2017.06.01 Thursday

2017年5月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

     

     先月は、 28,883 アクセス、平均で、日に  931.7 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
     2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

     2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

      

     2017年04月      23,813 アクセス (793.8) 

     2017年05月      28,883 アクセス (931.7)

     

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     


    Doing Being Becoming Creating そして Recreation

    アクセス数  679

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

    アクセス数    609

     

    いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・

    アクセス数  411

     

    後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)

    アクセス数    374

     

    アクセス数    335

     

    でした。

     

     

    今月も特徴的だったのは、 Doing Being Becoming Creating そして Recreation がいきなりぶっちぎりのトップであったことですねぇ。これは霊性に関するエッセイみたいなもので、当初ほとんど関心を集めなかった記事が、なぜか今回1位になりました。個人的には、結構真面目に書いたのに、公開当初は人気がなかったのに、今になって人気が出るのが不思議だなぁ、と思う。また、いつものように、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第2位という結果に。

     

    今月は、後藤先生の『『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言』シリーズがずっと上位に来たのは、いいのですが、なんと、あの上品な世界に突撃するかのような、異種格闘技系の本の記事 いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・ が、後藤先生の本に関する記事を押しのけて、3位に。だってこの紹介、27日に公開したばかりなのにぃ・・・まぁ、この訳わかんない本を売らなきゃいけないヨベルさんにとってはいい話ではあるけれども、それもあって、協力はしたけど・・・

     

     

    でも、後藤先生から2回も応答を拝受したのは、何よりうれしかった… ブログやっててよかった…と真剣に思ってしまった。

     

     

    今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

     

    先月の御清覧、ありがとうございました。

     

     

    2017.06.03 Saturday

    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その64 (完)

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      さて、長々と続けてきた、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の連載も今日で終わりである。前半部分があって、ちょっと中休みがあって、そして、後半部分も、途中いろいろな特集物を含みながら、今日で終わりになる。長かったような、短かったような、もう十分なような、もっとやってみたい(しない、しない)ような感じもないわけではない。

       

      ついては、今日ご紹介するのは、最後の部分からである。

       

      われらは、どこに行くことが求められているのか

      多くの人々は目標をもって、生きている。と入っても、それは一時的な目標、一時的な目的であることが多い。一時的といっても、10年とか、20年くらいの目的であることもあるけれども。世俗の仕事の話で恐縮であるが、マーケティング系のことに関する授業もしている。この授業などでは、夢や、目標、目的について学生と対話的に授業することがある。若者らしい夢を持っている学生もいれば、ひどく現実的な夢といえるのかといえるほどの、1年先とか2年先くらいの目標を言う学生もいる。そして、それに向けて、彼らなりのやり方で、努力をしているらしい(全員が全員とは言わないが)。

       

      それでも、「何のためにやるのか」、「なぜ、それが目標なのか」ということを必ず聞いてみることにしている。その辺の質問になると、彼らにとっては、割と長期にわたると思われる夢を語る学生であっても、あまりはっきりとはしなくなる。何のために、どこに向かうべきかの方向性を見失っているかのようだ。とりあえず手近にあるもので考えるというのは、人間の認知の限界を考えると致し方のない部分もあるだろう。

       

      しかし、キリスト教で語られる世界観には、最終的な目的地、終結があると言ってきた。それは、帰るべき家、父の御下、アブラハムの懐、天国(天の支配の根源的な空間であると、ライトさんはいう)、・・・・と言われてきた。個人的には、そこに戻るべきだ、とも思うし、キリスト教関係者の神を信じておられる皆さん、その最終的には、その神のみもとに戻ろうとして、日々を歩んでおられるのだろう。

       

      そのことを以下の引用文で、ライトさんは、「その話し手のそば」と表現しているのだと思う。福音の話し手のそばに、そして、本来我々がいるべき場所、新しいエデンの園に招かれているのだと思う。

       

      夜が明けるときは、暗闇を新しい仕方で回顧することになるだろう。「罪」とは、単に律法を破ることばかりではない。機会を失うことである。私達もあの声の響きを聞いたからには、その話し手のそばに行き、出会うようにと招かれている。その声そのものによって変えられるようにと招かれている。その声とは、福音のことばであり、悪が裁かれたことを宣言する言葉である。(『クリスチャンであるとは』p.333)

       

      この部分を読みながら、次の聖書の場所を思ってしまった。まさに、これ、という感じ。

       

      【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1 
       15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
       15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
       15:27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
       15:28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

      (中略)

       15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

       15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
       15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

       

      あと、ライトさんが罪について面白いことを行っている。「」とは、「機会を失うことである」と言っておられる。この機会を失うことである、と言うのは大事なのだと思う。それは、神をより深く知る機会を失うことであり、神との関わりを持つ機会を失うことであり、神とともに時間を過ごす機会を失うことなのであり、さらに言えば、神とともに歩む人びととともに歩む機会を失うことであり、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習の聖餐の機会を失うことなのだろう。

       

      そういえば、オバマさんも機械を失うことに、面白いことを言っていた。

       

      http://www.bestsayingsquotes.com/quote/if-you-run-you-stand-a-chance-of-losing-but-if-you-dont-run-550.html

       

      先日の水曜日、世俗の仕事の会議がなかなか終了せず、水曜日の夜の聖餐式に行けなかったことを心底Facebookで嘆いていたら、関西のあるキリスト教書店の店長さん(ほぼ人物が分かる人には特定されてしまう)が「 聖餐は、週に一回で良いじゃないですか 」とおっしゃった。そんなことはないのである。そんなことは、ミーちゃんはーちゃんにてっては、まさに、 Covfefe (コーフェフェとアンダーソン・クーパーというキャスターは発音していた様に思う)である。

       

      Covfefeで遊ぶAnderson Cooper さん(CNN)

       

      ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアであるからかもしれないが、聖餐の機会を失うのは、本当に良くないのである。いや、できるだけ逃したくないのである。だって、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習でもある聖餐の機会を失うことになるではないか。そんなもの、可能な限り、逃したくはないのである。

       

      クリスチャンのきよさの誤解

      このブログでも、かなりのクリスチャンたちが「きよさ」を誤解していることを紹介してきた。ピューリタンの理解が歪んでいることについても触れてきた。例えば、この記事 (ピューリタン雑考)などである。まぁ、ピューリタンについての誤解はさておき、ある種の教会人は自らストア派の哲学者のように、本来神が与えたもうた美のような良いものであっても、それを否定する方向で進んできた部分がないわけではないと思う。それはあまり良いことではなかった、とライトさんは次のようにいう。

       

       

      教派擬人化マンガ 『ピューリたん』が読めるのは、キリスト新聞(今後展開されるネット版でも、『ピューリたん』は読めるらしい)だけ(キリスト新聞社、新社長がんばれ、新社長応援でちょっと載せてみた・・・)

       

      クリスチャンのきよさとは、(多くの人が思い込んでいるように)なにか良いものを否定することではない。それは成長することであり、さらに良いものをしっかりと掴んでいくことである。(同書 p.333)

       

      この部分は、あ〜〜〜、これは、聖書の以下の部分の理解か、と改めて思ったのである。

       

      【口語訳聖書】 マタイによる福音書
       13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
       13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
       13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
       13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
       13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
       13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
       13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
       13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。

       

      これまで、クリスチャンの中には、美は誘惑するものだから、と美しいものを蛇蝎のごとくきらい、小説でも、映画でも、芸術作品でも、イコンでも、十把一からげに無視し、否定するどころか、ひどい場合は破壊してきた人々も一部におられた。ろくでもなかったことだと、ミーちゃんはーちゃんは思っている。ミーちゃんはーちゃんにとっては、うまいもんはうまいのであるし、ええもんは、ええのである。

       

      焼肉はやのCM (うまいもんは、うまい 笑福亭鶴瓶が若い w)

       

      それを、これまで、勝手なストア派的な理解の延長線上で、本来善きものであったものを勝手に捨てたり、勝手に乱用してはいけないから、と美しいもの、善きものを否定し、排除してきたような部分もあったかのように思う。そうじゃない、それはまずいのではないか、とライトさんはおっしゃっているようだ。そして、クリスチャンのきよさは、「さらに良いものをしっかりと掴んでいく」ことだ、と明白にライトさんは言っている。

       

      それは、神に近づいていく問うことであろうし、真実をつかんでいくということだろうし、神との関係を深めていく、つかんでいくということなのだろう。

       

       

      本来のものに向かって歩む

      ところで、人間の姿が的外れ、ずれていることが問題だというのが、聖書の主張であり、その的外れの状態、ずれていることが「罪」だというのが聖書における「罪」理解であることは、ある程度知られていることだろう。そのあたりを、ライトさんは非常にうまく次のように表現している。

       

      私たちは、霊的であるために作られていながら、内省にふけっている。喜びのために造られていながら、快楽に浸かっている。義のために造られていながら、復讐を叫んでいる。良い関係を築くために造られていながら、自分のやり方を主張している。美のために造られていながら、感傷で満足している。しかし、新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた。クリスチャンは、いまのこの世界の損なわれたもの、不完全なもののすべてを、イエス・キリストの墓の中においてくるようにと、召されている。(同書 p.334)

       

      ここで大事だなぁ、と思ったのは、「霊的であるために作られていながら、内省にふけっている」という部分である。「本来、神を見るべき霊的な存在であるにもかかわらず、自分の中しか見ていない、そこには善きものは湧き上がってこないのに・・・」といいたいかのようである。その意味で、本来霊の源泉、あるいは、霊が清水のようにあふれ出る水道管のような存在である神をみつめるかわりに、下水道管の出口のような自分の心の内側のみを見ているのが、人間ではないか、とでも、ライトさんは言いたげである。

       

      そして、義を生み出すために人間は創造されたのに、復讐と称する殺戮を人間はしているではないか。パウロだって、神が復讐するのだから、神に任せよ、と言っているのに。ここで、ライトさんは、義のための戦争とか、平和のための戦争とかナンセンスなことを言っているのは、どうしたことか、とライトさんは言っているかのようだ。

       

      【口語訳聖書】 ローマ人への手紙
       12: 19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

       

      The SimpsonsでのRevangeについての表現例 ホーマー・シンプソンの奥さんのマージが「Revenge(復讐)は何も解決しない」と言っていることに対して、ホーマーは「じゃぁ、アメリカ買楽でしているのはなんだ?」と問い詰めるシーン(32秒あたりから)が秀逸。

       

      そして、何より、「新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた」という部分が印象的である。毎年、イースターの時には、He is RISEN, INDEED. XRISTOS ANESTEIと言いながら、それを覚えているし、聖餐式ごとに(あるいは、礼拝ごとに)、キリスト者は覚えているはずなのではなかろうか。

       

       

       

       

      ライトさんによれば、イエスの復活後にイエスに従うもの、クリスチャンであるということは、神という太陽が朝日の様に地上を照らし、その朝日のような太陽に照らされるように、新しい世界への道でもあるイエスの歩んだ道を歩むのが、クリスチャンということになるらしい。下の図のような感じだろうか。

       

       

      http://bsnscb.com/gorgeous-morning-sunshine-wallpapers.html から

       

      あぁ予想以上に長くかかった。長いブログで延々とした連載に、お付き合いいただき心から感謝します。

       

      これにて、クリスチャンであるとは、についての連載は 完としたい。

       

       

       

       

      2017.06.05 Monday

      『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その1(神学校授業のレンチン説教は・・・)

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        前回、先月末の記事  いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・  で『焚火を囲んで聴く神の物語』を神学プロレスと称したが、久保木さんによれば、あれは、『神学フェス』だという。まぁ、そういう意味でいば、『神学ジャムセッション』といってもいいかもしれない。

         

        しかし、個人的には神学プロレスだと思っている。なぜかというと、「戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争」とクラウセヴィッツさんがいったのか、いわなかったのかはしらないが、対論が真剣なものである以上、言葉による真剣な、どつきあいしないと面白くないではないか。なので、今回、がちでその対論という学問的などつきあいを世俗の側にある人間としてやろうとしてみた。7000字という制約付きで。

         

        オファーの経緯

        ミーちゃんはーちゃんは、プログラマさんでもあるので、クライアント・依頼者・発注者の制約は絶対である。かるいオファーは、大頭さんからFacebookのメッセージであったが、この場合の正式のオファーは、メールで出版社のヨベルの社長の安田さんからやってきた。メールでこようが書留でこようが、内容証明郵便でこようが発注者の制約条件は絶対である。今回の依頼は、メールで頂戴したが、素直にそれに従った。そうしたら、お一人、どうも、この字数制約をガン無視したのが、上沼老師である(最近、中国人の留学生の世話をすることが多いので、彼らは、ミーちゃんはーちゃん老師と書いてくるので、それが伝染している)。

         

        校正稿を見たら、上沼老師お一人、長い(倍ぐらいの1万字超)の長さなのである。正直、「ずる〜〜い」と思った。「こっちのほうが、よほど、場外乱闘じゃん」と思った。あと、お一人、色々斟酌すべき諸事情があったことは間接的に存じ上げている方なので、個人を特定はしないが、締切を大幅に遅れて原稿を送られた方(2月末段階でも原稿が入っていない)もおられた。それらの方こそ、個人的には、場外乱闘ではないか、とおもうのである。

         

        そういう意味で、この本では、読者からは一見、目に見えない場外乱闘事件を起こしている執筆者もおられるのである。

         

        ところで、先のクラウセヴィッツさんであるが、どうも本当のところは、多分 「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」 と言ったらしい。

         

        プロレスのどつきあいにしても、学術的対話をするにしても、ある種真剣にやるということは、ある程度の流血覚悟をするということであろうし、その覚悟でリングに上がっているわけだ(いやなら、そもそもリングに上げなければよい)し、それは、大頭さんの方も、望むところだったと思う。なぜならば、大頭さんは、この本の共著者は、同調者ではなく、対話者(対論者)だと繰り返し、この本が出るまえの企画段階でのFacebookでのチラみせ(スニークプレビュー)の投稿でそう語っていたからである。

         

        情報処理学会のラインスタンプではないが、「同調者ではなく対話者(対論者)である」とまでおっしゃるなら、と世俗の職業人として、そして、神学的素人の見地から応答して差し上げたのが、拙論である。たかだか7000字である。そもそも、そう大したことはかけない。

         

         

        ところで、この本の私の応答部分について水谷潔 尊師(当然、これはおふざけ表現である。読者よ、悟れ)はFacebook上で、次のように書いておられた。

         

         壮絶な戦いを繰り広げたのが、川向氏。神学とは関係ない大頭牧師の悪行三昧を暴露するという「場外乱闘」を繰り広げ、「凶器攻撃」に出る。リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿させるこの流血マッチも、「神学プロレス」の醍醐味の一つだろう。

         

        確かに、大頭さんの悪行三昧は書いた。だって、旧約聖書には、アブラハムの悪行三昧も、ダビデの悪行三昧も、包み隠さず書いているではないか。この本は、旧約聖書の路線の上で『神の物語』を聴く、として企画が上がっている以上、当然のことだと思ったので、この大頭さんというどうにも困った人の大頭さんに対する、最もあわれみ深いお方、すなわち神の憐れみを、きちんと示すためにも、そして、神の御名が賛美され、栄光が評価されるように、きちんと悪行三昧も書いておかねばならない。

         

        市井の研究者への冷たい態度
        このキリスト教業界、牧師が表街道だとすれば、平信徒は、裏通り、あるいは裏街道を歩むのが当然のようにあつかわれる。それは、キリスト教メディアでもそうだし、神学校と呼ばれるところでも、基本的には相手にされないし、牧師の世界の人たちからは、なにを言っても、鼻先で笑われている様な印象がある。ミーちゃんはーちゃんのひがみ根性からの歪んだ印象かもしれないが。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんとお付き合いいただいている牧師の先生方は、そういう対応をされる方はほとんどおられない。
        ところで、こういった対応は、まぁ、それは、教会の世界だけに限らない。学問の世界でもそうなのだ。

         

        学問は基本的に学の世界や業界の専門家の世界である。組織に所属しないで研究をする人のことを、市井の研究者と呼んだりするが、こういう組織を背景としない存在(いまは、独立研究者 Indipendent Researcherと呼ぶことも増えた)は、案外、想定外の質問、つまり、先の「この分野は、素人なので教えてほしいのですが・・・」と前置きをするかしないかは別として、「いまから、学問的に公開処刑をするから、歯を食いしばれ」に近い質問をするから、実におっかないのである。一応、ある分野をしている人からすると、「そこを言っちゃうと、これまでの蓄積を含めて、おしまいになるから、それは言わないお約束」という暗黙の一定の了解事項があるのだが、学者にとって素人の質問がなにより恐ろしいのは、この「言ってはいけないお約束」を完全に無視してくるからなのである。そもそも、学問の世界で、基本的には言ってはいけないお約束は、本来ないはずなのだが・・・。
        一応、魔術師の例でいう「詠唱」部分で、「観測や測定方法、時間的、文字数的な制約による限界がある研究成果だから、それ以上は突っ込まないでね」という学術分野ごとのお約束を述べるということは言っておく習慣のようなものはある。とはいえ、基礎的な前提を疑うことなんかはまだ正当な批判なので、学問の側は、正当な批判である限り、ある程度受けて立つ気分はある。

         

        一番困るタイプの市井の研究者は、「自分は個人で長い時間かけて研究しているのだから、あなた方、学問の側にある側は認めないかもしれないが、たとえ専門家あなた方には、意味が分からなくても自分に自己流の用語であるかもしれないが、自分の発言の権利をよこせ」と結構高圧的に批判的なことをおっしゃるタイプの方のご発言である。結構、これ、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)とか、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル)系の左派系の人々や、ご自分だけで勉強しておられて、自己の研究を他者の目から見て、対話的に、批判的にご自身をご覧にならなくても済むような環境におられる高齢者に多くて、もともと性格が偏固であるためか、だれからも相手にされないタイプの方に多いような気がする。まぁ、一応相槌を打ちながら、お話はきちんとお伺いすると、少し冷静になられるのか、その過激な言動は少し和らぐので、その落差がかわいらしく思えることが多い。このタイプは、教会を批判するために教会に来られる方にもかなりの確率で散見される。

         

        要するにこういうことをおっしゃる方は、「教会内の仲間内でやりやがってけしからん(おいらも仲間に入れてくれ)」ということだけが言いたいだけなんだろうと思う。ただし、仲間に入る、リングに上る以上は、ヤコブのレスリングの記事ではないが、お互いに取っ組み合いをやるわけであるから、腿の蝶番の外れることだって、そして、怪我をすることだって覚悟の上である。けがをしないためには、ちゃんと受け身や練習しておかないと、だめである。そうしていても、けがの一つや二つ、流血の一つや二つなければ、面白くないではないか。サッカーのワールドカップが茶室のなかでのお茶の勝負になってしまい、相互におっとりと、「結構なお手前で・・・」みたいにやられたら面白くはないだろう。

         

        とはいえ、マジで茶道をやると、あれはあれで結構、格闘技系芸術なので、「茶道具合戦」「掛け軸合戦」になったりするのであるが。たぶん、千利休に秀吉君が切れたのは、秀吉君に離宮がガチ勝負を挑んだからだ、と思うのである。まさに、派手さを追求する絢爛豪華系を目指す茶の湯の世界の秀吉君に、利休が「この絢爛豪華系のお茶の分野は素人なのですが…」と秀吉君とそのお茶の好みを公開処刑をしたから、時の権力者の秀吉君の逆鱗に触れて、死を賜ったのだと思う。

         

        道をガチ勢で極める世界(学問の世界もそうだが)は、「あな恐ろしや」の世界なのであり、けがをしたくない素人衆は、手出しをしないことに限るのである。ガチ勢を相手にすることは、案外実に恐ろしいのである。

         

        ここで、振り返ってみれば、ミーちゃんはーちゃんが「人のいいI.T.技術屋のおぢさん」としてのミーちゃんはーちゃんに対する印象をもっていたかもしれない大頭さんから、対論をお願いされたので、それもまた、ややこしい、オープン神論とかいう議論についてお願いされたため、「よっしゃ、そんならいっちょもんだろう」と学問の世界では当然の「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないんでいいのでしょうか…」と怒涛の攻撃をしたのが、本書第6章のp.162以降である。したがって、水谷尊師曰く「リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿されるこの流血マッチ」となってしまったのである。

         

         

        なお、学問の世界ではうっすらとは知られていても、多くの人々がご存じないのは、ニュートンや、パスカルなどの時代の割と有名な学者には、世俗の世界の住民で、市井の研究者、独立研究者だった人が多いのである。たかだか300年か400年くらい前まで、昔はみんな、独立研究者であった。恵まれたご身分でない人で勉強したかった人は、修道院で修道生活をしながら学問をした。コペルニクスがそうであるし、遺伝の法則を発見したメンデルも修道僧である。

         

        世界で最古の大学と呼ばれるイタリアのボローニャ大学も、もともとは修道院がその出発点であるし、世界の名門のオックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も修道院から始まっている。アメリカのハーバード大学も、もともとは牧師養成所であった。

         

        オープン神論とミーちゃんはーちゃん
         あの本で書いたように、第6回日本伝道会議(JCE6)では、社会と教会の関係を考えるセッションに事前に申し込んでいたにもかかわらず、そこから、突然引き抜きをして、オープン神論の世界に引きずり込まれた。聖契神学校の関野祐二校長が、直前に大頭さんにオープン神論のセッションをまとめるように、丸投げしたことが諸般の原因らしいが、そこに集まる多数の並みいる牧師先生のまえで、ことあるごとに、「川向さん・・・・」と神学的な素養のない人間に、大頭さんは助けを求めてきたし、かなり厳格な予定論に立つお立場の改革派系の牧師さんからある種、「おかしいじゃないか、そんな予定がきまっていないことなどは、神が全知全能なれば、神のご性質の理解がおかしくなるのではないか」とねじ込むようにおっしゃった方とも、行きがかり上やむを得ず、対話を求められたのである。一応、学問的誠意をもって応対はしたつもりであるが。当方だって、流血マッチをなんとなく行きがかりとはいえ、やらされたのだから、その場で気が付いたことを書いておこう、このオープン神論の背景に潜むある種の前提、世界観があること、それの妥当性があるのか、どこまで妥当性があるのか、前提としての妥当性はどうか、という気が付いたことを、「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないままで、神学的議論のみで議論を進めて、よいのでしょうか…」とぶちかましたのが、第6章の応答「神の群像劇(アンサンブル・プレイ)と私たち」の後半p.162の部分である。

         

        神学は牧師室のものじゃないかと…
        と、ここまで長い前振り(この辺は、学術論文での先行研究の部分、魔術師の世界での「詠唱」に当たる)をした後で、本論に突入である。この辺は、学資論文や、修士論文や博士論文などの学術論文の定石である。これもまた、学門の世界のお約束である。

         

        個人的には、組織神学などの勉強をまともに神学校でしたことはない。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、神学という魔術師の世界での「詠唱」をきちんと唱えられないし、唱える気もない。大体長すぎて退屈してしまうと思う。そこでこれまた、「素人的発想で、大変恐縮なのですが…何のために、神学があるのでしょうか」と根源的な質問(それはしてはいけない質問かも知れないし、少なくとも、日本やアメリカの神学校ではあまり教えてくれない重要な根源的問いだと思うが…)をしてみたい。

         

        今、世俗の学でもそうだが、学問のための学問が多すぎるような気がする。学問的成果を簡単にあげる(要するに論文を書くこと)ための学が求められているし、学問の評価も、基本的に論文を書かないと評価されない、根源的な問いをすることはあまり評価されない現状が実際にあると思う。なぜならば、そんな根源的な問いについての論文なんて、そう簡単にかけないからである。簡単に書ける論文は、テクニカルに書く論文であり、評価者である人々(それは匿名の評価者、レフェリーだったり、学位論文の審査員)に受けのいい論文を書かないと、よい評価がもらえないので、ついそういう安易な道に流れてしまい、本来、何のために研究するのか、なぜに自分がこれが面白いと思ったのか、などは一定の評価をしてもらうための犠牲として、結果として、無視されることが多い。その意味で、魂を売り渡して評価を得ているのである。しかし、それでいいのだろうかとも思う。その人のスピリットというか、魂というか、学問的な素朴な出発点とかは、案外大事にしたほうがいいとはおもうが、それでは、食えない。

         

        先日、Elementary (日本では、エレメンタリー・ホームズアンドワトソン in NY)というアメリカの海外ドラマを見ていると、「神学をやっている人は、神学では食えないので、別分野で就職している」というセリフが聞こえてきたが、学問の世界では、みんな生活するためには、魂を売り渡して、仕事をするしかないのである。

         

        ところで、そもそも、神学とは、神学のためのものだろうか、と素朴に、素人的発想で思ってしまう。もともとは、神学は、信徒が神の民として歩めるように整えることを補助するため、神の民に仕えるための学として始まったのではないだろうか。ほかの学でもそうだが、そもそも、天地創造の御業をより深く知るために始まった自然科学にしても、人のかたちが人のかたちとしてよりよく生きることができるように始まった医学にしても、今はその出発点を忘れ、神の御業などとは考えないまま、独自のベクトルで進み始め、自然科学の場合は、核融合や核爆発などにも貢献する原子物理学の世界という、人間には手に負えないものにもつながったし、医学にしてもそれが人間の尊厳なのか、神のみ思い(エンシャー・アッラー 神のみ思いのままに、という意味のアラビア語)を尊重しているのかうかがわしいような延命治療なども行われなくはないと思う。まぁ、延命治療の場合は、遺産相続などの関係で、簡単に死んでもらったら困るというような人間側の側面が働いている場合も無きにしも非ずであるが。

         

        いずれにせよ、信徒は、牧師室で生きているわけではない。霞を食って生きていけない以上、牧師室を占拠し、牧師先生に飯を食わしてもらう(時にこれをしてもらうとうれしいことは確かだが)ことを延々続けるわけにはいかないのだ。信徒は、生活の場があるのだ。逆に、牧師先生だって、信徒がつねに金魚の糞のように付きまとわれるといやだろう。信徒が、神の民が、神の栄光を求め、神とともにこの世界で生きられるようにすることを聖書から考えるのが、まずもって神学だったはずだし、聖書神学の大原則だったはずだ。他者と他者の言説をあげつらってどうこうするような神学は、神学のための神学ではあっても、信徒のための神学、神の民に仕えるための神学、神の民が礼拝するための奉仕者としての神学といえるのだろうか。個人的には、そう思う。

         

        輸入冷凍レトルト料理のような日本の神学
        そして、上に引用した水谷尊師のコメントに、なんで、ミーちゃんはーちゃんがあのような乱暴な応答をしたのかについて、ミーちゃんはーちゃんは次のようなコメントをお返しいたした。

         

        信徒が生きているのは、社会なんです。これまでの日本の神学とよばれるものは、その信徒が生きている日本社会を無視して、あるいは、日本社会の文脈のコンテキストをある程度無視して、西洋である程度出来上がってきた、パッケージ化されたレトルト食品のような神学を、これは舶来の非常に素晴らしい食事だ、と言って、ほぼそのままちょっとレンジでチンして出してきたのが、日本の教会の”神学”だったのではございませんでしょうか。

         

        大頭さんは、レンジでチンしたものをちょっと無節操に(という気はしますが)寄せ集めたものも、時々、ちょっと使いながらも、ある程度ちゃんと自分のところで調理して(ちょっとだけだけど)、それを我々にぶつけてきたような気がしたのです。

        としたら、それにキチンと応答して差しあげるのが、社会の側に足場をおく私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことでございます。この辺の匙加減がかなり難しいのですね。いきなり、マジで、システム論とか、科学思想の歴史理解とかだと、読む気なくすでしょ。w
        上の表現は、個人的には、後藤先生のご発言
         これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。

         

         

        の趣旨を下品に、より浮世風の言葉で表現したに過ぎない。アメリカやイギリスでの流行をそのまま持ってきて、○○の神学がはやっているから、と翻訳書に浮かされて、それが教会の中で幅をきかせる。牧会カウンセリングが流行っているからと、日本のプロテスタント派の教会の中でそれが流行る。実に残念なことである。

         

        牧会カウンセリングは、無意味だとは言わない。ないよりはましではある。

         

        ただ、流行に乗ってやるのはどうなのか、と思う。以前どこかでも書いたが、牧会カウンセリングは、本来、司祭と信徒の間での告解(いわゆる懺悔)で大概のものがカバーされていたはずなのに、告解は、おかしい、儀式的だとプロテスタントになったその末裔たちが勝手に廃止した結果、説教では簡単に処理できないために、教会の中で何らかの形での対応が迫らているゆえに、牧会カウンセリングが出てきているような気がするのだ。自分たちで勝手に廃止しておいて、何を今頃言い出すのか、とMさんでないけれども言いたくなってしまう。牧会カウンセリングをやるなとは言わない。しかし、やるならやるで、そのための神学をきちんとするほうが先ではないか。自分たちが捨ててきたものが何だったのか、ということを、まず反省すべきではないのか。「神学校で教えてないから・・・」というかもしれないが、それは理由にならない。

         

        牧師の先生方は、神学校で教わったことを信徒がわかるように平たい現代日本語に変換して語る(電子レンジでチンするように語る レンチン説教する、と以下称する)ことが牧師の役目だろうか。違うのではないかなぁ。Lean CuisineやTV Dinnerと呼ばれるレンチン料理がアメリカのスーパーに行くと、いろいろうられているが、神学校で仕入れたLean Sermon やTV Sermonなら、まだ、レンジでチンするだけましである。レンチン説教なら、ましかもしれない。中には、どこぞで見た説教をそのままコピペしたようなコピペ説教も出るようである。ミーちゃんはーちゃんのお友達になっておられる先生方や、この本の共著者にはレンチン説教やコピペ説教するような、そういう方はおられない。日本の教会の大半の牧師先生方の土曜日の深夜の呻吟ぶり(土曜深夜、Twitterを観察していると、このシンギンぶりが結構な頻度で出てくる)を見ていると、大変だなぁ、と思う。まぁ、レンチン説教どころか、コピペ説教でお済しになられる、そういう変な牧師先生はあまりいないようだが、一部にそういう方もいないというわけではなさそうだ。

         

         

        http://www.hezzi-dsbooksandcooks.com/2015/06/new-lean-cuisine-marketplace-meals.html
        上のリンク先を見るといろん種類のLean Cuisineが出てくる。

         

         

        http://www.cooksinfo.com/tv-dinners

         

        とはいえ、日本にアメリカの神学潮流が入ってくるまで、約20年のタイムラグがある(その意味で、お古であるともいえるし、十分にアメリカでの様子を確認し、安全が確認されてから入ってくるとはいえるかもしれない)し、以前は、もうちょっと時間的なラグがあったし、英国やアメリカなら、クラッシックとも呼べる本、例えばロイドジョンズやF.F.ブルース、ライル、ナウエンの著作などは、神学校の入学者が一定程度継続的に、それも一定の人数ボリュームがあるので、クラッシックとはいえ、いまだに印刷・販売され続けているものの、日本だと、神学書は、ここで会ったが百年目、親の仇でも仇討のように確保するように、書店で出会ったときに確保するか、復活書店さんなどの古書店で確保するしかないのである。実に残念なことである。

         

        日本の出版社は毎年、大量の2刷、3刷の出ない本ばかりを次々と出している自転車操業状態が常態となって久しい。この本だって、主著者の大頭さんが印税を取るのではなく、印税部分は大頭さんだって、現物支給なのであって、大頭さんは主著者自ら、売り歩いておられるのだ。共著者も印税はないしその部分は現物支給である。実に涙ぐましい状況なのだ。

         

        とはいえ、アメリカのキリスト教書の大手ともいえるZondervanなども大手出版社の傘下に入るなど、キリスト書関係の規模の小さい出版社は再編のあらしにまみれている。まぁ、これらの状況は、理工系の専門書などでも同様である。そして、その多くが、実は翻訳モノ(輸入書)なのではないだろうか。日本人著者によるものは、かなり少ない。そして、時々、翻訳が目が当てられないものも少なくないのだ。残念なことに。最近は、要所をそのまま読むほうが、妙な翻訳を見なくて済むし、何より、安いので、英語でそのまま読んでいることが多い。とはいえ、日本語でないと困ることもある。その意味で、日本語のキリスト教書では、少なくとも、あめんどうの本は、編集の人がかなり厳しい目を光らせているので、翻訳書であっても、安心しててもよいが、それ以外の書店のものは、訳者を見ないと、信用ならないものが多い。訳者を見てても、外れの時もある。

         

        どうも、日本のキリスト教所業界をマクロ的に見ていると、アメリカで十数年か数十年前に流行った本が、レンジでチンするかのように日本で翻訳されて、神学校で読まれ、それが教会の現場に広がっていく現状があるような印象も、日本のキリスト教書の出版事情を見ていると、起きているのではないか、と思うほどである。某神学校では、いまだに、戦後間もないころの大先生の著作が、いまなお読み上げられているとも聞く。それをもとに受講生と議論するのではなく、講義の時間には、教員がその古い本を読んだり、学生が音読しているという、信じられない教育が行われているらしい。日本語についての語学教育でもあるまいし。もう、開いた口が塞がらない。

         

        神学校での教育がそれならば、レンチン説教で済ませる人が出てくるのも理解できなくはない。

         

        ところで、アメリカや英国ではやっているからいいわけではない。

         

        しかし、10年も、20年も時代遅れの冷凍焼けして、かなり硬くなったり変色したような聖書理解をありがたがって受け取らされている現状ってどうなのかなぁ、と思う。それならば、正教会のように、聖書と古代教父のものしか読まずに作り上げられる説教のほうが、変に中途半端に古いものよりも、よほど熟成がなされていて、濃厚でいいような気もするけれども。大体説教時間が短いし。

         

        大頭さんのオープン神論は、おそらくレンチンである。何冊かきちんと本読んだ結果ではないと思う。どこかでちらっと聞いたことや、山崎ランサムさん(大頭さん風の表現によれば山崎ハンサム)のブログを読んだだけという節が感じられる。そもそも、「こういう話はこういう理解でいいか」とミーちゃんはーちゃんにときどき、聞いてくる段階で、かなり怪しい。

         

        まぁ、詳細は読んでないにせよ、本書の素材は、まとまった本を何冊も読んだうえで、というわけではないにせよ(その意味で、レンチンではある)、一応自分で考えてみて、なんとか信徒さんのレベルにも聖書の世界をわかりやすく受け取ってもらえるよう、工夫をして述べようとしたのが、本書ではある。ちゃんと調理をして、味見くらいはした感じが、本書であると思ったほうが良い。

         

        調理不足や、調理の盛り付けは、まぁ、ひっちゃかめっちゃかではあるような気がするが、一応、自力である程度格好よく見せようとして、盛り付けまで、やろうとした、ということと、やってみたという、その精神は高く評価したい。だからこそ、面白がって、同書でも応答したし、こうやって、台所事情を、料理の鉄人よろしく中継しているのだ。

         

        1980年代中葉に大流行した料理の鉄人。この番組のフォーマットはアメリカにも輸出され、アメリカ版の番組ができた。

         

        アメリカ版 料理の鉄人 Iron Chef

         

        こういう料理をぶつけられた以上、単なる感想ではつまらないではないか。なぜ、このようなオープン神学というような亜流とも思える神学思潮が出てきたのか、近代社会と近代キリスト教社会をゆるく支配してきた組織神学の体系がもたらした現在の社会の閉塞感と、その閉塞感を打破しようとして、これまでの蓄積を、あえて無視したような神学の体系や学問の体系がどうして出てきたのか、ということを現代社会という生活の座から軽く解き明かすことこそ、世俗社会に生きて、世俗社会の閉塞感と、世俗社会でのポストモダン思潮や、ポストコロニアル思潮を横目で見てきた人間の役割だと思うので、メタ世界からの議論を申し上げ、話題を提供したまでである。神学にとってのメタ概念を、場外乱闘とおっしゃるならば、言われたらよろしい。

         

        日本の神学状況を横目でちらちらとみているに、どうも神学という象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのか、あばら家なのかは知らないが、どうもその建物の中に凝り固まっていて、その世界の内側だけを見ている感じがして、この辺の社会の状況ととらえて社会に出ていくための神学をしている人が少ないような気がする。それを、不十分とは言えども、乱暴さを持ちつつも、そのあばら家なのか、象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのかを飛び出して、我が道を行く、という感じで行こうとした大頭さんに対する、援護射撃が、あの場外乱闘、メリケンサックでガンガン、チェーン攻撃でビシビシなのであり、これから数回連載する予定の悪役レスラー篇である。悪役レスラーであるからこそ、裸の王様に、「王様は、裸ちゃうんか」といえるのである。

         

        まぁ、お約束の攻撃なのと、先にも述べたように、庫裏なのか、楽屋裏なのか、台所事情なのかは知らないが、裏事情はかなり知っているので、かなり、衝撃が弱まるよう、悪役レスラーのように、ちゃんと、緩めに攻撃をしている。それこそ、マジでやるときは、情報処理学会のラインスタンプよろしく、「この分野、素人なので、教えてほしいのですが…」といいつつ、青白い炎を立てて、聞きまくって、だめ出しする。

         

         

         

        しかし、神学とは、先にも述べたように、世俗の社会に生きる神の民のための営為ではなく、さらに、牧師室の本棚の肥やしを増やし、あるいは、今後のレンチン説教を量産するための在庫の積み増しを増やすためのものであるとするならば、実にナンセンスなことである、あるいは、意味ないじゃん、と思う。

         

        明石家さんまさんの「意味ないじゃん」 (2分37秒あたりから)

         

         

        今は、ミーちゃんはーちゃんは流浪の信徒ながら、いや、流浪の信徒であるがこそ思うことができるし、今は流浪の信徒であるからこそ言える。流浪の神の民、寄留の信徒であるがゆえに、怖いものは何もない。好きなことが言えるからこそ、好きなことを申し述べさせてもらいたい。それがご不満なら、どうぞ、PCの電源をオフになさるがよろしかろう。ブラウザのタブボタンを閉じられれば良い。あるいはブラウザの閉じるボタンを可及的速やかにクリックされたい。

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

         

         

        評価:
        価格: ¥ 2,700
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        コメント:まぁ、いろいろございます。面白がって書きました、って感じ

        2017.06.07 Wednesday

        『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない)

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          今回も前回に引き続き、『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇の第2回として、あの本の対話者として、何をやろうとしたのか、を述べてみたい。

           

          完全原稿型・・・

          世俗の仕事の話で実に恐縮であるが、学会発表とか、イベントとかで、原稿を見ながら、それを一字一句そのまま読み上げるタイプの講演とかスピーチをする方がおられる。それは、それで、一つのスタイルである。重要なことを伝えるのだから、間違ってはいけないということで、こうなるのはよくわかる。世に、完全原稿型の講演とか、完全原稿型のスピーチというタイプのものである。教会でも、完全原稿型の説教というのもある。それはそれで一定の役割があるし、それはそれで、重要な側面を伝える上では大事な方法論なのだろうと思う。政治家の世界では安倍晋三氏がこのスタイルであることがわかっている。

           

           

          完全原稿を読み上げる安倍晋三氏のことを報道するFriday
          http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3428.html から

           

           

          説教者不在につきラジカセのテープでの説教も…

           

          その昔、教会(キリスト集会)で説教をしていたこともあるが、基本的に完全原稿でしたことはない。そもそもミーちゃんはーちゃんには、無理なのだ。世俗の仕事の講義でもそうである。個人的には、かったるくてやってらんない、って感じである。一応は、基本となる骨格は作るけれども、一字一句、完全原稿を作って、それを音読するというようなまねはできない。体質的にそうだということである。学会発表でも、英語なんかの自分の母語でない言語でやる際、最初のころは、完全原稿を作って、それを読み上げることをしていたが、最近は、それもしなくなった。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、基本的に出たとこ勝負の人なのである。

           

           

          ラジカセ(イメージ画像です)
          http://rararadio3.blog.fc2.com/blog-entry-306.html より

           

           

          時々、職場の口の悪い同僚と学生の論文発表や学会発表などを見たりすることがあるのだが、その口の悪い同僚曰く「完全原稿、読み上げるだけなら、事前に録音していた録音テープでもながしゃいいのに。わざわざライブでやる必要ある?事前に論文配布して、その論文読んでおけばいいだけの話でしょ」と切れ気味に同意を求めてくることがあった。確かに内容のほとんどないつまらない発表で、スライドも使わず、読み上げ原稿で済まされる発表もある。文系の学会とか文系の人の学会発表では、このタイプの発表が結構今でも存在する。事前に論文を読んで行くような学会で、それと一字一句違わない発表なんかされたら、「この時間の無駄、なんなの?」って思ってしまうことがある。外がお天気いいときなんか、お外に遊びに行きたくなる。

           

           

          一番、強烈な例は、巡回伝道者が中心になって成立したキリスト集会(教会)で女性信徒しかいないとき、キリスト集会では、女性が語ってはいけないことになっている(キリスト集会派では、ここについてと女性の被り物だけは、なぜか厳密に墨守がされている)ので、仕方がないので巡回伝道者がいないときには、その昔、その巡回伝道者が語った過去の説教の録音テープを流していたという。この話を聞いた時には唖然とした。制約の中での最後の手段、という感じだったんだろうが、ある種、謎のようなこの話をごく当たり前のことかのように普通に語る人々のお話を聞きながら、愕然としてしまったことがある。こういう感性だと、アンドロイド牧師、とはいっても、携帯端末のO.S.のアンドロイドではなく機械仕掛けの人形のほうであるが、それに、牧師の代理をさせるという発想にもつながりかねない。

           

           

          人工知能を活用したロボット説教者・・・
          日曜日の朝、ちゃんと聖別され(聖成され)、あるいは按手を授けられたイケメソのマネキンを講壇に立て、人気声優の声で録音されているか、棒読みちゃんのようなテキスト読み上げソフトで読み上げられる、どこぞの有名説教者と呼ばれる超有名牧師先生の完全原稿の説教とこれまた事前にふさわしい内容の祈りの言葉をのべさせて、事前に設定された適切な讃美歌番号の讃美歌をヒムプレーヤーの伴奏で歌い、そして、きちんと按手されたイケメソのマネキンから祝祷を受けて帰ったら、プロテスタントの教会いっちょ上がりになるではないか。これを支える神学さえ、作り上げさえすれば、無牧教会問題は、問題一挙解決である。インターネット中継の礼拝とかなんかより、よりリアリティがあり、地方の無牧問題は、一挙解決である。これで、日本のキリスト教の未来は明るい。(ウソ)そんなわけがない。

           

           

           

           

          https://stuffwaynewrites.wordpress.com/2013/01/10/will-robots-replace-our-pastors/
          うわ、おんなじこと考えているやつがアメリカにおった。ある面、当たり前なんやねとは、思った。

           

           

          そんなこんなを考えていたら、ドイツで、祝福機能が付いたロボット司祭ができてたらしい。(BreadFishの丸山さん、FBでシェアしてくれてありがとう)

           

           

          ロボット司祭の動画像

           

          このロボット司祭については、http://www.tawashix.com/entry/robotPriest に詳しい

           

           

          しかし、だれがこのロボットに按手したのだろうか。このロボットの使徒継承権はどうなるんだ…といったことを考えて、東京の地下鉄の電車はどうやって入れるのか、という春日三球・照代の漫才のように考えて夜も眠れなくなりそうである。寝るけど。

           

           

          懐かしの地下鉄漫才

           

           

          とはいえ、説教中心で考えるなら、聖餐を軽視し、リタジーを軽視するなら、極端な話、こんな教会運営だって、十分候補のうちに入るだろう。このような在り方の教会運営を否定しようとするなら、それをきちんと否定する神学を、今のうちに早急に作ったほうがいい。日本の10年後の教会は、ロボット牧師を考えなければならないほどの状況になっていると思うが。

           

           

          予定調和型の教会がなしていることは、あるいはリタジーや聖餐が無視される教会や世界では、これと同じことが起きかねないのではないだろうか。それこそ、これが現実化して、古今東西の名説教と呼ばれるものをA.I.(Artificial Inteligence 人工知能)に機械学習させて、ある程度の説教ができるのであれば、10年後になくなる職業の一つに、教会の説教者ということが含まれうるかもしれない。教会が説教でできているとして、説教だけに限れば、話しである。

           

           

          あるいは、説教は生身の人間が声を出して読むにせよ、機械学習したA.I.説教製造マシーンに、計算機に内蔵されたカレンダーから教会歴を割り出し、会衆が関心を持ちそうなキーワードとか、スマホから説教についての希望するキーワードを集めた集計結果を全自動でぶち込んで、5分もすれば、古今東西の優れた説教を網羅的に機械学習した人工知能先生による見事な説教が出来上がるのである。

           

           

          コンピュータ教会・・・
          前回、レンチン説教ということをお話ししたが、レンチン説教ならぬ、A.I.チン説教ってのもそのうち本当にできるかもしれない。こないだ運転していたら、面白い看板を見かけた。コンピューター検眼っていうメガネ屋の看板である。この種のコンピュータにはなんでもできる、なんでも正確といった無茶な信仰、「もうおやめになりませんか?」と計算機屋としては思っている。

           

           

          そのうち、コンピュータ説教とか、新規性を求める教会では、「当教会では、IBMのワトソンが学習して作成した名説教を毎週皆様に…」とかわけわからん事を言うような教会も出てくるかもしれない。なお、IBMは、最近ビッグデータと人工知能のワトソンに力を入れているらしい。

           

           

          そして、そうゆう教会では、信徒は信徒で、ロボットにアバターつけて、教会にロボットを派遣して、説教を自宅で聞く、とか、ロボットを介して、お交わりをするとかになるんだろうか。完璧に予定調和型でリタージカルな側面を軽視するような教会だったら、本当にこれでできるんじゃないか、という錯覚にも一瞬陥りそうである。

           

          あぁ、やなこって。w

           

           

          IBMの高速計算機 ワトソン
          http://robotstart.co.jp/news081.html から

           

           

          マンネリ化を防止し、礼拝にリズムを与える教会暦とリタジー
          こういう予定調和的な教会って、あるいは意外性のない大いなるマンネリと呼んでもいいほどの、マンネリ化した教会って、好きな人は好きなのだろうけれども、個人的にはミーちゃんはーちゃんには、会わない。プロテスタント系の教会しかご存じない方は、伝統教派をマンネリとご批判になられれる方もおられる。リタージカルなものを大事にする伝統教派のほうが、ある種マンネリという部分もあるかもしれないが、そこはうまくできていて、飽きないようにちゃんと、教会歴や『たき火を囲んで聞く神の物語 対話篇』での大頭さんの先輩遊びの出発点となった先輩記念日表というものがあって、これまでの信仰者としての先輩たちがど尿なことを成したのかを覚えるという側面もある。この教会歴や先輩記念日がリズムを生み出すこと、そして、礼拝をする会堂の様式を教会暦に合わせて変えることの意味は、伝統教派に行ってみて、深く思い知るようになった。

           

           

          季節ごとに代わる聖なる食卓、教会暦に合わせた多様なリタジー(式文)、あるいは、レント(大斎)の経験、実に見事と言うしかない。プロテスタントでも、そのようなものを一部取り組んでおられる教会もないわけではないが、これまで言った教会ではきわめて薄っすらとあるくらいであった。

           

           

          まぁ、そういう変化がないことについての課題についての感性が鈍い方もおられるので、大いなるマンネリ、教会暦などとは無関係に均質性、一貫性を追求される教会もある。それはそれで、見識だと思っている。まぁ、現代の人工知能、ワトソンくんくらいなら、この辺も適切なし気分を揃えてくれるだろう。そうだとしたら、生身の人間としての牧師や司祭は不要になってしまう。

           

           

          こう考えてくると、Pythonなんかでプログラム書いて、クローラーでも作って、新聞とか、ツィッターとか、ウェブに上がってくる情報を拾いながら、そこで現れる単語から社会の動きなんかを拾ってきて、その辺を説教に反映させて、古今東西の正教の伝統、カトリックの伝統、アングリカンの伝統、プロテスタントの各派の伝統に保存されてきた名説教を、IBMのワトソンくんに機械学習させて、作成させたほうが、説教の内容という意味では、よほど世間に生きる平信徒にとって充実していると感じられるような説教にはなるかもしれない。少なくとも、説教の文字テキストを作り出してくれるようになる日はそう遠くないと思っていると、これからの神学校教育って、何をすることになるのだろうか、などと空想しては、ニタニタ笑っている。

           

           

          計算機やA.I.は神を理解するか?心を持つか?
          こうなると、計算機は神を理解するか、計算機は、神からの召命を受けるか問題にまでなってしまいかねない危うさをもっているように思う。あるいは、計算機はMind(思考)は持つことはできると思うが、Heart(こころ)を持つことができるか問題とも深い意味ではつながっている。先週まで読んでいたナウエンの本(The way of the heart)には、Mindの祈り(頭で考える祈り)とHeartの祈り(こころで祈る祈り)があると書かれていたが、近代プロテスタントの祈りは、Mindの祈りがメインで、ほとんどHeartの祈りがなかったのではないか、というようなことが指摘されていた。それゆえに、現代のMinistryにおいては、Heartの祈りを取り戻すことが重要であるということと書かれていた。それと重ねて考えると、計算機がHeartをおそらく持ち得ないので(というのは、計算機は、神の被造物ではないし、神の息吹を吹き込まれるようにできていないので)、当面どころか、未来永劫、計算機でガラガラポン説教は必要にはならないだろう。

           

           

          しかし、今後の日本のキリスト教徒の信仰がMind派に大きく傾倒していくとすれば、それこそ、計算機ガラポン説教のほうが、適切な説教構築のためのパラメータ(ウェイト)をきちんと与えさえすれば、望ましいものになる可能性が高い。とはいえ、計算機は、神の被造物ではなく、人間による被造物でしかないので、未来栄光、霊を宿すことはないだろう。

           

           

          その意味で、神の息吹が吹き込まれた(はずの)人間の牧師や司祭による司式や説教は、その価値を減じることはないだろう。

           

           

          予定調和を崩すのがお約束の悪役レスラーとして
           そこで、この本で、少なくともミーちゃんはーちゃんが第6章でやろうとしたことは、予定調和的な議論ではなく、大頭さんの言葉を拾いながら、適当に茶飲み話をするでもなく、あるいは、褒め殺し(これをすることはちょっと考えたが、あまりにも可愛そうなのでやめた)でもなく、対話である。対話は相手の話を聞きながら、ツッコミをビシバシ入れるものであると、関西人としては心得ている。この連載でも、あえてボケ倒したのが大頭さんだとすると、関西人としては、それにツッコミを入れるのが、責務と感じてしまったのである。お葬式のような漫才はつまらないだろう。漫才が漫才であるためには、適切なツッコミこそが大事なのだ。

           

           

          そう思っているから、ちょっぴり予定調和を崩してみたのだ。

           

           

          次回 「予定調和を打ち破るのが教会の○○ではないかな?」へと続く。

           

           

           

           

           

           

          評価:
          大頭眞一
          ヨベル
          ¥ 2,700
          (2017-06-01)
          コメント:おすすめしております。一応寄稿者としても。w

          評価:
          Henri J. M. Nouwen
          HarperOne
          ¥ 886
          (2009-09-22)
          コメント:大頭さんの本は読まなくてもいいので、英語が読める人は、この本を読むほうがいいかも。

          2017.06.10 Saturday

          『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その3(人を人らしく、教会を教会らしく・・・)

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            さて、ここのところ、プロレスでいえば、反則技すれすれ、水谷尊師のお好きな野球でいえば、暴投気味、内角高めギリギリといえば、聞こえはいいが、実際には、あわやビーンボールともなりかねない危ういところを突いた記事ばかりで恐縮であるが、今日も気を取り直して、いつものようにまた、危険球ギリギリのところで勝負してみたい。

             

            大暴投だとは知っているけど…
            大体野球は見ないし退屈する(そもそも見慣れてないから…)傾向にあるので、野球のことはよく存じ上げないが、基本的には退屈なゲームだと思っている。前にも書いたが、こういうビーンボールも時々混じるようなスリルあふれるのがないと、面白くないではないか。大体、日本の朝のニュース、それは、朝のニュースショーとは言えないような気がするが、ニュースがちょっと入るバラエティショーでも、盛り上がっているのは、こういうラフプレーやそのあとの乱闘騒ぎのほうである。であるからこそ、今日も悪役レスラーとして、書いてみたい。

             

            以前にも登場した口の悪い同僚によると、「野球場に行くのは、大声をあげて、ストレスを発散するため」だそうである。ということは、である。実は人は、このような乱闘騒ぎや危険球といったようなスリル要素が案外お好きなのであって、静かな茶室で、じっくりと抹茶椀を延々30分も1時間も愛でながら、「結構なお茶碗で・・・」とかはあまりお好きでないのかもしれない。個人的には、茶道具は見るのも使うのも好きなので、椅子席ならば、じっくりとお付き合いしたい。デブな年寄りなので、正座は無理だから椅子席なら、という条件付きなのである。

             

            計算機がつくる説教を、信徒がドローン飛ばして聞く教会って…
            前回、IBMの計算機Watsonで古今東西の有名説教を集めて、機械学習させ、会衆の希望を織り込みつつ、クロラーで集めた世間の情報を織り交ぜて、適当なウェイトを用いて作り上げらた説教も、そのうち、理性(Mind)重視派には受けのよい、かなり完成度の高いといってもいい説教が出来上がり、それを、お好みのボカロイドに読ませて、説教者はイケメソ風のアンドロイドで、会衆は、ドローンを飛ばして、そのイケメソ風のアンドロイドの説教を聞くということが起きるかもしれない、という無茶な投稿をしてみた。それなりに反響があったので面白かった。とはいえ、大した反響があったわけではないが。

             

            ドローンっていっても、(Boeing Phantom Eye) みたいなのが来たら怖いかも http://www.boeing.com/defense/phantom-eye/

             

            教会では、IBMのワトソンが変えないとかいうご意見もあったが、そんなもん、インターネットがあれば、時間で借りるレンタルをすればよいのである。インターネットで、説教を作るためのパラメータ(改革派の要素**%、メソディストの要素**%、バプティスト要素**%、お笑い要素**%)とかぶち込めば、勝手にそれなりの説教になって読み上げ用の説教原稿が出てくるなんてことも、相当カラン未来に、ソフトウェア的にはが可能になるだろう。

             

            予定調和で行けば、これでもいいはずである。

             

            でも、それで、説教か、それが、説教か、それが、教会か、それで、教会か、と言われたら、ミーちゃんはーちゃんはそうではないと思っている。今は聖公会の英語部の出島のような教会に寓居していることにしているが、もともとは清め派であって、前回も今回も書きながら、清め派のの血が騒いで仕方がなかったし、それは説教といえないと思っているし、そんな機械仕掛けの説教をありがたく拝聴しているのが、教会と思えない。そして、個人的には、そんな予定調和の説教や、教会なぞ、詰まんないと思っていることは、間違いない。もっとダイナミックなものが説教だと思っているし、もっとダイナミックな存在が教会だと思っている。

             

            でも、以前キリスト新聞の連載小説になった架空のコピペ牧師の説教って、古今東西の名説教を用いているわけではない、と思うので、仮に可能であるとして、機械学習して、適切なパラメータから計算機が生み出すような説教よりは格段にひどいはずである。過去の説教を参考にするのならまだしも、いろんな教派の説教をでたらめにとってきて、説教が作られているとしたら、もう、聞いているだけで、頭が割れそうになったりするだろうし、悪酔いするのではないか、と思う。帰って、人間が手抜きをして恣意的に何かするほうよりは、バカまじめな計算機がガシガシやって出してくるもののほうが、格段にましなこともあるのではないか、と思うのだ。

             

            まぁ、よく考えてみれば、理神論でやる教会って、こういう教会を究極に目指していたのかもしれない。そら、もう、キリスト教といえなくなるのは当然である。

             

             

            それで、考えてみると
            では、教会を教会とする○○とは何か、ということを考えてみたい。それは、人を人とする○○とは何か、ということでもある。もう少しいうと、人間を神のかたちとする○○とは何か、ということである。

             

            このブログの長い読者なら、もうおわかりのはずである。同じことを手を変え品を変え何度も書いてきたからだ。それは、リングマの本でも強調されてきたし、N.T.ライトのクリスチャンであるとは、でも強調されていたことである。○○とは、聖霊(聖神)のことである。これなしには、キリスト教はキリスト教になりえないものであり、先週の日曜日は、ペンテコステであったが、そのペンテコステの日に人々に臨み、聖霊が人に臨在されることが起きた、とういキリスト教にとっての大事なできごとを記念する日であった。

             

             

            人間には聖霊が内住するようにできている。神とともに生きるようにできている、聖霊が与えられる約束が与えられている、同表現するかは多様ではあるが、神とともに、聖霊をうちにいだき、生きることこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。かっこよく生きることでも、人から賞賛されるように生きることでも、人の基準や世間一般が当たり前とすることでもなく、ただ、神に従い、神とともに、神の御前に生きるということこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。神にあって不甲斐ないながらも、生きているということこそが、神のみ思いなのだろうと思う。

             

            重きは神の側か、人間の側か…
            この点、この200年の外国から来たキリスト教は、どこか、人間の視点が中心になりすぎていて、神に従って生きるとか、そういうことは、教会の中ではすっかりと人気のない考えになってしまっているようだ。まぁ、こういうことを勧めているキリスト教の一つに、正教会があり、正教会では、キリストに従うこと、神に従って生きることがかなり大事なこととされている。

             

             

            プロテスタントでもそうだ、と言われるだろう。ある面、それはそうかもしれない。しかし、神に従っているとは、言いながら、聖書に従っている、とは言いながら、神がこう思っておられるだろうなぁ、と自分なりに変換した神のみ思いに従っている、といっていることはないだろうか。あるいは、聖書に従っていると言いながら、自分が受け入れ可能な部分だけに限定した聖書の文言にのみ従いながら、聖書に従った生き方をしていると言っているようなことはないだろうか。あるいは、人間には、できないことはないという、一種のバラ色の理想、ロマン主義の影響を受けた人間観に従って、自分自身の不甲斐なさを認めず、自分自身が最大限努力することでなんとかなると自分自身も、他人もどっか騙しつつ、自分のすることは神の御心と一体化しているのだ、と強弁していないだろうか。

             

            そもそも、人間には、神のみ思いを完全に実現することなどできないのに。

             

            でも、そのようなロマン主義的な新校舎の姿でも、いいのかもしれない。神の哀れみの深さを感じ、そのことを知ることができるのだとすれば。そして、もし、その人間の力でなんとかなるという思い込みをもって過ごしてきたことを、神の前に悔い、神のもとに戻ろうとするならば。神の前に自分がいろいろなことができる、自分がこんなよきこともした、あんな神の栄光を帰すこともした、と言い張り、自分の努力や成したことを以下のイエスの祈りについてのたとえ話に登場するパリサイ人のように並べ立てるようなことをせず、かえって、取税人のように神の前に自分の不甲斐なさをさらけ出そうとするならば。

             

            【口語訳聖書】ルカによる福音書
             18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
             18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
             18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
             18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
             18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
             18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

             

            かたちだけこの取税人のようなふりをしているのではないか、とかご批判される方もおられるだろう。それも一理はあるが、イエスは、どう言われたであろう。

             

             

            【口語訳聖書】マルコによる福音書
             9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
             9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

             

            と言わなかったろうか。それを我々は、反対はしないが創造者である神を信じないものを、手前勝手に、「わたしたちの味方」とはせずに、「わたしたちの敵」としてきたのではなかったろうか。

             

            この企画の出発点となった『焚き火を囲んで聴く神の物語』の著者の大頭さんという人は、すぐに、「〇〇という人は敵ですか、味方ですか?」と以前はよくミーちゃんはーちゃんに問い合わせてきていた時期がある。個人的には、このような単純化がなされたものの見方は、おやめになりませんか、と以前くどくお諌め申し上げてきたところではある。最近は、ミーちゃんはーちゃんがあまりにうるさいことを言うからか、敵か味方かみたいなことは聞いてこなくなった。なぜかは知らない。

             

            単純、素朴な信仰者の姿

            息子の勉強に付き合う関係や、最近日本に来るムスリムの方の全体のボリュームとしても、増えていることもあり、ムスリムの人びととのお付き合いが増えた。日本だとムスリム=過激派=原理主義者という構図が出来上がりがちであるが、近くによってじっくりとその姿を眺めていると、実に多様な人々であることがわかる。国や出身地域、言語によって、世俗の仕事、その信仰のスタイルや微妙なところは違うのであり、イスラム、あるいはムスリムということばで一括りにするのが難しい人びとの多様な群れなのである。それは、キリスト教でも同じである。正教会系の人々の姿と、アメリカの福音派の人びととは、姿も行動パターンもかなり異なる。その意味で、キリスト教一括りにするには、実に多様な人々と教会の集合体なのである。

             

            ただ、ムスリムのある部分の人々、ムスリムの良心と言って良い人々とお付き合いしている限り、彼らは、信仰と行動が分離しておらず、信仰は信仰の世界、日常は日常の世界という切り分けをしないで生きている方がたの姿を見ていると、在る面、美しいなぁ、自然だなぁ、と思うのである。それは彼らが、発展途上国の人だから、というわけではどうもなさそうである。所謂これから発展する余地があるから、あるいは、伝統社会から来ているからこそ、割と単純、素朴な信仰者の生き方、というわけでもなさそうである。

             

            どうも、イスラム思想、あるいはヘブライ思想の中にある、ある概念が、このような単純、素朴な信仰者のあり方を可能にしているようなのだ。それは、自分が誰のものが、自分を含む他人が、自分を含む環境が誰のものか、ということと、実は深く関わっていて、それが、神から与えられているテキスト(アラビア語のクォラーン、ヘブライ語のトーラーあるいはタナッハ、日本語での旧約聖書あるいはヘブライ語聖書及び新約聖書、あるいは、ギリシア語聖書)をどのように理解するか、とかなり深く関わっているようなきがする。

             

            いわゆる旧約聖書、あるいは、学術語としてのヘブライ語聖書でも、いわゆる新約聖書、あるいは、福音書から始まり、黙示録が最期にあるギリシア語で書かれた聖書でもそうなのであるが、そもそも、人間とは人間のものではなく、人間とは、神のものであるというのが、基本的な理解である。環境にしても、土地にしても、水にしても、空気にしても、生物にしても、人間が作り出したもの以外の全ては、本来は、神のものであるのである。

             

            それをいつの頃からか、人間はこういう環境や土地や、水や、野生動物が無主物であるから好きにしていい、ということをやり始めた。無主物とは、所有者、権利者が人間の世俗の法で定義できないもののことである。このような無主物、あるいは無主の土地は、最初の発見者が好き勝手に、何をしてもいいと勝手な理論をつけて、ネイティブ・アメリカンから土地を勝手にものすごい不当な廉価で合法的に奪っていったのが、アメリカに最初の頃に入植した開拓者の皆さんである。

             

            だからこそトランプ現大統領が選挙戦中に、「不法移民は出て行け」と言ったときに、以下のような画像が、ネットに出回っていたことを覚えておられる方もおられるだろう。

             

             

            https://www.pinterest.jp/frybread7/native-funny/ から

             

            https://imgflip.com/tag/native%20american?page=6 から

             

             

            ムスリム系の人々でよくある名前に、アブダラ(アブドアラー)という名前があるが、それは、「神の奴隷」という意味である。その意味で、彼らは、自分の思いで生きるのではなく、神のみ思いに従って生きる奴隷であるということで、アブダラ(アブドアッラー)という名前などでも、彼らの生き方の方向性を示しているのであり、神への絶対服従、すなわち、神に従って生きる奴隷、主が何を求めているのか、ということを求めて生きる生き方をしようとしているといえるのだろう。

             

            イエス様も次のように言っておられる。

             

            【口語訳聖書】 マタイによる福音書
             24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
             24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

             

            また、神の奴隷になり、天の父のみ旨を行うもの(すなわち、神の奴隷、あるいはしもべとなること)を選ぶことの大切さを、別の表現で次のようにイエス様も言っておられる。

             

            【口語訳】マタイによる福音書
            7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
             7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
             7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

             

             

            ということは・・・

            人間が人間になる、人間を人間にする、ということは、人間が神のものになる、あるいは、人間が本来のその目的に従い、神とともに生きるような姿となることが、人間が人間らしくなるために必要になるということと言っていいと思う。そして、人間らしくなった人間が、集まるからこそ、人間が神が造られたものであり、人間が神のものであることを認め、それらの呼び出された人びとの集合体(カハル構造を持つ集団)が教会なのである。つまり、教会すら、人間が集まってできているとはいえ、人間ためのものではなく、教会員のものでもなく、ましてや、牧師のためのものではない。教会も神のものである。

             

            神のものは神のもとに

            その意味で、カイザルのものはカイザルのもとに返すべきであり、神のものは、神に返すべきということばは、実はかなり重要なことを含むのである。自分を含め、神のものであれば神にお返していく。つまり、神の奴隷として生きることが、アラビア語で言えば、アブドアッラー(アブダラ)として生きることが重要なのである。

             

            【口語訳聖書】マルコによる福音書

            12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

             

            ムスリムのかなりの部分の人や、ユダヤ教世界や正教系の世界のある程度の部分の人は、神の奴隷として生きておられるが、プロテスタントでは、自らそのものも含めて、この被造世界が神のもの、神の支配に服すべきものであることを忘れ、神がご自身の権利を今ご主張になられないことを言いことに、この世界を、そして、自分自身も、あたかも無主物である家のごとく考え、自分の思うがままになるものとして、扱うようになってしまったのではないだろうか。

             

            人間が人間らしく在るために、

            教会が教会であるために・・・

            人間が人間らしく在るためには、教会が教会であるためには、まず、人間にせよ、教会にせよ、神のものであるという神の主権を認め、神にその主権を返納していくところから始めるべきかもしれない。人間が握りしめている自分自身、人間が他の人間を握りしめているその手を開き、そこに臨済される方、聖霊なる方を握りしめるのではなく、それを受け取ることができるように手を上に向かって開いておくことが大事なのだと思う。そこに吹き込まれてくる神の霊、神の息吹、精神の働きをふわっと受け止める事が大事なのではないだろうか。このあたりのことをある程度書いたのが、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』なのだと思う。

             

             

            ところで、計算機には、機械には残念ながら、聖霊を受ける部分はない。聖霊が内住される場所がない、聖神が臨在される場所でもある”こころ”(Heart)がないのである。コンピュータは泣いたりしないし、怒ったりはしない。人間はコンピュータの単細胞さに怒ることが在るけれども、コンピュータは、人間に対して、正しくない操作をしたので動かなかったとは画面上に表示させたり、プリントアウトしたりはするけれども、人間に対して殺意を抱いたりはしないし、人間のギャグに反応して、大笑いしてくれたりしないのである。感情と似たような反応を画面に表示させたりすることはプログラムで、ある程度できるけれども、それは、心からのものを真似しているにすぎないのである。もう少し言えば、計算機はアルコールを飲ませても、酔っ払ったりはしないで故障してしまうが、人間はアルコールを飲むと酔っ払ってしまうのである。だから、酒に酔うな、とパウロは書いているのであって、一滴たりとも飲んではならないとか書いていないように思う。アルコールに本来、神のものであるべき人間が奪われてしまうからこそ、本来の神のものが失われないように、「酒に酔うな」と書かれているのだと思う。

             

            その意味で、神の霊を求め、神の息吹を求めることこそが、人間的ななにかと神の霊が相まって、存在することで、人間や教会が神のものとなり、神がともにおられることになり、神の奴隷樽にん気んが、神の奴隷の集まりである教会が、活性化が起きるのだろう。それを、近代の社会では、リバイバルとよんだのではないだろうか、と思う。

             

            リバイバルとは、人間が運動として起こすものでもないのだろうし、人間が必死になってつかもうとするものではないと思う。リバイバルとは、受け止めるものなのだろう。そっと受け止める。そっと手のひらで受けた時、本来の活性の状態を回復できた状態になったのがリバイバルなのではないか、と思う。その意味で、すリバイバルは人間が起こせたりするようなものではないのだろうと思う。このあたりは、ロイド・ジョンズの『リバイバル』を読んでもらうと、ある程度は、わかるのではないか、と思うのである。

             

            次回へと続く。

            一応、このシリーズ、次回で終わりにしたい。

             

             

             

             

             

             

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            いのちのことば社
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            (2004-10)
            コメント:名著

            2017.06.12 Monday

            『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その4(宗教改革500年の年に…)完

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              さて、今回で悪役レスラー篇も第4回である。なぜ、この『焚き火を囲んで聴く神の物語』の応答で、場外乱闘気味の応答の文章を書いたのか、場外乱闘しているように見える羽目になったか、ということの弁証(言い訳、説明)を少ししてみたい。

               

              書式でもはみ出した大頭さん

              この本で、確かに主著者の大頭さんの悪行三昧を、悪役レスラーのマイクパフォーマンスよろしく悪口大会をしたか、というと、この本では、たしかに、あまり悪行三昧の跡形が残っていないのではあるけれども、元になった雑誌の段階では、文章の途中でフォントサイズは変える、やたらと脚注がある(それも小さい)…というD.T.P.の版下作成の人にとってはあまりに面倒くさいため、美味しい仕事ではない(さらに、出版社にとってはコストアップ要因)ような原稿となったと思っていたからである。基本、ミーちゃんはーちゃんは技術者でも在るので、これは、あまりに酷い、と思い、それこそ場外乱闘だ、と思ったのである。だとすれば、こういう場外乱闘には、それにキチンと応答して差しあげるべきだなぁ、と思ったのである。大頭さんが、従来の神学系の書籍や雑誌のスタイルにおいても、枠外からはみ出てきていると感じたので、そこはそれ、悪役レスラーらしく「そんなもんあかんやんか」と言ってみただけなのである。

               

              神学のリングは、本当はどこか

              牧師しか行かなようなところに、平信徒としてフラフラ出没(まぁ、昔は牧師の真似事のようなこともやっていたので、研修のためと思って参加し、牧師の関連業界を割りとそばで見る機会を作ってきたが、元いた教会から、暫く来るなと言われたのをいいことに、教会巡りをしはじめ、今は、聖公会の出島のような教会に寓居するようになり、牧師の真似事もしなくて良くなったのでそろそろ、このような牧師関連業界とのおつきあいも、もうそろそろ、やめてもいいかなぁ、と思っている。趣味としてする分には、あまりお金もかからない割に面白いので、もうちょっと付き合おうか、と思っている。

               

              ところで、この本の素材になった雑誌の連載で、理念的なことを理念的な言葉で語るのが定石であったこの種の雑誌のスタイルを破る形で、つまり、牧師が自分の理解をまとめて、牧師に語るというスタイルで書くのではなく、信徒たちにも考えてほしいと思ったのか、連載の段階で、神学そのものを抽象化・結晶化して語るのではなく、神学を生み出した過去の神学者について語るのでもなく、妙なことをし始めたなぁ、と思ったのである。そして、信徒にもこの世界の幅広さ、奥行きのようなものがあり、その面白さの一端を味わってもらおう、と書いているのかなぁ、と聖なる誤解をしたので、「おお、そこまで挑戦状を信徒に突きつけるか」それならば、信徒として、主に、社会の学問の側に足場をおくものとしての哲学的反省(パスカルの意味での反省、深く考えること)から応答するのが、私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことに過ぎない。

               

              この連載の最初に書いたように、神学は教会の学であるとはいうものの、それは、信徒がきちんと聖書を読み込んで、神のみ思いが天において実現するように、地においても実現するための道具というか、存在となるようにすることが本来の神学の役割ではないか、と思っていたからである。神学のための神学ではなく、信徒が、この世界において、神のみ思いを聖書から知り、神のみ思いに関わる、神のみ思いを馳せるために信徒の方々とともに考えるためのものが、神学だと思ったからである。その意味で、信徒に仕えるためのものが神学だろう、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

               

              その意味で、神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っているし、その意味で、神学は同時代性とある種の時代生を反映したものにならざると思えないし、過去の神学者たちの生み出した思潮も、結局は、固定されたものではなく、ダイナミックなものであったのではないか、と思っている。

               

              信徒に仕えるための神学

               しかし、学である以上、業界用語、あるいは、ジャーゴンとよばれるものが出てくる。大抵、これが理解できないとある特定の学の世界に触れることはかなり難しい。それが、本来、多くの人々に仕え、多くの人々の生活に貢献し、その成果を伝えるための学として出発していても、結果的に専門家の学になってしまうゆえんである。

               

              この辺は世俗の学の世界でも全く同じで、ある学問の隣接の学問分野に行くためには、ある程度時間をかけて、その世界固有の言語を学ばねばならない。同じ日本語であっても、驚くほど、ことばが違うし、同じ語でも用法が違うことがある。これで戸惑ってしまうのだ。つまり、ことばにそれぞれの分野ごとに独自の手垢、あるいは、味わいがついており、その手垢や味わいを無視して、ある言葉を使うことができなくなっている。神学でも全く同様である。

               

              このある業界の用語の手垢というか味わいの部分と、ある学問をするために知っていなければいけないことの多さが、学問から人が遠ざかる理由であるので、それを、なくそうとして大頭さんは書いていることはわかった。そのような態度のことを大頭さんは、神学ジャーナリストという言葉で表しているが、それはちょっと本職のジャーナリストとして、いいのだろうか、とは思う。確かにテレビに出てくるような、自称ジャーナリスト、あるいは、テレビ局がジャーナリストとラベルを貼り、ありがたがっているような人には、その後発言を聴く限り、この人あまりまともに勉強していないのではないか、と思われる人も交じるが、マジメな学識に基づいて仕事をしているジャーナリストの方のほうが、実は多いとは思うのだ。

               

              ジャーナリストとは、何かというのは、これまた難しい話であるが、学術誌がJournal of Political EconomyとかInternational Journal of Systems Scienceとか言うように、もともとものをきちんと書く人が書いたものが載る定期的に発行される媒体が、Journalの本来の意味に近いのだとすると、大頭さんがご自身を神学ジャーナリストとしておられるのは、学術雑誌(多分)にも何点かは書いておられるから、そうなんだろうなぁ、とは思う。なお、ミーちゃんはーちゃんも、最近も共著ではあるが、こういう学術誌には論文を寄稿してはいる。このブログに駄文を書いていることだけをしているわけではない。神学系の学術論文は今のところ、書く気はないけど。数理系の実証分析系の研究が中心なので。

               

               

              Journal of Political Economy の表紙 https://library.idfr.gov.my/index.php/en/journals/1229-journal-of-political-economy-april-2015.html から

               

              International Journal of Systems Science
              http://explore.tandfonline.com/page/est/tsys-international-journal-of-systems-science-editors-choice

               

              余談に行き過ぎたので、元に戻すが、信徒が生きているのは、過去の神学的理解が成立した世界ではない。日本に持ち込まれた欧州や米国の神学的文化コンテキストと違う世界である。だとすれば、単純に何処かでできたものをそのまま持ち込んだのでは、一部の特殊な人はそのまま受け取れるかもしれないが、大抵の場合、そのまま受け取ったのでは消化不良を起こしてしまうことは言うまでもない。

               

              真理を追求しているはずの哲学の世界でも、哲学的思惟や哲学の理解は一つではない。なぜ、そうなるかというと哲学が対象としている人びとの思想や理解の世界が常に変動しているからであり、哲学も時代と人々が生きる社会からしか生まれないのではないか、と思っている。そして、ある学問は、他の学問に影響を与え、そして、また別の概念が生まれてくる。どうも、神学もそうではないか、とおもう。いま、牧師先生方の神学会などの集まりや、キリスト教の関連学会にもちょこちょこ顔を出していて思うのは、神学の中だけを見て居られ(もう少し言えば、アメリカの神学の世界での動きだけを見て居られ、というのは少し言いすぎかもしれないが)、世俗の学に目配せして、世俗の動きも日本やアジアという空間に軸足を起きながら、なしておられる方がどの程度おられるのかなぁ、と素朴に思うことがある。

               

              大頭さんが、平信徒のミーちゃんはーちゃんにあえて、対論を頼んできたということは、世俗の神学というリングの中なのか、象牙の塔なのか、金字塔の中なのかは、よく知らないが、信徒の生きている世界は、そのような狭い枠内や領域で終わっていないはずなので、神学という限定された枠内(公共圏)では収まらない世界に生きている人間の立場から対話を求められたということは、神学というやや狭い対話のための空間や領域(これを、ハーバマスという人は、公共圏と呼んでいる)という枠内に留まらない対話のための空間や領域での対論を頼んできたということなのだなぁ、と思ったので、それに応答したまでである。

               

               とはいえ、いきなり、マジで、世俗の学の世界の概念であるシステム論とか、科学思想の歴史理解とかからかい始めると、人は読む気なくす(これは、授業している時に経験済み)ような気がしたので、最初は、軽く自己紹介がてら、大頭さんとの関係を書いて、ちょうど、ボクシングの試合の前に記者会見でボクサーがやるように、そして、観客を巻き込むために悪口大会をしたのである。そもそも、当初のヨベルからの依頼原稿の文字数は、7000字である。楽の世界からの応答として、世俗の学の発展の歴史的経緯などは書けなくはないにせよ、かなり荒っぽい議論になる。とすれば、どうせ与えられた資源ならば、面白おかしく、リングに上る前の記者会見のように、悪口を言ってみるほうが面白そうだと思ったし、そのほうが読者というか、ギャラリーも面白がるのではないか、と思ったのだ。

               

              売上を確保するための販売協力として

              スポーツ新聞とかいう駅売りの新聞や、タブロイド紙と呼ばれる夕刊だけしか発行しない新聞があるが、駅の新聞販売スタンドでそレラの雑誌やタブロイド紙のトップ見出しにあふれているのは、バトルのことが多い。こういう揉め事は、スプリングセンテンスと呼ばれた、文藝春秋や、週刊新潮とかの見出しに多い。あまり、こういう週刊誌の広告がついていない電車にのることが多いので、時々、出張で山手線とか中央線とかに乗ると、「え、こんな広告するんだ」と思うようなどぎつい広告を見ると、目のやり場に困ってしまうことがある。女性誌だって、男性誌や一般誌とくらべても決して負けていない。

               

               

              週刊女性 中吊り広告  http://blog.8bit.co.jp/?p=6457 から

               

              なぜ、こういう広告をするか、揉め事に関する記事が大量に記載された広告をするかというと、売れるからである。揉めている方が売れるのである。だからこそ、あえて揉めているようなことを書いておくと、それだけで本が売れるのではないか、と思ったのだ。ある面で、あの文章は本を売るための方策である。なにせ、キリスト教書は、あまり売れないのだ。だとすれば、筆者としても、売れるための工夫を少ししてみようと思ったのためである。

               

               

              世紀の揉め事であった宗教改革

              今年は、宗教改革から500年を迎える。今では500年も経ったので、それなりに固定化されてしまったが、宗教改革とは、動乱であったし、庶民の熱気をも受けた当時の一大ムーブメント、ブームであったのだ。固定化した当時の教会の姿、抑圧される領主や庶民、国家(と言っても今の近代国民国家ではなく、都市国家と国民国家の中間的な存在の国家政体と一体化したような教会の姿に対して、庶民の渦巻く情熱の高まりの中で、ちょこっと文句を言ってみた、というのが、そもそもルター先生がやったことであり、それは、当時の教会(カトリック教会)をディスってみた、あるいは学術系の言葉を使うと、批判してみた、ということだったのではないか、と思うのだ。

               

              まさか、大爆発を狙って、生命狙われるようなことになるとは思っていなかったようである。それが、カトリック神学という閉鎖空間の中で、あるいは、限られた人たちの神学公共圏で行われている限りは、現在知られているかたちの宗教改革にならなかった。ルターが当時の庶民、農民や領主階層といった社会の様々な階層の人々の渦巻く不満とマッチしたからこそ、ヨーロッパを大激動の海に巻き込んだのだと思う。一大事件になったのである。彼がしたのは、当時のカトリック教会をディスった紙を、大学の掲示板である教会の門にみんなが教会に来る日のAll Saints Day(全ての聖人の日)にぶちつけたことだけである。

               

               

              この宗教改革の例のように、改革というよりは、大変革、革命のようなものとは、最初はほんの僅かのことで起きるのかもしれない。ルターの前にも、フス先輩や他の先輩方も居られたのだが、どうもタイミングが合わなかったらしく、ヨーロッパ全体を巻き込むかたちにならずに終わっている。大きな波になるかどうかは、どうもタイミングが重要なのかもしれない。

               

              初参加した「いのフェス 2011」の記念すべきポスター

               

              宗教改革が、大騒ぎになったのは、それがエンタメ要素満載だったからであろう。エンタメ要素があったからこそ、社会の多くの人々がみんなじっと、ルター先輩の動きを見ていたのだろうし、そして、当時のルターが生きた時代の人びとはそれに巻き込まれ、関与していったのではないか、とは思うし、それが、社会の大変動期にあった社会に結果として大変動をもたらしたのだと思う。

               

              エンタメこそが正義などというアホなことは言わないが、今の日本の福音派系キリスト教界、あまりに真面目でお行儀が良すぎで、良い子ちゃんが多くて、エンタメ要素がなさすぎのような気がする。そら、お行儀のよい、良い子ちゃんたちのよいこちゃんのための、良い子ちゃんによる信仰という側面が在るのは確かではない化、と思う。だからといって、無意味に不良ぶってみたり、過去の黒歴史を誇るために良い子ちゃんが本当はない話を持ち出すのは、もっとおかしいが、素朴に考えて、「そうでないんじゃないか」と思うことはそうでない、ともっと正直に、フランクに言ってみたほうがいいのではないか、と思うのである。

               

              良かったかどうかは別として、カトリック教会に向かって、ルター先生は、かなりの悪態ついている。え、こんなこと言ったの、と言いたくなるようなかなりひどい悪態もある。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの悪態は、とりあえずは、大頭さんが言ってきためんどくさいお願いをネタあたりを最初のきっかけにしながら、今の信徒のためとは、ミーちゃんはーちゃんには、ほとんど思えなかった日本の福音主義関係の先生方のご議論の現状に対して、「それ、ちょっと狭い世界に凝り固まってませんか」「ブログでもなんでもいいからさ、もちょっと、信徒の世界にも出てきてくださいな」と言いたいがためにちょっと悪態をついて挑発してみた、ということである。その意味で、愛のある悪態でもある。挑発したら、4人の先生方が庶民向けにブログを書き始めた。一発目はあまり庶民向けとはいえないけれども。まずは成功である。とは言え、まだ、なかなかちょっと高踏的であるので、もうちょっと庶民よりにしてほしい気はしているが。

               

               その意味で、この本が、当時のカトリック教会に悪態をついたルーテル先生の宗教改革から500年に出たという意味は大きいと思うのだなぁ。これが。その意味での記念論集としての価値の幾ばくかはありそうな気はあるようなないような・・・そう言ってしまうと、単に遊んでいるだけにすぎないものとしては、ちょっと大げさではあるが。

               

               

              以上で、悪役レスラー編は終わりである。

               

               

               

               

               

               

               

               

              2017.06.14 Wednesday

              小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(上)

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                さて、ここまで、いくつか本の企画や雑誌などでは、書き手の一人として、関与してきたけど、そういうかたちではなく関わってきた本が出版されたので、その出版をお祝いし、ここでもご紹介してみたい。この本については、この本のミーちゃんはーちゃんの書評が次回の『本の広場』ででるが、そこにかききれなかったことを、その原稿の基本的な線をもとにしながら、もうちょっと書いてみたい。

                 

                時間という次元をどう認識するか…

                現代人にとって、時間とは、人間とは関係なく、あるいは他のものとは独立に、一方的に、それ自身のリズムで進んでいくというか、この社会を規定する次元の一つ、空間をX軸、Y軸、Z軸が支配するように、時間軸もこの社会を規定している次元の一つであるが、X軸、Y軸、Z軸のようなこれらの軸とは異なり、戻ることのできない次元として人間とその行動を規定している社会の軸として考えられていることが多い。現代人にとっては、先に述べたような社会や環境を考える上での、一種の前提となっている、過去から未来に向かって一方的に流れているという時間理解にある種チャレンジしている本ではある。たしかに時計の針は戻ることはない。それは確かだ。しかし、それは我々、人間の観察の限界であるのかもしれない、とは思う。ひょっとすると、X軸、Y軸、Z軸が、人間にとって、ある程度前後左右上下に自由に移動ができるように、時間軸も人間にとっては1次元のあるベクトルにそって、一定の速度で進行しているととらえているのは、人間の認知の限界であるかもしれないと思う。元同僚の数学者の友人なら、少なくともそんなことは考えそうな気がする。ミーちゃんはーちゃんですら考えるのだから。

                 

                 

                実は過去との関連で生きている人間…

                現代の我々は、ある意味で常識で縛られている。過去起きたこととは、ある程度、無縁に生きていると考えがちである。しかし、よく考えてみると、必ずしもそうではない。現代人の世界は、ある種時間断面が大量に集まった集合体として、ある時代の状況、現代の状況を考えているが、実はどうもそうではない。歴史性、少なくとも時間の連続性の上に我々の現在があるのである。現在の法律は、過去に作られたものである、現在の政策は、過去の出来事の上にできたものであるし、現代の人間理解は、過去の誰かの人間理解をちょっとづつ作り変えながら、できているからだ。

                 

                哲学だってそうだし、神学だってそうだと思う。我々は、アウグスティヌスなしに神学を考えられないし、パウロなしに神学は考えられないし、ヨハネの記述なしに神学はできないし、イエスの存在なしに神学は考えられないし、イザヤが記述したとされることを無視して神学は考えられないし、ダビデの存在なしに神学は考えられない。それは、哲学でもそうだ、ギリシア哲学なしに現代哲学は存在しないのだ。なかったこととして始めることはできるけれども、それは非常に迂遠だと思う。大抵ある人が考えることは、すでにギリシア時代の先人たちが考えているし、自分たちが考える神学のようなものは、既に過去の人達もそれなりに考えているのだ。だからこそ、古典や過去の著作を読む意味があるのではないか、と思う。

                 

                ところで、一方向的に、単調に進んでいくような時間管理をヘブライの民はもっていなかったようで、螺旋的に進行しながら、過去とある断面ではときに交差するようなかたちの時間理解をもっていたような気がする。この辺は、ヘブライ思想研究者の手島イザヤ先生にもちょっと聞いてみたら、そんな感じとも言えると教えていただいた。ありがとうございます。

                 

                この本の本論とは関係ない話題はさておいて、その一方向的に直線的に進んでいく時間理解で聖書を読んでしまうと聖書理解が歪むことがある。少なくとも、その問題を、この本では、現代人と違う時間理解をもっている人びとの一人であり、そのうえで、ギリシア思想をかなり深いところで知っていると思われるヨハネが書いた、ヨハネの福音書を素材としてとりあげ、聖書が多様な重層的構造を持っていることを明らかにしようとした本である、という印象を持っている。

                 

                ある言語とその背景にある何か…

                ところで、言語、とくに外国語という対象について日本語から考えてみると、外国語を支えるなにか、というか、外国語の背景にある思想とか、文化とか、ライフスタイルとか、世界観とか、ものごとのみかたをある程度肌感覚で知っていないと、その外国語での表現が歪んだ物になってしまうようなきがする。英語で書くときには、英語で考えるという習慣がないと、意味自体は通じるけれどもなんか妙な表現になってしまうのである。外国人が日本語で話すときの窓ロッコさを感じるのである。他には、テレビの外国映画を見る時、う~~~ん、これ、ちょっと感じが違うんだが・・・と思うような翻訳に出会うこともある。昔自分が書いた英語の論文があるが、今見たら、「ぎゃ~~~」と叫び声を上げたくなるような文章だと、我ながら思う。

                 

                聖書を読むときだってそんな感じである。誤訳とは言わないが、もともとの言語がもっていた感覚というか、雰囲気が失われているんじゃないか、って思うことが時々ある。特に思想的なもの、哲学を含む文章では、それを強く感じる。

                 

                福音書はそれぞれ独自の味わいがあるのだが、中でも、ヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは明らかに異なった味わいと手触りを持った福音書である。ヨハネの福音書は、ギリシア語が単に話せるだけではなく、その世界の哲学思想やギリシア語世界での、ものごとのみかたができる人物でありながら、ユダヤ人でもある人物であるヨハネが書いたようにしか思えない。

                 

                古代ヘブライ的な重層性を持った福音書、そして、螺旋的に進行していく時間や過去の歴史との重なりをかなり重視し、重層的に表現しているようなきがするのである。まぁ、このゆにさらっと、書いて分かる人は、案外少ないのではないかと尾もう。この辺の関係というのは、案外理解するのが困難だと尾もう。なぜならば、現代は過去から未来に向かって一直線に線形的に進むと考えられているようだし(例えば、歴史の年表なんかがそういうスタイルでできている)、ガムやスマートフォンだって進化するらしい。個人的には仕様変更、仕様改善がなされたということなのだが、それを進化というあたりが、我々が、このような概念にいかに毒されているのかの何よりの証左だとおもう。

                 

                 

                 

                 

                マンガを用いて、わかりにくい概念に挑戦している本

                 しかし、このようなことを、単にこれまでよくあるタイプのキリスト教書のように、理論的、抽象的に示したのでは、大人の一般読者、あるいは中高生くらいの若い一般読者には、理解が困難だろうなぁ、と思う。日本のキリスト教書は、ガイドブック的入門があって、後は、牧師先生方や、こういうのを読むのが好きな大人受けを目指して出版される。昔は、入門と専門の間の中間的な本や、小説仕立ての青少年向けのキリスト教書が数少ないながら存在したが、今は、出版事情もあるのだろうが、このような中間的な存在がない。となると、もう、中高生などに読ませる本がないのが実情なのだ。とは言え、このような聖書理解に関する内容は、重要な割に、助けがないと、容易に理解できないため、かなり思想的な文章であるヨハネ福音書などは、結構、自分にとって都合がよいように、拾い読みしているキリスト者は少なくないのではないだろうか。

                 

                そこで、著者の小島さんは、『夕凪の街 桜の国』というコミック作品に着目し、そして、映画化された作品を引用しながら、それをメタファーとして、過去と現在が交差する状況、そして、螺旋的な時間の進み方、人間関係のつながり、ネットワークが存在し、それが生み出す歴史的重層性の中に生まれるものがあるということを示している。そのうえで、実は、聖書の世界は、そのような重層性が多数あることを示し、聖書自体が、ある種時間と空間的制約を超えたものであり、従来の直線的、線形的な時空間理解とはかなり異なる螺旋的な時間の中で、重層的な関係性のなかで、読まれ、話され、理解され、受け取られ、これからも受け取られていくものを示そうとした本である。

                 

                 

                 

                 

                まぁ、こういうクロスオーバーとか、カットバックが利用された脚本には幾つかあるが、個人的に見て面白かったのは、Julie and Juliaとか、めぐりあう時間たち (The Hours)などがある。

                 

                映画 ジュリー アンド ジュリア のワンシーン

                 

                めぐりあう時間たち の予告編

                 

                 そして、近代を支配した、いわゆる科学的とされる、直線的で一方向な一定の時間の流れが小学校の社会科における教科書の歴史記述や、理科の時間記述から、社会一般の歴史理解に至るまで時間記述の支配的な概念となっており、その先験的な仮定に強固に支配されたままでは、創世記から黙示録に至る聖書記述が十分に理解できないのではないか、という重要な問題提起をこの本を通して、小島さんはしようとしている。

                 

                従来のキリスト教書では、大人の用語で、専門家の用語で、かなり抽象的に表現することが多かったと思う。それでは、中高生や、若い人々は置き去りにされて行くことになる。この問題を回避すべく、比較的若者にも読みやすい題材であるコミック作品をも絡めながら、聖書を読むときに、現代社会を縛っている直線的、単層的、単一平面的な時間軸、空間軸で理解するのではなく、重層的な螺旋状の時間の進行と出来事の関わりと人間との関係が、現代社会においても十分意味あるものであり、特に聖書を読んでいくうえで重要であることを示そうとしている。

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                評価:
                小島聡
                ヨベル
                ¥ 1,080
                (2017-06-01)
                コメント:ヨハネ福音書と夕凪の街 桜の園 を素材に使った聖書の世界へのガイドブック

                2017.06.17 Saturday

                小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(下)

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                  前回のご紹介に引き続き、今回も小島聡さんの『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について、思ったことを述べてみたい。

                   

                  近代戦と総力戦と国民の悲劇

                  近代における画期的な出来事の一つは、いわゆる近代戦の登場であり、近代国家にとっての戦争の多くは、国家と国家、国民と国民の間の総力戦になったということである。近代以前の戦争は、戦争とは言うものの国民全員を巻き込むという形での総力戦ではなかった。戦争屋ともいうべき傭兵ないし、職業軍人による戦闘行為によって、どちらの国力が強いかを明らかにしようとするものであった。そのために武器が作られ、職業軍人は、職業軍人同士で戦場で戦ったのである。

                   

                  しかし、古代においても、王権が成立するまでは職業軍人というものは存在せず、領域争いは村人と村人、自分たちの権利の確保や、自分たちの権利を蹂躙する強盗団や誘拐する拉致集団への自営的戦闘であったのではないか、と思われる。イスラエルの民がそれでも王がほしい、とねがったときに、神はサムエルを通して何と言い給うたか、そして、民はどのように主張したか、というと、こうであったと聖書は記述する。

                   

                  【口語訳聖書】サムエル記 上 8章4-20節

                  イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、 
                  彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」 
                  裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。 
                  主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。 
                  彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。 
                  今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」 
                  サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。 
                  彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、 
                  千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。 
                  また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。 
                  また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。 
                  うの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。 
                  あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。 
                  また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。 
                  その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
                  民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。 
                  我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」 

                   

                  王など持ってもろくなことが起きないということをイスラエルの民にサムエルを介して告げさせて知らせても、イスラエルの民は王がほしいと強弁して、王を獲得する。最初の王であるサウル王は一見まともに見えたものの、嫉妬心に狂うし、尊敬をある程度今なお集めているエッサイの根のダビデ王であっても、ろくでもない王様となっていくし、時々賢い王様は現れるものの、それは至極少ないし、まともであっても権力の座に就いた結果、狂わない人はいない、ということの例証のようなリストが、歴代誌と列王記には、延々と並んでいるのだ。

                   

                  割とのんびりとした古代であってもこのような状態である。巨大な殺戮のための道具を得た現代の戦争は、ものすごく悲惨な悲劇を数多くの戦争とは本来関係のない人々であるはずの人々に多大な影響を与えてしまう。もともとは、給料やボーナスをもらって戦争する、ある種、戦争屋とでもいうべき職業軍人、傭兵だけでなく、一般市民を巻き込んだ悲惨な総力戦にいやおうなく巻き込まれるようになったのが、近代戦の悲劇と言うか悲惨である。

                   

                  戦闘が始まると見境がなくなる人間という存在

                  人は、武器を持つと見境なくなるのは、古今東西万代不易の現実であり、そもそも、職業軍人として訓練されていても、見境なくなる時には見境なくなって、やってはいけないことをやるのだ。

                   

                  そのあたりの微妙さを描いた、米軍の海兵隊の軍事法廷劇でもあるSamuel L. Jackson 主演Tommy Lee Jonesの出演のRules of Engagement(交戦規程)という映画があるが、

                   

                  Rules of Engagement 予告編

                   

                  まぁ、この映画は大きな問題を示しているのである。どこまで、職業軍人でないのか、どこからが職業軍人同士の戦闘なのか、ということを考えることが求められることになるのである。しかし、現在もなお、自軍の損害を最小化するための事前爆撃を多数行った上で軍事行動をとる事が多いが、それが顕在化したのが第2次世界対戦中のドレスデン空爆や、ゲルニカ空爆や、広島と長崎への原子爆弾投下である。

                   

                   

                  ピカソのゲルニカの複製タピストリー

                  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E7%B5%B5%E7%94%BB) から

                   

                  近代を支配した時空間理解は、相対性理論や核開発などにつながり、そして、その原子物理学が生み出したのが原子爆弾である。著者は、現代の支配的な時間概念に対して、批判的である。そして、現代社会とその社会を縛っている支配的なその時間概念のもと生み出された原子爆弾の問題に対しても批判的な視線へとつながっているようだ。この原子力の問題は、本書のタイトルに含まれる、『夕凪の街 桜の国』のテーマでもある。

                   

                   

                  諸力としての悪が人間を蹂躙し、そして、

                  人間が神のものである人間を蹂躙するという悲惨

                  諸力としての悪や罪の結果、神のかたちであるべき人間が、その神の似姿を既存させることになる。この諸力としての悪や罪が人間の中にあり、多くの人間そのもの、そして人間と神との関係、その結果としての人と人との間の関係が、ただでさえ傷ついているのに、更に、戦争や原子爆弾で、どのような人も罪や悪の支配下にはあるので、無辜の民とは完全に言い切れないかもしれないが、少なくとも幸せに非戦闘員としてのんびり暮らしている人々が、物理的に、身体的に、そして、精神的に更に破壊され、傷つけられる問題についての示唆を本書で試みられているようである。

                   

                   

                  1年ほど前、本書の前段階の原稿について、お話ししたことがある。かなり読みにくい、何がおっしゃりたいのかわからないような、原稿であったことについて、著者の方とじっくり数時間に渡って話し合った事がある。その時に、問わず語りにお話になられた、ご自身の来歴も、この原子力の問題が本書が取り上げていることに影響しているかもしれない。ご自身はあまり明らかにしておられないようであるが、著者の小島さんは、原子炉材料の研究者でご活躍であったようだ。原子力の平和利用ということに貢献されていたのだと思う。しかし、平和利用のためとは言いながら、かなり危険性を含む技術利用の欠落、欠陥を、東日本大震災は示してしまった。福島の地は、いや、本来神の地であるはずのこの日本列島の大地、そして、太平洋という海洋、そして、福島の大地は、原子力で汚染されてしまったのだ。これは、研究者として、かなり厳しい反省を、小島先生に、陰に陽に与えていると思う。お会いして、このあたりのお互い、技術者(小島さんは原子炉材料の研究者であり、ミーちゃんはーちゃんは空間情報技術者)として、フランクなお話をしているときに、その過去の来歴をお聞きしたので、これは相当つらいかもしれないなぁ、と思ったのである。

                   

                   

                  人々の幸福のためと思って研究しても、

                  不幸を生み出すことになる、という如何ともしがたい現実

                  人々のためと思って、一生懸命研究したことが関連する技術として構想したことのが、人々を苦しめ、傷つけるということは起きるのだが、それは、自分自身の技術者の基本的な概念にかなりグサグサとくるとは思う。この本には、そのへんの反省も含まれているのかもしれない、と思った。そして、本校の前の段階の現行では、それを少し感じた。ある面、意図はしなかったとはいえ、おきたこと、また、これまでなしてきたことに対する反省と告解の告白を、おおっぴらではないものの、どこかあちこちにそれを示した本でもあるのではないか、という印象をミーちゃんはーちゃんはもったのであった。

                   

                   


                  その意味で、この本はある面著者の半生についての反省が投影された印象深い本であるように思う。

                   

                  そして、小さな本ながら、時間の問題、人が人として生きる中で、どのように意識しなくても、人を傷つける可能性があるのか、に関する重要な示唆を多くのクリスチャンに与える本であるように思う。

                   

                  その意味で、広く読まれること、そしてできる限り多くの若者に読まれることを期待したい。そのためにもできるだけコンパクトで読みやすい本として出版されたのであるから。表現がまだまだ固く、若干整理されてない、と思われている部分もあり、読みやすい本とは言い難い部分もあるようなきがするけれども。おそらく、それは著者が真面目な方であるために、ミーちゃんはーちゃんのようなマッドサイエンティストではないことに由来するのかもしれない。

                   

                   

                  素朴にそう思う。良くも悪くも、日本の技術者のプレゼンテーションの下手さ加減が明確に現れた本でもある。

                   

                  以上で本書についてはおしまいである。

                   

                   

                   

                   

                   

                  国井 桂,こうの 史代,佐々部 清
                  双葉社
                  ¥ 1,296
                  (2007-07)

                  2017.06.17 Saturday

                  『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1)

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                    この企画に望むミーちゃんはーちゃんの思い

                    まぁ、ポスターは、Provocativeでないとインパクトがないので、インパクト重視で作ったが、個人的には、この企画、かなり真面目に取り組むつもりである。どうせやるなら、真面目にやらないと面白くないではないか、と思っている。ふざけている。この時期に何だ、と顔を顰める人も、眉をひそめる方もいるだろう。それはそうかもしれない。そして、ぜひ眉をひそめるなり、顔をしかめるなりしてほしい。それが、言論の自由が保証された世界だから、である。

                     

                    ところで、この企画の企画段階で、思いつきのようにテロを持ち出した人物が誰かは、もう、このブログ読者の皆さんならお察しのこととは思う。ただ、それにミーちゃんはーちゃんが乗ったのは、この問題は、聖書理解の観点から言っても、現代において避けて通れない重要な問題だからであり、それを、真剣に語り合う必要があると思っているし、その価値があると思っている。やる以上は、きちんとしたい、というのが正直な気持ちである。それが、参加者の皆さんにとって、どの程度興味深いと感じられるかは別として。

                     

                    ただ、2時間では語りきれないので、ここに、基本的な理解は書いておく。誰も読まないと思うけど。いつものように長いので。

                     

                    暴力と暴力装置を介したコミュニケーション

                    戦争でも良いし、テロでも良かったのだが、実は、この現在の状況下において、戦争とテロとの両者の間は明確な差があるようで、現実のリアルの世界では、ほとんど両者の間に差がなくなっているのが現実ではないか、とは思う。以前ならば、テロは要人テロに限られたが、今は一般人が被害者になる例が多い。被害者がだれか、という意味でも、テロも、戦争も、あまり変わらなくなっている。特にコミュニケーション論の観点から見れば、実は両者は構造として、かなり類似しているのである。それは、恐怖を介したコミュニケーションだからである。

                     

                    戦争が暴力装置を介したコミュニケーションであることがよく出ているのが、映画『13Days』のマクナマラ国務長官(当時)とガチの職業軍人である海軍長官の間についてのワンシーンである。このシーンは純粋な創作なのかもしれないし、実話か実話に基づく創作なのかもしれない。それはわからない。作り話であるにせよ、しかし、コミュニケーション論的な観点からこのシーンを見ると、これが何より印象的なのだ。

                     

                     

                    映画『13Days』から マクナマラと海軍長官の論争のシーン

                     

                     

                    テロってなんだっけ?

                    テロとは、そもそも、近代世界が作られるエポック・メイキングな事件であったフランス革命時代の恐怖政治に由来する。人々を恐怖させることで、ある特定の主張に無理矢理に従わせるという政治体制が執り行われる中で、その恐怖政治を指してテロルと読んだのが、そもそもの起こりである。

                     

                    フランス革命というと、レ・ミゼラブルの美しい世界が思い浮かぶ人も多いだろうが、その実は、かなり血なまぐさいものであった。確かに、すべからく革命というものは血生臭いものではあるけれども。その意味で、宗教改革も革命の要素を持つので、結構実態としては、実に血生臭いものも含むことは、宗教改革500年だからこそ、今年は覚えたほうがいいだろう。フランス革命が血なまぐさいものであったことは、現在もなお、フランス国歌であるラ・マルセイエーズの歌詞が何より雄弁に物語っている。

                     

                    レ・ミゼラブル の 日本語予告編

                     

                     

                    初音ミクによるラ・マルセイエーズ(日本語訳詩つき)

                     

                     

                    フランス革命とテロ(テロル)

                    このあたり、ジョセフ・フーシェやロベス・ピエールなどが、混乱を収集するためとは言え、物理的暴力を持って、人々を支配し、自分たちの重いのまま動かすために、暴力とそれに対する恐怖を起点に、政治行為を執行したことにテロ、ないしテロルの由来があることは、先にも書いた。現代ではテロというと、ある程度広く一般市民に被害を及ぼすような物理的な暴力である爆弾事件や、911のような一般市民生活を脅かすような暴力行為のことを一般にさすが、本来的には、人々の正常な感覚を麻痺させ、恐怖で縛ってしまう(聖書的な表現を用いるなら、恐怖で人々の心を捕囚する)行為のことをいう。2002年7月から2003年7月まで、米国のそれも超脳天気なカリフォルニア州に滞在したが、その時期はあのカリフォルニア州であっても、911テロ事件が引き起こした米国人の正常な感覚の麻痺を感じた。そして、危険レベルが、毎日変わり油断も隙もない状態というのを経験した。あの時、アメリカはまさにアメリカ合衆国の国土内で戦争をしている、という雰囲気であった。

                     

                    ジョゼフ・フーシェ

                    https://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_Fouch%C3%A9 から

                     

                    ロベス・ピエール https://fr.wikipedia.org/wiki/Maximilien_de_Robespierre から

                     

                     

                     

                    忘れもしない2012年の8月末の海外からの訪問者を集めた大学のオリエンテーションで「君たちは、どこに行くにもパスポートを持っていきなさい。と言うのは、ロスアンゼルスのダウンタウンで、金髪碧眼のスカンジナビア諸国出身の女子学生が、話している英語が変だということでテロリストの扱いを受け、3日ほど警察に拘留された事件があって、その女子学生の開放に非常に手間がかかったのであり、我々は最大限努力は惜しまないが、それでも、そういう不愉快な事態未然に防いでほしい」と事務の責任者からのっけに宣告され、あぁ、この国は、臨戦態勢に入ったんだ、ということを強く感じた。そして、マンザーナというカリフォルニアの地名とあの荒涼な風景が目に浮かんだ。

                     

                    マンザーナの強制収容所での日系人の生活のワンシーン

                    http://yosemiteblog.com/2010/07/06/ansel-adams-at-manzanar/ から

                     

                    そして、英語がまともに話せないだけで、敵性外国人って判断されるということになったのだから、この国は以前とは変わった、と感じた。そうこうしているうちにブッシュが宣戦布告をテレビで国民に語るのを現地時間で時差なしに見ることになった。そしてこの国は、本気で正気を失うほど怒りに狂っている、と心底感じたのである。

                     

                     

                    War on Terrorともメディアが呼んだ、対イラク戦争の国民への通告(Announcement)

                     

                    アメリカは西側先進国で、ほぼ唯一と言っていいほど、従軍者以外の一般市民が戦争被害にあってこなかった珍しい国の一つである。たしかにハワイで戦艦を攻撃された(開戦通告が遅れたために、だまし討の格好になった)ことをいまだに言われる。12月の最初の頃は、小学校でボランティアをしていても、実に肩身の狭い1週間であった。

                     

                    対イラク戦争中の厳しい雰囲気

                    ミーちゃんはーちゃんの息子が通っていた当時の息子の小学校の担任の先生は、ガチ勢と言って良いタイプの英国系米国人のクリスチャンであったし、そこにインターンとしてきていた研修中の教師(教育実習生だが、半年くらい共同で授業をしていた)もガチ勢に近い米国人クリスチャンで、家内は英語の勉強を兼ねながら、そこでボランティアをしていた。「3人のクリスチャンが公立学校でそろうとか、って珍しいよねぇ」という話もあったらしいが(カリフォルニアの公立学校の現実はどうもそうみたいである)、割りと、ピーカン脳天気なカリフォルニアであっても、割りと自由で、ヒスパニックの人々も普通に混じっている民主党支持層が多い地域ではあったが、職員室とかの公の場では、戦争反対とかはおろか、戦争のことを話題にすることすらできない雰囲気が漂っていたのである。

                     

                     

                    教会に行っても、半年に2回だけではあるが、特段教会員で、戦争に行った若い信徒がいたわけではなかったが、戦地で従軍(これまたServiceと呼ぶ)している兵士のために祈ってから、礼拝(Service)が始まった日があった。軍のプレゼンスが日常生活でも強いのが米国の特徴であると肌感覚で知った。

                     

                    同じスモールグループに、空軍の退役将校(将官クラス)や海兵隊の退役軍人(工兵)もいたので、あぁ、教会もこうなるんだなぁ、と現実を前にして、当時はちょっと違和感を持ったこともたしかである。平和ボケしていたところに、アメリカ人とアメリカ社会に割りと普遍的に生身の暴力性が紙一重で存在しているのを見て、当時は、かなり当惑していた。そのことを、書きながら思い起こしたのである。その意味で、2002年頃のアメリカ合衆国滞在中には、暴力的コミュニケーションが起こしたろくでもない事態の渦の端っこに個人的には直面した。

                     

                    そのように大きく変わったアメリカ社会を見ながら、911のテロリスト達は、アメリカ人を思考停止させ、アメリカ合衆国を理性的コミュニケーションから、暴力的コミュニケーションにフェーズを移行させるという意味では、成功したといえるように思う。

                     

                    暴力的コミュニケーションとしてのテロと戦争

                    テロの語源となった恐怖政治もコミュニケーションであるし、その意味でテロもコミュニケーションであるし、戦争もコミュニケーションであると同時に外交もコミュニケーションである。親切も愛もこれまたコミュニケーションである。要は、相手の行動変容につなげるのに、どのようなものを用いるか、ということが違うし、そして、コミュニケーションにおいて、用いるものの後々までの影響がかなり違うようなのである。

                     

                    戦争にしても、テロにしてもコミュニケーションなのだ。どのレベルでやるか、どのようにやるか、どのような規模で、何を使用してするかが違うだけであり、暴力でやるコミュニケーションという意味においては、効果においても実態においても、テロも戦争も結果的には変わらない。特に第1次世界大戦以降、一般市民が戦争に巻き込まれることになった。国民全部を巻き込んだ総力戦になり、人口を含めた国民国家のすべてのシステムを総動員するタイプの戦争になった。その結果、一般市民の被害はある面で当然視されることになる。

                     

                    特に第1次世界大戦では、フランス、ドイツ、大英帝国の両国は、完全にその総力戦の被害を受ける。ドイツと大英帝国、ロシアなどの支配者層は親類同士であるものの、それが国民を巻き込んだ無益な消耗のみをもたらしたのである。その意味で、非戦闘員が巻き込まれるような近代戦は、それが職業軍人(戦争のプロフェッショナルとしての雇われ軍人、傭兵)同志の敵と味方に分かれての戦闘行為ではなく、一般人を巻き込むのが当然になってしまった。プロ同志なら、お互い命を取り合ったら、商売上がったりになるので、その辺手加減して動くことになるのが、アマチュアの場合、この辺の加減を知らないから、バランスを失ってひたすら激突することになる。

                     

                     

                    ところで、なぜ、暴力的コミュニケーションになるかということを考えてみれば、言葉が通じない、言葉がほとんど無意味になっているという世界が存在していることでもあるし、理性が通じないという世界になってしまった、ということなのかと思う。その意味で、バベルの塔は、ある面で祝福であったが、かなり呪いの側面が強いと思うのだ。相互に言葉が通じないとなると、あとは、モノ(金銭を含む)か暴力だけしかコミュニケーションの方法は、現実的に残っていないことになる。

                     

                    ナウエンは、The way of the heartの中で、キリスト教世界でも、牧師や司祭ですら、現代社会の中での言葉の無効さ具合に現在打ちのめされているし、絶望していることに繰り返し触れている。そして、世俗社会の中で、言葉が溢れる世界の中で、ことばのインフレが起こり(特に広告業界)、言葉が価値を持たなくなっていることを同書で指摘している。それだけ、言葉が軽いというこの現実世界の普段は意識しない恐ろしげなる現実がテロや戦争という形で現れているのだと思う。

                     

                    イスラエルとパレスティナの壁と両者の共存

                    従来、テロといえば、中東、特に、イスラエルとパレスティナの間で起きているものとしてしか理解されてこなかった。それだけ、その地域での混乱が激しかったからである。

                     

                    1年くらい前、第3回冥土喫茶ぴゅあらんどのゲストが、現在のイスラエル、テルアビブ在住の旧約学者のレヴィ先生がゲストだったときのイベントで、ガザ地区の壁のお話が、個人的に今も忘れられない。

                     

                    というのは、ガザ地区の住民やパレスティナ自治政府と融和的な政策を取っていた、リベラルというのか、自由、博愛、平等ということを重視しようとした理想主義者だった政治家が、度重なるテロの被害の故に、とうとう、現実的になって、より平和的にイスラエルとパレスティナがある程度平和的に共存しあうためには、適当な距離を取って共生することしかないということになり、両者の分離政策や分断政策を嫌っていた政治家自らが、ガザ地区との間に壁を作る政策を主導的役割を果たしたという、なんとも情けない実態があったらしい。

                     

                     

                    ガザ地区の壁

                    http://www.presstv.com/Detail/2016/09/07/483652/Palestine-Israel-Gaza

                     

                    こういう話が聞けるから、冥土喫茶ぴゅあらんど参りはやめられない。このガザ地区の壁の周辺事情が指し示すように、理念だけでは世の中上手くいかないのである。

                     

                    なぜ、警察官は武装するのか

                     どの国でも、何らかのかたちで警察官は武装する。この警察官が武装するのか、ということは、重要である。パウロの剣は警察権、治安維持活動のための武装としての剣という解釈もあるらしい。この辺はこのあたりの神学をプロパーでしているわけではないのでよくわからないが。

                     

                    なぜ、軽武装することが警察官に認められているかというと、話しても通じない、分かり合えない状態も生まれるからである。「話せば分かる」と言った戦前の大政治家がいたが、その大政治家はそう言っている先から、武装した軍人に暗殺されてしまったのである。世の中には、心と頭が固まってしまったり、あることに捕囚されたりすると、めんどくさくなるのか、人間、神のかたちとしての機能が停止するのか、すぐ安易な暴力に訴える人々が出てくる。実に残念なことであるが。そういう意味で、我々はカインの子孫でもある。

                     

                    そういう理性やこころや言葉が通じない場合に最後のコミュニケーション手段として用いるために警棒だったり、棍棒(米国沿岸警備隊の常用武装)だったり、ハンドガンだったりを警察官に支給するのである。そして、あまりに相手が常軌を逸していたWakoの基督教のカルトであるブランチ・ダビディアンのようなキリスト教徒とはいえ、重武装し、マシンガンを連射するような相手の場合は、重武装して、装甲車を導入してでも、この不幸の連鎖を防ぐのが、市民の安寧を保証する法と秩序を維持するための組織の宿命なのだと思う。

                     

                    Wacoでのキリスト教系カルトがFBIなどの法執行組織と銃撃戦を繰り広げたブランチ・ダビディアン事件

                     

                    通常よりやや重武装の通常仕様のロンドンの警察官
                    http://www.dailymail.co.uk/news/article-2166111/Police-bust-Romanian-gamblers-double-decker-bus-Westminter-Bridge-London.html

                     

                    重火器で武装するロンドンの警察官
                    http://www.whenthenewsstops.org/2016/01/london-met-police-to-train-600-extra.html から

                     

                     

                    そして、治安の回復のためには、治安維持当局が根性入れて治安を回復させようとすることを示すために、英国では、警察の重装備の警察官部隊を動員する。アメリカでは、治安出動は、州軍の役割とJurisdiction(法治権の及ぶ範囲)が決まっているので、それぞれ状況に応じて動員がかかる。

                     

                    ファーガソン暴動で動員されたミズーリ州軍

                     

                    たしかに、イラクとかアフガニスタンに現在派遣されているのはアメリカ軍でもあるが、それはアメリカ陸軍本体というよりかは、より正確にはアメリカの州軍(これがアメリカ軍の一部になる、という構造になっている)であり、彼ら州兵が、イラクに展開させられているのは、彼らが本来的に治安出動を担っている組織だからである。

                     

                    ただし、アメリカ人は、州軍による出動なので治安出動だとは思っていても(思い込んでいても)、現地人にとっては、そんなことは知ったことではなく、米陸軍兵士と、州軍兵の厳密な区別がついていないために、イラクの諸国民にとっても、アメリカ合衆国国民とアメリカ合衆国州軍と州軍兵にとっても、悲惨なことが起きているように思えてならない。

                     

                    公民権運動の紛争で、当時のアラバマ州知事ウォレスに対し大統領令によって、州知事を大学キャンパスから強制的に排除することを告げる司法省職員時代のカッツェンバックとその後に出てくる州兵の長

                     

                     

                    次回、テロ(戦争)と聖書(聖典)、次々回テロ(戦争)と神(神のようなもの)の関係について

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    Array
                    David C. Cook
                    ---
                    (2013-08-01)
                    コメント:かなり参考になった。

                    2017.06.19 Monday

                    『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)

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                      本日は、 テロ(戦争)と聖書(聖典) の第2回目、テロと聖書(聖典)の関係を考えてみたい。

                       

                      抜書き聖書と自己正当化
                      実はこの問題は非常に根が深いように思う。なぜなら、テロや戦争、リンチの正当化に聖書ないし聖典から抜き出された言葉が使われることもあるからである。要するに、聖典からの言葉を自己正当化の権威性の根拠として使うことがときどきあるからである。アメリカの南部諸州では、聖書の言葉が奴隷制の正当化に用いられた。このように、ときに聖書が、自己の行為の正当化に使われることがあるが、個人的には、それは本末転倒ではないか、と思う。神の絶対的な主権に逆らう行為ではないか、と思うのである。

                       

                      聖書の中に、次のような記述がある。これは案外重要な記述であると思う。これは、国家や社会に対するテロではない。しかし、ある種聖書の語を用いて自らの集団リンチを正当化しようとした事例に近いのではないか、と思う。

                       

                       


                      【口語訳聖書】
                      ヨハネによる福音書/ 8章 1節−11節
                      イエスはオリブ山に行かれた。
                      朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
                      すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
                      「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
                      モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
                      彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
                      彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
                      そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
                      これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
                      そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
                      女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

                       

                      ここでは、当時のユダヤ人にとって絶対の基準、カノン、否定のしようがないトーラーが用いられている。そして、この絶対の基準、カノンを用いてイエスを試みるのである。それは、神を試みることでもあったのであろう。ある面、我々の側から見れば、神に対する律法を用いたテロ行為に近いのではないか、と思う。

                       

                       

                      姦淫の場で捉えられ、石打にされる直前でイエスの前に引き出された女性

                      https://en.wikipedia.org/wiki/Christ_and_the_Woman_Taken_in_Adultery_(Bruegel)より

                       

                       

                      主の祈りの中に
                      【口語訳聖書】
                      マタイによる福音書 6章 13節
                      わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
                      という表現があるが、これは、我々が、神に対する挑戦、テロをしないように、ということなのかもしれないと、N.T.ライトさんがお書きになられた主の祈りに関する記述を読みながら、思ったことがある。『福音の再発見』というスコット・マクナイトの本の中に、我々人間は、最初の人間のアダムとエバの時代から、「簒奪者」である、という語が出てくる。アダムとエバの段階で、我々は神の権威と神の王権の簒奪者になり、王であるべき神をその聖座から追い出し、本来その権威も権利もないのに、そこにどっかと座り込んでしまったのである。そして、自らを神の如きものとしていることが時々ある。それは、自分自身を含めてそうである。気がつけば、正義を扱う能力も知恵も権利も、権威もないのに、それを振りかざしているところがないわけではない。

                       

                      以前このブログで、悲しむクリスチャン二世から、本ブログ記事にご応答いただいたことをご紹介した記事(あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。)がある。そこでも触れたが、たましいとこころを開放し、本来の神のかたちに回復させるために聖書の言葉が用いるのではなく、ある人達の価値観に閉じ込めるために、その価値観にはめ込んでしまうために聖書を用いる人々がいる。実に残念なことではないか、と思う。本来、聖書は、人をあるかたちにはめこむためにあるのではなく、本来のその人の神から与えられた神のかたちを、本来の人の姿を取り戻すために、神が与えたもうたものなのに。

                       

                      このあたりのことを考えたいかたには、地引き網出版から出ているオートバーグの「 神が造られた「最高の私」になる 」を読まれたい。

                       

                       

                      聖書の解釈(聖典の解釈)とテロリズム
                      先に、聖典の言葉を抜書きしたものを元に、他人を一定のかたち・姿・行動パターンに無理やりさせる人々もおられる、ということをご指摘した。たしかに、最初の段階で、聖書などの聖典の理解は、非常に複雑なので、一定の理解にできるだけ多くの人ができるだけ早く到達するには、このような方法論が有効であることは論をまたない。別に、これは、聖典理解だけに限らない。技術教育でも、数学教育でも、語学教育でも、そう変わらない。それは、このようなパターンに従った基礎を形成する手法が、極めて有効だからである。しかし、それはあくまで基礎についてである。

                       

                      そして、多くの人の場合、このようなパターンにしたがった教育で十分な場合が多い。普通の人は、連立微分方程式が、突然日常生活で浮かんだりはしないし、河川のコンクリート堤防を見たときに、ナビエ・ストークスの方程式から得られる水の摩擦力の大きさが視覚的に感じられたりはしない。しかし、専門家になるとそれができる人がいないわけではないのだ。こういう人になると、基礎的教育での基礎に縛られるようになるとあまりにも不充分であると感じることが多くなると思う。

                       

                      個人的に基礎教育は重要だと思うが、その方法のみが正しいとし、その方法論で全ての人を縛るようになるのは、どこか不幸であると思う。

                       

                      ユダヤ世界、イスラム世界での聖典と人間
                      ユダヤ教(ヘブライ思想)もそうだし、イスラム教の世界もそういうところがあるように思うが、それは、聖典(正典、カノン)を現実世界に合わせて動解釈をするのか、自分が定められた基準とすべきテキスト(聖典、正典、カノン)をどう解釈していくのかを議論する世界のようである。どんなに知識が不足しているにせよ、どんなに論理が稚拙であるにせよ、テキストと対話し、他の同じカノンとしているテキストを読む、理解しようとする人々との間で、対話する、討論する、議論するということが求められるということになるらしい。その意味で、聖典を現実世界において、他の人の意見を聞きながら、解釈し続けるということが、ユダヤ教の世界でも、ムスリム世界でも、決定的に重要なのである。

                       

                      それをやるのが、ユダヤ教の世界ではラビ(現代英語圏の呼び方では、ラーバイ)であり、律法学者であり、ムスリムの世界では、イマーム、ないしイマムと呼ばれるイスラム法学者なのである。ユダヤ教徒の全員が、ラビではない。イスラム教徒の全体がイマームではない。普通の人は、ある程度自分自身で考えて、わからなくなると、ラビやイマームに相談(あくまで相談)しているのであり、その指示に盲目的に従っているわけではなさそうだ。あくまで、参考意見なのであり、本来的にどう行動するかは、神のみ思いを神の奴隷である人間が、一個人として、あるいは、集団として、どう考えるか、ということのようである。

                       

                      ちょうど、いま、ラマダーンの最中である。陽光が地上に差している時期には、真面目なイスラム教徒は、食事はおろか、水分も取れない。そのかわり夜になるとその条件が開放されるので、晩御飯は明日一日持つことを考えてやや多めの量を食べる。そして、早朝に起きて、陽光が地上を照らすまでの間にも、少し多めに食事をすると言う。しかし、このラマダーンの規定を守っているのが原則であるが、そう行っても、それが守れない場面も出てくる。イマームも手近にいない場合などもあり、そのような場合、イマームに相談するわけにも行かない。その時、ある面、一人のムスリムとして、この聖典解釈を個人として迫られる場合が出てくることは、時々起きる。そのときにどう考えるかの際に、聖典を読むその人の解釈の基礎的能力とその基礎が問われるのである。つまり、それは、アラーに対して、自己の正統性を聖典に基づきながら、どう主張するのか、ということが問われていることになる。

                       

                      それは、ユダヤ教徒でも同じらしい。トーラーとネビーム(律法と預言者)の記述に基づきながら、神とどう格闘するのか、という基礎的スキルをどうつけているのか、が実生活では問われることになる。

                       

                      イエスと律法学者との聖典をめぐる対論
                      その意味で、いかに新約聖書から引用するイエスと青年の金持ちとの対話は、まさに、この聖典を元にした彼らの対話、言葉を介したユダヤ的伝統に則った、神学的バトルだった、と思うのである。この青年がイエスを人としてみていなかったゆえの若気の至りの嫌がらせ、という側面も多少はあったであろう。しかし、それに対して、聖典からどのような理解を引き出してゆき、そして、実際の生活の中で活かすのか、というタイプの単なる聖書のテキストに関する細かい知識におけるバトルというよりは、聖書のテキスト全体に関するバトル(それが証拠に、イエスは律法学者に向かって、これらの2つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている、とおっしゃっているように思うのだ。

                       

                      マタイによる福音書/ 22章 34−40節
                      さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
                      そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
                      「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
                      イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
                      これがいちばん大切な、第一のいましめである。
                      第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

                      これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

                       

                      そして、その聖典全体の理解の体系に沿って、現実世界での出処進退、行動を決めていく能力を新体制にまで消化させていくための作業が、本来、「聖典を読む」ということなのだと個人的には思う。それでも、人間は、神のみ思いに沿って生きることはできない。だからこそ、大贖罪日があるのであるし、あるいは、だからこそ、自分の不甲斐なさを反省するためにモスクに行き、シナゴーグに集まり、自らの日常の不甲斐なさを神に心から詫び、神との関係の和解、そして隣人との関係の和解を確認するのである。

                       

                      翻って、我が国のキリスト教、特にプロテスタント系教会を考えてみれば、神との関係の和解、神との関係の回復の確認をも含む、という側面までは否定はしないが、自分自身の信仰の表明、信仰の充実のため、教会に参加したり、自分自生が誰かから与えられた(それは神から与えられたということでもあるのだが)聖書理解を確認するために、その教派で築き上げられたその教派では通用する完璧な聖書理解の体系から、乖離しないように聖書講演会に行っているのではないかと思いたくなるような教会も少なくないように思う。それで、本当にいいのだろうか、と個人的には思う。

                       

                      ひどい場合は、個人の悲しみや怒りと行った個人的な感情と言うよりは、感傷をなだめるために、干渉に対する慰めを得るために行くところ、として教会を見ている人もいなくはないと思う。まぁ、それも、一つの教会へのアプローチの仕方ではあるが、それだけにとどまっている人が多いとすると、それでは、骨身にしみたキリスト教には到底なりえず、その人のうちから出てくるはずの霊的変容、霊的形成はおろか、そもそも、本来人間が、神の形であることへの回復がキリスト教の中核的テーマであると思っているが、その中核的テーマに達することは、ほとんど無理ではないか、と思うのだ。せいぜいできたとして、キリスト教の衣を単にまとっている偽物にすぎないように思うのだ。かなり言葉はきついが。まぁ、単にまとっているだけでも、そのうちに本物になる人も出てくるから、その衣をまとっていることも否定はできないことは確かである。

                       

                      その意味で、問題は、人間形成と神との関係の形成をどうするか問題である。

                       

                      テロ集団と狂信
                      たしかに、ムスリム過激派の中には、青少年の純粋さを悪用して、青少年を自爆テロの実行者に仕立て上げる人々がいる。本当のジハーディスト(聖戦で殉教者と自らなる人々の総称)なら、まず、自らがジハーディストになるはずであるが、そうはならず、色々理屈をこねながら、青少年をジハーディストに仕向けている段階で、そもそもおかしいし、年寄りのジハーディストや年寄りのムスリム過激派でテロ行為に関与する人々は、よほど絶望的な状況に追い込まれ、視野狭窄した人以外には、殆ど見られず、現実にはかなり限られる。つまり、お年寄りになるまでムスリムであり続けた人、そして、ムスリム、あるいは、神の奴隷であり続けようとする人は、聖典理解がある程度、バランス良くでき、そして、それが行動や思想の隅々にまで行き渡っているので、神の被造物であり、神が気にかけて、あるいは神が愛しておられる他者を傷つけ、そして、自らをも傷つけるような行動は、何らかの原因でバランスを崩しているのでない限り、起きないはずなのである。

                       

                      ISIS団が教育している子どもたち(こういうのを見ていると、怒りを超えてとてつもなく悲しくなる)
                      http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/islamic-state/11208990/How-Isil-jihadists-beat-and-brainwashed-boy-hostages.html から

                       

                       

                      考えてみれば、年寄りばかりのジハーディスト集団、というのも、結構怖いようなきがするが。

                       

                      最長老の中国系ジハーディスト
                      http://www.dailymail.co.uk/news/article-3110022/Is-ISIS-oldest-jihadi-Elderly-man-flees-China-family-fight-alongside-terror-group-Syria.html より

                       

                       

                      なぜ、こうなるのか、というと、若者はきちんと聖典を全体として受け取れていないからこそ、解釈できていないからこそ、起きるように思う。きちんと聖典が理解できていたならば、神を愛するが故に、神の愛し給うた他者をもてなすことこそが、ムスリムの至上の課題の一つであるという理解に反することくらい、すぐに思いつくからである。

                       

                       

                      このような、変な青少年だけのジハーディスト集団に近い存在がキリスト教の世界にないかというと、これが結構あるのだ。代表的な例が、少年十字軍という世界である。他にも現代の少年兵の問題の背景にも、この若者特有のバランス感覚の無さの悪用の雰囲気があるし、中国の紅小兵やクメール・ルージュの少年兵問題もあるので、宗教や思想に関係なく、この種の青少年のバランスの悪さにつけ込む人々は発生するようである。

                       

                      少年十字軍 https://www.catholic.com/magazine/online-edition/the-real-story-of-the-childrens-crusade より

                       

                      ところで、このように、振り返ってみると1960年代から70年代というのは、暴力テロかどうかは別として、権威への若者のチャレンジが世界各地で起きた時代とは言えると思う。

                       

                      紅小兵のみなさん
                      https://kknews.cc/history/m2pzpz.html より

                       

                      http://www.master-insight.com/%E6%AF%9B%E6%96%87%E9%9D%A9%E5%85%A9%E6%8B%90%E9%BB%9E-%E7%B4%85%E8%A1%9B%E5%85%B5%E6%89%93%E7%A0%B8%E7%87%92/ から

                       

                       

                      ラストエンペラーからの紅小兵が活躍した頃の文革のシーン

                       

                       

                      ある種のテロ計画に参加しようとした神学者
                      前世紀(もう20世紀は前世紀という恐ろしげなる事実…)の個人的にその著作が好きな神学者の一人にボンフェファーという人物があり、現代の代表的な殉教者の一人として、ウェストミンスター寺院の西側の壁に彫像がある人物の人でもある。この人は、ナチス支配下のドイツにおいて、国家支配の中にない、独自の地下教会を作り、ナチスへの抵抗運動をした人である。そして、ヒトラー暗殺計画(ナチスドイツにとっては、まさに、要人暗殺テロ以外の何物でもない)に加担し、刑死する人物である。ある面、悪への抵抗権へのボンフェファーなりの行動を通しての表明であったのであろう。ミーちゃんはーちゃんは、ボンフェファーの著作は好きだが、ボンフェファー研究者ではないので、このあたりの詳しい事情は、日本語訳されたボンフェファーの著書を読むか、その筋の関係の方からお話をお伺いされるなりすると、良いのではないかと思う。
                      ボンフェファー先輩

                       

                      そして、ボンフェファー先輩は、おそらく、ボンフェファー先輩なりの骨身にしみた聖典のテキストの読みの中から、そのような行動に関わっていったのだろうとは思う。

                       

                      ウェストミンスター大寺院の西側の壁の現代の殉教者の像
                      https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Westminster_Abbey_-_20th_Century_Martyrs.jpg から

                       

                      逃げるは恥だが役に立つ・・・メノー派の人々
                      ところで、前回も少し触れたが、言語によるコミュニケーションが成立しない場合がある、そうなると、暴力に対抗するには暴力を持ち出すか、その暴力から逃げるしかないのである。前者の場合は、まさに暴力的コミュニケーションとなるし、後者の場合は、暴力の発生源からあえて距離を置くことで、これまた、神の被造物である自分自身を、暴力的なコミュニケーションの原因者と距離を置くことで守るしかないのである。これについては、大頭さんが、焚き火本の中で、106ページから107ページで書いているアーミッシュの話(とはいえ、あれも、MBの田中先生が関西凸凹神学会2年ほど前に、お話になったときのネタがその起源だとおもうが・・・「なんで知っているのか、って?」ミーちゃんはーちゃんもその場にいたからである)のが参考になるかもしれない。

                       

                      逃げるは恥だが役に立つ のCM

                       

                      ところで、アーミッシュの先人たちは、たしかに大頭さんが書くように、殉教をした人々も多数いたが、アーミッシュの先人たちは、殉教者を大量に出すと同時に、殉教をもたらす暴力が近づいたら、鳥が台風が近づくと安全な領域に逃げ出すように、被害を避けて逃げ出したのだ。そして、逃げ出していった先がペンシルヴェニア州の現在アーミッシュがいる地域であり、その地域で定住したのだ。これは大事な話だが、大頭さんは何故か書いていない。実に残念なことである。

                       

                      その意味で、問われるのは、現実世界について、聖典に対してどう問うのか、聖典と現実世界の観測に基づいて、自分たちが、そして、自分たちの行動をどうしたらよい、と考えるのか、ということなのだろう。このことは、古代からも現代に至るまで、聖典を取り組むものに問われているのではないか、と思うのである。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:ボンフェファーに興味が深い方の著作

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