2018.05.02 Wednesday

これまでのアクセス記録(途中データ欠損部分あり)

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    皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


    2月は、 12,103  アクセス、平均で、日に  432.25 アクセスとなりました。そして、3月も、アクセス数で、13,084 アクセス、一日あたり422.07 アクセスでした。4月は、公開を再開したにもかかわらず、ちょっと下がって8,520アクセス、一日あたり284.0 アクセスでした。2月3月は、全く更新をしなかった割に、あまりにも多いアクセスで、正直驚いております。

     

    2014年第2四半期(4〜6月) 58171アクセス(639.2)
    2014年第3四半期(7〜9月) 39349アクセス(479.9)
    2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
    2015年第1四半期(1〜3月) 48073アクセス(534.1)
    2015年第2四半期(4〜6月) 48073アクセス(631.7)
    2015年第3四半期(7〜9月) 59999アクセス(651.0)
    2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
    2016年第1四半期(1〜3月)   61902アクセス(687.8)
    2016年第2四半期(4〜6月) 66709アクセス(733.1)

    2016年第3四半期(7〜9月) 65916アクセス(716.5)
    2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

    2017年第1四半期(1〜3月)   56858アクセス(631.8)

    2017年第2四半期(4〜6月) 76117アクセス(836.5)

    2017年第3四半期(7〜9月) 55225アクセス(600.3)

     

     

    2月から4月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。

     

    2月

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 439

    あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 アクセス数 166

    Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 159

    結婚相手としての牧師の厳しさ アクセス数 147

     

    3月

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 462

    『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) アクセス数 291

    Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 246

    結婚相手としての牧師の厳しさ  146

    日ユ同祖論というトンデモ理論について その1 アクセス数 124

     

    4月


    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 415 

    「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 アクセス数 364 

    Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 274 

    トマスを覚える主日に アクセス数 264 

    教会は残るか? 教会と危機、そして、一つの群れ、ということ アクセス数 190 

     

    また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。

     

     

     

    2018.05.04 Friday

    先日のチャペルのブルティンから 成文祈祷の強み

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      イースター第3主日のブルティンの表紙絵から

      前々回の日曜日 復活第3主日のブルティン(週報)の表紙絵は、非常に印象的な絵でした。アンソニー・ファルボというアメリカ人の絵描きさんがイエスを描いた絵でした。

       

      画像は、このサイト https://www.falboart.com/からお借りしています。

       

      この週のブルティン

       

      この抽象画のような、ピカソの絵のような、はさみで切り取ったものをのりで無理やりくっつけたかのようなイエスについての絵画を見たときには、あまりにも衝撃的で、見るのもつらい感じでしたが、この絵を繰り返し見ながら思ったのは、ちょうど数週間前までの自分の状態のようだ、ということでした。

       

      ばらばらで、統一感なく、まとまった思考すらすることができない自分自身の姿でもありました。そう、ちょうどコラージュの作品を作るために用意した部品のような状態で、ここ数ヶ月をすごしていたことに思いをめぐらせていたのでした。自分自身で、自分自身を統合することすら、困難を覚える状態でした。統合失調症じゃないか、というありがたいご指摘してくださった方もありましたが、そうだったのかもしれません。

       

      そして、しばらく、聖餐式の前にも、この絵を眺めながら考えました。聖餐式が終わった後もPostiludeが流れる中、この絵が気になってみていました。そして、何度も繰り返し見ているうちに、人間のために、いや、私のために、私に平和をもたらすために、私に平和がとどまるために、Peace be with youと私に言い、それを知らせるために、イエスは、まるでこの絵のような姿になってくださったし、そのためのこの地に来たのだ、ということに気がつき始めたのです。ばらばらになった自分、そこに重なるようにばらばらになったイエスの姿が浮かび上がり始めました。

       

      その日のPostilude Peace be with you 音楽はここから

       

      Sacred Heartについて

      ところで、この絵の下部に、赤いハート型のものが見えますが、それを見た知り合いが、「何で、この絵画にはイチゴがあるんだ?」と半分冗談で、司祭にお話されておられました。その方は、十分このイチゴにみえるものが、Sacred Heart(イエスの裂かれたこころ、心臓)をあらわすことを知っておられる方ですが、冗談で、司祭に言っておられたようでした。

       

      https://www.pinterest.jp/pin/458663543273490372/ から

       

      そういえば、小学生男子の歴史の友(小学生男子は、歴史の教科書に出てくる毛の薄い人が好き)、ザビエルさんも、このSacred Heartを手にしておられます。

       

      https://sanpaolo.or.jp/?p=1680 から

       

       

      冗談はさておき

       

      成文祈祷の強み

       冒頭の絵のような状態で過ごしている期間中、思ったことがあります。今日は、そのことをかいてみたいと思います。それは、成文祈祷の強み、ということです。

       

       もともといた教会は、福音派の中でも、聖霊の働きをかなり強調するグループでした。ペンテコステ派ではなかったですが、もともといたそのキリスト者集団が、英国内でグループとして成立する前後の時点で、クェーカーに属していた人々が大量にそのグループに流入したこともあるようで、その影響を指摘する研究者もいます。

       

      そして、このクェーカーの聖書理解の影響をかなり強く受けたグループの人々が、中国の内陸部(熱河周辺)でかなり熱心に伝道して居られたのですが、中国共産党(と中華人民共和国)の成立にともなって、中国のインランドミッションの継続が困難になる中、同じアジアということで、日本にこられた人々が日本で開拓伝道を始めた教会で育ったこともあり、自分自身の信仰が育った教会では、これらの伝導して居られた人々の国の集団と同様に非常に聖霊に導かれることが重視されていました。

       

      その集団では、特に説教を主に担当する牧師のような教役者という存在はおかず、クェーカーの皆さんと同じ様に、信徒に働く聖霊が働かれて、聖書から語るべきであると確信していました。このため、専任の説教者はおかないことが多かったのですが、最近はさすがにそれではいろいろ不具合が出てきたことなどもあり、事前に説教者(説教の担当)を決めたり、司会(司式ではない)者だけは定めたりするような教会も増えてきましたが、賛美歌なども当日、聖霊に導かれることで決まることになっているため、定めることが特にない、というグループでした。このようなキリスト者集団で長く信仰生活を過ごしてきました。

       

      そんなものですから、週報とかの存在がごくごく普通であるのを、ここ3年余り、近所のカトリック教会や、プロテスタント教会をめぐりする中で、知ることになりました。もともといたキリスト者集団は、人数が少ないキリスト者の集団でもありまし、さらに、自分たちこそがより良いキリスト者集団のあり方だ、と信じている人々でしたから、他のプロテスタント教派に行くことすら、はばかられる雰囲気が、そのキリスト者集団の中に流れていたことは確かです。


      さて、そのような信徒が聖霊に導かれる、という前提(あくまで前提ですから、必ずしもそうでないことは私自身を振り返ってみればわかることなのですが)で動いているキリスト者集団の日曜日のプログラムでは、聖霊に導かれて賛美する賛美歌も決まるし、説教者も決まるというキリスト者社会でした。その社会というか、教会の中で育つ中で言われたことは、「週報のように事前にすべて決めてしまうと、そこに聖霊の働きがなくなるではないか」というご説明でした。たしかに、一見、もっともな気がします。まぁ、そういわれてきたのでそうだと思い、それで、自分自身を納得させてはいたのですが、その集団の中で、まじめに説教に取り組む日々を過ごしてきました(一応説教者の役割のようなことを毎週のように果たしていたので)。その中で、この説教のテーマにあった賛美歌を選んで、この賛美歌でお願いできませんか、とかいうと、聖霊の働きがなくなるからダメなどといわれ、説教と無関係な賛美歌が説教後に流れるたびに、絶望感とまではいいませんが、なんだかなぁ、と残念な気持ちになったことは確かです。

       

      しかし、今は、いろいろな事情から、その集団を離れることとなり、伝統教派の教会に身を置く中で、説教というよりは式文に養われる身になっています。そして、異なる視点でキリスト教を見ることになりました。

       

      もともといた教会に参加するのをやめ、あちこちの教会に身を置いてみることにしました。文化人類学における参与観察をしてみることにしたのです。信仰者として。そして、それこそ、正教会からはじめて、カトリック、宗教改革以降登場した多数のプロテスタント教会(ルター派、カルヴァン派を数系統、バプティスト派を数系統、メソディスト派系を数系統)など、たくさんの種類の教会めぐりを始めてから、今年で4年目になります。それはそれで面白い経験でした。ここまでキリスト教に多様な教会群があり、多様な教会の形があることを体験することになりました。いろいろな教会にお伺いする中で、思ったことは、実に多様であることと、しかし、そうであってもキリストの中心性があったとういことに気が付きました。それは、個人的には、非常に大きな収穫でした。

       

      いろいろ回る中で、今参加しているアングリカン・コミュニオンの海員向け教会に、ほぼ毎週参加するようになりました。このような結果となったのは、いろいろな個人的事情の結果ではあったのですが、今は、そこでしばらくいさせてもらいたい、いや、そこにい続けたい、と思っています。それは、成文祈祷を知ったから、というのが大きな側面でもあります。

       

      まともに文字が読めない中での成文祈祷

      これまでの連載でも書きましたが、文字が読見たくない、文字を読むのが苦痛、そして、文字を基に考えるのがつらい、そして、文字をタイプするのもつらい、という状況が待降節前後から始まりました。そして、その中で、4ヶ月あまりをすごしました。イースターからペンテコステに向かう時期を迎えた今、少し余裕が出てきて、まとまりが出てきましたので、このブログでも週に一回思ったことを書くことにしています。

       

      待降節以降の、この砂漠のような、砂をかむような時期を過ごしました。同時に、健康上の理由から食事をかなり制限(正教会のレント時期の食事節制に近い食事に制限)する中で、そして、自分で考えることもできない、自分の言葉で祈ることもつらい、という時期の中で、助けになったのは、そして、実際に慰めになったのは、実は、アングリカンの式文(祈祷文)でした。自分の言いたいことが、コンパクトに言葉になって、さらに、聖書の言葉に裏打ちされた式文の表現に自身が思うその思いが詰まっている、という経験をしました。式文の言葉は、祈る言葉を見つけることさえつらい状況の中で、思いを寄せることができたのです。そして、聖餐式(礼拝)の中で、決まりきった定型文である祈祷文を声に出していく中で、式文に思いを寄せることができるということを自ら体験してみることになったのです。

       

      主よ、哀れみたまえ   (キリエ・エレイソン)

      キリスト、哀れみたまえ (キリステ・エレイソン)

      主よ、哀れみたまえ   (キリエ・エレイソン)

       

      自分の言葉が見つからず、祈れないときに、この祈祷文は本当に助けになりました。もちろん、以下のような賛美歌にもなっています。別に、ラテン語で歌ったり、祈ったりする必要は必ずしもないのですが、短い言葉で祈ること、聖書に裏打ちされた言葉で祈ることができるということを、そして、多くの普段はほとんど関係のない人々と教会で祈ることができること、ということの意味を、霊的な寄港地のようなサービス(サービスには、聖餐式の意味もあるのですが、聖餐式を通して与えられる哀れみにすがるよすがを与えてくれている状態)を与えてくれることになった今のチャペルで、ほかの人々、一生で1回しか会わないかもしれない海員の皆さん(最近は合理化の影響のためか、めっきり海員の参加者が減っているのですが)とともに、式文を唱える中で、ぼろぼろの状態でも自分自身が神にあって生きていくことについての助けを得られた、という感覚があったのは事実です。

       

      Taize のキリエ エレイソン(主よ哀れみたまえ、キリスト、哀れみたまえ)

       

      あるいは、祈祷書の次のような表現が、日常生活の中でも思い起こされました。


      Heavenly Father,
      we have sinned against you and against our neighbour
      in thought and word and deed,
      through negligence, through weakness,
      through our own deliberate fault;
      by what we have done
      and by what we have failed to do.
      We are truly sorry and repent of all our sins.
      For the sake of your Son Jesus Christ who died for us,
      forgive us all that is past;
      and grant that we may serve you in newness of life
      to the glory of your name. Amen.

       

      あるいは


      LEADER: O God our Creator, your kindness
      has brought us the gift of a new morning.
      PEOPLE: Help us to leave yesterday and
      not to covet tomorrow, but to accept the
      uniqueness of today.


      LEADER: By your love celebrated in your
      Word, seen in your Son, brought near by your
      Spirit, take from us what we need to carry no
      longer,
      ALL: So that we may be free again to
      choose to serve you and to be served by
      each other. Amen.

       

      切れ切れに思い出される祈祷書の表現が、この数ヶ月間、私を養ったことは本当に確かなのです。上の祈祷文にあるように、お互いに仕えられあうことができる、そして、お互いの独自性を知り、その存在を喜ぶことができる、その存在そのものを享受する、ということの大切さを思って過ごしてきました。

       

      「形式的な祈り」の強さ

      そんななか、fuminaru k さんという方のブログで、 クリスチャンにとって「祈り」って何ですか? という記事が投稿されており、大変面白く読ませていただきました。ここで、fuminaru kさんは、 「形式的な祈り」 という言葉を使っておられますが、Anglican Communion のCommon Prayer bookや聖公会の祈祷書、カトリック教会や正教会での式文などは、おそらくfuminaru k さんのおっしゃる「形式的な祈り」 に属するものと思います。

       

      こういう祈りに触れることがない教会に長く集っていた信徒であるミーちゃんはーチャンが、正教会(日本ハリストス正教会や日本コプト正教会)や、カトリック教会の成文祈祷あるいは式文による礼拝に触れたときの衝撃は、想像を絶するものがありました。

       

      しかし、その世界に触れてみてわかったことは、これらの成文祈祷とそれによって行われる礼拝(聖餐式)は、表現している言語や祈り方、ことばの表現方法には違いがあれど、多くの伝統教派での礼拝の構造とその内容は基本的に同じである、ということでした。式文に従った礼拝は、ある種の構造の強みを持っていたのです。礼拝、ないし聖さん式の構造が、実は同じキリスト教会の仲間である、ということを識別可能にする意味を持つのだ、ということを体験することになりました。また、式文での内容がほぼ同一のコンテンツと意味を持っている、ということはこれらの共通する構造、祈祷表現を共有するという点で、基本的に同一のものに属するものであると理解することができたのです。この同一性の認識についてのみ言えば、実に多様な礼拝の構造が見られるプロテスタント教会同志よりは、より容易かもしれない、と思ってしまうほどでした。

       

      そして、成分祈祷の世界にどっぷり浸かっていき、そこで養われるうちに体験的に理解できたことは、ある面、成文祈祷や式文による祈祷は、表現内容の骨格を与えるのみであって、余白を埋め尽くさない強みがある、ということに気がついたのです。つまり、骨格に触れることで、自分たちが大事にしている信仰の根幹の部分に、この成文祈祷と式文で毎回触れていくのだけれども、そこには、個人が思いをはせる余白がかなりたっぷりと残っている、ということに気がつき始めたのです。

       

      自分の言葉で埋め尽くす祈りの黒歴史

      もともと長くすごしたキリスト者グループでは、「聖霊に導かれて祈るので、当然その時々の働きかけが違ってくるので、当然《形式的ではない祈り》になるはずだ」という理解をしており、実際にそういう形式のないタイプの祈りで祈るという期間を長くすごしたきたことは確かです。しかし、それは、同時にとにかく祈りを自分の言葉や表現で埋め尽くそうとする行為という側面も持ちました。レクティオ・ディビィナを習得するまでは、特にそうでした。

       

      また、特に、異言を重視しない、どちらかとういと異言を否定的に捉えるキリスト者グループでしたので、異言で祈りを埋め尽くす、とか、異言で祈りを埋め尽くそうとするという傾向はそもそも持っていませんでしたけれども。ある意味で、クェーカーの精神性には近かったのだろうと思います。クェーカーというグループの名称の由来になるほど、大きく体を揺り動かす身体的な文化もありませんでしたが。静かに祈る中で、その静けさの中で、心の中で神に向かっての思いを自分の言葉で埋め尽くすことが、祈りであるというような印象を祈りについてもっていたという部分もあったかと思います。

       

      しかし、今、伝統教派の成文祈祷、式文による祈祷の中で、司祭のことば(祈祷文)に耳を傾け、決まりきった成文祈祷の表現を口にしながら、それでもそのことばの周辺に漂う余白に思いをはせるという日々が続いています。確かに、説教は15分程度と短いですが、式文による礼拝、あるいは聖餐式そのものが説教以上に、キリストのことを指し示している現実に触れる中で、そして、自らのぼろぼろの精神状況に向き合う中で、あるいはボロボロの知的状況の中で、つまり、いのりのことばを自らつむぎ出せない状況の中にあって、かえって決まりきった表現と思えるような表現を、毎週目にし、また繰り返し声に出して表現するなかで、毎週新たな印象をそれらの祈祷文や式文の表現に感じる、という不思議な体験をしています。

       

      でも、よく考えて見れば当たり前のことかもしれません。聖書の表現も、多少翻訳によって醸し出されている雰囲気は違えども、基本的には同じ表現、同じことを指し示しているはずですが、読むたび、見るたび、感じることが少し違ってはいないでしょうか。同じ文章を目にしながらも、毎回受ける印象が違っているからこそ、少なくないキリスト者たちは、飽きもせずに同じ聖書のことばを読んでいるのではないでしょうか。

       

      伝統教派の成文祈祷が繰り返されるのも、形式的に口にしておけばよい、という形式だけの祈り、というよりは、どうも同じ文章ではありながら、毎度毎度、その言葉で祈ると気に違ったイメージや思いが拡がってくる、という部分があるように思いますし、特に身体的に、霊的に、知的にも自己の表現で祈り得ない、言葉にすらできないときにも、その式文の一部を思い出すことで、祈ることができる、ということをこの数ヵ月間、経験するところとなりました。

       

      ロマン主義の影響を受けたキリスト教

      近代に生まれたプロテスタント教会も私にとっては、大切なキリスト教の偉大な人々からなる教会だとは思っています。実際、私の背景の一部ではあります。しかし、今反省的に思ってみると、ただ、社会やその中の文化を人間中心とするロマン主義が支配する時代を経るなかで、人間として聖書が読めることがあまりに重要となりすぎているかもしれない、自分の言葉で祈ることをあまりに過大に重要と理解しすぎているかもしれない、ともこの数カ月の荒野のような経験を通して、思うようになりました。確かに、普通の人が聖書を自分の言語で読めることは、神に近づく縁を与えられている点で大きなことではありますし、その豊かさを否定しようとするものではありません。しかし、聖書が読める、人間が自分の言葉で祈るということをあまりにも重視する場合、その弊害は果たして皆無であろうか、と思い至ったのです。

       

      というのは、精神的、知的に弱い状態になったとき、つまり、祈りを自分の言葉で紡ぎ出せない状態や、聖書を読めなくなった状態の人たちにとって、このロマン主義的理解といいますか、ロマン主義的な文化に基づく理解が教会やキリスト者集団を支配している場合、聖書が読めない、聖書を読むことに困難を覚える、自分の言葉で祈れないような方々の信仰を尊いものとしてみなくなってしまう傾向はないだろうか、あるいはそういう方々の信仰を劣ったものと見てしまうような危険性は果たしてないだろうか、そして、そのようなことができない人々に無理を強いる側面はないだろうか、と思うのです。聖書を読めない、自分の言葉で祈れない人々に対して排除の原理が働くとまでは言いたくはありませんが、聖書を自分で読めない、祈れない人々に、ロマン主義的な文化を持つようなキリスト教社会が優しいか、というと、どうも、そういう人たちにとって、ロマン主義的な文化の中で生まれてきたキリスト教は優しくないし、その様な人々に過剰なものを求めているかもしれない、いや、正確にいうと、そのロマン主義的な文化の中で生まれたキリスト教の中で過ごしてきた私は、自分で聖書を読めない人々、自分の言葉で祈れない人々に過剰なものを求めてきたのではないか、と反省するようになりました。

       

      この数カ月の経験は、非常に個人的には厳しいものではありましたが、キリスト者の生き方を考え直し、新たな視点を得た、という意味において、豊かなものになったのかもしれない、と思うようになりました。その意味で、冒頭の復活のナザレのイエス像に示された絵画のようなバラバラ状態になるのは、大変つらい経験ではありましたが、その中で得たことについて、最近は、そんな事を考えております。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      価格: ¥ 810
      ショップ: bookfan 2号店 楽天市場店
      コメント:入門書として、実によろしいか、と思います。

      2018.05.11 Friday

      生きる「意味」としての他者への愛…を考えさせられた

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        先日の説教から 愛について

        先日の日曜日の説教は、ヨハネの福音書15章9−17節からの内容がテーマでした。そこで、愛について、いろんな歌があるよねぇ、とか言いながら、いろんな世俗の音楽のタイトルを挙げていました。そして、その多くが、ロマンティックな愛、あるいは、恋愛を歌った歌であることなどを取り上げられていました。

         

        その時説教内で取り上げられていた愛についてのBee Geesの音楽

         

        そんな話題のあとで、聖書の中に出てくる愛のギリシア語では、3つあって、エロース、フィリオ、アガペー云々とありました。そこで、ギリシア語の意味の違いに多少入りながら、割と軽くスルーして、その日のブルティンの表紙絵(この日は適切な絵画がないので、塗り絵なんで塗り絵してもいいよ、イギリスではやってるんだけど…とか言いながら)に出てくる Greater love has no man than this, that a man lay down his life for his friends(John 15:13) のlay down(日本語だと、その人のために差し出すとか、身を挺するとかいう意味、その昔女子挺身隊とかいう言葉が日本語にあった)ということに話が及びました。

         

        【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
         15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
         15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
         15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
         15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
         15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
         15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
         15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
         15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
         15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

         

        他者のために命を差し出すこと

        日本語では「命を捨てる」と翻訳されていることも多いのですが、どちらかというと命がけで守るとか、自分の命を犠牲にしてまでも他社のために尽くすということがあり、そのような仕事をした人として、コネティカット州の小学校で、銃乱射事件のときの小学校の先生の例が取り上げられていました。

         

        では、他にどんな職業があるのか、という話になり、皆さん、警察官、消防、軍関係、宣教師とかまぁ、いろいろお話して居られました。個人的には、キプリアヌスやらボンフェファー先輩のことが頭の中には浮かんでましたが・・・

         

         

        コネティカットの小学校での銃乱射事件で、こどもを守るために身を挺した女性教師のニュース

         

        女子挺身隊の歌

         

        この身を挺する、命を他者のために差し出した人々やその職業について触れた後、愛するとはなんだろうか、と問いかけがあり、人々のことをを気にかける、世話をする、思いやる、関与する、継続的に関わる、とか言うことなどの話があり、人々を愛するために死ぬ、という話もあるが…という話になりました。

         

        継続的にかかわる、という愛の姿

        しかし、愛が関与することであるのだとすれば、死んでしまっては関与ができないので、実は、愛するということは、生きることとつながっているのではないか、という話がなされました。人々と継続的に関わることが愛である、と考えるならば、死んでしまっては、愛せないことになるのではないだろうか、よほど、生きて継続的にかかわっていくことのほうが大変な場合もあるだろう、という話になりました。そして、我々は案外、「神様、今忙しいから、あとで対応しますね」というような生き方をしていないだろうか、日曜日や日曜日の礼拝の時だけ、聖書を読んだり、賛美したりするときだけ、神を愛していることを示してないだろうか、という指摘は、個人的にはかなり耳が痛かったです。

         

        人々のために、身を挺したイエスがいて、そして、今もまた、そのご自身をわたしたちのために示そうとしておられるし、わたしたちもイエスが、ご自身の身を挺したその模範に従って生きること、生きていて、そして、他者に関与していくことを求めておられるのではないか、そして、生きていて、他者に常時関与していくほうが、死んでしまうより、よほど長期間に渡るし、多くの苦難を強いられる場合もあるのではないか、というのが、今回の説教の概要でした。

         

        説教の終わりに…

        15分位の短い説教でしたが、その最後に、小さな赤いハート型の紙に、みなさんが愛することが困難な人を書いてください、そしてみんなでその人々のために祈りましょう、どうぞ、聖餐卓のところにもってきてください、あなた一人で、愛することができなくても、他者からの介入や援助、他人の協力や祈りがあれば、できるかもしれませんから、ということで、少し時間を取り、記入したハート型の紙の裏側にそれぞれが書き込みをしたものを聖餐卓にもっていって、その後、聖餐に移りました。(この日はカフェ・コミニオンでしたので、聖餐卓といっても以下の写真のような感じの聖餐卓)

         

        Cafe Communionの時の聖餐卓

         

        そして、いつものように

        The Lord be with you.
        And also with you.
        Lift up your hearts.
        We lift them to the Lord.
        Let us give thanks to the Lord our God.
        It is right to give our thanks and praise.
        という聖餐の前にいつも声に出して読む言葉を、実際に声に出したとき、特に、後半の We lift them to the Lord. や It is right to give our thanks and praise. と言ったときに、今までと違って、自分の命や感情も、神のものとして捧げているか、そして、私のためにも身を挺したイエスとその愛に改めて感謝し、神を賛美することの意味を問われました。
        日本では、愛することは死ぬことを意味する場合も…
        今回の説教で、割と気になったのは、日本では、他者のために死ぬことを、「花と散る」とか言って比較的美化する傾向があるように思うのですが、「他者を愛するための生」という発想の重要性を今回の説教を通して改めて感じる事になりました。
        花と散ることが賛美されていた軍歌
        生きる「意味」としての愛
        ちょうど、この回の聖餐式に行く電車の中で、松島 雄一 司祭という日本ハリストス正教会の大阪教会の司祭の方が翻訳された、アントニー・M. コニアリス という方の本「落ちこんだら―正教会司祭の処方箋171」(これについては、いずれ取り上げたいと思いますが)を読んでおり、その中に、ナチスドイツ支配下のユダヤ人強制収容所を生き延びた、精神科医師ヴィクター・フランクルが患者に「あなたはどうして自殺しないのか?」と聞くことが触れられていた部分がありました。

         

        彼らは、その絶望にもかかわらず、なぜ生きている方を選ぶのでしょうか。

        博士はやがて気づきます。あるものは自分の子供達を愛しているから生きる方を選びます。また別のものたちはその宗教的な信念によって苦境に耐えます。(中略)そのどれもが、患者を奈落の底から逃れさせる一筋の導きの糸でした。その答えはいずれも皆、人が新しい人生へと立ち上がるための最後に残った「意味」でした。

         

        どんなに落ち込んでいてもなお、あなたに生きることの方を選び続けさせる理由に、焦点を合わせない。イエスに焦点を…

        「落ちこんだら―正教会司祭の処方箋171」 pp.58−59

         

        上で引用した部分と今回の説教が重なって、イエスを愛するために生きる、イエスに焦点を合わせ、イエスに関与するために生きるように招かれている、そして、イエスは、人間に関与するために、人間に身を挺するために、永遠に生きている、ということの意味を感じることとなりました。

         

        イエスが死より復活し、墓にあるものに生命を与える、という正教会の復活祭に歌われる賛美歌(パスハのトロパリ)がありますが、まさに奈落の底である墓から逃れさせる『意味』こそがナザレのイエスという存在なのだ、ということを改めて思ったときに、ほんとうに、

         

        It is right to give our thanks and praise.

         

        ということの意味を思いました。そして、自分を捨てる、自分の命を捨てる、ということは単に死ぬことを意味するのではなく、生涯を他の人のために差し出すために〈死ぬ〉ことだけではなく、〈生きる〉という生き方、大変だけれども、常に他者のために生きるというナザレのイエスが生きたようなサクラメンタルな生き方、すなわち、神の存在をこの地に示すという生き方に、招かれていることということを考えるに至りなりました。

         

        そして、イエスが復活し、永遠の命をお持ちであるのは、我々に、イエスが、そして、聖霊が、神が永遠に関与するというその大変なことのためなのかもしれない、とも思いました。

         

        パスハのトロパリ ボカロ・ヴァージョン

         

        信徒としてサクラメンタルに生きる

        司祭や牧師として生きることだけがサクラメンタルな生き方ではなく、ことばのみによる伝道だけでなく、日常の生活を通して神の臨在と神の人間への関与、そしてそれが愛の表れであることを示して生きること、これは、伝統教派、正教会、カトリック、聖公会の教会に参加する中で、これらの教会で式文とともに生きる人々と時間をともに過ごす中で、そして、そこでの式文を読む中で、次第に示されていったことです。

         

        この世界に触れるまでは、ミーちゃんはーちゃん個人は、いかに神の存在を言葉で示すか(いわゆる伝道とか説教で示すか)のみに必死になりすぎていて、それこそがキリスト者の生きる道、と思っていた部分がありますが、そして、その中で、自分自身が苦しみ、もがいていた感じがあります。現在、信徒として生きるという選択の中でも、個人としてはできることに限りがあるために、不完全でありながらも、サクラメンタルな生き方(神の存在と神の愛を指し示すような生き方)ができることを教えられているという意味で、信徒として、サクラメンタルな生に生きる、ということの意味を、ここのところ改めて考えています。

         

         

        そして、

        Go in peace to love and serve the Lord
        という司祭の祝祷の言葉は、ある意味で、サクラメンタルな日常の生に招かれているのだなぁ、と思いめぐらした主日でした。

         

         

         

         

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        コメント:アメリカのハリストス正教会の司祭の方がおかきになった本ですが、非常によろしいか、と思います。

        2018.05.16 Wednesday

        サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (1)

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          前回の記事で、ここ数ヶ月、精神的にも、知的にもバラバラで、まとまって考えるという行為ができなかったことをお話してきました。そして、その中で、伝統教派の式文と成文祈祷に養われる、ということでかろうじて神の前に生きてこれたことをお話しました。

           

          その中の教会生活で素朴に思ったことは、近代をいう時代を支配したロマン主義という考え方が、案外、教会内で現在の参加者や個人を苦しめている部分があるかもしれない、ということを改めて考えるようになりました。そして、それは、サクラメントとサクラメンタルとの間の錯誤というか、錯乱というか、混乱が起きているのではないか、という辺りが現代の教会において、起きているのではないか、と思うようになりました。

           

          これから、2,3回でこのあたりのことを書いてみたいと思います。

           

          説教中眠く…教会あるある

          そう思っておりますと、時々、チラチラと拝見している fuminaru kさんという方の、I don't know who I am というブログで、礼拝説教中に眠くなったら、どうする・・・? という記事を書いておられました。

           

          個人的に説教を担当していたこともあるので、1時間近い、長い説教(講解説教、そしてそれは後悔説教となった…)をしたこともありますし、わたくしの説教中に、安らかにお休みになっておられる方のお姿を拝見しながら、説教を担当し、お話ししていたこともあります。

           

          説教者にとっては、お休みになられる方を見ると、非常に残念な気分になることも確かです。モラルというのか、やる気がうせる、とでもいうのでしょうか。

           

          説教をほぼ毎週世俗の仕事をしながら担当いたしておりますころは、毎週なんとか、説教がイエスという人を指し示す機会になれば、と思い準備していたことも確かですし、それなりに、苦労して工夫をしたつもりの説教で、すやすやと安らかに、席でお休みになられる方を見ると、実際、やる気が萎えるような状況になったことも少なくありません。どうしたら皆さんに聞いていただけるのか、と悩むとまでは経験したことはございませんが、手を変え、品を変え、どうすれば、私のつたない説教を聞いてもらえるのか、ということで新たな工夫に、工夫を重ね、説教の準備に心を砕いた日々を過ごしたこともあります。

           

          眠気を誘う説教…

          説教が眠くなるというのは、個人的な経験を振り返ってみた場合、聞き手の側の本人の身体的な状態、特に疲労とか、直前週に起きた出来事や仕事の結果の疲労とかも影響することも少なくない(これは実感としてあります)のですが、眠くなるのは、説教の提示の仕方というか、論理構成がしっかりしておらず、説教の筋というか論理構成が、どこに行くのか二転三転ならいいのですが、七転八倒する場合に多いようです。

           

          結果として、説教のストリーラインがどこに向かっているのかのある程度予測されそうな着地点が見えない説教や、説教のお話との関連性があまりわかりやすいとはいえず、関係性が見えない(余分な話が多すぎて、何が言いたいのかよくわからない)内容が多くちりばめられた説教は、説教への集中力を奪われるようなきがします。その結果として、個人的には聞いていて眠たくなる傾向が強いような気がします。あと、触れられている内容が異様に多すぎる上に、説教をしている側の本人の中では、関連があるとお考えゆえ、言及しておられるのでしょうが、触れられているそれぞれの内容ごとと本論との間の関係が整理されていない説教や、関係のない話題が多すぎるものも集中力が奪われるようにおもいました。その結果として、眠たくなる傾向があるように思います。つまり、説教内容の構造化がされてない説教は、眠くなるような気がします。

           

          論点を3点に絞って、その3点を聖書から関連する箇所を示して議論するタイプの説教スタイル(ヤンキー牧師の説教はこのタイプの説教が多いように思います)が万能だとは思いませんが、これくらい単純化された構造であれば、聞いているほうは安心して聞くことができますし、どんな説教だったのかを多くの人が、短い場合、30秒から、長くても3分程度に要約することができます。ただ、この手の説教は、聞き手の側で次ぎにどのような内容とそれに関連する聖書箇所が取り上げられるだろうか、ということを予想して遊ぶ、ということを手練れの聞き手は試み始めますので、良し悪しはあるかもしれません(実際に、これをやって、次の言及聖書箇所を話し手が分からなくなったときに、ここですか、と指摘したことが何度かある)。

           

          そういえば、ヨベルさんから牧師の説教を聞いて要約して、その内容におまけにかなり高度な突っ込みを入れているという類例のない本(説教聴聞録、 下記のリンクを参照)が出ておりますが、こういうことを真剣にしながら、説教を鑑賞するのもありかなぁ、と思います。説教者には迷惑な存在、と思われる説教者もおられるでしょうけれども。でも、説教中に眠られるよりはまし、とは思いますけれども。

           

          授業でも同じだよね…

          興味がないと眠気が自然と誘われてくるのは、高校生や大学の学生の頃の授業でも似たようなもなので、授業や講義でも、あまり関心がなく興味を覚えない科目の講義は眠たかった記憶があります。逆に、役に立ちそう、あるいは、役に立つかどうかとは無関係に、面白そう、関心のある内容の授業は、不思議と眠くはならなかった記憶があります。

           

          まぁ、人にもよるようで、ミーちゃんはーちゃんのお友だちの牧師先生の内のお一人は、こじんまりした研究会のような場でも、うとうとされておられることが多いので、「お疲れなのですかぁ」とお聞きしたことがありますが、「聞いているが寝ている、寝ているように見えるが聞いている」とおっしゃっておられるので、まぁ、眠っているように見えても聞いておられる方も、時にはおられるようです。

           

          概して短い儀式派の説教

          説教の時間に眠たくなるのは、説教の良し悪しや、聞き手の側の関心分野との重なり具合もあるでしょうが、それ以上に、説教の時間が、多くのプロテスタント教会で礼拝の時間の中で占める割合が異様に大きすぎる気がしているのです。正教会の礼拝は、全体で1時間から2時間弱のことが多いようですが、その礼拝中での説教は、5分から10分くらいですし、カトリックでも、聖公会でも1時間の礼拝の時間中、説教は10分から15分くらいのことが多いように思います。

           

          カトリックの信徒さんの色々事情を教えてくださる、ありがたいお友達がお一人おられるのですが、一度、そのお友達のおられるカトリック教会で、日曜日の礼拝に、近所のプロテスタント教会の牧師先生をお招きして説教をお願いしたところ、延々1時間近くお話になられて、結構参加者の皆さんがご苦労された、とお聞きしたことがございます。カトリックなどの伝統教派では、聖餐式の内容の儀式がフルにあって(最低でも1時間近くかかる)、「説教と合わせて、礼拝が計2時間近くなって、大変だった」ということをお聞きしたことがございます。

           

          確かに、伝統教派では、儀式で式文に従った礼拝を、賛美歌抜きで実施しても、それだけで30分はかかります。それに、賛美歌、説教とか入ってきて、それで1時間近くですから、これにさらに1時間近い説教で、バルトだのヴィトゲンシュタインだの普段カトリックの方にとって聞きなれない人物の名前がバンバン出てきたり、ギリシア語の由来が云々というようなプロテスタント風の説教を拝聴することになると、もはや、その時の参加者も、さぞやへとへとになっておられたであろうことは、想像に難くありません。

           

          カトリックの司祭様でプロテスタントの礼拝とそのスタイルとそれを支える神学をご存知の方はあまり多くはございませんし、逆にプロテスタントの牧師様で、カトリックや正教会系の礼拝と聖なる儀式(サクラメント)とそれを支える神学をご存じないのが、実情のように思います。

           

          説教がメインのプロテスタント教会

          知的エンターテイメントの一種だった説教

          一般にプロテスタントの教会では、説教が中心で、礼拝のかなりの時間を占めることが多いようです。20分、30分で短いくらい、長い説教では2時間超も昔はあったようです。さすがに忙しくなった現在では、そんなに説教したら、信者さんからブーイングが後で出るので、2時間を超える大説教はないと思いますが。昔は、イベントやテレビや、インターネットというものがあったわけではないので、長州の知らないことがいっぱい出てくるお話は、一種の知的な好奇心を満たす機会であったように思います。

           

          今の時代とは違い、インターネットもテレビもない世界での牧師先生の説教の時間は、西洋や米国の地方部居住者のキリスト教徒にとって、優れた耳学問の機会であったとは思います。新聞やラジオも、テレビもない退屈しきっていている社会で、無筆、文字を読めない人だらけの社会だったからこそ、週に一度、世界や全国ニュース等が聖書との関連理解の中で、当時の地方社会のインテリでもあった牧師先生(当時は、社会の中に、今みたいに大卒がごろごろしている時代ではなかった時代の牧師は一応第ないし新学校卒で字が読めるので、インテリの部類)からお話を伺い、説教中に現代の池上彰氏よろしく、わかりやすく解説されて聞かせてもらえる機会は、少なかったはずだと思うのです。そのような状況下では、それはそれで、長い説教も一定の役割、一種のちょっと知的なエンターテイメントといった要素もあったように思うのです。

           

          池上彰氏は世俗的テレバンジェリストかも…w

           

          ところが、テレビで日本では、久米宏さんや池上彰さんといったインテリっぽい人が話、米国では、古くは、Rally Kingさん、Wolf Blizerさん、Anderson Cooperさんなんかがご出演されまくリングで、解説映像が流れまくリングの世界だと、そちらに流れるのは当然で、説教は、そのような時代開設の役割を期待されなくなるのは、当然でしょう。牧師先生の説教に、テレビが流すクオリティ以上のコンテンツがあれば別でしょうけれども。長い説教が、このテレビコンテンツ、ネットコンテンツ、新聞や雑誌コンテンツの劣化コピー(テレビで聞いたこと、新聞・雑誌で書いてあること、を基に説教ができているとすれば、それは劣化コピーですよね。某公党の国会での質問の基礎が、雑誌や新聞だとすれば、それは劣化コピーの質問になるわけで、国政調査権という言葉が悲しい思いをする、と思っているのは私だけ…)でしかなくなるわけで、そんなものはあまり興味を持たれなくなるように思うのです。

           

           

          WolfというCNNの番組のプロモヴィデオ

           

          懐かしのRally King Live (トランプたんと、メレニアたんが出ている)

           

          Anderson Cooper 360のAnderson Cooperたん

           

          説教もいろいろ…

          お知り合いで地方のプロテスタント教会に赴任されて居られた方で、そこの信徒が高齢者が多く、あまり知的なことに日常生活の中で触れておられない方が多い教会で、10分以上の説教に信徒の皆さんが耐えられなくて、致し方なく、短くわかりやすい説教をしておられ、それに心を砕いておられた方を存じ上げていますが、かなりご苦労されておられたようでした。説教が非常に良いものが多かったので、以前いたプロテスタント系の教会にお招きしたことがあります。その教会も高齢者が多かったので、短いし、わかりやすくてよい、と大変好評でした。

           

          もちろん、先にも書きましたように説教(基本的には、30分超、長い場合は1時間弱の説教)していた側でのミーちゃんはーちゃんとしては、「できるだけ、聞いていただいている人々の聖書理解が深まるお役に立ちたい」と思い、「神について知り、神を知るきっかけとなるこ」とを願い、「神の臨在を味わってもらう場と教会がなるように」と期待しながら、できるだけ、聖書と神についての内容を盛り込もうとする(実際に、そうしていました。反省してますけれども)ことを説教者の方々は試みておられるのでしょうけれども、それがかえって逆効果になっている場合も少なくないようですし、自分自身の限られた経験を通しても、内容詰込み過ぎた挙句の行きすぎ、聞いている皆さん方は消化不良を起こし、食傷気味となる、という傾向はあったと思います。

           

          神をより深く知っていただくため、という目的があるにせよ、教会での時間をことば、それも自らのことばで埋め尽くそう、というような側面がミーちゃんはーちゃんの説教には、少なくなかったように思います。今は行き過ぎだった、と思っていますが。

           

          こうやって、自分の言葉で説明す草生とする、というのは、合理主義が幅を利かせ、人間がすべてのことを理解可能であるし、人はすべて言葉により同一の内容の理解に到達させることができる、という前提ゆえ起きた、ロマン主義に深く彩られた近代の不幸だったのかもしれない、と思っています。人と人が理解を図るのに、ことばや講演のような形のお話は、かなり有効な手段の一つですが、それがあまりに大きなウェイトを占めてしまったのが、ロマン主義に支配された近代の不幸だったように思います。

           

          続く

           

           

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          コメント:こんなに聞かれたんでは、説教者にとって、きついだろうなぁ、と思いましたが、面白い試みだと思います。

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          コメント:これまた、きついだろうなぁ、毎週の説教が口頭試問状態になっているんじゃないか、と。説教者と聞き手の信頼関係があるがゆえの本だと思います。

          2018.05.18 Friday

          サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)

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            前回は、プロテスタント教会での礼拝と、そこで説教中に眠たくなるという経験と、現在の米国のプロテスタント系教会の影響をかなり強く受けた、日本のプロテスタント系キリスト教会の説教スタイルの成立の背景じみたことをお話してきました。ミーちゃんはーちゃん自身も、説教者として、そのような北米系のキリスト教会の説教スタイルの影響を受けたキリスト教の世界になれていましたが、ひょんなことから、そのような文化から、いきなり、別の文化体系、伝統教派の教会に行くことになり、かなり驚いたことがあります。そのあたりのことを今日は触れたいと思います。

             

             

            説教なしでも成立可能な伝統教派

            そして、ここ数年、特に正教会、カトリック、聖公会などの伝統教派の教会に参加させていただく中で、個人のことばでその礼拝の時間を満たすことが少ないこと、その礼拝の構造がほとんど同じであること、そして、聖餐式が非常に大事されているその状態を見、体験しています。なお、カトリック教会では、遠慮しました。そうしてくれ、とも言われましたし。正教会では異端者帰正式が済んでないので、遠慮しました。聖公会は、ミーちゃんはーちゃんが受けた由緒の怪しいバプテスマ(使徒継承を言われるとかなり怪しいので、有効性が問われたら厳しい)でもOKらしいので、あずからせてもらっています。そして、聖餐に参加できるので、単純にうれしいです。聖餐式の見学や、実際に参加し、パンをいただき、盃にあずかる中で、儀式を介して神の臨在を示すこと(サクラメンタルであること)の意味を、この数年の間、考えてきました。そういえば、1年ほど前の記事ですが、こんな記事も書いていました。

             

             

             

            儀式と象徴とその先にあるもの (1) 

            儀式と象徴とその先にあるもの (2)

             

            なお、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身の洗礼に関して、授けた方の使徒継承の系譜を言われると厳しいので、人効説ではなく、事効説に立っています。その意味で、エクス・オペレ・オペラート(Ex opere operato)という考え方に賛成しています。

             

            説教なしの礼拝を実現可能にする聖餐

            伝統教派、特に現在のアングリカン・コミュニオンのチャペルに行ってみて、毎週日曜日に礼拝(聖餐式)に参加し、ほとんど水曜日の夜にも礼拝(聖餐式)にも参加し、他にもいくつかの聖公会の教会で参加していくなかで、説教なしの礼拝ということをかなり経験します。日曜日の朝7時からの礼拝(聖餐式)や水曜日の夜の礼拝(聖餐式)では、説教も讃美歌なしでも、これが礼拝と聖餐式として見事に成立しますし、説教がなくても、式文が神を指し示し、読まれる聖書箇所が神を示しています。さらに、そのうえで、聖餐があることで、神の臨在を十分感じることができるのです。それが、神が定めた聖なる儀式、つまり、サクラメント、つまり聖餐の強みだと思います。

             

            聖餐

            https://www.videoblocks.com/video/holy-communion-bread-wine-rksop5ebipn58ude より

             

            聖餐 イエスを覚えてこれを行っているはずだけど・・・・

            https://nocompromiseradio.com/2017/08/the-lords-table/ より

             

            神学部でも、神学校でも学んだことのない、平信徒風情のミーちゃんはーちゃんがサクラメントが何たるかについて申し上げるのは、「実におこがましい限りである」と思うのですが、伝統教派(正教会、カトリック、聖公会系)の教会に行くと、礼拝と聖餐式が、サクラメント(聖なる儀式)であると同時に、サクラメンタルな生に導くための構造と象徴と表現に満ちている、と礼拝や聖餐式の参加者あるいは、見学者としてその場にいるときに、そして、式文を共に声を出して言い、賛美を唱えるたびに思うわけです。

             

            正教会の場合、ミーちゃんはーちゃんは帰正していないので、本来は啓蒙者扱いとされ、本当は聖餐の時には会同から見ることもっゆるされず、追い出されるはずなのだそうですが、今は、そこまでうるさく言われないので、時々見学させてもらっています。

             

            ある伝統教派での礼拝の基本構造

            今主に参加している、アングリカン・コミュニオン(聖公会)での式の順番としては、次のようなものです。なお、省略される場合があるものは、細字、必ずあるものは太字で表しています。()内は解説や日本のプロテスタント系の教会用語です

             

            Introit(前奏)

            The Gathering(招きのことば 招詞 )

            Hymn(讃美歌、省略もあり  ここで、起立)

            Prayer of Preparation(心を礼拝に向けて備える祈り)

            Prayer of Penitence(悔い改めの祈り)
            Summery of the Law
              (律法の要約 聞け、イスラエルよ、神を愛せ、隣人を愛せ これに旧約聖書がかかっている が提示される)
            Invitation to confession(公の罪の告白への招きのことば)
            Gloria in Excelsis(神への賛美 いわゆる頌栄)
            The Collect(特祷、ないし、集会祈祷)
            Liturgy of the Word(御言葉のリタジー ここで、着席)
            Bible Reading(聖書朗読 旧約聖書・福音書以外の新約聖書 どちらか一方が省略される場合あり)
            Hymn(讃美歌、省略もあり  ここで起立)
            Gospel Reading (福音書朗読  これは必ず司祭が読む 参加者は基本起立して聞く)
            Sermon (説教 朝一番とか夜の場合 省略の場合があり 説教開始と同時に着席)、
            The Creed 信仰告白(使徒信条、ニケア信条、その他の簡易信条のばあいもあり 基本着席のことが多い)
            The Affermation of Faith(信仰内容の確認)
            Prayer of Intersession(神との和解の祈り)
            ーーーーーーーーーーーーーーー
            The Liturgy of the Sacrament
            The Peace(ここで起立、いわゆる平和のあいさつ、プロテスタント教会の一部での相互握手会 )
            Preparation of the Table
              (聖餐のパンと杯の準備)
            Offertry (献金や讃美歌がある場合も。賛美歌歌う場合は起立 賛美歌・献金省略の場合も)
            The Eucharistic Prayers(聖餐式の前にみんなで唱える準備の祈り) 
            The Lord's Prayer(主の祈り)

            Breaking of Bread(パンを高く上げ、切り裂く、ないし割る所作を示しつつ、

             

            司祭は、We break this breadto share in the body of Christ.といい、

            会衆は、Though we are many, we are one body, because we all share in one bread.と応答します。

            この表現が個人的にはすきです。

             

            Giving of Communion(聖餐にあずかる)

            Prayer After Communion(聖餐後の感謝の祈り)
            Dismissal(散会)
            Prayer(祈祷)
             Hymn (讃美歌)
            Blessing(いわゆる祝祷)
              単なる祝福ではなくて、 

            Postilude(後奏)

             

            という構造になっています。

             

            リタジーの中で好きな言葉

            なお、Eucaristic Prayerの冒頭は、たいてい以下のことばで始まります。

            The Lord is here.

            His Spirit is with us.

            Lift up your hearts.

            We lift them to the Lord.

            Let us give thanks to the Lord our God.

            It is right to give thanks and praise.(太字は全員の応答文)

            これらの言葉で、ここに神の臨在があることを示して、サクラメントであることが示されるわけです。そして、その後の部分では、いろいろなヴァージョンの祈祷文が…

            その祈りのあるパターンでは、全員が読む部分の一部に

            Christ has died:
            Christ is risen:
            Christ will come again. (太字は全員の声を出して読む文)

            あるいは

             

            When we eat this bread and drink this cup,
            we proclaim your death, Lord Jesus,
            until you come in glory.(太字は全員が声を出して読む文)

            という表現があります。個人的にはWhen we eat this bread・・・で始まる式文の表現がすごく好きです。
            これらの表現を口にするとき、キリスト(救い主、神)と個人の関係の表現であり、この関係を強く意識しています。

            ところで、いわゆる祝祷の部分では、

            Go in peace to love and serve the Lord.

            In the name of Christ. Amen.(太字は全員が声を出して読む文)

             

            という表現になっているもの代わりと多いのですが、このような表現の祝祷だと、祝祷でし識者が信徒を世界に送り出す格好になっています。この様に祝福されることで、信徒が神に仕え、神を愛するためにわれわれの日常の人生がある、ということが明確に示されているように思います。

             

            多くのプロテスタント教会では、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、今日も、そして明日も。」というような祝祷がささげられるかもしれませんが、これだと、神の愛との関係に生きるということは示されていても、神に仕える(教会に仕える、ではない)という側面が十分に示されていないような感じがします。そこは、ちゃんと信徒が察せばよいのかもしれませんが、そこまで気にしておられる信徒の方はどの程度、教会におられるでしょうか。

             

            そう思って、他の祝祷を探していたら、オーストラリアの祝祷(こちらのサイト)に、このようなものがありました。細字は司祭だけが読み、太字は全員で読む。

             

            Loving God, we thank you for hearing our prayers,
            feeding us with your word,
            and encouraging us in our meeting together.
            Take us and use us
            to love and serve you, and all people,
            in the power of your Spirit
            and in the name of your Son,

            Jesus Christ our Lord. Amen.

             

            とか

             

            Eternal God and Father,
            by whose power we are created and by whose love we are redeemed:
            guide and strengthen us by your Spirit,
            that we may give ourselves to your service,
            and live this day in love to one another and to you;
            through Jesus Christ your Son our Lord. Amen.

             

            とか

            Lord Jesus Christ,
            send us out with confidence in your word,
            to tell the world of your saving acts,
            and bring glory to your name. Amen.

             

             

            といった祝祷の表現のように、単に神とともに生きるのではなく、神を愛し、神に仕え、神を知らせる人生の道を生きるための祝福という側面がこれらの文章で表現された祝祷には、込められているように思います。これらの式文を読み込み過ぎから知れませんが。

             

            これまで参加した多くのプロテスタント系のキリスト教会では、このような内容が祝等にあまり明確に含まれていないタイプの祝祷の表現が多い印象があります。

             

            信徒がこれからの一週間、神に対して、愛される存在だけでなく神に仕えるものとして生きる用にお勧めされている、という表現を聞くとき、自分たちの日常の生活をもう一度、考えさせられます。教会の扉を出るまでだけかもしれませんが・・・(そうならないように意識はしていますが)そして、われわれの生き方は、以下の賛美歌で歌ったようになっているか、と。

             

             

            先に挙げたような式文の一つの祝祷(to tell the world of your saving acts, and bring glory to your name.を含む、祝祷)ですと、われわれは、この地に神の福音をもたらすために派遣されたのだけれども、それにふさわしい生を生きているのか、と改めて問われてしまうわけです。筆者であるミーちゃんはーちゃんが、神の福音をもたらすような生活が問題なくできているとは、口が裂けても言えませんが。

             

            こうやって見ていると、儀式の順番はプロテスタントと基本同じ部分は多数あるけれども、かなり抜けている部分や順番が変えてある部分が、プロテスタント教会のものとはあるなぁ、そして、両者の間で大分違うなぁ、という印象があります。正教会も、カトリックも、聖公会も、基本的には順番は同じなので、言語が違っても、式次第の進行状況は大体わかります。

             

            日本コプト正教会の献堂式の礼拝

            (41分12秒あたりから献堂礼拝  この動画中にミーちゃんはーちゃんがちらちらと写っています。)

             

            プロテスタント教会との違いで一番大きな部分は、聖餐式が、「み言葉の聖餐」と称する牧師先生の「説教」に置き換わっている部分ではないか、と思います。特にいくつかのプロテスタントの教会、それも大半の教会では、聖餐なしの礼拝の経験が、多かったように記憶しています。そして、それはとても残念な気がしたことは確かです。

             

            混ぜ物だらけの「み言葉の聖餐」って?

            そして、以前経験した教会の一つでは、先週の業務報告のほうが、聖書の言葉やその理解の提示より多い説教(某京都市内のミッション系大学内の教会での日曜の礼拝説教や地元のバプテスト系教会)では、本当にみ言葉の聖餐までと言い切るのなら、先週どこに行ったとか、こんなものを見たとか言った、そんな混ぜ物で聖餐を混乱させないでほしい、と、素朴に思ってしまいました。心底悲しかったです。なお、バプテスト系の近所の教会では、聖餐があったので、そこまで、不満はなかったですが。

             

            多くのプロテスタント教会では、聖なる儀式、サクラメントが執行可能な牧師先生がおられても、輸入された段階での輸出元の国や地域(宣教師や伝道し、教団の神学的母国)の教会文化の影響があり、明確にサクラメントであることが福音書から跡付けられる聖餐式の執行がなされず、その代わり、み言葉の聖餐と呼ばれる説教がその聖餐の代わりとなり、聖餐の座を奪い、聖餐の場所を簒奪しているのは、本当にどうなんだろうか、と思ってしまいます。

             

            もちろん、近代の成立に伴い、言語や理性が重要になる中で、人々が聖餐を重視しなくなった、とか、聖餐の執行権の根拠たる使徒からのつながりのある牧師や司祭が圧倒的に不足していて、事実上牧師が月に何度か巡回してくるとき以外には、牧師不在のために、聖餐が執行できない、とか理由はあるのでしょうが、イエスが

            【口語訳聖書】ルカによる福音書
            22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

            と明確なイエスのことばが福音書に書いてあるにもかかわらず(ルカは、後出しじゃんけんだからNGとか言わないでくださいね、一応日本語聖書にもあるわけですから)、牧師がいても、イエスの弟子であるはずの牧師も、信徒も、聖餐をしたがらないのは、「一体全体なぜなんだろう」と思ってしまいます。基本、毎日でも、できれば聖餐にあずかりたい、基本、週2回聖餐参加体制の生活を送っている聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、不思議な気持ちがします。

             

            ひょっとしたら、今の教会って、まさに、こんな漫画のようかもしれません。

             

            https://www.pinterest.jp/pin/152348399873419510/ から

            先週の週報に載っていた漫画

             

            次回から讃美歌篇 へと続く

             

             

            2018.05.19 Saturday

            KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1)

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              今日は、先日枚方市で開催された、KDK神学会「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回に出席してきたときの概要をご紹介したいと思います。個人的にはいつものように、むちゃくちゃ面白くて、知的刺激を受けたのですが、多くの人にとってはなんのことやら、と思いますので、そういう方はどうぞ、このシリーズは、スルーして下さいまし。

               

              会場となった当日の教会

               

              当日のメモを元に、できるだけ、捕捉を入れ、わかりやすく書いたつもりですが、そこはそれ、本人の方々じゃないので、完全には、書ききれていない、説明できてないところがあります。誤りや誤解は、全て、このブログの著者のミーちゃんはーちゃんにありますので、ご容赦をば。「ブログごときで責任追求とか」、って心底野暮だと思いますけどねぇ。文句言われたら、すぐ隠しちゃえば(ボットさんから見えない状態にすればいい)いいだけの話なんで。

               

               

              まず、最初に参加者の全員の自己紹介があり、この本の編集者の方や、名古屋から来られた牧師先生、総勢20人くらいのかなり幅広い方が来られたことが自己紹介を通してわかりました。

               

              上沼先生、千葉先生と出会う…

              上沼先生から、最初お話があり、今回の企画に至った経緯のご説明がありました。 千葉先生との出会いは、今から3年前の2014年、千葉先生の『真の哲学』の素材があり、まとまっていなかった段階で、1964年に、上沼先生たちがその立ち上げにかかわった北海道大学クラーク聖書研究会設立の設立50年記念会の時に、上沼先生に講演依頼があり、その当時顧問をしておられた千葉先生とのおつながりができたことがご紹介されました。

               

              2014年当時、上沼先生は、N.T.ライトの信徒向けの一般書籍で初めて邦訳された本である『クリスチャンであるとは』が出版され、その本を翻訳する過程で、ローマ書3章22節のピスティスをどう訳すかについて、従来、このピスティスがイエスに対する信仰といったかたちで、対格として理解してきた経緯で考えてきたことについて、ご講演されたようです。

               

              その後講演では、主格の属格で理解できるのではないか、ということを講演されたそうです。ご講演の後、当時北海道大学クラーク聖書研究会顧問であった千葉先生を表敬訪問されたことが紹介されました。

               

              ピスティスについて

              上沼先生は、上沼先生のあるご友人の方から、アリストテレスの研究者として、上沼先生のご友人の方から紹介を受けられたようですが、表敬訪問してお話された時に、千葉先生から、「ローマ書3章22節の理解が千葉先生ご自身の現在の研究テーマなんです」と自己紹介され、その際に、実はローマ書3章22節のピスティスは、体格でも、主格でもないと言われて、大変驚かれたことが紹介されました。

               

              上沼先生にしてみれば、N.T.ライトの影響を受け、やっとピスティスが主格ではないか、とまで言えるようになったと思っていたそうです。そして、そのあたりぐらいから、このピスティス・クリストゥが聖書翻訳の問題と議論の俎上に上り始めた(大和郷にある教会のブログのピスティス・クリストゥーの記事が、かなりわかりやすいと思うんだけど)し、聖書翻訳も変わり始めたのに、千葉先生は、N.T.ライトが主張するような、主格の属格ではなく、むしろ、帰属の属格と理解できるのでは、といわれ衝撃を受けられたということが紹介されました。そして、このローマ3章22節のピスティスはいったい何なのだろうか、ということになった、とご紹介されました。

               

              その時、3つのことを千葉先生から言われたのだが、その3つ目に言われたこととして、ローマ書の1章には、神の怒りの啓示として、よくない思いに引き渡された、という「引き渡された」表現が3回出てくるのだけれども、この「引き渡された」という表現が神の啓示の表れだ、というお話をされたことが紹介されました。そして、ローマ書の3章22節のピスティスと、「よくない思いに引き渡された」(口語訳では「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」と翻訳)ということが、どこでどのように繋がるかがわからなかった、と当時の上沼先生のご理解についてご紹介されました。

               

              そして、本日は千葉先生の『信の哲学』の7章の意味合いをお話ししたいと思う、ということで、ご講演を始められました。

               

              上沼先生の講演の本体

              まず、千葉先生の本の付録2として付された千葉先生によるローマ書3章21節から26節のご紹介と7章のポイントの紹介に移りました。

               

              このローマ書3章21節から26節について、千葉訳のローマ書3章22節の翻訳(下巻の付録に付されている)では、

               

              神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるものすべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

               

              となっていて、

              ”というのも[神の義とその啓示の媒介である・・・・]分離はない。”

               

              という部分の理解が重要である、と上沼先生はお話になられました。

               

              世界ではじめての功績?MJSK?

              これは、すなわち、イエス・キリストのピスティス、この語は、従来、信仰と、信実、御霊の実としての誠実とやくされてきたものですが、このピスティスと神の義とイエスの信実との分離がない、と訳出しておられる。そして、ギリシア語のガルγάρという語から、ギリシア語のテキストからパウロが何を言おうとしているのか、という理解を千葉先生はお示しになられ用としておられるように思う、そして、これまで、この部分のどの訳でもこのガルという接続詞を適切に訳出してるものはないので、世界で初めての業績といえるのではないか、とお話になられました。

               

              そして、この理解をもとに、私なりの理解をしてみたい、ということで、上沼先生はガルという接続詞を、なぜなら、と考えたときに、どう見えるか、ということを考えてみたい、ということでお話を始められました。

               

              ローマ書3章23節から、なぜ「神の義とイエス・キリストの信が分離なき」といえるかというと、「ご自身が義である、すなわち、イエス・キリストご自身が義の知らしめである」ことを示しているからであろうといえるのではないか、ということでお話になられました。

               

              ところで、これまで、イエス・キリストを信じる私たちの信仰による義として、信仰義認を考えてきたのだけれども、私たちの中におられる神の義による信仰義認といえるのではないか、神の義が私たちにも現れるということで理解できるのではないか、とお話にされました。参加されていた、きよめ派の牧師(ミハ氏註 きよめ派という形容詞を持ちたのは、きよめ派の一般の皆さんに対する敵意や悪意を含んでいません。わかりやすさのために、単なる分類学上の記号として「きよめ派」という語を用いています。もともと私自身、きよめ派の影響を信仰生活において受けていますし)さんから、「それは聖化とどんな関係がありますか」と質問が入りましたが、「ここで神の義が現れる、というのは、聖化ということよりは、神ご自身の義が我々の中に現れることではないか」という説明がありました。

               

              この部分の議論を聞きながら、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、「あったり前田のクラッカー、当たり前ぢゃんねぇ」と思いました。というのは、我々が聖餐にあずかり、パンと杯をいただくというのは、キリストを内在させることを表す儀式である以上、キリストが我々のうちに現れるための儀式であり、そうであるがゆえにサクラメントなのであって、神の義が我々の日常的な生活のうちに現れるような、サクラメンタルな生活、ないしはサクラメンタルな生き方、生に導くためのものである以上、神の義が(ミハ氏註: 瞬間的なことが多いのだけれども。長期に渡ったら、有限で、有界たる人間の身が持たない・・・)我々の中に立ち現れるのは、当たり前だと思ったからです。

               

              あたり前田のクラッカーのCF(44秒くらいから)

               

               

              聖餐に関する賛美歌

               

              ノモスとはなにか?律法なのか?原理なのか?

                ローマ書3章27節でのノモスについて、新改訳は、原理と訳出している、新共同訳は法則と訳出しているけれども、千葉先生の翻訳では、「業の律法か、信の律法か」と律法と翻訳しておられ、このローマ書3章22−26節は、は神ご自身が義であることを示す翻訳となっていること、義の転嫁(Imputation)に関して、NTライトの発言や理解は、アメリカでも日本でも誤解されて伝わっているように思う。アメリカで誤解されたものが、そのまま日本に流入誤解され、義認論にまつわる誤解と、誤解に基づく議論が起きているように思う、とのご紹介がありました。NTライトは、義認論を否定してないのに、あたかも、否定しているかのようにいわれる傾向がある、というご見解が上沼先生から披露されました。

               

              業の律法と信の律法について 千葉先生の翻訳では、業の律法と信の律法と訳している部分の関連として、7章21節のノモスについては千葉先生は、律法と翻訳しておられるが日本語の新改訳聖書は、原理と訳している。そして、ローマ書7章の結論は、7章25節であり、千葉先生の翻訳では、「神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」と翻訳されている。この部分を素朴に読んだとき、「罪の律法と神の律法」とローマ書3章22節の「業の律法と信の律法」がパラレル(「罪の律法」=「業の律法」と「神の律法」=「信の律法」という関係)になっているかと思ってそのむね、千葉先生にお聞きしたところ、そうではない、との回答をいただき混乱した、というご自身の経験が紹介されました。

               

              律法の書かれているスクロール版の旧約聖書の読む時の姿勢

              (聖なる書物なんで、手で触ってはいけません。ポテチの粉がついた状態でなんて・・・ねぇ)

               

              信の律法は、モーセの律法を廃棄するか?

              ヌースとは何か?内なる人なのか?こころなのか?

              千葉先生によると、この部分、パウロが注意しながら、書いているとお話しされたことも紹介されました。ここで、千葉先生は、従来口語訳聖書では、心と訳されていることば(もとはνοῒ 語根はヌースνοῦς)を叡智と翻訳されていることを紹介されたうえで、神の律法と罪の律法は明確に分離しているけど、信の律法と業の律法(要するにトーラーとか、その極みである十のことば、十戒)は分離していない、とおっしゃったことが紹介されました。  そして、千葉先生の本では、3章と7章でパウロの視点が違うことが紹介され、3章は神の視点から、7章は肉を持っている人間の視点からパウロが記述していることを紹介され、神の視点から見た場合、「業の律法」は十戒、「信の律法」は矛盾しないはず(ミハ氏的ツッコミ: 当たり前じゃん、と思ってしまいましたし、イエス様はターミネータみたいに、律法を廃棄するために来たのではない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 05章 17節 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。〕といっているし、律法の一点一画が落ちることはあり得ない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 5章 18節 天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。〕、って言ってんだしさ)である、とご紹介になられました。


               

              映画 ターミネータのポスター

               

               その意味で、ローマ書7章25節で、「心」と訳されているヌースがちゃんと理解されていないことに、このような混乱は由来するのではないだろうか、ということのお話があった。千葉先生によると、アリストテレスが用いたヌースとの使い方とパウロの理解がきわめて類似性が高いといえるのではないか、というご見解が紹介されました。

               

              アリストテレスたん

               

              共約可能性とヌース

              その意味で、内なる人と、ヌースが近い、といえるのかもしれない、というお話があり、肉体部分である「外なる人」が滅んでも、「内なる人(これがヌース)」が存在し、そして、神の霊が、この内なる人に働くと理解できるであろう。また、この内なる人がヌースであるのだが、これまでは、心とか知性という語で翻訳されている。そして、ヌースは、識別する、見極める、と訳される言葉と深くかかわっているように思う。特に、使徒パウロは、どこまでギリシア文化圏の人々との共約可能か、ということを考えていたのではないだろうか。これは、文化や言語が違う人たちに伝道するということとのかかわりで考えることができるであろう。神を信じるのは、内なる人であるヌースの働きであり、すべての人に共通に存在するのが、このヌースであり、そうであるがゆえに共約可能性の根源になるものであり、その内なる人に働きかけることにより、文化の違う人々に伝道ができることになるのではないだろうか、そして、肉のなお内側にヌースが存在するということが大事であろう。また、千葉先生のローマ書の翻訳1章24節で、「不潔へと引き渡した(παρέδωκεν)」と表現されているが、この「引き渡した」ということが重要であり、千葉訳で1章の中で、引き渡したは3回用いられており、「不潔へと引き渡した」、「恥ずべき情欲に引き渡した」、「叡智(ヌース)の機能不全に引き渡した」となっている。この「引き渡された」という表現に込められていることが重要なのではないか、というご主張が上沼先生から展開された。

               

              共約可能性とパラダイムの概略のご説明

               ここで上沼先生からのお話が終わったのですが、主催者の日本基督教団の自称福音派の牧師である、このKDK神学会の主催者の久下先生から、実に適切な共約可能性についての補足が入りました。共約可能というのは、科学の表現であり、相互理解可能性に関係する表現であることのご紹介がありました。

               

              古代ギリシア社会の哲学者は、アリストテレスは、5つのもの(5大元素)でできているというパラダイムで生きてきましたが、現在の科学は、それと違ったパラダイムで生きています。たとえば、物が燃えるという現象を、アリストテレスとその理解の影響を受けた人たちは、燃素の存在を前提に捕らえますが、現代人は酸化反応ととらえます。

               

              このように、二つの別のパラダイム(あるいは系)では同じ現象を見ても、同じ理解に達しないことがあります。それが、共約不可能性ということです。このパラダイムに関しては、20世紀の科学哲学者であるクーン(Thomas Kuhn)がパラダイムシフトという書籍の中で、その理解を提示しています、という補足を入れていただきました。

               

              Thomas Kuhnたん

               

               

              次回へと続く

               

               

               

               

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              コメント:まだ、安心して買える値段。

              2018.05.20 Sunday

              KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

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                前回は、上沼先生がお話になられた部分を書きましたので、以下では、千葉先生のご発言の概要を紹介したいと思います。前回と同様に、このブログ状の理解の誤りは、聞き手のミーちゃんはーちゃんが悪いのであって、その点はお含み置きくだされたく。隊長はあまり良くないのだけれども、ある面、このGoodNewsは伝えたいので、ちょっと無理してますが、お知らせいたしたく。本来、ユーワンゲリオンεὐαγγέλιονって、伝達する人間の側に、そんな気を起こさせるものだ、と思うのだけれども。

                 

                ピスティスが帰属の属格であること、についての捕捉

                イエスの信という時、帰属の属格であるという意味は、「イエスが持った信仰」という意味ではないといえる。ここで注意しないといけないのは、パウロは、厳密にイエスの固有名の使い分けをしているということに着目スべきであろう。特に、イエスを介して、とか言っている場合があり、イエスの存在を、その場合は場所として考えているといえる。

                 

                「イエスのまことによる」「イエスの信」という場合、ナザレのイエスのカルバリの丘への道を含め、人間が理解可能となるための媒介者的存在であることをかなり意識して、パウロはイエスを描いている、と考える。特に、啓示の場合は、必ず媒介を必要とすることになり、それは、受動形として表現することになる。

                 

                聖書における行為の中心性を持つのは誰か?

                聖書における、行為の中心主体は、あくまで神である。(ミハ氏註 これは、本当にそう思う。ときどき讃美歌なんかで、人間が行為主体になっているような歌詞があるが、あれは本当に何とかならんか、と思う。神様のために頑張る私というその行為を認めて、とかいう讃美歌もあるので、そういうのは神への賛美ではなく、自分への賛美ぢゃんと思ってしまう)

                 

                神ご自身にとって、業の律法と信の律法は分離されないことは、重要な理解であるだろう。

                 

                啓示という観点からは、イエス・キリストの信を媒介として、神が我々人間に知らしめたと理解するのがよいであろう。その意味で、行為者は一人である。つまり、神が信じる存在である、と理解・認識されている存在、人格を義と認めるのであって、イエスキリストの啓示を通して信じる存在を神が義とお認めるになるとパウロは書いているように思う。なお、啓示のためには、必ず媒介者がいるのである。

                 

                神の子羊、という称号をイエスが持つこともあり、イエス・キリストとなだめの供え物との関連による表現で翻訳されることもあるが、これは非常に困る翻訳である。なぜなら、キリストを「業の律法」の枠組みでとらえることとなり、「業の律法」の中に福音を閉じ込めてしまうことになるからである。その意味で、「業の律法」の中にキリストの福音を閉じ込めるかのような代罰な理解は、問題がある解釈であると考える。

                 

                Agnus DeiならぬAgnusDayというサイトのまんが https://www.agnusday.org/comics/292/acts-01-06-14-2008より

                (高く挙げられたキリストは背負うタイプのジェットパックを・・・とかw)

                 

                また、神は言語使用者であることを理解しておくことは大事であろう。(ミハ氏註: 神は論理、ロゴスと深い関わりがある存在だから、当然といえば当然の気もしますが・・・はじめに、言葉があった、ってヨハネさんは書いていることだし・・・)

                 

                なお、イエス・キリストは行為主体にならない。共通の尺度、共約部分になるといえる(ミハ氏的ツッコミ 新約聖書には、仲保者とか、代理人という表現があるが、まさにこれ)

                 

                 京都大学の水垣先生から「この本『信の哲学』を読んで、インテレクトス アンテ フィデム intellectus ante fidem(信の以前の理解)が言いたいのだ、ということがよくわかりました」というお手紙を頂いて、大変うれしかったとのご披露もありました。

                 

                神の子羊に関する賛美歌集(この部分はご講演とは、全く関係ありません)

                さっきなだめの供え物、というのがでてきたので、神の子羊 Agnus Dei に関する賛美歌集めて、遊んでみました。お好きなのをどうぞ。休憩がてらに。

                 

                 

                Agnus Deiの賛美歌(バーバー作曲)

                 

                Agnus Deiの賛美歌(フォーレ作曲)

                 

                Agnus Deiの賛美歌(バッハ作曲)

                 

                Pop調のAgnus Dei

                 

                スペイン風Angus Dei 絵柄が、もう贖いの子羊…メェ

                 

                Agnus Deiの賛美歌(モーツアルト作曲、カラヤン指揮 キャスリーン・バトル)

                 

                 

                Sola GratiaとSola Fideの混乱…

                 

                閑話休題。それでは、千葉先生の講演のご紹介に戻りましょう。

                 

                これまで多くのキリスト者が苦しんできたのは、ソラ・グラティア(Sola Gratia)とソラフィデ(Sola Fide)の癒着の結果ではないだろうか、義と認められるのは神の恵みによるというのが、究極の理解であろう、ということもお話の中で出てまいりました(ミハ氏的ツッコミ 伝統教派にいると、それは当たり前すぎて、言うまでもないことのように思うのだけれども…)。また、信仰を持つことは、非理性的なことではないといえるだろう。なぜかというと神は言語使用者であり、我々も言語使用者であるからである。その意味で聖書の言葉は、意味論的分析に耐えうるもののはずである。

                 

                罪は偶然的に世界に入ったのでなければ、我々は、罪や悪から自由にならない。そもそも内在的に、本来的に存在しているのであれば、救いは存在しないことになる。

                 

                ヌースと脳死

                先ほど、ヌースの話が出てきたが、内なる人間のことであるとすると、このことは脳死と関連するであろう。我々の身体は滅ぶが、身体に還元されない部位が存在する、それをパウロは、内なる人間(ヌース)と呼んでいるであろう。この内なる人が、キリストの如くになる。これが変身という意味であるだろう(ミハ氏註: 最近霊性の神学で時々出くわすトランスフォームの概念のことね 変容という語を使う人たちもおられますが)。聖書の主張は、イエスの信によるものを義とするということである。

                 

                信じることが意味を持つには…

                知らされていないがゆえに、信じることが意味を持つともいえるのではないか。既に、知らされているものであれば、信じる必然性はないからである。その意味で、キリストを介して(キリストという場を介して)、叡智が働き、ロゴスが働く。神の意志にヒット(ミハ氏註:英語のHit、ぶち当たるとか、掠るとか、遭遇するとかいう意味で用いておられる)することができるのであろう。カントは理性で突き詰めようとして、理性が疲弊してしまった世界の人なのではないだろうか。

                 

                以上補足部分のご紹介でした。

                 

                いよいよ千葉先生の本論

                ここからが千葉先生の本論の部分です。

                 

                啓示神学と自然神学

                神学の系譜に大きく二つ、啓示神学と自然神学の二つがあるが、この啓示神学と自然神学は相互媒介される必要があるであろう。神の前の自然神学がローマ1章で提示されているように思う。そこで、1章について考えていきたい。

                 

                 神が存在するかどうか問題というのは、アリストテレスからの問いでもある。アリストテレスの探求論の課題であり、カントの形而上学においても問われている哲学的課題である。

                 

                 啓示神学では、神に関する認識はできないことになる。その意味で、神が認識可能かどうかという問い自体がは無意味となる。 いかにして、神は認識可能なのかということについて、バルトあたりから、信じること(ソラフィデ)と神の恩恵(ソラグラチィア)の癒着が始まるのではないか、と考えている。神の認識について、矛盾律で考えようとすると、どうしても、一種のトートロジーになってしまう構造を内在的に持っているように考える。

                 

                この2つの神学は、和解可能?

                ところで、啓示神学と自然神学は、和解できないのだろうかか。自然神学の観点から考えると、アンセルムスは、神の存在証明を考えるときに、比較級の否定を用いている。「それ以上大きいものが考えられない存在、それが神である」、といっている。それは存在するかもしれないから、結果として、神は存在しなければならない、とアンセルムスは指摘している。

                 

                アンセルムスたん

                 

                では、啓示神学と自然神学が仮に両立しうるとすると、何が言えるだろうか、ということを考えたい。人間は、アンセルムスが指摘するように、神と同じ知性を持っていないことになるし、仮に、持っていたら、全部わかることになる。

                 

                インテレクトサンテフィデム( intellectus ante fidem)という理解に立つと、神の知恵の理解まで至る共約性が拡張される可能性がある。神が知恵あるものとして理解することが重要ではないだろうか。

                 

                神学がやりやすくなった21世紀

                 ところで、21世紀というのは、聖書理解をするうえで便利な社会になっていて、神が永遠の現在に生きておられる方というのは、誤解を恐れずに言えば、ある種のタイムマシン的存在であり、常に現在を生きている、というのは、タイムマシンという理解が成立している、21世紀になって、ある意味、ようやく理解することが可能となったということでもある。人間の全てのこと、髪の毛一本まで知られている、という表現があるが、それも理解できるであろう。(ミハ氏的ツッコミ 確かに、神は、ビッグデータのデータマイニングマシンということでもあるし、人間の細胞一つ一つを考え、それをご存知だとしたら、すでに、人間の細胞レベルでIoT化している神ということになる、という不謹慎な妄想を抱きましたw)

                 

                 

                IoT https://readwrite.com/2017/05/06/how-communication-service-providers-can-monetize-iot-beyond-connectivity-il4/ から

                 

                   千葉先生の『信の哲学』の下巻に収録されたp.413 の立体的なベン図風の図解の説明があり、それは、終わりの日を、キリストという存在を媒介とするときに、神の前とひとの前との視点から、どのようなことが起きるのかをが図解のご解説がありました。(ミハ氏註: これ、面倒なので、省略します。詳しくは、千葉先生の本を買ってください。お願いですから。結構しますけど・・・w)

                 

                 

                 ポイントとしては、イエスとその信が人間にとっての媒介者として機能し、神がそのようにご理解されるからこそ、神の目から見ても義になるという話だと思っておいてもらえば、と思う。

                 

                 人間にとって、そもそも、三位一体は、知りえないものであろう。明白に啓示されているわけではないが、おそらくそうであろう、と理解できるのであり、神がそうみなしておられるのだから、三位一体であるということを考えれば、フィリオクエの問題はあまり悩む必要がないのかもしれない。

                 

                 ローマ書において、霊が一切出てこない部分と霊が出てくる分がある。5−8章は、霊の記述が多く、霊的な存在について触れている部分であると言えるだろう。

                 

                 ところで、信の確かさに生きている人には、神の存在証明は必要ないように思う。アンセルムスは護教なんてとんでもない、と主張しており、さらに、信と理性とは矛盾しないという。

                 

                ロゴス・エルゴン・ラレイン

                 ここで、ロゴスとエルゴン、ラレインについて考えてみたい。

                 エルゴンというのは現在発生しているできごと、存在であり、ロゴスは現在だけとは関わりなく、宇宙全体を支配しているものであると考える。そのロゴスにエルゴンがヒット(ミハ氏註 英語のHit、ぶち当たった、かすった、一時的に接触)することがある。その瞬間、ロゴスがエルゴンに内在することになる(ミハ氏註 聖餐式でイエスの体を口から取り入れた瞬間のことによく似ている。あるいは、信じるという決心をした瞬間でもいいけど…)

                 

                ある人(例えば、アインシュタイン)がエルゴンで発見したロゴス(E=mc^2)を別の人(その直後に検証した物理学者)のエルゴンが確認することで、ロゴスの全体像が分かってくるのではないだろうが。

                 

                エルゴンというのは、今ここでのことであり、パウロは混乱してわかりにくいと言われるが、それは、パウロがエルゴン言語で、記述しているからとは言えないだろうか。パウロの苦悩は、このエルゴンレベルでの苦悩といえる。パウロの言う、ロゴスとエルゴンは別物であると思う。

                 

                OSI7階層モデルみたい…

                ローマ書の中でのロゴスは、いろいろな層に分かれており、その層(レイヤー)の違いにおいてパウロはロゴスを捉えようとしていると考えられるのではないか。(ミハ氏註 情報通信分野では、学部の初期の頃に概ね教えるOSI7階層モデルというのがあり、まさにこれの話とよく似ている)

                 

                 

                OSI7階層モデル

                 

                共約可能性というのは、この階層全てで整合的であるとき、受信者と発信者で同一のメッセージの伝達が行われるとするような理屈であるが、パウロは、ローマ書の中で、ある章(1−4章)では、ある階層でのできごととして話をし、別の章(5−8章)では、別の階層でのできごとを話している。そこの構造が見分けられないと、混乱するのだと思う。(ミハ氏註: そもそも別レイヤのことを書いているから、普通の小説や教科書を読むように、聖書やローマ書を、1章から2章、・・・と前から順に順次読んでいっても聖書がわかりにくくなるのは仕方ないだろう。そういうシーケンシャルなよみは、そもそも物理層のデータをアプリケーション層のデータと思って読むのに似ていて、こんなふうにコミュニケーションしているのであれば、当然、通信不能になるだけのことである。おそらく、この辺の視点の階層をパウロは明確に前提にして書いているのだけれども、読み手である現代人がその階層を見分けられなくなっているため、というのはあるような気がする。)

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                2018.05.21 Monday

                KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(3)

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                  今回もブログ緊急更新しました。

                  今回は、

                  前々回の記事 KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1) 

                  前回の記事  KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

                   

                  からの続きです。千葉先生によるローマ書1章についてのお話をご紹介したいと思います。

                   

                   

                  ローマ書1章の説明にこのあと千葉先生は移っていかれた。

                   

                  2種類の神の義の啓示

                  ローマ1章18節 自然神学として理解しようとする。意味論的にいえば、ここでは、神自身が行為主体となる言語形で書いている。神の義の啓示としては、2種類あると考えることができ、それは、

                  神の義の第1啓示(ローマ1章) 神の怒りによる義

                  神の義の第2啓示(ローマ7章) イエスの信による義

                  と整理できるだろう。

                   

                  イエスご自身も言っているが、律法を終わらせるイエスというのはないだろう(ミハ氏註:律法のターミネータ(暗殺者)としてのイエスではなく、あくまでイエスは、律法の完成者(ミハ氏註: ギリシア語の完成という表現、すなわちTelosとの関わりがここに出てくる)として理解すべきだろう。

                   

                  アラビアでパウロは何をしていたか…

                  ところで、パウロはアラビアで、3年もの間、いた期間に何をしていたと考えられるだろうか。個人的な想像であるが、おそらく、アラビアで旧約聖書を繰り返し読み、そして、ロゴス、真理を見つけたかもしれない。そして、その旧約聖書を理解した(ミハ氏註:もうちょっというとトーラ、ネビーム、そして、タナッハと呼ばれる旧約聖書を十分理解した)うえで福音を理解すべきという結論に達したのではないだろうか。

                   

                  アラビアでのパウロ

                  http://kmooreperspective.blogspot.jp/2016/06/what-did-paul-do-in-arabia.htmlから

                   

                  パウロについてのイコン(アラビアの砂漠の山が見える)

                  http://eliasicons.blogspot.jp/2011/06/june-prayers-to-sacred-heart-3-st-pauls.html から

                  ここで、神の怒りが突然現れるが、このローマ書1章で、ストア派のある哲学者が初めて使った言葉(ギリシア語)をパウロは使っている(ミハ氏註:さすが西洋古典学の先生と思った。技術系とは思考経路とその背景の層の厚さがが違う、と思ってしまった)

                   

                  啓示であるがゆえに必要とされるメディア(媒介者)

                  ところで、啓示には媒介を必要とするのである。旧約時代は、啓示の仲介物、媒介物(ミハ氏註: メディア)として石板に刻んだ文字にしがみついたのである。この1章19節の中で、パウロは千葉訳では「明らかにした」(ミハ氏註: 口語訳聖書の訳は「神がそれを彼らに明らかにされた」)と過去形を使っている。(ミハ氏註:日本語は主語がいい加減でも、時制がかなりいい加減でも、相手の発言趣旨を忖度して、惻隠の情を持って、理解するので、この辺の読みはいい加減になりがち、というのは個人的経験としてあることは十分承知している。だいたい聖書読むときだって、時制にまで、気を回して読んでないことが多い。話し言葉ではなおさら意識しないように思う。)

                   

                  この「明らかにした」に関連して、もう少し言うと、感覚的に見て取るということが意味を持ち、感覚的に見て取ることができるということは、叡智がそこで働くということかもしれない。ここには(ミハ氏註: 媒介者としてのメディアとしての)キリストが出てこない。  ところで、ローマ1章の過去形については、出エジプト記にすべて対応箇所がある、といえる(ミハ氏註:これを全部確認して回るのが、学者。千葉先生は、本物の学者だわ)

                   

                  計算機屋がイメージするメディアに関する図解

                  https://www.pinterest.es/mediapartnersad/digital-radio-advertising-electronic-media/ から

                   

                  叡智の機能不全

                  千葉訳では、「叡智の機能不全に引き渡した」とした部分(ミハ氏註:口語訳聖書では、「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」)という部分については、識別の程度があるように考える。知識と感覚において満ち溢れ、識別しつつ、神を持つことを識別しない場合どうなるのか、ということである。

                   

                   叡智が機能不全に引き渡されたものは、神の善性を理解できないことになるのである。この部分を、「信じることによって恩恵を受ける」と理解するのは、まずい、と考える。それは信(ソラ・フィデ)と恩恵(ソラ・グラティア)の癒着となっている。

                   

                  信を嘉するとは…

                   結局、信というか、信仰を嘉(よみ)する(ミハ氏註:信と裁定した上で良いものと認めるとか、審判した上で、それは良いものである、と評価する という意味 ヘブライ語の トゥーブ ט֣וֹב に近いのかも)のは神のみであるということをパウロは主張しているのであろう。ただただ、神を仰ぎ見るのが信の根源であり、それは、救いの必要条件でないかもしれない。人間が神をどう信じているかは問題とされなくて、より重大な問題は、神が「どのように人間の中の信を見ているかである」ということができるだろう。

                   

                  最後の審判のときには、神の前に立つ(Wikipediaから)

                   

                   

                  (識別のレベルがあり)識別しなかったこと行為と識別に比例性があるといっているようだ。人やエルゴン(今ここという状態)でロゴスにヒットする(ミハ氏註: 一瞬掠る、とか、触れる、接触する)かもしれない。カントはヌースは働かないといっているが、それは、ヒエロニムスによる誤訳の故発生した誤解かもしれない。

                   

                  叡智の機能不全に引き渡されるとは

                  神の前の「完全な信」(ミハ氏註 神が見てお認めになる「完全な信」)と、人間の側のレベル(ミハ氏註: レイヤー・層)における「信」は根本的に違うものだと言える。神が引き渡された、ということが意味することは、自分自身でその世界に至ってしまったのだから(ミハ氏註:神を認めない「信」ならざる世界に自分で至ってしまった)のであるから、その責任は、自分でとることが求められる。「叡智の機能不全に引き渡された」とは、あまりよくないもの(ミハ氏註: より露骨に言えば、「ろくでもないもの」)にヒットした(触れたり、接触した)結果、そっちのほうに流れていく、ということを示している。

                   

                  さて、ローマ2章の冒頭では、他人をさばいているあなたには、弁解の余地がない(ミハ氏註: 口語訳「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。」)という表記が出ているが、ここでは、1章のエルゴン言語のレイヤ(層)の話法、論理ではなく別のロゴス(ミハ氏註: ​おそらく、別レイヤーのロゴス)が登場し、個別の話が、より一般化されて提示されている。業の律法に生きさせることで、神の意図を歪めているのではないか、と指摘していると考えられよう。

                   

                  質疑応答の一部から

                  以下、質疑応答ででたものの一部をご紹介します。

                   

                  Q: ヒットという語を使われていますが、その意味はどのような意味ですか?

                  A: ヌースが発動して、ロゴスに接近して実践知が生まれていることを表現しようとした。ヌースが命題(ロゴス)に接近していくことが、最善の行為行為であり、そして、ヌースがロゴスに触れることをヒットという言葉で示している。

                   

                  Q: 神の怒りについて、もう少し説明してほしい。

                  A: 生身の人間(肉なる人間)は、神がある程度譲歩された存在)であるが、神の前の人間は、神を知っている状態にある人間のことであり、人間のレベルで考え、人間を中心として考えているその考え方に対して、神の怒りが発動する、という表現になっているように考える。

                   

                  Q: パウロは、このローマ人の手紙をギリシア哲学がわかる人に向けて書いたのだろうか。聖書の中身は、アリストテレスの哲学を理解できる人にしか理解できない、ということではないのではないだろうか。

                  A: ある意味、パウロはアリストテリアンだったと言えるのではないだろうか。答えはあるという前提に立ち、網羅的で排他的にやった人である。その意味でアリストテレス的であったと言えよう。パウロは、論理空間を作るときにしらみつぶしにやっている。

                   ある意味、パウロは哲学者であった。それ以外ないということまで突き詰めている。ヌースが真理に向かって生きていく、ということを明確に意識している意味でアリストテレス的な理解をしていると思う。

                   

                  Q:イエスの名称問題についてもう少し、ご説明をいただきたい。

                  A: ナザレのイエスと、イエス・キリスト(テキストを読むときの全体の音声言語の状況によっては、キリスト・イエスとなる。 ギリシア語としての音のコンテキストが影響していると考えられる)と、キリストという語がある。まず、(ナザレの)イエスは、行為主体となるものとしてパウロは使っている。また、キリスト(復活した栄光の主・メシア・主・キュリオー)も行為主体となる。ところが、イエス・キリストとでてくる場合、場(ミハ氏註 メディアあるいはインターフェース)であり、行為者とはならならない。(ミハ氏註 だから、祈りの終結後である、アメン、アミンとかの前に、「イエス・キリストによって」とか、「イエス・キリストの御名によって」 in the name of Jesus Christと言う表現になっていると考えるとわかりやすい。商法での契約における会社の代表者をどう考えるか問題と似ているといえる。結局、取引主体の両者の公式で最高位のインターフェースが会社の代表者となる問題で考えれば、わかるかもしれない)

                   イエスご自身が自分自身を差すときに、「人の子」と表現することがあるが、このようにイエスが表現するとき、ご自身が「受肉のもとに死とその苦しみを経験するもの」としての側面が含まれていると考えられるであろう。

                   イエス・キリストは固有名ではあるが行為主体にはならないメディアとしての存在を表すものであり、栄光ある職務を担った尊称(ミハ氏註 楽天株式会社 社長をなにか公式の場所で紹介するときに、楽天株式会社 社長 三木谷 浩史 さんと呼ぶことがあるが、このときの呼称を分解してみれば、代表取締役会長兼社長(この役職名の部分がキリスト・イエスのキリストの部分に相当する) 三木谷 浩史(個人名の部分がキリスト・イエスのイエスに相当する)というようなものだと思えばいいように思う。なお、三木谷氏を出したのは、単に塾と高校時代の同級生でちょっと同じところで勉強した、とういことだけ以外の理由はない。高校時代を含め、それほど親しかった人物ではない。)と思うとよいのではないか。

                   イエスは復活を味わうという人間としての側面を表す時にパウロはイエスという表現を使っていると考えられる。

                   

                  Q: キリストの信についてもう少しご説明をお願いしたい。

                  A: キリストの信、となぜ名詞で表現するかというと、動詞を神に帰属させることがないからである。神の信と人の信をキリストを媒介にして啓示しているのであって、基本的には、神について、動詞をあまり使わないからである。

                   また、動詞を使うとどうしても、時制が気になる。しかし、パウロは神について動詞で表現しないといけない場合は、かなり気を使って使っている。特に神に関することで、旧約聖書由来のものは過去形を用いて表現されている。

                   「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」の使い分けはおそらく音読上の問題であり、読みやすさ、聞いたときの音のひびきの問題によるものと考えている。

                   

                  このあと、食事をしながらも議論はいろいろ続いたのですが、そこは秘密にしておきましょう。

                   

                   

                  ということで、連載はおしまいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  2018.05.22 Tuesday

                  ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式での説教を見ながら考えた

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                    タイミングがあるんで、緊急公開することにしました。

                     

                    今回は、ややこしい話(小難しいキリストの信なのか、とか言った話題とは無縁)があまりないものですけど、緊急公開しました。

                     

                    ロイヤル・ウェディングの説教から考えてみた

                    さて、先週末に開催された、Duke and Duchess of Cambridge Sussex と呼ばれることになった、日本風の呼び方をすると、ヘンリー王子とメーガンたんの結婚式が、ちょっと前まで、Facebookとかツィッターでいろいろ飛び交っていたが、まぁ、それはそれで、お昼の主婦向けのワイドショーで適当なことをいう方々は、勝手に騒いでおいていただいて、説教に当たったアフリカン・アメリカンのアメリカのアンクリカンコミュニオンの主教様のマイケル・カリー( Bishop Michael Curry)主教が行った説教と、その意味を少し考えてみたい、と思いました。


                     

                    マイケル・カリー主教の説教 BBC提供

                     

                    説教とその周辺構造を考えた

                    とはいえ、説教塾風の説教分析がしたいわけではありません。。それよりは、この説教をとりまくもろもろとの関係で考えたい、と思ったのです。

                     

                    英語が、アメリカン英語(アフリカン・アメリカンらしい英語)だとか、動作がオーバーだとか、説教の際の雰囲気が、Church of Englandの一般的なスタイル、所作、語り方とはかなり違う印象は受けました。それはそれで、その人の個性なのでいいのではないか、と個人的には思うのですが。

                     

                    まぁ、英国国教会というよりは、アングリカン・コミュニオン(日本聖公会が属する英国国教会系の教会の世界連合体)には、オックスフォード運動の影響を受け、高踏派のハイチャーチ系のカトリック的な古いスタイルの礼拝形式を持つ人々もおられますので、そういう人からすれば、総スカンになりそうな説教のスタイルではあるようには、思いました。

                     

                    異色の結婚式での異色の説教者

                    このカリー主教は、ケンブリッジ公ご夫妻(ヘンリー王子とメーガンたん)が、この人にお願い、ということで、頼んだらしい、と聞き及んでいます。

                     

                    まぁ、異色の結婚式にふさわしい、異色の主教様にお願いしたのだろう、と思いました。

                     

                    ところで、メーガンたんの結婚は、障害がいっぱいあった。というのは、彼女が女優だったり、過去のいろいろな出来事がいっぱいあったりしたからでなんですね。

                     

                    ミーちゃんはーちゃんが、彼女を認識したのは、Suitsという海外ドラマ、アメリカの法律事務所で働く若い偽弁護士とそれに協力するパラリーガル(弁護士補助者)と彼らが働く弁護士事務所のどろどろとした人間関係を取り巻くドラマでした。結構、ドラマとしては、見させる面白いドラマだったように思います。ただ、シーズンが進んでいくと、人間関係が複雑なのと、途中で見逃すと人間関係の構図がわからなくなるのと、人間関係自体がドロドロなんで、途中で見るのをやめちゃいました。伏線多すぎw(海外ドラマあるある)。

                     

                    Suitsのワンシーン

                     

                    この主教様が、タブレットかiPadを使って説教したとか、ってのは、本当にどうでもいいことで、説教は、リーガルの養子に限るとか、パピルスでないとけないとか、そんな規則はないように思います。ところで、このブログでも紹介したことがございますが、昔々の楔型文字を書いた粘土板も、英語ではタブレットといいます。その意味で、主教たるもの粘土板のタブレットに限る、とか、聖書に書いてあるわけではないようにおもうのですが。コプト正教の司祭も、タブレット使って司式しておられましたし。

                     

                    タブレット https://eduscapes.com/history/beginnings/3000bce.htm から

                    4000年ほど前最新だったタブレット

                     

                    タブレットをご覧になりながら準備をしておられるコプト正教の司祭様

                     

                    説教の日本語翻訳

                    さてさて、この説教、いつも参加しているアングリカン・コミュニオンのチャペルでの、先日の日曜日に、司祭がこの説教のことを取り上げて、13分くらいで、Youtubeにも挙がっているから、一度聞いてみるといいですよ、と言っておられました。そして、実際に上のリンクで紹介した、説教を聞いてみたところ、内容がむちゃくちゃよかったので、翻訳したいかなぁ、と思っていたら、お友達とミーちゃんはーちゃんが思っている「ふかや ゆうき」さんという方が翻訳されて、アップしてくださっていた。ふかやさん、ありがと〜〜〜〜。「ふかやさん、あんたは、えらい。本当に偉い。
                    説教の日本語訳は、こちら https://courrier.jp/news/archives/122309/ から、読める。「ふかや」さんは、信頼できる背景を持っている人なので、安心して読んでいただける。それは、ミーちゃんはーちゃんが保証します。

                     

                    冒頭で読まれた雅歌

                    ところで、マイケル・カリー主教の説教の冒頭で読まれた聖書箇所は、以下の場所でした。

                     

                    【口語訳聖書】雅歌 

                     8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
                     8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。

                     

                    この瞬間に、このカリー主教ただものではない、と思いました(主教やるくらいだから、当たり前ではあるが…)。結婚式の説教で、雅歌を持ってきた、というのは、なかなかの荒業だなぁ、と思いました。

                     

                    なぜか、といいますと、普通、結婚式では第1コリントの13章の愛のところから、説教をしたりすることが多いのですが(ミーちゃんはーちゃんがやるとしても、そこのほうが扱いやすいので、そこでやります)、このカリー主教、旧約聖書中の男女の愛をうたった愛の賛歌から説教主題となる聖書箇所を持ってきておられます。

                     

                    その瞬間に、正直、「やられた」と思ってしまいました。雅歌は、旧約聖書中、最もエロティックな聖書の書だとおもいます。18禁指定だった時期もあるほどの聖書箇所です。そして、ここから説教するのは、なかなか、大変なのです。やろうとしたことはありますが、あきらめました。それをあえてやって見せてしまうところが、まずもって、「このカリー主教に、やられたぁ」と思ってしまったのでした。

                     

                    なお、この雅歌に関しては、上沼昌雄さんの「夫婦で奏でる霊の歌 雅歌に見る男女の対話」という本がある。参考になるかもしれません。

                     

                    度肝を抜かれたイザヤ先生のコメント

                    そう思って、結婚式ゆえに雅歌を用いたあたり、恋愛はとても大事だ、ということを狙って、「この雅歌というところを持ってきたというのは、本当に狙っておられるなぁ」ということを書いて、フェイスブックに投稿したら、これまた、ありがたい方で、ヘブライ思想研究者である手島イザヤ先生から、ミーちゃんはーちゃんが腰抜かすようなコメントが入ってきました。

                     

                    そのコメントとは、以下のようなコメントでした。
                    確かに肌の色の黒さは美しい。と雅歌の作者も考えてますね。 שְׁחוֹרָה אֲנִי וְנָאוָה, בְּנוֹת יְרוּשָׁלִָם; כְּאָהֳלֵי קֵדָר, כִּירִיעוֹת שְׁלֹמֹה.

                    そうなのだ。雅歌では、肌の黒さが、賛美されているのです。それはどこかというと、

                     

                    【口語訳聖書 雅歌】 

                      1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

                    חוֹרָה אֲנִי וְנָאוָה, בְּנוֹת יְרוּשָׁלִָם; כְּאָהֳלֵי קֵדָר, כִּירִיעוֹת שְׁלֹמֹה.

                    なのです。他にも何か所か、肌の黒さに関しての記述が、雅歌にあります。探してみてください。少なくとも、三か所あります。

                     

                    そうなのだ。雅歌には、肌の色の黒い人にまつわる美しさが書かれている書物なのだ。それを、肌の色いアフリカ系アメリカ人のアメリカの主教が結婚式で、これまた、肌の色が少し浅黒いケンブリッジ公夫人(最初は、Suitsで見ていたころは、メーガンたんはヒスパニック系だとばかり思っていた)とどっからどう見てもコーカシアンで、もろイギリス人風のケンブリッジ公との結婚となると、それはそれで、ヒートアップする人たちは、結構おられるんだろうなぁ、と思うのです。

                     

                    Duchess of Sussex Cambridgeをまつわる大騒動

                    イギリス在住のアングリカンの日本人司祭によれば、英国では、結構、この結婚にまつわり、ヘイトスピーチやヘイトスピーチまがいの発言が結構流れているらしいようです。まぁ、そうだろうなぁ、と思いました。英国の伝統を保持すべき存在と考えられる英国王室に、アメリカ人の女優上りがファミリー入りとか、イギリスでもはびこるネオナチの皆さんからしたら、耐え難いのだろうなぁ、と思うのです。

                     

                    修正補記 もともと Duchess of Cambridge と記載していましたが、正しくは、Duchess of Sussexであるという指摘が、件の日本人氏司祭から指摘がありましたので、修正いたしました。

                     

                    女優が王室に入った例は、近代ではモナコ王室に入ったグレース。ケリーが有名ですが、それも相当苦労したようです。グレースケリーの周りで起きた出来事を描いた映画がありますが、それ見ても、まぁ、半端ではなかったようです。実際には、おそらくもっとだろうなぁ、と思います。

                     

                    モナコ女王になったグレース・ケリーを題材にした映画の予告編

                     

                     

                    階層社会が当然の英国社会

                    英国は、階層社会ですし、階層ごとにしゃべる英語が違うのが、英国社会です。そして、その英国は今、アングロ・サクソン人の国というよりは、アングロ・サクソン人が支配したアフリカや中東、アジア系の移民のほうが、人口比では大きい国になり始めています。その意味で、支配層であったエジプトのパロが、人口が急増中のユダヤ人に対して恐怖心を抱いたのと同じように、ブリテン島とその周辺初頭の主であると思っていたアングロサクソン人、ケルト人の子孫の皆さん方は、今、移民の皆さんの人口圧力をひしひしと感じながら、その立場が脅かされているという部分はあるでしょう。それが、ナチスと戦ったはずのチャーチル率いる英国で、ネオナチ的な動きにもつながっているように思います。

                     

                    ブリテン島でのネオナチの皆さんについての報道

                     

                     

                    テロの時に対応に立った警察官(英国の警察は実際、多様な民族からなっている)向かって左側はシークの警察官

                    http://www.dailymail.co.uk/news/article-3875052/Armed-police-officers-carrying-guns-London-Tube-trains-counter-terror-measure-following-station-bomb-alert.html から

                     

                    人種のるつぼ化する英国で愛を説く

                    カリー主教は、翌日が、ペンテコステの日であったということもあったのかもしれません(英国では、ペンテコステというと日のイメージが一般の人々にもかなりあります。腐っても、クリステンドムを経験した国です)が、火というメタファーで愛について語りました。また、火やエネルギーというものを介して、そして、人々が身近に使っているソーシャルメディアや自動車などの例をとりながら、愛を語って言っておられるように思います。そして、神を愛することと同様に、隣人愛、人類愛も神が我々に与えたもうたミッションであることを、王家や参列者、それだけでなく、テレビやYoutubeで自分の説教を聞くであろう、何千万人の人々に説いて見せたわけです。そこまで、カリー主教はおそらく意識して、説教に取り組んでおられると思います。その意味で、このカリー主教は、やはり「ただものではない」のだろうなぁ、と思いました。

                     

                    ペンテコステを描いたMark Wagginの作品

                    https://www.pinterest.jp/emmaboth/f3-shavuot/ から

                     

                    被抑圧民出身者が抑圧の象徴的存在に愛を語る

                    さてさて、まぁ、この説教の逆説はそれだけではありません。英国王室は、奴隷貿易に直接関与しなかったにせよ、それを認可し、少なくとも黙認することで、最近では、その豊かさはだいぶん怪しくなっていますが、英国の富を蓄積させたわけですし、その恩恵を王室は受けているわけです。少なくとも、英国の名においての植民地支配で、英国は巨万の富を手にし、そして、王室もその恩恵をかなり受けたわけです。

                     

                    そして、今回説教したカリー主教の祖先は、奴隷貿易で米国に無理矢理にバミューダ諸島経由で連れてこられた奴隷(一応、アフリカでの民族間での戦争捕虜や戦利品と確保された人々が身代金が払えないがゆえに奴隷であるとされた人々を、英国人との正当な交易と建前上はなっているで)の家系のご出身のようらしい、と確認されているようです。

                     

                    ある面でいうと、足蹴にされ、踏みつぶされた人々を祖先や、親類縁者にたくさんお持ちであろうカリー主教が結婚式で、並み居る人々に説教するということは、カリー主教からしてみれば、自分の祖先を奴隷にしてしまったという、憎むべき存在に近いはずの、自分たちの父祖や祖先の親類縁者を踏みつぶした側、そして、自分たちから利益をはぎ取っていった側の英国の王室の人々や、英国人、ヨーロッパ人を祖先に持つ人々に向けて、愛を解く、という実に諧謔に満ちた構造になっているように思うのです。実に皮肉な構造になっているのです。憎しみを説くのではなく、自分たちの置かれた待遇や、自分たちの過去に関する怒りを説くのではなく、結婚式であることもあるのでしょうが、憎しみの炎の代わりに愛の炎を説き、怒りの炎に代わって、愛の炎、そして、ナザレのイエスが説いた愛の支配を説く、という実によくできた、というよりは、諧謔に満ちた構造になっているように思います。

                     

                    暴力による支配と主の祈りと愛による支配

                    カリー主教から愛を語られた支配をしている側の人や支配を下側を先祖に持つ人々にとっては、かなり愉快でない思いをしたでしょうし、かなりつらかったろうなぁ、と思います。


                    そして、支配された側の人、奴隷にされた人たちは、本当に、主の祈りの言葉を祈ったと思います。

                     

                    御国が来ますように(Your Kingdom come)

                    御思いがなされますように(Your will be done)

                    と。

                    英国が来ますようにでもなく(United Kingdom come)

                    英国王の思いがなりますように( British King's will be done.)

                    ではなく。

                     

                    英語でKingdom、日本語で王国と訳されているもともとの聖書のことばは、ギリシア語では、バシレイア(バシレイヤ)です。それは、支配という意味を非常に強く含む言葉です。それを考えると、主の祈りは、我々に神の(愛の)支配が及びますように、という意味にもとれるわけです。

                     

                    奴隷の人々を支配した支配の原理は、鞭と銃とリンチと暴力による支配でした。愛の支配ではなく。神の愛の支配を一方で説きながら、奴隷とされた人々に向けられた支配の原理は、暴力の原理でした。カリー主教の祖先の方々は、愛の律法(ギリシア語の律法には、原理という意味もあります。実際にそのように翻訳している聖書もあります)ではなく、暴力の律法で支配されたのです。それが、王、女王、首相をはじめとする権力者という、ともすれば暴力を伴って人々を支配する支配者層の人々に向かって、愛の支配の原理を、信仰者として、そして、アングリカンの主教として説いたのが、今回の一番のポイントだったと思います。それも、支配してきた側が、愛の支配を説くのではなく、支配されてきた側が、愛の支配を説いた、というのが、今回の説教にまつわる諧謔的な構図だったなぁ、と今思い返しながらも考えています。

                     

                    アフリカ系アメリカ人に対する暴力による支配(特に南部諸州)についての音楽を紹介してこの記事を終わりたいと思います。

                     

                    Billie Holidayによる奇妙な果実(音質がいいバージョン)

                     

                    Billiie HolidayによるStrange Fruit 画質、音質は悪いけど、動画

                     

                     

                    アメリカ南部でのリンチについての『狂った果実』というジャズ音楽

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:大変、よろしいか、と思います。おすすめ

                    2018.05.25 Friday

                    「いのち」を吹き込む息吹 聖霊降臨日説教からの黙想

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                      今日も、説教から黙想したことをお話していってみたいと思います。

                       

                      聖霊降臨日の説教から

                      先日の日曜日は、聖霊降臨日(いわゆるペンテコステの日)でした。その日の説教は、いのちば吹き込まれる、という説教でした。その概要はこんな感じになろうかと思います。

                       

                      いろんなキス、例えば、ほっべたに軽くキスするとか、唾液の大交換会(司祭が言うか…)とかがあるけど、英国陸軍で習ったキスがある。それは、命を得させるため、生命を回復させるためのキスを習った。もし、息ができない人がいれば、その人のいのちが継続するためには、に息を吹き込まないといけない。人の体に、息を吹き込む、という事を少し考えてみたい。

                       

                       

                      CPRと呼ばれる司祭が陸軍時代に習ったキス

                       

                      今日の聖書箇所をもう一度読み直し、ポイントとなる点が特に取り上げられ、再度読まれました。その日全員で読んだ箇所は、次の三箇所でした。

                       

                       

                      第1朗読 エゼキエル 37:1-14
                      第2朗読 使徒 2:1-21
                      福音書朗読 ヨハネ15:26-27;16:4-15

                       

                      ここには、全て息が出てくる。息を吹き込まれた存在が。最初のエゼキエルでは、骨から回復したいのちのない人間の肉体に息吹が吹き込まれて動いていくものとなる姿が描かれているし、使徒では台風のような大きな風が使徒たちに望んで、そこにいた人たちの頭の上に下のように見える炎が望んだこと、そして、驚くようなことが置きたことが書かれている。ヨハネの福音書には、弟子たちに将来起きることが書かれている。

                       

                      息が吹き込まれて形になり、ある機能を果たすために息が吹き込まれることが、この部分で示されているように思う。息が吹き込まれることで形をなすものはいくつかあるが、風船なんかもそうかもしれない。あるいは、同僚で息を吹き込むといったら何、と聞いたときに話題に上ったのが、折ずるだった。まさに、折り鶴も息を吹き込まれることで形になる。

                       

                      そういう意味でいうと我々も神の息吹、神の霊が吹き込まれることで、初めて機能を果たすのではないか。今日はそのことを覚える記念日なので、そのように我々のうちに神の息吹が吹き込まれ、神が当初与えられようとした機能を果たすように祈りたいと思います。

                       

                      息を吹き込まれる前 https://ameblo.jp/ttomioka/entry-12260643109.htmlから 

                       

                      息を吹き込まれたあと http://kmsys-freesozai.seesaa.net/tag/%83c%83%8B から

                       

                      エゼキエル書の朗読から受けた衝撃
                      以上のような説教を聞きながら、というよりは、最初の聖書朗読で、エゼキエル書の37章を読んだとき、衝撃を受けてしまいました。

                       

                       

                      【口語訳聖書】エゼキエル書 37章 1節−10節
                      主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
                      彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。 
                      彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。 
                      彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 
                      主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。 
                      わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。 
                      わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。 
                      わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。 
                      時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。 
                      そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。 

                       

                      というのは、まさに、ここで描かれているような、干からびて、ばらばらになった骨のような状態でアドベントから、イースターまでの期間を過ごしたからです。本当に枯れてしまって、かろうじて息をしている状態でした。聖書も読めず、式文と式文にたっぷり込められたい聖書と祈りの言葉に養われる、という体験だったのです。ちょうど、カラスに養われたエリヤのような状態、と申せばよいでしょうか。

                       

                      エリヤのイコン https://www.blessedmart.com/shop/hand-painted-icons/holy-prophet-elijah-elias/ から

                       

                      まさにこの状態

                       

                      昨年11月に、このブログを突然断筆し、そして、突然復帰した第1回目の記事 「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 でお示しした状態、すなわちかわらけのように粉々に砕け散ったかのような状態、エゼキエル書に描かれているこの骨のように枯れて、乾いた骨の状態ですごしました。現在、かなり回復してきましたが、未だに、いつ、元の乾いた骨の状態に戻るかもしれない、という思いはあります。なぜ、いつ、神の息吹がイースターの吹き込まれたのかはわかりません。また、私には、神の息吹が、吹き込まれたかどうかも、わかりません。しかし、1月から2月にかけての状態より、かなりよくなったことは確かです。それは実感します。

                       

                      イスラエルの再興預言としてのエゼキエル書理解

                      ところで、この箇所は、私にとって、思い出深い聖書箇所の一つです。なぜかと言うと、この部分を特別重要視して読む習慣があるグループで育ったからです。ちょうど、70年代から80年台の中学生、高校生の頃、このエゼキエル書の箇所を読むのが、私が育ったキリスト者のグループでは、流行しました。再臨が近い、イスラエルが建国した、まさに、この渇いた骨がつながってイスラエルが肉体を取り、建国したではないか。再臨が近いはずだ、という理解が一世を風靡しました。これは、ディスペンセイション説、あるいは、ディスペンセイション神学に大きく影響を受けた聖書理解であると言えると思います。

                       

                      このディスペンセイション主義神学を生んだキリスト教グループで、私は信仰の歩みに付きましたし、信仰者として育ちました。そして、私がかつてその一部を締めていたといってよい、そのグループの多くの皆さんは、今もなお、ディスペンセイション神学の理解をお持ちのようです。そのグループでは、いまでも、この部分を、イスラエルの回復の預言として大変重視し、この部分をイスラエルの回復と関係付けて解釈してきましたし、いまもそう理解しておられる方は少なくないと思います。


                      そのようなグループの中で、信仰生活を過ごしていた時には、このエゼキエル書の部分は、イスラエルが回復する、国家としてのイスラエルが建国するという理解であったのですが、まさか個人と、まして、私との直接のかかわりがあるとは思っていませんでした。当時も、そしていまも、おそらく、世俗国家としての現イスラエル国を前提として理解が提示され、そのように理解しておりましたが、今回、改めて、この個所をほかの聖書箇所、特に、ヨハネの福音書との関連で読むとき、あぁ、これは、個人についても関わりが深い聖書箇所なのだ、いや、むしろそうすべきだろう、と理解するようになりました。それは、この数か月余り、風に吹かれてカラカラと音を立てるような陶片、骨のような状態であったから、というのはあるかもしれません。

                       

                      乾いた骨として時間を過ごす中で

                      そして、この喪失感と荒涼感に満ちた経験とでも言うべき経験を通して、その中で、式文に養われ、信仰生活を見直していく中で、自分自身の無力さを感じ、そして、それでもなお、神が働かれるのか、神は私に何を求めておられるのか、旧約聖書のエリアのように、あなたは私に何をお望みですか、と言いたくなるような日々を過ごしていました。

                       

                      【口語訳聖書】列王紀上 19章 4節
                      自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。

                       

                      まさに、そんな感じ、どうしようもない環境の中で、とにかく、こなさなければならないこと、最低限の責任だけをこなすのが、精一杯の日々を過ごしました。

                       

                      「教会は休まなかったのか」と、ある方から聞かれましたが、休むことはなかったです。ただ、教会を休む気になれなかったことも確かです。教会を休む、そのオプションは、考えたことはなかったです。教会のプログラムが短い、というのもあったかもしれません。式文中心ですから、1時間ほどです。また、仕事場にも通っていましたから、そこまでひどくなかったのかもしれません。教会の中で、ほぼ毎日曜日と水曜日、式文による祈りを読み、式文の先にある聖書の言葉に思いを巡らし、聖書の言葉を聞き、聖餐にあずかる、 それがただただ嬉しかった。特に聖餐を受け止め、自分のうちに神の臨在を感じる、それがただただ嬉しかったことは確かです。とはいえ、2日もすれば、また、れだまの木の下に座す襟や状態の鬱陶しい日々に逆戻りでしたが・・・。

                       

                      ある面、この期間、式文を通しても、その式文の先にある聖書の言葉を通しても、神の息吹、神の風、神からの聖霊が吹き込まれ、カラカラに乾燥し、砕け散ったような乾いた骨のような状態であったものが、神との関係を回復し、本来の姿とは言えないかもしれませんが、別の姿を取り戻すことを可能にしたようにも思います。

                       

                      一つのものとして生きる生とアダムとエヴァ

                      「骨からの骨、肉からの肉」という表現をアダムはエヴァが与えられたときにしていますが、ある面、彼らが二人揃って一つになり、一つのものとしての生きる歩みに導かれたように、ボラバラであった私の状態が、形をなしていったようにも思う、ということをこの説教中、ずっと思い巡らしておりました。


                      その日々の中で、ものすごく鮮烈に印象に残った式文の中に、to serve each other, and to be served each other という文章があったのですが、これを見たとき、衝撃を受けました。それは、我々人間が、いや、私が他の人に仕えるためだけに存在するのではなく、他の人から助けてもらう存在としても存在するのだ、という認識に至ったのでした。ある面、当たり前のことかもしれません。人は神からの救いをキリストを通して受けた、助けを受けたのですから。キリストは、このくだらない人間に仕えるものの姿をとられ、実際に人間が考えることができないような仕え方で、仕えられたのですから。それを、この苦しみの時間を経過する中で、身にしみて感じることになりました。

                       

                      Servant Kingという讃美歌

                       

                       

                      人生と循環的な時間、教会暦の教会で

                      しかし、近代人としての私は、何かすることにあまりに価値をおきすぎ、なにかできることに価値を置きすぎる傾向があったようにおもいます。しかし、いろいろな経緯から、「主よもはや十分です。何もする気力もそ、の力もありません」と言わざるを得ない状態になって、自らの生き方を問われたのだと思います。それは、私にとっての青年期の終わりでもあり、私にとっての、壮年期の終わりが来た、ということだったかもしれない、と思っています。トゥルニエは人生の四季という本を書きました。人生の秋から冬に向かっているのだろう、と思っています。

                       

                      ところで、教会暦の伝統に従って生きる教会では、これから、アドベントまで、長い長いペンテコステの主日が続いていくことになります。元いたキリスト者のグループの教会では、教会暦などはガン無視の教会でしたから、教会暦を意識するのは、人々のキリスト教への関心が気のせい程度高まり、人々が教会に来る機会として考え(伝道の機会になるかも)、と思われる(それは思い込みに過ぎなかったと思っていますが)クリスマスくらいでした。元いたキリスト者のグループの一部の教会では、クリスマスさえ、ゲルマン人々が持っていた当時の祝祭である冬至祭との関連から、異教的であると言い、日程とその成立過程を含めクリスマスの根拠が薄弱であることを理由に、クリスマスでも、通常プログラムであえて、クリスマスを祝うことのない教会もありました。今でもあるように思います。

                       

                      しかし、いま、教会暦に従って生きる教会に身を置かせてもらい、教会暦を通して、そして、教会暦に応じて変わっていく式文を通して、体験的に感じるなかでナザレのイエスの生きた人生を追体験し、あるいは、信仰の先駆者たちの経験した人生を追体験していく中で、その教会暦が人生のリズムとしても重要である、と思うようになりました。教会暦に従って生きる教会では、これからのペンテコステの時期は、充実に向けての時期、死に向かっての充実を図るための時期でもあるようです。今年もその時期が来ました。豊かな時期を過ごせれば、と思っています。

                       

                      藤掛明先生は、人生を一日で考えることについて、書いておられます。トゥルニエは、人生を1年で考えることについての本を書いています。サイクリックな(周期的な)性を生きる教会では、これらのことが、重層的に、日課(早課(朝の礼拝)、晩課(夕の礼拝))、そして、教会暦というかたちで、1日単位、1年単位といったそれぞれのスケールのレベルで構造化され、信徒の生、人生のリズムを整えるようにできているように思えてなりません。いま、そのようなリズムに従って、自分のリズムを反省的に考えながら生きる中で、充実した神の息吹、神の霊を吹き込まれて生きるその人生のペンテコステの時期を過ごしたいなぁ、という感想を司祭の説教を聞きながら、考えておりました。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      評価:
                      ポール・トゥルニエ
                      日本基督教団出版局
                      ¥ 1,944
                      (2007-07)
                      コメント:大変よろしいか、と存じます。

                      藤掛 明
                      キリスト新聞社
                      ¥ 1,728
                      (2012-09-21)
                      コメント:大変よろしいか、と存じます。

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