2018.10.01 Monday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(11) 勝手に職質を教会でしないで・・・ その3

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    前回の記事では、小学生の教会に来た子供たちに親の職質をされると、連れてくる方も、つれてきた方も結構しんどい思いをすること、ポストインターネット時代での子供たちにとってみて、教会で提供される遊びや視聴覚補助教材が今一つ、なんと言いますか、昭和な感じ、でもあって、その意味で、教会に信徒家庭以外の友達を誘ってくるのが大変なのに、その上職質をされたのでは、結構つらいよねぇ、という感じをお話してきました。前回は、もうちょっと年齢が上の自らがティーネイジャーさんだったころの視点から、書いてみました。本日は、婚約者を選ぶ年齢層に達した若者とのかかわりの中で経験したことから少し書いてみたいと思います。

     

    地方自治体が婚活支援をする時代に

    中学生や高校生の学生やティーネイジャ―の時代の、男女交際は一時的に通過する色恋であることもあり、はしかのようなものとして済ませることができますし、それで済むのですが、学校を卒業し、就職して、仕事が順調に回り始め、生活に余裕が出てくると結婚という配偶者探しが本格化することになります。本人ももちろん探されるでしょうけれども、教会の大人たちも、いろいろと顔を出してくる場合もあります。釣書そのものではないでしょうが、こんな人があっちにいる、こんな人がいるというようなご案内があったりすることもあるでしょう。

     

    最近は、ずいぶん減りましたが、昔は、地域社会でも仲人名人というのか、とにかく、婚期が来ている人々を半ば無理やりくっつけようと勝手連的にご活動になられる『世話焼き』と呼ばれる中高年女性がおられたわけですが、今では、自由恋愛至上主義が席巻していること、地域で、若者がいなくなったことの結果、こういう役割を果たす人、悪く言えば、おせっかいなおばさんが減ってきているという側面もあって、今では、自治体がその役割を果たさねばならないようになっていたり、自治体主催の出会い系パーティまで開かれたり、都道府県レベルでの地方自治体での第3セクター的な結婚サポートする組織までできているようです。自治体が、今は「世話焼きおばさん」としての役割をある種の公共事業としていなければいけなくなっているのが現代であるということなのかもしれません。

     

     

    兵庫県の結婚サポートセンターのサイトの画面
     

     

    兵庫県の結婚サポートセンターの動画

     

    鳥取県の結婚サポートセンターのサイトの画面

     

     

    島根県の結婚サポートセンターのサイトの画面

     

    晩婚化が進む日本で

    こういう状況を考えていると、以下に若者の結婚をめぐる状況が深刻であるのか、ということがわかります。ツイッターを見ていたら、具体的な数字をグラフ化したものをご紹介してくださっているありがたい方がおられたので、それを拝借していろいろと考えてみたいと思います。以下のグラフを見ると、初婚年齢が、女性でもじわじわと晩婚化が進み、29歳と晩婚化が進んでいることがよくわかります。バブル経済の中での人手不足傾向に加え、男女雇用機会均等法(「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」)が1986年に施行される前後には、女性の初婚年齢は、25歳前後だったものが、それ以降一貫して女性の初婚年齢も上昇しています。しかし、面白いのは、日中戦争がはじまった時期に、平均初婚年齢が男女とも上昇しているという点は、注目すべきかもしれません。つまり、戦争対応で、結婚する方が増えた、という意味で、国家総動員体制の中で、個人の結婚の問題もとらえられていた傾向を見ることができるようです。

     

    初婚年齢の推移  (https://twitter.com/kentz1/status/1045958211033939973 より)

     

    数年前、ある関西の日本基督教団の方とお話しする機会があり、以前は、結婚相談所みたいな組織が日本基督教団にもあったけれども、最近は閉鎖してねぇ、とお話しをお伺いしたこともありましたし、あるいは、様々なグループの教会が関係する組織の中でもお見合い組織や結婚相手を紹介するサービスの中でも、なかなか、いろいろ相手が限られることからか、結婚にまで至らない事例が多数発生していることも聞き及んでおります。

     

    囲み取材じゃないんだし…

    そして、牧師さん方がご経験になさる葬儀の数は年々積み重なるものの結婚式の数は、ほとんど変化しない、という現状もあるなかで、お若い皆さんが、異性のご友人をお連れになると、これは、「ひょっとして婚約相手か?結婚相手か?」と異様に関心が盛り上がる傾向にあるようです。こうなると、教会の中が、ざわついてしまうことも少なくないようです。

     

    個人的には、「もうちょっとそっと、ぬるく、見守ってあげたらいいのに…」とは思うことが多いのですが、こういう時に限って、何人かの方が取り囲むような視線やら、実際にその方を囲んでのミニ談話会か、普通の市民に対する芸能人の囲み取材みたいなものが開催されてしまうことがないわけでもないようです。

     

    芸能人の囲み取材(こういうの、きついだろうなぁ、と思います)

     

    こうなると、「お仕事は何をされておられるのですか?」「聖書はどう思われますか?」「キリスト教についてはどう思われますか?」「クリスチャンですか?」「学校とかでご一緒だったんですか?」とか、教会人にとっては、一見、普通の質問のような体で、個人の割とセンシティブな思想、信条などに近いところを職質や事情聴取というよりは、囲み取材の芸能リポーターよろしく、何人もの方で聞き出してみたり、その方を連れてきた方との釣り合いみたいなことを品定めしているような印象を持つことが聞かれる状況を、時々おみかけすることがあります。

     

    連れてこられた方は、ただでさえ気まずいのに、こういうことを聞かれたら、結構緊張してしまうこともあると思うので、個人的には、こういう場には顔を出さず、そっと見守っていることが多かったのですが、こういう質問をしたくなる方の気持ちもわからなくはないのですが、「もうちょっとスルーしておいてさしあげればいいのに…」と思うことがあります。

     

    「信仰告白させてなんぼ」なんですかねぇ?

    そして、キリスト者のお若い方に連れてこられた方がキリスト者ではないとわかった途端、あるキリスト教のグループでは、今度は、囲み取材攻勢モードから、今度は、「折伏モード」なのか、「折福モード」なのかはわかりませんが、とにかく、超特急モードで、キリスト者にしようとか言った説得モード、「キリストを信じたといわせたら勝ち」みたいな取り組みが行われることも皆無ではないようです。もうちょっと、時間をかけて、ゆるゆるとやって差し上げればいいのに、とは思うのですが、どうも、そういう対応をとっていると、生ぬるいと思われるようで、その方のおられないところで、「最近来られたあの方と、信者であるあなたが、もっと積極的に機会をもって、同性で年長でもあるあなたが福音をかたらないでどうする」と言われたこともございます。

     

    あるいは、ある方が、この方の予定を私の予定とは無関係に時間をとるセッティングをしてくださいまして、「この日開けといてね」という対応を受けたり、ということで、だいぶん苦慮したことがあります。

     

    次回へと続きます。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    2018.10.01 Monday

    2018年9月のアクセス記録

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      皆様、いつものようにご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


      7月は、ほとんど書籍紹介の記事ばかりでしたが、ご清覧頂きありがとうございました。

       

      2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2 アクセス/日)
      2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9 アクセス/日)
      2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6 アクセス/日)
      2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1 アクセス/日)
      2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7 アクセス/日)
      2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0 アクセス/日)
      2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7 アクセス/日)
      2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8 アクセス/日)
      2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1 アクセス/日)

      2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5 アクセス/日)
      2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4 アクセス/日)

      2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8 アクセス/日)

      2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5 アクセス/日)

      2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3 アクセス/日)

       

      2018年第2四半期(4〜6月)     43880アクセス(482.2 アクセス/日)

      2018年7月  16,073アクセス(518.5 アクセス/日)

      2018年8月  17,084アクセス(551.1 アクセス/日)

      2018年9月  22,247アクセス(741.6 アクセス/日)

       

      でした。

      ところで、8月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。先月もご清覧ありがとうございました。

       


      教会の終活について・・・その4   アクセス数 876 

      現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由  アクセス数 611 


      クリスチャンn世代の若者からのお願い(7) 勝手なお祈りしないで・・・ その3   アクセス数 372 

       

      工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会のご案内  アクセス数 328 

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(7) アクセス数 268 

       

      でした。今月、一番驚いたのは、9月24日という月末に登校したにもかかわらず、教会の終活について・・・その4  という暴論の記事が一番人気でした。初日は、この記事だけで500アクセス近いアクセスをあつめてしまいました。大事なお友達をこの記事は深くぐっさりと傷つけてしまったようで、大事なお友達を一人失いましたが、嘆いてもいられません。この記事をめぐって、この記事を紹介したFacebookの議論が盛り上がり、事態の深刻さを改めて感じ入ることとなりました。

       

      また、今月も、当ブログのいつもの鉄板ネタ、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由が堂々の2位、相かわらずこの問題への関心の高さを示しているように思いました。

       

      第3位のクリスチャンn世代の若者からのお願い(7) 勝手なお祈りしないで・・・ その3  についても初日のアクセス数が249とかなり高くその後もぼちぼちと毎日一桁台でのアクセスがあります。

       

      工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会のご案内  については、初日206アクセスと、かなり高く、その後もぼちぼちとアクセスがあるという典型的なロングテイルとなっています。

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(7) では、ポストインターネット時代を扱った、一見教会とは関係のない話題を扱いつつ、ネット業界では、ミー無と呼ばれる独自の行動パターンがみられることを紹介し、インターネットがない時代から形成されている個別教会ごとに教会ミームとも呼ぶべき各個別教会ごとに存在する行為のお作法があることをご紹介いたしました。

       

      ということで、できるだけの配慮は凝らしているつもりですが、しかし、分析屋としては、分析して、解析(アナリシス Analysis)して、そして再統合(シンセシス Synthesis)して何ぼ、と思っておりますので、できるだけ、ご理解いただける形で、アナリシスし、シンセシスしていきますので、お付き合いいただければ、幸甚と思っています。まぁ、解析に不快感をお持ちの方は、どうぞ、スルーしてやってくださいますように。

       

      今月もまた、ご清覧をお願い申し上げます。

       

       

       

       

       

       

       

      2018.10.03 Wednesday

      クリスチャンn世代の若者からのお願い(12) 勝手に職質を教会でしないで・・・ その4

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        一回目の記事では、小学生の教会に来た子供たちに親の職質をされると、連れてくる方も、つれてきた方も結構しんどい思いをすること、ポストインターネット時代での子供たちにとってみて、教会で提供される遊びや視聴覚補助教材が今一つ、なんと言いますか、昭和な感じ、でもあって、その意味で、教会に信徒家庭以外の友達を誘ってくるのが大変なのに、その上職質をされたのでは、結構つらいよねぇ、という感じをお話してきました。2回目の記事では、もうちょっと年齢が上の自らがティーネイジャーさんだったころの視点から、書いてみました。3回目の記事(前回の記事)では、婚約者を選ぶ年齢層に達した若者とのかかわりの中で、日本の初婚年齢の急上昇が見られること、恋愛中の人を教会に連れてきた時に起きること、などを実際にその場に居合わせて経験したことから少し書いてみました。本日は、次の展開につなげるために、教会員の質問攻勢つながりで新しく来た配偶者の方への質問攻めというか、わりとどうでもいいこと(教会ミーム、個別教会しぐさ)にそこまでこだわらなくてもいいじゃないか、ということについて、書いてみたいと思います。

         

        異なる文化(しぐさ)同士が出会う結婚という場

        基本、結婚という場は、異なる背景を持つ個人同士(異なる存在として神に作られたもの同士が一つとなるということは、アダムとエヴァの段階でも起きていることであるようにおもいます)が出会い、ぶつかるわけです。最下部でご紹介しています、ハッチンソンの名著に『文明の衝突』という本がありますが、『文化の衝突』だったり、『所作(しぐさ)の衝突』『教会ミームの衝突』が結婚とともにおきます。それまで、常識と思っていたことが通用しない状態が発生することが、結婚した当事者同士にも、結婚した当事者の周辺にも起きるわけです。それは、仮に同じ教会のメンバー同士で同一の地域で居住している人同士の結婚の場合でも、起きる話です。

         

        たとえば、食材の好き嫌いというものが典型的にはあるように思います。ミーちゃんはーちゃんは、干しシイタケと、干しエビからとる出汁の匂いが耐えられません。吐き気を催してしまうので、干しシイタケの煮物を食べることは、かなりの苦痛が伴います。出されたら、善意で残さずに食べますが、かなり苦戦することは確かです。したがって、我が家では、このタイプの食物がほとんど出ません(家人のご協力に感謝)。

         

        あるいは、外国人にとっては、関東炊き(かんとだき と発音します)とか、おでん とかいうごった煮系の茶色一色になったものを食べる日本人の感覚を理解するのに苦労することがあるようです。関西人にとってみれば、いろんな具材を一緒に焚きこみ、その焚きこんだものから出る出汁のハーモニーという感じもするのですが、こういう味が混じることの文化を持たない人からは、理解ができない料理に見えるようです。

         

        日本以外では、スコットランド人が食べるハギスという料理がありますが、あれも好き嫌いが分かれるようです。

         

        関東煮 https://blog.goo.ne.jp/sugichan_goo/e/78fca40536128fc08da3babe315bd4c9 から

         

         

         

        Scotland Haggis.jpg

        スコットランドの名物料理 ハギス(これは、ブリトン人でも食べられない人も多いらしい)

         

        こういう細かなことでの衝突とまでいかないまでも、好みの違いがある場合など、十年もたったあとになれば笑い話にはなりますが、時に深刻な問題が生まれかねない部分が起きることがあるようです。

         

        教会ミーム再び

        こういう、所作、しぐさにあわらわれる文化をミームということがあるのですが(ミームについては、こちらのWikipediaのサイトをご覧ください)、教会ミームについては、アーギュメンツ #3 を読んでみた(7) で触れておりますので、そちらをご覧いただくと嬉しく思います。こういう、教会ミームが、結婚に伴って、異なるミーム同士の衝突に至ることが時に発生します。例えば、賛美歌の節回しや、フェルマータの伸ばし具合の時間の違いとか、礼拝で用いる讃美歌の違いとか、聖書の読み方、祈りの時のあいの手の入れ方(ハレルヤ族、アーメン族、大きくアーメン族、Praise the Lord族)、祈りの際の親指をどちらを上にするか、祈りの際に手を合わせるのか、手を組むのか、祈りの際の手のあげ方と体の位置をどうするか、とか、まぁ、教会ミームはいろいろあるわけです。

         

         

        https://brokenbelievers.com/2016/03/19/pray-like-you-mean-it/ より

         

        異なる教会ミームについての囲み取材や本人さておいて朝まで生テレビ状態…

        さて、同じ教派であっても、複数の教会ミームはそこでの教会形成の中で、次第に形成され、他の教派とのすれ違いの中で、交流の中でもちこまれたミームが、拡散し、独自に発展し、それぞれの教会の中で、固定されていく過程は、まさに、異なる病原菌が突然変異しながら拡散していく伝播と拡散の過程によく似ているので、それはそれで研究対象としては面白いのだけれども、とか不謹慎なことを書いていると怒られかねないのだけれども、構造としては同じであるように思います(どこまで行っても構造主義者w)。

         

        さて、異なる教会ミームに出会うと、包摂的な態度をとるか、対立的な態度をとるかは、人によって異なるようです。個人的には、かなり包摂的なほうだとは思うのですが、そうでない方にとってみると、ちょっとでも違うミームが入ってくると、はたらく細胞に出てくる最強マクロファージさんのような感じで、異物に対決するマクロファージのように、異なるミームに対してウルトラ攻撃的な態度をとられる方も時にお見掛けします。

         

        そうなると、異なるミームを持つ方を取り囲んでの囲み取材になり、取材される方は、何の気なしに元居た教会でそうだったから、ということで、自然にそのミームを発動させただけに過ぎないのに、何人かの方に囲まれての囲み取材でワタワタワタ、としてしまうことになりかねません。個人的には、もうちょっとぬるく見守ってあげればいいのに、とは思うのですが、気になる方には、どうしても気になってしまわれるようで、マクロファージよろしく、異なるミームの排除あるいは、矯正(強制、かもしれない・…)を目指される方も中にはおられるようです。

         

         

        国立研究開発法人日本医療研究開発機構 のサイトでの 腫瘍(がん)とマクロファージに関する研究成果 から

        https://www.amed.go.jp/news/release_20171129.html

         

        『はたらく細胞』のマクロファージさんの回 

         

        囲み取材されたところで、本人は何の気なしの習慣でそうしているに過ぎないので、取材に対して、ご回答のしようもないのですが、取材する方は、なぜそうするのか、その聖書理解の根拠とは何か、とか時に結構しつこく聞かれて、取材を受ける方は、辟易することもあるようなないような…こうなると職質というよりは、本格的な取り調べ、尋問に近くなってきます。

         

        まぁ、こういう囲み取材ならまだしも、教会によっては、本人さておいて、小田原評定ならぬ、本人蚊帳の外に置いての朝まで生討論が、ご本人の教会ミームについての神学的理解をめぐって、勝手に朝まで生テレビ状態をしてくださることもあるようです。これは、実際に私自身が、アメリカの同じキリスト教会のグループに属するある教会で経験したことがあって、うわぁ、って思ったことがあります。

         

        昔の朝生テレビ ハマコウにしても、野坂さんにしても、石原慎太郎にしても、みんな若かった…

         

        異なる教会集団間での結婚にまつわる悲喜こもごも

        プロテスタント教会のかなりの部分の教会は、このブログでも何度もご紹介しているように、非カトリックとしてのプロテスタントの標榜をしておられる教会(残念ながら、非カトリック、非正教会ではなく、正教会は視野の外の方が多いので、非カトリックのみのことが多い模様)が数が多いようです。その意味で、プロテスタントと言っても、ひとくくりにできず、多様性があり、何が何だかとなっている状態であるように思います。となれば、そのプロテスタントのサブグループの教派ごとにミームがあるようです。

         

        同じキリスト教だといっても、カトリックとプロテスタントの間に断絶はありますし、正教会とカトリックとの間にも残念ながら、断絶はありますし、プロテスタントのサブグループ間にも、断絶というほど大きくはないかもしれませんが、はしごが必要なくらいの段差はあることが多く、そうなると、ミームも違うので、外から来られた方の行動というかミームに昔からいる人は違和感を持つし、昔からおられる方のミームに新しく結婚とか、転勤とかで移られた方も、ミームの違いを感じることになります。

         

        こうなると、よその教派から結婚などで移動してこられた方に対して、「あの方は、元○○教派だから…こんなことをして」「元○○教派だから、お化粧が濃くていらっしゃって…」「元○○教派だから、教会に着てこられるお召し物が派手で…」とか、あらぬことで噂が立って、教会にいずらくなるという事例も少なくないようです。

         

        こういうことが起きるのは、キリスト教のガチ勢だからではなくて、ある教派のガチ勢、ある教会の教会文化のガチ勢なのに過ぎないのではないか、とも思うのです。私たちは、次のイエスのことばをもう少し真面目に考えたほうがいいかもしれません。

         

         

        【口語訳聖書】マルコによる福音書
         9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
         9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
         9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
         9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
         9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

         

        まぁ、ほんまもんのガチ勢のクリスチャンでしたら、この後にどんな表現が並んでいるか、よくご存じでしょうから、これ以上は、何も申し上げません。

         

         

        一旦、これで、このシリーズは終わりにしますが、関連した話題を次回以降、お送りします。

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        評価:
        価格: ¥ 3,024
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:まぁ、未来予測者であるけれども、もはや世界がキリスト教文明で覆いつくせず、イスラム世界的な文明との対話が必要であることを説いたという意味では、重要な指摘をしていると思う。内容は、やや古い。

        2018.10.05 Friday

        『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(1)

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          本当は、『クリスチャンn世代の若者からのお願い』シリーズを続けてもいいかなぁ、と思ったのですが、今、松谷編集長のツィートがバズっているんで、もうちょっと沈静化してから、考察した結果を述べてみたいと思います。

           

          ということで(「どこが、ということでなのだ」というご意見があるのは承知していますが)、今日は、ヨベル社から出ている エドヴァルト・スヘレベークス著 時任美万子訳『ザ・ユーカリスト』からご紹介してみたい、と思います。個人的には、聖餐マニアなので、この本の存在が気になって仕方がなかったのでした。

           

          聖餐マニアだからかもだけど…

          3年ほど前に、1年をかけて多くのプロテスタント教会の教派を回ってみたのですが、それらのプロテスタント教会では聖餐回数がそもそも少なく、聖餐に与る経験が限られていて、なんだかなぁ、と思っていました。しかし、教会めぐりの途中でであった、現在普段、参加させてもらっているアングリカンの外人部落のチャペルや日本聖公会の教会で、週2回聖餐に与らせてもらっている中で、そして、宇治市にあるカルメル会の修道院付属の教会での聖餐式を見学させてもらっている中で、聖餐というのは、なんと美しくも、なんと尊いものか、ということを経験してきました。そんな中で、あまりにもプロテスタントの教会での聖餐が軽視されていると思うようになってきました。その意味で、それらの違いを確認するために、この本は読んでよかった、と思えた本でした。

           

           

          聖餐のパンと盃 

          https://www.westminster-abbey.org/worship-music/services-times/regular-services/holy-communion/ から

           

          「あとがき」から読みましょう

          この本は、まず、結構な分量で「訳者あとがきにかえて」という部分があります。多分、ここから、読むほうが、「なぜ、この本を訳者の方が翻訳しようと思われたのか」が明らかになっています。ところで、翻訳書は、大概の場合、この訳者あとがきに結構大事なことが書いてあるというのは、キリスト教書の翻訳書を読む人にとってはある程度、通念になっているように思います。

           

           

          まず、本文から紹介する前に、この「訳者あとがきにかえて」という部分から紹介したいと思います。

           

          その前に、この方は改革派系のプロテスタントの世界から、カトリックに転回した方のようです。そして、この本にであったときのことを以下のようにご紹介しておられます。

           

           私は邦訳『キリストー神との出会いの秘蹟』を牧師時代にある方からお借りして読んだのだが、北米ノートルダム大学購買で、カルヴァン研究会の折に見つけて購入した本書『ザ・ユーカリスト』とは別ということがわかった。何しろ英訳ではあるし、もともとは仏語なのかその他によるのかも知らず、ただただ「ユーカリスト」に特化した本を喜んで読んだのである。

           雪の日、暖かく広い購買部の書籍は私を慰めた。

           同時に極寒の中、キャンパスない聖堂の早朝ミサにぎっしりと集まる人々の熱心さはどこから来るのだろうと不思議だった。説教することは喜びであったが、お粗末ながら聖礼典への関心はほとんどなかったのである。(中略)私はもっと広くもっと深く正確に知らねばならないと痛切に思った。 (『ザ・ユーカリスト』 pp.164-165)

           

          元々、この本の翻訳者の方は、日本のカルヴァン派の牧師さんだった(今はカトリックに転会・改宗・回宗)ようなので、やはり、ことばによる宣教が中心で、お過ごしだったようです。上の記述に見られるように、本書の翻訳者のかたは、プロテスタントの牧師さん時代には、象徴による宣教へのご関心があまりなかったようです。

           

          この背景には、カルヴァンというよりは、日本の伝わった段階以降でのカルヴァン派が持っている精神性に強く影響されていたため、サクラメント(聖礼典)への関心が極めて薄かったのかもしれません。何を隠そう、ミーちゃんはーちゃんも、カルヴァン派的な影響を強く受けていた時期があるので、サクラメント(聖礼典)はほとんど無知、ガン無視状態だったのですが、最近は、伝統教派の教会(アングリカン・コミュニオン)に参加している中で、サクラメントがきちんと執行され、自分自身が養われるよう、次のようにお祈りをすることが増えました。

           

          It is right, and a good and joyful thing, always and everywhere to give thanks to You. Father Almighty, through Jesus Christ our Lord, who came not to be served, but to serve and to give his life a ransom for many. He calls His faithful servants to lead Your holy people in love, nourishing them by Your word and sacraments. Now with all creation we raise our voices to proclaim the glory of Your name.

           

          (以上は、ナイジェリアのアングリカン The Church of Nigelia の祈祷書 http://justus.anglican.org/resources/bcp/Nigeria/Nigeria_hc.htm から)

           

          説教中心のプロテスタント諸派

          確かに、今のカルヴァン派でも、聖餐をはじめとする聖礼典は大事にされていないわけではないのですが、ただ、その存在はかなり後ろに引っ込んでいて、どうしても、説教と呼ばれる、み言葉の聖餐が中心のような気がして、ちょっと残念に思います。さらに、同書では、次のように翻訳者の方は書いておられました。

           

          例に挙げるのもおこがましいが、マザーテレサの自己奉献の原動力が毎朝のミサにあったことを思えば納得できるのではないだろうか。もとよりカルヴァンにその希望がなかったわけではない。先人アンプロジウスの言葉、「この日々のパンは日々の弱さのための薬である」を彼が知らなかったはずかもしれない。無見識であるかもしれないが、カルヴァンの聖晩餐理解とカトリックの実体現臨理解両者にある喜びと希望について、私は大きな差を認めない。むしろ「(聖餐には)実体が結びついていなければなならない。さもなくば堅固にして確実なものはなくなってしまうではないか」(久米あつみ訳)とまで言うカルヴァンの多くの聖餐に関する言葉によって、カトリックミサに与る喜びは倍加したといってよい。実際そうであったし、与れる感謝は誰にも負けないとおもった。回宗時、ある方が「実態変化の世界へようこそ」と歓迎してくださった言葉は忘れ難く今でも印象に残っている(以下略)(同書 p.172)

           

          改革派系の教会にも何度か参加したことがありますが、その教会をご訪問した礼拝の時には聖餐式ではなかったのですが、巨大な聖餐卓(聖餐台だけど上に何も置いてない)が鎮座ましましていまして、その日の説教では、今ここには聖餐はないけれども、この食卓に招かれているということを底の牧師さんは強調されていましたが、しかし、さすがに実物としてのパンとブドウ酒による聖餐がないのは、寂しいと思いました。

           

          なお、この本では、実体をどう見るのか、科学的分析万能時代であった20世紀中葉において、聖餐の実体(リアリティ)をどう考えるのかを扱った本なのですが、それは、次回以降にご紹介したいと思います。

           

          食べることに含まれる救いのリアリティ

          その聖餐のリアリティをどう理解するかについて、料理家の人の言葉を引用しながら、次のように本書の翻訳者のかたは書いています。この部分を見ながら、うーんと思ってしまいました。その通りだと思ってしまったからです。

           

          元来食することへの理解は女性の方が感覚的に理解できるのではないだろうか?食べるとは生きることであり、料理家辰巳芳子は次のように述べている。

           

          「みんなが一番求めているのは理屈による救いではない。その救いを体験すること、救いを味わるために来ている。味わうことを助けるために理論理屈があるのであって、究極は体験こそが救いである。食というものに秘められているその大切さというものは、本当の救いを味わる大事な神との出会いの窓口になるのではないか。」(『食の位置づけ』 東京書籍、2008年)

                                 (同書 p 173)

           

          辰巳芳子さん http://www.tatsumiyoshiko.com/

           

          さすがに、この辰巳芳子さんのように、『理屈じゃねぇ、体験だ』言われてしまうと、かなりの勢いでポストモダンに移行しつつあるミーちゃんはーちゃんとはいえ、いまだにモダンを引きずっているだけに、結構ドン引きしそうになりました。という側面はありますけれども、この辰巳さんのご主張には、本当に一理あるとは思うのです。というのは、死ぬまで、食べるということは残るし、通常の場合、食べられないことは死ぬことを意味しているからです。

           

          いまでこそ、流動食を流し込むとか、胃婁とか、点滴による栄養補給とか、まぁ、医療としてはいろいろ食べられなくなった人にも、医療的な延命策はあるのですが、本来、自分の力で食べられなくなったら終わりなわけです。それを考えますと、やはり、食べるということは、大事なわけです。

           

          正教会の松島司祭の書かれたウェブサイトに、大斎(レント)の意味についての記事がありますが、正教徒のかなりの部分の皆さまは、食事、食べるという基礎的な行為を通して、神を覚えるということをされているようです。今年の春に、私も、毎晩の晩課に参加しはしませんでしたが、体重管理のために、このレントのルールを守ってみると、確かに、このレント期間に、食事を制限することで、レントの意味と、その到達点としてのイースターの意味を、体を通して、まさに体験することになりました。イースターにいろいろ食べることでも、まさに復活とそれに繋がっている救いは、喜びである、ということを実際に体験することができました。もう少し、こういうことは実験的でも、レント期間限定で、多くのキリスト者の方も、取り組んでみられたほうがいいのではないか、とも思います。

           

          そして、伝統三教派では、病床聖餐を大事にしますし、さらに、死への旅立ち、光へ向かう旅立ちの前に、地上でも神と一つであること、神とつながっていることを覚えるために聖餐をしておられます。

           

          横浜のハリストス正教会にお伺いしたときに、水野司祭様に、至聖所の中にある金ぴかとか銀ピカのかっこいい入れ物、聖龕(せいがん 以下の図はめちゃくちゃ豪勢なもの)には、何が入っているのですか、とお聞きしたところ、ご臨終の間際に聖餐をするためのイースターの時のパンが焼き固められて入っているとのことでした。緊急の時には、ここから、焼き固めた聖餐のためのパンが持ち出され、臨終の際に聖餐をなさるのを聞いて、あぁ、なるほど、聖餐はまさに、神のしもべであることを聖餐を口にすることで最後まで証しするためのものなのだと、改めて、感じ入ってしまいました(こんなことを書くから、いつ異端者帰正式を受けて、いつ頃、ひげを伸ばし始めるのだ、と時に揶揄される始末)。

           

           

          モスクワにある聖龕https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AB%83#/media/File:Zion_history_museum_moscow.jpg 

           

           

          宣教論の切り口としての食べること、聖餐

          誰も生きている限りは、食べるということをするということは、最後まで、いろいろな機能が失われたとしても残る人間としての基本機能であることを考えると、案外食べることをキーにした宣教というのは大事にしたほうがいいかもしれない、と思っています。在外邦人の若者に対する宣教をしているZumZumさんという知人がいらっしゃるのですが、以下の文章を読んだとき、その方の主張とも重なるように思いました。

           

          同時に宣教は、若年層のみならず、「いのちの苦」(スピリチュアル・ペイン)をややもすると抱え、「趣味や読書で埋まらない空白間(ミハ氏註 たぶん、感のミスタイプ)が苦痛でたまらず、もう死にたいという人もいる」老年層にも必要を感じる。「老いと死は怖いくらいにこの人生を問いかけてくる」のだ。だから、宗教免疫乏しい日本は、「神を見失っても、なかなか日本のような無邪気なEs【それ】(⇔)Du【あなた】」カテゴリーには踏み切れず、かえってその認めたくない神に対して、たびたび、一生を通じて激しい我と汝の戦いをし続ける」西洋よりも、宣教においては一層知恵を絞り、その切り口を試行錯誤する必要があるのではないだろうか?「自然」を説くことは、日本になじみやすい倫理と美学とともに、一つの手段になりうるかもしれない。(同書 p.177)」

           

          日本では、これまで、上記の文章にあるように、西洋型のキリスト教であるをそのまま移植して、「一生を通じて激しい我と汝の戦いをし続ける」タイプの、戦闘民族型のキリスト教がキリスト教であるとして、それを、西洋スタイルのまま移植しようとしてきたように思うのですが、ただ、それは限界が来ているようにも思います。

           

          先にご紹介したZumZumさんは、「ひらかなキリスト教」(ミーちゃんはーちゃん風にいえば 「やまとことばのキリスト教」か「やまとことばでのイエスのツレとしての無理のない生き方」になるのだけれども)をご主張であるけれども、まさに、ここでのこの本の翻訳者の時任さんのご主張は、それにつながるように思いました。

           

          特に、今、一方で、教会内の老年層にどう対応するか問題も、個人の関心事としてあるのですが、このことを考えるうえで、聖餐というのは、重要かもしれない、とは思います。

           

          ところで、今参加させてもらっている聖公会堂の外人部落のような教会では、母語が英語、ウェールズ語、タガログ語、ルワンダ語、ハウサ語、中国語、日本語の話者という、様々な言語背景を持つ人々がともに集まり、そして、式文と聖書朗読は英語で基準化されているとはいえ、様々な背景を持つ人々がともに一つに集まり、一つのパンである聖餐にあずかっているのですけれども、聖餐を食べるということには、国境と国籍も、言語も、文化の壁も突き抜けていくことを毎週体験しています。まさに、以下の讃美歌を地で行く経験をさせてもらっています。

           

          私たちは、多くあっても一つです という式文の一節を讃美歌にしたもの

           

           

           

          別に、英語が半分以上わからなくても、イエスを自らの内に取り込む聖餐、自らのうちに内在させることを象徴する聖餐はリアリティとして存在しうるという体験ができている幼に思います。それを考えると、実は食べるという共通の機能は極めて重要で、まさに、イエスの主張し、希望したことを実行するという意味で、「イエスのツレとしての生き方」をリアルにやってみるということなのではないか、と思ったりしています。

           

           

          次回へと続きます。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

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          コメント:お世辞にも翻訳部分は読みやすいとは言いにくいけれども、内容は重要なことが書いてある本。

          2018.10.08 Monday

          『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(2)

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            コメント:読みやすいとは言わないが、中身は大変参考になる本だと思います。

             

             


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            前回は、この本の翻訳者の方が、この本に出合ったこと、そして、聖餐が重要であると感がるようになられたこと、この本を翻訳使用された動機についての部分を、「訳者あとがきにかえて」の部分からご紹介してきましたが、本日からは、本題のスヒレベークスさんの『ザ・ユーカリスト』からいよいよご紹介していきたいと思います。

             

            前回のあとがき部分をご紹介したFacebookの紹介記事には、プロテスタント派では、聖餐に用いる器具の扱いが粗雑、ファックスの神に紛れて埃(誇り)まみれになっているだの、病床洗礼している牧師さんが、アルツハイマー患者の方やがんの鎮痛剤で意識もうろうとしている方も聖餐にあずかると目に光を取り戻された経験があるとか、正教会の聖餐のスタイルや、伝統教派の聖餐のスタイルの話、ナウエンがスラム街で聖餐をしようとパンを持ち込んだら、パンがスラム街の人に持ち逃げされたことがあって、それを見たナウエンが「イエス様は彼らの中に行ってしまわれたのだから取り返す必要はない」とそのパンを取り戻そうとしたお連れの人に言った話とか、パットン将軍のプラモデルの話まで、まぁ、いろんなディスカッションがありまして、この本ご紹介した甲斐がありました。

             

            さて、このスヒレベークスさんの聖餐論は、本ブログでも時々取り上げるナウエンとその聖餐論にかなり影響を与えた、旧大陸のカトリックの神学者の人のようです。その本に出合った、カルヴァンだいすきな牧師先生であった翻訳者の方が結局カトリックに改宗(回宗)させるきっかけになった本のようですから、非常に重要な本なのだろう、と思います。

             

            13世紀に起きた聖餐理解の再検討

            さて、伝統的に行われてきた聖餐ですが、いろいろ紆余曲折はありながらも続けられてきたわけですが、13世紀ごろに、その意味の見直しが行われ始めます。そのあたりについて、スヒレベークスさんは次のように書いています。

             

            13世紀の「新神学」は斬新かつ近代主義的な響きを持っており、明らかにキリスト教信仰の核心部分をつき、我々のいる20世紀 ー すなわち出版その他の伝達手段を伴う社会開花の方法、とりわけ上から下、下から上へ、また近代の混合社会全体をつなぐ複数の伝達経路を持つ思想の流れが、常に流動する状態を持つ時代 ー においては、間違いなく大きな警報を鳴らしていたであろう。伝統的思想へのボナヴェントゥラの姿勢は特に刺激的であった。

             彼いわく「無思想の人々は全く危険なこの秘跡思想にたぶらかされてしまう」と。(『ザ・ユーカリスト』p.13)

             

            最初に上記の文章をこの本を読んだときに、「新神学」と呼ばれるものが、13世紀であるあたりである、というのを見たときに、ヨーロッパの歴史の深さを感じました。日本はキリスト教が伝来して、潜伏キリシタンまで戻っても(ネストリウス派のキリスト教とされる大秦景教が日本にキリスト教のままとして平安時代にすでに伝わっていた説はかなり無理があると思います)500年前後ですから、まぁ、歴史が浅いと言わざるをえません。さらに、いろいろ各派がご活躍中のプロテスタント派は、日本に到達して200年未満なわけですから、今の日本のキリスト教での、新神学は、「ウルトラスーパー超新神学」に違いないのだろうと思います。

             

            まぁ、13世紀の新神学は、おそらくは、伝統的な前期スコラ哲学的な神学以降の、やや近代的合理性への視線を含んだ様な神学だったのだろうと思います。ボナヴェントゥラの名前が出てきますが、最初にググると出てくるのは、以下のサッカー選手ですが、その人は13世紀とはほとんど無関係なので、たぶん、サッカー選手のことではないと思います。

             

            ボナベンチューラ(イタリアのサッカー選手)

            ボナヴェントゥラ

             

            しかし、上の文章でもわかるように、この本、訳文が硬くて、なんか複雑骨折していて、わかりにくくて閉口しました。まだ、これなんかは骨折の程度は軽いほうです。

             

            ミーちゃんはーちゃんは、この文章を読んで、読み替えをした時に、どう変換しなおしたかというと、こんな雰囲気に頭の中で変換しなおしました。

             

            (本文のミーちゃんはーちゃんによる再変換)

            13世紀の「新神学」は斬新かつ近代主義的な響きを持っており、明らかにキリスト教信仰の核心部分をついているものであった。我々のいる20世紀 ー この時代は、出版その他の伝達手段を伴う社会における技術が発展し、とりわけ上から下、下から上へといった様々な情報流が発生している社会なのだけれども、近代の社会全体をつなぐ複数の伝達経路の存在が生む様々なものがまじり合った思想の流れが、常にいろいろな形で流通することが可能になった時代 ー においては、間違いなく大きな警鐘を鳴らすことになっていたかもしれない。伝統的思想へのボナヴェントゥラの姿勢は特に刺激的なものであった。

             

            翻訳された書籍が困るのは、結局、原文に忠実に翻訳しようとしすぎると、わけわからなくなるところなので、ミーちゃんはーちゃんが翻訳書を読む際には、おそらく、このように訳されている部分には、この単語が使われているだろうし、英米人だとこの表現になるだろうから、こう書いてあったのではないか、と頭の中で英文に直してみて、その上で日本語に再変換してみるという迂遠な作業をすることになることが多いところです。じゃぁ、英文読めよ、の話にはなるのですが。

             

            さて、要するに、ここで、ボナヴェントゥラについて、スヒレベークスさんが言いたかったことは、このボナヴェントゥラの思想は画期的なもので、もしそれと同じことがメディアがいろいろ存在するような当時の西洋で起きたら、神学の世界では、とても大騒ぎなったほどのインパクトを持ったであろう、ということだとは思います。

             

            それで何が画期的だったか、というと、聖餐におけるキリストの現臨というか、聖餐におけるキリストがどうリアリティをもって存在すると考えるのか、ということについての解釈論が今風のことばでいうと、神学者と教会内の指導者的な人々の間で、バズったのではなかろうか、ということであったわけです。

             

            プロテスタント系の教会では、聖餐におけるキリストの現臨を象徴として理解するため、パンと杯にイエスが臨在することを願う部分(聖別、正教会では、成聖)が省略されていますが、正教会さんは、この部分は、イコノスタシスの後ろ側で行われるので見えませんが、カトリックと聖公会は教会によっては見ることができ、式文を唱えながら、物体としてのパンとぶどう酒に神の臨在があるものにしていくことを表現します。

             

            たとえば、

            Hear us, O Christ,
            and breathe your Spirit upon us
            and upon this bread and wine.
            May they become for us your body,
            vibrant with your life,
            healing, renewing and making us whole.
            And as the bread and the wine which we 
            now eat and drink are changed into us,
            may we be changed again into you;
            bone of your bone,
            fresh of your fresh,
            loving and caring in the world.
            Amen.
            というような表現です。(たまたま、昨日の式文)

             

             

             

            このあたりは、確かに、この式文の意味をあまり考えない「無思想の人々は全く危険なこの秘跡思想にたぶらかされてしまう」ということになりかねない部分を持っています。しかし、よくよく考え、それが何を意味するのか、式文の奥にある思想を考えるということをブレーキとして考えなければ、確かに、神秘主義に走り、わけわからない呪術の世界に行ってしまいかねない要素はあります(特にラテン語など、ほとんど普通の人とは関係ない言語で行われる場合)。式文がラテン語であっても、ある程度ラテン語を学び、意味を考えることができれば、その部分聖別とか成聖についても、そこで言われている表現が何を意味するのか、あるいは、ある意味を持たせていることを理解する、という逆アセンブルすることによる理解ができるはずだと思います。このプロセスをさぼると、それは、まさに呪術的、という感じになるかもしれません。

             

            神学と一般の乖離、でも一つでありえた時代

            それで、この13世紀の「新神学」が生まれた環境下で、では、一般の信徒さんはどうだったか、一般の信徒さんとこの新神学の世界の関係はどのようなものだったか、について、このように書かれています。

             

            例えば中世大学の一般教養学科に参加したり、あるいはパリ、ケルン、オックスフォードの神学部で学んだものは実際誰でも、一般教会員の信仰の「感覚的」経験とは全く異なった考えを持ったのである。この平均的信仰の経験は、偉大な修正者たち(彼ら自身初期スコラ主義の学びを続けた)にしたがって平穏な道をたどり ーまた根本的に純正なカトリックの意味合いとも和してー 今日にたどり着いたのである。これらの「新神学者」たちの「科学的信仰」の基本的意味は、直接的最終的分析においては、教会の一般に忠実な信徒たちのそれと等しかったのである。しかし信仰の表明の仕方においては、この二つの道は何という違いだったことであろう。(同書 p.15)

             

            これは、学問と現実と一般社会の関係によく起きることだと思います。例えば、経済学者は、その時代の経済について思いを巡らし、これまでの理論の不具合をなんとなく感じ、新しい経済理論を作り出そう、現実の現象がどのように理解でき、そう理解することで、どのようにより良い方向に社会が変えられるか、ということを考えますが、現実の生活は、不具合があっても現実に存在している通貨を使い、時代の経済を縛っている民法などの法律制度に従い、生きているわけです。それと同じように、13世紀の最先端の「新神学」という概念にいたり、それを学んだ人々も、聖餐論においては、同じ聖餐式のパンを食べ、ぶどう酒を口にしたし、「新神学者」だからと言って、それが象徴だと考えることもなく、「これは、イエスが私たちに与えたキリストの体そのものだ」としてパンを食べたし、これは、「イエスが私たちのために流したキリストの血そのものだ」として、ワインを飲んだのであるけれども、新神学の人たちは、その理解において、きわめて先鋭的で、その臨在、現臨のリアリティ論を突き詰めていた、ということのようです。

             

            まぁ、学問は、半分頭のおかしい、一般的でない人たちが、修道院なり、大学なりに閉じこめてさせておくに限る(一般に出てきてしゃべると極端なことを言いだしたり、ほとんど意味不明のことになる傾向が強いので)ので、学問に携わっている人の言葉を額面通り受け取らないほうがいいことは、たんに大学に行った人ではなく、大学に行かなくても、学問を本当に少しでもした人であれば、すぐわかることのようには思います。

             

            プロテスタント派とカトリックの聖餐理解の違い

            さて、今月末は、All Saints Day(万聖節)でもあり、ハロウィーンというよりは、教会の諸先輩方を覚える日でもあると同時に、このAll Saints Dayに大学の教会に保存されているお宝を見に近郷在所から集まってくる庶民向けに公開質問状を見えるようにルター先輩が大学のチャペルの扉に張り紙(今風に言えば、壁新聞の張り出し)をした日なのですね。

             

             

            「luther wall nailing」の画像検索結果

            https://www.stmuhistorymedia.org/martin-luther-and-the-95-theses/ しかし、この絵面だと、ザビエル君と張り合うくらい、ルター先輩小学生男子のアイドルになること間違いないと思うのだけれども…(小学生は、禿げ頭(トンスラ)だいすきw)。

             

            プロテスタント派が不満が社会に充満していたドイツやスイスで勢いを増す中、カトリックは危機意識を持ち始め、当初はプロテスタントとの対話というか、現実的対応をするためにトリエント公会議が開かれるわけですが、

             

             

            会議神学者及び付託された神父たちによるプロテスタント言説についての報告に照らせば、最初のカノン(ユーカリストにおけるキリストの現臨にかかわるもの、カノン1)は明らかにツィングリ、エコランパディウス、聖礼典主義者たちに抗するものであり、彼らは特別かつ特殊なユーカリストの存在の特徴を不正確に述べた者たちであったのだ。ルターもカルヴァンもこの関連においては言及されていない。トリエント公会議の神学者たちはユーカリスト的存在についてのルターの見解において、カトリックはどうであったかについて特別な感情を持っていた。一方でルターの総合的見解とカトリックの見解との根本的相違に気が付いていた − ルターはこの特殊な存在を、典礼、よってコミュニオンの間だけ(使用においてだけ)受け入れ、ローマ教会のサクラメントを「安置しておく」ことに強く反対した。これは少なくともユーカリストにおける現臨についての異論を導き出しうるものであり、パンは聖別の後は単にパンとして残るというルターの見解をあらわすように思われた。(同書 p.51)

             

            ここも、日本語を読んでも、頭の悪いミーちゃんはーちゃんには何が言いたいかわかりにくくてしょうがない、という感じでしたが、トリエント公会議においては、要するに、一部の13世紀の新神学の影響もうけて、それを発展させたツィングリをはじめとする宗教改革者たちの聖餐理解が象徴主義的であり過ぎ、伝統的な教派との理解の間に齟齬が生まれてきたというものの、ルター先輩もカルヴァン先輩の言説も、その伝統的なカトリックの聖餐理解とはそう乖離しなかったとは言うものの、聖餐理解においては、ルター先輩と当時のカトリックの考え方とも実は微妙に違っていて、ルターにとって、聖餐が終わった後のパンは、普通のパンになるという理解であったということが書かれているのではないかなぁ、と理解しました。

             

            「Oecolampadius」の画像検索結果

            エコランパディウス

             

            まぁ、宗教改革を経たプロテスタントの中でもルター派の神学者の皆さんとカトリックの神学者の皆さんが一致に向けた、和解に向けた対話をしておられるようですが、一番の違いは、聖餐理解の違いのようで、いろいろと対話をしてはおられるものの、結局聖餐理解の違いが大きく、いまだに一緒に聖餐ができない、という状況のようです。まぁ、最初の段階での理解の違いがいまだに尾を引いている感じは確かにします。

             

            ルター派以降の宗教改革の系譜にある教会群とは、(そもそも、誰と話していいかわからないくらい、混乱しているので)トップレベルでの対話も始まりすらできていませんが、まぁ、いろいろな場面で一般信徒は出会うわけなので、ディスリ合って、どちらが正統的だとかと言って、あの人たちは、カトリックだから、あの人たちはプロテスタントだから云々とつまらないラベルの張り合いをしたり、しょうもないことでドングリの背比べをして、いがみ合うのではなく、互いの違いを認めながら、それでも、同じ神を礼拝するものとして、互いに尊重しつつ、その多様性を喜ぶ位の根性があってもよいのではないか、と思います。

             

            ギリシア教父の聖餐理解のかかわりで

            個人的には、一番古い教会のスタイルと、最も古い伝承を保持しておられるのが正教会さんですので、正教会さんの勉強会などで勉強すると勉強になることが多いのですが、奉身礼だけ見ているときには、気を付けないと、古い伝承なのか、比較的新しい伝承なのに古く見えているだけなのかの区別が全くつかないことが多いことがあります。そして、このことでちょっと困ることはあります。とはいえ、あの正教会さんの皆さんがおられることで、ギリシア教父の伝統が保持されてもいるわけで、大変参考になるわけですが、ここでも、聖餐をどう考えるのか、について、ギリシア教父の皆さんのお考えと、それに対するカトリック理解との対応が書かれています。

             

            (ミハ氏補足 トリエント公会議で)ラテン教会が中世後期「実態変化」の用語を使用し始める以前にギリシア教父たちは「要素変化」あるいは、メタ ストケイオーシス(パンとワインのエレメントがキリストの身体と血に変わる)について語っていた。それならなぜラテン教会が「実態変化」について語ってはならないのかと、パリの博士ジョン コンスィリーは声を上げて主張した。会議においてはテルトリアヌス、アンブロシウス、ヒエロニムス、キプリアヌス、ニュッサのグレゴリウス、ナジアンゾスのグレゴリー、バジル、アウグスティヌス、イレナオス他に言及された。よって公会議の神父たちは次のように結論付けるに至った。「用語(実体変化)はより最近のものであるが、現実の信仰 real faith(信仰と物 fides et res)は言うまでもなく旧いものだ」と。(同書 p.67)

             

            この部分の表現を見ていると、実体変化という用語が誤解を生んでいるような気がしてなりません。要素変化なのか、実体変化なのか、という用語上の問題と、用語がさすものの微妙な違いにばかり目が行きがちで、その本質的な同質性があまりきちんと議論されないことは問題ではないか、と思います。

             

            とはいえ、一般の教会人同士の対話でも、福音主義神学会での討論でも時々起きていることですが、教会用語なのか業界用語なのかギョーカイ用語なのか、教”会用語なのか諸説はありますが、同じ用語があまりに安易に使われ過ぎていて、というよりか、用語の意味があまりにきちんと理解されずに言葉だけが独り歩きして使われていて、お互いに同じ語を意味するものが異なるものを指して用いられていたり、コンテキストが違う中で違う意味合いで使われていて、傍で見ていると対話がかみ合っていないどころか、対話が成立していない状況が結構見られたりします。

             

            その意味で、仏教用語禁止でやる法話のような、キリスト教用語使用禁止での対話の習慣を、もっとキリスト教会自体も試みたらいいのに、と思っていたら、今年のいのフェスでは、それ(お題説教×お題法話 ギョーカイ用語禁止編 お坊さんとのガチンコ対決)をやるのではないか、といううわさが流れています。ミーちゃんはーちゃんは世俗の仕事でどうしても参加できないのですが、ぜひとも聞きたいなあ、と思っている企画ではあります。

             

             

             

            今年のいのフェスのポスター

             

            こういう自分が普段あまり考えることもなく使っている、「救い」「天国」「神の国」「永遠のいのち」とかいう用語をどう普通の日本語に置き換えて語るか、ということを考えてみると、自己の聖書理解をきちんと見直すことになるし、聞いているほうの参考にもなるようには思うので、こういうのはいいなぁ、と思います。

             

            3年くらい前まで、説教をしているときに、こういうことをやっていたのですが、結構まどろっこしいとか、教会的でなくておかしいとか、いろいろ言われましたが、個人的には、非常に良い経験であった、と思っています。

             

            次回へと続く

             

             

             

             

             

            2018.10.10 Wednesday

            『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3)

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              今日も、引き続き、スヒレベークスさんの『ザ・ユーカリスト』からご紹介してみたいと思います。前々回は、この本の翻訳に足る背景をご説明し、前回は、この本の最初の部分で、中世中ごろまでのスコラ主義者の中にあった近代性と中世から続く聖餐理解について書いてきましたが、今日はいよいよ、本論にあたる部分をご紹介することになるのですが、その前に、この書物の背景を、少し説明しておいたほうがよいかもしれません。

               

               

              1960年代という時代と、本書の意義

              本書は、オリジナルが、1968年ですから、邦訳されるまで、約50年かかっているというのが、まぁ、なんとも日本的ですが、本文の重要なポイントをご紹介するまえに1968年という時代を考えて見たいと思います。1960年代は、巨大科学、科学万能主義が支配した時代の幕開けでした。まだ、ベトナム戦争は終結にいたっておらず、米軍は最新鋭戦闘機、最新鋭爆撃機で、ベトナムにバンバン新型爆弾やら、枯草剤のご先祖様の枯葉剤(オレンジ剤 ダイオキシンが主剤)を撒きまくり、ホーチミンおじい様が率いるベトナムの共産主義を殲滅せんばかりの勢いでした。

               

              ソ連(現ロシア)が、ボストーク号で、ソ連が人類を初に宇宙にぶち上げたのが1961年、それを受け当時のアメリカ大統領、JFケネディが宇宙開発計画として、アポロ計画をぶち上げたのが同じく1961年、IBMが本格的商用大型計算機システムSystem/360を売り出したのが1964年であったわけです。その意味で、東西冷戦の中、科学技術競争が始まり、ソ連(現ロシア)を中心とした旧共産圏諸国も、英米フランスを中心とした資本主義諸国も、科学技術の時代を謳歌した時代であり、1950年代末には、イギリス・アメリカで商用原子炉が操業を開始し始め、オイルショックもまだその姿を見せず、世界の未来はめちゃくちゃ明るい、と誰しもが脳天気に思っていた時代でした。

               

              オレンジ剤利用に関する映像資料

               

               

              アメリカの宇宙開発の黎明期を描く、ライトスタッフ

               

              「IBM System 360」の画像検索結果

              昔懐かしの愛機 IBM System/360

               

              商用原子炉の黎明期に関する映像資料

               

              こういう科学万能時代に、いかにも古臭く見えるカトリック教会の聖餐をどう意味づけし、近代科学時代における聖餐論を確立しようとするのか、近代における聖餐の教理をどのように護教すするのか、ということを必死になって取り組んだ本が本書であり、聖餐を近代科学がすべてで、何より重要であると思っている近代人に「いやいや、聖餐は実に意味があるのですよ。聖餐は、単に古臭い、教会の伝統によっているのではありません」ということを示そうした本であるといえるでしょう。そのような科学との対話、科学万能時代での護教ということが、ある面、求められた時代が1960年代でもあった、ということはまず触れておく必要があるでしょう。

               

              今のポストモダン時代になじみ、近代科学性のいい加減さ、不完全さと不十分さが、露呈した(いみじくも、オレンジ剤の散布は、いま、人類に多大なキックバックを要求していますし、想定外がかなり連続的なこととして起きた原子力発電所と、その技術も案外当てにならないことをポストフクシマ時代の私たちは知っています。その意味で、科学が万能ではありえないけれども、それなしにも生きられない時代にわれわれは生きているわけです。その意味でも、モダン時代とはかなりことなったポストモダンの時代に、私たちは生きているわけです。

               

               

              全キリスト教伝承の証言に立って(霊のキリスト論との関連で)存在論的相がユーカリストにはある。存在の変化がと断言する際、我々は同時に忘れてはならない。我々はここで同時にキリスト側の秘跡的象徴活動の存在論的相と、次にまさにこの象徴活動の深遠な客観的リアリティの相を取り扱うのだと。後者はその性質から、信者の応答に向けられている。先験的に、秘跡性の範囲外でユーカリストのリアリティを探すべきではない ーそうすることは信仰とユーカリストの立地点を離れることになる。これは、結局、我らの狙いはー 秘跡的終末(論)なのだ!(『ザ・ユーカリスト』 p.83)

               

              ここで、大事なことを述べているはずなんですが、それが、これまた複雑骨折したような日本語で、非常にわかりにくく訳されています。ここで、キーワードになるのが、相という言葉です。おそらく、元の英語は、AspectまたはPhaseだと思うのですが、多分Aspectではないだろうか、と思います。そこで、上の文章を日本語変換しなおして見ると、こんな感じになるでしょう。訳者の方には、せっかく訳されたものを元に、再変換することは大変失礼であることは十分存じ上げていますが。

               

               

              全キリスト教での伝承が主張し続けてきたことによると、(霊のキリスト論との関連で)存在論的なものの見方をユーカリストにすることができるとされています。聖餐において、キリストの存在についての変化がおきる、と断言しようとする場合、私たちには同時に忘れてはならないことがあります。我々は聖餐にあたって、キリスト側の秘跡についての象徴的な活動が行われているという存在論的なものの見方と同時に、まさにこの象徴による行為(聖餐に預かる行為)についての深遠さについて、客観的な現実的な側面のものの見方で取り扱う必要があるのです。客観的な側面でのものの見方ということについては、その性質から、信仰者がどのようにものをみるか、という対応に目を向けることとかかわっています。先験的に、秘跡ということの範囲の外側でユーカリストのリアリティを考察すべきではないのです。秘蹟であることを考えずにユーカリストの現実的側面を考えようとすることは、信仰とユーカリストの立地点を離れ離れにしてしまうことになります。聖餐について、結局、私たちがなぜ聖餐をするかといえば、秘跡において終末を表している(ないし、終末論そのものな)のです。

               

              終末(Telos)の象徴としての聖餐

              要するに、ここで、スヒレベークスさんがおっしゃりたかったことは、聖餐を考えるときに、そこに存在するかたをどう考えるかについては、聖餐そのものが象徴であるという側面と、それに預かる人がどのような意味を見出すのかということについての両側面から考えないといけないということと、結局聖餐は、終末の実現(神が人とともにいる世界)を象徴するものなので、その部分を忘れてはならない、という形に要約できるでしょう。ここでいう終末とはTelos(目的の到達点)という意味での終末です。その意味で、我々が目的としている到達点で実現しているはずのことをこの地において、象徴として表現しているのが、聖餐ということになるでしょう。

               

              福音派の一部に影響を受けた人々の中には、終末は世の裁きが起き、非常に恐ろしいことが起きる時代であるという側面だけを捉え、そのイメージを拡散してきた部分があります。映画でも、世の終わりが、このようなものではないかに関するパニック映画はたくさん作られています。

               

              The Waveというパニック映画

               

              メガトロドンが出てくる最近の映画

               

               

              「トロ丼 山盛り」の画像検索結果

              これは、メガトロ丼(https://rocketnews24.com/2016/03/07/719607/)

               

               

              シャークネードと言うB級映画作品 空を舞うサメと言う設定が・・・

               

               

              そういえば、高知では「カツヲのたたき」が空を舞っているのかもしれないらしい(1分11秒くらい)

               

              まぁ、アナ雪にしても、ある種の終末映画と言えなくはないほど、アメリカ型キリスト教の終末思想が、へんなところに顔をちょくちょく出しているのだけれども、実は、聖餐は、終末で起こる状態、神と人がともにある世界を、物体であるパンとぶどう酒を通して豊かに象徴しているということは、非常に大切なのではないか、と思うのです。

               

              聖餐を象徴のみとして捉えて処理としてしまうこともたしかに可能かもしれませんが、そこには、行為に伴うリアリティ(司祭がパンを裂き、キリストの弟子である信徒に最後の晩餐を模したものかもしれないけれども、聖餐の場に参加し、聖餐に与えるというリアリティ(角切りパンの回しスタイルでは、このリアリティは表現することや、味わうことは非常に難しいことが多い)があるわけですし、そして、パンとぶどう酒を自ら嚥下する(飲み下す)という現実において、神が我が身に来られたという現実と、復活を再現するわけですので、複数の意味を聖餐は象徴していると思うのです。この現実を真面目に理解せずに、象徴として解するのはどうなのか、と思います。

               

              以前、コプト正教会の日本での会堂の聖成式に押しかけたように取材で参加したことがあるのですが、その際の聖餐で、シドニー大司教(日本のコプト正教会はシドニー教区所属だそうで)が聖餐の入っていたトレイを高く上げることで、キリストがこの地を去り、天に挙げられたこと、そしてこれを食するものが天に属するものであることを象徴しておられるように感じました(いつも行っているチャペルでは、聖餐のパンを司祭が食べつくすことで表現している模様)が、あれを見るとき、なるほど、確かに聖餐は終末の象徴であるなぁ、と改めて思ったものでした。

               

               

              Hajime Kawamukaiさんの写真

              コプト正教会の会堂聖成式での聖餐式の最後に聖餐の入っていたトレーを高く上げるシドニー大司教ダニイル猊下

               

               近代科学、量子論と聖餐

               1900年代以降、量子論、相対性理論と、従来のニュートン物理学や古典的物理学の世界と異なる理解の登場とともに、ものとは一体なんであるのか、どう時空間のなかでとらえることができるのか、という観点から、聖餐までも理解し直そうとする視点が出てきたことに対して、この本では次のように書いてありました。

               

               

              二つの大戦の間に実態変化再解釈の必要性は明らかになっていた。近代物理学の因子は実体性についての新スコラ学的主義探求をその根底へと揺り動かしていた。このことがユーカリストの自然哲学から人間学的アプローチ変化を布告した。世紀初頭においてさえ、近代物理学はアリストテレス主義実体概念についての新スコラ学主義グループにおいて熱く議論を引き起こしていた。現象世界の背後に、また外にリアリティがあるという思想はカントの批評が、アンリ ベルグソンから引き出される「実体主義」に対する困難がボディブローのように効いて苦しむスコラ主義を貫いた時、多くを失った。メルロ ポンティよりはるか以前に最終的に、感覚によって貫かれるものは、我々の知覚作用から切り離されるリアリティの客観的特質とは見做されないということが確立されたとき、実体と付帯についてのアリストテレス主義教理は根本的に分解した。物理学における量子論は多くの新スコラ主義を、実体概念は物体のリアリティに適用されない、あるいは最大でも全宇宙は一つの偉大な実態としてみなされるということを現実化した。(同書 pp. 93-94)

               

              まぁ、この部分も普通にさらっと読んだだけでは、一体何のことですろう、といった表現になっていますが、この日本語の文章から、頭のなかで再変換(デコード・リアセンブル)したものを、書いてみたいと思います。

               

              二つの世界大戦の間に聖餐についての実態変化に関する再解釈の必要性は明らかになっていきました。近代物理学の変化という側面は、実体性についての新スコラ学的主義におけるその理解の深化についての理論的根底を揺り動かすものとなりました。この近代物理学の変化による聖餐理解の変化が、ユーカリスト自体の理解の方法について、自然哲学(科学的なアプローチ)から人間学的アプローチへの、アプローチの変化をが導かれました。20世紀初頭においてさえ、近代物理学の進展はアリストテレス主義的な実体概念についての新スコラ学主義グループにおける熱い議論を引き起こしました。現象世界の背後に、また現象世界以外にも現実的な世界があるという思想は、カントが行った批判哲学でさえも、アンリ・ベルグソンから導きたした「実体主義」に対する問題を生じたのでした。そして、その問題は、ボディブローのように効いて苦しむスコラ主義の問題を明らかにしたとき、新スコラ主義は、多くの理論としての重要性を失うことになりました。メルロ・ポンティよりはるか以前に、最終的に、感覚によって刺激されるものは、我々の知覚作用から切り離されるリアリティの客観的特質とは見做されないということが確立されることとなりました。この結果、実体とそこから導かれることについてのアリストテレス主義教理は根本的に見直しをせざるを得ない状態となりました。物理学における量子論の登場は、多くの新スコラ主義に対して、実体概念は物体のリアリティに適用され得ないことを明らかにしたのです。あるいは量子論の観点からは、最大でも全宇宙は一つの偉大な実態としてみなしうるということが明らかになったのでした。

               

              くらいの感じかもしれません。原文を読んでいないでなんとも言えませんが。多分、原文を見ないとなんとも言えませんが、スヒレベークスさんの議論を誤解している可能性があります。

               

              ところで、哲学と物理学は、20世紀中葉まで、いろいろと影響を与えあっているので、あんまり簡単に処理できないのですが、まぁ、哲学は哲学の世界での理解をのべますし、物理学は物理学としてのものの見え方を述べますが、とはいっても、実際の生活には、あまり影響もしないことは確かではあります。

               

              ある程度、上でお示ししたように書き直してみましたが、自分で読み直して見直しても、一体ここでは、何を言いたいのでしょう、といった感じです。とはいえ、もうちょっと読みといてみると、量子力学が出てきて、これまでのものの捉え方やスコラ哲学的な世界、あるいは素朴なスコラ哲学的な世界観が機能しないかもしれない世界をもたらしたので、従来のモノ概念というか、実体概念の概念世界に対して疑問が生じ、もし、量子論の議論から導かれるように、全世界あるいは全宇宙が統合的にひとつのものとして理解しないといけないのであれば、従来の聖餐理解のままでいいのかなぁ?という疑問点が提示されるなか、神学者に対してもそういう時代に、チコちゃん風の「ぼぉーっと、生きてんじゃねぇよ」という疑問が出され、聖餐に対する理解の再検討が始まった、ということのようです。

               

              『チコちゃんに叱られる!』 でのチコちゃんの決め台詞 

               

              まぁ、生きている世界を古典物理の世界で見てようが、量子力学の世界で捉えていよういようが、熱々の白ごはんは美味しいし、焼き立てのどら焼き(関西では、御座候とも言います)は美味しいという世界は変わりません。

               

              象徴と身体性と人間の主体性

              量子力学ができてからというもの、アリストテレス的な世界観には限界があるかも、という疑念が出されて、人が認識するとはどういうことか、という理解の問題が生まれてきました。そして、それは聖餐論にも影響を生み、そもそも人の認識とはどういったものか、人が聖餐にあずかるときの認識をどう考えるのか、という問題が生まれてきたわけです。そして、人が理解するということをどう考えたらいいのか、ということが問題になってくるわけです。そのあたりの部分をスヒレベークスさんが書いたものの本書の記述部分をご紹介したいと思います。

               

              近代の現象学は印の認識論をではなく、二元論的ではない人間観を基礎とした主張的行為についての人類学論を発展させて来た。この人類学的概念によれば、人間は第一に一つの閉じ込められた内部性、そしてのち、次にあたかも身体性を通して世に受肉するようなものではない。人間的身体は、分離し難く人間の主体性と結びついているものであり、人間のエゴは本質的に世界の事柄と結びついている。(同書 p.98)

               

              そこで、再度、翻訳者の方にはまことに申し訳ないのですが、原文を読まずに訳文だけから、こういうことをスヒレベークスさんはこういうことを言い他騙ったのではないかということを、逆アセンブルしてみたらこうなった、という文章を紹介したいと思います。もちろん正確ではないだろうし、それでも、十分わかりやすいとは言えないのだけれども、とは思っています。

               

               

              近代の現象学は象徴についての認識論についてではなく、二元論的ではない人間観を基礎とした人間の主張的行為についての人類学論的研究を発展させてきました。この人類学的な研究で利用される概念を用いれば、人間は第一に一つの閉じ込められた内部性を持っているということになりますし、第2に、身体性を通してのみ、あたかも世の中にある実体を認識するようなものではないのです。人間の身体は、人間の認識と人間の主体性とは分離し難いものであり、両者は強く結びついているものです。そして、人間の自我というものは本質的に世界の様々なものごとに結びついているといえるのです。

               

               

              まぁ、最近の現象学という学問の体系では、人間が対象や物事をどう理解するかについてその議論を行ってきたのだけれども、人間を考えてみると、人という存在は、ある閉じた世界であり、内部をもつものではあるものの、ある種の身体性をもって、触ったり、見たり、味わったりすることを通して、世の中にあるものを理解するだけでもなく、概念的な対象について、本来身体性や五感を介しては触れられないはずのものも理解できること、そして、人間の認識と人間が理解しようとする主体性というのは、がっちりと結合していて、そして、自我も世界と無縁に存在するものでもない、ということを言いたかったのではなかろうか、と思います。

               

              例えば、ミーちゃんはーちゃんは、プログラムとして文字や数字で書かれているコード(プログラムの命令集合体)を見て、その背景にあるそのプログラムの開発者の意図を考え、理解するという趣味の悪いことを、時々やる(頼まれるので、やらざるをえない)ことがあるのですが、まさに、このような場合、身体性とはちょっと離れたことをしているわけで、そういう概念理解ということは存在する、ということなわけです。

               

              それは、聖餐や祈り、説教といったキリスト教の世界での象徴や象徴的行為を信徒が考えるということとも結びついていているからこそ、このような理解が重要になっているように思います。確かに、聖餐は、7mm角のサイコロ状に切り分けられたパンを食べ、ウェルチのジュースやぶどう酒を飲む単なる行為であるのではなく、たとえ、サイコロ状に切り分けられた食パンであっても、あるいは、その大半が先週の業務報告のようなもので占められた牧師の説教であっても、それらの行為が象徴するものがある、ということはちょっと考えないといけない、ということなのだと思います。

               

              たとえ、教会で行われるさまざまな事柄やイベントがしょぼくれてみえる行為であっても、あるいは、恭しくありがたく見える行為であっても、そこに共通する象徴とは何か、ということを考えることが重要だ、ということをスヒレベークスさんは言いたかったのだろうと思います。ただ、高度な概念操作とそれが象徴するものを理解する、ということは、実はかなり難しいことなのです。

               

              頭が働くなくなったり、耳が遠くなったり、短期記憶機能に障害が発生する、ということは年齢が進むと起きやすいのですが、そうであっても、聖餐を口にする、という行為は、脳の短期記憶に機能障害が発生しても、疲れ切っていて、頭がはたらかなくても、耳が遠くなっても、味がわからなくなっても、食べることはでき、そして、そのごく普通に食べられているものを、食べる行為で、神が自らのうちに入られる、ということを象徴する行為に関与できる、ということの意味は多く、その行為に重要性があるのではないか、ということをおっしゃりたかったのではないかなぁ、と思います。

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

               

               

               

               

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              価格: ¥ 1,080
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:中身は重要ですが、日本語表現がわかりやすいとは言えません。でも、読むべき本だとは思います。

              2018.10.12 Friday

              『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(4)

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                さて、今日も引き続きザ・ユーカリストのご紹介をば、していこうか、とおもっております。前回は、近代時代における科学性がさまざまな世界で支配的になる中で、呪術的に見えかねなかったカトリックの聖餐の聖変化について、どう考えればよいのか、ということで、本書の著者が、象徴論や、認識論を援用しながら、キリストの臨在をどう考えることができるのか、近代科学の支配的な時代において、カトリックが保存してきた実体説をどう護教できるのか、ということについて述べた部分をもとに、解説を加えてまいりました。本日ご紹介する部分は、それを一層深化させ、人間と聖餐の理解で、どのように聖餐がキリストの臨在であるのかということを、考えることができるのかについて、述べた部分をご紹介していきたいと思います。

                 

                対象との関係論における意味論的アプローチでの聖餐理解

                さて、まず最初に、本論部分で、とても印象的な部分から、ご紹介してまいりたい、と思います。それは、ヴェルデ、という人の聖餐と人間、キリストと人間との関係というある種の関係での認識論、意味論から、この議論を考えるようとした部分からです。

                 

                J・ヴェルデはさらに十分な分析を施した。彼の立場は人格的霊的関係性は身体的物質的のそれよりもさらにリアルだというものであった。ゆえに彼はユーカリストのパンとワインをそれらの関係性の光の下で眺めた。存在、真実なるもの、そして善なるもの(意味を持つ者)は純正にトマス的見解から見て互換性がある。それら自身の存在においては、物事は誰かのために「何かに対して意味を持つ」ことなしに、あるものはそれ自身ではない。この超越的「何かに対して意味を持つこと」は特に具体的形において成る。(中略)

                ギリシア神殿はその建築者にとって、そこでの礼拝者にとって、現代の観光者にとって異なる。人間それ自身は本質的にこの関係性の中に巻き込まれるがしかし、完全にはそれに依存してはいない ー 物の存在そのものは関係性が変わるときに変化する。よって次のように言える。「神殿が「歴史的実態変化」を経た」と。(ザ・ユーカリスト p.110-111)

                 

                この部分は、まだなんとなくは意味が取れるのですが、それでも意味が初見で読んだだけでわかるわけではありませんので、いつものように、翻訳された方には申し訳ないのですが、日本語から、ミーちゃんハーちゃんの頭の中で、逆アセンブルして、更にそれから再アセンブルしたものをお示ししてみよう、と思います。

                 

                 

                J・ヴェルデはより深い分析を行いました。ヴェルデの立場は人格的、そして、キリストの霊的関係性は、単に肉体を通しての身体的関係性や、物質と肉体との関係よりも、さらにより実際的なものがあるというものでした。ゆえに彼はユーカリストのパンとワインをそれらの関係性の中で再検討したのです。

                 

                存在することや真実であるもの、そして善なるもの(それは、人間にとって意味を持つ者や事柄)は、純粋にトマス的なアプローチから見て相互に互換性がある、ということになります。存在すること、真実、全なるものといった存在そのもののや事柄といったものについては、誰かのために「何かに対して意味を持つ」ことがあって初めて、存在すると言えますし、真実である、善なるものであると言えるはずです。ある面で、超越的に「何かに対して意味を持つこと」は特に具体的形においてそのいみあることが起きると言えるのです。(中略)

                ギリシア神殿はその神殿を建築した建築家にとって、そこでの過去ギリシアの神々を礼拝した人々にとって、そして、現代の観光客にとって、そしてそれぞれの人々を考えるとき、神殿とそれぞれの人々との関係性は異なるものだと言えるでしょう。人間自身は、その存在のあり方からいって、ある対象(例えばギリシア神殿)との間の関係性の中に巻き込まれることになりますが、しかし、完全にその対象にのみ依存して関係性が決まってしまうわけではありません。もう少し言うならば、モノやコトの存在そのものは、人間とモノやコトとの関係性が変わるときに、人に対する意味が変化するのです。であるとすれば、「神殿が『歴史的にかつ実態変化』が生じている」と言えることになるのです。

                 

                調べてみたのですが、J. ヴェルデなる方については、調査時間があまりなく調べがつきませんでした。しかしながら、実体説を実物とそれが指し示そうとしている象徴の本体と人間との関係の意味論で考えてみようとする試みは、非常に大事であるかもしれない、と思いました。まぁ、カトリックの方々の古くからある伝統的な理解とは合わず、受け入れられるには至らなかったようですが、しかしながら、キリストが与えたパンと盃とが再現されることで、キリストと当時の弟子たちと、キリストの現在の弟子たちである現代の信徒における意味においての同値的な関係が再現することで、過去の信徒にも、現在の信徒にも、このパンと盃が意味を持つという意味において、具体的なパンと盃という形を通して再現されることで、キリストとの関係性を意識させることで、パンと盃に人間が関与するという関係性から、聖餐(ユーカリスト)が「『歴史的にかつ実態変化』が生じている」と言えるのではないか、というご主張であったように思います。

                 

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                ある意味、聖餐の場で、人間が経験するパンと盃という物質的なものを解するとはいえ、それが象徴することと、そこで信者がともにパンと盃を口にする、そして、神である御子イエスを自己の中に受け止めるということの象徴的行為を介して、神秘的な神との出会うことこそが、「『歴史的にかつ実態変化」が発生している」ということでもある様に思いました。

                 

                結局このあたりの物体と人間、概念と人間、歴史的事件と人間の関係は、意味論だけでもダメではあるし、認識論だけでもだめであるし、構造主義理解だけでもだめで、歴史的理解だけ、あるいは物理的理解だけでもだめで、また、ソシュールで提起されたシニフィアンとシニフィエという言語論的アプローチだけでもだめで、はたまた、人間関係論だけでもだめで、もっと総合的に考えるべきものであるような気がしているのですが、とはいえ、一人の人間で、ワンマンバンドみたいに、一人で全部の方向から考えることはできないので、様々なものごとの見方について、いろいろな人が考えてみることは大事なのだろうなぁ、と思います。

                 

                イエスが定め給うた聖餐である、という意味

                聖餐は、これを覚えて行いなさい、とイエスが直接弟子たちに命じたことが明確に福音書に記載されており、聖書から直接跡づけることができる儀式、典礼、聖礼典のひとつです。その意味で重要だと思いますし、それを教会の伝承のみである、とするのには困難が伴う教会の重要時の一つだと思います。結婚、離婚は、プロテスタントでは典礼ではありませんし、葬儀も、典礼扱いはされていませんが、実際に多くの教会では、聖餐実施回数がそれほど行われているわけではなく、カトリックなど伝統教派では、基本は360回以上、ほぼ毎日行われており、少なくとも週に1回は行われています。プロテスタントでは、多くの場合月一回か、年に数回のところが多いようですし、聞いた範囲では、年に2回程度、というところもあるようです。そちらの教会では、牧師先生が、もうちょっと、聖餐を増やしてはどうかなぁ、と提案めかして、聞いてみたところ、信徒さんからは、あまり芳しくないお返事が帰ってきた、ということもお聞きしました。

                 

                聖餐式の回数が聖餐の在り方の正しさを決めるわけではありませんが、いろいろな生産に関する神学理解があることも存じ上げてはおりますが、もう少し多くのプロテスタント教会で、もうちょっと、この聖餐を通して、自分たちが何者なのか、何のための教会なのか、を考えていただくといいのになぁ、とは、個人的には思っています。

                 

                このあたりのキリストが定められた儀式であること、そして、キリストとの関係について、どの様に見えるのか、ということについてのスヒレベークスさんの文章を翻訳されている部分を、まず引用してみたいと思います。

                ユーカリストの場合においても、いかなる人間によらず、神の子によって新しい意味がパンとワインに与えられる。なぜならそれは、神の子によって起こった関係性は神聖であるから、絶対的な意味において拘束力があり、信徒のためにユーカリストの存在を決定する。信じないものは誰でも結果的にこの方法において見ず、彼自身を客観的に存在する現実の外に置く ー彼は存在の秩序の外にいる。ヴェルデはこの考えを作動する仮説として推し進めた。(同書 p.111)

                 

                 

                 

                「Bread and Wine Holy Communion」の画像検索結果

                ユーカリストを表す絵柄のステンドグラス

                 

                 

                これまた、あまりわかりやすいとは言えないように思いますので、それをもう少し、読み解いたもの(一旦、日本語から英文を推測して、さらにミーちゃんハーちゃん風に日本語変換したものをご紹介したいと思います。

                 

                 

                ユーカリスト(聖餐)の場合についても、いかなる人間によらず、神の子によって新しい意味がパンとワインに与えられたと言えるでしょう。なぜならそれは、直接、神の子であるイエスによって始まった関係性だからです。つまり、イエスが始め、そして守るように命じられたことですので、神聖なものであるわけです。ですから、聖餐については、絶対的な意味において拘束力があり、信徒のためにユーカリストが存在しているのだ、ということが定めらているのです。イエスを神として認めない(信じない)ものは誰でも結果的に、イエスが人々に命じられたものとして、聖餐を見ていないことを意味します。つまり、イエスを信じない方は、その人自身で、神と人との関係という客観的に存在しているリアリティである関係の外側に置くことになるのです。もう少しいうと、イエスを信じない人は、神がこの地に存在するという、神の秩序の外側にいることになるのです。ヴェルデは、このような考え方を、とりあえず、分析するための作業用の仮説としておいた上で、考察を進めたと言えるでしょう。(同書 p.111)

                 

                つまり、イエスが、神のところから来たものである自分がこの血において、人々の中で生きて、死んで、そして、復活したことを象徴する聖餐を命じた以上、聖餐を受けるということのためには、先ず、イエスが神であることと認める必要があるし、聖餐を自分のものとして与る、あるいは聖餐のパンと盃を受けることは、イエスの弟子であることの象徴ないし象徴的行為でもあること、そして、その弟子の象徴を受けない、象徴的行為に関与しないということは、神がこの地にリアリティとして存在していない、ということを意味しかねない、ということになるのではないか、その前提に立って、議論を進めたということを述べているわけです。そう考えてみると、結構、信徒として聖餐にあずかること、その象徴的意味は、単に聖餐を受け取っているということのみならず、神が存在することを信じ、そして、神の子であるイエスの死と復活をこれまでの使徒、あるいは過去の信仰者と同じ様に信じ、そして、死と復活が将来自分の身にも起きることを象徴している、ということになる、ということを考えると、この聖餐のの意味、というのは本当に大きいのだなぁ、と思います。

                 

                 

                「Holy Communion All in One」の画像検索結果

                アメリカのドライブインシアター型教会などで用いられる、パン(ホスティア)とぶどうジュースがパックされた

                コミュニオン・セット(ないよりマシだとはおもいますが、なんか味気ない…)

                 

                次回へと続く。

                 

                 

                 

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                ショップ: 楽天ブックス
                コメント:内容が良いのに、日本語が不自由なのが残念。

                2018.10.15 Monday

                『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(5)

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                  さて、前回の記事では、聖餐とキリスト、そして、信仰者との関係における意味論の観点から、聖餐におけるキリストの現臨がどう考えられるのか、について、そして、イエスが定めたもうた聖餐が現在のキリスト者にとってどのような意味を持つのか、ということをご紹介しました。今日はそこから一歩進んで、もう少し踏み込んだ聖餐が何を示すのか、聖餐をどう考えることができるのか、という部分などについて、本書の中からご紹介していきたい、と思います。

                   

                  聖餐と過去と現在と終末論 

                  第三回目の記事  『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(3)  という記事でも紹介しました通り、聖餐は過去の出来事であると同時に、終末の出来事を想起させる出来事であり、そして、過去と将来の終末を結ぶ現在における出来事でもあり、ということができます。そのあたりのことについての記述を本書から拾ってみたい、と思います。

                   

                   

                  全人が意味を与えることの基本ー ユーカリストでは「主の死は宣言される」(Iコリント11:26)。この文脈は、ユーカリストを誤って伝えることなく、いかなる存在論的、現象論的接近においても慨視することはできない。キリストはユーカリストにおいて、主として、居られるーすなわち我らのために死において自らを与え、神によって、我らに生をもたらした方として。

                  主との我らとの人格的関係は本質的に想起であり、十字架上での救いの歴史的できごとを心に呼び起こす。過去だったという限りではなく、その成就において永遠に持ちこたえるものとして。しかしながら、歴史とは永遠の背後に据えられず、歴史において完成され、究極的完全は歴史の終焉であり、歴史の背後に去っていくのではなく、この歴史そのものの上に終わりの価値を授ける。つまり、その完成に与るのである。これが甦ったキリストに対する我らの関係が、歴史的イエスの関係と同一である理由である。(『ザ・ユーカリスト』 p.124)

                   

                  ここでは、聖餐がイエスの死と復活と再び来られることを宣言する儀式であるように思います。個人的に好きな聖餐式の式文に次のようなものがあります。細字は司祭が読み、太字部分は、参加者全員で読みます。アングリカンの教会に行って、最初にこの聖餐式の以下でお示しする式文を読んだとき、ある面、あぁ、これが聖餐だし、そして、教会とは、神がいる場所だ、ということをいやほど感じた日のことは忘れません。聖餐の場に神がおられ、神の霊が我々とともにおられ、私たちは神のみ思いを主に返し、神に感謝と賛美をささげることが聖餐式の意義なのだなぁ、ということを改めてこれらの式文のことばを自ら口にすることで、告白することで、あらためて思い知りました。

                   

                  The Lord is here.

                    His Spirit is with us.

                  Lift up your hearts.

                    We lift them to the Lord.

                  Let us give thanks to the Lord our God.

                    It is right to give thanks and praise.


                    Holy, holy, holy Lord,
                    God of power and might,
                    heaven and earth are full of your glory.
                    Hosanna in the highest.
                    Blessed is he who comes in the name of the Lord.
                    Hosanna in the highest.

                   

                  Great is the mystery of faith

                    Christ has died:

                    Christ is risen:

                    Christ will come again.

                   

                  Praise to you, Lord Jesus:

                    Dying you destroyed our death,
                    rising you restored our life:
                    Lord Jesus, come in glory.

                   

                    Amen.

                   

                  さて、余談はさておき、翻訳書の中身のコンテンツについて考えてみたいと思います。とはいえ、上に引用した翻訳文の文章は、ある程度のその主張されたい意味は分かるものの、なんかすっと飲み込めるような文章ではないなぁ、と素朴に思いました。そこで、いつものように、逆アセンブルしてみたいと思います。つまり、上の文章を、ミーちゃんはーちゃんが読んだら、こうなった、という文章をご紹介してみたい、と思います。

                   

                  全ての人に意味を与えることの基本にあるものー ユーカリストでは「主の死は宣言される」(Iコリント11:26)ということが行われているわけです。このキリストの死が宣言されるという文脈においては、ユーカリストは、イエスの死を誤って伝えるということはないはずです。そして、聖餐については、いかなる存在論的、現象論的なアプローチにおいても一般化して考えることはできないものだと考えられます。キリストは、ユーカリストにおいて、主として、その場に実際におられる、ということなのですー すなわち我らのために、ご自身の死において自らを我々にお与えになったのです。そして、神によって、我らにイエスの死によって我々に永遠のいのちをもたらした方として聖餐の場におられるのです。

                   

                  聖餐とは、主と我らとの人格的関係が本質的に想起の関係のためのものであり、十字架上での救いという歴史的できごとを現在の人間の心に呼覚ますものでもあるのです。十字架の出来事が過去の出来事としての限りあるものとしてではなく、イエスによる神と人との関係の回復の成就が、永遠に存続しうるものとしてあることを示すためのものなのです。しかしながら、歴史とは永遠の背後に据えられるタイプのものではありません。イエスの十字架を介した神との関係は、歴史のある時点において完成されるものなのです。イエスがなした究極的完全な出来事は歴史の終焉において実現する事柄でもあり、イエスのなした出来事は、歴史の背後に去っていくものではないのです。かえって、イエスがなした出来事は、この世界の歴史そのものの上に終末における本来的な価値(意味)を与えるものなのである。つまり、聖餐では、この歴史の完成に与ることでもあるのである。これが復活したキリストに対する我らの関係が、歴史的時間における、イエスの時代に起きた弟子たちとの関係と同一であり、最後の晩餐でイエスと弟子との関係と同じ関係にある、という理由ということができます。(『ザ・ユーカリスト』 p.124)

                   

                  先のアングリカンの式文でご紹介したように、聖餐は、イエスが死んだことを宣言します。そして、よみがえったことも宣言するのですが、とりもなおさず、まずもって、イエスが死なれたことを宣言しているわけです。しかし、その死の意味は、われわれに生命を与えるための死であった、ということを身体的な感覚を通して、すなわち、視覚を通して、味覚を通して、そして、喉元を通る感覚を通して味わう、という部分に意味があるのだろう、と思います。つまり、イエスの死と復活は現実であることを身体的な感覚を通して味わうということが可能なのだと、思うのです。であるからこそ、イエスの死と復活が、単なる概念に過ぎないリアルな現象である、そして、ここに今、我々は、現実の肉体における視覚、聴覚、触覚で味わえないイエスがわれらとともにいる、ということを覚えるために、聖餐があるのだ、ということなのだと思います。

                   

                  身体的感覚と想起としての聖餐

                  特に、「主との我らとの人格的関係は本質的に想起」である、つまり、神の臨在に対する被造物である人間側の応答としての想起である、という概念は大事ではないか、と思います。そして、それは過去の出来事でもありつつも、現在の出来事でもあり、そして、究極的には、将来において完成される、我々の究極の完成、という形で層になっているのだろう、と思います。中澤啓介さん流に言えば、全被造物の完成の世界に向かって言っているということなのだろう、とおもいます。そして、人間の本来の姿、それは人類全般である、というよりは、個性を持った一人一人が本来創造されたかたちとなるという、事なのだと思います。聖餐論は、以下で紹介する本『神が造られた「最高の私」になる』という本の中にはありませんが、終末というのは、おそらく、安手のB級映画にあるような世界の崩壊でもなく、聖書の世界理解は人間が、本来の目的を回復し、神と人とがともに住む、という約束が実現する世界なのだと思います。

                   

                  単に歴史的な出来事でもなく、その歴史を背景にしながら、歴史を紡ぎだしながら、その歴史の中に垣間見えるように関与する神との関係を現在において味わい、そして、それを表明し、現在において、将来の完成の姿の予行演習するのが、おそらく聖餐、Holy Communion、つまり、神を食べることで、神が自分自身の一部となっておられること、自分自身も神との共有関係を結ぶ、ということなのだろうと思います。

                   

                  元々の翻訳文では「甦ったキリストに対する我らの関係が、歴史的イエスの関係と同一」となっていますが、これは、案外大事なのではないか、と思います。聖餐は、最後の晩餐の模倣でもあり、エマオの途上の宿屋での出来事の再現でもあり、また、弟子たちが失意の中で漁に出た後、何も取れずに帰ってきた時の再現でもあり、そして、それは、神と人がともに生きる将来の姿の予行演習みたいなものでアもあるという意味で、歴史を貫いて行われる神と人との関係の象徴的行為、ということになるのだろう。

                   

                   

                  パンとワインであることの意味

                  聖餐に用いられるのは、地中海小麦文化圏での通常の食事で使われるパンが用いられている。それは、普段の食事に使われるパンが弟子たちに与えられています。一番古いこのかたちは、メルキゼデクが、アブラハムが帰ってきた時にパンとワインを出した場面のことかもしれないなぁ、と思います。なお、地中海小麦文化圏世界では、いまだにパンに塩かけて、その上でオリーブオイルにつけて食べたりするのが、ふつうなのだそうです。それが、過ぎ越しの祭りで、イエスが最後の晩餐で自分を覚えるように弟子たちに渡したことも、象徴的ですが、それが今なお聖餐で使われていることも、ある意味、重要かもしれません。

                   

                  日本では、小麦よりも水稲が主食であることもあり、西日本では、うどんやせんべいなどで小麦が使われることがないわけではないですが、素材の豊富さとしては、水稲(コメ)の方が生産量が多いこともあり、このパンというのは、最近でこそ、コンビニが席巻する中、日常的なものとはなり始めていますが、普通のもの、という印象はあまりなかったかもしれません。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  今、その日本で普通になってきたパンが聖餐に使われるパンが使われていることについて触れましたが、地中海世界で、ワインが使われる意味についても少し紹介しておいた方がよいと思うので、本文のご紹介に行く前に少し紹介いたしたい、と思います。

                   

                  地中海世界とワイン

                  日本やアメリカでは、水中に含まれるカルシウム分やミネラル分、鉱物成分が少ないので、生水を飲んでも人体にさほど影響はないのですが、とくにフランス、イタリア、ギリシアあたりですと、大理石がふんだんに取れることからも、普通の地面が石灰岩質ですので、その中を通ってくる水は結構カルシウム分を含んでいます。ヨーロッパでは、結構このカルシウム分が悪さをして、水道管が詰まる、あるいは、水道をひねっても赤茶けた水しか出てこない、ということが起きます。このために、今だと、ボトル入りのミネラルウォーターが用いられるのですが、ミネラル分を含まない飲み物となると、ぶどうジュース、ワイン、ないしビールということになるわけです。そういう状況があるために、西ヨーロッパでは、ワインやビールが普段の食卓に欠かせないもので、フランスなんかでは、アルコール度の低い、子供用のワインなども作られるほど、ワイン文化が普及しています。つまり、パンとワインは、嗜好品というよりは、人々の生活に欠かせない、生活必需品であったわけです。それが聖餐に用いられているということは、我々は、基本的にパンとワインを必要とするように、キリストを必要とする、ということをもあらわしているようには思うのです。

                   

                  日本とワイン 舶来高級品

                  上のコンビニのCMにもあるように、パンは老人子供も喜んで食べる喜びを与えるものに日本でもなってきましたが、ワインは、その文化が決定的に欠如していること、また、サントリーさんが赤玉ポートワイン(本当は焼酎のように蒸留したものなので、ワインではないという説はありますが)を製造するまでは、庶民の口に入らない、普通のものではなく、また、輸入品しかなかったために、ハイカラな舶来高級品でした。それもキリスト教がちょっと、庶民的でない、というイメージを与える遠因ともなっているとは思います。だからと言って、せんべい(マンナやハイハインみたいなもの)とほうじ茶で、日本で聖餐ということも論理的にはあり得るあるようには思いますが、まぁ、ありがたいことに国内でもワインが製造されるようになっているわけですから、日本では、マンナとワインでの聖餐でもいいような気がします。

                   

                  マンナ

                  森永のマンナ https://www.morinaga.co.jp/biscuit/history/story/ex_manna.php より

                   

                  亀田製菓 ハイハイン 53g×12袋

                  亀田製菓さんのハイハイン

                   

                   

                  「赤玉ポートワイン ポスター」の画像検索結果  

                   

                  赤玉ポートワインを売り出した時の新聞広告とその時期のボトル

                   https://www.suntory.co.jp/wine/original/akadama/history/ より

                   

                  聖餐の意味と食べることを意味づける人類

                  それらのことをご説明したうえで、スヒレベークスさんが聖餐でパンとぶどう酒が使われていることについて、どう書いているかの部分を見ていきましょう。

                   

                  生産的かつ象徴的な人間は自然の過程によっていくつかの自然的要素を改良することができる ―例えば彼はこの方法で小麦が含まれたものを、次いで技術的手段によってパンを作ることができる。ワインは同様に自然的かつ技術的過程を経た最終生産物である。この意味において次にパンとワインは人間の耕作と技術の産物として、人間の益と使用のため目的に向けての人間活動の結果である。しかし人間によるこの目的付与はその先を行くことができる。パンとワインはすでに身体生命を養うのに有益であり、人間の生殖においてはさらに機能を持つ。それらは象徴的意味を持つ ―パンは生命の象徴、ワインは生命の喜びの象徴である。(中略)テーブルでの食を分かち合い、飲み食いするとき、既にそれらにおいて生物学的に有益であり、人間の技のより高いレヴェルへと止揚しうる。それらは兄弟の連帯、人格を通しての親しみ、友情を印づける協定、同意の喜ばしい結末ともなる。(同書 p.129)

                   

                  まぁ、今回の部分は、読んで意味がまだ分かると思いますが、生殖は、おそらくReproduction再生産のことだと思いますし、協定は、Agreement、すなわち合意していること、だと思います。

                   

                  ここで、スヒレベークスさんが言いたいことは、人間は、様々な自然にあるものを生かして、いろんなものを作り、小麦をそのまま食べるのではなく、粉にして、それを水や動物のミルクでこね、それを焼き、パンを作り出したり、ブドウを絞ってジュースにしたり、ワインにしたりという工夫をする存在で、それで人間の社会を豊かにしてきただけではなく、そのモノに象徴性を持たせ、意味を持たせることもできる存在であるということは大事であるのです。さらに、パンとワインは人間が生きていくために必要なものだし、人類が世代から世代へといのちをつないでいくため、人類がサバイブするためにも重要であるばかりではなく、それだけでなく、モノが何かを象徴する、とも理解する能力を持っているわけです。食べるということは、重要な意味があり、同じテーブルにつき、同じものを食べるということはいろんな意味があり、同じ場で飲み食いすることは、人と人との交流や友情の象徴、お互いに怒りを抱いてないということを象徴している、というようなことではないか、と思います。

                   

                  人類と食品加工技術

                  まぁ、人類は、加工する、特に加熱加工するという技術を持つことで、食べ物の幅を広げてきました。例えば、スモーク技術や冷蔵・さらに、冷凍技術を持つことで、食材の長期保存を可能にし、加熱調理をすることで、より食味をよくする、体内での吸収率を向上させるということをしてきました。最近でこそ、すし文化が世界中に広がり、生の魚肉を外国人が、食するという文化を介するようになりましたが、魚類の過熱調理が普通であり、切断精度の低い刃物が通常調理に長らく使われてきた西洋では、鮮度の低い魚肉を、切れ味の悪い包丁などの切断調理器具で、加工するしかないために、魚肉の生食は長らく避けられてきたといえます。そして、つい30年から40年前まで、そのような文化を持つ日本文化は、あまり高度なものとして見られてきませんでした(その残滓は、指輪物語のゴラム(スミアゴル)メルの描き方にちょっと表れています)が、この30年から40年の間に、刺身やすしなどの魚肉の生食文化が、魚の鮮度の確認技術、包丁の切断制度の高さ、極端と言ってもいいほどの衛生概念に対するこだわりが日本文化に内蔵されているがゆえに可能になった調理であることがようやく認められてきたわけです。

                   

                  「Gollum Fish」の画像検索結果

                  魚を食べるゴラム

                   

                  余談はさておき、今回は、この本の後半部分に移りたい、と思います。

                   

                  イエスの最後の晩餐の再現、神の国での聖餐の地上での予行演習

                  同じテーブルで食事をすることの意味です。聖餐は、同じテーブル(同じ部屋、同じ場所)で、イエスと弟子たちがパンと杯を食べたことの象徴です。その意味で、同じ食卓に着く、ということを象徴しているはずです。とはいえ、大規模教会では、同じ聖餐卓を囲む、ということは困難になるので、その場で食べる、という感じになりますが、やはり、こじんまりとした教会で、一か所に集まり、聖餐をするということは、別のイメージを参加者に示すのではないか、と思います。今参加させてもらっているチャペルの聖餐式では、日本人もいる、中国人もいる、英国人もいる、フィリピン人もいる、ナイジェリア人もいる、という様々な人々がともに集まり、パンと杯を食するというまさに将来神の国で起きることの地上での予行演習ともなっている、ということを味わうことができるという意味で、非常に印象深い聖餐式をほぼ毎週2回、味わうことができています。実にありがたい限りではあります。

                   

                  そして、聖餐は、正餐でもあるわけです。外交プロトコルや政治的な場面において、この正餐は重要な役割を果たします。何かというと、お互いに敵対関係にないことをこの正餐が象徴するからです。例えば、宮中晩さん会というようなことが皇室の宮中行事(政務)として日本でも行われていますが、あれは、海外の元首と豪華な食事をしているということよりは、二国間での相互交流があることを祝している行事なわけです。そこで、失態があると、下手をすると外交問題になりかねないわけです。今も、パパブッシュが、宮中晩さん会で、起こした失態は、語り草になっています。ほとんど忘れられていますが。

                   

                   

                  関連画像

                  パパブッシュが宮中晩さん会で、「やっちまった」をした事件の瞬間の映像

                   

                  シンポジウムとしての聖餐

                  あるいは、シンポジウムという言葉が、何人かの登壇者が出てくる講演会などに冠されることがありますが、あの言葉は、プラトンの著作饗宴の原タイトルである συμπόσιον に由来するとされていて、そもそも、哲学者たちや、話をしていろいろものを考える人々が一堂に会し、一緒にパンを食べ、ぶどう酒を飲み、好きなことがらについて延々議論するというイベント饗宴に、シンポジウムは由来しているわけです。つまり、聖餐とは、神と人とのシンポジウムという部分もあるわけです。それは、神と人との和解の象徴でもあり、神と人とが、連帯していること、家族であること、相互に交流していることの象徴でもあるわけです。そのことをあらわす聖餐の大事さ、ということは、もう少しプロテスタント諸派では、認識されてもいいのではないか、本当に礼拝のクライマックス、歴史のクライマックスを象徴するものであるという認識が、もう少し広がればいいなぁ、と思っています。

                   

                   

                  「国際シンポジウム」の画像検索結果

                  東北大学で行われた国際シンポジウム http://www.law.tohoku.ac.jp/gelapoc/jp/symposium/index.html より

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:日本語表現は難解だけど、中身的には、とても大事なことが書かれている。

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                  ジョン・オートバーグ
                  地引網出版
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                  (2015-11-10)
                  コメント:究極の創造の姿になること、終末と人間の関係について書かれた本

                  2018.10.15 Monday

                  工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会のご案内 再

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                    工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版を記念して、対談会を行います。 

                     

                    企画目的:
                    現在のアメリカ合衆国でのトランプ大統領の登場とその言動、朝鮮人民民主主義共和国金正恩総書記とトランプ大統領の対話、日本でのヘイト発言、ネット右翼の言動の台頭、些細なことに切れる老人たち、政治経済社会の構造変化現代人、現代社会とオウム真理教など、様々な課題が見られる社会について、工藤信夫著『暴力と人間』を手掛かりにしながら、著者の工藤信夫さんとその読者との対話を通して、現代社会理解とその中でのキリスト教の存在意義(レゾン・デートル)を考える会を開催したいと考えます。 

                    企画内容: 
                    著者の工藤信夫さんと対談者との対話を行います。 
                    対話者であるブロガーの”ミーちゃんはーちゃん”が、まず先に、『暴力と人間』をどう読んだかを30分程度でお話しし、それについて工藤信夫さんが応答し、さらに対話者が応答した後、会場での参加者と工藤信夫さん、そして対談者を交えたの多方向的な対話をいたします。

                     

                    企画概要:

                     

                    日時 2018年10月22日(月曜日 午後2時〜4時まで(1時30分開場))
                    開催場所 大阪市立総合生涯学習センター(大阪駅前第2ビル5F)
                    (大阪府大阪市北区梅田1丁目2−2−500 大阪駅前第2ビル)

                    →大きい地図を開く

                    参加費 1,000円(税込)
                    定員 15人(先着順)
                    主催

                    株式会社キリスト新聞社 および CRISP 

                     

                     

                    お申込み先

                    事前お申込みは、こちらからおねがいします。

                     

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                    2018.10.17 Wednesday

                    『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(6)完結編

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                      さて、ここまで長らく連載してきましたが、この本のご紹介も本日でおしまいになります。教派結論部分で大事なことが書かれていたので、その重要なポイントをある程度コンパクトにご紹介して、この連載シリーズを閉じたいと思います。

                       

                      神の贈与の象徴としてのキリスト

                      これまでの近代経済学の世界では、いわゆるゼロサムゲーム的な社会が前提とされる研究を進めてきました。つまり、万人の万人に対する経済的な争奪戦の中をサバイブしようとするような社会を想定し、その中の人間は、より良いものを追求するグリーディな(貪欲な)世界観に支配されているとして研究を進めてきた部分が皆無ではないように思います。そのような社会の中での合理的な経済人は、自己の利益を最大化するという概念に支配されている、ということを前提に組み立てていくのが、近代経済学的なミクロ経済学の世界の基本的なお作法であったと言えるように思いますが、それだけでは説明がつかない現象が社会の中にはあるわけです。一見、自己の利益の最大化という視点から、非合理的ととも思える、利他主義(altruism)と呼ばれる現象をどう考えるのか、という問題が議論の対象になり、いろいろと工夫がなされてきました。

                       

                      近代経済学の中で、贈与経済のような経済概念が生まれうるのではないか、という研究が、10年くらい前まではやったように思うのですが、まぁ、従来型の近代経済学的なゼロサムゲームでの合理的個人を前提とする世界観の中に閉じこもっている限り、あるいは閉じ込められている限り、どうも贈与型経済モデルというのは出てこない、ような印象があります。まぁ、市場でやり取りされない、その行為に関係する人々の中で利益が発生する現象(外部性)がいろいろ発生するとか、個人の幸福度を定義する効用関数を中心としてモデルに工夫をこらし、それらしい均衡解を求めることは可能ではあるようには思うのですが、どうも決定打になるようなモデルを考えるのは、ちょっと困難なような気がします。

                       

                      しかし、キリストは、ご自身をまさに贈与として、人間に与え、これは、あなた方に永遠のいのちを与えたまい、そして、その上で、聖餐のパンを、これは、あなたに永遠のいのちを与えることを示す私の肉である、取りて食べよ、と言い給うたのである。そのような視点から、聖餐にキリストご自身のいのちの贈与がどのように現れているかということに関して、著者のスヒレベークスさんが書いた部分をご紹介すると次のようになっています。

                       

                       

                      全ユーカリスト的出来事の基礎は仲間への、またこの枠内において父へのキリスト自らの人格的贈与である。これは単純に彼の本質である。―「人であるキリストイエスは一つの自らの贈与である」(ホ・ドウス・ヘアウトン( I テモテ 2:6))。地上での彼の歴史の永遠の確かさはここに宿る。既に私が語ったように天のキリストへの人格的関係は同時に彼の歴史的死の「想起」なのである。ユーカリストとはこの出来事の秘跡的携帯であり、父と人間たちへのキリストの自己贈与なので会うr。記念の食事でもあり、そこではパンとワインの世俗の重要性が引き出され、これらはキリストの自己贈与の運搬人となるのである―「とって食べよ、これは私の身体である」。(『ザ・ユーカリスト』p.136)

                       

                      この部分をミーちゃんハーちゃんがどう受け取ったか、というと、ユーカリストの出来事は、イエスが弟子たちに、これを受け取って食べよ、あなた方に永遠の命を与える私自身の存在なのである、と言って、弟子たちに渡されたものであり、イエスと弟子たちとの関係は、単に物質的なものの贈与と授与という関係を超えた、人間的な関係の中でのイエスの人格的存在が直接ともにいた人々、のちの日々にともにいようとする人々のために存在したということの象徴であり、それ故、神であるべきものが、人として、人と等しくなり、この地に下ってきた、という驚くべき出来事は、それこそ、神の立ち位置を人間に贈与するための行為であったと言えるのであり、そのことを食事の形を通して、記念する儀式でもあるということなわけです。そして、パンとワインは、人間にキリストが与えられた、すなわち、「撮って食べなさい、これは私のからだである」とイエス自身が言われた贈与の形を具体的に示すツールであると言えるのだ、と理解することができようか、と思います。

                       

                      このイエスの贈与は、先ほど、ちらっと触れましたが、イエスの謙卑(へりくだり)とも深くつながっており、神の子であるイエスが人の子として、すなわち、無力な世話が必要な赤ん坊の形でこの地に下ってきたこと、そして、十字架の直前には、人々、ローマ兵の悪意の伴う手のなすがままの状態を受け入れ、そして、すべてを終えられたあと、また人の手での世話になるほど、他人の手にご自身を渡された、ということと同様に、我々の手にご自身の体をお与えになったことも象徴しているように思うのです。その意味で、イエスのからだを受け取るということは、我々がキリストでもあるイエスを好き勝手にした人々とも同じであることも意味しているように思うのです。まさに、我々の手にご自身を渡されたことを象徴しているように思うのです。

                       

                      神と人との相互関係が表現される場としての聖餐

                      渡されたパンを自分の手で受け止める、ということは、キリストの弟子として、キリストにならう者として、キリストの生を引き受けることをも象徴しているように思うのです。こういうことを思っていると、この聖餐のパンを受け取る、ということはキリストの生を引き受けることにもなる、ということは本当にキリスト者として生きる、ということを考えさせるために重要だなぁ、と思うのです。そのようなことについて、スヒレベークスさんは次のように書いています。

                       

                      ユーカリストで我々に与えられるものはキリストご自身以上には何も無い。パンとワインの秘跡的形態が象徴するもの、活動時にリアルにするものは、それらにおいて与えるご自身であるキリストについて言及する贈り物ではなく、人格的存在を生きるキリスト、彼ご自身なのである。秘跡の象徴する機能(サクラメントゥム・エスト・イン・ゲネレ)はここで最高潮に達する。それは信仰のうちに我々が経験しうる純粋で意味深い存在の内なる生けるキリスト、そのご自身を存在せしめるのである。ユーカリストのパンとワインの現象的形態は、御自身を存在せしめるのである。ユーカリストのパンとワインの現象的形態は、ご自身についてのキリストの贈り物をリアルにする印以上の何物でもない。それはすべての信者を人格的にこの出来事に招く印を我らに対してリアルにすることにおいて、教会はこれに応答して応えるのだ。秘跡のパンとワインはゆえに我々にキリスト存在をリアルにする印だけでなく、教会の現臨(教会において、我らについてもまた)をキリストに対して持ち運ぶ印なのである。ユーカリストの食事はかくしてキリストのご自身の贈与と教会の応答的自己贈与を象徴し、それはキリストにおいて、かつキリストを通して与えるものを与えうるのである。秘跡的形態はかくして「現臨」の互恵主義を象徴する。救いの決定的共同体として教会はキリストから切断しえない。(同書 p.138−139)

                       

                      日本語があまり読みやすくはないので、ミーちゃんはーちゃんが理解したポイントについて解説すると、秘跡、あるいは、いくつか聖なる儀式とか、サクラメントと呼ばれる儀式はありますが(プロテスタントの教会は洗礼と年に数回の聖餐だけがサクラメントです。プロテスタントでは、結婚式は本来、聖なる儀式ではないことになるらしいのですけれども、なぜか、多くの日本人のノンクリスチャンの方は、教会でやりたがるのが意味不明ではないか、と思います。なお、プロテスタント教会の結婚式では、聖餐もついてこないという…)、やはり、毎週(少なくとも毎週、できれば毎日)一回執り行われる聖餐は、イエスと私達との関係を、イエスの臨在を象徴する儀式ではあるわけです。そして、聖餐を通して、自分たちの体と魂を神に帰し、神のものする、あるいは、自分自身のすべてを神に帰属させる儀式でもあるわけです。ユーカリストで用いられるパンとワインというものとしての確は、基本的に聖餐式に現実におられるイエスを指し示す記号、象徴、ポインターでしかないのだけれども、イエスが行った最後の晩餐、死と復活、エマオの途上の出来事がリアルであったと認識するための記号、象徴、ポインターであり、その聖餐式が行われる場でもある教会も、その聖餐を行うことで、信徒がキリストのものであるということを具体て行為を通して示し、キリストがこの地に今尚おられる、神の国はあなた方の中にただあるということを指し示すポインターであって、キリストからの取りて食べよ、という言葉に、信者が、そのパンと盃を受け取ることで、相互に応答し合い、響き合っている情景を表すのが、聖餐なのだ、ということを言いたいのではないかなぁ、と思いました。そして、その響き合っていることは、信徒と、教会と、キリストがその場にいて、相互関係(互恵主義と訳されているが、これはちょっと???だった)が存在していることを示しているのであって、イエスが完成した神と人間の関係の回復(これが救いということ)が地上で実現したことを示す共同体として、教会とキリストは一つであることを示しているという意味で、非常に重要な存在なのだと思う、ということをスヒレベークスさんは言いたかったのだろうと思います。

                       

                      教会で起きている神の国

                      しかし、聖餐は、ここでもミーちゃんハーちゃんが書いたように、神から一方的に与えられた(贈与された)永遠のいのちがあることを示すだけではなく、パンとワインを受け取るという人間側の行為によって、神との交流、神との関係の回復を示す重要な儀式なのだと思います。まさに、神と人が一つであり、この地上に神の国が来たことを指し示している、神の国は、死んだあとにいくところではない、ということを示しているという意味で、非常に重要な儀式になのだ、と思います。神の国、天国、天の御国、なんと呼んでも良いとは思いますが、それが死後に起きるできごとではなく、この地においておきているのだ、ということを指し示す聖餐なのだとおもいます。踊る大捜査線の青島刑事の物言いではありませんが、「天国は、死後に起きるんじゃない。この教会という現場で、今、リアルに起きているんだ」ということなのではないか、と思います。

                       

                      踊る大捜査線で有名になったセリフ 「事件は会議室で起きているんじゃない」

                       

                      そのような意味で、次の表現は重要なのだ、と思います。

                       

                      ゆえにユーカリスト的存在は個々人の信仰によらないがしかし、秘跡的提供は教会共同体から離れては考えられない。つまり結局はキリストと彼の教会の現臨なのである。(同書 p.141)

                       

                      聖餐に象徴されているキリストの存在は、個々人の信仰とは無関係に存在しうるのだけれども、しかし、神の永遠のいのちと、イエスが与えようとする永遠のいのちが与えられようとしていることを象徴するパンとワインが人間に提供されるためには、受け取り手の存在が必ず必要で、その受け取り手である信仰共同体は、教会共同体でもあり、聖餐共同体、教会共同体と聖餐は切っても切れないものである、ということに集約される。その意味で、神の国は、死んだあと行くところではなく、この地において、教会で、今日も起きている、ということなのだろう、と思います。

                       

                      人間の理性を超えた神の出現と現象

                      記号論をやるとよく分かるはずなのですが、現象というフェーズにおいて行われる出来事や、発言そのものは、ある種類の象徴性を担っていいるわけです。そして、人間はその記号を使ってコミュニケーションを行い、単なる物のやり取りではない、謝罪や感謝、感動、怒り、意味をモノに持たせたり、言葉や行為に持たせたりしているのです。もちろん、意味を解したり、出来事や言葉、音声や、楽譜や矢印などの記号に意味を付与したりするのは、感性の働きであるとともに、理性の働きでもあると思います。その意味で、この理性の働きがある面、聖餐についての様々な見方ができるようになる反面、人間の理性は限界があるため、象徴している実態というか現実を、言語や、絵画や、動画と言ったさまざまな手段を様々使おうがきちんと描ききれない部分があることは確かです。そのあたりについて、スヒレベークスさんは、次のように表現しています。

                       

                      人間のロゴス、人間自身の意味付与はかくしてリアリティの出現に際して一つの役割を負う。人間の知識の不適切性はリアリティと現象としての出現の間の、ある種の相違を告げる。この意味において現象学的なものはリアリティの印なのである―それはリアリティを象徴する。(pp.147-148)

                       

                      改革派の教会では、象徴的なもの、絵画や十字架ですら排除し、ひたすら排除の方向性をお持ちであられますが、伝統教派の教会に行くと、教会のあちこちに十字架の形をモチーフにした飾りがついていたり、三位一体を示す象徴や、イエス自身が存在すること、聖霊がこの地に、いまこの場におられることを象徴する記号に満ち溢れています。まさに、ここにキリストの現臨がある、ということをこれでもか、これでもか、というほど存在しています。まさに、教会にある様々なもの、色、形、形あるもの、形がないもの、人間の所作、と言ったすべてが、神の存在、神の現臨、神の性質を指し示そうとしているかのような印象を受ける教会もあります。

                       

                      しかし、建物よりも、建物に示されたデザインよりも、何よりも神の存在と現臨、神の性質を示すものが、リアルなパンとワインで行われる聖餐だと思います。

                       

                       

                      「Inside Church」の画像検索結果

                       

                      コプト教会の説明をするわかりやすい子供向け動画

                       

                      無意味な正統、非正統の議論と限界あるキリスト者

                      プロテスタントは、戦闘民族と言われるほど、聖書理解、教理を巡って、そして、その妥当性、正当性、真正性、真実性を巡って、物理的な力によらない、論理や言葉を用いた死闘に近い争いをしてきた歴史があり、そして、その結果として、聖書理解の深さと確実性を広めようとしてきた側面がありますが、しかし、それは歴史的状況依存なものでもあったわけです。

                       

                      重商時代の王国がまだたくさん残っていたり、帝国主義的な思想が盛んなりし頃の19世紀と近代社会が生まれた時代の環境とその課題と、民族自立が言われ、民族固有の言語が見直されてきた20世紀の環境と課題は違いますし、モダンが賞味期限切れになりかけたポストモダンの時代の21世紀の課題は異なるわけです。

                       

                      その異なる環境や人間を取り巻く問題状況の中で、聖書という、文字としては固定されたテキストをもとにどう考えるか、どう生きるかが(それが神学ということだと思いますが)、現代人には求められているわけです。21世紀に生きる我々が、18世紀に編み出された神学を学ぶことに全く意味がないとは言いませんが、18世紀の神学に捕囚され続けていたり、自らをそこにロックインし続ける必要はないように思うわけです。

                       

                      18世紀の神学に捕囚されて生きることを、マクグラス先輩は、21世紀の時代の最先端が観測されるサン・フランシスコで、18世紀のドイツや、イングランドでの流行モードであった服を着て生きる人は、よほどの時代遅れの人ではないか、という趣旨のことをある本でおっしゃっていますが、しかし、翻って日本の神学的状況を一信徒の立場から考えてみますと、18世紀とは言いませんが、19世紀か20世紀前半のドイツや、アメリカの神学が未だに幅を利かせている状況があって、どこ国の服(神学)を着るのが正しいのか、正統なのか、ということの収集のつかない争いを言葉を使って、まさに死闘と呼ぶに近いバトルをしておられるように思います。

                       

                      そのあたりのことをスヒレベークスさんは、次のような表現で書いておられます。

                       

                      信仰に聞き、それがゆえに信仰において解釈しつつある人間は、もちろん歴史において彼自身であり、彼が聞いたことについてのその解釈は、とりもなおさず、その状況に彩られている。そしてこのことはけっして単独で、あるキリスト者仲間を「非正統的」と呼ぶ権利を与えない。私自身が自らの正統性について人間的なあるいは批評的確かを持ちえず、ただ神の恩恵のゆえにただ固く望むだけの時に、どうして他者の正統性をさばくことができよう?個々のキリスト者による信仰についての常に育ち行く解釈はいつも誤説と誤解にさらされるのである。(同書 p.159)

                       

                      要するに自分自身だって、どこまで正当なのか、正統なのか、ということに関して、批判的に考えた時にそんなに確実でもない(そもそも神ならぬ、鼻から神に息吹を入れていただいているが故に、生きているに過ぎない人間自体が不完全だし、不確実である)のだから、どうして、他人を裁けようぞ、どうして、自分以外の他者を「非正統的」と言えるのか、という議論を展開しておられます。我々は、イエスがこれを行え、と言われて、神の憐れみの故のみで、イエスから与えられた永遠のいのちを表す聖餐の前に、ただ、立ちつくし、ただ受け取るしかできないものなのに、他社の正統性を云々(云々をデンデンと読むというこの漢字に文字の読み方が最近は、流行っているらしいと聞いていますが、そのうちそれが正統的な読み方になるかもしれない…とも思います。言葉とは、その程度のものである)することは、そもそも論としてできないのではないか、人間は誤った判断をしやすいし、誤った議論をしやすいものなのだ、ということなのだろうなぁ、と思います。

                       

                      その時、唯一確実なものは何か、といえば、イエスがこれをなせ、これを行えと言明したまいし聖餐であり、イエスの永遠のいのちがこの地に来たことと、神と神の子、三位一体の神が現実に存在したし、現実に、いま、この地の存在するという約束と言ってもいいし、人間のうちに神の国が実現していることを象徴する記号としての聖餐なのだと思います。実際に物体として食べ、飲み、自分のうちにこれらの物を受け取るわけですから。

                       

                       

                      ということで、本日で、この本からのご紹介はおしまいです。長きに渡って、お付き合いいただき、ありがとうございました。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:中身は本当にいいけれども、文章はかなり読みにくいです。とはいえ、一読以上の価値はあると思います。

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