2015.11.28 Saturday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(11)

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     今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から学んだことを考えてみたい。

    モルトマン先輩と教会
     ドイツの神学者、モルトマン先輩とそのお立場、聖書理解の大まかな(必要最低限の)方向性の説明があった後、ヤンシー先輩は、次のようにお書きであった。
     「教会とは、キリストのいるところだ。」モルトマンはそう確信した。目に見える教会は、キリストを受け入れ、福音を信じる人々で構成される。「しかしキリストは、貧しい人々、飢えている人々、病気の人、囚人のいるところにもおられる。『これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、私にしたのです』(マタイ25:40)。それが隠れている教会である。」神が大切に思っておられる、行き場を失った人々、虐げられている人々、差別されている人々、貧しい人々 − つまり、自分が失われている状態にあることを知っていて、見つけてもらうことを待ち望んでいる人々の切実な叫びを聞くことなしには、聖書を読むことはできないのだ。(隠された恵み pp.75-76)
     この部分を読みながら、今年の夏、大阪で開催された宣教学会でお聞きした、本田司祭とあるプロテスタントの元牧師にして元神学校の関係者の方との対話の時の本田司祭のことばが思い浮かんだのである。(詳細は、日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想  でご紹介)
     その一部を以下再掲しつつ、ご紹介したい。

    Q本田先生は、聖書を読み愛しながら読まなくていい、とおっしゃる。聖書を読むよりよりむしろ大切なのは連帯であるとおっしゃる。そして、神が望んである他人を大切なことをしろとおっしゃっておられる。それでは、普段何しておられるのか。礼拝を守っておられるのか。聖書を毎日読んで心の糧にしているのか。

    Aミサは労働者と一緒に労働者のミサというのをやり、オープンコミュニオンとして実施している。火曜日の晩に、趣味のミサと私が呼ぶシスターたちがやっているミサがあるが、これもできるだけ早くなくしたいと思っている。釜ヶ崎に行った当初、毎日ミサをやっていたのだけれども。
     ミサは、日曜日のみにしようとしており、火曜日の趣味のミサも早くなしにしたいと考えている。普段は、主に野宿している人の散髪をしており、1日3時間ほどで30人くらいの散髪をしている。ほかにも、反失業連絡会 共同代表 NPO釜ヶ崎支援機構などで働いている。
    (ここで、質問した牧師が、「聖書をお読みになって、こころの糧を得られているのではないですか?」と言質を得ようと食い下がる。この食い下がったことに関して)
     聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。(会場大爆笑)イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている。
     この中で、本田司祭のご発言で一番すごいなぁ、と思ったのは、「聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている」という部分である。聖書研究で名をはせたフランシスコ会のトップまで行きながら、ある面、人生の糧を得ようなどというものよりも、より大事なものがあるだろう、というのが、本田司祭のご主張なのだと思う。つまり、キリスト教と言いながら、テキストばかりを扱い、人間を扱っていないではないか、というご批判だと思った。

     つまり、モルトマン先輩は
    「しかしキ リストは、貧しい人々、飢えている人々、病気の人、囚人のいるところにもおられる。『これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのは、私にしたのです』(マタイ25:40)。それが隠れている教会である。」
    と主張することで、我々は人が集まっている教会という建物を教会と呼んでいるが、教会とはそればかりではないのではないか、といっているように思う。建物とその中だけを教会と限定することで、キリスト者たちのマインドセットが視野狭窄に陥っていないか、ということをご指摘されているのだと思う。

     このあたりの事をお考えになりたい場合には、ジャン・ヴァニエ先輩の「小さき者からの光」をお読みになられることをお勧めする。


    モルトマン先輩

     迷っている人がやってきたときに、自分たちのかたちと違うからといって、本来神のかたちである人々を教会外に追いやって、ある面、お一人様クリスチャンとか、野良信徒というか、教会に属さないキリスト者や、キリスト者となりたくてもなれなくて、キリスト者扱いのスタートポイントですらつかせてもらえない人々、中には、キリスト者2世で、親からまだまだだといわれ、バプテスマを受けさせてもらえなかったため、霊に傷を負う人々もいるように思うのだ。まさに、こういう人にとっては、本来、希望と受容の象徴であるべきキリスト教が、こういう人にとっては、絶望や拒絶の象徴ともなりかねない場合もあるだろう。

    神に近い人はだれか
     神に近い人の逆説について、モルトマン先輩の所説を起点にヤンシー先輩は次のように書いておられる。
    「〜なものは幸いです」で始まる山上の説教は、モルトマンのいう隠れている教会、つまり現状への不安と不満が鬱積した人々こそが、既に神に近いと述べている。考えてみるといい。豊かな人々は、まるでこの人生がいつまでも続くかのようにふるまうが、貧しい人々は、耐えがたいまでの渇望を感じている。神から切り離され、壊れてしまった世界を嘆いている人たちは、すべてを新しくすると約束している父なる神に引き寄せられていく。平和を作るものと憐れみ深い者たちは、その動機が何であれ、調和のため、また人類という家族を修復するために奮闘する。(同書 p.76)
     まさに、この話は、ルカ 16:19 以下の金持ちとラザロの話と同じである。あるいは、マタイ 15:21節以下のツロ・シドン地方のカナン人の女性との対話と同じである。あるいはヨハネ4:5以降のスカルの井戸のところで、イエスが水を求めたサマリヤの女、イエスを見ようとしたザアカイ、ダビデの子よと叫んだ盲人・・・・と聖書の中に神に近づこうとした、イエスに近づこうとした、多くの人々が出てくる。

     しかし、当時の絶望的な人々は、神に、イエスに、絶望からの開放を求めていった。彼らには、創造者である神がいるということが前提であったからである。しかし、現代の日本では、絶望的だからといって神を求める人はごく少数であろう。なぜならば、創造者としての神があまりに遠いからであるし、その前に立ちはだかるかに見えるキリスト教会よりも、特に難しいことも言わず(本来そうでないはずなのだが)、あっさりとした一時的な関係性でOKとする新宗教、新新宗教を含め、現実の救済を安易に約束してくれる多くの宗教集団や教祖様や宗教指導者の皆さんがおられる。お金を払うことで、現実の救済を求め、現実の不安を解消してくれる存在が極めてたくさん存在し、手直であったりするし、非常にカジュアルで簡単な関係で済むこともある。また、そういうお誘いをしてくれる親類縁者もいるかもしれないし、まぁ、そういうところの話は単純化され、わかりやすいことも多い。しかし、キリスト教はこの世界において時間を過ごす生あるいは人生においての安易な救済や開放を言わないところが多いが(そうでないところもキリスト教にもある)、日本には、それに代わる安易な解決がやたらとたくさんあるので、まさにハードルもどき、障害物走のように、障害が立ちはだかっているためか、そちらに行かれる方も案外多いように思う。まぁ、教会の数が少ないし、また、その敷居が内部者に低く、外部者に敷居は高いので、神に本来近いはずの人も諸般の関係により遠くなってしまっているように思う。


    障害物走 Wikipediaさんから
     
    信仰を持つ人、持たない人
     信仰を持ってても、迷うのである。そうだとしたら、信仰を持たない人を我々がどうして信仰を持たない人を、迷っているとか、つまらないとか、くだらないとか、言えるのだろうか。信仰の父と呼ばれたアブラハムですら、迷うのである。なお、ヘブライ的に言うと、恐らくアブラハムはユダヤ人ではないらしい。まぁ、そうだよね。そもそも出身がそうだし、ユダヤ人の母親から生まれていないし。
     信仰を持っていない人を、信仰を持つ途上で迷子になっている人と見るか、それとも正しくない人と見るか、その違いはとてつもなく大きい。(同書 p.77)
     信仰があっても、正しくないのである、ということをもう少しキリスト者はきちんと認識した方がいいのかもしれない。本来全ての人は、神のかたちを持っている存在であるのだ。それを、正しくないとか、間違っているとか、救うべき対象だ、かわいそうな対象だ、キリスト者にすべき存在だ、というのはどうなんだろう、と思っている。
     まるで、豊作に満足し倉に食物がたくさんあることで満足しきっている金持ちのようではないか、と思う。


    まだまだ続く










    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    ジャン・バニエ
    あめんどう
    ---
    (2010-08-20)
    コメント:是非、一読をお勧めしたい。

    2015.11.30 Monday

    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(12)

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       本日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介していきたい。本日は、人間が生きていく中での経験と信仰と福音との関係についてである。


      人生の経験と神の存在
       神が存在するかどうか、という問題は、無神論の問題と絡んで、西洋の近代において大きな問題であり続けた。このあたりの事にかんして、ユダヤ人学者(不可知論者)とシモーヌ・ヴェイユの主張を議論を引用しながら、人は神に対してどういう関係にあるのかについて以下のように触れておられる。

      「もしも神がいないなら、いや、最初から存在すらしていなかったのなら、なぜ私たちはこれほど神を恋しがっているのだろう。」20世紀の恐怖を振り返ってこう尋ねたのは不可知論者のヨーロッパ系ユダヤ人だ。避けることのできない美、苦痛、悪、死といった普遍的な人間の経験は、深い渇きを浮き彫りにする。
       フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは言った。苦しみと美は人間の心を突き刺す、と。私はその両方がそれぞれ異なって作用し、人を信仰に向かわせるのを見てきた。苦痛は力によって心を貫き、美は賞賛や感謝に似た反応を呼び覚ます。霊的に迷ったとき、私を信仰に連れ戻したのは美であった。自然、音楽、愛の美しさが、全ての善きものの送り主である父なる神とつながっていたいという願望をよみがえらせたのだ。(隠された恵み pp.87-88)


      死後、有名になった哲学者 シモーヌ・ヴェィユさん

       N.T.ライト著『クリスチャンであるとは』では、あまり苦しみの問題は正面切って触れられていないが、美の問題はかなり重要なテーマとして現れる。苦しみの問題については、『クリスチャンであるとは』では次のように書かれている。
       この一時的なはかなさ、別の言い方をすれば、死という現実は、今日では暗い悲劇的意味合いを持つようになった。それは、創造者に対する人間の反抗と結びついている。人間の持つかかわりの最も深い面での反抗であり、結果的に、他の二つの面(人間同士と他の被造物との関わり)も台無しにした。かかわりとそのはかなさはというモチーフは、単一神を奉ずる主要な宗教において、人間を人間たらしめる構造のまさに中心部をなしている。(『クリスチャンであるとは』p.55)
      無論、これだけが苦しみについての記述ではないが。美については、次のような記述がある。
       世界は美に満ちている。しかし、その美は不完全である。美とは何であり何を意味しているのか。そして(もしあるとすれば)何のためあるのかというなぞは、より大きな全体の一部しか見えないために生じる不可避な問いである。
       美とは、別な言い方をすれば、もう一つの声の響きである。それは、私たちの前におかれた手がかりを通して、いくつかの事柄の中のあるものを語っているのかもしれない。(中略)
       美は義と同じように、私たちの指の間からすり落ちてしまう。(『クリスチャンであるとは』p.61)
      美と苦しみと神との出会い
       美と義はつながっているとおもっているのだが、という問題を個人的に考えているときに、もうちょっとプロテスタント諸派の聖餐がもう少し美しいものであるといいのになぁ、と思っていた。そう考えているところに、最近出た、Ministry2015年11月号の中に、次のような文章を見つけたので、思わず苦笑してしまった。
       むろんこれらの教派(引用者註 正教会、カトリック、聖公会)とプロテスタントでは聖餐の神学的理解をはじめ、種々の相違があることは否定できない。装飾性やドラマ性の高い聖餐が、実体変化説のような非プロテスタント的な理解を助長したり、さらには偶像崇拝につながるのではないかといった懸念を持つ人々もおられるのかもしれない。
       しかしそうした「おそれ」(?)を過度に強調するあまり、聖餐の持つ出来事性、体験性、ドラマ性といったものをあまりにもおろそかにしてきたのが、これまで日本のプロテスタント教会の現実だったのではないだろうか。暴論という批判を覚悟で記すが、はっきり言って日本のプロテスタント教会の聖餐のほとんどは「つまらない」のだ。
       この「つまらなさ」には、神学的な意味でのつまらなさ、式文の内容や構造におけるつまらなさ、聖餐における牧師(司式者)や会衆の参与に関するつまらなさ、そしてモノ(パンとブドウ酒・ブドウジュース)とその取扱いにおけるつまらなさなど、いろんな次元が積み重なっている。(中略)
       まずあのキューブ状に切り分けられたパン。頭の中で来れは意味深い大切な営みなのだといくら自分に言い聞かせてみても、「キリストの身体がサイコロになっている」という情けなさ、あるいは苦笑いしそうな思いはどうしようもない。
       (Ministry 2015年11月号  越川弘英の「私の礼拝論 13回」 p.54)
       言語を超えた美というものがあるように思うのである。一種の圧倒的な言語を超えた美というものがあると思うのだ。ある所でことばをかわせていただいた東方教会の司祭の方に、なぜ東方教会に心惹かれたのか、とお聞きしたことがあった。その時の会話にかんして、ミーちゃんはーちゃんの記憶が正しければ、「ある時ご旅行で行かれたギリシアの町々にある正教会のイコンやその正教会の姿が美しいので、なんだこの美しいものは?になってギリシア正教にご関心を持った」とのことである。確かに、正教会の礼拝に参加すると、ギリシア正教の建物とか、賛美歌とか、イコンとか、その様式を通して、美しさという形の言葉によらない伝道をしておられる、というのはあると思う。その様式がある人(ある東方教会の司祭の方)の人生を変えてしまったのである。美しさを通しての伝道は、ある面、一つの立派な伝道方法ではあると思う。

       あるいは、西ヨーロッパに行って、教会堂に触れ、その教会堂を研究しているうちにキリスト教に出会った人もいる。これは、教会堂が伝道した例であろう。

       美というのは、ある面、神と出会う場所にもなるし、痛みや苦しみ、悲しみも神と出会う機会になる得るように思うのだ。痛みや、苦しみの中で人は叫び声をあげる。それはその痛みの中にある人にとって望ましいことではないように思う。楽しくはない。しかし、その中で神と出会うこともあるのだ。


       それとは別に、至聖所の美しさの中に、神を思うこともあれば、丁度エリヤが得意の絶頂からどん底に突き落とされた時に神と出会ったように苦しみや痛みの中で神と出会うこともあるようにも思う。アドベントを迎えたが、アドベントとクリスマスは、そのことの象徴でもあるように思う。

       異国の軍隊に席巻され、自らの聖地に外国軍が本拠地を置き、おまけに徴税のための国勢調査までされていく絶望うずまくユダヤの地にひっそりと弱きもの、痛むものの姿をとり、ナザレの大工の息子、ナザレのヨシュアとして生きることになり、さらに言えば、エジプトへの流浪の民となるとともに、その誕生で多くの生後間もない子供たちが殺されていくことになる中で生きることを強いられ、その出生には喜びというよりは悲しみが満ち溢れていたのである。完璧なヒーローを求める現代にとっては出生からしてナザレのイエス、キリストと呼ばれた人物は、ヒーロー的なものを持っていないのである。


      ジョージ・マクドナルドの引用から

       ヤンシー先輩は、ジョージ・マクドナルドという方の書籍から非常に印象的な文章の引用がなされていた。それは、美とキリスト者の生き方とのかかわりに関する本である。
      宗教を考えようとするとき、最大の困難は、神がつくられたものに対する私の美しい思いや愛を放棄しなければならない、と考えることだった。しかし、気が付いた。それ自身が罪深くないものから持たされる幸福は信仰によってます、ということだ。神は美しいものの神である − 信仰は美しいものへの愛であり、天国は美しいものの故郷である。自然は義の太陽の中では10倍も輝き、私の自然に対する愛は、クリスチャンになってからの方が、より強まっている。(同書p.89-90)

       George MacDonald

       本ブログは、孫引きの孫引き状態であるが、George MacDonald, quoted in Williams Reaper, George MacDonald: The Major Biography of George MacDonald, Novelist and Victorian Visionary(Batavia, Ill, 1987,62)がオリジナルの出典らしい。)

       ある面、個人的にショッキングだったのは、そして、このことはもっと知られてよいと思うのは、「宗教を考えようとするとき、最大の困難は、神がつくられたものに対する私の美しい思いや愛を放棄しなければならない、と考えることだった。しかし、気が付いた。それ自身が罪深くないものから持たされる幸福は信仰によってます、ということだ。神は美しいものの神である」という部分である。

       というのは、知り合いの美術関係者が進路選択の際に、「芸術は、美しいものを追うので、美しいものを追った挙句、それが偶像になってもいかんから、そういうことはいかがか」とある教会の責任ある立場の人から言われたという事件が未だに引っかかっているからである。もう3昔以上の前の事であるが。個人的には、違うと思いつつも、聖書の理解が十分に進んでいなかったし、さらに、『わが故郷天に非ず』(現在絶賛されつつも絶版中)もまだ読んでいなかったし、神が与え給うた才能をどう生かすのか、教会の教理の理解のためにこういうことを放棄してもいいのか、ということの理解が十分できていなかったからである。最も画期的にこの考え方を変えたのは、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeを読んでからである。

       あるいは、知人にアイルランドの詩人William Butler Yeats の研究者がいるのだが、その知人に、Yeatsがクリスチャンかどうかを尋ねる教会人が時々いるらしい。キリスト教中心主義もいい加減にしたら、と最初その話を聞いた時には開いた口がふさがらなかった。

       だとすれば、キリスト者の経済学者が研究しようとする経済学はすべからくキリスト教経済学者が生んだ経済学や経済であらねばならず、本来その要素の極めて薄い日本経済は研究対象にしてはならず、キリスト者の哲学者が研究するのは、キリスト教的哲学でなければならなくなる。これだと、キリスト教的ななにかを偶像にしていることに他ならない可能性があるところにお気づきでないところが実に残念である。

       
      William Butler Yeats
       
       先にも触れたが、お伺いしたことのある東方系のキリスト教会は、日本人に合うかどうかは別として、非常に美しいし、東方系のキリスト教会の礼拝はフルで参加すると時間が長いが(それだけの事を再現して見せているということはあるから致し方がないのであるが)、一つ一つの行為と式で表現される象徴が聖書を忠実に再現しようとしていることを知ると、極めて味わい深い。

       ある面で、引き算で極限まで装飾性と象徴性を排除した結果のみをそのまま持ち込んで、日本という文化コンテキストの中で再現しているプロテスタントの教会の礼拝が、越川先生のMinistryでお書きの事ではないが、「はっきり言って日本のプロテスタント教会の聖餐のほとんどは「つまらない」のだ」と言われても仕方のない部分はあるよなぁ、と思ってしまう。
       
       このブログの読者で教会には行ってない、何らかのご事情で教会には行けなくなっているけれども、美しいものにひかれるという皆さんは、個人的には東方教会(日本ハリストス正教会)の教会に一度行かれることをお勧めしたい。司祭のおられる教会では、毎週のようにイエスがこの地を歩いたその姿が非常に視覚的にも聴覚的にも美しく再現されている。ただ、ある面、アメリカへの文化依存の影響の結果が強く表れている日本人の感性とはかなり違うので、その点への留意は少し必要であるけれども。

       まだまだ続く






      評価:
      フィリップ・ヤンシー
      いのちのことば社
      ¥ 2,592
      (2015-11-05)
      コメント:お勧めしております。

      評価:
      N・T・ライト
      あめんどう
      ¥ 2,700
      (2015-05-30)
      コメント:これまたお勧めしています。

      評価:
      ---
      日本キリスト教書販売
      ¥ 1,620
      (2015-11-17)
      コメント:良い。今回は、高齢化と教会がテーマとして取り上げられている。非常に良かったと思う。

      2015.12.02 Wednesday

      いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(13)

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        今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日は罪の問題についてである。

        神は宇宙の警察官?
         日本のキリスト教会の中でお聞きする話の中に、罪の問題をどうも誤解しておられるのではないか、というお話を時々お聞きする。アメリカ合衆国の教会でも同様らしい。ただ、この日本語の『罪』という概念が、話者の側の意味と聞き手の側の意味が時に異なっているのではないか、と思うことがある。一度、ある宣教師の人とはお話したが、対話がかみ合わず、不毛であった。『罪』という言葉にこだわり、Systematic Distorted Communicationをご継続になりたいのであれば、それをお続けになられればよい、とは思っている。
         誤解されがちなキリスト教の罪という概念は、多くの人々を不愉快にしている。実際、罪という概念があることによって申し開きをしなければならないことになるのだが、それは私を愛し、私のために何が最善かを知っておられる神に対して、の事である。これも医者になぞらえると分かる。厳格な教会で育った私はこの善き知らせの”神の知恵”という側面を見逃していた。神の事を私に健康に育ってほしいと願う意思としてよりも、自分勝手な決まりを共用する宇宙の警察官と思い込んでいた。宗教を持たない人々と話をして確信したのは、多くの人が罪について、同じような誤った認識を持っていることであった。罪の核にあるのは私たちにとって最善を計画しておられる神への信頼の欠如である。(隠された恵み p.119)
         神が義であることから、神を不正を許さない警察官的な理解でお語りである方は案外多い。このようなお話をこれまでもお聞きしてきたし、今も時々、このようなことをお語りになられる方はおられる。フーン、そうなんだ、とお聞きすることにしている。

         しかし、罪に関して、「宗教を持たない人々と話をして確信したのは、多くの人が罪について、同じような誤った認識を持っていることであった」ということである。日本では、ほとんどの人が、アニミズム的な信仰を持っているが無宗教と答える人が多い社会の中で、『罪』とは、何か悪いこと、とりわけ人に対して何か不具合をもたらすものの総称としてとらえられているが、実は、聖書の中で罪と言われているものを、ヤンシー先輩は、「神への信頼の欠如」とご指摘しておられる。個人的には、これはある人の「人生における神の不在」の事だと思う。山崎ランサム様がそのブログ「鏡を通して」の記事「確かさという名の偶像(22)」ご指摘のように、「信頼」といっても、自分に益が起きるというような信頼ではなく、人格的に関与するものとしての同行者としての存在を認め、共に在る状態を想うということだろうと思う。 
         マンハッタンで多くの人を集めている教会の牧師ティモシー・ケラーは懐疑主義者やポスト・クリスチャンたちと信仰について対話をしながら、罪を「悪行を働く」というより、「善を絶対視する」ことを表現するようになった。
         恋人と寝ているあなたたちは罪を犯している、という代わりに、ロマンスこそが人生に意味を与え、罪から救い、神に対して求めているものを与えてくれると思っているから、あなたは罪を犯しているのです、と話す。ロマンスへの偶像崇拝は、渇望、執念、妬み、恨みにつながる。ポストモダンの人々も、私が彼らの生活を偶像礼拝に関連付けて説明すると、すんなり理解した。キリストとその救いは、赦しを(現時点で)与えてくれる唯一の希望というよりも、むしろ自由に至る唯一の希望としてあらわされることができるのだ。(同書 pp.120-121)
        救いとは何か
         「罪」に続いて、現代人が誤解している事柄の一つに「救い」という概念があるように思う。以前、「自由」ということに関して現代の日本語での理解による、この種の誤解について触れたところであるが、一般に日本人の救いからイメージされるものは、困難な状況や苦難からの脱出や離脱と理解されているところではある。ある面、仏教的な「救済」というか、悟り・涅槃のイメージが付きまとっているように思う。その意味で、理解されてしまうと、本来的な救済とは若干違うように思うのだ。そこらあたりに関して、ヤンシー先輩は、ユージン・ピーターソン氏の文章を引用しながらこのようにお書きである。
         ユージン・ピーターソンはこう指摘している。「ヘブル語の『救済』にはもともと、広くなること、広々とすること、拡大すること、という意味があります。そこには、抑圧され、閉じ込められ、拘束されていた存在からの開放という意味が含まれています。」神は私たちを自由にしたい、神や隣人との開放的出会いにあふれた人生を遅らせたい、と願っておられる。(p.121)


        Eugine Peterson先輩
        この方は霊性に関する関係の人で、何冊か邦訳書が出ている。

         ここで、注目したいのは、旧約聖書的な救済には、困難や苦しみそのものからの脱出というよりは、束縛されているものからの神による開放という側面があることである。これは、案外見過ごされているのかもしれない。神との制約のない関係、あるいはその関係性の回復が、聖書の言う、より正確には旧約聖書の言う「救い」という概念と結びついているようなのだ。

        苦と信仰

         古代仏教の専門家の人とお話した限りの知識であるが、古代仏教の場合は、基本原理としては、自分自身が良く自分自身の状態を踏まえ、苦(生老病死)の原因となる縛られているものがなんであるかを丁寧に見つめて、それの原因を断ち切ることで、苦の原因から離れることが輪廻から脱出する道、涅槃への道であるとご主張のようであるが、より広い制約のない世界に誰かと出会うために向かっていく、という側面はないと理解している。誤解かもしれないが。
         
         苦を無くすのが聖書の中での信仰の問題ではなく、信仰ということを考える場合、神と出会うための、神と共に暮らすための障害が、既に無くなっている、というのがキリスト教の根本概念にあると思う。だからこそ、イエスが死んだときに神殿の幕も真っ二つに避けたのだ、と思うのだ。単なる奇跡譚ではなく。もう、神とあなたとを隔てるもの、異邦人とユダヤ人を隔てるもの、奴隷と主人を隔てるものがなくなるのだ、ということを神は十字架で完了した、というイエスの発言を通してお示しになられたように思うのだ。

         苦はある。しかし、苦があっても、神もそこにいる。そこに神と人とを隔てるものはない、というのがキリスト教の救いだと思うのだが、それがいつの間にか、キリスト教の救いとは「天国」という宇宙外基地に行く話になっているように思うのだが…。キリスト教が宇宙というフロンティアに行く話に終わっていなければいいなぁ、と思う。

         その意味で、こういう救いの概念とかを、某公党の選挙カーの議員名の連呼よろしく、「神」「神」「神」「罪」「罪」「罪」「救い」「救い」「救い」と連呼しても、現代では、それは逆効果でしかないように思うのだが。だって、発言している側の意味と、受け取り側の意味が違うのだから。特に「救い」という概念に関して、受け取り手と発言者が、苦難からの開放という意味で同じだと思っているのであれば、少しまずいような気がする。



        痛車仕様の自民党さんの選挙カー (現物は路上で見たことないです)

        まだまだ続く。



        評価:
        フィリップ・ヤンシー
        いのちのことば社
        ¥ 2,592
        (2015-11-05)
        コメント:絶賛ご紹介しております。

        2015.12.05 Saturday

        いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(14)

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          今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日はキリスト教におけるダブルメッセージの問題についてである。

          言行不一致のキリスト教
           個人的には、自分自身もそうであるが、言行不一致と言われても仕方がない面があると思う。その意味で、ヤンシー先輩がご指摘の事がミーちゃんはーちゃんにはそのまま当てはまると思う。
           ダブルメッセージとは、言語によるメッセージと非言語によるメッセージが矛盾するコミュニケーションの事である。つまり、言っていることとやっていることがあまり一致してないように見えながら、言われたことをしないといけないという状況の事である。実は、キリスト教会はこれを発しているのではないか、ということである。つまり、パリサイ人と同じようになっているのではないか、という問題である。(隠された恵み p.123)
           他者を愛するのが、キリスト教である、といいながら、他者を愛していないミーちゃんはーちゃんがいる。その意味で、ダブルメッセージ(ミーちゃんはーちゃん注: ダブルバインドメッセージのこと)を発信し続けているというご批判は甘んじて受けたい。そして、それがどうにもならないことをも正直に告白したい。努力はしているけれども。

           しかし、それを含めて、個人的にはキリスト教ではないか、と思うように最近はなっている。この度毎に、ユダヤの民を思い起こすことにしている。彼らは神に愛された民であり、神と共に歩んだ民ではあるが、度々神を離れ、そして、そのたびごとに神に戻っていった民であったのである。出エジプトでは神がともにおられながらも、不平を口にし、エジプトにいた方が良かったといい、約束の地に入りながらも約束の地で神と共に生きることをせず、隣国のように王がほしいといい、挙句の果てに軍に頼り、他国と協定を結び、神が与え給うた約束の力捕囚され、それでも戻ってき、そして、なんとなく怪しげな王に頼り、本当の王を迎えることなく終わってしまった残念な人たちであったように思うが、しかし、神のイスラエルへの誠実さというのか、人格的関係は変わらないように思う。

          世界に対して影響力を持たなくなっているキリスト教
           善行をすることは、キリスト教の専売特許ではないし、善行することが、善行する人になることがキリスト教の目標でもない。それは、個人的には付随的なことだと思っている。しかし、善行の結果に関して言えば、有無を言わせない結果をかなりの人々にもたらすことも間違いではない事実である。そのあたりに関して、ヤンシー先輩は、またまた尊敬するハワーワス先輩の引用をしながら、次のようにお書きである。
           私たちの発するどんな言葉も無効にし、人々から「良き知らせ」を運ぶものとしてみられなくする落とし穴について、一言注意しておかなければならない。自らの人生で真理を証明しなければ、クリスチャンが信じているものを伝えようとしても、口先だけの営業トークのように聞こえてしまうだろう。『タイム』誌が”米国最高の神学者”と読んだスタンリー・ハワーワスはその問題を的確に表現している。「クリスチャンに突き付けられている課題は、自分の言っていることを自分自身が信じていないことではなく―もちろん、それも問題なのだが―、公言しているその”信じているもの”が、教会にとっても世界にとっても大した影響力をもたらしていないように見えることです。」(同書 p.124)
           なぜ、TVCMで「効果は個人の感想です」というクレジット付きで、健康食品や機能性食品のCMが流れるのだろうか。それは、もちろん薬事法という制限があるからではあるのだが、それ以上に、個人で聞いたといわれれば、ひょっとして自分にも、と人が思うからであるではないだろうか。お昼のテレビ番組で、サンプル数3の食品の機能実験でサンプルのうち2がダイエットに成功したと放送されれば、リンゴやチョコレートやきな粉がスーパーの棚から一挙に消えるのが現代という時代である。実際の効果を主張する人、現実を見せることほど説得力を持つことをマーケティング関係者や広告関係者が知っているからこそ、彼らはその手法を用いるのではないだろうか。

           あるいは、なぜユニクロのアルバイトはユニクロの服を着なければならんかといえば、彼らが生きているマネキンであり、彼らの口コミが有効であるからに他ならない。ちょっと、ミーちゃんはーちゃんの勤労者と企業の間の距離感覚には引っかかるけど。

           最下部で、スタークという人の『キリスト教とローマ帝国』という本を紹介している。この本は、計量社会学的な手法(もう少しよい手法があるのではないか、という点で少し疑問があるけれども)を用いて、キリスト教が初期段階において、病者や乳幼児のケアをしたことがその後の成長にとって重要であったか、 ということを示した書籍である。

           しかし、ハワワース先輩も、ものすごく厳しいことを言っておられる。つまり、「(教会が)公言しているその”信じているもの”が、教会にとっても世界にとっても大した影響力をもたらしていないように見えること」とまで言っておらえる。



          同様の内容を講演するハウワワース先輩の動画(長い)

           例えば、キリストの復活とか、神の子であることとか、聖餐の問題とか、神の国(神の支配)が存在するとか、主の祈りの中で言われている「御国が来ますよ うに(神の支配がこの地に及びますように)」ということを本当に信じているのだろうか、まぁこういう根源的な問題にかかわることなどにまで自分自身に本当 に影響を持っているのか、ということは少し考えてみた方がいいかもしれない。そして、それが、世界にとっても影響力を持っているのか、ということに関して も。

           もちろん、商業化されたクリスマスや、商業化されたヴァレンタインデー、最近日本でも商業化されかけているイースターなどの商業科 的な影響がどうのこうのという表面的なことではなく、自分たちが信仰を持っていることが社会にどういう影響を持っているのか、ということを考えてみた方が いいとは思うのである。

           西洋諸国における人道主義はキリスト教由来である。しかし、ヨーダー先生によれば、コンスタンティヌス化したキリスト教になる中で、キリスト教も変容していった。個人的に思うのは、教会も変容していくと同時に、キリスト教の影響を受けて西洋社会が変容していったように思うし、その変容していくなかで、教会がしてきたことを国家や組織がその教会の機能の一部を代替していった(ある面、取り上げていった)ことも確かにそうなのではあるが、しかし、では、キリスト教は社会に何を提供しようとしているのか、ということを問うことは全く無意味ではないと思うのだ。単なる模範や”文明”と呼ばれるものが作り出したものを提供することではない、とは思うが。

           アフリカ人の伝道者が話してくれたことが、ある面参考になるかもしれない。日本では、考えがたいことではあったが、アフリカのザンビア付近ではキリスト者男性は、結婚相手の候補として、かなり人気が高いらしい。なぜかというと、暴力を妻に働かないから、という素朴な理由、家庭内暴力で妻が夫によって殺されないからという理由、であるらしい。キリスト者男性が結婚相手として望ましいとされる、この理由も壮絶であるが、ある面、アフリカでなぜキリスト教が伸びるのか、アフリカ社会の中でキリスト教が文化的な変容をもたらしつつある一面でもある(まぁ、明治のころは日本でもこれに近かった部分がないわけではない)。

           しかし、同時に、アフリカ人にしてみれば、野蛮な戦争や武器、重火器を持ち込んで戦争や虐殺を教えてくれたのも西洋のキリスト教国ではある。なぜ、民族紛争をするのか、と言われれば、植民地にしてもらったときに、そのやり方を教わったから、ということになろうし、ダーシュと呼ばれるISIS団の皆さんが、イスラムの法に反することを平気でやる手段を持ったのも、米軍の皆さんが持ち込んだ武器をお借りでき、その使い方が簡単だったからだ、ということになりかねない。

          ある社会調査の結果から
           まぁ、アメリカ社会、特に1960年代から70年代にかけて大きく変容したアメリカでは、こうなっているだろうなぁ、と思う。まぁ、Born Again体験にしたって、何度もBorn Againしてもらうのが、大衆伝道なので、それがどこまでBorn Againなのか、何を持ってBorn Againするのか、という問題もあるとは思うが。大体、キリスト教徒かその影響にある人が多数を占めるアメリカ的コンテキストにおいて、そういう人々を集めておいて、「今日、回心した人」って個人的にはどやさ、って思います。はい。
           アメリカ人のそのあたりの感性に関する調査をヤンシー先輩は次のように引用しておらえた。
           大学生対象の世論調査で、「『キリスト教』という言葉を聞いて真っ先に思い浮かぶことを書いてみてください」という問いかけに対して一番多かった回答は、「説教で言っていることを実践していない人たち」だった。バーナグループによる調査は、警告するようにそのことを裏付けたのだ。
           過去1か月にどのような活動をしたかと尋ねられたら、新たに信仰をもち”生まれ変わった”人々も全く同じように、かけ事やギャンブルをし、(中略)
           宗教に距離を置く若者の84%が、熱心なクリスチャンを一人は知っているという。しかし、そうしたキリストの弟子たちのライフスタイルが世間一般のそれと大きく違うと考える人はそのうちの15%に過ぎなかった。(p.124)
           まぁ、日本でも似たようなものかもしれない。でも、ライフスタイルは世間一般のものとあまり変わらない、というのは、それはそれで健全なのかもしれないと思う。というのは、先日読んだ、シベリアで40年以上隠れて暮らした家族の話の記事のような生き方を普通、人間はできないように思うからだ。

           完全に社会と異なる立場をとってしまえば、孤立国のように、一種の社会との遊離が生じてしまい、社会との間に壁を作ってしまいかねないからだ。

          アメリカのキリスト教周辺の若者と一般との違いは・・・
           以下で、ギャラップ社の創業者でもある初代George Gallupの息子さんのGeorge Gallup Jr.(2011没)という御仁がいて、若者の行動と宗教にかかわる内容の意識調査をした方の調査結果と思われる結果を引用し、その後福音派の左派のSider(リンゴから作る発泡酒Ciderではない)の発言を拾って、ヤンシー先輩は、結局キリスト教である意味が現代社会において問われているのではないか、というご意見を述べておられる。
           クリスチャンの離婚率は、一般社会の離婚率をそのまま反映している。身体的・性的虐待の発生率についても同様だ。十代のクリスチャンの不特定多数との性交渉率は、わずかに低いだけである。(中略)ジョージ・ギャラップの調査によると、カトリック教徒の妊娠中絶件数は国の平均を上回っている。ある取材に対し、サイダー(引用者註 The Scandal of the Evangelical Conscienceの著者 福音派左派の人だと思う)はこう述べている。「初期教会の時代、クリスチャンの生き方の高尚さに驚嘆した人々がキリストへと導かれました。それなのに、現代の私たちクリスチャンは偽善によって未信者を遠ざけています。」(同書 p.125)
           まぁ、アメリカ人学生を間近に見た経験や彼らから聞いた話から言ってもそんな感じだと思う。とはいえ、主に相手をしたのが、脳天気な西海岸の大学生であり、彼ら自身はある面で真面目であったとは思ったが、日常生活ではかなりお気楽でカジュアルな学生しか見ていないので、何とも言えないが。中西部だともうちょっと保守的な気もする。西海岸(ワシントン州とカリフォルニア州)では、割と開放的というのか、リベラルなところも文化的にはあるので、保守的な人々は奇異に見えてしまうというのはあると思う。

           アメリカでは子連れのヤングママがそのまま居られる教室などが高校に配備されている高校も割と普通にあるらしい。ただ、こういう高校生は、基本的に高校から中退Drop Outするのが通例であるといわれている。高校から中退すると、就職先があまりないので、貧困のスパイラルに直結していくことになる。


          George Gallup Jr.さん

           福音派左派のサイダー先輩の引用「初期教会の時代、クリスチャンの生き方の高尚さに驚嘆した人々がキリストへと導かれました。それなのに、現代の私たちクリスチャンは偽善によって未信者を遠ざけています」は実に痛かった。
           
           以下の動画では、その事とほぼ同内容の事がサイダー先輩の肉声で聞ける。ありがたい時代になったものだ。動画は、Interversity Press提供である。


          Ron Sider先輩 InterVersity Pressの本Letters to a Future ChurchのプロモVideo(短い)

           なお、初代教会時代の事についてお知りになりたければ、下記に紹介する『キリスト教とローマ帝国』をご覧いただくと同時に、古代教会の時代の生き方と信仰そのものを保存しようとした、ギリ シャ正教についての書籍『ギリシャ正教』もご覧いただきたい。この本で、個人的に、「西方(日本で多く知られている西洋諸国の)キリスト教は宗教だが、正教会のキリスト教は、生活の事である(大意)」には、非常に驚きを覚えるとともに、自らの無知と無自覚を深く感じた。

           ある面で、生活にまでなったキリスト信仰の姿ということとそれがもたらすものという意味とその強さ、ということとその意味を最近は少し考えている。

           まだまだ続く。


           

          評価:
          フィリップ・ヤンシー
          いのちのことば社
          ¥ 2,592
          (2015-11-05)
          コメント:お勧めしております

          評価:
          ロドニー・スターク
          新教出版社
          ¥ 3,456
          (2014-09-19)
          コメント:是非、お勧めしたい。

          評価:
          高橋 保行
          講談社
          ¥ 1,080
          (1980-07-08)
          コメント:古い本だが、非常に良いと思う。

          2015.12.07 Monday

          いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(15)

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            今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日はキリスト教徒と創造的な働きの関係についてである。

            ヤンシー先輩によるN.T.ライト先輩の本の引用

             キリストに従うものも、地上で生きる。そのために仕事をする。様々なことをたしゃのためにする。それが、キリストの言った神の国の民に求められていることだ、とライト先輩は言っておられる部分をヤンシー先輩は引用しておられる。
            N.T.ライトはそれを(引用者註 他者に仕えることによって神による神の国を建て上げることへどう関与していくのか)具体的に説明している。「現在あなたがしていること、絵を描く、説教、歌う、縫物、祈り、教える、病院の建設、井戸の掘削、正義を求める運動、詩を書く、困っている人を助ける、隣人を自分自身のように愛することは神の未来にも続くだろう。これらの事は、私たちがこの世を去るまで、単に現世での痛ましさを和らげ、耐えられるようにするばかりではない。神の国を建て上げるものの一部なのだ。」付け加えるとしたら、それらは、この世界に恵みを示すという私たちに託された使命の中心にあるものである、ということだ。(隠された恵み p.129)

             この部分は、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeの12章Introductionからの引用であるが、原文はこうなっていた。[]内は、引用されていなかった部分である。
            [God will raise it to new life.  What you do with your body in the present matters because God has a great future in store for it  And if this applies to ethics, as in I Corinthians 6, it certainly also applies to the various vocations to which God's people are called. ] What you do in present--by painting, preaching, singing, sewing, praying, teaching, building hospitals, digging wells, campaigning for justice, writing poems,caing for the needy, loving your neighbor as yourself--will last into God's future.  These activities are not simply ways of making the present life a little less beastly, a little more bearble, until the day when we leave it behind altogether [ (as the hymn so mistakenly puts it, "Until that day when all the blest to endless rest are called away"]). They are part of what we may call building for God's kingdom. (Surprised by Hope, p.193, Capter 12, Rethinking Salvation: Heaven, Earth, and the Kingdom of God, Harper One )
             なお、ライト先輩が引用しておられる歌詞 Until that day when all the blest to endless rest are called away は、多分これだろうと思う。以下の動画の3分41秒あたりに出てくる。イタリックは原文のままである。

            N.T.ライト先輩があげておられる讃美歌、Christ is our corner stone(キリストはわが礎石).

             実は、このヤンシー先輩がN.T.ライト先輩のSurprised by Hopeから引用されていた部分は、非常に印象的な文章とご主張の内容であったので、ミーちゃんはーちゃんも原著を読んだ時に、ものすごい衝撃を受けた印象を持っていた。ヤンシー先輩もあぁ、同じところを大事だと思われたのだなぁ、ということを改めて思った。もちろん、ヤンシー先輩の方が比較にならないほど優れていらっしゃるが。

            この地に生きるキリスト者であるとは

             ところで、ヤンシー先輩が引用していなかった部分の中で、現在のこの地での生活が問題であり、それは将来につながるのだ、そして、第1コリント6章における倫理とつながっている、というご主張は案外大事ではないか、と思うのだ。この第1コリント6章の倫理は、通常、性的不品行や教会内のもめごとに関することとして理解され、語られている側面があるが、パウロが言っていることは、そんなちっぽけな(もちろんそれは大事であるが)ことではなく、もっと重要な終末理解と深く関係しているものではないか、というのがライト先輩のご指摘のように思う。

             そのことを考えるとき、ヤンシー先輩がおっしゃっておられることとは、本来、地の回復をもたらし、人を人たらしめること、それが恵み(終末における地の回復と人を人たらしめるという神のご計画)を運ぶはずのキリスト教ではないか、ということを想う。

             と、ここまで書いていて思ったが、この内容は、まるでギリシア正教の世界観である。

            下心を持って仕えるフリするキリスト者たち
             すべてのキリスト者がそうだ、というわけではないが、恵みを誤解している人々や伝道という下心を前提にというか、伝道を視野にボランティア活動をしてみたりする人々も聞いたことがある。そんな援助側の根性や思いは行動の端々に出るので、簡単に援助を受ける人々からは見透かされてしまうのだ。
             私がシカゴで通っていた教会派、スラムの公営地区の近くにあり、もともと歴史のある大きな教会のアウトリーチ活動の拠点だった。ところが、このスラム地区の教育プログラムが、聖書以外の教材も使って子供たちに読み書きを教えていることを知った母教会は、一切の財政的支援を打ち切った。教会の地下室に子供用のビリヤード台を設置していたことも災いした。母教会は恵みの在り方を見失っていた。恵みを運ぶ人たちは、自分たちが神から受け取ったものに「感謝」して(感謝〔gratitude〕とは恵み〔grace〕と同じ語根を持つ言葉である)、彼ら自身の溢れるものから与える。回心者を出そうという下心を持って仕えるのではなく、全体が良くなるために仕える。神が意図されたように、人間が反映することを願いながら。(隠された恵み p.130)
             この部分を読みながら、思ったのは、聖書中心主義、聖書ならOKだが、それ以外のものなら受け入れかねるという心の狭さの問題である。例えば、聖書アニメや聖書を題材にした映画の話ならば教会で受け入れるが、それ以外のものは一切NGというような心の狭さというか、精神の狭隘さのようなものがキリスト教の世界にはある。キリスト教とかかわらないものであれば、一切教会には入ってはならん、あるいは教会が関与する以上、それでないと許さない、みたいなところがないわけではない。もちろん、それは教会の御意志なので、それはそれでよろしいとは思う。とは言いながら、それは教会が本当に他者理解をしようとしている、あるいは教会として他者の受容をしていることを示すことになるのだろうか、という問題があるようにも思うのだ。

             つまり、救いの対象としての他者はOKであるが、教会が反対するもの、教会が”救い”を宣べる対象とならないものをも他者として愛することができないものとして勝手にきめてしまっているのではないのか、という問題と共通するものである。実は、これは、かなり難しい問題を含むのである。ある面、教会の覚悟を問う問題に直結する可能性が高い。

             ある禅宗の僧侶の方とお話したことがある。「一見ややこしそうな人がお寺に何とかしてくれといって、来られた時とかはどうするんですか?」と友人がこの僧侶にお尋ねしたら、「そんときゃ、まぁ、いったん座ろっか。ちょっと落ちつこう。」といってから、受け入れるかどうかはあまり考えずに「問わず語りで語ってもらうかなぁ。でもあんまり来ないけど」といっておられたことが非常に印象的であった。

             この辺の奥行きの深さはキリスト教にはないかもしれず、新来会者が来るといろんな意味で、教会に緊張が入り、あたふたするのが、教会の通例のところが案外多いように思う。まぁ、カトリックと、ロシア正教、アングリカン・コミュニオンには、この辺のあたふたさがなくど〜〜〜んとしていて、「あぁ、こういうのはいいなぁ」と素朴に思ったものである。新来会者として知らないところの教会にいくと、信者の方からの事情聴取があったり、あるいは妙になれなれしくお話しするために寄ってこられる方がいたり、帰り際牧師先生があわててご挨拶されようとされたり、このあたりの新来会者の方を迎え入れようとするお気持ちがそうさせるとはいえ、それがあまりにこなれてない、あるいは身についていない為にあたふたさ加減が見え隠れすることがある。言葉ではいろいろとお伺いはするが、身体的なあたふたさ加減に下心があることを新来会者に身体性の点において雄弁に語っているようにも思うのだ。

             案外、言葉以上に、身体的所作が雄弁に語ってしまうこともあるように思う。この辺の奥行きの深さを持つキリスト教が教会に定着するとよいかなぁ、とは思っているのであるが、日本のプロテスタント派では、当分無理かもしれない。

             尚、ミーちゃんはーちゃんは、伝道しようという下心を持って、奉仕しては絶対にならない、とは思わないし、しても別の問題はない、とは思っているが、ただ、相手には、それはすぐ伝わることが少なくないので、それは、却って神と伝道しようという思いを持って仕えたはずの人との関係を遠ざけるのではないか、とは思うのだ。

            犯罪の巣窟としてのアメリカの公営住宅(Project)

             ところで、ここにアメリカの公営住宅の話が出てくるが、アメリカの公営住宅といえば、そもそも、ジョンソン大統領時代に海外では、Vietnam Warをしながら、国内的にはWar on Povertyという政策としてHUD(Department of Housing and Urban Development)という汚職と非効率、官僚主義の温床のようなイメージ(あくまでイメージ)を持つ組織が建設しており、また、その住宅も今では50年以上たち麻薬と窃盗、性犯罪の温床、青少年ギャングの根城、犯罪の巣窟のようなイメージが付きまとう。もともと、都市のなかでも、最も貧しい階層であった、アフリカ系アメリカ人、ラティーノと呼ばれるヒスパニック系アメリカ人、あるいは新規に移民となった人々がその住民の大半を占めるうとという側面があるのはどうしても否めない。

             ところで、下記の白黒写真は、シカゴ・トリビューン紙から拝借しているが、写真のタイトルとして、Prison for Poorというキャプションが付いていた。ここで育って、本物のJailやPrisonに行く人々も多いらしい。


            Robert Taylor Homes Public Housing Projects シカゴトリビューンから借用

             このあたりの、公営住宅での犯罪率の高さがあり、アメリカのLaw and Orderなどでも、若者の人種別ギャングの抗争、麻薬を巡る争いなどは日常茶飯事というイメージで、Project(公営住宅)は描かれている。

             そのあたりの都市の一定の地域に住む貧しい人々と若者の学習の意味に関して、Freedom Writers(邦題もフリーダム・ライターズ)という映画があるが、公営住宅の住環境としての問題を知る機会としていただけるとともに、若者への教育の持つ意味を考えさせるいい映画だと思う。一度ご覧になるようにお勧めする。



            Freedom WritersのTrailer

            地にタラントを活かし
            『恵み』を運ぶ具体例
             具体的な事例として、ヤンシー先輩はヤンシー先輩が言っておられる教会で取り組んでおられる具体的な取り組みをご紹介しておられる。個人的にはどうかと思うが、一つの奉仕の方法ではあると思う。
            私の通うコロラドの教会は、「ハンズ・オブ・カーペンターズ」というミニストリーを開始して、未亡人やシングルマザーのために塗装、大工仕事、家の修理をするボランティアを募った。間もなく、別の必要を見つけ、「ハンズ・オートモーティブ」を開き、こうした人々に車のオイル交換、車検、カーウォッシュを室生で提供した。余裕のある人々には通常の代金を請求し、その仕事の資金にしている。(p.131)
             車検制度がなく、カーパーツショップがやたらとあるアメリカで、平気で1940年代とか1950年代のフォードのピックアップトラックが走っている社会であれば、確かにハンズ・オートモーティブは役に立つと思うし、普通の民家であれば、検査制度がほとんどなく、法規制がめちゃくちゃ緩いアメリカであり、水道工事から、配電工事まで素人がやるのが当たり前の国であるからこそ、まぁ、住宅のリフォームから建て替えくらいまでほぼ個人でやる人がいるし、Home DepoやLawe'sとかいう、日本のホームセンターがかわいらしく見える巨大なDIY Shopがアメリカの都会地では3マイルか4マイルごとにあるようなモールには必ずある。両方あるモールもある。



            Home Depot  アメリカのホームセンター


            Lowe's アメリカのホームセンター

             まぁ、以前も書いたかもしれないが、個人宅の電球の交換を牧師にお願いするお家もおありのようだ。牧師は電気屋じゃぁあるまいし、シルバー人材センターでもあるまいし、ダスキンさんの家事お手伝いサービスではない。もし、上でヤンシー先輩がご照会のようなサービスが必要なら、教会でボランティア組織を作ってやればいいだけの話でしかない。何でもかんでも牧師先生、というのは違うような気がするなぁ。

             教会と手の関係については、Rachael Held EvansのSearching for Sundayという本の中に、Handsという一章があって非常に印象深い。その中にこういう一節があってちょうどこの部分と重なった。
             Ultimately, all are commissioned. All are called. All belong to the holy order of God's beloved.  The hands that pass the peace can pass a meal to the man on the  street. The hands that cup together to receive Christ in the bread will extend to receive Christ in the immigrant, the refugee, the lonely, or the sick.  Hands plant, and uproot, and cook, and caress. They repair, and rewire and change diapers, and dress wounds. Hands tickle giggling children and wipe away tears.  Hand rub heaving bellies of big ugly dogs. Hands sanctify all sorts of ordinary things and make them holy. (Searching for Sunday p.98)

             究極的にいえば、我々信徒は既に神から役割を与えられているのだ。我々は召命を受けているのだ。神が愛された人々の世界に属しているのだ。平和を運ぶその手はホームレスの人々に食事を運ぶ手でもある。パンに象徴されるキリストを受けるためにカップ状にする手は移民の人々や難民、孤独で病んだ人の中におられるキリストを受け入れるために広げられることになるのだ。植物を植え、植え替えをし、料理をし、そして治療をする手。この手は修理をし、電線を張り替え、おむつを替え、傷を隠すものである。子供をこそばして笑わす、そして、涙を拭いてあげる手である。また、その手は、醜い犬のおなかをさすってやる手でもある。そして、手は、様々なごく当たり前のものを聖なるものにするためにもあるのだ。(普通のパンが、聖なるものとして分け与えられるものにするのも手であることを指していると思う)

            まだまだ続く





            評価:
            フィリップ・ヤンシー
            いのちのことば社
            ¥ 2,592
            (2015-11-05)
            コメント:非常に良い。お勧めする。

            評価:
            ジャン・バニエ
            あめんどう
            ---
            (2010-08-20)
            コメント:非常に良い。一読をお勧めする。

            評価:
            Rachel Held Evans
            Brilliance Corp
            ¥ 1,895
            (2015-04-14)
            コメント:教会あるあると思いながら、思わず笑いが漏れながら読ませてもらった。女性らしい視点から思いやりにあふれつつ、重要な指摘をしている本である。

            2015.12.09 Wednesday

            いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(16)

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               今日も引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から紹介しつつ、考えてみた事をご紹介してみたい。今日はキリスト教徒とその屈折した内実や教会が他の組織と違っている意味などについての関係についてである。


              ファルウェルのグループへの
              潜入取材の本から

               ジーナ・ウェルチというリベラルな家庭で育ち、リベラルな教育を受けた女性のルポ・ライターの方がおられるようである。この方が、ジェリー・ファルウェル先輩(先輩と呼ぶのは気がひけるが、一応先輩)の組織に取材目的であることを偽って潜入して『信仰者たちの土地でーアウトサイダーによる、福音派教会のただ中への普通ではない旅』(In the Lamb of Believer's: An Outsiders extraordinary Journey into the Heart of the Evangelical Church)という本をお書きになられたことを受けて次のようにお書きである。

               このジェリー・ファルウェル先輩は、「核戦争を待望する人々」を扱ったシリーズ

              読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第1回)

              読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第2回)

              読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第3回)

              読んだので、書いておこうかと。読みながら、気分が悪くなったけど(第4回 最終回)

              でご登場いただいた方である。


              故ジェリー・ファルウェル先輩(一応)


              ジーナ・ウェルチ嬢(ツィッターから)

               日本ではあまり話題にならないが、ジェリー・ファルウレルJr(上のファルウレルさんの息子さん)はLiberty Universityの学長らしいが、サン・ベルナンディーノ(現地人は、こう発音する傾向がある)の2015年12月の銃撃戦後のCNNのインタビューに答えて、“I always thought that if more good people had concealed-carry permits, then we could end those Muslims before they walk in and kill,” とまで言い出されたらしい。ソースは、マクナイト先輩のブログ記事である。


              ジェリー・ファルウレル Jr. 先輩(一応)

               ところで、以下はヤンシー先輩がお書きになった部分である。
               『信仰者たちの土地で』の制作上における倫理観の問題はさておき、外部からていねいに分析されることの少ない独特なグループの内実を、ウェルチは魅力ある筆致で知らせてくれている。彼女の本を読みながら、まさにそのような環境、つまり著者とは正反対の環境の中で育った私自身の過去を思い出した。私は厳格な原理主義者しか知らなかったといえる。すぐに決まり文句と化すクリスチャン用語を学ばなければならなかったし、今度こそこの気持ちは本物かといぶかしがりながら何度も前に進み、霊的な祈りに聞こえるように発声練習をし、厳粛な洗礼や聖餐式などが行われているあいだ、自分に感情が伴っていないことに悩んだ。子供のころから教会で育った人々や、真実を見極めようと教会にやってくる人々も、そのような危険に直面する。つまり、現実を偽って伝える姿勢が身についてしまうかもしれないのだ。(隠された恵み pp.142-143)

               この部分を読みながら、まず思ったのは、「外部からていねいに分析されることの少ない独特なグループ」という表現である。確かに、このグループの人たち(ファルウェルのグループだけでなく)は外部に対して余りオープンでないことが多いし、自分たちの主張は伝えることには、以上にといってよいほど熱心である人々が多いが、取材しようとすると、批判されるのではないか、悪いことを言われるのではないか、という怖れを強く抱いておられる方も少なくないらしく(第14回の記事で述べたように世間と比べて、ことほど左様に違うわけではないのだが)、なかなか取材対象にしにくいらしい。とはいえ、もし、自分たちに自信があるのなら、別に恐れる必要はないし、批判されるのを畏れるのではなく、対話をすればいいのに、それができないのはどうしたわけだろうか、と思う。

               一番、あぁ、やはりヤンシー先輩もうそうだったのか、と思ったのは、「すぐに決まり文句と化すクリスチャン用語を学ばなければならなかったし、今度こそこの気持ちは本物かという歌詞がりながら何度も前に進み、霊的な祈りに聞こえるように発声練習をし、厳粛な洗礼や聖餐式などが行われているあいだ、自分に感情が伴っていないことに悩んだ」という部分である。

               いちど、知り合いの小学校低学年くらいのお子さんが、大の大人である伝道者に向かっていわゆるキリスト教用語である「お交わりをお願いします」というのを、他の大人が、「いやぁ、信仰深い」とほめあげるのを聞いたが、個人的には、吐き気を覚えたことを記憶している。どう考えても、気色悪いと思う。まともな日本語も使えない子供が、いわゆるキリスト教の業界用語を使えることをよしとするというのは、英才教育とかいう枠でとらえられるかもしれないが、何なんだろうと、その時も思ったし、今も思う。まぁ、知り合いの穏健なペンテコステ系の教会の牧師さんが教えてくださったことによれば、アメリカでは一時期、5歳児や6歳児の伝道者(要するに純粋な子供には聖霊が働くということが想定されているようである)がいたというのであるから、それから比べれば、まだましとは思う。

               ある面で、霊的なことが豊かにあるふりをすることは、食品偽装ならぬ、霊性偽装であると思う。それってどうなん、って思ってしまう。じゃぁ、親とか、教会の期待をひしひしと感じながらそういう偽装工作をしたことがないか、というと、ミーちゃんはーちゃんもしたことがある。それは素朴に認めたい。でも、そういう霊的ぶりっ子は、疲れるので、めんどくさがりのミーちゃんはーちゃんはあっさり割と早い段階でやめてしまった。だって、自分が自分を、他人に偽るのは、十戒から考えて、どうもモーセ爺さんに怒られそうかなぁ、と思うので。大体、神様はそんなことくらいお見通しであるから、やめたのである。



              ぶりっ子アナウンサーとラベルがはられた方


               ミーちゃんはーちゃんは割と単純なので、特段、霊的に聞こえる祈りをしようと思って、祈る時の特別の節回しを覚えたり、必要以上に聖句を引用し たり、祈りの中で福音を語ったり、ということはあまりないが、海外では、独特の節回し(祈りのことばの抑揚を変える)で祈る人もいたし、祈りの時間が長い人がいたり、国内では、10分以上祈る人の場合、ほぼ聖書メッセージの長さと内容に匹敵する祈りをお聞かせいただいたことはある。

               こういうことを努力して身につけなければならない、一種猫を被らなければいけないキリスト教とは何か、というのは少し思ってしまう。もちろん、形から入るキリスト教を否定するつもりはないし、それはそれで有効性があると思うが、その内実が理解されないまま、形だけ継承されていくこと(これは実は日本の得意技でさらに、外形にあうように内実の解釈を勝手に変えて継承することが多い)は、どうなんだろうか、と思う。

              オートバーグ先輩の
              「神が造られた「最高の私」になる」を読みながら

               上に書いたたようなことを思っていたところ、最近読み始めた、オートバーグさんという方の「神が造られた「最高の私」になる」という本(さちさん、地引網さん、ありがとう)を読んでいたところ、このような表現に目がとまった。
              誰もが、あなたに変わってほしいと思っています。上司は、あなたにもっと生産的になってほしいと思っています。(中略)クレジットカードの会社は、あなたがもっと借金を作ればいいと思っています。テレビ局は、あなたがもっとテレビを見ればいいと思っています。(中略)誰もがあなたから何かを求めています。これは、ほかの人から期待されている自分です。
               この自分になろうとして一生を送るなら、私は決して自由になれません。人々を愛するときには相手を失望させることも分かっていることです。イエスはすべてのひとを愛しましたが、それは、ある時点ですべての人を失望させたということです。ほかの人から期待される自分になろうとしながら生きるなら、それは上辺だけの人生です。あなたがどのように変わるべきなのかを知っているのは、神だけです。(「神が造られた「最高の私」になる」p.43-44)
               ここで、オートバーグ先輩は、他人の期待に沿って生きることは望ましいことなのか、ということを問うておられる。非常に重要な問いであると思う。日本社会のように同化圧力の強い社会であればある程、この問題は重要な問いを生みだす。これが当たり前、あのようにあるのが当たり前、それが人間の理想である。これが世間の常識である、とはよく言われる。しかし、その常識の体系はナザレのイエスの前に通用しなかったのではなかったであろうか。

               また、愛するということと他者を失望させることとの関係の部分を読みながら、ゴータマ
              ・ブッダは、「愛」は「苦」の原因の一つであると言っていたことを、仏教思想のゼロポイントで指摘されていることを思い出した。会う面、ブッダは正しかったのである。まさに、「人を愛する」のは「失望させる」という輪廻あるいは作用・反作用の世界に引きずり込まれることになる、として、愛することに関して仏陀はいった背景がこのあたりにあるような気がする。

               それはそうと、他人が求める自分の姿になることは、人間の自由を束縛するのだ、それは上辺だけ繕うことになるのではないか、と書いた後、さらにオトバーグ先輩は続ける。
               あなたでさえも、自分がどのように変えられるのか、自分で決めることはできません。なぜなら、あなたを作ったのはあなたではないからです。誰かを愛するとは、その人が最高のバージョンの自分になることを望み、そのために援助をすることです。あなたのためにそれを完璧に成し遂げることができるのは、この世界で唯一、神だけです。神にはそれ以外の狙いはありません。(「神が造られた「最高の私」になる」p.44)
               まぁ、ここで、「最高バージョンの自分」という語は、「もっとも望ましい神がつくられた本来の神のかたちとしてのその人の姿」であるということだとは思うが、その人らしい人間のかたちに対して、自分でも決められないし、さらに言えば神でもない人間、鼻で息するものでしかない他人さまがあれこれ言うことではない、とオートバーグ先輩はおっしゃっておられる。なるほど、と思う。さらに、
              (引用者注 ある調査によれば)人々の霊的成長を助けるときに一番困るのは、ほとんどの人が、霊的に成熟するとは聖書の中にある規則を守るために頑張って努力することだ、と思っていることだそうです。(中略)神が規則に従う人を求めておられると考えるなら、霊的成長とは、私の心の願いではなく、義務にすぎないものになってしまいます。
              (中略)
              規則を守り、願いを押し隠し、聖書を読み、感情をコントロールする、そういう独善的な人を生むだけで、それは「私」とは似ても似つかないのです。(「神が造られた「最高の私」になる」p.44-45)
              とお書きであるが、「規則を守り、願いを押し隠し、聖書を読み、感情をコントロールする、そういう独善的な人を生むだけ」とはまさに、山崎ランサム和彦さまが、最近のブログ記事 確かさという名の偶像(24) でお書きであったように、Human Beingである人間をHuman Doingにしてしまったと批判した、まさにボイド先輩のご批判のようである。さらにこのようにもお書きである。まさに、ボイド先輩が、聖書の契約概念は基本的には、人格的関係性であるけれども、それをある一部の人々は法的関係性として理解することで、非常に規則的な平板で人を裁き、おそれさせるものにしてしまったとご批判のこととパラレルだと思うし、ヤンシー先輩は、こういう独善的な人々が、これまで、このシリーズ フィリップ・ヤンシーに学んでみた でもご紹介したように、神の光輝く恵みを消失(Vanising)させてしまった、意図はしていなかったかもしれないが、隠してしまったとご批判であった。そのあたりのことに関して、オートバーグさんは、次のように書く。
              恵みを十分に味わっていないのです。自分の霊的健康度を評価するのに、人々は往々にして、外から見える行動や霊的な活動を基準にします。聖書を読むために、ちゃんと早起きしているか、ディボーションにどれだけ長く時間をとっているか、教会での礼拝にどれだけ出席しているかといったことを基準にするのです。しかし、霊的形成とは、そういうことではありません。(「神が造られた「最高の私」になる」p.46)
               こういう教会出席回数や、毎週来るとか、来ないとかいったことや、遅刻するとかしないとか、朝早く来るから熱心だ、とか、こういうことを基準にするのは、産業化時代、あるいは近代の非常に悪い癖であると思う。それが単に計量がやりやすいためである、ということを忘れているのではないか、と思うのだ。そもそも、何のための霊的形成か、ということを忘れて、やりやすい方法、考えやすい方法で測ることは、間違った問題を一生懸命解くというシステム思考法で言う第三種の過誤を起こしているにすぎないと思うのだが。

               しかし、ユースのキャンプとかに行くと、まずもってこういう話題が先に立ち、人間そのものよりも、人間が実施する行動という捕捉しやすい、指標化しやすいことだけで議論が進むという一部の動きはあるようである。残念なことではないか、論理が逆立ちしているのではないか、と思うのだ。そもそも、古代教会の人たちは、まともに聖書など読めないのである。能力もなければ、写本にも満足アクセスできなかった人々である。こんな、聖書を毎日読むなどという習慣は、そもそもやりたくてもできなかった人たちなのであり、その人たちが基本的に無理だったことをしないと言って批判する人々のうちに、「我々は初代教会に近い形で教会運営をしている」とのたまう人々がおられるが、それってダブルバインドメッセージなんじゃない?と思うのである。まぁ、よそ様のことなので、おすきにされたらよろしいとは思っているが。

              毎週集まれる場所がある、
              毎週いける場所があるという魅力

               ところで、普段から教会に行くことがミーちゃんはーちゃんの習い性になっている関係もあり、特段それがありがたいことだ、と思ったことはないのだが、そういう習慣がない人にとっては、毎週末定期的に行く場所があること、また、自分の日常生活と違う価値概念を持っている人が普段の価値概念と違う価値観を共有する人々のコミュニティの存在というのは実は非常にありがたい存在らしい。リベラルの権化のようなウェルチ女史という人がそれを非常に羨ましく感じた、ということは個人としては意外であった。
              ウェルチは結局教会を去るのだが、この話は教会の外の人とコミュニケーションをとる最良の方法を示している。彼女にとって、トマス・ロード・バプティスト教界の教会政治は人を寄せ付けないものであり、その神学は不可解そのものだった。こうした障壁があったにもかかわらず、このコミュニティーには牽引力があった。彼女はこう書いている。「何よりもクリスチャンをうらやましいと思ったのは、神の事ではなく、毎週集まれるコミュニティがあるということでした。教会は、価値観を共有する人々の基準となるところであり、いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所、倫理基準が思い起こされる場所で開いた。孤独から守られる場所があること、自分と同じような人々の存在を感じられるところがあることは本当にうらやましかった。
               教会は、とりわけスモールグループや宣教チームの仲間なので、最も重要なことについて臆せず話せる場所を提供している。職場やホームパーティーで同じことをするのは難しい。(隠された恵み pp.143-144)
               確かに、価値観の話は、居酒屋や職場、食事の場では、場の雰囲気を確実に悪化させる話題の一つであり、激論が起き、気まずい雰囲気を長期にわたって漂わせる爆弾のようなものである。アメリカでも、政治と宗教は話題として避けることになっていたように思う。まぁ、そういう場でも聞かれたら答えてはいたが。

               従来、日曜日に教会に行くことに慣れ過ぎていて、それがありがたいことだ、と思ったことはなかったが(まぁ、空気みたいなものになっているので)、知人から、毎週日曜日行くところがあっていいよなぁ、と言われたときに、そんなものかと思っていたが、どうもそういう環境にない人にとって実は、かなりうらやましいことらしい。この部分を読みながら、そんなものか、と思ってしまった。
               
              Rachael Held Evansの本から
               さらに、Rachael Held Evansは、彼女が教会に行かなくなり始めたころの経験についてSearching for Sundaysの11章 (同書 pp.80-81)では、次のような感じのことが書いてあった。要約しつつ紹介してみたい。
               教会を去ってからの最初の数カ月、主人と私は、異教徒が日曜日にしているといわれてきたことをまさにしたのである。つまり、朝遅くまで眠り、パジャマ姿のままMeet the Pressというテレビ番組を見、パンケーキを焼いては深入りのコーヒーを飲んだのである。その後New York Timesのクロスワードパズルを解いたのである。

               日曜日に教会に行くのをやめたクリスチャンたちが、安息日を体感することは知っていた。実際教会から抜けることは厄介な仕事から一抜けたになることや、インターネットを触らないようにネット環境から外れることと似た効果を持ったのである。一日は長く感じ、非常にカラフルに感じるのである。

               そして、最初の数週間は、趣味を始めてみたりするのだが、そのうち、気がついてみれば日曜日の朝に人気番組をネットの動画サイトで見るようになる。移行するのは案外早いのである。そして、日曜日には、知人に会わないように10時から11時の間にスーパーに行ったのであった。
               まぁ、そんな感じになってしまうのだろう。

               ところで、ヤンシー先輩は、教会が、「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」であると語っておられるが、個人的な経験から言えば、としか言えないが、日本の教会の多くでは、とりわけ、親しいコミュニティになればなるほど「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」という経験をお持ちのことは案外少ないように思う。不用意に自分の直面している問題について率直に語ったら、『食らえ、御言葉攻撃』だけならまだしも、相談した本人自身に関するあらぬうわさが『祈りの課題』ということで流されてしまい、あとで、火消しするのが大変だからである。『お祈りのうちに覚えてください』とでも、教会で言ったことについて、尾ひれがついて、しばらくして、ひょんな人から、とんでもないことになっていることにある、という自分自身の状況についての話を数ヵ月後に聞くことになり、その誤解を解くのが大変なことも少なくなかった。万人祭司だ、とご主張なら、もう少し、祭司としての心得(他人の秘密やプライバシーに関しては守るという基本原則)が守られればよいのだが、とは思うのである。

               かえって海外のスモールグループでほうが、「いま直面している問題について率直に語ることのできる安心な場所」ではあったように思う。情報が漏れたことにも気づきにくいという側面もあろうが、ミーちゃんはーちゃん自身が言っていたスモールグループでは、情報漏れはほとんどなかった。たまたま、いいスモールグループだけだったから、というのはあるかもしれないが。

               ある面、スモールグループで語った内容がフローで流れている問題として理解してもらったという部分もあるし、せいぜい滞在期間が1年と限られたこともあったのだろうが、問題を抱えていることで、判断されることはなかったように思う。別のところで何か言われて驚くほど長期にいなかったというのもあるが。まぁ、基本アメリカ人は平均7年で住宅をころころ動く(そして、自分で手を入れて、不動産価値を上げて売りぬけをし、利益を得るような、地上げ行為を居住者自らが行い、小金を稼ぐのは普通のことであることが多い)ので、漏れたところで気にならない、というのもあるかもしれない。ところが、日本で3年以上教会に通い続けると、ほぼ数十年、その教会に通う人が多いため(まぁ、最近では会社の都合による転居も昔に比べて頻繁にはなった)、多少は楽になっていると思う。

               まぁ、教会でも、聖書理解の共通理解がないと、かなり込み入った聖書理解の点で違いが出てくることになるし、それが様々な教会運営の場などで出てくることにもなりかねず、居心地の悪い思いをする場面も出てくることになりかねない。同じ神を礼拝しながらではあるが。

               そのため、空間的に離れていることや主に利用する言語の違い、民族的な違いもあったからではあるが、西方教会と東方教会は分裂し、西方教会の中でもカトリック教会とプロテスタント派は分裂し、プロテスタント派はその中でさらに再分裂していく。聖書理解が違うと、同じキリスト教会に分類されるとはいえ、ここまで違うか、というくらい、教会グループ間で違いがあまりに大きいと思う。それは、教会を簿っ介しておられる牧師さんの聖書理解の個人差というよりは、どの時期にそのキリスト教グループがもといた教会群から分離したのか、の影響が強いように思う。そして、それが歴史的に再生産されて固定化されているのではないか、と思うのだ。


               まだまだ続く



               
              評価:
              フィリップ・ヤンシー
              いのちのことば社
              ¥ 2,592
              (2015-11-05)
              コメント:お勧めいたしております。

              評価:
              ジョン・オートバーグ
              地引網出版
              ¥ 2,592
              (2015-11-10)
              コメント:非常によろしい、と思う。お勧めする。

              評価:
              Rachel Held Evans
              Thomas Nelson Inc
              ¥ 1,564
              (2015-04-14)
              コメント:英語も読みにくくはない。中身が読ませる。内容が面白い。同性婚反対問題で教会と対立し、教会を離れることになった熱心な元福音派クリスチャンの思いが素直に表れている。

              2015.12.12 Saturday

              いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(17)

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                 本日もまた、フィリップ・ヤンシー先輩のお書きになられた隠された恵みからご紹介してみたい。

                賞味期限付きの『繁栄』

                 個人的には、『繁栄の神学』とよばれるものが大嫌いである。キリストを信じればすべてうまくいく、キリストを信じたら、祝福がある、キリストを信じさえすれば成功者になれる。そんなバカなことはあり得ないと思っている。キリスト教信仰は、困ったときには、○○書の●章◎節を読めばいい、とか、祈ればきっとかなえてくださる、というような単純化されたハウツーではないと思うのだ。

                 もしそんなことで解決がつくなら、そもそもヨブ記はいらないし、ヨナ書もいらない。正しい人であっても、苦しむし、その中で神と向かい合っていく、あるいは格闘するプロセスだし、正しくないものでも、不十分なものでも、神に怒りを発するものでも、神がお持ちいになることがある、とそれらの個所は約束しているのではないだろうか。
                 そのあたりに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。

                 まるで優れた信仰こそが人を特権階級に押し上げるとでもいうように、社会的地位のある人が、より高い生活レベルや富や健康について大げさな約束をしている教会を訪れたことがある。そのメッセージが奏功するのは、現実に直面するまでのほんの一時だろう。 (「隠された恵み」 p.144)
                 個人的には、このようなことを主張する教会があるやにお聞きするが、このような教会は避けて通っている(この辺に関するセンサーというか、感覚が異常に発達していて、避けているかもしれない)けれども、そういうことをご主張になっておられる教会が少なからずあることは明らかである。

                 ナウエンは、イエスの人生は下っていく生活であったということを書いている。もともと、神であるものが人間の中にくだり(これは、本来のあるべき神の姿としての権能を放棄し、くらいの意味だと理解している)、さらに、人からうとまれ、忌むべきものと呼ばれ、偽預言者扱いされ、罪びと呼ばわりされ、大工の子呼ばわりされ、罪びとの仲間といわれ、大酒のみの食いしん坊と悪口をたたかれ、挙句の果てに国事犯扱いされ、十字架上で一種の残酷な見世物として刑死するに至る。そして、よみ、あるいは地の深みまで、死後においても下られたようである。

                 十字架上で突然復活し、怪我も傷もなく、鞭打たれた跡もなく、茨の冠の後さえ消えていたわけではなく、トマス君に、「ほれ、手のここ突っ込んでいいよ」とお見せになるほどの傷を負って、復活されたようなのだ。詳しいことはあんまり書いてないのでよくわかんないけど、傷を見たということは確からしい。その意味で、イエスさまはスーパーマンでもなく、ファンタスティック・フォーのようでもなく、クリックフィックスしか考えないスーパーグローバーのようでもなかったのである。


                Sesami Streetの登場人物 Super Grover


                Super GroverとComputer

                 ミーちゃんはーちゃんは、計算機が不調の時や、書いたプログラム・ファイルが全部消えちゃったというときには、このGrover君のように計算機の周りで叫び声をあげながら走り回ったりすることはある。それで、作成したプログラムが回復したことはないが。

                 あるいは、計算機が動かない時や、熱暴走するときには、ワバワバと繰り返しながら計算機の周りをまわって遊んでみることがある。むろん、それで勝手に正常に戻ったりはしない。

                 聖書の言葉も似たようなところがあると思う。前にも書いたかとは思うが、聖書は、神との関係を人間が深めていくための文章体系ではあっても、計算機を含む機械と人間の関係を深めていくための書物でない。計算機が故障したときに有効な聖書個所があったら、教えてもらいたい。自分の計算機用に張っておきたいので。聖書の言葉にも用い方があると思うし、いくら聖書の言葉が正しいからといっても、間違った問題(計算機の熱暴走)に対して聖書の言葉「静まれ」と日本語で言おうとも、ギリシア語で言おうとも、ヘブライ語かアラム語で言おうとも無効であると思うのだ。言ったところで、作動しないPCの前でワバワバと踊り狂うグローバー君と大して変わらない。

                 ヤンシー先輩もお書きのように、虚勢を張った信仰をもてばうまくいく的な「そのメッセージが奏功するのは、現実に直面するまでのほんの一時だろう」というのはその通りだろうと思う。現実が立ちはだかると、いろいろ理由をつけて、たとえば、「祈りが足らない」とか「聖書の読み方が足らない」とか、「あなたに敬虔さが足らない」とか、(時には「献金が足らない」とか)いろいろある種類の教会ではご教示賜ってもらえるようであるが、聖書にはそれらに対して、「異邦人の祈りのように言葉数が多ければ聞かれると思って祈るな」とイエス語自身が言っておられるように思うのだが。

                旅人の集まりの教会

                 さて、前回、前々回出たウェルチ嬢の話が出てくる。教会とは何かということに関してウェルチ嬢の言葉を利用しながら、ヤンシー先輩は次のようにおっしゃっている。本来『正しい人々の集まる会員制クラブというより、自分たちと変わらない葛藤を抱えている、普通の信仰の”旅人”たち』なのではないか、というご指摘である。
                 ウェルチは、何が人のこころに届くかを明らかにしている。教会に集い続けクリスチャンのことがわかってくると、正しい人々の集まる会員制クラブというより、自分たちと変わらない葛藤を抱えている、普通の信仰の”旅人”たちに見えてきたのだ。”旅人”はプロのガイドではなく、魂の旅の途上にいる仲間である。(「隠された恵み」 p.144)
                 ところで、「魂の旅の途上にいる仲間」という表現で、以下で紹介する本が浮かんだのだ。


                『旅の仲間』というとこれが真っ先に浮かんだ

                 個人的には最初高校生のころ読んだが、非常に印象深い作品であった。指輪を見つけに行く旅をするのではなく、持っているもの、魅力的であるが、また力があるものであるが、それを捨てに、廃棄するために、非常に多くの困難にぶつかりながらそれをわざわざ廃棄するという現代社会の価値観とは逆方向に向かう物語であると思う。まぁ、最初読んだころは、ルーン文字や妖精などの西洋文化の基礎体力がなかったためによく理解できなかったが、今では、トールキンがなぜこの大作、サーガを書こうとしたのか、ということがわかる気がする。

                 生きていくということは、まさに、指輪物語の世界そのものではないが、この世界で経験することと割とよく似ていることが、40歳を過ぎたころから突然わかるようになったのだ。


                まぁ、こういういろんな方々と旅をするのは、結構つらいかもしれない

                 「”旅人”はプロのガイドではなく、魂の旅の途上にいる仲間である」というヤンシー先輩のご指摘は、非常に大事だと思っている。結局、迷っている人たちが迷っている人たちと一緒に戸惑いながら歩き回っているというのが、教会の世界だ、とヤンシー先輩はお示しなんだと思う。

                 迷っている人々が迷っている人々とともに居ること自体は、ある面、ヨブ記のテーマであると思うし、旧約聖書そのもののテーマであると思う。しかし、近代を経た現代は「超人」、人間でないものを求めているように思うのだ。上で紹介した、スーパーグロバーの様なへなちょこな超人ではなく、何でもでき、何でも持っていて、何でも理解できる著人を求めているのだろうと思う。それを人に求めているように思う。それが、近代人を苦しめ、現代人も苦しめているのだろうと思う。

                 近代にも、こういう強いリーダー像が求められた時代があった。お近くでは、将軍様がそうだったとかいう噂はあるし、文革時代の毛主席は北京放送を拝聴していた限りでは、こういうお方だあると放送されていた時期がある。ライブで聴いていた。もうちょっと前にさかのぼれば、ヒットラー総統は、ある時期のドイツ人社会においてそれに近い扱いを受けていたようだ。こういうのを上げるときりがないので、この辺でやめておくが、まぁ、所詮、そういう完璧さを人に求めるのは土台無理だと思うし、少なくともミーちゃんはーちゃんには無理ゲーである。

                 牧会者についても似たようなものであると思う。信徒が期待するからとか、そういう風なものとして教会が歴史的にとらえてきたとかいう伝統とか、まぁ、いろいろおありになるのだろうけれども、ミーちゃんはーちゃんが仲良くしてもらっている牧会者の方々は、結構お悩みを抱えておられると御見受けしている。でも、個人的には、そういうところで親近感を覚えたりするし、そういう姿をちらっと見せてくださるのは、個人的には有難いなぁ、と思うのではある。

                神のもとに帰る登場人物として

                 先程、指輪物語を紹介し、その深みとか、意味とか、持っている力を手放す物語であることの意味を考えていることを書いたが、ヤンシー先輩は、人間の存在について、このように書いておられる。
                 ウェルチの心に残った説教の中心にあったものは、明らかに彼女が神の「メビウスの輪の愛…あなたのすべてが暴かれてもひるまない」と呼ぶものだった。疲れ切った世界は、信仰の”旅人”に共鳴する。私たちはみな人間で、みな痛んでるのだから。病気になり、愛する人々を失い、むなしい仕事につき、誘惑と戦い、子供を怒鳴り、大切な人を傷つけ、間違った選択をする。イエスに従うものは、自分たちが道徳的に優れているなどと主張しない。そうではなく、むしろどうしようもなくなり神のところに行き、絶えず助けを叫び求め続けなければならない存在である。(同書 pp.144-145)
                 メビウスの輪とは、一枚の細長い紙を1回ひねって、その両端の端を重なるようにテープでとめると完成する構造体である。「おもて」だと思って進んでいると、いつの間にか「裏」になり、裏だと思っているといつの間にか表になっているという位相幾何学の面白い構造を持つ構造体である。

                 まぁ、メビウスの輪の愛とはよく言ったものである。人間は表や裏だと勝手に決めているが、実際には表も裏もなく、全体がそのものであることをうまく示していると思う。


                メビウスの輪

                 ヤンシー先輩がお書きの、この部分を読んだとき、あぁ、まるで旧約聖書の世界だ、と思ったのだ。旧約時代の人物にもろくでもない人が多い。次回紹介するが、ヤンシー先輩もそのことに触れておられるが、「病気になり、愛する人々を失い、むなしい仕事につき、誘惑と戦い、子供を怒鳴り、大切な人を傷つけ、間違った選択をする」人々が、旧約聖書の登場人物像のある側面であるのだ。旧約聖書は、教会で取り上げられることはあまりないらしい。まぁ、解釈が多様で、解釈しにくいから、という面もあるのかもしれないが、個人的にはそこに含まれているメッセージは非常に重要だと思うのである。

                 知り合いの英国在住者が教えてくれたことであるが、ある教会で、たまたまイサク(Isac アイザック 英語圏では割とよくある名前)がいけにえとして神の山でささげられる場面の話をしていたときに、ある英国人が入ってきて、「今、話がされているアイザックって、この辺にいるどのアイザック?」とその教会の教会員に聞いたという話があるが、英国でも旧約聖書の知識というのは、かなり普通の人から遠い話になっている模様である。

                 ある説教者の方が、日本のキリスト教は新約聖書詩篇つきの信仰だ、とご自身の過去と現在を揶揄しながらお話ししてくださったことがあるが、文字通り、新約聖書と詩篇だけを読むという人はまぁ、あまりいないだろうが、旧約聖書を読むのは、実は案外骨が折れるのである。無味乾燥に思える出エジプト記の一部、申命記、民数記、奇妙なことがいっぱい書いてあるレビ記、残虐行為にあふれているに見える士師記、結構現代の感覚からは触れにくい部分が多いことは確かである。それで説教してくれ、と言われたら、個人的にひるんでしまいそうになる。時に残酷、時に愚かしさ、時に正義、時に混乱を感じる単純でない世界が旧約聖書の世界だと思う。それを理解しやすい部分だけ読み、それを聖書理解とするのは、どういうことだろうか、と思う。

                 ここで、ヤンシー先輩がお書きであること、即ち「むしろどうしようもなくなり神のところに行き、絶えず助けを叫び求め続けなければならない存在である」というのは、まさに旧約聖書の物語であり、その旧約の民に、「イスラエルよ、われに戻れ、我に来たれ」、といい給い続けたのが、父なる神であったように思う。それは今も変わっていないと思うし、ふがいないキリスト者に「われと共に生きよ」「われともに住まわん」と聖霊を改めて神の民に与え、吹き込まれ給うたのが、神ではなかったかと思うのだ。

                 この間、ある勉強会で、「からだとたましい」ということに関してディスカッションする機会があり、旧約聖書における「からだ」あるいは「たましい」をどう考えるかというが話題になった。נָ֫פֶשׁ (ネフェシュ)という語の用法から我々の「たましい」理解に潜む問題を取り上げてくださったK先輩がいて非常に面白かったのだが、将に、我々というか、神のかたちとしてのわれわれであるנָ֫פֶשׁ (ネフェシュ)が神を求めて生きることや、あるいは”霊の体”の理解と、この נָ֫פֶשׁ は非常に深くかかわっていると思ったのであった。その意味で、我々のLife after life after deathをどう考えるか問題に、この語が深くかかわっていることをおもった。また、谷川のシカが求めるように求めているのは、まさに、神の臨在であると思い至った。非常に良い半日を過ごさせてもらいました。K先輩ありがとうございました。

                 なお、この問題は、オートバーグの最近の翻訳書 「神が造られた「最高の私」になる 」の主要テーマである。この本もいいので、いずれ紹介したい。

                まだまだ、続く




                評価:
                フィリップ・ヤンシー
                いのちのことば社
                ¥ 2,592
                (2015-11-05)
                コメント:お勧めしています。

                評価:
                J.R.R. トールキン
                評論社
                ¥ 756
                (1992-07)
                コメント:非常に印象深い本であった。

                評価:
                ジョン・オートバーグ
                地引網出版
                ¥ 2,592
                (2015-11-10)
                コメント:人間になるということはどういうことかを聖書から考えた本

                2015.12.14 Monday

                いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(18)

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                  今日もフィリップ・ヤンシー先輩の御本から紹介していきたい。

                  キリスト者の地において歩む意味
                   まず、キリスト者の存在とこの地における生き方の問題について、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。ところで、これまでこの連載でご紹介した内容をおさらいいただけるとわかることであるが、ヤンシー先輩の教会のモデルは、立派な人や、倫理的で、社会から評価される人々の集まりというよりも、迷っている旅人の集まりという理解であることは示した通りである。その迷っている人々である教会の人々という認識を受けたうえで、迷うことの意味や意義、迷いの中にあることがなぜ重要なのか、を触れてきた。

                   そのうえで、この地に歩む意味に関しては、次のようにお書きである。
                  イエスが昇天しなかったら、スーパー教皇の立場となって地上に残っていたら、本書の様な本が書かれる必要はなかっただろう。恵は消え去ることなく、あふれ出ているだろう。十字軍や異端審問やユダヤ人大虐殺のような悲劇について、クリスチャンが悔い改める必要もないだろう。そのような過ちをイエスは未然に防ぐことができたはずだからだ。奴隷制、人生の終末期の問題、同性愛の権利といった問題が起きると、教会は、その問題をすべて解決してくれるイエスに直接訴えることができるだろう。しかし、私たちは得てして、あの弟子たちと同じように、ぽかんと口を開けたまま空を見つめたり、混乱してまごついたりしている。
                   なぜイエスはその神聖な使命を、私たちの様な人間にゆだねられたのか。私が理解した聖書の筋書きを見ていくと、その答えはキリスト教の教義最大の神秘の一つに行き着く。(隠された恵み p.152)
                   
                  その神聖な使命を、私たちの様な人間にゆだねられたのか」というヤンシー先輩の記述を読みながら、すべての最終問題の解決を与える存在としてのイエスという希望を「今、ここで、この地上で、限界のある存在としての人間として」どう考えるのか、ということを問われた気がする。もちろん神と共に生き、神とともにこの地をケアするという神聖な使命の実現は、終末において実現することは確信してはいる。しかし、本来の週末以前に、この地に歩む民、ふがいない間違いだらけの人間にもゆだねられた、神の国の実現の一部としての参与というか関与することに招いておられることをどう考えるのか問題について考えている。なぜならば、もし、週末で実現することのみが問題であり、それが最重要課題なら、毎日レフトビハインド現象が発生したほうがいいはずであるが、それが起こらないのは、なぜか、という問題が出てくるからである。


                  福音派の一部で絶賛されているレフト・ビハインド
                  (ミーちゃんはーちゃんとは合わなかった映画です。)

                   なぜ、我々がこの地に信仰を持ってすぐおさらば、バイバイできないのか、といえば、もともと、人間がこの地で行き、この地をケアするものとして生きているから、そのための神のかたちであるから、というのはあると思う。

                   現実の問題として、この地をケアするものという役割というか責任は、アダムだけに与えられたのではなく、アダムの子孫である我々にも変わらない約束として与えられているように思うのだ。つまり、われわれは地に属するものとして、不十分ながらも関与することを許されている、解決をイエス様任せにしたり、現状を放置しながら先送りにするのではなく、聖書と聖霊を手がかりにしながら、当事者性を持って考えることを許されていると思うのだ。

                   確かに、過去から現在に至るまでのキリスト教と世界をめぐる論点、その具体例としては、奴隷制(現代には形を変えた貧困という結果、選択肢が限られた人々がいるという意味での奴隷制が存在すると思っている)、同性愛、終末医療の問題、どれ一つとっても解決が付けにくい問題であるし、簡単に解決のつかない問題ではあるが、簡単に解決がつかないし、解決をしたような気になってはならない問題ではあると思う。こういう難しく一位に解が出ない問題に関しては、あまりに安易に解決付けた気になっていたのではないかと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんを含め、キリスト者の多くは。




                   この後ヤンシー先輩は、三位一体、神の位格の話をご説明になっており、ヤンシー先輩のご主張では、聖書の世界は、非常におおざっぱにいうと、3幕劇となっていて、第1幕の天使創造以降イエスが来られるまでは父なる神が主役としてスポットライトが当たりし、第2幕では、父なる神からイエスにスポットライトが多くの場合映り、第3幕がペンテコステから始まるという劇構成になっているとしている。

                   ただし、完全に幕まで切れているのではなくて、個人的にはその幕はスムーズだと思うけれども。N.T.ライト先輩は『クリスチャンであるとは』には、もう少し細かく、この劇を分けて1幕目 創造、2幕目 堕落、3幕目 イスラエル、4幕目 イエス・キリスト、5幕目 初代教会以降 としてお書きであった。

                  キリスト者の”役割”とは
                   キリスト者の任務に関して、ヤンシー先輩は次のような一節をお書きである。あまりに印象的であり、そして重要な一節であると思う。
                   もし、キリスト者が毎日レフト・ビハインドされていくのなら、キリスト者自身は、迷いながら、疑いながら、愚かしいながらも自身のふがいなさを嘆きつつ生きる必要はないはずである。しかし、そうはなっていないことを同館がルカ、そこに何か神の計画があるのだろうか、ということに関して、次のようにお書きである。
                   道を間違えてばかりいる私たち旅人は、イエス昇天後の「残されたイエス」、つまり神の御霊の継承者なのだ。パウロはその考えをさらに深め、私たちをキリストの体、そして神の神殿と呼んだ。それは、この地球上に、実際に神がおられることを意味している。キリストはなぜ来られたのか?それはいつの非か、ヨーロッパ、中国、オーストラリア、米国、南米にまで及ぶ教会のない広告を始動させるためだ。そして、それを実現させるのは私たちなのだ。この時代、神は世界にどこにおられるのか。どこにでもおられるのだ。最も大胆で予想外の展開をする第3幕で、神が解き放たれたのだ。私たちのかで、そして私たちを通して。
                   (中略)ドラモンドはさらに、イエスの使命を担う普通の人々を通して聖霊は働くという。要するに私たちの任務とは、別の生き方があることをこの世界に示すことなのだ。(pp.155-156)
                   ミーちゃんはーちゃんは、この部分を読むなかで、神は意図を持って、毎日、毎時間、毎分、毎秒、信仰者を信じたその時にレフトビハインド状態にするのではなく、意図をもって、この地の管理者、神の似姿としてのわれわれをこの地に置く、ということをお考えであるのではないか、という思いに至ったのである。

                   ここでヤンシー先輩が紹介して居られるドラモント先輩の言葉ではないが、神がいるということを示すものとして、生きる。その神がいるということを信じるコミュニティ(個人的には建物としての教会というよりは、その中身としての人々がその役割を担うと思っている)が存在することを通して示す役割があると思うのだ。つまり、不完全であっても、欠点だらけであろうとも、神の息を吹き込まれたものが存在するという実在例を通して物語る、そこに意味があると思うのだ。


                  ヘンリー・ドラモンド先輩

                   今月初めに、お百姓見習いのトンちゃん様の応答にお応えして という記事を書いた。その中で、「大バカ者」と自分自身を自称した(そのつもりであるし、事実そうである)が、キリスト者とは、世間という世界に向って、突進していくドン・キホーテ(ドン・キホーテ・デ・ラ・ラマンチャ)のようなものであると思うのだ。矛盾を抱えながらも、神の物語に生き、他者から笑われようが、自己満足に見えようが、神と共に生きる神の民としての自覚を持って生きることではないか、と思っている。


                  なお、こちらは、日本にあり、ときどきミーちゃんはーちゃんもお世話になっているドンキホーテである。

                   神がおられることを示すという役割は、非常に大事だと思っている。現在日本語訳プロジェクトが進行中のN.T.ライトの神学(一般書だと思うが)をしている本の1冊としてスコット・マクナイト先輩がNT Wright vs. Apocalyptic Theology: How Adams Goes Wrong about Wright の中であげられている3冊の本として Surprised by Hope Simply Christian  あるいはAfter You Believe? を例としてあげておられるが、その中でもあげられている本のSurprised by Hope の中ではTheocracyという言葉で示しておられた。このTheocracyという語は、通常の場合、教会というか教会の背景にする人々が政治を牛耳るというイメージがつきまとまっている言葉であるが、本来、キリスト教界は、神が中心であるという意味で、教会を通して神の国の世界、神の支配の世界、即ちTheocracyで存在することを示すべきではないか、というご主張であったと思う。教会やキリスト者が、国家の政治の中で大きな顔をする、ということではなくて。


                   なお、個人的に政治の素人であるキリスト者が政治家になったところで、ろくなことが起きないことは、歴史が示していると思う。まぁ、政治にかかわるということは、かなりの力量、アルテ、思考と現実感覚と、経験が求められると思うのだ。
                   

                  神が用いた変な人の実例
                   旧約聖書の人物、士師記に出てくる人物などに関して、教会で語られる時、そのポジティブにとらえることができる側面だけが取り上げられ、その人物のまずい側面は、さすがに意図的にではないだろうが、時間の関係で触れられないことが多い。その結果、これらの人物のスーパーマン的活躍をした側面だけが語られ、その人のネガティブな側面が描かれないことがあるが、新約聖書の人物でも、結構奇人、変人が多いのである。そして、それさえ用いているのである。そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
                  しかし、自意識過剰で、洗練さにかけた型破りなそういう人々の中に、神の仕事を大きく成し遂げた人々がいたことも認めなければならない。救援団体を作り、飢えている人々に食事を与え、良き知らせを明らかにする。この姿は、聖書が明瞭に示しているものをそっくりなぞっている。すぐに道を踏み外すヤコブ、道徳的に欠陥のあるダビデ、陰気なエレミヤ、かつて暴力的だったタルソのサウロ、大失敗を犯したペテロを神は用いられたのだ。(同書 p.158)
                   まともな人であることや常識的な人が神に用いられるというような条件は、ヤンシー先生ご指摘のように、全くない。まぁ、預言者や預言者的役割を担う人の人生には、基本的にろくなことがまっていないので、常識人や、世間からまともだと思われる人ではないことが多い模様である。マザー・テレサは、常識人ではなく、周辺の皆様にとって困った存在であったエピソードには事欠かない。現教皇のフランシス猊下は、周辺の反対を押し切って、結構いろんな想定外のことをなされておられるので、教皇庁の常識人の人は困っておられるのではないか、と思ってしまう。まぁ、半端ない現教皇のフランシス猊下ではあるが、個人的には、こういうのは非常にいいなぁ、と思う。まぁにイエスがしたことは、こういう人を驚かせるようなこと、将に福音とは、常識をぶち破って見せたところにあったのではないか、と思うのだ。


                  ローマの少年院の収容者の足を洗いキスするローマ教皇フランシス様


                  教皇フランシスが受刑者の足を洗ったことを伝えるCNN報道


                   日本でいえば、こういう常識人の枠組みではとらえきれない人物の一人で、大正期から昭和初期には、ガンジー・シュバイツァー博士と並ぶ世界の3大偉人に数えられ、一時はノーベル賞候補にも挙げられたた賀川豊彦先輩がおられる。

                   いろいろ楽しいことをシェアしてくれる友人の一人が、「賀川豊彦と神の国」研究に現在取り組んでいるのだが、まぁ、ときどき、お手伝いしているJAさんの前身の組織だの、日常的にお世話になっているコープさんだの何かとかかわりが深い人物ではある。

                   まぁ、賀川先輩もある面、「洗練さにかけた型破りなそういう人々」のおひとりではあったとは思う。だからこそ、まぁ、当時の閉塞感をぶち破ったり、ぶち破れたりもしたのであろうが。


                  賀川豊彦先輩の活動とお写真(雲柱社さんのサイトから転載)

                  まだまだ続く




                   
                   
                  評価:
                  フィリップ・ヤンシー
                  いのちのことば社
                  ¥ 2,592
                  (2015-11-05)
                  コメント:非常に良いと思います。

                  評価:
                  N・T・ライト
                  あめんどう
                  ¥ 2,700
                  (2015-05-30)
                  コメント:お勧めしています。

                  評価:
                  上野 千鶴子,柄谷 行人,山下 範久,鈴木 一誌
                  太田出版
                  ---
                  (2009-04-02)
                  コメント:大変良かったと思います。

                  2015.12.16 Wednesday

                  いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(19)

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                     今日も、ヤンシー先輩のお書きになられた『隠された恵み』からご紹介したい。今日は、いかに恵みを注ぐことができるか、という教会編である。


                    教会とは何か

                     日本語の教会という語(英語でもたぶんそう)には、建物としての教会という側面と、人間の集まりという語としての教会という語があると思う。個人的には、教会というのは、そこを一時的に通過する人としての一時的滞在者としての人々を含む教会というものがあると、確信している。しかし、同じ教会に長くいると、○○教会というと、いわゆる教会の固定メンバーというか、長く教会にいる人々をさす、という印象がある。そこには、一時的な滞在者や、通過者は含まれにくいように思うのだ。そのあたりのことについて、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
                     私たちは信仰の“旅人”としての生活を、一人ではなくコミュニティーの中でほかの人々とともに送る。そして新約聖書で描かれているのは、周りの人々をはじくのではなく引きつけるような新しいコミュニティー、すなわち神の国だ。現代における、健全な信仰者のコミュニティーとはどのようなものだろう。(『隠された恵み』p.161)
                     個人的には、個々の教会は神の国での完成(Teleiosとしての終末)に向かう乗合船のようなものだと思っている。あまり固定的なものを想定しないほうがいいのではないか、と思っている。ある人々は、ある時期にある地域に存在する特定の教会という乗合船に乗っている。目的地ははっきりしているが、時代や地域の影響を受け、あるいは乗組員やそのそばにいる人々(ある人はおぼれかけていたり、小舟に乗っていたり、あるいは、エンジンが壊れてしまって半ば漂流していたりする人々が一時的に乗ってこられたり、引っ越しや転勤など諸般の事情で別の船に乗る必要が出たり、あるいは自分ののっている船で船酔いして別の船に乗り替える人がいたりと様々な乗組員の人々)によって影響を受けながらも、基本的には神の国の完成に向かって進んでいるのだと思う。その意味で、乗組員であり、”旅人”だと思っている。

                    ヤンシー先輩の教会巡礼

                     ところで、ある年、ヤンシー先輩は、お住まいの地域の様々な教会(24教会あったらしい)を回って見られたらしい。その時の感覚をこのように書いておられる。
                    きまりや期待されていることも何もわからないまま、よく知らない文化の中に足を踏み入れたジーナ・ウェルチが書いた戸惑いを、私も毎日曜日味わった。ときどきこう自問した。この教会に通いたい人などがいるのだろうか。(同書 p.161)
                     実はいろいろあって、これに近いことを日本でやってみているし、海外でもやったことがあるので理解できるのだが、やってみてわかったことは、実は、非常に貴重な体験であると思う。ただ、やってみてわかったのは、いきなり、何の準備もなく、外国に行って生活する場所を定めるようなものなのだ。もう少しカッコよく言うと、アブラハムの様な寄留者としての生活をしているようなものだ。アブラハムは、もともと遊牧の民として生活していたのであり、定住していたわけではないし、イスラエルも、基本的には、寄留者であったのが、のちに定住していくことになり、その結果、神に養われ、神に守られていることを忘れ、王でもある神に、神に王がほしいと言い出したのである。ただ、放浪することであるときにのみ見えてくるものはある。

                     教会における居留者であるというのは、ある面、個別の教会という殻を自ら脱ぎ去り、剥き身の信仰者としての信仰が問われる、つまり、使徒信条でいう「われ公同の教会を信ず」ということが問われる経験であった。「公同の教会を信ず」あたりに関しては、山崎ランサムさまの小文字のキリスト教 をご参照いただけるとよろしいか、と思う。

                     いろいろなご事情から同じようなことをしておられた方も「同じキリスト教といいながら、どうして礼拝の様式がここまで違うのか、と戸惑うことが多い」と素朴にお話しされていたことがあった。教会ごとに、キリスト教会のサブグループごとに礼拝の様式や個人的には、教会史を見ればかなり参考になることもわかるかなぁ、と思っている。つまり、ある教会が「どのような教派から、どういう経緯でどの社会でいつごろ分離したか」はその教会の様式論を考える上でかなり参考になる。このあたりに関しては、 伝統とパターンと近代と聖書理解 でもふれた。

                    生き生きした教会、陰鬱な教会

                     いろいろな教会を巡っていると、実に説教者の型の説教は実に多様ではある。聖書だけを読む教会、信徒の関与が多い教会、2時間弱ずっと立ちっぱなしの教会、フレンドリーな教会、高齢者名多い教会、静かな教会、若者しかいない、ノリノリな教会、毎週意図的に雰囲気を変えている教会、一見フレンドリーなんだけど、なんとなくフォーマットでやっている感が漂う教会、実に多様な教会がある。
                    “善良で感じがよく面白みに欠ける男が、善良な人々の前に立ってもっと面白みに欠ける人間になるように促している”場所として教会ががかれているのを読んだことがある。うまく説明できないのだが、私は5分いると、その会衆が”生き生き”しているかどうかを、直感で感じ取ることができる。(中略)生気という要素は、神学とは無関係だった。保守的な部類に入る二つの教会では、説教中、信徒たちは陰気に背を丸めて座り、最後の祝祷がゴールであるかのように形だけの礼拝をしていた。(同書 p.162)
                     確かに、ヤンシー先輩が言うように「生気という要素は、神学とは無関係だった」というのは、実感として思う。ご老人が多い教会で、さすがに生気にあふれた、という感じのない教会もあるし、保守的な神学の教会でも生気にあふれた教会もあった。その人らしさが出ている自然な教会はいいなぁ、とは思った。そう思っていると、ある教会の教会案内に、「そのまんまでお出かけください」ということを書いておられる教会があって、「あぁ、これがいいよなぁ」と思ったのである。”えさのいらない猫”を被る必要もない教会、って本当にありがたい存在であると思う。ある面、まったく知り合いのいない教会は、初めての教会では一種緊張することはあるが、猫を被る必要がないのは、楽でいいなぁ、と思う。

                     ところで、ヤンシー先輩は「最後の祝祷がゴールであるかのように形だけの礼拝」と書いておられたが、中道先生の御講演 ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 でも紹介されていたが、関西では愛餐会の「おうどん」、八木谷さんがお好きらしい関東で愛餐会の定番「カレー」がゴールのような教会員の方もひょっとしたらあるのではないか、と思うのだ。そういう方は少ないだろうけれども。


                    関西の愛餐会の定番 炊き込みご飯とうどん

                    関東の愛餐会の定番 カレーライス

                    ビジョンの境界線はどこか

                     日本の福音派の教会とそうでない、福音派がよくリベラルとラベルを張る教会との違いは、政治的な傾向性よりも、世の中の貧しい人との距離の取り方ではないか、と思うのだ。中に集まっている人の違いというよりも。まぁ、福音派は庶民的というのはあるかもしれないし、福音派がリベラルと一括してラベルを張る教会にも庶民的な教会もあれば、高踏的というか割とお金持ちが多そうな教会もあるし、何とも一概には言いにくいところはある。

                     ただ、決定的に違うなぁ、と感じるのは、米国福音派での終末論論争の影響もあるのだろうが、この地の弱っている人々で教会に来ない人々の問題に対して福音派は割と冷たいところが少なくなくて、教会に来る弱っている人には対応はするけど、それよりも聖書聖書というところがあるような気がする。ある超教派団体の集まりに参加したときに、あるキリスト者の20歳代の若い女性の方が、「なぜ、(福音派の)キリスト教会は、炊き出しとかしないのだ。困っている人を助けないのだろう?」と素朴な質問をしておられたことを思い出す。

                     どうも彼女は、カトリック教会の炊き出しや関学の関係の教会による炊き出しなどの協力を知らなかったようのなので、「そういうことをしておられる教会もありますよ。ただ、多くの場合、福音派の場合『神のことば』をより大事にするのでそういうことには積極的でないことが多いようですが・・・また、確かにそういうことに関係していくといくつかややこしいことも起きかねませんし…」とだけ申し上げておいた。なぜ、こうなるかの背景は、藤本満先輩の『聖書信仰』を見ればある程度想像がつく。聖書信仰、聖書を重要であると理解するがあまり、神のかたちとしての人間の存在が軽くなったのではないか、と思っている。まぁ、これもリベラルとの対決が影響した側面もあったのではあるが。

                     そのあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
                     讃美歌や主の祈りまで差別のない表現に書きなおすほどリベラルな教会は、地域のため、世界のために、積極的な活動をしていた。(中略)私の教会巡りの中で、最も嘆かわしいグループは、自分たちのビジョンが教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会であった。(同書 p.162)
                     ヤンシー先輩がおっしゃるような、「自分たちのビジョンが教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会」に派、あまりであったことがないが、「自分たちのビジョンが(ことばによる伝道以外を除けば)教会建物と駐車場の外から先に広がっていない教会」ということを思い出した。

                     ミーちゃんはーちゃんとときどき遊んでいただける中澤さんという牧師さんがこんなツィートを乗せておられた。ご主張には、基本的に賛成である。



                     ただ、多くの教会の場合、その『傾ける耳』『涙する目』『差し伸べる手』が教会敷地内に入ってきてくれる人だけに向けられていて、その外に出ていないようなところにあると思うのだ。実に残念なことであるが。つまり教会外に対して、「きかざる・みざる・手を出さざる」になっているのではないか、と思うのだ。


                    聞かざる・手を出さざる・見ざる の像(日光に行くとあるらしいです)

                    神の恵みの管理者としてのキリスト者

                     キリスト者の性質、あるいは、本来的にいうと、「神のかたち」としてのアダム、地のチリから作られたものとしてのアダムは日本語では「地を支配」と訳してあるが、本来的な支配者というのは、大統領が護民官からきているように本来、市民や住民、国民をケアし保護する存在なのだ。わがまま勝手、やりたい放題するのは、地を「支配」するということとは違うと思う。神の国(神の支配とも訳せる)は、神が思い通り、好き勝手にして自分の利益を得るためのブラック企業というか、ブラック国家のようなものであるなら、そこに集まるキリスト者というのは、どっか精神が倒錯しているに近いのではないだろうか。この辺、自然に関してなど『支配』の意味をかなり誤解しておられるキリスト者の方は案外頻繁にであう。
                     24の教会すべてを訪ねた後、健全な信仰者の集まりとはどのようなものか、くっきりと見えてきた。健全な会衆は、ペテロの言う「神のさまざまな恵みの良い管理者として、そのたまものを用いて互いに仕え合」うこと(Iペテロ4:10 強調ヤンシー先輩)を自分たちの働きの中心にしているように思えた。(同書 p.163)
                     その意味で、ヤンシー先輩が言っていることは、本来の「人間の姿になる」あるいは「神のかたち」としてのアダム、すなわち地をケアするものとして生きることをお示しなのだろうと思う。それがたとえ、人間が不十分で不完全なものとしても。つまり、聖書をあける手はあっても、地に神の義をもたらすための手はない、とあたまの片隅で言っているミーちゃんはーちゃんがどこかにいるのではあるけれども。それをどうバランスさせるのか、考え続けている。

                    バーバラ・ブラウン・テイラーのことばが刺さる
                     最後に、バーバラ・ブラウン・テイラーのことばが、ミーちゃんはーちゃんにとって刺さって仕方がない。まぁ、神にささげるものが1歳の傷のない子羊であったことを前提に、完全なものを神が求めておられる、教会は完全な人の集まりであるという聖書理解があることは十分承知しているし、まぁ、そうお考えになりたい人々はどうぞそうお考えいただいたらよいし、そのお考えは尊重するところであるが、個人的には少し違うかなぁ、と思っている。神は不完全なものに神の息吹、神の霊を吹き込むことを求めておられるのであるように思う。そもそも、神の目からしたら、人間の完全さなどは、チャンチャラおかしいような気がするのだ。子供が必死になって完成度の高いものを作った気になっても、大人からしたら、どうしようもないものにしか見えないのと同じなのではないか、と思うのである。
                     そこで、突き刺さってきたバーバラ・ブラウン・テイラーの記述であるが、以下のようなものである。
                    「これらの傷ついた人々が暗夜を過ごす場所として、また悲惨な結果を持ってこられる場所として、教会を思い起こしてもらえなかったことが残念でした。」(同書 p.164)
                     クリスマスの時期だからそう思うのかもしれないが、神の子は、宿するところなく、放浪する旅人の子供として、暗闇の中(寒空だったとは、羊飼いが外にいることから思うと思えないが)、ごろつき同然に近い、むくつけき羊飼いのおっさんたちにまずその生誕を祝福され、その後に異国の魔法使い(博士と一応訳されているが原文では、Magi)と出会うのである。そして、その後”政治”難民としてエジプトに脱出する。ろくでもない出生である。そして、暗闇を過ごす場所、最後の助けとしての教会が思い起こされないという現実は、厳しい。


                    暗闇の森の中


                    Facebookで紹介されていた上記の画像で
                    イエスが政治難民であったことに気付いた


                    まさにこんな感じであったのであろう。


                    Huffington Postでの Egypt as a Place of Refuge for Baby Jesusから
                     Anabaptist Mennonite Biblical SeminaryのSafwat Marzouk先輩の投稿から

                     むろん、交代でいのちの電話や、電話対応サービスをしておられる教会もあるのは承知しているし、北九州の『軒の下の教会』として知られる奥田先生のような働きをしておられる方もおられることは存じ上げている。

                     こういうことを書くと、すべての教会がなにがなんでも、こういう人を受け入れろといいたいのか、という疑問を持たれる方もあるだろう。しかし、そういうわけではない。その人たちが訪れる可能性のある場所としての教会が思い出される身近な存在の一つであってほしい、と思っているだけである。

                    まだまだ続く




                    評価:
                    フィリップ・ヤンシー
                    いのちのことば社
                    ¥ 2,592
                    (2015-11-05)
                    コメント:大変よろしいと思います。

                    評価:
                    ---
                    いのちのことば社
                    ---
                    (2015-12-03)
                    コメント:誤植、発音これはないやろ、もいくつかあるが、まぁ、日本のキリスト教福音派の神学史の一断面を見せている。

                    評価:
                    バーバラ・ブラウン テイラー
                    キリスト新聞社
                    ¥ 2,376
                    (2014-03)
                    コメント:大変良い。お勧めしています。

                    2015.12.19 Saturday

                    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(20)

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                      教会と多様性
                       個人的に、教会は多様な人々からなると思っているし、それが互いに枝であって一つのものにつながっているというイメージを持っている。それが、公同の教会であるし、地域にある特定の教会も、そういう教会であるといいなぁ、と思うのである。
                       ただし、多様性のあるものを一つのものとして動かすのは大変なのは承知している。しかし、そうであっても排除しないという選択肢はあるのだと思うし、本来教会員であるから何がなんでも絶対に所属教会に来るべきというのは、どっかおかしいと思っている。なんか論理が逆立ちしている感じがするのだ。信徒はキリストのものになったのであって、ある特定の教会の所有物や専有物ではないと思うのだ。

                       もしそうだとすると、カトリック教会のようにどこに行ってもそのグループの教会がなければならないし、その教会群が形成した礼拝の様式による礼拝を提供する必要があると思うのだが。まぁ、2時間かけて教会に通いたい人は通ったらよいと思う。しかし、もし、事故や病気などでそれができなくなった時、その人はどうするのだろうか、とも考えてしまう。あるいは、言語の障壁があり、そこに行ってもちんぷんかんぷんであるなら、そこに行き続ける必然性が果たしてあるのか、とも思う。

                       ヤンシー先輩は、次のように書いておられる。
                       新約聖書に書かれている教会の記述を読むと、その目だった特徴として「多様性」があげられる。異なる人々が集まるところには、恵みにとって重要な試験場となる。ユダヤ教徒の中にあった性別、人種、社会の階級といった多くの障壁をキリスト教会はいろいろな国の人々が集まる五旬節(ペンテコステ)の日に早くも取り除いた。自分が女性、奴隷、異邦人に生まれなかったことを毎日感謝していたパウロは、この劇的な変化に感嘆した。
                      「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなた方はみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
                       多様性は人生を複雑にする。だからこそ、私たちは同じような年齢、収入、価値観の人々の輪に入りがちなのかもしれない。教会は、幼児から祖父母世代、失業中の人から重役、移民から上流階級の人までが委嘱兄集まる場を与えている。(中略)新しい教会に行ったとき、そこに集う人がみなに通っていればいるほど、そして私と同じような人ばかりだと居心地の悪さを感じる。

                       しかし、多様性がよい結果をもたらすのは、共通のビジョンを持つ人々のみである。(隠された恵み pp.164-165)
                       ただ、「異なる人々が集まるところには、恵みにとって重要な試験場となる」というご指摘は大事だと思う。つまり、一人ひとりの他者に対する思いが試されるのである。しかしながら、近代という時代は、同じような人を作りだそうとしたのである。それは産業において、効率性を上げるという側面では利益があったし、軍事において、大部隊を動員した協調行動を可能にするという意味もあった。

                       その結果、社会として本来多様な人々を共通化する装置としての公的教育や学校教育があり、企画をおき、それにはまらないものは、排除するという性質を持ったのが近代という時代であった。それが行き着いたのが、Naziによる病者や障害を持つ人々の排除であった。同じような人々だけからなる同じような人々のための国家を目指した結果の一部がこれであり、また別の一断面がホロコーストであり、また、その一断面が国民車と呼ばれたポルシェ設計によるBeatleである。


                      ホロコースト前に実施された障害者の排除政策についての動画


                      フォルクスワーゲン(まさに大衆のワゴン)

                       ところで、一つということに関して、個人的に思いを巡らす聖書個所は、以下に紹介する場所である。
                      【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
                      15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
                      15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
                       あるときまでは、ミーちゃんはーちゃんはブドウの木であるといわれるイエスにつながっていることのみを考えていたのだ。正直に言うと、イエスとミーちゃんはーちゃんがつながっていることだけを考えていたのだ。まさに、イエスと私の意味合いでしか、この場所を理解していなかった。しかし、ある時から、ここで言われているぶどうの木のイメージが、変わったのだ。どう変わったかというと、イエスと、私と、ほかの枝、であり、ほかの枝との関係も実は非常に大事だ、ということに気がついたのだ。そして、それは時間や空間を超えたつながりまでもつということに思いを抱いたのである。もちろん、我々に神の言葉を直接伝えた人々とも我々はつながっているのだし、それ以前のカルヴァン先輩、ルター先輩、アウグスティヌス先輩、アレクサンドリアのアタナシウス先輩などともつながっているのだ。


                      ぶどうの木、木一本と枝一つではないよね。

                      完璧でなくても神の支配の存在を示すキリスト者と教会
                       近代は欠けがないもの、完璧なものを求め、純化する思想を持ち、「異化する、あるいは、別の方向に向かう、不完全なものをよしとする文化」を形成し得なかった。そして純化にすぐ向かう傾向を持っていた。ある面それは一時的な文化的傾向だと思う。そして、その一時的傾向は教会にまで影響を及ぼしている。そのことについて、ヤンシー先輩も次のように書いておられる。
                       訪れた24の教会に、完璧な教会は一つもなかった。新約聖書が示していても、私たちは完璧な教会が見つかるとは期待すべきではない。眠くなるような教会もあれば、斬新であろうとしすぎていて、自分が何をしに来たのか分からなくなるような教会もあった。それらの教会を批判したくなると、教会が元をたどれば、神の大胆な実験に行き着くことを思い起こした。教会とは、この地上に実際に神がおられることを、信仰の旅人である私たちがあらわすための実験であることを。(同書 p.167)
                       「新約聖書が示していても、私たちは完璧な教会が見つかるとは期待すべきではない」のだそうであるし、個人的にはこれは同意する。確かに一見完璧に見える教会がある。それは一時的なもの、と考えたほうがよい。家を買う時や借りるときを考えてみるとよい。買ったり、借りたりするときは、その家は完璧に見えるかもしれない。しかし、子供の数が増えたり、転勤を要請されたり、病気になったりしたら、完璧だったはずの家が呪い近い存在になることもあるのだ。

                       しかし、「眠くなるような教会もあれば、斬新であろうとしすぎていて、自分が何をしに来たのか分からなくなるような教会もあった」とヤンシー先輩はお書きであるが、まぁ、両方とも経験したことがある。個人的には、斬新でありすぎ、ドン引した教会もある。また、聖書のお話で、一文一文の内容は正しいのだが、それをばらばらと並べるために、給食の細切れのスパゲッティじゃないんだから、つながりを持たせてお話ししてもらえるとうれしいのになぁ、とお話を伺いながら正直思った教会もあった。まぁ、それとて、ミーちゃんはーちゃんにとっての枝である。大事にしたいなぁ、という思いはある。

                       欠点や不満があっても、そこが神を中心とする教会であり、人々を歓迎する限りにおいては、その存在は、神の支配を求める人々がおり、その人々が毎週集まることを通して、その中で神を求めること、神をあがめることを、さまざまな方法や形式や様式の違いはあれど、行うことで、神の国を表象しているのだと思う。とはいいながら、神が中心でない教会、人間が中心となった教会は時に起きることである。そう感じたら、少し、その教会から離れてみて、鎮まりのうちに神を求めること、他の教会群に行ってみることも方法ではあると思う。経験者として、これはそう思う。

                      U2のBonoと神の国

                       個人的には、U2というグループがあることは知っていたが、Bonoという人物の存在は初めて知った。基本的に、ミーちゃんはーちゃんの息子さんはロック系の音楽が好きだが、個人的にはあまり聞くことがないのでしらなんだ。知らないものはしょうがない。また、セレブがキリスト教徒だからといって、それで、と思うところがあるが、ここでヤンシー先輩が挙げておられることが案外大事だ、と思ったので紹介しておく。
                      (引用者注: エチオピアの孤児院での慈善活動から)アイルランドに戻ったボノの祈りは、怒りと反抗的なトーンを帯びたものに変わったという。「神様、あなたはアフリカの子供たちを心配してくださらないのですが、あの子たちは何も悪いことをしなかったのに… (中略)」  ところがだんだんと、神は心にかけている、という返事が聞こえてくるようになった。そもそもアフリカで慈善活動をしようという思いはどこから来たのだろう。神に浴びせかけた問が、まるで自分を責めるかのように跳ね返ってきた。(中略)「僕はロックスターだ。ソーシャルワーカーじゃない!」しかし、確かな召しだと感じたものを無視することができなかった。(p.169-170)
                       何が大事だと思ったかというと、「神に浴びせかけた問が、まるで自分を責めるかのように跳ね返ってきた」という部分なのである。神との関係で時にこういう経験をすることがある。神に対する問いかけ(責めるような言葉)が自分に対して帰ってくる経験で、自らを見直す場面になることがあるのだ。「あなたは私に何をお望みなのですか?」「私のどこが悪いのですか?」と聞きたくなることが時々ある。まるで、このおじさんである。
                      【口語訳聖書】ヨナ書
                       4:6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
                       4:7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
                       4:8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
                       4:9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
                       4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
                       4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。
                       個人的にヨナ書は非常に面白いと思っている。これを子供用にしておくのは実際もったいない。ヨナ書は、違法の民の神との関係が語られている旧約聖書の個所の一つ(ある面、アブラハムもそうである)であり、非常に重要なことを我々に告げる場所であると思っている。

                       個人的にU2のBonoおじさんの信仰的背景はよくわ知らないが、以下のインタビューを聞くと、音楽的な傾向は違うが、そんなに個人的にはこのBonoおじさんの信仰と祈りの関係を聞く限りに派、違いはそんなにないなぁ、とは思った。


                      U2のBonoのインタビュー

                      と思っていたら、尊敬する山崎ランサムさまもBonoおじさんについて書いておられた。

                      Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(1)である。素晴らしいので、ぜひご覧ください。

                      まだまだ続く









                      評価:
                      フィリップ・ヤンシー
                      いのちのことば社
                      ¥ 2,592
                      (2015-11-05)
                      コメント:非常によろしいと思います。

                      Calendar
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