2018.11.01 Thursday

2018年10月のアクセス記録

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    皆様、いつものようにご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


    7月は、ほとんど書籍紹介の記事ばかりでしたが、ご清覧頂きありがとうございました。

     

    2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2 アクセス/日)
    2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9 アクセス/日)
    2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6 アクセス/日)
    2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1 アクセス/日)
    2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7 アクセス/日)
    2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0 アクセス/日)
    2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7 アクセス/日)
    2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8 アクセス/日)
    2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1 アクセス/日)

    2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5 アクセス/日)
    2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4 アクセス/日)

    2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8 アクセス/日)

    2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5 アクセス/日)

    2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3 アクセス/日)

     

    2018年第2四半期(4〜6月)     43880アクセス(482.2 アクセス/日)

    2018年第3四半期(7〜9月)   55404アクセス(602.2 アクセス/日)

     

    2018年10月  17,291アクセス(576.4 アクセス/日)

     

    でした。

    ところで、10月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。先月もご清覧ありがとうございました。

     

    こころの時代 安積力也さんの回を視聴した   アクセス数 693

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由    アクセス数 554

     

    『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(1)   アクセス数 445

     

    『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(6)完結編 アクセス数 285

     

    『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3) アクセス数 275

     

    でした。今回、こころの時代で、安積力也さんの再放送があったためか、めちゃくちゃアクセスが、集中して、かなり驚きました。テレビというのは、メディアとして偉大なのだ、と改めて、関心。ほかに安積力也さんについてのサイトがないことも影響したものと思われます。

     

    案外意外だったのは、結構読むのが困難と思われた、『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみておもったことをたらたらと書いてみた記事、実際には、その本の著者が言いたいことは、おそらく、こうだったかなぁ、と思ったことを書いた記事にかなりの数のアクセスがあったことでした。

     

     

     

    また、今月も、当ブログのいつもの鉄板ネタ、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由が堂々の2位、相かわらずこの問題への関心の高さを示しているように思いました。

     

    皆様の御清覧、ありがとうございました。よろしければ、今月もまた、ご清覧をお願い申し上げます。

     

     

     

     

     

    2018.11.03 Saturday

    クリスチャンn世代の若者からのお願い(13) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その1

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      今日からの記事は、Facebookで流れてきた、Ministryの松谷編集長のつぶやきから、書いてみようと思っていたことと重なるので、そのご発言を基に、ミーちゃんはーちゃんなりに少し考えてみたいと思います。ようやく落ち着いてきたところで、焼けぼっくいを煽って、再度炎上することになりかねないのですが、結構大事な話だと思うので、書いてみたいと思います。

       

      出発点になった、松谷編集長のつぶやき

      基本的にそのつぶやきは、松谷編集長がある場所でご講演でお話になったことの延長線上にあったようですが、以下のようなものでした。

       

      「教会から聞こえる“SOS”」では、自身の #夫婦別姓 に至る経緯も紹介させていただきました。未だ少なくない教会では「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまうようですが、初めから結婚相手をクリスチャンの中「だけ」から探すことを推奨するような不健全性についてはもっと自覚した方がいいと思います。

       

      だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。

       

      だとしたら、そもそも最初から「結婚するならクリスチャン」にこだわる意味がどこまであるのか。キリスト教の発展的な広がりを考えたら狭い身内同士でくっつくより、他のコミュニティに素敵な相手を見つけて、「関係者」の枠をより広げていく方が宣教的な意味からしても格段に有益なはず。クリスチャンの「自由恋愛」をあの手この手で妨げておきながら、某団体の合同結婚式を批判する資格は微塵もない。

       

      そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。  (2018年10月1日)

       

      多少、引っかかる、あるいは、突っかかる表現はありますが、しかし、大事なことをおっしゃっていると思うので、もう少し丁寧に考えてみたい、と思います。

       

      発言しただけで、実際に教会全体の問題にしていただきましたw

      実は、私が、あるインターネットラジオ番組(相模大野の中澤牧師(息子さんの方)が主催する音声放送番組)で、自分の子供たちが、「どうしても、キリスト教徒でない人と結婚したい」と言い出したら、教会での祝福は期待薄だけれども、何が何でも反対しない、ということをもう4年ほど前に対談の形でお話したことがあります。

       

      そうしましたら、「こういうことを発言する人が自分たちの教会の礼拝(聖餐式)に参加すると、私たちの心にはどうも平安がなくなるので、しばらく礼拝(聖餐式)への参加をご辞退してほしい」というお願いを受けました。どうも、教会全体の問題になったようです。そして、教会総会で、信徒の総意として、「聖餐式への参加を辞退するよう勧告する」というありがたいご議決をお出しいただいたようです。まぁ、おそらく、これは口実で、本当はもっと別のところに理由があったようにも思いますが、一応、物事には建前が必要なので、建前としてこういうことについての熱心なご議論がなされたようです。多分。この時期、体調を崩して、ちょっとお休みしていたのでわかりませんけど。

       

      おかげさまで、これまで責任者(説教者兼教会役員)をしていたために、4年前までは、他の教会に見学に行きたくても行けなかったのですが、「来るな」と言われたことをいいことに、教会巡り解禁状態となりました。さすがに、足の裏の塵を払うことまでは致しませんでしたが。

       

      その翌週から、心はウキウキ、ヒーハー状態で、もう、近所のありとあらゆる教会を毎週のように行きまくりました。ハリストス正教会、カトリック教会、日本聖公会、バプテスト派の教会、単立教会、メソディスト系の教会、日本基督教団教会を何系統かと、教会めぐり(巡礼)をさせてもらうことができました。ありがたい限りでございました。その後、数ヶ月して、「戻ってきていい」というお手紙が来たのですが、まぁ、こういう「行方定めぬ教会めぐり、今日はメソディストか、バプ連か」(琵琶湖周航の歌のパクリ)をやるのが面白くなって、やめられなくなりました。

       

      ブラックマヨネーズのヒーハーに乗っただけのカルビーのCM

       

       

      琵琶湖周航の歌

       

      そうこう教会巡りをしているうちに、2回目に参加させてもらった、聖公会の外人部落(もともとは海員向けの教会)に落ち着き、今は、そこで長期停舶中状態(正確に言うと、錨地長期投錨中)になっています。

       

      つまり、松谷編集長の言う『「未信者との結婚は不信仰。神を第一としていない」として断罪され、教会・教派全体の問題になってしまう』という、実にありがたい経験をさせてもらいました。失ったものが何かあるか?あるかもしれませんが、それより、ミーちゃんハーちゃんとしては、得るところのほうが多かったように思います。まぁ、だれかれとなくある教会から、破門になることをおすすすめはできませんが。

       

      洗礼を受けていればいいか?というと…

      松谷編集長のコメントとして、こんなコメントが続きます。

       

      だいたい、お付き合いする相手を「洗礼を受けているか否か」で区別すること自体、とんでもなく失礼極まりないと思いませんか? クリスチャン以上に誠実で優しいノンクリ青年なんかいっぱいいるし、…

       

      これは、本当にそう思います。クリスチャン以上に、世間一般が想定する、誠実で真面目であるというクリスチャン像に近い方も相当数おられます。クリスチャンであると、かえって世の中の見え方がおかしくなるのかもしれません。ノンクリスチャンの世間は、アルコール中毒患者の皆さんや、ジャンキーと呼ばれる麻薬中毒患者の皆さんで満ち溢れているわけではありません。いやむしろ、ほんとうにクリスチャンらしい方々は、世の中に非常に数多く、星の数ほどとは言いませんがキラキラといらっしゃって、クリスチャンなのに、世間一般が想定する、クリスチャンらしくない方も、それなりにおられることは、身をもって体験してきたところでございます。

       

      あるとき、今ミーちゃんはーちゃんが長期投病中の海員向け教会に、相当長期に渡って来ておられる方が、「クリスチャンのほうがよほど変な人が多い」とおっしゃったことがあって、まぁ、それもまたそうですよねぇ、ということを思ったことがございました。

       

      真面目といえば、おふざけや道化は、一般に今の日本のプロテスタント系の教会では、かなりの確率で排斥されてはいます。多分、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式からの一時追放(本来的には、これは、Ex Communionなので、破門措置に相当するはずなんですが)、自主的には永久脱出することにさせられた、そもそもの原因はそこだと思うですが…w。

       

      ところが、正教会や聖公会、カトリックなどの伝統教派だと、聖人にも、コメディアンとか、道化とか、俳優の聖人とかもおられるので、まぁなんと聖人の世界は広いものなのだなぁ、と思います。


      コメディアンの聖人ともされるローマのジェネシウス(殉教者)

      https://orthodoxwiki.org/Genesius_of_Rome より

       

      まぁ、これまでの三十数年の短いクリスチャン人生のなかで教会を見ておりますと、クリスチャン女性と結婚したいノンクリスチャンの男性の方は時々出てきて、まだまだうぶだった最初の頃は、「ある女性の方とお付き合いしたくて、クリスチャンになりたいんです」とご相談を受けて、「うわぁ、どうしよう」と思っていた頃もございます。そういう息せき切った方には、「まぁまぁ、落ち着かれて…」とお話し、まぁ、落ち着いていただいて、一応、キリスト教徒はどんなことかをまずはお話し、その上で、どうしてもクリスチャンになりたい、とおっしゃるなら、それでは、まぁ、受洗前教室というか、キリスト教の基本的な理解をお話しする機会にお話していった方も、数名おられます。最初の本当にうぶだった頃は、「そういうときはどうしようか」と、真剣に悩んだことも、過去にはございました。

       

      あるいは、若者の方で、異性の方と会えるということで、教会に来られていたノンクリの女性もいて、なんだかなぁ、と思っていたら、「何が動機にあるにせよ、教会に来てくれるのはいいことだ」と宣教師の方が英語でおっしゃってくださったのを聞いて、そういう感性もありなのか、でも、ミーちゃんはーちゃんが同じことを日本語で言ったら多分だめだろうなぁ、と思いながら聞いておりました。

       

      しかし、何なんでしょうねぇ、この落差。

       

      教会に離婚はありえないか?そうでもないかも…

      まぁ、クリスチャンの異性に惹かれて教会にこられた方で、ご結婚までに導かれた何人かの方を拝見しておりますし、アメリカに居りましたときのコミュニティチャーチでもそういう方を拝見しておりましたが、そういう方々のご結婚生活の継続が、うまくいく場合もあるし、うまくいかない場合もある、というのが、正直なところでございます。「〇〇さんと結婚したいので、クリスチャンにしてください」とお願いされて、「それ、本末転倒かも…えぇぇぇぇ…どっひゃ〜〜〜ん」と一旦はなったものの、その後、お二人とも信仰生活を深められ、結婚式もされ、今では幸せにお過ごしのご夫妻の何組の方も存じ上げていきますし、結婚を出発点に教会に来られ、受洗されたものの、結果として、結婚の継続に至らず、という事例もごく僅かではありますが、存じ上げております。まぁ、ショッキングでしたけどね。

       

      そんな事を考えておりますと、なんか、こんなセミナーがあるらしいです。世俗の仕事の関係でいけませんけど。残念ながら。

       

       

      こういうのは、画期的だと思います。個人的にはもっとやれ〜〜〜と思います。覆い隠して、そっと晒せて、闇から闇に葬るよりは。闇から闇に葬るのも、これまた、愛の形、というのは認識してはおりますが。本当に、こういうのは、大事だと思います。ちゃんと離婚者への配慮は当然のこと、どの様に傷ついた方々に対する牧会をしていくのかとか、本当に必要だと思います。日本は離婚率がまだ低いとはいえ、深刻な問題でもありますから。まぁ、イエス様だって、離婚規則には、ちゃんと触れてはおられますし。

       

      口語訳聖書 マタイによる福音書  19章 4〜9節
      イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 
      そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 
      彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 
      彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 
      イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 
      そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 

       

      まぁ、そんなん言うたら、だれが結婚なんかすんねん、みたいなことを、イエスの弟子たちは口々にいったようですが。

       

      弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。 

       

      結婚式はめんどくさい

      結婚というのは、人生を揺るがす一大事でもあるので、軽々にできないことは確かなんですが、それだけに、信仰と同じで、なんか勢いがないとできないのも、これまた真実なんですね。ある種勢いで一気にどっとやってしまわないとできないところがあるので、結構、根性入れて覚悟決めて取り組まないとだめなことが多いのもまた事実なのです。そして、いろいろ親族やら、関係者やらの調整はだれもしてくれないので、自分たちでやらざるを得ず、さらに、みんな人の結婚で、結婚する二人がなにかしてくれることを期待して、ああだ、こうだ、こうしたほうが良い、こうすべきだとか、いらん事を結構たくさん言ってくれるわけです。そう言う方の善意の声を受け入れ、何らかの対応をとらないと、ブーイングの嵐が待っているという罰ゲームという…。結婚式は、幸せな二人への妬みの混じった罰ゲームなのではないか、と思いたくなるような側面もあるわけです。

       

      本当に、主人公は、結婚する当人同士なんだから、好きにさせてあげればいいのに、と思うのですが、どうも、世間体とか、世間の常識とか、クリスチャンらしさ、とかまぁ、いろいろ言い出すので、「そこまで言うなら、淡々と行政手続きとして、二人で市役所で婚姻届出すだけで済ませるぞ…」とか、本当にキレ芸発揮になりそうになりながら、実に残念な経験をしないといけないことが多いのが、結婚式にまつわる悲喜こもごもがあるわけです。

       

      ということで、一度、こういう経験をすると、二度と結婚式はやりたくないと正直思っています。とはいえ、現状の結婚生活は幸せなので、これはこのままできるかぎり継続したいと思っています。結婚式に関して、他人の司式は別に構いませんが、自分の結婚式の準備は、もう二度としたくない、というのは実感として思います。もう、人の思いに振り回されるのは、ご勘弁くだされ、と思うのですが、なかなかそうは、させてくれないですね。なかなか。日本だと。家のイベントにしたがる人、多すぎますから。

       

      アブラハムとヤコブに学ぶ重婚と不倫はめんどくさい

      あと、結婚というのは、二人の人格による二つの結婚の継続をを同時並行的に実施して、比較する(それを重婚と読んだり、不倫と読んだりする。そして、それは、伝統的にキリスト教会では認められていない)ということができないタイプのライフスタイルですし、多分、実際にそういうのをやるのは、けっこう大変らしいので(ヤコブとか、アブラハムがいい実例)、やらないに越したことがないわけです。多分、どんなに幸せそうなカップルでも、揉め事は皆無ではない(多分、ステゴザウルスのようにいろんなことに鈍い人ないし、短期記憶しか機能しない鳥頭の人同士だったら、揉め事はないかもしれない)ので、それを夫婦揃って一緒に乗り越えていくのが、結婚の継続、ということなのだろうと思います。

       

      結婚式もめんどくさいですが、離婚も実際にはめちゃめんどくさいようです。一つには法的関係の解消でもあり、かなり実体としてめんどくさい(法律的にも、世間的にも)ようです。それに感情の問題、過去の思いの生産の問題もあり、引きずることがあるようです。その上、特にキリスト教関係者だと、非国民、ないし非キリスト教徒、人間でない扱いを受けることも少なくないようです。残念ながら。

       

      新約聖書の福音書を読んでおりますと、イエスは、当時のユダヤ社会でまともな人間扱いされてなかった、取税人、遊女、羊飼い、重篤な皮膚病患者、精神病患者、悪霊に憑かれた人々と言った人々の傍に行き、神の国が来た、ということを述べ伝えたはずだとは思うのです。しかしながら、現代のイエスの弟子たち、いわゆるクリスチャンたちは、離婚して傷ついていて、ぼろぼろになっているかもしれない人々を教会から、イエスを取り巻いているはずのコミュニティから、自分の聖書理解を根拠に排除しようとするというのがねぇ、なんとも・・・。

       

      まぁ、罪人なんで、しょうがないんだけどさ、とはおもいます。

       

      そして教会の関係者の中には、いろいろな実体的な問題があっても、なんとか結婚の継続をさせようとする傾向があるように思います。その結果として、家族の関係者、教会の関係者を含めた周囲の反対、関係者の度重なる説得攻撃その他諸々の諸力により、不幸な結婚生活に耐えることを強いられている人々もいるのではないか、と思わなくはないのです。

       

      DVでも離婚できないという・・・

      特に、米国なんかだと、隣家と離れていて、世帯の独立性が高い分、日本と比較にならないくらいのめちゃ乱暴なDV夫が家庭内暴力を吹き荒らすので、クリスチャンホームのなかでDVの結果の死亡事案なんかも結構あるようです。こうなると、一体何なのだろうか、と思いたくなります。

       

      例えば、レインメイカーという、詐欺まがいの医療保険の問題に向かう若手弁護士についての映画や、フォレスト・ガンプという映画では、本来バイブルベルトと呼ばれるキリスト教が文化的にも、実際の制度的に、非常に強く、大きな影響を持っている地域を舞台にした映画ですが、これらの映画の中でも、幼馴染の女の子の家庭のDVの問題や性的児童虐待とかが間接的に描かれていますが、このタイプの問題は深刻なようです。もちろん、ミニストリーのバックナンバーでも出ていますが、結構キリスト教徒の家庭、いわゆるクリスチャンホームでのDVという、どうしようもない事案というのは皆無というわけではないようです。

       

      The Rainmakerの映画でDV夫が、殺すと言い続けているという被害者女性の発言のシーン

       

      フォレスト・ガンプの幼馴染のDVの被害者が、神に祈るシーン


      こういうDVや児童虐待に走る人々は、個人的におクズ様、おクズさんとお呼びしたいと思います。もう何なのだろうか、と思いますが、でも、それが人間の姿かもしれません。


      炎上したクズ発言

      ところで、松谷キリスト新聞社長の一連のツィート、すなわち一番上にあげたTweetの中で、何が炎上したかというと、次の一節です。

       

      クリスチャンの中にだってクズはいっぱいいる。当たり前ですが。

       

      この一節で、キリスト新聞の社長なのに、クズというのはおかしい、とか、それはまずいんじゃないか、という話題で、賛否両論、異論反論オブジェクションで、炎上したように思います。

       

      先に上げた、ところで、クリスチャンには、本当にクズと呼ばれるべき方はいなくなるのか、というと、それはかなり怪しいと思います。先ほど映画で米国の例を紹介しましたが、それは特殊な創作上のことでしょうか。かなりよく見聞きするレベルで起きているからこそ、この種のシーンが映画に取り上げられるのではないでしょうか。

       

      ミーちゃんハーちゃんは、クズでしかありませんが、むしろ、ミーちゃんハーちゃんはクズだからこそキリストが必要だったわけで、そうであるからこそ、神の憐れみを求め続ける存在であろう、としているわけです。イエスは次のように言っています。

       

      マタイによる福音書 9章 10節-13節
      それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。 
      パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 
      イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。 
      『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

       

       

      まず、このイエスの発言の意味をキリスト者はきちんと思い巡らす必要があるかもしれません。キリストに対する信頼は、自分たちがクズで、頼りないからこそ、キリストを信頼をする必要があるのであって、というところをまず、よく考えたほうがいいのかもしれません。クリスチャンだから、立派な人間なのではなくて、立派でない人間だということを知っているからこそ、クリスチャンであるという順番について、もうちょっと考えたほうがいいのかもしれません。

       

       

      おクズ様や、おクズさんたちに、クズですね、と言って、おクズ様や、おクズさんたちがお変わりあそばされるかというと、お変わりあそばされないので、おクズ様や、おクズさんなのであられるので、まぁ、おクズ様やおクズさんをお見かけしたときや、それらの皆さんに出会ったときには、またか、と思いつつ、イライラせず、スルーしたほうが、精神衛生上、よろしいか、と思います。どうせ、我ら鼻で息するもの、神の目から見た場合、団栗の背比べに過ぎません。あるどんぐりが、数ミリ他のどんぐりより大きいと言ったところで、人の目には、どんぐりに区別が付きません。その程度のことではないか、と思います。


      クズは有害植物かもしれないけど使いみちも…

      実際、日本原生種の植物のクズ Kudzuと言う植物(根はすりつぶして晒して、有効成分を抽出すると、風邪薬の葛根湯の主原料になるし、ウサギやヤギの餌になるし、日本の美味しい葛餅は、クズが原料のはずです)は、米国で鉄道とか、農地の斜面保護、崖地の保護のために日本から輸入したら、広がりすぎて、有害植物に認定される始末になっていますが。

       

      まさに、DVを起こす人々は、本当に始末におえないという意味で、この植物のクズみたいな存在かもしれません。とはいえ、先にも述べたように、クズには、クズにしかできない葛根湯の原料になったり、美味しい葛餅の原料になったりする(実は、殆どは、クズから作るのではなく、馬鈴薯でんぷんから作られているのが大半のようです。クズから取る本葛粉は手間がかかりすぎてペイしないらしいのですが、本来は、このクズの根をすりつぶして乾燥させたデンプンから本葛餅は作ります)という特徴があるわけです。ある面では、始末に負えないところがあるかもしれませんが、それにしかできない役割があるわけです。ある面から見た場合、お荷物のような存在であっても、全く、無価値なそんざいであるかというと、かならずしもそうでもない、というのが、世の中面白いなぁ、と思います。

       

      オランダ語のWikipediaのサイトから https://nl.wikipedia.org/wiki/Kudzu

       

      クズ餅 https://www.kudzu.jp/SHOP/F0001.html から

       

      葛根湯 https://lohaco.jp/product/9338524/ より

       

       

      次回、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

      2018.11.05 Monday

      クリスチャンn世代の若者からのお願い(14) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その2

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        前回の記事では、松谷編集長のツィートから、考えたことをお話してきました。未信者と呼ばれる、非キリスト教徒あるいはノンクリスチャンとの結婚のこと、離婚の問題を扱わねばならない時代になってきたこと、結婚式にいろいろ教会関係者からも口出されて、めんどくさいことが結構起こること、重婚と不倫とはめんどくさいこと、クリスチャンであっても、DVをするようなおクズ様がおられること、それに耐えている女性たちが結構いること、そういうおクズ様であっても、いやおクズ様であるが故にキリストが必要であることなどを書いてみました。

         

        ツィッターではそれほどでもありませんでしたが、Facebookでは、クリスチャンのDV夫とか、その被害者を身近に見てこられた方があること、異なる宗教を信じている人々と結婚の継続しておられる方からのお話、などなどいろいろと、コメントが寄せられましたが、それはまた改めて、ご紹介してみたいと思います。

         

        今回はお約束どおり、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。

         

        結婚相手としてクリスチャンにこだわる意味

        日本に伝わってきたキリスト教は、西ヨーロッパ社会経由(プロテスタントの場合、ドイツ、スイス、連合王国、スカンディナビア諸国など、カトリックの場合、明治以降はフランス・スペインなど、正教会の場合は、ロシア経由)か西ヨーロッパから、さらにアメリカを経て、日本に到達したキリスト教が中心で、すでに、キリスト教社会が完全に定着し、キリスト教社会、いわゆる、クリステンドム、キリスト教社会が成立した社会を経由したキリスト教であったわけです。

         

        このようなキリスト教が主流を占めた社会では、ノンクリスチャンというか、非キリスト教徒は、イスラム教とか、ユダヤ人であったわけです。特に、欧州におけるイスラム教徒というのは、地中海周辺では、イスラム海賊のイメージか、ウィーンを何度か包囲したオスマントルコのイェニチェリ軍団のイメージであったわけです。つまり、憎むべき敵との結婚を意味する場合があったようです。

         

        イスラム海賊との戦闘シーン https://www.todoababor.es/historia/a-la-caza-del-pirata/ より

         

        イェニチェリ軍団

         

        トルコ軍楽隊のマーチ音楽を聞いてモーツアルトが作曲したとされるトルコ行進曲

         

        トルコ軍楽隊の伝統的な行進曲

         

         

         

        ヨーロッパ社会における異教徒との対立関係

        ヨーロッパ社会におけるノンクリスチャンの別グループ、あるいは別の異教徒として、当時の社会で排除され、だれも仕事にしたがらないような金融業といった業務を一手に引き受けざるを得なかったを背景としたユダヤ人が存在したわけです。このユダヤ人もまた、イエスを殺したという呪いをヨーロッパ社会全体からかけられたのがユダヤ人なのです。我らの愛すべき主イエスを殺して、その血の責任を我らが負うとまで言明した民族の末裔でもある、ユダヤ人との結婚ということになったわけです。

         

        ムスリム(イスラム教徒)にせよ、ユダヤ人にせよ、宗教的なルールとそれぞれの宗教への改宗とそれに伴う諸規定がかなり厳格な人々もいる信仰者群なので、キリスト教徒がムスリムやユダヤ人と結婚するとなると、キリスト教からこれらの結婚相手の宗教、イスラームないしユダヤ教への改宗を求められるわけです。

         

        現在のよく知られている改宗者の例で言えば、トランプ大統領の娘のイヴァンカさんは、ご主人がユダヤ系(おそらく改革派系の世俗化が進んだタイプのユダヤ教徒 ひげがない、髪の毛の鬢が伸びてないことで判定できる)なので、キリスト教からの改宗ユダヤ教徒になっているわけです。

         

        ムスリムの場合も、ユダヤ教徒の場合も、キリスト者と同じアブラハム、イサク(またはイシュマエル)、ヤコブの神を信じているとはいえ、イエスの扱いが(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間で相当に異なるために、儀式論において、そして聖書理解に置いて、聖典の定義において(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間に大きな落差があるわけです。

         

        イバンカと配偶者のクシュナー氏(キッパーと呼ばれるユダヤの帽子を被っている)

         

        世俗化とキリスト教離れが進んできているとはいえ

        世俗化が進んできた現代のアメリカやヨーロッパ社会の中に、スティーブ・ジョブスのようにインドの神秘思想や、Googleなどのように、カリフォルニア・禅(アメリカナイズ、またはカリフォルニアナイズされた禅思想)あるいはマインドフルネスに影響を受ける人々が増えてきていて、クリステンドム、あるいはキリスト教社会という側面が米国で弱まっているとはいえ、未だに市民宗教としてのキリスト教はアメリカでは根強く息づいているように思います。

         

        さて、弱まったとはいえ、西洋社会、ないし、アメリカ社会における異教徒(ノンクリスチャン)が、迫害対象ないし排斥対象となりやすく、改宗規定が相当に厳しいムスリム及びユダヤ教徒という状況を踏まえると、それは、おいそれとこれらの異教徒との結婚を問題がない、というのはかなり現実的には厳しいということがヨーロッパ社会及びアメリカ社会において社会背景として存在したことは、ご理解いただけようか、とは思います。

         

        ムスリム型異教徒と日本型異教徒としての非自覚的な信仰者

        日本に明治期以降、我が国において宣教してきた宣教師たちにとって、自分たちの文化的背景として抱えてきた異教徒(その大半は、ムスリムとユダヤ人)との付き合いの関係は、日本人の大半の直面する状況とはかなり違うものであったにもかかわらず、宣教師のみなさんが受け継いできたその文化的背景において、ノンクリスチャン=異教徒=キリスト教の敵=偶像崇拝者(個人的にはユダヤ教徒もムスリムも、アブラハム宗教なんで、そこまで言い切るのはかなり無理があるとは思うものの)という位置づけが無意識下に存在したように思うのです。

         

        日本の異教徒は、確かに神道関係者、仏教関係者、非自覚的な信仰形態である融合型日本宗教関係者も異教徒でもあるわけで、ムスリムやユダヤ教徒と同一視できない様に思います。多くの日本人に、その人の信仰は何か、ということを問うた場合、「特定の宗教を固く信奉していない」という意味で、「無宗教」と答える事が多いと思います。この無宗教発言の背景には、非自覚的な執行形態であると言った辺りに理由があると思います。決して、非宗教的な人ではないわけです。正月には初詣に行き、盆には盂蘭盆会の行事をするわけですから。ところが、この無宗教は、ムスリム達にとってみては、無神論者を意味するのです。そのために、イスラム社会のなかで、この様に自分は無宗教だ、と主張することは、自ら人間ではない、意図的な神への反逆者と自ら宣言するようなものなので、危ない目に合う可能性を増すのです。

         

        日本人が、当たり前のように、無宗教と自らを呼ぶような非自覚的な信仰形態を持つ人々であっても、キリスト教的な社会背景を持たない、という意味で自分たちと違っていたわけです。そのような意味では、異教徒であり、西洋型の異教徒(ユダヤ教徒及びムスリム)対策と同じ視点で、日本型非自覚的信仰者との関係を取ってきたように思うのです。それは、自分たちの文化背景では、異教徒への対応としては、対立型の対応が当然であり、当たり前のようにそうしてきたため、日本型の非自覚的な信仰者に対しても、敵対的な態度をとることになっていく精神性を海外から来た宣教師たちの一部は持っていた部分は皆無ではないのではないか、と思うのです。

         

        非自覚的なキリスト者が存在する米国社会

        とは言いつつも、この非自覚的な信仰形態の米国系キリスト教関係者も実は少なくありません。欧州は全く滞在経験がないので、なんとも言い難いところがありま戦士、米国でもカリフォルニアやワシントン州での経験からでしかなく、アメリカ全土の悉皆調査の事例からではないので、少し申し訳ないのですが、これらの2州で出会った人々の中には、「自分はアメリカ生まれのアメリカ人なので、クリスチャンであるが、君は日本人だから違うだろう」(おそらく、その方の頭の中では、アメリカ人のコーカシア系人種=プロテスタント系キリスト者ということを意味するらしい)と私にお話くださったありがたい方や、「我が家は代々カトリックだから自分はカトリックだ」と堂々とお話くださった、カリフォルニア原住民系(もともと、カリフォルニア州は、メキシコの一部であり、メキシコとつながりの深いご家庭の人々)の方もおられます。ある意味、カトリックは、プロテスタントの一部のように、個人的な決意や決断に基づく決断型あるいは選択型キリスト教の伝統が薄く、信仰共同体型地域地縁集団形成されていることが多いので、非自覚的なキリスト教の関係者が増えやすいという側面はあろうか、と思います。

         

        確かに幕府は迫害したし、殉教者は出たけれど

        たしかに、江戸幕府は自らの制度的安定性を確保するためにキリシタン大弾圧、日本社会からのキリシタン抹殺を計画しておられましたが、キリシタンの側はキリシタンの側で、かくれキリシタンになったり、潜伏キリシタンになったりして、存続を図ったわけです。その過程のなかで、信仰の内実の点でどこまでキリスト教なのか、という課題はありましたが、仏教でもないし、神道関係者でもないし、非自覚的な信仰形態である融合型のキリスト教的日本型宗教となっていったという意味で、ある意味、独自の土着化が成立した、と言えるように思うのです。とはいえ、地域やグループによる個別性の違いがあるために一般化することに伴う危険性はありますが、政治レベルでは対立軸はあったとは言うものの、一般の庶民の生活レベルではそこまで対立的でなかった可能性もないわけではないと思うのです。かくれきりしたん、潜伏キリシタンとなりながら、離島や周縁に避難することで、かろうじて、信仰を守り続けたわけですから。

         

        隠れの人々の信仰告白 オラショ(音だけはかなり類似性があるらしい) 

         

         

        ラテン語による主の祈り

         

        とはいえ、いわゆる産業革命時代、ないし啓蒙時代のキリスト教は、対象の個別性に着目するよりも、過剰に一般化して考える傾向、あるいは普遍化する傾向を持っていたため、日本は、キリスト教弾圧の地として、ムスリムがスペインでなしたような抑圧と同じ様に考え、日本型信仰とキリスト教について、啓蒙的な姿勢で臨んだり、ある種の対立軸をおいて捉えた宣教師もいたのではないか、と思うのです。

         

        確かにスペインではレコンキスタなどを含め、ムスリム社会と対立関係にあったとはいえ、ギリシアやエジプトあたりの歴史を見ると、必ずしも、ヨーロッパ社会がそうであったように、キリスト教が社会の人数が多いという意味においての支配的な(ドミナント)存在になったとか、政治的にも支配的な(ドミナント)存在になったというわけではないわけですが、それなりにイスラム社会の一部として、キリスト教徒はムスリムと競合的な関係にありながらも、共存してきた歴史があるように思います。まぁ、被支配民族を全滅させると、自分たち同士のなかで、支配ー被支配(略奪ー被略奪)の関係を作り出さねばならないため、政治的に完全に被支配民族やその宗教者を殲滅するのは得策ではないという現実的な側面もあったとは思いますが。

         

         

        平均値と一般化 ひと纏めにする罠

        先にも少しだけ紹介しましたように、啓蒙思想や近代思想は、平均値で捉える思想といいますか、個別性よりも、一般性、普遍性に力点をおいたものの見方をしてきた部分があったように思います。もう少しいうと、対象をひとまとめとして捉えようとする弁証法的というか、二項対立型の思想で物事を考えてきた部分があったように思います。Aか非A(Non A)か、というBoolean型、0−1型、2値的、あるいはディジタル的なのものごとの捉え方をし、アナログ的なグラデーションで考える問事はしてこなかった部分があります。実体が、かなりアナログ的なヴァリエーションを持ったものであったとしてもです。

         

        Boolean型の論理構造の概念図 https://sru.libguides.com/c.php?g=531883&p=3898529

         

         

        それを音楽の事例で考えてみたいと思います。以下は、同じ、キリエ エレイソン(Kyrie Eleison)という神の憐れみを求める賛美歌ですが、同じ文言の音楽の表し方が、これだけ、異なるわけです。

         

        キリエ エレイソン(主よ、憐れみ給え)の賛美歌他

         

        ギリシア正教会の キリエ エレイソン

         

        現代英語でのキリエ エレイソン

         

        テゼのキリエ エレイソン

         

        現代英語風のキリエ エレイソン

         

        このように同じものでも異なる表現法があることを考えてみた場合、いかに、一律にものを捉えて考えることが無益か、ということがご理解されようと思います。

         

         

        この結果、対象を自分と同じか、自分と違うものか、という極めて単純化されたなものさしで見る、そして、そのものの見方(世界観と行ってもそう間違ってはいないと思います)の中に、自分たちは善である、ないし、優位なものであると同時に、他者は、悪である、ないし劣位というある種の中華思想が内在化する可能性があったわけです。そして、西洋由来のキリスト教には、その問題が意識されないまま内在しており、それがそのまま日本に持ち込まれた部分も皆無ではないように思います。

         

        ローマ帝国成立期前後の皇帝崇拝やローマの多神教的な宗教が支配的な頃の異教社会の中にあるキリスト教会のなかのキリスト教会とかなり類似性の高い環境に置かれている日本のキリスト教会と、キリスト教が支配的な社会を経た西洋型キリスト教とは、本来環境が異なります。その意味で、キリスト教以外をひとまとめにして、自分以外のものであるゆえに、誤ったもの、劣位にあるものとして取扱い、これまでの西欧型のキリスト教がとってきた異教徒への対応でもある、無意味に対立軸を置くような考え方が本当に適切であるのか、という問題はもう少し考えてみたほうがいいかもしれません。

         

        結婚相手に関して、日本でクリスチャン以外の人々との結婚相手を認めない、ということの背景にこの問題は潜んでいるように思えてなりません。

         

         

        次回、もう少しこの一般化の問題をもう少し考えてみたい、と思います。

         

         

         

         

         

         

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        コメント:なかなかよろしいか、と思います。入門的文献

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        コメント:これまた入門的な本

        2018.11.07 Wednesday

        クリスチャンn世代の若者からのお願い(15) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その3

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          前回、近代社会は、一般化すること、とにかく何でもかんでも平均値で議論することをやりたがる、ということをちょっとお話してみましたが、その背景には、実は、近代社会においては、数量が問題であった時代でもあったという背景があるようにも思うわけです。それは、特に戦争の遂行と深くかかわっています。

           

          古代の軍事作戦と騎兵

          特に、近代戦では、従来の騎士と歩兵が活躍した時代と比べ、一斉行動による集団戦闘行為の成否が戦闘及び戦争の成否を決める時代でありました。もちろん、イスラエルの民とペリシテの民の戦争では、現代の戦争とは異なり、集団戦闘行為というよりは、騎士による一騎ごとの闘い、あるいは軍事行動ユニットごとの代表的な人間同士(例えば、ダビデとゴリアテのような)の戦闘が、戦闘の成否を決めたこともある時代でもありました。

           

           

          ヘブライ語のWikipediaのダビデとゴリアテ ツィツィアン作

          https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%92%D7%95%D7%9C%D7%99%D7%99%D7%AA

           

           

           

          カラヴァッジョ ダビデとゴリアテ

          しかし、何でイタリア絵画はこうもグロい絵面が好きなのか…と正直思わないでもないですね。

           

          中世の戦闘でも、騎士の一騎打ちなどに診られるように、代表選手の戦闘が、戦争の雌雄を決するという側面が多少ありました。古代から中世の軍隊は、歩兵と騎兵を中心に構成され、特に騎兵は極めて機動力が高い戦闘集団であったために、会戦などの大規模戦闘行為においては、その利用の上手下手が戦争の行方を決するほど、非常に重要な役割をしたのでした。

           

          中世における騎兵 
          https://www.brushwiz.com/catalog/stanislaw-chlebowski-battle-of-varna-oil-painting-reproduction-17086/

           

          とはいえ、古代から中世における大軍事作戦はほぼ歩兵によるグループごとのグループ単位の戦闘の寄せ集め型の戦争であり、歩兵の大軍団と歩兵の大軍団の集団的衝突を逐次行うような大会戦型の戦闘が平原で行われることがありました。

           

          この当時の騎兵は、今の戦車部隊、あるいは、高速でかなり自由な移動ができるヘリ部隊のようなものなので、戦場への投入に備えて待機している歩兵部隊の陣形突破や敵軍の歩兵部隊の集団的軍事行動を撹乱するために用いられていました。この騎兵の扱いがうまくて有名だったのが、古代ではアレキサンダー大王や中国史では項羽だったりします。

           

          グラニコス川の戦い(アレキサンダーVSアケメネス朝ペルシャ)

           

          騎兵のことを、現代の英語で、cavalry といいますが、現代の騎兵部隊に相当する存在は、ヘリコプターに乗る部隊か、戦車にのる部隊のことを指すようです(なんか村上先生受けしそうなネタになってきた)。これで最も有名なのが、地獄の黙示録という映画で、ヴァルキューレを大音量で流しながら登場する航空機兵隊の姿かもしれません。

           

          現代のアメリカの航空機兵隊 Air Cavalry

           

          地獄の黙示録の航空機兵隊

           

          現代のアメリカ陸軍の装甲騎兵隊 

           

          装甲騎兵 ボトムス(騎兵つながりのおまけ)

           

           

          ちょっと話が別方向に行き過ぎてしまいましたが、第1次世界大戦以降の総力戦では、それまでの戦場への逐次投入に変わり、歩兵の数と大量の歩兵が一斉協調行動を取ることが何より重要だったのでした。まず、砲兵が砲弾を雨あられと敵陣にぶち込み、その着弾の硝煙の消えないところに歩兵が集団で突入することで、敵の不意をつくというのが、第1次世界大戦及び第2次世界大戦初期の戦闘方法でもあったわけです。このような攻撃スタイルはドイツ陸軍の得意とする戦闘スタイルだったようです。

           

          一斉協調行動が重要だった時代と教育

          この敵の不意を衝くために、同じような兵隊からなる歩兵部隊が、一斉行動できるように訓練することが、第一次世界大戦以降の基本的な軍隊の基礎教育でしたし、そこでは、全員が同じ行動、一斉行動を問題なくできるようにすることが重要だったわけです。そのために、平均的な人間の能力や平均的な人間の行動パターンを計算し尽くし、全員が平均的に行動できることが望ましかったわけです。このあたりのことは、最下部の本の中のリスクという本の中に書いてあるので、よろしければ、どうぞ。

           

          そのために、国語教育、数学教育、軍事教練などが学校教育の一環として行われましたし、そのために社会統計という方法論ができたのです。そういう意味で、我が国での小学校や尋常学校での教育は良き兵士になるための軍隊のミニチュアとして始まりましたし、帝国陸軍は、おとなになるための一種の教育機関の役割を果たし、職業教育機関として機能した部分があったのです。

           

          そして、その社会的文化背景は、戦後の日本の経済成長を支えた産業戦士の世界に持ち込まれ、協調行動と一斉行動の基礎的訓練を求める事になり、それが、ミーちゃんハーちゃんの大嫌いなマスゲームや組体操の世界でもあるわけです。まぁ、朝鮮人民民主主義共和国では、これがまぁ、気持ち悪いくらいにできるのは、中華文化の影響なのか、アジア共通の文化なのかは、よくわかりません。

           

          朝鮮人民民主主義共和国のマスゲームを見る大韓民国の訪問団

           

          ところが人間は一人ひとり違うんで

          しかし、少し考えてみればわかりますが、実は人間は金太郎飴のような同質的な存在ではありません。金太郎飴だって、よくみれば、実は一つ一つ違ってはいます。一個一個の金太郎あめをよく見てみると、果たして同質と言えるかどうかは、かなり難しいかもしれません。

           

           

          「金太郎あめ」の画像検索結果

          金太郎飴

           

          金太郎あめ以上に、人間はひとつひとつ違います。教育も違えば、家庭環境も違うし、能力も違えば、性格も違うのではないでしょうか。味覚も違えば、音楽の趣味も違いますよね。日本では、割といわゆる”日本人”(何が日本人なのかは議論し始めると収束が付かなくなりがちですが、多くの人々がこれが日本人だと思っておられる人々の集団に属する人々)の割合が多いので、異なる人々(異人さん)と出会う機会は過去は、すくない状態にありました。そして、かなり均質性が高いと人々が思う社会ができていった訳です。しかし、この時期の京都に行けば、実に多様な国から来られた人々で満ち溢れていますし、大阪のなんばに行ったり、新宿に行っても、様々な人々に出会う時代になりました。

           

          さて、先にお話しましたように、一人ひとりは実体的にはかなり違うようにおもいます。とはいえ、軍事行動をする上では、みんながてんでばらばらに勝手に動き始めると、非常にまずいので、近代戦では一致行動、一斉行動させる必要がありましたし、さらに敵味方の判別を容易にするためにユニフォーム(いわゆる制服)が用いられていき、そこにその国の文化があらわれる、という構造がみられました。

           

          第1次世界大戦の塹壕戦の再現動画

           

          日本の学校でも会社でも、制服を着せることが多いですが、アメリカだと一般のメーカーの製造ラインの社員さんや銀行の受付のお姉さんが同じ服を着ている、ということはあまりなかったりしますが、日本では、レジのお姉さんから、ホテルのフロント、銀行の窓口に至るまで、制服の人ってものすごく多くって、同化圧力の強さを非常に強く感じてしまいます。

           

          それは、教会でもかなり似通った構造を持っていて、礼拝の時の参加者の行動パターンでの高い同質性が追及されたり、同一行動、斉一行動をとることをよしとする文化が教会の中にも、あるのではないでしょうか。たとえば、アーメンの言い方であったり、聖書の読み方の独特の抑揚であったり、あるいは、祈りの時の相槌の打ち方、祈るとき手の組み方、もう、言い出したら数え切れません。単に、過去の誰かがある独自の行動パターンを始めて、その行動パターンがほかの信者さんに電波拡散して、その教会のなかで広まり、なぜ始まったのか、だれが始めたのか、なぜそうするのか、といった由来は忘れられても、スタイルだけが残り、過去そうであったから、今もそうであるべき的な過去のスタイルに現代の人を縛るような部分というのはないでしょうか。

           

          産業化時代の思想に閉じ込めないで

          これも、クリスチャン同士の結婚の問題でもいえるように思うのです。確かに、不信者と釣り合わぬくびきを負ってはならない、という言葉は確かに聖書にあります。それを根拠に、日本にキリスト教が持ち込まれた当時の西洋のスタンダードと同じ行動パターンをそのまま持ち込もうとした部分があったように思うのです。そして、みんなが同じ行動をとるのが良い、という産業時代の構造がそのままキリスト教界に無批判に持ち込まれ、信徒たるものすべからく結婚でも何でも、個別特殊性をベースに考えるのではなく、一般性、共通性の追求という形で考えられはしないでしょうか。

           

          不信者と釣り合わぬくびきというのなら、くびきはもともと複数の牛馬が繋がれて、仕事をなすために使うということを考えますと、結婚よりも、仕事を一緒にすることのほうが、フィットするように思うのです。実際中世のカトリック教会が支配的であり交易が少なかった頃のヨーロッパでは、その様な習慣があったようです。

           

          そうなると、不信者と釣り合わぬくびきを追うというのは、不信者と一緒に共通行動をとり、企業の生産行動に組み込まれるための社畜になることなんじゃないですかね、とも思いたくもなります。不信者と一緒に働くことというのは、不信者とくびきを負うことにどうしてならないのか、ということを考えてしまいます。

           

          「社畜」の画像検索結果

           

           

          たしかに、日本の伝統社会の非キリスト的な特異性というのはあり、前回お話しした日自覚的な日本の宗教感覚の中で生きている人達は、11月には七五三という宮参りをし、1月か、その直前の12月には、成人式(昔は藪入りといった)をして過ごしました。誰かが親族がなくなれば、仏教式で葬儀が行われ、一人一人が死者のために、お経を読むと長くなるので、亡くなった方が化けてでないように般若心経なりなんなりの仏教典を参列者一人一人が読み聞かせる代わりとして、お線香をあげることをこれまた強いられるのが、日本社会の現状でもあるわけです。

           

          そういう非キリスト教的な雰囲気が支配的であることと直面する回数が、確かに非自覚的な日本型の宗教感覚を持った配偶者との結婚で増えることは確かですし、その時に厳しい決断を迫られることは確かです。その意味で、かなりチャレンジングなことだからと言って、キリスト者でない人との結婚それ自体を、神に逆らう反逆行為であると、全知全能ではない一介の人間が判断することの適切さはどの程度あるかと言われると厳しいのではないかなぁ、と思います。

           

          「あなたと私は違うんです」発言は、偉大

          あなたとは違うんです、で有名になり、その発言を描いたTシャツまでできた政治家の方がおられまして、多くの方がこの政治家の方のように、自分自身を客観的に見ることができるかどうかはよくわかりませんが、この発言はある意味、すべからく人は同じであるという現代社会が暗黙に持っている前提に対する警鐘をお鳴らしあそばした非常に偉大なご発言だと思います。

           

          あなたとは違うんです とご発言になったそのシーン

          「あなたとは違うんです Tシャツ」の画像検索結果

          あなたとは違うんです Tシャツ

           

          そもそも、神がユニークに一人ひとり異なって関与しておられる以上、十羽ひとからげに、一律で取り扱うことに、そもそも無理があるのと同じように、人生にしても、結婚にしても、就職にしても、一人ひとり本来違う姿というか、それぞれの結婚生活のありようがあるはずなのですが、どうも、日本では、集団的同化圧力の関係からか、一律化の傾向を無理から方向づけるような圧力がかなり強くかかり、ごくごく一般化、単純化して考える傾向はないでしょうか。

           

          つまり

           

          「クリスチャン同士の結婚が問題が少ない」

           ⇒ 「クリスチャン同士の結婚が望ましいことが多い」

           ⇒ 「クリスチャン同士の結婚がすべてであり、それ以外は認められない」

           

          という結婚を取り巻く、ちっと拡大解釈チックな論理が展開してしまっているように思うのですが、その背景には、どうも、この産業革命以降、近代の大量生産、大量消費が一般化した社会の通念というか、社会一般の論理構造の粗さがよく表れているように思えてなりません。

           

          人それぞれ、上の政治家の方のご発言にある通り、「あなたとは違うんです」ということができるのが、ポストモダンの時代の現代的な姿なのではないか、と思うのです。そして、他者の在り方や生き方について、かなり強引な一般化してブルドーザーで地面を踏み均してしまうような論理に異議を唱えることが可能になった時代かもしれません。

           

          次回、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

           

          最近茨城空港で、ガルパンがあちこちに転がっていたのを目の当たりにしたためか、なんか、今回は、ミリヲタまたはプラモヲタ向けの記事になってしまいました。

           

          Hajime Kawamukaiさんの写真

          痛車仕様のタラップカー

           

          Hajime Kawamukaiさんの写真

          茨城空港の出発ロビーの通路の展示コーナーで見たプラモ

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          ピーター バーンスタイン
          日本経済新聞社
          ¥ 771
          (2001-08-01)
          コメント:統計や確率の背景を記した一般向けの読み物

          2018.11.09 Friday

          クリスチャンn世代の若者からのお願い(16) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その4(完結)

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            今日は、松谷編集長の発言に基づきつつ、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

             

            松谷編集長のつぶやきから

            特に松谷編集長のツィートというか、Facebook上に残したコメントの最後の部分は、とても、大事なことだと思うのです。特に宣教にとって。その部分をまず紹介したいと思います。

             

            そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。  (2018年10月1日)

            さて、これを読んで何を考えたか、についてお話してみたいと思います。

             

            しゃべってなんぼの、これまでの日本の

            かなりの部分のプロテスタント系キリスト教

            これまでの日本のキリスト教は、宣教師を通して、ことばを通して、そして口から出る表現を通して指し示されたキリストにより、多くの人々にキリストを伝えるということに慣れ過ぎてきてしまっていると思います。宣教とは、あるいは伝道とは、とにかく何をさておいても、しゃべることであり、宣教することであり、証(お証 これは気色悪い言葉なので、何とかならんかと思っていますが)にせよ、聖書公開にせよ、聖書の解説にせよ、とにもかくにも言葉を使って指し示すこと、もう少しいうと、ことばを使って指し示すこと以外にはない、という状態という傾向にあったわけです。

             

            特に、ドイツ・オランダを経由して、米国から入ってきたカルヴァン系教会・英国ないし北米大陸を経由して入ってきたメソディスト系の様々の教派やの教会群においては、この言葉による宣教が重きをなしてきた部分があります。言い過ぎを恐れずに言えば、ことばによる宣教のみを、宣教としてきた部分があります。特に、米国系の教会では、ウェスレーブラザーズやホィットフィールドといった天幕伝道、大衆伝道の系譜があり、それなりに多くの人々にキリストを指し示すことができた経験もあるので、日本でも、同じメソドロジー(このメソドロジーのもとになった、メソッドという言葉がメソディスト(元はあだ名)の名前の由来)がそのまま流用された部分があると思います。この伝統に載っている人物が、最近亡くなられたビリー・グラハム先輩です。

             

            ウェスレー・ブラザーズ(ジョンとチャールズ イオアンとカルロス)

            http://www.patrickcomerford.com/2013/03/with-saints-in-lent-19-john-and-charles.html

             

            ジョージ・ホィットフィールド http://www.pbs.org/godinamerica/people/george-whitefield.html

             

             

            両手の上げ方が、ホィットフィールド先輩そっくりなビリー・グラハム先輩の銅像

             

            こういう絵面を見てしまうと、聖人のイコンに香を振りかけるのと何がどう違うのかがよくわからなくなる…

            https://www.scmp.com/photos/today-photos/2134344/life-and-times-evangelist-billy-graham より

             

             

            その結果、宣教にせよ、証と呼ばれるキリストを指し示す行為も一種の言語的な行為、コミュニケーション行為に終始し、実践面は、まぁ、二の次、三の次であるかのように取り扱われ、「くらえ、御言葉攻撃」や相手に考える隙を与えないような説得の技術に満ち満ちた「言葉による、信じたといわせるための説得攻撃」が第1義的な伝道方法になってきた部分があります。

             

            でも、本当にそうでしょうか。本当に。… あるいは、それだけでいいのでしょうか。本当に?

             

            まぁ、その辺は、個人の方それぞれの信仰の形、最初に出会ったキリスト教徒の出会いですから、そのままとどまるのも一つ、また、聖霊の風を受けて沖に出てみるのまた一つ、教会から追い出されるようにして出さされるのもまた一つの在り方ですし、まぁ、いろいろなありようがあると思います。何せ、皆一人ひとり違って創造されている被造物なのであって、マクドナルドのハンバーガーや、量産されているカローラとはわけが違うのですから。

             

            ことばだけに依存しない部分も少なくない伝統教派

            元々、ガチ系のプロテスタント教会にいて、ガチ系の福音派の教会にいた人間だったわけですが、アメリカにいったころから、多様な教派的伝統の教会に触れ、そして、工藤信夫さんの主催する牧会事例研究会、関西凸凹神学会での、牧師さんや神学生の方々、様々の信徒さんとの交流をとおして、そして、過去の自派の教会の調べるうちに、様々な教派的な伝統を調べることになり、アングリカン(日本では聖公会)、カトリック、正教会までさかのぼってみると、伝統三教派と呼んでいる、正教会、カトリック、アングリカンなどでは、説教や言葉による宣教というよりは、神の国は力にある(口語訳聖書 コリントI  4:20 ”神の国は言葉ではなく、力である”)というタイプの宣教(もちろん、それには、植民地的な支配や宗教的支配による暴力といった、悪い面を過去含んだことも多々ありますが)や、儀式やイコン、教会堂という建物といった非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)が多用されてきたことを知るようになりました。そして、多くの『神の国は力である』と示した信仰上の先輩たち(それを聖人ないし聖徒という)とその行為を象徴するブロマイドのようなイコンに込められた意味を知るにつれ、本当に、宣教は言葉主義でいいのかどうなのか問題が課題になってきた部分があります。

             

            キプリアヌス先輩のイコン https://denzingerbergoglio.com/quien-juzga-a-francisco/san-cipriano-de-cartago/

             

            実際、下部で紹介するロドニー・スタークの『ローマ帝国とキリスト教』という本では、初期のローマ帝国からの度重なる圧迫あるいは迫害で抹殺されそうになったキリスト教が生存可能であったわけは、信者のコミュニティで、当時の弱肉強食の論理が支配したローマ帝国内で、打ち捨てられて、死んでいくのが当たり前であったような、病者、行き倒れ、社会から排除された人々の具体的ケアを行うことで、これらの人々が元気になり、力を取り戻し、奇跡のように社会復帰していくのを見た人々が、何らかの魔法、奇跡的なパワーがキリスト教にあると思って、自然に吸い寄せられてきた可能性を指摘しています。

             

            つまり、カトリック教会や、正教会などの伝統というか、これらの系譜に属する聖人たち、あるいは聖徒たちは、もちろん言葉による宣教もしたのではありますが、それと同時に、実際に人々に教会に力があり、本当の困難からの解放があることを示したのです。また、迫害の中でも存続していくことで、そこに何らかの価値があることを示し続け、そして、多数のキリストに倣った聖徒(聖人)を生み出していきました。そして、単なる概念や宗教的行為の体系に過ぎない、ということではないことをそれぞれの行動を通して、証というか、実証していったといえようか、と思います。その伝統とその理解は、これらの3教派には、かなり強く残っています。もちろん、ローマ帝国の宗教となることで、コンスタンティヌス型キリスト教として、支配者、支配する側の論理として機能した、という側面を忘れてはならないとは思いますが。

             

            つまり、ローマ帝国で何度も抹殺されそうになりながら、サバイブできたキリスト教は、内面的に、また、外面的に、多くの人々が、「これは何?」と思うようななかなか魅力的なものを持っていたと言えると思います。そして、なかなか魅力的だからこそ、スタークの本の副題にあるように、ローマの辺境のユダヤの、さらにその辺境のユダヤの片隅であるガリラヤで生まれた「小さなメシア運動が帝国に広がった」のだと思います。もちろん当代一流の修辞家としての側面を持ったパウロ先輩がいたとか、という側面がありますが、それ以外のキリスト者全員がレトリックに富んだ論理構成ができたわけでもなく、それでも広がったのは、多くの人々がキリスト教とキリスト教徒の集団を「なんか魅力的」と感じたからに他ならないように思います。

             

            今のキリスト教会は魅力的か?

            仲良くしていただいている海外に在住している日本人向けの伝道団体で奉仕しておられるZumZumさんという方がおられるのですが、その方とこの前、京都でご飯食べながら、そして、お茶しながら散々しゃべっていたのですが、海外に出た非キリスト者の方々が、教会に行って、その教会の美しさ、そして、そこにいる人たちの魅力に惹かれて、教会に行くようになる、というのです。

             

            もちろん、海外にいると、日本でその人たちが持っているような友人、家族という人間ネットワークがはぎとられ、その人が本来日本国内で持っていたはずのソーシャルキャピタルが完全に失われてしまうために教会に来る人々もいるのですが、ZumZumさんが言うには、自分たちは、困っているから教会に来るのではない、自分たちは困っているわけではなく教会に来たいのだ、ということを言う人々がいるそうなのです。教会とそこにいる人たちと、そこで行われていることが麗しく見えるからこそ、教会に来ているのだ、というのだそうです。

             

            ある面、これって、本来的な姿のような気がします。つまり、リアルな実際の姿による、生きていることを通しての、教会に集まっていることを通して何かが著わされていることによる宣教が行われている、ということなのではないか、と思います。

             

            N.T.ライトさんのある講演動画で、ライトさんが、ダラムのビショップだったころ、ロンドンで働いているの娘さんがそのお友達を連れてダラムのカテドラルに来て、内部を案内したところ、教会にもあまり言ったことのない金融機関かなんかで忙しく働いている女性の方がカテドラルの美しさに触れて、ボロボロ泣き出した、というエピソードを聞いたことがありますが、美しいこと、麗しいことが人の心を動かし、そして、そのことがキリストに目を向けさせることもあるのだというお話をしておられましたが、さて、日本の教会は、果たして多くの人たちに美しいものとして映っているのかどうか、魅力的なものとして映っているのかどうか、行きたくてたまらないものと映っているのか、観光地の一つとして考えられているのか、どうなんでしょうね。

             

            「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

            ダラム大聖堂の内部

             

            「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

            ダラム大聖堂の天井(世界遺産らしい)https://www.durhamworldheritagesite.com/architecture/cathedral より

             

            その辺、これからのポストモダンの時代、ポストコロニアルの時代に向かっていく日本社会の中で、個別の教会が、そして、個別のキリスト者が、きちんと考えておくことは必要なような気がするのですけれども。

             

            誰だって、美しい、麗しいと思えばマネしたくなるわけです。美しいものは、レールを自分で引いてでも、そこに行きたくなるわけであって、本来行きたくないところにひかれたレール通り、過去の誰かがこれがキリスト教だと思うところに向かっての相当前にひいて、ずいぶんがたが来ていて、ガタゴトいう運行しずらいレールの上を半ば強制的に、無理矢理に走らせるのは、もう、皆さんおいやだと思っておられる方が多いからこそ、日本の教会に若い人がいつかない、という側面は本当にないんでしょうかねぇ。

             

            海外から帰国したキリスト者として日本の教会に来る若者が定着しきれない原因としては、日本の教会の信者さんとその信仰者としての姿がいかに美しくても、また、その教会の礼拝のスタイルがいかに美しいものであっても、日本の教会が自分たちの教会のやり方にこだわったり、信仰者としてのあり方や姿、礼拝のスタイルに拘ったりして自分たちが走ってきた大分時代遅れになっている運行しづらいレールの上を走れと言って、新しい世代の礼拝の姿を一顧だにしなかったり、そのような自分とは違う礼拝のスタイルを持つ人々を異物視したり、自分と違う信仰スタイルを持つ人々を受け止めてない部分はないでしょうか。

             

            教会の話ではないですが、アメリカの大学の環境科学の大学院で教えていたときのことです。ある自然保護団体にある日本語に問題がない日系アメリカ人が夏休みにその団体の活動に参加しようとしたら、その日本の環境保護団体から、「一見さんは困ります。自分たちのやり方を自分たちは続けたいし、他の文化的背景の人々を受け入れたくありません、自分たちの文化は変えたくないので、参加はお断りします」というお断りが来て、ご相談に乗らざるを得なかったことがありますが、それと同じようなことが日本の教会にはないでしょうか。

             

            ナウエンの書籍から

            この前の牧師さんとの研究会で、ナウエンとガフニーの『闇への道・光への道』とうい本の一部をご紹介したのですが、その中にこのような一文がありました。

             

            最大の関心は、利潤にあり、という社会では、高齢は一般的に名誉あるものとはされない。なぜなら、真の名誉とは何かを考え出したら、この社会を調子良く動かしている価値の序列が崩れ始めてしまうからである。(中略)こう考えると、時として、権力を握っている人々が差別という運命を逃れるため、それまで持っていた財産、権力、影響力をなんとしてでも保ち続けようとするわけがわかるであろう。抑圧される側でなく抑圧する側になろうとしているのだ、教会や国家で権力の座にある老人たちがしばしば必死で、時代遅れの観点やふるくなった習慣に固執して、真の成長や発展をさまたげているのを見て、「ほんとうのところ、権力と自己が一体化してしまったこの人々は、この業績第一主義の世界で自分に残されたたった一つの、どうにか通用する手段にしがみつくことで、自己の連続性を保とうとしているのではないか」と考えても、外れてはいないだろう。この人々も、社会的には運に恵まれなかった同世代の人々同様、老年の犠牲者と言えよう(ヘンリー・ナウエン ウォルター・J・ガフニー 『 闇への道 光への道 年齢(とし)をかさねること 』原みち子 訳 訳 p.31)

             

            日本の教会が全てそうだとは言いませんが、一部の教会では、業績第一主義に縛られ、教会という小さな社会集団内でのみ唯一通用する手段にしがみつくことで、自分とは違う価値観を持つ人々の犠牲の上に自己の連続性を保持しようとしておられないことを心から望みたいと思います。

             

            厳しくても、美しいと思えば、大変でも価値があると思えば、人はそれに積極的に関与していくのではないでしょうか。その価値の源泉を抜いて、これがレールであるからこの上を問答無用で走れ、というようなことを教会がしていないことを、心より願いつつ、この連載を終わりたい、と思います。松谷編集長のその逆もまたしかり、ということは、そういうことかもしれないなぁ、と思いました。

             

            ということで、一旦この4回で、この連載は終了します。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            評価:
            価格: ¥ 3,456
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:数理社会学的な観点から、ローマ帝国下の初期キリスト教の存在を実証的に暑かった良書

            評価:
            ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
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            (1991-12)
            コメント:いい本なので、再販されることを願いたい、と思います。

            2018.11.12 Monday

            『暴力と人間』の出版記念 対談会の模様がMinistryに掲載されます

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              先月、このブログでご案内いたしました工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会が、宗教と暴力を扱った、次の11月20日発売(たぶん、首都圏では、連休中、地方部では、11月の最終週発売になりそう)のMinistyの記事(番外編)になります。

               

              どんな記事になっているか

              ご参加いただき、ご発言いただいた皆様、ありがとうございました。個人情報や個人が特定されかねない部分を除いた形で、お話し合いの概要が掲載されることになります。あの記念対談会のかなり突っ込んだ議論が、見事にエッセンスだけ抜き出された記事になっていました。本当に、ここまでしていただくのは大変だったと思いますが、ただ、ちょっと当日も強調し忘れたことがあったので、ここで、もう少し触れておこうか、と。

               

              というのは、オウム事件というのが、キリスト教と必ずしも無縁でない、ということでございます。いや、むしろ、オウムが抱えた特殊な終末観とオウム自身の組織的な構造が実は、キリスト教会でも見られうる、ということについてです。

               

              オウムの終末思想

              オウム真理教はある時点から、非常にキリスト教の影響をその教義の中に取り込んでいきます。そもそもは、インド風のヨガグループとして始まった「オウム神仙の会」がオウム真理教になり、真理党という政党まで結成し、国政選挙に打って出てたものの、全員泡まつ候補扱いを受け、惨敗し、その挙句の果てに、ポアと呼ばれる転生を善行とみなし、さらに、武装革命・暴力革命まで夢見るようになり、サリン事件やVX事件まで、引き起こしていったわけです。

               

              日本の新興宗教、新新宗教によくみられるように、これまでの既存宗教の教義を自分たちに都合よく取り込みつつ、その教義を形成しており、末期オウムの時期には、「キリストのイニシエーション」という表現や、「キリスト宣言」という本を出したり、武装革命を正当化するために、メギドの丘、というヘブライ語由来の黙示録中の表現「ハルマゲドン」まで言及するようになりました。

               

               

              オウム真理教が出したキリスト宣言

               

               

              オウム真理教の関係者が出したハルマゲドン

               

              1990年代という時代

              ちょうど、ミーちゃんはーちゃんは、大学生時代に世田谷道場がテレビで報道されていましたし、大学院にいたころには、ちょうどオウム真理教が真理党を結成したような時期がございました。その後、関西の学校に奉職して、しばらくしているうちに長野サリン事件、VX事件、そして、警視庁長官狙撃事件、上九一色村のサティアン一斉捜査がおき、なんだかきな臭い時代になったと思っていたら、みなと銀行の前身の金融機関や、木津信用金庫の経営破綻問題に端を発した、金融危機が起きたので、のんびりとこの問題を考えている暇がなくなり、都市銀行が、あれよあれよというまに、4行にまで減ってしまいました。

               

              まさに、2000年前後というのは、日本の金融機関にとって、ハルマゲドンか、終末キタ〜〜〜〜という感じであったわけです。その傷は、いまだに完全に癒えておらず、現在でも日本の商業銀行、間接金融機関の融資姿勢は、非常に(より正確に言うと、異様に)慎重な雰囲気があって、いくら日銀が空前絶後の金融政策で、実質上のマイナス金利で日銀券を市中銀行にばらまいても、一向に融資に回らずに、せっせと国債買いまくるという実に不健全な金融ビジネスが、都銀は、最近収まりつつあるものの、第2地方銀行協会加盟行ではいまだ有力な投資先になったまま、という状態になっているようです。詳しくは、こちら。

               

              オウム真理教とキリスト教会の構造の類似性

              オウム真理教とキリスト教会とは、似ても似つかぬ存在のように思えますが、教会内部を見ていると全く類似性がないか、というとそうでもないところがないわけでもないように思います。もちろん、カルト化したキリスト教会では類似しているのはある面当然なのですが、必ずしもカルト化しているとまで言えなくても、似ている部分があるように思うのです。

               

              それは、承認を人間である身近に存在する人間に過ぎない宗教指導者に求め、そして人間を神格化してしまう、という部分です。オウムの場合は、先にも紹介した画像で紹介いたしましたように、麻原彰晃を尊敬するあまりなのかどうなのかはわかりませんが、キリスト、救世主、メシア扱いしてしまっています。

               

              オウム真理教の場合、高弟たちの間で、麻原彰晃の寵愛というよりは麻原彰晃からの評価を求め、より過激な行動やプランを目指すことで、教団全体の行動が過激化した部分があったと思います。一種の集団ヒステリーと言いますか。より過激なアイディアや行動をすることで、指導者からの評価を受けるために目立とうとするという。

               

              これは、キリスト教会でも起きかねないことではないか、と思うのです。例えば、信徒が競い合うように奉仕し、その挙句の果てに、奉仕が過激化するとか、あるいは聖書を読む分量を競い合い、心にも、魂にも、頭脳にも何も残らないまま、どこまで聖書を読み進んだかを競ってみたり、そういうことが起きている教会もないわけではないと思います。もちろん、大半の教会は、そんなことは全く無関係にただ単に、キリストに生きていることを喜んでいる人の集まり、という側面のほうが強いのですが。

               

              一般社会でもある過剰適合

              とはいえ、似たような現象は日中戦争時に起きています。国家への忠誠をお互いに競い合うようになり、不埒だと思った市民に集団いじめまがいの行為に及んだり、現在のPTAでも、PTAへの関与がどんどん過剰化して、PTAの本来の目的が忘れられているかのような、PTA活動が目立つ組織もないわけではないようです。

               

              なぜ、これが起きるか、と言われれば、現代社会の中での過激化の場合、社会相互の中での相互評価、社会の中での承認要求の歪んだ表れが、このような結果を生むように思います。

               

              ではどうすれば?

              このような結果となるのは、多分、我々が人の目を過剰に意識しすぎ、神の目を過剰に意識していなさ過ぎている部分にあるように思うのです。その意味で、我々が、人の目を意識して何かをするという習慣を手放す必要があるように思うのです。その意味で、もう一度、キリスト者がどのような存在であるのか、ということを自分自身に問い直してみる、ということが必要なのではないか、ということを考える必要があるのかもしれません。その部分は、この雑誌の記事でも、きちんと拾ってくださっているので、ぜひ、その部分をお読みいただき、お考えいただければ、と思っております。

               

               

               

              表紙

              目次ページ

              1ページ目だけ

               

               

               

               

              2018.11.14 Wednesday

              プロセスとしての信仰、決断としての信仰(1)

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                先日公開した

                 

                 

                では、結婚を起点として配偶者が結婚に当たって信者であることが問われることについて、思うところをたらたらと述べてきましたが、Facebook上のミーちゃんはーちゃんのコメント欄では、さまざまな事例が報告されました。

                 

                Facebook上のコメントから

                その中で、ミッション系の小学校に入学するために洗礼を受けて、その後、一切教会に顔を見せない事例とか、まぁ、さまざまな事例が紹介されました。こういうのは、キリスト教徒あるいはクリスチャンといえるのだろうかどうか、ということを問うものでした。

                 

                まぁ、にわかで始まって、にわかで終わる人(種まきのたとえで言うと、道路の道端にまかれるタイプ?とか)、キャンプに行って信じた気になるものの、キャンプが終わった瞬間に元通り(ミーちゃんはーちゃんのかつての姿w)に戻るタイプ(茨の中にまかれたタイプとか)、本人の努力や意思とは全く関係なく、よき地にまかれてぐんぐん育つタイプとか、まぁ、一口にキリスト者もどき、クリスチャンもどきにも、色々あるわけでございます。さすが、イエスさまだけあってたとえが面白いなぁ、と思いました。

                 

                 

                 

                まぁ、結婚するために信仰者になりたいといって、信仰を全うするタイプの方も見てきましたし、まじめな信仰者だと思っていたら、とんでもないDV夫とかもおられたりしますし、まぁ、世の中、色々なわけで、一般化する危険性も前回の一連の記事の中で触れました。

                 

                今回は、ある時間断面できって、観測し、その時点の標準でのみ判断することの危険性を考えて見たいと思います。

                 

                プロセスとして生きる中で日々告白する信仰者からの素朴な疑念

                個人的には、信仰というのはプロセスだと最近は思っています。一瞬のある時間軸で切断して、その時点でのみ観測される事実に基づき議論したら、まずい部分があるのではないか、と思うのです。

                 

                特に、結婚相手の配偶者を選ぶときにある一時点で、信仰告白(その内実がどうであれ)「イエスを信じた」「イエスを救い主として信じた」と公に表明しているかどうかだけが問題になり、その内実を問わないような側面が決断主義にはあるように思います。実際に、ミーちゃんはーちゃんも永らくそのような決断主義的キリスト教を信徒説教者としての生き方を続けてきました。今となっては、ほとんど黒歴史みないな過去で思い出したくもないですが。

                 

                この決断型の信仰告白は、アメリカ系のキリスト教によくみられるタイプのものです。このタイプのキリスト教(これもキリスト教だと思っています)の場合、イエスを信じたということを人前でいうことが何より重要視されている側面があります。このようなスタイルが生まれてきたのは、アメリカでの伝道、宣教と呼ばれる方法が、前回もご紹介したようなウェスレーブラザーズあたりからジョージ・ホィットフィールドを経て、そして、2世の砲のウィリアム・フランクリン・グラハム先輩にいたるまで連綿と続く、野外伝道集会と呼ばれるヨーロッパから新大陸に渡ってきた移民を中心とする非自覚的なキリスト教徒が再び奮起する(リバイバル)するような形で、キリストへの再回帰というか、大人としての明確な回心を表明させるという文化の中ではぐくまれてきたものだと思うのです。

                 

                『イエスを信じたといわせたら、一丁上がり』というキリスト教

                KDK神学会という大阪の枚方(『まいかた』ではなく、『ひらかた』、と読みます)市で開かれている牧師信徒の研修会や工藤信夫さんの牧会事例研究会でお世話になっている牧師先生が、その研究会であるとき、こんな話をしてくださったこと(大意)があります。「私たちがやってきた伝道活動、あるいは宣教活動は、何がなんでも『イエスを信じた』と言わせるようなもので、『イエスを信じた』と言わせれば信仰者、クリスチャン一丁上りみたいなものであった」と。それこそ、ラーメン屋さんのラーメンや、あるいは豆腐屋さんの木綿豆腐なのか絹ごし豆腐でもあるかのように信仰者をとらえている側面が、示されるような表現であるようにも思います。

                 

                この牧師先生は非常にまじめな方で、非常に良い方なのですが、ご自身の過去の伝道というよりは宣教の在り方を反省して、悩み、迷っておられるお姿を時々垣間見させてもらっています。その方が別の時におっしゃたことで印象的であったことがあるのですが、信徒の方から、「クリスチャンは神様がそばにおられるので、迷ってはいけない、悩む必要のない存在なのだから、先生がそんなに迷ったり悩んだりしないでください」と言われることがある、ともおっしゃっておられました。そんな一度「わたしはイエスを信じる」といったことぐらいで人間は変わったりはしないはずなのですが、どうも、アメリカ型のキリスト教の影響の強い信仰者の方々だと、イエスを信じるといった瞬間に一気に、不動心を持ち、何事にも動じない完璧なクリスチャンの出来上がり、あるいは、牧師は、そのようなキリスト者の範たるべし、というイメージをお持ちの方も少なくないようです。確かに、そういうことを思わせぶりな聖書箇所はあります。例えば以下のローマ人への手紙は、そういうニュアンスを感じさせるかもしれません。

                 

                【口語訳聖書】ローマ人への手紙
                12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

                 

                神には不可能はない、と書いてあるけれど…

                これって、本当に一瞬にして作り変えられるんでしょうか。確かに、聖書には、「神には不可能なことは何もない」と書いてはありますが、一瞬にして、人を変えてしまうことは本当に、神の方法なんでしょうか。そして、信仰告白した瞬間に、完璧な存在に作り替えられ、その造りかえられた完璧な人間が出来上がるのでしょうか。そして、悩むこともなく、迷うこともなく神の特攻隊のような感じで、様々な困難を強行突破できるタイプの人に代わるといえるのでしょうか。本当に?

                 

                でも、福音派界隈を徘徊しておりますと、そのような言説を時々お聞きすることがあります。そして、信仰さえあれば、不可能はない、というナポレオンの発言まがいのようなことをお聞きしたりします。確かに神には不可能はないと書いてありますが、人間に不可能はないのでしょうか。信仰告白したくらいで神と等しいものになるのでしょうか。むしろ、我らは、神の養子に過ぎない、神に受け入れていただいたものに過ぎない、という現実があるのではないでしょうか。

                 

                個人的には、上にも書きましたように、キャンプの度に何度も信仰告白しなければならず、キャンプから帰ればすぐ元の木阿弥七日、元の姿に実に簡単に戻るふがいない信仰者だったこともあり、本当にそのような厳しい仮説というか、前提は成立するのかなぁ、と思います。

                 

                決断主義の教会からプロセス志向の教会へ移って気が付いたこと

                元々いた決断主義的な教会の中で長らく過ごしてきたのですが、まぁ、その決断主義的な、あるいは断定的な聖書解釈のアプローチを持つ教会の中で、プロセス志向の信仰形態の話をし、さらに、あまり断定的な聖書解釈のアプローチをとらなかったことなどから、かなり、指導方針の対立に巻き込まれ、結局、陪餐停止を総会でご決議いただく、というありがたい目に合わせていただいて、アザゼルのヤギのように、荒野に放っていただき、流れ着くように、かなりプロセス志向の強い現在のアングリカンの教会にたどり着きました。

                 

                【口語訳聖書】 レビ記
                 16:7 アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、
                 16:8 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
                 16:9 そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
                 16:10 しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。

                 

                アザゼルのヤギのように荒野なのか、豊かな乳と蜜の流れる地であったのかは、わかりかねますが、教会を放浪するなかで、様々な伝統的教会の中に同一の信条を持ちながらも、様々な信条の告白スタイルを見ることになりました。

                 

                その様々な教派的伝統の中で生きてみる中で、特に、アングリカンの教会で覚えたのは、様々な信仰告白を毎週、声に出していってみることで、自分自身の信仰をもう一度見直してみる機会を定期的持ち、自分自身の信仰のプロセスを見直してみる、何のために、自分が生きるように招かれているのか、ということです。


                 

                正教会の信仰告白(ニカイア信仰告白)

                 

                ラテン語による使徒信条

                 

                アングリカンのチャントによる使徒信条

                 

                アフリカ風の使徒信条(ナイジェリアのカトリック教会の放送局製作

                 

                現代アメリカ風の使徒信条の内容を讃美歌にしたもの

                 

                信条を言う中で、自分の信仰が何なのかを毎週問うというプロセスの経験

                ニケイア(ニケア)信仰告白や、使徒信条、バプテスマの際の告白、などなど、様々な告白を繰り返し繰り返し、季節の巡りに合わせて、教会暦に合わせて、同じ式文を繰り返し読むというプロセスの中に自ら身を置いてみて気が付いた、というよりは、わかったことは、この信仰告白、使徒信条等、毎週自分たちが何を信じているのか、ということを繰り返し、繰り返し言うことで、自分たちが何を信じているのか、ということを確認していく中で、同じ言葉を繰り返す中で、自分たちが何を信じているのかを思いめぐらすというプロセスを経る中で、信仰あるいは神との親交を深めている、ということを経験したのでした。

                 

                とはいえ、クリスチャン、イッチョ上り型の信仰の場合でも、確かに受洗教室でキリスト教徒が信じていることを習いますし、また、ウェストミンスター小教理問答集、大教理問答集 アウグスブルグ信仰告白など、それぞれの教派が大事にしている伝統を学ぶが存在しますし、また、日々の説教の中で、キリスト者として信じていることを再確認するわけですが、しかし、「イエスを信じたといえば、イッチョ上り」型の場合、一度、『イエスを信じた』といわせてしまえば、問答無用に一瞬にして、その瞬間に、聖く正しく、完璧な存在になるというような発言をする方々も時にお見掛けしますので、本当にそうなのか、と思ってしまいます。

                 

                もう一度、種まきのたとえをよく思い出してみると、植物の成長をメタファーにしているわけですから、そもそも、あのたとえ話自体、信仰そのものがプロセス志向であることを示しているように思います。

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                2018.11.17 Saturday

                プロセスとしての信仰、決断としての信仰(2)

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                  このシリーズの最初の記事では、キリストを信じた、といわせれば、あたかも一人前の完璧なキリスト者ができるのかどうなのか問題(個人的には、できない説。個人的にはプロセス志向型の信仰も大事だ、と思っているため、仮に完璧なキリスト者でなくても、キリスト者だと思っているという理解に立っていること、また、キリスト者の姿が多様であることを考えると、必ずしも完璧ではない状態であっていいと思っていること)について、また、元々はキリストを信じた、と言えばその瞬間から、完全なキリスト者がになるというような理解が多くの人々に共有されている状態に近い教派から、伝統教派に移り、プロセスを経て信仰を成熟させていくことを味わう経験をしていくなかで、日々感じていることについて、少し書いてみました。

                   

                  本日は、このある種の決断主義的なキリスト教が持ちやすいある種の問題について、少し触れてみたい、と思います。

                   

                  「生きている最後の瞬間に言えばよくね?」という素朴な疑問

                  この決断主義的な信仰を強く言う場合、人生の大半はそれぞれの生き方をしていて、人生の終わりが近づいたときに、「私はイエス・キリストを信じます」といえばいいではないか、という素朴な疑問を持つ人々が出てくることも確かです。決断主義的な側面に重きを置くキリスト教の場合、荒っぽい議論をすれば、口で「イエスを信じます」といった瞬間に(ムスリムみたいに複数人の前での告白を必要としない、とする場合もありますので)罪が完全に帳消しになって、その瞬間に完全に罪が全部なくなり、神の子ができあがるタイプの救いとなりかねないわけです。もし、このようなものが罪からの解決をつけるための方策であるのなら、死ぬ前に一回誰知るともなく発言して、過去を帳消しにしまって終わりにすれば、良いことになりかねません。そうできるのだとすれば、キリストを信じた、と告白する前に、人生の大半を何に制約されることなく、好き勝手に生きて過ごし、人生をわが世の春と謳歌できることになります。その上で、死ぬ前に一言「信じます」といいさえすれば、キリスト教のあるグループの言う救いまで、挙句の果てに手に入るのですから、これほど、ありがたいことはないことになります。

                   

                  まさに、死ぬ直前に信仰告白すれば、No Problemoになりますね。w

                   

                   

                  このような死ぬ前の告白の可能性というワンチャンスにかける生き方、あるいは考え方については、ある意味機会主義的な生き方、機会主義的な人生観ということができるように思うのですが、決断主義を究極まで極めていくと、実際にこうなりかねない危うさがあるように思います。つまり、決断主義的なキリスト教の論理構造の内部には、このような危うさが多少なりとも含まれているように思います。

                   

                  機会主義者に対する抵抗のために弄した詭弁

                  そして、ある意味、現代の機会主義的な生き方をする人々は、自己の短期的利益の最大化がすなわち人生の利益の最大化につながると考えやすい傾向があるのではないでしょうか。自己の人生を、瞬間的な幸福についての時間的な総計で測ろうとするような人々の場合、瞬間瞬間、自己にとって都合のよいことを求めることで、自己の人生にわたる幸福の最大化を図ろうとする人々に対して、決断主義的信仰を持つ人々の聖書理解は、まさに、人生の最後に「イエスを受け入れた、イエスを信じた」といえば、それで問題がない、というようなものになりかねない側面をもっているように思います。このような機会主義的な立場に立つ人々に、早い段階でイエスを信じていきる意味を、決断主義的なキリスト教からは、ほとんど提示できないのではないか、と思うわけです。

                   

                  まぁ、色々、信仰者との交わりがあるとか、神からのこの地上での、金銭的な豊かさや、精神的な安定といった形での祝福が来るから、早い段階で信仰告白をした方がよろしいとか、おっしゃる方がおられますが、「いや、それ。言って、キリスト教的に大丈夫ですか」といいたくなるほどのかなり大胆な論理が展開される場合が多いように思います。

                   

                  まぁ、以前は、ミーちゃんはーちゃんも上で述べたような決断主義的な聖書理解に立つ教会に居りましたもので、この種の論理については、「うーん、このような論理構成はキリスト教としてはいかがなものか。かなりNGに近いのではないか」とは思いつつも、そのグループの中にいたという立場もあり、ある種の詭弁を弄しておりましたことは、この際、正直にお認めしたいと思います。まぁ、それでも、キリスト教の基本概念から、相当ずれた部分を持っているというものの、キリストを指し示そうとしている意味において、キリスト教だったとは思っていますし、現在そのようなお取り組みをしておられる方々も、キリスト者だとは、今なお、おもっておりますが。

                   

                  死亡宣告が出る前に「信じた」と言わせたいご家族

                  このような、告白主義に偏って立つ場合、何が問題になるかというと、病床にいる病人に向かって、お見舞いのたびに、善意からとはいえ、「もう信じたか」「早く信じないだめだ」とかいう人々や、「今信じないとと地獄が待っている」といったような、半ば脅し交じりの文言をいう人々が出てきてしまう可能性が無きにしも非ず、という部分があるようにも思います。

                   

                  素朴な信仰を持っていた家人は、小学生だったころ、まだ、信仰を持っていない家人のある程度高齢に達しておられた祖母に「おばあちゃんがイエスさまを信じないので、じごくにいってしまうので、かなしいです」と年賀状に書いて、家族内での一騒動を起したことがあるほど、素朴な信仰の持ち主(昔から、すねて、ひねくれているミーちゃんはーちゃんとは訳が違う家人ですが)であったようです。告白主義に立つ場合、素朴な人がこういう悲喜劇を、おこしかねない危うさをはらみかねないと思うのです。

                   

                  特に、重篤なご病気になられた人に対して、お見舞いと称して折伏活動なのか、釈福活動なのか、伝道活動なのか、宣教活動なのかは、見方や立場によって印象や呼び方は異なるでしょうが、「やれ信じろ」「それ信じろ」「さぁ信じろ」「はよ信じろ」とかやられたのでは、病人としてはたまったものではないのでは、と思うのは、私が告白主義による魂の救いとその実現にあまりにも熱心でないからなのかもしれません。

                   

                  病者への訪問

                  個人的に病気の人に対するお見舞いを否定するわけではありません。確かに、病者へのお見舞いは、聖書の中にもイエスに出会うことであるとイエスの言葉として明記されています。

                   

                  【口語訳聖書】マタイによる福音書 25章
                   31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
                   32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
                   33 羊を右に、やぎを左におくであろう。
                   34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
                   35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
                   36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
                   37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
                   38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
                   39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
                   40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 

                   

                   

                  病人によっていくイエス https://bloggerpriest.com/2011/02/23/anointing-of-the-sick/ より

                   

                  しかし、もし、そのお見舞いが、信仰者にさせるためのお見舞い、信仰告白を無理やりさせるためのお見舞いとか、何でもいいから、信仰告白させるためのお見舞いとか、そういうのはどうなんでしょう。病人を見舞うのは、信じた、と言わせるためって、おかしくないですかねぇ。痛む人とともに痛み、泣く人共に泣くために行くんじゃないですかねぇ。

                   

                  個人的に、以前いた決断主義的な教会にいた時分は、お見舞いに行くと、お見舞いの相手が、ノンクリスチャンの場合、決断を入院患者相手に迫らねばならない感じがどうもして、とても嫌な気持ちになっていました。

                   

                  判断力の鈍った人に「イエスを信じた」といわせる意味って?

                  実際、ある高齢のやや痴呆になりかけ気味の80歳越えのかなりご高齢のご両親と同居しておられた方から、10年以上前、「我が家の両親のところに行って、伝道してもらえませんか?何でもいいから、イエス様信じたといってもらいたいんです」とお願いされたことがありました。こうお願いされた方は、どうも、ご自分がキリスト教徒なので、キリスト教式で葬儀をしてもらいたいという背景含みでのご依頼だったように記憶しています。

                   

                  「うーん、それは・・・」どうなんでしょう。まぁ、判断力が鈍った方に、うまく話を持っていって、確かに、「私はイエスを信じた」といわせることはできるかもと、一瞬、チラッと思いましたが、それって、弱り目につけ込むような機会主義的なやり口なので、個人的にはあまり気乗りせず、そのままにしているうちに、ご依頼された方が、割とお若く(60才前)して急病になられ、そのままご入院、そして、お亡くなりになられたので、沙汰やみになってしまいました。

                   

                  歴史家に「もし」は禁句だとは言いますが、伝道なのか、宣教なのかは知りませんが、語り手が、相手の方にうまくお話できたことで、判断力の鈍った方が、もし、「イエスを信じた」といわせることができたとすれば、どうなるのでしょう。説得のための、ありとあらゆる方法を駆使してまでも、半ば強制的に「わたしはイエスを信じる」と言わせてしまった、ということをどう考えるのか、ということをこのちょっと変わったご依頼は、私に突きつけました。そして、こういう判断力の鈍った方に半ば無理やり言わせた「イエスを信じた」というような告白、それは、信仰告白に値するのか、という問題です。

                   

                  この問題は、先の死ぬ直前に『とにかく「私はイエスを信じた」といえばいいんでしょ』的な機会主義的な行動パターンとよく似た問題でもあるように思います。要するに、残された遺族が安心するために無理やり言わせている、という側面はないでしょうか。あるいは、葬儀といういざという場合にキリスト教式で葬儀ができるように、その場面に間に合うように、という意味で、ある意味機会主義的な匂いがあるような雰囲気を、ちょっと感じてしまいます。

                   

                  めんどくさいことを回避するために「イエスを信じた」と言った人はどうなるのか?

                  『福音の再発見』という本の冒頭に、著者のスコット・マクナイトが若いときに爆発伝道という伝道方法のプログラムに関与している人の一人として、夕食の時間帯に他所のお家に訪問して、食事をしている人に「イエスを信じますか」としつこく聞き、食事をしている人があまりに面倒なので、早くマクナイトたちを帰らせるために「はいはい、信じました」と言ったので、一旦そのおうちを退去したことが書かれていました。そして、この本の著者のマクナイトさんのグループが教会に帰って訪問先のご家庭で信じたという人がおられたことを他のチームの人々に報告したら、教会の人々が大変喜んだ、というエピソードが記載されていますが、とにかく、めんどくさいことに巻き込まれることを回避し、食事に戻るために、他の人の前で「イエスを信じた」と言うという、また別の種類の機会主義的な人々の場合の信仰告白は、どうなるんでしょう。確かに、イエスを信じた、と告白はしているわけです。とにかく。動機はどうであれ。

                   

                  こんな感じで熱心に喋ったんでしょうかねぇ。夕ご飯時に他人の家で…

                  http://www.skywriting.net/inspirational/humor/the_perfect_pastor.html から

                   

                  形式論理から言えば、間違いはありません。他人の前で、口で信じたと告白しているわけですから、このタイプの人は、信仰者である、ともいえるわけです。前回ご紹介したような、ミッションスクールに行くというメリットを目指して、信仰告白した人と、おいしい食事をフットボールの試合を見ながら、早く続けたいというメリットを取り戻すために、信仰告白した人は、そのメリットはだいぶん違いますが、結論だけ言えば、両者とも何らかのメリットを目指して、いわゆる『信仰告白』をしているわけですが、外形基準からは、信仰告白した人になるように思います。

                   

                  そういう意味で、ワンショットの時間断面、ある時間断面の状況のみで考える、ということはおかしいように思いますし、また、とりあえず、「私はイエスを『信じた』と言わせたら勝ち」というタイプの理解には、ちょっとおかしさが無いわけではないように思うのです。

                   

                  決断主義の問題『早く天国に行きた〜い』・『早く天国に行けるのだから、いいじゃない』

                  決断主義信仰の一番の問題は、信じたあと、どう生きればいいのか、何を考えて生きればいいのか、キリスト者のこの地上での人生の目的が出てこない、という事ではないか、と思うのです。決心をして、「信じた」といえば、もう天国に行けるという最大のメリットが得られることが確定し、決断主義の信仰での最大目的の達成が約束されるわけで、この世で生きていく意味がかなり薄くなり、一日も早く天国と呼ばれる世界に行くこと、死ぬ日を迎えることが何よりの希望、期待になってしまいかねない危うさがあるわけです。生きていても、『早く天国に行きたい』と思い続けながらこの地上で生き続けなければならない、ということになるわけです。イエスが、『神の国があなた方のただ中にある』と言われているにしても。

                   

                  【口語訳聖書】ルカによる福音書
                   17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
                   17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

                   

                  前にもこのブログで書いたことがあると思うのですが、長らく独身で過ごされたある女性の信者さんががんで入院されたとき、その女性信徒さんが長らく過ごされた教会の方がそのがんで入院された方に向かって、「あなた、私より早く天国に行けるのだから、いいじゃない。私、あなたが羨ましいわ」と言い放ったということを、涙ながらに訴えられたことがあります。「私は生きたいだけなのに・・・」と。これも、決断主義的な信仰の問題かもしれません。

                   

                  プロセス志向の信仰の場合、この地上の生活、人生を神とともに生きることが重要になるので、多分、「天国に早く行けるからいいじゃない」というような発言は出てこないかもしれないように思うのです。その意味で、決断志向の信仰は、この地上の生活、この地上で生きる意味、ということの説明が難しくなるように思うのですが、どうなんでしょう。

                   

                  決断主義的な信仰と別離主義

                  先ほど、極端な決断主義的な理解の場合、世間のことがどうでもよくなるとか、この世で生きる意味を見出しにくくなる、ということをお話ししましたが、この背景に、極端な決断主義の場合、ある面それまでの生き方と決別する、この地での普通の生き方との決別し、別の世界に移るというようなニュアンスで語られる傾向が多少なりとも現れる場合があるように思います。例えば、次の讃美歌の可視には、そのニュアンスがかなり感じられるように思います。

                   

                   

                   

                   

                  極端な決別主義の場合、この地から離れることを、これまでの生き方から離れることに強調がありすぎ、その結果として、世間のことを一段劣ったものとして軽く見るような場面が出てきたり、その結果として、上から目線でものを言ったり、世間のことを極端に無視したり、極端に軽視したりすることも起きかねないようです。

                   

                  次回、このシリーズの最終回は、プロセス思考の信仰で人生をキリスト者として生きる意味について、ちょっこし考えてみたいと思います。次回へと続く。

                   

                   

                   

                   

                   

                  2018.11.19 Monday

                  プロセスとしての信仰、決断としての信仰(3)

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                    これまでの連載では、信仰の内実はあまり問わず、信じたと告白させることが重要としてきたキリスト教の人々が居られること、そして、その様なある意味決断主義的なキリスト教の教派から、伝統的なキリスト教のグループに移り、そちら教会の隅っこに居遇する中で考えたことを書いてみました。また、信条を毎週教会で声に出して言い、思いを巡らすようになって考えさせられたという事実を書いてみました(以上第1回)。前回は、死ぬ前に信仰告白を言えばいいという機会主義者の人々とそれに抗するために弄した詭弁、決断主義的な教会では、この地上の人生を生きる意味が希薄になりかねないこと、などをお話してきました。

                     

                    今日はお約束通り、プロセス志向のキリスト教の中で、信仰者として生きる意味、について最近考えていることについて、少しお話してみたいと思います。

                     

                    ことばで伝道することが生きる意味に近かった

                    決断主義的な教会での生き方、生きる意味は、極端な言い方をすれば、人を説得すること、そして、神について、論証・立証することで、神の存在を示すこと、そして、いわゆる相手が「神を信じる」ための説得工作をすることであった、と言っても過言ではありません。少なくとも、教会生活あるいは教会活動の主要な目的は、礼拝より、伝道・言葉による伝道、あるいは、ことばによる説得工作に重きがあったといっていいでしょう。そのためにありとあらゆる手段を使ってきたという反省はあります。特に、信徒相互牧会の教会で、信徒説教者あるいは信徒伝道師をしていましたから。とはいえ、公的な神学教育組織での教育はゼロで、自学自習によるOJTによる無手勝流でしたが。

                     

                    普通に生きることで神の臨在を指し示す生き方

                    決断主義的な傾向の教会を追い出されるように出ることになり、プロセス志向の教会に参加するようになって、理解が大きく変わったのは、普通に生きること、キリスト者として普通の生を生きることが、宣教であり伝道である、と考えるようになったことです。そして、この地に生きるとは、神の義・神の平和・神の愛をこの地に生きることで実際にもたらすことこそ、伝道であり、宣教であり、我々人間が、この地に置かれている意味であり、創世記に示された我々の生の目的の実現であると思うようになったのです。

                     

                    【口語訳聖書】創世記
                     1:26 神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。

                     

                    地にあるものを支配ではなく、ケアすること、それは、人々を含め、ともに生き、世話をし、愛し、めでること、その存在そのものを喜ぶ、ともに存在することを享受する事こそ、自分自身の生きる目的である、神が黙示録で、我々を作った目的の究極の完成なのだ、ということを思うようになりました。我々が好き勝手良い、ということではなく。

                     

                    昨日の、集祷 Collectが非常に印象的でしたので、この場に載せておきたい、と思います。

                     

                    Heavenly Lord,
                    you long for the world's salvation:
                    stir us from apathy,
                    restrain us from excess
                    and rivive in us new hope
                    that all creation will one day be healed
                    in Jesus Christ our Lord
                    Amen.

                     

                    人間に与えられた地を治める使命と天の国

                    ここで治めるということが書かれていますが、この治めるという言葉は、実は、「神の国、天の国、天国」と理解されている事柄の国に当たる部分のようです。わかりやすいように王国とか、国とか訳されていますが、神の権威あるいは権能が及ぶ範囲という意味のように思います。別の表現をすれば、支配、庇護、憐みに満ちたケア、和解できるようにする、という意味でもあるように思うのです。つまり、上の創世記の表現は、「海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを愛で、憐れみ、いつくしみ、庇護する、和解できるようにする」存在として生きることが、その目的や神から与えられた使命である、ということを言っているように思います。

                     

                    つまり、生きることで神から与えられた本来的な使命を果たすことが私たちの生の目的であると思うようになりました。ことばによる説得工作、くらえ、み言葉攻撃を常套手段としていた生き方から、神が内在してくださっている(神を内在させている、のではなく、神が内在してくださっているという認識が大事)ものとして、普通に生きることで、あえて、必死になって説得しなくても、何か特別なことをしなくても、また、不甲斐ない問題だらけ、欠点だらけな存在であるとしても、神が共におられ、われらと共におられる神に明け渡す生き方、自分が握りしめてきたものを神に向かって明け渡す生き方、それそのものがプロセスであり、そのプロセスの中を、時にこけながら、足を滑らせ、道を外れながら、そして、時に霊的な骨折も経験し、その霊的な骨折の回復を神により受けながら、素朴に生きていくことの重要性を思うようになりました。

                     

                    毎週言うことで考えさせられるキリスト者としての生き方

                    そのことを思い出させるのが、毎週読む、式文であるかも、と思っているのです。今ほぼ毎週参加している教会では、聖餐式に入るところで、次のように言います。(太字の部分を全員で言います。)

                     

                    The Lord is here.

                       His Spirit is with us.

                    Lift up your hearts.

                       We lift them to the Lord.

                    Let us give thanks to the Lord our God.

                       It is right to give thanks and praise.

                    It is right to praise you, Father, Lord of all creation;

                    in your love you made us for yourself.

                    When we turned away

                    you did not reject us,

                    but came to meet us in your Son.

                       You embraced us as your children

                       and welcomed us to sit and eat with you.

                     

                    ほぼ毎週、神がわれらとともにおられ、自分自身の心を神にささげ、神に感謝し、賛美することが実に適切であることを覚えるわけです。そして、我らが子供(養子)として神に抱かれていること、そして、神がともに座り、ともに食事をするように聖餐式に招いてくださっていることを声に出して言う中で、自ら覚えるわけです。

                     

                    この中には、他者の説得もなければ、他者への信仰の強要もない。ただ、神との共同体の存在を指し示すだけ、そして、自分たち自身が、人間的な努力ではなく、神にあって和解しているものであり、受け入れられ、食卓に招かれているのを覚えるだけ、ということが、この式文を読むたび、おもいだされます。

                     

                    フランシスコの平和の祈り

                    例えば、式文の一部として含まれていることがある(ないバージョンのものも使うことが大半ですが)A Prayer attributed to St. Francis(聖フランシスの平和の祈り)と呼ばれるいのりを祈るとき、人間が何に招かれているか、ということを考えさせられます。自ら声に出していう以上は、意味を分かろうとして、意味を分かって言う以上は、自分が何を祈っているのかをやはり考えざるを得ないわけです。

                     

                    Lord, make us instruments of your peace.

                    Where there is hatred, let us sow love;

                    where there is injury, pardon;

                    where there is discord, union;

                    where there is doubt, faith;

                    where there is despair, hope;

                    where there is darkness, light;

                    where there is sadness, joy.

                    Grant that we may not so much seek to be consoled as to console;

                    to be understood as to understand;
                    to be loved as to love.

                     

                    For it is in giving that we receive;

                    it is in pardoning that we are pardoned;

                    and it is in dying that we are born to eternal life.

                    Amen.

                     

                    フランシスコの平和の祈り
                    主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。
                    憎しみのある所に、愛を置かせてください。
                    侮辱のある所に、許しを置かせてください。
                    分裂のある所に、和合を置かせてください。
                    誤りのある所に、真実を置かせてください。
                    疑いのある所に、信頼を置かせてください。
                    絶望のある所に、希望を置かせてください。
                    闇のある所に、あなたの光を置かせてください。
                    悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
                    主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、
                    愛されるよりも愛することを求めさせてください。
                    なぜならば、与えることで人は受け取り、
                    忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、
                    死ぬことで人は永遠の命に復活するからです。
                    アーメン(Wikipediaより)

                     

                    これを繰り返し、繰り返し言う中で、自分が何のために生かされているのか、なぜ、自分が生きているのか、そして、日々の生活をどう生きるのか、不甲斐ない生き方なりに、不十分な生き方なりに、神から招かれている生き方をしたい、と思うようになりました。

                     

                     

                    説得されてではなく、決心させられて、ではなく、自然にそういう生き方ができるようになりたい、と思ったミーちゃんはーちゃんがいることは確かなことでした。我々は、この地に神の義と、神の平和が満ちるように招かれていることを覚えるわけです。自分で声に出して言うわけですから、ある面、自分もそのことを確信的に告白している、という形になるわけです。

                     

                    教会暦で生きる生き方の中で

                    プロセス志向で、季節(教会暦)に応じた式文、毎週のようにこのような祈りをする(式文を唱える)なかで生きることに、さほど明確ではないにせよ、人間には地に神の平和と愛とそのケアをもたらす泥の器となる、という目的があるということを覚えることができるわけです。

                     

                    つまり、我々のこの地上の生、毎年繰り返される教会暦に従って生きるなかで、1年という時間単位でイエスの一生がどの様なものであったのかを覚え、その中でキリストは、神の義と平和と愛を指し示すための器となる生であることを自らその生を通して示したこと、そして、キリスト者はそのイエスの生を完全にはまねて生きることができないとはいえ、真似たいと思っている存在である、という事を毎週覚えるようになりました。


                     

                     

                    そして、教会暦と関連している聖書箇所が指定された聖書日課にしたがって繰り返し生きる中で、型として安定したものの中で、自らの人生のリズムを調整しながら、ごくごく普通の日々の生活を過ごす中で、ことばだけによらず、人生の中で出会う人々と共に過ごす中で、大したことはできないにせよ、どのように神の義と神の平和と神の愛を指し示せるのか、という生き方へと、変わっていきました。

                     

                    真っ当に丁寧に生きること

                    「そもそも、決心するように他人を、他者を説得するのがちょっとおかしいキリスト教」である、とは決して言うつもりはありませんが、プロセス志向で生きるようになって以降、一番思ったのは、我々鼻で息するものにすぎない人間が唯一できるとすれば、泥のかたまりのようなものに過ぎない自分の内に内在してくださる神がおられることに信頼して当たり前に生きる、真っ当に、神から与えられたものを丁寧に受け取り、それを喜びつつ生きることなのだろうなぁ、ということでした。

                     

                    つまり、神が内在して下さるものとして生きることで、神の存在が、神ご自身によって明らかにされ、神ご自身がその臨在の片鱗を表されるということ、これがキリストの受肉の意味なのだろうと、身をもって理解するようになりました。

                     

                    変わってしまった聖餐理解と教会理解

                    その結果、自分の人生とは、この地で神の存在が指し示すいれものに過ぎない、ということなのかも知れない、と思うようになったのでした。単に教会に通うことが重要なのではなく、教会で礼拝をささげることが、ともに集まることが重要であること、そして、我々が礼拝に集められることで、我々を招く神が居られること、司祭(牧師)からパンを受け取ることで、我々が神から養われているものであることを生きている実際の姿で再現することで、指し示していることの重要性を強く感じるようになったのでした。そして、何より、聖餐の理解が大きく変わり、聖書の理解と、教会というものへの理解も大きく変わってしまいました。

                     

                    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
                     6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
                     6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
                     6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。
                     6:38 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
                     6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
                     6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

                     

                    もう、なにがなんでも、ことばで立証しなければ、説得しなければならない、論証しなければ、そして、あわよくば、神を信じた、と他者に言わせたい、という呪縛からは、解放され、神のみこころが好みに実現することを願う、つまり、終わりの日のよみがえりにむけて連続性をもって生きる生き方に変わったので、生き方がだいぶん楽になりました。自分中心、人間の論理中心の近代を支配した論理に呪縛された生き方から、神にベッタリ預けちゃう生き方へと変わってしまった感じがしています。

                     

                    ということで、このシリーズおしまいです。お付きあいいただきまして、ありがとうございました。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.11.21 Wednesday

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(1)

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                      最近、アメリカの中間選挙があって、NHKの9時のニュースとか等でもアメリカの議会の中間選挙とキリスト教との関係が取りざたされているところに、こないだ、枚方の関西凸凹神学会(KDKと称している)という牧師信徒の相互研修会である先生がトランプ政権とアメリカの福音派の話をしてくださってとても印象的だったので、ちょっとそのあたりのことにも触れてみようかと。なお、枚方でのKDKで講演者の方がお話されたネタは、一切書けない野はご理解ください。公開を禁じられましたから。

                       

                      ということで、これから書く記事は、全部ミーちゃんはーちゃんの思いと想像に基づく私小説(というよりは、歴史的観察をしている門外漢の床屋清談)の域を出ない、と思っていただければ、と思います。

                       

                      アメリカという国の建国神話と東部人

                      まず、アメリカ政治の原初形態と現在にまで至るその背景を考えるためには、建国の父たちが、ヨーロッパからの宗教的難民であった、ということを理解する必要があると思います。つまり、メイフラワー号で流れ着いて(というよりは北大西洋航路を航海して)アメリカに建国したのは、当時の大英帝国と一体化した、英国国教会からはじかれた人々が自分たちのいきるコミュニティを形成しようとした地域を出発点としている、という現象があったからでもあります。

                       

                      その意味で、生命の危機を含む物理的迫害を含め、命からがら大英帝国(イングランド)から逃げてきた人たち(いわゆる難民)であったわけです。

                       

                       

                      アメリカの建国神話を揶揄して銃規制とのつながりを描いたアニメ

                      (マイケル・ムーア監督 ボーリング・フォー・コロンバインの中の映像)

                       

                      ニューイングランドと新しいエルサレムとの対応関係

                      その命からがらイングランドから逃れてきた難民の人たちが自分たちの宗教コミュニティを中心とした国家を作るべく建国した国が、ニュー・イングランドであったわけで、新しい地(これは黙示録のメタファーの、この地は新しくなりそこには、悲しみも、叫びも、痛みもない地にしたい、という思いで命名したのかもしれません。

                       

                      【口語訳聖書】 黙示録
                      21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
                       21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
                       21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
                       21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

                       

                      ところで、英国で歌われている讃美歌では、イングランドが古代の時代のエルサレムとの対応関係にあるとうたうような賛美歌もありますが、ニューイングランドは新しいエルサレムである、という意識がニューイングランドという言葉の背景にあると思うのです。なお、以下は、ある程度古い讃美歌ですが、イングランドがエルサレムとの対応関係にあることを歌った賛美歌でもあります。

                       

                      エルサレム 国家 とも訳せる賛美歌

                       

                      ニューイングランド地方の地図 ボストンが中心

                       

                       

                      Betsy Ross と呼ばれる東部13州時代の星条旗

                       

                      反乱者の巣と称する公立学校もあるし

                      アメリカの建国活動、独立運動にかかわったのは、東部13州であるので、伝統的に、政治的にも、いまだにこの東部13州の影響がかなりあります。弱くなったとは言えども、東部13州の影響は出てきます。というのは、この東部13州独立の際の建国神話が小学校などで語られるから、という側面もあります。そして、日常的な場面で、建国神話が見られたり、語り継がれることもあり、アメリカ国民の精神的風土の中に、13州の独立の建国の精神がいまだに生き延びている側面があちこちにあります。例えば、Patoriotという映画などでは、その時代の雰囲気をよく伝えていて、そのアメリカ国民の精神的風土を持っているらしく、普通の公立の高校なんかでも、その高校を指すのにHome of Rivels(反逆者どもの家、反乱者の基地)と呼んだりしています。

                       

                      Patoriotという独立戦争をアメリカ側からの視点で描いた映画

                       

                       

                      高校の正門のところに描かれたHome of the rebelsという文字

                      https://www.eastbaytimes.com/2018/01/26/san-lorenzo-high-school-eyes-mythical-phoenix-as-new-mascot/ より

                       

                      別の公立学校の正門のところに書かれたHome of he rebels という文字

                      http://bryancountypatriot.com/silo-announces-rebels-storm-scholarship/

                       

                      銃規制と建国神話

                      この反乱者が造った国なので、彼らは、ミリシアと呼ばれる民兵を構成する権利を合衆国憲法修正第2条で保障されており、憲法上の権利として、民兵を組織することができる、ということなので、彼らは、銃を持つのはアメリカ合衆国国民に与えられた権利であり、それを取り上げようとする動きに対しては、憲法に反し、基本的人権に反する考えである、という論理構成ができるため、どれだけ、銃による悲劇が起きても、銃規制に国家としてかじを切れない、銃規制を実行に移すことが困難であるという側面があります。憲法修正第2条を書き換えると同時に、国民のマインドをそちら側に切り替える必要があるからです。

                       

                      カリフォルニアの銃撃事件での被害者のお母さんが祈りやお悔やみはいらない、神による銃規制がほしいのだと訴えている映像

                       

                       

                      上の動画でもありますように、上でご紹介した動画のお母さんの信仰がどのようなものかは、知る由もありませんが、銃規制を神に必死に願うという言葉にもありますように、神を出さないとまた、銃規制もできないし、銃規制反対の人々も神の名において銃規制反対を訴える国が、米国であるわけです。これが、市民宗教としてのアメリカ合衆国の姿ということが象徴的に表れているシーンかもしれません。銃規制反対を言う方も、同じ神の名において、一方は銃規制反対を言い、一方は銃規制賛成という。それがアメリカという社会の現状なのだと思います。

                       

                      大統領の出身地から見てみると
                      歴代大統領を見ておりますと、以下の部分に示すようにかなりの部分が東部人ないし東海岸人で、中西部がちらほら、西部諸州にいたっては、カリフォルニア出身は、ニクソンくらいで、基本的に東部人がアメリカ合衆国の実際の政治的実権を握ってきたといって過言ではないと思います。あと面白いのは、政党の支持と地域との関係にかなり特徴があり、東部諸州と南北戦争で戦った東岸の南部諸州は、基本的に民主党などのリベラル政党(民主党)の大統領がおおいという特徴があり、中西部は共和党が非常に強いといういことを示しています。また、伝統的にニューイングランドとオバマがハワイという辺境州出身の大統領だったということです。

                       

                      中西部で民主党出身の大統領は、トルーマンとビル・クリントンだけですよねえ。

                       

                      https://www.livescience.com/53314-map-of-birthplaces-of-us-presidents.html より

                       

                      これを今回の中間選挙の下院の結果と重ねてみると、非常に面白い結果になっています。下院House of Representativesは、逆転

                      とはいえ、中西部が真っ赤になっている(共和党)が勝利しており、東部13州のニューイングランドは二つに分かれ、北部ニューイングランドが共和党支持に回り、ニューイングランド南部、南北カロライナ(旧カロライナ植民地)と南部のルイジアナ、西部農業州では、コロラドとモンタナだけが、青くなっており、民主党の候補が勝ったことを示しています。

                       

                      2018年中間選挙の最終結果 http://nymag.com/intelligencer/article/2018-midterm-election-tracker-house.htmlより

                       

                      前回2016年の大統領選挙の時も同じような傾向ですが、基本、ニューイングランドの大半と西海岸は民主党支持、南部と中西部はほぼ共和党(トランプとペンス)支持となっています。

                       

                      2016年の大統領選挙の最終結果 https://www.270towin.com/2016_Election/
                       

                       

                      2004大統領選挙の際の最終結果

                       

                       

                      その意味で、基本的なパターンとして、ニューイングランドと西海岸が民主党支持色が強く、それ以外のところは、共和党、ただし、自動車、輸送機関連産業の多いイリノイ州はUAW(全米自動車労連 United Automobile Workers 実はかなりの政治的な勢力を過去は持っていた。労働問題との関係から、本来民主党系)との係わりもあるのでしょうが、民主党支持という傾向があるのがわかります。

                       

                      これらを見ても共通なのは、東海岸でのヨーロッパ大陸からの定着が早く、かつ、南北戦争の際に北軍側の主力であったニューイングランドと西海岸、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州とハワイ州は、基本的リベラルというか開明的というべきなのか、あるいは、従来の考えに疑問を抱くようなタイプのお考えの方が多く、旧南部連合地域とそれ以西は、ロッキー山脈まで、あとアラスカは、そろいもそろって、従来の在り方にこだわるというか、保守というか、伝統志向というかという感じの方が多く、その結果古き良きアメリカを体現すると主張する共和党(Good Old Party GOPと呼ぶことがある)支持という構造が見えます。

                       

                      今なお続く南北戦争としての選挙

                      これらの図を見てわかる通り、大統領選挙や、上下院選挙では、選挙という形、政治的言辞という形での南北戦争をいまだにしているといっても過言ではないと思います。南北戦争は、血を流す政治をやり、大統領選挙や上下院選挙は、血を流さない戦争をやっていて、それを2年単位でやっているのが、アメリカだといっていいと思います。

                       

                      西部人でも、元々は、東部でくいっぱぐれた人々や、一旦は移民として、イギリスから、アイルランドから、そして、ドイツから、オランダから流れ着いた人々、そして、アフリカから、市民権がない状態で、奴隷として連れてこられた人々が南部から東部へ、西部に出ていき、そして、北欧から、さらに中央ヨーロッパからの移民が東部のニューヨークのエリスアイランドに流れ着き、その後西部に出ていく、という経緯をたどっていきました。一部は経済難民、一部は宗教的難民、一部は政治的難民という難民の群れであった人々が、次第に西部へ、西部へと、ロッキー山脈にたどり着くまで、流れ着いていく中で、東部の文化を持ったまま、彼らは西部に流れ着いていったわけです。

                       

                      この結果、アメリカの政治風土の空間的分布は、次のような格好になるようです。

                       

                      北東部(ニューイングランド)ー リベラル ー 民主党支持

                      中西部 ー 保守(コンサーバティブ) − 共和党支持

                      西海岸 ー リベラル ― 民主党支持

                       

                      という政治地理的構造は、比較的米国で安定的な構造ですので、アメリカの政治風土を考えるとき、覚えておいて損のない構造です。ニュースを見るとき、漫然と米国ひとまとめというくくりで考えるのではなく、リポーターがどこの出来事を伝えようとしているのか、ということを気にしてみる方が、その事件の政治的な背景がわかってよいと思います。いい悪いは別として、アメリカ人は何でも出来事をすべからく政治的な世界(ポリティカル・アリーナという)の中で考えるというか、それでしか考えないという習慣あるいは傾向があるので、このあたりのことを抑えておくことは大事なような気がします。

                       

                      今回の中間選挙再考

                      もし、カリフォルニアで、共和党的な叫びが聞こえるとしたら、それはかなり異常な出来事ですし、中西部で、民主党的な叫びが聞こえるとしたら、それもまた、異常な出来事だという側面があるのです。そこで、この度の下院選挙の結果を改めてみてみると、モンタナとか、コロラド、ミネソタ、ルイジアナといった西部の農業州で民主党が勝っていますが、本来民主党の地盤であるハズのニューイングランド北部が共和党支持に回っているという部分があります。

                       

                       

                      2018年中間選挙の最終結果 http://nymag.com/intelligencer/article/2018-midterm-election-tracker-house.htmlより

                       

                      おそらくトランプがこの度の中間選挙で、勝利宣言をしたというのは、本来かなり強固な民主党、リベラル派の牙城であった東北部のニューイングランドでの議席を確保している、という部分もあると思うのです。

                       

                      キリスト教的に言うと、このあたりのニューイングランド地域というのは、元来、所謂福音派と呼ばれる人たちのプレゼンスよりも、民主党支持層との親和性の高い、組合派、社会派のキリスト教(現在の同志社系統の神学的な雰囲気の強いグループ)とのつながりの強い地域(青であるであろうと一般に考えられる地域)であるのです。その地域で共和党支持(赤で表現された地域)に代わってしまっている点が2018年の中間選挙の特徴であるように思います。

                       

                       

                      次回、このような構造を踏まえ特にキリスト教の中でも、福音派と米国政治との関係を考えてみることをしてみたい、と思います。
                       

                       

                       

                       

                       

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