2017.09.01 Friday

2017年8月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

     

     先月は、16,262 アクセス、平均で、日に  524.6 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
     2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

     2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

     2016年第2四半期(4〜6月)   76117アクセス(836.5)

      

     2017年07月      18,416 アクセス (594.1)

     2017年08月      16,262 アクセス (524.6)

     

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

    藤本満著 『歴史』を読んでみた(2)

    アクセス数    684

     

    Ministry Vol.34 を読んでみた(1)

    アクセス数  643


    Doing Being Becoming Creating そして Recreation

    アクセス数  521

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

    アクセス数    505

     

    インパール作戦やブラック企業やカルト化宗教集団に投影されている日本の精神

    アクセス数  331

     

    でした。

     

     

    今月も特徴的だったのは、藤本満著 『歴史』を読んでみた(2) Ministry Vol.34 を読んでみた(1) という新着記事がぶっちぎり。そして、   Doing Being Becoming Creating そして Recreation がトップの座から3位にさらに転落。そして、いつものように、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第4位になり、5位以下を大きく引き離しています。こういう、金管の本の紹介こそ、このブログの本領ではないか、と思っているので、今回は嬉しい限り。

     

     

     

    今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

     

    先月の御清覧、ありがとうございました。

    2017.09.02 Saturday

    2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(1)

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      今日も最新号のミニストリーからご紹介しようかとも思ったのだが、印象が鮮烈なうちに、先日参加した関西牧会塾のセミナーの記録をちょっと載せてみようか、と。そして、今日は、講師の中村佐知さんのお話をご紹介してみたい。なお、表記の間違いや記録の間違い、記憶の間違いによる妙な記述は、ミーちゃんはーちゃんによると思ってもらえると助かる。表現はもっと優しかったが、なんせ、ミーちゃんはーちゃんが取ったメモに基づく要約なので、なにせミーちゃんはーちゃん風になっているのはお許し頂きたい。また、ミーちゃんはーちゃんの考え方が混じっている点はご容赦いただきたい。

       

      中村さんと霊的修練と観想的霊性
      講師の中村さんとが霊的修練や観想的霊性という概念と出会ったのは、ダラス・ウィラードの本の翻訳を豊田さんから頼まれたのが出発点だという。そのダラス・ウィラードの翻訳をするうちに、霊的形成 Spiritual Transformationという概念に出会ったという。霊的形成というのは、キリストの姿に変えられていく、と言って良いだろうと思っている。


      そう思っているところに、中村さんの所属教会に、霊的形成担当の牧師の方が来られたのにあわせて、中村さんは、諸事情もあり、霊的同伴などのケアを受けていくことになる。

       

      ところで、周期ゼミという、何十周年かで大発生するセミが発生したことが数年前におしまいのシカゴであったが、その時小学生はそのセミを捕獲し、そして、こどもなので、かなり無茶苦茶なことをしていた。しかし、大人になると、そんなことをしなくなるのだろう。なぜだろうか。それは、そんな虫を捕まえて残酷なことをすることが、自分にとって重要でなくなるからであるし、魅力的なことでなくなる殻ではないだろうか。霊的に変えられていくとはそういうことではないだろうか。

       

      人生の目的は、特定の業績や経験にあるのではありません。人生のいちばん大切なことは、何をするかではなく、どんな人になるか、です。 By ジョン・オートバーグ

       

      (出先なのでわからないが、「神が造られた最高の私になる」に似た表現があったと思う。なお、このオートバーグの本は非常に良かったと思っている。)


      Spiritual Transformation とは、キリストに似ていない部分が、キリストに似たものへと変えられていくということである。

       

      クリスチャンにとっての霊的形成とは、他者のために、御霊によって、キリストのかたちににせられていく、プロセスである。
      ロバート・マルホランド
      Invition to a Journey A Road Map for Spiritual Formation から

       

      そして、この霊的変容には以下のような4つの側面があるだろう。

       

      1 プロセスであること
      2 キリストに似ていく
      3 御霊による
      4 他者のために

       

      と整理することができるだろう。

       

      特に、霊的成熟にともなって、他者との関わりが変わってくる用になるし、そして、他者に、家族や、自分の周囲の人びとに影響することになる。とはいっても、霊的変容は、クッキーカッター(クッキーの抜き型)で型抜きしたように、同じようなものにならないはずであるし、ある理想形があってそれに当てはめていくようなものではないように思われる。

       

       

      似てるけど、完全に同じじゃなくて、ちょっと違うよね。

      https://www.td.org/Publications/Blogs/Management-Blog/2016/11/To-Grow-a-Business-Managers-Need-to-Grow-the-Talent から

       

      (ミーちゃんはーちゃん的コメント)

       結構、ある理想像があって、その先験的というか、予め決めた理想像に合わせるのが成長、というある種の近代を支配した学校教育型の成長論に我々は呪縛されているのかもしれない。そして、その予め誰かが決めた一つの理想像と同じようなものになることを良しとしている部分もあると思う。それが、聖書理解や信仰理解にも含まれているのが、なんとも、と思ってしまうことが最近多いなぁ、と思ってしまう。

       

      霊的変容とはどう起きるのか

      霊的変容自体を指し示すズバリの表現は聖書そのものにはないが、それを構成する要素が聖書の中に幾つもある。それらを概念として整理したものが、霊的変容といえるだろう。

       

      イエスは、

      「悔い改めて(メタノイア)、福音を信じなさい」

      と言っている。

       

      これも、霊的変容を表す聖書の言葉であるといえるだろう。


      パウロは、

      「心の一新によって自分を変えなさい」

      と言っているが、この「変えなさい」という部分は、向きを変える、判断基準を変化させる、あるいは、考え方を変化させる、とか、考え直すということだろう。


      偽りのものがたりから真実のものがたりへ

      我々は、教育の中で、ある思い込みが刷り込まれていて、本来の人間が作られたときにもっていた本来のものがたり以外の、偽りのものがたりが刷り込まれているのではないだろうか。(ミーちゃんはーちゃん注 このあたりを考えたい向きには、グリューンの『従順というこころの病い』を読まれると良いだろう。)


      行動や思いに影響している刷り込みというか、ものがたりというか、理解の体系と言うかにはいくつかのものがあるが、それらのうちに、


      神について
      自分について
      被造世界(世の中)について

       

      ということに分けて考えることができるだろう。それぞれをどう思っているか、ということが重要なのである。

       

      「心の一新」とはどういうことか
      心の一新の、心とは、Mindの一新、ということができる。Mindとは、頭脳の動き、というような意味として考えることができるであろう。 NLTによると、心の一新によって変えなさい、とは、  Let God transform you into a new person by changing the way you think.となっており、神によって変えていただく、ということを意味する。

       

      (ミーちゃんはーちゃん的コメント)

       このあたり、心というのが日本語では、感情の問題に影響を与えるHeartと思索とか思想とか、哲学的な知的な作業を行うものやその人らしさや考え方の癖と言ったものを生み出す部分であるMindが明確に区別しにくいことと、近代の心理学がどちらかと言うと唯物論的な態度を持っているし、そのような考え方が普及してきたため、どうしても、日本人にとっての心は、どちらかという精神の働きでも感情に影響する部分と理解される傾向が多いように思う。そうなると、心の一新による、とかいうことには精神論的な滝行とか、護摩行とかの世界が浮かんでしまうかもしれないが、Mindとは、もう少し、知的な、思索的な世界のお話であるということは、きちんと理解しておいたほうが良いかもしれないなぁ、と思った。

       

      さらに、ここで紹介された翻訳がいいなぁ、と思ったのは、心の一新というときに、Let God Transformとなっていて、自分が心を変えるのではなく、神によって、心が変えられる、と言う表現になっていたのが実に印象的であった。神の主権による介入を求めていくのが、霊的変容であり、その時大きな役割をはたすのが、聖霊、ということなのだろう。

       

      そして、どうしても日本語で、修練とか霊的熟成とかというとどうしても以下の画像や動画のような護摩行とか、寒中の滝行とか、そういうのが思い浮かぶ人のほうが、大半であろうけれども、これは、キリスト者の修練ではないように思う。

       

       

      護摩行 阪神タイガース金本監督(当時は選手)の護摩行の時の画像

      http://2chnpb.blog.fc2.com/blog-entry-1225.html


      真冬の滝行

       

      (ミーちゃんはーちゃん的コメント の続き)

      永井荷風という人の『断腸亭日乗』という日記集に戦時中の記述だったと思うが、当時の帝国陸軍の将官か何かが、必勝祈願で、寒中の海に入って冷たい海の中で禊をして、必勝祈願をするとか言うことに対するコメントとして、そんなことをして効果があるなら、真夏にドテラを着て火鉢に当たり、汗をかいておれば、必勝祈願の効果も同様にあるんじゃないか、と揶揄している記述があったが、日本語における修練とか、修行とかには、まさしくそんな感じなのだろうとは、思う。なんかこういう自分が無理をしているところに酔ってしまう、という心象風景と言うか心の部分が東アジア人としての日本人のこころの原点の何処かにあるのかもしれないし、それが神感だけでなく、日常的な生き方にも現れてしまうのかもしれない。それはそれで、神の創造のご計画の一部なのかもしれないけれども。

       

      修行なんかには、そういう精神性があるかもしれない。自分はこれだけ一生懸命頑張ったし、努力したのだから、それに見合う効果がほしいとか、願掛け的な願いの実現を思いたくなってしまうのかもしれない。

       

      行動そのものではなくて、神への捧げものとするプロセス

      ところで、いくら、みことばを学ぶことに熱心であったり、あるいは、聖書を暗記していたとしても、我々には、我々自身が、偽りのものがたりの中にいる、ということはありうる。これを防ぐためには、聖霊に関わってもらうということを意味するSpiritual Disciplineが重要である。それは、自分自身の中に、あるいは自分自身の生活の中に、御霊の働く場所を作る、ということであろうし、それが、 霊的修練・霊的実践ということになるだろう。

       

      直接的に自分の努力では生み出せない、自己の内的変化を、神によって、神の御霊の恵みによって生み出していくために、御霊に働いていただくスペースを作る、ということが重要ではないだろうか。それはある意味、自分で行うことのできる計画的で定期的な活動ということでもあり、沈黙や断食を長い時間することだけではないと理解されているといえるだろう。


      霊的修練は、神への捧げ物として、定期的に、そして忠実にすることであって、その際に、その修練の結果受けられる効果を指定しない事が重要かもしれない。何かのためにするものや、神から何かをもらうためにするものではないと言えるだろう。霊的修練は、霊的変容を決めると、本来とは違ったものになる可能性が高いのではないだろうか。

       

      (ミーちゃんはーちゃん的コメント)

      今ほぼ毎週、通っているアングリカン・コミュニオンの式文の中に非常にこの捧げ物に関する印象てきな記述がある。聖餐式の聖餐に預かった後で声に出して読む部分である。出先なので、日本聖公会の祈祷書は自宅においてきたので、日本語は今調べようがないので、ご容赦いただきたい。

       

      Almighty God,
              we thank you for feeding us
              with the body and blood of your Son Jesus Christ.
              Through him we offer you our souls and bodies
              to be a living sacrifice.
              Send us out
              in the power of your Spirit
              to live and work
              to your praise and glory.
              Amen.

       

      まさに、聖餐とは、イエスがご自身を通して、この地に生きた捧げ物として、ご自身の魂と肉体を神に捧げられたように、自分たちの魂と体を、生きた神への捧げ物として捧げる、we offer you our soulds and bodies to be a living sacrifice つまり、霊的修練のために生きている、ということがこの式文の文言には含まれているし、さらにその後、Send us out in the power of your Spiritで例において力を受けて To live and work to your praise and glory とあるので、神の栄光を求めて生き、働くということがこの式文の表現に含まれていて、霊的変容が特に、何か世間を離れて起きるものではないことを、このアングリカン・コミュニオンの祈祷文は示しているように思った。

       


      霊的修練としてわたしたちが行うことを、捧げ物として神様の前に差し出し続けるとき、わたしたちのうちにあるものや、偽のものがたりで覆われていて、神のみ前には死んでしまっている部分が、聖霊によってキリストの命があるものとして、生き返らせてくださる様に思われる。聖霊なる主が、わたしたちが捧げる修練を通してそれを為してくださるということだとされているようである。

       

      霊的修練は、クリスチャンであればしなければならないものではない。恵みを受け取る手段の一つである。その霊的修練のためには、余裕が必要なので、いろいろな生活の場での仕事のペースを落とすことも大事な場合があるかもしれない。生活の場で色々方法はある。神との時間をとるための方法がある。家事をしながらでもいいし、仕事をしながらでも、時に神に思いを向けるための時間を取り、神に思いを向けることなども大事かもしれない。

       

      霊的修練とは、基本的には、活動ベースではない。神との関係を持つ時間的、空間的、思索的なスペースづくりとしてできているかどうかが案外重要かもしれない。聖書通読は大事であるが、聖書通読をいくらしても、量をこなすような方法論では、結局活動はしているかもしれないが、必ずしもそれが霊的修練につながるとは限らない。

       

      (ミーちゃんはーちゃん的コメント

      The way of the heartというナウエンの日本語に翻訳されてない砂漠の師父について書いた本があるが、その本の最後に、縄をなう仕事をしている修道士(師父)の話が出てくる。その人は寝てても、食事をしていても、いつも祈っているという。どうやってそれを祈っているのか、ある人が聞くと、縄をないながら、祈ることはもちろんしているが、自分がなった縄をとりわけ、そのいくらかを、自分が寝ている間に自分に変わって祈ってくれる修道士のためにとっておき、眠ってくれる時に祈ってくれる修道士や、食事を作ってくれる修道士にその御礼として渡すというような話が出ていた。我々は、なんでも自分でしなければいけないと思い込まされているのかもしれない。霊的修練というのは、自分が何かしてもらうことによる修練も、霊的修練の一つなのではないか、と思わせるエピソードである。それと同じように、我々は自分のために関与してくれる人とともに、霊的修練をしているようにも思うのだ。)

       

      人によって異なる霊的変容の方法

      神がわたしたちを変える方法は、人によって異なるのである。それに関連する文章をオートバーグの本から紹介する。

       

      神はアロンには祭壇を、ミリアムには歌を、ギデオンには羊毛を、ペテロには名前を、エリシャには外套をお与えになった。
      神は誰のことも、同じ方法で成長させることはない。神は手作りされる方。
      大量生産する方ではないのだ。


      ジョン・オートバーグ
      「神が造られた”最高の私”になる」より

      この引用にあるように、霊的変容の方法は、人によって異なるのだ。

       

      ところで、私たちは思っている以上に祈っている。神に心が向いているときが祈っているときである。


      ユージン・ピーターソンのことばに、人によって祈り方のパターンがある、と言うものがあるが、人それぞれの祈りの時間があるのだ。朝のデボーションの時間をとって祈る人もおられるだろうし、家事をしながら祈る人もいるだろう。人が神に心を向けているときが祈りそのものであると思う。

       

      霊的変容を考える上で、大事なことは、自分自身が行うことや、見るもので、形作られる、という側面である。ツィッターというソーシャルメディアではフォロワーという概念があり、フォロワーとは誰かのツイートを見ている人であるということなのだが、それと同じように、霊的変容を考える上では、神をフォローしているのか、神の言葉を考える際の参考にしているのか、という意味で、神のフォロワーになっているかどうかが案外大事なのではないか、という事が重要だと思われる。

       

       

       

      次回、後半へと続く。


       

       

       

       

      評価:
      ジョン・オートバーグ
      地引網出版
      ¥ 2,592
      (2015-11-10)
      コメント:超おすすめかも

      評価:
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      コメント:ヨベル直接にご連絡を、在庫はあるのでもっと安く手に入ると思います。

      2017.09.04 Monday

      2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(2)

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        前回に引き続き、2017年8月31日に開催された関西牧会塾での中村佐知さんのご講演の後半部分をご紹介してみたい。前回と同様、ミーちゃんはーちゃんが当日参加して聞きながら、PCに記録したメモに基づいているのでありうべき誤謬は、すべてミーちゃんはーちゃんによるものである。ミーちゃんはーちゃんの意見は、極力本文より分離して、ミーちゃんはーちゃん的感想として、フォントをやや小さめにして表記しているが、それでも交じっている部分があると思う。それはご容赦賜りたい。

         

        観想的な霊性とは

         観想的な霊性(Contemplative Spirituality)であり、辞書で観想という言葉を検索してみるとかなり怪しいような表現をふくんでいることがある。観想は、瞑想ではない。とはいえ、一種神秘主義的なものを含んでいることは確かである。

         

         キリスト教の伝統の中での観想とは、黙想とは区別される、ある種の祈りである。観想とは、神のご臨在に意識を向け、神の方に心を向けることである。老夫婦や恋人同士が何も語らずに見つめ合うように、神と見つめ合うことであり、言葉を超えて、一緒にいることを喜ぶことである。

         

         キリスト教の世界で、レクティオ・ディヴィナとして確立された方法があるが、そこでは、聖書のことばを黙想して、祈りにおいて応答し、最後に観想する 無言で神の前に出るということをする。このとき、心の動きは止めている状態である。

         

        クリスチャンのリーダーは、神学的な思い巡らしをすることが必要であろう。しっかりとした神学的な思い巡らしがなければ、適切なクリスチャンリーダーシップとはいえないのではなかろうか。

         

        (ミーちゃんはーちゃん的感想)

         行うこと、成し遂げることが価値があるとされる現代社会において、何もしないこと、はた目には瞬間的に止まっている状態、なにもなしえていない状態というのは、無益な時間とか、無益な行為とみなされがちである。家人の家族に、子供の時ボーっとしていると、「なにをボーっとしているのか?」と親から怒られた人がいたそうであるが、何か生産的と見えることをしていないと怒られるのが、現代社会であるということを良く表すエピソードだと思う。

         

         

        聖書内にある霊的観想と深い関係にある表現

        先にも述べたように、霊的観想というと、少し怪しく見えるかもしれない。ところで、霊的観想には聖書的根拠があるか、というと明確にその語そのものがあるという形での根拠は存在しないが、霊的観想を示唆されているように思われるような表現はいくつかあるように思われる。具体的な例として、霊的観想ということと関連する聖書内の表現とすれば、沈黙や静まり、やすらぎ、神を仰ぎ見るというような表現でもあり、より具体的には、

         

        【口語訳聖書】詩篇
        62:1 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。

        といった表現にもみられるのではないだろうか。

         

        ある意味、沈黙の中で、神に目を向けていることが観想であるとは言えるだろう。  

         

        最近の現象として、S N Sでの瞬発的な炎上の問題を考えてみたい。このような状態は、人間として、適切な状態であろうか。あるインタビューで、同性愛者の結婚式を挙げるか、と聞かれて、ユージン・ピータソンは、「はい」と答えたことそのものを問われて、ユージン・ピータソンは、ゲイマリッジ容認論者だということで、賛成派、反対派に分かれ、S N Sが炎上した。そのことに関して、炎上した直後にユージン・ピータソンが撤回したら撤回したで、また炎上したということがある。これなどが典型的だが、良く思いめぐらすことなく、瞬間的に反応する時代の中に我々はいるのかもしれない。その意味で、観相的なものと、S N Sの炎上に見られるような衝動的・反応的は対極的な関係にあるように思われる。

         

        (ミーちゃんはーちゃん的な感想)

        プロテスタント派のツイッターユーザーの一部は、ネットクラスタの中では戦闘民族とよばれることもある様である。ちょっとしたことで目くじら立てて、ツイッターやフェイスブックで炎上しやすいのは、どうもプロテスタントに多いらしい。(正教会でもそのタイプの人がおられたのは事実だが)ちょっとした言葉の切れ端、コンテキストをまるで抜いた言動の切れ端をとらえて、やれ、おかしいだの、やれ、謝罪せよだの、実に喧しい人々もおられる。これに日本特有の厳密性や世界に冠たる短時間戸別居宅配送システムである宅急便システムを発達させた国だけあって、迅速でないことに対する堪え性がないと来ている。そして、ブラック企業というのか、ブラック職場化しても、迅速さということを至上命題にしている企業体も少なくないのが日本という国である。ところが、これは世界に類例がない現象だし、世界に類例を見ない正確性と高速性をともに持つシステムだと思う。日本でしか、ピーク時には、6分に一本発車する新幹線は、日本でしか運用できないのではないか、と思う。中央線に至っては、2分から1分半に一本走らせている。そういう世界に慣れ親しんだ皆さんが、フェイスブックの世界や、ツィッターというような世界にもご登場になられるので、その人国勢最高の様な概念が、もともとバケツリレー型のかったるい伝送システムで運用することになっているネットの世界にも持ち込まれ、瞬間的な反応を相手に強いる人々もいる。よもや、この世界にはいないと思うが、ツィッターのA P IやFacebookのA P I が体の一部として埋め込まれている人ではないのだから、その程度のものと思って付き合えばいいのに、と思うが、それができないのも、また現代的な現象なのかもしれない。

         

        宗像大社でのバケツリレー

        https://mainichi.jp/articles/20160126/ddg/041/040/005000c から

         

        キリスト教指導者と世俗主義の問題
        キリスト教指導者達の問題も似たようなところがあるかもしれない。特に、世俗主義との関わりの問題というのは、案外深刻な問題を生んでいるかもしれない。特に、前半で述べた、社会や親から与えられた偽りの自己との関わりの問題があるのではないだろうか。

         

        (ミーちゃんはーちゃん的感想)

        アメリカのキリスト教会の姿を見ていると、牧師と名声とか、教会や牧師についての毀誉褒貶の問題というのは、少なくないように思う。まぁ、アメリカ社会があまり落ち着きのない社会だとおもう。個人的には、高ボラティリティ社会(瞬間湯沸かし器のように、一時的に盛り上がるものの、そのことについてすぐ忘れ去られていき、大事なことが継続的に考えられない社会、推移性、あるいは状態遷移性の高い社会程度の意味)と呼んでいるが、まさに、それがキリスト教界の世界に持ち込まれていて、ツイッターやFacebookが始まる前から、このような傾向があり、有名牧師の動静がもてはやされたり、また、有名牧師を見倣うとか公言する人々もいないわけではないように思う。そして、聖書に向かって自分で考えて判断するよりも、自分にとっての関係の深いグループの独自に流行とか、言説からしかお考えになられない方々も少なくないように思う。流行言葉を消費するような中学生や高校生ならいざ知らず、個人的にはどうなんだろうか、と思うことがないわけではない。もちろん、独自の教派的伝統というのは大事にされた方がよいとは思うが、それが行き過ぎてしまって、対話ができない状態になっているとしたら、どうなのだろうか、とも思う。

         

        https://ranjivarughis.wordpress.com/tag/transformation/ から

         

        観想的であることと活動的であること

        観想的でありつつ、活動的なことは可能であり、活動の問題とは別であり、観想とは神との関係のことでもある。神の声に従おうと思っているのなら、活動的になることはあるのではないだろうか。ところが、あることに、単に瞬間的に反応しているというような状況だったら、いかに活動的であるとしても、その瞬発的な反応をすることに、どのような意味があるのだろうか、ということを考えた方がよいのかもしれない。衝動的な生き方と観相的な生き方の間には大きな違いがあるように思う。白か黒か、という考え方でない生き方が大事かもしれない。第三の道がないか、と考えるというのが観想的な生き方から生まれるものだと思う。

         

        ある人(多分、リチャード・モーアと聞こえたように思う)のことばに、「テンション(緊張関係)を一旦留保できることは霊的観想の結果である」という表現があるが、そのようなことが観想において重要なのであり、一旦留保することで思いを巡らす中で、神と向き合いながら考えることの重要性を示していると思われる。

         

        (ミーちゃんはーちゃん的感想)

        この辺は、一般システム理論とか、心理学のある分野とか、マインドフルネスに近い仏教のある一部とか、N V C Non Violent Communication とか、と呼ばれる概念とある程度共通部分があるなぁ、と思う。要するに、ものの見方をどうするか、現実問題に振り回されずに霊性に思いを巡らし、現実を見つめていくことと割と方法論がよく似ていると思うのだ。ミーちゃんはーちゃんは、お付き合いのある農業関連組織や地方自治体の皆さんと協力しながらお仕事を進めることも多いので、第3者的な立場でこれらの組織とかかわることがある。その時に、現状で混乱しており、堂々巡り状態にあるようなどうにもならないクライエントさんからのご依頼を受けることがある。そんなときにお話をしながら、物事を進めていくのだが、直接の当事者でない分だけ、個別事態や個別の現実に振り回されないで済むので、かなり自由に考えることができることも少なくない。多くの場合、堂々巡りしていたり、現状で混乱しておられる方の場合には、現状に対して、瞬間的反応をすることへのアクセル全開状態(いわゆる戦闘モードや脊髄反応モード)であり、考えることができない状態であることも多くて、いったん止まって、考えることができなくなっておられることも案外多いので、関係者からそれぞれお話を聞いて、問題を一時的に停めて考えるだけで、解決することが時々起きる。それとよく似ているのだろうなぁ、と思った。

         

        この辺のことを仏教思想について、お知りになられたい向きには、魚川祐二さんの「仏教思想のゼロポイント」を読まれると手がかりになるものがあるかもしれない。一般システム理論に関しては、ワインバーグの

         

        たいてい戦闘モードに入っているときは、敵か味方か、善か悪かという二分法的な考え方で考えがちにどうしてもなってしまう。この二元論的な考え方では、次元が縮退してしまい、本来の豊かな次元の中での出来事が、善か悪かに対抗してしまうことになるように思う。そして、たいてい自分に見方をしてくれる人や意見が似ている人を無前提に善としがちな傾向を持つのだけれども、それは実はまずいように思おう。こうなると、まともに考えたとしても、事実認識の空間というか時限がおかしいので、出てくる結果も当然おかしなものにならざるを得ないのである。問題解決の第3の過誤(間違った問題を一生懸命解こうとする、という困った現象を指す語)の典型例になるような気がする。

         

        マリアの受胎告知のことばから

         マリアは、受胎告知を受けたときに

         

        【口語訳聖書】ルカによる福音書
        1:34「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。

         

        といっているが、その中に思いめぐらし、観想的な生き方が表現されているように思われる。

         

        マリアの受胎告知のシーンを描いた絵画

        http://rirari-exhibition.at.webry.info/200708/article_11.html

        (ミーちゃんはーちゃん補足 マリアのような奇跡的・衝撃的な出会いだけが観想を生み出すだけでなく)日常生活のさまざまな所に思いを巡らすヒントが存在している。例えば、キリスト教書のタイトルや広告などからも、着想を得て思いを巡らせることがあるかもしれない。(この辺から個人的なことからお話(お証というらしいけど…)が混じった話になっているので、プライバシーの問題もあるので、省略した。)

         

        現実の問題にぶつかった時に、その問題に強固に抵抗するだけでは問題は解決できないかもしれない。主に同意しながら生き方を模索することの必要があるように思われる。神の臨在に休息し、神を見つめつつ、現実の社会を神に従って歩んでいくこと、神のともにおられる神に目を向け、生きつつ、生活の中で変容(Transform)することが大事かもしれない。王なる神がこの地をおさめるという期待と確信において、この地のことに関与していくことが重要なのではないだろうか。

         

        (ミーちゃんはーちゃん的感想)

        宗教改革では、贖宥状をはじめ当時のカトリック教会の在り方や課題に抵抗して、プロテストしたことで、プロテスタントになった部分があるので、その意味で非常に抵抗というのか、戦いというよりは闘争みたいなものが、精神性の中にかなりあるように思う。そして、あくまで自立した個人として、この世との戦いというようなメタファーが讃美歌などにもみられることが多い。例えば、以下のOnward Christian Soldiers という讃美歌のように。

         

        ハリストス正教会、聖公会、カトリックと触れてみたときに、そこにある自分の不甲斐なさを認め、その不甲斐なさを受け止めて下さる王なる方にどっぷり頼って生きるようなキリスト教もないわけではないけれdも、宗教改革を経て、さらに近代社会を経て、人権思想の影響も受けている現代のキリスト教には、この種の概念がないので、かなりしんどい宗教間の世界が広がっているように思えてならない。

         

        Onward Christian Soldiers

         

        身近に、ムスリムの人々(イスラームにある生き方をする人々)の生き方を拝見すると、その二面性のなさというか、ふたごごろのなさ、生活と信仰の一体性というか、かっこいい言葉で言うと一貫性(コンシステンシー)がある姿に感動に近いものすら覚えることがある。頭と心と体を分離して生きる現代の西洋近代型のキリスト教を基礎としたキリスト者としては、時に、かなわないなぁ、と思うことがある。ISIS団のような余裕のなさが表れている人々はどちらかというと、特殊で、かえって、春の風のような駘蕩とした鷹揚さのある信仰というか、Tim Kellerの『放蕩する神』に表現されている様な溢れに満ち満ちた神概念を持つ人格的な神に任せて(信頼して)、ある面、生き方に無理がない生き方をしておられる方々が多いことを見ると、自分がいかに自分で何とかせねば、とあくせくしているその姿を反省させられることが多い。そして、神の奴隷であるところを誇る、ということまでの神への信頼がない自分自身は、本当に神に信頼して生きている、と言えるのか、と思ってしまった。

         

         ところで、アブダラ、とかアブダッラ、アブドゥアラーという、アラビア系に多い名前があるが、それは、神の奴隷という意味であって、建前にせよ、そういう名前を我が子につけるというような生き方をしている人たちをみると、赤面したくなる。

         

        モスクでの礼拝の様子

        https://muslimvillage.com/2011/09/10/14530/uk-muslims-pray-for-911-terror-victims/ より

         

         

        そして、レクティオ・ディビナ(本当は聖書を数節程度じっくりじっくり、繰り返し読み、まさに味読というような語のような感じで味わいながら、その聖書の言葉で気になる言葉が浮かび上がるようになるという経験の中で、神との関係を深めていく霊的修練の一種)もどきのことをする時間を7-8分とって、午前中のご講演が終わった。

         

         

        次回は小渕さんのご講演の部分をご紹介する予定。

         

         

         

         

         

         

         

         

        評価:
        来住 英俊
        女子パウロ会
        ¥ 810
        (2007-06)
        コメント:薄いけれども、基本が書いてある。

        評価:
        価格: ¥ 1,728
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:上座部仏教の立場から見た、仏教思想の入門書

        評価:
        G.M.ワインバーグ,大野 徇郎,ジェラルド・M・ワインバーグ
        共立出版
        ¥ 3,456
        コメント:一般システム理論の視点からの物事の見方に関する本

        2017.09.06 Wednesday

        2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(3)

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          今回は、関西牧会塾の参加記の最後、小渕さんのご講演「ナウエンに学ぶ想起」に出席して、とったメモ(前半1/3以下のメモが保存されておらず、消滅してしまっているので、あとは、記憶を頼りに書いているので、今回はご講演内容からずれているかもしれないので、その点はご容赦賜りたい。

           

          これから、ナウエンに学ぶ想起ということでお話してみたい。思い起こす、ということは重要なことである。

           

          信仰のスランプ状態

          40代過ぎたころ、教会に行くことが退屈に思えてきたことがあった。ある種の霊的な砂漠状態に陥ったことがあった。教会に行ってもこころ燃え上がるという経験をすることもなくなり、いつものようにいつものような説教がなされ、いつものような聖書理解が語られることが多かった。合わないメガネを掛けて書物よ読んでいる状態に近い状態であり、説教についても、1年に一回か2回か、あぁ、これは、と感じることがある程度であり、一生懸命準備しておられる牧師の方には申し訳ないが、半分寝ているような感じで、聞いているのか聞いていないのか相半ばするような感じで、聞いている様な状態であった。ワンポイントでいいから、来てよかったなぁ、ということを聞きたいと思った時期があった。いつも決まったことをしていると”あき”が来てしまったような感じがあり、自分が変えられていく経験をしたいなぁ、と思ったことがあった。

           

          (ミーちゃんはーちゃん的感想)

          個人としては、20代の前半のころに、同じような経験をした。その時に、ロイド・ジョンズの『霊的スランプ』という本に出合い、覚醒したことがある。それから、大学になぜか置いてあった聖書やキリスト教関連の古今の名著と呼ばれるものをひたすら読み漁っていた時期が30代後半に入るころまで続いた。最近は、自分が聖書とかなりがっつり四つで向き合うようになったので、そういうことはさすがに少なくなったが、こういうスランプ状態には、誰しも出会うものなのかもしれない。同じようなことを、舟の右側の礼装とかの特集号で、英司祭が個人の話としてしておられたことを思い出す。

           

           

          ある人から、自分の過去を宝物にしていない。と言われた。中年期を過ぎて、人生の到達点がある程度、見えてきた中での信仰生活になっていく。そう大したこともできないし、それほど大きな出来事も起きない中で、中誰状態というのか、結婚生活でも時々起きるといわれている一種の倦怠期のような状態に陥った感じがしたことがある。


          サクラメントと想起

           サクラメントと想起はつながっている。そもそも論として、聖餐も想起するためのものであるとイエスがおっしゃっている。

          イエスは、

           

          【口語訳聖書】ルカによる福音書
          22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

          とおっしゃっている。

           

          また、それは、過ぎ越しの祭りとつながっており、イスラエルの出エジプトとつながっており、とさまざまな想起すべきこととつながっているのではないだろうか。

          (ミーちゃんはーちゃんからのメモ この後の記録がファイル内から脱落しているため、記憶をもとに書くので、かなりいい加減です。スマソ)

           

          (ミーちゃんはーちゃん的感想)
          まさしく聖餐は、主を記念するためなのであるし、説教、ないしは御言葉の聖餐と呼ばれるものは、イエスを祈念するためのものであるはずなのだが、そもそも、説教がイエスの死と復活とそこにあった希望を想起させえない状態、本来、御言葉の聖餐であったものが、聖餐が想起させるはずのイエスの生と死と復活が想起されえなくて、先週どこに行ったとかだの、どこでだれと会ったのだのと言ったことが記憶に残るとしたら、それは、非常に残念だと思うし、そうだとしたら、ちゃんと按手を受けていて、聖餐の司式ができるのなら、こねくり回した説教で、なに味なのかよくわからないような御言葉の聖餐になっていたり、業務報告や先週見た映画やテレビの話で、無理に引き延ばした結果、結局、なにをおっしゃりたいのかわからなくなっているような説教を延々30分や1時間もするよりも、聖書を読んで、祈り、キリストは死に、キリストは復活し、キリストはよみがえられた、とみんなで言って、その後、聖餐をして、今日も、イエスが示されたことを記憶し、我々がイエスとつながっていることを覚えましょう。とやる方が、よほどよいのではないか、と思う。その方がよほど想起できるような気がするのは、多分、ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアで、週に2回しても足らないと思うほどの聖餐ヲタクだからかもしれない。いくら30年来のキリスト教徒の友人から、聖餐式そんなに重要か、と揶揄されても、キリスト者としてキリストのみ技の想起が重要だと思っているし、大事なものは大事なのだから、これだけはあるける間はやめられないのである。ただし、業務報告や昔の信徒の武勇伝を、いくらその教派の伝統芸、あるいはその牧師の十八番であろうと、その場にいる聴衆とは関係なく語る牧師さんの説教なら、参加するのは、一度で十分だと思ってしまいたくなるミーちゃんはーちゃんがいるのは確かである。

           

          Holy Communion http://www.nac.asn.au/5pm-community-news/ から

           

          ナウエンにとっての想起
          想起することについての様々なナウエンの書籍からの文章を紹介しつつ、想起することの意味等について、小渕さんはご紹介になった。


          例えば、イエスの苦しみと自分との苦しみの結びつきを考え、イエスの苦しみを想起すること、神との交わりに根差す中で問題をとらえ直すこと、固定概念に合わせて、問題解決をしないこと、想起が人々を結びつけること、苦しい経験の中にも紙がおられること、神を待ち望む中で、霊的変容が起きること、人生の谷や闇の中で、イエスが聖餐の場を持たれ、イエスの死と復活を記憶することができること、祝福を受けることの重要性、他人と共にすることの中に働かれる神ということではないだろうか、ということが紹介されたように思う。

           

           また、イスラエルの民が毎年のように、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りなどのさまざまな祭事を通して、彼らの歴史と歴史の中に現われた神の関与があることを覚え、今もイスラエルの民に神の関与があることを覚える人々がおられることなどが指摘されたように思う。

           

           ところが、想起を妨害するものがあり、人間の弱さにおいて、神とのかかわりなどが想起できない場合があるかもしれないこと、また、人生の中でも様々な想起するための手がかりがあり、誕生日とか、人との別れと再開、食卓、季節、友人、御言葉、バプテスマ、聖餐、共同体、祝福、奉仕などを通しても、これまでの神の関与を思い出し、そして、神と共に生きるということを想起する機会を大事にし、そして、神との関係を時々に応じて、想起することは重要なのではないか、と思われる。

           

          そして、神を思い起こされる友情ということで、邦訳未刊の”Clowning In Rome”の中からナウエンの書いたものが小渕さんによって翻訳されたうえで、引用され、夫婦が相互の深い愛に愛に根差す関係性であり、神の聖なる臨在が垣間見られるように、友情にも神の臨在が垣間見られることがあり、それは、相互に相手の価値を見つけ出すからゆえの友情ではなく、共に神のわざをこの地にもたらすための友情であり、そして共に神を見上げるうちに、神が想起され、そして、そこに神の臨在があり、神への想起へとつながっていくのだろう。

           

           あと、友情に関するワークショップをスモールグループで10分ほど行ったが、その中で、人生に影響を与えた友人、友人から傷つけられたこと、人間関係の特徴、自己の見直し、そこからわかること、といった側面に3人くらいのグループでこれらについて話し合い、閉会となった。

           

          ChrisitianFriendshipで出てきた画像 アメリカでも焚火しとる人たちがおるなぁ

          http://unashamedimpact.com/blog/what-does-christian-friendship-look-like から

           

          最近、悲しい目に合っている悪友の大頭さんのことを書きながら、覚えて祈ったので、焚火の歌をアップしておこう。

           

          大頭眞一作詞 岩渕まこと作曲 岩渕まこと演奏 焚火の歌(神の物語) 

           

           

           

          印象的であったナウエンの本からの引用

          参考用に配布された様々なナウエンの著作から引用されている文章の中で、最も印象的であったのは、

           

           聖餐はごくごく普通の、そして最も思い浮かべやすい神聖なふるまいです。それは、イエスについての真理です。あまりに人間的で、あまりに聖なるもの、あまりになれていながら、あまりに謎めいているものです。とても身近でありながら、とても意味深い。(ナウエンと読む福音書) 

           

          ここでナウエンが言っていることは、本当に大事だと思うのだなぁ。そういえば、Racheal Held EvansがSearching for Sundaysという本の中で、メソディスト派かどこかの青年キャンプに行ったとき、そこで聖餐をしたらしいのだが、その時の彼女の経験として、牧師や司祭にとっても、また、参加者にとっても、この聖餐のパンを分け与えること、また、受け取ることの意味を考えさせられた、という記述があったように記憶している。それはそうだろう、と個人的には思う。特に、7mm角のサイコロ状のパンや、教会の皆さん方がフライパンで焼いたパンが、無言で適当に回って来る聖餐では全く感じなかったことを、この2年間、聖公会の司祭から、毎回、「これはイエスキリストの体」あるいは”This is the body of Christ, broken for you”.といわれながら、パンを受け取るとき、それは本当にそうだなぁ、と思うし、毎回のようにドキドキしている自分がいることに気がついているものからすれば、聖餐とは、実に想起のための重要な手がかりである、と本当に思わずにはいられない。尚、司祭とイエスを同一視していないことだけは、申し述べておく。

           

           

          以上で、この連載は終了である。本当はもっと重要なことをおっしゃっていたのに、特に、今回のは、情報量が薄くて、本当に申し訳ないと、講師の小渕さんに対しても思っているし、読者の皆様に対しても思っている。

           

          この連載、これにて終了

           

           

           

           

           

          評価:
          D. M. ロイドジョンズ
          聖書図書刊行会
          ---
          (1983)
          コメント:大学に入学した年出版されたバージョン。助けられた。

          評価:
          ---
          Thomas Nelson
          ---
          (2015-04-14)
          コメント:大変興味深く拝読いたしました。

          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ---
          (2008-04-30)
          コメント:イエスの生涯に合わせて、ナウエンの本から良いところを拾った、コンピレーション版 お勧めいたします。

          2017.09.09 Saturday

          キリスト教記者クラブ 第34回 オフ会に参加してみた

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            開催事務の諸般を担当し、参加を予定していた、ムスリムのナセルさんとキリスト教徒との間の対話の会がよんどころない事情でお流れになったので、東京の知り合いの牧師さんを訪ねたあと、キリスト教記者クラブに参加することになった。もともと行きたいなぁ、と思っていたので、渡りに船で参加した。参加すると、ほーりーさんと言うハンドルネームをお持ちの、堀内克彦さんという宿坊研究家の方からお話の機会であり、大変楽しいお話を拝聴することができた。

             

            テーマは、『お寺を盛り上げる7つのアクション〜教会出張編〜』ということであった。

             

            普段は、ほーりーさんが、お寺の御坊様の皆さまを対象に、90分位で、お話しておられる内容をぐぐぐぐぐっと40分位に圧縮して、多少キリスト教の教会に当てはめて、お話してくださった。ありがたや、ありがたや。

             

            ご講演のポイント

            御坊様の皆さんにお伝えしてみるポイントとしては、普段以下の7つのポイントであると言うことで、お話があった。当日メモを取りながらであったので、多少、ミーちゃんはーちゃん風味が入っているかもしれない。その点はご容赦あれ。

             

            1.教会に行ってみる(お寺に行ってみる)
            いきることで魅せる事が大事( 入り口を敷居を下げるのは目的ではなく自分たちの生きている姿に触れてもらうための間口を広くするため)

            2.セカンド・スキルを持つ(本業以外の趣味や特技を持つ)

            3.スペシャリストと手を組む

            4.知縁を大切に(知識、興味) インターネットをかました媒体
            5.お寺をバリアフリーにする

            6.定例イベントを用意する

            7.前例のない事に挑戦する

             

            以下、順次、ミーちゃんはーちゃんが聞きながら思ったことを書いてみよう。

             

            1.教会に行ってみる(お寺やモスクに行ってみる)

            キリスト者でお寺や神社に行くのを、悪魔の力の影響を受けるからといって、なんか香ばしい油をかけに行くことはあっても、それ以外では行くのを真顔で避ける人達がいる。そんな人からすれば、近道のために平気で神社を横切り(昔は、近道のため、通勤時には、湊川神社の境内を斜めに横切らせていただいていた。だってぐるっと廻ると遠いんだもの)、お寺のイベントに出入りしているミーちゃんはーちゃんなんかは、悪魔の手先に見えたのだろうと思う。

             

            なお、普通の今の日本人には、教会はセーブポイント(ファミコンとかのRPG ロール・プレイング・ゲームでは、ゲームの中間記録を保存しておくためのセーブポイント)として設定されていたり、お告げを受けるポイントとして設定されているので、そのようなイメージしかないのが若い人々ではないか、と思う。

             

            アウェイ感を感じる意味

            しかし、アウェイ感が半端ない世界に身をおいてみる、というのは、実は非常に面白い経験ができ、学ぶ機会として大きいということだと思うのである。つまり、自分自身の常識を相対化する上で、このアウェイ感の激しい世界は極めて重要な役割を持っていると思う。アメリカ人は自国のルールが世界共通だと、無前提に思っている人がかなり多いので、世界各国で軋轢を起こすし、ちょっと前までの日本人は、農協ツアーで世界を席巻し、その後、バブル時代にはオネェ様方(あ、新宿2丁目とかの世界とは、全く関係ない20歳前後のウラ若い女性の皆さま)の買い物ツアーで、世界を席巻したのである。これは、どこの国でもやることではないか、と思うが、アウェイ感の激しい世界に身をおいてみることは、自分自身が常識と思っていることを相対化してみるのには非常に役に立つ事が多いが、ある種の感覚の鈍い人やある種の思い込みの激しい人は、このアウェイ感の激しい世界でも学ばないし、学べない事が多いようである。ある面、このアウェイ感にあふれる社会に身をおくことは、ニルヴァーナの世界への入り口、常識からの解脱への入り口というと言い過ぎだが、ある種のメタ思考へのきっかけになり、自分自身を相対化していくためのきっかけになるようにも思う。

             

             プロテスタントのキリスト者の場合、カトリック教会やハリストス正教会(最近、聖堂聖成式をしたコプト正教会でもいいけど、あの世界観は、いきなりだと、かなり厳しいと思う)の世界が繰り広げられているところに行ってみるだけでもいいようなきがする。自分自身が持っていたキリスト教のイメージや、カトリックへの固定概念が崩れる人もおられようと思う。個人的には、これらの教会に機会を捉え、ご訪問したことは実に有益であった。

             

            とにかく、ジャーミーでもモスクでも、お寺でも、異文化体験をしてみて、世界観の違いと、自分自身を意図的に弱い立場においてみて、そこで受けたお取扱を思い、自分自身と自分たち自身が無意識になしてきたことどもを反省してみることは何より大事だと思うのだなぁ。


            いきることで魅せる事が大事

            ( 入り口の敷居を下げるのは目的ではなく自分たちの生きている姿に触れてもらうためであり、間口を広くしておくことが大事)

            宗教や宗教的儀式がなんのためあるのか、ということの意味合いや理解は多数あるが、基本的に宗教とか、精神世界とかの理解を深める事は、人が「よりよく」生きるためかどうかは別として、人が生きるため、あるいは「いきている」人のためのものであるという側面はあると思う。もし、お寺で出会うお坊様や、牧師様や、司祭様が生き生きとしていないのであれば、その人が取り組んでいる宗教とか信仰ということが魅力的には見えない、という趣旨のご発言がほーりー様からあったが、それはそうだろうと思う。日本のキリスト教は、2階建てで、外向きの世界と内向きの世界がある、というのは、隅谷三喜男さんが『日本の信徒の「神学」』でご指摘になったことであるが、昭和の頃から変わってなくて、近代以降に、西洋世界とその影響を受けてアメリカで独自に変容したキリスト教が、どうも日本のキリスト教世界で大きな顔ができた(それは、政治的にも、文化的にも米国の実効的影響下に日本があったからでもあるように思うが)結果、頭でっかちのキリスト教というのか、二面性を持つキリスト教的世界がかなり繰り広げられ、素朴であるけれども、人間と一体化した神のことばという側面が薄いようなきがする。そうなると、なんとなく怪しい雰囲気があちこちに漂いやすい雰囲気になりやすいようにも思う。

             

            日常と非日常の信仰の連続性の重要性

            印象的であったのが、お坊さんのうちに、普段の生活の場面で、自らが僧籍にあることをあまり明らかにしたがらないこと(例えば帽子をかぶるとか、僧衣を避けるとか)があるらしい。浄土真宗の御坊様だと、そもそも論として、毛坊主という言葉があるくらいであり、首から金襴のものをおかけになっておられないと、認識できないことが多いというのは、ちょっと余談。

             

            キリスト教徒であると、疑似西洋社会化した日本社会では、何か話す機会がないと、明確にキリスト者であると認識されないまま、生きていくことも可能であり、隠れキリシタンのように、隠れキリスト者することも可能なことが多い。見分けはほとんどつかないと思う。キリスト基地外であるはず(クリスチャンというのは、そもそも蔑称であり、キリスト、キリストとことあるごとに言うおかしな奴ら、という意味での蔑称であった)なのに。

             

            その意味で、そもそも論として、日本のキリスト教徒は宣教地、ないし伝道地に生かされていながら、あまりにも普通になりすぎてしまっていて、人にとって魅力的な生き方であるその姿を失っているのかもしれない。

             

            2.セカンド・スキルを持つ(本業以外の趣味や特技を持つ)

            これは、音楽や、お習字、ヨガでもなんでもいいらしいが、世間でもあっと光るものを持つ、ということらしい。キリスト教の場合、賛美歌という西洋音楽の伝統に大きく影響を与えたものがあるので、結構音楽関係の趣味をお持ちの牧師さん型は多い。ギターフリークの牧師さん(ロンドンのHさまとか)、ウクレレマニアと思しき牧師さんとか、PAにやたらとこだわる牧師さんとかもおられるし、プチ骨董マニアの牧師さんとか、PCマニアの牧師さんとか、16世紀の化石集めに必死になっていたアングリカン・コミュニオンの司祭とか、17世紀頃の甲虫類マニアのアングリカン・コミュニオンの司祭とか、故人になられたが高山右近マニアの遺物収集にやたらと熱を上げておられるプロテスタントの牧師さんとかおられた。こういう人々がご自身の趣味を語る時、実にキラキラしておられ、実に嬉しそうに話しておられるのだ。特に、プロテスタントは、グッズ方面が弱いので(この辺、カトリック教会関係者とか、正教会関係者が羨ましく思える)、どうしてもこの地上にあるものにこだわりが行くのかもしれない。ただ、セカンド・スキルのはずのものが、メインスキルの座を奪う場合もあるようで、やたらとPAや機材に教会資金を注ぎ込み、教会財政を破綻させかねなかった牧師さんとか、信徒から、PCを買うお金を巻き上げることに躍起になり、挙句の果てに蒸発した元牧師さんとかもおられるようなので、趣味は程々にとは申し上げたい。

             

            とは言え、人との共通舞台というか共通項、ラポール構築の手がかりとして、趣味とか、特技というのはある程度有効だろうと思う。特に社会全体がヲタク化してきている現状において、そして、関心領域が分散化しているとはいえ、何らかの共通項もなければ、話すきっかけにするものとして、お天気の話とか、当り障りのない話しか、話せないので、そう言う当り障りのないことで、人とつながるとは思えない。その意味で、趣味とか、特技というのは重要なのだろうなぁ、と拝聴しながら思った。

             

            3.スペシャリストと手を組む

            これ、教会と言うよりは牧師先生方が最も苦手とする部分のようである。なんでも、万能でなければならないと思いこんでいるのではないか、と思うことがある。あるいは、自分がすべての問題解決を一手独占できるかのような錯覚に捉えられているような牧師先生型の言動を見ることが時々ある。これは、世俗の学問でも同じで、割りと有名な、学者で、なんでもいっちょ噛みでお話しになられる先生方がおられて、結果的にウラで失笑をかうようなお話をされておられる学者の方もおられる。その筋の専門家から見たら、ちゃんちゃらおかしいお話を講演会とかで、呼ばれたり、ある程度有名な雑誌で、延々と奇説に近いことを述べられておられる姿を拝見すると、なんだか悲しい気持ちになってしまう。ことに、ネット時代になって、底の浅いネット上の議論をあくまで真実かのように、まさに垂れ流される先生方には、表面では、「今日のお話恵まれました」「新しいお話を聞けて良かったです」「今後の参考にさせていただきます」と行っていても、裏面では確実にヲワコンの烙印が押されるのであり、こういうことが何度か続くと、もう、信用ならなくなることが多い。ちょっと、本を読んだぐらいではダメなのである。でも、メンツがあるのか、大学者という先生の一部には、こういう先生もおられるわけではないし、大学者でなくても、牧師先生には、このタイプの人が多く、ちょっと突っ込んだ話を個人的にしようものなら、すぐ、言葉を濁して立ち去られ、他者から学ぼうという気概がないのが、実に残念だなぁ、と思うことが多い。ある一箇所で崩れると、その方とその方のことばへの自体の信用とか信頼とかは、一瞬にして崩れ去ってしまうのである。まぁ、平信徒風情が牧師先生型に向かって言うことではないかもしれないが、平信徒の中には、その筋の専門家も時々交じるというのが、高学歴化した日本社会の現状であり、平信徒はすべからくすべての分野において無知蒙昧の徒ではなく、ある分野に関しては極端な専門家であることが多いのである。


            そうであるとするならば、門信徒の中のスペシャリストと僧侶が手を組み、信徒の中のスペシャリストと牧師が手を組む、とかいうことが本来的には望ましいはずだが、仏教の世界でも、キリスト教の世界でも、どうもそういうことはうまくいかないらしい。専門家には朝飯前、ケーキ一切れにもならないことを、能力がない人が必死になって、延々やることの無益、ということも思う。

             

            サービスへの対価について

            とは言え、日本のキリスト教界では、こういうスペシャリストに対して、奉仕としての業務として、依頼することが多いためなのか、キチンと能力やスペシャリストの業務に対して、知的資産に対する対価を払うという概念が薄いようである。一つ一つは朝飯前でも、それが10個集まったら、昼飯くらいにはなるのであって、そのへんの関係性の見直しは、ぼちぼち考えたほうが良いかもしれない。なんでも奉仕だから、神への奉仕だから、といい加減に済まさずに、信徒の教会のことどもをへの関与を考える際に、もう少しキチンと何を優勝とし、何を無償の奉仕とするのか、あたりは整理した方がいいように思うが。実際に、いくつか、教会のウェブサイトの原型の構築やら、コンサルを無料でしていて、そう思うことが多い。何で、よその教派のサイトや出版物のサイト構築やら、メルマガの開業ができないことへの対応のノウハウの提供をただでやらんといかんのか、と思うことがある。ググれ、と言いたいことも多いかも。w

             

            作業に対する対価、というのは、案外重要な事かもしれない。これまで日本の教会では、奉仕について、対価なしにいろいろ事が行われてくることも多かったが、対価、というのは高額の対価や単なる労賃、単なる時間の拘束に対する対価のことを必ずしも意味せず、少額の対価でもいいので、キチンと何かを行ったことへの感謝の表明、という意味もあるのであって、それを公式化して表現する方法の一つだ、と思うのである。その辺、もう少し考えたほうがいいのかもしれないと思うのだ。ただし以上の議論は、素人衆が責任を追わないかたちでやる場合を除く、ということは申し伝えたい。教会が貧乏でしょうがないというのであれば、素人衆による無償のボランティアワークというのはありだとは思うが。

             

            4.知縁を大切に(知識、興味) インターネットを介した媒体の強みを考える

            ここで、ホーリーさんは、知縁と行っておられるが、これが知識社会化した現代社会では非常に大事なのである。現代社会は、たしかに分衆化し、興味は細分化されているが(こう書くとかっこいいが、要するにそれぞれの対象に関するヲタクのクラスタがあちこちに散在しているということ)、あるきっかけとなる事柄をもとに、そのクラスタが時々炎上して(バズっていて)、関連分野や隣接分野のヲタククラスタやその周辺から来たニワカの人がそれに巻き込まれていくという構造を持っていることを考えると、物理的な目に見える範囲、まぁ、自分の存在する物理空間の半径徒歩1時間圏内、車で5分圏内)には、共通の関心を持つ関係者はいなくても、サイバー空間では、検索やリンクを伝って、思わない人々とつながることができ、従来にはない新しい知縁の可能性ができているのである。このあたりは、少し古くなるが、「新しい中世」という田中明彦さんの本がちょっと参考になるかもしれないのである。田中さんのお考えによれば、中世ヨーロッパの封建制国家が多数存在し、相互にある程度孤立していたように、現代では、相互にある程度孤立している関心領域でまとまった知的クラスタ(ヲタククラスタ)が、ある程度孤立して存在しているということらしい。ただし、最近は、孤立しているのではなく、リンクというかたちで合従連合を遂げていくということだとは思う。データを介して、様々な社会の部分部分のクラスタにあるデータを活用して、世界理解を深めるためのデータ世界での合従連衡を進めようぞ、というのが、基本的には、Linked Open DataないしOpen Dataの基本コンセプトにあるように思う。

             

             

            博多ニワカ(本文と関係があるかもしれません)

             

            その意味で、テーマの魅力✕情報発信を行うことで、身近というか足回りの地域にはいないかもしれない人々を含め、自分たちの世界観を知ってもらうことが大事なのではないか、たとえにわかファンのような人であっても、そのような世界があると認識してもらうことが可能である可能性が極めて高い時代になってきている。最初から、ディープなファンというのは案外少ないので、裾野を広げ、にわかファンから、実体を実際に見てもらうことで、コアでディープなファンになってもらえばいいのではないか、ということをご主張であったと思う。

             

            5.お寺をバリアフリーにする

             一般の人々に、お坊さんは怖い、という印象がある。そして、ホーリーさんのイメージでは、牧師さん神父さんは不気味であるそうである。w。その意味で、一般の人々にとって、このような宗教施設や、宗教者の存在は、ある面ネガティブなイメージが付きまとっているので、その意味でも、このようなイメージを取り払うこと、また、お坊さんや牧師や司祭の心のバリアを取り除くことが必要かもしれない。その意味で、お寺そのものをバリアフリーにする事が大事かもしれない。

             

            このバリアというのは、教会が自分たちのものであるという意識とすごく深い関係にあるのかもしれない。つまり、教会とその周囲の環境の向き方が、対立的というのか、対決的な教会が多いのだ。こうなると、対決には対決でしかありえないし、そういう対決的な伝道に日本のキリスト教会は、あまりにも慣れ親しんできたように思う。

             

            日本における宗教施設の入り口比較

            ホーリーさんによると、神社とお寺とキリスト教会の違いは、その周囲との結界の貼り方だと仰る。言われてみたらそうだよなぁ、と思う。神社の場合、結界は鳥居である。でも、鳥居は鳥居そのものがスケスケなので、割と結界の結び方がかなりゆるい。寺院の場合は山門であり、門塀であると言う。その意味で、結界は神社と比べてかなり閉鎖的である。とは言え、境内地代わりと広いので、閉鎖的とは言え、余裕がある。ところが、キリスト教の場合、建物そのものと扉が結界であると言う。道路からすぐ建物があり、かなり強烈な結界を感じるので、かなり入りに草のレベルや居心地の悪さはかなり高いとおっしゃる。まぁ、そのとおりだろう。キリスト教会の場合、宣教地、伝道地における橋頭堡(前線基地)の役割を教会が担うので、扉という薄皮一枚で自分たちを守るしかないためか、余裕が無いのである。ところが、アメリカの場合は自動車社会なので、結構でかい駐車場があるなどして、境内地が広い教会もあったり、都心を外れると、イングランドあたりだと、墓所が併設されていたりして、結構境内地が広い教会などもあるが、日本では、境内地の中に墓所がない教会が多い(従って、日本の教会のお墓は、公営墓地とか民営墓地の中に共同墓として存在する例が多い)ため、会堂と教会を隔てるのは、2−3段の階段と道路に面する扉、というところは案外多い。

             

            極稀に、幼稚園や保育園、こども園併設などの場合もあるが、その場合でも、最近は、園児のセキュリティ確保の面から、外界の遮断はかなり厳密に行われるので、やはり、結界である扉が突然社会の中に突き出ているという印象は確かに拭えないなぁ、と思った。

             

            鳥居 https://matome.naver.jp/odai/2139182373096132101 から

             

            山門(お近くの太山寺の山門 https://blogs.yahoo.co.jp/fuyukadesu/43233282.html から)

             

            教会の扉と広場の関係 (聖ザカリア教会 ヴェニス)

            http://www.aloverofvenice.com/HiddenCorners/Castello-II.html

             

            イタリアやラテン諸国では、カンポと呼ばれる都市内広場に面して教会を建てることが多いが、この辺真面目に話し始めるとローマ時代の都市設計にまで遡る必要があるので、省略する。

             

            墓所が併設されている英国の教会の例

            https://www.archaeology.org/issues/190-1509/letter-from/3554-letter-from-england-medieval-church-graffiti から

             

            6.定例イベントを用意する

             ていれいいべんとをよういする、ということは、お寺独自だろうなぁ、と思った。キリスト教会には毎週定例の礼拝や聖餐式、Serviceと呼ばれるイベントが用意されているので、別に定例イベント以外にイベントを用意しなくても、とは思っていることが多いが、お寺はそういうのが、家族対象の月命日とか、○回忌とか、○年法要とかになる以外にないので、どうしても縁遠くなってしまうのかもしれない。

             

            いつもミーちゃんはーちゃんなんかの半端者と遊んでくださる池口さんという面白いお坊様がおられるが、まぁ、今は「冥土喫茶ぴゅあらんど」とか、十夜フェスとか、寺院アイドル ”てら*ぱるむす” というアイドル・グループの総合プロデュースとか、各方面でご活躍の方である。そして、檀家さんや檀家さん以外の方とどのように関係性(ご縁)が結べるのか、ということを模索しておられる。先日、だ”てら*ぱるむす”新聞に乗ったらしい。その紹介に関するYahoo!のコメ板のコメントが結構酷かったが。

             

            てら*ぱるむすのみなさん

            https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170907-00000043-asahi-soci.view-000 から

             

            ところで、2年ほど前、一度、十夜フェスのイベントで、宗教観対話、というののお手伝いをしたとき、自前のいのフェス用のしょぼいPA機材を持ち込んだら、こういうのが必要だ、と思われたのかどうか、ある日イベントでお伺いしたら、めっちゃいい、PA機器がそこのお寺にどぉーんと揃うようになってしまった。そして、お寺のご本堂で、コンサートとか・・・びっくりした。

             

            あ、そういえば、いのりフェスティバル(通称 いのフェス)岡山、来月10月9日にやります。(大分ステマ)

             

             

            いのフェス岡山の宣伝画像(いくら、岡山が晴れの国だから、と言って、晴れルヤは、ちょっと…w)

             

            一応告知

             

            【岡山いのフェス】10月9日、是非お越しを♪♪♪

            晴れの国・岡山へついに降臨!!
            年に一度のいのりの祭典
            見せろ! 僕らの信じるチカラ
            行くぜ! 未開の鬼ヶ島
            ルターもびっくり? 宗教改革
            お首に下げた吉備十字 オニも一緒に
            もんげー 晴れルヤ!!

            ◆日 程 10月9日(土)11:00〜18:00
            ◆場 所 日本基督教団 岡山教会

            ◆参加費 入場無料
            (出展料:1ブース3千円、撮影会参加費:別途有料)
            ◆11:30〜12:00 いのフェス特別礼拝
            ◆12:00〜15:00 コスプレ撮影会
            「ホンモノの教会で撮ってみた♪」
            ◆15:30〜17:30 ライブ&トーク
            「ぶっちゃけ!夫婦(めおと)ーク」
            露の団姫(落語家、僧侶)×豊来家大治朗(曲芸師、クリスチャン)

            仏教とキリスト教の「異宗教婚」で話題の“あの”2人が登場!
            落語と曲芸もご披露いただける予定です( *´艸`)
            ◆主 催 いのフェス2017実行委員会
            ◆後 援 キリスト新聞社
            ◆連絡先 inofest@gmail.com
            ◆出展申込 下記フォームからお申し込みください。
            http://ws.formzu.net/fgen/S36080952/

             

            ところで、ここの龍岸寺さんというお寺、なかなか画期的なお取り組みをしておられて、時々宗教観対話の「冥土喫茶ぴゅあらんど」などのイベントは覗かせてもらっている。そして、こちらのお寺は、地域に開かれたお寺を目指しておられる。京都も、昔と違い、生まれも育ちも京都人という人は減ってきている中、地域にどうやって関わっていくのか、ということが課題でそのことにお取り組みの模様である。

             

            今回のホーリーさんのお話の中で、印象的であったのは、イベント告知というのは、イベント情報を流すタイミングとイベント情報の内容を流すメディアを変えて、最低3回伝達しよう、というのがあった。Facebook,Twitterブログ、チラシなどの紙メディア、出来る限りの方法で情報を告知し、周知していくことが大事ではないか、というご指摘であったが、個人的にはそのとおりだろうなぁ、と思う。なんか、キリスト教会関係のごくごく一部には、インターネットは悪魔の道具、とおっしゃっている方もおられるようで、イベントのお知らせは、過去の来場者への郵送でのご案内や、ビラによる、というのが未だに主力であるというところもあるだろう。ただ、ビラやチラシは、30年前には、2000枚撒いて、1から2人の来場者であったものが、今は、1万枚撒いて、1人あれば良い状態になっていて、そもそもチラシはグーグル先生はほとんど検知してくれないので、スマホ利用者の目に触れることがそもそもない。そもそも、「インターネットは悪魔の道具」とおっしゃっているところには、ウェブサイトもないから、そもそも、電脳空間上には存在しないのも同じなので、地元のせいぜい、所在地から半径1KMから2KMの人が認知してくれている範囲ではないか、と思うし、ウェブサイトがない教会は、現代の30歳以下の人にとっては、仮に現実社会に存在していたとしても、認識されにくい、認識され得ないという意味では、存在しないも同じなのだ。忙しい現代人にとっては、普段歩いているときには、歩いている最中にあちこちをジロジロ見て歩く余裕もないので、目的地以外の建物の認識はしてくれない。教会の前を毎日のように通っていても、風景に同化してしまうので、教会だとはなかなか認知してもらえないのが実情のようである。大体、スマホ見ながら歩きをしているなら、周りを見る余裕もないのである。

             

            定例のイベントでは、まず、100回開催を継続できるかが重要である、とご指摘があった。そして、多くの場合、1回めや2回めに力が入りすぎてしまい、挙句の果てに息切れしてしまい、継続的に開催できないことが多い、ということらしい。こういうことは、教会でも多いのではないだろうか。初回に力を入れすぎてしまい、自分からハードルを上げてしまっている例は少なくないだろう。また、繰り返し参加しても、意義があるイベントでないと、100回連続開催もできないと思う。そして、小さな成功体験を積み重ね、次第にバージョンアップし、そして、だんだんイベントを成長させていく、という概念は必要ではないか、と思う。そして、常連さんだけのイベントにならないような工夫が必要で、そのためには常連を犠牲にしつつも、初めての方には丁寧に取り組む必要があるし、常連に発言権があるみたいな、ある種の特権を与えさせない事が重要であるとも、ホーリーさんは。ご指摘であった。

             

            これについては、ミーちゃんはーちゃんに痛い経験がある。じつは、メイド喫茶ピュアランドで、いつものようにいつもの癖で話していたら、初来会者の方から後日、おしかりの声を頂いてしまったのである。大変申し訳無い思いであり、今なお反省中であった。別に独占していたつもりはないし、池口さんとタメ口で話題の広がりついでのつもりで、それまでの話の流れで、話していたら、ご自分が無視された、自分のご意見が封殺された、というような印象をその方はお持ちになったらしい。本当に、このあたりの間隔は難しいなぁ、と反省している次第である。

             

            自分自身が主催している明石市でのヘンリー・ナウエン研究会は、もう100回以上継続しているイベントであり、もう常連さんしか来ないイベントになってしまったこともあり、もう、N.T.ライトのSimply Jesusを英語で読む会にしてしまっているので、あとどれくらい続けるかどうかを迷っている。やめるときとして、勇気を持ってやめるべき時期に至りつつあるのかもしれない、と思う。
             

            7.前例のないことに挑戦する

            お寺だと、御坊様の法話が聞いている人々に刺さらない事が多いのではないか、とほーりーさんはご指摘であった。そういうときだからこそ、案外前例のない事に挑戦することは大事かもしれないし、お寺の外の人とか、一般の人は、前例のない事に挑戦する チャレンジしている人に話を聞いてもらいたいと思うのだろうし、また、そういう人の話を聞きたいと思うのではないだろうか、とホーリーさんは指摘しておられた。

             

            この話を聞きながら、それは、キリスト教でも似たようなもので、毎週の牧師の説教が色んな理由(長すぎる、聖書の主張とは関係のない話が多すぎる、話が長過ぎて、最初の頃言っていることと、説教の後半の頃になると一貫性や関連性がない、新鮮味がない、基本的に会衆(参加者)のレベルに合わない話になっている、発音や滑舌が悪い…など )で刺さらないことが多いのかもしれない。また、教会でも、1日は千年のように、千年は一日のように真理とされることをお語りであるのは重々承知しているが、いくら真理であっても、あまりに抽象化され、きれいに整理され、かなり無理矢理に整えられてしまうと取っ掛かりすらなくなるのではないだろうか、と思ったりもする。適当な破れ感というのか、スキというのか、どうも行けないのかもしれないなぁ、と思う。破れすぎばかりでは、ちょっと困るが。

             

            フロンティアを行く人の心得

            あと、ほーりーさんのお話で、印象的であったのは、「根性はロジックだ」ということであり、「不安を感じたらやる、そして、不安を感じないことはやらない」ということであった。ホーリーさんご自身がカッティングエッジなこと(とんがったこと)をなさっているので、カッティングエッジなことをしておられる人には、批判がつきものだからゆえのご発言だと思った。結局とんがったことをやる以上、とんがってない人、刺さらないもので十分な人にもわかるように説得する、それには、ロジックというか論理的な説明が欠かせないので、その意味で、「根性はロジックだ」ということになるのであろう。

             

            さらに、「不安を感じたらやる、そして、不安を感じないことはやらない」と言うのは、なるほどフロンティアを行く人ならではのことばであるなぁ、と思った。一種アウトサイダー的、あるいは、聖書的に言うならば預言者的な視点でもあるのだろう。もちろん、マンネリが好きな人もおられることは確かで、マンネリというか、繰り返しを愛し、その中で深まることがあることは確かだ。特に霊性の涵養と言った場合には、この繰り返しは非常に役に立つが、その中にいると、あまりに当たり前になりすぎてしまって、視野狭窄に陥る場合がある。それをメタ概念から見て、もう一度見直してみることが大事なのであるし、ある意味、不安が存在することは、ダイナミックな変容過程にあることを意味する。そのダイナミックな変容過程を享受することのなかでしか味わえないこともあることは確かだと思う。あるいは、ある種のワクワク感というか。

             

            不安に向きあうための準備

            とは言え、安定的な世界をでて、不安定な、不安な状況に出るには勇気がいる。そのための準備作業として、ほーりーさんは、「失うものを書き出すことで、恐怖を乗り越える」ということを言っておられたが、まぁ、その表現を見て、冒険者がまず最初にやることだなぁ、と思った。無手勝流の特攻精神の冒険的な人は、そんなこともしないし、極稀に不用意な冒険的行為で成功することもないわけではないのだが、普通の人には、それは耐えられない事が多い。たいてい無計画な冒険は、インパール作戦のように失敗するが、計画的な冒険的作戦計画は、被害は出すものの、無意味な損耗はしなくても済むようになっている。その意味でも、「失うものを書き出すこと」というのは、それを最小化する方法につながり、計画失敗を判定したり、損切(ここまでの損失で留める)ということにつながる、ということであるので、実は予想以上に重要で、逆に「得られるものを書き出すこと」は取らぬ狸の皮算用に終わる可能性が高いが、大日本帝国陸海軍の過去の軍事行動は、この取らぬ狸の皮算用ばかりをしてきた側面もないわけではなさそうである。

             

            ほーりーさんご自身による参加記録  ほーりーがキリスト教会で講演。お寺と共通の課題も多いようです

             

            そんなことをお話をお伺いしながら考えていた。この記事単発。

             

             

             

             

             

             

             

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            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:ちょっと古くなっているけど、まぁ、参考には。

            評価:
            隅谷 三喜男
            日本キリスト教団出版局
            ¥ 2,592
            (2004-06)
            コメント:名著

            2017.09.11 Monday

            Ministry Vol.34 を読んでみた(3)

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              ちょっとイベントのレポばかりが続いてしまい、だいぶん時間が経ってしまいましたが、気を取り直して、本日もMinistryから見どころ、読みどころ、ミーちゃんはーちゃん的なツボにはまったところをご紹介しようか、と。

               

              元神学生から見た神学教育

              Ministryで以前ご紹介されていたいろいろな教派教団の神学校の学生であった方が、数年後、現職の牧師になって見られて、当時自分自身が書いたものを見直し、現職の牧師になった今、神学校の何がどうだったら、良かったかとか、自分自身が変わって見える点などについて振り返りをしている記事が、今回の特集の一部として組まれていた。

               

              教えたがりが多いキリスト教界w

              小野 輝さんという関西学院大学ご出身で、現在、広島のかなり都会化が進んでいない地域の教会でご奉仕されている方の記述で印象に残ったことを少し紹介してみたい。

               

              新卒牧師・中堅牧師のフォローとして何が必要だと思いますか? という問に対しての回答の一部として、小野さんは次のようにおかきである。

              「ダメ」「違う」「分かってない」から入らない仲間という存在ですね。自戒を込めまくって言いますが、この業界は教えたがりの人が多くて、新しいチャレンジをしたいと誰かが言っても「こいつ分かってないな」と叩くばかりに見えてしまいます。それでは、信頼を築くことはなかなかできません。

               また、宣教についても結局同じような展開しか望めないが、あるいは誰にも相談なしにやり遂げる大天才を待つしかありません。150年ほど同じような展開で、現状があるとしたら、ここからもそれを踏襲するだけではマズいと僕は思います。(Ministry Vol.34 p.15)

               

              あ〜〜〜、言ってはいけないことを、明らかにしてはいけないことを・・・小野さん、書いちゃっているし。「教えたがりがいっぱい」とか、「(新しいこと始めても、わかってないと)叩くばかり」とか「(宣教についても)150年ほど同じような展開」とか、知ぃ〜らない、と思ってしまう。

               

              確かに教えたがりが多い、というのは、学校の教員と牧師先生に多いと思う。もはや職業病なのではないか、と思っている。ということは、ですね、学校の教員と教会の牧師先生方の多くは、基本、上から目線で、周囲の人々を見ているということになる、ということなんですねぇ。当たらずとも遠からずですけど。

               

              しかし、このような現状が固定化しているとするならば、もはや、生きたことばではなく、石に書かれた言葉・・・になっていそうな気がするが、それは多分気のせいなのだろう。そして、「文字は殺す」、ってパウロ先輩は書いていたような・・・。

               

              そして、教えたがりの人びとのご発言がまずいのは、一般論化した当たり障りのないメソドロジーというか方法論のことが多いので、様々なタイミングの結果のこともあるので、実は、現場ではかなり考え抜いて現場対応を考えないといけないことが多く、正直言ってあまり役に立たないことが多いように思うのであるが、この辺、ある方法でうまく言ったところがあったから、と言っても、それがそのまま、別のところでやってもうまくいかないことが多いのに、それをガンガンと「教えてあげるから」と、無理やり押し売り同然の形で教えられたところでねぇ、実際の現場では当惑しか残らないのではないか、と思ってしまう。

               

              早く人間になりたい…違っ

              別の女性の方がおかきになられたことは、これまた印象的であった。一人の人間になれる場、一人の人間として話せる場が必要だ、ということであった。

               

              宮川周子さん(日本聖書神学校卒業)は次のようにかいておられる。

               

              (プライベートな場で近くのお店で食事をしていても)「牧師」としてみられることがある。ですから「牧師」としてではなく、一人の「人間」として話せるば、相談できるば、時には全てをさらけ出す場が必要です。その場所があるのとないのとでは、自分の牧会に対する気持ちが変わってくると思います。(同 p.17)

               

              このことは、ちょっと前まで、三重県で牧師をしておられたH先生(現在は別のところで牧師をしておられる)が、「裃を脱ぐ場が牧会者には必要だ」というご指摘ともつながると思う。基本、牧師は全人格的に牧師であることを求める信徒さんが多いようである。しかし、そんなことは土台無理なのではないか、と思う。

               

              ウルトラマンは、3分間だけウルトラマンになれるのであり、3分経ったら、どこぞにいって、普通の人間に戻る必要があるのだ。今、アングリカン・コミュニオンの教会に参加させてもらっていて、司祭の人々のお姿を拝見していることが多いのだが、聖餐式ないし礼拝のときだけ、明らかに役割として司式の役割を果たしている、というニュアンスが良く伝わる。とは言え、それは、適当な、一時的な、アドホック(とりあえずの一時的なもの、という程度の意味)なかたちとしての司式者として、司式をする存在ということで担当されているようである。自らの全存在をかけて聖職者であることで、正当性を保証しようということではなく、司式者の正当性とその内容の正当性を担保するために、何世紀にも渡って検証されてきた式文が用いられていることで保証しているのかなぁ、と思う。

               

              とはいえ、今行っている教会の司祭は、司式が終わった後でも、牧師然とするのではなくて、ただの人に戻る姿を毎週のように、見せている。つまり、司式が終わったあとに、割るとすぐに、信徒と実に水平な関係に戻って、冗談を言ったり、ふざけ合ったりしている姿を見ることが多い。また別のある司祭の方については年に何回かではあるが、早朝の聖餐式にお伺いして姿を見ることがある。そのと来、早朝の聖餐式の前後のお姿を拝見して見ている限りの観測であるが、その方も、水平な関係を取ってくださっている。その意味で、これらの司祭の方々のお姿を拝見していると、役割(儀式の執行者 Presider)と実存がある程度分離しているという部分があるように思う。

               

              しかし、福音派の牧師先生(さらには、牧師のご家族の皆さんが特に)を拝見していると、四六時中牧師(や牧師の家族として信徒の模範)であることを求められ、行き着く暇もなく、油断も隙もないという状態のように思う。これで、精神が持たないとしたら、ダイヤモンドコーティングされているか、そもそも、強靭なストレス耐性の持ち主なのではないか、と思ってしまう。役割と人格は、不可分の側面がないとはいえ、しかし、同一視されたのでは、95%の人類は、持たないようなきがする。ユダヤ教の祭司だって、交代制であり、ある面、役割を果たしたら、解放される期間があったように記憶しているが、それなしで、牧師になった日から、24時間365日牧師であり続ける、というのは、あまりにも無謀だし、そして、毎週土曜日には、それこそ、なくなりかけた歯磨き粉のチューブをぎゅーっと何度も何度も絞るように説教を絞り出していた(そして、それでも緊急の場合にはチューブをばらして、歯磨き粉をこそげ取るようにした)のでは、そら、消耗して、説教のコピペとか、引用とは言い難いような説教になったり、先週見た映画やテレビドラマの中身や、自分が先週に実施した業務報告を説教の増量するために利用したくなるのが人情というものであろう。

               

              http://beachpackagingdesign.com/boxvox/cutting-open-toothpaste-tubesから

               

              その昔、月に3〜4回以上、平日は通常業務をこなしながら、30分から40分の説教をしていた事があるが、時々は、ガス欠状態というのか、語るべき説教のようなものに悩むことがあった。もう、こういうことから開放されて、2年になり、他者の説教二度っぷりと我が身を委ねて生きることに慣れ始めているけれども、自分自身の内容がすっかすかで、講壇に立つときの恐怖は今なお忘れがたいものがある。実際にそういう状況を何度か体験したが、それは、本当に悩ましい経験であった。もう、それを経験しなくてもいいというのは非常にありがたい。

               

              http://cartoonchurch.com/content/cc/bishops/ から 

              しかし、右下は日本では本当に同じようなことをやる人が牧師とかでいそうなんで・・・笑うに笑えない。

               

              お若い方のために、見出しのタイトルに使った元ネタ。(牧師様方に当てはめると、元歌詞がいたすぐる…)

               

              閉じこもって孤立してしまう牧師先生方

              石田学さんと比企敦子さんいうNCC系の関係者の方々と編集部との対談では、次のような表現が印象に残った。

               

              この時代、神学生の減少、牧会の場での牧師の孤立、心身を病む新学生や牧師の増加が課題となり始め、それが教団教派を超えた共通の問題であるとの認識が教育部の中で共有されるようになりました。教育部はこの問題とどのように取り組みことができるのか。そのことを話し合う中で、新学生や牧師が孤立してしまうことへの取り組みと、自分の教団教派だけに閉じこもってしまうことにならないための方策が必要だという結論に至りました。(同 p.21)

               

              どこでもいろいろなところで見聞きしていると、最近は、神学生は激減しているようである。昭和30年頃までは、神学生が50名を超え、神学校の寮に入り切らないほど、神学生が集まっていた神学校でも、現状では、2桁に達するかどうか、2桁に達したら、今年は、多いかな、という印象の神学校は多いのではないだろうか、と思った。また、別の神学校では、時々、新入生がゼロの年がある、という神学校もあるようである。兼牧の教会や、無牧の教会も多いのに、そこに牧師を十分に供給できない状況になっているようだ。問題は、神学校が現場の教会に牧師の方を供給ができないことだけではない。そもそも、入学希望者が少なくなると、神学校の側で、神学校に入りたいという志望死亡者の中から、候補者を絞り込めない、つまり、この人はどうか、というような人でも、受け入れないとまずいかもしれない、というなんとなくの圧力のようなものがかかったり、教育によってなんとかなるかもしれないというほとんど可能性ゼロの限界に挑戦したくなる気持ちが働くようになる様に思うのだ。いわゆる底辺大学と呼ばれる大学で起きているのと同じような現象が神学校でも起きてしまうように思う。

               

              そもそも、数が多ければいいというわけでもないし、資質の問題は問われる事が多いので、どうも上の引用部の記述を見ていると、日本の神学校の神学教育は究極のデフレスパイラルに近い状態にはいっているのかもしれない。

               

              個人的に上の部分で気になった表現は、自分の教団教派に閉じこもってしまう牧師や神学生の皆さん、ということである。超教派の牧師の集まりみたいなものにミーちゃんはーちゃんは顔を出す事が多いのだが、どこのエキュメニカルというか超教派の集まりに言っても、たいてい顔を出すメンバーが一緒で、違うかつまりに言っても、大抵は、メンバー同士が同じという状態なのだ。つまり、自分の今日は教団に閉じこもっていない人は案外少ない、ということなのだと思う。神戸地方は昔から、司祭、牧師の他のグループとの交流が盛んだと言われているが、それでも、大抵のメンバーが同じだというのはねぇ。

               

              神学校教育で、あちこちの協会に活かせると言っても、1回2回位定期的に行われている礼拝に行ったところで、単に参加して返ってくるだけでは、関係を作ることなどはできない様に思う。全く行かないよりは良いとは思うが、もう少し多様なキリスト教会を知るのであれば、様々な教会に参加し、そこの牧師とか司祭とか付き合ってみる、ということは案外大事かもしれないなぁ、と思う。まぁ、牧師さんが他の教会関係者と交流がない様に、仏教でも宗派を超えた御坊様同士の交流はあんまりないようであるけれども。その意味で、日本的な状況が再現されているにすぎないのかもしれない、と思う。

               

              NCC系と、福音派系の牧師さんが同席している機会というのは、殆どない様に思うし、去年のこの時期割りと福音派の牧師さんたちの間で盛り上がっていた日本伝道会議だって、基本、福音派系の系統の人しかいなかったし、何なのかなぁ、と思ってしまう。

               

              教会から若者と若い献身者がいなくなる原因

              どの教派でも牧師や司祭の志願者が減っているという嘆きを聞きますが?という問いに対して、

               たしかに教会から青年層が減少していますから、それが理由の一つとは思います。しかし、最大の理由としては社会的・文化的な背景があります。1970年代頃までは、教会は信仰者、特に青年たちの生きる世界でかなり大きな領域を占めていました。

               しかし、現代では教会は大切な世界の一つではあっても、あくまで関わりを持っている複数の世界の一つです。相対的に教会が個々人の意識の中に占める割合は小さくなっています。教会という世界が自分の大部分を占めることになるであろう牧者としての道は、特に青年層にとって選択肢になりにくいのが実情です。現代人はたくさんの小さな世界を渡り歩きながら生きています。どこか一つの世界に自身の殆どを捧げることは避ける傾向にあり、それは教会に限らないと思います。(同 p.22)

               

              ここで、重要な事が書かれているのである。現在の若い信仰者の中で、教会生活が、若者たちの生活の中で占める部分が小さい、ということである。これはもう少しいうと、若者は、以前と比べ物にならないほど、多面的なかたちで社会と接しており、教会だけがその人が生きていることにかかわっている状態ではないし、よほど真面目ちゃんか出来杉君のようでない限り、教会だけに接して生きているということにならないし、教会生活というのは生活の一コマに過ぎなくなってきているという現状認識に立たないと、まずい、ということなのだと思う。

               

              貧しい時代には、多面的な社会の関わりを持ちたくても、経済的にそれが不可能な時代があった。更に、ちょっと前までは、会社での関係性が人びとの人生に占める割合が比較的大きかった。その意味で、人びとと組織の関わりの関与の仕方は深かったのである。しかし、その会社との関わりですら、現代の若者は希薄であると人事部の人が泣きついてくる時代において、教会となると、どうなるであろう。経済的にも豊かになり、いわゆるソシャゲ(ソーシャルゲームと呼ばれる、バーチャル空間でのグループ対戦型ゲーム)などもあり、コミケ(コミックマーケット、自作ないし同人の二次創作のマンガが大量に非常に多様な種類販売されるイベント)みたいなヲタクイベントが存在し、全国から何十万人と動員するイベントが成立し、アニメの聖地巡礼が何十万人規模で起きているとするとか、牧師先生方は一般にご存知なのだろうか。そして、コミケにせよ、アニメの聖地巡礼にせよ、それなりに何億円、何十億円規模でのお金が現在は動いているのである。それこそ、こうなると、現代人は、まさに、「たくさんの小さな世界を渡り歩きながら生きて」いるのであって、教会の世界はその中のOne of them、オプションの一つになっているのである、ということを素朴に認めた上で、どういう対応を取るのか、ということを考えないとまずい時代に至っている、という社会に対する認識を見直す必要が出てきたことだろうと思う。それは牧師だけでなく、若い人を迎え入れようとする教会も、である。根本的に社会が変化している可能性がある中で、伝道だの説教だのをしないといけない、ということなのである。

               

              とにかく、高度経済成長期のような大量生産大量消費が可能であった時代はもはや過ぎ去り、人びとの多様性を前提とした社会になったことに、教会も早く気がついたら、いいのに、とも、この部分を読みながら思った。そのためには、おそらく、牧師先生方の意識改革も去ることながら、信徒自体の意識改革も大事なのではないかなぁ、と思う。とはいえ、教会の信徒さんの現在の主軸である人口的に人数が多い人びとは、高度経済成長期に若者ないし中年初期をお過ごしであった高齢者の皆さんで占められているので、なかなか理解してもらうのは困難であることは確かであろう、と思うのだ。現代だと、10年下の世代の理解ですら、困難なのだから。それだけ、時代の変化と時代の変化の影響を強く受けていきざるを得ない社会になったことは素朴に認めたほうが良いようなきがする。

               

               

              教派の壁を超えた牧会者共同体が作れるか?

              牧師を支える上での課題はなんだとお考えですか、ということの問いに対して、次のように答えておられる。

               

               こうした働きを、各教団教派の執行部や神学校の教師たちが上から目線で行おうとすることは不毛だと思います。むしろ、牧者の共同体あるいは牧者の相互教育・相互啓発の機会を工夫する事が良いと思います。その中心となるのはやはり神学校でしょうが、今日は神学校の場合、エキュメニカル性が弱い分、牧者が抱える問題や課題の解決にはなりにくいと思います。その意味では、超教派の関わりを築くことのできる教育部は可能性を持っていると思います。(p.22)

               

              ここで、超教派的、エキュメニカルな牧会者共同体ができれば、牧師が抱えるいろんな解決策につながるのではないか、とおっしゃっておられるが、これは本当だろうか、という疑問を持っている。Ministryのリレー連載記事で、「牧師たちの日常」という記事があるが、あれを見ていると、そんなエキュメニカルな共同体に出ている余裕って本当にあるのだろうか、という気分になる。人にもよるかもしれないが、牧師の休日であるはずの月曜日が休日になっていない人達も多いようだし、牧師の休日になっているはずの月曜日に、みんなが揃いやすいから、という理由だけで、月曜日に教派のイベントを入れたりする今日はというか、教団も多いようだ。なんとお可愛そうに…、と思う。

               

              世間様は、週休二日制なのに、牧師は週休1日である。せめて、週休二日にしたらいいのに、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけであろうか。伝道地だからしょうがない、というのもあるのだろうし、そもそも、無牧や兼牧の教会が多い時代において、夏休みを2週間とる、とか言うことも非常識に見えるかもしれないが、しかし、それでは消耗してしまうのではないか。疲弊しきってしまうのではないだろうか。それこそ、中身が充実していない歯磨き粉のチューブの中から、無理矢理に中身を引き出そうということをしているに近い状態に日本の教会はあるのではないだろうか、と思ったのである。そのへんもう少し考えたらいいのに、とこのMinistryを読みながら思った。そもそも、日本の教会は、説教が中心の教会が多いのだとしたら、何から何まで、牧師がすることもないのに、とカルヴァン先生があちこちに行けない中で教会が成立していた宗教改革の影響を受けて成立した現在のプロテスタント教会のスタイルを見ながら、思うことがある。それこそ、現代における、『源泉に立ち戻れ』を宗教改革に影響を与えたルネッサンス期の思潮に立ち戻って、やってみればいいのに、とは思う。

               

               

              日本の牧師さんの皆さんはこんな状況かも…これで魅力的に見えたら不思議のような気がするかも

              http://1000awesomethings.com/2012/11/05/904-when-you-manage-to-squeeze-enough-toothpaste-out-for-one-last-brush/ から

               

              さらに、先程書いたように、エキュメニカルなものに参加する牧師さんは少ないし、大体どこに言っても同じメンバーという構造があるとしたら、一体どういうことになるのだろうなぁ、と素朴に思った。

               

              後、何回か続く予定。

               

               

               

               

              2017.09.13 Wednesday

              Ministry Vol.34 を読んでみた(4)

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                今回の記事で考えさせられた記事に、荒井さんという方が書かれた「教会教育」再考 高齢者との関わりからという連載記事があった。その中で取り上げられていたのは、「高齢者にとっての洗礼と聖餐」という記事である。今回はこの記事だけをもとに思ったことをタラタラと書いていってみたい。タラタラと書くのが趣味なので、その点はご容赦賜りたい。

                 

                救いとバプテスマ

                 まず、この中の記載で、最初に、「ん?」と思ったのは次の部分である。まぁ、実際に、バプテスマを受けると救われると教わったという人に出会ったから、まぁ、そういう方もおられるのだろうなぁ、とは思ったのだが。

                 

                ヨハネやイエスの時代に、エルサレムという都市を中心とした神殿体制が神の恵みを伝えました。祭司や律法学者が神の恵みの管理人であるかのようにうるまいましたが、本来神の恵みは人の作った制度にかかわらず、自由に与えられます。バプテスマのヨハネはエルサレム中心のあり方を非難して、ヨルダン川で人々に悔い改めを迫りました。この点を忘れて、単純にバプテスマを受けて救われると信じると、創造の原点に立ち返るという信仰の根幹を忘れてしまう危険があるのではないでしょうか。(Ministry Vol.34  p.28)

                 

                 

                この前、京都でムスリム宗教者のナセルさんと、仏教のお坊さん(浄土宗系)お二人と切り捨て教徒二人の計5人(今考えても実に変なグループであったと思うが)で、京都駅近くの居酒屋で2時間余、食事をしながら、話していた。そのときに話題になったことの一つに、お坊さんたちが一般の人(たしかメディア系の人)から、「仏教における『救い』とはなんですか」と聞かれて戸惑ったということをお話くださった(これを一部のキリスト教会風に言うと、お証ししてくださった、となるのだろうけどw)ことがあった。そして、日本の宗教の中で「救い」の有無が宗教の根本要素の一つとして重大事になったのはいつごろからだろう、という雑談になった。お二人のお坊様によると、本来仏教には、「救い」と言う概念はない、とのことであった。確かに「悟り」とか「浄土」とかはあるが、それは一般の語で言う「救い」とはあまり関係ないということらしい。言われてみれば、そのとおりなのではあるが、いまの日本語において、宗教とは、何らかの「救い」を衆生に与えるもの、と理解されていることを巡って、色々考えさせられて面白かった。

                 

                その時の5人の結論というか、その場にいた、ミーちゃんはーちゃんを含む切り捨て狂徒(クリスティアノス)二人の意見は、おそらく明治期以降に、キリスト教が入ってきて以降の話であって、キリスト教が救いということを言い出すようになって、キリスト教の概念が、文学やらなんやらのかたちで、明治以降、人々の頭に、宗教とは「救いをあたえるもの」、という印象を与える結果になったのではないか、というものであった。

                 

                そう思ってみれば、徳川家康くんは「厭離穢土欣求浄土」とか大書した掛け軸の前で仁王立ちしたり、どっかりと床机の上に腰を下ろしているシーンがあるが、その時の背後の掛け軸に書かれている文字の意味は、浄土を求めている、という意味なのであって、救済を求めているわけではなくて、悟りの境地に達することを求めているのだろうなぁ、と思ったりもする。

                 

                大河ドラマ 『真田丸』で「厭離穢土欣求浄土」をせに座っている徳川家康くん

                http://rekisiuntiku.jp/blog-entry-223.html?sp から

                 

                もとに話を戻すと、「バプテスマを受けて救われると信じると、創造の原点に立ち返るという信仰の根幹を忘れて」と筆者の荒井さんはおかきであるが、流石に牧師さんレベルで、「創造の原点に立ち返るという信仰の根幹を忘れて」おられる牧師の皆様はおられないことと期待したいし、「信じて、救われて、バプテスマを受けたら救いがある」こういうウルトラ単純化した内容を言い続けている教会は存在しないだろうと思いたいが、信徒さんの中だと、誤解を受けかねない、「バプテスマを受けたら、天国に行ける」というような表現に沿ったことをおっしゃる方もいないわけではないように思う。

                 

                イエスは、本当に平和をもたらすと言ったのだろうか

                 今回の記事で割と気になった表現のもう一つに「イエスが生きた平和に倣いたい」というような表現があったことである。どうも、戦後、イエスが平和を言ったことに惹かれて教会に来られた方が多いというのである。これにはちょっとびっくりした。そんなことをミーちゃんはーちゃんは個人的に思ったことがなかったし、「イエスが生きた平和って、そんなものあったっけ」と思ったからである。その部分の記述を以下に引用する。

                 

                特に戦争と平和の問題がご本人にとって大きな課題となり、イエスの生きられた平和に倣いたいと切望されて、バプテスマを受けた方がいます。「戦前は為政者をはじめとして、学校の教師など指導的立場にある人達が軍国主義を唱えていた。一夜明けて戦後になると手のひらを返したように民主主義を唱え出した。一体誰を信じればよいのかと、社会に対する不信感をつのらせていたところに、聖書のメッセージ、イエスの姿が描き出され、行くべき道を示されたと確信してバプテスマを受けられた」という話を何人もの人からうかがいました。(同 p.29)

                 

                このように書かれている部分を読みながら、イエスが祭司長やパリサイ派の皆さんには命を付け狙われながら、社会の周縁で生きられたその姿と十字架の姿が、日本人が言うところの『平和』だったのかどうか、ということには多少の議論の余地はあるようにおもう。また、イエスご自身がこうも言われていることを考えると、単純な平和でないことだけは確かなように思う。お一人お一人がどのようなことからイエスを救い主であるとおっしゃるかは、その人の歴史的経緯や人生プロセスと関わる話なので、それをいきなり単純か、一般化して、単純に否定するつもりもないし、否定はできないと思っているが、個人的には、イエスが生きられた道は悲惨の道であり、通常の日本語で言うような平和の道とは言いがたい様に思えてしまうのは、きっとミーちゃんはーちゃんが頭が悪いからだろう。イエスは、その平和でない人生を通して、神との平和が成立する世界、すなわち、神の国が実現することを示されたことは確かだとは思うが。あくまで、神との平和であって、そして、それから派生する隣人との平和であったことは確かだと思うのだが、イエスの歩んだ道は世間的な平和の道とは、かなり違うのではないかなぁ。イエス様がおっしゃっておられることになっているご発言の内容を考えてみると。

                【口語訳聖書】マタイによる福音書  10章 21〜36節
                兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
                またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

                (中略)

                地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
                わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
                そして家の者が、その人の敵となるであろう。

                もし、イエスが平和のうちに歩まれたと言うかたちでの誤解があるとするならば、戦後、どのような説教が教会でなされたのか、ということはもう少し日本の教会氏の重要事項の一つとして、検証されたほうが良いのかもしれないという疑念がむくむくと湧き起こってきているが、個人的には、あまりそのあたりに関心がなく、どちらかと言うと協会周辺の考現学の方にミーちゃんはーちゃんの関心はあるので、この問題は、日本の教会の現代教会史をされている方やら、日本のキリスト教の戦争責任の問題にお取り組みの皆さんの研究課題ということで、お願いしたいなぁ、と思ってしまった。まぁ、確かにお年寄りには、戦争の悲惨のゆえに平和が好きだとおっしゃる方がおられることも、確かである。

                 

                天国行きのパスポートとしてのバプテスマ

                極楽浄土へのパスポートとしての念仏

                以下の記述を見た瞬間に「あ〜〜、こういう人おられるかも」とは、思ったのだ。

                 

                死を強く意識したときにバプテスマを受ける方もいます。天国に受け入れられたいという願いからバプテスマを受ける人は少なくないようです。この場合には、バプテスマが天国へのパスポートとして受け止められています。(同 p.29)

                 

                死を意識したときに天国に行くためにバプテスマを慌てて受ける人はいると思う。かく言うミーちゃんはーちゃんの父親もこのパターンであり、手術を受ける前に慌ててイエスを信じ、バプテスマを受けたいと言い出したことがある。実際には、手術で、喉のところに呼吸用の穴を空けざるを得なかったので、手術後に結果としてバプテスマは受けなかったし、受けられなかったのだが。それでも、一応信仰告白をしたので、教会のメンバーに入れてもらった。個人的には、普段から、バプテスマや信仰告白は天国行きのチケットそのものではないと、結構個人的には、口酸っぱく言っていたのであるが。そのへんはもはや故人になったので、すでに確かめようはないし、確かめる気もないが、まぁ、イエスとともに生きようとしていたようには思う。

                 

                前にもこのブログで時々書いているが、日本人の死生観において、死んだら極楽浄土に行くという理解と、死んだら、天国に直行するということとの混乱を示すような事例が多数見られるようになっているように思う。誰かが死んだら、明らかに読経が流れる霊柩車が出棺した直後の葬儀場のところで、不慮の死を遂げた若いお母さんや、小さな子供の場合、参列者がテレビカメラの前にしたインタビューで「極楽浄土への往生を遂げられたと思います」とは言わず、「天国から私達を見守ってくださいね、とお願いしました」とか言っている場面が時々見られる。そもそも、いつの頃からか、日本で、人間は死んだら天国に行くことになったのだろうか、と思う。お浄土に行くのではなくて。

                 

                さらに言えば、古いスタイルの仏教では、輪廻転生を信じているはずなので、生きている間の行いが悪いと、虫とか動物とかに変わるということが信じられていたはずなのに。いつの頃からか、戦死した兵士について、軍隊で見られたような何階級もの特進のようなことが死者についても起きて、成仏できると考えるようになったのかは、調べてみると、ちょっと面白いかもしれないと思う。

                 

                なお、浄土宗の御坊様に聞いたところによると、仏教における極楽浄土は多数あって、一人一浄土だろう、とおっしゃる。そこでは一人でいる(究極のSolitudeかも知れない)ことになっているらしいが、キリスト教における新しい創造が完成した段階(いわゆる天国と称されることが多い状況)では、多くの人が神とともに過ごすことになっているので、極楽浄土と天国は、根本的に別物と考えたほうがいいように思う。この辺の現代の日本の死生観の混乱というのは、どういうものか、と思う。

                 

                人間の違い存在することが前提の聖餐式

                人間の違いの存在を超える聖餐式

                今回、この連載記事を読んで、他にも、はっとさせれらたことがある。荒井さんがおかきになられた文章に触れた時、ある聖公会の司祭のことばが頭のなかに蘇ったのである。その司祭のことばを蘇らせたのは、以下の記述である。

                 

                このとき(聖餐の時)にイエスと一つとされる恵みばかり焦点が当てられてきたという印象が私にはあります。もともとこの聖句が書かれている文脈は、コリントの教会の中で貧富の差があり、差別があり、主の食卓を囲むにも遅れてきた人たち、主に貧しい人たちだったと思われますが、彼らが食べる分、飲む分が残っていないという問題が生じたという状態です。(同 p.30)

                 

                パウロがいた時代のコリントの教会でもそうであるし、比較的最近になるまでの世界中の多くの地域や国家では、人々の間には差があることになっていた。人々は階級や氏族、社会集団というものに非常に縛られていたのである。しかし、今は人間は等しく扱われるべきであるし、等しいというのがふさわしいと思われている時代になった。そんな時代に、「人間には違いがある」とか言うと、「なんとひどいことばだ、聞くに堪えない」「なんと時代錯誤的な」と言いたくなる方も少なくないだろうし、「なんとひどいことを仰る」と眉をひそめる方はおられよう。しかし、人一人ひとりには、違いがないということは、本来無理なのではないか、と思うのである。

                 

                 マラソン選手は、マラソンのコースを2時間程度で走る。日本人の短距離走選手の最速の方は、100mを10秒以下で走る人が出てきた。では、100mを10秒以下で走れるからと言って、その同じ人がマラソンを2時間未満で走れるか、と言われたら、とてもとても、走れないのである。ボクシング最強の選手であっても、歌がうまいか、というと、めちゃくちゃ音痴な人もいる。このように本来、人には違いがあるのである。本来人間一人一人には、差があるのである。神がそのように創造されているのではないか、と思うのである。

                 

                 それを無視して、みんながすべての点で、おなじになることは、神に対する反逆のようで、個人的には、「あまりよろしくないのではないかなぁ」とは思うが、こういうことを言うと、現代的な平等感というのか、現代を支配している人権思想的には、貧しさを固定化したり、社会階層や性役割を固定化することにつながりかねないから実によろしくない、ということになるのかもしれないが、どうも、そればかりを言い募ってしまうと、人間の個性や違いを享受できないようになると思うのだが。人それぞれ、神が作ろうとする最高のキャラクターがある(この辺を知りたい人には、地引き網出版の『神が造られた「最高の私」になる』を読まれたい)と思うのだが、現代社会ではそんなことは言ってはいかん配管らしいが、それってどうだろうと思う。

                 

                さて、余談に言ってしまったが、ここで思い至ったのは、聖餐が持つ、人々の間の様々な差を超えて、すべての人が罪人であっても、イエスにあるがゆえに、一つにされるという側面を具体的に示す聖餐及び聖餐式そのものが持つ特徴である。そもそも、人間が等しいのは、罪人であり、神を必要とするという一点においては絶対にまごうことなく等しいのだ。司祭を含め、罪人であり、その罪人が、イエスがそうせよ、とおっしゃったその一点において、聖餐に集っているということになっているように思うのだ。

                 

                先にちらっと紹介した聖公会の司祭が教えてくれたことの一つに次のようなことがある。その司祭にとって大事にしたいと思うことの一つは、「聖餐に集まる様々な人々、様々な身分の人々に対して、「(この食卓にイエスが私達を招いておられるので、)信仰によってこの食卓に近づきなさい(Draw near with faith)」と呼びかけ、王族であれ、ホームレスであれ、様々な人々が同じ食卓の前にともに並び立ち、その人々が聖餐に共に神の民として与るように司式するのが僕(その司祭の方)にとって理想だなぁ」と言うことだそうである。

                 

                この話を聞いたときに、参ってしまった。確かに英国は未だにかなり明確な身分差があり、それが、人が話す言語に現れる。地域差だけではなく、社会的地位の差が話す言葉に出るのだ。それが教会にあっては、一つに集まるのである。もうだいぶ前の映画になってしまったが、My Fair Ladyという映画は、そのことが背景にある映画なので、妙な下町言葉を話すお嬢さんを、そこそこの身分のある人に思えるように、ある種の言葉遣いと発音ができるように化けさせることがあの映画の背景にあるのだ。映画My Fair Ladyに表されているような、そういう身分や、年齢差や、個人差を超えて、同じ罪人として、聖餐の場に呼ばれているという感覚、そして、多様な人々がそれに参加する感覚というのは大事だと思うのだ。

                 

                映画 My Fair Ladyの言葉の矯正訓練のシーン

                 

                聖餐は、本当に列席者を一つにすることを感じるのは、聖餐の食卓(パンと一つの盃)を前にして、太字の部分(細字の部分は司祭が言う)をすべての列席者が唱える時、あぁ、我々は、実に多様な人々からなっているけれども、神の前にあって一つであり、すべての人間的な差異を超えて及ぶ神の愛の強烈さを、この祈祷文の表現を読む度に覚えている。

                 

                We break this bread
                to share in the body of Christ.
                Though we are many, we are one body,
                because we all share in one bread.

                       
                Lamb of God,
                you take away the sin of the world,
                have mercy on us.
                        
                Lamb of God,
                you take away the sin of the world,
                have mercy on us.
                        
                Lamb of God,
                you take away the sin of the world,
                Grant us peace.

                この文章を声に出して読む度に、神の愛がすごすぎて、もうたまらん、と思うのである。

                 

                実際に外国人とともに与る聖餐で思うこと
                ここで、この連載の著者の方は、聖餐について、さらに次のように書いておられる。

                 

                聖餐は世界に広がる教会の一致のしるしとしても守られます。特に世界聖餐日にはこれを意識してパンと盃に預かります。これにより、他教派への思いが養われ、多様な教会の有り方を受け止める道が開かれます。(中略)

                 神の造られた多様性への思いを高め、イエスによって一つとされていることを知ります。「一つ」というのは「形式的同一性」に現れるのではなく、結び合わされ仕え合うことで経験される「一つ」です。聖餐にあずかる高齢者が様々な文化の中に生きるキリスト者の様子を同時に知ることで、一致と多様性を学ぶことができます。(中略)

                 これを経験するためには宣教師の存在が大きな役割を果たします。欧米のみならず、アジア諸国、アフリカからの宣教師とともに聖餐を守ることで、多様性と一致を知る可能性が更に開かれます。日本のプロテスタント教会の中には、海外の教会との交わりを積極的に行っている教会もありますが、反対に内側に凝り固まっているような教会もあります。高齢になってなお神の豊かさに預かるためにも、異なった文化伝統を背景としたキリスト者との交わりを教会としても大切にしたいものです。(同 p.31)

                 

                今行っているチャペルの聖餐式のプログラムの中には、聖餐にあずかる前に、日本聖公会の様々な特定の教会とそこの司祭や、外国のアングリカン・コミュニオンの司教区とその司教のために、そして、そのチャペルを運営している組織とそこで奉仕する司祭たちのために祈る時間がある。これ、最初このチャペルに行き始めた頃には、「なんでこういうことを、やるんだろう」とは、そういう週刊があまりなかった教会に行っていた機会が長かったので、思っていたが、いざ、これに慣れ始めると、自分たちがその大きな教会の中の一つであり、大きな神の平和をもたらすための一翼を担っていることを覚えるために、また、自分たちも同じように祈られていることを覚えるために、しているのだろうなぁ、となんとなく理解できて、こういうのは大事なことだなぁ、と思うようになった。そういえば、ハリストス正教会でもこのような祈りをしておられたように思う。ただ、日本語の発音の際の抑揚が独特なので、ちょっとわかりにくかったが。

                 

                仕え合い、祈り合うというということも大事だが、外国の教会や外国の信徒のことを覚えて祈ることを通して、自分たちが理解できない言語で話していて、これまでも全くあったこともなければ、今後おそらく知ることもないだろう人々とも、一つである、つまり、Though we are many, we are one body(私達は多くいますが、私たちは一つです)ということを覚えるところにあるのだなぁ、と思うようになっている。

                 

                現在参加させてもらっているチャペルの日曜日の聖餐式には、イングランド人もいれば、アメリカ人もいる、ウェールズ人もいれば、時々ルワンダ人やケニア人も来る、時々、中国人も聖餐に参加すれば、台湾人もほとんど毎週参加するという聖餐であるし、水曜日の夜に行われる聖餐式には、フィリピン人船員や、インドネシア人船員も、時には東欧系の船員やスペイン人のカトリックの司祭なども一緒に聖餐式に参加するという、実に、国際色豊かな聖餐式であり、なんか本当に、神の王国の味見(Foretaste of Kingdom of God)をしているような感じになるときも多い。こんな聖餐を経験すると、今度はどこの国の人たちと聖餐をともにできるだろうか、と思いながら、毎週参加することを楽しみにしてしまっているミーちゃんはーちゃんがいる。まぁ、要するにミーちゃんはーちゃんが出島のような外国人中心のアングリカン・コミュニオンのチャペルに出入りしているだけの話なのだが。

                 

                ところで、荒井さんの文章では、高齢者にとって、外国の人々とともに聖餐することがだいじだというご主張であるが、別に高齢者でなくても、外国の人々、寄留者、旅行者とともに、聖餐をするというのは、以下のイコンが表しているアブラハムと神との愛餐会の例ではないが、老若男女とわず、案外大事なことかもしれないと思うのだ。そして、それが実感できる事が多いミーちゃんはーちゃんが参加している毎週水曜日の聖餐式は、毎週楽しみにしていることの一つではある。

                 

                http://www.soulshepherding.org/2012/08/enjoy-the-hospitality-of-the-trinity-with-rublevs-icon/ から

                 

                 

                自らが寄留者としてのキリスト者として迎え入れられる経験から

                米国出張中になんどか、自分の教会とは、縁もゆかりもない教会ばかりに日曜日に、訪問したことがある。米国への出張のときには、ホテルのコンシェルジェに「ここから近いコミュニティチャーチはどこか」と聞き、そこへ尋ねていった。コミュニティチャーチでの多くは毎週聖餐をすることがない教会が多数派である、ということがあるためか、聖餐をともにしたという経験は割と少ないが、外国人、日本人が行くだけで、面白がられたというか、妙に喜ばれたことは確かであった。

                 

                おそらく、彼らが海外伝道者を支援しているか、していないかは別として、アメリカの教会が伝統的に日本の伝道をしているのは知っていて、自分たちの仲間である教会の関係者の伝道の成果(それが自分たちの教会が支援した宣教師の伝道の成果かどうかは別として)が、それも呼吸をしている人間の形の生きた成果の標本が向こうからやってくるようなものであるし、外国人が教会にやってくることは、宣教師たちを支援することの意義を、目で見て感じられる部分もあるからかなぁ、と教会の礼拝が終わったあと、そこの信者さんたちと雑談をしながら思ったことが何度かある。それは田舎の教会であればあるほど、その傾向は強かったが。

                 

                こういう経験をすると、ほんとうにキリスト教の世界は多様性に富んでおり、本当に豊かなものだなぁ、と思う。そして、多様な人々とキリストにあって、聖餐をともにするということが体験できるという意味では、多く多様な人々からなっていても、キリスト者は一つである、ということを思うのである。多分ミーちゃんはーちゃんの美しい誤解にすぎないのだろうけれども。

                 

                あと少なくとも1回は続く。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                評価:
                ジョン・オートバーグ
                地引網出版
                ¥ 2,592
                (2015-11-10)
                コメント:大変、参考になるかもしれない。

                2017.09.16 Saturday

                信仰(がぎぐげご)認について

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                  久しぶりの不謹慎系ブログネタを今日はしてみようか、と。月曜からは、ちゃんとしたものに戻します。まぁ、この記事も、ある面では、ちゃんとした意味はまったくないわけではないけれども、今回はかなり強力な解毒剤がいるかも。毒入りまんじゅうかもしれません。饅頭こわいになるかもしれません。あ、それなんで、ちゃんと月曜日には、ミニストリーの連載記事のものについて記事にしますから。

                   

                  まんじゅうこわい(桂枝雀師匠による落語)

                   

                  出発点

                  そもそもの事の起こりは、Facebookのお友達のMさんが、FacebookでのNTライト読書会に、「N.T.ライトFB読書会」という、ある方のブログ記事をご紹介になったことに端を発している。その中に、

                   

                  フェイスブックに「N.T.ライトFB読書会」というグループがある。 

                  https://www.facebook.com/groups/288504731222965/ 

                  N.T.ライトは異端であり、このような異端を信じる人々をクリスチャンとして認めることはできない。 

                   

                  と、書かれたことを見たことに由来する。「異端を信じるノンクリ」認定をこの方から受けてしまった。別にいいけど。

                   

                  どうも、この方のご主張によれば、ライトさんの義認論がおかしいから、ライトさんは異端だそうである。まぁ、どなたがどのようにお考えになろうとも、そのお考えをどのような形で表明なさろうとも、それは、我が国の憲法において保証された、言論、思想の自由において認められるべきだろう、とは思っている。このブログ記事をお書きになられた方に、ミーちゃんはーちゃんが異端に見えようともかまわない。それは、その人の主権の範囲だからである。勝手に異端認定、異端断定されたらよろしい。個人的には、「貴君がそう思うだけだろう」と思う。神から見れば、「所詮、ミーちゃんはーちゃんごときは、異端同然なのかもしれないのだから」とは思っている。人間は神になれない以上、誤りなく生きることなどはできないのである。

                   

                  ところで、この方の論点のご背景には、おそらく、John Piperさんと、N.T.ライトさんの信仰義認をめぐる本の上での対話があるのである。確かに、John Piperさん(数年前に日本に来られたときには、Piperさんのご講演を聞きに行ったことはある)は、ライトさんとJustification に関する対論もしている。そして、Justificationという本をかくきっかけの一つにはなったと、以下の動画で早い段階(12秒前後)で、ライトさんは言及しておられるようにミーちゃんはーちゃんには聞こえる。なお、Justification とは日本語で言えば(信仰)義認と呼ばれることばを指す英単語ではある。

                   

                  Justificationという本について語るライトさん(ちらっと聖餐を受けるシーンが出てくる)

                   

                  それと同時進行的に、ミーちゃんはーちゃんのFacebook上では、3年くらい前から、キリスト教関係のネット界隈で色々取り沙汰されているクリスティアン・トゥデイ(Christian Today 米国の有名な雑誌のChristianity Todayと名称がそっくりだが、中身と運営主体は全く違うネットメディアがあり、その前編集長によると、なぜこのような混乱を招くような名前にしたのかの経緯はよくわからないそうである)がカルト関係団体なのかキリスト教異端関係団体なのか問題も今なおミーちゃんはーちゃんの周りで話題になっている。そのChristian Todayにまつわる発言で、Facebookでのお友達のmさんがクリスチャン・トゥデイにまつわるある方の判断について、「信仰義認ではないか?」とツッコミを入れたので、それじゃ、「信仰誤認」ってこともあるよね、と突っ込んでみたら、うけたのである。

                   

                  ある対象やある事柄を、どう認定するかに関していえば、統計学でよく出てくる概念の第1種の過誤、第2種の過誤問題というのがある。もうちょっというと、正しいものを誤っていると認定する場合(第1種の過誤)、正しくないものを正しいと認定する場合(第2種過誤)もあるという話である。このように第1種の過誤もあるし、第2種の過誤もあるから、何をどう判定するかは結構むつかしくてということを考えていた。そして、多くの異端とか、異端でないとか言ったりする場合には、必ずこの種の第1種、第2種の過誤、誤認の問題があると思うのだ。そこで、このあたりの過誤の話を含めて、信仰義認にひっかけて、「『信仰誤認』になっているんじゃないの?」って突っ込んだのが、そもそも「信仰誤認」という言葉の起こりである。単にギをゴに変えたら面白いだろうというナイツの漫才のような発想での遊びである。それで、受けたので、ちょっと遊んでみることにした。

                   

                  一字替え遊びが得意なナイツの漫才

                   

                  信仰誤認とは

                  その時に、信仰誤認とい雨言葉の意味を、以下のように定義すると、案外そのような方は多いかも、と思ったので、「信仰誤認」という言葉を作ったら、面白いかなぁ、と思ったのである。

                   

                  ◆「信仰誤認」
                  ある信仰の形態を守ろうとするあまり、聖書の記述内容を誤認するようになる傾向を持ってしまうこと、また、そのような傾向をもつこと。

                   

                  ミーちゃんはーちゃんにも、自分自身の信仰生活を振り返ってみたら、実は、信仰誤認の重篤な患者だったことがある。それは否定はできない。今なお、そういうところがあるかもしれない。自分自身の反省を込めて、「信仰誤認」という語を考えてみたのだ。

                  その意味では、第1種の信仰誤認とか、第2種の信仰誤認とかが有り得そうだから、そのへんまでの遊びをされたい方は、ぜひご自分でお考えいただきたい。

                   

                  そうなると、信仰ギ認、信仰ゴ認ができたのなら、そこを、ガギグゲゴで変えてみたら、どうなるか、ということを遊びとして書いてみたら面白いかなぁ、と思ったのである。

                   

                  ま、そんな言葉遊びを移動中の電車内で考えていると、信仰我認(しんこうにん)とか、信仰義認(しんこうにん)とか、信仰愚認(しんこうにん)とか、信仰悔認(しんこうにん)とか、信仰誤認(しんこうにん)とかできてしまったので、それぞれについて、その文字にふさわしい意味合いを無理やり付けることを考えてみようか、と思ってしまったのである。従って、おふざけであるし、久しぶりの不謹慎系の記事である。

                   

                  なお、信仰義認以下は悪趣味な冗談なので、悪趣味な冗談(毒)として、受け取ってほしい。毒は用法用量を守ってご利用ください。ぴんぽ~~~ん。

                   

                   

                  ルルのCF

                   

                  ◆信仰我認(しんこうにん)

                  ある種の信仰にハマってしまったために、聖書の権威性や聖書の主張する正統性(legitimacy)を超えて、自分に権威性や自己の主張に正統性があると認めるようになる傾向を持ってしまうこと、また、そのような傾向を持つこと。

                   

                  結構、こういう方は多いと思う。一言居士系の方にこのタイプは多いかもしれない。キリスト教カルト系宗教の指導者には、このタイプが案外多いのではないか、と思う。ある種、われ信仰す、故に我は義なりと、我認む、というタイプの傾向の方である。自分は神を信仰しているから義なる神のものであるから、故に、われは義である、というタイプの論法を持ってこられる皆さん方にこのタイプは多いかもしれない。

                   

                  ◆信仰義認(しんこうにん)

                  (1)自分自身がイエスに対する信仰を持つことによって神から義と認められるという考え方、そう考えること

                   

                  というメインの立場がある(かなり一般に普及している大雑把な理解を想定して書いているので、より詳細なことは専門書をご覧いただきたい)。

                   とは言いながら、最近、欧米でも主張されることが増えてきたとされる

                   

                  (2)イエスの忠実(真実・誠実・・・・)のゆえに、我々がイエスを主(キリスト、キュリオス)あるいは神であると告白することで、神から義と認められるという考え方、そう考えること

                   

                  という立場も増えてきた。今度の新しい聖書協会の日本語訳はこの点にも配慮された日本語訳になると聞き及んでいる。

                   

                  どちらのほうがもともとのどのギリシア語テクストの解釈としてふさわしいのか原義に忠実なのかは、ミーちゃんはーちゃんなどにはなぜ知る由もないかは知る由もないが、いずれにしても、義とみとめるのは神であって、人ではないということは共通しているようなので、ま、ミーちゃんはーちゃんが知る由がないのは、人間であるからだろうと思っている。

                   

                  ◆信仰愚認(しんこうにん)

                  愚かで(無垢な人で)信仰を持つ人ほど、神は、その人の存在を認め、お用いになられるという考え方、そう考えること

                   

                  たしかに宣教のことばの愚かさを通してとか、ペテロとヨハネが「無学な、ただの人」(使  4:13 )あたりの表現を通して、愚かな人ほど神から認められるということをお考えの向きがあるかもしれない。少年十字軍とか、民衆十字軍などにその痕跡を認めることができるかもしれない。とはいえ、このようにおっしゃる方の中に、なぜか、パウロを新約聖書の著者の中で、特別に重要視されたり、パウロの書簡集を福音書より遥かに重要で、その書簡集の断片についての言及回数が多い方が案外多いのは、ちょっと変だなぁ、とは思うことが多いのだが。

                  ◆信仰悔認(しんこうにん)

                  信仰を持ったら、神が悔い改めたものと認められるがゆえに、何が何でも、二度と悔い改めのない生活を送らねばならない、ないし少なくとも外見上そう見えなければならないという考え方、そう考えること

                   

                  「悔い改め」と「信仰」は似ているけれども、基本的には違うものだとミーちゃんはーちゃんは思っている。罪深さを後悔することや、自分の中に不十分な部分があることに悩むことは、誰でも経験することだけれども、その罪深さを認めることと、信仰は別のものであると思う。信仰を持っていても、罪を犯す(神のことはほったらげになる瞬間)はあるし、意識しないまま、罪の状態に陥ることはある。

                   

                  ところが、明治以降日本に到来したキリスト教は、一種の西洋という先進国の道徳と理解されたり、当時の途上国である日本が参考にすべき道徳であるとみなされたためか、世間の皆さまからは、教会の人は倫理的で、まじめで、悔い改めのない聖人君子のように思われていることが多いようである。そして、その結果、キリスト教に関心はあっても、そういう生き方をするのが、めんどくさく思えて、教会に近づかない人々もおられるようである。その結果かどうかは知らないが、教会の関係者はほかの人々が近寄りがたいほど、倫理的な生き方をする人であらねばならない、というような思い込みが、キリスト者に案外多く、そのため、自分自身の生き方にびくびくドキドキしながら生きておられるキリスト教徒や、他人の揚げ足取りのようなことをするのが大好きな他罰的なキリスト教徒の方もお見掛けする。

                   

                  本来、神は、人間が十分残念で罪深い存在であるからこそ、何度でも戻って来い、子よ我とともに生きようぞ、とおっしゃってくださるのし、ルター先輩は、神経症的で、びくびくドキドキしていたメランヒトン先輩に、大胆に罪を犯せ、そして、もっと大胆に罪を悔い改めよ、と言われたらしい。そういうことを考えると、ティム・ケラーの本のタイトルではないが、キリスト者は「放蕩する神」に対して、もうちょっと信頼、あるいは信仰を持ったほうがいいのかもしれない。びくびくドキドキした信仰生活のようなものを送って、自罰的になるよりも。

                  ◆「信仰誤認」(しんこうにん)
                  ある信仰の形態を守ろうとするあまり、聖書の記述内容を誤認するようになる傾向を持ってしまうこと、また、そのような傾向をもつこと。

                   

                  これは先に詳述したので、ここでは省略する。

                   

                  しかし、我々は、ある対象を正しく判別できる能力があると思いたいお気持ちはよくわかるが、実は、人間の判別能力というのは、結構怪しいものなのであるような気がするし、いくら聖書を読んでいるからといっても、人は特定の理解の傾向を全く持たない、とか、完全に中立的であり得る、ということがない以上、人間という鼻で息するものの判断には誤認が付きまわざるを得ないかもしれない、ということの意味をちょっこし考えてみた。

                   

                   

                   

                  線形判別分析の説明図

                  https://cambenzit.wordpress.com/2013/04/21/linear-discriminant-analysis-implementation-in-r/ から

                   

                   

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                  2017.09.18 Monday

                  Ministry Vol.34 を読んでみた(5)

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                    後もう一回くらいMinistry Vol.34を読んで思ったことを書く予定であるが、今日は、この号で連載が終わってしまう越川さんという方の、「ワタシの礼拝論」という連載の最終回からご紹介してみたい。この連載は今回で終わってしまうのだが、実は、個人的にミニストリーの中で、いちばん好きだった連載の一つであった。終わってしまうのは、実に残念であると思っている。まぁ、それは同じことを繰り返しても仕方がないので、終わるのは仕方がないことではあるが。

                     

                    礼拝とは何か それは、『神と人との聖なる○○』

                    礼拝ってなんだ?って聞かれたと来、すぐに応えられる信者さんは何人くらい日本におられるだろうか。あるいは、みなさんは、『礼拝』って、はじめてきた人に、あるいは、信仰歴の短い人になんと応えられるだろうか。すぐには、答えは出せないかもしれない。それほど、礼拝というのは、複雑で、味わいがあり、多面的なものであるとおもう。

                     

                    信者さんが集まってすること、という現象面を答えることもできるだろう。ある方は、礼拝とは、聖餐であると言う方もおられるだろう、ある方は説教を聞く機会だ、イエスのものであることを想起するための儀式だ、という人もいるだろうし、日曜日の朝の二度寝の時間だという人もいるかもしれない。あるいは、講演会付き賛美歌大会だという人もいるだろうし、神の前に踊り狂うための日曜日のある時間帯、という方もいるだろう。祈る時間だという方もおられるとは思う。まぁ、人により、いろいろであるし、それはそれでその方と教会との関わり、その方と神との関わり、その方がおられる教会の礼拝理解とその人とのかかわりが反映されているように思う。では、越川さんはなんとおっしゃろうとするのか、ということをご自身が以前Ministryにお書きになった文章から引用されて、次のようにおっしゃっておられる。

                     

                    かっこよく言えば、礼拝とは『神と人との聖なる戯れ』なのである。そこで私たちは神と遊び、また神が集めてくださった人々に出会い、遊ぶ。そうした遊びを通して、私たちは神によって受け入れられている自分、隣人によって受け入れられている自分を再発見し、自分自身を受け入れ、肯定し、喜ぶものとなる。それはまた同時に隣人を受け入れ、神を受け入れ、肯定し、ともに喜ぶことへとつながっていく。(Ministry Vol.34 p.50)

                    まぁ、こういう『神と人との聖なる戯れ』といったような表現をすると、ドン引きされる方も多いだろうと思われる。でも、ヘンリー・ナウエンの本の中に、『嘆きは踊りに変わる』という名著がある。この日本語訳は非常に読みやすいこともあるのでおすすめであるが、この本の中でも、神を中心として踊るというメタファーが出てくる。まさに、越川さんという方がおっしゃっておられることは、ナウエンが、その『嘆きは踊りに変わる』という本の中で、円を描きながら、ダンスを踊るメタファーでかいていることと極めて類似した概念だろう、と思う。

                     

                     

                     

                    輪になって踊るイスラエル兵

                    輪になって踊るギリシアの伝統的なダンス

                     

                    輪になって踊る日本の伝統的な盆ダンス

                     

                    輪になって踊る田川(遠賀川流域)のモダンな盆ダンス

                     

                    しかし、こうやって見てみると、文化人類学者でなくても、輪になって踊るということに何らかの意味を感じる部分があると思いたくなるのは人情だと思う。

                     

                     

                    さて、脱線はこの辺までにしておいて。

                     

                    いつも唱える祈祷文 Common Prayer book から

                    今、参加させてもらっているチャペルの礼拝に出るのが楽しすぎて、そして、興味深すぎて、週2回参加したいと思うほどである。特別に説教がいいわけでも、賛美歌がうまいわけでもない。賛美歌はミーちゃんはーちゃんがいるので、調子っぱズレのときや声が出てないこともある。しかし、そのチャペルでは、参加者とともに以下の式分で、ともに罪を次の式文で告白する。その式文を読む時、自分自身が欠けがあるものであることを強く意識づけられるのだ。そして、キリストによる回復が必要であることを。まさに、キリストと自分との関係を想起する時間になっているから、

                     

                    Almighty God, our heavenly Father,
                    we have sinned against you
                    and against our neighbour
                    in thought and word and deed,
                    through negligence, through weakness,
                    through our own deliberate fault.
                    We are truly sorry
                    and repent of all our sins.
                    For the sake of your Son Jesus Christ,
                    who died for us,
                    forgive us all that is past
                    and grant that we may serve you in newness of life
                    to the glory of your name.
                    Amen.

                     

                    まぁ、思いと言葉と行い(thought and word and deed)において、というのはそうだと思っていたが、この式文を読んで、抜けていた、と思ったのは、目をつぶってしまっていることで、自らの弱さを通して、自分自身のどうしようもない欠点を通して(through negligence, through weakness,through our own deliberate fault)、罪を犯している、という中で、本当にそうだと思った。

                     

                    そして、この式文を唱えた後、ともにキリストにあって一つとされたものとして、聖餐にあずかる前に、以下にお示しするような式文の細字の部分を司祭が言った後、全員で、太字の部分を全員で読むバージョンなどの式文があるのである。

                    Jesus is the Lamb of God
                    who takes away the sin of the world.
                    Blessed are those who are called to his supper.
                    Lord, I am not worthy to receive you,
                    but only say the word, and I shall be healed.

                    最初にこの式文を読んだときには、本当に聖餐式に参加する直前のミーちゃんはーちゃんのたましいに電流が流れたようになってしまったのだ。本当に、イエスが行ってあげようと言った百人隊長が返事しているように、お言葉だけで、神の前に回復した状態になっているのです、神が、和解をするとおっしゃったからこそ、神とわたしたちの和解が達成しているのです、と本当に思ってしまった。

                     

                    こういうのを、時期ごとに(教会暦に合わせて)、色々な異なった式文で様々な観点から、神を記念しているおり、それを様々な式文を用いながら、少しづつ違った方法で、神との関係を覚えることになる。違う式文を用いるたびにあぁ、なるほど、そうなっているのか、そうだよねぇ、と礼拝に参加しながら思ってしまう。神との関係を考え直す機会を強く感じることが多いので、そのチャペルに行くことがやめられなくなりそうになっている。

                     

                    最近は、あまりカトリックの教会の礼拝に行くことはもうあまりないのだが、カルメル会の宇治の黙想の家に宿泊しているとき、そこの大きい聖堂で行われている毎朝の礼拝、毎朝の聖餐式を見ていると、あぁ、この聖餐式はイエスの公生涯を実に視覚的な形で、聖餐式で読まれる聖書、また、司祭の動きや所作を通して、ある種のミニチュアでのイエスの公生涯の再現するような形で表しているのだなぁ、と感じることがある。そして、いろいろな所作、立ち位置といったものを通して総合的に表しているのだなぁ、ということを、行くたびに感じる。特に多くの司祭がかかわって司式するタイプの聖餐では、イエスの公生涯の再現であることを非常に強く感じるのである。まさに、そのような礼拝を見るたびに、「礼拝とは『神と人との聖なる戯れ』」なのだなぁ、と思うことが多い。それは、ハリストス正教会でも同様だし、コプト正教会でも同様に感じるのである。

                     

                    聖餐式の時に割る前に高く上げられたパン

                     

                    それらの聖餐式では、イエスが十字架にかかられたことを示すようにパンが上げられ、パンが砕かれ(Break bread)、割れたパンがもとのかたちにあわされることで、キリストの復活を示すのではないか、と考えている。

                     

                    レクリエーションと新創造

                     もう一つ、衝撃的であったのは、レクリエーションという視点から礼拝をとらえる、ということである。この視点は、今回読んでみて、はっとしたのである。礼拝、特に聖餐は、将来起きるリ・クリエーションされた世界を表すためのものという意味で、礼拝はリクリエーションなのである、という部分を読んだときに重要な視点をもらった、と思った。

                     

                    このような礼拝と遊びについてさららに深く考える手がかりとして、レジャーとレクリエーションという言葉を取り上げてみよう。いずれの言葉にも「遊び」や「娯楽」の意味が含まれているが、(中略)後者は同じくラテン語のレクレアティオrecreatioに由来し、「回復」や「再生」を意味する。レジャーの場合、仕事などの拘束時間に対して、私達が自由にできる時間において自主的に行う営みという意味合いが強い。(同 p.50)

                     

                    これを読みながら、礼拝は、レジャーではなくて、レ・クリエーションなのだ。つまり、将来の終末の新創造なのか、再創造なのかはよくはわからないが、いずれにせよ、神と人が共に在り、喜ぶという、人間が最初に創造された時の、本来の創造のかたちが将来の終末で回復されること(捕囚状態から解放されているということ)を聖餐は表しているのだなぁ、だからこそ、将来終末において実現するリ・クリエーションの味見のようなことを体験しているのだなぁ、ということを思ったのである。

                     

                    これに関しては、この記事の中で、もう一度触れたい。

                     

                    礼拝はどこから来るか?

                    礼拝は、地上で人間により、あるいは人間の群れにより行われる行為であるというのはそのとおりである。では、純粋に人間由来の行為か、というとどうもそうではない、あるいは人間がこの地の営みとしてすることの目的とは関係ない。そのあたりのことについて越川さんは次のように書いておられる。

                     

                    私たちの礼拝はこの世の活動やその目的とはなんの関係もない。(中略)私達が行う礼拝は、黙示録が伝える「天上の礼拝」(黙示録4章以下参照)に連なる礼拝であって、地上の営みに由来するものではない。キリスト者が礼拝の中で想起する真理はこの世のものではない。それは神のもとから示されたメッセージである。礼拝の根拠は神に由来し、礼拝は神の国に属する行為である。(同 p.51)

                    上に引用した部分で、気になったというのか、あぁ、なるほど、と思ったのは、「礼拝の根拠は神に由来し、礼拝は神の国に属する行為である」という部分である。これこそ、まさに、「礼拝は、神の国がこの地上に突入した」という状態なのだろうと思う。つまり、この地に神の国が表れているのが礼拝なのだ、ということなのだと思う。まさに、神と人が薄いヴェールで隔てられた状態になるのが、礼拝だ、ということでもあるようであり、その礼拝そのものは、神の国に属しているということであり、この地で神の支配が起きている状態を示す時間であるのだろうと思う。

                     

                    その意味で、礼拝は、神の国に属する行為、という理解は非常に大切だろうと思う。ともすれば、目で見えるヴァージョンの礼拝その部分を見る限りは、その礼拝で、人間の姿が見える分だけ、その先にある神の国と神(聖なる神である聖霊、聖神)に属しているというその奥の背景を見なくなってしまう人間の不完全さがあるように思う。そして、手前にあることにばかり目を向けてしまう人間としての欠陥、陥穽(あるいは罪)があるように思うのだなぁ、これが。

                     

                    そして、みんなと同じようなこのようなことをしないからおかしいとか、こんな格好をして礼拝するなんて、信じられない、とか、自分と違う翻訳のバージョンの聖書を使っていたり、冊子体でない聖書を持ってくるだけで、おかしいとか、イコンがあるのはおかしい、お御堂という言い方をするのは、おかしい、とか言う人々がいて、その形の先にあるものを見ないで、表面だけを見て、ご批判になられる方がたもおられるのが残念で仕方がない。

                     

                    再創造とレクリエーションと礼拝

                    黙示録の中に、神を礼拝しているシーンが非常にたくさん現れる。様々な側面からその神を礼拝するということに関する黙示が示されているように思う。今、この地上の教会で起きていることは、神との関係の表現なのであり、その表現の方法が多様であり、その多様さを神は喜んでおられるのかもしれない。説教中心の教会もあり、聖餐中心の教会もあり、讃美歌が礼拝の時間のかなりの部分を占めている教会もあり、人々の会話中心の教会もあり、聖書朗読中心の教会もあり、祈祷中心の教会もあり、様々な方言を話す人々が集まる中で、神を同じ方言で賛美する方言(異言)中心の教会もあり、そのような多様な礼拝を神は喜んでおられるのかもしれない。多様な言語であれ、聖書が読まれ、神が礼拝されていることを喜んでおられるのではないか、と思うのだ。まさに、再創造が多様な形で表現されているのが、礼拝であり、この地において、河原や教会堂や大聖堂や、家庭などの様々な場所で行われているのが礼拝ということなのだろう。

                     

                    私たちが「レクリエーションとしての礼拝」という時、そこで問題となるのは、まず何よりもこの言葉の文字通りの意味にである「レ・クリエーション」recreationすなわち「再創造」としての礼拝である。

                    「再創造」という言葉が私たちキリスト者にまず想起させるものは、神が最初に成し遂げた創造のわざであろう。礼拝がレクリエーションであるという時、私たちが経験するのは、この最初の創造が礼拝の場で再創造されることなのである。(同 pp.51−52)

                     

                    この文章の中で、善き世界(将来、神がこの地にもたらすと約束を賜わった世界)の不完全なミニチュアあるいは不完全な再現としての礼拝ということが触れられている。この地で、欠けのある(罪のある)不完全な人間が為すのが、礼拝である。完全であるはずがない。しかし、自ら、神に自らの罪や不完全さを告白し、神の憐れみを求め、神において、不完全な自分たちが完全なものとみなされることを希い、そして、神の目からは許されたものとして集まって、神への賛美をするのであるのが礼拝であることを考えると、最初の創造と、最後の創造(新創造)が地おいて不完全な形で再現されることになるのであろう。実施される場所が家庭であろうと、野外であろうと、河川敷であろうと、荘厳な教会堂であろうと、どこぞの会議室であろうと、まさに、「天においてなることが、地においてもなる」ということが地上において実現しているのが、礼拝なのだと思う。まさにそこでは、神と人が一つになっているのだと思う。

                     

                    礼拝が何でないか、生きた供え物として捧げる

                    ということはどういうことか

                    そのいみで、礼拝ということは、生きた供え物として神の前に自分自身を捧げるということでもあるのだろう。その意味で、日曜日だけが生きた捧げ物として捧げる日ということではなく、そもそもキリスト者の日常が礼拝であり、息をすることすら礼拝であり、生きていることそのものが格好は悪くとも、不十分であろうとも、神の民として生きようとしていること、我々が不完全であっても、神とともに戻ろうとする生き方が神への礼拝なのだと思う。完全なものになろうと努力することではなく。

                     

                    概して、時々出会う日曜日の礼拝の中には、人間(牧師さん)が人間(信徒・列席者)に向かって、ご自身が信徒に与えることができる癒しというのか、慰めを語ろうとしているのではないか、と思われる礼拝や説教もないわけではない。そういう礼拝と呼ばれる行事について、越川さんは次のように書く。

                    礼拝がレクリエーションであるということは、まさにそれがこのような「再創造」の営みであることを意味している。礼拝は、この世の現実に疲れ果てた人々に「ちょっといい話」を聞かせ、「ちょっとした励まし」「ちょっとした慰め」「ちょっとした慰め」「ちょっとした癒し」を与え、「さあ、もう一度、この世の働きに戻りましょう。新しい一週間も元気に過ごしましょう!」と呼びかけることではない。(同 p.52)

                    これでは、まぁ、何のためにこの世で生きているのかがわからなくなるようにも思う。この世で生きているいるのは、教会堂を支えるため、現在実施されている教会の活動を維持するため、とか言うことになっているとすると、それはかなりまずいように思う。いつも参加している聖餐式では、毎週、聖餐式(礼拝)の終わりに、Go in peace to love and serve Godと司祭が言うことになっている。かなりの部分の教会の祝祷のなかで、to love and serve Godという神の民として生きるという側面が失われしまっているとすれば、そして、牧師さんの説教や日曜日の説教や礼拝の時間が、平安な日常生活や、倫理的な日常生活を生きるようなおすすめであると受け止められているとすれば、実に残念であるとおもう。日々を神の民として生きるということが、もし教会の中で行われることが抜け落ちてしまっている礼拝がプロテスタント教会で少なくないのであるとすれば、宗教改革以降、どこかの段階で宗教改革以降の歴史的過程の中で、プロテスタント教会のあるグループでは、その側面を落としてきてしまったのかもしれない。まぁ、説教の中で伝えているはずだからよいではないか、という側面はあるのかもしれないけれども。祝祷が、今週もいい一週間を過ごしてね、そうだといいよね、というような印象で受け止められていたり、今週も頑張って仕事して、(そして、頑張って献金してね)というお励ましをすることではないように思う。祝祷というものは、本来、自分たちの生き方の原則(神を愛し、神のわざをもたらすものとして生きること to love and serve God)を思い出すためのものなのではないか、と思うのだが、違うだろうか。

                     

                    偶像崇拝と礼拝

                    礼拝であっても結果として偶像崇拝になりかねないこと、礼拝の方法そのものを偶像としやすいことについて、偶像となりやすいことについて、越川さんは次の用にお書きになっている。

                     昔も今も変わらず、最も人気のある神とは「私」、「自分自身」であろう。今橋朗氏は、「キリスト者にとっての『偶像礼拝』とは、キリスト以外の何物かを礼拝することではなくて、自己流にキリストを礼拝しようとする欲求であり(ルター)、私たちは絶えず、この誘惑と戦わねばなりません」と期している(「礼拝を豊かに」37頁)。キリスト教における誤った礼拝の本質とは、常に「自己礼拝」であり、あらゆる偶像崇拝のかたちはそのバリエーションに過ぎない。(同 pp.52−53)

                    ここで、引用されている「キリスト者にとっての『偶像礼拝』とは、キリスト以外の何物かを礼拝することではなくて、自己流にキリストを礼拝しようとする欲求であり」ということは本当に大事だなぁ、と思った。この自己流に、という言葉は教会が定めた方法以外、と理解されることがあるが、それ以上に、自己流に解釈したキリストを礼拝していくこと、キリストについて、どこか偏って一部を膨らませて解釈したキリストを礼拝することも含まれるかもしれない。さらに、実は案外多いかもしれないように思うのだ。そして、自己流に礼拝しているものが、ほかの礼拝者を自己の流儀と違うから、と礼拝から、礼拝者を同じキリストの民から排除していくとかいうことは、実に残念なことだと思う。その意味で、上で紹介した越川さんのお書きになられたことは、非常に重要だと思った。

                     

                    人間は、案外自分自身が慣れ親しんだものを当然と思い、自己の慣れ親しんだものを無批判に前提として受け止めており、それこそが正しいと思うがあまり、他の礼拝や賛美のスタイルを否定したり、自分たちが慣れ親しみ維持してきた礼拝の方法こそが真の礼拝の方法として呼ぶにふさわしい、とかいうのであれば、それは、ちょっと「自己礼拝」の香りがするかもしれない。まさに、「キリスト教における誤った礼拝の本質とは、常に「自己礼拝」であり、あらゆる偶像崇拝のかたちはそのバリエーションに過ぎない」という越川さんの誤指摘にあるようことが当てはまるかもしれない。様々なキリスト教会の礼拝のバリエーションは、歴史的にその教会群が経てきたもので形成されており、その教会の歴史的経緯を反映していることが多いが、礼拝の行為の対象が、キリストである限り、キリストと人間の関係である限り、多少讃美歌のスタイルや順序が自分たちと違っていても、それは礼拝だと受け止めたほうがいいのかもしれないなぁ、と思った。

                    排除的でありながら、開かれている礼拝

                    キリスト者は、キリスト以外の神を認めない(といっても父なる神、聖霊なる神を認めているわけだから、キリスト以外というのはちょっと言い過ぎかもしれないが)という排除性を持っている信仰者であり、その意味で、キリスト以外のものや三位一体の神なるもの以外を神と認めないという意味では、ある面排除的な信仰を持っているものがキリスト者であり、そのキリスト者がキリスト者として生きること自体が礼拝であると考えるときに、社会において、人々の間において、その人が生きているということが見られていることは、礼拝が見られているということであり、それは、礼拝、あるいは生きている姿は、ある程度、世間の人にも視覚的に認識可能であるという意味で、社会に開かれたものなのだと個人的に考えている。そのような同じことを越川さんは、次のような表現で書いておられたように思う。

                     

                    しかしまたキリスト教の礼拝は、この世とそこに生きるすべての人々のためのものである。なぜならその「真理」が真理であるならば、それはおのずからすべての人々に共有されることを望み、自ら拡散していく本性を持つからである。そしてその真理が、神の恵みとあわれみに由来するものであるとすれば、それはまさにすべてに向けて開かれたものであり続けなければならない。

                     このようにして、この世から分離するとともにこの世にかかわり続ける礼拝。閉じているとともに開かれている礼拝、私たちが神という一点に集中するとともに神のもとから世界に向かって押し出される礼拝。そのようなダイナミックに運動し続ける礼拝こそ、生きた聖なる礼拝であり、真の意味における「神と人間との聖なる戯れ」なのである。(同 p.53)

                     

                    つまり、この文章で越川さんがいわれたいのかなぁ、と思うことは、我々がこの世界において神の民として生きるということこそ、神と人間の聖なる戯れであり、神からこの世界に押し出されているということであり、さらにそのキリスト者として生きることが、特に神に向かっていることを象徴的に表しているのが、日曜日にキリスト者が集まってやっている礼拝という時間である、ということかもしれない。

                     

                     こう考えると、キリスト者が集まって神に集中するという行為を卵の中身とするときに、教会堂という建物は、礼拝という行為の実施を支援するための卵の殻のようなものにしか過ぎないように思う。

                     

                    こんなことを言ったら怒りだす人たちもおられるかもしれない、とは思うが、どう考えても、卵の黄身と白身(教会員が自分自身を神の民として神と人間との聖なる戯れの中に生きること)のほうが、卵の殻よりは大事なもののように思う。その意味では、礼拝の実施の際の保護甲殻としては、家であろうが、オフィスビルであろうが、どこぞの軒先であろうが、洞窟であろうが、なんでもいいわけで、その意味で、我々キリスト者が守るべきものは、どのような教会堂で、どのような形で、どのようなスタイルで、どのような表現方法で神を賛美するかでもないように思う。

                     

                    神の民にとって重要なことは、単純に神の民として神の存在を日々の生活の中で味わい見つめつつ生きること、あるいは、礼自分はいかに不甲斐なくとも神が愛していてくださることを覚えて生きることであって、どのような甲殻を持つことか、その保護甲殻で何をするか、その中で、どのような表現方法がふさわしいのか、ということではないはずなのだが、時に、どのような保護甲殻が信仰共同体の保護甲殻としてふさわしく、どのような教会堂という建物を持つのか、それをどのようなデザインでなければならないのか、見えてしまう礼拝の方法論をどれにすべきか、どのようになすべきか、ということばかりに目が行ってしまうことが多いように思う。
                     

                     

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                    確かに、教会堂を立てたりするということは、実際に大きな資金が必要になるし、実際に変更はあまり聞かないことが多いので、議論が紛糾しやすいようである。しかし、その議論の時に、自分たちが何をなそうとしているのか、という卵の中身が忘れ去られるのなら、実に残念なことだと思う。とはいえ、日本みたいに降水量が多い地域だと、パウロが地中海地方でよく訪れていたような当時のゴミ捨て場でもあった場所である河原でやっているような礼拝の形というのは、取りにくいのは事実だが。

                     

                    もうちょっと、教会といったときに、現代の日本人が思い浮かべるような、教会堂という建物や、そこで何が行われるのか、ということばかりでなく、そもそもキリスト者として生きることのこととはどういうことか、礼拝とは何か、ということに関して、この連載で越川さんが示そうとされたことに関して、信徒一人一人が、迷いながらも、考えたほうがいいのではないか、と思う。単に礼拝とはかくかくしかじかなものであり、教会とはかくかくしかじかのものであるべきものである、とされてきた、自分たちがその一部をなしているキリスト者グループで言われていることをうのみにするのではなく。

                     

                    もし、仮に信仰生活が、信仰共同体を入れる箱モノとその中で行われていることやスタイルを維持するためだけのものになっているのであれば(カルトでは、このタイプのことが起きることが多いようだが)、ミーちゃんはーちゃんのお友達のMさんがおっしゃるように、その状態を考え直したほうがいいのではないだろうか。建物としての教会堂の建築の維持や、自分たちがなしてきたことを続けて実行するためだけの費用にばかり目が行き、その内実の信仰共同体が何を礼拝しようとしているのかということへの意識が失われ、信仰共同体の構成員が神の民として歩むということを、信仰共同体としてどのように維持発展していくのかに関する意識が失わているのだとすれば、それはナンセンスではないか、というMさんのご主張は、もう少し考えられてもいいように思う。Mさんは言い方が少し乱暴だから、Mさんの発言の奥にあることは理解しにくいことは確かではあるけれども。

                     

                    ところで、この部分のタイトルのように「排除的でありながら、開放的」とかいうようなことを書くと、「物事は閉じているか開いているかどちらかではないか」ということをご主張の向きもあるだろうが、それはレベルというか次元を大きく縮約させてしまった考え方の類であるように思う。物事には様々な次元というものがあるように思う。つまり、ある面というか、ある層というか、あるレイヤで見たときには、閉じている閉鎖系でありつつ、別の面というか、別の層というか、別のレイヤというか異なる次元で見れば、開いている開放系であるということはあるのである。この辺、どのレベルで議論をしているのかをある程度意識していないと、実に無益で無意味な堂々巡りのような時間と、ひずんだコミュニケーションを続けるための努力だけが無為に行われていく、ということはあるように思う。

                     

                    あともう一回、Ministryの紹介は続く

                     

                     

                     

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                    コメント:とってもおすすめしていますの。

                    2017.09.20 Wednesday

                    Ministry Vol.34 を読んでみた(6)

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                      今日は、最後なんで、たらたら思いつくまま書いたら、長くなってしまった。実に申し訳ない。お許しあれ。

                       

                      きょうも、Ministryの中でも二つの記事から紹介してみたい。今日がこの号に関して、ご紹介する連載の最終回になる。これまでにもご紹介した記事、今日ご紹介した記事以外にも、数多くご紹介したかった記事があるが、あまりやると、そこはほれ、キリスト新聞社の営業妨害になってもいかんので、そのへんはですねぇ、営業妨害にならない範囲にとどめておきたい。今回もブログ記事が長いのは、引用が長いのではなくて、ミーちゃんはーちゃんの思いを書いた部分やそのための参考資料が多いのだ。いずれにせよ、今回がこのMinistry Vol.34号の紹介の連載の最後である。

                       

                      最初は、中道基夫さんの「宣教学特講 〜ミッションはインポッシブル 第2講 宣教的宗教としてのキリスト教」という記事であり、もう一つは教会とマーケティングに関する記事である。

                       

                      まず、中道さんの記事からご紹介してみたい。

                       

                      宣教ではなく派遣される宗教としてのキリスト教

                      まず、スタークの『キリスト教とローマ帝国』の定量分析の結果を一部紹介しつつ、キリスト教が非常に宣教的性格を持っており、ローマ社会でキリスト教が急速に広がったことを中道さんはご紹介しておられる。そのうえで、次のように書いておられる。

                      キリスト教が宣教的宗教であるというのは、単に統計学的な数字だけが表しているのではありません。また、イエスの宣教命令にその根拠がありますが、キリスト教そのものの本質において、キリスト教は神によって派遣され、宣教する宗教です。宣教とは、教えを述べることとして理解されますが、その根本は「派遣」(ラテン語でmissio)にあります。(Ministry Vol.34  p.55)

                       

                      この「宣教」という語が持つイメージが、例えば「宣教学」とか「宣教論」とか「宣教大会」と言った語を聞いたときにある種のイメージを日本語によって、あるいは、目で見ることのできる文字、漢字を見て今って先に理解が思い浮かぶことによって語の意味が規定されてしまっていて、本来の意味が見失われているかもしれないということを、中道さんはご指摘である。たしかに、この文字による影響は、案外深刻な影響を与えているように思えてならない。そのあたりのことについて、以下で紹介する部分のような理解がいつの間にか、我が国、あるいは日本の教会に定着していないか、とご指摘である。

                      教会に来られた方にキリスト教を教えようという意識はありますが、教会から派遣されて福音を延べ伝えようと意識は薄れつつあります。ましてや、全世界に出て行って宣教しようとする意識は全く弱くなってしまったのではないでしょうか。(同 p.56)

                       

                      派遣と関連が深いのが、祝祷である。前回のこのMinistryの記事紹介のブログ記事でも少し触れたが、祝祷とは、本来、「これからの一週間、いいことが皆さんの上にあるように」でもなければ、「これからの一週間、平和な日々でありますように」でもなければ、「どんな困難な中にあっても神はともにおられるから、その神を愛し、神に仕え今週もこの世界に神のシャロームをもたらして参りましょう」という宣言のはずなんだが、いつの間にか、いい一週間があるといいですね、風に聞こえてしまうのが、どうか、と思ってしまう。多分、ミーちゃんはーちゃんのアタマが悪いのだろう。本来、以下の2つの動画で紹介する海軍の賛美歌のように嵐の中にあっても、危険の中におられる神をともに信頼しましょうぞ(海軍の皆様は、そもそもが不安定な海の上で活動するのが海軍であるし、その怪しげな海の上で生きることを実際に銃弾や砲弾が雨あられとの降る中でいなきゃいけないから、この歌を歌いたくなる気分になるのは想像に難くないが・・・)、ということだと思うのだが。

                       

                      (切実感が漂うのはこちらの方 歌詞がでているので、わかりやすい)

                       

                      (聞く音楽としてはこちらのほうが、こちらのほうが美しい。ちょっと鳥肌が立つ)

                       

                      その意味で、牧師の先生方が祝祷しているのは、あれは、信者さんに対する幸運のおまじないではなく(そのようにお感じになっている方には失礼かもしれないが)、皆さん方が神の民として生きるように、派遣Missioしておられるのだ。そうでなくても、我々はキリストの弟子、あるいは、キリストのフォロワーさん(ツィッターやFacebook上の誰かのフォロワーさんになった以上にキリストのフォロワーさん)であるはずであり、そうである以上、いって、福音を地の果て(GeographicalでもGeologicalな意味でもないと思うが)にお届けして、イェス様のフォロワーさんになることをおすすめしてみる、少なくとも、自分がフォロワーさんとして生きてみて、キリストが生きているということを示すこと、というのは大事なのかもしれない。それが、Missioであり、今生きている地の果てにおいて、(そもそも、自分がいるところが地の中心と人間は考えがちであるが、それは天動説というのか、自己中心主義というのか、中華主義と呼べるのではないか、と思う。自分が、東アジアの端に住んでいるからかもしれないが。

                       

                      教会は、蜘蛛の巣か?蜘蛛の巣の張っている教会は多いかもだが…

                      しかし、「教会に来られた方にキリスト教を教えようという意識」と言うのは、蟻地獄に落ちたアリや蜘蛛が蜘蛛の巣に引っかかったものを自分のものとしようとするようで、なんか嫌な表現である。まるで、そうだとすると(事実、そういう教会は時々存在するいから、教会に出入りしようと思わない人が多いとは思うのだが)、まるで以下の動画で紹介する、ロード・オブ・ザ・リングに出てくる蜘蛛のようだ。そして、クリスチャンとは、そこにフロド・バギンズくんやサムワイズ・ギャムジーくんをを呼び込むゴラムのように一般の人には見えるかもしれない。

                       

                      クモに食べられかけるフロド・バギンズ君とサムワイズ・ギャムジー君のシーン

                       

                      ゴラム

                       

                      コンスタンティヌス型キリスト教を経たキリスト教

                      ミーちゃんはーちゃんは、信徒伝道型のキリスト者集団という特質を持つ、キリスト集会派(詳しくは2017年9月 新教出版社発行の『新教コイノーニア34『宗教改革と現代』改革者たちの500年とこれから』を参照してほしいが)で育ったので、信徒が宣教する、信徒が伝導する、信徒が派遣されているという意識の中で常に生きて生きたからかもしれないし、現在も異教社会、ないし宣教地として厳然として存在している日本で生きているからかもしれないが、「キリストがもうちょっと伝わればいいなぁ、キリストの存在を指し示すことの一翼の端っこくらいは触ってたいなぁ」という意識のかけらぐらいはあるが、異教徒を軒並みヘリコプターからの機銃掃射のようにことばを浴びせかけ、改宗させようなどという大それた方法論を取る気もないし、そもそもそういうことは、あまり個人的にまずもって好きではない、と思っている。ひょっとすると、このような機銃掃射のような方法で御言葉を投げ入れればよい、と言うのは、逆効果だと思っているが、そうでない、とお考えの方もおられるようだ。まぁ、それは趣味とかアプローチの違いだから、いかんともしようもないことだけど。


                      『地獄の黙示録』から、ヘリコプターからの北ベトナムのゲリラ根拠地を機銃掃射するシーン

                      ここで、ナチスがこよなく愛したワルキューレをかけながら、というのが実に印象的

                       

                      日本におけるみことば機銃掃射型伝道の一形態

                       

                      ルター派並びに多くの改革派の教会の中では、教会が外に出ていき、異教徒をキリスト教に改宗するという考えはありませんでした。教会は教派、地域、国によって分断され、閉鎖された宗教であったのです。

                       この後、世界宣教時代に突入することによって、イエスの宣教命令が復権するのですが、モルトマンが指摘するように(『聖霊の力における教会』)、ヨーロッパの既存教会の中で、キリスト者が世界に派遣されるということを昔話としてとらえる傾向は、今日にいたるまで続いています。宣教を自らの課題と考えず、教会はキリスト者の教育に従事し、キリスト者の子供に洗礼を施すことによって、永続的にキリスト教社会を再生産することに専念するものとなってしまっています。(同 p.56)

                      まぁ、キリスト教がコンスタンティヌス帝の時に、ローマの国教になってキリスト教の性質が変わったことをジョン・ヨーダー先輩はご批判であるが、その後、ローマカトリックと共存共栄とか、時には相争いながら(教皇のアビニオン補修事件とか)キリスト教会と国家との関係は続いてきたのだが、宗教改革以降のプロテスタントと国家との関係は、領邦国家(領土定義型国民国家の前の封建国家)内の教会として、ルター派にしても、カルヴァン派としても成立しているし、これらの教会が発展した国々は、完全に植民地競争に出遅れるので、そもそも、異教徒がいる植民地に触れる機会が少なくて済んだし、宗教破壊や文化破壊をしたということに手を染めなくて済んだ部分が強い。それは閉鎖された教会であったが故の問題ではあるが、キリスト教の中での改宗や、ユダヤ教を信じる人々に対する改宗にかんしては、かなり熱心に取り組まれたようであるし、そして、それは、時に行き過ぎがあり、それが大陸でのキリスト教の黒歴史の一部になっているように思う。

                       

                      ジョン・ヨーダー先輩(若っ)

                       

                      ところが大航海時代に多くの海外植民地を持ったスペインやポルトガルは、現地のキリスト教化を血を流し、文化破壊をする形で宣教(それを宣教というか、植民地支配と呼ぶかどうかは別として)していったし、(7つの海を支配したと豪語した)ブリティッシュ・コモンウェルスは、そもそもムスリムのいる地域や、ヒンドゥ、シーク、道教、儒教の信徒などがいる支配地域の経営にあたることになったし、アメリカ合衆国は、支配領域内に原住民としてネイティブアメリカンを抱えたため、国内問題としての原住民統治ないし支配政策とキリスト教化という問題をかかえ、それは教会の問題としても対応が求められることになり、さらには、アメリカ原住民のキリスト者がアフリカ系の奴隷を保有することがかとされるべきか、という観点を出発点の一つとして、奴隷制度廃止の問題とも、この原住民の改宗者の問題はかかわってくるのである。また、アフリカから連れてこられた奴隷の子孫のアメリカ生まれのアフリカ系市民への『宣教』の問題と奴隷制度の問題は、奴隷制度があった時代から、現代のシャーロットビル事件にいたるまで深くかかわってくるのである。

                       

                      映画「それでも夜は明ける」 で奴隷を前に「福音」や「聖書から」と称するものを奴隷の皆さんの所有者として上から目線で語る奴隷所有者の農園主のシーン(奴隷は、鞭でぶったたかれて当然とか言っている。これが南部の精神でもある)

                       

                      シャーロットビル事件の推移 BBCから

                       

                      そして、海外植民地を長期間抱えずに済んだ、大陸諸国では、「ヨーロッパの既存教会の中で、キリスト者が世界に派遣されるということを昔話としてとらえる傾向は、今日にいたるまで続いています。宣教を自らの課題と考えず、教会はキリスト者の教育に従事し、キリスト者の子供に洗礼を施すことによって、永続的にキリスト教社会を再生産することに専念するものとなってしまっています。」という状況らしいが、それとても、ナチスのホロコーストにまともに向き合わなかった、あるいは、ナチスのホロコーストを結果的に支援する形になってしまった関係もあり、キリスト教社会をこれらの国では再生産することに失敗していることもあるらしい。しかも、ドイツは、トルコ難民(西ドイツやベルリンは、地続きであることや、国境管理が東ドイツからの難民を受け入れるため、移民政策が肝要にしておく必要があったのと、もともと、トルコ(チュルク)の人々が中央アジアから移動してきた民という歴史的背景や、それまでの近代史、第1次世界大戦、第二次世界大戦での関係、国民経済の格差問題、もあるので難民化しやすかったことなどもあり、大量のトルコ人の流入をドイツは抱えたし、中近東を支配したイギリスはこれらの地域からのムスリムが流入しているため、国内に大量の旧植民地からのムスリムを抱えているし、フランスはフランスで、北アフリカの旧植民地からのムスリムを抱えていて、これらのムスリムたちは産児制限もしないこともあり、子供が増えるので、エジプトにおける出エジプト前のイスラエルの民(ユダヤの民)状態になっていて、エジプトのファラオのように、生まれた子供は皆殺しにしてしまえ、とも近代国家は法律を制定できないので、大変苦慮していることは事実であるように思うが、イスラム海賊が跋扈していた中世からの因縁があり、キリスト教徒はムスリムを見ると誘拐犯と思うという伝統もあるし、ムスリムは改宗できないことになっている(裏切り行為になるらしい)ので、なかなか、国内ムスリムを対象とした『宣教』すら難しい状態である。とはいえ、ムスリムと対話をしたキリスト教徒で有名な人物にアッシジのフランチェスコがいる(現パパ様の名前の由来のはずだし、カリフォルニア州の大都市サン・フランシスコは、聖フランチェスコの街ではある)。なんせ、現地のイスラム社会のドンであるスルタンに弟子一人連れて、改宗を迫ったらしい。

                       

                      スルタンと対話しに行ったアッシジのフランチェスコ

                       

                       

                      パパ・フランシス http://www.diocesemontreal.org/blogues/en/quotes-from-pope-francis/ より

                       

                      それが今はもう昔、なのである。なお、上智大学の川村先生によると、カトリックの『宣教(伝道)』戦略は、一筋縄で語れないらしく、メキシコをはじめとした中南米での現地の政治的、民族的指導者層を改宗させるトップダウン型宣教が行われた時期もあれば(キリシタン大名の改宗とかはこのタイプの宣教なので、豊臣秀吉君からは、家臣どもまでキリシタンにすな、と伴天連追放令で支持されている)、大分や九州のコンフラリア・ミゼリコルヂア(大分などでの病院や土着化したキリシタン)や明治期の孤児院伝道のようなボトムターゲット型伝道の時期や、エリートコースの進学校経営などにみられるような、トップターゲット型の伝道など、時期によって振れがあるらしい。この辺は、ミーちゃんはーちゃんが、カトリックの人ではないので、よくわからない。

                       

                      『漫画にっぽん昔ばなしのオープニングとエンディング 日本の教会にとって、伝道とはこのレベルの昔ばなしに近いのか?

                       

                       

                      日本の教会と伝道

                       日本の教会と伝道に関しては、かなり小さなキリスト者集団の動きまで拾った日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在までという中村敏さんの名著があるが、それを追うことで、日本の海外伝道のある程度の姿までは概観することができるように思う。このあたりの執念が中村敏さんの持ち味なのだろうなぁ、と思う。心から尊敬する日本の教会の歴史についての歴史家のお一人である。

                       

                      日本は、大日本帝国進出の波に乗って、日本の教会も南洋地区を中心に海外雄飛しようとしていたり、満州でのキリスト者植民団の建設(これに賀川豊彦先輩がかかわっているから、ややこしい)を目指した時期もあるが、戦後は、海外伝道よりは国内伝道に力を入れていくことになり、戦後のキリスト教ブーム(国際化と国粋化の二極の間を振り子のように20年単位で揺れてきたのが、明治以降の日本の歴史であり、国際化の波の時期には、キリスト教ブームやキリスト教への抵抗が弱まったらしい)繰り返してきた、というご主旨が、「日本の神学」(古屋 安雄・大木 英夫)で指摘されていたが、近年の国際化の波があっても、ブームになるほどの大きな波でなくなったのか、以下の指摘のような状況が起きているらしい。

                       日本の教会がある一定の安定を見た段階で、宣教をかつての宣教師たちの課題と考え、宣教を終わったもの、もしくはかつての名残として細々と続いていくものとして考え、教育によっていかに教会を再生産するかということに重点が移ってしまったのかもしれません。しかし、この教育も今や機能しなくなってしまいました。(同 p.56)

                      一番ショッキングな事実は、教育も、キリスト教会にとって、もはや機能しなくなっているというご指摘である。もはや、教育(ミッション系の学校)は、見学の理念を捨て始めているところが少なくないし、キリスト教関連の授業を減らす方向にあるし、教会でも信徒の子弟向けに日曜学校したくても、先生2人に生徒一人、とかねぇ、三年前の拙ブログの記事  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6 みたいな状況になっているし、幼児教育しているミッション系幼稚園とかでは、節分の豆まきは当然、七夕も当然、あるお子さんをミッション系の幼稚園に入れている牧師さんによれば、挙句の果てに、「キリスト教やめてくれんかと父兄から言われる始末」だそうである。お年寄りの介護施設では、キリスト教的理念で始めるも、職員の大半は、キリスト教とは縁もゆかりもない人々らしいですし、これで、どうやって『宣教』になるのか状態らしいですし。若年者対象の教育も高齢者介護も、機能不全が起きている日本のキリスト教関係組織の状態、ということがあるのかもしれない。それは、社会的な存在と法律と人々の常識の中での社会組織に求められているということなのだろう。組織の社会的存在ということを考えると、ある面、致し方ないのかもしれない。

                       

                      しかし、このような状態を見ていると、若年伝道もできないし、壮年伝道も、老年伝道もできないしとなると、ほぼ絶望的である。しかし、苦難の中にともにおられる神の存在は、ミーちゃんはーちゃんは個人的に確信している。

                       

                      千年王国を早期に到来させるための伝道って?

                      もともと、千年王国とかそういう香ばしい話題がわりと好きなキリスト教集団にいて、ディスペンセイション史観とか、天啓史観とか呼ばれる終末論にやたらと凝り固まっている方々がおられる(全員がそうだ、とは言っていない)キリスト教のグループにいたので、週末の到来をエンジンのようにして、世界情勢と聖書がどうのこうのという講演会をときどき開催するようなキリスト集会派で育った。現代国家としてのイスラエル建国の時なんかは、いざ終末来たる、ということで、伝道にやたらと力が入った時期があるようなキリスト者集団(キリスト集会派)にいたので、以下の記述のようなことを言う人がいることはよくわかる。

                       

                      ディスペンセイション的図解 http://www.preservedwords.com/disptruth/contents.htm から

                       

                      基本、Evangelical Rightと呼ばれる人たちに、この考えを持っている人が案外多く、この人たちの一部が、現代国家としてのイスラエルと、古代国家としてのイスラエルを意図的ではないにせよ混同して議論したくなる精神性はわからなくない。

                      特にイエスが統治する千年王国の前にイエスが再臨すると考え、福音宣教によってイエスの到来を早めようとしました(二ペトロ3:12「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」)。特にイエスの到来を早めることをキリスト者の果たすべき義務と考えていた千年紀前再臨主義者が中心となって、神の国の完成を推進するために、イエスの宣教命令を前面に掲げたのでした。(同 p.57)

                      しかし、伝道したら、イエスの再臨や、神の日が来るから、というので、手前勝手にそれを前倒しに実現しようとするのは、イエスですらいつかは知らないといっておられる神の日についての越権行為のにおいがすると思うようになったので、そのタイプの議論をしておられる方には、「あぁ、そうですか、それは素晴らしいですねぇ」と棒読みすることにしている。

                       

                      大体、このタイプの議論をするのがお好きな方には、陰謀論者風のかたがたが多いし、陰謀論者でなくても、なんでそうなるのか、という奇怪な理論をご展開くださる方が多いので、かなわない、と思うことが多い。たぶん、ミーちゃんはーちゃんが理解力がないだけの話なのだろう。

                       

                      しかし、このタイプの終末を人間の力であえて持ち来たらしめるための伝道って、ミーちゃんはーちゃんの個人としての聖書理解との乖離があまりに大きいので、実に悩ましい。なんか論理や主権構造がどこか逆転しているように思えてならない。

                       

                      多元化する世界と多元化するキリスト教世界

                      昔は、先進国のエンジンのでかさで、発展途上国(後進国)を引っ張るというモデルが当然として、受け止められてきた。このような状況下では、先進国や先進地域はよいものを持っていて、それをまねることで後進国は発展を目指すというモデルがこの200年くらいの間は機能した。まさに、明治維新の和魂洋才とか、明治維新以降の富国強兵政策とかは、尾の典型的な政策であった。しかし、ポストモダン、ポストコロニアルの社会を迎えて、キリスト教も完全にポストコロニアルの世界に突入してしまった。その結果、以下に中道さんがお書きになっているような文章になっているのだろうと思う。もう、どうにも止まらない、の世界が待っているのだ。

                       

                      懐かしの山本リンダ嬢の「もうどうにも止まらない」(ミーちゃんはーちゃんはちびまる子ちゃんと同世代なので・・・)
                       

                       欧米のキリスト教が弱体化する中で、欧米の教会がもはや福音の唯一の発信地ではなくなり、むしろかつて地の果てと理解されたそれぞれの宣教地が、キリスト教の複数の中心点となり、様々なキリスト教理解、福音理解が欧米諸国のキリスト教への逆流するようになりました。また、かつての福音の発信地であった欧米の教会は、もはや宣教の主体ではなくなり、自らを宣教しなければならない宣教の対象へと変わっていったのです。

                       かつて一つであった宣教も分裂し、多様化し、宣教の中心もなくなり、「地の果て」もなくなってしまったのが、現代の状況です。

                       現代、この状況の中で、イエスの宣教命令をどのようにとらえるかが私たちに課せられている課題です。(同 p.57)

                       

                      悪趣味な冗談はさておき、スポラディック(散発的に)『宣教』のノードが世界のあちこちにでき、それがネットでつながれ、それが社会全体に拡散し、世界にある複数の考え方のノード(拠点)が結び合わされて、さらにノードとノードが結ばれて、新しい概念が生まれ、さらに別のノードが生まれていくという、新しいメディア状況の中で、従来の中心地であったところは、その大きな水平性の関係の中で飲み込まれ、気がついたら、中心だと思っていたものが、いつの間にか、時代遅れ、周回遅れ、再発見される対象になっていたり、周縁に置かれているのが、今の西ヨーロッパのキリスト教の状況なのであろう。これは、 小山 晃佑 先輩の『水牛の神学』のころから、起き始めているのである。なお、この、 小山 晃佑 先輩は、先に紹介した本のサブタイトルに含まれる乗松雅休先輩と同じ系統の教会ご出身の方である。

                       

                       

                      水牛の神学の英語版表紙

                       

                       

                      ところで、西洋が宣教の基地だった時代は植民地の独立に合わせて50年前ごろに植民地の終焉とともに終焉を迎えたし、ヨーロッパは、ヨーロッパで、ポスト・ナチズムあるいは、ポスト・ホロコースト・ヨーロッパの中で、どのようにキリストを語るのかが、西洋の教会にとっての課題であるとすれば、アメリカやヨーロッパの宣教論だけに注目し、それを今なお、ありがたく学ぶというのはもはやヲワコン(意味をなさないコンテンツ)の時代を迎えているのであり、聖書に一人一人現在いる環境、歴史的、社会的文脈の中で、先駆者たちを多少参考にしながら、自分たちがどうするのか、ということを考える時代になっているように思うのだが。それこそが、ここで、中道さんが「現代、この状況の中で、イエスの宣教命令をどのようにとらえるかが私たちに課せられている課題」ということなのだろう、と思う。ミーちゃんはーちゃんは、この中道先生には、初回の「いのフェス大阪」開催にあたって、大変お世話になった方であり、ここに、そのことに対して、謹んで感謝の意を改めて表したい。。

                       

                       

                      ちょっと教会人にとってショッキングな連載から

                       『マスターと考える教会経営コンサルティング』という連載があるが、エリアマーケティングなどを教えていたり、農業事業団体の業務コンサルタントなんかも頼まれ仕事でやっているミーちゃんはーちゃんとしては、ちょっと違うかなぁ、と思うことも時々この連載にはあるが、基本的な線は、経営学やマーケティングの割としっかりした枠組みから教会を見てみたら、こう見えるということに関する連載である。教会は、信仰という論理が先に立ち、「団体とか組織でない」と言い募る部分があり、そんな世俗の力なぞ借りなくても、伝道はできるし、運営はできると豪語される先生は多い。確かに、そのご主張に一理あることは確かである。当たり前のことが当たり前にできている教会なんかにとっては、「マスターと考える教会経営コンサルティング」なんて記事は本来いらないのであるが、その当たり前のことが当たり前でない教会もあることは確かだ。もし、自浄作用として、自分たちの教会の問題として問題への取り組みが可能であれば、問題が自分たちで発見できて、自分たちで解決できるのであれば、コンサルやこんなコンサル記事などはいらないはずである。ミーちゃんはーちゃんは、自分の住んでいる地域の団体のコンサルするときには、基本的に無料でしているが(大体払えないところが多いので、請求するだけ野暮であるし、研究材料のご提供をいただいていると思っているので、逆にありがたや、と思っているほどである)、企業系のコンサルタントをお願いすると驚くほど料金(フィー)は高いのだ。大したことをしてくれない、という声が多いにも関わらず。それならば、自分たちで当たり前のことを当たり前にやれない原因を追求して、どう修正していくのか(これを、改善といいKAIZENという言葉は、英語として通じる)を自分たちでやればいいだけのことである。ただ、コンサルタントの方たちの名誉のために言っておくと、しがらみでどうにもならないような場合は、外部コンサルタントの持つ岡目八目的な見識や外部コンサルを悪役にして、コンサルから言われました、といって逃げを打つことが役に立つこともある。

                       

                      礼拝のマーケティング?

                      さて、そのコンサルタント役のマスター(M)と教会の牧師ないし役員と思われるクライアント役(CL)の対話の一部を今回の連載の中から、少し触れてみよう。

                      礼拝に必要なマーケティング

                      M  さて、本題に戻りましょう。先ほどの図1では、Presenceを中心にマーケティングと品質マネジメントがありました。礼拝する場所Place、宣伝Promotion、そして値段Price、これらはマーケティングの要素となります。

                      M 日本語では市場調査といわれていますね。

                      CL 礼拝に市場調査が必要なのですか?

                      M そうです。中国への宣教師だったハドソン・テーラーはあえてキリスト教が伝わっていない場所へ宣教師を送ったように、どの場所に、どのような方法でPresenceを提供していくのか。

                      CL そういわれれば、すでに教会がある場所では開拓伝道する必要性は低いですね。

                      M このマーケティングはいわゆる会堂を立てて教会にすることだけを意味していません。直接的に伝道できない国や地域、人に対しては、ラジオやインターネットなどのメディアを提供していくことも含まれます。(同 p.65−66)

                       

                      このマーケティングの3PというPrice Promotion Placeというのは、経営学部でマーケティングを学んだ学部の3年生で知らないとか言ったら、「君、勉強しなおしておいで」と言われるレベルのマーケティングにおける「1,2,3」とか「あいうえお」に近いレベルのことであるが、これを上に引用した表現のレベルまでかみ砕いて、触れなければいけないのが、日本の教会の現状ということなのだろう。この3Pにせよ、ごくごく普通に普通の人が考えればわかるようなことを、偉そうに3Pといっているのがマーケティングの世界である。ミーちゃんはーちゃんが本業の片手間で教えられる程度のことだから、そんなに大したことはない。

                       

                      この手のことを割と福音派で大々的にやったおじさんが、最近妙なことを聞くことが多い、Saddleback ChurchのRick Warrenというおじさんであり、日本語訳では、 『健康な教会へのかぎ』 という邦題でいのちのことば社から出ているThe Purpose Driven Church という本である。この本は、エリア・マーケティングの定量的手法がガチンコで使われていて、Saddleback Joeとかいう、その教会の典型的な教会員を想定して、そのようなターゲット層にどうアプローチするかをマジで書いている本だったので、2000年くらいにアメリカのAmazonから買って読んで、驚いた。こんなこと考える教会がアメリカにあるんだ、と思っていたら、それがそのまま、メガチャーチと呼ばれるアメリカの教会の手法だったわけである。いのちのことば社は、このエリアマーケの手法の部分に関しては、意図的に翻訳されてないので、『健康な教会へのかぎ』は原著The Purpose Driven Churchの一部、日本人受けがよさそうなところだけをつまんで翻訳している。英文の本を読んで、そのあとから、『健康な教会へのかぎ』といういのちのことば社の本を読んで、あれ、読んだことあるけど、と思ってみたら、The Purpose Driven Church の抄訳だと気が付いたわけであった。不覚であった。

                       

                      まぁ、マーケティングというと、確かにガッチガチの金もうけ系のお話であるが、それに忌避感のある方向けには、Non‐Monetarize Oriented Marketing お金儲けを目的としないマーケティングということでご理解していただければ、よろしいのではないか、ということである。

                       

                      要するに無手勝流に頑張るのではなく、自分たちが持っている大事なものは何かをちゃんと考えて、それをわかりやすく、教会外の人に受け取ってもらいやすく提示しましょう、ということに尽きるのである。

                       

                      教会の品質マネジメント

                      次に、教会の礼拝の品質マネジメントという概念が出て来る。実は、日本の製造業及びサービス業が世界のトップレベルなのは、この品質マネジメントの部分であった(最近はどうも怪しくなっているらしいが・・・)。この品質マネジメントは、教会の礼拝ということについて、サービス(礼拝という意味もある)の提供者としてその礼拝の品質をどうするかを教会としてきちんと考えましょう、ということなのである。日本の品質マネジメントは、いわゆる中卒の金の卵と呼ばれた皆さんや、工業高校卒の皆さんが中心に企業でやったQCサークルの概念の上にあるものであって、そんなに難しくてややこしい数学をQCサークルで使うのは、OR屋がやることであって、それは本来的には、QCサークルの出発点から言って邪道だと思っている。その意味で、そんなにやたらめったら、頭をひねくり返さなければならない難しいことではない。誰しもが常識を持って取り組めば、できることである。当たり前に、礼拝や教会をよくしたいとしたとき、何が現在教会で起きていて、何が問題で(『誰が』ではない、これをやると悲惨への道が待っていることだけは保証しよう)それをどのように変化させれば、礼拝や教会の質は、当然良くなるだろう、というものである。

                       

                      CL もう一つの品質マネジメントについて教えてください。

                      M これには要素が4つあります。牧会者 Pastor、祈りPrayer、物的環境要素 Physical evidence、サービス提供環境 Processです。(p.66)

                       

                      まぁ、これと似たようなことは、実は、キリシタン時代のイエズス会の巡回司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノの著書『日本イエズス会士礼法指針』(矢沢利彦、筒井砂訳 キリシタン文化研究会 1970年)に大体似たようなことが書いてあるから、古今東西万代不易のことなんだろうと思う。要は、それを自分たちで、やる気がある教会かどうかだ、ということが問われているだけであろう。Prayer祈りは、イエズス会士は熱心だったから、書いてないかもしれないが、それ意外のことに関しては、たいてい同書には、書いている。なーんだと思うことなのだが、これが案外やれてない教会が多いように思う。その意味で、我々は、戦国時代のパーデレ(伴天連)からも学ぶことはたくさんあるように思うが。


                      ということで、最後がえらく、長く、いつもより、詳しすぎて、重たくなったが、これでこの連載企画は終了である。

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:名著だと思う、統計手法の弱さは別として

                      評価:
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                      コメント:理論の背景は書いてないが、理論の概念として何が重要かは一応学べる。あとは、この本をもとにググれば勉強できます。

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