2008.04.28 Monday

結婚してよかった、クリスチャンとして思ったこと

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    コアラさんのブログに、結婚してよかったと思ったことについてクリスチャンの方に聞いたことがでていましたが、個人的によかったと思っていることについて。


     


    聖書の読み方が自分だけのある一面的なものとならないこと


     


    ともすれば、突き詰めて聖書を読むことがあるので、聖書の読み方がある一時期を区切って考えるとかなり偏っていることがあります。そんなときに家内から色々自分とは違った聖書の読み方の意見を聞くことで、なるほど、そういう見方もあるか、ということに気付くことがあります。


     


     


    意外と気にしたことのない視点を与えてくれるところ


     


    何で、時間とコストをかけて教会に行くのか(家内の場合、家庭のドアを開けると教会の会堂(家庭を教会として解放していた家庭)という特殊環境で育ったのでこういう疑問がでるようです)、教会に集まる意味とは何か、という結構根源的な質問を出してくれるので、それについての解答を聖書の中から見つけなければならない状況を作り出してくれるので、非常に参考になります。


     


    人の気持ちに気付かせてくれるところ


     


    男は馬鹿で、よわっちくてスケベなので(水谷先生のブログでは、よわっちくて幼稚でスケベ)、人の気持ちをあまり斟酌できない、特に女性信者の方への対応の方針が分かりにくい、女性しんじゃがなにをもとめているか、についての解説を聞くことができるので、大変参考になります。


    また、女性の信者の方に連絡する際に、メタボのおっさんとはいえ、連絡しにくいときに変わってこちらの意図を伝えてもらえるので、大変助かっています。


     


    水谷先生の以前のブログで、牧師は牧師夫人に支えられて初めて一人前となれる、という記事もありましたが、確かにそうだと思います。


     


    精神的なバランスをとってくれるところ


     


    一人でいろんなことを抱えがちになる傾向が私にはあるので、結婚することで孤独さを感じなくて済む、というのがあるかもしれません。一時的に義父の世話をするために、いなかったときの大変だったこと、大変だったこと。


     


    結婚して、一緒にちょこっとづつ、自分の思い込みやたらない部分を示されながら、成長すること、って言うことのプロセスを味わえるところが結婚して一番楽しいことのような気がします。


     


    2008.05.14 Wednesday

    また、復活

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      連休以来バタバタしていたので、なかなか、書けなかった。


       


      そのうち、ヘブル書の学びのファイルをあげようと思うが、なかなかできない。


       


      今週末かなぁ。


      2008.06.08 Sunday

      ナルニアに行ってきた

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        今日、家族と一緒に久しぶりの映画。子供から頼まれていたが、なかなかタイミングが合わず、今日が限界だったので、見に行くことに。教会が終わってから見に行ったので、終わったら8時前でしたね。それから食事して帰ったので、結構ビッグな一日になりました。


         


        ナルニアを映画館で見てきた。原作を読んでいないので、なんとも。


         


        迫力はあった出すね。若干、戦闘シーンが多すぎかな。これじゃぁ、アメリカでは、PGがついたんじゃないかな。前作でもPGだったから、多分、こっちは、もっとPGじゃないかな。


         


        とはいえ、まぁ、面白かったですけど。


         


         


        2008.06.22 Sunday

        多様性と成長

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          教会の信者の成長にとって、信者の多様のあり方や状態を容認する愛は重要だと思います。


           


          ともすれば、ひとつの型に信仰のスタイルをはめてしまい、それが一致であると大誤解している教会も時に見られます。これがあまりに進んでいくと、カルト化していくんだろうなぁ、と思います。


           


          ひとつの理想(牧師さんの考え方とか生き方、聖書理解)が絶対善とされ、そのほかのいき方や考え方、あり方を認めなくなったとき、それは教会の正常な姿からは外れているとおもいます。


           


          所詮、人間は完全ではないし、完璧な人間はありえないですし、神様ではないので、聖書に書かれている一部しかわからないのが実情だと思います。


           


          ただ、語る人間は、他の信者の方から、評価を受けやすく、評価を受けることで自分でわかった気持ちになるので、自分が理解している気分になりやすいというわなが待ち構えているように思います。


           


          「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」 Iペテロ 4章11節 は神の主権と人の働きを考える上で重要かな、と思います。


          2008.07.07 Monday

          聖書の理解を深めること

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            私たちの教会(キリスト集会)では、聖書の中に神の声を求めて尋ねもとめることを重視しています。これは、大切なことだと思います。聖書を通して、神は私たちに語りかけようとしておられるからです。もちろん、信仰者としては、祈りのなかで、また個人的に神と語り合う中で、神は私たちに語りかけられようとしておられることも間違いないとは思っていますが。


             


            とはいえ、私たちにかかれたものとして与えられているのは聖書だと思っています。


             


            とはいえ、もともと、聖書自体は、一般に読まれるための読み物としてかかれたものではなく(特に旧約聖書)、音声で伝えられ、口伝で伝えられ、記憶を通して伝えられてきたもので、誰しもが参照し、思いをめぐらせることができるものであったわけです。そもそもは。新約聖書は、書かれたものではありますが、特定の読者に向けて、特定の意図を持って当てられたものがいくつか含まれています。


             


            ローマ時代の後半から中世にかけて、文字が読める人が限られていたこと、また、印刷技術が無い中で、筆写によってしか書物が作成できなかった結果、聖書は特定の人のものになってしまいました。


             


            しかし、印刷術の発展、製紙技術の進展により、聖書が一般の人にも利用でき、ラテン語やギリシア語、ヘブル語ではなく、普通の言語で翻訳された結果、一般の人が読めるようになった現代、それを繰り返し読んで理解を深めることというのは、キリストを信仰するものにとって非常に重要だし、そのような時代に生まれた幸福を感ぜざるを得ません。


             


            最近、もう一度、『ウィリアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯』,デイヴィド ダニエル (著),  田川 建三 (翻訳) 勁草書房 (2001) を読んでいて思いました。


             


            でも、これは、本当はもともと McGrathのいうように、Chrisitianty's Dangerous Ideaだったような気がします。その中で、2000年間にわたってキリストの体として、連綿と蓄積されてきた聖書理解の体系(『神学』ということもできますが)にも、一定の敬意を払うことは重要かもしれません。それに振り回される必要はないとしても。


             


            私たちのキリスト集会(教会)の中には、キリストの体として、連綿と蓄積されてきた聖書理解の体系(『神学』ということもできますが)を軽視される方も居られるのは、ちょっと残念かなぁ、と思います。


            2008.08.06 Wednesday

            天にあるものの写しと影

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              本業と教会の奉仕がちょびっと忙しかったので、更新、サボっていました。


               


              今年も、軽井沢で行われた子供向けのキャンプに奉仕者として参加してきました。


               


              キャンプ自体は、祝福され楽しかったですが、いくつか感じたことがあるので、感じたことを、書いておきたいと思います。


               


               


              今年も、日本各地から、といっても、ほとんど、埼玉、群馬、東京、神奈川の教会のかたがたが中心でしたが、多くの子供達が軽井沢のキャンプ場に参加され、そこで、毎朝、7時20分から8時くらいまで、賛美したり、礼拝したりする時間を持ちました。


               


              その担当を毎日しながら、教会(集会)という枠の違いを超えて(大体子供はそんなことは考えていないという話がありますが、それはそれで)同じ時間、同じ場所で、同じ賛美歌を大きな声で賛美する、という姿を見た時に、特に、他の教会の参加者の方々と一緒に、同じ神を信じようとするもの、同じ神を子供達に伝えようとするものとして、一つになって賛美、礼拝する姿を見た時に、ひょっとして、天国って、こういうことなのかなぁ、人種や国籍、教会という枠を超えて、同じ神を礼拝する、これが天国での姿だよなぁ、とおもいました。


               


              とはいえ、バベルの塔ではありませんが、ひとつに集まれば何でもいいというものではなく、やはり、神の前への謙遜をもって、ともに礼拝する姿って、いうのはやっぱり美しい。


               


              教会や、教理の枠を超えて、同じ神を同じように純粋に賛美する、これって天国の姿の影なんだろうなぁ、と思いました。もちろん、ヘブル人への手紙の中では、幕屋と祭司の礼拝の姿を「天にあるものの写しと影」として表現されているのだけれども、教会や集会の枠を超えて、礼拝する、それって、本当に天国の一部のあり方のちょっと質の落ちたコピーになっているのだなぁ、と思ってしまいました。


               


              そう、他のクリスチャンとの交わりは、やっぱり大事。それを感じた5日間でした。


              もちろん、このCururuブログで生まれたコアラさん、Foceさん、サトさんなどの交わり、本当に感謝です。他のクリスチャンともつながっていて、キリストの体の一部を構成しているという実感、これは、とっても大事なことなんだなぁ、と思いました。


              2008.10.04 Saturday

              お勧めの本

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                ヘンリー・ナウエン著 「闇への道、光への道」原みち子訳、こぐま社、70


                 


                あまり、だれかれに薦められる本ではないけれども、この本は良かった。特にタイトルが、厳しいかも。高齢者には進めにくいが、高齢者にぜひ、読ませたい本。高齢者のお世話をする人々にも。


                 


                もちろん、ナウエンと読む福音書も、ナウエン自体の共同体、という観点がじわっと伝わってきて、良い本です。放蕩息子の帰還は確実に秀作と呼ぶべきかと思います。この2冊は、誰にも貸せない本です。貸すのであれば、買ってプレゼントするタイプの本です。


                 


                しかし、ヘンリー・ナウエン著 「闇への道、光への道」は、一部、カトリックの近年のエキュメニカルな思想性(ナウエンではなく共著者のほうのもののような気がしますが、共著なのでよく分からない)があることや、カトリック的な霊性の部分があるにせよ、歳をとる、ということは神の国に向かっていく、ということを強烈に伝えてくれる本です。そして、人生が神と出会うための準備期間であることを示してくれる。そういう類の本です。


                 


                そして、手放していくことの重要性、権力や能力、金銭などにしがみつくことの危険性をじわっとやわらかくユーモアを持って示してくれる本です。そして、自分たちの生活が、生産性という牢獄という中に、自らロックインしてしまっていることを示してくれる、そんな本です。


                 


                この本には、面白い記述があります。年老いた人の包容力とユーモアについて、こんな話が載っていました。


                 


                ローマ教皇にある人が聞いたそうです。


                『バチカン市国には大勢の人がいますが、どれくらいの人が働いているのですか?』


                 


                ローマ教皇はしばらく、考えた後で、


                 


                『半分くらいじゃないかな』


                 


                と答えたそうです。


                 


                電車の中で読みながら、笑いが止まらなかったので、向かいに座っていた女子高生に不思議そうに見られてしまいました。


                 


                誰にでもお勧め、というわけには行きませんが、ケアの問題を考える人には、お勧めの一冊かも。


                2008.10.04 Saturday

                ナウエンの本の不思議さとキリスト者勝利主義への疑問

                0

                  今、ナウエンの本を読みながら、考えている。


                   


                   なぜ、ナウエンの本を読むと、どっと疲れが出る感じがすると同時に、癒される感じがするのか。彼の人格に包まれているような感覚になるのか。不思議な感覚を与える著者である。


                   


                   ロイド・ジョンズも読んだ、C.S.ルイスもあらかた読んだ。レオン・モリスは好きだ。FFブルースの使徒行伝、ヘブル書、ローマ書の講解は本当にすごい、と思う。パッカーも大好きだ。マクグラスもその思想史的な体系が面白い。でも、ナウエンの本のように人格と触れ合う気がしない。どちらかというと、対決している感じがする。しかし、このナウエンの本を読んだときの人格と触れ合うような感覚、って一種独自のものがある。


                   


                   ナウエンとの違いを、家内と話しながら考えた。ロイド・ジョンズ、C.S.ルイス、パッカー、レオン・モリス、ライル、ブルース、マクグラス。彼らの主張に納得できないところも時にはあるが、その主張はおおむね正しい。共感できる。理解できる。その論理構成のあり方は妥当だと思う。頭脳には楽しい本ではあり、聖書知識や聖書の理解を深めてくれる。自分が聖書を読む際に抑えるべきポイントを示してくれる。理解を深めるのに有益であるし、自分が気付かなかったことを、知らなかったことを示してくれるという意味では、これほどありがたい著者たちはいない。


                   


                   ナウエンは、それとは違うものを持っている。明らかにそれを感じる。ロイド・ジョンズにしても、C.S.ルイスにしても、パッカーにしても、その他の著者にしても、聖書理解を研ぎ澄まさせてはくれる。これは重要。でも、ちょっと対決している感じ。教わっている感じ。教室で対峙している感覚。


                  ナウエンの本は、横長の席に座って、隣に座ってざっくりとした話をしている感じ。対決感がない。これが最大の違いかもしれない。


                   


                   この中にあるのは、自分自身の信仰が、どこか勝利主義という観点がおかしいぞ、ということを感じ取っている、からかもしれない。多分、私がsecond generation(第2世代)のキリスト教徒であるからかもしれない。第1世代のキリスト者は、家族の反対を押し切り、社会全体の人間関係と対決しながら、信仰を守ってきた部分がある。まさしく、戦い、勝ち取ってきた信仰である。その経緯で作り上げられていった感性からすれば、


                   


                  『信仰は勝利、信仰は勝利』(聖歌の光の高地に)なんてことになるのかもしれないし、


                  あるいは、


                  『われらは常に勝利、勝利』なんてことにもなるのかも。


                   


                   この辺の勝利主義的な信仰って、どこか歪んでいるようなちょっとした気持ち悪さが最近の私にはあったりする。


                   


                   時々、宣教大会やキリスト教徒の集りなどで、『決起集会』とか書いてあるのを見ると、動労とか、国労が元気だったころの在りし日の姿を遠く思い出すとともに、この感覚、何とかならないかなぁ、と思ったりする。


                   


                   イエスの救いは、悪魔に対しての勝利や『死のとげ』に対しての勝利かもしれないが、人間の誰か、に対して勝利するものではない。ましてや、他の人々への優越感を与えるようなものではあってはならないと思ったりしている。


                   


                   ナウエンは、そこをきちんと示しているところ、それも頭ごなしにではなく、それを示しているところが気に入っている。


                  2008.10.18 Saturday

                  ナウエンを読みながら

                  0

                    ヘンリ・ナウエンをよみながら


                     


                     もうかれこれ、10冊近くナウエンを読んだであろうか。面白い。霊的に大変刺激的。自分の信仰を見直すための参考になる。とはいえ、5冊目を超えたあたりから、どこかで読んだ話がチョコチョコ出てくる。これは仕方ない。ナウエンが書いたものを通して、ナウエンと話しているのだから、彼が面白いと思った話にお付き合いするか、軽く聞き流す。


                     


                     ただ、ナウエンにはナウエンという人物が過ごした時代背景と文化コンテキストがあることを忘れてはいけないことも思う。


                     


                     ナウエンは、オランダ生まれ。基本、カトリック社会の中で育てられた人物。最初から最後まで、カトリックという枠組みは外れなかった。それはそれでよいとおもう。ドイツ人によるユダヤ人虐殺の舞台の中で幼少期を過ごし、育った人。食糧難の中で豊かな家庭とはいえ、飢えるという問題に直面していること。アメリカに移ってからは、公民権運動、ヒッピー文化、その後のアメリカ文化の中に潜む拝金思想なんかにも直面したこと。これらが、ナウエンの著作に大きな影を落としていることが、彼の著作を読み漁っていると見えてくる。その点での限界も見えてくる。


                     


                     2・3冊読んでいる分には、この辺はわからなかったが、今、これは確信に変わりつつある。神の前に静まることを知らないアメリカ文化、神の前に明け渡すことが十分でないアメリカ文化、神の前に悪びれずに出るアメリカ文化、In God We Trustが国是であるがゆえに自分たちはクリスチャンだと思い込んでいる人々をつむぎだしていくアメリカ文化、これに対する反論だと思う。その意味で、キリスト教徒は何か、聖書とは何か、ということを深く深く教える書物。それがナウエンの本。聖書ではない。でも聖書をより深く理解するための大きな手がかりをくれた本。それは間違いない。


                     


                     もちろん、カトリック的背景の中で信仰を深めてきたのだから、エキュメニカルの思想が時に出ることが多い。カトリックだから、駄目、プロテスタントだから、まともでない。そんなことはない。神の前に出るとき、カトリックも、ルター派も、カルバン派も、ツウィングリ派も関係ない。それこそナンセンスな議論。それこそ、カトリシズムや真の教理を離れた派閥主義に過ぎない。


                     


                     要は、自分たちがどのように聖書を読むか、神と交わりのひと時を持つか、そして、その上でどう世界と切り結ぶかを考えることが、重要だということがなんとなくわかった。もうちょっと、ナウエンと付き合ってみよう。年内一杯は、ナウエンかなぁ。その上で、次はボンフェッファーともう一度付き合いなおしをしてみよう、と思っている。20年たって、どう読めるか。気になるところ。


                    2008.10.27 Monday

                    残念。服部先生のブログが終わった。

                    0

                      マクグラスのお弟子さんで東海地区で牧師をしておられる服部先生のブログ 晴耕雨読の日々


                       


                      http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/


                       


                      が終わってしまった。


                      残念。ロイドジョンズやマクグラスがまともにとり上げられる数少ないブログだったので、先輩の話を立ち聞きしている感じがしていたのに。ちょっと残念。キリスト者の中でも、この手の話ができる人は少ないので。


                       


                      まぁ、お疲れになっていたのもあるのでしょう。服部先生の上に平安があるように祈りたいと思いました。


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