2018.06.01 Friday

2018年5月のアクセス記録

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    皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


    5月は、いろいろ緊急公開系の記事も多かったので、4月の8,520アクセスから一気に急伸、17,591アクセス、一日あたり567.5 アクセスでした。

     

    2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2)
    2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9)
    2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
    2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1)
    2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7)
    2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0)
    2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7)
    2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8)
    2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1)

    2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5)
    2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

    2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8)

    2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5)

    2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3)

     

     

    5月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。

     

    ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた  アクセス数 921 

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 609

    ということで、ロイヤルウェディングで話題になったCurry主教の説教解題した ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた  が、アクセス集中でした。あとは、いつもの現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 、説教黙想シリーズ、緊急開催分からは、ハゥワワースの講演録、あと、忘れてたところから急遽ひょっと出てきたキリストの教会におられた牧師先生が在米中に経験した人種差別的対応に関して記載したブログ記事に触れた このブログの記事が面白い  でした。お書きになられたもの自体が見えなくなってしまっているのが残念です。

     

    また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。

     

     

     

    2018.05.31 Thursday

    同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(3)

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      本日で、この緊急連載シリーズは終了。今日は、パネルディスカッションの部分だけ、お話ししたいと思います。

       

      現地では、講演後15分ほどの休憩の後、パネルディスカッションが始まりました。

       

      藤原さんからの応答

      藤原さんから応答として、ご自身が英語と日本語で発言されることで、討論が始まりました。

       

      今回の発題のポイント

      これまで、ハゥワワース先生には、結構挑発的な論文が多かったが、今回は割とおとなしめのご発題であったように思う。今回の発題でVirtureについて語っておられたのが印象的であったように思う。とはいえ、ハゥワワース先生の博士論文で取り上げられていたものであると思います。ほかには、博士論文では、物語やコミュニティという概念が触れられていたものでした。

       

      今回の発題で、満州事件をめぐってのニーバー兄弟の論争が取り上げられ、その中で「何もしない恵み」ということがありうるのかを巡っての論争が取り上げられたのが印象的であった。信仰とのかかわりでの徳、より具体的には、忍耐、謙虚さ、といったことの現代における重要性と、バルトの正直な無知ということが重要であるように思う。

       

      自国利益とナショナリズムがグローバリズムの中で叫ばれる現在という時代において、もっと先に行かないといけないことが指摘されているように思う。

       

      教会の現代的役割再考

      教会の現代的役割を考えてみると、以下の3つの役割と考えられるだろう。
      (1)平和をつくり出す霊性
      (2)神の国の市民
      (3)預言者的、祭司的役割

      の3つの観点から考えたい。


      平和を作り出す霊性に関して、平和を壊そうとすることに対して、暴力を以って反応することが平和をつくり出す霊性ではないだろう。(ミハ氏註 これは、1945年以降のアメリカには耳の痛い話だと思う。なぜなら、世界の警察官を自ら買って出て、あちこちで戦闘行為を行ってきたからである。それは、共和党政権でなく、民主党政権でも起きたことである)ニーバー兄弟の論争でみられたラインホルド・ニーバーの「何もしない恵」で表現される「神が何をしておられるのかを見極める」ことの必要性、あるいはバルトの「正直な無知」と重なっているのではないだろうか。

       

      ニーバー兄弟の対話を考える中で、それを支えるための霊性の重要性を指摘しておられたように思う。つまり、神の国の市民としての役割として、平和の神の国の市民として生きることへの上からの動きの重要性がしめされたし、また、制度化という言葉で語られた制度を作ることは、ある意味で下から(人間の側から)の動きとして取り上げられたであろう。

       

      神の国と国民国家

       ニーバー兄弟(多分、リチャード?)の一人は、近代社会の中では、どの国の国民であるかが重要であるとされ、クリスチャンであることはおまけのように考えてきた側面があると指摘しているように思う。


       第一の市民権は天にあるとパウロはいっている。過去の日本の教会の歴史を振り返ってみると、聖書の言う神の国と日本という国民国家の主権が対立したとき、日本という国民国家が優先されてきたが、しかし、本来は、神の国の民であることのほうが重要であったのではないだろうか。とりわけ、現在の韓国とか、中国のクリスチャンにとっては、国民国家の民であるという古都よりも、神の国の民であることの重要性が問われているのではないだろうか。その意味で、神の国の民として、他の人を愛すること、それが重要であり、問われているのではないだろうか。

       

      預言者的存在としての教会、祭司的存在としての教会

      教会の預言者的性質は重要であるといえるだろう。ハウワワースの神学は、その意味で、預言者的性質を持つ神学であるといえるだろう。ある面、社会に課題があり、社会の不正があるときにこれらの問題に対して声を上げるような神学ではあった。ところで、旧約聖書的伝統を考えれば、祭司としての伝統も存在し、旧約聖書では、王のために祈り、国のために祈った祭司がおり、日本の戦時中の教会は、この祭司的存在を果たしてきたといえるだろう。(ミハ氏註 日本の教会は、宮城遥拝(天皇のいる皇居に向かって拝礼すること)に嬉々として参加した人々もおられたようだし、軍に教会が飛行機を奉納したように記憶している。)確かに、自分のコミュニティ、自己の属する国家のために祈ることは重要かもしれないが、ナショナリズムに対しては強く対抗できる存在であるべきなのではないだろうか。

       

      キリスト者にとって何より重要なことは、神の国の民であることをきちんと認識しておくことであろう。日本の戦争中に、教会がなしたことは、神の民であることをやめ、教会が中心になろうとしたためおきたことなのかもしれない。(ミハ氏註 このあたりのことを知りたい向きには、日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰 - Wikipedia を読んでほしい。今では、この文書の存在を知っている若いキリスト者はほとんどいないし、福音派系統のキリスト教会関係者では、この文書の存在を知る人はほとんどいないのではないかと思うが、読んでおくことは重要である、と思う。)

       

       

      小さな教会にいるほうが、教会の全体について、よく見えたり、対象から、ある程度距離があり、遠くにいる時のほうが、対象について、かえってよく見える、ということはよく起きる。ナショナリズムの課題については、案外地方部からのほうがよく分かるかもしれない。

       

      アジア諸国において、とりわけ相互の和解において、今後重要になるのは、預言者的存在としての教会のネットワーク化であろう。どうしても、自国、身内に対しては強くものを言いにくい部分があると思う。その意味で、日本の教会は、日本の罪を見逃しにしてきた部分もあったであろう。その結果、自分たちの罪を認めず、悔い改めもしてこなかったのではないだろうか。そのような条件下では、和解もないし平和構築も起こりえないであろう。その意味で、互いに赦し、赦される霊性が必要かもしれない。(ミハ氏註 伝統教派でしているような、罪の相互告白というのはいるように思う。その意味で、以下のような祈りは重要なのではないだろうか、と思うのだなぁ)

       

          Lord of grace and truth,
                we confess our unworthiness
                to stand in your presence as your children.
                We have sinned:
      All       forgive and heal us.
                 
      (略)
                 
                Your Son our Saviour
                was born in poverty in a manger.
                Forgive our greed and rejection of your ways.
                We have sinned:
      All       forgive and heal us.
                 
                The shepherds left their flocks
                to go to Bethlehem.
                Forgive our self-interest and lack of vision.
                We have sinned:
      All       forgive and heal us.
                 
                The wise men followed the star
                to find Jesus the King.
                Forgive our reluctance to seek you.
                We have sinned:
      All       forgive and heal us.

       

      その意味で、旧約聖書的な意味での預言者的観点からの批判にさらされることが、どの国にとっても必要かもしれない。そして、それぞれの国家の中で、自国のナショナリズムに批判的な教会がその国の中で存在し、これらがネットワーク化されていくことが重要ではないだろうか。ハウワワース先生は、その著書の中で、アメリカの教会とそれを取り囲むアメリカの文化を批判してこられた。このような社会の現状に対して、批判的な視点を持つ教会のネットワークが、平和を作り出していくためには、重要であろうと考える。

       

       

      Xi Lianさんからの応答
      Duke大学のかつての学部長、ヘイズさんが挨拶をしたいと言っていたので、この場でお伝えします。長崎でヘイズさんはこのフォーラムに参加され、キリスト者の証としての平和フォーラムという存在に感銘を覚えたて米国に帰国した直後、膵臓がんが見つかった。そのことを覚えてもらったことを感謝しており、現在では、膵臓がんが寛解していることをお伝えしたい。

       

      Xiさんの背景
      自分の背景としては、中国におけるキリスト教についての研究をしてきた。とはいえ、アメリカの国民であり、アメリカの神学校で教えている者であり、中国でのキリスト教会の運営に直接的に携わっている存在ではないことをまずお断りし、自分自身からの観点から応答してみたい。

       

      「教会を教会らしく…」の意味するところ
      西側のキリスト教世界における死にかけのキリスト教の影で、力強い神学の回復の根底にあるものとして、キリスト教民主主義の世界からの覚醒の主張にあるのではないか、と思う。特に、ハウワワース先生が主張しておられる「教会を教会らしくしよう」というご主張は、教会が社会に起きている問題と無関係であっていい、ということではない。(ミハ氏註 最近は多少は変わってきたものの、1970年代までのアメリカ福音派教会の大半では、教会と社会とは一線を置く傾向があったように思うし、現在でも多くの福音派教会では、社会のことに教会は冷淡であるように思う。)

       

      社会的なデノミネーションとして、アメリカのほとんどすべての教会が戦争を支持してきたことは、アメリカの教会がアメリカという国家に対して、批判的ではあり得なかった、ということを示しているといえるであろう。例として、ヘイズ先生が長崎での講演であげた例である長崎に原爆を落とす飛行機を祝福したカトリック司祭の話がある。このように、戦争とその中にある殺りくに批判的であり得なかった教会の姿がある。

       

      敬虔さと暴力の癒着に対抗する教会
      敬虔さと暴力の距離を縮めてしまうことにハゥワワース先生は反対しておられるし、教会が非クリスチャンの意見を汲み取り過ぎることに、反対しておられるように思う(ミハ氏註 ここで非クリスチャンの意見というのは、世俗的な政治的な傾向性のことだと思われる)

       

      クリスチャンが寄留者でその声が小さくても、社会問題に神学的に声を上げることができるのではないか。太平洋戦争中、ルーズベルト大統領が大統領令を公布し、日系人の強制収容を命じたとき、多くの人々がその大統領令を支持した。しかし、当時の大統領令とその背景にある人種差別的性質への批判は、すでにクリスチャン・センチュリーという雑誌での議論に確認することができる。これが、社会的問題に声を上げるということの一つの例であると考えるであろう。

       

       クリスチャンにとって、ナショナリズムと信仰を厳密に区別することは多くの場合、困難であることが多い(ミハ氏註 これねぇ、同志社で正々堂々といえたのは、外国人ならでは、だと思いました)。清水安三さんという中国伝道者(同志社出身)がおられるが、彼は、中国伝道の中で、同志社の制度化された拡張主義とは分離していくことになります。北京で、難民と化した女性たちを受け入れる学校を作り、第二次世界大戦中でも運営されていたのです。清水さんは、白人の帝国主義を日本もやっているではないか、日本の国を批判したクリスチャンであり、クリスチャンとして、神の国の主権に従うことを、身をもって、証した寄留者の一人であるといえるであろう。

       

      「教会が教会である」というチャレンジ

      北東アジアでは、現在あるチャレンジが教会に与えられていて、それはとりもなおさず、「教会が教会である」というチャレンジであり、このことは、アジアに生きるキリスト者にとって、大変重要な課題であろう。

       

      以下、ナショナリズムに関して、2つのことを述べたい。

      確かに、教会は、民主主義社会の建設に貢献したとはいうものの、中国の教会は民主主義を育てる安全な避難場所(ミハ氏註 サンクチュアリとかアジュールの意味での避難場所)にはならないかもしれない。その意味で、中国の教会でのキリストの主権の回復は難しいかもしれない。

       

      具体的には、中国仏教界のリーダーの一人は、習近平政権の文書を新しい仏教典と呼ぶような行為がある。このような波に抵抗することは困難である。特に政権側は、「正直な無知」が自分自身に向かってくること、そして政権やナショナリズムに批判的な視線が向けられることを政権側は危惧するのではないだろうか。

       

      もう一つは、ナショナリズムの勃興の中で重要なのはキリスト者の美徳の重要性である。ナショナリズムが進む中、外国資本への暴動などや不買運動などが起きており、近年のロッテマークへの抗議は、実に恥ずかしい限りであると思う。このような排外主義の中にあっても、他社を愛する、隣人を忍耐をもって愛するというキリスト教的な選択肢を教会は提供すべきであろう。

       

      たぶん、アメリカ系放送局のニュースクリップ

      中国国営系放送局のニュースクリップ

       

      SeonWook Kim さんの応答
      平和の努力のためには、互いの違いを認めあうことが必要であるように思う。これまで多様なキリスト教が生まれてきたし、古代中東で生まれたキリスト教は、キリストをその礎石とするものの、実体的に多様な形をとることを許容されてきたといえるだろう。宣教の意味を考えると、(ミハ氏補足 支配の言語やエリートの言語で語られてきた宣教というハゥワワースの主張を受けて)どのような言葉で宣教するのか、宣教の言葉について考えることが重要かもしれない。

       

      日曜学校的な聖書理解の跳梁跋扈

      クリスチャンの社会や様々なことについての理解や態度は聖書に由来しているのではなく、日曜学校の教師から由来しているという側面はないだろうか?ところで、現代人にとって、王国の概念はどこから来るのだろうか?世俗世界における王国の概念が汚染されてしまっていて、本当のことがわからなくなっている側面はないだろうか。(ミハ氏註 多くの信徒の皆さんの間では、この種の日曜学校の聖書理解的な聖書理解が跳梁跋扈しているような気がする。そして、それに異議を唱えたら、時々強烈な反撃にあることがある。特に、SNSのいわゆるキリスト教関係の発言でもこのレベルの発言が多数みられるので、残念だなぁ、と思うことが多いことは、一言ここで述べておきたい)

       

      (ミハ氏註 ハゥワワースの支配の言語と異なるキリスト教会の言語の発言を受けてであろうけれども)現代の社会において新しい理解を新しい言葉が必要ではないか。王国と言う概念は神が一つであり、神の主権を示すことばではあるが、現代的なコンテキストで考えれば、神の共和国(Republic)と考えてもよいのではないだろうか。今では王国についてだれも理解がないので。そして、神の共和国ということは三位一体は繋がっているのではないかと考えている(ミハ氏註 この発言者は、神学的素養が薄いのだと思った。もともと政治学者なので、神の国を神の共和国と考え、三位一体論から持ってこようとしたが、これには無理があるように思う。そもそも、神は民主主義とかとは、全く関係ないですし、と思わず心の中で突っ込んでいました。いくら、政治学上王国という概念が無効であっても、神が主権者である以上、せいぜい神の支配、神の主権ということを言わざるを得ないと思った。以下の議論は一応掲載しておくけど、個人的には、あまり意味のある議論とは思えないことだけは付言しておきます)


      神の国の憲法は、自由に基づいている。ところで、政治とは共にいきる技術である。その意味で、和解の中にあって、神の政治が実現するためには、ロゴスによる新しい知恵が必要ではないか、と考える。

       

      ハゥワワースからの再応答
      藤原応答への再応答
      リチャード・ニーバーの「何もしない恵み」を触れてくれたことは、ありがたかった。バルトの「正直の無知」とリチャード・ニーバーの「何もしない恵み」とは、確かに繋がっている。さらに、ナショナリズム批判的な教会のネットワーキングという概念は重要と思う。


      グローバリズムという言葉が生まれる前に、キリスト者は一つになっていることをすでに知っていたとは言えるだろう。グローバリズムのかで、地域性(ローカリティ)は回復されることが必要であろう。普遍(つまりカトリック)であることと、地域性の同時追求が現代においては必要であるといえるのではないだろうか。

       

      シーアン応答への再応答
      クリスチャン・センチュリーという雑誌の存在について考えてみたい。社会的福音の論調を持った雑誌であり、20世紀はクリスチャンの世紀になり、それはアメリカ型民主主義の時代であることを指し示す雑誌であった。その中で、人種差別的な批判意識が大統領令に対して出されたことは重要であると思う。


      アメリカは、過去二十年間戦争状態にあり続けた。そして、そのような戦争状態の中で、「良きアメリカ市民は米軍にいる」という概念は、アメリカ社会にある種の規律をもたらしているように思われる。


      キム応答への再応答
      神の共和国という概念はどうなんだろうか。意味がよくわからない(ミハ氏註 やっぱり、突っ込まれたw)。隣人に好意を持つと言う政治概念は、重要でホッブス的な世界とは異なる。死を迎える存在であることのみが共通という現代の人々の中でどう協調してくのかするかを考える必要があるだろう。

       

      現代の物語は自由(フリーダム)という物語に支配されている。その中で、やってなかった罪をどう考えるか、ということは問題になるかも知れない。

       

      (ミハ氏註 アングリカンの祈祷文には次のようなものがある。

      ALMIGHTY and most merciful Father; 
      We have erred, and strayed from thy ways like lost sheep. 
      We have followed too much the devices and desires of our own hearts. 
      We have offended against thy holy laws. 
      We have left undone those things which we ought to have done
      And we have done those things which we ought not to have done;
      最初この祈祷文を読んだときには心が震えた。)


      現在の結婚式で、人々の前で結婚式の時に制約させるのだが、その意味を結婚する二人はどのようなことが待ち構えているのかを分からずに、教会に来ている人々の前で誓約してることがわからずにやってないのだけど、教会はそれを誓約させる。こういうことをどのように考えるのか、わからずにやってしまう罪をどう考えるのか、何もしなかった罪をどう考えるのか、ということは重要かもしれない。
       また、人々が信じている物語(グランド・ストーリー)も重要だが、その物語を誰が語ったかが重要である。例えば、ローマではストア的な禁欲主義が帝国のエートスであったのと同様に、教会のエートスになってしまった。そのことを、わからない中で、それを現在の教会も無意識にやらせているのではないか。また、クリスチャンにとって互いにどう仕えていくのか、ということが問題になるのではないだろうか。

       

      応答への藤原さんの再応答
      今回読まれた論文は非エリート主義的な立場からかかれている。しかし、日本の教会は、明治期以降エリート層の教会であった。その中で、キリスト教界のノン・エリート的な立場に立つということが今後の課題になるのではないだろうか。(ミハ氏註 プロテスタントの大半(日本キリスト教団とか)とカトリックの一部に関しては、エリート層への伝道を先行させた部分があるが、弱者、ハンセン氏病対策を含め、弱者の立場に立つ伝道もあったことは確か)教会の制度化の問題に関して、社会制度の一部を教会が担うことで、習慣として定着することでキリスト教徒としての美徳が定められていくのは、重要かも知れない(ミハ氏註 伝統教派、ことに正教会的な伝統においては、この習慣としての美徳の側面が実に強いように思う)。美しい生き方をするのは重要だが、日本のこれまでの教会のあり方とは違うので、対応が求められるだろう。

       

      ハゥワワースの再々応答

      エリート主義とのかかわりでいえば、対話のための主教制のよさやある種のヒエラルキー構造を考えているので、ある種のエリート主義とは言えるけれども、ブッシュ家の人々のようなエリート主義のようなものではない。(ミハ氏註 同じテキサス人として、ジョージ・W・ブッシュの存在がよほど腹に据えかねているのだなぁ、という印象を持った)

       

      自分には、カトリックの友人がいるが、その友人は、貧しい人に仕えている。そのような美徳が重要であり、また、ラルシュで障害者とかかわっていくなかで学んだのは、スローダウンする重要性であった。ジャン・ヴァニエ(ミハ氏註 ナウエンがその後半生に影響を強く受けた、ラルシュ・コミュニティの創設者)との関係の中で、ヴぁに絵が主張していることは、イエスが十字架に掛かったこととイエスの復活に、キリスト教が世界を変えるやり方を見いだすことを可能にした、ということである。

       

      Wooさんからの質問
      先ほどの応答を聞いていると、美徳としてのストイシズムを推薦しているように聞こえるが、そのように推奨する理由は何か?

       

      ハウワワースの回答

      ストイシズムを、私は必ずしも支持しているわけではない。クリスチャンは希望を持つ人々であるが、ストイシズムはそのような生き方ができないので、人々を失望させるだけに過ぎない。その意味で、支持しない。
      ところで、私たちが子供を産み、次世代を育てるのは、神に対する希望を持っているからではないだろうか。確かにどうしようもない経験をせざるを得ない人生を生きることになるとわかっていても、次世代を生み、育てるのは、この地に良いものがある、キリスト者はこの地に良いことをもたらすことができる、とキリスト者は確信しているからではないだろうか。

       

      その意味で、クリスチャンの生き方は、ストイシズムの対局にあるといえるだろう。しかし、もしイエスが復活していないのなら、美徳としてのスト石ズムはいいもので、その意味で、ストイシズムは2番目にいいものかもしれない。


      キムさんからの質問
      王国とソブリニティ(主権性)を自分は考えたが、秩序とヒエラルキーはどう違うのか?

       

      ハウワワースの回答
      王国とソブリニティは、キリスト教では違う意味を持ったのであり、人間の世界での人間社会のソブリニティに疑問を持たせることになった。(ミハ氏註 その意味で、神の共和国 God's Republicという概念はナンセンスだ、と暗に言っているように思えたのだが…)

       

      最後に

      一応、司会者から同志社関係者に感謝のことばが述べられた。(ミハ氏註 とはいえ、下働きをしていた、大学院生にも感謝のことばがないのは、どうかなぁ、と思った。基本的にハゥワワースのテーマから考えたら、それは当然あったらよかったのに、と思った。司会者に変わって、ミーちゃんはーちゃんは深謝の意を表したい)

       

      全体のミハ氏的感想
      ハゥワワースのの講演自体は、米国の講演ほど強烈でインパクトのあるものとはならなかった。それは、アジアの教会について、あまり知識がなく、「正直の無知」という態度をとらざるを得なかったことにあるのだろう。だからこそ、この講演の副題として、「アジアにおける教会:バルト主義者の黙想」という副題がついているのだなあ、と思った。自分がよく知っていることなら、批判的にもなって、文句の一つや二つ、三つや四つ…そして、いろんなことがいっぱい言えるのだろうけれども、間接情報からしか知りえないアジアの教会、その相互の複雑な関係はよく知らない。ミーちゃんはーちゃんもお隣の韓国の教会は多少知るところであるが、大陸中国の教会については、知り合い経由の情報や、テレビ番組を通して位しか知らないし、台湾の教会に関しても、同じアングリカンの台湾人の方からの情報を通して位しか知らないし、フィリピンの教会もお友達から聞く程度しか知らないし、インドネシアや知らない。そうなると、軽々に発言できず、ハゥワワース先輩も、いつものアメリカの教会に対して向けるような強烈な物言いはできなかったのかもしれない。

       

      あと、パネルディスカッションが、ハゥワワースの発題とかなり噛み合っていない印象が強かったのが、実に残念であった。表面的な理解のレベルでの対話にとどまり、事前にハゥワワースの発題を読んでいたはずにしては、表面的であったなぁ、もったいないなぁ、という印象が残ったことは、お伝えしておきたい。誰かみたいに、パネリストの人選ミス、とまではいわないけれども。

       

      あと、ハゥワワース先輩をそばで(4mくらい先におられるのを)見て思ったのは、このおじいさんは、ある意味で、型破りという意味では、キリスト教界におけるスティーブ・ジョブスみたいな人だと思った。服装もよく似ていたし。w

       

       

       

      会場でのハゥワワース         在りし日のスティーブ・ジョブズ

       

       

       

       

       

       

       

       

      2018.05.30 Wednesday

      同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(2)

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        今回は、昨夕に続き、昨日京都の同志社大学今出川キャンパスで開催されたハゥワワース先輩の講演の速記録の続きをご紹介したい。

         

        中国での事例から見る教会と神の国、世俗国家の関係

         教会を考える際には、神の国のしっかりとした理解が重要であり、ここで、バルトを手掛かりとして考えることができるだろう。


         クロエ・スターChloë Starrが中国の神学 Chinese Theology: Text and Context という書籍の中で近代のアジア、特に中国では、ナショナリズムと教会の緊張関係へのアプローチとしてかなり違った方法論が取られるはず問うことが指摘され、現代中国における国家と教会にまつわる教会論をめぐる二人の人物(丁と王)の議論を取り上げ議論している。

        中国のキリスト教について対談するスター先輩

         

         このスターの本の中に出てくる中国人神学者の丁が主張する、教会と国家の関係についての理解は、教会は国家にどう向き合うべきかの問題でもあり、丁は三自愛国運動に対して対決的な立場をとらず、これに対し、別の中国の神学者王は、三自愛国運動に激しく反応し、それに否定的でない丁に対して否定的な立場をとっている。なお、この王は、この三自愛国運動に反対するなどの講堂のため、投獄されることになった。この二人の議論について、スターは教会がどうこの世界と関わるべきかの論争と見ている。


        この二人の立場の違いの背景として、丁は、学校教育、カナダでのキリスト教運動に関与した経緯があり、他者に対する誠意という態度からこの概念が生まれてきたし、彼の過ごしてきた経緯からでてきた神学であり、丁をベーダになぞらえて理解している。

         

        丁は、三自愛国運動を西洋の宣教師からの自由を中国の教会は得たと理解しており、三自愛国運動は宣教師からの傷が開放されることととらえていた。丁の理解では、世界と教会は分離できないという立場に立っている。スターは丁について、一バルト主義者の黙想と題する文章でおわっている。これはある意味を持っているだろう。

         

        (ミハ氏註 子の宣教師の善意ゆえのキリスト教の方向付けは、日本の教会においても、大きな問題を含んできたと思う。一つの例が、ディスペンセイション論的世界観であり、異教社会に対して論争を挑むかのような対決的な態度であったように思う。これらは、ある面伝道のエンジンとして、かなり有効な作用素であったように思うが、その副作用もかなり大きく、日常の美徳をもって生きてきた多くの日本人にとって、本来善きこと、Good Newsであるはずのキリストの福音、いや、正確には神の愛の支配の到来と呼ばれるものがBad Newsどころか、The Worst Newsとなってきたということもあったように思う。この問題は大きいし、また、後は野となれ山となれ的な伝道方針で雨後の筍の如くできた多数の教会が、現在になってその存続の危機に瀕しているのも、ある面、宣教師たちのまいた種を現地の構成の日本人信徒が刈り取っているという構図になっている。あるいは、いまだに日本のキリスト教会とその神学および宣教が、海外依存型であり、自立していないかに見える構造であることなどについて、宣教学的な、あるいは宣教社会学的な観点からどのように哲学的反省・学問的に検証するのかは、少し考えたほうが良いと思う。ミーちゃんはーちゃんみたいな平信徒風情が言うことではないかもしれないけれども。

        その意味で、行き過ぎや誤解を生んだとはいえ、内村先生とその後継の無教会主義系の諸先輩の皆様方はこのあたりの海外宣教師からの影響の問題を回避しようとした言えるかもしれない。)

         

        内村先輩

         

        バルトにおける政治と教会の関係 ナチと共産主義
        バルトを考えてみると、バルトはナチスには反対したが、共産主義には反対しなかった。バルトは「東ドイツの信徒へのすすめ」という文章の中で、書いているが、もし正確な事実がわからないとするならば、「正直な無知」であることを正直に認めることがいいのかもしれないと書いている。

         

        バルト先輩

         

        バルトが、「正直な無知」と言ったことの背景には、東ヨーロッパで発生したことを十分に知らなかった、ということがあるだろう。生半可な知識で、正確なことを知らないにもかかわらず、勝手なことを述べるよりは、知らないということを正直に認めるほうが良いということだろうと思う。


        これまでの歴史の中で、キリスト者は自らを殺そうとするものに対してどのように対峙するか、示してきたといえる。(ミハ氏註 この前紹介したキプリアヌス(こちら)、メノナイトの皆さんや、清教徒の皆さん、あるいは豊臣政権末期、江戸初期のキリシタンの皆さんなんかが典型的だと思う)神は、キリスト者の上にも神の主権を行使しておられると同様に、非キリスト者の上にも、神は主権を行使しておられることをどう考えるか、という問題とかかわってくるのだ、と思う。さらに、バルトは完全な政治体制はないとしており、バルトがナチに悪を見たのは、ユダヤ人に福音を語ることを禁じたことにある。おそらく、バルトが言いたかったことは、神の国、そして、教会の意義はキリスト者の政治的な証を絶えることなく存在させることにあり、バルトの重要性は、この観点からの彼の教会論的な試みにあるといえるだろう。


        ところで、カイエはカトリック性(普遍性)を教会間の相互交流の実現と見ているようであり、その意味でバルトは、教会のカトリック的性質を考え、示した人物であるといえるだろう。

         

        現代社会におけるキリスト者の美徳 アジアとアメリカ

         現代の教会では、謙遜や忍耐と言ったキリスト者の美徳 Virtue が重要なのではないか。アメリカではそのような美徳はかなり失われており、アメリカ人には困難を覚えることではあるが。その意味で、アジアの教会にとって、そして、西洋の教会にとって重要なことは、「正直な無知」に生きることである。(この話を聞きながら、N.T.ライトのVirtue Reborn 米国版は After You Believe: Why Christian Character Matters の話を思い出していた。)

         

        同じ本だが英国版と米国版

         

        アジアにおける教会と制度化の視点
        制度としての中国の家の教会の存在は、中世の修道院制度の確立に並ぶほどのキリスト教世界にとって重要なことである。もちろん、家の教会は、キリスト教の最初のころにとられた形態ではあったけれども。

         

        キリスト教が継承されていくためには、何らかの制度化が必要なのであろうと考える。今日のキリスト教にとって、この制度化の問題は、今後の重要なテーマの一つであろう。そして、アジアの教会も何らかの制度を作ることになるだろう。(この辺重要)


        ところで、キリスト者にとって、キリスト者と非キリスト者の区別は必ずしも重要ではないかもしれない。また、制度としての教会として、アジアでどのような形を取るかということに着目していく必要があるだろう。

         

        教会の意義とは何か

        キリスト者にとって重要なのは、教会にとって重要な課題は、美しい美徳を持った人々をこの世界に送り出し、もたらすことかもしれない。

         

        (ミハ氏註 牧師の祝祷って、本当にこのためではないか、と思う。オーストラリアのアングリカンの式文における祝祷にはこんなものがある。太字部分は、司祭を含め、全員が読む

        Loving God, we thank you for hearing our prayers,
        feeding us with your word,
        and encouraging us in our meeting together.
        Take us and use us
        to love and serve you, and all people,
        in the power of your Spirit
        and in the name of your Son,

        Jesus Christ our Lord. Amen.
        まさに、神にあって、神の美徳に生きるよう、祝福しているように思う このあたりを読みたい人は、こちら サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)(05/18) を参照してもらいたい。)

         

        キリスト者としてこの世界で平和に生きる

        さらに、キリスト者としてこの世界にあって平和に生きることとは、衝突をいとわない社会的関与からキリスト者が逃避することではないだろう。(ミハ氏註 メノナイトの皆さんとミーちゃんはーちゃんは、揉めそうなものからはとりあえず逃げる「三十六計逃げるに如かず」が何よりの身上。)しかし、よく知らないことに、なにか言う事はできない。その意味で、「正直な無知」ということをきちんと認識をしておくことが重要となるであろう。

         

        普通の美徳とキリスト者

        マイケル・イグナティエフMichael Ignatiefの近著The Ordinary Virtues: Moral Order in a Divided Worldでは、グローバル化の問題が進む中、各国の中ではナショナリズム化が同時並行でに向かう傾向がある社会の中でキリスト教的な美徳からどう考えるかという問題に取り組んでいる。その中で、普通の人々の美徳の重要性を考えている。

         

        現在もなお、世界の多くの国や地域で、宗教が多くの人々の慰めであると同時に、世俗主義的なものにも多くの人々がひきつけられている。

         

        Micheal Ignatiefさん

         

        自著 The Ordinary Virtues: Moral Order in a Divided World を語るMicheal Ignatiefさん

         

        これらの人々が求める宗教や美徳に対して、権利にまつわる(自主、自立、自己決定権といったような)言語は、植民地からの独立に用いられた言語であり、これらの権利の主張は、個々人の自立と自己決定の表現でもあり、西洋的なものであった。そして、それらの支配や権利に関する言語の使用を受け入れたのは、社会の上層部や、中産階級の人々であり、普通の人々は関係していないことが多い。エリートの支配と言った錯覚は、貧困層にとって、実際には、ほとんど意味を持たない。


        アジアの教会には数百年の伝統はあるが、初期段階にあるように思う。今後アジアの教会は成長していき、そのための何らかの制度化がとられていくだろうが、その中にあっても、アジアの教会に、聖霊が必要だということを神はご存知であるし、神ご自身がアジアの教会にその精霊を送られるであろう。このようなグローバル化を迎えた現在の社会において、キリスト者が謙遜とか忍耐とか、誠実といった日常の美徳がいつも私達にあるように願い、現代の教会にとって、美徳としての謙遜や忍耐が、非常に必要になっているのではないだろうか。

         

        以上、講演の部が終わりました。 その後、休憩に入りました。

         

        ということで、次回は、パネリストからの応答とその後の対談のご紹介いたします。たぶん、公開は明日の夜になります。

         

         

         

         


         

        ---
        Yale University Press
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        (2016-11-01)
        コメント:公演中紹介されてた書籍

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        Harvard University Press
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        (2017-09-18)
        コメント:これも講演中紹介されていた

        2018.05.29 Tuesday

        同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(1)

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          昨日開催されたハゥワワースの講演会に行ってきたので、その内容の概要をご紹介いたしたいと思います。この話、片耳で英語聴きながらメモを日本語でツイッターで投げた結果をもとにしているので、ミスや誤解があるとすれば、すべてミーちゃんはーちゃんの責任です。おまけに後半戦、バッテリー切れでタブレットからの慣れない投稿で、苦労したなぁ。誤りが多分にありますが、速報性を最優先でお届けします。

           

          講演会のポスター

           

          司会者からのご挨拶とハゥワワースさんのご紹介

           まず、司会者の方が参加者がどこから来たかのかを、調査していました。関西、関東あるいは、外国では、結構、中国、韓国系が多かったようです。全部で250人くらいの参加者でした。関東からの参加者が案外多かったのにはびっくりしました。一応、あるクローズドなプログラムの中の講演なのだけれども、この部分だけ、ちょこっとOpenにしています、というご案内がありました。そして、このアジアの和解のためのプログラム参加者を募集中で、特に若い世代の参加者募集中だというご案内がございました。


          ハゥワワース教授の紹介があり、キリスト者の美徳の観点から、もう一度キリスト教の意味を発見したところが、ハゥワワースの重要な貢献であること、法律と神学、倫理学といった多様な学際的研究をしておられること、また、Time Magazineで現代の最高の神学研究者とされていること、スコットランドのSt.Andrews(ミハ氏註 ををを、N.T.ライト先輩がいる学校じゃないですか?)でも講演された経験があることなどが紹介されました。

           

          外のポスター

          会場となった重要文化財のチャペル

           

          ハゥワワース先輩のご講演

          以下は、ハゥワワース先輩のご講演内容の要旨です。
          アメリカ中心主義の言語で話すし、英語の話としては、そんなにきれいでないアメリカ人の英語で、中でもテキサス語でしゃべるので申し訳ないというご自身がテキサス人であることをいじるお話から始まりました。(ミハ氏註 なお、テキサス語しかしゃべれなくて、英語が喋れない疑惑があったのが、ジョージ・W・ブッシュ君です。あまりに意味不明なんで、ブッシズムという言葉までできた大統領でした。)

           

           

          bushismの動画

          テキサス発音についてのビデオ

           

          本日は、権威なきものとしてこの公園に登壇します。今話しているこの教会については、皆さんのほうがよく知っているだろう。皆さんは、ここで、ハゥワワースがテキサスアクセントを聞きに来た、とおっしゃるかもしれません。(ミハ氏註 どこまでも自身のテキサス人いじりするハウワワース先輩かわいい)

           

          アメリカのキリスト教と民主主義の混乱

          これまで、アメリカ人がアジアに伝えてきたキリスト教は、個人的な神とのつながりを表明するだけ、という傾向が強いように思う。そして、教会に関する格言である、「教会以外に救いなし」という表現は、現在のアメリカ人には民主的でない、というような印象を与えることがある場合もある。


          アジアの人たちは、キリスト教を受ける側で過ごしてきたかもしれませんが、アジアのキリスト者が、重要だと思うことには、実は重要な意義があるかもしれないと考えます。ある面、福音を語るといいながら、私達は受けたことを語りたくなる、という側面があるのものかもしれません。

           

          レジデントエイリアン『旅する神の民』についての序を描くように頼まれたとき、日本人は、レジデントエイリアンのような存在だと思いました。社会における少数者として生きている人々でもあります。そして、これまで書いてきた本は、救いの社会的意義を説いたのが私がこれまで出してきた本でありました。

           

          個人の救済なのか集合的な救済なのか
          ところで、日本やアジアに最初に来た宣教者たちは、個人の救いを必要以上に強調した側面があったと思います。しかし、今日の講演では、救いに関する集合的な性格を述べたいと思います。前回日本に来た時には、たまたま、エペソ2章11節から21節の部分について説教を頼まれました。私の最も好きな部分です。ユダヤ人と異邦人の壁が崩れることで、新しい人間が生まれ、神の平和が実現したことを示した聖書個所です。

           

           アジア諸国や西洋諸国は、異なる文化ではあり、その中にある教会は多様な在り方を示してはいるけれども、教会の基礎はイエス・キリストであるはずです。三位一体という共同体的な性質で描かれた福音を考えて場合、救いを取り巻くグランド・ストーリは大きく変わるはずだが、現代のアメリカ人は、このような共同体的な性格を持つキリスト教とは、かなり違うものとしてキリスト教を捉えているように思われます。

           

          (ミハ氏註 おそらく、リアリティとしては、集合的な救済と、個人の救済の間のどこか、だと思うけど。)

           

          死にかけの西側諸国の教会と政治
          確かに、西洋諸国ではキリスト教は半ば死にかけのような状態であるが、本来教会は、神の言葉をキチンと語るべきだし、また、キリスト者は社会の政治経済的な支配の影の下にはいないし、そこから抜け出せているはずであるが、そうはなっていない。(ミハ氏註 それはそうだよね。だって、教会の共同体的性質が出ているはずの聖餐ちゃんとやっていなくて、聖餐の模造品に過ぎない讃美歌を垂れ流し、自分の感情を、神様聴いておくれなまし的な讃美歌大会やっている教会も少なくないもの…どこの国とか教会とか言わないけれども)

           

          アメリカを再び偉大に(Make America Great Again)という政治スローガンには、「キリスト教のアメリカの再興」という意味も含まれるのかもしれないが、「キリスト教国としてのアメリカ」ということは、これまで存在したことがないのではないだろうか。アメリカでは、民主主義とキリスト教徒の混乱という誤解が存在している。これは、市民宗教としてのアメリカ型キリスト教の限界を示しているものと考える。

           

          Make America Great Againのおじさん

           

          プラトンやギリシア哲学が西洋の源流となったというあたりのことを考えないといけないのではないだろうか。

           

          西洋社会が、死に体となりつつあるキリスト教会の現状の中で、キリスト教の覇権主義から開放されつつあるけど、アジア諸国では、キリスト教の歴史が浅く、信仰の継承の観点から、信仰の制度化、習慣化の模索する途中にあるのかもしれない。

           

          教会と制度化と信仰の継承について

           ブルース・カイエが英国キリスト教会の興亡で述べたことは、自分たちの信仰を次に継承する方法としての制度化の必要があったということであり、キリスト教社会を目指そうとする以上、制度化のは、組み込まれていたことかもしれない。そして、カイエが示したのは、イングランド的教会は文脈に応じてできたものであるということである。


          ピーター・ブラウンが西洋キリスト教社会の中で述べたことは、もしキリスト教が普遍的なら、なぜ普遍的な組織体を持たないのか、という素朴な疑問である。普遍的な組織体を持たせるための一つの方法は、政府の強制によるものであるかもしれない。
          信仰の継承のためには、何らかの制度が必要である。メノナイトの農村文化は明確な意識なしにキリスト教になるような独自の制度をものを作っていったといえるかもしれない。


          翻って考えてみると、アジアの教会は、現在もなお、制度化の軌道に乗っているとはいいがたいのではないだろうか。もし、次世代に継承することを考えるとしたら、制度化ということを考える傾向になる。アフリカ人が奴隷として米国に連れてこられたにもかかわらず、キリスト教徒になったことの意味は、この側面から考えると重要なことであり、何らかの手掛かりを与えているといえるのではないだろうか。

           

          アジアの教会と制度化の問題

          ところで、アジアの教会は、ナショナリズム、あるいは、国家主義と一致してない教会と制度化してない教会との関係をどのように考えられるか、という課題を持つのではないだろうか。


          西洋の宣教師たちで高度教育を受けた人は、覇権主義的になった部分があったように思われる。宣教地できれいな水を得るために井戸を掘ることでさえ、現地文化への攻撃とみなされた側面があった。

           

          アメリカ人的な感覚として、個人主義が極めて強く、「人は人、自分は自分」という側面があるが、ただ、アメリカでは教会が社会の基礎にあった。(ミハ氏的ツッコミ ソーシャル・キャピタルを扱ったロバート・パットナムの『孤独なボウリング』によれば、それが社会の共通資産として機能していたという指摘はある)

           

           移民が米国においてどのような地位を占めてきたかを考えると、母国文化とのつながりを持っているが、2世以降は、アメリカ人として生きることになるものの、母国文化のつながりがある程度存在している。

           

          聖餐の復権と共同体制
          そして、現在では、アメリカの市民宗教も変容溶解しつつあるように思われる。ライトハートは共同体の回復の一環として、聖餐式を取り戻すことを主張している(ミハ氏註 アングリカンに居留する民で、アングリカン化が激しいミハ氏としては何をいまさら、という感じがするなぁ。だからアメリカの若者の時福音派でも、アングリカンや、オーソドックス、カトリックに改宗者陸続らしいし…)様々な問題は起きるであろうけど、聖霊による開放が、自由な教会に導くのではないか、と思われる。


          アメリカの教会を見ることは、アジア諸国の教会を考える意味で重要だし、次の一点において一致を見出すべきであろう。それは、「互いに殺し合わないこと」ということである。アジアにおける戦争という殺りくによる過去の傷について、キリスト者が一致して取り組むことはアジアの教会にとって重要である。

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

          S. ハワーワス,W.H. ウィリモン
          教文館
          ---
          (1999-04)
          コメント:いいらしい。買ってない。

          2018.05.28 Monday

          サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (3)

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            これまで、

             

            前々回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (1)

             

            前回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)

             

            と、説教が眠たくなるから始まって、伝統教派の流れを汲む、アングリカン・コミュニオンでの礼拝というよりは聖餐式の式次第をご紹介しながら、お話してきました。そして、説教がサクラメントであるはずの聖餐の地位を奪ってきた、という関係を考えてきましたが、今回は、説教ですらなく、教会での賛美が聖餐の地位を占め始めている、ということを2回連続で書いてみたいと思います。

             

            ツイッターで見かけたブログ記事を読んで

            ツイッター上でフォローしているデーさんという方が紹介されて居られた 置き換えられた「サクラメント」ーー元賛美リーダーによる過去30年の振り返りと自省の記録 という記事をふと、目にしました。この記事が掲載されているブログ 巡礼者の小道 には、海外のブログ記事の翻訳というよりは抄訳によるものが多いようですが、現代の教会を巡るいくつかの重要な示唆のある記事が少なくないようです。全部目を通しているわけではないですが・・・。

             

            このブログ主の方 Kinuko さんも、大分苦労されたんじゃないかなぁ、とおもいました。ひょっとして、似た背景がおありのかたなのかも、と思うほどでした。Dispensation説(天啓史観説、時代区分説と呼ばれる聖書理解)周りのかなり詳しい記事もありましたし・・・

             

            あるブログ記事の一文に目が釘付けに・・・

            今回は、聖餐の中心性が伝統教派で保存されている反面、聖餐が周辺におかれ、音楽や賛美が教会の中で、中心になっていることについて、少し考えさせられる記事と 巡礼者の小道 と題されたブログで出会いましたので、思うことを、少し書いてみたいと思います。その記事とは、置き換えられた「サクラメント」ーー元賛美リーダーによる過去30年の振り返りと自省の記録 というブログ記事でした。その記事の中で、次のような一文が目に留まりました。というよりは釘付けになりました。

             

            ブライアン・スピンクスは著書『ワーシップ・モール (The Worship Mall)』の中で、CCM運動を検証し、その中で、ブロガーであるサラ・コーニッグの言葉を次のように引用しています。 「プレイズ&ワーシップの時間は、神的な存在の憐れみと愛との親密なる交わりの中に入りゆく手段です。ーーこれを恩寵の手段と捉えている人もいるほどです。プレイズ&ワーシップは、主要な典礼的(liturgical)要素としての主の食卓〔=聖餐式〕に置き換わるものであるだけでなく、それはある意味、参加者にとって、ユーカリスト的(聖餐的)に機能しているのです。」

             

            Bryan Spinks in The Worship Mall, examines the contemporary worship movement and quotes blogger Sarah Koenig as saying “Praise and Worship time is a means of coming into close contact with the mercy and love of the Divine – one might even consider it a means of grace. It not only replaces the service of the Table as a primary ordering liturgical element, it also in some sense functions eucharistically for its participants.”

            このブログ記事の翻訳を読みながら、一番、気になったのは、

            プレイズ&ワーシップは、主要な典礼的(liturgical)要素としての主の食卓〔=聖餐式〕に置き換わるものであるだけでなく、それはある意味、参加者にとって、ユーカリスト的(聖餐的)に機能しているのです。

            It not only replaces the service of the Table as a primary ordering liturgical element, it also in some sense functions eucharistically for its participants.

            という部分でした。つまり、賛美歌を歌うことが、「聖餐に代わるもの」となってしまっている、という記述でした。

             

            聖餐の座を奪った賛美歌・・・

            前回の記事で、説教を「み言葉の聖餐」と呼んだことで、説教がイエスが命じられたはずの聖餐に変わってしまったことをご紹介しました。そして、いろいろな事情屋歴史的経緯があったとはいえ、宗教改革後の西洋のキリスト教の世界とその歴史の中で聖餐が説教に置き換わり、プロテスタント派の教会の中で大きな地位を占めるようになったことはお話ししましたが、現代の教会では、この讃美歌の時間(歌って、シャウトして飛び跳ねる時間)が聖餐に置き換わっているという傾向があるのではないか、と 巡礼者の小道 のブログ主の方が翻訳して、ご紹介くださった英文の記事では主張されていました。

             

            この部分を読みながら、まず思い出したことは、若い人しかいない教会での出来事でした。その教会では、確かに、説教の時間が短くなっており(15分程度、まぁ、時間的にはアングリカンやカトリックの説教並み)でした。伝統的な祈りに変わって、賛美の時間がやたらと長いわけです。もちろん、Intersessionの時間なんかもこの若い人しかいない教会には確かにあるのですが、圧倒的に讃美歌の時間が多かったです。そして、ミーちゃんはーちゃんが参加した若い人しかいない教会では、月に1回は聖餐式がどうも行われているようですが、参加したときには聖餐式がございませんでした。

             

            そのため、結局、ここで 巡礼者の小道 のブログ主の方が翻訳してくださってご紹介下さった元のブログ記事で指摘されているように、賛美歌が、聖餐的なものになり、聖餐の代わりに飛んだり、跳ねたり、ノリノリの讃美歌による賛美がささげられ、ある意味で、本来実施すべきかもしれないことである聖餐の座を奪ってしまっている、という結果に終わっているように思うのです。

             

            カラオケハウス化する教会

            口の悪い友人によると、こういう賛美歌バンバンという教会の姿は、「教会のカラオケハウス化現象」ということになるようです。実体(パンとぶどう酒、ないし、ぶどうジュース)を口にする聖餐でもなく、み言葉の聖餐たる説教も短め、とし、その代わりに自分自身の感情の吐露されたものや、自己のストレスのはけ口としての讃美歌が、結果としては大きな幅を占める、といった雰囲気になると、「裂かれたバンとイエスが流された血の象徴であるぶどうジュースないし、ぶどう酒の入った盃が示すキリストはどこに消えた?」になる可能性がありますよね。

             

             

            チーズはどこへ行った、と題された本

             

            「チーズはどこへ消えた」のあらすじの動画(日本語版)

             

            あらすじ動画(英語版)

             

            確かにイエス様も賛美歌を歌ってけど・・・

            確かに、賛美をイエスが歌った記述は聖書の中に出てきますが(その時の賛美が詩篇だったということで、詩篇の歌詞しか歌わない教会のグループもありますが、それはそれで、一つの見識だと思います)、イエスの原名は、聖餐とバプテスマは少なくとも命じていますが、賛美歌大会は命じていないように思うのですが、どうなんでしょう。

             

            ユーカリスト(聖餐)と似て非なるユーカリスト的

            もう一つ、上で引用した記事の中で、eucharistically (日本語では、ユーカリスト的(聖餐的)と翻訳されています)という言葉を、英文の書き手の方は使っていますが、これにもちょっと引っ掛かりました。というのは、最近、このブログでも最近何度も書いていますように、教会の役割、とりわけ聖餐でイエスを覚えることは、我々がサクラメンタルな生(キリストとともにある生き方)を生きるためのものだと思っています。その意味で、聖餐抜きで、みことばの聖餐も減らし、賛美歌を歌うのは、キリストとともに生きるサクラメンタルな生ということが、ひょっとして、ごっそり抜け落ちているのではないかと思うのです。

             

            週に一度、教会をカラオケハウス化して、サクラメントである聖餐(ユーカリスト)の劣化版としての賛美歌大会(ユーかリスト的)の場所にしてしまい、結果としてお友達の皆さんと一緒に賛美歌を歌って、カタルシスを感じる場になっているとしたら、本当に、どうなんでしょう。

             

            まぁ、カタルシスを感じる場も必要なのはよく存じ上げていますので、そのような場があることについて、まったく無意味だとか、意義がないとは言いませんが、そのためにキリストは我々にご自身を十字架の上で破壊し、割いてくださったわけではないように思うのですがねぇ。どんなものなんでしょう。

             

            以前、このブログでも、若い人しかいない教会に行ったことがあり、そこで思ったことをご紹介しましたが、

             

            若い人しかいない教会参加記

             

            若い人しかいなかった教会その後(ケーススタディ)


             若い人しかいない教会で気づいたこと  

            若い人しかいない教会で気付いたこと、再訪

             

            で発生していることは、起きていることは、劣化版としての聖餐の代理物、いわゆるサクラメンタルでもなく、ユーカリスティックな(聖餐的な)機能を果たす代理物たる讃美歌大会となっている部分があるような気がします。

             

            日本のプロテスタント教会の自虐表現から

            日本のプロテスタント系キリスト教会を自嘲的に言う表現に、

            讃美歌付き講演会
            講演会付き讃美歌大会

            というものがありますが、個人的には、

            讃美歌付き講演会(ただし、聖餐抜きだけど、愛餐会(関東ではカレー、関西ではおうどん)付き)
            あるいは
            講演会付き讃美歌大会(ただし、聖餐抜きだけど、愛餐会(関東ではカレー、関西ではおうどん)付き)

            という場合も多いように思うのですけどねぇ。そうだとすると、イエスの弟子だといいながら、その師匠筋の言うことにしたがってない弟子、ということになるんぢゃないかなぁ,と思うわけです。

             

            無論、現在のかたちになったのには、いろいろな歴史的な過程があり、それが一種の教会文化として成立したこともわかりますし、十分知ってはいますが、クリスチャンが、イエスの弟子、キリストに服するもの、天地万物を創造した王の王、主の主の権威に服するものだというのであれば、それに従わないというのもねぇ、と思うわけです。まぁ、人間というものは、従いたくても従えないのは、ミーちゃんはーチャンもそのとおりなので、人様のことをいえた義理ではありませんが。

             

            その意味で、多くの日本の教会も、広い意味では、説教がユーカリスティックな機能(聖餐のような機能、サクラメンタルですらない機能)を果たす代替物になっているとしたら、どうなんでしょうねぇ。

             

            お年寄りには理性重視の何か、若者には感性重視の何か

            そうなると、若い人しかいない教会とお年寄りがかなり多めの教会との違いは「若い人たちが多いところではより感性に響く、賛美歌が聖餐的な役割を果たし、お年寄りが多い教会では、より理性に響く説教が聖餐的な役割を果たしているのかの違いぢゃね?」と思ってしまいます。

             

            現在のお年寄りの方は、近代という時代を生きてこられました。この近代という時代は、理性が極めて重要なものとしてとらえられた時代であり、啓蒙主義が一定の地位を占めた時代でもありました。その時代を過ごした方にとっては、教会も理性的なもの、理性的な説教で占められている者であるという前提が大きくその運営の在り方に寄与したのだと思います。

             

            しかし、若者は、ポストモダンの時代を生きることになりますし、すでに若者は、猫も杓子もといった大衆文化の時代から、分衆の時代に生きていて、自分自身の完成にフィットする何かを起点に自分たちの人生を進めているとなると、そこは、若者の感性に合う何かがある程度求められ、それが、古来から若者が関心を高く持っていた音楽とか歌だったりするのではないか、と思います。

             

            いずれの場合にしても、本来の神とともに連なり、時空を共有する聖なる食事(Holy Meal)である聖餐を軽んじたところから、あるいは、そのことをきちんと考えていないことから、ボタンの掛け違いが始まってしまったんじゃないかなぁ、と個人的には思っています。

             

            特に伝統教派に行くようになってから、現在の多くの日本のプロテスタント系キリスト教会の聖餐の軽さが気になって仕方がないですし、聖餐を重視しすぎたからか、軽視したからかは存じ上げませんが、結果として、本来の聖餐でともに分かち合うべきイエスの死と復活を、聖餐的なものでごまかしているような気がしてしまうのです。聖餐的なものというのが、説教だったり、賛美歌に自分自身の感情を乗せて歌うことだとしたら、どうなんでしょう。人減を中心にして、人間側の都合で教会のプログラムを埋めつくしていることも少なくないのではないかなぁ、と拝見しております。

             

             

            この辺の聖餐をまともに考えたい方には、以下で紹介する2冊がお勧めです。一つは、日本でのマクグラス先生の講演と、もう一つは、邦訳への準備が整ったらしいHoly Mealという本です。

             

            聖餐ならぬ説教や讃美歌が聖餐の安易な代理物として教会でその座を占める様になったのも、結局人間を中心としていく近代社会、ロマン主義が支配した社会の問題なのではないか、とこのブログを書きながら思っております。

             

            次回へ続く

             

             

             

             

            評価:
            アリスター E.マクグラス
            キリスト新聞社
            ¥ 3,240
            (2010-03)
            コメント:超お勧め

            評価:
            Gordon T. Smith
            Baker Academic
            ¥ 1,229
            (2005-08-01)
            コメント:超お勧め。これの日本語準備中らしい

            2018.05.25 Friday

            「いのち」を吹き込む息吹 聖霊降臨日説教からの黙想

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              今日も、説教から黙想したことをお話していってみたいと思います。

               

              聖霊降臨日の説教から

              先日の日曜日は、聖霊降臨日(いわゆるペンテコステの日)でした。その日の説教は、いのちば吹き込まれる、という説教でした。その概要はこんな感じになろうかと思います。

               

              いろんなキス、例えば、ほっべたに軽くキスするとか、唾液の大交換会(司祭が言うか…)とかがあるけど、英国陸軍で習ったキスがある。それは、命を得させるため、生命を回復させるためのキスを習った。もし、息ができない人がいれば、その人のいのちが継続するためには、に息を吹き込まないといけない。人の体に、息を吹き込む、という事を少し考えてみたい。

               

               

              CPRと呼ばれる司祭が陸軍時代に習ったキス

               

              今日の聖書箇所をもう一度読み直し、ポイントとなる点が特に取り上げられ、再度読まれました。その日全員で読んだ箇所は、次の三箇所でした。

               

               

              第1朗読 エゼキエル 37:1-14
              第2朗読 使徒 2:1-21
              福音書朗読 ヨハネ15:26-27;16:4-15

               

              ここには、全て息が出てくる。息を吹き込まれた存在が。最初のエゼキエルでは、骨から回復したいのちのない人間の肉体に息吹が吹き込まれて動いていくものとなる姿が描かれているし、使徒では台風のような大きな風が使徒たちに望んで、そこにいた人たちの頭の上に下のように見える炎が望んだこと、そして、驚くようなことが置きたことが書かれている。ヨハネの福音書には、弟子たちに将来起きることが書かれている。

               

              息が吹き込まれて形になり、ある機能を果たすために息が吹き込まれることが、この部分で示されているように思う。息が吹き込まれることで形をなすものはいくつかあるが、風船なんかもそうかもしれない。あるいは、同僚で息を吹き込むといったら何、と聞いたときに話題に上ったのが、折ずるだった。まさに、折り鶴も息を吹き込まれることで形になる。

               

              そういう意味でいうと我々も神の息吹、神の霊が吹き込まれることで、初めて機能を果たすのではないか。今日はそのことを覚える記念日なので、そのように我々のうちに神の息吹が吹き込まれ、神が当初与えられようとした機能を果たすように祈りたいと思います。

               

              息を吹き込まれる前 https://ameblo.jp/ttomioka/entry-12260643109.htmlから 

               

              息を吹き込まれたあと http://kmsys-freesozai.seesaa.net/tag/%83c%83%8B から

               

              エゼキエル書の朗読から受けた衝撃
              以上のような説教を聞きながら、というよりは、最初の聖書朗読で、エゼキエル書の37章を読んだとき、衝撃を受けてしまいました。

               

               

              【口語訳聖書】エゼキエル書 37章 1節−10節
              主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
              彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。 
              彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。 
              彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 
              主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。 
              わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。 
              わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。 
              わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。 
              時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。 
              そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。 

               

              というのは、まさに、ここで描かれているような、干からびて、ばらばらになった骨のような状態でアドベントから、イースターまでの期間を過ごしたからです。本当に枯れてしまって、かろうじて息をしている状態でした。聖書も読めず、式文と式文にたっぷり込められたい聖書と祈りの言葉に養われる、という体験だったのです。ちょうど、カラスに養われたエリヤのような状態、と申せばよいでしょうか。

               

              エリヤのイコン https://www.blessedmart.com/shop/hand-painted-icons/holy-prophet-elijah-elias/ から

               

              まさにこの状態

               

              昨年11月に、このブログを突然断筆し、そして、突然復帰した第1回目の記事 「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 でお示しした状態、すなわちかわらけのように粉々に砕け散ったかのような状態、エゼキエル書に描かれているこの骨のように枯れて、乾いた骨の状態ですごしました。現在、かなり回復してきましたが、未だに、いつ、元の乾いた骨の状態に戻るかもしれない、という思いはあります。なぜ、いつ、神の息吹がイースターの吹き込まれたのかはわかりません。また、私には、神の息吹が、吹き込まれたかどうかも、わかりません。しかし、1月から2月にかけての状態より、かなりよくなったことは確かです。それは実感します。

               

              イスラエルの再興預言としてのエゼキエル書理解

              ところで、この箇所は、私にとって、思い出深い聖書箇所の一つです。なぜかと言うと、この部分を特別重要視して読む習慣があるグループで育ったからです。ちょうど、70年代から80年台の中学生、高校生の頃、このエゼキエル書の箇所を読むのが、私が育ったキリスト者のグループでは、流行しました。再臨が近い、イスラエルが建国した、まさに、この渇いた骨がつながってイスラエルが肉体を取り、建国したではないか。再臨が近いはずだ、という理解が一世を風靡しました。これは、ディスペンセイション説、あるいは、ディスペンセイション神学に大きく影響を受けた聖書理解であると言えると思います。

               

              このディスペンセイション主義神学を生んだキリスト教グループで、私は信仰の歩みに付きましたし、信仰者として育ちました。そして、私がかつてその一部を締めていたといってよい、そのグループの多くの皆さんは、今もなお、ディスペンセイション神学の理解をお持ちのようです。そのグループでは、いまでも、この部分を、イスラエルの回復の預言として大変重視し、この部分をイスラエルの回復と関係付けて解釈してきましたし、いまもそう理解しておられる方は少なくないと思います。


              そのようなグループの中で、信仰生活を過ごしていた時には、このエゼキエル書の部分は、イスラエルが回復する、国家としてのイスラエルが建国するという理解であったのですが、まさか個人と、まして、私との直接のかかわりがあるとは思っていませんでした。当時も、そしていまも、おそらく、世俗国家としての現イスラエル国を前提として理解が提示され、そのように理解しておりましたが、今回、改めて、この個所をほかの聖書箇所、特に、ヨハネの福音書との関連で読むとき、あぁ、これは、個人についても関わりが深い聖書箇所なのだ、いや、むしろそうすべきだろう、と理解するようになりました。それは、この数か月余り、風に吹かれてカラカラと音を立てるような陶片、骨のような状態であったから、というのはあるかもしれません。

               

              乾いた骨として時間を過ごす中で

              そして、この喪失感と荒涼感に満ちた経験とでも言うべき経験を通して、その中で、式文に養われ、信仰生活を見直していく中で、自分自身の無力さを感じ、そして、それでもなお、神が働かれるのか、神は私に何を求めておられるのか、旧約聖書のエリアのように、あなたは私に何をお望みですか、と言いたくなるような日々を過ごしていました。

               

              【口語訳聖書】列王紀上 19章 4節
              自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。

               

              まさに、そんな感じ、どうしようもない環境の中で、とにかく、こなさなければならないこと、最低限の責任だけをこなすのが、精一杯の日々を過ごしました。

               

              「教会は休まなかったのか」と、ある方から聞かれましたが、休むことはなかったです。ただ、教会を休む気になれなかったことも確かです。教会を休む、そのオプションは、考えたことはなかったです。教会のプログラムが短い、というのもあったかもしれません。式文中心ですから、1時間ほどです。また、仕事場にも通っていましたから、そこまでひどくなかったのかもしれません。教会の中で、ほぼ毎日曜日と水曜日、式文による祈りを読み、式文の先にある聖書の言葉に思いを巡らし、聖書の言葉を聞き、聖餐にあずかる、 それがただただ嬉しかった。特に聖餐を受け止め、自分のうちに神の臨在を感じる、それがただただ嬉しかったことは確かです。とはいえ、2日もすれば、また、れだまの木の下に座す襟や状態の鬱陶しい日々に逆戻りでしたが・・・。

               

              ある面、この期間、式文を通しても、その式文の先にある聖書の言葉を通しても、神の息吹、神の風、神からの聖霊が吹き込まれ、カラカラに乾燥し、砕け散ったような乾いた骨のような状態であったものが、神との関係を回復し、本来の姿とは言えないかもしれませんが、別の姿を取り戻すことを可能にしたようにも思います。

               

              一つのものとして生きる生とアダムとエヴァ

              「骨からの骨、肉からの肉」という表現をアダムはエヴァが与えられたときにしていますが、ある面、彼らが二人揃って一つになり、一つのものとしての生きる歩みに導かれたように、ボラバラであった私の状態が、形をなしていったようにも思う、ということをこの説教中、ずっと思い巡らしておりました。


              その日々の中で、ものすごく鮮烈に印象に残った式文の中に、to serve each other, and to be served each other という文章があったのですが、これを見たとき、衝撃を受けました。それは、我々人間が、いや、私が他の人に仕えるためだけに存在するのではなく、他の人から助けてもらう存在としても存在するのだ、という認識に至ったのでした。ある面、当たり前のことかもしれません。人は神からの救いをキリストを通して受けた、助けを受けたのですから。キリストは、このくだらない人間に仕えるものの姿をとられ、実際に人間が考えることができないような仕え方で、仕えられたのですから。それを、この苦しみの時間を経過する中で、身にしみて感じることになりました。

               

              Servant Kingという讃美歌

               

               

              人生と循環的な時間、教会暦の教会で

              しかし、近代人としての私は、何かすることにあまりに価値をおきすぎ、なにかできることに価値を置きすぎる傾向があったようにおもいます。しかし、いろいろな経緯から、「主よもはや十分です。何もする気力もそ、の力もありません」と言わざるを得ない状態になって、自らの生き方を問われたのだと思います。それは、私にとっての青年期の終わりでもあり、私にとっての、壮年期の終わりが来た、ということだったかもしれない、と思っています。トゥルニエは人生の四季という本を書きました。人生の秋から冬に向かっているのだろう、と思っています。

               

              ところで、教会暦の伝統に従って生きる教会では、これから、アドベントまで、長い長いペンテコステの主日が続いていくことになります。元いたキリスト者のグループの教会では、教会暦などはガン無視の教会でしたから、教会暦を意識するのは、人々のキリスト教への関心が気のせい程度高まり、人々が教会に来る機会として考え(伝道の機会になるかも)、と思われる(それは思い込みに過ぎなかったと思っていますが)クリスマスくらいでした。元いたキリスト者のグループの一部の教会では、クリスマスさえ、ゲルマン人々が持っていた当時の祝祭である冬至祭との関連から、異教的であると言い、日程とその成立過程を含めクリスマスの根拠が薄弱であることを理由に、クリスマスでも、通常プログラムであえて、クリスマスを祝うことのない教会もありました。今でもあるように思います。

               

              しかし、いま、教会暦に従って生きる教会に身を置かせてもらい、教会暦を通して、そして、教会暦に応じて変わっていく式文を通して、体験的に感じるなかでナザレのイエスの生きた人生を追体験し、あるいは、信仰の先駆者たちの経験した人生を追体験していく中で、その教会暦が人生のリズムとしても重要である、と思うようになりました。教会暦に従って生きる教会では、これからのペンテコステの時期は、充実に向けての時期、死に向かっての充実を図るための時期でもあるようです。今年もその時期が来ました。豊かな時期を過ごせれば、と思っています。

               

              藤掛明先生は、人生を一日で考えることについて、書いておられます。トゥルニエは、人生を1年で考えることについての本を書いています。サイクリックな(周期的な)性を生きる教会では、これらのことが、重層的に、日課(早課(朝の礼拝)、晩課(夕の礼拝))、そして、教会暦というかたちで、1日単位、1年単位といったそれぞれのスケールのレベルで構造化され、信徒の生、人生のリズムを整えるようにできているように思えてなりません。いま、そのようなリズムに従って、自分のリズムを反省的に考えながら生きる中で、充実した神の息吹、神の霊を吹き込まれて生きるその人生のペンテコステの時期を過ごしたいなぁ、という感想を司祭の説教を聞きながら、考えておりました。

               

               

               

               

               

               

              評価:
              ポール・トゥルニエ
              日本基督教団出版局
              ¥ 1,944
              (2007-07)
              コメント:大変よろしいか、と存じます。

              藤掛 明
              キリスト新聞社
              ¥ 1,728
              (2012-09-21)
              コメント:大変よろしいか、と存じます。

              2018.05.22 Tuesday

              ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた

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                タイミングがあるんで、緊急公開することにしました。

                 

                今回は、ややこしい話(小難しいキリストの信なのか、とか言った話題とは無縁)があまりないものですけど、緊急公開しました。

                 

                ロイヤル・ウェディングの説教から考えてみた

                さて、先週末に開催された、Duke and Duchess of Cambridge Sussex と呼ばれることになった、日本風の呼び方をすると、ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式が、ちょっと前まで、Facebookとかツィッターでいろいろ飛び交っていたが、まぁ、それはそれで、お昼の主婦向けのワイドショーで適当なことをいう方々は、勝手に騒いでおいていただいて、説教に当たったアフリカン・アメリカンのアメリカのアンクリカンコミュニオンの主教様のマイケル・カリー( Bishop Michael Curry)主教が行った説教と、その意味を少し考えてみたい、と思いました。


                 

                マイケル・カリー主教の説教 BBC提供

                 

                説教とその周辺構造を考えた

                とはいえ、説教塾風の説教分析がしたいわけではありません。。それよりは、この説教をとりまくもろもろとの関係で考えたい、と思ったのです。

                 

                英語が、アメリカン英語(アフリカン・アメリカンらしい英語)だとか、動作がオーバーだとか、説教の際の雰囲気が、Church of Englandの一般的なスタイル、所作、語り方とはかなり違う印象は受けました。それはそれで、その人の個性なのでいいのではないか、と個人的には思うのですが。

                 

                まぁ、英国国教会というよりは、アングリカン・コミュニオン(日本聖公会が属する英国国教会系の教会の世界連合体)には、オックスフォード運動の影響を受け、高踏派のハイチャーチ系のカトリック的な古いスタイルの礼拝形式を持つ人々もおられますので、そういう人からすれば、総スカンになりそうな説教のスタイルではあるようには、思いました。

                 

                異色の結婚式での異色の説教者

                このカリー主教は、ケンブリッジ公ご夫妻(ヘンリー王子とメーガンたん)が、この人にお願い、ということで、頼んだらしい、と聞き及んでいます。

                 

                まぁ、異色の結婚式にふさわしい、異色の主教様にお願いしたのだろう、と思いました。

                 

                ところで、メーガンたんの結婚は、障害がいっぱいあった。というのは、彼女が女優だったり、過去のいろいろな出来事がいっぱいあったりしたからでなんですね。

                 

                ミーちゃんはーちゃんが、彼女を認識したのは、Suitsという海外ドラマ、アメリカの法律事務所で働く若い偽弁護士とそれに協力するパラリーガル(弁護士補助者)と彼らが働く弁護士事務所のどろどろとした人間関係を取り巻くドラマでした。結構、ドラマとしては、見させる面白いドラマだったように思います。ただ、シーズンが進んでいくと、人間関係が複雑なのと、途中で見逃すと人間関係の構図がわからなくなるのと、人間関係自体がドロドロなんで、途中で見るのをやめちゃいました。伏線多すぎw(海外ドラマあるある)。

                 

                Suitsのワンシーン

                 

                この主教様が、タブレットかiPadを使って説教したとか、ってのは、本当にどうでもいいことで、説教は、リーガルの養子に限るとか、パピルスでないとけないとか、そんな規則はないように思います。ところで、このブログでも紹介したことがございますが、昔々の楔型文字を書いた粘土板も、英語ではタブレットといいます。その意味で、主教たるもの粘土板のタブレットに限る、とか、聖書に書いてあるわけではないようにおもうのですが。コプト正教の司祭も、タブレット使って司式しておられましたし。

                 

                タブレット https://eduscapes.com/history/beginnings/3000bce.htm から

                4000年ほど前最新だったタブレット

                 

                タブレットをご覧になりながら準備をしておられるコプト正教の司祭様

                 

                説教の日本語翻訳

                さてさて、この説教、いつも参加しているアングリカン・コミュニオンのチャペルでの、先日の日曜日に、司祭がこの説教のことを取り上げて、13分くらいで、Youtubeにも挙がっているから、一度聞いてみるといいですよ、と言っておられました。そして、実際に上のリンクで紹介した、説教を聞いてみたところ、内容がむちゃくちゃよかったので、翻訳したいかなぁ、と思っていたら、お友達とミーちゃんはーちゃんが思っている「ふかや ゆうき」さんという方が翻訳されて、アップしてくださっていた。ふかやさん、ありがと〜〜〜〜。「ふかやさん、あんたは、えらい。本当に偉い。
                説教の日本語訳は、こちら https://courrier.jp/news/archives/122309/ から、読める。「ふかや」さんは、信頼できる背景を持っている人なので、安心して読んでいただける。それは、ミーちゃんはーちゃんが保証します。

                 

                冒頭で読まれた雅歌

                ところで、マイケル・カリー主教の説教の冒頭で読まれた聖書箇所は、以下の場所でした。

                 

                【口語訳聖書】雅歌 

                 8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
                 8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。

                 

                この瞬間に、このカリー主教ただものではない、と思いました(主教やるくらいだから、当たり前ではあるが…)。結婚式の説教で、雅歌を持ってきた、というのは、なかなかの荒業だなぁ、と思いました。

                 

                なぜか、といいますと、普通、結婚式では第1コリントの13章の愛のところから、説教をしたりすることが多いのですが(ミーちゃんはーちゃんがやるとしても、そこのほうが扱いやすいので、そこでやります)、このカリー主教、旧約聖書中の男女の愛をうたった愛の賛歌から説教主題となる聖書箇所を持ってきておられます。

                 

                その瞬間に、正直、「やられた」と思ってしまいました。雅歌は、旧約聖書中、最もエロティックな聖書の書だとおもいます。18禁指定だった時期もあるほどの聖書箇所です。そして、ここから説教するのは、なかなか、大変なのです。やろうとしたことはありますが、あきらめました。それをあえてやって見せてしまうところが、まずもって、「このカリー主教に、やられたぁ」と思ってしまったのでした。

                 

                なお、この雅歌に関しては、上沼昌雄さんの「夫婦で奏でる霊の歌 雅歌に見る男女の対話」という本がある。参考になるかもしれません。

                 

                度肝を抜かれたイザヤ先生のコメント

                そう思って、結婚式ゆえに雅歌を用いたあたり、恋愛はとても大事だ、ということを狙って、「この雅歌というところを持ってきたというのは、本当に狙っておられるなぁ」ということを書いて、フェイスブックに投稿したら、これまた、ありがたい方で、ヘブライ思想研究者である手島イザヤ先生から、ミーちゃんはーちゃんが腰抜かすようなコメントが入ってきました。

                 

                そのコメントとは、以下のようなコメントでした。
                確かに肌の色の黒さは美しい。と雅歌の作者も考えてますね。 שְׁחוֹרָה אֲנִי וְנָאוָה, בְּנוֹת יְרוּשָׁלִָם; כְּאָהֳלֵי קֵדָר, כִּירִיעוֹת שְׁלֹמֹה.

                そうなのだ。雅歌では、肌の黒さが、賛美されているのです。それはどこかというと、

                 

                【口語訳聖書 雅歌】 

                  1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

                חוֹרָה אֲנִי וְנָאוָה, בְּנוֹת יְרוּשָׁלִָם; כְּאָהֳלֵי קֵדָר, כִּירִיעוֹת שְׁלֹמֹה.

                なのです。他にも何か所か、肌の黒さに関しての記述が、雅歌にあります。探してみてください。少なくとも、三か所あります。

                 

                そうなのだ。雅歌には、肌の色の黒い人にまつわる美しさが書かれている書物なのだ。それを、肌の色いアフリカ系アメリカ人のアメリカの主教が結婚式で、これまた、肌の色が少し浅黒いケンブリッジ公夫人(最初は、Suitsで見ていたころは、メーガンたんはヒスパニック系だとばかり思っていた)とどっからどう見てもコーカシアンで、もろイギリス人風のケンブリッジ公との結婚となると、それはそれで、ヒートアップする人たちは、結構おられるんだろうなぁ、と思うのです。

                 

                Duchess of Sussex Cambridgeをまつわる大騒動

                イギリス在住のアングリカンの日本人司祭によれば、英国では、結構、この結婚にまつわり、ヘイトスピーチやヘイトスピーチまがいの発言が結構流れているらしいようです。まぁ、そうだろうなぁ、と思いました。英国の伝統を保持すべき存在と考えられる英国王室に、アメリカ人の女優上りがファミリー入りとか、イギリスでもはびこるネオナチの皆さんからしたら、耐え難いのだろうなぁ、と思うのです。

                 

                修正補記 もともと Duchess of Cambridge と記載していましたが、正しくは、Duchess of Sussexであるという指摘が、件の日本人氏司祭から指摘がありましたので、修正いたしました。

                 

                女優が王室に入った例は、近代ではモナコ王室に入ったグレース。ケリーが有名ですが、それも相当苦労したようです。グレースケリーの周りで起きた出来事を描いた映画がありますが、それ見ても、まぁ、半端ではなかったようです。実際には、おそらくもっとだろうなぁ、と思います。

                 

                モナコ女王になったグレース・ケリーを題材にした映画の予告編

                 

                 

                階層社会が当然の英国社会

                英国は、階層社会ですし、階層ごとにしゃべる英語が違うのが、英国社会です。そして、その英国は今、アングロ・サクソン人の国というよりは、アングロ・サクソン人が支配したアフリカや中東、アジア系の移民のほうが、人口比では大きい国になり始めています。その意味で、支配層であったエジプトのパロが、人口が急増中のユダヤ人に対して恐怖心を抱いたのと同じように、ブリテン島とその周辺初頭の主であると思っていたアングロサクソン人、ケルト人の子孫の皆さん方は、今、移民の皆さんの人口圧力をひしひしと感じながら、その立場が脅かされているという部分はあるでしょう。それが、ナチスと戦ったはずのチャーチル率いる英国で、ネオナチ的な動きにもつながっているように思います。

                 

                ブリテン島でのネオナチの皆さんについての報道

                 

                 

                テロの時に対応に立った警察官(英国の警察は実際、多様な民族からなっている)向かって左側はシークの警察官

                http://www.dailymail.co.uk/news/article-3875052/Armed-police-officers-carrying-guns-London-Tube-trains-counter-terror-measure-following-station-bomb-alert.html から

                 

                人種のるつぼ化する英国で愛を説く

                カリー主教は、翌日が、ペンテコステの日であったということもあったのかもしれません(英国では、ペンテコステというと日のイメージが一般の人々にもかなりあります。腐っても、クリステンドムを経験した国です)が、火というメタファーで愛について語りました。また、火やエネルギーというものを介して、そして、人々が身近に使っているソーシャルメディアや自動車などの例をとりながら、愛を語って言っておられるように思います。そして、神を愛することと同様に、隣人愛、人類愛も神が我々に与えたもうたミッションであることを、王家や参列者、それだけでなく、テレビやYoutubeで自分の説教を聞くであろう、何千万人の人々に説いて見せたわけです。そこまで、カリー主教はおそらく意識して、説教に取り組んでおられると思います。その意味で、このカリー主教は、やはり「ただものではない」のだろうなぁ、と思いました。

                 

                ペンテコステを描いたMark Wagginの作品

                https://www.pinterest.jp/emmaboth/f3-shavuot/ から

                 

                被抑圧民出身者が抑圧の象徴的存在に愛を語る

                さてさて、まぁ、この説教の逆説はそれだけではありません。英国王室は、奴隷貿易に直接関与しなかったにせよ、それを認可し、少なくとも黙認することで、最近では、その豊かさはだいぶん怪しくなっていますが、英国の富を蓄積させたわけですし、その恩恵を王室は受けているわけです。少なくとも、英国の名においての植民地支配で、英国は巨万の富を手にし、そして、王室もその恩恵をかなり受けたわけです。

                 

                そして、今回説教したカリー主教の祖先は、奴隷貿易で米国に無理矢理にバミューダ諸島経由で連れてこられた奴隷(一応、アフリカでの民族間での戦争捕虜や戦利品と確保された人々が身代金が払えないがゆえに奴隷であるとされた人々を、英国人との正当な交易と建前上はなっているで)の家系のご出身のようらしい、と確認されているようです。

                 

                ある面でいうと、足蹴にされ、踏みつぶされた人々を祖先や、親類縁者にたくさんお持ちであろうカリー主教が結婚式で、並み居る人々に説教するということは、カリー主教からしてみれば、自分の祖先を奴隷にしてしまったという、憎むべき存在に近いはずの、自分たちの父祖や祖先の親類縁者を踏みつぶした側、そして、自分たちから利益をはぎ取っていった側の英国の王室の人々や、英国人、ヨーロッパ人を祖先に持つ人々に向けて、愛を解く、という実に諧謔に満ちた構造になっているように思うのです。実に皮肉な構造になっているのです。憎しみを説くのではなく、自分たちの置かれた待遇や、自分たちの過去に関する怒りを説くのではなく、結婚式であることもあるのでしょうが、憎しみの炎の代わりに愛の炎を説き、怒りの炎に代わって、愛の炎、そして、ナザレのイエスが説いた愛の支配を説く、という実によくできた、というよりは、諧謔に満ちた構造になっているように思います。

                 

                暴力による支配と主の祈りと愛による支配

                カリー主教から愛を語られた支配をしている側の人や支配を下側を先祖に持つ人々にとっては、かなり愉快でない思いをしたでしょうし、かなりつらかったろうなぁ、と思います。


                そして、支配された側の人、奴隷にされた人たちは、本当に、主の祈りの言葉を祈ったと思います。

                 

                御国が来ますように(Your Kingdom come)

                御思いがなされますように(Your will be done)

                と。

                英国が来ますようにでもなく(United Kingdom come)

                英国王の思いがなりますように( British King's will be done.)

                ではなく。

                 

                英語でKingdom、日本語で王国と訳されているもともとの聖書のことばは、ギリシア語では、バシレイア(バシレイヤ)です。それは、支配という意味を非常に強く含む言葉です。それを考えると、主の祈りは、我々に神の(愛の)支配が及びますように、という意味にもとれるわけです。

                 

                奴隷の人々を支配した支配の原理は、鞭と銃とリンチと暴力による支配でした。愛の支配ではなく。神の愛の支配を一方で説きながら、奴隷とされた人々に向けられた支配の原理は、暴力の原理でした。カリー主教の祖先の方々は、愛の律法(ギリシア語の律法には、原理という意味もあります。実際にそのように翻訳している聖書もあります)ではなく、暴力の律法で支配されたのです。それが、王、女王、首相をはじめとする権力者という、ともすれば暴力を伴って人々を支配する支配者層の人々に向かって、愛の支配の原理を、信仰者として、そして、アングリカンの主教として説いたのが、今回の一番のポイントだったと思います。それも、支配してきた側が、愛の支配を説くのではなく、支配されてきた側が、愛の支配を説いた、というのが、今回の説教にまつわる諧謔的な構図だったなぁ、と今思い返しながらも考えています。

                 

                アフリカ系アメリカ人に対する暴力による支配(特に南部諸州)についての音楽を紹介してこの記事を終わりたいと思います。

                 

                Billie Holidayによる奇妙な果実(音質がいいバージョン)

                 

                Billiie HolidayによるStrange Fruit 画質、音質は悪いけど、動画

                 

                 

                アメリカ南部でのリンチについての『狂った果実』というジャズ音楽

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2018.05.21 Monday

                KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(3)

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                  今回もブログ緊急更新しました。

                  今回は、

                  前々回の記事 KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1) 

                  前回の記事  KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

                   

                  からの続きです。千葉先生によるローマ書1章についてのお話をご紹介したいと思います。

                   

                   

                  ローマ書1章の説明にこのあと千葉先生は移っていかれた。

                   

                  2種類の神の義の啓示

                  ローマ1章18節 自然神学として理解しようとする。意味論的にいえば、ここでは、神自身が行為主体となる言語形で書いている。神の義の啓示としては、2種類あると考えることができ、それは、

                  神の義の第1啓示(ローマ1章) 神の怒りによる義

                  神の義の第2啓示(ローマ7章) イエスの信による義

                  と整理できるだろう。

                   

                  イエスご自身も言っているが、律法を終わらせるイエスというのはないだろう(ミハ氏註:律法のターミネータ(暗殺者)としてのイエスではなく、あくまでイエスは、律法の完成者(ミハ氏註: ギリシア語の完成という表現、すなわちTelosとの関わりがここに出てくる)として理解すべきだろう。

                   

                  アラビアでパウロは何をしていたか…

                  ところで、パウロはアラビアで、3年もの間、いた期間に何をしていたと考えられるだろうか。個人的な想像であるが、おそらく、アラビアで旧約聖書を繰り返し読み、そして、ロゴス、真理を見つけたかもしれない。そして、その旧約聖書を理解した(ミハ氏註:もうちょっというとトーラ、ネビーム、そして、タナッハと呼ばれる旧約聖書を十分理解した)うえで福音を理解すべきという結論に達したのではないだろうか。

                   

                  アラビアでのパウロ

                  http://kmooreperspective.blogspot.jp/2016/06/what-did-paul-do-in-arabia.htmlから

                   

                  パウロについてのイコン(アラビアの砂漠の山が見える)

                  http://eliasicons.blogspot.jp/2011/06/june-prayers-to-sacred-heart-3-st-pauls.html から

                  ここで、神の怒りが突然現れるが、このローマ書1章で、ストア派のある哲学者が初めて使った言葉(ギリシア語)をパウロは使っている(ミハ氏註:さすが西洋古典学の先生と思った。技術系とは思考経路とその背景の層の厚さがが違う、と思ってしまった)

                   

                  啓示であるがゆえに必要とされるメディア(媒介者)

                  ところで、啓示には媒介を必要とするのである。旧約時代は、啓示の仲介物、媒介物(ミハ氏註: メディア)として石板に刻んだ文字にしがみついたのである。この1章19節の中で、パウロは千葉訳では「明らかにした」(ミハ氏註: 口語訳聖書の訳は「神がそれを彼らに明らかにされた」)と過去形を使っている。(ミハ氏註:日本語は主語がいい加減でも、時制がかなりいい加減でも、相手の発言趣旨を忖度して、惻隠の情を持って、理解するので、この辺の読みはいい加減になりがち、というのは個人的経験としてあることは十分承知している。だいたい聖書読むときだって、時制にまで、気を回して読んでないことが多い。話し言葉ではなおさら意識しないように思う。)

                   

                  この「明らかにした」に関連して、もう少し言うと、感覚的に見て取るということが意味を持ち、感覚的に見て取ることができるということは、叡智がそこで働くということかもしれない。ここには(ミハ氏註: 媒介者としてのメディアとしての)キリストが出てこない。  ところで、ローマ1章の過去形については、出エジプト記にすべて対応箇所がある、といえる(ミハ氏註:これを全部確認して回るのが、学者。千葉先生は、本物の学者だわ)

                   

                  計算機屋がイメージするメディアに関する図解

                  https://www.pinterest.es/mediapartnersad/digital-radio-advertising-electronic-media/ から

                   

                  叡智の機能不全

                  千葉訳では、「叡智の機能不全に引き渡した」とした部分(ミハ氏註:口語訳聖書では、「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」)という部分については、識別の程度があるように考える。知識と感覚において満ち溢れ、識別しつつ、神を持つことを識別しない場合どうなるのか、ということである。

                   

                   叡智が機能不全に引き渡されたものは、神の善性を理解できないことになるのである。この部分を、「信じることによって恩恵を受ける」と理解するのは、まずい、と考える。それは信(ソラ・フィデ)と恩恵(ソラ・グラティア)の癒着となっている。

                   

                  信を嘉するとは…

                   結局、信というか、信仰を嘉(よみ)する(ミハ氏註:信と裁定した上で良いものと認めるとか、審判した上で、それは良いものである、と評価する という意味 ヘブライ語の トゥーブ ט֣וֹב に近いのかも)のは神のみであるということをパウロは主張しているのであろう。ただただ、神を仰ぎ見るのが信の根源であり、それは、救いの必要条件でないかもしれない。人間が神をどう信じているかは問題とされなくて、より重大な問題は、神が「どのように人間の中の信を見ているかである」ということができるだろう。

                   

                  最後の審判のときには、神の前に立つ(Wikipediaから)

                   

                   

                  (識別のレベルがあり)識別しなかったこと行為と識別に比例性があるといっているようだ。人やエルゴン(今ここという状態)でロゴスにヒットする(ミハ氏註: 一瞬掠る、とか、触れる、接触する)かもしれない。カントはヌースは働かないといっているが、それは、ヒエロニムスによる誤訳の故発生した誤解かもしれない。

                   

                  叡智の機能不全に引き渡されるとは

                  神の前の「完全な信」(ミハ氏註 神が見てお認めになる「完全な信」)と、人間の側のレベル(ミハ氏註: レイヤー・層)における「信」は根本的に違うものだと言える。神が引き渡された、ということが意味することは、自分自身でその世界に至ってしまったのだから(ミハ氏註:神を認めない「信」ならざる世界に自分で至ってしまった)のであるから、その責任は、自分でとることが求められる。「叡智の機能不全に引き渡された」とは、あまりよくないもの(ミハ氏註: より露骨に言えば、「ろくでもないもの」)にヒットした(触れたり、接触した)結果、そっちのほうに流れていく、ということを示している。

                   

                  さて、ローマ2章の冒頭では、他人をさばいているあなたには、弁解の余地がない(ミハ氏註: 口語訳「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。」)という表記が出ているが、ここでは、1章のエルゴン言語のレイヤ(層)の話法、論理ではなく別のロゴス(ミハ氏註: ​おそらく、別レイヤーのロゴス)が登場し、個別の話が、より一般化されて提示されている。業の律法に生きさせることで、神の意図を歪めているのではないか、と指摘していると考えられよう。

                   

                  質疑応答の一部から

                  以下、質疑応答ででたものの一部をご紹介します。

                   

                  Q: ヒットという語を使われていますが、その意味はどのような意味ですか?

                  A: ヌースが発動して、ロゴスに接近して実践知が生まれていることを表現しようとした。ヌースが命題(ロゴス)に接近していくことが、最善の行為行為であり、そして、ヌースがロゴスに触れることをヒットという言葉で示している。

                   

                  Q: 神の怒りについて、もう少し説明してほしい。

                  A: 生身の人間(肉なる人間)は、神がある程度譲歩された存在)であるが、神の前の人間は、神を知っている状態にある人間のことであり、人間のレベルで考え、人間を中心として考えているその考え方に対して、神の怒りが発動する、という表現になっているように考える。

                   

                  Q: パウロは、このローマ人の手紙をギリシア哲学がわかる人に向けて書いたのだろうか。聖書の中身は、アリストテレスの哲学を理解できる人にしか理解できない、ということではないのではないだろうか。

                  A: ある意味、パウロはアリストテリアンだったと言えるのではないだろうか。答えはあるという前提に立ち、網羅的で排他的にやった人である。その意味でアリストテレス的であったと言えよう。パウロは、論理空間を作るときにしらみつぶしにやっている。

                   ある意味、パウロは哲学者であった。それ以外ないということまで突き詰めている。ヌースが真理に向かって生きていく、ということを明確に意識している意味でアリストテレス的な理解をしていると思う。

                   

                  Q:イエスの名称問題についてもう少し、ご説明をいただきたい。

                  A: ナザレのイエスと、イエス・キリスト(テキストを読むときの全体の音声言語の状況によっては、キリスト・イエスとなる。 ギリシア語としての音のコンテキストが影響していると考えられる)と、キリストという語がある。まず、(ナザレの)イエスは、行為主体となるものとしてパウロは使っている。また、キリスト(復活した栄光の主・メシア・主・キュリオー)も行為主体となる。ところが、イエス・キリストとでてくる場合、場(ミハ氏註 メディアあるいはインターフェース)であり、行為者とはならならない。(ミハ氏註 だから、祈りの終結後である、アメン、アミンとかの前に、「イエス・キリストによって」とか、「イエス・キリストの御名によって」 in the name of Jesus Christと言う表現になっていると考えるとわかりやすい。商法での契約における会社の代表者をどう考えるか問題と似ているといえる。結局、取引主体の両者の公式で最高位のインターフェースが会社の代表者となる問題で考えれば、わかるかもしれない)

                   イエスご自身が自分自身を差すときに、「人の子」と表現することがあるが、このようにイエスが表現するとき、ご自身が「受肉のもとに死とその苦しみを経験するもの」としての側面が含まれていると考えられるであろう。

                   イエス・キリストは固有名ではあるが行為主体にはならないメディアとしての存在を表すものであり、栄光ある職務を担った尊称(ミハ氏註 楽天株式会社 社長をなにか公式の場所で紹介するときに、楽天株式会社 社長 三木谷 浩史 さんと呼ぶことがあるが、このときの呼称を分解してみれば、代表取締役会長兼社長(この役職名の部分がキリスト・イエスのキリストの部分に相当する) 三木谷 浩史(個人名の部分がキリスト・イエスのイエスに相当する)というようなものだと思えばいいように思う。なお、三木谷氏を出したのは、単に塾と高校時代の同級生でちょっと同じところで勉強した、とういことだけ以外の理由はない。高校時代を含め、それほど親しかった人物ではない。)と思うとよいのではないか。

                   イエスは復活を味わうという人間としての側面を表す時にパウロはイエスという表現を使っていると考えられる。

                   

                  Q: キリストの信についてもう少しご説明をお願いしたい。

                  A: キリストの信、となぜ名詞で表現するかというと、動詞を神に帰属させることがないからである。神の信と人の信をキリストを媒介にして啓示しているのであって、基本的には、神について、動詞をあまり使わないからである。

                   また、動詞を使うとどうしても、時制が気になる。しかし、パウロは神について動詞で表現しないといけない場合は、かなり気を使って使っている。特に神に関することで、旧約聖書由来のものは過去形を用いて表現されている。

                   「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」の使い分けはおそらく音読上の問題であり、読みやすさ、聞いたときの音のひびきの問題によるものと考えている。

                   

                  このあと、食事をしながらも議論はいろいろ続いたのですが、そこは秘密にしておきましょう。

                   

                   

                  ということで、連載はおしまいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  2018.05.20 Sunday

                  KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

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                    前回は、上沼先生がお話になられた部分を書きましたので、以下では、千葉先生のご発言の概要を紹介したいと思います。前回と同様に、このブログ状の理解の誤りは、聞き手のミーちゃんはーちゃんが悪いのであって、その点はお含み置きくだされたく。隊長はあまり良くないのだけれども、ある面、このGoodNewsは伝えたいので、ちょっと無理してますが、お知らせいたしたく。本来、ユーワンゲリオンεὐαγγέλιονって、伝達する人間の側に、そんな気を起こさせるものだ、と思うのだけれども。

                     

                    ピスティスが帰属の属格であること、についての捕捉

                    イエスの信という時、帰属の属格であるという意味は、「イエスが持った信仰」という意味ではないといえる。ここで注意しないといけないのは、パウロは、厳密にイエスの固有名の使い分けをしているということに着目スべきであろう。特に、イエスを介して、とか言っている場合があり、イエスの存在を、その場合は場所として考えているといえる。

                     

                    「イエスのまことによる」「イエスの信」という場合、ナザレのイエスのカルバリの丘への道を含め、人間が理解可能となるための媒介者的存在であることをかなり意識して、パウロはイエスを描いている、と考える。特に、啓示の場合は、必ず媒介を必要とすることになり、それは、受動形として表現することになる。

                     

                    聖書における行為の中心性を持つのは誰か?

                    聖書における、行為の中心主体は、あくまで神である。(ミハ氏註 これは、本当にそう思う。ときどき讃美歌なんかで、人間が行為主体になっているような歌詞があるが、あれは本当に何とかならんか、と思う。神様のために頑張る私というその行為を認めて、とかいう讃美歌もあるので、そういうのは神への賛美ではなく、自分への賛美ぢゃんと思ってしまう)

                     

                    神ご自身にとって、業の律法と信の律法は分離されないことは、重要な理解であるだろう。

                     

                    啓示という観点からは、イエス・キリストの信を媒介として、神が我々人間に知らしめたと理解するのがよいであろう。その意味で、行為者は一人である。つまり、神が信じる存在である、と理解・認識されている存在、人格を義と認めるのであって、イエスキリストの啓示を通して信じる存在を神が義とお認めるになるとパウロは書いているように思う。なお、啓示のためには、必ず媒介者がいるのである。

                     

                    神の子羊、という称号をイエスが持つこともあり、イエス・キリストとなだめの供え物との関連による表現で翻訳されることもあるが、これは非常に困る翻訳である。なぜなら、キリストを「業の律法」の枠組みでとらえることとなり、「業の律法」の中に福音を閉じ込めてしまうことになるからである。その意味で、「業の律法」の中にキリストの福音を閉じ込めるかのような代罰な理解は、問題がある解釈であると考える。

                     

                    Agnus DeiならぬAgnusDayというサイトのまんが https://www.agnusday.org/comics/292/acts-01-06-14-2008より

                    (高く挙げられたキリストは背負うタイプのジェットパックを・・・とかw)

                     

                    また、神は言語使用者であることを理解しておくことは大事であろう。(ミハ氏註: 神は論理、ロゴスと深い関わりがある存在だから、当然といえば当然の気もしますが・・・はじめに、言葉があった、ってヨハネさんは書いていることだし・・・)

                     

                    なお、イエス・キリストは行為主体にならない。共通の尺度、共約部分になるといえる(ミハ氏的ツッコミ 新約聖書には、仲保者とか、代理人という表現があるが、まさにこれ)

                     

                     京都大学の水垣先生から「この本『信の哲学』を読んで、インテレクトス アンテ フィデム intellectus ante fidem(信の以前の理解)が言いたいのだ、ということがよくわかりました」というお手紙を頂いて、大変うれしかったとのご披露もありました。

                     

                    神の子羊に関する賛美歌集(この部分はご講演とは、全く関係ありません)

                    さっきなだめの供え物、というのがでてきたので、神の子羊 Agnus Dei に関する賛美歌集めて、遊んでみました。お好きなのをどうぞ。休憩がてらに。

                     

                     

                    Agnus Deiの賛美歌(バーバー作曲)

                     

                    Agnus Deiの賛美歌(フォーレ作曲)

                     

                    Agnus Deiの賛美歌(バッハ作曲)

                     

                    Pop調のAgnus Dei

                     

                    スペイン風Angus Dei 絵柄が、もう贖いの子羊…メェ

                     

                    Agnus Deiの賛美歌(モーツアルト作曲、カラヤン指揮 キャスリーン・バトル)

                     

                     

                    Sola GratiaとSola Fideの混乱…

                     

                    閑話休題。それでは、千葉先生の講演のご紹介に戻りましょう。

                     

                    これまで多くのキリスト者が苦しんできたのは、ソラ・グラティア(Sola Gratia)とソラフィデ(Sola Fide)の癒着の結果ではないだろうか、義と認められるのは神の恵みによるというのが、究極の理解であろう、ということもお話の中で出てまいりました(ミハ氏的ツッコミ 伝統教派にいると、それは当たり前すぎて、言うまでもないことのように思うのだけれども…)。また、信仰を持つことは、非理性的なことではないといえるだろう。なぜかというと神は言語使用者であり、我々も言語使用者であるからである。その意味で聖書の言葉は、意味論的分析に耐えうるもののはずである。

                     

                    罪は偶然的に世界に入ったのでなければ、我々は、罪や悪から自由にならない。そもそも内在的に、本来的に存在しているのであれば、救いは存在しないことになる。

                     

                    ヌースと脳死

                    先ほど、ヌースの話が出てきたが、内なる人間のことであるとすると、このことは脳死と関連するであろう。我々の身体は滅ぶが、身体に還元されない部位が存在する、それをパウロは、内なる人間(ヌース)と呼んでいるであろう。この内なる人が、キリストの如くになる。これが変身という意味であるだろう(ミハ氏註: 最近霊性の神学で時々出くわすトランスフォームの概念のことね 変容という語を使う人たちもおられますが)。聖書の主張は、イエスの信によるものを義とするということである。

                     

                    信じることが意味を持つには…

                    知らされていないがゆえに、信じることが意味を持つともいえるのではないか。既に、知らされているものであれば、信じる必然性はないからである。その意味で、キリストを介して(キリストという場を介して)、叡智が働き、ロゴスが働く。神の意志にヒット(ミハ氏註:英語のHit、ぶち当たるとか、掠るとか、遭遇するとかいう意味で用いておられる)することができるのであろう。カントは理性で突き詰めようとして、理性が疲弊してしまった世界の人なのではないだろうか。

                     

                    以上補足部分のご紹介でした。

                     

                    いよいよ千葉先生の本論

                    ここからが千葉先生の本論の部分です。

                     

                    啓示神学と自然神学

                    神学の系譜に大きく二つ、啓示神学と自然神学の二つがあるが、この啓示神学と自然神学は相互媒介される必要があるであろう。神の前の自然神学がローマ1章で提示されているように思う。そこで、1章について考えていきたい。

                     

                     神が存在するかどうか問題というのは、アリストテレスからの問いでもある。アリストテレスの探求論の課題であり、カントの形而上学においても問われている哲学的課題である。

                     

                     啓示神学では、神に関する認識はできないことになる。その意味で、神が認識可能かどうかという問い自体がは無意味となる。 いかにして、神は認識可能なのかということについて、バルトあたりから、信じること(ソラフィデ)と神の恩恵(ソラグラチィア)の癒着が始まるのではないか、と考えている。神の認識について、矛盾律で考えようとすると、どうしても、一種のトートロジーになってしまう構造を内在的に持っているように考える。

                     

                    この2つの神学は、和解可能?

                    ところで、啓示神学と自然神学は、和解できないのだろうかか。自然神学の観点から考えると、アンセルムスは、神の存在証明を考えるときに、比較級の否定を用いている。「それ以上大きいものが考えられない存在、それが神である」、といっている。それは存在するかもしれないから、結果として、神は存在しなければならない、とアンセルムスは指摘している。

                     

                    アンセルムスたん

                     

                    では、啓示神学と自然神学が仮に両立しうるとすると、何が言えるだろうか、ということを考えたい。人間は、アンセルムスが指摘するように、神と同じ知性を持っていないことになるし、仮に、持っていたら、全部わかることになる。

                     

                    インテレクトサンテフィデム( intellectus ante fidem)という理解に立つと、神の知恵の理解まで至る共約性が拡張される可能性がある。神が知恵あるものとして理解することが重要ではないだろうか。

                     

                    神学がやりやすくなった21世紀

                     ところで、21世紀というのは、聖書理解をするうえで便利な社会になっていて、神が永遠の現在に生きておられる方というのは、誤解を恐れずに言えば、ある種のタイムマシン的存在であり、常に現在を生きている、というのは、タイムマシンという理解が成立している、21世紀になって、ある意味、ようやく理解することが可能となったということでもある。人間の全てのこと、髪の毛一本まで知られている、という表現があるが、それも理解できるであろう。(ミハ氏的ツッコミ 確かに、神は、ビッグデータのデータマイニングマシンということでもあるし、人間の細胞一つ一つを考え、それをご存知だとしたら、すでに、人間の細胞レベルでIoT化している神ということになる、という不謹慎な妄想を抱きましたw)

                     

                     

                    IoT https://readwrite.com/2017/05/06/how-communication-service-providers-can-monetize-iot-beyond-connectivity-il4/ から

                     

                       千葉先生の『信の哲学』の下巻に収録されたp.413 の立体的なベン図風の図解の説明があり、それは、終わりの日を、キリストという存在を媒介とするときに、神の前とひとの前との視点から、どのようなことが起きるのかをが図解のご解説がありました。(ミハ氏註: これ、面倒なので、省略します。詳しくは、千葉先生の本を買ってください。お願いですから。結構しますけど・・・w)

                     

                     

                     ポイントとしては、イエスとその信が人間にとっての媒介者として機能し、神がそのようにご理解されるからこそ、神の目から見ても義になるという話だと思っておいてもらえば、と思う。

                     

                     人間にとって、そもそも、三位一体は、知りえないものであろう。明白に啓示されているわけではないが、おそらくそうであろう、と理解できるのであり、神がそうみなしておられるのだから、三位一体であるということを考えれば、フィリオクエの問題はあまり悩む必要がないのかもしれない。

                     

                     ローマ書において、霊が一切出てこない部分と霊が出てくる分がある。5−8章は、霊の記述が多く、霊的な存在について触れている部分であると言えるだろう。

                     

                     ところで、信の確かさに生きている人には、神の存在証明は必要ないように思う。アンセルムスは護教なんてとんでもない、と主張しており、さらに、信と理性とは矛盾しないという。

                     

                    ロゴス・エルゴン・ラレイン

                     ここで、ロゴスとエルゴン、ラレインについて考えてみたい。

                     エルゴンというのは現在発生しているできごと、存在であり、ロゴスは現在だけとは関わりなく、宇宙全体を支配しているものであると考える。そのロゴスにエルゴンがヒット(ミハ氏註 英語のHit、ぶち当たった、かすった、一時的に接触)することがある。その瞬間、ロゴスがエルゴンに内在することになる(ミハ氏註 聖餐式でイエスの体を口から取り入れた瞬間のことによく似ている。あるいは、信じるという決心をした瞬間でもいいけど…)

                     

                    ある人(例えば、アインシュタイン)がエルゴンで発見したロゴス(E=mc^2)を別の人(その直後に検証した物理学者)のエルゴンが確認することで、ロゴスの全体像が分かってくるのではないだろうが。

                     

                    エルゴンというのは、今ここでのことであり、パウロは混乱してわかりにくいと言われるが、それは、パウロがエルゴン言語で、記述しているからとは言えないだろうか。パウロの苦悩は、このエルゴンレベルでの苦悩といえる。パウロの言う、ロゴスとエルゴンは別物であると思う。

                     

                    OSI7階層モデルみたい…

                    ローマ書の中でのロゴスは、いろいろな層に分かれており、その層(レイヤー)の違いにおいてパウロはロゴスを捉えようとしていると考えられるのではないか。(ミハ氏註 情報通信分野では、学部の初期の頃に概ね教えるOSI7階層モデルというのがあり、まさにこれの話とよく似ている)

                     

                     

                    OSI7階層モデル

                     

                    共約可能性というのは、この階層全てで整合的であるとき、受信者と発信者で同一のメッセージの伝達が行われるとするような理屈であるが、パウロは、ローマ書の中で、ある章(1−4章)では、ある階層でのできごととして話をし、別の章(5−8章)では、別の階層でのできごとを話している。そこの構造が見分けられないと、混乱するのだと思う。(ミハ氏註: そもそも別レイヤのことを書いているから、普通の小説や教科書を読むように、聖書やローマ書を、1章から2章、・・・と前から順に順次読んでいっても聖書がわかりにくくなるのは仕方ないだろう。そういうシーケンシャルなよみは、そもそも物理層のデータをアプリケーション層のデータと思って読むのに似ていて、こんなふうにコミュニケーションしているのであれば、当然、通信不能になるだけのことである。おそらく、この辺の視点の階層をパウロは明確に前提にして書いているのだけれども、読み手である現代人がその階層を見分けられなくなっているため、というのはあるような気がする。)

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:高いけど・・・

                    2018.05.19 Saturday

                    KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1)

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                      今日は、先日枚方市で開催された、KDK神学会「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回に出席してきたときの概要をご紹介したいと思います。個人的にはいつものように、むちゃくちゃ面白くて、知的刺激を受けたのですが、多くの人にとってはなんのことやら、と思いますので、そういう方はどうぞ、このシリーズは、スルーして下さいまし。

                       

                      会場となった当日の教会

                       

                      当日のメモを元に、できるだけ、捕捉を入れ、わかりやすく書いたつもりですが、そこはそれ、本人の方々じゃないので、完全には、書ききれていない、説明できてないところがあります。誤りや誤解は、全て、このブログの著者のミーちゃんはーちゃんにありますので、ご容赦をば。「ブログごときで責任追求とか」、って心底野暮だと思いますけどねぇ。文句言われたら、すぐ隠しちゃえば(ボットさんから見えない状態にすればいい)いいだけの話なんで。

                       

                       

                      まず、最初に参加者の全員の自己紹介があり、この本の編集者の方や、名古屋から来られた牧師先生、総勢20人くらいのかなり幅広い方が来られたことが自己紹介を通してわかりました。

                       

                      上沼先生、千葉先生と出会う…

                      上沼先生から、最初お話があり、今回の企画に至った経緯のご説明がありました。 千葉先生との出会いは、今から3年前の2014年、千葉先生の『真の哲学』の素材があり、まとまっていなかった段階で、1964年に、上沼先生たちがその立ち上げにかかわった北海道大学クラーク聖書研究会設立の設立50年記念会の時に、上沼先生に講演依頼があり、その当時顧問をしておられた千葉先生とのおつながりができたことがご紹介されました。

                       

                      2014年当時、上沼先生は、N.T.ライトの信徒向けの一般書籍で初めて邦訳された本である『クリスチャンであるとは』が出版され、その本を翻訳する過程で、ローマ書3章22節のピスティスをどう訳すかについて、従来、このピスティスがイエスに対する信仰といったかたちで、対格として理解してきた経緯で考えてきたことについて、ご講演されたようです。

                       

                      その後講演では、主格の属格で理解できるのではないか、ということを講演されたそうです。ご講演の後、当時北海道大学クラーク聖書研究会顧問であった千葉先生を表敬訪問されたことが紹介されました。

                       

                      ピスティスについて

                      上沼先生は、上沼先生のあるご友人の方から、アリストテレスの研究者として、上沼先生のご友人の方から紹介を受けられたようですが、表敬訪問してお話された時に、千葉先生から、「ローマ書3章22節の理解が千葉先生ご自身の現在の研究テーマなんです」と自己紹介され、その際に、実はローマ書3章22節のピスティスは、体格でも、主格でもないと言われて、大変驚かれたことが紹介されました。

                       

                      上沼先生にしてみれば、N.T.ライトの影響を受け、やっとピスティスが主格ではないか、とまで言えるようになったと思っていたそうです。そして、そのあたりぐらいから、このピスティス・クリストゥが聖書翻訳の問題と議論の俎上に上り始めた(大和郷にある教会のブログのピスティス・クリストゥーの記事が、かなりわかりやすいと思うんだけど)し、聖書翻訳も変わり始めたのに、千葉先生は、N.T.ライトが主張するような、主格の属格ではなく、むしろ、帰属の属格と理解できるのでは、といわれ衝撃を受けられたということが紹介されました。そして、このローマ3章22節のピスティスはいったい何なのだろうか、ということになった、とご紹介されました。

                       

                      その時、3つのことを千葉先生から言われたのだが、その3つ目に言われたこととして、ローマ書の1章には、神の怒りの啓示として、よくない思いに引き渡された、という「引き渡された」表現が3回出てくるのだけれども、この「引き渡された」という表現が神の啓示の表れだ、というお話をされたことが紹介されました。そして、ローマ書の3章22節のピスティスと、「よくない思いに引き渡された」(口語訳では「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」と翻訳)ということが、どこでどのように繋がるかがわからなかった、と当時の上沼先生のご理解についてご紹介されました。

                       

                      そして、本日は千葉先生の『信の哲学』の7章の意味合いをお話ししたいと思う、ということで、ご講演を始められました。

                       

                      上沼先生の講演の本体

                      まず、千葉先生の本の付録2として付された千葉先生によるローマ書3章21節から26節のご紹介と7章のポイントの紹介に移りました。

                       

                      このローマ書3章21節から26節について、千葉訳のローマ書3章22節の翻訳(下巻の付録に付されている)では、

                       

                      神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるものすべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

                       

                      となっていて、

                      ”というのも[神の義とその啓示の媒介である・・・・]分離はない。”

                       

                      という部分の理解が重要である、と上沼先生はお話になられました。

                       

                      世界ではじめての功績?MJSK?

                      これは、すなわち、イエス・キリストのピスティス、この語は、従来、信仰と、信実、御霊の実としての誠実とやくされてきたものですが、このピスティスと神の義とイエスの信実との分離がない、と訳出しておられる。そして、ギリシア語のガルγάρという語から、ギリシア語のテキストからパウロが何を言おうとしているのか、という理解を千葉先生はお示しになられ用としておられるように思う、そして、これまで、この部分のどの訳でもこのガルという接続詞を適切に訳出してるものはないので、世界で初めての業績といえるのではないか、とお話になられました。

                       

                      そして、この理解をもとに、私なりの理解をしてみたい、ということで、上沼先生はガルという接続詞を、なぜなら、と考えたときに、どう見えるか、ということを考えてみたい、ということでお話を始められました。

                       

                      ローマ書3章23節から、なぜ「神の義とイエス・キリストの信が分離なき」といえるかというと、「ご自身が義である、すなわち、イエス・キリストご自身が義の知らしめである」ことを示しているからであろうといえるのではないか、ということでお話になられました。

                       

                      ところで、これまで、イエス・キリストを信じる私たちの信仰による義として、信仰義認を考えてきたのだけれども、私たちの中におられる神の義による信仰義認といえるのではないか、神の義が私たちにも現れるということで理解できるのではないか、とお話にされました。参加されていた、きよめ派の牧師(ミハ氏註 きよめ派という形容詞を持ちたのは、きよめ派の一般の皆さんに対する敵意や悪意を含んでいません。わかりやすさのために、単なる分類学上の記号として「きよめ派」という語を用いています。もともと私自身、きよめ派の影響を信仰生活において受けていますし)さんから、「それは聖化とどんな関係がありますか」と質問が入りましたが、「ここで神の義が現れる、というのは、聖化ということよりは、神ご自身の義が我々の中に現れることではないか」という説明がありました。

                       

                      この部分の議論を聞きながら、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、「あったり前田のクラッカー、当たり前ぢゃんねぇ」と思いました。というのは、我々が聖餐にあずかり、パンと杯をいただくというのは、キリストを内在させることを表す儀式である以上、キリストが我々のうちに現れるための儀式であり、そうであるがゆえにサクラメントなのであって、神の義が我々の日常的な生活のうちに現れるような、サクラメンタルな生活、ないしはサクラメンタルな生き方、生に導くためのものである以上、神の義が(ミハ氏註: 瞬間的なことが多いのだけれども。長期に渡ったら、有限で、有界たる人間の身が持たない・・・)我々の中に立ち現れるのは、当たり前だと思ったからです。

                       

                      あたり前田のクラッカーのCF(44秒くらいから)

                       

                       

                      聖餐に関する賛美歌

                       

                      ノモスとはなにか?律法なのか?原理なのか?

                        ローマ書3章27節でのノモスについて、新改訳は、原理と訳出している、新共同訳は法則と訳出しているけれども、千葉先生の翻訳では、「業の律法か、信の律法か」と律法と翻訳しておられ、このローマ書3章22−26節は、は神ご自身が義であることを示す翻訳となっていること、義の転嫁(Imputation)に関して、NTライトの発言や理解は、アメリカでも日本でも誤解されて伝わっているように思う。アメリカで誤解されたものが、そのまま日本に流入誤解され、義認論にまつわる誤解と、誤解に基づく議論が起きているように思う、とのご紹介がありました。NTライトは、義認論を否定してないのに、あたかも、否定しているかのようにいわれる傾向がある、というご見解が上沼先生から披露されました。

                       

                      業の律法と信の律法について 千葉先生の翻訳では、業の律法と信の律法と訳している部分の関連として、7章21節のノモスについては千葉先生は、律法と翻訳しておられるが日本語の新改訳聖書は、原理と訳している。そして、ローマ書7章の結論は、7章25節であり、千葉先生の翻訳では、「神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」と翻訳されている。この部分を素朴に読んだとき、「罪の律法と神の律法」とローマ書3章22節の「業の律法と信の律法」がパラレル(「罪の律法」=「業の律法」と「神の律法」=「信の律法」という関係)になっているかと思ってそのむね、千葉先生にお聞きしたところ、そうではない、との回答をいただき混乱した、というご自身の経験が紹介されました。

                       

                      律法の書かれているスクロール版の旧約聖書の読む時の姿勢

                      (聖なる書物なんで、手で触ってはいけません。ポテチの粉がついた状態でなんて・・・ねぇ)

                       

                      信の律法は、モーセの律法を廃棄するか?

                      ヌースとは何か?内なる人なのか?こころなのか?

                      千葉先生によると、この部分、パウロが注意しながら、書いているとお話しされたことも紹介されました。ここで、千葉先生は、従来口語訳聖書では、心と訳されていることば(もとはνοῒ 語根はヌースνοῦς)を叡智と翻訳されていることを紹介されたうえで、神の律法と罪の律法は明確に分離しているけど、信の律法と業の律法(要するにトーラーとか、その極みである十のことば、十戒)は分離していない、とおっしゃったことが紹介されました。  そして、千葉先生の本では、3章と7章でパウロの視点が違うことが紹介され、3章は神の視点から、7章は肉を持っている人間の視点からパウロが記述していることを紹介され、神の視点から見た場合、「業の律法」は十戒、「信の律法」は矛盾しないはず(ミハ氏的ツッコミ: 当たり前じゃん、と思ってしまいましたし、イエス様はターミネータみたいに、律法を廃棄するために来たのではない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 05章 17節 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。〕といっているし、律法の一点一画が落ちることはあり得ない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 5章 18節 天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。〕、って言ってんだしさ)である、とご紹介になられました。


                       

                      映画 ターミネータのポスター

                       

                       その意味で、ローマ書7章25節で、「心」と訳されているヌースがちゃんと理解されていないことに、このような混乱は由来するのではないだろうか、ということのお話があった。千葉先生によると、アリストテレスが用いたヌースとの使い方とパウロの理解がきわめて類似性が高いといえるのではないか、というご見解が紹介されました。

                       

                      アリストテレスたん

                       

                      共約可能性とヌース

                      その意味で、内なる人と、ヌースが近い、といえるのかもしれない、というお話があり、肉体部分である「外なる人」が滅んでも、「内なる人(これがヌース)」が存在し、そして、神の霊が、この内なる人に働くと理解できるであろう。また、この内なる人がヌースであるのだが、これまでは、心とか知性という語で翻訳されている。そして、ヌースは、識別する、見極める、と訳される言葉と深くかかわっているように思う。特に、使徒パウロは、どこまでギリシア文化圏の人々との共約可能か、ということを考えていたのではないだろうか。これは、文化や言語が違う人たちに伝道するということとのかかわりで考えることができるであろう。神を信じるのは、内なる人であるヌースの働きであり、すべての人に共通に存在するのが、このヌースであり、そうであるがゆえに共約可能性の根源になるものであり、その内なる人に働きかけることにより、文化の違う人々に伝道ができることになるのではないだろうか、そして、肉のなお内側にヌースが存在するということが大事であろう。また、千葉先生のローマ書の翻訳1章24節で、「不潔へと引き渡した(παρέδωκεν)」と表現されているが、この「引き渡した」ということが重要であり、千葉訳で1章の中で、引き渡したは3回用いられており、「不潔へと引き渡した」、「恥ずべき情欲に引き渡した」、「叡智(ヌース)の機能不全に引き渡した」となっている。この「引き渡された」という表現に込められていることが重要なのではないか、というご主張が上沼先生から展開された。

                       

                      共約可能性とパラダイムの概略のご説明

                       ここで上沼先生からのお話が終わったのですが、主催者の日本基督教団の自称福音派の牧師である、このKDK神学会の主催者の久下先生から、実に適切な共約可能性についての補足が入りました。共約可能というのは、科学の表現であり、相互理解可能性に関係する表現であることのご紹介がありました。

                       

                      古代ギリシア社会の哲学者は、アリストテレスは、5つのもの(5大元素)でできているというパラダイムで生きてきましたが、現在の科学は、それと違ったパラダイムで生きています。たとえば、物が燃えるという現象を、アリストテレスとその理解の影響を受けた人たちは、燃素の存在を前提に捕らえますが、現代人は酸化反応ととらえます。

                       

                      このように、二つの別のパラダイム(あるいは系)では同じ現象を見ても、同じ理解に達しないことがあります。それが、共約不可能性ということです。このパラダイムに関しては、20世紀の科学哲学者であるクーン(Thomas Kuhn)がパラダイムシフトという書籍の中で、その理解を提示しています、という補足を入れていただきました。

                       

                      Thomas Kuhnたん

                       

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

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