2017.03.01 Wednesday

2017年2月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

     

     先月は、13,840アクセス、平均で、日に  494.29 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
     2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

     2017年01月      22,158 アクセス (714.7) 
     2017年02月      13,840 アクセス (494.3)  

     

     

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

     

    アクセス数  446

     

    リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 上

    アクセス数    279

     

    リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 下 感想と、この本は誰のための本か

    アクセス数  259

     

    リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 中 用語と概念のご紹介

    アクセス数  212

     

    Ministry32号を読んでみた

    アクセス数  212
    でした。

     

    今月特徴的だったのは、定番商品の 現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が2ヶ月連続トップになっていることですねぇ。リングマ著の『風をとらえ、沖へ出よ』は良書なので、一定数の関心を確保したのは予想通り。『クリスチャンであるとは』のオンライン読書会ブログ版は、一定数を確保するものの、関心のない方にとってはダラダラと続くシリーズでしかないから、上位アクセス入りは難しいでしょう。コアなファンがおられるようですが。

    あと、最も以外だったのは、意外や意外、公開した当時は全く関心も持つ人がほとんどいなかったDoing Being Becoming Creating そして Recreationがトップ争いに今月もくわわっていました。

     

    2017.03.01 Wednesday

    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その38

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      前回はトピックス的に、最近出たMinistryの詳しすぎないように心がけた、ご紹介をいたしましたが、今日はまた、本題に戻って、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』からご紹介していきたいと思う。

       今日からは、祈りについての部分である。

       

      ライトさんによる主の祈り 略説

      冒頭に主の祈りがかかげられており、そしてその主の祈りについて、ライトさんは次のように書いている。

       

      もちろん、人それぞれに多少異なった訳の主の祈りを好んでいる。(中略)ただ、幾つかの問題がある。特に(『マタイ』『ルカ』及び初代教会で『十二使徒の教訓(ディダケー)』と呼ばれている書物において)この祈りのギリシャ語原点が全て同一というわけではなく、英語訳の用語もすべて原語に対応しているわけでなく、イエス自身が用いたと思われるアラム語の味わいを正確に再現しているわけでもない。しかし、それは問題ではない。表面的なことで惑わされないようにすべきである。(『クリスチャンであるとは』 pp.225−226)

       

      ここで、重要なことは何を祈っているかであって、それがどのような語であり、その祈りの先にあるもの、祈りの表現の先にあるものと我々がどのような関係にあるのかが重要なのだ、ということをここでも繰り返していっている。礼拝や聖餐のときと同じメタファー(礼拝での儀式に使うものがぶどう酒か、ぶどうジュースか、ホスティアか、パンか、パン種を入れたパンなのか、入れないパンをもちいるのか、は、礼拝そのものから比べたら、よほど重要性が低く、礼拝や聖餐そのものが指ししメス者に、着目すべきである、という立論の仕方をしている。それはそう思う。

       我々はあまりに瑣末なことばかりに目が生き、自分自身のやり方が良いと納得させようとするのである。ギリシア語だろうが、ラテン語だろうが、アラム語だろうが、日本語だろうが、大正改訳だろうが、口語訳だろうが、新改訳だろうが、新共同訳だろうが、そんなことはあまり本質的なことではないのではないか?というのが、ライトさんのお立場のようだ。そのとおりだと思う。

       

      ミーちゃんはーちゃんが育ったキリスト教は、かなり特殊なキリスト教であったように思う。こういう儀式的な祈りは祈りではない、成分祈祷は祈りとは呼ばない、という扱いをする教会群で育った。毎週のように、この主の祈りをすることはなかったので、未だに、主の祈りが新改訳風だったり、口語訳風だったり、ちゃんぽん状態になったりして、みんなで日本語で祈るときには、主の祈りを祈りましょう、と言われても、未だにまごまごしてしまう。困ったもんだ。今は、諸般の事情で、英語の式文の教会に行っているので、全部その日のバージョンの主の祈りが書いてあるので、迷うことはない。まぁ、Your が Thy となってたり、Forgive us our sin が Forgive us our tresspassesとなってたりする違いはあるけれども。

       

      まぁ、個人的には、tresspassesを使った祈りに触れたことで、あぁ、神の前の罪って、こういうことなんだなぁ、ということがよくわかった経験がある。罪とは、神の領域に不法侵入することなのだ。いわば米軍施設に不法侵入するようなものだ。いや、不法侵入しちゃうのが人間なのかもしれない。悪気なく。米軍施設の場合は、軍用犬に吠えられるならまだましで、銃殺されても何も言えない。

      No Tresspassingと書いた看板 http://imagict.com/ja/words/trespass より
      空軍の女性MPと軍用犬 
       http://www.usafpolice.org/k-9.html より
      主の祈り、そのコンテンツ
       主の祈りの内容とその意味について、最初にミーちゃんはーちゃんが考え始めたきっかけになったのが、N.T.ライト読書会であった。全く主の祈りを無視するかのごとくスルーした教会のなかにいた。一応、イエスが弟子に教えた祈りであるから重要、という程度が主の祈りの評価であり、主の祈りは一応、重要であるということになっているが、この祈りについての説教を教会でほとんど聞くことがない教会)で長年過ごしたものとすれば、テゼの祈りの会に言ったり、牧師さんの会に混ぜてもらったりする時に主の祈りをスラスラ言える人達を見て、すごいなぁ、と思っていたことがある。自由祈祷衷心であり、成文祈祷はメドゥーサではないけれども、医師のような祈りとか、死にかけているような祈りという認識でしかなかった。そこで、ライトさんの主の祈りの論文を読んだもんだから・・実に衝撃的でした。

       

      主の祈りに関しては、山崎ハンサム先輩と大頭先輩が呼ぶ、山崎ランサム和彦さんが次のようなシリーズを書いておられます。参考になろうか、と思います。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      さて、その主の祈りの文言を参照しながら、イエスが成し遂げられたことについて、ライトさんは次のように書いています。

       

      この祈りはすべての点で、イエス自身の行ってきた業を反映している。それは、一般化された意味での「神性」や「神的なもの」に対する一般的な祈りではない。典型的なユダヤ人の祈りではない。(中略)

      いずれにせよ、父の御名が崇められ、父の王国が天においてなるように地にもなる時が来たと触れ回ったのはイエスであった。荒野で、群衆をパンで養ったのは、イエスであった。罪人を赦し、イエスに従うものも同じようにするようにと語ったのはイエスであった。目をしっかりと開いて「試練のとき」の中を歩み、イスラエルと世界を襲う大波のような艱難を、そのすべての力を自分のみに負い、人々を救ったのは、イエスであった。神の王国の到来をもたらし、神の力を行使し、神の栄光を表すために死なれ、よみがえられたのはイエスであった。(同書 pp.226-227)

       

      イエス時代の当時の典型的なユダヤ人の祈りがどんなものだったかは、よく存じ上げませんが、殉教したと伝えられるユダヤの アキバ ベン ヨセフ (手島イザヤ先生ご指摘ありがとうございます。)ラビ、ベン・アキバ(似たようなこの名前を持つMoshe Ben Akiva と言う、実に恐れ入るような名前の地域科学の研究者がいる。その昔、論文を多数読んだ。)は、記憶が間違いなければ、殉教し絶命する時にシェマーを唱えていた、祈っていたという伝承があるとかないとか聞いたことがある。なお、シェマーとは、イスラエルよ聞け、で始まる申命記の部分である。

       

       

      【口語訳聖書 申命記】

       6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
       6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

       

      とりあえず短め、ゆっくりした発音のシェマー

       

       

      シェマーの祈りの祈り方 (別バージョン)

       

       

      ところで、神の国(天の国)が来た、と触れ回ったのはイエスである、とライトさんは書いているが、それはどうも、「父の王国が天においてなるように地にもなる時が来た」とまさしく、この主の祈りの中の文言の中に現れることが、この地に実現するということを触れ回ったということであるのだろう。どうも、イエスは、「将来、死んだ後、イエスに従うものは、天国に行ける」と言ったような、天国教の教えを説いたわけではない、ということをライトさんはここでも言おうとしているかのようだ。我々を神のみ思いの世界(天において、行われることを、我々が実際に行う、ということ)に参加し、関与させようとしている神のご計画のことをライトさんはここで言っている。イエスを信じるとは、イエスに倣うことであり、神のみ思いの実現に進んで関与していくことだ、と言っているような気がする。

       

      正に、主の祈りは、イエスの生涯そのものであったし、我々もそれに従うように、弟子として、神の荷姿を回復するように、この祈りの中に招かれている、つまり、主の祈りを唱える時に、ライトさん風の言い方をするならば、天と地が噛み合うということに我々が招かれており、その場所に我々は、招かれているのだ、ということなのだろう。単に死後の復活だけに招かれているのではなく、その前の神の支配、神の存在が我々に近づいたことを知らせること、さらに、悪なるものを赦し、和解をすること、神を愛するとともに、あなたの隣人、敵をも愛することに導いていることを考えると、実にものすごい内容を主の祈りは含んでいると思う。

       

      悪のはびこる世界の中での祈り
      残念ながら、現代の社会把握のはびこる社会である。その中で我々も、完全でない人間として行きなければならない。悪には勝てない、神に向かいつつあるものの、神ではない人として行きなければならない人間は弱い。実にか弱いものにすぎない。努力ではどうにもならない。神に煮るものとは完全になりえない。神に回復を願わねば、神との関係はすぐ崩壊してしまう。それが人間であると思う。そのために、主の祈りが必要だ、とライトさんは次のようにいう。

       

      私は、悪が未だに猛威をふるっているこの現実の世界に生きているため、守られ、救出されることが必要だ。そして、これらすべてのうちで、また全てを通して、私は父の王国、その力、栄光を認め、かつ誉め讃える。祈りたいことの殆どが、この祈りの中で扱われている。(同書 p.227)
      いま、言っている教会の式文では、聖餐の前に、この祈りをみんなで祈る。それは、非常に印象深い経験になっている。習慣としての祈り、祈祷のテンプレートだけに沿って祈っているわけではない。聖餐の前にこの祈りを唱えることで、この祈りと聖餐とがつながっており、キリストの体と地を取り込むことと、弟子となっていくことがかなり密接に結びついていることを感じるのだ。そして、我々が神を試みるものとはならないこと。つまり、イスラエルの民がマサで神を試みたように試みることのないように、神に願っているのが、この祈りでもあるということだろう。とくに、我々を試みに合わせることがないように、ということは、神を試み内容に導いてほしいということが、この試みに合わせないよう似、という祈りの文言に含まれているのではないか、と、巣鴨でのN.T.ライト読書会でライトさんが書かれたものには書いてあったように思った。まぁ、我らは、神を怒らせるようなことをすぐにやっちゃうものなのだろうなぁ、と思う。

       

      【口語訳聖書 申命記】
       

       6:13 あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。
       6:14 あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。
       6:15 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。
       6:16 あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

       

      主の祈りを実際には、どう用いるのか
      祈り方には、色々ある。祈りの言い方にも人それぞれという部分がある。主の祈りや沈黙の時間をあまり重視しない、キリスト教の関係者の集団の中で育ったので、ことばなしに祈るという経験はあまりしたことがなかった。前回の記事で言えば、祈りの中に余白を置かない、余白をあえて置かない、あるいはあえて神の前に沈黙せず、沈黙することに恐怖や怖れを感じるような世界の中で、キリスト者としての歩みを形成してきた。

       

       ゆっくりと祈るということが、ことばを味わいながら祈るということが、どちらかと言うと不得意なキリスト者人生を送ってきた。その昔は、ことば数が多ければ、・・・それが熱心であるかのように思っていた。そのような祈りについての感想を持っていた。しかし、レクティオ・ディヴィナという祈りに出会い、静かに静まって祈ることを覚えてから、余白を置くような祈りを覚えてから、祈りに対する考え方は少し変わったようなきがする。まぁ、馬齢を重ねただけのことはあったのかもしれない。神の恵みであったのであろう。
      ライトさんは主の祈りの用い方について、次のように書いている。

       

      ある人は、「主の祈り」をゆっくり数節づつ唱えては休止し、神の前に出て、その語っていることがもたらすものに浸るようにして祈る。ある人は、もっと長く祈るとき、そのはじめか終わりにそれを唱えることを好む。その祈りによって、他に祈ったことをすべて適切な文脈に位置づけたり、まとめたりするためである。ある人は「主の祈り」をゆっくりと、何度も繰り返すことで、神の愛と臨在の深みに入ったり、天との領域が重なるところに踏み入ったり、日々の糧、許し、救いをもたらす福音の力のうちに自分を浸す助けになる。
       いずれにしても、用いたいと思うやり方で用いるのが良い。今いるところから始め、導かれるままに祈っていくとよい。(同書 p.228)

       

      最近になって、「主の祈り」をゆっくり数節づつ唱えては休止し、神の前に出て、その語っていることがもたらすものに浸るようにして祈る ということの意味や味わいがおぼろげながら、なんとなくわかってきた。そして、「主の祈り」をゆっくりと、何度も繰り返すことで、神の愛と臨在の深みに入ったり、天との領域が重なるところに踏み入ったり、ということの意味や味わいがわかるようになってきた。神の愛と臨在の深みに入ったりということは、自分のうちに余白としての神の前に沈黙する、あるいは黙想するという部分を残すということなのではないか、自分の思い出語り尽くしてしまわないことかもしれない、と思うようになってきたのである。まぁ、自分自身が辛い時、余裕のないときには、そういうことは実際には難しいことではあるが。

       

      人それぞれは違うし、神の人に対する取り扱いも違うように思う。それは大事にしたほうが良いと思う。また、それぞれの教派的伝統もおあり、個人個人の信仰の背景も違うので一般化したことは言いにくいが、しかし、取り憑かれたように、短時間に何回繰り返すかを競うように祈る(それこそ、言葉数が多ければ、の世界であるが)のが全てではないのだろう。ここでは、浸すと訳されている語は、go down intoという語が用いられていた。それは、ある種、バプテスマの儀式とよく似ている。それもあって、浸すと上沼さんは訳されたのだと思う。

       

       神の前に、神とともに、神の深みとご自身の姿を捨てて、仕えるものの姿の世界をとられたキリストの姿の中に入っていくこと、それは、キリストのご生涯のクライマックスでおきた死の世界に入っていくことと深い関連があるのかもしれない。

       

       ハリストス正教会の皆様は、大斎(おおものいみ)の期間にお入りになられたし、本日はちょうど灰の水曜日である。イスラエルの民が、神の前に立ち返る際に灰をかぶって、悔い改めた姿を思い、我らも神の前に反省し、悔い改めを覚える日でもある。そのような受難節、レントの時期であるからこそ、天に登っていこうとする信仰ではなく、地の深みに下っていく、苦しみに向かって行かれたイエスの信実(信仰)を覚える意味でも、この主の祈りをゆっくりと唱えることで、そして祈りを通して神の深みに降りて行く経験は、案外大事なのかもしれない。

       

      なお、ミーちゃんはーちゃんは、本日、灰の水曜日の聖餐式に、夕方参加してきます。

       

      次回は、今回のおりていくという部分とも深く関係するため、この前参加した大阪ハリストス正教会で開催された大斎(おおものいみ)についての講演会の記録からご紹介してみたい、と思います。そして、その後、また改めて、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の連載に戻ります。

       

       

       

       

       

       

       

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      価格: ¥ 2,700
      ショップ: 楽天ブックス

      評価:
      来住 英俊
      女子パウロ会
      ¥ 810
      (2007-06)
      コメント:入門書としては、最高。実際にやって見られることをおすすめしたい。できたら、司祭などのディレクションがある方がいいとは思うけど。

      2017.02.27 Monday

      Ministry32号を読んでみた

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        N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の解説をしてみることも個人的には面白いのだが、今日はちょっと箸休め的にMinistry32号から紹介してみたいなぁ、と思う。この号がまた、いつものように良いのである。この号の特集テーマは、教会を開く、というものであった。地域に教会を開く、という試みをしている例がいくつか紹介されている。例えば、代官山ノエルとか、たかとりコミュニティセンターとかの事例紹介とか、熊本の日本キリスト教団武蔵ヶ丘教会の記事や、名古屋の大須の街なかにある教会のメンバーでもある、教会ホームページ作成会社の代表の丸山さんなどの記事などが出てくる。

         

        前回のテーマは「ヲタクとキリスト教」あるいは、「ヲタクとしてのキリスト教」であったようにおもうが、今回のテーマは、『教会を開く』というよりは、『(教会から)出ていって戻る』ということかなぁ、と思った。 それは本ブログで今月紹介した、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』(あめんどう刊)とも響き合う内容であったように思う。なお、同書については、Ministry32号でも紹介記事がある。


        出ていって戻る教会
        まず、今回印象に残ったのは、街中を巻き込んで市民クリスマスなどを通り越して、街中をクリスマス・イベント会場化した代官山ノエルについてのインタビュー記事の中に記されている、ある教会の役員のこの言葉であった。

         

        一連の変化を、教会員はどう受け止めているのだろう。同席したある役員は、「これまで教会を開いたのはバザーやコンサートぐらいでした。『外に打って出る』教会の方向性は、本来のあるべき姿だと思います」と好意的だった。かつては地元に住む教会員もいたが、最近は遠くから通ってくる信徒が多くなったため、地域とのつながりは希薄になっていたという。(Ministry Vol.32 p.7)

         

        外に打って出る』つまり人々のところに、これまでは信徒が遣わされていたが、この際、共同体として教会全体が遣わされていく、ということを『外に打って出る』ということで、多分表現しておられるのだろうなぁ、と思った。「教会を開く」だと、どうしても、お籠もり型というか、教会に来てもらってなんぼの世界であり、教会にやって来いの世界が待っている感じがするが、出て行く「外に打って出る」教会というのは、人々のところに行って、キリストをご紹介する、キリスト者としての生き方を外部世界の方々にも見てもらって、キリストに不十分な我等であるが、そこに存在しているはずのキリストに出会ってもらおう、という感じになるのだろうと思う。

         

        中世の西洋都市や橋頭堡のような日本の教会
        個人的には、これまでの日本の教会は、地域社会の中における、西欧の中世都市のようなものだと思う。その昔、ミーちゃんはーちゃんは、都市計画の勉強をかなり真面目にした。その時、藤森照信さんという方の書かれた本の、明治の東京計画という本を読んだことがある。その中で印象的だったのは、中世ないし近世の都市と城郭についての西洋と日本の違いということであった。同書の中では、西欧型(大陸型)都市は、非常に強い卵の殻のような所々に空気穴がちょこっと空いたような城壁を建て、それにより外部からの侵入者から内部を守り、外から都市を攻撃するものに対応するための施設を作り、街全体をぐるっと回り込むようにして防御するように設計する。また、橋頭堡も敵地の中の上陸地点として作るので、堀や壁を作る構造にならざるをえない。

         

        しかし、日本型の都市は、ちょっと違うのである。藤森さんの本によれば、日本型の都市は、キャベツ型であるとされていた。一応防御は柔らかに対応しているものの、その防御は柔らかいキャベツの葉で重層的に包み込むようにして都市とお城を守るようになっているという。実は日本の城下町の寺院は、そのキャベツの端を支えるキャベツの葉っぱの軸みたいな役割を果たし、出城の役割を果たせるように配置されていることが多い。

         

         

        姫路城 http://www.wikiwand.com/ja/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E から

        確かにのの字のように、お城を取り巻く街がぐるぐる巻いている感じになっている

         

        江戸城 古図  http://www.arcgis.com/apps/MapJournal/index.html?appid=952c9f55f20f446ca248460dbcb4e322

        (上の図をクリックすると、インタラクティブに遊べます。)

         

         

        日本語の近代の国家理解(都市理解)による聖書の誤読
        日本の都市では、市民は戦争が始まると領主と一緒に戦わず、戦闘員以外の民は、手前勝手に逃げる、という設定になっているので、お城の中の人と市民が協調して戦うという思想がない。しかし、エリコなど旧約聖書に出てくる都市やイタリアの諸都市は、市民とその地域の王や領主が共闘する運命共同体的戦闘ということになっている。そのために市民も籠城戦になれば王たちや武装勢力と一緒に戦うのである。その市民の中には、教会も入る。教会や地域社会という運命共同体が先にあって、それに領主が乗っかっているという構造になっているように思う。血を流して戦うような都市間戦争が近代では、もうなくなったので、領主と市民についての関係について、そのような印象は一般の方々には、ほぼもう無いだろうが。

         

        ラファエルによるエリコの落城の絵画 

        http://www.art-prints-on-demand.com/a/rafaello-santi-raphael/raphaelthefallofjerichoc1.html

         

        指輪物語での城壁攻防戦のシーン

         

        そもそもこのブログは、余談だらけの記事だらけなので、あまり気にはしてはないが、かなり重要な余談として言えば、このあたりの都市居住の伝統というか現代の日本と聖書の世界の地域における文化習慣がかなり違うので、神の国(神の(都市)国家、神の支配)と言った言葉の中核にある意味は、かなり日本語的な語感と文化的コンテキストのイメージを前提として読むのと、新約聖書や旧約聖書が書かれたヘブライ語なり、アラム語なり、ギリシア語なりの語感と文化コンテキストで読むことの間にかなり違いが出るように思うのだ。なお、旧新約聖書時代の国家は、ある種の運命共同体としての基本都市国家のはずで、近代の国民国家ではないはずであるが、時々、それを国民国家の路線で理解している日本人キリスト者も少なくはないように思う。

         

        国民国家なのに都市国家風 トランプ大統領の壁
        もう一つ、書きながら思ったことは、ドナルド・トランプアメリカ合衆国大統領がメキシコとの間に万里の壁(The Great Wall)を作るというのは、金をかければ技術的には可能であるとは思うが、基本的に彼の世界観がかなり中性的なヨーロッパ的な都市国家のイメージで、アメリカ合衆国という国民国家(それも移民によって成立してきた国民国家という血縁とか地縁とか言った現実に根ざす共同体を持ち得ないかなり仮想的な制度)とを混乱して構想しているのではないのか、という疑念がある。都市国家概念で語っているのならば、外の世界と内側の世界を厳密に分けることにならざるをえないように思うのである。以上余談。

         

        出ていくための場所としての教会

        ってくる場所、家としての教会
        教会が「外に出ていく」、あるいは、教会全体が外に遣わされる、というのは面白い発想だなぁ、と思った。現在、アングリカン・コミュニオンの教会にほぼ毎週通っているのだが、その教会では礼拝の最後は、いつも、この教会に集まった人たちに祝福があるように、とはあまり祈らない。

         

         

        礼拝の締めの言葉は、多少表現が違うこともあるのだが、

         

        Go in Peace, to love and to serve the Lord,

         

        と司式者がいい、それに参加者(会衆)が

         

        in the name of Christ.  Amen

         

        と応答し、Go in Peace to love and to serve the Lord, in the name of Christ.という文章を完成させるかたちで礼拝そのものが終わる。そして、この言葉を応答する時、自分たちは、神を愛することを表現し、神に仕えるために、この世界に派遣されているのだなぁ、と毎週感じながら、家や職場や、地域での生活に出ていくのだなぁ、という印象を強く持つ主日を過ごすさいわいを感じている。

         

        教会の中での余白を考えたいなぁ
        その意味で、日本の中世及び近世都市の設計が城壁で内と外をきちんと分けるような構造になっていないように、そもそも、すべてのものに白黒つけず、どこからがうちで、どこからが外で、ということをファジーに処理しているような日本社会だと、ここからが教会です、とか、ここからが教会外です、みたいな白黒つける存在の仕方は、あまり賢いとはいえないのかもしれないなぁ、と思ったのである。

         

        つまり、わけの分からない余白というか間の部分を残しておくこと、それって日本社会の中で神の支配を伝える上では、案外大事なのかもしれない、と思ったのである。とは言え、日本は明治以降プロテスタント型教会がその成立に大きな影響を与えた、西洋に倣うタイプでの近代化を目指してきたので、どうもこの手の余白を残すタイプの方法論に対して疑問がつく人々も多いのではないだろうか、あるいは、日本の現在の多くの教会は、ことばで塗りつぶそうとしてきた部分もあったのではないか、と思う。余白というか、沈黙というか、Silenceというか、静まりというか、神が働かれる部分というか、神と出会う部分を残すということは案外大事なのかなぁ、と最近は、The way of the heartと言うナウエンの薄い本をよみながら、思っている。まぁ、このタイプの本は、宣教地である日本のプロテスタント派の皆様方には、理解されにくいのかもしれないが。

         

        ウィリアム・ウィリモンと言う説教者であり説教学の偉い人らしい方がおられるが、以前Ministry誌で紹介された説教なんかは、突然終わって断絶を感じさせるタイプの断絶をもって、空白の部分、余白の部分を生み出していたように思う。その意味で、西洋近代式の伝統にあっては、それ以外の余白の生み出し方がないのかもしれない。それとは違った余韻というか余白の残し方が別にあるのではないか、とは思っている。

         

        ルオーの絵のような説教
        個人的には、お考えと違うところもあるかなぁと思うところもありながらではあるが、その存在を尊いなぁと常々思っている朝岡勝さんという方が今回も寄稿されていたが、そこでは、賛美歌でほぼお腹いっぱい状態の若者に、それでもあえて説教のことばを届けようとするご努力をされた状況のことが、ご自身の経験として書かれていた。それを読みながら、西洋近代風の説教と言うか、西洋絵画の行き着いた先にある絵画のような、油絵をこれでもか、と載せていくタイプの絵画である、ルオーの絵画ような重厚な説教だったんだろうなぁ、と思った。まぁ、若者には貪欲に消化する体力があることが多いので、貪欲な若者向きの説教であったし、それに朝岡さんはお答えになられたのだろうなぁ、と思った。それもまた、若者に向かって、そして、神の言葉に貪欲な若者という存在に向かって、外に出ていく、ということなんだろうなぁ、と思ったのである。実際、寄稿文の最後あたりの部分で次のように書いておられる。

         

        祈りと黙想を重ねて、そのテキストを通しての神の語りかけを聞く。これらの作業をすすめるに当たっては、まことに充実したツール(引用車註 ギリシア語やヘブライ語の聖書やコンコルダンス、注解書など)が揃っている。それらを駆使して、テキストに固着して対話を続け、さらに黙想を重ねて語るべき「ことば」を獲得していく。(Ministry Vol 32 p.62)

         

        ルオーの絵 https://jp.pinterest.com/THartdiva/georges-rouault/

         

        水墨画   伝 宮本武蔵画 古木鳴鵙図 http://photo-tetujin.sblo.jp/article/28313845.html

         

        この絵の話でも明らかなように、どちらがいいという話ではない。要するに個人の好みの話であって、個人的には、語りすぎない説教もありだ、と思っているだけである。まぁ、聖書の中身の殆どない、前の一週間の業務報告で埋めたような説教は、お断りだと思っているけれども。

         

        もう、老年に向かいつつあるミーちゃんはーちゃんは、脂っこいフランス料理とかは無理になりつつあるので、けつねうろんのような教会で過ごしたいでござる。関西の教会の愛餐の定番料理、けつねうろんを教会に食べに行きたいわけではないが。関西人なので、けつねうろんは好きだが。

         

        けつねうろん  http://magomagom.exblog.jp/12218479/

        阪急三宮駅のフレッズ ベーカリーという パン屋で売っていたきつねうどんパン のポスター
        http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1406/12/news135.html から
        (カレーうどんパンのほうが美味しかった記憶がある。きつねうどんパンとカレーうどんパン、の両方食べたことがある。)

         

        教会が外に出ていく、とかいうことを書くと、行きっぱなしになるのではないか、と一部の方々はご心配になられるかもしれないが、それは行きっぱなしとなることは、決してないように思う。外に向かって出ていったら、また戻るのである。ちょうど、エジプトに行った、ヤコブとその民がアブラハム・イサク・ヤコブの地に戻ったように、行っては戻るのである。バビロンの地に行ったままではなく、バビロンに連れられて行ったアブラハム・イサク・ヤコブの民がその父祖の地に神のもとに戻ることは必要だろうと思うし、戻るのである。あるいは、放蕩息子のように行きっぱなしではなく、放蕩息子は戻るのであり、エマオの途上でイエスに出会った弟子がイエルサレムに戻るように、行ったり来たりすることが必要なのであるし、その意味で、聖書の物語と我々が生きている物語は行ったり来たりの物語なのではないか、と思うのである。


        外に出て行き、戻ってくる世界
        外に出ていく、ということで言えば、本ブログでも、以前、比較的あっさりしたご紹介をした聖書信仰に関する本がある。

         

        藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1) 


        藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり

         

        藤本満著 『聖書信仰』を読んだ のコメントにお応えして

         

        これも一種従来の「聖書(逐語)無誤論」や「聖書(逐語)無謬論」という枠組みから外に出ていかれるような印象を与えるほんではあるものの、基本確実に聖書に戻る本であった。この本をお書きになられた藤本満さんと編集委員の平野さんとの対談の中での、平野さんの次のご発言が非常に印象的であった。

        外からは「教理の理解が違うのに一緒に説教が作れるのか」とよく言われます。たしかに教理論争をはじめたら一緒に勉強できないかもしれません。しかし、生活の場で丁寧にテキストを読んでいく時に、ことばが通じ合うんです。それぞれの教派的個性を失わずに、教会という場、現代という社会的なコンテキストの中で神学していくという可能性があるんだろう、と思います。(Ministry Vol 32 p.39)

        このなかで、「教理の理解が違うのに一緒に説教が作れる」ということや、「現代という社会的なコンテキストの中で神学していく」ということは社会の中に、教会の外に出ていくような説教をつくる、ということだろうし、その上で、「教会という場、(中略)で神学していく」ということは教会の中の世界に戻ってくるということではないのかなぁ、と思った。

         

        第2特集 沈黙

        もう一つ、特集として組まれた、沈黙という映画は、ちょうど世俗の仕事がピークを迎えた時期であり、余裕を失っているので、未だに鑑賞しに行けてないが、一度生鑑賞してみたいと思っているので、詳しい論評は避けたいが、いろいろな情報を得た範囲で考えるに、映画の中で描かれたキチジローやロドリゴという司祭たちは、旧約聖書のイスラエルの民のような人物なのではないか、と思っている。正に、神から離れ行きながらも、神に立ち戻る人物たちの一つの姿として描かれているのかなぁ、と思うのである。


        まぁ、実際には映画を見に行ってみて考えたいと思う。

         

         

        ということで、いつもよりは、詳しすぎない紹介にしたつもりだが(編集長、いつもすまん)、今回は非常に印象的なテーマである「教会から出ていったあと、教会に戻ってくる」が全体を通して流れていたと思う。


        この号は、ご一読をおすすめする。前号も面白かったけど、全面にヲタクセンスが立ちすぎて・・・(個人的にはそっちのほうが好きだったけど)

         

         

         

         

         

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        コメント:これは、前の号

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        コメント:大変よろしいか、と思います。

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        2017.02.25 Saturday

        N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その37

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          今日もいつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、面白いなぁ、と思ったことについて書いてみたい。今日もまた、聖餐の理解についての部分である。個人的には聖餐式が大好きな聖餐マニアなので、今日の部分なんかは面白かった。


          聖餐式の誤解について

          パンを裂くことと『献げもの』(Offering)との間にどのような意味があるか、ということに関する部分で、プロテスタントはプロテスタント風の行き過ぎがあるようだし、カトリックはカトリックで行き過ぎがあるようなのだが、聖餐の理解をどうするか、ではなく、聖餐という儀式そのものが指し示そうとしていること、そのものに着目してはどうか、というのがライトさんの主張のようである。ライトさんは次のように書いておられる。

           

          これらのことを踏まえた上で、ぜひ検討してみたいことは、あるクリスチャンの伝統がしてきたことだが、パンを裂くことを『献げもの』と語ることに、どのような意味があるか、という点である。そのことは、結構長い間議論されてきた。そして、二つの誤りがなされてきた。第一に、献げものは、旧約聖書の中で礼拝者が神の好意を得るために「行う」ものだと思われてきた。それは正しくない。
          それは、ユダヤ人の律法そのものに対する誤解から来る。そこでは、献げものは神によって求められてはいるが、感謝するために捧げられたのである。神を買収したり、神をなだめたりするためではなかった。(中略)
          第二は、パンを裂くことと十字架刑によるイエスという献げものとの関係が終始混乱してきたことである。カトリックは通常、それは一つのことで同じだという。それに対してプロテスタントは、その見解はかつて一度なされたために二度と必要のないことを繰り返すようなものだと反論する。(中略)
          このような不毛な議論は、天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあってひとつになるという、大きな絵図から礼拝を考えることで乗り越えられると私は信じている。聖書的な世界観(現代の思想は、かつて程、それを否定したり、無視したりはしない)では、天と地が重なり合う特定の時間と場所では、イエスと聖霊がその指標となる。(『クリスチャンであるとは』pp.221−223)

           

          旧約聖書の規定(律法)をよくよく考えてみると、大贖罪日とか、和解のためとかに献げものが神の前に捧げられているのを確かに見る。いちばん有名な献げものは、もうすぐやってくるイースターとも関連が深い、過ぎ越しの祭のときの献げものが思い浮かぶ。その過ぎ越しの祭は、神が過ぎこされたことを喜び、開放され、旅にこれから出ていける、という意味での祝祭の要素が強いはずなのだけど、とは思うのだが。

           

           あるいは、和解のために献げものにしても、和解したことを喜んでいる儀式のはずなのに、なぜか、相手をなだめるための儀式として理解されているのはなぜなのだろう。

           

          ノアが大雨の後ささげた献げものは、これ以上大雨を降らせないために、神様に納得してもらうための犠牲ではなく、それこそ、被害を起こさないようにお怒りを問いてもらうための献げものでもなかった。大雨が終わったことを素朴に喜んでいることを示すためのような気がするんだけどなぁ。

           

          献げものについて

          日本の神道的な世界での献げものとか、バアルの礼拝の一環としての献げものは、お怒りになっている神々をなだめる、いわば賄賂みたいなところがある。これあげるから、悪いこと起こさないで、とか、これあげるからいいこと起こして、とか言うところがないわけではないように思う。

           

          まぁ、日本の神の場合は、基本が悪しきことを起こす祟り神という存在として理解されているので、そうなるのはわかる。ヤマタノオロチもそうだし、この時期受験との関わりで、とくに参拝者の増える菅公様とか天神様として知られている菅原道真公信仰も、基本的に祟り神信仰に出発点があるように思う。しかし、菅原道真公は、学問ができたから、ということもあるためか、現在、学問の神様、ということになっているが、本来は都に災いをもたらす祟り神としてなだめるべき対象であったのである。

           

          菅原道真公を祀る太宰府天満宮(受験の神様をお祭りしている、とされている神社)

          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE より

           

          菅原道真公絵巻の一部

          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F より

           

          なお、ミーちゃんはーちゃんは、太宰府で売っている梅ヶ枝餅は結構、好物だったりします。

           

          梅が枝餅  https://matome.naver.jp/odai/2146599453661136601/2146599774564446703 から

           

           

           先にも少し述べたが、聖書でささげもの、と言ったときには、基本的にCelebration、つまり祝祭の側面が強いように思うのだが、聖餐式という祝祭については、その祝祭の前にイエスの苦しみの方にばかり目が行きがちで、本来の目的である祝祭という側面がかなり希薄な気がする。昔は、かなりそのような理解の傾向が強く、喜びの結果としての献げもの、祝祭としての献げもの、という概念はあまりなかったように思う。いくつか、キリスト教会と呼ばれたところに行ったが、この祝祭としての献げものということをあまり感じた教会は少なかったように思う。まぁ、真面目に静粛にしているという事が日本の教会では、多いからかもしれない。

           

          バッハ作曲 音楽の献げもの

           

          聖餐式のパンに関する理解いろいろ

           ローマ・カトリックの理解では、聖餐式のパンとイエス様は同じで、それは神の臨在を表すという理解であられるようなので、パンがあるところが聖なる場所、ということらしい。この辺はよく知らないが、確かに聖餐式にもちいるパンがイエスの実在だという理解がカトリックの世界には、どうもあるらしい。このお正月にお知り合いになった、あるプロテスタントのグループから、カトリックに移籍された信徒の方にお会いしたが、その方がいまだにかなり違和感があるのは、この聖体であるパンがあるところがキリストのおられるところであり、キリストのおられるところは、このパンがあるところだ、という理解だそうらしい。化体説を取ることからの延長の理解なのかなぁ、と思っている。この辺は、実はかなり微妙だけれども、どれか一つの理解で全て説明し尽くそうという近代の時代の中で、発展し普及した理解なのかもしれないなぁ、と思う。個人的には、すべてのことは言語や理屈で語り尽くせないから、そこは、そっと触らずにおいておくのが良いようにも思うのだが。


          天と地、神の未来と現在という組み合わせの二つが、イエスと聖霊にあってひとつになる、ということは、大事だと思うのだなぁ、聖餐は、まさに我々のうちに、パンを口から取り込むことで、パンという物質が象徴するイエスを我々が取り込み、うちにいてくださるという意味で、一つになる、すなわち、天に属するイエスと地に属する我々が一つになり、そのことを天に属する聖なる神(聖神あるいは聖霊)を通して、神と我々がひとつになることを求める(礼拝する)ようになるという意味で、天と地はたしかに、聖餐式において一つになっているように思う。

           

           ここで、「天と地が重なり合う特定の時間と場所では、イエスと聖霊がその指標となる」という表現は、実に味わい深い表現だと思う。ここでは、指標 Key markersという語が用いられているが、それは、他のものとは異なるものと区別できるような印象的な特徴あるもの、ということだろうし、区別することができるような特徴といったような意味ではないか、と思う。それは、特徴としての跡(マーク、ないしマーカー)、神によってつけられた手の跡のようなもの、神が残された痕跡といったものなのではないか、と思うのだ。

           

           この間、あるユダヤ学関係の人と話していた時の話が印象的であった。たまたま、なんで陶器の話になったかは忘れたが、陶器の話になった。その時お互いの頭のなかにあった聖書のテキストは、この聖書箇所だったと思う。

           

          【口語訳聖書 イザヤ書】

           64:3 あなたは、われわれが期待しなかった恐るべき事を

             なされた時に下られたので、山々は震い動いた。
           64:4 いにしえからこのかた、あなたのほか神を待ち望む者に、このような事を行われた神を聞いたことはなく、耳に入れたこともなく、目に見たこともない。
           64:5 あなたは喜んで義を行い、あなたの道にあって、あなたを記念する者を迎えられる。見よ、あなたは怒られた、われわれは罪を犯した。われわれは久しく罪のうちにあった。われわれは救われるであろうか。
           64:6 われわれはみな汚れた人のようになり、われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。われわれはみな木の葉のように枯れ、われわれの不義は風のようにわれわれを吹き去る。
           64:7 あなたの名を呼ぶ者はなく、みずから励んで、あなたによりすがる者はない。あなたはみ顔を隠して、われわれを顧みられず、われわれをおのれの不義の手に渡された。
           64:8 されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。

           

           

           

          我々は、神という陶器師に作られたものであり、陶器が一つとして同じものがない(安物の陶器は別として、そこそこの値段のする陶器は、ほぼ同じ形で作られていても、完全に同じものはないし、同じ形であっても窯の中でどの場所に置かれるか、窯の温度の上がり具合によって、灰のかぶり方によって、実に一点一点違う形になっていく。それと同じように、陶器として例えられた人間は神の手形が、その人の中の出っ張りやくぼみのように残っているカスタムメイドの存在である、ということについて、その方と少し話していた。我々には、神のマーカーが、見えないマーカーがついているのではないか、と思う。

           

          陶器  http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=G5749 より


          そのマーカーが付いたものが集まってきて、マーカーを与え給うた神を礼拝するという、実に面白いことが礼拝のときには起きているのだと思う。

           

          あるいは、マーカー、目印という意味では、ミーちゃんはーちゃんは、街を歩く時、あるいは車で街を運転する時、幾つかの特徴的な建物や印象的な景色やお店を目印、マーカーとして使うことがある。それは、迷わないための工夫であったり、目的地に到着しやすくするための工夫でもある。マーカーと目的地の位置関係を思い出しながら、目的地に到着しようとすることが多い。イエスや聖霊は、神を拝する、神と一つになるという目的地に達するために用いる目印(マーカー)と考えると、わかりやすいかもしれない。


          不毛な議論を避け、

          儀式が指し示そうとするものと向き合うことの大切さ
          礼拝が天と地が交わる、重なっているということを考える時、何を見るべきか、礼拝という儀式で指し示す者を重視すべきであって、そこでのスタイルとか、何をどうするのかに、必要以上に引きずり回されてはならないことに関して、ライトさんは次のように書いている。

          こうした理解が、礼拝についての全ての考え方、教会で行われる聖礼典についてのすべての議論に、正しい枠組みを与えると私は信じている。それ以外は、枝葉、好みの問題、それぞれの伝統、さらに言えば、個々人の好き嫌いであり(自分の好みについて人はそう呼ぶ)理屈に合わない偏見(別の人の好みについて人はそう呼ぶ)である。
           すなわち、この食卓にまつわる不毛な議論をすることで、自分を見失ったり、礼拝の中心行為を十分味わうことから遠ざけられたりしないようにしよう。(同書 p.223)

          まぁ、人が一番議論しやすいのがここで言う枝葉の部分であることは間違いない。それは参加者全員が見えるし、そのことについて云々(デンデン)することは容易だからである。しかし、それは、好みの問題、伝統の問題だ、と言っておられる。一番受けたのは、「個々人の好き嫌いであり(自分の好みについて人はそう呼ぶ)理屈に合わない偏見(別の人の好みについて人はそう呼ぶ)」という表現である。実にブリトン人らしい皮肉である。個人的にはこういうクスクスっと笑える表現は大好物である。


          ところで、多くの場合、教会で不一致や揉め事が起きるのは、この枝葉の問題、好みの問題であることが多いのは、30余年という短い信仰生活でも思い知ってきたところではある。キリストが神である、とか、キリストが何者であるか、ナザレのイエスは十字架の上で死んだ、というようなことを巡って、論争が起きることはめったにない。割りと些末な技術論で揉めること、瑣末なことを針小棒大にしてしまっていて、そこに「聖書的」とかいう理解を持ち込もうとするから、枝葉末節にすぎないことの議論に振り回され、揉めるだけだなぁ、と思う。実に不毛だと思うことが多い。

           

           ライトさんは、枝葉末節の議論に振り回されるよりも、その本質のところにあるもの、礼拝が指し示す、神の臨在をもっと味わおうではないか、と書いておられる。しかし、ミーちゃんはーちゃんを含む多くの人々は、不毛な議論のほうが議論にとっかかりやすいから(と言うよりは、議論をふっかけることが簡単だから)、つい、こういう不毛な議論の中に陥って、自分を見失ったり、あるいは逆上したり、居丈高に声を荒げたりしがちなのである。実に残念であるが。

           

           

          http://www.resologics.com/mediation/ から

           

          まぁ、枝葉末節の議論は、わかりやすいし、容易に議論に参加しやすい。しかし容易に議論しにくいような問題、例えば、教会がなんのためにあるのか、ということ、何のために自分は教会に行くのか、教会とはなにか、といったような問題は、じっくり考えたほうが良いかもしれない。これは簡単に答えが出ない、紋切り型の答えでは、その問いに答えたことにならない。時々、簡単に答えが出しにくいことと向き合ったほうがいいのかもしれない。

           

          ただ、こういう答えが出しにくい問題といつもいつも向き合っていると、気が狂いそうになることは論を俟たない。そのためには、時々自分勝手に、神に議論を勝手に吹きかける、問いかけるのをやめ、一人静まって神の前に出るしかないのだと思う。神の前に問いかけるのをやめ、静まったから、と言って答えがすぐには見つからないだろう。しかし、ことばの支配や論理の支配から抜け出すためには、時に、あえて、ことばや論理を使うのを一時的に止める必要も、時にはあるように思う。

           

          次回へと続く。

           

           

           

           

           

           

           

          2017.02.22 Wednesday

          N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その36

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            まぁ、いい加減同じような話を繰り返しているので、呆れられている方もおられるとは思うが、ミーちゃんはーちゃんにとっては、面白いんだからしょうがない。今日も、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』から読んでオモシロイと思ったあたりのことを書いてみたい。


            聖餐式のコップ論争
            プラスティックのコップなどうのこうのというところについて、前々回少し議論を拡げたが、アメリカにいる時、あるキリスト教書店に行った時に、こんな商品がおいてあったのでびっくりしたのである。

             

            ホスティア付き聖餐式キット 

            http://www.celebratecommunion.com/prefilled-communion-cups-with-wafers-free-sample-box.html 

             

            プラスティックカップのみならず、聖餐式のパンまですでに封入されて、これだけ貰えれば、一人で聖餐式ができるようになっている。アメリカ人らしい発想の商品だなぁ、と思ったことがある。ぶどうジュースとパンをセットにして封入しているのである。

            おそらくは、ラジオで説教聞きながら、会堂に入らずに礼拝をするような教会とか、メガチャーチとかで、パンを配るのがものすごく大変な教会とか、そういう教会のために開発されたものではないか、と思う。まぁ、ここまで、やるか、と思ったけれども、行き着く先はここなのだろう。

             

            お友達のミゾタさんが調べ上げたところによると、聖餐式のコップを分けて、銘々皿ならぬ銘々コップにしたのは、どうもアフリカ系アメリカ人差別が関係しているのではないのか、ということであった。一種人種差別と関係しているかもしれないというニュアンスがあるのである。本当にそれが原因なのかどうかについては、今のところ保留している。

             

            以前、同信会さんというエクスクルーシブ・ブラザレン系の教会の歴史が同信会関係のサイトに上がっていたところでは、割と古くから、別々のコップ(と言うよりは個人専用の湯呑み)がそこでは使われていたことが記載されていた。それは、どうも、昔は日本人の死亡率の堂々の第1位出会った結核(労咳)の感染を防止するためであったと書いてあったようなきがする。

             

            このような伝染病を始めとする社会的な問題と聖餐の問題はキリスト教の礼拝の儀式の様式に影響を与えていることは少なくないと思う。ただ、問題は、どのような方法でするかとか、どのようなスタイルでやるかということよりも、その象徴的なものが何を指し示しているのか、ということの理解であって、かたちそのものではない。ともすれば、どんな様式でするかにばかり、我々は目が行きがちであるが、何を見るべきかに関して、ライトさんは次のように書いている。

             

            ぶどう酒のグラスとプラスチックカップのことに戻ってみよう。ある教会では、(いわば)最高級のグラスを購入しても、ぶどう酒の質を誰も気にかけないことがある。同様に、グラスをやめプラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。 (クリスチャンであるとは p.221)

             

            外形的なものも重要だとは思うけど、問題は必要以上に外形的なものに拘って、実質的、本質的なところに目が行かないことが多いことかと思う。

             

            個人的に、昔ある方の結婚式記念で頂いた、錫(ピーター)製のコップでの聖餐が非常に好きであった。どっしりとして、夏でも冷たい重たい肉厚の錫のコップ派、実に口当たりも良く、硝子のコップのように肌をさすところがなく、安心感が漂っていたのであった。ただし中身は、ウェルチのぶどうジュースであったけれども。

             

             

            錫製のカップ こんな感じのものでした。

             

             

            プラスチックカップの聖餐とミーちゃんはーちゃん

            もともといた教会でも、新型インフルエンザが流行したことを契機に、開拓した宣教師の希望もあり、もともとのピーター製の一つのコップを回し飲みするかたちの聖餐式から、小分けしたプラスティック製のディスポーザブル・カップに変えたら、もとに戻らなくなった。変えてしまうと、もとに戻らないこともあるように思う。

             

            ところで、プラスティックではなく、ガラスカップという説もあったのだが、誰が洗うのか問題が出て、これは実務を担う婦人会の皆さんからの大反対で、ガラスカップではなく、いきなりプラスチックカップになった。まぁ、儀式的なことや象徴性をあまり重視しない(それはミーちゃんはーちゃんにとっては残念なことであったが)教会であったので、その意味では似つかわしいカップだったかもしれないと思っている。しかし、今、こういうことを大事にする教派にいるので、その意味で、今はかなり幸せである。

             

            赤玉ポートワインを使っていたなぁ

            禁酒運動の影響を受けて、もともといた教派での教理が形成された経緯もあったので、厳格な禁酒を是とする教会で育ったため、お酒は飲まない人になった。そのため、ミーちゃんはーちゃんには、ブドウ酒の善し悪しがわからない。最初は、赤玉ポートワインを使っていたが、いろんな議論を経て、未成年者とアルコール不耐症の人がいたため、ある段階から、最終的にぶどう酒ではなく、ぶどうジュースとなった。ぶどう酒は酸化が激しいので、サントリーのぶどう酒の代替品として日本国内で作られた、赤玉ポートワインを利用しているところは多かったのではないか、と思う。1週間で、ぶどう酒一本を開けるような教会も少ないから、赤玉ポートワインのような実質発酵をさせないようにしているワインとならざるをえないのはわからなくもない。

             

            ところで、完全に余談になるが、最近でこそ、国産ワインなども出回るようになり、輸送技術の変化もあり、海外さんワインなども大量に入ってくるようになり、日本でのボジョレヌーボー騒ぎにも見られるように、それなりにワイン文化もかなり変形しながら持ち込まれるようになってきたようであるけれども。教会でどんなワインか、ぶどうジュースがつかわれているのかは、一度調べたら面白いかもしれない、と思う。

             

            前回紹介した土の陶器製の聖餐式のコップというのがいいなぁ、と思ったのは、あのコップは、正に天と地が一つになっている、ということを表しているからかも、と思ったのである。人間という土の器が、神の霊をいだき、イエスをうちに抱くその姿を示しているという意味でも、いいなぁ、と思ったのである。
             

            ここで、「プラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。」ということは、象徴とその指示すもの、という関係をよく捉えていると思う。結局象徴とその表面を見るのではなく、象徴を指し示してしているものや、指し示し方の段階で心や思索が止まってしまい、本来見るべき象徴が指し示している存在、その象徴の奥にある存在であるべき、神や、神の臨在、神ご自身の関与、と言ったことに目が向かないことは多く、その表面的なレベルでしか他者に関与していかない底の浅さのようなもの、本来見るべき神の姿と神の似姿や、神のかたち、ないし、神のかたちのかたちに現れる神の姿に目が向けられず、本質的な議論がなされないのは、実に残念ではないかなぁ、と思ったりはしている。

             

             

            本末転倒・・・
            教会改革というのはあちらこちらで起きているし、試みられている。しかし、そこでは、本来取り分けるべきものも、古いから、と言ってゴミのように捨ててしまう例、あるいは、お湯と一緒に赤子を流してしまった事例が結構見られるように思う。その辺のことについて、ライトさんは次のように書いている。

             

            何れにせよ危険性は、いわゆる「カトリック的な儀式」に限定されるわけではない。十字を切るにあたって、正しい時に正しい仕方ですることに拘る人もいれば、礼拝中に手を上げることにこだわる人もいる。また、十字を切ったり、手を上げたり、その他の動作を何もBしなくてよいBと主張する人もいる。私はある時、全く見当違いに驚かされたことがあった。ある教会では、ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを、あまりに『プロフェッショナル』に見えるからと廃止したのだ。その後、その教会では6名の人を雇った。彼らは礼拝中ずっと音量のダイアルを回し、レバーを調節し、音質と照明とプロジェクターを操作している。(同書 p.221)

             

             

            確かに、伝統教派は儀式的で良くないとかいう方々がおられるが、そのような方々は、ご自身たちが、聖書を毎日読むという儀式、聖書を開けるという儀式、そして、読んだ気になるような儀式にとらわれているとも言えるかもしれない。前位にもここで書いたかもしれないが、ミーちゃんはーちゃんの出会った御高齢のご婦人方の中に、自分は聖書が読めないからキリスト教徒としてだめなんじゃないか、と言い出した方がおられた。それを思った時に、結局聖書を開けて文字を読むという儀式にとらわれておられたような気がする。聖書を読むことがその方にとって目的化しているのではないか、と正直思ったのである。聖書信仰派的な儀式ができていたり、○○派的な儀式ができているんじゃないか、と思う。その意味で、かたちにとらわれるのではなく、その奥にあるものを追求することこそが大事なのではないか、と思う。

             

            礼拝と静まりの意味

            礼拝と静まりの関して、上のようなことを思っていると、ナウエンのThe way of the heartという本の中にこんなことが書いてあった。

             

            We have become so contaminated by our wordy world that we hold to the deceptive opinion that our words are more important than our silence.  Therefore, it requires a strenuous discipline to make our ministry one that leads our people into the silence of God.  That is the task Jesus has given us. The whole of Jesus' ministry pointed away from himself to the Father who had sent him. (中略)

            In order to be a ministry in the Name of Jesus, our ministry must also point beyond our words to the unspeakable mystery of God.(The way of the heart, Henri J.M. Nouwen p.49)

             

            ある面で、プロテスタント派の教会の多くは、ことばで語ることにひどく汚染されていて、その枠内でしか、神を礼拝することができなくなっているのかもしれない。沈黙に耐えられない教会とか、沈黙に耐えられないキリスト教徒とか、というのもあるのかもしれない。


            今ほぼ毎週通っている、聖公会に行くと、聖餐式で跪く人もいるし、聖餐のパンを受ける前に十字を切る人もいるし、十字を切らない人もいるし、いろんな聖餐のパンを受け取理方があり、それが併存している。個人的には、抵抗感はないのだが、まだまだなれていないので、適切な切り方ができないので、そのまま、頭を下げて受け取ることにしている。まぁ、そういう多様な受け方を許してくれている今の教会のあり方が非常に気に入っているのだが、先日、退職した司祭が司祭としてではなく一信徒として、聖餐式に参加された時、ずっと跪いたままで受けておられたのを見て、あぁ、美しいなぁと思った。

             

            おんなじようにボタンはいっぱいついてるけど・・・
            あまりにプロフェッショナル風に見えるからと言って、そして、オルガニストと、コンソールを弄る人は、キーボードをいじったり、ボタンを押したり、引いたりと、似ているといえば似ているが、同じものではない。ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを廃して、プロジェクタとシンセサイザー、音響や照明のレベルのコンソールをいじるという形に変わったのは、実に残念だと思う。と言うのは、壊してしまうと、もとに戻らないことのほうが多いのだ。ミーちゃんはーちゃんが経験したように、ピーターの器からプラスチックに変わったあと、ピーターには戻らなくなったように。まぁ、だからといってプロジェクタとシンセサイザーを駆使している教会が、伝統のある教会の真似をして、聖歌隊風の格好をしたりするのは、なんか板につかなさを感じることがある。チグハグな感じというのか、バランスが取れてない感じがするのだ。

             

            パイプオルガンのボタン類 https://en.wikibooks.org/wiki/Organ/Operating_the_Console

             

            今教頭のコンソール類 https://jp.pinterest.com/pin/2251868534100449/

             

            お友達のミゾタさんが伝統教派の様式を、別の福音派の教会で全体像を思いつきや、あまり深い考えないで復活させよう、という動きに対して、常にかなり厳しい反対のご意見をお述べになられる。それは、この辺の板につかなさというのか、チグハグな感じが残るからだろうし、その儀式や様式が含んでいる意味とそれが指し示しているものを、十分に考えずに導入してしまうと、あるイシュ言い方は悪いがフランケンシュタインのような礼拝になるからだろう。とは言え、現実とのバランスを取らないといけない面もあるので、現実とのバランスをどのように取るのか、そして、それを聖書の全体と合わせて考えていくのか、ということは、くれぐれも慎重に考えていくこと、広い意味での神学をすること、真剣に神学し、それを時間をかけて、会衆に伝えていくこと、そして、納得してもらうことは大事なのではないか、と思っている。


            今まで見学させてもらった日本ハリストス正教会、コプト正教会、カトリック教会、聖公会などの伝統教派の教会では、聖餐式のパンも残さないし、ぶどう酒も残さない。全部食べきり、飲みきるのだ。そして、それが完全に空になったことを会衆に見せる所作をする教会がある。その所作の意味が最近になるまでわからなかったのだが、完全にパンと盃が空になったことを示すのは、あぁ、イエスが、復活されて、墓が空になり、天に昇られたことを示しているということに最近になって、気がついた。

             

            コプト正教会の聖餐式の最後で殻になった皿を高く上げる司祭(ミーちゃんハーちゃん撮影)


            あぁ、なるほど、このような伝統教派の所作には、本当に細かいところまで考えられているのだなぁ、と思うようになった。儀式を異様に軽視するキリスト者集団で育ってきた身としては、なるほど伝統教派の新体制を伴った儀式には、一つ一つに指し示すものがあり、そして、礼拝全体が全て聖書の物語と神と人との世界を表している、ということを知ることになった。これは、伝統教派でだけ感じられたように思う。そして、礼拝の中での沈黙も含め、その沈黙の中で、神との向き合う時間、そして、そのことを通して感じられる、自分のうちにある神の不在の意味に向き合う意味ということを日々感じている。


            次回も聖餐についての、ライトさんの記述から、引き続き考えていきたい。

             

            次回へと続く

             

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            コメント:大変面白いです

            2017.02.20 Monday

            N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その35

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              本日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、を読んで考えたことをタラタラと書いてみたい。今日は聖餐についての続きである。

               

              聖餐式の受け止め方
              まず、ライトさんは、聖餐式についてのものの見方やよくある無理解があるのではないか、と思われることについて、懐疑的な三つの視点からの聖餐式の受け止め方のポイントを取り上げ次のように書いている。

               

              はじめに三つの点に触れたい。第一は、共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスとその死の物語を語っているのである。イエスが私たちに、「私を覚えて、これを行え」と言われたからである。それほど単純なことである。それだけではなく、なぜなぜイエスがそのように語られたのか、私たちはよくわかっている。(中略)

              第二は、プロテスタントの懐疑的な人がよく心配するように、同情を引き起こすための呪術ではない。その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ。(中略)

              第三に、それ故パンを裂くことは、時にカトリックの懐疑的な人が、それをプロテスタント信仰と思い込んでいるが、昔起こったことを単に思い起こすだけの機会なのではない。私たちがパンを裂き、ぶどう酒を飲む時、私達も最後の晩餐の二階広間に弟子たちとともにいる。私たちはゲッセマネでのイエスと一つになる。(『クリスチャンであるとは』 p218−219)

               

              まず、それがイエスの命令であるというのは、聖書の中に、次のように書かれていることに跡付けられる。

               

              【口語訳聖書 ルカによる福音書】
              22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
               22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。


              正に、この命令があるからこそ、聖餐式をやる意味があると思うのだ。ただ、毎週やれ、とも書いてないし、日曜日にだけやれ、とも書いてないし、日曜日以外の日にやってはいけないとも書いていない。また、聖餐式がどのような形のものや、どのような受け取り方の所作によるものであるべきだ、とも書いてはいない。この二年余りの間、コプト正教会、ハリストス正教会、カトリック教会、聖公会、改革派、改革長老派、福音ルーテル派、バプティスト派、フリーメソディスト派、(外資系)ペンテコステ派などなど、あちこちの教会巡りをしたが、聖餐式がない教会も、結構多くて、それは聖餐式マニアとしては、かなり残念だった。また、聖餐式の進め方も、教派ごとに、色々の教派や教会で、違うし、使うパンの種類も、でっかいパンの場合もあるし、ホスチアの場合もあるし、クラッカーを砕いたようなものもあるし、食パンを切り刻んだ場合もある。まぁ、実にいろいろであった。

               

              ギリシア正教での聖餐式

               

               

              カトリック教会の聖餐式(初聖体のときの模様)

               

              聖公会の外人中心の教会というか、出島のような教会で、いつもではないが、式文の中で、聖餐式の前に、かなり頻繁に、このような表現が、司祭によって唱えられる。

               

              Blessed are you, most holy, in your Son;
              On that night before he died
              he took bread and gave you thanks.
              he broke it, gave it to his disciples, and said:
              Take, eat, this is my body
              which is given for you;
              do this to remember me.


              After supper he took the cup;

              and gave you thanks,
              he gave it to them and said:
              Drink this, it is my blood of the new covenant
              shed for you, shed for all,
              to forgive sin;
              do this to remember me.

               

              もちろん、これに関する聖書の部分、例えば、先に引用したルカの福音書の部分でも良いが、まぁ、聖餐式の前に、これを言われるとたしかに、あの、最後の晩餐とこの聖餐式のつながりを強く感じるよなぁ、と思うことしきりなのだなぁ、これが。

               

              概念ではない、この地に生きている人間としての身体性をもって、神の業である聖餐に招かれていること、そして、神ご自身の臨在を味わうことは実に重要なのだなぁ、と思うのである。

               

              プロテスタント懐疑派の心配 呪術では? 

              次に第2の点であるが、プロテスタントの懐疑的な人が心配していることとされているのが、「同情を引き起こすための呪術ではない」ということと、として指摘されていたが、ミーちゃんはーちゃんがもっている英文では、it isn’t a piece of sympathetic magic となっていた。この部分の意味は、英文でもわかりにくい。誰の何に対する同情なのかが今ひとつはっきりしないのである。

               

              神の人間に対する同情を引き起こすということなのだろうか。ミーちゃんはーちゃんは、自分自身では、結構懐疑的な人間だとは思ってはいるのだが、聖餐式をやったからと言って、父なる神が、ナザレのイエスとしてこの地を歩いた神に同情したりとか、そのナザレのイエスへの同情の延長線上で、神が人間に同情したりとか、そんな神概念って、これまで全く考えたこともないので、そのような理解はわからない。

               

              ただ、ライトさんが、「その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ」という部分はよく分かる。預言者および祭司によってなされた象徴的行為は、確かに、天と地が一つになったとしか考えられない時に出てくる。例えば、エリシャが死んだ子どもの上に体を伸ばしてみたりとか言った行為は、まさに象徴的な行為であった。

               

              【口語訳聖書 列王記 下】

               4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
               4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
               4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。
               4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

               

              また、エリコの周りを主の箱の前で行進しながら、エリコの町の城壁を七回回って、そのあと祭司が角笛を吹くなどは、神から命じられた象徴的行為ではあったように思う。

               

              【口語訳聖書 ヨシュア記】
              6:6 ヌンの子ヨシュアは祭司たちを召して言った、「あなたがたは契約の箱をかき、七人の祭司たちは雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立たなければならない」。

              これらは、確かに象徴としての意味を持ったように思うのである。

              ところで、天と地が一つになるというライトさんの表現は、アングリカン・コミュニオンで聖餐式の前の祈祷文の文章などを思い起こさせる。主がここにおられる、ということを、この文章を司祭が読み、それに、太字のように信徒が応答することで、確かに、ここは、天と地が一つになる。

              The Lord is here.
              God’s Spirit is with us.

              Lift up your hearts.
              We lift them to the Lord.

              Let us give thanks to the Lord our God.
              It is right to offer thanks and praise.

               

              そこで聖霊が大きな役割を果たしている、ということを思うのだ。正に、神がここに、そして我らとともにおられて、そしてそのことを、心から喜びつつ、神の臨在に感謝しつつ、その臨在に対する賛美をするという意味は、実によく分かる構造になっている。確かに儀式的で、同情を引き起こすような魔法や呪術や呪文のように、全く意味がわからない、意味を解そうとしない人には見えるのかもしれないが、儀式で用いられる式分とその儀式そのものが指し示そうとしていることは、正に、教会が神と人が出会う場であり、共にいる場であるということを言っているようなきがする。

               

              カトリックの懐疑主義者の心配 単なる儀式

              次に3つ目の誤解とういのか、聖餐式を記念のための象徴としてプロテスタントが理解していると言うカトリックの方々の一部の方々がお持ちの誤解についての部分については、一部のプロテスタント側が、カトリック側の聖餐理解と言うものを過剰に否定して、カトリック教会のやり方を否定しすぎたことにあるのだろうと思う。その一部の言説が一般化されて誤解されて定着したようにも思う。とは言え、ミーちゃんはーちゃんにも、実体変化の話は、よくわからない。よくわからないものの前には、沈黙するしかなく、神の領分の前では、ただただ、モーセ先輩に倣って、靴を脱いで神を礼拝するしかないのではないだろうか。語り尽くしたり、説明し尽くせないものがあるから、神なのではないだろうか。我々は、チラ見をしているにすぎないのに、あまりにそれで全てをわかったかのように語りすぎる悪い癖があるように思う。それは、カトリックの側も、またプロテスタントの側も同じであるように思う。

               

              神の過去と神の未来の現在への侵入

              先に、アングリカン・コミュニオンの礼拝で、

               

              The Lord is here.
              God’s Spirit is with us.

              Lift up your hearts.
              We lift them to the Lord.

              Let us give thanks to the Lord our God.
              It is right to offer thanks and praise.

               

              という式文を、声を出して読み、上のような告白することがあることをご紹介したが、これなどは、神の支配が完全に明らかにされた段階で起きることをこの地においてもやっている、あるいは、神の支配の先取りをしているという感じがある式文である。声を出してこの式文を読むのは、実になかなか、リズム感にあふれていて気持ちがよいものなのではある。賛美歌ではないけれども、ある種のリズムを感じるのである。

               

              しかしそれは、過去が現在に侵入してくるだけではない。もしパンを裂くことが天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つであるなら、神の未来が現在に入り込む重要な契機の一つである。(同書 p.219)

               

              パンの場面はいくつか聖書に出てくる。例えば、出エジプトでのマナも関連付けられる。有名な聖書の箇所であるので、皆さんもよくご存知であろう。

               

              【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
              6:30 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。
               6:31 わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
               6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
               6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
               6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
               6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

               

              あるいは、イエスの復活後に弟子たちと一緒に食べたパン、エリアが食べたカラスが運んできたパン、荒野のマナ、アブラハム(当時はアブラム)に差し出された義の王メルキゼデクのパン、五つのパンと2匹の魚の奇跡、エマオの途上での食卓のイメージ、これらのイメージが重層的に重なるように感じる、あるいは直感的に理解するときが時々ある。まぁ、これもライトさんの本を読んでからのことであるし、その意味で、ライトさんの書いたものにかぶれているのだろうと思う。ただ、この重層的に重なって迫ってくる感じは、多分にアングリカン・コミュニオンの式文を読んでの聖餐式においてではあるのが、今ひとつ謎なのだが。

               

              多分、式文の中に散りばめられた聖書の中から抜き出したことばから、そして、時間をかけて編み出された式文の中で、同じ言葉を重層的に繰り返していく中で、そのような神と人が出会っている世界、すなわち、「天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つ」の瞬間にいざなわれているのかもしれない。

               

               

              この陶器製のコップはいいなぁ、と思った。

              http://www.ocalawestumc.com/ministries/worship-and-the-arts/holy-communion.htmlより

               

               

              5つのパンと二匹の魚のモザイク画 http://www.holylandchristiansouvenirs.com/loaves-fishes-mosaic.html より

               

              エリアのイコン http://www.iconsandechoes.com/2013/12/holy-prophet-elijah.html

               

               

               

              次回はプラスチックコップの話にもう一度触れます。

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

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              2017.02.18 Saturday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その34

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                本日もいつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』から、タラタラと思ったことを書いてみたい。

                 

                がっかりだよ・・・
                個人的には、陶器を集めるという習慣が今もある。町の陶器屋で出会った器と目があってしまうと、その陶器を買って帰りたくて、買って帰りたくて、仕方がなくなって、買って帰ることがある。個人的には、そんな昔の名人作の骨董まがいの陶器ではなく、日用遣いの陶器に目がないので、陶器屋に行くと買って帰ってしまうことがある。


                フェイスブックでお友達の太郎先生(一部には目利きともよばれる)は現代家具、モダンデザインマニアでいらっしゃって、お買上げになられたモダン家具や、時々、オーディオマニアや西洋実用茶器マニア垂涎の逸品などの写真がアップされているが、それらには、どうした関係化心があまり動かない。あるフェイスブックの投稿で、その先生を示すのにくいだおれ太郎の画像を貼った人がおられた。あまりに安易な発想で、唖然としてしまった。

                 

                くいだおれ太郎(大阪名物) https://www.amazon.co.jp/dp/4838718861 から

                 

                個人的には、日用遣い向きの雑陶、普段使いの陶器に目がないのである。あるいは、ちょっと高級な店に連れて行ってもらったりすると、そこの料理も去ることながら、そこの料理屋がどんな料理をどんな皿というか、陶器で出してくるか気になってしまい下手をすると料理は二の次で、陶器を眺めて過ごすという幸せでそれで満腹してしまうところがある。料理を食べ終わるやいなや、皿を持ち上げ、皿の後ろ側も眺める、糸底などの銘の有無を確認するなどとやってしまうのだ。

                 

                料理と皿、その入れ物としての陶器の関係というのは、実に面白いもので、両方揃ってバランスが取れているというところはあると個人的には思うのだ。皿が主張しすぎて料理を殺してもいけないし、料理が主張し過ぎて、皿も味わう余裕のないというのも、個人的には、残念さが漂ってしまう。

                 

                聖餐式で使うカップとぶどう酒について、そして、礼拝での聖書の位置づけについてライトさんは次のように書く。

                良質なぶどう酒を、色や香りやゆたかな風味を味わうグラスに変えてプラスチックカップに入れるなら、それはぶどう酒に対する侮辱となる。同じように機会が与えられているのに、聖書を開き、その伝えていることを祝い、創造者であり、救出者であるある方の力強い行動を再現する場を作り出さないなら、それは聖書に対する侮辱である。(『クリスチャンであるとは』 p.215)

                 

                ここでは、ぶどう酒と容器の話が出てきて、めちゃくちゃ風味のあるぶどう酒をプラスティックコップで飲むのはどうか、ということを行っておられる。お酒は飲まない教派で育ったので、お酒の話はよくわからないが、玉露が、紙コップで出てきたら、興ざめ、というのはある。あるいは、京懐石のお店に行って、出てくる器がカップ麺の入れ物で出てくるとかいうのは、ほとんど京懐石や板長への冒涜だと思ってしまう。場所と、空間と、対象間との関係に適切な対応関係がないと、今はなき桜塚やっくんではないが、「がっかりだよ・・・」と言いたくなってしまう。実に興ざめなのである。

                 

                桜塚やっくんの「がっかりだよ・・・」

                 

                フランス料理の映画で、分子料理が出てくるシーンがあって、「こんなの料理じゃねぇ」とジャン・レノ演じる有名シェフが怒り出すシーンが有るのだが、まさにそんな感じで、調子が狂ってしまう感じがするのだろう。その意味で、聖書が記述し、指し示していることに関与させてもらっていることを喜ぶ、心底、そこに関与し、心ゆくまでその体験を享受する場が、聖書なんだが、それが添えもののように扱われたり、それがおまけのように扱われたりするのは耐え難い、という側面はあるのだろうと思う。

                 

                ジャン・レノが出てくる、フランス映画「Comme un chef シェフ! 〜三ツ星レストランの舞台裏へようこそ〜 」の分子料理を日本人に化けて食べに行くシーン

                日本人男性のふりをしているジャン・レノが、とてもおかしい

                 

                その意味で、蝶理や料理、それに使う織機、その店の雰囲気、全部揃って楽しむのが食事の醍醐味だと思う。やすい、うまい、ボリュームがあるというお店が、高級店の真似をしたらおかしいし、高級店が、いくら儲からないからと行って、低級路線に走るのは、違和感はある。多分それは間違いだし、一時期のマクドナルドの低迷は、実にそれだったのではないか、と思うのである。

                 

                分子料理 http://www.molecular-cooking-lab.net/から

                 

                Facebookのお友達で、この手の話になった時に、部分的に伝統教派の何かをプロテスタント派の教会で一部回復させようという発言に対して、ことごとく反対するお友達がお一人おられるのであるが、その方の論理は、想像するに、マクドナルドみたいなお店ならマクドナルのみたいなお店の料理の出し方とそのような料理を提供するのが一番良いのであり、人々はそれを求めてその形式にたどり着いたのであろう。そうであるとするならば、いくら人気が一分にあるからと言って、古臭い京都の、一げんさんお断りの料亭の料理をちょっとだけ、豆皿にもるように出すのは、バランスを欠いているのではないか、それはいかがなものか、ということを仰りたいのだろうと思う。それであるがゆえに、「そんな一部だけ、つまんで取り込んでもダメだ」と厳しいご発言になっておられるように理解している。本来の教会としてのバランスと一貫性を追求しないでどうするのだ、というご批判なのだろう。


                教会もそんなところがあるのではないか、とライトさんは言いたげなような気がする。実際に緊急避難的にプラスチックコップには使い手があるとも言っておられる。しかし、ちぐはずな状態を常態化する、緊急避難的な状態を状態化させるのはどうか、と言っておられるようである。高級路線には高級路線の良さがあり、「やすかろう、はやかろう、うまかろう」にも、ミーちゃんはーちゃんのようなそれなりの需要層がいて、それなりの重要性があるのだろうと思う。

                 

                聖書が読まれ、聖書が語られ、地上に神が来たこと、そして、もう一度来られるという約束を祝う場が、そうでない場所になるのは、やはりどうしてもおかしいような気がする。本来の姿を取り戻される必要はあるのではないか、と思うだなぁ、これが。
                教会の礼拝の時間と場が、牧師の一週間の出来事と経験の報告の場になったり、牧師の先週の業務報告の場になったり、大声で歌うことだけを追求するようなカラオケハウスとしての機能だけになったりするというのは、ミーちゃんはーちゃんにしても、たしかにいかがか、と思う。

                 

                時々。京都にあるカトリック教会の黙想の家での研修会に参加するときは、そこでの聖餐式に見学で参加させてもらうのだが、そこでの儀式のすすめられ方と、そこでの司祭の動きを見ていると、所作を通しても、あぁ、神の子イエスの地上での生と、聖霊の働きと、神のこの地においての関与の状態を、司祭がそれぞれ役割分担しつつ示し、ライトさん風の言い方をすれば、「天と地が噛み合った」ということを表そうとしておられるのは感じる。なお、その表し方は、ハリストス正教会での礼拝では、もっと具体性をもって表現されており、より強く感じる。その中心性を古臭いとか、偶像的だとか言うこともできるが(正直言って、そう思っていた時期がかなり長かった)、その意味がわかってしまえば、その大切さはすごく感じる。

                 

                主食としての聖書、メインディッシュとしての聖餐
                では、礼拝と聖書との関係について、もう少しライトさんの主張を見ていこう。ライトさんは次のように書く。

                 

                聖書は簡単にいえば、礼拝の主食である。単なる教えのためではない。しかし、聖書の中で最も有名な物語の一つが明らかにしているように、聖書も礼拝の中心ではない。あるときエマオへの途上で、よみがえられたイエスが二人の弟子たちに聖書を解き明かした時、彼らの心がうちに燃えた。

                ただし、彼らの目が開かれ、イエスを認めることができたのは、イエスがパンを裂いたときであった。(同書 p.217)

                 

                ここで、主食と書かれているのは、Staple Diet、日本人風にいえば、キリスト者生活のコメ、あるいは日本人にとっての熱々の白ご飯、とでも言うところであろうか。ぬくぬくの白ご飯は、何よりも美味しいものだと思う。その意味で、聖書を主食と表現するのは、非常にうまい表現であると思う。

                 

                白ご飯 http://www.asahikei.co.jp/zero/recipe/best20/recipe_03.php から

                 

                 

                ある面、主食である聖書には、確かに、味がそんなにあるわけではなく、単調ではあるが、無くてはならない、豪勢さはないものの、なくてはならないの食物という感じだろう。そして、礼拝のメインディッシュ、そのピーク、あるいはその日で最も良いもの、落語で言えば、真打ち登場と言ったところが聖餐だ、と言っておられるのであろう。聖餐は、正に、キリスト教史で言えば、イエスの十字架のシーンと重なっているし、聖餐自体、イエスの十字架を表しているものではある。それと同時に、聖餐は、礼拝の中で、いちばん大事なところなのだと思う。大皿になみなみと、溢れんばかりに楽しまれるべきはずのものが、おちょこのようなものや、豆皿にかたちだけ申し訳程度に載せられたのでは、どんなものか、とも思うし。それは、心いくまで楽しむ、Celebrateしたことにならないだろう。そして、下手をすると、空腹感もとてもひどいものになる、という感じなのだろうと思う。

                 

                 

                豆皿 http://www.diningpottery.jp/mamezara.html

                 

                 

                個人的には、毎週聖餐式をするキリスト者集団で育ったので、毎週聖餐式する習慣がついてしまったから、ミーちゃんはーちゃんが、単に聖餐マニアだけなのか、と思っていたのだが、聖餐式マニアでよかったんだと思ったし、やはり、聖餐式は大事なのだなぁ、とこの部分を読みながら思った。この2年余り、あちこちの境界をジプシーのようにめぐってい足し、今も時々あちこちに出没しているが、結局、毎週聖餐式をしていて、聖餐式に参加させてくださる教会に通っている。実にありがたいことである。


                以前いたキリスト者集団と違うのは、手前勝手に回ってきたパンを取るのではなく、司祭が咲いたパンを、日本語の場合、これはイエスの体と言い渡して下さるし、英語の場合、

                 

                This is the body of Christ, Broken for you.

                とか、

                The Body of Christ, the bread of heaven.

                とか

                This is the body of Christ, keep you in eternal life

                とか色々言って渡してくださる。

                 

                一度、素朴に疑問に思ったので、「パンを渡すときのことばに、色々バリエーションが有るようなんだけど、なにか、そのパンを渡すときの言い方に季節とか、時期とか、なにかあるの?」と仲良くしている司祭にお聞きしたことがある。その司祭の答えは、「とくに規則は何もないし、その時の雰囲気だ」と教えてくれた。

                 

                ただ、最初にそこで聖餐式に参加させてもらった時に、This is the body of Christ, Broken for you.と言われたときには、感動が止まらず、確かにイエスは私のために神が割かれたのだ、ということを明確に意識したことだけは確かであった。

                 

                また、Rachel Held Evansの"Searching for Sundays"の中に、彼女が聖餐のパンを、そのように言いながら配った時の話で、それを言いながら渡すことが、非常に重要なのだ、という認識を改めて持った、という記述があったが、確かに、聖餐とその言葉による表現は、本当に切り離せないと思うし、切り離さないほうが良いなぁ、と思った。

                 


                次回聖餐の詳細の記述の部分に入っていく。

                 

                次回へと続く。
                 

                 

                 

                 

                 

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                コメント:おすすめしています。

                評価:
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                Thomas Nelson
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                コメント:めちゃ面白かったです。

                評価:
                ヘンリ・ナウエン
                あめんどう
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                コメント:大変良い。表紙は、エマオの食卓での聖餐式の様子のはず

                2017.02.15 Wednesday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その33

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                  今日もいつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで感じたことを、たらたらと述べてみたい。今日は、礼拝と神と人間という関係についての部分である。

                   

                  『断層』というメタファーと人間
                  ライトさんのこの本には、断層というメタファーが何度も出てくる。この断層というのは、もともと一つであったものがずれて、何らかの外力により、隔たりやズレが存在することをを示す語だとおもう。人間と神との関係を表すのに、この語はまさにふさわしいと思う。単に違いがあるというだけでなく、もともと一体であったものが、何らかの外力でずれてしまって、それで一時的に固定化されている、というところが重要で、もう一度外力が、それも大きな外力が加わることがあれば、もとに戻る可能性を持つところが面白い。ただ、地球上の断層における外力のかかり方は、一方向的であるので、不可逆的ではあるのが残念であるが。また、断層は、裂け目であるという意味を持ち、また、この断層というごは、ラザロと金持ちの中で、アブラハムが言っている次の言葉を思い出させる。

                   

                  【口語訳聖書】ルカによる福音書
                   16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
                   16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

                   

                  死後の世界と生きている者の世界の間に、大きな淵があるということをこの例え話は示しているようにも思う。そして、この淵を越える存在がナザレのイエスという存在であるのだと思う。そして、その淵を超えた存在が、神と人の間をつなぐ存在としてその役割を果たした、系図なき大祭司としてのイエスという存在なのかなぁ、と思う。

                   

                   

                  賢明なクリスチャンによる礼拝は、創造がひどく悪い状態になり、堕落し、腐敗し、そのため、大きな断層が真ん中に走っている事実を真剣に受け止める。さらに、神のかたちを担う人間として創造物の世話を任された私達自身の真ん中にも、その断層が走っている事実を真剣に受け止める。ゆえにクリスチャンの礼拝は同時に、メシアであるイエスのうちに神がして下さったことを祝い、その成就された約束がやがて完成されることを喜んで祝うのである。(pp.212-213)

                   

                  このように、神のかたちを担うべき人間が、神と人が一体になっていた状態からずれてしまい、人間が、神との関係の断層をうちに持つものとなっていることをここで書いている。


                  ここでの断層というメタファーは非常に面白い。断層が断層であり続けるということは、妙な力が、断層そのものにかかっていることでもあるのだ。人間と神の間に引っ張られる力という意味での緊張や、押し合う力という意味での対抗力というテンションという存在は、人間には見えないだけで、地質学的にはかかっていることを思うと、感慨深い。そして、断層そのものは、一時的な安定あるいは、一時的な均衡状態であり、地質学的には、そのような状態を別の状態に移行していくとなされている。ただ、この断層の動きは長時間をかけて起きるので、その変化の状態をすべて見られる人はいないのだが。

                   

                   

                  様々な断層

                  http://www.sms-tsunami-warning.com/pages/fault-lines#.WKOZX3-WG5E から

                  断層についてのかなりわかりやすい動画


                  しかし、我々が礼拝で神の前に出ていくとき、神の前に自分自身のあり方や神との関係の断層状態を内に抱えたまま、また、時にその断層の状態をいっそう悪化させたことを神の前に反省し、神の愛による一方的な和解を求める時に、神がその和解を既に成し遂げてくださったし、現在においてもその和解を神が成し遂げられ、神との間について、若いと安定状態が成立していることを覚えることが礼拝であるし、であるが故に、我々は、神に賛美し、その和解を成し遂げてくださった方の存在そのものを心から喜ぶのではないだろうか。そして、その瞬間だけかもしれないが、引っ張られる力なのか、対抗的にぶつかり合う力なのかは別として、その断層をより歪ませる方向に働く諸力が神の前に停止していることを覚え、心ゆくまでじっくりと味わうのが、礼拝が行われている時間なのだと思う。

                   

                  掛け言葉で遊んでいる・・・

                  ところで、英語の断層Faultという語には、別の意味として、欠陥とか、誤りとか、短所という意味があって、おそらくこれにかけている言葉遊びなのだろう。ライトさんは、この種の複数の意味のある語を使って、遊んでいることが多く、個々でもそんな感じなのだろうと思う。この期を意図的に用いるとこで、そもそも、人間には、欠陥とかかけがあるということを示したいのではないか、と思うのだ。


                  聖書と礼拝
                  聖書を声に出して読まれる、聞かせてもらえる経験は、伝統教派のほうが残っているようなきがする。それも、新約聖書の書簡集だけでなく、必ず、旧約聖書(詩篇)、福音書、書簡集からバランスよく礼拝の中で読む習慣は、いわゆる、正教会系教会、カトリック教会、聖公会では経験があるが、多くのプロテスタント派の教会では、この三つをバランスよく読む集会というのは、この2年半では経験したことがなかった。たまたま、ミーちゃんはーちゃんが参加した、そのタイミングが悪かったのかもしれない。


                  そのあたりのことに対して、ライトさんは次のようにかく。

                  聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。このことを切り詰めてしまうと、どんな理由があろうが(例えば、朗読を切り詰めれば礼拝が長引かない。音楽の一部として歌えばよい。説教者が取り上げる箇所だけを読めばよい、というのでは)、大切なことを見落とすことになる。
                  礼拝の中で聖書を読むことは、うろ覚えの聖書箇所やテーマを教えたり、思い起こさせたりするためではない。また、説教への導入以上のものがそこにあるのである。(中略)礼拝の中で聖書を読むことは何にもまして、神がどのような方であり、神が何を成したかを祝うことの中心にくる。(pp.213-214)

                   

                   

                  もちろん、聖書を読むという意味では、A)文字を目で追う事や、黙読するのと、B)声を出して、誰かが読んだのを聞く、あるいは、聞かされる、のA)とB)とでは、予想外の違いがある。これは、個人の木の精、と思われるかもしれないが、聖書の言葉をそのものとして、自分の感想を混ぜる余裕なく、一方的な宣言として聞かされる、という経験にしかないものがあるように思うのだ。

                   

                  牧師の説教の場合、牧師の理解がどうしても出てくる側面はあるように思う。しかし、何も加えることもなく、何も覗かずに、ただだた素朴に読まれる聖書の場合は、そもそも聖書の言葉であることはそのまま認識されるため、あぁ、確かに聖書の言葉だなぁ、とおもうし、神の言葉という側面があり、読み終わった後に、This is the word of God, と読み手がいった直後に、素直に、Thanks to be God.と神に栄光を帰すことを次位牌の時間で毎週、繰り返す中で、やはり、これは神の言葉であるし、その言葉を与えられたのは神なのだなぁ、とThanks to be Godと声を合わせて言いながら、思う、という経験は、伝統教派以外の教会では、あまり経験をしたことがない。それは、何かあれば、聖書を開こうとしてしまう近代の文字に慣れ親しみすぎたミーちゃんはーちゃんの弱さなのだろうけれども。その意味で、我々は、ことばに、文字に、あまりに縛られすぎているのかもしれない。そして、神の息吹でもある神の言葉ということを忘れているのかもしれない。そして、もともと、文字を持たない人々にとって、聖書に触れるということは、主に、音声言語を通してであったのであり、割と古い時代の教会の人たちがイエスのことを聞いたのは、弟子たちの音声言語によった、ということも忘れられてはならない、ように思う。イエスは文字を書くことをコミュニケーションの中心としたのではなく、コミュニケーションの中心は、音声で語る事によっていたように思う。

                   

                   

                  山上の説教の画像 

                  http://experimentaltheology.blogspot.jp/2010_11_01_archive.html から

                   

                  そういえば、ロイドジョンズの『説教と説教者』の中だったか、と思うが、ロイドジョンズさんが、ラジオ説教がどうも合わなかったことがかいてあったことについて、この部分を読みながら思い出した。

                   

                  神の霊が導いておられる時に、勝手に人間の都合で説教の時間で切られるのは…とロイド政樹さんは、書いておられたような記憶がある。当時は生放送、録音技術などがなかったから、一回コッキリの生放送だっただろうから、ナントカ時間内に収めてくれと、かなりしつこく頼まれたのではないだろうか、と思う。今なら、録音されて、適当に切り詰められ、編集されて、終わりになるんだろうなぁ、と思う。いまなら、録音技術や放送技術が進んでいるから、ほぼノーカット、無編集で流すことも多いが、それでも、その現場のみにある、何かがあり、ライブにいたときにだけ感じる、ライブの独特の雰囲気は、伝わらないなぁ、と思うものがある。この辺は、何がどうなっているのかよくわからないけれども。

                   

                  電話よりは、スカイプなどの対面型のメディアの方が情報量は多いし、それでも、ライブのフェース・トゥ・フェースで生まるものが、このタイプのネット会議では、うまれないものがある。その意味で、ライブで間接的に時間を共有しているとは言うものの、それは同じではない。コンサートやミーティングですら、何か伝わらないことなどが起きるのであれば、教会などのネット配信では、その何かがより起きにくいように思う。とは言え、まぁ、こういう通信手段を使っての放送は、補完的な手段とはいえ、無いより、ある方がいいようなきがするが。

                   

                  ただし、聖餐に直接的に参加できないことを考えると、このタイプのインターネット中継の意味、ということは、あんまり考えても仕方がないことなのかもしれないけれども。


                  次回へと続く。

                   

                   

                   

                  2017.02.13 Monday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その32

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                    今日も、いつものように、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の本を読んで考えたことを書いてみたい。今日も、礼拝の部分の続きから思ったことについて書いてみたい。


                    礼拝が指し示すもの

                    礼拝(Worship)とは、祈りとか、賛美とか、聖書の説教を聞くこと、とか行動で見れば、それに参加することではあるが、その先にあるもの、それが指し示しているもの、その目的とはなにか、について、ライトさんは次のようにかく。

                     

                    礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字通りに認めることを意味する。あるもの、もしくはある存在が、誉め賛えられるにふさわしいことを認め、そのように語ることを意味する。あるもの、もしくはある存在が、自分よりはるかに優れているため、すべてのものはただ、そうした価値を認め、それを祝わずにおられないことを意味する。(『クリスチャンであるとは』 p.205)

                     

                    自分を超えた存在に価値があるからこそ、そこでは頭を下げる、跪く、地に伏す、体をその前に投げ出す、あるいは、そのことの前に黙る、自分を遥かに超えたものであることを認めることになるのだと思う。ここで、ライトさんは、その存在を祝う、ということを言っておられるが、祝うとは、原文では、Celebrateということばではないか、と思う。日本人の感覚としては、Celebrateというと、結婚式など人間が人間に祝福すること、上位のものが下位の者に起きた出来事が喜んでいることを示すこと、という雰囲気があるが、ここでのCelebrateとは、上から目線でよかったね、というようなものではなく、そのものに関して爆発的な喜びを示す、ということなのだと思う。大喜びするとか、欣喜雀躍するとか、頭がおかしいと思われるほど身体性をもって大喜びするという感じの言葉なのだと思う。この辺、日本人の感性にはあまりないように思うので、どのように表現するのかは案外難しい。

                     

                     

                    http://www.huffingtonpost.com/michael-feeley/what-is-the-power-of-celebration_b_5371668.html から


                    そもそも、日本人キリスト者の語彙の中に、喜ぶとか、大喜びするとかは、あまりないのではないか、と思うのだ。残念なことだと思う。日本人キリスト者があまりに真面目というか、義務的に考えすぎるというか。日常、顔をしかめているようなところをよしとするところがあるように思う。


                    その辺が、福音と言った時に、そこに大喜びをするような雰囲気のなさともつながっているように思う。福音とは、本来大喜びするようなことのはずなのだが、それがなんだか、助かった、というようなイメージが強い言葉になっていないだろうか。これは実に残念なことだと思う。

                     

                    先日、普段よく行く教会で、カナの結婚式のところがその日の聖書箇所だったことがあって、そこでイエスが水をぶどう酒に変える有名な話となったところから、ぶどう酒にイエスが変えたことは、喜ぶことも、大喜びすることも、神が良しとされている、あるいは、積極的に人間が喜ぶことを認めておられる、という側面からの指摘が説教の中であった。まぁ、カナの事件に関しては、酔っぱらいをもっと酔っぱらいにする側面があるとかも、触れられたが。

                     

                    いずれにせよ、神のご臨在されたことを喜ぶ、神ご自身がそこにもおられることを、それこそ、欣喜雀躍するかのようにして喜ぶことが礼拝なのだ、ということではないか、と思う。その表現方法は、色々あるだろうけれども。まぁ、随分、ミーちゃんはーちゃんも大分年齢が進んできたので、神がこの地に来られたという、その喜びを静けさの中で噛みしめるような礼拝のスタイルになっているけれども。飛んだり跳ねたりは、流石に身体的に厳しくなっている。


                    神の招きとしての礼拝

                    英国国教会の聖餐式の祈祷文で、このような祈祷文がある。これを読むたびに、ミーちゃんはーちゃんには、聖餐式に参加するのに、その資格やその価値がないにもかかわらず、この聖餐にイエスが、神が、聖霊がミーちゃんはーちゃんを招いておられるということを感じずにはいられない。


                    その式文とは、こんな感じ

                     

                    Jesus is the Lamb of God
                    who takes away the sin of the world.
                    Blessed are those who are called to his supper.


                    Lord, I am not worthy to receive you,
                    but only say the word, and I shall be healed.

                     

                    主の聖餐に招かれている事、そして、それは神ご自身によってさいわいなるものとされた故であるというのは、この式文を読むたびに強く感じる。


                    ある面、聖餐式の参加は、神のみまねきに対する応答という側面もあるとは思う。そして、礼拝に参加することは、神のかたちが、回復されるために、神によって変えられていくために必要だ、神によって本来の姿、神のかたちが回復されるために必要であるがゆえに、そこに招かれているようなきがする。これは、神の側から差し出された、ということは重要かもしれない。そのあたりについて、ライトさんは次のようにいう。

                    しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、招集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。礼拝は、クリスチャン生活のすべての中心にある。神学(神がどのような方かを正確に考える試み)が重要である理由の一つは、心を尽くし、思いを尽くし、魂と力を尽くして神を愛することが私達に求められているからである。だから、神はどのような方かを学ぶことが大切になる。そうすれば、神を正しく誉め賛えることができるからだ。(『クリスチャンであるとは』 p.211)


                    ここで、ライトさんは、「真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるため」と言っている。人間のためではなく、人間としてでもなく、神と人間との関係として、紙と、人間とその隣人との関係として、「今以上に真の人間になるため」に「真の神を礼拝すること」が必要だ、というのは非常に面白いと思う。神を覚えること無しに、クリスチャンではありえないし、神とともに生きること無しにクリスチャンではありえないし、それは、本来良きものとして作られた人間が、更に神のかたち、創世記の最初、全ての秘蔵世界に対して、それらは良かったと言われた神のかたちに近づけられていくためには、礼拝が必要であるということだろう。

                     

                    いま、有賀鉄太郎という人の書かれた、少し古い本であるが(と言うよりは、クラッシックという方が正確だとは思うが)、『キリスト教思想における存在論の問題』という本についてオンライン読書会をしている。有賀さんの本でこんな印象深い表現があって、少し議論になった。それは、理解において理性の役割と神学の役割をどう考えるか、ということであった。

                    果たしてキリスト者が神学的前提を棄ててキリスト教思想の問題を追究することができるであろうか。そうすることは彼にとって不真実であり、したがって不正直ではないか。従ってまた、学問研究の出発点としての真実性を放棄することになるのではないか。けれどもまた信仰的主体性が、果たして、それだけで、学的追究の正確さとその立論の妥当性とを保証するものであろうか。誤れる理性の使用が信仰を消し去ることが可能であるように、またそれ自体としては純真な信仰であっても、それが理性の使用についての偏向を生むこともまたあるのである。ここには信仰と理性に関する根本問題が横たわっている。信仰も立ち、理性も立って、しかも両者がたがいに作用し合うような関係が求められなければ、その問題は解決されないであろう。だが、信仰がそれ自体の純粋性を保ちながら、しかも理性に充分の機能を発揮させるにはどうすればいいのであろうか。それには聖書的また教会的信仰の自己省察としての神学だけで足りるであろうか。もとより、その自己省察は理性の媒介によってのみ可能とされるものであるが、そのとき理性にどれだけの自由を与えるかが問題である。(有賀鉄太郎 『キリスト教思想における存在論の問題』pp.13)

                     

                     

                    先日の読書会では、この理性の自由さについて議論がなされた。信仰が理性に制限をかけるということなのか、ということが議論になった。当日、かなり寝不足であったため、その場では議論はうまく言えなかったのであるが、それは、理性に対して信仰が制限をかけるのではなく、理性がすべてのことを語り尽くせるのか、という問題であるようなきがする。理性ですら、その時の観測技術、観察方法、数学を始め関連諸科学の制約を受けざるを得ない事を考える時、誓約がないといえるのか、という問題ではないか、と思った。ある面、有界や有限なものによって、無限が定義しうるのか問題と似ているように思う。

                     

                    理性は理性で独自の論理を持つことになるので、もともと始めた出発点とその限界を忘れて、独自の理解に向かっていくことがあるのは、確かである。典型的には、科学自体が、その経緯を考える上の例として面白いかもしれない。科学は、もともとは自然神学として始まったものであるが、一部不確実性を内包するはずの科学の論理で、不確実性に対して、十分な検討もせず、突き進んだ結果、ある時期、信仰の問題と対立的な関係を生み出す時代もあった。個人的には、それは科学の誤解に基づく科学という語の誤用であったとは思うが。典型的には、遺伝子なのか、聖書なのか、進化論なのか、創造論なのか、創造科学なのか否か、と言ったような誤った問題の定義がなされ、それは無益な議論を巻き起こしたように思う。創造科学により、科学的に聖書が解説されたからと言って、必ずしも人は信仰を持つものでもない、ということは見てきた。それを思うと、そのような議論のあり方が本当に有益であったのかどうか、ということは、もう少し考えられても良かったのかもしれない、と思っている。

                     

                    信仰の側も信仰の側として、近世から近代において、科学が大きな顔をしてきたし、人々がそのことを十分も考えもせず、人が言うまま、人に言われるまま、価値の保留をしたまま、一方的に褒めそやしてきたという側面もあったのではないか、と思う。それを苦々しく思う信仰の側が、まともな批判ではなく、対話するという姿勢をもみせず、切って捨てるかのような知性的な批判とは言えないような方法で、批判してきた部分もある。

                     

                    まぁ、お互いが対話する姿勢もなく、相手を切り捨てるためだけの議論が両者の側で繰り広げられてきたのは、両者にとって無益な時間と労力が、不幸にして費やされたなぁ、と思わざるをえない。わからないものは、分からない、という方がよほど素直ではないか、と思っている。

                     

                     

                    とは言え、個人的には、どんなにおろかであっても、不完全であっても良いので、素朴に神を求める、神のことを考えるという意味での、テクニックによらない神学をすすめることは大事だと思う。ちょうどライトさんが、「神学(神がどのような方かを正確に考える試み)が重要である理由の一つは、心を尽くし、思いを尽くし、魂と力を尽くして神を愛することが私達に求められているからである」という、ライトさんの表現は、非常に重要であると思う。おそらく、この部分を下に引いての書きぶりだとは思うけど。

                     

                     

                    【口語訳聖書】 マルコによる福音書
                     12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
                     12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
                     12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。

                     

                     個人的には、神学にまともに取り組むことは、理性に限界があるのを知りつつ、それでもなお、理性という共通の土台に依拠しつつ、他者とともに、神に近づく努力、神を愛する方向性の一つなのだと思う。

                     

                    次回へと続く。

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2017.02.12 Sunday

                    こころの時代  「弱さを絆に〜行き詰まりと絶望の中で〜」向谷地生良 さんの回を見た

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                      今朝のこころの時代で時々身近で話題に出る向谷地 生良 さんの回を見た。

                       

                      向谷地さんご自身の行き詰った経験と浦河べてるの家

                      向谷地さんの人生を追いながら、向谷地さんが浦河べてるの家という精神障害者がともに住む家というあり方を模索することにたどり着いたのか、その中で、向谷地さんがたどり着いた、べてるの家の住民の皆さんの姿とともに放送している番組であった。

                       

                      非常に印象深い番組であった。社会の中での疎外の問題、生き難さが時に煮詰った人々の存在という問題、そして、それは誰しも抱えているかもしれないこと、そのいきづらさの問題への気づきが、ご自身が疎外された中学校時期の経験がその基礎にあることなど、そして、何らかの事情で生きづらさを抱える人々が、個別の存在として人として生きる事ができるわけではなく、人々と切り離され、通常の人々とは異なった人々として、あるいは、客観的な対象として取り扱われることに対する異議申し立てとして、浦河べてるの家があり、リングマの本が言うオルタナティブなあり方を模索したのが、浦河べてるの家の目指すところなのかもしれないなあ、と思った。

                       

                      ご著書は拝読させてもらったこともあるし、ご一緒させてもらうことが時々ある工藤信夫さんから「浦河べてるの家」の話をお伺いすることも多いのだが、この番組を見て、ああ、なるほどなあ、とおもうことが多かった。その意味で、視聴してよかったと思った。

                       

                      オルタナティブな生き方の

                      ある実現としての浦河べてるの家

                      そして、お話をお伺いしながら思ったのは、先にも紹介した、リングマの本『風をとらえ、沖へ出よ』という本で、オルタナティブな生き方を創造的に考える、という本で取り上げられていた、既存の支配的な理解に基づく現状のあり方にとらわれず、精神に障害を抱えた方々の生き方として、オルタナティブな生き方という方法を考えられたのだろうなあ、と思った。

                       

                      ただ、それは、浦川べてるの家で実現していることであって、それを他で文脈を無視して、そのテンプレートをそのまま持ち込もうとしてもうまくいかないだろうなあ、と思った。

                       

                      「正常」とはなんだろうか

                      あと、もう一つ思ったのは、グリューンの『従順というこころの病い』という本のことであった。これまでの精神科医療は「正常に人を戻す」ということだったのかなあ、と思った。そして、「社会システムに従順な人々」が「正常な人」とされたのかなぁ、また、「社会システムに従順な人々」にしていくことが、これまでの医療だったのかもしれないなあ、と思った。

                       

                      ただ、キリスト教的な世界観は殆ど出てこない。ただ、イエスご自身の生き方とその発言が逆説的な物が多いこと、成功に向けて、登りつめていく生き方をしたのではなく、弟子たちに裏切られ、無視され、落ちていくような生き方をしたしたことなどは触れられていたが。

                       

                      そして、不安を抱えながらぐるぐるとじっくりと生きていくことの大切さを最後のあたりのご発言で感じた。ちょうど、それは我々の生き方なのかもしれない。そのことを旧約聖書の出エジプト記のときのイスラエルの民がそうしたように、情けなさを抱えながら、不安を抱えながら、神に導かれながら、フラフラと歩むことが非常に大事なのかなあ、と思った。

                       

                       

                      一度、ご覧になることをおすすめしたい。

                       

                      再放送は、2017年2月18日 土曜日 午後1時から2時 E-テレ(NHKテレビ教育放送)で

                       

                       

                       

                       

                       

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