2017年5月のアクセス記録とご清覧感謝
皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。
先月は、 28,883 アクセス、平均で、日に 931.7 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。
2014年第2四半期(4〜6月) 58171アクセス(639.2)
2014年第3四半期(7〜9月) 39349アクセス(479.9)
2014年第4四半期(10〜12月) 42559アクセス(462.6)
2015年第1四半期(1〜3月) 48073アクセス(534.1)
2015年第2四半期(4〜6月) 48073アクセス(631.7)
2015年第3四半期(7〜9月) 59999アクセス(651.0)
2015年第4四半期(10〜12月) 87926アクセス(955.7)
2016年第1四半期(1〜3月) 61902アクセス(687.8)
2016年第2四半期(4〜6月) 66709アクセス(733.1)
2016年第3四半期(7〜9月) 65916アクセス(716.5)
2016年第4四半期(10〜12月) 76394アクセス(830.4)
2017年第1四半期(1〜3月) 56858アクセス(631.8)
2017年04月 23,813 アクセス (793.8)
2017年05月 28,883 アクセス (931.7)
今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。
Doing Being Becoming Creating そして Recreation
アクセス数 679
現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
アクセス数 609
アクセス数 411
後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)
アクセス数 374
アクセス数 335
でした。
今月も特徴的だったのは、 Doing Being Becoming Creating そして Recreation がいきなりぶっちぎりのトップであったことですねぇ。これは霊性に関するエッセイみたいなもので、当初ほとんど関心を集めなかった記事が、なぜか今回1位になりました。個人的には、結構真面目に書いたのに、公開当初は人気がなかったのに、今になって人気が出るのが不思議だなぁ、と思う。また、いつものように、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第2位という結果に。
今月は、後藤先生の『『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言』シリーズがずっと上位に来たのは、いいのですが、なんと、あの上品な世界に突撃するかのような、異種格闘技系の本の記事 いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・ が、後藤先生の本に関する記事を押しのけて、3位に。だってこの紹介、27日に公開したばかりなのにぃ・・・まぁ、この訳わかんない本を売らなきゃいけないヨベルさんにとってはいい話ではあるけれども、それもあって、協力はしたけど・・・
でも、後藤先生から2回も応答を拝受したのは、何よりうれしかった… ブログやっててよかった…と真剣に思ってしまった。
今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。
先月の御清覧、ありがとうございました。
N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その64 (完)
さて、長々と続けてきた、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の連載も今日で終わりである。前半部分があって、ちょっと中休みがあって、そして、後半部分も、途中いろいろな特集物を含みながら、今日で終わりになる。長かったような、短かったような、もう十分なような、もっとやってみたい(しない、しない)ような感じもないわけではない。
ついては、今日ご紹介するのは、最後の部分からである。
われらは、どこに行くことが求められているのか
多くの人々は目標をもって、生きている。と入っても、それは一時的な目標、一時的な目的であることが多い。一時的といっても、10年とか、20年くらいの目的であることもあるけれども。世俗の仕事の話で恐縮であるが、マーケティング系のことに関する授業もしている。この授業などでは、夢や、目標、目的について学生と対話的に授業することがある。若者らしい夢を持っている学生もいれば、ひどく現実的な夢といえるのかといえるほどの、1年先とか2年先くらいの目標を言う学生もいる。そして、それに向けて、彼らなりのやり方で、努力をしているらしい(全員が全員とは言わないが)。
それでも、「何のためにやるのか」、「なぜ、それが目標なのか」ということを必ず聞いてみることにしている。その辺の質問になると、彼らにとっては、割と長期にわたると思われる夢を語る学生であっても、あまりはっきりとはしなくなる。何のために、どこに向かうべきかの方向性を見失っているかのようだ。とりあえず手近にあるもので考えるというのは、人間の認知の限界を考えると致し方のない部分もあるだろう。
しかし、キリスト教で語られる世界観には、最終的な目的地、終結があると言ってきた。それは、帰るべき家、父の御下、アブラハムの懐、天国(天の支配の根源的な空間であると、ライトさんはいう)、・・・・と言われてきた。個人的には、そこに戻るべきだ、とも思うし、キリスト教関係者の神を信じておられる皆さん、その最終的には、その神のみもとに戻ろうとして、日々を歩んでおられるのだろう。
そのことを以下の引用文で、ライトさんは、「その話し手のそば」と表現しているのだと思う。福音の話し手のそばに、そして、本来我々がいるべき場所、新しいエデンの園に招かれているのだと思う。
夜が明けるときは、暗闇を新しい仕方で回顧することになるだろう。「罪」とは、単に律法を破ることばかりではない。機会を失うことである。私達もあの声の響きを聞いたからには、その話し手のそばに行き、出会うようにと招かれている。その声そのものによって変えられるようにと招かれている。その声とは、福音のことばであり、悪が裁かれたことを宣言する言葉である。(『クリスチャンであるとは』p.333)
この部分を読みながら、次の聖書の場所を思ってしまった。まさに、これ、という感じ。
【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
15:27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
15:28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。(中略)
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
あと、ライトさんが罪について面白いことを行っている。「罪」とは、「機会を失うことである」と言っておられる。この機会を失うことである、と言うのは大事なのだと思う。それは、神をより深く知る機会を失うことであり、神との関わりを持つ機会を失うことであり、神とともに時間を過ごす機会を失うことなのであり、さらに言えば、神とともに歩む人びととともに歩む機会を失うことであり、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習の聖餐の機会を失うことなのだろう。
そういえば、オバマさんも機械を失うことに、面白いことを言っていた。
http://www.bestsayingsquotes.com/quote/if-you-run-you-stand-a-chance-of-losing-but-if-you-dont-run-550.html
先日の水曜日、世俗の仕事の会議がなかなか終了せず、水曜日の夜の聖餐式に行けなかったことを心底Facebookで嘆いていたら、関西のあるキリスト教書店の店長さん(ほぼ人物が分かる人には特定されてしまう)が「 聖餐は、週に一回で良いじゃないですか 」とおっしゃった。そんなことはないのである。そんなことは、ミーちゃんはーちゃんにてっては、まさに、 Covfefe (コーフェフェとアンダーソン・クーパーというキャスターは発音していた様に思う)である。
ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアであるからかもしれないが、聖餐の機会を失うのは、本当に良くないのである。いや、できるだけ逃したくないのである。だって、神とともに座して過ごす大宴会の予行演習でもある聖餐の機会を失うことになるではないか。そんなもの、可能な限り、逃したくはないのである。
クリスチャンのきよさの誤解
このブログでも、かなりのクリスチャンたちが「きよさ」を誤解していることを紹介してきた。ピューリタンの理解が歪んでいることについても触れてきた。例えば、この記事 (ピューリタン雑考)などである。まぁ、ピューリタンについての誤解はさておき、ある種の教会人は自らストア派の哲学者のように、本来神が与えたもうた美のような良いものであっても、それを否定する方向で進んできた部分がないわけではないと思う。それはあまり良いことではなかった、とライトさんは次のようにいう。
教派擬人化マンガ 『ピューリたん』が読めるのは、キリスト新聞(今後展開されるネット版でも、『ピューリたん』は読めるらしい)だけ(キリスト新聞社、新社長がんばれ、新社長応援でちょっと載せてみた・・・)
クリスチャンのきよさとは、(多くの人が思い込んでいるように)なにか良いものを否定することではない。それは成長することであり、さらに良いものをしっかりと掴んでいくことである。(同書 p.333)
この部分は、あ〜〜〜、これは、聖書の以下の部分の理解か、と改めて思ったのである。
【口語訳聖書】 マタイによる福音書
13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
13:13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
13:14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
13:17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
これまで、クリスチャンの中には、美は誘惑するものだから、と美しいものを蛇蝎のごとくきらい、小説でも、映画でも、芸術作品でも、イコンでも、十把一からげに無視し、否定するどころか、ひどい場合は破壊してきた人々も一部におられた。ろくでもなかったことだと、ミーちゃんはーちゃんは思っている。ミーちゃんはーちゃんにとっては、うまいもんはうまいのであるし、ええもんは、ええのである。
焼肉はやのCM (うまいもんは、うまい 笑福亭鶴瓶が若い w)
それを、これまで、勝手なストア派的な理解の延長線上で、本来善きものであったものを勝手に捨てたり、勝手に乱用してはいけないから、と美しいもの、善きものを否定し、排除してきたような部分もあったかのように思う。そうじゃない、それはまずいのではないか、とライトさんはおっしゃっているようだ。そして、クリスチャンのきよさは、「さらに良いものをしっかりと掴んでいく」ことだ、と明白にライトさんは言っている。
それは、神に近づいていく問うことであろうし、真実をつかんでいくということだろうし、神との関係を深めていく、つかんでいくということなのだろう。
本来のものに向かって歩む
ところで、人間の姿が的外れ、ずれていることが問題だというのが、聖書の主張であり、その的外れの状態、ずれていることが「罪」だというのが聖書における「罪」理解であることは、ある程度知られていることだろう。そのあたりを、ライトさんは非常にうまく次のように表現している。
私たちは、霊的であるために作られていながら、内省にふけっている。喜びのために造られていながら、快楽に浸かっている。義のために造られていながら、復讐を叫んでいる。良い関係を築くために造られていながら、自分のやり方を主張している。美のために造られていながら、感傷で満足している。しかし、新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた。クリスチャンは、いまのこの世界の損なわれたもの、不完全なもののすべてを、イエス・キリストの墓の中においてくるようにと、召されている。(同書 p.334)
ここで大事だなぁ、と思ったのは、「霊的であるために作られていながら、内省にふけっている」という部分である。「本来、神を見るべき霊的な存在であるにもかかわらず、自分の中しか見ていない、そこには善きものは湧き上がってこないのに・・・」といいたいかのようである。その意味で、本来霊の源泉、あるいは、霊が清水のようにあふれ出る水道管のような存在である神をみつめるかわりに、下水道管の出口のような自分の心の内側のみを見ているのが、人間ではないか、とでも、ライトさんは言いたげである。
そして、義を生み出すために人間は創造されたのに、復讐と称する殺戮を人間はしているではないか。パウロだって、神が復讐するのだから、神に任せよ、と言っているのに。ここで、ライトさんは、義のための戦争とか、平和のための戦争とかナンセンスなことを言っているのは、どうしたことか、とライトさんは言っているかのようだ。
【口語訳聖書】 ローマ人への手紙12: 19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
The SimpsonsでのRevangeについての表現例 ホーマー・シンプソンの奥さんのマージが「Revenge(復讐)は何も解決しない」と言っていることに対して、ホーマーは「じゃぁ、アメリカ買楽でしているのはなんだ?」と問い詰めるシーン(32秒あたりから)が秀逸。
そして、何より、「新しい創造は既に始まっているのだ。日は昇り始めた」という部分が印象的である。毎年、イースターの時には、He is RISEN, INDEED. XRISTOS ANESTEIと言いながら、それを覚えているし、聖餐式ごとに(あるいは、礼拝ごとに)、キリスト者は覚えているはずなのではなかろうか。
ライトさんによれば、イエスの復活後にイエスに従うもの、クリスチャンであるということは、神という太陽が朝日の様に地上を照らし、その朝日のような太陽に照らされるように、新しい世界への道でもあるイエスの歩んだ道を歩むのが、クリスチャンということになるらしい。下の図のような感じだろうか。
http://bsnscb.com/gorgeous-morning-sunshine-wallpapers.html から
『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その1(神学校授業のレンチン説教は・・・)
前回、先月末の記事 いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・ で『焚火を囲んで聴く神の物語』を神学プロレスと称したが、久保木さんによれば、あれは、『神学フェス』だという。まぁ、そういう意味でいば、『神学ジャムセッション』といってもいいかもしれない。
しかし、個人的には神学プロレスだと思っている。なぜかというと、「戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争」とクラウセヴィッツさんがいったのか、いわなかったのかはしらないが、対論が真剣なものである以上、言葉による真剣な、どつきあいしないと面白くないではないか。なので、今回、がちでその対論という学問的などつきあいを世俗の側にある人間としてやろうとしてみた。7000字という制約付きで。
オファーの経緯
ミーちゃんはーちゃんは、プログラマさんでもあるので、クライアント・依頼者・発注者の制約は絶対である。かるいオファーは、大頭さんからFacebookのメッセージであったが、この場合の正式のオファーは、メールで出版社のヨベルの社長の安田さんからやってきた。メールでこようが書留でこようが、内容証明郵便でこようが発注者の制約条件は絶対である。今回の依頼は、メールで頂戴したが、素直にそれに従った。そうしたら、お一人、どうも、この字数制約をガン無視したのが、上沼老師である(最近、中国人の留学生の世話をすることが多いので、彼らは、ミーちゃんはーちゃん老師と書いてくるので、それが伝染している)。
ところで、先のクラウセヴィッツさんであるが、どうも本当のところは、多分 「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」 と言ったらしい。
プロレスのどつきあいにしても、学術的対話をするにしても、ある種真剣にやるということは、ある程度の流血覚悟をするということであろうし、その覚悟でリングに上がっているわけだ(いやなら、そもそもリングに上げなければよい)し、それは、大頭さんの方も、望むところだったと思う。なぜならば、大頭さんは、この本の共著者は、同調者ではなく、対話者(対論者)だと繰り返し、この本が出るまえの企画段階でのFacebookでのチラみせ(スニークプレビュー)の投稿でそう語っていたからである。
情報処理学会のラインスタンプではないが、「同調者ではなく対話者(対論者)である」とまでおっしゃるなら、と世俗の職業人として、そして、神学的素人の見地から応答して差し上げたのが、拙論である。たかだか7000字である。そもそも、そう大したことはかけない。
壮絶な戦いを繰り広げたのが、川向氏。神学とは関係ない大頭牧師の悪行三昧を暴露するという「場外乱闘」を繰り広げ、「凶器攻撃」に出る。リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿させるこの流血マッチも、「神学プロレス」の醍醐味の一つだろう。
信徒が生きているのは、社会なんです。これまでの日本の神学とよばれるものは、その信徒が生きている日本社会を無視して、あるいは、日本社会の文脈のコンテキストをある程度無視して、西洋である程度出来上がってきた、パッケージ化されたレトルト食品のような神学を、これは舶来の非常に素晴らしい食事だ、と言って、ほぼそのままちょっとレンジでチンして出してきたのが、日本の教会の”神学”だったのではございませんでしょうか。
大頭さんは、レンジでチンしたものをちょっと無節操に(という気はしますが)寄せ集めたものも、時々、ちょっと使いながらも、ある程度ちゃんと自分のところで調理して(ちょっとだけだけど)、それを我々にぶつけてきたような気がしたのです。
としたら、それにキチンと応答して差しあげるのが、社会の側に足場をおく私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことでございます。この辺の匙加減がかなり難しいのですね。いきなり、マジで、システム論とか、科学思想の歴史理解とかだと、読む気なくすでしょ。w
これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。
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『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない)
完全原稿型・・・
評価:
大頭眞一 ヨベル ¥ 2,700 (2017-06-01) コメント:おすすめしております。一応寄稿者としても。w |
評価:
Henri J. M. Nouwen HarperOne ¥ 886 (2009-09-22) コメント:大頭さんの本は読まなくてもいいので、英語が読める人は、この本を読むほうがいいかも。 |
『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その3(人を人らしく、教会を教会らしく・・・)
さて、ここのところ、プロレスでいえば、反則技すれすれ、水谷尊師のお好きな野球でいえば、暴投気味、内角高めギリギリといえば、聞こえはいいが、実際には、あわやビーンボールともなりかねない危ういところを突いた記事ばかりで恐縮であるが、今日も気を取り直して、いつものようにまた、危険球ギリギリのところで勝負してみたい。
18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
と言わなかったろうか。それを我々は、反対はしないが創造者である神を信じないものを、手前勝手に、「わたしたちの味方」とはせずに、「わたしたちの敵」としてきたのではなかったろうか。
この企画の出発点となった『焚き火を囲んで聴く神の物語』の著者の大頭さんという人は、すぐに、「〇〇という人は敵ですか、味方ですか?」と以前はよくミーちゃんはーちゃんに問い合わせてきていた時期がある。個人的には、このような単純化がなされたものの見方は、おやめになりませんか、と以前くどくお諌め申し上げてきたところではある。最近は、ミーちゃんはーちゃんがあまりにうるさいことを言うからか、敵か味方かみたいなことは聞いてこなくなった。なぜかは知らない。
単純、素朴な信仰者の姿
息子の勉強に付き合う関係や、最近日本に来るムスリムの方の全体のボリュームとしても、増えていることもあり、ムスリムの人びととのお付き合いが増えた。日本だとムスリム=過激派=原理主義者という構図が出来上がりがちであるが、近くによってじっくりとその姿を眺めていると、実に多様な人々であることがわかる。国や出身地域、言語によって、世俗の仕事、その信仰のスタイルや微妙なところは違うのであり、イスラム、あるいはムスリムということばで一括りにするのが難しい人びとの多様な群れなのである。それは、キリスト教でも同じである。正教会系の人々の姿と、アメリカの福音派の人びととは、姿も行動パターンもかなり異なる。その意味で、キリスト教一括りにするには、実に多様な人々と教会の集合体なのである。
ただ、ムスリムのある部分の人々、ムスリムの良心と言って良い人々とお付き合いしている限り、彼らは、信仰と行動が分離しておらず、信仰は信仰の世界、日常は日常の世界という切り分けをしないで生きている方がたの姿を見ていると、在る面、美しいなぁ、自然だなぁ、と思うのである。それは彼らが、発展途上国の人だから、というわけではどうもなさそうである。所謂これから発展する余地があるから、あるいは、伝統社会から来ているからこそ、割と単純、素朴な信仰者の生き方、というわけでもなさそうである。
どうも、イスラム思想、あるいはヘブライ思想の中にある、ある概念が、このような単純、素朴な信仰者のあり方を可能にしているようなのだ。それは、自分が誰のものが、自分を含む他人が、自分を含む環境が誰のものか、ということと、実は深く関わっていて、それが、神から与えられているテキスト(アラビア語のクォラーン、ヘブライ語のトーラーあるいはタナッハ、日本語での旧約聖書あるいはヘブライ語聖書及び新約聖書、あるいは、ギリシア語聖書)をどのように理解するか、とかなり深く関わっているようなきがする。
いわゆる旧約聖書、あるいは、学術語としてのヘブライ語聖書でも、いわゆる新約聖書、あるいは、福音書から始まり、黙示録が最期にあるギリシア語で書かれた聖書でもそうなのであるが、そもそも、人間とは人間のものではなく、人間とは、神のものであるというのが、基本的な理解である。環境にしても、土地にしても、水にしても、空気にしても、生物にしても、人間が作り出したもの以外の全ては、本来は、神のものであるのである。
それをいつの頃からか、人間はこういう環境や土地や、水や、野生動物が無主物であるから好きにしていい、ということをやり始めた。無主物とは、所有者、権利者が人間の世俗の法で定義できないもののことである。このような無主物、あるいは無主の土地は、最初の発見者が好き勝手に、何をしてもいいと勝手な理論をつけて、ネイティブ・アメリカンから土地を勝手にものすごい不当な廉価で合法的に奪っていったのが、アメリカに最初の頃に入植した開拓者の皆さんである。
だからこそトランプ現大統領が選挙戦中に、「不法移民は出て行け」と言ったときに、以下のような画像が、ネットに出回っていたことを覚えておられる方もおられるだろう。
https://www.pinterest.jp/frybread7/native-funny/ から
【口語訳聖書】 マタイによる福音書
24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
また、神の奴隷になり、天の父のみ旨を行うもの(すなわち、神の奴隷、あるいはしもべとなること)を選ぶことの大切さを、別の表現で次のようにイエス様も言っておられる。
【口語訳】マタイによる福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
ということは・・・
人間が人間になる、人間を人間にする、ということは、人間が神のものになる、あるいは、人間が本来のその目的に従い、神とともに生きるような姿となることが、人間が人間らしくなるために必要になるということと言っていいと思う。そして、人間らしくなった人間が、集まるからこそ、人間が神が造られたものであり、人間が神のものであることを認め、それらの呼び出された人びとの集合体(カハル構造を持つ集団)が教会なのである。つまり、教会すら、人間が集まってできているとはいえ、人間ためのものではなく、教会員のものでもなく、ましてや、牧師のためのものではない。教会も神のものである。
神のものは神のもとに
その意味で、カイザルのものはカイザルのもとに返すべきであり、神のものは、神に返すべきということばは、実はかなり重要なことを含むのである。自分を含め、神のものであれば神にお返していく。つまり、神の奴隷として生きることが、アラビア語で言えば、アブドアッラー(アブダラ)として生きることが重要なのである。
【口語訳聖書】マルコによる福音書
12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
ムスリムのかなりの部分の人や、ユダヤ教世界や正教系の世界のある程度の部分の人は、神の奴隷として生きておられるが、プロテスタントでは、自らそのものも含めて、この被造世界が神のもの、神の支配に服すべきものであることを忘れ、神がご自身の権利を今ご主張になられないことを言いことに、この世界を、そして、自分自身も、あたかも無主物である家のごとく考え、自分の思うがままになるものとして、扱うようになってしまったのではないだろうか。
人間が人間らしく在るために、
教会が教会であるために・・・
人間が人間らしく在るためには、教会が教会であるためには、まず、人間にせよ、教会にせよ、神のものであるという神の主権を認め、神にその主権を返納していくところから始めるべきかもしれない。人間が握りしめている自分自身、人間が他の人間を握りしめているその手を開き、そこに臨済される方、聖霊なる方を握りしめるのではなく、それを受け取ることができるように手を上に向かって開いておくことが大事なのだと思う。そこに吹き込まれてくる神の霊、神の息吹、精神の働きをふわっと受け止める事が大事なのではないだろうか。このあたりのことをある程度書いたのが、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』なのだと思う。
ところで、計算機には、機械には残念ながら、聖霊を受ける部分はない。聖霊が内住される場所がない、聖神が臨在される場所でもある”こころ”(Heart)がないのである。コンピュータは泣いたりしないし、怒ったりはしない。人間はコンピュータの単細胞さに怒ることが在るけれども、コンピュータは、人間に対して、正しくない操作をしたので動かなかったとは画面上に表示させたり、プリントアウトしたりはするけれども、人間に対して殺意を抱いたりはしないし、人間のギャグに反応して、大笑いしてくれたりしないのである。感情と似たような反応を画面に表示させたりすることはプログラムで、ある程度できるけれども、それは、心からのものを真似しているにすぎないのである。もう少し言えば、計算機はアルコールを飲ませても、酔っ払ったりはしないで故障してしまうが、人間はアルコールを飲むと酔っ払ってしまうのである。だから、酒に酔うな、とパウロは書いているのであって、一滴たりとも飲んではならないとか書いていないように思う。アルコールに本来、神のものであるべき人間が奪われてしまうからこそ、本来の神のものが失われないように、「酒に酔うな」と書かれているのだと思う。
その意味で、神の霊を求め、神の息吹を求めることこそが、人間的ななにかと神の霊が相まって、存在することで、人間や教会が神のものとなり、神がともにおられることになり、神の奴隷樽にん気んが、神の奴隷の集まりである教会が、活性化が起きるのだろう。それを、近代の社会では、リバイバルとよんだのではないだろうか、と思う。
リバイバルとは、人間が運動として起こすものでもないのだろうし、人間が必死になってつかもうとするものではないと思う。リバイバルとは、受け止めるものなのだろう。そっと受け止める。そっと手のひらで受けた時、本来の活性の状態を回復できた状態になったのがリバイバルなのではないか、と思う。その意味で、すリバイバルは人間が起こせたりするようなものではないのだろうと思う。このあたりは、ロイド・ジョンズの『リバイバル』を読んでもらうと、ある程度は、わかるのではないか、と思うのである。
次回へと続く。
一応、このシリーズ、次回で終わりにしたい。
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『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その4(宗教改革500年の年に…)完
さて、今回で悪役レスラー篇も第4回である。なぜ、この『焚き火を囲んで聴く神の物語』の応答で、場外乱闘気味の応答の文章を書いたのか、場外乱闘しているように見える羽目になったか、ということの弁証(言い訳、説明)を少ししてみたい。
書式でもはみ出した大頭さん
この本で、確かに主著者の大頭さんの悪行三昧を、悪役レスラーのマイクパフォーマンスよろしく悪口大会をしたか、というと、この本では、たしかに、あまり悪行三昧の跡形が残っていないのではあるけれども、元になった雑誌の段階では、文章の途中でフォントサイズは変える、やたらと脚注がある(それも小さい)…というD.T.P.の版下作成の人にとってはあまりに面倒くさいため、美味しい仕事ではない(さらに、出版社にとってはコストアップ要因)ような原稿となったと思っていたからである。基本、ミーちゃんはーちゃんは技術者でも在るので、これは、あまりに酷い、と思い、それこそ場外乱闘だ、と思ったのである。だとすれば、こういう場外乱闘には、それにキチンと応答して差しあげるべきだなぁ、と思ったのである。大頭さんが、従来の神学系の書籍や雑誌のスタイルにおいても、枠外からはみ出てきていると感じたので、そこはそれ、悪役レスラーらしく「そんなもんあかんやんか」と言ってみただけなのである。
神学のリングは、本当はどこか
牧師しか行かなようなところに、平信徒としてフラフラ出没(まぁ、昔は牧師の真似事のようなこともやっていたので、研修のためと思って参加し、牧師の関連業界を割りとそばで見る機会を作ってきたが、元いた教会から、暫く来るなと言われたのをいいことに、教会巡りをしはじめ、今は、聖公会の出島のような教会に寓居するようになり、牧師の真似事もしなくて良くなったのでそろそろ、このような牧師関連業界とのおつきあいも、もうそろそろ、やめてもいいかなぁ、と思っている。趣味としてする分には、あまりお金もかからない割に面白いので、もうちょっと付き合おうか、と思っている。
ところで、この本の素材になった雑誌の連載で、理念的なことを理念的な言葉で語るのが定石であったこの種の雑誌のスタイルを破る形で、つまり、牧師が自分の理解をまとめて、牧師に語るというスタイルで書くのではなく、信徒たちにも考えてほしいと思ったのか、連載の段階で、神学そのものを抽象化・結晶化して語るのではなく、神学を生み出した過去の神学者について語るのでもなく、妙なことをし始めたなぁ、と思ったのである。そして、信徒にもこの世界の幅広さ、奥行きのようなものがあり、その面白さの一端を味わってもらおう、と書いているのかなぁ、と聖なる誤解をしたので、「おお、そこまで挑戦状を信徒に突きつけるか」それならば、信徒として、主に、社会の学問の側に足場をおくものとしての哲学的反省(パスカルの意味での反省、深く考えること)から応答するのが、私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことに過ぎない。
この連載の最初に書いたように、神学は教会の学であるとはいうものの、それは、信徒がきちんと聖書を読み込んで、神のみ思いが天において実現するように、地においても実現するための道具というか、存在となるようにすることが本来の神学の役割ではないか、と思っていたからである。神学のための神学ではなく、信徒が、この世界において、神のみ思いを聖書から知り、神のみ思いに関わる、神のみ思いを馳せるために信徒の方々とともに考えるためのものが、神学だと思ったからである。その意味で、信徒に仕えるためのものが神学だろう、とミーちゃんはーちゃんは思っている。
その意味で、神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っているし、その意味で、神学は同時代性とある種の時代生を反映したものにならざると思えないし、過去の神学者たちの生み出した思潮も、結局は、固定されたものではなく、ダイナミックなものであったのではないか、と思っている。
信徒に仕えるための神学
しかし、学である以上、業界用語、あるいは、ジャーゴンとよばれるものが出てくる。大抵、これが理解できないとある特定の学の世界に触れることはかなり難しい。それが、本来、多くの人々に仕え、多くの人々の生活に貢献し、その成果を伝えるための学として出発していても、結果的に専門家の学になってしまうゆえんである。
この辺は世俗の学の世界でも全く同じで、ある学問の隣接の学問分野に行くためには、ある程度時間をかけて、その世界固有の言語を学ばねばならない。同じ日本語であっても、驚くほど、ことばが違うし、同じ語でも用法が違うことがある。これで戸惑ってしまうのだ。つまり、ことばにそれぞれの分野ごとに独自の手垢、あるいは、味わいがついており、その手垢や味わいを無視して、ある言葉を使うことができなくなっている。神学でも全く同様である。
このある業界の用語の手垢というか味わいの部分と、ある学問をするために知っていなければいけないことの多さが、学問から人が遠ざかる理由であるので、それを、なくそうとして大頭さんは書いていることはわかった。そのような態度のことを大頭さんは、神学ジャーナリストという言葉で表しているが、それはちょっと本職のジャーナリストとして、いいのだろうか、とは思う。確かにテレビに出てくるような、自称ジャーナリスト、あるいは、テレビ局がジャーナリストとラベルを貼り、ありがたがっているような人には、その後発言を聴く限り、この人あまりまともに勉強していないのではないか、と思われる人も交じるが、マジメな学識に基づいて仕事をしているジャーナリストの方のほうが、実は多いとは思うのだ。
大頭さんが、平信徒のミーちゃんはーちゃんにあえて、対論を頼んできたということは、世俗の神学というリングの中なのか、象牙の塔なのか、金字塔の中なのかは、よく知らないが、信徒の生きている世界は、そのような狭い枠内や領域で終わっていないはずなので、神学という限定された枠内(公共圏)では収まらない世界に生きている人間の立場から対話を求められたということは、神学というやや狭い対話のための空間や領域(これを、ハーバマスという人は、公共圏と呼んでいる)という枠内に留まらない対話のための空間や領域での対論を頼んできたということなのだなぁ、と思ったので、それに応答したまでである。
とはいえ、いきなり、マジで、世俗の学の世界の概念であるシステム論とか、科学思想の歴史理解とかからかい始めると、人は読む気なくす(これは、授業している時に経験済み)ような気がしたので、最初は、軽く自己紹介がてら、大頭さんとの関係を書いて、ちょうど、ボクシングの試合の前に記者会見でボクサーがやるように、そして、観客を巻き込むために悪口大会をしたのである。そもそも、当初のヨベルからの依頼原稿の文字数は、7000字である。楽の世界からの応答として、世俗の学の発展の歴史的経緯などは書けなくはないにせよ、かなり荒っぽい議論になる。とすれば、どうせ与えられた資源ならば、面白おかしく、リングに上る前の記者会見のように、悪口を言ってみるほうが面白そうだと思ったし、そのほうが読者というか、ギャラリーも面白がるのではないか、と思ったのだ。
売上を確保するための販売協力として
スポーツ新聞とかいう駅売りの新聞や、タブロイド紙と呼ばれる夕刊だけしか発行しない新聞があるが、駅の新聞販売スタンドでそレラの雑誌やタブロイド紙のトップ見出しにあふれているのは、バトルのことが多い。こういう揉め事は、スプリングセンテンスと呼ばれた、文藝春秋や、週刊新潮とかの見出しに多い。あまり、こういう週刊誌の広告がついていない電車にのることが多いので、時々、出張で山手線とか中央線とかに乗ると、「え、こんな広告するんだ」と思うようなどぎつい広告を見ると、目のやり場に困ってしまうことがある。女性誌だって、男性誌や一般誌とくらべても決して負けていない。
週刊女性 中吊り広告 http://blog.8bit.co.jp/?p=6457 から
なぜ、こういう広告をするか、揉め事に関する記事が大量に記載された広告をするかというと、売れるからである。揉めている方が売れるのである。だからこそ、あえて揉めているようなことを書いておくと、それだけで本が売れるのではないか、と思ったのだ。ある面で、あの文章は本を売るための方策である。なにせ、キリスト教書は、あまり売れないのだ。だとすれば、筆者としても、売れるための工夫を少ししてみようと思ったのためである。
世紀の揉め事であった宗教改革
エンタメこそが正義などというアホなことは言わないが、今の日本の福音派系キリスト教界、あまりに真面目でお行儀が良すぎで、良い子ちゃんが多くて、エンタメ要素がなさすぎのような気がする。そら、お行儀のよい、良い子ちゃんたちのよいこちゃんのための、良い子ちゃんによる信仰という側面が在るのは確かではない化、と思う。だからといって、無意味に不良ぶってみたり、過去の黒歴史を誇るために良い子ちゃんが本当はない話を持ち出すのは、もっとおかしいが、素朴に考えて、「そうでないんじゃないか」と思うことはそうでない、ともっと正直に、フランクに言ってみたほうがいいのではないか、と思うのである。
良かったかどうかは別として、カトリック教会に向かって、ルター先生は、かなりの悪態ついている。え、こんなこと言ったの、と言いたくなるようなかなりひどい悪態もある。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの悪態は、とりあえずは、大頭さんが言ってきためんどくさいお願いをネタあたりを最初のきっかけにしながら、今の信徒のためとは、ミーちゃんはーちゃんには、ほとんど思えなかった日本の福音主義関係の先生方のご議論の現状に対して、「それ、ちょっと狭い世界に凝り固まってませんか」「ブログでもなんでもいいからさ、もちょっと、信徒の世界にも出てきてくださいな」と言いたいがためにちょっと悪態をついて挑発してみた、ということである。その意味で、愛のある悪態でもある。挑発したら、4人の先生方が庶民向けにブログを書き始めた。一発目はあまり庶民向けとはいえないけれども。まずは成功である。とは言え、まだ、なかなかちょっと高踏的であるので、もうちょっと庶民よりにしてほしい気はしているが。
その意味で、この本が、当時のカトリック教会に悪態をついたルーテル先生の宗教改革から500年に出たという意味は大きいと思うのだなぁ。これが。その意味での記念論集としての価値の幾ばくかはありそうな気はあるようなないような・・・そう言ってしまうと、単に遊んでいるだけにすぎないものとしては、ちょっと大げさではあるが。
以上で、悪役レスラー編は終わりである。
小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(上)
さて、ここまで、いくつか本の企画や雑誌などでは、書き手の一人として、関与してきたけど、そういうかたちではなく関わってきた本が出版されたので、その出版をお祝いし、ここでもご紹介してみたい。この本については、この本のミーちゃんはーちゃんの書評が次回の『本の広場』ででるが、そこにかききれなかったことを、その原稿の基本的な線をもとにしながら、もうちょっと書いてみたい。
時間という次元をどう認識するか…
現代人にとって、時間とは、人間とは関係なく、あるいは他のものとは独立に、一方的に、それ自身のリズムで進んでいくというか、この社会を規定する次元の一つ、空間をX軸、Y軸、Z軸が支配するように、時間軸もこの社会を規定している次元の一つであるが、X軸、Y軸、Z軸のようなこれらの軸とは異なり、戻ることのできない次元として人間とその行動を規定している社会の軸として考えられていることが多い。現代人にとっては、先に述べたような社会や環境を考える上での、一種の前提となっている、過去から未来に向かって一方的に流れているという時間理解にある種チャレンジしている本ではある。たしかに時計の針は戻ることはない。それは確かだ。しかし、それは我々、人間の観察の限界であるのかもしれない、とは思う。ひょっとすると、X軸、Y軸、Z軸が、人間にとって、ある程度前後左右上下に自由に移動ができるように、時間軸も人間にとっては1次元のあるベクトルにそって、一定の速度で進行しているととらえているのは、人間の認知の限界であるかもしれないと思う。元同僚の数学者の友人なら、少なくともそんなことは考えそうな気がする。ミーちゃんはーちゃんですら考えるのだから。
実は過去との関連で生きている人間…
現代の我々は、ある意味で常識で縛られている。過去起きたこととは、ある程度、無縁に生きていると考えがちである。しかし、よく考えてみると、必ずしもそうではない。現代人の世界は、ある種時間断面が大量に集まった集合体として、ある時代の状況、現代の状況を考えているが、実はどうもそうではない。歴史性、少なくとも時間の連続性の上に我々の現在があるのである。現在の法律は、過去に作られたものである、現在の政策は、過去の出来事の上にできたものであるし、現代の人間理解は、過去の誰かの人間理解をちょっとづつ作り変えながら、できているからだ。
哲学だってそうだし、神学だってそうだと思う。我々は、アウグスティヌスなしに神学を考えられないし、パウロなしに神学は考えられないし、ヨハネの記述なしに神学はできないし、イエスの存在なしに神学は考えられないし、イザヤが記述したとされることを無視して神学は考えられないし、ダビデの存在なしに神学は考えられない。それは、哲学でもそうだ、ギリシア哲学なしに現代哲学は存在しないのだ。なかったこととして始めることはできるけれども、それは非常に迂遠だと思う。大抵ある人が考えることは、すでにギリシア時代の先人たちが考えているし、自分たちが考える神学のようなものは、既に過去の人達もそれなりに考えているのだ。だからこそ、古典や過去の著作を読む意味があるのではないか、と思う。
ところで、一方向的に、単調に進んでいくような時間管理をヘブライの民はもっていなかったようで、螺旋的に進行しながら、過去とある断面ではときに交差するようなかたちの時間理解をもっていたような気がする。この辺は、ヘブライ思想研究者の手島イザヤ先生にもちょっと聞いてみたら、そんな感じとも言えると教えていただいた。ありがとうございます。
この本の本論とは関係ない話題はさておいて、その一方向的に直線的に進んでいく時間理解で聖書を読んでしまうと聖書理解が歪むことがある。少なくとも、その問題を、この本では、現代人と違う時間理解をもっている人びとの一人であり、そのうえで、ギリシア思想をかなり深いところで知っていると思われるヨハネが書いた、ヨハネの福音書を素材としてとりあげ、聖書が多様な重層的構造を持っていることを明らかにしようとした本である、という印象を持っている。
ある言語とその背景にある何か…
ところで、言語、とくに外国語という対象について日本語から考えてみると、外国語を支えるなにか、というか、外国語の背景にある思想とか、文化とか、ライフスタイルとか、世界観とか、ものごとのみかたをある程度肌感覚で知っていないと、その外国語での表現が歪んだ物になってしまうようなきがする。英語で書くときには、英語で考えるという習慣がないと、意味自体は通じるけれどもなんか妙な表現になってしまうのである。外国人が日本語で話すときの窓ロッコさを感じるのである。他には、テレビの外国映画を見る時、う~~~ん、これ、ちょっと感じが違うんだが・・・と思うような翻訳に出会うこともある。昔自分が書いた英語の論文があるが、今見たら、「ぎゃ~~~」と叫び声を上げたくなるような文章だと、我ながら思う。
聖書を読むときだってそんな感じである。誤訳とは言わないが、もともとの言語がもっていた感覚というか、雰囲気が失われているんじゃないか、って思うことが時々ある。特に思想的なもの、哲学を含む文章では、それを強く感じる。
福音書はそれぞれ独自の味わいがあるのだが、中でも、ヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは明らかに異なった味わいと手触りを持った福音書である。ヨハネの福音書は、ギリシア語が単に話せるだけではなく、その世界の哲学思想やギリシア語世界での、ものごとのみかたができる人物でありながら、ユダヤ人でもある人物であるヨハネが書いたようにしか思えない。
古代ヘブライ的な重層性を持った福音書、そして、螺旋的に進行していく時間や過去の歴史との重なりをかなり重視し、重層的に表現しているようなきがするのである。まぁ、このゆにさらっと、書いて分かる人は、案外少ないのではないかと尾もう。この辺の関係というのは、案外理解するのが困難だと尾もう。なぜならば、現代は過去から未来に向かって一直線に線形的に進むと考えられているようだし(例えば、歴史の年表なんかがそういうスタイルでできている)、ガムやスマートフォンだって進化するらしい。個人的には仕様変更、仕様改善がなされたということなのだが、それを進化というあたりが、我々が、このような概念にいかに毒されているのかの何よりの証左だとおもう。
しかし、このようなことを、単にこれまでよくあるタイプのキリスト教書のように、理論的、抽象的に示したのでは、大人の一般読者、あるいは中高生くらいの若い一般読者には、理解が困難だろうなぁ、と思う。日本のキリスト教書は、ガイドブック的入門があって、後は、牧師先生方や、こういうのを読むのが好きな大人受けを目指して出版される。昔は、入門と専門の間の中間的な本や、小説仕立ての青少年向けのキリスト教書が数少ないながら存在したが、今は、出版事情もあるのだろうが、このような中間的な存在がない。となると、もう、中高生などに読ませる本がないのが実情なのだ。とは言え、このような聖書理解に関する内容は、重要な割に、助けがないと、容易に理解できないため、かなり思想的な文章であるヨハネ福音書などは、結構、自分にとって都合がよいように、拾い読みしているキリスト者は少なくないのではないだろうか。
そこで、著者の小島さんは、『夕凪の街 桜の国』というコミック作品に着目し、そして、映画化された作品を引用しながら、それをメタファーとして、過去と現在が交差する状況、そして、螺旋的な時間の進み方、人間関係のつながり、ネットワークが存在し、それが生み出す歴史的重層性の中に生まれるものがあるということを示している。そのうえで、実は、聖書の世界は、そのような重層性が多数あることを示し、聖書自体が、ある種時間と空間的制約を超えたものであり、従来の直線的、線形的な時空間理解とはかなり異なる螺旋的な時間の中で、重層的な関係性のなかで、読まれ、話され、理解され、受け取られ、これからも受け取られていくものを示そうとした本である。
まぁ、こういうクロスオーバーとか、カットバックが利用された脚本には幾つかあるが、個人的に見て面白かったのは、Julie and Juliaとか、めぐりあう時間たち (The Hours)などがある。
そして、近代を支配した、いわゆる科学的とされる、直線的で一方向な一定の時間の流れが小学校の社会科における教科書の歴史記述や、理科の時間記述から、社会一般の歴史理解に至るまで時間記述の支配的な概念となっており、その先験的な仮定に強固に支配されたままでは、創世記から黙示録に至る聖書記述が十分に理解できないのではないか、という重要な問題提起をこの本を通して、小島さんはしようとしている。
従来のキリスト教書では、大人の用語で、専門家の用語で、かなり抽象的に表現することが多かったと思う。それでは、中高生や、若い人々は置き去りにされて行くことになる。この問題を回避すべく、比較的若者にも読みやすい題材であるコミック作品をも絡めながら、聖書を読むときに、現代社会を縛っている直線的、単層的、単一平面的な時間軸、空間軸で理解するのではなく、重層的な螺旋状の時間の進行と出来事の関わりと人間との関係が、現代社会においても十分意味あるものであり、特に聖書を読んでいくうえで重要であることを示そうとしている。
次回へと続く
評価:
小島聡 ヨベル ¥ 1,080 (2017-06-01) コメント:ヨハネ福音書と夕凪の街 桜の園 を素材に使った聖書の世界へのガイドブック |
小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(下)
前回のご紹介に引き続き、今回も小島聡さんの『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について、思ったことを述べてみたい。
近代戦と総力戦と国民の悲劇
近代における画期的な出来事の一つは、いわゆる近代戦の登場であり、近代国家にとっての戦争の多くは、国家と国家、国民と国民の間の総力戦になったということである。近代以前の戦争は、戦争とは言うものの国民全員を巻き込むという形での総力戦ではなかった。戦争屋ともいうべき傭兵ないし、職業軍人による戦闘行為によって、どちらの国力が強いかを明らかにしようとするものであった。そのために武器が作られ、職業軍人は、職業軍人同士で戦場で戦ったのである。
しかし、古代においても、王権が成立するまでは職業軍人というものは存在せず、領域争いは村人と村人、自分たちの権利の確保や、自分たちの権利を蹂躙する強盗団や誘拐する拉致集団への自営的戦闘であったのではないか、と思われる。イスラエルの民がそれでも王がほしい、とねがったときに、神はサムエルを通して何と言い給うたか、そして、民はどのように主張したか、というと、こうであったと聖書は記述する。
【口語訳聖書】サムエル記 上 8章4-20節
イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、
彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。
彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。
今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。
彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、
千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。
また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。
また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。
うの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。
あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。
また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。
その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。
我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」
王など持ってもろくなことが起きないということをイスラエルの民にサムエルを介して告げさせて知らせても、イスラエルの民は王がほしいと強弁して、王を獲得する。最初の王であるサウル王は一見まともに見えたものの、嫉妬心に狂うし、尊敬をある程度今なお集めているエッサイの根のダビデ王であっても、ろくでもない王様となっていくし、時々賢い王様は現れるものの、それは至極少ないし、まともであっても権力の座に就いた結果、狂わない人はいない、ということの例証のようなリストが、歴代誌と列王記には、延々と並んでいるのだ。
割とのんびりとした古代であってもこのような状態である。巨大な殺戮のための道具を得た現代の戦争は、ものすごく悲惨な悲劇を数多くの戦争とは本来関係のない人々であるはずの人々に多大な影響を与えてしまう。もともとは、給料やボーナスをもらって戦争する、ある種、戦争屋とでもいうべき職業軍人、傭兵だけでなく、一般市民を巻き込んだ悲惨な総力戦にいやおうなく巻き込まれるようになったのが、近代戦の悲劇と言うか悲惨である。
戦闘が始まると見境がなくなる人間という存在
人は、武器を持つと見境なくなるのは、古今東西万代不易の現実であり、そもそも、職業軍人として訓練されていても、見境なくなる時には見境なくなって、やってはいけないことをやるのだ。
ピカソのゲルニカの複製タピストリー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E7%B5%B5%E7%94%BB) から
近代を支配した時空間理解は、相対性理論や核開発などにつながり、そして、その原子物理学が生み出したのが原子爆弾である。著者は、現代の支配的な時間概念に対して、批判的である。そして、現代社会とその社会を縛っている支配的なその時間概念のもと生み出された原子爆弾の問題に対しても批判的な視線へとつながっているようだ。この原子力の問題は、本書のタイトルに含まれる、『夕凪の街 桜の国』のテーマでもある。
諸力としての悪が人間を蹂躙し、そして、
人間が神のものである人間を蹂躙するという悲惨
諸力としての悪や罪の結果、神のかたちであるべき人間が、その神の似姿を既存させることになる。この諸力としての悪や罪が人間の中にあり、多くの人間そのもの、そして人間と神との関係、その結果としての人と人との間の関係が、ただでさえ傷ついているのに、更に、戦争や原子爆弾で、どのような人も罪や悪の支配下にはあるので、無辜の民とは完全に言い切れないかもしれないが、少なくとも幸せに非戦闘員としてのんびり暮らしている人々が、物理的に、身体的に、そして、精神的に更に破壊され、傷つけられる問題についての示唆を本書で試みられているようである。
1年ほど前、本書の前段階の原稿について、お話ししたことがある。かなり読みにくい、何がおっしゃりたいのかわからないような、原稿であったことについて、著者の方とじっくり数時間に渡って話し合った事がある。その時に、問わず語りにお話になられた、ご自身の来歴も、この原子力の問題が本書が取り上げていることに影響しているかもしれない。ご自身はあまり明らかにしておられないようであるが、著者の小島さんは、原子炉材料の研究者でご活躍であったようだ。原子力の平和利用ということに貢献されていたのだと思う。しかし、平和利用のためとは言いながら、かなり危険性を含む技術利用の欠落、欠陥を、東日本大震災は示してしまった。福島の地は、いや、本来神の地であるはずのこの日本列島の大地、そして、太平洋という海洋、そして、福島の大地は、原子力で汚染されてしまったのだ。これは、研究者として、かなり厳しい反省を、小島先生に、陰に陽に与えていると思う。お会いして、このあたりのお互い、技術者(小島さんは原子炉材料の研究者であり、ミーちゃんはーちゃんは空間情報技術者)として、フランクなお話をしているときに、その過去の来歴をお聞きしたので、これは相当つらいかもしれないなぁ、と思ったのである。
人々の幸福のためと思って研究しても、
不幸を生み出すことになる、という如何ともしがたい現実
人々のためと思って、一生懸命研究したことが関連する技術として構想したことのが、人々を苦しめ、傷つけるということは起きるのだが、それは、自分自身の技術者の基本的な概念にかなりグサグサとくるとは思う。この本には、そのへんの反省も含まれているのかもしれない、と思った。そして、本校の前の段階の現行では、それを少し感じた。ある面、意図はしなかったとはいえ、おきたこと、また、これまでなしてきたことに対する反省と告解の告白を、おおっぴらではないものの、どこかあちこちにそれを示した本でもあるのではないか、という印象をミーちゃんはーちゃんはもったのであった。
その意味で、この本はある面著者の半生についての反省が投影された印象深い本であるように思う。
そして、小さな本ながら、時間の問題、人が人として生きる中で、どのように意識しなくても、人を傷つける可能性があるのか、に関する重要な示唆を多くのクリスチャンに与える本であるように思う。
その意味で、広く読まれること、そしてできる限り多くの若者に読まれることを期待したい。そのためにもできるだけコンパクトで読みやすい本として出版されたのであるから。表現がまだまだ固く、若干整理されてない、と思われている部分もあり、読みやすい本とは言い難い部分もあるようなきがするけれども。おそらく、それは著者が真面目な方であるために、ミーちゃんはーちゃんのようなマッドサイエンティストではないことに由来するのかもしれない。
素朴にそう思う。良くも悪くも、日本の技術者のプレゼンテーションの下手さ加減が明確に現れた本でもある。
以上で本書についてはおしまいである。
評価:
小島聡 ヨベル ¥ 1,080 (2017-06-01) |
『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1)
この企画に望むミーちゃんはーちゃんの思い
まぁ、ポスターは、Provocativeでないとインパクトがないので、インパクト重視で作ったが、個人的には、この企画、かなり真面目に取り組むつもりである。どうせやるなら、真面目にやらないと面白くないではないか、と思っている。ふざけている。この時期に何だ、と顔を顰める人も、眉をひそめる方もいるだろう。それはそうかもしれない。そして、ぜひ眉をひそめるなり、顔をしかめるなりしてほしい。それが、言論の自由が保証された世界だから、である。
ところで、この企画の企画段階で、思いつきのようにテロを持ち出した人物が誰かは、もう、このブログ読者の皆さんならお察しのこととは思う。ただ、それにミーちゃんはーちゃんが乗ったのは、この問題は、聖書理解の観点から言っても、現代において避けて通れない重要な問題だからであり、それを、真剣に語り合う必要があると思っているし、その価値があると思っている。やる以上は、きちんとしたい、というのが正直な気持ちである。それが、参加者の皆さんにとって、どの程度興味深いと感じられるかは別として。
ただ、2時間では語りきれないので、ここに、基本的な理解は書いておく。誰も読まないと思うけど。いつものように長いので。
暴力と暴力装置を介したコミュニケーション
戦争でも良いし、テロでも良かったのだが、実は、この現在の状況下において、戦争とテロとの両者の間は明確な差があるようで、現実のリアルの世界では、ほとんど両者の間に差がなくなっているのが現実ではないか、とは思う。以前ならば、テロは要人テロに限られたが、今は一般人が被害者になる例が多い。被害者がだれか、という意味でも、テロも、戦争も、あまり変わらなくなっている。特にコミュニケーション論の観点から見れば、実は両者は構造として、かなり類似しているのである。それは、恐怖を介したコミュニケーションだからである。
戦争が暴力装置を介したコミュニケーションであることがよく出ているのが、映画『13Days』のマクナマラ国務長官(当時)とガチの職業軍人である海軍長官の間についてのワンシーンである。このシーンは純粋な創作なのかもしれないし、実話か実話に基づく創作なのかもしれない。それはわからない。作り話であるにせよ、しかし、コミュニケーション論的な観点からこのシーンを見ると、これが何より印象的なのだ。
映画『13Days』から マクナマラと海軍長官の論争のシーン
テロってなんだっけ?
テロとは、そもそも、近代世界が作られるエポック・メイキングな事件であったフランス革命時代の恐怖政治に由来する。人々を恐怖させることで、ある特定の主張に無理矢理に従わせるという政治体制が執り行われる中で、その恐怖政治を指してテロルと読んだのが、そもそもの起こりである。
フランス革命というと、レ・ミゼラブルの美しい世界が思い浮かぶ人も多いだろうが、その実は、かなり血なまぐさいものであった。確かに、すべからく革命というものは血生臭いものではあるけれども。その意味で、宗教改革も革命の要素を持つので、結構実態としては、実に血生臭いものも含むことは、宗教改革500年だからこそ、今年は覚えたほうがいいだろう。フランス革命が血なまぐさいものであったことは、現在もなお、フランス国歌であるラ・マルセイエーズの歌詞が何より雄弁に物語っている。
フランス革命とテロ(テロル)
このあたり、ジョセフ・フーシェやロベス・ピエールなどが、混乱を収集するためとは言え、物理的暴力を持って、人々を支配し、自分たちの重いのまま動かすために、暴力とそれに対する恐怖を起点に、政治行為を執行したことにテロ、ないしテロルの由来があることは、先にも書いた。現代ではテロというと、ある程度広く一般市民に被害を及ぼすような物理的な暴力である爆弾事件や、911のような一般市民生活を脅かすような暴力行為のことを一般にさすが、本来的には、人々の正常な感覚を麻痺させ、恐怖で縛ってしまう(聖書的な表現を用いるなら、恐怖で人々の心を捕囚する)行為のことをいう。2002年7月から2003年7月まで、米国のそれも超脳天気なカリフォルニア州に滞在したが、その時期はあのカリフォルニア州であっても、911テロ事件が引き起こした米国人の正常な感覚の麻痺を感じた。そして、危険レベルが、毎日変わり油断も隙もない状態というのを経験した。あの時、アメリカはまさにアメリカ合衆国の国土内で戦争をしている、という雰囲気であった。
ジョゼフ・フーシェ
ロベス・ピエール https://fr.wikipedia.org/wiki/Maximilien_de_Robespierre から
忘れもしない2012年の8月末の海外からの訪問者を集めた大学のオリエンテーションで「君たちは、どこに行くにもパスポートを持っていきなさい。と言うのは、ロスアンゼルスのダウンタウンで、金髪碧眼のスカンジナビア諸国出身の女子学生が、話している英語が変だということでテロリストの扱いを受け、3日ほど警察に拘留された事件があって、その女子学生の開放に非常に手間がかかったのであり、我々は最大限努力は惜しまないが、それでも、そういう不愉快な事態未然に防いでほしい」と事務の責任者からのっけに宣告され、あぁ、この国は、臨戦態勢に入ったんだ、ということを強く感じた。そして、マンザーナというカリフォルニアの地名とあの荒涼な風景が目に浮かんだ。
マンザーナの強制収容所での日系人の生活のワンシーン
http://yosemiteblog.com/2010/07/06/ansel-adams-at-manzanar/ から
そして、英語がまともに話せないだけで、敵性外国人って判断されるということになったのだから、この国は以前とは変わった、と感じた。そうこうしているうちにブッシュが宣戦布告をテレビで国民に語るのを現地時間で時差なしに見ることになった。そしてこの国は、本気で正気を失うほど怒りに狂っている、と心底感じたのである。
War on Terrorともメディアが呼んだ、対イラク戦争の国民への通告(Announcement)
アメリカは西側先進国で、ほぼ唯一と言っていいほど、従軍者以外の一般市民が戦争被害にあってこなかった珍しい国の一つである。たしかにハワイで戦艦を攻撃された(開戦通告が遅れたために、だまし討の格好になった)ことをいまだに言われる。12月の最初の頃は、小学校でボランティアをしていても、実に肩身の狭い1週間であった。
対イラク戦争中の厳しい雰囲気
ミーちゃんはーちゃんの息子が通っていた当時の息子の小学校の担任の先生は、ガチ勢と言って良いタイプの英国系米国人のクリスチャンであったし、そこにインターンとしてきていた研修中の教師(教育実習生だが、半年くらい共同で授業をしていた)もガチ勢に近い米国人クリスチャンで、家内は英語の勉強を兼ねながら、そこでボランティアをしていた。「3人のクリスチャンが公立学校でそろうとか、って珍しいよねぇ」という話もあったらしいが(カリフォルニアの公立学校の現実はどうもそうみたいである)、割りと、ピーカン脳天気なカリフォルニアであっても、割りと自由で、ヒスパニックの人々も普通に混じっている民主党支持層が多い地域ではあったが、職員室とかの公の場では、戦争反対とかはおろか、戦争のことを話題にすることすらできない雰囲気が漂っていたのである。
教会に行っても、半年に2回だけではあるが、特段教会員で、戦争に行った若い信徒がいたわけではなかったが、戦地で従軍(これまたServiceと呼ぶ)している兵士のために祈ってから、礼拝(Service)が始まった日があった。軍のプレゼンスが日常生活でも強いのが米国の特徴であると肌感覚で知った。
同じスモールグループに、空軍の退役将校(将官クラス)や海兵隊の退役軍人(工兵)もいたので、あぁ、教会もこうなるんだなぁ、と現実を前にして、当時はちょっと違和感を持ったこともたしかである。平和ボケしていたところに、アメリカ人とアメリカ社会に割りと普遍的に生身の暴力性が紙一重で存在しているのを見て、当時は、かなり当惑していた。そのことを、書きながら思い起こしたのである。その意味で、2002年頃のアメリカ合衆国滞在中には、暴力的コミュニケーションが起こしたろくでもない事態の渦の端っこに個人的には直面した。
そのように大きく変わったアメリカ社会を見ながら、911のテロリスト達は、アメリカ人を思考停止させ、アメリカ合衆国を理性的コミュニケーションから、暴力的コミュニケーションにフェーズを移行させるという意味では、成功したといえるように思う。
暴力的コミュニケーションとしてのテロと戦争
テロの語源となった恐怖政治もコミュニケーションであるし、その意味でテロもコミュニケーションであるし、戦争もコミュニケーションであると同時に外交もコミュニケーションである。親切も愛もこれまたコミュニケーションである。要は、相手の行動変容につなげるのに、どのようなものを用いるか、ということが違うし、そして、コミュニケーションにおいて、用いるものの後々までの影響がかなり違うようなのである。
戦争にしても、テロにしてもコミュニケーションなのだ。どのレベルでやるか、どのようにやるか、どのような規模で、何を使用してするかが違うだけであり、暴力でやるコミュニケーションという意味においては、効果においても実態においても、テロも戦争も結果的には変わらない。特に第1次世界大戦以降、一般市民が戦争に巻き込まれることになった。国民全部を巻き込んだ総力戦になり、人口を含めた国民国家のすべてのシステムを総動員するタイプの戦争になった。その結果、一般市民の被害はある面で当然視されることになる。
特に第1次世界大戦では、フランス、ドイツ、大英帝国の両国は、完全にその総力戦の被害を受ける。ドイツと大英帝国、ロシアなどの支配者層は親類同士であるものの、それが国民を巻き込んだ無益な消耗のみをもたらしたのである。その意味で、非戦闘員が巻き込まれるような近代戦は、それが職業軍人(戦争のプロフェッショナルとしての雇われ軍人、傭兵)同志の敵と味方に分かれての戦闘行為ではなく、一般人を巻き込むのが当然になってしまった。プロ同志なら、お互い命を取り合ったら、商売上がったりになるので、その辺手加減して動くことになるのが、アマチュアの場合、この辺の加減を知らないから、バランスを失ってひたすら激突することになる。
ところで、なぜ、暴力的コミュニケーションになるかということを考えてみれば、言葉が通じない、言葉がほとんど無意味になっているという世界が存在していることでもあるし、理性が通じないという世界になってしまった、ということなのかと思う。その意味で、バベルの塔は、ある面で祝福であったが、かなり呪いの側面が強いと思うのだ。相互に言葉が通じないとなると、あとは、モノ(金銭を含む)か暴力だけしかコミュニケーションの方法は、現実的に残っていないことになる。
ナウエンは、The way of the heartの中で、キリスト教世界でも、牧師や司祭ですら、現代社会の中での言葉の無効さ具合に現在打ちのめされているし、絶望していることに繰り返し触れている。そして、世俗社会の中で、言葉が溢れる世界の中で、ことばのインフレが起こり(特に広告業界)、言葉が価値を持たなくなっていることを同書で指摘している。それだけ、言葉が軽いというこの現実世界の普段は意識しない恐ろしげなる現実がテロや戦争という形で現れているのだと思う。
イスラエルとパレスティナの壁と両者の共存
従来、テロといえば、中東、特に、イスラエルとパレスティナの間で起きているものとしてしか理解されてこなかった。それだけ、その地域での混乱が激しかったからである。
1年くらい前、第3回冥土喫茶ぴゅあらんどのゲストが、現在のイスラエル、テルアビブ在住の旧約学者のレヴィ先生がゲストだったときのイベントで、ガザ地区の壁のお話が、個人的に今も忘れられない。
というのは、ガザ地区の住民やパレスティナ自治政府と融和的な政策を取っていた、リベラルというのか、自由、博愛、平等ということを重視しようとした理想主義者だった政治家が、度重なるテロの被害の故に、とうとう、現実的になって、より平和的にイスラエルとパレスティナがある程度平和的に共存しあうためには、適当な距離を取って共生することしかないということになり、両者の分離政策や分断政策を嫌っていた政治家自らが、ガザ地区との間に壁を作る政策を主導的役割を果たしたという、なんとも情けない実態があったらしい。
ガザ地区の壁
こういう話が聞けるから、冥土喫茶ぴゅあらんど参りはやめられない。このガザ地区の壁の周辺事情が指し示すように、理念だけでは世の中上手くいかないのである。
なぜ、警察官は武装するのか
どの国でも、何らかのかたちで警察官は武装する。この警察官が武装するのか、ということは、重要である。パウロの剣は警察権、治安維持活動のための武装としての剣という解釈もあるらしい。この辺はこのあたりの神学をプロパーでしているわけではないのでよくわからないが。
なぜ、軽武装することが警察官に認められているかというと、話しても通じない、分かり合えない状態も生まれるからである。「話せば分かる」と言った戦前の大政治家がいたが、その大政治家はそう言っている先から、武装した軍人に暗殺されてしまったのである。世の中には、心と頭が固まってしまったり、あることに捕囚されたりすると、めんどくさくなるのか、人間、神のかたちとしての機能が停止するのか、すぐ安易な暴力に訴える人々が出てくる。実に残念なことであるが。そういう意味で、我々はカインの子孫でもある。
そういう理性やこころや言葉が通じない場合に最後のコミュニケーション手段として用いるために警棒だったり、棍棒(米国沿岸警備隊の常用武装)だったり、ハンドガンだったりを警察官に支給するのである。そして、あまりに相手が常軌を逸していたWakoの基督教のカルトであるブランチ・ダビディアンのようなキリスト教徒とはいえ、重武装し、マシンガンを連射するような相手の場合は、重武装して、装甲車を導入してでも、この不幸の連鎖を防ぐのが、市民の安寧を保証する法と秩序を維持するための組織の宿命なのだと思う。
Wacoでのキリスト教系カルトがFBIなどの法執行組織と銃撃戦を繰り広げたブランチ・ダビディアン事件
そして、治安の回復のためには、治安維持当局が根性入れて治安を回復させようとすることを示すために、英国では、警察の重装備の警察官部隊を動員する。アメリカでは、治安出動は、州軍の役割とJurisdiction(法治権の及ぶ範囲)が決まっているので、それぞれ状況に応じて動員がかかる。
ファーガソン暴動で動員されたミズーリ州軍
たしかに、イラクとかアフガニスタンに現在派遣されているのはアメリカ軍でもあるが、それはアメリカ陸軍本体というよりかは、より正確にはアメリカの州軍(これがアメリカ軍の一部になる、という構造になっている)であり、彼ら州兵が、イラクに展開させられているのは、彼らが本来的に治安出動を担っている組織だからである。
ただし、アメリカ人は、州軍による出動なので治安出動だとは思っていても(思い込んでいても)、現地人にとっては、そんなことは知ったことではなく、米陸軍兵士と、州軍兵の厳密な区別がついていないために、イラクの諸国民にとっても、アメリカ合衆国国民とアメリカ合衆国州軍と州軍兵にとっても、悲惨なことが起きているように思えてならない。
公民権運動の紛争で、当時のアラバマ州知事ウォレスに対し大統領令によって、州知事を大学キャンパスから強制的に排除することを告げる司法省職員時代のカッツェンバックとその後に出てくる州兵の長
評価:
Array David C. Cook --- (2013-08-01) コメント:かなり参考になった。 |
『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)
【口語訳聖書】
ヨハネによる福音書/ 8章 1節−11節
イエスはオリブ山に行かれた。
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
姦淫の場で捉えられ、石打にされる直前でイエスの前に引き出された女性
マタイによる福音書 6章 13節わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
マタイによる福音書/ 22章 34−40節
さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
ラストエンペラーからの紅小兵が活躍した頃の文革のシーン
逃げるは恥だが役に立つ のCM
次回へと続く
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