2015.08.08 Saturday

NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その11

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     今日からは、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「神」の前半部分を引用しながら、考えたことを述べてみようと思う。

    定義不十分のまま議論される神という語

     この章では、N.T.ライト先輩は「神」とは何か、について、次のように述べて居られる。案外神という語で刺しているものが違ったまま、お互いに違った意味のままこの神という語を使い続けている実態があるのではないか、とご指摘である。
     本書でここまで示した考え方は、迷路の中心に向かってどこまでも続く道の様なものである。確かにゴール近くにまでは導いてくれる。しかし、もう少しのところで目的地に達しそうにない。厚い垣根で隔てられたままである。これらの道筋や他のどんな道筋も、それだけで人間のこころを、無神論と思っているところからクリスチャン信仰に導いてくれるとは思えない。ましてや、神の存在や神の性質を「証明」できるわけではない。だが、私たちを神に導いてくれそうなこうした道筋の全てを試して、そのどれもが無駄だといえるかといえば、そんな単純な話でもない。それ以上のもっと根深い問題がある。「神」という言葉の意味自体が問題となる。(『クリスチャンであるとは』 pp.81-82)
     
     霊性(スピリチュアリティ)、美、義、共同体とそこでの交わりは、確かに神のご性質の一部であり、其の近傍辺りまで導いてくれるちょっと昔のカーナビゲーションシステムみたいなもので(最近のは精度が上がっているので、場合によってはドンピシャな場所に連れて行ってくれるらしいが、こういうろくでもないシステムを使うのは、地図屋として恥だと思っているので使ったことはない)、漸近的な近似でもテイラー展開における1次近似程度での近似であり、2次、3次以上の高次の近似ではない。複雑な曲線を一本の線であらわす、と言ってもいいし、幼稚園児の大半が描くアンパンマンの絵位だと思った方がよい。


    幼稚園児の方がお書きになったアンパンマン


    原作者、故やなせたかし さんがお書きになったアンパンマン

     上の2枚の絵は何とはなく似ているが、同じとするには無理があるのでは、と思う。その意味で、人間が人間的な努力で描こうとする神(幼稚園児のアンパンマン)と本来的には捉えることのできない神の御姿(やなせたかしさんお描きのアンパンマン)との関係において、似ている様な気がしてならない。

     しかし、上記のように人間的な努力によって無神論からキリスト教への移行できるか問題をわざわざ持ち出すところが、ポストモダン社会における信仰の問題に取り組むN.T.ライト先輩の、N.T.ライト先輩らしいところではないか、と思っている。

     結局人間的な努力で神に近づこうなどという行為や努力は無駄じゃないか、ということを言っておられる様な気がする。それは、結局当たり前でもあるように思う。神と人間のスケール感の違いというか、土台無理なことをやろうというのに等しい。本来、上位(メタ)概念であるものをより下位の概念で定義することになるからである。銀河系の大きさを、顕微鏡の精度で測定しようとするに等しい行為とでもいおうか。

    神を信じますか?の意味

     その意味で、N.T.ライト先輩は、日本人の中で、信仰はどの道でも同じなので、同じところに到達できるなんてことはありえない。それは無為な努力ではないか、ときっぱりご指摘である。宗教の普遍性は、普遍性で認めつつも、基本的に唯一神理解に立つ一神教型のアブラハム宗教は汎神論の世界とは明らかに違う、とご指摘であり、エキュメニズムとはずいぶん違うのである。その部分を以下に引用する。
     問題の一部は、私たちの使う用語にある。(中略)
     主要な唯一神論(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の影響下に在る言語圏では、「神」とそれに相当する言葉は、固有名詞、あるいは個人名としていつも使われている。もし西洋世界で「神を信じますか」と尋ねたなら、それは「ユダヤキリスト教の伝統の唯一神」という意味だとわかり、その様に意図していることも伝わる。「多くの神々の中の一つの神を信じますか」という質問とは全く異なる。(同書 p.83)
     『富士山とシナイ山』に学ぶ のシリーズで絶賛紹介中であるモンスーン型地域において形成された神神が多数存在して、その数億単位を優に超えている日本での宗教シーンのような環境では、「神を信じておられますか」というと、「はい、まんまんさま(たぶん太陽のこと)を信じています」とか「神田明神の社中でぇ」とか、「祇園さんとこどすなぁ」などとキチンとお答えくださる方もおられるので、「神」というだけでは不十分で、不十分な表現をしながらも、神を、ナザレのイエスを紹介するしかないのである。

     丁度、自分の母語でないTOEIC400点クラスの英語(いまの大学生だとこのクラスがざららしい)や、数10年前に大学の教養科目で習った程度のフランス語やドイツ語で、ある人を説明する感じとでもいうか。その能力の限界の中でも、誠意を尽くして自らが受け取っている範囲で、言葉のもどかしさを抱えつつ、ナザレのイエスを紹介し、神を愚直に紹介するしかないようなのである。

    クリスチャンが思い描く神

     ウィリアム・ブレイクの絵に関しては、以前にここでも紹介したことがある。
    Cain&AbelW.Blake
    アベルを殺したカインに語り掛けるの図 ウィリアム・ブレイク

     基本、こういう図を描くことは個人的にはNGだと思っているが、まぁ、こういう図を描いてくれといわれる以上、画家としては描かざるを得ない部分がある。しかし、こうやって図像にされると、一種の熱心なムスリムの皆さんは激オコぷんぷん丸状態になり始め、お怒りになりはじめるのである。この辺、イコンの伝統がちらっとでも残っているキリスト教はまだ、激オコぷんぷん丸にならない人もおられる。この辺りが、独特の熱心さをもつ一部のムスリムの皆さんがキリスト教に我慢ならない理由でもあるかもしれない。

    「神を信じる」、「神」をどう現代語で表現するか問題
     案外重要な問題として、聖書理解や信仰理解と直結する語でもある「神」という語が定義されないまま、あるいはその意味が合意されないまま、結構ルーズに使われている側面があるように思う。そして、それが混乱につながっている事例は案外多いと思う。そのあたりの事に関して、ライト先輩は次のようにお書きである。
     もちろん今日の西洋では、多くの人がキリスト教の神について大まかな考えしかもっていない。「神を信じますか」と問われ、一週間考えたとしても、常識的な判断力のある人であれば到底信じれらないイメージしか思い描けないであろう。即ち白髪で長いあごひげの老人(多分ウィリアム・ブレイクの素晴らしい絵の様な)が雲の上に座り、人間が地上でなしている混乱を見て起こっているイメージである。そのような創造は、まともなクリスチャンが思い描く神とは似ても似つかない。しかし注目すべきなのは、それが「神」という用語でクリスチャンが信じていると、多くの人が考えていることである。(同書 p.84)

     
    ウィリアム・ブレイクによるアダムの創造

     この部分を読みながら、結局キリスト者を含め、人間は、自分自身が理解可能な範囲でしか理解できないという人間自体の有界性(有限性というよりはむしろ、定義可能活理解可能な意味空間が有界であるという意味で、有界性)を抱えているのだと思う。であるが故に、即ち、キリスト者は自分よりもより大きな有界でない対象である神を相手にする故に、自己の意味空間、理解可能な空間が有界であるという認識に立ちながらも、それを拡張していく努力が必要な様な気がする。それが神と格闘することであり、神に思いをはせるということであり、神を(人間の側の有界性ゆえに部分的にせよ)知るということなのだと思う。そして、意味空間を拡張した部分と、世間の人々が日常語として用いている「神」という語に関して、誤りや誤解を指摘するのではなく、自らの理解したものを一種の解説装置というか変換装置の様にして、自分自身の言葉に頼りつつ語ることが必要なのかもしれない。

    神は解析あるいは分析できるか

     科学的な検証というか、ギリシア科学哲学の影響を受けた近代科学では、理解可能な単位にばらして、理解しようとする。この方法を分析という。つまり、わけて、割して、理解可能なスケールに分割して、対象を考える(出する)という作業をするのである。であるから、関係性等が分析する際には落ちてしまう部分が必ず生じる。

     析という場合でも、たいがいの場合、入力と出力をわけて体してその中の構造を考えるというのが基本的な解析の方法論である。

     つまり、対象を細かく切り分けたり、入り口と出口だけを固定して、インプットとアウトプットの関係から中身がどうなっているのかを知的に推測することであるので、対象を固定する瞬間が存在することになる。無論、動学(ダイナミクス Dynamics)という分野もあり、偏微分方程式を立てて分析とかいうこともないわけではないが、基本的にはあくまでどこか時間軸を固定しないとうまく対象をわけることができない。神様のようなダイナミックな方(あるいはダイナミクスさを超えた方)を、ある時間軸で固定するという方法論そのものが、ある面神様のダイナミックさを止めてしまう、つまり本来生きた存在であるものを殺してしまうことになると思うのだ。つまり、われわれの理解の限界が、本来の神御自身の性格でもあるダイナミックさを止めてし、我々の意味空間の中で、人間側の能力不足のゆえに、神を殺してまっているに近い事をしているのである。しかし、そういう人間の思索的営為とは無関係に、現実には神は生きて居られるのだが。

     あるいは本来3次元世界での出来事を2次元平面に落とし込んでしまって、分かったつもりになっているということだと思う。まずもって、方法論において無理があるのである。そこらあたりの事に関して、ライト先輩は次のようにお書きである。 
     こうした探求(美や、義などを考える方法による探究)は神を見出せる場に向かう道のりを導いてくれるかもしれないが、そうした仕方で、壁を突破し、神を捕まえたと主張するは出来ないということだ。(中略)人間がどのような議論をしようと、いわば神を片隅に追い込み、抑え込んで、おとなしく人間の精査にしたがわせることなど決してできないということだ。(同書 p.84)
     まぁ、もう少し有体に言ってしまえば、美や義などでも、本来的にそうなのであるが、その様な探求と同じ方法は、対象そのものが神であるというダイナミックな存在そのものを人間の側で止めてしまう(抑え込んでしまう この語には、pinned downが英文では使われていた)ことと同じであり、神をとらえて理解できるという事なぞは土台出来ない相談なのである。
     確かに、イエスは十字架にローマ兵によって、ローマ帝国の権威で釘つけられた(こちらは、Neiled Downされた)のだが、確かに十字架上で、その釘を抜いて十字架から居りるということはされなかったものの(一度完全に死ななければ必ず死を経験する人間と同じになれなかったからだと思うが)、ローマ帝国の権威をあざ笑うように完全に槍を突き刺すことをもって完全に制止させたと思ったわずか数10時間後に復活して神出鬼没にあちこちに出現して、生き生きとした姿を見せてしまうのである。 

     前にもふれたように、次元が人間と神で大分違うのである。より低次元の人間は、そもそも有界であるし有限でもあるので、その有界性と有限性を超え、より高次元の神の存在は自分の次元を超えたものとして存在して居られるという認識は出来ても、その高次元のお方である神を自分の知性の範囲内に収めることなぞは出来ないのである。

     わかりやすいかどうかは分からないが、3次元空間上おける面(地面 亜2次元)に接する様な形でしか移動できない人間にとっては、飛行機などを使わない限り、3次元空間である空中の移動がかなり限られる。そして、ドローンを飛ばしてみて3次元空間での映像(これとても、2次元の(写像)空間で定義されるのであるが)を入手できることで初めて疑似3次元的に自分たちの世界の要素の関係をなんとなく理解できるように、人間の理解の能力は、神に比べてかなり限られると思うのである。

     要するに、人間はだれしもが鼻で息するもの、なのである。

     まだまだ続く。





    評価:
    N.T.ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-07)
    コメント:お勧めしとります。

    2015.08.15 Saturday

    NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その12

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      今日もN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「天と地と…」からご紹介したい。

      歴史的な天と地との関係
       歴史的な天と地との関係に関して、N.T.ライト先輩は、次のように整理して居られる。天(神がおられる場)と地(人間がいる場)にかんしてかこの歴史を振り返ると3種類あるとお書きである。
       神の場と私たちの場が互いにどうかかわっているかについて、3つの理解(その変形を含む)がある。全ての思想家がユダヤ・キリスト教の伝統の中にいたわけではないが、その多くがそうした3つの仕方でこの問いについて考えてきた。(p.88)
      では、その3種類とは何かは先になって分かるのであるが、ここで先取りしてみる。

      ■オプション1 神の世界と地の世界は重なって一体。
      ■オプション2 神の世界と地の世界は完全に分離。
      ■オプション3 神の世界と地の世界は様々な方法で重なり合い噛み合っている。

      とまず、オプションを頭出ししておこう。

      汎神論の世界
       オプション1に関しては、N.T.ライト先輩は次のように言っておられる。
       神の場と私たちの場は基本的に同じである。同じものを二つの仕方で語りあっているともいえる。この考え方は、神は自分のいる領域に隠れることはせず、すべてを自分の存在で満たしている。どこにでもいて ― この点に注意してほしいが ー あらゆるものが神なのである。あるいは、神はすべてであり、すべては神であるといってもよい。
       この考え方は汎神論として知られている。1世紀の古代ギリシャとローマ世界で主にストア哲学を通して人気があった。(中略)
       そのような多神教はごたごたして複雑である。そこで古代の多くの思想家が考えたのは、「神聖なるもの」を、すべてに浸透している力としてみなすことだった。(中略)この場合、人間のなすべきことは、ただ自分たちの内側と世界の中で神聖なものに触れ、それに自分を合わせることである。今日、多くの人はこの見解に魅力を感じている。
       厳密な意味での汎神論は、結構厳しい者が在る。ハチ、蚊、がん細胞、津波、ハリケーンを含め、すべてに神性があると信じるのはかなりの努力が必要である。それも在って、今日、ある思想家は微妙な変化を加え、それを汎内在神論や、汎在神論(panentheism)と呼ぶ。(『クリスチャンであるとは』 pp.88-89)
       ということで、この地上は神が存在する場であり、神(というよりは)神々が活躍の場で、地上のなんでも神になってしまうというようなことがこの汎神論の世界である。たとえば血液型論争というのがあるが、あれは、血液型がすべてとは言えないまでもある程度の傾向を決めてしまうということで、神の被造物のその特性のうち国わずかな特性を持って、その人の性格から行動まで決めているという血液型を神とする世界であるということを意味するのではないか、と思った。基本ギリシア神話の神々も、結構この地上の人間が住んでいるあたりでふらふらしているし、日本の神々も、人間世界に出没しているという意味では、だいたいでっかい神社はラピュタのように浮いてないし、日本の神概念は実に汎神論的なのである。

       それに、日本では、街のあちこちに神域であるしるしを見ることができる。いかにその例を示したい。


      トタン波板に書かれた神域の表示

      犬猫にはわからんと思うが一応神域であることを主張してみた例

      日本の神社と神

       過去地理学の研究関連で、日本の伝統的神社の立地点の特徴を調べたことがある。その時の知見からいえば、神社の設置場所には次のような傾向がみられる。

      1)泉源地
       (土砂災害が発生しやすい危険地区の事も多い 石清水八幡宮・上賀茂神社・下諏訪神社などなど)
      2)河川氾濫原
       (水害地 下賀茂神社は典型的)
      3)漁場や行動の目印になる特異な地形を保有する場所
       (筑波山神社 富士山神社 宇佐八幡神社、金刀比羅神社など)
      4)災害発生地
       (木曽神社、浅間神社)
      5)資源保護が必要な場所

      位に大別できそうだと思う。その意味で、地そのものがライト先輩で言うところの神がおられるところであるという意味での天というのが日本型の伝統的な神道意識ではないか、と思われる。

       なお、日本の神は、基本的に祟り神(たたりがみ)であることが多く、ろくでもない事を起こさないように供物を備えるというのが伝統的な意識であろう。

       典型的には天岩戸で 隠れて民が困窮した事件や出雲のヤマタノオロチ伝承(江川の氾濫対策と思われます)、菅原道真の北野天満宮(雷神伝承)などが典型的かと思われる。

       このように、日本というのは、実に汎神論的な世界であり、日本国じゅうあらゆるところで存在するのだ。街角にも神がいる世界であるし、アニメファンの中では、アニメの舞台になった街角が聖地となる世界である。


      けいおんの聖地巡礼なども在るらしい

      日本では、アイドルも「ネ申」になる、らしい。

      ちょっと前のAKB 神7 だそうである。

       しかし、ほとんど全員ご卒業であるが神7が卒業すると何になるのであろうか。いやぁ、実に汎神論的な社会である。

       しかし、汎神論には問題がある。この汎神論の問題を次のように同書の続きでライト先輩は次のようにご指摘である。
       最終的な解決は(1世紀の多くのストア派が出した答えであり、今日の西洋世界でますますその数が増えている)自殺である。(同書 p.90)
       西洋世界でも自殺は増加しているが、それ以上に多いとされる日本の自殺の多さは、案外、この汎神論的な世界観があるのではないか、と思う。Suicide Attackと呼ばれた特攻は、死して祟り神かもしれないが、神になれるという確信があるからこそ発生したという側面はあると思う。Suicide Attackは訓練を受けた練度の高い人間を殺すことで訓練資金と人間をどぶに捨てる様な、実に効率の悪い戦術なのである。

      Kaiten
      特攻兵器 人間魚雷 回天
      (江田島の 旧海軍兵学校 現 海上自衛隊幹部候補生学校 にて展示)

       ちょうど本日は、日本型仏教における旧暦での盆(関西以西くらいでの盂蘭盆会、関東以東以北では新暦で行うことも多い)であるが(13日から15日がお盆ではなく、本来は15日のみが盆である)
      、守護霊(守護神)としての祖先霊がもともと住んでいた住宅に一時的に戻ってくるあたりを含めて、日本では、実に汎神論的であると思う。

       尚、インドでの仏陀が行った仏教的な仏は、魚川さんの説を参照に考える時、この世という輪廻転生でカルマ渦巻く世界から解脱(離脱)した人であるので、大体地上に執着があり、その執着(渇愛)ゆえに、地上の特定の家に戻ってくるということはありえない様な気がすると思うのだが、違うのだろうか。もしそうだとすると、それは、解脱を達していないことになり、仏(=解脱者)でもないような気がするのだが。だから、ありがたいお経を聞かせて、はよ解脱してもらうように毎年しないといけないのかもしれない。

      神と人が分離した世界観
       神と人が完全に分離した世界観であるオプション2についてN.T.ライト先輩は次のように言っておられる。
       神は存在するにしても、天にいる。その点はどこであろうと、またどんなものであろうと、神々はそこで楽しんでいる。(中略)この見解も古代では人気があった。特に詩人であり、哲学者であったルクレティウスによって普及した。彼はイエスより1世紀前に生きていたが、それよりもさらに2世紀前のエピクロスの教えを拡大解釈したものである。
       この見解に付いてのルクレティウスとエピクロスの結論によれば、人間はこの世界で孤立してた状態になれなければならない。神々は人間とかかわることはない。助けてもくれないし、害も及ぼさない。人間に出来ることは、人生をなるべく快適に過ごすことだけである。そういう意味では、おとなしく、注意深く、穏やかに生きればよいのである。(同書p.90)
       神と人間が完全に分離している世界観ということは、エピクロス派的な世界観に基づくものとはN.T.ライト先輩に出会うまでは知らなかった。結局、エピクロス派的な世界観では神の世界は、理想状態としての世界、イディアの世界に近いものであるとは思うのだが、そこを理想とし、そこでの快楽を追い求めるという意味で、快楽を重視したのであり、今世間に普及しているエピキュリアン(エピクロス派の人々)という言葉は地上での快楽、この地上での生きている間の快楽を求める人として言われているが、実は、ギリシア時代のエピクロス派の哲学者は、ストア派同様かなり厳格な生活を送ったことで知られている哲学者集団であった。

       ある意味で、死後の世界のいわゆる『天国』における幸福のみを求め、この地上で困難や艱難や辛苦を求める現代のキリスト者は、ある面、現代のエピクロス派的存在と呼んでもよいのかもしれない。

      Image illustrative de l'article Bacchus
      カラバッジョ画伯によるバッカス(デュオニュソス) 葡萄酒の神らしい

       まぁ、ギリシア神話のバッカスにしても、女性神にしても、まぁ、やりたか放題のところがあるし、それがそのまま地上で実現されたらろくな事にならない。だからこそ、境界線があると設定されているらしい。そのあたりの事に関して、ライト先輩の本では次のように書かれている。
       神の領域と私たちの領域をエピクロス派の様に区分し、神は遠くかけ離れ、敬われはしても私たちの領域に現れることも何かをすることもないという考え方は、18世紀の西洋世界で(「理神論」と知られる運動)大変人気があった。(同書 p.91)
       以前にも紹介したが、神が我々の世界とは無縁の世界であり、我々がそこに移行することになっているので、我々の世界は滅ぼされるというキリスト教徒の一部が保有する一種の世界観があるが(以前はこのような概念や世界観の中にミーちゃんはーちゃんもいた)、それはある面で言うと、一種のエピクロス派的な立場であったということは一種衝撃的であった。しかし、アメリカで19世紀にこの理神論が流行り、日本のキリスト教もこの影響からまぬがれることはなく、当初の理神論のかたちから変質して日本のキリスト教の中にもその一部が現在もなお見られる。
       尚、フランス革命における理神論的な影響は強い。その結果、カフェイン抜きのコーヒーの様な神抜きの人権思想が生まれ、そして、それがアメリカにも、そして、アメリカ経由で日本にも影響するが、そこには現在深入りしないことにしておこう。

       しかし、神の支配や神御自身は遠くない、と聖書は主張していることを踏まえ、ライト先輩は次のように主張して居られる。
       実際、西洋世界の多くの人は「神」や「天」を語る時、何らかの存在物や場所であるかのように語り、それが存在するとしても遠くにかけ離れ、私たちとはほとんど直接的な関係のない、あるいは何もできない存在だと思っている。それが、「神を信じている」といいながら教会にもいかず、祈ることもせず、「神についてほとんど考えもしない」と平然と言ってのける理由である。もしそのようなかけ離れた神を信じているなら、日曜日の朝、私だってわざわざ寝床から起き上がりはしないだろう。(同書 p.91-92)
       このなかで重要だと思ったのは、我々が神とどういう関係に在ると思っているか、ということである。つまり、神のリアリティをどう考えるか、という問題である。もし、神が無関係であるとし、情事ではなくとも折に触れ、神の事を考えないとすれば、それは神をリアリティある存在として考えているか、あるいは、リアリティある存在としてともに生きているのかどうかはかなり怪しくなる。

       もし、人が神をリアリティある存在として考えないなら、日曜日の朝に朝早く起きて(と言っても9時くらいだろうが)神のリアリティを覚えるために別途から起き上がり、それなりの格好をして教会での礼拝に参加しない事になるのではないだろうか。ライト先輩でも、もし神がリアリティ在る存在でなければ、教会にはいかないし、それが普通の反応だろうと言っておられる。

       二元論的に理神論が流行った近代の問題は、「自分が何とか出来る」「がんばればなんとかなる」という人間主体の考え方と言えば聞こえが良いが、人間を神とする偶像崇拝をする社会の問題でもある。「人間の力でどうにもならないことはない」という思い込みが人間社会を悲惨さをもたらしたと言えるのではないか、と思うのである。


       まだまだ続く




      2015.09.07 Monday

      NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その13

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         今日からは、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「神」の続きの部分を引用しながら、考えたことを述べてみよう。

        神の側からの働き掛け

         神と人との関係のありように関して、N.T.ライト先輩は、次のように書いておられる。
         イエスがよみがえったことで、すべては新しい光のもとにおかれた。(中略)ここで重要なのは、神は(もし存在するとして]私たちの世界に在る対象物でも、あしてや知的世界の特定のイデアでもなので、その存在を証明しようと人間がどれだけ努力しようが、迷路の中心には決してたどり着けないということである。
         では神が存在するとして、その神がその迷路の真ん中から、自分の方から現れたらどうなるだろうか。それこそがまさに、主要な唯一神論の伝統が伝えてきたことである。(『クリスチャンであるとは』 p.85)
        ある面、イエスのよみがえりは、神と人との関係を変える上で、非常に画期的な事実であり、神と人間に関する世界システムが変わったできごとであった、とご指摘である。つまり、上記引用文の最後の部分にある、神が突然人間の世界に顔を出した瞬間であり、前回のブログ記事 木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9  で言えば、将にカイロスの時であった。そして、それは、Aeon(イオン)の時となったのである。

         しかし、残念なことに、16世紀から17世紀以降の啓蒙思想と科学思想がヨーロッパ社会の中で席巻して以降、本来人間の認知を超えているはずの神も、人間の認知の枠内でとらえようとする動きがキリスト教世界の中でも起きてきた。メタ概念であるものを、サブ概念で理解した気になるという愚を、特にヨーロッパ大陸の北西側の領域に住むキリスト者の多くの人々は犯してきたし、また、そのヨーロッパからアメリカに渡ったキリスト教の関係者の多くの部分の皆様もその愚に巻き込まれてきたし、ヨーロッパ大陸の北西側、および、アメリカ大陸経由のキリスト教として受けてきた日本のキリスト教もその影響を受けてきたように思う。まぁ、それは時代の流れの中で致し方ない現実でもあったと思う。
         なお、ヨーロッパを席巻した科学的な思索は実は、自然神学と呼ばれる神学の分野から分離していき、独自の論理で研究と思索が進められていく中で、客観性の信頼から、神学的なテーマである神の被造物に関する理解という側面が薄れていったように思う。
         
        天とは何か?
         天とは、空とか、大気圏とか、成層圏とか、宇宙とか、天国とか、いろいろな理解ができる語である。我々は、我々の知識の範囲、日常言語に縛られているため、その後の理解の範囲で大賞を理解することが多い。「我らの国籍は天にあり」という語が、キリスト教界の墓石には書いてあることが多いが、その意味がどこまで理解されているのだろうか、という事例も多数ある。
         「神は天におられる」と、聖書記者の一人がきっぱりと断言している。(中略)しかし、これは聖書の伝統が常に主張してきたことを強調しているに過ぎない。即ち、もし神がどこかに「生きている」とすれば、それは「天」として知られている場であるということである。
          二つの誤解を直ちにとかないといけない。第1に、後代の神学者の中には、宇宙を旅すればいつかは神の居る場にたどり着けると想像した人がいたかもしれない。だが聖書の記者たちはそのようには考えなかった。ヘブライ語やギリシャ語では、「天」が「空(そら)」を意味することもある。しかし聖書記者たちは、物質世界での場所を表す意味の「天」と、「地のすみか」としての天とを、現代人よりも容易に識別することができた。それ等は異なる種類の「場」なのである。
         (中略)
          二番目の誤解がある。それは「天(天国)」という言葉が、「神の民が死んだあと、私服の幸せのうちに神とともにいる場所」という意味で頻繁に使われてきたことで生まれた。その結果、天とはクリスチャンが死んだ後に向かう場所、祝福された魂が最終的に行く場として理解されるようになった。そして「天」と反対の場所である「地獄」とセットで理解されうるようになった。だが初期のクリスチャンにとってそれは、購われたものの最終的な終着点という意味ではなく、神が常におられる場を言い表した。その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。(同書 pp.86-87)
        アメリカのアニメ The Simpsonsでは、いくつかの天国概念が戯画化して描かれている。それを以下に紹介したい。アメリカ人のプロテスタントの人々の多くの天国概念は以下の図のようなものかもしれない。死後に行く楽園としての存在である。それが証拠にHomer Simpson氏はバスローブの様な割と楽な服をまとっている。案外こういうイメージがあるかもしれない。


        天国についてのアメリカ人が持っているであろう一般的なイメージ

         まぁ、以下のプロテスタントとカトリックの天国概念の違いを戯画化してみたシンプソンズの画像は少しひどいと思うが、しかし、両者のキリスト者の生き方の違いを概念化しているようで、なるほどなぁ、と思わせる。


        プロテスタントの真面目さ、健全さへのこだわりを戯画化した天国イメージ


        カトリックの多様さ、楽しさの延長線上で戯画化された天国イメージ


        In side Actors Studioの中での名物コーナー 10の質問
        このコーナーの最後で、もし天国が存在したら、何と言われたいのか、を聞くのがお定まり


         さて、ここで、上記引用文中で重要なのは、個人的には次の一文であろう、と思っている。

        その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。


         実際イエスも次のように言っておられる。

        【口語訳聖書】マタイ
        4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

         これは、空の向こうにある天国の事ではないのではないか、ということである。空が近付いたのではなく、神そのものであるイエスがこの地に来たのだ、というのがイエスの主張ということではないか、と思うのである。

         これまでの日本のプロテスタント派のうちかなりの部分のキリスト教は、このような神が地にやって来て、その一部を天(神の御座)とするということを案外軽視してきたかもしれない。将に、出エジプトのあとイスラエル人が放浪中の間、会見の天幕は、神の御座であり続け、天が地において現れていた場所のように思うである。

        古代語文献を現代日本語で読んで理解できるか?

         現代日本語で読める古代語文献は数限りない。しかし、古代語で書かれたものを書いた問う人である古代語著述家の意図を正確に把握できるかどうかは別の問題であると思う。理解のずれが何重にも生じやすい、と思うのだ。日本語翻訳の際のずれ、日本語翻訳を読む現代日本人の受け取り手の理解のずれ、意味のずれ、古代人の世界観のずれ、・・・があると思うのだ。

         特に、聖書関連では、パンや、天やパラダイス理解に関して、そして、神理解に関して、かなりの誤解があると思っている。古代語において、その語の古代人が持っていたイメージを正確に我々はもっているだろうか。
         こうしたこと(引用者註 地と天の旧新約聖書における意味が現在我々が使っている語と違うニュアンスを差していること)を明確にしたうえで、次の基本的な問いにしっかりと向き合うことができる。即ち、天と地、神の場と私たちの場はたがいにどのようにかかわるのだろうか。(同書 p.88)
         われわれは、ステパノが死去する前に言った次の言葉の意味をどの程度、理解しているだろうか。
        【口語訳聖書】使徒行伝
         7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
         7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
         この時、ステパノにとって、天と地が一つにつながるという経験をしたのではないだろうか。あるいは、パウロの次の経験を我々は古代語使用者であったパウロの意味できちんと理解しているだろうか。
        【口語訳聖書】使徒行伝
        9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
         9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
         9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
         9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」
         まさしく、この時、パウロだけが天と地が一つにつながる経験をしたのではないだろうか。もちろん、これはパウロの妄想だ、とおっしゃる方もおられよう。それはそうかもしれない。しかし、現代人と古代人の感性は違うし、古代語で語られた語の意味を、現代語に訳すとこうなるから、こうだ、とする様な非常に荒っぽい議論は、大きな過誤を含むのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

         さらに言えば、日本の古典語である、古典を素読できたり、枕草子や源氏物語を書き手が主張したいとおりにすらすら読めたり、その意味が完全にわかるのであれば、そもそも、中学や高校で古典の授業や入試で(日本語の)古典の科目などないはずだと思うが、違うかなぁ。それ以上に、日本語翻訳されたとはいえ、古代ヘブライ語とコイネーギリシア語で表現された世界はすぐにそして簡単にはわからないのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

         まだまだ続く




        評価:
        N・T・ライト
        あめんどう
        ¥ 2,700
        (2015-05-30)
        コメント:お勧めしています。

        2015.09.12 Saturday

        NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その14

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          今日もN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「天と地と…」からご紹介したい。 今日も、「天と地は重なり合い、噛み合っている」からご紹介したい。

          歯車の様に嚙み合っている神と人間

           前回のところ  NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その12 で、天と地に関する選択肢として、Option1として、天と地が一体化している神と人間の世界がシームレスにつながる汎神論的世界があることをご紹介した。Option2として、天と地が完全に分離していて、神の世界が人間に全く影響を及ぼさない2元論的世界がある、というところまでご説明した。では、Option3とは次のようなものである、とN.T.ライト先輩は言う。
           選択肢3は古典的なユダヤ教とキリスト教にみられる。天と地は完全に一体としてかっさなりあってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い噛み合っている。汎神論や理神論のように二者択一ではっきりしたものと比べると、分かりにくく混乱を起こすかもしれない。しかしその混乱は歓迎すべきことである。(「クリスチャンであるとは」 p.92-93)
          要するに、聖書の世界観における神と人間とのかかわりは、常時べったりでもなく、はたまた、神は人間に無関係に動くのでもなく、時に応じて人間にかかわりがあるが、しかし、その主体的関与は神の側にあるというのが聖書の主張であり、それが神が世界を支配しているということであるようにも思うのだ。ここで、神あっているというのは、Interrockという言葉が原著では使われている。ちょうど時計の歯車のように、それぞれの歯車がかみ合っていて、全体として機能する形とでもいおうか。


          ルパン3世 カリオストロの城の有名なシーン

           時計でもゆっくり動かない歯車もあれば、早く動く歯車も在るし、歯車といっても一様でなく、神と人との関係もそのようなものかもしれない、と思っている。
           引用部分の最後で、「しかしその混乱は歓迎すべきことである」とN.T.ライト先輩はお書きであるが、案外、こういう混乱の中で悩み、わけのわからないことだと思いながらも、じっくりと考えることは重要だと思う。

          そもそも複雑な現実

           近代をという時代を通過した我々は、自分たちが理解可能な形になるように単純化して考え、複雑さを複雑さとして味わうことができないような側面があるように思えてならない。そして、単純化して、分かった気になってしまう側面があるようにも思うのだ。そのあたりの事に関してN.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
          同様なこと(引用者註 人間生活が込み入った多面性をもって、かんたんに理解できない複雑さのために混乱すること)は、非ユダヤ的な古代世界や近代哲学から、旧約聖書の世界、古代イスラエル民族の世界に目を向けるときにおこる。すなわちユダヤ教とキリスト教という仲たがいした二姉妹(そしてある意味イスラム教も)の基礎となっている世界に目を向けるときである。旧約聖書は、神は天に属し、私たちは地に属すると主張している。そうでありながら、この二つの領域が確かに重なり合うことを繰り返して示している。(同書p.93)
           基本的にシステム理論なんかが典型的だが、インプットとアウトプットを見比べてみて、変換装置やブラックボックスの中身がどのようなものであるのかを推定し、分かった気になるのである。そして、もし、それがわからない時には、自分たちが理解不能だ、の分類に入れてわかった気になっていることが多い。物理的な現象はある程度シンプルであるので、このような理解でも何とかなるが、こと人間が絡む話になると、状況のインプットのパラメータ(変数)が多過ぎ、アウトプットのパラメータ(結果の変数表記)が一意に(何度やっても同じ結果一つだけに)為るとは限らない。又、人間は学習するので、あるインプット(刺激)を与えても、機械とは違って(機械でも相当複雑なことが起きるが)毎度同じアウトプットにならないことが多い。しかし、近代の大前提は同質性を前提とするので、同じインプットを入れれば、同じアウトプットがあることを期待するのである。余りに単純化が過ぎた社会に我々がなれすぎているために、古代世界、とりわけ、ユダヤ教の世界、古代イスラエルの世界に目を向けるときに、近代の単純化された思想で理解されてはならないように思う。

           その辺の事を、訳者の上沼さんの書かれた本『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』の独語の印象として、若い友人はブログ 朝のうちにあなたの種をまけ の 心の影に眠る闇をみるために非常に注意深く思想の表皮をもちあげる解釈者である私 という記事で、次のように書いていた。ここで紹介したい。
          そして
          読み終えてみて
          思うのは
          「今、読んで良かった」ということ

          おそらく
          神学生時代なら
          その語り口についていけず
          痺れを切らしてしまっていただろう

          そして
          教えられた解釈の原則にこだわって
          著者の読みを受け付けられなかったかもしれない

          けれど
          今なら わかる

          夫たちよ、妻の話を聞こう
          夫婦で奏でる霊の歌』と読み
          著者の見てこられた世界を想像できるので
          意図が理解できる

          また
          後に『クリスチャンであるとは』へと繋がっていく道筋が見えるので
          とても興味深い
          何より
          自分のうちに
          この書で描かれている旅に
          共鳴するものが芽生えてきている

          (中略)

           一直線に進まない思考も
           内省的過ぎるように思える信仰理解も
           「独特な」聖書の読み方も
          その全体的な構成のうちに位置付けていくなら
          それぞれが響き合っていることに 気づく

          そして
          重なり合う言葉と声と物語の中で
          えぐられ
          包まれ
          押し出されるような経験をする
           実際の現実的な作業をする組織にシステム屋として実験的に支援のためのシステムを入れる作業をしている(ご協力いただいている)と思うのだが、自分自身、あまりに単純化して考えることに慣れ過ぎているかもしれない。世の中のシステムというのは、こちらの想定外の動きをしてしまうのである。

           一時期、原発事故関連で「想定外」という語が流行ったが、人間はそもそもコントロールできること等は非常に限られているし、コントロールできるものは、基本線形性の強い予測可能性の高いものしかできないのだ。経済評論家が、株価の予想や円ドルレートをはずすのは、当たり前の話でしかない。そもそも、人間の行動も、その習合的な影響を受けて発生することは、基本線形的な予測等が成立しない世界なのだと思う。そのあたりの謙虚さは持ち合わせていたいと思う。

          地を民と共に歩んだ神

           最近参加させていただいたある聖書講演会に参加させていただいた時、非常に印象深いお話しがあった。モーセが荒野で歩いた時に、モーセと一緒に歩いたイスラエルの民と共に、そもそもそこにいる必要性があまりないにもかかわらず歩かれたとい言う表現をお聞きした。このことをお聞きした時、案外このことは神あるいは天という概念を理解する際に重要なのではないか、ということを感じたのでありました。つまり、人と共に神は歩こうとしている、ということは案外大事だと思うのである。
           モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した時、昼は雲の柱で、夜は火の柱で神が彼らを先導した。モーセがシナイ山に上ったとき、神はその頂上に現れ、彼に律法を与えた。イスラエルのひどい不品行による反抗に会いながらも、神は約束の地への旅に伴われた。
           実際、『出エジプト記』のかなりの部分は(驚くほど速いペースで進む前半のナラティブの後ろに)、神が降臨して民の間に住むという移動式の祭壇の記述に費やされている。何ともぴったりしたいい方だが、それは「会見の幕屋」と呼ばれた。そこは、天と地が一つになる場所であった。(同書p.94)
           会見の幕屋の話は案外重要で、神と人がべったりと常時一つであるのではなく、神と人が一時的に交差する場所としての瞬間的に接する場所としての会見の天幕ということは案外重要な概念ではないか、と思うのである。

           大体、人間は、神と一緒にずっといるということは出来ない相談なのではないか、と思うのではある。というのは、神は義であり、正義であり、光である存在であるのに対し、人間は闇を内に抱え、不完全であり、義ではなく、闇を住みかとする人間には耐えがたいのだと思う。そのあたりの事は、上でご紹介した友人のブログ記事 『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』 で紹介されている、『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』をお読みいただきたいと思う。

           つまり、闇を抱え、闇をすみか、常住地とする我らを神が訪問し、瞬間的(と言っても、人間が定義する時間概念の上でのことではないが)に突然、瞬間に神が訪う世界という部分があるのではないか、というのが「クリスチャンであるとは」のご紹介者でもある上沼先生がご指摘の事であると思う。

           この神との不連続的な共同体性という概念は、非常に重要ではないかと思うのである。我々は0-1の連続か不連続か、いったん紙に従うと決心したらそれ以降は連続的に神に従うものである、といった概念で考えがちであるが、断続という概念も在るのではないか、と思うのである。

          なぜ、意味をなさないと見えるのか?

           聖書眼鏡とか、進化論眼鏡をはずすとか、表現する人がいるが、個人としての独立した人間は何らかのバイアスがかかっているのと思うのだ。そのバイアスがかかっているということを普段は意識していないので、自分の見え方、バイアスのかかった見え方であったとしても、その見え方があたかもバイアスがかかってなくて、客観的なものと思いこむ習性があると思うのだ。
           天と地が重なり合い、そうすることで神は点を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさにここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(いわゆる選択肢1と2で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえいえるだろう。しかし、正しい枠に戻してみるならまさに意味が通じるようになる。(同書p.95)
           科学や学問の世界で、個人の観測、あるいは追試不可能な事実は客観性がないとして排除されるのだ。それが起きたのがオボちゃん事件である。追試をしてみても、再現できない時にはその真実性、事実性が大きく損なわれ、相手にされなくなるのだ。

           ただ、現実の科学論文では、ピアレビュー(論文査読)の段階で、追試はされなくて、概基本的な文献が挙げられていること、論理性が担保されていること、著者たちが示す資料(結果)が妥当であるかどうかだけが問題にされるのである。

           なお、Simply Christianには、英語ではWhy Christianity Make Senseというサブタイトルがついている。つまり、クリスチャンであること、キリスト教が意味をなぜ持つのか、という意図が含まれているようなのである。クリスチャンであることが意味をもたない状況が西洋でも近代化の中で歴史的に構成されてきたことによって意味をなさないようになってきたことにN.T.ライト先輩からの反論であり、一般の人々が思い込んでいる仮説や前提は本当に正しいのか?というチャレンジでもある様な気がする。そういう読みで本書を読んでみるのが案外大事なのではないか、と思うのだ。 

          メタ存在としての神
          人間の枠内にとどまらない神

           神は人間の枠、理解の枠の中でおさまらない方である。例えば、合理性という人間の枠の中で神は捉える事が出来ないし、その中では収まらない方であると思うのだ。近代は、理性とか合理主義の枠内で考えることを良しとする中で、キリスト教もその影響を受けてきたと思うのだ。そのあたりの事に関して、N.T.ライト先輩は次のように書いておられる。
           この世界を創造した後も神は、世界のそば近くにいて、生き生きとした親密な関わりを保ってこられた。しかも神は世界のうちに閉じ込められてることなく、世界は神のうちに閉じ込められることおない。世界における神の行為を語ること、(別ないい方をすれば)地の上における天の行為を語ることは、すなわちクリスチャンが「主の祈り」を唱えるたびに語っていることは、形而上学的な無様な失敗についてでもないし、異界の力が無作為に地上に侵入する様な「奇跡」を語ることではない。それは、被造物の中における神の愛に満ちた活動を語ることであり、常に神が臨在していることの確かなしるしでもある。実際、その様な愛の行為はある響きを残すことになる。まさにあの声の響きである。(同書 p.96)
           人間は、自分の理解の範囲に閉じ込められているが、神は人間の理解の枠の中に入る方ではないと思うが、それを近代という時代は無理やり押し込め、また、聖書の記述をその枠内に収めていった部分があったと思う。そして、理性で理解できない部分は切り捨てたり、当時の弟子たちが誤解したのだ、ということで納得しようとしたりした部分があると思う。

           「クリスチャンが「主の祈り」を唱えるたびに語っていることは、形而上学的な無様な失敗についてでもないし、異界の力が無作為に地上に侵入する様な「奇跡」を語ることではない」とお書きであるが、これは、主の祈りの「御国を来たらせたまえ」や「御思いがなりますように」という主の祈りの表現をどう理解するかである。

           Ministryの出張講座の参加記録 ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 でも少しふれたが、

          「信徒は基本、主の祈りを唱えながらも、本気で御国が来るとは思いながら唱えていない」

          ということがご講演の中でふれられていたが、そのあたりの時代と地域を隔てた中での言葉が指しているものの違いをどう理解するか、ということが問われているのだろうと思う。

          クリスチャンの信仰の誤解について

           クリスチャンの信仰は、クリスチャンですら誤った理解をもつ可能性がある以上、キリスト教外の方の責任にすることは案外問題であるかもしれない。キリスト者であっても、自分の信じるキリスト教は語れても、普遍的なキリスト教について語れる人が案外少ないのである。それは信仰歴の長さに関係ない。特に日本ではこの傾向は強いと思う。教派をまたいで、多くのキリスト者の人々とつながっている人は案外少ない方が多いのではないか、と思う。
           クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を現存の理神論の枠に当てはめて理解しようとすることから来る。(同書 p.96-97)
           特に近代の時代を経る中で、神を人間の合理主義の枠内で議論すること、創造科学の関係者の一部にみられるような、科学の枠組みの中に無理やり神を閉じ込めて、そこで議論しようとすることは大きな問題がある様に個人的に思う。

           このあたりのことは、

          「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(8)

          NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その13


          の記事でも触れたところである。


           まだまだ続く。


          Johney Cash版 1960年代的Dixie風のI've been working on the railroad
          線路は続くよどこまでの 「続く」つながりで・・・そこかい?そこです。w





          評価:
          N・T・ライト
          あめんどう
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          (2015-05-30)
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          2016.12.13 Tuesday

          NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その15

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            フェイスブックのライト読書会でのディスカッションが、かなりゆっくりに進んできた。それに合わせて、このブログも公開を止めていた。この1年の間にライトセミナーが何回か入ったり、その間に「新約聖書と神の民」などの連載が入ったり、JCE6を始めとするイベントなどなどが入ったりしたこともあった。フェイスブックでのライト読書会は、いまのところ、この本が直近の課題図書で止まっている。その議論が一段落していところでもあるので、連載を再開することにした。

             

            本日は第6章 イスラエルについての冒頭部分から紹介を再開してみたい。これは実に重要なテーマであるし、スコット・マクナイト著 『福音の再発見』でも聖書を考える上で重要な関係があることとして取り上げられたテーマである。

             

            基礎の基礎としてのイスラエルを

            理解することの重要性

            ここで、ライトさんは、聖書を理解する上で、旧約聖書の理解が極めて重大であると主張している。たしかに旧約聖書は犯罪事件の記述はあるし、近親相姦の話はあるし、王様のPeeping Tom事件の記述もあるし、バラバラ遺体損壊事件も出てくる。また、集団虐殺事件も出てくれば、そんじょそこらのバラードや、マドンナの放送禁止コードすれすれの、真っ赤なラブソングが真っ青になるほどのラブソングも出てくる。さらにいえば、偶像崇拝の話も出てくる。これほど西洋型の、あるいはアメリカで独自に発展してきた「清く正しく美しく」型の教会にとっては、不適切な文書もないような気もするが、これが、ヘブライ人世界の多くの人々にとっても、キリスト教の信徒たちにとっても、ムスリムにとっても聖典なのである。困ったことに。

             

             

             歴史的な出来事として、あのナザレのイエスが生まれた民について、なぜ一章を割いて論じなければならないのか。

             

             初期のクリスチャンは、この問題について考える必要がなかった。この問が起こること自体、クリスチャンの世界がそのルーツからいかに離れてしまったかを示している。イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、正にクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字通り根本的なことである。そのイスラエルの物語がどんなものであったか、それがどのような働きをし、どのような意味があるかを理解しないままでイエスを知ろうとするのは、野球やクリケットがどのようなものであるかを理解しないままで、なぜ、バットでボールを打つのかを理解しようとするようなものだ。(『クリスチャンであるとは』p.102)

             

            つまり、ここで、ライトさんが言おうとしているのは、初期時代、つまり、古代キリスト教界、それがどこまでか、どこまでが古代か、どこまでを初期とするのかという議論はあるにせよ、少なくともパウロから1世代くらいまでのクリスチャンのことを言っていると思う。おそらくこの初代クリスチャンの理解は確実にそうだと思うが、このイエスの十字架での刑死から第1世代後くらいまでのクリスチャンにとって、ヘブライ語聖書、あるいはよく知られた通り名では旧約聖書(以下では、特に断らない限り、両者を一つのものとして考える)は常識であったのである。彼らが読んでいる聖書、新約聖書での言う部分の「聖書」は、基本「旧約聖書」出会ったことはもう少し認識されて良いと思う。どうも、現代の感覚で、福音書とか、使徒言行録とか、書簡集をよんでいると、今、我々が普段目にすることが多い、66巻からなる聖書、または、66巻プラスアポクリファからなる聖書を思いがちであるが、紀元1世紀頃のキリスト教徒にとっては、39巻プラスアポクリファであったのである。おそらく、その大半はヘブライ語で読んだのではなく、アレキサンドリアでギリシア語に翻訳された70人訳聖書であったであろう。

             

            アメリカ人に言わせれば、旧約聖書は、クリスチャンの聖書読みの101(101はアメリカの大学の新入生向け入門講座の科目番号 Economics 101とかGeography 101とか言う)と言い出してもおかしくないし、日本語風で言えば、旧約聖書は、新約聖書を読むための「あいうえお」や「いろはにほへと」ということなのであろう。

             

            マクナイトは、この聖書を読む上での「いろはにほへと」あるいは「あいうえお」がわからない限り、あとは何をやってもおかしくなるから、まずちゃんとこの旧約聖書という土台を大事にしてはどうか、と提案した本ではある。まぁ、あの本はプロヴォカティブな本であり、「あなた達の聖書の読み方は正しいのか」、下手をすると、「あいうえお、しっているよね」というようなことを主張するような本である。こういうことを遠慮会釈なしに、いきなり主張すると、突如、怒り出すような、じつに難儀な方々もおられるので、最初に、旧約聖書抜きのキリスト教(それは福音書なきキリスト教でもあるが)が、もたらした悲惨な事例報告を、学生の授業へのコメントなどを引用することでしている。その上で、ほんとうに言いたいところに読者を招き入れる。まぁ、普段からヘブライ語聖書もお読みの方には、全く関係のない本であるから、読んでも意味を成さないと思う。

             

            ヘブライ語のアルファベット覚え歌(覚えたのはこのバージョンではない)

             

            ユダヤ人とヨーロッパの不幸な関係

            ゲルマン民族や、長髪のガリアが、ローマ近郊でウホウホ言っていた頃から、ヨーロッパは、近東あるいは西アジアと無関係に、あるいは無縁に生きていない。生きてられなかったのだ。西アジア地域でムスリムを中心とした世俗及び宗教国家が成立した時に、ヨーロッパ人の、そしてヨーロッパ人の必要とする物資の貿易と交易と、その資金決済の機能をキリスト教徒に提供したのがユダヤ人であり、ある面、ヨーロッパ人が汚れ仕事、と思っていたことを、やってくれたのが、ユダヤ人である。

             

             

             

            「長髪のガリア」の画像検索結果

            長髪のガリア

             

             

             

            ある面、日本の差別された人々やインドの不可触民、あるいは過去ジプシーと呼ばれたこともあるロマ人の人々は、社会の周縁に制度的に置かれ、制度の制約を受けない人々は、汚れ仕事と人々が思っていはいるが、必要な業務ではあるのだけれども、触れたくなことをやってくれる手を触れたくないことをしてくれる人々で社会の側が必要としたし、それゆえに制度が成立したのだ。そして、それは長年をかけて、そのような周縁に置かれた人々を扱う制度を作り、その制度に人々は従順に従う慢性病にかかっていったと言うか、その病の慢性患者にされたのである。社会において呪われた存在、アザゼルのような民族とされてしまったのがヨーロッパにおいてユダヤ人であったのだ。

             

            ライトさんは、ここで、1940年台に起きたユダヤ人への各国での迫害、贖いの犠牲としてユダヤ人を捧げるという行為、ホロコースト(このことばは、贖いの犠牲、というギリシア語に由来する)、および、ロシアでポグロムを始めとする排斥運動、そして、それに積極的にせよ、消極的にせよ、加担していった、あるいは加担していったと言われても仕方のないキリスト教神学に対して、深い反省を示しているようだ。イギリスでは、明らかな形での迫害は起きなかったものの、ユダヤ社会に対しては、冷淡であったし、ユダヤ人移民を肉体作業をする労働者として受け入れるのが、精一杯であったのである。

             

            その意味で、ヨーロッパ諸国での反ユダヤ主義は非常に苛烈なものであったし、明確な反対を上げることは躊躇される行為でもあった。そもそも、ナチスドイツが起こしたホロコーストを止めることがヨーロッパは自らできなかったのである。

             

             

            このあと、ライトさんは、19世紀末から始まった(これまたドイツであるが)聖書批評学により、いわゆる歴史的空間の連続性と一貫性を前提とした、近代科学に於ける「科学的」という大義名分のもとに、旧約聖書の恣意的な削除などの検討が行われるようになり(これは『新約聖書と神の民』の第1部で取り扱っている内容)、資料としての聖書をどう考えるかということを上げている。

             

            この話は、20世紀の神学論争、とりわけ、聖書信仰の問題として福音派が意義を申し立て、それが行き過ぎて、翻訳聖書の一字一句の解釈にこだわるという行き過ぎにも、繋がったようにも思う。そして、挙句の果てに、相手をことあるごとに「リベラル」というレッテル貼り攻撃し、あるいは、「聖書が読める裸足の人間」とか、『大学に行かない服を着た説教者」と言うレッテル貼り攻撃をし続け、対話をしようともしなかった、不幸な歴史があったように思う。実に無益な時間を過ごしたものだと思う。それも、これも、Unityの意味をUniformityと履き違えた不幸な歴史であったと思う。

             

            そのあたりの紹介があったあと、ヨセフスというまたややこしい人物をライトさんは出してくる。ヨセフスのことを、有能だが一匹狼だったと、ライトさんは評している。まぁ、そうだろうとは思う。なお、有能で一匹狼だったと書かれているのは、原文(アメリカ版)では、brilliant (if maverick) という語が用いられている。

             

             

            フラヴィウス・ヨセフス

             

            このヨセフスの名前を初めて聞いたのは、大学2年性の時に、関連科目として受講した、古代オリエント史入門という授業中、池田 裕先生からお聞きした時であったと思う。イスラエルの歴史の説明、イスラエルの風土、そして地域間交流史の説明の中で、ヨセフスの名前とその作品に言及されたのである。

             

            貴族であったヨセフスは、ユダヤ戦争期に民の指導者として、マサダの砦のような要塞の一つに立てこもるものの、ローマ軍に囲まれて、割とあっさり投稿し、ときのティトス帝に、今で言えばユダヤ問題コンサルタントのような形で、ご協力していく人物である。

             

             

            マサダの砦 

            http://www.dailymail.co.uk/travel/article-1278866/Israel-From-Herods-Masada-fortress-Dead-Sea.html から

             

            一部のユダヤ人からは裏切り者呼ばわりくらいはされただろうとは思うが、ユダヤ思想を残し、ユダヤ思想をラテン人(ローマ人)とその後継者としてのキリスト教徒に伝え、ユダヤ民族が生き残る方策を考えたという意味では、ユダヤ的な思想を現実に生きた人である。

             

            大学生時代、この人物を池田裕先生の授業でご紹介をうけたので、大学の図書館で、工学系の学生のくせに人文歴史学系の先生方が購入されたと思しき、ヨセフスのユダヤ戦記、ユダヤ古代誌などをむさぼり読んだ。そして、ユダヤ古代誌を読んだときは、「旧約聖書もこんなふうに書いてくれたら、もっと読みやすかったのに」と思ったことは告白しておこう。その意味で、『神の物語ー聖書を1年12ヶ月で読む本』よりはかなり詳しいし、聖書にはない部分の記述も十分書いているので、間違いなく西洋の古典学で重視される文献資料の一つである。そして何より、読むに耐える本である。まさにクラッシック(古典)とはこのことか、と思うような本である。まぁ、大頭眞一さんの本はアジアの反対側の東の国の人なので、「1年12回で…」は、大変残念ながら、世界のクラッシックスに含まれる、1冊にはならないと思うが。

             

            摩天楼を作ろうとしたがる人間

            煙となんとかは高いところに登るという話があるが、イカロス伝にせよ、飛行ヲタのパヤオ監督にせよ、飛行機ヲタのミーちゃんはーちゃんにしても、空を飛ぶことは人類の理想であった。空を飛ばないまでも、バベルの塔以来、高い建物は人類の見果てぬ夢であったのだ。高い建物に済むことで、下界を睥睨することは、神の視点を持った、と誤解しがちなのである。それで稼働だか知らないが、超高層マンションは、高層階ほど値段が高い。しかし、電気が止まれば、高層マンションは悲惨である。

             

             神の姿(イメージ)をこの世界に反映させるはずだった人間が、そのかわりに自分の姿を鏡で見るようになった。そこで見た姿を気に入り、同時に怯えた。尊大になり、同時に不安になり、自分たちだけが重要な存在だと思うようになった。そこで神は人間を地のおもてにちらし、ことばを混乱させることで、以降、傲慢なプロジェクトを建てさせないようにした。

             バベルの塔の物語は不義にまかせた世界であり、見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)であり、人間関係の崩壊であり、大都市の醜悪さで人間のプライドを誇示する建造物の物語である。(p.105)

             

            この部分を読みながら、人間は、自分自身の姿に感動を覚えると同時に、自分たちを偉大なモノであると誤解してしまう癖があるようだ、と思った。それは、自分自身を見ていてそう思う。人間は、効率性を追求し、あるいは強さを追求した挙句、等身大の自分を見失い、そして混乱していくのだ。

             

             そうであるから、その自分の怯えに向かい合うために、ソリチュードが必要であると、神と自分の関係を見つめ直すことが必要である、とナウエンはThe way of the heartで言っている。

             

            何より、この部分を読みながらショッキングであり、インスパイアリングだったのは、「バベルの塔の物語は不義にまかせた世界であり、見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)であり、人間関係の崩壊であり、大都市の醜悪さで人間のプライドを誇示する建造物の物語」という部分であった。とくに「見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)」という部分が非常に印象的である。天が古代のヘブライ人の世界で、神の在所、神がすべてを司っておられるところを意味するとすれば、天にまでとどことすることは、天に近づくばかりではなく、神の領域を侵略し、自分たち人間が神の聖座を簒奪しようとした、その地位を奪い取ろうとした、神の如きものになろうとした、ということだと思うのだ。見せかけの霊的な姿で。

             

            この部分を思いながら、浮かんだ映像が、これであった。別に意図はないが、思い浮かんでしまったのだからしょうがない。ミーちゃんはーちゃんが幻を見たとでも思って頂けたらさいわいである。

             

             

            思い浮かんだ画像 http://www.trumptowerny.com/ から

             

            神になろうとした結果が、大都市に住もうとすることであり、そして人間関係の崩壊をもたらすことであり、人間のプライドを誇示しようとした結果の大都市の醜悪さとすれば、都市とは何なのだろうか、と思う。その都市計画の方の仕事をしなくて、本当に良かったと思っている。

             

            都市の醜悪さというか、現代の都市生活のおかしさについては、ヘンリー・ナウエンの「愛されている者の生活 ―世俗社会に生きる友のために」という本は、現代のニューヨークでジャーナリストとして働いている若者にあてた本であるが、その中には、大都市に住みながら、何重にもロックした住宅の中に自ら閉じ込めているのではないか、それは自ら、刑務所の中に入って、安全だ、安全だ、と言っているのではないか、と指摘している部分がある。そのような現代社会のおかしさにナウエンが触れた部分があるが、それもまた、見せかけの霊的な姿がもたらした、尊大さの影の部分、怯えている社会の姿を示しているように思う。

             

             

            イスラエルの民とは何者か?

            日本語版では、新改訳聖書 創世記12章2−3節の

             

             そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

             

            の部分の引用があったあと、次のようにライトさんは続ける。

             

            最後のセンテンス(引用者註 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される の部分)が極めて重要である。地上の民族は分裂し、混乱していた。自分たちだけではなく、世界のあらゆるいのちの営みを台無しにしていた。アブラハムとその子孫たちはある意味で、物事をただすための神の手立てであり、神の救いのわざに先立つものとなるはずだった。(同書 p.106)

             

            地上の混乱を収束させ、神との関係を回復させる手立て、手段、ツール(英語では、mean)がイスラエルの民、ということなのだろう。そして、それはイエスにおいて実現するのであろう。ここでの祝福とは、繁栄でも、豊かさでも、立派であるとされることでも、揉め事がないことでもなんでもないのだと思う。祝福とは、神との関係が回復し、神とのコミュニティが回復する世界なのだと思う。

             

            ここで「物事をただす」と書かれていることは大事だと思う。これは、物事ということよりも、物事と人間との関係、人間同士の関係、関係性の回復だと思うのである。つまり、神が本来与えようとしている、神の支配の満ちたコミュニティの回復なのだろう。と思う。本来それを与えられたキリスト者が、神との関係性の回復、それすら、別のもの、経済的な豊かさや、健康、自分自身の立派さと言った、別のものにすり変えてしまうという、人間の罪深さを感じている。

             

            回復された神の世界とアブラハム

            アブラハムと神との関係について、ライトさんは次のように書く。アブラハムへの契約は、神の側の一方的な宣言であり、確固たる関与であり、参与であるというのである。そして、このアブラハムの家族(アブラハムの民、神の民)が回復される世界が、終末とか、崩壊とか、破壊といったおどろおどろしいものではなく、神の美しい支配として到来することについて、次のように書く。

             

            大切なことは、神がアブラハムと結んだこの契約は、世界の創造者がアブラハムとその家族の神となるという確固たるコミットメントであるということだ。アブラハムとその家族を通して、神は全世界を祝福する。(中略)それは新しい世界、回復された世界、創造者によってもう一度祝福される世界を示すヴィジョンである。そこは義の世界であり、神とその民が調和をもって生き、人間関係も豊かにされ、美によって醜さがおおわれた世界になることだろう。そこでは、あらゆる人間の心の中に響いているあの声が調和し、生ける神の声として聞こえてくることになるだろう。(同書 p.107)

             

            こういう部分は、たしかに万人救済説と誤解されかねない部分を含む。そして、ライトさんは、この中からの一部だけを読むと、万人救済説だという誤解を与えかねない表現を含む。しかし、神は、人間を愛するが故に、無理やり神との関係の回復を望んでいない人に神との関係の回復を与えられるか、というと、お与えにならないように、ミーちゃんはーちゃんは思うのである。人が自ら神に戻らないことを認める、そこまでの神の愛ではないか、と思うのである。ライトさんが話されていること、お書きになっていることなど、いろいろなものを見ていると、どうしてもライトさんが万人救済説に立っているとは思えない。ライトさんがすべての点において正しいとは思わないけれども、個人的には、ミーちゃんはーちゃんはかなりいい線いっているのではないか、と思う。ミーちゃんはーちゃんごときが言うべきことではないが。

             

            個人的には、自分のものの見方や、聖書の読み方を相対化する上では、ライトさんは、非常に有益な視点を与えてくれた人の一人ではある。

             

            救出しようとする側が

            救出されねばならないという悲劇

            ここで、ライトさんは人間の限界を、アブラハムを通して語っている。本来人間が人間を救うことはできないし、そこから救済があるはずのアブラハムですら、いろんなトラブル、失敗、偽証もどきのれんぞくであったのである。それは、アブラハムやアブラハムの家族、イスラエル人が、世界を、神と人間との関係をただす(関係を回復する、関係を適切なものにする)のではなく、アブラハムの末、イスラエル民族を用いて、立て直すのではなく、イスラエルのただ中に、神としてイスラエルの民の中に現れ、イスラエルの民と共に生きる、大祭司としてイスラエル人のみならず、すべての民とも関与していく、ということだろう。

             この契約は、神の側にあってはゆるぎないものだった。しかし創世記が語るように、アブラハムの側はとうてい堅固とは言えなかった。最初から問題にぶつかり、それがナラティブ全体に付きまとうことになる。難破した船を助ける救命ボートが大波で座礁し、救出を必要としていたらどうなるだろうか。世界を救出するために神が立てた人々、世界をただすために定められた人たち自身が救出を必要とし、正される必要があるのだ。(中略)陽気な老ラビであるリオネール・ブルーがラジオでこう言っていた。「ユダヤ人は他の人と全く同じだ。ただし、他の人以上に人間的だ」。旧約聖書はどのページを見ても、そのことを強調している。(同書 pp.107-108)

             

            この救出されるものが救出されねばならない、という文章を読んだ時、今、ナウエン読書会で読んでいるヘンリー・ナウエンのThe way of the heartの一節を思い出した。

            Here indeed is ministry in its purest form, a compassionate ministry born of solitude. Anthony and his followers, who escaped the compulsions of the world, did so not out of disdain for people but in order to save them.  Thomas Merton, who described these monks as people who swam for their life in order not to drown in the sinking ship of their society, remarks:

            "They knew that they were helpless to do any good for others as long as they floundere about in the wreckage. But once they got a foothold on solid ground, they were different.  Then they had not only the power but even the oblication to pull the whole world to safety after them." The way of the heart pp.29-30)

             

            (ミハ氏による日本語変換)
            ここに、ミニストリーの純粋な形があります。ソリチュードから生まれる哀れみの心に満ちたミニストリーの。アンソニーと彼とともに生きた人々は、この世の矯正する力から逃れた人たちでもあるのですが、そのように砂漠の中で生きたのは、人々を軽蔑したことからでたのではなく、むしろ、人々を困難から抜け出すことができるようにそのようにしたのです。トーマス・マートンは、これらのから修道者を、彼らの社会という沈みつつある舟の中で溺れないようにいのちに向かって泳いだのではないといいます。
            彼らは、沈船の瓦礫の中にいてもがいている限りは、良きことをするのに無力でありました。しかし、彼らが確固たる地面に足場を一旦えたならば、彼らは別物のようなものでありました。彼らは、力をえたばかりではなく、彼らの後に続く世界すべてのものを安全にする義務すらおったのでもありました。

             

            その意味で、イスラエルは、イエスという神にしてイスラエルを方一に導き、世界を救う人物を必要としたのであり、確固たる大地とでも言うべき、神の国にイエスが足をもう一度おかれたからこそ、この世界を回復するための道ができたのだ、と思うのだ。

             

            最後の「陽気な老ラビであるリオネール・ブルーがラジオでこう言っていた。「ユダヤ人は他の人と全く同じだ。ただし、他の人以上に人間的だ」。旧約聖書はどのページを見ても、そのことを強調している」と言うのは、本当にそうなのだろうなぁ、と思う。

             

            うなじが強い民とはよく言ったもので、神から必死に逃れようとしながら、神に結局は戻ってくるという意味で、正に、人間的だし、旧約聖書はその物語で埋め尽くされているからこそ、人間というものを理解する上で、旧約聖書は必要だし、また、人間が回復されるのだ、ということを知るために、旧約聖書は重要なのだろうなぁ、と思う。

             

            まぁ、イスラエルでなにかあると、「俺はこう思う」、「いやいやこうじゃないか」、「むしろそれはこうだろう」とすぐ議論が起きて、日本人からすれば、議論しているのではなく、我も我もといいあうので、喧嘩をしているような感じを受けるらしい。テルアビブにお住まいの山森レビ先生情報だから、間違いはないと思う。

             

            確か、数年前、大阪で開催された、日本の戦後政治の歴史と文化をめぐる国際シンポジウム、発表者の一人として参加した時に、イスラエル人の参加者数名と日本人の政治学者の間で、「政治とマンガ 小林よしのり論」を巡るマンガの議論になって、ほとんど喧嘩みたいになったことがあった。「日本人の先生は大学生は漫画を読まない」とか言ったものだから、もう議論に火がついて、ガソリンをぶち込んだ状態となった。いかに日本の若者がマンガに影響されているのか、ということを天皇制と政治の議論をさておいて、大学生が漫画を読むのか、読まないのかで、やりあっていたことを思い出した。

             

             

            旧約聖書の構造

            ライトさんは、旧約聖書でテーマが繰り返されることを次のように説明している。

             

            そのことは、なぜイスラエルの物語の中心において一つのテーマが繰り返し出てくるかを説明してくれる。(中略)それは行きつ戻りつする物語である。奴隷状態と救出の物語であり、捕囚と回復の物語である。それはナザレのイエスが、ことばと行動で意識的に語った物語である。そして究極的には、彼の死と復活において語った物語である。(同書 p.108)

             

            個人的には、旧約聖書は入れ子構造をしていると思う。マトリョーシカというロシアのお人形があるが、まさにあの感覚、あるいは、2次か3次のフラクタルという感じがする。同じ大小の相似形が繰り返されながら、一つの形状をなしている、というやつである(以下の動画を参照)。ところで、奴隷状態と救出は、アメリカ版では Slavery and Exodus(出エジプト記の署名でもある)であり捕囚と回復 exile and restorationとなっていた。正にそれらがスパイラル状に組み合わされ、大きな物語が複数の小さな物語で形成されているという形になっていて、その最も大きな形がイエスにおいて表されているこの世界の救出ということなのだろうと思う。

             

            マトリョーシカ (http://blog.livedoor.jp/kobelunch/archives/674119.html から)

             

             

            フラクタルの動画

             

             

            次回へと続く

             

             

             

             

            評価:
            N・T・ライト
            あめんどう
            ¥ 2,700
            (2015-05-30)
            コメント:おすすめしています。

            評価:
            スコット・マクナイト
            キリスト新聞社
            ---
            (2013-06-25)
            コメント:中古品以外でも、出ている業者さんがあります。バイブルハウスとか

            評価:
            ヘンリ・ナウエン
            あめんどう
            ---
            (1999-11-18)
            コメント:大変良いです。おすすめします。

            2016.12.17 Saturday

            NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その16

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              今日も引き続き、新約聖書と神の民からご紹介しながら、聖書の重要なモチーフというか、基本的なモチーフというか、テンプレートというか、変奏されながら繰り返され、全体として組み上げられているテーマについて述べていきたい。もちろん、この聖書の基本形は、新約聖書でも繰り返されている。特に、福音書に記載されたイエスさまの言動にも見られるものでもあり、その意味でもキリスト教とにとっても重要なのだ。

               

              モティーフとヴァリエーション

              まず、ここで、Duke Divinity SchoolのJeremy Begbieという人の演奏と説明(英語しかないので、ご容赦賜りたいが)をご覧頂きたい。彼は、音楽におけるこのモティーフMotif  基本のメロディーラインと変装 Variations で語っている。今回の動画では別の作曲家の作品が用いられているが、この種の構造や、音楽における数学的構造にかなり関心があり、その構造を多様した作曲家にJ.S.Bachがいる。左から楽譜を弾いても、それをひっくり返して右から楽譜を弾いても、同じ音楽になり、更に、それを両方から同時に演奏しても、それなりに聞ける音楽になっているとか、もはや信じられない作曲をしている例がいくつか知られている。

               

              Jeremy Begbie さんの音楽の主題とバリエーション 

               

               

               

              J.S.Bachの音楽の捧げもの の構造

               

               

              このあたりのことにご関心がある向きは、図書館かどこかで、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本をお借りになってお読みになられるとよい。あまり数学数学せずに読み物としてある程度読めるものになっている。ゲーデルは数学関係、エッシャーは美術、バッハは音楽で、この種の構造の問題を考慮しながら、面白い作品、それも傑作(master piece)とも呼ぶべき作品を作った人たちである。 

               

              聖書の全体構造を見ると

              聖書も、全体を見渡すような目、ある一部を拡大するのではなく、広角レンズで一体として構造を見るように聖書を読もうとする時、その種の構造が見つかることがある。つまり、空間や時間や対象を埋め尽くし、基本型とその変奏、その繰り返しを見つけることができるのだ。ちょうど前回ご紹介したフラクタルのように。

               

               

              旧約聖書を生み出したユダヤの物語記者たちが、行きつ戻りつする物語を主要なモチーフとみなしたのは、おそらく必然的なことだろう。ヘブライ語聖書の主要な部分が最終的な形に落ち着いたのはバビロン捕囚(Exile)の最中だったったと思われる。それは故郷から離れただけでなく、ヤハウェである種がともにいると約束してくださった神殿からも引き離され、悲しみのうちに暮らしていた(『私達がどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか」詩篇137・4)ころである。

              アブラハムの子孫が、よりによって、バベルの塔の地であるバビロンに住むことになるのは皮肉だが、それでも彼らは何を望むべきかを知っていた。前にも捕囚状態だったことがあるからだ。それは彼らのすべての物語の中心テーマだった。(p.109)

               

              ここで、行きつ戻りつする物語、ということばが出てくるが、Go forth and backだったと思うが、これは、遊牧民の生活そのものなのだ。季節に応じて、山の高いところに生き、また冬が来れば麓に戻ってくる。季節に応じて、家畜の餌を求めて東にゆき、また夏が終われば、西に向かう。これの繰り返しを続けるのが遊牧の生活である。

               

              そして、季節ごとに行ったり来たりする渡り鳥のように、遊牧民は、ほぼ毎年同じルートを通りながら、場所を移動していくのである。しかし、1年とか数年の周期で見た時、遊牧の民は、ある特定の移動ルートに沿って、サイクリックに移動しているのである。決して行き当たりばったりで、動いたりはしていない。もし、そんなことをしたら、オアシスなどでの補給や水などの補給ができず、全滅である。イサクの井戸にしても、イシュマエルの井戸にしても、井戸というのは遊牧民にとって、生存可能性を与えるものである。

               

              水がたっぷりあり、定住し始めて極めて長い期間が経過している日本社会では、このような遊牧の生活の実情が、一般にわからなくなっている部分があろうか、と思う。日本では農耕民族、狩猟民族説で考える人々が一般的であると思われるが、狩猟民族と遊牧民族は違うし、定住性の強く、一族郎党が近隣に集中居住することで、労働力の共有や協調行動が重要となる農耕社会と、一族がゆるいつながりを持ちながらも、同じ場所で共同生活をずっと一緒にしながら、同じ場所にとどまることや、同じ場所に移動することこそが、デメリットをもたらす遊牧民族では生き方は違ったものに、ならざるをえない。

               


              現代のイランの遊牧民族

               

              なぜならば、同じ場所に大量の遊牧民が共住することは、餌の取り合いと土地とそこにある家畜の飼料ともなる牧草の荒廃となり、共倒れを招きかねないからである。そうなったら、集中することによるリスクというか、デメリットが大きすぎることになり、不合理なのである。正に、創世記におけるアブラムとロトが別々に分かれていくことのほうが、遊牧社会においては合理的なのだ。いや、アブラムとロトがわかれる方が、相互互恵関係を形成している、と言っても良いと思うほどである。

               

              アブラムとロト(ビザンチン風)

               

               

              ところが、定住と共同居住が長く行われてきた、日本社会の教会の中では、ロトはアブラムから離脱した悪者扱いされることが、時にある。しかし、遊牧民の遊牧民性を考えると、一緒にいて揉め続けるより、空間的に住み分けをしてリスクを分散することのほうが適切なのだ。以前上智大学の月本先生が、上智大学の大阪サテライトキャンパスで開催した公開講座で、聖書の物語は出ていく物語だ、極端な話をすれば、家出がモティーフとしてある、というお話をしておられたが、ある種のリスク分散のためには、卵は同じバスケットに入れない、というリスク・マネジメントの名言通り、実現しようとしたというか、そうしかやれないのがイスラエルの民であったのではないか、と思うのだ。

               

              旧約聖書における分離と回復

              この分離していく、あるいは離れていく、そしてまた戻ってくるという、一種の無限ループかと思われるような展開は、旧約聖書でも、繰り返し繰り返し出てくる主題である。登場人物が違い、そして、環境が違うために一見して気が付かないことも多いが、新約聖書でも、特に福音書で、繰り返し用いられているメタファーである。

               

              このパターンはいろいろな形で繰り返される。例えば、ヤコブは兄エサウをだまし、東の国に逃げた。その後、戻ってきて兄と対面する。さらに重要な事に、ヤコブは神と格闘する(創世記32章)そこには義のこと、霊的なこと、回復した関わりのことが、物語の周りを巡って大きく鳴り響いている。聖書記者や編纂者が、決して忘れることのできない大きなテーマが響いている。

               しかし、創世記のすべての流れはヨセフの物語に至る。彼はエジプトに奴隷として売られた。彼の残りの家族全員も故郷で飢饉に襲われ、間もなくエジプトで彼に合流した。しかし一世代もたたないうちにヤコブの家への待遇が変わり、奴隷の民になっていく。(中略)奴隷状態から開放し、彼らに国を与えて自由にすると約束した。それはユダヤ人とクリスチャンが記憶すべき事の中で、最も重大なときの一つとなった。それは、アブラハムとの約束への神の真実さ、神の民の苦難にたいする憐れみ、救出と自由と希望への約束、そして何より神の名とその重大さの啓示、それらすべての集大成である。(同書 p.110)

               

              ここでパターンとライトさんが書いている内容は、「離れてはもとに戻る、出ていっては戻ってくる」というパターンのことである。そしてそれが人間というものなのだろう。大事なこととして、ヤコブと神の格闘が出てくる。そして、ヤコブはイスラエルと呼ばれるようになり、イスラエル民族の父となっていく。この格闘を通して、霊なる存在との関係、神と人との和解の問題が指し示されているからこそ、ヤコブがどこにいたとか、ヤコブの羊がどこで草をはんだ、とかは殆ど書いてはいない。それよりも、この一見よくわからなくなる話は重要なのだ。なぜならば、イスラエルがイスラエルとして呼ばれるようになる、その原因の出発点として、この物語が大事な出発点、いわゆるイスラエルの原点、イスラエルのゼロポイント、として書かれているのだろうと思う。

               

              そして、ヤコブの子どもたちは、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばし、ヨセフは奴隷の状態から、王室の役人へと大出世を遂げる。まさに捕囚から自由人としての回復がなされ、また、王女に言い寄られ、もう一度正に捕囚状態となり、そして自由人へとまた回復されていく、飢饉の結果の、飢えに捕囚された状態からの回復を求めてやってきた、ヨセフとその息子たちは、一旦は解放されるものの、今度はエジプトで、奴隷状態の捕囚状態となる。本来人間がもっている自由が奪われているという意味で、捕囚されているということはできようか、と思う。教会用語とは違う意味での、"バビロン"という語のついた捕囚という意味での捕囚とは少し違う、流刑者とか、所払いの刑にあった人、という程度の用法であり、追い出されて辺境に置かれる、というくらいの意味だろう、と思う。

               

               

               

              こっち人たちのは、捕囚というよりは、放浪者(バガボンド 天才バカボンの語源)だろうね

              日本に捕囚されているわけではないだろうし、日本から追放されて寄留の民になっているのだろうか

               

              このあと、同じような放浪されては戻ってくる話が、ダビデの失敗の話としても現れ、バビロン捕囚の話にも現れることのご指摘とその解説がなされていた。

               

              この辺、プロテスタントとヘブライ思想や、正教会やカトリック教会などの伝統教派との違いだなぁ、これらに参加してみて体験した中で、そのように思っている。毎年一回の儀式(大贖罪祭)をすることや、毎週日曜日の典礼の中や、典礼のなかで読まれる祈祷文で、自分たち自身の罪の問題を思い、そして悔い改めて、それらでくよくよ悩むのではなく、そして新しい気持ちで、今週も不完全ながらも神を愛し、神に仕えていこうという、そういう気持ちになるようにできていて、よくできているなぁ、と思っている。

               

              プロテスタントの最近できたグループ(この200年以内にできたグループ)だと、そういうけじめの儀式がないから、どうしても、今日もできなかった、今週もできなかった、今日もこんなまずいことをした、とグズグズ、クヨクヨ悩み、挙句の果てに「自分はクリスチャンではないのではないか」などと悩む、ということが起きかねない。その意味で、神の前に戻ることで、神の側が解決してくださる、という一種いい加減に見えるかもしれないが、神にどっかり依存した信仰という側面が薄いキリスト教会がないわけではない。

               

              聖書全体のテーマとしての

              離れることと戻ること

              そのあたりのことをふまえて、ライトさんは「捕囚(Exile)と帰還」が聖書の重要なテーマであるとして、次のように書いておられる。

               

              捕囚(Exile)と帰還という、かの日から今日に至るまで変わらない、ユダヤ人の物語の重大なテーマがイスラエルの民の意識にしっかりと埋め込まれた。そして、神殿において天と地が重なり合うこと、そこでヤハウェは民を許し、交わりをもってくださること、過去いろんなことがあったとしても、ご自分の民を救い出し、世界を正しくしてくださる神のプロジェクトは今なお進んでいること、それらを信じる人々が、再びエルサレムの神殿に参拝するようになった。(同書 pp.112−103)

               

              こう考えると、イスラエル人という民族は、バビロンに強制連行され、また、クロス王(キュロス2世)などの協力もあったりもあり、イスラエルとエルサレムに戻ってくる。そして、しばらくして、第2神殿を建て始め、それをでっかく再工事しようとしたのが誰あろう、幼子イエスを殺害しようとしたヘロデ王家の人々なのだ。その意味で、彼らは、ダビデの子孫でなかった後ろめたさと、ローマ帝国という巨大な権力をバックにしながら、自分たちの権勢を見せびらかすために、第2神殿の拡張工事をした部分もないわけではないと思う。再建しようとしたところで、それは後年、ローマ軍によって完膚なきまでに崩壊させられてしまうのだが。

               

              しかし、その後シオニズムと関係するので、ちょっと鬱陶しいことが色々あるのだが、イスラエルへの帰国運動が、サイクス・ピコ協定とかがあって色々ややこしいことを起こしつつ、一応イスラエルは建国する。そして、イスラエル人の保守的な人々は西の壁とも呼ばれる嘆きの壁で、偉大なる神殿があり、神と人が一つになる場所のそばで、今もなお神と人が交わる場所として、その場所を覚えているのである。

               

               

              多分、西の壁と呼ばれる嘆きの壁を歌った歌

               

              イスラエルの国歌 様々なイスラエル人の姿が出てくるので、現代の世俗国家イスラエルの姿が多少わかるかも

               

              まぁ、イスラエル人の全員が、西の壁でトーラーを読んでいるとかを、やっているわけではない。日本のキリスト者の皆さんの中には、ごく一部に、その美しく理想化されたイスラエルのイメージを、お持ちの方が時におられるが、山森みか先生の福音と世界に登場した最近の論文「ユダヤ教と万人祭司」では、次のような記載がある。この論文の載っている2017年1月号の『福音と世界』は大変良いので、おすすめである。

               

               つまり現代社会においては、ユダヤ人であってもユダヤ教の規定を部分的に、あるいは全面的に守っておらず、シナゴーグやラビを中心にした共同体には必ずしも軸足を於いていない「世俗はユダヤ人」が数多く出現した。また[改革派][保守派][正統派]「超正統派」などが、それぞれ独自の宗教的な規定の解釈と遵守の方針を展開し、多様なユダヤ人のあり方が見られるようになった。(『福音と世界』 2017年1月号 p.37 下段)

               

              ところで、この出ては戻るというテーマは新約聖書の中で、特に福音書の中で何回も出てくる。イエスの例え話では、放蕩息子の例え話はまさにそれ、であるし、ある意味、エマオの途上も、エマオに行きつ、エルサレムに戻りつする物語であるし、イエスの死後、ペテロ達が漁をしている時にイエスと出会って、イエスの弟子となる物語も行きつ戻りつする物語である。その意味で、このメタファーというか、このモティーフは多く見られるのである。おそらく、イスラエル人にとって、日本で言えば、「桃太郎」や「一寸法師」のように、苦難にあって成長したり成功するモティーフみたいなものかもしれない。

               

              そういえば、イエスも出ては戻るを繰り返しておられる。最初は、第2神殿で学者を前にレクチャーした時、ガリラヤの各地で神の国が着たぞ、と言いふらしながら、枕するところもないと言っておられる。そのときには、早朝とか深夜、山に行って一人祈っていて、それから、民や弟子のところに戻っている。これもまた、出ては戻るという構造になっている。そして、復活の前も神の前から出て、読みに下り、そして、復活して戻ってきているのだ。その意味で、再臨のイエスもまたこの地に向かって出て来られて、また神のもとに、出エジプトの民を率いたモーセよりも多くの人々と、約束の地に戻るのだ。空中なのか、地上なのかに関しては、幾つか仮説はあるだろうけれど。

               

              そして、砂漠の師父と呼ばれる人々が始めたとされるソリチュードも、一人砂漠の中へ行きっぱなしではなく、一人になって神の前に戻り、そして、また、人々の中に出てく、を繰り返すとういことを勧めているようだ。その意味で、神の前に戻っていき、人の中へ出ていくというということを繰り返すことがソリチュードなのではないか、と思う。

               

              その意味で、秀才タイプというか、出来杉君タイプの良い子ちゃんでないイスラエルの人々なのだけれども、それでも神は愛し、受け止めるということは案外大事なのではないか、と思う。さきほどご紹介した、山森みか先生のご論文の中に、現代のユダヤ教への会衆事例についてのエピソードが紹介されていたので、ご紹介したい。

               

              二人目の例は、次のとおりである。一度は知識不足で落ちた後の二度目の最終試問は、ちょうど大贖罪日の後であった。大贖罪日には、ユダヤ人は一昼夜断食を過ごして罪を悔い改めることになっている。「今年の大贖罪日には何をしていたか」との問いに、これまた「嘘はつきたくない」と思っていた彼女は、「ケニアにいる叔父の家に遊びに行っていた」と答えた。「なぜか」との問に「軍務のプレッシャーが厳しくて、このままだと頭がおかしくなりそうだったから、休暇がもらえたので海外に出た」と答えた。さり気なく超正統派のユダヤ人は兵役を免除されていることへの批判を入れ込んだ周到な答えだが、ここは嘘であっても「家で断食していた」と答えるのが模範解答であろう。三人の判事たちはその後二時間近くの大議論になり、養家族に電話をかけて見解を問いただしたりしたあと最終的に出した結論が、「あなたは戒律を守らなかったが、少なくとも正直だ。我が民族はあなたのような人を人を必要としている」で、結局合格であった。

               

               たしかに戒律をいつどのように守るかの細部は解釈の余地がある問題であり、一義的な回答が用意されているわけでない。その解釈を絶えず検証し、議論し、発展させていくのがユダヤ教の内実である。(中略)そして、それを議論の俎上に載せた上で最終的にポジティブに評価することは、神の前に一人で立って議論をし、時には神の心を変えさせるようなヘブライ語聖書の登場人物の伝統を起想させる。きけば、学んだことを学んだ通りに素直に答えた人は通らなかったそうであり、あえて彼女たちを通したことに、単に会衆者の数を増やす目的でなかったことが伺えるのである。 (前掲の山森論文 p.38下段-39下段)

               

              その意味で、離れていくことについても解釈しつつ、どうすれば神のもとに戻れるのか、神と人がどのようにインターロックできるのか、どのようにインターロックするのか、ということを、自ら捕囚や民族離散、エグザイルの中での寄留地の中で、自らに、そして神に問い続けた民族ならではの問題意識だなぁ、とこの部分を読みながら、改めて思ったのである。

               

               

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

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              コメント:おすすめしております。この号はおすすめ。ミハ氏も寄稿しています。

              2016.12.19 Monday

              NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その17

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                今日も、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで考えたことを、たらたらと書いてみたい。今日の部分は、イスラエルと題された部分の続きである。

                 

                大事な四つのキーワード
                ライトさんは、旧約聖書、ヘブライ語聖書とそこに記載された、イスラエルとその祖先についての出来事を理解する上で、そして、新約聖書を理解する上で、大事なものとして出てくる四つのこと、聖書を読む際に抑えて、注目しておいた方が良い、四つのテーマまたはキーワードについて、説明する前に次のように書くのである。

                 

                漸くその時がきたが、まだ触れなくてはならないことがある。イスラエルの物語をめぐる4つのテーマについてである。それらは聖書の記述にそしてその後のユダヤ人の文書両者に見られるもので、今まで見てきた物語の輪郭づけをしてくれる。(『クリスチャンであるとは』p.115)

                ここで、ライトさんは、旧約聖書のキーワードは、第1は王、第2は神殿、第三はトーラー(律法)、最後に新しい創造をあげている。第1のものは、神が「イスラエルの王として、すべての民の王として、の側面を持っていること」についてである。これに関しては、N.T.ライトさんのHow God Became Kingで、丁寧に議論されているが、イスラエル及び世界の王、すなわち、それを作り出し統合し、そしてその責任を負うものとしての王としての神という側面が、かなりわかりやすくかかれている。この王である神は、この時期皆さんおなじみのヘンデルのメサイアのアレルヤ・コーラスでも、最後の部分で登場する。それは、

                 

                King of Kings Lord of Lord He shall reign forever and ever.

                 

                という部分である。まさに、このアレルヤ・コーラスは、神の神、王の王である聖四文字なる方がこの地を治められ、回復されるという神というよりは王、のイメージが強い歌詞なのだ。

                 

                ケンブリッジのキングス・コレッジの礼拝堂での古楽スタイルの演奏によるアレルヤ・コーラス

                ただ、日本では、このアレルヤ・コーラスの冒頭が結構、派手派手しいという理由から、その部分だけ好んで用いられるようであるが、この曲の焦点は冒頭部になく、本来はその最後の聖四文字なる方は王であるという部分であるはずなのだが…。それはさておき。

                 

                神殿について

                ライトさんは4つの重要なテーマと言うかキーワードがあると書いているが、もう一度書いておくと、王であること、神殿、トーラー、新しい創造(new creation)である。ここでは、神殿と新しい創造の部分を取り上げる。他の部分が大事でないというわけではない。ただ、引用すると全部引用したくなる誘惑に勝てないからである。それほど大事なのであるので、そこは是非ご自身で、書籍をお買い上げいただきお読みいただきたい。

                 

                では、神殿についての部分からご紹介する。

                 

                ダビデ以来、神殿を建て上げ、回復するのが王の役割だったイエスの時代が来る前、二人の人物が神殿の回復を利用して、自分たちを王位継承者に仕立て上げようとした。だが、ふたりともダビデの子孫ではなかった。
                そのうちの一人、ユダ・マカベウスは、紀元164年、シリアに対する反乱を起こし、劇的な勝利を手にした。敵の支配を撃破し、(異教の礼拝に使われていた)神殿を元の状態に回復した。彼の家計をその後、1世紀以上に渡る強固な王室と支えるためには、それで十分だった。ローマ帝国によって「ユダヤ人の王」という称号(その近辺で最も戦いに秀でていたのが主な理由で)を与えられたもう一人の王、ヘロデ大王は、神殿の再建と美化のための大掛かりな事業に着手した。息子たちがさらにそれを引き継いだ。(同書 p.117)

                 

                このユダ・マカベウスという人物は、アポクリファと呼ばれる外典を使わない人には馴染みのない名前であろう。マカベア書とかマカバイ書と呼ばれる外典にその詳細が含まれている。アレキサンドリアで聖書が翻訳されたときには、まだ存在しなかったため、70人約聖書(パウロとかが活躍した時代に多用されたギリシア語翻訳)には含まれていないのであるが、イエス時代の(第二神殿期)イスラエルの状態、ユダヤの状態を考える上で欠かせない人物の一人である。まぁ、神殿を外国人の手から取り戻した、神による政治(神とトーラー中心に回っている社会という意味において神の政治)という部分もあったユダヤ社会において、一種、救国の英雄とも言うべき人物のお人の一人である。この方のことをご存じなくても、皆さん、この曲はご存知だと思う。その曲が、ヘンデルのオラトリオ、ユダ・マカベアスから取られていることはご存じない方のほうが大半だとはおもうが。

                 


                ヘンデル作曲 オラトリオ ユダ・マカバイアスから

                 

                https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b8/Juda-Maccabaeus.jpg/220px-Juda-Maccabaeus.jpg

                ユダ・マカバイアス Wikipediaから

                 

                 

                このヘロデ王室の第2神殿の復旧工事というのか、回復工事まわりに関与したユダヤ王家の話は前回も少ししたが、イエス様が商人たちの商売道具をひっくり返して、威力営業妨害による、炎上騒ぎを起こした当時のエルサレム神殿は、工事中で、まだ出来上がりつつある状態であったのではなかろうか。

                 

                「Herod the great」の画像検索結果

                神殿再建を始めたヘロデ大王 Wikipediaさんから

                 

                一大公共事業であったヘロデ王期の第2神殿

                Source: http://cojs.org/david-jacobson-herods-roman-temple-biblical-archaeology-review-28-2-2002/

                 

                福音書の中では、さくっとスルーされているので、ヘロデ一族が正統なダビデの家、王家の筋ではないことは、なんとなくヘロデ一族に対しての冷たい視線程度が、感じられるようには書いてある。それを思ってイエスの誕生を思ってみると、正統な王家の血筋を受け継ぐものが生まれた、と当時の最先端の学問の地である外国人学者(魔法使い説、あるいは天文学者説もある)から突然告げられたヘロデの一族郎党の皆様方は、驚天動地、まさに恐怖に打ち震えたに違いない。まぁ、恐怖にパニックを起こして乳幼児の大虐殺、となってもおかしくない精神世界であったのであろう。なにより、偽物は本物の前ではシューン、となってしまうものなのだ。

                 

                 

                ちょっとはアドベント最終週らしく絵を入れておこう Source http://www.alamy.com/stock-photo/three-magi.html

                こういうのはヴィザンツ様式がよろしいねぇ。

                 

                ここで、目を引いたのがユダヤ人の王、という表現である。これは、十字架上のイエスに与えられた称号でもある。十字架上のイエスの頭上にはラテン語で、INRI IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMと書いてあったはずである。時々十字架像の上にINRIと付いた十字架の磔刑像があるが、INRIは、イエス・ナザレの・王・ユダヤ人である。すなわち、ナザレのイエス・ユダヤ人の王の略式表記なのである。ここでも、福音書における諧謔を感じるのだ。イエスは生まれたときに外国の学問の先進地から来た人物たちに、ユダヤ人の王と呼ばれ、また、当時の世界帝国(といっても地中海世界だけであるが)の統治者から、ユダヤ人の王を自称したという罪状かもしれないが、ユダヤ人の王と呼ばれたのだ。つまり、人生の最初から最後まで、イエスは外国からはユダヤ人の王と認められた人物であった、ということなのだろう。

                 

                マクグラスの日本語の本の表紙にも使われていたかな Source https://matthew2262.wordpress.com/2011/04/06/inri/

                 

                特に、十字架上のユダヤ人の王という表記には、ヘロデ王家の皆さんは、ビビったのではないか、と想像すると面白い。

                 

                というのは、イエスの十字架刑の頃には、社会自体が不穏だった様子が、福音書に断片的には書かれている。そして、ユダヤ社会の不穏さにビビっている様子がポンテオ・ピラトの姿には見られるような気がする。当時の世界最強軍団である、ローマ軍団をバックにしているとはいえ、ポンテオ・ピラトがかなりとビビっている印象が、イエスの十字架刑前後のピラトの表現に見て取れるのである。その社会不安な状態があり、ローマへのユダヤ人の反乱(それはイエスの死後数十年後に現実になるのだが)が起きたら、「おまいら、このユダヤ人の王であるイエスのようにしてやるんだかんね。だから、ユダヤ支配に手を抜かないでね」というローマの意図を、個人的には感じるのである。それゆえ、書かなくてもいいのに、イエスの罪状にユダヤ人の王(REX IUDAEORUM)とローマ人が書いたと想像すると、面白くてしょうがない。多分、ローマ人多重支配とユダヤ人に手を焼いた中での、ローマのユダヤ支配の巧妙さというか狡猾さを考えると、外れてないと思うけど。

                 

                なお、王、トーラーとして省略した部分は、美しく、かつ重要なことを述べているので、是非実物を手にとって、読んでほしい。

                では、新しい創造について述べてみたい。

                 

                新しい創造なのか、悲惨な終末なのか
                世の中には週末とは破壊と悲惨であるという人々がいる。その考え方自体を否定はしようとはしない。なぜならば、自分自身も過去にそうであったし、それを否定することは過去の自分の一部を否定することでもあるからだ。なぜ、そう思っていたかというと、そう教えられていたから、ということに他ならない。単純にそういうことなのだ。

                 

                終末が来て、この世界が滅び、ぽいっと神がお捨てあそばされ、また、またことばがない世界から、神のことばが突然登場し、そして、突然インスタント・ラーメンよろしく、「はい、新しい天と新しい地、登場」みたいな形で現れると思っていた。地上のものはすべて滅び、地上にあるものは神の怒りにあって破綻するという理解であった。

                 

                よくある終末論的アート感覚満載のThe book of Eli (邦題 ザ・ウォーカー) 

                 

                しかし、このようなことを教えたアメリカ人たちが、物質で滅ぼされるはずの遺体を埋葬する際に土葬にこだわり、死後の復活をこの地上での身体で期待しているというのは、どこかおかしいと思う。あるいは、この地上の崩壊の前に“天国”と呼ばれる霊の世界に引き上げられ、霊のからだになるのかもしれないが、それだって霊のからだであろう。遺体を防腐処理して、保存する意味がわからない。石ころからすらアブラハムを起こしうる方であるとすれば、物質にこだわる意味はないはずである。しかし、そこにはミーちゃんはーちゃんが知りえない、そして多くの日本人には公開されていない神秘が隠されているのかもしれないが。多分そうに違いない、と思っている。

                 

                ところで、終末と呼ばれることに関して、今はかなり違う理解を持っている。個人的には、神と共に生きる社会がこの地上で回復されると思うようになっている。そのほうが割りと普通だし、どうも長らくはこう思われてきたようだから、そうだろうなぁ、と思うだけが根拠にすぎないが、今は死んだあとのことは、ある程度どうでもいいこと、と思っている。だって、わかんないんだから。

                 


                その終末とともに訪れるはずの世界、それが天国と呼ばれる、空のはるか上に存在するのか、霊の世界なのか、この地上で神がおられるところなのかはさておき、これらに関してはイザヤ書などで美しく歌われている。その部分について、ライトさんは次のように述べる。

                 

                新しいエデンの園のテーマ(創世記第3章の茨とアザミは美しい灌木に置き換えられる)は、聖書全体の物語の根底にある主題の筆頭である。究極的には、真の捕囚(Exile)、すなわち真に、「家を出た」瞬間とは、エデンの園からの人間の追放であった。イスラエルの度々の捕囚と回復はエデンからの最初の追放を再現したものであり、象徴的には、帰郷、人類の回復、神の民の救出、創造そのものが新しくされるという希望を表している。
                何度も繰り返し出てくるこの第四の主要テーマは、すべての人間の心がそうであるように、古代の預言者の心において、とどめなく湧きい出て響いていたものである。それは、新しい創造の美しさであり、エルサレムとその居住者、英和に過ごす動物たちで満ちた光景、喜びの歓声を上げる山々と丘々の美である。(同書 p.126)

                 

                である。

                 

                 

                アートにするとこんな感じ Source https://katemacdonald.net/2016/10/

                 

                この部分では、真の捕囚(Real Exile)、という語に着目したい。ここで、ライトさんは真の捕囚とは、神とともに過ごした園、あるいは、故郷であるはずのエデンを出た瞬間だ、つまり、神から離れた瞬間だ、とでも言っているようだ。つまり、今、キリスト教で言う罪、すなわち神から離れた状態は、ある種のエクザイル、いや、むしろ真の捕囚、真のエグザイル状態である。その意味でわれら人間は、Exile Tribeではあるのだ。このお兄さんたちみたいにかっこよく踊れないかもしれないが。

                 

                歌って踊れるExile Tribeのお兄さんたち(なぜ、この人達がニューヨークのハーレムあたりにおられるアフリカ系アメリカ人のヤンキー風の身なりをして踊っているのかは、不勉強にして存じ上げない…)

                 

                もし、仮に(そしてそれは多分そうだと思うが)もし、行って戻る、出ては帰る構造が繰り返しているのであれば、一旦神とともに過ごした園であるエデンから出たのであれば、我々はもう一度そこに戻るのであり、それが終末に起きる完成された神の国の姿なのだろう、と思っている。

                 

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

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                2016.12.21 Wednesday

                NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その18

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                  さて、きょうも、いつものようにN.T.ライト著『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことをタラタラと書いてみたい。今日は、前回の復習のような感じである。王ということについてもう少し考えてみたい。

                   

                   

                  王にしてしもべ Servant King という逆説
                  ここで、ライトさんは、イエスがもたらそうとする回復が、一種の捕囚状態からの回復、帰還であるというテーマについて次のように書く。そして、それが聖書全体の物語を成り立たせている一貫した流れだ、として、次のように書く。

                   

                  神が王であるというそのメッセージ、すなわちバビロンが征服され、平和がついに実現し、イスラエルが救出され、地の隅々まで神の救いを知るというメッセージがしもべの働きによって究極的に実現するのである(イザヤ書 52・7-12)。このしもべは捕囚のイスラエルのように、恥と苦難と死によって打ち負かされる。それからそこを通り抜け、勝利の側に立つ。
                  このメッセージは、いくらか異なった仕方でまとめられているにせよ、他の預言者でも受け継がれている。特に、新しい契約というテーマを語る「エレミヤ書」のうちに、また神が民をきよめ、新しい心を与え、救出のわざを通して自分たち後に連れ戻すという「エゼキエル書」の宣言のうちにそれを見ることができる。(『クリスチャンであるとは』p.128)

                   

                  神が王であるというのは、日本人にとってわかりにくい概念かもしれない。

                   

                  と言うのは、日本の場合、天皇という、王のような存在ではあるが、西アジアやギリシアやヨーロッパのような、地域の王政やその制度と基本的に概念が違うからである。今では王というとすっかり領土型の王国の王(フランク王国の王とか、ダレイオス大王とか、アレクサンドロス大王とか領土指向タイプの王が一般的だが、ヨーロッパは近世に至るまで都市国家型の王政が長生きしているのだ。カリオストロの城の王様とか、サンマリノ公国の王様とか、モナコ公国の王様とかがその典型である。その意味で、ここで言う王は遠い存在ではなく、民と共同体を形成している王である、ということは案外大事なのだと思う。

                   

                  カリオストロの城 のデジタルリマスター版 予告編 動画

                   

                   

                  San Marino Wikipediaから

                   

                  近代史という観点から見ても、グレース・ケリーというアメリカ人女優は面白い人物であるが、史実性は別として、お話としては、映画『Grace of Monaco』は面白かった。

                   

                  映画、グレース・ケリーの予告編


                  ところで、近代を形成した啓蒙主義が支配した西側のヨーロッパは、日本から見れば、極西 Far Westである。これが地中海世界以来の都市国家(エリコとか、創世記に出てくる王様は、ファラオ、パロを除いてみんな都市国家の王である。)をぶっ潰して言ったのである。まぁ、人様の領域を Far Eastと勝手に呼ぶのは大変失礼な話であるが、こういう空間分類も自民族中心主義だし、一種の中華思想である。ヨーロッパ人が極東 Far Eastと呼ぶのなら、我らは彼らを、極西とよんでもいいはずだ。その極西の極みが、北アメリカ大陸であり、間もなく新大統領が登場するアメリカ合衆国ではなかっただろうか。そして、彼らが作り出そうとした近代社会そのものが、自由・平等・博愛の名のもとに王政を倒していったのである。その王政を倒した末裔が作った国のディズニー・プロダクションは、王政を背景にした童話をもとに、創作した作品を作り、子どもに売りつけ、親から税に変わって、映画の入場料やグッズという手段を介して金を巻き上げる、という現代の経済社会システムを利用した、別の形式の王政が出来上がっているのが面白い。その意味で、原理主義的な反知性主義的プロテスタント国家において、幅を利かせる社会に存在するディズニーランドの一つが、Magic Kingdomと自ら称するのは非常に印象的である。

                   

                  Disney Worldこと、Magic Kingdom

                   

                   

                  http://disney.wikia.com/wiki/File:Disney-magic-kingdom.jpg から

                   

                   

                  エゼキエルやエレミヤは、たしかに我らが父祖の地に戻る、神が我らに約束されたパレスティナ(これはもともとペリシテ人の地 という意味)に戻るのだ、シオンの山に戻るのだ、エルサレムの復興という概念、それが後年、おそらくシオニズムになるとは思うのだが、具体的な土地と言うか領域のこととばかり、理解されているのは実に残念である。それは本来、神の居られるところに戻る、という大命題のはずであり、神とともに過ごす世界に戻るということ(であるからこそ、神殿が重要であり、イスラエルの王たるもの、ソロモンの例に倣い、本来的には、そんなものは不必要だと、ダビデには言われたはずの神殿の奪還と再建をみんなやりたがる。神のもとに民を戻し、そこに神と民とともに住むこと、それこそが王である祭司がなすべきことだったことは、何故か都合よく忘れられていて、イスラエルの地の政治的奪還とか、神殿の再建とか、神殿の修復ということに、問題が矮小化されているのが残念でならない。人間が創造されたときの本来の姿であるべき、「神と共に生きる者たれ。神のもとに戻れ」と神ご自身は、アブラハム以来一貫して言い続けておられるにも関わらず。

                   

                  この回復を、ヘンデルはメサイアの中で、次のような作品に仕上げている。

                   


                  神と人が出会う場はどこか?
                  人は神と出会うという感覚をもつことがあるのだろうか。

                   

                  日本の神道の場合、神はできるだけ会いたくなく、遠ざけたい存在であることが多い。日本で神になるもののは、祟りをもたらす存在であることが多く、祟をもたらすことのないように、自分が不幸にならないように遠ざけておくべきものなのであり、日本では、不幸な出来事や神罰が起きないようにお祭りしておく(すなわち神社にうやうやしく鎮座ましましていただき、お籠もりいただく)べき存在なのである。日本の神は、人々の社会の中にフラフラと出てきてもらっては、基本的に困る存在なのだ。その神理解が、ある面、旧約聖書、新約聖書の神と日本人の関係を遠くし、神と共に生きるということを、理解し難いと感じさせている部分があるだろう。

                   

                   

                  神と出会う場とは

                  神と出会う、という場面が聖書の中に何回か出て来る。まず、創世記のエデンの園での記述、アブラハムが出会ったという記述、モーセが出会ったという記述(複数回)、と何回も出てくるし、弟子たちがイエスと出会ったという記述とか、パウロが出会った記述とか、様々な神と出会った人々の話が、たくさん出てくる。どうも、この個人的な神との邂逅という経験は非常に重要なのではないか、と思うのだ。

                   

                  天幕に住まわれ、その後、神殿そのものに住まわれたヤハウェの栄光に満ちた臨在は『天幕を貼る(住む)』という言い方で言及された。すなわち シェキナー(Shekinah)である。それは天の神が神の民とともに、民のためにこの地に臨在するというあり方である。

                  イエス時代のトーラーとの関係、すなわち贖われた民のための神の賜物との関係については、同様な考え方が深められていた、もしトーラーを守っているなら、神殿そのもの、すなわち天と地が出会う場にいるかのようにみなされた。以前も、同じ方向を示すもう一つの要素を見た。それは、神の「言葉」である。発することで全てを創造したことばが、もう一度すべてのものを新しくする。(同書 p.129)

                   

                  この部分を読みながら、ヘブライ人への手紙の大祭司に関する記述を思い起こしていた。

                   

                  この民族として、あるいは、人間集団としての民のために、民の只中に共に存在し、臨在する、という理解は、啓蒙思想に彩られた近代のヨーロッパを通過した上で到達した、現代の日本のプロテスタント系のキリスト者にとっては、なかなか理解し難いものではないか、と思う。なぜなら、神とともに生きることも個人の世界に矮小化され、共同体として生きるという側面が、特にアメリカ型社会で形成されたキリスト教界の中で希薄化しており、今、それをもう一度取り戻そうという動きがあるからである。それは、ミーちゃんはーちゃんとしても、同様である。

                   

                  【口語訳聖書 ヘブル人への手紙2:17〜18】
                    そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

                   

                  あるいは

                   

                  【口語訳聖書 ヘブル人への手紙 4:15〜16】
                  この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

                   

                  あるいは

                   

                  【口語訳聖書 ヘブル人への手紙5:1〜6】

                   大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。
                   同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、
                  「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」
                  と言われたかたから、お受けになったのである。
                   また、ほかの箇所でこう言われている、
                  「あなたこそは、永遠に、
                  メルキゼデクに等しい祭司である」。

                   

                  この部分を読みながら以上のような場所が思い浮かび、この部分の意味が以前とは少し違って見えてきたのである。つまり、キリストが我ら人間のただ中にいる、つまり、神が我らの中にいるという理解で読む事で、違った意味として、これらの聖書箇所が見えてきたのである。確かに、これまでも、キリストを中心とするイエスを神と信じるもののただ中にいる神、と言ったような読みに変わってきてはいたのだが、上で紹介したライトさんの表現を読んで、それは確信に変わった。キリストが我らの中にいるということで、キリストが代表者である共同体であるがゆえに、イエスのゆえに神によってのレスキューの対象とされたもの、救済されるものとなった、という理解に変わった。

                   

                  さらに、「もしトーラーを守っているなら、神殿そのもの、すなわち天と地が出会う場にいるかのようにみなされた。」という概念は大事なものだと思う。ムスリムもこのような理解をもっているらしい。その意味で、彼らがそれぞれの場所で、どこにいようとある時間帯に礼拝することにこだわるのは、天と地に交わる場にいて、神とともにいることを覚える、ということに拘っているためらしい。それを考えた時に、神と共にいる、ということと祈りの問題を考える。ソリチュードと言うのは、どうも神と共に存在するということに集中していき、そして、神と共に静まりのうちに自分の内面を見ていく、ということではないか、と思うのだ。

                   

                  先日、明石市でやっているヘンリ・ナウエンの研究会(と言っても、ナウエンの本を数ページ読んで、その部分に関係あることや、ないことなども含め、勝手に思ったこと、思っていることを適当に言いあう会)で、読んでいるThe way of the heartと言う書籍の中に次のような部分があった。

                   

                  The Word of God is born out of the eternal silence of God, and it is to this Word out of silence that we want to be witnesses. Henri Nouwen, The way of the heart p.39

                   

                  正に、創世記の冒頭、ヨハネの福音書の冒頭でのことばは、静まりの中から突然に出てきたものであったはずであるし、また、エリヤが山の中で神から受けたそのことばは、音なき中から出てきたものであったし、羊飼いがイエスの誕生を告げられたときも、変貌山でも、また、バプテスマをイエスがヨルダン川で受けるときも、全くの静寂の中から突然に現れた声ではなかったか、と思うのだ。

                   

                   

                  エリヤに現れた声なき声のシーン https://suburbanhermitblog.wordpress.com/2016/06/10/elijah-at-horeb/ から

                   

                  また、詩篇は次のように言う

                   

                  【口語訳聖書 詩篇 19:1〜9】

                   もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
                   この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
                   話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
                   その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
                   日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
                   それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
                   主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
                   主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
                   主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

                   

                  確かに、現代は、音が多く、ことばの洪水とでも呼ぶべき、ことばが氾濫している社会となっている。このような現代社会の中で、我々は生きている。その中にあって、その静寂の中で、神と出会う、神と向き合うという姿勢は、案外大事なのではないか、と最近は思っている。

                   


                  天と地の関係とは?
                  この世界と神との関わりとして、ライトさんは次のように書いている。

                   

                  その働き(引用者註 神の働き)は、捕囚と回復、神による救出事業、義をもたらす王、天と地を結ぶ神殿、神の民を結びつけるトーラー、そして、創造を癒やし、回復する壮大な物語のクライマックスに導くためである。それは単に天と地が結びつくというだけではない。それこそ神の未来であり、また神の現在なのである。
                  なんと素晴らしい夢であることか。豊穣で、幾重にも折り重なり、哀愁(ペーソス)とパワーに満ちている。しかしそれは(その夢の上に築かれ、建てられたすべてを含め)ただの夢物語でしかないと、誰が言い切れるだろうか。では、それを真実として思い描くべき根拠はどこにあるのだろうか。
                  新約聖書全体が、この問いに答えるために書かれている。そして言うまでもなく、その答えはすべてナザレのイエスに焦点が合わされている。(同書 p.130)

                   

                  ここで、天と地が結びつく、ということをライトさんは、それは現在的な出来事でもあり、また将来的な出来事であり、それが聖書全体(旧新約聖書全体)のクライマックスであるという。この概念は、非常に大事だろうと思う。主の祈りにも、これは現れているのではないか、とミーちゃんはーちゃんは、思うのである。

                   

                  【口語訳聖書 マタイによる福音書 6:9〜10】
                  天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
                  御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。天においても

                   

                  まさに、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」と祈ることは、天と地が現在においても、将来においても、そして過去においても実現してきたし、している、していくことであり、我々が求めるべきことのような気がする。

                   

                  キリスト教の一部のグループに、天国のみに期待とか希望を置いておられるのではないか、と思われるような人々がおられて、この地上での生活はどうでもいいとか、将来のことについては、後は野となれ山となれ、と思っておられるのではないか、と思いたくなるような方々もおられる。それがだめだ、とは言わない。しかし、それは、どこか歪んでいるのではないか、と思う。


                  天国のみに期待を置いておられるのではないか、と思われる人々がおられる一方で、現実の生活の厳しさ、経済的な困窮があるが故に、その人達に対する現在の経済的な祝福、あるいは豊かさを、神のみ思いに優先させておられるのではないか、と思われるばかりの表現をなさる方もおられる。それもまた、どうか、と思うところもある。


                  本来はどちらか一方が重要なのではなく、どちらも重要なのだと思う。そして、その重要な事がイエスにかかっている、とライトさんはいう。それはそのとおりだ。であるからこそ、先に引用したヘブライ人への手紙の中で、天と地を結ぶ存在としての大祭司としてのイエスがあり、イエスご自身は、ご自分を指して、”神殿”と呼ばれたのではなかっただろうか(ヨハネ2章)。また、サマリアの女に、礼拝する場を問われた時、次のように言われたのではなかったか。

                  【口語訳聖書 ヨハネによる福音書  4:19〜21】
                  女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。
                  イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」


                  つまり、神と人が相まみえる場が、物理空間として定義され限定されてきたエルサレムにあった神殿ではなく、神と人がともに相見える場が、祈るその場所に移行したようなきがする。

                   

                  ちょうどこの記事と言うか本日の部分を書いている最中に、天理大学でのテル・レフェシュ遺跡の講演にでたので、イエスがおられた時のシナゴーグのことを、今もなお考えている。シナゴーグの成立は諸説あるが、対ローマ戦争で神殿が崩壊して以降、ユダヤ人社会、改宗ユダヤも民族的なユダヤも含めて、シナゴーグがその信仰生活の中心になっていく。とは言え、その前の次代でも、ガリラヤなどの神殿から遠く離れた地においては、その都市国家のコミュニティの中心として、生活に関しても、都市運営に関しても、宗教運営に関しても、ガリラヤのユダヤの民にとっては、シナゴーグが大きな意味を占めたであろう。そこを根城に活躍したパリサイ派も、市民の生活と小さな都市国家的社会において大きな影響力を持ったであろう。

                   

                  現代ギリシアのシナゴーグの内部の様子 http://www.edwardvictor.com/salonika_main.htm から

                   

                  ムスリムにも様々な人がおられるように思うが、しかし、モスクだけではなく、信仰と生活が一体化しており、どこにあっても神と共に生き、神に従順にいきるという関係に生きている人々が多い、という意味において、自らの生き方を反省することが最近多い。神は教会にだけ、おられるのではなく、様々なところにおられる、そこで神に仕え、神を拝する、ということについて、そして、この地上の生活の中で神を愛し、神に仕えるということについて考えながら生きてみたい、と思っている。

                   

                  クリスマスイブの日は、別の記事を書いて、また、月曜日から続く。

                   

                   

                   

                   

                  2017.01.02 Monday

                  NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その19

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                    さて、今日もN.T.ライトさんの、『クリスチャンであるとは』からミーちゃんはーちゃんが読んで思ったことについていつものようにたらたらと、書いてみたい。

                     

                    イエス時代のイスラエルの人々は

                    イエスをどう理解したか
                    イエス時代の人々で生きている人々は、残念ながら、現時点では存在していない。イエスについての聖書外部の資料は、ないわけではないが、それほどたくさんあるわけではない。

                     

                    「いやいや、福音書があるではないか」というご意見も理解できないわけではないが、福音書がどこまでの歴史文書として耐えうるか、ということを言い出したら、収集がつかない議論が巻き起こりかねない。ただ、福音書に書かれていることを抜きに、当時のイスラエルの社会において、イエスがどのように受け止められたのか、を考えることはできない。

                     

                    ちょうど、現代の日本という文化コンテキストにおいて、当時のユダヤ社会でのイエス様がなされたことやそのご発言の意味を考えることは、中国の歴史書に記載された邪馬台国の記述をもとに、現代の日本人が、当時の日本列島の様子を探ろうとするようなものである可能性は高い。時間のスクリーン、言語のスクリーン、習慣のスクリーン、文化のスクリーン、当時の社会で共有されていたヘブライ語聖書理解のスクリーンなどのスクリーンが、幾重にも重なっていたものであるし、さらに、福音書記者のスクリーンを通して、何重にも重ねられたものを通して見る感じがするのである。


                    以下で、ライトさんが引用している部分に関しても、そのような幾重にも重なったスクリーンを介して、イエス様の言葉を垣間見ている感じがあり、ミーちゃんはーちゃんもどのように理解すべきか、当惑を覚える部分ではある。公生涯に入った時以前の情報が殆ど無いので、このようなことを公生涯以前に主張したということは、福音書からは推定あるいは推測できないが、福音書の中でも、あとに引用するマタイの福音書のあたりから、以下の部分で引用されているような表現が出てくるのである。

                     

                    そこで、イエスがあるときから、「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、3日後によみがえらなければならない」と語り始めた時、弟子たちは確実に次のように理解したと考えられる。すなわち、イエスの言葉は、聖書の預言を響かせている暗号(コード)であって、神の王国の到来と神の未来の訪れを暗示し、長い間待ち望んでいた希望がまさに成就されようとしているのだ。(『クリスチャンであるとは』p.150)

                     

                    ここを読みながら、思ったことは、言われてみれば、確かに、イエス様は、ある段階から、自分が死ぬことをかなり強く主張し始めていることは確かである。バプテスマをヨルダン川でバプテスマのヨハネから、受けた時に、鳩のような聖霊がおりてきたときから、そのようなことを言い始めているわけではないし、先にも述べたように、そもそも論として、公生涯以前のイエスに関する記述は極端に少ない。しかし、公生涯のある時点からは、ものすごい勢いでイエルサレムに突進するかのように、イエスはイエルサレムに向かって行くことがわかる。そして、後に引用するように、弟子たちは、イエスが王であり、将来、自分たちが王の側近となるかのような会話も、かわされていることが記載されるようになる。その意味で、当時のイスラエルの人々の一部にとっては、ローマの圧政からの解放者としての期待が、イエスに集まっていたような印象は拭えない。その極みが、以下の部分として記載されている。

                    【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                    21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
                     21:10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
                     21:11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
                     21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
                     21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

                    まさにイエスは、群衆から「ダビデの子」と呼ばれるばかりでなく、預言者とも呼ばれ、その後に、メシアとして為すべき、イエルサレム神殿のきよめというか、機能正常化にむけてのパフォーマンスと思われることをしておられるのである。その意味で、このイエルサレム入城時のイエスは、正に、人々には「メシアである」と認定されていた、ということをマタイ福音書の記者は言っているように思えてならない。

                    さらに、バプテスマのヨハネから使わされた弟子たちにイエスが語られたことは、ある意味をもっているのである。つまり、イザヤ書に預言されたものは誰か問題ということである。

                     

                    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
                     7:21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
                     7:22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
                     7:23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

                     

                    知識を求めるユダヤ人ではないタイプの、しるしを求めるとされるユダヤ人にとって、イエスがなしたことのその意味はイザヤ預言の成就を意味したのではないだろうか。

                     

                    それを考えると、ユダヤ人によってイエスが逮捕された時、彼らの希望について、どのような感想をもったかに関しては、それほど明確に破棄されてはいないが、イエスの右の座に座すなどという大それた野望を持ったことを思い出した弟子はどれほどいただろうか、とも思う。とは言え、人はうまくいっている人のそばには寄っていくものであるが、うまく行かなくなった人のそばに居続ける人は殆どいないのが、これまた現実である。所詮、人とは、そのようなものであるとは思っているけれども。

                     

                    当時のユダヤでのメシア待望論

                    ライトさんは、当時の状況とメシア待望論について次のように書いている。

                     

                    当時のユダヤ人のすべてがメシアの到来を信じ、待ち望んでいたわけではない。しかし待ち望んでいた人はかなり多くいて、その油注がれたものが到来した時何をしてくれるのかという期待感を、何度も繰り返して心の中に温めていた。メシアはイスラエルの仇敵、すなわちローマ帝国と必ず戦ってくれるだろう。そして神殿を再建するか、少なくともきよめ、回復してくれるだろう。ヘロデ家が神殿の再建に取り組んだのも、自分たちこそ真の王位継承者であるとの主張を押し付けるためだったのだ。メシアはイスラエルの長い歴史をクライマックスに導き、ダビデとソロモンのときと同じように君主国家を再建するだろう。メシアはイスラエルに対する神の代表となり、神に対してはイスラエルの代表となるだろう、と。(同書 p.151)

                     

                    新約聖書の中に、イエス誕生前後の闇と言うか、悲しみの部分として、ヘロデによる乳幼児虐殺事件が記載されている。クリスマス・シーズンは、「喜びの中にあった」と語られることが多いし、喜びのイベントとして、クリスマスは語られることが多いが、本来、むしろ、闇の中にあったと考えるほうがどうも良いのではないか、ともう数年前から考えている。ヘロデの乳幼児虐殺事件が史実かどうか、他の資料による確認をしたことは、ミーちゃんはーちゃんにはないが、もし他の資料により確定できる史実であるとすれば、歴史に悪名を轟かせるほどの、実に酷いことをヘロデ家の人々は、したわけである。

                     

                    その史実性を云々するよりも、その中に、「ヘロデ家が神殿の再建に取り組んだのも、自分たちこそ真の王位継承者であるとの主張を押し付けるためだった」ということを示すために神殿を建て、そして挙句の果てにメシア殺害を狙った乳幼児虐殺事件を起こしてまで、自分たちの安全とその地位を保全しようとしていた、ヘロデ家の皆さんのビビリ具合が、この乳幼児殺害事件の記述に実によく現れているのではないか、とは思うのだ。メシアの役割を果たしたくて、そう思われたくて仕方がなかった、ヘロデ家の皆様にとっては、本物のメシアに来てもらっては、本当に困るのだ。そして、それは、メシアかもしれないと思われたバプテスマのヨハネの投獄と殺害とヘロデヤの娘のサロメ・ダンスにつながっていく。

                     

                    サロメのダンス Gozzoli The Dance of Salome

                    http://en.wahooart.com/@@/9GZH4W-Benozzo-Gozzoli-Gozzoli-The-Dance-of-Salome

                     

                     

                    平和な日本の恋ダンス

                     

                    この乳幼児虐殺事件と関連して、イエスの降誕直後のエジプト行きという事件の中にも、旧約聖書以来のパターンである、行きつ戻りつするという、基本テンプレートというか、基本パターンが含まれているのが、非常に興味深い。

                     

                    油注がれたもの、と呼ばれたものには、神殿の再建や、少なくとも神殿の正常化が期待された(これは上で引用したイエルサレム入場直後の出来事とつながっている)ということは、それはとりもなおさず、神を中心としたダビデ・ソロモン王朝時代の栄光に満ちたイスラエルの復権という、非常に国粋的な思想でもあったであろう。そして、その国粋的な思想は、反ローマ帝国という活動とシンクロしたことも想像に難くない。イエスの弟子たちには、ユダヤ熱心党の人々も含まれているのは、そのへんの国粋主義的な運動体の一部との親和性をイエスの発言がもったである故であろうし、新約聖書に記載されている「誰が一番偉いのか?」論争や以下の部分で記録されている記載部分にも現れているように思う。

                     

                    【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                     20:17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、
                     20:18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、
                     20:19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
                     20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
                     20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
                     20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
                     20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
                     20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。


                    特に24節にあるように、他の10人の弟子たちが憤慨しているから、まさか十字架の右と左につかせてくれ、とゼベダイの子の母とゼベダイの子どもたちと呼ばれる二人が願ったわけではないだろうし、実際にイエスの王座についたときの隣人は強盗犯の皆さんだったし、弟子たちではなかった。

                     

                    ここで、「わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」とイエスは弟子たちに問うておられるし、それは毎週の聖餐でも、個人的にミーちゃんはーちゃんにも、問われていることではある。本当は、イエスのさかずきは、飲めないし、飲みたくないし、それにあずかることすら、できない存在がミーちゃんはーちゃんであるのだ。しかし、イエスが「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう」と言ってくださるが故に、「取りて飲めよ」と最後の晩餐の時に弟子たちにイエスがおっしゃったが故に、ミーちゃんはーちゃんごときも、最後の晩餐でイエスから拝領した弟子たちに倣い、拝領しているのである。ただし、毎週現実空間で渡してくれるのは、司祭の方であるけれども。

                     

                     

                    最後の晩餐(エチオピア正教会のイコン こういうフォルクアート風のは結構好き) 

                    https://jp.pinterest.com/pin/478085316666677915/ から

                     

                    ところで、この聖餐式に関しては、ナウエンの「この盃が飲めますか」という本を読んでから、聖餐の意識が変わったのである。あの本が、ミーちゃんはーちゃんの聖餐式概念を変えてしまったと言って良いと思う。本来、我々には飲めないイエスの盃に与るものとして、イエスが変えてくださろうとしておられることを覚える日々を過ごしているのである。あの本は、ミーちゃんはーちゃんの聖餐理解を大きく変容させた本であった。

                     

                    我らは、王としてのイエス、油注がれたものとしてのイエス、勝利者としてのイエス、という側面にばかりつい目が行きがちではあるけれども、それは呪われるものとなっていくことを神の身思いであることを受け止める、という選択したイエス、神の苦しみを担うものとなったイエス、砕かれるものとなったイエスということに連なるものであることも、聖餐は表しているし、そのことの意味を聖餐に与るたびに、思わされているのである。それが、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんの今の思いである。

                     

                     

                    クリスマスのことを書いているのに、なんだか湿っぽくなってしまった。さらには、新春早々、苦難のしもべの話になってしまったが、それもまた、キリスト、油注がれたもの、メシア、ユダヤ人の王・ナザレのイエスが、キリスト者、クリスチャンであろうとしている、今のミーちゃんはーちゃんにとって、ナザレのイエスがもっている意味でもある。

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    価格: ¥ 2,700
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                    コメント:おすすめしております。

                    評価:
                    ヘンリ・J.M. ナウエン
                    聖公会出版
                    ---
                    コメント:これが再販されないのが残念でならない。日本側の出版社が解散しちゃったので。

                    2017.01.04 Wednesday

                    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その20

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                      さてさて、松の内が開けようが開けまいが、本日もN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』からイエスに関しての部分を引用しつつ、そこを読みながら思ったことを、いつものようにタラタラと、書いてみたいと思う。

                       

                       

                      メシアと思われた人々と

                      メシアとしてのヨシュア

                      ここで、シメオン・ベン・コシバというイエスの直後の時代の人物が紹介されたあと、神殿再建が当時のユダヤ人において持った意味をライトさんは紹介している。そして、それに続く部分で、ライトさんは、イエスが示したメシア像が、当時の人々の期待とは大きく異なっていたことを、次のような文章で示している。

                       

                       

                      シメオン・バル・コクバ (または、シメオン・ベン・コシバ)時代鋳造の絵柄

                       

                      しかし当時の人たちは、メシアが苦しみを受け、まして死んでいくとは誰も思っていなかった。まして敵の手によって死んでいくとは思われていなかった。それはまさに、通常期待されることとは正反対だった。メシアは、イスラエルの敵との戦いで勝利をおさめると思われていた。それ故に弟子たちは、自分たちの際立った指導者は、神から油注がれた人物として受け止めていたので、そのイエスが、来るべき自らの死とよみがえりを語った時、それが文字通りのことを意味しているとは、とても想像できなかった。ユダヤ人の信仰にとってよみがえりとは、終わりの時代に神の民のすべてに起こることであって、歴史の途中で一人の人に起こることではなかった。(『クリスチャンであるとは』p.153)

                      という部分を以下で、解説してみたい、と思う。

                       

                      解放者(メシア)か、と思われた

                      様々な歴史上の人物

                      古代社会でも、現代の社会でも、解放をもたらす人々のことや、様々な苦しむ人々に、苦しみや痛みからの開放の希望を与える人物を、救世主(メシア)と呼ぶことがある。ヒットラーは、20世紀初頭の第1次世界大戦の賠償に苦しみ、不況に苦しむドイツ社会における救世主、すなわちメシアであることを期待され、救世主の役割を負っていった。前大統領にもうすぐなるオバマも、泥沼のアフガニスタンやイラク戦争からのアメリカを開放する存在、つまりチェンジを与えるかのような人々の希望を背負って、チェンジとはいったものの、完全にはチェンジしきれなかったこともあり、本来貧困層の支持を集めていた民主党の支持者層であった人々を、共和党の大統領候補の支持者層にチェンジさせてしまったのである。その意味ではチェンジを成し遂げたとは言えよう。そして、もうすぐトランプ大統領の時代が始まるが、彼は人々がもう一度アメリカの黄金の日々(それがいつなのかは、よくは存じ上げないが、おそらく1950年ごろではなかろうか、と思うが)に戻ろうということを、言っているのであるが、生産力を回復した西ヨーロッパ、アジア市場における中国という新興勢力の登場、エネルギーの基準の変容の中で、アメリカの世紀は、本当にくるのか、というのは少し疑問だと、思っているし、もはや、パックス・アメリカーナを実現する余力はアメリカにはない、とトランプさんは言っているようなので、どのようなアメリカが実現するのかは、興味深く観察していきたい。

                       

                      ヒットラーの演説

                       

                      オバマ現大統領 の演説 Change we needとかいてある

                       

                      トランプ次期大統領

                      (NHKは、この方の演説を見なかったのかもしれない…、見たからそれに協賛して正月のあの番組だったか)

                       

                      さて、まぁ、イエス以降、救世主ではないか、と印象を与え、そのように思われた多くの人々が出てきたが、その多くが、シメオン・ベン・コシバ同様、人々にとっての一時的な救世主と思えたけれども、ただの人でしかなかったことが、明らかになっていった。

                       

                      イエスが救世主である、ということに当時のユダヤ人の側から疑問がつくのは、ローマからの開放を与えるものと思われつつも、ローマにより呪われたものとして刑死というかたちで殺され、ローマからの軍事的、政治的開放を行いえなかったという意味では、イスラエルの人々の観点からでは、軍事的、政治的な観点からは、イスラエルにとって、期待だけ過剰に発生させるだけで、結局は、現実的には、当時の彼らにとって即物的で政治的な何かを、何も成し得なかったが故に、当時のユダヤの人々からすれば、偽キリスト、偽メシアと言われても仕方がない部分はあるだろう。

                       

                      しかし、まぁ、もう少しマイクロなレベルに着目してみれば、キリストないしメシアではないか、と言われた他の人物がなし得なかった旧約聖書の預言されている、そのしるしを、しるしを求めたユダヤ社会の中で、そして、バルバロイと呼ばれる異邦人の社会の中で、実現をしたことだけは、確かなので、その意味では、ミーちゃんはーちゃん個人としては、メシアであり、キリストであるとすることが、適切だと思っている。

                       

                      苦しみを受けるメシアって、一体?

                      しかし、当時の人々にとって、ローマによる刑死と苦しみと死からの復活は、イエスが語ったことが、当時の人々にどのような意味をもったのかは、不勉強でミーちゃんはーちゃんにはよくわからない。弟子たちとイエスの語っていることのこのイエスの王国に関することに関して、結構論点がずれているかのように見える対話をしているから、弟子たちはあまりわかっていなかったのだろうし、理解不能ではあったのだろう。それが、メシアの発言であることが…。

                       

                      あと、この部分を見ながら、気になったのは、”ユダヤ人の信仰にとってよみがえりとは、終わりの時代に神の民のすべてに起こることであって、歴史の途中で一人の人に起こることではなかった。”と書かれていることである。サドカイ派にとっては、「死者の復活はない」としていたことが福音書には記載されているので、それは、「歴史の過程の中での死者の復活」ということなのだろう。それでも、彼らは、最終的な世界の終わりの時代には復活はあるとするもの、という点では、パリサイ派とも共通であったのかもしれない。多分そうだとは思う。回復が起きることへの希望については、共通みたいだから。

                       

                      そこで、先日このブログ記事『 天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた 』でも紹介した、天理大学で行われたガリラヤのシナゴーグの発掘に関する報告会で重要なポイントは、ガリラヤのシナゴーグが、当時のユダヤ社会、より正確には、ガリラヤにおけるユダヤ人社会において、イエルサレムの神殿との関係で、当時のガリラヤの人々にとって、どのような意味を持ったのか、ということの一部を類推させる、あるいは、そのことを考える祭の参考になる実物を伴う形でのデータを我々に与えてくれる、ということなのである。あくまで、類推と検討のための資料を与えてくれる、という意味で、あの発掘は重要なのである。イエスがそこにいたのかどうかは、その意味であまり重要ではない。西洋の一般のメディアはそイエスがそのシナゴーグに行ったかどうかに着目しようとするかのような記述が多いのが、実に残念な限りである。


                      イエスの最後の過ぎ越しの祭の時に起きた事案は、前回「 N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その19 」で紹介した「ダビデの子にホサナ」という掛け声をもって、迎え入れられたイエルサレムの入場と、その直後に記録されている、神殿正常化のため行為、すなわち、両替商の机をひっくり返している事案に加え、更に、犠牲となるべき生け贄用の家畜や鳥類の販売証人の商業行為に関して、物理的な書力を用いた威力営業妨害事件である。これらの動物商にしても両替商にしても、神殿における商業者は当時の社会において、一種の必要悪であったろうし、サヤ取りをするために、人の足元見た値段をつけていたことは、お祭り価格ということが現在もあるように、当然、当時からあったであろう。

                       

                      これらの状況、人が集まっている、そこで騒擾のきっかけとなりかねない威力営業妨害行為をすることは、社会の騒擾へとつながりかねない要素が見られたのである。現在の日本なら、機動隊出動とか、現代のアメリカでは、州兵(National Guard)出動が想定される事案なのである。ワシントン平和行進にしても、平和裏に行われたとはいえ、当時のアメリカの連邦政府及び通過州の州政府のピリピリ度合いは半端ではないものがあったのである。


                      Selma事件 州軍が動員されたはず

                       

                      渋谷ハチ公前で群衆整理に当たるDJポリスの皆さん

                       

                      Little Rock 高校(アフリカ系アメリカ人が白人だけの公立高校に通学したアーカンソー州の公立高校)の

                      事案で動員されたNational Guard

                       

                       治安維持当局にとって、人が集まるという行為、それがデモであれ、革命であれ、それは、実に恐怖すべき事案なのである。結局ベルリンの壁を壊した事件というか、ベルリンの壁が無意味になった事件に関しても、人々が通り過ぎようとし始めると、もはや止めることができなくなって、あの悪名高い壁が割りと簡単に崩壊してしまったし、そして、崩壊するとは思えなかったソビエト連邦共和国まで崩壊することになってしまったのだ。


                      ベルリンの壁の崩壊した時の映像

                       

                      過ぎ越しの祭とその意味
                      さて、群衆の話はおいておいて、本来取り扱うべき過ぎ越しの祭を思い巡らせてみたい。

                       

                      膨れ上がる群衆とともにイエスと弟子たちが、最後の過ぎ越しの祭のためにエルサレムに到着した時、事態は頂点に達した。その祭りを選んだのは偶然ではなかった。イエスは聖書の昔のものがたりの象徴的な意味について、他の人達と同様に精通していた。イエスが思い描いていたのは、神が最後の偉大な出エジプトを実行することだった。すなわち、奴隷にされているイスラエルとその世界をバビロンから救い出し、新しい約束の地、すなわちイエスによる癒しがその先がけとなって進行しつつある新しい創造に導くことであった。(同書 p.155)


                      その祭りを選んだのは」と言う部分の主語は、イエスである、とも取ることが上記引用した部分では、理解可能な表現となっている。英語では、The choices of the festival was no accident.となっている。その意味で、ライトさんは、主語を明確化しない形で、それも、おそらく意図的に書いているようなので、ここをイエスが過ぎ越しの祭を選んだということでもなく、そのようになるべくしてなった、という程度の意味だろうと思う。

                       

                      聖餐と出エジプトと過ぎ越しの祭

                      ところで、伝統教派以外の教会では、この過ぎ越しの祭と日曜日の意味の関わりが極めて薄くなっていて、さらに聖餐式とこの過ぎ越しの祭の関係性とその意味の理解は極めて薄くなっている事が、多いように思われる。それは、本来的には、毎週日曜日は、神の過ぎ越しが起きていること、すなわち、毎週、神が我らの罪に対して、神がその怒りを過ぎ越してくださっていることを覚えるため、という象徴的な意味があるのであって、単純にイエスの復活を覚えるためだけでもないようだ。その意味で、毎週Exodus(罪からの開放という意味での開放がイエスの十字架により成し遂げたことを記念)していることのはずなのだけれども、このあたりの理解があまりない方も少なくない。それこそ、過ぎ越祭の時に保守的なヘブライの民がしているらしいように、「なぜ、この儀式をするのですか?」と子どもたちか会衆から、問いかけしてもらうことは、してもよいのかもしれないなぁ、と時折、思ったりもする。

                       

                      【口語訳聖書 出エジプト記】

                       12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
                       12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
                       12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。
                       12:28 イスラエルの人々は行ってそのようにした。すなわち主がモーセとアロンに命じられたようにした。

                       

                      イスラエルでの過ぎ越しの祭

                       

                      過ぎ越しの祭に関するCNN(英語)の説明

                       

                      まだ、説教を担当していた、今から7〜8年前のイースターに、イースターとこの過ぎ越しの祭と、イエスの十字架と過ぎ越しの祭の動物の犠牲との対応関係などを教会で聖書との関係を引用しつつ、お話したことがあるが、その時に、ミーちゃんはーちゃんが幼稚園から小学校低学年頃まで、日曜学校の先生をしていただいていた信仰歴の長い方から、「この聖餐と十字架と過ぎ越祭りとの関係のお話を、今日はじめて知りました」といわれて、「え、そだったの?」という状態になって、かえって驚いたことがある。そして、「案外、聖書の理解って難しいんだなぁ」とその時、思ったのである。

                       

                      また、ナウエン研究会の参加者で信仰歴の割と長い方とお話しているときにも、案外、この対応関係がご理解されていなかったことがわかったことがあり、この辺のことはもうちょっと、きちんとやったほうがいいのかもしれないなぁ、と思っている。まぁ、教会暦がいい加減になっているから、という部分もあるのだろうけど。

                       

                      ところで、引用部分に、「イエスが思い描いていたのは、神が最後の偉大な出エジプトを実行することだった」という表現もあるが、ここで、イエスが思い描いていた、となっている部分はHis visionとなっていて、翻訳者が悪いというよりは、まぁ、ライトさんの英語が日本語に訳しにくいということなのだと思う。したがって、時々英語のオリジナルを見たくなる事が多い。まぁ、このHis visionをイエスの目的とイエスの目標と訳すか、神の目的、あるいは、神のもくろみ、と訳すか、というのは、案外難しいような感じがするのである。また、ここで出エジプトとかかれているのは、”exodus”という表現であり、まぁ、現代日本語の感覚で言えば、大脱走か、大脱出ということだろう。


                      大脱走の予告編(英語版)

                       

                      問題は、どのように呼称するか、ということではない。問題は、イエスが十字架の上でなそうとしたことが、我々が罪に捕囚されている、あるいは捕囚されていたことからの開放、あるいは、救出ないし自由の回復のための業であるという点である、ということを、現代に生きる人間の小テキストにおいて、どう考えたら良いのか、ということであろう。ここで出エジプトと書かれているが、それはexodusなのであり、他人から拘束される状態からの開放を告げ知らせ、それが成し遂げられた、ということなのだ、と思う。ある面で、拘束されていることの、正当性や妥当性は問う必要は必ずしもないと思う。そこで、その喜びを示すための記念行事があり、過ぎ越しの祭があり、そして、それを表す生産があるということなのだ。

                       

                      出エジプト、あるいは大脱走、あるいはエクソダス(exodus)、罪からの脱出ということは、現代で言えば、先にも少し紹介した動画にもあるように、秘密警察が支配していた、東ドイツという国家制度からの脱出、にちかいかもしれない。イエスの十字架は、ベルリンのゲートが壊れたことに似ているかもしれない。誰かがベルリンの壁を通過したように、イエスによって罪という人を閉じ込めていたような壁が崩壊し、そこを通過して人が雪崩のように神の国に押し寄せるようなことが起きたのである。だからこそ、以下の動画のように人は喜んだのだ。我々が、それを覚える日曜日を、そのように喜んでいるかどうかは、もう少し問われても良いかもしれない、とは思う。

                       

                      ベルリンの壁が1989年に落ちたときの映像


                      その40年前の1948年のベルリンの壁の前身が建設され始めかけたことにより行われた
                      ベルリン空輸作戦の模様 
                      当時、今よく知られている鉄のカーテンないし、ベルリンの壁が物理的に存在しなくても、ベルリンの西側に居住する市民と軍人が人間として東側(共産主義国の内部)の浮小島のようにして存在した西ベルリンの領域において、生きるためには、当時は、この大掛かりな輸送作戦が必要だった。

                       

                      先行現象としてのイエスの奇跡

                      ここで、「イエスによる癒しがその先がけとなって進行しつつある新しい創造に導くことであった」と書かれていることは、the new creation of which his healing had been advance signposts. に対応するのだと思うが、これまた訳しにくい部分である。

                       

                      もう少し書いてみると、盲人や足が不自由な人、ろうあ者が喋れるようになることは、将来の新しい創造で発生する回復がこんなふうになるよということを示すための先行事例のようなものだ、位の意味なのだけれども、このように説明的に日本語変換してしまうと、意味はわかりやすくはなるかもしれないが、味わいそのものがなくなると思う。実際、この部分は、翻訳された上沼さんも相当苦労した箇所の一つとして、大阪での懇親会で、少しお話されていたことの一つであった。まぁ、ミーちゃんはーちゃんのように説明的に日本語変換してしまうと、不用意に長くなるので、このように表現されるしかなかったろうなぁ、とは思うのである。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

                       

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