2016.12.01 Thursday

2016年11月のアクセス記録とご清覧感謝

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    皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

     

     先月は、19,655アクセス、平均で、日に  655.15  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   66709アクセス(716.5)
     

     2016年10月      30,084 アクセス (970.5) 
     2016年11月      19,655 アクセス (655.15) 
     
    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた 

    アクセス数 566 

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

    アクセス数 499 

     

    教会の情報発信についての動画の紹介   

    アクセス数 381 

     

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

    アクセス数  297 

     

    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(2)  

    アクセス数 293

     


    でした。

     

    今月から、棒読みちゃんによる読み上げの音声ファイルのダウンロード先をつけたためか、以前よりアクセス数が下がった用な感じがある。その意味で、このブログは記事が長すぎて、何回もアクセスしていた人たちがおられたのに、結局棒読みちゃんによる読み上げをダウンロードされて、それらの人のアクセスが若干減ったのか、と思うと、長すぎてすみません、と心からのお詫びを申し上げたい。

     

    個別記事に関して言うと、今月はグリューン著『従順という心の病い』祭りの感があったが、それでも

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

     

    が第2位であった。

     

    それと、特筆すべきは、カインとアベルというドラマが放送中のせいか、古い記事でもある、上智大学の公開講座の参加記録

     

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

     

    が依然4位出会ったのは、テレビというものと、ネットというものの関係を考える上では面白かった。メディアミックスということの大切さを感じている。

     

     

     

    2016年11月のアクセス推移  (後半がだれている・・・なぜだろう)

     

     ということで、今月もよろしければ、ご清覧をば。

     

     

    2016.12.01 Thursday

    N.T.ライトセミナー DVD 絶賛発売中のご案内と内容紹介

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      このブログでは、NTライト・セミナー関係の発信もしてますが、今年も実施できました。

       

      第5回ライトセミナーの資料集販売

      それで、2016年は第5回となったセミナーでしたが、参加できなかった方々への朗報です。N.T.ライト・セミナーの当日の会場の様子を収めたDVDができました。完成品はこんな感じです。

       

       

      ケースには、今回のNTライト・セミナーの配布資料集の表紙デザインを元にしたカバー

      DVD表面は、今回のセミナーのWeb案内画像を元にしたデザイン

      2枚組で、2500円 限定20セット

       

      こちらには、資料集にない情報も満載。

       

       

      で、今回は、ちょっとスニークプレビューを動画で公開します。

       

      Disk1の概要

       

      DISK 1 のスニーク・プレビュー

       

       

      Disk1には、『舟の右側』の最新号に記載された谷口編集長のご発言(なお、『舟の右側』最新号は、発表原稿に追記された部分を含め、少し膨らんだものとなっています。しかし、谷口編集長の応答の部分は、『舟の右側』では割りとあっさり、というか極端に圧縮されているので(とはいえ、大意はわかる程度ですが)、こちらでは、他にも面白い部分が満載です。

       

      内容が一部紹介されている舟の右側

       

      舟の右側 は お近くのキリスト教書店 または、地引き網出版 まで

       

      Disk2の概要

       

      DISK2 のスニーク・プレビュー

       

      Disk2は当日の会場からの応答です。レスポンデントの信仰や救いという問題との関わりのパーソナルヒストリー、『クリスチャンであるとは』を読んだ時に引っかかりのある問題、義とかスピリチュアリティを道離していくのか、普通の人がN.T.ライトが読んで引っかかる問題、教会とかで引っかかっていて、福音がうまく伝わっていないのではないか問題、本来、福音とはシャロームに達することであるし、そこから考えたほうがいいかもしれない問題、アブラハムが出会った神を信じるものの共同体としての現在の教会…といった他では聞けない話満載のDiskになっています。

      なお、このDisk2の部分は、舟の右側でも取り上げられていない部分なので、当日参加しておられない方は、ぜひともこちらをお買いもとされることをおすすめします。

       

      あと、残り10セットです。限定販売に鳴っております。

       

      なお、資料集だけなら1部500円です。

       

      資料集

       

      ご注文は、こちら あめんどうブックス へ、お早めに


       

       

       

       

       

      2016.12.03 Saturday

      Web時代におけるキリスト教メディア(1)

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        音声ファイルダウンロード先

         

         

        前回、Post Truthという時代におけるキリスト教メディアと題して自説を述べた。本日からは Post Truthという時代におけるキリスト教メディア の続き、ウェブ時代、あるいはネットワーク時代という時代性に合わせてキリスト教とメディアとの関係を何回かに分けて考えてみたい。

         

        蜘蛛の巣ですか?

        もはや、ウェブというと、蜘蛛の巣という本来の意味よりも、インターネットのサイトのことをイメージさせるまでになった。もともと、蜘蛛の巣のように相互が関連していく社会という意味で、Webと呼ばれたのであるが、そんなことは日本ではすっかり忘れ去られている。そんなことはどうでもいいことではあるが。

         

        Charotte's Web 邦題 シャーロットの贈り物 の予告編

         

        現代は、生産から消費まで、ネットワークが張り巡らされた世界の中にある。昔であれば、自動車会社の中には、鋼板の製造から最終製品の完成まで、1社で全部済ませようとした会社があったし、それを目指したアメリカの自動車メーカーは、そのようなすべて内部生産するような生産方式があまりに不合理であることから、大赤字を発生させたことがある。それが不合理であることは、この自動車会社が大赤字となったことによって明らかにされてしまった。その結果、得意分野の専業メーカーさんと協業しながら、自動車を生産するのが、現在の世界の標準的な生産モデルになっている。これは自動車に限らない。餅は餅屋の世界なのだ。

         

        ただし、このような生産方式には弱点も存在する。世の中の専業メーカーは多くない。ある特殊な技術を持つ部品提供をする企業は、ほかの多数のユーザー企業に納品している。このような事例はかなりある。となると、ある部品メーカーが製造停止になると、ほかのユーザー企業も製造をとめざるを得ないという状況に陥るのは、地震の際などに頻発することである。

         

        既にネットワーク化してしまった産業社会

        その意味でも、企業はすでに一足早く、生産システムの一部を含む外注化を実施したり、協力会社と情報システムを使いつつ、そこでの情報を共有化することで、ネットワーク化を進めているのである。そのようにして、他の企業とともに協力関係を持ちながら、生産を進めている。この種のことが得意な企業はいくつもある。そうでなくとも、基本的に産業は連関していて、それが現在の社会の姿である。

        中小企業庁様のサイトから 仙台付近の産業連関表の地図表示

         

         

        ネットワーク化しづらいキリスト教界

        上に示したように、比較的まだ活力がある企業といえども、一社で生産から販売まで抱える時代ではなくなり、協調、協業することでシナジー効果というものを出す時代になっている、のであるが、これがどこまでもできないのが、キリスト教業界である。もう、絶望的なほど、である。

         

        ちょっとこういった「協業とか協調とかやろう」と言い出すと、「エキュメニカル運動は・・・」「超教派的なものは・・・」「戦前の教会合同の反省がうんたらカンタラ」とか言い出して、収拾がつかなくなるのが落ちである。で、結局、害タレならぬ、外国、米国の有名人がきたときだけ、チラシが回ってきて、動員のお願いとかになって、一時的な協力関係が生まれたつもりになるのである。それも、全体を巻き込んだものとはならないし、全体を巻き込んだことをしようとすると、あちこちから苦情が間違いなくついてくる。

         

        教派の垣根、あるいは塗り壁は、天をつくほど高く、教派をまたぐときの堀はマリアナ海溝並みに深い。

         

        できないのには理由がある、と思う。ひとつは、米国型のキリスト教理解に影響されて、伝道がこれまで行われた結果、米国型の多様なキリスト教が、それぞれ自己の正当性を言い募るタイプの市場型キリスト教世界が、結果的に輸入されてきたこと、さらに、共通の利益が、あるいは、ネットワーク化することの利益が、個別の教会、個別教会の上位団体での教派や教団でいまだに見出せないからである。確実に、人件費や施設等の固定費用が減少するとわかっていても、どうしても、個別の教会を残すような対応をしたがる人たちが一定数いて、過去の栄光とか、○○先生がおられた時代とやらの過去の歴史とかの状況のみを、過去の時代背景とは切り離して云々し、それを維持しようとする人々が多すぎる、ということであろう。

         

        そのために、要はやりたくない、という理由が先にあり、やらないための理由を持ち出している人達が多いし、当事者意識がない人が多いのではないか、と思うのである。あるいは、自分の教会や組織の中の問題について、もぐらたたきのように問題解決に追われ、外に出ていくことをやる余裕も、その気もないところが少なくないのかもしれない。もうちょっと大局観を持ってやられたらいいとは思うが、自分の問題ではない、って感じのところが多い、ということだけなのだろうと思う。となれば、もう、後は野となれ山となれ、ということなのだろう。ウェブですらやれないということは、基本、もう教会外の人々につながろう、という気がない、ということではないか、と思うのだ。

         

         

        合併組織の悲哀

        まぁ、そういう組織はいずれ他の組織からも孤立し、方針転換を他者から強いられるような段階には、方針転換する体力さえ残っていないし、方針転換したところで、もともとの組織の原理で動こうとするため、合併後の組織の中で、お互いに足の引っ張り合いをするだけなので、ろくなことがおきない。

         

        日本のメガバンクだって、表面上はうまく動いている顔をしているが、内実はどうもそうでもないことは、片目で銀行の動きや銀行システムの動きを見てきたものとしては、うまくないなぁ、と思っている。半沢直樹のような行内政治は割りとある話と認識している。

         

        東京三菱UFJ銀行をPPAPでやってみた。

        個人的にやるとしたら、
        I have 神戸銀行 I have太陽銀行  Ummm I have 太陽神戸銀行 

        I have 太陽神戸銀行 I have 三井銀行 Umm I have 太陽神戸三井銀行

        I have 太陽神戸三井銀行 I have 銀行局長通達 Ummm I have さくら銀行 

        I have さくら銀行 I have 住友銀行 Umm I have 三井住友銀行

        I have 三井住友銀行 I have わかしお銀行 Umm I have わかしお銀行 とみせかけて
        Umm I have 三井住友銀行
        とかやりたい。ちょっときついかもだけど・・・
        金貸しできればそれでいいというはずの商業銀行で、このざまなれば(実は、旧銀行単位で行内用語が違うので、そのすりあわせに苦労するという話もあるが)、基本、もともと、よって立つ聖書理解が違う教会ならば何をかいわんや、である。協業もシナジー効果もへったくれもないように思う。そもそも、教派間で対話というよりは会話が成立するために、膨大な(といってもそれほど膨大でもないが…)教界内用語辞典が必要で、それなしに対話すら厳しい場合が少なくない。

         

        そして、その意味で、日本の教会は、総合力を発揮できないまま、総合戦をすることなく、「やぁやぁわれこそは…」と平家物語の世界よろしくそれぞれの教派が一騎打ちをやって、個別撃破され、滅びていくのだろう。それもまた仕方のないことである。神の哀れみにおいて受け止めたい。

         

        ランチェスター法則と教会

        個別の戦力と全体の戦闘能力の問題を考える際に重要なこととして、第2次世界大戦中の航空戦の話がある。ちょっとくらい、戦術というか戦法、航空機の運動させるマニューバ能力に優れた人物がいたところで、総力戦をもって相手に戦略的に迎撃されれば、もう崩壊の一途をたどることは目に見えている。これは、日本のゼロ戦パイロットとゼロ戦が一対一のドッグファイトでは負けはしなかったけれども、多対一の集団航空戦では連敗であったことや、大和や武蔵野巨艦巨砲主義の旗艦が、量産型の巡洋艦なんかが、まとまってかかってきたときにはかなわなかったのである。まさにランチェスターの法則を実証した感があったのである。

         

        その意味で、小回りのきく量産型教会を作れば、という話もないわけではないが、ランチェスター法則は、小回りのきく量産型巡洋艦が一定の戦略に従いつつ、協調行動を取って、巨艦巨砲主義でできあがった戦艦に向かっていけば、という話であって、小回りのきく量産型教会が、日本型社会に各個撃破で向かっていけば、却って、それぞれ個別撃破されて、大量のうまく行かなかった教会という沈船が量産されるだけなのであって、これは流石に資源の無駄だとは思う。

         

        こないだの日本伝道会議でコンビニ並みに教会を、という話が出てきたのだが、日本社会においてドブ板営業的に小回りの効くコンビニ型教会で、きめ細やかな対応をする、という発想はそう間違ってはいないように思うのではあるが、それは、基本的に協調行動が取れ、きめ細やかに対応するということと、社会に溶け込めるということが前提なのだとおもう。

         

        しかしながら、キリスト教業界ほど、外から見れば片手で数えられるくらいの組織数に見えるのにもかかわらず、それぞれの教会が相互に協調が取れない組織と言うのは、他にはちょっと考えられないように思う。まぁ、自分たちの聖書理解が正しい、と言いたいことから始まっている教会群が多いからではないかと思う。

         

        コンビニが社会に溶け込むためには、かなり苦労していて、いろいろな問題と軋轢と失敗事例を起こしながら、社会に溶け込みつつ、ビジネスのインフラとしての役割を果たすための情報化装備をしてきていることと、地域社会の動きに敏感である事、地域社会に溶け込む努力をしてきた結果、勝ち取ってきた現在という結果であって、単に教会をコンビニ並みに作ればいいというものではない。そのあたりの戦略なしに、数の上ではコンビニ並みに教会を粗製乱造で作っても、教会の廃墟ができるだけではないか、と思うのだ。

         

        残念ながら。大体、教会を粗製乱造したところで、その中の人たちが、極端に少ないのに、箱物を作るだけ、野暮な時代なのであり、現在の縮小社会における教会にとっての最適戦略は、いかにこの人口減少社会、縮小世界に耐えていくキリスト教会全体としての体力づくりではないか、と思う。

         

        なお、教会を立てる前に、まず、自分たちの姿をきちんと見るような働きがもうちょっと必要ではないか、と思う。こういう「見つめ直す働きが必要である」とかいうと、「最近『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』という本があって・・・」と言われる方もいるかもしれないが、最下部に紹介する『人口減少社会と寺院』の書籍のような定量的・定性的な分析とは、比肩するにも及ばないという印象を持ったのは、ご尽力された方には残念なお知らせかもしれないが、個人的には、素直にそう思ったのである。というか、危機感の希薄さ、というのかを感じた。

         

        教会とメディアとの関係

        さて、このブログで、  教会の情報発信についての動画の紹介  を紹介したとき、Facebookでいくつか反応があって、そのときに冗談めかして、以下の画像を引用したら、友人の一人から、「第2の宗教改革を期待します」と書き込みをされてしまった。まぁ、これ以上改革をして教会をこじらせるのはどうか、と思うが。


         

         

        ただ、現状の方法論ではどうにもならない直前のところまで、キリスト教界がメディアというものへの対応が遅れているのではないか、と思うのだ。まぁ、現在の60歳以上の方をアプローチすべきメインターゲットとしているのであれば、それでも問題ないが、もし、それ以下の年齢層の方をアプローチすべき対象としているのであれば、メディア対応とメディアミックスいうことに関する根本的対応をもう少し考えたほうがいい時代となっているようには思うのだけれども。

         

        その余裕はどこにもないという残念な状況にあって、やや、若い人が多い教会では、そのような取組が始まりつつあるという段階ではある。と言っても、全体としての戦略がないので、場当たり的個別対応という印象は免れないように思う。

         

        たしかに宗教改革の裏側には、印刷技術と製紙技術があった。それがあったからこそ、宗教改革が起きたとも言えるのだ。その意味で、当時の最新のメディアの変化にのって宗教改革に向かったということもあるように思う。

         

        しかし、冗談抜きに、Web時代に合わせて、キリスト教自体のコンテンツ改革ではなく、キリスト教を伝えるためのコンテナ改革をもはややるべき時代にきてしまっているのではないか、と思っている。特に、コンテナを売ってきた、キリスト教書業界やキリスト教会そのものを含めたキリスト教業界は、少し「まず、座って考えたほうがよいのではないか」と思った。

         

        だって、「まず、座って」って、イエス様も言っておられる。

         

        【口語訳聖書】 ルカ福音書
         14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。

        (中略)

        14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。

         

        入れ替わる情報メディア

        要するに何がいいたいか、というと、すでに人々の情報への入り口は、印刷物や放送から、電子情報通信システム、あるいはスマートフォンに移りつつある中で、聖書が印刷物であるからといって、どこまで印刷物にこだわりつづけるのか、という問題である。

         

        それでは創業以来の伝統が、とおっしゃる向きもあろう。そんなもの、飯が食えなければ捨てるしかないのである。生き延びるためには、創業の伝統などにはこだわってはいない例は枚挙に暇がない。松下電器では、もはや、創業期の電球ソケットの製造メーカーとしてはほぼ認識されていないし、豊田自動織機さんを織物の自動化機器メーカーとして認識している人々は少ない。自動織機を生産していないわけではないけれども。また、IBMはほとんど計数機器を生産せず、GEは電球の製造なんかかなりの昔にやめている。

         

        もちろん創業の技術にこだわってもいいが、こだわるなら、「艦長、船とご命運を・・・」のお覚悟で創業の技術とともにご命運を…、ということである。いかに創業の礎へのこだわりがあっても、乗組員に当たる社員さんを巻き込まないのが上策なのだ。当たり前である。兵の減少のほうが戦略上は効いてしまうからである。

         

        ところで、皆さんは、今、緊急地震速報や気象警報は何でお知りになるのだろうか。のべつ幕なしテレビを見ている人ならいざ知らず、基本、皆さんの携帯電話が一斉に鳴って、地震警報や気象警報を知るのではないだろうか。とはいえ、たいていの緊急地震警報の場合、携帯電話が鳴り始めたときには、すでに地震が到達していることが多いので、役にも立たないことのほうが多いが。津波が来るかどうかの判断くらいには使える場合もないわけではない。

         

        だいたい世俗の伝統的メディアの新聞やテレビにしたって、今は、ネットから情報を仕入れる時代になっている。取材力の低下、ということを嘆いてもいいけど、現実にそれしか対応ができない状態になっているし、ネットからの情報なしに記事も書けなければ、新聞記事や雑誌記事、テレビ番組すら、作れなくなっている、という現実があり、その意味で、世俗のビジネス形態では、従来型メディアから見れば下位互換と思っていたネット情報に振り回されていて、ネット情報に振り回された結果、さらにネット上の情報がさらに増加するという状況になっていると思われる。

         

        その意味で、この五年で、インターネットはもはや、社会のインフラ、電車に乗るくらいに当たり前、郵便を出すくらい当たり前、電話がかけられるくらい当たり前のことになってしまっているのだ。

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

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        コメント:大変参考になる。特にソーシャル・キャピタルという観点で寺院を見ている点が非常に良いと思う。

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        コメント:ちょっと切り込み不足だなぁ、と。彼我の差を感じる。

        2016.12.05 Monday

        Web時代におけるキリスト教メディア(2)

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          本日は、キリスト教とWeb時代を迎えたメディアの関係について、もう少し、Webと人との関わりと組織としての教会がどのように関わってきたかを中心に、より深めて書いてみたい。基本的な補助線は、先月ご紹介した 教会の情報発信についての動画の紹介   でご紹介された内容の発展系ではあるが、それをもう少しメディアと社会との関わりで深めたものと思ってもらえたらよいか、と思う。まぁ、ある面、今日のお話は、高校で教えるような、メディア・リテラシーという名前はついているものの、実態としては、メディアのエチケットを教えているタイプのメディア・リテラシーというものではなく、どうメディアを使いこなす上での、メディアの使われ方の特性はどのようなものであるのか、を考えるタイプのメディア・リテラシーである。キリスト教の旧メディア(紙メディア)の人なら、こういうことを考えている人が多いのか、と思っていたら、それが案外考えていないし、キリスト教の新メディア(Web系メディア)の人もあんまり考えてない人が多いみたいなので、ちょっと書いてみる(ちょっとと言いつつ、長めではあるけれども)。

           

          なお、以下では、メディアとは情報を入れておくためのパッケージ、情報を運送するためのパッケージ、入れ物、ハコであるとする。時々、メディアの議論で混乱しているのを見ることがあるのだが、基本的にハコと中身を混乱して議論をされる人たちがいるところである。

           

          Push型として用いられるマスコミや電話

          Pull型として用いられるWebサイト

          メディアにはPush型メディアの利用と、Pull型メディアの利用がある。何を持って、Push型メディア利用と言っているかというと、情報の出し手が知りたい情報を押し込んでくるのがPush型メディアの利用方法であり、ある種押し売りのようなちょっと失礼なメディアがPush型メディアである。Pull型メディア利用というのは、何かにアクセスしようとした時、必要に応じて見られるメディアであり、ある種、オンディマンド型のメディア利用である。情報を運んでくるという点においては両者とも共通であるが、情報を出す側が情報を与える感じになるのが、Push型のメディア利用であり、情報を受け取る側、利用者側が情報を、ある場所から取り出す感じ、になるのがPull型メディア利用と、お考えいただければ、わかりやすいかもしれない。

           

          失礼なことの多いPush型のメディアの用い方

          そもそも、Push型、すなわち、押し売り型のメディアは大変失礼なメディアである、と思っている。問答無用に個人の私的空間に遠慮会釈なく入ってくるからである。最も代表的なメディアが電話とチラシと街宣車である。いずれも大変非礼極まりない。相手の状況をわきまえず、言いたいことを言ってくるのが、このメディアの利用なのである。

           

          テレマーケティングというPush型の用い方

          アメリカでは、2004年頃にカリフォルニア州法か、連邦通信法が改正されて、業者が電話をかけるタイプのセールス(プッシュ型テレマーケティング)が禁止されたはずである。2003年にアメリカにいたときには、結構セールスの電話や、社会調査の電話がかかってきた。ひどかったのは、電話会社のセールスで、「うちの会社に電話回線を切り替えたら、100ドルあげるので、他社から変えませんか?」というタイプの電話が夜の9時頃頻繁にかかってきた。いずれも、発音が微妙だったので、「あなた、どこからかけているの?」とオペレータにいったら、インドからだという。

           

          実際、なぜそんなことができたか、というと、セールスをしたい電話会社の市内の支社と、インドとをインターネット回線で繋いでおき、支社から計算機で、順次リストにある電話番号に電話を自動的にかけ、相手が電話に出たら、インターネット回線でつながっているインドのオペレータとを繋ぐのである。こうすげば、電話応対の作業は、作業単価の安いインド人に任せ、アメリカの市内通話がゼロであるため、電話料金の負担をしないで、電話で押し売り型のマーケティングができたからである。

           

          電話は受け手の状態が見えないまま、かかってくるので、非常に困るメディアなのだ。特に携帯電話は困るが、何かあった時にどこにいても知らせてもらいたい場合がある時に、あるいは、出歩いていることが多い場合には便利ではあるが、運転中であれ、現地でソフトウェアの微修正していたり、エラー対応方策を考えている時、何であれ、かかってきてしまうのが困るところである。

           

          街宣車と伝道

          チラシや街宣車も似たところがある。我が家には時々、エホバたんの皆さんが機関紙なのかトラクトなのか、よくわからない「目覚めよ」と言うものをご配布いただいている。一時期は、家人が真面目な研究対象としていたことがある。何がどうキリスト教の標準的な概念と違うのかの研究を実資料に当たりながら、研究していたようだ。面白かったのは、いま、キリスト教とは違い、自分たちのほうが優れている、という方針で布教するのではなく、キリスト教徒として、クリスチャンとして、エホバたんは布教するスタイルになっているらしい。比較研究したことはないので、あくまで家人の印象の伝聞情報の範囲のことではある。

          エホバたんの機関紙、めざめよ(米国版) どうもNintendo(ファミコン)はエホバたんには、ご法度らしい
           なお、上智大学で公開されているカトリック教会の方から見た、エホバの証人の表現をここに引用しておく。なお、取得したサイトはこちらである。

          70.「エホバの証人」の人が戸別訪問して来ますが、新聞では輸血拒否などで騒がれています。どのような教派なのでしょうか。

          「エホバの証人」とは、やはり米国で一八五二年に創立されたキリスト教的な新興宗教です。創立者はチャールズ・T・ラッセルという人物ですが、彼は他の新興宗教の教祖と違って、自分が新しい啓示を受けたとは主張しませんが、聖書を自分勝手に解釈し、自分こそが聖書の正しい意味を発見したと主張します。とりわけ『ヨハネの黙示録』を勝手に解釈して、ハルマゲドンと呼ばれるサタンの軍勢との戦いが起こると予言し、救われる一四万四千人に入れられるように呼びかけました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。

          彼らの輸血拒否は、もともと旧約聖書の掟に由来します。生命の源である血は神に属するもので、動物の肉を食べるときにも血は神に捧げなければならないという掟ですが、エホバの証人たちは、その掟を字句通りに受けとめて、輸血は人の血をもらうことだから、動物の血を飲むに等しく、許されないとします。実は聖書そのものも、やはり時代の制約を帯びたものであって、字句よりも、むしろその真意を読みとることが大切です。字句通りを絶対視することは、かえって聖書の精神を損ねてしまいます。だからこそ聖書の解釈は、やはり教会の伝統に基づいてなされなければなりません。

          エホバの証人たちは、キリスト教の正統信仰である三位一体の教義を否定します。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

           

          抜書きすると、こんな感じになるだろう。

           

          「エホバの証人」とは、米国で創立されたキリスト教的な新興宗教で、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

           

          だそうである。

           

          確かに、この皆様方は、異様にご熱心であり、チラシ配布のみならず、パトロールカーですら、一日に一回、それも外周を申し訳程度にしか巡回しないのに、わざわざ拙宅までご訪問調査をしてくださる上に、不在であれば、手書きのメモ付きで、チラシをポスティングしてくださる。そういえば、大川総裁の幸福の科学の皆様からもポスティングでチラシをご恵贈していただいたこともあるし、一般社団法人実践倫理宏正会の皆様からは、倫風という雑誌、結構高そうな雑誌まで、お願いしないのにポストにご恵贈いただいたことはあるし、結構いろんなものを皆様ご恵贈くださるのであるが、大抵は見ないままゴミ箱行きである。

           

          押し込み型メディア利用としての

          トラクト・ポスティング

          以前、公営集合住宅などに教会員の一人として、チラシを撒いたことがあるが、ご不在なのか。長期出張なのか。物臭なのかはわからないが、チラシがいっぱい投函され、ポストが満杯状態であるような郵便受けを見たことがあるし、チラシ投入禁止ということを大書したものが張り出されたポストもあった。なぜ、こうなるかとういと、チラシがPush(押し込み)型のメディア利用であるので、問答無用に相手のところにお届けされてしまうからである。

           

          アメリカでも、こういう教会の印刷物をお届けする作業にも携わったことがあるが、アメリカでは、郵便箱は連邦法の郵便関係法規の関係から、日本みたいに気軽に個人宅のポストに勝手にトラクトを投函することができないそうである。そのため、とりあえずドアをノックし、会って自分の名前とどこから来たかを名乗って、直接手渡ししろ、と言われてビビりまくりながら印刷物(トラクトと、キリスト教界では一般によばれる印刷物)を配布したことがある。アメリカの場合、気をつけないと、玄関先まで行くということは、下手をすると不法侵入にあたるため、散弾銃で殺されても文句は言えないから、正に決死のトラクト配布、命がけのトラクト配布であった。

           

          あと、印刷物を配布するのに、電話帳を持ってきて、そこに書いてある個人の電話保有者の住所と氏名をリスト代わりにして、一つ一つ手書きでトラクトを、郵便局に切手代を払って配布してもらうための、宛名書き作戦にも協力したことがある。どうも、アメリカの家には、郵便箱と新聞受けが2つ別にあるところが多いが、郵便局員以外、勝手にメールボックスに投函してはならない法制度がそうさせているらしい。個人的にやったことはないが、アメリカでは送りたい郵便物に切手を貼って、自宅前のポストに入れておいて、自宅前のポストの赤い小さな旗の形状のものを、目立つように上げておくと、郵便物を回収してくれるから、その辺のこともあって勝手にポストを開けてはいけないらしい。

           

           

          アメリカのちょっと田舎で見る郵便ポストと新聞受け(郵便受けは大抵はプラスチック製)

           

          街宣車というPush型メディア利用

          プッシュ型メディアが極まったのが街宣車である。先日も神戸市内に新嘗祭の日に職場に行った帰りに、聖餐式に参加するため三宮駅付近をフラフラしていると、でっかい黒塗りのバスやマイクロバスに金色の文字で愛国○✗会と対処した車両が大音量で、ドップラー効果たっぷりに、大日本帝国陸軍時代の軍歌を流しながら走っておられた。

           

          これなんかは、尺八演奏が流れるのでまだましな街宣車の放送である

           

          上の動画を見ながら、思ったのは、どうせなら、ライブで尺八演奏やりゃあいいのに、ということである。なお、この動画が好きなのは、1分47秒あたりから、「ようかい体操第1」が尺八の演奏にかぶさるという、離れ業があるからである。

           

          この動画の状態なんか、可愛いなぁ、と言って良いだろう。大音声で軍歌を街中で流しておられる車と、ミーちゃんはーちゃんが大きな交差点での信号停車中に、遭遇すると逃げ場がなくて、困ることがある。

           

          しかし、キリスト教側でも、このような街宣車による大音量の放送、それも聖書の言葉を切り抜いて放送して下さる皆様がおられ、我が家のそばでは流石にマイクロバスではないが、軽自動車で平日の日中のほとんど人のいない住宅地で、ラウドスピーカーで「罪を悔い改めなさい」という福音と言われているらしい内容についてのテープを流しておられるのを目撃したことがある。効果があるとか考えたことがあるのかな、と思うことが多いが。

           

          なお、この皆さんは初詣の時に神社でも街宣車で『福音』を『伝道』されておられると思っておられるようである。一度、お正月に生田神社のまんまん前の東急ハンズあたりで、これらの方をお見かけしたことがある。まぁ、下側の画像では、タイトルに「布教活動してる不届者」ってつけていただいている。

           

          岡山の住宅地での『伝道』(画像は悪いです・・落ちてたの拾ったんで)

           

          『布教活動してる不届者』扱い受けておられる聖書配布協会の皆様

           

          このように、Push型のメディアは、欠点が多いし、国によっては、法規制の対象になることもある、かなりグレーゾーンでも色の濃いゾーンに属する活動であることはなんとなくわかってもらえたと思う。

           

          まだ、肉声で路傍伝道するなら影響範囲が小さいし、電気的拡声装置を使わずに地声でやっている分には、音声が届く範囲に限界があるからいいけど、パワーアンプを使った場合には、路傍伝道の声を聞きたくない、というオプションを実現するためには、その場から嫌でも、その場にいるのが楽しかったのに、追い立てられるように立ち去るというオプションしかない、とかいうのはどうかと思う。その辺の感覚の無さというのか、本人たちは、「良いことのためだから」とお考えかもしれないが、よしんば、「良いことだから、という合理化の可能性はゼロではない」にせよ、街宣車とか、ラウドスピーカーでの伝道は、まさに相手の中にズカズカと土足で上がるとか、ブルドーザーで相手のところにむりやりにはいりこんでいくのに近い感覚があるように思う。個人的には、雅趣にかけるようなきがする。その意味で、Push型のメディア利用には、ある種の「がさつさ」がつきまとうように思う。

           

          迷惑メールとPush型のメディア利用

          あと、インターネットの迷惑メールも、Push型のメディア利用の形態にちかい。我々に残っているオプションとしては、メールを開かない、というオプションだけである。ただし、メール運営会社によっては、具体的な例としては、Gmailなどのようなサービスでは、迷惑メールの排除が極めて厳格なので、過去に一度、ある業者さんとのやり取りで、業者さんの連絡が迷惑メールと判定されたためか、そこからのメールが届かなかったことがある。これなどの場合、その会社からのメールが、Googleによって迷惑メールとして判定され、排除されたらしく、別のメールアドレスに再送付をお願いしたこともある。ちょっとくらい融通を効かせてくれてもいいのに、Googleさん、とは思った。なんともな時代ではある。

           

          地方文化や方言とかも、地域によってはPush型のメディアに近いといえるかもしれない。好き嫌いなく、日常生活を通して、文化が我々の生活に流入せざるを得ないという意味において、地域文化なども一種のPush型メディアである。個人的にはスクルージーのようにクリスマスが嫌いでも、街を歩けば、クリスマスが来たことが我々の脳裏に焼きこまれてしまって、焦った気分になってしまう。

           

          スクルージ爺様(偏固という意味では我が心の友、みたいなところはある)

           

          あと一つ、Push型のメディア利用の欠点は、そのPush型としてメディアが利用され、発信された場に居合わせないと、その情報にアクセス出来ないということである。まぁ、上の動画でご紹介したYoutubeなどにアップされない限り、Push型メディアはその場限りの情報伝達手段である事が多い。電話に出なければ、あるいは、迷惑メールもGoogleさんが勝手に排除してしまえば、その情報に後日、アクセスしたいと思っても、アクセスできなくなるのである。これがPush型のメディア利用の最大の欠点であると思う。

           

          これまでの日本の一部のプロテスタント類型キリスト教

          のPush型の方法論

          これまでの日本では、キリスト教は認知されていなかった、あるいは、豊臣・徳川政権下の迫害、明治期以降、20年単位で繰り返されてきた国粋化時代の排斥運動(現在は、国粋化時代だと思っている)とまでは行かなくても、なんとなくキリスト教徒の肩身が国際化時代に比べて狭い時期である。このような国粋化、キリスト教徒が肩身の狭い時期を何度か経験したこともあり、自分たちの存在空間の確保とか、地位向上のために仕えるものはなんでも、マキャベリスティックに使って、自分たちの主張を聞かせようとして、かなり無理してきたところがあるように思う。自分たちの牧師、有名人、政治家、野球選手、外国人、外国の過去の歴史上の人物、こういう人々をお神輿よろしく担ぐことで、Push型モードで伝導してきたと思う。

           

          さらに言えば、大衆動員型イベント中心の伝道大会に人々を集めて、その中で自分たちの信じることを集まった人々に無理やり押し込んで、「それを押し込まれたけど、良かった」と思わされた人々に手を挙げさせて、「はい、今回信仰を持った人何人」というタイプの伝道をやってきたように思う。それを、場所を借りてやるのではなく、路上でやっておられるのが、上で上げた、川崎大師前で、そもそも初詣という別目的で動員されている人々に向かって、「時が良くても悪くても…」という語を切り出して、「福音」と自分たちが思っているものを問答無用で無理やり聞かせるタイプPush型モードの「伝道」方法が中心にあるのだろうと思う。個人的には逆効果のほうが強いのではないか、とは懸念しているが。

           

          ところが、もう、同質的な大衆はいなくなったのである。そのかわり、より小さな関心領域ごとに人々が別れた多数のグループが形成される可能性がある。このような分衆型社会になることを示した田中明彦さんの「新しい中世」という本が出てから、もう20年が経過している。美空ひばりの楽曲を老いも若きも紅白歌合戦を見ながら、みんなで歌う時代から、今は紅白歌合戦を見ながら、あるものは、ラルクアンシェルを歌い、あるものは、乃木坂なんとかの歌った歌を歌い、あるものは、ラブライブの楽曲を歌い、あるものは、ピコ太郎さんのPPAPを歌い、と言う時代である。その意味で、国民的共通環境や共通性が広く存在した近代とは異なる、ポストモダン社会が紅白歌合戦にすら現れている時代なのだ。そのような時代において、もはやプッシュ型のメディア利用をおこなうことは、逆効果以外の意味を持ちえるのか、というと、実はほとんど意味を持ちえないのではないか、という懸念をもっている。

           

          しかし、なんでもいいから、まだ、教会とか、キリスト教とかを知らない人々に、これが世界標準(これは意味をあまりなさなくなっているとはおもうが)の舶来の大事なものだから、と無理矢理にその人々押し込めばいい、という植民地的(コロニアル的)発想の時代は終わったように思うのだ。今、学問分野ではポストコロニアルという語もかなり古臭くなり始めている。

           

          その意味で、これまでの日本のプロテスタント教会のPush型に偏った伝道モードを、今後続けることがどのような意味を持つのか、これは、キリスト教界メディア関係者も、プロテスタント教会関係者も、もうちょっと、落ち着いて考えたほうが良いのではないか、と考えている。

           

           

          次回は、Pull型メディア利用法としてのWebメディアと、Push型メディア利用とPull型メディア利用をマップ化したものなどをもとに少し議論を展開していきながら、ご提示したい。

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          田中 明彦
          日本経済新聞社
          ---
          (1996-05)
          コメント:現代社会を考える上では重要と思う。

          2016.12.07 Wednesday

          Web時代におけるキリスト教メディア(3)

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            今頃、まだ、こんなことを書いているのか、というご批判をある方からいただいたが、それすらわかってない人々がどうも多数おられそうだ、という現状があるので、書くことにしている。さて、前回は、ウェブ時代以前のマスメディア型の情報という、コンテンツのコンテナとしてのメディアの利用法として、Push型のメディアとその問題点を指摘し、近代社会においてはPush型の利用は適合的であったものの、ポストモダン、ポストコロニアル時代を迎えた現代社会においては、そのようなPush型のメディアの利用方法は社会において不適合になり始めているのではないか、と実例を紹介しつつ、個人的見解を展開し、ご紹介してきた。

             

            今回は、近代の多様化し、ポストモダン時代を迎えた現代に比較的適合的と考えられるメディアの利用法、Pull型の情報メディアの使い方と、Webを活用した情報メディアと、キリスト教界との関係を考え、そのうえで、前回紹介したPush型の情報メディアと、Pull型の情報メディアとの関係について、Mappingしてみた関係図を示してみたい。

             

            Pull型のメディア利用

            Pull型のメディア利用の代表的な例は、購買型のメディアの利用タイプのものでもある。この購買型タイプで提供される情報提供メディアの場合、例えば書籍とか、雑誌とか、新聞などが典型的であるが、このタイプの場合、買うことをやめる、開くのをやめるというアクセス停止を含めて、自分で選択できるというオプションが、かなりたくさん残っている事が多い。本来、その意味で、新聞なんかも、Pull型のメディア利用の方法にのっている、とは言える。嫌なら読まない、嫌なら見ない、というオプションが、そもそも存在しているのだ。何か調べたいことがあるとか、何か見たいことがあるとか言った時に、あとからでも確認できるのと、時間がたっても再現性がある程度ある、その意味で、必要に応じて、という意味でのOn Demand型のメディア利用ということが特徴である。

             

            聖書なんかは、典型的なPull型メディアの利用タイプではあると思う。自分が開かなければ、自分が記憶していなければ、自ら聖書をあける気がなければ、聖書は開かなくても済む。要するに開けなければ無関係でいられる。しかし、開ければ、そこから何らかのものを得ることがあるし、ある意図を持ってテキストそのものを改ざんしなくとも、ある特定の読み方をすれば、異なった意味合いを引き出すこともできる。著者本人の意図と違うことも言えてしまったり、理解できてしまうのが、Pull型メディアの特徴でもあるのだ。つまり、ある面、Pull型のメディア利用による情報発信の場合、発信内容が客体化するというのか、本人の言いたいことが伝わらない可能性が高いのだ。ある面、控えめなメディアの利用法であるといえる。

             

            10年位前、ある中学校で、某 外資系聖書配布をする会の皆さんが、朝中学校の門前で投稿中の中学生に聖書を配ったところ、そこの中学生が人がいいのか、行儀が良いのか、殆どの生徒が聖書を貰ったはいいが、どう処理していいのかわからないために、全員教室まで持って行きはしたものの、教室のゴミ箱に直行させてしまったことがある。その後、教頭だったか校長だったかが、各クラスで不要とされた聖書を回収し、同会の皆様にお返ししたということがあったことが、家人からの報告で明らかとなったことがある。

             

            メディアは、用量・利用法に注意してご利用くださいピンポ〜〜ン、でしかない。

             

             

             

            Pull型メディア利用としてのウェブサイト

            電子情報通信の世界だと、ウェブサイトなどが、このPull型メディア利用法を前提としている性格が強い。探せば与えられるタイプの情報提供方法とは言えるので、ある面で、イエス様もある種Pull型のメディアのあり方に近いという側面があるといえば、そうかもしれない。だって、以下の画像のことばにもあるように人間側に一旦はオプションをおあずけいただいているからである。

             

            有名な聖書の言葉

             

            他にも、

            口語訳聖書 マルコの福音書 4:23節

            聞く耳のある者は聞くがよい」

            とイエス様は、おっしゃっておられる。


            さて、ここでかなり明らかなように、Pull型のメディア利用は、他人から求められない限り、相手のところに必要とするかもしれないけれども、本来必要なはずの情報が届かない、という問題も抱えている点である。相手の中にズケズケと入っていかない、入っていけないという欠点を持っているのである。これはすべてのOn Demand型の情報メディアの抱える問題である。
             

            ポータルとウェブサイトを見に行くということ

            ところで、ポータルサイトというのが一時期、はやったことがある。わかりやすく言えば関連サイトのリンクを集めたリンク集のようなサイトであり、ある情報にアクセスしようと思えば、そこに行くと関連情報がまるわかりになるというタイプのサイトである。ある面、関連情報サイトへのどこでもドア的なサイトのことである。今は、これが下火である。なぜか、というとリンク集とかは、あえて作らなくても、Googleなどが利用している、Bot(情報検索自動化ロボット)がサイトを巡回し、勝手に情報を集めて、それが検索結果に反映されるようになってしまったからである。

             

            リンクに対するいろんな評価が書いてあって、リンク先を利用する場合の判断の一定の基準になるリンクサイトのならまだしも、単純なリンク提示サイトであれば、もはやリンク集やポータルは、必要ないので、誰も触らない。

             

            ミーちゃんはーちゃんの専門分野に近い話で恐縮であるが、自治体ポータルという概念が流行ったことが会った。自治体が地域振興のためにポータルサイトを立ち上げ、そこで地元企業とかのリンクを張って、サイバー空間でのバーチャルに地域交流サイトを形成することがはやったが、今はもう鳴かず飛ばずに鳴って、忘れ去られている。この先導的役割を果たした「ごろっとやっちろ」という時代の寵児のようにもてはやされたサイトも、今はその残骸があちこちに残るだけである。まるで、沈んでしまった武蔵のように。

            このポータルという概念は、リンクが簡単に貼れて、ハイパーリンクで自由にその先に行けるということから、技術主導で始まり、ユーザーや情報提供者にはほとんどメリットがないという現実から、時代遅れになって、武蔵のようなサイトになってしまったのだ。その意味で、地域ポータルや、リンク集というサイトは、GoogleがBotを酷使して、情報を集めまくる、という方法論には勝てなかったということなのだろう。プログラムは酷使されても文句を言わないので問題が起きないだけなのだ。

             

            まぁ、ラジオがテレビにほぼ駆逐されたように、あるいは、蒸気機関車が電車にほぼ駆逐されたように、ポータルサイトもまた、Googleを始めとするサーチエンジンに淘汰されてしまったのだ。

             

             

            1980年台のテクノPop Video Killed Radio Star

             

            必要とされるポータルの特徴とは何か?

            ただ、唯一残る可能性があるポータルサイトは、食べログとか価格.COMなどの、実際の利用者が素直な反応を残していて、店舗側と利用者側の個別の情報が統合されているようなサイトだけである。つまり、情報提供者側の意図だけではなく、別の側面からも検証可能なデータが提供されていて、統合的にデータが確認できるようなサイトだけ、存続しているように思うのである。

             

            初めてのところに行くとき、初めてのものに触るとき、その時には大きいか小さいかは別として、障壁があることは確かだろう。ミーちゃんはーチャンはもうさすがにやめてしまったが、現在の居住地付近の教会めぐりをした時に、頼ったのは電話帳情報とGoogleさんである。さすがに電話帳情報程度の協会にいくときには勇気が必要だった。教会ミシュランというものも概念としてはなくはないが、それは無益だろう。ある人に会う教会とほかの人に会う教会は違うからである。その意味で、レストランと教会というのは、実際にその場に行ってみないとわからない、という意味で、結構勇気がいるものではないか、と思うのである。だからこそ、誰かの紹介とか、というかたちでお招きするほうが確実なのである。その意味で、昔は人間が教会へのポータルであったりしたのだが、人口移動が激しい社会では、Web情報が教会へのポータルとなり始めているのではないか、と思う。

             

            Googleに引っかかるようにすること

            ポータルでそのウェブサイトに行くのか、Googleのサーチエンジンでそのサイトに行くのかは別として、ウェブサイトは、Pull型、情報を求める利用者の方のPullがあってはじめて、情報を伝えるタイプのメディアの活用型であることは上で書いた。その意味で、サイトを見てくれるというのは、ある意味で、来訪者がわざわざ玄関先にまで来てくれることであり、お店で言えば、わざわざ店頭まで来てくれることではある。つまり、サイトの来訪者は、そのサイト運営者にとって、見込み客なのだ。

             

            その意味で、そのサイトを探しに行って、何も返してくれない、そもそもサイトがない、サイトに中身がない、というのは、ひょっとしてリアルに、実際の場所に来てくれるかもしれない見込み客や見込みのある来会者を、みすみすお帰りいただくというのか、みすみす失望させて空手で返してしまう、ということと等しいように思うのだ。

             

            その人達は、Googleであなたの教会か、あなたの教会に関連する何かに関する検索語で、あなたの教会がどこにあるかや、どんな教会であるのかを調べに探しに行っても、電話帳程度の情報、つまり、名前と電話番号くらいしか教えてもらえないのでは、失望するのではないだろうか。Webサイトを持っていなければ、他人が作ったビジネス電話帳以上の情報を手に入れておわりなのだ。その意味で、ウェブサイトがない、あるいは、他人の電話帳サイトが表示されるということは、せっかくお店に行ったものの、どんな商品が売られているのかも、お店の雰囲気も知ることなく、シャッターがガッチリと下ろされているということだけを確認して帰るためだけに、わざわざ行ったのと同じ、ということなのだ。実際に移動が発生したわけではないが。

             

            それなら、電話帳で十分であるし、電話帳以上の自分たちの主張や考え、自分たちの良さを訴えかける何かを与えられない、ということなのだ、と思う。

             

            電凸した女子学生の話

            電話で思い出したことがあるが、以前の学生で1994年位の時期に、ある授業での発表出かけた部分があったので、発表した日本人の女子学生に、鉄道会社の情報システムについて調べておいで、と宿題を出したことがある。まだまだウェブが普及し始めた頃のことである。基本的に、本に当たったり、雑誌に当たったり、図書館で司書の人に聞いたりして、勧められた論文を読め、というつもりで言ったのである。翌週の授業でやたらと詳しく、解説をし始めたので、全部その解説を聞いたあと、「うん、ちょっとまって?それどうやって調べたの?」と聞いたら、電話で聞いたという。

             

            その女子学生は何をとち狂ったのか、関西の某鉄道会社に対して電凸取材を敢行したらしい。すごい勇気と思うと同時に、「あぁ、今の学生は、情報入手ツールとして本や書籍にまず当たるのではなく、直接の電話突撃取材をするんだ、こわぁ〜〜〜」と改めて思ったのである。それ以降、毎年楽器はじめに、受講生全員に、電凸禁止を言い渡した上で、授業やゼミでの報告時に参考文献を報告すること、を義務付けたのは言うまでもない。ご迷惑をおかけした鉄道会社の窓口の方には、お詫び申し上げ、ここに、改めて感謝の意を表する。

             

            キリスト教界でも、今は標準で、OK Googleでスマートフォンに電話をかけさせ、電凸するのが普通になっている、というあたりの事、すなわち、そういうことが一般化した時代が来てしまったことは、もう少し認識されてもいいと思う。なお、当時の学生は、電話帳で探して電話をかけたらしいが。

             

            電凸代わりのGoogle
            しかし、今は、直接電凸取材で聞きにくいことを、電凸取材の代わりに、Googleさんで聞いて済ませているにすぎない。要するに、以下の動画のようなことをやっているということのようである。その意味で、Googleさんに調べた結果を返してもらうために、Googleさんのボットさんが引っかけてくださること、というのことは不用意な電凸取材をスルーできるということでもあるし、夜中にかかってくる電凸取材を回避できるということでもあるのだ。それでも電凸する人は電凸してくるのが、電話の鬱陶しいところであり、それを避けるためには、「当教会の牧師の執務時間は、火曜日から土曜日の朝9時から夕方5時まで、日曜日は、すべてのプログラム終了後の午後4時から午後5時までにお願いします。緊急の場合は、FAXをご送信くださるか、牧師の携帯電話までお願いします」という自動応答プログラムを入れて、あとはFAX専用回線にしてしまうことである。

             

            Googleがやっていること(もし、Googleが人間だったら… というタイトルの動画)。

             

             

            どこぞの電機メーカーでは、そのメーカーさんのお客様窓口が混むので、その対策の一つとして、ウェブサイトを利用しているらしい。ウェブサイトで取説から、ドライバまで、なんでも手に入るようにしておけば、電話窓口対応は減る。あとは、クレーマー対応のエキスパートを電話窓口に用意しておけばいい。今は、ほぼどのメーカーさんでも、電話応対に関しては、アウトソーシングがきっちりされているはずだ。さすがプロは、クレーマーもきっちり対応してくれるし、捌き方もはっきりしている。なお、ストーカーのような電話魔も居るらしくて、それ対策もされている、と聞いている。

             

            それと、Googleの場合は、先ほど紹介した食べログや価格コムみたいに、その人達が伝えたい情報だけではなく、逆にむしろある人達が隠したがる、その人達にとっては不都合であるかもしれない情報も、集めてくれるのだ。その意味で、残るポータルであるためには、意見の多様性が確保されるところが、重要なのである。検索メディアである以上、以前であれば無視されたような、どこぞの高架下の壁とか柱とかに張り出してあるような、以前なら着目もされない、たとえくだらない、しょうがない情報も、Googleがご丁寧に勝手に集めてくれて、判断は読み手、選択側に与えてくれるところがGoogleのサービスがありがたい点なのだ。つまり、大本営発表の情報ももちろん、それ以外の情報(たとえそれが誤りを含むもの)も含めて、判断するにあたって必要な情報の多様性があるからこそ、皆さん、Googleにききまくるのだ。基本的に、情報では一般に情報を集めれば集めるほど、実像と情報の間の、その誤差の範囲は小さくなる。我々は、多少間違いが含まれている情報があっても、それをたくさん集めることで、その誤りにまつわる誤差の範囲を狭めることを知っているのではないだろうか。

             

             

            映画『不都合な真実』の予告編(結構いい加減なところもある)

             

            ネットの付き合い方が変わる世代

             

            こないだ、Ministryにも登場しておられた蝉丸Pさんやお仲間の方とご同席する私的な機会があって、集まっている皆さんに仏教界とかでは、アイテ−化とかどんな感じなんですか、って聞いたら、おそらく、スマホに向かって、「Siri 〇〇を調べて、とか、○○に電話」とか「OK Google ○○ってなに」とか「OK Google ここから池袋」という世代と、それ以上の世代がウェブの付き合い方が少し違っていて、鍵盤を打鍵できない(IBM風に行ってみた)人も・・・って感じらしい。まぁ、キリスト教界でも似たようなものだろう。その意味で、Webの世界はまだまだというところもあるのはよく分かるが、おそらく、もう数年後には、OK Googleとか、下のCookie Monsterのような人の使い方が社会の主役になるのは、もはや、時間の問題である。その人たちにいくら、紙の印刷物がなんとか、とか言っても、無意味なのではないだろうか。

             

             

            OK Googleする人々。

            今の若い人はこれ。ミーちゃんはーちゃんはオジサンなのと、携帯電話はガラケーなのでやりたくてもできない。

             

            iPhone6でSiriと話すCookie Monster君

             

            Cookie MonsterがSiriを使うCMの裏側、というよりは「意図的におまいら作ったろう」という映像作品

             

            この話を書きながら思ったことがある。それは世俗の仕事で、時にプログラム開発を教えることがあるのだが、今の学生さんの一部に、QWERTY配列のキーボードで、文章やコードを打つのが苦手な人々がいるのだ。「え、QWERTYとかで文書、アルファベットかな変換しないの?」とお尋ねすると、一部の学生は「なんでですか?」とのたまう。「携帯以来使っている、平仮名返還が早いので、それでいいじゃないですか、文字の候補教えてくれるし・・・」だそうである。今はそういう時代なのだなぁ。

             

            返す言葉がなかったことを、ここに記しておく。
             

            教会のウェブサイトで伝えてほしいこと

            個人的には、教会ミシュランや教会ウェブ・サイト・ミシュランみたいなものを作るつもりでもなく、一時期、現居住地の近傍の教会めぐりをしていたことがあった。単によその教派の教会文化を知りたかった、という非常に単純な動機である。多くの教会では、日曜朝一回だけしかチャンスがないので、あっちこっちには行きにくい。その意味で日曜日は年に50数回しかないし、日曜日は、教会が普通の状態での教会訪問のための貴重なチャンスなのだ。

             

            その時には、電話帳とGoogleにお世話になった。結構、信仰歴何十年でも、自派の教会と違うところに行く時の障壁は流石に大きかった。それは正直に言っておきたい。

             

            アメリカ滞在中も教会探しをしたことが何回かあるが、そのときも、基本電話帳とウェブであった。海外でも日本でも、よほど「電凸してから、行こうか」と思ったが、勤務中は電凸できないし、かと言って、夜間、電凸するのも気が引けるし、そもそも電凸できる時間が限られることなどもあるので、結局諦めた。

             

            特に、現居住地周辺は、教会の種類も多く、教会の密度も高く、関係者も何人か存じ上げている人の関係の教会も多いので、電話帳情報程度の情報だけで行くのは、正直つらかったことがある。このキリスト教業界、めっちゃ狭いのである。どこで知り合いに会うかわかんないし、実際に知り合いは居ないだろう、と思って参加したら、お知り合いに出会うことで合うこと。もはや苦笑いするしかないレベルであった。

             

            ところで、その教会巡りをしている時に、教会のチラシとか、教会のサイトとかには、牧師さんや特別プログラムの講師の方が、どの大学出てるとか、どの神学校出てる(そして、説教を伺う限り、それはほとんど誤差の範囲に見えた)とか、どの組織でどんな役職だったかは、別の教派の人間にとってはほとんど無意な情報も結構ある。たしかにノーベル賞受賞者が教会にいるとか、超有名人が毎週協会にいるとかなら、それは話が別だが、そうでない人の経歴や受賞歴って、ほとんど意味がない。これは、いのフェス名古屋のご講演で講演者の方がご紹介されていたとおりである。(こちらでご覧いただけます。画質悪いけど http://breadfish.jp/churchs_transmission_of_information/2754.html )

             

            それよりも、自分たちの聖書理解とか、自分たちが大事にしているコアな信念とか行き方とか、他の情報源から入らない情報とか、開始と終了時間の話がきちんと書いてあるサイトを持っている教会のほうがありがたかった。特に終了時間の情報の明記は重要であるなぁ、と思った。

             

            ミーちゃんはーちゃん風教会サイトへの希望

            終了時間が書いてないとエンドレス覚悟だし、関西なので、お昼のお食事の時間、あるいは、おうどんの会(関東ではカレーの会らしいが)があるとかないとか、その日の予想されるイベントとかが、書いてある教会はほとんどなかった。まぁ、おうどんの会とか午後のプログラムとか、よほど興味が無い限り、たいてい新来会者の特権でパスさせてもらった。

             

            まぁ、個人的な希望を言えば、自分たちは何を目指している教会か、自分たちが何を重視しているのか(それは案外外部者に自明ではない)は、ウェブサイトに明記しておいてくれたほうがいいなぁ、と思った。聖書とか、キリストとか、そんなのは当たり前なので、まぁ、キリスト教が初めての人には、必要かもしれないが、そもそも、それをどう書いたところで、全く教会初めての人には無意味だろう、と思う。その意味で、初めて来る人、教会が初めての人にとっても、人数が多いとか少ないとか、年齢層はどうだとか、明るい教会とか、聖書をきちんと学ぶとか、といったその当たり前でない部分を明らかにしてくれているとありがたいと思う。また、礼拝後の、行事予定などがわかれば、なんとなくは推測が可能にはなるので、これらの情報は案外ありがたいとは思ったが、こういうのは明らかでないところが多かった。

             

            あと、教会の外面はなくていい。住所がわかればGoogle Streetで確認できるので。それよりも、できれば、建物の内部の普段の写真は、あったほうがいいと思う。教会の内部の写真は、案外情報量が多くその教会の雰囲気を伝えてくれることが多いので、助かるのではないかと思う。それと教会内部の細かいところ(張り出しているポスターとか)に、教会内部の細部に、その教会のキャラクターが出るように思う。

             

            あと、プロテスタント教会の場合、説教が長い傾向にあるが(儀式がない分だけ)、説教は動画でなくてもいいので、音声で説教のサンプルでいいので聞かせてもらえるだけで、十分ありがたいと思う。音声や喋りというのは、案外その人のキャラクターが出るからである。文字だと消えてしまうその人らしさ、その人がおもちの傾向というのがかなりクリアに出るのである。音声情報は案外情報量が多いのだ。

             

            とはいえ、毎週の説教原稿もありがたいといえばありがたいが、ただ、説教批評マニアのかたとか、説教ミシュランをしたい方とかは別として、毎週分はいらないかも、と思う。それよりも、そんなに長くなくていいので、いや、正直言うと、長くないほうが助かるが(と言いつつこのブログ記事は異様に長い)、とりあえずさっと読める説教か説教要旨がひとつか、二つあるだけでも、なんとなくのその教会の考え方とか、そこの牧師とか語り手の考え方とか理解が出るので、本当に助かる。

             

             

            このサイトでは以前あるところでしていた説教の一部や説教要旨をあげていたことがある。しかし、今は教会とかで、説教などはしてないので説教も一切あげていない。ただ、このサイトのように過去の説教をあげていると、集中してある時期に特定の聖書の場所とか、特定の項目で検索をかけて、その昔の説教の記事へのアクセスが集中することがある。神学も議論もしてない、説教情報がほとんど無いこのブログにすら、説教ネタを求めてか、特定の人物名とか、特定の聖書箇所で検索をかけた結果、たどり着かれる方々がおられることがわかることがある。そういうのを見ると、日曜学校のお話にしても、教会の説教にしても、皆様、説教準備に、大変ご苦労しておられるのだなぁ、とご同情を禁じえない。

             

            ところで、説教といえば、今、ヨベルさんから門叶国泰 さんという方が所属教会の説教をメモに起して、個人の感想をつけたものが『説教聴聞録 ローマの信徒への手紙』という書籍におまとめいただいて出版されているが、ここまで文字にされてしまって、おまけに解説までつけられたのでは、説教者のほうは、かなわないだろうなあ、と思ったことがある。まあ、この方のメモとそのコメントが半端ではないので、この本自体は楽しんで読んだ。

             

            ウェブサイトは、ショーウィンドゥみたいなもので

            余談はさておき、なぜ、夜間、百貨店や商店が、夜間電気代をわざわざ使い、さらに、分厚い耐衝撃性ガラスとかアクリル樹脂をはめ込んだ、高価なショウウィンドウに商品を飾るのだろうか。それは、夜、自分のお店の前を通る人にも、自分たちの商品を見る機会を確保したいからではないだろうか。そして、売上をちょっとでもあげたいからこそ、すなわち、見込み客を本物の購買客にしたいからこそ、自慢の商品のチラ見せをするのではないだろうか。

             

            新しい来会社の人々が来なくて、毎週閑古鳥が鳴いている教会も、高踏的な趣味でそうされたいのなら、それはそれで一つの見識であるとは思う。つまり、自分たちは世俗社会から隔絶されて生きるのだ、と宣言するのも一つの見識ではある。まぁ、確かに、キリスト教会自体、世間に門戸を閉じ、高みから眺めるのが良いと主張された人々がいた時期が、これまでも何回もあった。その時期にも、その閉じられた門戸や塀さえ乗り越えて、その中に人はやってきたこともある。そして、それだけの中身が教会には本来あることだけは確かであるが。ただし、そのような方針であるのならば、人が来ない、若者がいない、ということを嘆く必要はないのではないか、と思う。

             

            玄関の戸を叩かれても(Googleで検索されても)、門戸を開けさせもしない(ウェブサイトを掲げない)ということになるかとは思うのだ。もし入ってきたいと思えば、ドアを壊して打ち破ってこい、リアルで突入してこい、あるいは塀をよじ登ってこい、というようなものである。われわれは、君たちには関心がないのだ、と言っているようなものである。正に、玄関に表札すら掲げない、ということでもあるのだ。

             

            まぁ、そうであっても、ルーベンスの絵をひと目見たいと思い、ルーベンスの絵の前で、世界名作劇場版のアニメ作品では死んだネロくんのように、教会で神をちらっとひと目でも見たいと思う方に、教会がいかにガードを固めていようとも、その教会ではたとえ、神と出会うことが無理でも、他の場所や他の教会で神様はご自身を、多くの人々にお示しになられるのだ、と個人的には確信している。

             

            ネロくんが出て来るフランダースの犬

             

            福音はWebで伝える必要はないし、できないけど…

            このブログは、キリスト教考現学か一神教型宗教社会学のヒントを提供をしているブログであると思っていて、説教を載せるのは、早い時点でやめた。他の人がご自身の説教ネタをWebで公開していてくださるからである。

             

            まぁ、その教会をいきたいか、と思った時にその説教内容、説教要旨は参考になるが、それを毎週愛読する気に離れないし、世の中に書籍化された説教集は大変たくさんあるので、それで十分であると思っている。現在は、説教より、様式や祈祷文に込められて、その成文祈祷文をともに読み、自らの不甲斐なさと不完全さに関して反省しつつ、神が地上に来られたことに思いを馳せ、キリストが地上に来たという神秘を毎日曜日考える生き方が楽しいと思っている。そして、最後に、神を愛し、神に仕えるために神との平和を生きる生き方に行きたいと思っている。

             

            情報を伝えるコンテナ、あるいは、

            情報を入れるハコとしてのメディア

            トラクトも印刷物という面では、ご自由にお取りください、という状況なら、Pull型のメディア近いのだが、それが郵便箱に押し込まれた瞬間にPush型に切り替わるところが問題なのである。


            その意味で、メディアはハコであるので、Push型(押し込み型)とかPull型(引き取られ型)利用とかは本来ないのであって、それは使い方によるのである。基本的にハコは中立であるが、ハコの使い方がメディアによって一定の傾向を持っていることが多いのと、そのハコに付随した文化というか、ハコを使う人の性格というか性質が、ハコの使い方に現れるから、Push型になったり、Pull型のメディア利用になったりしやすいだけだと思うのだ。

             

             

            その意味で、最近「目覚めよ」を配布しておられる団体は、以前のPush型のメディア利用を主にしておられたのだが、最近は、どちらかというと、Pull型のメディア利用の方法やかじを切っておられ、差し出すのではなく、希望者のみに配布、というスタイルに変わっておられるようだが、朝夕のラッシュ時には、もうちょっと他所でやってほしいなぁ、と思うこともある。最近、この目覚めよをご配布しておられる方々は、印刷物がPull型利用されていて、そのような提供のほうが有効であるかどうかを知ったからかどうかは知らないが、このようなスタンドを立てて、積極的に呼びかけずにただ無言で立ち尽くしておられる。

             

            まぁ、今のスタイルだと、単に立っているだけ、ということになるので、警察の道路使用許可を取らずに済ませられるかも、ということなのだろうが、本来的にはアウトであるような気がする。まぁ、京都大学のごくごく一部の学生は、百万遍の交差点で、ちゃぶ台囲みながら、交通整理に当たる警察官に「自分たちはバーベキューをしながら道路を通行しているのである」と言いはったらしいから、それと似たようなものかと思う。orzさん、真似しちゃだめだよ。同じ京都だから、どこでも同じだろう、とか言って。

             

             

            メディアのマッピング
            では、今回の記事の最後に、どのような形で伝達するか、どのような方法としてメディアをという方法論を中心にしながら用いているのか、ということについて図解してみたい。

             

            上記の文章をつらつら書きながら、思ったことを最後にマップとして整理してみたい。縦軸は、発信さえる情報の同質性であり、北側に近づくほど同質的な情報が発信されることになり、南側に近づくほど、受信者の側に対応した個別性の強い情報が発信されていることを表す。この図で北側は、ある面情報の受け取り手数のボリュームとしての大きさ、とも取ることも可能であるが、念頭に置いたのは、どの程度類似した情報が発信されているかの軸のほうが良いと思う。その意味で、南側は、ある面で言うと、受け取り手の少なさ、と理解もできなくはないが、情報の受け取りてへのカスタマイズ具合だと思ったほうが良いとは思う。

             

            教会の説教は、電話と路傍伝道のちょうど東側あたりに位置すると思う。教会の中のメンバーになってしまうと、教会内には基本逃げ場がないので、電話の東側ではないかとも思う。基本的には説教の内容は、教会内では、同質的な情報でもあるから、駅頭配布トラクトのやや北東側でもかまわないようにも思う。説教はどうしても、同質的なものとして受け取られやすい。

             

            個人的には、そうはならないように、出席者とインタラクティブな説教をしたこともあるが、不真面目だとか、学校の授業みたいだと怒られたことも過去にはあった。まぁ、最近はそういうこともなく、教会に一参加者として淡々と参加できているので、非情に心穏やかに日々を過ごしている。

             

            なお、個人として授業する際には、どうしても授業という性質上、プッシュ型になりやすいので、それを緩めるために、質疑応答をしたり、受講者に問いかけをするようにして、Pull型的な要素も取り入れるようには努力はしているが、基本、授業とか説教とかはPush型になりそうだなぁ、と思う。

             

            メディアの分類図 ハコとしてのメディアの使い方と、情報の提示

             

            インターネットに振り回される大手マスコミ

            しかし、どうも、キリスト教メディアに感心をお持ちの方でも、このあたりの感覚をお持ちでない方々もおられ、従前どおり、正しいことは紙に印刷して、できるだけ多くの方にお伝えすべきだ(殆どの誰もが、紙に書いたものは、もはやどーでもいい、とか思っていてごく一部の人しかありがたそうに需要してないのに)、とか、良いことだからお伝えすべきだ、そして、紙に印刷して記録を残しておくべきだ、他のマスコミからの問い合わせがあった時に、とか言われる方もおられるが、本当にそうだろうか。

             

            前回の記事でも書いたように、もはや、日本の新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌は、基本ネット情報に依拠していて、まず、記者さんがGoogleするところから、多くの記事ができていく時代である。だとすれば、ネット上にGoogleがPullしやすい形で出しておかないのであれば、誰も見ない。記事もならない。今や、古い資料や一次ソースにあたってまで、大手マスコミなどもチェックしないし、チェックしきれない時代がやってきているのだ。それを如実に示したのが、オボちゃん事件であり、理研から出た情報にだけ頼り、オウム真理教の犯行なのに警察の関係者から出た河野さんが容疑者という情報に振り回され、独自の調査をサボり、河野さんを被害者にしてしまったのではないのか。今はそんな時代なのである。誰かがネットでいったことに飛びつくのであって、ネットで流していなければ、その情報にも飛びついてもらえない。その意味で、ネットで情報が引っかからければ意味が無いのである。

             

             

            その意味で、現在、ある面、新聞が多くの場合、警察情報の丸呑みをしているかのように、ネット情報の丸呑み(一応、アクセス先と言うか電話先がわかれば、電話取材で裏を取っているのが関の山のようであるが)が起きているのである。その意味で、紙メディアだけに存在する情報は、大英博物館の中にうやうやしく眠っている粘土板や石の板に書かれた碑文と大して変わらない(大英博物館は、資料が有効に利用されていないという側面があるので、収蔵品をデータ化し、カタログ化し、ネット上に情報を上げる計画を必死になって取り組んでおられるのではあるけれども)。知る人だけが知る情報になっているのだが、そういう内向きな体制が教会なのだといえば、そうなのかもしれない。


            次回予告

            次回、現行のキリスト教ニュースメディアに望むことを書いてみたい。関係者には耳の痛い話になろうし、「ワシラにどうやって生きろ、というのか」という話になるかもしれないが、好き勝手、この際だから言わしてもらいたい。読みたくなければ読まなければいいのである。だって、押しつけはしないから。また、キリスト教メディアの皆さんのところに言って、ねじ込んで、団体交渉する気力も体力も、資金力も、もうミーちゃんはーちゃんにはないから、安心してていい。スルーしてもらったらいい。聞く耳のある人には聞いてほしいくらいには思っているが。

             

            大体、夢は語らねば実現しないではないか。以下の動画で示すマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは問題の多い人ではあるが、その問題が多い人でも、夢を語ったらこそ、オバマ現大統領(そしてもうすぐ前大統領、アメリカでは、大統領やめても、呼びかけは、基本Mr. Presidentである)が大統領になったのではないだろうか。

             

            私の夢は実現しないだろう。多分、私の予測は外れているだろうし、できれば外れてほしい。世俗の仕事のことでまたまた恐縮であるが、私は読みを間違ったことがある。それは、自分が利用しているソフトウェアを使うにあたって、ウェブへの対応はしないだろう、そして、スタンドアロンで動き出すだろう、と思っていたのである。しかし、その様相は外れた。今は、ウェブへの対応はしてない、その対応が遅れたソフトウェアは市場から追放である。家庭の中にここまで、インターネットが入り込むとは思えなかったし、スマートフォンが普及するとは思えなかった。予測は外れた。夢も潰えた。それと同じように外れてほしいし、ミーちゃんはーちゃんの夢も潰えるだろう。それはそれでいい。人間とはその程度のものであるからである。鼻で息するものだからである。でも、夢くらい、ちょっとくらい言ってもバチは当たらないだろう。言わなければ、なにも始まらないのだから。公民権運動も大きくはならなかったのだから。完全にそれが実現していないとしても。

             

            そして、次回は、I have a dreamとこのブログでいってみる。

             

             

             

             

             

             

            2016.12.10 Saturday

            Web時代におけるキリスト教メディア(4)

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              本日は、印刷型の紙メディアである新聞とか雑誌、特にキリスト教関連のオールド・メディアである新聞とか雑誌について言いたいことを言わせてもらう回にしたい。かなり無茶苦茶な議論をするが、どうぞ、ご関心のない向き、読みたくない向きは直ちに別のサイトに移動されるか、ブラウザの閉じるボタンないしは、タブの閉じルボタンをクリックしていただければ、と思う。

               

              紙メディアってなんだったか

              新聞メディアのご関係者の方は、そもそも新聞がドイツあたりで始まって、英国のカフェに置かれて回覧され、カフェでのおっさんたちの会話のネタとして使われたとか、いわゆるクオリティペーパーと呼ばれる品のいい少数の読者向けのハイソな新聞とタブロイド紙とも呼ばれる大衆紙に別れることはよくご存知であろう。日本の大新聞は、日本経済新聞を含めて、基本大衆紙だと思う。そう思ったくらいでちょうど良いように思う。

               

              大衆紙とクオリティペーパー

              この大衆紙とクォリティペーパーの違いは何か、と考えてみれば、あとから読んでも読むに耐えることが時々書いてある、あるいは、あとから読まなければならないことが書いてあり、それなりの人が寄稿していて、それなりの記事があるのが、クォリティペーパー(高級紙)であるようにおもう。そして、「読み捨てにされて、以上終わり」あるいは、一時的な話題が沢山乗っているのが大衆紙だと思う。まぁ、大衆紙にもそれなりの使い方や使われ方(焼き芋の包み紙とか野菜の保存用とかを含め)と使命と読者層はあるわけで、クォリティペーパーはクォリティペーパーなりの使われ方と使い方と読者層があるだけのことだろうと思う。

               

              大衆紙だから無価値だなどか、無意味だとは思っていないし、そう書いているつもりもない。だって、確実に売上が上がっているんだもの。それはそれで、市場の必要に応えているということで、立派なのだ。少年ジャンプが立派なのも、一定のクォリティの漫画を需要される方々に対して、その必要に応えているし、大衆紙が立派なのも、一定の読者層の必要に応えている、という点では極めて立派である。本ブログで、度々出てくるデイリースポーツは、阪神が勝っても負けても一面は確実に阪神関連のニュースだし、おそらく中日スポーツも、中日が勝っても負けても一面は中日ドラゴンズ関連の記事で埋まっているはずである。

               

              床屋政談のツールとしての新聞やメディア

              先にも少し触れたが、そもそも、近世の英国のカフェに置かれた新聞も、近代の日本でも新聞も、場所がどこかというのは別として、ある種の床屋政談のためのツール、愚にもつかない噂話や個人的な見解をのたまうための、きっかけを提供する道具の類であり、ある種の暇つぶしと言うか、会話のきっかけを掴むのための道具にすぎないと、思っている。

               

              新聞にせよ、出版にせよ、普通のメーカーでも、社会の人々の必要に応えねば経営はうまくいかないし、社会の中で、必要とする人々の層によって、その出版物の中身も変わっていくのだし、変わっていって当然だと思うのである。特に、新聞においてはその傾向は強いのではないか、と思う。

               

              大草原の小さな家での新聞話

              記憶している限りの話で恐縮であるが、大草原の小さな家で新聞が絡んだエピソードが幾つかある。記憶に残っている話が2つあり、その一つは、お父さんのチャールズ・インガルスのオジサンが、馬車の会社(今で言うタクシーとかバス会社だろう)を経営して大成功したはずだった人がいる設定にしてあり、そのオジサンがかなりユニークな御仁だったのであるが、世上では膨大な遺産を残してなくなり、一家がそれを相続するという設定になっていたエピソードが会った。チャールズ・インガルスとその一家が、金持ちになりそうなので、みんなカネ目当てでやってきて、金を貸してくれとか、教会に寄付してくれとか、小さなウォルナットグローブの町での人間関係がおかしくなるという設定のエピソードであった。そのエピソードの中で、遺産相続の話が新聞記者の知るところとなり、一家が極貧から一夜にして大金持ちになるというアメリカ人大好きな話に仕立て上げようと言う伏線も会った。そのような態度で荒れしてくれ、これしてくれ、とインガルス一家に行ってくる新聞記者に、そんな偽りの記事を書くなら、取材はお断りだというエピソードがあった。もう一つは、ウォルナットグローブの町が大きくなるに連れて、文化的なものが必要だということで、町唯一のお店の商店主の婦人のオルソン婦人が印刷機を買い込み、新聞を発行するというお話で、発行したはいいが、まともな新聞にならずゴシップ新聞を発行してしまうというお話だったと記憶している。

               

              いずれのエピソードにしても、新聞などのメディアが陥りがちな課題を示していて面白い。第1の話は大金持ちになるかもしれないというエピソードのテーマは、一部真実を含有しているものの、他の部分で真実の一部を販売のため、デフォルメして誇張して書くというものである。この問題は、デフォルメしたほうが売れる。デフォルメすることで読者を確保し、売上が確保できるというものである。良心的な新聞では、記事にする前に取材された方に事実確認として、記事の内容を確認させてくれる場合があるが、緊急性がある場合、このような側面は割りと軽視、無視されることがある。この時間的緊急性を理由としたショートカットというか、近道しようとする行動が、問題を起こすのであり、オウム事件では、マスコミのこのろくでもない性格が、いろんな事件を起こしたのである。

               

              2つ目のオルソン夫人の発行のゴシップ新聞の話は、現在のゴシップ誌、日本ではスポーツ新聞とか、女性週刊誌とかその他の一般週刊誌などのように、他人の色恋の話とか、他人の生活を一部示すような、社会全体のあり方に関する報道とは関係ないものの、個人の興味と関心を掻き立て、他人を報道の名のもとに傷つけるタイプのメディアのあり方を批判するようなものである。ある面、他人の不幸を喜んだり、他人が不幸な状態であることを利用するタイプのものである。

               

              ある種、出歯亀根性に訴えるようなメディアのあり方である。しかし、これが売れることはスポーツ新聞や週刊スプリングセンテンスみたいな雑誌の売れ行きが良いことから、わかるのである。

               

              Peeping Tom的性質を持つメディア

              ところで、GODIVAというチョコレート屋があるが、このチョコレート屋の屋号は、Lady Godivaという貴婦人にまつわる史実ではない交換の伝承に由来するらしい。Lady Godivaは、人々に対する夫の圧政の負担を軽減することを領主であるご主人とお話し合いをされた結果、巷間に伝わる話では、自らの裸体を晒しながら乗馬することを命じられたという。このような都市伝説がつきまとって、それをもとにチョコレート屋の屋号ができていることになっている。そのLady Godivaの話に関係して、Peeping Tomと呼ばれることになった人物がいたという都市伝説も付与され、このTom君以外以外は窓を締め、Lady Godivaが通っている最中外を見なかったという都市伝説があり、Lady Godivaの裸体を見たことから、Peeping という不名誉な形容詞が付与された人物であるが、実在したかはかなり怪しいらしい。英語圏では、このことがあるためか、Peeping Tomは徹底的に非難されるが、基本人間は、こういう下劣な精神が生まれや民族に関係なく、一定程度隠れていることは確かなようだ。


              こういう新聞や雑誌が洋の東西問わずはびこっている現実を見ても、これは人間のかけある性質を示すもののような気がする。ただ、日本は西洋型社会とは異なり、この辺の性的な画像や図書が、発行され続けてきた江戸期以来の伝統があるので、社会的にはこの種のものに関して、かなり寛容な社会ではないか、と思う。その伝統は現代の週刊誌に引き継がれている模様である、と思っている。とは言え、西洋でもこの種の文書や絵画はかなり多数存在する。ヴィクトリア朝時代はこれの取締はかなり厳しかったようではあるが。

               

              その意味で、これは、神との関係が破綻した、堕落の結果であるとは思うが、だからといって、その人間の弱さや不甲斐なさを利用するようなビジネスをすることに関する抵抗は個人的にはある。

               

              キリスト教メディアにいいたい放題

              まぁ、世俗メディアの来歴や問題は差し置いて、現状の新聞型情報に関するキリスト教メディアについて、言いたいことを言わせてもらいたい。

               

              個人的には、正規組織とは無縁で、このようなものとは無縁のキリスト教の世界で生きてきた。間もなく発売されるはずの『福音と世界』に寄稿されている小論をご笑覧いただきたいが、一種のキリスト教世界のかっこよく言えば独立部隊、あるいはゲリラ部隊としては、これらのメディアとは一線をおいて過ごしてきた。したがって、こういうものを読む習慣はなかった。その意味で、今回の記事はある意味部外者からの視点である。その意味で、幼いときからこのようなものに慣れ親しまれた方、長年現在の習慣体制に慣れた方、郵送されてくる情報を受け取る形で教会内外の情報に触れてこられた方は、また別のご意見をお持ちでもあろう。

               

              これらの新聞と称するメディアについて思うことは、まず持って、済んだこと、ヲワコンではないにせよ、起きてしまったこと、終わったこと、に関する記事が多すぎること、速報性がないことである。これから起きることの情報や、現在起きている事に関する情報の圧倒的不足、そして、今起きつつある現実についての速報性がないことであり、不確かな情報であるものは一切出てこないところである。これでは、Newsではなく、Oldsと言わねばならない。ガッチガチに固まったものしかのっていないのでは、読む気にもなれない。情報は、行動変容をもたらすための資源の一つである、と思っているからである。

               

              これから起きることも、紙面には、一行広告よろしく印刷した新聞には載せられているが、よほど丹念に、且つ丁寧に読まないと、自分がぜひとも参加してみたいと思うようなイベントとかの情報には出会わない。それを寄せてくれない皆さんの問題だ、とキリスト教関係の新聞関係者側の人々は言うかもしれないが、まずもって、そのような情報が埋没するようなあしらいを受けることがわかっていて、紙の新聞に載せたいという気持ちにならない事が多い。なぜならば、基本、キリスト教関連のイベントはローカルなものが多いし、全国紙に掲載してもらったところで、来客の増加はほぼ見込めないし、学校とか他の教会に行っている人々が来ることはめったにないので、全国紙としてのキリスト教新聞などに載せる意味が実はあまりなくなっている、というのはあると思うのだ。

               

              多過ぎるヲワコンの講演会

              これはキリスト教会に限った話ではないが、そもそも、今は世の中に講演会の数が多すぎる。行政はイベントとして講演会をやるし、様々な組織が講演会やイベントをあちこちで、有償、無償のものを含めて、ありすぎるのだ。動員して、動員した人々の自分たちの考えを伝えようとする。それも割りと真面目な企画が多いので、参加しても楽しくないし、ライブ感、一方通行感が強すぎるものが多い。コンサートや野球なら、騒いだり縦ノリしたり、いろいろできるから、一方通行感はへるが、講演会だと、結構なお手前でございました、とでも言うしかない感覚なのだ。でも、他に方法がないから、みんな終わったコンテンツ(→ヲワコン)であると知りながら、それをやらざるを得ないのだ。その結果、特徴がないワンのブゼ無になりがちである。どうせ、紙面では、その数の多いイベントに埋没し、紙面で目立たないのならば、連絡する気もなくなる。

               

              となれば、それよりは、関心領域がある人が、関心を持っている検索語で思いつきで検索してもらって引っかかる、という意味で、今はWebのほうが、有益だ、とWebを使える人は思っているように思う。自分でウェブで発信できるのに、わざわざ他人の手を煩わせて、それも制限があるような発信をするよりは、好きなことを好きなようにかけるWebで、画像を入れたり、動画を入れたり、個人の感想を入れたり、しながら発信するほうが、読み手にも楽しさが伝わる。

               

              むかしむかし、新聞というメディアや雑誌というメディアは、そういう限られたサークルでの話題の伝達のためにあった(ちょっと昔の中華人民共和国の壁新聞はそういうものであった)のだが、印刷という手段を利用するようになってから、マスメディアとなり、社会的な影響が大きくなったせいで、毒にも薬にもならないことしか言えなくなってしまったように思う。その意味で、基本つまんないのだ。まだ、雑誌とか、書籍はその種のことの自由はまだ効く。その意味で、雑誌や書籍はマスではないメディアであるから、その自由が効くのだ。

               

              それよりは、人々がスマートフォンを猫も杓子も老いも若きも持つようになった現在、前回の記事ではないが、今は、検索エンジン、検索サイトが基本的に情報への入り口、ポータルサイトなのである。そして、老人から若者まで、Pokemon Go!やパズドラ、ツムツムやモンストなどで電車の中で遊んでいるのである。まぁ、かなりのご年配の女性がスマホでゲームをされておられるのを見て、あぁ、こういう時代が来たのだなぁ、そして、このスマートフォンが、これだけ普及すれば、たしかに現在の情報の入口の主役は、これだなぁ、と思う。

               

              イベントの話に戻すが、たとえ面白そうなイベントでも、居住地とイベント開催地の間に距離があると移動費用などのため、参加することができない事が多い。これはどうしようもない。また、地方のイベントを紹介したところで、他の地方からであれば、参加することも基本的にはできない。昔は多数の人に情報を伝えようと思ったら、新聞とかラジオとか、テレビとか雑誌のメディアに広告として載せるしか方法がなかったから、広告を載せることをするしかなかったし、新聞は意味があったのだ。ただ、新聞や雑誌は時間の遅れが気にならないが、テレビとかラジオとかは一過性であルノが違うくらいである。とてそうである。情報を運ぶコンテンツが紙と、郵便による輸送によるしかなかった頃の産物が、新聞や雑誌というメディアである。いま、個人やグループが情報を発信できるようになった今、従来型の情報伝達型の新聞やラジオやテレビの地位が下がっている、ということはもう少し認識されてもいいとは思う。

               

              その後電話ができ、テレタイプ、テレックス、ファクシミリができたが、それとて、どちらかと言うと一斉発信には向かない、ピアツーピア通信というかなり限定的なものであった。一斉発信のためには、印刷するとか、カーボン紙挟んでタイプするとか、手書きで何枚も書くとか、紙に印刷するなり、タイプするなりして、郵便という時代が長らく続いた。

               

              宣教師たちのメディア

              そういえば、宣教師たちが、昔を懐かしんで、昔話をしている時に遭遇したことがあるが、彼らは、母国に報告書を送ったり、献金のお願いをするときには、カーボン紙を紙と紙の間に挟んで、タイプを打って、何枚もコピーするという涙ぐましい努力をしていたことから、メモリ付きのIBMのボールライタができ、その苦労が少し軽減され、PCができて、タイプするという行為から開放され、電子メールが普及して、印刷する苦労からも開放された、と言っていたのを思い出した。今は「あんな時代も、あ〜〜〜たね」と、笑って話せる時期になってしまった。

               

               

              あんな時代もあった…

               

              なお、ミーちゃんはーちゃんは年寄りの部類に属するので、高校生時代は、タイプライターだったし(高校1年生くらいでシャープのMZ-80がでた)、大学1年生でCPM-86、MSX(記録メディアは音楽カセットテープ)、MS-DOS、N88ーBASIC、UNIX、Windows3.0、…と渡り歩いてきた人間なので、通り一遍のものは扱ってきた。貧乏だったので、Appleとはご縁がなかった。動けばいい、と思っていた人だからである。

               

              実はその昔、パンチカード、磁気テープ、連続紙、8インチフロッピーディスクから3.5インチフロッピーディスク、MO、Zipドライブ、CD-R、DVD-RW…など、一通りの記録メディアを触ってきた。

               

              テレタイプ 小暮さんのサイトから http://kogures.com/hitoshi/history/teletype/index.html

               

              テレックス 新興製作所様から http://www.shinko-exc.co.jp/news/general/2009/9/1253062481106.html

               

               

              市民による革命とメディア

              昔は講演会とか、学会とか、みんなで集まってなんかするしか、自分たちの考えを伝える方法がなかった。だから、シンポジウムとか、講演会とかやって、そこに集まった人にだけ、その情報を共有するしかなかったし、あるいは、そこで話されたことを書いて、記事にして、印刷に載せてしか、あるいは、本を書いて、本を出版して遠隔地の人に届けるしかなかったのである。そのための新聞であったし、それだけの価値のあることしか限られた紙面に載せることができなかったし、情報を発信できる人たちは、新聞社や放送局、出版社というメディアを握る人たちだけであった。であるからこそ、クーデターや革命が起きる前後には、このメディアの発信基地やメディア関係の会社を選挙することがクーデターや革命を成功させる上では必要であったのである。

               

              しかし、今はそんなことしなくても、わざわざ人を集めなくても、スマートフォンと電子ネットワークへのアクセスさえあれば革命のきっかけを起こせることは、アラブの春が実証したではないか。たとえ、軍が放送局を占拠しても、スマートフォンと電子ネットワークのアクセスがあれば、革命のきっかけが起こせてしまうことが実証されたといえる。まぁ、ただ、最終的には、人が集まって、それで自分たちの意思を示す、ということが一番影響力が多いけど。人が集まるというのは、結構圧力にはなるし、日本では暴動にはさすがにならないが(多分、人間がおとなしくできているのだろうけど)、結構人をビビリ上がらせる効果はある。

               

              その意味で、昔デモ、今炎上という部分はあると思うのだ。インターネット上で炎上したくらいでは、政府はビビリ上がってくれないし、治安出動はできないが(そもそも、言論統制とか、基本憲法違反だし、戒厳令とか情報統制とかというのは非常事態でのみ許されることではあるけれども)、確かにデモとか、デモでなくても、人が大量に集まって暴動になると、治安出動になることがある。

               

               

              インターネットとゲリラ組織

              また、インターネットのご先祖様のDarpa Netは中央集権画にしないことで、いくつかのセンターやサブセンターが核攻撃されても生き延びる体制を可能とするためにネットワーク構造になっているのだ。そして、それは、正規軍的な働きをするというよりは、ゲリラ戦型の戦闘に向いているのだ。どこか一つが壊されても、ほかが適当に動いていく、そして、もぐらたたきのように正規軍が必死になっても勝てないことは、ベトナム戦争でも、対タリバン作戦でも、ISIS団(ダィーシュ)でも、ネットワーク型組織がロシア軍や、米軍や、周辺諸国などの正規軍型の組織が、束になってかかっても苦労することが、現実を通して示されてしまっている。ネットワーク型組織、あるいはゲリラ型組織とは、そのようなものであるし、今はそんな時代なのである。そして、それが新しい中世の一つの断面でもあるのだ。これに関しては次回もう一度触れる。

               

              新聞とか雑誌、書籍、テレビやラジオは、どちらかと言うと同じ情報を大量に流す、という意味で、正規軍型の情報通信手段であり、同質的な人々に時間差は多少発生するかもしれないが、同質的な情報をお届けするタイプのメディアである。その意味で、ネットワーク型メディア、あるいはゲリラ型メディアと相対するに非常に都合の悪いというか、相性の悪いメディアではある。

               

              その意味で、今は、もし、自分たちの理解を広めようと思うのであれば、あるいは自分たちの思いを伝えたいのであれば、ネットワーク型メディアに流せばいいのだ。すると、どんな断片でも語が含まれていれば、それに関する情報として、GoogleのBotが拾ってくれるのである。

               

              なお、ミーちゃんはーちゃんのブログには、「え、こんな言葉、このブログにはないぞ」って言う言葉で検索をかけて、当ブログにGoogleないしYahoo(実際上Googleのエンジン)で到達しておられる事例が時々発生する。「こ○○・ちゃーち」とか、なんかそんな検索語ですら、このブログにGoogleエンジンは誘導してくださったのである。なぜだかわからないが。ちなみに、この「こ○○・ちゃーち」には、検索語で到達された方が最近多いので、そのような名前の教会のようなものがあることを先月始めて知ったし、行ったことがありませんので、なんとも論評いたしかねる。

               

              NEWSでなくOLDSなら月刊でよくね?

              その意味で、NEWSではなく、過去起きたOLDSを伝えるだけなら、別に週間でなくていいし、月刊や季刊で十分なのではないか、とも思う。1週間おくれようが、ひと月遅れようが、情報を得たところで、もう住んでしまったことが報道されているのであれば、個人の行動変容にはつながらないからである。データや情報が知的資本に変わるためには、行動変容が起きたときである。月1でもいいんじゃない、というのは、これは本当に、そのように思うなぁ。

               

              その意味で、リバイバル新聞(現、舟の右側)が週刊であることをやめたのは慧眼であったと思うし、教派や教会連合の枠組みを超えて、最近正教会の松嶋さんまで連載を書いておられ、従前考えられなかったようなCrossoverというのか、Jam Sessionを見せて読者層をごく僅かであるが拡げている「舟の右側」はメディアとして「至極当然にやるべきであったこと」をやっておられると思う。まぁ、そもそもその手のCrossover戦略を雑誌で始めたのは、Ministryであったとは思うが。まぁ、もともと、不十分とはいえ、キリスト新聞自体がCrossover性を多少は持っていたメディアであるというのはあるだろうが。

               

              そもそも、「一人キリスト教フィクサーみたいなことして、何したいんです?」(大意)と若い友人から言われるほど、こういうCrossoverがいまミーちゃんはーちゃんの周りで実現しているのは、何より、Ministryと、舟の右側と、フェイスブックとTwitterとライト研究会やライト読書会のおかげであり、その利益を享受させていただいているという意味においては、自分が信仰を持ったグループの教会群にだけお篭りしていた時代について「そんな〜〜時代もあったよね」と一人感慨を抱いている。

               

              電子ジャーナル化する学術論文

              ところで、出版物に関して言えば、世界の学術出版の潮流は、電子ジャーナルである。先日もさる国内学会誌の共著論文が掲載されることが決まったが、割と新しい学会でもあるので、電子ジャーナル飲みにいち早く切り替わったが、アメリカなどでは古い学会でも、いわゆる名門学術誌でも、2000年頃から電子ジャーナル化への移行の動きが激しい。もはや、電子ジャーナル中心の感じもある。まぁ、紙で印刷していたものを入れておく図書館の箱物のスペースが、どうしても限られるのと、学問分野の細分化(プロテスタント教会以上にすごい)にともなって、ジャーナルの数と言うか、種類が増えており、もはや図書館は紙メディアはできれば、ご遠慮申し上げるということになっているようだし、国会図書館も博士論文の納入は紙印刷した現物でなくて良くて、電子データでの納入でも可能となっている。詳しくはこちら(http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/hakuron/index.html#chap2)。

               

              その意味で、紙に印刷した紙新聞のほうが、労力がかかっているから偉いとか、マスメディアに近いとか言う議論はナンセンスであり、電子的タブレットの時代に、由緒正しい粘土板タブレットで印刷しているから立派だ、というようなものである。実にナンセンスな議論であることは、たとえが露骨で、ろくでもないのはお認めするが、お分かりいただけるのではないだろうか。

               

               

              電子的タブレット

               

              粘土板タブレット

               

               

              現在のキリスト教メディアに思うこと

              さて、最近、フェイスブック上で、もうちょっと、クリスチャン新聞とか、キリスト新聞とかもうちょっとちら見せせてくれないと買う気にもなれない、もっと自分たちがやっていることに自信があり、他人に伝えたいと思うなら、Twitterとかフェイスブックでチラ見せしてよ、と喚いたら、キリスト新聞さんはチラ見せしてくださった。クリスチャン新聞の電子版等の記事の紹介というかリードでご紹介されているスレッドへのいいねの数も、最近は二桁に到達するものもある。漸くそのような状況である。

               

              たとえ良い記事を書いていても、押し込み型の新聞として、つまり定期購入している新聞として、購入してくれている顧客層への配慮もあるのだろうけれども、新規見込顧客には、あるいは書店で買う顧客には、それではどんな良い記事を書いても、伝わっていかないのだ。

               

              しかし、紙メディアを定期購読する人々のグループを持たない、そして、紙新聞の収益というものがないがゆえに、ウェブ広告からの収入に頼るしかないクリスチャン・トゥデイさんは、記者も関係者もアグレッシブにフェイスブックやツィッターでその記事を紹介しているので、Facebook上でのいいねは2桁、3桁を超えるものもあるようだ。それはそうだ。新興メディアならではの一種のギラギラ感と、量と速度は、他のキリスト教メディアの追随を許さない、スピードとボリュームとカバー領域の広さが大きい、という一般利用者としての印象はある。前にも言ったが、現在のメディアが、紙メディアから、スマホ・タブレットに移りつつある現在、ほぼ勝負会ったになっていると思う。現実的には。

               

              引用もやり方があるかも

              ただ、そのクリスチャン・トゥデイには言いたいことがいっぱいあるが(そもそも、米国での出発時点の名称問題で、クリスチャニティ・トゥデイと誤解を生みやすいクリスチャン・トゥデイ(後に、米国版クリスチャン・ポストに変更、と当初混乱しやすい名称にしていたし、それを日本では、なぜだか編集長もどうしてそうなったかの理由も知らずにその誤解を生みやすい名称を使っている、という関係もあるので、ほとんど信用していない、というのはさておいて)、国内取材のものはさておき、海外配信記事が、どうも日本語が正確でなかったり、誤解を招く日本語変換があまりに多いし、もともとの米国で配信したときのクリスチャン・ポストもそうなのかは存じ上げないが、あるいは、確かめることはしていないが、世俗のメディアの記事の丸パクりをしながら、引用元がない記事が多い。また、日本のクリスチャン・トゥデイでは、英文のクリスチャン・ポストですらの引用元リンクもウェブアドレスすらないという記事が多すぎる気がする。あえて誤解を生みたいのではないか、と勘ぐりたくなる程ではある。いくつか、日本語が変な内容があったので、英文のキーワードをGoogleにかけて、オリジナルの記事を見て、あぁ、なるほど、とわかったことが会った記事もいくつかあった。そのへんは改善の余地がかなりあると思う。

               

               

              このブログも、記事で引用が多いブログであるけれども、それは、ミーちゃんはーちゃんが売れてほしい本を紹介したいからである。ただ、いつも出版社とか、著者に怒られないか、とビクビクしながらも紹介しているのであれうが、紹介すると売れるからか、文句を頂いたことはない。一応、引用ということで書いているので、文章量は、引用した文章の最低2倍から3倍は書くことにしている。ただ、あまりに引用が多いのと、解説をやりすぎるので、本を読まずにこのブログの記事を読んで理解された気になっておられる方も案外おられるのではないか、という懸念は持っているが。

               

              しかし、話を元に戻すが、クリスチャン・トゥデイの日本語の海外記事の引用は、引用の範囲を超えていて、アウトの可能性が高いような気がする。

               

              それにしても、新聞というのは、床屋政談のための道具としての新聞だったし、それ以上はないので、ちゃんとした月刊の落ち着いた資料とする記事、すなわち、本格的な資料とする事実性を争うようなものは別として、キリスト新聞、クリスチャン新聞とかは、もうちょっと今を示すような動きに関して、床屋政談のための道具としての記事をウェブ空間上にもう少し出してくれていいように思う。それがクリスチャン・トゥデイには大量にあって、またそれが出るのが早いから、みんな、フェイスブックやツィッターで紹介して、それについてなんだかんだ、言って、床屋政談をしているに過ぎないのだ。

               

              それは、このブログも同じである。床屋政談の道具をもうちょっと学術風に、そして面白おかしく味付けして出しているに過ぎない。

               

              印刷型メディアの悩み

              ということを思っていたら、面白い記事が、ツィッターで回ってきた。正に、キリスト教メディアの現状を表しているように思った。フェイスブックとツィッターで紹介いたしたが、あまりに面白かったので、ここでも再掲する。最初見た日本語サイトはこちら「パブリッシャーたちは、烏合の衆と化している」:英全国紙幹部の告白

               

              最初に読んだ日本語サイトでの翻訳文の引用

              メディアオーナーはいまも並外れて革新的だ。業界からイノベーションを締め出そうとすれば、我々はあっという間につまらないものになり、コモディティ化するだろう。だから、人々がジャーナリズムの価値を認識しはじめ、規模の価値に誘惑されてその価値を譲り渡そうとはしていないのを目にして、私は勇気づけられている。

               

              ただ、気がかりなのはあまりに動きが遅すぎることだ。印刷物の凋落に気づくのも、デジタル広告の約束が果たされないことに気づくのも、アドテクの約束がだいたいにおいて夢物語であることに気づくのも遅かった。ビジネスモデルを変えるのも、パブリッシャーがグループとしてまとまるのも動きが遅い。戦う相手は無駄がなく、卑劣で、動きの速いマシンなのだ。我々は力を合わせて対処しなければならない。

               

              英語をもとに、ミーちゃんはーちゃんが日本語変換

               

              メディアの社主、あるいは、経営者たちは、今もなお、非常に革新的な考えを持ち続けている。出版印刷業界以外のすべての技術革新を握りつぶそうとした瞬間、われわれは、鎮痛剤のように鈍く(切れ味の良くないものになり)、そこらにある珍しくもなんともないものになり下がることになる。出版印刷業界の人々がジャーナリズムの価値を認識し、規模の大きさにより生じる価値にふり惑わされ、自らの魂を、規模の大きさを誇る電子メディアのようなものに売り渡そうとしていないことを見るにつけ勇気が湧いてくる。

               

              仮に電子メディアみたいなものに、身売りしようとはしてないとはいえ、業界の動きが非常に遅いことにはイライラを感じる。われわれは、出版物の価値の下落を認識するにあまりに遅く、デジタル広告が空手形を出し続けてきたことに気がつくのにあまりに遅く、広告技術といわれるものが、砂上の楼閣であることに気がつくにあまりにも遅いのである。そして、われわれのビジネスモデルを変革するに遅く、出版社のまとまりとして、一体となり行動するのが遅いのである。われわれは、不毛で、思いやりがなく(Lean Meanと韻を踏んでいる)、おまけに速度の速い機械と戦っているのだ。だからこそ、われわれはその思いやりのない機械との戦いに向かって、まず第一歩を進めるべきなのだ。

               

              日本語のサイトからGoogleで語を推測しつつ、ミーちゃんはーちゃんが特定したサイトConfessions of a national newspaper exec: ‘Publishers haven’t got their shit together'の英文

              Media owners are still being incredibly innovative. The minute we try to squash all innovation out of the industry, we’ll become anodyne and commoditized. And I’m encouraged to see people beginning to recognize the value of their journalism, and not being so seduced by value of scale and giving it all away.

              But what bothers me is it’s just too slow. We were slow to recognize the decline of print, slow to recognize the failed promise of digital advertising, and slow to recognize that the promise of ad tech was a mirage, to a large extent. We’re slow to change our business models, and we’re slow to get our act together as a group of publishers. We’re fighting lean, mean, fast-moving machines. Let’s step to it.

               

              その意味で、今はメディアの変換点にあって、世俗の伝統的なメディアでもその転換点にどう乗っていくのかで戸惑っているのであり、コアの部分をどう残しながら、いまという時代にどのような奉公に転換していくのか、ということが問われている時代であり、それに乗れなかったものは、市場から黙って退場されることを求められるのが、資本主義を前提とした社会のルールではある。

               

              それにただただ唯々諾々と従う必要はないけれども。

               

              唯々諾々と従わないのであれば、ルールに則りながら、ルールや既存の利用できる資源や技術を利用し、生き延びる方法を必死に考えるしかないのだ。方法は難かあるし、創造的なブレークスルーをすればいいのだ。独りでできないなら、外部知識を活用すればいい。外部資源を活用するのは、以前にも書いたように、いまでは、当たり前になっているのだ。もう、社会自体がネットワーク化しているので、そのネットワークの力を広告をもらうにとどめておくのはもったいないのではないか。だからといって、外部の言うことに振り回されてはならず、自分たちのコアコンテンツである、キリスト教、及びキリスト教徒、キリストが王であるとする人々が必要とするものは何か、従来の伝統は横目でチラッと見る程度に尊重しつつ、変化していく社会の中で生きるキリスト者たちが必要とするモノは何か、それらをどう提供できるのか、ということを考えるべきだと思う。まぁ、伝道団体という殻や枠組みにこもりたいのなら、こもられたらいいと思う。その辺の割り切りは要るだろうから。

               

              コアを維持しつつ環境変化に追随すること

              この記事を書く前後に、ある方が、プレジデントの記事をTwitterで紹介しておられた。マクドナルドが変わったことに関するインタビュー記事である。マクドナルドにとって、コアビジネスを大事にしながら、変われることが強み、だそうである。コモディティ化したとはいえ、ハンバーガーを日本で売りまくっているマクドナルドですら、自己を一介のハンバーガー屋だと認識しながら、果敢に挑戦しておられる。もちろん、伝道と企業は違う、という話は腐るほど聞いてきたから、その背景もその理解もある程度理解している。しかし、結局人や社会を相手にしているという点の共通性はあるのではないだろうか。そのうえで、参考にできるところは参考にし、参考にできないところはスルーするくらいの知恵は皆さん、蛇のように聡くあれ、とイエス様からも言われているので、賢い方々だと思う。


              元記事はこちら マクドナルドはなぜ急速に業績回復できたのか? から。

              マクドナルドはなぜ急速に業績回復できたのか?

               

              ――ある時期まで、大型店を含めて閉店がとても目立っていました。今後は店舗を増やしていくのでしょうか?

              【下平】戦略的閉店は今年で終了しました。これから成長の段階に移行することになりますが、まだまだ既存店への投資が十分に終わっていません。既存店を改装し、QSCを上げて、新たな人材を採用してトレーニングを行う時期だと考えています。今は店舗を増やすというより、土台の部分を強固にしていきたいですね。

              振り返ってみると、10年ごとにマーケットは大きく変わっています。それまで成功していたビジネスモデルが通用しなくなるときが来る。ドライブスルー店舗は、ずっと成功していましたが、ある時期から通用しなくなりました。ならば、また新しいビジネスを考える。マクドナルドの45年の歴史は、ずっとその繰り返しです。どんどん変化できることが、マクドナルドの強みだと思います。落ち込んだときこそ、成長の契機なのです。

              「変われること」がマクドナルドの強み

              ――変化できずに失速していく大企業が多い中、どうして変化していくことができたのでしょう?

              【下平】我々は自分たちのことを大企業だなんてまったく思っていません。一介のハンバーガー屋さんですよ(笑)。グローバルブランドの栄光だけで商売はできません。地域を大切にして、お客様一人一人を大切にしない限り、成功は絶対にないでしょう。こうした考えの下で、QSCの向上も、メニュー開発も、地域に特化した戦略も、一貫して通してできたことが、2年間という短い期間で復活できた要因だと思います。ただ、お客様の変化にあわせてマクドナルドも変化していかないと、すぐに置いていかれてしまうでしょうね。

               

               

              日本ではキリスト教はサブカルである。大変失礼な物言いではあるが、そのサブカルの中でも、キリスト教メディアはサブカルの中でのサブカル的存在である。それにすら過ぎないのにブランドがどうのこうの、のれんがどうのこうの、伝統がどうのこうの、ってねぇ。個人的には、大変面白いですね、と申し上げたい。まぁ、それなりにそれらのことはあるけれども、新教出版の雑誌『福音と世界』も、うまく行っているかどうかはよく存じ上げないが、この数年様変わりが激しくて、目が離せないし、舟の右側みたいに、マクグラス先生が、福音派と正教の霊性は案外近いのではないか、ということを日本という辺境であるがゆえに実証させた雑誌もあるし、まぁ、入り乱れての乱戦、正に乱世のようなキリスト教メディアの有り様を面白く拝見させてもらっっている。

               

              次回は、ネットワークとWebメディアとの既存メディアとの違い、Webをアウトリーチのツールとしていく際に少し、気にしておくべきことを再考し、再び整理して述べることにする。

               

              次回最終回へと続く

               

               

               

               

               

               

               

              2016.12.12 Monday

              Web時代におけるキリスト教メディア(5)最終回

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                今日は、お約束どおり、キリスト教のウェブメディアで、ウェブメディアの技術的特性とちょっとだけキリスト教界との関わりの部分を少し考えてみたい。

                 

                 

                その前に、現在のWebシステムの基本モデルを作った、Tim Berners LeeというオジサンのTEDでの講演を見てもらいたい。

                 

                 

                まず最初にこれである。

                 

                Tim Berners Lee の 次世代のウェブ (一応日本語字幕付き)

                 

                日本語字幕付き公式サイトの方は こちら https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web

                 

                そして、次にこれである。

                Tim Berners Lee の ウェブのためのマグナ・カルタ (一応日本語字幕付き)

                日本語字幕付きの方は こちら https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_a_magna_carta_for_the_web?language=ja

                 

                これらの動画の中で、この早口で喋っているオジサンであるTim Berners Leeが考えたことであり、実現したことである。基本的にデータを使い倒すために、関係性をハイパーリンクという装置で繋がる形にしたウェブに上げておくことで、制限なく、データ変換とか、フォーマット変換とか、めんどくさいことなく、データを自由に使える世界をめざして、データを載せて運ぶハコの設計をしたということである。そして、それが便利であったのでインターネットの世界で、広く普及した、ということだと思うのだ。

                 

                つまり、このオジサンがやろうとしたのは、それぞれの組織や個人が退蔵していた知的資産であるデータを、ウェブというツールというか道路を作って、交換でき共有するという高速道路で交通するための車を作った、とういことなのだ。

                 

                ウェブシステムという情報のハコ

                そして、今Webという、情報のハコをあつかう人々の中に、勝手に本来鍵付きの箱の中身を見たり、不適切な中身を入れたりするような負の側面が出てきていて、通信の盗聴もどき監視の問題や、悪用の問題、ある人には自由に使えるのに、ある国にいるというだけで通信や利用に制限がかけられている問題など、様々な問題があることをTim Berners Leeは認めた上で、そのハコを使って便利に生きる人たちの生き方を保証するために、ウェブの関係者が主体的に、国境と言う枠を超えて、ウェブの世界の憲章を作ろうとしている(2つ目の動画)ということなのだ。。これは国民国家という概念の利害や理念と遥かに飛び越え、その価値概念を壊してしまうが故に、脅かされる国民国家の側でも、使わせない、触らせない、政府の監視のもとに置く、という方法論が取られることもあるし、そういう国も会って、それは不幸なことではないか、とこのオジサン Tim Berners-Leeは主張しているのである。

                 

                ところで、このウェブというハコについている、リンク(ハイパーリンク)という概念が重要なのだ。つまり、それまで独立に、Stand Aloneで動いていたデータを扱うシステムを、ハイパーリンクを介して色んな人と繋いで、みんなでそれまで退蔵されていた、あるいはダンボール箱に入れて、地下の倉庫にしまわれていた、データを出してもいいという人から出してもらって、そのデータを使って、何かをやれる共通の土台を作ってしまった、ということであり、それは効率化や、研究とか知的作業をするために必要とされる、同じようなデータをバラバラに独自に作るという、二重投資を防止することが図れるということである。反面、ウィルスを含めた悪しきものが共有される、ということである。要するに、利益と被害のバランスの問題ではある。利益(メリット)もあれば、不利益(デメリット)も起きるというのは、技術の世界だけではない。真面目でかっちりと仕事をする人々は、確実で間違いの少ない社会を生み出すが、やたらと時間がかかり、融通の利かないという社会を生み出しかねないのだ。要はそのバランスをどう考えるのか、ということである。

                 

                さて、またいつものように余談に行き過ぎたが、このリンク、ハイパーリンクというのは、どこでもドアみたいな存在で、このハイパーリンクが貼ってあるだけで、予想もしてないところに出てしまい、新しい概念と突然に出会ったり、あるいは、その新し概念と出会うことで、従来想定できないような人間間のつながりを生み出すことにもつながるのだ。インターネットとハイパーリンクがなければ、或いはフェイスブックとTwitterがなければ、おそらくN.T.ライト読書会とも、N.T.ライトセミナーとも、主催しておられる先生とも、そこに参加する皆様(先生がたや、先輩がたや後輩の皆様方)とも出会うことがなかったし、今のような生き方はできなかったのだ。つまり、ハイパーリンクは、一種の概念や組織や、人間への関係性を開くためのどこでもドアを用意するということに等しい。このハイパーリンクの存在によって、講義型の講演会では起こり得ないことであるのだ。

                 

                ありがたく講演を拝聴し、結構なお手前で、と言って帰り、後援について、自分の中だけでうじうじするだけしかなかったのが、うじうじしている人同士が対話はできなかったのであるが、今は、それを口に出す勇気さえあれば、自分ひとりがうじうじしていたのではなかったのだ、と知ることができ、また、同じような境遇の人々と対話もできるのだ。これは紙のメディアにはできないことである。

                 

                紙メディアにはできないこと

                また、ハイパーリンクで、画像や動画や、音楽などにいきなり移動するというのは、紙にはできない。以前、某市役所で報告書が出るような委員会で委員をしたことがあるが、その委員会の時に、これまでは、分野分断的にこの範囲は、ここだけ考えるという形で進められてきたのであるが、しかし、現実は、それでは不都合なので、あること(例えば、学校の問題)と別のこと(例えば、治安の問題)などが深く関わっていることもあり、それがなんとかできないか、ということを必死になって、工夫はしたが印刷物ではどうやっても限界が会った。しかし、印刷物で報告書を出さないといけないので、仕方がなく、紙の印刷物で印刷して市民の皆さんが手に取れるようにした。じつはその委員会の報告書をまとめていく段階で、このハイパーリンクという概念をどう使うのか、ということが問題になったのだ。そして、この概念の議論の中で、現実の問題の対応を考える際には、情報の編集ということと実に深い関係にある。これは、ハイパーリンクを貼ることで、ある概念と別の概念を意味空間で近づけていく、という作業である。

                 

                そして、Googleとか、Bingと言った検索システムが活用できる、というのも、この種の電子型メディアの特徴である。ただ、このタイプの検索エンジンは、同じ単語がたくさん出てくるとか、文字配列の上である文字と別の文字の間の文字数とかを数えて、それによって重みをつけるというやり方(アルゴリズム)をしているので、そのアルゴリズムの特徴や癖をよく理解していれば、そのアルゴリズムが引っかかりやすくなるように、少し書き方を工夫しておけばよいのである。

                 

                それを意図的にやって、誤りの含むというよりは、意図的にコンテンツの中身をデフォルメして掲載していた東京近郊の野球チームを保有しているウェブ関係の関係会社のサービスのWEL●とか、・・・・とか、言うところは、そのアリゴリズムに引っかかりやすくするためにコンテンツをコピペで自社のハコの中に詰め込んで、自社のコンテンツのアクセス数を増やし、そして、ウェブサイトの通過者、ウェブサイトに来訪した人一人に数銭あるいは数厘単位で計算される広告からの収入を集めようという、ケチなビジネスモデルなのである。これらの閉鎖されたサイトでは、中身の重要性は気にしていなかった。その意味で、演劇の際に使う、奥行きのない書割、あるいは、結婚式場教会に多い奥行きのないシステムであり、速攻で費用が発生し、効果が測定できる短期的な収益を目指すモデルで運営されているであり、そういうことをする業者が生み出したシステムであった。それゆえに生まれた問題でもあったのである。その意味で、今回はかなりセコいやり方の事業者であり、そのセコさ、検索エンジンに引っ掛けてもらおうとかいうセコさ、そして、数厘単位のチャリンチャリンの回数を増やそうというセコさをが起こした悲劇であったと思う。

                 

                これに対して、紙媒体の広告やチラシは、配ってなんぼであり、その意味で効果がある無しに関係なくやるランプサムでの支払いという、効果は余り気にしないタイプのビジネスモデルであり、長期間かけて投資、ないし費用対効果を回収するという意味では、この両者はかなり違うのである。その意味では、

                 

                パッと見の良い概念への入り口と言うかハコがすぐに作れる

                これは、森本あんり先生の「反知性主義」に関する連載の時に思ったが、本にすることに、森本アンリ先生はきっと、イライラされただろうなぁ、とは思ったのである。なお、森本あんり先生の「反知性主義」はアメリカのキリスト教を哲学的反省するためには、極めて有効な本である。

                 

                なぜ、そう思ったかというと、紙の本は基本印刷が白黒なので、ビビッドな画像が使えない。動画に至っては、写真化したものを引用することしかできない。それが、ブログとかだと、映画のTrailerを引用して、画面上に見せることができる。画像を引用して総天然色(めっちゃ懐かしい)ほどではないにせよ、一定のクオリティで見せることができる。あるいは、誰かの映像をそのまま引用できてしまう。そして、そうしながら、その引用に対して、ああだのこうだの、自分自身の思いを床屋政談よろしく好き勝手かけてしまうのだ。

                 

                なお、その意味で、ウェブ技術というメディアにせよ新聞というメディアにせよ、要するにハコでしかない。そのハコをどこに繋いでもらうのか、そのハコに何を入れるのか、そのハコに何が入っているのか、を最終的に判断するのが、それの箱の中身をどう判断するか、同利用するかはそのコンテンツを受け取った個人なのである。

                 

                それを、ウェブに書いてあるから真実だ、新聞に書いてあるから真実だ、テレビが言っているから真実だ、とか、ほとんどナンセンスな議論であり、そもそも、ミーちゃんはーちゃんはキリスト教徒あるいは、キリスト者なので、真実なるもの、誠実なるもの、義なるものは、聖四文字なる方しかいないと思っているので、メディアであれ、人であれ、ある程度、誤りを含まざるをえない、その程度のものだと思って生きてきたし、生きているし、これからも、生きることであろう。専門家だって、間違うし、当たることもあれば、当たらないこともある。自分という人間ですら、信用ならないと思っている。ただ、一般に、当たる確率が、ランダムに誰かの言うことを聞くより、ちょっとマシ、という程度のことと思っているし、だからこそ、一次ソースにきちんとあたって、自ら検証し、慎重に、考えることが需要なのだと思っている。それすらしないで、新聞に書いてあったから、テレビが言っていたから、有名人が言っていたから、ウェブで検索したら一番最初に出てきたから、まともであると信じるほうがどうかしていると思う。

                 

                その昔、洋書講読という時間を担当したことがあって、その洋書講読という講義でも学生さんのお世話をしたことがある。外国というか、露骨に言えば、英語の本を読む時間であった。この英語の本であるが、通常の学部クラスの英語のテキストも使ったことがある。その学部クラスのテキストや大学院クラスのテクストを読むこともできるが、それをやると、学生がほとんどもたないこともあるので、ちょっと入門的な専門分野の関連書籍(だいたいガチのアメリカの大学生向けの専門書をすらすら読んでわかる大学生は非常に少なく、1,000人から10,000人に一人くらいである と思う)を読む授業の一環があった。この授業では、あまりに学生の発表内容がちょっと昔の「機械翻訳かけた?」と聞きたくなるほどひどかったので、その講義を担当するときの唯一の楽しみは、学生さんが意味不明の発表をしてもらっていた時に、ツッコミを入れることである。その時の会話を以下に再現してみよう。

                 

                ミハ氏「ン、今発表で言ったのは何ページのどこの部分?」
                学生「○○ページの第3パラグラフの最初の文章で・・・・」
                ミハ氏「あぁ、…の部分ね。ちょっと違うと思うけどなぁ…」
                学生「Meanといったら、手段じゃないんですか?辞書に書いてあったんですけど・・・」
                ミハ氏「それ、辞書が間違っているか、辞書がボロいんじゃない?」
                学生「この辞書なんですけど、ボロいんですか?」
                ミハ氏「うーん違うけど、その辞書にはなんて書いてある?辞書開けて、ご覧」
                学生「先生、これですかね。平均」
                ミハ氏「BooBoooo!ハズレ!つぎは?」
                学生「方法」
                ミハ氏「BooBoooo!ハズレ。この単語は、名詞かな?形容詞かな?」
                 
                …(学生は単語を次々と読み上げ、「ハズレ!」をミハ氏は返し続けることになる)

                 

                学生「じゃ、意地悪な?」

                ミハ氏「しぇいかい。ピンポンピンポンピンポ〜〜〜ン、大当たりぃ!!」

                 

                という会話が毎年毎年繰り広げられていたのであった。個人的には、学生が面白い訳語を次々と拾ってきて、変な文章にして、笑わせてくれるので、一番担当するのが好きな授業の一つであった。

                 

                印刷物にしかできないこと

                Webは、使い捨てメディアのある種の極致であり、ある若い友人によれば、トイレの落書とのことである。実は、作る側としても、それ以下なのである。ミーちゃんはーちゃんは、ポスターのデザインなどもやるので、PhotoshopとかIllustratorとかでは、かなり細かな位置とか字詰めとかデザインのコントロールができるが、Webは、What you see What you get WYSWYG(ウィジウィグと発音する)がいわれてはいるものの、いまだにそれが思ったようにできない。思った通りにするためには、PhotoshopとIllustratorを使って、画像化してからでないとうまくいかない、ということが多い。

                 
                いちばん大事な点は、印刷物と言うモノ性を抱えたものには、あなたにだけプレゼントする、というような人間の思いを乗せることが割りとやりやすい、というところがある。ものは、一点ものという言葉があるように、排他的な利用制限が可能である。それが例えば、本とか新聞といった形であっても、ものであるがゆえに、可能になる性質である。

                 

                 

                本ならこういうことも http://www.phil-sears.com/new_page_12111.htm から

                 

                もちろん、他の人には見せないウェブという鍵付きのサイトを作ることもできるが、それは、本来データの交換と情報の共有で社会のめんどくささをなくしていこうとするウェブには逆行するあり方であり、また、Pullしてくる人には、開放しておくということを前提にしている以上、本来は多少まずい使い方だと思う。

                 

                あと、電気がなくても見えたり、電池切れを心配する必要はない、という点も、非常に優れた特徴として、紙メディアにはあるかもしれないと思う。また、紙メディアは取材、文字による記事化、さらに、印刷用の割り付け、版下作成、という手順がかかり、その上で印刷という手順を踏まないといけないので、リードタイムがかなり掛かるし、最悪そのリードタイムが長いことから、出版直前で発行を止めることができるという特徴はある。その意味でも、ウェブは修正してあげるためのリードタイムは、数分単位であるが、紙の場合、数時間から数週間単位の時間を要するなど、即時性、瞬時性については問題を抱えているメディアではある。

                 

                正規軍型組織のためのマスメディアと

                ゲリラ組織のためのWebシステム

                正規軍型、つまり平原で大軍と大軍が正面からぶつかるような戦闘が正規軍型組織の戦闘である。日本史上の出来事で言えば、関が原の戦いとか、川中島の戦いとかという戦いである。あるいは、戦車戦で言えばアンツィオ作戦とか、バルジ大作戦とか、海戦で言えば、日本海海戦やミッドウェー海戦などが代表的である。ちなみに、こういう海戦タイプの戦闘では、事前に作戦計画書とそれぞれの役割が定められており、それに従って戦闘行為を展開していくのが、基本である。そのためには同じ作戦計画書と同じ作戦行動に関する情報を共有せねばならず、同時内容、一斉発信型のマスメディア型のメディアが必要になるのである。

                 

                http://nabe3rr.blog21.fc2.com/blog-entry-795.html?sp さんから

                 

                しかし、ゲリラ型作戦を行うためには、そこまでの一斉行動をする必要がなく、通常の場合、正規軍という相手の消耗やモラルの低下を導くことが、相手の戦闘継続能力を低下させれるためには、何より有効であるので、不確実性が一定程度で存在しでも、利用できればなんでもいいという側面がある。もともと戦闘そのものがゲリラ戦の場合、場当たり的であり、出たとこ勝負ということはある。

                 

                今でこそ、インターネットは常時接続であるような印象があるが、もともとDarpa Netの頃は情報のバケツリレーをやている感じで、あるところまである時間に運ばれ、その別の一部は別のところから別ルートでバケツリレーとして運ばれ、サーバーと呼ばれるところにためて置かれる、という構造になっていたし、原則、今でもそうなっているが、計算機の速度を含めた能力と、回線の速度と頻度が上がっているために、あたかも一瞬で運ばれているかのような印象をお持ちかもしれないが、基本的にはボランティアのバケツリレーで、宛先付きに小分けにされた通信内容の入ったパッケージを、相互の信頼において、宛先が指定されているあたりの適切な指定場所に相互互恵的に運び合うことで運用されているのである。

                 

                その意味でも、相互独立型で、それぞれの主義主張に合わせて動いている組織の互恵関係で運用しているという意味でも、アングラ的であるし、AからBへのリンクが貼られることもあるが、逆にBからAへのリンクが貼られることがないとか、BからAにリンクが張られているものの、AがアドレスをA’に移しているためにBからA’に行こうと思っても、Aしか出ず、あれれ、ということが平気で起こるのは、それぞれがそれぞれのところでそれなりに対応する、という概念で動かされているからではある。そもそも、手前勝手、好き勝手に場当たり的に関係を作るという、正にゲリラ的な生き方で運用されているのがWebの世界である。

                 

                本来、システムの問題ではなく、

                組織の構造の問題かも

                ということを思っていると、お友達が横浜市のWebサイトを巡る問題の話を上げていた。要するに、横浜市のWebサイトがダラダラと基本設計なく建て増し建て増しで増改築を繰り返し作られていて、サーバーもいくつもあって、おまけにサーバーにあるのだが、なんのために作られたかわからないサイトや、情報が乗ったHTMLファイル、なんのために要るのかわからなくなったファイル、リンクを辿りたくても辿れない、そのサイトから辿っていくと突然行き止まりになる、と言ったほとんどミノタウロスの洞窟(あれは糸を使うというかなり原始的な方法で脱出口を発見したことになっているが)状態になっているので、サイトの再構築を請け負った業者が横浜市が仕様設計段階で言ったことと話が違うではないか、ということで、訴訟を起こし、相互に訴訟合戦をしているらしい。部外者として高みの見物をしている分には、実に愉快愉快と言いたくなるような状態が生まれているということらしい。それを見ていたある方が、情報やっている会社なのに・・・けしからん、というコメントをお友達の板に残しておられたが、それは現実をよくご存じない方のご発言だなぁ、と思った。

                 

                いつもながら、金融機関の話ばかりで申し訳ないが、合併とか、適当に初期設計が十分でない中で、やっつけでシステムを作ると、こういうことは起きるのだ。これが起きたのが何年か前のみずほ銀行のATMが止まってしまった事件である。みずほ銀行のシステムは、旧富士銀行、旧第一勧業銀行などと行った幾つかの銀行のシステムを吊橋で繋いだようなシステムで、その吊橋部分に不具合ができ、全システムを止めることになったという事件なのである。

                 

                こんな感じか?

                 

                横浜市のウェブサイト問題に見る

                組織構造とウェブサイトの問題

                横浜市も、とりあえず市民への情報発信を急ぐ、ということで、このあたりの基本設計なしに部局単位で勝手に共通仕様を設定しないまま、各部局単位の情報発信を始めたのだろう。これは、システム屋なら、お考え直しになられたほうが良いのではないですか。少なくとも、共通仕様を設定されてはいかがですか、後で面倒なことになりますよ、といったはずだが、まぁ、それは虚しくこだまになったのであろう。こういうことはよく起こる。システム設計は、普通の人には意味がわからないからだ。

                 

                横浜市のウェブサイトの問題を指摘するウェブページ

                 

                スマホで“超”見づらい横浜市のホームページ、リニューアルできない驚きの理由

                 

                 
                まぁ、共通仕様を定めずに、データを引っ掛けるためのインターフェースも、タグも、管理方針も何もないなか、五月雨的に開発すると、スパゲッティどころか、毛糸が絡み合って、あちこちに瘤があって、それを機械的に処理するよりも、人の手により解きほぐしていくほうが、良いという状態になっているのだと思う。想像もしたくない。
                 
                プログラム開発なら、ドキュメントも残っていようが、Web作成などは、ドキュメントもへったくれも残っていることなどは、ほとんどありえない。おまけに、役所のことだから、一つの業者に継続して随意契約でまとめて発注するのではなく、一つのサイトごと、下手したら一つか複数のファイルごとに、入札かけて、最安値の業者に発注かけたりしているから、設計思想も実際のコードも、いくつかあるXMLのコード体系も、開発時期によって違うとか、出来上がっているサイトのスクリプトなんかもてんでバラバラなのだろう。おまけにファイルとしては存在は確認されているのに、どういう目的で誰がいつ作ったか、定かでないウェブページが、数十万単位で存在するらしい。作成したソフトウェアに至っては何をか言わんや。メモ帳で作ったもの、エディタで作ったもの、ホームページビルダで作ったもの、下手をしたら、ワードで作ったもの、エクセルで作ったウェブページとか、色々あるだろう。
                 
                同じマイクロソフト社の製品でも、ExcelとWordは昔はかなり設計思想が違うので、エクセルとワードをVBAのマクロで動かすとかは結構苦労した記憶がある。最悪なのは、役所には定期人事異動という難物が待っている。2年から最大7年くらいで、定期人事異動が役所では回ってきて、同じ部署にいる人は、よほど余人を持って代えがたい人か、余人を持って変えると問題が起きる職場か、その職場以外務まらない人がいて、他の職場で問題行動を起こすと困るので、人目につかない職場にいていただくのかのいずれかの場合が多いので、難の目的で、このファイル作ったんですか、誰が作ったんですかどういう構造ですか、どうしてここでこのスクリプトを使っているのですか?と聞きまくって、結局1週間かけても、かえって謎が深まっただけ、で終わることはザラである。
                 
                こういうことは役所の情報システムだけで起きているのではなく、行政関係の書類でも時々起こる。頻繁に使わない書類は役所の地下にある倉庫とか、屋上にある倉庫、階段の下にあり、人目につかない倉庫に保管されることが多く、いざ、その書類を探そうとするとか、地下倉庫に入ってみると、妙な書類入りのハコなどが見つかることがある。まぁ、日常のことは、ある程度皆さん、やり方のルーチーンがあって、そのへんの関係部署に聞けば、大抵のことは問題解決がすぐ済むのであるが、めったにしないことや、めったに動かさないものを調べるのは、あのあたりにあるはずだ、ということはわかっても、それがどこにあるのかはわからなくなることが頻繁に起きる。そして、その場限りの思いつきで、適当に書類入りのハコをみんなが動かすので、大事な書類や物品でも、めったに使わないものは行方不明になっていて、あれ、なんでこんなものがこんなとこにあるのだ、と言うものが発掘されることがある。大学なんかでも、妙な骨董品状態のものが屋根裏の倉庫室から見つかるなんて話は、結構ある。

                 

                 

                アメリカでは、刑事事件の証拠物品などが、警察の証拠品室や書類室で行方不明になって、結局迷宮入りとか証拠不十分で不起訴とかいう話は結構あるし、その辺を扱った警察ドラマなどもある。代表的なものとしてはCold Caseという、テレビドラマのシリーズである。結局役所と言っても、その程度のものであり、であるからこそ、投票前の投票用紙が紛失してしまったとか、焼却処分にあってしまったなどということは時々起きる。起きて張らなないことであるが。まぁ、ドラマの中では、フィラデルフィア警察は、証拠保管能力が高いらしく、何故か、適切な、迷宮入りしたはずの事件の記録が入ったハコがドラマ中によく見つかる。

                 

                 

                TV ドラマのColdcase
                組織が記憶できない形の組織だったり、こういうものが行方不明になる組織タイプの組織では、その組織構造の特性がより歪んだ形でWebの世界にはできてしまう傾向があり、いくら計算機屋でも組織の根本構造そのものまではどうやってもいじれないので、今回の横浜市のような事案が発生する。それは避けられないのだ。
                 
                まぁ、Webのような自己増殖的なネットワークに対応できる、水分たっぷりのスライムみたいな柔軟と言うか可塑性に満ちたものは、却ってどうにでもなるので、あとで始末に困ることがある。そのためには逆にきっちりとしたコンテイナみたいなものが要るのだ。
                 
                今回横浜市の案件も、基本設計を決めて、担当部局が出したいデータを、もう一度一から作って提出させれば住んだ話を、それを各部局がしたくない、というワガママ(本当にそういうのは、意識低い系だと思うが)をそのまま何も考えずに、横浜市の各部局のわがままをまるごと業者に丸投げした結果、どうにもこうにもならなくなった、ということだろう。どんなシステムであっても、移行作業にはミスがつきまといがちだし、避けられないし、けっこう大変なのだ。単に、プログラム・コードでなんとかできる話ではない。

                 
                アウトリーチツールとしてみた
                Web作成の際に知っておいたほうが良いこと
                今、Webが社会の知的インフラになり始めているように思う。ちょうど、今は、公衆電話が町のあちこちに置かれ始めた時代と似ているかもしれない。その時代には、公衆電話が音を遠隔地まで運んでくれるので、電話線に風呂敷包みをぶら下げておくと、電話線を通じて、風呂敷包みがテレポーテーションされるのではないかと思ったとかいう話があったように聞いているが、今はウェブの使われ方がその時代のような状態なのだと思う。そして、電話がファックスになり、自動車電話になり、ポケベルになり、携帯電話になり、スマートフォンになっているが、ウェブ自体は、電話というものがあると人々が認識し始めた頃のようだと思おう。その意味で、電話は100年位かけて、その当たり前の使い方が社会に形成されたように、ウェブは、あと10年とか20年で当たり前の使い方、冒頭のTim Berners Leeのにこめの講演のように、自分たちでその正当な作り方や使い方を形成しようとする動きが出ているから、それがあと10年位で当たり前になっていくように思う。
                 
                その意味で、電話の普及初期に風呂敷包みをかけたような、まだまだ使い方がわからない人たちが、Webを使おうとしていて、それがどのようなものか、どのような社会的意義を持っているのかをわからずに使っているという感じであろう。そして、まぁ、本来の使い方とは違うとおもわれるようなアファリエイトとか、まとめサイトとか、ライターとかの小銭儲けの仕事の道具としてのWebを見ているのだと思う。まぁ、ウェブってメディアって色んな使い方はできるけど、ホントは違うよね、恥ずかしいよね、って言うデ・ファクト・スタンダードがその内できていくと思う。
                 
                もともと、ヒッピー的なボランティア精神で出来上がってきたツールを、そこに金だす人がいるからと言って、Webというコンテナ、道路を自分の小銭の打出の小槌として使わないほうがいいと思う。それはセコいことだと思うのだ。しかし、それがセコいことだ、恥ずかしいことだ、ということのきっかけにおそらく今回のWEL●サイトなんかはなるのだろうと思う。
                 
                その意味で、ウェブの世界は現金化のための簡単な金儲けのツールとしては考えないほうがいいかもと思うのだ。金儲けの決済とか、金儲けのコミュニケーションのためのツールとして一部使えたとしても、それを目的とするのは、一種目的外利用の疑念がある。まぁ、技術だから、何にでも使えるのはすべての技術共通であるが。
                 
                ところで、Tim Berners Leeの第1講演をご覧頂いた方はわかるとは思うが、Tim Berners Leeは、壁を超えていくためのツールとして、Webの世界と、その先に実現するであろうOpen Data(オープン・データ)の世界を考えているようである。つまり、本来、国境とか、制度とか、技術標準とか組織の壁とか言ったわけの分からない縛りは、一時的なものでそれは意味があるものではない世界としたい、そのような制約から自由になり、異なる世界と対話していくための、そして、協力し、協業していくための技術的な枠組みについての議論をしている。そこで問われるのは、その異なる世界と対話していく精神があるか、とうことである。対話が成立していくためには寛容な心、オープンな精神性を持つ独自性が対話しようとするものとの間にあるのか、それだけの根性があるのか、私の世界になんとか、引き入れたい、あわよくば信者になってもらいたいという下心ミエミエのケチな精神では、人は逃げ出すということである。
                 
                ロング・テイルな情報はあります

                さらに、Webでも他のことでもそうであるが、あまりに短期的な生き方をしない方がいい、ということだと思う。我々は、ナウエンがその著書でよく指摘するようにあまりに短絡的、あまりに近視眼的な生き方しかしていない。数時間単位、数日単位、数週間単位でしか物事を見ない。1年ですら考えていないのではないか。

                 

                ところが本物は、違うのである。これは古典とかクラッシクスと言うものの出来方は、どうも短期的なものではないのではないか、と思っている。個人的には、このブログを通して、クラッシクスができていくのを目の前で、見たようなきがする。わずか数年の経験でしかないが。いわゆる、それは、Webの世界で言うロング・テイルコンテンツと言われるもので、リリースした当初にはあんまり反応がない事が多いものの、いつの間にか評判になり、意味を見出され、クラッシクスになっていて、一種の定番商品のようになっているコンテンツがいくつかある。このブログでは、常連さんの

                 

                現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

                 
                という記事がそれにかんけいするかもしれない。あれを書いた当時は、難の気無くある書いた記事である。それがここまで人気のある、上位5位以内の常連さんになるとは全く思っても見なかった。Webの世界ではそれが起きる。それを目指して書いたわけではないのにである。
                 
                Long Tailと検索エンジン対策への最適化 http://blog.directorymaximizer.com/2011/11/ から



                 
                双方向的なコミュニケーションのWeb
                一方的なコミュニケーション中心の教会
                教会での説教などや学校の授業などの情報提示の世界は、基本、一方向的である事が多い。ところが、炎上という語にも見られるように、ウェブの世界では一間一方的に離しているようでありつつ、双方向的な部分を持つ。人を怒らせるようなコメントを書いていくる場合もあるし、悪しざまに言われることもある。
                 
                このブログをかなりの頻度で書いていることで、このブログの筆者であるミーちゃんはーちゃんのやっていることを中傷するブログまでわざわざお立ち上げになられた方がおられたことがある。その事実を所属長からご教示いただいて、ミーちゃんはーちゃんが勤務している所属組織で過去に起きた不祥事などを掲載しながら、その所属組織まで廃止したらいいという発言を匿名のブログでなされた方も、過去におられた。何が気に入らなくて、そのようなことをなされたかは存じ上げないが、実につまらないことをされる方もおられることは確かのようだ。そのサイト自体は、なぜか、いつの間にかなくなっていたが。
                 
                そういう人たちとも対話し、尊重し、向きあうための心構えはすくなくともいるだろう。相手を何らかの形で、切ってしまったらおしまいのような気がする。どんなにひどいことを言われようと、どんなにひどい対応を受けようと、そうする人と向き合う根性というか忍耐力があるか、ということだろうと思う。

                その意味では、このあたりは、キリスト者は本来お得意のはずなので、Webは、ある面、キリスト教会関係者向きなのかと思いながらも、結構キリスト教界界隈の皆様は、突然その戦闘民族性を出される方が多いので、揉めたり、炎上したりしていることも多いので、まぁ、どんなものだろうと思うことも多い。他の宗教者の集団はWeb上の友達に少ないので、そう思えるだけのことなのかもしれないけれども。
                 
                ところで、相手の意見を受け止め、対話しながら、自分自身を見直していくところにシナジー効果が働くように思うのである。じぶんはまったく1ナノ・ミクロンも変えない、自分の意見とあわないものの意見は認めない、自分と意見の合わない者は黙殺、圧殺する、というようなあり方では建設的議論も、豊かな対話も、豊かな社会も生まれないように思う。相手の存在と意見を認めつつ、自己についてのみ自己の熟考の上で変えられる部分は変え、留保条件をつけた上で他の人々の意見と繋いでいく事、他者の存在を受け入れる事、すなわち自らの生き方の編集作業ができることが重要なのだろうと思う。
                 
                そして、意見の併存を認めていく、他者と共に生きる豊かでしなやかな社会を作っていくためにこれらの精神は必要なんだろうなぁ、と思っている。これは、大阪で、あるヘブライ思想の研究者の方を含む、何人かで食事をした時の感想でもあった。
                 
                教会のウェブサイトもうちょっとなんとかなりませんかね?

                この連載を閉じるにあたって、最近友人とした会話を思い出す。それは、教会でのウェブ対策とか行った講義をもう少し神学校で実践的な教育プログラムの一環として、やったらいいのに、あるいは、教会役員のリカレント教育で、ウェブ対策講座とかやったらいいのに、ということである。これだけ社会のインフラとして、Webがなってきた時代に、個人の自助努力とか、あまりに涙ぐましすぎる。まぁ、いくつかのウェブサイト見れば、解決がつく話のことが多いが…。
                 
                残念ながら、教会のウェブサイトは、見た目がぱっとしないものが多い。それはそれでいい、といえばそうなのだが、教会堂は立派なのにウェブサイトはめちゃくちゃしょぼい、という例は結構ある。教会堂はかっこいいのに、Web空間のショーウィンドーは、雨風で薄汚れて、何年前の?と思いたくなるような変色した食品サンプルがゴタゴタと並び、一部汚れたベニヤ板で覆われた状態のように見えるものを見た時、「あーぁ、…」と思うのである。
                 
                多いのは、スマートフォンやタブレット対策をしてないため、表示が崩れたり、サイトがこれらの携帯端末では見づらい物が多い。それから、教会のサイトで多いのは、自分たちの思い込み、価値観で作り込まれているサイトが多すぎる。ユーザー目線が含まれていない物が多い。まぁ、日本では、まだウェブの離陸の時期だからいいけれども、あと5年後には、どうにもこうにも、となりそうなサイトがゴロゴロしているのではないだろうか。
                 
                この世界は、神学とかの世界と違い、3年前の技術水準や技術仕様は、ほとんどナンセンスという、まだまだ動きの早い世界である。だから、アジャイル開発ということばももう15年くらい前にはやったほどである。その意味で、神学校で扱うのはどうか、ということもあるが、一部の講義では、昭和初期の日本語で書かれた書籍でお勉強されている神学校もあるらしい。実に立派な精神である。
                 
                まぁ、何でもかんでも、新しければいいとは言わないが、古ければいいというものではないだろう。古ければ古いなりの味わいはあるが、それなりの不便さというものはあるのである。ごく一部の好事家を覗いては、竃(へっつい)で毎日米を炊かないのではないかなぁ。



                 
                http://rifa.jp/old/salon/09.11.29/kamado.htmlより


                 
                ということで、この連載は一旦ここまで。

                 
                一部、言いたい放題いすぎて、お辛かった方もおられよう。申し訳ないと思うが、この際だから思いの丈を申し述べた。不愉快になられた方には、心からお詫びする(ここで詫びるくらいなら、スルーしとけ、というご高説については、返す言葉がない)。

                ということで、このあと、久々に『クリスチャンであるとは』を読んでみたら、こうだった、シリーズでしばらく遊んでみることにします。あの本ももっとその意味がわかってもらえると嬉しいので。







                 

                 

                 

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                ショップ: 楽天ブックス
                コメント:めっちゃおすすめ。アメリカ人のかなりの部分の精神性を理解するためには、必読な入門書。

                2016.12.13 Tuesday

                NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その15

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                  フェイスブックのライト読書会でのディスカッションが、かなりゆっくりに進んできた。それに合わせて、このブログも公開を止めていた。この1年の間にライトセミナーが何回か入ったり、その間に「新約聖書と神の民」などの連載が入ったり、JCE6を始めとするイベントなどなどが入ったりしたこともあった。フェイスブックでのライト読書会は、いまのところ、この本が直近の課題図書で止まっている。その議論が一段落していところでもあるので、連載を再開することにした。

                   

                  本日は第6章 イスラエルについての冒頭部分から紹介を再開してみたい。これは実に重要なテーマであるし、スコット・マクナイト著 『福音の再発見』でも聖書を考える上で重要な関係があることとして取り上げられたテーマである。

                   

                  基礎の基礎としてのイスラエルを

                  理解することの重要性

                  ここで、ライトさんは、聖書を理解する上で、旧約聖書の理解が極めて重大であると主張している。たしかに旧約聖書は犯罪事件の記述はあるし、近親相姦の話はあるし、王様のPeeping Tom事件の記述もあるし、バラバラ遺体損壊事件も出てくる。また、集団虐殺事件も出てくれば、そんじょそこらのバラードや、マドンナの放送禁止コードすれすれの、真っ赤なラブソングが真っ青になるほどのラブソングも出てくる。さらにいえば、偶像崇拝の話も出てくる。これほど西洋型の、あるいはアメリカで独自に発展してきた「清く正しく美しく」型の教会にとっては、不適切な文書もないような気もするが、これが、ヘブライ人世界の多くの人々にとっても、キリスト教の信徒たちにとっても、ムスリムにとっても聖典なのである。困ったことに。

                   

                   

                   歴史的な出来事として、あのナザレのイエスが生まれた民について、なぜ一章を割いて論じなければならないのか。

                   

                   初期のクリスチャンは、この問題について考える必要がなかった。この問が起こること自体、クリスチャンの世界がそのルーツからいかに離れてしまったかを示している。イスラエルの長い物語(ストーリー)において、ナザレのイエスのうちに起こったことこそが、正にクライマックスであると受け止めることは、クリスチャンの世界観にとって文字通り根本的なことである。そのイスラエルの物語がどんなものであったか、それがどのような働きをし、どのような意味があるかを理解しないままでイエスを知ろうとするのは、野球やクリケットがどのようなものであるかを理解しないままで、なぜ、バットでボールを打つのかを理解しようとするようなものだ。(『クリスチャンであるとは』p.102)

                   

                  つまり、ここで、ライトさんが言おうとしているのは、初期時代、つまり、古代キリスト教界、それがどこまでか、どこまでが古代か、どこまでを初期とするのかという議論はあるにせよ、少なくともパウロから1世代くらいまでのクリスチャンのことを言っていると思う。おそらくこの初代クリスチャンの理解は確実にそうだと思うが、このイエスの十字架での刑死から第1世代後くらいまでのクリスチャンにとって、ヘブライ語聖書、あるいはよく知られた通り名では旧約聖書(以下では、特に断らない限り、両者を一つのものとして考える)は常識であったのである。彼らが読んでいる聖書、新約聖書での言う部分の「聖書」は、基本「旧約聖書」出会ったことはもう少し認識されて良いと思う。どうも、現代の感覚で、福音書とか、使徒言行録とか、書簡集をよんでいると、今、我々が普段目にすることが多い、66巻からなる聖書、または、66巻プラスアポクリファからなる聖書を思いがちであるが、紀元1世紀頃のキリスト教徒にとっては、39巻プラスアポクリファであったのである。おそらく、その大半はヘブライ語で読んだのではなく、アレキサンドリアでギリシア語に翻訳された70人訳聖書であったであろう。

                   

                  アメリカ人に言わせれば、旧約聖書は、クリスチャンの聖書読みの101(101はアメリカの大学の新入生向け入門講座の科目番号 Economics 101とかGeography 101とか言う)と言い出してもおかしくないし、日本語風で言えば、旧約聖書は、新約聖書を読むための「あいうえお」や「いろはにほへと」ということなのであろう。

                   

                  マクナイトは、この聖書を読む上での「いろはにほへと」あるいは「あいうえお」がわからない限り、あとは何をやってもおかしくなるから、まずちゃんとこの旧約聖書という土台を大事にしてはどうか、と提案した本ではある。まぁ、あの本はプロヴォカティブな本であり、「あなた達の聖書の読み方は正しいのか」、下手をすると、「あいうえお、しっているよね」というようなことを主張するような本である。こういうことを遠慮会釈なしに、いきなり主張すると、突如、怒り出すような、じつに難儀な方々もおられるので、最初に、旧約聖書抜きのキリスト教(それは福音書なきキリスト教でもあるが)が、もたらした悲惨な事例報告を、学生の授業へのコメントなどを引用することでしている。その上で、ほんとうに言いたいところに読者を招き入れる。まぁ、普段からヘブライ語聖書もお読みの方には、全く関係のない本であるから、読んでも意味を成さないと思う。

                   

                  ヘブライ語のアルファベット覚え歌(覚えたのはこのバージョンではない)

                   

                  ユダヤ人とヨーロッパの不幸な関係

                  ゲルマン民族や、長髪のガリアが、ローマ近郊でウホウホ言っていた頃から、ヨーロッパは、近東あるいは西アジアと無関係に、あるいは無縁に生きていない。生きてられなかったのだ。西アジア地域でムスリムを中心とした世俗及び宗教国家が成立した時に、ヨーロッパ人の、そしてヨーロッパ人の必要とする物資の貿易と交易と、その資金決済の機能をキリスト教徒に提供したのがユダヤ人であり、ある面、ヨーロッパ人が汚れ仕事、と思っていたことを、やってくれたのが、ユダヤ人である。

                   

                   

                   

                  「長髪のガリア」の画像検索結果

                  長髪のガリア

                   

                   

                   

                  ある面、日本の差別された人々やインドの不可触民、あるいは過去ジプシーと呼ばれたこともあるロマ人の人々は、社会の周縁に制度的に置かれ、制度の制約を受けない人々は、汚れ仕事と人々が思っていはいるが、必要な業務ではあるのだけれども、触れたくなことをやってくれる手を触れたくないことをしてくれる人々で社会の側が必要としたし、それゆえに制度が成立したのだ。そして、それは長年をかけて、そのような周縁に置かれた人々を扱う制度を作り、その制度に人々は従順に従う慢性病にかかっていったと言うか、その病の慢性患者にされたのである。社会において呪われた存在、アザゼルのような民族とされてしまったのがヨーロッパにおいてユダヤ人であったのだ。

                   

                  ライトさんは、ここで、1940年台に起きたユダヤ人への各国での迫害、贖いの犠牲としてユダヤ人を捧げるという行為、ホロコースト(このことばは、贖いの犠牲、というギリシア語に由来する)、および、ロシアでポグロムを始めとする排斥運動、そして、それに積極的にせよ、消極的にせよ、加担していった、あるいは加担していったと言われても仕方のないキリスト教神学に対して、深い反省を示しているようだ。イギリスでは、明らかな形での迫害は起きなかったものの、ユダヤ社会に対しては、冷淡であったし、ユダヤ人移民を肉体作業をする労働者として受け入れるのが、精一杯であったのである。

                   

                  その意味で、ヨーロッパ諸国での反ユダヤ主義は非常に苛烈なものであったし、明確な反対を上げることは躊躇される行為でもあった。そもそも、ナチスドイツが起こしたホロコーストを止めることがヨーロッパは自らできなかったのである。

                   

                   

                  このあと、ライトさんは、19世紀末から始まった(これまたドイツであるが)聖書批評学により、いわゆる歴史的空間の連続性と一貫性を前提とした、近代科学に於ける「科学的」という大義名分のもとに、旧約聖書の恣意的な削除などの検討が行われるようになり(これは『新約聖書と神の民』の第1部で取り扱っている内容)、資料としての聖書をどう考えるかということを上げている。

                   

                  この話は、20世紀の神学論争、とりわけ、聖書信仰の問題として福音派が意義を申し立て、それが行き過ぎて、翻訳聖書の一字一句の解釈にこだわるという行き過ぎにも、繋がったようにも思う。そして、挙句の果てに、相手をことあるごとに「リベラル」というレッテル貼り攻撃し、あるいは、「聖書が読める裸足の人間」とか、『大学に行かない服を着た説教者」と言うレッテル貼り攻撃をし続け、対話をしようともしなかった、不幸な歴史があったように思う。実に無益な時間を過ごしたものだと思う。それも、これも、Unityの意味をUniformityと履き違えた不幸な歴史であったと思う。

                   

                  そのあたりの紹介があったあと、ヨセフスというまたややこしい人物をライトさんは出してくる。ヨセフスのことを、有能だが一匹狼だったと、ライトさんは評している。まぁ、そうだろうとは思う。なお、有能で一匹狼だったと書かれているのは、原文(アメリカ版)では、brilliant (if maverick) という語が用いられている。

                   

                   

                  フラヴィウス・ヨセフス

                   

                  このヨセフスの名前を初めて聞いたのは、大学2年性の時に、関連科目として受講した、古代オリエント史入門という授業中、池田 裕先生からお聞きした時であったと思う。イスラエルの歴史の説明、イスラエルの風土、そして地域間交流史の説明の中で、ヨセフスの名前とその作品に言及されたのである。

                   

                  貴族であったヨセフスは、ユダヤ戦争期に民の指導者として、マサダの砦のような要塞の一つに立てこもるものの、ローマ軍に囲まれて、割とあっさり投稿し、ときのティトス帝に、今で言えばユダヤ問題コンサルタントのような形で、ご協力していく人物である。

                   

                   

                  マサダの砦 

                  http://www.dailymail.co.uk/travel/article-1278866/Israel-From-Herods-Masada-fortress-Dead-Sea.html から

                   

                  一部のユダヤ人からは裏切り者呼ばわりくらいはされただろうとは思うが、ユダヤ思想を残し、ユダヤ思想をラテン人(ローマ人)とその後継者としてのキリスト教徒に伝え、ユダヤ民族が生き残る方策を考えたという意味では、ユダヤ的な思想を現実に生きた人である。

                   

                  大学生時代、この人物を池田裕先生の授業でご紹介をうけたので、大学の図書館で、工学系の学生のくせに人文歴史学系の先生方が購入されたと思しき、ヨセフスのユダヤ戦記、ユダヤ古代誌などをむさぼり読んだ。そして、ユダヤ古代誌を読んだときは、「旧約聖書もこんなふうに書いてくれたら、もっと読みやすかったのに」と思ったことは告白しておこう。その意味で、『神の物語ー聖書を1年12ヶ月で読む本』よりはかなり詳しいし、聖書にはない部分の記述も十分書いているので、間違いなく西洋の古典学で重視される文献資料の一つである。そして何より、読むに耐える本である。まさにクラッシック(古典)とはこのことか、と思うような本である。まぁ、大頭眞一さんの本はアジアの反対側の東の国の人なので、「1年12回で…」は、大変残念ながら、世界のクラッシックスに含まれる、1冊にはならないと思うが。

                   

                  摩天楼を作ろうとしたがる人間

                  煙となんとかは高いところに登るという話があるが、イカロス伝にせよ、飛行ヲタのパヤオ監督にせよ、飛行機ヲタのミーちゃんはーちゃんにしても、空を飛ぶことは人類の理想であった。空を飛ばないまでも、バベルの塔以来、高い建物は人類の見果てぬ夢であったのだ。高い建物に済むことで、下界を睥睨することは、神の視点を持った、と誤解しがちなのである。それで稼働だか知らないが、超高層マンションは、高層階ほど値段が高い。しかし、電気が止まれば、高層マンションは悲惨である。

                   

                   神の姿(イメージ)をこの世界に反映させるはずだった人間が、そのかわりに自分の姿を鏡で見るようになった。そこで見た姿を気に入り、同時に怯えた。尊大になり、同時に不安になり、自分たちだけが重要な存在だと思うようになった。そこで神は人間を地のおもてにちらし、ことばを混乱させることで、以降、傲慢なプロジェクトを建てさせないようにした。

                   バベルの塔の物語は不義にまかせた世界であり、見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)であり、人間関係の崩壊であり、大都市の醜悪さで人間のプライドを誇示する建造物の物語である。(p.105)

                   

                  この部分を読みながら、人間は、自分自身の姿に感動を覚えると同時に、自分たちを偉大なモノであると誤解してしまう癖があるようだ、と思った。それは、自分自身を見ていてそう思う。人間は、効率性を追求し、あるいは強さを追求した挙句、等身大の自分を見失い、そして混乱していくのだ。

                   

                   そうであるから、その自分の怯えに向かい合うために、ソリチュードが必要であると、神と自分の関係を見つめ直すことが必要である、とナウエンはThe way of the heartで言っている。

                   

                  何より、この部分を読みながらショッキングであり、インスパイアリングだったのは、「バベルの塔の物語は不義にまかせた世界であり、見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)であり、人間関係の崩壊であり、大都市の醜悪さで人間のプライドを誇示する建造物の物語」という部分であった。とくに「見せかけの霊的な姿(自分たちの努力で天にまで届こうとした)」という部分が非常に印象的である。天が古代のヘブライ人の世界で、神の在所、神がすべてを司っておられるところを意味するとすれば、天にまでとどことすることは、天に近づくばかりではなく、神の領域を侵略し、自分たち人間が神の聖座を簒奪しようとした、その地位を奪い取ろうとした、神の如きものになろうとした、ということだと思うのだ。見せかけの霊的な姿で。

                   

                  この部分を思いながら、浮かんだ映像が、これであった。別に意図はないが、思い浮かんでしまったのだからしょうがない。ミーちゃんはーちゃんが幻を見たとでも思って頂けたらさいわいである。

                   

                   

                  思い浮かんだ画像 http://www.trumptowerny.com/ から

                   

                  神になろうとした結果が、大都市に住もうとすることであり、そして人間関係の崩壊をもたらすことであり、人間のプライドを誇示しようとした結果の大都市の醜悪さとすれば、都市とは何なのだろうか、と思う。その都市計画の方の仕事をしなくて、本当に良かったと思っている。

                   

                  都市の醜悪さというか、現代の都市生活のおかしさについては、ヘンリー・ナウエンの「愛されている者の生活 ―世俗社会に生きる友のために」という本は、現代のニューヨークでジャーナリストとして働いている若者にあてた本であるが、その中には、大都市に住みながら、何重にもロックした住宅の中に自ら閉じ込めているのではないか、それは自ら、刑務所の中に入って、安全だ、安全だ、と言っているのではないか、と指摘している部分がある。そのような現代社会のおかしさにナウエンが触れた部分があるが、それもまた、見せかけの霊的な姿がもたらした、尊大さの影の部分、怯えている社会の姿を示しているように思う。

                   

                   

                  イスラエルの民とは何者か?

                  日本語版では、新改訳聖書 創世記12章2−3節の

                   

                   そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。

                   

                  の部分の引用があったあと、次のようにライトさんは続ける。

                   

                  最後のセンテンス(引用者註 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される の部分)が極めて重要である。地上の民族は分裂し、混乱していた。自分たちだけではなく、世界のあらゆるいのちの営みを台無しにしていた。アブラハムとその子孫たちはある意味で、物事をただすための神の手立てであり、神の救いのわざに先立つものとなるはずだった。(同書 p.106)

                   

                  地上の混乱を収束させ、神との関係を回復させる手立て、手段、ツール(英語では、mean)がイスラエルの民、ということなのだろう。そして、それはイエスにおいて実現するのであろう。ここでの祝福とは、繁栄でも、豊かさでも、立派であるとされることでも、揉め事がないことでもなんでもないのだと思う。祝福とは、神との関係が回復し、神とのコミュニティが回復する世界なのだと思う。

                   

                  ここで「物事をただす」と書かれていることは大事だと思う。これは、物事ということよりも、物事と人間との関係、人間同士の関係、関係性の回復だと思うのである。つまり、神が本来与えようとしている、神の支配の満ちたコミュニティの回復なのだろう。と思う。本来それを与えられたキリスト者が、神との関係性の回復、それすら、別のもの、経済的な豊かさや、健康、自分自身の立派さと言った、別のものにすり変えてしまうという、人間の罪深さを感じている。

                   

                  回復された神の世界とアブラハム

                  アブラハムと神との関係について、ライトさんは次のように書く。アブラハムへの契約は、神の側の一方的な宣言であり、確固たる関与であり、参与であるというのである。そして、このアブラハムの家族(アブラハムの民、神の民)が回復される世界が、終末とか、崩壊とか、破壊といったおどろおどろしいものではなく、神の美しい支配として到来することについて、次のように書く。

                   

                  大切なことは、神がアブラハムと結んだこの契約は、世界の創造者がアブラハムとその家族の神となるという確固たるコミットメントであるということだ。アブラハムとその家族を通して、神は全世界を祝福する。(中略)それは新しい世界、回復された世界、創造者によってもう一度祝福される世界を示すヴィジョンである。そこは義の世界であり、神とその民が調和をもって生き、人間関係も豊かにされ、美によって醜さがおおわれた世界になることだろう。そこでは、あらゆる人間の心の中に響いているあの声が調和し、生ける神の声として聞こえてくることになるだろう。(同書 p.107)

                   

                  こういう部分は、たしかに万人救済説と誤解されかねない部分を含む。そして、ライトさんは、この中からの一部だけを読むと、万人救済説だという誤解を与えかねない表現を含む。しかし、神は、人間を愛するが故に、無理やり神との関係の回復を望んでいない人に神との関係の回復を与えられるか、というと、お与えにならないように、ミーちゃんはーちゃんは思うのである。人が自ら神に戻らないことを認める、そこまでの神の愛ではないか、と思うのである。ライトさんが話されていること、お書きになっていることなど、いろいろなものを見ていると、どうしてもライトさんが万人救済説に立っているとは思えない。ライトさんがすべての点において正しいとは思わないけれども、個人的には、ミーちゃんはーちゃんはかなりいい線いっているのではないか、と思う。ミーちゃんはーちゃんごときが言うべきことではないが。

                   

                  個人的には、自分のものの見方や、聖書の読み方を相対化する上では、ライトさんは、非常に有益な視点を与えてくれた人の一人ではある。

                   

                  救出しようとする側が

                  救出されねばならないという悲劇

                  ここで、ライトさんは人間の限界を、アブラハムを通して語っている。本来人間が人間を救うことはできないし、そこから救済があるはずのアブラハムですら、いろんなトラブル、失敗、偽証もどきのれんぞくであったのである。それは、アブラハムやアブラハムの家族、イスラエル人が、世界を、神と人間との関係をただす(関係を回復する、関係を適切なものにする)のではなく、アブラハムの末、イスラエル民族を用いて、立て直すのではなく、イスラエルのただ中に、神としてイスラエルの民の中に現れ、イスラエルの民と共に生きる、大祭司としてイスラエル人のみならず、すべての民とも関与していく、ということだろう。

                   この契約は、神の側にあってはゆるぎないものだった。しかし創世記が語るように、アブラハムの側はとうてい堅固とは言えなかった。最初から問題にぶつかり、それがナラティブ全体に付きまとうことになる。難破した船を助ける救命ボートが大波で座礁し、救出を必要としていたらどうなるだろうか。世界を救出するために神が立てた人々、世界をただすために定められた人たち自身が救出を必要とし、正される必要があるのだ。(中略)陽気な老ラビであるリオネール・ブルーがラジオでこう言っていた。「ユダヤ人は他の人と全く同じだ。ただし、他の人以上に人間的だ」。旧約聖書はどのページを見ても、そのことを強調している。(同書 pp.107-108)

                   

                  この救出されるものが救出されねばならない、という文章を読んだ時、今、ナウエン読書会で読んでいるヘンリー・ナウエンのThe way of the heartの一節を思い出した。

                  Here indeed is ministry in its purest form, a compassionate ministry born of solitude. Anthony and his followers, who escaped the compulsions of the world, did so not out of disdain for people but in order to save them.  Thomas Merton, who described these monks as people who swam for their life in order not to drown in the sinking ship of their society, remarks:

                  "They knew that they were helpless to do any good for others as long as they floundere about in the wreckage. But once they got a foothold on solid ground, they were different.  Then they had not only the power but even the oblication to pull the whole world to safety after them." The way of the heart pp.29-30)

                   

                  (ミハ氏による日本語変換)
                  ここに、ミニストリーの純粋な形があります。ソリチュードから生まれる哀れみの心に満ちたミニストリーの。アンソニーと彼とともに生きた人々は、この世の矯正する力から逃れた人たちでもあるのですが、そのように砂漠の中で生きたのは、人々を軽蔑したことからでたのではなく、むしろ、人々を困難から抜け出すことができるようにそのようにしたのです。トーマス・マートンは、これらのから修道者を、彼らの社会という沈みつつある舟の中で溺れないようにいのちに向かって泳いだのではないといいます。
                  彼らは、沈船の瓦礫の中にいてもがいている限りは、良きことをするのに無力でありました。しかし、彼らが確固たる地面に足場を一旦えたならば、彼らは別物のようなものでありました。彼らは、力をえたばかりではなく、彼らの後に続く世界すべてのものを安全にする義務すらおったのでもありました。

                   

                  その意味で、イスラエルは、イエスという神にしてイスラエルを方一に導き、世界を救う人物を必要としたのであり、確固たる大地とでも言うべき、神の国にイエスが足をもう一度おかれたからこそ、この世界を回復するための道ができたのだ、と思うのだ。

                   

                  最後の「陽気な老ラビであるリオネール・ブルーがラジオでこう言っていた。「ユダヤ人は他の人と全く同じだ。ただし、他の人以上に人間的だ」。旧約聖書はどのページを見ても、そのことを強調している」と言うのは、本当にそうなのだろうなぁ、と思う。

                   

                  うなじが強い民とはよく言ったもので、神から必死に逃れようとしながら、神に結局は戻ってくるという意味で、正に、人間的だし、旧約聖書はその物語で埋め尽くされているからこそ、人間というものを理解する上で、旧約聖書は必要だし、また、人間が回復されるのだ、ということを知るために、旧約聖書は重要なのだろうなぁ、と思う。

                   

                  まぁ、イスラエルでなにかあると、「俺はこう思う」、「いやいやこうじゃないか」、「むしろそれはこうだろう」とすぐ議論が起きて、日本人からすれば、議論しているのではなく、我も我もといいあうので、喧嘩をしているような感じを受けるらしい。テルアビブにお住まいの山森レビ先生情報だから、間違いはないと思う。

                   

                  確か、数年前、大阪で開催された、日本の戦後政治の歴史と文化をめぐる国際シンポジウム、発表者の一人として参加した時に、イスラエル人の参加者数名と日本人の政治学者の間で、「政治とマンガ 小林よしのり論」を巡るマンガの議論になって、ほとんど喧嘩みたいになったことがあった。「日本人の先生は大学生は漫画を読まない」とか言ったものだから、もう議論に火がついて、ガソリンをぶち込んだ状態となった。いかに日本の若者がマンガに影響されているのか、ということを天皇制と政治の議論をさておいて、大学生が漫画を読むのか、読まないのかで、やりあっていたことを思い出した。

                   

                   

                  旧約聖書の構造

                  ライトさんは、旧約聖書でテーマが繰り返されることを次のように説明している。

                   

                  そのことは、なぜイスラエルの物語の中心において一つのテーマが繰り返し出てくるかを説明してくれる。(中略)それは行きつ戻りつする物語である。奴隷状態と救出の物語であり、捕囚と回復の物語である。それはナザレのイエスが、ことばと行動で意識的に語った物語である。そして究極的には、彼の死と復活において語った物語である。(同書 p.108)

                   

                  個人的には、旧約聖書は入れ子構造をしていると思う。マトリョーシカというロシアのお人形があるが、まさにあの感覚、あるいは、2次か3次のフラクタルという感じがする。同じ大小の相似形が繰り返されながら、一つの形状をなしている、というやつである(以下の動画を参照)。ところで、奴隷状態と救出は、アメリカ版では Slavery and Exodus(出エジプト記の署名でもある)であり捕囚と回復 exile and restorationとなっていた。正にそれらがスパイラル状に組み合わされ、大きな物語が複数の小さな物語で形成されているという形になっていて、その最も大きな形がイエスにおいて表されているこの世界の救出ということなのだろうと思う。

                   

                  マトリョーシカ (http://blog.livedoor.jp/kobelunch/archives/674119.html から)

                   

                   

                  フラクタルの動画

                   

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  N・T・ライト
                  あめんどう
                  ¥ 2,700
                  (2015-05-30)
                  コメント:おすすめしています。

                  評価:
                  スコット・マクナイト
                  キリスト新聞社
                  ---
                  (2013-06-25)
                  コメント:中古品以外でも、出ている業者さんがあります。バイブルハウスとか

                  評価:
                  ヘンリ・ナウエン
                  あめんどう
                  ---
                  (1999-11-18)
                  コメント:大変良いです。おすすめします。

                  2016.12.17 Saturday

                  NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その16

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                    今日も引き続き、新約聖書と神の民からご紹介しながら、聖書の重要なモチーフというか、基本的なモチーフというか、テンプレートというか、変奏されながら繰り返され、全体として組み上げられているテーマについて述べていきたい。もちろん、この聖書の基本形は、新約聖書でも繰り返されている。特に、福音書に記載されたイエスさまの言動にも見られるものでもあり、その意味でもキリスト教とにとっても重要なのだ。

                     

                    モティーフとヴァリエーション

                    まず、ここで、Duke Divinity SchoolのJeremy Begbieという人の演奏と説明(英語しかないので、ご容赦賜りたいが)をご覧頂きたい。彼は、音楽におけるこのモティーフMotif  基本のメロディーラインと変装 Variations で語っている。今回の動画では別の作曲家の作品が用いられているが、この種の構造や、音楽における数学的構造にかなり関心があり、その構造を多様した作曲家にJ.S.Bachがいる。左から楽譜を弾いても、それをひっくり返して右から楽譜を弾いても、同じ音楽になり、更に、それを両方から同時に演奏しても、それなりに聞ける音楽になっているとか、もはや信じられない作曲をしている例がいくつか知られている。

                     

                    Jeremy Begbie さんの音楽の主題とバリエーション 

                     

                     

                     

                    J.S.Bachの音楽の捧げもの の構造

                     

                     

                    このあたりのことにご関心がある向きは、図書館かどこかで、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本をお借りになってお読みになられるとよい。あまり数学数学せずに読み物としてある程度読めるものになっている。ゲーデルは数学関係、エッシャーは美術、バッハは音楽で、この種の構造の問題を考慮しながら、面白い作品、それも傑作(master piece)とも呼ぶべき作品を作った人たちである。 

                     

                    聖書の全体構造を見ると

                    聖書も、全体を見渡すような目、ある一部を拡大するのではなく、広角レンズで一体として構造を見るように聖書を読もうとする時、その種の構造が見つかることがある。つまり、空間や時間や対象を埋め尽くし、基本型とその変奏、その繰り返しを見つけることができるのだ。ちょうど前回ご紹介したフラクタルのように。

                     

                     

                    旧約聖書を生み出したユダヤの物語記者たちが、行きつ戻りつする物語を主要なモチーフとみなしたのは、おそらく必然的なことだろう。ヘブライ語聖書の主要な部分が最終的な形に落ち着いたのはバビロン捕囚(Exile)の最中だったったと思われる。それは故郷から離れただけでなく、ヤハウェである種がともにいると約束してくださった神殿からも引き離され、悲しみのうちに暮らしていた(『私達がどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか」詩篇137・4)ころである。

                    アブラハムの子孫が、よりによって、バベルの塔の地であるバビロンに住むことになるのは皮肉だが、それでも彼らは何を望むべきかを知っていた。前にも捕囚状態だったことがあるからだ。それは彼らのすべての物語の中心テーマだった。(p.109)

                     

                    ここで、行きつ戻りつする物語、ということばが出てくるが、Go forth and backだったと思うが、これは、遊牧民の生活そのものなのだ。季節に応じて、山の高いところに生き、また冬が来れば麓に戻ってくる。季節に応じて、家畜の餌を求めて東にゆき、また夏が終われば、西に向かう。これの繰り返しを続けるのが遊牧の生活である。

                     

                    そして、季節ごとに行ったり来たりする渡り鳥のように、遊牧民は、ほぼ毎年同じルートを通りながら、場所を移動していくのである。しかし、1年とか数年の周期で見た時、遊牧の民は、ある特定の移動ルートに沿って、サイクリックに移動しているのである。決して行き当たりばったりで、動いたりはしていない。もし、そんなことをしたら、オアシスなどでの補給や水などの補給ができず、全滅である。イサクの井戸にしても、イシュマエルの井戸にしても、井戸というのは遊牧民にとって、生存可能性を与えるものである。

                     

                    水がたっぷりあり、定住し始めて極めて長い期間が経過している日本社会では、このような遊牧の生活の実情が、一般にわからなくなっている部分があろうか、と思う。日本では農耕民族、狩猟民族説で考える人々が一般的であると思われるが、狩猟民族と遊牧民族は違うし、定住性の強く、一族郎党が近隣に集中居住することで、労働力の共有や協調行動が重要となる農耕社会と、一族がゆるいつながりを持ちながらも、同じ場所で共同生活をずっと一緒にしながら、同じ場所にとどまることや、同じ場所に移動することこそが、デメリットをもたらす遊牧民族では生き方は違ったものに、ならざるをえない。

                     


                    現代のイランの遊牧民族

                     

                    なぜならば、同じ場所に大量の遊牧民が共住することは、餌の取り合いと土地とそこにある家畜の飼料ともなる牧草の荒廃となり、共倒れを招きかねないからである。そうなったら、集中することによるリスクというか、デメリットが大きすぎることになり、不合理なのである。正に、創世記におけるアブラムとロトが別々に分かれていくことのほうが、遊牧社会においては合理的なのだ。いや、アブラムとロトがわかれる方が、相互互恵関係を形成している、と言っても良いと思うほどである。

                     

                    アブラムとロト(ビザンチン風)

                     

                     

                    ところが、定住と共同居住が長く行われてきた、日本社会の教会の中では、ロトはアブラムから離脱した悪者扱いされることが、時にある。しかし、遊牧民の遊牧民性を考えると、一緒にいて揉め続けるより、空間的に住み分けをしてリスクを分散することのほうが適切なのだ。以前上智大学の月本先生が、上智大学の大阪サテライトキャンパスで開催した公開講座で、聖書の物語は出ていく物語だ、極端な話をすれば、家出がモティーフとしてある、というお話をしておられたが、ある種のリスク分散のためには、卵は同じバスケットに入れない、というリスク・マネジメントの名言通り、実現しようとしたというか、そうしかやれないのがイスラエルの民であったのではないか、と思うのだ。

                     

                    旧約聖書における分離と回復

                    この分離していく、あるいは離れていく、そしてまた戻ってくるという、一種の無限ループかと思われるような展開は、旧約聖書でも、繰り返し繰り返し出てくる主題である。登場人物が違い、そして、環境が違うために一見して気が付かないことも多いが、新約聖書でも、特に福音書で、繰り返し用いられているメタファーである。

                     

                    このパターンはいろいろな形で繰り返される。例えば、ヤコブは兄エサウをだまし、東の国に逃げた。その後、戻ってきて兄と対面する。さらに重要な事に、ヤコブは神と格闘する(創世記32章)そこには義のこと、霊的なこと、回復した関わりのことが、物語の周りを巡って大きく鳴り響いている。聖書記者や編纂者が、決して忘れることのできない大きなテーマが響いている。

                     しかし、創世記のすべての流れはヨセフの物語に至る。彼はエジプトに奴隷として売られた。彼の残りの家族全員も故郷で飢饉に襲われ、間もなくエジプトで彼に合流した。しかし一世代もたたないうちにヤコブの家への待遇が変わり、奴隷の民になっていく。(中略)奴隷状態から開放し、彼らに国を与えて自由にすると約束した。それはユダヤ人とクリスチャンが記憶すべき事の中で、最も重大なときの一つとなった。それは、アブラハムとの約束への神の真実さ、神の民の苦難にたいする憐れみ、救出と自由と希望への約束、そして何より神の名とその重大さの啓示、それらすべての集大成である。(同書 p.110)

                     

                    ここでパターンとライトさんが書いている内容は、「離れてはもとに戻る、出ていっては戻ってくる」というパターンのことである。そしてそれが人間というものなのだろう。大事なこととして、ヤコブと神の格闘が出てくる。そして、ヤコブはイスラエルと呼ばれるようになり、イスラエル民族の父となっていく。この格闘を通して、霊なる存在との関係、神と人との和解の問題が指し示されているからこそ、ヤコブがどこにいたとか、ヤコブの羊がどこで草をはんだ、とかは殆ど書いてはいない。それよりも、この一見よくわからなくなる話は重要なのだ。なぜならば、イスラエルがイスラエルとして呼ばれるようになる、その原因の出発点として、この物語が大事な出発点、いわゆるイスラエルの原点、イスラエルのゼロポイント、として書かれているのだろうと思う。

                     

                    そして、ヤコブの子どもたちは、ヨセフを奴隷商人に売り飛ばし、ヨセフは奴隷の状態から、王室の役人へと大出世を遂げる。まさに捕囚から自由人としての回復がなされ、また、王女に言い寄られ、もう一度正に捕囚状態となり、そして自由人へとまた回復されていく、飢饉の結果の、飢えに捕囚された状態からの回復を求めてやってきた、ヨセフとその息子たちは、一旦は解放されるものの、今度はエジプトで、奴隷状態の捕囚状態となる。本来人間がもっている自由が奪われているという意味で、捕囚されているということはできようか、と思う。教会用語とは違う意味での、"バビロン"という語のついた捕囚という意味での捕囚とは少し違う、流刑者とか、所払いの刑にあった人、という程度の用法であり、追い出されて辺境に置かれる、というくらいの意味だろう、と思う。

                     

                     

                     

                    こっち人たちのは、捕囚というよりは、放浪者(バガボンド 天才バカボンの語源)だろうね

                    日本に捕囚されているわけではないだろうし、日本から追放されて寄留の民になっているのだろうか

                     

                    このあと、同じような放浪されては戻ってくる話が、ダビデの失敗の話としても現れ、バビロン捕囚の話にも現れることのご指摘とその解説がなされていた。

                     

                    この辺、プロテスタントとヘブライ思想や、正教会やカトリック教会などの伝統教派との違いだなぁ、これらに参加してみて体験した中で、そのように思っている。毎年一回の儀式(大贖罪祭)をすることや、毎週日曜日の典礼の中や、典礼のなかで読まれる祈祷文で、自分たち自身の罪の問題を思い、そして悔い改めて、それらでくよくよ悩むのではなく、そして新しい気持ちで、今週も不完全ながらも神を愛し、神に仕えていこうという、そういう気持ちになるようにできていて、よくできているなぁ、と思っている。

                     

                    プロテスタントの最近できたグループ(この200年以内にできたグループ)だと、そういうけじめの儀式がないから、どうしても、今日もできなかった、今週もできなかった、今日もこんなまずいことをした、とグズグズ、クヨクヨ悩み、挙句の果てに「自分はクリスチャンではないのではないか」などと悩む、ということが起きかねない。その意味で、神の前に戻ることで、神の側が解決してくださる、という一種いい加減に見えるかもしれないが、神にどっかり依存した信仰という側面が薄いキリスト教会がないわけではない。

                     

                    聖書全体のテーマとしての

                    離れることと戻ること

                    そのあたりのことをふまえて、ライトさんは「捕囚(Exile)と帰還」が聖書の重要なテーマであるとして、次のように書いておられる。

                     

                    捕囚(Exile)と帰還という、かの日から今日に至るまで変わらない、ユダヤ人の物語の重大なテーマがイスラエルの民の意識にしっかりと埋め込まれた。そして、神殿において天と地が重なり合うこと、そこでヤハウェは民を許し、交わりをもってくださること、過去いろんなことがあったとしても、ご自分の民を救い出し、世界を正しくしてくださる神のプロジェクトは今なお進んでいること、それらを信じる人々が、再びエルサレムの神殿に参拝するようになった。(同書 pp.112−103)

                     

                    こう考えると、イスラエル人という民族は、バビロンに強制連行され、また、クロス王(キュロス2世)などの協力もあったりもあり、イスラエルとエルサレムに戻ってくる。そして、しばらくして、第2神殿を建て始め、それをでっかく再工事しようとしたのが誰あろう、幼子イエスを殺害しようとしたヘロデ王家の人々なのだ。その意味で、彼らは、ダビデの子孫でなかった後ろめたさと、ローマ帝国という巨大な権力をバックにしながら、自分たちの権勢を見せびらかすために、第2神殿の拡張工事をした部分もないわけではないと思う。再建しようとしたところで、それは後年、ローマ軍によって完膚なきまでに崩壊させられてしまうのだが。

                     

                    しかし、その後シオニズムと関係するので、ちょっと鬱陶しいことが色々あるのだが、イスラエルへの帰国運動が、サイクス・ピコ協定とかがあって色々ややこしいことを起こしつつ、一応イスラエルは建国する。そして、イスラエル人の保守的な人々は西の壁とも呼ばれる嘆きの壁で、偉大なる神殿があり、神と人が一つになる場所のそばで、今もなお神と人が交わる場所として、その場所を覚えているのである。

                     

                     

                    多分、西の壁と呼ばれる嘆きの壁を歌った歌

                     

                    イスラエルの国歌 様々なイスラエル人の姿が出てくるので、現代の世俗国家イスラエルの姿が多少わかるかも

                     

                    まぁ、イスラエル人の全員が、西の壁でトーラーを読んでいるとかを、やっているわけではない。日本のキリスト者の皆さんの中には、ごく一部に、その美しく理想化されたイスラエルのイメージを、お持ちの方が時におられるが、山森みか先生の福音と世界に登場した最近の論文「ユダヤ教と万人祭司」では、次のような記載がある。この論文の載っている2017年1月号の『福音と世界』は大変良いので、おすすめである。

                     

                     つまり現代社会においては、ユダヤ人であってもユダヤ教の規定を部分的に、あるいは全面的に守っておらず、シナゴーグやラビを中心にした共同体には必ずしも軸足を於いていない「世俗はユダヤ人」が数多く出現した。また[改革派][保守派][正統派]「超正統派」などが、それぞれ独自の宗教的な規定の解釈と遵守の方針を展開し、多様なユダヤ人のあり方が見られるようになった。(『福音と世界』 2017年1月号 p.37 下段)

                     

                    ところで、この出ては戻るというテーマは新約聖書の中で、特に福音書の中で何回も出てくる。イエスの例え話では、放蕩息子の例え話はまさにそれ、であるし、ある意味、エマオの途上も、エマオに行きつ、エルサレムに戻りつする物語であるし、イエスの死後、ペテロ達が漁をしている時にイエスと出会って、イエスの弟子となる物語も行きつ戻りつする物語である。その意味で、このメタファーというか、このモティーフは多く見られるのである。おそらく、イスラエル人にとって、日本で言えば、「桃太郎」や「一寸法師」のように、苦難にあって成長したり成功するモティーフみたいなものかもしれない。

                     

                    そういえば、イエスも出ては戻るを繰り返しておられる。最初は、第2神殿で学者を前にレクチャーした時、ガリラヤの各地で神の国が着たぞ、と言いふらしながら、枕するところもないと言っておられる。そのときには、早朝とか深夜、山に行って一人祈っていて、それから、民や弟子のところに戻っている。これもまた、出ては戻るという構造になっている。そして、復活の前も神の前から出て、読みに下り、そして、復活して戻ってきているのだ。その意味で、再臨のイエスもまたこの地に向かって出て来られて、また神のもとに、出エジプトの民を率いたモーセよりも多くの人々と、約束の地に戻るのだ。空中なのか、地上なのかに関しては、幾つか仮説はあるだろうけれど。

                     

                    そして、砂漠の師父と呼ばれる人々が始めたとされるソリチュードも、一人砂漠の中へ行きっぱなしではなく、一人になって神の前に戻り、そして、また、人々の中に出てく、を繰り返すとういことを勧めているようだ。その意味で、神の前に戻っていき、人の中へ出ていくというということを繰り返すことがソリチュードなのではないか、と思う。

                     

                    その意味で、秀才タイプというか、出来杉君タイプの良い子ちゃんでないイスラエルの人々なのだけれども、それでも神は愛し、受け止めるということは案外大事なのではないか、と思う。さきほどご紹介した、山森みか先生のご論文の中に、現代のユダヤ教への会衆事例についてのエピソードが紹介されていたので、ご紹介したい。

                     

                    二人目の例は、次のとおりである。一度は知識不足で落ちた後の二度目の最終試問は、ちょうど大贖罪日の後であった。大贖罪日には、ユダヤ人は一昼夜断食を過ごして罪を悔い改めることになっている。「今年の大贖罪日には何をしていたか」との問いに、これまた「嘘はつきたくない」と思っていた彼女は、「ケニアにいる叔父の家に遊びに行っていた」と答えた。「なぜか」との問に「軍務のプレッシャーが厳しくて、このままだと頭がおかしくなりそうだったから、休暇がもらえたので海外に出た」と答えた。さり気なく超正統派のユダヤ人は兵役を免除されていることへの批判を入れ込んだ周到な答えだが、ここは嘘であっても「家で断食していた」と答えるのが模範解答であろう。三人の判事たちはその後二時間近くの大議論になり、養家族に電話をかけて見解を問いただしたりしたあと最終的に出した結論が、「あなたは戒律を守らなかったが、少なくとも正直だ。我が民族はあなたのような人を人を必要としている」で、結局合格であった。

                     

                     たしかに戒律をいつどのように守るかの細部は解釈の余地がある問題であり、一義的な回答が用意されているわけでない。その解釈を絶えず検証し、議論し、発展させていくのがユダヤ教の内実である。(中略)そして、それを議論の俎上に載せた上で最終的にポジティブに評価することは、神の前に一人で立って議論をし、時には神の心を変えさせるようなヘブライ語聖書の登場人物の伝統を起想させる。きけば、学んだことを学んだ通りに素直に答えた人は通らなかったそうであり、あえて彼女たちを通したことに、単に会衆者の数を増やす目的でなかったことが伺えるのである。 (前掲の山森論文 p.38下段-39下段)

                     

                    その意味で、離れていくことについても解釈しつつ、どうすれば神のもとに戻れるのか、神と人がどのようにインターロックできるのか、どのようにインターロックするのか、ということを、自ら捕囚や民族離散、エグザイルの中での寄留地の中で、自らに、そして神に問い続けた民族ならではの問題意識だなぁ、とこの部分を読みながら、改めて思ったのである。

                     

                     

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    2016.12.19 Monday

                    天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた

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                      2016年12月17日に、天理大学で開催された、新約聖書時代のシナゴーグが疑われる遺跡の発掘報告会「イエス時代のガリラヤ地方と一神教の系譜を探る −イスラエル、テル・レヘシュ遺跡における最初期シナゴーグの発見 」に行ってきたので、その概要と、ミーちゃんはーちゃんが思ったことをタラタラと書いてみたい。

                       

                      日本とイスラエルの共同発掘プロジェクト概説

                      最初は、桑原久男さん(天理大学)により、これまでの移籍の発掘の経緯と、日本とイスラエルの発掘関係についての概説がなされた。イスラエル大使とかの祝辞が送られてきたものが読まれていたあと、橋本英将さん(天理大学)がシナゴーグの発見に至った発掘の経緯である、遺跡の概要をご説明になった。

                       

                      以下発言の趣旨を要約する。

                       

                      タボル山(変貌さんと否定されることがある)を望む、タボル山から南西 5km付近のテル・レフェシュ遺跡であり、丘に囲まれた中にある遺跡である。テル(丘、の意味)とは、住居を建てては、その部分を埋め、その上にまた都市を作り、更に、またその新しい都市を潰しては、更にその上に都市を建設していった上げく、古代住居跡がミルフィーユよろしく、層になって重なっている、中東独自の遺跡が発見される、小山状の場所の総称である。

                       

                      イケアさんのミルフィーユ http://www.ikea.com/ms/ja_JP/food/recipes/pancake.html

                       

                      テル・ネフェシュ遺跡

                      このテル・レフェシュ遺跡(下のMap参照)では石灰岩の岩盤が表層近くにある。この遺跡は、前記青銅器時代から、ローマ時代の遺跡であり、ユダヤ戦争のあとのヘレニズム時代の遺跡は確認されてない。なお、この都市は、ヨシュア記に出てくるイッサカル部族の主要都市、アナハラトと表記される町に、比定される可能性があるらしい。この都市名は、エジプトのファラオの遠征碑文にも登場する。

                       

                      Google Mapsによる地図 https://www.google.co.jp/maps/place/Tel+Rekhesh/@32.6533495,35.3964932,12z/data=!4m5!3m4!1s0x151c4464c62184dd:0x5788c935f974750d!8m2!3d32.653345!4d35.466531

                      でみるレフェシュ遺跡

                       

                      テル・レフェシュ プロジェクトの皆様 http://rekhesh.com/rekhesh.com/Home.html

                       

                      なお、この遺跡のこれまでの発掘経緯からは後期青銅器時代には、ミケーネ土器の断片が発見されており、この丘の上の町が、エーゲ海方面の諸都市と交流と言うか、物流関係があったことが、想像されている。また、儀礼用の香炉台とか土製仮面なども出土しており、鉄器時代I期の遺構としては、オリーブ・プレス(オリーブの圧搾施設)と巨大建造物が出土している。

                       

                      ミケーネ式土器の一種(多分こんなに豪華な分ではないけど) http://www.veniceclayartists.com/minoan-art-pottery/

                       

                      オリーブ・プレス(発掘されたものではなく、もうちょっと最近) http://free.messianicbible.com/parasha/parasha-tetzaveh-you-command-the-oil-of-anointing/

                      鉄器時代の後期の石の壁と入り口がついたような、大規模構造物を発掘するのが、直近の発掘の目的であったが、その発掘の過程で、ローマ時代の出土遺物として、土器とコイン 、石臼、ヘロデ時代のランプ(ランプは、出土品の中でもデザインが時代によって変わるので、時代特定に有効)、ローマ時代のフレスコ断片、さらに、石灰岩製の石製容器(石灰岩を削ったもの、宗教祭具の一つ、と考えられている)が出土している。

                       

                      発掘前に、地中レーダーで探査した結果を見ると、「なにか出そうだ」という判断で、発掘を開始した。後期鉄器時代の壁の延長線上を、発掘している最中に、その鉄器時代の遺跡の延長線と思ったものが、初期シナゴーグの遺跡と思われるものであり、今回発掘の結果、この遺跡が見つかった。

                       

                      様々なランプのレプリカ

                       

                      これを初期シナゴーグと想定した理由は、直方体の切石が壁際に積まれていること、真ん中に直方体状のに切石(画面中央やや左の立方体の石)が整えられた岩盤を利用した上に据え置きされており、ベンチ上の石に囲まれるようにして建築プランがなされており、この遺構を始めてみたとき、イスラエル側の発掘責任者は非常に興奮した。

                       

                      発掘された遺構の画像 http://www.wnd.com/2016/08/1st-century-galilean-synagogue-discovered/

                       

                       この遺構はマグダラの初期シナゴグ遺跡とよく似ている 初期シナゴーグの特徴と幾つか合致する性質が見られた。発掘現場の画像や発掘時の各種の記録図面なども紹介しつつ、講演がなされた

                       

                       1世紀のシナゴーグの意味としては、これまで同時代のシナゴーグは、7例がおそらくそうでないか(ミハ氏註 そうでないか、のはなしであり、確定をしないところ、ここが大事)と言われているものが見つかったが、今回はその8例目になる可能性がある(ミハ氏註 まだ可能性である。このことが大事)。特に、漆喰の塗られた階段状の石造遺構が見つかったが、これは、ミクベと呼ばれる沐浴場跡ではないかと考えているが、まだ、同定に至るまでの発掘が進んでいない。ただ、この発見は、「何が見つかったら初期シナゴーグといえるのか」ということに補助線を与える調査であり、同様の遺跡が出た時に、参照することができる遺跡が現れたということであり、これからの研究課題への貢献が期待できる。

                       

                      シナゴーグとは何か?

                      続いて、山野貴彦さんという先生が話された。ご専門は、新約聖書時代の初期シナゴーグのご研究をなさっている方である。要約した結果を以下に示す。

                       

                      シナゴーグとは、もともとギリシア語由来のことばで、シュナゴーゲー、ないし、プロセウケーと言う、”集まる”という語から発展して、その変化形として、シナゴーグとなっている。ヘブライ語では、 ベト・クネセト(ミハ氏註 人が集まる家 くらいの意味)、アラム語で べ・クニシタと呼ばれるところであり、多目的集会所、人が集まるための建物という程度の意味であり、現代イスラエルの国会もクネセトと呼ばれているのは興味深い。

                       

                      さて、新約時代のシナゴーグにしても、ローマ時代のシナゴーグにしても、かなり時間幅があり、また、どちらかというヨーロッパ視点からの名称であるのは気になる。ユダヤ教の歴史から言えば、第二神殿時代とは言えるが、厳密に言えば、初期シナゴーグの時代は限定的であり、むしろ、 ローマ史から見れば、ローマ帝政の成立期、そして、第二神殿時代からの視点では、その最終期に当たる。その意味で、ユダヤ教の歴史的現象を扱うにも係わらず、「新約時代というキリスト教目線のタイトルはいかがか」と思う。

                       

                      初期シナゴーグ時代とは、ナザレのイエス登場前夜から、新約聖書諸文書の成立の時代 BC4からAD100くらいまでの時期であるとは言えるだろう。

                       

                      ところで、シナゴーグの成立時期はいつか、という問題があるが、論者によって、モーセ時代(ミハ氏註 これはないと思う)から、預言者時代、第2神殿期まで、様々な見解があり、その実像に迫ることは困難である。その意味で、成立時期は、現段階では学問的な意味ではなんとも言えない。

                       

                      ところで、ディアスポラ(パレスティナの外側にいる人々)のシナゴーグを考えてみると、紀元前3世紀頃の碑文には記載がある。出土したその碑文では、プロセウケーと書いてあり、また、ヨセフスの著作にはシナゴーグの紹介が出てくる。海辺のカイサリアなどの名前を上げて、シナゴーグの存在を紹介しているが、しかし、これらの名称付きのシナゴーグは、その遺跡が出土していないので、考古学的には立証されていない、というしかない。テオドトス碑文では、シナゴーゲと呼ばれている。

                       

                      シナゴーグには、律法の朗読、戒めの教育以外にも、宿泊施設としての役割もあって、人々がそこに宿泊する場所という側面をも、もっていた。宿泊の場所に関しては、ラビ文書内に、「シナゴーグで宿泊とは、けしからん」とか言う文書もある。

                       

                      ミハ氏的感想

                      ちょうど、天理大学行く途中、天理駅から大学まで歩いたのだが、駅前のあちこちに地名入りの宿泊施設(「詰所」って書いてあって、確かに詰められたのだろうなぁ、とは思った)があって、そして、カナダとかブラジル系の人たち向けの「詰所」と言うか、宿泊施設もあって、いやぁ、驚いた。現代日本の宗教都市と、イスラエルの宗教都市であったエルサレムとの関わりを考えると、こんな感じだったのかなぁ、と思ったのである。

                       

                      ところで、巡礼のときには、カトリックの巡礼者は、カトリック教会に泊めてもらえることも、あるらしい。カトリック教会の中には、病院の機能と巡礼者の宿泊施設の機能を持ったものがある。 ヘブライの巡礼の際の宿泊施設としてのシナゴーグを考えると、それがカトリック教会に引き継がれているのかもしれない、と思うと、非常に印象深かった。)

                       

                      古代におけるシナゴーグ遺跡の分布図を見ると次のような感じである。

                       

                      パレスティナのシナゴーグ遺跡の分布図

                      http://synagogues.kinneret.ac.il/excavated-synagogues/distribution-maps-of-ancient-synagogues/ から

                       

                      ローマ期シナゴーグの遺構は、わずか7例しか見つかっていない。 しかし、後世の遺跡は爆発的に増加するのである。特にイスラエルから離れているガリラヤでは、ユダヤ教の中心施設として、シナゴーグが必要であったのであろう。3世紀以降は出土物などから、その遺構がシナゴーグであることが、特定しやすくなる。屋内装飾とか、律法の巻物が設置してある場所などが特定でき、居住地区の領域内における最大級の遺物であり、かなり。集会所である以上、普通の住居遺構以上の大きな建物であれば、シナゴーグであると比定しやすくなる。特に建物をめぐるように、座るためのベンチがあり、ベンチで足りない分には絨毯を引いていた、と考えられる。


                      シナゴーグかどうかの確定には、規模、出土物からの確認、宗教的な遺物の存在、などがかなり大きな要素であり、それが発見されると、おそらく宗教施設として利用されていた、と比定しやすくなる。

                       

                      イスラエルのシナゴーグと

                      ギリシア世界のシナゴーグ

                      シナゴーグ研究では、ディアスポラのシナゴーグとイスラエルのシナゴーグをかなり安易に比較しているような研究があるが、ディアスポラのシナゴーグは、その町の文化に属するものであり、単純比較できないが、比較対象の参考にはなる。この古代のシナゴーグ様式の原型は、現代までつながっている部分があり、例えば、壁際に沿ってベンチがあるなど、古代から連続する建築様式がある。例えば、プラハにある、シナゴーグなどが参考になる。

                       

                      ミハ氏註 このあと、過去イスラエルで見つかっているシナゴーグ遺跡の個別の説明(詳細省略)がなされ、このローマ帝政初期の数十年間に建設されたものの、特徴に関する解説が行われた。詳細省略)


                      面白かったのは、出土品の石の容器に関する議論であり、ガリラヤ湖の東北側では、加工の容易な石灰石の容器ではなく、現地で産出する硬質の石である玄武岩でできている石製宗教祭器が出土するらしい。なお、ガリラヤ湖から西側は、石灰石製の宗教祭器が出土し、ゴラン高原付近は玄武岩製のものが出てくる。

                       

                      また、シナゴーグの構造とし1階建てなのか、2階建てなのか、という議論があるだろう。現代のシナゴーグをもとに、2階建て(女性等の席)の例を参考に2階建てを考える向きもあるが、壁体構造から行って、2階を想定するのはしんどい仮説と思われる。


                      1990年から発掘されているヒルベト バド イーサ遺跡があるが、この遺跡からは、着色漆喰の存在がみられた。また、2008年に、ガリラヤのミグダル(マグダラ)でビーチ開発の途中でシナゴーグ遺跡が見つかっている。広間の中央から石段が出土し、レリーフが彫り込まれたメノラーが見つかった。この側面4面と天板部にレリーフが彫られており、前後左右のデザインが対象になっていた。

                       

                      きよめの思想と沐浴場

                      また、シナゴーグでは、ミクヴェとよばれる身体を浄める沐浴施設が設置されていることが多い。それは当時のヘブライ人の信仰世界の中で、身体性と関わるきよめ、清浄さをが重視されたためであろう。また、石の間から、妙な動物などが出てきて、汚れが生じないように、きよめのための施設では、漆喰で穴などが完全にカバーがされている。

                       

                      レフェシュの居住地を考えてみると、非常に小さな集落であるため、これまで発見されている大都市のシナゴーグと比べて、当時の小規模のユダヤ社会の中で、シナゴーグがどういった意味を持ったのかを考える契機となる可能性があり、地方の宗教史を考える上で重要かもしれない。

                       

                      一神教はいつ成立したのか問題を考える

                      最後に、市川裕さんという方が、「イエス時代のガリラヤ地方と一神教の系譜を探る」ということで公演された。

                       

                      これまでのユダヤに関する日本人の歴史理解は、キリスト教の影響が強すぎていて、ユダヤ理解が歪んでいるのではないだろうか、。キリスト教が、イエス殺害に関わったということでユダヤ人を差別して、ユダヤ人がしていい仕事は当時、卑しい両替商や金融業(今の銀行業というよりは、いわゆる闇金的職業と理解されたようであるが)などに制限された結果、ユダヤ理解が誤解を含んでいるのではないかと考えている、とのご発言があった。

                       

                      一神教の成立、特にユダヤ教の成立とガリラヤ地域を考えてみたいが、ユダヤ教の成立をいつ頃と想定するか?ということに関しては、かなり、遅い定義で考えたい。一神教とは、神と人間、というよりはむしろ、人間集団としての結びつきを考える体系である。(ミハ氏註 ヘブライ語聖書、あるいは旧約聖書を理解する上では、この、人間集団、コミュニティというのが大事である)人間集団が、一つの神でつながっている、というのが一神教の特徴である。そして、神殿などの中心的施設と周辺にある教会との関係を構築している。ユダヤ教で考えると、3世紀にならないと、体系としてユダヤ教が、できあがっていないのではないか、と考えている。そのような比較的遅い成立を想定している。例えば、ラビ・ユダヤ教が成立したのは、キリスト教が成立したあとの口伝律法の体系である、ミシュナーが完成した時を考えていけるだろうし、地方でのシナゴーグの成立はその意味で重要であろう。

                       

                      三大一神教観の比較とその関係

                      神と人が交わるところとしてのシナゴーグがあり、それは、キリスト教では教会であり、イスラム世界ではモスクである。それらの施設があるが、これらの一神教と呼ばれるものを考えてみると、ユダヤ・ムスリム の共通性のほうが強いのではないか、唯一神(ユダヤ世界では、アドナイと発音される聖四文字なる方、イスラム世界ではアラーまたは、アッラーと呼ばれる方)からの掲示されたものが中心になっている。

                       

                                      ヘブライ世界     イスラム世界
                      聖典              トーラー       クォラーン

                      神聖集会所   神殿(シナゴーグ) モスク
                      入口の方向   エルサレム     メッカ

                       

                      であるが、キリスト教になると、人にして神であるということはあるものの、礼拝対象は人間という性質を持つことになり、図像などが置かれる。このような図像化された、十字架や聖像やイコンと行ったものは、イスラム世界とヘブライ世界にはないものであり、ユダヤであれば、神聖集会所で、トーラーとネビームがよまれ、イスラムであれば、クォラーンが読み上げられ、あとは、祈りとこれらの聖典テキストを学ぶだけである。

                       

                      特に、キリスト教以外の一神教と呼ばれるものになく、キリスト教独特のものとしてもっているものは聖餐式であり、旧約聖書における生贄(過越祭)の儀式性が含まれている。そう考えると、同じ一神教とは言え、キリスト教とキリスト教以外の一神教という理解のほうが、わかりやすい宗教理解かもしれない。

                       

                      特に、ユダヤ・イスラム宗教共同体と考えると、シナゴーグとモスクの役割には共通性があり、ユダヤ・イスラム宗教共同体から見ると、キリスト教は特殊に見える。その意味で、一神教に関して、ヨーロッパを中心とした、従来のキリスト教的歴史理解による、ユダヤ教理解の偏りを外していく必要があるのではないか。

                       

                      ミハ氏的感想

                       これは、息子殿の研究テーマが、イランなので、どうしてもイスラム教の影響を考えないといけない(ムスリムの世界は、生活、即イスラムの世界なので、信仰と生活が一体化している)ので、息子が井筒さんのクォラーン注解書をよんで、「これこれ、そこの不信の者共よ…」と井筒さんの注釈をそのまま引用するので、家内は息子がイスラムに改宗しないか、と心配になったらしく、井筒さんのクォラーン注解書を読んで、どこが自分の日本語訳(新改訳第2版)の旧約聖書と違うのかを、かなり真面目に研究したらしい。その意味で、我が家は一家で、一神教研究所になっているのがおかしいw。で、家内の研究成果によれば、ムスリム側から見れば、イエス(アラビア語でマルアムの息子イーサ)も、クォラーンでは一定の評価をしているので、序列順位で言えば、ムスリム、その下がキリスト京都、ヘブライ的信仰者という序列順位であるらしい。それを考えると、儀式様式の形式論理だけでヘブライ世界とムスリム世界の一体性があるとするのは、相当無理があると思う、と、この理論には挑戦したいと思う。東大の宗教関係の学者に楯突いても、直接の利害関係がなく実害はないので、一応念のため、疑義を申し立てておく)

                       

                      特にこのようなヨーロッパ的な世界観から一方的に見たユダヤ社会理解は、高校の教科書に典型的に現れており、特に、ユダヤ思想は神との契約に基づく特別の任務をイスラエル人が負っている、という理解がすっぽり抜けている。ユダヤというと、すぐ選民思想とかいう話になりがちだが、選民思想はユダヤだけでなく、世界の民族のかなりの部分のどこにでもある。

                       

                      ミハ氏的感想

                      それはそうなんだと思う。先の戦争中、1940年ころは、神国日本とか言って、選民思想に日本人のほぼ全体が染まっていったし、いまだに政治家のオジサンで、誰とは言わないけれども、「日本は神国ですから」と発言を切り取ればそう行っているかのように聞こえる発言をした政治家もおられるようであるので、日本だって、人のことを選民思想をお持ちだとは、批判できないのである。)

                       

                      高校の世界史の教科書における記述を引用しながら、ユダヤ教は、キリスト教によって、超克されたかのような印象を与える記述があり、世界の宗教世界の中では、ユダヤ教が消滅したかのような印象を与える、高校の世界史の教科書の記述がある。

                       

                      いつを一神教体系の成立期と見るか
                      ところで、ミシュナーとよばれる、口伝トーラーの成立は、ムスリム世界のハディース(言行録)の成立と、ある面、似ている。 なお、律法(トーラー)の中で、口伝ではないのはモーセ5書である。ヘブライ社会も、ムスリム社会も、日常生活でも神の法(律法)に従うのである。(ミハ氏註 これは、キリスト教は言われても仕方がないと思った。我が身を振り返っても。世俗法と宗教法が完全に分離した生き方をしている。)

                       

                      基本的には、ミシュナーの成立で、ラビ・ユダヤ教が成立したとされていて、 律法主義の確立は、ミシュナの成立、つまり成文及び口伝という、2つのトーラーの成立、すなわち成文及び口伝トーラーの成立をもって、成立した点でも、クォラーンとハディース(言行録)を持って成立したムスリム世界と似ている。ただし、それを言うなら、イスラム世界の中には、先にも述べたように、マリアの息子イエス(マルアムの息子イーサ)を含んでいるので、多少違うようにおもう。宗教法に関して、ムスリム世界のウンマに相当する法学者をユダヤ教は整備していくことになる。また、イスラム統治下でユダヤ教がかなり繁栄しており、その意味で、この両者は相性が良かった。

                       

                      ミハ氏的感想 まぁ、これは、キリスト教勢力が東地中海世界には、たまたま人口的に少なかっただけであり、イスラム世界の成立期に、キリスト教徒がムスリムを援助していることを考えると、本来、キリスト教とムスリムは、相性が良かったはずであるが、アラビア海賊の活躍及びトルコの急拡大以降と、それ以前を混ぜて議論されているように思われた。その意味で、日本における正教会系のキリスト教とその理解と、歴史認識の影の薄さが悔やまれる。)

                       

                      法概念が違うオリエントとオクシデント

                      法と宗教、世俗法と宗教法の分離が、世俗法でのローマ法体系が西洋法体系として継承される中で進んでいき、世俗法と宗教法という法の支配の2重構造がうまれており、これが現代までに及んでいる。ムスリム世界では、カリフ制の復活(ミハ氏註 きゃーイスイス団キタ〜〜〜)を目指す向きがあるが、イスラムを見ていると、イスラムとヘブライ社会の双方が辿れるのではないか。

                      セム的な(ミハ氏註 ユダヤとイスラム)世界を考えたほうが良く、ヘブライ世界とイスラム世界の連続性を考えたほうが良いのではないだろうか(ミハ氏註 だけど、ヘブライ世界は、マルアムの息子、イーサ(マリアの息子ヨシュアあるいはイエス)を認めないが、イスラム世界は神としては認めないものの、預言者としては、ミリアムの息子イーサを認めるので、その点でこの議論は要検討であると思った)。

                       

                      テル・ネフェシュ遺跡の発掘の意味

                      シナゴーグの発見が提起する意義についてであるが、エルサレムの第二神殿時代のユダヤ社会を一神教の世界宗教の世界の中でどう位置づけるかを考える手がかりになるのではないか。一神教の2つのタイプが有る(ミハ氏註 ここから、ユダヤ&イスラム VS キリスト教 の議論を与件としてこの講演者はお話になったので、議論がずれてくる、と思った)。

                       

                      イエスの位置づけに、この発掘は、より公正な代案を提示するきっかけとなるのではないだろうか、キリスト教的な歴史の影響かとは独立の見方ができるのではないだろうか。エルサレムでは、祭司たち アロンの直系の家計が神殿を守り、それ以外ではパリサイ派の人々やエッセネ派の人々のような、血統によらない人々がヘブライとしてどのように生きるのかを議論していた。(ミハ氏註 これは、先日の『福音と世界』2017年1月号に掲載された、山森みか論文参照されたほうがよい)


                      そして、ユダヤ教徒は何かを巡って、意見を集約させるのではなく多様な意見を展開しつつ、日常生活を律法に則って、自覚的に統御する方向性が強まる。それが、パリサイ派や、エッセネ派を生み出し、パリサイ派は、一種の大衆運動的な方向性を持っており、逆に、エッセネは、一部のみの人に向かった運動体として考えられるのではないだろうか。

                       

                      その中で、バプテスマのヨハネが生まれ、ユダヤはイエスが登場する直前の時代には、非常に混沌とした時代であり、熱心党含め。いろんな運動体が併存し、ユダヤ教とは、何であるのか、が考えられていった時代であった。その中で、対ローマのユダヤ戦争があり、神殿が崩壊し、その神殿崩壊後のなかで、ユダヤ教とはなにか、という問題が取り上げられていくことになる。

                       

                      イエスの時代には、宗教生活の中心としてのエルサレムの神殿があり、そこでの生贄、祝祭、巡礼と言った者から、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、死海教団などがうまれており、ガリラヤ地方でイエスがローマの支配強化に伴うユダヤ社会の圧迫が始まルナ化で、その活動を開始する。そして、イエスの死後数十年して、第一次ユダヤ戦争へとつながり、ユダヤ宗教の各施設である、神殿崩壊することになり、ユダヤ人に非常な衝撃を与える。そして、その結果として、ユダヤ人のエルサレム追放とガリラヤ進出が起きたであろう。ミシュナーとタルムードが形成され、それらの教えが説かれているという意味で、シナゴーグは重要であったろうし、それらの成立にも、シナゴーグという存在が影響しているとは考えられるだろう。

                       

                      神殿時代のガリラヤとシナゴーグ
                      神殿時代のガリラヤとシナゴーグとしては、イエスが宣教した30年前後からユダヤ戦争頃までは、エルサレム神殿への巡礼(ミハ氏註 キリスト教徒も宮で集まっていたと使徒言行録に記述があるから、そこに行っていただろうが)や神殿での振る舞いを学習するためには、シナゴーグが一定の役割を果たしたはずである(ミハ氏註 キリスト者たちも髪の毛を剃っているが、異邦人が混じっているので、パウロが逮捕される原因となる神殿での騒擾が起きる)。

                       

                      この時代は、メシア思想(ミハ氏註  イエスだけでなく自らが、メシアであると主張したものが、多数いたことが使徒言行録やヨセフスのユダヤ戦記で出て来る)、終末論的切迫感、世界戦争等の思想の広がりがあり、ユダヤ社会に関する宗教を議論する場としてのシナゴーグがあったのではないか、と考える。

                       

                      トーラーとイマムのような存在がある一神教ができるのが2〜3世紀であり、トーラーによる宗教として、神殿での供え物に関する教義を神殿崩壊とともに失うなかで、どのように展開していくのか、は議論になったであろう。賢者と呼ばれる知識者集団が口伝トーラーの概念を発展させ、ミシュナの編集に至ると考えていくことになるだろう。


                      この中にキリスト教も合わせて考えていく必要があるだろう。より具体的に言えば、メシアの死と復活を信仰を基礎とする宗教はいつどのように展開してくのか、ということ、すなわち、ユダヤ社会のシナゴーグとの分離について、考えていく必要があるのではないだろうか(ミハ氏註 この部分は、新約聖書中に明白な記述がないように思う。あるのかもしれないが、ミハ氏が不勉強なだけかもしれない)。

                       

                       異邦人世界に布教する中で、ユダヤ的な戒律ではない、神の概念に魅了される信徒が形成され、魂の救済を柱とする神学が、教父と呼ばれる知識層によって、確立されていくことになる。そして、神殿祭儀(過ぎ越し祭)をシンボリックにした儀礼(聖餐式)がキリスト教の儀式の中に定着していく研究はもう少し考えられてもいいかもしれない。実際に、パウロは、このブログで以前紹介したとおり、伝道と言いつつ、路傍伝道していたわけではなく、シナゴーグに入り込んで伝道していった、ということの意味や、意義をどう考えていくか問題があるだろう。

                       

                      シンポジウムはちょっと意識散漫になっていたので、省略。あまり意義ある話し合いとは、正直、あまり言えなかった内容であったと思った。それは、ミーちゃんはーちゃんの理解力不足の故であろう。

                       

                      月本先生の総括

                      面白かったのは、月本先生のお話で、山川を信頼するなと言うのは、月本先生は思われたらしい。別件で。

                       

                      あと、補足として、ガリラヤ地方になぜユダヤ人がいるのか問題は、ユダヤ民族誌の中でシューラーが最初に議論しているが、ハスモン家の人物が、この地の人々をユダヤ教に改宗させたのではないか、との主張がある。また、この征服は、ヘロデのイドマヤ人征服と並ぶものである。また別の学者は、ガリラヤにユダヤ人が多い理由としては、捕囚とはいえども、捕囚されたのは、一部の上流階級だけで、庶民層を中心とする人々はかなりは残っていた説を唱えている。また、紀元前2世紀から1世紀のハスモン時代から、ローマ時代にかけて、ガリラヤ地方で、ユダヤ人の居住地が増えていく傾向が、発掘結果からわかっている。

                       

                      ユダヤ人がガリラヤに定住したのであるが、それは、エルサレムや南のユダヤ人との関係を考える際に、今回発見されたようなガリラヤの遺物とイスラエル南部との関係を考えることができるのではないだろうか。

                       

                      なおミクべはシナゴーグ以外にもあり、個人宅や大規模邸宅にもあり、イスラエルでは全部で250見つかっていて、そのうちの70がガリラヤ地方にある。

                       

                      特に、土器で輸入品ではないものに関しては、ローカル産品が大量に使われていたことがわかる。であれば、もし、エルサレム周辺で作られたものが出土したりするなど、出土品の産地がわかると面白いのではないか。ある時代においてランプのデザインは共通であるが、そのランプからの交流史を辿れると面白いだろう。

                       

                      出土した石製の容器のように、ユダヤとガリラヤは共通性があり、ユダヤ人の世界がもともとの南ユダヤから、ガリラヤ地方に、ローマの早い時代に移動しているようだ。テル・レフェシュ遺跡の年代特定ができたら、ガリラヤでのユダヤ人居住地がどれくらいの時期に始まり、どの時代で終わっていたか、を特定することが期待できるのではないか。ただ、ローマ時代以降の居住施設の遺構の発掘が大事になるだろう。

                       

                      新約聖書との関わりでは、シナゴーグでイエスが話すなど、イエスの活動とシナゴーグの関わりを考えることも重要だろう。マタイの福音書でも、会堂でシナゴーグで、イエスは教えていたし、パウロもそのようにしている。


                      福音書の記述があり、所在する町の名前のわかっているシナゴーグとしては、カファルナウムとナザレの会堂は記述上では特定されているし、ヨセフスはティベリアのシナゴーグや祈りの家があったとしている。その意味で、イエスは会堂でも活動したわけであるし、パウロの伝道でも、会堂にはいっては、教えていることが使徒言行録に記載されている。その意味で、キリスト教を育てていった母体としての会堂、シナゴーグの役割の研究が進められていくべきだろう。

                       

                      最後に、発掘ボランティアの資金が足らないので、あちこち駆けずり回って募金による資金調達をしているそうなので、もしよろしければ、ご協力をば、ということであった。

                       

                      全体的感想

                      この講演を聞いていくつか思ったことがある。それは、この発掘があたかも「イエスが活動した、あるいはナザレのイエスがそこでトーラーやネビームを読み、民に話した」会堂の発見として報道されたことである。確かに、この会堂は、イエスが活動したガリラヤにある。ナザレからもそう遠くはない。しかし、イエスが、ここにいた、と判断することは、考古学的にはできないだろう。だいたい、イエスという名前自体、ヨシュアないしイシュアスであり、まぁ、普通の名前である。それこそ、指紋でも見つかれば別であるが、そんなものは見つかりっこないし、条件が苛烈なパレスティナで残っているとも思えないし、比較の対象になるイエスの指紋はない。まぁ、イエスが行ったことがある会堂の一つだったかもしれないね、というあたりが正確なところであろうし、今回のご講演の中でも触れられていたが、この建物は、シナゴーグの可能性が高いとはいえ、そうだと認定されたわけではなく、これから更に発掘が進められ(今、半分くらいの発掘が終わったところらしい)、様々な観点から検討されるであろうが、それでも、シナゴーグとして判断することが可能なのではないか、という程度のことである。この慎重さが、考古学が学であろうとしている学であり、批判に対して開かれているなぁ、と思うところである。それは非常に好感が持てた。

                       

                      もう一つは、マスコミが世界の大発見とか騒いでいたが、マスコミは、この種のことに基本的に理解がない、ということの証左であり、風呂屋政談の素材提供組織、といった程度のものであり、信用ならん、ということであることを指し示しているのだろう。それを、我々は、十分わかった上で、メディアと付き合っていくことが求められる。それは、世俗のメデイアであろうと、キリスト教メディアであろう、自称キリスト教メディアとされている、というメディアでも、同じことである。山本リンダ嬢ではないが、♪メディアを信じちゃいけないよ♪なのである。

                       

                      山本リンダ嬢の『どうにもとまらない』(小学生ころ聞いた)

                       

                      もう一つは、学問対象としての宗教をどう考えるか、という問題である。今回ご発表になられたお三方の信仰の背景は、よく存じ上げないが、山野さんと月本さんの理解が、ある種信仰の内実と一体化しているというところで、議論を進めておられて、なるほど、そのように理解すればいいのか、ということを強く感じた。しかし、その立場は、学問としての所謂客観性を多少犠牲にしているのではないか、という批判を受けやすい。しかし、所詮は、客観性と言いつつ、純然たる客観は人間が生み出せない以上(これは器械を用いた測定値であっても、その問題はつきまとう)、間主観性であるにすぎない。であるとすれば、自己の信仰の内実に照らしつつ、できるだけ他者と対話可能な言語と手法で対話しようとしているということをお二人からは強く感じた。

                       

                      しかし、予算をお借りしたということもあるとは思うのだが、市川様のご発表のご趣旨は、あまりに信仰の内実というのか、信仰の思想的な部分を相当に無視した、外形論的根拠を利用した形式における傾向性からのご発言とは言えるかもしれないものではなかったか、と思う。学説の説の新規性という意味では、面白かったが、今後これから、ご検討される仮説を、とりあえず、出して見られた、ということなのだろう。なお、このご講演を拝聴しながら、ミーちゃんはーちゃんは個人的には、”見かけの相関”ないし”擬似相関”という語を思い出した、ということだけは申し上げておこう。と言うのは、この3つのグループは、基本は、旧約聖書の世界から出発したグループではあり、共通部分から見ると、共通度は高い。しかしながら、キリスト教はギリシア、ローマを経ていく中で、現地化していき、ムスリムはムスリムでイスラム系の諸帝国の成立、滅亡という時代を経る中で、変容しているのだ。また、ユダヤ教も基本成文宗教法体系で固定されつつも、また、その先端では変容しているのである。また、どの程度の分析の精度か、あるいはレゾルーションをどの程度にするかにもよるけれども、イスラムとて一括りではない。しかし、それをあまりに細かくやりすぎると、何が何だかで、何も言ってないことになるので、このあたりのさじ加減がむづかしいのだなぁ、と改めて思った次第。

                       

                      この記事単発。

                       

                      なに、ミーちゃんはーちゃんごときの素人の見解である。お気に召されることもあるまい。素人のたわごとである。


                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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