2015.06.08 Monday

N.T.ライト読書会に行ってきた

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     今回も、NTライト読書会(オフ会というかリアルミーティング)に参加してきたので、ご報告でも。

     今回のリアルなライト読書会は10人くらいの参加者があった。今回のテーマは終末と終末理解という1999年にライトが書いた終末論の論文を読んだ。ちょうど2000年に終末が来るのではないか、コンピュータの2K問題として知られていた問題などをはじめ、社会的混乱や終末の到来が起きるのではないか、という恐怖を人々が口にしていたころの論文である。

     まず、参加者が自己紹介かねながら、終末理解とのかかわりを紹介した上で、実際の論文を読んでいき、最後にディスカッションをした。以下はその要約である。

    イントロ 終末という語の混乱
     まず、冒頭部分は、主催者の小嶋先生が英文を読みながら概略をかいつまんでご紹介して下さることから始まった。

     N.T.ライト先輩がお書きになったものの冒頭に、Redemptionとかatonement(日本語だとミソギに感覚が近い)とかの教会用語が誤用されていることが述べてあり、それと同様に、終末Apocalypticという語が誤解されていることがあるという議論が紹介されていた。実は、このApocalypseという言葉は、もともとは、ヨハネの黙示録(英語ではRevelation)のギリシア語でのタイトルで用いられた語である。

    映画と終末理解

     さらに、これにハリウッドの終末理解が入り、より大がかりに騒がれることになっている。ハリウッドには、この種の終末を描いた映画はかなりあり、例えば、地球最後の日、アルマゲドン、メテオ、イントウ・ザ・ストーム、大地震、ダンテズ・ピーク、デイ・アフター・トゥモローと結構終末物は、夏場のお化け屋敷のように夏場に上映されることが多いような気がする。どうでもいい話であるが。


    ディープインパクト 予告編


    ダンテズ ピーク 予告編


    世界の終わり


    アエロスミスのハルマゲドンの挿入歌 

    日本だと、日本沈没とかあったような気がする。まぁ、パニックムービーははずれがないので、映画会社にとっては一定の観客動員が見込めるという安心できる作品ジャンルである。まぁ、ディズニーランドなど遊園地で、ジェットコースターとかフリーフォールが受けるのと同じである。


    日本沈没 予告編

    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
     最近、この種の終末論映画をいのちのことば社さんが後援しておられるが、まぁ、大人の事情がおありのようで。例えば、以下の2本)


    いのちのことば社 後援の
    レフト・ビハインド


    リメイニング 予告編
     終末だ、の字幕があるが、正しくは、携挙だ(Rapture)と言っている


    終末論が盛り上がる背景

     そして、2000年というある1000年期末に世の終わりがあるという理解が広がっているが、政治的な事柄の動き、ベルリンの壁、冷戦構造の終焉、温暖化などとが終末に関連付けられている。

     また、日本では五島昇氏が1999年に恐怖の大王が降ってくるというノストラダムスの大予言という本が世間では話題になった(ライトが言っているということは、イングランドでも話題になったらしい)が、今回の参加者の教会の中ではあまりいわれなかった模様。

     週末に備えて準備しているPrepersの人々や、Concerned Christiansと自称するイスラエルで主の再臨を待っていた人々の話が書かれていた。


    Prepersの皆さんに関する動画


    トンデモ本扱いの『ノストラダムスの大予言』

     しかし、これらには、実に聖書的な根拠も、合理的な根拠もないのである、とライト先生がお書きであった。

     大体、2000年で1000年期(ミレニアム)とかけて大騒ぎしているが、そもそも、年代記の決め方自体を決めた暦自体の歴史性を考えてみると、それが成立したのは、そもそも6世紀ではないか、そもそも、キリスト教にとって重要なのは、キリストの降誕ではなく、もっと重要なのは復活なのではないか、1000年の変わり目だといっても、その日は特定の一日に過ぎないのではないかなどの議論が展開されていた。

    Apocalyptic Language
    (終末的・黙示的言語)について
     メタフォリカルな解釈を考えてみたい。現実の人間が住んでいるその時空間のメタファーを使って書かれているはずだし、普段の日常生活でも、ある程度分かって使っていることが多いはずだけど、聖書解釈になると突然文字通りになることもあり、ある個所のテキストで解釈を区別して考えるのはどうなんだろうか、という疑問を投げかけていた。

     このあたりは、N.T.ライトの新刊「クリスチャンであるとは」のp.270~279の「聖書の解釈、文字どおり(字義的)と比喩的」にかなり詳細に展開されていることをご紹介して、ステマいたしました。まだ、お持ちでない方は、キリスト教書店か、あめんどうのサイトへGo!である。

     参加者の中からは、この黙示文書の特殊性は誤解する人がいるぐらい、強烈な表現があり、そのことで何かを読者に伝えようとしているのではないか。黙示録は、神によって見せられた幻をヨハネがパトモス島で文書として残したものであるけれども、ヨハネにとってはかなりリアルな体験だったのであろう。また、メタファーでしか表せないリアリティもあるのではないだろうか。仮に文字通り解釈すべきであっても、筆者の側ではそういう表現でしか表せないこともあるのではないか。このような表現によるインパクトは大事ではないか、というような意見が出された。

     黙示録の中に、バビロンが出てくるが、そのバビロンを経済的な発展性からロンドンとか、ニューヨークとかいろいろ想定されるけれども、文字通りバビロンが崩壊するとは思っている人はいないだろう、とN.T.ライト先輩は書いていた。
    (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
    東京は、東映特撮チームのおかげもあって、ゴジラやキングギドラが来て昔は毎年一回壊されたので、終末論的崩壊から免れているのかもしれないと思った。子どものころは、自衛隊は基本的に対怪獣攻撃組織(大抵は踏みつぶされて終わる)だと思っていたのだが、最近は海外に怪獣対策に行くように制度を改正するとかしないとか…)


    ゴジラ 近代兵器を備えた陸海空の精鋭…今見たら…

    TSエリオット詩の話がちょろっと出てきて、いろいろ経験するとは言うものの、その意味が分からないことがあることが紹介され、黙示録というかApocalypticということはそういうことではないか、と様な話し合いがなされた。

    メタフォリカル理解とリタラル理解
    メタフォリカル理解(隠喩、比喩的理解)とリタラル理解(文字通りの理解)は、行ったり来たりする、使い分けをしていきながら、通常解釈しており、どちらか一つで解釈するものではないのではないか、ということをN.T.ライト先輩は書いておられた。この辺に関しては、日本語翻訳されたN.T.ライトの新刊では、「」と書かれている。

     また、主催者の小嶋先生からは、聖書の中にある黙示文書(エゼキエル・ダニエル・マタイの一部、マルコの一部、そして黙示録)の聖書の中の文書系統とその理解のされ方などの説明があった方がいいよなぁ、というお話があった。N.T.ライトの本や文章は、彼が頭が良すぎるためか、この辺のことをブッ飛ばして、いきなり結論に行くことが結構あるので、そこは読み手が補足する必要があることが多いので、つらいところではある。

    End of the world Speculation(終末の予測)
     この辺の終末の予測に偏ってくると、ブランチダビディアンがATF(アルコールタバコ武器火薬取締局)と長期間対峙したWaco事件のように、暴走することがある。こういう偏ったものの見方から、教会や社会集団が機能不全になったりすることがある。(典型的にはオウム真理教である。ヨガ集団で始まったものが、AK47を自分たちで製造しようとしたり、旧ソ連製の軍用ヘリコプター買い込んでみたり、武装革命を起こそうとした中で、20年前にサリン事件を起こしたことが思い起こされる。


    ブランチダビディアンのウェイコ(Waco)事件を伝えるCNN


     このアポカリプティシズム(終末理解主義)が進んでいくと、すぐに、自分たち(だけ)が正しい、他の人は罪びとで、他の人は滅びるという傾向に入りやすくなるのではないだろうか。

     1世紀付近のユダヤ教で、黙示文書のこういう背景や、世界観があったのであろうか、ということに対して、生み出したグループが特定できているのは、死海文書であるが、但し、その文書が集団のものなのか、個人のものなのか、どういう背景なのかまでは歴史的に特定できないのではないだろうか。弾圧されていた人たちがそのような黙示文書作り出したかもしれない。いずれにせよ、歴史的に裏付ける文献史料はないという可能性が高い。

     黙示文書の中で外典として収録されているエノク書が厄介なのは、一時点に誰かが書いたものではなくて、最終的な編纂を経ている可能性が高いということであり、一部には、キリスト教の影響もあると主張する人々もいる。

     世の終わりを考えることで、内と外を分ける境界線が形成されている。行動としてのファンタジーは直接繋がってない。言葉と行動の関連の問題を考える必要がある。

    東方教会にもある終末理解

     ある人の旅行記の中で、東方正教会のガザ地区の荒野にいる司牧が語った携挙の話が紹介されていた。その司牧の話によると、地獄とつながる穴が、死海の中にあき、東方教会以外のプロテスタントもカトリックもみんな地獄に落ちて、その司牧が助けようと思っても助からない、助かるためには東方教会に改宗するしかないと真顔で語ったという話が紹介されており、これが、幅広いキリスト教に広がっていることの証左としてNTライト先輩は紹介しておられた。


    ディスカッション
     リタラル(文字通りの)聖書解釈とメタフォリカル(比喩的)聖書解釈にかかわることを携挙問題から考えてみたい。

     空中と主と出会うという表現の出合うという表現は、都市の外にいて、ローマ皇帝を出迎える、皇帝を市内に引き入れるという表現と共通する語がつかわれているあたりの解釈で、あぁ、なるほど、N.T.ライトはそう理解しているのだ、とわかりやすくなtt面などがあった。

     別の方は、平安末期の末法思想と共通する部分があるかも、実際に末法思想の時には、様々な苦難や、飢えや病気などがあったし、実際に、アフリカで起きていることは末法的出来事のような気がするが、こういうことは直接の関係がなく、避けている部分があるとおもった。

     携挙を話した宣教師がおられ、そのことを固く信じている。老人ホームに入所してもこの宣教師は、語りつづけた。そして、イエスが待っているといって、死去した、固有の信仰なのか、風土背景なのだろうか。

     リメイニングという映画や、レフトビハインドみたいな映画があるが、それを福音的だと思って、紹介した映画関係者のキリスト教徒の方のお話が出てきて、こういうのはどういうことを他者に伝えることになるのかなぁ、当議論が少し交わされた。

     また、死に直面する人々の天に戻るということの希望をどう考えるのか、という論点がナースを支援している方から出され、さらに、この終末論で、自分と他者とを分ける論法が、カルト化につながることを、カルトからの脱会支援をしている方から出された。

    感想

     今回も、非常に面白い論点が出され、実に楽しい読書会でした。いやぁ、こういう機会があるのは、参加できるのは幸せだなぁ。

     ミーちゃんはーちゃんがその片隅で生息しているキリスト者集団では、特殊な終末論というか、ディスペンセイション仮説を生んだ人が初期メンバーの一人である集団であるし、70年代にこれが一世を風靡して、これを語らねば巡回伝道者にあらずという雰囲気もあったし、実際に、この事案に巻き込まれて大学などでの高等教育の機会を失った人々が70年代から80年代までに大量にでたキリスト者集団でもあるので、この終末理解の影響は非常に大きかったのだが、他の皆様が、案外軽い麻疹程度で済んでいるのがある面うらやましかった。

     あ、「Rapture(携挙)って言葉は聖書中にないかもね」って、以下で紹介するバーバラ・ブラウン・テイラーさん書いておられますけど?最後の2つ前の章あたりです。そこだけでも読む価値があるかも。

     解毒剤に、バーバラ・ブラウン・テイラー著『天の国の種』をご清覧いただきたい。




    評価:
    バーバラ・ブラウン テイラー
    キリスト新聞社
    ¥ 2,376
    (2014-03)
    コメント:大絶賛おすすめ中である。

    2015.07.13 Monday

    本日のNTライトを自由に語る会 大阪 について最終案内

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      無事終了しました。
      多くの方のご参加、ありがとうございました。






      当日会場の様子



      本日のNTライトを自由に語る会 

      会場:大阪市立総合学習センター 大阪駅前第2ビル5F
           (第6研修室)

      時間:
      13:30-16:00 
      (13:15開場)
       入場無料
       入出場自由

      よろしければ、是非。


      2015.07.15 Wednesday

      NTライトを自由に語る会@大阪 参加記

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         今日は先日大阪市内で行われたN.T.ライトを自由に語る会の参加記録の概略(一部抜けがあります。スマソ)をご紹介したい。



        当日会場の様子

         冒頭、それぞれの参加者による自己紹介が行われ、その後『クリスチャンであるとは』の翻訳をされた上沼昌雄さんのお話があった。見出しは、ミーちゃんはーちゃんがテキトーにつけたものである。上沼さんと来場者の方の御発言はできるだけ拾ったが、聞き間違い、メモ間違いの段は、ミーちゃんはーちゃんが悪いのである。ご発言の本意と違ってたら、ミーちゃんはーちゃんのメモ能力と聞き取り能力が悪いのであり、その点はご容赦願いたい。

        アメリカでのN.T.ライトの広がりと今回の翻訳

         N.T.ライトがアメリカで流行り始めた。数多くの教会で取り上げ始めたし、牧師がN.T.ライトに沿って説教したことで、物議を醸した教会もあった。

         アメリカの大学のKGKに対応する組織が開いたVeritas Forumの中で、NTライトがSimply Christian(『クリスチャンであるとは』)とほぼ同等の内容を取り上げていたので、今回、それを取り上げるのが良かろうということで翻訳を始めることにした。

         この翻訳中、義父様の看病しながら、生きるとはどうなのかを考え、訳しながら、考えるという作業が続いた。この『クリスチャンであるとは』という本の主要な主張は、「クリスチャンであるとは真の人間として生きることである」ということである。

        N.T.ライトと牧会上の視点

         N.T.ライトのすごいところは、概念的に神学的思惟として取り組むだけではなくて、実践的にやっているところである。

         牧会の領域でこの本をどう理解するのか、特に、神の国の譬えが何を意味しているのか、ということを取り上げている面もある。その意味で言うと、N.T.ライトを一言でいうならば、創造から新創造に至る大パノラマを展開させているのではないか。非常に大きな聖書理解の枠組みを提供しているのではないだろうか。

         我々は、新しい天と新しい地を信じている、とは言うのではあるけれども、N.T.ライトは黙示録の記述を文字通り信じている。神が目標を定めて働いている。これがNTライトの大パノラマを構成していると言えよう。

         The Mission of Godという動画(多分リンクはこちら)がある。 黙示録から始まり、創世記に戻っていくタイプの講演をしている。

        英文で読んだ時のライトの面白さ

         ライトの英国人風の英語の遊びがすごいのである。
         13章 神の霊感による書(The Book God Breached)の冒頭部分が紹介された。上沼さんがお読みになられたその文章とは、こんな感じである。
        It's a big book,full of big stories with big characters.  They have big ideas(not least about themselves) and make big mistakes. It's about God and greed and grace; about life, lust, laughter, and loneliness.  It's about birth, beginnings, and betrayal; about siblings, squabbles, and sex; about power and prayer and prison and passion.
        (Simply Christian, HarperCollins, p.173)
         英語の遊びができる人であり、こういいう表現で遊んだりしている。この部分などは訳出しづらかった。

        ライトにみられるアマチュアリズム

         フーストン先輩(オックスフォードで地理学を教え、今、リージェント)が言うには、オックスフォードの精神は、アマチュアリズムであるという。難しいことを語ることが学者ではなく、わかりやすく語るという側面は、CSルイスやトーゥルキンなどに典型的にみられるものである。

        <ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ>

         失礼ながら、アマチュアリズムは、オックスフォードの伝統というよりは、基本英国貴族社会が余裕があった社会であったころからの伝統であると思う。名だたる技術者として知られる人物や科学者として知られる人物は、基本アマチュアで、それを本業にしていなかった人々が多い。例えば、古典物理学者としてのみ日本で知られているニュートンは物理学者として大学の中で生きたわけではなく、貴族のひまつぶしに近い感覚で物理法則を作った人である。造幣局長なんかもやっている。

         また、オリンピックゲームでアマチュアリズムの英国に対して、トレーナーをつけ、既にプロ化に近いことが始まっていたオリンピックパリ大会での米国勢とトレーナーを雇ったユダヤ人選手に対する微妙な批判意識が「炎のランナー」でも見られる。なお、あの映画をある種のスポーツ映画や、オリンピック映画や、キリスト教万歳映画としてみるのは間違いであると個人的には思う。19世紀から20世紀にかけての英国国内に内在する諸要因、つまり、反ユダヤ主義、英国の斜陽化の始まり、階級間文化の違い、スコットランドとイングランドの違い等がちりばめられた実に懐石料理的な映画なのである。

         ところで、第1次欧州大戦、第2次欧州大戦でも、このアマチュアリズムはいかんなく発揮され、その結果、オックスフォードやケンブリッジ卒業生がかなり士官クラスとして最前線の戦地に赴き、死去していることもまた事実ではある。あと、英国ではアイディア倒れの兵器というものに、このアマチュアリズム精神が遺憾なく発揮されるために、水陸両用戦車とか、実に珍妙な兵器が開発されることになる。そういえば、バトルオブブリテンで活躍したデハビランドモスキートは、ジュラルミンやアルミ合金製の機体の金属使用が進む中、ベニア板で構成された奇跡の機体である。


        英国の水陸両用戦車

        木材加工で造られたデハビランド・モスキート

        デハビランド社が開発した世界初のジェット旅客機 コメット1型
        翼内設置型のジェットエンジンが特徴的

        <以上、ツッコミ>

        創造から新創造へと広がるパノラマ
         創造と新しい創造がパノラマとすると、すべてのものが創造から新創造に移行することを含んでいる。我々は、聖書と一般の自然科学を区別してきたのではないだろうか。しかし、ライトが言うには、すべての事は創造と新創造の中に含まれていることになる。となると、日本の歴史も、自然もそれに含まれる。

         我々は、一般の世界と霊的な世界を分けていて、霊的な世界にのみ語ってきたのではないだろうか。被造物(Creature)とCreationを分けて考えているかもしれない。Creationでは、被造物と、その前に天(神の支配の座)と地(人間が住む世界)がつくられた。Creatureだと地の世界だけを言及することになるが、Creationそのものだと、被造物世界を含み、神の世界を含む全体システムの話になるのではないだろうか。

         N.T.ライトが言うのは、All Creationの贖いを言う。こう考えると、考えるべきこととやれる方向が見えてくるのではないか。実に多様な姿を見せる織物のように、様々な要素がパノラマの中に織り込まれているのではないか。

        来場者から
         救済史と和解論(?)がまるまるが一致した感じなのだろうか。こころの中だけで義認の問題をしてきた。

        上沼さんの応答

         義認論は人間に関するもので、和解論は、万物)に関するものとされてきた。和解論における救済論の代表論客はバルトだった。その意味で未だに拒否反応があるかもしれない。しかし、救済論一般で行けば、個人の心、霊の問題に縮約されてしまい、一般の歴史から離れてしまうことになる。

         一般救済とと霊的救済に関して言えば、霊的救済にかかわる義認論に関しては個人の内面を扱い、一般救済は万物の回復になっているが、この種の二分論と理神論とは深い関係にあり、この影響は現在でも強いのではないか。

        天と地が噛み合い連動する世界
         しかし、ライトは、重なり合い噛み合っている。Overlapping and Interlocking(歯車のように噛み合っていると言っている。一種連動するような状況を想定するようである。NTライトは、奇跡が当然あると主張しているし、預言も異言も起こりうるとしている。しかし、そこが目標ではないと主張している。本来、奇跡や予言や復活の先にある部分が究極の目標点であり、この究極が復活なのであるとしている(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ このあたりSurprised by Hopeがくわしい。なんか現在日本語の翻訳作業が進んでいるらしい)。新しい創造が復活と非常に深く結びついている。

        (ミーちゃんはーちゃん的言い訳
         このあたりから、Ministryの編集長からの特命指令が下って、写真を撮って送るように言われたので、記録がかなりいい加減になっている。参加者の方、申し訳ありません。しかしさぁ、読者と一緒に創る雑誌だからってさぁ。w)

        来会者から
         教義学を見ているよりは神の物語へ我々が共鳴しうるものとしてみているのではないか?
        上沼さんの応答
         歴史学者としてN.T.ライトは訓練を受けてもいるし、教理史も知ったうえで議論しているように思う。

        来会者から
         ルター派のN.T.ライトの居心地の悪さがあるようにおもうのだが。そして、ルターの義認論はより大きなものであると思う。

        上沼さんの応答

         ライトの学術書はフォートレスというルター派の出版社から出ている。むしろ、ライトは旧約聖書を起点に流れがどのようになって、新約聖書の世界につながり、そして将来になっているかを述べている感じがする。ライトは、ある視点から見るとある織物が見え、別の視点から見方を変えると別の織物の柄が見えてくるような感じがする。ルター派以降の二元論に対して、かなり挑戦的ではあると思う。

        来会者から
         ローマ8章3節(律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。(口語訳聖書))を根拠にこれまで、2元論的に翻訳して理解してきたのではないかとは思うが。

        上沼さんの応答

         我々は、聖書の世界と一般の世界を分けて考えてきたのではないか。創造と新創造がすべて含まれているとしたら変わってくるのではないか。
         このような考え方で行けば、イエスを信じて天国に行くことが究極の目的となってきたように思う。しかし、ライトは、新しい地を治めていく責任を持っていると指揮している。

        来会者から
         新天新地というが、天とのかかわりが分からない。

        上沼さんの応答

         聖書ははっきりとは書いていない。我々はちらっと垣間見ることができるだけだろう。聖書では、新しいイエルサレムも神のもとから下ってくるとされている。

        主の祈りを大切にするライト

         さらに、ライトは主の祈りを大事にしている。特に、御国が来ますように、というとき、天というのは神がおられる場とし、そこが知覚にあることを願っているのではないか。天と地はちょうど薄い膜で隔てられているようなもので、垣間見ることができるような感じかもしれない。ライトは臨死体験否定はしないけど目的はそこにはない、と主張する。むしろ死後の世界ではなく、神の新創造の完成ということを考えているようだ。

        ライトの主の祈りに関しては、こちらの拙ブログの2012年12月の「ライト読書会に行ってきた」の記事を参照。

        来会者から
         
        良いわざに関与していく、という意味では、ラウシェンブッシュと似ているかもそのあたりをどう考えるか。

        上沼さんの応答

         6章で、イスラエルを取り上げている。ここで、イスラエルを独立して取り上げているところが特徴的であろう。律法と福音だけであれば、旧約聖書の途中の記述は必要ない。邦訳書6章103ページのホロコースト記念館訪問の下りが参考になるかもしれない。

        ホロコーストまでのキリスト教
         恐らく、アメリカ人には、ホロコーストの救出の経験のみしかなく、ホロコーストを主体的に生み出していない関係があり、アメリカ人ではここまで書けないだろう。ある面、ヨーロッパのキリスト教(傍観者として、であれ、主体的にかかわったのであれ)は、ホロコースト事件に係ったために、信用を失い、死んでいる状態であり、それがそうは見えるかもしれないが、もう一度復活する可能性があるとどう考えるのか、ということは大事かもしれない。その意味で、もう一度キリスト教が社会に影響を及ぼすかという問いをこの本でしているようにおおう。キリスト教徒反ユダヤ主義の結びつきが実は非常に強い。(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ この辺は日本にいると感覚が鈍くなる)。ヨーロッパキリスト教2000年の歴史が実は、反ユダヤ主義的であった。キリスト教が形成された、ほとんど初めの段階から、少なく十アウグスティヌス時代から反ユダヤ主義であった。どこかでユダヤ人がイエスを殺した、という形でのユダヤ人の迫害をしてきたといえよう。

         アメリカの教会は50-60年代において、きわめて隆盛を誇ったが、ヨーロッパではその半面、教会が人々から信頼されなくなった。その後の状況(ポストキリスト教界時代)を経て、あえて、教会はインパクトを与えうるのか、を問うていると思う。その意味で、大変なことをやっているのではないか。

         反ユダヤ主義に関しては、カトリックもひどいし、ザビエルもインドのゴアでユダヤ人の火あぶり事案に関与し、ヨーロッパから逃げたユダヤ人を火あぶりしているという説もある。過去のキリスト教の黒歴史に関しても、旧約を読むなかで、考えることになったのではないか。つまり、人間が今一つでも、そこに働く神ということはあるかもしれない。

         次回へと続く



        評価:
        N. T. Wright
        HarperOne
        ¥ 2,511
        (2010-02-09)
        コメント:是非、英書にもチャレンジを

        評価:
        N. T. Wright
        HarperOne
        ¥ 2,693
        (2008-02-05)
        コメント:認識論や、天国理解の問題なども。良いと思います。間もなく日本語訳がでます。

        2015.07.18 Saturday

        NTライトを自由に語る会@大阪 参加記 続編

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           前回に引き続き、大阪で行われたN.T.ライトを自由に語る会の速記録を公開したい。速記録であるし、当日Ministry編集長からの写真撮影を、というご依頼が入ったので、急遽手持ちのiPhoneで撮影しながらの記録なので、抜け、落ち、ご本人の発言の意図と違う部分が多分にあると思うが、そこら辺りは、ご容赦賜りたい。

          ではどうぞ


          来会者
           福音と世界 2014年11月号の山口さんの論文で、自分自身の聖書理解、特に譬えの理解が変わった。

          上沼先生から
           聖書理解を変える可能性があるというのは重要だと思うし、しかし、現段階で山口さんの福音と世界を読んでいないので何とも申しあげかねるが、今ご要約いただいたことをお聞きする限り、ライトの主張に近いように思う。

          来会者 義認論をどう考えていけばいいのだろうか

          上沼先生から
           義認論だけをやっていたらMe and My Salvationにしかならなくなるのではないか。そうなると、牧会的なケアが重要になり、それだけだけで牧師は参っちゃうことにならないか。そう言う環境を作ってしまったのは、神学校であり、牧師ではないか。信徒の心のケアだけを目指してしまうことになる。

          パウロが議論した相手

           パウロが相手にしたのはストア派とエピキュロス派であり、両者とも魂の救いを問題にしている。そのギリシア哲学がキリスト教の中に入ってきたのだが、ライトはそれを取り戻そうとし、使徒時代の信仰ということをどう考えるのか、ということを考えている。アウグスティヌスの中にも、これらのギリシア哲学の影響が明らかにある。キリスト教がギリシア哲学の答えを出したと、ニーチェはそれを見抜いている。

           キリスト教は、民衆のためのプラトニズムであるといい、プラトニズムの答えがキリスト教となっており、それはキリスト教ではない、とニーチェは見抜いていたようである。民衆が求めた魂の平安、安寧をキリスト教として提示したにすぎない、とニーチェは理解しているようである。

          キリストの信実(ピスティス・クリストゥ)

           パウロは、イスラエルの不信仰や不信実とイエス・キリストあるいは神の信実を対比させているし現在の日本語聖書翻訳でもその方向で動くと聞いている。

           (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ 日本聖書協会もそっちの動向で動くらしいと聞いています。こないだの大阪であった日本聖書協会の講演会でも、そんなことを言っていました。)

          大阪で行われた聖書協会の講演中のスライドの一枚


           となると、神の信実や義をどう考えるか問題になってくるだろう。Faith of Jesusを属格で取って、イエスを信じる信仰とやくすのか、イエスの信実と訳すのかでだいぶん変わってくる。ピリピ書2章におけるキリストの謙卑をどう考えるか辺りがポイントになるのではないだろうか。

          ライトの言う救い

           ところで、NTライトはSalvationを使わない。Rescueという語を使う。奴隷状態からの開放であり、Rescue Operation 救出作戦という概念で福音を説明しようとするところがある。
           個人の救いの位置づけをどう考えるか?個人のレスキューの目標として定めるべきところは、どこかというと、それは神の国であり、御国に行くのではなく、御国の方からやって来るという概念でとらえているのではないか。

           ライトは、魂の平安のためだけでないものでなければキリスト教は本来的に回復しないのではないかと考えているようである。特に、ギリシア哲学の世界で重要視された平常心(Apatheia)とヘブライ語のShalomeの取違が起きたようである。そうなると、どこを目標として歩んでいるのかが混乱しているのではないか。この結果、西洋のキリスト教はダメになってしまう、といっているのではないか。

          私の祝福を求めてきたこれまでのキリスト教
           聖書が言う内容として、N.T.ライトが提案しているのは、ミッションがはっきりしていれば自分の人生はどうでもいい、という主張のようにも思える。私の祝福が目的でなく、神の御業に関与していくことであると理解している。従来のキリスト教は、私の祝福を求めていたと言えよう。その縁で、ナチスはみんな安全だろうと思って、ドイツの多くの人たちはそちらの方に流れてしまったのではないか。

          支配する、治めるとは?

           ここで、支配する・治めるということに関して考えていきたい。支配することが求められる、ということはどういうことだろうか。王としての役割の中に支配すること(ケアすること)が含まれている。王なる祭司という概念が、出エジプト記の中に繰り返される祭司の王国、聖なる国民という概念は非常に重要である。王なる祭司、祭司からなる王国、祭司として地を治めるというイメージが出エジプト記の中に出てくる。つまり、キリスト者はユダヤ人と同様、選ばれた種族、王なる祭司としての性格を持つことになり、このRoyal Priesthoodとなる。キリスト者の責任が重要になろう。王であり、祭司であるということは、神の礼拝の場を治める、整えるという役割が出てくると言えよう。

           After You believeという本は、三部作の最後の本があるが、この中で、どのようにキリスト者として生きるべきか、という話が出ている。ここまで、整理しているところがN.T.ライトの奥深さというか、すごみといえるのではないか。

           牧会の中でさまざまな状況の中で直面した中で判断したこと それが治めるということの責任の一部であろう。イエスをすべてのものがほめる場を整え、そこで行われることが礼拝であるし、その礼拝が行われる場が、教会ではないだろうか。

          ユダヤ世界とキリスト教

           アブラハムに対して、あなたを通してすべての人が祝福されるため、といっているが。全世界、すべての国民に広がっているはずである。

           ところで、教会は反ユダヤだったり、自分たちの中にある異質な人々に対して異端という理解を作ったり、キリストが十字架ですべてを棄てたように、様々な概念を棄てないとだめでないのだろうか。その意味で、N.T.ライトが考えるこれからのキリスト教は、同じ次元にあることを前提としたパーソナルな世界を予期しているのではないだろうか?

          会場から

           日本には他宗教があり、その他宗教との関係を考えないとまずいかもしれないし、また、それらの他宗教では、既に善行と称される社会への貢献活動が行われており、これらとの関係はどうだろうか。あるいは、他の唯一神の信仰と、対話を試みているのではないか。

          上沼さんから
           唯一神信仰者としての責任がある、とライトは思っており、地をよりよいものとする、その善行がキリスト教の本体ではないだろう。『クリスチャンであるとは』の冒頭の第1部の中にある、ある声に響いているという点で、聞いているところではあるだろうが、それに目を向けすぎてはならないかもしれない。

          N.T.ライト教?ないない

           N.T.ライトはライト教を作り出そうと思っていないし、それはN.T.ライトが最も嫌うことであるし、避け続けていることである。聖書が主張している世界を提示してそれぞれの教派がそれぞれの立場で、聖書理解を豊かにすることを主張しているようである。

           ある方が『クリスチャンであるとは』を読んで、自分の中のフレームでありながら、それに気が付かないところがあった、という指摘があった。(その感想は、こちらから)

           このようにN.T.ライトを読んでいくと、自分の中にあるフレームが壊されていく部分があるのではないか。

          会場から
           福音派は、路傍伝道動で、人が通り過ぎる間に神の福音を語れるように、神の世界を簡略化してしまったのではないか。それが行き着いた先が「四つの法則」ではないだろうか。

          上沼先生から

           After You believeで、信仰・希望・愛のみ、キリストのみでないキリスト教のあり方をきちんと説明しようとしている気がするが、なかなか、この本を訳せるか、出版できるか、という問題がある。

           この『クリスチャンであるとは』の本の中身は、牧師の方よりも、信徒の方がわかるかもしれない。ある所で、牧師さんはなかなか理解されていなかったが、この本を読まれた、奥さんの方がわかるとおっしゃっておられた事例もあった。世の中の知的な人の方がわかるかもしれない。  

          会場から 
           ライトは、美という概念などを取り上げているようだが。

          上沼先生から
           確かにそれは重要な部分であるが、それだけではうまくいかないことをライトはきちんと書いているように思う。

          会場から
           理神論的な理解でこれまでキリスト者として生きてたことを想わされていた。神が近くにいる『クリスチャンであるとは』を読んでそのような感じがした。

          上沼先生から
           『クリスチャンであるとは』p.280には、信ずることと愛することという部分があり、川と木のメタファーがある。そこで、木であっても、一粒の種から始まる、とされている。エデンの園と新しいイエルサレム、そして、教会と結び付けられたら聖書の読みが変わってくるのではないか。

           また、同書 p.200の最期の段落で、イエスを通してより真の人間になるように命じられている、と指摘しており、そのように生きることが、神のかたちを反映させることになる、真の人間Genuine Humanであることが、救済の目的であるし、キリスト教の目的と考えた良いだろう。

          会場から
           それでは、日本の社会でどう説明したらいいのか。

          上沼先生から
           ケアすることが王であり祭司であるものの役割ではないだろうか。不完全であっても、自分の中で責任を果たそうとすること、不信実であっても、神の栄光を反映させた姿を見せることができるかもしれない。神と共に生きるという意味で、真の人間として生きることを示すことができるかもしれない。

           農業とか、製造業などでも、神の栄光を示すことができるのではないか。外から見ていて教会やキリスト教も魅力ないと映っているのではないか。そして、過去の悲惨なことに、多くの教会が加担してきた。その中で、信頼をもう一度回復するのが大変である。迫害されているときにこそ真の姿を見せてきたのではないか。これまで日本では、外見上きれいなキリスト教を作っていたが、内実は問題が多い。どうしたらヨーロッパでもう一度キリスト教を取り戻すことができるだろうか。

          会場から 
           人々が魅力を感じるような魅力を意識し、それで伝道が行われてきたのだが。

          上沼さんから
           伝道と礼拝は一つであろう。教会の存在そのものや、それが宣教につながっているのではないだろうか。


          感想
           しかし、1時半からギリギリ4時を少し回る時間まで、10分の休憩を挟んで2時間半以上にわたる非常に濃密な時間が流れた感じであった。まぁ、現在、重篤なN.T.ライト病の患者をしている(N.T.ライト教の教徒でないことは、批判的に見ている部分もあるので、そうではないとは思っているが)ものとしては、非常に面白い時間であった。

           今回改めて気付かされたことに、N.T.ライトの天(神の国とほぼ同義)と地とがこの地の上で重なり合っている、という意味の大きさと、キリスト教と反ユダヤ主義の深いかかわりとその黒歴史事案である。

           アメリカのネオナチともかなり重なる白人至上主義型キリスト教徒の人々、目出し穴の付いた白いシーツでコスプレするKKKの人々や、ドイツのナチなんかとキリスト京都は実は深いところでつながっている。なんせ、ナチスを応援したキリスト教神学者が掃いて捨てるほどいたのである。そのあたりは、『第三帝国と宗教 ヒットラーを支持した神学者たち』 に詳しい。この辺の黒歴史は、きちんとキリスト教徒は知っておいた方が良いかもしれない。陰謀論者になる必要はないけどね。なお、同署に関しての記事は、こちら ナチズムと聖書理解の関係を知るために から。

           また、反ユダヤ主義が案外割とキリスト教が始まって以来の事という認識もなかったが、よく考えてみたら、ローマ社会の中に定着していく中で、ローマ帝国に 言うことを聞かない、聞く気もない、神政政治(Theocracy)を意識しているユダヤ教徒とは違うのだ、ということをユダヤ会堂(シナゴーグ)から始 まったキリスト教会としては言わざるを得なかったし、それが、ホロコーストもどきの悲惨な事件を繰り返さなければならなかったのだと思う。

            この講演会から、戻って来てから、中東の言語と中東交流史を勉強している息子としゃべったのだが、結構、このユダヤ人問題は中東交流史に非常に影響して居り、とりわけ近世から近代の中東史を考える上で、このユダヤ人問題は、避け得難い問題があり、それが現代のギリシアの債務不履行問題やらウクライナ問題とも全く無縁でない事なども、しゃべりながら、この辺りの問題というのは、もう少し日本のキリスト教界隈でも認知されてもいいかもしれないと思う。明治期に おいて当時最先端の西洋道徳、西洋倫理として、キリスト教を導入したその裏で、自分が信仰するものを絶対とするがあまり、このような黒歴史というかダークサイドがなかったことにすることは、旧約聖書的な世界とは大分違うと思うのだが。



          CNNの報道番組 この中では赤服のKKKの方がご登場である。

           それと、個人的に今回気づいたのは、キリスト者の祭司制とキリスト者の王であること、という意味である。何、ここでもご紹介しているので、既にご存知の 向きもあるとは思うが、改革長老派の皆さんとも仲良くしていただいている。しかし、あそこまでガチ勢のノリは、ミーちゃんはーちゃんにはない(そのあたり がミーちゃんはーちゃんのミーちゃんはーちゃんたるゆえん)が、その精神性は何となくはわかる。

          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(1) (05/23)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(2) (05/27)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(3)聖書と科学1 (05/30)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(4)聖書と科学2 (06/01)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1 (06/03)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(6)礼拝論と賛美論 その2 (06/06)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(7)礼拝論と賛美論 その3 (06/13)
          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(8)礼拝論と賛美論 その4 (06/15)

           しかし、この王としての役割、祭司としての役割にキリスト者が招かれているのだ、とすれば、もう少しきちんと考えないといけないのではないかなぁ、と思わされた。

           天と地がかみ合っているという理解に関して、 最近思うことがある。今Henri Nouwen のThe Wounded Healerという本を読んでいるのだが、この本を読みながら、Articulate(はっきり発音された、明瞭な、分節的な、明確な、理路整然とした、 関節のある)ということばが気になってしょうがない。なんかこの辺りの事と、天と地がかみ合っているということは、つながっている様な気がしている。

           今回、ミーちゃんはーちゃんの配偶者も同行したのであるが、もう、今回のこの講演会を聞いて、長年の疑問が解消した、と大よろこびであった。この世でキリスト者として生きるということの理解がかなり解消した模様である。

          皆様にも、是非、『クリスチャンであるとは』をお読みいただきたい。

          以下、国内で、今後開かれる懇談会で一般にオープンな講演会の画像情報をご紹介しておく。なお、以下の二つは、ミーちゃんはーちゃん謹製ポスター画像である。あめんどうさん応援団でもあるので、謹んで製作させていただいた。


          2015年7月23日分

          2015年7月24日 開催分




          京阪凸凹神学会で発表した時の資料


          評価:
          ---
          日本キリスト教書販売
          ---
          (2014-10-21)
          コメント:この号は非常に良かった。キンドル版があるので、お買い求めを。

          評価:
          ロバート・P. エリクセン
          風行社
          ---
          (2000-05)
          コメント:ナチスに協力したドイツ人神学者を巡る本。読んでおいた方が良い一冊

          2015.10.05 Monday

          第4回 N.T.ライトセミナー参加記

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             先日、東京で開催されたN.T.ライトのセミナーに参加してきたときのメモを。

             完全な記録(動画と音声)は、近日中に予約販売する予定らしい(詳細未定、決定次第ご報告予定)ので、そちらをご参照賜りますように。今回は録画やフロア周りの要員(要するにRunner 使いっ走り)もしていたので、メモの精度は極端に落ちます。

             当日の配布資料は、現在のところ在庫僅少。近日中に再入荷予定。当日配布の印刷物は、あめんどうさんのところでの軒先価格(送料なし価格)400円、送料込500円。

            Uさんのオープニングセッション

            (最初部分、メモ取れず)
             ヨーロッパでのホロコーストとN.T.ライトはかなり影響があるだろう。それ以降、ヨーロッパでのキリスト教に現実的な意味づけを見つけるのは結構厳しいものと思われる。

             ライト自身が願っている事(キリスト教が現代において意味があることの主張)と、外から見ている人の温度差の様なものがあると思われる。イスラエル・ユダヤ問題をどうとらえるのか?ということにペンテコステ系の方々は非常に深い関心をお持ちのためであるかもしれないが、N.T.ライトに関しては、ペンテコステ系の人が関心をもっている。

             なぜ、西洋のキリスト教は、行き詰ったのであろうか。それは、聖書理解に深く関係しているように思われるが、信じて天国に行くことがキリスト教の中心となってしまっていて。かなり極端に間違った方向に向かったのではないか、と思う。

            プラトンの二元論とギリシア哲学とキリスト教

             とりわけ、天と地の問題はプラトンの二元論に由来する。この結果、美の世界はイデアであり、プラトン的な世界では、グノーシス(智恵)はそれを探す為に必要であった。ニーチェは、民衆のためのプラトニズムとしてのキリスト教と主張している。 

             N.T.ライトは、19世紀を触れるときには、カール・マルクスとニーチェ、フロイトがセットで出てくるが、これらの人物は、啓蒙思想後期の人物であり、モダニズムの終焉期でもあり、新しい思想、ポストモダンへの移行の糸口をとらえた人であった。

             16世紀の宗教改革では、信仰義認論が重視されたが、律法と恵みの二元論であり、律法とイスラエル(ユダヤ)が密接に結び付けられてしまったために、イスラエルへの否定的視点へとつながった。また、反ユダヤ主義は、西洋では、キリスト教形成期の割と初期から見られる思想である。

            ポストモダンの視点から見ているN.T.ライトと
            モダニズムと聖書無誤論
             N.T.ライトは、モダンとポストモダンを明確に比較対照している。その背景には、近代が行きついた先がホロコーストであり、その限界を感じていることがあるだろう。

             ものがたりは人を取り込むが、神学は排除原則が働くようだ。聖書無誤性で大分議論してきたが、そのことの議論時代が、モダニズム的な背景で行われたものであり、聖書そのものでなく、聖書から離れた神学の世界での聖書の無誤性を論じてきたようにも思う。

             モダニズムが持つ、傲慢さ、欺瞞さ、遠慮なしにN.T.ライトは批判している。近代のキリスト教と暴力とが結び付いたのが、ホロコーストであり、異分子を排除しようとした側面がある。なお、過去聖書無謬論に関して、中澤先生と議論して、ずいぶん傷つけてしまった。


            応答者から
             反ユダヤ主義の事が、海外の神学校の先生から何度も何度言われたのだが、その当時応答者自身、として、問題意識がないこともあり、さっぱり何を言っているかわからない状態であった。

             1世紀の視点で、21世紀の問題意識で聖書を読むべき、という理念はよくわかる。聖書こそ最終的な権威であるのはそうであるが、とは言え、我々は、まっさらな立場で聖書を読んでいない。どこかしら、教派的神学的影響を受けているのではないか。理性や、経験、歴史を尊重している。普遍的な神学に言えるかもしれない。

             ノイラートの舟のキリスト教のたとえでいえば、キリスト教は、2000年前に出港し、後戻りしながら進んでいる。その船の中で使えるものといえば、船内にあるものしかない。つまりは、神学的伝統を利用しながら、これまでの伝統の中から探して組み合わせることで対応するしかない。残すべきよいものを発展させる。

             また、プラトン主義の再評価も慎重かもしれない。トマス・マートンは、神秘主義的なところがあり、キリスト教バージョンのプラトン主義であり、ヘンリ・ナウエンの師匠筋にもあたるので、この辺りの検証もした方がよいだろう。
            この対論へのUさんの反応

            Uさんからの再応答と質疑応答
             ライトはライト派を作るつもりはない。これは明らかだ(まぁ、Via Mediaを標榜しBridge Churchを自認しておられる英国国教会にライト先輩は居られるので、そうでしょう)。

             プラトニズムは、グノーシスを通してのみできるのであり、本当のプラトニズムが目指せるのは、哲学者だけであり、哲学の世界の中では、イデアの社会に行けるのは哲学者だけであるというこである。

             今できることは、1世紀の新約聖書のキリスト教世界に立ち返ること。これまでに付いたものをはずす。そのあとどうするかは私たちの責任ではないだろうか。

             権威あるのものとしての聖書論と聖書無謬論について、1980年代には、権威の強調はあったが、ライトが現在言っている形での権威ある神からの言葉としての聖書の権威性ということまでは、行っていなかったであろう。しかし、完全に聖書を歴史の産物と理解する立場もあるわけで、その様な理解にしてしまうと相対主義となるのではないだろうか。歴史を動かしている神のものがたり、神からの権威ある伝達としての聖書があるのではないか。

             ほとんどの注解書は二元論的であるように思う。先ほど出た、聖書の無誤性についても論理性だけが問題になる傾向がある。聖書の無誤性は10年で終わるべきだ、といった神学者がいたが、あの議論は、聖書について、聖書的とはいいながらも、必ずしも聖書的でなかった。人間側の理論の世界で出来た神学の議論としては成り立つが、聖書そのものではない、と今では思う。

            休憩の間に
             実は、休憩(10分間)のときに、見てはいけない様な、歴史的ワンシーンに立ちあってしまったのだ。一番後部におられた聖書無誤論での論争相手であった現在『クリスチャン新聞』にN.T.ライトがらみで連載をお持ちのNさんのところに、Uさんがつかつかと寄ってきたと思ったら、握手のための手を差し伸べられ、がっちり握手をされていたのだ。それを見た瞬間、『うわぁ。すんごいもの見てしまった』という印象をもったのだ。

            Iさんの呪いと祝福について
             IさんもN.T.ライトの論文をもとにお話し下さったのだが、この時、将にRunner状態(状態としてそうではないか、という突っ込みに対しては、素直にそうです、とお答えしておこう)であったので、ほとんどメモが取れなかった。どうも、録画している、と思うと安心してしまいメモをほとんど取れなかった。ただし、いくつか拾ったご発言を残しておきたい。

            捕囚という呪いの新約聖書理解での重要性

             捕囚状態(律法の呪い)は、新約聖書を読むうえで重要な概念である。N.T.ライトは共同体性を強調しているが、日本の福音派の信徒は、個人主義の影響をうけているだろう。つまり、キリスト教が、罪人である私が個人的な救い主としてイエスを受け入れる話になってしまっているだろう。しかし、1世紀のユダヤ教の世界では、イスラエル人は神の国民でありながら、神の民とは言い難い状態にあったし、さらに、神殿から神の栄光が離れている状態にあった。神殿は再建されているが、神の栄光がイスラエルに戻ってきた、という記述は古代ユダヤ第2神殿期前後の文書にはない。この辺りの事は案外重要ではないだろうか。そして、熱心党等、勝手に始めてしまうユダヤ人もいた。

             基本は1世紀のユダヤ人の意識をどう考えるか、というあたりが重要ではないだろうか。聖書を、紀元1世紀の文化的社会的歴史的コンテキストで読めるという利点がライトにはあるように思う。ガラテヤ書理解に関しても、アブラハムへの約束が実現していないことをどう考えるか問題として考えることができるであろう。

            レスポンデント
             メモ、ほとんど取れず。

            フロアでの総合討議
             ビデオ撮りに集中し始めたので、ほぼノートは取れず。ただ、一番面白いのは、このノートが取れてない質疑応答と、フロアとの総合討議と、その前説(大変失礼)みたいなKさんのN.T.ライトをどう見るか、という部分だったりしたが、そこは、印刷物の資料にもないし、録画でしか見れない部分ではある。


             すいません。ざっとした記録で。ないよりマシと思ったんで、速報性のため、あげました。



            2015.10.07 Wednesday

            ペンテコステ派の皆さんとN.T.ライト先輩

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               この前のN.T.ライトセミナーに参加した時に、Uさんのお話しの中で、この夏、あちこちでご講演になられた時に、案外福音派のなかでも、ペンテコステ系の皆さんが、N.T.ライトに関心が深い、というお話しがあって、なぜなのだろうか、当いことのお話しがあったが、それについて思うところを書いてみたい。

              ペンテコステ派の教会

               ペンテコステ派が生まれたあたりの事は、福音派が生まれたころの世界むかし話(9)で書いているので、その記事をご覧いただきたいが、ようするに米国のメソジスト(ウェスレー派)や、きよめ派と呼ばれる人々の一部で、ペンテコステの日に起きた様な聖霊の働きを強調する人々の群れだ、と認識している。その中には極めて穏健なお立場の人々から、異言、癒し、さらには祈ると金粉が降ったりするとご主張になられる方やJesus Campにご登場なさっている様な皆様方までを含まれるらしい。その意味で、ペンテコステ派という言葉は、実に幅広いキリスト教の総体を指す言葉であるが、聖霊の働きの強調の点ではある面、一致しているものと思われる。先日ご紹介した、若い人しかいない教会も、系譜論的には、このペンテコステ派に含まれ、一種の外資系ペンテコステ派教会となるらしい。

               しかし、その元までたどって、メソジスト派としてくくった場合、Jesus Campと関西学院大学の創始者が元々は同じとは・・・・ねぇ、という感じは、どう見てもする様な気がする。時代の経過の中で、様々な事が起きて、ここまで違いが出るとは、時代とは「実に恐ろしげなるものである」とは感じる。同じウェスレー派というのかメソジスト系のグループから分かれたとはいえ、ここまで違う、というのが、なんともはや。

               なお、ミーちゃんはーちゃんの個人的な聖書理解の親近感は、関西学院系の聖書理解の系譜にどちらかというと近い。


              映画 Jesus Campの予告編

               無論、ペンテコステ派の教会群の中には、尊敬する牧師の方もおられるし、ミーちゃんはーちゃんにとって、Body of Christではあるが、ミーちゃんはーちゃんは異言は話せないし、金粉も降らせるほど熱心ではない。違う、というだけである。

              ペンテコステ派とエスニシティと世俗的困難
               ところで、ペンテコステ派は、ロスアンゼルスのリトル・トーキョーの裏にあるAzusa Streetで始まったのであるが、その出発点においては、社会の中での要するに困難に直面する経済的に小さくされた人々、その人のエスニシティとしてはアフリカ系アメリカ人の皆さん、ヒスパニック系アメリカ人の皆さん、アジア系アメリカ人の皆さん(概ね、標準的なアメリカの持つステレオタイプな人種的な社会階層の評価はほぼこの通りだし、アジア系とヒスパニック系は地域と環境によって入れ替わることがあるが、エスニシティ別の主要な仕事の状況を見ていると大体こんな感じ)を中心とした皆さんから出発した。


              Azusa Street の Apostolic Faith Missionの皆さん

               アフリカ系アメリカ人の皆さんは、一応1960年代の公民権運動(その立役者は宗教改革の言い出しっぺのマルチン・ルターの名前をかぶせてある、マーチン・ルーサー・キング牧師)以降しばらくして、法律上の人種差別からは解放されたが、貧困の問題とそれに伴う教育水準に関しては現在もなお、解放されていない状態にある方々もかなり多くおられ、現在もなお困窮を極めて居られる方が多く、ヒスパニック系、アジア系(ヴィエトナム系も含む)においては何をかいわんや、状態である。

              世俗的困難からの解放としての終末

               要するに社会的な困窮状態に追い込まれた人々のなかで生み出されたキリストに対する信仰の一形態としてペンテコステ派が歴史的には生まれてきたのであり、この世の苦難に直面するが故に、その苦難からの解放をも神に強く求めた方々がペンテコステ派であり、それゆえに、この地上の苦難から解放されるに違いないという意味で、神の終末への待望がペンテコステ派が成立した当初は、非常に強い方々であったのである。アフリカン・アメリカン・スピリチュアル(日本語では、黒人霊歌といわれることが多い)では、こんな歌があり、解放を求めて居られる歌詞そのもののようである。


              アフリカのソウルあふれる、ソウルフルなアフリカン・アメリカン・スピリチュアル・ソング

               なお、終末とは、本来の神との関係の回復を告げる目標点であはないか、ということを、アメリカの神学者のスコット・マクナイトは、『福音の再発見』という本(キリスト新聞社から絶賛販売中)で明確に聖書のギリシア語に基づきながら、述べているところであり、地球にエイリアンが来るか、核戦争で爆発するのか、マントル爆発起きるのか、様々なご議論や御想像は様々おありになるようである。どのような想定を終末に関して皆様が想定されておられるかはよく存じ上げないが、終末とは必ずしも、この地球が滅びるという意味ではないかもしれないようにも思う。

              戦争で傷ついた人々とペンテコステ派

               ところで、これらの方々は、非常に熱心なアメリカ型キリスト教であった。反知性主義と揶揄されることもある大衆動員型のキリスト教のグループが熱心に活動しはじめ、1940年から1945年の戦争で、また、Korean Warと呼ばれる朝鮮半島の戦役で、欧州大陸やアジア各地での戦闘で体と心に傷を負った人々、PTSD(当時はそんな言葉はなかった)を負った人々が1945年以降中西部などに戻る中で、その心の傷やPTSDからの回復は、人々がこのペンテコステ派の皆さんへ向かっていく大きな契機となって、中西部で急速に広がった可能性もあるのではないか、とも思われる。そのための方法論として、大衆動員型の伝道や、ラジオ伝道、後にテレビ伝道がメディアとして活用されたこと等の影響もあるのではないか、と考えている。

               現在、大衆動員型伝道の説教者として、日本では、フ▽ンクリン・グ▽ハ△さんなどが代表的存在として認識されている模様であるが、その様な類似のスタイルの伝道方法をペンテコステ派の皆様方の一部の皆様方は、現在も行っておられようである。無論、ペンテコステは急伸の背景の一つとして、1940年以降に確立された量産技術による自動車の低価格販売と、ベビーブーマのモータリゼイションなども、中西部でのペンテコステ派の人数の急増に、大きな役割を果たしたものしてあげることができようし、下記で紹介した青木著「アメリカ福音派の歴史」でもその側面は指摘されていたと記憶する。このような、アメリカ本土での人口構造の変化に伴い、ペンテコステ派は、1900年ごろに明らかにグループとして認識されたようであるが、ある程度若い人たちがそもそも論的に多い教会という側面があったように思う。また、ペンテコステ派出身のテレビ伝道師の方が多くみられ、これらの方は中西部では、交通が不便なこともあり、教会に行きたくても行けない信徒向けに放送してくれるありがたい存在であったであろう。このような面もあり、1945年以降に、中西部で急速に増加したものと思われる。

              苦難の解放としての終末とユダヤ人
               さて、このペンテコステ派の皆さんは、社会から苦しめられていた人々が多く含まれていたことから、その出発点において苦難の解放としての終末理解がかなり重要な役割を果たした、と思われるのである。その意味で、現状からの解放としてのキリスト教理解や、終末理解という理解は重要であったと思われる。

               この方々にとって、終末の近さをどこで判定するかというと、ユダヤ人の動きと理解されていると思われる。この終末理解はどこから、ペンテコステに流入したかというと、おそらくではあるが、これまた大量動員イベント型伝統大会の原型を作ってしまった、ムーディ(中田重治先輩によると、ムーデー)先輩なのであると考えている。そのムーディー先輩は、これがまた困ったことに、スコフィールド版聖書という注解付き聖書をご出版にならrたスコフィールド先輩からの影響を強くお受けなのである。なお、このスコフィールド版聖書は、ジョン・ネルソン・ダービー先輩のディスペンセイション説(これに関しては、このブログの 人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(1) という記事とその関連記事を参照)というアイディアの影響を受けた欄外註を、欽定訳と呼ばれるKing James Versionにたくさん付された一種の短めの注解付きの聖書であり、1900年以降、中西部の農村地帯では、この一冊の聖書で聖書本文から注解書まで全部そろった気分になれるという意味で、スイス・アーミー・ナイフのようなを聖書という印象があったようである。その意味で、アメリカの中西部の農業地帯(隣の家まで10キロくらいある家庭はざらであった)のキリスト教徒の家庭では、一家に一冊という雰囲気で普及した聖書であったらしい。


              スイス・アーミー・ナイフ

              日本のキリスト教とユダヤ問題
               日本のきよめ派及びウェスレー派のかなりの部分に影響を及ぼした人物として中田重治先輩がおられるが、彼は、ムーデー先輩から多大なる影響を受けて、ユダヤ問題に関心をもった挙句、日ユ同祖論に走った可能性があることは、このブログの 日ユ同祖論というトンデモ理論について その3 に代表される日ユ同祖論シリーズとかでも書いたが、それほど、ユダヤ問題は、苦難からの解放としてこれらの方々にとっては、極めて重要なのである。

               ところで、Facebookの中でも、現世俗国家のイスラエル国をべた押ししているサイトとかのご紹介をしていただくことも多いが、このご紹介いただく方の一定の割合(かなりの部分)は、ウェスレー派やペンテコステ系のお友達の皆さんである。

               個人的には、パレスチナ人にも多くのキリスト者の方がおられることを知っている以上、世俗国家としての現在の世俗政体のイスラエル国をべた押しも出来ないし、パレスチナ自治政府のべた押しもする気がない。

               旧約聖書におけるイスラエルと、現世俗国家のイスラエルとは明らかに別物であるし、現イスラエル国がダビデ王権を引くイスラエル王国でもないので、旧約聖書に基づき「現在の世俗国家としてのイスラエルを祝福するものは、神からの祝福を受ける」とか「現在の世俗国家におけるユダヤ人であるイスラエルを祝福するものは、神からの祝福を受ける」とは言えないように思うのだ。

               現在の世俗国家の中には、税金を治めることなく、軍役につくこともない、超保守派のユダヤ人の方からコシェルをほとんど気にしないリベラル派のユダヤ人まで、多様なお考えの人々から現在の世俗国家としてのイスラエルの国民であるイスラエル国のお姿を垣間見ているものとしては、一部のキリスト者の皆さんが、ユダヤ人や世俗国家としてのイスラエルをべた押しして居られるように、「単純にそういっていいのかなぁ」とも思ってしまうのである。

              なぜ、N.T.ライト先輩に引かれるのか
               N.T.ライト先輩の「クリスチャンであるとは」もそうであるし、スコット・マクナイト先輩の「福音の再発見」でもそうであるが、イスラエルの物語の中で、ナザレのイエスとその行為の意味の位置付けをしていこうとするところが、ペンテコステ系のキリスト者の皆さんの終末理解やイスラエル(と言っても多くの場合、現在の世俗国家としてのイスラエルであるが)と深いかかわりがあるように見えているのではないだろうか。外形的に、ライト先輩もマクナイト先輩も、イスラエル理解を強調し、イスラエルへの関心が深いように見えるので、この種の本の受けがよいのではないか、と思う。

               まぁ、ある本をどう読むかは、本人のご勝手の部分はあるので、どうお読みになられてもミーちゃんはーちゃんの関知するところではないが、N.T.ライト先輩やスコット・マクナイト先輩は、イスラエルのひいきの引き倒しをするかのようにイスラエルを扱ってはおられないように思うし、「イスラエルを見れば、終末がわかる」「ユダヤを見れば、世界がわかる」という理解ではないように思うのであるが、それは、ミーちゃんはーちゃんの読解力と理解力が不足しているからかもしれない、と思うのである。

              霊性での福音派と伝統教派の結びつき
               近代は、科学性・論理性が重視された時代であったため、霊性は無視されないまでも、軽視されたり、その扱いは極めて小さいものとしてきたきらいはあったように思われる。しかし、カトリックや東方正教会(ギリシア正教会、ロシア正教会)、そしてN.T.ライト先輩のおられる英国国教会の一部では、この霊性が重要なものとされ、一定の評価をされてきた。なお、英国国教会は、Via Mediaを標榜するブリッジ教会でもあられるので(アングリカン・コミュニオンとは言いながら、日本聖公会の事はあまり存じ上げないので、何とも申し上げかねるが)、現代の福音派と、古代教会由来のカトリックや東方正教会とを結ぶ存在ともなりえるのではないか、と思う。

               まぁ、霊性における福音派(というかプロテスタント派、中でもペンテコステ派などの霊性重視する派)とカトリックや東方正教会系の伝統教派との結びつきの可能性は、アリスター・マクグラス先輩もポスト・モダン世界のキリスト教―21世紀における福音の役割 でご指摘の通りであり、その様な事象がライト先輩の本を通しても、起きているだけかもしれない。









              評価:
              N・T・ライト
              あめんどう
              ¥ 2,700
              (2015-05-30)

              評価:
              青木 保憲
              明石書店
              ¥ 5,184
              (2012-06-14)
              コメント:高いけど、欧州とのつながりが分かりにくい等、いくつか欠点はあるけど、今のところ日本語で読めるものとしては最高。

              評価:
              森本 あんり
              新潮社
              ---
              (2015-02-20)
              コメント:相当売れたようで、おめでとうございます。概観するには非常にいいかも。

              2016.04.02 Saturday

              来週の土曜日・再来週の月曜日 N.T.ライト関連イベントのご案内

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                いよいよ来週と再来週に迫ったので、チョコっとご案内。
                 

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                N.T.ライトの本格的著書 『新約聖書と神の民(上)』翻訳出版記念会

                4月9日の東京での山口さんの講演会のご案内(N.T.ライトの『新約聖書と神の民(上)』出版記念)

                N.T.ライト『新約聖書と神の民』(上巻)の出版を記念し、下記のような講演会を企画しました。
                講師は、同書の訳者である山口希生さんです。
                日時 4月9日(土)午後1時から3時
                会場 日本聖書神学校 202号室
                講師 山口希生
                主題 パウロの〈ストーリー神学〉のクライマックス
                       ――N・T・ライトによるローマ9―11章の講解
                参加費 無料。申し込み 不要
                主催 N.T.ライト読書会+新教出版社

                (↑ ミーちゃんはーちゃん作成ポスター)

                N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)

                N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)


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                N.T.ライトセミナー in Osaka

                N.T.ライトセミナー in Osaka のお知らせ 
                  第2回上沼昌雄さんとN.T.ライトを自由に語る会

                日時:2016年4月11日(月曜日)14:00−16:30
                場所:大阪市立 難波市民学習センター  第4研修室
                 http://osakademanabu.com/namba/
                   近鉄・阪神「大阪難波」駅、南海「難波」駅 
                   御堂筋線・四つ橋線・千日前線「なんば」駅
                   下車(歩いていずれも10分以内)
                    以上の中では 四つ橋線難波が最寄
                 JR難波駅ビル内

                話題提供: 上沼昌雄さん

                主催: N.T.ライト研究会(大阪)

                問い合わせ先 kawamukaihajime(a)gmail.com まで

                (a)を@に変更をお願いします。

                会場費、講師謝金に充てるため席上献金を行います。



                ----------------------------
                 
                よろしければご参加ください。両方共にいます。

                 
                評価:
                N.T. ライト
                新教出版社
                ¥ 6,912
                (2015-12-10)
                コメント:牧師の方でも結構読みごたえがある本。前半部が本書の最良の部分だと思った。

                2016.04.09 Saturday

                2016年4月のN.T.ライト著「新約聖書と神の民」出版記念講演会に行ってきた (1)

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                   お、気が付けばこの投稿が記念すべき1000番目の投稿、あんまりこういうのは大事にしない人なんだが(というのは、1000番目と1001番目がどっちがえらいとか、どうのこうのというのは基本ナンセンスだと思っているから)、まぁ、1000個も記事を書いてきたのかと思うと我ながら、何をやってきたんだろうというのはある。無論、書き差しでまとまってないものもあるから、公開してないものが70くらいはあるが。

                   それはさておき。

                   2016年4月16日 都内某所(こう書くと何か謎めいていて面白いと思うのは私だけ…)で行われたN.T.ライト著『新約聖書と神の民』出版記念講演会の参加記録をば。ま、目的はそれだけでなくて、今回もいくつかのよう対応要件を同時に住ませるという出張であったが。

                   まず、出版と日本のN.T.ライトを考える人々の動きなどを含めた簡単なここまでの経緯の説明を司会をなさった小嶋崇先輩がなさった後、本日の講演会の概要のご説明があった。

                   録音は参加者に限って個人使用のみ可能だが、講演の中身そのものは新教出版社の権利がかかわっているので、流通はご遠慮とのことであった。

                  N.T.ライトとは誰?
                   N.T.ライト先輩は、オックスフォードで西洋古典(古典学:ラテン語とかギリシア語とか)を治め、その後聖書学に研究分野を移した人である。もともと学生時代は、ラグビーしていたこともある。(あぁ、格闘技系関係者の雰囲気はその辺から出ているのかも…)
                  一言で言うと、スケールが大きい問う感じがする。神学者で、牧会者で、著作者であり、講演者であり、貴族院議員でもあった。
                  N.T.ライトの世界ではクライマックスというか、一種の高揚感がある。

                  (個人的感想 多くの大学人がするように、確かにテーマや対象を冷徹に分解して、その部品を示す、というやり方ではないですねぇ、確かに。いったんバラバラにしたうえで、目の前でくみ上げてみせ、「ほら、こう見ると分かるよね」とか「ほれ、こうなってるんだなぁ、面白いよね」といっているという部分があるように思う。ある面、Analysisの人だけではなく、Synthesisの人なのだ、と思っている。)

                   ダラム大聖堂のビショップだった経験もあるが、そのご退任して、セント・アンドリュース大学へ移っている。神学だけでなく人柄も非常に高揚感があるという感じの人である。
                  (この辺はオックスフォード大学の用務員さんのN.T.ライト先輩への好感度ポイントは、ウルトラハイスコアだったらしい)

                  文芸批評・物語神学・ストーリー神学
                   ここでは、ストーリー神学と書いているが、これを文芸批評と物語神学との違いにおいて、述べてみたい。

                   文芸批評は、文学の研究手法の一つであり、その意味で、聖書も文学 文学として味わうという徳性を持っている。

                   物語神学はかなり多様な意味でつかわれているものの、完成された聖書の中の物語に注目するものといえるのではないか。

                   文芸批評とは、古事記など歴史書にも、神話などの題材があるが、それをどう取捨選択されてきたのかを研究するのが文芸批評の考え方であるといえよう。これに比し、完成された聖書の物語がどういうものかを味わうのが物語神学であるといえよう。

                   ところで、ストーリー神学は、ストーリーを様々な視点から語ることで神学をする神学といえるかもしれない。これは、1世紀前後のユダヤ人で行われた普通の方法論であった。

                   武田先生の古代哲学と古代宗教の違いによれば(ここは引用)、哲学は抽象概念、宗教(この言葉を使う妥当性はさておき)は物語を使うって真理を述べてきたのである。哲学は抽象概念から説明されてきた。(以上、ミーちゃんはーちゃんによる要約)

                  イエス時代のユダヤ社会の神学論争とその方法論
                   しかし、イエス時代前後のイスラエルの神学世界において、抽象概念よりストーリーが重視された。ストーリーとは歴史であるが、神が働かれた歴史を解釈し、その解釈をストーリーとして語るという側面を持っていた。

                   イスラエルの歴史物語として残っている資料は多い。ヨセフスのユダヤ古代史がその典型である。

                  (ここではっとしたのが、ヨセフスのユダヤ古代史で描く世界と旧約聖書に微妙なずれがあるのだが、何でこんなことをするのか、ということが今やっと分かった。ヨセフスはユダヤ古代史でローマ関係者が読めるかたちで自分の神学を提示して見せたのだ。 これは、新約聖書と神の民(上)の真ん中あたりでかなり出てくる。それと、この話を聞いてAha!体験だったことがある。四福音書間の異同の問題である。4福音書は、それぞれの聖書記者とされる人々による、神学的対話だから、4ついるのだ。ライトは、How God Became Kingの冒頭部分で多チャンネルステレオセットの話でそれを説明しているが、より正確には、福音書記者間での対話だと考えればいいのかなぁ、と思った。)

                  神学的対話の技法と聖書の記述
                   歴史はどのような視点から考えるかで変わってくる。 歴史は一種の人間へのパースペクティブ(たぶん、世界観でも相互互換かも)を与える。当時のユダヤ人が議論するときは、異なる旧約聖書箇所に基づき、それから得られる歴史観から議論する。ことなる歴史観をそれぞれが生み出し、それを相互にぶつけるということを神学レベルでやっていた。

                  パ ウロは、ストーリーを通して神学を伝えたのか、といいう問題を考えてみたい。抽象概念を使った人としてのパウロとして理解されており、これに反し、イエスは典型的なストーリーで語った伝統的な語り口であるという理解が広く普及していると思われるが、ところがしかし、パウロは、論理世界、抽象化した哲学風なこととして語っているかというと、どうもそうは言えないかもしれない。

                   N.T.ライトはそうでないと主張している。新約聖書と神の民の邦訳書150ページあたりでそう書いている(ほら、本がほしくなってきたでしょ。キリスト教書店にファックスで注文、または新教出版社に今すぐご注文しましょう)。

                   パウロの表明のコアは、イエスを中心としたストーリーを語って、彼の神学を伝えようとしている様だ。ローマ9-11章 イスラエルの歴史語りのコアだとライトが考えている。
                   
                   マカバイ記というイスラエルの文書があるが、マタティア遺言などにも同様の傾向がみられる。
                  アブラハムが義と見なされたことをどう考えるかに関して言えば、パウロは創世記15章の記述から説き起こしており、神の約束を信じたことで義と見なされた、としている。あるいは、イサクをささげる記述である創世記22章に示された試練から義と見なされた、ということを語ってもよい。イエス時代の聖書理解の対話は、こういう異なった聖句から導き出される立場の違う聖書理解の体系を相互に参照しあい対話をしていたと考えてもよいだろう(あぁ、これで分かった、と思った。イエスと律法学者との対話がかみ合っていないようでいて、実はある点においてはきっちりかみ合っていることが多いのだ。実は、違う論点間の議論をしているから、現代人にとってはトンチンカンに見えてしまうけれども対話しているものの間では、火花が散るような対話がなされているのかもしれない)

                   旧約聖書記述のどれを使って自分の言いたいことを言うか、ということが大事なのである。先の義と認められることに関しても、旧約聖書記事を根拠にしつつ、どのアブラハムのどの事件で語るかによって、議論に陰影(深み不神というか微妙な味わいの違いというか、微妙なグラデーション)が出てくる。同じ内容や対象を語っても、どこの出来事や聖書箇所から語るかによって変わる。(どちらかが正解である、ということではないだろうし、どちらも正解であることをイスラエル社会では伝統的に認め、どれか一つの真理しかないというようなやり方は、民族の伝統として持たないようである。この辺は、山森レビ先生からの聞きかじり)

                   ここで、先のマカバイ記に戻れば、ピネハスとエリアによって遺言を残す人は語ろうとしている。そして、律法へのゼーロス(たぶん熱心党、ゼロタイとかの語根が共通?)をいう。そして、バアル預言者との戦いを通して、神の律法への熱心(ゼーロス)を語る。

                  律法順守のアイコン
                   ここで、律法に熱心であることは、ユダヤ人の信仰の模範、ユダヤ人のアイコンでもあった(ムスリムが、礼拝やハラールをアイコンとしていることや、現代イスラエルにおいても、コシェをアイコンにするのと似ちえるかもしれないと思った。ペルシャ語学習中の息子さん情報によれば、国内でいい加減でも一度、海外に出てしまうと、こういう規定を順守する傾向にあるらしい)。一種、暴力も辞さない熱心さでもある。イエスを信じないユダヤ人ではあったが、律法を守ろうとした。そしてその壮絶な順守はアブラハムの子孫であることの象徴(アイコンあるいはバッジ)といってもよいかもしれない(現代ユダヤ教の超保守派が髪の毛を切らずクルクルカールした神を耳の前に垂らすのもたぶんそれ。自分たちがアブラハムの子孫であることを必死に自己アピール中であるのだと把握)

                   死海文書を生んだ、クムランの宗教集団は、ユダヤ人の民族的な価値観を覆そうとした。律法の諸々の行いを必死で守ろうとしたが、神の約束を守れば祝福そうでなければ、滅び、というような理解であった。

                   バビロン捕囚は契約の呪い 70年で終わったバビロン捕囚出はあったが、完全にダビデ時代の再現となったかというと、それはかなり怪しくて、帰ってきても捕囚状態にあった。

                   バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ(順不同)による支配を受け続けたのがイスラエルであった。その意味で、他国による半統治、半支配状態にあり、実質的には、半植民地統治が行われた地状態にあったといえよう。

                   比較としての妥当性の問題があるが、現代日本人にまだイメージがわきやすい例としては、1970年以降の沖縄に近かったのではないか。日本に返還されたけれど、他国の軍事基地が存在したままの状態である。(完璧に余談であるが、日本の関東地方の広域航空管制は米軍が権益をもっている部分が多い。何でこんなしょうもないことに詳しいかというと、ミーちゃんはーちゃんは何を隠そう飛行機ヲタでもあるからである)ローマ帝国としては国際陸上交通の要衝、軍事通行路として、イスラエルは極めて重要であった。


                  横田空域問題を示す図
                  http://blogs.yahoo.co.jp/biwalakesix/24765574.html より


                  沖縄の米軍基地の模様 
                  http://apjjf.org/-David-McNeill/1768/article.html から


                  アメリカ空軍の巡回警備員をする働くワンちゃん
                  https://www.pinterest.com/pin/283797213990122742/ から


                   こういう状況を踏まえると、神学的には律法の呪いの下にある状態。非常に悲惨な状態にあったといえよう。
                  このような時代背景の中、クムラン教団は新しい時代が到来したことを、申命記30章を引用しつつ、示していく。また、イエスやパウロにとっても申命記30章は重要であり、一種イスラエルへのターニングポイント、クライマックスがそこに示されている。

                   イスラエルの希望を申命記30章を使って、イエスもパウロも表明しようとしている。今こそ、祝福の時がやってきたことを告げようとしたのではないか。

                  (神の国がイスラエルにやってきたという祝福の時、それを知らせたのが良き知らせ、福音であった、と理解すれば、イエスがガリラヤで開口一番やったことは、神の国が近づいた、だから悔い改めて神のものに戻れ、といったことが容易に理解できよう)


                  以上 山口さんのご報告前半部分


                  次々回位へと続く。
                  評価:
                  N.T. ライト
                  新教出版社
                  ¥ 6,912
                  (2015-12-10)
                  コメント:内容は難しいし読みごたえはありますが、考えたい人にはめちゃくちゃ良い本です。

                  評価:
                  N. T. Wright
                  HarperOne
                  ¥ 1,198
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                  コメント:大変よかったです。

                  2016.04.13 Wednesday

                  2016年4月のN.T.ライト著「新約聖書と神の民」出版記念講演会に行ってきた (2)

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                     今日は、先週土曜日に参加したN.T.ライト著『新約聖書と神の民』の出版記念講演会の後半部分についてご紹介したい。いよいよ、今回のメインディッシュともいえるローマ人への手紙9章から10章をライト的な方法で、読んでみるとどう見えるのか、という部分である。

                    Paul and Faithful God を手がかりにローマ書9章―10章を考える
                     ローマ人への手紙9-10章にについて考えてみたい。N.T.ライトは、Paul and Faithful Godのかなりの部分を使ってこの部分に関する注解を記述している。

                     イエスの当時、神学することとはストーリーを語ることでもあった。旧約聖書記述に基づき、イスラエルの歴史語りをしている中で、聖書の記述をもとに神をどう理解するかを述べあう、ということであった。パウロは申命記30章を9-10章の中心部においている。ユダヤ人の待ち望んでいたメシアが来たのに、新しい契約(神の宣言くらいの方が近いかもしれないと思う)に目を背け、新しい外国人がこの契約を受けとめていて、ユダヤ人が押し除けられているじょうきょうがうまれた。ユダヤ人の内に神から捨てられたという人まで出てくるほどであった。しかし聖書の中には、イスラエルが捨てられ、異邦人が救われるとは書いてない。その中で、ユダヤ人の不信仰をどう考えればよいのか、がパウロの9章から10章の部分であるので、後半はその部分を考えてみたい。

                     (ミーちゃんはーちゃんによる注記 神学理解を旧約聖書の出来事をもとにして解釈していくユダヤ的伝統についても、前回触れたが、要するに当時の律法学者がやっていたことは、是なのであり、個別案件の判断をする際に旧約聖書の理解から考えて、この場合はこうだよね、と考えてくれるのが、律法学者の役割であり、これは、現代のイスラム世界では、イスラム法学者、イマームないしイマムがイスラム社会で果たしている役割と同じであるし、イスラム世界においては、世俗法よりも、この神の方であるイスラム法の方が優先するという場合もかなりあるらしい。これが一体化させるべきだってやったのが、イランではホメイニ君ってことだったらしい。)

                    (I)ローマ9章6−29節
                     ユダヤ人が捨てられたかに見えるのは、神の計画の一部といえるであろう。ユダヤ人を軽蔑し始めている異邦人キリスト者への対応という側面がある。ローマ9章6節には、神の選びを書いている。

                    (ミーちゃんはーちゃんによる追記 まぁ、異邦人(その多くが異教社会におけるユダヤ会堂に集っていた改宗ユダヤ人)にしてみれば、イエス様が生きていてくれて、直接その発言を自分たち異邦人に聞かせてほしかった、という思いはあっただろうが、そうは問屋が卸さなかったのだ。イエスの言行録もユダヤ人の証言者経由、おまけに異教社会で活躍したユダヤ人である元パリサイ派のパウロに至っては直接の弟子ではない、と来ている。聖書を読もうとしても、翻訳者と来ていて、隔靴掻痒の気配もある、おまけに復活されたとはいえ、直接イエス様殺しちゃった野はローマ法であるとはいえ、それもばらばを釈放せよと騒いだのがユダヤ人ときたら、こいつらイランことしやがって、ちょっとくらいと思ってもばちは当たらないだろう。)

                    神の選び
                     この部分は、2重予定説の教理の基礎と理解されることもあるが、ユダヤ人にとっては当たり前のことが書かれているようである。

                     まず、族長アブラハムの選びから語っている。そして、イサクを選び、ヤコブを選んだという構造になっている。


                    ウィリアム・ブレイクのアブラハムとイサク http://www.bc.edu/bc_org/avp/cas/ashp/brunelleschi_ghiberti.html から

                     神が選ぶのは、えこひいきではないか、という考え方もあるが、神の選びに問題があるだろうか、という問いに関して、それはない、というのがパウロの主張であるといえよう。

                    (ミーちゃんはーちゃん的補足 この神の選びに激怒して、自分の手で、自分の思う正義をやろうとしたのがカインということになっている。そして、彼は結局さすらうものになる。)


                    Cain&AbelW.Blake
                    ウィリアム・ブレイクのカインとアベル 

                     イサクだけが約束の子、ヤコブだけがイスラエルになる。ここまでは、多くの人が合意されるところである。となると、彼らイスラエル人すべてが約束の子ではないし、例外も含むのではないか、とは言えるだろう(たとえば、アカンとか、ベニアミン族の士師記の最後辺りの事件とか)。

                     約束の子とは誰か?それが、ダビデの子、そして、イエスキリストと絞られていく。

                    祝福における神の主権性
                     祝福が異邦人に行くことで、ユダヤ人の方が不平を言っている状況があったといえるだろう。神の主権性、神が憐れもうとするものを憐れみ…ということは受け入れなければならない。ユダヤ人には神に抗議をする権利はなかった。別の民族を選んでも文句言えないし、哀れみによって残りのものがイスラエルに残されてはいた。ローマ9章29節で引用している聖書箇所は、「私たちはソドムのようになり、ゴモラのようになったであろう」という表記になっている。

                     イスラエルの子供がおびただしい数存在したのだが、救われるのは残りのものだけということ、これが重要なポイントであり約束であるといえよう。果たして、多くなったが救われるのは残りのものとなっている。ローマ6:29 イエスやキリストとかは出てこない 約束の子というような表現はあるが、イエスとかキリストは出てこない。

                     ライトはローマ書全体、パウロ全体を見えれば、約束の子は大事なテーマで、個別にイエスとかは記述がないけれども、それは、パウロがローマ書を書くうえでの前提になっていると考えているだろう。このあたりがライトの聖書理解の特徴で、ホーリスティックな部分であり、全体から部分を理解するという特性が表れていると思われる。

                    ミーちゃんはーちゃんによるホーリスティック理解の解説

                    Holistic(ホーリスティック)とかミーちゃんはーちゃんの世俗の世界の研究分野に近いシステム理論でも、研究の方法論ホーリスティックシステム理論というものがあるのだが、この方法論は、モダニティ、近代性、分析性に対して変わるアプローチとして現れてきたために、従来の科学の枠の説明にはなじまないことが多いし、単純化をせず、実際の姿を見るということがあるので、分かりにくく記述的で、数式による記述になじまない方法論である。
                    Holisticシステム論の中では、システム構成要素間の間接的な、目に見えないような「つながり」、予想もできないような可能性やつながりも重視する。
                    これに対して、従来型の分析型のシステム論の中では、インプットとアウトプットを明確に定義できるものに限って分析対象の中にいれない。限定的な方法論にかなり強調がある。要するにできるだけ単純化しようとするのが、この従来型、近代型の分析的なアプローチである。
                    例えば、近代型の聖書理解で言えば、使徒言行録を考える際には、直接の引用がある場合を除くと、福音書までしか戻らない。ところが、ホーリスティック型の聖書理解で言えば、使徒言行録を考える際に、あまり適切な霊ではないかもしれないが、雅歌とか士師記とかどこでどうつながるのかということについての想定がつかないようなところとの関係を含めて考えるということも可能になるのである。
                    こういう一種論理の飛躍と思えるようなことにも意義を見出すのがホーリスティックな世界観であるといえばわかってもらえるだろうか。


                    (II)ローマ9章30節〜10章4節
                     ユダヤ人の行為義認(ペラギウス主義的な性質)を非難していると考えてきた。一種の自力本願的思想。自分の良い行いを神の前に示して認めてもらおうとする宗教的情熱と理解されてきたが、そうじゃないのではないだろうか。
                    もし、そうだとしたら、義を獲得しようとしたが、義を獲得しませんでした、とは書かずに、律法に到達しなかった、とパウロは書いたのではないだろうか。

                     律法に達しないは、心の中では律法をしたいが、それを実行できない私、ということなどの表現に現われているだろう。この律法に従いつつ、それができなかったのが、まさにユダヤ人の歴史ではないか。律法を確立する、律法を全うし、聖なるトーラーを実行しようとしたけれども、それができないユダヤ人であった。
                    ここで、申命記30章を引用している。

                    どうすれば律法を実施・成就したことになるのか、律法を全うできるのか
                     ところで、律法を行うことができる、あるいは、律法を守るとは、どういうことかというと、行いとして理解されるとともに。約束の成就でもあった。信仰ではなく、行いによって律法の成就、約束の成就を目指そうとし多といってもよいかもしれない。

                     聖霊があるかないか問題でいえば、ローマ書9-11は聖霊が出てこない。聖霊の力による律法の成就は重要だと思われる。パウロはそれを踏まえて発言しているだろう。8章では、律法の要求が満たされるためであったとしているが、それは、聖霊の力により律法の要求を満たすことができることを示しているのではないだろうか。

                     パウロは10章でヨエル書から引用している。そこでは、聖霊の授与が主要なテーマであるが、聖霊の授与は終末時代の到来の証拠であったからであろう。

                     パウロは聖書(旧約聖書)暗記していたからこそ、この部分も念頭に起きながら、引用しているだろう。聖霊の授与も暗示されているとライトはみているようである。御霊に与ることは重要だと考える。

                     ガラテヤ3章14節を考えてみると、信仰によって聖霊を受けることができ、聖霊が与えられることで律法の実行という約束は出てくることになろう。律法は自分ができないことを、聖霊を得て実行したいということになるだろう。当時のイスラエル人が知らなかったのは、イエスを信じずに聖霊が来ないことを知らなかったことである。

                    (ミーちゃんはーちゃん的疑問 ここで、疑問は、当時の一般的なユダヤ人世界において聖霊がどう理解されていたのか、という素朴な疑問である。もちろん、その一端はイエスとニコデモとの対話の中に表現されているが、神の霊とその効果みたいなものをどう理解していたのか、ということがちょっと疑問になってきた。)

                    神の義をどう考えるか
                     ローマ書の神の義は、十字架と復活によって、新しい契約を打ち立てた神への忠実さのことであり、「あなたの子孫によって全世界の祝福がなされる」というアブラハムへの預言が成就したことである。

                     しかし、人間は、古い生き方に固執してしまう傾向があるだろう。モーセ契約には、制約がある、民族主義的な制約がある。しかし、神の熱心によってユダヤ人もギリシア人もないという時代が来た、というのがパウロの主張であろう。ある面、この新しい時代に生まれた教会を迫害するユダヤ人のことを嘆いている。

                    (III)ローマ書10章5-13節
                     この部分は、行いと、信じるだけの単純な対比ではない。肉の行いと聖霊による行いの対比であるといえよう。行いと行いなしの信仰ではないだろう。さらに言えば、肉の行いと聖霊の行いの対比とN.T.ライトは主張している様である。

                     10章9節がこの部分のクライマックスである。パウロはイエスの復活を語るが、ローマ書では十字架を語らない。復活の持つ救済の決定的意味を語る。復活させられたのです等移転に強調があり、この復活によって新しい創造をはじめた、ということが述べられる。

                    (IV)ローマ書11章1-24節
                     この部分では、イスラエルの過去の歴史についてイエスを参照しながら考えるのではなく、11章以降はイエスを参照しながらイスラエルの未来を見通している。キリストの視点から見直しているといってもよい。神はユダヤ人を見捨てたのではない。ここで考えてみるべきは、ローマによる属州支配における異邦人の反ユダヤ主義的感情である。多くの反乱がユダヤで見られた。

                    見捨てられたイスラエル人?
                     パウロは、イスラエル人が神から捨てられたのでないというが、そうだとしたら、じゃあなぜ、イスラエル人は、神に逆らうのか、ということが問題になる。

                     ローマ書11章15節 と 5章10節の並行関係にライトは注目していて、5章19節なども参考にできよう。

                     キリストが捨てられることによる和解がイスラエル民族にも当てはめられること、これが9章から11章に流れるテーマである。
                    イスラエルだけが救われるためではなく、イエスが捨てられることで、全世界の和解が成立することになる。世界の和解のためにイスラエルが捨てられるとりかいできるのではないだろうか。あるいは、イスラエルの不信仰ですら全世界に祝福をもたらすことになる。

                    かたくなになったユダヤ人
                     では、かたくなになったユダヤ人はどうなるのか。申命記32章からの引用が参考になるだろう。ユダヤ人たちの不信仰によって祝福を得た異邦人たちの存在が、今度はユダヤ人たちにねたみを起こす原因となり、それがさらに、ユダヤ人たちの救いにつながるという事が起るというのです。そしてユダヤ人たちが救われることは、世界にとってさらなる祝福をもたらす、とパウロは語る。

                    オリーブのたとえ
                     ここで、オリーブの木が出てくるが、そもそも、オリーブの木とは何だろうか。イスラエルの象徴と解され、族長たち、イスラエル民族を指す。また、神のたった一つの家族 Abrahamの家族であり、その中に属するかに関しては、人種は関係ない。イエスにあるものはアブラハムの子孫となるという理解や、ガラテヤ3章2節の理解もあり、オリーブの木には異邦人も含まれるといえよう。

                    (V)11章25-32節
                     ここではイスラエルの救いが提示されるが、あるいは全イスラエルが救われるとなっているが、ところで全イスラエルをどう考えることができるだろう。

                     一般的な通説は、4ポイントにまとめられる。

                    1.    秘められた計画は奥義として隠されていた。全く新しい啓示 ここまでは秘密扱いにされていたという理解
                    2.    時間的な意味で イスラエルはかたくなにされたのであるという理解
                    3.    残りのもの以外のイスラエル人は救われるが、それがおきるのは、再臨時であるという理解
                    4.    民族としてのイスラエル、再臨の瞬間にイエスを信じるという理解

                     ライトの主張によれば、ここは新しい啓示ではなく結論である問うことである。つまり、神がかたくなに心をしているのに、神の意思に反してユダヤ人をどうこうすることもできないし、それすることは神に反抗することになるだろう。そして、神の憐れみが示されるということであろう。

                     いまイスラエル人は憐れみを受けている。将来ではなくて、今がイスラエルにとっての恵みの時であるという理解である。

                     ユダヤ人は律法を追い求めた。律法を成就することをめざした。メシアとしてのイエスを受け入れることによって、異邦人が律法を成就することになった。

                    異邦人とユダヤ人が一つになった
                    開放・和解に意味があるという理解

                     全イスラエルは、イエスを信じるユダヤ人と異邦人の群れ全体のことであるといえよう。
                     オリーブの木は即ち全イスラエルを理解できるのではないか。つまり、野生のオリーブと栽培種のオリーブが一体になり、一本のオリーブの木となる世界が生まれるということであろう。

                     イザヤ書59章からの引用は、ライトはキリストの初臨のことだとみている。シオンの話を合わせて理解しているのではないか、とライトは想定している。こういう理解は、ユダヤの通例であるが、それをパウロがやっているのではないだろうか。
                    その意味で、全イスラエルというのは、民族的イスラエルのことではない。この説は学会では不人気であるが、実は、ジャン・カルヴァンがこの説である。カルヴァンは、反ユダヤ的な特性がない宗教改革者であり、神の選びの普遍性を強調している。異邦人はユダヤ人に次記されるという理解である。


                    結論
                     全イスラエルは、ユダヤ人と異邦人からなることは軽んじているのではないか。旧約聖書はユダヤ人と異邦人が一つになっているといえるだろう。

                    イスラエルは捨てられることで、神の救いを完成することになるという構造があるのではないか。
                    ある面、キリスト教は旧約聖書という土台につくられている。イスラエルの神がイスラエルの民を通してすべての民族を救おうとしているという新約聖書のストーリーは、ある種旧約聖書の中に見いだされるストーリーであり、それをライトは主張しているのではないだろうか。そして、ローマ8章が、ローマ書全体のクライマックスであり、全被造物の回復を告げ知らせているのだ。

                     次回、レスポンデントの応答のご紹介


                     
                    評価:
                    N.T. ライト
                    新教出版社
                    ¥ 6,912
                    (2015-12-10)
                    コメント:最初は読みにくいけど、重要なことを言っている。

                    2016.04.16 Saturday

                    2016年4月のN.T.ライト著「新約聖書と神の民」出版記念講演会に行ってきた (3)

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                      森嶋 豊先輩(青山学院の宗教主任)からの応答
                       森嶋先輩は、もともと専門が組織神学であり、新約学者ではなく、キリスト教人権思想と日本国憲法への影響がそもそもの専門分野を主に研究テーマとしている、と自己紹介された。

                       ここのところ、新教が割と新しい人に興味を持って、新しい人を結構紹介してくれている。しかし、斬新であっても、福音を曲げる出版物は伝道者としては困るのだが、その出版社が、リチャード・ヘイズとNTライトを紹介したのは大きいと思う。これから大きな流れを作ることになるのではないか。

                      N.T.ライトの神学の教会に与える意味
                       ある面で、N.T.ライトの書籍は、失われた福音の回復に重要な役割を果たし、これからのプロテスタント神学にとって重要であると考えされ、飢えかわいている教会にいのちを与える書だろうと思う。これまで、客観的な理解中心で動いてきたことの限界があるのではないだろうか。そして、ある面で、聖書の読み方について、教会と学会は信頼関係が回復できない関係が生まれて気続けてきた。例えば、ナザレのイエスをキリストとするかということを新約聖書学として回復できるかという状況の中にあるかもしれない。


                      N.T.ライト先輩

                       その意味で、聖書学、文学、歴史学とを統合するプロジェクトをしているライトが紹介された意味は大きいだろう。
                       

                      ミーちゃんはーちゃん的感想
                       神学を体系的に学んだことはない信徒の分際でものを申し上げるのはつらいところではあるが、これまでのキリスト教神学は、近代社会の中での神学ということもあり、近代の科学の影響を強く受けてきて、個人の中でも科学思想が支配的な役割を占めてきた社会の中で、科学的でありすぎ、間主観的であろうとするがあまり、科学や理性で取り扱えない部分は無視してきたという側面があったように思う。その結果、素朴な信仰の在り様を否定するような神学的思惟が生まれたり、あるいはその反動として、無理筋に近いという印象を与えかねないほどの論理展開をする神学的思惟も生まれてきたように思う。しかし、『新約聖書と神の民』の前半部分は近代哲学の枠組みを参照しながら、聖書を読むとはどういうことか、聖書を理解するとはどのように考えることができるのか、そして、それがどう人々の影響するのか、をきちんと議論しようとしている本であることは間違いないなぁ、と思っている。特に近代思想を超えた現代思想は、もう既に対話主義的な方向に向かっているにもかかわらず、教会の方は、1950年代的な対決の構造に生きているような気がするのが、残念でならない。)


                      聖書読みの方法論
                       これまでの聖書の読みは、現代の文脈を前提として、それから読み込んだり、ヘレニズム的な読みで呼んできていて、聖書の意味の豊かさを失ってきた。ストーリー神学には、ストーリーが持つ力がある。聞き手の人生を変える力を持つことができ、聞き手が直感的に語られたものと自己とを結びつけることを可能にする。聞き手の生き方、在り方を変えるものとしてストーリーには力がある。ナタンのたとえ、イエスのたとえなど、ストーリーを用いて語られているものがある死、現代の説教でも語りの形式がある場合もある。

                       ユダヤ的背景から新約聖書を読み直すこと、また、方法論の実際の展開などを具体的にこの講演で示され、大著のエッセンスが示されたと思う。

                       また、現代の文脈で誤解されている可能性がある読み方などもご指摘された。イスラエルの未来について、キリストの光で読み直すということ、旧約聖書が説得力をもつこと、キリスト教は旧約聖書の上にのっていることが、観念的にではなく、具体的に体験可能であることを本講演では示されたといえよう。

                       ライトの著作が、学問的な成果でありながら、心が満たされるものがある。神学的でありつつ、福音的である。こういう研究は非常に心躍るものがあり、よみがえられたイエスを信じ、勇気や希望を与えるものである。

                      もし、ライトに聞けるとしたら
                       現在、ライトがヘレニズムの理解や、三位一体の理解をどうするか、という部分に関心がある。贖いのストーリーをどう語っていたのか。ユダヤ人のストーリーが真実というのはどういうことか、ということをライトに聞いてみたいと思う。

                       様々な人々と対話を求めるような思索をしているのがライトであり、その面で、教会の伝道に大きな影響を与えてくれるのがNTライトの本だろうし、その意味で、それを日本で紹介し続けることは重要ではないか。
                      (ミーちゃんはーちゃん的個人的感想
                       まぁ、確かに、現代の哲学、現代の教会人、科学コミュニティ、メディア・・・と確かに対話を求めるような思索をしているという指摘は実にそのとおりだと思う。その意味で、教会から出ていき、社会、あるいは世界というかその中にある多様な関心領域のコミュニティと対話しているところはあるように思うなぁ。
                       伝道というと、日本では言葉で、”福音”とそれぞれの人々が思っていることを他のキリスト者でない人々に直接面と向かって語ることと、と極めて言敵的な理解をしている方々が多いように思われるが、そもそも、キリストの存在を指し示すことが伝道ではないのか、あるいは、イエスがガリラヤでやったことは、「神の支配が現にあなた方の内にすでに部分的には実現しており、それが案外近いところで実現していることに目を向けたらどうだろうか?」と指摘したことだったような気がするので、そういう意味で、こういう説得的な方法というよりは、対話的な方法でそれを示すことの意味、というのは、現代社会において大きいのではないか?ということを想った。)


                      河野先輩(リチャード・ヘイズの著書の翻訳者)からの応答
                       ライトの主著が、当初5巻セットが6巻になり、その主著の完成が終わるのだろうか、ということもあるので、大変なプロジェクトになるだろう。私からのレスポンスは、新約聖書学の視点からのレスポンスということになるだろう。

                       ライトの特徴は、20世紀のブルトマンの位置が大きい時代の流れの中で、EPサンダースたちによる、パウロとパレスティナのユダヤ教を見直す中で、ユダヤ教の背景の中で、パウロを読むという方法論の中に位置づけられよう。ライトもヘイズもこの流れの中にあると考えられる。


                      リチャード・ヘイズ先輩


                       その意味で、すでに実現された終末論に着目しているといえ、現在的な終末に関する強調 がある。CHドットやケアードとも深いかかわりにあるといえるだろう。また、第郷静卒の黙示思想や、史的イエスの第3の探求とも深いかかわりがあり、回復の預言者としてのイエス(ユダヤ的 EPサンダース)理解にちかく、イエスは終末論的存在であるとみているといってよいであろう。

                       ただ、ライトは、終末においてユダヤ人の大規模な回心が起きることに関して否定的であり、こういうユダヤ人の大規模回心を伴うようなグランドフィナーレを言わない傾向がある。それよりもむしろ、神の支配が実現されたという部分に強調がある。

                       また、イスラエルの聖典である旧約聖書に照らして、新約聖書を解釈するという傾向がある。旧約の預言の成就がその解釈の特徴であるといえるだろう。N.T.ライトの新約解釈を旧約解釈として理解していくという方法論では、象徴世界の中で語りだす自立的テキストとしての旧約聖書と新約聖書のテキスト間の相互関係を聞きとっていくスタイルであると居るだろう。その意味で、インターテキストエコー(リチャード・ヘイズが呼ぶところの)となっているといえよう。その意味で、ユダヤ人の世界を再構築するためにストーリーに着目しているといえよう。

                      ヘイズとライトの差異
                      ヘイズとライトとの違いであるが、
                       ヘイズ    個別テキストの象徴世界の自立性に強調があり、テキスト解釈に徹している。
                       N.T.ライト  テキスト批評を歴史の再構成するためのツールとして使っていくところがある

                      より具体的には、
                      1異邦人の置き換え神学への反対
                      2イスラエルの読み替え
                      3全イスラエルの救い
                      という点辺りにライトの特徴があるのではないか。

                       以上に関して、1の異邦人への置き換え神学の反対に関しては、ローマのキリスト教会が生み出していった置き換え神学は、ホロコーストの源流であるとして否定的であり、2イスラエルの読み替えにかんしては、民族的なものとしてとらえていくのではなく、それを乗り越えていく義という点に強調点がある。3全イスラエルの救いにかんして、かたくななユダヤ人を壮大なスケールでの救いが起きるといわない。

                       将来何かメシアがやってきてユダヤ人を救うとはライトは読んでいないように思える。イエスの初臨を根拠にユダヤ人が信じるという立場であると思われる。
                      ミーちゃんはーちゃん的感想 
                       ここでユダヤ人問題が出しておられるが、日本にいるとあまり意識することはないのだが、結構このユダヤ人問題というのは、ヨーロッパでも、特に政治的なアリーナで何でも議論したくなるアメリカ型コンテキストで、このユダヤ人をどう考えるのか、ユダヤ人の救いをどうとらえるのかで、議論が大きく変わりかねない傾向にあるように思う。時に、この問題はメシアニック・ジューと呼ばれる人々の問題や、第3神殿建設するだ、といっている人々の理解とかかわりが出て来ることがあるなど、案外香ばしい香りがすることが多いような気がする。このタイプの確信犯的な理解者というか信奉者の皆様には、緩やかな対話をしましょうというよりは、真面目に論争を挑んでくるような雰囲気の方が少なくないので、結構対応に知恵が必要な場合がある。)

                       もし、被造物が虚無に服しているのは、創造主の意思によるのであれば、一度かたくなにされたイスラエル人もイスラエルの復活預言の様に、一気に回復があり、救われてもいいのではないか、と思うがその部分にN.T.ライトは 少し否定的なところがある。

                      ミーちゃんはーちゃん的な全般的な感想
                       このブログの長い読者の方は、既にお気づきのように、ミーちゃんはーちゃんは、N.T.ライト先輩の世界が好きである。というのは、基本的に対話的な姿勢をN.T.ライト先輩の書籍が持っている点、いくつ喪のあらな足る気付きをくれる点、合理、理性一本やりで、理屈でぐいぐい押すだけではなく、あるいは問題意識をそこに限り、その中で緻密な議論をガリガリ積み立てるというタイプの著者ではないからだろう。

                       まぁ、ある面で言えば、緻密さにかける、あるいは精密さにかけるかけ、一種の破れはあるかもしれないけれど、聖書の全体像を漠然と出はあってもつかむことを可能にし、予想もしてない部分と予想もしてない部分をつなぎ合わせて、あ、これとこれは、論理的にはやばいかもしれないけれども、つながっている可能性があるかも、というような聖書の読みの可能性を容認してくれている部分があるかもしれないというところである。

                       ただ、ライトの理論の危うさは、現代発見されている歴史的資料に基づいた議論の展開をしている点であり、常に見直しと見返し都が求められる点であり、確立されていない、とうい面があるかもしれない。また、従来型の完成形を目指し、確立され固定化されたものを求める皆さん向きの概念ではないかなぁ、ということは、今回正直改めて思った。さらには、将来において、変更の可能性を内包しているという意味で、内部的な確実さを重視する方々には、向かないのかもしれない。逆に、今、ある範囲の資料を基に、どう聖書理解を考えるのか、ということを考えたい方には、逆におすすめのタイプの聖書関係の著者ではないか、とおもった。

                       とはいえ、楽しくあっという間に終わった2時間でございました。津のH先生に久しぶりにお会いできたし。





                       
                      評価:
                      N.T. ライト
                      新教出版社
                      ¥ 6,912
                      (2015-12-10)
                      コメント:万人向きではないけれども、かいていることは大切

                      評価:
                      リチャード ヘイズ
                      新教出版社
                      ¥ 7,020
                      (2015-04-01)
                      コメント:よいけど、普通の人は買わなくてもいいかも、って感じの本。

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