2018.08.01 Wednesday

2018年7月のアクセス記録

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    皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


    7月は、ほとんど書籍紹介の記事ばかりでしたが、ご清覧頂きありがとうございました。

     

    2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2)
    2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9)
    2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
    2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1)
    2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7)
    2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0)
    2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7)
    2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8)
    2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1)

    2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5)
    2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

    2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8)

    2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5)

    2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3)

     

    2018年第2四半期(4〜6月)     43880アクセス(482.2)

    2018年7月  16,073アクセス(518.5)

     

    7月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。

     

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由  アクセス数 520 

     

    「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」を読んでみた アクセス数 328 

     

    アーギュメンツ #3 を読んでみた(1) アクセス数 270 

     

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4) アクセス数 243 

     

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)  アクセス数 229

     

    ということで、今月は、いつもの鉄板ネタ、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由が堂々のトップ、相かわらずこの問題への関心の高さを示しているように思いました。個人的にうれしかったのは、2位の「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」を読んでみた が上位に食い込んだことで、この本が広く世に知られることを期待したいですし、第3位のアーギュメンツ #3 を読んでみた(1)は手売りにこだわって流通している本であり、かなり読みこなすのが難しいタイプの本なので、なかなかの高い順位をとれたことは、これらの書籍が知られるきっかけとなればいいなぁ、と思っています。

     

    また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。

     

     

     

    2018.08.02 Thursday

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(12)

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      今日も、工藤信夫さんの著書「暴力と人間」を読んで、いろいろ思ったことを書いてみたいと思います。

       

      信仰を持てば人は変わるか

      日本では、信仰を持つと(信心をすると)人間が変容するという仮説(あるいは大きな誤解)があるのかもしれないなぁ、と素朴に思います。そして、宗教という名のもとで、現代の日本でも、そのような宗教についての理解につけ込む、あるいは、そのような理解を利用する人々がおられることも確かであるように思います。変容の特性が、健康であったり、性格であったり、こどもの出生であったり、周囲の人間関係であったりするらしいのですが。そのあたりのことについて、工藤さんは次のように書いておられます。

       

      信仰上の問題で相談に来られる人々の訴えに耳を傾けていて、今でも内心驚かされることは”信仰を持てば自分は強い人に変えられる(?)”と単純に信じ、そういう誘惑を宣教の手段としている人々が少なからず存在するという事実である。そういうひとびとはきまって、そういかない自分をせめ、またそういうひとびとをせめるらしい。

      いわくそれはあなたの信仰の欠如である。

      いわくそれは祈りの欠如であると。

      しかし現実というものはそれほど単純ではないのである。(『暴力と人間』p.147)

       

      信仰を持てば、病気が直る、性格がある特定の(自分や世間がよいと思う特定の)方向に変わるとか、勝負運が変わるとか、御祓を寒中にすれば、健康になるとか、(信仰をもって)この壺を買えば、この印鑑を買えば、足裏診断をしてもらえば、あなたは変わるとかいう考えは、古くからあるし、現代でもまま見られることではある。だから街角の占い師は商売上がったりにはならないように思います。

       

      足裏診断で有名だった「法の華」事件

       

      まぁ、鰯の頭も信心からという俚諺もございますが、何を信じ、何を真理であるとするのかは、ポストモダン社会においては、一意に決められないことになっており(近代社会においては世俗法的にも、米国憲法修正第1条、「国教会は国家として保持せず」などに見られるように、多くの近代国家ではそうでしたが)、日本などの現世利益を求める社会においては、この地上において変身願望(弱い自分が強く変わる)ということが多くの場合宗教課題になり、仏教を含め、多くの宗教が、この変身願望を提供し続けてきたように思います。たとえば、密教系の護摩行なんかが、この変身願望の手段を提供してきたのではないかと思います。何で野球選手が護摩行せねばならぬのかはよくわかりませんが。

       

      護摩行する金本選手(現監督) http://chinatorayaga.blog.jp/archives/6581255.html より

       

      こういうのをみておりますと、思い出すのは、永井荷風の断腸亭日乗の戦時中の軍人の冬場の寒中禊をめぐる断想です。大意としては、冬場に寒中に海中に入り、禊をして精神力を強め、戦争に勝てるというのであれば、夏場にどてらを着てコタツにあたればよいではないか、というようなことが書いてあったように思います。

       

      この種の精神主義が、いまだに、中学から大学にいたるまでの運動部では支配的(その意味で、帝国陸軍の劣化コピーどころか、ろくでもないところ、悪いところだけを集めた醜悪なコピーだと思うので、体育教官室が何より嫌いなミーちゃんはーチャンは、運動部そのものを信用していない・・・)で、夏場に校庭を何十周も炎天下の中、走らせ、児童生徒を熱中症にさせる(個人的には、傷害罪が成立すると思うけど)、あるいは死に至らしめるとか(殺人罪が成立するのでは、という疑念もある)、ろくでもない事件が今年の夏もあちこちで起こっているようです。本当に、開いた口がふさがらない。たかが、中学高校の遊び(Sportsの語源は、deportare 重荷からの開放、遊びである)であるにもかかわらず、重荷を中学生や、高校生に、勉強以外に載せてどうするよ、とは思います。

       

       

       

      この現世利益を求める社会のなかでのキリスト教関係者の一部にとって、うまくいかなくなっていることが、どのように解釈されるか、という問題について、工藤さんは、

       

      いわくそれはあなたの信仰の欠如である。

       いわくそれは祈りの欠如であると。

       しかし現実というものはそれほど単純ではないのである。

       

      と書いておられたが、特に前半部分を読んだときに、結局、自分を責める人たちが、おられると工藤さんは書いておられたが、もし、「祈りが足らない私が悪い、信仰が足らない私が悪い」などとなってしまえば、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、みんな私が悪いのよ」という都都逸の世界になってしまうということではないだろうかなぁ、と思ったりもします。それは、あくまでもなんでも内在化させてしまうような、きわめて日本の伝統的な内向きの志向であるように思います。その日本人の特性に、意図的か意図的でないかは別にして、その特性に付け込んで、なんでも信徒の責任、祈りの不足や、信仰の不足のせいにして片付けてしまう信仰の指導的立場にいる人がおられるやに聞くのが、個人として、実にかなわないように思うのです。

       

      工藤さんのおっしゃるとおり、「しかし現実というものはそれほど単純ではないのである。」というのは、大切なご指摘だと存じます。その意味で、信仰や祈りは大事なものだとはミーちゃんはーちゃんも思っているのですけれども、十分に祈った、祈らなかった、それだけのことで世の中を語れるほど、世の中は、単純ではないと思いますし、だからこそ、イエスは、弟子たちに、「蛇のようにさとく、ハトのように素直」であれ、とおっしゃっているように思うのですが。

       

      聖人君子ばかりなら、

      救い主、そもそも要らんのでは…

      本書のなかに登場する、事例研究会にご出席中の若い牧師さん(たぶん、ほぼ顔が浮かんでいるのではあるのですが・・・声まで聞こえそうなくらい・・・)の感想のレポートからの引用として次のような引用がありました。

       

      教会は人々の現実を無視し、”聖人君子”を作り出そうとしているのではないか、と思うこともしばしばです。

      不可能なことにもかかわらず・・・・。(自分を含めて)本当に困ったものです。

      どこかで聖書のメッセージを聞き間違えているように思います。(同署 p.154)

       

      ここで出てくる聖人君子とは、中華漢字文化圏における老荘思想的な聖人君子であって、キリスト教、特に伝統教派における『聖人』とは違い、おそらく老子道徳篇の聖人「是以聖人處無為之事,行不言之教。」あたりからきているのであるように思います。確かに、キリスト教の聖人もしゃべらない聖人はいらっしゃるにはいらっしゃいますが…たいがいは、アウグスティヌス先輩みたいに、しゃべりすぎというよりは書きすぎの方が案外多いような気がします。

       

      キリスト教の聖人は、内側から修行などによって完ぺきになった人ではなく、神の力の表れとして神によって神の臨在により『聖なる』ものとされた人々という意味で、『聖人』なのであって、その付随する内実として深遠なる精神性が記念され、記憶されてきたという方たちなのではないか、とも思うのです。それを目指して霊的修練をするというよりは。聖人になろうと思って何かするのではなく、結果として聖人になっちゃった皆さん、というところがあると思います。

       

      その意味で、あくまで、外側からの聖成なのであって、聖成を目指しての内側からの人間側の努力により聖人になる、というよりは。このあたりが、日本のキリスト教界隈における霊的形成とか、霊的修練とか、霊的修養が少しずれやすい傾向がある背景にもあるように思えてなりません。

       

      ストア派クリスチャン?

      「自分を抑えて従順こそクリスチャン」

      さて、御婦人の方の豊かな感性で書かれた文章からの引用として、次のような文章が記載されておりました。非常に印象的な文章でした。

       

      ある学び会に参加している女性から寄せられたレポートの引用の中に、非常に印象的な文章がございました。

      「神様よりも自分の思いを優先していないか」という教会のメッセージに、心がチクンと刺されたような違和感を持ち始めて、私の思案の旅は始まったように思います。

       前回の学び会のテキスト『従順という心の病』(ヨベル)と今回のテキスト『強い人と弱い人』(ヨルダン社)を読んで気付かされたことは、私は「恐れを従順という外観上のクリスチャンらしさで装おうとしていた」ことと、「自分を抑えて従順こそクリスチャン」と思いこむという呪縛から、やっととき離れた思いがしました。

      (中略)
      これは教会でよく使われる「自分の思いを優先することは罪」というメッセージとは逆です。私自身、教会で語られるメッセージと、神様から個人的に語られる細きみ声が異なり、どう理解すべきか混乱した時期がありましたが、今では、神様は私のありのままを喜び、愛してくださっていることの居心地の良さに浸っています。(同書 pp.155−156)

       

      このご婦人が書かれた”「恐れを従順という外観上のクリスチャンらしさで装おうとしていた」ことと、「自分を抑えて従順こそクリスチャン」と思いこむという呪縛」”という表現を見て、ローマ帝国(とりわけその西側半分)を経て、近代の西欧、とりわけ、米国を経て日本に流入してきたキリスト教の課題かなぁ、と思いました。

       

      ローマ帝国の思想のバックボーンには、セネカや、ストア派風の思想を持つキケロをはじめとするストア派的な政治哲学がその統治機構の内部の政治文化として定着しており、その哲学的傾向が、のちにローマ帝国の国家の宗教となった段階で、キリスト教に流入しているとおもいます。

       

      キケロにいたっては、教父扱いする人まで出てくる始末になるわけです。当然西側のローマ帝国(今の西ヨーロッパとアメリカのご先祖さま)では、「従順」とか「自分を抑えて」とか、ほとんど、ストア派が主張したアパセイア Apatheia(不動心)がキリスト教の根幹にまで、入り込むことになります(このことは、何年か前に上沼老師から教わりました)。

       

      東側のローマ帝国(ビザンチン帝国として後に分かれていく、今のギリシア、トルコあたり)では、もともとのギリシアの基層文化もあるためか、このような極端なストア派的な哲学のみが支配的にはならなかった部分もあるようには思います。まぁ、カトリック教会(ローマを起点とする西側のローマ帝国にほぼ対応)と正教会の違い(ビザンチン、あるいは、コンスタンティノーポリを起点とする東側のローマ帝国にほぼ対応)を見ていると、いまだにローマ帝国分裂後の帝国闘争をやっているようにも見えるから不思議です。

       

      Cicero - Musei Capitolini.JPG

      キケロ

       

      セネカ(プラド美術館 蔵)

       

      余談はさておき、西側のローマ帝国領内で発展した現在のキリスト教の根底部分には、このストア派の哲学思想がパウロのギリシア語書簡の誤読とまでは言いませんが、ストア派的再解釈されたものが連綿と流れているように時々思います。おそらく牧師先生方の説教をされるときに、この種のことを意識されている牧師の方はかなり数が限られるのではないかと思います。

       

      特に悔い改めをいうきよめ派系統や、常に自己についても批判的であり続けようとする改革派系統の教会の場合、「従順」とか「自分を抑えて」とかは美徳あるいは徳目と無意識に理解され、そのような観点からの説教がなされている教会が多いのではないか、とも思います。

       

      伝統教派に継続的に参加するようになってみて、一番、あぁ、伝統教派の強みは、ここかなぁ、と個人的に思ったのは、「従順」とはなりえない自己、「自分を抑え」ることすらできない自己を正直に認められるようになった点です。そのことを、毎週のように、今週も神の前に従えなかったと神の前に告白するたびに、そして、神の憐みを求める祈りを声に出して言うたびに、それでもなお、神が私を聖餐の場に招き、呼んでおられる、ということを感じることができるようになったのは、個人としては得難い経験でした。

       

      Most merciful God,
      Father of our Lord Jesus Christ,
      we confess that we have sinned
      in thought, word and deed.
      We have not loved you with our whole heart.
      We have not loved our neighbours as ourselves.
      In your mercy
      forgive what we have been,
      help us to amend what we are,
      and direct what we shall be;
      that we may do justly,
      love mercy,
      and walk humbly with you, our God.
      Amen.

      とか

       

      Almighty God, our heavenly Father,
      we have sinned against you and against our fellow men,
      in thought and word and deed,
      through negligence, through weakness,
      through our own deliberate fault.
      We are truly sorry,
      and repent of all our sins.
      For the sake of your Son Jesus Christ, who died for us,
      forgive us all that is past;
      and grant that we may serve you in newness of life
      to the glory of your name. 
      Amen.

       

      とかと祈り、やはり、神に従えなかった自分の姿を見て、黙想することになるわけです。礼拝の始まりに。

       

      ところで、基本的に教会も、人間が複数名以上いる集団ですから、社会です。社会である以上、その集団の混乱を防止し、社会集団が生み出す利益を構成員全員がすべからく程度の差はあるにせよ享受するために、社会秩序や社会の安寧をどう図るのか、という問題が出てきます。

       

      日本人とだけ暮らしておりますと、あまりこういうことは考えずに済みます。それは、皆さん空気を読むのが上手な方が大半なので、勝手に空気が出来上がっていき、ほぼ自動的に自律的(オートノマス)に構造が出来上がっていくということがあるように思います。しかし、外国人、地中海周辺文化を背景に持つ人々(ラテン気質の人々や、中東系気質の人々)や、中国系の人々と一緒に暮らしておりますと、このあたり、自律的にこういう構造がなかなかでき上らず、われも、われも自分の言いたいことを思いつくまま言うことが多いようで、そのような多数の人々の交通整理をするのは、きわめて大変です。

       

      パウロが秩序を重んじている、と聞こえる発言(現在のフェミニズム神学などからは、どうも目の敵にされている傾向がある「教会内では女性は黙っているがよい」、あるいは、「権威に服せ」という記述など)もございますが、これらの記述の背景には、おそらく、我も我もとワイワイ言い出す人々地中海人の性格というか精神的傾向(北アフリカから今のスペイン・フランスあたりまで、東は、シリア・イスラエル・トルコあたりまで領域)を持つ人々に向けられたコンテキストの中で、語られた、という部分があるように思うのです。

       

      その文化的背景の部分をサクサクっと無視して、聖書に単純に書いてあるから、ということで日本社会の中に持ち込むと、ひょっとしたらまずいのではないか、とも思うのです。そのあたりの理解なしに、もともと権威主義的社会でもあり、男尊女卑的な儒教的な影響の強い日本文化の中で、権威性が重視される徳治政治の文化圏の中であれば、これらの権威性や秩序性を今以上に強化する発言をパウロが生きていれば、しただろうか、あるいはもっと言うと、ガリラヤ出身のイエスはしただろうか、ということはもう少し考えられてもいいかもしれません。

       

      それこそ、旧約聖書を見れば、そこに出てくるイスラエルの人々は、イスラエル(神と戦うもの、神と争うもの)という名前が示す通り、あるいは、アブラハムがバナナのたたき売りよろしく、ソドムとゴモラからのロト救出の際に神様との粘り強い交渉するように、強い自己主張をする人々ばかりです。預言者のヨナは、神様のおっしゃることを聞かない人物ですし、アダムとエバにいたっては、「食べるな」と言われたものに手を出すし、イサクは、兄貴のエソウを出し抜こうとすること考えてばかりだし、モーセは激怒して、神様からせっかくもらった石製の契約の板を平気で、「おりゃ〜〜〜」と割っちゃう(海も割りましたけどw)し、とこういう日本社会だけでなく、西洋近代社会にとっても、困ったちゃんばかりのような気がします。

       

      旧約聖書の人物は、とてもとても、「従順」とはなりえない自己、「自分を抑え」ることすらできない自己を持った方々ばかりのように、ミーちゃんはーちゃんには思えてなりません。それでも聖書に出てくる人物の皆さんです。とても不動心(Apatheia)を持った人々とは言いかねるような人々ばかりですが、教会で語られる際には、この辺の不都合な真実は、にょごにょごと処理して、これらの人物のきれいな側面だけが語られがちなのではないでしょうか。

       

       

      尊敬している大杉至‏ @i_ohsugi さんが夜中に腹痛に耐えておられるときに、ツィッターで次のようにつぶやいておられたのが印象的でした。

       

      ヨハネ4章のサマリアの女性。「あなたには5人の夫がいたが、今いるのは夫ではない」とイエスに見抜かれた人。なぜか説教や解説では「ふしだらな女」とされがちで「この女は5回も男を取っ替え引っ替えしたが満足できず、しかも今は別の男と同棲までしている」などと決めつけられたりする。

      「ふしだらな女」とまでは言わずとも、この女性に道徳的な問題があると指摘している説教もある。それらはいずれもこの女性の側から離婚をしたという前提をもって、そんな指摘をするのだろう。我々が何も知らずにそうした説教や解説を読むと「そうなんだ」と思ってしまう。

      かしそうした説教者や解説者は、マタイ19章やマルコ10章の離婚問答の箇所では「当時は女性の地位が低く、妻の側に離婚の決定権は認められていなかった」と述べる。ならばこのサマリアの女性とて、彼女の側から離婚を決めることは出来なかったと考えなければ筋が通らない。
      それともサマリア社会では妻の側に離婚の決定権があったとでも?あるいはこの女性だけは特別な権力を持っていたとでも?もちろん聖書にはそんな記述も示唆もない。このサマリアの女性も、自分から離婚したのではなく、先夫らに離婚させられたとか、先夫らが死別したと考えるのが妥当だ。
      結局「この女はふしだらで」というのは、説教者や解説者にそうした決めつけがまず先にあり、そこからこの箇所を読み込んでいるとしか言いようがない。「道徳的問題→罪→魂の飢え渇き→イエスとの出会い→救い」という敬虔主義の話にしたがるとでも言おうか。そんな見方に私は違和感を感じる。
      イエスが仰ったのは、ただ「5人の夫がいた。今いるのはあなたの夫ではない。だからあなたは本当のことを言ったね」ということだけだ。先夫たちが離婚なのか死別なのかも不明。夫が次々と死ぬ話はトビト書にも落語にもある。5人の先夫は珍しいとしてもありえないわけでもない。
      あるいは離婚だとしても、夫本人から離婚させられたと考えるべきだろう。あるいは先夫の実家からとか。ならば今一緒にいる男性が夫でないとは、この男性の実家が結婚に反対なのかも。ひょっとしたら同居の男性は、この女性の父か兄弟か甥かも。女性は実家で暮らしているのかもしれない。
      「5人の夫がいた。今いるのはあなたの夫ではない」から様々な想像がかき立てられるが、いずれも想像でしかない(少なくとも、女性自ら離婚再婚を繰り返したというのはありそうもないが)。ここは女性の婚姻状態を勘ぐるのではなく、イエスの人を見抜く力の凄さに驚くべきところである。
      イエスの見抜く力に驚いた女性は「あなたは預言者だ」と思わず言った。我々読者はイエスがただの預言者ではないことを既に知っているのだが、預言者とて並の人間ではない。ここでサマリアの女性はイエスに引き込まれる。世間話から宗教の対話へと移る。イエスの導き方はさすがに巧みである。

      例えば、

      「道徳的問題→罪→魂の飢え渇き→イエスとの出会い→救い」という敬虔主義の話

      に転化した説教が残念ながら、語られる教会は皆無ではありません。本来説教とは、次のツイートのように、

       

      説教とは「神を語ること」(ボーレン)、「キリストの卓越性を語ること」(ウィルキンソン)。一方、道徳訓話は神を語らず道徳問題をいじくり、最後は「教会学校5つの約束」的にまとめるだけ。この人を「ふしだらな女性」と声高に断罪したところで、せいぜい聞き手にカタルシスをもたらすだけだ。

      のはずだと、個人的に思うのですが、どうも大杉さんのツィートを見ていると、そうでもない説教も数あるんだろうなぁ、と思います。

       

      さらに大杉さんのツィートは続きます。

      道徳訓話は「教会は道徳的に立派な人々の集まり」とまだ信じられていた時代なら通用したかもしれないが、教会の問題が次々と表面化した今となっては、もはや道徳訓話は嘘くさいと思われるだけ。せいぜい他人の不道徳をヤジって鬱憤を晴らすか、自分はそこまで酷くないと自己満足に浸るだけ。

      教会の生き方は「あのお方をじっと見つめる」(1ヨハネ)に尽きる。人にも社会にも善もあれば悪もある。強さも弱さもある。好きなところも嫌いなところもある。他人と比較すれば自分がわかった気になる。それが無意味とは言わないが、それだけのこと。むしろあのお方をじっと見つめることだ。
      本当に、ここで大杉さんがお書きのように、「教会の生き方は「あのお方をじっと見つめる」」ということだと思いますが、それができてない、あるいは理解できていない教会と教会員の方がかなり多いのかもしれません。伝統教派に行ってみて思ったのは、まさに、教会の生き方は「あのお方をじっと見つめる」ことだ、ということがきちんと担保されていたことでした。だからと言って、そうでない教会が間違いだとか、おかしいとか申し上げたいわけではありません。その教会や教会群(教団)なりのやりかたで、きっと、教会の生き方は「あのお方をじっと見つめる」ということが担保されているのでしょうから。とはいえ、私にとっては、今の伝統教派の教会のほうが、以前相当長らくいた教会より、あのお方に集中しやすいと思います。しかし、こういう感想は、あくまで個人の感想にすぎませんので、その点はお含みおきください。

       

      ところで、元の引用に戻りますと、この工藤さんが文章中で引用された「神様は私のありのままを喜び、愛してくださっていることの居心地の良さ」ということは、おそらく、この女性の方が、「あのお方をじっと見つめる」ということが可能になったということが実現した、ということなのだろうと思います。工藤さんの別の本で書いておられる表現を用いれば、「びくびくおどおどの信仰者の姿」ではなく、こういう神との関係で居心地がよい関係であると思っておられる方が、少しでも日本の教会に増えることを心から願わずにはおられません。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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      2018.08.04 Saturday

      工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(13)

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        今日も、工藤信夫さんの著書「暴力と人間」を読んで、いろいろ思ったことを書いてみたいと思います。本日からは、第3章「『従順という心の病い』という本について」からご紹介してまいりたいと思います。

         

        グリューンの指摘する現代社会の課題 トランプ篇

        グリューンの本からの長めの引用があった後、その引用部分のポイントを工藤さんは次のように書きます。

         

        この中で、私が注目したい文章は次の3つである。

         

        その1: 私たちの文化は、内面的な体験を低いものとし、財産や地位という外面的なものを、人間の人格的な価値を測る基準としてしまっている。

        その2:このなかでは、暴力や、優位を与える努力、競争が人間の肯定的特質として称賛される。

        その3:これに反して、屈辱を受けたり、社会的に軽視された人々は(自己救済)のために強い権力者を自ら求める。

        (『暴力と人間』pp.166−167)

         

        この文章を読みながらまず頭の中に浮かんだのは、アメリカ合衆国現大統領、ドナルド・トランプさんのことだったです。その意味で、以下の写真の方々の国際社会への登場と、この方々が現代アメリカにおける象徴的人物となったことは、ある意味で、米国にとって当然の帰結だったのかもしれません。まさにここで、工藤さんが3つのポイントで指摘している現代文化における指導者としての側面が、ほぼすべて当てはまる人物が、トランプ氏であったかもしれない、ということを少し考えてみたいのです。

         

         

        Donald Trump with his wife Melania and their son Barron at home in 2010.

        http://www.executivestyle.com.au/inside-the-secret-world-of-trumps-blingtastic-tower-gsq654

         

        このトランプ大統領という方は、本当に金ぴか好き(Goldenであって、Goldではないかも)でいらっしゃるのは、外面的なものが人々に影響を与えるうえで有効であることをよくご存じだからでしょう。また、何かあると、すぐDealだ、ということで、優位に他国と交渉を進め、競争力のある地位にアメリカを戻す("Make America Great Again")と繰り返し公言しておられ、米国の競争力の回復を強く主張しておられます。そして、このトランプさんの支持に回ったのが、情報化社会へまっしぐらへと進む中でほぼ完膚なきまでに取り残されたかのようなRust Belt(錆びた地域)と呼ばれる地域において働いておられる炭鉱や鉄鋼労働者、自動車関連産業関係者人々であったようです。これらの錆びた地域とよばれる地域の人々は自分たちの社会的、経済的地位と自信の回復のためにトランプ支持に回ったことが言われているようです。その中には、以下に紹介する動画のタイトルTrump Ohaio Saviorのように、トランプ大統領を死につつあるオハイオの町にとってのSavior(救い主、メシア)だと思っている人々もおられたようです。まさに上で紹介したトゥルニエが現代社会の特質とした内容が、トランプ大統領には表れているように思えてなりません。

         

         

        オハイオ州の同州の小さな街にとっての救い主Saviorのようなものだと主張していたトランプ大統領支持者の人々のご発言

         

        おそらく、アメリカでトランプ大統領という近年あまり他国でも類例を見ない異例の人物が大統領として(一応)民主的に選出された背景には、歴史的には時間軸が短いアメリカ社会が、よりわかりやすい、そして、客観的というよりは誰にでもわかる人物を見る際の物差しとして、「財産や地位という外面的なものを、人間の人格的な価値を測る基準として」いるという側面があるように思います。拝金思想ということで、より長い文化的な背景を持つ国や地域では、これらの金銭的な面で人物を評価することは、かなり否定的な目を向けられてきたように思うのですが、歴史的・文化的な背景が、ヨーロッパ諸国より、より薄い米国では、近代社会自体として、計測可能性、客観性、比較可能性を重視してきたことも影響していると思います。近代の象徴的な国家であるアメリカ合衆国では、文化的、歴史的背景が薄いために、近代を支配した物差し、誰にでもわかりやすい物差しが利用されているのだと思います。

         

        グリューンの指摘する現代社会の課題 結婚相手篇

        さて、日本の話に戻りましょう。現代の日本社会で、「内面的な経験が低いもの」となっているかどうかは少し疑問ですが、少なくとも、バブル経済のころから、「財産や地位という外面的なものを、人間の人格的な価値を測る基準」となっていったことは間違いありません。それは、女性の結婚相手の選び方にも表れています。バブルのころは、、高学歴、高収入、高身長とされていました。

         

        「3K å³æ€§ã€€çµå©šç›¸æ‰‹ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

        https://www.dokujo.com/category/love/marriage-desire/2815/ より

         

        とは言いながら、最近はそうでもない、という調査結果もあるようです。これまでの高学歴K、高収入K、高身長Kにかわり、3U(3優)、つまり、『家族にしい』『私だけにしい』『家計にしい』の3Uだというのです。どちらが本当なのかはわかりませんが、現実に現在適齢期にある男性は、基本的に大不況だったリーマンショック期とそれを経た低成長時代、あるいは、日銀が異例の低金利政策をアベノミクスに協力するという名目で維持している経済的非拡張期(ありていに言えば、デフレ経済期)に就職しており、収入がそもそも以前ほどないという側面もあり、女性も、バブルのころのようなことが言えないということを肌感覚で知っておられるという結果が表れているのかもしれません。

         

         

        「3K å³æ€§ã€€çµå©šç›¸æ‰‹ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

        https://googirl.jp/renai/160329marriage004/ より

         

        「3K å³æ€§ã€€çµå©šç›¸æ‰‹ã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ

        http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1802/07/news097.html

         

        下の『金色夜叉』という演歌にもあるように、まだロマン主義が影響力を持っていたその昔の日本では、金に目がくらむことはあまりよろしくないこととされていたように思うのです。

         

        拝金思想と結婚にめぐる物語を描いた金色夜叉をテーマとした昔の演歌

         

        グリューンの指摘する現代社会の課題 見た目の重要性 映画に見るマーケティング篇

        以下の動画は、有名なバイオリニストが朝の忙しいアメリカ合衆国の首都、ワシントンDCの官庁街の地下鉄の駅で、Tシャツにジーンズ、野球帽という普通の兄ちゃんの人相風体して演奏したら、どれくらいの人が足を止めて聞くかという実験をした時の動画のようですが、ほとんどだれも足を止めて、演奏をまともに聴かなかったし、チップもほとんどだれもが入れなかった、というのが現実の姿であることを示してみせた動画です。この動画の結果が語ることは、人々は音楽そのものの内的な充実や音楽性よりも、一般に、外見から得られる外面的なものが優先されているということを示しているのかもしれません。

         

        WashingtonPost紙の実験

         

         

        マーケティングについての学部生対象の講義を担当していますが、その講義では、現代の消費社会において、消費者にとってわかりやすいパッケージングやネーミング、新商品の見せびらかしが消費者による購買への訴求力を持続させることが、マーケティングでは重要であることを、割と、くどく話しています。

         

        マーケティングの世界では、ある人々が重要だと思っている、セレブ感などへとよばれる価値が割と悪質に使われていることも講義の中でお話しています。

         

        今回の工藤さんの記述に即し、財産や地位といったものがアメリカ社会でどのような意義を持っているのかに関して是非ご紹介したい非常に面白い映画があります。この映画については、レンタルDVDとかレンタルのBDがありますので、一度ご覧になられるとよいと思います。その現在の社会でのセレブ感の意味と、それを利用しようとする現代のマーケティングの悪辣な裏側を描いた映画とは『幸せがおカネで買えるワケ』(原題 The Joneses ジョーンズ家の人々、普通の人々といったような意味)という映画です。この映画は、よくもまぁ、アメリカの計量的マーケティングの一断面をうまく描いた映画だったなぁ、と思っています。この映画で揶揄され、批判されているのは、外見を他者よりよく見せることで、そして、人々の間で人気者となることに価値があり、幸せだと勘違いしている現代のアメリカ社会の病理なのではないか、と思います。

         

         

        日本語版字幕つき予告編

         

        アメリカ版予告編(こっちのほうが内容の概要がよくわかる)

         

        外見を気にすることに関していえば、『プラダを着た悪魔』The Devil Wears Pladaなんかも面白いですねぇ。この映画は、人を人とも思わず、自分の呼びたいように部下の社員を呼び、召使のように社員を使い、そのような人物に自ら喜んで追従する多くの人々がいることをファッション雑誌の有名雑誌の編集部の現場として見事に描いているラブコメディです。まさにこの編集部の世界は、上でご紹介した工藤さんのその1からその3の世界がよく表れているように思います。そして、それが、現代のアメリカ社会の多くの企業などの縮図であるようにも思います。もちろん、デフォルメはだいぶんされているでしょうが。

         

         

        英語版予告編

         

        日本語版予告編

         

        独裁者と力ある指導者を求める現代社会

        独裁者と力ある指導者像を求めているのは、先ほど紹介したトランプ大統領を救世主扱いするRust Beltの小さな町の人々ばかりではないように思います。お隣の朝鮮人民民主主義共和国の皆さんもそんな印象があります。しかし、先に行われた、朝鮮人民民主主義共和国の金正恩同志と、アメリカ合衆国のトランプ大統領の会談は、同じような力ある指導者像が求められる二つの社会というか国家によって生み出された国家元首同士の会談という意味では、非常にいろいろ考えさせられました。

         

        現在のアメリカ合衆国や、朝鮮人民民主主義共和国の人々だけが、強い指導者像を求めたわけではありません。以前の文化大革命時代の中国もそうであったように思います。なんでも、一時期の中華人民共和国では、毛主席のおかげでダムができたり、鉄鋼が増産されたりした、と報道されておりました。北京放送では。

         

        もっと以前には、第一次世界大戦に敗れて経済的にも精神的にも、国威もボロボロになったドイツ国民は、そこからの起死回生を謳いあげるナチスドイツとヒットラーという存在を求めたように思います。実際に、ヒットラーの演説は、力強さを感じさせるものであった、とは思います。その意味で、国際社会から「社会的に軽視された人々は(自己救済)のために強い権力者を自ら求める。」ということが、ワイマール体制の崩壊期を経て、ナチスドイツが社会で幅を利かせていくような時期のドイツでは起きたように思います。そして、ナチスドイツが民主主義社会のドイツ国民によって選ばれ、選挙と民主的な手続きの中でヒットラーが誕生していったように思います。それは、ヒットラーの姿と自己を同一化することで、強いドイツ国民の一員であることを必死で確認しようとしたことが、あの時代のナチスドイツの台頭には、現れているのではないか、と思います。

         

        さて、現下の我が国のできごとは言わずに置きましょう。(賢明な読者はよく思いを巡らしてくださいますように)

         

        力強い指導者増を力強く紹介する朝鮮中央テレビのアナウンサーさん

        (フォーマットが変わっているので、悪意はないけどかなり幅広に見えるようなw)

         

        ヒトラー登場の背景を語る一つの物語

        (右下の歯車マークをクリックし、表示されるメニューの字幕の中から日本語を選ぶと、自動翻訳字幕が表示されます)

         

         

        ヒットラーのスピーチの例(まぁ、力強く謳いあげておられること)

         

        物質的な豊かさと欲望と劣等感

        現代社会は、強欲あるいは貪欲(Greedy) が美徳とされる競争社会であるようにも思います。日本社会もそちらに向かって動きつつある印象がありますが、米国はもっともっとその競争社会が苛烈な世界であるように思います。先ほど紹介した映画「幸せがおカネで買えるワケ」ではないですが、外面的なグッズや自動車、パーティの演出などで自分を飾ることになり、これらの所有物や、提供するパーティの豪華さの面での他者との競争に自らを追い込み、Aには、Bを。Bには、Cをと、競争が激化、過剰化するのが人の世の習いでありように思います。そして、その競争の結果、多くの場合、人は泥沼状態に落ち込んでしまうように思います。そして、人々は欲望に支配され、欲望に捕囚されることになっているように思えます。本来神が、人間を開放しようとしたのは、この欲望とそれがもたらす災悪であること、そして、人間は神の存在を認めなければ、欲望に捕囚されてしまう、ということが、タナッハと呼ばれる旧約聖書が言っていることのような気がいたします。そして、欲望とそれがもたらす災悪の背景を、グリューンは、次のように書いているのではないか、と工藤さんはご指摘ではないか、と思います。

         

        財産や地位という外面的なものの獲得が人生の目的ともなれば当然人は勝ち抜き競争に追い立てられるからである。まして物質的な豊かさが大きな価値を持つとなれば、そこは欲望が支配的となることが当然だからである。グリューンが<自分の無価値という考えを麻痺させるため>という”劣等感”が潜んでいる。(同書 p.167)


        ここで工藤さんが書いておられるのは、要するに、劣等感が、虚勢につながったり、背伸び型の心理を生み出したり、強行突破型の精神構造を生んでいるのではないか、という指摘であるように思います。この部分を読みながら、そんなことを思っていますと、ツィッターに流れているあるツィートに目がとまりました。それは、ミーちゃんはーちゃんと仲良くしてくださっている小嶋先生のツィートでした。そのツィートとは、60代の退職期のおじさま方についてのつぶやきでした。ちょっとご紹介してみたいと思います。

         

        「キレる60代の男たち」を減らしていく方法(東洋経済オンライン)
        「尊敬の強要」
        「心が破断する」
        岡本純子「日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか」参照

        ‏というツイートの後、

        おかしーなー。牧師はよく(信徒と比べ)「(実)社会の経験のなさ」を非難されるのだが、実社会で揉まれてきた「男たち」がかくも社会性の欠如を指摘されるとは・・・。

        ポイントは(実)社会経験のあるなしに関わらず、高齢化社会での「60代」という中途半端な年齢層が抱える「年相応」の不明性と不適応、という角度から考えてみてもいいだろうか・・・。

        ということをツィートしておられたので、ミハ氏は次のようにお返ししました。
        というよりはですねぇ、60代って、役職がある人は別として、その人を覆ってた鎧みたいな社会の役職とか肩書無理やり外されるんですよ。定年という制度とか、退職勧告とかで。それで、結構ずたずたになる人がいて、それであれるんじゃないか、と思いますよ。

        それまで、取引先とか、社内とかいうコミュニティで相手されてたのに、相手されなくなり始める。孤独感にさいなまれるとか、あると思います。
        そうなると、誰かに相手してもらいたいけど、その人に、よほどのコンテンツがないと、誰からも相手にされなくなるんです。それで誰彼構わず、噛んでいくことになると、余計相手にされなくなるので、また荒れるという悪循環。

        まさに、外部というか他者から、年相応の扱いを受けないことのいらだちなんでしょう。

        企業とか自治体の対応窓口でのクレーマーなんかで、この手の人が多いみたいですよ。

        一度、関東の自治体のコールセンター見学させに行ってもらったんですけど、コールセンターの人がすごいのは、この強烈なクレーマーへの対応能力。

        そんなこんなで、今は、銀行なんかは、IBMのワトソン君(人工知能)に処理させてる部分も多いみたい。

         

         

         

        この一連のやり取りをしながら、そして、岡本純子「日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか」を改めて読んでみると、冒頭にあげたトランプさんの大統領選挙に関しても、日本の高齢者は、なぜこうも「不機嫌」なのか(3)で、次のような面白い記述がございました。

         

        また、それほど余裕がなくても、ボランティアなどして、社会貢献をする。こうしたことで「承認欲求」「名誉欲」を満たしていくのだ。日本ではこうした話はあまり聞かない。黒塗りに固執するおじさま方が恐れているのは、社会から認められなくなる、必要とされなくなる、そういった高齢者特有の喪失感なのだろう。

        批評家の浅田彰氏は、「(ドナルド・トランプ勝利の背景には)白人男性を中心とする『サイレント・マジョリティ』の『承認』欲求、つまり、過剰な『承認』を受けているかに見えるマイノリティへの嫉妬と憎悪が異様に亢進していたことがある」と看破したが、日本のキレる高齢者の怒りのマグマの源泉は、同様の「満たされぬ承認欲求」といえるのかもしれない。

         

        つまり、満たされない承認欲求を長らく抱えたRust Beltのおじさんたちが、自分たちブルーカラーとして働く白人男性の自分たちの存在を認めているように思えた、そして自分たちに言及してくれた大統領候補として、トランプ大統領候補を支持し、トランプ大統領候補を支持すると言明した大統領選挙人(アメリカの大統領選挙は、とにかくややこしい制度でできている)を支持したという事が起きていたのではないか、というご指摘があったということのようです。

         

        これはある意味でいうと、満たされない承認欲求という”劣等感”を、強い大統領候補であるトランプさんを支持することで解消しているのがアメリカ人で、日本の60歳前後の荒れる高齢男性は、自己の無価値さを素朴に認めるのではなく、<自分の無価値という考えを麻痺させるため>に、あたりかまわず怒りをぶつけているとしたら、世の中不幸であるとしか言いようがないように思います。まぁ、身近にあたりかまわず怒りをぶつける人がおられまして、ミーちゃんはーちゃんが怒りをぶつけられるその対象になったことがございますので、その大変さ、不幸さ加減はよくわかりますが。

         

        ナウエンは老いを神からのプレゼントとして受け止めていくことを下記に紹介した『闇への道 光への道―年齢をかさねること』という本の中で書いていますが、本当に、こういう”老い”を神からの賜物として受け止める方が、周囲の他人や周囲の人々に当たり散らし、怒りをぶつけ、多くの人々を不愉快にし、社会の厚生を下げまわるより、よほど良いと思うのですがねぇ。

         

        しかし、人工知能のワトソン君に相手されて、承認欲求を満たしている日本の高齢者の方々の現状って、本当にどうなんでしょうねぇ。こういうお年寄りの方がわりと忌み嫌うことが多い、二次元アイドルやアニメを見て、承認欲求を満たす20歳から30歳くらいのアニメヲタクの人々と、構造的には大して変わらないように、ミーちゃんはーちゃんは思えるのですが。

         

        そのためにも、自らの弱さを神の前に認め、<自分の無価値という考えを麻痺させるため>という必要をなくし、神とともに歩む、というタナッハあるいは旧約聖書が一貫して主張していることが、本当に大事なのではないか、と思うのですけれども。

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

        評価:
        価格: ¥ 1,728
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:お勧めしております。

        評価:
        ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
        こぐま社
        ---
        (1991-12)
        コメント:非常に良い本なのに入手できないという。

        2018.08.05 Sunday

        夕凪の街 桜の国 2018 NHK総合で明日 2018年8月6日に放送予定

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          明日

           2016年8月6日(月曜日) 19:30−20:45に、こうの史代さん原作の 『夕凪の街 桜の国』に基づく広島放送局開局90周年記念ドラマが放映されます。 

           

          夕凪の街 桜の国-電子書籍

          原作の表紙 https://bookwalker.jp/de384dcc5b-41a2-4b83-81ef-1d10c65928cc/?adpcnt=7qM_Vsc7&gclid=CjwKCAjwwJrbBRAoEiwAGA1B_big0T6-0l7f2BhGHSucxLdCXCPqo_6Okn9-WzC5SP6NcNJqqRTqNhoCHFMQAvD_BwE より

           

           

           

          NHKのサイトを紹介した時の画像 http://www.nhk.or.jp/hiroshima/drama/

           

          そういえば、FBでのお友達の小島 聡さんが『『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』』という本を書いておられ、『夕凪の街 桜の国』という漫画が持つ人間の記憶と体験記憶に基づく物語の記述構造とヨハネの福音書の記憶と体験記憶に基づく記述構造が同じことに着目しながら、永遠をどう考えるか、時空を越えてこの地上に現れる神(と地上に歩んだ子なる神であるイエスをどのように理解できるのか、を描いた面白い本が出ています。

           

           

          「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』 ヨベル」の画像検索結果

           

           

          同書が出版されてすぐの頃にこのブログでも、以下の記事でご紹介しております。ぜひ、お買い上げをご検討下さい。

           

           

           

          2018.08.06 Monday

          工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(14)

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            今日もまた、工藤信夫著『暴力と人間』の第3章から引用しながら、たらたらと考えていることを書いてみたいと思います。

             

            暴走族・ロシア革命・中国文化大革命の構造?

            さて、前回に引き続き、貧しい人々が一発逆転を与えてくれると思い込みやすい強権的な存在を必要とするというあたりのグリューンの記述を考えて見たいと思います。前回は、現在の米国内のトランプ政権、バブル期の結婚相手問題(キリスト教界隈もまったく無縁ではありませんが)、朝鮮人民民主主義共和国、ナチスドイツとヒットラーの背景、そして、肩書きを定年で奪われるおじさんたちの暴走、というあたりのお話をしてきましたが、今回もう少し踏み込んで、考えて見たいと思います。

             

            貧しい人々や、世俗の権威を持たない人々、資産を持たない人々(その故に軽く扱われる人々、いわゆるプロレタリアート、これは由緒正しいことばで、ラテン語のproletarius つまり、子をなす以外能力のないものども、という意味ですので、ある意味、ものすごいもののいいようではあることは素朴に認めたい)が重要性を認められたい、という感覚は、人間である以上、素朴な感覚としてあるのだと思います。

             

            彼(ミハ氏註:グリューン)は「何の分け前にもあずかれない弱いもの(働きのない者)は、重要でないもの、価値のないものとみなされるだけでなく、(こうしてこの類の人々は)自分の無価値という考えを麻痺させるため、自らの復権のため自分が一体化できる強い対象、つまり”暴君”を必要とする」という注目すべき発言を提供している。(同書 p.169) 

             

            非行と呼ばれる問題行動を起す若者の皆さん(カミナリ族、暴走族、・・・・)とかは、基本的に喧嘩の強いリーダーを頭(頭目、リーダー)にすえて、それと自己同一化している雰囲気はあるように思います。今で言うと、ネトウヨと呼ばれるマイルドヤンキーのかたがたが多い集団もそのような雰囲気があるようには思うのです。

             

            あと、この手の話だと、「定説です」というキーワードで有名になった、ライフなんとかの高橋さんとか、何かというと国連を出してくる左翼系の人々とか、ことあるごとにヨーロッパでは、と言い出される方々も、構造としてはかなり同質性が高いのではないかと、ミーちゃんはーちゃんには見えますし、聖書の権威を教会内で、必要以上に振りかざす人々も同じ構造ではないか、と思うのですけれども。

             

            大概こういう人たちは、社会から軽く見られるので、『聖書』とか『神』とかいう権威性のある語を教会内で振りかざし、自らをそれと同一化することで、普段の満たされない思いを満たしておられるのかもしれない、と思うと、そのような方々の日常での残念さを多少は勘案して差し上げたほうが良いのかなぁ、と思います。まさしく、なんとかと包丁、なんとかと日本刀のように、満たされていない方々で性格をこじらせている方々と権威性は、組み合わせとして凶ではないか、と思います。


            一時期、話題になった「定説です」「サイババの勝手なんです」の高橋さん

             

            共産主義とキリスト教

            共産主義は、キリスト教の神の代わりに無産者によリ構成される共産党という党組織という全知全能という存在があるという、かなり無茶な前提を置き、その全能の共産党による一党独裁政府という前提を置くようです。まぁ、わりあいと離れて眺めてみると、キリスト教的な世界観とよく似ている部分が多いこともまた、事実であるように思います。マルクス主義は、キリスト教神学から神や聖霊やらを抜いて、そこに適当なものを入れるとマルクス主義になるという説もないわけではないようです。

             

            ところで、ソヴィエト 社会主義共和国 連邦を産んだロシア革命はマルクス先生の予想に反し、扇動者の存在や、帝政ロシアのあり方をよく思わない様々な人々の支援があったとはいえ、寄る辺のない人々が多数存在した20世紀初頭のロシアで発生し、後にユシフ(ヨセフ)・スターリンが強いリーダー(ロシア共産党におけるある種の”聖人”担ったのだと思いますが)として主導権を取り、その共産主義社会における当時の”聖人”として崇拝し、そして当時のソ連邦の人々は、その指導者たちに自己の夢を勝手に投影した部分がなかったとは言えないように思うのです。その時代の”聖人”であらせようとした証拠として、”レーニン=スターリン廟”を作り、唯物主義者であるにもかかわらず、スターリンの遺体を保存していこうとしました。まぁ、スターリンはその後の見直しで、遺体は撤去されたりしたようですが・・・しかし、唯物主義者であるはずの社会主義国家にロシア正教由来の聖遺物信仰がこういう形で伝染するのはねぇ。

             

            CroppedStalin1943.jpg

            ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(グルジア出身)

             

            文化大革命とプロジェクトX

            中国の文化大革命は、紅小兵と呼ばれた、それまでの長老支配体制のもとでは、ほとんど実力のない若者たちが、毛沢東主席を担ぎ、毛主席に同化することを示すために、毛沢東語録(懐かしい)を聖書の代わりに持っていたように思います。そして、当時は連日北京放送の放送内容は、毛主席の奇跡譚で埋め尽くされていました。前回紹介した朝鮮人民民主主義共和国と同じような状態であったと記憶しています。

             

            あるいは、プロジェクトXに心酔するおじさんたちも、ある面、これに似ている側面があるように思います。諦めずに初志貫徹を目指してチームのメンバーをリーダーがまとめていく美談がドキュメンタリータッチで描かれる番組ですが、これも、映像で紹介されているリーダーと一体化することで、自らが社会から不当に承認されていないと思っておられる皆さんが、この番組をみることで自らを復権させたり、自らを慰めたりしているのではないか、と思うのです。

             

             

            だいたい、内実がある人達の周りでは、あそこで紹介されているようなことは、日常茶飯事で起きていて、次々と起こる個別の現象への対応に追われたり、苦しめられていることが多いので、あの番組で紹介されている人々に自己を同一化させる必要が、そもそもないような気がしています。

             

            インターネット時代は均一化に向かう社会?多様化に向かう社会?

            ユビキタス社会ということばは誰が言い出したかはしらないのですが、IoTだのディジタル・エコノミーだの言わなくても、電車に乗れば、競馬新聞や漫画雑誌の代わりにみんなスマホだのタブレットだのをいじる時代になっています。インターネット無用の神学に立つ人々やディジタルディバイドで置き去りにされた人々を除けば、Wifiとインターネットなしに人々の生活はほぼ成り立たなくなり始めているのが現実だと思います。特にPokemon Go(未だに根強い人気があるらしく、時々、電車の中でその画面を拝見することがある)はWifiとインターネットがあるからこそ、成立するゲームというか、アプリなのです。

             

            さて、家人が京都の学校に通学しているのですが、その家人の言によれば、京都のスタバは、きれいなトイレとワイファイを求める訪日外国人観光客で溢れているそうです。それだけ、Wi-Fiは来日観光客にとってのトイレ並みの必需のインフラになっているということを示しているのでしょう。現代の多くの人々は、アマゾンさんで買い物をし、安い宿泊料金を求めて宿泊をネット予約し、飛行機やホテルの予約、あるいは旅行パッケージの予約もネットでする時代なのです。

             

            先日、非常に暑さの厳しい京都市内の御所の蛤御門の近くで、只今絶賛紹介中の『暴力と人間』の著者の工藤信夫さんとキリスト新聞の社長さん(実に変な組み合わせだと、思いますが)とを交えた打ち合わせがあり、ダラダラとお話していたのですが、本書についてのイベントを関西で、という話になり、日程調整をし、10月中旬に梅田界隈の会場を押さえる話になりました。そして、その場に持参していたタブレットで目的の会館のお部屋の空き情報を確認し、その場で電話で予約を入れ、会場を押さえるのを見て、工藤先生が目を丸くしておられたのが印象的でした。

             

            工藤信夫さんは、以前から、計算機がお嫌いのご様子で、「ぼくはコンピュータとかやらないから…」の一点張りであったのですが、眼の前で会場探しから予約までをわずか5分位の間に完結するのをご覧になってしまったので、少しは心動かされたようでした。工藤先生の周りの皆さんは、工藤先生が電子メールやウェブサイトを見てくださったら、どんだけ楽か、と正直ほとんど全員思っているのですが…。あ、工藤さんの名誉のために申し添えますと、ガラケーのメールはお読みになられるようです。名誉でもなんでもないか…多分。

             

            空間の差別性と多様化

            さて、このインターネットの世界は、均質化に向かうのでしょうか。それとも多様化に向かうのでしょうか。これには多くの議論がありますが、個人的には、多様な価値観が相互に独立性を一定程度確保しつつインターネットという共通基盤に集約されつつ、多元的な関心を持つ人々の集団がインターネットを介して形成され、併存的に存在するようになり、空間はその特殊性と人間に関する差別能力と距離による分断の可能性を次第に失う、というのが多分正解だろう、と思っています。

             

            実は空間は差別的なのです。というのは、なにかにアクセスするためには、移動しなければ、これまではアクセスできませんでした。例えば、美術作品を見るためには、画廊に足を運び、あるいは、美術館に足を運ぶ必要があったのですが、今では、作品名と作者名を入れると、現実にある芸術家が書いた作品そのものではないですが、それのかなり精巧な代替品には計算機の画像を通してアクセスできるからです。

             

            レンタルビデオ店で考えるネット時代

            つい最近のニュースで、アメリカではレンタルビデオ店がとうとう最後の一店舗オレゴン州に残すのみ、になったという話『レンタルビデオ店の思い出は? ─ アメリカでは残り1店舗、ほぼ絶滅へ』がネット界隈で少し話題になっていましたが、そもそもは映画館で見られていた映画が、1980年台からはVHSやベータシステムというビデオカセットの普及と、最終的にVHSによる市場の席巻に伴い家庭が映画を見る場になり始め、1990年台には、DVDの登場に至って映画館料金が異様に高い日本では家庭のテレビが映画を見る場になり、2010年代には米国でのインターネットの普及に伴い、インターネットでレンタル品を発注し、郵便でDVDが届けられていたのが、今やそれらのメディアに記録されたの映像を見るのではなく、2015年以降は、ネット配信で映画を見るようになってしまいました。するともはや、実店舗も、映画ソムリエを気取っていた店員も不要になり、ブリック・アンド・モルタルという実店舗が不要になり、クリック・アンド・モルタル(倉庫だけは存在した)からクリック・オンリーと家庭での映像供給のビジネスモデルが変わってしまいました。

             

             

            Be Kind Rewind (アメリカのビデオレンタル店には書いてあった返却の際に巻き戻しをお願いすることば)がタイトルになった遊び語頃たっぷりのレンタルビデオ店の衰退を記念する名作映画オマージュ・コラージュ作品。

             

            世界最強の映像ビジネスコンテンツを誇るディズニーも、今やNetflixというネットでの動画配信モデルに対して対抗心を燃やすようになっております。実にこの映像配信サービスという世界、ビジネス・モデルの変遷が激しかったと、こうやって振り返ってみると改めて思います。

             

            この辺、アーギュメンツ #3に面白い論考がいくつかあるので、そのうちまた紹介したいと思います。

             

            アイドルで考える近代時代の大衆文化とポストモダン時代の分衆文化

            余談に行き過ぎましたが、もとに戻ると、空間は差別的でした。しかしインターネットは、その差別的な空間の持つ特殊性、ある場所(例えば、映画館やレンタルビデオ店)に行かなければ映像コンテンツにアクセスできない、という空間の持つ差別的な側面を変え、どこでも、いつでも、画質と画面サイズを気にしなければ、そこそこの精度で映像コンテンツに触れることを可能にしました。その意味で、どの場所でも、いつでも、という意味では世界は、均質化しました。しかし、それだけでしょうか。違うと思います。様々の人々がある事柄、こだわりのある事柄にアクセスできることから、現在では、様々な社会グループが併存する社会ができたのです。AKBのファンもいれば、乃木坂のファンもいる、欅坂のファンもいれば、ももいろクローバーzのファンもいる、と、アイドルの市場は細分化されています。SMAPのファンもいれば、Newsのファン、関ジャニ∞のファンもいる、あるいは、韓流アイドルで言えば、東方神起のファンもいれば、防弾少年団のファン、一方でBig Bangのファンも居る、と言った具合に追っかけ市場も細分化されています。

             

            AKBの皆さん

             

            乃木坂の皆さん

             

            欅坂の皆さん
            もも色クローバーzの皆さん
            SMAPの皆さん
            Newsのみなさん

             

            関ジャニ∞の皆さん

             

            東方神起のみなさん

             

            防弾少年団の皆さん

             

            Big Bangの皆さん

             

             

             

            確かに、従来は、この地域が存在する空間が差別的であるが故に、空間により分断されたことで、独自の地域性がありました。しかし、鉄道網ができ、マスメディアが生まれ、ブロードキャスト型(一斉発信型)の情報伝達が主流になっていく近代社会の中で、近代の持つ均質性、マスプロダクション技術とブロードキャスト型情報伝達に支えられた近代社会は、均質化していくことになり、いたるまちに銀座と名のついた駅前商店街ができ、大衆歌謡が生まれ、大衆文化が生まれ、みんなが同じスターを見、世代を超えて多くの人々が同じ流行歌を歌う時代が近代という時代でした。そのタイプの最後の大スターが、おそらく男性では舟木一夫さんや小林旭さん、石原慎太郎を兄貴にもつ石原裕次郎であり、女性では美空ひばりさんや山口百恵さんだったのだと思います。

             

            小林旭さん

             

            石原裕次郎さん

             

            山口百恵さん

             

            しかし、山口百恵さんの時代くらいから、一人のアイドルが時代を支配する時代が終わりました。男性では、新御三家と呼ばれた先日物故者になられた西城秀樹さん、野口五郎さん、郷ひろみさんに分化し、女性では、数多くのアイドルがテレビに登場することになります。そして、今や、AKBなどでは、そのグループ全体というよりは、そのグループの構成員の一人に着目する推しメン(推薦したいと思うメンバーの略語)でグループが形成されるようになりました。それは、製作側が利益を最大化するためにそう移行していったという側面も勿論ありますが。

             

            ということを踏まえて、次の工藤さんの文章を読んでみたいと思います。

             

            これまでの世界は、それぞれが独自の地域性を有し、それぞれの文化、歴史を尊重し独立性があったのだが、今日ではEUをはじめ様々な経済機構の統合の動きに見られるように、それぞれの国が生き延びるためと称して、様々に組織化機能化した、大きな経済機構に適応していかねばならなくなったのだが、そこには巨大化した帝国主義的な国家組織が出現しその傘下に下るものには適応つまり”従順”になるという要素が求められる。つまりここの要求や主張を排除し”均一化”でもって、秩序の保持・維持のためには、人と人とのつながりの基である”共感””いたわり”といった心情ではなく、その対極である威圧、脅し、攻撃信などの”外圧”が必要不可欠な方法と手段と化しているのである。(同書 pp.170-171)

             

            ここで、均一化という近代のモードの議論がなされているのですが、やはり、工藤さんが相手にしているのは、近代社会とそこで育ったキリスト教だったのだろう、と思います。確かに、インターネットがすべてものの制御と多くの現代社会の人間に影響を及ぼしていることは確かです。アーミッシュのような生き方をしなければ。しかし、「巨大化した帝国主義的な国家組織が出現しその傘下に下るものには適応つまり”従順”になるという要素が求められる」というのは、本当でしょうか。

             

            ビットコインとかのデジタルマネーの発想は、国家とか、世界銀行とか、IMFなんかの管理をされたくないために生まれてきたブロックチェーンというテクノロジーです。アンチ帝国主義、アンチ国家主義の発想がその底流にはあります。

             

             

            あるいは、帝国主義の傘下に入りたくない人が、帝国主義的な要素を持つインターネットに頼らざるを得ないのが現状ですし、そのインターネットを使って西洋社会の帝国主義を破壊しようとしている(たとえばダーイッシュと呼ぶべき、カリフ制最高!ということで、カリフ制度の再興を目指すイスラム国、ないしは、ISISなどがその例)、というのは、実に諧謔的なのですが、それが現実なのだと思います。

             

            インターネットの二面性 共通化の道具と共感の道具

            インターネットが二面性を持っていることは、もう少し考慮されてもいいかもしれません。工藤さんはご自身で選択的にオフグリッド(ネットから外れる)を選択しておられるので、ご理解は難しいかもしれませんが、このブログの読者の皆さんはここまで、ミーちゃんはーちゃんがたらたらと書いてきた文章をお読みになることで、実は、「人と人とのつながりの基である”共感”」をされているということだと思うのです。インターネット二面性は、人をものともつなぎますし、モノと人をもつなぎますが、人と人ともつなぐことで、「”共感””いたわり”といった心情」を情報技術というテクノロジーを介して、伝達できるところになるのです。まぁ、「○○と包丁」とか「○○と日本刀」とかではありませんが、○○とインターネットは、本当に使い様なのではないか、と思うのです。

             

            実際、インターネットがあるからこそ、このブログをお読みいただけているのですし、従来はあり得なかった、教派や教会の枠を超えた共感といたわりを基礎としたつながりが可能なキリスト教界隈の社会になりかけており、それがゆえに、以下でご紹介しております『新しい中世』で紹介されたような、様々の関心領域でまとまった島国が緩く連携しながら、存在しているのが、現代のインターネット社会だと思います。

             

             

            次回へと続きます。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

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            コメント:さすがに古くなっているけれども、同書で述べられていることはそう間違ってはいない、と思います。

            2018.08.08 Wednesday

            工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(15)

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              今日もまた、工藤信夫著『暴力と人間』の第3章から引用しながら、たらたらと考えていることを書いてみたいと思います。

               

              さて、前回は、近代社会にあらわれた共産主義やその中での個人崇拝、社会から認められていない人々の成功者への自己イメージの投影による自己の復権を図ろうとする動きなど、そしてインターネットとモダン時代、ポストモダン時代と分衆化の問題について触れていきました。

               

              デカルト的世界と人間

              さて、今日は、近代社会と人間疎外の話を工藤さんが記述した文章を基に考えていきたいと思います。近代を支配した数値化、合理性を重視したデカルト的な世界理解、世界観について、工藤さんは次のように書きます。

               

              私は”理性的・合理性を重んじる社会が人間性を阻害する”というグリューンの説明に出会って、直ちに思い浮かべたのは、トゥルニエの言及との共通性である。なんとトゥルニエは70年も前にしている、デカルト的な居心地の悪さを指摘しているのである。デカルト的世界とは、数値化、理性、合理性の優先である。(『暴力と人間』 p.172)

               

              デカルト座標とも呼ばれる直交座標系というものは、小学生の数学から、数学のグラフでおなじみだと思います。座標というと、ほぼこのデカルト座標系なのです。実際、ミーちゃんはーちゃんの専門分野の地理情報技術でも、日本平面直角座標系(日本平面直角座標系についての解説はこちら)という測量手法が大変たくさん用いられています。、

               

              「デカルト座標」の画像検索結果

              http://help.autodesk.com/view/ACD/2017/JPN/?guid=GUID-AABA8FE7-0E86-4046-96D5-CF5464D5FAC6 より

               

              ところが、実際の地表上の表面はデカルト的な、このユークリッド的なものでも理解可能ではあるけれども、曲面であるので、本来であれば、非ユークリッド的なものなのであるのです。さらに言うと、地球は完全な球体ではなく、凸凹のある回転楕円体なのです。詳細な説明は致しませんが、測量的には、ジオイドというもののがあり、単純なユークリッド的にとらえきれないものではあるのです。

               

              「Non Euclidean space」の画像検索結果

              日ユークリッド幾何空間のモデル

               

              関連画像

              かなり極端に表現した球体としての地球

               

              おそらくマイナンバー制度(国民葬背番号制と実質的には同じ)のなんとなくいやな感じがするのは、個人が、個人として認められているということで個別的な存在でもある個人を指し示すその記号あるいは表象として氏名を使うのではなく、それが単なる数字の羅列で表されてしまうことの無機質さに対する人間的な反応だと思うのですが。

               

              計算機屋の立場から言えば、氏名と生年月日と(戸籍上の)住所を使って、裏で個人特定化するためにコード化(数値化)することも可能であるのです。まぁ、それを表立って、番号振って国民にお届けしてたことで、ちゃんと国家として皆さんの収入をきっちりと捕捉し、皆さんが納めるべき税金を確定してあげるから、脱税や節税せずにきっちり払ってね(自営業者さんへの実質的な課税強化)、銀行さんもちゃんと、名寄せして、口座から発生する微々たる税金(現在のウルトラデフレ時代だから、知れているのですが)を徴収してね、という制度になってしまいました。

               

              おまけにマイナンバー制度は仕事がなくなりつつある、レガシー系の計算機ベンダー開発事業者さんへの仕事の発注増加で失業対策ということをするためかどうかはしりませんが、マイナンバー制度が導入されたことで、自治体に計算機システムを入れていたシステム屋さんは、特需的な仕事が増えてかなり潤った、という側面もあるのではないか、とかんぐりたくなるような制度です。まぁ、それだけ、財政当局が、金集めるのに必死になっているということは、日本という国にかなり余裕がなくなっているということなのだと思います。個人的には、制度的に何もメリットがほとんどない以上、これ以上は、マイナンバー制度は普及しないとは思います。といって、イスラエルのウルトラオーソドックス派のユダヤ人の皆さんみたいに、世俗国家としてのイスラエルなんか認めないとかいう主張みたいに、世俗国家としての現在の日本国は認めないとかいうつもりはありませんが。なお、イスラエルのウルトラオーソドックス派のユダヤ教徒の方の一部は、基本的に神への十分の一献金はするらしいですが、課税当局への納税と本当の血税である兵役はみとめない傾向にあるようです。

               

              そして、「”理性的・合理性を重んじる社会が人間性を阻害する”というグリューンの説明」に工藤さんは共感しておられるのですが、実は、近代の社会は、この「理性的・合理性を重んじる社会」でもあったわけです。そして、この「理性的・合理性」が社会全体を支配した感があり、日本では、この「理性的・合理性」を西洋文明、すなわち和魂洋才洋才として、キリスト教を内包するかたちでの西洋文化全体を受け止めるのではなく、キリスト教抜きの西洋文明として、かなり明確な線を引いたまま取り込もうとした時代が明治以降一貫して続きましたので、基本的に今もなお、学問分野ではキリスト教抜きの部分に着目した学術活動が続いていますし、小学校等の初等教育の現場から、大学等の高等教育の教育機関の現場にいたるまで、こちらのキリスト教抜きの西洋文明に重きを置く形での教育が行われています。

               

              あるいは本来的には、地表上の微地形に合わせ、古来から多数の曲線で構成されてきた河川を直線的なものへと変化させる河川改修や、これまた、人間の非力さの状態に沿うように多数の曲線で構成されてきた道路も長大な橋を架け、トンネルを堀り、極めて線形性の強い線形構成に変えてきたのが近代という社会でした。それが、デカルト的な世界観とも言えるようにおもいます。

               

              個人的には、平面直角座標系が便利ですし、理性的なものが好きだし、扱いがしやすい、説明がしやすいので、特段、「理性的・合理性を重んじる社会」やデカルト的世界に特段違和感を感じませんが、個人的には、パスカル的な世界観のほうが、好悪からいえば、好きではあります。デカルト的世界は、どちらかというと、厳ついドイツ的な要素が強いのに対し、パスカル的な世界は、やわらかいけれども、感情の起伏を含むフランス的な要素を感じます。

               

              両者とも、近代の成立に大きな影響を与えた哲学者であり数学者(昔は、数学は哲学の一部だった)ですが、同じ理性的とはいいながらも味わいが違います。個人的には、パスカルの哲学のほうに、より強い親和性があります。ドイツとフランスは近い分だけ、領土の取り合いをずっと繰り返していて犬猿の仲に近いので、EUで経済的に一体化したときには、ちょっと驚きましたが、哲学の分野でも、新興国家としての生き急いだ感のあるドイツと、より余裕というか遊びのあるフランスとでは大分味わいの違いがあって面白いなぁ、と思うこともあります。

               

               

              文化人と野蛮人

              グリューンの『私は戦争のない世界を望む』からのカナダ(おそらくカナダの東部地区)の先住民の社会に宣教のために入ったフランス人と先住民とについての出来事についての引用があったあと、次のように工藤さんは書いていました。

               

              先住民を『野蛮人」、宣教師を「文化人」と考えるとこの話は面白い。先住民の世界には、支配も所有もなかった。

              上も下もなかった。

              あったのは”共に生きる”という共存の世界だけであった。

              しかしキリスト教を伝える神父はそれが劣った文化、間違った価値観だと思って”本当(?)”の結婚を教えたつもりだったに違いない。

               

              トゥルニエは”宣教は支配”というが、”教化”にも精神的暴力という要素が入り込んでいるのかもしれない。(同書 p.174)

               

              さて、ネイティブアメリカンの世界観の中に所有という概念があまりないために、マンハッタン島をネィティブアメリカンから物資と島との交換でオランダ西インド会社のPeter Minuitという人物が買い取り、そこはNew Amsterdamと呼ばれることとなり、のちにNew Yorkと呼ばれる街になっていくというのはよく知られた話でしょう。その後、アメリカに植民地ができていく中で、所有の概念が薄いネイティブアメリカンから、銃などを背景に土地が入植者政府によって半ば強制的に収奪され、新規入植者に対して分与されていくことになったというのがアメリカの歴史ではあります。

               

              とはいえ、先住民族にすべからく全く所有の概念や支配の概念がないか、というと、それはそうではなく、家畜や財物に関する所有の概念がある先住民族は多いことや、部族間戦争があったりすることが確認されていることや、実際的にそれなりの部族の代表者の存在があることは、文化人類学的研究から明らかにされているので、これらの所有の概念や支配の概念が近代社会に比べて弱い、あるいは違うだけで、まったく存在しないわけではないというのはあります。

               

              土地の所有という概念について

              先日、カンボディア王国出身のタイの大学で働いている森林学の関係者が来てセミナーをしているときに面白いことがあった。セミナーの終わりに質疑応答で、カンボディア王国の農民が自分の土地に植林することで、CO2排出権取引がどうのこうのという話の中で、日本人の同僚が「自分の所有する土地なのだから、何をしようとかってなハズで…植林することのインセンティブがわからない」とか言って、それに対してカンボディア出身の講師が、「カンボディアでは、土地所有がある面土地の地代をまとめて払う形のものなので…」と言い出したので、日本人の同僚が混乱しておられました。そこで、「一応、イギリス型やカンボジア型の土地所有制度(というよりは、土地の利用権制度)では、土地は、原則王のもので、王から、土地を長期に借りている格好にして、土地の利用権を保証されている格好になっていて…」という形の解説をミーちゃんはーちゃんからして差し上げ、同僚の日本人(医療画像の研究者なのでしょうがないのですが)には、納得してもらいました。

               

              日本人の同僚が混乱するのは、無理もないように思います。不動産関係の専門家でもないですから。また、日本では、そして、アメリカでは、自分の土地は自分の土地なので、基本、自分が何をしようが勝手だし、勝手に奇抜な色彩の家を建てることも自由だから結構変なものを建てることだってできます。

               

              「誠ちゃんハウス」の画像検索結果

              楳図かずお先生が建てた通称「まことちゃんハウス」これ建てたので、近隣住民から裁判を起こされた模様。

               

              また、アメリカで他人の所有地に断りもなく侵入したら、不法侵入だから、銃で威嚇されるくらいのことは当たり前の社会がアメリカ社会であります。例えば、以下の動画(Grand Trinoの一部)で紹介する朝鮮戦争帰還兵の老人を演ずるClint Eastwoodがしている自分の住宅の敷地内の芝生から出ていくように脅すことは、基本的に米国では違法ではありません。自衛のための銃の所持が、否定されえないという形で、憲法修正第2条で認めらているので。

               

              A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed.

               

              映画 グラン・トリノで自分ちの芝生から出ていけと不良と近隣住民を銃で脅す朝鮮帰還兵のシーン

               

              以下のMr.Smith and Mrs. Smithの予告編で紹介されているような過剰な武装というのは、極端にしても…

               

              Mr Smith and Mrs Smithの予告編

               

              ここで、工藤さんは、野蛮人と文化人という言葉を対立軸に用いていますが、個人的には、それはあまり適切ではなくて、伝統社会と文明社会という対立軸のほうが良いのではないか、と思います。未開社会という言葉自体が、ポストコロニアル理論の時代を迎えた現在という時代において、それが妥当するのか、という疑問もありますし、未開社会に住む人に対する語が野蛮人、という言葉が妥当するのか、ということはあります。

               

              野蛮や未開社会は、文明社会から見て、自分たちの文明構造とは違う、という意味で未開に見えるだけの話で、必ずしも未開ではなく、独自に発達した高度な文明を持っていたわけです。例えば、エジプト文明は、未開社会とも考えられる社会の中で高度に発達した数学的処理技術を持っていましたし、エジプトのアレキサンドリアの図書館は、キリスト教徒による焼き討ちに合うまで古代地中海世界最大の図書館でした。昔のキリスト教との方がよほど野蛮な行為をしていたこともあるのです。あるいは、これまた、スペイン人に侵略され、消失したマヤ文明は、天文学や歴訪、石材加工技術などではヨーロッパ以上の高度な文明を持っていたことはもう少し知られてもいいかもしれません。

               

              人は自分と同じものに、”文化”とラベルを張り、自分と異なるものに”野蛮”というラベルを張るのです。江戸末期の幕府が恐れたのも鎖国下であった日本に突然やってきたヨーロッパ人やアメリカ人から”野蛮”というラベルを張られることでした。生麦事件とその事後処理で、見事でそれは失敗しますが。明治政府も同じです。ヨーロッパ人やアメリカ人から”野蛮”というラベルを張られないために、”和魂洋才”という実に便利な用語を持ち出し、”野蛮”というラベルを張られるのを回避しようと必死の努力をし、人々に断髪礼を出し、キリスト教禁教令の高札を取り下げ、武士からは刀を取り上げ、鹿鳴館を作り、西洋法体系のコラージュのような法体系を作り出し、近代化社会ぶりっ子をしたのが、明治の元勲と呼ばれる皆様の動きであったように思います。個人的には聖書を読んだかどうかは怪しいと思っていますが。少なくとも、根本のところでは、聖書の示す人間理解は、幕末の志士の皆さんの多くはできてはいなかったように思います。もしできていたとすれば、”和魂”なんては、あえて言えなかったはずですから。

               

              宣教と支配

              個人的に、宣教の歴史と西欧列強による植民地化は裏腹の関係にあるように思います。というのは、宣教にしても、植民地経営にしても、その地域に外部の人間(それは西洋人のことが多かったことは事実ですが、日本人も見様見真似でアジアの各地や南洋諸島で植民地支配をやってみたのが、大東亜共栄圏というところはあるように思います)が到達できなければ不可能だからです。

               

              もちろん、全ての宣教師が、未開人である現地人を支配してやろうという下卑た野望を持って、宣教地に赴いたわけではないことは十分承知していますし、現地の人々を愛しているがゆえに、宣教を志した人が大半であったとは思っています。とはいえ、多くの場合、現地文化や現地事情に無理解のまま宣教地に入っていった人々も少なくなかったために大きな摩擦を生じた部分があったようにも思うのです。

               

              典型的には、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての一部のカトリック教会の宣教師(特に殉教目的で、日本に渡った一部の狂信的な宣教師)と幕府や当時の豊臣政権との対立(このため、イエズス会では、イエズス会士向けの日本定着のための具体的方法論まで書いた本を出版したほど)、若き日の内村鑑三と宣教師との衝突、日本社会と戦後到達したキリスト教との衝突など、数え上げればきりがありません。

               

              このあたりのことについて、トゥルニエがどういっているかを踏まえ、工藤さんは、次のように書いていました。

               

              トゥルニエは”宣教は支配”というが、”教化”にも精神的暴力という要素が入り込んでいるのかもしれない。

               

              ある面でいうと、宣教という行為自体、既存文化を塗り替えるという側面があるため、”支配”という要素をどうしても含まざるを得ないように思います。人々の行動を明らかに変容させるのだけの強さがあるわけですから、ある面、それは、”支配”の構造が生まれます。この支配構造の発生は、ゲーム理論を用いれば、割と簡単に示すことができます。なぜなら、宣教師など教える側と信徒の教えられる側では、情報が非対称で圧倒的に教える側のほうが力関係で有利な立場にあることができるがゆえに、無意識的に、支配、被支配の関係が生まれえますし、その結果、「”教化”にも精神的暴力という要素が入り込」む裏口が潜んでいるように思うのです。

               

              このあたり、『リーダーシップのダークサイド』というあたりの本が参考になります。良かれと思って善意で始めたことがであっても、時間の経過とともに次第に変容していき、教会をおかしくしていくことは、何もカルトだけでもなく、普通の教会でも当たり前に起こることであります。正教会、カトリックなど、伝統のある教派では、この種のダークサイドが露呈することが、いやというほど起きており、もうボロボロといっていいほどでもあるため、これらに対応する知恵というのかノウハウがあるのに対し、歴史のない教会群では、事が起きて、慌てふためく、事が起きないようにするための方法論を持ち得ていない部分があるようにも思えてなりません。それだけ、宗教者と言っても、人間は不完全なものですし、ずれやすいものなのだと思います。

               

              次回へと続く。

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

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              コメント:支配被支配の関係を生むダークサイドについての本。ぜひ、読まれてほしい。

              2018.08.10 Friday

              工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(16)

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                今日もまた、工藤信夫著『暴力と人間』の第3章のなかから引用しながら、たらたらと考えていることを書いてみたいと思います。

                 

                教会と権力 凡庸さがもたらす悪

                工藤さんは、教会内権力の問題について、次のように書いておられます。そして、その大きな問題の背景として、自発的、創造的な思考力を、勝手に停止することが起きているのではないか、と次のように指摘しておられました。

                 

                ”和を以て尊しとなす”という、日本人の古来からの特質や”親方日の丸”的な傾向への親和性はたまたま民主主義が与えられたと言っても対立を避け、何事についけても自分の意見を言わない、いや、言えない私達がよく考えなければならないメンタリティの問題の一つであるが日本人のこうした体質は、キリスト教会(界)でも強権を帯びた指導者のもとでは、カルト問題にも通じる病理をうみはすまいか、という懸念に導く。

                 ただ私がここでいうカルトとは、画一化、パターン化し、自発的、創造的な思考の停止の意味合いのことである。(『暴力と人間』p.175)

                 

                ちょうど、この引用をしようか、と思っていたところに、東洋経済Onlineの『9割の悪事を「教養がない凡人」が起こすワケ 歴史と哲学が教える「悪の陳腐さ」の恐怖 』という記事をハリストス正教会の横浜の水野司祭がご紹介になっておられた。

                 

                詳しくはこちらのリンク先の内容をお読みいただきたいのですが、ナチスドイツの強制収容所計画を指揮したアイヒマンがあまりに普通の凡庸な人であり、何も考えていない、哲学をするという習慣のない凡人が唯々諾々と熱心にまじめにその計画に取り組んだために、最大の悲劇をより加速したのではないか、ということについての記事です。その延長線上で日本の企業の不祥事をこの記事の著者の方は、考えておられるようです。この記事の中のみだしとして、なぜ日本企業の従業員は「思考停止」してしまうのか? という項目があり、そこはこのような書き出しで始まっています。

                 

                一方、現在の日本に目を向けてみると、三菱自動車、東芝、神戸製鋼所、日産自動車など、わが国を代表する企業によるコンプライアンス違反という「悪」が次々に起こっています。

                (中略)

                というのも、こういったコンプライアンス違反が起きる最も根本的な原因は、企業と従業員の力関係にあると思うからです。

                 

                 

                以上ご覧いただいたように、企業内での権力とそれに伴う力関係がコンプライアンス違反の問題と深くかかわっていることを示しておられます。これは、教会内でも同じことだろうと思います。一般企業の場合、社会に対しての製造物に関するコンプライアンスや納税、内部の社員のパワーハラスメントや不当労働行為ということになりましょうが、教会内の場合は、社会に対しての製造物がほとんどないので(その分一般社会と縁遠い存在ということになる訳ですが)、教会内でコンプライアンスが関係する場合、内部の財産の不正流用や、信徒同士、牧師信徒間にかかわるコンプライアンス項目に当たる部分の不法行為、という問題になるわけです。

                 

                教会の場合、教会内の物事に関するコンプライアンス問題であり、教会が自治的組織であることもあり、明らかな刑法事案や民法事案でない限り、他所からガタガタ言われる筋合いのない集団でもあります。これまで、仮に問題が起きても、内部調整で片付く問題であったこと、あるいは片付けて来たこと、教会構成員がわりと高い倫理観を一定程度維持してきたこともあり、外部を巻き込む騒動という形の問題とはならなかったように思います。あるいは、逆に言うと教会が内部向けの閉鎖性が高い組織としての側面があり、刑法事案のケースでも内々に処理し問題の外部からの介入による処置を忌避してきた部分もあります。

                 

                また、宗教組織の場合、日本でも海外でも、世俗法からの一定の独立が保証されており、縁切り寺とか戦時での脱走兵の庇護や、平時の亡命者や犯罪者の庇護の場所となってきた、という面もあるように思います。とはいえ、その閉鎖性から教会内の犯罪行為、例えば、司祭や信徒による力を背景としたレイプ事案なども揉み消されてきたという側面が、教派、教団を問わず起きてきたようにも思います。以下の映画『スポットライト』はそんな時代の処理をしようとしたカトリック教会を題材に採った物語です

                 

                カトリック教会内の児童虐待(レイプ)事件を扱った映画

                 

                 このような教会内や教会界隈の組織における不法行為の発生とその対応には、企業と同様の力学が影響し、教会組織と信徒の力学が大きく影響してきたように思います。

                 

                組織と不法行為と、組織構成員の取りうる態度

                さて、先に紹介した東洋経済オンラインの記事の続きをもう少し紹介しましょう。不法行為が起きた場合の対応の仕方についてです。

                 

                コンプライアンス違反を犯そうとする組織があったとして、当然ながらそれを問題だと思う内部者はいたはずです。ではこのとき、その内部者は具体的にどのようなアクションがとり得たでしょうか? 具体的には次の2つ、

                 ・オピニオン
                 ・エグジット

                ということになります。

                オピニオンというのは「これはおかしい、やめたほうがいい」と意見する、ということで、エグジットというのは「こんな取り組みには俺はかかわらないよ、やーめた」といって仕事から遠ざかる、あるいは会社を退職するということです。

                この「オピニオンとエグジット」というのは、従業員に限らず、組織がなにかおかしな方向に向かいそうになったときに、その組織の構成員やステークホルダーが取れる抵抗策と考えられます。

                 

                と書いておられます。

                 

                おそらく、教会の場合でも対応方法としては同様なものしかないでしょう。牧師に意見をする、役員会に意見を申し述べることはほとんどの教会でその制度的保障は、宗教法人である以上(そうでなく敢えて任意団体の道をとっておられる教会もあるのは存じておりますし、そういう組織で長らく信仰生活を送ってまいりましたが)、信徒お一人お一人が明確に意識しておられる、しておられないにかかわらず、宗教法人法上は、何らかの透明かつ民主的な運営をすることが求められておりますので、制度としてはこのような意見表明の機会があることになっているはずです。その実態的な運用まで保障されているかどうかは別問題ですが。

                 

                もうひとつの対応方法である、組織からのエグジットですが、教会は、勤務先と比べ、経済的ペナルティ(給与減少とか、職探ししなきゃならん失業者になるとか)が少ないはずで、わりと退出しやすい組織であるはずなのですが、新しい教会としてどこに行ったらよいかわからない、教会ごとに分断されていて牧師ですら、他の教会のことをあまりご存じないので、一般信徒ならなおのことわからない、信じてきたものを裏切るような気持ちになる等々があり、心理的、霊的移籍コストが小さくないということや、特定の教会では、自分のところ以外はすべて間違っている(実際にはちょっとだけ違っているにすぎないことが多いのですが)と信者に自己の信仰の正統性を主張するため、その教会以外の教会にいってみることがしにくいという場合もあり、特定の教会からの教会エグジットというか、特定の教会からの教会エクソダス(出エジプトのように教会から脱出すること)が困難という場合もあるように思います。

                 

                私も教会放浪したことがありましたし、他の教会放浪された方も同じような経験をしておられるようです。案外教会を出るというのは大変な部分があるのです。

                 

                日本では、組織内改革のオプションが存在しない

                さて、東洋経済オンラインの記事では、「日本企業では、この2つの権利がほとんど行使できない」というタイトルのもと、次のような記述がありました。

                 

                たとえば株主の場合であれば、経営陣の経営がおかしいと思えば、株主総会で「おかしいだろ、それ」とオピニオンを出すことができますし、何度オピニオンを出しても経営が改善しないということであれば、株を売るということでエグジットすることができます。

                顧客も同じで、売主のサービスや商品に文句があるのであれば、クレームという形でオピニオンを出しますし、それでも状況が改まらなければ購買を中止するという形でエグジットすることができる。

                したがって、健全な組織の運営にはステークホルダーに対して、この2つの権利を行使してもらう自由を与えたほうがいいわけですが……、日本企業でこれがどうなっているかというと、ほとんど行使できないわけです。なぜ行使できないか? 従業員のその企業への依存度が高すぎるからです。

                株主も顧客もエグジットが容易にできるのは、代替手段があるからです。株主であれば別の会社の株を買う、顧客であれば別の企業からサービスや商品を購入すればいい。

                 

                しかし従業員はそれがなかなかできない。その組織へオピニオンを出して上司や権力者から嫌われたら? ほかのオプションがあれば出世の見込みのない組織などさっさとヤメて別の組織に移ればいいわけですが、シングルキャリアでほかのオプションを持たない人にとって、これは非常にリスキーな選択でしょう。エグジットも同様です。

                要するに、雇用の流動性が低い、パラレルキャリアを持つ人が少ない。結果「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう。これが、日本でコンプライアンス違反という「悪」を是正させる組織内の圧力が弱い、根本的な原因なのです。

                 

                ここで、この記事の著者の方は、”雇用の流動性が低い結果、「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう”という問題を触れていますが、これは日本の教会でも”教会間、教派間の流動性が低い結果、「システムを批判的に思考する」人がいなくなってしまう”ということが起きているのではないでしょうか。いわゆる、信仰の他流試合をしたことがないため、他のキリスト教と比べて、自己を相対化できていない、あるいは、他のキリスト教との共通部分が多数存在することを知らず、自分の教会だけがすべてであると思い込む、いわゆる「井の中の蛙」状態の「特定教会の中の信徒」状態が生まれているように思うのです。

                 

                特に、日本のキリスト教では、牧師や長老など代表的人物、教会内の指導者を批判することは悪であるとされる残念な傾向があるように思います。よく使われるものが、「油注ぎを受けたものを・・」とかいうことですが、牧師就任式で按手をしている教会を多数知っていますが、いまだに、旧約時代の出エジプト記やレビ記に出てくるアロンの子孫の油注ぎをいまだやっている教会ってあるんでしょうか。疑問です。

                 

                油は聖霊だ、とかいう説もありますが、それなら、聖霊注ぎというべきであって、本来ペンテコステの日以降、すべての信者に聖霊が注がれ、与えられたはずですが、その信徒を牧師とかが批判することはOKとするのは、片手落ちではないか、ということを思います。また、レビ記規定には、油注ぎを受けた祭司も間違いをした時の対応がきちんと書かれていて(この辺、さすが人間をよく見ていると思いますが)、その対処規定まで定められているのですが、どうも、現代の祭司である牧師先生の一部には、ご自身を間違いを全くしない存在だ、とでも思っておられる方も少なくないようです。批判されると、すぐ「油注ぎ…」って出てくる方も結構おられるようですから。このあたりも問題を感じます。

                 

                こう考えてみると、日本社会そのものが思考停止するきらいのあるカルト的な側面を社会の内部に内在しているということがあるように思えてなりません。

                 

                 

                宗教の冷凍庫、正倉院状態の日本

                仏教もそんなところがありますが、キリスト教も伝来宗教であるために、独自に発展するのではなく、伝わった時の段階をそのまま、きれいに正しく残している冷凍凍結保存のような状態で、残して言っている部分があるのではないでしょうか。神学にしても、伝えた側はとっくの昔に、伝えたときの神学を捨てているにもかかわらず、伝わった側の日本(アイルランドもそんなところがあるようですが)では、きっちり昔の神学や信仰スタイル、教会の伝承が維持されている部分というのは、神学史を少し勉強すれば、出てくるように思います。

                 

                個人的には、日本はさすが正倉院を生んだ国だけあって、ペルシャから渡来した舶来品を、奈良時代から連綿と維持してきたように、織豊期に伝えられたカトリックの式文を”おらしょ”として潜伏キリシタンの皆さんは維持してきたり、明治期にアメリカやイギリス、フランスから渡来した習俗やしきたり、神学を多少は変形しつつも維持してきた部分が日本のキリスト教にはあったと思います。ある意味、日本のキリスト教は、舶来の伝統芸能を維持するかの如く、維持してきたのかもしれません。

                 

                正倉院御物のペルシャ毛氈 https://blog.goo.ne.jp/tetsu-t0821/e/bce550572a027d90f1d98f24b5f0da61より

                 

                おらしょ(いわゆるクレド、クリード、信仰告白)

                 

                この背景には、一所懸命を良しとする雰囲気とか、転職をあまり良しとしない雰囲気(確かに2−3年で転職したところで、実力も、転職後の給与の改善もほぼ見込めない。どうせするなら、5年10年働いて、ノウハウと人脈を抱えて転職することが賢い)や、離婚の場合は当然のように、そして、配偶者の死別の場合にも、再婚を容認しない日本の文化というか風俗、その背景にある行動パターンの奥にある何かなどが影響しているように思います。

                 

                教会の伝承とは何だっけ?

                最近の『信仰良書を読む会』参加者のレポートの一部からの紹介として、次のような信者さんの書かれた内容が紹介されていました。そして、教会の伝承や教会の伝統って何だろう、ということについて、そのレポートを書かれたことが非常に印象的でした。

                 

                教会では、よく信仰の継承の重要性が語られます。それ故私はそれが大切なことだと受け止めてきました。

                特に神に愛された一人ひとりが集まり、ともに祈り、愛し、許し、仕え合って、新しい命に導かれ自分の人生を自分らしく生きていく、そのための働きが委ねられ、期待されているのが教会だと思っていました。

                ところがその教会が、「伝道・奉仕・献金・集会出席を喜んで行うように」と従順を強いて、信仰、聖霊による一致した行動を勧める。

                そして、そこからはみ出した何かを不信仰だと裁き、切り捨てていくとしたら、とても残念なことです。

                そこで語られる信仰の継承とは果たして何なのか?と考えてしまいました。従順な信者を増やし、組織を存続するという大前提のもとで、信仰を考えることは、恐ろしいことだと思いました。(同書 pp.178−179)

                 

                ここで、このレポータの方が信仰の継承と書いておられることは、どちらかというと、教会の伝承、あるいは教会の伝統、ということだと思うのです。信仰の継承、ということはちょっと違うと思うのです。信仰の継承とすべきことは、「神に愛された一人ひとりが集まり、ともに祈り、愛し、許し、仕え合って、新しい命に導かれ自分の人生を自分らしく生きていく、そのための働きが委ねられ、期待されている」事だと理解されていたようですが、それは、信仰の内実でもなく、キリスト者としての生き方の問題であるように思うのです。信仰の継承として行うべきことは、「神がわれらを憐み、愛しており、神がこの地に来たし、今もいつも世々に不完全な我らとともにおらようとしておられる」ことを自分自身の確信として持つことが信仰であって、この方が継承しようと教会で教えられていたことは、キリスト者の生き方の表面的部分でしかないように失礼ながら思えてしまいます。

                 

                本来的には、信仰として継承すべきこととは、以下の使徒信条(使徒心経)の内容だと思うのです。

                 

                We believe in God, the Father almighty,       
                creator of heaven and earth.
                                 わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
                We believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord,  
                                 また、その独り子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
                who was conceived by the Holy Spirit,        
                                 主は聖霊によって宿り、天に昇られました。
                born of the Virgin Mary,        
                      おとめマリヤから生まれ、
                suffered under Pontius Pilate,       
                       ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
                was crucified, died, and was buried;   
                      十字架につけられ、死んで葬られ、
                He descended to the dead.       
                      よみに降り、
                On the third day he rose again;    
                       三日目に死人のうちからよみがえり、
                He ascended into heaven,   
                     天に昇られました。
                He is seated at the right hand of the Father,
                     そして全能の父である神の右に座しておられます。
                and he will come to judge the living and the dead.
                          そこから主は生きている人と死んだ人とを審くために来られます。
                We believe in the Holy Spirit,
                            また、聖霊を信じます。
                the holy catholic Church,
                            聖なる公会、
                the communion of saints,
                            聖徒の交わり、
                the forgiveness of sins,
                           罪の赦し
                the resurrection of the body,
                          体のよみがえり
                and the life everlasting.
                          永遠の命を信じます。
                Amen.

                 

                本来、教会が継承すべきことは、この信条(別にニカイア信条でもいいとおもっていますが)の文字列そのものではなく、この文字列が指示していることであり、クリスチャンらしい生き方や、ある特定の教会での振る舞いの仕方、より具体的には「伝道・奉仕・献金・集会出席を喜んで行うように」という行為や生き方のパターンではないはずだと思いますが、どうもいくつかの教会では、そういう理解とはなっていないようです。

                 

                大概の教会で、小教理問答とかは毎週やらないにせよ、使徒信条か、ニケア信条か、ニカイア信条に相当するものくらいは毎週声に出して読んでいることが多いはずですが、単に言っているだけに終わっていて、それが信徒の生き方として、あるいは、継承すべき本来的な信仰そのものとして十分理解された上で、定着しているか、と言われたら、どうも甚だ怪しいと言わざるを得ないのではないか、と思います。まぁ、これは日本だけではないですし、先進諸外国筆頭格とされることの多いアメリカ人に聞いても、似たようなものだろうとは思います。

                 

                信仰のコアであるべきコンテンツを忘れ、行為規定が信仰の継承としての継承対象とになっている教会から、その行動のパターンから「はみ出した何かを不信仰だと裁き、切り捨てていく」のだとしたら、その裁きや切り捨てという行為自体が大爆笑の結果、片腹痛いどころか、両腹痛いことであり、全身けいれん、笑いすぎでミーちゃんハーちゃんは呼吸困難になりそうなので、フフンと鼻先であしらいたいなぁ、と思います。まぁ、ミーちゃんハーちゃんもはみ出したので、「不信仰だと裁き、切り捨て」られたので、「あぁ、そうですか。じゃぁ、実家に戻らせてもらいます」よろしく、もともといた教派が袂を分かって出てきたアングリカンに本家還りし、毎週使徒信条やニカイア信条を唱え、どっぷりと式文の世界に浸かり、式文の靈性に生かされながら、今は幸せなキリスト者人生を送っています。

                 

                ところで、このレポーターの方は、「従順な信者を増やし、組織を存続するという大前提のもとで、信仰を考えることは、恐ろしいことだと思いました」と書いておられますが、これはとても大事なことだと思います。「従順な信者を増やし、組織を存続するという大前提」がある組織の場合、「考えること」や哲学的にものを見ることは、大変困るのです。なぜなら、その組織が大事にしている「大前提」を疑い、そして、破壊してしまうからです。ですから、強権的な社会や強権的な組織では、人を考えさせないようにします。人が、真面目に考え始めたら終わりだからです。このため、強権的な社会や組織では、考える人を前提を疑う人たちを圧迫し、潰しにかかり、あるいは追い出しにかかります。困る存在だからです。たいていの場合成功するのですが、人間は弱い葦のような存在ですから。でも、パスカルが言うように、弱いかもしれませんが、考える葦であるように思いますし、そうであることを期待したいと思います。

                 

                 

                パスカルの言葉を引用して終わりたいと思います。

                 

                「pascal human thinking reed」の画像検索結果

                 

                 次回へ続く

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                2018.08.11 Saturday

                不謹慎系替え歌 Diamonds(プリンセス・プリンセス)の替え歌で『バベルの塔』

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                  久しぶりに聖書や教会を題材にした、名曲(迷曲)が生まれたので、即効アップします。

                  徳島の古川さま、ありがとうw

                   

                  プリンセス・プリンセスの名曲 『Diamonds』の替え歌で、『バベルの塔』

                   

                   

                  「バベルの塔 絵画 ブリューゲル」の画像検索結果

                  https://sumapo.com/image/48421.html より

                   

                  原曲はこちら

                   

                  冷たいタールに 素足をひたして
                  見上げるスカイスクレイパー
                  好きな作業服(服)を着てるだけ わるいことしてないよ
                  金のハンドルで、町をたてまくれ
                  楽しいことにくぎづけ
                  設計図じゃわからない 景色がみたい
                  釘がささる瞬間の 胸の鼓動焼きつけろ
                  それは素敵なコレクション もっともっと並べたい
                  眠たくっても 嫌われても 年をとってもやめられない

                   

                  バベルの塔だね Ah Ah いくつかの場面
                  Ah Ah うまくいえないけれど 宝物だよ
                  あの時感じた Ah Ah 予感は本物
                  Ah 今 私を動かしている そんな気持ち

                   

                  いくつもつくって 順番も覚えて
                  くい打ちも 上手くなったけど
                  初めて基礎打つときには いつも震える
                  コンクリの山 埋もれもがいても
                  まだ死ぬわけに行かない
                  欲張りなのは生まれつき 土建屋これから
                  生コンとけて流れ込む 鉄筋たちを閉じ込めろ
                  コインなんかじゃ売れない パイルをくれてもあげない
                  ベルトを締めて (ブル)ドーザまわし 大地を削って 工事するぞ


                  バベルの塔だね Ah Ah いくつかの場面
                  Ah Ah うまくいえないけれど 宝物だよ
                  あの時感じた Ah Ah 予感は本物
                  Ah 今 私を動かしている そんな気持ち

                   

                  なんにもしらない Ah Ah 子供に戻って
                  Ah Ah 建て替えなおしたい夜もかなりあるけど

                  あの時感じた Ah Ah 気持ちは本物
                  Ah 今 私を動かすのは バベルの塔

                   

                   

                   

                  2018.08.11 Saturday

                  マジメ系替え歌 『J』 プリンセスプリンセスのバラード『M』の替え歌

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                    さて、先ほど プリンセスプリンセスの替え歌『バベルの塔』で遊んでたら北海道の大坂様からのリクエストで、同じプリンセスプリンセスの「M」の替え歌で「J」をつくってみようか、と。

                     

                     

                    「Jesus Red Cross」の画像検索結果

                    https://www.etsy.com/listing/223532873/jesus-print-jesus-silhouette-jesus-art より

                     

                     

                    替え歌『J』

                    いつも一緒に いたかった
                    となりで わらってたかった
                    季節はまた 変わるのに
                    心だけ 立ち止まったまま

                     

                    あなたのいない 右側に
                    少しは慣れた つもりでいたのに
                    どうしてこんなに 涙が出るの
                    もう叶わない 想いなら
                    あなたを信じる勇気だけ ほしいよ

                     

                    (You are only in my vison)
                    今でも覚えている あなたのことば
                    墓の向こうに見えた 姿さえも So once again
                    (Leavin' for the heaven with your love)

                     

                    鳥が森へ帰るように
                    自然に消えて ちいさな誇りも
                    はしゃいだあの時の 私も

                     

                    いつも一緒に いたかった
                    となりで わらってたかった
                    季節はまた 変わるのに
                    心だけ 立ち止まったまま

                     

                    出会った時の 日記には
                    はにかんだ思い ただうれしくて
                    こんな日がくると 思わなかった

                    Ah 瞬きもしないで

                    あなたを胸に焼きつけてた 恋しくて

                     

                    (You are only in my vison)
                    あなたの声 聞きたくて
                    捨ててない福音書(ゴスペルズ) Jesusの文字を
                    指でたどってるだけ So once again
                    (Leavin' for the heaven with your love)

                     

                    Ah 夢見て目が覚めた
                    赤い十字架 後姿が
                    エリヤと見えなくなっていく So once again
                    (Leavin' for the heaven with your love)

                     

                    鳥が森へ帰るように
                    自然に消えて ちいさな誇りも
                    いつまでもあなたしか見えない 私も
                     

                     

                     

                    2018.08.11 Saturday

                    マジメ系替え歌『天よ、来い』 ユーミンの『春よ、来い』の替え歌で

                    0

                       

                      Last Judgement (Michelangelo).jpg

                       

                       

                       

                       

                      『天よ、来い』  ユーミンの『春よ、来い』の替え歌で

                      淡き光立つ 後の雨 
                      いとし面影のナジル人
                      あふるうワジのかわらから
                      ひとり ひとり立ち始める

                       

                      それは それは 空を超えて
                      やがて やがて 迎えに来る

                      天よ 遠き天よ 瞼閉じればそこに
                      愛をくれし イエスの 懐かしき声がする

                       

                      イエスに預けし わが魂
                      今も呼び声待ってます
                      どれほど月日が流れても
                      ずっと ずっと待っています

                       

                      それは それは 未来(あす)をこえて
                      いつか いつか きっと届く

                      天よ まだ見ぬ天 迷い立ち止まるとき
                      夢をくれしイエスの まなざしが肩を抱く

                       

                      夢よ浅き夢よ わたしはここにいます
                      イエスを思いながら ひとり歩いています

                       

                      流るる雨のごとく

                      流るるワジのごとく

                       

                      天よ 遠き天よ 瞼閉じればそこに
                      愛をくれしイエスの 懐かしき声がする

                       

                      天よ まだ見ぬ天 迷い立ち止まるとき
                      夢をくれしイエスの まなざしが肩を抱く

                       

                      天よ 遠き天よ 瞼閉じればそこに
                      愛をくれしイエスの 懐かしき声がする

                      天よ まだ見ぬ天…

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