチを持つ教会の中で、プロセス志向の信仰形態の話をし、さらに、あまり断定的な聖書解釈のアプローチをとらなかったことなどから、かなり、指導方針の対立に巻き込まれ、結局、陪餐停止を総会でご決議いただく、というありがたい目に合わせていただいて、アザゼルのヤギのように、荒野に放っていただき、流れ着くように、かなりプロセス志向の強い現在のアングリカンの教会にたどり着きました。

     

    【口語訳聖書】 レビ記
     16:7 アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、
     16:8 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
     16:9 そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
     16:10 しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。

     

    アザゼルのヤギのように荒野なのか、豊かな乳と蜜の流れる地であったのかは、わかりかねますが、教会を放浪するなかで、様々な伝統的教会の中に同一の心情を持ちながらも、様々な信条の告白スタイルを見ることになりました。

     

    その様々な教派的伝統の中で生きてみる中で、特に、アングリカンの教会で覚えたのは、様々な信仰告白を毎週、声に出していってみることで、自分自身の信仰をもう一度見直してみる機会を定期的持ち、自分自身の信仰のプロセスを見直してみる、何のために、自分が生きるように招かれているのか、ということです。


     

    正教会の信仰告白(ニカイア信仰告白)

     

    ラテン語による使徒信条

     

    アングリカンのチャントによる使徒信条

     

    アフリカ風の使徒信条(ナイジェリアのカトリック教会の放送局製作

     

    現代アメリカ風の使徒信条の内容を讃美歌にしたもの

     

    信条を言う中で、自分の信仰が何なのかを毎週問うというプロセスの経験

    ニケイア(ニケア)信仰告白や、使徒信条、バプテスマの際の告白、などなど、様々な告白を繰り返し繰り返し、季節の巡りに合わせて、教会暦に合わせて、同じ式文を繰り返し読むというプロセスの中に自ら身を置いてみて気が付いた、というよりは、わかったことは、この信仰告白、使徒信条等、毎週自分たちが何を信じているのか、ということを繰り返し、繰り返し言うことで、自分たちが何を信じているのか、ということを確認していく中で、同じ言葉を繰り返す中で、自分たちが何を信じているのかを思いめぐらすというプロセスを経る中で、親交を深めている、ということを経験したのでした。

     

    とはいえ、クリスチャン、イッチョ上り型の信仰の場合でも、確かに受洗教室でキリスト教徒が信じていることを習いますし、また、ウェストミンスター小教理問答集、大教理問答集 アウグスブルグ信仰告白など、それぞれの教派が大事にしている伝統を学ぶが存在しますし、また、日々の説教の中で、キリスト者として信じていることを再確認するわけですが、しかし、「イエスを信じたといえば、イッチョ上り」型の場合、一度、『イエスを信じた』といわせてしまえば、問答無用に一瞬にして、その瞬間に、聖く正しく、完璧な存在になるというような発言をする方々も時にお見掛けしますので、本当にそうなのか、と思ってしまいます。

     

    もう一度、種まきのたとえをよく思い出してみると、植物の成長をメタファーにしているわけですから、そもそも、あのたとえ話自体、プロセス志向であることを示しているように思います。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

    2018.11.12 Monday

    『暴力と人間』の出版記念 対談会の模様がMinistryに掲載されます

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      先月、このブログでご案内いたしました工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会が、宗教と暴力を扱った、次の11月20日発売(たぶん、首都圏では、連休中、地方部では、11月の最終週発売になりそう)のMinistyの記事(番外編)になります。

       

      どんな記事になっているか

      ご参加いただき、ご発言いただいた皆様、ありがとうございました。個人情報や個人が特定されかねない部分を除いた形で、お話し合いの概要が掲載されることになります。あの記念対談会のかなり突っ込んだ議論が、見事にエッセンスだけ抜き出された記事になっていました。本当に、ここまでしていただくのは大変だったと思いますが、ただ、ちょっと当日も強調し忘れたことがあったので、ここで、もう少し触れておこうか、と。

       

      というのは、オウム事件というのが、キリスト教と必ずしも無縁でない、ということでございます。いや、むしろ、オウムが抱えた特殊な終末観とオウム自身の組織的な構造が実は、キリスト教会でも見られうる、ということについてです。

       

      オウムの終末思想

      オウム真理教はある時点から、非常にキリスト教の影響をその教義の中に取り込んでいきます。そもそもは、インド風のヨガグループとして始まった「オウム神仙の会」がオウム真理教になり、真理党という政党まで結成し、国政選挙に打って出てたものの、全員泡まつ候補扱いを受け、惨敗し、その挙句の果てに、ポアと呼ばれる転生を善行とみなし、さらに、武装革命・暴力革命まで夢見るようになり、サリン事件やVX事件まで、引き起こしていったわけです。

       

      日本の新興宗教、新新宗教によくみられるように、これまでの既存宗教の教義を自分たちに都合よく取り込みつつ、その教義を形成しており、末期オウムの時期には、「キリストのイニシエーション」という表現や、「キリスト宣言」という本を出したり、武装革命を正当化するために、メギドの丘、というヘブライ語由来の黙示録中の表現「ハルマゲドン」まで言及するようになりました。

       

       

      オウム真理教が出したキリスト宣言

       

       

      オウム真理教の関係者が出したハルマゲドン

       

      1990年代という時代

      ちょうど、ミーちゃんはーちゃんは、大学生時代に世田谷道場がテレビで報道されていましたし、大学院にいたころには、ちょうどオウム真理教が真理党を結成したような時期がございました。その後、関西の学校に奉職して、しばらくしているうちに長野サリン事件、VX事件、そして、警視庁長官狙撃事件、上九一色村のサティアン一斉捜査がおき、なんだかきな臭い時代になったと思っていたら、みなと銀行の前身の金融機関や、木津信用金庫の経営破綻問題に端を発した、金融危機が起きたので、のんびりとこの問題を考えている暇がなくなり、都市銀行が、あれよあれよというまに、4行にまで減ってしまいました。

       

      まさに、2000年前後というのは、日本の金融機関にとって、ハルマゲドンか、終末キタ〜〜〜〜という感じであったわけです。その傷は、いまだに完全に癒えておらず、現在でも日本の商業銀行、間接金融機関の融資姿勢は、非常に(より正確に言うと、異様に)慎重な雰囲気があって、いくら日銀が空前絶後の金融政策で、実質上のマイナス金利で日銀券を市中銀行にばらまいても、一向に融資に回らずに、せっせと国債買いまくるという実に不健全な金融ビジネスが、都銀は、最近収まりつつあるものの、第2地方銀行協会加盟行ではいまだ有力な投資先になったまま、という状態になっているようです。詳しくは、こちら。

       

      オウム真理教とキリスト教会の構造の類似性

      オウム真理教とキリスト教会とは、似ても似つかぬ存在のように思えますが、教会内部を見ていると全く類似性がないか、というとそうでもないところがないわけでもないように思います。もちろん、カルト化したキリスト教会では類似しているのはある面当然なのですが、必ずしもカルト化しているとまで言えなくても、似ている部分があるように思うのです。

       

      それは、承認を人間である身近に存在する人間に過ぎない宗教指導者に求め、そして人間を神格化してしまう、という部分です。オウムの場合は、先にも紹介した画像で紹介いたしましたように、麻原彰晃を尊敬するあまりなのかどうなのかはわかりませんが、キリスト、救世主、メシア扱いしてしまっています。

       

      オウム真理教の場合、高弟たちの間で、麻原彰晃の寵愛というよりは麻原彰晃からの評価を求め、より過激な行動やプランを目指すことで、教団全体の行動が過激化した部分があったと思います。一種の集団ヒステリーと言いますか。より過激なアイディアや行動をすることで、指導者からの評価を受けるために目立とうとするという。

       

      これは、キリスト教会でも起きかねないことではないか、と思うのです。例えば、信徒が競い合うように奉仕し、その挙句の果てに、奉仕が過激化するとか、あるいは聖書を読む分量を競い合い、心にも、魂にも、頭脳にも何も残らないまま、どこまで聖書を読み進んだかを競ってみたり、そういうことが起きている教会もないわけではないと思います。もちろん、大半の教会は、そんなことは全く無関係にただ単に、キリストに生きていることを喜んでいる人の集まり、という側面のほうが強いのですが。

       

      一般社会でもある過剰適合

      とはいえ、似たような現象は日中戦争時に起きています。国家への忠誠をお互いに競い合うようになり、不埒だと思った市民に集団いじめまがいの行為に及んだり、現在のPTAでも、PTAへの関与がどんどん過剰化して、PTAの本来の目的が忘れられているかのような、PTA活動が目立つ組織もないわけではないようです。

       

      なぜ、これが起きるか、と言われれば、現代社会の中での過激化の場合、社会相互の中での相互評価、社会の中での承認要求の歪んだ表れが、このような結果を生むように思います。

       

      ではどうすれば?

      このような結果となるのは、多分、我々が人の目を過剰に意識しすぎ、神の目を過剰に意識していなさ過ぎている部分にあるように思うのです。その意味で、我々が、人の目を意識して何かをするという習慣を手放す必要があるように思うのです。その意味で、もう一度、キリスト者がどのような存在であるのか、ということを自分自身に問い直してみる、ということが必要なのではないか、ということを考える必要があるのかもしれません。その部分は、この雑誌の記事でも、きちんと拾ってくださっているので、ぜひ、その部分をお読みいただき、お考えいただければ、と思っております。

       

       

       

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      2018.11.09 Friday

      クリスチャンn世代の若者からのお願い(16) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その4(完結)

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        今日は、松谷編集長の発言に基づきつつ、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

         

        松谷編集長のつぶやきから

        特に松谷編集長のツィートというか、Facebook上に残したコメントの最後の部分は、とても、大事なことだと思うのです。特に宣教にとって。その部分をまず紹介したいと思います。

         

        そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。  (2018年10月1日)

        さて、これを読んで何を考えたか、についてお話してみたいと思います。

         

        しゃべってなんぼの、これまでの日本の

        かなりの部分のプロテスタント系キリスト教

        これまでの日本のキリスト教は、宣教師を通して、ことばを通して、そして口から出る表現を通して指し示されたキリストにより、多くの人々にキリストを伝えるということに慣れ過ぎてきてしまっていると思います。宣教とは、あるいは伝道とは、とにかく何をさておいても、しゃべることであり、宣教することであり、証(お証 これは気色悪い言葉なので、何とかならんかと思っていますが)にせよ、聖書公開にせよ、聖書の解説にせよ、とにもかくにも言葉を使って指し示すこと、もう少しいうと、ことばを使って指し示すこと以外にはない、という状態という傾向にあったわけです。

         

        特に、ドイツ・オランダを経由して、米国から入ってきたカルヴァン系教会・英国ないし北米大陸を経由して入ってきたメソディスト系の様々の教派やの教会群においては、この言葉による宣教が重きをなしてきた部分があります。言い過ぎを恐れずに言えば、ことばによる宣教のみを、宣教としてきた部分があります。特に、米国系の教会では、ウェスレーブラザーズやホィットフィールドといった天幕伝道、大衆伝道の系譜があり、それなりに多くの人々にキリストを指し示すことができた経験もあるので、日本でも、同じメソドロジー(このメソドロジーのもとになった、メソッドという言葉がメソディスト(元はあだ名)の名前の由来)がそのまま流用された部分があると思います。この伝統に載っている人物が、最近亡くなられたビリー・グラハム先輩です。

         

        ウェスレー・ブラザーズ(ジョンとチャールズ イオアンとカルロス)

        http://www.patrickcomerford.com/2013/03/with-saints-in-lent-19-john-and-charles.html

         

        ジョージ・ホィットフィールド http://www.pbs.org/godinamerica/people/george-whitefield.html

         

         

        両手の上げ方が、ホィットフィールド先輩そっくりなビリー・グラハム先輩の銅像

         

        こういう絵面を見てしまうと、聖人のイコンに香を振りかけるのと何がどう違うのかがよくわからなくなる…

        https://www.scmp.com/photos/today-photos/2134344/life-and-times-evangelist-billy-graham より

         

         

        その結果、宣教にせよ、証と呼ばれるキリストを指し示す行為も一種の言語的な行為、コミュニケーション行為に終始し、実践面は、まぁ、二の次、三の次であるかのように取り扱われ、「くらえ、御言葉攻撃」や相手に考える隙を与えないような説得の技術に満ち満ちた「言葉による、信じたといわせるための説得攻撃」が第1義的な伝道方法になってきた部分があります。

         

        でも、本当にそうでしょうか。本当に。… あるいは、それだけでいいのでしょうか。本当に?

         

        まぁ、その辺は、個人の方それぞれの信仰の形、最初に出会ったキリスト教徒の出会いですから、そのままとどまるのも一つ、また、聖霊の風を受けて沖に出てみるのまた一つ、教会から追い出されるようにして出さされるのもまた一つの在り方ですし、まぁ、いろいろなありようがあると思います。何せ、皆一人ひとり違って創造されている被造物なのであって、マクドナルドのハンバーガーや、量産されているカローラとはわけが違うのですから。

         

        ことばだけに依存しない部分も少なくない伝統教派

        元々、ガチ系のプロテスタント教会にいて、ガチ系の福音派の教会にいた人間だったわけですが、アメリカにいったころから、多様な教派的伝統の教会に触れ、そして、工藤信夫さんの主催する牧会事例研究会、関西凸凹神学会での、牧師さんや神学生の方々、様々の信徒さんとの交流をとおして、そして、過去の自派の教会の調べるうちに、様々な教派的な伝統を調べることになり、アングリカン(日本では聖公会)、カトリック、正教会までさかのぼってみると、伝統三教派と呼んでいる、正教会、カトリック、アングリカンなどでは、説教や言葉による宣教というよりは、神の国は力にある(口語訳聖書 コリントI  4:20 ”神の国は言葉ではなく、力である”)というタイプの宣教(もちろん、それには、植民地的な支配や宗教的支配による暴力といった、悪い面を過去含んだことも多々ありますが)や、儀式やイコン、教会堂という建物といった非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)が多用されてきたことを知るようになりました。そして、多くの『神の国は力である』と示した信仰上の先輩たち(それを聖人ないし聖徒という)とその行為を象徴するブロマイドのようなイコンに込められた意味を知るにつれ、本当に、宣教は言葉主義でいいのかどうなのか問題が課題になってきた部分があります。

         

        キプリアヌス先輩のイコン https://denzingerbergoglio.com/quien-juzga-a-francisco/san-cipriano-de-cartago/

         

        実際、下部で紹介するロドニー・スタークの『ローマ帝国とキリスト教』という本では、初期のローマ帝国からの度重なる圧迫あるいは迫害で抹殺されそうになったキリスト教が生存可能であったわけは、信者のコミュニティで、当時の弱肉強食の論理が支配したローマ帝国内で、打ち捨てられて、死んでいくのが当たり前であったような、病者、行き倒れ、社会から排除された人々の具体的ケアを行うことで、これらの人々が元気になり、力を取り戻し、奇跡のように社会復帰していくのを見た人々が、何らかの魔法、奇跡的なパワーがキリスト教にあると思って、自然に吸い寄せられてきた可能性を指摘しています。

         

        つまり、カトリック教会や、正教会などの伝統というか、これらの系譜に属する聖人たち、あるいは聖徒たちは、もちろん言葉による宣教もしたのではありますが、それと同時に、実際に人々に教会に力があり、本当の困難からの解放があることを示したのです。また、迫害の中でも存続していくことで、そこに何らかの価値があることを示し続け、そして、多数のキリストに倣った聖徒(聖人)を生み出していきました。そして、単なる概念や宗教的行為の体系に過ぎない、ということではないことをそれぞれの行動を通して、証というか、実証していったといえようか、と思います。その伝統とその理解は、これらの3教派には、かなり強く残っています。もちろん、ローマ帝国の宗教となることで、コンスタンティヌス型キリスト教として、支配者、支配する側の論理として機能した、という側面を忘れてはならないとは思いますが。

         

        つまり、ローマ帝国で何度も抹殺されそうになりながら、サバイブできたキリスト教は、内面的に、また、外面的に、多くの人々が、「これは何?」と思うようななかなか魅力的なものを持っていたと言えると思います。そして、なかなか魅力的だからこそ、スタークの本の副題にあるように、ローマの辺境のユダヤの、さらにその辺境のユダヤの片隅であるガリラヤで生まれた「小さなメシア運動が帝国に広がった」のだと思います。もちろん当代一流の修辞家としての側面を持ったパウロ先輩がいたとか、という側面がありますが、それ以外のキリスト者全員がレトリックに富んだ論理構成ができたわけでもなく、それでも広がったのは、多くの人々がキリスト教とキリスト教徒の集団を「なんか魅力的」と感じたからに他ならないように思います。

         

        今のキリスト教会は魅力的か?

        仲良くしていただいている海外に在住している日本人向けの伝道団体で奉仕しておられるZumZumさんという方がおられるのですが、その方とこの前、京都でご飯食べながら、そして、お茶しながら散々しゃべっていたのですが、海外に出た非キリスト者の方々が、教会に行って、その教会の美しさ、そして、そこにいる人たちの魅力に惹かれて、教会に行くようになる、というのです。

         

        もちろん、海外にいると、日本でその人たちが持っているような友人、家族という人間ネットワークがはぎとられ、その人が本来日本国内で持っていたはずのソーシャルキャピタルが完全に失われてしまうために教会に来る人々もいるのですが、ZumZumさんが言うには、自分たちは、困っているから教会に来るのではない、自分たちは困っているわけではなく教会に来たいのだ、ということを言う人々がいるそうなのです。教会とそこにいる人たちと、そこで行われていることが麗しく見えるからこそ、教会に来ているのだ、というのだそうです。

         

        ある面、これって、本来的な姿のような気がします。つまり、リアルな実際の姿による、生きていることを通しての、教会に集まっていることを通して何かが著わされていることによる宣教が行われている、ということなのではないか、と思います。

         

        N.T.ライトさんのある講演動画で、ライトさんが、ダラムのビショップだったころ、ロンドンで働いているの娘さんがそのお友達を連れてダラムのカテドラルに来て、内部を案内したところ、教会にもあまり言ったことのない金融機関かなんかで忙しく働いている女性の方がカテドラルの美しさに触れて、ボロボロ泣き出した、というエピソードを聞いたことがありますが、美しいこと、麗しいことが人の心を動かし、そして、そのことがキリストに目を向けさせることもあるのだというお話をしておられましたが、さて、日本の教会は、果たして多くの人たちに美しいものとして映っているのかどうか、魅力的なものとして映っているのかどうか、行きたくてたまらないものと映っているのか、観光地の一つとして考えられているのか、どうなんでしょうね。

         

        「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

        ダラム大聖堂の内部

         

        「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

        ダラム大聖堂の天井(世界遺産らしい)https://www.durhamworldheritagesite.com/architecture/cathedral より

         

        その辺、これからのポストモダンの時代、ポストコロニアルの時代に向かっていく日本社会の中で、個別の教会が、そして、個別のキリスト者が、きちんと考えておくことは必要なような気がするのですけれども。

         

        誰だって、美しい、麗しいと思えばマネしたくなるわけです。美しいものは、レールを自分で引いてでも、そこに行きたくなるわけであって、本来行きたくないところにひかれたレール通り、過去の誰かがこれがキリスト教だと思うところに向かっての相当前にひいて、ずいぶんがたが来ていて、ガタゴトいう運行しずらいレールの上を半ば強制的に、無理矢理に走らせるのは、もう、皆さんおいやだと思っておられる方が多いからこそ、日本の教会に若い人がいつかない、という側面は本当にないんでしょうかねぇ。

         

        海外から帰国したキリスト者として日本の教会に来る若者が定着しきれない原因としては、日本の教会の信者さんとその信仰者としての姿がいかに美しくても、また、その教会の礼拝のスタイルがいかに美しいものであっても、日本の教会が自分たちの教会のやり方にこだわったり、信仰者としてのあり方や姿、礼拝のスタイルに拘ったりして自分たちが走ってきた大分時代遅れになっている運行しづらいレールの上を走れと言って、新しい世代の礼拝の姿を一顧だにしなかったり、そのような自分とは違う礼拝のスタイルを持つ人々を異物視したり、自分と違う信仰スタイルを持つ人々を受け止めてない部分はないでしょうか。

         

        教会の話ではないですが、アメリカの大学の環境科学の大学院で教えていたときのことです。ある自然保護団体にある日本語に問題がない日系アメリカ人が夏休みにその団体の活動に参加しようとしたら、その日本の環境保護団体から、「一見さんは困ります。自分たちのやり方を自分たちは続けたいし、他の文化的背景の人々を受け入れたくありません、自分たちの文化は変えたくないので、参加はお断りします」というお断りが来て、ご相談に乗らざるを得なかったことがありますが、それと同じようなことが日本の教会にはないでしょうか。

         

        ナウエンの書籍から

        この前の牧師さんとの研究会で、ナウエンとガフニーの『闇への道・光への道』とうい本の一部をご紹介したのですが、その中にこのような一文がありました。

         

        最大の関心は、利潤にあり、という社会では、高齢は一般的に名誉あるものとはされない。なぜなら、真の名誉とは何かを考え出したら、この社会を調子良く動かしている価値の序列が崩れ始めてしまうからである。(中略)こう考えると、時として、権力を握っている人々が差別という運命を逃れるため、それまで持っていた財産、権力、影響力をなんとしてでも保ち続けようとするわけがわかるであろう。抑圧される側でなく抑圧する側になろうとしているのだ、教会や国家で権力の座にある老人たちがしばしば必死で、時代遅れの観点やふるくなった習慣に固執して、真の成長や発展をさまたげているのを見て、「ほんとうのところ、権力と自己が一体化してしまったこの人々は、この業績第一主義の世界で自分に残されたたった一つの、どうにか通用する手段にしがみつくことで、自己の連続性を保とうとしているのではないか」と考えても、外れてはいないだろう。この人々も、社会的には運に恵まれなかった同世代の人々同様、老年の犠牲者と言えよう(ヘンリー・ナウエン ウォルター・J・ガフニー 『 闇への道 光への道 年齢(とし)をかさねること 』原みち子 訳 訳 p.31)

         

        日本の教会が全てそうだとは言いませんが、一部の教会では、業績第一主義に縛られ、教会という小さな社会集団内でのみ唯一通用する手段にしがみつくことで、自分とは違う価値観を持つ人々の犠牲の上に自己の連続性を保持しようとしておられないことを心から望みたいと思います。

         

        厳しくても、美しいと思えば、大変でも価値があると思えば、人はそれに積極的に関与していくのではないでしょうか。その価値の源泉を抜いて、これがレールであるからこの上を問答無用で走れ、というようなことを教会がしていないことを、心より願いつつ、この連載を終わりたい、と思います。松谷編集長のその逆もまたしかり、ということは、そういうことかもしれないなぁ、と思いました。

         

        ということで、一旦この4回で、この連載は終了します。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        評価:
        価格: ¥ 3,456
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:数理社会学的な観点から、ローマ帝国下の初期キリスト教の存在を実証的に暑かった良書

        評価:
        ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
        ---
        (1991-12)
        コメント:いい本なので、再販されることを願いたい、と思います。

        2018.11.07 Wednesday

        クリスチャンn世代の若者からのお願い(15) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その3

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          前回、近代社会は、一般化すること、とにかく何でもかんでも平均値で議論することをやりたがる、ということをちょっとお話してみましたが、その背景には、実は、近代社会においては、数量が問題であった時代でもあったという背景があるようにも思うわけです。それは、特に戦争の遂行と深くかかわっています。

           

          古代の軍事作戦と騎兵

          特に、近代戦では、従来の騎士と歩兵が活躍した時代と比べ、一斉行動による集団戦闘行為の成否が戦闘及び戦争の成否を決める時代でありました。もちろん、イスラエルの民とペリシテの民の戦争では、現代の戦争とは異なり、集団戦闘行為というよりは、騎士による一騎ごとの闘い、あるいは軍事行動ユニットごとの代表的な人間同士(例えば、ダビデとゴリアテのような)の戦闘が、戦闘の成否を決めたこともある時代でもありました。

           

           

          ヘブライ語のWikipediaのダビデとゴリアテ ツィツィアン作

          https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%92%D7%95%D7%9C%D7%99%D7%99%D7%AA

           

           

           

          カラヴァッジョ ダビデとゴリアテ

          しかし、何でイタリア絵画はこうもグロい絵面が好きなのか…と正直思わないでもないですね。

           

          中世の戦闘でも、騎士の一騎打ちなどに診られるように、代表選手の戦闘が、戦争の雌雄を決するという側面が多少ありました。古代から中世の軍隊は、歩兵と騎兵を中心に構成され、特に騎兵は極めて機動力が高い戦闘集団であったために、会戦などの大規模戦闘行為においては、その利用の上手下手が戦争の行方を決するほど、非常に重要な役割をしたのでした。

           

          中世における騎兵 
          https://www.brushwiz.com/catalog/stanislaw-chlebowski-battle-of-varna-oil-painting-reproduction-17086/

           

          とはいえ、古代から中世における大軍事作戦はほぼ歩兵によるグループごとのグループ単位の戦闘の寄せ集め型の戦争であり、歩兵の大軍団と歩兵の大軍団の集団的衝突を逐次行うような大会戦型の戦闘が平原で行われることがありました。

           

          この当時の騎兵は、今の戦車部隊、あるいは、高速でかなり自由な移動ができるヘリ部隊のようなものなので、戦場への投入に備えて待機している歩兵部隊の陣形突破や敵軍の歩兵部隊の集団的軍事行動を撹乱するために用いられていました。この騎兵の扱いがうまくて有名だったのが、古代ではアレキサンダー大王や中国史では項羽だったりします。

           

          グラニコス川の戦い(アレキサンダーVSアケメネス朝ペルシャ)

           

          騎兵のことを、現代の英語で、cavalry といいますが、現代の騎兵部隊に相当する存在は、ヘリコプターに乗る部隊か、戦車にのる部隊のことを指すようです(なんか村上先生受けしそうなネタになってきた)。これで最も有名なのが、地獄の黙示録という映画で、ヴァルキューレを大音量で流しながら登場する航空機兵隊の姿かもしれません。

           

          現代のアメリカの航空機兵隊 Air Cavalry

           

          地獄の黙示録の航空機兵隊

           

          現代のアメリカ陸軍の装甲騎兵隊 

           

          装甲騎兵 ボトムス(騎兵つながりのおまけ)

           

           

          ちょっと話が別方向に行き過ぎてしまいましたが、第1次世界大戦以降の総力戦では、それまでの戦場への逐次投入に変わり、歩兵の数と大量の歩兵が一斉協調行動を取ることが何より重要だったのでした。まず、砲兵が砲弾を雨あられと敵陣にぶち込み、その着弾の硝煙の消えないところに歩兵が集団で突入することで、敵の不意をつくというのが、第1次世界大戦及び第2次世界大戦初期の戦闘方法でもあったわけです。このような攻撃スタイルはドイツ陸軍の得意とする戦闘スタイルだったようです。

           

          一斉協調行動が重要だった時代と教育

          この敵の不意を衝くために、同じような兵隊からなる歩兵部隊が、一斉行動できるように訓練することが、第一次世界大戦以降の基本的な軍隊の基礎教育でしたし、そこでは、全員が同じ行動、一斉行動を問題なくできるようにすることが重要だったわけです。そのために、平均的な人間の能力や平均的な人間の行動パターンを計算し尽くし、全員が平均的に行動できることが望ましかったわけです。このあたりのことは、最下部の本の中のリスクという本の中に書いてあるので、よろしければ、どうぞ。

           

          そのために、国語教育、数学教育、軍事教練などが学校教育の一環として行われましたし、そのために社会統計という方法論ができたのです。そういう意味で、我が国での小学校や尋常学校での教育は良き兵士になるための軍隊のミニチュアとして始まりましたし、帝国陸軍は、おとなになるための一種の教育機関の役割を果たし、職業教育機関として機能した部分があったのです。

           

          そして、その社会的文化背景は、戦後の日本の経済成長を支えた産業戦士の世界に持ち込まれ、協調行動と一斉行動の基礎的訓練を求める事になり、それが、ミーちゃんハーちゃんの大嫌いなマスゲームや組体操の世界でもあるわけです。まぁ、朝鮮人民民主主義共和国では、これがまぁ、気持ち悪いくらいにできるのは、中華文化の影響なのか、アジア共通の文化なのかは、よくわかりません。

           

          朝鮮人民民主主義共和国のマスゲームを見る大韓民国の訪問団

           

          ところが人間は一人ひとり違うんで

          しかし、少し考えてみればわかりますが、実は人間は金太郎飴のような同質的な存在ではありません。金太郎飴だって、よくみれば、実は一つ一つ違ってはいます。一個一個の金太郎あめをよく見てみると、果たして同質と言えるかどうかは、かなり難しいかもしれません。

           

           

          「金太郎あめ」の画像検索結果

          金太郎飴

           

          金太郎あめ以上に、人間はひとつひとつ違います。教育も違えば、家庭環境も違うし、能力も違えば、性格も違うのではないでしょうか。味覚も違えば、音楽の趣味も違いますよね。日本では、割といわゆる”日本人”(何が日本人なのかは議論し始めると収束が付かなくなりがちですが、多くの人々がこれが日本人だと思っておられる人々の集団に属する人々)の割合が多いので、異なる人々(異人さん)と出会う機会は過去は、すくない状態にありました。そして、かなり均質性が高いと人々が思う社会ができていった訳です。しかし、この時期の京都に行けば、実に多様な国から来られた人々で満ち溢れていますし、大阪のなんばに行ったり、新宿に行っても、様々な人々に出会う時代になりました。

           

          さて、先にお話しましたように、一人ひとりは実体的にはかなり違うようにおもいます。とはいえ、軍事行動をする上では、みんながてんでばらばらに勝手に動き始めると、非常にまずいので、近代戦では一致行動、一斉行動させる必要がありましたし、さらに敵味方の判別を容易にするためにユニフォーム(いわゆる制服)が用いられていき、そこにその国の文化があらわれる、という構造がみられました。

           

          第1次世界大戦の塹壕戦の再現動画

           

          日本の学校でも会社でも、制服を着せることが多いですが、アメリカだと一般のメーカーの製造ラインの社員さんや銀行の受付のお姉さんが同じ服を着ている、ということはあまりなかったりしますが、日本では、レジのお姉さんから、ホテルのフロント、銀行の窓口に至るまで、制服の人ってものすごく多くって、同化圧力の強さを非常に強く感じてしまいます。

           

          それは、教会でもかなり似通った構造を持っていて、礼拝の時の参加者の行動パターンでの高い同質性が追及されたり、同一行動、斉一行動をとることをよしとする文化が教会の中にも、あるのではないでしょうか。たとえば、アーメンの言い方であったり、聖書の読み方の独特の抑揚であったり、あるいは、祈りの時の相槌の打ち方、祈るとき手の組み方、もう、言い出したら数え切れません。単に、過去の誰かがある独自の行動パターンを始めて、その行動パターンがほかの信者さんに電波拡散して、その教会のなかで広まり、なぜ始まったのか、だれが始めたのか、なぜそうするのか、といった由来は忘れられても、スタイルだけが残り、過去そうであったから、今もそうであるべき的な過去のスタイルに現代の人を縛るような部分というのはないでしょうか。

           

          産業化時代の思想に閉じ込めないで

          これも、クリスチャン同士の結婚の問題でもいえるように思うのです。確かに、不信者と釣り合わぬくびきを負ってはならない、という言葉は確かに聖書にあります。それを根拠に、日本にキリスト教が持ち込まれた当時の西洋のスタンダードと同じ行動パターンをそのまま持ち込もうとした部分があったように思うのです。そして、みんなが同じ行動をとるのが良い、という産業時代の構造がそのままキリスト教界に無批判に持ち込まれ、信徒たるものすべからく結婚でも何でも、個別特殊性をベースに考えるのではなく、一般性、共通性の追求という形で考えられはしないでしょうか。

           

          不信者と釣り合わぬくびきというのなら、くびきはもともと複数の牛馬が繋がれて、仕事をなすために使うということを考えますと、結婚よりも、仕事を一緒にすることのほうが、フィットするように思うのです。実際中世のカトリック教会が支配的であり交易が少なかった頃のヨーロッパでは、その様な習慣があったようです。

           

          そうなると、不信者と釣り合わぬくびきを追うというのは、不信者と一緒に共通行動をとり、企業の生産行動に組み込まれるための社畜になることなんじゃないですかね、とも思いたくもなります。不信者と一緒に働くことというのは、不信者とくびきを負うことにどうしてならないのか、ということを考えてしまいます。

           

          「社畜」の画像検索結果

           

           

          たしかに、日本の伝統社会の非キリスト的な特異性というのはあり、前回お話しした日自覚的な日本の宗教感覚の中で生きている人達は、11月には七五三という宮参りをし、1月か、その直前の12月には、成人式(昔は藪入りといった)をして過ごしました。誰かが親族がなくなれば、仏教式で葬儀が行われ、一人一人が死者のために、お経を読むと長くなるので、亡くなった方が化けてでないように般若心経なりなんなりの仏教典を参列者一人一人が読み聞かせる代わりとして、お線香をあげることをこれまた強いられるのが、日本社会の現状でもあるわけです。

           

          そういう非キリスト教的な雰囲気が支配的であることと直面する回数が、確かに非自覚的な日本型の宗教感覚を持った配偶者との結婚で増えることは確かですし、その時に厳しい決断を迫られることは確かです。その意味で、かなりチャレンジングなことだからと言って、キリスト者でない人との結婚それ自体を、神に逆らう反逆行為であると、全知全能ではない一介の人間が判断することの適切さはどの程度あるかと言われると厳しいのではないかなぁ、と思います。

           

          「あなたと私は違うんです」発言は、偉大

          あなたとは違うんです、で有名になり、その発言を描いたTシャツまでできた政治家の方がおられまして、多くの方がこの政治家の方のように、自分自身を客観的に見ることができるかどうかはよくわかりませんが、この発言はある意味、すべからく人は同じであるという現代社会が暗黙に持っている前提に対する警鐘をお鳴らしあそばした非常に偉大なご発言だと思います。

           

          あなたとは違うんです とご発言になったそのシーン

          「あなたとは違うんです Tシャツ」の画像検索結果

          あなたとは違うんです Tシャツ

           

          そもそも、神がユニークに一人ひとり異なって関与しておられる以上、十羽ひとからげに、一律で取り扱うことに、そもそも無理があるのと同じように、人生にしても、結婚にしても、就職にしても、一人ひとり本来違う姿というか、それぞれの結婚生活のありようがあるはずなのですが、どうも、日本では、集団的同化圧力の関係からか、一律化の傾向を無理から方向づけるような圧力がかなり強くかかり、ごくごく一般化、単純化して考える傾向はないでしょうか。

           

          つまり

           

          「クリスチャン同士の結婚が問題が少ない」

           ⇒ 「クリスチャン同士の結婚が望ましいことが多い」

           ⇒ 「クリスチャン同士の結婚がすべてであり、それ以外は認められない」

           

          という結婚を取り巻く、ちっと拡大解釈チックな論理が展開してしまっているように思うのですが、その背景には、どうも、この産業革命以降、近代の大量生産、大量消費が一般化した社会の通念というか、社会一般の論理構造の粗さがよく表れているように思えてなりません。

           

          人それぞれ、上の政治家の方のご発言にある通り、「あなたとは違うんです」ということができるのが、ポストモダンの時代の現代的な姿なのではないか、と思うのです。そして、他者の在り方や生き方について、かなり強引な一般化してブルドーザーで地面を踏み均してしまうような論理に異議を唱えることが可能になった時代かもしれません。

           

          次回、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

           

          最近茨城空港で、ガルパンがあちこちに転がっていたのを目の当たりにしたためか、なんか、今回は、ミリヲタまたはプラモヲタ向けの記事になってしまいました。

           

          Hajime Kawamukaiさんの写真

          痛車仕様のタラップカー

           

          Hajime Kawamukaiさんの写真

          茨城空港の出発ロビーの通路の展示コーナーで見たプラモ

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          ピーター バーンスタイン
          日本経済新聞社
          ¥ 771
          (2001-08-01)
          コメント:統計や確率の背景を記した一般向けの読み物

          2018.11.05 Monday

          クリスチャンn世代の若者からのお願い(14) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その2

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            前回の記事では、松谷編集長のツィートから、考えたことをお話してきました。未信者と呼ばれる、非キリスト教徒あるいはノンクリスチャンとの結婚のこと、離婚の問題を扱わねばならない時代になってきたこと、結婚式にいろいろ教会関係者からも口出されて、めんどくさいことが結構起こること、重婚と不倫とはめんどくさいこと、クリスチャンであっても、DVをするようなおクズ様がおられること、それに耐えている女性たちが結構いること、そういうおクズ様であっても、いやおクズ様であるが故にキリストが必要であることなどを書いてみました。

             

            ツィッターではそれほどでもありませんでしたが、Facebookでは、クリスチャンのDV夫とか、その被害者を身近に見てこられた方があること、異なる宗教を信じている人々と結婚の継続しておられる方からのお話、などなどいろいろと、コメントが寄せられましたが、それはまた改めて、ご紹介してみたいと思います。

             

            今回はお約束どおり、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。

             

            結婚相手としてクリスチャンにこだわる意味

            日本に伝わってきたキリスト教は、西ヨーロッパ社会経由(プロテスタントの場合、ドイツ、スイス、連合王国、スカンディナビア諸国など、カトリックの場合、明治以降はフランス・スペインなど、正教会の場合は、ロシア経由)か西ヨーロッパから、さらにアメリカを経て、日本に到達したキリスト教が中心で、すでに、キリスト教社会が完全に定着し、キリスト教社会、いわゆる、クリステンドム、キリスト教社会が成立した社会を経由したキリスト教であったわけです。

             

            このようなキリスト教が主流を占めた社会では、ノンクリスチャンというか、非キリスト教徒は、イスラム教とか、ユダヤ人であったわけです。特に、欧州におけるイスラム教徒というのは、地中海周辺では、イスラム海賊のイメージか、ウィーンを何度か包囲したオスマントルコのイェニチェリ軍団のイメージであったわけです。つまり、憎むべき敵との結婚を意味する場合があったようです。

             

            イスラム海賊との戦闘シーン https://www.todoababor.es/historia/a-la-caza-del-pirata/ より

             

            イェニチェリ軍団

             

            トルコ軍楽隊のマーチ音楽を聞いてモーツアルトが作曲したとされるトルコ行進曲

             

            トルコ軍楽隊の伝統的な行進曲

             

             

             

            ヨーロッパ社会における異教徒との対立関係

            ヨーロッパ社会におけるノンクリスチャンの別グループ、あるいは別の異教徒として、当時の社会で排除され、だれも仕事にしたがらないような金融業といった業務を一手に引き受けざるを得なかったを背景としたユダヤ人が存在したわけです。このユダヤ人もまた、イエスを殺したという呪いをヨーロッパ社会全体からかけられたのがユダヤ人なのです。我らの愛すべき主イエスを殺して、その血の責任を我らが負うとまで言明した民族の末裔でもある、ユダヤ人との結婚ということになったわけです。

             

            ムスリム(イスラム教徒)にせよ、ユダヤ人にせよ、宗教的なルールとそれぞれの宗教への改宗とそれに伴う諸規定がかなり厳格な人々もいる信仰者群なので、キリスト教徒がムスリムやユダヤ人と結婚するとなると、キリスト教からこれらの結婚相手の宗教、イスラームないしユダヤ教への改宗を求められるわけです。

             

            現在のよく知られている改宗者の例で言えば、トランプ大統領の娘のイヴァンカさんは、ご主人がユダヤ系(おそらく改革派系の世俗化が進んだタイプのユダヤ教徒 ひげがない、髪の毛の鬢が伸びてないことで判定できる)なので、キリスト教からの改宗ユダヤ教徒になっているわけです。

             

            ムスリムの場合も、ユダヤ教徒の場合も、キリスト者と同じアブラハム、イサク(またはイシュマエル)、ヤコブの神を信じているとはいえ、イエスの扱いが(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間で相当に異なるために、儀式論において、そして聖書理解に置いて、聖典の定義において(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間に大きな落差があるわけです。

             

            イバンカと配偶者のクシュナー氏(キッパーと呼ばれるユダヤの帽子を被っている)

             

            世俗化とキリスト教離れが進んできているとはいえ

            世俗化が進んできた現代のアメリカやヨーロッパ社会の中に、スティーブ・ジョブスのようにインドの神秘思想や、Googleなどのように、カリフォルニア・禅(アメリカナイズ、またはカリフォルニアナイズされた禅思想)あるいはマインドフルネスに影響を受ける人々が増えてきていて、クリステンドム、あるいはキリスト教社会という側面が米国で弱まっているとはいえ、未だに市民宗教としてのキリスト教はアメリカでは根強く息づいているように思います。

             

            さて、弱まったとはいえ、西洋社会、ないし、アメリカ社会における異教徒(ノンクリスチャン)が、迫害対象ないし排斥対象となりやすく、改宗規定が相当に厳しいムスリム及びユダヤ教徒という状況を踏まえると、それは、おいそれとこれらの異教徒との結婚を問題がない、というのはかなり現実的には厳しいということがヨーロッパ社会及びアメリカ社会において社会背景として存在したことは、ご理解いただけようか、とは思います。

             

            ムスリム型異教徒と日本型異教徒としての非自覚的な信仰者

            日本に明治期以降、我が国において宣教してきた宣教師たちにとって、自分たちの文化的背景として抱えてきた異教徒(その大半は、ムスリムとユダヤ人)との付き合いの関係は、日本人の大半の直面する状況とはかなり違うものであったにもかかわらず、宣教師のみなさんが受け継いできたその文化的背景において、ノンクリスチャン=異教徒=キリスト教の敵=偶像崇拝者(個人的にはユダヤ教徒もムスリムも、アブラハム宗教なんで、そこまで言い切るのはかなり無理があるとは思うものの)という位置づけが無意識下に存在したように思うのです。

             

            日本の異教徒は、確かに神道関係者、仏教関係者、非自覚的な信仰形態である融合型日本宗教関係者も異教徒でもあるわけで、ムスリムやユダヤ教徒と同一視できない様に思います。多くの日本人に、その人の信仰は何か、ということを問うた場合、「特定の宗教を固く信奉していない」という意味で、「無宗教」と答える事が多いと思います。この無宗教発言の背景には、非自覚的な執行形態であると言った辺りに理由があると思います。決して、非宗教的な人ではないわけです。正月には初詣に行き、盆には盂蘭盆会の行事をするわけですから。ところが、この無宗教は、ムスリム達にとってみては、無神論者を意味するのです。そのために、イスラム社会のなかで、この様に自分は無宗教だ、と主張することは、自ら人間ではない、意図的な神への反逆者と自ら宣言するようなものなので、危ない目に合う可能性を増すのです。

             

            日本人が、当たり前のように、無宗教と自らを呼ぶような非自覚的な信仰形態を持つ人々であっても、キリスト教的な社会背景を持たない、という意味で自分たちと違っていたわけです。そのような意味では、異教徒であり、西洋型の異教徒(ユダヤ教徒及びムスリム)対策と同じ視点で、日本型非自覚的信仰者との関係を取ってきたように思うのです。それは、自分たちの文化背景では、異教徒への対応としては、対立型の対応が当然であり、当たり前のようにそうしてきたため、日本型の非自覚的な信仰者に対しても、敵対的な態度をとることになっていく精神性を海外から来た宣教師たちの一部は持っていた部分は皆無ではないのではないか、と思うのです。

             

            非自覚的なキリスト者が存在する米国社会

            とは言いつつも、この非自覚的な信仰形態の米国系キリスト教関係者も実は少なくありません。欧州は全く滞在経験がないので、なんとも言い難いところがありま戦士、米国でもカリフォルニアやワシントン州での経験からでしかなく、アメリカ全土の悉皆調査の事例からではないので、少し申し訳ないのですが、これらの2州で出会った人々の中には、「自分はアメリカ生まれのアメリカ人なので、クリスチャンであるが、君は日本人だから違うだろう」(おそらく、その方の頭の中では、アメリカ人のコーカシア系人種=プロテスタント系キリスト者ということを意味するらしい)と私にお話くださったありがたい方や、「我が家は代々カトリックだから自分はカトリックだ」と堂々とお話くださった、カリフォルニア原住民系(もともと、カリフォルニア州は、メキシコの一部であり、メキシコとつながりの深いご家庭の人々)の方もおられます。ある意味、カトリックは、プロテスタントの一部のように、個人的な決意や決断に基づく決断型あるいは選択型キリスト教の伝統が薄く、信仰共同体型地域地縁集団形成されていることが多いので、非自覚的なキリスト教の関係者が増えやすいという側面はあろうか、と思います。

             

            確かに幕府は迫害したし、殉教者は出たけれど

            たしかに、江戸幕府は自らの制度的安定性を確保するためにキリシタン大弾圧、日本社会からのキリシタン抹殺を計画しておられましたが、キリシタンの側はキリシタンの側で、かくれキリシタンになったり、潜伏キリシタンになったりして、存続を図ったわけです。その過程のなかで、信仰の内実の点でどこまでキリスト教なのか、という課題はありましたが、仏教でもないし、神道関係者でもないし、非自覚的な信仰形態である融合型のキリスト教的日本型宗教となっていったという意味で、ある意味、独自の土着化が成立した、と言えるように思うのです。とはいえ、地域やグループによる個別性の違いがあるために一般化することに伴う危険性はありますが、政治レベルでは対立軸はあったとは言うものの、一般の庶民の生活レベルではそこまで対立的でなかった可能性もないわけではないと思うのです。かくれきりしたん、潜伏キリシタンとなりながら、離島や周縁に避難することで、かろうじて、信仰を守り続けたわけですから。

             

            隠れの人々の信仰告白 オラショ(音だけはかなり類似性があるらしい) 

             

             

            ラテン語による主の祈り

             

            とはいえ、いわゆる産業革命時代、ないし啓蒙時代のキリスト教は、対象の個別性に着目するよりも、過剰に一般化して考える傾向、あるいは普遍化する傾向を持っていたため、日本は、キリスト教弾圧の地として、ムスリムがスペインでなしたような抑圧と同じ様に考え、日本型信仰とキリスト教について、啓蒙的な姿勢で臨んだり、ある種の対立軸をおいて捉えた宣教師もいたのではないか、と思うのです。

             

            確かにスペインではレコンキスタなどを含め、ムスリム社会と対立関係にあったとはいえ、ギリシアやエジプトあたりの歴史を見ると、必ずしも、ヨーロッパ社会がそうであったように、キリスト教が社会の人数が多いという意味においての支配的な(ドミナント)存在になったとか、政治的にも支配的な(ドミナント)存在になったというわけではないわけですが、それなりにイスラム社会の一部として、キリスト教徒はムスリムと競合的な関係にありながらも、共存してきた歴史があるように思います。まぁ、被支配民族を全滅させると、自分たち同士のなかで、支配ー被支配(略奪ー被略奪)の関係を作り出さねばならないため、政治的に完全に被支配民族やその宗教者を殲滅するのは得策ではないという現実的な側面もあったとは思いますが。

             

             

            平均値と一般化 ひと纏めにする罠

            先にも少しだけ紹介しましたように、啓蒙思想や近代思想は、平均値で捉える思想といいますか、個別性よりも、一般性、普遍性に力点をおいたものの見方をしてきた部分があったように思います。もう少しいうと、対象をひとまとめとして捉えようとする弁証法的というか、二項対立型の思想で物事を考えてきた部分があったように思います。Aか非A(Non A)か、というBoolean型、0−1型、2値的、あるいはディジタル的なのものごとの捉え方をし、アナログ的なグラデーションで考える問事はしてこなかった部分があります。実体が、かなりアナログ的なヴァリエーションを持ったものであったとしてもです。

             

            Boolean型の論理構造の概念図 https://sru.libguides.com/c.php?g=531883&p=3898529

             

             

            それを音楽の事例で考えてみたいと思います。以下は、同じ、キリエ エレイソン(Kyrie Eleison)という神の憐れみを求める賛美歌ですが、同じ文言の音楽の表し方が、これだけ、異なるわけです。

             

            キリエ エレイソン(主よ、憐れみ給え)の賛美歌他

             

            ギリシア正教会の キリエ エレイソン

             

            現代英語でのキリエ エレイソン

             

            テゼのキリエ エレイソン

             

            現代英語風のキリエ エレイソン

             

            このように同じものでも異なる表現法があることを考えてみた場合、いかに、一律にものを捉えて考えることが無益か、ということがご理解されようと思います。

             

             

            この結果、対象を自分と同じか、自分と違うものか、という極めて単純化されたなものさしで見る、そして、そのものの見方(世界観と行ってもそう間違ってはいないと思います)の中に、自分たちは善である、ないし、優位なものであると同時に、他者は、悪である、ないし劣位というある種の中華思想が内在化する可能性があったわけです。そして、西洋由来のキリスト教には、その問題が意識されないまま内在しており、それがそのまま日本に持ち込まれた部分も皆無ではないように思います。

             

            ローマ帝国成立期前後の皇帝崇拝やローマの多神教的な宗教が支配的な頃の異教社会の中にあるキリスト教会のなかのキリスト教会とかなり類似性の高い環境に置かれている日本のキリスト教会と、キリスト教が支配的な社会を経た西洋型キリスト教とは、本来環境が異なります。その意味で、キリスト教以外をひとまとめにして、自分以外のものであるゆえに、誤ったもの、劣位にあるものとして取扱い、これまでの西欧型のキリスト教がとってきた異教徒への対応でもある、無意味に対立軸を置くような考え方が本当に適切であるのか、という問題はもう少し考えてみたほうがいいかもしれません。

             

            結婚相手に関して、日本でクリスチャン以外の人々との結婚相手を認めない、ということの背景にこの問題は潜んでいるように思えてなりません。

             

             

            次回、もう少しこの一般化の問題をもう少し考えてみたい、と思います。

             

             

             

             

             

             

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            コメント:なかなかよろしいか、と思います。入門的文献

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            コメント:これまた入門的な本

            2018.11.03 Saturday

            クリスチャンn世代の若者からのお願い(13) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その1

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              今日からの記事は、Facebookで流れてきた、Ministryの松谷編集長のつぶやきから、書いてみようと思っていたことと重なるので、そのご発言を基に、ミーちゃんはーちゃんなりに少し考えてみたいと思います。ようやく落ち着いてきたところで、焼けぼっくいを煽って、再度炎上することになりかねないのですが、結構大事な話だと思うので、書いてみたいと思います。

               

              出発点になった、松谷編集長のつぶやき

              基本的にそのつぶやきは、松谷編集長がある場所でご講演でお話になったことの延長線上にあったようですが、以下のようなものでした。

               

              「教会から聞こえる“SOS”」では、自身の #夫婦別姓 に至る経緯も紹介させていただきました。未だ少なくない教会では「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまうようですが、初めから結婚相手をクリスチャンの中「だけ」から探すことを推奨するような不健全性についてはもっと自覚した方がいいと思います。

               

              だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。

               

              だとしたら、そもそも最初から「結婚するならクリスチャン」にこだわる意味がどこまであるのか。キリスト教の発展的な広がりを考えたら狭い身内同士でくっつくより、他のコミュニティに素敵な相手を見つけて、「関係者」の枠をより広げていく方が宣教的な意味からしても格段に有益なはず。クリスチャンの「自由恋愛」をあの手この手で妨げておきながら、某団体の合同結婚式を批判する資格は微塵もない。

               

              そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。  (2018年10月1日)

               

              多少、引っかかる、あるいは、突っかかる表現はありますが、しかし、大事なことをおっしゃっていると思うので、もう少し丁寧に考えてみたい、と思います。

               

              発言しただけで、実際に教会全体の問題にしていただきましたw

              実は、私が、あるインターネットラジオ番組(相模大野の中澤牧師(息子さんの方)が主催する音声放送番組)で、自分の子供たちが、「どうしても、キリスト教徒でない人と結婚したい」と言い出したら、教会での祝福は期待薄だけれども、何が何でも反対しない、ということをもう4年ほど前に対談の形でお話したことがあります。

               

              そうしましたら、「こういうことを発言する人が自分たちの教会の礼拝(聖餐式)に参加すると、私たちの心にはどうも平安がなくなるので、しばらく礼拝(聖餐式)への参加をご辞退してほしい」というお願いを受けました。どうも、教会全体の問題になったようです。そして、教会総会で、信徒の総意として、「聖餐式への参加を辞退するよう勧告する」というありがたいご議決をお出しいただいたようです。まぁ、おそらく、これは口実で、本当はもっと別のところに理由があったようにも思いますが、一応、物事には建前が必要なので、建前としてこういうことについての熱心なご議論がなされたようです。多分。この時期、体調を崩して、ちょっとお休みしていたのでわかりませんけど。

               

              おかげさまで、これまで責任者(説教者兼教会役員)をしていたために、4年前までは、他の教会に見学に行きたくても行けなかったのですが、「来るな」と言われたことをいいことに、教会巡り解禁状態となりました。さすがに、足の裏の塵を払うことまでは致しませんでしたが。

               

              その翌週から、心はウキウキ、ヒーハー状態で、もう、近所のありとあらゆる教会を毎週のように行きまくりました。ハリストス正教会、カトリック教会、日本聖公会、バプテスト派の教会、単立教会、メソディスト系の教会、日本基督教団教会を何系統かと、教会めぐり(巡礼)をさせてもらうことができました。ありがたい限りでございました。その後、数ヶ月して、「戻ってきていい」というお手紙が来たのですが、まぁ、こういう「行方定めぬ教会めぐり、今日はメソディストか、バプ連か」(琵琶湖周航の歌のパクリ)をやるのが面白くなって、やめられなくなりました。

               

              ブラックマヨネーズのヒーハーに乗っただけのカルビーのCM

               

               

              琵琶湖周航の歌

               

              そうこう教会巡りをしているうちに、2回目に参加させてもらった、聖公会の外人部落(もともとは海員向けの教会)に落ち着き、今は、そこで長期停舶中状態(正確に言うと、錨地長期投錨中)になっています。

               

              つまり、松谷編集長の言う『「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまう』という、実にありがたい経験をさせてもらいました。失ったものが何かあるか?あるかもしれませんが、それより、ミーちゃんハーちゃんとしては、得るところのほうが多かったように思います。まぁ、だれかれとなくある教会から、破門になることをおすすすめはできませんが。

               

              洗礼を受けていればいいか?というと…

              松谷編集長のコメントとして、こんなコメントが続きます。

               

              だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、…

               

              これは、本当にそう思います。クリスチャン以上に、世間一般が想定する、誠実で真面目であるというクリスチャン像に近い方も相当数おられます。クリスチャンであると、かえって世の中の見え方がおかしくなるのかもしれません。ノンクリスチャンの世間は、アルコール中毒患者の皆さんや、ジャンキーと呼ばれる麻薬中毒患者の皆さんで満ち溢れているわけではありません。いやむしろ、ほんとうにクリスチャンらしい方々は、世の中に非常に数多く、星の数ほどとは言いませんがキラキラといらっしゃって、クリスチャンなのに、世間一般が想定する、クリスチャンらしくない方も、それなりにおられることは、身をもって体験してきたところでございます。

               

              あるとき、今ミーちゃんはーちゃんが長期投病中の海員向け教会に、相当長期に渡って来ておられる方が、「クリスチャンのほうがよほど変な人が多い」とおっしゃったことがあって、まぁ、それもまたそうですよねぇ、ということを思ったことがございました。

               

              真面目といえば、おふざけや道化は、一般に今の日本のプロテスタント系の教会では、かなりの確率で排斥されてはいます。多分、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式からの一時追放(本来的には、これは、Ex Communionなので、破門措置に相当するはずなんですが)、自主的には永久脱出することにさせられた、そもそもの原因はそこだと思うですが…w。

               

              ところが、正教会や聖公会、カトリックなどの伝統教派だと、聖人にも、コメディアンとか、道化とか、俳優の聖人とかもおられるので、まぁなんと聖人の世界は広いものなのだなぁ、と思います。


              コメディアンの聖人ともされるローマのジェネシウス(殉教者)

              https://orthodoxwiki.org/Genesius_of_Rome より

               

              まぁ、これまでの三十数年の短いクリスチャン人生のなかで教会を見ておりますと、クリスチャン女性と結婚したいノンクリスチャンの男性の方は時々出てきて、まだまだうぶだった最初の頃は、「ある女性の方とお付き合いしたくて、クリスチャンになりたいんです」とご相談を受けて、「うわぁ、どうしよう」と思っていた頃もございます。そういう息せき切った方には、「まぁまぁ、落ち着かれて…」とお話し、まぁ、落ち着いていただいて、一応、キリスト教徒はどんなことかをまずはお話し、その上で、どうしてもクリスチャンになりたい、とおっしゃるなら、それでは、まぁ、受洗前教室というか、キリスト教の基本的な理解をお話しする機会にお話していった方も、数名おられます。最初の本当にうぶだった頃は、「そういうときはどうしようか」と、真剣に悩んだことも、過去にはございました。

               

              あるいは、若者の方で、異性の方と会えるということで、教会に来られていたノンクリの女性もいて、なんだかなぁ、と思っていたら、「何が動機にあるにせよ、教会に来てくれるのはいいことだ」と宣教師の方が英語でおっしゃってくださったのを聞いて、そういう感性もありなのか、でも、ミーちゃんはーちゃんが同じことを日本語で言ったら多分だめだろうなぁ、と思いながら聞いておりました。

               

              しかし、何なんでしょうねぇ、この落差。

               

              教会に離婚はありえないか?そうでもないかも…

              まぁ、クリスチャンの異性に惹かれて教会にこられた方で、ご結婚までに導かれた何人かの方を拝見しておりますし、アメリカに居りましたときのコミュニティチャーチでもそういう方を拝見しておりましたが、そういう方々のご結婚生活の継続が、うまくいく場合もあるし、うまくいかない場合もある、というのが、正直なところでございます。「〇〇さんと結婚したいので、クリスチャンにしてください」とお願いされて、「それ、本末転倒かも…えぇぇぇぇ…どっひゃ〜〜〜ん」と一旦はなったものの、その後、お二人とも信仰生活を深められ、結婚式もされ、今では幸せにお過ごしのご夫妻の何組の方も存じ上げていきますし、結婚を出発点に教会に来られ、受洗されたものの、結果として、結婚の継続に至らず、という事例もごく僅かではありますが、存じ上げております。まぁ、ショッキングでしたけどね。

               

              そんな事を考えておりますと、なんか、こんなセミナーがあるらしいです。世俗の仕事の関係でいけませんけど。残念ながら。

               

               

              こういうのは、画期的だと思います。個人的にはもっとやれ〜〜〜と思います。覆い隠して、そっと晒せて、闇から闇に葬るよりは。闇から闇に葬るのも、これまた、愛の形、というのは認識してはおりますが。本当に、こういうのは、大事だと思います。ちゃんと離婚者への配慮は当然のこと、どの様に傷ついた方々に対する牧会をしていくのかとか、本当に必要だと思います。日本は離婚率がまだ低いとはいえ、深刻な問題でもありますから。まぁ、イエス様だって、離婚規則には、ちゃんと触れてはおられますし。

               

              口語訳聖書 マタイによる福音書  19章 4〜9節
              イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 
              そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 
              彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 
              彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 
              イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 
              そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 

               

              まぁ、そんなん言うたら、だれが結婚なんかすんねん、みたいなことを、イエスの弟子たちは口々にいったようですが。

               

              弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。 

               

              結婚式はめんどくさい

              結婚というのは、人生を揺るがす一大事でもあるので、軽々にできないことは確かなんですが、それだけに、信仰と同じで、なんか勢いがないとできないのも、これまた真実なんですね。ある種勢いで一気にどっとやってしまわないとできないところがあるので、結構、根性入れて覚悟決めて取り組まないとだめなことが多いのもまた事実なのです。そして、いろいろ親族やら、関係者やらの調整はだれもしてくれないので、自分たちでやらざるを得ず、さらに、みんな人の結婚で、結婚する二人がなにかしてくれることを期待して、ああだ、こうだ、こうしたほうが良い、こうすべきだとか、いらん事を結構たくさん言ってくれるわけです。そう言う方の善意の声を受け入れ、何らかの対応をとらないと、ブーイングの嵐が待っているという罰ゲームという…。結婚式は、幸せな二人への妬みの混じった罰ゲームなのではないか、と思いたくなるような側面もあるわけです。

               

              本当に、主人公は、結婚する当人同士なんだから、好きにさせてあげればいいのに、と思うのですが、どうも、世間体とか、世間の常識とか、クリスチャンらしさ、とかまぁ、いろいろ言い出すので、「そこまで言うなら、淡々と行政手続きとして、二人で市役所で婚姻届出すだけで済ませるぞ…」とか、本当にキレ芸発揮になりそうになりながら、実に残念な経験をしないといけないことが多いのが、結婚式にまつわる悲喜こもごもがあるわけです。

               

              ということで、一度、こういう経験をすると、二度と結婚式はやりたくないと正直思っています。とはいえ、現状の結婚生活は幸せなので、これはこのままできるかぎり継続したいと思っています。結婚式に関して、他人の司式は別に構いませんが、自分の結婚式の準備は、もう二度としたくない、というのは実感として思います。もう、人の思いに振り回されるのは、ご勘弁くだされ、と思うのですが、なかなかそうは、させてくれないですね。なかなか。日本だと。家のイベントにしたがる人、多すぎますから。

               

              アブラハムとヤコブに学ぶ重婚と不倫はめんどくさい

              あと、結婚というのは、二人の人格による二つの結婚の継続をを同時並行的に実施して、比較する(それを重婚と読んだり、不倫と読んだりする。そして、それは、伝統的にキリスト教会では認められていない)ということができないタイプのライフスタイルですし、多分、実際にそういうのをやるのは、けっこう大変らしいので(ヤコブとか、アブラハムがいい実例)、やらないに越したことがないわけです。多分、どんなに幸せそうなカップルでも、揉め事は皆無ではない(多分、ステゴザウルスのようにいろんなことに鈍い人ないし、短期記憶しか機能しない鳥頭の人同士だったら、揉め事はないかもしれない)ので、それを夫婦揃って一緒に乗り越えていくのが、結婚の継続、ということなのだろうと思います。

               

              結婚式もめんどくさいですが、離婚も実際にはめちゃめんどくさいようです。一つには法的関係の解消でもあり、かなり実体としてめんどくさい(法律的にも、世間的にも)ようです。それに感情の問題、過去の思いの生産の問題もあり、引きずることがあるようです。その上、特にキリスト教関係者だと、非国民、ないし非キリスト教徒、人間でない扱いを受けることも少なくないようです。残念ながら。

               

              新約聖書の福音書を読んでおりますと、イエスは、当時のユダヤ社会でまともな人間扱いされてなかった、取税人、遊女、羊飼い、重篤な皮膚病患者、精神病患者、悪霊に憑かれた人々と言った人々の傍に行き、神の国が来た、ということを述べ伝えたはずだとは思うのです。しかしながら、現代のイエスの弟子たち、いわゆるクリスチャンたちは、離婚して傷ついていて、ぼろぼろになっているかもしれない人々を教会から、イエスを取り巻いているはずのコミュニティから、自分の聖書理解を根拠に排除しようとするというのがねぇ、なんとも・・・。

               

              まぁ、罪人なんで、しょうがないんだけどさ、とはおもいます。

               

              そして教会の関係者の中には、いろいろな実体的な問題があっても、なんとか結婚の継続をさせようとする傾向があるように思います。その結果として、家族の関係者、教会の関係者を含めた周囲の反対、関係者の度重なる説得攻撃その他諸々の諸力により、不幸な結婚生活に耐えることを強いられている人々もいるのではないか、と思わなくはないのです。

               

              DVでも離婚できないという・・・

              特に、米国なんかだと、隣家と離れていて、世帯の独立性が高い分、日本と比較にならないくらいのめちゃ乱暴なDV夫が家庭内暴力を吹き荒らすので、クリスチャンホームのなかでDVの結果の死亡事案なんかも結構あるようです。こうなると、一体何なのだろうか、と思いたくなります。

               

              例えば、レインメイカーという、詐欺まがいの医療保険の問題に向かう若手弁護士についての映画や、フォレスト・ガンプという映画では、本来バイブルベルトと呼ばれるキリスト教が文化的にも、実際の制度的に、非常に強く、大きな影響を持っている地域を舞台にした映画ですが、これらの映画の中でも、幼馴染の女の子の家庭のDVの問題や性的児童虐待とかが間接的に描かれていますが、このタイプの問題は深刻なようです。もちろん、ミニストリーのバックナンバーでも出ていますが、結構キリスト教徒の家庭、いわゆるクリスチャンホームでのDVという、どうしようもない事案というのは皆無というわけではないようです。

               

              The Rainmakerの映画でDV夫が、殺すと言い続けているという被害者女性の発言のシーン

               

              フォレスト・ガンプの幼馴染のDVの被害者が、神に祈るシーン


              こういうDVや児童虐待に走る人々は、個人的におクズ様、おクズさんとお呼びしたいと思います。もう何なのだろうか、と思いますが、でも、それが人間の姿かもしれません。


              炎上したクズ発言

              ところで、松谷キリスト新聞社長の一連のツィート、すなわち一番上にあげたTweetの中で、何が炎上したかというと、次の一節です。

               

              クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。

               

              この一節で、キリスト新聞の社長なのに、クズというのはおかしい、とか、それはまずいんじゃないか、という話題で、賛否両論、異論反論オブジェクションで、炎上したように思います。

               

              先に上げた、ところで、クリスチャンには、本当にクズと呼ばれるべき方はいなくなるのか、というと、それはかなり怪しいと思います。先ほど映画で米国の例を紹介しましたが、それは特殊な創作上のことでしょうか。かなりよく見聞きするレベルで起きているからこそ、この種のシーンが映画に取り上げられるのではないでしょうか。

               

              ミーちゃんハーちゃんは、クズでしかありませんが、むしろ、ミーちゃんハーちゃんはクズだからこそキリストが必要だったわけで、そうであるからこそ、神の憐れみを求め続ける存在であろう、としているわけです。イエスは次のように言っています。

               

              マタイによる福音書 9章 10節-13節
              それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 
              パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 
              イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 
              『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

               

               

              まず、このイエスの発言の意味をキリスト者はきちんと思い巡らす必要があるかもしれません。キリストに対する信頼は、自分たちがクズで、頼りないからこそ、キリストを信頼をする必要があるのであって、というところをまず、よく考えたほうがいいのかもしれません。クリスチャンだから、立派な人間なのではなくて、立派でない人間だということを知っているからこそ、クリスチャンであるという順番について、もうちょっと考えたほうがいいのかもしれません。

               

               

              おクズ様や、おクズさんたちに、クズですね、と言って、おクズ様や、おクズさんたちがお変わりあそばされるかというと、お変わりあそばされないので、おクズ様や、おクズさんなのであられるので、まぁ、おクズ様やおクズさんをお見かけしたときや、それらの皆さんに出会ったときには、またか、と思いつつ、イライラせず、スルーしたほうが、精神衛生上、よろしいか、と思います。どうせ、我ら鼻で息するもの、神の目から見た場合、団栗の背比べに過ぎません。あるどんぐりが、数ミリ他のどんぐりより大きいと言ったところで、人の目には、どんぐりに区別が付きません。その程度のことではないか、と思います。


              クズは有害植物かもしれないけど使いみちも…

              実際、日本原生種の植物のクズ Kudzuと言う植物(根はすりつぶして晒して、有効成分を抽出すると、風邪薬の葛根湯の主原料になるし、ウサギやヤギの餌になるし、日本の美味しい葛餅は、クズが原料のはずです)は、米国で鉄道とか、農地の斜面保護、崖地の保護のために日本から輸入したら、広がりすぎて、有害植物に認定される始末になっていますが。

               

              まさに、DVを起こす人々は、本当に始末におえないという意味で、この植物のクズみたいな存在かもしれません。とはいえ、先にも述べたように、クズには、クズにしかできない葛根湯の原料になったり、美味しい葛餅の原料になったりする(実は、殆どは、クズから作るのではなく、馬鈴薯でんぷんから作られているのが大半のようです。クズから取る本葛粉は手間がかかりすぎてペイしないらしいのですが、本来は、このクズの根をすりつぶして乾燥させたデンプンから本葛餅は作ります)という特徴があるわけです。ある面では、始末に負えないところがあるかもしれませんが、それにしかできない役割があるわけです。ある面から見た場合、お荷物のような存在であっても、全く、無価値なそんざいであるかというと、かならずしもそうでもない、というのが、世の中面白いなぁ、と思います。

               

              オランダ語のWikipediaのサイトから https://nl.wikipedia.org/wiki/Kudzu

               

              クズ餅 https://www.kudzu.jp/SHOP/F0001.html から

               

              葛根湯 https://lohaco.jp/product/9338524/ より

               

               

              次回、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

               

               

              2018.11.01 Thursday

              2018年10月のアクセス記録

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                皆様、いつものようにご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


                7月は、ほとんど書籍紹介の記事ばかりでしたが、ご清覧頂きありがとうございました。

                 

                2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2 アクセス/日)
                2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9 アクセス/日)
                2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6 アクセス/日)
                2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1 アクセス/日)
                2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7 アクセス/日)
                2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0 アクセス/日)
                2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7 アクセス/日)
                2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8 アクセス/日)
                2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1 アクセス/日)

                2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5 アクセス/日)
                2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4 アクセス/日)

                2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8 アクセス/日)

                2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5 アクセス/日)

                2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3 アクセス/日)

                 

                2018年第2四半期(4〜6月)     43880アクセス(482.2 アクセス/日)

                2018年第3四半期(7〜9月)   55404アクセス(602.2 アクセス/日)

                 

                2018年10月  17,291アクセス(576.4 アクセス/日)

                 

                でした。

                ところで、10月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。先月もご清覧ありがとうございました。

                 

                こころの時代 安積力也さんの回を視聴した   アクセス数 693

                 

                現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由    アクセス数 554

                 

                『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(1)   アクセス数 445

                 

                『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(6)完結編 アクセス数 285

                 

                『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3) アクセス数 275

                 

                でした。今回、こころの時代で、安積力也さんの再放送があったためか、めちゃくちゃアクセスが、集中して、かなり驚きました。テレビというのは、メディアとして偉大なのだ、と改めて、関心。ほかに安積力也さんについてのサイトがないことも影響したものと思われます。

                 

                案外意外だったのは、結構読むのが困難と思われた、『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみておもったことをたらたらと書いてみた記事、実際には、その本の著者が言いたいことは、おそらく、こうだったかなぁ、と思ったことを書いた記事にかなりの数のアクセスがあったことでした。

                 

                 

                 

                また、今月も、当ブログのいつもの鉄板ネタ、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由が堂々の2位、相かわらずこの問題への関心の高さを示しているように思いました。

                 

                皆様の御清覧、ありがとうございました。よろしければ、今月もまた、ご清覧をお願い申し上げます。

                 

                 

                 

                 

                 

                2018.10.31 Wednesday

                教会と宣教とIT(その4)最終回

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                  これまで、教会とIT化、SNSの味わいの違い、情報流通、教会の内側を丁寧にきちんと、それでいて盛り過ぎず見せる工夫、動画の活用が下手すぎる教会が多いこと、日曜学校の視聴覚教材がプアなこと、話術の必要性、プッシュ型メディアとプル型メディア、インターネットのプル型メディア性、Googleの登場によって変わった情報利活用の姿、QRコードとその活用法などをお話してきました。

                   

                  今回は、教会が持っているコンテンツをきちんと出すことを宗教改革記念日に合わせて、ご紹介したいと思います。

                   

                  ツイッターのない時代にバズらせた事件

                  宗教改革は意図的にハロウィーンの日を狙って起きた

                  さて、本日は、宗教改革記念日でした。去年、宗教改革500年だったので、今年は、宗教改革501年となりますが、なぜ、この日が宗教改革記念日だったか、というと、この日が、万聖節(今はハローウィーンのほうが有名でコスプレパーティを街でする日になっている)だからです。

                   

                  このハローウィーンは、もともとケルトの土俗的信仰と結びついていて、亡くなった人がお盆みたいに地上に現れるというケルトの故俗の伝承が、パリピ(パーティ好きの人々、Party People)が多いアメリカにアイルランド人経由で持ち込まれ、子供場お化け(使者)の仮装して、収穫の秋に、おやつであるホームメイドクッキーやビスケットをねだって歩く行事に由来していますが、日本もいよいよ本格的に西欧化したのか、とうとう今年は暴動もどきが起きました。本家、アメリカの暴動は、車を燃やすところまで行きますが、今年の先週末の渋谷では、軽トラックがぼこぼこにされた程度で済んでよかったようです。まぁ、人が集まると集団ヒステリーが起きやすく、ろくでもないことが起きる、典型例のようなお話です。

                   

                  軽トラがひっくり返させられた渋谷のハロウィン仮装大会

                   

                  ハロウィーンの日(万聖節)は教会のコンテンツ見せびらかす日だった

                  実は、ルター先輩が例の95か条の提題を張り付けたのは、まさに、その日に人が教会に集まって、バズる(人々の話題になる)可能性を見越してのことだったようです。今は、ツィートでバズりますが、インターネットやツィッター、インスタグラムのない社会でバズろうと思ったら、人が集まるところで、何か、話題になることをして、集まった人々にバズらせようと思ったように思うのです。

                   

                  実は、ルター先輩は、大学の掲示板(今も昔も、ほとんどだれもあまりじろじろ見ない)に95か条の提題を張り出したわけですが、それは、教会の扉でもあったわけです。そんな教会の扉をだれが見に来るか?って。それが来るんですよ。その日は、万聖節(All Saints Day)だったわけです。ハローウィンの仮装大会する日では、当時はありませんでした。その日は、教会にたくさん集められている聖人が残した何かである聖遺物を、教会が庶民に見せびらかす日だったのです。

                   

                  張り紙をするルター先輩 https://www.stmuhistorymedia.org/martin-luther-and-the-95-theses/ から

                   

                  聖人伝を巡る誤解と現代の聖人伝を生み出すプロテスタント教会

                  プロテスタント教会の多くでは、聖人崇敬(そういえば、死人に祈ってどうする、とかこないだもちょっぴりバズってましたが)が失われてしまいましたが、正教会、カトリック、聖公会では、今なお聖人伝が残っているところがあります。聖人崇敬が一番きっちり残っている正教会さんの司祭様のお話によると、あれは、崇拝や、その人に祈るというよりは、その人の信仰深さ、信仰に根ざした生き方に倣いたい、という思いが出発点になっているのであって、その人に現れたキリストの良さを見習ってキリストともに生きる人になる、という概念なのだそうです。イコンを見るときに、その人がなしたキリストの良さの現れを思い起こすものなのだそうで、プロテスタントの多くの方が誤解しているように、亡くなった人を崇拝していたり、亡くなった人に祈っている、というのではなく、ああなりたいなぁ、と思って目標にしている感じ、まぁ、偉人伝を読んでいるのに近いのだそうです。

                   

                  日本でもありますよね。大河ドラマ見て、急に西郷隆盛にかぶれるクリスチャン(下記の本を参照)とか、西郷隆盛は(聖書を読んでいた ⇒)クリスチャンだった説(読んだのは、多分、儒学の一種、朱子学と思って読んでいたと思われる)、とか、大河ドラマを見て、感動して急に坂本龍馬にかぶれる人々とか。まぁ、そんな感じに近いかもしれません。昔はテレビもないし、大河ドラマといった番組もないので、自分たちの信仰の先輩を大河ドラマ仕立てにしていって、その人が行った故事を記念に近いように思うのです。まぁ、それだけのことをした人々だったわけです。

                   

                  先週の火曜日は、聖ヤコブ(イエスの兄弟 英語ではなぜかSt James)の日でしたが、やはり、信徒を守るために殉教してまで、信仰の灯をともそうとした人々はいたわけで、それは、キリスト教的大河ドラマの一つや二つ、製作したくなるのは、人情だと思います。こういう大河ドラマって、そこに、ちょっと創作、そして、だいぶん創作、あるいはデフォルメが入り込む余地が多少はあって、ということになるわけです。

                   

                  本来、プロテスタント教会では、こういう聖人伝とか聖人信仰とかは本当はないことになっているはずですが、実は、イエス時代や、その後の現代までの時代の聖人ではないかもしれませんが、その教会に深くかかわった初代の宣教師や初代の牧師の伝承は継承され、全地公会議で承認されていない各地の教会での聖人伝、つまり各個別教会での聖人伝が残っていき、それが語られるうちに、びっくりするようなことが起きた(それは起きたんでしょう。多分)という現代の個別プロテスタント教会の聖人伝がある教会もあるようです。そういう現代(昭和40年以降に、その教会の設立にかかわった方)で、別に殉教したわけではないない方の聖人伝をあるプロテスタント系の教会で、延々30分にわたって、「誰や、それ」と思いながら拝聴させていただいた経験がございます。

                   

                  イエスの兄弟、聖ヤコブ https://www.pinterest.jp/pin/526569381417241065/ から

                  イエスの兄弟 殉教者St James

                   

                  聖人伝と聖地巡礼

                  ところが、人間は弱い者なので、偉人伝を読んでいるうちに、尊敬がすすみ、崇敬になり、それが信仰まがいのものとして形成されてしまう人たちも出てくるわけです。そして、ちょうどイエスの着物の房に触れた病気の女性がたちどころに治ったように(これは、ちゃんと福音書にも書いてあるので、一部リベラル系のキリスト者を除く、キリスト者の多くが認めるところのはず…)、聖人たちが触れたもの、身に着けていたもの、聖人たちが持ったかもしれない何か、あるいは、聖人たちの遺骨にでも触れられれば、神通力が宿って、聖人と同じようになれる、とかいうことを思いたくもなる人たちが出てくるわけで、実際出てきました。あるいは、イエスが歩いたガリラヤ、パレスティナ、エルサレムに行けば、イエスの奇跡の一端にでも振られれる気分になるわけです。たとえ、イエスが歩いた当時の時代と今はかなり違っていても。

                   

                  そして、このイエスが座ったかもしれない椅子、イエスの弟子たちや旧約聖書の偉人たちが歩いたかもしれない場所にあった何か(それを聖遺物と言いますが)や聖人の遺骨の断片といったものを古代から、中世にかけてのキリスト教会は集めまくったわけです。すると、神通力が宿ると思う人たちがおられ、そう思っておられるわけですから、それに触れると効能あらたかで、罪の何年分かが消えた、と思いたくなる人たちはおられたようです。

                   

                  そして、中世の地中海航路で、ジェノバ、ピサ、ヴェネツィアが地中海交易の覇権争いをしていたころ、そして、旅客サービスに乗り出し、地中海航路開発に乗り出したのにほぼ同時期に、ちょうど今のジェット機による聖地巡礼行よろしく、ガレー船という当時の人力エンジン付きの高速船による聖地巡礼ブームが起き、かなり出所の怪しい聖遺物(イエスがかかった十字架の木を聖地巡礼者がかみちぎったもの、最後の晩餐の時イエスやペテロが座った椅子の一部を巡礼者がかみちぎって持って帰ったものとか…)が量産され、ヨーロッパじゅうそういう怪しげな聖遺物があふれかえることになった時期でもあります。

                   

                  そうすると、たとえ出所のかなり怪しい聖遺物であっても、それが真正の聖遺物だといわれると、そういう聖遺物を見て、宗教的感慨が内から沸き起こり、罪を犯さないようにしようと決心をする人々も出てき足りするわけです。そして、その感謝の気持ちとして、献金する人々が出てきたり、また、聖地巡礼に莫大な実際の費用と潜在的なリスクというか費用負担を覚悟して(多分、初期のころは海賊、山賊等が跋扈したりして生還できるかどうかも怪しい巡礼行で。かなり生命の危険も伴いましたし、ムスリムが支配してからの聖地巡礼行だと、イスラム海賊の捕虜になり、当時の習慣として、身代金を払えなければ、労働として身代金を払うために奴隷としてこき使われる危険性もあった)、聖地巡礼に出掛けて、宗教的感慨に触れる人々も出てくるわけです。たとえ、見に行く場所に置いてあるものが、Fakeやかなり怪しいものであっても。

                   

                  イスラム海賊(トルコの旗が掲げられている)とヨーロッパ海軍の戦い

                   http://gatesofvienna.blogspot.com/2009/11/how-muslim-piracy-changed-world.htmlから なお、英語だがこの記事は面白い。

                   

                  ヨーロッパを席巻したトルコのイェニチェリ軍団

                   

                  なお、トルコは、過去トルコ海軍の軍船を和歌山の漁師さんが助けたことで、やたらと日本に対して好意的な国です。

                  イラン・イラク戦争のときに、取り残された日本人を飛行機飛ばして助けてくれました

                   

                  実は、現在のヨーロッパ、とくにフランス、イタリア、スペインといった地中海諸国やその周辺のヨーロッパ諸国のイスラム嫌いには、このイスラム海賊とトルコのイェニチェリ軍団の影が今なお残っています。ドイツのメルケルさんは、そこまで難民融和的な政策をとっていたわけではないのですが、流入するムスリム系の難民の山を抱えざるをえなくなった結果、結局、人気を失って、党首の座から追い落とされてしまいましたが。長年ご苦労様でした。

                   

                  メルケル退陣予定を告げるニュース

                   

                   

                  聖遺物信仰と贖宥状

                  それが、時間的余裕がない、あるいは、仕事でどうしても母国から離れられないため、貧しさのために聖地巡礼に行きたくてもいけない人も出てくるわけで、そうなるとこういう聖遺物を見て、聖地巡礼にいった気になって宗教的感慨にふける人々も出てきて、そのお礼として、それ相当の献金をする人々が出てくるわけです。それが、ルター先輩が問題にした、贖宥状(いわゆる免罪符)の原形態としてあるわけです。そして、おカネとの交換で罪の赦しを売りつけるような不良業者は、どの世界でも出てくるので、そういう業者に怒り心頭になったルター先輩は、一体全体この概念は何だ、ということで、けんかをカトリック教会を相手に回して売りつけたのが、宗教改革であったわけです。

                   

                  ルター先輩がなぜ、この万聖節(すべての聖人を覚える記念日)にカトリック教会に喧嘩(議論としての論争)を売ったかというと、この日には、ルター先輩が張り紙出した教会にやたらと聖遺物があったらしく、近郷在所から、司祭を含む善男善女が、この聖遺物に触れ、聖人の遺訓に触れて、自分の現実の姿を見直し、キリスト者としてよりよく生きる手掛かりを得るようとして、聖遺物を見るために、博物館と化した教会に集まるから、ちょうどバズってもらうには、ちょうどいいや、ということだったのだろうと思います。そら、皆さん、見ますもん。ちょうど、ジュリーのコンサートに参加しようとさいたまアリーナに集まってきたら、公演中止の張り紙されるようなもんですから。

                   

                  沢田研二さんのさいたまアリーナドタキャンの張り紙 https://tlclip.com/45376 から

                   

                   

                  ルター先輩が張り出した、張り紙というか、95か条の提題そのものは、教会内での公式の議論となるための張り紙ですから、ドイツ語という世俗の言語ではなく、教会内での議論のための言語であるラテン語で書かれていたはずですから、素人衆は読めなくても、玄人衆である司祭たちは読めたはずですし、それが驚いているのを見て、世俗のことばであるドイツ語で何が書いてあるのかを庶民は司祭の皆さんに、興味津々に聴きまくるわけです。もうこうなったらしめたもので、噂にのって、町から、村へ、村から村へとうわさが拡散し、それこそバズったわけです。

                   

                  宗教改革の話が長くなったので、本来の教会のコンテンツのお話について戻しましょう。

                   

                  サザエさん以上のコンテンツの塊のキリスト教会

                  よく考えてみれば、キリスト教会は、全国にある教会が、ほぼオリジナルコンテンツの説教というコンテンツを毎週一部の限られた人々向けとはいえ、出している組織なわけです。さらに、音楽もあり、賛美歌も毎週歌いますし、場所によっては、まぁ、目を見張るような儀式をしておられる教会もあります。そこまでいかなくても、毎週日曜日には、ほとんどの教会で行っている内容は、その表現方法は異なっても、それこそありえない死者からの復活を毎週告げ知らせている儀式としての礼拝をしておられるわけです。その意味で、教会は本来、コンテンツ満載、コンテンツの塊のような存在であるはずなのだと思います。

                   

                  ところで、サザエさんは全国ネットである面、どこの地域でも同じ番組が見られているという意味で、正教会の奉身礼のような感じ(説教は個別教会で違うけど、本当に10分程度で短い)ですが、説教中心の教会では、教会ごとに違うコンテンツを毎週それも、30分から50分、場合によっては、1時間半の帯番組以上の長さのコンテンツを教会内だけで、流しているわけです。賛美歌もあり、説教もあり、って考えようによっては、ものすごい魅力的で面白いコンテンツ満載なわけです。それを、教会に引き込むことができた人たちだけに、伝えてきたのが、これまでの教会であったわけです。イエスが、世界に出て行って、伝えよ、と言われたにもかかわらず、教会に引き込むことだけを中心に考えるようになってしまっているのではないか、と思うのです。

                   

                  しかし、これまでの日本の多くの教会は引き込み型メディアであったヨーロッパの教会、アメリカの教会のコピー(宣教師がもたらしたスタイルがそうであった)をしてきたので、宣教とは、出て行って伝える、自分自身の存在をさらして、まだ、イエスに出会ってない人にイエスを指し示すよりは、イエスが説教で指し示されてるはずの教会に引き込んだ上で、イエスの死と復活とそこにある希望を伝えることを宣教だと理解してきた傾向があったように思うわけです。

                   

                  確かに、目を見張るべき死者の復活の儀式(それが、礼拝であり、聖餐であるとは思いますが)は、一人ではできませんし、やっても意味はあまりないように思います。その意味から考えても、教会に人を引き込む必要があったのです。その意味で、教会はプル型のメディアであったといえましょうが、人を引き込むためには、これまではプッシュ型、押し込み型、押し売り型のメディアを使わざるを得ない状態であったわけです。

                   

                  しかし、前のパパ様(ベネディクト16世さま)のようにデジタル大陸に宣教に出ていく教皇様や、スズメ写真でTwitter宣教している片柳神父、面白キリスト教ツィートで伝道している上馬キリスト教会等、まぁ、いろいろデジタル大陸に自らの身をさらし宣教しておられる方々も、最近は出てきたわけです。

                   

                  「Pope App」の画像検索結果

                  Pope App

                   

                  「片柳çžçˆ¶ スズメ 被り物」の画像検索結果

                  ここまで(被り物)くれば、もう恐れ入りましたというしかない片柳司祭

                   

                  なお、これらの方々の宣教に共通するのは、自分のところの教会に人を引きずり込んで、完結させようとせず、言いっぱなし、放置っぱなしの宣教だということなのです。でも、よく考えてみれば、この宣教スタイルは、イエス様やパウロの宣教スタイルなのです。撒きっぱなし、あとは、神の手にゆだねて育つのを待つ。そんな信仰なのだと思います。

                   

                  【口語訳聖書】第一コリント人への手紙
                   3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
                   3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
                   3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。

                   

                  伝道や宣教の方法論で四の五のうじうじ言ってないで、やればいい、という風にイエスはおっしゃっているし、パウロ先輩もそう言っているように上の聖書箇所からは思うんですけどね。コンテンツは、皆さん、どの教会ももそれなりにお持ちなんですし、そのコンテンツは、最もすごいイエスの死と復活、死者の復活というありえない話、ある言い方をすれば、世にも奇妙な怪談を伝えるものだからです。それを外に出して、人々に触れさせない手はないのです。

                   

                  メディア環境が今と違った情報不足時代の、昔は、張り紙やポスター、トラクトといった紙に印刷しなければ、あるいは紙に印刷した新聞や雑誌、電話帳に取り上げてもらえ人々の目に触れることはありませんでした。しかし、今、ウェブにさえ上げとけば、検索エンジンがひっかけてくれるので、人々の目に触れる機会がある状態を確保できるのです。今、電話帳をめくって、どこかのお店をさがす人は、どのくらいおられるでしょうか。

                   

                  それを考えれば、とはいえ、如何に教会に豊かなコンテンツ、驚くべきコンテンツがあっても、検索エンジンに引っ掛けてもらえなければ、世の中に存在しないのと同じ、という状況になっています。とはいえ、検索エンジンは、ウェブに上がっているものしか拾ってきませんから、それを過信するのも、考え物ではありますが。その筋の関係者としては、それは思います。

                   

                  バズるためにツイッターのハブ的アカウントに絡め

                  いろいろ、ツィッターを再開したお友達の方がいて、ツィッターのフォロワーが少ない、というコメントとか、こんなのして何の役に立つとか、そんなことしても教会には来ない、とかいろいろ意見がそのお友達の投稿のコメントで飛び交っているんですが、これ、正直、理解不足だと思います。

                   

                  そんなことを思って、ツイッターを見ていると、静岡県庁のあるアカウントが、神戸市の公式アカウントに絡んでいるツィートがあって面白かったのです。

                   

                   

                  静岡県庁わかものがかり‏ @wakamono_gakari

                   

                  最近、神戸市さんと仲良くさせていただいてますが、これも、3月に「わかものがかり、フォロワー少ない」という新聞記事が出た時、フォロワーさんから「他の自治体と絡んでみたら?」というご意見をいただき、その時からずっと温めていたことです。

                   

                  要するにバズるためには、巨大デジタル大陸のハブ(車軸の中心、どこか行くためのどこでもドアの役割を果たすようなアカウント、みんなが見ているようなアカウント  自治体関係だと神戸市の公式ツィッターなど)やキリスト教業界だと、ヴァチカンとか、先の片柳司祭とか、ローマ教皇とか、上馬キリスト教会とか、いろいろおられるわけで、そういう人と絡んで、その人たちが持つハブとしての能力をちょっと借りるだけで、一気に拡散できたりするわけです。それなりに面白いことを言う必要ありますが。

                   

                  まず、そのためには、自分の面白さをあらわすオリジナルコンテンツ、ユーモアを含んだコンテンツがあったほうがいいわけです。要はやりようだ、ということと、メディアに対する割り切りを持つ、ということなのだと思います。


                  コピーコンテンツはNGです オリジナルコンテンツを

                  以前から、説教剽窃(いわゆるコピペ)疑惑が出てたり、それを巡った物語が造られたりしたけど、ついこないだ、どこぞの印刷メディアにほぼほかの牧師さんの説教を剽窃した説教原稿がそのまま出て、ちょっとした騒ぎになったことがありましたが、まぁ、長い説教をしなければいけない牧師さん方にとっては、説教の剽窃ということをしたくなる気持ちは、わからないではありません。

                   

                  よい評価をレポートで得たいという誘惑にかられる大学院生とか学部の学生の皆さんが、ウルトラショートカットして、誰ぞの論文とかを自分の研究のようにして発表するとか、どこかに落ちているパワポのスライドで、あたかも自分が発表のために制作したかのように発表するという剽窃を目にすることがあります。そこは、教員のほうは心得たもので、いくつか基本的な質問をすることで、その人が本当に分かっているかどうか、自分で、考えて作ったかどうかは、すぐわかったりするのですね。

                   

                  皆さん、剽窃はいけませんよぉ。単位が取り消しになるだけでなく、その期の単位が全部お召し上げになりますから。

                   

                  これを防ぐために、手書きでしか対応のできない、その場の勝負になる筆記試験にするのが一番楽、ということに気づいてから、レポートでの評価はできるだけ避けるようにしてきました。

                   

                  余談はさておき。

                   

                  本来、人はそれぞれ、神によってオリジナルに作られているわけです。ほぼ同じ時間と出来事のかなりの部分を共有している家族であってもものの見方は、異なるわけです。だとしたら、同じ聖書を読んでも、環境が違い、時間が違うと、如何にみすぼらしい者であっても、オリジナルのコンテンツがあるはずだとは思うのです。

                   

                  どうしても、オリジナルの説教が思いつかないとしたら、延々、聖書の朗読でもいいと思うのです。それこそ、聖書は究極のコンテンツですし、読み方は一人ひとり違うわけですからそれこそオリジナルのコンテンツになるように思うのですがねぇ。字で書いたら、この読み方という部分、人の息吹の部分が消えちゃうのが残念ですねぇ。やはり、教会は、神の息吹が満ち溢れるとともに、人の息吹を介して、礼拝という形で、神に霊を返して行く場所なので、文字だけの教会、ってのは、ちょっと味気ないかもですね。

                   

                  その意味で、やはり、リアルには格段に落ちるけど、動画っていうのは、強いコンテンツなのだと思います。その意味で、キリストがこの地に来た、ということを指し示すのが教会の目的だと思いますし、キリストがこの地に来て、それが生きているということを人々の間で、普通に生きることで不完全ながらも指し示すのが、キリスト者ですし、キリスト者の宣教だ、と思うのです。であるとすれば、生きていることを、いろんな方法で見せること、それがネット上であれ、リアルであれ、それが大事なのではないかなぁ、と思っています。

                   

                  以上、このシリーズ完結です。長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:ま、信じるかどうかはその人次第。読んだとしても、朱子学の一種として読んだような気がします。

                  2018.10.29 Monday

                  教会と宣教とIT(その3)

                  0

                     

                    これまでの連載では、この前のKDK神学会での講演をきっかけに教会がITをどう利用するか、中を見せることの大事さ、情報の伝播拡散とIT、拡散ツールとしてのツィッターをうまく使っている事例、キリストがこの地に来たということを拡散する生きているメディアとしてのキリスト者の存在があること(以上第1回 リンクはこちら)、第2回は、今までの教会とメディアの利用の仕方、特に日曜学校のメディア環境があまりに通常の生活での視聴覚環境で暴露されるものから比べて、貧相であること、現代人は、映像刺激の時代に生きてきていること、そして、最も古いキリスト教の伝統世界を保持してきたコプト正教会さんのほうが、案外現代的なツールであるFacebookやタブレットをうまく活用しておられること(以上 第2回 リンクはこちら)等を紹介してきました、

                     

                    プッシュ型メディアとプル型(オンデマンド型)メディア
                    従来教会が主に取り扱ってきたメディアは、チラシや、路傍伝道、ラウドスピーカーや、鉦や太鼓を鳴らしながらの伝道、主にプッシュ型のメディアであったように思います。これは教会に限らないようにおもいます。昔の情報伝達手段は。新聞紙上の広告、新聞折り込みにしても、テレマーケティング(テレフォンアポインター)チンドン屋のチラシの配布、あるいは、右翼の街宣車、左翼の人々を中心としてタテカン(立て看板)、ポストへのチラシの投入(ポスティング)、テレビCMにしても、ジャンクメール(電子メールでの売り込みメール)にしても、プッシュ型のメディアであった。とりあえず、相手のところに、何らかのメディア(紙、音声、視覚刺激、電話…)を介して、入り込んでいく、時に無理やり入り込んでいくタイプで相手のところに何らかの情報を届けるというスタイルであったと思うのです。

                     

                    チンドン屋さん

                     

                    京都大学のタテカン動画 昔は、お茶の水を歩くと、明治大学とか立て看板のメッカであったのに

                     

                    昔の明治大学 お茶の水は、80年代までは、こんな感じだった

                    https://blogs.yahoo.co.jp/jimmypage660825/67281000.html より

                     

                    右翼の街宣カー

                     

                    共産党の街頭演説

                     

                    おまけ 黒字に黄色が特徴的なキリスト教の広告塔の皆さん

                     

                    Tim Berners Leeさん、ネットに情報を上げてくれてる人たち

                    ありがとう
                    ところが、Tim Berners−Leeさんのおかげでできた、インターネットができてからは、HTML言語(メタ言語で書かれたウェブサイト)で情報を整理したファイルをインターネットに情報を置いておく(ネット上に、アップロードしておく)という方法が新たに増えた。この方法がこれまでと違うのは、プッシュ型のメディアではなく、一種の紹介型のメディアとなりました。特に、Yahooとか、Googleとかの検索エンジンができてから、情報を入手したい人が、入手したい情報の内容に関係する検索語をGoogleなどの検索エンジンに投入することで、Googleさんから関係するウェブサイトをリストにして返してくれる時代になりました。

                     

                    TEDでハイパーテキストの開発の背景などを含め講演するティム・バーナーズ=リーさん

                     

                     

                    昔なら、こういう仕事は図書館司書の方にコンサルティングを受けながら、こういう本を探してみたら、こういう百科事典などを探してみたら、この図書館にあるこの本を読んでみたら、別の図書館に行くと情報が手に入るかも、というサジェッションを受けたり、本や雑誌や紹介されながら、自分で関係ない文献なども含め読んで行きながら、なんとなく、こういうことかなぁ、ということをむちゃくちゃ時間をかけながら、自分で考えていく時代でした。その意味で、人間検索エンジンになって、ものすごい時間をかけて情報を図書館などで本を探し回って、理解を精緻化することをしてきたわけです。

                     

                    図書館司書(ライブラリアン)に関する動画(なかなか出来がいい動画)北イリノイ大学の図書館の動画

                     

                    そして、そのために、必要な情報(コンテンツ)をウェブに挙げてくださる一人ひとりの皆さんの努力があるからこそ、今のプル型の情報社会の豊かさが生まれているわけです。心から、データをウェブに挙げてくださっている一人ひとりの皆さんに御礼を申し上げたい、と思います。

                     

                    Googleが変えた調査のかたち
                    しかし、Googleができてから、そんなことをするよりも、まず、検索エンジンに関係しそうな単語を入れて、計算機が推奨してくれる結果を見ることが増えているのではないでしょうか。それも、据え置き型の机の上を占拠しているPCではなく、手のひらに載るスマートフォンで。


                    他国のわからない文字(それが、アラビア語であれ、ペルシャ語であれ、ヘブライ語であれ、下手をすると古代エジプトのヒエログリフや古代の楔形文字)があれば、スマートフォンのカメラで撮り、Google翻訳させることもできます。もう、この時代、巨大なデータベースのおかげで、ロゼッタストーンを必死で読んだ、フランスの考古学者シャンポリオンのような苦労をする必要はないのです。

                     

                    ヒエログリフでヨハネって、書いてみた(Powered by U Pen Museum https://www.penn.museum/cgi/hieroglyphsreal.php

                     

                    ロゼッタストーンを解読したとされる一人 シャンポリオン

                     

                    あるいは、あまり得意でない言語のサイトでも、Google翻訳を使うことで、なんとなくの意味程度であれば、理解することができるわけです。まぁ、こないだ、バルト先輩がマリアにどんなことを言っていたのか、という質問が来て、Google検索をKarl Barth Mother of Godで検索したら、Wikipediaの英語の記事が出てきたので、そのWikipediaの記事について、Google翻訳をかけたら、バルトがバースと翻訳されて、何か、ランデイ・バースという掛布が活躍した時代の阪神球団にいた野球選手(帰国後オクラホマ州の上院議員に転身したらしい つづりは、Bass カール・バルトはBarth)みたいで、思わず吹き出してしまいましたが。


                     

                    Randy Bass.jpg

                    ランディ・バース

                    カール・バルト

                     

                    だって、バースが神の母マリアについてキリスト教の伝統からうんたらかんたら、と書いている、とか翻訳されるんですから、笑いをこらえるのに必死でした。

                     

                     

                    検索エンジンが変えたプル型文化への転換
                    余談に行きましたが、GoogleやYahoo(内実は、ほぼGoogle)というサーチエンジンが生まれてから、ネット上の情報を必要に応じて、検索語を打ち込んで、引っ張り出す、つまり、プル型の情報収集をするのが、当たり前の時代になってきたわけです。

                     

                    そして、必要な情報はまず、サーチエンジンを介して、引っ張ってくる(情報をプルする)という文化が支配的な時代になってきたわけです。とはいっても、ネット上にない情報は、プルしたくてもできないので、上に紹介したTim Berners-Leeさんが講演内でも言うようにネットに挙げておくことが必要になるわけです。


                    ところで、情報が少ない時代、そして、計算機が能力が低く、普及していない時代、あるいは、紙が貴重な時代には、音声での情報伝達が中心だった時代には、情報は一過性のものであり、プッシュ型の伝達方法で伝えないと、情報は相手に伝わらない時代だったわけです。一過性だからこそ、あるいは、情報を保管できるのが紙だけだったからこそ、情報を載せて、相手のところに送り込む、プッシュ型の情報伝達が主に用いられてきたわけです。

                     

                    プッシュ型メディア時代には、情報流通、情報をやり取りする主体としては情報発信側に重きがありました。だからこそ、情報を知らせようとと思うと、発信者が、不特定多数にばらまくように情報を伝達するのが、非常に有効であったわけです。それは、壁新聞でも、折込チラシでも、テレビCMでも、街宣車でも、チンドン屋でも、相手かまわず対処したり、インパクトのある文字を使ったり、人気の俳優や、人々が関心を持ちそうな画像を使ったり、あるいは商品の現物を配ったり、商品の現物を模した自動車を街中では知らせたり、着ぐるみを着た人々に街中でチラシを配らせる、ということをしてきたわけです。

                     

                    プル型、スマートフォン時代とQRコード
                    さて、Tim Berners-Leeさんの開発したウェブシステムは、Http://で、データのある場所のアドレスを打ち込むことで、そのアドレスの場所にある情報をとってくる、引っ張ってくる、プルしてくる、というシステムだったわけです。ウェブサイト上のデータは、このHTTPプロトコル(HTTPの手順)にしたがってデータが引っ張ってこられて初めて情報が表示されるわけです。Googleは、Botと呼ばれる情報ロボットを使って、ありとあらゆるウェブサイトを見に行って、ウェブサイト上のデータを拾ってきていて、検索エンジンがその拾ってきた単語のデータベースから、関係しそうなウェブサイトを皆さんの画面に表示しているのです、

                    しかし、

                     

                       Http:// うんたらかんたら

                     

                    と打ち込むのは、結構打ち間違いがあったり、ちょっと違うだけで、データを見せてくれないわけです。その意味で、非常に計算機はばかで、石頭で、融通が利かない存在で、その石頭の希望通り、人間がキーボードから入力してやらないといけないという意味で、かなり面倒な作業が待っているわけです。

                     

                    今のようにカメラ付き携帯端末がこれだけ普及しますと、カメラを使って情報のあるサイトの住所(アドレス)が伝えられないか、という発想になるわけです。そこで、文字情報をカメラでとらえて文字や数字のコードとして、自動的に記録するための技術として、QRコードという技術があります。下にお示ししたような画像を、コンビニや、居酒屋、レストラン、ファーストフード、スーパーマーケットでご覧になったことがあると思います。このような画像をQRコードと言います。

                     

                    加古川市のバリアフリーマップが表示されるQRコード(世俗の仕事関連)

                     

                     

                    これは、トヨタの電子装備品の納入事業者のデンソーという会社さんがトヨタさんに納品するための製品管理、納品管理のシステムの合理化のために作られたシステムなのです。

                     

                    今、このQRコードが街のあちこちにあるのは、人々に情報提供したい主体(会社とかお店、市役所NPO法人…)の皆さんが自分の情報を引いてもらいたい、と思っておいていたり、配っていたりするのです。プル型になっているからこそ、ウェブサイトのアドレスを入れてもらう面倒を簡略化するために、スマートフォンのカメラでQRコードを撮影し、スマートフォンの計算機能を使ってそれをウェブサイトのアドレスに変換し、変換することで、必要な情報にたどり着ける仕組みとなっているのです。


                    先日のことです。今、仕事上でこれまでのご関係があった県内のある農村集落(人口数百人規模)の農業水利組織の方向けの水利施設についてのウェブ情報管理システムの作成を依頼されたので、今、インターネットがちょっとした地方でも普及しているし、今、地域のご老人の皆さんも、多くの方はスマートフォンを持っておられるので、ウェブベースの管理システムを作ることになりました(実際にデータ作成したのは、大学院生の皆さん。とはいえ、調査と作成ノウハウは、ミーちゃんはーちゃん)。

                     

                    三木市付近の山田錦の推奨移植日が表示されるQRコード(世俗の仕事はこんなことも)

                     


                    そして、水利施設の調査で、地域の皆さんに圃場の草刈りなんかでご協力いただいたので、QRコードを印刷した紙に、スマートフォンとかタブレットで、この画像を撮影していただけると、情報ご覧いただけます、とだけ書いた紙を配って起きました(サイトのアドレスが長かったので)。そうしたら、そのサイトに多くの方がアクセスしてくださいまして、多くの方が、こんなことが、今できるのか、と大変驚かれたようです。これ、全部無料でできるわけです。なお、QRコードを作りたいときには、デンソーウエーブさんの公式QRコードメーカー(QR Codeメーカー)をミーちゃんはーちゃんは推奨しております。

                     

                     

                    この前のKDK神学会でも、そのようなことをご紹介し、今そんな時代なんですよ、こういう技術をうまく使われたらどうでしょうかねぇ、と紹介いたしました。教会でも、プル型情報収集時代になっている現在、これまで見たいに、相手のところに情報を全部フルセットでねじ込むプッシュ型の伝道のではなく、相手が、必要とするときに、必要な情報をプルできるようにしておくことの重要性があり、読みたいと思う人々に、読めるものを、引っ張ってもらう環境を整備しておくことが重要なのではないでしょうか、というお話をした(つもり)のでした。

                     

                    そうしたら、賛美歌もQRコードで、説教(とその要旨)もQRコードで、今週の予定もQRコードで、QRコードだらけの週報ができたりして、とかいう冗談も主催者のK先生から飛び出しました。

                     

                    まぁ、それもありかも、と思います。文字が見にくくなった人には、タブレットで、拡大できるのはかえってありがたいかもしれません。


                    次回(最終回)へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.10.26 Friday

                    教会と宣教とIT(その2)

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                      今日は、2回目ということで、今回は、先日のKDK神学会で受けたコメントを受けながら考えたことをご紹介していきたいと思います。

                      まず、視覚素材の重要性です。

                       

                      テレビ世代が半分以上を占める社会で
                      今の50歳代以下、日本の全人口における50歳以下は、生まれたときには自宅の中に当たり前のようにテレビがあって、テレビを見ながら育った人々なので、テレビネイティブです。そして、今の20歳以下1990年以降生まれの人たちは、小学生の時には、ネットがあって、自宅の中でWi-Fiにつないでゲームをしたり、スマートフォンを子供のころから使い慣れている、スマートフォンネイティブだったりするわけです。

                       

                      教会は、その意味で、そういう人たちを対象に、いまだに聴覚のみに依拠して、主に知性あるいは理性のみに訴える伝道し続けようとしているように、ミーちゃんはーちゃんの目には写るわけです。

                       

                      確かに、カラオケは主に聴覚に訴えるはずのツールですが、昔はスナックと呼ばれる飲食店や歌謡喫茶(なんと懐かしい表現)などでまず普及したように思います。そのカラオケは、現在では、社会に普及し、当たり前のように様々な人々がカラオケハウスに行く時代になりました。一時期のように、カラオケハウスは不健康な場所、気のせい程度公序良俗に反するような雰囲気がある施設、風俗産業的な産業という認識や、あるいは不良が行く場所という認識は今ではほぼ見ることができません。それどころか、ビジネスマンというかサラリーマンが静かに仕事をしたいときに使う場所として用いられ、あるいは、主婦が子育ての相談会というか井戸端会議(いわゆるママ会)に使うような場所、また、おじいさんおばあさんが寄り合いをする場所として、利用されたりするような場所、あるいは、音楽系アーティストが練習するスタジオ代わりに使う場所になっています。

                       

                      歌う場合でも、カラオケマシーンは、音楽を流すだけでなく、火曜サスペンス劇場や、昼のメロドラマ(アメリカ英語では、Soap Operaと呼ばれる)のような映像に、歌詞が流れてくるようなものがたいはんですし、そういうものを人々が当たり前に使う時代なわけです。

                       

                      その時代に、賛美歌集という印刷された楽譜と文字を見ながら歌う、聖書という印刷された文書の文字を読みながら、説教をするという文化をこれまで長らく続けてきたわけです。しかし、受け取り手である来会者も、そして、ひょっとしたら、説教者自身も、映画やテレビ、Youtubeそして、NetFlixといった動画にさらされて、生活しているわけです。そして、ひょっとしたら、インターネット上のコンテンツによる遠隔教育を受けていたりするわけです。そうであっても、日本の多くのプロテスタント教会では、古代以来の声のみよる説教と、牧師先生方のかなりの部分の土曜日の夜と日曜日の朝のお悩みでもある説教原稿の作成、その後の必死になっての週報印刷とその週報の中での、説教に関連する地図や写真などを含む関連画像資料の提供といった形になっていることが多いと思います。

                       

                      確かに、昔はプロジェクタは高価でしたが、今では結構明るい高輝度プロジェクタでも5万円前後で手に入ります。そのプロジェクタは、日曜学校では使われていても、あるいは、賛美歌の歌詞で使われる教会があるにせよ、伝統的な教会で説教の補助として使っているのは、一部の教会に限られるかもしれません。せっかくあるのなら、それを利活用しない手はないと思うのです。

                       

                      まぁ、映像の多用といった形で、世間に迎合する必要はない、とか、世間で聴衆は、そう映像環境に疲れているので、日曜ぐらい休みたい、とかあるかもしれませんが、映像補助を使わずに話だけで人々に理解してもらうためには相当の工夫や話術が必要になるのかもしれないなぁ、と思うわけです。

                       

                      まぁ、以前筑波大学におられた旧約学の池田裕先生は、話術だけで、イスラエルの雰囲気を学生に味わわせることができる珍しい先生でしたが、そういう方は案外少ない、と思うのです。

                       

                       

                      昔の大型計算機以上の能力を持つスマートフォンをだれもが持つ時代での

                      悲惨な日本の日曜学校教材

                      一番悲惨なのは、日曜学校の教材です。古典的名作とはいえ、未だに1982年製作の『トンデラハウスの大冒険』や1983年政策の『パソコントラベル探偵団』が現役で使われている教会も多いかもしれません。しかし、1983年には、ハイテク(この言葉自体が懐かしい響き…)であったパソコンが、今では当たり前のものになり、我が家では、ラップトップが一人一台体制に加え、全員がタブレットないし、スマートフォンを持っているという。その小さなスマートフォンの計算能力たるや、処理能力と言い、記憶領域と言い、1960年代の大型計算機をはるかに凌駕し、1983年当時のパソコンのX-1やNECのPC-9801とかFM-11などと比べても、はるかに高性能だったりするわけです。

                       

                      トンデラハウスの大冒険

                       

                      パソコントラベル探偵団のオープニング

                       

                      「シャープ X-1」の画像検索結果

                      名機シャープX-1

                       

                      FM-Vのご先祖様 富士通FM-11

                       

                      「PC-9801」の画像検索結果

                      NEC PC-9801初期型 8インチフロッピーディスクが懐かしい。

                       

                      今、多くの人々が、若者から、お年寄りまで、昔の大型計算機よりはるかに高機能で、高い処理能力となったスマートフォンを持つ時代になり、お年寄り向けには、らくらくスマホとやらも開発されているわけです。先日、世俗の仕事関係で学会に参加していたのですが、そこでの発表で驚いたのは、今、高校生のスマートフォンの普及率は、いわゆる中位校以下の学校でも98%であり、かえって、キーボードからのタイプができない高校生が量産されている、という衝撃の事実でした。

                       

                      「大型計算機」の画像検索結果

                      大型計算機(UNIVACシリーズ)

                       

                      それだけ、今、スマートフォンが普及し、スマートフォンでインターネットを介して、何か、または、だれかとつながっているのが当たり前になった時代なわけです。

                       

                      だとしたら、教会の宣教の窓口は、教会堂という建物、また、信仰者という個人、その信仰者の日常生活を通しての口コミ、コレラは最も重要な宣教の窓口です。そして、プロテスタントでは、教会前の掲示板、そこに毎週張り出される説教台、伝統的なチラシ、広告、駅前広告、電柱看板、ミニコミ誌への広告掲載もメディアとしてはあり得ますが、インターネットも一つの情報窓口なのだと思います。

                       

                      余談に行き過ぎたんで、一端本論に戻します。

                       

                       

                      昔の大型計算機以上の機能を持った計算機が掌に乗るような夢ような現代における日曜学校の視覚教材として、最近では、VeggieTalesといったようなコンテンツなどもありますが、日本で利用可能なものが、いまだに『トンデラハウスの大冒険』や『パソコンとラベル探偵団』そもそも少なく(翻訳、アフレコの必要性等結構新たに作るのと同じくらいかかったりするらしいし)、視聴覚DVD教材のクオリティもかなり玉石混交で、結構高い割に残念なものが多いと思います。そのクオリティの低い映像作品を、Youtubeで最新アニメ(プリキュアとか)を見ているお子さんでさえ、黙ってみることを時に日曜学校では、強いられるわけです。本当、ご同情してしまいたくなってしまいます。

                       

                      「veggies Animation Christian」の画像検索結果

                      Veggie Talesのヨナ

                       


                      Hugっとプリキュア 予告編

                       

                       

                      中学2年生でバプテスマを受けた翌週から、日曜学校で、聖書の話をさせてもらっていた(させられていた、というのが正直なところ。人手不足が顕著な教会であった)ので、そのころは、まだ、カセットテープとElmo社製スライドプロジェクタが最新鋭の視聴覚機器だった時代、ちょうど、Sonyのβシステムと日本ビクターさんが開発したVHSシステムが家庭用ヴィデオ録画機で、火花を散らし始めた時期でしたので、そんな動画を使うなんてことはできず、紙芝居が視聴覚教材だった時代から日曜学校の生徒と先生をやっていました。

                       

                      「elmo スライド映写機 S-30」の画像検索結果

                      Elmoスライド投影機(こういうやつで、最も古いやつはフィルム巻取り式であった…)

                       

                      「elmo スライド映写機 フィルム巻取り」の画像検索結果

                      レンズの後方についているのがフィルム巻取り用のパーツ

                       

                      ストーリー・テラーだったミーちゃんはーちゃん

                      そんなこともあり、Dr. Paul Whiteのジャングルドクターの話をデフォルメしてストーリーテラーをかなり長期間していたことがありました。

                       

                      そんなこともあり、ある程度ジャングル・ドクターの話が頭に入っていたこともあり、我が家の子供たちが長距離ドライブで、退屈すると、ジャングル・ドクターの話を適当に作り替えて面白おかしく話をしていました。今みたいにカーナビで、アニメを流すなんてことのできない時代でもあったので。

                       

                       

                      「Jungle Doctor White」の画像検索結果

                       

                      しかし、あるとき、とある子供向けキャンプで、週5日間、毎朝10分から15分、話芸だけで子供たちの関心を持たせなければいけない、というミッションを何年間か、こなしていた時期があって、普段日曜学校で効くスタイルの聖書の話では、子供が明らかに退屈そうな表情をするので、このジャングルドクターのたとえ話をアレンジして話をしていました。そうしたら、子供たちを引率してこられた日曜学校教員から、キャンプ場の運営者に、私のジャングル・ドクターにオリジナルの味付けをしたたとえ話が、聖書のマジメな話でない、ということで、苦情が付いたことがありました。そのキャンプ場の運営者から、その旨を聞かされた翌日から、そりゃあ、ちゃんと聖書の話ばかりをしましたよ。すると、子供の表情から、わくわく感が消え、何だ、また同じようないつも聞いている話か、という感じになりましたけど、苦情はなかったようです。

                       

                      C.S.ルイスのナルニアの世界は、C.S.ルイスなら許されて、ミーちゃんはーちゃんだと許されないのね、ということで、何か、もう、心がなえたこと、仕事で多忙になってきたこともあり、もう、ボランティアとして、キャンプに参加することはなくなりました。その後、どうなったのかは、知りません。

                       

                      まぁ、今はやらせようとしている『聖書は物語る』とか、ロダール先輩の『神の物語』ではないですが、もともと聖書は物語でもあるのにもかかわらず、字義通り解釈(と言ってもヘブライ語からの字義通り解釈や、コイネーギリシア語からの字義通り解釈ではない)も極まると、あまりに自由度を人から失わせるのか、とおもいました。まさにパウロが言うように、文字に仕えることが行き過ぎると、こうなるのかもしれない、と思ってしまったんですね。

                       

                      【口語訳聖書】第二コリント3:6
                      それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。

                       

                      文字に仕えすぎる人は、時に霊というか魂(Puneumatos  πνεύματος )を殺してしまうのかもしれないなぁ、と素朴に思いました。

                       

                      Post映像の世紀に生きる現代人

                      NHKで『映像の世紀』という番組が放送されたことがあるけれども、人類は、19世紀に写真術を開発し、20世紀に活動写真・映画を開発し、そして、1936年のベルリン・オリンピックでは、テレビの試験放送が流れ、戦前には、総天然色映画と呼ばれた、カラー映画が開発され、戦後白黒テレビから、1960年代に日本でもカラーテレビ放送が始まり、1980年代には、ファミリー・コンピュータが発売され、そして、今、ネットの時代になり、電車の中でも、バスの中でも、映画やテレビドラマをインターネット録画で楽しむ人が増えた時代になっているわけです。その意味で、今、日常生活で映像があふれている時代、やかましすぎるくらいにあふれている時代になっているわけです。ある面、ポスト映像の世紀ということができるでしょう。

                       

                       

                      『映像の世紀』という番組  まさに20世紀は映像技術開発の世紀でもありました。

                       

                      音声や文字が無意味だとは言いませんが、今はガラパゴス携帯電話(通称ガラケー)でも、やろうと思えばヴィデオ通話が可能な時代になってきているわけです。映像のない文字ばかりのサイトの重要性を否定するわけではありませんが(それはとりもなおさず、ざっと見する上では非常に有効であり、重要なわけですが)、やはりインタラクティブなヴィジュアルインパクトの強いサイトと、文字ばかりのサイトだと、どっちが食いつきがいいか、というと、文字ばかりのサイトには、多くの人は食いつかないように思います。

                       

                      大学の授業でも、昔は、先生はコーヒー片手にテキストをもって、板書もせずに、ひたすらしゃべって一時間30分、というような授業が割と普通でしたが、今は、そういう授業をすると、学生から親経由で事務に苦情が(学費を払っているのが親権者、という論理だと思いますが)付いて、それに教員は対応を求められる時代になりました。教室でコーヒー片手に授業をした名物教官なんて存在は、今はほとんど、どの大学でも見られません。昔は、教室でシガレットを吸う教官や、椅子にどっかと座り込み、パイプを燻らせる教官もいたらしいですが、まぁ、今の日本の大学では、そういう先生を見つけるのは無理ではなかろうか、と。

                       

                      ウェブサイトはリアルを伝えるもの

                      リアルを伝えるための動画配信サービス

                      もちろん、ウェブサイトは、とってもインタラクティブ(ユーザーが何か画面操作をすると、素直に反応し、いろいろ面白い仕掛けがしてあるサイト)で、めっちゃクールだけど、実際に教会に行ってみると、「あっ…」となってしまう教会も中にはあるようで、そうなると羊頭狗肉というか、「上げ底観満載のおみやげ物のパッケージ」とか、「看板に偽りあり」って感じになってしまい、逆効果かもしれません。その意味でも、身の丈感覚、というのは案外重要ではないか、と思うわけです。

                       

                      そういう意味で、この間のKDK神学会でお話している最中にもお話したのですが、毎週、牧師の方々は、頭を抱えながら、必死になって、説教とお考えになり、それを数十人の信徒さん、あるいは、せいぜい数百人の信徒さんに向けて発信しておられるわけで、皆さん毎週、かなり時間をかけ、労力をかけ、コンテンツを作られておられるわけです。その模様をそのまま、コンパクトデジカメや、あるいは家庭用ビデオで録画して、それをYoutubeにアップロードするだけで、教会のコンテンツと飾らない素朴な教会のリアルがそのまま、外部に流れていき、ちょっと教会に行ってみようかな、と思う人々の参考になるものがすぐできるわけです。CGNTVの取材を待たなくても、家庭用のコンパクトデジタルカメラか数万円の家庭用ホームビディオカメラと、千円ぐらいの三脚と、編集さえしなければ、数時間もかけずに、なれた人であれば、30分程度の時間で、説教のサンプル動画をウェブ上に上げることができるありがたい時代になりました。

                      あるいは、ノートパソコンのカメラを据え置いて、インターネットにつないでおいて、ライブ動画をYouTube Liveかなんかで流せば、そのまま記録がいっちょ上り、編集も何もなく、できる時代になったわけです。そうした環境で作ったのが以下の動画です。
                      祈りフェスティバル名古屋でPCのみで録画・ライブ放送した動画の例

                       

                      この動画は、PCのカメラがしょぼいので、ちょうどいい具合に画像がぼけていて、個人情報が見えなくなっているけれども、全体の雰囲気はなんとなく伝わる、という感じであることは少し見ていただいたら、わかろうか、と思います。

                       

                      その意味で、教会の雰囲気を伝える、という意味で、毎週やらなくても、教会にPC据え置きにして、こういうライブ動画をサンプル的に1本、2本乗せておく、というちょっとした工夫でしてやれば、教会のリアルって、かえって凝った映像作品造るよりも、案外簡単に伝わるんじゃないかなぁ、そして、まだ、キリスト教のことを知らないけれども、ちょっとどんな雰囲気かのぞいてみたい、という人々のお気持ちにお答えすることになりますし、説教を聞いてみたい、と思わせることが、そんなに面倒なことをしなくてもできるような気がするのは、ミーちゃんはーちゃんだけかもしれません。

                       

                      なお、日本コプト正教会さん(日本コプト正教会さんのFacebook)では、Facebookで遠隔地で礼拝に参加できない方々のために、土曜日の晩課と日曜日の聖体礼儀(礼拝)をFacebookで、中継しておられます。

                       

                      その時の動画は、こちらからどうぞ。

                       

                       

                      画像キャプチャーしたコプト正教会さんの礼拝の模様

                       

                       

                      そんなに面倒なくできるので、こういう礼拝とか、教会に参加できない方々のために、せっかくの説教を週報の要約だけでなく、オンデマンド型(聞く耳がある人にはお聞かせできる、見たい目がある人にはお見せできるスタイル)でお届けできる工夫、もうちょっとできるといいのになぁ、と思います。

                       

                      もっとも古そうなキリスト教とハイテク機器

                      しかし、日本コプト正教会さんは、Youtubeライブ配信と言い、数年前の献堂式(会堂聖成式)での司祭の方の式文のタブレット利用と言い、なかなか、時代の最先端と古くからの礼拝スタイルをうまくミックスしておられるなぁ、と感心させられることしきりです。

                       

                      そういうえば、この前の英国王室でアメリカの聖公会のビショップのカリーさんが説教でタブレットを使っていたことがちょっとした話題になりましたが、どこぞの経○連の歴代会長か磯野浪平さんじゃあるまいし、いまだに、神とボールペンと電話で仕事をするようなスタイルに縛られているのは、本当にどうしたものか、と思います。

                       

                      カリー主教の結婚式での説教

                       

                       

                      経団連会長がメールをやり始めたことに関して拾ってきたツィート (磯野波平さんがペンと紙と電話で仕事をしていることと、これまでの歴代経団連会長が、メールを使わず、今の代の会長から使い始めたことが報道されたことに関してのツイート)

                       

                      しかし、タブレットの利用ごときで、保守的でない、ガンガン苦情いうなら、メソポタミアの有職故実に倣って、説教は、古式ゆかしくクレイタブレット(粘土板)に限るとかすりゃあいいのにね、と思いたくなります。

                       

                      「Clay tablet」の画像検索結果

                      https://www.shutterstock.com/search/clay+tablet より

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      評価:
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                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:聖書は神の物語だし、モーセ先輩はストーリーテラーだったんですけどね。

                      評価:
                      Paul White
                      Cf4Kids
                      ¥ 1,101
                      (2011-01-10)
                      コメント:日本語版が出ないものか…

                      評価:
                      Paul White
                      Cf4Kids
                      ¥ 1,094
                      (2011-01-10)
                      コメント:子供のころ、わくわくしながら読んだものだが(日本語で)

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