2017.08.01 Tuesday

2017年7月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

     

     先月は、18416 アクセス、平均で、日に  594.1 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
     2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

     2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

     2016年第2四半期(4〜6月)   76117アクセス(836.5)

      

     2017年07月      18,416 アクセス (594.1)

     

     

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

    アクセス数    636


    Doing Being Becoming Creating そして Recreation

    アクセス数  502

     

    神戸改革派神学校第41回 信徒夏期講座に行ってきた(1)

    アクセス数  239

     

    説教塾に参加してみて思ったこと アナリシスとシンセシス

    アクセス数    229

     

    教会やめたい?(その2) 教会のやめ方

    アクセス数    208

     

    でした。

     

     

    今月も特徴的だったのは、 Doing Being Becoming Creating そして Recreation がトップの座から2位に転落。そして、いつものように、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第1位に返り咲く、という結果に。なんか、この辺が定番商品化しつつある現状にちょっとびっくり。

     

    今月は、教会やめたい?(その2) 教会のやめ方 が突然上位に来たことです。ものすごい昔の記事なのに。あとは、イベント参加特集で、先月末に参加した説教塾で思ったことの記事と、神戸の改革派神学校で開催された 信徒夏期講座のご報告、ウェスレーについて鎌野直人さんがご報告されたものの記事でした。

     

     

     

    今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

     

    先月の御清覧、ありがとうございました。

     

     

    2017.08.02 Wednesday

    歴史について考えている

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      ここのところ、何度か触れているように、いま、歴史について考えている。なに、そんな小難しい事を考えているわけではない。

       

      同一ファイルを分割して処理する学生を見ながら

      いま、学生の学会発表の準備をしているのだが、データ処理が初めての学生だったらしく、データの扱いがかなり酷い。計算機の能力が上がった現在、分割して処理するのはかえって効率が悪いのに、学生さんは何を考えたのか、あるファイルのデータレコードから、あるグループに属するレコードごとに分割してファイルを別途作成り、その分割されたファイルごとに、同じような作業を繰り返して作業でするという、大変面倒なことをしている。まぁ、結果が出れば、それが勝ちという部分も、IT関係の分野ではあるので、このような対処法は、あながち間違いとはいえないかもしれない。

       

      分割して統治せよのほうが後処理は面倒・・・

      その意味で、学会発表に向けて、指導している学生で、データ処理が初めての学生さんは、大きなデータを処理するのは面倒なので、「分割して統治する」という、技術レベルが未熟な状態では時々用いられる方法である。そして、処理しやすいサイズに分割したあと、それぞれのファイルを処理し、そして、処理が終わったファイルを結合し、もともとのファイルのかたちに組み上げるという方法を用いていたらしい。ただ、この方法だと、データのエラー処理は、視認作業で対応ができるので、ある意味で、楽かもしれないが、処理する回数が増えることと、その処理が個別に行われることにともなって、組み上げたファイルにエラーが見つかったときに、どのファイルのどの作業で問題が発生したのかを組み上げられたファイルから、組み上げる前のデータに準じ遡って追跡しないといけないので、その対応がかなり手間なのである。

       

       

      https://therealdeal.com/wp-content/uploads/all/images/216312/divde_and_conquer_illustration.jpg

       

      アメリカで参戦を正当化するためにアメリカ陸軍が作成した映画 Divide and Conquer

       

      おまけに、分割して個別処理を行っているファイル名が法則性無く、デタラメに命名されているために、あとになってこれはどのファイルから来ているのかを特定するためのかなり無駄な時間が流れている。それが、かなわない。そして、どのファイルがどのように形成されたのかの記録は、本人の記憶のみによるということなので、ファイルに発生している問題原因の特定の協力も、指導教員としてはできないという状態になっている。ほとんど手がかりなしのパズルをしているに近い。

       

      これでは、あとになって困るので、データ作成をどのように作成していったかの系譜図を作るように指導した。どのファイルから、どのように抜き出して、どのような加工をして、さらにどのように組み上げていったのかの系譜図の作成を依頼した。HDDやUSBのシリコンドライブや記録メディアが安価になって(ミーちゃんはーちゃんがHDDドライブを使い始めた頃は、40Mバイトの遅いハードディスクが40万円以上していた時代であった)、データファイルが量産される状況になる中で、こういうデータの系統図のようなものを作ることは、関係者の間で、スムーズなコミュニケーションを図る上で、案外重要な役割をはたすのだ。

       

      何かと似ていると思ったら…

      この学生の分割した上での作業の結果のファイルについてのデータクリーニングの過程の中で、処理されずに残ったエラーの問題が、全体に組み上げされたファイルにおいてもエラーを起こし、その状況の原因追求をするときに、系統図もない中で、なぜそうなったのかのパズルに付き合いながら、何かと同じだなぁ、と思ったのである。なんと同じように思えたか、というと、現在のキリスト教界の状態とそっくりだなぁ、と思ったのである。

       

      そう思っていると同じことを考えていた人もいたらしく、以下のような絵がアップされていたサイトが合った

       

      http://antwuanmalone.com/the-denomination-divide/ から
       

       

       それは、そもそもは一つであった教会が分割され、独自に時代の状況に合わせて、不具合と思われることを、先にご紹介した学生さんのように、教会群においてバラバラに個別対応のようなかたちで修正していくうちに、全体としてみたときに、あの教会群と別の教会群の行動様式を比較しながら、どこが違っていて、何がこのような違いを産んでいるんだろうと考えるときに、適当に始めてしまうと、何がなんだか状態になっていくという状況とそっくりだなぁ、と思ったのである。勿論、分割されたことには、ある意味で、致し方のない部分もあるのだろうとは思う。さらに、分割されたグループごとに個別対応的に状況に対して神学的思惟に基づきそのグループごとに理解を構築し、そして、現実対応していくなかで、結果としては、同一のものから派生したものとは全く思えない複数の教会群になってしまっている現状があるのだろうなぁ、と思った。

       

      まるで、ファイルを分割して、個別対応処理をしているうちに、最終的に統合が不可能になり、結果的に本来の形に統合できなくなったような分割された多数のファイル群とそっくりだなぁ、と思ったのである。

       

      先日の大阪のルター派の3グループの共同礼拝の際のセミナーでもエキュメニカルということが話題になっていたが、同じルター派でも聖餐をともにすることがかなり困難だったご様子(それが証拠に、2017年に初めて共同聖餐が可能であったわけで)を考える時、どのような点で同じであり、どのように異なっていったのか、ということを考える際には、単に系統図があるだけでは十分ではなく、個別の環境において生成された状況とそこで方向づけられていったベクトルまで見る必要があだろうなぁ、ということを、学生指導しながら、考えていた。

       

      データファイルにもその生成の歴史があるように、個別のキリスト者集団やグループにも、その生成の歴史と固有の事情があり、同じグループであるとはいえ、なかなか合同することが難しいのだろうなぁ、と思った。

       

       

      このシリーズ単発

       

       

       

       

      2017.08.05 Saturday

      原爆忌を前に

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        今年は、暑いのと、学生の世話で忙しいのか、夏バテ状態が早く来てしまった感じがあって、体力の消耗が激しくて、しなければいけないこと山積みなのもあるのに、仕事をする気力がわかない。とは言いつつ仕事をしないといけないので、ちょっと困っている。特に世俗の仕事関連で。

         

        明日は原爆忌

        気がついたら、原爆忌と昔は書いた、原爆記念日が明日である。去年はオバマ大統領が来てどうのこうのとか、いろいろあったが、今年はどうなんだろう。広島では準備が着々と進み、いろいろな行事がこの暑い中行われているような話も聞くが、日本の殿は、仕事人内閣(これまでの内閣が仕事をしていなかったことを吐露したかったのだろうか・・・)とか、盛りだ、かけだと、蕎麦屋のお品書きのようなごでいろいろとニュースにネタを提供してくれているし、北朝鮮の殿は殿で、ミサイルぶっ放して火星なんたらと、いっているし、まぁ、色々とあるようだ。

         

        原爆忌の頃の遠い思い出

        個人的には、広島市内に母方の実家があり、祖父母は原爆投下時に広島市内にいたらしい。母の兄弟姉妹は、殆どが疎開をしていて直撃を免れたが、存命であれば叔母に当たる人が、幼児だったためか原爆後になくなったらしいという話はうっすら聞いている。今を去ること40年前、小学生だったミーちゃんはーちゃんは、ちょうどこの原爆忌前後にはその広島の母方の実家か親族の家で過ごしたり、父方の本家と呼ばれる旧海軍兵学校がみえる江田島の向かいの島で夏を過ごすことが多かったように記憶している。父方の本家と呼ばれるところから、歩いて10分位のところに遠浅の海岸が有り、そこには、フナムシがいっぱいいる放置された木造船があったり、その近所の砂浜を掘れば、ゴロゴロとかなり大きなアサリかなんだかが取れた気がする。アサリかなんかの二枚貝を台所で塩ゆでにして食べるのが日課だったような気がする。

         

         

         

         

        今から40年前の広島は、原爆投下後25年位たった段階でもあり、随分大きな街でありながら、ちょっと住宅地の中に入り込むと、板塀の家があったり、路地があったりと昭和なまちなみであった記憶だけが残っている。とは言え、被爆のあとの都市伝説のようなものが残っており、そういう雰囲気がまだ街のあちこちに漂っていたような気もするが、今は、写真なんかを見ても、もう当時の面影はほとんどなく、随分と変わったんだなぁ、という感じがする。70年という歳月はそういう歳月なのだろうし、世代で言えば三世代が交代した感じなのだろうと思う。とは言え、あの頃と変わらず走っている広島電鉄の路面電車(今では、新型車両も導入されて、昔の木の床に緑のビロード張りのベンチシート、木枠の窓などの電車などは少数派らしい)は、なかなか長生きしている。広島といえば、この路面電車が長生きしている町、という印象が強い。今年は、神戸市交通局は100年をお迎えになり、神戸港は150年をお迎えになるようであるが、神戸市の路面電車は、ミーちゃんはーちゃんが小学校低学年の頃に消えたようだ。

         

         

         

        核兵器に時代は付きまとわれつつ、

        殺傷目的で使われることのなかった核兵器

        余談はさておき、1945年以降、原子力爆弾、水素爆弾と言った核兵器が作られ、純然たる核兵器ではないが、核技術派生兵器の劣化ウラン弾(質量が大きいので、攻撃力が強いらしい)とかも作られていて、核戦争が起こりそうになりながらも、幸いにして、日本の領土とその直近傍では、戦闘行為が行われていたが、その直接の被害を経験しないまま、そして、日本は1945年からこの方来てしまった。さらに、1945年以降は、キューバ危機だの核戦争の危機寸前まで行きながら、世界は核戦争を経験せずに済んできた。今では、日本とアメリカが戦争したことを知らない若者や、かつて、地上にソ連という共産主義国家があったことを明確に意識していない若者も、増えていると言うし、日本という国家が、国家を上げて、80年から90年前にどのような理由で、どのようなことをなしたのか、ということを記憶していない若者も少なくないだろう。とは言え、戦争という時代の名残の中で、我々が生きているということを認識もしていない人々が増えているように思う。それはそれで幸せなことかもしれないけれども。

         

        ミーちゃんはーちゃんと広島の原爆

        「原爆、原爆と言うなかれ」という人々の気持ちも分からないではない。10年1昔といえば、70年だと7昔であり、なんの関係があろうか、と思いたくなる気持ちがお有りの人もあろうか、と思う。親族の関係者が被害に会われなかった方にとってみたら、現在の時間とは、全く関係がない話かもしれないが、親族に被害者がいる家庭の子孫にとっては、子供の頃から、嫌というほど聞かされたはなし(物語)であり、個別性を持って繰り返し語られる出来事である。なくなって10年以上経つミーちゃんはーちゃんの父親は、存命中、あまり戦争中の出来事に触れることはなかったが、江田島の隣の能見島から、広島方面で見た光がおそらく原爆だったのだと思う、と存命中、2回ほど、問わず語りに事実だけを語ったことがあった。まぁ、最近は、身の回りに直接の経験として、原子力爆弾の被害にあったことを言及する存命者が少なくなっているので、親族関係者から、いやというほど原子爆弾のことやその被害を聞かされる、ということはだいぶん減ったが。その意味で、そのような自身に起きた恐ろしげなる経験を語る経験をしなくてすんでいる我が身が幸せだなぁ、とも思う。そういう時代に生きることを許されてよかったのかもしれない、と思う。

         

        1939/12/06(昭和14) 大日本帝国陸軍撮影による広島市 陸軍基地が見える。

         

        1945/07/25(昭和20)米軍撮影の広島市の中心部

         

         

        1947/07/03(昭和22) 米軍撮影の広島市中心部

         

        以上の航空写真は、http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 で見ることができる

         

        それで思い出したのだが、ミーちゃんはーちゃんが信仰を持つきっかけになった関係者の一人に、当時自らの宗教的確信に基づき行動した(というか当時の政府の逆鱗に触れる言動をしたために)治安維持法違反で逮捕され、広島刑務所に収容された(戦後に名誉回復がなされ、歯科医師免許も再交付されたようである)おじいさんの歯科医師の自弁伝道者の人がおられて、この時期になると、広島の刑務所で被爆した話をすることが多かった記憶がある。子供だったこともあるが、何度も同じ話を聞いたので、最初の何回かはちゃんと聞いた記憶があるが、話術が上手い人ではあった。その辺は昔の大衆伝道者の雰囲気がちらっとはあったように思う。繰り返されると、基本的に同じ話なので、さすがに、聞き飽きた感じがあった。そのおじいさんの歯科医師の自弁伝道者の人にとっては、実に忘れられない記憶であったのだと思う。まぁ、このおじいさんの自弁伝道者は、おそらくごくごく経度の双極性障害の傾向も有ったようで、実に波乱万丈の人生を送られた方であったように思う。悪く言えば、実に無茶苦茶な行動をしてしまう方であり、現在だと行きづらいタイプの人であったと思う。

         

        マクロレベルの出来事にしてしまうと

        失われるミクロレベルの出来事

        原爆忌一つとっても、マクロレベルの日本で見れば、平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)が挙行される日でしか無いけれども、ミクロレベルの個人にまで降りてしまえば、実にいろいろな多数の人々が、そして、その人々からなる多数の物語が、この原爆忌あるいは、平和記念式典の原因となった日の出来事にまとわりついているのである。

         

        イエスの十字架上の死も、今は、確定化された形で、非常に平板化して割りと単純化して語られるが、四つの福音書が書かれる前の時代には、そのイエスの死を巡って、多くの人々の物語、視点、物事の見え方が存在し、そのイエスの十字架上の死という一時点の特定の出来事を巡って動いていたはずである。そして、原爆忌が今なお、それを巡って、多くの人々が交差し、多くの人々の思いと、記憶と出来事が交差することを考えるとき、イエスが生きていた時代のイエスを巡る人々の思いがじつは非常に複雑なものである、ということを少し考えた。

         

        原爆忌であるから、というのもあるのだけれども、最近、お友達になった小島聡さんという方が書かれた、ヨベル新書として出版された『「ヨハネの福音書」と「夕凪の街桜の国』という本を読んだときのことを思い出したので、少し書いてみた。扱っている内容が扱っている内容であるだけに、一筋縄ではいかない本であるが、人とその人に起きた出来事と、それが巻き起こしていくことを考えさせるための手がかりになる本でもあるので、よければ、お買い上げいただいて、お読みいただければ、と思う。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        評価:
        価格: ¥ 1,080
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:原爆を巡る人々の出来事の交差を描きながら、イエスが生きた時代の人々の交差とそして、めぐる時間と時代を描いた作品。

        2017.08.07 Monday

        罪という語が与えるイメージについて Doing と Being 再考

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          日本語における「罪」理解

          「罪」という語が普通の日本人に対して与えるイメージについて妄想を巡らせている。この罪理解の問題は案外重要なのではないか、と思っている。多くの場合、日本では、罪は状態を表すことばであるというよりは、悪を為す行為(Doing something wrong)、あるいは、悪をなした行為 (Doing evil)とその行為が導いた結果、ということを示すことばとして理解されているように思う。確かに、手近に辞書で検索しても、(というよりは、Google先生がお示ししてくださる辞書を見る限り)、明らかに行為そのものを指しているのであって、状態を指す言葉としての定義は少ない。

           

          「罪」からの「解放」は、

          誤解されたまま語られてないか

          これが、明治くらいからこの方、近代の西洋伝来というよりは、より正確に言うならば、近代北米地域から伝来したキリスト教が、日本に到来して、日本に入ってきた時以来、この「罪」からの「救い」の誤解が放置されたまま、結構今日まで来ているのではないか、と思う。「罪」からの「救い」は状態変化として捉えたほうがよいと思われるものが、過去の出来事が忘れられたり、なかったり、過去の出来事が水に流される、と言った日本的な理解と読み替えられていることはないだろうか。確かに、牧師先生クラスでは、このようなことはないかもしれないが、信徒レベルでは、案外こういう理解のまま、「罪」からの「救い」が語られているような気がする。

           

          罪のゆるしは、人間の過去を神が水に流すこと?

          こういう理解だとすると、イエスが完成した「救い」や人間が「救われた」という状態の理解は、少し違ったものになるのではないだろうか。つまり、罪のゆるしは、人間がなしたことを神が「忘れること」、「水に流すこと」、「なかったと認定される」ということになり、罪と認められる行為を起こさないように最大限努力するということになるのではないだろうか。それは、本当に、イエスが言った、罪からの解放ということなのだろうか。人間的な努力により、極力罪を犯さないようにするあまり、神経症的な状況に陥る人びとも時々、教会で出るようである。

           

          罪をおかさないように神経症的な生き方をする人びと

          常に罪を犯すのではないか、とビクビク、ドキドキして生きるとか、神は本当にそんなことを望んでおられるのだろうか、とも思う。神はそんな神経症的な生き方を人にのぞみ、人を神経症にするような生き方を被造物としての人間に、本当に望んでおらえるのだろうか。

           

          事柄、あるいは、人が何かすることばかりに、必要以上に注目してしまうと、人は神を見なくなるのではないだろうか。その結果、何が起きるかといえば、自分自身を見つめ続けてしまい、本来、人間が見つめ続けるべき髪を見るのではなく、神が望んでおられる神と和解した状態をみること、そして、神と和解した状態から派生するはずの神との平和を味わうよりは、自分自身が到達しようとする「不完全な正しさ」や「不完全な正しさ」を自分たちが成し遂げることを求め、自分自身が罪を犯してないという誤解の中に浸るようになったりもする。あるいは、人間の側の「不完全な正しさ」あるいは、『不完全な、あるいは安定的ではない一時的な義」を為すことに汲々とすることになってしまったり、自分自身が正しいと思うことを他者に強いることになるのではないだろうか。

           

          罪を無理やり認めるように

          他者に強いるキリスト者達

          それが、一部のキリスト者に対する表現、形容詞として、時に言及されるある種の表現である「一種の精神的な暑苦しさ」や「押し付けがましさ」のようなものを感じる人が出てくるのは、ある面、当然といえるかもしれない。それは、他者が罪をもっているということを無理やり認めさせれば、キリストが必要であることになるので、キリストを信じさせるために、罪を認めることが必要だという論理から、他者に罪の存在を認めるように無理からに言わせようとする人びともおられる。それって、本当に有効なのかなぁ、とは思っているが、まぁ、なんとかの一つ覚えのように、誰彼なく、それを言わせるように強いる人々もいる。よいことだから、と。

           

          その結果、人びとは「暑苦しさ」をそのようなキリスト者に感じるのではないだろうか。ただ、こういう暑苦しい人びとは、他者にこのような印象を与えていても、「自分たちは正しいこと、神の業を為しているのだから、良いではないか。他の関係者もキリスト者ならば、そのプロジェクトにすべからく関与すべきだ」とご主張になられる方もおられる。たとえ、他の関係者が興味もなければ、そのプロジェクトに関与する能力もなくとも、とにかく「良いことなのだから」、「神のためなのだから」すべからく他の信徒も関与すべきだ、と言って、人を突き動かそうとする人々にも、時々出会う。あたかも、自分自身の罪を良いことをすることで埋め合わせようとしたり、原罪の罪という出来事に対して、必死でバランスを取ろうとするかのように、その方の考える「神のためのこと」や「義なること」に自ら邁進されるのみならず、他者まで巻き込む人びともおられる。その「神のためのこと」とは、トラクトを撒くことであったり、教会に行きたくないという他者を無理矢理にでも、教会に引っ張っていって、聖書の話や、神の話を、いやいやであろうと、無理矢理に聞かせるプロジェクトに、他者まで巻き込んで無理矢理にでもその人が考える義なる行為を完遂させようとする方もおられるのである。実にかなわない。

           

          大学院生の頃の出来事

          大学院生の頃、このタイプの「神のためのことプロジェクト」マニアと思われる人から、ある方を介して、その「神のためのことプロジェクト」マニアと思われる方のご親戚か甥っ子か何かが、「ミーちゃんはーちゃんが在学中だった大学の同窓生で、近所に住んでいるから、訪ねてくれ」と何度も言われて、致し方なく、お訪ねしたことがあるが、見知らぬ人がやってきて、ちょっと離されたところで、「はい、左様ですか」と、わけわからないところに一緒に行きましょう、と言われても、普通は行く気がしないだろう。だって、おばさんかなんかに突き動かされて、勝手にやってきた見ず知らずの相手は、誰ともしれないし、最悪、北朝鮮の工作員であるかもしれないのだ。そんな人に拉致されて、わけわからずに、全く見ず知らずの人と教会というところに行くのは、誰だって嫌だろう。どうもこの方との間に立った方からの、お話を聞く限りは、どうもその甥っ子だか、親戚なんだかのご本人が、教会とかに行くことについてのバーニング・ディザイアをお持ち、と言うわけではなかったようである。

           

           

           

          そこで、最初はいやいやであったが、依頼があった以上、ご訪問した。ご訪問した折、おいでにならないようでもあったので、連絡先とトラクトをポストに入れておいたのだが、反応は全くなかった。あんまり、そういうことに関わりたくなかったのであろう。

           

          その事件の後も、この手の面識もない人をたずねてほしい、というご依頼が、どういうわけか直接ではなく、人を介して依頼されることが年に数回あったことがあり、ご依頼をされた方のご移行が真剣なものであったり、訪ねてほしいという方が、真剣にご依頼されていると思ってご訪問したら、何の何の、何も関心がないし、迷惑そうな顔をされたことが、何度もあるので、そこまで思いがあるのなら、どうぞあなた様が直接お伺いされるなり、お手紙をかかれるなりされたら、いかがですか、というようにしている。総お返ししながら、この種のご依頼をお断りすることにしているという関係もあり、流石に、そういうご依頼を持ち込まれる方は、最近はなくなった。

           

          本人に代わって、あまり思いがない代理人として遣わされたところで、あんまりうまくいかないのである。

           

          しかし、面識もない人に、自分が正しいと思うことだから、と、見境もなく「神のことプロジェクト」に関与させ、行為をさせる(Doingを強いる)ということはどうなのだろう。そして、それは、神のみ思いを本当に為すことに繋がるのだろうか、と素朴に思っていたことを思い出した。これは、罪が為すこと(Doing)であると理解されている以上、罪の反対の善も為すことと、誤解されている結果ではないか、と思う。

           

          「罪」とは状態を指しているのかも

          ところが、もし、罪が「状態」であると理解したらどうだろう。ひょっとすると、「義」とは、神の義を無理矢理に、ブルドーザーで、ガァガァ何かを動かすように為すことではなく、「義」が状態であると考えたらどうだろう。神が、(行為において)罪を認めないという状態も神の義であるとは言えなくはないようにも思うが、「義」とは、本来、神との「方向のズレ」がない状態ということなのだと思う。「罪」のギリシア語の原義が「的外れ」であるということが、教会ではときに語られるが、それを聞いた多くの日本人の受け手は、「的はずれな行為をしないこと」と罪を犯さないことや、神の義を理解(誤解)し、「神の義を自らなすこと」と誤解していることはないだろうか。

           

          Beingとしての罪

          Beingとしての義

          このブログの先月、先々月の人気記事には、Doing Being Becoming Creating そして Recreation という記事が上位に含まれたが、そこで言おうとしたのは、基本的に言いたかったのは、DoingかBeingか、といった二項対立で考えるのではなく、神が作り変え荒れる中で、Becomingであり、神によるCreatingな働きが、人間に行われることで、Recreationが起きることを言いたかっただけなのであるし、さらに言えば、DoingかBeingかの二項対立的な理解の限界を示したかっただけである。

           

          個人的には「義である」とは、神と和解している状態にあること、であろうと思っている。このように理解したほうが、聖書、特に新約聖書はわかりやすくなるし、旧約聖書も、理解しやすくなる。そもそも、人間には「義」をもたらす事ができないし、人間が「義である」と思っていることは、先程の訪問の例のように、全く何ももたらさないどころか、かえって、問題を生み出すようにも思うのだ。そもそも、人間が「義」を神の前に云々することは、ちゃんちゃらおかしいことではないか、と思う。

           

           

          義を巡る人々 Justice League の皆さん

          https://blogs.wsj.com/speakeasy/2014/04/27/warner-bros-details-plans-for-justice-league-movie-exclusive/ から

           

          そのあたりのことを、もう少し、教会用語を使わない方法で、教会で用いられる基本的な言葉について、丁寧に表現することを考えてみたほうがいいのかもしれないなぁ、とちょっこし思っている。

           

           

           

           

          2017.08.09 Wednesday

          藤本満著 『歴史』を読んでみた(1)

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            今日は最近出た、藤本満さんの著書『歴史』という本をご紹介してみたい。

             

             

            プロテスタント発展の背景史を含めた歴史書

            この本は非常に良い本である。これまでのキリスト教関係の歴史に関する本は、どちらかと言うと、キリスト教とキリスト教界の内部についての歴史記述に主な重点がありすぎ、なぜ、キリスト教会の内部構造が歴史的過程の中で、社会環境の変化にともなって、どのように変遷を遂げていったのか、について記述が少ない本が多い。それはそれで仕方がないのだろうと思う。キリスト教界の中の記述だけで、キリスト教としての内容が多いからでもあり、そこに注力したくなるのが人情だからでもあるように思う。しかしながら、キリスト教界内の記述の詳細さをあえて絞り込みながらも、社会の状態にも一定の配慮したある程度詳細な記述がなされているという特徴があるように思った。

             

            社会の背景を含め、変化を遂げていった社会の動きの経緯についても一定の配慮を行いつつ、教会内の動きと社会全体の動きと両者の関連についても、かなり丁寧に記述した書籍である。ただ、宗教改革を記念して出版された書籍であり、主に大陸及び英国のプロテスタントのキリスト教の歴史を追い、大陸諸国との交流の中で、独自に発展していった、米国を中心とした北アメリカ大陸でのキリスト教の歴史、さらに、我が国におけるプロテスタント派のキリスト教の歴史の概略までも含め、ある程度丹念に記述した書籍であるといえるだろう。その意味で、キリスト教の歴史ではなく、宗教改革以降の多様なプロテスタント派の歴史、あるいは、様々なキリスト教諸派の概略に関するプロテスタント全体に関する自画像のラフスケッチと表現するほうが良い本だと思う。


            特にドイツの宗教改革の記述にあっては、次のような当時のドイツの社会状況についての以下のような記述がある。

             

             領邦国家ドイツでは、それぞれのの領邦の町々に印刷所が存在していました。これは当時のイギリスの印刷所がロンドンに集中していた状況と明らかに異なる結果を生み出します。しかも強行側がどれほど防戦しても、その主たる言語がラテン語であったのに対して、プロテスタントがその土地の言語(ドイツ語、フランス語、英語など)を用いて反論を発行したので、読者層の広がり、そして浸透力の度合いは比較になりませんでした。いわば情報革命です。

            (中略)

            そこで、出版物には木版画が挿入されたりもします。こうして大衆の目が一気に出版物に移っていきました。それが神学上の諸問題を含んでいたとしても、流行に乗って、彼らも文字を倣うことに必死でした。こうして高踏文化の社会が文字文化の社会に移っていきました。長い間、聖王を一つにしてきたラテン語は、次第に学者の世界に限定され、数世紀前から台頭してきた民族主義が、それぞれの日常言語を用いて自己表現するような文化を生み出していきます。(『歴史」 pp.30−31)

             

            ブリテン島の宗教改革に関しては、社会の変化の記述は少しドイツの変化と比べて薄いかなぁ、と思うが、それであっても以下のような記述が見られるなど、一定の記述はなされている。

             

            ヘンリ8世は、ローマの主教的支配からイングランドの教会を切り離して、宗教的自治権を確立するために、1529年から36年まで矢継ぎ早に様々な制作・法律を作っていきました。一連の会議は「宗教改革会議」と呼ばれ、聖職者約50名、貴族約40名からなる貴族院、そして74州選出の議員と、236名の都市自治体選出からなる下院によって構成されていました。(p.96)

             

            人的交流が盛んな時代であるがゆえに起きた

            宗教改革という側面
            ところで、ローマ帝国時代から、人の地域を超えた流動が散発的に起きている。有名なのは、ゲルマン民族の大移動とかアジア系の騎馬民族のフン族の流入であり、それはヨーロッパにものすごく影響を与えたような大移動もあった。このような人の大移動も古代から見られたのであるが、特に宗教改革前後の時期の特徴は、ヨーロッパが造船技術の変化にともなって起きた大航海時代以降、海運技術や陸運技術の変化により、移動の可能性が急速に向上したことのような気がする。ある意味、移動の質がこの時期を境として変わっているように思う。

             

            さらに、イベリア半島のムスリムの人々との対決を含め、政治的な安定が失われたり、あるいは、政治的主役の交代などに見られる構造の変化を含め、宗教改革の少し前あたりから、人の流動化がヨーロッパではおきていたように思う。さらに、宗教改革の背景として、このような人びとの交流や移動が、ブリテン島を含めた西ヨーロッパのみならず、東ヨーロッパでも起きていたことなどの記述は、もう少し記載されていても良かったかなぁと思う。このような幾つかの国や地域とその間の交流の歴史が、この本にはチラチラと出てくる。その意味で、このような行き来を地図の上で確認しながら、読まれるのがよろしかろうと思う。

             

            この本の読者が注意すべきこと

            現在の各国の政治体制や各国の運用システムも、実は国ごとにかなり異なり、一様ではなく、実に多様性があり、時代によって制度も代わっているので、現在我々が直面している日本国の現状を想定しながら本書を読むと、本書に書かれた内容を正確に理解できない場合も出てくるであろう。その意味で、本書に出てくるある時代のある地域の状況について、一定程度別資料で確認しておくと本書の内容をより楽しんで読むことができるだろう、と思った。

             

            特に現行の日本の制度と、ルター先生やカルヴァン先輩がご活躍だった頃の中世ドイツと現在のドイツはかなり性質が違うし、労働者の働き方や、仕事の仕方と言った、勤労システム一つ取ったところで、今の日本の諸制度からは、創造ができないほど、大きな違いがある。社会と宗教、社会と教会の関わりなども日本とは比べ物にならないし、創造するのが困難なほど、一体であったのである。あるいは、この本で扱われている16世紀のイングランドと、近世イングランド、近代イングランドは、同一の領域に存在した国家でありながら、伝統という点では一貫した流れはあるものの、その内部構造は大きく異る。また、我々の目からすれば、ブリテン島は英国として表現されるが、内部は、ウェールズと、スコットランドと、イングランドに別れ、隣のアイルランドは、南北に別れ、北岳が、イングランドなどとともに、連合王国を形成するとは言うものの同化すると、スコットランドのように、「俺っちたち、独立しちゃうもんねぇ」と好きあらば独立しようという動きが耐えないのも事実であるし、言語もキリスト教の主要な教派の信者さんのその領域内でのシェアも、この4つの国が一つのブリテン島と周辺諸島のあたりに存在しながら、なおかつ一体にはならないという、歴史を培ってきた国々が、連合王国というくくりでは、とりあえず英国以外を視点にする場合には、一つに見えるという状況なのだ。スコットランド人やウェールズ人の一部には、いまだに、英国人(English)と呼ばれることを拒否する人々がいるほどである。


            イングランドの国歌(皆さんご存知のあの曲)

             

            ウェールズの国歌(多分、ウェールズ語)


            スコットランドの国歌

             

            北アイルランドの固有の音声


            その意味で、現在我々が思っている国家制度を一旦忘れて、当時の国家制度や社会の状態について調べたりしながら、そして、その時代の人びとの生き方や考え方とその違いについては、本書をきっかけに多様な参考資料にあたって、味わいを学びながら、この本をお読みになられたほうがいいかもしれないかもしれないなぁ、と思った。宗教改革というと、多くの人は、冒頭指摘したように、キリスト教の枠内だけで考えがちであるが、そうは一筋縄には行かない複雑な運動体だと思うし、この本は非常に限られた紙幅でありながらも、本書はその一端に触れさせてくれる本でもある。

             

            本当は、著者の藤本満さんは、教会の外の部分についても、紙幅さえあれば(他の本に比べれば、それでも多くの紙幅をもらったと謝辞でおかきであるが)、もっとおかきになりたかったであろうなぁ、とは思った。とはいえ、世界史の教科書よりは遥かに突っ込んで、宗教改革の次代の社会の実相と宗教改革との関係にできるだけ迫ろうとした一般向けの本でもあるし、これまでのキリスト教書よりも遥かに教会の外にはみ出して、当時の社会と協会の関係を記述しようというご努力を試みておられるという意味で、非常に優れた本であると思う。


            次回へと続く。


             

            評価:
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            コメント:要領よく、運動体としての宗教改革とその時代の背景、そしてその後の時代の動きまで(日本のプロテスタントキリスト教史まで)含めた入門的良書

            2017.08.12 Saturday

            藤本満著 『歴史』を読んでみた(2)

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              今日も最近出た、藤本満さんの著書『歴史』という本を、前回に引き続きご紹介してみたい。いや、正確にいうならば、ミーちゃんはーちゃん風におもちゃにして遊ばせてもらいたい。

               

              この本がいいなぁ、と思ったのは、フェミニズム的な視点に流れすぎることなく、従来の歴史書では比較的軽視されてきた女性についての記述も、あまり分厚さがない本のわりに、かなりふんだんにあること、また、神学思想や理解の歴史的展開だけではなく、その展開を普及するに役立った音楽、あるいは賛美歌がその時代にどのように用いられたかの記述もあっさりとではあるが(紙幅が限られるので仕方がないけれども)触れられている点である。

               

              女性にも目配りが

              たとえば、アメリカの女性や少数者の権利を考える点での出発点の一つとなったアン・ハッチンソンについて、本書には次のような記述がある。

               

              アン・ハッチンソンはピューリタンの父権的社会構造に疑問を抱くようになります。当時のキリスト教社会では、エデンの園でアダムが神に背いたのは、エバの誘惑によるもので、女性は男性に対して劣る、従属的存在であると説かれていました。彼女は、神学的教育を受けた人物ではありませんでしたが、自ら聖書を深く学びそのような女性蔑視の考え方に挑戦しました。また入植者たちが先住民に偏見を持っていて奴隷化したことにも、同じように聖書をもとに批判しました。これが、ピューリタン牧師たちの反感を買ったことは言うまでもありません。(『歴史』p.169)

              ここでは、先住民に対する偏見と書かれているが、実は西部開発時代には、先住民は、アフリカから実質上拉致されて(書類上は借金のかた(コラテラル)として連行された)アメリカやイングランドに連行されたアフリカ人奴隷同様、牛や馬と言った動産扱いがなされているだけで、実は人間扱いされておらず、人間ではなく、動物の一種だとして扱われていたのである。アメリカの開拓時期の国勢調査では、1900年代頃までは、実は、奴隷や少数民族は人間の中にカウントされていなかったのである。

               

              アメリカの略史と称するBowling for Columbine で紹介されたアニメ(ちょっとひどいが…)

               

              また、アメリカ合衆国での教会と奴隷および先住民の問題は、実は複雑に関係している。先住民の教会役員が、奴隷を保有していることが適切であるかどうかが問題になったことが、教会の奴隷問題への取り組みの出発点の一つになっているらしい。

               

              社会の周辺や底辺に置かれた人びとに神の本来のかたちでの支配が訪れることを約束したのが、福音書で記述されているイエスの姿であるが、その後、ローマ帝国でのキリスト者の増加がおき、その結果としてのローマ帝国の国教となり、さらに、キリスト教会がヨーロッパ社会で社会の中軸というか、キリスト教会が社会と一体化していく中で、社会の周辺者も半ば無理矢理に、そして強制的に包摂され、表面上は周辺におかれた人も包摂されたことになってしまった結果、実状としては、社会の周辺者は存在したにもかかわらず、建前としては周辺者が消滅したという理解を生み出しかねない状態となったこともあり、もともとキリスト教がもっていた、社会の周辺にいる人々に向かう方向性が、弱体化したり、希薄化したことという部分はあったと思う。ところが、実状で周辺者が存在することへの気づきと、その気付きに対して聖書に基づき、その周辺に向かおうとする動きが、キリスト教会では、確かに、繰り返されてきた。それがキリスト教の歴史でもあったように思うし、その周辺や周縁への動きが、割と端的に既存の聖書理解との対立として表面化したり、噴出したのが、宗教改革やリバイバルであった部分もあるのかもしれない、と思う。

               

              賛美歌について

              余談はさておき、賛美歌についての記述を少し触れてみたい。

              また、南北戦争後のリバイバル運動を牽引した大きな力は賛美でした。先のフィービ・パーマの娘のフィービ・ナップは、生涯に500曲もの賛美歌を作曲しています。彼女の友人で、同時期に活躍した盲目の賛美歌詩人ファニー・クロスビーとともに作った『賛美歌』(1954年版)529番の「ああうれし我が身も」(Blessed Assurance)は、歌詞も旋律も、アメリカ賛美歌の黄金期であるこの時代を象徴していました。(同書 p.191)

               

              ワーシップ音楽風の Blessed Assurance

               

              カントリー音楽風の Blessed Assurance

               

              クラッシック風の Blessed Assurance

               

               

              ブラックコンテンポラリ―風の Blessed Assurance

               

              これだけ同じ曲でも演奏のスタイルが違うと、まぁ、この曲がそれだけの名曲である、ということがよくわかる。

               

               

              ルターも宗教改革者であると同時に、賛美歌作家であり、非常に多くの賛美歌を作曲・作詞している。宗教改革以降、ラテン語ではない日常使っている言語で、それも自分たちにとってなじみ深い音楽的センスで賛美することを通して、信徒が礼拝に関与するばかりでなく、賛美歌を繰り返し生活の場で歌うことで、一種の労働歌のようになり、讃美歌の歌詞が主張する内容が知らず知らずのうちにその人のうちに定着していくことになる。そして、その人の聖書理解の基本的傾向というか、基本的視線を形成することになる。

               

              ルター先輩が作曲した讃美歌(詠唱の雰囲気が多少残っている)

               

              日本でも、昔は黒人霊歌とも呼ばれた讃美歌から派生した音楽がある。これらの音楽は、アフリカ系市民の強制労働の際の労働歌としても歌われつつ、アフリカ系市民の中で広がっていた音楽が、現代の日本ではゴスペルという音楽の一分野として拡がっている現状がある。ジャズの一部やロカビリーの一部も一種讃美歌的なアフリカ系アメリカ人の賛美の形態の中から派生した音楽形態であるとはいえよう。その意味で、現代の音楽に讃美歌というのは、非常に大きな貢献を果たしてきたし、賛美歌は、現代を生きる日本のキリスト者の聖書理解に大きな影響も与えてきた。

               

              讃美歌の影響力の強さ

              以前ご紹介したこともあるかもしれないが、2年ほど前までほぼ毎週参加していたところで、信仰暦がまだ浅いお方が、伝道説教のようなものとして語られた時に、「…という部分の聖書箇所の理解は、賛美歌にもあるように、天国に行くということだと思います」と自己の主張の補強のために、讃美歌の一節をお持ち出しになられた例があって、個人的には、ちょっとそれ、まずいかもねぇ、と思ったことがある。この例は、ある面、賛美歌の影響力の大きさを示すエピソードだなぁ、と思う。

               

              特にアフリカ系アメリカ人のご先祖様が奴隷時代に作詞作曲した讃美歌には、天国への移行を希求する歌詞が案外多いのである。それは、それらの奴隷状態に強制的におかれたアフリカ系市民のご先祖様にとっては、あまりにも過酷な現状からの開放を求めるお気持ちが強かったであろうから、そのような歌詞を歌いたくもなるのはわかる。そして、そのような賛美歌が日本に導入されたころ、普通選挙権も十分に整備されず、過酷な日常生活、貧困状態にあえぐ人々に、キリスト者が歌う讃美歌のうち、現状からの開放を告げ知らせる天国への希求を歌う讃美歌は、まさに、その時代の人々にとっての福音と映ったことであろう。それは責められないが、それがあまりに強く打ち出されると、聖書の主張は、この世のことではなく、あの世のことになってしまい、地上での神とのかかわりという聖書理解の側面が薄くなったり、消え去ったりしてしまった挙句、死後の極楽浄土みたいな世界を聖書が主張しているかのようなある種美しい誤解をしてしまう人々を生み出しているのかもしれない。それほど、賛美歌の聖書理解への影響力は強いように思うのである。

               

              コンテンポラリー系の讃美歌(もう、賛美歌とは言えない方もおられるかもしれない)

               

              アメリカ南部諸州にあるバプテスト系の教会等での賛美方法とよく似ている讃美歌

               

              アカペラ風で賛美したスピリチュアル

               

              また、人によって好きな賛美歌が違っていて、特定の讃美歌ばかりが賛美されることになることがある。また、人数が少ない教会や楽器演奏者や音楽に明るい人がいない教会だと、賛美できる讃美歌が限られてしまい、特定の讃美歌のみが賛美されることになる。そういう状況では、特定の讃美歌が繰り返し謳われることで、聖書理解のバイアスが生じることになりかねないような気もする。

               

              また、同書では、158ページから161ページで、宗教改革以降のヨーロッパ大陸とブリテン島周辺諸島などでの賛美歌について触れてある節などがあり、割と有名な以下のような讃美歌などが紹介されている。その部分の記述は面白いので、是非一読をお勧めする。


              日本語では「ちしおしたたる」で有名な賛美歌

               

              以下では、同書にも出てくるウォッツの「さかえの主イエス」で知られる賛美歌の歌詞 When I Survey the Wonderous Cross は同じで、楽曲が違う3バリエーション(個人としてはどれも好き)をご紹介したい。こうなってくると、一つの歌詞に3つの楽曲が付されているほど、愛されている、という感じなのかなぁ、とも思う。

               

              最近足しげく通っている教会で時々歌う音楽バージョン(アングリカン風)

               

               

              この本で紹介されていた曲のバージョン

               

              別バージョンの曲

               

               

              この多様性を見ながら、暑いからか、アイスクリームの多様性をおもいだしたので・・・

               

              これでも一部 アメリカのアイスクリームやさんBreyer'sのアイスクリームブランドで出ている商品の一部

              http://cuticonedesign.com/httpcuticonedesign-comworkcvspharmacy/breyers/breyers-blasts/ から

               

               

              なんか、今日は讃美歌特集になってしまった。

               

              次回 最終回へと続く

               

               

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              コメント:コンパクトにプロテスタントの歴史を振り返る好著

              2017.08.14 Monday

              藤本満著 『歴史』を読んでみた(3)

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                ここのところ、藤本満さんの『歴史』という本を読んでみて思ったことをご紹介している連載をしている。より正確に言うと、ミーちゃんはーちゃん風に遊んでみた本である。今日が本シリーズの最後である。この本が日本で出される意義は、ヨーロッパのキリスト教の変遷の歴史に触れ、大半の日本のキリスト教会がその設立に影響を受けていて、マニフェスト・デスティニーの影響も若干受けて日本伝道をしてきた米国のキリスト教について触れている。勿論、一部バクストンなど、東廻りで伝わったキリスト教にも言及があるのは美点の一つであろう。そして、現代日本に生きるキリスト者へとつながって行く過程を大まかに追っており、日本人神学者によって日本人キリスト者のために書かれた本として流れを大まかに捉えることが可能であるという意味において、非常に優れていると思う。

                 

                日本のキリスト教を概観することが可能な本

                 この本では、内村鑑三というビッグネームは無論のこと、植村正久の日本のキリスト教会への影響、井深梶之助、押川方義、金森通倫(国会議員の石破さんの母方のひいおじいさんに当たる人)、海老名弾正、海老名と植村の議論とその問題や影響、中田重治の伝道活動や日本でのリバイバルの動きなど、戦前の日本のキリスト教会の動きについても最低限の知っておいたほうが良い内容が触れられています。

                 

                 

                金森通倫

                ひ孫の石ダム閣下

                石ダム閣下にちなんだお土産用お菓子

                http://shop.omiyage-daito.com/?pid=50785450 より

                 

                 

                日本の天皇制をめぐる日本の国家主義とキリスト教の対立の出発点が内村鑑三の不敬事件にもみられること、それが、日中戦争時期のプロテスタント系教会と国家との複雑な関係と日本基督教団の成立による外生的な教会合同、美濃ミッション事件、無教会の矢内原の態度なども触れられている。

                 

                日本の戦後の福音派の記述 福音伝道派として

                日本の戦後のキリスト教会の動きや福音派についてもその出発点から述べられている。あぁ、そうなんだと思ったのは、次の記述である。

                 

                福音派は、56年のビリー・グラハム伝道大会、59年の大阪クリスチャンクルセード、67年のビリー・グラハム大会と、伝道においてさらに結束し、70年台、80年台と伝道による数的な成長を遂げますので、最近ではエキュメニカル派によって「福音伝道主義(派)」と呼ばれることに依存はないでしょう。(『歴史』p.225)

                 

                確かに、福音派というラベルは非常に混乱を招きやすく、福音伝道派、と呼ぶほうが、実際の教会の伝道熱心な実態を多少なりとも表す意味で、なるほど適切だなぁ、とは思った。

                 

                国家主義とキリスト教の歴史

                本書の中で、明治期に成立した、国民に教え込まれた、あるいは公教育や新聞などメディアを通して刷り込まれた近代における神話としての天皇を中心とした国家主義を、同書では先天的日本主義の問題を取り上げつつ、その課題を取り上げ、一方で、ドイツでのナチスドイツの台頭を許した国家と教会の関係、また、それに明白に抵抗していったボンフェファーや、バルメン宣言で嫌味を一応は、いってみせたバルトなど、個人の進行と、同質的な国民という概念で成立してきた近代国家ゆえの国民国家における国民の均質性と個人の進行、あるいは教会との関係などに関する記述もある。

                 

                なお、この均質性という問題を考えることは、実はエキュメニカルな教会を考える上では、案外重要かもしれない。そのことの指摘が、現代のキリスト教プロテスタント派の多様性の問題とその教会一致をどうしていくのかという問題についても、きちんと本書では触れられている。

                 

                第2に彼(ミハ氏註 アリスター・マクグラス)は、新しい教派教団が設立される時、多くの場合、既存の教派教団が自ら直面している神学的な課題や社会のトレンドにも全く無関心であるという事態の中で、進められてきたと指摘しています。確かにアメリカのプロテスタント教会は昔もいまも市場原理の中で生き延びてきました。勢いのある教会は、常にその時代に生きる人々の飢え乾きに応えようと真剣に努力してきた(同書 p.238)

                 

                と書かれていて、教派教団が、時代の変化、社会への対応の中で生まれてきたことが指摘されており、日本の場合、このアメリカのプロテスタント教会の伝道や神学的思惟の影響を受けて成立しているため、どうしても分断的なキリスト教会隣りやすい傾向があるのだろうと思う。とは言え、それでは、実はまずく、同じキリスト教なのに、それぞれの教派教団が違い、対立的な態度をお互いに取り合うことの悲劇について同書では次のように言及している。

                 

                しかし、プロテスタント教会を待ち受けていたのは、その自由が多様化を生み出し、論争、迫害、戦争へと発展していく歴史でした。異なった聖書解釈が、解釈者固有の良心の自由と重なって、主張は譲ることのできない論争を生み出しました。(同書 p.235)

                 

                対立の構造の解決に向けて

                この結果、日本でも、それぞれの教派・教団や教会が、それぞれ表立ってその正統性を主張し合い、相互に競い合い、対話をするのならまだしも、互いの揚げ足の取り合い、箸の上げ下ろしや重箱の隅をつつくような論争を教会内での非公式発言や教会内の説教メッセージを通して、繰りひろげてきたことが、ミーちゃんはーちゃんを含め、多くの日本人にとって、キリスト教とは何かの理解を阻害する要因の一つになってきたようにも思う。ミーちゃんはーちゃんにとっても、あぁ、キリスト教ってこんな感じなんだ、とキリスト教の全体像が分かってきたのは、漸く齢40半ばを超えた頃であった。どうしても、最初に出会った教会になんとなくとどまっていることがあり、一部の福音派では、他の教派を自己よりは劣った存在扱いや、場合によっては悪魔扱いする習慣があるので、実は他派に写りにくいようにそれぞれの教会の刷り込みがなされていることが案外多いのではないか、と思う。

                 

                まぁ、お互いに自己の正統性を主張し合うのは、使徒の働きの記述(ユダヤ系寡婦とギリシア系寡婦の配給を巡る対立など)やコリント前書の、パウロ系、アポロ系、イエス系各派の対立などにもみられるように、キリスト者であるとはいえ、人間が罪を内在している結果であるので致し方のないことであるのだが、現代日本人のキリスト教理解の混乱に拍車をかけていて、なんか内部でも揉めあっているちょっと変わった人々という印象を世間に与えているようにも思う。ネットで、お互いの違いに対して、言い合い、ごく瑣末なこと(メランヒトンは「非本質的なこと」という議論をしていることを本書でも紹介しているが)と思えることでも、いとも簡単に議論を互いに仕掛け合い、炎上してしまう炎上体質をお示ししているがために、ネット界隈では、キリスト教のネットで発言する人々を戦闘民族とも総称されているほどである。メランヒトンを学んでないのかしら、とも思ってしまう。もうちょっと、悠然と受け止め、対話ができるといいのになぁ、と思う。

                 

                このあたりの対立の解決の方針についても、本書ではきちんと考えるヒントがご用意されているので、是非本書の8章をお読みいただきたい。非常に重要な示唆だとは思ったが、大事なポイントなので、本書を手にとって、キリスト教書店でお買い上げ頂き、お読みいただきたい。

                 

                現代的なキリスト教までも視野に入っている書籍

                最後に、本書は現代的なキリスト教の動きについても触れられており、ヘンリー・ナウエンの影響もきちんと触れられております。ナウエンの著作が示すものを十字架の神学としてまとめるのが適切かどうかは、少し疑念がありますが、神の憐れみを求めつつ、神とともに生きるという伝統的教派が、価値を置き、大事にしてきた聖書理解であり、現代の日本のプロテスタント派の一定の部分が軽視してきた神の憐れみに依拠するようなキリスト教理解(十字架の神学と呼ばれている)について以下のような記述があった。

                 

                日本人の宗教感覚がそもそも「御利益主義」ですから、私たちもまた栄光の神学によって知らず知らずに侵食されています。

                (中略)

                 栄光の神学(ミハ氏註 繁栄の神学)が、健康と繁栄を根拠に神が共におられることを実感する人間の作り事的な宗教であるとしたら、十字架の神学は、神を見失うような場面に隠されたかたちで共にいてくださると信じる信仰です。(同書 p.247)

                 

                このような十字架の神学は、正教会、カトリック、聖公会、本来はルーテル派なども含めた神への依存を強く主張する伝統教派が大事にしてきたものなのですが、本当に、多くのプロテスタント派でこのような神の憐れみに生かされている、神の憐れみを受け止めるタイプの新校舎の生き方への示唆が失われているのが残念だと、個人的には思っている。しかし、「日本人の宗教感覚がそもそも「御利益主義」です」とか、「人間の作り事的な宗教」とさらっといってのけるところがこの本の凄みでもあり、このような油断ができない記述があるので、読み手は油断ができない本でもある。

                 

                この栄光の神学に関しては、最下部に紹介している一種内部告発的な本でもある、「市民K、教会を出る」などが参考になるかもしれない。

                 

                本書だけで終わらせずに

                この本には、各章ごとに、基本的な参考文献リストが記載されている。紙幅の関係でこれも大幅にカットされたのではないか、と思っているが、これらの参考文献リストは、単なる付録ではなく、オリジナルに当たるための手がかりになるだけでない。より豊な理解を得たい方々には、本書で読んで終わり、本書を用いて思い巡らし、考えるだけでなく、是非参考文献にあげられているリストなども参考に、引き続きお考えいただ期待。そのように本書を用いられるのが大変オススメではないか、と思う。

                 

                ということで、この連載は終了

                 

                 

                 

                 

                 

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                コメント:非常にコンパクトに日本までのキリスト教史がわかる

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                コメント:ほぼ、内部告発本だけど、主張されていることは大変参考になります。

                2017.08.16 Wednesday

                昨日はポツダム宣言受諾記念日だったので・・・

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                  ポツダム宣言受諾記念日の放送から

                  ここ数日は、ポツダム宣言受諾記念日(敗戦記念日、日本の世間的には終戦記念日、アメリカ側では、太平洋戦争戦勝記念日)に合わせたように、帝国陸軍の無意味な兵力損耗の代表事例とも思われるインパール作戦の話が出ていた。作戦の実情はかなり知っていたので、あまり新規の話はなかった。新しいといえばカリバニズムが実際に飢餓から現場で起きた、というところである。また、同様な餓死と伝染病などでの悲惨さがフィリピンのガダルカナル島でも置きたことは知られており、ガダルカナル島を日本語で表記するときに「餓島」と呼ばれたことも知る人ぞ知るところである。

                   

                   

                  貧すれば貪慾になるのが人間

                  以下は、イスラエルが飢餓になったときにどのような状態になるか、なったかを、イスラエルが主に聞き従わず、主の主権性をイスラエルが認めずに、勝手に王政移行した結果、どのような悲劇が発生するのか、あるいは発生したのか、というその悲惨な状態を描いた部分であるが、まさに、それと同様のことが置きたようである。

                   

                  【口語訳聖書 申命記 28章 53ー57節】
                  あなたは敵に囲まれ、激しく攻めなやまされて、ついにあなたの神、主が賜わったあなたの身から生れた者、むすこ、娘の肉を食べるに至るであろう。
                  あなたがたのうちのやさしい、温和な男でさえも、自分の兄弟、自分のふところの妻、最後に残っている子供にも食物を惜しんで与えず、
                  自分が自分の子供を食べ、その肉を少しでも、この人々のだれにも与えようとはしないであろう。これは敵があなたのすべての町々を囲み、激しく攻め悩まして、何をもその人に残さないからである。
                  またあなたがたのうちのやさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者でも、自分のふところの夫や、むすこ、娘にもかくして、
                  自分の足の間からでる後産や、自分の産む子をひそかに食べるであろう。敵があなたの町々を囲み、激しく攻めなやまして、すべての物が欠乏するからである。

                   

                  申命記はモーセ5書なので、一応、このような神からの預言があった、ということになると言うのが、福音派的な人々の間での多数派的な理解であろう。上記引用部分の編纂の時期がいつであるのか、ということは別として、このような悲惨さが起きることを学ぶという意味において、神の主権を無視して、自己の相対的な正統性や正義を主張することの無意味さを、この聖書箇所は告げているように思う。

                   

                  あの番組では、平坦を度外視していたり、より正確に言うならば、ロジスティクス(物流や兵站)を全く考えておらず、自己に対する過大評価、正義(それは、多分に自己都合的であるが)を抱えて戦闘行為に望んでいるから不敗であるはずである、という過信というか、自己に対する信仰とか、大和魂とか、積極性と行った精神論だけで計画立案がなされた様子も描かれていた。このような実情を見つめない、日本における日中戦争移行1945年までの戦争期のそのたぐいの精神論に頼る世界観は、『 失敗の本質 』や、山本七平氏の『 一下級将校の見た帝国陸軍 』でも、描かれているところであるが、その精神性がいかんなく発揮されたのが、ガダルカナル戦であったり、インパール作戦であったようだ。

                   

                   

                  http://happy.ap.teacup.com/ibaraki-doji/779.html?b=10 より

                  人間を楽にするためにある砲架の運搬装置までも分解して、人手で運ぶというこの矛盾

                   

                  (映像と音声が約5秒から10秒程度ずれているようです)

                   

                  困ったときは精神論で切り抜けようとする困った考え方

                  このような精神論にまみれ、鉛筆ナメナメ書いた作戦計画のようなを実際に実施するというような計画とその実行といったものは、戦争期のことだけか、というとどうもそうではない。戦後にも、そして、今なお現代的な課題として置きているのであって、それには不具合があって、それを実行するとまずい、というような声は、自らの限界を知った上での理性による合理的な説得による反論ではなく、大声での恫喝とか、作戦計画に異を唱える声を相手のみを『悪者』として扱い、自己に不都合な『悪者』の発言を聴く必要がないという言辞を弄するする例が見られる、あるいは、一部の成功例を反例として支持することで、これでうまくいくと主張し、個別案件の特殊性を無視して、ある特定の事例を一般論化して語る発言を以て圧殺されるのが常である、というのが日本という社会に於いて広く見られる性質であるように思う。

                   

                  米国がトランプ大統領になったので、今は殆ど話題にもならないが、TPP加盟するという時点で、農産物の自由化における議論でも、同じような構造が見られるように思う。このTPPに異を唱えた農業団体(全国規模の団体)は、もともと自民党農林族の支持母体の様相を呈した組織でありながら、現実をよく知るだけに異論を唱えたのだが、いまは、その組織の解体論が一方的に議論され、新聞紙上には、今頃になって、その組織の農家への農業用物資の販売価格が独占的であり(それは実態的にも、そうなのだが)云々と悪し様に表現する例が見られる。まぁ、その組織と協力しながら研究をしている側の人間の言うことなので、割り引いて考える必要はあるけれども。

                   

                  精神論と人材を消耗する日本の教会

                  しかし、このような精神論中心というか、精神主義と言うか積極思考の病弊は、現代の日本のキリスト教世界には存在しないか、というと、実態的には、案外多いのではないか、と思うのだ。まぁ、それは、日本の教会が日本人からなっているからそうだ、といってしまえばそうなのであるが、それにしても、あまりにも日本のキリスト教会の人材の消耗と言うか無駄遣いが激しく、インパール作戦を思い起こさせるような消耗が行われすぎているような気がする。たとえば、人口減少社会であり、仏教寺院との紐帯が非常に強い地方部の実情を無視した『すべてのまちまち、村々に教会を』とか『コンビニ並みに教会を』いうスローガンとかは、たしかに理念系としては否定できないが、粗製乱造された牧師先生方が置かれて、消耗戦に入っていくのは見えているし、コンビニのようにコンビニチェーンの本部から責め立てられて自己破産や自殺、蒸発のような事例が教会で起きるのならば、コンビニ並みに隣り合うように教会を置くとか、そんな消耗戦のようなことはやめたほうがいいように思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけだろうか。

                   

                  現状でも、牧師給を維持できず無僕に陥る協会があったり、建物の維持費すら予算確保できず建物の維持すらできない教会があるという状況の中で、どうこれからの日本の教会を考えるのか、ということが一方で起きているし、幾つかのキリスト教団などでは、数年の現場経験の中で、アルコールに走る、非行に走る、蒸発するという事例などが置きていないわけではない。以前なら、『なかったことにするために…』と、闇に葬られていた話が、最近は、明らかになるようになった(というよりはマスコミが報道するようになった)ゆえに、『明らかになるようになっただけ、マシ』という話もないわけではないらしい。その意味で、インパール作戦の撤退時期と同じ状況とかなり類似したひたすら消耗を待つ状況に日本のキリスト教世界にあるのではないか、と思うと、これから、どれだけの人材が神の名のもとに消耗する計画が立てられ、現場で消耗していく人々が増加していくのか、と考えると空恐ろしい。Nexco3社のCMではないが、日本の教会に、『なくそう、逆走』と、つぶやいてみる。

                   

                  http://girlschannel.net/topics/233401/より

                   

                  なくそう逆走…

                  現状でも、牧師給を維持できず無僕に陥る協会があったり、建物の維持費すら予算確保できず建物の維持すらできない教会があるという状況の中で、どうこれからの日本の教会を考えるのか、ということが一方で起きているし、幾つかのキリスト教団などでは、数年の現場経験の中で、アルコールに走る、非行に走る、蒸発するという事例などが置きていないわけではない。以前なら、『なかったことにするために…』と、闇に葬られていた話が、最近は、明らかになるようになった(というよりはマスコミが報道するようになった)ゆえに、『明らかになるようになっただけ、マシ』という話もないわけではないらしい。その意味で、インパール作戦の撤退時期と同じ状況とかなり類似したひたすら消耗を待つ状況に日本のキリスト教世界にあるのではないか、と思うと、これから、どれだけの人材が神の名のもとに消耗する計画が立てられ、現場で消耗していく人々が増加していくのか、と考えると空恐ろしい。Nexco3社のCMではないが、日本の教会に、『なくそう、逆走』と、つぶやいてみる。

                   

                  NexcoのCM

                   

                  本来、自分の弱さを見つめ、それゆえにそこに介在してくださる神のもとに戻り、自分自身の出来なさ、思いの至らなさ、不完全さを素直に神の前に認め、神の哀れみを求めていくという性質を持っていたのが、キリスト教の割りとコアにある部分にあったと思うのだが、明治以降、近代社会を支えた西洋道徳としてキリスト教が理解され、その中で日本の精神主義と妙なかたちでの化学反応が発生してしまい、結晶化したキリスト教が、日本のキリスト教の一部分にあるかもしれないと思うと、もはや、

                  Lord have mercy,

                  Christ have mercy,
                  Lord have mercy.
                  と祈らざるをえない。今の西洋社会の教会を見るだけでなく、西洋の影響を多少は受けつつも、どっぷり、国家とキリスト教が一体化したコンスタンティヌス型のキリスト教徒はある程度距離があるような、素朴なアフリカのキリスト教徒の皆さんとか、別の形でヨーロッパからの影響の遠い南アジアのキリスト教徒の皆様とか、東ヨーロッパの古いキリスト教の信徒さんのお姿とそのお考えを調べながら、自分自身を比較対照してみて、自分自身の信仰のあり方を見直すことが、案外面白くて仕方がない、ミーちゃんはーちゃんがいることは確かである。

                   

                  同じようなものと比較対照するよりは、同じものと思えないものをつぶさに検証しながら、何が重要なのかを考えることのほうが個人的には役に立つのではないか、と思っている。

                   

                   

                  この記事、単発

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:日本社会の一断面を日本軍を例に切り取った本

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                  コメント:非常に面白い視点がわかる

                  2017.08.19 Saturday

                  シャーロッツビルでの騒動を横目で見ながら・・・

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                    最近のニュース番組の騒ぎから

                    アメリカ南部(ヴァージニアがなぜ南部か、という気もするが、しょうがない。南北戦争当時、南部側すなわちアメリカ連合国Confederationの首都が置かれたのがヴァージニア州のリッチモンドであるから、ではある)のシャーロッツビルでの白人優位主義者とその行動に反対する人々との間での対立がプチ暴動騒ぎになり、それについて、トランプ大統領がコメントを何度かしたことで、アメリカでの報道が蜂の巣をつついたような状態になっていて、他の街でも南軍側の歴史上人物の銅像を撤去するとか、あるいは南軍側の歴史上の人物を岩肌に彫り込んだジョージア州の石の彫刻をどうするんだとかなんかそういう話があるとかないとか、CNNでは放送をしている。CNNを見ていると、朝鮮民主主義人民共和国製造のミサイルをグアムにぶち込む騒ぎか、こちらか、みたいな状態になっていた時期が先週一時期あった。

                     

                    それを見ながら、いつまでも極端な人たちだなぁ、とぼーっと思っていたのである。

                     

                    ジョージア州のストーン・マウンテンの全体図

                    南軍の将軍たちの肖像拡大図

                     

                     

                    シャーロッツビルでの騒ぎ

                     

                    なお、今回の騒ぎ位ではアメリカでは暴動とは言わない。アメリカで暴動といえば、州軍(National Guards)とその陸上部隊と戦車が出てきて、非常事態宣言(禁足令)が出るようなものであり、さらにある都市や地域の機能を停止させるようなものを暴動と呼ぶが一般的である。

                     

                    アメリカ的な社会構造

                    ところで、南部の軍人達の銅像やら肖像やらを全部取り去ってしまえ的な、この辺の極端さは、大変アメリカ人的だなぁ、と思っていた。アメリカ人のかなりの部分の人達は、とにかく白黒つけるのが好きな人たちであり、黒でなければ白だ、というかたちで、主張してしまう傾向を持つ人達のような気がする。それはアメリカの裁判制度、陪審員制度における裁判(刑事裁判でも行政裁判でも、かたちの上では民事裁判のような形を取る)が、結局、有罪か無罪かのどちらかしかないことが影響しているかもしれない。更にアメリカ合衆国の陪審員裁判においては、疑わしきは罰せず原則が適用されるということを、判決を出す前には、陪審員の皆さんに裁判官が指示することが多いので、完全に有罪か、そうでないか、と判断する2値型の意思決定のスタイルがアメリカ人の考え方の中に入り込んでいるように思う。

                     

                    多分、もともとのニューヨーク州やペンシルヴァニア州やメイン州のような北部諸州(これが現在のアメリカ合衆国の基本型となっている)では、おそらくこのような騒動は発生しようがない。シャーロッツビルが南部の諸都市の一つであるからこそ、発生したのだろうと思う。

                     

                    その意味で、一応南北戦争は終わっているとはいえ、負けた側の南部では、未だに自分達が抑圧されている、という思いがどうもくすぶっているようにしか思えない。まぁ、素直に負けたことを認めればいいのに、南部の人たちは、プライドが高い人たちが少なくないようで、時々、Southern Prideということばがアメリカ人の会話の中で聞こえてくることがある。そのときのイメージは、コンフェデレーション(連合国)の国旗であり、以下の画像のようなT-shirtsも販売されている模様である。

                     

                    南部連合軍の旗 http://www.bbc.com/news/magazine-23705803 より

                     

                     

                    南部連合の旗をメタファーとしたSouthern Prideを主張するTシャツ デザイン的にはなかなかヲサレではあるが

                     

                    アメリカ近代史と南部とキリスト教理解と今回の騒動

                    さて、この問題、アメリカの近代史(アメリカには近代史しかないw)とその解釈をめぐる一騒動では確かにあるのだが、この背景にあるある種のキリスト教理解に根ざす誤解があるのではないか、とは思った。アメリカの南部は、バイブルベルトとも呼ばれるほど熱心な信仰者(といってもプロテスタント系原理主義的な理解を多分に含むキリスト教の信仰者の皆さん)が多い地域ではある。今でも自宅には、E.E.ケアンズのキリスト教全史という本があるが(昔は、これくらいしか日本の福音派諸派には歴史書がなかったが・・・)、その中に奴隷制肯定の記述もあったように思う。たしか、そのあたりについては、まえがきかどこかで、現代(この本が出版された1950年代)においては、適切ではない云々の但し書きが書いてはあったが、この本が書かれた頃と同じような感覚で、今を生きている人は、現在の南部諸州には少なくないだろうし、彼らが保守というときの理想時代は、南北戦争以前の南部の生活という部分もあって、自分たちはあの時代の素朴な信仰をいまも維持しているという、それこそ、Southern Prideが今回の事件と関係しているのだろうなぁ、と思った。その意味でも、今回の事件はキリスト教理解が文化の中に入り込んでいるがゆえのアメリカ的な事件なのだと思った。

                    今回も、この騒動で、久しぶりに日本で、KKK(クー・クラックス・クラン)という司祭服のようなものを着て歩き回る人々を示す言葉を耳にしたが、彼らは彼らで、自分達は、保守的な真面目なキリスト者だ、と思っておられるようであり、その宗教的確信に基づき、言論の自由の範囲内で、自分たちの信仰に基づき、神の祝福が我らの上にあるはずだ、と白人優位的な言辞というか、自分たちの確信についての公的な発言(と言うか表現)あるいは、信仰告白(それが多くの人々が理解しているキリスト教的な何かどうかは別として)のようなものを繰り返しておられるのではないだろうか、と思ったときに、なんだかなぁ、と思った気分になった、ということが言いたいだけの記事が今日の記事である。このあたりをお考えになりたい向きは、ミシシッピー・バーニングか、「評決のとき」という映画がおすすめである。
                    1分48秒あたりの演説中に、AngloSaxon Christianなんたら、という表現が出てくる。

                    ケヴィン・スペイシーのいやらしさと、マシュー・マコノヒーの軽さが対照的であることをうまく利用した映画「評決のとき」

                     

                    この投稿、単発

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    E.ケアンズ
                    聖書図書刊行会
                    ---
                    (1957)
                    コメント:昔のテキストなりの面白さがある

                    2017.08.21 Monday

                    インパール作戦やブラック企業やカルト化宗教集団に投影されている日本の精神

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                      ここのところ、世俗の仕事で留学生の日本語で書かれた論文を、日本語の論文としてまともに読めるようにするための仕事と、残暑のため、ダウンしていたので、月曜日はお休みさせてもらった。

                       

                      以前にご紹介したインパール作戦とその背後にあるものについて、今もなお考えている。と言うのは、この無謀な作戦に、日本人の精神性や現代社会にも引き続いき見受けられる人間と社会の関係の理解が反映しているという、Facebook上でのコメントなどがあり、それもそうだろうなぁ、と思ったからである。

                       

                      失敗することがないという思い込みの危うさ

                      前回も紹介したように、『失敗の本質』や『一下級将校の見た帝国陸軍』にも現れているように、現場の状況を全く知らず、机上で計画したとおり、キチンと物事が成り立っていく、失敗することはないものとされる(失敗することが公式には許されない)という日本人なりの超脳天気とも言えるような精神構造が現れているようにも思う。そして、ある種公的な計画に関与するものは、全力を上げて、滅私奉公的に関与すべきであるし、その公的な計画に心酔した状態で関与しないものは、コミュニティの成員でないような扱いを受けることもあるような気がする。

                       

                      これは、本来私的な分野である私企業でも起きている。この私企業での、ある種、滅私奉公的な関与の仕方が、現代において現れたのがブラック企業ではないか、と思う。それがキリスト教会で起きると、ブラック教会か、カルト化した教会になるのである。これが不思議な事に起きるのが日本の状況であるように思う。カルトとは何か、という定義は案外難しいが、基本的に通常の一般的なほかの生き方として認められるはずの社会生活を送れないほど、その構成員をある特定の社会集団に宗教的、理念的な何かを起点に構成される特殊な社会集団への無私という宗教性を背景としたかたちで、特定の集団のみへの集中的関与を求めている人々の集まりということができるような気がする。

                       

                      カルト化しやすい信仰…皇帝カルト

                      宗教そのものが、現状への社会の批判的な視点を持つことを可能にすることが多い以上、カルト化への危険性は常に含んでいる。それは、ローマ帝国においても発生したようだし、そのことを、N.T.ライトさんは、皇帝カルトと呼んでいるようである。市制時代あるいは共和制時代のローマには、基本的に、議員(貴族)と市民とからなる会議体において一応運営されることになっており、基本共和制を取っていたようであるが、実質的なクーデターという国家の非常事態において、非常事態における国家を一体化させる対応としてのローマの帝政がユリウス・カエサルにおいて始まるのであり、ペルシャ帝国とかバビロニア帝国とか、その後のオリエント地域との軍事的交流を通して、これらのオリエントの支配体制がローマに入ったのがローマ帝政なのであり、カエサルの死後100年位の間に、軍事的成功や領土支配の成功に伴っておきる尊敬や崇拝において、オリエント的な王に見られ、ローマには見られなかったはずのヒロイックな個人への崇拝が、皇帝崇拝としてローマに入っていったのではないか、と思っている。無論、それは、ギリシア人であったアレキサンダー大王がオリエントの帝国を軒並み打破し、その支配過程の中で、そもそもそのような理解のない共和制ギリシアに流入し、それが、ローマにも流入した結果生まれたのが、ローマの帝政ではないか、と思う。

                       

                      ユリウス・カエサル https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%82%B5%E3%83%AB-43185 より

                       

                      その意味で、ヘレニズム文化を生み出し、後に新約聖書を記述する際に選ばれるコイネー・ギリシア語を生み出したのが、アレクサンダー大王であるとすれば、分断的であったオリエント(東方)とオクシデント(西方)の関係を政治的に一体化させ、ある面で、キリスト教の理解が、オリエントともにオクシデントにも広がるための舞台準備を地上的な人間の世界でなすために用いられたのは、ある面で言うとアレキサンダー大王ではないかと思う。まぁ、アレキサンダーにしてみれば、自身の政治的安定や地震とギリシアの栄光のためにその大制覇を成し遂げた遠征を行ったとは思うのだが。

                       

                       

                      アレキサンダー大王  https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_the_Great より

                       

                       

                      カルト化した宗教組織とブラック企業
                      余談に行き過ぎたので、ブラック企業とか、カルト化した宗教組織の話に戻りたいのだが、ブラック企業の場合、立志伝中の人物や神話化された人物への忠誠というか、心酔を基礎に特定の非常に狭い限られた集団(この場合は企業)への偏った関与を求め、個人より重要な会社、ということで個人の権利を大幅に制限したり、自主的に制限させるかたちでの、帰属する会社という狭い社会への集中的な関与をその従業員に求める企業の総称と行っていいだろう。ある面、「その会社しかない」という視野狭窄が置きている場合に、このようなブラック企業が起きやすい。その意味で、新卒者にとって見れば、社会に出て初めて触れる公式組織のことが多く、会社との距離関係が取れないこと、小学校から高校に至るまで、愛校精神と行った学校という社会に対する帰属意識と言うか、個人と組織の一体化ということが徹底的に刷り込まれることもあり、個人と社会的組織の一定の距離を取った関係を取りにくい側面があると思う。また、日本が従来まで、長期雇用を前提とした比較的固定化された社会であったこともあり、社会の一般的な理念として、転職は良しとされない社会であったという理解で親世代が職業生活の実態を語っていたこともあるのではないだろうか、と思う。ミーちゃんはーちゃんとの関連が深い業界は、転職を繰り返すことで、給料が上がっていく社会であることでもあり、もう10年ほど前から従来の転職は悪影響を与えるという実態とはどうも違った状況のように思う。

                       

                      カルト化した宗教組織(オウム真理教が典型例)であるが、その宗教組織の指導者や教祖みたいな人が、その宗教的集団のある種の基準となっており、それが他より優れているということを行って、新校舎を集めていくという宗教独特の構造故に、圧倒的に教祖や指導者が有利であり、あるいは教祖やその集団の指導者(先行者)の言動そのものが価値の源泉となりやすく、ある思考枠における視野狭窄(捕囚状態)が起きている場合、思考枠の外部に出ることができなくなっているのではないか、と思う。

                       

                      また、会社であれ、宗教的組織であれ、ある組織の役職者に、ある種のカリスマがある場合、そのカリスマに触れたいという思い、あるいは、そのカリスマを自分のものにしたいと思うためなのだろうとは思うのだが、そのカリスマとそれに伴う実際的な豊かさや名声、他者からの評価、その組織内での評価といったものに惹きつけられてということも少なくないように思う。いずれにせよ、その組織以外にないとかその組織が必要以上に重要である、と思い込む視野狭窄に陥る人が時々起きるようだ。そして、自分にとってはその組織しかない、その組織に関与せねば、その組織の成員として不適格者であるというような思いにとらわれ、一層関与を深めていくことになるし、その挙句の果てに関与しないものに対して攻撃的な態度をとったり、排除の態勢が取られていくことになる。これは一種の囚われであり、捕囚状態なのだと思う。実際に連合赤軍の浅間山荘事件や集団リンチ事件はまさにそれが置きた、ということではないか、と思うのだ。

                       

                      公のために個人を犠牲にしたがる精神

                      いざ鎌倉、主君に事あらば、自らをかえりみることもなく、そこに馳せ参じるという世界観についての話が多数あるが、それを美談として語るということが初等中等教育で無批判になされてきたようにも思う。個人的にはそうなのだろうか、と思う。それでいいのか、と思ってはいたのだが、そんなことを行ったら、ろくでもない扱いを受けることは経験を通して知っていたので黙ってはいた。黙っていたということは、そういう態勢に無批判に協力していたことにはなるのだろう。

                       

                      この滅私奉公といえば聞こえはいいが、日本において、組織が個人からの収奪とかを行う組織化していく、いわゆるブラック化していく根源にこの精神があるのではないか、と思うのだ。他の信仰者集団のことはよくは知らないが、日本におけるキリスト教でよく言われる論理の根拠としては、新しい生き方をする、他者のために生きるということが誤って解釈されて、自分を犠牲にしてまでも他者のために生きるというかたちで誤解されていることが多いようである。第2次世界大戦中は、それが日本国中で大日本帝国が生き延びるために個人が犠牲的精神を持って望むことが求められたようにも思う。まさに大日本帝国カルトであったように思う。

                      つまり、他者のために使えるための存在であるように思える教会や教会内の指導者に対して、自分を限界まで犠牲として提供して、他者と同じく神から与えられたものを粗末にする事例が時々散見される。これでいいのだろうか、とも思う。大日本帝国がカルト的であったことの証左に、し、また、どうも大変具合がわるいことに、それを教会が求める部分もあるように思う。

                       

                      じゃりン子チエから考えるブラック企業やインパール作戦

                      こないだ見るとはなしに、見ていたアニメにじゃりン子チエ2というのがあり、その34話を見ながら、あぁ、これがインパール作戦や、いわゆるブラック企業問題と似ているなぁ、と思ったのである。詳細は省くが、じゃりン子チエに出てくるいいとこのお坊っちゃんで、教育ママに育てられ、何かと金持ちを鼻にかけ、勤労小学生のチエちゃんに対して見下した態度を取る同級生のマサルくんが、親から自由になりたくて、自力で何でもやりたくて、友人のコシギンチャクと呼ばれるタカシくんと、あてもない旅に出かけ、たまたまたどり着いた駅から見えた、割と大きめの山(大阪近郊の山なのでしれている高さの山)をひたすら必死になって登っていく話で起きるドタバタ劇であった。

                       

                      http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im2124371 より

                       

                      https://matome.naver.jp/odai/2136497120283201801 より

                      じゃりン子チエ

                       

                      左から、黄色の服の少女がチエちゃんの友達のヒラメちゃん、白いシャツの少女がチエちゃん、緑と白のラガーシャツがお坊ちゃんのマサル、その上方の黒服の男性がテツ、最も右がマサルのコシギンチャクと呼ばれるタカシ

                       

                      ピクニック程度の登山途中に、体力のないお坊ちゃんのマサルくんがあまりに急いで登るものだから、お友達の通称コシギンチャクとよばれるタカシが、そんなに早く登ったら、スタミナ切れを起こして、一歩も動けなくなるという、静止というか忠告も聞かず、自分の美学に酔いしれるマサルは、俺はなんでもできるんや、という自身を獲得したくて、必死で山を登るのだから、案の定スタミナ切れを起こしてしまい、あわや遭難騒ぎとなってしまうエピソードを見ていた。

                       

                      こういうある種の美学に酔いしれて、自分の能力を見つめ、見極めることなく、自身も、そして他者にもスタミナ切れを起こすところまで、強いるようなかたちでやってしまうのが、ごくごく真面目で、他人からよく思われたい、という考え方に閉じ込められた日本人の姿ではないか、と思う。

                       

                      別の例として、輪ゴムの事例をとって言えば、ゴムが限界まで伸び切ってしまっていても、更にそれに張力をかけ、ゴムの輪がプッツンと切れてしまうまで、外聞を考え、かなり無理矢理に張力をかけることをやってしまうのが、真面目な日本人の姿ではないか、とこのアニメの監督は言いたげなのだろうなぁ、ということを思った。ある面、真面目で一所懸命的な日本人には、このタイプの他人の目を気にするがあまり、「先輩方に申し訳が立たない」「社会に迷惑がかかる」とか言う、その他者からの評価や視線を気にするがあまりの引き際の悪さのために、本来撤退すべきときにも撤退できない人々が多いかもしれない。

                       

                      こういうことを考えると、帝国陸軍の文化は、日本人であるがゆえに生み出された組織文化であると思うし、講壇で説教中に死にたいとのたまう牧師先生は、実際にその教会でそれが置きた時の、信徒に降りかかる迷惑をお考えなのだろうか、と思ってしまう。そして、ご自身にとっての美学が、たとえ他人にとって、とっても迷惑な美学であっても、それに協力を強いていくのは日本独自の美学意識がもたらすものかもしれないなぁ、と思う。

                       

                      アニメのじゃりン子チエのエピソードにおいて軽度の登山でマサルくんのスタミナ切れを起こした結果は、回りにいる人々にとって多大な迷惑を生んだ。しかし、ご本人にとっては、ご本人の美意識を満たすという点では満足だったものかもしれない。そのための周囲の犠牲は、本人にとって直接振りかかってこない。まさに、経済学でいう、社会的外部性の事例であり、全く無関係な人に幅広く被害や迷惑を撒き散らす公害のようなものである。

                       

                      インパール作戦も、自分たちの内部では、非常に望ましい積極果敢な作戦に見えたのかもしれない。そのために一銭五厘で召集令状を出され、呼び出された挙句、挙句の果てに、将官たちの名誉欲を満たすためだけに、命令というかたちで突き動かされた兵隊たちにとっては、迷惑千万のお話であるように思う。それと同様に、ある牧師やその協会の代表的人物ご自身の美意識や栄光のためにつきうごかされる信徒の方々は、ある面、インパール作戦で疲弊していった日本軍の兵隊の皆さんのように思えてならない。このようなカルト判定までは行かないまでも、神を神でない人間をあたかも神のごときものとするような偶像崇拝に知らず知らずのうちに聖書的であるとする概念にまみれたような、日本の教会が少しでも増えないように祈っている。

                       

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