2017.01.01 Sunday

2016年12月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、あけましておめでとうございます。本年もまた、よろしくお願い致します。さて、いつものように先月の記録のご紹介と参りましょう。

     

     先月は、26,655アクセス、平均で、日に  655.15  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
     

     2016年10月      30,084 アクセス (970.5) 
     2016年11月      19,655 アクセス (655.15) 

     2016年12月      26,655 アクセス (865.36)

     

     2016第4四半期(10〜12月)   76565アクセス(832.2)

     

    今年のアクセス数は、 271092 アクセス
     
    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

    こころの時代 安積力也さんの回を視聴した

    アクセス数  1345
     

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

    アクセス数  663 

     

    Web時代におけるキリスト教メディア(1)

    アクセス数 391 

     

    Web時代におけるキリスト教メディア(4)

    アクセス数  272

     

    Web時代におけるキリスト教メディア(2)

    アクセス数  263

     


    でした。

     

    今月特徴的だったのは、こころの時代の番組の試聴記の「こころの時代 安積力也さんの回を視聴した 」でしたねぇ。放送直後からアクセスが急に集中し始めました。他にこの方について言及しておられるウェブサイトがないためか、当ブログに集中した模様でした。テレビって本当にまだまだ影響力があるんだなぁ、と思った次第。その意味で、後追いではなく、事前に幅広く網を張っておくことと、先行で情報を提供しておくということと、オリジナルティある情報の提供が重要ということを思い出した。

     

     

    また、結構力を入れて書いて、また、そのようなネタがないはずの、Web時代のキリスト教メディア特集も、結構上位に来ているものの、定番商品である「現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由」にはどうやっても勝てないという程でした。
    あと、12月の日変動推移はこんな感じ

     

     

    2016年12月のアクセス推移  (後半は、クリスマスのためかだれている・・・)

     

     

     

    では、今年も、そして1月も御清覧よろしくお願いいたします。

     

     

     

     

     

     

    2017.01.02 Monday

    NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その19

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      さて、今日もN.T.ライトさんの、『クリスチャンであるとは』からミーちゃんはーちゃんが読んで思ったことについていつものようにたらたらと、書いてみたい。

       

      イエス時代のイスラエルの人々は

      イエスをどう理解したか
      イエス時代の人々で生きている人々は、残念ながら、現時点では存在していない。イエスについての聖書外部の資料は、ないわけではないが、それほどたくさんあるわけではない。

       

      「いやいや、福音書があるではないか」というご意見も理解できないわけではないが、福音書がどこまでの歴史文書として耐えうるか、ということを言い出したら、収集がつかない議論が巻き起こりかねない。ただ、福音書に書かれていることを抜きに、当時のイスラエルの社会において、イエスがどのように受け止められたのか、を考えることはできない。

       

      ちょうど、現代の日本という文化コンテキストにおいて、当時のユダヤ社会でのイエス様がなされたことやそのご発言の意味を考えることは、中国の歴史書に記載された邪馬台国の記述をもとに、現代の日本人が、当時の日本列島の様子を探ろうとするようなものである可能性は高い。時間のスクリーン、言語のスクリーン、習慣のスクリーン、文化のスクリーン、当時の社会で共有されていたヘブライ語聖書理解のスクリーンなどのスクリーンが、幾重にも重なっていたものであるし、さらに、福音書記者のスクリーンを通して、何重にも重ねられたものを通して見る感じがするのである。


      以下で、ライトさんが引用している部分に関しても、そのような幾重にも重なったスクリーンを介して、イエス様の言葉を垣間見ている感じがあり、ミーちゃんはーちゃんもどのように理解すべきか、当惑を覚える部分ではある。公生涯に入った時以前の情報が殆ど無いので、このようなことを公生涯以前に主張したということは、福音書からは推定あるいは推測できないが、福音書の中でも、あとに引用するマタイの福音書のあたりから、以下の部分で引用されているような表現が出てくるのである。

       

      そこで、イエスがあるときから、「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、3日後によみがえらなければならない」と語り始めた時、弟子たちは確実に次のように理解したと考えられる。すなわち、イエスの言葉は、聖書の預言を響かせている暗号(コード)であって、神の王国の到来と神の未来の訪れを暗示し、長い間待ち望んでいた希望がまさに成就されようとしているのだ。(『クリスチャンであるとは』p.150)

       

      ここを読みながら、思ったことは、言われてみれば、確かに、イエス様は、ある段階から、自分が死ぬことをかなり強く主張し始めていることは確かである。バプテスマをヨルダン川でバプテスマのヨハネから、受けた時に、鳩のような聖霊がおりてきたときから、そのようなことを言い始めているわけではないし、先にも述べたように、そもそも論として、公生涯以前のイエスに関する記述は極端に少ない。しかし、公生涯のある時点からは、ものすごい勢いでイエルサレムに突進するかのように、イエスはイエルサレムに向かって行くことがわかる。そして、後に引用するように、弟子たちは、イエスが王であり、将来、自分たちが王の側近となるかのような会話も、かわされていることが記載されるようになる。その意味で、当時のイスラエルの人々の一部にとっては、ローマの圧政からの解放者としての期待が、イエスに集まっていたような印象は拭えない。その極みが、以下の部分として記載されている。

      【口語訳聖書 マタイによる福音書】
      21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
       21:10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
       21:11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
       21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
       21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。

      まさにイエスは、群衆から「ダビデの子」と呼ばれるばかりでなく、預言者とも呼ばれ、その後に、メシアとして為すべき、イエルサレム神殿のきよめというか、機能正常化にむけてのパフォーマンスと思われることをしておられるのである。その意味で、このイエルサレム入城時のイエスは、正に、人々には「メシアである」と認定されていた、ということをマタイ福音書の記者は言っているように思えてならない。

      さらに、バプテスマのヨハネから使わされた弟子たちにイエスが語られたことは、ある意味をもっているのである。つまり、イザヤ書に預言されたものは誰か問題ということである。

       

      【口語訳聖書 ルカによる福音書】
       7:21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
       7:22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
       7:23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。

       

      知識を求めるユダヤ人ではないタイプの、しるしを求めるとされるユダヤ人にとって、イエスがなしたことのその意味はイザヤ預言の成就を意味したのではないだろうか。

       

      それを考えると、ユダヤ人によってイエスが逮捕された時、彼らの希望について、どのような感想をもったかに関しては、それほど明確に破棄されてはいないが、イエスの右の座に座すなどという大それた野望を持ったことを思い出した弟子はどれほどいただろうか、とも思う。とは言え、人はうまくいっている人のそばには寄っていくものであるが、うまく行かなくなった人のそばに居続ける人は殆どいないのが、これまた現実である。所詮、人とは、そのようなものであるとは思っているけれども。

       

      当時のユダヤでのメシア待望論

      ライトさんは、当時の状況とメシア待望論について次のように書いている。

       

      当時のユダヤ人のすべてがメシアの到来を信じ、待ち望んでいたわけではない。しかし待ち望んでいた人はかなり多くいて、その油注がれたものが到来した時何をしてくれるのかという期待感を、何度も繰り返して心の中に温めていた。メシアはイスラエルの仇敵、すなわちローマ帝国と必ず戦ってくれるだろう。そして神殿を再建するか、少なくともきよめ、回復してくれるだろう。ヘロデ家が神殿の再建に取り組んだのも、自分たちこそ真の王位継承者であるとの主張を押し付けるためだったのだ。メシアはイスラエルの長い歴史をクライマックスに導き、ダビデとソロモンのときと同じように君主国家を再建するだろう。メシアはイスラエルに対する神の代表となり、神に対してはイスラエルの代表となるだろう、と。(同書 p.151)

       

      新約聖書の中に、イエス誕生前後の闇と言うか、悲しみの部分として、ヘロデによる乳幼児虐殺事件が記載されている。クリスマス・シーズンは、「喜びの中にあった」と語られることが多いし、喜びのイベントとして、クリスマスは語られることが多いが、本来、むしろ、闇の中にあったと考えるほうがどうも良いのではないか、ともう数年前から考えている。ヘロデの乳幼児虐殺事件が史実かどうか、他の資料による確認をしたことは、ミーちゃんはーちゃんにはないが、もし他の資料により確定できる史実であるとすれば、歴史に悪名を轟かせるほどの、実に酷いことをヘロデ家の人々は、したわけである。

       

      その史実性を云々するよりも、その中に、「ヘロデ家が神殿の再建に取り組んだのも、自分たちこそ真の王位継承者であるとの主張を押し付けるためだった」ということを示すために神殿を建て、そして挙句の果てにメシア殺害を狙った乳幼児虐殺事件を起こしてまで、自分たちの安全とその地位を保全しようとしていた、ヘロデ家の皆さんのビビリ具合が、この乳幼児殺害事件の記述に実によく現れているのではないか、とは思うのだ。メシアの役割を果たしたくて、そう思われたくて仕方がなかった、ヘロデ家の皆様にとっては、本物のメシアに来てもらっては、本当に困るのだ。そして、それは、メシアかもしれないと思われたバプテスマのヨハネの投獄と殺害とヘロデヤの娘のサロメ・ダンスにつながっていく。

       

      サロメのダンス Gozzoli The Dance of Salome

      http://en.wahooart.com/@@/9GZH4W-Benozzo-Gozzoli-Gozzoli-The-Dance-of-Salome

       

       

      平和な日本の恋ダンス

       

      この乳幼児虐殺事件と関連して、イエスの降誕直後のエジプト行きという事件の中にも、旧約聖書以来のパターンである、行きつ戻りつするという、基本テンプレートというか、基本パターンが含まれているのが、非常に興味深い。

       

      油注がれたもの、と呼ばれたものには、神殿の再建や、少なくとも神殿の正常化が期待された(これは上で引用したイエルサレム入場直後の出来事とつながっている)ということは、それはとりもなおさず、神を中心としたダビデ・ソロモン王朝時代の栄光に満ちたイスラエルの復権という、非常に国粋的な思想でもあったであろう。そして、その国粋的な思想は、反ローマ帝国という活動とシンクロしたことも想像に難くない。イエスの弟子たちには、ユダヤ熱心党の人々も含まれているのは、そのへんの国粋主義的な運動体の一部との親和性をイエスの発言がもったである故であろうし、新約聖書に記載されている「誰が一番偉いのか?」論争や以下の部分で記録されている記載部分にも現れているように思う。

       

      【口語訳聖書 マタイによる福音書】
       20:17 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、
       20:18 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、
       20:19 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
       20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
       20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
       20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
       20:23 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
       20:24 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。


      特に24節にあるように、他の10人の弟子たちが憤慨しているから、まさか十字架の右と左につかせてくれ、とゼベダイの子の母とゼベダイの子どもたちと呼ばれる二人が願ったわけではないだろうし、実際にイエスの王座についたときの隣人は強盗犯の皆さんだったし、弟子たちではなかった。

       

      ここで、「わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」とイエスは弟子たちに問うておられるし、それは毎週の聖餐でも、個人的にミーちゃんはーちゃんにも、問われていることではある。本当は、イエスのさかずきは、飲めないし、飲みたくないし、それにあずかることすら、できない存在がミーちゃんはーちゃんであるのだ。しかし、イエスが「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう」と言ってくださるが故に、「取りて飲めよ」と最後の晩餐の時に弟子たちにイエスがおっしゃったが故に、ミーちゃんはーちゃんごときも、最後の晩餐でイエスから拝領した弟子たちに倣い、拝領しているのである。ただし、毎週現実空間で渡してくれるのは、司祭の方であるけれども。

       

       

      最後の晩餐(エチオピア正教会のイコン こういうフォルクアート風のは結構好き) 

      https://jp.pinterest.com/pin/478085316666677915/ から

       

      ところで、この聖餐式に関しては、ナウエンの「この盃が飲めますか」という本を読んでから、聖餐の意識が変わったのである。あの本が、ミーちゃんはーちゃんの聖餐式概念を変えてしまったと言って良いと思う。本来、我々には飲めないイエスの盃に与るものとして、イエスが変えてくださろうとしておられることを覚える日々を過ごしているのである。あの本は、ミーちゃんはーちゃんの聖餐理解を大きく変容させた本であった。

       

      我らは、王としてのイエス、油注がれたものとしてのイエス、勝利者としてのイエス、という側面にばかりつい目が行きがちではあるけれども、それは呪われるものとなっていくことを神の身思いであることを受け止める、という選択したイエス、神の苦しみを担うものとなったイエス、砕かれるものとなったイエスということに連なるものであることも、聖餐は表しているし、そのことの意味を聖餐に与るたびに、思わされているのである。それが、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんの今の思いである。

       

       

      クリスマスのことを書いているのに、なんだか湿っぽくなってしまった。さらには、新春早々、苦難のしもべの話になってしまったが、それもまた、キリスト、油注がれたもの、メシア、ユダヤ人の王・ナザレのイエスが、キリスト者、クリスチャンであろうとしている、今のミーちゃんはーちゃんにとって、ナザレのイエスがもっている意味でもある。

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

      評価:
      価格: ¥ 2,700
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:おすすめしております。

      評価:
      ヘンリ・J.M. ナウエン
      聖公会出版
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      コメント:これが再販されないのが残念でならない。日本側の出版社が解散しちゃったので。

      2017.01.04 Wednesday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その20

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        さてさて、松の内が開けようが開けまいが、本日もN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』からイエスに関しての部分を引用しつつ、そこを読みながら思ったことを、いつものようにタラタラと、書いてみたいと思う。

         

         

        メシアと思われた人々と

        メシアとしてのヨシュア

        ここで、シメオン・ベン・コシバというイエスの直後の時代の人物が紹介されたあと、神殿再建が当時のユダヤ人において持った意味をライトさんは紹介している。そして、それに続く部分で、ライトさんは、イエスが示したメシア像が、当時の人々の期待とは大きく異なっていたことを、次のような文章で示している。

         

         

        シメオン・バル・コクバ (または、シメオン・ベン・コシバ)時代鋳造の絵柄

         

        しかし当時の人たちは、メシアが苦しみを受け、まして死んでいくとは誰も思っていなかった。まして敵の手によって死んでいくとは思われていなかった。それはまさに、通常期待されることとは正反対だった。メシアは、イスラエルの敵との戦いで勝利をおさめると思われていた。それ故に弟子たちは、自分たちの際立った指導者は、神から油注がれた人物として受け止めていたので、そのイエスが、来るべき自らの死とよみがえりを語った時、それが文字通りのことを意味しているとは、とても想像できなかった。ユダヤ人の信仰にとってよみがえりとは、終わりの時代に神の民のすべてに起こることであって、歴史の途中で一人の人に起こることではなかった。(『クリスチャンであるとは』p.153)

        という部分を以下で、解説してみたい、と思う。

         

        解放者(メシア)か、と思われた

        様々な歴史上の人物

        古代社会でも、現代の社会でも、解放をもたらす人々のことや、様々な苦しむ人々に、苦しみや痛みからの開放の希望を与える人物を、救世主(メシア)と呼ぶことがある。ヒットラーは、20世紀初頭の第1次世界大戦の賠償に苦しみ、不況に苦しむドイツ社会における救世主、すなわちメシアであることを期待され、救世主の役割を負っていった。前大統領にもうすぐなるオバマも、泥沼のアフガニスタンやイラク戦争からのアメリカを開放する存在、つまりチェンジを与えるかのような人々の希望を背負って、チェンジとはいったものの、完全にはチェンジしきれなかったこともあり、本来貧困層の支持を集めていた民主党の支持者層であった人々を、共和党の大統領候補の支持者層にチェンジさせてしまったのである。その意味ではチェンジを成し遂げたとは言えよう。そして、もうすぐトランプ大統領の時代が始まるが、彼は人々がもう一度アメリカの黄金の日々(それがいつなのかは、よくは存じ上げないが、おそらく1950年ごろではなかろうか、と思うが)に戻ろうということを、言っているのであるが、生産力を回復した西ヨーロッパ、アジア市場における中国という新興勢力の登場、エネルギーの基準の変容の中で、アメリカの世紀は、本当にくるのか、というのは少し疑問だと、思っているし、もはや、パックス・アメリカーナを実現する余力はアメリカにはない、とトランプさんは言っているようなので、どのようなアメリカが実現するのかは、興味深く観察していきたい。

         

        ヒットラーの演説

         

        オバマ現大統領 の演説 Change we needとかいてある

         

        トランプ次期大統領

        (NHKは、この方の演説を見なかったのかもしれない…、見たからそれに協賛して正月のあの番組だったか)

         

        さて、まぁ、イエス以降、救世主ではないか、と印象を与え、そのように思われた多くの人々が出てきたが、その多くが、シメオン・ベン・コシバ同様、人々にとっての一時的な救世主と思えたけれども、ただの人でしかなかったことが、明らかになっていった。

         

        イエスが救世主である、ということに当時のユダヤ人の側から疑問がつくのは、ローマからの開放を与えるものと思われつつも、ローマにより呪われたものとして刑死というかたちで殺され、ローマからの軍事的、政治的開放を行いえなかったという意味では、イスラエルの人々の観点からでは、軍事的、政治的な観点からは、イスラエルにとって、期待だけ過剰に発生させるだけで、結局は、現実的には、当時の彼らにとって即物的で政治的な何かを、何も成し得なかったが故に、当時のユダヤの人々からすれば、偽キリスト、偽メシアと言われても仕方がない部分はあるだろう。

         

        しかし、まぁ、もう少しマイクロなレベルに着目してみれば、キリストないしメシアではないか、と言われた他の人物がなし得なかった旧約聖書の預言されている、そのしるしを、しるしを求めたユダヤ社会の中で、そして、バルバロイと呼ばれる異邦人の社会の中で、実現をしたことだけは、確かなので、その意味では、ミーちゃんはーちゃん個人としては、メシアであり、キリストであるとすることが、適切だと思っている。

         

        苦しみを受けるメシアって、一体?

        しかし、当時の人々にとって、ローマによる刑死と苦しみと死からの復活は、イエスが語ったことが、当時の人々にどのような意味をもったのかは、不勉強でミーちゃんはーちゃんにはよくわからない。弟子たちとイエスの語っていることのこのイエスの王国に関することに関して、結構論点がずれているかのように見える対話をしているから、弟子たちはあまりわかっていなかったのだろうし、理解不能ではあったのだろう。それが、メシアの発言であることが…。

         

        あと、この部分を見ながら、気になったのは、”ユダヤ人の信仰にとってよみがえりとは、終わりの時代に神の民のすべてに起こることであって、歴史の途中で一人の人に起こることではなかった。”と書かれていることである。サドカイ派にとっては、「死者の復活はない」としていたことが福音書には記載されているので、それは、「歴史の過程の中での死者の復活」ということなのだろう。それでも、彼らは、最終的な世界の終わりの時代には復活はあるとするもの、という点では、パリサイ派とも共通であったのかもしれない。多分そうだとは思う。回復が起きることへの希望については、共通みたいだから。

         

        そこで、先日このブログ記事『 天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた 』でも紹介した、天理大学で行われたガリラヤのシナゴーグの発掘に関する報告会で重要なポイントは、ガリラヤのシナゴーグが、当時のユダヤ社会、より正確には、ガリラヤにおけるユダヤ人社会において、イエルサレムの神殿との関係で、当時のガリラヤの人々にとって、どのような意味を持ったのか、ということの一部を類推させる、あるいは、そのことを考える祭の参考になる実物を伴う形でのデータを我々に与えてくれる、ということなのである。あくまで、類推と検討のための資料を与えてくれる、という意味で、あの発掘は重要なのである。イエスがそこにいたのかどうかは、その意味であまり重要ではない。西洋の一般のメディアはそイエスがそのシナゴーグに行ったかどうかに着目しようとするかのような記述が多いのが、実に残念な限りである。


        イエスの最後の過ぎ越しの祭の時に起きた事案は、前回「 N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その19 」で紹介した「ダビデの子にホサナ」という掛け声をもって、迎え入れられたイエルサレムの入場と、その直後に記録されている、神殿正常化のため行為、すなわち、両替商の机をひっくり返している事案に加え、更に、犠牲となるべき生け贄用の家畜や鳥類の販売証人の商業行為に関して、物理的な書力を用いた威力営業妨害事件である。これらの動物商にしても両替商にしても、神殿における商業者は当時の社会において、一種の必要悪であったろうし、サヤ取りをするために、人の足元見た値段をつけていたことは、お祭り価格ということが現在もあるように、当然、当時からあったであろう。

         

        これらの状況、人が集まっている、そこで騒擾のきっかけとなりかねない威力営業妨害行為をすることは、社会の騒擾へとつながりかねない要素が見られたのである。現在の日本なら、機動隊出動とか、現代のアメリカでは、州兵(National Guard)出動が想定される事案なのである。ワシントン平和行進にしても、平和裏に行われたとはいえ、当時のアメリカの連邦政府及び通過州の州政府のピリピリ度合いは半端ではないものがあったのである。


        Selma事件 州軍が動員されたはず

         

        渋谷ハチ公前で群衆整理に当たるDJポリスの皆さん

         

        Little Rock 高校(アフリカ系アメリカ人が白人だけの公立高校に通学したアーカンソー州の公立高校)の

        事案で動員されたNational Guard

         

         治安維持当局にとって、人が集まるという行為、それがデモであれ、革命であれ、それは、実に恐怖すべき事案なのである。結局ベルリンの壁を壊した事件というか、ベルリンの壁が無意味になった事件に関しても、人々が通り過ぎようとし始めると、もはや止めることができなくなって、あの悪名高い壁が割りと簡単に崩壊してしまったし、そして、崩壊するとは思えなかったソビエト連邦共和国まで崩壊することになってしまったのだ。


        ベルリンの壁の崩壊した時の映像

         

        過ぎ越しの祭とその意味
        さて、群衆の話はおいておいて、本来取り扱うべき過ぎ越しの祭を思い巡らせてみたい。

         

        膨れ上がる群衆とともにイエスと弟子たちが、最後の過ぎ越しの祭のためにエルサレムに到着した時、事態は頂点に達した。その祭りを選んだのは偶然ではなかった。イエスは聖書の昔のものがたりの象徴的な意味について、他の人達と同様に精通していた。イエスが思い描いていたのは、神が最後の偉大な出エジプトを実行することだった。すなわち、奴隷にされているイスラエルとその世界をバビロンから救い出し、新しい約束の地、すなわちイエスによる癒しがその先がけとなって進行しつつある新しい創造に導くことであった。(同書 p.155)


        その祭りを選んだのは」と言う部分の主語は、イエスである、とも取ることが上記引用した部分では、理解可能な表現となっている。英語では、The choices of the festival was no accident.となっている。その意味で、ライトさんは、主語を明確化しない形で、それも、おそらく意図的に書いているようなので、ここをイエスが過ぎ越しの祭を選んだということでもなく、そのようになるべくしてなった、という程度の意味だろうと思う。

         

        聖餐と出エジプトと過ぎ越しの祭

        ところで、伝統教派以外の教会では、この過ぎ越しの祭と日曜日の意味の関わりが極めて薄くなっていて、さらに聖餐式とこの過ぎ越しの祭の関係性とその意味の理解は極めて薄くなっている事が、多いように思われる。それは、本来的には、毎週日曜日は、神の過ぎ越しが起きていること、すなわち、毎週、神が我らの罪に対して、神がその怒りを過ぎ越してくださっていることを覚えるため、という象徴的な意味があるのであって、単純にイエスの復活を覚えるためだけでもないようだ。その意味で、毎週Exodus(罪からの開放という意味での開放がイエスの十字架により成し遂げたことを記念)していることのはずなのだけれども、このあたりの理解があまりない方も少なくない。それこそ、過ぎ越祭の時に保守的なヘブライの民がしているらしいように、「なぜ、この儀式をするのですか?」と子どもたちか会衆から、問いかけしてもらうことは、してもよいのかもしれないなぁ、と時折、思ったりもする。

         

        【口語訳聖書 出エジプト記】

         12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
         12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
         12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。
         12:28 イスラエルの人々は行ってそのようにした。すなわち主がモーセとアロンに命じられたようにした。

         

        イスラエルでの過ぎ越しの祭

         

        過ぎ越しの祭に関するCNN(英語)の説明

         

        まだ、説教を担当していた、今から7〜8年前のイースターに、イースターとこの過ぎ越しの祭と、イエスの十字架と過ぎ越しの祭の動物の犠牲との対応関係などを教会で聖書との関係を引用しつつ、お話したことがあるが、その時に、ミーちゃんはーちゃんが幼稚園から小学校低学年頃まで、日曜学校の先生をしていただいていた信仰歴の長い方から、「この聖餐と十字架と過ぎ越祭りとの関係のお話を、今日はじめて知りました」といわれて、「え、そだったの?」という状態になって、かえって驚いたことがある。そして、「案外、聖書の理解って難しいんだなぁ」とその時、思ったのである。

         

        また、ナウエン研究会の参加者で信仰歴の割と長い方とお話しているときにも、案外、この対応関係がご理解されていなかったことがわかったことがあり、この辺のことはもうちょっと、きちんとやったほうがいいのかもしれないなぁ、と思っている。まぁ、教会暦がいい加減になっているから、という部分もあるのだろうけど。

         

        ところで、引用部分に、「イエスが思い描いていたのは、神が最後の偉大な出エジプトを実行することだった」という表現もあるが、ここで、イエスが思い描いていた、となっている部分はHis visionとなっていて、翻訳者が悪いというよりは、まぁ、ライトさんの英語が日本語に訳しにくいということなのだと思う。したがって、時々英語のオリジナルを見たくなる事が多い。まぁ、このHis visionをイエスの目的とイエスの目標と訳すか、神の目的、あるいは、神のもくろみ、と訳すか、というのは、案外難しいような感じがするのである。また、ここで出エジプトとかかれているのは、”exodus”という表現であり、まぁ、現代日本語の感覚で言えば、大脱走か、大脱出ということだろう。


        大脱走の予告編(英語版)

         

        問題は、どのように呼称するか、ということではない。問題は、イエスが十字架の上でなそうとしたことが、我々が罪に捕囚されている、あるいは捕囚されていたことからの開放、あるいは、救出ないし自由の回復のための業であるという点である、ということを、現代に生きる人間の小テキストにおいて、どう考えたら良いのか、ということであろう。ここで出エジプトと書かれているが、それはexodusなのであり、他人から拘束される状態からの開放を告げ知らせ、それが成し遂げられた、ということなのだ、と思う。ある面で、拘束されていることの、正当性や妥当性は問う必要は必ずしもないと思う。そこで、その喜びを示すための記念行事があり、過ぎ越しの祭があり、そして、それを表す生産があるということなのだ。

         

        出エジプト、あるいは大脱走、あるいはエクソダス(exodus)、罪からの脱出ということは、現代で言えば、先にも少し紹介した動画にもあるように、秘密警察が支配していた、東ドイツという国家制度からの脱出、にちかいかもしれない。イエスの十字架は、ベルリンのゲートが壊れたことに似ているかもしれない。誰かがベルリンの壁を通過したように、イエスによって罪という人を閉じ込めていたような壁が崩壊し、そこを通過して人が雪崩のように神の国に押し寄せるようなことが起きたのである。だからこそ、以下の動画のように人は喜んだのだ。我々が、それを覚える日曜日を、そのように喜んでいるかどうかは、もう少し問われても良いかもしれない、とは思う。

         

        ベルリンの壁が1989年に落ちたときの映像


        その40年前の1948年のベルリンの壁の前身が建設され始めかけたことにより行われた
        ベルリン空輸作戦の模様 
        当時、今よく知られている鉄のカーテンないし、ベルリンの壁が物理的に存在しなくても、ベルリンの西側に居住する市民と軍人が人間として東側(共産主義国の内部)の浮小島のようにして存在した西ベルリンの領域において、生きるためには、当時は、この大掛かりな輸送作戦が必要だった。

         

        先行現象としてのイエスの奇跡

        ここで、「イエスによる癒しがその先がけとなって進行しつつある新しい創造に導くことであった」と書かれていることは、the new creation of which his healing had been advance signposts. に対応するのだと思うが、これまた訳しにくい部分である。

         

        もう少し書いてみると、盲人や足が不自由な人、ろうあ者が喋れるようになることは、将来の新しい創造で発生する回復がこんなふうになるよということを示すための先行事例のようなものだ、位の意味なのだけれども、このように説明的に日本語変換してしまうと、意味はわかりやすくはなるかもしれないが、味わいそのものがなくなると思う。実際、この部分は、翻訳された上沼さんも相当苦労した箇所の一つとして、大阪での懇親会で、少しお話されていたことの一つであった。まぁ、ミーちゃんはーちゃんのように説明的に日本語変換してしまうと、不用意に長くなるので、このように表現されるしかなかったろうなぁ、とは思うのである。

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

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        2017.01.07 Saturday

        N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その21

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          今日も、いつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの「クリスチャンであるとは」を読んで思ったことから書いてみたい。

           

          今日は、”解釈”と呼ばれることに関する二つの部分である。最初は、ライトさんの書きぶりに従えば、イエスがどう旧約聖書のテキストから、自分を”解釈する”という行為をしたか、であるし、後半では、前回の議論の続きにもなるのだが、ヘブライ人の伝統的な儀式というものを、イエスがどう再解釈したか、という部分である。

           

          個人的には、イエスが旧約聖書のテキストから、自分を”解釈する”という言い方は、聖書の著者性や、最近またぞろ本が出た聖書の絶対性云々の問題を考えると、うるさい方からはお小言を賜りかねないことを考えると、こういう表現は避けたほうが賢いし、正直、この部分も引用するかどうか迷ったし、まだ、これから引用する部分に関しても、無難にまとめるなら、引用しないほうがいいのだろうけれども、ただ、この辺りは一般的な読者としては迷うだろうし、と思うし、自分自身もちょっと違和感を感じたので、一応引用して考えたことを述べておきたい。

           

          苦しむのは誰か問題
          イザヤ書にある苦難のしもべと呼ばれる部分があるが、それが誰なのか問題を、当時の人々がどう見ていたかの解説があったあと、ライトさんは、次のように書いている。

           

           

          Suffering Servantで出てきた画像

          http://churchandpomo.typepad.com/.a/6a00d8341d9f5853ef014e87249d11970d-popup から

           

           

          ナウエンの The Wounded Healerを読んだときのことを思い出したので、その表紙絵を

          http://www.catholicapostolatecenter.org/blog/wounds-that-heal から

           

          残存している資料から言えることは、イエス時代のユダヤ人は、この像を二つの異なった仕方で理解していた。ある人達は、まさにしもべとしての姿をメシアとみなしたが、イザヤの語ったその「苦難」は、メシアが敵に与える苦難だろうと見ていた。他の人たちは、しもべは苦しむとみなしていたが、当然ながらそれはメシアであるはずがないと見ていた。

           

          イエスはこれらの二つの解釈を、創造的で、実に衝撃的な仕方で結びつけたと思われる。つまり、このしもべは王であると同時に、苦難にあうというのである。そのしもべこそ…イエス自身であるという。『イザヤ書』は、イエスが自分の召命の意味と結びつけた唯一のテキストでは決してないが、そこに記されたことを考え、祈り、それなりの時間をかけて徹底的に考え抜いたに違いない。そして『イザヤ書』にこそ、とくにその中間部分に、幾つかのテーマが結びつけられていることがわかる。すなわち、神の王国の到来、とりわけ驚くべき癒やしのわざとして表された創造の刷新、救い、回復する神の「ことば」の力、世界中にあるすべての「バビロン」に対する究極的な勝利が、しもべそのものの姿と結びつけられている。(『クリスチャンであるとは』p.154)

           

          実は、Simply Christianには、英国版Society for Promoting Christian Knowledge SPCK版と、米国版Harper Oneがあり、翻訳は英国版によっている、と聞いている。米国版でも難解な部分であるのだが、ひょっとすると英国版のほうがより難解な表現になっているのではないか、と思うのである。ミーちゃんはーちゃんの手元にある後発のHarper One版では、少し表記が変わっていて、多少読みやすいような気もするが、それでも、わかりにくいことは確かである。

           

          ところで、ここで、像と訳されているのは、figureという語であり、Public figure(公人、有名人、著名人)という語であり、みんなが知っている人とその役割くらいの意味である。当時のユダヤ人にとって、イザヤ書の苦難のしもべは、今で言うと、ウルトラマンや仮面ライダーや、ドラえもんやのび太くん、ちびまる子ちゃんやサザエさんみたいな、子どもから大人までが知っている存在であったであろう。

           

          その社会のほぼ全員が知っている存在 Figure 人物であっても、その意味は、それぞれの年齢層において、またそれぞれの人々が置かれた立場によって、人それぞれ違ったものであったであろうけれども。ちょうど、幼稚園児と大人のミーちゃんはーちゃんにとって、のび太くんやドラえもんが象徴するものが違うように。人それぞれのメシアという理解があったように思う。

           

          苦難に出会うメシアとはどんな人物と理解すればよいか?

          たぶん現代の日本人がイエスを考える上では、ウルトラマン・シリーズなどのような、ヒーローものに出て来るヒーローをかんがえると案外近いかもしれない。個人的には、初代ウルトラマンが始めてみたウルトラマン・シリーズだとおもうので、ミーちゃんはーちゃんは、ウルトラマン原理主義者である。たしか、ウルトラマンの先駆的存在のウルトラQは再放送で見ていたような記憶がある。そんなことはどうでも良い。

           

          ウルトラマンにせよ、その後の作品群(その後の作品群では、ウルトラマンガイアを、当時幼稚園児だった息子と一緒に見た、と言うか、鑑賞させていただいた)にせよ、ウルトラマンは、とにかく一度は怪獣に苦しめられるのである。最初から、スペシウム光線を利用してしまえば、何も問題がないにも関わらず。あるいは、水戸黄門様は、最初から、悪代官やその手下の前で、葵の御紋の付いた印籠をみせびらかしたりは、しないものなのである。悪代官に出会った瞬間に、印籠を見せたりしたら、ドラマは毎週が瞬速で終わってしまうのである。

           

          なお、最近の大学生の中には、水戸黄門、水戸の御老公様も知らない学生も多いし、印籠に至っては何をか言わんや、であるので、授業で時々、困ることがある。

           

          水戸の御老公様御一行

          http://goinkyo.blog2.fc2.com/blog-entry-293.html?sp 

           

          イエスの十字架上の苦しみは、御老公様が悪代官とその手下に襲われたり、ウルトラマンガイアが”ガンQ”や”ミズノエノリュウ”などの怪獣に苦しめられたりすることとは、根本的にわけが違うのである。完全に敗北してしまい、周囲の弟子たちの大半からも見捨てられてしまったのがイエスなのである。しかし、イエスは、その子に対して勝利し、復活するのである。そして、自分自身は、世界の創造者であり、自分自身はおろか、この全世界の回復者であることを、宣言せずに、そのことを自分自身の身に起こしてしまうことで、イエスが神であることを、全世界の回復者であることを、示してしまうのである。確か、ウルトラセブンに十字架にかけられるウルトラセブンの話があったと思うのだが、あるいは、帰ってきたウルトラマンとかいう作品もあったのだが、そのへんはちゃんと見ていないので、なんとも言えない。

           

          ガンQ http://wikiwiki.jp/syouraitai/?%B4%F1%BD%C3%20%A5%AC%A5%F3Q

           

          ミズノエノリュウ http://wikiwiki.jp/syouraitai/?%C3%CF%C4%EB%C2%E7%B2%F8%BD%C3%20%A5%DF%A5%BA%A5%CE%A5%A8%A5%CE%A5%EA%A5%E5%A5%A6

           

          まぁ、そこら辺のお話のヒーローとは、イエス様はやること為すことが根本的に違っている。次元が違うということなのだろう。なにせ、ウルトラマンとかの活躍は、被造物世界に限定されているけど、イエスは神であられるので、そこらの次元には縛られてられるようなことは、ないわけなのでそもそも比較するほうがおかしいような気もするなぁ。

           

          なんか話がウルトラマンの世界の話になったが、ここでは、イエスが自分自身とその氏名と、その成したこと、なそうとしたことを旧約聖書との関わりでどう表現したのか、どのようにイエスが自分自身を理解していたのか、というよりは、どのようにイエスという存在を人々に理解してもらうために、どう提示したのか、という、解釈をめぐる問題を扱っている部分である。

           

          旧約聖書と自身がメシアであるとする解釈

          その意味で、イエスは”律法と預言者”という表現を使いながら、自分自身が旧約聖書におぼろげながらであるとはいえ、メシアについて示されている記述をもとに、自分自身がメシアという存在であることを示している箇所が何箇所かある。

           

          このライトさんが書いている部分で、印象深いのは、「神の王国の到来、とりわけ驚くべき癒やしのわざとして表された創造の刷新、救い、回復する神の「ことば」の力、世界中にあるすべての「バビロン」に対する究極的な勝利が、しもべそのものの姿と結びつけられている。」という部分である。

           

          確かに、神の国の到来をイエスは告げた。神と人との関係が本来のかたちやすがたに回復するために、神のもとに戻れ、と言われたのである。それが救いであり、創造の刷新であり、創造の回復であったように思うのである。ここで、”神の「ことば」の力”ということを考える時、ヨハネの福音書と創世記の両方の冒頭が重なっていることや、新約聖書中に含まれている以下の表現

           

          【口語訳聖書 第1コリント人への手紙】
          4:20 神の国は言葉ではなく、力である

           

          ということを思い出さずにはおられなかった。

           

          あと、バビロンとか、バベルとか、BBLというヘブライ語には悪や混乱を示す事が多いということを大学生時代に講義の中で、池田裕先生から聞いたことがあるが、音にもイメージが有り、そして、そこに解釈が入るということや意味が含まれるというのは、同音異義語の多い日本語には、あまりないけれども、聖書を理解する上では、ある語の音が人々に与えるイメージも、基本的に重要なのだろうなぁ、と思ったときのことを思い起こした。ここでの「バビロン」は文字通りのバビロニア王国(これだって、いくつもパターンがあるが)のことではなく、一般にイスラエルの民(あるいは神の民)を圧迫したり、悪をもたらすものの総称に近いイメージがある語のような気がしてならない。ここでライトさんが書いている「バビロン」とは、文字通りのバビロニアの意味だけではないような気がする。

           

           

          ユダヤの儀式とその儀式の解釈
          個人的にアメリカ在留中に、お友達になっていただいたドイツから脱出してきた、ユダヤ人のお子さんという背景を持つ(多分ウルトラ保守派ではなく、改革派と呼ばれるユダヤ人だと思うが)友人に連れられて、ヨム・キップルの祭りに参加したことがある。どうもそこは、ご近所の小学校を借りてそのヨム・キップルをしていた記憶がある。ちゃんと、キッパーを被って、異邦人だけど参加させてもらったが、トーラーが読まれ、ラビの贖罪と和解に関する説教があり、そして、賛美歌のようなものが流れたのであった。当時も今もであるが、辞書を見ながら、ヘブライ語の単語が辛うじて読める程度なので、ヘブライ語で、そのまま言われても、すぐにはピンとこなかった。しかし、ラビの説教は英語だったので、大体言っていることは、理解はできたけれども。

           

          ユダヤ人の祭りには、意味が込められていること、ある意味を指し示す記号でもあることを踏まえた上で、ライトさんは次のように書く。この指示する語と指示される概念、あるいは、指示する文字列が意味する事に関してのライトさんのお考えは、『新約聖書と神の民』で詳しく論述されているので、このあたりにご関心のある向きには、『新約聖書と神の民』をご覧頂きたい。

           

          ユダヤ人の祭りはどれも豊かな意味が盛り込まれている。過越しの祭は、その中でも最も興味深い。それは、出エジプトの物語をドラマチックに再現して語り聞かせる。そうすることで全ての人に、異教徒の支配を神が復した時のことを思い起こさせる。過越しを祝うたびに、神は再び同じことをしてくださるという希望があり、過越しについてのイエスの新鮮な理解は、抽象的な理論ではなく、解釈の伴う行動によって、未来がまさにここに到来しつつあることを語った。(同書 p.156−157)

           

          日本のお祭りの場合は、割りと収穫祭とか、豊作祈願祭りの農事暦と深く関連した祭事がわりと多いので、あまり祭事と歴史的事実が関係しないことが多いが、比較的最近起きた不幸な事件に関しての慰霊祭のようなものでは、特定の日程と結びついていることがある。ミーちゃんはーちゃんが居住しているところでは、20年以上、阪神大震災から経過した。二昔ほどたった今、当時感の経過とともに、記憶や被災建物にも、随分と風化が目立つし、震災被害のその跡形は表面上気が付かず、一部隠れたところにその傷跡の痕跡が残る程度になった。しかし、今なお災害前の状態に戻らない、戻せない地域もある。

           

          そして、今なお、毎年のように1月17日には、記念式典が行われる。そして、慰霊というかたちでありながら、災害を記憶しようとしているのである。阪神大震災が起きる前は、日本国全体で、9月1日が防災の日であったが、その後阪神大震災、東日本大震災、熊本地震等があり、災害記憶する日が増加することになっていき、災害記憶と日付という意味では、防災の日という日程については、地域によっては、かなりファジーなものになっている。

           

          日本にも、お正月の人か、成人の日とか、建国記念日とか、勤労感謝の日とか、すっかり昔の意味の読み替えがなされた国民の休日があるが、一種の歴史的な出来事を日付と関連付けて覚える日がないわけではない。

           

          信仰と歴史と祭事

          しかし、信仰と祭事とがむすびつけられているユダヤの祭りは、歴史的な出来事との関わりを合わせるという側面を持っている。過ぎ越しの祭りとか、仮庵の祭りとか、歴史的な出来事の記憶のための周年祭が多い。本来、キリスト教でも、この周年祭事というのはあって、プロテスタントは、イースターとクリスマス(それすらやらない強硬派もいないわけではないが)程度にしかそれが残っていない教会も多い。ミーちゃんはーちゃんも、教会暦ガン無視派の教会で育ったので、伝統教派の皆さんとおつきあいするまでは、教会暦の意味が、ほとんどわからなかったし、その教会暦とそれに伴う習慣も知る由もなかったので、毎年の祭事を通過していく中の儀式で、聖書の世界の出来事を定期的に再現しながら、自分がその中に入り込んでいく習慣がなかった。

           

          しかし、この習慣、やってみると、案外重要な発見というのか、神との出会いがあったりするのだから面白い。過去に起きたことの中に自分を溶け込ませ、自分が聖書の中の人物であったらどう考えたであろうか、ということを定期的に繰り返すことで、聖書に思いを巡らすという経験である。そんなの聖書を読めばできるではないか、といわれたらそのとおりであるが、つい通読の癖がついているのと、どうしても自分が気に入っている、ないしは好きな場所を、偏重して読んでしまうので、偏りがちになる傾向がある。それを回避するという意味において、教会暦は多少、役に立つことは確かではある。

           

          ところで、ユダヤの祭事には、それの意味付けがトーラーの中に指定されており、その成立の起源にかなり強く、歴史的事実が結び付けられている祭事がいくつかある。とは言え、その成立に関して、現在の祭事の暦法の原型として、カナン地域での農事暦等を想定することができなくはないことは、十分承知はしているが、しかし、よしんば、農事歴に対してのあとづけの理由であったとしても、歴史的な現象の記念という理由がついているものは理由がついているのだし、歴史上の出来事と関連付けがなされているということは、その理由を根拠にして、解釈がなされて来たし、現在もなおそのように解釈されているということでもあり、その儀式に歴史的な意味が付与されているということでもある。まぁ、日本の祭事にしても、このような意味付けがあるものがあるが、旧暦と新暦がごっちゃになっているので、今では、何が何だかになっていることは多いが。

           

          ユダヤの暦、その中でも大事にされているイベントである過ぎ越祭について、イエスは新しい解釈を付与したというか読み替えをしているのである。その読み替えがなされた最大のものが、次々回以降ご紹介する予定のイースターに関するライトさんが書いている部分であるが、その前に、「解釈の伴う行動によって、未来がまさにここに到来しつつあることを語った」ということが書かれていること、つまり、聖餐式という、解釈の伴うはずの行動によって、神の国がここに、つまり、この世界に到来しつつあるし、将来、より完全なかたちとより大きなスケールで実現することへの、犠牲が捧げられる儀式を読み替えているということを、ライトさんは主張しようとされているのではないか、と思うのだが、それに関しては、その節に関する部分で述べたい。

           

           

          太陽暦とユダヤの祭事

          http://pastors-study.com/wp-content/uploads/2014/09/Jewish-Calendar.jpg から

           

           

          次回はイエスの十字架に関する記述を説明した部分を紹介したあと、イースターと聖餐との関係の部分に触れていきたい。

           

          次回へと続く

           

           

           

           

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          コメント:意味論とか、象徴とかの意味を考えたい方向け

          評価:
          マイケル・S‐Y. チウェ
          ---
          コメント:繰り返しゲーム論から儀式の意味を考える入り口の本。参考にはなる。

          2017.01.09 Monday

          N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その22

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            今日も、いつものように、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』という本を読みながら、タラタラと考えたことを述べてみたい。よろしければ、お付き合いいただけると、幸甚である。


            イエス時代のユダヤ社会とイエスの存在

            新約聖書にせよ、旧約聖書にせよ、つい我々がしてしまいがちなことは、無意識的に古代の社会的文脈の中や、歴史的文脈をガン無視して、その中で現代の社会的文脈の自分の世界に引き寄せて、適当に理解し直してしまうことである。聖書はすべての時代のすべての人に開かれている、ということは事実だと思うけれども、その結果何が起きるかといえば、もともとの歴史的状況をわりと無視した聖書の読みが出てきてしまう、ということでもあるのだろうと思う。もちろん、聖書の時代、割りと現代に近いとはいえ、新約聖書に書かれた時代の歴史的状況が、どのようなものであったか、ということは当時の人にとってもわからない。その時代を、ライブで経験しているがゆえに、全体像はわからないし、仮に理解しているとしても、その理解についての個別性が強いため、全体像とはかなり言いにくいだろう。それは現代のことを考えてみれば雰囲気の一端はわかっても、これが全体像だと誰が言い切れるであろう。さらに、時代が下ってしまった現代においては、今度は、時間の壁が立ちはだかるために、その間にいろんなものがその時間の壁の中に入り込んでしまっているが故に、現代の人にとっても、さらにわかりにくくなっている傾向はあるだろう。当時の時代背景を含め、ライトさんは、十字架の背景とそのシーンをこのように書いている。

             

            ローマ総督は軟弱で煮えきらなかった。祭司たちがすべてを牛耳っていた。イエスは実際にローマに反逆していたという無実の罪で告発され、死刑になったのである。しかし、そのことについて当時のほとんどの人は、少なくともその動機においては同罪だった。以前の反逆者たちのリーダーだったバラバが、イエスに変わって釈放された。百人隊長は自分が殺害した千人目の犠牲者を見上げ、想像もしなかったことを目撃した。そして思わず、この男は本当に神の子であったかもしれないと、つぶやいた。(『クリスチャンであるとは』 p.158)

             

            ここで、書かれているので面白いなぁ、と思ったのは、これまでもライトさんが書いてきた状況の背景を、「ローマ総督は軟弱で煮えきらなかった。祭司たちがすべてを牛耳っていた。」という一文で要約して表現していることである。

             

            軟弱と呼ばれたピラトとイエスと祭司たち https://jp.pinterest.com/hanjekoster/passie/ から

             

            スルーされていたヘロデ家の人々

            イエスの裁判に関しては、当時のユダヤのユダヤ側の支配者であるはずのヘロデ家の人々は登場しない。スルーされているのである。つまり、イエスの十字架刑に関しては、「お呼びでない・・・」という状態であったのである。ではユダヤ側のローマ総督の対応を誰がしたかといえば、サンヘドリンに集まった祭司や律法学者の皆様であったのである。つまり、イエスの裁判は、社会的な刑事裁判と言うよりは、宗教裁判と政治的な戒厳令違反事件、あるいは、治安維持法違反事件とも言うべき、裁判という両面を持っていたわけでもある。つまり、ローマ側と、ユダヤ人の側の両者の側が互いに責任をなすりつけ合おうとして起きたのが、イエスの十字架という側面がある。

             

            それは、イエスが、一種のPublic Figure(今で言えば、民衆のセレブと言うか、公的な存在)みたいなところがあって、手軽に宗教裁判できなかったし、当時の宗教都市としての性格を強く持ったイェルサレムで、流血に手を貸したら、彼ら自身が宗教的禁忌(血を流すことや血に触れることは、ヘブライ的には宗教的に忌避される現象でもある)に触れることに加担することに、なりかねない。おまけに、そんなことをしてしまったら、イスラエル人にとってとんでもなく重要な過ぎ越しの祭自体が行えなくなるので、面倒くさいことはローマ兵の皆さんにしてもらって、自分たちが起こそうとしている流血事件が、仮に起きても、「自分たちは関係ないもんねぇ」と言って粛々と祭事の遂行ができるように、ローマの国内法の枠内でご処理頂こうなどという、ずるいことを考えたに違いないのである。

             

            なお、他の状況下では、ステパノ殺害事件のように、割りと、簡単になされているから、かなりイエスの裁判においては、いきなり「殺してしまえ」ではなく、かなり細かい注意が払われているように思う。

             

            ローマ総督ピラトはピラトで、責任回避的な行動を取り、「おれっちの責任じゃないもんね〜〜〜」といい、ユダヤ人は、「そうなってもかまわない」と言ってしまったのである。この瞬間、後のヨーロッパ社会でのユダヤ人差別という結果を、ユダヤ人の子孫たちは負わされることになっていく。

             

            【口語訳聖書 マタイによる福音書】

             27:24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
             27:25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

             

            実際のイエス殺害は、後年にユダヤ人を差別するヨーロッパ人のご先祖とも言うべき、ローマ帝国がおこなったのではあるが、そしてその殺害の責任はヨーロッパ社会において、蛇蝎のごとき扱いという差別を受け続けるユダヤ人が持つことになった。この結果としてヨーロッパにおけるユダヤ人に関する差別被差別の構図が、決まった瞬間でもあったように思う。

             

            危険なツィート 神の子であった

            イエスの殺害、刑死に立ち会った百人隊長の殺害の1000件目が、イエスであったとかいうのは、教会に伝わる伝承なのかもしれないが、聖書にはない記述である。ここで、大事なのは、ローマ兵の百人隊長の「この人は神の子だった」という発言なのである。こっちのほうがよほどローマの治安維持に関する国内法的には問題なのである。おそらくイエスが刑死した当時のローマ皇帝は、おそらくティベリウスというアウグストゥスの養子であるはずだが、被支配民かつ属州民で、そして、自分たちが刑死させた輩を神君とも呼ばれたアウグストゥスと同額扱いしたに近い表現が「神の子」という表現に含まれてしまうのだ。つまり、ローマの百人隊長が、ローマに反旗を翻したにノリに近い表現という、そのあたりのアイロニーを含む表現なのである。だから、ここで、呟いたとライトさんは書いているが、当時にツィッターがあったとして、こんなのツィートした日には、トランプ大統領就任予定者の炎上ツィートどころではない、炎上騒ぎが待っていたことであろうと思うと、ちょっと面白い。

             

             

            カルバリ山で起きたこと
            カルバリ山で何が起きたのか、その実像はミーちゃんはーちゃんにはよくわからないが、ライトさんは非常に文学的な表現で、次のように表現している。

             

            この出来事の意味は、細部においても、また大きなナラティブにおいても見いだされる。人々の長年にわたるすべての痛みと涙が、イエスの処刑されたカルバリの丘の上で一つとなった。天の悲しみと地の苦しみとが結びついた。未来のために蓄えられてきた神の許しと愛が、現在にどっと注ぎだされた。多くの人の心に響いている声、すなわち義を求める叫び、霊的なものへの渇き、関わりへの飢え、美への憧れ、それらすべてが、悲惨な断末魔の叫びに合わさった。(p.158−159)

             

             

            つまり、人間、というよりは人類の痛みと苦しみ、そして過去から将来に至るまでのすべての痛みと苦しみと悩みと涙が天の悲しみと一つになった、つまり、天と地が交わるところになったということなのだろうと思う。その意味で、十字架でイエスが死亡した瞬間、心が張り裂けた瞬間、我らの悲しみと痛みが神の義と愛と出会ってしまって、核融合のようなことが起きたのである。核融合は核融合で、ろくでもないこと(高エネルギーの放出)が起きるのだが、それどころでないこと(全人類に及ぶ神の義と愛の放出)が十字架の上で起きてしまったのである。全人類に及ぶ神の義と愛の放出ということは、これで想像を絶することであるが


            ここで、「義を求める叫び、霊的なものへの渇き、関わりへの飢え、美への憧れ」とライトさんは書いているが、これは、本来教会が委ねられたものではないか、本来教会は、これらを満たすべき存在を指し示す、ポインターみたいな存在なのではないのか、ということを、ミーちゃんはーちゃんは、思ってしまったのである。


            本来、教会は神の義が存在することを示すことができる存在であろう。注意しなければならないのは、教会が神の義、そのものではない、ということである。ここは間違ってはいけない。時々、これを勘違いして、さらに教会が神の義を指し示すことができるということを逆手に取って、教会は問答無用に義である、と主張される方々がおられるが、それは無理筋である。

             

            教会は霊的なものへの渇きを癒やすための、存在を指し示すことができる存在ではあるが、霊的なものへの渇きを満たす存在そのものではない。

             

            教会は、関わり、関係性の存在、すなわち3にして一つである動的な関わりでもあるお方を示す存在であるが、教会がそのものではない。たしかにその名前を持つ教会も世界中には多数存在はする。

             

            本来、すべての被造物をよい、美しい、非常に麗しい、トゥーブと言われしお方、すなわち美の根源なる方を指し示す存在が、教会であるはずであるのだが・・・。

             

            一時的な気の迷いでこの美しさそのものを全て否定してしまいかねない雰囲気が、キリスト教の一部分にあったし、一部に現在もなお、時に美しさを否定して、美しいものを破壊して回る方々をお見受けすることを見るたびに、実に残念でならないなぁ、と思う。以下の画像は、一部の過激なイスラム教徒の手になる業ではなく、キリスト教徒の成したことである。こういう画像を見ると、香ばしい香りのする油を、日本の文化財にかけて回った方の成したことが、可愛らしく見えてしまうが、あれとて、なして良いことではない、と思う。過激派はどこにでも、どの時代にもおられるものである。それが鼻で息するもの、という事なのだろう。残念だが。

             

            破壊された文化財
            https://sites.utexas.edu/culturescontexts/2015/03/08/islamic-extremist-iconoclasm-and-its-christian-precedents/から

             

            個人的に、美しいと思うものは、ちゃんと美しい、といったほうがよいのではないか、と思っている。それは、とりもなおさず、神を賛美すること、神の被造物を介して、神を賛美することであると思うので。「全地よ、歌え」と言われしお方に応答することにほかならない、と思うからである。

             

            【口語訳聖書 詩篇】
            47:6 神をほめうたえよ、ほめうたえよ、われらの王をほめうたえよ、ほめうたえよ。
            47:7 神は全地の王である。巧みな歌をもってほめうたえよ。
            47:8 神はもろもろの国民を統べ治められる。神はその聖なるみくらに座せられる。
            47:9 もろもろの民の君たちはつどい来て、アブラハムの神の民となる。
            47:10 地のもろもろの盾は神のものである。神は大いにあがめられる。

             

             

            http://www.stylecraze.com/articles/beautiful-orchid-flowers/#gref から

             

             

             


            次回へと続く

             

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            2017.01.11 Wednesday

            N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その23

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              今日もまた、いつものごとくタラタラとN.T.ライトさんの本『クリスチャンであるとは』を読みながら、思ったことについて書いてみたい。今日から2回に渡ってイースターのことである。

               

              イースターと復活の確実性
              再創造が到来する以前での復活がおきるかどうかの問題、あるいは、死亡した人が復活するかどうかの問題、これは、ギリシア人にとっても、ユダヤ人にとっても(とくに神殿に陣取ったサドカイ派の人々にとっても)、そして現在の理性に毒された、と言って良いかもしれない、近代人にとっても理解を超えたことである。そもそも理解不能とさえ言っていいように思う。

               

              そのことの真実性と確実性に関して、ライトさんは次のように書いている。
               

              処刑されてから三日目、すなわち週の初めの日である日曜日に、ナザレのイエスは体をもってよみがえり、空になった墓を後に立ち去った。クリスチャンはそのように信じている。まさにそれゆえにこそイエスの死は、混乱を招く悲劇的な出来事ではなく、悪のすべての力に対する驚くべき神の勝利であったと私達が信じる理由である。歴史的な現象であるキリスト教の起源を、イエスの復活の確実性について語らないで説明することは極めて難しい。しかしこのことに触れる前に二つの点を明らかに示しておかなければならない。

               

              第1に復活のことを語っているのであって、蘇生のことではない。(中略)イエスが死を通り抜け、あちらの世界から生還したと人々を説得するのはとうてい不可能だろう。(中略)一つだけ確かなことは、次の点である。もし単なる蘇生であれば、イエスがメシアであるとか、神の王国が到来したとか、イエスが真の主であると世界中に述べ伝える時が来たとは、誰も言わなかったであろう。(『クリスチャンであるとは』pp.159−160)

               

              ここで、イエスは仮死状態からの蘇生を経験されたのではなく、完全に死亡して、そして、死が無効であることを示したと言うことをライトさんは示している。それが、キリスト教の根源であり、そして、「歴史的な現象であるキリスト教の起源を、イエスの復活の確実性について語らないで説明することは極めて難しい」とライトさんが書いていることは重要であると思う。どうしても、日本では、西洋道徳や西洋思想の根底としてのキリスト教を理解しようとする味方が強いと思う。まぁ、近代時代を経由し、外形的な観測可能な部分、すなわち、”かたち”(外側に見える部分)から理解しようとする傾向を持つ以上、仕方のない部分ではある。

               

              キリスト教の核はそうではなく、ここでライトさんが語っているように、イエスの十字架上での使徒復活と、そのことによる神との関係の回復にあるはずなのだが、社会的に観測可能なことだけに絞ると、どうもそう見えてしまいがちのようである。本当はそうではないのだが。ハリストス正教会の賛美歌のように、「死をもて死を打ち破り、墓にあるものに命を与え」がイースターの、あるいは復活の中心なのである。

               

              イースターの時に歌われる賛美歌 @熊本正教会の復活大祭

               

              イースターにしても、クリスマスにしても、そうであるが、個人的に思うのは、神秘を神秘でなくしようというのか、神秘を神秘として受け取るのではなく、神秘を言語的に操作して、解析して理解しようとしたり、説明しようとしたりした結果、却って、なんだかわからないものになってしまった、というところがあると思う。最後の一手まで詰めようとしてつまらないものになってしまったのではないかなぁ、と思うのである。神秘は神秘として放置しておけば良いものを、かなり無理して神秘性を取り外し、無理に言語化しようとして失敗してしまったようなきがする。そして、それをかたちだけ真似しようとするから、なんとはなくアンバランスなことが起きているような気がしてならない。

               

              イエスの復活の重要性

              ところで、体の復活に関して、ライトさんは次のように書いている。

               

              しかし、それらの宗教のどれ一つとして、それが一個人に起こると想像したことはなかった。まったくなかった。キリスト教の起源に関して考えうる最善の説明は、イエスがボロボロで血まみれの生還者としてでも、幽霊としてでもなく(聖書の物語はそのことでは明確である)、生きた体をもった人として再び現れた、ということである。(同書 p.161)

               

              イエスのように、ボロボロにされた上で、完全に殺された人が、復活し、創造者や神としての能力を完全に発揮して、人間としての体をもって現れるという奇跡は、たしかに想像を絶することである。

               

              歴史上、不死を主張した人々はいたし、不死を求めた人はいた。エジプトでは、死後の世界を生きるためにミイラ化技術が発達したし、弥生時代の日本人は復活を期待しつつ、瓶棺に屈葬で葬るということをしたのではないか、ということを主張する人々がいるし、秦の始皇帝は不死の薬を求めていたことは間違いないし、そのために水銀すら飲んだらしい。良い子は秦の始皇帝の真似してはいけない。水銀中毒になるので。

               

              不死や死後の世界を求めた人々や宗教や思想はたくさんあるものの、死後数日経過したあと、割と早い段階で死後の世界から蘇るということの想定はあまりないのは、ライトさんのいうとおりだと思う。仏教の場合は、そもそも論として、生物の輪廻転生というかたちの転生ないし、成仏という生死と無縁の姿になるかの二択を前提にしているところがあるようにおもう。

               

              ライトさんが「キリスト教の起源に関して考えうる最善の説明は、イエスがボロボロで血まみれの生還者としてでも、幽霊としてでもなく(聖書の物語はそのことでは明確である)、生きた体をもった人として再び現れた、ということである」と書くように、キリスト教の起源は、組成した人でもなく、霊的な存在としてでもなく、概念としてでもなく、思想としてでもなく、現物性を持った実物として、物理空間に物理的なかたちが現れた、ということに対する素朴な驚きと、その現実を見た人々がもっていた希望にある。のであろうと思う。

               

              現代の理性で想定外や説明も理解もできなかろうが、古代の理性で想像ができなかろうが、それを超えた現象がイエスの復活であり、キリスト教の起源にあるということだし、そして、そのイエスの復活と復活したイエスを毎週覚えていることが、日曜日に教会に集まることの意味(少なくともイエスの復活を覚えていることになっているはず)なのだろうと思う。その理解が本来あるべきところからずれてしまうと、ブレが激しくなって、不協和を起こしてしまうのだろうと思う。

               

               

              http://www.pravmir.com/frequent-communion/ から


              復活理解とそのズレ
              上で述べたように、キリスト教の中心には、復活があるし、スタート時点では、その復活こそがキリスト教の中心であったが、西洋におけるクリスチャン社会の中で、その復活理解がずれてしまっていることについて、ライトさんは次のように書いている。

               

              ここ数世代の西洋におけるクリスチャンは、極端に間違った方向に向かってしまった。自分たちを取り巻く世界の急激な世俗化によって、とりわけ幕の向こうにはいのちがまったくないという考え方に直面したことから、多くのクリスチャンがイエスのよみがえりを、「死後のいのち」が実際にあるしるしのことだという考え方に捉えられてしまった。これが事を複雑にしている。
              よみがえりとは、「死んだら天国に行く」ことの気の利いた言い方ではない。よみがえりは「死後のいのち」と言うものでもない。むしろ、体をもって死んだ後に、体をもって蘇ることを語る語り方である。よみがえりは、死後のいのちの第2ステージである。すなわち、「死後のいのち」の後の「いのち」のことである。(同書 p.164)

               

              死後の世界の話は、非常に困難であるが、それだけにキリスト者も世俗の人々も、死後の世界に関する理解が混乱していることも否めない。ここで、ライトさんは西洋世界の世俗化(むしろ、唯物論が幅を利かせること)にともなって、死後の世界理解と、天国ないし神の国理解が、根本的に変わってしまっていることを指摘している。この辺は、別のライトさんの本、Surprised by Hopeでかなり詳細に検討されて入るので、邦訳を待ちたいところである。まぁ、それはそのうちに、ということになろうか、と思う。

               

              近代では、唯物論というものが幅を利かせてしまった。唯物論的に考える習慣が近代人について以来、いろいろなことを考える際に、物理空間的な平面でしか考えない傾向がついてしまったし、それが科学であると思いこむようになって、いろんな問題に歪みが生じている。とくに、この種の問題は19世紀以降、西ヨーロッパの価値観が広がり、そして、西ヨーロッパ型の価値観が世界中にキリスト教とともにはいっていく上で、現地の既存文化との衝突を起こしたし、さらに、キリスト教が現地化していく上でも、深刻な問題をも、もたらしたように思う。そればかりでなく、西洋近代人からは、前近代と否定的な視線を向けられる世界の様々な地域とそこで生きる人々の生き方にも、この唯物論は、大きな影響をもたらしたように思う。

               

              とくに死後の理解に関しては、西洋のみならず東洋においても、この問題は深刻な問題をもたらしている。典型的には、日本でも、その問題は形を変えて起きている。西洋のキリスト教世界だけが死生観を狂っているのではないのである。

               

              日本は、クリスマスは教会に行かず(最近は行く人が増えたという説がある。少なくとも、去年はどの教会も多かったらしい)、ケンタッキーフライドチキンで祝い(なぜに鶏肉なのかはよくわからない)、お正月は神道の神社やお寺(川崎大師はお寺であろう)に行き、お釈迦様のお誕生日であるお花祭りはスルーして、イースターはガン無視され、5月と10月には神社で行われるお祭りに行き、旧暦の8月には、お寺にあるお墓にお参りに行き、ということになる。

               

              ケンタッキーフライドチキンをクリスマスに食べる習慣のある国 についての動画


              そもそも、本当になくなった方がお悟りになられて、成仏したのであれば、お盆に里帰りをするかのように人間の世界に戻ってくるはずはないのだが、人間の側の執着心や愛(これは、仏教では、八苦とされ、悟りを妨げるものの、一つとされているはずである)があるからなのかはわからないが、なぜか、戒名がついて、成仏したことになっているはずのお亡くなりになられた方が戻ってくるらしい。


              日本ではテレビの報道番組を見ていると、最近はキリスト者ではない人々も、不幸な事件や事故で人がなくなると、どうも天国に直行して空のお星になっていることに、なっているらしい。

               

              天国は何をするところなのか?

              という根源的な問い
              この話を書いていて思い出したのだが、以前いた教会の人から質問されたことや、そこに来ておられた方から言われたことを思い出した。


              ある信仰歴の浅い方から質問されたことで返答に困ったことの一つは、「死んだあと、天国に行くのはなんとなくはわかるのですが、天国に行ったとして、そこで何をするんですか」という質問であった。はてさて、どう答えたものか、と思った。まだ、ライトさんの本を読む前であるから、10年以上前のはなしである。即答に困った。皆さんだったら、どう応答されるだろうか。天国に行くのは確かにわかるが、「では、そこで一体永遠に何をするのか?」と言われた時に、どう答える事ができるだろうか。これは、結構核心をついた良い質問である、と思う。皆様にぜひとも、お考え頂きたい。

               

              教会に来られていた軽い障害をお持ちの方からは、「天国って教会の延長なんやろ?そんな、ずっとこんな事してたら、ほんま退屈で退屈で、しょうがないんちゃうん(標準語変換 天国とは、教会の延長なのですよね。延々と、このような教会のようなことをしていたら、退屈なのでは、ないですか?)」といわれて二の句が告げなかったことがある。その方にとっては、以前通っていた教会はどうも合わなかったし、楽しいところではなかったようである。

               

              これらの質問とか、コメントは、我々があまりにも天国(それが神の国、あるいは神の支配をいみしているかどうかは別として)に行くことばかりに着目するあまり、何のために神の国に行くのか、ということを忘れていることを指し示していないだろうか。そして、これらの質問は、われわれの神の国の理解の貧弱さの反映された結果でないか、と思うと複雑な気持ちになる。

               

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

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              2017.01.14 Saturday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その24

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                今日もまた、タラタラと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、タラタラと考えたことを書いてみたい。今日は復活に関する部分とイースターにまつわる部分についてである。

                 

                天と地が重なり噛み合う瞬間を指し示すイースター

                ここでまず、最初に、割と初期の議論で出てきた、神の世界(旧約聖書及び新約聖書における語で言うと、天)と人間にまつわる世界(同じく、地)との関わりに議論を戻し、よみがえりの現象をライトさんは、説明しようとする。ただ、近代西洋的な世界観に慣れた我々には、かえってわかりにくいことかもしれない。

                 

                イエスのよみがえりは、イエスに関する他のすべてのことについてもそうだが、選択肢〈2〉の枠組みにはどんなかたちであれ収まらない(更にいうなら、選択肢〈1〉にも収まらない。イエスにまつわることを、「自然」現象の単なる新しい現れであるとする試みを、何度か見かけた古語はあるが)もしイースターが意味をなすとすれば、私が選択肢〈3〉として描いたユダヤ教の古典的世界観の中においてこそ意味を成すのである。すなわち「天」と「地」は同じではないし、互いに全くかけ離れてもいない。そうではなく、いろいろな仕方で神秘的に重なり合い、噛み合っている。また、天と地の両方を作られた神は、世界の内側から働き、同様に、世界の外側からも働いている。世界の痛みを分かち合い、実に、全ての重荷をご自分の両肩に負っておられる。(クリスチャンであるとは p165−166)

                 

                ここで、天と地に関するこれまでの歴史の中で出てきた、様々な社会での「天」と「地」の関係の理解についての整理をライトさんがしたものを振り返ってみると、次のようになるだろう。

                 

                選択肢〈1〉 神と人の場が常に一致あるいは交差している(→ 汎神論)
                選択肢〈2〉 神と人間の場が、完全に分離されている(→ 理神論 ギリシア哲学)
                選択肢〈3〉 神と人間の領域が時に重なり合って噛み合っている(ユダヤ、キリスト教、イスラム世界)

                 

                日本型の信仰は選択肢1 に近いような気がするが、日本の場合は、神と人の場が常に一致しているとか交差しているというのが、その場所が限定的なのではないか、と思うのである。昨年の年末、天理市という町で、イスラエルの発掘の話を聞きに行ったのだが、天理教の場合は天理市にある「ぢば」の理解において、とくに明確である。日本型の宗教である地点を介して神が人と交わると考えている場所として、有名なものでは、関西では比叡山や高野山、関東だと富士山と筑波山、箱根や、木曽御嶽山、浅間山などがこの種の神と人とが交わる地点とされていることが多い。日本の山岳信仰はある面、神と人の場が一致する点であることは多い。ただ、ギリシア神話のように別世界というわけではなく、人間の世界の中にある感じであろう。

                 

                選択肢〈2〉は、人間の世界は人間の世界で独立しているし、それ以外の世界はない。全て人間が認識できる範囲と、それ以外の別世界という感じであろう。日本的でない仏教の世界で言えば、西方十万億土にあるお浄土(ないし冥土)に行ってしまわれた悟りを開いた方はこの世からは解脱しているはずなので、人間界とは無縁であるという意味で選択肢〈2〉に近いようなきがする。なお悟りを開いていないものは、この世界で転生するので、この世界上の生物とかに生まれ変わるのであり、成仏してしまえば、この世界とは関わりない世界に行くはずなのである。ところが、日本の伝統的な信仰と習合した日本型の仏教の場合は、時々成仏したはずの人々が人間の世界にやってくる事になっているらしい。したがって、お彼岸とかお盆とか、新年とかにお墓参りをするらしいのである。

                 

                さらに、ここで、ライトさんは、選択肢〈3〉を上げる。「すなわち「天」と「地」は同じではないし、互いに全くかけ離れてもいない。そうではなく、いろいろな仕方で神秘的に重なり合い、噛み合っている。また、天と地の両方を作られた神は、世界の内側から働き、同様に、世界の外側からも働いている。」と言っているが、その意味で、ユダヤ教の世界では、天と地が非常に近いことを示している。そして、重なっていて、時に天が開いて地にやってくるのである。

                 

                そして、イエスがなくなったときの記述に

                【口語訳聖書】マルコによる福音書
                 15:37 イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。
                 15:38 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。

                 

                という記述があるが、正に、この時、天と地が重なり合い、それが一つに繋がったのだ。天が開いてこの地上に天がやってきた瞬間だったことをマルコの福音書の記述は告げ知らせているのだろう。

                 

                西側のキリスト教世界ではこのことをあまり実感することはないが、正教会系の礼拝に参加すると、イコンスタシスの大門のところのカーテンや扉が開いたり、閉じたりすることで、この天(至聖所)と地(聖所ないし会堂)が一つにつながることを表彰しておられると聞いている。

                 


                ギリシア正教の儀式  2分58秒 にカーテンが開くシーンが出てきます

                 

                ある面ユダヤ教の神殿や幕屋(移動する)は、神と人がどこにあっても一つになることを示していたのであり、イスラエル人達が出エジプト時代に放浪したときがそうであったように、天と地はそう離れてはいなかったのである。なるほど、こう考えると、ダビデが神殿を作ろうとしたことや、ソロモンが建設した神殿と言うのは、神を人間側の理屈や都合により、ある場所だけに固定してしまうという意味で、まずかったのかなぁ、と思いを馳せている。神殿がある地球上の場所に固定されてしまうことで、共に移動する神という重要な部分が失われたということが起きたのかもしれない。

                 

                復活をどう考えるのか

                西方教会では、とくに日本の教会では、クリスマスは日程的にも固定されており、イエスの誕生ということもあり、人が集まることが多いようである。それに比べ、イースターは、太陰暦と春分点との暦法上の関係から、毎年日程が移動する。「イースターの日を太陽暦のある日に固定化したほうが・・・」というご意見の方もおられるようであるが、ミーちゃんはーちゃんとは、これはどうかなぁ、と思う。実用上は、どこで覚えても同じだ、というのはそのとおりなのであるが、これを太陽暦の暦法のみに従って固定した場合、今以上に旧約聖書との関係性、イースターと過ぎ越しの祭との関係があまりに離れてしまうからである。それくらいは残しておいてもいいのではないか、と思うのである。


                そのイースターの理解についてであるが、ライトさんは次のように書く。

                 

                東方教会が常に強調してきたように、イエスが蘇られた時、神のすべての新しい創造が墓の中から現れでて、この世界に新しい潜在力と可能性に満ちた世界を導き入れたのである。実に人間自身が再生され、刷新されているという、まさにその新しい可能性の故に、イエスのよみがえりは、私達を受動的で無力な観客にしたままでは置かない。私達自身で身をもたげ、自分の足で立ち上がり、肺に新しい息を吸い込み、出ていって、世界に新しい創造をもたらさずには置かないのである。(同書 p.166)

                 

                ここでのライトさんの「イエスが蘇られた時、神のすべての新しい創造が墓の中から現れでて、この世界に新しい潜在力と可能性に満ちた世界を導き入れたのである」と表現されている内容は非常に重要だと思う。つまり、新しい創造が既に始まっている、ということであり、それが完成に向かって突き進んでいくということも意味するのではないかと思うのである。そして、正教会系(東方教会)の伝統が反映されたイースターは、たしかにイエスの復活を覚えることに参与することができるようなスタイル、それを再現することに関与することができるようになっている。そして、復活したことの喜びを儀式によっても、確かに示しているように思う。まぁ、そのために食事制限が受難節には行われる。

                 


                1分58秒頃から、イースターで花火が飛び交う

                 

                ここの教会絵ではイエスが復活したことの喜びを花火によっても示しておられるようだ。

                この辺はこのギリシア正教会の教会ならではなのかもしれない。 (ハリストース・アネスティ(キリストが復活された)という声が動画の最後の方で出てくる。

                 

                正教会のイースター(日本ハリストス正教会の神戸教会にしか行ったことがないが)に行くとよく分かるのは、あそこの儀式は参加型なのである。単なる傍観者ではなく、十字架の道行きでは、賛美歌を歌いながら一種のキリストがこの地に歩まれたことが表現される行為に参加したり、一旦閉じられた、暗闇が支配する会堂の中に、全員で一斉にはいっていったりする。そうすることで、自分たちも暗闇の中に手にしたろうそくの明かりを持ってはいっていくことで、自分たちのこの闇の世界にはいっては行くものの、しかし、そこには復活の希望があるということを体感的にも感じられるようにできている用に感じた。確かに、語られるだけの、傍観者ではありえないことを感じる部分がある。(キリスト者は、ぜひ一度で良いから、お近くに正教会がある場合には、イースターの日の夜にある復活大祭に行って見られて、そこでなされている儀式の意味をよくお考えになられることを、ぜひおすすめしたい。)

                 

                 

                イースターのイコン https://jp.pinterest.com/mabrigsted/ikoner/ より

                 

                ところで、現在、聖公会の聖餐式に毎週参加して、参加するたび、毎週のように覚えているのは、もちろん聖餐を通してキリストの死と復活と、自分自身がキリストのうちにあり、キリストをうちに抱くものであるということの意味を覚えることをしているのではあるが、このキリストの復活を覚えるとともに、式文の最後の文章に応答することで、確かに、この復活によりキリスト者として与えられた使命を次のような言葉によって思い出すことができるからである。司祭が述べる

                 

                Go in peace to love and serve the Lord.

                 

                に対して、それを完全にできないとしても、キリスト者として

                 

                In the name of Christ,  Amen

                 

                と言えるからなのであり、それを言うことで、自分たちが、神に仕えるという新しい創造に招かれていて、そして、神の新しい創造のために委ねられたことを為すため、この教会を離れ、この地に生きるという使命が与えられていることが意識付けられるからなのである。まぁ、翌週の日曜日、それを成し得なかったことを、聖餐式の開始直後の段階で覚え、反省するのではあるけれども。

                 

                ライトさんは、「肺に新しい息を吸い込み、出ていって」と書いているが、個人的には、神の息吹が鼻から吹き込まれる儀式、つまり、この地にあってアダムとして生きる儀式が聖餐の意味ではないのかなぁ、ということは、この部分で思った。自分自身が息をしているかのように現代人は思っているが、それは神から息を吹き込まれたがゆえに、地の塵がアダムとされたように思うのだ。

                 

                 

                このあたりは、舟の右側に連載されていた大頭さんの焚き火シリーズのアダムの回を参考にされたい。

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                 

                2017.01.16 Monday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その25

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                  今日もまた、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、タラタラと考えたことを書いてみたい。今日は「神の子」とか、「メシア」あるいは「キリスト」をどう考えるのか、それはなにを意味したのか、そして、今日のキリスト者にとって何を意味するのだろうか、ということに関する部分である。

                   

                  キリストとは何か
                  まず、ライトさんは、次のように書く。

                  イエスの短い公生涯の間、イエスに従った最も初期のクリスチャンたちは、メシアは神であるとは思ってもいなかった。ここで話を難しくしているのは、「キリスト」という用語が、単なる固有名詞(「イエス・キリスト」)か、それ自体が「神」のタイトルかのように使われていることだろう。(『クリスチャンであるとは』p.167)

                   

                  ライトさんの別の本(How God Became King)に、イエスは個人名であり、キリストは、モンタギュー家とか、キャプレット家のような家族集団、血縁集団の名称であると思っている人が、いることが書かれていた。最初、その記述を見て、吹き出したことを思い出す。連合王国でも、結構こういう人は時々いるらしい。まぁ、教会も、時と場合と人によっては、「キリストさん」と町の人から呼ばれるから、そんな認識の人もいるかもしれない。教会を指して、「イエスさん」とか「エッさん(関西風のイエスの呼び方)」をしないところの言語感覚は面白い。なお、新宗教には集会施設を教会(天理教はそうである)と呼び習わすことが多いから、区別のために、一般の方はキリストさん、と呼んでいるのだろう。

                   

                  ここでライトさんは、キリストとはなにか、という問題を突きつけている。ここで、公生涯の間、弟子たちは、イエスのことを人であると思っていたことは、非常に印象深い。確かに、ペテロは、聖書箇所の中で次のように答えたとされている。ペテロだけがイエスのことを神の子である、と答えた、とされている。弟子たちは、口々に、イエスのことを「生ける神の子」すなわち「キリスト」であると発言したわけではない。

                   

                  【口語訳聖書】マタイによる福音書

                   16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
                   16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
                   16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
                   16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

                   

                  多くの日本の人々の中で、先程述べたように、キリストという名前は、キリスト教の符号でしかない場合が多いのではないか、と思う。多くの宗教があるその宗教指導者の区分記号の一つ、という位置づけなのだろう。キリストという名前の政治性や、キリストという名前が持つ、既存の政治権力の転覆の可能性さえ持つような革命性は、日本語のキリストの中に、あるいは、メシアという単語のイメージの中に含まれなくなっているし、大英帝国でも「神」のタイトルとか神を指し示す単語とか、形容詞程度の認識しかなくなっているようであるが、この時代、キリストと宣言することはいかにろくでもないことか、いかにチャレンジングなことか、ということの意味が既にわからなくなっているのではないだろうか。イエスに対する祭司長たちの宗教裁判の根拠は、「神の子」であることを自称したことであるが、ローマの総督にとっての政治裁判の根拠は、ユダヤの王であることを、ローマの承認なく僭称することで、ローマに反逆したことであり(一応ヘロデ家を推しメンにして、センター役をヘロデ家が務めることはローマの決定であった)、ローマの許可無く(王として)油注ぎを受けたもの、すなわち王としてのキリストを僭称したことにあるのである。だから、イエスの十字架上の罪状書きには、ナザレのイエス、ユダヤ人の王(短縮表記INRI)と書かれたのである。イエスは、イエス・キリストとして刑死したわけではなく、ナザレ村のイエスくん、あるいはナザレ村のヨシュア君として、十字架上で犯罪者として刑死していくことになる。

                   

                  ここでナザレのイエスという表記を思い巡らしている時、そういえば、日本でも、明治の頃になるまでは、その人の出自を示すことにもなる苗字(名氏)を名乗ることはなく、ナントカ村の○兵衛と言うような名乗り方が普通で、家族を識別する名字では呼ばず、個人を特定する識別子である、名前を用いるのが普通だったようであることを思い出した。そもそも移動が社会的に起こらず、移動能力が制限されていて、人々の居住地域が比較的固定されていて、せいぜい隣村に行くくらいの場合では、そのほうが自然だったということもあるのであろう。

                   

                  こんなことを思っていたら、この前、いつも行っている教会で、次の部分が読まれた。この部分の言おうとしているその奥にある意味ということが、どうも忘れられているのかもしれないと思った。

                   

                  【口語訳聖書】ヨハネによる福音書

                   1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
                   1:36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
                   1:37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
                   1:38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
                   1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
                   1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
                   1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。

                   

                  確かに、ここでメシアがキリストであることは書いてはあるが、そのキリストが何であるかがあまり明確でないと言うのは、現代のキリスト教徒にとって、結構深刻な問題の一つかもしれない、と思うのである。


                  「神の子」について

                  今のキリスト者たちにとって、神の子とはナザレのイエスのこと、あるいは十字架上で殺されて、そのうえで、死をもて死を打ち破り、復活してみせた神を指し示す事になっているが、もともとはそのような意味がなかったことに関して、ライトさんは次のように書いている。

                   

                  同様に「神の子」という言い方も、余計なことを脇において「三位一体の神の第二人格」を意味する用い方がよくされる。少なくとも、初代のクリスチャンがそのような新しい意味を加えるまで、そうした意味はなかった。その時点では、メシアを表す別名に過ぎなかったのである。聖書は来るべき王をヤハウェに受け入れられたこと語っている。人間にとっての存在であるのは疑いない。しかしそのような王が、イスラエルの神ご自身の体現とか、あるいは(ラテン語の表現になるが)受肉として考えられることはなかった。(同書 p.167)

                   

                  つまり、イエスとともに世界を共有した当時のローマ世界の人々にとっては、「神の子」とは、カエサルの別称であったし、ユダヤ社会におけるコンテキストでは、神の子は来るべき王であり、ユダヤ社会の解放者、神との関係を正しくするものとしての、メシアのことではあった。


                  ここで、ライトさんは「イスラエルの神ご自身の体現とか、あるいは(ラテン語の表現になるが)受肉として考えられることはなかった」と書いておられるが、イスラエルで神が物質世界に現れることは、旧約聖書世界にとっては、一大事である。まぁ、その一大事が常時起きたのが出エジプトをしている最中の放浪していた時期である。とくに人間のかたちとして体現されることなどはありえないことであり、それを人間が目にできる形になること(ラテン語風に表現するとIncarnatio 受肉となるのだろうが)などはありえず、ユダヤ社会の常識としては、神を見ることは人間はできず、見たものは死ぬとされていたはずだ、と思うのである。生ける神を見たなどとするだけで、モーセの律法とたちまち矛盾が生じてしまうのである。その意味で、神を体現したものであると名乗ることは、ユダヤ社会的においてはありえないことなのである。


                  「神の子」とローマ皇帝とクリスチャン
                  少し前の記事 N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その22 でも、神の子としてのローマ皇帝ということについて触れたが、今回はユダヤ人社会における神の子に関しても、当時の人々の理解を超えていたことに関して、ライトさんは次のように触れておられる。

                   

                  カエサルは何といっても「神の子」であった。彼は「世界の王」であり、その王国は絶対的権力を持ち、当時のすべての人が彼の名に膝をかがめなければならなかった。最も初代のクリスチャンのイエスの評価、すなわちイエスにおいて天と地が出会い、神殿に取って代わる生き方の体現者であるとすることは、想像するまでもなく社会的な物議を醸すこととなり、神学上においても革新的なものだった。それでも彼らは、そう話した。そしてそう話すことで、イエスが自分自身のことをどう信じていたかを思い出せる範囲で思い出し、それらを手がかりにして思い巡らし、じっくりと考えた。(同書 p.168−169)


                  日本では、膝をかがめるという習慣は殆どない。頭を下げるとか、お辞儀をしたり、手をついたりして詫びるという習慣はあるが、膝をつくとか膝をついて祈るとかいう習慣が残念ながらない。今は少なくなっているが、もともと日本人は、床にべったり直接座る身体性をもっていた民族だったのではある。身体性が根本的に違うのであるが、地中海世界やヨーロッパの諸民族では従順や服従の姿勢を示す時に.膝をつく習慣がある。

                   


                  http://www.safran-arts.com/42day/art/art4jan/art0111.html

                   

                  このような姿勢は、日本だと、正座をしてお辞儀に相当するのかもしれない。

                   

                  ところで、ライトさんは「最も初代のクリスチャンのイエスの評価、すなわちイエスにおいて天と地が出会い、神殿に取って代わる生き方の体現者であるとすることは、想像するまでもなく社会的な物議を醸すこととなり、神学上においても革新的なものだった」と書いておられるが、たしかに神が人々と地をともに歩くのは、出エジプトの放浪の時以来であったし、それは革新的というよりは、次元が一つ違ったくらいの出来事であった、と思うのである。あるいは、重力がなくなり、人間が自由に飛び回れるようになるくらいの出来事であったように思うのである。また、天と地がイエスで出会っているということは、神がこの地に到来したのだから、イエスが神であるとすれば、天ないし神の国がそこにあることになる。それは、イエスがいるところで既に神の国ないし神の支配と、イエスが地上にいることで、人の支配が交差したのであるということを意味することになる。もちろん、天と地は、完全に一致はしていなかったとはいうものの、交差はしていたとは言える。それがもし実現したとすれば、本来一定の場所で神の支配と天の支配が、時々交差していたイェルサレムの神殿はいらなくなってしまう。

                   

                  しかし、ここで注意したいのは、あくまでイエスは、私個人にとっての大祭司というかたちではなく、共同体としての神の民の中の大祭司というかたちを取られたのであり、そのような意味で天と地が交差することになったことがヘブル人への手紙で書かれているように思う。そのような関係の一つを示すのが、以下のヘブル人への手紙の一部だと思う。他にもいくつかあるだろうけども。

                   

                  【口語訳聖書】ヘブル人への手紙
                   2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
                   2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。
                   2:16 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。
                   2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
                   2:18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。

                   

                  このような人物は、当時の神殿にでんと陣取っていた祭司長たちや、神殿に依拠して生活の糧を得ていた人(神殿専用の両替商や、犠牲のための動物販売事業者)の存在を無意味にしてしまうので、社会的に物議を醸したし、また、あえて物議を醸すことを宮きよめ、としてイエスはなされたのではないか、と思うのである。その意味で、革命的なリーダーとしての資格は十分であり、また、実際に進行による革命をユダヤ全治だけでなく、世界のかなりの部分で起こしてこられたものの、人間の不完全さゆえに、その天地をひっくり返すような革命の影響力が現在もなお残っているのかという事を考えてみるとき、現状を見る限り嘆かわしくは見える。しかし、人にはできないことが神には実現可能であること、そして、イエスは死をもて死を打ち破りし方であるが故に、そう簡単にイエスが天地をひっくり返した、という意味での革命の息吹と言うか炎は消えないように思うのだが。

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

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                  2017.01.18 Wednesday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その26

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                    今日もいつものように、N.T.ライトさんの「クリスチャンであるとは」を呼んで考えたことを、タラタラと書いてみたい。今日のところは難物であるし、多くの「福音派」的なクリスチャンたちがぎょっとして、この本を閉じたくなるところかもしれないし、「福音派」的な聖書理解の背景を持つ人々にとっては読むのが辛いところかもしれない。


                    イエスとメシアの理解と人間であること
                    イエスが、いつ自分が神であると認識したのか、という問題はイエスを理解するにあたって大きな問題となる。イエスが神である、と我々は歴史の後ろから前を見て知っているし、それが信仰の基礎にあるから、そこが譲れないからであるが、ナザレの乳児イエスくんだった時代もイエスにはあって、そこについて、聖書はあまり語っていない。だとすれば、父なる神が与え給うたミッションを、イエスが明確に意識したのはいつなのか、ということは疑問として残る。


                    そのあたりについて、ライトさんは次のように書く。

                     

                    この点でも多くのクリスチャンは間違った方向に進んだ。イエスがその生涯の間、自分が「神である」ことに「気づいていた」というのである。その意味することは、自分についてのその知識を、どういうわけか瞬時に、ほとんど普通に自覚していた。というものである。しかしそうであるならば、ゲッセマネの園で激しく苦悶した出来事の説明を難しくしてしまう。(『クリスチャンであるとは』p.169)

                     

                    ここで、ライトさんはゲッセマネの園での出来事を起点に、イエスの人間としての苦悶をどう考えるか問題を提起することで、イエスが「神である」あるいは「 三位一体の神の第二人格 」であると同時に人間でもあるということの問題を取り上げていて、「イエスが、神であると意識したのは、いつなのか」ということが問題になることになる。もちろん、ある時間をかけながら、次第に神であることを理解したのではないか、というライトの主張に反論することも可能であろう。すぐに思いつくのは、次の聖書箇所であろう。

                     

                    【口語訳聖書】ルカによる福音書
                     2:42 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。
                     2:43 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
                     2:44 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、
                     2:45 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。
                     2:46 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
                     2:47 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。
                     2:48 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。
                     2:49 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。
                     2:50 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。

                     

                    という部分である。とくに「自分の父の家」という言葉は、そして、イエスが「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言ったことは、イエスが幼少の頃から、「神の子」であることを意識したと理解できなくもないし、そのように理解されている方も多いだろう。つい最近まで、ミーちゃんはーちゃんも個人的にもそう思ってきた。

                     

                    その意味でこのライトさんの記述はたしかに引っかかるし、ミーちゃんはーちゃんもいまだに少し引っかかるというところがある。そしてライトさんのこの部分の記述は聖書(の一部)を否定しているという印象を与える。つまり、「聖書の一部だけを切り取って、理解しようとしているのではないか」、あるいは、「ライトさんの聖書理解は、聖書の権威性を否定するリベラル的な聖書理解である」とかラベルを張る、あるいは、そのような主張を言い出したくなる方々のお気持ちはわからなくはない。

                     

                    しかし、もし、ライトさんが「自分についてのその知識を、どういうわけか瞬時に、ほとんど普通に自覚していた」(英文は They have spoken of Jesus as being ”aware, ” during his lifetime of his lifetime, of his "divinity"--aware in a sense that made him instantly, alost casually, the possessor of his knowledge about himself as would have made event like his agony in the Garden of Gethsemane quite inexplicable.)と書いているように理解するならば、イエスが神であるという視点からの説明であるということは明らかであるが、その反面、イエスが人間であることのウェイトがかなり軽くなってしまう。それを端的に指し示すのが、ゲッセマネの園の苦しみの出来事である、とライトさんは言うのである。神が苦しんだだけでなく、人として苦しまなければ、神にして人、人にして神というイエスの存在を理解できないのであり、イエスの大祭司性の一部を誤解することになりかねない危険性があると思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけだろうか。

                     

                    まぁ、このへんは神秘なので、あまり詳しいことはよくわからない。議論したところで、結論が出るとも思えないので、まぁ、スルーしておく方がいいだろう。

                     

                    ゲッセマネの祈り Praying at Gethsemane, 1999, He Qui (Chinese)

                    http://art-now-and-then.blogspot.jp/2014/05/art-and-jesus-gethsemane.html から


                    人にして神であることは、人間には理解を超えたことであるし、言語で説明できるか、と言われれば、それには限界があるのではないか、と思っている。しかし、言語で説明できないからと言って、信じていないか、と言われれば、それはまた、別の話である。

                     

                    イエスとキリストとしての自覚、そして祈り
                    イエスがキリストであると自覚すること、あるいは「神である」という認識に至ることに関して、そして、その関連で祈るということに関して、ライトさんは次のように書いている。そして、冒頭部で、あえて挑発的な書き方をしていると思う。と言うのは前回の連載でもしるしたように、イエスの死後の弟子たちは、イエスの十字架が起きる前の視点で、当時の理解の事実を認識する上で、限界があるからである。つまり、イエスが神であるということにどうしても強調点が行き過ぎ、イエスが人でもあるという側面がどうしても、軽んじられるからではないか、と思うのである。

                     

                    ロバに乗ってエルサレムの都に入り、自分を神殿の権威者と定め、権威ある御方の右に座すことを大祭司たちに宣言し、世界の罪のために自分自身の肉と血を捧げたのはイエスご自身であった。十字架に近づけば近づくほど、私たちは次のイエスの問への明確な答えを持つようになる。それは、「あなたは私のことを誰だと思うか」という問いである。

                    イエスは、自分がおかしいかもしれないと知っていたはずだ、妄想の可能性も意識できるくらい十分な洞察力をもっていた。しかし、何よりも神秘的なことは、イエスは聖書を読んで自分の召命のためにたどる道をはっきりと知っただけではなく、「アバ、父よ」と呼ぶ方との親しい祈りの生活によって支えられていたことである。どういう訳かイエスは、天の父に祈り、同時に昔の預言者によれば,ヤハウェだけが担うはずの役割、イスラエルと世界を救出する役割を自分の身に引き受けた。イエスは、父に忠実であった。同時に神のみができることを行った。(同書 p.170)

                     

                    ここで、イエスが時々、弟子たちに向けた問いである「あなたは私のことを誰だと思うか」という問いについてどう考えるかである。我々は、ペテロが、「イエスはいける神の子キリストである」と答えたことは認識している。あるいは認識しすぎている。その結果、我々はイエスがご自身を「人の子」と呼んだことや、「人間としてこの地上を歩まれた」という重要な側面を、見逃しているのではないか、ということである。クリスマスはひと月ほど前に終わったが、クリスマスのときには、イエスが人の子としてこの地上を歩まれたことにかなり強調が置かれた話がされることが、結構多いように思う。しかし、イースターを過ぎてしまうと、神としての性質に強調が置かれる傾向が強くなってしまうのではないか、とも思う。もちろん、イエスが神であることは、微塵だにミーちゃんはーちゃんは疑いもしてはいないのだが、「イエスが人間としての理解が薄くなるという傾向は本当に見られない」と言い切れるだろうか。

                     

                    個人的に完全に正教会系の大斎の期間を覚えることをしたことがないのだが、ある面、大斎と言うかたちや仕組みを通しても、安易でない生き方を覚えるということはキリストが人間であったということを覚える上で重要かもしれないと思っている。

                     

                    確かに、ここでの書きぶりでもある、イエスが、「自分でもおかしいと思っていた」(英文では He must have known he might be mad.)とか言うライトさんの書きぶりは、現在日本で普及しているイエスの完全さ、神であるがゆえの完全さ、勝利者である姿を重視する立場からは受容しづらいイエスのイメージであろう。しかし、イエスは、悩んでいたり、苦しんでいたりするのであって、それがあるからこそ、不完全な人間と神との間に立つものとして、「傷ついた癒し人」(これはナウエンの本のタイトルでもある)としての役割を果たせるのではないか、と思うのである。自分でもおかしいかもしれない、と思うのは、ある面、当時のユダヤ社会を前提とした場合だと当然のことかもしれない。

                     

                    人が神であろうはずがないのだ。神は当時のユダヤ社会において、人とは異なる存在なのである。もし、人が神だと言いだしたり、思い込み始めたりしたら、その人は異常なのは、今も昔もそう変わらないと思う。しかし、人として神であるというイエスが人としてそう思わなかったら、それは人でないことになる。狂人か、神であるか、のいずれかである。

                     

                    その意味で、この部分の自分がおかしいと思うというのは、人として当然のことではないだろうか。このあたりは、人間であるミーちゃんはーちゃんには理解も表現もしかねるイエスの神秘であって、それはいくら考えてもわからないことだから、わからないとだけ申し上げたい。あえて、「わからない」ということを素直に素朴に神の前に認めることも、キリスト者の敬虔としては大事ではないか、と思うのである。

                     

                     

                    そして、想像を絶したイエスの苦しみの時間というか、日々を支えたのが祈りの生活であったというここでのライトさんの指摘は印象深い。これは、ナウエンの『この盃が飲めますか』、でもそうであったし、ナウエンの”With Open Hands(両手を開いて)”でも指摘されていたことであった。そして、苦しむときには、かえって静まって神との対話をすることの重要性があるように思う。イエスの経験した痛みや苦しみは人間では想像できないほどのものであったことを考えると、また、イエスが人々からいるところから退いて祈っていたという記述が聖書に多いことを考えると、非常に重要なことなのであろう。

                     

                    砂漠で祈るイエス http://tamedcynic.org/tag/christian-art/ から

                     

                    キリスト者にとって、神の前に立ち、自らの人間としての姿を見つめ直す時間は重要な事なのかもしれないが、日本のキリスト教界の一部では、神の前に静まる時間を持つという、そういう習慣が一部では、すっかり失われてしまったのかもしれない。これに関しては次回別トピックを建てて触れる。

                     

                     

                    神への従順、天の父への信実
                    イエスが成したことは、神への従順であり、ご自身がおっしゃったように、ご自身のいのちすら、我々に差し出されたのである。それは神の我々に対する神との関係の回復を成し遂げたいというみ思いの実現でもあったのである。それは、神の命じられたことでもあったのであろう。

                    【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
                     15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
                     15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
                     15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

                     

                    ライトさんは、その部分について、次のように書いている。

                    イエスは召し出され、天の父の従順のゆえに、そうした愛をはばかることなく、ことごとく差し出すわざを遂行した。

                    このことは、神学の限界と同様、言葉の限界にも導く。しかし、歴史家としての私が到達した結論はこういうことだ。そのように分析することこそ、なぜイエスはあのように行い、イエスに従ったものたちもイエスの死と復活の直後に、なぜ、それを信じ、またその信じたことを行ったのかという理由を最もよく説明してくれる。そして、クリスチャンとしての私が達した結論は、そう理解することこそ、私を含めて数え切れない人たちが、この世界と私達の生活の中にイエスが人格的に存在し、活動し、また私たちの救済者、主であると見出した理由を説明してくれる、ということである。(p.171)


                    そして、ここで、非常に印象的なことをライトさんは書いておられる。「このことは、神学の限界と同様、言葉の限界にも導く」という部分である。このことは極めて重要だと思う。我々は、「神の神秘をわかりたい、もうちょっと理解できれば」という気持ちを持つ。それはそれで大切な思いだと思う。そして、それは神学に導くのだと思う。しかし、そこには人間に超えられない線があると思う。言葉においても、それはある。言葉は無限の能力を持つものではない。言葉は言葉に限界があると思うのだ。時に、行いが言葉を超えることがある。思いが言葉を超えることがある、あるいは、思いが行いや言葉を超えることがある。しかし、近代は言葉や理性にあまりに重きを置くあまり、言葉の優位性ばかりを考えてきた部分があるのではないだろうか。そのことをこの一文は指摘しているように思う。

                     


                    もう一つ重要な文章がこの中にある。それは、「私を含めて数え切れない人たちが、この世界と私達の生活の中にイエスが人格的に存在し、活動し、また私たちの救済者、主であると見出した理由を説明してくれる」という一文である。ある時期まで、ミーちゃんはーちゃんとイエスとの関係は非常に遠くはなれていた。浄土ではないけど十万億土とか、何億光年とかという感じであるが、現在のこの地で、イエスが人格的に存在し、活動しているという感覚は、あまりなかったのは事実である。しかし、カトリック教会や正教会や聖公会の司祭の皆さんと出会い、話をお伺いし、その生きる姿を通して、基本的にイエスに倣うもの、サクラメンタルな存在としての生き方を示そうとしておられ、少なくとも主日にはそれを示そうとしておられることを、拝見し始めた。そして、イエスの姿を指し示しておられる姿を直接見る中で、概念ではなく、言葉ではなく、そこにある力というか行為として反映されたその姿を見る中で、自ら、反省した。パウロの次の言葉ではないが。

                    【口語訳聖書】コリント人への手紙 第一

                     4:19 しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
                     4:20 神の国は言葉ではなく、力である。

                     

                    どうも、自分自身は、「高ぶっているものではないか」と司祭の皆さんの実施されてきたことのお話をお伺いしながら、あるいは、実際のお姿を見ながら、[ミーちゃんはーちゃんは言葉ばかりではないか」と改めて、反省したのである。ある面で、この地に平和をもたらすというのか、神の善をもたらすというのか、神の義をもたらすというのか、にかけていたということを反省したのである。どうしても、自分の義であり、自分の善というものを過大評価しており、「この地に善があることを、そして、その神の与えたもうた善や義を拡げていくということを、十分評価できていなかった側面があったことを、否定したい」ものの、否定できないということを知っている。

                     

                    もし、万人祭司というなら、我々も、祭司としてサクラメンタルな存在であり、それは、この地において、神の存在と神の臨在を指し示すことになる存在であるはずである。それがミーちゃんはーちゃんには欠如していたのである。イエスは、存在そのものがサクラメントであったとは言える。神と人がつながっていて、神の存在そのものが地を歩くものとして現れたからである。しかし、我らは神ではない。人にすぎない。しかし、神に不完全なかたちでしか、内在していただくことのできない人間という存在にすぎない。しかし、そうであっても、今は神の平和をもたらす存在として、ちょっこしだけ瞬間的サクラメンタルな存在として生きてみようかなぁ、と思っている。そして不甲斐ないながらもサクラメンタル、聖性をもった存在としてどう生きようとするのか、ということを考えている。

                     

                    我々が救われたのは、我々がイエスを信じたからか、イエスが先に父なる神に対する従順、あるいは父なる神のみ思いへの信実故なのか、という問題があるが、ライトさんのここでの書きぶりは、人間側のどうのこうのいった思いや、人間の選択が重要なのではなく、まず、神ご自身の主権に基づく行為、神のわざが先にあったことが、問答無用に重要だ、ということを言っているような気がする。その意味で、無限なる神の前に、人間の行為の有限性、有界性を考える時に、人間は黙るしかない、という部分があることを本日紹介した部分を読みながら、とくに、「イエスは召し出され、天の父の従順のゆえに、そうした愛をはばかることなく、ことごとく差し出すわざを遂行した。このことは、神学の限界と同様、言葉の限界にも導く。」という部分を読みながら改めて思い起こした。

                     

                     

                    http://www.patheos.com/blogs/nakedpastor/2012/09/the-god-box/ から

                     

                    次回へと続く

                     

                    2017.01.21 Saturday

                    儀式と象徴とその先にあるもの (1)

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                      先日、ある方と、教会の日曜日とプログラムの関係について、カジュアルにお話したことがあった。プロテスタント教会では、儀式がないところが多く、静思の時間とか、祈りのために静まる時間の大切さを言うものの、それを墨会社があまり経験しないまま、信者さんが経験しているかどうかに関係なく、静思の時間とか、静まりとかがたいせつだ、とか言っていることが多い、という話になった。

                       

                      ミーちゃんはーちゃんと静まり
                      個人的には、この種の静まりとか、静まることの大切さを覚え始めたのは最近のことである(と言ってももう10年ほど前のことだが)。信仰歴25年を超えた頃にナウエンや、ジャン・ヴァニェの著作に出会い、そして本格的にそれについて思いを巡らせ始め、黙想のリトリートや、黙想の家でのセミナーなどに参加してその大切さを経験した。そして、この種の時間(そう長い時間ではないけれども)を礼拝の一環としておいているAnglican Communion のChapelに行き始めて、毎度毎度やるたびに、やはり、この種のものは、やはり大事であったのだなぁ、と思い始めている。

                       

                      言葉による伝道が中心の教会で
                      それまでは、言葉による伝道することがキリスト者の生きる道であると、福音派の片隅のちょっこしだけ過激なキリスト者集団の中で育ったこともあって、そのように思っていたのである。伝道せねば人にあらずとは言わないが、伝道しない人はキリスト者としてどこかおかしいのではないか、と思うほどであった。それも言葉による伝道が全てであった。言葉によらない伝道、或いは言葉を介さない伝道というのは、かなり変わったもの、かなり変なものだ、と思いこんでいたのである。


                      言葉だけが指し示すのか
                      例えば、絵画が伝道するとか、儀式が伝道するとか、所作が伝道するとかいったことは、キリスト教としてはかなり、変わったものであり、おそらくそれは、ありえないものであると思いこんでいたのである。「下手をすると偶像ではないか」と思いこんでいたのである。単に自分たちの伝道方法と違うから、ということで、そもそも理解しようとしなかったのである。

                       

                      伝道する、という言葉使いは誤解を生むかもしれない。伝道するというよりは、「指し示す」という言葉がふさわしいかもしれない。伝道するという語のイメージの中に、真理を伝える、自分が持っている真理を伝える、ないし、分かち合うというようなイメージがあるかもしれない。近代を経た現代人にとっては、真理とは、論理的に理解可能なもの、言語により表現可能なもの、言語で提示しうるもの、それで十分、と言ったような理解があるかもしれないが、本当にそうだろうか。真理とは、本当に言語で表現可能なのか、という素朴な疑問に、いま直面している。

                       

                      神秘の前には沈黙するしかない人間
                      イエスが神であり、人であるという神秘は、論理的に表現可能かと問われれば、かなり怪しいのではないか、と思い始めている。あるいは、父なる神があり、子なる神があり、聖霊なる神(ないし聖神)があり、それでいて三つにして一つという神秘は言語で表現可能か、あるいは論理的に表現可能なのか、あるいは論理世界において理解可能であるのか、と言われれば、個人的にはかなり厳しいと思う。少なくともミーちゃんはーちゃんの理解能力や言語能力では表現する能力が限られている以上、それが表現可能であるということに関しては、ミーちゃんはーちゃんに関しては、甚だ怪しいのではないか、と自分自身を反省してみて、そのように思う。

                       

                      単に指し示したバプテスマのヨハネ

                      神の偉大なる神秘を前にして黙る、言葉を失う、沈黙する、しかないのではないだろうか、と思う。最近、ほとんど週に2回通っているチャペルでこの前の日曜日と先日の水曜日に、エピファニーということで読んだ聖書の場所は、次のものであった。

                       

                      【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
                       1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
                       1:36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
                       1:37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
                       1:38 イエスはふり向き、彼らがついてくるのを見て言われた、「何か願いがあるのか」。彼らは言った、「ラビ(訳して言えば、先生)どこにおとまりなのですか」。
                       1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。そこで彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を見た。そして、その日はイエスのところに泊まった。時は午後四時ごろであった。
                       1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。
                       1:41 彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った」。
                       1:42 そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、「あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする」。

                       

                      ここで、バプテスマのヨハネは、「見よ、神の小羊」と言ってイエスの存在を指し示したに過ぎない。とくに、ダラダラと言葉で説明したとも、福音書を書いたヨハネはここでは書いていない。もちろん、これはバプテスマのヨハネが祭司長や律法学者に「あんた、だれ?何者」とベタニアで職務質問された翌日の出来事である。


                      サクラメンタルな儀式にしても、教会にしても、イコンにしても、聖書とその中のテキストにしても、あるいは日曜日にしているはずの聖餐(御言葉の聖餐であれ、実態としてパンを使う聖餐であれ)は、要するに、「見よ、神の小羊」とイエスを指し示し、神の存在が地上に来たことを指し示している、といえるのではないだろうか。教会は、イエスを指し示すことをしている場所なのだと思う。それが協会の役割なのだと思う。建物や場所がどうであれ。ただ、教会ごとに、そのイエスの指し示し方は、それぞれかなり違う。しかし、指し示しているものは、神であり、人であるキリストであるのがキリスト教だと思うのである。

                       

                      多様な記号の種類
                      キリストを指し示す記号、キリストを示す記号として、画像が使われるか、儀式が使われるか、言葉が使われるか、所作が使われるかは、それぞれ違うけれども。どのような様式(画像なのか、儀式なのか、所作なのか、言葉なのかという様式)であれ、その様式あるいはメディアや手段に込められた意味というのか指し示す対象がある。記号と記号が指すものの関係があるということを考えると、どれがまともで、どれが正しくて、どれがだめでないか、というのはあまりないのではないか、と思うのである。儀式には儀式の、所作には所作、絵画には絵画が指し示すものがあるのである。

                       

                      イコンの象徴性と指し示すものの中心性
                      最初、正教会系のイコンに触れた頃は、近代の遠近法に慣れたものからしたら、イコンの遠近感もおかしいし、写実的とは言いにくいし、抽象的なイコンも多い。ある面で言うと、近代の西洋絵画に慣れ過ぎているミーちゃんはーちゃんとしては、なんだかなぁ、と思っていたことも確かなのである。しかし、このブログで聖書のシーンを描いた絵画を時々紹介しているが、その時に思うのは、妙に写実的なイエス像というのは、かえって特殊なイメージを与えるのではないか、イメージを固定するのではないか、とあるときから思い始めたのである。かえって、イコンのような抽象的で、記号的なものであるほうが、細部を詰めないがゆえに、指し示そうとする対象をより明確に示すことができるのではないか、という逆説を思うようになったのである。問題は表現ではなく、指し示される対象とその対称性の重要性であるという立場に立つと、なるほど、イコンというのはそうなっているのだなぁ、と思うようになった。

                       

                      イコンや儀式が指し示すもの

                      そして、文字が読める人は、視覚を通して文字が読める人は、文字が指し示す象徴に思いをはせ、そのことに対して思い巡らすことができるかもしれない。しかし、イコンがあれば、たとえ文字が読めなくても、そのイコンが指し示すものに対して思い巡らすことができるだろう。仮に、視覚を失っても、聖餐でのパンと葡萄の実からできたものを口にすることで、そのパンと葡萄の実が指し示すものに対して思いを巡らすことができるのではないか。その意味で、自分たちの指し示そうとする方法(表現方法)に目を向けることも重要かもしれないが、方法にばかり目を向けすぎると、その方法が指し示そうとする象徴を見逃してしまうのかもしれない、と最近反省している。

                       

                       

                      コプト正教のエピファニーのイコン

                      https://jp.pinterest.com/emtsmulders/doop-van-christus-in-de-jordaan-theofanie-icons/

                       

                      アメリカのギリシア正教会のエピファニーのイコン
                      http://www.goarch.org/special/listen_learn_share/epiphany
                      グルジア正教会のエピファニーのイコン
                      https://georgianorthodoxchurch.wordpress.com/category/baptism/

                       

                      このように並べてみると、基本的な構図は同じであることがよく分かる。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

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