2017.06.07 Wednesday

『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない)

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    今回も前回に引き続き、『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇の第2回として、あの本の対話者として、何をやろうとしたのか、を述べてみたい。

     

    完全原稿型・・・

    世俗の仕事の話で実に恐縮であるが、学会発表とか、イベントとかで、原稿を見ながら、それを一字一句そのまま読み上げるタイプの講演とかスピーチをする方がおられる。それは、それで、一つのスタイルである。重要なことを伝えるのだから、間違ってはいけないということで、こうなるのはよくわかる。世に、完全原稿型の講演とか、完全原稿型のスピーチというタイプのものである。教会でも、完全原稿型の説教というのもある。それはそれで一定の役割があるし、それはそれで、重要な側面を伝える上では大事な方法論なのだろうと思う。政治家の世界では安倍晋三氏がこのスタイルであることがわかっている。

     

     

    完全原稿を読み上げる安倍晋三氏のことを報道するFriday
    http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3428.html から

     

     

    説教者不在につきラジカセのテープでの説教も…

     

    その昔、教会(キリスト集会)で説教をしていたこともあるが、基本的に完全原稿でしたことはない。そもそもミーちゃんはーちゃんには、無理なのだ。世俗の仕事の講義でもそうである。個人的には、かったるくてやってらんない、って感じである。一応は、基本となる骨格は作るけれども、一字一句、完全原稿を作って、それを音読するというようなまねはできない。体質的にそうだということである。学会発表でも、英語なんかの自分の母語でない言語でやる際、最初のころは、完全原稿を作って、それを読み上げることをしていたが、最近は、それもしなくなった。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、基本的に出たとこ勝負の人なのである。

     

     

    ラジカセ(イメージ画像です)
    http://rararadio3.blog.fc2.com/blog-entry-306.html より

     

     

    時々、職場の口の悪い同僚と学生の論文発表や学会発表などを見たりすることがあるのだが、その口の悪い同僚曰く「完全原稿、読み上げるだけなら、事前に録音していた録音テープでもながしゃいいのに。わざわざライブでやる必要ある?事前に論文配布して、その論文読んでおけばいいだけの話でしょ」と切れ気味に同意を求めてくることがあった。確かに内容のほとんどないつまらない発表で、スライドも使わず、読み上げ原稿で済まされる発表もある。文系の学会とか文系の人の学会発表では、このタイプの発表が結構今でも存在する。事前に論文を読んで行くような学会で、それと一字一句違わない発表なんかされたら、「この時間の無駄、なんなの?」って思ってしまうことがある。外がお天気いいときなんか、お外に遊びに行きたくなる。

     

     

    一番、強烈な例は、巡回伝道者が中心になって成立したキリスト集会(教会)で女性信徒しかいないとき、キリスト集会では、女性が語ってはいけないことになっている(キリスト集会派では、ここについてと女性の被り物だけは、なぜか厳密に墨守がされている)ので、仕方がないので巡回伝道者がいないときには、その昔、その巡回伝道者が語った過去の説教の録音テープを流していたという。この話を聞いた時には唖然とした。制約の中での最後の手段、という感じだったんだろうが、ある種、謎のようなこの話をごく当たり前のことかのように普通に語る人々のお話を聞きながら、愕然としてしまったことがある。こういう感性だと、アンドロイド牧師、とはいっても、携帯端末のO.S.のアンドロイドではなく機械仕掛けの人形のほうであるが、それに、牧師の代理をさせるという発想にもつながりかねない。

     

     

    人工知能を活用したロボット説教者・・・
    日曜日の朝、ちゃんと聖別され(聖成され)、あるいは按手を授けられたイケメソのマネキンを講壇に立て、人気声優の声で録音されているか、棒読みちゃんのようなテキスト読み上げソフトで読み上げられる、どこぞの有名説教者と呼ばれる超有名牧師先生の完全原稿の説教とこれまた事前にふさわしい内容の祈りの言葉をのべさせて、事前に設定された適切な讃美歌番号の讃美歌をヒムプレーヤーの伴奏で歌い、そして、きちんと按手されたイケメソのマネキンから祝祷を受けて帰ったら、プロテスタントの教会いっちょ上がりになるではないか。これを支える神学さえ、作り上げさえすれば、無牧教会問題は、問題一挙解決である。インターネット中継の礼拝とかなんかより、よりリアリティがあり、地方の無牧問題は、一挙解決である。これで、日本のキリスト教の未来は明るい。(ウソ)そんなわけがない。

     

     

     

     

    https://stuffwaynewrites.wordpress.com/2013/01/10/will-robots-replace-our-pastors/
    うわ、おんなじこと考えているやつがアメリカにおった。ある面、当たり前なんやねとは、思った。

     

     

    そんなこんなを考えていたら、ドイツで、祝福機能が付いたロボット司祭ができてたらしい。(BreadFishの丸山さん、FBでシェアしてくれてありがとう)

     

     

    ロボット司祭の動画像

     

    このロボット司祭については、http://www.tawashix.com/entry/robotPriest に詳しい

     

     

    しかし、だれがこのロボットに按手したのだろうか。このロボットの使徒継承権はどうなるんだ…といったことを考えて、東京の地下鉄の電車はどうやって入れるのか、という春日三球・照代の漫才のように考えて夜も眠れなくなりそうである。寝るけど。

     

     

    懐かしの地下鉄漫才

     

     

    とはいえ、説教中心で考えるなら、聖餐を軽視し、リタジーを軽視するなら、極端な話、こんな教会運営だって、十分候補のうちに入るだろう。このような在り方の教会運営を否定しようとするなら、それをきちんと否定する神学を、今のうちに早急に作ったほうがいい。日本の10年後の教会は、ロボット牧師を考えなければならないほどの状況になっていると思うが。

     

     

    予定調和型の教会がなしていることは、あるいはリタジーや聖餐が無視される教会や世界では、これと同じことが起きかねないのではないだろうか。それこそ、これが現実化して、古今東西の名説教と呼ばれるものをA.I.(Artificial Inteligence 人工知能)に機械学習させて、ある程度の説教ができるのであれば、10年後になくなる職業の一つに、教会の説教者ということが含まれうるかもしれない。教会が説教でできているとして、説教だけに限れば、話しである。

     

     

    あるいは、説教は生身の人間が声を出して読むにせよ、機械学習したA.I.説教製造マシーンに、計算機に内蔵されたカレンダーから教会歴を割り出し、会衆が関心を持ちそうなキーワードとか、スマホから説教についての希望するキーワードを集めた集計結果を全自動でぶち込んで、5分もすれば、古今東西の優れた説教を網羅的に機械学習した人工知能先生による見事な説教が出来上がるのである。

     

     

    コンピュータ教会・・・
    前回、レンチン説教ということをお話ししたが、レンチン説教ならぬ、A.I.チン説教ってのもそのうち本当にできるかもしれない。こないだ運転していたら、面白い看板を見かけた。コンピューター検眼っていうメガネ屋の看板である。この種のコンピュータにはなんでもできる、なんでも正確といった無茶な信仰、「もうおやめになりませんか?」と計算機屋としては思っている。

     

     

    そのうち、コンピュータ説教とか、新規性を求める教会では、「当教会では、IBMのワトソンが学習して作成した名説教を毎週皆様に…」とかわけわからん事を言うような教会も出てくるかもしれない。なお、IBMは、最近ビッグデータと人工知能のワトソンに力を入れているらしい。

     

     

    そして、そうゆう教会では、信徒は信徒で、ロボットにアバターつけて、教会にロボットを派遣して、説教を自宅で聞く、とか、ロボットを介して、お交わりをするとかになるんだろうか。完璧に予定調和型でリタージカルな側面を軽視するような教会だったら、本当にこれでできるんじゃないか、という錯覚にも一瞬陥りそうである。

     

    あぁ、やなこって。w

     

     

    IBMの高速計算機 ワトソン
    http://robotstart.co.jp/news081.html から

     

     

    マンネリ化を防止し、礼拝にリズムを与える教会暦とリタジー
    こういう予定調和的な教会って、あるいは意外性のない大いなるマンネリと呼んでもいいほどの、マンネリ化した教会って、好きな人は好きなのだろうけれども、個人的にはミーちゃんはーちゃんには、会わない。プロテスタント系の教会しかご存じない方は、伝統教派をマンネリとご批判になられれる方もおられる。リタージカルなものを大事にする伝統教派のほうが、ある種マンネリという部分もあるかもしれないが、そこはうまくできていて、飽きないようにちゃんと、教会歴や『たき火を囲んで聞く神の物語 対話篇』での大頭さんの先輩遊びの出発点となった先輩記念日表というものがあって、これまでの信仰者としての先輩たちがど尿なことを成したのかを覚えるという側面もある。この教会歴や先輩記念日がリズムを生み出すこと、そして、礼拝をする会堂の様式を教会暦に合わせて変えることの意味は、伝統教派に行ってみて、深く思い知るようになった。

     

     

    季節ごとに代わる聖なる食卓、教会暦に合わせた多様なリタジー(式文)、あるいは、レント(大斎)の経験、実に見事と言うしかない。プロテスタントでも、そのようなものを一部取り組んでおられる教会もないわけではないが、これまで言った教会ではきわめて薄っすらとあるくらいであった。

     

     

    まぁ、そういう変化がないことについての課題についての感性が鈍い方もおられるので、大いなるマンネリ、教会暦などとは無関係に均質性、一貫性を追求される教会もある。それはそれで、見識だと思っている。まぁ、現代の人工知能、ワトソンくんくらいなら、この辺も適切なし気分を揃えてくれるだろう。そうだとしたら、生身の人間としての牧師や司祭は不要になってしまう。

     

     

    こう考えてくると、Pythonなんかでプログラム書いて、クローラーでも作って、新聞とか、ツィッターとか、ウェブに上がってくる情報を拾いながら、そこで現れる単語から社会の動きなんかを拾ってきて、その辺を説教に反映させて、古今東西の正教の伝統、カトリックの伝統、アングリカンの伝統、プロテスタントの各派の伝統に保存されてきた名説教を、IBMのワトソンくんに機械学習させて、作成させたほうが、説教の内容という意味では、よほど世間に生きる平信徒にとって充実していると感じられるような説教にはなるかもしれない。少なくとも、説教の文字テキストを作り出してくれるようになる日はそう遠くないと思っていると、これからの神学校教育って、何をすることになるのだろうか、などと空想しては、ニタニタ笑っている。

     

     

    計算機やA.I.は神を理解するか?心を持つか?
    こうなると、計算機は神を理解するか、計算機は、神からの召命を受けるか問題にまでなってしまいかねない危うさをもっているように思う。あるいは、計算機はMind(思考)は持つことはできると思うが、Heart(こころ)を持つことができるか問題とも深い意味ではつながっている。先週まで読んでいたナウエンの本(The way of the heart)には、Mindの祈り(頭で考える祈り)とHeartの祈り(こころで祈る祈り)があると書かれていたが、近代プロテスタントの祈りは、Mindの祈りがメインで、ほとんどHeartの祈りがなかったのではないか、というようなことが指摘されていた。それゆえに、現代のMinistryにおいては、Heartの祈りを取り戻すことが重要であるということと書かれていた。それと重ねて考えると、計算機がHeartをおそらく持ち得ないので(というのは、計算機は、神の被造物ではないし、神の息吹を吹き込まれるようにできていないので)、当面どころか、未来永劫、計算機でガラガラポン説教は必要にはならないだろう。

     

     

    しかし、今後の日本のキリスト教徒の信仰がMind派に大きく傾倒していくとすれば、それこそ、計算機ガラポン説教のほうが、適切な説教構築のためのパラメータ(ウェイト)をきちんと与えさえすれば、望ましいものになる可能性が高い。とはいえ、計算機は、神の被造物ではなく、人間による被造物でしかないので、未来栄光、霊を宿すことはないだろう。

     

     

    その意味で、神の息吹が吹き込まれた(はずの)人間の牧師や司祭による司式や説教は、その価値を減じることはないだろう。

     

     

    予定調和を崩すのがお約束の悪役レスラーとして
     そこで、この本で、少なくともミーちゃんはーちゃんが第6章でやろうとしたことは、予定調和的な議論ではなく、大頭さんの言葉を拾いながら、適当に茶飲み話をするでもなく、あるいは、褒め殺し(これをすることはちょっと考えたが、あまりにも可愛そうなのでやめた)でもなく、対話である。対話は相手の話を聞きながら、ツッコミをビシバシ入れるものであると、関西人としては心得ている。この連載でも、あえてボケ倒したのが大頭さんだとすると、関西人としては、それにツッコミを入れるのが、責務と感じてしまったのである。お葬式のような漫才はつまらないだろう。漫才が漫才であるためには、適切なツッコミこそが大事なのだ。

     

     

    そう思っているから、ちょっぴり予定調和を崩してみたのだ。

     

     

    次回 「予定調和を打ち破るのが教会の○○ではないかな?」へと続く。

     

     

     

     

     

     

    評価:
    大頭眞一
    ヨベル
    ¥ 2,700
    (2017-06-01)
    コメント:おすすめしております。一応寄稿者としても。w

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    HarperOne
    ¥ 886
    (2009-09-22)
    コメント:大頭さんの本は読まなくてもいいので、英語が読める人は、この本を読むほうがいいかも。

    2017.06.05 Monday

    『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その1(神学校授業のレンチン説教は・・・)

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      前回、先月末の記事  いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・  で『焚火を囲んで聴く神の物語』を神学プロレスと称したが、久保木さんによれば、あれは、『神学フェス』だという。まぁ、そういう意味でいば、『神学ジャムセッション』といってもいいかもしれない。

       

      しかし、個人的には神学プロレスだと思っている。なぜかというと、「戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争」とクラウセヴィッツさんがいったのか、いわなかったのかはしらないが、対論が真剣なものである以上、言葉による真剣な、どつきあいしないと面白くないではないか。なので、今回、がちでその対論という学問的などつきあいを世俗の側にある人間としてやろうとしてみた。7000字という制約付きで。

       

      オファーの経緯

      ミーちゃんはーちゃんは、プログラマさんでもあるので、クライアント・依頼者・発注者の制約は絶対である。かるいオファーは、大頭さんからFacebookのメッセージであったが、この場合の正式のオファーは、メールで出版社のヨベルの社長の安田さんからやってきた。メールでこようが書留でこようが、内容証明郵便でこようが発注者の制約条件は絶対である。今回の依頼は、メールで頂戴したが、素直にそれに従った。そうしたら、お一人、どうも、この字数制約をガン無視したのが、上沼老師である(最近、中国人の留学生の世話をすることが多いので、彼らは、ミーちゃんはーちゃん老師と書いてくるので、それが伝染している)。

       

      校正稿を見たら、上沼老師お一人、長い(倍ぐらいの1万字超)の長さなのである。正直、「ずる〜〜い」と思った。「こっちのほうが、よほど、場外乱闘じゃん」と思った。あと、お一人、色々斟酌すべき諸事情があったことは間接的に存じ上げている方なので、個人を特定はしないが、締切を大幅に遅れて原稿を送られた方(2月末段階でも原稿が入っていない)もおられた。それらの方こそ、個人的には、場外乱闘ではないか、とおもうのである。

       

      そういう意味で、この本では、読者からは一見、目に見えない場外乱闘事件を起こしている執筆者もおられるのである。

       

      ところで、先のクラウセヴィッツさんであるが、どうも本当のところは、多分 「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」 と言ったらしい。

       

      プロレスのどつきあいにしても、学術的対話をするにしても、ある種真剣にやるということは、ある程度の流血覚悟をするということであろうし、その覚悟でリングに上がっているわけだ(いやなら、そもそもリングに上げなければよい)し、それは、大頭さんの方も、望むところだったと思う。なぜならば、大頭さんは、この本の共著者は、同調者ではなく、対話者(対論者)だと繰り返し、この本が出るまえの企画段階でのFacebookでのチラみせ(スニークプレビュー)の投稿でそう語っていたからである。

       

      情報処理学会のラインスタンプではないが、「同調者ではなく対話者(対論者)である」とまでおっしゃるなら、と世俗の職業人として、そして、神学的素人の見地から応答して差し上げたのが、拙論である。たかだか7000字である。そもそも、そう大したことはかけない。

       

       

      ところで、この本の私の応答部分について水谷潔 尊師(当然、これはおふざけ表現である。読者よ、悟れ)はFacebook上で、次のように書いておられた。

       

       壮絶な戦いを繰り広げたのが、川向氏。神学とは関係ない大頭牧師の悪行三昧を暴露するという「場外乱闘」を繰り広げ、「凶器攻撃」に出る。リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿させるこの流血マッチも、「神学プロレス」の醍醐味の一つだろう。

       

      確かに、大頭さんの悪行三昧は書いた。だって、旧約聖書には、アブラハムの悪行三昧も、ダビデの悪行三昧も、包み隠さず書いているではないか。この本は、旧約聖書の路線の上で『神の物語』を聴く、として企画が上がっている以上、当然のことだと思ったので、この大頭さんというどうにも困った人の大頭さんに対する、最もあわれみ深いお方、すなわち神の憐れみを、きちんと示すためにも、そして、神の御名が賛美され、栄光が評価されるように、きちんと悪行三昧も書いておかねばならない。

       

      市井の研究者への冷たい態度
      このキリスト教業界、牧師が表街道だとすれば、平信徒は、裏通り、あるいは裏街道を歩むのが当然のようにあつかわれる。それは、キリスト教メディアでもそうだし、神学校と呼ばれるところでも、基本的には相手にされないし、牧師の世界の人たちからは、なにを言っても、鼻先で笑われている様な印象がある。ミーちゃんはーちゃんのひがみ根性からの歪んだ印象かもしれないが。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんとお付き合いいただいている牧師の先生方は、そういう対応をされる方はほとんどおられない。
      ところで、こういった対応は、まぁ、それは、教会の世界だけに限らない。学問の世界でもそうなのだ。

       

      学問は基本的に学の世界や業界の専門家の世界である。組織に所属しないで研究をする人のことを、市井の研究者と呼んだりするが、こういう組織を背景としない存在(いまは、独立研究者 Indipendent Researcherと呼ぶことも増えた)は、案外、想定外の質問、つまり、先の「この分野は、素人なので教えてほしいのですが・・・」と前置きをするかしないかは別として、「いまから、学問的に公開処刑をするから、歯を食いしばれ」に近い質問をするから、実におっかないのである。一応、ある分野をしている人からすると、「そこを言っちゃうと、これまでの蓄積を含めて、おしまいになるから、それは言わないお約束」という暗黙の一定の了解事項があるのだが、学者にとって素人の質問がなにより恐ろしいのは、この「言ってはいけないお約束」を完全に無視してくるからなのである。そもそも、学問の世界で、基本的には言ってはいけないお約束は、本来ないはずなのだが・・・。
      一応、魔術師の例でいう「詠唱」部分で、「観測や測定方法、時間的、文字数的な制約による限界がある研究成果だから、それ以上は突っ込まないでね」という学術分野ごとのお約束を述べるということは言っておく習慣のようなものはある。とはいえ、基礎的な前提を疑うことなんかはまだ正当な批判なので、学問の側は、正当な批判である限り、ある程度受けて立つ気分はある。

       

      一番困るタイプの市井の研究者は、「自分は個人で長い時間かけて研究しているのだから、あなた方、学問の側にある側は認めないかもしれないが、たとえ専門家あなた方には、意味が分からなくても自分に自己流の用語であるかもしれないが、自分の発言の権利をよこせ」と結構高圧的に批判的なことをおっしゃるタイプの方のご発言である。結構、これ、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)とか、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル)系の左派系の人々や、ご自分だけで勉強しておられて、自己の研究を他者の目から見て、対話的に、批判的にご自身をご覧にならなくても済むような環境におられる高齢者に多くて、もともと性格が偏固であるためか、だれからも相手にされないタイプの方に多いような気がする。まぁ、一応相槌を打ちながら、お話はきちんとお伺いすると、少し冷静になられるのか、その過激な言動は少し和らぐので、その落差がかわいらしく思えることが多い。このタイプは、教会を批判するために教会に来られる方にもかなりの確率で散見される。

       

      要するにこういうことをおっしゃる方は、「教会内の仲間内でやりやがってけしからん(おいらも仲間に入れてくれ)」ということだけが言いたいだけなんだろうと思う。ただし、仲間に入る、リングに上る以上は、ヤコブのレスリングの記事ではないが、お互いに取っ組み合いをやるわけであるから、腿の蝶番の外れることだって、そして、怪我をすることだって覚悟の上である。けがをしないためには、ちゃんと受け身や練習しておかないと、だめである。そうしていても、けがの一つや二つ、流血の一つや二つなければ、面白くないではないか。サッカーのワールドカップが茶室のなかでのお茶の勝負になってしまい、相互におっとりと、「結構なお手前で・・・」みたいにやられたら面白くはないだろう。

       

      とはいえ、マジで茶道をやると、あれはあれで結構、格闘技系芸術なので、「茶道具合戦」「掛け軸合戦」になったりするのであるが。たぶん、千利休に秀吉君が切れたのは、秀吉君に離宮がガチ勝負を挑んだからだ、と思うのである。まさに、派手さを追求する絢爛豪華系を目指す茶の湯の世界の秀吉君に、利休が「この絢爛豪華系のお茶の分野は素人なのですが…」と秀吉君とそのお茶の好みを公開処刑をしたから、時の権力者の秀吉君の逆鱗に触れて、死を賜ったのだと思う。

       

      道をガチ勢で極める世界(学問の世界もそうだが)は、「あな恐ろしや」の世界なのであり、けがをしたくない素人衆は、手出しをしないことに限るのである。ガチ勢を相手にすることは、案外実に恐ろしいのである。

       

      ここで、振り返ってみれば、ミーちゃんはーちゃんが「人のいいI.T.技術屋のおぢさん」としてのミーちゃんはーちゃんに対する印象をもっていたかもしれない大頭さんから、対論をお願いされたので、それもまた、ややこしい、オープン神論とかいう議論についてお願いされたため、「よっしゃ、そんならいっちょもんだろう」と学問の世界では当然の「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないんでいいのでしょうか…」と怒涛の攻撃をしたのが、本書第6章のp.162以降である。したがって、水谷尊師曰く「リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿されるこの流血マッチ」となってしまったのである。

       

       

      なお、学問の世界ではうっすらとは知られていても、多くの人々がご存じないのは、ニュートンや、パスカルなどの時代の割と有名な学者には、世俗の世界の住民で、市井の研究者、独立研究者だった人が多いのである。たかだか300年か400年くらい前まで、昔はみんな、独立研究者であった。恵まれたご身分でない人で勉強したかった人は、修道院で修道生活をしながら学問をした。コペルニクスがそうであるし、遺伝の法則を発見したメンデルも修道僧である。

       

      世界で最古の大学と呼ばれるイタリアのボローニャ大学も、もともとは修道院がその出発点であるし、世界の名門のオックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も修道院から始まっている。アメリカのハーバード大学も、もともとは牧師養成所であった。

       

      オープン神論とミーちゃんはーちゃん
       あの本で書いたように、第6回日本伝道会議(JCE6)では、社会と教会の関係を考えるセッションに事前に申し込んでいたにもかかわらず、そこから、突然引き抜きをして、オープン神論の世界に引きずり込まれた。聖契神学校の関野祐二校長が、直前に大頭さんにオープン神論のセッションをまとめるように、丸投げしたことが諸般の原因らしいが、そこに集まる多数の並みいる牧師先生のまえで、ことあるごとに、「川向さん・・・・」と神学的な素養のない人間に、大頭さんは助けを求めてきたし、かなり厳格な予定論に立つお立場の改革派系の牧師さんからある種、「おかしいじゃないか、そんな予定がきまっていないことなどは、神が全知全能なれば、神のご性質の理解がおかしくなるのではないか」とねじ込むようにおっしゃった方とも、行きがかり上やむを得ず、対話を求められたのである。一応、学問的誠意をもって応対はしたつもりであるが。当方だって、流血マッチをなんとなく行きがかりとはいえ、やらされたのだから、その場で気が付いたことを書いておこう、このオープン神論の背景に潜むある種の前提、世界観があること、それの妥当性があるのか、どこまで妥当性があるのか、前提としての妥当性はどうか、という気が付いたことを、「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないままで、神学的議論のみで議論を進めて、よいのでしょうか…」とぶちかましたのが、第6章の応答「神の群像劇(アンサンブル・プレイ)と私たち」の後半p.162の部分である。

       

      神学は牧師室のものじゃないかと…
      と、ここまで長い前振り(この辺は、学術論文での先行研究の部分、魔術師の世界での「詠唱」に当たる)をした後で、本論に突入である。この辺は、学資論文や、修士論文や博士論文などの学術論文の定石である。これもまた、学門の世界のお約束である。

       

      個人的には、組織神学などの勉強をまともに神学校でしたことはない。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、神学という魔術師の世界での「詠唱」をきちんと唱えられないし、唱える気もない。大体長すぎて退屈してしまうと思う。そこでこれまた、「素人的発想で、大変恐縮なのですが…何のために、神学があるのでしょうか」と根源的な質問(それはしてはいけない質問かも知れないし、少なくとも、日本やアメリカの神学校ではあまり教えてくれない重要な根源的問いだと思うが…)をしてみたい。

       

      今、世俗の学でもそうだが、学問のための学問が多すぎるような気がする。学問的成果を簡単にあげる(要するに論文を書くこと)ための学が求められているし、学問の評価も、基本的に論文を書かないと評価されない、根源的な問いをすることはあまり評価されない現状が実際にあると思う。なぜならば、そんな根源的な問いについての論文なんて、そう簡単にかけないからである。簡単に書ける論文は、テクニカルに書く論文であり、評価者である人々(それは匿名の評価者、レフェリーだったり、学位論文の審査員)に受けのいい論文を書かないと、よい評価がもらえないので、ついそういう安易な道に流れてしまい、本来、何のために研究するのか、なぜに自分がこれが面白いと思ったのか、などは一定の評価をしてもらうための犠牲として、結果として、無視されることが多い。その意味で、魂を売り渡して評価を得ているのである。しかし、それでいいのだろうかとも思う。その人のスピリットというか、魂というか、学問的な素朴な出発点とかは、案外大事にしたほうがいいとはおもうが、それでは、食えない。

       

      先日、Elementary (日本では、エレメンタリー・ホームズアンドワトソン in NY)というアメリカの海外ドラマを見ていると、「神学をやっている人は、神学では食えないので、別分野で就職している」というセリフが聞こえてきたが、学問の世界では、みんな生活するためには、魂を売り渡して、仕事をするしかないのである。

       

      ところで、そもそも、神学とは、神学のためのものだろうか、と素朴に、素人的発想で思ってしまう。もともとは、神学は、信徒が神の民として歩めるように整えることを補助するため、神の民に仕えるための学として始まったのではないだろうか。ほかの学でもそうだが、そもそも、天地創造の御業をより深く知るために始まった自然科学にしても、人のかたちが人のかたちとしてよりよく生きることができるように始まった医学にしても、今はその出発点を忘れ、神の御業などとは考えないまま、独自のベクトルで進み始め、自然科学の場合は、核融合や核爆発などにも貢献する原子物理学の世界という、人間には手に負えないものにもつながったし、医学にしてもそれが人間の尊厳なのか、神のみ思い(エンシャー・アッラー 神のみ思いのままに、という意味のアラビア語)を尊重しているのかうかがわしいような延命治療なども行われなくはないと思う。まぁ、延命治療の場合は、遺産相続などの関係で、簡単に死んでもらったら困るというような人間側の側面が働いている場合も無きにしも非ずであるが。

       

      いずれにせよ、信徒は、牧師室で生きているわけではない。霞を食って生きていけない以上、牧師室を占拠し、牧師先生に飯を食わしてもらう(時にこれをしてもらうとうれしいことは確かだが)ことを延々続けるわけにはいかないのだ。信徒は、生活の場があるのだ。逆に、牧師先生だって、信徒がつねに金魚の糞のように付きまとわれるといやだろう。信徒が、神の民が、神の栄光を求め、神とともにこの世界で生きられるようにすることを聖書から考えるのが、まずもって神学だったはずだし、聖書神学の大原則だったはずだ。他者と他者の言説をあげつらってどうこうするような神学は、神学のための神学ではあっても、信徒のための神学、神の民に仕えるための神学、神の民が礼拝するための奉仕者としての神学といえるのだろうか。個人的には、そう思う。

       

      輸入冷凍レトルト料理のような日本の神学
      そして、上に引用した水谷尊師のコメントに、なんで、ミーちゃんはーちゃんがあのような乱暴な応答をしたのかについて、ミーちゃんはーちゃんは次のようなコメントをお返しいたした。

       

      信徒が生きているのは、社会なんです。これまでの日本の神学とよばれるものは、その信徒が生きている日本社会を無視して、あるいは、日本社会の文脈のコンテキストをある程度無視して、西洋である程度出来上がってきた、パッケージ化されたレトルト食品のような神学を、これは舶来の非常に素晴らしい食事だ、と言って、ほぼそのままちょっとレンジでチンして出してきたのが、日本の教会の”神学”だったのではございませんでしょうか。

       

      大頭さんは、レンジでチンしたものをちょっと無節操に(という気はしますが)寄せ集めたものも、時々、ちょっと使いながらも、ある程度ちゃんと自分のところで調理して(ちょっとだけだけど)、それを我々にぶつけてきたような気がしたのです。

      としたら、それにキチンと応答して差しあげるのが、社会の側に足場をおく私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことでございます。この辺の匙加減がかなり難しいのですね。いきなり、マジで、システム論とか、科学思想の歴史理解とかだと、読む気なくすでしょ。w
      上の表現は、個人的には、後藤先生のご発言
       これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。

       

       

      の趣旨を下品に、より浮世風の言葉で表現したに過ぎない。アメリカやイギリスでの流行をそのまま持ってきて、○○の神学がはやっているから、と翻訳書に浮かされて、それが教会の中で幅をきかせる。牧会カウンセリングが流行っているからと、日本のプロテスタント派の教会の中でそれが流行る。実に残念なことである。

       

      牧会カウンセリングは、無意味だとは言わない。ないよりはましではある。

       

      ただ、流行に乗ってやるのはどうなのか、と思う。以前どこかでも書いたが、牧会カウンセリングは、本来、司祭と信徒の間での告解(いわゆる懺悔)で大概のものがカバーされていたはずなのに、告解は、おかしい、儀式的だとプロテスタントになったその末裔たちが勝手に廃止した結果、説教では簡単に処理できないために、教会の中で何らかの形での対応が迫らているゆえに、牧会カウンセリングが出てきているような気がするのだ。自分たちで勝手に廃止しておいて、何を今頃言い出すのか、とMさんでないけれども言いたくなってしまう。牧会カウンセリングをやるなとは言わない。しかし、やるならやるで、そのための神学をきちんとするほうが先ではないか。自分たちが捨ててきたものが何だったのか、ということを、まず反省すべきではないのか。「神学校で教えてないから・・・」というかもしれないが、それは理由にならない。

       

      牧師の先生方は、神学校で教わったことを信徒がわかるように平たい現代日本語に変換して語る(電子レンジでチンするように語る レンチン説教する、と以下称する)ことが牧師の役目だろうか。違うのではないかなぁ。Lean CuisineやTV Dinnerと呼ばれるレンチン料理がアメリカのスーパーに行くと、いろいろうられているが、神学校で仕入れたLean Sermon やTV Sermonなら、まだ、レンジでチンするだけましである。レンチン説教なら、ましかもしれない。中には、どこぞで見た説教をそのままコピペしたようなコピペ説教も出るようである。ミーちゃんはーちゃんのお友達になっておられる先生方や、この本の共著者にはレンチン説教やコピペ説教するような、そういう方はおられない。日本の教会の大半の牧師先生方の土曜日の深夜の呻吟ぶり(土曜深夜、Twitterを観察していると、このシンギンぶりが結構な頻度で出てくる)を見ていると、大変だなぁ、と思う。まぁ、レンチン説教どころか、コピペ説教でお済しになられる、そういう変な牧師先生はあまりいないようだが、一部にそういう方もいないというわけではなさそうだ。

       

       

      http://www.hezzi-dsbooksandcooks.com/2015/06/new-lean-cuisine-marketplace-meals.html
      上のリンク先を見るといろん種類のLean Cuisineが出てくる。

       

       

      http://www.cooksinfo.com/tv-dinners

       

      とはいえ、日本にアメリカの神学潮流が入ってくるまで、約20年のタイムラグがある(その意味で、お古であるともいえるし、十分にアメリカでの様子を確認し、安全が確認されてから入ってくるとはいえるかもしれない)し、以前は、もうちょっと時間的なラグがあったし、英国やアメリカなら、クラッシックとも呼べる本、例えばロイドジョンズやF.F.ブルース、ライル、ナウエンの著作などは、神学校の入学者が一定程度継続的に、それも一定の人数ボリュームがあるので、クラッシックとはいえ、いまだに印刷・販売され続けているものの、日本だと、神学書は、ここで会ったが百年目、親の仇でも仇討のように確保するように、書店で出会ったときに確保するか、復活書店さんなどの古書店で確保するしかないのである。実に残念なことである。

       

      日本の出版社は毎年、大量の2刷、3刷の出ない本ばかりを次々と出している自転車操業状態が常態となって久しい。この本だって、主著者の大頭さんが印税を取るのではなく、印税部分は大頭さんだって、現物支給なのであって、大頭さんは主著者自ら、売り歩いておられるのだ。共著者も印税はないしその部分は現物支給である。実に涙ぐましい状況なのだ。

       

      とはいえ、アメリカのキリスト教書の大手ともいえるZondervanなども大手出版社の傘下に入るなど、キリスト書関係の規模の小さい出版社は再編のあらしにまみれている。まぁ、これらの状況は、理工系の専門書などでも同様である。そして、その多くが、実は翻訳モノ(輸入書)なのではないだろうか。日本人著者によるものは、かなり少ない。そして、時々、翻訳が目が当てられないものも少なくないのだ。残念なことに。最近は、要所をそのまま読むほうが、妙な翻訳を見なくて済むし、何より、安いので、英語でそのまま読んでいることが多い。とはいえ、日本語でないと困ることもある。その意味で、日本語のキリスト教書では、少なくとも、あめんどうの本は、編集の人がかなり厳しい目を光らせているので、翻訳書であっても、安心しててもよいが、それ以外の書店のものは、訳者を見ないと、信用ならないものが多い。訳者を見てても、外れの時もある。

       

      どうも、日本のキリスト教所業界をマクロ的に見ていると、アメリカで十数年か数十年前に流行った本が、レンジでチンするかのように日本で翻訳されて、神学校で読まれ、それが教会の現場に広がっていく現状があるような印象も、日本のキリスト教書の出版事情を見ていると、起きているのではないか、と思うほどである。某神学校では、いまだに、戦後間もないころの大先生の著作が、いまなお読み上げられているとも聞く。それをもとに受講生と議論するのではなく、講義の時間には、教員がその古い本を読んだり、学生が音読しているという、信じられない教育が行われているらしい。日本語についての語学教育でもあるまいし。もう、開いた口が塞がらない。

       

      神学校での教育がそれならば、レンチン説教で済ませる人が出てくるのも理解できなくはない。

       

      ところで、アメリカや英国ではやっているからいいわけではない。

       

      しかし、10年も、20年も時代遅れの冷凍焼けして、かなり硬くなったり変色したような聖書理解をありがたがって受け取らされている現状ってどうなのかなぁ、と思う。それならば、正教会のように、聖書と古代教父のものしか読まずに作り上げられる説教のほうが、変に中途半端に古いものよりも、よほど熟成がなされていて、濃厚でいいような気もするけれども。大体説教時間が短いし。

       

      大頭さんのオープン神論は、おそらくレンチンである。何冊かきちんと本読んだ結果ではないと思う。どこかでちらっと聞いたことや、山崎ランサムさん(大頭さん風の表現によれば山崎ハンサム)のブログを読んだだけという節が感じられる。そもそも、「こういう話はこういう理解でいいか」とミーちゃんはーちゃんにときどき、聞いてくる段階で、かなり怪しい。

       

      まぁ、詳細は読んでないにせよ、本書の素材は、まとまった本を何冊も読んだうえで、というわけではないにせよ(その意味で、レンチンではある)、一応自分で考えてみて、なんとか信徒さんのレベルにも聖書の世界をわかりやすく受け取ってもらえるよう、工夫をして述べようとしたのが、本書ではある。ちゃんと調理をして、味見くらいはした感じが、本書であると思ったほうが良い。

       

      調理不足や、調理の盛り付けは、まぁ、ひっちゃかめっちゃかではあるような気がするが、一応、自力である程度格好よく見せようとして、盛り付けまで、やろうとした、ということと、やってみたという、その精神は高く評価したい。だからこそ、面白がって、同書でも応答したし、こうやって、台所事情を、料理の鉄人よろしく中継しているのだ。

       

      1980年代中葉に大流行した料理の鉄人。この番組のフォーマットはアメリカにも輸出され、アメリカ版の番組ができた。

       

      アメリカ版 料理の鉄人 Iron Chef

       

      こういう料理をぶつけられた以上、単なる感想ではつまらないではないか。なぜ、このようなオープン神学というような亜流とも思える神学思潮が出てきたのか、近代社会と近代キリスト教社会をゆるく支配してきた組織神学の体系がもたらした現在の社会の閉塞感と、その閉塞感を打破しようとして、これまでの蓄積を、あえて無視したような神学の体系や学問の体系がどうして出てきたのか、ということを現代社会という生活の座から軽く解き明かすことこそ、世俗社会に生きて、世俗社会の閉塞感と、世俗社会でのポストモダン思潮や、ポストコロニアル思潮を横目で見てきた人間の役割だと思うので、メタ世界からの議論を申し上げ、話題を提供したまでである。神学にとってのメタ概念を、場外乱闘とおっしゃるならば、言われたらよろしい。

       

      日本の神学状況を横目でちらちらとみているに、どうも神学という象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのか、あばら家なのかは知らないが、どうもその建物の中に凝り固まっていて、その世界の内側だけを見ている感じがして、この辺の社会の状況ととらえて社会に出ていくための神学をしている人が少ないような気がする。それを、不十分とは言えども、乱暴さを持ちつつも、そのあばら家なのか、象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのかを飛び出して、我が道を行く、という感じで行こうとした大頭さんに対する、援護射撃が、あの場外乱闘、メリケンサックでガンガン、チェーン攻撃でビシビシなのであり、これから数回連載する予定の悪役レスラー篇である。悪役レスラーであるからこそ、裸の王様に、「王様は、裸ちゃうんか」といえるのである。

       

      まぁ、お約束の攻撃なのと、先にも述べたように、庫裏なのか、楽屋裏なのか、台所事情なのかは知らないが、裏事情はかなり知っているので、かなり、衝撃が弱まるよう、悪役レスラーのように、ちゃんと、緩めに攻撃をしている。それこそ、マジでやるときは、情報処理学会のラインスタンプよろしく、「この分野、素人なので、教えてほしいのですが…」といいつつ、青白い炎を立てて、聞きまくって、だめ出しする。

       

       

       

      しかし、神学とは、先にも述べたように、世俗の社会に生きる神の民のための営為ではなく、さらに、牧師室の本棚の肥やしを増やし、あるいは、今後のレンチン説教を量産するための在庫の積み増しを増やすためのものであるとするならば、実にナンセンスなことである、あるいは、意味ないじゃん、と思う。

       

      明石家さんまさんの「意味ないじゃん」 (2分37秒あたりから)

       

       

      今は、ミーちゃんはーちゃんは流浪の信徒ながら、いや、流浪の信徒であるがこそ思うことができるし、今は流浪の信徒であるからこそ言える。流浪の神の民、寄留の信徒であるがゆえに、怖いものは何もない。好きなことが言えるからこそ、好きなことを申し述べさせてもらいたい。それがご不満なら、どうぞ、PCの電源をオフになさるがよろしかろう。ブラウザのタブボタンを閉じられれば良い。あるいはブラウザの閉じるボタンを可及的速やかにクリックされたい。

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      価格: ¥ 2,700
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:まぁ、いろいろございます。面白がって書きました、って感じ

      2017.06.03 Saturday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その64 (完)

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        さて、長々と続けてきた、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の連載も今日で終わりである。前半部分があって、ちょっと中休みがあって、そして、後半部分も、途中いろいろな特集物を含みながら、今日で終わりになる。長かったような、短かったような、もう十分なような、もっとやってみたい(しない、しない)ような感じもないわけではない。

         

        ついては、今日ご紹介するのは、最後の部分からである。

         

        われらは、どこに行くことが求められているのか

        多くの人々は目標をもって、生きている。と入っても、それは一時的な目標、一時的な目的であることが多い。一時的といっても、10年とか、20年くらいの目的であることもあるけれども。世俗の仕事の話で恐縮であるが、マーケティング系のことに関する授業もしている。この授業などでは、夢や、目標、目的について学生と対話的に授業することがある。若者らしい夢を持っている学生もいれば、ひどく現実的な夢といえるのかといえるほどの、1年先とか2年先くらいの目標を言う学生もいる。そして、それに向けて、彼らなりのやり方で、努力をしているらしい(全員が全員とは言わないが)。

         

        それでも、「何のためにやるのか」、「なぜ、それが目標なのか」ということを必ず聞いてみることにしている。その辺の質問になると、彼らにとっては、割と長期にわたると思われる夢を語る学生であっても、あまりはっきりとはしなくなる。何のために、どこに向かうべきかの方向性を見失っているかのようだ。とりあえず手近にあるもので考えるというのは、人間の認知の限界を考えると致し方のない部分もあるだろう。

         

        しかし、キリスト教で語られる世界観には、最終的な目的地、終結があると言ってきた。それは、帰るべき家、父の御下、アブラハムの懐、天国(天の支配の根源的な空間であると、ライトさんはいう)、・・・・と言われてきた。個人的には、そこに戻るべきだ、とも思うし、キリスト教関係者の神を信じておられる皆さん、その最終的には、その神のみもとに戻ろうとして、日々を歩んでおられるのだろう。

         

        そのことを以下の引用文で、ライトさんは、「その話し手のそば」と表現しているのだと思う。福音の話し手のそばに、そして、本来我々がいるべき場所、新しいエデンの園に招かれているのだと思う。

         

        夜が明けるときは、暗闇を新しい仕方で回顧することになるだろう。「罪」とは、単に律法を破ることばかりではない。機会を失うことである。私達もあの声の響きを聞いたからには、その話し手のそばに行き、出会うようにと招かれている。その声そのものによって変えられるようにと招かれている。その声とは、福音のことばであり、悪が裁かれたことを宣言する言葉である。(『クリスチャンであるとは』p.333)

         

        この部分を読みながら、次の聖書の場所を思ってしまった。まさに、これ、という感じ。

         

        【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1 
         15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
         15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
         15:27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
         15:28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

        (中略)

         15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

         15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
         15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

         

        あと、ライトさんが罪について面白いことを行っている。「」とは、「機会を失うことである」と言っておられる。この機会を失うことである、と言うのは大事なのだと思う。それは、神をより深く知る機会を失うことであり、神との関わりを持つ機会を失うことであり、神とともに時間を過ごす機会を失うことなのであり、さらに言えば、神とともに歩む人びととともに歩む機会を失うことであり、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習の聖餐の機会を失うことなのだろう。

         

        そういえば、オバマさんも機械を失うことに、面白いことを言っていた。

         

        http://www.bestsayingsquotes.com/quote/if-you-run-you-stand-a-chance-of-losing-but-if-you-dont-run-550.html

         

        先日の水曜日、世俗の仕事の会議がなかなか終了せず、水曜日の夜の聖餐式に行けなかったことを心底Facebookで嘆いていたら、関西のあるキリスト教書店の店長さん(ほぼ人物が分かる人には特定されてしまう)が「 聖餐は、週に一回で良いじゃないですか 」とおっしゃった。そんなことはないのである。そんなことは、ミーちゃんはーちゃんにてっては、まさに、 Covfefe (コーフェフェとアンダーソン・クーパーというキャスターは発音していた様に思う)である。

         

        Covfefeで遊ぶAnderson Cooper さん(CNN)

         

        ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアであるからかもしれないが、聖餐の機会を失うのは、本当に良くないのである。いや、できるだけ逃したくないのである。だって、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習でもある聖餐の機会を失うことになるではないか。そんなもの、可能な限り、逃したくはないのである。

         

        クリスチャンのきよさの誤解

        このブログでも、かなりのクリスチャンたちが「きよさ」を誤解していることを紹介してきた。ピューリタンの理解が歪んでいることについても触れてきた。例えば、この記事 (ピューリタン雑考)などである。まぁ、ピューリタンについての誤解はさておき、ある種の教会人は自らストア派の哲学者のように、本来神が与えたもうた美のような良いものであっても、それを否定する方向で進んできた部分がないわけではないと思う。それはあまり良いことではなかった、とライトさんは次のようにいう。

         

         

        教派擬人化マンガ 『ピューリたん』が読めるのは、キリスト新聞(今後展開されるネット版でも、『ピューリたん』は読めるらしい)だけ(キリスト新聞社、新社長がんばれ、新社長応援でちょっと載せてみた・・・)

         

        クリスチャンのきよさとは、(多くの人が思い込んでいるように)なにか良いものを否定することではない。それは成長することであり、さらに良いものをしっかりと掴んでいくことである。(同書 p.333)

         

        この部分は、あ〜〜〜、これは、聖書の以下の部分の理解か、と改めて思ったのである。

         

        【口語訳聖書】 マタイによる福音書
         13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
         13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
         13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
         13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
         13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
         13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
         13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
         13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

         

        これまで、クリスチャンの中には、美は誘惑するものだから、と美しいものを蛇蝎のごとくきらい、小説でも、映画でも、芸術作品でも、イコンでも、十把一からげに無視し、否定するどころか、ひどい場合は破壊してきた人々も一部におられた。ろくでもなかったことだと、ミーちゃんはーちゃんは思っている。ミーちゃんはーちゃんにとっては、うまいもんはうまいのであるし、ええもんは、ええのである。

         

        焼肉はやのCM (うまいもんは、うまい 笑福亭鶴瓶が若い w)

         

        それを、これまで、勝手なストア派的な理解の延長線上で、本来善きものであったものを勝手に捨てたり、勝手に乱用してはいけないから、と美しいもの、善きものを否定し、排除してきたような部分もあったかのように思う。そうじゃない、それはまずいのではないか、とライトさんはおっしゃっているようだ。そして、クリスチャンのきよさは、「さらに良いものをしっかりと掴んでいく」ことだ、と明白にライトさんは言っている。

         

        それは、神に近づいていく問うことであろうし、真実をつかんでいくということだろうし、神との関係を深めていく、つかんでいくということなのだろう。

         

         

        本来のものに向かって歩む

        ところで、人間の姿が的外れ、ずれていることが問題だというのが、聖書の主張であり、その的外れの状態、ずれていることが「罪」だというのが聖書における「罪」理解であることは、ある程度知られていることだろう。そのあたりを、ライトさんは非常にうまく次のように表現している。

         

        私たちは、霊的であるために作られていながら、内省にふけっている。喜びのために造られていながら、快楽に浸かっている。義のために造られていながら、復讐を叫んでいる。良い関係を築くために造られていながら、自分のやり方を主張している。美のために造られていながら、感傷で満足している。しかし、新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた。クリスチャンは、いまのこの世界の損なわれたもの、不完全なもののすべてを、イエス・キリストの墓の中においてくるようにと、召されている。(同書 p.334)

         

        ここで大事だなぁ、と思ったのは、「霊的であるために作られていながら、内省にふけっている」という部分である。「本来、神を見るべき霊的な存在であるにもかかわらず、自分の中しか見ていない、そこには善きものは湧き上がってこないのに・・・」といいたいかのようである。その意味で、本来霊の源泉、あるいは、霊が清水のようにあふれ出る水道管のような存在である神をみつめるかわりに、下水道管の出口のような自分の心の内側のみを見ているのが、人間ではないか、とでも、ライトさんは言いたげである。

         

        そして、義を生み出すために人間は創造されたのに、復讐と称する殺戮を人間はしているではないか。パウロだって、神が復讐するのだから、神に任せよ、と言っているのに。ここで、ライトさんは、義のための戦争とか、平和のための戦争とかナンセンスなことを言っているのは、どうしたことか、とライトさんは言っているかのようだ。

         

        【口語訳聖書】 ローマ人への手紙
         12: 19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

         

        The SimpsonsでのRevangeについての表現例 ホーマー・シンプソンの奥さんのマージが「Revenge(復讐)は何も解決しない」と言っていることに対して、ホーマーは「じゃぁ、アメリカ買楽でしているのはなんだ?」と問い詰めるシーン(32秒あたりから)が秀逸。

         

        そして、何より、「新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた」という部分が印象的である。毎年、イースターの時には、He is RISEN, INDEED. XRISTOS ANESTEIと言いながら、それを覚えているし、聖餐式ごとに(あるいは、礼拝ごとに)、キリスト者は覚えているはずなのではなかろうか。

         

         

         

         

        ライトさんによれば、イエスの復活後にイエスに従うもの、クリスチャンであるということは、神という太陽が朝日の様に地上を照らし、その朝日のような太陽に照らされるように、新しい世界への道でもあるイエスの歩んだ道を歩むのが、クリスチャンということになるらしい。下の図のような感じだろうか。

         

         

        http://bsnscb.com/gorgeous-morning-sunshine-wallpapers.html から

         

        あぁ予想以上に長くかかった。長いブログで延々とした連載に、お付き合いいただき心から感謝します。

         

        これにて、クリスチャンであるとは、についての連載は 完としたい。

         

         

         

         

        2017.06.01 Thursday

        2017年5月のアクセス記録とご清覧感謝

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          皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

           

           先月は、 23,813 アクセス、平均で、日に  793.8 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

           2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
           2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
           2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
           2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
           2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
           2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
           2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
           2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
           2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

           2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
           2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

           2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

            

           2017年04月      23,813 アクセス (793.8) 

           2017年04月      28,883 アクセス (931.7)

           

          今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

           


          Doing Being Becoming Creating そして Recreation

          アクセス数  679

           

          現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

          アクセス数    609

           

          いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・

          アクセス数  411

           

          後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)

          アクセス数    374

           

          アクセス数    335

           

          でした。

           

           

          今月も特徴的だったのは、 Doing Being Becoming Creating そして Recreation がいきなりぶっちぎりのトップであったことですねぇ。これは霊性に関するエッセイみたいなもので、当初ほとんど関心を集めなかった記事が、なぜか今回1位になりました。個人的には、結構真面目に書いたのに、公開当初は人気がなかったのに、今になって人気が出るのが不思議だなぁ、と思う。また、いつものように、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第2位という結果に。

           

          今月は、後藤先生の『『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言』シリーズがずっと上位に来たのは、いいのですが、なんと、あの上品な世界に突撃するかのような、異種格闘技系の本の記事 いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・ が、後藤先生の本に関する記事を押しのけて、3位に。だってこの紹介、27日に公開したばかりなのにぃ・・・まぁ、この訳わかんない本を売らなきゃいけないヨベルさんにとってはいい話ではあるけれども、それもあって、協力はしたけど・・・

           

           

          でも、後藤先生から2回も応答を拝受したのは、何よりうれしかった… ブログやっててよかった…と真剣に思ってしまった。

           

           

          今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

           

          先月の御清覧、ありがとうございました。

           

           

          2017.05.31 Wednesday

          N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その63

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            今日もいつものように、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、つらつらと思ったことを、タラタラと書き留めてみたい。今日の部分は、「美」についての部分である。この本(翻訳書)の初版本が出版されてから、はや2年。この連載も60回を超えた。とは言え、今回を含め、あと2回か3回かをのこすばかりである。今日は、最後の部分「生き返った美」の節である。

             

            美への飢え乾きの存在に目を向けよう…
            人間は、本来的に美しいものが大好きである。数理問題としての懸垂線そのものや懸垂線を示す数式なんか、惚れ惚れする美しさを感じてしまう。ミーちゃんはーちゃんは、そんなものに美を感じてしまうような変わった人間ではあるが、美しいものは美しいと感じる。空間を統御するリズムが感じられるものは、本当に美しいものであると思う。そして、美しいものは、結果としてであるが、効率的なのだ。

             

            しかし、これまで、一部の教会は、美しいものは異教的だとか、偶像崇拝につながるとか勝手なことをおっしゃって、美しいものを極力排除してこられた。こんなに世界は美しく、そして、効率的な神ご自身によるデザインで満ちているのに。

             

             

            https://spadystudios.wordpress.com/2013/07/15/983/

             

            https://jp.pinterest.com/auntylisse/fractal-exploration/(低気圧)

             

            本書を閉じるにあたって、提案したいことがある。まず教会は、あらゆるレベルで美への飢え乾きに再び目覚めるべきではないだろうか。それは本質的なことであり、緊急を要することである。それ故に、創造の素晴らしさを祝い、現在の破壊された状態に深く思いを馳せ、出来る限りの世界の癒やし、つまり新しい創造そのものを前もって祝うことは、クリスチャン生活の中心となるべきものである。(『クリスチャンであるとは』p.331)

             

            そして、この美についてもう一度再検討することは、教会にとって「本質的なことであり、緊急を要すること」とまでおっしゃっておられる。たしかに美しく整える、というのは極めて手間がかかる。しかし、この手間暇をかけて、よいものにしていくことに務めることは、実質だけのことを言うならば、きれいに整えたりすることは、確かに無意味かもしれない。とはいえ、そのような生き方は、実に無味乾燥なように思うのである。

             

            以前にも書いたかもしれないが、世俗の仕事の関連分野のアメリカ人で、食事を取らず、サプリメントだけでお過ごしだった方がおられ、みんなが食事に行っても、そこでサプリメントの丸薬だけを飲み下しているある大学の先生とご一緒したことがある。せっかくの熱々の美味しそうな食事が目の前で繰り広げられていようが全く無関係に、丸薬を飲み下しておられた。栄養分はこれで足りると。合理的な世界の理解ではそういうもので良いのかもしれないが、なんか変だとも思っていた。というのは、人間の直感に反するのだ。

             

            それもここでライトさんが指摘しているような美や素朴な人間の喜びをガン無視してきた、ある種のキリスト教から発展してきた概念がもたらした極端なケースということができそうな気がする。神が与えられた被造物の世界の美しさ、美味しさ、多様性を十分を味わい、それが更に優れたかたちで、もたらされる新しい創造での回復された被造物の世界を心ゆくまで享受すること、そして、そのことを通して、神に感謝と栄光を帰していくこと、すなわち祝うこと、Celebrateすることは、本当に大事なんだろうなぁ、と以下で紹介するようなJohn Rutterの賛美歌を聞いたり、歌うたびに思う。

             

             

             

             

             

             いかは、Rutterの作品検索中に見つけたあまりに美しい讃美歌だったので、つい拾ってしまった。

             

            そして、その未来における神との関係の回復を祝っているのが聖餐であることを考えると、ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアだからであることは重々承知の上の発言であるが、クリスチャン生活の中心として、聖餐はあるわけであるし、対話や調整と、祈りあう時間がいくらかかろうとも、聖餐の分裂が回避され、神が一つであることを見ることにつながるし、その意味で、神が一つであり、我々の分裂の回復を聖餐で表すことは大事だなぁ、と思うのである。

             

            この辺を書いた本にGordon T.Smithという人のThe Holy Mealという本がある。なかなかに面白い本であるが、日本の現状の聖餐状況を考えると、日本では、まだもうちょっとこの本を十分味わうには時間がかかるかなぁ、と思う。

             

             

             

            芸術とカリスと人間と聖霊
            今行っている聖公会の出島のような教会では、個人的には好きな杯が幾つかある。金色の金属製の盃もきれいではあるけど、個人的に一番好きなのは、陶器製の薄い水色で、釉薬として長石の粉が入っている釉薬の関係か、キラキラした水色の表面になっているものと、盃の外側の表面がボコボコしていてモザイク状になっていて、盃の外側の表面に二匹の魚と5つのパンがかごに入っているあのモザイクがついているこれまた陶器製の盃である。

             

            http://www.thejerusalemgiftshop.com/judaica/kiddush-and-communion-cups.html から

             

            https://www.etsy.com/market/communion_cup から (もう少し水色っぽいけど)

             

            もともと、ミーちゃんはーちゃんが陶器が好きだ、というのもあるのだろうけど、この陶器の盃は、我々が土の器であり、そこに神の霊が注がれている存在であることを思い起こさせるので好きなのである。多分、司祭のPaul君は、そのあたりのことを考えて、陶器の器を用いているのだろうと思う。

             

             その盃を例に取りながら、ライトさんは次のように書く。

             

            おそらく芸術とは、そうした何かを見せてくれるものだろう。現在のうちに胎動している未来の可能性を、垣間見せてくれるものであるだろう。それは、聖餐式で用いるカリス(盃)のようなものである。それもまた見て美しく、手に抱えて喜ばしいが、ぶどう酒で満たされるのを待っている。ぶどう酒はそれ自体に、礼典の提供するすべてがあるが、聖杯に満たされることで最大限の意味をもたらす。おそらく芸術とは、そこで目にする謎に満ちた美を超えた先にあるものを見させる助けになるだろう。そしてその美しさだけではなく、世界を全体として、その中で生きる私たちも含めて、心から納得できる新しい創造を垣間見せてくれるものであるだろう。きっとそうなのだ。(同書 p.332)

             

            個人的に、日本のキリスト教の海(日本では、かなり小さめの多島海峡: こころは、割と全体像を簡単に見渡せてしまう・・・)のような世界の中で、聖公会の出島のような教会に漂着するようにたどり着いたのは、神の恵みだと思っているし、漂着できてよかったとは思う。ライトさんの書かれたこの部分を読みながら、一番に思ったのは、聖餐式に向かう中での式文である。

             

            The Lord is here.
            His Spirit is with us.

             

            Lift up your hearts.
            We lift them to the Lord.
                        
            Let us give thanks to the Lord our God.
            It is right to give thanks and praise.
                        
            It is right to praise you, Father, Lord of all creation;
            in your love you made us for yourself.

             

            この文章を司祭が通常の文字の部分を読み、会衆が太字の部分を読んだあと、司祭は、パンを持ち上げ、パンのために祈り、その後、またぶどう酒、または、ぶどう汁の入った盃を取り上げ、盃のために祈る。これらの一連の動きを体験的にリタジーとして表現され、それに参与する中で、我々は、土の盃かもしれないが、その土の盃に聖霊なる方、すなわち、聖神がおとどまり頂いていることを覚え、そして、この神から預かっている体を、神の宮として、神の前に感謝と賛美とともに生きたいけにえとして捧げることを覚えているのだ。たしかに、芸術的な土の器で聖餐をする時、特に、我々が聖霊によって満たされる土の器という存在ということの意味をちらっとは考える。金属の盃だと、それはあまり感じないことが多い。その意味で、ライトさんが「心から納得できる新しい創造を垣間見せてくれるものであるだろう」ということは、聖餐が新しい創造の反映であることを考えると、本当に、今行っている聖公会の出島のようなチャペルの表現の仕方は、本当にいいなぁ、と思う。

             

             

             

            新しい創造のマネキン、カリスマショップ店員としてのキリスト者の存在

            マネキンというものがスーパーやデパートではゴロゴロしている。

             

             

            展示用マネキンの例 http://blog.ailand-store.jp/ar0142/8015 から

             

            聞くところによると、ユニクロでは、ユニクロの店員には、アルバイト店員であっても、ユニクロの服を着ることが決まっているらしい。それも自分で買うと聞いた。多少割引があるのかどうかはよく知らないが。この話を聞いた時、なんというブラックな会社や、と思ったけれども、ファッション業界というか、アパレル業界では、ある面当たり前なのかもしれない。店員がマネキンをしているのは、渋谷の109とかのカリスマ店員と呼ばれる存在の例もあるように、アパレル業界では、ある意味、仕方がないのかもしれない。

             

             

            カリスマ店員の皆さん、らしい http://let-me.jp/articles/08MpUXxq

             

            そのユニクロの店員高、カリスマ店員なのかはわからないが、ライトさんによれば、我々は、神の国、神の支配がある場所という世界で動く人間マネキン(ハウスマヌカン)だということになるらしい。

             

            http://www.20minutes.fr/mode/diaporama-3559-photo-740881-fashion-week-miss-jean-paul-gaultier-ultime-showから メゾン・マヌカン Maison Mannequins (デザイン・ハウスの人間マネキンの人々)

             

            まぁ、ライトさんによれば、クリスチャンは、パリコレや東京Girls Collection でランウェイを闊歩しているモデルのお姉さんやお兄さんみたいな存在ということなんだろう。あんなにがりがりにはどこをどうひっくり返してもなれないので、困っているが。

             

            パリコレの動画

            東京ガールズコレクションの動画

             

            そのあたりのことについて、ライトさんは次のように語る。

             

            徐々に私達が把握しつつある次の真理は、いくら強調しても決してしすぎることはない。すなわち、私たちクリスチャンとしてのなすべき務め、歩むべき道、学ぶべきレッスンは、神の言葉、福音の言葉、イエスの言葉や聖霊によって私達に届けられる重大な召しの一部なのである。私たちは、神の新しい創造の一部であるように止めされている。私達は今置かれているところで、この新しい創造の担い手であるようにと召されている。私たちは、交響曲を演奏するときも、家庭生活にあっても、修復的正義の運動をしているときも、詩を書くときも、きよさにおいても、貧しい人々への奉仕においても、政治活動をしているときも、絵を描いているときも、その新しい創造のモデルとなり、身をもってそれを体現するようにと召されているのである。(同書 pp.332−333)

            しかし、この部分を、もし、ミーちゃんはーちゃん風に書くなら、この神が作られた被造物世界というランウェイを闊歩するクリスチャンとか書いちゃいそう。そう書くと、クリスチャンとして生きるということは、背筋をピンと伸ばし、まっすぐ神が支配する我が家、神のエルサレム、新しいエルサレムを目指して、闊歩するクリスチャンとか思ってしまいそう。きゃぁ。

             

            まるでイザヤ書35章のようではないか。

            【口語訳聖書】

            イザヤ書35章


            荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

            砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

            野ばらの花を一面に咲かせよ。
            花を咲かせ

            大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ

            カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
            弱った手に力を込め

            よろめく膝を強くせよ。
            心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」
            そのとき、見えない人の目が開き

            聞こえない人の耳が開く。
            そのとき

            歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで

            荒れ地に川が流れる。
            熱した砂地は湖となり

            乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは

            葦やパピルスの茂るところとなる。
            そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ

            汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ

            愚か者がそこに迷い入ることはない。
            そこに、獅子はおらず

            獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み
            主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて

            喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え

            嘆きと悲しみは逃げ去る。

             

             

            日本語の讃美歌だと、讃美歌「いつかはしらねど」の歌詞が近いんだけど、ちょっと、日本語の歌詞だと、天国意識が強いのが苦手。

             

            いつかはしらねど ゾウアザラシさんの演奏で 

             

            その「いつかはしらねど」のアメリカ版の原型がSouthern HarmonyのThe Garden Hymnらしい。

             

             

            The Garden Hymn オルガンバージョン

             

            手持ちのハープバージョンで

             
            フィドラーバージョンで

             

            いずれにしても、われらは神の支配する世界のマネキン、あるいはメゾン・マヌカン、カリスマ・店員のような存在なのだろう。そして、カリスマ・店員がショップをうろうろして、お店を整えるように、人間は、神から託されたこの地を本来は整えていく存在なのだろう。

             

             

            しかし、よくぞ、カリスマ店員といったことよ、と思うなぁ。個人的には、ペンテコステ系の信仰者にお友達は多いが、信仰の様態論においてはミーちゃんはーちゃんにはペンテコステ系の人々がお持ちの、素朴さの要素が、随分欠けている部分もあるので、ミーちゃんはーちゃんは、カリスマを求めて、どうこう、ということはないけれども、素朴な生活の中での丁寧さというカリスマ(神から預かりし賜えられたもの)はほしいものだと思っている。ちょうど、カリス(聖餐式の杯)が、水で少し満たされ、そして続いて、葡萄酒で次に次第に満たされるように、神の息吹で満たされ、聖霊あるいは、聖神の臨在で満たされ、そして、ライトさんが言うように、「家庭生活にあっても、修復的正義の運動をしているときも、詩を書くときも、きよさにおいても、貧しい人々への奉仕においても、政治活動をしているときも、絵を描いているときも、その新しい創造のモデルとなり、身をもってそれを体現する」というような存在でありたいと思ってはいる。

             

             

            次回へと続く

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            評価:
            ---
            Baker Academic
            ---
            (2005-08-01)
            コメント:いいんだけど、日本では、難しいかもなぁ。

            2017.05.29 Monday

            N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その62

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              英語の祈りの部分の発音 

                 http://www.fromtexttospeech.com/ でイギリス風にテキストから音声に変換してもらった。

               

               

              さて、ここまでライトさんは、いろんな面で人間のかかわりの話を書いてこられたが、かかわりといえば逃すことができない、最も親密にして、もっとも語るのが困難で、更に理解するのが困難なのは、結婚生活だったり性の話だと思う。

               

              ライト先輩、キリスト者の性と生について語る…

              結婚とか、恋愛とか、性とかは、理性で説明できるのか、といわれると、かなり厳しいのではないか、と思うことが多い。その生の問題についても、逃げずに向かうところが、まぁ、流石というか、すごいなぁ、というか、かっこいいなぁ、と思う。ミーちゃんはーちゃんなら、こんなことは書きたくても、書けないが、でもライトさんは正面切って次のように書いておられる。

               

              関わりについての議論をしている中で、自ずと性への問に至るだろう。この点についても、新約聖書は厳格で明確である。怒りのことと同様、たくさんの言い方がなされているとしても、新約聖書は厳格で明確である。怒りのことと同様、たくさんの言い方がなされている。それは、人間の性の逸脱が(現代と同じように古代でもよく知られていた)、どのような言い訳をしようとも、そのもたらす結果から逃れることは決してない、と言おうとしているようだ。街角によくある雑誌販売店に寄ったり、テレビを一日か二日見たり、多くの人が集まる街を歩き回ったりしたあと次のような聖書の言葉に思いを向けてほしい。

                あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。第I コリント 6:9−11

               (『クリスチャンであるとは』pp.323-324)

               

              まぁ、日本では割と多様な性の在り方に寛容な社会であったし、英雄色を好むとか、無茶な言いぶりがされてきたし、豊臣秀吉も、2号さん、3号さんのことをしょっちゅうイエズス会の宣教師から何階も言われていて、結構参っていたらしい。

               

              性に関する倫理というか、婚外性交渉に関しては、ユダヤ教では男女そろって石打ちの刑(公開処刑)が待っていたし、近代化したイスラム社会では、流石にそれは見られなくなっているが、基本イスラム世界では、クォラーン(実質的には旧約聖書を内包する)の指示は明確なので、近代法の支配が及ばないところでは、これに近いことがおこなわれる。近代化した西欧文明から見れば、野蛮といわれても仕方ないような制裁が待っている。

               

              イスラム世界の女性たちが、人前に出る時には、ブルカをかぶったり、ヒジャブをかぶったりすることや、人前で肌を見せないよう肌を覆う習慣はこのあたりの性に対する厳しい教えが根底にあるようであるし、イスラーム女性が働いている会社では、そのイスラーム女性の個人の評価を個人的面談としてする際には、上司が男性である場合、個人面談といいつつも、女性の誰かを同席させないといけないとか、色々と工夫が必要になっているらしい。

               

              なんせ、イスラム世界では写真に女性が写るのも厳禁なので、なかなか以下のような画像もないのが事実なのだが。

               

               

              ブルカをまとった女性たち
              http://www.ibtimes.co.uk/islamic-state-bans-burka-northern-iraq-after-veiled-woman-kills-2-jihadists-1579804

               

               

              ユニクロ製のヒジャブ
              http://www.dailymail.co.uk/femail/article-3492970/UNIQLO-launches-hijab-modest-fashion-range.htmlから

               

              日本の駅売りのスポーツ新聞や週刊誌の中吊り広告も、結構見出しにはえぐいものが多いが、英国のタブロイド判と呼ばれる新聞もかなりひどいのが多いらしい。それがNewsStand(雑誌販売店)と呼ばれる雑誌販売の仮設店舗や一坪ショップのようなところに行くと売れられているらしいのだ。

               

              週刊ポストの中吊り広告
              http://www.weeklypost.com/101105jp/ から

               

              The Sunという英国の大衆向けタブロイド紙の紙面
              https://leftfootforward.org/2015/06/the-sun-is-asking-readers-to-send-in-bikini-pictures-and-subscribe-online/ から

               

              Newsstandの店頭 The Sunが結構いい位置を占めている。 
              https://www.nytimes.com/2017/01/16/world/europe/trump-eu-nato-merkel-brexit-russia-germany-china.html?_r=0から

               

              オックスフォードでのNewsstand 
              http://www.panoramio.com/photo/65442347 から

               

               

              日本の公共の場でのこういう性風俗に纏わるテキストや写真による、露出が多いという話はある。確かに個人的には目を覆いたくなることも多いし、夜中、いわゆる繁華街というところに行くと、おねぇさん方から、お酒を飲んでいかないか、とお誘いいただくこともあるが、早朝起きて仕事をしていることが多い人間としては、とっとと家に帰って寝転んでいる方がよほど幸せなのと、そういうのに興味がないのでお断りしている。

               

              こういうことを考えると、どこの国でも、性に関する問題を抱えていないわけではないことがよくわかるが、多少気になるのは、日本人の大学生の夏場の服装の露出の多さである。最近は、米国で学部の学生を教えたわけではないので、何とも言い難いが、ここ10年余り、流行なのか何なのかは知らないが、えらい肌の露出の多い服が多く、教室で目のやり場に困ることも時には起きる。さすがにブルカをかぶって来いとは言わないが、この感覚で米国に行ったら、路上で性交渉を持ちかける職業婦人たちに間違えられても仕方がないように思う。

               

              NYでのストリートビジネスに励む女性たち
              https://jp.pinterest.com/guidocolacci/whores-angels-muses-junkies-and-dreamers/ から

               

               

              ウェールズのCardiffでバカ騒ぎをする女子学生たち
              http://swns.com/news/carnage-pub-crawl-students-dress-prostitutes-cardiff-25289/ から

               

              まぁ、大学生は思春期の終わりにバカなことをする時期なので、こういうことも起きるのであろう。まぁ、バカなことをする人は、万国共通どこにでもいるということであるが、ただ、そのバカなことをすることの副作用があることや、その副作用が少なくないということは、個人を守る社会的な資本が極めて弱くなる外国に行くときには、十分留意すべきだと思うが、日本の感覚で海外で過ごすような、そのあたりの感覚がない人もおられるようだ。残念ながら。

               

               

              性の問題
               こないだFacebookのある方のスレッドで大頭さんと遊んでいたら、もともとは、「 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター 」と称していた水谷潔さんから、「厨弐病は社会の迷惑だ」といわれてしまった。「そもそも、 厨弐病キリスト者の総本家・家元のような人から言われたくはないなぁ・・・」とはちょっと思ったが…

               

              困るのは、あの手の発信をウェブでしてくれる人が今はいなくなってしまった。「過去記事を見よ」ということなんだろうけど(それはそのとおりであるが)、若者から老人まで、この聖の悩みとは言わないが、性の問題は、その人がその人としてどう生きるのか、神のかたちが神のかたちとしてどう生きるのかと密接にかかわるので、本を買わなくてもアクセスできる、ライブ感のある情報があると本当は助かるのだが。

               

              ご本人は「もう厨弐病から、卒業しちゃったもんねぇ〜」みたいないいぶりをしておられるようでもあるので、まぁ、それは良しとしよう。しかし、置き去りにされた中高生や若者はどうしてくれる、という気分ではある。教会の牧師たちがこういうノリで話してくれる(そんなことは期待するだけ野暮)ことはないし、本来、この種のことは、個人的な司祭や牧師との告解の中で処理してきたはずだし、対応できていたはずであるのだが、そんな告解のようなものを失ってしまって久しい(200年近くたつ)プロテスタント派や福音派では、処理の仕方が案外難しいのである。

               

              信徒を信頼してしゃべったら、教会中に広まってしまい、それが原因で教会に行けなくなった人もいる模様であるし。万人祭司であるが、祭司教育をきちんとしないで、万人祭司をやると、こういう悲劇が起きる。悲劇の犠牲者の方には、こころからのご同情を申し上げる。キリストが嫌いでなければ、この辺の守秘義務がやたらとうるさい伝統教派、カトリック、正教会あたりに、あう合わないもあるので、一度でいいので行かれることをお勧めする。

               

              この性の問題に関しても、ライトさんは次のように語る。

               

               問題は、現代社会において、古代でも大概そうだったわけだが、活発な性生活を当たり前とするだけではなく、普通の人ならそれなしにありえないとみなされるようになったことだ。そんな中で問われるのは、どのようなかたちの性行為が一番興奮をもたらし、満足感を与え、人生を充実したものにするのか、ということだけである。それに対する初期の、また標準的なクリスチャンの伝統は、ユダヤ教の偉大な伝統と、もっと後のイスラム教の伝統でも同じだがこうした古代や現代の異教的なあり方に断固として抵抗し、「否」ということである。
               イエス自身も、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色等々(マルコ7章21−22)の、人の心に湧き上がる欲望について厳しく語った。ここでは性的逸脱行為を他の重要項目と並べているが、それは取り立てて重要なことではないという意味ではない。キリスト教の初期における数世紀に渡って、人間の知りうるあらゆる性的行為は全て、ギリシアとローマ社会で広く行われていた。しかしクリスチャンはユダヤ教徒とともに、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は昔もいまも、それを全く馬鹿げていると思っている。悲しいことに、昔と違って今日の教会の半数もそう思っているようだ。(同書 p.325) 

               

              ちょっとびっくりしたのは、「標準的なクリスチャンの伝統は、ユダヤ教の偉大な伝統と、もっと後のイスラム教の伝統」という部分である。この3つを並列させているところなのだ。ライトさんは、イスラムも親類とこの『クリスチャンであるとは』で表現しているが、これについて、現代の日本の多くのクリスチャンは「イスラム」がキリスト教と並列で扱われていることに驚かれるかもしれない。「ユダヤ教の偉大な伝統」はまぁ、理解できるにしても、イスラムですか、と奇異に思われるかもしれないが、個人的には、このライトさんの感覚はわかるのである。

               

              なぜ、これが並列で並ぶか、といえば、標準的なクリスチャンの伝統を含む、この3つは、信仰と行いが一体化していて、世の中のこと、神のことと分けて考えないところなのだと思う。

               

              それは、文化と信仰が一体化している文化だから、という側面は多分にあるが、生活の基礎、行動パターンの基礎が、結果的に旧約聖書を基礎としているからである。そして、神が与え給うた律法(トーラー あるいはモーセ5書)が生活の基盤になっているからではある。

               

              天理大学で昨年末開かれた古代のガリラヤのシナゴーグ遺跡の発掘結果に関する報告会( 天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた  に詳しい)に参加する中で、東大の市川先生という方が、「ユダヤ教とイスラムの方が、キリスト教とユダヤ教より近いのではないか」というご発言をされていたが、それはある断面では、間違っているし、ある断面では正しいと思う。あるいは、正しいといわざるを得ないと思う。

               

              というのは、ライトさんも「しかしクリスチャンはユダヤ教徒とともに、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は昔もいまも、それを全く馬鹿げていると思っている。悲しいことに、昔と違って今日の教会の半数もそう思っているようだ」と書かなければならないほど、トーラーを無視する教会とクリスチャンが半数を占めているのであるのならば、トーラーの世界をクォーラン順守という形であるとはいえ、順守しているムスリム(イスラム教徒)の皆さんたちの方がよほど旧約聖書の世界に近いといわざるを得ないのである。その意味で言えば、今日のキリスト教は、リベラルな人も福音派も含め、もはや旧約聖書あるいはトーラーを無視しているという意味においては、本当にキリスト教といっていいのだろうか、ということを思うこともないわけではない。その辺はFacebookで面白いことを言って、刺激をくださるありがたいお友達のMさんの発言の大意、「もはや福音派も、キリスト教といいながら、古代のキリスト教とはかなり別物にちかいのではないか」ということにもつながるのかもしれない。

               

              こういうことを書くと、ちょっと知ったかの人たちは、「イスラムは重婚を認めているではないか」といいだす。しかし、考えてもみられよ。ダビデは重婚どころか、重婚するために殺人事件を起こしている。ソロモンは、重婚どころが、最低でも数百婚をしている。

               

              イスラムでは、確かに重婚あるいは婚姻という形を名目上とるが、それは、本来は、友人や恩義のある人の関係者が戦争や病気で寡婦や孤児となってしまった生活に困窮する弱い立場の女性を、現代のような国家による保護や庇護のない社会において、保護、あるいは、庇護するための便法として認められているのであって、欲望のはけ口としての重婚ではないのである。そもそも論として、第1夫人の任かがないとどうにもならないのであることは事実なのだが。だが、どこの世界でも、まぁ、逃げ道を作ってやりたいことをやる人はいるので、本来の目的に沿わない例はあるだろう。

               

              ではどうすれば・・・
              では、現代のキリスト教会の半分ほどしか、神が与え給うたトーラーを尊重した生活を送ってないとしたらどうすべきなのだろうか。キリストを信じて、改心経験があり、「罪とは、決別した」といっても、罪を犯さないまでも、自分の中の罪の問題にどう解決をつけたらよいのだろうか、と悩む方は少なくないようにも思う。

               

              2017年の福音主義神学会西部の山口さんのキーノート講演「諸力としての罪」の問題でも、山口さんがお世話をしている教会で、お若い方が、信仰を持ったままであるけれども、欲望があったり、罪に支配されていることに悩んでいることが少しだけ触れられていた。「神じゃないので、人間だとすれば、当たり前だよねぇ」とは個人的に思ったが、若い初心な純粋な人にとってみれば、そのような悩みは尽きないのであろう。ミーちゃんはーちゃんクラスのジジイになれば、そんなことはもうあきらめている。まぁ、あきらめているだけではまずいので、神の御思いに沿って生きるよう祈っている。

               

              そこで、ライトさんは古代の祈りを覚える様に次のようにこのあたりのことについて書く。

               

              確かに、神は私たちの心の底にある欲望を知っておられる。しかし、古代の有名な祈りは、この事実を(おののきをもって)受け止め、それがあるのだからそれが満たされ、在るがままに実践すればよい、というのではなく、むしろそれは洗い清められる必要があるとしている。

               

              全能の神よあなたにすべてのこころは開いています。すべての欲望は知られています。隠れているものは何もありません。あなたの聖霊の息吹によって私達のこころの思いを洗ってください。

               

              (同書 pp.327) 
              古代の有名な祈り、って何だ、と思ってその部分を読んだ。本当に、「あぁ、いい祈りだなぁ」と思ってよくよく読んでいたら、なんだ、いつも日曜日の朝の礼拝の始まりの部分で、祈っている祈りの和訳だったんだ、とすぐに気がついた。そして、あれは、そんなに有名な祈りだったんだとは知らなかったが、実に良い祈りである、とこの祈りを最初に祈った、その時以来今に至るまで思っている。

               

              古代の有名な祈り Anglican CommunionのCommon PrayerBookから
              そこで、英国国教会 The Church of Englandの祈祷文からその有名な祈りとその周辺の部分を引用しておく。
              全員
              Almighty God,
              to whom all hearts are open,
              all desires known,
              and from whom no secrets are hidden:
              cleanse the thoughts of our hearts
              by the inspiration of your Holy Spirit,
              that we may perfectly love you,
              and worthily magnify your holy name;
              through Christ our Lord.
              司祭
              God so loved the world
              that he gave his only Son Jesus Christ
              to save us from our sins,
              to be our advocate in heaven,
              and to bring us to eternal life.
                          
              Let us confess our sins in penitence and faith,
              firmly resolved to keep God's commandments
              and to live in love and peace with all.
              Amen.
              全員
              Almighty God, our heavenly Father,
              we have sinned against you
              and against our neighbour
              in thought and word and deed,
              through negligence, through weakness,
              through our own deliberate fault.
              We are truly sorry
              and repent of all our sins.
              For the sake of your Son Jesus Christ,
              who died for us,
              forgive us all that is past
              and grant that we may serve you in newness of life
              to the glory of your name.
              Amen.

               

              最初にこの祈りを読んだ時、そして声に唱えたとき、何とも言えない気分になった。これは、福音派でふらふらしていた時には味わったことのない、何とも言えない自分自身の罪の深さを改めて思うことになった。そして、神の緩しということを覚えるようになった。これは、聖書テキストを福音派的な理解を中心にしてその観点から読んでいただけでは得られなかったのである。個人的には、この祈りの内容を心に留められるから、この祈りが唱えられるから、この祈りのためだけでも今の教会にいたい、と思うほどである。

               

              ところで、本書『クリスチャンであるとは』で引用されている部分の1959年版の聖公会祈祷書での対応部分はこちらである。この作業は、故植田真理子先生がなさったことの一つである。植田先生、ありがとう。

               

              故植田先生を最初お見かけした時には、正直ストレートな私としては、ちょっと引いてしまったが、ボウカムさんの講演録 ボウカム先生の講演会の記録   をボウカム先生の講演されたその当日上げたら、速攻でツィッターで褒めてもらいました。びっくりしたけど、ブログ、やっててよかった、とうれしい反応を頂いた記憶は忘れられない。

               

              で、植田先生がその聖公会の1959年版の祈祷書での翻訳はこうなっていた。
              全能の神よ、すべての人の心は主に現われ、すべての望みは主に知られ、すべての蜜事は主に隠るることなし。願わくは聖霊によりて我らの心をきよめ、全く主を愛し、御名の栄光をあらわすことを得させたまえ。主イエス=キリストによりてこいねがい奉る。アーメン

               

              そこで、結婚式の司式をした時に式次第の参考にするために自宅においてあった教団の式文を見ると、多分これが一番近いかなぁ、当のが、主日礼拝式の祈祷文4である。ここに引用しておく。

               

              全能の神に罪を告白しましょう。
              とこしえにいます父なる神よ、私たちはみ言葉を悟らず、不信仰に傾き、自分の力によっては御心にかなうことのできない罪人であることを告白いたします。今、御心を痛めたことを悔い、あなたの憐れみを呼び求めます。どうか、御子イエス・キリストのゆえに、私たちをおゆるし下さい。そして、聖霊の導きによって正しい道を歩むことのできるものとしてくださいますように。主イエス・キリストのみなによって(祈ります)
              アメーン
               
              (日本基督教団 式文(暫定版) pp.61−62)

               

              と、似ているような似てないような…である。探し方が足らないのかもしれないが、「あ、これこれ」というのは見つからなかった。それも、通常のフォント部分は司式者が読み、会衆は太字のみなのだが、会衆の関与がえらい薄いように思えてならない。これでは、会衆が自ら罪の告白をしたことになるのだろうか、と思う。実際に、教団の主日礼拝式に何回か参加したが、その時も、「全く主を愛し、御名の栄光をあらわすことを得させたまえ」という感覚、世に仕えつつ、世をよくしていくために、神の御業を神からの嗣業として我々が実現してくのだ、という感覚はほとんどしなかったし、多くの福音派の礼拝ではなおさら、そのような感覚がなかったことは確かである。ちょっとそういうことを思ったのは、メノナイト・ブレザレン教団の大阪東部の教会に行ったときにちょっと、そういうことは意識したが、そこの知り合いの牧師先生がそういうタイプの人だからかなぁ、とも思った。まぁ、月一以上あちこちで顔を合わせている牧師先生だったからかもしれない。

               

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

               

              2017.05.27 Saturday

              いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・

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                『焚き火を囲んで聞く神の物語』という画期的なキリスト教書がでた。推薦文で、平野先生がおっしゃるように、奇書であるかどうかは別として、類書をこれまで見なかった書籍の一つである。最初から、最期まで楽屋話というのか、とはずがたりというのか、松竹新喜劇状態というのか、吉本新喜劇状態というのか、(この2者の間には、かなりの違いがある)そういうノリの本である。どちらかと言うと、松竹新喜劇のような本という感じがする。

                 

                 

                松竹新喜劇のような本
                今では、関西というと、吉本新喜劇が有名であり、お笑いといえば吉本新喜劇という印象があり、本書の著者が関西人であるので、読者の方は、吉本新喜劇が浮かんでくるかもしれないが、本書はどちらかと言うと松竹新喜劇的な書物なのである。

                 

                 

                吉本新喜劇の現在の出演者による 恋ダンス

                 

                松竹新喜劇

                 

                 

                 

                阪神間および首都圏鉄道文化と大衆演劇
                藤山寛美という昭和の大喜劇俳優を失ってから、もう25年余経過しているが、松竹新喜劇は、その藤山寛美(カンビさんと関西人は呼ぶことが多い)の一人で持たせた一代芸なのであり、笑いあり、泣きありしながらも、どこかに気品が漂う感じな大衆演劇風の演劇なのである。今は、テレビ露出などを含めて、松竹新喜劇の露出度が低くなり、その知名度も高齢者を除けば、知る人ぞ知る大衆演劇あるいは大衆喜劇、という感じになっているように思う。

                 

                吉本新喜劇が、シモネタ、暴力性を含む下品さを内包した漫才系の庶民派の演劇であるとすると、松竹新喜劇は、そちらに走らず、言葉遊びや演者の表情、あるいは間のとり方などで笑わす落語系の庶民派演劇である。どちらが偉いとか、どちらがダメだという議論ではないが、阪神間における吉本新喜劇は阪神電車的な存在であり、松竹新喜劇は、JR神戸線的な存在である。ミーちゃんはーちゃんは、足を地面につけたことがないほどの上品な人物なはずはないが、どちらかと言うと、松竹新喜劇のほうがきれいな笑いだなぁと思う。
                参考   【口語訳聖書】申命記
                28:56 またあなたがたのうちのやさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者でも、自分のふところの夫や、むすこ、娘にもかくして、

                 

                阪急電車はどうした、というご意見もあろうが、阪急電車には、宝塚歌劇があり、一緒にしてはいけない。

                吉本新喜劇(懐かしの岡八郎さんで)

                藤山寛美をしのぶNHKの放送

                宝塚歌劇

                 

                どん兵衛ベルばらバージョン
                https://sociopouch.files.wordpress.com/2017/04/20170417-05.jpg

                 

                http://www.donbei.jp/berubara/assets/img/pc/img_article_11.png
                どんべぇのパッケージ  http://www.donbei.jp/berubara/ から

                 

                関東で言えば、吉本新喜劇が、京急路線風であり、松竹新喜劇はJR京浜線風であり、歌舞伎が東急田園都市線風であるというと、関東の読者の方にわかってもらえるだろうか。

                 

                で、翻って本書は、宝塚歌劇団風の綺羅の空間を生み出しているわけではない。その意味で、宝塚ではないし、Photoshopで髪の毛の増量を依頼してくるほどのおっさんの大頭さんが宝塚歌劇をすることは気色悪いだろう。宝塚の男役よりはるかに身長の面で存在感がありすぎるし、もともと大頭さんがハグマニア(ミーちゃんはーちゃんは聖餐マニア)てあるので、ヘタをすると、BL(Boy's Love 美青年同誌の疑似恋愛もどきについての少女漫画の一分野)ならぬOL(Ossan's Love)の世界になりかねないので、それを想像させるご発言はやめてくれ、と常日頃からお願いしているところではある。まぁ、大頭さんは、BLの世界で描かれることの多い、男子校出身者なので別に違和感がないのかもしれないが、男女共学の公立の中高(それも、高校に関しては、強制的にどちらかの性が40%を下回らないこと、という条件付きだった)でしかそだったことのないもので、奥様と仲良しなミーちゃんはーちゃんとしては、あのがぶり寄りには参ることがある。

                https://www.amazon.co.jp/dp/4592138376
                BLもどきの名作 『ここはグリーン・ウッド』(那州雪絵 花とゆめコミックス)から この表紙の人は、「きさらぎ瞬」と呼ばれる登場人物だったと思うが、男性のはずである。

                 

                最近の大頭さんの写真は少女漫画もどきの桜の花を背景にした映像が多く、疑惑はほぼ確信に変わり始めている。(ウソw)

                 

                著者に関する小ネタ集
                さてさて冗談めかしたお話(本当はこういうのが大好きだが)はここまでにして、本書では(というよりは舟の右側連載中の連載時点から)、藤山寛美も真っ青の見事なボケっぷりを見せておられる(関西方言では、ボケをかます、と表現する)。この人の実力がどの程度のものなのかは、関西凸凹神学会(今度は上沼老師をスピーカーとしてお迎えするし、なんとあの日本基督教学会元会長の水垣渉老師も時々ご出席(水垣老師がご参加になられたのは、大頭さんの貢献ウルトラ大である。これは、正当に評価されるべきであろう)であるし、ユダヤ思想師がご専門の手島イザヤ老師にもご登壇いただいた)でももう3年ほどのおつきあいがあるが、ミーちゃんはーちゃんが尊敬してやまない英神父を高校の後輩ということで昔のあだ名でエイちゃんと呼んでみたりするこの人が、どこまで天然ボケなのか、どこまで賢いのか、未だに図りあぐねているが、独自の感覚というか、嗅覚というか、センスというか、地頭はどうも良いらしいように思うが、ときどき、「え?」と思うような質問をミーちゃんはーちゃんに、ぶつけてくることがある。

                 

                教会のウェブサイトも自己管理しておられるし、内容豊富でかなり立派な教会ウェブサイトを運営しておられる。ただ、基本形とその運用マニュアルは、ミーちゃんはーちゃんが作成いたした。それほど一定の技術はお持ちのようなのだが、時々、What?と言いたくなるようなWeb技術周りの質問「焚き火の歌をYouTubeに載せたら、Youtuberになって、お金が儲かるかなぁ?」とか「メルマガで改行ができないんだけど…」とか言った質問を遠慮会釈なくぶつけてくる。ここでは、久保木先生から悪口禁止令出てないので、ちょっとくらいは悪口を語ってもバチは当たるまい。

                 

                この本書の主著者の大頭さんという人は、ものすごく極悪非道なのである。教会員が減ったのはそのせいかどうかはわからないが、教会員が減り、当然のごとく、教会の献金が減ったのを見て取って、自ら牧師給の減額を総会に申し出て、それを必死で教会員に止められて、思いとどまったというのである。
                こんなことをやると、ただでさえ少ない全国の牧師の牧師給が減額されてしまうではないか。「大頭先生は申し出たのに、うちの先生は申し出ない。実にけしからん」ってことになるではないか。どうせ、ミーちゃんはーちゃんは、牧師ではないので、関係ない話ではあるけれども。こういうわけのわからん事をするから、ぼけているのか、賢いのか、と本当に当惑してしまう。その挙句の果てに、「Youtuberになったら、お金が儲かるかなぁ?」と聞いてこられたりする。もう、訳が分からん。

                 

                 

                本書の面白さ
                 本書の面白さであるが、松竹新喜劇の故藤山寛美よろしく大頭さんがボケ倒した、もともと「舟の右側」の連載として掲載されてきた文章に、大頭さんが、知性と勘で、というよりは第六感で、対論あるいは対話者を呼んで来たのだと思っている。その第6感で、見つけてきた予定討論者、それも結構なキリスト教福音派界隈での著名人を、無理やり引っ張り出し、自分がぼけて見せた文章に突っ込みを入れさせるという、実に高度な芸当を展開しているのが本書であるといっても過言ではなかろう。この本に、ミーちゃんはーちゃんも本書の世界に、引きずりこまれているが、実際に、相当な顔ぶれが多いのである。特にキリスト教関係のネット業界関係者を中心として、かなり有名な関係者を引きずり出してきているところである。
                ところで、この多様な教派の関係者を引っ張り込んでいるのも、実は、売るための戦略なのである。

                 

                自分の本に討論者として寄稿させておくと、寄稿者が勝手に自分のブログやウェブサイトや、ツィッターや、Facebookで、自分が書いた本であるとして、紹介するだろう、と読んでいるようだ。といっても、印税は寄稿者には一切入ってこない仕組みになっているw。Facebookで紹介もするし、ツィッターでも独自に情報を拡散するだろう、という実にひどく戦略的な書籍の販売計画が大頭さんが陣取っている作戦本部には存在するのだ。こういうことは、きちんとばらしておかないといけない。w

                 

                 

                さらに、執筆陣も日本基督教団から福音派に至るまでと幅広く(やや福音派が多い)であり、教派・教団を抜け出した、とかいうような評価もある一方(詳しくは、本書の「推薦のことば」に当たる部分での祝辞と称される部分で「教派や教団から飛び出た広場の創造 」というタイトルにもそのような評価が反映されているようである)、実は、これもまた、販売戦略なのである。それぞれの応答者の教団教派の人の何人かは、買うだろうし、そこの神学校の図書館には入るだろう、と実に、計算高い戦略が隠されている。

                 

                その読みの上での応答者を巻き込んでいるのだから、もうこれは悪辣非道、金儲け主義と言われても仕方がないだろう。関西凸凹神学会で清貧の思想なんかの話も聞いているはずだが、その時は信徒さんのお葬式だったか、何かだったかもしれないので、清貧の思想の話は聞いてないかもしれないが、そんなものなんか「そんなの関係ね~~~、はいおパピ~」のノリなのである。

                 

                小島よしおさんの、ハイおぱぴ〜~~

                 

                松竹新喜劇というよりはプロレスじゃん

                なぜに、この本が松竹新喜劇的かというと、著者の大頭さんとであった、あるいは無理矢理に大頭ワールドに巻き込まれた関係者が、大頭さんの藤山寛美さんのようなアホ話を含む(ただしアホ話だけが本書で展開されている訳ではないが、多分にアホ話も少なくない)に付き合わされて、それちゃうんちゃうんとか、それおもろいなぁ、ともっと上品なことばでゆるく話し合っている状態が生まれているのである。だからこそ、神学的『徹子の部屋』と同書の帯には銘打たれているが、残念ながら、一方通行である。まぁ、世の中にシンポジウムとか、公開討論会とかあるが、現在の段階では、壇上で繰り広げられた交換討論会とか、公開シンポジウムみたいなものを読者は見せられているだけ、という印象が強い。

                 

                こう考えると、なんとなく松竹新喜劇と言うよりは、新日本プロレスとジャパンプロレスの間の異なる競技団体のプロレスのような気がしてきた。或いは猪木対アリのような異種格闘技のような気がする。そういえば、大頭さんは、驚くほどナイーブな割に体格はいかついので、ジャイアント馬場のような感じかもしれない。そうだ。この本は聖書の理解に関するプロレスが展開されている本なのだ。そして、大頭さんは、プロモーターであり、神学的レスラーであるような存在なのだ。

                 

                そもそも、イスラエル人は、その父祖であるイスラエル(ヤコブ)が神の人とレスリングをしてもものつがいを打たれた話が大好きなのだ。このレスリングの話から、イスラエル(神の人と争うものという意味)という名称が来ていることを何より喜ぶのが、イスラエルの民なのだ。だからうなじがこわい民と呼ばれてもしょうがないだろう。

                 

                 そのことは、実は同書での応答文の執筆段階で、薄々気がついていたから、第6章の応答の部分で、ミーちゃんはーちゃんはちゃんと書いている。この人は場外乱闘の常習犯であると。

                 

                この章でも、大頭さんは、場外乱闘モード全開で、オープン神学をナルニアや指輪物語の人物を登場させつつ、わかりやすく説明しようとはしている。それが成功しているかどうかは別として。(『焚き火を囲んで聞く神のものがたり・対話篇』, p.162)

                 


                新日本プロレス V.S. ジャパンプロレス

                 

                猪木対アリの関連映像

                 

                日本イエスの大頭眞一 V.S. 日本基督教団の久下倫生の10分間一本マッチや、日本イエスの大頭眞一 V.S. 福音自由教会の高橋秀典の10分間1本マッチ、日本イエスの大頭眞一V.S. 日本長老教会の古川和男・・・・・ のようなかたちで、実に多くの教派の牧師の先生方を巻き込んで神学的プロレスの録画集のような本なのだ。

                 

                 おまけに、祝辞ということで、大阪ハリストス正教会のマリア松島純子先生(正教会音楽の研究者)や、あの岩渕まことさんまでリングサイドで、応援させている。ろくでもない。どこまでのプロモーターなんですか。全く。

                 

                そんなことを思っていると、そういうことをしたアメリカのお笑いの人がいたことを思い出した。

                 

                それは、誰かというと、ジム・キャリー主演の映画「マン・オン・ザ・ムーンに出てくるアンディ・カウフマンである。なんとなく、大頭さんは、あの映画に出てくるジム・キャリーの風貌にも似てなくはない。そうだ、大頭さんは、日本の福音主義神学の世界におけるジム・キャリーなのだ。そして、ミーちゃんはーちゃんは、リングに無理やりあげられた「さすらいの悪役レスラー」のような存在である。そういう存在であるから、悪役レスラーにふさわしく、この本の第6章というリングの上で、悪役レスラーにとってのお約束である対戦相手に悪態をつくということを、ちゃんとやって見せている。詳しくは、是非とも、本書をお買い上げ頂き、ご覧いただきたい。


                マン・オン・ザ・ムーンのスペイン語字幕版でのアンディ・カウフマンと女性のプロレスリング・シーン


                異種格闘技のあとのN B C のLetterman Showに出ているアンディ・カウフマン (1982)

                実際のレスラーとの対決シーンあり

                 

                ところで、プロレスでもそうだが、公開シンポジウムとか、公開討論会では、観客はリングと言うか、シンポジウムの壇上には、あげてもらえない。

                 

                一般読者にも挑戦状を叩きつける大頭さん

                それではかわいそうだと、大頭さんが、公開シンポジウムや、公開討論会で、よくあるタイプのフロアからの意見とか、コメントとか、リングに上がらない安全な環境にいるままのリパーカッションをネット上でだしてもらおうという企画が大頭さんの頭のなかに浮かんだらしい。もうここまでくれば、毒を喰らえば皿までのノリである。

                 

                本人が気が弱いのか、先週メガンテを投下されたからなのか、事もあろうに、ただでさえご迷惑をおかけしている出版社ヨベルの安田さんまで巻き込んで、ミーちゃんはーちゃんにそういう交流サイトを作ってほしい、と安田さんから連絡をもらった。もちろん、その段階で、楽屋事情が露呈したので、ミーちゃんはーちゃんの大頭さんにたいする堪忍袋の緒が切れそうになったことは言うまでもない。
                なぜ切れなかったのかは、ただただ主の哀れみによるのだと思う。

                 

                メガンテ http://ameblo.jp/mademoisellego/entry-12028695966.html より

                 

                Lord have mercy,
                Christ have mercy,
                Lord have mercy on me, as a sinner.

                 

                の効果であろう。
                一応、読者参加型掲示板もできた(というか、正確には依頼を受けて作った)

                 

                 

                よろしければ何か書いてほしい。大頭さんが小人閑居して・・・ならぬ大男閑居して とならないように。w

                 

                 

                その意味で、この本は面白い本であることは断言できる。プロレス、それも、異種格闘技系である。面白くないはずがない。
                そして、出版後も目が離せない世界が広がりそうである。 (完 多分・・・)

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                2017.05.24 Wednesday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その61

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                  きょうもタラタラと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んでみて、面白いなぁ、と思ったことをタラタラと書いてみたいと思う。今日は関わりと人間が神のみ思いに生きるということがどのようなことかについての部分である。

                   

                  人間は一人で生きられるのか 砂漠の師父に見るソリチュード

                  今、明石でやっているHenri Nouwen研究会という名前の読書会では、ヘンリー・ナウエンのThe way of the heartという本を読んでいる。この本は祈りや静まり(Silence)についての本である。非常に印象深い本である。この本は、正教会的伝統の中で培われてきた静まりと、祈りについての本である。そして、それは三位一体の神を味わうことに関する本でもある。つまり、神との関係をキリスト者がどのように味わっていくのか、という本である。この『クリスチャンであるとは』では、この神との関係の中に生きることであり、そこに招かれていることである、とライトさんはこの本でも繰り返し述べてきておられるが、それについてまとめ的に述べた以下の引用部分が実に印象深い。

                  第二は、関わり(関係)である。関わりは人間生活の中心であり続ける。世間との接触をたった隠遁修道士でさえ、誰かに食べ物と飲水をもってきてもらわなければならない。そして、その生活の一部は、身近な人や疎遠な人のため祈ることであるだろう。義は、私達の持つ関係のすべてのレベルで、秩序をもたらすように語りかける。特に社会全体や世界全体という大きなスケールにおいてはそうである。しかし、関わりが正されることを切望するのは、単に不平等を避けたり自分の権利を主張したりするよりも深い意味がある。(『クリスチャンであるとは』p.320)

                   

                  先に紹介したナウエンのThe way of the heartの中には、砂漠の師父たちとも呼ばれる隠遁修道士の話が出てくるが、その話が非常に面白い。彼らはエジプトの砂漠の中で、孤独の中にあって生活をしており、常に祈っている生活をしている。多くのプロテスタントの人々が祈るようにではなく、同じ祈り(キリストの祈り)という短い祈りを繰り返しながら、登っていく祈りではなく、どちらかと言うと降りていく祈りをするのだと言う。

                   

                  この本を読んだ時、あぁ、プロテスタントの祈りは上げる祈りであるけれども、正教会の伝統は、降りていくタイプの祈りだなぁ、ということを思うのである。外資系ペンテコステ派の祈りなんか、絶叫の祈りなんかもあり、もうロケットランチャーか、某隣国のSLBMやICBMよろしく、天高く打ち上げるタイプの祈りぢゃないか、と思いたくなってしまうほどだが、砂漠の師父たちの祈りの伝統においては、どちらかと言うと降りていくタイプの祈りもあるようだ。

                   

                  打ち上げるタイプの祈りがだめだとは言わない。それはそれで重要な部分があるが、個人的には、ちょっと自分には合わないなぁ、と思うだけである。どちらかと言うと砂漠の師父の祈りの世界のような祈りのほうが、個人的には合う。あえて声を出さず、あえて話さず、言葉があふれる時代にあって、あえて限界まで言葉を用いず、言葉によらないミニストリーを大事にする世界のほうが、個人的には相性がいい、ということだけである。

                   

                   

                  砂漠の師父を紹介するナウエンのThe way of the heartの本の中に、いつも祈ってばかりいると、あなたの生活はどうなるのか、と誰かに問われた砂漠の修道院の隠遁修道士の面白い答えが載っていた。その隠遁修道士いわく「私は手仕事(縄をなうこと)をしながら祈っている。手仕事の成果を売って、その代金の一部を自分の生活のために用いるし、その一部を自分の生活を支えてくれて、食べ物を持ってきてくれる人、水を運んでくれる人のためにとっておき、私の部屋の前においておくのだ、そして、またその一部も、私が眠っている間に私に変わって祈ってくれる人のために渡している、このようにして、いつも祈っているのだ」という話を記載している。つまり、この隠遁修道士にとって、手作業をすることは、祈りをすることでもあり、他者のために生きることでもあり、自分に変わって祈ってくれている他者の生活をちょっこし支えることによって自分も支えられていると言う関わりの世界の中に生きているということになるらしい。
                  その意味で、砂漠の隠遁修道士の人々でも、関わりの中に生きているということになるらしい。どうも下っていく祈りをすることで、彼らは十字架にかかり死んで死の中に入っていったキリストと、そして、三位一体の神との一体化を経験するという部分(大頭さんが大好きなシネルギアの世界、愛の世界)があるらしい。だからこそ、この種の霊操と言うか霊修というか、退修ということを、独りでするのは、かなり危険であり、ちゃんとした指導者のもとで共同体の中で、やるべきだろう、ということなのであるらしい。
                  Desert Fathers https://thepocketscroll.wordpress.com/tag/sayings-of-the-desert-fathers/ より
                  プロテスタントの人々の祈りは、熱心な祈りが多いことは間違いがない。そして、その祈りの内容も表現も、砂漠の師父の伝統の中にある祈りと比べて、表現内容、個別性、言葉の種類は実に豊富で、多様でカラフルな祈りが多いような気がする。それはそれで素晴らしいことかもしれないなぁ、とは思う。いろんな個人の名前や個別の必要が挙げられることもある。それはそれで良いことだろう。このような祈りのことをナウエンは、The prayer of Mind(頭脳による祈り、知性による祈り)と呼ぶ。
                  これに対して、砂漠の師父の伝統での祈りは、繰り返しの中で、次第に深いところ、神の内奥のようなところに降りていくような感覚がある祈りであり、言葉数は少なく、単調で、モノトーンの祈りが多いように思う。このような心の内奥というか髪の神秘の世界に入っていく祈りのことをナウエンはThe prayer of heart(こころの祈り)と同書の中で呼んでいる。
                  このような砂漠の師父の祈りに対して、プロテスタントの人は、呪文のように唱える祈りは本当に祈りといえるのか、と批判的な目を向けられるのではないか、と思う。「言葉数が多ければ・・・」という聖書の言葉を引用しながら、批判されるだろう。でも、言葉数が多いのは、どちらかと言うと、表現内容とその個別性に富み、様々な種類の言葉が用いられる、外資系ペンテコステ系の教会での祈りなどのことを指しているような気もする。
                  あるいは、神秘主義だというご批判もあるだろう。それもそうかもしれない。しかし、神ご自身は神秘であるので、神秘主義にならないで、どうして、神と神との関係を味わったといえるのだろうか、ということもあるのではないだろうか。我々はあまりにも自分のわかる世界に神を閉じ込め、わかるような部分だけつまみ食いして、神をわかった気になっていないだろうか。そして、それを神学と呼んでいないだろうか。とはいえ、ミーちゃんはーちゃんは組織神学を否定するつもりはない。
                  先に紹介したナウエンの本を読んで、彼らがこの単調な祈り、言葉の種類を極限まで絞った祈りで何をしようとしているのか、ということがなんとなく理解できたことの一つに、彼らは、この単調な祈り、モノトーンの祈り、繰り返し祈ることで、イエスが経験した史の世界に降りていく中で、神の神秘に触れ、神のみ心の死ねる芸あ、神の愛の世界の中に入っていき、それと瞬間、その核融合のようなシネルゲイアの世界に巻き込まれていき、すべての人を愛しておられる神の愛に瞬間触れ、すべての人に対する思いと神のすべての人に対するみ思いとが交差するというのか、触れるというのか、瞬間、一体化するというのか、といッタ感じになるらしい。だから、個人個人の名前を上げたり、個別具体のことを祈りの中で言及したりする必要はあえてないのではないか、というお立場である。言われてみれば、そうかもしれないなぁ、と思った。
                  我々は、あまりにも個別具体のことに振り回されすぎているのかもしれない、言葉を多く用いすぎているのかもしれない。あまりにも神の前に口を開け、本来受け取るべき神の息吹を受け取るために鼻から息を神によって吹き込まれるのを待つのではなく、自分自身の汚れた思いを、息を吐き出すとともに、祈りと言いつつも、ときに、汚れた人間の言葉をも撒き散らしているのかもしれない。

                  砂漠の師父が、沈黙を守るのは、ナウエンの同書では、人々を助けるためであるという。人々を同じ祈りを繰り返す中で、神の愛に触れ、その愛を必要とする人に、求める人に大事なものとして与えるためであると、砂漠の師父達がいっているいう。

                   

                  また、我々は、教会という場所で神の恵みの安売り、大安売り、バーゲンセールをしてきたのかもしれない。そして、本来の神の愛がないのに、神の愛であるとして、偽ったものを人々に振りまいてきたのかもしれない、と今少し個人として反省している。

                   

                   

                  その意味で、ライトさんが言うように「関わりが正されることを切望するのは、単に不平等を避けたり自分の権利を主張したりするよりも深い意味がある」という側面は大事だと思う。社会の関わりが正されることを声高に叫ぶよりは、神との関わりが正されることをまず、個人としては願いたいと思っているし、そのことを、最近は繰り返しの祈り、教会暦に従った生活、ルーティンがした大いなるマンネリと呼ばれるかもしれないが、このような祈りのルーティンを通して生きる中で、体験したいものだと思っている。

                   

                  義の追求は誰のためか

                  正義の追求、正しさの追求は、基督教や神学の世界で行われてきた。その結果、プロテスタントでは、数限りない分離、分裂、細分化が行われてきたのは、事実ではないだろうか。本来神は人びとの神のかたちの回復と、その髪のかたちである人間の関係が回復されることを求めておられるのに、数限りない分離、分裂、細分化が行われてきたのだとすると、辛辣な表現がお得意なお友達のMさんなんかからは、「もはや、プロテスタントはキリスト教といえるのか」と言われても仕方がないように思う。これも、義を求めてきた結果ではあるようには思うけれども。正しくあろう、義であろうとするあまりのこととはいえ、あまりにも残念すぎる。そして、自分の考えと違う人に親切にするどころか、それを「キリスト教徒ではない」あるいは「キリスト教的ではない」として、「切り捨て凶徒」になっているような具体例もないわけではない。実に残念なことだと思う。

                   

                  そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いているのが目に留まった。

                   

                  義への渇望は、あまりにもすぐ私の権利、もしくは私たちの権利の要求となり下がってしまう。親切にしなさいという命令は、自分の時間を自分自身、自分の必要、自分の義、自分が不当に扱われたのを正すために使うのではなく、他の人達の必要、悲しみ、痛み、喜びに目を向けるために使うことを求める。親切にすることは、人間として成長し、深い関わりを築き、維持する上でもっとも重要なことである。(同書 p.321)

                   

                  そうなのだ。我々はあまりに義を求めると言いながらも、自分たちの権利、私達の権利、私の聖書理解の正しさ、私達の聖書理解の正しさ、を追求することに必死になり、他者を顧みなくなるという他社製の薄い、他者性のない世界の中に落ち込みがちかもしれない。しかし、旧約聖書の中で最も大切な戒めは、イエスが言うところによれば、「(他者としての)神を愛せ」であり、「(他者としての)あなたの隣人を愛せ」であるので、まさしく個別具体的な他者との関係性の中に生きるように招いているのであり、「あなた自身の正しさを示せ」「あなたたち自身の権利を主張せよ」ではなかったはずなのだが、過去の歴史的経緯とはいえ、不幸な聖書理解が生まれてしまったように思う。そして「Meanなクリスチャン」というわけのわからない世界が生まれたのだと思う。そのあたりのことは、人間が意図的に隠すことによって「神の隠された恵み」担ってしまったのではないか、とさも言いたげなフィリップ・ヤンシーの本のタイトルにも現れているように思う。

                   

                  神の言葉の実行と主の祈り

                  今参加させてもらっている、アングリカン・コミュニオンの英語部の教会に移ってから、主の祈りをその意味を考えながら祈るということ、主の祈りが迫ってくるという体験をした。外国語で祈るから、その分細かなところも気になる、ということもあるのかもしれないが、これまで見えなかったものが見えてきたように思うのである。主の祈りは、皆さんご存知だと思うが、もう一度掲載しておく。

                  天におられるわたしたちの父よ、
                  み名が聖〔せい〕とされますように。
                  み国が来ますように。
                  みこころが天に行われるとおり
                  地にも行われますように。
                  わたしたちの日ごとの糧を
                  今日もお与えください。
                  わたしたちの罪をおゆるしください。
                  わたしたちも人をゆるします。
                  わたしたちを誘惑におちいらせず、
                  悪からお救いください。
                  国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
                  この中で一番響いてくるのは、
                  みこころが天に行われるとおり
                  地にも行われますように。
                  の部分である。我々は、果たして、みこころをこの地で実現することに関与しているか、み思いのこの地での現実化をどこまで真剣に考えているか、と問われれば、実に心もとない限りである。
                  そして、主の祈りは、我々が他者へのゆるしを求めることも明確に指摘する。
                  わたしたちの罪をおゆるしください。
                  わたしたちも人をゆるします。

                   

                  つまり、我々は地をケアするように、人々の関係をもケアするように想像されているということがこの祈りにも現れているように思うのだなぁ。これが。

                   

                  このあたりのことについて、ライトさんは次のように書く。

                  ここで、あなたの身の回りの人間関係のパターンを思い起こしてみよう。そして関わる人達が、たとえ建前だけでもこれらのことばのように実行すると決めたらどうなるか、考えてみてほしい。もしそれが不可能に思われるなら、そこには通常、ゆるしという答えが常に用意されている。それこそが、主の祈りを祈る人が期待して良いものである。(同書 p.322)

                   

                  もし、我々がこの地の義を、他者とともに、他者を愛することとして理解し、建前だけでもちょっとでもそのような他者を受け入れるというスタイルで生きようとするなら、そこには、人への赦し、そして、神が我らがいかに不甲斐ないものであっても、我らへの赦しが与えられるということがあるのではないか、とライトさんは、ご指摘しておられる。たとえ、その他者への愛が仮に示せないとしても、それを悔いることで、神の回復があるのだ、と思うのである。だからこそ、できなくても、神との和解が赦しということとして神が提供してくださるのであろう。

                   

                  それはそのとおりである。旧約の律法は、他者をさばき、自分の義を主張するためにあるのではなく、この地に神のシャロームがもたらされること、つまり、美しさ、平和、和解と、真実がもたらされることのためにあるということであったのだが、どうも律法学者と呼ばれる人々が勝手なことをしてしまったがために、その本来の姿が失われていることは、イエス様にしてみれば、実に残念なことだったのだろうし、だからこそ、本来の意味からすっかり離れたトーラー解釈しちゃった人々に対して、イエス様は秘技 ちゃぶ台返しを神殿でご披露なさったのだろう。

                   

                  秘技 ちゃぶ台返し http://bokete.jp/boke/28040475 から

                   

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                   

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                  (2003-12)

                  2017.05.22 Monday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その60

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                    今日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、をつらつらと読みながら、たらたらと思ったことを書いてみたい。今日は、義をいかにして実現していくのか、という部分について考えてみたい。なんと今日が連載60回目。思えばよくこれだけ書いたもんだと我ながら思うけど、面白かったんだからしょうがない。

                     

                    今日は社会正義の問題関連の関連動画多め

                     

                    世界の義とそれを求める祈り

                    世界の義、平和、美しさ、公正さが、神のみ思いであり、それを求めておられること、そして、そのことにどのように具体的に関わっていくのか、ということについて、ライトさんは次のように書く。

                     

                    神は真に世界を正そうとしておられる。そして、私たちの心の底からも、義を求める叫びがわいてくる。それは私たちが不当に扱われた時だけでなく、他の人が不当に扱われるのを見たときにも、そうである。それは、生ける神が切望し、また要求していることへの私たちの応答である。神の創造したこの世界は、道徳的な無政府状態に陥り、いつもごろつきどもが最後に勝ち誇るような場となるべきではなく、公平かつ公正な取り扱いがなされ、不正が正される場であるべきである。

                     しかし、そのような神の切望と要求から、その意図されれている義に近づくには、世界が普通に期待したり要望したりするのとは全く異なった道を通らなければならない。この点において、この世の多数派がとる手段は暴力である。権力者たちは、自分たちの気に入らないことが起こると、爆弾を落とし、戦車を出動させる。権力を持たない人たちは、ショーウィンドウを割り、群衆に紛れて自爆し、建物に飛行機で突っ込む。どこから見ても、どちらのやり方も、物事を変えるためには全く有効でないと分かっていながら、同じことをし続ける。(『クリスチャンであるとは』pp.316-317)


                    この部分を読みながら思っていた賛美歌というのか、歌がある。

                     

                     

                    The prayer

                     

                    セリーヌ・ディオン(大坂先生の愛車の車種名ではない)によるThe Prayer
                     

                     

                    大坂先生の愛車と同車種の写真
                    http://www.productioncars.com/photo-gallery.php?make=Mitsubishi&model=Dion より

                     

                     

                    I pray you'll be our eyes,  and watch us where we go. 

                    (あなたが私の目となって下さいますように そして、私達がどこにあっても見守ってくださるよう祈ります。)


                    And help us to be wise in times when we don't know

                    (私達が知らないときにも私達が賢くあることができるように)


                    Let this be our prayer, when we lose our way

                    (私達が道に迷った時、これが私達の祈りとなりますように) 


                    Lead us to the place, guide us with your grace

                    (私達をあの場所に、私達をめぐみのうちに導いてください)


                    To a place where we'll be safe

                    (私達が安心できるその場所に)

                     

                    La luce che tu dai

                    (あなたが与えたもうたその光)


                    I pray we'll find your light

                    (あなたの光を我々が見つけることができるように)
                     

                    Nel cuore resterà

                    (私達の心に光がありますように)


                    and hold it in our hearts.

                    (光が私達の心に留まりますように)

                     

                    A ricordarci che

                    (私達があなたを思い出すことができますように)

                     

                    When stars go out each night,

                    (毎夜、夜空に星があらわれるころ)

                     

                    L’eterna stella sei

                    (永遠の星があなたです)

                     

                    Nella mia preghiera

                    (私の祈りの中で)

                     

                    Let this be our prayer

                    (これが私達の祈りとなりますように)

                     

                    Quanta fede c'è
                    (信仰がどの程度あるでしょうか)


                    when shadows fill our day

                    (私達の日々に陰が忍び込む時)

                     

                    Lead us to a place, guide us with your grace

                    (私達をあの場所に、私達をめぐみのうちに導いてください)
                    Give us faith so we'll be safe
                    (私達が安心できるよう、信仰をお与えください)

                     

                    Sogniamo un mondo senza più violenza

                    (私たちは暴力のない世界を願います)

                     

                    Un mondo di giustizia e di speranza

                    (公義と希望に満ちた世界であることを)

                     

                    Ognuno lo dia la mano al suo vicino

                    (すべての人々が、その隣人に手を差し伸べることができますように)

                     

                    Simbolo di pace, di fraternità

                    (その平和、友愛のしるしを)
                    La forza che ci dà
                    (あなたがくださったその力を)
                    We ask that life be kind
                    (私達の人生が優しさに満ちたものであることが)

                    È il desiderio che
                    (私達の希望であり)

                    And watch us from above
                    (高き所から私達を見守っていてください)

                    Ognuno trovi amor

                    (すべての魂が愛するものを見つけることができるように)

                     

                    We hope each soul will find

                    (すべての魂が見つけることができるように)

                     

                    Intorno e dentro sé

                    (私達のうちとその周りにある)

                     

                    Another soul to love

                    (一人の愛する魂を見いだせるように)


                    Let this be our prayer

                    (これを私たちの祈りにしてください)

                     

                    Let this be our prayer,

                    (これを私たちの祈りにしてください)


                    Just like every child

                    (すべての子どもにとってそうであるように)

                     

                    Need to find a place, guide us with your grace

                    (必要なその場所があるように 恵みをもって私達を導いてください)

                     

                    Give us faith so we'll be safe

                    (私達に私たちが安心して生きることができるよう、信仰をお与えください)

                    È la fede che

                    (あなたへの信仰でしょうか)


                    Hai acceso in noi,

                    (私達に向いてくださっていることは)


                    Sento che ci salverà

                    (私達は救われていると感じます)

                     

                    と話が別方向に行ってしまったが、ここで大事だと思うのは、引用文の冒頭の部分である。「神は真に世界を正そうとしておられる」これは、真理を求めているというか、正しいことを求めているというよりは、義であり、平和であり、和解があり、調和があり、愛に満ち溢れていたあのアルファの世界(創造のときの神と人の間にあふれるほどであった時)に戻ろうということなのである。被造物であり、神と語り合う存在である人間を無視した平和ではなく、人との関わりがまさに調和と愛に満ちたものである世界の回復なのだと思う。テトスへの手紙で以下のような部分があることも、そういうことだと思う。

                     

                    【口語訳聖書】テトスへの手紙
                     3:1 あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、
                     3:2 だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。
                     3:3 わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。

                     

                    あるいは、他の新約聖書では、

                     

                    【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
                    14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

                    という部分もある。

                     

                    その意味で、ライトさんが「神の創造したこの世界は、道徳的な無政府状態に陥り、いつもごろつきどもが最後に勝ち誇るような場となるべきではなく、公平かつ公正な取り扱いがなされ、不正が正される場であるべきである」と書いておられることは、非常に大事なのだと思う。とは言え、なかなか、このようなことが起きてない現実がある。それは、多くの人々のとる方法論がまずもって間違っている、ということなのだろう。

                     

                    そのあたりについて、ライトさんは、次のように書く。

                    この世の多数派がとる手段は暴力である。権力者たちは、自分たちの気に入らないことが起こると、爆弾を落とし、戦車を出動させる。権力を持たない人たちは、ショーウィンドウを割り、群衆に紛れて自爆し、建物に飛行機で突っ込む。どこから見ても、どちらのやり方も、物事を変えるためには全く有効でないと分かっていながら、同じことをし続ける。

                     

                    要するに暴力で他者を支配しようとし、暴力で他者に手っ取り早く対抗しようとしたのである。時間のかかる丁寧に生きる、丁寧に対話することによるのではなく。

                     

                    具体的には、南アフリカのアパルトヘイトも全くそうである。日本での安保闘争の政府と学生運動側もそうだし、中国の天安門事件のときもそうである。あるいは、ついこないだのアメリカでのトランプ大統領誕生のときのゴタゴタもそうである。暴力では何も解決がつかなかったことに、人間はもう気がつくべきだろう。

                     

                    アパルトヘイト事件 CRY FREEDOM(邦題 遠い夜明け の英語予告編)

                    安田講堂事件

                     

                    テルアビブで銃を乱射した連合赤軍のプロパガンダ映画 
                    (「物事を決定するのは、武装闘争を通して、自らの解放を勝ち取る戦う人民」っておっかねぇことを言っておられる。226事件の青年将校も真っ青である)

                     

                    セルマの血の日曜日事件

                     

                    天安門事件

                     

                    トランプ大統領就任反対デモ

                     

                    こういう映像を見てみると、人間は学ばないのだと思う。

                     

                    しかし、フィリップ・ヤンシーが『隠された恵み』で書くように、ロシアのあまり学があるとはいえないバブーシュカの祈りが聞いたのかどうかは別として、何千人もの殉教者を出しながら、徹底的に群や秘密警察の暴力で圧迫した側である共産党の側が崩壊してしまい、結局残ったのは、ハリストス正教会の素朴な信仰であったのである。あるいは、アパルトヘイトの後に南アフリカを国家として回復させたのは、暴力による支配ではなく、ツツ司教を始めとする信実和解委員会の働きの貢献も少なくない。

                     

                    信実和解委員会にいるツツ司教が出てくる(紫の衣装を着て紫の平帽をかぶった白髪の人物)

                     

                    取り締まる側であった秘密警察の側の人間であったPutinが正教会の教会のイースターに出ている動画
                    (しかし、しょっちゅう大統領になったり、首相になったり入れ替わるプーチンさんにTruly He has risenの文字はかなり皮肉w)

                     

                    ガチの共産党員であった秘密警察の人間であったPutinが正教会で聖餐を司祭からスプーンで口に入れられ、イコンにキスしてるし

                     

                    Putinさんに正教会の信仰があるかどうかはよく存じ上げないが、結果としてウルトラ真面目な共産党員であった秘密警察の一員のプーチンさんが人気取りのためかどうかは、知らないが、ここまでしないといけない、ここまでするというところに面白さを感じる。その意味で、結果として負けたのは共産党の側であった、と言っても良いようには思う。

                     

                    ロシアにしても南アフリカにしても、こういう実際の事例(言葉によりお証よりも、何より実際の結果としてのお証)を見てしまうと、「もう、分かりました」というしかないように、ミーちゃんはーちゃんは思得て仕方がない。そのあたりのことについて、ライトさんは次のように語る。

                    イエスの復活は、新しい方の義に可能になった世界の始まりである。懸命な祈り、ことばによる説得、政治的行動を通して、一方では政府に、他方は革命を試みるグループに、力には力をという終わりなき暴力と異なる道があることを分からせるのは可能だ。東ヨーロッパの共産主義を覆した(ほとんど)静かな、祈りに満ちた革命は、その素晴らしい実例である。他にも、南アフリカのデズモンド・ツツ主教の類まれな働きの実践もある。(中略)これらのどのケースも、傍観するだけの人たちの側からは、非暴力的手法は脆弱で効果がない、と口をはさまれた。しかし、結果を見ればそうではないことがわかる。(同書 p.317)

                     

                    なんかこう言うのを見ていると「急がば回れ」という言葉を思い出すし、我々の信仰ってなんなんだろうか、と問われるなぁ、とは思うのである。

                     

                    和解と修復的正義の実現について

                    日本でいう和解は、水に流すこと、忘れることとされることが多く、教会でも、牧師から被害を受けても、結構水に流せと言われることが多いらしい。あるいはウヤムヤにされることが多いという話はよくお伺いする。しかし、それではダメなんじゃないかと、ライトさんは書いているように思う。キリスト者だから許せ、と言うのは修復的正義の行為ではないのではないか、と思ってしまった。そのあたりについて、そして次のように書くのである。

                    和解と修復的正義のために労することは、悪の存在を無視することではない。悪の行為を名指しし、認め、取り扱って初めて、和解はなされ得る。そうでなければ、私たちのしていることは福音のパロディ(模倣)であり、実際はそうでないと知りながら、すべてがうまくいっていると装う恵みの安売りとなる。和解と修復的正義を、ローカルでもグローバルでもいかに実現していくかは、今日の私たちが直面しているもう一つの大きな課題である。クリスチャンの福音は、世界の大半の人が想像もしない仕方で、道徳的な成長ももたらされるよう私たちにチャレンジしている。(同書 p.319)

                     

                    ここで、ライトさんは、「そうでなければ(悪の行為を名指しし、認め、取り扱わないままだと)、私たちのしていることは福音のパロディ(模倣)であり、実際はそうでないと知りながら、すべてがうまくいっていると装う恵みの安売りとなる」とかなりきついことを書いている。これは日本の教会にとっては、かなり大事な指摘ではないか、と思うなぁ。牧師の不祥事があるたびに、それを覆い、隠し、時間が経って記憶の彼方に送ることで、水に流し、犠牲者を踏みにじる事案はどうも少なくないようであるし、牧師の不具合を「赦しなさい」、「クリスチャンであれば許せるはずだ」とか戯言をのたまう方もおられるやに聞く。まさに、「福音のパロディ(模倣)」のような気がする。そして、「福音のパロディ(模倣)」という表現は、実に面白い表現だと思う。日本のキリスト教の世界では、自分たちの中の修復的正義の実現に関する思想と神学と理解が圧倒的に欠如しているのではないか、とミーちゃんはーちゃんは個人的には思う。

                     

                    もう一度以下の動画を注意深く見てほしい。あまりの残虐な状態であったことに目を覆って、顔を伏せるTsuTsu大司教の姿が映像に含まれている。(50秒あたりから)

                     

                    南アフリカの信実和解委員会の模様に関するニュース

                     

                    上のどうかは、これだけの苛烈さをもって、自分自身がしたこと、成したこと、正義に反することを見つめる必要があるのか、と思うほどである。しかし、その見つめ直しの作業無しには、回復はないのだ、と思う。大半の日本人に果たしてそこまでできるだろうか、と思うとかなり厳しいかもしれない、と思う。

                     

                    ところで、石の板に書いた神のことばをモーセ先輩がもらっている最中に金の子牛を作っちゃった事件や、ダビデの人妻強奪事件や、士師記の最後のベニアミン族抹消直前事案の原因となったレイプ事件、カインによるアベル殺害事件、ヨセフ誘拐偽装事件などを旧約聖書できちんと取り上げ、書かれているのは、まず、修復的和解のためには、悪の行為を名指しし、認め、取り扱うことの重要性を、そして、悪の行為を名指しし、認め、取り扱うことがまず回復のために必須である、ということにあるのだろう。

                     

                    大激怒するモーセ先輩

                    http://ancientmysteries.gayla-groom.com/the-hebrews-see-yahweh-moses-gets-covenants-from-him/ から

                     

                    時々拝読している読むべき内容のある辛口の福音派教会批評をし他記事が結構見られる I do not know who I am というブログに面白い記事がある。

                     

                    一方的で勝手な「和解」の決めつけ

                     

                    まさにこの記事などを読むと、「このブログ記事中に出てくる人たちの和解って、一体・・・?」とブログの書き手の さんでなくても、思ってしまう。相手もなく、勝手に相手に対して罪を犯したはずのその空間的な場所に行って、祈っただけは謝罪にもならないし、自らのうちの悪を見たことにもならないし、一体何なんだろうと、素朴な疑問をもってしまう。

                     

                     

                    その意味で、まずこのような悪についての向き合い方をしていくことは大事なのではないか、と思うし、それは、日本の水に流しておしまい文化(よく言われる禊ってのは水に流しておしまい文化である)、あるいは罪の水洗トイレ文化の背景を持つキリスト者には、厳しいことかもしれないが、回復のためには必須であるように思う。

                     

                    その意味で、日本のクリスチャンは、非常に厳しいチャレンジに直面させられているような気が、本書のこの部分を読みながら思いを巡らしていた。

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:大変よろしいと思います。

                    2017.05.20 Saturday

                    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その59

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                      今日もライトさんの本を読みながら、つらつらと思ったことを、たらたらと述べていきたいと思っている。今日はクリスチャンとして生きることをどのように考えるかの部分である。

                       

                      クリスチャンの生き方の出発点と様々なクリスチャンの生き方の理解

                      ライトさんは、これまでライトさんが本書で触れてきた、汎神論的世界理解(選択肢〈1〉)、理神論的世界理解(選択肢〈2〉)、神と人が共住する世界理解(選択肢〈3〉)での理解の枠組みで、クリスチャンとして生きるのかを説明・整理しようとする。汎神論的世界理解と、理神論的世界理解のもとでのキリスト者の生き方については省略し、この地にあって、我々の中にあると言われた神の支配、神の国の中にあって神とともに生きるという生き方について述べてみたい。

                       

                      【口語訳聖書】 ルカによる福音書
                       17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
                       17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

                       

                      つまり、イエスは、神の国は、実にあなたがたのただ中にあるとおっしゃっておられるのだ。そうだとしたら、今、我々のただ中にあるこの神の国の国民として生きるということはどうなるか、について、ライトさんが書いておられることを見ていきたい。

                       

                      クリスチャンにとっての選択肢<3>は、天と地だけではなく、未来と現在が重なり合い噛み合わされている。その結びつきは、神の霊の力強い働きを通して、単なる想像上ではない現実のものとなる。そのことは、クリスチャンならではの生き方の出発点となる。
                      その生き方は、単に私たちの内面深くに触れる、というものではない。また、遠くにいる神から来た命令を守る、というものでも全くない。それはむしろ、人間としての新しい生き方であり、イエスによって形作られる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である。それはやがて神がすべてを新しくして私たちのものとする、はるかに豊かな、喜びに満ちあふれた人間の在り方を、今ここで先取りする生き方である。(『クリスチャンであるとは』p.311)

                       

                      クリスチャンにおける神の国民の生き方は、「単なる想像上ではない現実のもの」である、とライトさんは書く。ただし、そこには、必要不可欠な要素として、「神の霊の力強い働き」の存在があることをもきちんと書いておられる。なぜ、神の霊(神のいぶき、神の息)の存在が大切かというとイエス様ご自身が、

                      【口語訳聖書】マルコによる福音書
                       7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
                       7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
                       7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕

                       

                      と言っておられるからである。我々は、人から出てくるものは、結果として人を汚すのであり、神からくるものは、つまり、神の霊の力強い働きは人を汚さず、人を美しい生き方をせしめるのである。それは神の霊による聖書であるかもしれないし、実際の神の霊の働きに関しては色々お考えがあるかもしれないが。個人的には、神の霊を受けられた聖書テキストという理解のウェイトがかなり強いが。

                       

                       

                      そして、クリスチャンとしての「その生き方は、単に私たちの内面深くに触れる、というものではない。また、遠くにいる神から来た命令を守る、というものでも全くない」と書いておられる。私達の内面深くに触れるという理解は、霊肉二元論的な理解として、あるいは政教分離的な生き方として、現代に生きるキリスト者のかなりの部分の人々に受け入れられている理解ではないか、と思う。どうも、その二元論的、あるいは、理神論的世界理解(選択肢〈2〉)は、どうも聖書からのものではないのではないか、ということをライトさんはここで書いておられるように思う。

                       

                       

                      従来の考えに変わり、神と人が生きるという生き方がなぜ大事か、というと、神の国が、神の支配が、この地に来ているからなのだろう、と思う。神の支配とか、神の国とか言うと、近代的な国民国家観に慣れた、と言うか国民国家理解に飼いならされた、あるいは国民国家理解しか知らないためについそういう方向性で考えてしまう現代人がいるように思う。


                      特に、クリスチャンとしての生き方は、「人間としての新しい生き方であり、イエスによって形作られる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である」と言うのはその通りだと思うし、「罪に支配されて形作られてきた人間としての生き方」が、「イエスによって(支配され)形作られる人間としての生き方」に転換することであるのだろう。そして、アルファである創世記に於ける生き方、すなわちオメガである終末で実現する「はるかに豊かな、喜びに満ちあふれた人間の在り方を、今ここで先取りする生き方」が「いまここで」というのが大事なように思うのである。この地上のせいにおいても、オメガで実現するはずの喜びと豊かさを味わうことができるのだ。

                       

                      このような部分については、以下で紹介するヘンリ・J.M.ナウエンの「いまここで生きる」が大変参考になろうか、と思う。この本では上に焦点を合わせつつ、神とともに生きる生き方がもたらすものが、素朴な言葉で語られており(もともとの英文のテキスト Here and Nowも、やさしい英語で、読みやすい。内容がどの程度理解できるかは別として)、大変参考になると思う。なお、この本の翻訳には、英文と日本語訳文を読み比べたものとして、苦情はまったくない。

                       

                      巡礼行としてのクリスチャンの生き方

                       カトリック、正教会、聖公会などの伝統教派では、巡礼校ということが一定程度残っている。巡礼をすることで行き方を見直すのである。よくある巡礼する場所に行くことそのものが目的ではなく、巡礼をする中で、その人の人生と神との関係を見直していくことが巡礼の目的であるし、そして、旅の同行者と同じように、人生の同行者が生まれては消え、去っては加えられていくという経験をするからこそ、このような巡礼行が大事にされたのだろう。そして、実際に旅をすることを通して「イエスが言った、私が道であり、生命であり、真理である」ということを体験していくのだろう。

                       

                      以下の動画は、星の旅人たち 英語タイトルは The wayとタイトルされた映画の動画であり、その理解の一端を知ることができるかもしれない。いい映画だとは聞いていたが、未だに見たことはない。

                       

                      星の旅人たち (英語タイトルは、The Way) の予告編

                       

                       

                      その巡礼行として人生を見る生き方について、ライトさんは次のように書く。

                      クリスチャンとして生きるとは、キリストともに死に、キリストとともにもう一度よみがえることを意味する。それはすでに見てきたように、バプテスマが意味する根底にあるものであり、クリスチャンの旅(pligrimage)の始まりでもある。というモデルは、とても役に立つ。というのは、バプテスマというものが、エジプトを脱出し、約束の地に入ったイスラエルの子孫たちという響きを呼び覚ますからだ。今や世界のすべては神の聖なる地である。(同書 p.312)

                       

                      確か、フィリップ・ヤンシーも、彼が教会遍歴をしていた時に、この巡礼行のようなことを感じたことを『隠された恵み』の中に書いていたことを思い出す。工藤信夫さんからは、「ヤンシーのように教会巡り、巡礼行をミーちゃんはーちゃんは、しないのか?」とは言われたけど、意図したわけではなかったものの、ヤンシーと同じような巡礼行をすることになった。w

                       

                      こういう生を生きるということは、Oh the Deep, Deep Love of Jesus の歌詞のように生きる、ということなんだろう。以下の動画の歌詞が表現しているように、バプテスマはイエスの愛に浸されることを見ずに浸されることで表象しているのかもしれない。そうお思うのは、ミーちゃんはーちゃんが完全浸礼派の教会で過ごしたからで、まぁ、それは象徴にすぎないので、別に完全浸礼式でないと正式なバプテスマを受けていないというほど、完全浸礼式原理主義者ではない。

                       

                      Oh the Deep, Deep Love of Jesus(こっちのほうが好きかな)

                       

                       

                      この賛美歌には、

                       

                      Underneath Me 私の下からも
                      All around Me  私の周りすべても
                      is the Current     流れが存在する
                      of His Love   神の愛の海流のような
                      Leading onward 前を進みゆかれ
                      Leading Homeward 神の家に戻るように導きゆかれ
                      to the glory      神の満ち満ちた栄光の
                      rest above   平安の満ちる神の家に

                       

                      まるで、アイルランドの守護聖人 聖 Patrick の祈りのようだ、と思ってしまった。

                       

                      https://www.etsy.com/listing/176571687/st-patricks-breastplate-prayer から

                       

                       

                      その祈りのテキストを用いた現代英国の作曲家John Rutterの聖 Patrick の祈り

                       

                      これも面白いけど Oh the Deep, Deep Love of Jesus という賛美歌

                       

                      ライトさんは、上の引用文でも紹介したように、「今や世界のすべては神の聖なる地である」と書く。まったくもってそのとおりだと思う。我らは、天国に向かって一方的に歩むのではなく、この神の聖なる地を歩む中で、神との関係を「いまここで」深めていくように招かれているのではないだろうか。

                       

                      人間性の肯定としての新しい創造

                      かなりの部分の日本人のプロテスタント派のクリスチャンは、かなり真面目な人が多いので、自分自身を肯定するのがあまり上手とはいえない人が多い。もう十分いい人なのに、まだまだだ、まだ努力しないといけない。もっともっと、父なる神を喜ばせることをしなければいけない、という人々もいるし、もっともっと神を喜ばせるように努力しなさい、教会に来なさい、奉仕しなさいという牧師先生もいないわけではない。

                       

                      しかし、神は人間がどのような人であれ、どのようなことをなさなかろうが、神の前に自分の不甲斐なさ、罪を認めていくならば、そんなこととは全く無関係に、神とともに生きようとする人には、人間性の肯定、人間の生の肯定をしておられるのである。それが一番良く現れているのが、十字架に一緒についた強盗へのイエスのことばである。

                       

                      【口語訳聖書】 ルカによる福音書
                       23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
                       23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
                       23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
                       23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

                      あるいは、祈りについて、パリサイ人と取税人の祈りについてのたとえである。

                       

                      【口語訳聖書】 ルカによる福音書
                       18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
                       18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
                       18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
                       18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
                       18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

                       

                      そのことについて、ライトさんは次のように書く。

                      再発見 新しい創造は、私たちの人間性の否定ではなく、再肯定である。そこには非常に多くのことがあり、中には私たちの直感に強く反したり、当初当惑したりするものもあるだろう。そのことへのクリスチャンにふさわしい応答は、「Yes(然り)」である。イエスの復活が私たちに見せてくれる通りのことである。クリスチャンとしての生活は、単に世界の現状の内的真理を発見するためでもなく、現在と異なる世界に波長を合わせ、現実世界と全くかけ離れた生き方を学ぶためでもない。そうではなく、イエスの復活がその開始となった、神による新しい創造において、最初の創造でよかったもののすべてが再肯定されるのを垣間見ることである。(同書 p.313)

                       

                      上の引用文の中で一番面白かったのは、次の一文である。

                      クリスチャンとしての生活は、単に世界の現状の内的真理を発見するためでもなく、現在と異なる世界に波長を合わせ、現実世界と全くかけ離れた生き方を学ぶためでもない。

                       

                      実に近代のプロテスタントクリスチャン、あるあるである。「世界の現状の内的真理を発見する」という一文を読んだ時、「あ〜〜〜こういう人、多いよねぇ」とは思ったし、こういうキリスト者観を持つ人々の割合は、案外大きいのではないかと思う。「内的真理を発見する」を重視するとどうしても、どうしても、内向きになり、挙句の果てに神に向かっていくことすら忘れかねない危うさがある。さらに、「現在と異なる世界に波長を合わせ」ということを言い出しかねない人もいるのは、想像がつく。そして、その波長、周波数を合わせているうちに、本来神でないものに波長が合ってしまって、共振現象を起こして、破壊的なダメージを受ける人がおられるようだ。

                       

                      風の周波数とドンピシャあったために落橋するTacoma Narrow Bridge

                       

                      もう一つカラー版でTacoma Narrow Bridge。(1940年の撮影である こりゃ戦争に負けるのは無理ないと思う)

                       

                      このブログでも紹介したかもしれないが、風の波長と構造体としての波長がドンピシャあってしまったために落橋の憂き目にあったのが、Tacoma Narrow Bridgeである。波長が合うことによる揺れは、最初大したことはないような感じがするのかもしれないが、波長がどんぴしゃり合うと、ろくでもないことになる例である。本来目を向けるのは最初の創造であり、良かったものすべてであり、その創造者なる方だけに目を向け、この地と関わる生き方をするほうがいいのかもしれない。

                       

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
                      あめんどう
                      ¥ 1,944
                      (1997-09-20)
                      コメント:大変参考になります

                      評価:
                      Henri J. M. Nouwen
                      Crossroad Pub Co
                      ¥ 1,809
                      (2002-01)
                      コメント:良かったですよ

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