2015.03.25 Wednesday

森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(11)

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    前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

     今日は、ムーディ先生をご紹介したい。一世を風靡したムーディ勝山ではない。


     熱唱するムーディ勝山先生

     いや違う。この写真の方である。

    ムーディ先生の伝記の表紙

    19世紀末リバイバルとムーディ

     ムーディ先生は、経済社会的な変革期を迎えた混乱の最中のアメリカの中で、伝道された方である。その背景に関して、森本先生は次のようにお書きである。
    ドワイト・ムーディ(1837-1899)の活躍した19世紀末は、「第3次」の信仰復興運動に数えられる。それは、アメリカが農業社会から工業社会へ、農村中心から都市中心の国家へと姿を変えつつある時代だった。その変化を支えるために、さらに大量の移民が流入し、それと共に経済格差も広がってゆく。素朴な田舎の出身で、満足な教育も受けず、都会の喧騒の中で不安と孤独をかみしめている人々が、無名の「大衆」となって漂流し始めた時代である。リバイバルは、第一次、第2次の時と同じように、こうした人々の心に浸透して大きなうねりを生み出していった。(反知性主義 pp.185-186)
     この時期に原理主義(Fundamentalism)という語が生まれる。この経緯に関しては、こちらの記事 キリスト教Evangelicals と Fundamentalits が形成されるアメリカの社会背景を参考にしていただきたい。

     ところで、「都会の喧騒の中で不安と孤独をかみしめている人々が、無名の「大衆」となって漂流し始めた時代である。リバイバルは、第一次、大事にの時と同じように、こうした人々の心に浸透して大きなうねりを生み出していった」という部分を読んで思い出した本がある。それは、ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』である。

     この『キリスト教とローマ帝国』中で、スタークは、ローマ帝国の中で災害や疾病で社会的混乱や不安が起きたときに、キリスト者が増え、その挙句の果てにキリスト教が国教化するまでになる。この背景を丹念な歴史的に入手可能なデータを入手できる調査結果に基づき、統計的手法を用いて示している。

     ある面、社会不安が急増した時に、宗教への関心が高まることは、ローマ帝国だけではなく、日本でも起きている。奈良期の初期、平安初期、鎌倉期、安土桃山期、江戸末期から明治初期、大正期、1945年から1950年ごろ、1980年代のバブル崩壊期と多様な新宗教、新宗派が勃興し、一種の宗教ブームの様相を呈している。その意味で、社会的混乱が起きた時期の前後には、宗教的な何かにひかれていて、関心を持つ人が増加する傾向にある模様である。

    貧困者への伝道
     キリスト教は、貧困者への伝道と援助をかなり昔から行ってきた。これは、Moodyとて、同様である。そこらに関しては、先日のフィニー先生に関するところでご紹介したとおりである。

     スラム街の子供や親にとり、既存の教会はとても敷居が高くて足を踏み入れることができない。ムーディは、そういう貧困階級のための「教会」を作り、その初代「牧師」としてふるまった。もちろん彼は神学の教育など受けたこともなく、どこかの教派で正式に牧師として認められたわけでもない。おそらく自分でも、牧師であるつもりはなく、あくまで困った人の面倒をみる世話役くらいの認識だったと思われる。(中略)会社勤めのサラリーマンがきるような、普通の背広姿で説教題に立ったのである。それがまた人々に親しみやすい信頼感を与えた。(同書 pp.187-186)

     当時のアメリカでも、貧しい人々、特に1840年代の後半のジャガイモ飢饉後のアイルランドからやってきた食うや食わずのアイルランド系移民や新たに到着し始めたイタリア系、北欧系及び東欧系移民、中国系を中心とするアジア系移民にとって、バプテストでも、ウェスレー派でも敷居が高くてアクセスへの障壁があったのかもしれない。また、アイルランド系移民はまだ問題(アイルランド英語は英語ではないといううわさもないわけではないが)がないにせよ、北欧系、東欧系移民にとって、説教が理解しにくかったことは想像に難くない。

     もちろん、ジョナサン・エドワーズ等を代表格とするピューリタンの場合、確かに高踏的であり、その中に放り込まれた場合、借りてきた猫状態になるのは当然ではないだろうか。英語が理解できない第1世代なら、一体何が起きているのやらになりそうである。

    ミーちゃんはーちゃんの集団とMoody

     しかし、ミーちゃんはーちゃんの教派的伝統でもある極端な平信徒主義に立つラディカルなセクト型教会にいるので、「もちろん彼は神学の教育など受けたこともなく、どこかの教派で正式に牧師として認められたわけでもない。おそらく自分でも、牧師であるつもりはなく、あくまで困った人の面倒をみる世話役くらいの認識だったと思われる」をみると、まるで、ミーちゃんはーちゃんの理解と同じようなものである。この類似性がミーちゃんはーちゃんがいる教派の19世紀の大英帝国内の当時の信徒たちがMoodyの英国での活動を支援することになる。これについては後述する。

     ミーちゃんはーちゃんの教会内の立ち位置であるが、まぁ、平信徒主義に立っているので、世話役というよりは、教会内の実務処理担当者兼信徒説教者兼伝道師という感じだろうか。まぁ、平信徒主義なので、他の人も聖書からの話も、その方の得意・不得意を見ながら順番にお願いしている。 

     まぁ、「会社勤めのサラリーマンが着るような、普通の背広姿で説教題に立ったのである。それがまた人々に親しみやすい信頼感を与えた」とあるが、「会社勤めのサラリーマンが休日に着るような、普通のカジュアルな姿で説教題に立ったのである。それがまた人々に親しみやすい世間話を説教の冒頭に持ってきた上で、聖書から話をする傾向にあった」という感じにすると、まぁ、大体私が今いる教会の説教者の雰囲気といえるだろう。

     ただ、服装はカジュアルな形で話していることの背景は、ネクタイに背広だと、かなり硬くなってしまうので、服装自体はカジュアルにしている。ただ、個人的には、世間話は途中に類例として混ぜることがあるが、私の説教スタイルは、ほぼ世間話が入らないので、「学校の授業見たいだ」と言われることがある。これまで出てきたアメリカのキリスト教会で言うと、ウェスレー派とピューリタンの間で、ウェスレー派寄りという感じではなかろうか、と思う。

    Moodyと単立系福音派教会

     ここで、森本アンリ先生は、独立系教会、単立系教会、超教派系教会に関して次のようにお書きである。
     ムーディの教会は、その後全世界で見られるようになる「独立系」教会の走りとなった。これは、伝統的な教派の枠組みとは無関係に、民衆の中から自生的に成立する集会のことである。読者の中には、そんな教会はいくらでもあるはずだ、と思われる方があるかもしれない。確かにその通りである。昨今なら、そういう教会は「単立」とか「超教派」を名乗ることなるのだろう。実情からすれば、取り立てて既存の教派を「超越」しようとしたわけでなく、ただみんなが自然に集まって出来ただけであるとしても。(同書 p.186)
     現在の福音派には、かなりの割合で「独立系、単立系」の教会が多い印象がある。伝統的な教派の枠組みの不自由さにつらさを覚えた人々で、特段教派にこだわりがないがゆえに、勝手に教会のようなものを作ってしまった感じだろうと思う。

     森本あんりさんは、「取り立てて既存の教派を「超越」しようとしたわけでなく」とお書きであるが、教会のようなものを作った段階の第1世代では、どこからも教会運営や方針に関して嘴入れられたくなくて、勝手連的に教会を作ったのであろうけれども、第2世代やそれ以降の世代では、それが「教派を超越する」という教会や「他の教派よりも優れている」とか「自分のところだけが正しいキリスト教である」という向きも出てくる。「ただみんなが自然に集まって出来ただけ」であるにもかかわらず、である。

     これは、反知性主義というよりも、過去のいきさつが忘れ去られていくことによるものだと思っている。まぁ、キリスト者では、聖書理解がかなり神とのかかわりのあり方を決めていくので、どうしても、

     「自分のところが正しい」
     ⇒「自分のところだけが正しい」

    という思い込みが生じやすいと思う。

    繰り返されるイベントとリバイバル 

     現代のフ○ンク▼ン・グ○ハム(ウィ▼アム・フ○ンク▼ン・グ○ハム3世)等の伝道集会やら、リバイバル大会やらで、音楽と説教という劇仕立てのルーチン化したイベントがあちこちで多用される原型に関して、森本さんは次のようにお書きである。
     フィニーのところで前述したとおり、「リバイバル」という現象そのものは、寄せては返す波のようにこうして何度でも繰り返す。そして、そうであるからこそ、リバイバルは成長ビジネスとなる。一度の回心でだれもが聖人になってしまったら、この商売はやがて行き詰ってしまうだろう。しかし、リバイバルはいわば同じ客に同じ商品を何度でも売ることができる。(同書 p.191)
     リバイバルは何度も繰り返していることは、過去のリバイバルの歴史をみればかなり明らかである。このあたりのことは、D.M.ロイドジョンズのリバイバル をご覧いただくとわかるかもしれない。ただ、ロイドジョンズは、リバイバルをビジネスとしてとらえてはいない。純粋に霊性の範囲内でとらえており、祈りによるものと明らかに示している。

     しかし、グ○ハム一族も、本来的にはそういうあり方に反対していたはずの人たちだったはずなのに、Dynastyを構成しているとおかしげなことが起きていそうな気がする。


    グ○ハム2世(元祖)


    グ○ハム3世(総本家)


    グ○ハム4世 (本家)

    「なんか、右のひとさし指突出してしゃべる、ってのは遺伝ですか?」
    って聞いたら怒られそう

     ここまで書いて、お近くの国の指導者御一族のことを思い出してしまいました、とさ。




    イベントドリブン型福音伝道の原型

     しかし、アメリカ型のリバイバルは、割と同じ客に同じ商品を何度でも売る、そのために、場所を変えながらリバイバルのために何度でもイベントを起こす、そして、何度でも信仰者が起きるという経験をしているらしい。そして、アメリカの伝道団体は、このイベントドリブン(イベント志向)型の伝道方法をとりたがる。そして、人が集まらないときには、そのイベントに駆り出された奉仕者が叱責を受けたり、苦情を言われたりする。そういうとんでもない罰ゲームが待っている。そういう意味で、イベントドリブン型の伝道方法って、個人的には、どうなんかなぁ、と思っている。

     さて、このイベント・ドリブンな伝道方法というのは、森本先生ご指摘の通り、初期リバイバル以降アメリカの伝統であるが、音楽が導入されるのは、おそらくこのMoody先生以来ではないか、と思われる。そして、これは、現代の多くの福音派と呼ばれる新興プロテスタントでの特徴でもある福音派諸派で、音楽やPAが重視され、コンサートと見紛うばかりのキリスト教界もあるし(それはそれで悪いとは言わない)、中には、イベントの音響屋をやった方がいいのではないですか?といいたくなるほど、PA関係の機器に詳しい牧師先生もおられる。まぁ、PAは説教が届くためには重要なのだが、そこで真空管アンプが、と言われてもなぁ、と思う。

     周到な準備の後、彼はゴスペル歌手のアイラ・サンキー(1840-1908)を伴って二年間のイギリス伝道旅行に乗り出す。付いた時には無名であったが、説教と音楽という二人の名コンビは、スコットランドとアイルランドの大都市を皮切りにリバイバル集会を繰り返し、どこでも大歓迎されて、二年後にはイギリス中の有名人となっていた。ロンドンだけで、250万人が彼の説教を聞いたと言われる。(同書 pp.192-193)
     ところで、このイギリスでの伝道旅行に、プリマス・ブラザレン(プリマス・ブレズレン)の平信徒の皆さんが、宿泊環境を提供したり、イベントのお手伝いをしたりしたことが、CoadのA History of Brethren MovementやGrassのGathering to His Nameに記載されていた。

     


     なお、このブラザレン派というグループは、その数十年後に英国で行われるビ▼ー・グ○ハム(ウィ▼アム・フ○ンク▼ン・グ○ハム2世)伝道大会でも、かなり積極的に支援したことが、上で紹介した2冊には書かれていた。



    評価:
    D.M. ロイドジョンズ
    いのちのことば社
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    (2004-10)
    コメント:よい。この本の200ページにブラザレン派のことが出てくる。

    2015.03.28 Saturday

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(12)

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      前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

      エンゲルスの本に登場するムーディ先生
       実は、エンゲルスの本の序文にムーディが登場するらしい。実はエンゲルスとムーディ先生は同時代人だったのね。知らんかった。

       そのあたりのことに関して森本先生は次のようにお書きである。

      彼(引用者注 フリードリヒ・エンゲルス)の『空想より科学へ』は唯物論思想の入門書として、マルクスの共産党宣言や資本論よりもよく読まれた著書であるが、その英語版への序文になんとこのムーディが登場する。(反知性主義 pp.199-200)
       どうも、エンゲルスは、ムーディの伝道活動を宗教という産業ととらえていたようである。ある面、これは正しいかもしれない。近代の大量生産、大量消費においては、ある程度の同質性を前提に置いたうえで、それをどうこなしていくのか、ということ産業だからである。根本的なところで、産業とクラフトマンシップは似て非なるものである。産業は大量生産であり、いかに効率的にたくさん作るかが勝負であるが、クラフトマンシップは、少数あるいは一点ものを、機能を十分に果たすものを、いかに良い品質で、作るものである。18世紀まではクラフトマンシップが残っている時代であり、20世紀が産業の時代であることを考えると、19世紀というのは、クラフトマンシップから産業に転換する時期であるのであろう。

      根来塗り 日本のクラフトマンシップが現れた工芸品 
      この刷毛目と鑿跡の荒々しさが、個人的には好み


       このため、個人の回心が大量に起きているリバイバル現象を、本来的には、個人的な回心であるはずのものが、大量生産的な方法で一挙に起きていることから、宗教あるいは信仰の産業化とエンゲルスに移ったように思うのだ。

      効率性が持ち込まれたリバイバル
       もちろん、大集会でのリバイバル現象は、外部の人間であるエンゲルスからは、まるで、食肉工場よろしく、信者が大量生産されていく過程に見えたのだろう。その対応の効率化に関して、森本先生は次のようにお書きである。
       
      ムーディーは「決心者カード」を使うようになる。これは、「私は今後クリスチャンとして生きることを真摯に希望します」という一言が印刷されたカードで、決心した人はそれに名前と連絡先を書いて出すだけである。(中略)
      カードは集会ごとに集計され、地域ごとにまとめられて集会に協力した教会に渡された。自分が行きたい教会や知っている教会、あるいは面会に来てもらいたい牧師の名前を記入する欄もある。牧師たちはそれをもとに、一人一人を訪ねて回ることができるのである。(中略)
      実に効率の良いシステムである。これまで、巡回伝道は巡回セールスのようなものだ、と説明してきたが、歴史の順序からいえばこれは正しくない。むしろ逆で、巡回セールスと派巡回伝道をモデルにできあがったビジネス形態なのである。映画「エルマー・ガントリー」に出てくる主人公も、本来の仕事はセールスマンであったが、その手法は巡回伝道とまったく同じであった。(同書 pp.207-208)
       この記事を見ながら、国際事務機器会社IBMのその飛躍の出発点となったことが、国勢調査の調査の事務処理の効率化であったことを思い出した。ホレリスの名前は、未だに一番最初に覚えたプログラミング言語であるFortranでの文字処理定数のホレリス定数として、その名を残す。

      http://www-01.ibm.com/support/knowledgecenter/SSGH4D_14.1.0/com.ibm.xlf141.aix.doc/language_ref/hollerith.html?lang=ja

       なお、下記に示すパンチカードは、数度だけ使ったことがある。可搬型ハードディスクやUSBメモリなどは、想像すらつかなかった。このころは、漸くTSS処理可能な機械の中で割り当てられたディスクスペースにプログラムを保存するのが、精いっぱいであった。なお、紙テープに書いたマシン語くらいは昔読めた。


      Fortranの時にはこんなパンチカードを使った


      ホレリスのパンチカード

      ホレリスのタビュレーティングマシン(集計機)

       巡回セールスマンの記述を読みながら、あぁ、巡回牧師が原型になって、巡回セールスマンになったというのはわかる話である。まぁ、基本的に農業集落が多く、密集して住んでいる訳でないために、本来必要なサービスが提供されず、それを補うのが巡回セールスマンであったわけである。いまで言う行商である。しかし、行商と行っても、日本でちょっと前に見られたような生鮮品の行商ではなく、割と耐久度の高い、服や写真、靴、農具や調理具といった耐久度の高いものから、チョコレートのようなちょっと高級品まで、巡回セールスマンが販売していた。


      退役したら奥さんと離婚する羽目になった元米兵のチョコレートの
      巡回セールスマンが出てくる「雲の中で散歩」

       この映画の中には、もともとカリフォルニアに住んでいたメキシコ系ワイナリーのオーナーが、娘を大学まで行かせるのではなかったというような話が出たり、息子が大学で学んだ計数主義をもとにワイナリーを経営しようとして、ワイナリー一筋で、伝統と経験に基づいて経営してきた父親と対立するような話が出てくる。なかなか、面白いアメリカの現実が物語としてあちこちにちりばめられている。

       ところで、巡回セールスマンといえば、アメリカでは移動遊園地というような産業が結構ある。まぁ、これは中世のサーカスの伝統であり、ロマ人的なにおいがしなくもない。下記の動画は「シャーロットの贈り物」 のワンシーンであるが、County  Fair(農産物やパイの品評会などがある)での楽しみの一つが、この移動遊園地である。


      シャーロットの贈り物のワンシーン

       巡回セールスマンは、次いつ現れるのかよくわからないし、落語家よろしく口八丁手八丁で物を販売するその話芸を楽しむという側面もある。つまり、いい方は悪いがほら話を聞かせて、人の意識をほら話に集中させながら物を販売するという側面があるようだ。そういうほら話を語り続けた親と子供の確執を父親の死去と共に思い出しながら、その真実性、ものがたりに含まれる真実性を見直していくという非常に良い映画が以下に紹介するビッグフィッシュである。非常にアメリカ的な社会状況を描いた映画でもある。


      巡回セールスマンのほら話を扱った映画

      アメリカ社会でのリバイバルと
      アメリカのキリスト教会の特徴

       アメリカ社会における教会の意味、ということに関して、森本先生は非常に重要な指摘をしておられる。
      リバイバリストの方では、そういう(引用者注:リバイバル集会がやってくると突然入会希望者が増える)結果を残念に思うふうでもなかった。これは、アメリカのキリスト教が神学や教理といった原理的な違いで切り分けられているわけではない、ということを示す大きな証拠である。多くのアメリカ人にとって、教会とは当時も今も、社会的な交流の場なのである。(同書 p.209)
       このご指摘の中で、重要だと思うのは、教会そのものがアメリカ社会では、「教会とは当時も今も、社会的な交流の場」というご指摘である。なぜ、この指摘が重要かというと、基本的にアメリカ社会を支えているのは、この社会的な交流の場で生み出される議論やサービスや行為だったりするからである。アメリカ社会の民主主義の原型ということが、この教会運営の中で培われている側面があるからである。「おらが教会=おらが社会=おらが街」という側面が非常に強い。特に会衆派ではそうではないかと思うのだ。この辺りのことは、『孤独なボーリング』で、社会資本の形成に教会が果たした役割をロバート・パットナムは非常に明快に紹介している。

       この社会的な交流の場という別の側面に関して、平田オリザ氏が「福音と世界」誌においてインタビュー記事として掲載されていた「市民の魂(ソウル)について」中でふれられていた、教会のもつ劇場的側面ということを思い出した。劇場や映画館も社会的交流の場である側面を持つのと同様に、教会も「人が集まる」という点で類似の側面を持つというのは、非常にアメリカ的な側面であるように思う。

       あと、ここで印象的だったのは、「アメリカのキリスト教が神学や教理といった原理的な違いで切り分けられているわけではない」という表現である。旅行中にサンディエゴ近郊の教会に訪問した時、その説教の中で、割と若いパスターが、自分の配偶者の母親が、改革長老派の信徒で、自分はバプティストの神学校に行き、自分の奥さんはもともと会衆派に大学時代に行っていて、ということを話していたことを思い出した。世代によっても、場所によっても、そして、家系的な民族性の違いによって、一つの家族の中でも多様なキリスト教が戦国時代のように林立しているアメリカの宗教事情の中では、もはや神学や教理的な味わいの違いでは切り分けられず、民族のるつぼであると同時に宗教のるつぼにもなっており、もう、宗教自体が民衆宗教あるいは市民宗教というのか家族関係を通してのアマルガム(合金)になっており、教理や神学では分けられなくなっており、「なんとなくキリスト教」という感じになっているのが、他国との違いであるように思う。その意味で、宗教間の教理の相互乗り入れも激しく、混乱も起きやすいかもしれない。

      テレビ局のようなMoody先生と日本
       ムーディについて、この本の中で一番印象的な表現は、以下の部分である。
      ムーディは、反知性主義の翼に実利思考のビジネス精神という強力なエンジンを備え付けた人物として記憶される。ホフスタッターの表現では、リバイバリズムが反知性主義の「種を植え付け」、ビジネス的な実用主義それを「最先端まで推し進めた」、ということになる。アメリカの反知性主義に特徴的なのは、この宗教的な平等理念と経済的な実用主義の奇妙な結びつきである。(同書 p.218)
       このムーディ、社会的にも非常に影響が大きかった。神学的にも彼は一種の頭陀袋というか、米兵がもって移動するダッフルバッグの中身みたいに何でも入っているという感じの神学的な混在が見られたのだと思う。

       現在福音主義神学の世界でも一部にこのブログで、批判的視線を向けているディスペンセイション神学(特にLeft Behindに代表されるクラッシックなディスペンセイション仮説)が福音派、特に米国福音派で一気に広がったのは、このムーディという一種の神学的ダッフルバッグというか超人気テレビ番組の一部にディスペンセイション仮説が入って行き、それがあちこちでばらまかれて以降である。その辺の過程に関しては、

      福音派が生まれたころの世界むかし話(7)

      D.L.Moodyの後方乱気流

      で既にお伝えしてきたとおりである。

       そして、このダービー先生の神学がMoody先生の説教の中に入り、アメリカの福音派のかなりの部分に入り、当時アメリカにいた中田重治先生にも影響し、最新の神学的動向として日本に持ち込まれ、一時期とはいえども、あの内村鑑三先生にまで影響する。大規模なイベント施設を活用したサーカスもさながらの伝道は、まさに、ビジネス的実用主義の当時の技術与件のもとでの極みとなり、その後、自家用車の普及に伴い、大スタジアムでの大動員型のリバイバル集会、フ○ンク▽ン・グ○ハ△伝道大会などの伝道大会の流れにつながっていく。別メディアの発展と普及、即ち、ラジオの普及、テレビの普及、ネットの普及にともない、ラジオ伝道者、テレビ伝道者、インターネット伝道者の系譜へとつながっていく。いまだに、アメリカではラジオ伝道者という職業というのか役割が存在する。その意味で、非常にこのMoodyという人物の役割は少なからぬものがある。

      日本の教育における平等理念と
      経済的実用主義の不幸な果実

       この中で非常に印象的だったのは、「アメリカの反知性主義に特徴的なのは、この宗教的な平等理念と経済的な実用主義の奇妙な結びつき」という表現である。これ、アメリカの世界観なのである。実は、アメリカの世界観は、1945年以降、日本の初等中等教育にこの概念が持ち込まれ、(宗教観抜きの)平等主義(あるいは、フランス人権思想に基づく平等主義)と経済的な実用主義の奇妙な結びつきに基づく小学校教育思想が独自に日本で発展した形となっている。

       「全ての個性を大切に」というお題目を唱えつつ、北朝鮮のようなマスゲームや日本の旧陸軍式の行進でそろえてみたり、音楽発表会で同一楽器で揃えて発表させるために大量の音楽嫌いを生みだしたり、給食を食べないと食べ終わるまで一人覚めた給食を食べるための居残りが待っているという人身拘束をしてみたりと、「フランス人権思想」が聞いたら発狂しそうな罰ゲームをやる。

       給食で思い出したが、これから日本が移民を受け入れるなら、イスラム圏の移住者の子弟のための制服の改変(肌を露出しない夏服)、給食への配慮も求められることになるが、給食では、安価な豚肉がたんぱく源として使われているが、それも利用できず、厳密に言えば、イスラムにとって適切な処理法に則り適切な方法で処理した肉しか食べさせられないことになる。この辺りのことは、理解して移民政策を組まないと、大東亜共栄圏が失敗した原因と同じ愚を繰り返すことになるのではないか、と心配している。

      繁栄の神学の原因はやはりアメリカ発か?

       個人的には、繁栄の神学は違うかな、と思っている。なぜかというと、神が出発点であるものが、人が出発点になるからである。より具体的に言えば、「私が○○だから、神様が祝福してくださる。」、「もし、私が○○したら、神様が祝福して下さらない」というのは、私がが中心であり、重点があり、神に重点がないからである。この現世利益的な繁栄の神学に関して、次のような記述があった。
       
      かつてトクヴィルは、アメリカ的な宗教の特徴として、宗教と現世的な利益との直接的な結びつきを指摘した。中世の聖職者たちは、来世のこととしか語らなかったのに、アメリカの説教者はいつも信仰が現世でどのような益をもたらすかを語る。アメリカ人は、利益に引かれて宗教に従うが、その利益を来世ではなく徹底して現世に求めるのである。そこに、反知性主義の息づく空間が広がっている。(同書 pp.218-219)
       一番気に入ったのは、「アメリカの説教者はいつも信仰が現世でどのような益をもたらすかを語る」と「アメリカ人は、利益に引かれて宗教に従うが、その利益を来世ではなく徹底して現世に求める」という部分である。無論、すべてのアメリカ人というわけではないが(J.H.Yoder先生や、Hauerwas先生もアメリカ人になっちゃいますから)、相当部分のアメリカ人の説教者は、現世での幸福追求として神の福音を語ることは多い。この辺りは、シンプソンズのLoveJoy牧師の説教などがその典型的といえよう。


      11分50秒からHauerwas先生のご講演 America's God この人はまとも
       
       しかし、「利益を来世ではなく徹底して現世に求めるのである。そこに、反知性主義の息づく空間が広がっている」というご指摘は非常に重要だと思う。一時期「壺」やら「印鑑」やらを売り歩いていたキリスト教まがいの東アジアの新興宗教団体やら、「最高ですかぁ~~」と言っていた新興宗教団体やら、本をビジネスモデルにしておられる新興仏教系の某公党(政府に認められた政党の意)と関係の深い新興宗教組織、それをビジネスモデル的にまねした某総裁の団体やら、駅前で朝夕の通勤時間に辻立ちをしておられる皆様にしても(何パターンかある)、徹底した現世利益追求型であり、また、反知性主義、反権威主義なのだ。その極みがオウム真理教であったように思う。そして、現世でのヴァジラヤーナの実現を目指し、武力革命の実現を真理党が一人も当選させられなかったために志向することになったような気がする。その意味で、オウム真理教が引き起こしたもろもろは、非常にアメリカ型の文化的反知性主義が日本でさいた結果であり、習合型宗教としてのあだ花(被害に遭われた方には、衷心よりお見舞いを申し上げるたい)だったような気がしてならない。

       
      「最高ですかー」 にあらわされた現世中心主義 反知性主義的だなぁ。
       


      評価:
      価格: ¥7,344
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:高いけど、社会の構成と社会資本の関係を知るにはよい本。

      2015.03.30 Monday

      森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(13)

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        前回までの連載はこちら 反知性主義をめぐるもろもろ  をご覧ください。

        平等という幻想
         日本の大学は、戦後一貫して大衆化の道を歩んできた。戦前の大学と戦後の大学は、同じ大学でも、格というか風格が違うのである。戦前の大学はドイツの大学に強く影響を受け、非常に卒業者が数が少なく、いまの大学院卒よりはるかに少なかったのである。いまはアメリカの文教政策の影響を受け、大学院卒が多いが(特に理工系)、文系なんか履く説何十年という感じで、予備校の教員などをしながら、大学の空きポストを待つ人々が多数であったのである。
         アメリカは富についても限りなく平等に近いが、知識についても平等な国なのである。初等教育はだれもが受けられるが、高等教育にはほとんどの人の手が届かない。トクヴィルがここで注目しているのは、単に高等教育を受けた知的エリートが存在しない、ということではない。それを代々世襲で受け継いでいく「知的特権階級」が存在しない、ということである。これがアメリカを旧世界から分かつところである。ヨーロッパには昔からの貴族の伝統があり、財産においても知性においても、代々受け継がれる特権階級が存在する。(反知性主義 p.235)
         以前にも触れたが、ヨーロッパと違いアメリカには世襲制が本来はないはずである。まぁ、Bush Dynasty(ブッシュ王朝)と呼ばれるような特殊な人々を除けばではあるが。アメリカ西岸部の教育機関に接していて思うのは、初等中等教育へのアクセスだけは、平等であるが、年齢やそれを完遂するかどうか、その終結する年齢の点においてはかなりばらばらであっていい、という世界観があることである。

         カリフォルニア州での経験で言えば、同じ学年を2回やっているものはちょくちょくいるし、その選択もかなり親に任されている感じがあった。実際、長男を現地校に入れる際、日本で半年1年生をやって現地校に編入させたら、2年生への編入ということであったが、まだそこまでの能力がないので、1年生に編入させたい、といったら、あっさり「あら、そうなの」という感じで速攻で1年生に編入させてもらった。

         ワシントン州で、交換教員として教鞭をとった時には、夜間の社会人向け大学院ということもあったのだが、教える生徒の半数以上が私より年長、退職者とか、州政府の公務員とか、州議員の政策スタッフとかまぁ、いろいろであったし、入って数カ月でやめるものも結構いた。

         アメリカといえば、アメリカンドリームは一種の下克上的なドリームとしてある程度は存在するもの、東部地区だと、特に芸術や文化なども含め、一種の知的エリートというか、エリート的な家計は存在する。とはいえ、ヨーロッパほどではないが。


        Time MagazineのBush Dynasty特集号 (2000年8月7日)

        英国の高等教育、米国の高等教育
         英国の高等教育と米国の高等教育では何が違うか、というとそのアクセス制限のぐあいである。そして、英国のアマチュアリズム感覚満載の貴族的な高等教育の志向と米国のプロフェッショナル感覚満載のアメリカンドリーム的なややガサツな感じのする高等教育の志向との違いである。
        ヨーロッパの貴族のように無為の暮らしをすることはできず、みんな自分で働かなければならない。だから学門の初歩は学ぶが、仕事に就く年齢になるともう金儲けのことにしか関心をもたなくなってしまう。社会に出て実践的なビジネスで成功するには、さほど高度な知性は必要とされない。正規の学校教育や洗練された教養教育などは、むしろ障害になることもある。(同書 p.238)
         実は、欧州の高名な科学者には、高名になる前から貴族や貴族のサロンに出入りしていた経歴を持つ人が多い。金持ちの暇つぶしに付き合っているうちに当代一流の人物に知られるようになり、そして名をあげていくという経緯をたどった人々が案外多いのである。
         この前、ある方からおわけいただいた、野呂先生の『ウェスレーの生涯と神学』を読んでいて、ウェスレー時代のOxfordやCambridgeに入ろうと思ったら、国教会の信徒でないとダメみたいなことが書いてあった。それ位、信仰が問題となった時代を英国は経ている。前にも紹介した炎のランナー The Chariot of Fireでも、ある生徒がユダヤ系であり、出自が貴族でないことがうんぬんされていた。

         しかし、米国にはそういう制約はほとんどない。そもそも、社会階級としての個人としての金持ちはいるが、社会階級としての貴族はないからである。最初のころは、ピューリタンでないとダメ、とか言ってはいただろうが、19世紀も後半にはいると、そんなことは言わなくなって世俗化が急速に進んでいるので、前回ご紹介したHauerwas先生からご批判されているのだ。詳しくはヨベル社刊 東方敬信監訳の「大学のあり方」〜諸学の知と神の知〜をご覧いただきたい。

        産業の高度化とアメリカンドリームの消滅

         アメリカはある面、学位本位主義で給料やできること、職能が決まる。そして、Ph.D乱造国家なのであり、学校の校長や教頭クラスではPh.D保有者がごまんと出てくる。だからこそ、Diploma Millと呼ばれる学校が流行るのだ。また、当初アメリカンドリームを体現したような人物も、箔をつけるために大学を設立したり、図書館を寄贈したりし始めることについて以下のようにご紹介である。

         だが19世紀も末になると、こうしたたたき上げの理想が徐々に時代遅れになってゆく。産業の規模が急速に拡大して、徒弟の手作業や職人の経験地だけでは間に合わなくなるからである。スタンフォードやヴァンダービルドのような人は、ちょうどその両方の時代を経験したために、自分自身は教育がなくても成功できたが、新しい時代には教育がないことでひそかな劣等感を感じるようになった。だから彼らは、手元にある大金を投じて大学を作ることに精を出したのである。大学をさんざんに揶揄していたカーネギーも、後には自ら大学を創設し、多くの大学に図書館を寄贈している。(同書 p.239)
         ただ、Ph.D保有者でも、MBA保有者でも、景気が悪くなれば、あっさりと首を切られるのがこれまたアメリカという国である。NASAの宇宙開発がとん挫したころ、大量の航空宇宙工学者が解雇された。そして、あるものは移民(合法移民でないと本来ダメ)ですらできるタクシー運転手や不法移民ですらできるガソリンスタンドの給油オペレータになったという話を聞いたことがある。大学の教員でもそうである。特に地理学ではひどかった。いま、アメリカの地理学の教育、特に人文地理学関係は壊滅状態である。地理学科があっという間に閉鎖されたりした時期が1980年代末にあった。すると、即失職である。タクシー運転手にならざるを得なかった元地理学者がいるという話をしてくださった方があった。

         いま、日本でも、アメリカ型の学位粗製乱造時代に突入してしまった。ミーちゃんはーちゃんのころは、学位は粗製乱造しないもの、と決まっていたので、学位取得をあきらめた。オボちゃんのような方は、我々の時代には、そっと、別のドアが示される、という形が待っていたのであった。


        オボちゃん、高額請求されなくてよかったね。


        マーケティングに失敗した米国教会の末路

         アメリカ型の教会に関して、森本あんり先生は次のようにお書きである。

         それぞれの宗教団体は、市民の自発的な参加と支援なくしては存続できない。だからどのよう会も、市場原理による自由競争にさらされ、人を集めなければ解散という憂き目にあうことになる。どんなに立派な説教を語っても、つまらなければ人は来ない。20世紀初めの伝統的な教派では「毎日のようにどこかの教会が売りに出され、ガレージとなっている」という嘆きが聞かれたほどである。(同書 p.247)
         なんか、今の日本のキリスト教界の現状と似てないだろうか。これは、日本社会が明治期以降米国モデルを社会モデルとしてきた背景とも無縁ではないだろう。

         このことに関して、深井先生のご著書では、宗教改革以降のアメリカの宗教風土をマーケティングと評されていた。

          「よい神学」は、いまの自分にぴったりの答えをくれる、「使える神学」なので ある。そして、多くの人々がそれに賛同すると、市場もマスコミもそれを取り上げ、それがこの市場原理の中では正義になったり真理になったりしてしまう。神学の良しあし、真理性などを決定するのは、もちろん教会や教会ではないし、神学部でもなく、あるいはもちろん国家のような機関でもなく、大衆の声が市場を 支配することになってしまう。
         そこに、神学にとっての一つの誘惑が生まれる。元来規範的な性格が強かった神学が、いつのまにかマーケティングを経て、人々に賛同を得られるような、時代のニーズにこたえた、時代精神に呼応する神学を生産するようになる。神学は、批判性を失い、マーケットを支配する匿名の大衆のニーズにこたえるような言葉や思想を節操もなく書き始めるようになる。(神学の起源 p.196)
         以前から何度か、ここで紹介しているFuminaru様のブログで取り上げられている諸問題は、マーケット志向の米国のキリスト教をそのまま、持ち込もうとした結果の悲劇として思えてくる。実に残念なことである。特に、「神学は、批判性を失い、マーケットを支配する匿名の大衆のニーズにこたえるような言葉や思想を節操もなく書き始めるようになる」と世間に迎合する神学を語るようになったら、それはもはや、神学の学の字を返上せねばならないだろう。

         しかし、現実は厳しい。地方部においてはなおさらであるが、都市部においても少子高齢化という人口動学の結果がそもそも構成人数の少ないキリスト教会においてもともとのボスうの小ささゆえにその効果が極めて大きく出ているから、ということにすぎない。そのことを敬愛する伊那谷牧師先生は、

        データからCS生徒数を見る

        で統計指標の分析(トレンド分析)で示しておられる。厳密な統計学的手法に基づかないものであるが、同記事中の図5に示されるようにこれだけ相似関係があれば、統計的検定で1%有意水準で帰無仮説「教会構成員は社会人口の変動とは独立である」は棄却されるはずである。つまり教会構成員は、社会人口の変動をもろに影響される、と統計的にいってもそう間違いではない、ということが主張できる結果である。結局、日本では教会の説教の質やコンテンツ問題というよりは、キリスト教的なものに引きよせられる世代(10代から20代までの人口が減ってしまった)ということに依拠していると思う。

         大学では、いま2018年問(たとえばこれ2018年「淘汰の時代」到来か 18歳人口減少と進学率頭打ちで経営を圧迫 とか)がまことしやかに話題にされている。大学が大衆化した結果、大衆の減少(若年人口の減少)に伴い、人口構造の変動をもろ受けしてしまうという事象が出ている。これは、マーケティングやブランディングでどうなるものでもない現状なのである。それなのに、グローバル大学だの、COEだの、マーケティング用語が踊る大学の世界を冷ややかに見ているミーちゃんはーチャンがいる。

        エバンジェリカルライトの背景

         米国ティー・パーティをはじめとするエバンジェリカル・ライトの人々は、以下の森本先生の表現が非常に当てはまる。
         宗教と実利という二つの成分要素で成立したはずの反知性主義は、まさにその大衆的成功のゆえに、本来の反エリート主義的な性格を失っていく。極めて皮肉な結末である。(同書 p.254)
         本来、反エリート側というエバンジェリカルズ、即ち、反権力主義的な世界観を持っている点で共通の価値観を有しているはずの民主党より、保守党であり、権力志向の強い東部Estabishmentのエリート集団の一部でもあるBush Dynastyを支持したという、実に皮肉な結果を生み出している。その意味で、アメリカの政治が分かりにくいのは、この種のねじれが、社会のあちこちで、人工中絶や進化論、戦争など政治的なイシューと重なり、非常に複雑な様相を示す為、分かりにくいのである。

         権力を握る、権力に吸収されてしまうと変質する例は、1940年から1945年間の賀川豊彦先生の例でもないわけではない。しかし、そのことだけで、賀川先生を葬り去るのは、まずいのではないかと思っている。

         要するに、ジョン・H・ヨーダー先生ではないが、コンスタンティヌス的キリスト教というのは、不味い、ということなのだろう。




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        コメント:大陸側の状況の整理としては、わかりやすくてよい。こちらも併せて読むことをお奨めする。

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        コメント:賀川先生の実像を考えるためにはかなり重要な資料。

        2015.04.01 Wednesday

        森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(14) 最終回直前スペシャル

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           これまでの、連載は、こちら 反知性主義をめぐるもろもろ  をご覧ください。

          延々と15回にわたり、関連情報を含め、お送りしてきた森本あんり先生の「反知性主義」アメリカが生んだ「熱病」の正体 であるが、本日が最終回直前の記事である。今日も関連情報満載でお送りしたい。

          知性とは何か
           まず、「反知性」の反対にある「知性」とは何か、ということに関して、森本先生は以下のようにお書きである。
           
          「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。(反知性主義 p.260)
          「ふりかえり」や「反省」の有無というのが、知性の働きとして極めて重要であるということをご指摘になっておられる。個人的には大学時代の哲学の基礎教養をつけていただいたのが、パスカルの研究者でもあった故湯川佳一郎先生であったので、哲学とは何かを教わった。一言で言うなら、「哲学的反省」のことであり、「自分自身が何者であり、自分自身がどのように生きるべきかを考えること」であるということになろうか、と思う。その意味で、「反省」みずからの「ふりかえり」が哲学の出発点であろう。

          反知性主義と歴史観のなさ

           以前にも触れたが、現在と将来だけがあって、過去のない社会というのは、実はかなり「反知性的」である疑いが強いような気がする。ある面で言うと、現在と将来だけに関心が深く、新約聖書を中心として(中でも、黙示録を中心として)読むキリスト教というのは、「反知性的」である可能性が濃厚である。

           以前、尊敬してやまないアメリカ在住のU先生が「戦後生まれのプロテスタントの信仰」について、新約聖書詩篇付きの信仰と自嘲気味におっしゃったが、それは、ある面で言うと、この反知性的なアメリカ型のキリスト教を直輸入した結果であるがゆえに起きた現象かもしれない。
           しばしばいわれるように、アメリカは中世なき近代であり、宗教改革なきプロテスタンティズムであり、王や貴族の時代を飛び越えていきなり共和制になった国である。こうした伝統的な権威構造が欠如した社会では、知識人の果たす役割も突出していたに違いない。それが本書で辿ったアメリカの歴史であるが、反知性主義はそれと同時に生まれた双子の片割れのような存在である。(中略)他の国で知識人が果たしてきた役割を、アメリカでは反知性主義が果たしてきた、ということだろう。
           本書は最初から最後まで、キリスト教がアメリカにおいて土着化したこと、文脈化したこと、そしてその結果が宗教と道徳の単純なまでの同一視であること、の二点を強調してきた。(pp.262-263)

           要するに、アメリカは、キリスト教の顔をした道徳だった可能性があるような気がする。ごくごく荒っぽくいってしまえば、市民宗教としてのキリスト教だったような気がするのだ。

          Law and OrderのあるEpisodeから
           このことを思い起こさせる話として、Law and OrderのSeason 17 Episode 14で、同性愛者をバッシングする新興キリスト教団体New Promise Churchと自称するキリスト教的な宗教集団の牧師のようなの関係者が同性愛者で男娼の成年男性に対する殺人事件を起こすエピソードがあるのだが、この終わり方がすごいのである。

           この年間に数十億円の献金とグッズの売り上げを誇るキリスト教会のような宗教集団の牧師の関係者が、教会にとって不都合なことが広まらないようにするために黙らせるためにある男娼の成年男性を殺したのだが(同性愛よりも殺人の方が罪が軽いと思うところがそもそもどうかと思うが)、捜査の過程の中で、この殺人を行った牧師の関係者が、過去に性犯罪にかかわっていたことが判明する。

           そして、検事(実際には検事補)が殺人を行った牧師の関係者に、次のように持ちかけるのだ。

          「あなたが過去に売春にかかわった結果の逮捕歴があり、そのため改名(アメリカでは割と簡単に名前を変えられる)したことが裁判になったらその議論の過程の中で明らかになる。しかし、裁判になるとその過去はばれるが、もちろん裁判であるから、無罪となる可能性がある。しかし、もし殺人を認め、司法取引して、刑に服すなら、検察としては裁判の継続は断念し、この不都合な事実は明らかにならないが、どうする?」

          このように聞くシーンがある。すると、この教会関係者は司法取引し、過去が明らかにならないことを選ぶのである。

           これが、市民宗教と化したアメリカの『キリスト教』の一断面を非常にうまく描いているように思うのだ。この場合、自分自身の信仰のありようであるはずの、自分の罪の回心よりも自分の不道徳の過去を葬り去ること、即ち殺人への有罪を告白することで自分が売春婦であることがばれない道を選び、教会のようなところが継続するように図ろうとするのだ。もう、ミーちゃんはちゃんからすれば、「???MJSK」であるけれども。

           しかし、こういう例に近いキリスト教会ってのはアメリカで結構ありそうな気がするだけに怖い。

          進化論との対決の裏側
           反知性的な行動が顕著に表れた例として、反進化論の論調が取り上げられる。アメリカでは、進化論は、アメリカとアメリカ系のキリスト教関係者の間で、ポリティカル・イッシュー(政治的な論点)として炎上しやすいネタであるが、その背後に反知性主義というか、反権威主義が潜んでいることを森本先生は次のようにお書きである。

           ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人々はおもに南部諸州を中心とした「バイブルベルト」の地域の人々である。彼らは、自分の子供たちに何かを教えるべきかということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた異議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。(同書 p.265)

           森本先生の論旨は非常に明快で、反進化論闘争は表面的には信仰上、神学上の議論の顔をしているが、実態的には、政府と個人の権力闘争であることを非常に明快に指摘しておられる。日本の福音派と呼ばれる人々の一部では、この辺の権力闘争の側面を見落とし、神学的な護教論としてあるいは弁証論として反進化論闘争を日本にも持ち込んで、キリスト者がキリスト者を切ると言ったようなことをしている人々がおられるが、それは無益であろう。

           本来進化論への反対者が向かうべきは、文部科学省と教科書用図書検定審議会だろう。そして、米国では、本来、Establishmentへの反権力志向を持つ、割と反知性主義者と親和性の高い民主党政権に火を吹いて行くことが多い。なんか、こういうのを見ていると、近親憎悪って言葉が浮かんできそうである。

          南部と反知性主義との不幸な出会い

           南部諸州を中心としたバイブルベルトは、東部Establishmentを中心とした、Federal Systemに対抗し、Confederate(南部同盟)を作ってCivil War南北戦争を戦い、敗北する。基本的に連邦政府=Federal System=北軍=東部Establishmentであるような思いを抱いているため、負け惜しみ的にも、連邦政府にFedsと言って嫌う傾向がある。


          南軍The Confederate Statesの旗

           以下に紹介する動画は、上側がCSAという、もし、北軍が勝っていなくて、南軍が勝っていたらどうなったか、という非常に込み入ったドキュメンタリー映画の予告編である。なお、調べたら、それの全編が公開されていたので、予告編の下に貼っておきました。

           まさにバイブルベルトは、敬虔なキリスト者の地でもありますが、反権力、反連邦、反知性の地でもあり、日本人には住む際に細心の注意が求められる場所の一つです。特に、都会地で、南軍のステッカーが貼ってあるピックアップトラックを見たら要注意です。

           

          C.S.A.(南軍が勝っていたらのフェイクテレビ番組として作られた映画、CMまでフェイク)の予告編



          C.S.A 本編 無駄に長いかもしれないのでお好きな方だけ

           以下の動画は、Jesus Campという非常に反知性的傾向を持つアメリカの宗教団体の若者向けキャンプとその周辺を取り上げたドキュメンタリー映画の予告編である。最初、この映画を見た時、私もこのJesus Camp中にいた登場人物のひとりであった、ということを思ったのであった。

           もちろん、18歳からこの方、Fortran 77で異言を語ったり、Visual BasicやJCLやJavaやPythonやC++で異言を語ったことはしょっちゅうあるが(私とコンピュータはその意味がわかるが、他の人がわからないという意味では異言であるし、きちんと解き明かしもできて、聞いた人の徳を高めることもできいる。また、このコンピュータ言語のときあかしも私の生業の一つであるが)、このJesus Camp中に出てくるような異言は語れたためしがない。だからと言って、異言を語る人々をキリスト者でないとは言わないし、異言を語られるという語るグループにおられる方の中にも、尊敬する信仰者の方はおられる。その方の異言をお聞きしたことはないが。言いたいのは、私はそれらの方々と違う形態の信仰者である、というだけのことである。



          Jesus Campの予告編

          マッカーシズムと世界のあちこちでの反知性主義

           リバイバル大会のスタッフが、非常に優れていて、そしてそのままビジネス界で成功して行った経緯が示された後、森本先生は次のようにお書きである。

          かくして、宗教的訓練はビジネスの手段の一つとなる。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰を持ちなさい。それがあなたを道徳的に氏、人格的に氏、そして金持ちにしてくれるーこれが、20世紀以降のリバイバルで繰り返されるレトリックである。信仰はこの世の成功を保証してくれるのである。第2次世界大戦後には、ノーマン・ヴィンセント・ピールの「ポジティブ思考」がアメリカを席巻した。マッカーシー上院議員が知識人や連邦職員を次々に共産党員として告発して血祭りにあげていたまさにそのと同じ頃、ピール牧師の出版した『積極的考え方の力』は、3年続きのベストセラーとなり、多くの言語にも翻訳されて世界中にアメリカ精神の明るさと楽天性を印象づけていたのである。実に奇妙な取り合わせだが、これがまさに反知性主義のアメリカである。(同書 p.267)
           マッカーシズムの問題は、これまでもこのブログで何度となく取り上げてきたが、実にろくでもないことが、70年ほど前のアメリカでおきたのであった。そして、この一端に触れ、チャールズ・チャップリンは、アメリカから追われるようにいなくなる。

           日本では、1940年ごろから1945年ごろキリスト者が非国民と非難され、石を投げられ、社会の隅に追いやられたし、ドイツでは、1930年代後半からナチズムが席巻し非アーリア的という言葉で人々を隅に追いやる状況が世間を席巻し、アメリカでは、一部の知識人が1948年ごろから冷戦の対立構造が激化の中で、非アメリカ人と非難され、石を投げられ、社会から追放されたのであり、それの背景が、実はキリスト教的な背景による反知性主義ということは覚えておいてよかろうかと思う。似たようなことは、クメール・ルージュ支配下の民主カンボジア(その昔、民主カンボヂアの声というラジオ放送があった)でも起きたし、お隣の国中国でも紅小兵の時代に起きた。

           要は集団ヒステリーだと、個人的には思っている。


          時代を感じる紅小兵のポスター


          友人に連れ込まれて中学生ころ聞いていた海外放送を受信していた日立Padisco
           ちゃんとVoice of Americaなぞも聴いていた。

          集団ヒステリーはおっかない

           しかし、巻き込まれていない限り集団ヒステリーを冷静に見ていられるが、その渦の中に巻き込まれたら、ろくでもない運命が待っている。日本とアメリカが戦争している間中、敵性外国人は、日本でも生きにくかったし、アメリカの日系人が多かったカリフォルニア州では、マンザーラ収容所に日系人を収容した黒歴史がある。

           下記の映画は、Julie and Juliaの一部である。この映画は料理研究家で、アメリカの草創期のテレビで料理を紹介しまくったJulia Childさんという方の追っかけをやってブログに料理をのせまくるというおっかけをしたJulieという若い女性の顛末を描いた映画であるが、これ単純なお料理映画としてみてはいけない。このフランス在中中のJuliaのご主人がマッカーシズムの波に巻き込まれ公職追放の憂き目にあうことが物語の隠し味になっている。

           それを理解しなくとも、この映画は楽しむことができるが、大人の隠し味部分はほぼ落ちてしまって、なんかおなかいっぱい、それで終わり、って映画となってしまう。しかし、以下の動画ではJulia役のメリル・ストリープの見事なアメリカ人風のテーブルマナーが炸裂している。


          Julie and Julia

          反知性的な一部のアップルユーザー

           アップルコンピュータの製品のユーザーに喧嘩を売りたいわけではないが、アップルユーザーの一部、とりわけショップ店員にカルトじみたちょっとポジティブ思考に近い反知性的な人々がおられることは確かのようである。以下の動画はシンプソンズでそのことを揶揄した動画である。

           Think DifferentlyをThink Positivelyとすれば、反知性的であることがすぐに御理解いただけよう。
           

          The Simpsonsに取り上げられたアップルへの批判 Think Differently


          Positive志向のおかしさ

           以下の動画は、バーン・アフター・リーディングの予告編動画であるが、実にアメリカ風に問題には解決策、解決策が生み出した問題には、さらに解決策という形で問題を次々複雑化させていくそのアメリカ的なポジティブ思考のナンセンスさを非常にうまく示している。


          Positive Thinkingが行きついた先のこっけいさを描いたBurn after Readingの予告編

           この種の能天気さに関して、森本先生は次のように書いておられる。
           こうした楽観主義的思考は、戦後間もないピール牧師の時代には美徳だったとしても、今日ではもはや一種の病であり、産業破綻が目前にせまっているような経済状況にも目を向けようとしない危険な精神態度である。この面では、「はじめに」でふれた昨今の日本の「反知性主義」理解とも相通づるところがありそうである。(同書 p.268)
           ある面、原発推進派のキリスト教徒は、終末が来てこの地がどうせ滅びるから、原発汚染だろうが環境汚染だろうが、「おれたち関係ねぇ、おれたち関係ねぇ、オパピ〜〜〜」と言っているかどうかは定かではないが、基本、終末で全部清算されるはずであるので関係ない、気にしなくてよい、という極めて無責任で楽観的な生き方に走りがちな方もおられる。しかし、キリスト教徒の中には、神から預かったこの地を大切に生きるべきとする方々もおられる。ミーちゃんはーちゃんはどちらかというと、この地での生活を大切に生きたい方である。

          終末論とPositive 思考

           この辺りで終末理解が、人生の生き方に影響を与え、終末理解がキリスト者としての生き方をどう考えるか問題に深い影響を及ぼすことは、記憶しておいてよいかもしれない。そして、その終末理解とpositive志向というのか強行突破型の生き方がつながった時の恐ろしさは、ハンパないような気がする。

           そして、神様が何とかしてくださるという思い込みで生きる生き方(それはまた反知性的な生き方だと思うが)は、藤掛明氏のおっしゃる強行突破型のキリスト者の人生へとつながっているように思う。この辺りに関心の深い方は、藤掛明氏のおふぃす・ふじかけのなかでも、牧師のストレスとセクハラ問題 (http://fujikake.jugem.jp/?cid=42)という連載の強行突破型の人生とこのポジティブ思考とのかかわりをお考えいただきたい。

           なお、ミーちゃんはーちゃんは、この種のPositive Thinkingや、キリスト教集団の中でも、この現世志向の強い、▽|Pとか○BM○とかの方々は尊敬するが、それらの方々とお付き合いはかなり苦手である。とはいっても、まぁ、お付き合いくらいはしている。先方からのご要望があればではあるが。最近は、御要望がないので、放置している。

           次回最終回、個人的なまとめ。
           


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          コメント:反知性主義の実情が描かれていたような気がする。何より、反知性主義の逆側の立場でソジャーナーズの創始者ジム・ウォリスが喋るシーンがちらっと出てくる。

          2015.04.04 Saturday

          森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(15) 最終回スペシャル

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            前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

             これまで、長々とアメリカという国家の中で生まれてきたアメリカにおける(そして、日本に多大な影響を与えてきた)アメリカ型キリスト教の精神とその国家の在り方、また、社会のあり方と教会が非常に複雑に関係していることの類例を森本あんり先生の『反知性主義』を手がかりに、関連しそうな映画や動画などの関連資料や個人の経験の中からご紹介しながら、ご紹介してきた。

            感想めいたまとめ
             その中で、現在の日本のキリスト教とそこでおきている事件というのは、なんとアメリカで変容した神学をそのまま直輸入し、社会においてもアメリカ型モデルをあまり深く考えることなくそれを適用してきたことでおきていることか、という思いである。もちろん、あまり考えることなく(だから反知性主義なのだが)適用することそのものが無論アメリカ的ではある。

             だからと言って、日本を●するキリスト者の会の皆様みたいに、海老名弾正先生も真っ青の日本型キリスト教を目指すべきだ、というつもりもない。

             われわれは、日本人というと、何となく一般的に共通性を考えるが、その様なものは存在しない。ちょうど身長、体重、どう回り、左右の眼の間の間隔、腕の長さなどすべての点において平均サイズどんぴしゃりの日本人が日本人全体の母集団に存在しないように、存在しえない。キリスト教徒にしても、そうである。実は多様であり、アメリカ国内でも、実に多様なのだ。ただ、全体の傾向としては、森本先生のご指摘は、あぁ、こういう側面もあるなぁ、ということを理解する補助線としては、きわめて有効である。

            日本という国のキメラ性

             我が国の現在の「かたち」あるいは「なり」に影響を与えた明治維新では、アメリカ型の平等思想と反権力志向に基づき、借り物で討幕したものの、その革命性が天皇制と自分たちの権威性に対してもろぶつかって破壊していく可能性があることに気が付き始めた瞬間、あっさりアメリカ型の社会モデルを捨て、フランスやら、プロイセンやら、ベルギーやらの社会モデルを部分部分につぎはぎつぎはぎしながら作り上げていく。それと同時に、当時の新興国であったことを根拠に、アメリカという近代国家と日本という近代国家は愛憎劇を繰り返しながら、シンクロしつつその関係を進んできた部分もあったと思う。アメリカとの関係の深さは、戦後だけのものではない。


            ルーベンスの描く「ペガサスとキメラ」

             なお、ポケモンは、基本的にキメラであり、極めて日本的なキャラクターである。かわいいのが多いけど。

            日本のキリスト教のねじれ

             しかし、1940年以前、日本は、信徒の信仰レベルではアメリカに依存し、学問レベルの神学レベルではドイツ神学に依拠するというねじれの構造を持ってきたように思うのだ。その意味で、日本のメジャーな(といってもよいと思うが)キリスト教はそもそもねじれの構造をもっていたのである。

             そして、1945年以降、占領時代にアメリカ軍将兵が多かったこともあり、日本はアメリカにそのアメリカ軍の将兵の信仰者レベル(要するに一般のアメリカ人レベル)の聖書理解の一定の部分を彼らに依拠してキリスト教であると受け入れていったのみであり、自らの神学を十分作りえなかったように思う。

             その意味で、日本の多くのキリスト教は、バタ臭いアメリカ型キリスト教、あるいはコカコーラ型のスカッとさわやか型キリスト教を目指してきたと思う。それが日本人にとって受け入れ可能かどうか、うまいものであるのか、ということの理解も反省も、考慮もなく。

             そして、日本の特殊性を支援者であるアメリカという自分たちこそ由緒正しいキリスト教国だと思い込んでいる(だからこそ反知性的なのでもあるが)キリスト者に説明も、説得も、反論もできなかったのである。

             つまり、多くの日本人のキリスト者が、伝える、あるいは討論するための語学としての英語はもちろん、キリスト教とはいかなるものか、その広範な多様性とその諸特性ということが分かっていなくて、アメリカのキリスト者に「それではうまくいかないのではないか?」、「あなた方のキリスト教のみが本当に正当なものであると果たして言えるのか?」と、うまく伝えられなかっただけのことである。

             その結果、隅谷先生が『日本信徒の「神学」』でご指摘の二階建ての神学であり、書き割りのように薄っぺらい聖書理解であった。本家としてきていたアメリカがそもそも薄っぺらいのだから、日本ではもっと薄っぺらであり、これで人口の1%超えられたら、神の豊かな奇跡であると思って、ありがたくそのことは受け止めたい。

            これからのキリスト教

             1945年から70年たったが、この傾向は変わっていないのではないか、と思う。もちろん、日本のキリスト教関連の学会レベルでは多少は変わってきたのではないかと思うが、その様な理解が幅ひろいキリストのからだに行きわたるまでは、つまり牧会の現場で十分認識されるまでは、あと50年から100年、信徒レベルが一致して、「あぁ、キリスト教とはこういうものであるだろうなぁ」と思うようになるまでは、あと100年から200年というタイムスパンが必要とされ、その間、犠牲者(預言者的性格を持つ人々への排除と、信徒で疑問を持つ人々の排除)が続くのではないか、と思っている。

             森本先生は本書の最後で土着化の問題を延べておられた。日本でどう土着化するかは別として、日本がキリスト教徒がメジャーになる国、即ちキリスト教国になることはおそらくないだろうし、仏教の例、儒教の例を見てもそうであるが、日本国内でメジャーになった瞬間にそのオリジナルの思考あるいは思想性が消えて、ヨーダーの言うコンスタンティヌス的キリスト教よりも、もっと変なもの(キリスト教のようなもの)になりそうな気がする。そして、オウムのような日本的キリスト教(もうすでに存在するという説はあるが)が続出しかねない。

             そうならないためにも、改革派の方々ではないけれども、そして、宗教改革ではないけれども、自分たちの時代と自分たちに合った神学を、あるいは、キリスト信仰への見直しを、聖書というテキストとこれまでのキリスト教という非常に膨大な体系を見合せながら、進めていくべきなのではないか、と思うのだ。こうすれば成功するという処方箋はないことにぼちぼち気付くべきだろうし、アメリカやヨーロッパと根源的に違うことの認知したうえで取り組むのが、有効なのではないだろうか。

             そもそも、こうすれば成功する、うまくいくという万能薬的な処方箋は、反知性的な行為であると思う。人生を成功者とすることや、人々がうまく生きられるように導くことそのものがキリスト教ではないのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思っているからである。

            自省するキリスト者でありたいかな

             森本あんり先生は、知性とは、「ふりかえり」する力だとご指摘しておられた。もう少し言うと、哲学的反省する力である。自らを突き放し、客体化し、主体相互間の間主観的なアリーナに引きだし、間主体化したうえで、「この程度のものか」と笑ってみる力である。その余裕である。

             残念ながら、我が国のキリスト者の一部の信徒の方々には、自らを聖とするあまり、聖であろうとするあまり、この種の余裕のない、いっぱいいっぱいの方が多いようにもお見かけする。まぁ、それは仕方がない。

             きちんと司牧が教えてこなかった部分も大きかったし、信徒も「鰯の頭もなんとやら」の感覚で、司牧からいわれたことを丸のみし、考えること、つまり批判的に考えること、哲学的自省を聖書のコンテキスト、理解の中に置きながら考えることをさぼってきていた部分があったのではないだろうか。





             その日本のキリスト教理解への課題の警鐘を鳴らす一書として、本書が、以前この欄でもご紹介した「神学の起源」がこの時点で我が国において出版されたということの意義は大きいと思う。

             読まれるなら、幅広いキリスト教の広がりを知るために「神学の起源」をお読みになり、そののち、「反知性主義」をお読みになることをお奨めする。こまったのは、東方神学やそのほかの所謂異端的聖書理解に関する分かりやすい入門書がないことではある。

             以上連載終わり。 ご清覧、ご高覧、お付き合いいただき、感謝。 

            新潮社さんへのご苦言
             2015年3月29日付 日経の朝刊44面文化の広告、これは何でせうか?キャプションの文字列が売らんかな、の姿勢が見えて見苦しいような気がしなくも御座いません。まぁ、確かに出版社は売って何ぼ、ではありますが。

            こちらをご覧下され。



            気になったのはこの部分です。

            今、世界で最も危険なイデオロギーの根源! 
            アメリカ×キリスト教×自己啓発=反知性主義


            というのは、ちょっと違うのではないでせうか。これでは、アメリカが危険なイデオロギーに満ちた国(確かに存在がでかすぎだし、民衆レベルではかなり厄介な人たちも時におられるので、そういうところもありますが)になってしまうではないでせうか。

             まぁ、視聴率があまり芳しくないといううわさのある「花もゆ」も、危険な米国発の反権力思想に影響を受けた討幕、尊王攘夷という当時とすれば、危険なイデオロギーに満ち満ちた状態から生み出されたことを考えますると、現在の日本国という国も、最も危険なイデオロギーの根源から生まれた国でございます。そして、その戊辰戦争でなくなった官軍の将兵の皆様方を慰霊する施設が、東京招魂社(九段)でございますでしょ。お察しください。

            ----------------

            アメリカ×キリスト教×自己啓発について

            アメリカはそうでしょう。欧州には、確かにこの種のものは内発的出ておりません。

            キリスト教
            でもアメリカには反知性主義が攻撃したリベラル派があるのでキリスト教ひとくくりではまずいのではないでせうか。

            自己啓発は明らかに違っていて、自己実現、反権力、プラグマティズムではないか、と思います。

            まぁ、出しちゃったものはしょうがないですが、先日の日経の朝刊を拝見し驚きました。

             いずれにせよ、この種の本で、3刷が出るのは、おめでたいことなので、おめでとうございます、と申し上げておきましょう。累計2万部は出てないとは思いますが。出たら、狂喜乱舞となっておられるのでは、と思います。

             おしまい。

             次回からもう一つの大河連載、「富士山とシナイ山」に戻りまする。こっちの方がはるかに大河連載になりそうな気がしている。






            評価:
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            コメント:大絶賛である。ただし、深井氏の神学の起源を読まれてからのご一読を一般の方にはお勧めしたい。

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            コメント:このペアで読まれたい。こちらを先に読んでから、森本あんり氏の本を読まれるとよい。

            評価:
            隅谷 三喜男
            日本キリスト教団出版局
            ¥ 2,592
            (2004-06)
            コメント:よい。

            2015.04.30 Thursday

            『反知性主義』の著者インタビュー NHKラジオ第1での放送予定

            0



               森本あんり先生から、御連絡が参りまして(詳細は後日)、皆様、大変重要な御案内が御座います。

              森本先生の『反知性主義』のインタビューがあります



              NHKラジオで今度の日曜(2015年5月3日)御膳6:40から著者インタビューが放送される模様で御座います。

              http://www.nhk.or.jp/r-asa/book.html

              ということで、諸賢。

              2015年5月3日の朝6時40分、著者インタビューを拝聴をお奨めする次第。

               どうも放送後には、上記サイトで、音源の公開も一定期間、されている模様であるが、どうせなら、皆様のライブでのご聴取をお奨めする次第。


              ラジオがなくても、ネット環境があり、スピーカーに音が出せるPCをお持ちの方は、こちらの「らじおらじる」からどうそ。





               
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