2015.07.29 Wednesday

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その9

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    本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」から前半の続きについてである。

    既存教会文化と新任牧師

     既存教会であると、その教会の固有文化というものの影響は大きい。歌う讃美歌の種類から、祈りのパターン、だれが何を担当するかまで、どの家庭集会にどんな信徒がいて、どんな文化ができているかまで、実に細かいところまで文化ができている。まぁ、教会の歴史と共に文化は形成されるので、100年の歴史のある教会は100年かけて形成された教会文化が存在するし、10年ちょっとの教会でも、立派に教会文化というものができている。そこらの事に関しては、工藤先生は、次のようにお書きである。
     ドレッシャー博士はまず、すでに確立された教会に一人の牧師が招かれることは牧師にとって大きな挑戦であるという。つまり確立された教会はまさに「確立されている」のであり、そこに招へいされる牧師は、すでに形成される文化に直面することが予想されているという。
      そしてこまったことに、そこに安住してしまった古い信徒は成長する事を望まず、排他的になる傾向が在ると言う。また、伝道についても真剣に取り組むことはめったにない。つまり、彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている自らの信仰に固執し、変化を拒み、保守的になるというのである (『若い牧師・教会リーダーのための14章』p.95)(『真実の福音を求めて』pp.109-110)
     この、教会文化の問題は、マクグラス先輩の『ポスト・モダン世界のキリスト教 −21世紀における福音の役割』でも指摘されているし、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』のなかでも、F.F.ブルース先輩の記述を引用されながら指摘されている。

    メイド・イン・ジャパンのキリスト教に関する拙ブログの記事
    変容と具体的世界

     ある特定の文化的コンテキスト、ある時期集っていた属人的文化の中で形成された教会文化に固執し、それを変えられないというのは、日本の他の組織でもままみられることである。例えば、企業文化というのもそうであろうし(情報処理システムのコンペでの評価委員になったことが何度かあるが、こちらの要求要件書に対する各社の回答っぷりが違うので、おかしくてしょうがないことがある)、PTAなんかもそうであろうし、小学校や中学校でのクラブ活動で暗黙知として引き継がれる敬語文化なんてものその一つであろう。先輩が始めた(その先輩が生存しているかどうかは別として)ことは地震や火事、あるいは組織の廃止などでもない限りやめられずに、それがどういう合理性や意味を持ってたのか、あるいはどのようなコンテキストで生まれたのか、いいということは一切問われずに、形だけが文化として残るということはままみられるようである。その意義がわからず、形だけ続いていることに対して、「そんなもん、やめたらいいのに」というのは簡単だが、それをやり始めた当人がいる組織の場合はなおさらであるが、居なくても、それをやめるのは案外難しいのである。というのは、それを主張され、はじめた方への批判となりかねないだけでなく、それを他人に強いた人のレゾン・デートル(存在意義)にまで関係しているからである。

     まさに、工藤さんがご指摘のように、「彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている」のである。つまり、既存の教会文化を否定することは、それを維持してきた人の人生や青春そのもの(あるいはそれを言い出した、伝えた宣教師、伝道師などの人々の存在意義)を否定することになるからである。似たようなことは神学や説教の現場でも起きる。「どう考えても、聖書が行っていることはこうなのだが、先人たちの言っていることには課題がある」と、ある人が思ったとする。それをそのままいうと、先人たちに育てられてきた人々からは猛反発を受けるのであり、時に異端、悪魔手先扱いされる。

     まさに、イエスがそういう扱いを受けたし、預言者たちもそのような扱いを受けたのである。実に残念なことであるが、「預言者はつらいよ」である。

     ただ、個人的になぜそうしているのか、ということに関しては、歴史性の由来(つまり、昔からそうなっている、そうなるものと決まっている)という理解だけでは不十分で、何らかの合理性や意味ということは常に考えたほうがよいと思っている事だけは触れておく。

    専制君主制と化した教会?

     その具体例として、工藤さんは次のような事例を紹介しておられる。
     その教会は、農村地帯に大きな力をもつ地主がクリスチャンになって近隣の人を集めた家庭集会から出発したのだが、例にもれず専制君主的なその長の以降にかなっている間は若い牧師は婿養子のように歓待を受けた。しかし、その意向に反すると牧師はすぐに転任を命じられ、何人もの若い牧師が送られては去って行ったという。中には、そ の人物の強い圧力で精神に変調をきたした若い牧師もいれば、牧師夫人もいたという。(同書 p.110)
     しかし、ひどい話である。実は、割と仲良くしていただいている教会におられた牧師の方が、まさにこれに近い対応を受けておられた。どうもこういう教会は多いようである。牧師が長続きしていない教会とういのは、どこか不自然なものがあるのかもしれない。牧師さんの集まりに平信徒風情のミーちゃんはーちゃんが結構顔を出すことが増えたのだが、そこでお聞きするようなことに似たような例があまりに多くて、驚いている。

     以前、水谷さんのブログ記事でも人気記事の一つであった健全牧師シリーズにコメントとして付けたものが取り上げられた記事でもある

    みんなで育てよう健全牧師(場外乱闘編)

    という記事があったが海兵隊のしごきならず、教会設立者のしごきにあってあえなく、使い捨て雑巾よろしく追い出されていった牧師さんがおられるようで。辛いなぁ。

     Facebook上でお付き合いのあるロシア正教会のある司祭の方によれば、このようなこの地主的な存在によってつくられた教会ゆえの違う面での問題をお抱えになっておられる教会もないわけではないようである。例えば、教会敷地の法的登記が個人登記されており、信仰継承がうまくいかないがゆえに、教会の建物の所有権と使用権が問題になるとか、教会敷地に借家が立ってしまっており、建て替えなどの問題に差し障るとか、まぁ、いろいろおありのようである。しかし、こういうのは、精神に変調をきたしかねないとはいえ、まだ、現金が解決する(その現金があれば、の話であるが)部分も無きにしも非ずではあるが。まさに、Money Talks!というのが、資本主義社会のいいところではあるけれども。

     以前牧師先生ご一家が専制君主化した教会の問題を取り上げたが、

    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(1)

    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(2)


    教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(3)完結篇

    ということでも触れたが教会の成立史において、教会設立者がミニ王国を作り上げる、ということは案外重要であると思わされた。

    イケイケどんどん型の宣教スタイルの限界
     現代は人口減少社会である。この中で、教会の教勢(教会人口)の拡大を地方部で目指そうなぞ、基本思いつく方が、現代の人口学的概念から言えばかなり無理であると思うのだが、第2次キリスト教ブーム(1950-1960年代)の頃教会生活を送った人からすると、若者や子供で教会があるれるという現象、それが起きないのが不思議、ということになるのだろう。そして、それは牧師が手抜きをしているという批判に直結しやすい側面があるようである。そんなことを言われても、地方部での、人口減少、少子化、高齢化があり、土台どうしようもない現実があることから、かなり厳しいことは間違いはないのだが。
     その教会はその人物とその親族の献金に支えられていたから、信徒は沈黙を守る他なかった。その君主的な人物の信仰は、戦後世代の多くがそうであったように明治時代以来の富国強兵策のあおりを受けて、追い付け追い越せの拡大思想で、若い牧師に強力な宣教を迫った。
      おぼろげにその辺の事情に気づいた私は、その若い牧師を応援すべくその教会に何度か出向いていたが、喜んだのは信徒の方で、私の協力はかの人と若い牧師との溝をますます大きくすることになってしまった。案の定2、3年して、その牧師はそこを追いだされてしまったのである。そして私の耳に入ってきたのは、 「あの牧師は事例研(引用者註 工藤さんが主宰しておられる研究会)に行ってからおかしくなった」という言葉であった。(同書p.111)
     こういう悲惨な現実は、結構日本の地方部の教会であるようである。自分が老人であるのを棚に上げ、教会が老人だらけではないか、もっと若い人がいる活気ある教会にならないのか、と牧師にだけ問われても、そんなの「無理ゲー」といわざるを得ないのではないだろうか。

     「そこまでおっしゃるなら、あんたの孫をテレビやゲームの前から引っぺがして教会に連れてきてください。あなたの息子のゴルフクラブを炎上させて、日曜日はゴルフ場に行かせるのではなく、教会に来させてください」と逆切れしてない牧師の皆様方を個人的に尊敬している。自分ができないことを牧師に期待するというのは、それは期待のしすぎではないか、と思う。昔は遊びといえば、ベーゴマにメンコ、紙芝居しかなかった世界と、テレビもあれば、衛星放送もあり、受苦もあり、PSPやニンテンドーDSもあれば、インターネットの世界もあるこのご時世を同列に扱うことの方が問題ではないか、と思うのだが、どうだろうか。

    人権思想や民主主義とキリスト教会

     この前、木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その4 でも触れたが、人権思想の結末がどうかは別として、人権を言うためには、聖書の理解は欠かせないし、教会から生み出されていったものとしての人権はあったのである。森本あんり先生の『反知性主義』を巡って書いた反知性主義をめぐるもろもろ シリーズや深井先生の『神学の起源』を巡って書いた深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ シリーズなどでもちょろっと触れたが、これらを生み出す土壌になった背景の一つとしてキリスト教は欠かせない。

     しかし、教会の属人的支配、封建領主的支配、専制君主的支配の問題は日本では深刻な問題を今なお徳地政治の問題とかかわり続いていることを、工藤さんは次のように指摘しておられる。
    こうしたテーマはこれからの日本のキリスト教、そして教会を考える場合にないがしろに出来ないことのように思われる。民主主義や人権思想を土台とした西洋型キリスト教では通用しない問題を抱えているからである。(同書 pp.111-112)
     しかし、こう言う徳治主義的、家族経営的、あるいは専制君主的属人的支配は、神の支配(すなわち、神の国)とまともにぶつかるはずなのであるが、こういう支配したがる人たちは、自分こそ神を理解している信徒であり、神と共に在ると思いがちなので、自分の支配と神の支配が一致していると思い込む傾向はあり、それが大きな被害をもたらすことは多々あるようである。

     尚、ミーちゃんはーちゃんとしては、西洋型キリスト教が全てではないとは思うし、日本型キリスト教とか、温帯モンスーン型キリスト教というのはあってもよいと思うが、それが聖書全体の理解とどうバランスをとるか問題ということはもう少し考えられてよいと思っている。

     特に、この問題に関して、今現状の日本のキリスト教会で起きている問題は、多様性を積極的に評価し、包括的に吸収しようとするアメリカのキリスト教界で育った日本人キリスト者が、日本におあるキリスト教界に受け入れられないという異なるキリスト教土壌間の移植と定着の問題である。

     日本のキリスト教会側は、ここは日本におけるキリスト教会であるという論理を優先させ従来のその教会固有文化を重視するし、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者は、自分たちがアメリカで出会ったキリスト教文化をキリスト教文化そのものであると思い込み、対立が起きたり、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者が日本の教会から追い出されるというろくでもない現象が起きている場合もないわけではないようである。

     しかし、もし、アメリカ人やヨーロッパ人で日本語を話すパッと見アメリカ人やヨーロッパ人のキリスト者がアメリカで信仰を持った日本人キリスト者と同じことを言ったとしたら、どうなるであろうか。排除される可能性は案外小さくないと思うのだが。しかし、これは、パウロが主張した次の内容と同じかどうかをもう少し考えてみた方がいいかもしれない。この問題は、教会が何を重視しているのか、という価値の問題を問うからである。

    【口語訳】ローマ人への手紙
     3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
     3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
     3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
     3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
     3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。
    企業卒業者や女性と教会内問題
     同書の中で、工藤さんは、企業人が教会に入ると役員になりたがり、そこで繰り広げられる論理はキリスト教の論理と程遠い企業経営の論理となりがち、という日本のキリスト教の問題をご紹介されている。

     近年、退職された企業卒業者の男性信徒が教会に多少なりとも増えている模様である。それはそれで喜ばしいことかもしれない。あるいは、神学校にお伺いしても、学校卒業直後、あるいは、企業で数年すごされて神学生になられたお若い神学生の方よりも、だいぶん成熟された神学生の方が数多くみられる。これもまた喜ばしからずやであるが、世俗社会の中で失った肩書を教会内での肩書で代替しようとしている方がおられないことを願うばかりである。

     まぁ、献身者の方であるから、そういうケチなお考え(本田司祭のお言葉から借用)で献身されているのではない、と確信している。そして、東芝の役員会の内紛同様の内紛を教会で繰り返されないことを願うばかりである。


    47News様より

     これら企業卒業後の男性信徒の方の問題に触れた後、工藤さんは教会と女性たちの問題について次のような記述をしておられる。
     女性の集まりにはどういうわけか男性社会とはまた違った形での仲間割れ、分派が生じやすい。いつの間にかその女性たちの力は温厚な老牧師を操作し、干渉しだした。
     その紛争に巻き込まれ、疲れ果てた女性の一人は私に行った。
     「私はあちこちの教会に行きましたが、この教会の女性たちのパワーを見て、ここはとうてい私のいるところではないと思ったのです。」
     聞けば、教会を助ける、宣教師を助けるという掛け声はいいが、その活動は自分たちの能力の誇示であり、何事かにつけ二つのグループの確執があって、疲れ果てたのである。
     (中略)そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」と。
     教会活動が自己実現、自己顕示性の場と化してしまっては、「力と愛と慎み」の場であるべき教会がその本質をたがえた比較・競争の場になってしまうに違いない。(同書 p.114)
     女性信徒の問題は、結構ややこしいのである。ミーちゃんはーちゃんも、このあおりを食らって結構面倒なことに巻き込まれたことは一度や二度ではない。「小人閑居して…。勝手にもめて騒いでくだされ」と言いたくなることが多いのだが、相談が持ち込まれた時に、まかり間違ってもそんな対応したら、火に油どころか、火にガソリン、火にダイナマイトを投げ込むようなことになることは、経験知として申し上げられる。もう、こういうことが持ち込まれたら、ひたすら聞き役に回るしかない。まぁ、大概はそれで収まることが多い。おさまらない時が大変であるけれども。

     日本では、最近男女雇用機会均等法が始まってから30年近くになるので、だいぶん女性の社会進出の問題とそれに伴ういざこざの問題はある程度、解決がついてきたのであるが、60過ぎのご妙齢の皆さんほど、実力がありながら発揮できない人生を歩まれた人々もおられたりするので、女性が活躍できる場になると、嬉々として(時に鬼気迫る雰囲気で)ご活躍の皆様もおられる。そうなると、必ず普段は敬虔なことをおっしゃっておられる信徒の方々の中に、「自分たちの能力の誇示」される方々が出てくるのである。こういう方を皆さんがみている前で気軽にお諫めなぞしたら、あとでえらい目にあうから、ご注意召されたい。

     実は、カトリックのある司祭の方とお話ししていて、男女雇用機会均等法などがない昔、女子修道会は、まさにこういう女性実力者の方のたまり場のような感があった、というお話を聞いたことがあるが、そこにかかわらなければならなかった男性司祭は、結構大変だっただろうとは思う。まぁ、Sister Act(邦題 天使にラブソングを)に出てくる女性修道院長は、完璧にそんな感じがあるけれども。



    天使にラブソングを 予告編

     尚、現代日本では、シスターの成り手がおらず、女子修道会の高齢化が極めて進んでいることは、上智大学の大阪公開講座にお伺いした時に、何度か経験させていただいている。

     ところで、工藤先生は、そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」ということをお書きになっておられるを見て、ここにも繁栄の神学の影響がみられるのだなぁ、と素朴な感想を持った。そんないつも元気よく輝くなど、カリフォルニアの青空のような脳天気な生き方をすると、結構ハイストレス環境なのであるのである。しんどいのである。そのハイストレスな生き方で、自分自身が潰れてしまうと思うのは、私だけであろうか。

     まだまだ続く。





     
    評価:
    工藤 信夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,296
    (2015-06-05)
    コメント:絶賛お勧め中である。

    評価:
    A.E.マクグラス
    教文館
    ¥ 1,944
    (2004-06)
    コメント:お勧めしています。

    評価:
    マーク・R. マリンズ
    トランスビュー
    ¥ 4,104
    (2005-04-28)
    コメント:日本で特殊発展したキリスト教に関する著者渾身のフィールドワーク

    2015.08.05 Wednesday

    工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10

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       本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」から後半についてである。

      自分がキリスト教だと思っているものを
      人はキリスト教と呼ぶ

       このブログでも、何度か紹介してきているが、キリスト教会のありようとは実に多用であり、一つのパターンに収まるものではない。しかし、日本の場合は、キリスト教が少数派であり、地域に多用なキリスト教群が見つからない場合、とりわけ地方部においてはその傾向が強いと思うが、自分が知っているキリスト教だけが、自分が出会ったキリスト教だけがキリスト教と思い込み、キリスト教会という思い込みが生まれやすい。
       今回の以下紹介する部分を読んで、アメリカのキリスト教会の(恐らく1960年代)の雰囲気を改めて感じたのである。
       『教会―なぜそれほどに大切なのか』(引用者註 フィリップ・ヤンシー著)の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下で教育不可能であり、「奴隷」の人種となる様に神に呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その急派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ神学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(『真実の福音を求めて』pp.115-116)
       マルチン・ルーサー・キングJR牧師は共産党員説は、時々聞いていたが、それは世俗社会の話で、教会にまで浸透しているとは知らなかった。まぁ、マルチン・ルーサー・キング牧師は属人的な部分ではいろいろな課題を抱えた人物でもあったことはアメリカでは知られているがその存在は大きいのである。


      Rv. Martin Luther King Jr の有名な演説



      それを小学生が暗唱する場面
      (アメリカの小学校ではキング牧師の誕生日周辺で実施する)


      サニタイズされたバージョンの簡単なキング牧師の伝記

       さてさて、まぁ、マッカーシズムの時代でもあるまいし、キング牧師共産党員説は置いておいて、「スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという」罰ゲームには笑ってしまった。読書したから、スカート丈が長くなるわけではなかろうし、読書したからといって、服装の趣味が改まるわけではないだろうに。それでも、それをしないでは気が済まない人々もおられることを考えるとどうなんだろうと思ってしまう。

       確かに、1960年代のツィギーブームのころには、以下の写真に示すようなミニスカートは衝撃的ですらあったのである。なお、このツィギーという方は、英国籍らしい。英国だったからこその衝撃、というのもあったかもしれない。60年代は、ビートルズといい、ツィギーといいファッションや文化の最先端を走っていたのは、確かに英国であった。


      ツィギー嬢(ご存じないお若い方のために)

      救われたら一人前キリスト者?

       しかし、個人的には、回心経験即ち一人前キリスト者という理解があることに関して、工藤さんは次のようにおっしゃっておられる。
       私たちは救いにあずかったからと言って、決してOKなどであるはずがないのだが、どう言う訳か日本のキリスト教界にはキリストの救いにあずかれば即一人前のクリスチャンという妙な図式が出来上がっているような気がする。そして、即伝道、奉仕となる。かくしてそのキリスト教信仰は自己不在のキリスト教信仰となり、人のための福音になっても自分のための福音になっていないという悲劇が起きる。(同書 p.116)
       しかし、ミーちゃんはーちゃんも14歳でバプテスマ受けたら即一人前扱いで、2歳下の信徒さんのお子さんの日曜学校の教師をやらされたという残念な思い出がある。先週まで、同じ日曜学校の生徒が、2階級特進どころか、5階級特進クラスの勢いで、日曜学校の先生をやらされたのである。うまくいくはずもないのだが、まぁ、できると言われて担当したものの、さんざんであった。そのうち、済し崩し的に日曜学校が崩壊していったのは言うまでもない。

       以前究極のOJTと 続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6でご紹介したが、まさにそんな感じであった。

       そもそも、「一人前のクリスチャンというのは存在しえない」というのがミーちゃんはーちゃんの理解であるし、そもそも人間が欠けある存在(罪ある存在)であることを考えると、一人前のクリスチャンという理解そのものがどっかおかしいと思っている。

       ということで、神のためにすべてを棄てた(ふりをする信仰)が良しとされる、自己不在のキリスト教が理想化される中(それは、そもそも人間の諸般のことによる閉じ込めからの開放をご主張されたイエスの主張とは逆方向にあると、思うのだが)、逆にその型にはめるという閉じ込めが起きているのが残念でならないと思うのだ。

      【新改訳改訂第3版】マルコによる福音書
       8:34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
       8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
       8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
       8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

      という言葉が十分に考えられることなく、日本的なコンテキストで語られ、一種滅私奉公的な理念系で語られることが多いような気がする。そして、他人に自分の十字架を取らせず、教会や他の教会員が与える十字架を取らせる形の悲劇の拡大再生産が続けられているような気がするが、違うだろうか。ここでのイエスの主張をよく読めば、自分の十字架を負うのであって、他人の十字架を負うのではないような気がするのであるが。ここは人間は、自分自身では何も差し出すことができない、という逆説の論理が効いていると思うのであり、イエスの中心性が出ているはずだと思うのだが、どうも、この部分も、イエスのために全部差し出せ(というよりは、教会のために全部差し出せ)という形で語られることがあり、そのようなカルトチックな理解も少なくないように思う。

      思索を忘れたキリスト教
       先日ご紹介した宣教学会の基調講演の内容や、孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたように、関西牧会塾に参加して思ったことであるが、苦しみに直面して思索するという傾向が案外日本には薄いように思うし、特に勝利主義的なキリスト教の性質をお持ちのキリスト教のグループでは、キリスト者が苦しむというようなことは、伝道熱心ゆえにサタンから攻撃を受ける(いい匂いのする油撒き作戦すると、退散できるらしいが)以外では信仰熱心さが足らなかったり、聖書を読んでいなかったり、祈りが足らなかったりすると怒られることもあるらしい。実は、苦しみの問題や孤独の問題は、神との見直しのよいきっかけであるし、一人静まることの大切さは、『静まりから生まれるもの』でナウエンも書いているところである。

       あるいは、道徳化した日本のキリスト教(西洋道徳として理解されたキリスト教)の場合でも、行為道徳として定着してきた側面もあるので、安易なパターン化されたキリスト教になってしまい、よりダイナミックな神との関係を思索というか、神と人との間で交わされる問いの中で、聖書と格闘し、イスラエルが神と格闘したかのように格闘することの中で、その信仰は深まりを見せるような気もするが、どうだろうか。
       私たちのキリスト教は案外書物から学ぶ事が多くて、実際の苦しみにある人々から学ぶ事が少ないのではないだろうか。そのためか、そのキリスト教は、表面的な思索の浅いものに陥ってしまう。神が与えてくださった問題がその人を深め、豊かにする代わりに、安易なパターン化したキリスト教に変質してしまうのである。この思索の低下に関して安易なキリスト教への警鐘と思われる文章がある。 
      「ある時期から福音派の教会で強調されるようになったものに、積極思想ないしは、”自分を愛する”という考え方、プレイズに代表される賛美、悪霊との対決があります。それ等はそれぞれ意味があるものであることを否定しませんが、ただ、それに閉口して”思索”が不足して来ているように思えてなりません。その結果、力、数、成功、明るさ等が中心におかれた一種の全体主義がみなぎっているようで、ひそかに恐れと不安のようなものを感じます。
      (中略)
       とにかく、思索を忘れた教会は、表面はともかく聖書的な実質を失いかねません。リバイバルの声も、運動とバランスのとれた思索を伴わないものにならないようにと、心から願うのです。」(野田秀「提言・思索が不足してはいないか」クリスチャン新聞 1993年9月5日号)
       (同書pp.118-119)
       時に立ち止って荒野に退かれたイエスの事を思う。

       次回へと続く。

      評価:
      工藤 信夫
      いのちのことば社
      ¥ 1,296
      (2015-06-05)
      コメント:お勧めしてます。

      評価:
      ヘンリ・ナウエン
      あめんどう
      ¥ 972
      (2004-09-01)
      コメント:薄い本だが、内容が実によい。

      2015.08.19 Wednesday

      工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その11

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          本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」の後半からについてである。次回で、この連載シリーズは最終回となる。

        遅すぎたナウエンの紹介
         ナウエンは、カトリックの学問司祭であったが、イエール、ハーバードなどのアイビーリーグのプロテスタント派の神学校で教えていたのである。そこでの競争と偉大なものであることであることにつかれ、疑問を抱き、その後、ジャン・ヴァニエが構想して運営にあたっていたラルシュ(箱舟)と呼ばれる障碍者施設の中の一つ、デイブレイクで障碍者の人々と共に生きる生活をした人物である。

         ナウエンの後期の本は、柔らかくて読みやすいが、ナウエンの思想の背景には、やや激しい部分のあるジャン・ヴァニエに多く依拠していると思う。ナウエンは、社会の中で評価される人々であるアイビーリーガーと共に生きる世界から、社会の中で小さくされた人々である障碍者と共に生きる生活を過ごす中で、新たな聖書理解の地平へと視線を広げている部分があると思う。

         個人的には、勝利主義的な傾向が生まれやすいプロテスタントの聖書理解への一種のアンチテーゼとして重要であると思う。しかし、カトリックの世界の中で、まず、話題になったのではなく、ナウエンの紹介はプロテスタントから始まった紹介ことを工藤さんは次のように書いておられる。
         実際この遅すぎた理解に関して、先ほどのドン・ボスコ社の本(引用者註 坂井陽介著 『ヘンリー・ナウエン』)の中に次のような記述がある。
        「北アメリカで彼の著作にであった日本のプロテスタントの人々が、日本の教会に非常に有益な内容だと判断して翻訳を始めた」(p.17)
         ナウエンと言う鉱脈を探し当てたのが、カトリックで言えばプロテスタントの教職であったと言うのは面白い事であるが、これはおそらく、北アメリカのプロテスタントの教職が自分たちのキリスト教理解に、何か著しく欠いたものがあることに気付いたためということができるであろう。
         それではいったいそれは何であろうか。私の理解した派に出言えば、その内容は多岐にわたるがここでは、人生の傷つきに対するキリスト者の反応の違いである。
         ナウエンは、傷つきや痛み、無力体験がキリスト者にむしろ必要なのだと主張する。(『真実の福音を求めて』 p.122)
         ここで、なぜ、ナウエンが関心を集めたか、ということであるが、一つは共同体性と包括ないし包摂の概念が強かったからと思うのだ。プロテスタント諸派は、それぞれの派が持つその派の固有の聖書理解こそが正しいとして、包摂や包括性の概念が弱く、「神様と私」の関係だけになってしまう部分があると思う。「神様と私たちとその中の私」という概念が18世紀以降に分離したキリスト教では、かなり薄いプロテスタントの諸派が多いような気がする。すべてではないけれども。

         この、カトリックやアングリカン・コミュニオン、東方正教会系で強調される概念が、プロテスタント派として大きく欠落するがゆえに、ナウエンの本が読まれるのではないか、と思われる。特に、「神様と私たちとその中の私」の問題は、教会論と聖餐論と深いかかわりがあり、正統性うんぬんよりも、日常的な教会でしていることは何か、あるいは教会とは何か、というあたりの事に関しては、その教派の伝統とその由来を考えることなく、そういうものだ、ということで受け入れられている側面があるのではないか、と思う。

         その意味で、痛みや傷つき、無力体験がありえないものとして語られ、勝利のみが賞賛され、称揚されるキリスト教が、プロテスタント派の一部の中にあるが、実はナザレのイエスはそういう勝利者と共に生きるのではなく、勝利者となるために地上時来たのでもなく、何も持たず、だれからも評価されない人、だれからも避けられるようなザアカイのような人や重篤な皮膚病の人、罪あるものとされた障碍者の人々に自らよっていったのが、福音書に記されたナザレのイエスであったと思うのだ。

        仮想現実に逃れるキリスト者

         N.T.ライト先輩のご主張ではないが、聖俗二元論と天地二元論のような二元論的な理解はひょっとしたら本来ナザレのイエスが主張し、あるいはパウロが主張した理解ではないかもしれない。神にあるものとして、神と共に生きるものとして、この地に生きる様にキリスト者は招かれているのかもしれないと思うのである。

         しかし、聖俗二元論あるいは天地二元論に陥ってしまったキリスト教は、将来のみに希望を置き、この地の生き方を重視しなかったりする部分につながっているようにも思うのだ。あるいは、この地での成功体験を極端に求め、成功した人々は祝福の結果であり、成功していない人は、祈りが足らないとか、敬虔でないとか、聖書の読み(回数)が足らないとか、聖書を大量に理解しているしていないにかかわらず、とにかく量をこなすように読むのが良いとか、司牧や信徒指導者に従うのが良いとか、というキリスト教を自称する集団があることは承知しているが、それもまたキリスト教の一部であることは確かであるものの、個人的には、自分の聖書理解とは少し違うところがあると思っている。
         もしかしたら、キリスト者に妙な明るい輝きを求めたり、この世的な成功体験を求めたりする人々は、人生の真実より”仮想現実”にのがれている人々と言えるのかもしれない。そして私がこの点を強調したいと思うのは、藤木正三牧師の著作に再三見られるように、安心して悩む、安心して苦しむ、つまり苦しみや悩みを意味あるものとして完全と受け止めて生きるキリスト者の生き方に通じるように思えるからである。
         ところが多くのキリスト者は、信仰者に悩み、苦しみがあってはならないと教えられ、ある人はそれを吹信仰と決めつけられている。そして、A・W・トウザーの”安易なキリスト教”へと跳躍することになる。こうして宗教は一つの願望充足の手段と化し、ご利益的様相を帯びることとなる。(p.124)
         しかし、悩みや痛みを無視するキリスト教は影を持たない非常にわかりやすいかもしれないが、それはある面非常に平面的なキリスト教の姿なのかもしれない。イエスは、確かにこのような悩みの中に閉じ込められている状態からの開放を告げたが、それは、その悩みの内に孤独に閉じこもる状態からの開放であり、その悩みそのものがなくなり、その代わりに祝福が来るという単純化された神との関係を告げに来たわけではないのではないか、と思う。
         苦難の僕と呼ばれる以下の聖書の箇所がある。

        【口語訳】 イザヤ書

         53:1 だれがわれわれの聞いたことを
         信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
         53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
         53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
         53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
         53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
         53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
         53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
         53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
         53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
         53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
         53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
         53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
        物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
         
         まさに上の苦難の僕と呼ばれるイザヤ書で示されるように、ナザレのイエスは、現実社会の中で、苦難の中で神と共に生きることが、そして苦難の中にいる人々の中に下ってこられたイエスと共に生きる事がキリスト者ではないか、と思う。

         ある意味、苦しみの中に降りてくる神、そして共苦する神ということは重要ではないか、と思うのである。まさに以下のスープキッチン(ホームレスの人々に食事を与える教会のキッチンでの給食)に並ぶイエスということの中にあるキリストのような姿である。

         このような小さくされた人々と接し、視線をかわし出会うことは、社会派がすること、あるいは、リベラルのすることであると、批判し、この小さくされた人々を無視し、ある意味故意に忘れようとしてきたキリスト教が一部にあったのではないか、と思うのである。そして、説教を聞くことこそが、あるいは宣教を聞かせることのみがキリスト教の宣教である、と無批判に考えてきたキリスト教もあったかもしれない。


        スープキッチンの列に並ぶキリスト

        教会内暴力と無知

         無知ゆえの暴力、ということはどの国でも起きる。日本でも、関東大震災後の東京でも無知ゆえの朝鮮半島出身者に対して起きた暴力、アフリカでは、ツチ族とフツ族の中で部族同士で起きた暴力、ドイツでは、ナチスドイツによるユダヤ人に対する暴力、英国でのアイルランド人やスコットランド人に対する暴力、キリスト教の中でも、ユグノーに対する暴力など、数えきれないほどある。
        無知ゆえの暴力は私たちの日常にはいくらでもあることだが、同じことが信仰の世界において言えるのではないだろうか。私が”信仰による人間疎外”というテーマを考えるときヘンリ・ナウエンのキリスト教理解が甚だ重要であると考える理由の一つはそこにある。(p.125) 
         あるいは、プロテスタント派の中でのカトリックへの無知に対する批判などが日本でも見られ、霊性の違いを認めず、その違いをことさらに強調し、カトリックを批判したり、あるいはプロテスタントを批判したりする実に無意味な論争があると思う。

         日本の人口の中でカトリックとプレテスタント合わせても1%以下のキリスト者でありながら、お互いに関する無知から、論争し合い、罵り合い、尊敬もせず、軽蔑し合うというコップの中の嵐というより、猪口の糸底の中での嵐状態ではないか、と思うのである。それってものすごく不幸だと思うのである。


        猪口とその茶色の糸底

         個人的には、ナウエンとマクグラス先生がカトリックと正教会、アングリカンコミュニオンの持つ霊性への窓口を最初に開いてくれた人物であっただけに、非常に印象深い。その意味で、プロテスタントの学校で教えた経験を持つナウエンであるがゆえに、プロテスタントとカトリックの間のブリッジとなった人物であるという意味で、非常に重要だと思うのである。

         また、教会全体として、プロテスタントとカトリックをつなぐブリッジチャーチとしての性格を持つアングリカンコミュニオン(日本では聖公会)の働きは案外重要であるが、あまり日本でその重要性が認識されているとは言えないのが残念である。ただ、マクグラス先生によれば、福音派(マクグラス先生の用法では、教義の福音派ではなくプロテスタント全体をさす模様ですが)における霊性の強調は、正教会やカトリックと霊性の点で共通理解を結べる可能性を持つことをご指摘である。

         その意味で、東方正教会の霊性の豊かさを知らず、カトリック教会の霊性の幅広さも知らず、アングリカンコミュニオンの歴史も知らず、プロテスタントの歴史的な背景の中で生み出されてきた幅広い教義の豊かさも知らず、というのは、実に残念ではないか、と思うのである。


         次回最終回に続く




        評価:
        工藤 信夫
        いのちのことば社
        ¥ 1,296
        (2015-06-05)
        コメント:お勧めしています。

        評価:
        ジャン・バニエ
        あめんどう
        ---
        (2010-08-20)
        コメント:ナウエンを理解するためには読んでおいた方が良い本の一つ。これを読まずにナウエンを語るのはやめた方がいいかもしれない。

        評価:
        ジャン・バニエ
        一麦出版社
        ---
        (2003-12)
        コメント:是非読まれることをお勧めする。

        2015.08.26 Wednesday

        工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その12(最終回)

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            本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」から後半からについてである。今回で、この連載シリーズは最終回となる。

          日本人にわかるキリスト教

           日本人に判るキリスト教、あるいは日本に現地化しながらも、日本の神道や日本型の仏教と習合しないキリスト教の問題に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
           拙著『これからのキリスト教』(いのちのことば社)の中で、私は遠藤周作氏の二つの視点を紹介している。その一つは西洋型キリスト教ではなく、日本人にもわかるキリスト教理解であり、もう一つは人間のこころの探求である。
            前者に関しては、遠藤周作氏と並んでこのテーマをめぐって一生苦しんだ井上洋二神父が、新しいタイプの宣教を試されたことが知られている。(中略)そろそろ私たち日本人もいつまでも欧米型キリスト教の追従ではなく、日本人に相応しいキリスト教理解を志してよいのではないか。というのも、私自身も年齢を重ねれば重ねるほど、こうした先人の生き方に親和性を抱くからである。(もちろん、かつての日本型キリスト教になるということでは決してない。)(『真実の福音を求めて』 pp.125-126)
           この工藤さんの記載の中に言及されている井上司祭は、西洋型のキリスト教が日本人のからだや身体に合わないまま、なかば無理矢理頑張って西洋型のキリスト教に合わせ続けてきたことに違和感を抱かれ、日本人が素直に依存できるキリスト教とは何か、ということで、探求された方であった。そして、法然の思想を参照点にしながら、「南無アッバ」と神を呼ぶことが神と共に生きることではないのか、ということを提唱されて、そもそも、日本人の体形に合わない西欧型鎧兜を無理やり着る、あるいはそれが合わなくてもそれを着なければならないとするキリスト教、着させることをよしとするかのようなキリスト教ではなく、最もコアの神の存在、神と共に生きるという部分を中心としつつ、何が本源的にキリスト教であるかを考えられた井上司祭の主張を取り上げ、土着化の必要性を説いておられる。

           とはいえ、西洋道徳・西洋倫理としてのキリスト教などではなく、本質的にキリスト教という部分、そして神が人と共に生きようとされ、わざわざ小さくなられたということを覚えるなどというキリスト教の本質部分を見失わないようにしつつ、土着化は進めていくべきであるし、「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」に指摘されたような普遍的でない部分の多いキリスト教ではないように一定の配慮が必要かもしれない。

           実は、このあたり、アフリカの霊性というか、アフリカの土着化は案外参考になるのではないか、と思うのだ。このあたりのことは、「総説キリスト教」でマクグラス先輩も少し書いておられた。

          キリスト教は外形ではないかも

           上でも少し触れたが、これまで何度かこの記事としても書いてきたが、明治期以降の日本社会におけるキリスト教は西洋倫理、西洋道徳として受け入れられてきたような気がする。その結果、キリスト教徒としての行動様式がかなり重視され、その行動様式に従うことがキリスト教であるというような理解の方が生まれ、その結果、教会からの人間疎外が発生しかけているような気もするが、そのあたりの事に関して、工藤さんは次のように述べておられる。

           これからのキリスト教は、教理や教義の大切さと並んで人間そのもののあり様にもっと注意深くあるべきではないだろうか。ところが、私が述べた「人間疎外」は、教義、教会、組織が優先され、その大きな流れの中に肝心の個人が埋没する。
            しかし、聖書の世界はあくまでも、”人が失われること”を危惧する世界である。つまり、個人の精神世界、その内容がおろそかにされる世界は信仰の名に値しないのではないだろうか。これではいくらその形や外面が強調されたところで、一人ひとりに届かないであろう。(同書 p.127)
           ここで、「聖書の世界はあくまでも、”人が失われること”を危惧する世界」というご指摘は非常に重要であると思う。ナザレのイエスの主張は、Rescue Mission(その人を人間としての神の前の特権を回復させる救出計画)であるとN.T.ライト先輩は、Simply Christian(日本語版 クリスチャンであるとは)で書いておられるが、日本では、そのあたりの理解がまだ十分でないのかもしれない。それよりもむしろ教理とか教義とかという概念、それ以上に行動パターン、教会内での所作や言動のあり方(これ、道徳とか作法であって、キリスト教そのものではない、と個人的に思うが)を重要視される向きもあるようには思う。

           本来、神に向かって真剣に主張し関与しようと誌たのが、信仰であり、神と共に生きることだと思うのだ。アブラハムだって、バナナのたたき売りよろしくではあるけれども、次のように神に訴え、神と真剣に交渉したようなのだ。
          【口語訳聖書】 創世記
           18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
           18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
           18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
           18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
           18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
           18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
           18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
           18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
           18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
           18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
           18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
           18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
           18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
           18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
           この部分を改めて思いながら、ロトの救出ミッションということが創世記の中に出てくることは案外重要ではないか、と思うのだ。ロトの救出ミッションはいくつか創世期の中に出てくる。しかしロトは何度も救出されている。新約聖書の中で、また、ユダヤ的伝統の中で、アブラハムが称揚されることもあり、キリスト教の信徒の人々はアブラハムをご自身に重ねることが多いようであるが、個人的な感想から言えば、このロトの方に私自身は近いと思っている。何度も、何度も、救出を受けながらも、それでもなお、罪の中に生きてしまわざるを得ない弱さを抱えたものとしての性質を持つように思っている。それが、罪の中に生きながらも、神と共に生きるということなのかもしれない、と思っている。

          「こころ」を忘れた近代からの回復

           近代化社会は、計測の社会でもあったことは、Against the Gods(日本語名 「リスク」)という本の中でも書かれているが、教会もそれに支配されてきて、計数(要するに教会員の人数とか教勢という語で示されるもの)に支配されてきたように思う。そのあたりの事に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
          (引用者補足 これまでの本の出版動機は)人の心が大切にされていない、尊重されていないのではないかという問題提起、宣教の対象である人々の人間理解の欠如ということである。しかし、明らかに日本人のメンタリティは「心のケア」に向かっている。戦前の日本は明治以来の富国強兵策であって、国家のため一心不乱に走っていた。それゆえキリスト教もその多くは教会形成に力を注いでいたと言えるように思う。バブル崩壊後は組織が必ずしも個人の幸福を保証してくれるものでないことに気付き、社会はようやく一人ひとりの大切さに目を向けつつあるのではないだろうか。(同書 p.128)
          確かに人のこころの問題は大切である。だからと言って、個人的に思うのは、カウンセリングはある面重要であるが、キリスト教そのものではない、という側面はあるのではないか、と思うのである。

           確かに心の問題、一人ひとりの心の問題は大事であるが、それは、ナザレのイエス、ないしは、キリストのレスキュー・ミッションとは少し違うかなぁ、と思うのである。もっと、神との深い関与の問題だと思う。ただ、こころは、キリストのレスキュー・ミッションと深くかかわる場所であるし、キリストのレスキューミッションが現れる場所であることも確かである。そして、それを忘れると、形式論だけが重視される様式論が幅を利かせるのは、ナザレのイエスが祭司や律法学者への批判としたご発言になられたことに現われているようにも思うのである。
          【口語訳聖書】 マタイの福音書
           23:23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
           23:24 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
           23:25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
           23:26 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
           23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
           23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
           23:29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
           23:30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
           23:31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
           23:32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
           しかし、個人的には、このように批判を受けても致し方のないことをしてきたこともあるので、よそ様の事をご批判はできない。

          コイノニア(交わり)の重要性

           教会とは何か、それはコイノニアである、と思う。建物でも、教団でも、組織でも、儀式でも、賛美歌でも、聖書の特定の翻訳でもなく、それを超えた存在である「コーパス・クリスティ」、あるいは「コルプス・クリスティアーヌム」、あるいは「キリスト共に生きる人々の世界」こそが、教会だと思うのである。工藤さんはフィリップ・ヤンシーの説をご紹介しながら、以下のようにお書きである。
           教会にもキリスト教式教育にも失望しつつ教会の大切さを主張したフィリップ・ヤンシーが、その多岐にわたる模索の中から、本来の教会があるべき姿を表現した言葉が二つある。それは、「交わり」、「関わり」の共同体、という概念である。ヤンシーはこの事をシカゴの教会とドイツの難病施設で実際に起こった体験から導き出している。(同書 p.132)
           先日、ある改革派教会を諸般の都合でご訪問した際に、たまたま、そこの礼拝説教の中で、このコイノニアの事が取り上げられていた。牧師の方は、ルターの教会論をご紹介しながら、まさに教会とはコイノニアであり、食事共同体(より正確には、聖餐共同体、平たく言えば、食事を一緒にする人々)である事をご提示なさっておられた。まさにその通りだと思う。

           その意味で、教会が食事(愛餐会)や聖餐式を大事にするのは、そういう背景からであり、伝統や昔から「おうどん」を食べてきたから、ではない。

           尚、関西では、教会の食事会には「おうどん」がつきものであることは、Ministryの大阪の出張講座で関西学院大学の中道先生もおっしゃっておられた。詳しくはこちら ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 をご参照賜りたい。


          キリスト新聞社発行のカードゲーム 
          「ピューリたん」の中のキャラクター

           余談に行き過ぎたが、元に戻すと、教会とはコイノニアそのものなのであり、そこで人間疎外、つまり交わりからの排除、コイノニアからの排除が起きるとすると、それは教会論的にどうなんだろうという疑問につながっているようにも思うのだ。イエスが語られた、次のことばの意味を考えたい。そして、カナン人の女の発言も。両方とも、食卓とコイノニアのことを言っていると思う。
          【口語訳聖書】マタイによる福音書
           9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
           9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
           9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
           9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
           9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
           9:15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
           9:16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
           9:17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
          さらに
          【口語訳聖書】マタイによる福音書
           15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
           15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
           15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
           15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
           15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
           15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
           15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
          イエスのコイノニア(交わり・かかわり・共同体)は閉じた共同体ではなかったようである。

          仕えるための共同体としての教会

           先ほど公開した匿名様のコメントへのご回答 匿名さんへのコメントにお応えして の記事ではないが、教会は偉くなるための組織や、ある人がビッグになるための組織でもないし、夢を実現する組織でもないし、成功するためのプラットホームのようなものではないと個人的には考えている。そのあたりの事に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
           そして、私はここで「村の小さな教会」と称して紹介した教会宣教のあり方は、牧師の経営戦略や、宣教的野心の支配する教会などでは全くない。むしろ、ポール・トゥルニエが『暴力と人間』の中で記した「神の貧しい人々」に属する人々であり、人々に教えることよりも仕えようとする教会の姿である。そしてそこにはヘンリ・ナウエンが『イエスの御名で』で明らかにしたような3つの誘惑、「自分の能力を示すこと」「人の歓心を買うこと」「権力を求めること」を旨とした宣教などとは、根本的にその方向を異にする。そしてこの誠実で地道な精神が息づいている。この方向性こそ新しい時代の、いや本来のキリスト教的教会のありかたではないかと私は思う。(同書 p.135)
           先日、これまた諸般の事情のために、縦乗りウェーイといった雰囲気のある若者の方が多い教会にご訪問したのであるが(見事に若者しかおらず40代以上の人はほとんどおられなかった)、そこでの牧師風の人の聖書説教や、賛美歌を歌いながら、アイドルグループにつきもののヲタ芸もどきの賛美の時間にはあまり違和感を抱かなかったのであるが、一つだけ気になったことがあった。


          ヲタ芸の基本技らしい w

           それは、若い信徒さん(大学生や既卒数年の方々 この層が圧倒的に多かった)が、証(Testimony)として発言していることの中に、レベル(Level)や次のステージ(Stage)、次のステップ(Step)という語がかなり出てきたことである。まぁ、お若いので言語表現能力が限られるということもあるのだろうが、この後この概念がそのままキリスト教として理解されているとすると、いくつかの問題をはらむかもしれない、と思ったのである。つまり、キリスト教会の中のランキング化であり、序列化であり、序列順位を競い合うような形になっていくことである。

           このようなことは、オウム真理教でも用いられたし、残念なことではあるがキリスト教カルトでも見られたことだからである。つまり、ランキング上位に行くことが望ましいことであり、その結果として、上位にいけない人々に無理を強いてランキングの上昇を目指させたりすることが起きねばよいが、と老婆心ながら心配したのである。個人的には、キリスト教会というのは、そういうものと無縁のものであってほしいと願っている。

           特に、工藤さんの「人々に教えることよりも仕えようとする教会の姿」という表現を考えるとき、教会は、人々を教え、指導するところやレベルアップさせるところではなく、以下の連載でご紹介したような小さくされた人々とのコイノニア、そして、工藤さんがおっしゃるように、多様な人々が参加できるような誠実で派手さはない地道なコイノニアであってほしいと思う。近代の理念系とはだいぶん違うものであり、現状の教会に大きな変容を求める部分があるかもしれないが。

          日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

          日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

          以上、長くなったがこの連載を終わりたい。


          評価:
          工藤 信夫
          いのちのことば社
          ¥ 1,296
          (2015-06-05)
          コメント:お勧めしてます。

          評価:
          アリスター E.マクグラス
          キリスト新聞社
          ---
          (2008-07)
          コメント:非常に良かった。あなたの知らないキリスト教の世界が垣間見えるかも。翻訳にはやや難があるが。

          評価:
          マーク・R. マリンズ
          トランスビュー
          ¥ 4,104
          (2005-04-28)
          コメント:非常に重要なことが書かれている。おすすめ。

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