2014.06.23 Monday

2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」その1

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    次第にブログネタがたまってきたので、ぼちぼち書きためたネタを公開していかないとおっつかないので、公開していこうかと。ちょっとペース上げます。

     2014年6月7日に開催された上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座の記録を公開しようかと。今回の記事は、岩島忠彦司祭による「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」の講演記録です。

    ーーーーーーーーーーーご講義のメモーーーーーーーーーー

    創世記概観

     創世記を概観すると、創世記1-3章の世界のはじまりについての理解の提示、12章以降でのアブラハムと神との関係となっている。

     佐久間先生は、聖書学でテキスト中心であるが、私は教義学なので、そこから何が読み取れるか、ということを考えているので、多少厳密性はないかもしれない。
    まず、創世記を振り返ってみると、世界の由来として創世記1章があり、そのあと、人間の由来として創世記2-3章があり、信仰の由来としての創世記12章17章22章があるのではないか。

     創世記はある意味、その冒頭部のヘブル語で起源論であることを示すのではないだろうか、つまり、由来を示そうとしていると考えられる。

     世界観としてのキリスト教信仰当店から考えると、新約旧約合わせて基準なのであって、旧約がわかりにくいから、と書理解不能だからといって理解しようとしないという態度はキリスト者としてどうだろうか。その意味で、どう旧約を理解するか、ということは問われると思う。

    世界観としてみる旧約理解

     世界観としての旧約理解をどう考えるのかということは重要であろう。長年、信仰の入門講座をしてきたが、そこで思わされたのは、旧約聖書と現在の世界観がそもそも違うように思う。いまの世界観と違う。

     現代の世界観は、自然科学的な世界観であり、それは、きちんと理解可能な世界観でなければならず、人間がフォローし、記述できる世界観でなければならない。つまり、ものの道理、辻褄が合っていることしか信用しない。その意味で、唯物的に確認できることを確認している世界である。

     しかし、旧約の世界は、神の含まれる世界観であり、聖書の世界観とは、唯物的には固唾かない世界観であり、その意味での違いがある。本来、自然科学的な世界観をもっていたとしても、神への信仰も可能なのではないか。

     ある面、神抜きで世界を考えるか(神抜き世界観)、神ありで世界を考えるか(神あり世界観)の問題であり、一種二者択一の世界観である。

    現代の価値観と聖書の価値観

     もし、近代の価値観である神抜きの世界観であるとすると、世界とこの私だけで成立する世界であり、実に狭すぎる社会であり、世間ではないか。

     いまの信仰者の在り方ってのは、ほとんどが唯物的な世界観だけれども、その後ろにちょっとだけ神のスペースが用意してあるようなものではないか。

     ところが、現実には、道理だけでは始末できない様々な現象があり、その結果、スピリチュアリティだとか占いだとか、目に見えない世界へのさまざまな『あこがれ』のようなものが表出しているのが現代ではないか。自分より、より大きな者へのかすかな希望が表出したのが、いわゆるスピリチュアリティブームとかではないか。

     本来、神抜きの世界観は成立しないかもしれない。神がある世界観がここジンと社会集団にあって、生きるときの人間観や人生観が変わってくるのだろう。そのことを創世記を見ながら考える。

    世界の由来
     世界の由来を創世記一章を考えてみたい。はじめにという語(ヘブル語でベレツ ギリシア語でヨハネの1章 ベンアルケー)となっている。ベレツにしてもアルケー、いずれも、「そもそもの根源は」とか、「最も根にあるもの」という感じの語であり、そもそもの根本原理に触れていると考える。

     ヨハネの1章は、このことをかなり強く意識していた。創世記1章をこの1章1節でいい尽くしているように思う。そもそも、この天地は、神のものであり、神から出ている、というのがこの1章1節の主張である。

     すべて神から作られ、神に向かっており、神において再吸収されるようなものなのではないだろうか。創世記の世界観がこれ神が造り神に向かい、神において再吸収される世界なのではないか。神が存在そのもので、天地を天も地も丸ごと全部作られた。創造する(ヘブル語でバラー 造る)ということは、天も地も全て神に依存している、という主張だろう。

    創造主Creatorと被造物Creature
     地は、混とん、闇、深い淵であり、水がおおっていた。この混沌の語は、(むちゃくちゃ)という意味であり、形が整っている状況ではなかった。古代のユダヤ人にとって、水は混乱の力を示すものであろう。

     地はぐちゃぐちゃであって、そこを神の霊がうかがっていたような感じ、ある面神の霊が襲いかかろうとするかの状況であったのであろう。

     その中で、「光あれ。」という言葉があり、光があった。光は、すべてを積極的なものであり、意味あるものとする原理としての光があったと考えられるであろう。

     その意味で、意味とか秩序を示す光があった。根本的原理としての光が支配する世界になった。この光が生まれることで、全てを区分する方法論が現れる。

     そして、より具体的なことに移っていく。まず、水が天の上の水と天の下の水に分けた。
    光から闇がわけられ、混乱混沌から、大空が分けられた。当時の大空、天のイメージは、透明な堅い中華鍋の大きなものに、天の窓があちこちにおかれたものとして、認識されていただろう。

     この天ができることで、空間ができたといえよう。天の上の水は甘い(よきもの)であり、天の下の水にあるは辛いものと認識されたと思われる。さらに、天の下の水も、陸と地というと分けられる中で分けられ、陸は秩序ある存在で、水、海、川などは秩序がない存在であったといえよう。

     天地の創造を見ていると、いくつかの区分に分けられていて、まず、大道具が用意され、そこに出てくる小道具にあたる植物がまず、用意される形になっているようである。
     創世記1章11-13節は、口語訳聖書の方がやや正確な訳であろう。

     1:11 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
     1:12 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
     1:13 夕となり、また朝となった。第三日である。

     上に示す口語訳をみれば、「種類に従って」という点と「地は生えさせよ」と命じておられる点が重要なのではないか。とりあえず神の行為直接の創造の中に、地を介した間接的な創造がはいっている。

     そして、神が光るもの(月、星)で空を飾っておられる。これはある面、農業的な活動の暦のためであると理解できるのではないか。

     種類に従って、ということは重要であろう。19世紀に、ダーウィンが種の起源という本を書き、種は移動する(Transend)と言ったために大論争になったが、聖書の主張は、その週に従って、という表現で、神が種を分けた、というのが神の創造における秩序を示しており、創造の業は秩序の構築であったことを示しているといえよう。つまり、種に従った目的性がある、ということであり、すべての被造物に目的と秩序があるというのが聖書の主張である。

    人間の創造 創世記1章26節から
     
     1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

     我々のかたちに、かたどってというのは独特の表現であり、神のかたちに、あるいは、神の似姿に創造されている。これは他のものにはない特徴である。神のかたちの最終的な存在として神の代理人として人間が創造された

     人間のどこが神と似ているのだろうか。あるいは、人間の特殊性とは何か、ということを問われているであろう。

    7日目について
     7日目には、記載として、朝となり夕となった。ということがない。このことは、永遠性を示しているのであろう。仕事ばかりしているのは、人間らしくないのではないか。つまり、神を礼拝しない人間の姿は、人間らしくない姿といえよう。


     次回へ続く



    評価:
    ポール マーシャル
    いのちのことば社
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    (2004-12)
    コメント:世界観についての聖書理解に関する図書

    2014.06.25 Wednesday

    2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」その2

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       2014年6月7日に開催された上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座の記録を公開しようかと。今回の記事は、岩島忠彦司祭による「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」の講演記録の続きです。


      ーーーーーーーーーーーご講義のメモーーーーーーーーーー


      創世記の冒頭から読み取れること

       創世記が、はじめに、すなわち、そもそも、と書かれて始まっているように、すべてのものの根本は神であり、神にすべてのものが依存し、我等人間はそれを代理として地を治める必要がある、という主張ではないだろうか。

       神は被造物の中にはないのである。創世記の中にはすべての被造物の役割だけが書いてあるといえよう。被造物に神のようなものはないことが強烈に書いてある。これが創世記を貫く世界観であろう。そして、この価値観は、今日においても重要な価値観であろう。人間を含め、被造物を神秘化する必要はないのではないか。その意味で与えられたものを、正しく用いていくべきだろう。この世界には、神がおかれた秩序があり、秩序に応じて用いられるのが望ましい姿であろう。

      人と人と世界のかかわり 創世記の持つ世界観

       神―世界―人間(私) という3つの主体間の関係性が創世記を貫いている。この世界(地)において神の意志を行うものとしての人間があったのではないか。

       人間の起源はどこなのか、ということを考えるのが、創世記の物語であり、楽園、失楽園の話となっている。2章の4節後半から、別伝承になっている。おそらく創世記は、あとで合本されて1冊になった可能性がある。創世記2章以降の方が、紀元前10世紀に戻る古い伝承(最も古層)を伝えていると思われる。楽園の『ものがたり』であったものが、失楽園の『ものがたり』になっている。

       第1のものがたり(第1章)に比べて2章の物語は、乾燥した感じがする。2章のものがたりを見ると、土をこねて、鼻に息を吹き込んで、人は生きるものになった。と記載されている。土は、アダマーであり、土(アダマー)からできたからアダム(土からのもの)となっている。私たちにかたどって(ルアッフ)という語が用いられていることから、より神のかたちという印象が強まっていると考えられよう。

       この記述に基づき、ユダヤ的な世界理解の基本部分に人の息にいのちがある、と理解されている部分がある。この息は、風、霊と同義であり、神のいのちの息吹と土が合わさってできたのが人間ということができるであろう。

      エデンの園ってなんだろう
       ところで、東の方エデンとかかれているが、どこから見て東とかんがえるのだろうか。おそらく、イスラエルから見て東であろう。その意味で、エデンというとメソポタミア地方が想像されよう。多分、メソポタミア地方の周辺がエデンだろうと想定されている。しかし、どこか特定の地域がエデンの園ということではないだろう。地域名、地名というよりは、一つの観念ではないか。あとの叙述を見ても、2章10節をみると、第2の川はエジプトが言及されているので、その意味で、どこか特定の領域ということではないかもしれない。

       人間にとっての世界全体が神とともにいるという意味でも、楽園の状態であったということが書かれているのではないか。園の中央に木が生えていた、と記されているが、神の意志そのものが中央の木が象徴する形で示されているのであろう。

       ある意味で神の意志が園の中央の木が置かれることで表現されているのではないか。この中央の木が置かれた、種類に従って、という表現は、神の意志が示されているという点で類似している。そして様々なものに対して、人間に名前をつけさせる神がおられる。「人がいきものを呼ぶと、生き物の名となった」と記載されている。この「ものがたり」が示すことのは、人間は目的と本質を定める力をこの地上で持っている、ということではないだろうか。

       ここで、男がイシュとよばれ、女がイシャーと呼ばれており、男と女という原理というか秩序が造られている。その意味で、神の意志のあらわれた秩序がここに示されているのだろうと思われる。

      楽園と神の秩序
       さらに、「裸」というテーマが筋を作っているように思われる。楽園は神の意志が支配するところと考えられよう。神の秩序に従って、人間が耕し、地を世話をする。園では地に対するケアとしての労働がある。楽園自体の物理的側面としては、いまの世の中とそう違わないかもしれない。園では、園にあるものすべてが神からの恵みとして受け取られる場所であった。なぜなら、園そのものが神の秩序に従って存在しており、神と共にある場であったからである。楽園そのものは神が身近におられる場であり、そこで、人間は、この地上にあるものとかかわるものであった。

      崩壊した楽園、現在の社会への移行
       3章で、現在の話につながる世界へと移っていく。この3章の中で、蛇が出てくるが、蛇は誘惑するもの、サタンの象徴として描かれている。ここで、へび:造られたもののうちでもっとも賢い者であると描かれている。

       この「もっとも賢かった」という表現の中に、人間を超えるような霊の力をもつということを示しているのではないか、人間を超える霊の力が存在したことは確実である。聖書の中には、人間がいろんな形でだまされ、後で後悔する引っ張る力が存在することが描かれている。

       人間よりも高級な霊的存在としての天と悪魔が描かれている。人はそもそも、もろいから、その様な超越したものになろうとうする欲求が存在するのだろう。そして、誘惑は物事を混乱させるものである。へびの発言には、嘘はほとんどない。しかし、目が開けて善悪を知ることが本当によいかどうかはよくわからない。

       悪しきことがなかったから、悪はわからなかったのではないか。悪いことが存在してはじめて善が定義される。そもそも、悪という感覚がない。善がわかるのはよいことかどうかは、その点で疑問であるかもしれない。大人の方が善を知っているといいながら、子供より、ひねくれているんじゃないか。

      罪の問題
       人間の罪は社会的コンテキストの中で広がっていく。

       ここで、裸であることがテーマ。裸であることには、二つの意味がある。罪意識がなければ、そもそも隠す必要がないことになる。他者に対して、隠すべきものがないのが罪意識がない現状であるし、神に対して隠すべきものがないのが罪意識がない状態である。その意味で、防御する必要がない。何かを対象との間に置くことは、対象から、自分自身の身を守るという意味がある。

       ここで、神は能天気な姿として描かれている。アダムは神を避け、園の木の間に隠れていた。木で身を隠しつつも、それと同時に神を見ている。この記述は、二分された人間のこころの姿を示すのではないか。

       神とアダムの対話の中で、アダムは、私の責任とは言っていない。あなたが押しつけた女が、と神に責任転嫁をしているのではないか。さらに、エバは、蛇がだましたので食べました、といっており、責任転嫁の典型的な原点がここにある。スケープゴート(大贖罪の日に逃がすヤギ)という語があるが、それと非常に似ている。

      失楽園
       楽園でなくなったということは、呪いというよりは現実を示しているのだろう。人間のありのままの現実が3章17-19節ではないか。

       最初の二人の段階で、人間は楽園を追われたのである。バベルの塔のものがたりにしても、アベルとカインのものがたりも失楽園での失敗の繰り返しである。それ以降の物語は、層(レイヤー)を変えた一種の繰り返しとなっており、ものがたりの間を人間の系図がつないでいる。
       失楽園となり、神との関係が切れた結果、人間と自然との関係が混乱しているのであろう。文明と人間社会のレベルでの混乱が生まれたバベルの塔物語は、失楽園のものがたりのバリエーションであり、罪がどんどんあらゆる世界に広がるものがたりでもある。

       旧約聖書との関係で考えてみると、殺人自体、珍しい話ではない。オゾンホールだって、基本的にノアの洪水と同じ話である。国際問題にしても、バベルの塔の繰り返しとなっている。その意味で、これらの話は昔からあった話で、歴史全体からすれば、それほど、特記すべき話でもないようにもみえる。
       エデンの園の状態を図にしてみると、以下のような形になるだろう。


       ところで、旧約聖書的な人間の由来を考えてみれば、本来人間は地上のこととかかわることを通して神とかかわるという側面をもっているのであろう。私はこの関係のことを神と地と人間との間での3項関係と呼んでいる。人はこの世のものとかかわりながら生きているのであり、この地上の生涯において、人はもの(地上にある対象)とかかわるか、人とかかわるか、ではないか。それを通して、神とかかわっているのである。

      神 世界 人間

       3項関係の関係が成立しているのが、楽園であり、楽園が神がケルビムを置くことによって守られ、神と世界が切れた。

       失楽園となって以降現在までの関係を書くと次のような図になろう。




       神と世界が切れたので、結果として地と人間だけの2項関係になってしまった。その後の人間は失楽園状態を生きることになる。神抜きで、地と人間だけの観点で物事をとらえる2項関係が現在の人間の状態ではないだろうか。本来そんなものではないということは、何となく人間は理解しているのではないだろうか。

       オットーの「聖なるもの」では、トレメンドメント パッショナンスという言葉に示されるように、聖なるものに対して、おそれおののくとともに魅惑される、この両面をもっていることを指摘している。

       神が不在になってしまった結果、目に見えるものや目に見えない想像上の何かを神にすることになってしまっている。偶像崇拝とかフェティシズムって言うものが生まれていて、その意味で偶像崇拝は、一種の倒錯といえるのではないか。

       本来エデンの園、楽園は人間の原風景であるはずなのに、一番最初から失楽園となった人間の世界を示しているのが創造の物語である。

      聖書の世界観「神が存在する」

       聖書の基本的な世界観、あるいは、キリスト教の宣言は、天地の創造主が存在するということである。「神が存在する、ということ」、それ自体が宣言であろう。

       創世記の物語の中で、神がつくったものはよかったし、悪しき者はなかった。悪しき者の存在は、神の意図ではなかったといえよう。しかし悪しき者の存在は、人間が原因となっている。この理解から、人にとって、自分が罪人であるという理解へとつながる。(このご指摘は非常に重要と思った)

       しかし、聖書の物語は、このまま残念な状態で終わるか、と言うと終わらない。その後、アブラハムのものがたりになる。創世記12章で、アブラハムは神に声をかけられ、カルデアのウルで「私の示すことろに行け」と言われたときに、その段階で全部持っていたものを捨てて、方向すら示されていないところに行けということを神からの呼びかけとして受け止めている。

       アブラハムは、何の保証もなく、神が支配されているところに行く。その意味で、アブラハムは信仰者の原型となっている。アダムの神の要になろうとした結果、失楽園の中におかれた人間というものが、そこから信仰という形で改めて、神と結び付くことになる。

      アブラハムの信仰と失楽園からの回復

       現在、生きている世界が失楽園であることを前提として、もう一度神の声に耳を傾け、それについていくということ、それが信仰なのではないか。、

       Religioということばは、結ぶという言葉 ligare から来ていて、Reは再びなので、再び結ぶというところからきているのではないか、とアウグスティヌスはいっている。その意味で、信仰とは、神の呼びかけにしたがって少しづつ神に近づいていく。

       信仰レベルでの問題として、イサクの犠牲をかんがえるとき、ユダヤ人が経験したホロコースト【ギリシア語で全焼のいけにえ】と重なるのであるけれども、ユダヤ人が生きた歴史は、祝福の約束と真逆の世界を通っていく。

       ところで、アブラハムが捧げることを求められた愛するイサクとは、アブラハムの自我であるかもしれない、という理解も成り立つだろう。全体を無にしないと信仰は完結しない部分がある。その意味で、自分を全面的に無にするという意味で、「試み」ということと、どこかで直面するのが信仰ではないだろうか。その意味で、必然的な要素がアブラハムのものがたりのうちにあると理解できる。

      信仰と価値観
       信仰の問題は、いいかえると、「神を入れた世界観」か、「神が存在しない世界観」の問題であろう。その意味で、信仰の有無は、人生観に影響与える。人生として考えると、「神が存在しない世界観」と「神が存在しない世界観」での世界観の違いと影響は大きい。まず、この世界観の違いにより、歴史観が違ってくるし、世界観と生き方そのものとがつながっているように思われる。

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      しかし、現役の教員である佐久間司祭がパワーポイントを利用したご説明であったのに比べて、今年定年を迎えられた岩島司祭が、ホワイトボードとペンでのご説明であったところが印象的であった。どうも、55歳あたりにこの辺の技術重要に関する線がありそうだ、と思ってしまった。

       しかし、この6月14日の講演会聞いていて思ったのは、お二人とも、聖書の重要性を保持しつつ、その聖書が語ろうとする「ものがたり」の奥にあるものを、信仰において(神との関係において)どう理解していくのか、というところに強調があったということであり、この辺りの聖書の読みってのは重要なんだろうなぁ、と思ったことでした。

       いやぁ、この日も濃い一日でした。

       この日の公開講座に関する別記事は以下の通り。

      上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半 (06/14)

      上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半 (06/18)

      2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 「世界観としてのキリスト教信仰――楽園・失楽園・アブラハム」その1 (06/23)



      2014.06.28 Saturday

      2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 雨宮司祭「主の祈り」によって何を祈っているのか その1

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         この講座では、主の祈りを考えたい。

         ギリシア語原文で、福音書2か所。マタイ9章の逐語訳とルカ11章2-4の逐語訳のご紹介をしたい。

         太字部分は、ルカとマタイが同じ部分であり、赤文字部はマタイだけにあって、ルカにはない部分を示す。 

         たとえば、わたしたちの、天におられる の部分はルカにはない。
         イタリック体にした文字部分はマタイルカにもある共通部分であるものの、動詞のかたちが変わっている部分か、同じか類語がつかわれている部分を示す。

        ギリシア語原文逐語訳による比較
        ギリシア語原文 逐語訳
        マタイ6章5-13節

         9父よ 私たちの 天におられる方よ
          聖とされよ 名が あなたの
         10来たれ 支配が あなたの
          成就せよ 思いが あなたの ように 天における 上にも 地の
         11パンを わたしたちの 明日の 与えてください わたしたちに 今日
        。12そして 赦してください わたしたちのために 負債を わたしたちの
          ように わたしたちも 赦した 債務者を わたしたちの
         13そして 導かないでください わたしたちを 中に 誘惑の
          むしろ救ってください わたしたちを から 悪


        ルカ11勝2-4節

         2父よ 
          聖とされよ 名が あなたの
          来たれ 支配が あなたの

         3パンを わたしたちの 明日の 与え続けてください わたしたちに 毎日
         4そして赦してください わたしたちのために 罪を わたしたちの
          そして なぜなら わたしたち自身 赦します すべての者を 負っている わたしたちに
          そして導かないでください わたしたちを 中に 誘惑の 


         ここで、負債という語があるが、この語は罪を表すものとして使われており、その意味で、マタイはヘブライ語的記載が残っているといえるのではないか。

        カトリック教会の主の祈りの比較
        カトリック教会の主の祈りには、新しい訳と古い訳があり、この両者の間で大きな違いがある。

        ◆◆◆カトリック教会が用いる新しい訳の主の祈り

        天におられる私たちの父よ
        御名が聖とされますように
        御国が来ますように
        御心が天に行われる通り地にも行われますように
        わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください
        わたしたちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします。
        わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。

        ◆◆◆カトリック教会が用いていた古い訳の主の祈り
        天にまします我らの父よ
        御名の尊まれんことを
        み国の来たらんことを
        み旨の天に行われるごとく地にも行われんことを
        我らの日用の糧を、今日も我らに与え給え
        われらが人をゆるすごとく、われらの罪をゆるし給え
        われらを試みに引きたまわざれ
        われらを悪より救い給え


        典型的には最後から2行目のところで、現行訳では、「私たちも人をゆるします」となっている。 この訳で言えば、「まだ許してないけど、赦して下さい。私たちが人の罪をゆるすことができるようにしてください。」というニュアンスが含まれている。これに対して、「人をゆるしたように」となっている古いほうの訳では、「私たちが人の罪をゆるしたから、許してくれ」という意味になる。

         このように大きな違いがあるので、簡単に読み飛ばすのではなく、本文から考えてみることが重要ではないだろうか。1時間半で全部終わらせるのは無理なので、新しい訳で主の祈りについてお話ししたい(といっても終わらなかった)。

        主の祈りの全体構造
         まず全体の構造を見ることからすると、マタイ6章の逐語訳を見ると、

        あなたの名が聖とされよ。 
        あなたの支配が来たれ。 
        あなたの思いが成就せよ。

         この中にある、3つのあなた、という語が出てくる部分は、神のための祈りといえよう。神の名が、神の支配、神の思い、についての言及であり、神が中心であり、人が神のために祈っている形になる。9-10節は全体として一つの祈りと考えるほうがよいであろう。
         これに対して、11,12,13説は一つ一つの祈りといえよう。そこで扱っているのは、私たちのパン(11節)、私たちの負債(12節)、私たちを誘惑の中に(13節)となっている。

        その意味で、構造としては、
        神への呼びかけ、
        3つの神のための祈り
        私たちのための3つの事柄に関する祈り
        となっている。

        主の祈りの原型はマタイ?ルカ? 
         もともと、イエスが示した主の祈りは、ルカの短いバージョンか、マタイの長いバージョン、どちらがイエスの者に近いのか、ということを考えてみると、ルカの方がより正確だといえるのではないだろうか。カトリック教会はマタイを用いているので、本講義では、それに準拠して考える。

        父よという呼びかけについて
         イエスは新約聖書の言語であるギリシア語で語ったことがない。アラム語、アラマイ語で、日常生活をおこなっている。ヘブライ語の兄弟関係にあることばとしてのアラム語か、ヘブライ語を用いている。

        新約聖書におけるアッバ(父よ)
         ところで、父よ、となっている部分は、元のテキストはパーテールとなっているが、イエスが語ったもともとのことばでは、アッバが使われたのではないだろうか。ユダヤ教においてアッバと呼ぶ事例が文書中にあらわされているものはない。ただし、アラム語をギリシア語で音写された事例がある。

         ローマ8:14-17の中の記載にそれがみられ、そこでは、子供であれば、父の相続財産を受け取ることが描かれているが、何を相続するか、といえば、永遠のいのちを相続するとしており、キリストを共同の相続人として受け取ることがしめされるなかで、「アッバ父よ」という表現がみられることからも、アッバという表現が重要な表現として使われている例としてみることができる。

         マルコ14章での、ゲッセマネの園での記述の際にも見られる。

         このように、アッバという表現を福音書が残しているし、また、パウロ書簡にも残っているのである。おそらく、イエスがこの語を使っていたのではないだろうか。おそらく、イエス自身が最初に「アッバ」と祈りの中で用いた可能性があるのではないか。
         イエスが告知する神は、貧しい者、罪人、落後者に自ら近づく神であった。このことを思い出しながら、神に近付き呼びかける際にイエスが用いられた語がアッバだったのではないだろうか。

         もっとも父親らしい父親であるとして神に呼び掛けている。詩篇103篇にもこのような父親像として神を信頼している表現がある。イエスはアッバという語 を使いながら、イエスはユダヤ教から離れるのではなく、むしろ、ユダヤ教における神への信頼をこの表現によって明らかにしたのであろう。ところで、旧約聖書は怒りの神ということ言う人がいるが、それは乱暴な物言いではないだろうか。そのことをのちに考える。

         なお、「私たちの、天におられる方よ」という部分はマタイの付与ではないか。父に対して形容する表現を使ったのがマタイであろう。地上の父と天上の父には、おおきな差があって、マタイはそこを意識しながら、天におられるかたよ、とのべているのであろう。「私たちの父よ」という中で私たちという語で、教会としての共同体 性を示そうとしているように思われる。

         アッバという語を用いることで弱い者への配慮を忘れない神、ということをイメージさせ、アッバで意味を深めているように思われる。時にキリスト教学校などに行くと、ものすごく早い主の祈りを唱えるところがあるが、早すぎる主の祈りは問題かもしれない。

        旧約聖書における父親像 
        詩篇103篇を手掛かりに


         古い詩篇ではないけれども詩篇103篇を見ておこう。詩篇103編の逐語訳は次のようなものになる。

        9 永久に 彼(=神)は争いつづけない
          そして 永久に (怒りを) 保ち続けない
        10 わたしたちの罪に従って 彼は行わない 私たちに
            そして 私たちの不義に従って 彼は報いない 私たちの上に
        11 むしろ 高いように 天が 地の上に
          力強い 彼の慈しみは 彼を畏れる者たちの上に
        12 遠いように 東が 西から
          彼は遠ざける 私たちの背きの罪を 
        13 憐れむように 父が息子たちを
          憐れむ 主は 彼を畏れる者たちを
        14 まことに 彼は 知っている 私たちの形作られる様を
          彼は心に留めている 次のことを 塵 私たちは

        15 人は
          草のように 彼の日々は
          野の花のように そのように 彼は咲く
        16 まことに 風が それを通り過ぎる そしてそれは存在しない
          そしてそれを知らない もはや その場所が


        構造を見る上でカギとなる
        否定形と「ように」という語

         逐語訳を見ると、9−11節では、否定文になっている。たとえば、争い続けない、という表現などが典型的である。否定文で語っておいて、11節に、むしろ、という表現があり、11節以降肯定文となっている。11-13節からは、1行目にはように、と太字で示した「ように」の語がつかわれている。

         いつまでも争っていたり、罪への報復をする神ではなく、神のいつくしみと憐れみをこの紙片は、説いているといえよう。
        11-13説の冒頭に比喩があり、14節では神の性質が語られる。14節は構文がこの文章の中の他のものと違っているのことで、文体が崩壊されており、重要なことを述べているのだと思われる。

         15節以下では、人間について述べている。「ところで人間といえば」というかの如く、人間について触れているニュアンスが15節にはある。15節の2行目3行目のように 太字で示した「ように」という同じ表現がみられる。

         9-13節では、否定文を共通的に使って、神の憐れみを表し、15-16節では、「ように」というの比較のためのことばを使っている。比較と否定のことばが逆順となっており、その意味で、15-16が9-11と対応している。

         15節では、風が出てくるが、これは死海からエルサレムに吹き上げて来る風は熱風のことであり、一日にして草が枯れる様を通して、はかなさを示すと同時に、16節の否定でも人間のはかなさをあらわしている。

        形づくられる様 とはいつのことか
         14節では、我々が形づくられる様を示しているが、これは、造られた後の姿かたちとも理解できるが、むしろ、造られる前、造り手の中にある姿かたちを示すのではないだろうか。形づくられる、というのは造られる前の姿で理解したほうがよいとおもう。どのようにつくるべきかを知っておられた神がおられ、私たちは塵にすぎないという表明がされている。

        慈しみ、憐れむために、人間をはかなく造った神
         9-13節では、いつまでも怒ってない憐れみ深い神がおられて、14節では、神のこころに、神の目に留まるものを造ろうとして、弱く はかなく造りました、というニュアンスがあるのではないか。14節1行目を、造られる前のかたちと理解するならば、作り手の中の思いの中にある姿を現すと理解するならば、わざわざ弱くはかなく造りました。ということになるのではないか。

         その意味で、憐れむことができるように、人を弱くはかなく造られたのかもしれない。聖書の人間観はこうい言うものなのではないだろうか。神が父の本質をもつことを表すために、父が息子を憐れむように、という表現がなされているのであろう。

         「より劣ったものでも真実なものは、より強いものにはより一層真実だ」というユダヤ的論法があるが、その援用で、「より劣った地上の父でも、息子を憐れむなら、天上の父はもっとそうだ。」ということを表しているのだろう。

        ミーちゃんはーちゃん的感想
         本日ご紹介した部分からではあるが、イエスが語ったことは、あくまでユダヤ教的な世界観の中で、ユダヤ人ナザレのイエスとして、旧約聖書の理解をもとに、詩篇などをかなり意識しつつお話しになられたのだろうな、ということが想像できた。プロテスタントのおバカなキリスト者のはしくれをしている者からすれば、イエスはキリスト教を始めた人だから、新約聖書のほうが重要で、ユダヤ教とキリスト教を切り離して考えがちであるが、それってまずいのかもしれないなぁ、ということを改めて感じた。

         それと、人間がはかない、という理解は、非常に重要だと思う。このはかなさがあるからこそ、人間にとって神が必要とされるのであり、はかなさを失ってしまえば、神などは必要なくなるのである。このことを思う時、カインの末、レメクという人物の姿を思い起こす。カインの一族は自分自身強くあろうとして、いろいろな技術や工夫をしていったといえよう。しかし、その結果、暴力に走り、非常に陰惨な結果を導き出すことになっているような気がする。

         技術屋としてのミーちゃんはーちゃんの悩みというのは、アベルの末として神の造り給いし美しいものを「美しい」と言っていたいという側面を持ちつつも、それを技術というカインの末として与えられたもので、破壊しなければならないという悪辣な側面が自らのうちにあることであり、その悪辣さから離れられないという自らの残念さなのである。

         原子力発電所やら、戦争機械やら、そういった対象そのものを設計したり、改良する技術者ではないのだが、それを支えるための技術を作ったり、そういう技術者の人材育成に携わってしているものとして、壊れやすい、はかない人間を技術の力でパワーアップすることが神から人をどんどん遠ざけていくのに加担しているような気がして、気が引けてしょうがない。神から人が遠ざかるのが罪であるとするならば、その罪に加担しているという意味で、悪辣な自分に嫌気がさしている部分がないわけでもない。


         
        2014.07.05 Saturday

        2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 雨宮司祭「主の祈り」によって何を祈っているのか その2

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           前回に引き続き、2014年春季の上智大学大阪サテライトキャンパスでの公開講座 雨宮司祭による口座の記録をのせていきたい。
           
          御名が聖とされますように
           現在利用されている主の祈りの前のバージョンでの主の祈りでは、「み名なの尊まれんことを」という表現だったのが、現在では、「御名が聖とされますように」となっている。
           もともとのギリシア語テキストでは、アオリスト受動形になっている。ヘブル語では、行為者を書かないことも多く、ここでも行為者が誰なのかということが明示的に示されてない。

          聖とするのはだれか問題
           おそらく、行為者は神だと考えるのがよいだろう。アオリストと呼ばれる命令形のかたちとなっている。受動形、アオリスト(時制)の命令法は、Thological Passive神的受動形と考えるのがよいのではないか。動作の主体は神である、とすると、神がご自身の名前を聖とするように祈っている。

           我々が正しく神の名を用いることで、神の名が聖となるということもできるが、この我々が正しく神の名を呼び、我々が神の名を聖別させてくださいますように、という訓戒的な解釈もかのうである。しかし、この祈りは、歴史全体の完成、終末における神の名が賛美されることをさすのではないだろうか。聖書における終末は、この世の終わりが、滅亡という形で終わる終末ではなく、完成したという終末である。
           
           (ミーちゃんはーちゃんの感想 その通り。ミーちゃんはーちゃんは頭が悪いので、終末とは全部爆発してなくなる世界と以前は、考えていたが、最近爆発して終わる世界観ではないのではないか、ということに気付き、そちらで考えてみれば、かなり聖書全体の義認と救済に関する構造が見やすくなったような気がする。)

          御名が聖とされますようにと祈る意味
           つまり、ここでの祈りである御名が聖とされるということは、終末時における神の決定的な介入を求めることであり、それへの賛美であり、御国が来ますようにと同じ祈りになる。

           ここでの受動形が神的受動形であるかという問題は、解釈の問題であり、慰められる。という言葉と同様に、神が慰めるの意であろう。

           人間が神の名を聖とすることができますように、人間が神の名を正しく用いますように、という解釈も可能であるし、神の意志に従順であることを通して、神の名を聖とするという解釈も可能であり、両方解釈として可能であるだろう。

           これまで、カトリックでは、訓戒的解釈の立場になってこの節を長らく読んできていた。その意味で、訓戒的解釈は、人間への期待を語る解釈でもあった。

           訓戒的解釈と終末的解釈では、聖とする主体はだれか、が違うように見えるのであるけれども、これは、一枚の紙の裏表の関係ではないだろうか。人間が聖とするのであれ、神が聖とするのであれ、我々も、紙が聖であることに賛意を示す、あるいは、神の意志に従順であることによって、神が聖とされることに関与することは、どちらでみてもおなじことなのではないだろうか。

           アオリスト命令法、行為を一時点と見る時制であり、行為が完成するという時制であるとされている。そう理解するならば、歴史における継続的に行われる神の介入ではなく、歴史の完成としての終末(における神の回復、または神のわざの完成)を祈っていると理解できるのではないか。この祈りの中に多くのことが込められているように思われる。アラム語にはアオリスト体は存在しないので、イエスが1回限りの介入といっているかどうかは分からないだろう。

          赦しに関して
           マタイ6:12の2行目 「ゆるした」という現在完了形となっていて、ルカの場合は、「ゆるします。」という現在形になっているが、もともとのアラム語には現在完了形はない。

          旧約聖書における
          神の名を聖とすることに関する整理

           旧約では、聖とするのは神か、人かという記述に関しては、いくつかのパターンがある。たとえば、エゼキエル36:22-32は5つのパートからなっている。それを構造的にあらわすと次のような形になるだろう。
           36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
           36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。
           36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
           
           36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
           36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
           36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
           
           36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
           
           36:29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。
           36:30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。
           
           36:31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。
           36:32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。

          ここにわかりやすく構造化して示したが、22-24節と31節にでてくる、お前たちのためでない、という表現は対応関係になっている。また、「すべての汚れ」という表現が25節にも、29節にも出てきており、対応関係をなしている。私たち人間のためではなく、聖なる名のために行う。と主はいわれていることは重要ではないだろうか。24節には、捕囚からの解放が述べられているが、この捕囚からの解放は、神の聖なる名のために行われることとされている。その意味で、全ての汚れ、すべての偶像からユダヤ人をきよめるとしているが、どうするかは24節にかかれていて、そこには、新しいこころ、新しい霊を置くとされており、これらが汚れときよめるとなっている。

           26節に、肉のこころを与えるとなっているが、これの対になっている石は、固まっている生命のないものである。石と表現されるのは、こころがいのちを失って、固まった状態にあることを示すのであろう。ここで、肉は悪い意味で使っていない。むしろ、生き生きとした、という意味で使っており、いのちにあふれた、という意味で、使われている。

           旧約聖書の中で、裁きは秩序の意味で使われている。

           28節は捕囚が前提であり、バビロンで生きている時代ではないか。そして、新しい契約が成就した時、成立するのが、「お前たちは私の民となり、私はお前たちの神となる」が実現する。31節の「そのとき(元義 そして)」という表現は、お前たちのため、お前たちが約束の地に入れられた後、はじめて、自分自身を嫌悪するようになるということではないだろうか。悔い改めたから約束の地に戻るのではなく、約束の地に戻ったことで悔い改める、ということだろう。約束の地に迎え入れられることで、しっかりと目を向けて神を見つめることができる。神にあって救われて(神との和解が成立しているがゆえに)、汚れを安心して認められるようになるということではないだろうか。

           お前たちのため、に出てくる「ため」という表現は、原因と目的を示す語である。しかし、お前たちが原因となって、捕囚からの解放があるのではない。原因は、あくまで、神の名が根拠となって、解放がある、と理解できよう。そして、その解放があり、神が神の大いなる名を聖なるものとする、ということが実現すると理解できるのではないか。

          主の祈りにおける
          あなたの名が聖とされますように 再検討

           エゼキエル書を踏まえると、あなたの名が聖とされる、であり、これを祈りのことばで表現するとすれば、あなたの名が聖となりますように、となるのであろう。その意味で、聖とする行為(具体的には救い)の行為者は神ということになる。主の祈りは、聖とする行為者のその行為が実現しますように、という意味で使っているのではないか。

           イザヤ書29:23 わが手の業(神の手のわざ)という表現が出てくるが、神の名を聖とするの主語は人間となっている。人が神の名を聖とするという用例もある。

           これらの旧約の用例について考えるならば、神の名を聖とするということについての解釈として、神が聖とするのか、あるいは、人が聖とするのか、といった解釈のどちらか一方に特定しないほうがよい、のではないか。神も人もありうる、という理解で十分だろう。祈りのことばとして、簡潔だからどちらとも解釈できる。終末論的解釈が唯一の解釈ともできないし、訓戒的解釈も存在し得るのだろう。解釈が二つある場合は、残しておけばよい。

          御国が来ますように
           御国が来ますように、の部分については、 御国と訳しているが、支配(バシレイヤ)という言葉で取るほうがよい。このバシレイヤとは、 バシレイウス(王)というギリシア語に由来する語であり、バシレイアとは、王の支配が実現している状態、領域のことを指す。ここでは、領域と取らずに、あなたの支配そのものと考えるほうがよいかもしれない。

           国といっても国民国家とは違うということは理解しておいた方がよいだろう。むしろ、神が支配する領域と理解するほうが近い。

           日本国憲法には、諸国民の公正と信義と・・・という表現があるが、中国みたいな国に通用しないから集団的自衛権という議論があるものの、それはキリスト者としてどうなんだろう、というご発言があった。
           ところで、雨宮先生は、「数独」のファンらしく、数独の上級あたりをしておられるらしい。数独では、うまくいくものを探していくのだが、もしうまくいかないとするなら、こうかな、と思いながら、やりなおせば、数独の場合、たいていうまくいく。

           ところで、神の意志をどうしたら知ることができるのだろうか。普通、人間は、神の意志を感じることができないのだと思う。しかし、信仰をもつ者の強みはやり直しがきくところにあるのだろう。数独ではないが、まずいぞ、ダメだと思ったら、変えられる自由さをもつものではないか。これを大事にすべきではないだろうか。

          (ミーちゃんはーちゃん的感想 なんで数独が出てくるのか、と思ったら、そこです、って思わず突っ込みを)
           その意味で、キリスト者はあなたの支配が来ますようにと祈りつつ、どれがあなたの思いなのかを探り求めるしか方法がないのではないだろうか。

           雨宮先生から、終末論的解釈って言葉が出てきたので、帰り道に向かわれる先生にぶら下がるようにお願いして、カトリックの中で、いつごろから終末論的解釈が見られるようになったのですか、ってお尋ねしたら、19世紀に入ってからだということだそうでした。じゃぁ、なぜ、訓戒的解釈でない、終末論的解釈が出てきた背景をご教示願えませんか、とお尋ねしたところ、訓戒的解釈で行くと、どうしても行き詰まりがあるので、その打開のために終末論的解釈が生まれた、ということでございました。雨宮先生、ありがとうございました。


          ミーちゃんはーちゃん的感想

           今回の講座は、以下に主の祈りが旧約聖書とのかかわりでとらえられるのか、ということを神の名を聖とするという表現から学んだ。これは、以前NTライト研究会でNTライトの主の祈りの解説を学んだときには、旧約聖書のかかわりを意識していて、主の名を聖とするということまで、あまり意識していなかったけれども、こうやって丁寧に示されると、旧約聖書におけるメシアとのかかわりで、
          イエス御自身の祈りのことばとして示された主の祈りの中に、神を礼拝することと祈りとの関係があらわされていることが分かったのが面白かった。

           あと、終末に関する理解が垣間見えたところである。本文中にも紹介したが、おバカなミーちゃんはーちゃんは、ついぞ最近まで、週末というのは、この地がボーンと爆発して終わって、別次元の世界が突如生まれて、そこが新しい天新しい地となると、理解していたがどうもそうでないらしいことが分かってきた。神は連続性の中で様々なことを行われる方であることを考えるならば、この連続性の上において、この世界がエデンの園のような神がともにおられる場、神の支配の場としてのこの地と天との回復がなされるのが終末であり、完全な神の義が実現するのが終末であるように思えてきてならない。

           
           そして、神の裁きが、旧約聖書の中で、神の秩序の回復または樹立として語られるという表現がどういうコンテキストで出てきたのかは分からないが、そのことが非常に印象的だったので、今回のメモにも記載しておいたが、神の秩序として神の裁きを考えるということは大事な理解かもしれない。
           ミーちゃんはーちゃんなどは、神の裁きというと、ミーちゃんはーちゃんのような不埒ものがばかなことをしないようにかに怒られることを想像しがちなのだが、どうもそうではないらしい。神が思っておられる秩序、あるいは神の義の回復、またはその確立であり、その秩序や義から人間がどうしても外れるので、これこれと注意されることは裁きに付随する結果であって裁きそのものではないことは、もっとちゃんと言わないといけないのかもしれない、と思った。




           
          2014.07.07 Monday

          上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

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             今回は、上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた、その時の記録を公開しようかと。2回に分けたので、ちと短め(といっても普通のブログよりは長いよ)。

            イエスの譬え話とその特徴 ナラティブとして 
             イエスのたとえ話は、抽象的な神学とは違って、具体的な当時の生活の中から素材を取り上げ、語られた内容である。その意味で、ユダヤ教や当時の生活習慣を念頭に置かないと、理解しにくい部分もある。とは言いつつも、イエスのたとえ話からは、しみじみと感じられるものがあるのではないだろうか。たとえ話は、読む人が置かれた状況に直悦語りかけ、日常生活の中での喜び、悲しみ、夢といったものに応じるのがたとえ話ではないだろうか。

             ところで、昔は手紙を書いた。書かれた手紙には、いろんな受け取られ方があるだろう。ある面、ラブレターが文学として完成するのは、受け手の反応が重要で、受け手の反応そのものがあって初めて成立する文学体系なのが、ラブレターに関する文学体系であろう。

             ところで、たとえ話はたとえ話であるが故に書かれていない部分がたくさんある。ところで、書かれてない部分(余白)を味わうのが日本の絵画である。また、茶道の陶器を考えてみると、陶工曰く、陶工の仕事は半分であり、陶工と用いる人で相まって一つの茶器という作品が完成する。たとえ話も似ている部分があり。法律のような言語体系では語られていない。たとえ話は、高校の現代文の問題のような文章ではない。

             その意味で、たとえ話には、回答がいっぱいあるという性質がある。本日は、善きサマリア人を取り上げる。このたとえ話は、ヴァンゴッホの絵画の善きサマリア人のモティーフにもなっている。

            GoodSamaritan
            ヴァン ゴッホによる「善きサマリア人」

            聖書における文学構造としての特徴
             2点だけ、気をつけておきたいことを申し上げたい。聖書は文学的なある構造をもっていて、ストーリーがある、という構造をもっていることである。これが第1点目。そして、異常と思われる表現、逆説、誇張、繰り返し、非常識な展開があり、そこでメッセージを伝えている部分がある。これを、テキストにおける異化作用と呼んでいる。これが第2点目である

            「善きサマリア人」の譬えに見る構造と異化
             律法の専門家とイエスとの対話がまず最初に来ていて、共通の土台としての律法があることを確認し、イエスが専門家として聞くという形をとっている。律法学者にヒントを与えるために、共通の土台を示したうえで、その共通の土台になる律法における、隣人とは、ということが明確化されていることとなっている。

             この物語は、第1のものがたりのシーンと、第2のものがたりの二つの物語のシーンからなる構造となっている。

            第1シーン律法学者との対話における構造
             それぞれの部分を構造として見ていこう。まず、第1のものがたりのシーンの構造を整理すると、このようになるだろう。

            25 律法学者の試そうとする質問      29 律法学者の正当化する質問
            26 律法(トーラー)を律法学者が出す   30 たとえ話
            26 イエスが質問             36 イエスが質問
            27 律法学者が答える           37 律法学者が答える
            28 実践しなさい             37 実践しなさい

             このように、シンメトリックな関係になっているが、たとえ話が長すぎるので、構造が読み取りにくいという部分はあろう。この譬えを語ることで、イエスと律法学者の中に新しい共通部分が生み出されてくることになる。

            イエス時代の律法と聖性、その背景
             イエスの時代のユダヤ社会においては律法が非常に重要であった。社会構造として、その頂上にサンヘドリンがあり、次の霊やとして大祭司、サドカイ派、ファリサイ派、一般の人々という構造にあった。その中で、ミシュナー(口伝律法)が社会において重要な役割があった。その意味で、律法は人生の全部を扱う原理であった。ユダヤ教としては、このミシュナーを守ることが重要であり、これを守ることによって、イスラエルの民は聖なる民となり、神のためにとっておかれた人とかモノが聖であるという理解である。その意味で、神殿とか祭壇、祭司とか、祭具が聖とされることが重要となる。この聖なるものとして、救われるのはイスラエルの民全体であり、民が聖であるがゆえに、聖なる民であるイスラエル全員が救われる、というコンセプトになっている。

             聖なる民に属していることが救いの条件であり、律法を守ることはイスラエルの聖なる民のその条件となっている。

            隣人とは何か
             さて、第2シーンに入る前に、第1シーンでのイエスと律法学者の対論において、律法の意味は固定されている(おそらく相互理解と共通部分ができている、という意味でのご発言であったと思う)。
             
            第2シーンの背景
             隣人、の定義であるが、当時、とりあえず異邦人は、隣人でない、という理解であった。困っている異邦人には、親切にしなさい、と律法の中には書いてあるものの、「困っている」という条件付きで考えられたのではないか。

             ローマ帝国時代、ローマ帝国には属領に総督を送っていた。総督は軍隊付きで到来し、軍事力をもち、税金の徴収し、属州統治をしていた。ポンテオピラトは、カイサリア駐在しつつ、ローマの意思の象徴として存在していた。年に2回ほどエルサレムに滞在し、エルサレムで反逆などの重大犯罪起きないか、などの仕事をしてたようである。ローマ帝国の反逆としてはいくつかのものがあり、ガリラヤのユダの反乱等がイエスとほぼ同時代などに起きている。この重税逃れのために、メシアを名乗った人物がいた。ユダヤ教の人たちはローマ帝国に反乱をおこすなど、ナショナリズムの強い時代であった。このような背景を持つイエス時代には、同胞というとイスラエル人のみが認められた時代であり、サマリア人は、汚れた存在であった。

            食卓コミュニティとしてのイエスの宣教活動
             ところで、イエスは遊女や取税人などを受け入れた人物であり、食事を一緒にすることで受け入れを示したのである。ユダヤ教では、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りでは、神殿で羊が殺され、それを食することで、家族であり、同じ民族であることが確認された。イエスご自身について、神の子羊というバプテスマのヨハネの呼びかけは、極めて重要なのである。

             この祭事の時の食事は聖なる食事であり、ユダヤ人信徒だけが聖なる食事に味わうものであった。遊女や取税人など罪人は招かないのが当時の常識である。ところが、イエスは、もともとユダヤ教徒の食事に招かれない人々、招き入れるべきでないとされた人々と食事をしたのである。このような状況に関して、福音書では、イエスは大酒のみの食いしん坊、という当時の人からの悪口を拾っている。

             イエスの食事は目的があって、正統ユダヤ社会から追い出された人々とともに食事をし、食卓共同体とでもいうものを形成したのである。神の国運動の中心は食卓であり、そこでは、パンと葡萄酒が提供されたのである。その意味で、食の宗教であった。正統ユダヤのユダヤ人はユダヤ人とだけ祭事の神殿を食事をしていた。

            善きサマリア人の第2シーンの背景

             ある人が、エルサレム(冬雪がふる)からエリコ(世界で最も低い場所で避寒地)に向かって進んでいた。エリコは、当時ヘロデ大王が冬の離宮を造ってた場所でもある。エリコへの道は、左右とも荒れ地、荒野が広がる場所であり、追剥がすんでいるような土地柄でもあった。おそらく、追剥強盗事件は、イエスの時代にこの道路沿線で、実際にあった、よくある話であり人口に膾炙していたのであろう。ところで、この人は、エルサレム神殿に祭儀にあずかって、エリコに向かったのかもしれない。

             このサマリア人に助けられたユダヤ人は、ある程度気合の入ったユダヤ人で、追剥にかなり抵抗したからこそ、半殺しの目に遭ったのではないか。


             次回へと続く。



            2014.07.09 Wednesday

            上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄さん イエスの譬え 参加記 後半

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               前回の続きです。上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた記録をのせようか、と、その時の記録を公開しようとおもいます。かと。前回と今回の2回に分けたので、全体としては、ちと短め(といっても、普通の方のブログ記事よりは長いよ)今回はやや短めかと思います。

              前回お読みでない方はこちらから

               上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

              二重句という構造
               二重句という当時の文学作品の特徴がある。二重の話であり、重ねて書いておく。ここでは、祭司、レビ人が通り過ぎていく、という部分が二重句の構造になっている。

               ところで、エルサレムの神殿で祭儀に当たる祭司はエリコに実際に住んでいたケースが多い。イエルサレムでの祭儀の当番が決まっていて、1年の登板スケジュールが決まっていた。

               二重句で説明したように、祭司とレビ人が下ってきて、道の反対側を通って行った、という構造が同じ構造になっている。

              祭司とイエス
               必ず、イエスが説教しているときにパリサイ人や祭司たちの手のものが、説教を聞いている。スパイされている状況の中で、イエスは語っている。そのことへの意識もあったのであろう。

               このたとえ話の中で、祭司はユダヤ人を助けなかったが、これについての解釈は2つあって、息があれば何らか救わないといけない。という律法と、死人に触ると汚れる、という律法の間でどうするかの決断を祭司や律法学者が迫られる形になっている。

              ガリラヤ、サマリア、ユダヤ
               イエスが活躍したガリラヤは、異邦のガリラヤと呼ばれるほど、ユダヤの正統的な世界からはやや遠い存在であった。同じユダヤ教の中でも、預言者の書書を認める人々が多かったようである。また、サマリアの宗教は、ユダヤの宗教とよく似たものでありながら、別種のもので、経典はトーラー(モーセ5書)、預言書は認めないという点ではユダヤ教と共通であるが、ゲリジム山のてっぺんに神殿があるのが、サマリア教であった。そして、現代にもサマリア教は残ってい る。

              第2神殿期ユダヤの終末思想と汚れ
               当時のユダヤ人には、終末思想としてのメシアの到来を待望する雰囲気があり、サマリア人から施しを受けると汚れると同時に他の汚れの発生と同 様に、メシアの到来が遅れると信じてたようである。ところで、このものがたりの旅人のサマリア人もサマリア純血の人々からするとちょっと外れた人ではない だろうか。


              サマリア人の憐れみについて
               彼が、「憐れに思い」と書いてある語は、「スプラングノム」という語であり、母親が理屈抜きで赤ん坊に愛情を注ぐことを示している。このことが、すぐ行動に結びつくような他者との共生に結びつくような生き方へとつながっていく。このあわれみのこころから、サマリア人は直に行動に移っているのだろう。普通はこういう何らかの負債を持つ人物は奴隷に売られてしまう状況なのである。ところが、サマリア人の憐れみは限りがない憐れみであり、ずーっと続いていくような、憐れみを示しているのだ。

               この話をしたうえで、隣人の定義を律法学者に求めている。ところで、隣人になる、という語について考えてみたい。「なる」という話である。隣人に「なる」ということは、無限の可能性をもっているごではないだろうか。自分の世界の枠組みを超えて、生きるということではないか。この隣人に「なる」という言葉で示された、自分の世界の枠組みを超えて動く姿勢を示されたのが、イエスだ、ということをよく表すたとえ話となっている。ユダヤ人、祭司、レビ人と続いて、その後にサマリア人を出してきたのは異化作用となっており、そこでハッとさせられる、あるいはギョッとさせられるものがユダヤ人にはあったはずである。



              GoodSamaritan2DT
              David Teniers the younger による「善きサマリア人」

              ユダヤ人がサマリア人に介抱されるということ
               ユダヤ人で筋金入りの人物で半殺しの目に遭った人にとってみれば、サマリア人から介抱、ケアされることはユダヤ人として汚れる、汚れを受ける、ということであったのである。その意味で、ユダヤ人にとって罪を犯すことでもあったのだ。元気であれば、サマリア人が近づいた時に拒否するだろう状況だったのである。

               しかし、このファイティングスピリットに満ちていたユダヤ人が、なぜ、サマリア人を受け入れたのだろうか。ほっといてくれ、と拒否することもできたかもしれないのに。その際参考になるのが、先にふれた、二重句構造である、祭司やレビ人から見捨てられた、というダブルでショッキングであったところに、異化作用として、サマリア人が出てくる。ある意味で、この半殺しの目に遭ったユダヤ人は、自らが誇りとするユダヤ人の中でも、尊敬する、そして尊敬すべきシンボル的な存在に捨てられたという経験でもあるのだろう。その意味で、ユダヤ人としてのアイデンティティがしぼんでいったのではないだろうか。その意味で、プライドが奪われた存在とな り、本当の傷ついた人になったのではないか。(なんかナウエンの傷ついた癒し人を思い出した)

              受け入れるということの意味 枠を超えること
               受け入れるとは、どういうことだろうか。受け入れるということは、敵だった人と隣人になる、ということであり、所謂、かわいそうだから、と上から見るような視点に立って、助ける話ではないだろう。両方の立場を超えて、隣人になっていく話であろう。その意味で、いわゆる抽象的な博愛の話ではない。イエスの譬え話はまったく新しい 世界、枠を超えたところへのメッセージとなっているのではないか。

               ところで、従来の枠組みを突破していかざるを得ない世界の状況が現在もあるのではないか。ここで、宮本先生のおじさまの墓参の話しになり、シンガポール への墓参の時の話となった。日本ではあまり知られていないことであるが、シンガポールの歴史教科書は、第2次世界大戦時の記載に関して、非常に反日的な記載(韓国や中国の歴史教科書以上の記載)がある。しかし、墓参の案内人の方との間との対話を通して、隣人になるということを改めて考えさせられた。

               世界では、相互に対立している問題があり、一人一人は実に無力な存在ではあるが、個人として、相互に対立している問題について、どう考えたらいいのか、ということを考えたほうがよいかもしれない。

              ミーちゃんはーちゃん的感想
               以前、日曜学校の教師をしていたこともあるが、そこでの教案書は、「友達に親切にしましょう」とか「困った人は助けてあげましょう」的な解説で満ち溢れていたような気がする。最近の教案書は違うのかもしれないが。しかし、この「善きサマリア人」の譬え話は、そんなギリシア的なヒューマニスト風の甘っちょろい話ではさらさらなく、もっと壮絶な信仰者とは何か、という問いについての譬え話であり、信仰者としての確信をどう乗り越えていくのか問題を含んだものであることが相当部分の示し頂いた様に思う。まぁ、子供の理解力があるとはいえ、やはりこの辺りのことは日曜学校教師は踏まえておく方がよいであろう、とは思った。 まぁ、ギリシア的ヒューマニスト風の甘っちょろいお話を日曜学校でしたらいかん、とは言わんけど。

               現在もなおパートタイムではあるが、教会の講壇に立つ者として、当時の第2神殿期ユダヤの背景の上で、イエスの言動を理解しなければならないという観点からも、この講座は、非常に参考になったし、実に有益であったと思う。

               ということで、雨宮先生のご講義に続き、まぁ集団的自衛権の話題など、香ばしい話題が続いている状況下であったためか、このような緊張関係の中で、信仰者として個々人がどう考えるのか、どう生きるのか、を問われたような気がした。充実のご講演であった。

               このあたりのことを考える際には、おそらく、下記で紹介するジョン・H・ヨーダーの神学とブルッグマンの預言者の想像力とが参考になるだろう。また、雑誌「福音と世界」2014年7月号の宮本先生の論文を読まれることをご推奨する。



               
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              コメント:悪の問題とキリスト者が対峙する上で読んでおいたほうがよいと思う。補助線を与えてくれるだろう。

              評価:
              ---
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              ---
              (2014-06-19)
              コメント:いやぁ、この7月号、6月号の特集はすごく良い。

              2015.06.15 Monday

              2015年春季福音主義神学会東部研究会へ行ってきた

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                Pocket

                 福音主義神学会東部研究集会が2015年06月15日に行われたが、そのご講演者鈴木浩先生のご紹介が司会の三好先生からあった後、東部の理事長大坂先生からのご挨拶があり、2017年に宗教改革500年年を迎えることもあり、最初は義認論の理解を考えたが、その前景として罪の問題を取り扱うことにした。なお、鈴木先生の歴史講義はわかりやすいと正木校長から折り紙付きであるそうである。

                原罪論、イントロダクション

                 本日は、原罪論を学んできたので、そのお話を致したい。この40年近く、教会でも神学校でも原罪論を取り上げないようになっている。この奇妙な沈黙は何かということを考えたい。確かに、神学に流行があるが、流行に乗るのが嫌いであるため、みんながやらないことをやることにした。博士論文は「原罪論、その歴史的要因と教理的本質」というタイトルで書いた。原罪論はそもそも、アウグスティヌスが、ペラギウス主義者との対論の中で取り上げた内容である。

                カトリックとルーテル派の対話について
                 2017年宗教改革500年、ヴィッテンベルグでカトリックとルーテル世界連盟が共同で礼拝をあげる予定である。一致に関するルーテル・カトリックの協議会で議論しており、バチカン10名ルーテル世界会議が10名集まり、対話をし、洗礼と交わりの成長について研究を現在やっている。

                 アウグスブルグで義認の教理に関する共同宣言を出している。カトリックとの対話の中で、最も重大な争点となったのが義認論であるが、基本は一致の確認が取れている。この出版に5年ほどかかったが一番の障害になったのは、神学用語の統一であった。

                 カトリックとルーテルの共同宣言の日本語版が今年の2月に教文館から「争いから交わりへ 」というタイトルでルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳出ている。この本は過去500年の評価をまとめたものといえ、ルター神学の再評価がなされた。500年がカトリック教会の一致に関して犯した罪、ルーテル教会が教会の一致に関して犯した罪の問題を扱い、その反省の上に出版されている。このようなエキュメニズム委員会を年1回開催1週間で開催している。

                 第2バチカン公会議が原因となって、このような一致への動きがみられるようになった。第2バチカン公会議以降、カトリックは相当変容した。それまでのカトリックは、宗教改革について、トリエント公会議での決定が継続しているほどであった。

                 現在、ルーテル神学校卒業後、大学院行くとなると、基本上智大学に行って学位取得するコトンある。その意味で、カトリック教会とルーテル教会の距離が接近した。細かい点で違いがあるが、かなりの部分で、違和感がないものになってきている。これらも、カトリック教会との話し合いの成果であった。

                宗教改革400年の回顧

                 さて、いま500年は一致に向かっているが、では、100年前、400周年の時はどうだったか。内村鑑三が、400周年を記念して大会を開いた時には1200人もの人が集まった。また、その時はいくつかのキリスト教派が結成されるなど日本のプロテスタントの盛り上がりがあった。

                 しかしながら、カトリック側では、カトリック教会の『声』という雑誌(広報誌)が4回ほど宗教改革を取り上げているが、『ルッテル(ルターのこと)が誤れる教義を申し立てて400年になるが、その宗教改革は、宗教界悪である。』というノリであった

                 現代のキリスト教界の最大の悲劇は、教会が多くのグループに分裂していることではないだろうか。我々は、一致に向かっていくべきなのではないか。

                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 こんなこと言ったら、改革長老教会では、なんか批判が飛んできそうであるけれども。その辺がカルバン派のカッティングエッジであられる改革長老派からはブーイングが聞こえてきそうであるが、そのあたりが、ルター派と改革派の違いのような気がする。)
                ルターがしたことは何だったのか?
                 95条の提題のビラをルターが1502年10月31日にヴィッテンベルグ教会の扉に貼ったことに始まる。ザクセン選帝侯フリードリッヒ皇帝が立てた学校であり、この教会の扉は、学校での公式掲示板としての機能をも持っていた。その意味で合法的な張り紙であったが、内容が衝撃的であったのだ。同じ張り紙でも、神学的に重要なのは同じヴィッテンベルグ大学の公開掲示板でもある北側の門の扉にカールシュタットが1516年9月16日に張り出した151条の提題であるが、これは社会的な影響を持たなかった。

                 聖遺物の収集と展示が当時の流行りであり、このヴィッテンベルグ大学はかなり持っていた。その一般公開がされる日に合わせて、この提題を出しているし、これらの公開日には、ヴィッテンベルグの周辺地域からも人が集まった。なお、10月31日は、All Saint Dayの前日でもあった。

                 ルターの提題の内容は、1週間でドイツ全土に広がった。掲示板に張り出したのは、正確にはいつなのか問題には解決がついていない。実際には張ってないとか、いう説もあり、諸説ありすぎて詳細は知られていない。現在の大学入試に出るので、ルター、95か条の提題と宗教改革というセットで中身はそう知られていないものの、名前だけは知られている。

                 高校程度の教科書では、現在のところその後の動きが全くフォローされておらず、教会分裂の段階でストーリーが終わっているので、今でも犬猿の仲だという思い込みが起きている。

                 カールシュタットの151か上の提題は実際には。神学的にはアウグスティヌスに関する提題。はるかに重要な神学的議論を含んでいるが、95か条の方が有名になってしまった。カールシュタットの151か条の提題は、神学者だけの問題でしかなく、これに対しルターの95か条は市民を巻き込んだものであった。この時代の煉獄のイメージは、ラザロの話の苦しみのイメージで、そこでも代苦しむ。

                 贖宥状のためにお金を透過した音がチャリンとなった瞬間に先祖は煉獄から天国へトラバーユされることになっていたらしい。この時代先祖供養は、民衆の最大関心事の一つであった。

                アウグスティヌス擁護者としてのルター
                 こまかい話を省いてしまえば、ルター先輩にとってみれば、アウグスティヌス先輩の超擁護派であり、当時の定説であったアウグスティヌス誤謬説に挑戦したといえる。また、その後、我々の意思は奴隷的拘束の中にあるとした、奴隷意志論があるが、これは当時無視された。
                ルターは急進的アウグスティヌス主義者であり。アウグスティヌスの持つあいまいさを解消した。自由意思としては、自ら悪を選択するほどの自由意思はある。自由意思は結果的に悪しか選択しない。

                 自由意思を名目的には肯定しながらも実質的否定をしている部分がある。実質的にも名目的にも自由意思があるとした。アウグスティヌスの持つあいまいさをきっぱり取り去って、自由意思は全くウソ、単なるフィクションであるに近いことまでといった。

                 この過激さをメランヒトンらは心配したが、ルターはアウグスティヌスの原罪論をかつてないほど強化した。よいことをするとき、無条件に、神の前で、かつ人の前でも良いことをやっていることになるのか。常に、神の前でよいことをしていると言えるか。ルターの発言は非常に刺激的であり、時に言い過ぎだという印象を与えるものが多い。ルターは、神の前でと人の前で、を分けた。ルター以前のスコラ哲学では神の前でと人の前で、を一緒にして議論していた。とはいえ、ルターは矛盾を抱えた議論をしている。神の前で、という領域限定で議論している側面がある。例えば、ルター先輩は、人々の前でよいことは、神の前では必ず悪だとまで言っている。

                 それまでの原罪論は、基本的に現在は親から子へと向かうものであり、一種の生物学的運命論のようなものであった。

                 オランジュ公会議は、西方の神学の基礎となっていたが、アウグスティヌスには、教理的な原罪論と予定論を取り上げた。原罪論を名目的に擁護しつつも実質的骨抜きにしてきたのが、ルターまでの西方教会の内実であった

                幼児洗礼や聖餐とルター

                 乳児洗礼、具体的に言えば、生後すぐの洗礼であり、ルターもこのタイプの洗礼である。人間は遺伝的に原罪を持つがゆえに断罪されねばならないとした中世カトリックは全部乳児洗礼であり、アダムから現在まで受け継いだ現在からの断絶をするのが、洗礼であった。現在の信仰者と違い、基本的には、自分の洗礼の経験を知らないのが当たり前であった。

                 また、聖餐論の観点からは、アウグスティヌス以降カトリックは聖餐そのものが礼拝になるという構造を持っており、説教のウェイトは低い。事実上説教なくても構わないとする立場である。聖餐以外は周辺的であるとしているが、 逆にプロテスタントでは、説教のない礼拝は考えられない。とくにラテン語ミサなど、その意味の理解は気にしていない程である。

                中世時代における教父研究と過激思想

                 中世に教父研究が進む中でアウグスティヌスが読まれ、その中で原罪論と予定論を語っていることが判明した。予定論、現在論、教会論による穏健なアウグスティヌス主義と、急進的アウグスティヌス主義の戦いとなった。ウィクリフ、ヤン・フスは予定論と教会論の一体化を目指したが、これらの急進派は教会から追い出される。ことになった。ヤン・フスは火あぶり異端事件。ウィクリフは異端派と最終的にされ、死後墓が暴かれた。急進派の最後がルターであったが、社会自体がルターに対して、擁護的であり押しつぶせなかった。現在論を再検証し、強化したのがルターであり、予定論はカルヴァン主義者が中心となって、強化とその再整理をした。

                西方と東方での原罪理解、人間理解の違い
                 ルターは原罪論を考える重要性があるのではないかとした。西方教会は罪びととしての人間の普遍性を考えた。原罪とは、病気のようなもので、そこからの回復策が救済論という構造を持っている。その意味で、人間理解と救済理解はコインの両面であり、ローマ書5章、中でも5章12節に基づき、ラテン語の誤訳に注目して原罪論を展開している。

                 ところで、東方教会は、死の普遍性を考えた。誰もが死すべき運命である東夷普遍性に立ち、人間は死んだが、最終的に神になるという理解を生み出した。

                 宗教改革者たちは、目に見える教会と目に見えない教会があり、中世後期の過激派は、現実に存在する目に見える教会は、間違っているから行くべきでないとまで言い切った。

                 義認論は、アウグスティヌス的前提があって有効であるが、中世を経る中で、原罪論というその前提が失われた。罪認識の深さに義認論のインパクトは比例するのであり、現在論が十分理解できないと、義認論は安易な現状肯定になるといえよう。
                 
                 現在、原罪論に関するあからさまな反論が行われており、イングランドの東方教会の研究者は明らかな半アウグスティヌス主義であり、アウグスティヌスは、キリスト教を変容させたとまで主張した。正教会での人間論は、神と協働するものという立場であり、正教会は、アウグスティヌスに同意できないのである。

                 とはいえ、アウグスティヌスは西方の伝統になり、罪を性と結びつけた。そして、アウグスティヌスは、ローマ5章12節のウルガータの誤訳に基づいた理論構成になっているとされている。現在とは、全ての人が罪を犯したという理解を、アダムにおいて罪を犯したので、現在があるという立場であり、オランジュ公会議でもこの論理が使われている。

                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 時々外国人で、性交渉そのものが原罪だということを主張する人々がいるが、その根拠は、どうもアウグスティヌスにあるらしいことを、個人的には小山先生の富士山とシナイ山で知ったが、今回も改めて、そのことが焦点化した。聖書須藤というのは、なかなか厄介なものである。これに関しては、次回の質疑応答で紹介出来よう)
                ウルガータ版ラテン語訳の原罪論の筋の良さ
                 ただし、原罪論で、誤訳の方が正しい可能性が高い。このローマ5章では、アダムにおいて、とキリストにおいての対比がなされている。その意味で、アダムにおいて、という理解であろう。パウロは、時々肝心なところで、いい加減な表現がみられる。
                 ギリシア系の正教系の神学者は誤訳の上に立てられているとアウグスティヌスを批判するが、誤訳の方がかえって正しく意味を伝えているのではないか。

                現代における原罪に関する不可解な沈黙
                 原罪の原罪論に関する不可解な沈黙がある。この結果、キリスト教を信じている人々の福音は、自己受容の福音となり、自分はこれでいいのだ、とするかのような理解が生まれ、大衆説教者、牧会カウンセラーの理解はそのようなものが混じっている可能性がある。

                 罪はカトリックの道徳神学の中で語られ、特に性にまつわる神学となっていった。道徳は罪に関して沈黙している。50年前には、罪は具体的にどんなものが罪であるのかに関して、一般的理解があった。しかし、現在は罪に関して、それが、差別の問題や、消費優先主義、性差別という形の社会的正義の罪へと読み替えられている。特に、啓蒙主義時代以降、人間論がキリスト教界でも大きく変容しており、本来人間には尊厳ということはないというのがルター的な理解であり、尊厳があるのは、神だけであるというのがルターの本来の主張である。

                 原罪は、義認論の危機を迎えている。つまり、現在という教理的背景を失った義認論となってしまっている。

                幼児洗礼再び

                 ところで、カトリックなどでは、嬰児洗礼を正当化したが、これも原罪とリンクしているのである。聖書に言う、信じているという前提が抜けおちている。その意味で、嬰児洗礼の正当化する論拠がアウグスティヌスを否定するとで成立しなくなる。嬰児洗礼をどう説明するのかが現代では難しく、かなり回避的な措置として、現在から救われるのではなく、ご夫婦お二人の子供が神にあって生まれるようにするために嬰児洗礼を施します、といっている。これはある主争点を避けているアプローチであるが、現実には嬰児洗礼の説得力がないのである。実際には壮年洗礼が増えている。

                 確かに嬰児洗礼により信仰は形骸化する傾向があるが、嬰児洗礼が施される背景には、嬰児死亡率の高さがあり、この嬰児洗礼というものは、神学的正当化抜きで始まっている。現在では嬰児の死亡率が減少したので、嬰児洗礼自体が不要となった。

                 ある文書の中に、洗礼は8日目まで待つべきか(割礼との対比)という議論があるが、キュプリアヌスは生まれたら即時に洗礼しろといっている。

                 とはいうものの一方で洗礼を遅らせよ、という考えもある。洗礼によって罪がご破算にされるので、ぎりぎりまで遅らすべきという立場もある。洗礼後の罪はどうするか、ということが問題になるからである。結構洗礼が先送りされているケースがある。コンスタンティヌスもその息子も死の床で受けている。コンスタンティヌス化する中で、本来洗礼が持っていた終末論的理解が抜け落ち、洗礼の理解が平板化した。本来の洗礼の意味は終末論的理解との関連でとらえられるべきで、キリストのからだである教会につながれる、というものである。繋がれた結果としての罪の赦しが教会につながっていることで起きるのであり、罪の赦しが繰り返し起こる。

                近現代におけるアウグスティヌス理解

                 近現代の教会の神学者のアウグスティヌス的な理解が劣化あるいは変化しているように思われる。教父時代は、事実上パウロの手紙のコンテンツを無視していたが、アウグスティヌスでパウロ化した。中世でまた、非パウロ化して、宗教改革でパウロ化し、今また非パウロ化しているかもしれない。このように振り子のように動いていると言えよう。

                 罪や原罪のことを考えずに救済は考えられないだろうし、信仰義認そのものが色あせてしまう結果になる。ルターの場合、キリストにゆだねきることで救済を考え、恵みに自らすべてを丸投げするのである。それがルターの言う信仰のみという意味である。

                現代における現在の再解釈の可能性

                 現代で原罪論の再解釈の可能性があるのだろうか。それはあると考える。創世記3章の中には、罪という語がない。だからといって罪が存在しないわけではなくて、罪について、再解釈して罪をもう少し普通の言語で語る必要があるだろう。とはいえ、アウグスティヌス流の原罪の遺伝的伝播の論理をとるのはやめた方がいいと思う。それよりもむしろ、もっとしっかりした基盤を考えるべきではないだろうか。

                自動車の運転のメタファで理解する救済論

                 ルターの義認論のインパクトは、人間は車の運転士であるという立場である。自動車の運転のメタファーで義認を考えると分かりやすいかもしれない。ちょうど、カトリックの世界の義認論は、自動車もただ、ガソリンもただ、人間が運転する車のようなものである。この世界では、道路交通法(教会の戒めを守って)天国に行くような世界である。飲酒運転や無謀運転などは、大罪であるのできちんとした対応が必要である。これに対して、小さな罪は、反則切符での略式対応するようなものである。その意味で、反則切符と罰金の考え方は、贖宥状とよく似ている。

                 ルターは、このような概念をひっくり返したと言えよう。我々はサタンによって運転されている車にいるのであり、そのサタンの運転中に、キリストが来て、ハンドルを握る。このキリストが来てハンドルを握ることが神の恵みであり、神の救いと同義である。最終的な結末が来るのは先かもしれないが、キリストがハンドルを握っていることそのものが救いであり、はるかかなたの救いが今ここで実現している、という立場である。今、既にここで、をはじめて義認を語ったのがルターである。宗教改革では、信仰義認論は共有しているものの、カルバンはどちらかというと聖化に傾いている傾向がある。

                質疑応答と感想は次回に回したい。

                 以上、本日の参加記である。ありうべき過誤は、ミーちゃんはーちゃんの聞き間違い、意識が飛んでいたことなどによるものである。ご参考までにどうぞ。




                2015.12.23 Wednesday

                雨宮慧先輩による「善きサマリア人のたとえ」をもとにたとえを考える講演会に行ってみた

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                   上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座に行ってきたので、その時のメモをもとに本日は書いてみたい。まぁ、個人の記録みたいなもんです。

                   この記事は超〜〜〜〜〜長いです。読み進めるにはご覚悟をば。

                  たとえ話の解釈

                   聖書の中で、イエスはたくさんのたとえ話、ストーリーを語っておられるが、今回の講座では、たとえ話がどう解釈されてきたのか、その解釈法を「善きサマリア人のたとえ」をもとにお話しいただいた。 

                  種まきのたとえに見る伝統的な解釈と20世紀の解釈

                   1888年ユーリッヒャーが書いた「イエスのたとえ」までは、軍喩的解釈が大きく幅を占めてきた。イエスのたとえ話は、多くの隠喩の塊として理解されてきた。物語に登場する様々やモノがある種のことを示すという隠喩のかたまりとしての解釈されてきた。


                  アドルフ・ユーリッヒャー先輩(1857-1938)

                   たとえの具体的事例として、マルコ4章の種まきのたとえを考えてみたい。福音書記者は、イエスの解釈は寓喩的解釈として記録しており、歴史的には、多くの隠喩の塊とみる修辞法として理解されてきたが、現在の聖書学者たちは隠喩の塊としての見方を放棄して新しい見方を始めている。

                   隠喩の塊としてたとえ話を見るときに、隠喩とその要素と現実との対応とを付けることで、寓喩の意味を考えてきた。

                   恐らく、種まきのたとえの後についてるイエスの解釈として宣べられている部分は、初代教会の解釈という可能性があるように思う。なぜならば、この解釈には教会というコンテキストで語られているからではある。(まぁ、聖書は誤りなきイエスのことばを記録しているという人々からは受け入れがたいとは思うが、もし、初代の教会がこのように伝えたとすれば、それも教会の伝統として受け入れておられると思うので、聖書の権威性を否定されていると誤解しない方がよいと思う、と念を押しておこう)現代の聖書学者としては、この種まきのたとえのイエスの解釈とされる部分は初代教会としての解釈として理解されている。

                   ここでは、このたとえ話のコア概念、直接何がこの物語で言いたいかというと、実をならせた種と実をならせなかった種の対比にあるように思う。
                   
                   このたとえ話は、いわゆる、ガリラヤの春と呼ばれる、人々に受け入れられた時期の直後に語られている。当初華々しく広がったが、その後停滞を見せたときに、実際に、イエスは、イエスの活動拠点であったカペナウム(ガリラヤ湖畔の町)やベテスダ、また、コラジンを呪っている。
                  【口語訳聖書】マタイによる福音書
                   11:21 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
                   11:22 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
                   11:23 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
                   11:24 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
                   イエスの宣教活動がはかばかしくなかった時期があり、イエスを批判している記事などもある。当時の人々は、イエスが宣教しているものの、何の効果もなかったのではないか、と非難することもあった。こういう状況による批判に対して、イエスは種まきのたとえで答えたのではなかったろうか。

                   実際に、当時のイスラエルというかパレスティナには、種をまいた後、耕す農法があったようだ。そういう農法では、道路になるかもしれないところにも撒いたようである。イエスの伝道は、神を信じ、神が実をならせるということを信じて、種を撒くということを主張したかったのではないか。実をならせない種があるが、実をならせる種もあるということを信じて種をまくのだ、というイエスの考え方を示したものではないか。

                   マルコ4章14節以降は、教会生活を前提にしている。教会生活においてどういう生き方をするのが問題になる、という解釈になっている。ところで、イエスは教会を前提にしていたのだろうか。イエスが活動下敷きには教会と呼べるような組織があったとは考えにくいと考える。教会生活を前提としたものは、イエスが前提としていたことは考えるのは厳しいだろう。

                  教父たちと寓喩的解釈とその背景
                   教父たちが寓喩的解釈を行ったことに多大な影響を与えたのは、ホメロスの描く神話の解釈論で、ホメロスが描く神々の行動原理や道徳観はもはや受け入れがたい時代になっており、その結果、寓喩的解釈の仕方になれていた。ギリシア世界に育った教父たちは寓喩的解釈を適用していったのであろう。

                   もし、文字通りの意味でないといけないのであれば、旧約聖書の雅歌が文字通りに伸べていることは、教会には受け入れがたいし、教会の倫理的な概念から言えば、不適切なものであるが、教会への愛を表すと解釈することで深い意味があるとして理解しているのではないか。世俗的には雅歌は一種の恋愛歌であり、お行儀がいいとは言えないことが書かれている。寓喩的に解釈することで、受け入れていった。間違っているということではない。

                  文字どおりの解釈が困難な聖書箇所

                   あるいは、文字通り理解するのであれば、コヘレト(伝道者)の書も疑問があることになる。コヘレトは言う。何という虚しさ、全てはむなしい。虚しさの虚しさ、と表現されており、冒頭でも、むなしいという語が5回続いており、12章8節からが最後の部分であるが、そこでもむなしいばかりが強調されている。これは、ある面で神を持たない人には、こんなことが起こってしまうぞという理解で聖典化しているのであろう。


                   たとえ話を理解するうえで、イエスはたとえをどう語ったのかが問題になるだろう。ほとんどの教父は、寓喩的解釈をとっている。中でも、善きサマリア人の解釈に関しては、アウグスティヌスの寓喩的解釈は初期の教会の寓話的解釈の頂点ともいうべきもので、人類を巡る救済史としてエマオに下っていった人はアダムを表し、人類の堕落を示し、強盗にあった人を受け入れた、宿屋の主人は使徒パウロであると理解し、最後に善きサマリア人で救済になっていることから、それはイエスの救済を示すというような理解となっている。時々、動物はキリストのからだを示すとか、意味が分からない解釈もあるけれども。その意味で、救済史を説明するためにアウグスティヌスは利用しているところがある。 

                   では、宗教改革では、どうであるかというと、カルヴィンだけは、非常に激しく寓喩的解釈を批判した。

                   19世紀1888年までは、寓喩的解釈が主であり続けた。寓喩とは、いくつもの隠喩の塊として理解するために、現実とたとえ話の中にあらわれる対象とたとえ話が目標にするものとの対応関係(接点)は、複数となる。これはまずいのではないか、ということをユーリッヒャーは主張したのである。

                  ユーリッヒャー先輩の解釈

                   たとえ話にあって示そうとされるものは一つではないか、ということをユーリッヒャーは指摘した。たとえ話に出てくる多くの要素は、話を成立させるために語られた部分。本質的な部分と無関係である。大事なのは、先ほどの種まきのたとえで言えば、実をならせ種と実をならせなかった種の一つがその主要な主張なのではないか。たとえによって教えようとしていること(主な主張)とたとえが結びついていると理解した方がよいのではないか、と主張した。ある意味、鋭いといえば鋭い解釈法ではある。(まぁ、可能性としてあると思うが、一つしかないと言い切るのは学問としては理解できるが、少々言い過ぎの気もする。)

                   たとえが細かく語られているの背景には、たとえ話が様々な要素となっているのは、舞台のセットとして書いてあると理解させる方法であり、いわば物語として成立させるための道具立てであるといってよいだろう。その面で言えば、善きサマリア人のたとえは、救済史のおさらいとして解釈されるのではなく、隣人としての行動を解いたものといえないだろうか。

                   たとえをたとえとして理解するためには、4つのポイントで理解するのがよいのかもしれない。つまり、たとえのたった一つの主要ポイントを捜すことが有効であろうと考える。つまり、たとえと、たとえによって教えようとしていることの接点を捜すことを捜せばよいことになる。

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                   ここで、具体的に、天の国と畑に隠された宝のマタイ13:44の例で考えてみたい。

                   例えば、この話の中で、宝を見つけた人は、隠された宝を隠しておくのは正しいといえるのか、ということになる。話の中で出てきた、「隠したこと」に気をとられるとまずいことになるように思う。このたとえを語った母子の話があり、母親が、この話を子供にして、「あなただったら、どうする?」と聞いた時、子供は素直に「交番に行く」といったが本来的な倫理から言えばそうなるはずで、「隠してまでも」ということに強調はないように思う。

                   なお、この隠された宝の話は、真珠商のはなしと対になっている。45-46節での真珠商の話では、不道徳な行動はない。イエスは、これらのたとえを一つのものとして語っているように思う。そして、この二つ対をなす譬えのポイントは、「神の国に入ることはあらゆるものを捨て去るほどの価値がある。」という形、つまり、主要主張はここにあると考えるのがよいのではないか。

                   別の例としては、10人の乙女のたとえがあるだろう。ある解釈者は、賢く、準備をしていた5人の乙女が、他の準備不足の5人に対して油に与えなかったことを根拠に、自己中心的であってはならないと理解して語った例があると聞いたことがある。これは、どうも解釈としてはどうかなぁ、と思われる。この話の主要な目的は、常に目を覚ましていることにあるので、5人の愚かな乙女は聞かせるための工夫ではないだろうか。

                   あるいは、ルカ16章の不正な管理人のたとえについても、ジレンマがある。不正な管理人のたとえも解釈しにくい部分である。この話は、イエスの到来により、終末の準備をするような歴史の転換点に立っていることを、覚えてそれに備える知恵を持っていることがだいじなのではないだろうか。

                   神の国の『国』と訳されるバシレイヤは、支配を表す表現であるが、支配が領域で定義されることがあり、領域概念を意味に含むようになり、国と理解されるようになったが、本来的には、神の王としての支配が意味されている。

                   神が世界の隅々にまでその支配を及ばせようとしている時代が来ており、イエスのことばを聞くものは歴史の転換点に来ているのであり、賢くあれ、神の支配の時が差し迫っているということがこのたとえの主要な主張であろう。9節

                  口語訳聖書 ルカ福音書 16:9
                  またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
                  は、イエスのことばかルカの解説かが、はっきりしないように思う。神の支配の到来がある、世界が変わる時に備える方法は、賢く盗むことではなく、賢くお金を用いることを説いているのではないか、が重要ではないか、と思う。

                  ∪験茲虜造鯀椶(ドイツ語由来)
                   ある文学類型(様々な奇跡物語、たとえ、伝説)はそれを生み出し、はぐくむ固有の座を持っている(固有の状況を持っている)と考える。ある文学類型を活かす座を、生活の座と呼ぶ。(生活の座とは、その民族、その文化固有のものやその物語の背景らしい。)
                   実例として、ルカ15:4-7と15:8-10の失われた銀貨や羊のたとえ話を例にとり考えてみたい。

                   このたとえ話の背景は、取税人や罪人が来て、それに律法学者たちが不満を抱えていた。この不満は史実を反映したものと考える。多くの学者は、史実としての律法学者や祭司におけるイエスの不満を踏まえた上でこのたとえが語られたとしている。律法学者の批判に対するイエスの弁明を記録したものといえるだろう。この祭司の不満が史実だとすると、解釈の仕方も変わってくる。取税人や罪人という排除された人々のところに行ったことを示し、弁明と宣言としてこのたとえ話をイエスは語っている。この弁明と宣言として3つの譬えが語られた。

                   史実を前提にすると、この話の背景は、ルカの設定した舞台設定ではない。イエスが語ったたとえの教えそのものは何かを考えることが生活の座を考えることにつながっている。イエスに対する批判への生活の場は、弁明と、宣言である。その目的は、イエスの到来は、エゼキエル34:11-16が実現したことであり、イエスの活動はエゼキエルによる預言の成就であることなのではないか。

                  口語訳聖書 エゼキエル書

                   34:11 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
                   34:12 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
                   34:13 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
                   34:14 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
                   34:15 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
                   34:16 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

                   つまり、聖書において生活の座をさがすとは、たとえが語られた背景、たとえを語る目的を捜すことであるといえるだろう。

                  J_蚕餤者の譬えの解釈を捜せ
                   ルカ19章のタラントのたとえでこの問題を考えてみる。ルカ19章とマタイ25章の間の違い等がある。それはそれで意味があり、ルカとマタイの考え方が組み入れられている。福音書記者がどのように解釈したか、を考えに入れた方がよいだろう。

                   生活の座には3つの段階、イエスがたとえを語った段階での生活の座があり、続いて伝承される間での生活の座があり、福音書記者が書くときの生活の座があるのではないだろうか。その意味で、福音書記者が書くときの生活の座ということは少し考えた方がよいだろう。

                   福音書の成立年代を考えると、マルコ福音書、70年ちょっと過ぎ、マタイは80年代、ルカは90年代 と考えられ、イエスが死んだのが30年代であるとすると、かなり時間差があることになる。

                   ある面で言うと福音書におけるたとえ話の解説は初代教会の時代の理解を反映していると思われる。マルコ福音書4章1-20はおそらくイエスがまさに語ったことであると考えられるが、13節以降は、初代教会の中で作られていったと考えることもできよう。イエスの復活後、長い伝承の期間が存在したし、ルカやマタイは独自の環境に直面し、福音書を記載するうえで影響したものがあるだろう。その意味で、生活の座を三段階で見ることができるのではないか、と思う。つまり、イエスが語った生活の座(環境) − 伝承される期間での生活の座(環境) − 福音書を描くときの生活の座(環境)の3段階があるだろう。

                   ルカが福音書を書いた時代の関心は、初代教会時代の課題でもあった、イエスの再臨の遅延にあると思う。
                  口語訳聖書 2ペテロ

                   3:2 それは、聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主の戒めとを、思い出させるためである。
                   3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
                   3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

                  口語訳聖書 1テサロニケ

                   4:13 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
                  などは遅延しているイエスの再臨に直接言及している。あなた方が悲しむことのないため、とまで書いている。主が来られる日まで生き残る私たち、という表現にあるように、パウロが主が来られる日に生きている人々の内に入ると思っていたとするのが自然だろう。自分が生きている間にあるとパウロは思っていたようである。

                   当時の問題としてこのイエスの再臨の遅れは、信徒にとって大きい。

                  福音書の異同をどう考えるか

                   様々な考え方があるが、口伝では共通であったものが、文章化された段階で違いが生まれ、さらに読み手の事を意識して福音書記者が書いた可能性がある。

                   ルカはタラントのたとえで、再臨があるとしているが、マタイとしては、イエスの再臨と協力に結びつける記述がない。王の位の記述はマタイにはないし、マタイのタラントのたとえ話を再臨問題と結びつける意図は弱いものであったのではないか。

                   マタイは、忠実な僕、ルカは、再臨の遅延としてとらえているようであり、ルカにとってたとえの生活の座は、イエスの再臨という完成まで忠実に生きることであるとした。イエスもそう言っていたという認識であったであろう。

                  た世福音書の譬えを通して、いまを生きる我々に
                  何を語りかけているのかを捜せ
                   これまでの,らまでは、新約聖書成立までの生活の座を考えてきた。但しそれでは不十分で、現在を生きる我々との関係を捜すことが必要である。最初の3つの原理からはなれていれば、現代の生き方に対するその教えの意味を的確に理解できない。イエスの主要ポイントと、福音書記者の生活の座(そのたとえ話を語った文脈というか環境)、福音書記者の解釈の範囲を参照枠とするとき、生きるたとえの意味第4原理を理解できるように考える。

                   最初の,らの原則の中で考えることで、たとえ話を理解すべきではないだろうか、それを超えてしまうと、結果的には、人間の感情が最終的啓示になってしまう。聖書本文の意味を知り、神の霊を求めるべきで、そうして初めて神の生きた言葉になるのではないか。

                  (後半)

                  善きサマリア人を考えてみる

                   いよいよ、ルカ25章30-36節と、ルカ10章25-29節と37節の部分を、分けて考えることができるのではないか。

                   「おいはぎに襲われた人」という表現が30と36節に出てくる。

                   また、「道の向こう側を通っていった」という表現も2回繰り返して出てくるし、それに対して、「介抱した」という語も2回繰り返して出てくる。ここで、同じものが直近に二度繰り返されることで、対応するもの同士であることが示されているのではないか。このように対応関係に見てみると、このたとえ話の中心性が出しやすい。

                   31-34節では、2つのタイプの人が出てくるし、登場人物が揃いたとえ話として成立する。その意味で、33-34前半が中心軸となっており、それに対応する外側の層で挟まれている構造になっている。つまり、道の向こうを通らずに(つまり、無視せずに)、介抱するというところが、隣人愛とは何かが出てくるのではないか。

                   この善きサマリア人は、見て、哀れに思い、近寄ってとなっているが、また、祭司やレビ人が見ると道の反対側を、と訳している部分の、見ると、と訳している部分も、同じ動詞が使われている。ここで、同じ見るという言葉を使っていて退避しているのではないだろうか。

                   その意味で、見て、哀れに思うがあれば、隣人になることになる、ということであろう。ここでのキーワードは、哀れに思うという動詞であり、スプランクニゾマイ Σπλαγχνίζομαι という語が使われている。この語は、共観福音書だけに12回出てくる言葉で、パウロやその他の福音書には出てこない。

                  このΣπλαγχνίζομαι は、イエスが主語になる用例として、合計9回であり、たいていは奇跡に起こる前に使われている。残りの3回はたとえ話の登場人物が3回であり、そのうちの1回は善きサマリア人のたとえであり、マタイ18:26の1万タラントの借金を持つ人を憐れんだ主人、あともう1回は、ルカ15章の放蕩息子のたとえである。なお、この「放蕩息子のたとえ」という表題は、たとえの本質を言い表していないように思う。
                   ここでのスプランクニゾマイは、父が哀れに思い走り寄った時の、父の心の表現として示されている。このスプランクニゾマイという語は、神のこころを暗示していると思われる。具体的には、イエスか、神と思える人物のたとえの身に使われている。
                   
                  他の登場人物と憐れみ
                   
                   祭司、レビ人、エルサレムからエリコに向かって下ってきた人であるが、エリコはエルサレム神殿の下級祭司の住宅があった場所なので、仕事のために、何週間かはなれていて、恐らく自宅に帰る途中だったんじゃないか、と考えるのがよいのかもしれない。その意味で、祭司やレビ人は、かわいそうにという思いはありながら、隣人になれなかった人たちのことを示しているともいえよう。

                   スプランクニゾマイは、普通の憐れみと違っているんじゃないか。おかわいそうに、という簡単なものではない、心底哀れに思いであり、行動に直結する憐れみである。人間は哀れに思うことがあったとしてもそう長続きしないのである。なお、類似の語としてのスプランクノンはピレモンに3回パウロは使っている。

                   スプランクニゾマイに関しては、「ちもぎる(沖縄方言)」という語があるが、まさに、それと同じで、はらわたが震えるような深い憐れみであるが、我々の思いは、一時的に終わることが多いだろう。

                   その意味で、スプランクニゾマイという語が用いられた、サマリア人は、普通の人間を指していないのではないだろうか。そう考えると、サマリア人はキリストと考えるのは当然ともいえなくもないだろう。

                   善きサマリア人をキリストと考えるその点では、古代教父と同じ解釈になる。ある面で、このサマリア人に対しては、寓喩的な解釈を加えるべきでないだろう。

                   但し、これは、ルカ10章29節以前と分けると、そう見えるかもしれない、という理解ではある。

                  どこまでを一体として考えるか問題

                   ルカ10章25-29節に出てくる2つの愛の教えとの関連をどう考えるかである。2つの愛の教えは、マタイ、マルコにもある。しかし、ルカ10章については、新共同訳は一体のものとして描いてあり、よいサマリア人という表題がついている。

                   これは、新共同訳聖書の底本として使ったギリシア語聖書を編纂した聖書協会世界連盟に転居しており、それに従って、表題と並行箇所を付けている。なお、ギリシア語聖書のタイトルは、英語でつけている。

                   段落に関しては、新共同訳は底本通りに従っており、英語でつけられた表題を日本語訳したものとなっている。二つの愛の教えであれば、マタイにもマルコにも出てくるが、良いサマリア人の表題の下には閉口を示す記述がなく、並行箇所はないという立場を新共同訳の底本となったギリシア語聖書ではなっている。

                   しかし、マタイ、マルコでは、ルカ10:25-28が並行箇所として挙げられているのに、ルカではそれがない。これはちょっとおかしい感じがする。本来ルカの表題善きサマリア人の表題の下部にも、マルコが出ててもいいはずだが存在していない。

                   なぜ、ルカ福音箇所に並行箇所をあげず、独立させたか、といえば、一つの段落として扱いたいという学者がいたからではないかとも考えることができる。そして、ルカの表題から参照箇所を抜いてしまいたいという意図が働いたことを考えることができるのではないだろうか。二つの愛の掟と善きサマリア人の話を一つとしたいという思いがこうなっているかもしれない。

                   先にも述べたように、たとえとたとえの教えが1点で結びつくというのが、ユーリッヒャーの考えである。

                   導入部として、29節があり、隣人という語が出てくる。この隣人という語に現代の学者は意味を置いているようである。重要なポイントは、隣人とはだれか、という問いかかわっているように思うのである。

                  善きサマリア人は、イエスが直接語った資料であるか
                  二次資料であると考えるか問題

                   聖書の編纂があったことを考えると、伝承の段階で含まれている(2次的なもの)があることになり、もし、ここで、30節から36節までを独立させると、このたとえ話は、イエスのものとはしにくくなる。あるいは、30-36節はイエスが語ったたとえであるとしても、29節までと37節は、無関係に伝わり、ルカが組み合わせたことになりかねない。

                   善きサマリア人の譬えのみを1塊とみて、マルコやマタイが同じ話を伝えている個所がないとすると、25-37をひと固まりで見ることが望ましいと考えた可能性を否定できない。この善きサマリア人のたとえと二つの愛の掟とを結合させたのは、ルカではないかという仮説も生まれる。

                   ただし、一体として成り立たない理解の根拠として、10:27・29の隣人と36の隣人では言葉の使用法が違っている。より具体的には、27・29は、愛の対象としての隣人(誰かから愛される人)であり、36節は愛の主体(愛の主体困った人を助けるもの)としての隣人として用いられている。この違いがあることから2次的だという人もいるが、ただ、多くの場合、善きサマリア人のたとえは、2次的でないとみている。悩ましいのは、善きサマリア人のたとえはルカだけにあるkとおである。なお、3つの福音書は共通の起源を持つと必ずしも考える必要はない。なお、この二つの愛は非常に重要なので、いろんな場所で何度も語っていた、とも考えることができるであろう。無論、3つも起源は同じと考えることが可能。

                   こんなこまかいことを考えるのが学者なんです。しょうがないでしょう。(って、先生が言ってどうすんですか、って突っ込みそうになった)

                  ところで、愛する主体としての隣人はかなり重要ではないかと考える。律法学者は隣人として備えるべき必要な要件に向けられている。つまり、愛を与えられるための対象となるための要件を議論しているのに対し、イエスが述べる関心は、愛するものになることに向けられているように思われる。

                   イエスが隣人とするための要件を取り上げていない、全て愛される対象であるとこの善きサマリア人で説いているのではないか。「私(イエス)にとって愛するとは何か、私(イエス)が隣人となるとはどのようなことか」にイエスの主張があるようにおもわれる。

                   だれが私の隣人であるかどうかは、イエスにとって意味がないと居であるといいたいような気がする。むしろ、「私(イエス)があなたの隣人となる」に意味があると思う。その意味で、二つの愛の掟と、それを含む善きサマリア人の二つからなる独立した伝承とすべきでなく、当時の人たち(この話を聞きながら思ったのは、また現代の人たち)の間違い(神の愛に関する誤解、ユダヤ教徒であるがゆえに神に愛される権利があるとか、キリスト教徒であるがゆえにキリスト教徒で愛するとかいう基準を競ってしがちな傾向)のゆえに存在したのではないだろうか。

                  善きサマリア人のたとえの生活の座とは何か
                   サマリア人に向けていない。なぜ、サマリア人をもちい、ユダヤ人をたとえの主要登場人物として用いなかった理由は何であろうか。

                   これには、サマリア人の起源問題がかかわっているであろう。列王記の下17章がその起源を示すようであるが、アッシリアに制圧された後、指導者階級をアッシリアはティグリス川の河岸付近に運んだという記述が参考にされる。

                   サマリア人がどう見られていたか、シラ書(聖書外典)の50:26では、シケムに住む愚かな者として描かれている。
                   この死ら所では、二つの民を忌み嫌う。セイルに住むものとペリシテ人の二つの民が出てくるが、しぇけむに住む愚かな者のは、民扱いされされていない。

                   サマリア人蔑視の傾向は非常に強く、イエスにサマリア人で悪霊につかれているといっている例からもそのことは確認される。なお、クムランにあった修道会のようなエッセネ派は、自分以外を闇の子ら、と呼んでいた(おお、こういう人たち、いるよなぁ、ヤンシー先輩の連載ではないけど)。そういう蔑視意識があったと思うのである。

                   善きサマリア人の最初の生活の座は、民族的、宗教的偏狭さへの強い批判であり、隣人の範囲には限界がなく、万人を含み、苦しむ人々に惜しみない援助と同情を与える人ではなく、民族的偏狭さへの克服の勧めとも取れる。

                  ルカのテーマとしては何か
                   ルカのテーマはアウトカーストにも来た救いであり、神の愛の受け取り手は限定されないのではないか、という点であろう(まぁ、テオピロという異邦人らしき人に捧げられていることから考えても、なんとなくそれは想像できそうだが)

                   救いの時が来ているが、祭司やレビ人のような宗教的エリートは、それを拒絶し、むしろイスラエルのアウトカーストはそれを受け入れ、大宴会の座についている。救いに招かれたアウトカーストは、彼らの隣人を愛することになるし、天の父が彼らに示した愛と恵みのミニチュアとしてそれを示すようにと期待されている。神の愛は受け取り手は制限されてはいないことにあるだろう。

                   ルカにとってイエスの再臨が引き伸ばされている中で、大事なことは所有物の正しい使用法、敵である人にあいを示し、必要なものを与え、お返しを求めてない愛ということであろうし、その意味で、ルカにまで伝えられた物語にほとんど何も加えず、彼の福音理解を表現しているのではないだろうか。

                   大学生に雨宮先生の解釈ついて聞いてみると、二つの愛の戒めと一体としてまとめて考えようとする受けがよかったらしい。その意味で、人間が愛する側におく方に賛成の学生が多かった。つまり、神の存在が表に出ていない、ヒューマニズム問題として善きサマリア人だと理解する方が受け入れられやすいようである。サマリア人はキリストだ、と言ってしまうと、学生たちからは、かえってたとえが遠のいてしまう傾向があると思われる。
                   神とかキリストだといわれると遠いというイメージを学生が持つからなのではないか、と思っている。大学で若い学生を相手にする時には、現代の学者としての理解を語る方がよいのかもしれない。
                   トラピストに行ったときに話した。シスターに話したら、現代学者の解釈よりも、雨宮説の方がいいという理解であった。これは、人による受け止め方が違うことを示していて、人それぞれの環境や文脈があり、第4の生活の座を考えないといけないということかもしれない。 

                  Q&A

                  Q 放蕩息子のたとえというタイトルがふさわしくない、とおっしゃいましたが、理由を教えていただけると嬉しいです。 

                  A
                  英語でのルカ15章の表題表題はこうなっています
                   最初のたとえ     The Lost Sheep 失った羊
                   8-10節のたとえ    The Lost Coin 失くした銀貨
                   11節以降のたとえ   The Lost Son 見失った息子

                   なぜ、放蕩息子の譬えがふさわしくないか、といいますと 放蕩がいけない、ということになってしまうからで、放蕩がいけないこと位は当たり前の事です。この物語の本質は、父親から見た息子の姿、見失ったということにカギがあるからです。

                   なぜ、英語の見出しをLostでそろえているか、15章で8回使われているアポロリューミという語にあるからです。

                   アポロリューミは、見失った(羊)や失くした(銀貨)、あるいは、いなくなった、失った息子という表現でも使われていますが、飢え死にしそうだというのも、このアポロリューミが使われているのです。重要なのは、この言葉のニュアンスであり、飢え死にしそうだ、というニュアンスが大事が大事なんです。

                   国と訳される聖書もありますが、これはある地方への旅立ちといった感じで、地方という言葉が使われています。このたとえ話の中で、3度にわたって地方を使ったのは、父のところと、今いる父から離れた地方という空間的な関係性の対比を示すためでしょう。

                   アポロルーミという語は、本来、あるべき場所から離れてしまった、あるいは、いるべき場所から離れてしまい、滅びようとする場所にいるということを示す語ではないでしょうか。

                   ザアカイの話がルカ19章にありますが、ザアカイに対して、失われたもの、アポロリューミという語が使われています。ルカ15章に出てくるキーワードのアポロリューミは、失われた、という受動表現に変わると分かるように、失われる、アポロリューミという表現そのものが、父親、神から見ている表現になっているように思われます。 


                  感想
                   今回学んだことは、スプランクニゾマイの主格が、神ないし神に近い人にのみ使われること、そして、善きサマリア人のたとえも、また、ザアカイにしても、放蕩息子のたとえと呼ばれる失われた息子のたとえにしても、結局、イエスのミッションは、レスキュー・ミッション、神の子供としての特権の取り戻しと、新しい創造というのか、再創造というのか、テレイオスにおいて完成する神の業、神の支配の感性という視点を外してはならないなぁ、という素朴な感想であった。

                   逆に言えば、この視点から、表面上の文言やこれまでの解釈にとらわれずに、神と人との関係を考えることが重要であるということを想ったのであった。









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