2009.09.16 Wednesday

スモールグループについて

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     この前の関西で学会発表があったので、関西のある大学

    で開かれている英語によるスモールグループ活動に参加

    させてもらった。親戚がその大学の先生なので、その先

    生が大学側のホストになりながら、実際の活動のリード

    はある教会にいるフィリピンからの宣教師の方がリード

    しておられた。

     参加者は、リーダー役のフィリピン人、中国系アメリ

    カ人、韓国人、日本人(私を入れて3人)であった。いず

    れも信者であり、それぞれの背景を持ちながら、フラン

    クに議論ができた。

     テーマは、弟子たちが誰が偉いのか、と議論している

    ところについて、自分との関連でどう思うのか、その部

    分でイエスが何を語ろうとしているのか、ということを

    話し合った。

     英語でする分だけ、直接的にものが言えるのがすがす

    がしい。冗談も言える。まぜっかえしもできる。サンタ

    バーバラで参加した時のスモールグループのことを思い

    出した。英語でする分だけに、フランクにものがしゃべ

    れる。

     現在の所属教会でも、ディスカッションもどきのこと

    をしているが、今一つ雰囲気が出ず、聖書解釈の細かい

    ことに行ってしまい、個人との関連や自分がどう思うの

    か、という深まりのある議論ができない。日本語と日本

    文化の影響が強すぎるのかもしれない。深まりのある

    ディスカッション、スモールグループ活動がしてみた

    い。そしてそのディスカッションを通して、神と個人と

    の関与の深まりを考えたいし、聖書理解の幅を広げてい

    きたい。教えよう、教えられようとするのではなく、

    話し合いの中で、考えを深めていく。そんな経験をもっ

    としたい。

     日本では、無理なのかなぁ。みんな仮面かぶっちゃ

    うから。まぁ、いいや、奥さんとしよう。


    2009.09.18 Friday

    教会が与えるもの、教会に与えるもの

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       教会が与えるもの、教会に与えるものについて考えている。

      教会は生き物だと思う。それはパウロも言っている。

      いけるキリストのからだ。その通りである。教会は体、

      信者は身体内の器官だというメタファーがある。システム・

      サイバネティクスというのを以前かじったが、パウロは、

      システム・サイバネティクスという概念が提示される以前

      から、教会がまさしくシステム・サイバティクス的にとら

      えられることを明言している。システム・サイバネティクス

      という言葉を一切使わずに。

       最近、現在所属する教会から離れて、別の教会に移ろうと

      しているお一人の信者がおられる。気になる。なぜ、彼が

      去らねばならなかったのか、去ろうという決断をしたのか。

       おそらく、ご自身が抱えておられる病気のことが大きな

      要因だと思われる。私は癒し(霊的な力で病気が治る奇

      跡の一種)に対してかなり否定的な立場に立っている。

      その方が参加しようとしているところは、その種のことを

      強調しているようだ。そのことに振り回されなければよい

      のだが。

       病気の苦しみからの解放、これは、病者ならば誰もが望む

      解放である。本人にしか分からない部分がある。しかし、

      病者としては現実の苦しみから逃れられるのであれば、

      わらをもすがる思いですがりたくなる気持ちは理解できる。

      病者になってしまったから。痛みがあるから。

       その反面、イエスの神の国の本質は、痛みの除去や、

      病者の苦しみからの解放ではないことが分かっている。

      イエスとともにあること、神と共にあることである。

       人を介してお聞きしたその方が移られる先については、

      個人的には、非常に不安感があり、ものすごく懸念を抱

      いている。不安がある。しかし、一方で、さまざまのこ

      とを見て判断されたその方の意思を尊重したい気持ちも

      ある。たぶん、私のこれまでの生き方からいって、その

      方の意思を私は尊重するだろう。大きなダメージをその

      方に与えかねないという懸念があるとしても。懸念で終

      わるよう祈るしかない。移られる先がキリストのからだ

      の一部をなしていることを期待するしかない。

       組織サイバネティクス的な立場から言えば、要素は全

      体に影響し、全体は要素に影響する。キリスト教会でも

      同じである。信者は教会に影響を与え、教会は信者に

      影響する。非常に複雑なシステムダイナミクスを持つ存

      在である。教会 → 信者 ではありえない。その意味

      で、信者が、どう教会に関与していくのか、教会がどう

      信者との関係を取るのか、そして、信者個人の生活と

      信仰を深めていく、信者同士の関係を深めていくという

      そのための仕掛けづくりの大切さを思う。コミュニオン

      あるいはコイノニアとしての教会、エクレシアとしての

      教会ではなくコイノニアとしての教会という問題を、

      移籍しようとしておられる信者さんの存在から、静かに

      考えている。
      2009.09.23 Wednesday

      関西のある集会に行ってみた

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         最近、機会を捕まえては、あちこちのキリスト集会に

        出歩くことにしている。一つは、個人研究のフィールド

        スタディとして、より具体的には、参与観察と情報収集

        の一環として参加させてくださるキリスト集会があれば、

        できるだけ積極的に参加することにしている。

         というのは、訪問することで得られるものは、単なる

        伝聞情報、ヒアリングでは語りつくせない視覚情報の有

        効性と情報量の多さがあるからである。

         今回は、関東のキリスト集会のMさんという方が来ら

        れてメッセージをするということで、Mさんとはここ何

        年もお付き合いがあるので、その方が話すのを聞いてみ

        たいと思ったので、参加させてもらうことにした。

         夕方に行ったのと、地図を印刷していたのに、それを

        持参するのを忘れていたので、駅から5分くらいで、行

        けるところを、10分以上ついて、現地に到着。

         あるビルの一室で行われていた研究会に参加。20人も

        入れば満杯になるような会場であった。普段は、15人前

        後でお使いとのことであった。

        Mさんのお話は、感謝というテーマで、マグダラのマリア

        を巡るお話から、いろいろスピンアウトして出てきたお話

        しだった。個人的には、ちょっと論旨がずれている、と

        思う部分もないわけではなかったが、まぁ、おもしろかった。

        個人的には、弟子たちに言ったイエスの言葉がささってきた。

        「あなた方は、いつも貧しい人とともにいる。」この言葉の

        発見はかなり大きかった。お話を聞きながらも、このことの

        意味を考えていた。いまだに考えている。これは、もうしば

        らく考え、そして深めていきたい。

         おもしろかったのは、この集会は、お好きな方がいるよう

        なのだが、やたらとPA(放送・録音設備)が立派で、State

        of Art(最新の技術水準)のものが置いてあったことである。

        最近、集会施設を移設した関西のK集会もPAは立派であっ

        たがここのは、小規模でありながら、やたらと技術的にマニ

        アックな録音設備があったことである。

         普通の会社のオフィスのようなところを少しだけ手を入れて、

        そして集会所として工夫して使っておられた。そのため、0.5畳

        ほどの玄関で靴を脱ぎ、20人も靴を入れるといっぱいになるよ

        うなやや大きめのタンス状のシューズボックスの中に収納する

        様な形でカーペットじきの会場であった。

         後、結構立派なすわりごごちのいい椅子がいくつかあり、疲れ

        にくかったのがうれしかった。

         それ以外は普通のオフィスとあまり変わらない感じであり、場

        所がわかりにくかったが、それはそれで、キリスト集会の在り方を

        継承していると言えるように思う。ただ、入りにくかったのも事実

        であり、キリスト集会にとって、わかりやすさ、入りやすさという

        問題を少し考えた。最初の人にとっては、入りにくいだろうなぁ。

         それから、旧O集会(旧H集会)の関係者が結構おられることが多

        いことがわかり、このO集会がもたらしたもの、ということを

        考えざるを得なかった。O集会は、多くの信者を生みだした集会

        であるが、多くのスピンアウトを生み、多くの集会から離れざるを

        得なかった人々を作り出してしまったという面があるように思う。

        同じ関西にあったK集会が、多くの信者を生みだす中で、かなり特

        殊な信仰をもった方々を生みだしていったことを考えるときに、こ

        の関西の信仰の特殊性という問題を考える必要があるようにも思う。

        関東のキリスト集会の冷静さと関西のキリスト集会の情熱の一種の

        激しさの違いはどこに由来するものか、もう少し考えてみたい。

        個人的には、関東の信仰に近いので、関西の大会に参加すると時に

        違和感を覚えることがある。その意味で、関西にいながら、外部者

        としての目を持って、もう少しこの問題と取り組んでも見ようと思

        っている。

         


        2009.09.25 Friday

        グリーフケア 再考

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           ある伝道者の方の奥様が召された。直接面識がない。

          伝道者の方も、面識がない。関東に長くいたから。

          伝道者の方の旧約聖書理解の方向性が違うから、あま

          り関心がないこともある。あまり議論の方向性が異な

          るので、正直に不快感が顔で表現されそうで、それが

          いやだなぁ、と思うこともある。あまり、楽しい思い

          出を分かち合うことのできなかった教会の責任者が

          絶賛というよりは心酔していたことも影を落として

          いる。

           ブログを使って、病状が経過報告されていた。

          祈りに覚えてもらうためであったが、遺族の方、

          特に夫であった伝道者の方としては、闘病時の

          この姿をとどめておくことで、ともに歩んだ配

          偶者、というよりは、ラテン語でいうコンミリ

          ターリィア(戦友というのか、同志というのか、

          危機をともにくぐった中で培われる友情)の痛

          みと悲しみを分かち合うというグリーフケアの

          役割を果たしていたように思う。

           この伝道者の方は、配偶者であった方の前夜

          式(通常の通夜にあたる)と記念式(通常の

          葬儀にあたる)ともにメッセージにあたるという。

          個人的には無謀だと思う。グリーフケアの観点

          から考えても、無謀だと思う。でも、それも

          我々の理想化された責任者の姿だと思うが、

          それはどこかで無理があると思う。神の前に

          無力さをさらすべき瞬間であっても、無力さ

          をさらすことを許さないその精神性は、個人

          的にどこか歪んでいると思う。

           他人に依存すること、それもときに必要で

          ある。それを指導者自ら見せることで、牧会

          上の益になることもあるのではないか。

          そんなことを考える。

           教会員は、指導者の姿を見る。そして、そ

          れが有形無形の影響を信者に与える。である

          とすればこそ、弱さを見せること、他人に依

          存する姿を見せること、それが許されるなら

          ば、そうすることが必要だと思う。

           葬儀のセルフプロデュースの話が、水谷

          牧師のブログ

          http://blog.chiisana.org/?eid=1261092

          http://blog.chiisana.org/?eid=1262336

          にあったが、なんかそんな感じを受けてしま

          った。

           霊性の問題を考えるとき、グリーフケアの

          必然性を考えるとき、歪みを感じる。この歪

          みはどこから来るのか、少し考えたい。
          2009.09.26 Saturday

          大衆化とキリスト教会

          0
             小さな命を守る会の代表者をしておられる水谷潔さんの

            ブログに「和田アキ子に学ぶ福音宣教」という記事があ

            ったが、この話題は、日本における福音宣教の現地化の

            問題を取り扱っているものと思う。

             日本における現地化の問題は、日本におけるキリスト

            教会の大衆化の問題である。日本において、不幸にして、

            都市部の中産階級の信仰としてのキリスト教という形で

            しか広がらなかった。その背景には、日本における宣教

            が当時拡張過程にあった英米の福音派の影響を強く受け

            た宣教団体によってなされたことと深い関係があるよう

            に思われる。英米のプロテスタンティズムの思想的背景

            と日本における都市部中産階級の社会的思想の不幸な

            一致が日本における大衆伝道ということを成功させなか

            った原因と思われる。

             その姿は、欧米追従型の研究を行ってきた日本の学会

            の姿でもあり、欧米追従型の音楽性を追求してきた日本

            の音楽界の姿でもあり、日本独自のものの評価を十分で

            きていない日本社会の姿であるかもしれない。

             ブルーノ・タウトやバーナード・リーチなどにより発

            見される形で評価を得ていった日本建築や日本民芸運動

            にしてもそうである。自分たちのものを自分たちで正当

            に評価できないその問題を感じる。それは、閉じたカノ

            ンの問題かもしれない。自分たちのカノンが独自である

            ために、他者のカノンとの比較において相対化できない

            日本社会の案外根深い部分に潜む問題かもしれない。

             大衆伝道を考える上で、賀川豊彦の存在を考え続けて

            いる。もちろん彼には、15年戦争中の満州開拓団という

            とんでもない負の側面があるが、しかし、彼が大衆伝道

            家として果たした役割を過小評価しているような気がす

            る。

             歌謡曲が、水谷氏が言うように英米系ポップス、ロッ

            ク、フォークの再解釈である(ある面でその側面は当たっ

            ていると思われる)ことを考えるとき、日本のいわゆる

            ロックファン、フォークファン、ポップスファンが、外

            国の文化の中で培われた音楽性の表面だけを受け取り、

            それを再解釈して提示した日本の歌謡曲をより低次元の

            ものとして認めていかない「上から目線」は日本の中産

            階級の思想性とどこかつながっているように思う。

            英米系のロックや、フォーク、ポップスを「卒業」する

            人々が多くいることと、教会「卒業生」の存在は重なっ

            ているのかもしれない。

             「教会」 − 「とんがり屋根」 − 「鐘」は

            いわば西洋のシニフィアンであり、アメリカのシニ

            フィアンだろうと思う。日本には、とんがり屋根の

            建築物も歴史的にすくなかったし、コミュニティの

            危急を告げる鐘は、半鐘でしかないからである。

            そして、そのとんがり屋根の教会は、アメラジアン

            の孤児や戦災孤児を受け入れる施設であり、丘の上

            に追いやられた教会の姿である。

             欧米で、町から見上げる位置にある教会というのは、

            あり得ない存在である。丘の上にある教会というもの

            は、丘の上に町がない以上あり得ないのである。

             欧米では、教会はほぼ町の中心部にあるものであ

            る。人々が共に集まり、人々が共に集い、人々のもの

            だからである。それを受け入れられなかった、異人た

            ちの集う場所、というのが、日本人の教会のイメージ

            だと思う。町ができたときに、教会もできる。あるい

            はダラムのように、教会に付属して街ができているの

            が、ヨーロッパの都市の姿である。つまり、町のコア

            としての教会の存在が定着している。

             藤森照信氏の明治の東京計画によれば、西洋の都市

            は、卵型のシェルを伴った都市であるのに比べ、日本

            の都市はキャベツのような重なりの中にある都市であ

            るという。卵の殻が守ろうとしているのが、教会であ

            り、教会を中心としたコミュニティであり、市民であ

            る。日本の都市は守ろうとするものがあまりない都市

            なのかもしれない。そういう生き方も、日本のキリス

            ト教会の問題としてあるのだろうと思う。

            その辺の文化的側面を踏まえ、もう少し、考えを深め

            ていきたい。

            2009.09.30 Wednesday

            啓蒙思想と真理観

            0
              私にとって、『真理』や『真実』は一つではない。『真理』や

              『真実』として語られる客体の見え方は一つではない、と表現す

              るほうが適切かもしれない。少なくとも『真理』や『真実』は一

              つではないようにおもわれる。地球上に発生した物理空間におけ

              る間主観的に観測される事象(ひらたくいうと事実)は一つであ

              る。しかし、事実あるいは客体の解釈として語られる『真実』は、

              その受け取り手の数だけ、解釈の可能性があるため、『真理』と

              か『真実』とか言えない。裁判の場においてもそうである。裁判は

              裁判する側(裁判官と裁判員)の心証をどう構築していくかの

              闘争の場である。

               しかし、啓蒙思想において、『真理』あるいは『真実』は一つ

              であるという思想的傾向性が培われたように思う。あるいは、無

              理に『真理』や『真実』を一つとするために、歪曲、プロパガン

              ダ、民族浄化、言論封殺、言論誘導、棄民などが行われた。今の

              50歳代以上の多くの人々は、このモダニズムの思想的背景の中に

              ある啓蒙思想や科学思想のうちに内在的に埋め込まれた『真理は

              一つ、真実は一つ』という概念(あるいは、パラダイム)の呪縛

              のなかにあり、マスメディアへの無批判の信仰、ポストモダンの

              思想性、あるいは、パラダイム・シフト以降の思想性に耐えられ

              ないのではないかと思うことがある。

               世間様の一部は、パラダイムシフト以降の思考的営為に移って

              すでにポストモダンの思想性の社会となっているにもかかわらず、

              従前として、パラダイムシフト以前の論理性に大きく依拠する福

              音のメッセージを話しているとしたら、どうだろうか。

               最近、大衆化社会に恐ろしさを感じる。小泉政権以降の日本社

              会は週刊誌・ワイドショー的な視点からの大衆化社会へ大きく動

              いた。麻生太郎氏が自民党総裁に選ばれた経緯はまさしくその視

              点を意識していただろうし、民主党のアバランチ的勝利(ランド

              スライドのようなおとなしいものではない)も、まさしくその点

              が効いていたと思う。団塊の世代が家にいつくようになり、ワイ

              ドショーの視聴者が増加し、その世代は投票者のかなりのシェア

              を占めるようになった今、UgoUgoコメント王子の危機感が分か

              るような気がする。この世代の発言権の野放図な拡大が、組織を

              危うくし、社会をどうしても変革してしまうその危険性である。

              数の暴力。それを感じる。それにどう向かっていくのか、その覚

              悟を問われているような気がする。彼はそれを言いたいのかな。
              2009.10.01 Thursday

              日本での伝道活動の諸問題

              0
                 Cururuでであったある方(foceさん)から寄贈されて、2冊の

                本を一気に読んだ。

                1冊は、
                 新井英子著 ハンセン病とキリスト教 岩波書店 (1996)

                もう一冊は、

                 宮坂道夫著 ハンセン病重監房の記録 集英社新書 (2006)

                である。

                 この2冊の本を読む中で、明治以来のキリスト教会の持って

                きた限界というのか、課題を見たような気がする。非常に知的

                な刺激を受けた。そして、おそらく日本社会の中でキリスト教

                が受け入れられなかった理由がなんとなく整理できたような気

                がする。ハンセン病という特殊な事例、あるいは極端な事例を

                通して、そこに潜む問題とそれを弱めてはいるけれども構造的

                にキリスト教会の中に内在した問題である。

                 おそらく日本社会でキリスト教が受け入れられなかったのは、

                啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレック

                スの複合意識であり、それに対する違和感であろう。つまり、

                上から目線の伝道、上から目線で語られる『正義』や『真理』

                に対する違和感なのではなかろうか。それが、いかに『聖書』

                と呼ばれる啓示の書に基づいた理解から出発しているとしても。

                 啓蒙思想の場合、啓蒙する側(ヨーロッパ文明・本当にそう

                であるかは別として学があるとされる側)と啓蒙される側(非

                ヨーロッパ文明・学がないとみなされている側)に分かれ、

                パターナリズムの場合当人の利益のためという大義名分を掲げ

                ながらも、保護する側(国家とか保護者)と当人の意思を無

                視して
                保護される側(国民とか子供とか)にわかれ、メサイア・

                コンプレックスの場合、救う側(助けたいと一方的に思う側)と

                救われる側(助けられる対象に本人の意思とは関係なくみなさ

                れる側)に分かれてしまう。人々は、啓蒙される側、保護され

                る側、救われる側であることを望まない場合がある。しかし、

                近代を突き動かした社会構造においては、この両者は分かれ、

                この社会構造があると理解する立場に立つ以上、啓蒙される側、

                当人の意思とは関係なく保護される側、救われる側という対象

                を必要としてしまう。一つの教会という社会集団の中でも、

                この構造が発生する。その結果、共同体に分裂が生じる。

                 本来、キリスト教は、共同体の宗教あるいは精神性を持つ社

                会である。ほかの宗教もそうであるように。しかし、17世紀を

                経て啓蒙思想が社会的な思想体系として幅を占める中(科学の

                分野では科学中心思想が理想化されていく中)、この啓蒙思想

                が聖書理解に大きな変質をもたらし、聖書理解を歪めていった

                ように思う。その行きつく先が、神学の場合、自由主義神学で

                あったように思う。あるいは、その反動としてのニュー・エイ

                ジ思想もその影響を免れていない。

                 共同体としてのキリスト教会を再定義し、再構築していくた

                めに、聖書理解の中に隠されたこの

                「啓蒙思想 − パターナリズム − メサイア・コンプレックス」

                という一連の連鎖の再検討が必要だろうと思う。その再検討の

                際の手がかりになるのが、個人的には、ヘンリー・ナウエンの

                著作であり、ジャン・バニエの著作であると思う。いま、ジャン

                ・バニエ(うちの娘からは、ジーン・ビニールって誰?と言われ

                てしまったが。フランス語を知らないのでしょうがない。)をい

                くつか読みはじめている。

                 いただいた本を読む中でのもう一つの発見は、新井氏が指摘し

                た「信仰と人権の2元論」である。これは、日本信徒の「神学」

                で隅谷三喜男氏が指摘した2階建ての教会(日常の霊性と主日の

                霊性が完全に分離した教会の問題)とおそらくパラレルである

                と思われる。同じ構造が2つの別の対象に共通して見られる。

                つまり、新井氏はハンセン病者への対応の中に、この問題を見

                出したし、隅谷氏は日本のキリスト者の生活の中にこの問題を

                見出したのだと思う。この問題は、深刻な問題であると思う。

                 この信仰の二元論のもたらす影響は、教会運営にあらわれる

                ように思う。具体的には、日本人の牧会者が、無意識の中にあ

                る構造として、教会を疑似日本社会とした時に牧会者を疑似天

                皇とする父権的構造を教会の中に作り上げてしまう問題も、こ

                のうちに含まれてしまうような気がするし、また、その構造を

                これまた無意識のうちに作り上げてしまう信徒のうちにある日

                本人の霊性というのか精神構造の問題があると思う。

                 その面で、ダグラス・マッカーサーが早期の段階で、GHQの

                指導者を下ろされたことは、日本にとって、幸運だったかもし

                れない。歴史家には許されない質問であるが、もし、マッカー

                サーが長期間GHQのトップであり続けるならば、彼と彼の価値

                観を中心としつつも、微妙に日本風に解釈しなおした思想体系に

                依拠する国家が出来上がっていたかもしれないと思うと、

                ちょっと考え込んでしまう。(今でも十分そうだ、というところ

                はありますが、もっと大規模に影響したでしょう。)

                 この問題に対する解決策は、今の私にはないので、少し困って

                いる。ひたすら、この問題を具体的な教会の中でどう考えるのか、

                具体的な行為、聖書解釈を明らかにする行為を行っていく中で、

                考えていきたいとおもっている。そして、自己を批判的に眺めつ

                つ、聖書から語ることの意味と、そのアプローチを考えている。

                2009.10.01 Thursday

                おかえりなさい。のらくら者の日記。うれしい。

                0
                   「のらくら者の日記」が復活している模様。

                  よかった。完全に中断か?と思いきや

                  お得意のギターネタで復活。無理せずに

                  でもお話聞きたいなぁ。

                  特に、ほかの牧師さんのブログで知ることの

                  できないイギリスの神学思想とそれを語る本

                  のお話し、お待ちしています。

                   最近の私の読書傾向に大きな影響を与えて

                  いるブログの一つなので、これからも、楽しい

                  神学のお話し、本のお話しを楽しみにしていま

                  す。

                   のらくら者の日記をお書きの方のおかれた環

                  境には、同じキリストの共同体(コイノニア)

                  あるいは、からだに属するものとして、心から

                  心痛めておりますし、ご同情申し上げます。
                  2009.10.13 Tuesday

                  カルトと教会指導者

                  0
                     

                    のらくら者の日記


                    にガリラヤ書と皇帝崇拝の問題が取り上げられており、

                    かたちを変えた牧師崇拝という形での日本の教会の

                    一部に根を下ろした問題についてのお話しが断片的に

                    かかれていた。

                     ガリラヤ書から、皇帝崇拝という形が暗に伏線と

                    して存在し、それが教会を腐敗させていくのと同じ

                    ように、日本の教会では、牧師崇敬が牧師崇拝とな

                    り、牧師を天皇とし、信徒を国家とする疑似天皇制

                    が生まれる問題が取り上げられていた。尊敬が、

                    尊敬で留まっている間は良いが、日本人の精神性

                    の中に尊敬が自然に崇拝、指導者のことばが絶対

                    視されやすい雰囲気があると思う。私は、日本社会

                    の帝国陸軍化と読んでいるが。

                     15年戦争当時の日本の社会は統帥権問題で、

                    海軍も陸軍も、結局訳の分からないものに巻き込

                    まれていったように思うし、それを個人としてとめる

                    こともできなかったのが日本社会だったし、その

                    雰囲気は今もなお続いている。

                     アジア的な指導者に対する絶対視というのが

                    どこかで効いていると思う。それが、教会内で行

                    き過ぎるとカルトになるのだろうし、無批判にいろ

                    んなことを飲み込んでしまう無謀さが、いろいろな

                    問題を生むように思う。そして、無意識のうちに

                    カルトに加担することになるのかなぁ、とも思う。



                     紹介された本をAmazon.comでも見てみたが、

                    売り切れらしい。

                     どうも、この問題には、アリストテレスやアウグ

                    スティヌス、トマス・アキィナスなんかも関係して

                    そうな気がする。

                     もう少し考えを深めてみたい。
                    2009.10.24 Saturday

                    ディスカッションが日本の教会(集会)で成立するのかな

                    0
                        今、所属しているキリスト集会(キリスト教会)で月に

                      一回程度、ディスカッションの時間というものがある。聖

                      書の文言に基づきながら、自由に発言し、考えを深める時

                      間ということになっている。あるいは、関西のあるキリス

                      ト集会で聖書研究会という形の終わりの部分にあったディ

                      スカッションの機会に参加したことである。

                       これに参加しながら、思うことがある。あまりに変な

                      ことを言わないように、ということなのだろうが、いろん

                      な註解書で、こんなことが書いてあったということのオン

                      パレードとなっていることがまず気になる。註解書を調

                      べるのは良い。その努力は尊い。しかし、そこから、一

                      信者としてどう考え、どのような聖書理解に達したのか、

                      ということを示す機会がディスカッションの機会であり、

                      そのディスカッションで自分の聖書理解が問われている

                      にもかかわらず、その一線を越えることができない方が

                      多いようにおもう。

                       註解書比べをするのがディスカッションではないと思う。

                      註解書を見ながら、それをもとに考え、そして、自分の

                      意見は、こう思う。この解釈は、このように理解すべき

                      ではないか、と問い、他者との聖書理解の比較の中で、

                      自らが気付かなかった側面について思いをはせることで、

                      各人の聖書理解を深めていくところにディスカッション

                      の重要性があるはずであるが、それが少なくとも私の

                      所属する教会では十分理解されていないように思われる。

                      その意味で、表面的な聖書理解を触っただけに終わって

                      いる印象があり、より聖書理解の深まりを得ることがで

                      きないというフラストレーションを覚えることが少なく

                      ない。

                       もう一つディスカッションの差異に感じる違和感は、

                      意見の集約志向である。ディスカッションは、意見の

                      集約することに意味があるのではない。異なる聖書理

                      解の見方があることにそれぞれが気付き、他者の視点

                      で自らの聖書理解を再検討するための糸口を得る機会

                      であり、意見統一を図る機会ではない。しかし、日本

                      社会では、人が集まり話をし始めると、意見の集約に

                      向かっていく傾向があり、異なる意見がそのまま並立

                      したまま残ることに違和感があるようである。個人的

                      には、聖書理解に関しては、意見集約を図る必要はな

                      く、その聖書理解の多様性こそ、重要だと思うし、そ

                      うでないと、より深い聖書理解とはならないのではな

                      いかと思う。深さよりも表面的な一致を重んじる雰囲

                      気が集会の中にあるように思う。

                       このことを、今度の聖書研究会で触れてみよう。

                      波紋は大きいかもしれないが、してみる価値があると

                      思う。


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