2017.04.10 Monday

N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(2)

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    先週末に引き続き、『シンプリー・クリスチャン』の中から、さらっとご紹介したい。今日は同書の後半の部分である。

     

    世俗の権威に相対する対抗的存在としてのイエス

    全開も少し触れたが、イエスは神の王国の到来をまちまちや村々で多くの人々に述べ伝えた。忘れてはいけないのは、イエスがそれを述べた時期に、このユダヤの地を様々の面で、実質的に支配していた人々がいるのである。イスラエルの北部では、ナザレのやや北側、ガリラヤのカナとナザレの中間地点にあるセフォリスという町に陣取っていたヘロデ・アンティパスであり、南の神殿は祭司長たちや大祭司が陣取り、ローマの支配下で、宗教的勢力として、ユダヤ人一大勢力となっていたのである。その中で、イエスはヘロデ・アンティパスの支配勢力の優勢な環境下で「神の国キタ〜〜〜〜」ということを言って、ふれ歩いた、ということになるらしいのだ。まず、ガリラヤで。

     

    なお、ヘロデ大王なきあと、ヘロデ王国の領土は、大きく3分割され、分割統治されていく。そのあたりのことはこちらのウィキペデイアの記述をどうぞ。このウィキペディアの記述は、コンパクトに纏まっていると思う。この記事をさらに要約すると、ヘロデ大王の死後、権力継承者の一本化に失敗し、挙句の果てに領土を3分割し、そして、適当に3分割された結果、この領土の支配者であったヘロデ大王の後継者の一人は、湿性の結果、当時の蛮族の地(今でいうおフランスあたり)に追放され、彼の支配地域の一部は、ローマの属州の僭主国から、ローマ皇帝の直轄領へ転落することになる。この政治権力の継承の失敗は、こういう転落の構図を作り出し、ローマのこの地域への介入を実現する口実を与えてしまったようなものであったらしいのである。

     

    中部方言で、「たわけ」という愚かしい行為をする人を総称する言葉があるが、それは、どうも「田を分ける」→「たわけ」となった説もあるらしいのだが、古今東西、権力継承権と財産の混乱というのは、リア王のお話ではないが、ろくでもないことしか産まないというのは、古今東西不滅の事実のようである。

     

    このあたりのことをあっさりと、ライトさんは次のように書く。

    セフォリスを首都として再建していたのもヘロデ・アンティパスだった。他方でユダヤ南部には、祭司長たちとその長である大祭司(毎年任命されていた)がいて、ヘロデ・アンティパスと同じくローマの後ろ盾により寡頭政治を行っていた。ローマ帝国はその広大な領土を円滑に統治するために、その地方の権力の代行者を登用して徴税や住民の統治を行わせていた。ヘロデ・アンティパスや大祭司は、「神が王となられる」と誰かが触れ回っていると聞きつければ、そこに直ちに危険な匂いをかぎつけただろう。(『シンプリー・ジーザス』p.132)

     

    当時の地図(ミーちゃんはーちゃん加筆)

     

    この辺、日本は西洋古典学が、基礎教養の内容として、あまりにも軽視されていて、ユダヤ戦記などを始めとするヨセフスの著作などは多くの人の知るところではない。そういえば、アメリカでも、特殊な全寮制の学校以外では、西洋古典学はやらないので、あまり、詳しくない人が多い。しかし、ヨーロッパになると、イタリアであれ、フランスであれ、北欧諸国であれ、西欧にとっての地理的辺境の地のブリテン島とその周辺諸島からなる連合王国であれ、基礎教育として、西洋古典をキチンと読ませる習慣はまだかろうじて残っていて、そういう教育課程であるので、ヨセフスなどの著作に触れる機会は、大学関係者などのインテリゲンちゃんたちの中では、このラテン語の西洋古典を教育を受けた伝統が、かろうじて残っているようである。

     

    ラテン語といえば、「チップス先生さようなら」という英語の原文を高校生くらいに読ませるにはちょうどよい英語の小説があるが、あの主人公は、時代遅れと揶揄されながら、三流のパブリックスクールという小金持ちの子弟を受け入れているような私立学校(本当のエリートは家庭教師が教えるらしい)でのラテン語の先生のお話である。

     

    余談が続いて、一体何の話だになってしまったが、要するに、このイエス時代の歴史背景は、距離的にも近いし、文化の基礎をなしている西ヨーロッパでは、ある程度知識が豊富であり、イエス時代のイスラエルの状態がどうであったのか、ということに触れる機会が、日本に比べ段違いに多い。このあたりの西洋古典の内容やレトリックが日本ではほとんど絶望的に知られていなくって、その中で聖書を読んでいても、当時の切迫した時代背景の中で、イエスが、「神の王国、キタ~~~~~」と言ったことが、実は、ものすごく政治的には、暴力的な発言をしたことになる、ということには、なかなか現代の日本人は、気が付かないように思う。

     

    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
    8:1 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。

     

    というところで触れられている「神の国の福音」というものは、当時のガリラヤ社会にとっては、第2次世界対戦中の中国大陸での「人民解放軍(赤軍・八路軍)、来たる」みたいな感じであったのである。

     

    「神の王国、キタ~~~」ということ(福音書でイエスが言っているとされていること)は、「神が王となられる」ということでもあり、それは、実際に僭主、あるいは僭王(そもそもろんとして、かなり胡散臭い王位継承者)であったヘロデに衝撃は走るは、祭司長や大祭司にとっては、アロンが大祭司の系譜を形成する以前の、神が民の中に直接出てくるという、出エジプト時代の世界に逆戻りということであり、彼らが何より生活基盤、権力基盤としているモーセ五書そのものから派生したことが、まるまる無意味になることを意味するのである。神様から、聖四文字なるYHWHから、ヘロデ王や、祭司長に対して、「あんた達、首。お役御免」と言われるようなものであり、一族郎党、権力を失い、一族郎党、露頭に迷う状態宣言をされるようなものなのだ。

     

    となると、もう、適当な口実を見つけ、闇から闇に葬るのが一番ということになる。そして、

     

    【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
     11:49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、
     11:50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。
    となるのである。このカヤパの発言の背景には、上のような時代背景があるのである。

     

    イエスの言った「神の国、キタ~~~~~~」の真意

    当時のイスラエル、ユダヤの人びとにとって、「神の国、キタ~~~~~」は、もちろん、「世俗権力構造の大転換が起きるかも」という印象を当時の人達に与え、そして、とくに当時の権力者たちに恐怖の念を持たせてしまったようだ。イエスが王である、ということは、そもそも論として、「既存権力、粉砕」と言った中核派的な主張がメインでなく、「神とイスラエルとの関係がおかしくなっていて、それをきちんと回復する必要がある」ということであった。このことは、福音書のイエスの発言の中に見られる。そして、その関係のおかしさは、神とユダヤ人の関係だけではなく、「神と人間全体の関係がおかしくなっていて、その結果、人間同士の関係もおかしくなっているが、それは神のみ思いではない」ということであろう。同じ内容は、ローマ書やガラテヤ書など、パウロの書いたものの端々に現れているように思う。こっちの方は、同時期に出た『使徒パウロが何を語ったのか』というライトさんの著作で書かれている。

     

    余談(とは言え大事なこと)はさておき、イエスの語った神の国(より正確には、神の支配)とは何だったのか、について、ライトさんは次のように要約する。

     

    イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供して下さると言っているのだ。それは山上の説教(マタイ5章−7章)の言葉の端々に幾度となく現れるテーマである。神が王となられるとき、神は赦しの指針を携えてこられる。(同書 p.185)

     

    要するに、「心の汚れ(罪)からの回復が提供される」ということである。つまり、それは取りも直さず、神との関係がまともなものになる、ということでもあるし、本来の神のかたちとして造られたものが、神のかたちを取り戻す、という事でもあるのだ。神の赦しとその指針とは、正にこのことだ、ということである。そのためには、死と、悪と、罪に最終的に勝利する必要があるのだ。

     

    だから、パウロの第1コリントの最後のあたりでこのように書く。

     

    口語訳聖書 コリント人への手紙 第1
     15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
     15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
     15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
     15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
     15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
     15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
     15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

     

    まさに、神が王として地上に来られた結果としての、罪や悪やサタンや死というものへの神の大勝利を、上に引用した部分で、パウロは高らかに歌い上げたのである。パウロは、お葬式のときにご遺族を慰めるための聖書箇所として読むために、上のように書いたのではないだろう、とは思う。その意味で、上の文章は、毎週日曜日ぐらいの感じで、もっと頻繁に教会内でみんなで読んだ方がいい聖書箇所ではなかろーかと、個人的には思っている。

     

    現代では軽視されているイエスの勝利

    さて、先にも述べたように、イエスの「神の国、キタ~~~~~」宣言は、「罪や、死やサタンや悪に対する神の大勝利」を伝える呼び声であった。ところで、イーワンゲリヲンとは、もともと、ローマやギリシアで、自国の勝利とその勝利の結果、戦勝に伴う戦利品の庶民への割当があったり、戦争捕虜を奴隷として売っぱうって現金収入を手っ取り早く手にするとか、戦時捕虜に対する身代金回収ビジネスによって得られる豊かさが、自分たちの国と庶民にはそのオコボレがもたらされ、そのおこぼれをちょっぴりもらうことができることを期待させる、国民全員がワクワクするようなニュースのことであったのである。そのような戦勝報告が、当時の地中海世界では、大声で呼ばわれ、伝達されたのである。新聞があれば、いわゆる戦勝号外のようなかたちで伝達されたのである。エバンゲリヲンあるいは福音とは、JR西日本の500系新幹線の改造特装車両の元になったアニメ、ヱヴァンゲリヲンのことではなかったのである。

     

    500系新幹線を改修したエヴァ型新幹線 http://www.jiji.com/jc/d4?p=ire009&d=d4_yy

     

    せっかくなので、エヴァにちなんで、「残酷なニートのテーゼ」をみんなで歌おう!

     

    残酷なニートのテーゼ

     

    本来は、残酷なニートなテーゼからの脱出も、イエスの「神の国、キタ~~~~~~」宣言、それは、つまり、それがイエスによるエバンゲリヲンには含まれていたような気がする。だからといって、大人の人達がまともな生き方だ、と主張するような生き方ができるようにするという約束ではないような気がする。あくまで、エヴァンゲリヲンは、まずもって、神との関係の回復であり、そして、結果はあとからついてくる、ということのような気がする。その順番は間違ってはいけないと思う。

     

    余談はさておき、このキリスト大勝利のテーマについて、ライトさんは次のようにいう。

     

    無理からぬ事だが、現代の聖書学者の多くは、このテーマ(引用者註 悪やサタン)を軽視しようとしてきた。だが伝承の中で、これほど中心的な位置を占める事柄を脇においてしまっては、満足の行く研究の進展は望むべくもないだろう。もちろん現代の西洋社会の多くの人にとって、こうしたことは判断のつきかねる事柄である。この点で、現代の懐疑主義という強風が強い影響力を及ぼしている。(同書 p.217)

     

    ここで、近代社会を経由して生まれた現代では、視認可能性のあること、確認可能性、定量化可能聖があることが重視された。どういう状態であれば、科学的であるかはちょっと脇においておいて、「科学的であること」があまりに重視されてきたため、所謂「科学的」とされる計量可能性、定量分析可能性、あるいは、測定可能性がないものは、考慮の対象から排除してきた。なお、ミーちゃんはーちゃんも同罪であったことは認めよう。

     

    教会では、伝統的に重要なこととして、イエスの悪に対する大勝利、ということを伝えてきたが、そのことを現代のキリスト者とキリスト教界は、過小評価している、あるいは無視しているのではないか、とライトさんは言いたそうな感じがする。今みたいな悪の問題を無視しておいて、それで本当に聖書を読んだことになるのか、と言いたいようだ。そんな、お友達のMizotaさんが大喜びしそうな内容が大書してあった。w

     

    そう思っていたら、前回の記事についても、Facebook上で、ずいぶん突っ込んでいただいた。Mizotaさんのツッコミは、面白かったです。ありがとうございました。

     

     

    まぁ、本来まともに聖書を読む、ということを目標に始まったのが、西洋の学問、あるいは学であったが、近代に至って、学が学であるために、というよりは、学問が科学的な装いを身にまとい、至高の学であると一般に認識された科学のふりをするために、科学的に扱える範囲に対象を限定するというかたちで自らの探求の手を縛ってしまったのだ。それを学問のルールであるかのようにしてしまったのだ。

     

    本来聖書理解は、科学のようなつまらない方法のみで扱うべきではないにも拘らず、神から与えられたArt(アルテ)の対象としても対応していくべきものを、科学の範囲でのみ扱い、Art(アルテ)も扱うべき対象でもあるものに対して、アメリカでも、日本でも、世間から拒否されないように、世間から受け入れられようとし多様に思う。

     

    世間に擦り寄って、食い扶持を確保するために、科学のころも(拘束衣)を身にまとうことで、自らの手を縛り、科学のふりをしたのである。実に残念なことであり、その挙句の果てに、聖書無誤論だの、聖書無謬論だなどという、かなり無益な議論にかまけ、本来見るべきものを教会は見忘れ、本来パウロが高らかに歌いあげたように、本来賛美すべきことを押し殺して、科学的な方法のみに依拠しながら、つぶやいているのではないか、と個人的には思っている。

     

     

    ハンニバル・レクターが拘束された拘束衣(映画『羊たちの沈黙』)
    http://imgur157.rssing.com/chan-65525457/all_p1.html から

     

    その意味で、このようなことが詳しく解説されている本書と、その中でも、本書の10章は、このアクの問題を考える上で、極めて重要であると思うのである。

     

    なお、今、この悪の問題を考えてこなかったことに関しては、現在のキリスト者にも、その責任の一端はないわけではないが、それ以上に、この200年、いや、とりわけ100年の学問的思潮が悪いのであって、その子どもたちである、現代に生きる我々が、どう考えるのか、ということが今問われているということだろう。その意味で、ハリストス正教会の京都のサイト(リンクはこちら)の表現「古き良き伝統が いま一番新しい!!」という表現に見られるように、現代においては、正教会の聖書理解が、一周回って新しく見えてしまうのである。

     

    まぁ、しょうがない。おさぼりしたつけは払わねばならないのである。「なかったことに、なかったことに」という対応は、実にまずいように思うのである。

     

     

    移動神殿としてのイエス 

    N.T.ライトさんは『クリスチャンであるとは(Simply Christian)』でも、この『シンプリー・ジーザス(Simply Jesus』でもそうだが、天と地が合うところ、天と地が噛み合っているところ、という表現が大好きだし、多用されている。これに触発されて、お友達の大頭さんはインターロッキング音頭という楽曲の作詞をして、これまた、岩渕まことさんに作曲させ、関係者を巻き込んで、録音までしてしまっている。それで、満足せず、大頭さんのいとこの、飯田岳さんに言われたからと言って、N.T.ライトに電子メールまで送っている。もう、やりたい放題である。この辺の裏事情を知りたい方は、2017年4月中ないし5月上旬にはヨベルから出る予定の「焚き火を囲んで聞く神の物語・対話篇」という珍妙な本の6章を読んでほしい。(まぁ、ステマだ)w

     

    夜明けのうた インターロッキング音頭

     

    さて、妙な本のステマはさておき、イエスがWalking Shrine、あるいは移動神殿(あるいは、まさに。出エジプト記における移動型の会見の天幕、神殿の原型のような存在)であったことに関して、ライトさんは次のように書く。

     

    天と地が結ばれようとしている。しかしそれは、エルサレムの神殿においてではなかった。結合点は目に見えるところにあり、そこで癒やしがなされ、パーティが祝われ(天使たちが天で祝い、人びとが地においてそれに参加したのを思い出そう)、赦しが実現していた。言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。(同書 p.237)

     

    天と地が交わるところ、結合点とは、すなわち、ライトさんの表現を取れば、「イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった」ということになる。これは、非常に重要な表現である、と思う。前回の連載でも触れたが、ここでも、正に、出エジプトのテーマ、「神と人がともに歩む」あるいは「神の国キタ~~~~~~」が実現していたのだという。つまり、イエスこそ、神の国であったし、神の国の象徴と存在そのものであったし、イエスがこの地に来られた結果、我々、生きて呼吸する人間は、神の養子として、神の霊が住まわれるところになり、神のかたちが回復しかけているような存在(テオシスになれる存在)となった、と考えることができるのかもしれない。

     

    それは聖書の記述で言うと、

    【口語訳聖書 ローマ人への手紙】
     8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
     8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
     8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
     8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
     8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
     8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
     8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

    だったり、

    【口語訳聖書 コリント人への手紙 第1】
     6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

    ということのようである。

     

    そして、ライトさんは、イエスが存在することで、当時のユダヤ人社会の中で「結合点は目に見えるところにあり、そこで癒やしがなされ、パーティが祝われ(天使たちが天で祝い、人びとが地においてそれに参加したのを思い出そう)、赦しが実現していた」という。そして、この天と地が交わる結節点として、現在のキリスト者である我々は、この地上に生活しており、多くの人の「目に見えるところに」存在するわけだし、自分自身は不甲斐ないがゆえ、罪を犯すゆえに、我々において罪の「癒やしがなされ」ているわけであるし、毎週日曜日、ないしは毎日、聖餐式という神と人との和解がなったという「パーティが祝われ」、神と人との和解というかたちで、日々「赦しが実現」しているのである、とライトさんは、ご主張なさっているようである。それ故、個人的には「聖餐は大事だ」と繰り返し繰り返し、誰がなんと批判しようとも、ミーちゃんはーちゃんは主張したいのである。

     

    福音の汽車に乗ってる、天国行きに?

    それ、大丈夫すか?

    ところが、この200年の間に、人々はキリスト教理解、聖書理解、イエスの主張の理解を、歴史的な経緯の中で、キリスト理解に関する歴史的な社会の変遷の中で起きてきた諸般の構造により、とりわけ、悪や、罪が社会に、そして、個人にもたらす罪の結果乗り会に関して、、キリスト教界にあっても、イエスの主張のその理解までも歪ませてしまったのかもしれない。その結果として、いまはイエスの主張が誤解されていること、本来のイエスの主張とは違った内容、あるいは誤解されたまま、教会でも語られていることに関して、ライトさんは次のように書く。

     

    第一の間違った見方は、人びとに「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。この考え方は、何世代にもわたって西洋世界で絶大な人気を誇ってきたが、それは全くの誤りである。イエスの公生涯の核心は、神は天におられ、人は死んだあと「地上」を離れ、天国の神のもとに生けると教えることではなかった。イエスが語ったことは、神はまさに今ここで、「地上」において支配をはじめられたのであり、人びとはこの事の実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際に起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(同書 p.256)

     

    『福音の汽車』という子供向けの賛美歌がある。この賛美歌は、鉄ヲタ予備群の男児の幼稚園児や小学生男子が好きな賛美歌であり、そうであるがゆえに人気があり、子供向けキャンプで幼稚園児から小学生低学年男子までが歌うのが好きな賛美歌である。歌詞は、こんな感じである。

     

    福音の汽車に乗っている

    天国行に ぽっぽ

    罪の駅から出て もう戻らない

    切符はいらない 主の救いがある

    それでただゆく ぽっぽ

    福音の汽車に乗っている 天国行に

     

    ある時、これを子どもたちが歌っているところに、子どもの父兄のキリスト者でない方が通りかかり、「なんか嫌な絶望を感じる曲ですね」とおっしゃった方があるそうだ。すると日曜学校の先生をしてた方が、キョトンとして「どうしてです?」と聞いたら、その信仰者でない方は、「だって、まだ小さく将来のある子どもたちが、この地での将来に興味がなく、死亡することを楽しみにしているような、絶望的な内容じゃないですか」とおっしゃったことは以前、このブログでも紹介した。ヘタをすると、イエスの主張の天の国の理解もそのように現代の日本のキリスト教界では、理解されているかもしれないのだ。

     

    福音の汽車

     

    現代の日本語の天国の語感で考えると、老い先短いご老人の皆様方には、この賛美歌は都合がいい賛美歌かもしれない。子ども賛美歌ではなく、老人賛美歌として賛美歌集を作ったらいいかもしれない。

     

    多くのキリスト者でも、天国というと死んだあと行くところ、という理解が蔓延しているのではないだろうか。そのことに対し、ライトさんは、「本当にその理解でいいのか」どころか、「それは全くの誤りである」とまで、言い切っておられる。現在の教会は、下手をすると「さぁ、どうする?私たち」の世界である。

     

    この100年、このような誤った天国理解を、日本の教会は振りまいてきたのかもしれないのである。

     

    そして、本来、語るべきだったかもしれない内容は、「イエスの公生涯の核心は、(中略)神はまさに今ここで、「地上」において支配をはじめられたのであり、人びとはこの事の実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際に起きている」ということであった。

     

     

    再臨とイエスと裁きと人間としての回復

    終末というのは、神の怒りの結果、神の裁きの結果としての人間と人間世界の破壊のイメージなのか、神の「さとし」としての裁きの結果、悪への錨と破壊とそれによる悪からの解放という意味での回復のイメージなのか、未だによくわからない。破壊があって、新しい別の空間としての回復がある説(典型的には、古典的ディスペンセイション説関係者)もあれば、この地球での回復のイメージ説も基本的にはある。基本的にわからない世界は、無理に解釈して、行き過ぎをしないことにしている。ずるいといわば言い給え。人間は、そもそも神ではないのだ。イエスですら、それは父のみが知っておられると言っておられるではないか。それを人間ごときが、世界情勢から勝手な当て推量して良いものではないだろう。こういう一時的な世界情勢の状況から将来予測に関する知的パズルをしたい方は、なさればよい。

     

     

    ところで、終末と人間の回復に関しては、ディスペンセイション主義の方々も、他の方々も、最終的な部分については、ほぼ同じことを言っている。回復される人についての限定の仕方と、最終的な回復がどこでどのようなステップで実現するかの考えが、かなり違うけれども、「終末において、回復がある」ということについては、一定の理解についての合意があると思う。

     

     

    その再臨について、ライトさんは次のように行っている。

     

    再臨を語るとは神の新しい世界のすべてを語ることなのである。その新しい世界は、ヨハネ黙示録21章から22章、あるいはローマ書8章で展望されている世界であり、その中心にイエスがいて、神の正しい、優れた、癒しに満ちた支配を執り行う。イエスは真の人間であり、創造主のイメージを反映する人間としての適切な役割(創世記に描かれている役割)がついに彼において果たされ、優れた実り多い秩序が全被造世界にもたらされる。それこそがイエスの「来臨」と「裁き」を意味するものである。(同書 p.351)

     

    個人的には、正教会とか、ここでライトさんが言っているような、古い伝統のほうが、納得的かもなぁ、という程度の理解である。神ではないので、動向議論してもしょうがないと思っている。ただ、 大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意) でもご紹介しているようなテオシスの理解のほうが、終末へのプロセスというのか、再臨とその後の神により回復された世界を考える上で、個人的に意味を成すかもなぁ、とは思っている。

     

    というのは、「創造主のイメージを反映する人間としての適切な役割(創世記に描かれている役割)」という、「地を支配する」あるいは、「この地を責任を持ってケアする」という役割の回復があることを考えると、まさに、神がこれらを見て「良かった」と言われた世界が実現するように思うのである。そのために、イエスが、回復を伝えに来た、あるいは、「裁き」(諭しや回復)をもたらすために来たと理解するほうが、本来あるべき姿への回復を考えると、断絶ができないため良いように思うのだ。

     

    ただ、日本語での「裁き」というのは、裁判所やお白州のイメージと分かちがたく結びついていることを考えると、この語を用いるとしても、かなり丁寧にこの「裁き」という語の持つ内容を説明しないと、ことばだけが独り歩きするように思うのだ。それこそ、「福音の汽車」の賛美歌でも、語の意味が独り歩きしてしまった結果、本来、神の国は、全く別のことなのに、死んだら行くところならまだいいが、西方浄土や、極楽みたいなものとして理解している場合が案外多いような気がするのだなぁ、これが。まさに、Lost in Translationの世界でしかないのかもしれない。

     

    裁きというと、大岡越前守とか、遠山左衛門丞が見得を切るお白州
    http://mamechishiki.aquaorbis.net/mamechishiki/oooka-sabaki0110/

     

    人間への関与としての赦しと回復

    この赦しと回復(主の祈りで祈っているはずの主要な内容だ、とは思うが)ということが、完全な形で起きるのが、終末であるし、そのために、イエスは、過去だけでなく今も人間に、聖霊(聖神)なる方を通して関与しておられるのであろう。過去の一発大逆転で終わりだったら、それこそ、イエスの存在すら、必要ないことになるのではないだろうか。聖書は、そんなことを言っていないのではないだろうか。

     

     このあたりのことと、教会をどう捉えるかに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

    イエスが過去に働かれ、今も働いている仕方は、赦しと回復とを通じてであることを忘れてはならない。ヨハネの福音書の21章15−19節にあるイエスとペテロの印象的な会話は、愛と信頼の極みを示している(もし当時新聞があったら、イエスが逮捕された夜のペテロの情けない行動は、名前入りで記事になっていただろう)。教会は偉大な仕事をする完璧な人々の集まりだと考えるべきではない。それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである。(同書 p.384)

     

    しかし、ライトさんが書いた「(もし当時新聞があったら、イエスが逮捕された夜のペテロの情けない行動は、名前入りで記事になっていただろう)」という表現は面白いなぁ、と思った。今だったらスマホで録画した内容が、Youtubeにアップされ、動画が全世界でアクセス集中、とか、Twitterで炎上とか、BBCとかCNNで、実名入り世界同時テレビ放送って書くのが普通だと思う。でも、新聞(原文では、Newspaperとなっていたが、The SUNなどのタブロイド(日本ではスポーツ新聞がそれに近い)のことかも?)が出る辺りが、やはり文字の人なんだなぁ、と思った。

     

    The Sunのトップページの例 https://www.yahoo.com/news/brexit-press-voting-034643656.html から

     

    冗談はそこまでにしておいて、大事なのは、この文章である。

     

    それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである」基本的にきよめられた人の群れでもなく、立派な人の群れでもなく、祝福された立派なお金持ちの群れでもなく、逆に、罪赦された罪人(現実にも罪人であることをみずから認める人びと)の群れ、というのは、実際的にも、そうだと思うし、Anglican Communionの式文的にも、確かにそうなっている。特にいまレント中なので、毎週水曜日、ある式文の一部を(以下にお示しする)を声に出して、読んでいるから、左様思うのかもしれない。太字の部分は全員で読む。以下はレント期間中の今読んでいる式文のごく一部である。

     

    Lord God,
    we have sinned against you;
    we have done evil in your sight.
    We are sorry and repent.
    Have mercy on us according to your love.
    Wash away our wrongdoing and cleanse us from our sin.
    Renew a right spirit within us
    and restore us to the joy of your salvation,

                

    through Jesus Christ our Lord.        
    Amen.

     

    Lord Jesus Christ,
    we confess we have failed you as did your first disciples.
    We ask for your mercy and your help.

     

    Our selfishness betrays you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
                
    We fail to share the pain of your suffering:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
                
    We run away from those who abuse you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
               
    We are afraid of being known to belong to you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.

     

    この祈祷文の内容はまさにライトさんの上の文章と全く同じである。

     

    ところで、「それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである」と訳出されている部分には、実は、かなり、大事な文章が英文では続いているのだ。それは、

     

    knowing themselves to be unworthy of the task.

     

    という一文である。日本語に変換するとすれば、「彼らみずからが、その神の御業に関与する価値が無いことを深く認識しつつ」、あるいは、「みずからが卑しい土の器であることを深く思い巡らしつつ」と言った感じである。まぁ、これは、日本語訳の文章としては、なくても確かに意味が通じるが、しかし式文から考えるに、

     

    We are afraid of being known to belong to you:
    Lord, forgive us.
    の部分と対応しているように思うのだ。もし、この省略された部分の理解がないと、教会内平和を実現するのは、かなり難しいかもなぁ、と思う。というのは、この部分の理解が欠落していると、日本でも時々お見かけする、ある教会群の中に見られるように、「愛の負債返済競争」、あるいは「奉仕をどれだけこなしたか競争」のような無意味な競争になりかねないからである。

     

     

    さて、今回、チラ見せをしたのだが、個人的に、この本は誰に読んでほしいかというと、イースターの教案をお書きになられる皆様、そして来年の2月には、イースターの準備を始められる日本中の日曜学校の先生方、将来のキリスト教会の構成員となるであろう次世代の人々を育成する、という重要な責務である、日曜学校の担当にあたっておられる皆さん、あるいは、そのことを祈っておられる皆さんに読んでほしい。そして、日曜学校の教育レベルを向上させてほしいのである。

     

    あるいは、この本は、なんだかキリストや信仰生活に対してモヤモヤっとした違和感を感じておられるキリスト教界の構成員の皆様、とくにお若い皆様に読んでいただきたい。自分が信じてきたこと、どうも教会生活になんだかなぁ、と違和感を感じている皆様に読んでもらいたい本である、と思っている。その違和感の解消に、本書を読むことは、確実につながるだろう、と思っている。

     

    詳細の議論は、『クリスチャンであるとは』の連載を終え、Facebook上でのライト読書会がもう少しすすんでからするけれども、今回は、ざぁ〜〜〜〜っと、ご紹介した次第である。

     

    タラタラと書いたものを最後まで辛抱強くお読みいただいた読者諸賢に、深甚なる感謝の意をここに表すものである。

     

    次回から、『クリスチャンであるとは』の連載に戻します。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    N・T・ライト
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2017-04-10)
    コメント:まだ全部、読んでないけど良さげ。英語版は読んだけど。

    評価:
    Tom (Dean of Lichfield) Wright,N. T. Wright
    Lion Books
    ¥ 938
    (2003-10-24)
    コメント:字は小さいけど薄くて読みやすいかも。

    評価:
    N.T. ライト
    あめんどう
    ¥ 2,970
    (2017-04)
    コメント:おすすめしています。

    2017.04.08 Saturday

    N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(1)

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      ここのところずぅーと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』をタラタラ紹介中なのですが、それはさておき、N.T.ライトさんの新しい本『シンプリー・ジーザス』のスニーク・プレビューとそれを読みながら思ったことを2回連載でさらっと、ご紹介してみたい。それでも長いという説は素朴に認めよう。

       

      この本は、ある人にとっては、非常に読みにくい本だと思う。そう思う原因は、この本で示されるイエス像は、ある人が従来持ってきた、あるいは従来それがキリストである、とされ教えられてきたイエス様についての理解というか、イエス様のイメージというかとはかなり違うものを見せかねないからである。

      N.T.ライトさんのこの本の表現にぎょっとしてしまって、「なんじゃこりゃ〜〜〜」「この本の言っているイエス様は私の知っているイエス様と違う〜〜〜〜」状態になってしまう方が多いのではないか、と思う。

       

      この本は、イエスがどのようなお方であるのかに関する個人的な、あるいはある教会的な思い込みが含まれた、イエスへの理解あるいは、イエス像を見直したほうがいいのではないか、世の中で広く知られている、あるいは、ある教派群の中で理解され、示されてきたイエス理解、ある教会の中で共有されている、あるいはされてきたイエスが正しいのか、ということをかなり厳しく問う本なのである。

       


      歴史的に人間により変形されたつづけたイエス理解

      みなさんにとって、イエス様はどんな人であろうか。これまで様々なイエスの理解が描かれてきた。金髪碧眼のスカンジナビア人みたいなイエスもあれば、ほぼアフリカ人でないかと思われるイエスもあれば、柔和なイエスもあれば、怒りに燃えるイエスもある。我々は、ある個人を人格的に知っている、というかも知れないが、それは本当に事実であるだろうか。ある人のことを多面的にとらえようとしても、とらえきれない場合が多いのではないだろうか。

       

      http://www.racismreview.com/blog/2015/04/06/on-the-white-jesus/ から

       

      神殿で怒り狂うイエス http://www.pravmir.com/coptic-icons/ から

       

      コプト正教のサマリア人の女とイエスのイコン
      https://www.quora.com/Why-are-so-many-images-of-Jesus-a-white-man-instead-of-the-Arab-Jew-that-he-was から

       

      https://jp.pinterest.com/1956jo/easter/ から エチオピア正教のイコン

       

       

      ミーちゃんはーちゃんは、もともとがいろんなことをやってしまう変な人なので、あなたは何をしている人か、と聞かれることがある。もちろん、生業は、空間情報科学の研究の実施と、講義であるが、経済学の授業など、関連分野の講義も担当しているし、必要とあれば、プログラムも書くし、学生の就職の相談に乗るは、キリスト新聞に情報提供しているは、長靴を履いて、タオルを首に巻いて、麦わら帽子をかぶって、農業者の活動研究をしていることもあるし、そうかと思えば、フォトショップで薄毛を気にしている人の髪の毛を画像上で、増毛したり、ウェブサイト作成したり、N.T.ライト関係のイベントのポスター作りしてたりしている。そして、長いので、短くしてほしいと言われているブログ記事を量産している。自分でも、何をやっている人といったらよいのか、自分でも最近わからなくなっていることが多い。長い記事を短くするのは、実はかなり面倒なのだ。

       

      現代に生きている普通の人でありながらも、それも、自分自身のことでも、こんなにわけがわからないのに、それこそ、ある程度福音書やヨセフスの歴史書に、記録がある程度残っているとは言え、圧倒的に情報量は少ないし、こういう人物に対して、どのような理解をするのか、というのは案外難しい。その分、後世の人が勝手に色々推測し、自分の思い込みをたっぷり入れた人物像を作ることができる、という意味では、非常に格好の人物であるのだ。

       

      イエス理解は、日本で言えば、多分、大伴家持とか、蘇我馬子の理解くらいの感じではないかと思う。神話の登場人物ではなく、実在がある程度確認されていて、おぼろげながら、人物像がつかめる程度の人物ではないか、と思う。そして、このような日本の歴史上の実在の人物に自分の思いを仮託し、様々な自分の思いを投影する人びとがおられる。そういう思い込みで書かれた人物像は、歴史関係の一般雑誌や書店で売っている一般向け歴史小説と行った書籍に様々な事例がみられる。

       

      これまで、イエスについても似たようなことがされてきたことに関して、ライトさんは次のように書く。

       

      さらに悪い事に、イエスその人が(引用者補足: 歴史的探求の結果として示されたイエス像に)不満を感じるだろう、ありとあらゆる理由がある。多くのクリスチャンは、イエスについての「歴史的探究」をだれかが行ってると聞けば、その探求の結果、彼らの願いよりもずっとちっぽけな大して重要でないイエス像が浮かび上がるのではないかと、不安を感じてしまう。実際、多くの本がそんなイエス像を提供している。小ぢんまりしたイエス、偉大な道徳的、宗教的指導者としてのイエス、偉大だけれども、それ以上でもない人物。クリスチャンたちは、いやでもこうした還元主義的なイエスに遭遇することになる。(『シンプリー・クリスチャン』 p.24)

       

      確かに、色んな人が勝手な思い込みで、個人個人の歴史的探求とよばれるものの結果として、イエスについて語ったり、イエスが言ってないことまでも、イエスに仮託して語ろうとしてきた人びとも、おられたようには思う。学問でやる場合には、行き過ぎを防ぐため、より小さめ、うちわに語るのが習慣になっているので、どうしても、「ちっぽけな大して重要でないイエス像」と見える表現しかできないことがある。そのうえで、イエスについて語ろうとする人の観点から関心があるため、より重要だと思える部分をどうしても強調して語ろうとするために、「偉大な道徳的、宗教的指導者としてのイエス、偉大だけれども、それ以上でもない人物」のどれかの部分を強調してイエスを表現して述べることになる。そうなると、どうも、聖書を読みながら思いを巡らしている時に、信仰者が持つイメージ、あるいは信仰者が大事にしてきたイエスの理解(いわゆる 『信仰のイエス』)とは大分違う印象になってしまうように思う。

       

      ところで、ここで、『還元主義』と呼ばれているものは、ある研究対象を、部分部分に細かく分けて、分析的にとらえ、その分析してわかったものを組み合わせれば、もともとの状態が再現でき、さらに、研究対象がすべて理解できるとしがちな考え方である。実は、近代の科学(西洋近代を支えた科学思想や思想体系)は、この還元主義的な、ギリシア自然科学哲学由来の分析的アプローチをしてきた。なぜかというと、いきなり全体を扱うのが困難だからである。このため、わかりやすいところについて、ものの最小単位はどうなっているかまで探り、その上で徹底的に分析して、それを総合(Synthesis)すれば、もともとが再現できるという考え方なのである。

       

      ところが、世の中そうは簡単に問屋が卸さない、となっている。機械などはバラバラにしてしまってもある手順をきちんと踏めば、もとに戻るが、人間とか、社会とか、システムとかは、ばらしてしまって、その部分だけで自律的に動いているかといえば、動かないのだ。一番典型的なのは、非常に低位の生物的反応レベルでおきていることであり、事故などで人間の手足が不幸にして切断された場合であっても、切り離したはずの足の部分が痒かったり、痛みを感じたりするのである。

       

      20世紀中葉までは、この還元主義的な手法が非常にもてはやされたし、それでシステムを考えるシステム理論が流行したが、その後、それではどうしても説明できないことがある、ということで、1960年以降、システムを考える際に着目されたのが、Wholism(あるいはHolism)と呼ばれる概念である。このWholismは、全体主義と言う訳語を当てると妙な誤解を招くので、ホーリズムと訳さずにカタカナ語として用いられる事が多い。総合理解主義とでも言えるとは思うのだが。ミーちゃんはーちゃんはどちらかと言うと、昔は、かなり還元主義的な研究をガリガリとしてきたのだが、その後、流れ流れて、現在は、このホーリスティックな理解に近い立場を取っている。

       

      イエスの弟子たちが伝えようとしたことは何だったか

      さて、来週はイエスが十字架上で殺され、そして、正教会系の教会でも、カトリック教会でも、プロテスタント諸派の教会でも、イエスが復活したことを覚えるイースターあるいは、復活の主日である。なお、教会においては、イースターであっても、それを無視するかのような教会もある。個人的には、ハリストス正教会で覚えた、「ハリストス、死より復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものにいのちを与え」という歌詞を繰り返し歌うパスハの賛詞という、祈りというか賛美歌は、実にこの内容をコンパクトに表している。

       

      ヴォカロによるパスハの賛詞

       

      その弟子たちが伝えようとしたキリストについての理解の総体が、非常に大きかったことについて、ライトさんは次のように書いている。

      しかし、彼の死から間もなく、彼の同志たちは、今やイエスこそ本物の支配者であると主張し始めた。そして彼らはそれが本当であるかのように行動し始めた。この運動は、西洋世界がここ200年の間考えてきたような意味での「宗教」ではなかった。それは、人生、芸術、宇宙、正義、死、お金のすべてにかかわるものであった。さらに、政治、哲学文化に関するものである。それは現代における普通の宗教的な意味での「神」より、はるかに大きな「神」に関することである。この二つの「神」はあまりにも違いすぎて、とても同じ土俵で考えることなどできない。(同書 p.34)

       

      ここで、重要なのは、「イエスこそ本物の支配者であると主張し始めた」という部分であり、イエスが王である、あるいは、王としてのイエス、という部分である。文化も、哲学も、芸術も、科学も、美しさも、ことばも支配していることばそのものである方という理解である。それが、ヨハネ福音書の1章には非常に強く現れているように思う。

       

      実際、イエスご自身の言葉で言えば、「神の国はあなた方のただ中にある」という部分だと思う。「神の国は、あなた方の中にあった」でもなく、「神の国はあなた方の中に来る」でも、「神の国はあなた方が将来行くところだ」でもなかったし、誰もがそれを受けとろうとして殺到しているとまで言われているのだ。

       

      ところで、ライトさんは、あっさりと「(弟子たちの)この運動は、西洋世界がここ200年の間考えてきたような意味での「宗教」ではなかった」と言っているが、弟子たちが伝えたいと思っていた「キリスト教」と現代のこの200年間のキリスト教徒はかなり異質なものとなっていることを言っている。まぁ、スコット・マクナイトの「福音の再発見」は明らかにそのことを言っているのだが。

       

      さらに、「それは現代における普通の宗教的な意味での「神」より、はるかに大きな「神」に関することである。この二つの「神」はあまりにも違いすぎて、とても同じ土俵で考えることなどできない」という表現は、大事である。ここで、大事なのは、現在の神理解が、古代、中世、近世、近代、現代と経る中で、こねくり回されて、もう、古代人、あるいはイエス時代のユダヤ人が持っていた「神」理解と、現代の「神」理解とでは根本的に違っている可能性があるのである。

       

      これは、後ろからしか物を見れない人間固有の避けがたい現状である。ドラえもんのタイムマシンと翻訳こんにゃくと、どこでもドアでもない限り、理解できないのだ。まず、その時代の状況のある程度漠然とした認識となるのは仕方ないにせよ、状況についての確度ある認識ができない。その上、原語の違いと現代語と古代語の違いがあるし、その語の持つ意味合いというか、雰囲気というかは大分違うのだ。「現代人ならば全部わかる(はず)」というのは、現代人の思い上がりに近いと思う。なぜならば、ミーちゃんはーちゃんのおうちにも高校時代苦しめられた古文のときに使った古語辞典なる辞書があるが、その辞書なしに日本の古典文献を読むことなどは、ミーちゃんはーちゃんには、ほぼ不可能なのであるし、仮に古文書があったとしても古文書の文字が達筆すぎて、中身として何が書いてあるのかすら、想像が困難なことが多い。

       

      同様にして、同じ「神」(エル、とか、アルとか、アルラー)という語を使っていたとしても、そこに込められた意味、その神に対して信仰を持つものが、この地に関与する我らの現実に影響を与える存在として自分自身の生活に関与しているような意味合いを持っていることなどは、説明はできるけど、当時の「神」に関する感覚というか、感性というのはわかりにくいように思うのである。この辺、文化人類学的探求で当時の人達は「神」をいかなるものと考えていたのか、ということを想像するのはいいし、楽しいことではあるのだけど、それは想像に過ぎず、事実として認定できないことは、もう少し考えても良いのではないだろうか。

       

      フランシス・コッポラの娘のソフィア・コッポラの映画作品に、Lost in Translationという映画があるし、これまでさんざん子のブログでも触れてきたところであるが、まさしく、この映画の主要なテーマと同じ、お互いにわかったような気になっているが、実はきちんと理解していない、という悲惨な現実が起きているように思う。つまり、イエスについても、わかったような気になっているけれども、イエスと言う人の実相を本当に現代人がわかっているのか、とライトさんは、我々に問いかけているのだ。

       


      映画 Lost in Trasnlationの日本語予告編

       

       

      歴史としてのイエスをめぐる暴風雨

      ここで、ライトさんは、一時期かなり話題になった(2001年頃)映画『パーフェクト・ストーム』をモチーフに、イエスを巡る議論を語る。このパーフェクトストームは気象学的現象として、大型タンカーですら真っ二つにするような三角波(フリーク波 より詳細はこちら)と呼ばれる波が1980年代にメイン州沖で発生した結果、その中で操業していた漁船の海難事故に関する映画(実話とは違うらしいが、実話をもとに構想されていることは確か)である。

       

       

      映画 パーフェクトストーム 英語版予告編

       

      The Simpsons版のパーフェクト・ストーム パロディ篇

       

      パーフェクトストームのときの気象予報のニュース動画

       

      パーフェクト・ストーム時の風力分布図と似た状態の気象図 メイン沖で赤い部分の強風域があることがわかる

      http://arkansasweather.blogspot.jp/2012/10/sandy-and-arkansas.html から

       

      ところで、なぜ、このパーフェクト・ストームをライトさんがモティーフとして使ったのか、を考えてみると面白い。映画『パーフェクト・ストーム』では、Based on the real storyと冒頭で出てくるが、このBased on the realが曲者で、基づいているが、ドキュメンタリーではなく、事実そのものを描いているわけではない。このBased on the realというと、「ほぼ事実そのもの」という場合から、「事実にちょっと脚色したもの」という場合から、「事実はほとんど含まれておらず、かなりの脚色が大半を占める(多分、『ダビンチ・コード』はこのタイプ)」まで含まれている。その意味で、歴史上イエスがいたかどうかの問題は、仮に「イエスが存在したという事実」を出発点にすると、それぞれの聖書読者や、それぞれの人のお考えで、「奇跡はなかった」「イエスの復活や死者の復活はなかった」「イエスはこうは言わなかった」とか、「イエスはこういったに違いない」とか、「イエスの発言の趣旨はこうだ」…とある話ない話が付け加えられたり、ある部分が取り去られたりして、語られてきた、という意味では、数多くのStories based on the real storyが教会でも語られてきたと言えるかもしれない。なお、みーちゃんはーちゃんにとっての個人的な確信としては、イエスは実在した、であり、そう信じている。それは、ライトさんとも同様だと思うけど。

       

      現代のイエスにまつわる論争は、正にこの映画『パーフェクト・ストーム』のような、フリーク波が逆巻く海洋のような状態で、その中でかろうじて浮かんでいるのがやっとというのが、この分野に関わる現在のキリスト者の存在の表現に近いのかもしれない。その意味で、準備もろくにせずにこのパーフェクト・ストームに突っ込もうものなら沈船覚悟なのだと思う。そのあたりのことを、ライトさんは映画『パーフェクト・ストーム』の構造を背景にしつつ、次のように書く。

       

      イエスについての歴史を書く際に受ける熱帯性台風という名の挑戦は、たとえ文化的圧迫という名の西風(近代懐疑主義)と北から張り出す高気圧(自称「キリスト教」保守主義者)がなかったとしても十分危険なものだ。キリスト教左派と右派からの怒りの声が、この重要問題となる歴史の難しさと掛け合わされると、脅威はさらに増大する。(同書 p.51)

      現代のキリスト教徒にとっては、イエスに出会い、素朴に信仰を持つ、という意味では、ただ波間に浮かんで、「なんか揺れてるよぉ~~~」っていればいいし、それしか対応のしようがないが、まかり間違ってこのイエスについての議論の世界に顔を出そうものなら、近代懐疑主義という波に流されそうになるし、「自称「キリスト教」保守主義者」のみなさんが、「信仰がないとはどうしたことか」「あなたの議論は、聖書の権威性を疑うものだ」「あなたの聖書理解は正しくない」「こんな話は聞いたことがないので、信頼できない」とあっちこっちから炎上騒ぎを起こしてくれる。ろくでもない目に合うのだ。経験者として断言しておこう。
      まぁ、そのめんどくさい状況からの救命ボートの役割を果たしたのが、このN.T.ライトさんの一連の書籍だったし、今行っている元町のSt.Andrews Chapelであった。これらは、少なくとも、北風の防御対策にはなった。

       

      この本の隠しテーマとしての出エジプト

      本書には、出エジプト記のメタファー、エジプトからのイスラエルの民の救出のメタファーがたくさん出てくる。日本では先に訳された『クリスチャンであるとは』の中にも、この救出のメタファーが出てくるが、この本のほうがよりそのメタファーが強く出ているように思うのだなぁ。その一部を紹介してみたい。

       

      このストーリーが急展開を見せるのは、ユダヤの歴史を通過していた高気圧が、一世紀に達する頃、すでに台風のような状態になってしまったことに原因がある。多くのユダヤ人たちがバビロンから連れ戻され、紀元前六世紀の終わりごろには神殿さえ再建していたが、待ち焦がれていたほんものの「新しい出エジプト」(ニュー・エクソダス)はいまだ実現していないという強い思いを抱いていた。(同書 p.73)

       

      旧約聖書には、出エジプト記があり、そして、カナンの地では、強大な異邦人の波間に浮かぶようにイスラエルの民が生存していた時代があり、そこから救出するため(裁くため)、裁きつかさ(預言者)と呼ばれる士師が登場し、イスラエルを導き、ダビデとソロモンで王権が絶頂期に達し、イスラエルの民が守られ、イスラエルの民がバビロンに捕囚され、そこから、また帰還し、ペルシャ王クロスの後援のもと、神殿再建工事に着手はしたものの、その後相当の長期間をかけ再建をし、そして、ヘロデ大王の時に、その第2神殿の拡張工事をしているのである。

       

      【口語訳聖書 歴代下】 

       36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
       36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。

       

      第2神殿の模型 https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Temple

       

      しかし、そうこうしているうちに、ローマ帝国が高気圧が張り出すように、東地中海のオリエント王国の中にその勢力圏をぐんぐんと張り出していき、そして、ユダヤを実効支配下に置く。そして、僭主(正統な王権の継承者性に疑問のつく家系出身者)でもあったヘロデ王家には、実際の行政的支配をさせ、徴税権(要するに用心棒代)と治安統治権はローマ帝国が握り、宗教と裁判と法(イスラエルでは近代国家イスラエルであっても、トーラー(律法)を基礎として、世俗法が造られているらしい)は祭司長や律法学者が握り、行政権はヘロデ家が握るという、多重的な権力構造があったようなのである。とは言え、行政権はおそらく、宗教指導者のもとに置かれていたであろう。まぁ、ヘロデ家の皆さんは、土木工事マニアだった田中角栄さんみたいに、エルサレムの神殿拡張による公共工事を結局実施せざるを得なかった(なぜなら、王はダビデの系統でなければならず、神殿の再建は、ダビデの末裔であることを、誰にもわかるかたちで示す行為であった)ので、ヘロデ大王は、これはひょっとしたらあの約束された「メシアかも?」と想定した人たちもいたようである。このあたりのことは、かなり詳しく「シンプリー・クリスチャン」でライトさんは、当時のユダヤ人から「メシアかな?」と思われた人びとだったのに、残念なメシア疑惑で終わってしまった人たちのことを解説している。この辺は面白かった。

       

      目白御殿(今は昔)にお住まいであった故田中角栄さん(新潟の期待の星だった)

      https://matome.naver.jp/odai/2138750574517275601 より

       

       

      すべてを服従させる王としてのイエス

      良寛のような人物像、すなわち子どものお好きなイエス様、とか柔和なイエス像は、多くの人にとって都合が良い。怒り狂うイエスとか、悪をぶちかまし、悪に対する殺戮マシーンのようなイエス様像は、困っている人びとに救済を与えるようなイメージのあるイエスが大好きな現代日本人には、このようなあまり好まれないようである。しかし、イエスは悪と死に勝利した、ということは悪と死を絶滅させ、根絶し、聖絶し、悪の息の根を泊めたのがキリストであり、ナザレのイエスの復活であり、先にも紹介したパスハの賛詞の「ハリストス死より復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものにいのちを与え」ということは、そういうことであったのである。だって、パウロだってそう書いている。

       

      【口語訳聖書 コリント第1】
      15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
       15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。

       

      これを歌詞にしているのは、ヘンデルのメサイアの一部分である。まさに上の部分の欽定訳を音楽にしたのが、以下の動画である。

       

      ヘンデルのメサイアから 「死よ、お前の棘はどこにあるのか」 O death, where is thy sting

       

      この曲などは、まさに人類最大の敵である、死に対する勝利者イエス、さらには、すべてのものを支配する王であるイエスという側面がよく出ている。このあたりのことについてライトさんは次のように書いている。

       

      このような(引用者註 イエスはとこしえに王として支配する)主張は、私達の感覚でも古代人の感覚でも、単なる「宗教的」なものでは収まりきらない。それは権力や政治、文化や家族など、あらゆるものを包含している。それは、個人な霊性や変容と言った『宗教的な』意味も、倫理や世界観と言った哲学的な意味を含んでいる。しかもこれらすべてを、より大きな一つのヴィジョンの中で言い表すことができる。すなわち、神が今こそ支配される、そして神はイエスにおいて、またイエスを通じて支配される、ということである。(同書 p.107)

       

      たしかに、イエスの存在は、単なる個人の霊性を進化させた人そのもの、という訳だもないし、個人の霊的変容(トランスフォーメーション)でもなく、単なる宗教的存在でもなく、実に幅広い世界の隅々、人間のあるところすべてに影響していることをライトさんはここで書いている。そもそも、神である以上、単なる宗教的存在に留まらないはずだから、非常に幅広い対象に影響を与えている、というのである。

       

      そもそも、神という人間にとって、本来理解不能な存在を、そして神の支配という実体を、適切に語る人間の言葉があるのだろうか。それは、おそらく人間のことばに限界があり、そのため、どのように努力しても、適切に語り尽くしえないのではないかと思う。イエスの言ひ給うた、宣べ伝え給うた「神の国が来た」「神の国が近づいた」「神の国が我らに隣接するようにして存在している」というイエスの主張と、そのことから派生して生まれるイエスの言葉についての手触りというか肌触りのようなものを、現代語がどの程度表現できているか、どの程度その表現から、現代日本人が、あるいは、現代の西欧諸言語を喋る西欧人が、あるいはアメリカ人がその肌触りを感じられているのか、ということは、かなり疑問ではなかろうか、と思うし、もう少し考えられてもいいかもしれない。

       


      福音主義神学会 西部 2017年春季大会参加者にはおすすめ
      先に紹介した、王として支配するという表現、あるいは、次回ご紹介する本書での勝利者としての王というイメージは、非常に重要であると思う。

       

      というのは、4月24日に塩屋の神学校で開催される予定である、日本福音主義神学会 西部部会でのキーノート論文である山口さんのご講演内容と実に本書の九章以降の内容が、実に密接に結びついているからである。同部会にご参加をご予定の方々には、事前に本書を読んでおかれると、山口さんのご講演自体というか、そのご講演の内容に対する多数の補助線が得られるものと思う。

       

      その意味で、本書をざっとでも目を通されて置かれると良いのではないだろうか、と愚考する。もちろん、本書を読んでいなくても、山口さんの論文は、非常に丁寧に書かれており、また、示唆に非常に富んだ論文であるので、充分その論文の内容をご堪能いただけるものであるとは思っているが。

       

      その詳細は、来週月曜日にご紹介予定の部分によく現れているので、月曜日の公開までお待ちいただければ、と思う。

       

      次回へと続く。

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      スコット・マクナイト
      キリスト新聞社
      ---
      (2013-06-25)
      コメント:おすすめしてます。本ブログから書籍になった本。

      2017.04.05 Wednesday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その49

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        ミーちゃんはーちゃんは、実に嬉しい。なぜかというと、先週末東京に行って、巣鴨の聖泉キリスト教会併設のティールームで実施された、N.T.ライト読書会に参加したとき、このブログの読者にお会いしたからである。このダラダラと書いている解説がどうもお役に立っているらしいのだ。煙となんとかは高いところに登るという通例があるが、もう、テンション上がってしまっている。ほらね、単純でしょ?

         

        そこで、今日もまた、あまり人気のないこのシリーズの連載を再開したい。今日からは『物語と努め』というところである。

         

         

        権威とは何か

        聖書に権威がある、というのは聖書を大切にするキリスト者が、ハリストス正教会も、カトリック教会も、聖公会も、プロテスタントの諸教会群も、福音派の諸教会群も、ほとんど多くのキリスト教会と呼ばれる集団が認めてきたことである。これを抜かすと、キリスト教ではなくなるに近いような、ある種のキリスト教信仰の中核ではあるが、その権威ということがどういうことか、どういう意味か、どういうことを信徒や教会との関わりで行っているのか、という議論は一旦さておいて、ことばとしての「権威がある」ということが、全く定義されずに、それぞれが思うところの”権威”に関する意味付けを付与しながら、「聖書には権威がある」といえば、一応、皆さん納得されて、それ以上そこには踏み込まない。

         

        その「権威のなんたるか」について全く明らかにしないままで、同じ言葉を使いながら、全く別のことを想定しながら話している事態に出会ったことがある。まさにバベルの塔状態、あるいはお題目として、あげてあるだけの、実質的にほんとうに意味があるのかどうだか、わからないようなスローガンに近い場合もあるのではないか、と思っている。

         

        聖書の権威について、本章の割と早い段階で、聖書の権威がどのようなものであるのかについて、触れている。権威に関する理解の共通理解の状態に関しては、ほとんど無視したまま、この権威という語は使われているように思う。そこで、ライトさんは聖書がどのようなものであるかと説明を始めるのである。それが、こちら。

         

        それゆえ聖書の「権威」は、いわばゴルフクラブの会員規則のような「権威」と全く異なる。たしかに規則の一覧を含んでいる(たとえば『出エジプト記』第20章の十戒)。しかし、全体として聖書は、こうすべきだ、こうすべきではないというリストから成り立っているのではない。聖書は物語である。アダムとエバが生き物たちの面倒を見るエデンの園に始まって、世界中を潤すいのちの水が流れ出る都、子羊たちの花嫁としての都に至る壮大な、並外れたナラティブなのである。(『クリスチャンであるとは』p.262)

         

        聖書を、ルールブックのように使う人がいないわけではない。典型的にはパリサイ派の律法学者、祭司長たちの聖書の使い方は、おそらくそのようなもので、「民の背中に荷物を載せるものの、それに指一本触れない」と、イエス様から怒られているのである。このような聖書の使い方をあるクリスチャンたちもよくやる。

         

         

        ただし、それは聖書の権威性を借りた上での、聖書の権威を背景にした人間の規則を正当化するやり方である。ただ、直接聖書の言葉も使うこともあるが、「聖書的でない」という用語で十把一からげにして処理しようとしてしまっているような気がするなぁ。

         

        要するに、聖書的とは、聖書そのものではないが、その人が理想だと思っている内容を聖書の用語を切り貼りしながら、構築したものから得られる理解にすぎないように、思う。それは、仕事先から、信徒の髪の毛の長さとか、スカート丈とか、聖書の読み方とか、日曜日の午後の使い方から、普段の日の過ごし方から、教会堂の掃除の仕方とか、流石に箸の上げ下ろしまでとは言わないが、かなり細かなところまで言われる。ああすべきだ、こうすべきだ、「キリスト者たるものかくあるべし」とある人が聖書的と考えたリストがそれぞれの個人ごと、教会ごと存在しているようだ。しかし、それは、ある人が理想的であると考えていることや、その教会ないしその教会群が理想であると思っていることを聖書的といっているだけ、という部分も、たくさん含んでいると思う。

         

         

        しかし、ここで、ライトさん、言っちゃってますね。「聖書は物語である」って。もう正々堂々と。それで、此処から先、読み進むのが難しいなぁ、と感じる人はいるだろう。「聞くに堪えないことばだ。聖書は真理の書であって、聖書は権威がある書だ」と仰りたい方も多いと思うなぁ。

         

        おそらく、聖書が真理を扱う書であり、権威がある、ということは、おそらくライトさんは微塵も疑ってないようだし、もし、ライトさんに「あなたは聖書に権威があると考えているのか?」と聞こうものなら、速攻で「Whatelse?(それ以外の答えがある?)」って返されるだろう。[あなたこそ、聖書は、物語であり、真理の書であり、神の権威が示されていないとおかんがえだろうか?」と逆質問してきそうな気がする。先程「権威」が人によって意味が違いすぎ、同じ言葉を使いながら、バベルの塔状態が起きている可能性を指摘したが、「真理」も「物語」もよく定義して使わないと、結果的にバベルの塔状態になってしまう。その結果、お互いに何が何だか状態になるだろう。

         

        ここで、ライトさんは、聖書は、大きな神の想像とこの地への神の関与を語っている、というご理解のようである。

         

        神の愛とその物語

        ここに、神の愛の物語を、この地の始まり、すなわち、創造の御業が始まる前から、創造の御業が完成するまでを現代日本語による賛美の形式で書いた「神の物語」(岩渕まことさんのアルバム『天にも地にも』所収)という賛美歌がある。お友達の大頭さんがこの曲、作詞をしたので、ご紹介しておく。この賛美歌が非常に良いので。アルバム『天にも地にも』をお買い上げされるようにおすすめしておく(まぁステマだw)。

         

         

        神の物語 作詞 大頭 眞一 作曲・アレンジ・歌唱・演奏 岩渕まこと

         


        神の物語 英語版 

         

        話を元に戻すと、実は、神の「愛の物語」であり、そこに神の権威性があるということが現れるということをライトさんは以下のように書く。

         

        聖書は一言で言えば、少し異なりはするが、愛の物語(ラブ・ストーリー)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(中略)場面が設定され、筋書きが十分に練られ、結末も用意され、よく見ればさらに先に向かって展開していく小説の権威のようなものである。その物語の中で、その目的地に向かいつつ、それを生き、そこに参加し、頭を働かせ、決断していく登場人物にになるようにと招かれている。(同書 pp.262-263)

         

        まぁ、人間世界に関するラブ・ストーリーは、英語で言うRomanticly Involvedの人たちのお話、以上終わりとなるのだが、ここで言う神の人間に対するラブ・ストーリーはあくまで、神の人間に対する愛が中心であって、人間の神に対する愛が中心でないことについては、注意すべきだろう。つまり、中心は、神の愛であって、人間の神に対する愛の話ではない。そこは間違えてはいけないように。

         

        ライトさんは、人間の神に対する愛の話をしたいのではない。多分。

         

        我々は、神の人間に対する愛に対して、祈りや賛美を通して僅かに応答できるに過ぎない。ちょうど、献金が神から与えられたものの中からしかお返しできないように。神は献金や、肥えた羊の全焼の生贄を求めておられるのではなくて、我々の悔いた心と神のもとに帰るという、その心の動きを求めておられるのである。そこを間違えて、献金額が多ければ、持っているもののすべてを捧げれば神が喜ばれるとかいうのは、あまりに人間的な物の見方のような気がする。まぁ、多分、ここでの、人間的なものの見方にみえてしまう、というのは、ミーちゃんはーちゃんの聖書の理解不足、誤解と誤読の結果なのだろう。

         

        そして、その目的地に向かいつつ、そこで美しいグランド・フィナーレ(終末)があり、そのグランド・フィナーレの舞台に上がるように招かれているし、そこに「おいでよ」と、神も、イエスも、聖霊も、そして、12使徒も、我々の先人のキリスト者(いわゆる『先輩』あるいは『聖人』)のみなさんも、招いておられるような気がする。 「ここでは みんな歓迎だよ(All are welcome)」といいつつ、我々を招いておられるように思う。

         

        All are welcome という賛美歌

         

        そして、ハリストス正教会やコプト正教会に行って思うのは、実に聖書は神の愛という関係性の中に招かれているという側面であり、それを儀式として、賛美(歌)を通して、式文による成文祈祷を通して、イコンを通して、精一杯、神の愛があることを、そして、神の愛に一生懸命、誠心誠意、応答しておられるのだなぁ、ということを思う。この辺に関しては、

         

         

         

         

        などをご覧いただきたい。まぁ、応答の仕方が、正教会系の教会と西側の教会、特にプロテスタント派と、この200年の間に登場したプロテスタント派のその応答の仕方とが、多少違うだけである。どちらが偉い解か、どちらかが間違っているというのではないと思うけど。神からすれば、その違いは、誤差の範囲だと思う。

         

        聖書の権威に生きる 再訪
        さて、聖書の権威性とは何が何でも、無理やり人間を強制的に縛るようなルールではないこと、聖書の構造は、人間が登場し、そして、いま聖書となっている部分以降の場面として、我々も登場し、そのグランド・フィナーレ(終末)の様子が神によって定められており、そのグランド・フィナーレに向かって、我々が導かれ行き、その神が用意し給うたグランド・フィナーレに参加するように、グランド・フィナーレに登場するよう、神が我々に「みんなおいでよ」(All are welcome)と招いておられること、そして、神の関与の中に生きることであることをこれまでお示しした。

         

         では、聖書の権威に生きるとは、キリスト者の歩みの基本原則である聖書の権威に従って生きるとは、どういうことかをライトさんは次のように説明する。
        聖書の権威に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者と教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の中だけではなく、共同体を通して、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならなければならない、ということである。(同書 p.264)

         

        ここで、ライトさんは、聖書の権威に従って生きるとは、「聖書の物語の語っている世界に生きること」だと言う。それは、聖書が我々に伝えようとする、神とともに生きることを神が望んでおられるという、その関係の中に、その世界の中に生きる、ということなのだと思う。その具体的な姿は、一つではない。様々な神に従う生き方のマニュアルがあるのである。ウェストミンスターでもいいし、使徒信条でもいいと思うし、ニカイア信条でもいいと思うし、アウグスブルグでもいいと思う。それらは人間が聖書を読んでも、どうにもこうにもわからないときの参考と基本的な線を与えるためのものだと、個人的には思っている。個人的には、「聖書が読めている、あるいは、聖書を読んで、聖書がわかっている」とは、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身の姿を見ても、そのようには到底思えない。

         

        ここで、ライトさんは面白い表現を使っている。浸ける(soaking)という表現である。まさに湯船に浸かるように、神の物語の中にたっぷり引き込まれ、巻き込まれていく世界のことを表現しておられるのだろう。神のいぶき(聖神あるいは聖霊)に浸かること、ひたひたに伝って、それが我々の中から溢れ出るほどに、あるいは、たっぷり水を含んだスポンジのように、それを持つと水がポタポタ落ちるように、人を人とした神のいぶき(霊・精神・聖霊)に浸ることが、神が我々に求められていることなのだと思う。

         

        そして、それは取りも直さず、神のご計画(神のものがたり・神のグランド・オペラ)の大きな、そして重要な部分ではあるので、その神のプロセスに関わりつつ、我らが神の息吹を受け、またそれを神にお返しし、そして、それを他者に分け与えながら生きることを望んでおらえるのだろうなぁ、と思う。

         

        話は変わるが、最近、ある聖公会の司祭の方とスカイプでお話していたときに、聖書を読む、ということについて、その司祭の方が面白い表現をなさった。それは、「我々が聖書を読むと言うのは、ある面、聖書の権威で、聖書の表現で、我々が読まれるということなのではないか。そして、我々の生活が聖書の主張の観点から吟味され、否応なく振り返りの作業をさせられるということかもしれない(大意)」という趣旨のことであった。それは、そうなのだ郎なぁ、と思った。

         

        そう思っていると、いつも良くしてくださる大阪正教会の松島マリアさんが、あるFacebookの板で、
        ある人が、前のロシア総主教に「日本には聖人がいないから」と言ったら、 「あなたが聖人になりなさい」と答えられたそうです。
        少しずつでも神に近づいていく、そんなふうに歳を重ねられたら、と思いました。
        と、コメントしておられた。聖書で我が身が読まれる、聖書の権威に従って生きる、ということは、まさに、少しずつ、ぐるぐる螺旋を描くように、イエスが、十字架に向かって、旅をしながら降りていったように、そして、地の底に降りたように、時に降りていき、そして、イエスが、復活したように一気に神に引き上げられ、霊的な神の支配の中に取り込まれるということなのかもしれない。

         

        日々の生活はそのための準備であり、弱さを見つめ、自ら握りしめるものを捨て、そして、神の愛の中に降りていきながら、そして神に近づいていく(次第に聖人として生きるようになる)、ということでもあり、それは、一瞬にして、スーパーマンになることでも、ドラえもんのようになることでもなく、ウルトラマンになるでもなく、むしろ、神とともに素朴に、そして、忠実に神のよういされた、この世界に神に頼りながら、生きる、ということなのだと思う。

         

        特に、今、大斎、あるいは、レントの期間だから、降りていくことを思うのかもしれない。

         

        http://twistedsifter.com/2013/03/double-spiral-staircase-vatican-museums-giuseppe-momo/ より

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

         

        評価:
        価格: ¥ 2,700
        ショップ: 楽天ブックス

        評価:
        マイケル・ロダール,大頭眞一
        日本聖化協力会出版委員会
        ¥ 3,780
        (2011-10)

        2017.04.03 Monday

        『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(2)(終わり)

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          今日も、藤掛明さんの『人生の後半戦とメンタルヘルス』を呼んで、思ったことを書いてみたいと思う。前回は、現代の日本人を取り巻く課題について、失敗しないことに補修されていること、忙しさの問題があること、預言者が視野狭窄状態に陥ったユダヤ人の視野狭窄から脱出するガイダンスをしたように、霊的ガイダンスとか霊的同伴とかは、視野狭窄からの脱出のあたりのことと関係していること、忙しさの美学にハマっている現代日本人の問題なども取り上げた。

           

          旋回しながら降りていく儀式の大切さ

          もともと福音派にいたし、技術者として長く過ごしたということもあり、なんか呪文的というか呪術的そうな臭ひがする教会暦とか、毎年の繰り返しという儀式などと無縁の世界で、長らく信仰生活を送ってきた。その意味で、非常に単純化された世界観を持ってキリスト者生活を過ごしてきた。しかし、年齢が進むに連れ、多少は賢くなったのか、あるいは、単純化された世界観に、あるいはマクドナルドなどのハンバーガーを常食として食べるかのような、十年一日の如きの、相も変わらずの均質を前提とした生き方をしてきた。50を迎えるあたりから、そんな単調さ、単純さに飽きてきたのかもしれない。

           

          そんなことも感じている中、漂着するようにたどり着いたアングリカン・コミュニオンのチャペルで、教会暦と日々繰り返しの中で、深みにゆっくりと降りていくような経験をする中で、あぁ、こういうのいいなぁ、と思ったのである。

           

          こんな感じかな。https://spectator.org/blue-cross-exiting-mn-obmacare-exchange/ より

           

          そういう経験もあったからか、同書の中での次のような部分が心に響いた。

          状況が刻々と変わる中、じたばたとせざるえないことが多いと認めると、いつもじぶんの克己心や判断力にばかり頼るのではなく、自分を定点観測するような仕組みを持つことの大切さを感じます。人は忙しいときほど心の余裕がなく、状況に巻き込まれてしまうからです。
          その有力な方法の一つとして、個人的な儀式や習慣を作ることが上げられます。一日の時間管理にも、10年間の時間管理にも、儀式は大切なものとなります。儀式はいろいろな節目に、立ち止まり、自己点検する機会を与えてくれるからです。(『人生の後半戦とメンタルヘルス』 p.80−81)

          この部分を読みながら礼拝の意味、礼拝のたびに静まりの時間、そして神の前に悔い改める時間を毎週持つ意味を考えた。礼拝とは、説教を聞く時間でももちろんあるけれども、週一回(個人的には、水曜日の夜にもそこは聖餐式があるので、そちらにも参加しているので、実際には聖餐式間に派のミーちゃんはーちゃんとかは週2回)、神のみ前に出て、自分自身の罪深さをそこに集まる人々とともに思い起こし、神の民に相応しくないにもかかわらず、神の民であり、神の養子にしてもらったということ(これが福音)を覚えるのである。もちろん、毎朝の時間、毎度の食事のとき、また、休む前にも神の前に出るのではあるけれども、もう少し、長い時間、それもともに弱さを抱えた人が集まる中で、他人の弱さを感じながら、自分自身の弱さ、不甲斐なさ、そして、神を愛しつつも、神の命令を完全に守りえない自分自身の姿を見つめる機械は、個人だけの祈りにはないものがある。なぜ、そうなるかはよくわからないのだが。それは、神秘というものなのかもしれない。

           

          そして、今はレント(大斎)の期間中である。このレント(大斎)の期間の中で、自分自身を見つめ、神とともに歩むというものとしての歩みを振り返っている。そして、その下っていった先に、突如現れるのが、キリストの復活であり、それを記念するイースター(ハリーストス復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものに、いのちを与え…と歌い、その後、ハリストース、復活。実に復活 と今年もハリストス正教会にイースターの前夜の深夜に行って、一緒に言いに行くつもり。)、ペンテコステと続き、そして、また待降節(アドベント)隣、エピファニーがあり、そして、レントの中に入っていく。ある種のリズムがあり、それがなんとも、心地よいのである。こんなものを迷信とか、儀式的とか、人間か作り出した制度と軽視していた自分の愚かしさを、今は恥じ入る限りである。仮に人間的な制度であるとしても、実によくできた制度なのである。

           

          そして、キリストの障害のできごとに合わせて、登っていったり、下っていったりと、単調になりがちな生活にメリハリを与えてくれる、人生の時計、1年時計みたいな仕掛けになっているのである。今は、そのような周期が生み出すリズム感とそれがうみだすものを十分に享受している

           

          明け渡すことの大切さ

          明け渡すことの大切さに関しては、本ブログでも何回か記事にしたことがあるが、人間はつい、不安であるし、神ではないので、神や他者に向かって自らの手を開き、明け渡しができない存在であり、なんでも自分で抱え込んでしまおうとしてしまう。

           

          そのことについて、藤掛さんは、ある管理職のビジネスマンが後輩に教えたことの中に、他人に委ねることの重要性を伝えた、事例のご紹介があったあと、次のように書いておられる。

           

          それを実現するためには、自分ですべてをしようとするスタイルから開放されるということです。

           

          断る
          断るという作業は大変なエネルギーを使います。ここでは断るかどうかの判断に際して、幾つかの自己チェックを行うべきでしょう。
          仝栄をはらない。⊆分しかできないと思い上がらない。Mダ莉膂未望箸蕕靴討匹Δを考えるという点検です。(同書 pp.91-92)

          個人的には、未だにそうだが、この「断る」というのがなかなかできない、人から嫌われるのが嫌だからなのか、メサイア・コンプレックスの重篤な患者だからなのか、課題がギリギリできそうでチャレンジングな課題であればあるほど、技術者マインドに火がついて爆発的なエネルギーを生じるからかどうかは、しらないが、断らない。特におもしろそう、と思われるものは、非常に断りにくい。自分自身がやるとして、よほどできない、その時間が当座確保できない、どうやるかが皆目見当がつかない、対応方法が想像すらできない、他の人がやったほうが良いと思える状況以外は、「断る」というオプションは選択しない事が多い。とは言え、お金払って解決しそうなことであれば、お金払って、解決してもらって、として、適切な関係者や事業者さんをご紹介することにしている。特に企業とか、公的機関が関与する場合は、予算と責任を先方がお持ちのことが多いので、実験的にしてみるとか、研究ベースでしてみる以外の場合は、個人としてはお断りすることにしている。ただ、予算がないとか、急ぎでやっつけ仕事でいいから、どうしても、と言われたら、急ぎ働きでやっていることが多い。

           

          特に大頭先生が、子犬のような目をしてお願いされた日には、断れないことが多い。とはいえ、大頭先生はある程度はおわきまえ下さっておられ。頼まれて、基本形を作ったら、後はその基本計を修正し、行進する作業は、ご自分でしてくださるので、そのへんは安心している。ただ、人によっては、一回何かで仕事をしたら、あれも、これもと全部押し付けてくる人がおられる。そのタイプの人には、1回目は受けるけど、2回目以降は理由をつけて、お断りするようにしている。と言うのは、当方が善意で、親切心でご対応していても、断らない人だという印象をあたえることで、依頼を持ち込む人の奴隷状態になってしまうからである。この辺のスルーするということの重要性は、アメリカ人との関係で学んだ。ダメなものはダメ、ムリなものはムリと、明確な境界線を引くようにしている。(この辺は境界線シリーズが役に立つ)

           

          ところで、「断る」(そして適切な他者を紹介する)ということのメリットは、実は社会全体では大きいかも、と思う。なぜなら、断れば、自分ひとりで抱えこまなくて済むからである。安心して忘れることができる。これは、断ることのメリットとして考えておいてよい。手を離さないことで、自分自身がその頼まれたことにロックインされかねないからである。また、頼まれ仕事を有償の仕事としてなしておられる人や組織に渡すことで、頼まれた人には社会的認知と報酬がついて回り、地に平和をもたらす源泉の一部分となることができる。

           

          更に、自分が手放し、他者に託すことで、新たに託された他者の成長のよい機会にもなるのであるし、ノウハウが新たに託された人に継承され、蓄積していく。そして、自分がもし何かあっても、他者が対応できるというリスク分散ができるのである。そのような意味でも抱え込まないことは大事なのだと思う。

           

          手を放すということ、手を開くということを考えてみると、他者と握手するとき、ギュッと手を握ってはいないし、子供を抱きかかえるとき、ドラえもんの手のかたちで、子供を抱きかかえないだろう。そして、プレゼントや他人から何かを受け取るとき、我々は手を開くのである。

           

          断るというと、物騒な感じがするが、断ることは、他の可能性に向けて、自分の握りしめた拳を開いていくことであり、もう少し言えば、神に向かって手を開いていくことと関連していると思う。その意味で、断ることは、新たなものに可能性を開くという側面をもう少し考えたほうがいいかもしれない。

           

          教会関係者の逸脱行動をどう考えるか

          幸いにして、ミーちゃんはーちゃんのこれまでのキリスト者人生の中で、教会関係者のおこす非行の被害にあったこともないし、問題行動の重篤な被害者になったことはない。それは、幸せなことであると思うが、この業界をフラフラしていると、教会の関係者の問題行動はチラチラ見聞きする。昔は、この種の問題行動ネタは、噂話で聞くか、よほどひどい例を書籍などで知るかしかなく、もうちょっと最近では2chで探すのが大変便利で、参考になったのだが、最近は、ツィッターやFacebookというSNS型メディアやこの種の情報収集拡散拠点とも言うべきブログが幾つかあり、それらのメディアを見ているだけで、すぐにお知らせしてくれるようになった。

           

          以前にも紹介した、Smart Thinking for Crazy Timesという本の中には、「企業の危機管理として、どこかで発言したことは、拡散する可能性があると思って意思決定せよ、隠された言葉訪うものはない」ということが書かれていた。まぁ、拡散することを期待しつつ、かなり際どいネタを大統領選挙中、Twitterで拡散し続けた現某国大統領もおられるし、派手なパフォーマンスで、情報伝達するのがお好きな某国大統領もおられる。まぁ、情報の積極的利用というか、逆方向の利用であるとは思うが。

           

          話が余談に言ったので、また、もとに戻したいが、どうも色々見ていると、一生懸命やりすぎて、手段と目的の混乱が起きたり、原因と結果の混乱を起こしたり、目的達成至上主義になる人々が、教会内にもおられることは確かだ。

           

          そのあたりのことについて、藤掛先生は、次のようにおっしゃっておられる。

           

          驚く方もいるとは思いますが、熱心なキリスト教信仰を表明しながら、そして価値観として非常に健全なものを持ちながら、犯罪や非行を犯す人たちがいます。価値観や信仰心は問題がないのに、逸脱した行動に出てしまうのです。(中略)
          また、ある信仰者が犯罪を犯したとき、周囲が単純に二元論で割り切り、最初からあの人は偽クリスチャンで、本当のクリスチャンとは別物なのだという説明をすることがありますが、それも多くの場合違うように思います。不祥事を起こす信仰者はむしろ信仰に熱心で高い理想に邁進します。しかし、その理想の高さと熱心さが孤独な玉砕を生み、逸脱に結びついてしまうのです。(同書 p.97)

          言っていることや思いのところでは、問題がないけど、結果として逸脱した行動に出てしまう人、行き過ぎを起こす人を時々お見受けする。善意でハジメたら、結果も善きものが必ず生まれないのが、残念ながら、この世界なのである。このあたりのことを、今度福音主義新学会の西部部会で、山口希生さんという方が、「諸力としての罪:ユダヤ黙示思想の文脈の中のパウロから考える」というテーマでご発表になる模様である。なお、この山口希生さんという方は、このブログでは、現在途中止めになっている「新約聖書と神の民」の翻訳者でもいらっしゃる。実は、この世界には、「諸力としての罪」が働くから、善意で、全なることを着手し、実施し始めたとしても、悪に陥ることがある。非行まで至らないにせよ。世の中、「善意で始まったのだから、いいじゃないか」ですまないことが多いのである。

           

          伝道することも、たしかに善いことであるし、宣教することもキリスト者としては善いことである様に思える。しかし、諸力としての罪が働いている以上、結果として把握が生まれることがある。それが、上で述べられているような、熱心さ故の玉砕精神の発揮(日本はこれが多い)とか、後は野となれ山となれ戦略とか、逸脱行動とも取られかねないことになるのではないか、と思う。

           

          最近テレビで話題の「○○首相ガンバレ」と幼稚園児に叫ばせている映像が流れている幼稚園の経営者ご一族のことが話題になっているが、これとても、そもそも悪意で始めたことではないだろう。本来その行為が目的とした善意の面の善の主効果より、その行為のもたらす悪しき副作用が妙な形で出てしまい、負の副作用あるいは悪の副作用の効果のほうが大きくなり、それに対して歯止めが何処かで効かなくなったことがあの幼稚園問題が指し示している問題なのだと思う。

           

          本来、自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を大切にしたい。

          (ここまではいい 善意で始まっているといえる)

           ↓

          自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱うようにしてもらいたい

          (ここまでも許せる)

           ↓

          自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱わない人は困る

          (これも確かにそうかもしれない)

           ↓

          自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱わない人は、この国や地域から出て行ってほしい

          (この辺で怪しくなる)

           ↓

          自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土から、関係者以外は立ち去ってほしい

          (かなり怪しい。まず、関係者とは何かをきちんと定義しないとまずい)

           ↓    

          自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土から、外国人は出て行け

          (もうむちゃくちゃ)

           

           

          ということになっているのだろう。極めて構造を単純化した結果ではあるが。本人は大真面目に一生懸命やろうとしているから、どうしても、方向感覚を失ったり、自分自身を突き放してみることができなくなっているのだろう。

           

          個人として認知している教会関係者が起こした不祥事の例としては、ある外国人宣教師が、もう数十年前、ある地域で一生懸命学生向けの伝道活動に取り組み、一生懸命やろうとした結果を、送り出し教会や支援者にお示しするために、まだ未受洗の来会者の学生と信徒の写真を一生懸命撮り、その宣教師の送り出し教会に送ったという事例がある。これなんかは、典型的に、もっと伝道したい(→ そのための支援が必要)という善なる思いから始まった宣教師の逸脱行為なのかもしれない。

           

           

          背伸び・強行突破型の人の特徴

          強行突破型の人の近くにいる人は、迷惑を被ることが多い。強行突破型の人は、障壁や障害があっても、ランボーのように乗り越えていくので、傍で無関係に見ている文には、面白くて、かっこいいのであるが、その利害関係者や、関与者にされた瞬間、メチャクチャ大変なことが待っている。

           

          本来止まるべきところで止まらないので、まさに暴走機関車というノリで、疾風怒濤のごとく突進して、多くの人を跳ね飛ばすことになる。まさに、スピード2という映画で出てくるクルーズ船やリーサル・ウェポンという映画シリーズの刑事たちのようなものではないか、と思う。

           

          Speed2で観光地に強制揚陸するクルーズ船

           

          リーサル・ウェポン3の予告編


          リーサル・ウェポン2の予告編

           

           

          こういう人たちの周りには、爆発や瓦礫が上の映像のようにつきまとうのである。こういう強行突破型の人々の周りの人々が大変で、本人はいたってケロッとして、反省したとは言うものの、またぞろ、今度はもう一山当ててやるふうに同じことを繰り返す人がいらっしゃるようです。

           

          反省するけど同じことの繰り返し
          アメリカの法廷ドラマの名作Law and Orderやそのスピンオフ作品のLaw and Order SVUなどを見ていると、DV夫が繰り返し、DVをもうしないと誓いながら、些細な事でDVをに走るようなケースが紹介されているが、まさにそれと同じことがここで書かれていたので、あぁ、なるほど、と思った。この強行突破型の人の第1の特徴として、次のようにおかきである。

           

          第一に強行突破型の人は、「後悔するが悩まない」生き方を続けているということです。彼らはトラブルを起こしたり、大きな失敗を起こしたりして、にっちもさっちもいかなくなると、その場では虚勢を張ることがありますが、やがて冷静になります。そして我が身を振り帰りながら公開します。これまでのことをくやみ、もうしないと決意するのです。それは嘘や演技ではなく、本気でそう考えているのですが、しかし、悩んでいないのです。(同書 p.108)

           

          これは、薬物依存症や、ギャンブル依存症の人でも起きるようである。特にギャンブル依存症の人は、とにかく取り戻そう、一発逆転を狙ってまさに、ギャンブルに出てしまうのだ。そして、同じことの繰り返しが行われる。それが、第2の特徴だと藤掛先生は言う。

           

          私は「これからどうするのか」を(引用者註記 相談者に)よく質問します。すると、多くの強行突破型の人は、実に景気の良いことを語り始めます。現実離れしたバラ色の未来を聞かせてもらうこともままあります。彼らは、悩まないばかりか、今後については、大成功するのだと考えようとします。
          しかし、カウンセラーの経験から言うと、今後のことについて、景気の良い、バラ色の再出発を語りすぎると、その後が帰って危ないのです。バラ色の度合いが高ければ高いほど、とくに次の挫折がやってくるのです。(p.110)

           

           

          そして、こういう強行突破型の人々が描くバラ色の結果が実現しないと、このタイプの人には、人が寄り付かなくなる状態になると、悪態をつく、周囲に当たり散らす、全て他人が悪いのだと責任転嫁する、そして、挙句の果てに、宇宙人や妖怪のせいにまでし始める。そして、戸になく、自分の状態を改善するまで、他者を無理して突き動かそうとする。もう、あの手、この手、ここまでやるか、というほどごくわずかでも関係ありそうな人や、その人のご事情をご存じなくて、強行突破型の人の発言を受け止めてくれる人がいれば、その人に話し、そして、自分の状態に影響力を持つ人を突き動かし始めるのである。一番この強行突破型の人生を歩んでいる人にとってありがたいのは、事情を知らず、その人の発言を丸飲みして、善意で、「こうすべきだ、とかああすべきだ」とこの強行突破型の人の関係者を突き動かすために協力してくれそうな人で、社会的影響力が強い人である。全く無関係の社会的影響力の強い人(学校の先生とか組織のリーダーとか)を巻き込んで、自分の環境改善をさせる議論に関与させるのである。そこを入り口にして、また、関係者を突き動かそうとするので、強行突破型の人間関係を壊してしまうのだ。そして、壊しては、また新しいんん現関係を作り、そして、また、同じことをして、人間関係を壊してしまうのだ。

           

          子供ならば、実行力がしれているから問題はないが、問題は大人でこういうことをする人たちである。本人は、虚偽を語っているつもりはまったくないらしいのだが、他人受けが良い話をするうちに自分の視点からの話を一方的に繰り返しているうちに、実態とはかなり違う話を他者に伝えることになる。まぁ、こういう場合、同じことが繰り返されると、この強行突破型の人の周囲の人々も、気がついてくるので、話半分に聞くようになるが、問題は、このタイプの人が、関係者が変わると、またぞろ同じことを繰り返すのである。なんということか、と思う。

           

          強行突破型の人びとの再帰的強行突破行動

          強行突破型の人物は、基本的に、負の側面を考えないのではないかと思う。そして、何らかの不思議な方法で、その負の側面が、実に都合よく解決されるものと思いこんでいるのではないかと思う。正に暴走機関車の様相で、再度、自分の直面する環境に自殺的行為を完遂することを繰り返していくのである。

           

           

          藤掛さんは、脱線(逸脱行動)の説明をしたあと、次のように書いておられる。

          さて、脱線した後はどうでしょう。バラ色問題でもいいましたように、背伸び強行突破型の息切れをした人はそれでも立ち止まれません。状況が悪化するか、それでもなんとかしようとあがき、本人は逆転満塁ホームランを狙います。失地回復のための無謀な姿勢を強めるのです。(中略)少なくとも時間が解決する。自ら内省し軌道修正をする。そういうことは全く期待できません。(同書 p.121)

           

          正に、このタイプの人は、妄想の世界に行きていて、現実世界はあたかも自分にとっての理想状態であるべきである、と考え、自己を取り巻く環境に、自殺的な特攻を、これでもか、これでもか、と繰り返されることがある。特攻の目標になった人は、もうおかわいそうにと言うしかない。自殺的特攻で、特攻する人ご自身だけが被害に合われるのならまだましなのだが、このタイプの方は、たいてい目標となる人物がいて、その周囲に向けて、実に微妙な特攻攻撃というか自爆テロ型攻撃をなされるので、とばっちりにあってしまう人がいるのであり、周囲は、特攻攻撃によって生じた、悲惨な状況の後片付けを強いられるのである。実に、堪ったものではない。

           

          日本軍の自爆テロ型兵器 回天 http://www.vspg.net/museum-pg/yama-kaiten.html から

           

           

          日本軍の自爆テロ型兵装 桜花 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) より

           

          確かに、回天とか桜花とかは、強行突破型の兵器であって、欧米の用兵、兵器開発思想にはないタイプの兵器ではある。

           

           

          こういう自爆テロ型で強行突破する人たちは、強行突破が目的かつ最終手段であるので、周囲が片付けに追われている中、本人はどこ吹く風でひょうひょうとしておられることが多いのである。実に困った存在なのである。

           

          不思議なもので、こういう人は独特の雰囲気を持っておられるので、何度かこのタイプの人からの自爆テロ攻撃を仕掛けられると、なんとなく雰囲気がわかるようになる。もうそうなったら、スルー力全開に設定し、「Lord have mercy, Christ have mercy, Lord have mercy」と祈りながら、適当な距離を取り、退避壕のようなところにたてこもりつつ、「主は我が櫓」と詩篇の箇所の通り、逃げ込むに限るのである。

           

           

           

          今回で、この本のご紹介。お付き合いいただき、ありがとうございました。

           

          この本はお勧めなので、是非お買い上げを。

           

           

           

           

           

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          コメント:大変素晴らしいです。おすすめです。

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          (2002-10-07)
          コメント:訳が今一だけど、内容は素晴らしい。

          2017.04.01 Saturday

          『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(1)

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            この本は、大変面白いことをブログで書いておられる藤掛明さんヶ丘気になられた本であり、非常に印象深い記述があったので、その記述の中から個人的に感じるところがあったものを拾いつつ、それから考えたことを少し書き留めてみたい。

             

            そこ、ですかぁ?

            世俗の仕事の中では、技術教育をしていることもあるので、もっぱら技術とその応用、その技術の背景などについて話すことは多いが、このへんの本来伝えたいことが、どうもあまり学生さんの記憶に残らないことが多いようである。それよりもむしろ、本筋から外れて脱線したときのほうが、学生受けが良かったりする。その昔、講壇に登って、説教もどきのことをしていたこともあったが、そのときも、必死になって調べてお話したギリシア語やヘブライ語の解釈はさっぱり記憶に残ってないものの、その場の思いつきでお話したことについて、後から、あそこの話は良かった、と言われることがあり、「そっち?」と言いたくなることも多数経験した。そもそも、ミーちゃんはーちゃんの喋り方が、あまり適切ではなかったかも知れない、と言うことは素朴に認めたい。

             

            その場で思いついたこと、というのは、一種のライブ感があって、喋っている方が、楽しそうに喋っているからなのか、と思ったら、どうもそうでもないのかもしれないなぁ、と、藤掛さんがおかきになられた以下の記述から思い至った。

             

            あれだけ手をかけて盛り上げた心理テストの体験でも、グループワークでもなく、ほんの一言喋った「失敗しない人にならなくて良い」というセリフが、感銘を与えたのだという、意外な(そして少しがっかりな)結果でした。と同時に、それほど現代社会は、「失敗しない人であれ」と人に呪縛をかけているのだと思い知らされました。(『人生の後半戦とメンタルヘルス』 p.11)

             

             

            「失敗しない人」という理念型に縛られる現代日本人

            「失敗しない人」という一つの人間性の理想形が、現代の多くの日本人の一つのパターンを形成しているのではないか、と思う。要するに、小学校や中学校での留年などがなく、高校も3年で出て、18歳で大学と呼ばれるところに行苦、あるいは、企業でお勤めし、文化系であれば、22歳でみんなが知っている企業に就職し、理科系であれば、24歳で修士号を取り、みんなが知っている企業に就職し、それから後の人生40年位を、あまり転職することもなく、同じ時間帯の満員電車に揺られて毎朝、毎晩、自宅と企業のオフィスの間を通勤なのか、痛勤なのかは知らないが、移動するのがいわゆる『普通の人』であり、『失敗しない人』ということになるのだろう、と思う。要するに、磯野波平氏やフグ田マスオ氏のような日常を送るのが、失敗しない人ということなのだと思う。

             

            そして、その路線からハズレた人は、『失敗した人』とか『人生の敗北者』と呼ばれ、肩身の狭い思いをしながら生きることが強いられる面もある。常識人でないとか、非常識な人とか、場合によっては、非国民とか、あたかも人間でないような言われ方がすることがある。つまり、標準とされる生き方や道徳的基準があって、そこからの乖離がすこしでもあると、それが問題行動と言われる傾向があるように思われる。

             

            就職に失敗した人の残念さを描いたニート関連の動画

             

             

            就職しなくなった人の残念さを描いたニート関連動画

             

            本来、そういうものからは乖離しているはずの政治や芸能の世界などでも、いわゆる「小市民的」基準で、その世界の人の行動が云々されることがある。実に世の中を面白くするのではなく、つまらないものにしているような気がする。あえて、めちゃくちゃして良い世界を作っておいて、その世界の中でめちゃくちゃやる人がいるから、面白いのであって、それが小市民的な基準ですべてを支配したのでは、風刺やクリエーティブなものは生まれ得ないことに成る。変な人だからこそ、その時代の当たり前や、常識を疑えるのであって、そのために世間一般と隔絶した特殊な業界世界を作ることで、社会全体の安定を保ちつつ、時代の変化を生み出していくエネルギーをいわば外部化しておき、たそういう創造的な世界からちらっと取り込むことで社会を活性化していくことを、人類は社会運営の知恵としてもってきたように思う。とはいえ、今は、その特殊な世界も、小市民的な基準で判断されることになり、つまらない状態が生まれているのではないかなぁ、と思う。その意味で、あの人達は私達と違うんです、という安全柵を置くことで、自分たちの社会の安全を図ってきた部分があるのだと思う。

             

            典型的には、祝祭空間(お祭り)など、期間限定の無茶苦茶なことをしていい状況と空間をあえて設定するかたちで、社会制度の中に意図的に組み込み、その祝祭空間の中ではむちゃくちゃが許されるが、それ以外は許さないということをしてきたのだし、あるいは、あえて、芸能の世界で人の道に反する演劇を上演することで、世間の欲望のはけ口を用意し、その欲望のはけ口に走った結果がもたらす悲哀を感じる場を安全な形となるように設定して、社会の安寧を図っていたにも拘らず、その安全弁を崩してしまい、日々祝祭空間が日常生活の中に入り込むようなキケンな状況に社会を作り変えたのではないか、と思っている。毎日がディズニーランドや、毎日がUSJなら、それは疲れてしまうだろう。

             

            まぁ、この非日常空間と日常空間が接するところで、時々、ろくでもない混乱が起きるわけではあるけれども、それはそこ、ちゃんと接触するところにはお目付け役をつけておくことで、社会システムの安寧を図る知恵は昔からあったんですし。

             

            >

            祝祭空間化する岸和田(だんじり祭)

             

            祝祭空間としてだから許される演劇の世界の中での悲恋 曽根崎心中

             

            息子の友人にテーマパークマニアがいるらしく、そのテーマパークマニアの方は、USJでアルバイトをしている友人がいるらしいのだが、その友人からの話として、あのテーマパークに出てくる、ミニオンズさんたちは、ステージのハイテンションとステージから捌けた後のテンションの下がり方があまりに違うらしいとかいう話を拝聴したことがある。なお、ミニオンズさん達が普段からあんなハイテンションで行きていたら、人生50年どころか、人生30年になってしまいそうだなぁ、と思ったことはある。

             

            USJのミニオンズさんたち  https://www.youtube.com/watch?v=xd-0L-kyOto

             

             

            従順さという病いと失敗しない人であること

            このことは従順さという病がはびこっている社会では、社会システムからの逸脱がないことが正常であるとされる社会では、社会システムからの逸脱(つまり失敗することや、従順ではない)ことは正常でない、とする社会意識が存在することを裏面では意味することになる。つまり、現代社会にとって見れば、失敗する人は、現在の社会システムに従順ではないため、どのようなかたちかは別として、社会システムから一種の負の報酬(いわゆる罰とか排除)を得るし、負の報酬を得ている人は、社会システムに従順でないか、社会システムに反逆した人、ということになる。

             

            キリスト教的に言えば、キリスト教徒が重要な存在としているキリストは、社会システム、当時のユダヤ社会とその支配層の存立を脅かした人物である。ユダヤ社会の支配体制を承認していたローマ帝国とその社会システムへの反逆者であった。その意味で、キリストは社会システムに疑問を呈したことによる負の報酬として、世俗的な理解だけで言えば、十字架にかかることになったのである。

             

            また、旧約聖書の預言者と呼ばれる存在も、明確な反旗とまでは言わないものの、当時の王たちに対して批判的なことを申し述べ、社会システムに立ち向かっていった側面はあるので、エリヤのように荒野で自殺願望に苛まれた人や、バプテスマのヨハネのように、ダンスの報酬として首を着られた人たちもいたのである。

             

            システムにコソッと反逆するというのは、あまりコストを個人に追わせることはないかもしれないが、現在のシステムに公然と反旗を翻すということは、実は大変なコストを個人が追うことになりかねないのだ。預言者とはそういうコストを負わされた、世間的に見れば、ろくでもない目にあうことを、選んでいった、選ぶように神が選ばれた人なのかもしれない、と思うところはある。誰しもがなれるものでもない、とは思う。

             

            視野狭窄を防ぐには

            どうしても、人間は似た者同士が共存することをえらぶ傾向にはある。そのほうが楽だからである。説明はいらないし、相手の行動も読めるし、空気も読めたりする。しかし、そうなってしまうと必要以上に、自己規制がかかったり、自分と違うもの(いわゆる他者)の存在を心から喜ぶのではなくて、自分と違う、と判断して拒否したり、排除したりすることが始まるように思う。要するに、明確に意識していなくても、「世の中このようなものだ」とか「○○とは、かくあるべきだ」という一種のパターンの中でしか、ものを考えなくなるようである。煮詰まってしまうように思うのだ。

             

            個人的には、数年前に軽い抑うつ症状になったことがある。原因は、おそらく世俗の仕事の関連で、かなり大きな研究プロジェクトでの出来事が原因であったと思う。そのプロジェクトは本来、共同でやるプロジェクトであったはずなのだが、共同でやるはずお方が、そのプロジェクトを実質的にそれを担当する、と言っていたにも拘らず、本来実質的に担当するはずだった人が、いち早く、一抜けた状態になった。その結果、本来得意でない文屋までやらざるを得ない状態になり、梯子を外されてしまったことがあった。このときは、かなりの分量の仕事を一人で抱え込むことになり、もう閉塞状況に陥ったことがあった。まぁ、八方塞がりとはこういうことか、という感じであった。

             

            私達が広い視野を入れるにはどうすればよいのでしょうか。
            第一に「例外」を探すことです。私たちは問題の渦中にいると、いつもその問題が続いているかのように思ってしまいます。しかし、印象はそうであっても、24時間、365日、その問題が起き続けているわけではありません。探してみると問題が出現していない時があり、うまくいっている時があるのです。(同書 p.30)

             

            今、その閉塞状況の時を思い出してみれば、外に引っ張り出してくれた、別の組織におられるありがたい共同研究者がいた。ミーちゃんはーちゃんの様子が、かなりおかしい事に気づいてくださったのだろう。その方はキリスト者ではなかったが。

             

            その方のご専門の農業関係の仕事でミーちゃんはーちゃんによる技術的な支援がご必要ということで、結果的には閉塞状態から引っ張り出してくれたのである。これは、本当に助かった。小さな成功を幾つか実現していくのを見る中で、現実には閉塞していないことを実感する事ができた。その意味で、この小さな成功体験というのが、ここでいう「探してみると問題が出現していない時があり、うまくいっている時」だったのかもしれないなぁ、と今、じんわりと思う。

             

             

            どちらか一つという落とし穴

            どちらか一つというのは、問題の解決策ではないものの、問題を簡単化する、というよりは、問題を別の問題にすり替える、問題を歪んで認知させ、不適切な解に到達させる上では、非常に有効で効果的な方法である。と言うのは、3つの要素や、4つの要素など多様な要素を含む高次元の現実を、どちらか一つという一次元的問題、あるいは、一次元の線分上の両端の2つの点だけを考えるような問題として、組み直すことになるからである。2項からの選択の問題は、本来複雑な次元を持つ問題を、1次元の問題に縮約してくれるからである。それが有効ではなく、本来の姿と違うものとはいえ、縮約すれば、それだけで考えたという意識が残りやすくなる、という心の習慣を人間は直感的に知っているように思うのだ。

             

            次元縮約 https://www.slideshare.net/canard0328/ss-44288984 から

            人は困難を感じ、余裕が無いときほど、物事を白か黒か、大成功か大失敗かを考えはじめ、極端に一面的な物の見方に陥りがちです。しかし、心や魂の問題はそうではありません。一見相反するような事柄が同時に存在していることがあるからです。
            とくに信仰生活を考えるとき、こうした事柄を避けては通れません。というのも、信仰生活とは、神の主権と計画を信じながらも、人として努力し、責任を負う生き方であるからです。神の主権と人間の努力は一見相反する事柄ですが、どちらも大切なものです。(同書 p.44)

             

            ここで、藤掛さんは「心や魂の問題はそうではありません。一見相反するような事柄が同時に存在している」と書いておられるが、それは、心や魂の問題は、あれか、これかという低次元の次元に縮約すると、非常にまずいもので、本来そこにある豊かさを失ってしまうので、まずいのではないか、とおっしゃっているようだ。

             

            とくに、個人的に非常に重要だし、多くの場合、誤解されているのは、最後の部分での記述である「神の主権と人間の努力は一見相反する事柄ですが、どちらも大切なもの」であるという側面の重要性を思う。これは、実は、人間が神と共に生きるという、実に複雑で、説明しづらいものをあまりに単純化して、もともと高次の複雑なものであり、本来丁寧に取り扱うべきものを、わかりやすいから、伝えやすいから、と実に乱暴に、あれか、これかの世界に落とし込んでしまってはならないように思う。とくに神が造られた人間とその創造主たる神との関係を、きわめて簡便化してしまって、本来わからないこと、わかりにくいことを、わかるはずのないことを、ある世界観のより低次元の世界に押し込め、わかったような気にさせているに過ぎないような気がするのである。

             

             

            同じことは、聖書無誤論とか、聖書無謬論や、創造論か、進化論の世界についても言えて、本来最も複雑なものを非常に単純化した低次元のそれも値が2つしかない1次元の世界に無理やり落とし込んでしまうことになるのだろう。このような、単純化(ある分野では次元縮約とも言うこと)が、聖書に関わる理解でも行われているということなのかもしれない。これは不幸なことだと思う。

             

            それと同様に、ミーちゃんはーちゃんのお友達の大頭さんという人は、ある雑誌の連載記事で、「決定論以外は、オープンだ」とか、本来は丁寧に扱うべき内容について、まさに「あれか、これか」の世界に落とし込むような無茶を書いていた。その内容を含む、連載をもとにした本が、今度ヨベルから出版されるけれども、この共著者十数名という、これまた無茶苦茶な共著本では、ミーちゃんはーちゃんは「決定論以外はオープンだ、という議論はちょっと乱暴じゃない?」とやんわり釘を差すんじゃなくて、「それ、乱暴者がすることですから。していいことと悪いことがあります」と、明確にお諌め申し上げている。なお、この本は、早ければ4月、おそらく5月の連休明けに出版される運びとなるように思う。楽しみにワクワク待っていてほしい。(ちょっと、ステマ)

             

            霊的視野狭窄とスピリチュアル・ガイダンス、預言者

            ところで、キリスト者でも、視野狭窄に陥ることがある。それは、信徒でもそうだし、牧師や司祭のようないわゆる聖職者でもこのような視野狭窄に陥るのである。なぜならば、信徒であっても、牧師であっても、司祭であってもスーパーマンではありえないからである。時々、ご自身をスーパーマンであるかのごとくおっしゃる牧師先生方がおられるやにお聞きしたことがあるが、そういう方は別として、普通の場合、人間としての弱さをお持ちの存在である。なお、ウルトラマンやスーパーマン牧師タイプの牧師先生は、知り合いにいないので、その存在をお噂ではお聞きしたことはあるが、現実にはお目にかかったことがない。

             

             

             

            相田みつを氏のだってにんげんだもの

             

            人間である以上、疲れてきたり、いろいろな行き詰まりで、視野狭窄に陥ることがある。その時の助けになるのが、スピリチュアル・ガイダンスとか、霊的同伴とか呼ばれるものなのだろうと思う。なお、ウルトラマンは、3分間という期限付きのウルトラマンであることは、案外大事ではないか、と思っている。そんなのべつ幕なしウルトラマンの役割をはたすことなど、できるはずがない。

             

            ウルトラマンのCM

             

            ところで、信仰者に霊的な視野狭窄が発生しているとき、預言者的な役割を担って、本来見るべきこと、つまり、神のもとに赦しがあること、神のもとに戻る必要が有ることを直接ではないにせよ、対話やコンサルティングの中で示すのが、スピリチュアル・ガイダンスであり、霊的同伴ではないか、と思うのだ。

             

            伝統教派では、このことが、告解とか、懺悔とか、痛悔機密とかの中で行われてきたのだろうけれども、それが、医療を含め、社会における各種支援制度の充実にともなって、次第に教会内でそれらが、その存在を薄くしていく中で、それに変わって出てきたのが、霊的同伴だったり、スピリチュアル・ガイダンスと言うかたちになって、現在名前を変えて、実質的には昔と同じようなことが行われているのではないか、と思う。

             

            旧約聖書における預言者は、当時のイスラエルの民が、周囲の社会環境とか、政治環境の中で、本来彼らが見るべき、あるいは戻るべきばしょである、神のみもとにいないことを指摘して、彼らの視野狭窄から開放するために用いられた神の器だと見ても良いかもしれない。イスラエル人はうなじの怖い民と呼ばれているので、言い出したら惹かなかったらしいので、その意味でも、預言者が必要であったのであろう。大体、岡目八目というように、当事者の方が、問題に振り回されるあまり、問題をきちんと理解したり、整理しづらくなっていることは案外多いのである。それを外部の視点から見て、本来見るべきものはどこなのか、ということを示したのが預言者であったのであろう。それは、ダビデに対する預言者ナタンがなした役割でもあったように思う。

             

             

            口実としての忙しさという魅力

            現代社会は、非常に忙しい社会になっている。それに貢献したのが情報技術ではある。計算機屋としては、それを目指して技術開発をしているわけではないが、副作用として、忙しい社会になってしまっている。と言うのは、もともと、計算機は人間がやっていた、面倒くさくて、鬱陶しい繰り返し作業をやるために開発されてきたものである。また、そのため、計算機は使われてきた。

             

            その昔、給与計算は大勢の事務屋さんがそろばん片手に鉛筆持ってやる仕事であった。そして、今のように振込で給与が支払われるのではなく、現金で手渡しされていた時代がある。しかし、それはかなり面倒くさい作業であったので、計算機が利用されるようになった。今、日本の製造業で最大の赤字を出したとされる東芝という会社があるが、3億円事件は、その東芝の府中工場のボーナスの支給日の現金が狙われたのが3億円事件であった。

             

            3億円事件の新聞報道 http://blog.goo.ne.jp/saiun4gou/e/1e3b4a52c0cc7fdade72250bbde2bcfd より

             

            そして、この3億円事件以来、企業では、運送途中には強盗に合わないため、安全性が高いものとして、そして、そもそも給与計算処理を計算機でしているのなら、それを銀行に渡すだけで処理が簡単ということで、給与及び賞与の銀行振込が一気に加速するようになったと聞いている。

             

            話が余談に行ってしまったが、計算機は効率化のためのツールであった。同じような無味乾燥な作業から人を解放はした。それは正しい。しかし、それと同時に、その無味乾燥だけどその作業をしなければいけない人たちのしごとを奪うことにもなった。そして、会社はその人達を解雇もできず、遊ばせておくこともできないので、別の仕事をさせるようになった。そして、その人達は別の仕事の世界の中にとらわれていくことになったのである。さらにいえば、企業の中で、機械化が進んだ結果、効率化、生産性向上という限りなき追求をすることになり、人びとを忙しさに駆り立てていった、という側面はある。その結果、人には次のようなことが起きるのだ。

            人は忙しさを嘆きながらも、どこか忙しい自分を求め、忙しい自分に支えられていることを今でも私に教えてくれます。(同書 p.71)

             

            それは何かを為すことで自己実現しようとする人間の姿でもあるし、それは、神が創世記の冒頭における人間への呪いの結果であるのかもしれない、とも思う。何かをしていないと落ち着かないという人間の姿は、まさしく、アダムにかけられた呪いの結果のあらわれではないか、とは思う。

             

            忙しさがもたらす3つの弊害

            忙しさがもたらしてくれる副作用というか、悪しき効果について、藤掛さんは次のように書いておられる。

             

            第1に、忙しさは、大局的なもの、本質的なものを見なくて済むようにしてくれます。(中略)
            第2に、忙しさは、他人に対して貪欲にしてくれます。(中略)
            第3に、忙しさは、理屈抜きの充実感や、自己効力感を味あわせてくれます。これは慌ただしく動き回り、目先の課題をこなすことで、有能な自分を味わえる強烈な魅力があります。
            この三つ目はとくにくせもので、おおおくのひとがこの「忙しさを誇る美学」に心酔しています。(同書 p.72)

             

            忙しくなると、どうしても、本質的なものよりも目先にある解決すべき課題にばかり目が生き、近視眼的になり、小手先の対応をして、さらに問題を複雑化させる傾向がある。こじらせてしまうのである。問題解決の技法の中で時々言及される、問題解決の第3種の過誤と呼ばれることがある。MitroffさんとFotheringhamさんという方々が、もう数十年前に、「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」を第3種の過誤とよんでいらっしゃるが、これは案外忙しいときに起きるように思うのだ。

             

            忙しいと、まとまって考える時間が失われ、大局観をもって問題を眺める余裕を見失ってしまう。その結果、正しい(あるいは本質的な)問題を解くべきときに間違った(小手先の、ごく表面的な)問題を解いて、問題を問いた気になって、資源を浪費してしまうことをやらかしてしまうのだ。第2次世界大戦中の日本陸軍参謀本部は、まさにこの状態であったように思う。

             

            なお、第3種の過誤は、キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その1)のシリーズをご覧いただきたい。この定義は、ミーちゃんはーちゃんが、Smart Thinking for Crazy Timesで1997年頃に触れたのが最初であった。この「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」の英文の文章をある部屋の前に張り出しておいたら、結構面白がってくれた人がいたみたいである。

             

            第2のものは、なに、ミーちゃんはーちゃんは、通勤電車で時々経験している。忙しくなると、余裕を失い、他者への配慮する余裕を失い、貪欲になってしまう。とくに、予定の列車に乗り遅れそうなときは、あと5分後に確実に電車が来るとわかっていても、余裕を失っている。日々反省の毎日である。まぁ、にんげんだもの、と思いながら、神の前に反省していることが多い。

             

            そうであるが故に、毎週、Anglican Communionの式文を目にし、祈りながら、慰められている日々を過ごしている。ちょうどレントのシーズンでもあるので。

             

            とくに、ミーちゃんはーちゃん自身が

             Forgive our greed and rejection of your ways.
               We have sinned:
            であることを覚えている。

             

            いかで、全文を紹介しておく

              Lord of grace and truth,
              we confess our unworthiness
              to stand in your presence as your children.
            We have sinned:
             forgive and heal us.
                        
              The Virgin Mary accepted your call
               to be the mother of Jesus.
               Forgive our disobedience to your will.
               We have sinned:
             forgive and heal us.
                        
              Your Son our Saviour
              was born in poverty in a manger.
              Forgive our greed and rejection of your ways.
              We have sinned:
             forgive and heal us.
                        
              The shepherds left their flocks
              to go to Bethlehem.
              Forgive our self-interest and lack of vision.
              We have sinned:
             forgive and heal us.
                        
            The wise men followed the star
               to find Jesus the King.
               Forgive our reluctance to seek you.
               We have sinned:
            forgive and heal us.
             
                       
            Lord God,
              we have sinned against you;
              we have done evil in your sight.
              We are sorry and repent.
              Have mercy on us according to your love.
              Wash away our wrongdoing and cleanse us from our sin.
              Renew a right spirit within us
              and restore us to the joy of your salvation,
              through Jesus Christ our Lord.        
              Amen.

            (細字は、司祭が読み、太字は全員で読む)           

             

            第3のものは、藤掛さんがおっしゃるように、「忙しくすることで有能感や全能感が味わえる」と言うのは、実は困った問題なのだ。日本語で言うとくせものであるし、英語で言うと、実にNastyな問題でもあるのだ。もともと、メサイア・コンプレックスを抱えがちな牧師や司祭にとって、この忙しくすることは、実に魅力的なことなのである。そして、本質的なことに何ら貢献していないにも拘らず、自らを有能で、全能感を持つ人物であり、他人を救えると誤解してしまいやすくなり、そして、挙句の果てに他人の手助けはいらない、とかいうところに言ってしまう。このことは、教育者でも時々起きることは目撃している。正直に言えば、自分にも同様なことが起きたから、わかるのではあるけれども。

             

            これが、いちばん現れているのが、いわゆる意識高い系のご職業の人たちである。このタイプの人は、広告代理店だったり、コンサルタント業界だったり、IT業界だったり、メディア業界周辺のいわゆる虚業系職種の皆さんに、案外多い気がする。中身のない、空虚なことばを紡ぎ出し、語りながら、何かやっているような気になっていることが多い。個人的には、農家の皆さんや製造業の皆さんのほうがよほど生産的であり、本質的であり、人のためになっているように思うことが、最近は多い。自戒を込めて。

             

            コンサル業界、広告代理店業界はもろ、「忙しさを誇る美学」系の人が多いように思う。結局内実がないまま、空虚なことばを紡ぎ出すことに追われ、内実のなさや仕事の空虚さをブツブツ言うものの、それを解消できないまま、ただただ忙しさだけに追われることになる方が時々おられるようである。残念なことであるが。内実をつけるのには、時間定期余裕と思考する余裕、あるいは本を読むなどして蓄積する余裕がいるのである。そんな時間を奪われたまま、結果を出すことだけを求められ、結果を出そうとする行為そのものに追われてしまうのである。

             

            それが、テレビで未だに時々話題に出て来る、20歳代の女性の自殺が労災と認定された某広告代理店の職場であったのであろう。正に、広告代理店の社員さん、メディア関係者の誇りは、「忙しいこと」「時間がないこと」である。実に残念だと思うが。そして、いわゆるブラック企業と呼ばれる会社では、この忙しいこと、時間がないことは、不効率、非生産的であることの代名詞ではなく、効率性、生産性の代名詞ととらえられているから、他人事ながら、おかしいなぁ、と思っている。

             

            本来、信徒のスピリチュアル・ディレクションをする存在として期待されているはずの牧師が、忙しいのであれば(実際に忙しいのは、お友達になってくださっておられる牧師先生が多いので、よく分かるが)、それは、どこか牧師先生が余裕を失っていることでもあるのではないだろうか。そのあたり、『キリスト教のリアル』で触れられている。牧師さんが忙しくすることは日本の教会にとって、とりわけ、信徒の霊的な豊かさをより豊かなものにしようとしていく上で、実に望ましからざる傾向ではないか、とミーちゃんはーちゃんには映るが、その現状は、どんなものなのだろうか、とも思う。

             

             

            次回へと続く

             

             

             

             

             

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            コメント:おすすめします。

            評価:
            Ian I. Mitroff
            Berrett-Koehler Pub
            ¥ 5,162
            (1998-01-15)
            コメント:ミーちゃんはーちゃんが、最初に第3種の過誤を読んだ本。この本から日本の問題解決における第3種の過誤が始まった。

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            コメント:お友達の編集長がやっているから紹介しているのではなくて、ここに出てくる牧師さんたちの実情があまりに大変なので、ご紹介したい。

            2017.04.01 Saturday

            2017年3月のアクセス記録とご清覧感謝

            0

              皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

               

               先月は、 20,860 アクセス、平均で、日に  672.90 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

               2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
               2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
               2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
               2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
               2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
               2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
               2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
               2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
               2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

               2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
               2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

               2017年01月      22,158 アクセス (714.7) 
               2017年02月      13,840 アクセス (494.3)  

               2017年03月      20,860 アクセス (672.9)  

               

               

              今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

               

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その22

              アクセス数  1026

              アクセス数  524

               

              現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

              アクセス数    514

               

              大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)
              アクセス数  250

               

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その39

              アクセス数  190

              でした。

               

               

               

               

              今月特徴的だったのは、N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その22 がいきなりぶっちぎりのトップであったことである。これはイエスが十字架に至るその前段階の社会状況をN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の記述をもとに、解説した部分である。これは1月公開当初は、アクセス上位に来たわけでもなく、1月は、124アクセスで16位と、とくに変わったことのない普通の記事でした。思うに、日曜学校でイースターの前に、イエスの刑死の時代背景を扱う関係か、どうも日曜学校をご担当の方がアクセスしてくださったのであろう。ひょっとしたら、教案しか何処かに参考サイトとして載ったのかもしれない。2月は今回のようなぶっちぎりのランクインということはなかったが、ナアマンの記事へのアクセスがある特定の週に集中したことがあります。もうひとつ、あれ、と思ったのは、公開した当時は全く関心も持つ人がほとんどいなかったDoing Being Becoming Creating そして Recreationが上位2位に座を占めたことでした。とは言え、日曜学校の教材ネタの影響力の凄さを感ぜずにはおられませんでした。

               

              アクセス集中の定番記事では、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 がトップの座から滑り落ち3位に。

               

              普段通りのアクセスなら、今月も第1位になっていったことでしょう。また、なかなか普段正教会という教会の聖書理解に触れることがないためか、大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意) の記事も、結構アクセスがございました。特段の支障がない限り、大坂ハリストス正教会の講演会には出来る限り参加して、参加できない方(とそして自分も)のためにも、情報提供を行っていきたいと思います。また、『クリスチャンであるとは』のオンライン読書会ブログ版は、一定数を確保するものの、関心のない方にとってはダラダラと続くシリーズでしかないからか、アクセス数の上位ランキング入りは難し買ったようです。個人的には面白いと思うのですが。

              今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

              先月の御清覧、ありがとうございました。

               

               

               

               

               

              2017.03.29 Wednesday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その48

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                きょうも、また、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の聖書に関する章のところからたらたら読んで、思ったことをタラタラと書いてみたいと思う。

                 

                聖書無謬論、聖書無誤論に関する記述

                 

                個人的には、ライトさんを読む前から、無謬とか、無誤とかはあまり細かなぎろんをしても、あまり意味がない、と思っていたし、それは聖書の内容をどう頭のなかで理解し、それを伝えていくのか、という上での表現に関する問題である、と思っている。ライトさんほど、厳密な議論ではないが。基本的な理解は、今なお、そんなには変わってはいない。詳しくは、「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」という3年前の記事を、よろしければ、ご参照いただきたい。

                 

                このあたりの聖書理解に関する諸問題について、ライトさんは次のように書いておられる。

                 

                聖書に関して、「無謬」(聖書は私達を誤らせない)、また「無誤」(より強固な意見で、聖書には誤りはないとする)という用語を用いることについて不満はないが、個人的にはそれを使わないようにしている。私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、皮肉にも聖書そのものから人を引き離し、聖書を全体として扱うこと、すなわち聖書にある偉大な物語の持つもっと大きな目的、その力強いクライマックス、未完成の長編小説に組み込まれるような感覚によって、私達をその最終章の登場人物の一人のような思いにすることから離れさせ、あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう。


                そもそも聖書の「無謬性」と「無誤性」の主張は、複雑さは文化的母体から出てきたことであって(とくにアメリカのプロテスタントという母体)、そこでは聖書が、一方でローマ・・カトリックに対する、他方では自由主義的モダニズムに対する正統主義の最後の砦とみなされた。不幸なことに、それらの二つの背景が議論の中身を形作ってしまった。聖書に対するプロテスタント側のこの主張がおこったのは、カトリック側が教皇の無謬性を主張したときであった。また、それに反対した人たちが啓蒙思想の合理主義に染まっていた時期と重なっていたのは偶然ではない。(『クリスチャンであるとは』 pp.259-260)

                 

                個人的には、聖書無謬論も聖書無誤論も、結果としては、そう大して変わらないのではないか、と思っているが、この違いの議論が大論争を引き起こすことがあるらしいし、その香ばしい話題に関する書籍が、最近相次いで、2冊も出ている。それは、藤本満さんという方の書かれた、『聖書信仰』という本であり、もう一冊は、聖書神学舎教師会篇の論文集『聖書信仰とその諸問題』という本である。まぁ、後者のほうが、他の方のご意見に問題があるというようなものを指摘するタイプの本になっているように思うが、それはもう、一般信徒の聖書理解の問題にはほとんど関係のないところでの空中戦のような印象を素朴に持った。どちらかと言うと、藤本満さんの本のほうが読みやすかったと思う。まぁ、「聖書が正しいし、そこを基準にしないと何事も始まらない」と言わないといけないというような理解へのこだわりと、それを言わなければお気持ちが落ち着かないのかなぁ、という印象をもった。

                 

                個人的には、その手の議論をなさることも、もちろん大事なのだろうけれども、「それはそれで、我々一般信者と関係のないところで、どうぞご勝手におやりいただいて…」とは思う。

                 

                そのことについて、ライトさんは、「私の経験では、これらの用語についての議論は多くの場合、皮肉にも聖書そのものから人を引き離し、聖書を全体として扱うこと、すなわち聖書にある偉大な物語の持つもっと大きな目的、その力強いクライマックス、未完成の長編小説に組み込まれるような感覚によって、私達をその最終章の登場人物の一人のような思いにすることから離させ、あらゆる種類の理論の世界に引き込んでしまう」とあっさりとかわしておられる。こういう議論をスルーするようなことを書くと、大抵、真面目に議論しておられる方は、かえって怒り出されたりはするのだが、個人的には、まぁ、技術者でもあるので、このような実体から浮いてしまった理論の世界には、あまり関心が持てなくて、地上の生活で地に神の支配があることを示す生活をしていきたいなぁ、と思っている。この辺は、生き方の違いや、住んでいる世界の違いによる問題でもあるので、まぁ、その世界はその世界であっても良いけれども、そこは立場の違いということで過ごすのが良いと思っている。

                 

                教皇無謬論(教皇は何があっても間違い得ない)という世界観が、ある時代まで、支配的であった時代がカトリックの世界にはあったが、最近、カトリックの世界観も大分表面的には変化してきたなぁ、と思う部分があり、間違いは間違いとして、お認めになられるようになってきたような印象はある。まぁ、それに対して、不満をお持ちの方ももちろん、カトリックの世界の内部にはおられるとは思うけれども。

                 

                ここで、「聖書にある偉大な物語」とか「未完成の長編小説に組み込まれるような感覚」とか、ライトさんが書いているからといって、それがけしからんとご主張の向きもあるかもしれないが、基本的に、ここで「物語」と書かれているのは、昔話や推理小説のような、実在しない世界についてのお話ではなく、神がどのようにこの世界に関与されようとされたのか、ということの一連の細切れでない歴史的な連続体のことを指していると思うし、「神が関与されたこの地上での出来事に関する、細切れにせずに見ようとする歴史的連続体」と書くと、一般の人を遠ざけてしまうので、「物語」と表記しているだけではないか、と思うのである。「未完成の」ということに関しては、おそらく、正教会での講演で触れられた(その記録はこちら  大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意) )、エヒィエ・アシェル・エヒィエ問題と関係しているように思う。ここでは、そのことと関係しているに思う、ということだけにとどめておく。

                 

                ここでのキーワードは、「聖書に対するプロテスタント側のこの主張がおこったのは、カトリック側が教皇の無謬性を主張したときであった。また、それに反対した人たちが啓蒙思想の合理主義に染まっていた時期と重なっていたのは偶然ではない」という表現である。つまり、この無謬性とか無誤性の議論の背景には、結局啓蒙思想の合理主義の世界があるということだし、未だにこの節自体にこだわりたければ、こだわられることに異論はないけれども、これは、結局、近代啓蒙思想の合理主義の枠内にとどまっている、あるいはとらわれているということではないか、ということなのではないかなぁ、と思う。もちろん、学問が学問である以上、学問としては合理主義の理解の枠内で議論するしかないのだが、キリスト教の世界の全体として、それだけが問題であろうか、あるいは、理論的な論理、それだけで良いのだろうか、というライトさんのご批判のようにも思う。この辺が、単なる学者として過ごしていただけではなく、聖職者として、実際に信徒と向き合わなければならない経験がそうさせたのかなぁ、と思う。

                 

                学問が学問として進んでいくとき、現実的な問題から出発していても、現実とのつながりが薄れていくのは、どうしても仕方がない側面がある。学問は学問の論理によって突き動かされていくからである。典型的には数学などが関係する世界では、そのような側面が多少強く出る側面もないわけではない。そのことを、スィフトは、ガリバー旅行記の中で、ラピュタ人という世界を描くことで批判したらしいし、ジブリアニメの天空の城ラピュタは、それに触発されているといえるかもしれない。

                 

                ガリバー旅行記でのラピュタ人 天文観測しているので、首がかしげているらしい

                https://nevalalee.wordpress.com/2011/07/11/on-reading-your-novel-for-the-first-time/laputa-george-morrow/ より

                 

                天空の城ラピュタは皆様御存知

                https://www.fashion-press.net/news/16775 より

                 

                 

                数学の例で言えば、電球が切れる確率(故障の確率)が実用上重要であり、それがどのような関数式として表せるかと考えているうちに、では、2本同時に電球が切れる確率(2台同時に機械が故障する確率)を計算したいとかやっているうちに、より普遍化して、12本の電球のうち、6本の電球が同時に切れる確率とか、理論家としては、ありえないことを計算してみたくなったりするのである。それが学問の世界なので、仕方がない部分がある。この辺の学問と現実とのバランスを時々考えてみることは、技術者として、技術教育に当たるものとして、重要だとは思っている。

                 

                 

                 

                近代合理主義が教会に与えた影響

                近代の理性で理解しようとする議論をしていこうとした結果、教会で何が起きたのか、についても、ライトさんはなかなか辛辣な、次のような表現をしている。

                 

                聖書の特質についての特定の定義について言い争うことは、夫婦が力を合わせて子育てをし、子どもたちに良い見本を示すべきときに、どちらがいちばん子どもを愛しているかと言い争っているようなものだ。聖書は、神の民を整え、神の王国で神の業を果たすためであり、自分は神のすべての真理を把握しているとふんぞり返り、自己満足に浸らせるためではない。(同書 p.260)

                 

                カトリック教会は、自分たちの教えが間違っていないということを言うために、教皇無謬論を主張したし、プロテスタントの側では、自分たちは『聖書に従っている』限りは、間違うことがありえない、と主張するために、聖書無謬論を主張せざるをえなかったし、自分たちの主張の正統性を主張するために、聖書無謬論を一歩すすめて、聖書無誤論を主張せざるをえなかったのではないか、と思う。それは、その時代の社会の妖精に答えようとした結果ではあるとは思うけど。

                 

                その結果、自分たちが考えるところの聖書理解(これは、人間的な要因が解釈を通して紛れ込む可能性がまったくないと言うことは言い切れないように思うが)が本来、聖書が占めるべき位置を不法占拠せしめたり、聖書理解があたかも聖書の主張に置き換わったり、ある部分の聖書の主張をみないようにさせたりと、実に不幸な聖書理解を巡る無意味で空虚な論争を巻き起こしているようにしか思えないときもある。

                 

                旧約聖書の主要な主張は、イエスのことばによれば、次の福音その中の記述に要約できるだろう。

                【口語訳聖書】 マタイによる福音書
                 22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
                 22:35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
                 22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
                 22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
                 22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
                 22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
                 22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

                という記述の内容を明確に示し合っているべきでもあるにも関わらず、自分たちが大事だ、と思うあまりに、その大事だと思っている理論や理解ばかりにあまりにも目が奪われ、自分自身の理論や理解を手放すことができず、イエスが新しいいましめとして、弟子たちに示そうとされたことをほっぽりだし、お互いにじゃれ合うのならいざしらず、「あんたが間違っている」「そういうあんたこと間違っている」と言い合いしているのは、本当にどうか、と思う。

                【口語訳聖書】 ヨハネによる福音書
                 13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
                 13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。

                まぁ、その意味で、自分たちの理論によって、他者を切り捨てしあっている切り捨て教徒と呼ばれるキリスト教徒は、イエスから与えられた戒めを忘れ、自らイエスの弟子でないことを他者に認めさせるようと、躍起になっているように、ミーちゃんはーちゃんにはみえるのだが。

                 

                まぁ、時々、キリスト教会の中には、自分たちだけが正しい知識、真理を持っている、聖書はなんでも答えられる、教会だけが真理を持っている、とふんぞり返り、他人を愛することを忘れているかのような言辞が散見される教会も、ときにはみられるのであるが、「それねぇ、どうしたもんだろう」と思うことが少なくはないことだけは申し上げておきたいし、「それは実に残念なことだし、裸の王様状態で神のみ座にふんぞり返っているように見えなくはないけど」とだけ申し上げておきたい。

                 

                これで、ライトさんの本からの聖書に関する部分は今回でおしまいになります。

                 

                次回からは、ちょっと別の企画ものを入れさせていただいて、近日中に、また、ライトさんの連載に戻します。

                 

                 

                 

                 

                 

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                2017.03.27 Monday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その47

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                  今日もあいも変わらず、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことを書いてみたい。今日も聖書についての部分からご紹介したい。結構大事な部分ではないか、と思っている。

                   

                  聖書と霊感をどう考えるか問題

                  聖書は神の霊感を受けて書かれたという聖書の根拠は、

                   

                  【口語訳聖書】 テモテへの第二の手紙 3章 16節
                  聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

                  という聖書の言葉から来ているものと思われる。「霊感を受けて」というと、通常の日本語では、どうもビビビッと来ることや、やツボを売ったり買ったりすることや、足の裏を見たりすることを連想することが多いようである。

                   

                  ビビビ婚という語を有名にした松田聖子嬢

                  http://girlschannel.net/topics/293423/

                   

                  霊感商法

                  http://cosmetic-tsuruya.com/sagihigai/reikan.html

                   

                  クチの悪い友人によると、出会い系キリスト教徒と彼が呼ぶところの、すぐに霊感を感じる方々もおられるらしい。まぁ、一応キリスト教徒の中には含んでいるわけで、それが、異教だとか、異端だとか、とはいっていない、ということのようである。

                   

                  余談は別として、聖書と霊感の問題に関して、ライトさんは次のように書いておられる。

                   

                  「聖書の霊感」という考え方を擁護してきたかなり多くの人が、聖書を選択肢<2>の枠組みで見てきたのも事実である。それは、純粋な、「超自然的」介入によって起きたと考え、著者の意図など全く認めない。というのは、神と世界(人を含める)は、まったく異なった領域にあり、その間には大きなふちが横たわっているからである。それでも、聖書の霊感を主張して来た多くの人は、この枠内で何とか理解しようと試み、神がはるか遠くから聖書を口述したとか、遠い距離を埋める言語的な雷のように、著者を「突き動かした」と思い描いてきた。(『クリスチャンであるとは』p.256)

                   

                  ここで、”選択肢<2>の枠組み”と書かれているのは、理神論的な理解の枠組みで、神の世界と人間の世界は、断絶していて、ほとんど関係ない、という立場である。つまり、聖書の文言は、ほとんど人間の世界とは関係のないところから、降ってわいたようなかたちで、神からの一方的な超自然的現象としてやってくるのではない、とここでライトさんは、言っているように思う。そして、”選択肢<2>の枠組み”のような世界が幅を利かせた結果、かなり無理な説明が荒唐無稽な説明になってしまっているような気がする。理解しやすいものにしようとして、かえって理解しにくくなっているような霊であり、なんとか説明しようとして、外部から見た場合、無理に無理を重ねた結果のようで、笑うに笑えない、不幸な結果のような気がする。個人的には、「神秘なので、よくわからない」という方がよほど素直だと思う。

                   

                  九龍城砦のイメージが浮かんだ

                  http://sharetube.jp/article/2686/ から

                   

                  なお、個人的には、聖書と霊感の話はよくわからない、そもそも神秘なのだから、それがわかってしまったら、神秘でもなんでもなくなってしまうし、なんでも人間がわかってしまったら、人間は髪と等しいことになる、と思うのだが、どうなのだろうか。個人的にはわからないことは分からないが一番素直なような気がするが。理屈はなんぼでもこねられるが、それが正しい保証はなくて、こうだったらいいのにな、そうだったらいいのにな、の世界だと思う。

                   

                  そうだったらいいのにな 

                   

                  ところで、このような”選択肢<2>の枠組み”がキリスト教の世界に影響を与えたのは、近代という時代に支配的であった”科学的説明”が重要視されたこと、によるのかもしれない。この科学的説明の問題は、近代におけるキリスト教の世界に多大な影響を与えることになった。創造論VS進化論とか、科学と信仰の無意味な対比による議論とか、奇跡は起きなかった論争とか、聖書を切り刻んで最大公約数的な最小要素を見出そうとか、また、その反論としての聖書無ご論争とか、実に様々な試みがなされ、物語神学は、「物語として聖書を読むから…」とか、表面的な用語の誤解に基づく批判をする人々まであらわれた。実に不幸なことであったと思う。

                   

                  では、どのように考えたらよいのだろうか。

                   

                   

                  天と地が接するところでの

                  近似値を求めるようなものかも

                  数学の世界で、高次方程式の値を近似計算する方法に、テイラー展開とか、マクローリン展開とかがある。複雑な関数式だと、取り扱いが困難だあったり、計算が面倒なとき、複雑な関数式が微分可能であれば、高次の微分結果と値を元にした一次結合で複雑な高次式の関数式の近似値を求めるものである。一種接点における傾きを用いて、その関数式のある変数値に対する値を求めるようなものである。

                   

                   

                  マクローリン展開の基本コンセプト http://atarimae.biz/archives/10258 より

                   

                  ちょうど、聖書や、聖餐やバプテスマのような聖礼典(多分、サクラメントのこと)に預かること(正教会的には、領聖というのかもしれないが)は、神の世界でのできごとを、人の世界で覚えるために、マクローリン展開でもいいし、テイラー展開でもいいのだが、ある種の一次結合による近似値を求めることに近いのかもしれない。それは、そのものズバリの値を求めることはできないまでも、それに近い値を表現してみることと似ているのかもしれない。

                   

                  そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いておられる。

                   

                  ここでも選択肢<3>が解決を与えてくれる。聖礼典と同じように、聖書は天と地が重なり合い、かみあっている接点の一つであると見てはどうだろうか。他の接点と同様に、それは神秘的である。それがどうなっているかわかるわけではない。実際、確かなことに、それはわからない。しかし、他の考えでは説明しきれない大切なことが、選択肢<3>の枠内なら説明できる。(同書 pp. 256-257)

                  そもそも、人間が神の世界のすべてが完全にわかるようになったとすれば、それは、人間が神である、ということになりかねない。あるいは聖書の世界が完全に説明できる人物がいるとすれば、それは神なのである。父なる神なのである。前にも述べたように、人間の世界の言葉は、どの言語であれ、神のみ思いと神の世界を語るにはあまりにも不十分なものでしかない、ということなのだと思う。

                   

                  また、ライトさんは、「実際、確かなことに、それはわからない。しかし、他の考えでは説明しきれない大切なことが、選択肢<3>の枠内なら説明できる」という書き方をしておられるが、この考え方は、非常に工学的な発想だなぁ、とこの文章を読んだときに思った。

                   

                  自然科学者と工学者の発想の違いは、この辺にある。理屈をこねくり回して、確かなことはなにか、を重箱の隅をつつくように厳密に追いまくるのが自然科学一般が求めようとしているところであり、自然科学の系統の論文は、その結果として数式がやたらと複雑化する傾向が見られる。それに対して、工学は、実用上十分(目的が達成できる)ということであれば、それ以上の追求はやめてしまうので、割とあっさりしていることが多い。例えば、12本の電球をつけておいて、その電球のうち、六本同時に切れる確率とかいう事を考えるのは、数学系の統計学者が大好きな世界であるが、工学的には、そんなことはめったに起こらないので、実用上ないものとして良い、という対応を取って終わりのような気がする。とはいえ、技術系の関係者の中にも、この種の遊びに近いことが好きな人はおられるので、一概になんとも言えないことも確かだが。

                   

                  ただ、この選択肢<3>の説明を読んだとき、「なかなかうまい説明の方法だなぁ」と思った。たしかに理屈はいい加減にしている部分があるかもしれないけれども、うまく説明できているとすれば、考え方として考慮する必要があるのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思っている。この種のいい加減さを伴うものにたいして、うるさ型の人は、理屈で説明できないのだから、そんな議論は一個だにする必要はない、という方もおられるようだ。

                   

                  ところで、そもそも、もともとどうやっても理屈での説明は、いい加減にしかできないのだから、厳密にしてもしょうがないのではないか、と技術屋として思う。

                   

                  コミュニケーションと言語

                  コミュニケーションを行うのは、何も言語を介したものだけではない。映像でも、動画でも、図面でも、プログラミング言語でもコミュニケーションできるのである。例えば、建築家と建設業者や配管業者、配電業者は設計図を通してコミュニケーションしているし、画家と鑑賞者は、絵画を通してコミュニケーションしているし、映画監督と鑑賞者はスクリーンに映る映像を通してコミュニケーションしている。プログラミング言語は、第一に、CPU命令を与えるためのコミュニケーションのための言語であるが、例えば、後日、別のプログラマが昨日を追加したり、あるいは、他のマシンや他の開発言語で移植したりするときには、元のプログラムリストとにらめっこで、相手が何をやっているかを必死になって想像し、移植していくのである。

                   

                  物騒な話で恐縮だが、戦争も国家や武装集団との間の爆弾とか戦艦を用いたコミュニケーションの手段ではある。戦艦や空母をどこに移動させるか、ミサイル実験(人工衛星を打ち上げてみる)、というのは、現代の国家間での結構有力なコミュニケーションツールなのである。

                   

                  映画 13Days から 
                  ケネディが軍船の配置と海域封鎖を使ってコミュニケーションしていると海軍長官に叫ぶマクナマラのシーン

                   

                   

                   そのあたりのことを踏まえて、以下の文章を読んでもらうと、ライトさんがいいたいことの一端はご理解していただけると思う。

                  神はことばだけを特別視していないが、選択肢<3>から見れば、神が用いるレパートリーの中で、それは中心的なものだということができる。同時に次の理解を助けてくれる。すなわち、神がご自分の世界で働こうとするとき、神のかたちをになう被造物である人を通して働こうと願っているということである。しかも、できる限り人との知的な協力体制を望んでおられるので、すでに語ったり、なしたりした他の多くのことに加えて、ことばを、またことばを通したコミュニケ−ションを中心にしたいと望まれている。(同書 p.257)

                  ここで、ライトさんは、神のみ思いが地においてなされるためのしもべとして人間が用いられるため、”ことば”を使い、人間との知的コミュニケーションをしようとされておられることを、書いているが、このことは、聖書の一貫した主張である。創世記のはじめで、神の発言により、この世界に光が存在するようになり、ヨハネの福音書の冒頭でも、ことばの存在とことばが神から発せされたものであることが明確に述べられている。その意味で、人間との知的なコミュニケーションを神が重視しておられることは間違いがない。そして、我々は、それに対して、知的な応答を祈り(自由祈祷であれ、成文祈祷であれ、神の無限性と人間の有限性を考えれば、祈りに軽重や長短はない様に思う。どっちもどっちと思うが、個人的には、成文祈祷が好き)や賛美を通してしているのではないか、と思う。

                   

                  まぁ、コミュニケーション理論に関する本であることを標榜しながらも、最下部に上げてあるハーバーマスの本は、読者であるミーちゃんはーちゃんにとっては、日本語でコミュニケーションすることができなかった本の一つであった。

                   

                   

                  聖書と啓示

                  啓示というと色々なイメージがあるが、神から与えられた幻を見るというイメージから、それを文章にして起こすというイメージが、神が語られたことをそのまま筆記したとは言わないまでも、神が語られたことを元に、人間の言葉に置き換えていったということをお考えの向きもあるかもしれないが、いずれの場合にしても、ある情報が直接、神からやってきた、と想定していることが多いのではないだろうか。

                   

                  このあたりの啓示について、ライトさんは次のように書く。

                  問題点は、特に「啓示」とだけ聞いたとき、ある種の正しい情報の伝達だと単純に重いことである。確かに、聖書は十分な情報を提供している。しかし、それが第一にしているのは、神の召しだした民が、その務めを果たすためのエネルギ−の提供である。聖書の霊感について語るとは、そのエネルギ−が神の霊の働きから来ることを表現するいい方の一つなのである。(同書 p.258)

                   

                  十のことば(一般に十戒と呼ばれる)だけは、明白に石のタブレットに書かれたものをモーセ先生が貰ったので(とは言え、結局怒りに任せてすぐそのタブレットを割って、アップルケアのような保険がきいたのかどうだか知らないが、すぐにタブレットは再発行されるのだが)、多分、ヘブライ語で書いてあったか、あるいは、エジプトのヒエログリフ(多分これはないと思うけど)か、楔形文字で書いてあったのであろう。個人的には、楔形文字だと面白いなぁ、と思う。

                   

                  ヒエログリフとアルファベット http://www.funsci.com/fun3_en/writing/writing.htm より

                   

                   

                  そんなことより何よりも、聖書がなんのためか、ということが、「神の召しだした民が、その務めを果たすためのエネルギ−の提供である」という一文でライトさんによって、要約されている。では、その勤めとは何か、であるが、それは次のイエスに対する律法学者の次の言葉に要約されるだろう。

                  【口語訳聖書】ルカによる福音書 10章 25−28節
                    するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

                    彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
                    彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
                    彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

                   

                  つまり、人間が本来の姿を取り戻し、神の民として生きるためには、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。および『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』。以上終わり、とこの律法学者入っているし、イエスはそのとおりだ、といっておらえる。

                   

                  ただ、イエスはそのとおりだ、と言っただけでなく、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。および、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』を実践せよとおっしゃっておられるのだ。それは、つまり、主の祈りの通りを実践せよ、と言われていることのように思うのだ。人間だけの力ではやろうとしたら、一種の無理ゲーとなりかねないことを、神の力、神のエネルギーを受け、聖書に親しく触れる中で、神からのエネルギーを受けることで、神とともに(神の霊、すなわち聖神とともに)、おやりになさい、ということのようだ。

                   

                  何をしていいのか、何をなしていいのか、何を言うべきなのかわからないときに、支えてくださるのが、パラクレートスないし聖霊(聖神)である、ということなのだろう。

                   

                  そのあたりのことについて、ライトさんは次のように言う。

                   

                  聖書は参考書や百科事典のようなものではありません
                  聖書は、わかりにくく、読みにくい本だ、というお話はこのブログでも書いたことがある。教科書や学習参考書、サルでもわかるExcelのように、人間に神を理解させるための参考書のようなかたちでは、残念ながら書いてくれていないのだ。マタイの福音書の冒頭は、のっけから系図から始まっているし、創世記は一方的な宣言があった、そして、闇の中を照らす光があった、という福音宣言があったと書いているのである。

                   

                  聖書の世界にある程度慣れたかただと、参考書のようにどこに何が書いてあるか、この問題を解くのにどうすればよいのか、といった感じで読むのではなくて、いろいろな関連や自分自身の問題と照らし合わせて、この聖書箇所が何を言おうとしているのか、と丁寧に読むことも多いかもしれないが、聖書を時に名言集のように思っているのではないか、と思われるほど、切り貼りして述べられる方がある。
                  暗唱聖句大会ではあるまいに、これでもか、これでもかと、「くらえみ言葉攻撃」とばかりに、切り貼りした聖書箇所を言及する人もいないわけではない。それもまた、切り貼りされているとはいえ、神のみ言葉ではないとはいえない。しかしながら、その扱い方が適切かどうかには少し疑問は、個人的にはあるけれども。

                   

                  言い方を換えれば、聖書は、物事を調べ上げたり、正しく理解したかを確認する単なる参考資料ではない。それは神の民を整え、神の新しい創造と新しい契約の目的を果たさせるのである。また義のわざに就かせ、霊的なあり方を保たせ、すべての面での関わりを築き、推進させ、神ご自身の美しさをもたらす新しい創造を生み出すためである。(同書 pp.258-259)

                   

                  先にも、聖書は、人間を人間たらしめる書物であり、神の民が神の民として生きるために、イエス、聖書、聖霊(聖神)とともに人間に与えられたものということであるのだろう。そして、神の美しさ、正しさ、正義と公義のかけらのようなものを一瞬きらめくごとく、示すものだといえるように思う。ここで、「関わりを築き」という語があるが、まさに、神と人間が関わるところにあるのが、関わりであり、それがイエスであり、聖書であり、聖霊(聖神)であり、それに対する人間側の応答が、祈り、祈祷であり、神への賛美であるということであろう。つまり、関わりとは、天と地が噛み合っているということなのだ。その意味で、この部分はライトさんが何をいいたいか、ということを理解する上で、重要なポイントが、さらっと書かれているように思う。

                   

                  キリスト教信仰が、関わりと深い関係にあるのではないか、ということをお認めにならない方はおられないだろう。そもそも、究極の理神論のように神と人が交わらないようであれば、そもそも神とも関わりようがないし、神と関わることも意味を成さないし、祈りや祈祷をすることは、ツイッターで何かを呟くこととあまり変わらないことになるのではないだろうか。まぁ、ツイッターで下手なことを呟くと、鬱陶しいみなさんが「関わって」くださるので(いわゆる炎上するので)、違う面であまり愉快ではない感じで、神ならぬ人間と関わりを持つことになるのかもしれないが。

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:書いていることは面白いが読みにくかった。

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                  コメント:要するに一番言いたいところは、ここか、と思った。

                  2017.03.25 Saturday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その46

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                    今日も、たらたらと、『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことを書いてみたい。本当は『シンプリー・ジーザス』も出版されているので、そちらのご紹介もしたいのはやまやまだし、『シンプリー・ジーザス』はめちゃくちゃ面白いので、ぜひご紹介したいところである。近日中にまず全貌についての記事を書いて、同書をご紹介したいと思っている。

                     

                    それでは、気を取り直して、今日も『クリスチャンであるとは』のなかの、聖書についての部分について、ライトさんの記述からご紹介してみたい。

                     

                    古典学文献の中での聖書テキストの特殊性

                    もともと、一介の技術屋にすぎないので、古典学の知識はほとんどない。日本人だが、日本の古典文学は高校生時代の鬼門であったし、西洋古典も大学生になって日本語で拾い読みして、読んだ程度の知識しかないが、ここでライトさんが書いておられることについて少し思いを巡らせてみたい。

                    強調すべきことは、新約聖書本文に関する証拠は、どの古代文書の証拠とも全く異なるという点である。ギリシャの有名な著作家であるプラトン、ソポクレス、そしてホメロスの文書でさえも、ほんの一握りの写本が知られているに過ぎない。
                    (中略)
                    それに引き換え新約聖書に含まれる書のある部分、またはまるまるすべてについては、文字通り何百という初期の写本が残っている。それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にある僅かなことばの違いから、原典がどうだったかを極めることが可能なのだ。(『クリスチャンであるとは』 pp.252-253)

                     

                    聖書の写本は多いし、古代人(初期キリスト教時代)のキリスト者の手紙の中にも、新約聖書の記述が部分的に引用されているものが大量に残っているという意味で、そこからだけでも、もともとの記述をある程度推測可能であるのが、聖書記述である、ということらしい。要するに、プログラムなんかでも、コードの断片から、その昔のプログラマが書いた元のコードを再現してみることを時にしてほしい、ご依頼などがあり、そうすると、断片的なプリントアウトされたコードから、再現しなければいけないことがある。まぁ、ある程度、何をやっているのかがわかると再現できることは多い。とはいえ、こんな依頼が来た日には、ドキュメントを残してない元開発者を「責任者出てこい」と人生幸路師匠のように叫びながら、召喚したくなることが多い。まぁ、召喚したところで、大体最初のコードを書いた本人もうろ覚えなので、こんな依頼が来た日には、仕様を固めていただいて、一からコードを書き直させてください、とお願いすることにしている。

                     

                     

                    大体、昔のコードをそのまま動かそうなんて、そもそも、非常にめんどくさすぎる。そういえば、昨年末、10年以上前にミーちゃんはーちゃんが作成したコードのプリントアウトを学生が持ってきた。そのプログラムのリストは、同僚が、自己理解で、コメントをむちゃくちゃに書き替えた形跡のあるマクロ言語で書いたプログラムコードであった。そのコードのリストを、ある学生が持ってきて、「書いてある通り打ち込んだけど動かないんです」(昔の雑誌マイコンベーシック時代とかの世界ではないけど)と、苦情をつけてきたので、ロジック説明して、「自分でコード書いたら?」とご忠告申し上げたけど、結局、そのコードをそのまま流用した模様である。「半角、全角気をつけてね、カンマとコメント、そしてコメント行には注意しようね」と知恵をつけたら、それでうまくいったみたいである。

                     

                    プログラムコードが乗っていた時代のマイコンベーシックマガジン
                    (昔は雑誌に書いてあるコードを必死で打ち込んだものだった)
                    画像は、http://soratobucan.blog60.fc2.com/blog-date-20090329.htmlから 

                     

                    結局、そのマクロ言語によるプログラムが動かない原因は、半角スペースを使うべきところに全角スペースを同僚が入れてしまったために動かなかったという、ウソのような本当の話であった。プログラムコードの、半角全角スペースの違いは、言語形態によっては致命傷なのである。

                     

                    余談に行ったので、本論に戻すと、現代のデジタル時代でも、先にも述べた10年前のプログラムのように、プログラムなどのものは流用されるときに、全角、半角、カンマとピリオドなどのミスによって混乱で動かない状況が生じるのだが、デジタル技術、複製技術が限られる世界で、新約聖書に関しては、幾つかの誤りを含む複製から原本が復元できるということ自体、実際には驚くべきことだと、技術者としては思う。まぁ、それは自然言語の柔軟さ、というようなこともあるのだろうけれども。計算機はもともとが石頭なので、これぐらい許してくれよぉん、と思いながらも、その石頭に付き合っていることも多い。

                     

                    このあたりの新約聖書の古代写本にまつわることは、伊藤明夫先生の『新約聖書よもやま話』に面白おかしく(でも学問的な根拠をもって)、いろいろ書いてあるので、そちらを参考にしてほしい。

                     

                    聖書が成立する過程

                    最近のことが、あまりに普通に当然と思っていて、古代のことどころか、明治のころのことぐらいでも分からなくなっている例はたくさんある。

                     

                    たとえば、つい現代人は、明治のころにも今の日本人が食べている白ご飯と同じような白ご飯を食べていると思っているかもしれないし、コメはコメだろうという人もいるが、そうではないのである。多くは、明治後半から昭和時代、ある場合は平成時代に開発されたのが現代のコメの品種なのである。サツマイモだって、品種改良が進んでいるのである。

                     

                    あるいは、明治のころから現在のような平かな漢字交じり文で日本語が書かれていたと思う人がいるかもしれないが、明治初年のころは、カタカナ漢字交じり文であったのであり、現代の基準は、ちょっと前の時代にすらあてはめられないのである。

                     

                     

                    最近何となく聞かされることの多い教育勅語の最後の部分 (しかし、張り紙で修正してあるあたりが…)

                    http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/education/photo/saikasho/imgs/i_pop01.jpg より

                     

                    権威ある文書リストの確定を教会に迫ったのは、今日言われるように、社会的、政治的に受け入れ可能な神学を提示したいからではなかった。確定のための神学論争は、断続的にではあるが、激しい迫害を受けていた間になされた。(同書 p.253)

                     

                    ここで、重要だなぁ、と思うのは、生存に必死にならなければならないほどの、激しい迫害を受けていた時代に、正典論争がなされ、その中で、新約聖書27巻の書物の確定がなされたという、ライトさんが指摘しておられる事実である。聖書学では当たり前のことであるらしいけど。

                     

                    その意味で、命からがら状態で、逃げまわりながらも、必死で写本を残そうと努力し、たくさんのコピー(写本)を命からがら、自筆で手書きコピーしまくりんぐ、を当時の人々は、していたのである。今、街の本屋に行けば、聖書は、それも日本語化されたものがすぐに手に入るし、小学校や中学校の校門のところで聖書を配布すれば、その日のクラスのごみ箱が聖書であふれる世界に我々は住んでいる以上、当時のキリスト者たちの必死さは、なかなか理解できないように思う。そもそも論として、文字化される聖書テキストが羊皮紙という当時の超高級品に筆写されていく以上、聖書は、そんなカジュアルな感じで扱うようなものではなかったことだけは確かのようである。

                     

                    聖書翻訳について

                    先にも少し触れたが、今では聖書といえば、翻訳聖書がまずイメージされるようになった。情報へのアクセスという意味では、印刷技術の進展と、その後に生まれた情報技術の進展で、玉石混交状態とはいえ、この社会の中にある情報量とそのエントロピーは爆発的に増加したし、検索エンジンの存在により、情報へのアクセシビリティは飛躍的に向上したのである。

                     

                     

                    その意味では、インテリゲンちゃんにはつらい時代ではある。昔であれば、どの文書のどこに、どんな表現で書いてあるというのは、以前ならば、その本を読みこなし、その本にじっくり取り組んだ人しか知らない情報だったのが、今は適切に近い検索語をGoogle先生のサイトでぶち込めば、Google先生がBotと呼ばれるサイバー空間上をしらみつぶしに調べて回る電子空間上のロボットを駆使して、調べてくれる。その結果、今では「忘れられる権利」という語ができるほど、Bot君は頑張っているのである。

                     

                    教会史上、東方教会は聖書をギリシャ語で読み、西方教会はラテン語で読んできた。16世紀の宗教改革の偉大なスローガンの一つは、聖書はすべての国民に対し、自国の言語で提供されるべきだ、というものだった。それは今日、すべてのキリスト教世界で一般的に認めらている原則である。この聖書翻訳のうねりは、十六世紀、とくにドイツの宗教改革者マルティン・ルターと、イギリスのウィリアム・ティンデルがもたらした。そして1611年、英語圏で、欽定訳(「キング・ジェームス版」)聖書が採用されたことで、その流れは十七世紀の終わりまでに落ち着いた。(同書 p.254)

                     

                    翻訳されて、自分の身近な言語で読めるのは、ありがたいといえばありがたいが、ただ、それは聖書理解にバイアスが生じかねない、という側面をも持つのではないだろうか。古代語の意味を現代の別の言語による再現は、厳密な意味では、不可能であろう、と思う。現代の語であっても、単語、名詞ですら、人によって、地域によって、ある具体的な対象を指す語が違うからである。極端な例が、日本では出世魚であろう。なお、聖書には、出世魚は出てこない。

                     

                     

                     

                    出世魚の関西および関東での呼び方の違い

                    画像は http://www.padi.co.jp/visitors/column/sakana_7.asp から

                     

                    アラビア語では、これは、鱗のある魚というごで翻訳するのがせいぜいだろうが、逆に、アラビア語では、ラクダを表す言葉には数種類あり、日本では、ラクダは雌雄ともにラクダという語しかなく、オスとかメスとか、おとなしい、といった形容詞をつける事はあっても、オスのラクダとかメスのラクダを、それぞれ一語で表す語などはないのである。

                     

                    言語の基本となる単語ですら、このような状況ならば、翻訳されたものとは、ある意味で近似でしかない、と言っても過言ではないかもしれない。ただ、近似だからと言って意味がないわけではない、

                     

                    近似であると思って、自分の理解の助けに翻訳聖書を使うのと、それは翻訳聖書でも額面通り、全く誤りを含まない神の言葉だ、神の言葉そのものだ、と思って翻訳聖書を用いるのとでは、かなり違うように思うのである。

                     

                    アメリカにいたとき、N.I.V. を使っていた教会で、そこのPastorがふざけて、「N.I.V.は、聖別された聖書翻訳であるから、みなさんも、ぜひこのバージョンの聖書をお使いいただいて・・・」といって、笑いを取っていたことを懐かしく思い出す。

                     

                    ところで、聖書の言葉と日本語との関係については、岩波書店から出ている鈴木範久先生の名著『聖書の日本語』という名著があり、翻訳聖書が持つ問題などにご関心がある向きには、そちらをご覧になるとよいだろう。一応、日本語の聖書翻訳については、入門レベルとして適切な書籍ではないか、と思う。

                     

                    あと、聖書翻訳者であるウィリアム・ティンダルに関しては、非常に煩雑で、読みづらいとさえいえるほどの翻訳者註のついた『ウィリアム・ティンデル』という訳書もあるし、福音派的な聖書理解の問題にも少し関係する『捏造された聖書』という誤訳に近い邦題の付けられた書籍もある。ライトさんの著作でいえば、新約聖書をどう読むのか、に関しては、このブログでも、ちょっと前まで紹介していた『新約聖書と神の民』なども、非常に面白い。

                     

                    ところで、「信仰の書」としての聖書という側面もあるので、すべての聖書について書いた本に書いてあることに、同意はできないし、無理に同意する必要はないとは思うが、このあたり、自分自身の聖書理解を少し引いた立場から、いわゆるメタレベルから、なんとなく見ておくと、それはそれで楽しめると思う。まぁ、そういうことを楽しめない方は、無理してまで楽しむ必要はないので、今のお考えで、よろしいかと思う。より具体的には、「聖書はまったくもって正しい」というご主張をあえて変える必要もないだろう。「正しい」とはどういう意味か、ということもいい加減にしたまま。あるいは、「聖書に何でも答えがある」というようなお考えもまた、それは、それでよろしいのではないか、と思う。ただ、ミーちゃんはーちゃんの生き方とは違うだけではある、ということだけは申し上げておく。

                     

                    どうせ、何が正しいのかは、人間が集合的に決めたところで(いわゆる”科学的な、間主観的な対話による手法”で議論したところで)、本当のところは絶対にわからないのであって、基本、科学の世界で、妥当である(あるいは正しい)としていることだって、当面の議論を進めるうえでの合意事項として、互いに承認しているにすぎない仮説とか公理とか、定理の域を出ないのだろうと思っている。これらのものは、想定する世界とその前提が変わると、割とあっさり変わるものなのであり、ある前提の世界では安定的であるとはいえ、別の世界では、その”真理”と呼ばれるものが成立しないということは非常に多い。あまりこの種の科学の世界のことがお得意とはいいかねるような文系の方々が思うほど、科学の世界では、安定的で、万代不易なるものではないように思うのである。

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:非常によろしいか、と。

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                    2017.03.22 Wednesday

                    大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)

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                      今日は大阪ハリストス正教会で行われた春季セミナーで、ワシリイ 杉村太郎司祭がお話になられた講演会 「救いとしてのテオシス」というご講演の記録と、神戸外国語大学の清水俊行先生の「『聖人伝』を読もう、祈ろう、生きよう」というご講演の速記録から起こしたポイントをまとめたものを書いたいと思う。本日は、結構むちゃくちゃ長めであるので、面倒な方はお読み飛ばしいただきたい。

                       

                       

                      当日会場となった大阪ハリストス正教会のご聖堂


                      当日、会場でタイプを打ちながら、採録したメモをもとにしているので、当記事に纏わる誤りや誤解はすべて、要約者のミーちゃんはーちゃんによるものである。

                       

                       

                      テオシスって何?
                      まず、ワシリイ杉村司祭のお話からまとめてみる。ギリシア語のテオシスは、

                       

                      θέωσις,(ギリシア語表記)
                      Theosis Deification (英語表記)
                      神化(神秘主義) 神成(日本語表記)

                      とさまざまに表記されるが、一般に、「神化」という語が独り歩きしているように思われる。更に神秘主義と表記されることで、ややこしい問題が生まれかねない。テオシスがとてつもない修行をした結果、日常生活から遠い存在、無関係なものとして理解されている傾向があるように思われる。その意味で、これらの誤解は、「神化」という語が独り歩きした結果であろうと思われる。

                       

                      「神成」という表記は、正教会固有の用語であり、これもそのままの文字を見た場合、誤解を招きかねない概念を含みやすく、実際に誤って用いられることもある。


                      まずは、聖書及び聖師父から理解を進めていくことが重要で、ある面、聖書全部がテオシスのためのものだとも言える。聖書を読むということが、そもそもテオシスの中に巻き込まれていくということである。

                       

                      確かに、聖書の中にテオシスという語はないが 聖イリネイが正教会的伝統で、はじめて、テオシスを用いている。

                       

                      テオシスとは何か
                      共通するテオシスの側面についてふれてみると、神の教育的配慮と人間の成長であり、これらが一つのキーワードであるといえよう。


                      聖書を通して、正教会の祈祷文を通して出会う神は、抽象的、概念的な神ではなくて、我々が行きている歴史的世界の中に介入してくる神であるといえるだろう。この世界に介入してくる神が、聖書を通して、祈祷文(祈り)を通して示される神だといえよう。

                       

                      要約者註 

                      ここでの、天(神の世界)と地(人間の世界)の関係は、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』で言う、選択肢<三>であり、天(神の世界)と地(人間が活動する世界)が嚙み合っているということなのだと思う。あるいは、その幕が薄くなり、天と地が交わる世界で実現すること、といってもよいと思った。

                       

                      教育という側面でいえば、祈り(要約者註 祈祷文)と機密(要約者註 教会での礼拝行為 痛悔と赦し、聖餐、祈祷・・・)を通して、神の教育的配慮(要約者註 人間が神との関係を回復するため、本来の神と語り合う存在としての人間の姿を回復するための教育)があり、その一つの手がかりとしての教会の存在とそこでの機密(要約者註 儀式と儀式を通しての生き方の見直し)と聖書があるといえよう。

                       

                      神に触れ、神のいのちに触れることとテオシス
                      テオシスとは、神と出会い、神の生命に触れていくという二番目のテーマに触れていきたい。この中で重要なのは、神の像(ぞう)と神の肖(しょう)である。人は、神の像と肖によって創造されたという理解である。

                       

                      要約者註 この辺が正教会らしい理解であると思っている。この二つのものをある程度関連付けながら、分けて考えておられるらしい。この辺、聖化では厳密に分けて考えていない場合が多いような印象が、ミーちゃんはーちゃんにあり、この辺がウェスレー派的な聖化と正教会の伝統のテオシスとは違う、という理解につながるのかなぁ、と思った

                       

                      神の像と肖

                      神の像とは何か。まず、像とは、像はそれだけで、それ一つだけでは存在せず(要約者註 というか意味をなさず)、必ず像には、その像が指し示すものがある。像は、何かの像であり、神の像(かたち)に作られたということは、神を表すために創造された、ということであろう。その意味で、人は神との関係の中で作られ、神に関係した存在として作られた。

                       

                      神の肖に作られた、とういことは、神と似た存在として作られたということであるものの、神のような存在ではない。ここが重要なポイントである。似た存在というよりは、似たものと成るような存在として創造された(要約者註 ここが、テオシスの根拠となるポイントではないだろうか、と思う)


                      創世記の初めにあるように、徐々に似たようなものとして成るように被造されている。似たものとなるということは、全知全能なる聖三者(要約者註  三位一体の神)となるのではなく、神の関係性や神の性質を表現するものに成長していく、ということではないだろうか。

                       

                      人間の教育と人間の成長
                      人間に対する教育的配慮は、神の性質に似たものと成るためのものであり、重要なのは、祈祷文と機密ではなく、その教科書としてそれらがあるのではない。そうではなくて、祈祷文と機密が何を教えるのか、祈りや機密を通して、何に与っているのかが重要なのである。教育はある方向性を与えるものであり、神は人間に対して、祈祷と機密によって、教育を与えてくれる。

                      要約者註

                      この辺、プロテスタントの人は、人を教育するのは、聖書のみなのではないのか、とすぐテモテ書を引用したくなるだろう。しかし、ここでの祈祷は、聖書全体を関係づけた成文祈祷であるし、機密は、神がこの地でなした聖書に描かれている内容の身体性を持って表現・体験可能にしたものであるので、聖書そのものと個人的には、どう違うのか、と思う。かえって、聖書のテキストを意図してないとはいえ誤読して、聖書から離れた主張が聖書の主張であるとして、ご主張される方のご主張が披露されることが時に起こることを考えていくとき、説教中心のプロテスタントに固有に発生しがちな問題もあるのではないか、と思った。いわゆるプロテスタントの説教にあたるものが、祈祷と機密であり、更に聖伝ないし聖人伝だと思う。

                       

                      見ず知らずの教会に行って、自分とは全く関係ない人物であるものの、その教会やその牧師が信仰を持つうえで重要な働きをしたかもしれない過去の人の貢献を講壇から聞かされることは、20数年前にその場所にいた信者さんや、あるいは、その牧師だけが聖人と認めた人物の聖人伝を語っていることにはなっていないだろうか、と思う。現代に生きていると思われる方の教会での苦労話を長々と拝聴するということをあるプロテスタント派の教会で実体験したことがあるので、今になって思えば、その牧師さんは、近代の教会の聖人伝を、説教として語ったに過ぎなかったのだろうなぁ、と思う。

                       

                      聖書を通して、祈祷文を通して遭遇する神
                      聖書を通して、また、教会の祈祷文を通して、どのような神と出会っているかということであるが、その神は、癒しを与え、回復を与える神である。祈祷文や連祷を通して出会う神は、『生ける神』であり、我々の信じる神は、概念ではなく、生ける神であり、生命(いのち)を与える神なのである。

                       

                      神成(テオシス)ということは、誰かに超人的能力を与え、超能力者にしたりすることでもないし、ある人にだけ秘密の知識を与えたり、人に栄誉を与えるようなことではなく、神は人間に生命(いのち)を与える神であり、旧約から、新約聖書まで、生きている神が人間に手を差し伸べて、生きている神の証左が人間を通しても描かれているのがこの世界であると思う。このテオシスはある特別な人が起こすのではなく、難行苦行により起きるものでもない。

                       

                      聖書の中にその言葉が記載され、祈祷文の中で言及されている神は、すべての人に、生命への道を与える神であり、イイスス・ハリストス(要約者註 イエス・キリストのハリストス正教会的表現)を通してこの地に介入した神である。

                       

                      キリストが伝えようとしたもの
                      ハリストスが伝えたものは何だろうか。イイスス(要約者註 イエス)の誕生から、十字架、復活にいたるまで民衆や人々との出会いがあることがわかるが、ハリストス(要約者註 キリスト)が伝えようとしたのは、何だったろうか。それは、「あなた方に新しい掟を授けるといわれた」ということであり、その掟とは、

                       

                       神を愛すること、隣人を愛すること

                       

                      であった。その意味でハリストスは、愛を教えたといえるだろう。そのことを受け、正教会では、祈祷文と機密を通して、愛を育てていくようにされている。それが、祈祷文の中に込められているメッセージであり、また、機密を通して高められていく方向性は愛といえるのではないだろうか。祈祷文と機密を介した教育で、愛が必要とされる、ということをしめしている。

                      要約者註
                      繰り返して言いたいことだが、伝統教派、正教会、カトリック、聖公会では、祈祷文だけであると誤解しているプロテスタントの方が多いが、実はそうではない。これらの伝統教派の教会での礼拝は聖書を中心で運営されているのであり、聖書が読まれており、その解説を兼ねたかたちで、個人の魂や心や精神や思いを神に向けることが、プロテスタントでは説教で行われる代わりに、祈祷文によって行われている印象があるように思う。祈祷文も基本的には、聖書の文言を中心に編まれており、聖書がその中心にあることは記憶しておいた方がよいように思う。

                       

                      愛によって何が連想されるか。皆さんは恋愛や男女の愛情、親子の愛情などのことを思われるかもしれないが、聖書の神の愛、ハリストスの愛はちょっと違うものであり、本来の愛であり、全てのものを包み込む愛である。

                       

                      成長や教育という語の中には、人間が応答するという意味、あるいは側面が含まれているのであるが、神成(テオシス)とは、神の呼びかけに対する人間の応答の結果であるといえるだろう。

                       

                      創世記の中の神の呼びかけ
                      「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけは、アダムとエバの時からあり、すでにその時から、神は人間に対して呼びかけておられたのである。その呼びかけに応答するかどうかが、人間が成長していく上での機微をもつものであり、生命の道につながっていくか行かないかの微妙なところになっている。


                      人間は、神から与えられた自由意志に基づいて その応答をするかどうかを決めるのである。ちょうど、学校で、教員の指示に対して、どう行動するかは生徒の自由意志によることと類似している。神を愛し、人を愛するという事は、人間の自由意志に委ねられているのであるものの、神の側の人間への愛は、変わらないものである。


                      時に、教会に行く力も出ないかもしれない。そういうことはある。相田みつをの「だってにんげんだもの」ではないが、致し方のない部分がある。しかし、神の愛は変わらないので、そのようなことがあっても安心していていいし、我々人間への配慮を持って生きて、神は変わることのない愛をもって存在しておられるのである。その意味で、神は我らを見放さず、常に呼びたもうお方である。

                       

                       

                      相田みつを氏の「にんげんだもの」https://twitter.com/aida_mituwo_

                       

                       

                      神化、神秘主義とθέωσιςは違うことを言っておきたい。神化とか、神秘主義という用語を、正教会の研究者は用いるが、これらの表現は忘れてほしい。神の愛に与っていることそのものをテオシスというのであり、神のこの人間が生きている世界での道行きに参加することがテオシスなのである。

                       

                      その意味で、

                      聖書は、神からの愛のラブレターであり、
                      祈祷は、人間側のラブレターのお返しの手紙のようである。

                       

                      神はここまでするほど愛しているということを人間が覚えたときの反応が、祈祷であり祈りなのである。

                       

                      聖書の神であるハリストスは、人間の現実の肉体、この体をもって、神の愛に触れることができ、それが私達の目に見える形として、神の愛が明らかにされたものがハリストスである。具体的に神の愛に触れることができる、ということを伝えているのが正教会であり、機密(痛悔や聖餐式など)に与ること、祈祷文を唱えること、これらの身体性を通しての出来事で伝えているのである。手に届くところにあるものや具体的なものを通して、神の愛に触れるということを正教会では重視しており、それがテオシスという言葉である。これが一番伝えたいところである。テオシスということは概念でもなく、リアリティであり、リアリティを以て生ける神の愛に答えていく人間の姿がテオシスそのものであるといえる。

                      要約者註

                      具体的なものを通して、神の愛に触れるという意味では、正教会を含む伝統教派では、そのような具体性を持つスタイルで神のいのちに触れていくという性質をかなり強く残しており、また、日常生活を生きる中で、神の計画、神の御思いに信徒がみずから関与していくという側面も強く残していることはたしかである。プロテスタントの場合、具体的な形ではなく、言葉を用いる説教で、それを伝えようとしているような印象がある。その意味で、領聖生活と正教会の方が呼ぶものと、このテオシスは、一体のものと考えることができるように思う。

                       

                      神の世界に与るという意味では、ある面、神秘であるとはいえる。確かに、神の力は地上的なものを遥かに超えており、その意味では神秘であるといえるものの、一種、忘我的なエクスタシーとかいったものとは違う。むしろ、着実に、人間が生きている世界での日常生活を通して、神から与えられていくものがテオシスである。また、教会と教会生活を通して神の愛に参与していくのがテオシスということである。

                       

                      ところで、小祈祷書などはなんのためのものかといえば、日常生活の中で神への愛、人への愛を忘れないためのものであるといえるだろう。祈祷書はいつでも触れることができるものであり、神の愛にいつでも祈祷書を通して触れることができるためのものが小祈祷書であり、神の愛に答えるためのものである。

                       

                      神が人となられたということは、2000年前に起こった出来事だけではない。今も、この神が人となられた、ということは変わらない。復活に、今も変わらず、我らに復活の生命に与るべく神が招いておられるのである。パスハ(復活祭)は私達が肌で感いるためにその祭儀を実施するのであり、1回限りのものではない。教会が毎年毎年復活祭をするのは、神の愛が永遠の生命への道が与えられることを心と体を使って覚え、それに応答するためのものである。これが正教会の祈祷(要約者注 おそらく、祈祷及び機密、中でも聖餐式)の世界が示しているものであり、単に2000年前の出来事を記憶しているだけのものではない。神は変わらずに人間を神の世界に招いていることと、それに人間が応答することが今も許されていることを覚えるために、実施しているものなのである。

                       

                      エヒィエ・アッシェル・エヒィエ
                      少しややこしい話をしたい。用語自体は気にしないようにしてほしいのだが、この部分は、「在りて在るもの」と訳されているが、この部分は、正教会的な理解から解釈すると、「在ろうとして、在る者」であり、最初のエヒィエの部分は、未完了形を示しており、完成していない神の愛の姿が、この未完了形の中に集約されているように思われる。とはいえ、この未完了形は、神が不完全なものとは解されるべきではないことは、記憶されるべきことである。


                      神は超越的な高みから、この世界を眺めているのではなく、地上に現われ、十字架にかかり、復活の生命を示したお方であり、その意味で、外に出ていくという側面を持っている。

                       

                      ケノーシスという語があり、自己無化とか脱自的存在と訳されたりするが、神はある面で、脱自存在であり、高みにいて眺めているお方ではない。むしろ、この地上世界に下られ、人となった神であり、そこまでのことをしてご自身の愛を示された神である。その意味で、働きを持たれた神であり、人間のために神が働いておられるような神なのである。働きというのは、人間に対する愛の業を行っておられる、という意味であり、あなた方に働く神であるとこの未完了形の表現を通して、そしてモイセイ(要約者註 モーセ)を通して語りかけているのではないだろうか。

                       

                      要約者註

                      N.T.ライトsあん風に言えば、噛み合っている神であり、人間の世界と神の世界がインターロッキングしているという理解だろう。友人の大頭さんは、その大頭さんががぶり寄りして無理やり友達になったに近い岩渕まことさんに、インターロッキング音頭まで作成させ、歌唱させているが、岩渕さんご本人は大頭さんのがぶり寄りに巻き込まれておられるのだと思う。とは言え、恐らく、善意とその得のゆえに作曲と歌唱をなしておらえるものと拝見しているが、これはどう見てもやりすぎの様な気がしている。

                       

                      インターロッキング音頭(作曲 岩渕まこと 歌詞 大頭眞一)

                       

                       

                      ここでの未完了形を通して、生ける神であること、我々が、神の命に与っていくこと、そして、神の愛に噛み合っていく、関与していくことを望んでおられることを示しているのではないだろうか。


                      神の愛の姿が、エヒィエ・アシェル・エヒィエ の表現のなかにしめされており、すべての人に関与しようとしていることを、神はハリストスを通して示したし、聖神(要約者註 聖霊のこと)を与えることを通して、時代を超えて神の愛を示しておられるといえるだろう。これ以上に神の愛が示されているものはないから、聖書は尊いものである。

                       

                      多くの人は、捨てられないラブレターを持っているかもしれないが、それ以上のラブレターが聖書なのである。神が人間を愛しており、それは変わらないことが示されている。そのことを具体的な形で伝えているのが、祈祷文と機密であり、その二つが我々が神の愛に最大限応えられるための手がかりであり、すべての人に開かれている手がかりであり、その意味で、神秘主義とは言えないように思う。


                      司祭になって一年目であるからいうけれども、一人ひとりが聖人になることができる可能性をお持ちなのであり、聖人になるのは、誰にでも平等に与えられた可能性があるという意味では、すべての人は同じである。

                       

                      質疑応答
                      Q 聖書によって表現が違うことがあり、口語訳、新共同訳、文語訳などがあるし、最近では新翻訳聖書も出版されると聞いているが、これらの諸翻訳に対する正教会の立場は、どのようなものだろうか。


                      A 基本的には、正教会の立場とすれば、正教会訳を読んでほしいと勧めたいけれども、聖書にどんなことが書かれているかと知る機会は必要であり、その意味で、自分にあった訳語の聖書。他の訳語を用いた聖書に触れることは否定され得ないと考える。但し、訳語の用いられ方によっては、聖書の主張についての誤解を与えかねないものもあるので、全部鵜呑みにしないほうがいいかもしれない。とはいえ、いきなり正教会翻訳だと、今ひとつわかりにくいかもしれないので、聖書全体として、どんなことが書かれたかをまず知るためにもこれらの別訳を用いることは、妥当であると思う。

                       

                      Q プロテスタントで言う聖化という語や、 カトリックで言う完徳との違いは何だろうか。

                       

                      A まず、完徳について言えば、徳という語は、祈祷書などにも使われていることばとして存在し、非常に難しい。正教会が徳という場合には、神の生命に触れる生活のことであり、聖神に触れる生活から生まれるものであり、神の生命に触れたものが示されていくもののことである。その意味で、諸聖人の生活は、正にこれである。その神の生命に触れ、聖神(聖霊)と共に過ごす生活を、皆さんにも示されるかたちで生きた人々が諸聖人である。カトリックが徳の中にどの程度の意味を含めているのかによるが、場合によっては、非常に近い意味を持つものかもしれない。

                       

                      一方聖化について言えば、イギリス国教会の神学者である、ジョン・ウェスレーが主張したものであり、彼は聖師父や正教会の教えが含まれたものに触れており、その正教会の教えの中には、テオシスも含まれている。しかしながら、一方で、片足をプロテスタントに立脚しているところもあり、その範囲での表現を用いないといけないこともあり、聖化という語を使っている。この両者には、微妙に違うところがあるので、あえて、同じようなものだという必要はないかもしれない。

                       

                      Q 今もいつも世々に、という正教会の応答があるが、それは、エヒィエ・アシェル・エヒィエ を表すのだろうか。

                       

                      A 正にそうだと人間が言える応答のことばとして、そうでもある、ともいえるが、しかし、今もいつも世々には、神の側についての人間側の表現であることは忘れてはならない。

                       


                      要約者感想
                      前半部分の、テオシスとか、神のかたち(像と肖)とか、祈祷書の解説、聖人とのかかわりの部分は、正教会的であるが、そこを除けば、福音派での聖書に関する説教聞いている感じがした。しかし、神のかたちとか、祈祷書と祈祷書による神への応答は、正教会や他の伝統教派の根幹をなすものの一つであるようなので、それをプロテスタント教会のように除くわけにはいかないだろう。


                      丁度半年くらい前、今、定期的に参加しているアングリカン・コミュニオンの教会に行き始めたころ、説教の中や礼拝の一部として聖人の伝承が用いられたことがあり、個人的には、全く知らない世界だったので非常に印象深かった。(コメディアンの聖人がいるとか、という世界のごく簡単な手ほどきを受けた。なお、名前は失念したがそのコメディアンの聖人は、奇妙奇天烈な格好をして外部から社会の批判をすると同時に、金を稼いでは貧しい人のために用いたという聖人であったらしい)、最近はなくなってしまった。あれはあれで、非常に印象深かったことを覚えている。

                       

                      最後の聖書は神からのラブレターという表現は、昔教会(キリスト集会)で説教をしていた頃、何度か昔説教でこの路線に乗った説教をしたことがあるので、非常に懐かしかった。そして、神と共に生きるということの中に含まれる、ということや、神に従うものになっていく、という側面なども過去説教を担当していたときには、言及していたのである。元いた教会では、成文祈祷がないため、聖書を読むことと説教がその代わりとしておいてあったんだなぁ、と思う。ただ、質疑応答の中にあったように、翻訳聖書のみを通して聖書を理解しようとする場合、表面的な聖書翻訳の表現にこだわるがあまり、必ずしも、聖書が表象しようとする内容が適切に理解されないこともあり、かなり一方的な解釈も生まれる可能性があることを考えると、一人で聖書を読むということや、一人で祈りの生活に入ることは、ブレーキのない暴走機関車のような状態になる可能性もあるように思う。「聖書のみ」とは、いいつつも、それぞれの教会的伝統に支えられて生きる部分があることと考えた場合、正教会には正教会なりの聖なる伝統があり、プロテスタント教会には、プロテスタント教会なりの伝統があり、それぞれが聖書理解や信仰理解と行動についての行き過ぎを防いできた、ということなのだろうなぁ、という感想を持った。その意味で、プロテスタント教会の一部には正教会とかの伝統教派は正教会の聖なる伝統は否定するけど、自分の教派の伝統には、かなり無批判な気がする。外に出て初めて見えてきたことだけど。

                       

                       

                      つぎは、後半部分である。

                       

                       

                       

                      聖人伝を読もう、祈ろう、生きよう

                      神戸市外国語大学 清水俊行さんのご講演

                      本日は、聖人伝の一つとして、エジプトのマリアの聖人伝を基準に考えてみたい。この聖人伝は、大斎の中でも5週目の木曜日の早課で、司祭が聖人伝を読む習慣がある。


                      (ここで、大斎(要約者による注記 おおものいみ、と読む)が始まるときの鐘の音や大鐘が、徹夜祷の始まる前に流れる鐘の音のビデオ上映)


                      ユニゾン(単声)で流れている賛美歌が歌われ、ハリセイで知られている讃美歌が歌われる。大斎の5週6週はピークが来る。生神女のアカフィストの土曜日、エジプトのマリアの主日、ラザロの土曜日の礼拝など、様々な要素が盛り込まれている。

                       

                      エジプトのマリアとゾシマが描かれたイコン

                      https://jp.pinterest.com/edaviswatson/st-mary-of-egypt/

                       

                      木曜日の早課で、聖体礼儀がない日のノボスパスク修道院で行われる儀式で、3時間超の儀式であるが、この中で、聖人伝を前半部分と後半部分に分けて、説教のように、会衆に対面する形で、この聖人伝が読み上げられる。

                       

                       

                      諸聖略伝とは異なっていて、ユリウス暦の4月14日に読み上げられる長いバージョンの聖人伝である。この、エジプトのマリア伝は、大斎と結び付けられて異なる写本がたくさん残っているのである。

                       

                      砂漠の修道院で修行していたゾシマという司祭によって、このエジプトの聖女マリアの記録がされたことで、実在したことが示される。この聖人伝には、マリアの悔い改めの深さが表れており、極めて特殊な形態となっている。そして、この聖人伝は、正教会のエジプトのマリアへの敬意の大きさを示している。

                       

                      では、この聖人伝は、何を示しているのだろうか。彼女の敬虔さの大きさを真似ることはほぼ不可能である。なぜならば、我々は罪深いものであり、そのような状態にあるのに、いきなりこの聖伝にあるような祈祷生活だけを持ち込んでも、意味を成さない。


                      この聖伝によれば、エジプトのマリアは最初聖堂に入れなかったとされているが、荒野で過ごすという勇気と大胆さをもっていた人物である。

                       

                      5000人超の聖人

                      ところで、現在、ハリストス正教会には、5000人以上の聖人がいて、2000年頃に、聖人数は2000人ほど追加され、それ以前にも2800人ほどいた。その中には、カトリックも正教会も共通する聖人がいる。これらの聖人について、聖人伝が書かれるのである。

                       

                      中世の時代を生きた人たちは、聖人が実施したとされる不思議なことを疑問視せず、「合理的に説明できないから、信じられない」などといったことを言いたくなることについて、それほどの誘惑はなかったのであり、より素直な生き方ができていた、と言えるだろう。その意味で、聖書にかかれている内容である福音と後代に当たる中世の人々では、その人々の生き方が直結するような生き方をしていた、と言えるだろう。


                      痛悔をして許されているはずなのに、エジプトのマリアは、ポティル(聖体を載せている器)にたどり着くことができない。近づくことができない程罪深いものであったということが記述されている。

                       

                       見えざる力が働く、ということがあるのかもしれない。実際に、このような場面に講演者の方は出あわれたことがあったらしい。なお、エジプトのマリアは、正教的に理解し、彼女の罪のゆえに、聖体に近づくことができない、ということを知っていたということだろう。

                       

                      エジプトのマリアの聖人伝の位置付け

                      このエジプトのマリアの聖人伝は、神は万人に対して、エジプトのマリアのようなどんなに罪深い人にも、悔い改めの道を示されることを示している。この悔い改めにより、神の神秘に近づけることこそが恩寵であることを知っていた。エジプトのマリアの話のポイントは悔い改めなのだが、後に彼女は、導かれて荒野に入っていく。荒野の暮らしの中に入っていくだけの決意や決心をもっていたといえるだろう。

                       

                      長いエジプトのマリアの聖人伝のバージョンでは、虫と戦ったり、地を転げ回ったりの伝承を含むものも在り、様々なバージョンのものが存在する。このような多様なものが存在するのは、聖者伝文学の中での多様性を示すものである。

                       

                      祈っているエジプトのマリアの体は、水の上を浮いていたなどのものもあり。罪あるものから義人へと変えられていった事例として、エジプトのマリアを示している。このエジプトのマリアの例は、信仰により、180度転換することができた類まれな例を示している。この聖人伝の中で、主が彼女に呼びかけたということを、我々は無視できないのではないだろうか。

                       

                      文字通り、エジプトのマリアの生きたような生活をすることはできないだろう。エジプトのマリアは欲との戦いに持ちこたえた人物であり、俗世からの隔絶をすることと肉体の衰弱、消耗を経験したといえるだろう。このようなことのためには、食事の量を減らして、仕事の量を増やすことで、この地の中で自らを聖なるお方へと心を向けていき、みずからを無にしていくこと、自己嫌悪すること。みずからの肉体を弱らせることで、聖なるお方にゆだねようとしたのである。このような信仰の在り方を、俗世に住む人間としてどう考えるのか、ということは、この聖人伝から問われているのかもしれない。


                      それを具体的に俗世にいる人間がこのような俗世を離れるような経験を実現するためには、まず手始めに、生活様式を変えることで、俗世を離れることができるであろう(要約者註 正教会、カトリック、聖公会、プロテスタントのキリスト教徒の一部では、大斎の時期、レントの時期に、このような取り組みが行われることがある)

                       

                       生活を変え、みずからの姿を変えていくことが、アンドレイのカノンの内容として含まれており、俗世におけるみずからの生活習慣を捨て、行為を福音の命ずるように行うことを表している。

                       

                      聖人伝を日常生活で生かすには、生きるには

                      では、実際にどうすればいいのだろうか。自分にあった方法、作法で見出す努力をすることでできるのではないだろうか。朝晩の祈祷もその一つであろうし、早課のカノンを家で唱えることや、エフレムの祈祷を唱えるのはできるのではないだろうか。あるいは、些細な出会いの中で、他者から頼まれた小さなことを、着実にこなしていく中で、そのことをこなすことが、神と共に生きる生活に関与することできるかもしれない。

                       

                      注意深く見ていると、自分の生活の中に神の御思いを実現するきっかけが転がっていることに気がつくように思う。その意味で、日常の生活の些細なことに注目していく。ちょっとした時間に祈りの時間を持つことや、他者に仕えるしもべとして、なすべきことを自分自身に課していくことなどが、神に仕えていくことになるだろう。

                      要約者註

                      このあたりの、日常生活を丁寧に生きることは、実にめんどくさいことであるが、キリスト者としての忠実に誠意を持って生きることから考えると、そんなに変なことではないし、さらに言えば、丁寧にこの地上の生を生きることは、最近の霊性の神学で強調されているポイントの一つである。また、N.T.ライトさん風に言えば、神の御業を神から与えられた賜物で実現し、地に神の平和をもたらすことに関与していくこと、ということになるのだろう。

                       

                      罪の歴史を聖書からたどるアンドレイの大カノン

                      大斎の第5週の木曜日には、通してアンドレイのカノンが読まれる。このアンドレイのカノンをよく知ることで、どれだけ人間の罪があるのか、ということを理解することとなるように編成されている。このアンドレイのカノンは、罪という観点から見た旧約から新約に至る歴史の中での罪の歴史のなかで、すべての罪が書かれている。この人間の罪の歴史を思いながら、みずからの罪の悔い改めをするための手がかりであり、これらの歴史的な罪の記述を、単なる歴史的事実として回顧するのではなく、それらの事例に、みずからの罪ある状況に重ねて、悔い改めをするための手がかりとしているのであり、そして人間の歴史を振り返りながら、罪を悔い改め、神の世界への復帰を祈る、という構造になっている。みずからの魂の遍歴が大きなスケールの中で繰り返されていくことになる。

                       

                      その意味で、このアンドレイのカノンは、キリスト者全体に対してあらゆる罪を思い出させ、我々を悔い改めに誘う。カノンそのものは、我々を罪を定めるものとして、あるいは、罪を裁きの対象として示すのではなく、われわれの悔い改めによって転換していくような内容で、カノンの構造が構成されている。

                       

                      このアンドレイのカノンは、神が創造された世界での物語を逆に罪の側から描くものであり、良き福音の教えとは正反対に、人間が犯した罪からのよみがえり(回復)があることを描いたカノンになっている。その意味で、悔い改めによって、神と結びついていく世界を描いているものであるといえるだろう。

                       

                      このアンドレイの大カノンは、規模が大きく、聖書の物語を、人間の罪の歴史として読み直していて、別の物語として書き上げている。とは言え、この中で取り上げられている聖書の記述内容や個人名の中には、必ずしも有名なものばかりではないものが含まれる。

                       

                      ある面で、このアンドレイの大カノンを見ると、ある種の罪の百科全書と言う感じがするし、人間の罪の問題への嘆き、人間の弱さを描いている。当たり前のことだが、生まれてすぐの頃から成人になった人はいないように、聖人も生まれつきではない。罪のどん底から、神のかたちを取り戻した人、あるいは、蘇った人が聖人である。その意味では、聖人伝とは、人間の罪からの更正の物語であり、そして、罪からの更正は誰にでも起こりうるものであることを示している。

                       

                      福音書と関係づけられる聖人伝

                      現在、ハリストス正教会では、5000人以上の聖者がおり、その聖者に関しては、まず聖人伝が作られ、その聖人伝からカノンが作られることになる。そして、福音経(福音書、とその記述)と結び付けられて、この聖者伝が語られる。聖者伝の教訓が、福音経(福音書)の中でどう位置づけられるか、という観点から考えられる。

                       

                      マルコの福音書の10章のエルサレムに登るときの説教で、エルサレムの宮登りで、弟子たちがイエルサレムに登って、イエスが世俗の国家の王となったときに、自分たちを左右の代表者に位置づけられることを願っているが、それはとんでもない勘違いであった。イエスが主張した神の国とは、霊的な国家であり、罪を隷属させることで、神の国を救済するというものであった。その意味で、神の支配とは、神の国とは、罪を隷属化させ、罪を取り除けということであり、罪から離れる自由を求めよということであった。その意味で、神の国のことを弟子たちもよくわかってない状態であると言えよう。我々が求めるべきものは、天の王国である。

                       

                      信仰や悔い改めが、行動に現れなければ意味がないのではないだろうか。心からの悔い改めがなければいけないし、罪から離れたかどうか、罪から癒やされるかどうかを確認する必要がある。その意味で、そのことは、神の意にかなった生活をする、つまり、ハリストスに倣って自己犠牲を通過していく事が重要だと考える。そのためには、まず、自分の罪を認める事が重要であり、人間の力によって完成の域に達する、というようには、なかなか実際には、起きないのである。

                       

                      聖人伝と聖書の人物の伝承の混乱

                      エジプトのマリアとの関わりはルカ福音書7章36−50であるとされ、それは、涙でイイススの足を洗い髪の毛で香油を拭ったマリア(罪女)である。この罪深い女性であるとされた女性は、当時ありえないこととされていた、男性たちが食事をしている状態の中に無理やり入ってきた女性であり、当時の社会の中では許されない女性の行動であった。個々の話では、魂の食事と肉体のための食事が対比関係をなしている。 ここで、罪女が誰であるのか問題は、議論の余地がある。香油を持った女性たち(携香女)があり、マグダリーナは、7つの悪鬼を追い出された女とされている。

                       

                      そのマグダリーナについての西方の聖人伝の中に、このマグダラのマリアが荒野に行って修行することを記載するものがあるが、それは、エジプトのマリアの聖人伝からの流入があるのではないか、と思われるものがある。正教会の聖伝では、マグダリーナはローマで布教していて、ポンテオ・ピラトにあって話をしたことになっていて、このピラトとの話の中で、イエスは立派な人 であるとピラトが主張していた、と記録されている。そして、そのピラトとの対話の話を皇帝に伝えるときに、その皇帝のところに白い卵をもっていったのだが、ローマ皇帝が、そんな発言は、ここに持ってきたその白い卵が赤くならなければ信じないと、いったのに、その皇帝のところにもっていった卵が赤くなった、という伝承がある。現在でも、イースターの卵を赤く塗る伝統はここから来ていると考えられる。

                       

                      赤く染色されたイースターエッグ https://psalterstudies.wordpress.com/2009/04/07/red-easter-eggs/ から


                      祈り(祈祷文)と聖体礼儀が、東方での祈りの構造を成していて、これらの祈りも福音の教えと関連付けられている。 そして、エジプトのマリアのように、遜りを獲得すること、罪の思いを冷静に見ることの大切さを伝えていくのが、聖人伝の一つの役割ではないか、と思われる。

                       

                      アンドレイのカノン

                       

                      このあと、アンドレイのカノンの一部が上映された。(当日上映されたのは、上の動画ではなかった)

                       

                       

                      質疑応答
                      その後の質問タイムでは、次のような質疑応答がなされた

                      Q 教会スラブ語と現在のロシア語の違いはどのようなものですか。

                       

                      A 教会スラブ語は、スラブ人に伝えるための人造言語であり、もともと好戦的なスラブ人をキリスト教で強化することを目的として作られた人造言語であり、西スラブ、東スラブ、南スラブのスラブ語の中間的なもの。ギリシア語由来の言語もたくさんはいっていて、共通のキーワードが入っているものとして作られている。8割位は現在のロシア人が理解できるだろう。教会内では、各種のテキストは、教会スラブ語で読まれている。テキストとして提示すれば、現代のロシア人の半分くらいは理解できる。ちょうど、現代の日本で、ニコライ翻訳を初めて読む人が、その表現が日本語として分かりにくい、という程度の感覚だろう。

                      要約者註

                      この教会スラブ語に関しては、有賀力先生の『ヨーロッパとは』が現在の西洋に偏ったヨーロッパ理解やヨーロッパ意識とキリスト教理解を見直す上でも、非常に参考になるので、ご関心の向きには一度お読みになることをおすすめする。

                       

                      Q 現代のロシアでは、何パーセントくらいが正教徒なのだろうか。
                      A ソ連崩壊後の現在では、7割位は正教徒か正教にシンパシーを持つ人々であるようである。現在は、国教というよりは、 憲法として信仰の自由が認められたことで、他の宗教と同等の位置をしめている。とは言え、ロシア文学やロシア文化の基礎としての正教があり、国教としての意味がなくなってはいるが、正教会の伝統が重要であることには変わりがない。なお、経済的な制度などでの管轄上の問題があり、ロシアは土地の私有という概念がなく、土地は国家のものであり、教会の土地に関しても国有地であるので、いくつか管轄上の問題が現れることもある。現在では、政治的指導者のプーチンも好意的で、時々、教会での礼拝に参加していることが報道される。その意味で、表立った争いはないものと考えられるであろう。


                      Q 聖大ワシリイが示すように、一人ぼっちで修道するよりも、多数の方が謙遜を学べるのではないだろうか。そのあたりはどうお考えだろうか。

                      A 共同体的な院修的な伝統もあり、このあたり、砂漠の師父、師母のような一人で何でもしなければならない伝統とバランスさせる、あるいは、かね合わせる必要があるだろうし、そもそも、修道院長などからのよほどの信頼がなければ本来、砂漠の中の単独の修行はさせられないものである。その意味で、経験のある人の判断を仰がないといけないし、そうであっても、修行に出ていった人で、砂漠で死んだ人はものすごくたくさんいる。改宗者イオアンは、外に出ていくことを制限的にとらえており、外に出ていくためには、ある種の徳の高さと精神力の強さが必要であるとしている。

                       

                      個人的な感想
                      個人的には、全く聖人伝というものを知らずに、今日まで聖人伝を読んだことはないまま過ごしてきたが、今回参加して、ある面で、先輩たちが何をやって来たかを知ること、そして、聖人伝は自分自身の罪深さを考えるためのものであり、旧約聖書をプロテスタントは立派な偉人伝の光の部分だけを中心に見、その影の部分や負の部分をあまり見ない傾向があり、あるいは負の部分をあまり強調しない伝統の中で育ってきたのだが、今回のこの講演会に参加して、聖書などの登場人物が持つ、その負の部分をふくめて、神と人間の関わりを理解していく伝統を正教会はもっているのだ、ということを知ることができたことは、非常に意義深いことであった。


                      それと、この世界の中で、神に仕えるために、自分自身をきちんと見つめていくことを学ぶという意味で、大斎は非常に重要であることを覚えた。さらに、現代のプロテスタント側の霊性を重視するグループで、日常生活をゆっくり、じっくり、細かなところにも目配りしながら、丁寧に生きることを問いているところともつながっている部分があり、このあたり、正教会からの伝統を受けていると思われる。このあたりのことを指して、マクグラスが、正教会と現在のプロテスタントの福音派との対話が可能なのではないか、ということを主張しているのかもしれないなぁ、と思った。

                       

                      また、アンドレイのカノンの話を聞きながら、大きな旧約聖書や新約聖書の中の物語の中に入っていく、という世界理解というか、聖書理解の体系は、物語神学と呼ばれるグループの聖書理解のアプローチや、ライトの聖書理解と近いし、ライトの聖書理解に触れた人たちの一部が、正教会の伝統とその世界に惹かれていくのは、ある面当然ではないかなぁ、とは思った。

                       

                      結局、宗教改革の精神で初代教会の理解に戻ろうと思えば、どうしても、現状の教会だけではなく、コプト正教や正教会の伝統も参考にせざるをえず、もともと、宗教改革が、原点回帰という方向性を持つ以上、そのことを考えるためには、正教会的な伝統を参考にすることも必要になるので、それはある面、理の当然という側面もあるだろう。

                       

                      聖人伝の教育性というのは意外と重要で、ちょうど日曜学校の教材で、プロテスタント教会の信仰の偉人たちを取り上げるのと、聖人伝は、ある意味、あまり変わらないし、それらが聖書の文言と結び付けられている以上、一種の現代の聖人伝となっている部分があるかもしれない。

                       

                      ただ、少し気になるのは、プロテスタントでは明白に聖人伝だとは言わないものの、印刷されている本の中に、近世のある種の聖人伝のような出版物「聖書を読んだサムライたち もうひとつの幕末維新史」のような本もないわけではない。あるいは、ユダヤ人にビザを発給し続けた杉浦千畝氏に対して、いわゆるプロテスタント派の教会で言及される際には、キリスト者であることは強調されるものの、反面、ハリストス正教会の信徒であるお姿と、その信仰の姿を正当に示しているか、というと、そういうことは適切に触れられないままのことが多いようなきもする。あるいは、大竹しのぶさんのお母様の聖人伝もどきのようなものが説教の導入部とはいえ、勝手に語られるとか、こんなことは、実に残念なことだなぁ、と個人的には思っている。

                       

                      このような実在の人物が、何かテレビで取り上げられたとき、十分な調査を集合的にして、充分な集合的検討を経ることもなく、個別の教会で現代の聖人伝が時々、教会内で人びととの人間的なつながりを持つためという正当化のもとで、作り出されているとしたら、どうなんだろうと思ってしまう。確かに、正教会が維持してこられた聖人伝の中には、現代人に理解不可能な荒唐無稽と思えるような表現があることも確かであるが、その古代の聖人伝を保有し、大事にすることを批判的にどうのこうのと言及してみたりすることはどうかなぁ、と思う。

                       

                      また、一部のプロテスタントがきちんとしたことも調べもせずにテレビで見た程度のことや、ネット情報をもとに、教会で語ることをどう考えるのだろうか、とも思う。そして、そのような教会で、正教会的な聖人理解や、聖人伝に関しても、批判的な言説が述べられたことを、あるプロテスタント系の教会で聞いたことはある。

                       

                      また、間もなく来るイースターで、卵を赤く塗る根拠も調べもせずにプロテスタント派で採用したりすることって、どうなんだろうと思う。

                       

                      以上で終わりである。この記事、単発。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:別連載でおすすめしております。

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                      コメント:最近第4版が出たらしい。

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                      (2011-10)
                      コメント:もうすぐ、改訂増補版がペーパーバック版で上下に巻で出る模様である。

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