2018.06.01 Friday

2018年5月のアクセス記録

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    皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


    5月は、いろいろ緊急公開系の記事も多かったので、4月の8,520アクセスから一気に急伸、17,591アクセス、一日あたり567.5 アクセスでした。

     

    2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2)
    2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9)
    2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
    2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1)
    2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7)
    2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0)
    2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7)
    2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8)
    2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1)

    2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5)
    2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

    2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8)

    2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5)

    2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3)

     

     

    5月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。

     

    ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた  アクセス数 921 

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 609

    ということで、ロイヤルウェディングで話題になったCurry主教の説教解題した ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた  が、アクセス集中でした。あとは、いつもの現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 、説教黙想シリーズ、緊急開催分からは、ハゥワワースの講演録、あと、忘れてたところから急遽ひょっと出てきたキリストの教会におられた牧師先生が在米中に経験した人種差別的対応に関して記載したブログ記事に触れた このブログの記事が面白い  でした。お書きになられたもの自体が見えなくなってしまっているのが残念です。

     

    また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。

     

     

     

    2018.06.01 Friday

    The Trinity Sundayの説教からの黙想

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      The Trinity Sundayの聖書個所からの黙想

       本日は、今週の日曜日の三位一体主日(Trinity Sunday)礼拝で覚えたことをお話ししたい、と思います。聖書箇所として、
      イザヤ書 6:1-8
      ローマ人への手紙 8:12-17
      ヨハネ 3:1-17

      が読まれ、説教はニコデモについてのお話でした。個人的に励ましを受けたのは、イザヤ書の次の箇所でした。

       

      Then I cried out, "I'm doomed! Everything I say is sinful, and so are the words of everyone around me. Yet I have seen the King,the Lord All-Powerful."
      One of the flaming creatures flew over to me with a burning coal that it had taken from the alter with a pair of metal tongs. It touched my lips with the hot coal and said, "This has touched your lips. Your sins ae forgiven, and you are no longer guilty."

      ちょうど、昨年末のアドベントごろからは、まさに、自分自身をことを振り返り、

      Then I cried out, "I'm doomed! Everything I say is sinful, and so are the words of everyone around me. Yet I have seen the King,the Lord All-Powerful."
      と神に叫んでいる状態でした。そんなこともあって、ブログを書く気にもなれず、また、本を読む気にもなれなかったというのが実情です。しかし、直接、空を飛んでいる被造物が炭火をもって、私のところに来たことはありませんが、イースター前後から体力を回復したのもあるでしょうが、書く気になり始めました。自分自身をイザヤのようなものであるというような大それたことを言うつもりはさらさらありませんが、しかし、今回この場所を読みながら、
      "This has touched your lips. Your sins ae forgiven, and you are no longer guilty."
      という部分が私に迫ってきたことも確かです。神が私の不具合を、醜さを忘れてくださる、キリストのゆえに、ということを思いました。

       

      この日のブルティン(週報)の画像

      http://globalworship.tumblr.com/post/144730433075/trinity-art-india-jyoti-sahi から

       

      説教 夜にイエスを訪れたニコデモ

      説教は、ヨハネによる福音書3章の有名な個所、ニコデモのところからでした。

      まず、ニコデモが夜に訪れた、ということから何が考えられるか、ということで、これまでの聖書註解で語られてきた様々な理解、例えば、ニコデモは、ユダヤ人の律法学者などの同僚を恐れて、イエスのもとを訪れたことを知られたくなかった、見られたくなかった、イエスを訪れることが恥ずかしかった等の理解もあるけれども、今日は少し違う視点から考えてみたい、ということで聖書の中に出てくる夜の記述が取り上げられました。

       

      ユダの裏切りの場面、弟子たちが夜漁に出たものの一匹も取れなかった、などの記述を見ると、夜は、人間の弱さ、生身の人間に向かう時間、失敗した状態、けつまずいて倒れているような時間などを表しているのではないか、あるいは、光がない状態、悩みの中にある状態を示しているではないか、そして、私たちも、日中の状態は元気であっても、夜になると、必ずしもそうでもない自分自身を見るなど、時間によってもその状態に違いがあるのではないだろうか、という指摘の後、闇は、自分の在り方を模索する時間としての闇として存在しているのではないか、ということの指摘がありました。闇というとイースターであり、復活前の生土曜日は、本当の闇の世界だったとの指摘もありました。ただ、なぜ、ニコデモが夜、イエスのところを訪ねたのかの正確なところは、わからないし、聖書はそのことについて、語っていない、ということが指摘されていました。

       

      ニコデモのイエスの訪問の習作 Henry Ossawa Tanner (1899)

      https://www.pinterest.jp/pin/534661786982791559/ から

      そして、その闇の中にいたような悩み、葛藤し、疑問を抱く存在であるニコデモは、光であるイエスのところに行ったということが指摘されました。そして、希望を、光を、取り戻したのかもしれない、という指摘もありました。そのことから、我々は苦しみに合い、闇の中を歩むことがあるけれども、その中であっても、光であるイエスのところに戻ることができるし、イエスのところに希望を見出すことができること、それは新しいいのちを得ることができるのであり、この光であるイエスの元に戻ること、戻れることを覚えた歩みを神がわれわれに望んでおられるのかもしれない。

       

      以上のような説教がありました。

       

      説教からの黙想

      この説教を聞きながら、実際に荒野、闇の中を歩んできたこの数か月間の自分自身の姿が重なってしまいました。日々、闇の中、あるいは荒野の中を歩みながら、毎週日曜日に神のもと、イエスを改めていただく聖餐に預かりながら、この聖餐の時間が、私にとっていかに貴重であったのか、ということが思い起こされました。

       

      そして、ナウエンが、Home ComingとかComing Homeとかいう表現を使って書くこと、それは、闇の中を通らざるを得ない人間が神の前に戻っていくことの必要を示しているのですが、一日ごと、1年ごと、季節ごとにこのような神の前に戻るための闇の時期が必要なのだ、本当にそうだなぁ、と自らの経験を照らしつつ、黙想していました。

       

      闇の中に居た聖書の中の人々

      このような闇を通ったのは、パウロもそうではないかと思うのです。パウロはダマスコ途上で、目が見えなくなり、光である神とで会いました。その後もアラビアで退いていたときも、そうだったように思います。また、エリヤも荒野でカラスにパンを食べさせてもらいながら、ホレブの山に向かう途上で、そのような時期を過ごしたと思います。あるいは、しっかりと鍵をかけた薄暗い部屋の中で、失意に沈んでいたイエスの弟子たちもそのような状況にあったと思います。また、エマオへの下向の途中にあった弟子たちも、霊的にはそのような感じかもしれません。

       

      闇の中に居た私…

      ちょうど、私自身が、かなり長期にわたる闇の時期に入ったのが、アドヴェントの時期でした。ラマで泣き叫ぶ声が聞こえる、と聖書で表されるあの時期から、クリスマスを迎え、人々の気分が楽しげになり、新年やエピファニーを迎えても、一向に自分自身が闇の中にいるかのような状態は改善せず、そのまま、レントの期間に突入しました。レントの期間、東方教会の伝統に倣って(完全に守れたわけではないですが)、レント期間を過ごし、3月に入り、イースターが近づく中で、少し体力の回復を感じ、そして、イースターを機に、モードを少し前向きにしましたが、いきなりフルスロットル、とは参らずに、今もなお、試運転中の部分があります。と言いながら、先週は投稿を何度もしたり、遠方への出張があったりと、結構忙しかったのですが。

       

      ところで、このアドベントからクリスマスも光であるキリストの降誕を待ちわびる時期でもあります。求める時間というよりは、神がおいでになるのを待つ時間だと思います。また、レントも光であるキリストの復活を待ちわびる時期、神が私たちに現れてくださることを待つ期間でもあります。

       

      体験的に学んだレント(大斎)の意味
      特にレントの時期は、大斎(おおものいみ)の時期であり、伝統教派では、以前ほどではないですが、食事制限(食事の節制)をなされる方も少なくありません。そこで、実際に体力も失っておりましたので、東方正教会の伝統に倣い、動物性たんぱくや、チーズ、ヨーグルト類などの制限を含むその食事制限食で過ごしておりました。ちょうど、体重を落とすよう、医師からの勧めもあったので、ある面都合がよかった、という部分もあります。

       

      そのレント期間中で、飢えることを通し、自らが神に対する飢えを抱えた存在であることを、例年よりも深く感じるレントになりました。誰彼となく、食事制限は勧められませんが、今回、その制限食で過ごして、本当によかったとは思いました。自らを闇の中で振り返る機会となったからです。おそらく、来年も、この習慣は続けようかなぁ、と思っています。

       

      ギリシア正教会のレント食(ひよこ豆とトマトとズッキーニと魚のオーブン焼き)
      https://www.pinterest.jp/vettakelepouris/greek-orthodox-lent-foods/

       

      闇から光へ戻ることの重要性
      説教の中で繰り返されていたことですが、仮に我々が闇の中にあっても、失意の中にあっても、すべての希望のもとである、そして、光であるイエスのところに戻ること、戻ることができるということの重要性を思います。レント期間中、実際に身体的にも、精神的にも闇の中に居続けた時期を過ごしました。しかし、この期間中、毎水曜日の聖餐式、毎日曜日の聖餐式でキリストを内にいただくという経験を通して、光に戻り、心のうちに光を受け止めるということを、具体的な聖餐という形を通して、体験することになりました。

       

      その意味で、このレント期間でミーちゃんはーちゃんが学んだことは多かったと思います。文章化できない部分、あえてしていない部分を含め。そんなことを思ったHoly Trinity Sundayを過ごしました。

       

       

       

       

       

      2018.06.04 Monday

      サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (4)

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        これまで、

         

        前々々回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (1)

         

        前々回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)

         

        前回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (3)

         

        とご紹介してきました。

         

        巡礼者の小道からの引用 再び

        今回が、このシリーズの最後になります。まず、前回ご紹介したブログ 巡礼者の小道 の続きのこれら音楽と賛美によるミュージシャンの反省をもう少し引用してみたいと思います。

        ああ、なんというペテン!なんという詐欺!神は礼拝の中で御自身を私たちに与えたいと願っておられるのです。それなのに、私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。

         

        私はミュージシャンです。これまでの30年に渡り、私は自分の教会の賛美チームを率いてきました。しかし今になって思うのです。ああ、過去に戻ることができるならと。

         

        それが叶うのなら、私はこれまで自分のやってきたこと全てを撤回したい。ロックン・ロールの一切合財をステージから取り下ろしたい。ワーシップという名の元に自分がやってきた露骨な感情の吐露を消し去りたい。そして、、(あえてこの言葉を使いますが)あらゆる偶像礼拝を撤回したい。

         

        What a cheat! What a scam! God wants to give us Himself in our worship. We choose to reject this profound gift and instead engage in the sanctified equivalent of “do a little dance, make a little love, get down tonight”.

        I’m a musician. I led my church’s worship team for nearly 30 years. I wish I could take it all back; all the rock and roll from the stage, all the outpouring of raw emotion in the name of worship, all the—do I dare use the word?— idolatry.

         

        Idolatry?

         

        特に気になったのは、「神は礼拝の中で御自身を私たちに与えたいと願っておられるのです。それなのに、私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。」「ワーシップという名の元に自分がやってきた露骨な感情の吐露を消し去りたい。」という部分でした。

         

        神の愛と人間の色恋沙汰の混乱 

        上に引用した部分の中で、特に、「私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。」ということは、結構深刻な影響を持っています。特に、神ご自身を受け止め、神ご自身の臨在とその喜びを示す儀式に代わって、人間世界の喜びが聖書の言葉や敬虔な表現で飾られているとはいえ、人の間の愛が神の愛の代わりに語られ、そして、神の愛と人の間の色恋沙汰との取り換えが起きかねない状態があるとすれば、どうなんだろう、と思ってしまいました。

         

        もちろん、人間の間の色恋沙汰も、大事です。神は、創世記のはじめに、「産めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃっていますから、色恋沙汰がなければ、「産めよ、増えよ、地を満たせ」というようなことは起きません。ご自分の好きな音楽で、歌い踊ることだって、悪いことではありません。ダビデは裸踊りして、ミカルから、文句を言われていますが、神はそう考えておられなかったかもしれません。

        【口語訳聖書】サムエル記 下
         6:14 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。
         6:15 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。
         6:16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。
         6:17 人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。
         6:18 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。
         6:19 そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。
         6:20 ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。
         6:21 ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。
         6:22 わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。
         6:23 こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。

        この記事を見ていると、踊るにせよ、主の主、万軍の主、王の王の主権性がどこにあるか、に依存しているのではないか、と思うのです。つまり、歌うにせよ、踊るにせよ、問題は、そこに神の中心性、神の主権性への人間側からの希求というか、謙遜というか、優先の思いがあるかどうかではないか、と思うのです。ところが、上の文章のように、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」のように、人間の側の都合が最優先になっているとしたら、神への賛美だといいながらも、どこかで人間が中心になっているのではないか、と思うのです。

         

        その辺が問題なのだと思います。

         

        聖餐と聖餐的な何かとの違い

        聖餐は、「神は礼拝の中で御自身を私たちに与え」給うた、ということを具体的に、パンとブドウの実から作ったワインやジュースを受け取ることで示している行為です。つまり、我々がパンを受け取り、そして口にし、我々が、ブドウの実から作ったものを口に含むとき、我々が神が与えようとされた神の御子を受け取り、神の御子を示すパンとブドウの実からつくったものを自分のうちに取り込むことで、我々のうちに神が臨在されることを示す儀式です。その意味で、我々は受け取るだけなのだ、ということを示す儀式であるように思います。

         

        賛美歌を歌うこと、ワーシップソングを歌い踊ることにこの神の御子が与えられたこと、神の接近とその受け取り、そして神を受け止めることと臨在が中心的なテーマとして含まれておらず、「神に仕える私、かっこいい」とか「神のための犠牲となっている、神さまのために苦労している私、ガンガレ〜〜〜〜」「神の愛に感動しているワタシ、なんと敬虔」とか、私の気持ちが中心になっているとしたら、本当に残念だなぁ、と思います。ワーシップに見られるのは、式文(リタジー)の言葉に込められた神の思いの受け止め、というよりは神への個人的感情の吐露であるように思えてなりません。

         

        要するに、問題は、人間側の気持ちが中心なのか、神が一方的に現れること(神の主権性)が中心なのか、ということなのではないか、と思います。

         

        そう思っていると、Facebookでナウエン・ソサエティから流れてきた投稿が気になりました。

         

        重要でありたい、魅力に満ちた存在でありたい、力強い存在でありたい誘惑の存在は、ある意味で、実際の誘惑であり、私たちの人生に付きまとうものだと思うのです。このような誘惑は、非常に強いものです。そして、モバイル社会の中で、上昇志向の流れに乗っていきたいという私たちの欲望と直接的につながっているのです。

         

        このような誘惑は、偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑として、理解することができれば、私たちの真実な自己、その中に神がそっと隠れておられる真実の自己を取り戻すことができるきっかけになると思うのです。もし、私たちが私たちの隣人(ともに歩んでいる人たち)に仕え続ける自分たちの姿を見るなら、他の人々と大して変わらなくても、また、ほとんどの人々から称賛されなくても、権力や能力を持ってなくても、神の隠された愛のうちに子供(養子)としてくださった私たちを神がよく知っておられるのと同様に、私たち自身をよく知ることができるようになるのです。

         

        私たちは、この地上(の支配)に属するものではありません。神のうちにあるものなのです。私たちは、イスラエルの民がエジプトに戻りたがったように、キリストの十字架に従って生きる愚かさを否定し、昔の自分の姿を取り戻そうと、様々な方法で試みを受けると思います。しかし、もし、私たちがイエス・キリストに、本当に追随しようとする度に、いつも、私たちは、試みるものに、「下がれサタン あなたの神だけに仕えよ、と書かれている」とイエスのことばを口にすることができるのではないでしょうか。

        (以上、ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)

         

         

         

        "The temptations of being relevant, spectacular, and powerful are real temptations and stay with us all of our lives. They are strong because they play directly on our desire to join others on the upwardly mobile road.


        But when we are able to recognize these temptations as seductive attempts to cling to the illusions of the false self, they can become instead invitations to claim our true self, which is hidden in God alone. When we find ourselves able to continue to serve our fellow human beings even when our lives remain the same, even when few people offer us praise, and even when we have little or no power, we come to know ourselves as God knows us, as sons and daughters hidden in God's love. 

        We do not belong to the world. We belong to God. We always will be tempted in one way or another to reclaim the old self, to return to Egypt, and to reject the foolish way of the cross. But we become true followers of Jesus Christ each time we take his words on our lips and say to the tempter, 'Be off, Satan...you must worship the Lord your God and serve him alone.'" [THE SELFLESS WAY OF CHRIST]

         

        www.henrinouwen.org

         

        いやぁ、この文章を読みながら、本当に、主の祈りの言葉を思わずにはいられませんでした。

         

         And lead us not into temptation, but deliver us from evil.“

         

        我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

         

        ということを思います。

         

         

        上に紹介したナウエンの文章にも表れていますが、教会の中でのワーシップソングを歌うこと、賛美チームのリーダーになることや、教会の中で重要なメンバーとして認められることが、「重要でありたい、魅力に満ちた存在でありたい、力強い存在でありたい」ということと直結しているなら、「偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑」と直結しているのかもしれません。それはかなり危険なことのように思います。そして、そのために力の限りワーシップソングをシャウトしたとしても、そこに神はおられないのかもしれません。

         

        そのことを、エリヤは以下で引用した記述の場面で、経験したのだと思います。

         

        【口語訳聖書】 列王上
         19:8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
         19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
         19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
         19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
         19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
         19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
         19:14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。

        イエスと変貌山で出会ったように見えた、とされるエリヤですら、この部分を読む限り、「偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑」からは無縁ではいられなかった様子が見て取れます。そして、ワーシップソングのシャウト等よりもはるかに大規模な出来事、台風や地震、火災といった事象の中にも神はおられず、声なき声の中にこそ、神のご臨在があったとされていることは、きわめて印象的なことではないかなぁ、と思います。

         

        讃美歌の根源としての祈祷文(Liturgy)

        ミーちゃんはーちゃんは、「賛美歌を教会から排除すべき」だとか、「賛美歌がけしからん」とかいうつもりはありません。問題は、賛美歌が聖餐に代わり、神の臨在を受け止めることに代わって、自己の主張が中心になること、神の臨在に代わって、自己が神の王座を占めていることに違和感があるのです。

         

        ところで、アメリカ経由で日本に伝わった聖歌にしても、賛美歌にしても、ワーシップソングにしても、賛美歌研究家、礼拝様式研究家の中では、ある程度知られていることだとは思いますが、実は、讃美歌というのは、聖書の一部、式文(聖書の言葉を背景に持つ式文)、あるいは、祈祷文、集祷、特別祈祷の文章に曲というか読み方の節をつけたものが多いように思います。

         

        英文から日本語に翻訳した歌詞にしてしまった瞬間に、このあたりの本来式文や祈祷文であったことや、歌いやすさのため、ということがあるにせよ、その式文の内容、式文が与えていた聖書と直結しているその雰囲気が消えてしまっている部分がかなりみられ、実際に現代の日本の讃美歌では、かなり式文や集祷からの乖離が影響しているかのような事例が多くみられるようにおもいます。その点が、個人的には残念で仕方がありません。

         

        古い讃美歌の譜面 ネウマ譜

         

        神の子羊Lamb of God または Agnus Deiの讃美歌から

        現在頻繁に通っているアングリカンの教会では、


        Lamb of god,you take away the sins of the world: 
        have mercy on us.
        Lamb of god,you take away the sins of the world: 
        have mercy on us.
        Lamb of god,you take away the sins of the world: 
        grant us peace.

        ということがリタジー(式文)にありますが、この表現が、聖歌、賛美歌に発展していっ多様に思うのです。その変化の過程をちょっと追ってみたいと思います。同じ、神の子羊を歌った歌で少したどっていきましょう。


        グレゴリアンチャントによるAgnus Dei(上の英語のLamb of god…という文章のラテン語版)

         

        バッハによるAgnus Dei(順序は多少入れ替わっているけど、上の文章のラテン語版)

         

        モーツァルトによるAgnus Dei(上の英語のLamb of god…という文章のラテン語版)ーによるAgnus Dei

         

        ビゼー作曲Agnus Dei

         

        フォーレのAgnus Dei

         

        バーバ(散髪屋ではない)によるAgnus Dei

         

        LiberaによるAgnus Dei

         

        テゼのAgnus Dei(聖餐の様子が見えるのが貴重)

         

        コルシカの地方風のAgnus Dei


         

        モダンなAgnus Dei(かなり、式文通り)

         

        現代Pop風ワーシップソングでのAgnus Dei(式文からの乖離が激しい)

         

        現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) もはや式文とは言えない…

         

         

        現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) 2

         

        現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) 2 のご本家(随分と式文から外れが…)

         

        神の子羊でYoutubeを検索したら、あるところでご一緒することの多い中野先生が出ていたので、ついでにご紹介

         

        これらの讃美歌は、全部、神の子羊ですが、後代になってくると、Liturgy(式文)からの乖離が激しくなり、日本のになると、ほとんど式文の一部だったことを想定することすら困難なものになります。ある面で、本当にこれが生産と言われたり、イエスのことを思い起こすか、と言われれば、どうなんでしょう、と言わざるを得ないように思います。

         

        Hosana Hosana Hosana in the Highestの式文の変容

        イエスがエルサレムに入場したとき、市民が叫んだとされる言葉は、

         

        いと高きところにおられる方にホサナ

        Blessed is he who comes in the name of the Lord, Hosana in the Highest

         

        でしたが、この文章が、聖書の中にもありますし、今言っているアングリカンのチャペルでの式文(Liturgy)の中にも含まれますが、それの中身を変えてしまったものが同じ賛美のことばを使いながら、案外その内実を失ってしまっている讃美歌の事例は、案外多いように思われてなりません。残念なことだなぁ、と思います。ちょうど説教が聖餐の座を簒奪したように、讃美歌は、式文の一部であったことを忘れ、なんでも自分の気持ちを歌えばいいものに成り下がってしまっている部分もないわけではないよう思います。

         

        グレゴリアンチャントによるホサナ

         

        リタジー通りのホサナ(カトリックの聖歌)

         

        一部は式文(Liturgy)通りだけれども、乖離がかなりある

         

         

        かなりの部分は式文(Liturgy)通りだけれども、乖離が少しある

         

        一部乖離が見られるHosana

         

        チョッぴりレゲエ風のHosana(乖離が激しい)

         

        最後に、米国福音ルーテル派の式文そのままを音楽に乗せたチャント(讃美歌の原型)

         

         

        一番最後の米国福音ルーテル派のHosanaの動画にお示ししたように、もともとの讃美歌の歌詞の内容自体は、もともとは式文そのものだったはずですから、長年の検証を経て式文として成立したものに沿っている、といえると思います。その意味で、もともと式文だったのですから、サクラメンタルなものであり、信仰者を神に触れさせるという側面を讃美歌は、持っていたものでしたし、今もなお持っていると思います。だからこそ、讃美歌はやめるべきだ、とは思わないのです。

         

        サクラメンタルとユーカリスティックの混同

        先ほど述べましたように、もちろん、現代のワーシップソングにそのようなサクラメンタルな何かが全く含まれていない、と主張するつもりもありませんし、ワーシップソングはくだらない、と一刀両断のもとに切り捨てるつもりもありません。しかし、ワーシップソングがサクラメンタルなもので満ち満ちているのではなく、時に、個人の感情でまみれ、そして、ワーシップソングの作者たちがいつの間にか、サクラメンタルな何かを追い出し、神への賛美に変わって、個人のカタルシスの感情を呼び起こすような表現で讃美歌満たすとしたら、あるいは、讃美歌を歌う側の会衆や、讃美歌を歌っている人々の気持ちが讃美歌に乗せられていく、としたらどうなんでしょう。

         

        式文は、サクラメントである聖餐に導くための仕掛けというか、象徴というか、構造そのものだと思うのです。その意味でもサクラメンタルだといえようか、と思います。式文はサクラメントではなく、あくまでサクラメンタルな存在です。それは象徴の構造であり、象徴の論理であり、象徴の言葉ですから、キリストのからだという実態はないわけです。キリストを覚え、キリストに倣って(イミタチオ・クリステ)生きるものにしていくためのものであり、どこぞの人間に倣うためのものではないように思うのです。それが担保されている限り、讃美歌でしょう。個人的には、以下のような、フランシスコ会の年老いた修道士の賛美は、私には無理ですが。たぶん、私は、ヘビメタの皆さんにこのチェザーレ神父のように私が遣わされていないからだろう、と思いますけど。

         

        ファザー チェザーレ・ボニッツィ(シーザー・ボニッツィー)ヘビメタのロックについてのインタビュー

         

         

        メタルロッカーを縦乗りさせるファザー チェザーレ・ボニッツィ

         

         

        讃美歌やワーシップソングを歌うことは、サクラメンタルである可能性を含むけれども、ユーカリストそのものではない、ということは重要です。説教もサクラメンタルである可能性を含むけど、ユーカリストそのものでもない。そこの理解を忘れ、サクラメンタルな構造を理解できなくなってしまっている大半のプロテスタント教会は、本来のサクラメントの構造を忘れさせ、神秘に出会う構造を残念ながら、かなりの部分捨ててしまっておられるように思います。それを、説教や讃美歌を通して、必死に何とかその神秘を伝えようとしておられるようにしておられるとしか思えません。

         

        もちろん、そうではないプロテスタント教会も多数ありますが、サクラメントであるユーカリスト(聖餐)を忘れ、この両者の代替物ですらなく、その周辺に過ぎないサクラメンタルな(聖餐に替わる)何か、説教や讃美歌(あるいはリタジー)とがサクラメンタルなものであるというごくわずかの部分にかけていることを頼り、説教やリタジーがごくわずかに、ユーカリスティックな何かであるという非常に弱いリンクから、サクラメントに置き換えた、むしろ、サクラメントを乗っ取ったという残念な現象が起きている教会が多いのではないかなぁ、とこの連載を通じて思ってしまいました。

         

        まとめ

        結局、もし礼拝の時間を何かのもので、埋め尽くそうとしているがゆえに、自分たちのことばによる説教とか讃美歌でで礼拝の時間で埋め尽くそうとしている、聖書が忘れられ、サクラメントが忘れ去られているのだとすれば、どうなんでしょう。

         

        そして、その結果として、サクラメントである聖餐に変わる説教中に眠くなったり、本来、サクラメントである聖餐が占めるべき部分が、自分たちの感情や感性に訴える音楽や感情を吐露する言葉や、それにふさわしいメロディ、リズムで満たそう、としたりしているのだとすれば、本当にどうなんだろう。西洋から伝わってきた教会のスタイルとしては、そのようなスタイルであったのかもしれないけれども、その意味を私たちはわかってやっているのかなぁ、と思ってしまいました。

         

        だとすれば、先日のハゥワワースが作った言葉を使えば、日本におけるキリスト教の制度化、別の表現を使えば、日本でのキリスト教の土着化、あるいは、日本の文化の中での聖書理解の定着、日本におけるキリスト者の生の文脈化をきちんと図るという意味では、教会における方法論や表面的なスタイルの表面的な移入、ものまねを過去150年続けてきたかもしれないという反省に立ち、礼拝、説教、賛美のそれぞれが何のためにあるのか、という本来の意味を考えたうえでの教会の礼拝プログラムの見直しに着手し、これから150年かけて日本におけるキリスト教というよりは、キリスト者としての生き方に資するための制度化、土着化、文脈化ということを考えたほうがいいのかもしれないなぁ、と思いました。

         

        本日の投稿は、讃美歌大会になっちゃいました。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        2018.06.07 Thursday

        ペンテコステ第2主日のブルティンからの黙想 安息日をめぐる黙想

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          先日の説教は、マルコ2章23−3章6節までの安息をめぐるイエスと律法学者の対話と、病者の回復についての記事からでした。

           

          世にも奇妙な世界の規則たち

          最初は、世界にいろいろある奇妙なルールがあげられ、いろいろな奇妙なルールの話をまず暴騰してました。

           

          イギリスでは、鮭を変な持ち方をしてはいけない(1986年制定の規則、というツッコミつき)

          スイスでは、裸でハイキングしてはならない

          ポルトガルでは、海の中で排尿してはならない(誰がどう確認するんだ、というツッコミつき)

           

          後、記憶に残ったのは、

            説教者たるもの説教壇で笑ってはいけない

          といったものでした。

           

          この珍妙なルールのソースは、おそらく、このリンク http://www.thisisinsider.com/14-strange-laws-from-around-the-world-2016-7 とそのほかから、取っているのだろう、とは思いますが。

           

          現代イスラエルでの安息日の出来事と安息日の意味

          現代のイスラエルでも、保守派(ウルトラ保守派)の皆さんは、安息日に冷蔵庫を開けたり、エレベータを使うと、電気を使うことになるので、仕事をしたことになるので、これらのものを使わない人々がいるといったこと(これは実話であるらしいようです。お友達のレビ先生(日本人)の方から聞いた話だと、日本人のような外国人なら、安息日のルール外だとおもったのか、レビ先生のアパートの隣の厳格派のユダヤ人のご夫妻が、外国人である日本人に金曜日の日没(金曜日の日没から、安息日が始まるから)以降に、冷蔵庫の電球を外してくれ、と頼みに来たことがあったらしいです)といった、ユダヤ社会の習慣が取り上げられた後、ユダヤ社会では、律法、十戒で知られる、十のことばにある、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の解説について、司祭が、説教の中で、取り上げていました。

           

          https://www.pinterest.jp/jmoolinger257/s-sabbath/ から

           

          そして、当時の律法学者たちが、律法が何のために、誰のためにあるのかを忘れ、形式化したことをイエス様が批判されたことを述べた後、安息をとるのは、何のためか、という話になり、安息は、神との関係と深め、神との関係に戻るための安息日ではないか、それは、ある意味で、私たちが神を賛美し、神とともに生きる、という本来の人間の役割に戻るということに着目すべきであろう、というのが、ペンテコステ第2主日の説教の概要でした。

           

          奴隷の皆さんにも及んだ安息日

          奴隷であったことを思う安息日

          そして、安息日は、ユダヤ人だけに及んだのではなく、社会全体に及び、社会が一つとなって休んだことが、申命記5章12−15節までの記述から、説明され、すべての人が神との関係に戻ることを神が求めておられ、誰かの犠牲の上に安息が守られる、ということではなかったことも触れられました。これは、本当に大事な視点だ、と思いました。そして、ユダヤの民が、かつて奴隷であったことを思い起こすように指示されていることも、本当に重要な側面であったと思います。

           

          それは、現代の私たちにとって、私たちは、様々なもの、欲望だったり、自分自身の自信、社会的制度だったり、あるいは人の目するのだと思うのですが、それらの奴隷であったことを思い起こす必要性ともつながっている、といったことを、司祭の説教を聞きながら思い起こしていました。

           

          【口語訳聖書】 申命記  5章 12−15節

          安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。 

           

          ともすれば、自分が神との喜びに満ちた安息に入るために、時に他者に、特に社会的に弱い立場の人たちに、犠牲を強いてしまうというのが、人間の弱さの結果ではありますが、そのことの現代的な意味を少し考えていました。

           

          そういえば、この説教を聞きながら、神との安息の大切さ、安息日を守ることの大切さ、を思い出していました。そういえば、いのちのことば社から最近翻訳が出た修養する生活をお書きになられた、スーザン・フィリップス先生の2年前の講演 2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)  でも、そのことが触れられていました。

           

          それと同時に、今回の聖書箇所で気になったのは、

           

          第2コリント4:7−11 
          We are like clay jars in which this treasure is stored. The real power come from God and not from us. We often suffer, but we are never crushed. Even when we don't know what to do, we never give up. In times of trouble, God is with us, and when we are knocked down, we get up again, We face death everyday because of Jesus. Our bodies show what his death was like, so that his life can also be seen in us.

           

          日本語の口語訳聖書では、

           

          コリントの信徒への手紙二 4章 7-11節
          ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 
          虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 

           

          どういう関係か、日本語で読むと、自分たちが形状記憶合金のような存在や、はたまたスーパーマンであるべき、という勧めのように聞こえてしまいそうな文章ですが、英語のこのバージョンでの翻訳で同じ部分を読んでみると、人間がスーパーマンのような存在に聞こえるようなところに目が行くのではなく、神がこの粘土でできた体に内在される、吹き込まれるがゆえに、困難な時にも、そこに神の臨在がある、という形に聞こえるから不思議だなぁ、と思いました。

           

          神の霊を土の器に入れていただいている存在として
          まさしく、創造の初め、神が神の霊(聖霊)を人に吹き込まれるまでは、人間は、粘土の塊、粘土の入れ物のような存在だったのだということを思い起こしていました。それは、ミーちゃんはーちゃんの数か月前の姿でもあったわけです。安息の大切さを知りながら、神の安息に憩っていなかった、自分自身の姿を思い起こすことになりました。神の息吹を吹き込まれていることを覚える日、それが安息日なのだろうなぁ、と思いました。

           

           

           

          死海文書が入っていた、粘土製のツボ https://www.awesomestories.com/asset/view/Dead-Sea-Scrolls-Clay-Jars//1 から

           

           

           

           

          ヒゼキア時代の粘土製のツボ https://lukechandler.wordpress.com/2015/06/27/biblical-artifacts-in-the-israel-museum/ から

           

           

          Real help in times of trouble.

           

          そして、この部分を読みながら、響いてきたように思い起こされたのは、祈祷書の次のような文章です。

           

           

          Real help in times of trouble.

           

          レントの時、このリタジー(式文、ないし祈祷文)をよみながら、本当にそうだろうか、と思い悩みつつも、これを皆さんと一緒に読むときに、そうなんだろうなぁ、と思っていました。そして、苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態にある時には、この言葉を本当に心からいえないながら、このことを本当に信じているのだろうか、ということを自分自身に問う毎日でした。

           

           

          しかし、今、ほぼその状態から、なぜか抜け出した毎日を過ごす中で、確かにわが神は、

           

           

           

          Real help in times of trouble.

           

          だった、ということができるなぁ、と思い起こします。とはいえ、また、いつ何時、またあの同じ苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態に陥らないとは言えないミーちゃんはーちゃんがいます。しかし、そうであっても、神のもとに戻るとき、神の安息日を覚え、神との安息の時間をとるとき、そこに、自分自身が、

           

          Real help in times of trouble.

           

          といいうる希望があるなぁ、と思うのです。そう、神は絶望の神ではなく、希望の神であることを、身を持って体験したような気がするということを再確認する黙想に、この日の説教から導かれました。

           

           

          この黙想を与えたもうた、

           

            主に感謝、主に栄光、Thanks be to God, Glory to you O Lord.

           

          と思っております。 

           

           

           

           

           

           

          2018.06.11 Monday

          クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1

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            本日は、教会にいるn世(nは、2以上の自然数、すなわち2世以降)の若者たちの教会の皆さんへのお願い、というか、悲痛な叫びシリーズを書いてみたい、とおもいます。この連載は、神戸の某青谷というところで開催されている通称「事例研」の中から、出てきた話題である。そこの主催者のK先生(医者なので、先生扱い)からミーちゃんはーちゃんに大命降下があったので、書くことにしました。ある事例研で、若い信者さんのお子さんのかなりかわいそうな話が話題に上ったことが発端となっています。

             

            このシリーズは、このブログの常に上位を占める、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 の拡張版だ、といってもよいと思います。その記念すべきかどうかはよくはわからないのですが、第1回目、「勝手に期待しないで・・・」について、書いてみたい、と思います。

             

            時代の最先端を行く教会

            現在の教会は、危機的な状態である。どのくらい危機的な状態かと言うと、限界集落(構成人口のかなりの部分が65歳以上の方が占めていて、コミュニティとしての基礎的活動が困難な地域における集落のこと、詳しくはこちら)を抱える市町村、あるいは、議会が機能しなくなるのではないか、と危惧する基礎的自治体、あるいは、半ばまじめに、自治体消滅が危惧されるほどの危機なのではないか、と思うのです。まさに、「やばいよぉ、やばいよぉ」と出川哲郎氏のようにいわないといけない状態ではないか、と思います。

             

             

            子供たちが「やばいよ、やばいよ」をマネされている出川哲郎さん

             

            急速な高齢化におびえる自治体…

            ところで、刺抜き地蔵があり、お年寄りの原宿『巣鴨』を抱える豊島区長なんか、もう半ば本気で、生き残り対策を考えておられるらしいです。まだ、そこまで、深刻ではないはずなのですが…

             

            危機感を覚えている豊島区に関するニュースクリップ(埼玉県秩父市は、姥捨て自治体にされる模様・・・MJSK?)

             

            お年寄りの原宿 巣鴨のアイドル(ゆるきゃら) すがもん http://sugamon.jp/?page_id=14 より

             

             

            厚生労働省の人口統計の推移をグラフ化した動画

             

            このような人口変化の状態は、祈ろうが何しようがやがて、やってくる現実ではないかと思うのです。おそらく多くの教会の人口ピラミッドは、現在の2018年現在で、2030年の人口ピラミッドと同じような形をしている教会が多いのではないか、と思うのです。なぜかというと、教会で人口が急増した時期である1950年代とか1960年代に、教会に来はじめた皆さんが、教会に参加し始めたのが、これらの皆様方が、お若かった高校生、大学生(15歳から20歳くらい)のころであったからです。つまり、現在の人口ピラミッド構造がそのまま、15歳から20歳先にあると思えばよいのです。その意味で、教会の人口構成は、日本の15年から20年くらい先を行っている時代の最先端を切っている状態なのではないか、と思うのです。このような状態になっていることが多いのが、社会的人口移動の結果、若者がいなくなってそうなっている過疎地と、教会に存続している高齢者が、結果として多くなっているような教会なのではないか、と思うのです。

             

            過疎地の教会なら、人口構造の先行分20年先に加え、人口減少、過疎化効果で10年から20年先への移動効果もあり、結果として、全国の人口ピラミッドの30年から40年くらい先にいっているかもしれないなぁ、と思ったりもするのです。こうなると、まさに、時代の最先端が現れていると思われるのが、(過疎地の)教会なのではないか、と思うのです。時代の最先端を行っているから、「かっこいい」とかと、気取っていっている場合では、とてもないのではないか、と思うのです。

             

             

            東海道新幹線に乗っていると「時代の最先端を行く雑誌として」売り子のお姉さんがたから紹介される雑誌「Wedge

            https://www.amazon.co.jp/Wedge-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B8-2017%E5%B9%B4-9%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C-ebook/dp/B074TF6RD9 から

             

            クリスチャンn世代に美田どころか、不良債権を残す教会って…

            しかし、この雑誌Wedgeの2017年9月号の特集ではなですけれども、どこぞのキリスト教雑誌で、「教会漂流に歯止めを」、「捨てられる教会」、「対策とらない宗教法人、ツケを払う次世代信徒」とかって特集しないかしらん、と思ったりもしたくなります。

             

            教会には、先の動画で紹介した、豊島区長のように「埼玉県秩父市に高齢者は移住してもらおう」(ありていに言えば、埼玉県秩父市には、悪いけれども、そして、秩父市には大変失礼な話であるようにはおもうのですがが、豊島区にとっての姥捨て山になってもらおう」)というような計画を考えてくれる教団議長や、教団本部は残念ながらおられないように思うのです。

             

            その結果、現場において起きそうなのは、「土地漂流」ならぬ「教会漂流」ではないか、とも思ったりもするのですし、さらに、その結果として「(ごみ同然に)捨てられた教会(これは地方部ではすでに起きていると思います)」の大量発生ではないか、と思いますし、そこで不良債権化した教会についての「ツケを払わされるクリスチャンn世(ただし、nは2以上の自然数)の量産」ではないか、と思うのです。

             

            ご高齢者のクリスチャンの方からすれば、クリスチャンの次世代、次々世代に伝道の拠点としての教会という資源と資産あるいは、優良資本という美田をのこされたおつもりかもしれませんが、それは、クリスチャン次世代、次々世代にとっては、メンテナンスのための経費負担を自分たちが引き受けねばならない、不良債権(会計学でいう貸方勘定にある債権・他人資本)になっているように思うのは、私だけなんでしょうか。このあたり、イエス様は、邸宅を建てるときにきちんと計算しないいるでしょうか、とおっしゃっているように思うのですが…次の聖書の言葉を、今の日本の教会はどう受け止めるのでしょうか。

             

             

            【口語訳聖書】ルカによる福音書

             14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
             14:29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
             14:30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。

             

            人々から、「あの人たちを教会を建てかけたが、仕上げができなかった」残念な人々であった、と言われないことを、個人的には願っています。

             

             

            次回へと続く…

             

             

             

             

             

             

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            株式会社ウェッジ
            ---
            (2017-08-19)
            コメント:いやぁ、びっくりしましたなぁ。

            2018.06.13 Wednesday

            クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2

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              前回のあらすじ)))

               

              高齢化で、時代の超最先端を行く教会になっており、このままいくと、捨てられる教会が出てきかねないこと、捨てられる教会になったら、それは何かを生み出すための資産ではなく、片付けや処理が必要な不良債権となること、そして、教会を建て始めたものの、建てることができなかった日本の教会となりかねないことをご紹介いたしました。

               

              それで、今日は、続編です。

               

              教会のリバイバルを求めることは悪くないかも
              これを防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が大量に入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになることが多いかもしれません。もちろん、このようなことを教会として、神に祈りもとめることは、悪いことではないだろう、とは思います。

               

              とはいえ、教会の不良債権化(維持するだけで資金が減少していくような教会の状態)を防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が若かりし頃に大量の若者の皆さんが入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになりやすいのではないか、と愚考します。

               

              私淑しているドクター(外科医だから)と呼ばれた、ロイドジョンズ先輩の「リバイバル」という本には、リバイバルが起きる前には、多くの皆さんの熱心な祈りがあったと書いてあったし、そのことは否定するつもりはありません。元きよめ派に分類可能な一キリスト者集団にいた一信徒として。

               

               

              ロイドジョンズ先輩 https://www.youtube.com/watch?v=2w1NyU-_bbU から

               

              ロイドジョンズ先輩の説教音源(祈りの力について) Wales訛りが素敵

               

              本当に、現在多くの日本の教会がしなければいけないのは、神の哀れみを求め、祈ることではないか、とも思うのです。そこで、アングリカンのチャペルに寄留させてもらっているものとしては祈りたいと思います。

               

              Lord have mercy,
              Christ have mercy,
              Lord have mercy,
              (Silence)
              Hear our prayer.

               

               

              Lord have mercy というワーシップソング

               

               

              教会が若者で満ち満ちていたころ(1950年代の教会)
              教会が、昔若者で満ち溢れたころに回帰しようとすると、どうしても、勢い教会員(特に高齢者)の目は、数少ない青年、青少年、30代以下に目を向けられることになってしまうように思います。

               

              そして、「自分たちが若いころは、若い人たちで教会がいっぱいだった・・・・」と目を半開きにし、涙で潤ませながら、語るのに若者は、喜んでか、いやいやながらかはよくわかりませんが(たいていの場合、いやいやだと思います。それを口に出せないほど、彼らは品が良いのです…たぶん)、ご高齢の信徒の皆様の昔話に拝聴するかのような状況に教会の数少ない若者は陥ることになりやすいのではないでしょうか。

               

              さらに、「自分たちが若いころには、友達を教会に誘ったら、みんなすぐ来たものだった・・・」と武勇伝が始まることになって、こうなるともう、昔話がかなり長い間、続くように思うのですが…。昔話で終われば、それはそれで麗しい情景ではなかろうか、とは存じますが、教会によっては、ご高齢の信徒さんから、「今の君たちは…」となったりすることは予想される教会は皆無でしょうか。「今の君たちは、自分たちに比べ・・・・」というご高齢の信徒さんから、若者に向けてのお言葉が、予想されない教会の信徒の皆様は、本当に幸せな教会におられる、といってよいだろう思います。

              昔、教会が若者で満ち満ちていたころ、現在はすでにご高齢になっておられる信徒の皆さん方も、確かに熱心に伝道に励まれたことでしょう。そして、教会は満ち満ちていたことでしょう。その中には、数々の武勇伝をお持ちのご高齢の方もいらっしゃるでしょう。

               

              ご存知、オリエンタルラジオの武勇伝

               

              そして、「この教会を立派にしたのは、私だ・・・」とオリラジの中田あっちゃんよろしくおっしゃる信徒の方が出てくる教会もないわけではないように思います。こうなると、聞いている若者の側は、オリラジの藤森君よろしく「あっちゃん、かっこいぃ〜〜〜」ではなく、「じぃちゃん、カッコうぃい〜〜〜〜」、「ばぁちゃん、カッコうぃい〜〜〜」とチャラ男キャラよろしく、お追従するのが、おそらく精いっぱいでしょう。

               

              冗談はさておき。

               

              なぜ空しいかというと、お話になっておられる方が、若く美しかったころの思い出に浸るような昔話をしたところで、今の教会が直面している現実には何の解決にもならない、と思うからです。そして、その当時の伝道にまつわる環境と、現在、2018年の伝道環境は、果たして完全に同じと言えるでしょうか?
              個人的には、かなり違うのではないか、と思うのです。このあたりについて、昭和30年代の文化について、次回ご紹介していきたい、と思います。

               

               

               

               

              教会の変化をめぐる空しさの中で…
              ところで、現在、ご高齢となられた皆さんの昔話からも学ぶことがあるように思うのです。というのは、現在の教会の姿は、昔最先端だった時代の名残であるということを学ぶことができるのではないでしょうか。最先端であったものも、いずれは、古び、その存在はかすんでいくことが学べるのではないか、といってもよいように思うのです。

               

              昭和20年代後半から30年代に、いわゆるミッション系の大学、女子大学、女子短大は、時代の最先端でした。いわゆる○○学院大学、○○女学院、○○女学院短大、これらは、時代の最先端であったわけです。ちょうど、昔のNHKの朝ドラの「花子とアン」が描き出したように。

               

              NHK 朝の連続ドラマ 花子とアン

               

              その意味で、考えてみれば、今の教会の姿は、結果として、昔の最先端だ、と思っていたものが、時代を経過していくうちに古くなり、そして、そのまま、その形態が保持された結果となっているように思うのです。こないだ、日本大学の悪質タックル事件でその相手方になった関西学院大学(くわんせい がくいん だいがく)はアメリカ型メソディスト系のミッションスクールですが(校是は、Mastery for Service ラテン語でないあたりがアメリカン)、メソディスト系教会も、ウェスレー兄弟が当時の英国国教会(The Church of England)内の運動として始めたころは、最先端だと思って「新しいメソッドなんだ」といいまくったので、つけられたあだ名がメソディストだった、と記憶しています。このあたりは、藤本満先生がご翻訳になられた『はじめてのウェスレー』をお読みいただければ、と思います。野呂先生の名著よりは、格段に読みやすいと思います。

               

              その意味で、教会は、この2000年間、変化し続けてきました。新しい、と言われるものが、大変たくさん出てきました。そして、いつの間にか古びていく、という実に空しさを感じざるを得ない、歴史的発展をたどってきたようにも思います。このあたりの発展の歴史をお考えになりたければ、藤本満先生の『歴史』という本をお読みくだされば、と思います。宗教改革以降の、プロテスタント教会の歴史的展開の入門書として大変名著だと思います。

               

              しかし、このように、歴史を振り返るとき、ある種、実に空しい時間だけがただ流れているようにお感じになるかもしれません。

               

              確かに、空しい時間が過ぎていくのは、実際に存在しうる事ではないか、とおもいます。聖書の中には、そのことについて、次のように書かれているのではないでしょうか。

               

              【口語訳聖書】伝道者の書(コヘレトの書)
               1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
               1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
               1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
               1:5 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
               1:6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
               1:7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
               1:8 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
               1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
               1:10 「見よ、これは新しいものだ」と
                 言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
               1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

               

               

              評価:
              D.M. ロイドジョンズ
              いのちのことば社
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              (2004-10)
              コメント:なかなかよろしいか、と思います。

              評価:
              W.J. エイブラハム
              教文館
              ¥ 2,052
              (2013-07)
              コメント:このシリーズは手軽に読めて、非常によろしい。藤本先生の翻訳も読みやすいです。

              評価:
              価格: ¥ 2,592
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:プロテスたんの発展の概観をする上では極めて有益な歴史神学入門書

              2018.06.15 Friday

              クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3

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                これまでのまとめ

                これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、

                 

                日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、

                 

                第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2  では、

                 

                さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること

                 

                というお話をしてきました。

                 

                そして、その当時の伝道にまつわる環境と、現在、2018年の伝道環境は、果たして完全に同じと言えるでしょうか?ということでお話してきましたし、個人的には、かなり違うのではないか、と思うということを申し述べました。本日は、このあたりについて、昭和30年代の文化について、次回ご紹介していきたい、と思います。

                 

                歌声喫茶ならぬ歌声教会

                1960年代には、ペギー葉山という方の学生時代という歌謡曲(なんと懐かしい昭和の響きのする言葉でしょう)やなぜか(ヂュークエイセスとか、ボニージャックスの皆さんの影響なのか、彼らが時流に乗ったのか,、どちらかは、よく知らないですが…。)ロシア民謡を歌うというのが、お金をかけない青春の楽しみ方としてありました。ロシア民謡なんかを、みんなでアコーディオンの演奏に合わせて歌う、というのが、1960年代には流行りました。

                 

                ボニージャックスの皆さんでロシア民謡

                 

                ロシア語による一週間(日本語字幕付き)

                 

                個人的には、誇大妄想的なところのあるロシアとしては、この曲のほうが、ロシアの雰囲気をよく表しているような…

                 

                ロシア連邦に代わっても、やっぱり、曲はこれ…

                 

                何回聞いても吹き出しそうになるエジプト軍楽隊によるロシア連邦の国歌演奏(よく噴出さずにいられると思いました)

                 

                そう言えば、朝の連ドラ「ひよっこ」で、金の卵の勤労青年の皆さま方が、アコーディオンの伴奏で歌うというシーンが何回かございましたのをご記憶の皆さんもおられるかもしれません。

                 

                http://www.siesta-tokyo.com/article/hiyokko-0510.html より

                 


                NHK素人のど自慢のパロディをしているドリフターズ

                 

                 

                昭和30年代には、歌声喫茶というのが、各地で流行していた、それを復活させる試みがある、とNHKの夕方のニュース映像で流れていたけれども、そこに集まっている年代層が、微妙に現在の教会に集まっておられる世代とかなり重なるんだなぁ、とちょっと驚いてしまいました。それを見ながら、教会は、歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶(説教付き)だったのかもしれない、とちょっとし思ってしまいました。

                 

                歌声喫茶のようなものを健康歌声サロンとして高齢者向けに復活させたことについてのNHKのニュース映像

                 

                カラオケと讃美歌と福音

                今なら、カラオケハウスなんでしょうけれども、当時は、そんなものはないので、アコーディオン伴奏(ピアノとかは高いし、移動コストがバカ高いから)で、皆さんで歌って時間を過ごしたのではないでしょうか。その意味で、カラオケ文化の原点は、ひょっとしたら、この歌声喫茶ではなかろうか、と思ってしまいます。

                 

                ところで、このカラオケも、レーザーディスク(CDの前身)を開発し、それでカラオケに利用したパイオニア(この会社は、昔、福音商会電機製作所といい、クリスチャン経営の音響関連機器製作メーカーとして出発しています)が販売したことにより、広く世界的な文化基盤を作っていったということを考えると、ある面、この音楽というのは、実に福音伝道とつながっているようには思います。まぁ、そのあたり、メソディスト運動の出発、今のメソディスト系(関西学院大学はこのウェスレー系のミッションスクール)の教会の基礎を作ったウェスレー・ブラザースの弟君チャールズ・ウェスレーが当時のフォークソング(俗謡)にリタジーの文言を載せたり、リタジーの文章に合う讃美歌を作曲して、人々に福音伝道をしていったことを考えると、音楽というのは、実に大切だと思います。

                 

                チャールズ・ウェスレーの讃美歌


                さて、当時の若者があまりお金をかけずに、健全にみんなで歌いながら、現在のカラオケがわりのものとして楽しんだ歌声喫茶では、どのような飲食物が提供されていたかについては、その当時、ミーちゃんはーちゃんはこの世に存命中でなかったために知る由はありませんが、まぁ、外国を思わせる紅茶やコーヒーなんかが提供されていたんでしょう。多分。

                 

                こうかんがえると、当時の教会では、ほうじ茶や番茶が礼拝後出たりするのが、一般的ではなかったか、とは思うのですが、外国人宣教師の方がいるような教会では、コーヒーや紅茶、あるいはコーラが出たかもしれません。そうなると、もう、そこは、歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶のようなものになっていたのではないか、と思うわけです。

                 

                時間がたっぷりあった昔の若者

                世帯持ちのミーちゃんはーちゃんからすると、独身の若者も、時間は相当たっぷりあるとは思うのですが、今の若者以上に、昔の若者は、お金はあまりない方が多かったようですが、時間だけはたっぷりありました。時間を持て余している方が多かったわけです。ラジオが高級品、テレビや黒電話などにいたっては、数世帯に1台という時代、近所の人々がテレビがある家に集まるという時代です。学生がテレビを持つのは、異常だった時代です。スマホや、任天堂のゲーム機なんかもありません。外出するのにお金がかかる時代、でも、ちょっとなんか、他の人と違うことがしたい、それで(できるだけお金をかけずに)楽しみたい、という人々が一定数いたわけです。だから、昔の学生は図書館に行って、本を読んで過ごしたわけです。あるいは、各地で開かれている講演会とかや、街頭演説会に参加したり、あるは暇を持て余して、安保闘争に参加する人もいたかもしれません。当時安保闘争に参加することは、かっこいいことだったですから。なんせ、時代の「前衛」(前衛は、一応共産党用語・スポーツ用語ではない)だったわけですから。

                 

                60年代の安保闘争の画像

                 

                安保闘争に参加するほど、武闘派ではなく、穏健なそして、上昇志向や西欧志向を持つ若者の皆さんにとって、教会というのは案外居心地がいい場所だったかもしれません。なんせ、世界のベストセラーで、当時日本人にとって最先端と思っていた欧米文化の基礎を作ったとされるキリスト教とは何かを、説教という講演会スタイルで(わかりやすかったか、面白おかしかったかどうかは別として)聞かせてくれて、寒くもなく、それほど熱くもなく、雨露に打たれることもなく時間を過ごすことができ、若者の楽しみの音楽を讃美歌ということで楽しませてくれて、お茶が出たりもしたでしょうから、無料の歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶(ただし、説教付き)としての役割を果たしたのではないでしょうか。まぁ、もう少しいうと、歌声教会といった感じが、当時の教会のイメージだったかもしれません。

                 

                自宅やアパートからすぐに行けたプチ外国としての教会

                日本は、徳川の大君の御代から、明治帝の大王の御代の最初ごろにいたるまで、高札でご禁制が布告された振興とキリスト教を扱ってきましたので、多くの日本の方は、キリスト教やキリシタン、クリスチャン(当時は耶蘇(ヤソ イェズス、イエス、イシュアスの中国語表記)と揶揄して呼ばれた)が西欧、ないし南蛮渡来のものであることだけは、十分すぎるほどご存知でした。

                 

                大木先生と先日召された古屋先生(キリスト新聞さんの記事はこちら)が2001年に共著で著わされた「日本の神学」(ヨルダン社)では、20年単位で繰り返される、社会の国粋化と国際化の波の中で教会も様々な現象に直面してきたことが描かれておりますが、国際化の時には、キリスト教は時流に乗って、その数を増やしていきました。戦後の第2次キリスト教ブーム、1980年代のキリスト教プチブームなどは記憶に新しいところかもしれません。

                 

                そのころには、今と比較にならないほど教会に外国人宣教師の方がおられました。理由は様々でしょう。そんな外国人宣教師(といっても、北米大陸、英国、北欧並びにヨーロッパ亜大陸の方がおられる教会は、まさに、自宅からちょっと行けるプチ外国だと思います。今のように、スマホでHuluやNetFlixが見れるわけでもなく、映画は1回1000円(昔からあんまり値段が変わってないから、今の1万円近い感覚だと思いますが)近く、テレビも数世帯に1台という状態では、教会というのは、プチ外国だったわけです。

                 

                昔、1ドルは360円の固定相場制でした。ニクソンショックと、その後のスミソニアン協定が結ばれた結果、1970年に円ドルの変動相場制に移行しました。特に1960年代の前半は、日本は敗戦国でしたので、経済的には中進国以下の存在でした。貧しい国でした。今のお若い方からは想像がつかないでしょうけれども。

                 

                多くの日本人にとって、外国とは、兼高かおる世界の旅で見る世界、あるいは、パンナム(今はなくなったパン・アメリカン航空)の日本総支配人のヒョーショージョーのおじさん、ないしは、教会とそこにいる宣教師、だったわけです。その意味で、通常の日本にない、珍しい貴重なコンテンツを持っていた組織の一つが教会でした。学生アパートから行ける外国が教会だった、のだろうと思います。

                 

                TBSが放送した兼高かおる世界の旅(これ、日曜日の番組だったと思う)

                パンナム日本支配人のヒョーショージョーのおじさん(ウルフと呼ばれた千代の富士親方が若い)

                 

                外国への窓口であった教会個人的には、ミーちゃんはーちゃんは伝統教派、なかでもアングリカンへの傾倒が激しいので、これからご紹介する記述をお書きになられた方とは、信仰の様子がかなり違う方なのですが、現在神戸で牧師をしておられるWataru Sugahara さんという方がご自身が信仰を持ったころのこと6月9日にFacebookに記載しておられたので、当時の教会がいかに外国への窓口であったのか、ということについて、ご許可をいただいたので、転載しておきたい、と思います。Wataru Sugawaraさんには、転載の許可をいただいたことをこの場を借りて心から感謝の気持ちを表したいと思います。

                6月9日 の6:02 ·

                私が教会に行くようになったきっかけは、近所に住んでいた米国老婦人宣教師のアパートで英会話の集いがあることを弟が教えてくれたことに端を発している。高校2年の晩秋のことだった。

                米国老婦人宣教師の英会話の集いはある程度会話の出来る大人の方たちが中心であって、テーマも自由で完全フリートークの場であったので、私にはチンプンカンプンの世界であった。

                6月9日 の6:12 ·

                英会話の集いをもう辞めとうかなと思っていた高校3年になる春休み、近くに伝道所がスタートしたことを宣教師がチラシを下さってそのことを知った。これが教会に行くきっかけとなった。

                6月9日 の6:16 ·

                教会に行けばもっと多くの宣教師がいるかも知れない。そうすればアメリカ人と多くの友達が出来るだろう。そんな思いで始めて教会の門をくぐったのであった。高校3年の春休み日曜日の夕方であった。

                6月9日 の6:19 ·

                当時、生のアメリカ人と接する機会は殆どなく、教会で身近にアメリカ人と接し英語で話すことは人生初体験の冒険でエキサイティングなことであった。

                6月9日 の6:23 ·

                教会の集会に生れて初めて参加した時、大人の方々が一斉に讃美歌を歌う光景はカルチャーショックで「こんな世界がこの世にあるんだ」と思ったことだった。

                6月9日 の6:27 ·

                教会では日本人が数名、アメリカからの宣教師が数名。映画のスクリーンでしか知らなかったアメリカ人がこんなに身近にいる体験は新鮮であり興奮することであった。

                6月9日 の6:32 ·

                母親、父親の影響で歌謡曲が好きだった私は、聖歌の美しい旋律に違った魅力を感じた。大学受験での挫折の中にいた私の心を癒やすのに充分な出会いであった。宣教師、教会、讃美歌の出会いが私の人生を変えてしまった。

                6月9日 の6:39 ·

                高校3年の春に教会に行き始め、6月のある日曜日の夜の伝道集会で塩屋の神学生が語った、ヨハネ3章16節の聖句からのメッセージが私の人生を変えてしまった。キリストの十字架の意味が明確に分った瞬間であった。

                6月9日 の6:44 ·

                高校3年の6月最後の日曜日の夜、神学生の信仰決心の招きに応じて、涙ながらに罪を悔い改めて講壇前にひざまずき祈りをささげるのであった。そして、次週日曜日に洗礼を受けることが決まった。

                6月9日 の6:50 ·

                信仰決心から洗礼予定の翌週までの7日間は恐怖の日々であった。「大変なことを決断してしまった。これで俺の生涯はキリスト教に縛られて生きて行かねばならなくなる。どうしよう」中止にしたいが、それを言い出すのにも勇気がいる、、。

                6月9日 の6:54 ·

                洗礼日が決まってからの7日間は、恐ろしくて逃げ出すことばかりを考えていた。しかし逃げ出すことも出来ず、当日の日曜日を迎え、礼拝の後、須磨海岸で洗礼を受けるのだが、屠り場に引かれて行く牛のようにうなだれていた。

                6月9日 の6:58 ·

                洗礼場の須磨海岸に車で行くのだが、セドリックに乗せられて両脇には大男の宣教師が座っていて真ん中に私がいて、まるでどこかの刑務所に収監されるような気持ちだった。須磨の交差点では交通事故直後の女性が車輪下から這い出す場面にも遭遇だった。

                6月9日 の7:05 ·

                いよいよ、洗礼が始まって聖歌を歌い、祈りが終わり、宣教師と神学生が待っている沖合に行きました。ザブンと海に沈められ、上がった時には別人のようになっていた。全ての疑心と不安が過ぎ去って平安と信仰と勇気が一気に湧いて来たのだった。

                6月9日 の7:29 ·

                人生で最初に出会ったアメリカ人は老婦人宣教師だった。神戸の下町、長田区の小さなアパートのドアを開いて玄関に立った時、今まで経験したこのない匂いが満ちていた。この老婦人会っていなかったら全く別の人生を歩いていたことだろう。

                 

                もう、上記の階層というか、お証は、1960年代ごろのキリスト教と日本社会の関係を見事に描いた記述(本来は”お証”なのだと思いますが)となっているように思います。

                また、個人的に敬愛して、私淑する百姓トンちゃんこと後藤敏夫さんは、ご自身のブログどこかに泉が湧くように の記事 福音派キリスト教とフランクリン・グラハム伝道大会 では、ご自身の経験を振り返りながら、次のように書いておられます。

                 

                 私は高校生の時代に、アメリカ人と知り合いになりたくて宣教師の集会に行ってクリスチャンになりました。アメリカは遠い遠い夢の国でした。私たち団塊の世代にとって、新しく格好のいいものはすべてアメリカから来ました。テレビ番組や映画も、雑誌も、「コーク」も「マック」も、カレッジフォークやジャズやロックのような音楽も、アパレル(そんな言葉はありませんでしたが)や車や生活様式も、みんなひっくるめてメイド・イン・USAのファッションでした(そのすべてが私の青春です)。

                キリスト教の世界もあまり変わらないかもしれません。私が上京した1967年に2度目の「ビリー・グラハム国際大会」が行われ、英国の歌手クリフ・リチャードが歌い、引退したNYヤンキースの野球選手が証しをしました。戦後民主主義のように、福音派においては神学の世界もアメリカでの学びによって導かれて来たように思います(どちらも決して軽視したり否定したりして言うのではありません。私たちのその子です)。宣教や教会形成に関わる分野では、新しい波は、私が牧師になった70年代から80年代にかけて西海岸の神学校から来ました。日本のバブルに乗ったような右肩上がりの教会成長論や(予算計画を含んだ5年計画や10年計画が教会や牧師のビジョンと呼ばれました)、いわゆる聖霊の第3の波と呼ばれたような、その後のカリスマ運動やリバイバル運動に繋がる動きです。そういう一つひとつが、「あれはいったい何だったのか」という思いの中で自省されることもなく時代の流行のように消えて行き、ただその形跡として崩れたもの、何か大切なものを失った痕跡が残り、そこにまた彼の国の現実や文化の中で生まれたより健やかで洗練された新しい波が太平洋の向こうから来ます。成功例はあるでしょうが、生活や歴史文化に根がないアイディアなので受けとめる側にとっては新しい方法論にならざるを得ません。それらは聖書的な教会論の装いをしてはいても本質はいつも牧師がCEOであるような実利主義的な教会運営論・管理論のように私には思えます。南米や韓国に生まれた運動や人間力学の影響も少なくありませんでしたが、私の印象では基本的にはケチャップとマスタードの味をベースに、より刺激の強いチリペッパーやコチュジャンの味を加えたようなものです。実際、韓国の福音派キリスト教は、儒教的人倫体系を基盤にしていますが、非常にアメリカ的です(ある有名教会に属していた私の友人は、植民地下を生き抜き、教会活動の陰で熱心に祈っていた高齢の婦人たちが天に召されて、教会にはイベントだけが残った、と言っていました)。

                これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。時代とともに変わったものがあるとすれば、もしかしたら、(これもある種のアメリカの福音派の影響で)かつての敬虔主義的福音派が大切にして来た聖書の福音そのものの理解かもしれません。「いのちのことば社」の古い本を読んでいると(たとえば、オズワルド・チェンバーズの『いと高き方のもとに』のような)、そこに語られているような信仰と教理の言葉は、もう私たちの宣教や証しの言葉、そして賛美の歌の言葉にはなくなっていることに気づき愕然とします。時代精神ともに失われたものは、時代や流行とともに変わってはならない、十字架と復活の福音にとって大切な本質的なもののように思えますが、何をいつどう失ったのかも分からなくなっている中で、悪貨が良貨を駆逐している感じがします(たとえば、信仰生活の同じ主題についての本でも、昔書かれたものの方がずっといいのですがもう読まれず、あるいは読む信仰的資質や体力が失われ、今のものは新しい時代感覚で同じ真理が言われているというよりも、新しい感覚から出る言葉がナルシシズムの文化の中で福音の大切な本質からずれてしまっています)。

                 

                でも、考えてみると、教会は、外国への一番身近な窓口であるのは、ある面当たり前かもしれません。教会という信仰を持つ人たちの集合体は、異なる概念が支配する世界である外国として、神の国、神の主権、神の支配がそこにある、というサクラメンタルな存在のはずですから。そして、人の子、ナザレのイエスは、次のように言ったはずなのですから。

                 

                【口語訳聖書】ルカによる福音書

                 17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
                 17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

                次回へと続く

                 

                 

                2018.06.17 Sunday

                クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4

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                  これまでのまとめ

                  これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、

                   

                  日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、

                   

                  第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2  では、

                   

                  さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること

                   

                  第3回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3 では、

                   

                  ご高齢の信徒さんの皆さんが若かりし頃がどのような日本であり、その中で、どのような役割を教会が担ったのか、というあたり、音響機器メーカーのパイオニアの前身や教会と讃美歌、外国ということと教会

                   

                  というお話をしてきました。

                   

                  本日は、前回触れそびれました、ミッションスクールと呼ばれるキリスト教学校について、お話してみたいと思います。

                   

                  ミッション・スクールという存在

                  第2回の連載では、日本におけるミッション・スクールがその舞台のかなりの部分を占めたNHKの朝ドラ『花子とアン』を触れながら、お話してきました。

                   

                  日本では、同志社、関西学院大学、青山学院大学といった大学ももちろんですが、女子高等教育機関として、ミッション・スクールは大きな役割を果たしてきました。なぜ、そのようになっているか、と言いますと、1800年代のアメリカのメインラインと呼ばれる主流派のキリスト教の世界では、実は女子高等教育が一種のブームであったようです。確かに、米国の名門女子大学は、この時期に開設されたものが多いです。それがそのまま、日本にも流れ込んでいた感じがします。特に、明治期、大正期ごろまでは田村直臣先輩がお書きになられた『日本の花嫁』事件に見られるように、女性の地位が異様に低く、女性の地位向上をめざして、高等教育機関が、宣教団体(ミッション)からの資金援助(当時の日本は貧乏だったので、海外からの資金は少額でもその効果は絶大)で建てられていきました。各地にある○○女学院という名前の大学は、そのころのものが多いことは確かです。

                   

                  カトリックのミッション・スクールに関しては、上智大学の川村 信三先生のご研究がございますが、カトリックにおいては、困窮者対策としての教育の系譜に連なる学校と、社会の指導層でなる人々への影響を考えての教育の系譜につながる教育機関とに別れるようでございます。

                   

                  ヨーロッパの大学の基礎としての神学部と日本の大学

                  ミッション・スクールは、ある面、日本のキリスト教伝道の中で、大きな役割を果たしましたし、今も果たしているように思います。とはいえ、一般の学生さんを見ていると、もともとミッションスクールであったことをうかがい知るのはかなり難しい(大変失礼な話で申し訳ないのですが)にもかかわらず、ウェスレー先輩の銅像(誰かを知っている現役学生さんはかなり少ないらしい)青山学院大学の神学部は学生運動の大波の中で、1960年代に廃止となり(現在では東京神学大学に引き継がれている)、関東学院大学の神学部も、同じく1970年代に廃部になり、と神学部が相次いで閉鎖される憂き目にあっています。立教大学も文学研究科にあった組織神学専攻を2009年に募集停止しておられます。神学教育組織が組織として今なお残る我が国の大手ミッションスクールとしては、関西学院大学、同志社大学、西南学院大学くらいになってしまっています。

                   

                  青山学院大学前のウェスレー先輩像

                   

                  ヨーロッパの大学は、教会付属施設 → 修道院 → 神学部から出発している大学(最古の大学のスペインのボローニャ大学などが典型的)からすれば、神学を扱わない大学(ウニベルシタス Universityの語源))は、高等教育機関であっても、大学あるいはウニベルシタスとは言えないはずで、神学があって初めて大学というのがヨーロッパ的な伝統での大学の位置づけです。

                   

                  振り返って、我が国の国立大学では、神学研究をしておられる先生はおられるにせよ、神学部を有しない以上、どこで、どう頑張ってもウニベルシタス 大学とはならないけれども、大学と称されてきました。多くのミッション系大学が、自ら、普遍であり、ウニベルシタスであるための担保であるはずの神学を放棄している(これは、アメリカのハーバード、イェールなどの名門校でも同様の傾向)のは、実に残念だ、と思います。このあたりに関しては、最下部で紹介しております、ハゥワワースの『大学のあり方 諸学の知と神の知 』が大変参考になろうか、と思います。舌鋒というか筆鋒は鋭いですが…

                   

                  さて、余談は別にしまして、キリスト教を教育ということを手掛かりにして、日本で広めようとするための教育機関がミッションスクールしたわけていったわけですし、物理的に外洋船に乗って、太平洋やインド洋の波頭を超えていかねばならなかった外国へのアクセスの窓口でもありました。その意味で、日本人がアクセス可能な外国への窓口であり、キリスト教の入り口でもあったわけです。

                   

                  それが証拠に、以下の動画でご紹介いたしますペギー葉山女史の学生時代という歌声喫茶の定番曲(前回の記事でもNHKの取材時に歌っているので一部が収録されている)では、ミッションスクールが背景のメタファーとして用いられています。そして、冒頭部分に教会の鐘楼から慣らされている信徒を集める鐘の音(これが、ムスリム世界になるとアザーンにかわる)と思われる音が用いられています。

                   

                   

                  ペギー葉山の『学生時代』

                   

                  以上これまでこの連載を含めて3回の連載で紹介してきましたように、今の教会におられる高齢信徒の皆様と今の若いクリスチャンn世代が置かれた環境は根本的に異なるのです。オフピークであれば5万円もあれば、アメリカに渡れ、テレビではCNNが流れ、スマートフォンやタブレットで、HuluとかNetflixでアメリカの動画が見られる時代になりました。

                   

                  しかし、今教会におられる皆さん方が多く集まられたお若い時代の身近な外国としては、教会やミッションスクール以外には、関東や中国地方西部ではラジオの米軍放送であるFEN放送を上げることができるかもしれません。これらもまた、外国文化への手近な 入口となっていました。また、日本のラジオ放送でのディスクジョッキーのかたちに影響することになりました。

                   

                  FENのタイトルコール めっちゃ懐かしい

                   

                  FENなどに影響を受けた小林克也さんのアメリカンポップス紹介番組

                   

                  身近な別世界へのアクセス手段が増えた社会の中で…

                  その意味で、身近な別世界へのアクセスの口が多様化し、若者自体が、いろいろなイベントがあり、海外旅行に外貨持ち出し規制もなく、安価で行けるようになり、バックパッカーとして旅行ができるようになるわ、東京とか関東圏にいれば、海外のアーティストのコンサートなんかにも、かなり自由に参加できるようになる中で、もはや、以前の教会が持っていた外国(ありていに言えば、西ヨーロッパ文化圏と北米文化圏)へのアクセスのとっかかりとしての魅力は相対的に低下していると言わざるを得ませんし、さらに言うと、昔のマジメ君、ヨシコさんたちが理想としていた、形而上的な抽象的理解や、”真理”に関心を持つ人であることの価値が、多元化したポストモダン社会の中で減り、自分の手が届く範囲、スマートフォンを含めて、自分の周り10メートルくらいでアクセスできる範囲の内容のほうが重要になった社会の中で、建物としての教会、あるいは教会イベントの意義は相対的に下がっているように思うのです。

                   

                  そうなっているとすると、教会で新規来会者を誘うような、呼び寄せ型のイベントをしたとしても、来る人は限られ、それを契機にした伝道というのは、かなり厳しい、ということになります。それに、「お友達を動員してくれ」と言われても、また、そのことを高齢信徒の皆さんから、期待されたとしても、教会のn世代のクリスチャンたちは、ただただ困惑を覚えることしかできない、ということになります。なぜなら、誘ったところで、よほどの魅力(例えば、レディ・ガガのコンサートクラス)がなければ、さそったところで、アテネのギリシア人たちのように「また今度聞くことにしよう」と言われて終わりになる、というのがせいぜいではないでしょうか。

                   

                   

                  The SimpsonsでSpringfieldというシンプソン家の人たちが住む町にレディーガガさまがコンサートした時のエピソードの一部

                   

                  身近な別世界へのアクセスを利用しては?

                  さて、現代の若者は、1960年代の若者に比べ、別世界への入り口をたくさん、自分たちの手の中にあるスマートフォンの中に持っている、ということをお話してきました。

                   

                  とはいえ、1960年代に若者であった皆さんも、らくらくスマホとかで、すでに、意識しておられる、おられないにかかわらず、インターネットの世界を間接的にご利用になるのが当たり前の時代に現在なっています。

                   

                  らくらくスマホ https://www.amazon.co.jp/dp/B00B59W152から

                   

                  そうだとしたら、その身近な別世界へのアクセスの手段を教会の皆さんも利用されてみてはどうでしょうか。それが、ウェブサイトなのか、ツィッターなのか、Facebookなのか、Instagramなのか、他のSNSなのかは知りませんが、「あれは、カインの末らが作ったものだから」とか言って、触らぬ神に祟りなし、で対応するのではなく、逆に、聖四文字なるかた、神からの祝福にしたがって、スマートフォンは神の直接の被造物ではありませんが、被造物である人間が作り出したものを治める(管理する)必要があるのではないでしょうか。このあたりのことをお考えになられたい方には、

                   

                  【口語訳聖書】 創世記
                  1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

                   

                  このあたりの、地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、最下部で紹介しています「シャーローム 神のプロジェクト」などがご参考になるかもしれません。

                   

                  とはいえ、どうすればいいのか、わからない、という教会もございましょう。自分でできない、できたら安心できる外注先があれば…、安心してください。あります。名古屋の業者さんですが、Bread and Fish(間違っても、英国のB級グルメ Fish and Chips ではない)という教会専門のウェブサイト構築会社があります。この会社は、技術的にも確かです。

                   

                  英国のB級グルメ Fish and Chips

                   

                  教会の「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ?

                  ところで、ここでFacebookのお友達がシェアしておられた東洋経済新報社のブログ記事 地方は結局「若者」を排除して自ら衰退する 〜「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ〜 から、引用してみたいと思います。

                  さらに、3つ目は「イノベーション人材」の喪失です。若者が特段の迷惑をかけていないことでさえも、自分たちに理解できないことは、頭ごなしで「ダメだ」「劣化している」と決めつけがちです。匿名性の低い地方においては、そのような圧力によって、新たな芽がつぶされてしまう危険性があります。

                  たとえば、北九州市の成人式などはマスコミによって、「変な格好しているヤンキー」くらいに報道されたりして、つぶされそうになったことがあります。しかし、実際には地元でまじめに働く若者たちが何十万円もかけて衣装を作ったり、レンタル衣装を借りて、自分たちの文化として発信しているのです。そもそも、それだけのおカネを持っているということは、しっかりと働き、さらに計画的に預金を積み立てているからこそ、できることです。北九州市の知人によれば最近では「同じような衣装を着て写真を撮りたい」とわざわざ北九州市に来る人さえいるそうです。

                  このごろはよく「イノベーション人材を地方へ!」などという話で盛り上がりますが、そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。

                  もし、いま挙げたような「3つの人材」を排除していくと、結果として地方には上役の言いなりになる、「年齢こそ若いものの考え方は保守的で硬直的な人たち」が残っていきます。その結果、どうなるかは言うまでもありません。

                  これ、教会が抱える問題と全く同じ構造じゃないでしょうかねぇ。

                   

                  教会も、「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、年配者から見ると、これまでにない取り組みで、若者のむちゃくちゃにみえるかもしれない行動や方針変更という新しい芽をつぶしまくっているとしたら、若者は、腐ってしまいます。逆に腐ってしまわないとしたら、その若者は、よほどの人格者だと思います。

                   

                  ところで、教会は、教会にいる若者に「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、高齢者の期待するやり方で活躍することを暗に期待していないでしょうか。若者を自分たちが引いたレールの上での自由のみを認めた形での活躍、あるいは、若者の自由を完全に奪ったうえでの活躍、のような形で。

                   

                  こうすることは、手足を太いマニラ麻のロープでがちがちに縛って、「ほら、自由に泳いでご覧」というようなものです。荒くれ物の多い、アメリカ海兵隊US Marine Corps(海軍の一部でありながら、実体的にはかなり独立した存在 )よりも、すごいとされるNavy Sealsのような皆さんでない限り、おぼれ死んでしまうんじゃないでしょうか。

                   

                  Navy Sealsの皆さん

                   

                  宗教改革を起こしたルターは、多分変な若者だったんでしょう。であるからこそ、宗教改革は生まれまたのではないでしょうか。ウェスレーブラザーズ(ジョンと、チャールズ)も、とっても変な若者だったと思います。その変な若者がいて、勢いでムーブメントを起こしたから、今のプロテスタント教会のかなりの部分があるのではないでしょうか。もし、私たちがプロテスタント(プロテスタティオ)だというなら、これらの飛び跳ねた若者の後継者のハズなわけです。

                   

                  こうして、キリスト教は、この2000年間変革し続けてきました。カトリックも変革し続けてきました。アッシジのフランシスコ(現教皇の名前の由来)は教会制度を変革しました。イエズス会を始めたイグナチオ・デ・ロヨラや、フランシスコ・ザビエル(小学生男子の人気者)も、イエズス会を始めた当時は若者でした。そして、フランシスコ・ザビエル(スペイン風に読むと、ハビエル)は日本に伝道し、ジパングという国に、聖書を伝えました。そして、カトリック教会制度の変革(まともにラテン語を読めない司祭が多かった時代に、きちんとラテン語を扱える司祭を増やすといった意味での改革)に貢献しました。様々な人々たちが、教会を変革し続けてきたのです。プロテスタント、カトリック問わず。

                   

                  イグナチオ・デ・ロヨラ

                  小学生の歴史教科書のアイドル ザビエル君(ハビエル)

                   

                  いえ、あえて言いましょう。誤解を恐れずに。

                   

                  ナザレのイエスも、ユダヤ社会の、田舎もん(ガリラヤ、あるいはナザレ)扱いを受けた、変な”にーちゃん”だったんです。当時の祭司長、律法学者にとっては。違うでしょうか。イエスは、ある面、ガリラヤの鉄砲玉、あるいは、薄い紙で作った、急ごしらえの将棋の歩のような存在です(角でも、飛車でもなく…本当は王か玉なのに)。王であり、ダビデの末であり、ホザナと声を限りに人々が叫ぶべき方であったにもかかわらず、何も持たず、権力者の誰からもまともに相手にされなくとも、ひたすら、吹けば飛ぶような将棋の歩のコマのように、一歩一歩、自らの足でユダヤを歩き回り、ただ、ひたすら神の国が近づいた、と説いた、という意味では変な”にーちゃん”だったように思います。

                   

                   

                  エチオピア正教のホサナ

                   

                  コプト正教会のホサナ(歌詞は英語だけど、音楽は完全にアラビア風)

                   

                  ブルガリア正教会のホサナ

                   

                  ハングルでの現代風ホサナ(なぜかスペイン語字幕)

                   

                  タガログ語でのホサナ(子供向け)

                  もし、私たちが、イエスの弟子であるというのなら、将棋の駒でいう歩みたいなイエスの弟子でもあるのではないでしょうか。

                   

                  とすれば、現代の鉄砲玉のような若者を腐らせるのではなく、彼らのやることをぬるく見守る知恵と彼らのやることを受け入れる度量とキリスト者の愛を高齢信徒の皆さんには余るところなく示してほしいなぁ、と思いました。

                   

                  そうでなければ、地方の地域社会の未来がどんより暗いのと同じように、教会の未来もどんより暗いものに意図せずしているかもしれないなぁ、と思います。

                   

                  鉄砲玉のような若者の皆様へのお願い

                  若い時は、急進的になったり、思い通りに教会や教界が変わらないことにイライラするかもしれません。しかし、忍耐が必要です。こないだ、同志社大学で講演したハゥワワースとジャン・ヴァニエによる共著の本『暴力の世界で柔和に生きる』(最下部でご紹介)という書籍の中でハゥワワース先輩が書いておられた部分にある記述がありました。それは、ハゥワワース先輩が参加しておられた教会での出来事です。

                   

                  それは、ハゥワワース先輩が依然参加しておられた教会が聖餐を毎週するまでの過程のことがちょっこし書いてありました。その教会では、毎週の聖餐実施となるまでに、9年かけたそうです。本来、もっとも大切な教会の中心であるべき聖餐をごく当たり前の姿に戻すのに、9年という歳月がかかる。

                   

                  これが教会の実情です。その意味で、忍耐と、愛における受容が大切だ、と思うのです。

                   

                  時間はかかるでしょう。でも、待ちましょう。慌てずに。焦らずに。

                   

                  期待する対象が違うかも

                  個人的には、高齢信徒の皆さんが望みをかけ、期待しておられる対象が間違っているのではないか、と思います。我々が期待を置くべきものは、全きもののはず、ではないでしょうか。それを全きものではありえないはずの人間に、そして、全きものであるはずのない若者に、期待するのはどうなんでしょうか、とは思うのです。

                   

                  聖書の中にこのようにあります。

                   

                  【口語訳聖書】コリント 第二の手紙
                  12:20 わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。

                   

                   

                  そして

                   

                  【口語訳聖書】 コリント 第1の手紙
                   13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
                   13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
                   13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

                   

                  いったんこのシリーズは一時休憩をします。次のシリーズは、「私の将来について、祈らないでほしい編」です。

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:翻訳に課題のある章がいくつか見られるが、ハゥワワースの主張はごもっとも。

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                  (2017-09-10)
                  コメント:地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、大変おすすめの1冊です。

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                  コメント:薄いけど、大変大事なことが書いてある本

                  2018.06.19 Tuesday

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

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                    工藤信夫さんによる「えり抜き」信仰良書

                    その昔ご幼少のみぎり、えり抜きサザエさんという本をピアノの教室の待ち時間に読んでいた記憶がございます。その本は、今でいうと、サザエさん傑作選、とでもいう本であったように思います。この本は、ちょうど、そんな感じの本だといえばいいでしょうか。


                     

                     

                    その意味で、工藤信夫さんによる、よりぬきトゥルニエ・よりぬきグリューンという感じの本でした。その意味で、著作権者の了解を最大限得ながら、両者のいい部分(と工藤信夫さんが良いと思った部分)を抜き出した本で、そこに、ちょっこし解説を加えたタイプの本といってよいでしょう。もちろん、工藤信夫さんオリジナルの部分ももちろん良いのですが。

                     

                    ん?まてよ、ほんのいいところをぬきだして、そこにちょこし解説を加える?

                     

                    あれ、このブログの本や雑誌の紹介記事のやり方と同じじゃん。w 

                     

                    なお、このブログでの本の紹介は、基本良いと思った本なので販促を目指しているってことで、ご了承賜りたく存じます。一応、引用部分の倍程度書くことを目標にして取り組んでおります。

                     

                    文章は読みやすいけど、内容きつくって・・

                    この本は、文章は読みやすいのに、そこで書かれている内容が、現代日本の教会人、教界人、牧師、キリスト者、信徒にとって、結構厳しい直言が多いので、読み進めるのが嫌になるかもしれないなぁ、と思います。しかし、そうであっても読み通す価値のある本であろう、とは思います。

                     

                    そして、読み通して、「そうか」とか「そんなものなのかなぁ」と読者の方は思うだけではなく、では、自らの問題として、ここで工藤信夫さんが指摘している問題をとらえ、では、現実の生きていく中で、教会生活の中で、教会としてどうするのか(それは、あんまり書いてない)を具体的に考えていってもらえれば、と思う本ではないか、と思います。

                     

                    今日はその中の初めに、の部分からの引用を通して、本書の紹介に入っていきたい、と思います。

                     

                    まず、「はじめに」の部分で、著者の工藤信夫さんの現代社会の見方が述べられています。

                     

                    以下の文章は、当時(ミハ氏註:おそらく2000年代前半)から日本社会を重く覆うことになった”強者の思想(強いことが良いことだとする主張)”の危険性を論じたものであるが、とうの昔にトゥルニエは“強さの思想は(弱い人をさらに弱くさせるのみならず)強い人も貧しくする”と主張しているのである。(太字部は、オリジナルは傍点表記) (工藤信夫著「暴力と人間」 pp.3-4)

                    西暦2000年前後というのは、個人的には非常に印象深い年です。この直前の年に木津信用組合、みなと銀行をはじめとする様々な金融機関の不具合が見つかり、実質的な金融破綻が関西からはじまり、一気に全国に波及しました(これがネットワーク社会の恐ろしさではある。一か所がおかしくなれば、全部がおかしくなるのです。東京近郊の方はよくお分かりではないか、と思います。東急とか、メトロでない組織のどこか遠いところで事故が起きても、都心の地下鉄が狂いまくる、というのは時々経験しておられようか、と覆います)。

                     

                    2000年ごろまでは、長らく護送船団方式で運営されてきた日本の金融機関のどこに預金しても同じだと思っていたのに、そうとも言えなくなり、金融機関の再編が行われた時期にちょうど当たります。この機をとらえ、金融機関の店舗立地状況の比較と収益性との関係などの分析、閉鎖された金融機関の店舗と継続営業している金融機関の店舗の店舗周辺環境など、定量的な分析を行い始めた時期に当たります。

                     

                    小泉純一郎・竹中平蔵時代を経た日本・・・

                    ちょうど、この時期の総理大臣だったのが、小泉純一郎さんです。この小泉純一郎さんが総理大臣の時に、自民党はぶっ潰れませんでしたが、自民党の内部構造自体はぶっ壊れました。この方の時に労働法制、とりわけ、派遣労働者の制度はぶっ壊れ、郵政組織もぶっ壊れました。その際の経済政策に関するブレーンが、竹中平蔵さんです。このペアで、規制緩和、様々な行政改革の名のもとに、セーフティネットとして社会の冗長性を持たせた高度経済成長期の日本型システムはぶっ壊れたのか、ぶっ壊されたのかは知りませんが、制度上は大きく変容を迫られることになりました。現在の裁量労働制や、今話題の高度プロフェッショナル職業人なんかっていう概念への一里塚が構築されたのがこの時代ではなかったか、と思います。

                     

                    元自民党総裁小泉純一郎氏

                     

                    竹中平蔵氏

                     

                    そして、今では揶揄的に用いられることが多い言葉になっていますが、「意識高い系」という感じの人々が出始めたのはこの時期だったように記憶しています。この「意識高い系」は、意識を高くもって、より強い、強者になっていこうという一種の時代意識を反映した言葉だったように思います。そして、がつがつして、力強い、マッチョな生き方が施行された時期であり、まさに、トゥルニエが言うように、"強さの思想は、強い人をも貧しくする”ということが起きたのだと思います。金銭的には貧しくなかったかもしれませんが、その精神ががつがつしている、さもしい精神性という意味で、豊かさを目指す裏側に巧妙に隠れた貧しさが見られたのだと思います。

                     

                    この時期、日本ではハゲタカファンドという言葉がはやりました。貪欲な外資系の機関投資家のことです。リーマンショックで、これらのファンド関係者は、多少は痛い目にあいましたが、資本主義の特殊発展形の一つである金融資本主義が世界中にはびこり、金融資本の多寡が正義という時代へと展開していきました。そして、強気ものが本来持つべき noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)という言葉が認識されないまま消えていってしまった様に思います。

                     

                    ハゲタカファンドの絵 http://www.thedawn-news.org/2016/02/24/indebted-argentina-macri-to-take-on-debt-to-pay-vulture-funds/ より

                     

                    軍隊などの強いものがなぜ必要か、というと、本来自分で自分を守れない弱き人々を、その弱き人々に代わって守るために必要なのだと思います。有名な A Few Goodmen(日本語では、ア・フュー・グッドマンになっていますが)は、キューバの海兵隊の部隊を背景にした映画ですが、その映画の中では、人より身体能力が劣っているためにいじめにあっていたサンティアゴ 二等兵(名前からして、メキシコ系です。メキシコ系は、今、米国社会の最下層と認識されることが多いようです)を上官の指示に従って、殺してしまいます。ある面、いじめによって兵士が軍隊内で自軍の兵士により殺されてしまった事件をめぐる軍事裁判を描いた映画です。その映画の最終シーンで、実際に手を下した下士官が一緒に手を下した二等兵に向かって、"It is suppose to fight for the people who could not fight for themselves"と発言するシーンが実に印象的です。直下の動画の1分9秒あたりからです。

                     

                     

                    A few goodmenの最終シーン

                     

                    そう、強者は、弱者を守るために戦うための強さのはずなのですが、それが忘れられ、強者が強者のためにしか戦わない、戦えない、つまり、本来貧しい人を守るはずの強い人が貧しくなってしまった社会になってきてしまったようです。

                     

                    そう考えてみると、旧約聖書のトーラーは、実に弱者保護に目が向いています。やもめ(寡婦・シングルマザー)、孤児、在留外国人、社会的に周辺に弱い立場に置かれた人々が生きていけるように、社会制度としての律法が守っているのです。例えば、ブドウや、小麦などの収穫物をとりつくすなとか。

                     

                    軍隊が、弱者を守るための軍隊であるように、法律制度は、自分で自分の身を守れない人々のために最低限の保護を与えるための制度であったはずですが、いつの間にか、強者が弱者を虐げるための道具立てになっているのが残念だなぁ、と思います。

                     

                    『従順という心の病い』との出会いの楽屋話

                    ところで、この本の出発の経緯となったのは、そして、ヨベルというこの本の出版社との出発点となったのは、実は、ミハ氏であり、お友達の仮面ライダーオーズこと、『神の物語』の訳者であるミハ氏のお友達、悪友の大頭牧師なのですね。大頭牧師とミハ氏とのつながりは、大頭牧師が、お書きになられた『聖書は物語る −1年12回で読む本』のイスラエルとか中東地域の地図を、大頭先輩は技術がないものだから、エクセルで描いていて、どうも見栄えが悪いので、ヨベルさんがお困り、という情報が、これまた、ミハ氏のお友達のお鹿さんから連絡が入ったので、それならば、電子地図の専門家のミーちゃんはーちゃんにお任せあれ、何とかしましょう、というので、大頭先輩 ー ヨベル − (お鹿殿) − ミーちゃんはーちゃん という最強タッグが生まれたのでした(お鹿さん、感謝している)。

                     

                    そして、ガブリ寄りが得意な大頭先輩は、岩渕まことさんにガブリ寄って、下の「神の物語」の曲をつけさせるという離れ業をし、それをYoutubeに公開するにあたって、再度また、ミーちゃんはーちゃんにガブリ寄って、以下のYoutube動画公開の運びとなったのである。
                     

                    大頭牧師作曲・岩渕まこと作曲 神の物語 日本語版

                     

                    同英語版

                     

                    ところで、ミーちゃんはーちゃんが、2016年の10月にN.T.ライト研究会の下働き役で参加したときに、グリューンの『従順という心の病い』をヨベルの社長の安田さんから、ご恵贈いただいたたので、帰りの新幹線の中で読んでみました。読めば読むほど、面白かったので、翌月の工藤信夫氏を囲んで、神戸の福音ルーテル神学校でやっている牧会事例研究会で、ブログ記事をもとに紹介しました。すると、工藤信夫氏の目の色が変わりました。

                     

                    そのころ描いていた記事は、こんな感じです。

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(1) (11/07)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(2) (11/14)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(3) (11/16)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(4) (11/19)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(5) (11/21)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(6) (11/23)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(7) (11/28)

                     

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(8) 最終回(11/30)

                     

                    それから、ヨベルの社長の安田さんがわざわざ神戸の母の家べテルで開かれていた牧会事例研究会に参加されたりと、このプロジェクトが動き始めたように思います。

                     

                    昨年(ミハ氏註:2016年)ある機会(ミハ氏註:神戸の福音ルーテル神学校でやっている牧会事例研究会のこと 著者の工藤氏にグリューンの『従順という病い』を紹介したのは、実は、ミハ氏w)に一冊の注目すべき本とであった。『従順という心の病い』がそれである。この本は再び全体主具的様相を知恵する現代社会の病理を扱ったものであるが、私はその中に長年私を苦しめてきた”宗教者の暴力”を解明する手掛かりを得、励ましとなった。私はこの一冊の本によって、改めてトゥルニエを紹介する必然性を確信したのである。(同署 p.6)

                    そして、その本が、長らく上巻だけで止まっていた『トゥルニエを読む』プロジェクトの指導につながったようです。あめんどう  から出ている『トゥルニエを読む』シリーズは、いろいろあってお蔵入りとなったようで、中巻、下巻の原稿を、ミーちゃんはーちゃんは、工藤信夫さんとバーター取引で手に入れているので、未刊行の原稿のコピーを持っています。w

                     

                    成熟期の日本社会を生きるキリスト者に欠けたもの

                    さて、日本は、失われた20年、もうすぐ失われた30年になりつつあるバブル崩壊の荒廃の中を無自覚的とはいえ、歩みつつあるわけですが、日本のクリスチャンには欠けたものがある、と工藤信夫さんは書きます。ミーちゃんはーちゃんが書いているわけではないです。書いているのは、工藤信夫さんです。

                     

                    バブル崩壊を経験した日本人は、強さ、地から、大きさを求める”拡大志向”の危険性を痛感したはずであるが、なお、その余波を脱却できないでいる。そのためか残念なことに使徒パウロが当時のキリスト者に書き送ったように肝心の信仰生活そのものが”力と愛と慎み”のレベルには達していない。
                    “力”は愛と慎みを持っていなかったら破壊的暴力的に働くことは明らかだからである。
                    (中略)
                    私の懸念するところは今日の日本社会は明らかに”成長から成熟期”にむかっており、急速な”少子高齢化”社会の到来というかつてない新しい困難と”グローバリゼーション”の広がりによって再び”力と暴力”の問題に直面しているように思われるが果たして”これまでのキリスト教”がどのようにして危機を乗り越えていくだろうかが大きな気がかりなのである。(同書 pp.7-8)

                     

                    少子高齢化の中で、日本のキリスト教界が大変な状況になることは、すでに、最近の連載

                    でもお示ししておりますし、

                    というシリーズでも、すでにお示しした通りです。工藤信夫さんの理解が正しいとしたら、西の山か、東の海のどっかに、”愛と慎み”を捨ててきた日本のキリスト教界は、信徒に対して破壊的・暴力的に働くし、教役者(司祭とか牧師)に対しても、余裕がなくなる中で、破壊的暴力的に働く、ということになるのだろうなぁ、と思います。

                     

                    そのような事例は、『牧会ってなんだ』というキリスト新聞社の本に多数実例は記載されているし、キリスト新聞社のミニストリーという雑誌に時々、記載されております。

                     

                    そして、この工藤信夫さんが主張している破壊的な問題は、最近日本に来て同志社大学のチャペルで講演したスタンリー・ハゥワワースの講演内容とモロに重なるし、また、ハゥワワースとヴァニエの共著の『暴力の世界で柔和に生きる』という本ともばっちり重なるようにおもいます。

                     

                    その時の講演速記録はこちら。

                     

                    同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(1)

                     

                     同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(2)

                     

                    同志社大学で開催された、ハウワワースの講演会に行ってきた(3)

                     

                     

                    なお、ジャン・ヴァニエは破壊的なキリスト教の問題を長らく扱ってきたし、ハゥワワースはアメリカ型のキリスト教の問題を厳しい視点から問題を指摘し、アメリカ型教会が抱える諸問題について、預言者的発言を繰り返してきた人物であるといってよいでしょう。ナウエンが寄留した、ラルシュというコミュニティの創始者でもあります。

                     

                    その意味で、この本の著者、工藤信夫さんは、キリスト教の周辺におられて、日本のキリスト教会に精神科医の立場で、預言者的発言を著書を通して、繰り返して来られた方であるといってもいいかもしれません。その意味で、日本のハゥワワースといってもいいような気もしています。

                     

                    ところで、日本の戦後生まれた数多くの教会、とりわけ福音派系の教会は、戦後日本が米国から大きな影響を受けたと同様、米国の教会の影響を神学上も、その構成原理上も、強く受けているように思います。その意味で、ハゥワワースの指摘は、日本の教会の課題への氏的とも重なるように思っています。なお、このハゥワアースとヴァニエの近著もまた、近日中に取り上げたいと思っていマスが、いつの日になることやら…。

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:めちゃよい。工藤信夫氏の本とモロ重なる

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                    工藤信夫
                    ヨベル
                    ¥ 1,728
                    (2018-06-01)
                    コメント:めちゃよい。

                    2018.06.22 Friday

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

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                      いよいよ、今日から「暴力と人間」の本論の第1章    ”『暴力と人間―強さを求める人間の心理』について”からご紹介をしてみたい、と思います。まず冒頭で、工藤信夫さんが過去の著作を書かれたときの背景とそのときに見えていなかったものについて触れておられる部分から引用して始めましょう。

                       

                      教会の側の人間理解の欠け

                      これまでの多くの日本の教会は、宣教地としての教会の側面が強い教会であったといえようか、と思います。このため、信徒の増加がその宣教活動に関与させられるだけではなく、教会活動の主体が信徒の成熟に焦点を当てたものというよりは、どちらかといって、一人でも多く、信者さんを増やそうというタイプの伝道活動、あるいは、アメリカで流行していたあるいは、19世紀主流であった大衆動員型の伝道活動に倣った、伝道活動を中心とした教会活動に熱心に(もう少しいうと、必死で、あるいは、決死の覚悟で)、いろいろなタイプの活動に取り組んでこられた教会が多いのではないか、と思います。

                       

                      その結果、日本の教会に何が残ったのでしょうか。暴論であることとは、十分存じ上げておりますが、日本の教会に残ったのは、教会のイベントに疲弊した信徒と、いつの間にかひっそりと、ぱったりと教会に姿を見せなくなった数多くの教会員の教会籍、あるいは、3年で教会を卒業する数多くの新来会者(その多くは、簿外会員)のうっすらとした記憶ではないでしょうか。その意味で、今、教会に残っている人は、教会内でサバイバルした、グリーンベレー(米陸軍特殊部隊)かネイビーシールズ(海軍特殊部隊)、あるいは、パラトルーパー(落下傘部隊隊員)のような精鋭部隊の隊員のようなガチ勢の信徒さんが多いのではないでしょうか。

                       

                      グリーンベレーの皆さん

                       

                      SAS英国特殊空挺部隊の皆さん

                      なぜ、こんなことが起きるのでしょうか。そのことに関して工藤さんは次のように書いておられます。

                       

                      私がそこ(ミハ氏註:『牧会事例研究』以降の一連の著作)で行きついた結論の一つは、これまでのキリスト教は伝道や教義には熱心であっても、その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがあるのではないかという問題意識であり、もう一つはこれからこの書で私が明らかにしようとする宗教者の間にはたらく暴力、換言すれば、宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマであった。もちろん30代の私は、そういう心理機制がそれほど重きをなすなどとは考えていなかった。(工藤信夫著『暴力と人間』 pp. 19-20)

                       

                      まず、「これまでのキリスト教は伝道や教義には熱心であっても、その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがある」ということが指摘されています。これは、プロテスタント教会の少なからぬ部分に当てはまるのではないか、と思います。

                       

                      確かに、多くのプロテスタント教会は、伝道や教義(個人的に言わせてもらえば先鋭化と護教(と呼ばれる護教義)にはきわめて熱心であることは、論を待たないことは確かです。

                       

                      膨大な神学書(それも日本では売れないので、めちゃくちゃ高価)が数多く出版され、プロテスタントのグループごとに出版社が微妙に群雄割拠(いのちことば社系、キリスト新聞社、新教出版社、教団出版局、ドンボスコ社、女子パウロ会、サン・パウロ、今はなき聖公会出版、伝道出版社・・・)し、ネットメディアにしても、クリスチャニティ・トゥデイと混乱しそうな、クリスチャン・トゥデイ、テニス選手と間違いそうなクリスチャン・プレス、キリスト新聞Web版、クリスチャン新聞Web版、・・・と枚挙に暇がない・・・状態でございます。

                       

                      日本のキリスト教のメディア状況

                      まぁ、メディアの乱立は、基本情報の多様性が確保されているという意味で、キリスト教関係でネットに転がっている質的向上につながる可能性があるので、基本的には歓迎だとは思っています。みんながちょっとずつ貢献しながら豊かにしていこうというのが、インターネットの世界ですから。HTTPプロトコル(Webのシステムの原型)の開発者のTim Berners Leeの以下の講演でも、彼は明確にそのことを主張しています。

                       

                      Tim Berners LeeのTEDでの講演 日本語字幕を見たい方は、こちらのリンク  https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web?language=ja  からどうぞ

                       

                      しかしながら、日本のキリスト教ネットメディアの現状は、多少独自性(あるいは偏り、例えば、クリスチャン新聞ウェブ版にはカトリック教会関連の記事は出ないとか・・・)があることは認めないといけませんが、どこネットニュースメディアを見ても、日本の全国紙(朝日、毎日、読売、東京(中日)・・・)がそうであるのと同様に、ほとんど深みのない同じような浅い記事ばかりが並んでいる金太郎飴状態なのがつまらないなぁ、と思っています。

                       

                      教義の先鋭化と護教精神…『戦闘民族』と呼ばれるキリスト教徒

                      教義の先鋭化、護教というよりは護教義というのは、かなりあるように思います。特に、あるプロテスタント系のキリスト教のグループの皆さんの聖書理解の体系に軽々しくそれはどんなもんなんでしょうねぇ、個人的には違う考えを持っているのですが、とかちょっこしでも申し上げようとすると、ものすごい剣幕で食ってかかられたり、伝統教派のことを取り上げてお話したりすると、それはキリスト教ではないものであるか如き言説(ひどい場合は悪魔の手先)のような勢いで苦情を申し立てられる、ということは、ときどき、経験するところではあるように思います。

                       

                      このあたりが、あるタイプのプロテスタントの皆様に対して、ネット利用者の界隈で、やや揶揄的にキリスト教関係アカウントの皆様のことを「戦闘民族」と呼ぶあたりの背景となっているのではないかなぁ、と思います。実に先鋭化した護教的な言辞の苛烈なやり取り(いわゆる炎上現象)などが、キリスト教をめぐるネット言論の界隈では時々見られます。残念なことですが。

                       

                      とはいえ、それは現代に始まったことではなく、ネットが始まるはるか以前の過去のキリスト教の歴史を振り返ってみますと、特にプロテスタント系統の教会群において、その戦闘民族が争いあった結果、下の図に示すように、キリスト教には多様な種類のキリスト教会のグループが並存するということになっているように思います。

                       

                      http://natebostian.blogspot.com/2014/12/christianity-in-two-hours-or-less.html より

                       

                      教会にとっての宣教の対象になったときに、「その宣教の対象とする人々の人間理解には何か決定的に欠けたものがある」というのはキリスト教会会員でない教会に飛び込みでいったときには、新しい来会者は、それを体験的に経験されることが多いのではないかなぁ、と思います。

                       

                      実際、この数年間、正教会、カトリック教会、聖公会、日本基督教団、バプティスト(4種類)、改革派系(2系統)、ウェスレヤン・メソディスト(2系統)、日本イエス・キリスト教団、外資系ペンテコステ教会、キリストの教会、メノナイト・ブレズレン・・・・といろいろ教会めぐりをしてきましたが、「名前は何か、どこに住んでいるのか、どうしてこの教会に来たのか、どんな理由で来たのか、どこから来たのか」と結構な教会で、牧師先生や、信徒の皆さんから尋問というほどではないですが、事情聴取をうけました。

                       

                      静かにちょっと礼拝に出たいと思っても、礼拝に出た後、このような事情聴取の嵐が待ち構えていることを考えると、信徒であっても、二の足を踏んでしまう部分はあるかもしれません。つまり、教会にとって「宣教の対象」となった瞬間に、結構上から目線で見られると申しますか、あたかも自分自身が人間でないかのように、人間性を形成しているものが剥ぎ取られ、伝道の対象化、伝道されるべきかわいそうな人扱い、宣教のオブジェクト化するといいますか、八百屋の店頭に並んだかぼちゃかジャガイモ状態になってしまう感覚を何回も持ちました。プログラマもしますので、基本的にプログラム作成業務におけるオブジェクト化は歓迎すべきことなのですが(そもそも、プログラムのソースコードは人間がつくりますが、人間ではないので)、人間のオブジェクト化っていうのは、本当にどうなんだろうといつも思います。

                       

                       

                      https://www.journaldev.com/12496/oops-concepts-java-example から

                       

                      つまり、さまざまで複雑な属性を持った多様な側面を持つ「人間」であるはずの一人の人物が、結果的に伝道の「対象」になってしまっているのではないか、と思うのです。

                       

                      工藤さんがこの本で扱おうとする「宗教者の間にはたらく暴力、換言すれば、宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマ」の問題ですが、これは、カルト化した教会だけの問題ではありません。カルト化しているとまでいえないような教会でも、信仰のためにというよりは、ある教会のために、あるいはある牧師のために、その人の人生を食いつぶされてしまっているというような事例が時々あるのではないでしょうか。

                       

                      もちろん、牧師先生も1年365日24時間体制とまではいかないかもしれませんが、お忙しいことは確かです。だからといって、信徒を手近な労働力として利用したりといった、収奪行為がおこなわれてもいいということにはならないように思うのです。

                       

                      この辺の具体例については、このブログでご紹介しているI do not know who I am.というブログで「キマジメ君のクリスチャン生活」という一連の記事で、架空教会と架空の人物ではあるとは言いながら、30数年間キリスト教界界隈をふらふらしてきた私にとっては、「あるある」だなぁ事例がたくさん紹介されています。

                       

                      このあたりの問題は、クリスチャンn世(nは2以上の自然数)はいろいろご幼少のみぎりから、こういう「宣教伝道という名のもとになされる、信徒の教化、管理、監督、支配、私物化というテーマ」の事例を身近に見聞きしておられることが多いので、「そういう心理機制がそれほど重きをなす」ということを日常的な教会生活での経験によって、十分経験しておられる方が多いように思います。その意味で、工藤先生は、「お幸せな信仰生活・教会生活を30歳代まではお過ごしになられたのだろうなぁ」という素朴な感想を持ちました。

                       

                      表面化しにくい教会内暴力の問題

                      家庭内暴力ならぬ、教会内暴力(それは物理的暴力だけでなく、心理的な威圧・・・)あるいは、教会の暴力など、さまざまなかたちのものがあると思います。多くの教会でこのようなことはないと信じたいのですが、いろいろなキリスト教会をふらふらしていたり、ネットで、よくない教会に当たりたくないとGoogleで検索していたり、牧師先生方の集まりに顔を出していたりすると、結構な情報やサイトにであいます。マスコミやキリスト教メディアでは取り上げられるまでにいたらないものを合わせて考えると、信じたくないほどの教会が問題を内部に抱えているように思います。

                       

                      この教会内暴力の問題について、工藤信夫さんは次のように書いておられます。

                       

                      もしかしたら、この暴力の問題は人間の、そしてまた宗教者の根本的な問題ではないかと思い始めたのである。
                      ところが、現実の私たちは自分自身が信仰の破船にあうまでは、容易にこのテーマを直視しようなどとは思わない。そして、宗教は平和をもたらし、信仰者は鳩のように素直で善良な民であると思いやすいのである。
                      (同書 pp.23-24)

                       

                      個人的に、カルト化した教会で悲惨な目に合われた方を何人か存じ上げているので、こういう信仰の破船にお会いになられた方は、教会をかろうじて離れることが、幸いにしてできた段階の状態としては、精神的にも、肉体的にも、霊的にもぼろぼろになっておられることが多いようですので、このような教会内暴力の問題を直視することすら困難な状態であることが多いのではないか、と思うのです。

                       

                      そもそも、この問題は重たく、そして厳しい問題ですので、容易に取り組むことなどは、そもそも、信仰者レベルでは、無理な問題なのではないかと思うのです。そして、被害にあった方は、教会をかろうじて一時的に外れることができたとしても、元々居られた教会からは、「悪霊にとりつかれた」とか「悪魔の手先に下った」とかあしざまに言われることが多いようです。それだけでも、個人としては気分的に滅入ることの連続になります。

                       

                       

                      悪は教会内でも起きます…問題は、解決方法かも

                      平和を語る宗教者が、平和をもたらさず、害悪をもたらすなどとは、倫理を語るキリスト教の世界ではありえないものと思われてきましたが、この10年余りのキリスト教界隈の不幸な出来事などをみていると、案外普遍的な現象としておきているのではないか、とは思うのです。そんなことを考えていると、あるところでお知り合いになった、デーさんという方の次のようなツィートが目に留まりました。

                       

                      あと私がカトリックになったのはカトリックが正しく無謬だからではなくむしろ逆。おそらく最も古く、大きい組織だから凄まじい破壊や間違いを世界史上最も犯してきてだからそのぶん、悪やおぞましさや国家や組織や共同体とか諸々への考察や洞察が深いと感じたから。

                      このツィートを読みながら、私は、首肯せざるを得ませんでした。今、諸般の事情から、伝統教派の中のチャペルに寄留させていただいておりますが、この伝統教派も過去にさまざまな不幸な事件に関与しました。しかし、歴史の中で、これらの不幸を乗り越えて来ており、現在もなおさまざまな問題を抱えながらも、なんとか乗り越えようとしているようです。そして、確かに、この伝統教派は、過去も乗り越えてきたから、これからも乗り越える知恵はあるかもしれないなぁ、とは思っております。このような今いる伝統教派には、ある種の余裕というのか、問題解決の知恵のシステムがあるようには思うのです。今、個人的に伝統教派に身を寄せている最大の理由は、この辺の問題対応に対する安心感というか問題対応のための仕組みと余裕を持っておられるという部分があるから、ということはあります。

                       

                      さて、工藤さんの本には、ナウエンの次のような文章の引用がされていました。

                       

                      今日のように政治的にも宗教的にも不透明感の大きい時代で、もっとも大きな誘惑の一つは、他の人々に力を行使する手段の一つとして信仰を利用することです。そして、神の名を借りて、人間の命令を押し付けることです。(中略)福音を宣べ伝えるためにこうした力が使われると、よき知らせはすぐに悪しきもの、場合によっては最悪の知らせに代わってしまいます。(ナウエン 『わが家への道』p.29からの引用)

                       

                       このナウエンの指摘は、重たく響きます。カリフォルニア州の歴史を知れば知るほど、福音を伝えるという美名のもと、多くのインディオ(ネイティブ・アメリカン)の数多くの人々の犠牲のもと、サン・ディエゴからサン・フランシスコに至るカリフォルニア・ミッション・システムの教会群が構築されて行きました。西洋の文物や商業などが伝えられたという側面もありますが、結果として、カリフォルニア・ネイティブ・アメリカンの人口は激減することになります。カリフォルニア・ネイティブ・アメリカンにとってみれば、陸続と死に絶えていくことになった人々にとっては、キリスト教は福音ではなく、ナウエンの指摘のように『最悪の知らせ』であった可能性があります。

                       

                      カリフォルニアミッションの出発点 ミッション・サン・ディエゴ・デ・アルカラ

                       

                      また、満州に福音を、と言うことで、キリスト教開拓団が日本から派遣されましたが、実態としては、一からの開墾による開拓というよりは、現地の中国人の農地を取り上げたに近い部分もあったと聞いております。他の類例は限りがありません。

                       

                      なお、この暴力の問題は、ハゥワワース先輩とジャン・ヴァニエ先輩との共著の本でも、論考されております。

                       

                      メサイア・コンプレックスという陥穽

                      そして、工藤さんは、キリスト教や、マルクス主義の中にも、メサイア・コンプレックスが潜んでいることをご指摘です。さらに、質が悪いことに、このコンプレックスの背景には、自分だけが真理を知っているはずであり、したがって、自分のすることが正当化できるという思い込みに導かれているため、その自己正当化が、不幸を生み出すように思います。

                       

                      “メシア・コンプレックス”という言葉は今日さして珍しい言葉ではないので、たいして説明の必要もないだろうが、人の分を超えて神の領域に入り込み、この世界を変革し、救い、また苦しんでいる人々を何とか解放しようとするところに入り込む無意識的な力、すなわちある種の暴力のことである。トゥルニエはマルクスの理想主義にもこの”メシア・コンプレックス” が入り込んでいるというが、個人でも集団でも”自分こそが真理を持っているのだ”と確信するや否やこの罠にはまってしまうのである。(同書 p.26)

                       

                      確かに、思ってみれば、このメサイア・コンプレックスの結果、多くの悲劇が起こされてきました。中華人民共和国の紅小兵と文化大革命、クメールルージュ、日本の大日本帝国時代の八紘一宇や大東亜共栄圏思想、これらは、ある種のメサイア・コンプレックスの変奏曲だったように思います。すべてネガティブな効果しかなかったというつもりはありませんが、ポジティブな効果もあった半面、ネガティブな効果は存在したことは確かだと思います。

                       

                      我が家には、エホバたん(エホバの証人)の皆さんがお届け物を毎週のようにしてくださいます。幸せに暮らすための講演会があるからとか、聖書のお話があるからとか、様々な方法で、お招きしてくださいます。あの方たちの情熱がどこから来るか、というと、案外、このメサイア・コンプレックス、つまり、”自分こそが真理を持っているのだ”という信念からではないか、と思います。あるいは、”自分たちだけが真理を持っており、他はすべて真理ではないのだ”ということになります。どこかの構造に似てないでしょうか。キリスト教のある部分の方たちが、このような考え方に陥っていないでしょうか。

                       

                      集団メサイア・コンプレックス症候群に

                      罹患していたかもしれないオウム真理教

                      そして、結果的には、衆生の救済を目指してポアするという発想にいたっオウム真理教の投手の麻原彰晃さん率いる集団も、ある種このメサイア・コンプレックスに罹患しており、家族や友人たちの反対の声は、無知な衆生の声であり、われら真理を知る者にとっては愚かしく見える、として常識的な声は届かなかったのだと思います。

                       

                       

                      しかし、これは、オウム真理教だけの問題でしょうか。いえ、違うと思います。本来、真理とは、被造物にすぎない、人が触ることも許されなかった善悪の知識の実なのだと思うのです。しかし、エヴァが蛇から教唆されたとはいえ、エヴァが触り、アダムが触って、それも、取って食べてしまったのです。本来神しか扱うこともできない真理に、人間が手出ししてしまい、そして、軽々に扱うようになったのかもしれません。そして、この神しか扱うことができない領域に、牧師先生のみなならず、クリスチャンが全般に、自分は真理を持っている(本当は単にかすったぐらいの感じで出会っているに過ぎないはずなのですが…)ということで、他人の人生に手出しをし、時に他の方の人生を狂わせたりはしているといったようなことが、起きてはいないでしょうか。

                      私は狂わしかけたことがありますので、人さまに石を投げることはできませんが、時々、教会内では、そのような不幸なことが起きているかもしれないよなぁ、と思っております。

                       

                       

                      次回へと続く。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:大変よろしゅうございます。

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                      コメント:こちらも大変よろしいと思います。

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