2012.03.14 Wednesday

Paul: In Fresh Perspective を読みかけて

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     ミーちゃんはーちゃんは、いま、Paul in Fresh Perspectiveという本を読んでいる。本当に、Fresh Perspectiveだなぁ、と思っている。

    読んでいるときに、こんな表現を見つけた。
    Many writers on Paul in the last two hundred years have paid no attention whatever to the concept of Messiahship,assuming that when Paul wrote Christos he thought of it simply as a proper name.  (Many non-scholars today, I discover, hear the phrase "Jesus Christ" in that way, with 'Jesus' being as it were his Christian name and 'Christ' being as it were his surname, as though Jesus' parents were called Joseph Christ and Mary Christ.)


                                                Paul,  In fresh perspective pp.40-41.

     これを読みながら、先週の新潟行の飛行機の中で思わず大爆笑してしまったので、同行者の方から、「なんかあったんですか?」と聞かれてしまい、「いやいや」とごまかしたのだが、大爆笑したのは事実。

     このような記事を読みながら、結構、この種の誤解は多いのかなぁ、と思う。イエスが名前で、キリストが姓ねぇ。ヨセフ・キリストやメアリー(マリア)・キリスト、っすか。思わず大爆笑。

     イギリスでも、そんな感じなら、日本だともっとだろうなぁ、と思ってしまった。聞いたことがないので、わかんないけれども。

     ただ、日本だと、ヨセフという名前はほとんど認識されていないだろう。マリアという名前は、マリア像やマリア様がみている「マリ見て」などによって多少は意識はされているものの(ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは見たことがない)、マリアさんのおうちの名前は?ときかれても、キリスト!と答える人はひょっとすると、意外と多いかもしれない。今度、子供向けキャンプに行った時のクイズにしてみよう。

     



    評価:
    N. T. Wright
    Fortress Pr
    ¥ 1,409
    (2009-01)

    2012.11.07 Wednesday

    読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第1回)。

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       今回、ご紹介する本は、グレース・ハルセル著 越智道雄訳 核戦争を待望する人々 −聖書根本主義派潜入記 朝日選書 386(下記リンク参照)をご紹介したい。

       この本は、もともと、穏健的福音派の家庭で育った元新聞記者でリンドン・ジョンソン大統領のスピーチライターの一人でもあった著者がアメリカ合衆国内の原理主義的なキリスト教集団のイスラエル聖地旅行とその問題をジャーナリスティックに調査取材した取材記です。

       この本がおもしろいのは、以前流行ったキリスト教のテレビ伝道師がやっているイスラエル聖地旅行に言ってみたこと、そこで見たこと、そこで感じたこと、アメリカ国内のユダヤ人とイスラエルという国家への視点、1980年代という時代を背景にした、当時の福音派と呼ばれる人々のかなりの部分の時代理解、福音派の信者と国家としてのイスラエルとの関係、アメリカ国内のイスラエルロビーと福音主義者との関係がかなり克明に描かれていた。

       記録を当たってみると、レーガン(注 元大統領)は核兵器の飛び交うハルマゲドンでサタンに率いられた軍隊とアメリカが戦う運命にあるという発言を、長年にわたって繰り返していることが分かる。ニューヨーク在住の研究者ラリー・ジョーンズと宗派横断的(注 超教派的)なワシントン・キリスト研究所のアンドルー・ラングの二人が調査した結果、レーガンがハルマゲドンを世界最終核戦争に結び付け、その必然性を信じる解釈を少なくとも1986年までは受け入れていた確証をつかんでいる。(同書 pp.11-12)

      という記述があった。そーいえば、今を去ること約30年くらい前、こういう言説(核戦争が最終戦争で、それがハルマゲドンだという言説)が日本の我が教派の中でも、まことしやかにはやったよなぁ、しかし、その後の当時のソ連の崩壊やデタントの進行で、こういう理解はいつの間にか消えてしまったなぁ、と思った。しかし、今考えてみれば、基本、偉大なる厨二病設定ではある。ま、当時は、中学生から高校生で、厨二病設定が有効な期間であるので、それに罹患したとしてもしょうがないのであるが、大の大人の大半が厨二病だったのが残念。うちの義父は、我が教派の中でもこの設定を批判的にとらえていたらしく、子供たちに、「説教者が、『今晩、主が来られる』と言ったら数を数えてみればいい」と言っていたらしい。厨二病設定の時事解説大会なのか、聖書の学び会なのか判然としない会に参加しながら、家内は「今晩」と説教者が言う、その数を数えていたらしい。

       もっとすごい厨二病だなぁ、と思ったのは、次の表現である。

       ところが、リンゼイによれば、今や神は彼やジェリー・フォルウェル(フォーウェル?)、ジミー・スワガート、パット・ロバートスンらにご自分の最終シナリオを示されたので、彼らが一斉にハルマゲドン説を唱え始めたというのである。


      そんな、ご無体な。これがハルマゲドンが最終核戦争であるとした事実であったとすれば、モルモン経なんかとあんまり変わらないよなー。と思うてしもうた。聖書による検証不能だし、聖書理解の根拠が、聖書とはなっていないではないか、と思ってしもうた。示された内容でしょう。

       ハルセルさんはこの辺の人たちに手厳しい。

       リンゼイ、フォルウェル、ロバートスンをはじめ大半のテレビ説教師たちが口にするこれらの7つの時代が神の啓示の時代と呼ばれるので、この信仰体系自体が天啓史観(注Dispensationalism?)、これを信じる者たちは天啓史観論者と呼ばれる。ジェリー・フォルウェルやジミー・スワガートのような天啓的史観論者は、自分たちの信仰体系を聖書の無謬性を信じるが故にそれを文字通り解釈する正統派の根本主義と見なしている。しかしこの「正統派教義」はわずか150年の歴史しかなく、しかも戦争を求め、「平和を実現する人々は幸いである。」というキリストの「山上の説教」を否定するような教義を持つキリスト教に、「聖書を文字通り解釈する」とか「聖書根本主義注 Biblical Fundamentalism?)」などの呼称を与えるのは、正確さを欠くことになるだろう。(同書 p.13 太字と青字はミーちゃんはーちゃんによる)


       うわぁ、すごい手厳しい。確かに、Dispensation説は高々現在では、180年の歴史なんですな。調べてみればわかることですが。それまでの文献資料には出てこない。それは、だれも書かなかったからだ、ということをご主張される向きもおられるかもしれませんが、基本的な聖書教理が2世紀中にほぼ確立し、それを示す文書がある程度存在していることを考えると、文献学的にDispensation説は、確かに200年弱の歴史しかないのですね。ハルセルさんの言うように、山上の説教や主の祈りとの教理的な対立が処理できないまま、『「聖書を文字通り解釈する」とか「聖書根本主義(注 Biblical Fundamentalism?)」などの呼称を与えるのは、正確さを欠くことになるだろう。』と言われても、返す言葉がございません。まぁ、テレビ説教師という人々なので、学問的な背景がないことを追求してもしょうがないのかもしれません。学問書を読む時間があるなら、聖書を読むほうがよいので、学問的な検証をするお時間はお持ちでないのだろう。よくそれで、マスコミでしゃべれると思うが。そうか、マスコミは、面白ければよいので、学問的な検証は意味がないのかもしれない。しょせん、テレビはテレビ、ということで認められているのかもしれない。(あー、ホーマー・シンプソン化が進んできたなぁ。いかんいかん)
       ハルマゲドンと天国移送(Rapture)説を支持するキリスト教徒が増えて来ていることを示す証拠があるのだ。彼らもまたスコフィールド同様、キリストがボーン・アゲイン・キリスト教徒らに新しい天と地を約束してくれていると信じている。
       そう信じている以上、彼らにとって地球はかけがえのない惑星などではないから、どうなろうと知ったことではないのだ。使い古されればあっさり捨ててしまえばいい。地球まるごと。そしてキリストから我々選ばれた者たちに新しい天と地を用意してもらえばいいではないか。レーガン政権で内務長官を務め、差別発言で辞職したジェームズ・ワットも、この地球に対して典型的な天啓史観を披露している。アメリカの森や川の汚染を心配する連邦下院のある委員会の面々に向かって彼は、自然資源の破壊は大して気にならないと答えのだ。その理由は、「イエスの再臨まで後何世代もかかるわけじゃないですからな」というわけだ。(同書 p.16)


       わっちゃー。後は野となれ山となれ、だということなのだそうだ。多分、Wattさんは連邦議会下院の小委員会でそう答弁したのだろう。だから、石油とかの資源は使えるときには使ってしまいましょうぜ、皆さん。という企業寄りの話だよなぁ。いかにも1980年代的な能天気さだ。1990年代末にミーちゃんはーちゃんが一緒に学び、そして教えた大学院生たちにこんな発言したら、それこそ、とんでもない、ミーちゃんはーちゃんは、本当に物事を考えているのか、と迫られたことであろう。とはいえ、彼らも、電気自動車がCO2を排出しない動力で動くので、環境負荷の少ないクリーンな自動車だ、と信じている人たちだった(このあたり、やはり能天気なアメリカンだった)。その話をしていたので、「確かに原子力発電所の発電では、CO2は出ないかも知らんが、あんたたち、Nasty(始末に負えないような)Nuke Waste(核のゴミ)を忘れてはいないか?」ということだけはちゃんと教員らしく言っておいたのであった。まー、アメリカはコロラド州当たりのロッキー山脈の山中での地中処分ができるからまだましだが、日本はどうするんだろう。アメリカの最終処分地に埋めさせてもらえると嬉しいのだけれども、無理だろうな。アメリカ人、激怒するだろうなぁ。金払ったら受け入れてくれるかも・・・・無理か。

       古い地球が回復されるのではなく、(おそらく核戦争で完全に)滅びて、新しい地と新しい天がやってくるから、現在の地球をどのように汚染仕様が何をしようが関係ない、というのがどうもワット君の考えだったのかもしれない。環境破壊しながら、ぼろもうけをしていったアメリカ企業の経営陣にとってもこの論理は便利だった、というのもあるかもしれませんねぇ。

       まぁ、これも、最下部のリンクで紹介するThe Old Scofield Study Bibleの注釈にScofield君がつけた古典的な天啓史観の基本的な考え方だと思われます。詳しくは、ご自身で確かめられたらよろしいのでは、と思いますです。ちなみに、このThe Old Scofield Study Bibleは基本テキストは、King James Versionですから、古い英語テキストの聖書と同じものですが、問題はその注釈。読者がより分かりやすく聖書理解ができるために、と思ってつけたのでしょうが、注釈に合わせる形で聖書の本文を無理やり読んでしまう人たちも出てきてしまったのですね。残念な人たちが。

       最後に、ハルセルさんがこの本の目的めいたことが書いてある部分を紹介して、今回はお終い。

       この本を書くにあたって、私は特定のグループの活動を暴き立てる気にはなれなかった。むしろこれだけ膨大な人々に信じられている信仰体系のことについて書きたかったのだ。ハルマゲドン説の信奉者たちには、貧富、有名無名の別がない。(同書 p.18 p.13 太字はミーちゃんはーちゃんによる)

       ハルセルさんは、この当時1980年代のアメリカに、このような考えの人がやたらとたくさんいた、ということを書いておられるのだ。つまり、社会全体の雰囲気の中で、これらのことが語られていた、ということが問題とお感じになったらしい。

       それはそうだろう。軍縮に向かい、そのあと数年で、ベルリンの壁が崩壊し、(悪の帝国・・・スターウォーズみたい・・・とレーガンから言われた)共産主義国が自滅するように軒並みつぶれていく方向に向かいつつあったのが、本書が描かれた時代でもある。アメリカの喉もとには、カストロ君のキューバがまだ健在であるが。もともと1986年に書かれた本であり、東西融和の方向になんとなく向かいつつあった時代に書かれた本であることを忘れてはならないだろう。

       次回以降、この本で書かれていることなどを紹介しながら、「へぇ〜・へぇ〜・へぇ〜」と思った部分を紹介していきたい。





      評価:
      越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell
      朝日新聞社
      ---
      (1989-09)
      コメント:1980年代当時のアメリカ福音派のイスラエル建国への熱気と終末への渇望を知るための貴重な記録という意味では、星5つ。翻訳に著者のアメリカキリスト教世界の知識の薄さが目立つのが、かなり残念。だれかに聞いたらしいが、聞いた人が悪かったかな。

      ---
      Oxford Univ Pr (T)
      ¥ 1,929
      (2006-03-16)
      コメント:皮装でしっかりしていて、小さいがきちんとScofieldの注釈も読める。

      2012.11.14 Wednesday

      読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)

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          今回もグレース・ハルセル著 越智道雄訳 核戦争を待望する人々 −聖書根本主義派潜入記 朝日選書 386(下記リンク参照)をご紹介したい(2回目)。まぁ、外から福音派の中での聖書原理主義者の人たちとその方々の聖書理解から影響を受けた結果、核戦争もやむなしと言っていた人たちがどう見えていたか、ということのご紹介です。それをどう考えるかは、皆さんにお任せいたしますが、ミーちゃんはーちゃんが読んで、へぇ〜ほぉ〜はぁと思ったことも、ちょっこし書いておこうかと。

         黙示録へのアプローチの仕方は、彼(注 リンゼイ)の場合自称「演繹的方法」というのを用いる。聖ヨハネの科学的知識や語彙に限りがあるので、その足りないところを演繹して、神の言わんとされる内容を引き出そうとする方法だ。例えばヨハネはその夢か幻に、サソリのをを持ついなごを見る。リンゼイはこれをコブラ・ヘリコプターとみてえ、それらが美部から一種の神経麻痺ガスを噴射している光景だと解釈する。(同書 p.46)

         しかし、これを読みながら、「演繹 Deduction」ではないよな。演繹のためには、規則性を前提としているはずなのであるが、その規則性はない。演繹とは、平たく言えば、1、2、とくればサーンときて、そのあと、4,5とくるせかいである。まさしく、世界のナベアツ(ここをクリック)の世界だな。ただ、これは、前提が正しい、という条件が付くのだ。

         たとえば、先の例でいえば、通常想定される10進数の世界では、1,2,サーン,4,5,ローク,7,8となるけれども、前提を6進数にすると、1,2,3,4,5,10,11,12,13となってしまう。

         演繹は前提さえ正しければ、結果も正しいのだが、前提が崩れてしまえば、結果は正しくないのは、10進数の世界と6進数の世界でご理解いただけようかと思う。

         演繹論では、前提(公理)の正当性の保証が重要なのであるけれども、申し訳ないが、リンゼイ君の場合は、方法論としては、演繹方法ということすら難しいと思う。そもそも、前提となる公理の検証が十分されていないようにおもうのだな。となると、どちらかというと、こじつけに近いよね。コブラはいまだに米海軍下の海兵隊では使われているけど、もう間もなく退役するはずなんだけどね。

        確かにコブラは、バッタ系のデザインだけどね。

        で、続きですが、

         
        リンゼイは、1948年以降に生まれた世代はキリストの再臨を目撃する運命にあると断定する。だが、その前に「ゴグ=マゴグ戦争」とハルマゲドンを戦わないといけない。ホロコースト(ハルマゲドン?)の始まりは、ソ連軍プラス全アラブ軍が大挙してイスラエルに侵入する時である。(同書 p.46)


         確かにゴグ(ガンダムに出てくるザグではない)とマゴグ(5月に日本で空を飛ぶと言われるお父さんこいのぼり、マゴイではない)は聖書に出てきますよ。それがソ連(←今のロシア、ベルリンの壁にともなっていつの間にか消えてしまった国。ランボーシリーズの怒りのアフガンでは、悪役の出身国になっている・・・)だって。あれ、アフガン(イスラム国)に侵攻したのは、ソ連ではなかったっけ?全アラブには、親米国のはずのサウジアラビア王国も攻めてくるのだろうなぁ。サウディアラビアはアラブ出ないって言ったら、怒られそうだが。確かに、一時期、ソ連は地中海の海軍寄港地がほしくて、アラビア系諸国を支援していた時期があったよね。

         聖地旅行を巡る問題で、本来見なければいけないもの(たとえば、パレスティナ人には、ムスリムもいるがキリスト教徒もいるという現実)を見ていない、アメリカからの聖地旅行をするキリスト者があまりに多いことについて、次のように著者は書いている。

         
        モーナ(注 著者が同行したパッケージツアーに参加したキリスト者の一人)が神はユダヤ人だけ特別扱いしてパレスティナ人はキリスト教と、モスレムの別泣く特別扱いしないと信じ込まされていたのなら、彼女はキリスト教徒としてパレスティナ人のキリスト教徒もモスレムも無視するか、十っぱ一からげのステロタイプとみなすか、神のチェスゲームの単なる小間として片づけてしまうしかないわけだ。人種差別にはつきものだが、モーナもパレスティナ人の政治、宗教、文化の多様性を一纏めに自分の視野から締め出してしまったのだ。彼女のように神に選ばれた民と言う信仰を受け入れたキリスト教とは、自分以外のものを理解し、同情を感じる能力の一部を失ってしまう。それどころかモーナは、パレスティナ人のキリスト教徒とモスレムが、彼女のような多民族のキリスト教徒と同じ人間的特性や人間的生活を営んでいるという見方さえ、できなくなってしまうのだ。(同書p.86)


         1980年代半ばに、大学の外国人教師から英語を習っておりましたころ、農業協同組合主催の海外旅行団が多く行っていたころでしたので、アメリカ人は、これらの旅行者をNoKyo San(農協主催のパック旅行の主催者側の引率者を旅行者がこう読んだかららしいが)と呼んでいた、ということをアメリカ人の非常勤の先生からお聞きしました。ま、アメリカ人は、よほどのことがないと集団で群れて旅行する習慣があまりない(というよりかはできない人たちが多い)ので、バカにされていたそうです。アメリカ人とて、聖地旅行した瞬間に、アメリカ人版のNokyo Sanになってしまっていたのだ。読みながら、思わず、微笑みがこぼれてしまった。

         つまり、多くの人間は、見学しに行っていると言えども、見せられたもの、見せるように意図的に計画され、設計され、仕向けられたもの以外、人間は見ることができない、という冷酷な現実である。

         実は、ある読書会に参加した時にパレスティナでの困窮者の支援をしている女性の方が来られていて、その方が、「教会関係者の方は、パレスティナの問題になかなか関心を持ってもらえなくって・・・」といっておられたのを思い出してしまったのだ。イスラエルを支援することがあっても、パレスティナにはキリスト者がいるのに、パレスティナ人も人間なのに、イスラエルに一方的に肩入れするキリスト者が日本でも多いということのようでした。
         
          つまり、聖地旅行に行っても、行った人は現代パレスティナ人にキリスト者がいることも知りもしないし、知ろうとせず、イスラエル側の主張(パレスティナ人=テロリストという構造)のみをうのみにしてしまうのだろう。物事は単純にした方がわかりやすいのは確かであるが、まさしく、これなどはまさに典型的な単純化の誤謬とでもいうべきものだろう。このような単純化の誤謬を防ぐためには、より深い思考と開かれた目で見、開かれた心で受け止めることが大事なのだと思う。

         彼らがイスラエルの聖地旅行に行ったときに、イスラエルの政治家に引き合わされた時のシーンが次のように紹介されていた。

         熱狂的な拍手を浴びながら、フォルウェル(注 アメリカのプロテスタント系超有名伝道者の一人)は合衆国に生まれ、マサチューセッツ工科大学卒の国防相を紹介した。(中略)
         アレンズ(
        注 当時のイスラエル国防相)がイスラエル軍が再びレバノンとシリアに侵攻した経緯を話すと、キリスト教徒たちはぱっと立ちあがって拍手した。拍手はしばし鳴り止まなかった。国防相はたぶんシリアかソ連の方角に手を振りながら、「敵」と「共産主義者ども」のことを語り、「合衆国が我が国と共に戦ってくれるなら、我々は最終的勝利をものにできるでしょう!」とぶち上げた。
         アレンズが軍事力増強と新たな一層大規模な戦争に改めて打ち込むことを呼びかけると、キリスト教徒たちは実に18回も立ち上がって拍手を送り、彼の講演を中断したのだった。私の周りの中で、男も女も激しく手を打ち、足をふみならし、「アーメン」「ハレルヤ」と叫び続けた。(同書 pp.56-57)

         
         かなりの熱狂だったようですね。アメリカは、朝鮮戦争・マッカーシズム・ベトナム戦争・キューバ危機を通じて、反共産主義がどこかで民衆レベルでアメリカ人なら当然という感じにしみ込んでしまった。彼らの言う憲法上での思想信条の自由は、実態的に『思想信条の自由(共産主義を除く)』なのである。とはいっても、法曹関係者、マスコミ関係者、映画関係者、文筆関係者では、結構、批判意識の強い人が多いので、共産主義者ではないものの、左派系の人は意外と多い。ミーちゃんはーちゃんも、共和党よりも民主党寄りで、やや左ががっていることは認める。反共を言えば、普通の市井のアメリカ人は喜ぶ、ということをこのアレンズさんは、アメリカ生まれ、アメリカ育ちでしょうから、よく知っていたのだろうと思います。シリアの話がいつの間にか、共産主義への戦い(一応当時シリアは社会主義国、親ソ連だった。ソ連は、地中海での海軍寄港地としてのシリアが便利だった模様。)にすり替えられている。

         この前後の文章を読む限り、この聖地旅行に参加している人々は、ニコニコ生放送で有名なアルファベット一文字の牧師先生(ここをクリックすると見られます)のお仲間ではどうもなさそうです。おそらく、たんに知っているヘブル語またはアラム語が、「アーメン」「ハレルヤ」だっただけ、ということだろうと思います。

         しかし、上での記述は、どう見ても集団ヒステリー状態だと思う。ドイツ人がヒットラーとナチスに対して集団ヒステリー状態だったし、アメリカでは911の後の2-3年位は、集団ヒステリー状態だったと思う。日本でも15年戦争中そういうことが起きたし、最近ではオーム事件の河野さんが疑われた松本サリン事件のときにも、その前後のオウム真理教の集団の中でも、もっと最近では、311の時に似た現象が起きた。集団ヒステリーは、どこの国でも起きるのだろうけれども、この特殊な環境の中でアメリカ人にも起きただけのことだろう、とは思う。

         最後に、パレスティナ人でプロテスタントの福音派のキリスト教徒の弁護士と本書で紹介されているジョナサン・カッタブの発言を本書に記載された内容を紹介し、コメントをつけてこの記事を終わろう。

         「フォルウェルのような福音派の聖書根本主義者にとっては、イスラエルに対する崇拝のほうがキリストの教えより大事なんですよ」と、カッタブは率直に答えた。「フォルウェルのようなキリスト教徒のシオニストは、キリストの教えを捻じ曲げてしまうんです。フォルウェルのシオニズムは政治そのもので、道徳や倫理とは全く無縁、現実の深刻な問題と本気で取り組むなんてことはありません。彼は信徒にイスラエルに味方せよというだけです。そしてアメリカの納税者たちに年間五十億ドルをイスラエルに援助せよと説くわけです。そして信徒たちにシオニズムに味方すれば正しい側、『いい』側、勝利を勝ち取れる側に回れると請け合うわけです。そしてそうでない側には目もくれる必要がないと言い切るんですよ。」(中略)
         「普通のアメリカ人はこの神話に非常な魅力を感じていますね」カッタブは続けた。「道徳的とか非常に倫理的な宗教ではないから、窮屈じゃない。小さいけれども柔弱なところのないウルトラ級の威力を持つイスラエルという国家をあがめる、男らしさを求める宗教なんですよ。彼らの神はスーパーマンとスターウォーズの混血で、ここと思えばまたあちらこちらという具合に炎の剣を振り回して、ズバズバと敵を切り倒していくんです。信仰の薄いものにとってはこの混血神は、聖書の神通力が依然として今も本物で現に生きていることを証明する存在です。彼らにとっては、ヨシュアが日刊紙(注 たぶんタブロイド紙のこと。日本のスポーツ新聞に相当)に毎日登場しているようなもんでしょうよ。」

         これは、ミーちゃんはーちゃんが言っているわけではなくて、当時パレスティナにお住まいの米国での弁護士経験もあるパレスティナ人のプロテスタント系福音派のキリスト者であるお方がおっしゃっていることである。お間違いのなきように。

         「フォルウェルのようなキリスト教徒のシオニストは、キリストの教えを捻じ曲げてしまう」のだそうで。そりゃ、そうだよね。主の祈りなんかはほとんど当時説教されなかっただろうし、山上の説教もすべて無視、いきなり旧約聖書の預言の特殊なところと、黙示録だけが聖書、みたいなところもあっただろうし。主の祈りだって、「み心の天に成る如く地にもなさせたまえ」の「地にもなさせたまえ(イスラエルという近代国家が連戦連勝すること)」と読み替えるんだろうなぁ。

         「シオニズムに味方すれば正しい側、『いい』側、勝利を勝ち取れる側に回れると請け合うわけです。」という部分を見て、アメリカさまざまな選挙の末期のころに流れるCFを思い出してしまった。アメリカでは、この候補が勝つ側だ、それに乗り遅れるな、という主張のCFがかなり流れる。Analyse Thisという映画でも、このようなシーンが流れている。彼らは基本、勝ち組か負け組かで投票行動を決める人々なのだ。だからこそ、相手を徹底的にけなし、相手が負け組であることを印象付けるネガティブキャンペーンが成立するのだ。まさしく、この弁護士さん、アメリカ人の精神性をよくわかって、キリスト教徒のシオニストの言動を分析していらっしゃる、と思った。

         「道徳的とか非常に倫理的な宗教ではないから、窮屈じゃない。」まさに、その通り、アメリカ人は、窮屈じゃなくて、自由に生きるのが好きな人たちなので、そういう精神性にどんぴしゃりなんだと思う。まさしく、ホーマー・シンプソン(シンプソンズのメインキャラクター)がそうである。ちなみに、ホーマーシンプソン君の信仰(映像はここをクリック。神をスーパーマンと呼んでいるかのように聞こえる。一応、神とは呼んでないが、どう見ても神がイメージされるポーズではある。)そのものである。ある面で、シンプソンズの作者は、アメリカの中産階級のライフスタイルや考え方を揶揄するためにシンプソンズをかなりデフォルメして、カリカルチュア化して描いている節があるので、アメリカ人の中産階級の人たちの考え方や精神性がよくわかる。

         ここにアメリカの日刊紙という表現が出てくるが、これはウォール・ストリート・ジャーナルやワシントン・ポスト、ニューヨークタイムズなどの新聞ではない、USAトゥデイでもない。まさしく、日本のスポーツ新聞と同じ感じの芸能ニュースや三面記事というか、事件記事大好きな新聞がニューススタンドで売られているのだ。

         いぜん、のらくら者の日記で、カール・バルトがビリー・グラハムを脅迫(http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-da28.html)といったことが記事に乗せられていたが、まァ、この聖地旅行に行った人たちの感性としては、神は、ランボー怒りのアフガンで出てくる、ランボーのような存在なのだろう。Look Rambo!


         次回か、次次回へ、また続く。(全4回シリーズを予定)



        評価:
        ---
        ジェネオン エンタテインメント
        ¥ 1,490
        (2004-06-25)
        コメント:厨2病設定のエンタメとしてはありかもね。エンタメですから、エンターテイメント。

        2012.11.17 Saturday

        読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第3回)

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            前回、聖地旅行に行っても、遺跡は見るものの、現実にその地域に住んでいるパレスティナ人やパレスティナ人キリスト教徒を全く無視する、という聖地旅行の問題をハルセルさんが指摘しておられることを記載したが、今回は、その聖地旅行のイスラエルという近代国家に与える影響についての部分を紹介していきたいと思います。

           過去千年余にわたってエルサレムへは、キリスト教徒、モスレム、ユダヤ教徒が巡礼に訪れてきた。ところが1976年イスラエルがエルサレムを占領して以来、この年に退去やってくるのはキリスト教徒とユダヤ教徒だけになってしまった。(中略)
           ユダヤ教徒はほんの少ししかイスラエルにやってこない。なにしろ世界中でわずか1400万、そのうち300万余がイスラエル国民だからだ。観光客のドルをあてにするには世界中で10億を占め、イスラエルの観光収入の70%余りを提供してくれているキリスト教徒を狙うしかない。その中でも福音派・聖書根本主義、ペンテコステ派、カリスマティック派などを中心とする保守派のキリスト教徒が、その観光収入の大半を提供しているのだ。
           ベギンは首相になってから、親しく福音派・聖書根本主義者の牧師らと会見して、彼らのパケッジ・ツアーに援助の手を差し伸べた。早くも1981年にベギンはペンテコステ派の一派「神の集会」(注 アセンブリーズ・オブ・ゴッドかな)の牧師デーヴィッド・ルーイス夫妻を自宅に招いてもてなしている。そしてミズーリ州スプリングフィールドに本拠を置くこの牧師とパケッジ・ツアーの相談をし、ルーイスはその年自らの名を冠したツアーを組織して何千人もの福音派信徒をイスラエルに連れてきたのだ。(pp.178-179 青字はミーちゃんはーちゃんによる)

           エルサレムは、ムスリムの人たちにとっても聖地のひとつなのだが、1980年代ころのイスラエルとアラブ社会との対立の中で、アラブ諸国がイスラエルを国家として承認していなかったので、当時はビザが発給されることもないため、エルサレムにムスリムたちが立ち入れなかったのも事実のようである。となると、人口としてむちゃくちゃ多いキリスト教徒、それも中近東から距離的に遠く、歴史的に関連も薄く、その分だけ憧憬の念の強いアメリカ人のキリスト教徒を、そして、当時の(今も)世界の覇権国家であり、ドルの発行元であり、お金を持っていたアメリカ人のキリスト教徒を主要なターゲット顧客と設定とするのは、非常に合理的な選択だと思う。
           
           その結果、これらの人々が大量に落としていく資金で、イスラエルという近代国家へのドルの流入が発生することになる。そういうわけで言うと、現金を運んでくれる観光客を呼び寄せることができる観光資源を持っているだけで、少し呼び水をしてやれば、人は大挙してやってきてくれることを意味するのだ。まさしく、関西の一部のお寺や観光施設と同じ構造を示している。私の住んでいる町でも、今年は、清盛がテーマだということらしいので、普段は緑色の地下鉄(写真はここをクリック)に赤いシールが貼られた特別編成の列車(写真はここをクリック)があるようだ。最初のこの編成の列車を見たときには、ぎょっとした。ま、仲良しにさせてもらっている神戸の地元商店街の皆さんが、ちょっこし潤ってくれているようなので、地域振興という点では、よしとしよう。

           まぁ、そういう意味で言うと、ベギンさんは、呼び水としてデーヴィッド・ルーイスさん夫妻を招き、パッケージツアーをしたらしい。このあとには、仮庵の祭(スカス)で一週間の間エルサレムの街を叫び、歌い、踊り歩いたカリスマ派の旅行者の姿が描かれている。仮庵の祭りの原義と意義を忘れた旅行者たちだったのだろう。ちなみに、イスラエルでは、熱心な人たちは、マンションに住んでいても、この期間ベランダに建てたテントで過ごすらしい。

           次に著者のハルセルさんが参加したツアーの異常さを記載した部分を紹介してみたい。

           
          どちらのツアー(注 フォルウェル主催のツアー)でも私は、自分たちがキリスト教にゆかりの土地で過ごし、キリストについて耳にした時間と、シオニスト国家(注 近代国家としてのイスラエル)が上げてきた政治的・軍事的以下について聞かされてた時間とを、数えてみた。その比率はおよそ1対30になった。つまり私たちはキリストの教えについて、1時間学ぶ毎に、イスラエルの政治・軍事的側面については30時間も聞かされていたことになる。新約聖書からイエスの名が読み上げられるのを聞いたのは3回だった。一度は、フィリポ・カイザリアで、キリスト教の信徒代表が使徒言行録の24勝1-9節を読み上げた。二度目はイエスがペテロに「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と告げたゆかりの地で。3度目はガリラヤ湖でだった。(同書 p.183青字はミーちゃんはーちゃんによる)



           つまり、聖地旅行と言いながら、当時のイスラエルの政策を聞かされる場であり、イスラエルとその周辺の地域との関係を学ぶことなく、また、イエスの足跡に十分に触れてもいない(まァ、イエスの足跡といっても2000年たっているので結構怪しいものが多いのも事実だが・・・)。どうも、それがこの時代のフォルウェル主催のツアーの実情だったようだ。これだと、何をしにイスラエルまで行っているのかわからない。要するに、イスラエル政府の政策をふきこまれに行ったようものであり、イスラエルの風土自体を自由に体験できたわけでもなさそうだ。参加された方にご同情申し上げたい。

           著者の記述によると、どうも、日曜日の礼拝も、パレスティナやエルサレムにある教会でするのではなく、ホテルの会議室でしたらしいし。長らくその地で頑張ってきたカトリック教会やギリシア正教会の教会でアメリカのプロテスタントの人たちが礼拝するわけにもいかんという、参加者側と受け入れ側の教会の心情の問題もあるのだろうが。せっかくだから、ギリシア正教の聖餐式にオブザーバーとしてでも参加してみるということもないだろう。ほとんどの信徒はギリシア語が分からないだろうから。行けば、それはそれでここまで同じキリスト教で様式に対する考え方が違うのか、ということが分かって面白いのに。


           しかし、わざわざイスラエルに行ってまで触れるのは、旧約聖書の記述ですらなく、現代の近代国家としてのイスラエルの政治的・軍事的情勢についてばかり聞かされるのは、いろんな意味で、非常にたまらん経験だったに違いない。

           私の大学時代の恩師の一人にヘブライ大学で学位を取られたオリエント史の先生がおられたが、その先生が語られる聖地の風景で地域としてのイスラエル(近代国家としてのイスラエルではなく)を知るのと、このようなツアーに行って地域としてのイスラエルを知るのとでは、どっちがよかったのだろうか、と思うてしもうた。なお、このヘブライ大学でダビデ・ソロモン王朝時代の考古学の研究をされてこられた先生が、乾季の後の雨がどれだけすごいことをイスラエルの枯れ川ワジにもたらすか、ということをお話しくださったが、それは、私の想像を絶するものだったらしい、とだけは当時でもなんとなくわかった。この説明をするため、第I列王記のエリヤが腰をからげて走って行ったところの記事を説明された。


           これをまさか後年カリフォルニアで体験することになろうとは、思いもよらなかった。乾燥地帯であるカリフォルニアでは、雨対策が弱いので、日本の標準で、ああ、少し強い雨だな・・・、と思っていると、それだけで道路は洪水、川のようになったのであった。道路がまるで、ワジ状態・・・。もうちょっとで、車をぶつけるところだった。

           ところで、ヘブル語もギリシア語も読めない人たちが現地に行って何をするのだろうか、と素朴に思ってしまった。発掘作業の手伝いをするはずもないし、死海文書の解読の手伝いなんて、とてもできないだろうし。させてくれ、といっても、貴重な資料をむちゃくちゃにされそうで、断られるであろうが。

           次回は、本書で、福音派・聖書根本主義者(僕のことですか?かもしれません。)と近代国家としてのイスラエルについての部分を紹介していきたいと思っとります。



          2012.11.21 Wednesday

          読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第4回 最終回)

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              前回まで、アメリカ人の福音派・聖書根本主義者のテレビ伝道者主催のイスラエル聖地旅行についての部分をご紹介してきましたが、今回は、イスラエルという国家や、ユダヤ人シオニストと福音派・聖書根本主義者との関連についての部分をご紹介していこうと思います。



            読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)…



             一応、今回で、この本のご紹介は終わりたいと思います。

             まず、1985年にバーゼルで開かれたキリスト教徒シオニスト会議での著者のハルセルさんによる参加記録を引用してみたいと思います。

             スピーカーたちは、ホロコースト、つまりナチスによるユダヤ人迫害で世界中が同情し、ユダヤ人国家建設の道が開かれた経緯を話した。だが彼らのだれ一人として、イスラエル人、キリスト教徒の別なく、核時代においては私たちすべての人類が何らかの形で隣人として生きるすべを学ぶ必要があることには、まるで言及しなかったのだ。アラブ人、イスラエル人、すべての敵同士が融和と平和にこぎつける方法を提示して世界に希望を与えるどころか、どのスピーカーも自分たちに危険が迫っているとするあのユダヤ人に昔からつき纏って離れない恐怖を一層強めることしか口にしなかったのである。(同書 p199)

             この時代の危機意識、というのはよくわかるのですが、また、ここに挙げられている男性的な聖書理解というのか、極めて単純化された福音書の主張からやや離れた聖書理解であり、その結果「天国に行けるかどうかが重要」という危機意識を起点として福音が語られることが多いので、その延長線上でイスラエルの危険を語るのは、精神構造としてミーちゃんはーちゃんは理解できないわけではないのですが、どうも、福音書のイエスの主張(特に、山上の説教の精神)と合わないのではないか、と著者のハルセルさんは、おっしゃっておられるようです。

             この種のユダヤ人の危機意識の構造につして、イスラエル人のドキュメンタリー映像作家が制作したDefamationという映像資料があるのですが、これは、アメリカ国内のみならず、世界各地でのユダヤ人人権問題への対応組織についての行動について、記録されています。この本を読んだとき、まずこの映像資料のことを思い出してしまいました。YouTube にだれかがアップしているので、全部をここ(http://www.youtube.com/watch?v=TOUlJLrQ3sQ)で見られます。ただし、ほとんどが英語ですが、英語が割とゆっくりしているので理解はしやすいと思います。DVDは英語版のみかな。

             パレスティナ人市長を殺害し、岩のドームを破壊しようとした科で有罪宣告を受けたテロリストの首魁モシェ・レヴィンゲール・ラビは、彼自身と無数の仲間たちのシオニズム感をこう定義している。
             「シオニズムは神秘主義だ。神秘的メシア観の根を切れば、それは枯れてしまう。シオニズムは合理主義的な言葉では考えられない運動だ。現実の政治、国際関係、国際世論、統計、社会胴体などの言葉では考えることができない。シオニズムは神の戒律のことばでしか考えられないのだ。重要なのはただ一つ、創世記に記されているアブラハムに対する神のお約束なのだ。」(同書p.215)


             イスラエル人シオニストが、シオニストを神秘主義であると言っておられる。あー、出た。神秘主義。神秘主義であるが故に検証できないし、検証する気もそもそもないみたいなんだなぁ、とは理解した。

             合理主義的な言葉で考えられない、ということは、基本的に対話の拒否なのである。イスラム過激派とまったく同じ精神構造をしていて、それがゆえに過激派同士が武力闘争しているのかなぁ、と思ってしまった。彼らにとっての他者とのコミュニケーションは、合理的な言葉によるものではないらしい。合理的な言葉で考えることができない、という以上、むき出しの暴力によるコミュニケーションにならざるを得ないのだろう。これは、だれにでもわかるから。

             日本でも、過激派同士、特に武装闘争派同士の武装闘争が1960年代末から1970年代に頻発したが、合理的な言葉で考えられなかったのかもしれない。冷静さを失った神秘主義者ほど怖いものはないのだろうと、この部分を読みながら、改めて実感した次第。

             ユダヤ人シオニスト指導者たちがリベラル派による指示から保守派のキリスト教徒に乗り換えた理由について、次のように書いている。

             
            NCC( National Council of Churches)はおよそ4000万のキリスト教徒を代表している。福音派・聖書根本主義者もほぼ同数だ。しかしNCC系列の4000万信徒はばらばらにしかイスラエルのアラブ領土占有を非難しないからほとんど取るに足らない。しかし福音派・聖書根本主義派の4000万派一致団結して、神自らがイスラエルに奪える限りのアラブ領土はすべていかなる土地でも奪えと欲しておられるものと、心底から熱心に信じているのだ。これでは到底太刀打ちできまい。
             イスラエルとユダヤ系アメリカ人のリーダーたちは、聖書根本主義派の狂信的戦闘性に匹敵する迫力が主流派キリスト教徒には何もないと気づいている。根本派にとってイスラエルは、自分たちの経済と直結した本質的な宗教的関心の対象なのだ。(同書 p291)


             これは、ハルセルさんの分析であって、ミーちゃんはーちゃんの分析ではありません。ただ、ミーちゃんはーちゃんは軟弱なFundamentalist(多分、下で紹介する本で、J.I.Packerの言う意味でのFundamentalist)なので、狂信的戦闘性を持っていませんし、すべての聖書根本主義派に属する人々が狂信的戦闘性を持っていないことは確かですが、アメリカではそのかなりの部分が退役軍人や軍関係者であったり、軍事産業と何らかの形でつながっていたり、経済的な面で軍事産業との関連の影響を受けやすい人々であるので、あくまで、アメリカという国家では、ですよ、そのアメリカ合衆国での国家という枠内にお住まいの聖書根本主義者の方々の中には、経済(というよりかは、彼らのお財布)と直結した宗教的な関心を持つ人々がおられることは、そうだろうなぁ、と思います。

             現実に2002年ごろにアメリカにいたころ、Evangelical Free Churchであるとおっしゃっておられる教会に通っていたのですが、そこで、イラク戦争反対、というひそひそ声は聞こえても、公にそのことを教会内で主張するのははばかられる雰囲気が漂っておりましたです。はい。なんでそんな戦闘的なの?とも聞けなかったですね。

             近年のアメリカ英語自体が、基本的にやや戦闘的な言語であり、非常にインパクトがあることに価値を見出す言語の形態をとっておるという印象を持っておりますが、そのあたりも影響しているのではなかろうか、と思います。

             以前、大学院生相手にアメリカの学校で1990年代末に教えておりましたときに、同僚だった女性の先生に、「あなたたちはいい人なのに、なんで言葉はそんなに戦闘的なの?」って聞いたら、「・・・・」と一瞬彼女が凍ってしまったことを思い出します。彼女は、本当にいい人だったんですよ。まぁ、反資本家的なところがございましたが。

             戦闘的といえば、続く部分でこのようにハルセルさんは書いておられます。

             親イスラエル派がいわゆる「男性的キリスト教(注 ハルセルさんが言う聖書根本主義者)」と言う厳格な宗派に鞍替えした三番目の理由は、双方のリーダーがともに兵器増産、軍隊増強、軍事力で目標を達成するやり方を信じ切っている点だ。(同書p232)


             先にも書きましたように、軍関係者、元軍関係者、軍事産業関係者の方も、このグループには確かに少なくないので、ある面、軍事力で目標達成するやり方を信じ切っているというのはあると思います。企業などでも生産力向上、合理化のツールとして使われておりますオペレーションズ・リサーチ(まさしく作戦研究)は、まさしく第2次世界大戦中、日本軍やドイツ軍と軍事力で先頭し、被害を最小化しながら、戦闘に勝利する為の技術から発達した技術なのですね。

             パワーポイントとかを使ったプレゼンテーション技術は、もともと、軍の将軍だの大統領を含め大統領側近の皆様に作戦の概略を示し、納得してもらうために生まれた技術に端を発しているので、これまた軍と直結しているのですね。

             あと、宇宙開発技術では、アポロ計画に使われたロケットは、大陸間弾道ミサイル技術の延長線上にございますですし。

             その結果、もともと、反ユダヤ主義→反差別的で、リベラル色の強かったアメリカのユダヤ人に何が起こったかについて、ハルセルさんは次のように書いています。

             イスラエルがアメリカの植民地的軍事国家に変貌し、ウルトラ右翼のキリスト教徒と同盟を結んだために、リベラル派のユダヤ系アメリカ人は帰趨に迷い、居心地の悪い思いをしている。(同書 p.240)

             個人的に法廷論争が好きで見ているLaw & Orderで出てくるユダヤ系NY市警察の刑事のMunchと呼ばれる警察官の設定(http://en.wikipedia.org/wiki/John_Munch)は、リベラルということになっている。彼は、一応、現代ヘブル語がしゃべれるという設定になっている。このマンチおじさんなんかや、ニューヨークのジャーナリストや法曹関係者たちが、結構居心地の悪い思いをしているのだろう。Law & Oder SVU の番組内では、Hate Crime(差別による犯罪)も扱うので、結構ユダヤ人問題が出てくることが多い。このあたりも、先にご紹介したDefamation(http://www.youtube.com/watch?v=TOUlJLrQ3sQ)を見てもらうと、なんとなくその実情がご理解いただけるか、と思う。

             まぁ、もっと生々しい表現や記述、厳しい表現が本書内では繰り広げらておりましたが、ここにご紹介した一部(まだ、それでも穏健な記述が中心)でも、十分、気持ち悪くなったり、鼻から牛乳経験された方もおられたかもしれません。そうなられた方には、こころからお詫び申し上げますが、ハルセルさんには、こう見えていた、ということで、ご理解を。本当はもっとショッキングな内容Jel-USA-lem(エルサレムはJerusalemと英語でつづるはず)とか満載でしたから。

             最後に、何人かのユダヤ系の方々のご発言がこの本にご紹介されていたので、それを紹介してこの記事を閉じたいと思います。

             有名なバイオリン奏者エフディ・メニューヒンの父モシェが精神的避難場所を求めて新たに作られたユダヤ国家に移住したものの、シオニストが「神ではなく自らの権力」を崇拝しているのを知ると政治的シオニズムにとって代わられた預言者のユダヤ教が「悲惨なデカダン」に陥っていることを嘆いている。
             エルサレムの『ポスト』紙のインタビューで、有名なユダヤ系アメリカ人のバイオリン奏者アイザック・スターンは、シオニズムとシオニスト国家を「わが汚されし夢」と呼んでいるのだ。(同書p212)

             このあたりの様々な人が直面する現実と様々な人が抱いた理想の違いをどう考えるのか、Fundamentalismの系譜に属すと分類されるキリスト者として自己反省的に考えないといけないなぁ、と思ったことをお伝えして、この記事を閉じます。

             ちなみにメニューヒンの演奏(あ、グレン・グールドと一緒)は古い白黒動画で、画質は少し、ひどいですが、こちらで。(http://nicoviewer.net/sm16115603)

             アイザック・スターンはこちらで(http://www.youtube.com/watch?v=P8Oo9m5s4Ss)。(そういえばセサミストリートに出ていたのを見たことがある[http://muppet.wikia.com/wiki/Isaac_Stern])確か、アイザック・スターンは、映画のMusic of the Heart(http://www.youtube.com/watch?v=jHD5tjCrdws)にも出演していたように思う。見た瞬間、それこそ、ビックらこいたけれども。

             ということで、これらの映像をお楽しみくだされ。ミュージック・オブ・ハート、アメリカの音楽教育の現実を描いていたようにも思います。子供たちが言っていたカリフォルニアの小学校では、音楽教育、いっさいなかったなぁ。


             ところで、日本の方で、羽村の風、というブログをお書きになった方が、これらの戦闘的なキリスト者の問題について、既にふれられておられたので、関連分だけ、ご紹介。特に、キリスト教が倫理化していくことに伴う問題を紹介しておられるジーザス・キャンプを紹介した「原理主義キリスト教」再考は秀逸。


            「原理主義キリスト教」再考

            「正義の戦争」を考える

            いま、改めて「聖戦論」を問う



             ま、そんなこんなで、こういう戦闘的なアメリカ人のキリスト者たちが、いたということのご紹介。実は、これが間違いじゃね?と言っているアメリカ人の方の記事(日本語変換)を次回以降ご紹介。

             「正義の戦争」を考える、で出てくるWayne Grudem さんの問題も、実は次回以降、3部作構成でご紹介します記事にも出てきます。本職の神学部の先生だけあって、聖書解釈の中からかなり明確に、それも議論に用いられる部分の解釈の問題として取り出しておられます。羽村の風の方の論点とアメリカの神学部の先生の論点は、極めて共通していますのが、実はアメリカで、このことを正面切って言っていることがすごいので、次回以降は、こちらをご紹介いたします。



             お詫びと訂正

             ご紹介したブログのお名前を間違えておりました。こころからお詫びして、訂正申し上げます。

             正 羽村の風
             誤 羽室の風

            謹んで訂正いたします。ご指摘いただきました、ヤンキー牧師先生には、心より御礼申し上げます。


            評価:
            Yoav Shamir,Yoav Shamir,Morten Højbjerg,Karoline Leth,Knut Ogris,Nynne Selin,Sandra Itkoff
            First Run Features
            ¥ 1,127
            (2010-05-18)
            コメント:イスラエル人監督が作成したアメリカ国内での反ユダヤ主義対抗団体の行動についてのドキュメンタリー映像。ユダヤ人の意識とアメリカ人の意識のギャップが大変興味深い。

            評価:
            J. I. Packer
            Eerdmans Pub Co
            ¥ 821
            (1984-07)
            コメント:パッカー博士によるFundamentalismの理解に関する本。冷静に書かれていて、非常に好感が持てました。

            評価:
            マリアンヌ・マッダレーナ,パメラ・グレイ
            ワーナー・ホーム・ビデオ
            ¥ 991
            (2012-04-04)
            コメント:アメリカの公立学校における音楽教育の位置づけなどがよくわかる。それから、アメリカの音楽家のアウトリーチに関する考え方の一端が現れているかも。

            2013.04.17 Wednesday

            書評 キリスト教と社会の危機 教会を覚醒させた社会的福音 by ウォルター・ラウシェンブッシュ著 ポール・ラウシェンブッシュ編

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               「福音派が生まれたころの世界むかし話」シリーズに復帰する以前に、もうちょっと道草を。以下は、「福音と○○」というキリスト教系雑誌の4月号(2013年3月発行)に『キリスト教と社会の危機』という本についての書評として寄稿したものを、大幅に変更して、書きたいことを書いてみようかと。お堅い雑誌に書いたので、いつもよりかなりコチコチに硬派。その点はご容赦あれ。といってもミーハーネタは満載にしております。

              ヘルズ・キッチンについて

               北緯40度45分47秒、西経73度59分34秒。この座標付近でウォルター・ラウシェンブッシュが19世紀から20世紀の変わり目に体験したことから生みだされた思惟が結晶したのが本書である。

                この地区は、セントラルパーク南西側にあり、現在、高層のおしゃれな住宅に小金持ちや文化人風の人々が住み始めた地区であるが、90年代から2000年代にかけては、ギャングや麻薬の中毒患者たち、不法移民の皆さんが蠢く地区として犯罪ドラマで頻繁に登場する地区であった。Law and Orderでよく悲惨な暴力事件が発生する地区として設定されるのが、Hell's Kitchenである。Law and Orderの登場人物のヴァンヴューレン警部がHell's Kitchenと聞くと、またか、とあきらめ顔を見せる地区である。

               80年代から90年代には、ヒスパニックの人々(不法移民を含む)や、アフリカ系アメリカ市民が多く住んだ地区である。

               70年代には、ヒスパニックの人々(不法移民を含む)がこの地区に居を構え、60年代、この地区の主人公はアフリカ系市民であり、この時代には、この地区内のActors’ Studioに通うアル・パチーノ、ロビン・ウィリアムズ、ダスティン・ホフマンらが映画人になる前の若者として、たむろしたりして過ごした地区でもある。それ以前の50年代には、ウェストサイド物語で描かれたような移民2世の若者のギャング団が死闘を広げ、ヨーロッパでの戦争が終わった40年代後半には東欧諸国から来た移民、第1次世界大戦後はイタリア系移民(多分、レディガガの祖父母をおそらく含む)、その前はアイルランド移民が移民が隔離されて検疫を受けたエリスアイランドから上陸して最初に住みついた地区として存在し、ここを通って多くの人々が、新天地を求め、西へ、西へとフロンティアを求め、ネイティブアメリカンのアパッチ族とか、イロコイ族とか、チェロキー族、コマンチ族、ダコタ族、シャイアン族とかがお住まいだった地域へ開拓者として流れ込んでいったのである。

              ヘルズ・キッチンの昔の雰囲気

               アイルランド移民が来たときの雰囲気は、映画「遥かなる大地へ」とか、その後の大恐慌時代の雰囲気は、ジム・ブラドックというボクサーを描いた「シンデレラマン」(以下リンク参照)がその雰囲気をよく描いている。なお、ジム・ブラドックはこのヘルズ・キッチンで生まれている。

               これらの海外からの新参者の移民の持つ資本は、自分たちの肉体だけであった。そういう新参者の移民の悲惨がこの本が書かれた背景にある。この地区のランドスケープ(風景)と文化を作り上げ、この地区に一貫して流れるメロディは、『貧しさ』とそれがもたらす悲惨さであった。
                その『(物質的)貧しさ』に対してキリスト者として、アメリカ人として本来約束されているはずの正義あるいは公義(Justice for all)をどのように考えるのか、ということを20世初頭のアメリカ人キリスト者に、問うた本である。

              キリスト者と正義(公正)

                ジャン・ヴァニエやナウエンなどの弱者への視線、我が国の賀川豊彦をはじめ、20世紀以降の多くの世界中のキリスト者に共通する「キリスト者にとって聖書から考える『正義(公義)』とは何か」、すなわち20世紀以降の世界中のキリスト者に共通するその課題を問う基準点の一つを与える書という点で、この本は非常に意味があるし、今なお重要な示唆を与える書である。

              ラウシェンブッシュの限界

                しかし、この本には、固有の限界がある。それは、ロシア革命(1917)の直前という時代背景の中で書かれたという限界である。まず、社会主義が正義であり、科学であった時代である。ナチスが国家社会主義ドイツ労働者党でまだあるという意識のかけらくらいはあり、優生学が正統的科学とされた時代である。この本の表層には、それらが色濃く反映されている。ブルジョワジー、プロレタリアートという言葉が頻出する。純粋な理念系としての共産主義国や社会主義国が実質的に存在しない現在において、この本の表層の表現や社会主義に対する期待などの表現は現在の我が国の読者に強い違和感を与えるであろう。

               ラウシェンブッシュの思い描く政治経済学は、ロールズの正義論や近代経済学の修正なども含まれていない古典派的経済学が想定するような環境下での社会経済問題(それは富の再配分の失敗による富の偏在として表れる)に、キリスト者としてどう考えるのか、ということを旧約の預言者のように叫んでいる書である。また、福音派に非常に強い影響を与えたScofield Study Bibleの発行前であり、後の福音派が持った天啓史観などの聖書理解への対応なども含まれていない。

              「神の国」理解に対する
              ラウシェンブッシュの批判

                しかし、この本で繰り返し主張される「神の国」とキリスト者の関係は、きわめて重要であろう。ラウシェンブッシュは、「永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。」(p.212)という表現に見られるような後世の福音派と呼ばれる人々が主張したような「神の国理解」がひずんでいるのではないか、という主張はキリスト者として深く検討するに値するであろう。

               カンポロは同書の中で、「キリスト教国アメリカのかなりの部分が、神の国はあの世にしか属していないと考えたのだ。」(p.132)とレスポンスしているが、これは日本でも(特に福音派と呼ばれるキリスト者の間において)同様ではないだろうか。

                最近、NTライトのHow God Became Kingやスコット・マクナイトのThe King Jesus Gospel(5月に福音の発見というタイトルで出版予定)、雨宮慧先生の「聖書に聞く」を読んでいるのだが、そこでも、神の国や「天の御国」、「福音」とよばれるものへの理解の歪が主張されている。この福音理解のひずみについて、違うコンテキスト(弱者への視線を忘れているというコンテキストを多分に意識したものではあろうが)ラウシェンブッシュは「もしどこか古代ヨーロッパの教会の石畳の下に埋葬された聖人たちがよみがえって、近代の説教を聞くことができたら、彼らは自分たちの福音がひっくり返されたと思うだろう。」(p.252)と指摘しているが、それは、NTライトやスコット・マクナイトの議論と共通のものをもっているように感じた。それこそ、オリジナルのイエスが語ろうとし、パウロが語ろうとした神が人と共に生きようとしておられ、そのように人を招いている福音に戻ろうという動きである。マクナイトの用語による『救い派(Soterians)』が福音と称する福音ではなく。

              ラウシェンブッシュの
              神の国理解・イエス理解の限界
               ただし、ラウシェンブッシュは20世紀初頭に生きた人である。20世紀後半から急速に進んできた新約歴史学や、中間時代の歴史的研究などの成果を十分含んだ、Historical Jesusとして討議されてきた内容は、まったく含まれてはいない。その意味で、イエスに関する理解が、どうしてもシュバイツァーのイエス研究論的な理解にとどまっている部分があり、イエス自身が持ったとNTライトが指摘しているような革新性、存在の特異性などに関しての論究があるわけでもない。また、それを本書やウォルター・ラウシェンブッシュに求めることは時代の限界を考えると、酷というものであろう。

              ラウシェンブッシュと
              現代日本労働社会

               近年の日本の労働法制と労働市場の変化の中で、ラウシェンブッシュのいう「もし(教会に)奉仕する働き人たちが、工場や仕事場において早いペースと不健康な状態の中で一週間ずっと長時間労働していたら、同じ身体的・精神的弾力性を教会の働きにもたらすことはできない。」(p.360)という指摘は、現代日本における40歳代前半以下のキリスト者の実情のことを記述しているのではないか、とさえ思った。サービス残業や人材を使い捨てにしながら、企業活動における収益の再配分構造を歪めていることなどの問題は含まれていないが。


               現代日本での富や教育の二極分化の進行についての生活者の実感、若年層の非正規雇用の増加と高年齢層の正規雇用の維持に伴う不公平感、それに伴う世代間相互理解の困難性、若年層の将来への生活展望の不透明感、年金等の社会保障制度の破綻の予感や実負担増、ブラック企業等の存在、都市と地方の較差問題、同一の生き方を半ば強制的に求められるようなライフスタイル等の影響は日本の社会とキリスト教界の中で大きく渦巻いている。ロスジェネ心理学などにもみられるような閉塞感が生きづらさが社会においても見られるように、キリスト教界においても見られている。

              現代日本の若者(勤労青年)と
              キリスト教界

               その意味で、本書の根本的な問いであるナザレのイエスの弟子としてキリスト者は現代社会をどう考えるのかの基礎を与える書として、現代日本の信徒にも極めて重大な問いを今なお提起している、と評者は考える。しかし、それに対して、教会は正面から応えているだろうか。教会に籠城し、若者(勤労青年)の実情を知らずに「若者(勤労青年)がこない」と哀歌を歌っているだけではなかろうか。その中で、キリストが「生きよ、神が与えたもうた生を喜べ」という素朴な福音を神にあってキリスト者のはしくれとして宣言し、その神の宣言に思いを巡らせることの大切さを感じる。



              -------------------------------------------------------------------


               というようなことを文字制約がなければ書いてみたかった。H先生からのコメントにこたえつつ、かなり、加筆修正いたしました。編集担当者から、書いていいという旨のご連絡を賜っておりますので。

               皆様、高い本ですが、キリスト教出版業界の発展のためを思って、寄付すると思ってお買い上げいただき度御座候。

               あー、姫路銘菓、熱々の御座候食べたい。なお、御座候の姫路の店で売っているジャンボ餃子はうまいらしい。まだ食べたことがない。



              評価:
              価格: ¥6,405
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:よい本だし、20世紀的な限界はあるが、6500円弱という価格がねぇ。ちょっと残念。この前キリスト教書店で平置き山積みになっていたので、ぜひお買い上げを。

              評価:
              価格: ¥1,575
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:近代社会におけるヒトの生きにくさ、逃げ場のなさから生まれるヲワッタ観の原因を分析して見せてくれる良い本。

              評価:
              価格: ¥2,500
              ショップ: HMV ローソンホットステーション R
              コメント:大恐慌時代にアメリカ人を勇気づけた普通のおっさんであろうとした伝説のボクサージム・ブラドックの生涯を描いた映画。へルズ・キッチンの昔の雰囲気がなんとなくわかる。

              2013.04.25 Thursday

              いよいよ出版されるようです。

              0
                 このブログでも度々紹介しておりました、あの本が出ます。紹介記事は、以下の通り。

                「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本

                キング・ジーザス・ゴスペル とイエスの宣言について

                救いの文化とその薄さの問題について、ボーっと考えた

                「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本

                あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。

                 あのスコット・マクナイトのThe King Jesus Gospel(邦題 福音の発見 なぜ、”救われた”人たちが教会を去ってしまうのか、が中村佐知さんの翻訳で5月中に出るようです。
                 
                 キリスト新聞社さんのウェブページは、こちら。
                 すでに教文館さんでも予約受付中です。



                 内容をもうちょっとスニークプリビューしてみたい方は、こちらのほうをどうぞ

                「福音の再発見」応援サイト

                (旧 キング・ジーザス・ゴスペル)

                をご清覧頂き度候。どなた様も皆様、ずずずいーっとよろしくお引き立てのほどを。


                2013.05.04 Saturday

                考えさせる1冊 これって、近代の課題を扱ってるんじゃね。

                0

                   例によって、福音派ができたころの昔話(最終回ー1)でChristianity Today関係の関係者を取り上げようかと思っていたが、南の島のコメント王子(でしたっけ)の久保木先生が面白い本をご紹介されていたので、あぁ、そーいや最近キリ書(キリスト教書店)いってないなぁ、ということで、休日出勤の帰りにキリ書によって、電車の中であらかた読んでしまったのが、今回ご紹介する本。

                   そりゃ、上沼昌雄×藤掛明の名前を見ただけで、キリ書集めの好事家(ものずき あるいは、ヲタク)の血が騒がないわけがない。いやぁ、この本は面白かった。

                   ということで、今回の本の紹介と一部ちょっと引用しながらスニークプレビューとコメントとを。

                  プロテスタントの限界よりは、
                  モダニズムの限界じゃね?
                   まず同書18ページの上沼先生のご発言は面白かったです。

                  上沼 そうですよね。私たちプロテスタントは、旧約聖書にしても、それを合理的に読み込もうとしたところがある。ある面で組織神学は、さまざまな理解不能なことが起こっている旧約聖書の世界を何とか説明しうる世界に平たく変えてしまう。それではもう、現代のキリスト者もやりきれなくなっている面があると感じます。日本だけでなく世界的にも。

                   これって、プロテスタント教会というのか、キリスト教界がらみだけのことでもないようです。たとえば、建築の世界が完全にそうですね。そもそも、ミーちゃんはーちゃんが教わった先生方、1950〜60年ごろに建築を志された先生方は、もう、コルビジェとかの直線で構成される設計図を持ち帰っては、それを眺めておられた先生方であり、その成果は、日本でも近代的な初期のころの超高層ビルが基本直線で構成されていたのである。典型的には、国立近代美術館がそれ。



                   ミーちゃんはーちゃんが行っていた高校の建物は、完全にコルビジェの世界にはまったおじさんが設計したんじゃないかという建物で、職員室の下側が風通しの良い柱だけからなる高床式倉庫上の建物になっていて、その風通しの良い空間は、ピロティと呼ばれていたが、今になってもあれは、意味不の空間であったと思う。

                   モダニズムに飽きたから、というのもあるかもしれないが、ガウディのサグラダ・ファミリアが流行ったり、バブルのころからは、ポストモダン(あくまで建築の意味で)というのがもてはやされ、モダンとポストモダン風が並立しているのがアサヒビール本社ビル。


                  ファイル:Asahi Breweries Headquarters (derivative image).jpg


                   金色(ビール色)の方が、ややモダンで(金色にみえるガラスを使ってるので、完全にモダンとは言えないが)本体が黒の上に金色の火の玉が乗っている建物が、ポストモダンチック。近代的な合理性からいえば、ナンセンスで、上が広い台形型、ってのは安定が悪くってしょうがないうえに、屋根の上には、意味不明の金色の火の玉でしょ?もうわけがわからない。アサヒビールさん、よく、これ建てようって思ったと思う。この辺の意味不明さがポストモダン風。

                  近代的計画論の破たんの挙句に…
                   ミーちゃんはーちゃんの専門分野に近い分野でも、1990年ころには、西洋の線形的なモダニズムに立つ計画論の破たんが発生した挙句、ヨーロッパやアメリカの計画理論の連中が、言うに事欠いて、マンダラ理論(計画理論は、線形性でなく、循環論的、相互連携的、ホーリスティックに考えるべきとかいうので、いわゆる東洋的な曼陀羅の世界に影響を受けたらしい。)とか、風水がどうのこうのとか言い出していていまだにその影響は抜け切れていないように思う。

                  なお、根強く残る近代の同質性の仮定

                   ヨーロッパ人や一部のアメリカ人も近代の薄っぺらさというのか、平たんさというのか、単純さに飽きてしまったように思うが、かなりのアメリカにお住まいの皆さま方は、今もなお、この平たんさというのか、単純さというのか、同質性ということに対する確固たる確信がある人々であるように思う。近頃のTPPの議論を見ていても、そう思うのだな。まぁ、数量でしかものを見てないことも少なくない日経新聞も似たようなところがあるが。まぁ、日経の記者さん達は、田植えに立ち会ったり、土改剤散布や深耕作業や収穫作業に立ち会ったり、大半の農家の厳しさを御存じないようだし、一部の特殊な成功事例はご存じのようだけど。まぁ、しょうがないんだけど。

                  あえて「選ばない」という選択と
                  決定の意味

                   この本で面白いと思ったのは、「選ばない」という選択という見出しでまとめられた部分(同署pp.24-26)である。ちょっと紹介してみたい。ここでは離婚の問題とどう向き合うのか、ということがふれられていた。

                  藤掛 はい。二つの人格というより、二つの生き方ですね。典型的なのは、離婚問題です。離婚の危機にある夫婦が相談に見えられて、離婚したい、したくないという話になる。大体は女性が離婚したくて、男性はしたくない。(一同笑)
                  上沼 わかります。
                  藤掛 で、妻が夫を引っ張ってくる形でカウンセリングに来る。でも、社会的には夫に非はないんです。昔だったら、稼ぎが悪いとかアルコール依存症であるとか、浮気とか、それなりの理由があったのですが、夫は真面目に働いている。社会的にいうと理由が見当たらないのです。でも奥さんは、私の人生を奪いやがってみたいな感じで、離婚したい、別居したい。両方ともクリスチャンですよ。
                   そこでどうするか、ということなんですが、この時に選択肢が出てくるのです。離婚すべきかとどまるべきか。カウンセラーとしてはどちらも選ばせないんですね。(中略)選んだらおしまいなんですね。どちらの選択も自分の本音であることを自覚してもらうのです。
                   妻としてはやりがいのある仕事をしていたのに結婚をして人生を棒に振ってしまった、という思いがある。自分は彼と結婚しなかったらもっと良い人生があったと思いたいんですね。(中略)ずっと選ばないようにするという、ものすごくエネルギーのいる作業を続けるのです。(中略)
                   そうすると不思議なことに、二つの人生の選択肢が近づいてくるのです。右か左かと迷っていたのに、右でも左でもない、別の生き方が登場してくる。(以下略 略した部分に大事なことが書いてありますが・・・・でないと、営業妨害になりますしwww

                   この部分を読みながら思ったことは、先日の水谷さんの記事38歳は女性が最も暴挙に出る年齢? の記事である。まだやり直しがきくからと、あせって結論を出してしまい暴挙に出る女性に関しての記事である。38歳での結婚と同様、離婚も同様に暴挙だと思う。一番おもしろかったのは、男性が女性が離婚に向かって突っ走るというのが、現代的なのですね。一昔前なら、男女雇用機会均等法もなく、女性の管理職はおろか、結婚退職が当然だった女性が本来の強さを発揮してしまっているという。シンデレラ・コンプレックスも背景にあるんでしょうかね。いつか王子様が、Someday my prince will come.....この背景に最近テレビで出没して言うという美魔女なる存在もあるのかもしれない。えぇぇぇ、この方60歳、とかTV通販では見た目年齢のギャップをうるCMをしているのは知っているのだが。こういう方には、すげー若いころのBruce Willisが出ているDeath Becomes Her(永遠に美しく)とか、Joan Rivers:A Piece of Cakeなんかをご覧いただければと。Death becomes her一番ワロタのは、あのスプラッタ風のエンディング。ちょっと気色悪いけど。

                   ところで、白雪ちゃんの継母ちゃんは、一皮むけば、毒リンゴ売りの魔女さんで・・・。てなことを考えると、年齢相応の美しさ、というのもあると思うんですがねぇ。

                  スタティックなモデルを適用し、解を求める限界

                   また、この部分を読みながら、近代という時代が想定してきた、スタティックな世界観の影響を見るのですね。つまり、正解は、何かの連立方程式体系を解くことによって必ず存在するはずだ、というような正解に至るためのトラックがあると想定しがちなのだけれども、世の中そうはうまくできてなくて、本当は何が正解なのかは、わからない。ことが終わっても、それが正解であったかどうかすら分からない。そのあたりのことが書かれていたのが、ワインバーグの代表作、ライト、ついてますか?この本、システム屋、システム開発関連業者の関係者には、ぜひ読ませたい1冊。あ、普通の人が読んでも面白い本に仕上がっていますよ。

                   ただ、決定としては、瞬間瞬間まともそうな結果が出そうかなぁ、と思う方にかけていくしかない時代が来ているようにも思うのですね。世間は、スタティック(静的)な世界じゃございませんし、実にダイナミック(動的)な世界なんだけど、あまりにスタティックなものの見方に慣れ親しんでいるせいで、ダイナミックな世界を解けなくなっている。あるいは、ダイナミックなものを静的な世界を解くためのツールが対応できるような形に押し込んで、問題を解いた気になっているにすぎないのに、解いたと思い込んでいるようなものかもしれない。

                   ミーちゃんはーちゃんがちらっと関係してきた作戦計画(Operation Research)なんかもそんなところがある。なお、宇宙人と呼ばれ、お母様から膨大なおこずかいをもらっていた民主党の元総理もこの分野の関係者。まぁ、浮世っぱなれぶりは、ミーちゃんはーちゃんもこの宇宙人の方並みという説はある。

                  「性をどう扱うか」の問題に関する
                  近代の限界


                  同書p.33 には、このような指摘がある。

                  上沼 性のことが道徳的な面でしか見られないのは、やはりピューリタンの影響でしょう。その結果、性を生の一部、人格の一部としてみることができなくなっています。神の創造の作品ととらえられなくなっているのです。

                   この前、NHKの教育テレビの深夜枠で、日本のジレンマ、ということで40代以下の世代のおばちゃんになりかけのおばちゃんもどきの人たちが語っている番組があったがあのなかの指摘で、意外と近代という社会が見逃してきたものは、生殖行為に基づく持続的再生産(日本語にするとまがまがしいので、リプロダクションというカタカナ語用語を当てるらしい)こそが、持続可能性のある革命(これもまがまがしいので、社会が変わっていくことくらいに言えんかとは思ったが)に必須であるということを言っていたが、これはそうなのだろうなぁ、と思う。

                  人口学ってあったよね・・・

                   まぁ、昔ちょろっと関係した人口学という廃れそうな(いやぁ、脚光を浴びる学問分野としては、ですよ)、いや、廃れてしまったかもしれない(学問分野としては、年金とか、社会保障関連で連綿と続いています。国立社会保障・人口問題研究所という立派な組織もござる。一時期、人口予測モデルで遊んでいたこともあるので、まったく無関係の分野ではなかったのですね。これが。)分野の研究成果からすれば当たり前のことだし、そもそも技術革新がいくらすごいからと言っても、これからのマスとしての消費人口減に打ち勝つのは相当難しいだろう。

                  以前の英国病と現代英国の医療者問題

                   日本の長期的景気低迷に似たものとして、いっときはやった英国病(これと闘い、Iron Ladyとも呼ばれた、サッチャーさんも先日ご逝去されましたが)という話があるが、今、英国病が一時的に解決したように見えるのも、どうも、旧植民地からの人口がやたらと流入していることと、腐っても過去の蓄積が大きいから、のような気がする。イギリスの年金や保険財政が厳しくなっているのも、過去の蓄積がもうずいぶん減っているのと、旧植民地からの人々が大量に流入していることもあるのだろう。特に、イギリスでのGP(一般開業医)の不足は相当らしい。今、英国人の医師免許取得者は、EUになってからは、英国の国民保険の保険診療より稼げる大陸やアメリカで診療し、その不足をGPが手にできる保険診療手当でも十分高給に見えるパキスタン、インド、アフリカ諸国の医師が対応しているとも聞く。おかげで旧英国領のアフリカ諸国では慢性的な医師や看護師不足らしい。育てても、育てても、みんな英国に行ってしまうと、あるアフリカ人の宣教師が嘆いていた。

                  ややこしいものはなかったことにして

                   いやはや、話が余談に行ってしまったが、近代は、性とか、死とか、そういうややこしいものには蓋をして、なかったことに、なかったことに、しているという大変残念な事実があると思うのだ。そして、生きている間見たくないものは意図的に無視し、そして、死亡したら、天国に直行便のような形で考えているように思う。この種の考え方が、現代の閉塞感のどこかにつながっているように思う。

                  閉塞感の果てにある自宅警備員という生き方

                   結局、現代を現代の社会に沿って生きることは、回転寿司のレーンの上を載っている皿の上のすしのようなものでしかなく、たまたま、乗っている皿が、金の皿だったり、黒の皿だったり、白っぽい皿であることの違いでしかなく、そんなレーンの上に乗りたくない、という人たちは、もう社会というレーンから外れて、引きこもりとなり、自宅警備員、自室警備員化していくのだろう。このあたりは、ロスジェネ心理学が大変参考になるのではないか、と思います。

                   では、【一部警備員のための】ニート自宅の警備隊【替え歌をおおくりしませう。

                  近代のアウトローとしてのローンレンジャーと
                  現代のアウトローとしての自宅警備員
                   その意味で、近代が生み出した一種のアウトローとしての自宅警備員があったのだろう。まぁ九州博多銘菓の東雲堂さんのはかたにわかせんべいのCFに出てくるようなお面をかぶった、ローンレンジャーにしても、社会とのかかわりを失っていたという意味では、荒野に引きこもったアウトローであり、自宅に引きこもるか、荒野に引きこもるか、どっちが楽か、の違いでしかないのかもしれない。Hi-yo, Silver!

                  アスペルガーちゃん
                  量産時代としての現代社会


                  藤掛 近年、発達障害について、とりわけその一つであるアスペルガー障害について注目されるようになりました。アスペルガー障害の人は、社会的関係を持つことや他人とコミュニケーションを取ることができず、また本人ならではのこだわりを持っています。そうした障害が社会で注目されているだけでなく、一般の人にもそういう心性、心の傾向が広がっているということなんです。そういう意味では、現代は発達障害の時代、アスペルガー障害の時代ということができるかもしれません。


                  というご指摘(同書pp.35-36)があったが、このことを見ながら、近代という大量生産システム(フォーディズム)を超えた、多品種少量生産時代という概念を突き抜けたところにあるアスペルガーちゃん量産構造を見てしまう。市場が細分化されているし、単に市場が細分化されただけでなく、それが相互に緩く認証されながら、独立国を形成しているように思えるのである。

                  新しい中世とアスペルガーちゃん

                   このことを、田中明彦氏は、90年代前半に『新しい中世』という形で、提示しておられたように思う。確か、同書によれば基本的に新しい中世は、都市国家状の多様な関心領域ごとに小規模なコミュニティが形成されるという話であったように思う。

                   その意味で考えるならば、その小規模なコミュニティごと、独自の用語や言説が形成されるので、言語自体も分化していくことになる。方言というよりは、ラテン語系のフランス語、イタリア語、ポルトガル語、フラマン語みたいな、まったく意味が通じないわけではないが、かなり違いがみられる言語形態になっていく、ということ似ているかもしれない。

                   もともと、空間的な移動の壁によって、地域が分断され、結果として言語が異なっていたことを考えると、そもそも、近代のような同質的な論理で一体が支配されるような社会構造の方が異様であったのであって、現在のアスペルガーちゃん量産型社会の方が普通であったように思うのだが。

                   ところで、アスペルガーちゃんと言っても、同じ共通項を持つアスペルガーちゃん同士では、ぬるくある程度コミュニケーションができるのではないか、と思うのだが。

                   あんまり紹介して本書を買ってもらえなくなっても何なので、日本社会に潜む問題として、天皇的存在が作り出されやすいという指摘があることと、カルトの問題がふれられていると紹介し、そして、カルトに関する部分について、引用し、そして少し思うことを述べたい。

                  現代のカルト問題と
                  対論の困難性とアスペルガーちゃん化


                   本書を出版しておられる出版社の編集者兼代表の谷口さんの発言とそれを受けた対話が大変面白いのでちょっこし、紹介したい(pp.56-59)。

                  谷口 (略)今のキリスト教界でもカルト化が問題になっています。確かに信徒に祭り上げられた天皇のような牧師がいる。「牧師のことばは絶対。逆らってはならない」というような。それを聖書のことばで裏付けられるから、内部の人はだれも逆らえなくなる。
                   しかし一方で、だれかが「あの牧師はカルトだ。信徒が被害者だ」と言ってしまうと、それぞれに対して、「加害者」と「被害者」というステッカーが貼られる。(中略)こうなると「もう少しお互いの言い分を聞いてみましょう。」とは言えない雰囲気になる。そして「加害者」が説明し始めると、”言い訳”になる。
                  (中略)
                  藤掛 私は、今村上春樹が構想を練っているのは、もしかしたら地震ではなくて原発ではないかと思うんです。そこには原発にかかわる人た日による強固な構造があって、「枠」というのがぴったり。原発推進の国策はまさに「枠」で動いてきた。(中略)
                   一方で原発反対の人々も「枠」で反対している場合がある。もう少しいろいろ反対や哄笑があるのに、とにかく1%も妥協しない反対になる。
                  (中略)
                  谷口 (略)いわゆるカルト牧師を見つけ出してバッシングする方々も、裁判を起こすように働き掛けるなど、白か黒かを早期にはっきりさせたがります。(中略)私は「教会のカルト化」と戦う人々の一部にも、同じカルト化の傾向を感じることがあります。
                  上沼 教会のカルト化と天皇制はそんなにかけ離れたことではないですね。(以下略)
                   教会のカルト化と天皇制、この辺りのことは、キリスト新聞社のMinistryの特集でもふれられていたように思う。金魚鉢の中の金魚のような天皇家と牧師一家の類似性である。構造的に両者はよく似ているのだろうと思う。

                  2項対立に支配された近代

                   ところで、カルトとも関係する2項対立の世界観は、近代が誤って産み落とした正邪の概念にとらわれること、誤った形で一般に広まってしまった科学的思考というもの、という誤解ではないだろうか。科学の世界では、本来間主観的対論の世界のはずなので、そこまで、正邪の概念で対立的にとらえることはないはずの世界であるように思う。感情的になったり、むきになったりする科学者の方もおられるが。

                  裁判が大好きなアメリカ人

                   ところで、アメリカ人は、裁判が大好きな人たちである。何かあると、Sueという言葉が出てくる。Susanの愛称ではない。裁判のことである。

                   典型的にはスコープス裁判(本来は、州として進化論を教えてよいのかに関する裁判であったはずが、どちらかが正しく、どちらかがまつがいということの裁判として受け取られることになってしまった裁判)などに見られるように、裁判で白黒つけるのが大好きなのだが、それだけに裁判のリアリティと限界を知っていたり、テレビで見ている人たちでもある。まぁ、普通に陪審員制度に引っ掛かる可能性もあるから、というのもあるのだろうが。

                  Lawandorder01.jpg 

                  裁判の限界の認識

                   個人的には、この番組、結構好きなのだが、何より、この番組が面白いなぁ、というのは、Deal(司法取引)をめぐる考え方だったり、結局、裁判で争った結果何が正義なのかわからん、ということを言い放って、わざとわかりにくいエンディング、非常に中途半端な気色悪いエンディングで終わることが多い点である。絶対に水戸黄門みたいな結論が毎回出て、すっきり終わるエンディング、でないことも多いのだねぇ、これが。初期のシーズンから、このような気色悪いエンディングもあるが、シーズン20とかの最近のシーズンほど、この手のわかりにくいエンディングが増えるようにも思う。

                   裁判って、限界がある人間がする以上、限界があるんだし、裁判で認められたからと言って、それがすべてではないように思うが、どこかでバランスを取らないといけない以上、裁判問う場でしか決着ができないこともあるのは確か。しかし、どうもそれを、金科玉条のように思っておられる、まつがいをしておられる方が時におられるのでねぇ。困ったもんだと思います。「裁判で勝訴した → 判決すなわち正義で正しい」どっか、厨弐病じゃね?マスコミもそういうところあるよね。

                   と、ミーちゃんはーちゃんの重篤な厨弐病心をくすぐらせる話題満載の、非常に幅広いテーマを扱った感じの本です。薄い本ですが、読み応え、読み込み応えがある本ですし、そうお高くもないので、ぜひご購入を。できるだけ、引用の範囲を超えないように努力したつもりですが、かなり今回は引用部分が多いことも確か。その段はお許しいただきたく。




                  本日購入してきた本



                  評価:
                  上沼昌雄,藤掛明,谷口和一郎
                  地引網出版
                  ---
                  (2013-04-25)
                  コメント:対談が一番面白い。後半のお三方の小論を読むためには、村上春樹の小説を読んでおいたほうが味わえるかも。全く読んだことのない私には無理ゲーでした。

                  評価:
                  価格: ¥1,575
                  ショップ: 楽天ブックス
                  コメント:近代を突き抜けてしまった日本社会における閉塞感たっぷりな人たちの生きにくさについて

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                  コメント:システム設計に当たる人々、SEさん、システム屋は読んでおいたほうがよい本。問題解決っていうけどさ、そんな簡単じゃございませんぜ。

                  2013.05.29 Wednesday

                  Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(1)

                  0
                     巣鴨の小嶋先生の最近のブログポストを読んでいて、思い出したことがあるので、書いておこうかと。あの記事では、福音派の若者がある特定の考え方に縛られていて、他者の理解を受け入れないということと、その時の反応が、「そんな話は聞いたことがない。あなたの考えは聖書的ではないのでないか」というものである、ということである。(なお、オリジナルの英文に関しては、英語がご不自由な皆さんのために、近日中に日本語変換(翻訳ではない)したものに、感想をつけたものを6回シリーズで連載する予定)。その前に、それと関連する話が書かれた書物があるので、そのご紹介。長くなりそうなので、3回くらいに分けようかと。

                    ビートルズを知っていたクリスチャン
                     さて、今回ご紹介する本は、先に触れた福音派の信者さんのように堅苦しかったこの本の著者マーシャルさんの若い時の話から始まる。

                     自由な時間をどう信仰と関連させて過ごすのか、ということも問題だった。リバプールで育ったので、ジョージ・ハリソンやポールマッカートニーと同じ学校に通っていた、というのが自慢の種で(ジョン・レノンは美術学校で教室が隣同士だった)、私はロックミュージックに囲まれていた。(中略)ロックやその他の音楽をどのように考えたらよいのかわからなくなった。讃美歌しか歌えないのか?では、読書は?小説を読むのは時間の無駄なのか?教会生活の外でなされている、ありとあらゆる営みをどのように感が足らよいのだろう?
                     (中略)
                     そこで私は、間違いを犯さないよう、はっきりと信仰的で霊的と思える務めにだけ集中しようとした。確かにそうする限り、良心のとがめからは解放された。しかし同時に、壁で囲まれ、自分が生きていた世界から切り離されたような狭さや窮屈さを感じ、イライラするようになった。(中略)『世的』なものを求めると、自分のクリスチャン生活に悪影響があるのではないかと心配した。たいていそのような『世的』な活動では伝道できないし、祈りが伴うわけでもない。だから、それを正当化できなかったのだ。もちろん、私は本質的に罪であることにかかわっていたのではない。そうではなくて、私の疑問はクリスチャンがどのようにして、「世」のことにかかわったらよいのか、というものであった。(pp.12-13)
                    しかし、この生き方、ミーちゃんはーちゃんもしてきましたけど、しんどい生き方ですよね。若い時は、自分の夢があり、いろいろ面白そうなことをしてみたいのに、それができない。映画なんて、ミーちゃんはーちゃんが高校生の頃は「見てはならぬもの」、「そんな世的な・・・」ということがまことしやかにミーちゃんはーちゃんの眼前5僂任っかない顔といっしょに言われたものであった。私の10年上の若い信者さんは、当時はやったフォーク音楽家(1970年代の岡林信康とか、ビリーバンバン)がしていたような長い髪の毛をしていただけで、『世的』であると判断された模様で、「兄弟、祈りましょう」と必殺一緒に祈ろう攻撃を浴びたそうである。まぁ、なんと残念な。 

                     ビートルズを知らなかった紅衛兵(下記リンクの岩波同時代ライブラリー収録)じゃ、ございませんが、下手をすると、ビートルズからも、Queenからも切り離され、レッドツェッペリンや松田聖子やタモリを知らなかった日本人キリスト者もいるかもしれませんねぇ。そんな世的なものに触れるんじゃないって。www

                     ミーちゃんはーちゃんにとっては、ロック、ヘビメタなどは、厳禁であった。いかにKISSが一世を風靡しようともである。悪魔の音楽wwwと呼ばれたのである。デーモン小暮閣下に至っては何をかいわんや。さらに漫画、アニメ、2次元のヨメに至っては論を待たず。いまだに、長崎抜け荷のご禁制品扱いのキリスト教会も少なくなかろう。そんな、コンピュータゲームなんてのは、不健全の極み扱いという雰囲気も今あるだろう。なにせ、ブログご禁制、インターネッツご禁制のところもあるくらいだから。www

                     いやー、マーシャルさんも大変ご苦労されたご様子であることが、「クリスチャンがどのようにして、「世」のことにかかわったらよいのか、というものであった。」という一文から感じられる。なお、映画リトルランボーズで紹介しているようなキリスト教会(英国・北米・日本には)現存する。

                     まさに、あれはダメ、これはダメ、の生き方は、このブログでも紹介した上沼先生のセミナー記録で触れた神経症的なキリスト者みたいな生き方なのではないだろうか。


                    救命ボート神学ww
                     同書を読んでいるうちに、救命ボート神学という表現が出てきた。これは、危機感をあおり、周囲の人を天国にとりあえず無理やり引きずりあげるような神学のことかと思われる。この神学の世界では、この世はもう滅びるようなものだから、使い捨てになっていく。典型的にこの神学の持ち主が、朝日選書から出ている核戦争を待望する人々の中の人物の一人として描かれていた。こうなると、もうこの世からぶったくれるだけぶんだくってしまえばよい、どうせこの地は滅びるのだから、という生き方になる。まるで、ザ・シンプソンズのスプリングフィールド原発の経営者のスミザースの生き方そのものになり、安ければ何でもよい、手抜きの現世の生き方となるのである。


                     地球の世話人となれ、という神の本来のご計画も罪のため変わってしまった。私たちは世界を破壊してしまったのだから、いま大切なのは人々を破壊から救い出すことなのだ。
                     この考え方は「救命ボート神学」と呼べるだろう。被造世界はまるでタイタニック号のようで、罪という氷山と衝突して沈みかけているので、救命ボートに乗る以外何もできないというものだ。船はどんどん沈んでいる。神は船自体はあきらめ、今は人間が生き残ることだけを望んでおられる。(中略)私たちの唯一の務めは救命ボートに入り、そのボートを浮かせ、おぼれている者たちをつかんで水から救い出し、無事天国につくまでボートをこぎ続けることなのだと。
                     しかし、真のキリスト教の考え方は『救命ボート神学』ではなく、「箱船神学」だ。ノアの箱舟は、人間だけでなく他の被造物を救った。箱船は逃げようとしたのではなく、地上に戻り再出発した。洪水の水がひくと、船に乗っていたすべての人間と、その他のすべての被造物は地を回復するためにもう一度地上に戻っていったのだ。(p.40)

                     この種の箱船神学ならぬ救命ボート神学の人々は、ふわふわとした浮ついた天国に行くことに興味がないからこそ、好き勝手なことを地上でしてしまうのだ。パウロさんのローマ書の8章19節でわざわざすべての被造物と書いてあるところがあるのにもかかわらず…。


                    うっとうしいクリスチャン

                     すみません。これは、ミーちゃんはーちゃんが言っているのではありません。いのちのことば者様がお出しになっておられる本の中で、マーシャルさんがおっしゃっておるのです。それも、月刊いのちのことば、で一部が連載されていたという由緒正しい(そもそも、こういう他人の権威を借りるような思考法はどうかと思うけれども)書籍の中で触れられている文章です。苦情は、マーシャル様にどうぞ。ミーちゃんはーちゃんの勝手な妄想ではありもはん(なぜか南九州方言)。

                     クリスチャンでない人々は、クリスチャンにはほとほと嫌気がさしている場合が多い。どんな会話にもイエスを持ち出す福音派の人間は不愉快だし、物笑いの種にもなっている。だが、仕事を勤勉に、明るき、きちんとこなす人間は、千のことばにも匹敵するような証人だ。彼らは私たちをよく見ているものである。(p.97)


                     しかし、マーシャルさん、刺されませんか?「福音派の人間は不愉快だし、物笑いの種にもなっている。」なんて書いたりして。いやぁ、そりゃ、個々の過去のブログポストでも触れましたけど、メサコン入っているおっかない顔つきの人もいますから。まぁ、シンプソンズでも、シンプソンズの隣人のフランダースは、この手合いの人なので、シンプソンズの中で、全米に嫌われているフランダースという歌まで献呈されているくらいである。フランダースのThe Simpsonsでの扱いは少し過酷すぎる扱いであるし、歌詞も過酷すぎるとは、思うけれども。

                     ということで、この記事を読むだけでも、ほら、この本を読みたくなってきたでしょ。

                     この本、300ページ近い本なのに、1600円と超お買い得ですが、実は、裏ルートを使うともっとお安く手に入ります。名著なので、ぜひご購入の検討をば。

                     お得ルートの詳細はこちら
                    http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2010/10/blog-post_13.html
                     次回は、もう少し具体的な生き方についての内容に触れるあたりを。



                    評価:
                    ポール マーシャル
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                    コメント:狭苦しい『キリスト教』の救命ボート神学から、箱船神学への転換とダイナミックなキリスト者としての生き方を進める本。おすすめの1冊。

                    評価:
                    唐 亜明
                    岩波書店
                    ---
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                    コメント:なんか、キリスト教徒と紅衛兵はよく似ているかも。あっついところなんかねぇ。もう。

                    評価:
                    ---
                    Happinet(SB)(D)
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                    コメント:シネフィルな方のみでなく、福音派の2世問題をお考えの皆さんにぜひご視聴いただきたく。ツタヤでもレンタル可能かも。

                    2013.06.01 Saturday

                    Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(2)

                    0
                       今回も引き続き、Paul Marshall 島先克臣訳 『わが故郷、天にあらず』のご紹介をば。

                       今回はこの本の核心部分というのか、ミーちゃんはーちゃんにとって一番大事かなぁ、と思うあたりを書いてみたい。

                      この本の核心部分
                       この部分の核心は、以下に引用する部分だろう。我々は、社会に役に立つとか立たない とか、本来イエスが言わなかった価値観に対してあまりにも縛られすぎているのかもしれない。事実、ミーちゃんはーちゃんはそうであった。
                       ナザレのイエスは、その当時のイスラエルで当たり前とされてきた社会に役立つことをしただろうか。役立つこと をしたのであれば、律法学者や祭司長から利用されることはあれ、そこまで命を付けねらわれることはなかったはずである。大体、人の子には枕するところもないほど、相手にされなかった無用者だったのではない だろうか。内村先生ではないけれども。まぁ、内村先生も、それ自体のためになされることの重要性をお話しされているようである。

                       イエスは、生まれつきの視覚障碍者に対して、なんといっただろうか。彼の存在そのものは、「神の栄光が表れるため」といったのではないだろうか。「神の役に立つため」とか「福音の 前進のため」とは言っていないような気がするが、それはミーちゃんはーちゃんが聖書をよく読めていない故の誤解なのであろう。


                        「役に立たない」こと、つまりそれ自体のためになされることが非常に大切で、死活問題ともいえる理由がここにある。「役に立たないこと」こそが、人生の最 大目的なのだ。もちろん、それは遊びだけではない。私たちが神を礼拝するのに礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく時を過ごすのは、それ自体が 楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何か別の目的達成に役立つからではない。(中略)
                       ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関係しているのがわかるだろう。信仰が必要なのは、休みだけではない。遊びにも信仰がいるのだ。遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。(p.127)

                        所詮、人間が全能の神の前に役立つことなど、そんなことは恐れ多いし、それこそ、モーセ爺さんに怒られる偶像崇拝であろう。その時の偶像とは何か。自分の才能であったり能力、自我であったりはしないだろうか。我々は神の前に遊ぶ雀に過ぎないし、野のユリよりちょっとまし(環境負荷が多いという意味では、それ以下かもしれない)に過ぎないのではないだろうか。それが、創世の時に神が「よい」との宣ひ給ひし被造物の存在理由、レゾンデートルなのではなかろうか。

                      政治における権威とキリスト教
                       恐らく、ニクソン政権のころが始まりだと思うが、いつのころからか、アメリカ合衆国では宗教的指導者たちが、政治的指導者たちを祈りにより支援するため、と言いながら、具体的政策(特に外交政策)に容喙していると取られかねない言動をとってきたことが、以前のブログポストにも触れた、「核戦争を待望する人々」や「神の国アメリカの論理」という本でも触れられている。それも、いとも安易に容喙していく姿を。そのことに対し て、マーシャルさんは、次のように述べていると思う。

                        クリスチャンが政治にかかわろうとするとき、何が大切なのだろう?それは「人間が責任をもって下す判断」といえる。旧約聖書の律法や新約の原則を持ってき て、それを、当時とはかけ離れた今の状況にそのまま法律として当てはめる、といった単純なことではない。(p.158)
                       指導者のために祈れ、とは、パウロは確かに言っている。しかし、指導者と一緒に祈って大人物ぶれとは、パウロさんは言っていないように思うんだけどなぁ。指導者と一緒に祈って、政治に容喙せよとは言っていないような気がするけどなぁ。ミーちゃんはーちゃんの聖書には、これらのことばが抜けているようなので、 またしても欠陥品か、ミーちゃんはーちゃんが欠陥品なんだろう。これは自信をもって認める。何せ、重篤な厨二病患者であるから。www

                      現代の十字軍
                       あー、なんか十字軍って言って、ちょっと前に物議かもしたダボヤと呼ばれる息子の方のジョージがおりましたね。大統領の。他国を悪の枢軸とか呼んだ方(リンクをクリックすると、ホワイトハウス提供の上下院両院の前での大統領時代の演説原稿が読めます。黒歴史もきちんと残すあたりがね。)だったような。そーいや、昔ソ連(現ロシア)を悪の帝国呼ばわりした大統領もおりましたなぁ。まるで、ジャイアン。

                       ほとんどの政治上の問題は、聖書を数か所引用すれば解決できるような者ではない。したがって私たちは、政治的な勤めの全体像と、政府の正しい役割を常に話し合うべきである。同時にどのように政治にかかわるかという姿勢にも注意を払わなければならない。だが、残念なことに、クリスチャンが政治にかかわる方法は、大義名分をかざして「悪者」に攻撃を仕掛ける「十字軍」方式が多い。
                       この方法にはいくつもの欠点がある。(以下略 (p.163)

                        政治にかかわらなくても、他人の人生にかかわる場合でも、「十字軍」方式というのはあるかもしれない。この十字軍方式をとる場合、メサコン一本行っちゃった疑惑のある人(この防止法は、こちら)になっちゃうかも、である。

                       こういう熱い信仰者というのか、大義名分を振りかざす方は、ミーちゃんはーちゃんは御免こうむりたい。大体、人間の正義は神の正義から比べれば、所詮ゴミ同然、多寡が知れているからであるし、ミーちゃんはーちゃんは自分が正義でないことは嫌というほど知っているからである。教えて下さらなくても十分知っております。また、他人様に石を投げるくらいなら、自分で自分に石を投げてメガンテしますって。そこそこ、G.G.に近い年齢になってきたので。

                      クリスチャンクチュールwww
                       ファッションについて、マーシャルさんは次のようにおっしゃっている。

                        ここで一番大切なのは、聖書の精神を見極めることだ。これ見よがしに派手なのでもなければ、着られればよいというさえないものでもない。私たちの生き方、 身づくろい、服の生地や色、形を通して、神の作られた世界の豊かさを祝い、神が与えてくださった想像力を表現し対応あふれるばかりの思いを外に表わす。それが私たちのファッションなのだ。だから、クリスチャンのファッションへの姿勢というのは、浪費的でもなければ、しみったれたものでもない。 (p.178)

                       そうなんですよね。神の造りたまひし地上を喜ぶこと、それも神は良しとし給ふたのではなかろうか。それ を、着飾ってはならないとか、飾ってはならないとか、わけわからないことを言って、その機会をみすみすどぶに捨てるようなことをしているのではないだろう か。

                       確かに、テモテへの手紙でパウロ先生は、着飾る(小林幸子嬢の紅白衣装する 写真はこちら)ことに対しては、苦言を呈しておられるが、要は、限度問題なのではないだろうか。そもそも、日本語で着飾ると訳されている言葉のギリシア語の語源は、コスメティクス(お化粧品)の語源でもあるけれども、そのギリシア語のさらにその語源は、コスモス(宇宙、秩序)に由来することを考えれてみられよ。そも、神はコスモス(宇宙)を秩序だって美しく作られたことすら、よろしくないことになるのではないかな。神が「よい」との宣ひ給ふたにも関わらず。

                      芸術的な食
                       また、食べ物に関しても、マーシャルさんはすごい。うまいものは悪くはない、「うまいもんはうまい」(これは関西の焼き肉チェーンのCF 動画はこちら。)ということをおっしゃっておられる。ミーちゃんはーちゃんは大学生のころ、所持金が40円だったことがあり、10円で売っている食パ ンの切れ端と水で一夜を過ごしたことがあるが、二度としたくない黒歴史である。過食や過度に過ぎ、食物を無駄にすることや、美食に心奪われるのは問題(これは偶像崇拝)だが、神が与え給ひし食物を過度に無視するのもどうかと思う。

                       服が、ただ身体を覆うだけのものでないよう に、食べ物も、ただ腹を満すだけのものではない。十分に食べ物があるなら人はおのずとおいしい料理を求め、その歯ざわり味、色合い、香りを楽しむ。料理は 私たちに喜びを与えてくれる。そのような料理には、技術だけでなく、イマジネーションが求められる。(p.179)

                       食事をおいしく作るのも才能の一つである。また、イエスは、その才能、そして食事をあえて楽しまれたがゆえに、「大酒のみの食いしん坊」とパリサイ派の皆さんからは非難ごうごうで非難と浴びたのではないだろうか。違うかなぁ。結構、福音書を見ていると、食べているシーンが出てくる。食事の重要性を福音書記者は知っていたのではないだろうか。

                       そういえば、以前のブログ記事(リンクはこちら 最後の方に出てくる)で触れたA Holy Mealは聖餐式論を考える意味でも重要だし、また、食事におけるクオリティの問題を問うた書であるが、日本では、この本は出せないよなぁ。絶対。おっかない皆さんから、聖書の誤読だ、と怒られそうだし。

                      -----------

                       ということで、今回はこの本の核心部分と、それから導かれる具体的な政治、ファッション、食での生き方を題材にした部分からご紹介。

                       次回は、ミーちゃんはーちゃんの専門分野、お金もらって生活の糧を得ている部分の技術、メディアなどについての部分からご紹介いたそうか、と存じます。


                      評価:
                      価格: ¥1,323
                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:アメリカの政治とキリスト教徒の近年の関連について非常に詳しい。

                      評価:
                      越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell
                      朝日新聞社
                      ---
                      (1989-09)
                      コメント:アメリカ政府とキリスト教界の関係者に関するルポは、見ておいた方がよいかも。

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