2018.05.19 Saturday

KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1)

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    今日は、先日枚方市で開催された、KDK神学会「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回に出席してきたときの概要をご紹介したいと思います。個人的にはいつものように、むちゃくちゃ面白くて、知的刺激を受けたのですが、多くの人にとってはなんのことやら、と思いますので、そういう方はどうぞ、このシリーズは、スルーして下さいまし。

     

    会場となった当日の教会

     

    当日のメモを元に、できるだけ、捕捉を入れ、わかりやすく書いたつもりですが、そこはそれ、本人の方々じゃないので、完全には、書ききれていない、説明できてないところがあります。誤りや誤解は、全て、このブログの著者のミーちゃんはーちゃんにありますので、ご容赦をば。「ブログごときで責任追求とか」、って心底野暮だと思いますけどねぇ。文句言われたら、すぐ隠しちゃえば(ボットさんから見えない状態にすればいい)いいだけの話なんで。

     

     

    まず、最初に参加者の全員の自己紹介があり、この本の編集者の方や、名古屋から来られた牧師先生、総勢20人くらいのかなり幅広い方が来られたことが自己紹介を通してわかりました。

     

    上沼先生、千葉先生と出会う…

    上沼先生から、最初お話があり、今回の企画に至った経緯のご説明がありました。 千葉先生との出会いは、今から3年前の2014年、千葉先生の『真の哲学』の素材があり、まとまっていなかった段階で、1964年に、上沼先生たちがその立ち上げにかかわった北海道大学クラーク聖書研究会設立の設立50年記念会の時に、上沼先生に講演依頼があり、その当時顧問をしておられた千葉先生とのおつながりができたことがご紹介されました。

     

    2014年当時、上沼先生は、N.T.ライトの信徒向けの一般書籍で初めて邦訳された本である『クリスチャンであるとは』が出版され、その本を翻訳する過程で、ローマ書3章22節のピスティスをどう訳すかについて、従来、このピスティスがイエスに対する信仰といったかたちで、対格として理解してきた経緯で考えてきたことについて、ご講演されたようです。

     

    その後講演では、主格の属格で理解できるのではないか、ということを講演されたそうです。ご講演の後、当時北海道大学クラーク聖書研究会顧問であった千葉先生を表敬訪問されたことが紹介されました。

     

    ピスティスについて

    上沼先生は、上沼先生のあるご友人の方から、アリストテレスの研究者として、上沼先生のご友人の方から紹介を受けられたようですが、表敬訪問してお話された時に、千葉先生から、「ローマ書3章22節の理解が千葉先生ご自身の現在の研究テーマなんです」と自己紹介され、その際に、実はローマ書3章22節のピスティスは、体格でも、主格でもないと言われて、大変驚かれたことが紹介されました。

     

    上沼先生にしてみれば、N.T.ライトの影響を受け、やっとピスティスが主格ではないか、とまで言えるようになったと思っていたそうです。そして、そのあたりぐらいから、このピスティス・クリストゥが聖書翻訳の問題と議論の俎上に上り始めた(大和郷にある教会のブログのピスティス・クリストゥーの記事が、かなりわかりやすいと思うんだけど)し、聖書翻訳も変わり始めたのに、千葉先生は、N.T.ライトが主張するような、主格の属格ではなく、むしろ、帰属の属格と理解できるのでは、といわれ衝撃を受けられたということが紹介されました。そして、このローマ3章22節のピスティスはいったい何なのだろうか、ということになった、とご紹介されました。

     

    その時、3つのことを千葉先生から言われたのだが、その3つ目に言われたこととして、ローマ書の1章には、神の怒りの啓示として、よくない思いに引き渡された、という「引き渡された」表現が3回出てくるのだけれども、この「引き渡された」という表現が神の啓示の表れだ、というお話をされたことが紹介されました。そして、ローマ書の3章22節のピスティスと、「よくない思いに引き渡された」(口語訳では「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」と翻訳)ということが、どこでどのように繋がるかがわからなかった、と当時の上沼先生のご理解についてご紹介されました。

     

    そして、本日は千葉先生の『信の哲学』の7章の意味合いをお話ししたいと思う、ということで、ご講演を始められました。

     

    上沼先生の講演の本体

    まず、千葉先生の本の付録2として付された千葉先生によるローマ書3章21節から26節のご紹介と7章のポイントの紹介に移りました。

     

    このローマ書3章21節から26節について、千葉訳のローマ書3章22節の翻訳(下巻の付録に付されている)では、

     

    神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるものすべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

     

    となっていて、

    ”というのも[神の義とその啓示の媒介である・・・・]分離はない。”

     

    という部分の理解が重要である、と上沼先生はお話になられました。

     

    世界ではじめての功績?MJSK?

    これは、すなわち、イエス・キリストのピスティス、この語は、従来、信仰と、信実、御霊の実としての誠実とやくされてきたものですが、このピスティスと神の義とイエスの信実との分離がない、と訳出しておられる。そして、ギリシア語のガルγάρという語から、ギリシア語のテキストからパウロが何を言おうとしているのか、という理解を千葉先生はお示しになられ用としておられるように思う、そして、これまで、この部分のどの訳でもこのガルという接続詞を適切に訳出してるものはないので、世界で初めての業績といえるのではないか、とお話になられました。

     

    そして、この理解をもとに、私なりの理解をしてみたい、ということで、上沼先生はガルという接続詞を、なぜなら、と考えたときに、どう見えるか、ということを考えてみたい、ということでお話を始められました。

     

    ローマ書3章23節から、なぜ「神の義とイエス・キリストの信が分離なき」といえるかというと、「ご自身が義である、すなわち、イエス・キリストご自身が義の知らしめである」ことを示しているからであろうといえるのではないか、ということでお話になられました。

     

    ところで、これまで、イエス・キリストを信じる私たちの信仰による義として、信仰義認を考えてきたのだけれども、私たちの中におられる神の義による信仰義認といえるのではないか、神の義が私たちにも現れるということで理解できるのではないか、とお話にされました。参加されていた、きよめ派の牧師(ミハ氏註 きよめ派という形容詞を持ちたのは、きよめ派の一般の皆さんに対する敵意や悪意を含んでいません。わかりやすさのために、単なる分類学上の記号として「きよめ派」という語を用いています。もともと私自身、きよめ派の影響を信仰生活において受けていますし)さんから、「それは聖化とどんな関係がありますか」と質問が入りましたが、「ここで神の義が現れる、というのは、聖化ということよりは、神ご自身の義が我々の中に現れることではないか」という説明がありました。

     

    この部分の議論を聞きながら、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、「あったり前田のクラッカー、当たり前ぢゃんねぇ」と思いました。というのは、我々が聖餐にあずかり、パンと杯をいただくというのは、キリストを内在させることを表す儀式である以上、キリストが我々のうちに現れるための儀式であり、そうであるがゆえにサクラメントなのであって、神の義が我々の日常的な生活のうちに現れるような、サクラメンタルな生活、ないしはサクラメンタルな生き方、生に導くためのものである以上、神の義が(ミハ氏註: 瞬間的なことが多いのだけれども。長期に渡ったら、有限で、有界たる人間の身が持たない・・・)我々の中に立ち現れるのは、当たり前だと思ったからです。

     

    あたり前田のクラッカーのCF(44秒くらいから)

     

     

    聖餐に関する賛美歌

     

    ノモスとはなにか?律法なのか?原理なのか?

      ローマ書3章27節でのノモスについて、新改訳は、原理と訳出している、新共同訳は法則と訳出しているけれども、千葉先生の翻訳では、「業の律法か、信の律法か」と律法と翻訳しておられ、このローマ書3章22−26節は、は神ご自身が義であることを示す翻訳となっていること、義の転嫁(Imputation)に関して、NTライトの発言や理解は、アメリカでも日本でも誤解されて伝わっているように思う。アメリカで誤解されたものが、そのまま日本に流入誤解され、義認論にまつわる誤解と、誤解に基づく議論が起きているように思う、とのご紹介がありました。NTライトは、義認論を否定してないのに、あたかも、否定しているかのようにいわれる傾向がある、というご見解が上沼先生から披露されました。

     

    業の律法と信の律法について 千葉先生の翻訳では、業の律法と信の律法と訳している部分の関連として、7章21節のノモスについては千葉先生は、律法と翻訳しておられるが日本語の新改訳聖書は、原理と訳している。そして、ローマ書7章の結論は、7章25節であり、千葉先生の翻訳では、「神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」と翻訳されている。この部分を素朴に読んだとき、「罪の律法と神の律法」とローマ書3章22節の「業の律法と信の律法」がパラレル(「罪の律法」=「業の律法」と「神の律法」=「信の律法」という関係)になっているかと思ってそのむね、千葉先生にお聞きしたところ、そうではない、との回答をいただき混乱した、というご自身の経験が紹介されました。

     

    律法の書かれているスクロール版の旧約聖書の読む時の姿勢

    (聖なる書物なんで、手で触ってはいけません。ポテチの粉がついた状態でなんて・・・ねぇ)

     

    信の律法は、モーセの律法を廃棄するか?

    ヌースとは何か?内なる人なのか?こころなのか?

    千葉先生によると、この部分、パウロが注意しながら、書いているとお話しされたことも紹介されました。ここで、千葉先生は、従来口語訳聖書では、心と訳されていることば(もとはνοῒ 語根はヌースνοῦς)を叡智と翻訳されていることを紹介されたうえで、神の律法と罪の律法は明確に分離しているけど、信の律法と業の律法(要するにトーラーとか、その極みである十のことば、十戒)は分離していない、とおっしゃったことが紹介されました。  そして、千葉先生の本では、3章と7章でパウロの視点が違うことが紹介され、3章は神の視点から、7章は肉を持っている人間の視点からパウロが記述していることを紹介され、神の視点から見た場合、「業の律法」は十戒、「信の律法」は矛盾しないはず(ミハ氏的ツッコミ: 当たり前じゃん、と思ってしまいましたし、イエス様はターミネータみたいに、律法を廃棄するために来たのではない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 05章 17節 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。〕といっているし、律法の一点一画が落ちることはあり得ない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 5章 18節 天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。〕、って言ってんだしさ)である、とご紹介になられました。


     

    映画 ターミネータのポスター

     

     その意味で、ローマ書7章25節で、「心」と訳されているヌースがちゃんと理解されていないことに、このような混乱は由来するのではないだろうか、ということのお話があった。千葉先生によると、アリストテレスが用いたヌースとの使い方とパウロの理解がきわめて類似性が高いといえるのではないか、というご見解が紹介されました。

     

    アリストテレスたん

     

    共約可能性とヌース

    その意味で、内なる人と、ヌースが近い、といえるのかもしれない、というお話があり、肉体部分である「外なる人」が滅んでも、「内なる人(これがヌース)」が存在し、そして、神の霊が、この内なる人に働くと理解できるであろう。また、この内なる人がヌースであるのだが、これまでは、心とか知性という語で翻訳されている。そして、ヌースは、識別する、見極める、と訳される言葉と深くかかわっているように思う。特に、使徒パウロは、どこまでギリシア文化圏の人々との共約可能か、ということを考えていたのではないだろうか。これは、文化や言語が違う人たちに伝道するということとのかかわりで考えることができるであろう。神を信じるのは、内なる人であるヌースの働きであり、すべての人に共通に存在するのが、このヌースであり、そうであるがゆえに共約可能性の根源になるものであり、その内なる人に働きかけることにより、文化の違う人々に伝道ができることになるのではないだろうか、そして、肉のなお内側にヌースが存在するということが大事であろう。また、千葉先生のローマ書の翻訳1章24節で、「不潔へと引き渡した(παρέδωκεν)」と表現されているが、この「引き渡した」ということが重要であり、千葉訳で1章の中で、引き渡したは3回用いられており、「不潔へと引き渡した」、「恥ずべき情欲に引き渡した」、「叡智(ヌース)の機能不全に引き渡した」となっている。この「引き渡された」という表現に込められていることが重要なのではないか、というご主張が上沼先生から展開された。

     

    共約可能性とパラダイムの概略のご説明

     ここで上沼先生からのお話が終わったのですが、主催者の日本基督教団の自称福音派の牧師である、このKDK神学会の主催者の久下先生から、実に適切な共約可能性についての補足が入りました。共約可能というのは、科学の表現であり、相互理解可能性に関係する表現であることのご紹介がありました。

     

    古代ギリシア社会の哲学者は、アリストテレスは、5つのもの(5大元素)でできているというパラダイムで生きてきましたが、現在の科学は、それと違ったパラダイムで生きています。たとえば、物が燃えるという現象を、アリストテレスとその理解の影響を受けた人たちは、燃素の存在を前提に捕らえますが、現代人は酸化反応ととらえます。

     

    このように、二つの別のパラダイム(あるいは系)では同じ現象を見ても、同じ理解に達しないことがあります。それが、共約不可能性ということです。このパラダイムに関しては、20世紀の科学哲学者であるクーン(Thomas Kuhn)がパラダイムシフトという書籍の中で、その理解を提示しています、という補足を入れていただきました。

     

    Thomas Kuhnたん

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

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    2018.05.20 Sunday

    KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

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      前回は、上沼先生がお話になられた部分を書きましたので、以下では、千葉先生のご発言の概要を紹介したいと思います。前回と同様に、このブログ状の理解の誤りは、聞き手のミーちゃんはーちゃんが悪いのであって、その点はお含み置きくだされたく。隊長はあまり良くないのだけれども、ある面、このGoodNewsは伝えたいので、ちょっと無理してますが、お知らせいたしたく。本来、ユーワンゲリオンεὐαγγέλιονって、伝達する人間の側に、そんな気を起こさせるものだ、と思うのだけれども。

       

      ピスティスが帰属の属格であること、についての捕捉

      イエスの信という時、帰属の属格であるという意味は、「イエスが持った信仰」という意味ではないといえる。ここで注意しないといけないのは、パウロは、厳密にイエスの固有名の使い分けをしているということに着目スべきであろう。特に、イエスを介して、とか言っている場合があり、イエスの存在を、その場合は場所として考えているといえる。

       

      「イエスのまことによる」「イエスの信」という場合、ナザレのイエスのカルバリの丘への道を含め、人間が理解可能となるための媒介者的存在であることをかなり意識して、パウロはイエスを描いている、と考える。特に、啓示の場合は、必ず媒介を必要とすることになり、それは、受動形として表現することになる。

       

      聖書における行為の中心性を持つのは誰か?

      聖書における、行為の中心主体は、あくまで神である。(ミハ氏註 これは、本当にそう思う。ときどき讃美歌なんかで、人間が行為主体になっているような歌詞があるが、あれは本当に何とかならんか、と思う。神様のために頑張る私というその行為を認めて、とかいう讃美歌もあるので、そういうのは神への賛美ではなく、自分への賛美ぢゃんと思ってしまう)

       

      神ご自身にとって、業の律法と信の律法は分離されないことは、重要な理解であるだろう。

       

      啓示という観点からは、イエス・キリストの信を媒介として、神が我々人間に知らしめたと理解するのがよいであろう。その意味で、行為者は一人である。つまり、神が信じる存在である、と理解・認識されている存在、人格を義と認めるのであって、イエスキリストの啓示を通して信じる存在を神が義とお認めるになるとパウロは書いているように思う。なお、啓示のためには、必ず媒介者がいるのである。

       

      神の子羊、という称号をイエスが持つこともあり、イエス・キリストとなだめの供え物との関連による表現で翻訳されることもあるが、これは非常に困る翻訳である。なぜなら、キリストを「業の律法」の枠組みでとらえることとなり、「業の律法」の中に福音を閉じ込めてしまうことになるからである。その意味で、「業の律法」の中にキリストの福音を閉じ込めるかのような代罰な理解は、問題がある解釈であると考える。

       

      Agnus DeiならぬAgnusDayというサイトのまんが https://www.agnusday.org/comics/292/acts-01-06-14-2008より

      (高く挙げられたキリストは背負うタイプのジェットパックを・・・とかw)

       

      また、神は言語使用者であることを理解しておくことは大事であろう。(ミハ氏註: 神は論理、ロゴスと深い関わりがある存在だから、当然といえば当然の気もしますが・・・はじめに、言葉があった、ってヨハネさんは書いていることだし・・・)

       

      なお、イエス・キリストは行為主体にならない。共通の尺度、共約部分になるといえる(ミハ氏的ツッコミ 新約聖書には、仲保者とか、代理人という表現があるが、まさにこれ)

       

       京都大学の水垣先生から「この本『信の哲学』を読んで、インテレクトス アンテ フィデム intellectus ante fidem(信の以前の理解)が言いたいのだ、ということがよくわかりました」というお手紙を頂いて、大変うれしかったとのご披露もありました。

       

      神の子羊に関する賛美歌集(この部分はご講演とは、全く関係ありません)

      さっきなだめの供え物、というのがでてきたので、神の子羊 Agnus Dei に関する賛美歌集めて、遊んでみました。お好きなのをどうぞ。休憩がてらに。

       

       

      Agnus Deiの賛美歌(バーバー作曲)

       

      Agnus Deiの賛美歌(フォーレ作曲)

       

      Agnus Deiの賛美歌(バッハ作曲)

       

      Pop調のAgnus Dei

       

      スペイン風Angus Dei 絵柄が、もう贖いの子羊…メェ

       

      Agnus Deiの賛美歌(モーツアルト作曲、カラヤン指揮 キャスリーン・バトル)

       

       

      Sola GratiaとSola Fideの混乱…

       

      閑話休題。それでは、千葉先生の講演のご紹介に戻りましょう。

       

      これまで多くのキリスト者が苦しんできたのは、ソラ・グラティア(Sola Gratia)とソラフィデ(Sola Fide)の癒着の結果ではないだろうか、義と認められるのは神の恵みによるというのが、究極の理解であろう、ということもお話の中で出てまいりました(ミハ氏的ツッコミ 伝統教派にいると、それは当たり前すぎて、言うまでもないことのように思うのだけれども…)。また、信仰を持つことは、非理性的なことではないといえるだろう。なぜかというと神は言語使用者であり、我々も言語使用者であるからである。その意味で聖書の言葉は、意味論的分析に耐えうるもののはずである。

       

      罪は偶然的に世界に入ったのでなければ、我々は、罪や悪から自由にならない。そもそも内在的に、本来的に存在しているのであれば、救いは存在しないことになる。

       

      ヌースと脳死

      先ほど、ヌースの話が出てきたが、内なる人間のことであるとすると、このことは脳死と関連するであろう。我々の身体は滅ぶが、身体に還元されない部位が存在する、それをパウロは、内なる人間(ヌース)と呼んでいるであろう。この内なる人が、キリストの如くになる。これが変身という意味であるだろう(ミハ氏註: 最近霊性の神学で時々出くわすトランスフォームの概念のことね 変容という語を使う人たちもおられますが)。聖書の主張は、イエスの信によるものを義とするということである。

       

      信じることが意味を持つには…

      知らされていないがゆえに、信じることが意味を持つともいえるのではないか。既に、知らされているものであれば、信じる必然性はないからである。その意味で、キリストを介して(キリストという場を介して)、叡智が働き、ロゴスが働く。神の意志にヒット(ミハ氏註:英語のHit、ぶち当たるとか、掠るとか、遭遇するとかいう意味で用いておられる)することができるのであろう。カントは理性で突き詰めようとして、理性が疲弊してしまった世界の人なのではないだろうか。

       

      以上補足部分のご紹介でした。

       

      いよいよ千葉先生の本論

      ここからが千葉先生の本論の部分です。

       

      啓示神学と自然神学

      神学の系譜に大きく二つ、啓示神学と自然神学の二つがあるが、この啓示神学と自然神学は相互媒介される必要があるであろう。神の前の自然神学がローマ1章で提示されているように思う。そこで、1章について考えていきたい。

       

       神が存在するかどうか問題というのは、アリストテレスからの問いでもある。アリストテレスの探求論の課題であり、カントの形而上学においても問われている哲学的課題である。

       

       啓示神学では、神に関する認識はできないことになる。その意味で、神が認識可能かどうかという問い自体がは無意味となる。 いかにして、神は認識可能なのかということについて、バルトあたりから、信じること(ソラフィデ)と神の恩恵(ソラグラチィア)の癒着が始まるのではないか、と考えている。神の認識について、矛盾律で考えようとすると、どうしても、一種のトートロジーになってしまう構造を内在的に持っているように考える。

       

      この2つの神学は、和解可能?

      ところで、啓示神学と自然神学は、和解できないのだろうかか。自然神学の観点から考えると、アンセルムスは、神の存在証明を考えるときに、比較級の否定を用いている。「それ以上大きいものが考えられない存在、それが神である」、といっている。それは存在するかもしれないから、結果として、神は存在しなければならない、とアンセルムスは指摘している。

       

      アンセルムスたん

       

      では、啓示神学と自然神学が仮に両立しうるとすると、何が言えるだろうか、ということを考えたい。人間は、アンセルムスが指摘するように、神と同じ知性を持っていないことになるし、仮に、持っていたら、全部わかることになる。

       

      インテレクトサンテフィデム( intellectus ante fidem)という理解に立つと、神の知恵の理解まで至る共約性が拡張される可能性がある。神が知恵あるものとして理解することが重要ではないだろうか。

       

      神学がやりやすくなった21世紀

       ところで、21世紀というのは、聖書理解をするうえで便利な社会になっていて、神が永遠の現在に生きておられる方というのは、誤解を恐れずに言えば、ある種のタイムマシン的存在であり、常に現在を生きている、というのは、タイムマシンという理解が成立している、21世紀になって、ある意味、ようやく理解することが可能となったということでもある。人間の全てのこと、髪の毛一本まで知られている、という表現があるが、それも理解できるであろう。(ミハ氏的ツッコミ 確かに、神は、ビッグデータのデータマイニングマシンということでもあるし、人間の細胞一つ一つを考え、それをご存知だとしたら、すでに、人間の細胞レベルでIoT化している神ということになる、という不謹慎な妄想を抱きましたw)

       

       

      IoT https://readwrite.com/2017/05/06/how-communication-service-providers-can-monetize-iot-beyond-connectivity-il4/ から

       

         千葉先生の『信の哲学』の下巻に収録されたp.413 の立体的なベン図風の図解の説明があり、それは、終わりの日を、キリストという存在を媒介とするときに、神の前とひとの前との視点から、どのようなことが起きるのかをが図解のご解説がありました。(ミハ氏註: これ、面倒なので、省略します。詳しくは、千葉先生の本を買ってください。お願いですから。結構しますけど・・・w)

       

       

       ポイントとしては、イエスとその信が人間にとっての媒介者として機能し、神がそのようにご理解されるからこそ、神の目から見ても義になるという話だと思っておいてもらえば、と思う。

       

       人間にとって、そもそも、三位一体は、知りえないものであろう。明白に啓示されているわけではないが、おそらくそうであろう、と理解できるのであり、神がそうみなしておられるのだから、三位一体であるということを考えれば、フィリオクエの問題はあまり悩む必要がないのかもしれない。

       

       ローマ書において、霊が一切出てこない部分と霊が出てくる分がある。5−8章は、霊の記述が多く、霊的な存在について触れている部分であると言えるだろう。

       

       ところで、信の確かさに生きている人には、神の存在証明は必要ないように思う。アンセルムスは護教なんてとんでもない、と主張しており、さらに、信と理性とは矛盾しないという。

       

      ロゴス・エルゴン・ラレイン

       ここで、ロゴスとエルゴン、ラレインについて考えてみたい。

       エルゴンというのは現在発生しているできごと、存在であり、ロゴスは現在だけとは関わりなく、宇宙全体を支配しているものであると考える。そのロゴスにエルゴンがヒット(ミハ氏註 英語のHit、ぶち当たった、かすった、一時的に接触)することがある。その瞬間、ロゴスがエルゴンに内在することになる(ミハ氏註 聖餐式でイエスの体を口から取り入れた瞬間のことによく似ている。あるいは、信じるという決心をした瞬間でもいいけど…)

       

      ある人(例えば、アインシュタイン)がエルゴンで発見したロゴス(E=mc^2)を別の人(その直後に検証した物理学者)のエルゴンが確認することで、ロゴスの全体像が分かってくるのではないだろうが。

       

      エルゴンというのは、今ここでのことであり、パウロは混乱してわかりにくいと言われるが、それは、パウロがエルゴン言語で、記述しているからとは言えないだろうか。パウロの苦悩は、このエルゴンレベルでの苦悩といえる。パウロの言う、ロゴスとエルゴンは別物であると思う。

       

      OSI7階層モデルみたい…

      ローマ書の中でのロゴスは、いろいろな層に分かれており、その層(レイヤー)の違いにおいてパウロはロゴスを捉えようとしていると考えられるのではないか。(ミハ氏註 情報通信分野では、学部の初期の頃に概ね教えるOSI7階層モデルというのがあり、まさにこれの話とよく似ている)

       

       

      OSI7階層モデル

       

      共約可能性というのは、この階層全てで整合的であるとき、受信者と発信者で同一のメッセージの伝達が行われるとするような理屈であるが、パウロは、ローマ書の中で、ある章(1−4章)では、ある階層でのできごととして話をし、別の章(5−8章)では、別の階層でのできごとを話している。そこの構造が見分けられないと、混乱するのだと思う。(ミハ氏註: そもそも別レイヤのことを書いているから、普通の小説や教科書を読むように、聖書やローマ書を、1章から2章、・・・と前から順に順次読んでいっても聖書がわかりにくくなるのは仕方ないだろう。そういうシーケンシャルなよみは、そもそも物理層のデータをアプリケーション層のデータと思って読むのに似ていて、こんなふうにコミュニケーションしているのであれば、当然、通信不能になるだけのことである。おそらく、この辺の視点の階層をパウロは明確に前提にして書いているのだけれども、読み手である現代人がその階層を見分けられなくなっているため、というのはあるような気がする。)

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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      2018.05.21 Monday

      KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(3)

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        今回もブログ緊急更新しました。

        今回は、

        前々回の記事 KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1) 

        前回の記事  KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

         

        からの続きです。千葉先生によるローマ書1章についてのお話をご紹介したいと思います。

         

         

        ローマ書1章の説明にこのあと千葉先生は移っていかれた。

         

        2種類の神の義の啓示

        ローマ1章18節 自然神学として理解しようとする。意味論的にいえば、ここでは、神自身が行為主体となる言語形で書いている。神の義の啓示としては、2種類あると考えることができ、それは、

        神の義の第1啓示(ローマ1章) 神の怒りによる義

        神の義の第2啓示(ローマ7章) イエスの信による義

        と整理できるだろう。

         

        イエスご自身も言っているが、律法を終わらせるイエスというのはないだろう(ミハ氏註:律法のターミネータ(暗殺者)としてのイエスではなく、あくまでイエスは、律法の完成者(ミハ氏註: ギリシア語の完成という表現、すなわちTelosとの関わりがここに出てくる)として理解すべきだろう。

         

        アラビアでパウロは何をしていたか…

        ところで、パウロはアラビアで、3年もの間、いた期間に何をしていたと考えられるだろうか。個人的な想像であるが、おそらく、アラビアで旧約聖書を繰り返し読み、そして、ロゴス、真理を見つけたかもしれない。そして、その旧約聖書を理解した(ミハ氏註:もうちょっというとトーラ、ネビーム、そして、タナッハと呼ばれる旧約聖書を十分理解した)うえで福音を理解すべきという結論に達したのではないだろうか。

         

        アラビアでのパウロ

        http://kmooreperspective.blogspot.jp/2016/06/what-did-paul-do-in-arabia.htmlから

         

        パウロについてのイコン(アラビアの砂漠の山が見える)

        http://eliasicons.blogspot.jp/2011/06/june-prayers-to-sacred-heart-3-st-pauls.html から

        ここで、神の怒りが突然現れるが、このローマ書1章で、ストア派のある哲学者が初めて使った言葉(ギリシア語)をパウロは使っている(ミハ氏註:さすが西洋古典学の先生と思った。技術系とは思考経路とその背景の層の厚さがが違う、と思ってしまった)

         

        啓示であるがゆえに必要とされるメディア(媒介者)

        ところで、啓示には媒介を必要とするのである。旧約時代は、啓示の仲介物、媒介物(ミハ氏註: メディア)として石板に刻んだ文字にしがみついたのである。この1章19節の中で、パウロは千葉訳では「明らかにした」(ミハ氏註: 口語訳聖書の訳は「神がそれを彼らに明らかにされた」)と過去形を使っている。(ミハ氏註:日本語は主語がいい加減でも、時制がかなりいい加減でも、相手の発言趣旨を忖度して、惻隠の情を持って、理解するので、この辺の読みはいい加減になりがち、というのは個人的経験としてあることは十分承知している。だいたい聖書読むときだって、時制にまで、気を回して読んでないことが多い。話し言葉ではなおさら意識しないように思う。)

         

        この「明らかにした」に関連して、もう少し言うと、感覚的に見て取るということが意味を持ち、感覚的に見て取ることができるということは、叡智がそこで働くということかもしれない。ここには(ミハ氏註: 媒介者としてのメディアとしての)キリストが出てこない。  ところで、ローマ1章の過去形については、出エジプト記にすべて対応箇所がある、といえる(ミハ氏註:これを全部確認して回るのが、学者。千葉先生は、本物の学者だわ)

         

        計算機屋がイメージするメディアに関する図解

        https://www.pinterest.es/mediapartnersad/digital-radio-advertising-electronic-media/ から

         

        叡智の機能不全

        千葉訳では、「叡智の機能不全に引き渡した」とした部分(ミハ氏註:口語訳聖書では、「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」)という部分については、識別の程度があるように考える。知識と感覚において満ち溢れ、識別しつつ、神を持つことを識別しない場合どうなるのか、ということである。

         

         叡智が機能不全に引き渡されたものは、神の善性を理解できないことになるのである。この部分を、「信じることによって恩恵を受ける」と理解するのは、まずい、と考える。それは信(ソラ・フィデ)と恩恵(ソラ・グラティア)の癒着となっている。

         

        信を嘉するとは…

         結局、信というか、信仰を嘉(よみ)する(ミハ氏註:信と裁定した上で良いものと認めるとか、審判した上で、それは良いものである、と評価する という意味 ヘブライ語の トゥーブ ט֣וֹב に近いのかも)のは神のみであるということをパウロは主張しているのであろう。ただただ、神を仰ぎ見るのが信の根源であり、それは、救いの必要条件でないかもしれない。人間が神をどう信じているかは問題とされなくて、より重大な問題は、神が「どのように人間の中の信を見ているかである」ということができるだろう。

         

        最後の審判のときには、神の前に立つ(Wikipediaから)

         

         

        (識別のレベルがあり)識別しなかったこと行為と識別に比例性があるといっているようだ。人やエルゴン(今ここという状態)でロゴスにヒットする(ミハ氏註: 一瞬掠る、とか、触れる、接触する)かもしれない。カントはヌースは働かないといっているが、それは、ヒエロニムスによる誤訳の故発生した誤解かもしれない。

         

        叡智の機能不全に引き渡されるとは

        神の前の「完全な信」(ミハ氏註 神が見てお認めになる「完全な信」)と、人間の側のレベル(ミハ氏註: レイヤー・層)における「信」は根本的に違うものだと言える。神が引き渡された、ということが意味することは、自分自身でその世界に至ってしまったのだから(ミハ氏註:神を認めない「信」ならざる世界に自分で至ってしまった)のであるから、その責任は、自分でとることが求められる。「叡智の機能不全に引き渡された」とは、あまりよくないもの(ミハ氏註: より露骨に言えば、「ろくでもないもの」)にヒットした(触れたり、接触した)結果、そっちのほうに流れていく、ということを示している。

         

        さて、ローマ2章の冒頭では、他人をさばいているあなたには、弁解の余地がない(ミハ氏註: 口語訳「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。」)という表記が出ているが、ここでは、1章のエルゴン言語のレイヤ(層)の話法、論理ではなく別のロゴス(ミハ氏註: ​おそらく、別レイヤーのロゴス)が登場し、個別の話が、より一般化されて提示されている。業の律法に生きさせることで、神の意図を歪めているのではないか、と指摘していると考えられよう。

         

        質疑応答の一部から

        以下、質疑応答ででたものの一部をご紹介します。

         

        Q: ヒットという語を使われていますが、その意味はどのような意味ですか?

        A: ヌースが発動して、ロゴスに接近して実践知が生まれていることを表現しようとした。ヌースが命題(ロゴス)に接近していくことが、最善の行為行為であり、そして、ヌースがロゴスに触れることをヒットという言葉で示している。

         

        Q: 神の怒りについて、もう少し説明してほしい。

        A: 生身の人間(肉なる人間)は、神がある程度譲歩された存在)であるが、神の前の人間は、神を知っている状態にある人間のことであり、人間のレベルで考え、人間を中心として考えているその考え方に対して、神の怒りが発動する、という表現になっているように考える。

         

        Q: パウロは、このローマ人の手紙をギリシア哲学がわかる人に向けて書いたのだろうか。聖書の中身は、アリストテレスの哲学を理解できる人にしか理解できない、ということではないのではないだろうか。

        A: ある意味、パウロはアリストテリアンだったと言えるのではないだろうか。答えはあるという前提に立ち、網羅的で排他的にやった人である。その意味でアリストテレス的であったと言えよう。パウロは、論理空間を作るときにしらみつぶしにやっている。

         ある意味、パウロは哲学者であった。それ以外ないということまで突き詰めている。ヌースが真理に向かって生きていく、ということを明確に意識している意味でアリストテレス的な理解をしていると思う。

         

        Q:イエスの名称問題についてもう少し、ご説明をいただきたい。

        A: ナザレのイエスと、イエス・キリスト(テキストを読むときの全体の音声言語の状況によっては、キリスト・イエスとなる。 ギリシア語としての音のコンテキストが影響していると考えられる)と、キリストという語がある。まず、(ナザレの)イエスは、行為主体となるものとしてパウロは使っている。また、キリスト(復活した栄光の主・メシア・主・キュリオー)も行為主体となる。ところが、イエス・キリストとでてくる場合、場(ミハ氏註 メディアあるいはインターフェース)であり、行為者とはならならない。(ミハ氏註 だから、祈りの終結後である、アメン、アミンとかの前に、「イエス・キリストによって」とか、「イエス・キリストの御名によって」 in the name of Jesus Christと言う表現になっていると考えるとわかりやすい。商法での契約における会社の代表者をどう考えるか問題と似ているといえる。結局、取引主体の両者の公式で最高位のインターフェースが会社の代表者となる問題で考えれば、わかるかもしれない)

         イエスご自身が自分自身を差すときに、「人の子」と表現することがあるが、このようにイエスが表現するとき、ご自身が「受肉のもとに死とその苦しみを経験するもの」としての側面が含まれていると考えられるであろう。

         イエス・キリストは固有名ではあるが行為主体にはならないメディアとしての存在を表すものであり、栄光ある職務を担った尊称(ミハ氏註 楽天株式会社 社長をなにか公式の場所で紹介するときに、楽天株式会社 社長 三木谷 浩史 さんと呼ぶことがあるが、このときの呼称を分解してみれば、代表取締役会長兼社長(この役職名の部分がキリスト・イエスのキリストの部分に相当する) 三木谷 浩史(個人名の部分がキリスト・イエスのイエスに相当する)というようなものだと思えばいいように思う。なお、三木谷氏を出したのは、単に塾と高校時代の同級生でちょっと同じところで勉強した、とういことだけ以外の理由はない。高校時代を含め、それほど親しかった人物ではない。)と思うとよいのではないか。

         イエスは復活を味わうという人間としての側面を表す時にパウロはイエスという表現を使っていると考えられる。

         

        Q: キリストの信についてもう少しご説明をお願いしたい。

        A: キリストの信、となぜ名詞で表現するかというと、動詞を神に帰属させることがないからである。神の信と人の信をキリストを媒介にして啓示しているのであって、基本的には、神について、動詞をあまり使わないからである。

         また、動詞を使うとどうしても、時制が気になる。しかし、パウロは神について動詞で表現しないといけない場合は、かなり気を使って使っている。特に神に関することで、旧約聖書由来のものは過去形を用いて表現されている。

         「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」の使い分けはおそらく音読上の問題であり、読みやすさ、聞いたときの音のひびきの問題によるものと考えている。

         

        このあと、食事をしながらも議論はいろいろ続いたのですが、そこは秘密にしておきましょう。

         

         

        ということで、連載はおしまいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。

         

         

         

         

         

         

         

         

        2018.05.29 Tuesday

        同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(1)

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          昨日開催されたハゥワワースの講演会に行ってきたので、その内容の概要をご紹介いたしたいと思います。この話、片耳で英語聴きながらメモを日本語でツイッターで投げた結果をもとにしているので、ミスや誤解があるとすれば、すべてミーちゃんはーちゃんの責任です。おまけに後半戦、バッテリー切れでタブレットからの慣れない投稿で、苦労したなぁ。誤りが多分にありますが、速報性を最優先でお届けします。

           

          講演会のポスター

           

          司会者からのご挨拶とハゥワワースさんのご紹介

           まず、司会者の方が参加者がどこから来たかのかを、調査していました。関西、関東あるいは、外国では、結構、中国、韓国系が多かったようです。全部で250人くらいの参加者でした。関東からの参加者が案外多かったのにはびっくりしました。一応、あるクローズドなプログラムの中の講演なのだけれども、この部分だけ、ちょこっとOpenにしています、というご案内がありました。そして、このアジアの和解のためのプログラム参加者を募集中で、特に若い世代の参加者募集中だというご案内がございました。


          ハゥワワース教授の紹介があり、キリスト者の美徳の観点から、もう一度キリスト教の意味を発見したところが、ハゥワワースの重要な貢献であること、法律と神学、倫理学といった多様な学際的研究をしておられること、また、Time Magazineで現代の最高の神学研究者とされていること、スコットランドのSt.Andrews(ミハ氏註 ををを、N.T.ライト先輩がいる学校じゃないですか?)でも講演された経験があることなどが紹介されました。

           

          外のポスター

          会場となった重要文化財のチャペル

           

          ハゥワワース先輩のご講演

          以下は、ハゥワワース先輩のご講演内容の要旨です。
          アメリカ中心主義の言語で話すし、英語の話としては、そんなにきれいでないアメリカ人の英語で、中でもテキサス語でしゃべるので申し訳ないというご自身がテキサス人であることをいじるお話から始まりました。(ミハ氏註 なお、テキサス語しかしゃべれなくて、英語が喋れない疑惑があったのが、ジョージ・W・ブッシュ君です。あまりに意味不明なんで、ブッシズムという言葉までできた大統領でした。)

           

           

          bushismの動画

          テキサス発音についてのビデオ

           

          本日は、権威なきものとしてこの公園に登壇します。今話しているこの教会については、皆さんのほうがよく知っているだろう。皆さんは、ここで、ハゥワワースがテキサスアクセントを聞きに来た、とおっしゃるかもしれません。(ミハ氏註 どこまでも自身のテキサス人いじりするハウワワース先輩かわいい)

           

          アメリカのキリスト教と民主主義の混乱

          これまで、アメリカ人がアジアに伝えてきたキリスト教は、個人的な神とのつながりを表明するだけ、という傾向が強いように思う。そして、教会に関する格言である、「教会以外に救いなし」という表現は、現在のアメリカ人には民主的でない、というような印象を与えることがある場合もある。


          アジアの人たちは、キリスト教を受ける側で過ごしてきたかもしれませんが、アジアのキリスト者が、重要だと思うことには、実は重要な意義があるかもしれないと考えます。ある面、福音を語るといいながら、私達は受けたことを語りたくなる、という側面があるのものかもしれません。

           

          レジデントエイリアン『旅する神の民』についての序を描くように頼まれたとき、日本人は、レジデントエイリアンのような存在だと思いました。社会における少数者として生きている人々でもあります。そして、これまで書いてきた本は、救いの社会的意義を説いたのが私がこれまで出してきた本でありました。

           

          個人の救済なのか集合的な救済なのか
          ところで、日本やアジアに最初に来た宣教者たちは、個人の救いを必要以上に強調した側面があったと思います。しかし、今日の講演では、救いに関する集合的な性格を述べたいと思います。前回日本に来た時には、たまたま、エペソ2章11節から21節の部分について説教を頼まれました。私の最も好きな部分です。ユダヤ人と異邦人の壁が崩れることで、新しい人間が生まれ、神の平和が実現したことを示した聖書個所です。

           

           アジア諸国や西洋諸国は、異なる文化ではあり、その中にある教会は多様な在り方を示してはいるけれども、教会の基礎はイエス・キリストであるはずです。三位一体という共同体的な性質で描かれた福音を考えて場合、救いを取り巻くグランド・ストーリは大きく変わるはずだが、現代のアメリカ人は、このような共同体的な性格を持つキリスト教とは、かなり違うものとしてキリスト教を捉えているように思われます。

           

          (ミハ氏註 おそらく、リアリティとしては、集合的な救済と、個人の救済の間のどこか、だと思うけど。)

           

          死にかけの西側諸国の教会と政治
          確かに、西洋諸国ではキリスト教は半ば死にかけのような状態であるが、本来教会は、神の言葉をキチンと語るべきだし、また、キリスト者は社会の政治経済的な支配の影の下にはいないし、そこから抜け出せているはずであるが、そうはなっていない。(ミハ氏註 それはそうだよね。だって、教会の共同体的性質が出ているはずの聖餐ちゃんとやっていなくて、聖餐の模造品に過ぎない讃美歌を垂れ流し、自分の感情を、神様聴いておくれなまし的な讃美歌大会やっている教会も少なくないもの…どこの国とか教会とか言わないけれども)

           

          アメリカを再び偉大に(Make America Great Again)という政治スローガンには、「キリスト教のアメリカの再興」という意味も含まれるのかもしれないが、「キリスト教国としてのアメリカ」ということは、これまで存在したことがないのではないだろうか。アメリカでは、民主主義とキリスト教徒の混乱という誤解が存在している。これは、市民宗教としてのアメリカ型キリスト教の限界を示しているものと考える。

           

          Make America Great Againのおじさん

           

          プラトンやギリシア哲学が西洋の源流となったというあたりのことを考えないといけないのではないだろうか。

           

          西洋社会が、死に体となりつつあるキリスト教会の現状の中で、キリスト教の覇権主義から開放されつつあるけど、アジア諸国では、キリスト教の歴史が浅く、信仰の継承の観点から、信仰の制度化、習慣化の模索する途中にあるのかもしれない。

           

          教会と制度化と信仰の継承について

           ブルース・カイエが英国キリスト教会の興亡で述べたことは、自分たちの信仰を次に継承する方法としての制度化の必要があったということであり、キリスト教社会を目指そうとする以上、制度化のは、組み込まれていたことかもしれない。そして、カイエが示したのは、イングランド的教会は文脈に応じてできたものであるということである。


          ピーター・ブラウンが西洋キリスト教社会の中で述べたことは、もしキリスト教が普遍的なら、なぜ普遍的な組織体を持たないのか、という素朴な疑問である。普遍的な組織体を持たせるための一つの方法は、政府の強制によるものであるかもしれない。
          信仰の継承のためには、何らかの制度が必要である。メノナイトの農村文化は明確な意識なしにキリスト教になるような独自の制度をものを作っていったといえるかもしれない。


          翻って考えてみると、アジアの教会は、現在もなお、制度化の軌道に乗っているとはいいがたいのではないだろうか。もし、次世代に継承することを考えるとしたら、制度化ということを考える傾向になる。アフリカ人が奴隷として米国に連れてこられたにもかかわらず、キリスト教徒になったことの意味は、この側面から考えると重要なことであり、何らかの手掛かりを与えているといえるのではないだろうか。

           

          アジアの教会と制度化の問題

          ところで、アジアの教会は、ナショナリズム、あるいは、国家主義と一致してない教会と制度化してない教会との関係をどのように考えられるか、という課題を持つのではないだろうか。


          西洋の宣教師たちで高度教育を受けた人は、覇権主義的になった部分があったように思われる。宣教地できれいな水を得るために井戸を掘ることでさえ、現地文化への攻撃とみなされた側面があった。

           

          アメリカ人的な感覚として、個人主義が極めて強く、「人は人、自分は自分」という側面があるが、ただ、アメリカでは教会が社会の基礎にあった。(ミハ氏的ツッコミ ソーシャル・キャピタルを扱ったロバート・パットナムの『孤独なボウリング』によれば、それが社会の共通資産として機能していたという指摘はある)

           

           移民が米国においてどのような地位を占めてきたかを考えると、母国文化とのつながりを持っているが、2世以降は、アメリカ人として生きることになるものの、母国文化のつながりがある程度存在している。

           

          聖餐の復権と共同体制
          そして、現在では、アメリカの市民宗教も変容溶解しつつあるように思われる。ライトハートは共同体の回復の一環として、聖餐式を取り戻すことを主張している(ミハ氏註 アングリカンに居留する民で、アングリカン化が激しいミハ氏としては何をいまさら、という感じがするなぁ。だからアメリカの若者の時福音派でも、アングリカンや、オーソドックス、カトリックに改宗者陸続らしいし…)様々な問題は起きるであろうけど、聖霊による開放が、自由な教会に導くのではないか、と思われる。


          アメリカの教会を見ることは、アジア諸国の教会を考える意味で重要だし、次の一点において一致を見出すべきであろう。それは、「互いに殺し合わないこと」ということである。アジアにおける戦争という殺りくによる過去の傷について、キリスト者が一致して取り組むことはアジアの教会にとって重要である。

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

          S. ハワーワス,W.H. ウィリモン
          教文館
          ---
          (1999-04)
          コメント:いいらしい。買ってない。

          2018.05.30 Wednesday

          同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(2)

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            今回は、昨夕に続き、昨日京都の同志社大学今出川キャンパスで開催されたハゥワワース先輩の講演の速記録の続きをご紹介したい。

             

            中国での事例から見る教会と神の国、世俗国家の関係

             教会を考える際には、神の国のしっかりとした理解が重要であり、ここで、バルトを手掛かりとして考えることができるだろう。


             クロエ・スターChloë Starrが中国の神学 Chinese Theology: Text and Context という書籍の中で近代のアジア、特に中国では、ナショナリズムと教会の緊張関係へのアプローチとしてかなり違った方法論が取られるはず問うことが指摘され、現代中国における国家と教会にまつわる教会論をめぐる二人の人物(丁と王)の議論を取り上げ議論している。

            中国のキリスト教について対談するスター先輩

             

             このスターの本の中に出てくる中国人神学者の丁が主張する、教会と国家の関係についての理解は、教会は国家にどう向き合うべきかの問題でもあり、丁は三自愛国運動に対して対決的な立場をとらず、これに対し、別の中国の神学者王は、三自愛国運動に激しく反応し、それに否定的でない丁に対して否定的な立場をとっている。なお、この王は、この三自愛国運動に反対するなどの講堂のため、投獄されることになった。この二人の議論について、スターは教会がどうこの世界と関わるべきかの論争と見ている。


            この二人の立場の違いの背景として、丁は、学校教育、カナダでのキリスト教運動に関与した経緯があり、他者に対する誠意という態度からこの概念が生まれてきたし、彼の過ごしてきた経緯からでてきた神学であり、丁をベーダになぞらえて理解している。

             

            丁は、三自愛国運動を西洋の宣教師からの自由を中国の教会は得たと理解しており、三自愛国運動は宣教師からの傷が開放されることととらえていた。丁の理解では、世界と教会は分離できないという立場に立っている。スターは丁について、一バルト主義者の黙想と題する文章でおわっている。これはある意味を持っているだろう。

             

            (ミハ氏註 子の宣教師の善意ゆえのキリスト教の方向付けは、日本の教会においても、大きな問題を含んできたと思う。一つの例が、ディスペンセイション論的世界観であり、異教社会に対して論争を挑むかのような対決的な態度であったように思う。これらは、ある面伝道のエンジンとして、かなり有効な作用素であったように思うが、その副作用もかなり大きく、日常の美徳をもって生きてきた多くの日本人にとって、本来善きこと、Good Newsであるはずのキリストの福音、いや、正確には神の愛の支配の到来と呼ばれるものがBad Newsどころか、The Worst Newsとなってきたということもあったように思う。この問題は大きいし、また、後は野となれ山となれ的な伝道方針で雨後の筍の如くできた多数の教会が、現在になってその存続の危機に瀕しているのも、ある面、宣教師たちのまいた種を現地の構成の日本人信徒が刈り取っているという構図になっている。あるいは、いまだに日本のキリスト教会とその神学および宣教が、海外依存型であり、自立していないかに見える構造であることなどについて、宣教学的な、あるいは宣教社会学的な観点からどのように哲学的反省・学問的に検証するのかは、少し考えたほうが良いと思う。ミーちゃんはーちゃんみたいな平信徒風情が言うことではないかもしれないけれども。

            その意味で、行き過ぎや誤解を生んだとはいえ、内村先生とその後継の無教会主義系の諸先輩の皆様方はこのあたりの海外宣教師からの影響の問題を回避しようとした言えるかもしれない。)

             

            内村先輩

             

            バルトにおける政治と教会の関係 ナチと共産主義
            バルトを考えてみると、バルトはナチスには反対したが、共産主義には反対しなかった。バルトは「東ドイツの信徒へのすすめ」という文章の中で、書いているが、もし正確な事実がわからないとするならば、「正直な無知」であることを正直に認めることがいいのかもしれないと書いている。

             

            バルト先輩

             

            バルトが、「正直な無知」と言ったことの背景には、東ヨーロッパで発生したことを十分に知らなかった、ということがあるだろう。生半可な知識で、正確なことを知らないにもかかわらず、勝手なことを述べるよりは、知らないということを正直に認めるほうが良いということだろうと思う。


            これまでの歴史の中で、キリスト者は自らを殺そうとするものに対してどのように対峙するか、示してきたといえる。(ミハ氏註 この前紹介したキプリアヌス(こちら)、メノナイトの皆さんや、清教徒の皆さん、あるいは豊臣政権末期、江戸初期のキリシタンの皆さんなんかが典型的だと思う)神は、キリスト者の上にも神の主権を行使しておられると同様に、非キリスト者の上にも、神は主権を行使しておられることをどう考えるか、という問題とかかわってくるのだ、と思う。さらに、バルトは完全な政治体制はないとしており、バルトがナチに悪を見たのは、ユダヤ人に福音を語ることを禁じたことにある。おそらく、バルトが言いたかったことは、神の国、そして、教会の意義はキリスト者の政治的な証を絶えることなく存在させることにあり、バルトの重要性は、この観点からの彼の教会論的な試みにあるといえるだろう。


            ところで、カイエはカトリック性(普遍性)を教会間の相互交流の実現と見ているようであり、その意味でバルトは、教会のカトリック的性質を考え、示した人物であるといえるだろう。

             

            現代社会におけるキリスト者の美徳 アジアとアメリカ

             現代の教会では、謙遜や忍耐と言ったキリスト者の美徳 Virtue が重要なのではないか。アメリカではそのような美徳はかなり失われており、アメリカ人には困難を覚えることではあるが。その意味で、アジアの教会にとって、そして、西洋の教会にとって重要なことは、「正直な無知」に生きることである。(この話を聞きながら、N.T.ライトのVirtue Reborn 米国版は After You Believe: Why Christian Character Matters の話を思い出していた。)

             

            同じ本だが英国版と米国版

             

            アジアにおける教会と制度化の視点
            制度としての中国の家の教会の存在は、中世の修道院制度の確立に並ぶほどのキリスト教世界にとって重要なことである。もちろん、家の教会は、キリスト教の最初のころにとられた形態ではあったけれども。

             

            キリスト教が継承されていくためには、何らかの制度化が必要なのであろうと考える。今日のキリスト教にとって、この制度化の問題は、今後の重要なテーマの一つであろう。そして、アジアの教会も何らかの制度を作ることになるだろう。(この辺重要)


            ところで、キリスト者にとって、キリスト者と非キリスト者の区別は必ずしも重要ではないかもしれない。また、制度としての教会として、アジアでどのような形を取るかということに着目していく必要があるだろう。

             

            教会の意義とは何か

            キリスト者にとって重要なのは、教会にとって重要な課題は、美しい美徳を持った人々をこの世界に送り出し、もたらすことかもしれない。

             

            (ミハ氏註 牧師の祝祷って、本当にこのためではないか、と思う。オーストラリアのアングリカンの式文における祝祷にはこんなものがある。太字部分は、司祭を含め、全員が読む

            Loving God, we thank you for hearing our prayers,
            feeding us with your word,
            and encouraging us in our meeting together.
            Take us and use us
            to love and serve you, and all people,
            in the power of your Spirit
            and in the name of your Son,

            Jesus Christ our Lord. Amen.
            まさに、神にあって、神の美徳に生きるよう、祝福しているように思う このあたりを読みたい人は、こちら サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)(05/18) を参照してもらいたい。)

             

            キリスト者としてこの世界で平和に生きる

            さらに、キリスト者としてこの世界にあって平和に生きることとは、衝突をいとわない社会的関与からキリスト者が逃避することではないだろう。(ミハ氏註 メノナイトの皆さんとミーちゃんはーちゃんは、揉めそうなものからはとりあえず逃げる「三十六計逃げるに如かず」が何よりの身上。)しかし、よく知らないことに、なにか言う事はできない。その意味で、「正直な無知」ということをきちんと認識をしておくことが重要となるであろう。

             

            普通の美徳とキリスト者

            マイケル・イグナティエフMichael Ignatiefの近著The Ordinary Virtues: Moral Order in a Divided Worldでは、グローバル化の問題が進む中、各国の中ではナショナリズム化が同時並行でに向かう傾向がある社会の中でキリスト教的な美徳からどう考えるかという問題に取り組んでいる。その中で、普通の人々の美徳の重要性を考えている。

             

            現在もなお、世界の多くの国や地域で、宗教が多くの人々の慰めであると同時に、世俗主義的なものにも多くの人々がひきつけられている。

             

            Micheal Ignatiefさん

             

            自著 The Ordinary Virtues: Moral Order in a Divided World を語るMicheal Ignatiefさん

             

            これらの人々が求める宗教や美徳に対して、権利にまつわる(自主、自立、自己決定権といったような)言語は、植民地からの独立に用いられた言語であり、これらの権利の主張は、個々人の自立と自己決定の表現でもあり、西洋的なものであった。そして、それらの支配や権利に関する言語の使用を受け入れたのは、社会の上層部や、中産階級の人々であり、普通の人々は関係していないことが多い。エリートの支配と言った錯覚は、貧困層にとって、実際には、ほとんど意味を持たない。


            アジアの教会には数百年の伝統はあるが、初期段階にあるように思う。今後アジアの教会は成長していき、そのための何らかの制度化がとられていくだろうが、その中にあっても、アジアの教会に、聖霊が必要だということを神はご存知であるし、神ご自身がアジアの教会にその精霊を送られるであろう。このようなグローバル化を迎えた現在の社会において、キリスト者が謙遜とか忍耐とか、誠実といった日常の美徳がいつも私達にあるように願い、現代の教会にとって、美徳としての謙遜や忍耐が、非常に必要になっているのではないだろうか。

             

            以上、講演の部が終わりました。 その後、休憩に入りました。

             

            ということで、次回は、パネリストからの応答とその後の対談のご紹介いたします。たぶん、公開は明日の夜になります。

             

             

             

             


             

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            Yale University Press
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            (2016-11-01)
            コメント:公演中紹介されてた書籍

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            Harvard University Press
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            (2017-09-18)
            コメント:これも講演中紹介されていた

            2018.05.31 Thursday

            同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(3)

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              本日で、この緊急連載シリーズは終了。今日は、パネルディスカッションの部分だけ、お話ししたいと思います。

               

              現地では、講演後15分ほどの休憩の後、パネルディスカッションが始まりました。

               

              藤原さんからの応答

              藤原さんから応答として、ご自身が英語と日本語で発言されることで、討論が始まりました。

               

              今回の発題のポイント

              これまで、ハゥワワース先生には、結構挑発的な論文が多かったが、今回は割とおとなしめのご発題であったように思う。今回の発題でVirtureについて語っておられたのが印象的であったように思う。とはいえ、ハゥワワース先生の博士論文で取り上げられていたものであると思います。ほかには、博士論文では、物語やコミュニティという概念が触れられていたものでした。

               

              今回の発題で、満州事件をめぐってのニーバー兄弟の論争が取り上げられ、その中で「何もしない恵み」ということがありうるのかを巡っての論争が取り上げられたのが印象的であった。信仰とのかかわりでの徳、より具体的には、忍耐、謙虚さ、といったことの現代における重要性と、バルトの正直な無知ということが重要であるように思う。

               

              自国利益とナショナリズムがグローバリズムの中で叫ばれる現在という時代において、もっと先に行かないといけないことが指摘されているように思う。

               

              教会の現代的役割再考

              教会の現代的役割を考えてみると、以下の3つの役割と考えられるだろう。
              (1)平和をつくり出す霊性
              (2)神の国の市民
              (3)預言者的、祭司的役割

              の3つの観点から考えたい。


              平和を作り出す霊性に関して、平和を壊そうとすることに対して、暴力を以って反応することが平和をつくり出す霊性ではないだろう。(ミハ氏註 これは、1945年以降のアメリカには耳の痛い話だと思う。なぜなら、世界の警察官を自ら買って出て、あちこちで戦闘行為を行ってきたからである。それは、共和党政権でなく、民主党政権でも起きたことである)ニーバー兄弟の論争でみられたラインホルド・ニーバーの「何もしない恵」で表現される「神が何をしておられるのかを見極める」ことの必要性、あるいはバルトの「正直な無知」と重なっているのではないだろうか。

               

              ニーバー兄弟の対話を考える中で、それを支えるための霊性の重要性を指摘しておられたように思う。つまり、神の国の市民としての役割として、平和の神の国の市民として生きることへの上からの動きの重要性がしめされたし、また、制度化という言葉で語られた制度を作ることは、ある意味で下から(人間の側から)の動きとして取り上げられたであろう。

               

              神の国と国民国家

               ニーバー兄弟(多分、リチャード?)の一人は、近代社会の中では、どの国の国民であるかが重要であるとされ、クリスチャンであることはおまけのように考えてきた側面があると指摘しているように思う。


               第一の市民権は天にあるとパウロはいっている。過去の日本の教会の歴史を振り返ってみると、聖書の言う神の国と日本という国民国家の主権が対立したとき、日本という国民国家が優先されてきたが、しかし、本来は、神の国の民であることのほうが重要であったのではないだろうか。とりわけ、現在の韓国とか、中国のクリスチャンにとっては、国民国家の民であるという古都よりも、神の国の民であることの重要性が問われているのではないだろうか。その意味で、神の国の民として、他の人を愛すること、それが重要であり、問われているのではないだろうか。

               

              預言者的存在としての教会、祭司的存在としての教会

              教会の預言者的性質は重要であるといえるだろう。ハウワワースの神学は、その意味で、預言者的性質を持つ神学であるといえるだろう。ある面、社会に課題があり、社会の不正があるときにこれらの問題に対して声を上げるような神学ではあった。ところで、旧約聖書的伝統を考えれば、祭司としての伝統も存在し、旧約聖書では、王のために祈り、国のために祈った祭司がおり、日本の戦時中の教会は、この祭司的存在を果たしてきたといえるだろう。(ミハ氏註 日本の教会は、宮城遥拝(天皇のいる皇居に向かって拝礼すること)に嬉々として参加した人々もおられたようだし、軍に教会が飛行機を奉納したように記憶している。)確かに、自分のコミュニティ、自己の属する国家のために祈ることは重要かもしれないが、ナショナリズムに対しては強く対抗できる存在であるべきなのではないだろうか。

               

              キリスト者にとって何より重要なことは、神の国の民であることをきちんと認識しておくことであろう。日本の戦争中に、教会がなしたことは、神の民であることをやめ、教会が中心になろうとしたためおきたことなのかもしれない。(ミハ氏註 このあたりのことを知りたい向きには、日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 - Wikipedia を読んでほしい。今では、この文書の存在を知っている若いキリスト者はほとんどいないし、福音派系統のキリスト教会関係者では、この文書の存在を知る人はほとんどいないのではないかと思うが、読んでおくことは重要である、と思う。)

               

               

              小さな教会にいるほうが、教会の全体について、よく見えたり、対象から、ある程度距離があり、遠くにいる時のほうが、対象について、かえってよく見える、ということはよく起きる。ナショナリズムの課題については、案外地方部からのほうがよく分かるかもしれない。

               

              アジア諸国において、とりわけ相互の和解において、今後重要になるのは、預言者的存在としての教会のネットワーク化であろう。どうしても、自国、身内に対しては強くものを言いにくい部分があると思う。その意味で、日本の教会は、日本の罪を見逃しにしてきた部分もあったであろう。その結果、自分たちの罪を認めず、悔い改めもしてこなかったのではないだろうか。そのような条件下では、和解もないし平和構築も起こりえないであろう。その意味で、互いに赦し、赦される霊性が必要かもしれない。(ミハ氏註 伝統教派でしているような、罪の相互告白というのはいるように思う。その意味で、以下のような祈りは重要なのではないだろうか、と思うのだなぁ)

               

                  Lord of grace and truth,
                        we confess our unworthiness
                        to stand in your presence as your children.
                        We have sinned:
              All       forgive and heal us.
                         
              (略)
                         
                        Your Son our Saviour
                        was born in poverty in a manger.
                        Forgive our greed and rejection of your ways.
                        We have sinned:
              All       forgive and heal us.
                         
                        The shepherds left their flocks
                        to go to Bethlehem.
                        Forgive our self-interest and lack of vision.
                        We have sinned:
              All       forgive and heal us.
                         
                        The wise men followed the star
                        to find Jesus the King.
                        Forgive our reluctance to seek you.
                        We have sinned:
              All       forgive and heal us.

               

              その意味で、旧約聖書的な意味での預言者的観点からの批判にさらされることが、どの国にとっても必要かもしれない。そして、それぞれの国家の中で、自国のナショナリズムに批判的な教会がその国の中で存在し、これらがネットワーク化されていくことが重要ではないだろうか。ハウワワース先生は、その著書の中で、アメリカの教会とそれを取り囲むアメリカの文化を批判してこられた。このような社会の現状に対して、批判的な視点を持つ教会のネットワークが、平和を作り出していくためには、重要であろうと考える。

               

               

              Xi Lianさんからの応答
              Duke大学のかつての学部長、ヘイズさんが挨拶をしたいと言っていたので、この場でお伝えします。長崎でヘイズさんはこのフォーラムに参加され、キリスト者の証としての平和フォーラムという存在に感銘を覚えたて米国に帰国した直後、膵臓がんが見つかった。そのことを覚えてもらったことを感謝しており、現在では、膵臓がんが寛解していることをお伝えしたい。

               

              Xiさんの背景
              自分の背景としては、中国におけるキリスト教についての研究をしてきた。とはいえ、アメリカの国民であり、アメリカの神学校で教えている者であり、中国でのキリスト教会の運営に直接的に携わっている存在ではないことをまずお断りし、自分自身からの観点から応答してみたい。

               

              「教会を教会らしく…」の意味するところ
              西側のキリスト教世界における死にかけのキリスト教の影で、力強い神学の回復の根底にあるものとして、キリスト教民主主義の世界からの覚醒の主張にあるのではないか、と思う。特に、ハウワワース先生が主張しておられる「教会を教会らしくしよう」というご主張は、教会が社会に起きている問題と無関係であっていい、ということではない。(ミハ氏註 最近は多少は変わってきたものの、1970年代までのアメリカ福音派教会の大半では、教会と社会とは一線を置く傾向があったように思うし、現在でも多くの福音派教会では、社会のことに教会は冷淡であるように思う。)

               

              社会的なデノミネーションとして、アメリカのほとんどすべての教会が戦争を支持してきたことは、アメリカの教会がアメリカという国家に対して、批判的ではあり得なかった、ということを示しているといえるであろう。例として、ヘイズ先生が長崎での講演であげた例である長崎に原爆を落とす飛行機を祝福したカトリック司祭の話がある。このように、戦争とその中にある殺りくに批判的であり得なかった教会の姿がある。

               

              敬虔さと暴力の癒着に対抗する教会
              敬虔さと暴力の距離を縮めてしまうことにハゥワワース先生は反対しておられるし、教会が非クリスチャンの意見を汲み取り過ぎることに、反対しておられるように思う(ミハ氏註 ここで非クリスチャンの意見というのは、世俗的な政治的な傾向性のことだと思われる)

               

              クリスチャンが寄留者でその声が小さくても、社会問題に神学的に声を上げることができるのではないか。太平洋戦争中、ルーズベルト大統領が大統領令を公布し、日系人の強制収容を命じたとき、多くの人々がその大統領令を支持した。しかし、当時の大統領令とその背景にある人種差別的性質への批判は、すでにクリスチャン・センチュリーという雑誌での議論に確認することができる。これが、社会的問題に声を上げるということの一つの例であると考えるであろう。

               

               クリスチャンにとって、ナショナリズムと信仰を厳密に区別することは多くの場合、困難であることが多い(ミハ氏註 これねぇ、同志社で正々堂々といえたのは、外国人ならでは、だと思いました)。清水安三さんという中国伝道者(同志社出身)がおられるが、彼は、中国伝道の中で、同志社の制度化された拡張主義とは分離していくことになります。北京で、難民と化した女性たちを受け入れる学校を作り、第二次世界大戦中でも運営されていたのです。清水さんは、白人の帝国主義を日本もやっているではないか、日本の国を批判したクリスチャンであり、クリスチャンとして、神の国の主権に従うことを、身をもって、証した寄留者の一人であるといえるであろう。

               

              「教会が教会である」というチャレンジ

              北東アジアでは、現在あるチャレンジが教会に与えられていて、それはとりもなおさず、「教会が教会である」というチャレンジであり、このことは、アジアに生きるキリスト者にとって、大変重要な課題であろう。

               

              以下、ナショナリズムに関して、2つのことを述べたい。

              確かに、教会は、民主主義社会の建設に貢献したとはいうものの、中国の教会は民主主義を育てる安全な避難場所(ミハ氏註 サンクチュアリとかアジュールの意味での避難場所)にはならないかもしれない。その意味で、中国の教会でのキリストの主権の回復は難しいかもしれない。

               

              具体的には、中国仏教界のリーダーの一人は、習近平政権の文書を新しい仏教典と呼ぶような行為がある。このような波に抵抗することは困難である。特に政権側は、「正直な無知」が自分自身に向かってくること、そして政権やナショナリズムに批判的な視線が向けられることを政権側は危惧するのではないだろうか。

               

              もう一つは、ナショナリズムの勃興の中で重要なのはキリスト者の美徳の重要性である。ナショナリズムが進む中、外国資本への暴動などや不買運動などが起きており、近年のロッテマークへの抗議は、実に恥ずかしい限りであると思う。このような排外主義の中にあっても、他社を愛する、隣人を忍耐をもって愛するというキリスト教的な選択肢を教会は提供すべきであろう。

               

              たぶん、アメリカ系放送局のニュースクリップ

              中国国営系放送局のニュースクリップ

               

              SeonWook Kim さんの応答
              平和の努力のためには、互いの違いを認めあうことが必要であるように思う。これまで多様なキリスト教が生まれてきたし、古代中東で生まれたキリスト教は、キリストをその礎石とするものの、実体的に多様な形をとることを許容されてきたといえるだろう。宣教の意味を考えると、(ミハ氏補足 支配の言語やエリートの言語で語られてきた宣教というハゥワワースの主張を受けて)どのような言葉で宣教するのか、宣教の言葉について考えることが重要かもしれない。

               

              日曜学校的な聖書理解の跳梁跋扈

              クリスチャンの社会や様々なことについての理解や態度は聖書に由来しているのではなく、日曜学校の教師から由来しているという側面はないだろうか?ところで、現代人にとって、王国の概念はどこから来るのだろうか?世俗世界における王国の概念が汚染されてしまっていて、本当のことがわからなくなっている側面はないだろうか。(ミハ氏註 多くの信徒の皆さんの間では、この種の日曜学校の聖書理解的な聖書理解が跳梁跋扈しているような気がする。そして、それに異議を唱えたら、時々強烈な反撃にあることがある。特に、SNSのいわゆるキリスト教関係の発言でもこのレベルの発言が多数みられるので、残念だなぁ、と思うことが多いことは、一言ここで述べておきたい)

               

              (ミハ氏註 ハゥワワースの支配の言語と異なるキリスト教会の言語の発言を受けてであろうけれども)現代の社会において新しい理解を新しい言葉が必要ではないか。王国と言う概念は神が一つであり、神の主権を示すことばではあるが、現代的なコンテキストで考えれば、神の共和国(Republic)と考えてもよいのではないだろうか。今では王国についてだれも理解がないので。そして、神の共和国ということは三位一体は繋がっているのではないかと考えている(ミハ氏註 この発言者は、神学的素養が薄いのだと思った。もともと政治学者なので、神の国を神の共和国と考え、三位一体論から持ってこようとしたが、これには無理があるように思う。そもそも、神は民主主義とかとは、全く関係ないですし、と思わず心の中で突っ込んでいました。いくら、政治学上王国という概念が無効であっても、神が主権者である以上、せいぜい神の支配、神の主権ということを言わざるを得ないと思った。以下の議論は一応掲載しておくけど、個人的には、あまり意味のある議論とは思えないことだけは付言しておきます)


              神の国の憲法は、自由に基づいている。ところで、政治とは共にいきる技術である。その意味で、和解の中にあって、神の政治が実現するためには、ロゴスによる新しい知恵が必要ではないか、と考える。

               

              ハゥワワースからの再応答
              藤原応答への再応答
              リチャード・ニーバーの「何もしない恵み」を触れてくれたことは、ありがたかった。バルトの「正直の無知」とリチャード・ニーバーの「何もしない恵み」とは、確かに繋がっている。さらに、ナショナリズム批判的な教会のネットワーキングという概念は重要と思う。


              グローバリズムという言葉が生まれる前に、キリスト者は一つになっていることをすでに知っていたとは言えるだろう。グローバリズムのかで、地域性(ローカリティ)は回復されることが必要であろう。普遍(つまりカトリック)であることと、地域性の同時追求が現代においては必要であるといえるのではないだろうか。

               

              シーアン応答への再応答
              クリスチャン・センチュリーという雑誌の存在について考えてみたい。社会的福音の論調を持った雑誌であり、20世紀はクリスチャンの世紀になり、それはアメリカ型民主主義の時代であることを指し示す雑誌であった。その中で、人種差別的な批判意識が大統領令に対して出されたことは重要であると思う。


              アメリカは、過去二十年間戦争状態にあり続けた。そして、そのような戦争状態の中で、「良きアメリカ市民は米軍にいる」という概念は、アメリカ社会にある種の規律をもたらしているように思われる。


              キム応答への再応答
              神の共和国という概念はどうなんだろうか。意味がよくわからない(ミハ氏註 やっぱり、突っ込まれたw)。隣人に好意を持つと言う政治概念は、重要でホッブス的な世界とは異なる。死を迎える存在であることのみが共通という現代の人々の中でどう協調してくのかするかを考える必要があるだろう。

               

              現代の物語は自由(フリーダム)という物語に支配されている。その中で、やってなかった罪をどう考えるか、ということは問題になるかも知れない。

               

              (ミハ氏註 アングリカンの祈祷文には次のようなものがある。

              ALMIGHTY and most merciful Father; 
              We have erred, and strayed from thy ways like lost sheep. 
              We have followed too much the devices and desires of our own hearts. 
              We have offended against thy holy laws. 
              We have left undone those things which we ought to have done
              And we have done those things which we ought not to have done;
              最初この祈祷文を読んだときには心が震えた。)


              現在の結婚式で、人々の前で結婚式の時に制約させるのだが、その意味を結婚する二人はどのようなことが待ち構えているのかを分からずに、教会に来ている人々の前で誓約してることがわからずにやってないのだけど、教会はそれを誓約させる。こういうことをどのように考えるのか、わからずにやってしまう罪をどう考えるのか、何もしなかった罪をどう考えるのか、ということは重要かもしれない。
               また、人々が信じている物語(グランド・ストーリー)も重要だが、その物語を誰が語ったかが重要である。例えば、ローマではストア的な禁欲主義が帝国のエートスであったのと同様に、教会のエートスになってしまった。そのことを、わからない中で、それを現在の教会も無意識にやらせているのではないか。また、クリスチャンにとって互いにどう仕えていくのか、ということが問題になるのではないだろうか。

               

              応答への藤原さんの再応答
              今回読まれた論文は非エリート主義的な立場からかかれている。しかし、日本の教会は、明治期以降エリート層の教会であった。その中で、キリスト教界のノン・エリート的な立場に立つということが今後の課題になるのではないだろうか。(ミハ氏註 プロテスタントの大半(日本キリスト教団とか)とカトリックの一部に関しては、エリート層への伝道を先行させた部分があるが、弱者、ハンセン氏病対策を含め、弱者の立場に立つ伝道もあったことは確か)教会の制度化の問題に関して、社会制度の一部を教会が担うことで、習慣として定着することでキリスト教徒としての美徳が定められていくのは、重要かも知れない(ミハ氏註 伝統教派、ことに正教会的な伝統においては、この習慣としての美徳の側面が実に強いように思う)。美しい生き方をするのは重要だが、日本のこれまでの教会のあり方とは違うので、対応が求められるだろう。

               

              ハゥワワースの再々応答

              エリート主義とのかかわりでいえば、対話のための主教制のよさやある種のヒエラルキー構造を考えているので、ある種のエリート主義とは言えるけれども、ブッシュ家の人々のようなエリート主義のようなものではない。(ミハ氏註 同じテキサス人として、ジョージ・W・ブッシュの存在がよほど腹に据えかねているのだなぁ、という印象を持った)

               

              自分には、カトリックの友人がいるが、その友人は、貧しい人に仕えている。そのような美徳が重要であり、また、ラルシュで障害者とかかわっていくなかで学んだのは、スローダウンする重要性であった。ジャン・ヴァニエ(ミハ氏註 ナウエンがその後半生に影響を強く受けた、ラルシュ・コミュニティの創設者)との関係の中で、ヴぁに絵が主張していることは、イエスが十字架に掛かったこととイエスの復活に、キリスト教が世界を変えるやり方を見いだすことを可能にした、ということである。

               

              Wooさんからの質問
              先ほどの応答を聞いていると、美徳としてのストイシズムを推薦しているように聞こえるが、そのように推奨する理由は何か?

               

              ハウワワースの回答

              ストイシズムを、私は必ずしも支持しているわけではない。クリスチャンは希望を持つ人々であるが、ストイシズムはそのような生き方ができないので、人々を失望させるだけに過ぎない。その意味で、支持しない。
              ところで、私たちが子供を産み、次世代を育てるのは、神に対する希望を持っているからではないだろうか。確かにどうしようもない経験をせざるを得ない人生を生きることになるとわかっていても、次世代を生み、育てるのは、この地に良いものがある、キリスト者はこの地に良いことをもたらすことができる、とキリスト者は確信しているからではないだろうか。

               

              その意味で、クリスチャンの生き方は、ストイシズムの対局にあるといえるだろう。しかし、もしイエスが復活していないのなら、美徳としてのスト石ズムはいいもので、その意味で、ストイシズムは2番目にいいものかもしれない。


              キムさんからの質問
              王国とソブリニティ(主権性)を自分は考えたが、秩序とヒエラルキーはどう違うのか?

               

              ハウワワースの回答
              王国とソブリニティは、キリスト教では違う意味を持ったのであり、人間の世界での人間社会のソブリニティに疑問を持たせることになった。(ミハ氏註 その意味で、神の共和国 God's Republicという概念はナンセンスだ、と暗に言っているように思えたのだが…)

               

              最後に

              一応、司会者から同志社関係者に感謝のことばが述べられた。(ミハ氏註 とはいえ、下働きをしていた、大学院生にも感謝のことばがないのは、どうかなぁ、と思った。基本的にハゥワワースのテーマから考えたら、それは当然あったらよかったのに、と思った。司会者に変わって、ミーちゃんはーちゃんは深謝の意を表したい)

               

              全体のミハ氏的感想
              ハゥワワースのの講演自体は、米国の講演ほど強烈でインパクトのあるものとはならなかった。それは、アジアの教会について、あまり知識がなく、「正直の無知」という態度をとらざるを得なかったことにあるのだろう。だからこそ、この講演の副題として、「アジアにおける教会:バルト主義者の黙想」という副題がついているのだなあ、と思った。自分がよく知っていることなら、批判的にもなって、文句の一つや二つ、三つや四つ…そして、いろんなことがいっぱい言えるのだろうけれども、間接情報からしか知りえないアジアの教会、その相互の複雑な関係はよく知らない。ミーちゃんはーちゃんもお隣の韓国の教会は多少知るところであるが、大陸中国の教会については、知り合い経由の情報や、テレビ番組を通して位しか知らないし、台湾の教会に関しても、同じアングリカンの台湾人の方からの情報を通して位しか知らないし、フィリピンの教会もお友達から聞く程度しか知らないし、インドネシアや知らない。そうなると、軽々に発言できず、ハゥワワース先輩も、いつものアメリカの教会に対して向けるような強烈な物言いはできなかったのかもしれない。

               

              あと、パネルディスカッションが、ハゥワワースの発題とかなり噛み合っていない印象が強かったのが、実に残念であった。表面的な理解のレベルでの対話にとどまり、事前にハゥワワースの発題を読んでいたはずにしては、表面的であったなぁ、もったいないなぁ、という印象が残ったことは、お伝えしておきたい。誰かみたいに、パネリストの人選ミス、とまではいわないけれども。

               

              あと、ハゥワワース先輩をそばで(4mくらい先におられるのを)見て思ったのは、このおじいさんは、ある意味で、型破りという意味では、キリスト教界におけるスティーブ・ジョブスみたいな人だと思った。服装もよく似ていたし。w

               

               

               

              会場でのハゥワワース         在りし日のスティーブ・ジョブズ

               

               

               

               

               

               

               

               

              2018.06.25 Monday

              京都ユダヤ思想学会第11回学術大会参加記(1)

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                今日は、先週末に同志社大学烏丸キャンパスで行われた、京都ユダヤ思想学会に参加してきたときの記録を書いておこうか、と。面白かったので・・・

                 

                 

                中世のユダヤ思想とゴーレム

                まず最初は、ゴーレムの創造のお話から、ということで「ゴーレム創造の歴史的変遷」というタイトルで、 京都府立大学他で非常勤講師をしておられる松浦翔子さんのご発表であった。ギャラリーは20名ちょっとといった感じでした。

                 

                面倒なので、当日オンサイトで撮ったメモによる本人の発言要旨のみをまず載せそこへのツッコミとして[]を付した部分がミーちゃんはーちゃん的ツッコミです。当日、録音取らずにメモしたので、間違いがあるとしたら、ミーちゃんはーちゃんによる聞き間違い等の間違いです。御本人は、文学がご専門の方だとご紹介がありました。

                 

                ゲームでのゴーレム

                 

                The Simpsonsに出てくるゴーレムの彼女とゴーレム

                 

                ご発表の様子

                 

                ■以下ご発表要旨

                 

                中世文学の立場からのゴーレム研究

                文学の立場から検討した結果をお話してみたい。ゴーレムの理解にまつわる歴史的変遷を、ある種科学史の文脈で検討してみた結果の中間報告的な位置づけとしてお話してみたい。本発表では、人造人間としてのゴーレム、アンドロイドなどについて触れ、その関連で魔術、神秘、科学にまたがるものを分析する。このゴーレム関連研究には、ゲルショム・ショーレムの研究や、モシェ・イデルの研究がある。

                [人造人間といえば、キカイダーがまず浮かんで、キカイダーの歌を心の中で熱唱した…wこれで、年齢が特定されてしまいそうだが、かまうものか・・・w]

                 

                テレビ特撮番組 人造人間キカイダーの時の歌

                 

                18世紀のゴーレム研究

                ゲルショム・ショーレムによれば、ゴーレムは魔術、魔術によって想像されたものとして取られ得られている。人間との違いは、ショーレムは、神との一体化との関連で捉えており、人造人間が本物の人間にならないのは、それは、神の力を証明することとして捉えられているようである。

                逆に、イデルによれば、ゴーレムを空想上のものとすることに対して批判的であり、彼の場合、より神学的な含みに着目している傾向が見られる。さらに、彼の文献を見る限り、この問題を巡る著述者たちの知的な交流を見ることができる。

                 

                18世紀以前のゴーレム研究

                15世紀の資料を中心とした前2者と比べ、ローゼンフェルトは、より以前の文献等に当たりながら、科学的・哲学的側面からゴーレム創造を考察しており、15世紀以前の文献にも言及しており 更にサイバネティクス論などとの関わりを含む人間機械論に接続しようとしている部分も見られる。

                 

                ユダヤ思想におけるゴーレムの由来

                この発表では、まずこれら3人の共通理解する部分について考えていきたい。まず、ローゼンフェルトを起点として確認したい。アダムの創造の模倣としてのゴーレムがあることを指摘しており、そもそも、ゴーレムには人造人間の意味はなかった。この語は、旧約聖書詩篇139篇[ミーちゃんはーちゃん注  גָּלְמִ֤י  口語訳聖書の詩篇139篇16節では  まだできあがらないわたしのからだ  と翻訳されている部分、新改訳聖書では 胎児の と翻訳されている部分]に出てくる。ユダヤ文献のミドラッシュなどにも出てくるが、そこでは、ゴーレムとは、息吹が吹き込まえるまでの物質的な体と理解している。ベルシート・ラバが他の人との共同で一体の人造人間を作った記述などが文献に見られる。他にも、12・13世紀の記述として、青銅の像の制作からゴーレム制作の話などもあり、ゴーレム制作にあたっては、一人で作らないこと、けがれなき土から作ること、22文字から作られた文章を唱えながら作ることなどの記述がある。

                 

                このゴーレム創造は、神によるアダム創造の模倣であると言える。そして、20世紀以降、ゴーレムに別のメタファーである、サイボーグだの、ロボットなどの概念が与えられた。ローゼンフェルトは16世紀あたりに人造人間感の転換があったことを指摘している。その際の議論として、シナゴーグでの礼拝に参加できるか。礼拝成立のための10人のうちに数えられるかとか、ユダヤ共同体に含まれるか、ということが議論されていることを記述している。この議論の中で、カバラ反対派のラビたちが反対したことが紹介されている。

                 

                ユダヤ社会とゴーレム
                 同じような議論として、ゴーレムを召使いにしてもいいか、あるいは、動物の魂しか無いのではないか、だから街道のメンバーには入れないだとか、魂のない存在であるなどの点から議論された。人間の魂と動物の魂とは異なるとか、ゴーレムと人間の違いを16世紀に認識されている。


                 とはいえ、同じような議論が、すでに12世紀の段階で認識され、議論されているが、彼らは、ゴーレムと人間の違いという点にフォーカスを当てており、その際の論点は、神と人間の関係にあった。特に、人間は、神のよう中たちでの魂を与えられないと考えている。なぜならば、人間が神よりも低く作られた、という理由からである。
                ここに、

                 

                 :人間

                人間:ゴーレム

                という対比関係を見ることができる。

                ローゼンフェルトによれば、死体は魂が抜けた状態なので、ゴーレムと呼ばれていたことを指摘している。12世紀13世紀のハシディズムの世界では、死体も人間と捉えられており、言語能力を問わないものと考えられていたようである。


                15世紀となると、言語能力が問題となり、このあたりから、オートマトンとの関連が考えられるであろう。

                 

                最後に、ゴーレム理解に関するユダヤ世界の外部からの影響を考えてみたい。

                キリスト教理解やキリスト教カバラとの関連で考えたい。ロイヒリンという人物は、ゴーレムの製作者は、神と自称することは許されていないことを指摘している。ロイヒリンは 様々な人と交流があった。また、この時期には、ネオプラトニズムと自然哲学とキリスト教の関係なども考えられるであろう。

                 

                とりあえずのおまとめ

                これらの議論を振り返ると、人間の身体は質量を持ったものであり、物質的な形を持ったものとして人間を還元したものがゴーレムと言えるかもしれない。その意味で、人間が人間を作るということはどういうことか、という理解や、人間とは何かという問とも深く関わる。このゴーレムの問題は、非常に現在的な意味があることだとは思う。
                ただし、研究は18世紀までの理解であり、18世紀以降が今後の課題となっている。

                 

                質疑応答編

                ーーーーーここで、質疑応答にーーーーー 

                ■まず最初の質問者は、同志社大学の小原さんからの質問でした。質疑応答の概略は以下の感じ。
                Q.動物に霊があるのか? キリスト教では、動物には魂はないとしているけれども、どうなんだろうか。

                A.今後調べないといけないと思っています。動物に似たような魂だったかもしれません。今後の研究課題です。
                Q.なぜ、19世紀になって関心が高まったののだろうか。一番の理由は何か。
                今回は、18世紀までの研究なので、これについてもこれからの課題としたい

                 

                ■手島イザヤさん(独立研究者)からの質問

                Q.魂があるかないかの問題は重要で、なぜ、問題になるかというと、このあたり、創成期の1章と2章との関わりもあるだろう。
                1章では、固有名詞ではなく、一般名詞であり、
                2章になると、固有名詞になる。その違いは、鼻の中に命の息吹が吹き込まれること、ニシュマット・ハイームと深い関係があるのではないだろうか。ネシャマート・ネフェシュとの言葉が違うことと深い関係があって、それは、聖書解釈の問題と深く関わるかもしれない。ゴーレムの語根がなぜ、重要になったかを考えると良いかもしれない。つまり、ヘブライアルファベットのゴレムの語根G-L-M   -ג-ל-ם‬(ヘブライ語は右から左に並んでいくので、גがGに当たり、לがLにあたり、םがMに当たるので注意)‬をどう考えるか重要ではないか。

                A.ヘブライ語はあまり勉強してないので、これから勉強します。[ちゃんと勉強してくださいw]

                 

                ■司会者の方からの質問

                Q.ルリヤ派について、哲学的な問題をあつかおうとしているが、この問題に関するキリスト教ルネッサンスとの係わりはどのようなものだったろうか。
                A.ルリヤは商業もしていたので、交易の中心点としてサヘドはあったはずなので、交流はあったと考える。ルリヤの合理的な哲学は、イスラム圏で復興したギリシア哲学をユダヤ人が受け取って、そこから、ルネッサンスにつながったといえるだろう。若干どちらかの側が遅れた、という見方をするのか、同時と見るのかは議論が分かれるかもしれないと思う。

                 

                同志社の小原先生から再質問があり、この問題は、小原先生研究中のAIの問題とも深く関わるし、南米のピグマリオンとかとも関係する。AIの研究していると、このゴーレムの話は時々出てくる。ところで、旧約聖書に戻って、魂と肉体をどう考えることがでがかりになるのではないだろうか。精神が先で、肉体があとという考えることもできよう。また、キリスト教側からユダヤ側への影響だけでなく、ユダヤ側からキリスト教に影響したのではないかとも考えられるが、如何か。

                A.今後の研究課題です。

                 

                ■手島イザヤさんのコメント

                ちょっと意地悪な質問になっていたかもしれない。ところで、このゴーレムの問題は、バラー と ヤツアー と言う事関係していて、ゴーレムの語根は、覆うという語根から、来ていると考えられるのではないか。 

                 

                魔術に関しては、イスラムの方との関係もあるだろう、というコメントが有りました。

                 

                ミーちゃんはーちゃん的感想

                この問題は、小原先生がご指摘のように、極めて現代的な問題であるように思いました。とりわけ、AI(人工知能)が存在するようになった社会においては、実体を持たないコードとしてのAI、つまり、きよい土から作られているわけではないゴーレム、文字と数字からなるプログラムとして作成されるようなAI人工知能なのだけれども、実態を持たない割に、人間とコミュニケーション可能であるものをゴーレムと考えうるのか、という問題を突きつけているようにも思ったのです。なお、AIを動かしているLSIは高純度のSiシリコン 珪酸成分 で作られているので、きよい土から作られているということは冗談半分ながら言えるかもしれないですけれども。

                 

                特に、Alexaのように、言語能力を持ち、聖公会の英文の式文を勝手にイギリス訛りで読んでくれるようなタイプのAIをどう考えるのか、というのは、ゴーレムを巡る現代的な課題ではないか、とは思いました。あるいは、ルンバ君のようなお掃除ロボットは、ゴーレムかどうかとか、自走式のペッパー君とか、ホンダのアシモくんとか、こうなると、ほぼ夢のゴーレムの実現、ということになりはしないだろうか、などの妄想をご講演を拝聴しながら、膨らませておりました。自動で動くお掃除ロボットルンバ君が、イスラエルの厳格派の家庭の中で、安息日に勝手にスィッチが入って掃除することは、安息日規定に反するのかどうか問題を一生懸命口からつばを飛沫のように飛ばしながら議論しているラビたちがいたら(ユダヤ教の指導者たちラビ(律法学者)の議論ってのはそういうところがあるらしいですが)、面白いだろうなぁ、とか思っていました。
                 

                 

                聖書とかの解説をするAlexa
                ルンバのCF

                 

                Softbank PepperくんのCF
                Honda Asimo CF

                ところで、ゴーレムは先に詩篇139篇に出てくるというところに註をつけておいたように新改訳聖書では「 胎児」と翻訳されているが、そう考えると、人工授精などの議論も、このゴーレム理解と関わるし、もう少し言えば、IPS細胞、STAP細胞などの再生医療をヘブライ的にどう考えるのか問題ともつながってきているように思い、その意味で、極めて現代的な問題を抱えているように思う。

                 

                また、脳死状態(植物状態)の人間は、人間であるとは個人的に思っているが、それは、言語能力を失っている段階で、ゴーレムなのではないか、という話や、ダラスで射殺されたJFケネディから、当時副大統領であった(後にアメリカ合衆国憲法の規定に従い、大統領に自動昇格する)リンドン・ジョンソンがエアフォース・ワンの機中で就任受託したとき、ケネディはゴーレム状態だったかどうか問題など、かなりいろいろユダヤ的伝統からどう考えるか問題などを含めて考えれば、かなり面白い問題を含んでいるようには思いました。

                 

                まぁ、早朝(大学人にとってはw)の発表ということもあり、大学院終わって間がない研究者の方のご発表であったので、応答のほとんどが「今後の研究課題です」「もっと勉強したいです」という応答ばかりであったのは、実に微笑ましくもあった。この問題、小原先生がご指摘のように、非常に現代的な課題、AIの問題とも絡んでいるし、再生医療や脳死の問題、臓器の収穫(臓器移植のみのために人間を生存させるという医療上の問題)などともゆるくつながっているので、この研究課題はぜひ、倫理の問題と含めてユダヤ思想的にどう考えるのかは重要だろうなぁ、と思いました。個人的には、この発表者の方は、とてつもない鉱脈を当てたなぁ、と思ったことは確かです。ただ、鉱脈をぶち当てても、それを発掘する能力がなければ、無意味なのではあるけれども。自省を込めて…

                 

                研究者を育てる上では、この辺、異分野とのお付き合いを含め、どのように鉱脈を掘り進めていくのかについて、ぬるく見守ってあげないといけないのだろうなぁ、ということは大学に籍を置く者としては思った。

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                午前中2つ目のご講演は、参加者がちょっと増えて、30名位の参加者で行われました。

                 

                日本軍成果上海のユダヤ人絶滅計画の検証 続報
                午後2つ目のご発表は、昨年に引き続き日本軍政下の上海でユダヤ絶滅計画は存在したか、という問題についての続報でした。この研究については、こちら 2017年の京都ユダヤ学会に行ってきた 午前中篇 を御覧ください。それでは、当日のメモから、ご発言者の方のご発言を拾ってみたいと思います。

                これは去年の報告の続編であり、トケイヤーさんの本は資料に基づくというものの、小説仕立ての感じが強く、原資料と記載との対応関係がわからないところがある。1979年に邦訳が出た、河豚計画という、トケイヤー・シュオォーツの作品では、上海のナチスの計画を日本領事館員が命がけで阻止したということになっているが、その史実性の検証にここ数年取り組んできた。

                 

                有力原資料の発見

                この時期の上海を実質的に支配していた軍部のトップ、實吉敏郎大佐の日記が子孫のところに保存されていたことが判明し、イトウケイコさんという英国在住の著述家が書かれた、伊藤忠の上海支店勤務であった両親の記録を残された方から、人脈をたどって、實吉大佐の娘さんへの直接インタビューを刊行しようとしたものの、年齢的に無理だと言われていたところに、孫娘さんから、遺品の整理をしていると、大佐と妻が残した大量の文書が発見されたという一報が入った。そこで、去年10月原本を取得することとなり、当事者による一次資料が見つかった。

                見つかった資料としては、以下の通り

                業務日誌

                小型アジェンダ(英文の日記状のメモ)
                4穴リングファイル(ユダヤ問題対応関連の会議メモ)
                ユダヤ人対策の本省への報告書の手書き原稿
                戦後の友人からの手紙

                 

                實吉大佐とその手記

                 

                業務日誌の中に逮捕事件の詳細が記載されており、上海ゲットー形成に関する貴重な関する歴史資料であった。これが保管されていたのは、ご家族の態度によるものであり、文書を丁寧に保存する英子さん(志賀直哉の娘さんでもある)の存在が多い。そこで、今回見つかった新資料から、河豚事件を防いだとされる柴田貢の周辺で何が起きたかの実情を検討してみたい。

                 

                新発見の資料から言えること

                今回の資料の中には、ドイツ人の名前は一切出てこない事があり、当時の上海占領政策がドイツの指示といったこととは無縁であることの証左であると考えられる。この實吉大佐は、上海におけるユダヤ問題解決の大任を追って着任した人物であり、上海における
                ユダヤ居住民の処遇の詳細を知っていた人物の記録に、ドイツ人(特に軍関係者やSS関係者)の名前が出てこない以上、ドイツからの影響としての上海でのユダヤ虐殺計画はほぼなかったと言えよう。
                 特に、柴田貢の名前が今回発見中の資料では、出てこないことから考えると、河豚計画と当時のユダヤ人に受け取られたものは、ユダヤ人の強制移住の問題への対応だったかもしれない。たしかに、このような情報漏れがペリッツというユダヤ人を介して流れたことはあったようであり、このような現地司令部の機密事項であるべきユダヤ人強制移住情報を伝えることは、情報漏えいに当たるので、ペリッツは戒告を受けているということはある。
                 とはいえ、この情報漏えい事件に絡み、憲兵隊が動いて、ユダヤ人を拘束した事実があり、ユダヤ人の逮捕・拘禁そのものはあった。そのような状況下で、もし河豚計画のような絶滅計画があったとすれば、それを實吉大佐が知らなかったとはいえないはずであり、そのような記載が本来、一次資料中にあるはずであるが、それが一切見つからない。

                 

                河豚計画の実際

                確かに、当時の上海には、ゾルゲ事件関連で、SS幹部が存在したことは確かだし、一部日本人の警察署長などの暴言があったことも確かだろう。そして、これらがユダヤ人の間に疑心暗鬼状態を生み出し、それが、実在もしない河豚計画の妄想へとつながったものであると考えられる。
                昨年の発表で、河豚事件があるとすれば、久保田氏という人物の存在を考えていたが、実態としては、今回の新発見の文章からは、その久保田氏は一部の日本人の暴言などへは厳しい批判の目を向け、下手な対応を取らないよう大佐に助言していたといえそうで、この久保田氏は、河豚計画の示唆した人物というよりは、このような過激主義的対応を退けていた人物と言えるだろう。

                 

                去年の発表では誤解されていた久保田さん

                 

                實吉文書の解析からは、河豚計画と称されるものは、実態的には43年に実施された強制移住のことについてのユダヤ人側の恐怖が生み出した虚像だった可能性が高いであろう。今後は、これらの資料に基づき、これまでの論文を修正して、校訂版を出す予定にしている。

                 

                質疑応答
                Q.ヨーロッパの資料はそんざいするのか
                A.おそらく存在しなていだろう、と思われる。ただ、實吉大佐はユダヤ人の対応に相当苦慮したらしい。時計や〜の本などでは、悪辣な事をなした柴田として書かれるが、実態としてはユダヤ人も、公文書の汚損、書き換えなどいろいろコソコソやっていたことに対応するのに困っていたようである。
                 

                Q.おそらく、日本へのドイツからのユダヤ人虐殺計画などの要請や示唆はなかったと思っていたが、ドイツ側の実際の対応はどのようなものであったのであろうか
                A.プットカーマーと高島との間の対話はあったことを確認している。ドイツ本国から、ユダヤ人への対策として、日本にあった連絡めいたものとしては、上海で厄介なことにならないように事前に対策したほうがいいよという程度の進言はあったと思う。

                 

                Q.今回発見された資料はいつどこでかいたものかについてはいかがか
                A.業務日誌に関しては、海軍の便箋に書かれているし、当時の日付もあるので、間違いなく当時の上海で書かれたものと考える。シガーケースの文書類に関しては、シガーケースの存在の由来を記述したものについては戦後娘さんが書き残したものと考える。これらの記述から、ユダヤ人に対して、かなり親身になっている實吉大佐とそれに協力した久保田さんという人物像が浮かび上がるように思われる。

                 

                Q.アウシュビッツのような当時絶滅計画の情報がどの程度ヨーロッパ全般で広まっていたかとお考えか
                個別の脱走者の話とかが伝わっていた可能性があるが、ここでは、とても一般化して話せるものではないと思う。これらの欧州での絶滅計画は漏れ伝えられ、上海のユダヤ人の間にも広がっていた可能性はあるが、上海では情報が不正確であったがゆえにいろいろな想像・妄想が生まれた可能性が高いと思う。

                 

                 

                ミーちゃんはーちゃん的感想

                この二本目のご発表は、歴史理解って、こうやって文献資料の発見により塗り替えられていき、理解の組み換えが起こっていくのだなぁ、と改めて思いました。それを現場で見ている研究者の興奮ってのはこういうことなんだろうなぁ、とは思いました。

                 

                とはいえ、この発表は歴史学の発表であり、ユダヤ人に関わっているとはいえ、ユダヤ思想とはちょっと違うかなぁ、ということは少し思ったが、この種のことを発表して、きちんとしたコメントを貰えそうな学会・・・というとあまり他にないので、ここでのご発表、ってことになるのでしょう。多分。

                 

                実は、資料の時間を問題にした質問をしたのは手島イザヤさんだったので、資料の存在の重要性だけに振り回されるのではなく、資料成立の時期の問題というのが、やはり文献学では重要なのだなぁ、ということを思いました。まぁ、基本、ミーちゃんハーちゃんは、技術屋なので、この手のことはあまり考えたことがないのですが、ただ、他人のコードを解読して、別のプログラミング言語に移植する作業(時々この手の依頼が来るからややこしいけど、他にやってくれる親切な人がいないらしく、せざるを得ない事が多いのが辛い)とか、自分自身が書いたコードを解読して、複数のプログラム・コード間の違い・異同を検証する作業をやらされることや、しなければならないことがあるのですが、このときに実に役立つのが、ファイルのタイムスタンプだったり、何気なくコード作成者が書いたコメント行に残されたメモであったりすることは多いのですねぇ、これが。

                 

                しかし、杉浦千畝氏のビザをもらったり、ユダヤ人強制収容所への収容を前にして、命からがら、シベリア鉄道経由で上海に流れ着いたり、インド洋航路でマラッカ海峡経由で、シンガポールなどを経て上海に流れ着いたユダヤ人にとって見れば、ナチス・ドイツからは逃れ得たものの、日独伊三国軍事同盟をやっている日本はナチス・ドイツの友好国である以上、本国への強制送還とかやりかねないとか思ったのも当然で、そのような幻影に対する怯えというものが河豚事件という妄想を生み出したのだ、ということを考えると、相当追い詰められていたのだろうなぁ、と思ってしまいました。

                 

                そんなことを思いながら、ご講演と質疑応答を聞いていました。

                 

                 

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                次回は、大阪ハリストス正教会での講演記録を諸事情から優先し、次次回くらいに京都ユダヤ思想学会のシンポジウム記録を載せたいと思います。

                2018.06.27 Wednesday

                大阪ハリストス正教会の講演会「東方への旅、正教に導かれて」にいってきた

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                  今回は、ウェアKallistos Ware主教というコンスタンディヌーポリ全地総主教庁の管掌下にある府主教が、正教会に導かれた経緯についてのお話を伺ってきました。この方は、もともと、アングリカンコミュニオンの大きな位置を占める英国教会(英国国教会 The Church of England)の方だったのですが、オックスフォード在学中に正教会の伝統に出会われ、東方教会に移られた方のお書きになったものと、その方の人生の歩みのご紹介を通して、正教会とはどのような教会とかんがえられるのか、について松島司祭がお話ししてくださいました。

                   

                  最初の部分は、世俗の仕事の関係でどうしても間に合わなかったので、含まれていませんが、一番重要な部分はお聞きできたように思います。

                   

                   

                  カリストスウェア府主教

                   

                  カリストス・ウェア司教の説教(英語のみだけど、笑える〜〜〜。英国人の老人のユーモア爆裂って感じ)

                   

                  カリストス・ウェア主教って誰?

                  ウェア主教は、Wikipedia情報によりますと、イングランドサマセットバース(ミハ氏註:有名な温泉保養地、ローマ兵がそこで湯治保養したことにちなんで、Bath お風呂の英単語 bath と同じ)に生まれ、ウェストミンスター・スクールにて学位を取得し、オックスフォード大学モードリン・カレッジで学び、そこで古典と神学の両方で首席でご卒業なった方だそうです。オックスフォード大学での教職に就任された1952年に正教の伝統と出会い、そして、その後オックスフォード大学で正教会についての研究と講義をなさっておられるそうですが、1958年に帰正されたとお聞きしています。


                  ウェア司教は、正教会とオクスフォードでの、聖アルバン、聖セルギイ協会というアングリカンと正教会の親交関係の確立(ミハ氏註:当時は、正教会とアングリカンの間での相互陪餐を目指す関係の回復がかなりまじめに模索された時期でもあった)を目指して働いていた協会で正教会の伝統に出会われたということでした。

                   

                  正教から見たそれぞれの教会群の特徴
                  ホミィヤコフ Alexei Khomyakov (1804-1860) という人物の主張にChurch is One(ミハ氏註:リンク先で英文ですが、読めます)ということがありますが、この方は、この小論の中で、カトリック教会には、一致はあるけれども、ぎちぎちに縛られており、自由と多様性がないこと、逆に、プロテスタント教会は、多様性はあるけれども、一致を犠牲にしている、という指摘をしておられます。(ミハ氏註:うまい物言いだとは思いました。さぶとん、3枚)しかし、正教会には、多様性も一致もあるとはいうものの、実際の教会は、それをボロボロにしているとも指摘しておられ、正教会に対しては、かなり厳しい物言いをしておられます。

                   

                  Alexei Khomyakov https://www.britannica.com/biography/Aleksey-Stepanovich-Khomyakov から

                  ゲオルギィ・フロロフスキー神父は、ソボールノスチ、 すなわち教会のカトリック性 (ミハ氏註:「愛によって結ばれた人々の有機的な統一体」  http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/tomb/12.html 参照のこと)ということを主張された方ですが、この方の著作にウェア主教は大きく影響を受けられたそうです。ところで、今の正教会の中には正教会原理主義派とも呼ぶべき、正教会絶対主義の方も居られますし、逆に、リベラルな他のキリスト教のグループとの将来の一致に向けての努力をしている人も居られますし、また、全キリスト教会は正教会に結集すべきだというさまざまなご主張の向きがおられます。いずれの正教会のグループの方でも、フロロフスキー神父は尊敬を集めておられて、非常に高い尊敬を得ている神学者だそうでございます。

                   

                   

                  ゲオルギィ・フロロフスキー神父 http://www.aoiusa.org/fr-george-florovsky-on-the-boundaries-of-the-church/

                   

                  ソボールノスチということばの由来ですが、ソボールは集まる、教会の意味であって、このソボールノスチは、教会の王国が(神の)一致の王国であることをあらわしているのです。

                   

                  人間は、残念ながら、アダムとエバ以来、バベルの塔に見られるように、人間社会はばらばらになっていくような傾向を持ちました。この結果、人間は断片として生きなきゃいけなくなっているのですが、本来、その再結合する場所、空間、機能が教会なのだという考え方です。その意味で、ソボールノスト、すなわち、カトリック性(ミハ氏註:いわゆる、山崎ランサムさんのいう、小文字のカトリック教会ということに近いと思います)はこの一致のことですが、概ね、21ページくらいの本当に薄い本というか、パンフレットですが、 カリストス・ウェア主教は、この小さな小冊子に何度も立ち返って居られるようです。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的コメント

                  プロテスタントには、この和解の精神というか、ソボールノスチの概念がない。決定的に欠落しているような気がしております。また、その努力も度量もなく互いに「お前のかーちゃん出べそ」よろしく「お前んとこの教義あほくさい」と言い合っているだけにしか見えないという経験をよく致します。そして、他のプロテスタント教会を含む多くの教会の揚げ足とりに余念がないという、実に残念な状況にはありはしないでしょうか。今、放送されている西郷丼にも時々現れる、無益な切りあいだけやった、幕末の志士とも呼ばれる定見もなく脱藩した不良浪人の群れ同様、といったらことばが過ぎるでしょうか。

                   

                  最近でこそようやく一部で地域というまとまりで共同で、クリスマスページェントや、クリスマスキャロルなど、ことに当たろうとする動きも出てきたりしているとは言うものの、肝心の教会側にそのノウハウも度量もスキルもあまりない、というのが、残念ながら実情に近いのではないでしょうか。

                   

                  ところで、海軍でも陸軍でも、アレキサンダー大王の時代から、戦力の逐次投入というのは戦力の無益な消耗を招くだけなので、下の下の策とされているのですが、まさに日本のプロテスタントは、この数十年、それをやり続けては来なかったでしょうか。あそことは、教義が違う、とうそぶきながら....。

                   

                  まぁ、これは、日本のプロテスタント教会固有の問題というよりは、日本型組織の割とよくある問題でもあって、銀行の合併とその問題なんかを一時期フォローしてたけど、銀行なんかでも、『半沢直樹』ではないけれども、合併後も古い組織の順送り人事とか、問題が起きると、元の銀行のあそこが悪いとか、結構あるようです。今度のみずほ銀行さんのシステム統合、本当にうまくいくんだろうか、興味津々で観察する予定です。。前回はATMが全面的に止まったから大ごとになったけど。今回のシステム統合は、この種のシステム統合についてのめったにない大型統合なので、事例としてどんなことが起きるのか、ということを楽しみに傍でじっくり拝見しています。

                   

                  自治体の場合でも合併は結構大変で、合併特例債という打ち出の小づちを大盤振る舞いしてようやく実現した自治体の平成の大合併の際の合併協議の状態を傍で見ていましたけど、結構えぐい話があったりしたと記憶しています。そもそも、打ち出の小づちがばらまかれなければ、合併などは起きなかったのではないか、と思います。

                   

                  まぁ、企業の合併にしても、自治体の合併にしても、合併しても、シナジー効果が出るまでは、実際はかなりかかるのだが、その合併に行くまでにはよほどの危機がない限り起きないのが、日本なのかもしれない。となると、教会の合併などは、夢のまた夢になってしまいそうです。

                   

                  ウェア青年を虜にした正教の3つの輝き
                  ウェア主教が生協の伝統に魅力を感じたのは、伝統の継承と殉教を厭わない精神と静寂だといえるでしょう。それぞれ見てまいりましょう。

                   

                  ■正教会は、古代教父、全地公会の教会の完全な継承
                  正教会は、古代恐怖以来、機密的恩寵を与えるただ一つの完全な継承をしている教会であると自己理解をしています。これについて、ウラジーミル・ニコラエヴィチ・ロースキイ Влади́мир Никола́евич Ло́сский という人は、

                   

                  教会のつながりは、我々正教会に関する限り、『目には見えず、人の理解を超える』ものであっても、唯一の真の教会が存在する。機密的恩寵を与えうるただ一つの真の教会からの分離のあり方は、いくつにも多様である。

                   

                  と主張しています。

                   

                  ウラジーミル・ニコラエヴィチ・ロースキイ https://drevo-info.ru/articles/15658.html


                  このロースキー言葉は一見すると、正教会中心主義であるかのようにも見えますが、多様な教会の存在を認めている、ということでもあります。ただ、それは、正教会からの分離であるという意味合いを含んでいますが。

                   

                  実際、正教会には、WCC 世界キリスト教協議会から、プロテスタント系の教会主導であることに納得できないなどの理由により、関与を弱めているグルジア正教会などもありますが、正教会の多くは、WCCに加入しています。関与の仕方は濃淡はありますが。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的コメント

                  教会組織論上、また、聖餐論について、あまりに保守的、教義については教父的伝統を重視しすぎという気もしますが、ある種、正教会さんは、正倉院御物のようによきものを、維持、保護、保全してこられたのは、正教会なのは間違いありません。多くのプロテスタント教会が、自己の個別教派の教派神学については、ある程度詳しい牧師先生が多いことは確かですが、自派以外の教派的伝統になるとほとんどご存じない方が多いので、かなり残念な思いをしたことが少なからぬ回数ございます。それはカトリック教会でも同様で、司祭の方でも、ほとんどプロテスタント教会のことをご存じない方が多いので、残念に思うことも少なくありません。いずれにせよ、実に残念なことだと思っています。

                   

                  正教会の司祭の方も、他派の事情をあまりご存じない方が少なくないようですが、正教会のご一統では、かなり様式にしても、式文(リタジー)あるいは賛美歌にしても、共通です。とはいえ、ただ、賛美歌にしても、伝えられた地域での感性に合わせて変形されていく傾向はあるので、微妙に節回しや音楽性などは変わっていきますが、リタジーの内容も順序も、どの正教会でも内容的にはほぼ同一といっていいほど、同じであることは確認されます。個人的には、日本コプト正教会さんと、日本ハリストス正教会さんしかご訪問したことはありませんが、日本コプト正教会さんは、太鼓や小型のシンバルが鳴るアフリカ風の賛美歌ですが、日本ハリストス正教会さんは、ロシア風の重厚な賛美歌(ただし、一般に人数が少なくていらっしゃるので、本場ロシアほど、重厚感がない教会が多いのではないか、と思いますが)ですが、基本内容は同じであることを確認はしております。

                   

                  まぁ、プロテスタントの同じグループの教会で、同じ楽譜を使っていても、教会ごとに節回しやリズムの取り方が違うので、みんなで一緒に歌おうとすると、微妙にずれておかしなことになることは、何度か経験したことはあります。

                   

                  ロシア語バージョン

                   

                  ギリシア語バージョン

                  コプト教会バージョン

                  ジョージア語(やっぱグルジア語のほうがぴたっと来るけど)

                   

                  日本語版(ヴォカロ・バージョン)

                   

                  イコンにしても、基本共通なわけです。色使いとか、登場人物とか、いろいろな点で共通です。とはいえ、画面上の天使や登場人物の肌の色は微妙に異なっていますが。

                   

                  エチオピア正教会のイコン

                  ロシア正教会のイコン

                  コプト正教会のイコン

                   

                  ■生きた伝統を保持する教会

                  正教会は、生きた伝統として、今この場所においてキリスト教のメッセージの積極的な再体験をしているのだ、それは聖餐であるということを、ロースキィ(ロスキー)は言っています。とは言いながら、現代的な課題を無視するわけではなく、古代から続く連綿と続く霊性に基づき、考えることはしています。たとえば、LGBTと呼ばれるセクシャル・マイノリティの皆さんについても、ウェア主教は、その問題の存在については否定も肯定もしませんが、大切な現代的な問題として考えないといけないと話しておられます。それも、神から差し出された問題として考えないといけない、ということを言っておられます。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的的コメント

                  こういうLGBTとかの問題についても、とりあえず、わけがわからないものも受け止めて、いったん考えてみる、というのはいいなぁ、と思います。日本だと、こういうLGBTなどはなかったことにしたいということで、このタイプの問題をあえて直視しない、ちらっと、みてみようともしない教会も少なくないでしょう。そういえば、新教出版社の『福音と世界』の今回の特集 クィア神学は、この辺についてだったような気がします。

                   

                  殉教の教会としての正教会

                  次に、正教会は順境を経験している教会であるところにも、ウェア主教は強い関心を持たれたようです。正教会にはたくさんの殉教者(そして聖人)が出ています。


                  血による殉教
                  血を流す殉教として、トルコ支配下での殉教や、共産主義での殉教(ハリストス正教会の殉教者は、20世紀に入ってからの殉教者がめちゃくちゃ多い  この記事 大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意) 参照)など有名無名の殉教者を含め、多数経験しています。


                  内的な殉教
                  ケノーシスという概念があります。自己無化とも呼ばれますが、その根拠は、ピリピ 2:6にあります。

                  口語訳聖書 ピリピ人への手紙2章 6-11節

                  キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 

                   

                  この部分に現れているケノーシス、すなわち、おのれを虚しくし、人間の形を取られた 高挙されたイエスという、この生き方に従っていく人々の群れが殉教にまでいたらなくとも多数存在したのです。中でも、ウェア主教が感銘を受けたのは、ボリスとグレブの兄弟で、11世紀のキエフ公国の王子だったのですが、王権を巡ってこの二人に刺客を送った人物がいたのですが、この二人は、全く無抵抗で殺されたのです。なぜ、彼らが歯向かわなかったかというと、彼らが先頭を始めてしまえば、数多くの無辜の民が死ぬことになるから、殺される道を選んだようです。この当時のギリシア人の府主教はこの二人は馬鹿者だと言ったそうですが、多くのロシア人は、二人の死をいたみ、聖人とすることを教会に依頼したのでした。現在でも、列聖されている二人並んだイコンがありまして、多くのロシア人はこの二人を非常に深く、今なお尊敬しております。

                   

                  Boris and Gleb ボリスとグレブのイコン

                   


                  ほかにも、ペテルブルグの聖クセニア、サーロフの聖セラフィム、クロンシュタットのイオアンなどが居ります。

                   

                  ペテルブルグの聖クセニア https://jp.rbth.com/arts/79484-roshia-seijin

                   

                  サーロフの正セラフィム https://en.wikipedia.org/wiki/Seraphim_of_Sarov より

                   

                  クロンシュタットのイオアン


                  クロンシュタットのイオアンは、軍港の町で貧民に社会福祉事業を起し、救貧対策としての職業教育した人物です。当初は、自分の持っている献金を渡していたのですが、それでは根本的な貧困問題の解決につながらないことに気がつき、貧困をめぐる社会的要因に気づいたことで、授産所、福祉施設建設、職業教育などを行った人物でもありますが、彼が司式する聖体礼儀が非常に良い聖体礼儀を執り行い、大変篤いスピリチュアルな礼拝をささげた人物としても知られています。ほかにも多数の聖人が居ります。

                   

                   静寂(神秘神学)を内在している正教会
                  ヘシキア(静寂)を正教会は重視してきました。正教会における伝統とは、教義の単なる受け継ぎではなく、霊性の伝統であると、ウェア主教は理解したようです。そして、神秘主義がない神学などはありえない、とまで言っておられます。正教会の伝統では、福音記者イオアン(ヨハネの福音書と黙示録を書いたヨハネ)、ナジアンザスのグレゴリィや新神学者シメオンなどが、神秘主義的経験をしていますが、 神秘体験しても黙っている正教徒が多いのです。

                   

                  さて、ヘシキアとは、心の平静もしくは沈黙んことですが、ウェア司教は、「数々の良い祈りが絶え間なく、繰り返されることでどのように獲得されていくのかを学びました。」と書いておられます。割とよく祈られるのが、イエス・キリストの祈り(ミハ氏註: 英語だと、Jesus Christ, have mercy on us as a sinner)ですが、このタイプの祈りは、個人で勝手にやってよいものではなく、神秘体験にもつながるように、適切な指導者のもとで経験しないと、自己催眠にかかることがあるので、勝手にしないでください、ということは申し上げたいと思います。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的コメント

                  この神秘性というのは、案外キリスト教にとって、重要な気がしています。西洋近代社会は、必死になってしらみつぶしに調べることで、この神秘性が入り込む隙間がないかと必死になってあらゆる世界を探し続け、少しでも隙があろうものなら、いわゆる科学的方法(科学そのものではない方法で、その意味で疑似科学の方法でしかないのですが)とやらで、その神秘性を追い出すことに必死になってきたように思います。

                   

                  そして、教会も近代啓蒙主義と近代の科学主義に裏打ちされ、いかに聖書が科学的かというようなナンセンスなことを主張する人々や、科学的(これまた疑似科学なので困るのだが)には発生し得ない部分を聖書記述にあってもあえて無視する(典型的には、おとめマリアからのイエスの出産や5000人の給食、重篤な皮膚病患者の回復などの奇跡を無視したり、あれは弟子たちの妄想であった・・・)ということを言い募ってきた方々もおられます。そして、奇跡に関する記述部分を捨て、極端な場合、イエスの神性まで捨て、人間イエスのみとして理解する向きまで現れたこともありました。

                   

                  もうこうなると、キリスト教である必要はなくなるのであるのですが、そのような愚かしいことをしてきた部分が、近代西洋のキリスト教徒その影響を受けたわが国のキリスト教にはないとは言い難いように思います。その意味で、わからんものは、わからんといい、ということは大事だと思います。また、わからんものは、神の領分、すなわち神秘である、とした理解で留めることで十分ではないか、と思うのです。なまじ、小ざかしい「科学的」とかいうわけわからんことを言うよりは、神秘であるので、私にはよくわからんが、・・・というほうがよほど素直ではないかなぁ、と学問の隅っこに隠棲するものとしては思うのですねぇ。

                   

                  国教会への変わることのない愛と感謝、しかし…
                  ウェア主教は、キリストを知るきっかけを与えてくれた英国国教会(The Church of England)に対して否定的な議論には関与したくないと書いておられますが、それと同時に、困惑させていることがあるとも書いておられます。英国国教会には、両極端の存在(リベラル派とハイチャーチ派)が含まれておりまして(ミハ氏註:英国国教会(The Church of England)はVia Media 中道 あるいはBroad Churchを目指しているので、実態としては、これで、同じ教会?と言う疑問を持ちたくなることもあるが、その多様性と一致が、個人的には気に入っているので、今はアングリカンに寄留中)、また、英国国教会(The Church of England)の一部には、聖成を信じない国教会もありました。

                   

                  ウェア主教からしてみれば、西方教会のカトリックへの移動ということが自然なような気がするが(ミハ氏註: 実際に、Newmanというプリマス・ブラザレン関係者の弟を持つアングリカンの人は、カトリックへの回帰運動(オックスフォード運動、またはトラクタリアン運動と呼ばれる)を経て、結局カトリックに転向しカーディナルになられました。)しかし、ウェア主教が聖公会内のハイチャーチ派(カトリックと近しいグループ)やカトリックに転向しなかったのは、カトリック教会の言う「全教会への管轄権と教皇の不可謬性」とを主張する当時の教皇権の考え方にあったといえるでしょう。

                   

                  交わりとしての教会 帰正の決意を決定づけたキーワード
                  ウェア主教に影響を与えた正教会の司祭の一人のレフ・ジレ神父によると、「正教徒とは、使徒からの伝統を受け入れるものであり、そして、この伝統の教師として指名された主教たちとの交わりに生きる者です」ということになっています。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的コメント

                  プロテスタントは、使徒からの伝統、ということは言わないところも多いのですが、使徒からの伝統を言うところでも、主教たちとの交わりに生きるとは言いません。そもそも、教会制度上、主教がいないので、やりたくてもできない・・・。この結果、伝統の教師として指名された主教に代わって、個別教会の牧師との交わりに生きるものになっているのが、プロテスタントで、ミニ教皇や、ミニ主教が教会の数だけおられて、人口減社会ですらも、教会を閉鎖することすらできない状態にはないでしょうか。誰が牧師先生を伝統の教師として指名したかがあまりわからないような牧師先生も時々お見掛けします。そうなると、個別教会だけしかない主教(牧師先生)との交わりにしか生きざるを得ないプロテスタント教会の人々、という構造になっていないでしょうか…

                   

                  今は、アングリカンにおりますので、われらが主教、オーガスティンが御言葉の務めとサクラメントをきちんと遂行するために神によって整えられるよう、毎週祈っております。

                   

                  聖体礼儀的教会論との出会い

                  ウェア主教は、聖イグナテイについてのロマニデス神父の論考を読んで正教の聖体礼儀的教会論に出会ったのですが、その論考の中では、教会はユーカリストの集いであり、主教がきちんと監督(Episocopos)していて、秩序のあるユーカリストであることの重要性が説かれていました。そして、上から統制していくのではなく、また、こういうものだと、外側から押し付けるものでなく、内側から創造されるものが聖体礼儀であり、教会とは、ユーカリストを行う有機体であるという主張に触れたのでした。

                   

                  それは、とりもなおさず、正教の機密(サクラメント)の交わり(Fellowship:仲間)のうちにあるものとなる、ということである、ということでした。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的コメント

                  こういうことは、結局正教の、主教との交わり(フェローシップ、仲間であること)、過去の主教たち、過去の聖人たち、過去の聖徒の交わり、今の聖徒との交わり、将来の聖徒との交わり、そして神との交わりに生きるものとなる、ということになるのだろうなぁ、と思いました。

                   

                  この聖餐共同体という側面は、ジョン・ハワード・ヨーダ―先輩も言っているし、マクグラス先輩も日本公演で言っているし、こないだ日本に来たハゥワワースの京都講演でもちらっと触れられていた。

                   

                  しかしながら、日本のプロテスタント系教会での聖餐論は、あまりに貧弱、あまりに脆弱なような気がする。まぁ、私を覚えてこれを行え、とイエス様が直接行ったことを守らない以上、しょうがないのかもしれない。もうちょっとまともに考えてもいいように思うけれども。

                   

                  最後の逡巡 正教会の現実

                  まぁ、正教会の美点を見られて、それに心ひかれた若きウェア主教だったのですが、西欧諸国、米国の正教会の民族主義的な管轄権にモザイク状に各民族教会が西欧諸国や米国の大都市で共存している状態には、かなり引っかかったようです。ニューヨークには(ミハ氏註:移民のるつぼでもあることもあるのでしょうが)11種類の民族正教会があったそうです。 そんな状態に心痛めていたウェア主教は、ロスキーさんの著作の影響で変わりました。

                   

                  その記載の一部はこんな感じだったようです。

                   

                  「悲しみの人」に神の子を見れたか。外面上は限界と欠点しか見えないところに、完全さを見なければならない。外面的には限界と欠乏しか見いだせないところに完全さを認識しなければならない。弱さのうちに・・・

                   

                  要するに、正教会はボロボロで限界が露呈しているけれども、その先にある神の完全さを見よ、とほぼ破れかぶれであることを認めたような表現になっています。土の器に、本当に尊いものを受けているのが正教であり、その尊いものを見なさい、という論理になっています。

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的感想

                  これ、ボロボロだけどたからを与えられている、という考え方は本当に大事だなぁ、と思うのです。時々、キリスト教の教会に通っておられたり、牧師先生のご発言の中で、キリスト教の教会にいるのだから、信者たるもの、立派でないといかんとか、常に正しくないといかんとか、神様が祝福されているはずだから、信者も祝福されているはずで、すべからく信徒は立派であるはずだ、とかそういう思い込みで語られる方もおられますが、それってどうなんでしょう、と思います。

                   

                  イエスは、カナンの女のところにもいかれましたし、重篤な皮膚病を負った人とも話されていますし、イエスご自身、医者を必要とするのは…とおっしゃっているように思うんですけどねぇ…その言葉が無視されている、あるいは伝道の対象としてしか人を見ない根拠として使われているのが、心底悲しい…

                   

                  掌院 ラザルスの警告
                  こうやって逡巡する若きウェア主教に、ラザルスさんという司祭は、「正教会の外面的な部分のおそまつ極まりなさは、絶望的なレベル。異なった国々の正教会はほとんど協調もない。・・・」とお話になり、まぁ、ボロボロだけどね、ということはおっしゃったようです。そして、「見えていることは見るな」とおっしゃったようです(ミハ氏註:もうこうなったらほとんど禅問答…吉村和尚…)。

                   

                  おともだちの曹洞宗の吉村和尚(NHKの今日の料理にもご出演) 

                   

                  おわりに
                  ある年の復活祭に、ウェア主教は、アングリカンの聖餐式にまず行ったそうですが、そのアングリカンの教会では、生産を受け取るために立ち上げれなかったご経験をされたそうです。そのことを正教会のご友人ご夫妻にお話になったところ、「ご聖体(パンとぶどう酒)から離れたら、だめだ」とご友人のご夫妻の奥さまのほうから言われたそうです。そして、当時のヤコブ主教のところに行って帰正(正確には、異端者帰正)のお話に行かれたそうです。そして、どの正教会にするのか、ということで、そもそも最初にロシア教会に迷い込んだということで、ロシア系の正教会に行かれることになったようです。

                   

                  ところが、当時西側諸国には、ロシア系の正教会は2系統あり、その一つは、ロシア革命のときの亡命組教会(在外シノッド)と、共産化したロシア(当時のソ連邦)に残ったグループでした。この共産化したロシアに残ったグループは、外国に行って当時のソ連邦が信仰の自由を保証していることをアピールしないといけなかったグループであり、国外逃亡したような在外シノッドを交流(仲間の)教会と認めなかったのでした。そこで、ウェア主教は、コンスタンチノープル総主教府のもとの教会に入ることになりました。

                   

                  ウェア主教はStrange yet familiarと題されたパンフレット(当日配布された)ものの中で、教会が一つであった頃の教会として正教会をご紹介しておられます。イギリス国教会の古い層には、ギリシア正教会の伝統が残っているのですが、それは、とりもなおさず、正教会が保有してきた古い時代の信仰の源泉が残っているということです。

                   

                  ときに政治にまみれ、歴史的変遷を経る中で積み重なったゴミの山の中にその古い層の源泉は隠れているし、しばしば立ち往生を露呈してしまう存在の教会ではあるけれども、、他の何よりもパスパ(復活祭)の喜びをどう歌うのかを知っている、そんな教会が正教会で、その意味で、奇妙な正教会ともいえるでしょう。そして、正教会は、とても貧しく脆弱で、なんとか命脈を保ってきたのは、奇跡としか言いようがない、ともお書きになられています。

                   

                   

                  ミーちゃんはーちゃん的感想

                  まぁ、ウェア司教という方はキマジメというか、神経質というか、神学的潔癖症という感じもしなくはないですが、真剣にお考えになられる方なのだろうなぁ、という風には思います。おそらく、ウェア主教がおられた教会というのは、アングリカン・コミュニオンの中でも、おそらく福音派に近いような教会、あるいは、かなりリベラルな教会だったのではないか、と想像します。

                   

                  アングリカンコミュニオンを象徴する言葉に、Broad Church幅広い様々教会からなる教会連合(サスペンス・ドラマのタイトルにもなった)という言葉がありますが、本当によく見ていると、実に多様な教会の集まり(それは日本国内でもそのようですが、とはいえ、日本国内では主に神戸教区で聖餐Holy Mealを食べさせてもらっていまして、仙台市内中心部の主教座聖堂仙台基督教会以外の神戸教区以外のよその教会でおよばれしたことがあまりないのでわからないのですが)のように思います。こうなると、じゃ、自分の信仰の源泉は…となって、正教会へたどり着いたのは、わからなくはありません。

                   

                   

                   

                  ミーちゃんはーちゃんは、もともと国教会の分離派(Separationalist)と呼ばれたプリマス・ブラザレン系統の教会に長らく集いましたが、ひょんなことから、そこに行かなくなり、今はアングリカン・コミュニオンでありがたく聖餐にあずからせてもらっています。

                   

                  そして、教会漂流をする中で、ふっと見つかったアングリカン・コミュニオンのチャペルに定着する中で、改めて自分の信仰の古い源泉の一部を再発見したことが多いことは、このブログの先日のチャペルのブルティンから 成文祈祷の強みとかの記事でご紹介したとおりです。丁度、ウェア主教もそんな感じだったんだろうなぁ、とお話を聞きながら、我が身を振り返るような1時間となりました。

                   

                  ウェア主教は、

                    聖公会(アングリカン・コミュニオン) ➡ 正教会(オーソドックス・チャーチ)でしたが、

                   

                  ミーちゃんはーちゃんは、

                    プリマス・ブラザレン ➡ 聖公会(アングリカン・コミュニオン)

                   

                  みたいな感じです。アングリカン・コミュニオンは、松島司祭(大阪ハリストス正教会)のご講演中にもありましたように、ヨーロッパの西橋にあるので、非常に古いスタイルのキリスト教の霊性や儀式論が保存されている部分があります。その意味で、アングリカン・コミュニオンに行って、英文の式文を読んで、唱えて、参加して、様々なプロテスタント教会ではわかりえなかった部分で、初めて分かった部分もあり、ある意味で、ウェア主教と同じような新鮮な視点からキリスト教を見直す驚きの日々を過ごさせてもらっているので、すごく幸せではあります。

                   

                   

                   

                  次回は、強度ユダヤ思想学会のシンポジウムのお話に戻り、そのあと、来週からは、工藤信夫さんの新刊本の紹介に戻ります。

                   

                  2018.06.29 Friday

                  京都ユダヤ思想学会第11回学術大会参加記(2)

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                    先日お邪魔した京都ユダヤ思想学会の午後のシンポジウムに参加してきましたので、その時採ったメモをもとに、内容をご紹介してみたいと思います。当日午後からは、一般公開、入場無料で公開しておられましたが(ミハ氏註:こういうのは閉鎖的なアカデミア系の学会の中で、珍しいので、非常に高感度が高い)、約40人今日の参加者の方がおられたように思います。

                     

                    午後のキーノートスピーチ

                    「ヘルマン・コーエンにおけるユダヤ教――倫理・政治・科学」ということで、京都ユダヤ思想学会会長の合田正人さんが、キーノート講演を始められました。忘れられた哲学者ともいえるヘルマン・コーエンのユダヤ教理解とその波紋について、お話してみたい、とういことでした。

                     

                     

                     

                    コーエン没後100年なのに…

                     今年は、コーエンの没後100年に当たるのだが、今の所誰かが何も言うことなく、静かすぎていることを不満に思っている。実はコーエンの本は、1920−30年ごろに邦訳が出ていて、田辺先生という方が、日本におけるコーエンの紹介者である。


                    ところで、没後100年にあたっても、コーエンに関する沈黙は日本に限られた話ではなく、欧米でも同様であリ、ちょっと残念に思っている。

                     

                    合田先生ご自身は、レビナス経由で、コーエンに入った レヴィナスはコーエンについて多くを語らないものの、レビナスはコーエンに関わる人物である。その意味で、非常に重要な人物である。フランスでは、 シャルル・ヌルヴィエによる再評価があるものの、コーエンは時代遅れという批判がある。とはいえ、コーエンがなければ、ドイツのユダヤ・ルネッサンスの動きはなかったろう。

                     

                    ヘルマン・コーエンさん(Wikipedia ドイツ語版から)

                     

                    コーエンの人物スケッチ
                    コーエンは、宗教的寛容の問題なども触れていて、ドイツ性とユダヤ性の相互理解に基づく共同的社会的イデアリズム、倫理的社会主義を述べた人物でもあり、その意味で、ユダヤとドイツを内在した哲学者といえよう。

                     

                    また、コーエンは反シオニズム、反スピノザの立場に立ち、エピステモロジー 認識論の問題を友愛の原理から考えようとしており、ドイツを代表する文学者のハイネについて思いを巡らし、コーエンは「ハイネとユダヤ教」という文書を書いている。


                    コーエンは新カント派のマールスブルグ派の創始者であるが、コーエンは、若い段階でラビになるのをやめて哲学へ移った人物であるが、ユダヤ教から哲学への転換を果たした人物でもあった。若きコーエンがツンツに紹介され、民俗心理学に関心を持つようになっていくのだが、学としての倫理は民俗霊魂に関わるべきでないとして、底から離れていく。

                     

                    ラツアルスへの批判として、旧約は力強くカントには語りかけているとコーエンは書いている。カントの中に含まれている、崇高の概念があるとはいうものの、カントのユダヤ教理解は否定的なものとしており、単なる理性の範囲内の宗教であり、限界の中の宗教と理解しており、このようなカントの論考と対をなすのがコーエンの論考であると言える。コーエンでは、ユダヤ教を源泉として使われていると言えるであろう。そして、コーエンは、カントは、旧約のルター訳を読んだだけではないか、と批判している(ミハ氏註 まぁ、これは、多くの日本のキリスト者にも言えるように思う。そして、わかったようなことを言う実に残念な傾向があるようにも思う)。プラトンは、カントに直線的に繋がっていることを、コーエンは指摘している。

                     

                    コーエンの哲学の特徴

                    経験ならざるものから湧き上がってくるものから哲学を作ろうとしたのが、コーエンであると言え、ある意味、コーエンは、経験主義的な哲学からの拡張を可能する道を開いたと言えるであろう。プラトンと数論を扱う中で、数論を超えて倫理の世界へ展開している。

                     

                    コーエンは、接点の総体が曲線を形成するとしている(ミハ氏註:これは、GISの世界にいるとよく分かる。複雑な曲線のように見える地図であっても、実は、かなり多数の直線から描くしか無いのである)。そして、コーエンは、微積分の概念で重要な無限小なものはあるのか、無限はあるのか問うことを考えており、微積分は正しい方法であると指摘しているが、ルヌビエは無限を認めない哲学者であり、それと対応している。

                     

                    そして、ブーバーはコーエンの神は、理念のようなものではないだろうか、と主張している。

                     

                    コーエンにおける隣人愛

                    隣人(レア ヘブライ語由来)ということについて、コーエンは、血縁地縁から遠いもの、異邦人であるとしており、隣人愛は、異邦人の愛であるということを言っている。そして、コーエンは、マイモニデス由来のノアの末裔であることの重要性をしており、その意味で、マイモニデス ー コーエン ー レヴィナスとしてつながっている。

                     

                    そして、現代社会において、背景や理解、性質の異なる他者とどうやって一緒に住むのか、ということを考える手がかりとなるだろう。その意味で、コーエンが言う「ノアの末(子孫・末裔)」であるという概念は極めて大事ではないだろうか。そして、この概念は、スピノザも採っているものであり、その意味で、自然法が制定される世界ということをどう考えるのか、当問題を考えておくことは必要なのではないだろうか。

                     

                    (ミーちゃんはーちゃん的コメント)

                    この部分が一番大事だと思う。要するに律法の柱のうちの一つ、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せ」について、どう考えるか、という部分であり、そこにノアの末裔性を見ているという指摘は、旧約理解を考える上で、案外重要なのだと思う。ここで、旧約聖書の律法以前の出来事のどの部分を根拠に理解するのか、ということがあるのだが、ノアの末裔説をとっていることは重要であり、それは、ノアの出来事が、それ以前の様々な出来事と一線を画している、ということなのだろう。

                    これに関しては、もう少し考えてみたい。

                    ーーーーーーー
                    質疑応答
                    Qミットメンシュの概念についてのご確認をお願いしたい。弱さを持った不完全な人間がついて回っている印象があるのだが。
                    A小文字の他者、小さな人として考えているものとも割れる。ミットメンシュをどう考えるのかであるが、それは、発見されたミットメンシュという側面があり、弱さ、不完全が入ってきていることは確かである。

                    Qカントープラトンのラインがあるけれども・・・

                    Aプラトンの類縁性は最初から認められているので、それを追認したような部分があるのは確かである。

                     

                    このあと、応答というか、コーエンを巡るそれぞれの発題者のご意見がのべられた

                     

                    後藤先生の御発題
                    ユダヤカント主義に関心をお持ちとご自身を紹介された上で、今回は、コーエンが若い時代(20代)のコーエンの哲学を振り返ってみたい。当時、民族心理学研究 を進める中で、プラトンのイデア論とカント的解釈の関係をコーエンは考えている。そして、コーエンは、スピノザの言及が少なく、今後、ハイネとスピノザの関係が検討されるべきである。コーエンは、キリスト教に宗旨変えをしたハイネについて、擁護的に対応している。

                     

                    また、コーヘンは、多神教と一神教の共通点を見直していると言えるだろう。コーエンはカント主義者だったが、カントとユダヤ教を直接結びつけてはないが、スピノザ的汎神論とユダヤ一神教との共通を見ようとしているように思われる。

                     

                    ミーちゃんはーちゃん的感想

                    学問の歴史を振り返ってみていると、錬金術みたいな学問体系とか、妙な学問体系はないわけではないのだけれども、民族心理学という分野が過去にあったんだ、ということに素朴に驚いた。

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                    林普先生の御発題

                    「田辺文庫における2冊のPrizipという御発題」であった。もともと数理論理学の研究者から出発し、数学の発展し研究から、数学の脱魔術化の発展研究をしておられるせんせいでした。
                    京都大学の田辺文庫の資料に含まれる蔵書印の調査で年代調査をしているときに、Logsという哲学雑誌についている蔵書印の印影が小判型をしていて、それで時代が特定できた。何故か同じPrizipの本が田辺文庫には2冊所収されており、ある本に、田辺が書き込みしているし、論文より詳しい書き込みをしている。ちょうど、最初の方に買った本は、田辺が弁証法に舵を切る時期にPrinzipを買っている。この時期は、数学から哲学との分離している時期で、書き込みから見ると、田辺は、コーエンには弁証法がないと見ている。

                    カントルの実数論とデデキントの実数論の対比で、前者が新カント派的な前進を図るものであり、漸近的な世界観に立つものであることを指摘しており、デデキントの切断に比べて弁証法的性格に欠けるという発想が田辺にはあったことが書き込みから理解される。

                     

                     

                    ミーちゃんはーちゃん的感想

                    しかし、大学者になると、その人の書き込みだって、それが研究対象になるんだ、という素朴な驚きを持った。基本的に本は著者に対する敬意から書き込みをしないのだが(というか、割とよく読む本が聖書なので、書き込みをしないくせをつけられてしまった)、もっとしておけばよかった、と最近は思っている。ミーちゃんハーちゃんの場合は、ミーちゃんはーちゃん地にある本の付箋とブログを対応する、という研究が将来されたら面白いかも、という気がするが、そんな大学者ではないので、誰もやらないと思うけど。

                     

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                    村岡先生の御発題

                    ユダヤ教の源泉からの理性の宗教についてどこが新しいのか?ということを考えてみたい。

                    理性の宗教はパッチワークであることをコーエンは示している。(ミハ氏註:それはそう思うなぁ。頭でっかちのキリスト教は、基本パッチワーク。神秘性がない宗教って神学的知識というブロックの寄せ集め感が強すぎて・・・救済のことは言うけど、救済にも何もならない・・・実に残念)理性の宗教を考えてみると、宗教は理性に飲み込まれた、とコーエンは指摘している。人間は、人間一般、人類全体のことであり、この概念に 1915頃にコーエンは気がついているようである。とはいえ、理性が宗教の概念を生み出す。(ミハ氏註:別に動物は、宗教の概念を書いたりしないし・・・w) 宗教はテキスト(文献)と理性という源泉による、といっている。カントのいう純粋は、削っていくと真珠に出会うとういアプローチ(ミハ氏註:まさにギリシア自然哲学の系譜)であるが、 コーヘンは、削っていくとゴミみたいなものばかりで何もなくなったときに吹き出すような純粋ななにかがある、と言っているのではないだろうか。

                     

                    唯一神は理性の対象ではあるし、唯一神信仰は理性の対象となりうることを論証しようとしている。ユダヤ教の神は、単一性を持っていることを指摘し、神は、純粋理性の存在であると言えることを指摘している。コーエンのどこが新し買ったか、というと、認証性と対話性 認証性を入れることで、対象から、存在、実存固有名詞を持つ存在に関わることを明らかにした点である。

                     

                     

                    ミーちゃんはーちゃん的感想

                    この方の御発題が、4つの応答の中で、一番面白かったです。というのは、ユダヤ思想とギリシア思想という西洋思想の2つのアプローチの違いが、コーエンという人物を解することで、かなり明らかになっていたからです。ギリギリと細分化してガッチガチにしていこうとする方向性を持つ、アリストテレス系のギリシア(自然)哲学と人間というものを見ようとするユダヤ思想との違いがこの公園に見事に結実していたように思います。

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                    佐藤先生の御発題

                    人間と哲学的発見について、コーエンとローゼンツヴァイクの比較から考えた結果をご紹介してみたい。コーエンが無視されていることを残念がっている。体系を超えていく敬虔な人間としてコーエンを捉えている。 ローゼンツヴァイクは断絶を見ている。メシアニズムとユダヤ教の観点から、ローゼンツヴァイクは、コーエンも批判している。コーエンの一致と不一致の中に理性とユダヤ教人間論とユダヤ民族論という普遍性と特殊性の緊張があるように思われる。

                     

                    ミーちゃんはーちゃん的感想

                    発題の順序が当日変更になって、発題時間を勘違いされていたらしいのと、めもとるみーちゃんはーちゃn急な仕事が入ったので、あまりちゃんと聞いていませんでした。すみません。

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                    石崎嘉彦先生のご発言がディスカッションの中だったと思うのですが、ございまして、ユダヤ的源泉に見ているところがコーエンの重要性であろう。源泉を持ったものから矛盾的に導こうとしたところがコーエンのユニークさだと思われる。シュトラウスにとって重要だと指摘しているポイントとして、近代性の危機の回避のためには、聖書とプラトンがいると言っている点である。また、スピノザを文字通り読み過ぎ、文字通り読まず、ある部分、読み込みすぎという部分は重要かもしれない。

                     

                     

                     

                     

                    ディスカッションの中で面白かったのは、祈りについての部分で、コミュニケーション論的に面白いご発言があったように思いました。祈りは、神に対するモノローグでありつつ、神とのダイアローグでもあるという村岡先生のご発言が非常に印象深かったです。そして、祈りとは何か、共同祈祷とは何か、ということを考え込んでしまいました。また、これについては、稿を改めます。

                     

                    ということで、今回で、京都ユダヤ思想学科位の連載は、終了です。次回から、また、工藤信夫さんの本に戻ります。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.11.28 Wednesday

                    教会の公同性(小文字のカトリック教会であること)について(正教会の視点から)(1)

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                      今日は、大阪正教会さんで開催された教会の公同性についての日曜講座に行ってきたので、その内容をご紹介しようか、と。内容の誤りは、ミーちゃんハーちゃんの能力不足によるので、そのあたりは、ご容赦・ご理解賜りたくお願いいたします。

                       

                      フロロフスキー神父様のリーフレットから

                      本日の公演は、ゲオルギィ・フロロススキーC.Florovsky というかたの 『教会の公同性 The Catholicity of the Church』より前半部分のご紹介で、カトリック(公同的)とは何を意味するのかについてのお話であした。

                       

                      ゲオルギィ・フロロフスキー神父

                       

                      正教会で広く尊敬されているゲオルギィ・フロロフスキー神父と公同性
                      まず、正教会は、ニカイア・コンスタンチノープル公会議の信条に従っており、その信条の中に、我ら聖なる公の教会を信ず、当文言があるが、そこでいっている、公(おおやけ)の教会が、公同の教会であり、カトリック教会がその名にカトリックを冠していますが、カトリックということばは、公同的 普遍的、正統的という概念を含むものであり、かならずしも、カトリック教会の占有物ではあるとはいえないものだといえましょう、という理解を松島司祭はお話でした。

                       

                      松島司祭によると、カトリックには正統的・普遍的という概念があるとはいうものの、単に正教会だから、正教会のみが持っているというような生易しいものではないことを感じた、ということでした。なお、このパンフレットを描いたフロロフスキー神父は、ロシア革命時に、ロシアを脱出し、パリの神学校、後にアメリカの聖ウラジミール神学校の学長経験者でもあり、正教原理主義者と呼んでよいほどのガチガチのタカ派の正教会関係者からも、エキュメニズムに関係している他派とも融和的な正教会関係者からも尊敬されている人物でもあるそうです。

                       

                      また、カリストス・ウェア司教が何度となく教会の公同性というこのパンフレットに立ち戻ったことがある本であり、小著でありながら、様々な書籍をはるかに凌ぐ本であるといえるかもしれない本である、と松島司祭が思っておられるのか、このパンフレットだそうです。そのパンフレットの一部エッセンスのみのご紹介の機会でもありました。

                       

                      この日のご講演では、フロロフスキー神父のブックレットのカトリック性の本質を述べている部分について述べることにしているということで、そのパンフレットの後半部分は伝統との関わりについて述べられているのですが、これに関しては、別の機会に述べたいと考えておられるようでした。なお、詳細を知りたい方は、全文日本語に訳出しているので、そちらを参考にしてほしいということでした。元の英文は、相当複雑なもので、そうとうご苦労されたであろうことは、当日拝領した翻訳文からもうかがわれました。

                       

                      神と人との一致としての教会

                      教会とは何か、について、フロロフスキー神父が述べておられる『教会の公同性』東夷パンフレットの冒頭に、次のようにあるということご説明が松島司祭からありました。

                       

                      ハリストスは世界を征服した。この勝利は彼がご自身の教会を創造したことにある。人間の歴史の空虚と貧しさの、世さわと苦難のただなかに、ハリストスは「新しい存在 New being」の基礎を据えた。教会は地上でのハリストスの作品(わざ)である。この世界へのハリストスの臨在のイメージであり、彼の住まいである。

                       

                      この部分を拝聴しながら、キリストの勝利の象徴、死に対する勝利の象徴こそ、教会である、とか言われてしまうと、もう、本当に参ってしまいます。フロロフスキー神父がここでおっしゃっている意味での教会は、まずもって、オーソドックスチャーチや正教会と呼ばれる正教会の系譜に連なる教会のことでしょうが、しかし、恐らくフロロフスキー神父は、それだけにとどまらず、西方教会(ローマカトリックとそこからの分離していったプロテスタント派の諸教会)を含め教会と呼ばれているのだと思います。つまり、この教会こそ、イエスの勝利の象徴であり、世俗の力を持つ、死や、そして死とそれに伴う恐怖に付け込む悪しきものに対する勝利そのものが教会なのだ、とおっしゃっているように思いました。そして、教会こそ、この世界へのハリストス(キリスト)が今も生きておられ、今も存在することのイメージであり、どんなにもめごとがあり、不具合があっても、キリストの住まいである教会なのだ、ということを主張しておられます。

                       

                      テゼの集いでもらった祈りから

                      ところで、前回のNHKのこころの時代の晩組を見たときの感想についての記事で、この正教会での講演の2日前の夕方、神戸のカトリック教会で開催されたテゼの集いに参加してきたのですが、その際に、お土産としていただいた、紅茶とともに配られた小さな紙に次のように印刷されていました。

                       

                      主よ、地上を旅するすべての教会を導いてください。カトリック教会、プロテスタントのすべての諸教会、正教会など、あなたのからだであるこれらの教会を今日も支えてください。これらの教会に連なるすべての信徒の群れと、それに仕える牧師、神父、宣教師、神学生、修道士、修道女たちを励まし、支え合う喜びで、私たちの教会を満たしてください。私たちの教会が、あなたをお迎えするベツレヘムの馬小屋となり、もっとも弱いもの、痛んでいるもの、悲しんでいるものをその中心に迎えることができますように。

                       

                      まさに、出エジプトの民が荒野を昼間は雲の柱、夜は火の柱に導かれてとどまり、そして旅したように、アロンよりもはるかに優れた大祭司であるハリストス(キリスト)を中心として生きているキリストのテント住まいをする旅する教会でもあるのだなぁ、とお話を聞きながら、思いました。そして、その教会は、旅から旅への遊牧民のそのものですから、イエスを迎えるのは、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋に会ったよりはるかにこきたない飼い葉おけの中でしかないわけです。教会はその意味で、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋の飼い葉おけ以下の存在でありますが、その汚い教会に、来なくてもいいのに、わざわざ来て、内住し、教会の中心に、弱きもの、痛んでいるもの、悲しんでいるもの、社会から打ち捨てられたガテン系の羊飼いのようなものの中に共に在ろうとしているのが、ハリストス(キリスト)である、ということを、もう一度お話を聞きながら、思い出してしまいました。

                       

                      三浦マイルド氏が紹介する道路警備員(ガテン系の皆さんの雰囲気がよく出ている 当時の羊飼いはこんな感じだと思われ)

                       

                      今は、羊飼いについては、イエス様が私は良い羊飼い、と言っておられるので、キリスト教業界で羊飼いのイメージは、むちゃくちゃいいものになっているが、当時のイスラエルの文脈での羊飼いは、上記の動画で紹介するような、社会を支える最底辺の仕事の一つである道路警備員のような仕事であったし、実際道路警備員の方は、現代のヒツジやヤギのような存在であるバイクや車、人間を身を挺して低廉な時給で警備しているという意味で、イエス時代の羊飼いのイメージとしては、現代における道路警備員的存在、と理解するのが一番近いのかもしれないと、改めて思ってしまいました。

                       


                      ペンテコステの日に何が起きたか

                      先週ペンテコステの週は終わって、今週はカトリック教会、聖公会では、王なるキリストの主日の週になっているけれども、教会歴の中で最も長い週は、ペンテコステの週が26週あります。これを考えると、ペンテコステというのは、実に教会と密接に結びついていることをおもいました。プロテスタントでは、ペンテコステは、イースター後のある一週間覚えますが、本来、ほぼ毎週の礼拝がペンテコステなのだとも、以下の文章をお聞きしながら、改めて思いめぐらしました。

                      聖神が降り、十二使徒と彼らとともにいた人々によって、教会が目に見えるものとなった。…それは途方もない理解を絶した神秘である。聖神は教会をご自身の住まいとし、途切れることなくそこに生き続ける。教会で私たちは「神の子とする神(しん)」(ロマ8:15)を受ける。

                       

                      http://www.diocesi.torino.it/site/veglia-di-pentecoste-preghiera-in-cattedrale-per-i-cristiani-perseguitati/

                       

                      教会以外に救いなしとキリストの体

                      Extra Ecclesiam nulla salus『教会の他に救いはない』 なぜなら救いは教会だから。救いはハリストスの名を信じる一人一人への「道」の啓示だから。教会にあってのみこの啓示は見出される。教会という「ハリストスの体」、その神人両性的有機体にあって籍身のうちにその啓示は充溢(あふれ)ている。「神は人の子となった、それは人もまた神の子になるためである。」と聖エレナイオスは述べている(異端論駁 3-10-2)

                       

                      松島司祭によると、同じようなことはアタナシオスも言っているし、それが正教の救いの理解の本質的な表現であるといえるというお話でしたが、教会のほかに救いはない、はキプリアヌス先輩のことばであると思うのですが、それは当時の圧迫下および非常に社会的な苛烈な環境でもあったローマ社会での一つの実像ではないか、というように思います。もちろん、現実的な側面での救いでもあったように思いますが、それだけでなく、そこがここで、フロロフスキー神父がお書きのようにハリストスの体であり、そこが神と人が一つになるというキリスト教の救いを示す場である、ということにあるのだろうと思います。

                       

                      とはいえ、現実の教会は、正教会でも、カトリック教会でも、プロテスタント教会でも、聖公会でも問題だらけです。完璧な教会はないように思います。しかし、そうであっても、そこは、ハリストスの体であり、そこは、神と人が和合していることを示す場でもあるということは、もう少し考えた方がいいかもしれません。そして、それは、ここでエレナイオスが言うように、人もまた、神の子になるということであり、もう少しいえば、人が神の養子となって、神の国を死の支配を打ち破り、死を征服した勝利者キリストにつながり、共にこの世界をいたわり、ケアするものになるということなのだろうなぁ、と思いました。

                       

                      カトリシティと教会の神秘

                      まさに、フロロフスキー神父が次のようにお書きである通りなのだろうなぁ、と思いました。

                       

                      「しかるにあわれみに富む神は、私たちを愛してくださったその大きな愛を持って在かに死んでいた私たちを、ハリストスと共に生かしーーあなたが救われたのは、恵みによるのであるーーハリストス・イイススにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせてくださったのである。」(エフェス2:4−6)。ハリストスの体としての教会の神秘はそこにある。教会は「充満、あふれ(プレローマ」すなわち、成就、完成である。…教会のソボールノスチ、公同性(カトリシティ)と言われるのは、この一致である。この公同性こそ、教会は完全さそのものであるし、神と人の結合の継続と完成をしめしているのである。

                       

                      教会は、聖神(聖霊)のあふれである、というのは、極めて大事ではないか、と思います。現実の教会は、不完全で不十分なものであるという側面はあるのですが、同じキリストを神として礼拝しているという一致は、ある面本来の姿に戻っているという意味で完全さ(本来の姿)を持った有機体といえるわけで、神と人が和合し、神と人とが平和な状態、本来の人間の姿に戻っていることを示している(大嫌いな表現をあえて使うとすると、証ししている)、具体性を持って、示しているのが教会だとはいえると思うのです。

                       

                      ただ、プロテスタントの場合は、それぞれの教派の持つ固有の正しさ、完全さを目指して教会形成をしている部分もあるので、なかなか一致とか、具体的な行動論のところで、他者との差別化や自己主張を図ろうとする傾向が信仰者個人レベルでも見られる場合もあるので、なかなか、本来の神との平和があるというところに着目しにくい問題があるようにもおもいます。そのため、教会が本来持っているはずの公同性、カトリシティがうまく表現できていない場合もないわけではないとは思います。

                       

                      とはいえ、公同性を追及しようとする動きは、プロテスタント教会の中でも全く見られないわけではないですが、しかし、その公同性の回復のためにものすごいエネルギーが必要となることも、また確かではあります。同じキリスト教用語でも、それぞれの教会群ごとに味わいが違うので、お互いにわかって会話しているつもりでも、はたから見ていると、議論があまり噛み合ってないことも時々見られるのが、時に残念でなりません。

                       

                      三位一体(至聖三者)とカトリシティ

                      実は、三位一体がカトリシティの象徴であることについて、フロロフスキー神父のお書きになられたパンフレット(松島司祭による翻訳)では、次のようにかかれています。

                       

                      教会のいのちは一致と結合である。からだは聖神の一致と愛の一致の内に一つニア見合され成長する。もちろん、この一致は外に現れた一致ではない。内的で、親密で、そして有機的な一致である。・・・何より、教会の存在の目的が、互いに引き離されている人類を再結合することにあるがゆえに、一致なのだ。教会のソボールノスチ、公同性(カトリシティ)といわれるのは、この一致である。・・・新しい存在が始まる。新しいいのちの原理が現れた。「父よ、それは、あなたが私のうちにおられ、私があなたのうちにいるように、みんなのものが一つとなるためであります。すなわち彼らも私たちのうちにおらせ・・・わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(イオアン17:21−22)。

                      (中略)

                      これは至聖三者の一致のかたち(イメージ)への究極の再一致の神秘である。それは教会のいのちと、教会の成り立ちのうちに実現される。「ソボールノスチ」の神秘、公同性の神秘である。

                       

                      この部分の文章を松島神父から紹介していただきながら、ナウエンが同じようなことを書いていたことを思い出しました。どの本だったかは思い出せていないのですが、三位一体の中にコミュニティがあり、それが教会であるという趣旨のことを書いていたような気がします。

                       


                      Andrei Rublevによる至聖三者(Holy Trinity)のイコン

                       

                      そして、我々が、神の子であり、神の子が共に集まること、それが教会であるのでしょう。ここで、神のかたちの回復、分断された人々が一体になること、分断された人々がコミュニティを形成することが、公同性の神秘であると、フロロフスキー神父は書いておられます。この神秘であるという部分は大事ではないか、と思います。

                       

                      プロテスタントは、文字文化を中心にしてきたこともあり、この神秘をつい言葉で書いてしまって、わかった気になってしまう傾向があるように思いますが、神秘は神秘のまま、受け止めるという謙虚さというものにかけていたなぁ、と自身のキリスト者人生を振り返って思います。どうやっても説明できない神秘はあるように思うのです。それは、現実でもありながら、ことばの限界を超えたものの存在、つまり、神ご自身の御存在そのものが神秘でもあるわけですが、それをなんとか、論理や言語で証明しようとし続けてきたのが、近代社会であり、近代社会を経由した神学であったようにも思います。もう少し、神秘を神秘として素朴に受け止めるという姿勢を持つべきであったのかもしれない、とこれまでのキリスト者人生の遍歴を思いめぐらしておりました。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       


                       

                       

                       

                       

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