2016.11.01 Tuesday

2016年10月のアクセス記録とご清覧感謝

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     皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

     

     先月は、30,084アクセス、平均で、日に  970.5  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

     2016年第3四半期(7〜9月)   66709アクセス(716.5)
     

     2016年10月      30,084 アクセス (970.5) 
     
    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

    日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語)

    アクセス数 809 

     

    京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編)

    アクセス数 654

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

    アクセス数 512

     

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

    アクセス数 469

     

    「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウム参加の記録(1)

    アクセス数 382

     


    でした。

     

    しかし、今月は伝道会議関係であったが、それでも現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第3位であった。それと、特筆すべきは、カインとアベルというドラマが始まったせいか、古い記事でもある、上智大学の公開講座の参加記録

    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半が上位に来たのは面白かった。

     

    2016年10月のアクセス推移

     

     ということで、今月もご清覧をばよろしければ、と。

    2016.11.02 Wednesday

    N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(22)

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      今日もタラタラと、いつものように、N.T.ライトさんの『新約聖書と神の民』を読んで、ミーちゃんはーちゃんが思ったことなどを述べてみたい。

       

      構造主義という考え方

       構造主義というのは、その用語を意識していようがいまいが、現代思潮の中には一部通底しており、現代の研究にも大きく影響しているようである。ミーちゃんはーちゃんは、この構造主義という語を大学院を卒業してから、アメリカに行って覚えたのである。1990年代後半にアメリカの大学で、チームティーチングのメンバーとして、大学院生を共同で一緒に勉強(日本語風に言うと指導)している時に、同僚であった方が講義の中で、「地理学は社会的空間に現れるSocial Structure(社会的構造 社会的構築)と言うものを通して研究をすすめる学である」ということを言われて「あぁ、なるほどなぁ」と思ったのである。社会には何らかの構造(考え方の基本的なルールや文化や与件としての技術という社会的構造や理解の束)があり、それが実際の空間において、行為として現れて跡形を残したものを研究対象としている、というのは、人文地理と歴史が絡むあたりで出てくるだろうなぁ、と思ったのである。それは、人類学的な研究をする中で、世界各地の多様な地理空間に現れている違い(例えば住み方)などの研究始めると「なぜ、この地域の人はこのような建物に住むのか、住み方をしているのか、それはなぜか」ということを問わざるを得なくなる。それを説明する操作概念(いろんなことをあくまで説明しやすくする概念)として、構造主義は実に便利なものなのである。

       

      例えば、住宅には屋根があるが、その形は、気候条件や環境という構造によって変わるという例を用いて示したものが以下の図である。世界に共通するものとして、人間の上部から落下するものから守るというために屋根というものが存在する住宅があるとして、屋根の存在は共通だが、それ以外の要因として、気候条件があり降雨量が多い地域では、それに適した形に屋根のデザインがされていき、少雨地域では、その環境に適合した形に屋根のデザインが変更されていくという形で、屋根の形の違いが表現されることがあると思う。これは、典型的な構造主義である。
       

      住宅の屋根の例で構造主義を見てみた図

       

      ただ、文化人類学が典型的なのだが、人類は共通だ、という部分にかなり大きな関心があり、人類の共通項は何かを研究してきた研究分野もあれば(割と近代の概念に近い研究のアプローチ)、「いやいや人類に違いがあり違いとはなにゆえ生まれるのか、かという部分に関心がある」と主張する研究分野(割とポスト近代、ポストモダンの概念に近い研究アプローチ)もある。しかしながら、方法論としては何かの構造を前提に現実世界に現れていることを解き明かしていこう、という点では、共通している。なお、ミーちゃんはーちゃんは違いと言うか多様性のほうが面白いので、違いの方にどちらかと言うと関心がある。

       

      それが、聖書に向かっていくと、どうなるのだろうか、ということに関して、ライトさんは次のように書いている。

       

      第二の点は、第一の点をより大きく敷衍したものである。それは詩が全人類の思想の深層構造を知るための手がかりとなると言う主張である。人類と社会の性質についての結論を導くことは、人類学での研究成果の集積により、詩についての批評的研究においても大切なテーマとなってきた。これは「構造主義」と呼ばれる、人文/社会科学分野での研究における方法論である。テクストから人間の深い深層構造を探り、さらにそこから通常の認識を超える実態についての考察に進んでいこうというものだ。この構造主義は現代版プラトニズムの一形態だといえるかもしれない。それは目の前にある現象を超えたところに本当は何があるのかを分析しようという試みなのである。構造主義の魅力の一つは、それが多くの聖書釈義者たちを悩ますある種の課題を回避する方法を提示しているようにみえる点にありそうだ。その課題とは、テクストの真の意味を理解するためには、そこに描かれている出来事や、そのテクストを書いた作者の内面を探らなければならないということだ。(『新約聖書と神の民』 p.119)

       

      ここで、ライトさんは、「この構造主義は現代版プラトニズムの一形態だといえるかもしれない。それは目の前にある現象を超えたところに本当は何があるのかを分析しようという試みなのである」とかいているが、まさにそのとおりなのである。つまり、この世界で表彰され、確認できる現象の背景にある構造が、現象に反映されているという概念であり、例えば、先程の屋根の例で言えば、人類に共通の住まい方として、上方からの落下物を防止するという共通部分が必要という部分(普遍的)と、雨の多寡によって人は行動を変えるであろう(これまた構造であるが…)ということによって、変わっている部分(個別的、環境依存的部分)があると、実に構造主義と言ってもどこまでを分析対象にするかによって、構造の見え方は違ってくる。その意味でも、構造主義があったとしても一意に意味は確定しないとは思う。

       

      構造主義で見る第6回 日本伝道会議の

      神学セッション内「オープン神論と物語」

      先月の記事のトップとなった、 日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語)という記事があるが、あの時、何が話し合われたかというと、大頭さんは「神が人間の世界に顔を出して神が人とともに過ごす(大頭風表現を使えば”はみ出す”)」という構造(ライト風に言うと、地において、天と地がかみ合う Interrockする)を強調して居られたし、また、中澤啓介さんは当時の人がある理解を伝達する”形式”としての「物語」があるという構造を強調して居られた。それぞれ、ある種の構造主義ではあるのであるが、このようにどこに構造を見出すかによって、その理解や強調点は、同じものを対象にしているとしても起きるようなきがする。

       

      「どちらが正しくて、どちらかが間違っている」とか「どちらのほうがより正しいのか」という議論をする事が大事なのではなくて、要するにそれは構造を見出すための視点の違いが現れたにすぎないという、より大きな構造で飲み方もできるのが、この構造主義の面白さであるようなきがする。要するに、構造をどう見るのかも、発言者の視点、視座、世界観に影響されざるをえないのであり、それの相対的な位置関係はある程度理解できるものの、人間世界のどこか原点があって、と言うものではないと思う。まぁ、有限で無限をどうやっても表現できないのと同じように、無限なる存在や絶対を人間はどうやっても理解できない、という理解を持つことは大事だし、それが議論をしようとする人の誠実さだと思うのだけれどもなぁ。

       

      科学的であることと構造主義

      ここで、ライトさんは、構造主義と科学との親和性について、特に北米の文化コンテクストの中で、応用される理由について次のように述べている。

      もし普遍的な意味がテクストに奥深く秘められているのなら、その普遍的な意味は科学的に響くし、より良いものに見える。こうして作者の意図は普遍化されていく。深層構造というアイディアは耳目を集めるものなのである。こうした理由から、特に北米で、あらゆる分野の著者たちが構造主義によってテクストを解明しようとしている。このような研究によって、今まで他の批評学の影に隠れて見逃されてきた問題が聖書学の分野で再び問われるようになった。(同書 pp.119−120)

       

      数年ほど、アメリカに居住してみて、また、その後北米のテレビ番組(より正確にはLaw and OrderやThe Simpsonsなど)を見ていても思うのであるが、北米人は、客観性(それが存在するかどうかというのは、極めて重要な哲学的な問であるが、個人的には存在しないと思っている)が大好きで、科学的であること、そして不変性ないし普遍性の追求は何より大事だと思っている(それがプラグマティックな行動と効率性をもたらすからという、ある種の社会的な信仰としか言いようがないものに依拠している、あるいはその概念に取り憑かれているように思うのだが…)ように見える。それはアメリカが多民族国家で、いろいろな人々がいて、いろいろな文化的背景がある人々が、広いとはいえ、時に行き違うことがあり、その時に文化摩擦が起きるからではないか、と思うのである。そこでは、何らかの共通のものがあるとは思いたいからではないか、と思うのである。この辺の文化摩擦と普遍性の問題を考える上で、クリント・イーストウッド監督主演のグラン・トリノという映画は面白い。国内にある様々な文化的表象との摩擦が現れてもいる映画だからである。それは、モン族という難民の文化的表現、アフリカン・アメリカン文化的表現とそれを真似るコーカシア系青年の青年文化、また、イーストウッドが体現し、表現しようとするアメリカの労働者文化的表現とが共存しつつ、互いに摩擦を起こしつつ共存しようとしているアメリカの文化的状況を見事にまとめているという点で、実に印象的である。

       

       

      グラン・トリノの予告編(ワーナー・オンデマンド配信中 だそうです。)

       

       たしかに、日本にだけ住んでいたときには構造主義ということはよく考えてみれば学術の分野でも概念とか方法論の意味では影響していたのではあるが、特に意識することはなかった。しかし、アメリカに行ってみて、構造主義というは肌をさすような感覚として感じたような気がする。まぁ、それまでは数式展開するような論文しか書いてなくて、そんなことすら目を向ける余裕がなかったとかいうのもあるかもしれないが。

      そして、この研究が流行ってきた20世紀中葉以降の時代は、アメリカは凋落に向かいつつも、2回の世界大戦で勝利者の側となり、直接的に戦場にならなかったという点と、欧州大陸から戦火を逃れてきた、または、戦後の後輩と不幸から逃れるためにやってきた新しい移民の人々が多く存在したことなど(もちろんこれだけではないとは思うが)によりが、ある面でも学術の世界でも北米の世紀となり、アメリカ人の標準化思考とも相まって、それは世界中に広がっていくことになる。そして、その結果、聖書の表面である文字による聖書記述とその標準テクストの確定に関する議論が中心であった、批評学的な聖書理解は、どうしても表面的な文字を操作する世界に近いが、その先には行きにくかった部分があったようだ。しかし、構造主義という便利な道具の登場で、テクストのその奥に行ける可能性が開けたと言うことなのであろう。

       

      意味はどこにあるか

       さて、テクストの表面を確定することに大きな関心があり、議論してきた批評学がその奥に行ける可能性を開いた構造主義であるが、あらぬ方向に行く場合もある。そのことについて、かなり批判的な表現が見られた。この辺がイギリス人チックなブラックさがあるのも、また、ライトさんの魅力ではある。

      このような考察では、「意味」は出来事との中に、あるいは作者の信仰の中に見いだされる。しかし、形式主義や構造主義を掲げる文芸批評家は、「意味」をそのどちらにも求めず、文学形式や構造そのものの中に追求しようとしている。構造主義によって、どのようにテクストの中の意味が見出され、また、そこから何が得られるのであろう。(同書 p.120)

      なお、この部分は、次の方法論、構造主義と伝統的な解釈の方法論へのブリッジング(両者をつなぐための)方法論へと移っていくための文章であるが、明らかに、テキストの表面に現れた形式という構造に目を向けることは大事だけれども、それで構造ばかりに目を向け過ぎ、テキストの表現形式のみや形式スタイルで全てを語っていくことについて、どの程度の意味がある、というのか、というご批評をされているように思う。

       

      そして、何より大切なのは、作者(福音書記者とか、書簡の記述者)が何を伝えようとしたか(「意味」)のほうが大事なのではないか、ということだと思う。それは、茶道は、本来お茶を美味しく楽しく飲むためのお作法の体系をも含むが、そのお作法をきちんとこなすことにばかり目を取られて、もし、お茶を楽しむことができない状況(本来的な目的)でもある和敬静寂の世界が忘れさせられているようになっているとしたら、それになんの意味があろうか、というご批判でもあるのではないか、と思う。まぁ、それはあえて無価値に見える茶器を使うことで、対応しようとした利休の批判にも通じるように思う。

       

      交趾の香合

       

       

      まだまだ続く

       

       

       

      評価:
      N.T. ライト
      新教出版社
      ¥ 6,912
      (2015-12-10)
      コメント:実に面白い。ぜひご一読をおすすめします。

      評価:
      ---
      ワーナー・ホーム・ビデオ
      ¥ 1,492
      (2009-09-16)
      コメント:キリスト教が隠されたメタファーになっているという点でも面白い映画。

      2016.11.05 Saturday

      N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(23)

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        今日もまた、たらたらたらとN.T.ライト著『新約聖書と神の民』を読んだ結果から書いてみたい。今日は構造主義的な聖書のよみと伝統的な釈義との類似性のお話である。構造主義は、文章の背後にある共通構造を探すのに対し、伝統的な聖書のよみは、そのテキストが意図しなかった意味合いを含んでおり、それを探す、という点で両者は違いがあるが、テキスト表面の書かれた内容にこだわらない、という点ではある程度の類似性があるとは言える、とライトさんは考えているようだ。

         

        著者の表現とそれがもたらす多面的な意味

         ある人の発言を誤解することなどがネット上での対話ではもたらされる。 ある程度は、漢字や表現方法を適切に使うことで、意味の幅は限定されるが、とは言え、平かなやカタカナでの表現により、逆に意味に膨らみがもたらされることもある。

         

        もうこれは完全に余談だが、ある方が先日のN.T.ライトセミナーでの写真を加工してアップしてくださり、アップしてくださった方がその写真へのコメントとして

         

        みは氏は仲良しなので、こういうシャレが通じますしね(^-^)

        と書いてくださったのだが、ご本人の意図は、ここでヲサレの意味を含むお洒落と、ダジャレを含む洒落がかけてあったようなのであるが、ここでの洒落、というのは個人的には、それ以外の意味を持っていると勝手に思い込んでいて、画像加工するカッティングエッジさと他者への配慮をふくむこの画像をアップしてくださった方の”ツィストの効いたおしゃれな生き方”のことだと思っていた。
        ところで、以下の画像は、ほぼ同じ文字列を使いながら違う意味を含めているという意味で面白い。こういうシャレは大好きなのだ。トランプ候補のキャンペーンのモットーであるMake America Great Again(アメリカをもう一度偉大な国に)にGreat と Againの間に、Britain を入れて、Make America Great Britain Againとし、そこにエリザベス女王の画像を登場させることで、アメリカを大英帝国の一部にって言うスローガンに変えているのだ。

         

         

        おふざけ画像

        トランプくんが一時期よくかぶっていたキャンペーンスローガン入り帽子

         

        まぁ、こういうことは時々起こる。文章が2重、3重の意味の可能性を持っている場合である。古典落語などでは、それをうまく使っていることが多い。

         

        第三の点は、こうした構造主義的な探求と、より伝統的な聖書釈義の問には類似性があるということだ。伝統的な釈義では、作者の意図を超えたより深い意味(sensus plenoir)が存在し、意図されたテクストは作者が執筆当時考えた以上のことを語っているとみなされる。聖霊の働きで作者が気づいていなかった、または意図していなかった預言がなされる。大祭司カイアファは他のことをいおうとしたのに、実は主の言葉を語っていたというようなケースである(ヨハネ福音書11章49−51節)(『新約聖書と神の民』p. 120)

         

        大祭司カヤファとして知られるカイアファが、「一人の人が死ぬほうが全国民が犠牲になるよりマシ」という趣旨のことを言ったのだが、これが実はアブラハムによって、この地に全地のすべての民族に神の救済が訪れるという預言になっていたということなどが具体例としてあげられている。

         

        ミーちゃんはーちゃんの周りでも、時々、このようなことが起きる。何の気なしに行った言葉が、後々になって、「あの時こう私の家族に言ってくださったのですが・・・」とかおっしゃってくださる方がいて、「え、そんなこと言ってました?記憶に無いなぁ」となること(あまり、「そんなことを言ってました以下・・・」を口に出しては言わないが…)が案外多いのである。それで恐縮したりする。基本、ミーちゃんはーちゃんは、その場の思いつきで言っていることが多いので、ミーちゃんはーちゃんの発言はあまり気にしないでほしいことが多いのである。そもそも会話ってそんなもんだと思っている。もちろん、意図した発言で、記憶に残っていることもいくつかあるけど。

         

        近似的にはあるけど、そのものかどうか・・・

        まぁ、意味を確定しようという努力がなされることがあるが、それはある程度可能であるというものの、完全には絶対と言いきれる確実性を持っては不可能ではないか、ということをライトさんは次のように語っている。

         

        以上の幾つかの試みは(教会の伝統的な聖書釈義は、明らかに新約聖書そのものの中に見出される)、「意味」を作者の意図した範囲に限定しないようにするための方法である。構造主義に立とうが立つまいが、執筆当時の作者の胸中にあったことを超えた、なんとも言い難い何か(je ne sais quoi)を考慮に入れなければならない。それを記述し解釈するのが困難だとしても、批評学がこうした可能性を排除できないのは容易に理解されよう。だが、このようなやり方では主観主義的なテクスト解釈に逆戻りしてしまうと批判されたとしても、作者の意図が重要でないとか、結局は理解不能なのだということにはならない。作者の意図を完全に説明することは不可能である。(同書 pp.120-121)

         

        まぁ、聖書理解に関して言えば、完全に理解できるのか、という問題はある。個人的にはあくまで一つの理解の可能性でしかないと思っているが、そんな弱腰でどうするとご批判とご高説をある教会で拝聴させていただいたことがあることも、以前のこの関連記事で皆様にお示ししたところである。しかし、聖書が神の言葉であるとするならば、聖書を介して神が伝えようとする意味の絶対的な制度を持っての確定は、人間にはできないのだと思っている。

         

        ちょうど双曲線がギリギリX軸とかY軸に接近するように、神の意図の周辺には近づくことができると思っているが、近似的にX軸に等しいのであって、拡大をし続けていってもX軸と双曲線は交わらない(同じ値を取らない)程度の近さだということくらいか、と思っている。それを示したのが上の引用部である。

         

         

        双曲線

         

         

        読者による牽強付会

        まぁ、無理筋の議論をする人々はどこにでもおられように思う。播州方言では、「ごちゃを言う」という言い方をすることがあるのだが、メチャクチャな論理で我が身に引き寄せて発言する方がおられるのだ。実にかなわないことがある。茨城県の南西地方では、そのような人に対する「ごじゃっぺ」という言い方がそれに近いかもしれない。聖書のよみでも、このような無茶苦茶な意味を我田引水的に発言され、事故のご主張をされる方がおられる。でも、その種の方は、大抵の場合、聖書からの”カットアンドペースト”であることが多いので、「まず、基本的なテキストに戻りましょうよ。それからがお話しましょうね。」となることが多い。

         

        テクストのより深い意味を作者の意図を考慮せずに追求するという試みが内包する問題点の一つは、そうした分析が収集のつかないものになってしまうことである。著作の中に発見されるべき深い構造とは何かという問いについて、構造主義者の間にコンセンサスは形成されていない。宗教改革者が論じたように聖書にはもっと深い意味があるのだとしても、実際には読者が自分の神学的アイデアや信念を聖書に押し付けているだけかなのかもしれない。(同書 p.122)

         

        そもそも、このような聖書に自分の考えや信念を押し付ける傾向をお持ちの方は他のことに関しても同じような体制で望まれるし、これまでのアメリカンスタイルの伝道の方法は、多分、そんな感じだったと思う。要するに、Take it or Leave itみたいなところはあったなぁ、と思っている。その意味で、聖書にまで自分の考えを押し付ける聖書の読み、押し付けがましい理解だったのかもしれないなぁ、と反省している。その意味で、聖書とキチンと向き合って対話する、聖書の主張をゆっくりと味わうようにして、聖書に聴く、というよりは、自分の考え(というよりは、教えられた考えや理解)に合うように聖書に言わせていた感じに近い部分があったのではないかなぁ、と思う。

         

         

        こんな感じの宣教方法だったかも

        あるいはこんな感じか・・・

         

         

        まだまだ続く

         

         

         

         

        評価:
        N.T. ライト
        新教出版社
        ¥ 6,912
        (2015-12-10)
        コメント:高いけど、おすすめ

        2016.11.07 Monday

        教会の情報発信についての動画の紹介

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          今日は短めの投稿である。

           

          いのフェスというイベントで

          先日名古屋で行われたいのフェスというイベントで、大変、面白い講演というかワークショップがあった。それは、教会の情報発信のお話があったらしい。動画がツィキャスで公開されているので、必要な方はご覧になったら良いと思う。画像はよろしくないが、音声はそこそこきれいである。

           

          教会のチラシやホームページあるある

           この講演を聞きながら、思ったことを書いてみたい。まぁ、この種のことは、八木谷涼子さんの『もと行き』こと、『もっと教会を行きやすくする本―「新来者」から日本のキリスト教界へ』という書籍で書かれていることではあるが、この講演で重要なことは、教会について、どのように伝えるのか、ということをかなり明確に、具体的なホームページやチラシという素材をもとに、陥りがちなミスをご指摘されていたことである。

           

           深井先生の『神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)』ではないが、キリスト教界が市場化してしまって様々なタイプの教会が社会に存在する現代のアメリカ、そして、日本のキリスト教会の中にあって、それぞれの特性があり、静かな教会もあれば、賑やかな教会もあり、その中で、自分たちの教会をどう伝えていくのか、という現実的な問題があり、そのための方法としてのチラシやホームページがあるのだけれども、それがどうもうまくないことが多い、ということも虚心坦懐にご説明であった。

           

          まぁ、ホームページを作らなきゃ、って、HTML言語などを覚える前に、まず、自分たちが出したい情報、知ってほしい情報、どのような内容をどのような表現で伝えるのか、ということがまず第一なのだが、そこから、まず理解するためにも、デザインの基本を何処かで学ぶか、本で学んだほうがいいと思うことが多い。

           

          イメージ先行狙ってません?それってNGみたいですよ

           よくある、大企業のCMのようなイメージだけが先行型した広告のあり方は、ある程度の信用があり、その組織が持っているコンテンツが知られている組織や人には有効だが、「教会ってなんですろ〜〜〜、なにそれおいしいの?」という人や、殆どの教会は、そこの教会人が自分で思っているほど有名でもなく、内容が知られてないという状況下において、「イメージ先行、ってどうなの?」ということらしい。内容を知らないという人が多いという現状に鑑み、イメージ先行ではなく、テキストを中心としてきっちり伝わるようにする説明的なチラシなどのほうが効果的であるとか、イメージ先行の画像ばかりのチラシやサイトでは、伝わらないのではないか、と言った至極まっとうなご指摘があった。

           

          イメージが先行するマンションのチラシの例(周囲の環境が表現されてない・・・w)

           

          Daigoやピコ太郎ではあるまいし

          あと、教会では意味不明のアルファベット3連文字列とか、(JEAとかJECAとかKGKとか、JCEとか・・・未だに、JEAとJECAの区別がつかなくて困っているが、あるていど詳しい人によると、その区別も微妙・・・らしくて、あまり気にしなくていいらしいw)が多い。DAIGOやピコ太郎ではあるまいしとも思う。

           

          3文字単語で有名なDAIGOくんによるKSK(結婚してください)

           

          最近話題の、あの4文字音楽

           

          言いたいことを書くのではなく、

          相手に向かってきちんと伝えよう

           あと、チラシやホームページの文言には、その教会の雰囲気が文章で説明的であるほどよいこと、読み手にきっちりと伝わる内容であることがあること、また、その教会の雰囲気や考えが読んだだけでわかるような内容が望ましく、また、その文言は、自分の立場からの発言ではなく、読み手、閲覧者の立場に立ったものであるほうが良いことが指摘された。特に、また、講演会などのチラシでの講師紹介にしても、外部の人にとって意味のないなんちゃら3文字単語の代表とか、外部に意味不明の経歴や、他にわからない学歴などの経歴をダラダラ書くのではなくて(まぁ、ほとんど、教会外の人にとっては「何それおいしいの」である)、聞いてみようと思わせる表現にするとか、その辺も工夫したほうがいいかもね、という指摘があった。

           

          また、写真は素人がとっても良いけど、撮影するなら、片付けてから写真を撮ったり、どうせなら、プロの写真家に頼んでみるのも一つの方法であるとか、というかなり実践的な内容が触れられていた。

           

          テキストの伝える力

           案外、テキストは、その人の雰囲気が出ることがあるし、そのような文章のほうが、相手にきちんと伝わることもかなりあるので、画像中心のものよりも、案外テキスト中心の方がその教会の雰囲気などが伝わるかも、という話があったりした。そもそも、興味を持っている人しか、テキストはどうせ読まないので、そのチラシやホームページを読んでいるということは、そもそも、そのサイトに関心があるから読んでいるのだから、テキストは伝える力が強い、ということなのだろう。

           

           この話を聞きながら、ここまでくどく長いテキストだらけのサイトを読んでくださる方が案外多いので、書いている本人のミーちゃんはーちゃんが驚いている。あまりに長いので、音声化しないのか、といってくださる方が居られたので、「それ、書くだけでもかなり大変なので、音声化まではとてもとても」とお断りしたのだが、「それでも音声のほうがありがたい」ということであったので、「ちょっと音は変ですが、”ボーよみちゃん”(http://www.vector.co.jp/soft/winnt/art/se475579.html)」というのがありますが・・・とご教示したら、結構愛用しておられるらしい。

           

          まぁ、プロテスタント教会は、どちらかと言うと、文字を読むこと、文字で伝えることにこだわりがあリすぎるくらいこだわりをお持ちの方が多く、「もうちょっと文字だけじゃない世界もあるんじゃないの?」と思うところもあるが、まぁ、その意味で、プロテスタント教会らしく、文字を効果的に使うという事も考えたほうがいいのではないか、と思った。

           

          技術的な面でのヒント

           他のヒントとしては、これからの時代、病院でも、スーパーでもGoogleで検索して行く時代になっていることを考えると、Webサイトを持たないってことはどういうことを意味するかを考えた方がいいとか、教会のホームページを作成するにあたっては、現在、携帯、スマホ、タブレットと言った多端末対応して置くことは必須になりつつある、ホームページ作成に凝りすぎて、サイトごとにメニューの位置を変えるのはまずい、と言った、ウェブデザイン業界では常識になっていること、携帯やスマホではデザインが崩れて見られたものではないサイトが有るのでは、とか、Google Analyticsをいれて、サイトの動きをモニターすることが大切とか、SEO対策のコンサルとかしている業者もあるけどそれより先にすることがあるのでは、・・・といったようことが話題に登っていた。

           

          なお、某福音派系のクリスチャンなんとかという紙メディアの担当者の人に2年くらい前に今のWeb技術についてお話した時に、営業というか記者の人だから仕方がなかったのかもしれないが、Google Analyticsの結果を御清覧いただいた時に、「え、ここまでできるんだ・・・個人で」ということを驚いておられたのである。そもそも、紙メディアの一部をデジタル化して、ウェブサイトで表現しているにも関わらず、自社製品である出版物のリンクを記者に貼らせるのはどうか・・・というご発言にも驚いた。単にリンクを貼る、という作業なのだが、そのことが大変だと思いこんでいた関係者の方から発言が出たのにも、日本のキリスト教メディアがホンマにメディアミックスをほとんど考えてないし、感性が低いなぁ、と思って絶望的で暗澹たる気持ちになったことがある。実に残念な限りであるし、宗教改革以来499年の印刷物への異様なほどのこだわりを見てしまった。ルター先生ではないが(そこまでの神学的蓄積はない)、第2宗教改革として、ウェブ時代の宗教改革やってしまおうか、と思うほどである。

           

          でも、この辺のことは、MdNという雑誌とか、そこが出しているMook本とか、本当は、そういうものをある程度読んで、きちんと勉強した人を教会内で育成するほうが、賢いような気もした。というのは、こういう作業は、ちょっと感覚があれば直ぐにできるし、そんなに難しい作業では既になくなっているのだが、それを外注に出してしまうと、外注に出した先でしかできないとか思い込んでしまう方々がおられる。まぁ、ご講演された方のビジネスにとっては外注作業が増えれば増えるほど、お仕事が増えるのでいいのだが、それでは、緊急対応ができないなど、色々不具合もあるというのは、思う。

           

          なぜって?この辺の仕事をタダで年に数回外注してくる人とお付き合いして居るからである。

           

           

          なお、講演動画は、こちらで見られます。画像は悪いですが、音声は比較的聞きやすいです。

           

           

           

          教会とホームページ 2

           

           

           

           

           

          しかし、キリスト教業界だと、こういうことを言っているところは、キリスト教メディアでもあるようなきがするなぁ。

           

          私たちは、私達の教会をマーケティング分野で手伝ってもらう必要はありません。なぜなら、私たちは、完全にマーケティングをすることができるからです(単にやってないだけ、と言いたそう。その割に看板には必要なことが何も書いてなくて、草は生え放題だし…)

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          八木谷 涼子
          キリスト新聞社
          ¥ 1,620
          (2013-11-22)
          コメント:まぁ、相手目線に立つということを考えたほうがいいとか、指摘している。すべての教会に必要だというわけではないが、考えるヒントはあるように思う。

          評価:
          深井智朗
          新教出版社
          ¥ 1,944
          (2013-05-31)
          コメント:大変良いと思います。教会が市場化している現代のキリスト教という現実を考えるヒントになります。

          2016.11.07 Monday

          グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(1)

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            BookReport  アルノ・グリューン著 村椿嘉信訳
            従順という心の病い ―私達は既に従順になっている― ヨベル刊 800円 (最下部参照)

            N.T.ライトセミナーに行ったとき、ヨベルの社長の安田さんから本書をご恵贈いただいた。その日には、同行者のSKHRさんも居られたので、帰りの電車の中では馬鹿話(といってもほかの人には馬鹿話だが、一応まじめなキリスト教業界の話)をしていた。帰りの新幹線の中では、読めなかったが、翌日通勤時に、この本を一気に読んだ。薄い本であり、翻訳も読みやすい。何より、現代の病理に迫っていたので、大変面白く読んだ。これは紹介すべき本だ、と思ったので、ある会合で、ブックレポートをした。本記事は、本日ご紹介したブックレポートにかなり加筆して、ブログ向けに読みやすく書き換えたものである。

             

            社会システムへの従順
            社会システムに関する「従順」という概念、近代から現代社会における社会システムとの関わりの中で生み出されていった行動規範が、ある種の現代病であり、現代社会におけるある種の病理現象と、もはや言ってもいい現象である「従順」を生み出したのではないか、ということを本書は指摘している。つまり、現在の社会システムやある前提や行動パターンを与件として、無批判に受け止めることがどうもおかしいのではないか、と批判している書物が本書である。

             

            背景にあるナチス・ドイツ

             読みながら思ったことだが、著者が生まれた地であるドイツにおいて、ナチス・ドイツを生み出していったドイツ型の衛生思想、優生学思想をどうも念頭に置きながら、社会システムと社会の基本原理に関する無批判な従順がどのようにして生まれていったのかを起点に考え、書かれた書物であるといえると思う。

             

            http://ripy-jm.com/news/pickup1306_keyakizaka46_ishou_nazi.htmlより

            (なお、このRipyの記事の著者の主張とミーちゃんはーチャンの主張とは一致していません。)

             

             なお、この種の問題はドイツだけに限られない側面もあり、近代そのものが内包している問題意識だと思う。また、この問題意識の先に、文明理解、社会理解がシステム化されること、とりわけ、本来別々の個別のユニークなものとして被造された人間である個人に画一化、均一化の危機が迫っていることを指摘した書である。

             

             その意味で問題意識としては凡庸さと悪を扱ったハンナ・アーレントと共通するものがある。

            映画ハンナアーレントの予告編

             

            異なる文化形態の人々との共存のために

             ところで、本書を読みながら、本書には、近代を支配する世界観と異なる世界観を持つ人々との間の緊張の問題を考える鍵があるように感じた。というのは、現代イスラエルにしても、あるいは、現代ムスリム社会にしても、社会システムに従順であろうとする、という、この種の社会の基本的前提を与件として受け入れる必然性を必ずしも有していない、という点では西洋近代とは異なる世界観を持っている人々である。それ故、西洋近代と、ユダヤ社会、ムスリム社会は、時に西洋近代と緊張関係にあった。とはいえ、ユダヤ社会、ムスリム社会は西洋近代を与件とする社会に巻き込まれつつも、どこかで、共通化されることに関する問題意識というか、緊張関係を持っていたし、現在もなお持っている様に思われる。

             

            今、この文章を書きながら、イスラエルにお住まいのお友達の旧約学者の方が京都の浄土宗のお寺で開催されている冥土カフェ「ピュアランド」でお話してくださったときのことを思い出した。現代のイスラエルでは、ドイツ人が徹底的に一致してまじめ過ぎだったが故に、徹底的なホロコーストが起きたことの反省に立ち、極力一致しない方向で、極力こめかみに電気を走らせない方向で、個人の個性と社会の多様性を重視する形で教育を思考しているものの、ロシア系の音楽教育やバレェ教育は、完全に型をはめる教育スタイルなので、その辺で、後からやってきたロシア系ユダヤ人との間になんとはなく軋轢がある(大意)という話を思い出した。

             

             

            冥土喫茶 ピュアランドのフライヤー

             

            現代の社会だからこそ、必要な本書

             また余談に言ってしまったが、この本の主張に目を向けると、近代を経験し、近代という遺産の上にある現代社会に生きる我々にとって、現在の社会システムに対して無批判にその前提と行動基準、そしてその社会をもたらすものを受け止めることが本当に望ましいのか、ということを幾つかの具体例をとともに紹介している本である。そして、ツィッターとかFacebookとかで、他人の箸の上げ下ろしを云々する人々が居られ、あれはこうでないといかんのではないか、とか正義の剣を振り回すかたがたも居られるが、そういう時代であるからこそ、他者性を持つ他者を受け止めるために、この本は必要であるといえるのではないか。

             


            典型的に本書の問題意識は、割と最初の段階で取り上げられているスタンフォード監獄実験、あるいは、ミルグラム実験、あるいはアイヒマン実験と呼ばれる実験とその結果が示されていることで暗示されている。この実験に関しては、映画ESでも取り上げられた。この実験は、社会システム理論や経営理論関係で有名な実験ではある。

             

            その実験を取り上げつつ、人権教育を十分に受け、人権を重要視しているアメリカの教養ある現代人でさえ、権威と呼ばれるものが指示することに唯々諾々として従っていくのかを示しているし、その人々が権威に無批判に従うメカニズムについて分析的に書かれている書物である。

             

            映画ESの予告編

             

             

            似たような映画の『エクスペリメント』

             

            「合理的に把握すること」、「従順になること」を要求する私たちの文化、つまり人間の本質を観念的に理解しようとする私たちの文化は「規格化された人間」を生み出す。私たちの文化に生きる個々の人間は、それゆえ常に、「役割」や「地位」という観念的なものによって評価さらされている(アーヴィング・ゴフマン(1922−1982 米国の社会学者))。自分を独自の個体とみなす私たちは、「人格(ペルソナ)」という構築物を、自分自身の独自な成長によって手に入れたものと勘違いしている。(『従順という現代社会の病い』p.10)

             

            上記の文章は非常に示唆に富む文章であると思う。先日のN.T.ライトセミナーで東京に下る途中、同行者のSKHRさんという方とも話していたことを思い出した。近代社会は、学校と軍隊という2つの人間の規格化装置というか規格化の為の制度を持ち、その規格化装置ないし規格化制度によって、ここで言う従順(あるいは社会制度への盲従、依存関係と呼んだほうがいいと思うが)という心の病を自分たちのものとして自ら獲得したかのような理解が広まっているのは確かだと思う。

             

            ナウエンの本から

            この人格(ペルソナ)のことをナウエンは、The way of the heartの中で、繰り返しFalse Selfと読んでおり、そのFalse Selfに従わせる力のことを、Compulsion(形に人をはめていくこと)やSeductive Powerと繰り返し指摘している。そして、The way of the heartの中で、ナウエンは一人ひとりの人間が本来のSelfに戻り、Spiritual Lifeに戻る必要があることと、そのためのSolitudeソリチュードが必要であることを説いている。

             

             このソリチュードが必要になる背景について、グリューンは次のように言う。

            人間は、脅され、恐怖に陥ると、「自分を恐怖に陥れた人と一体化する」傾向があるが、これほど不思議な事はない。さらに、脅される人は、脅す人と融合し、恐怖に陥れる権力者に自分の判断を合わせ、自分のアイデンティティまでも放棄してしまう。恐怖に陥った人は、このようにして ― 決して成功するはずがないのに ― 自分自身を救うことができると期待するのである。(p.17)

             

            『聖書的』、『クリスチャンらしさ』

            を強いる教会内の従順

            ここでは、近代の中のシステムの中で、結果的に自分のアイデンティティ間で放棄させ、恐怖を持って支配しようとする権威者、権力者と一体化することで、自己の本来のアイデンティティを放棄して、False Selfである、支配者、本来の自己の姿と異なる他者の姿と一体化してしまう可能性があることを指摘している。そして、自分自身を偽って、偽りの生を生きることを自らに強い、偽りの生を生きることを他者に強いるのである。現在日本のキリスト教会の文脈では、キリストに従って生き、そして本来の人間の姿を回復するのではなくて、教会で一般に標準的とされている「クリスチャンらしく生きる」とか「聖書的に生きる」という偽の人格を生きることになる場合もないわけでもない。大体、聖書的に生きたら、ニネベに行け、といわれたのに、タルシシに向かっていくことにもなるし、なんとなく偉い人のお薦めの結婚相手も娶るが、本人の好きな相手と最終的に結婚するまでやりぬくのであるが、こんなことをしたら、今なら、それこそ「クリスチャンらしくない」とか、「聖書的でない」という生き方をしているとご批判を受ける。そもそも、モーセさんだって、異教徒を娶っていたし、アブラハムは異教徒であったし、異教徒と結婚しているしているではないか。それでも、彼らは神に用いられた僕ではないのか。「聖書的」とは、「発言者にとって都合がよく、好ましく見えること」の総称ではないか、といいたくなる。

             

            いつものような上記のような余談はさておき、グリューンのテキストに戻ろう。他者から愛されるために、ナウエンがいうところの偽りの自己を演じ、偽りの生き方をすることによって生まれることについて、グリューンは次のように書く。

             

            全ては、自分が低く評価されないこと、とりわけ拒絶されないことを目標に「生き延びるための闘争」を演じることになる。「愛」や、「共感によって真実を受け入れること」、また「人間的な思いやり」を表現する生は失われる。その失われた部分に、常に待ち受けていた「無力さへの不安」が忍び込む。それ故、人間は自らを攻撃者と同一視するのである。(同書 p.24)

             

            強者への依存の結果、自己の弱さ、素の自分、飾っていない自分、自分が破綻していること、という真実を受け入れなくなり、共感ができなくなり、耐えざる不安にさらされる、とグリューンはいうのである。

             

            この部分に関する引用をナウエンのThe way of the heartの中からしておこう。

            In  solitude, I get rid of my scaffolding: no friends to talk with, no telephone calls to make, no meetings to attend, no music to entaertain, no books to distract, just me - naked vulnarable, weak sinful, deprived, broken - nothing.  (The way of the heart p.18) 
            ナウエンは、自己が見るかげもない姿で、裸であり、弱いこと、それらを恐れるし、本来の哀れな姿を受け入れるのではなく、自分が何か価値ある人物のように思いたがるナウエン自身の姿をこの後、正直に書いている。

             

            ストックホルム・シンドロームと

            レイプ被害者

            ところで、この部分を読んだとき、ある人物のことを思い出さずにはおられなかった。それは、被抑圧者と一体化することによって生存を図り、誘拐されたにも関わらず、誘拐者と一緒に犯罪行為に関わるようになった有名な事件の登場人物である。その人物とは、アメリカの大富豪ハースト一族の一人のパトリシア・ハーストのことである。彼女のこの事件は、犯罪学の典型的なケースとして、いろいろ取り上げられるが、彼女が有名人であったこともあり、ストックホルム症候群が知られることになった犯罪事例である。事件の概要は、誘拐されたハースト嬢が、こともあろうに、誘拐した人々と一緒に銀行強盗までやり、ライフル銃だか散弾銃をぶっ放したというところまでいったのである。

             

            http://www.cbsnews.com/news/february-4th-1974-patty-hearst-kidnapped/ から

             

            銀行強盗中のハースト嬢

             

             

            クリミナル・マインドとか、Law and OrderとかLaw and Order Criminal Intentとか、Law and Order Special Victim UnitとかなどアメリカのCrime DramaのHostage Situationでは、生き残るために監禁者の言いなりになることに悩む被監禁者、あるいは、生き残るためにレイプ半の言いなりになったレイプ被害者の問題として、この種の呵責に悩む人々の問題も取り上げられることが多い(アメリカの犯罪ドラマ見すぎというご批判は甘んじて受けよう)。ハースト事件は、監禁事件で監禁された者が生存するために、監禁する人物の発言に合わせていってとりあえず生存を図ろうとするうちに、その犯罪者にいつの間にか錯誤がおき、結果的には積極的に従うということまでがことが起きる、ということを示した結果であろう、と思う。

             

             

            Criminal Mindsの予告

             

             

            現代の社会システムに捕囚されたわれらかも

            直接の明確な言及そのものはないが、グリューンは、この本の中で、現代人が現代社会システムに監禁されており、現代社会全体が、ストックホルム症候群にロックインされている状態に陥っているのではないか、ということを指摘しているように思う。さらに、次のように続け、被抑圧者が抑圧者、監禁されたものが監禁する側に回ることを説明している。

             

            その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本原則となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」ではなく、「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされるのである。(同書 pp.49−50)

             

            この部分を読んで思ったのは、昨年、ご妙齢のかたがたと読んだナウエンの「両手を開いて(With Open Hands)」の割と早い部分で書いていることであった。それは、ある老婆の話である。この老婆は、小額のコインが他者によって取り上げられると思って、両手をぎゅっと握って、頑として離さないという状態であったらしい。人間は、他者から見た場合に、価値がほとんどないようなもの、握り締めたコインを握らずには、あるいは、しがみつかずには居られないものらしいことをナウエンはこの話で指摘している。まるで、この老婆にとっては、コインを離すことが自分のアイデンティティ崩壊につながるかのように。

             

            この老婆のことを紹介したあと、ナウエンは自分が握りしめている汗ばんだコインのようなつまらないものを握り締めている手離し、その代わりに神を受け入れるために、神に向けて両手を開いていくことと、祈りとの関係、神との関係の回復のことを説いていたことをこの部分から思い起こした。この、偽りのペルソナをつけるように仕向けるComplusion強制やSeductive Powerから離れ、真の自己を回復するために必要なものが、いま、ご妙齢のお嬢さん方(60歳以上のかたがた)と読書会をしているThe way of the heartでは、ソリチュードであることが指摘されていた。

             

            われわれは握りしめたFalse Self、偽りのペルソナもの見つめ、そして、神に向かっていくソリチュードを手放した結果、偽りの自己増、ペルソナが放棄されることによって、自己を変容させることにつながるということなのだろうと思う。そして、現在明石のナウエン研究会で読んでいる砂漠の師父たちを扱った作品であるThe Way of Heartを読みながら思う。
             

             

            次週、一週間後に続きを公開。

            それまでは、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の区切りのいいところまではやるつもり。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            評価:
            アルノ・グリューン,村椿嘉信
            ヨベル
            ¥ 864
            (2016-11)
            コメント:うっすいけど、大事なことが書いてある。名著。ただし、神も聖書も一時も出てこないが、われわれの状態を理解するために必要な書物

            評価:
            アンリ J.M.ヌーエン
            サンパウロ
            ¥ 1,296
            (2002-10-07)
            コメント:内容はいいのに、訳が変でちょっと突っかかる(減点対象)。ただし、表紙デザインは最高。

            評価:
            Henri J. M. Nouwen
            HarperOne
            ¥ 916
            (2009-09-22)
            コメント:使っているのはこの版ではないけど、非常によい。

            2016.11.09 Wednesday

            N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(24)

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              今日もいつものように、N.T.ライトさんの『新約聖書と神の民』を読んで、ミーちゃんはーちゃんが思ったことなどをタラタラと述べてみたい。

               

              構造主義と現象論

               テクストを読み、その先にあるものをどう考えるのか、ということに関して、ライトさんは次のように書いている。ちょっと、議論をこの部分では駆け足でライトさんはしている印象があるなぁ、と思ったが、その部分について書いていきたい。

               

              作者の内面を考慮せずにテクストを超えた意味にたどり着こうという、この有望な「構造主義」という解釈モデルの抱える困難さのために、多くの批評家は単純にテクストそのものに注意を集中すべきだと主張するようになった。しかし、「作者の意図しない意味」から「テクスト」への回帰は、さらに「テクスト」と「読者」の関係について再考を促す。はじめのプロセス「読者」が単純に「テクスト」を読んでいる、というプロセス)の「ナイーブな実在論」は崩壊の危機に瀕する。優れた現象論のモデルは、テクストから私が得られるのは私自身の知覚情報にすぎない。全ては私がテクストから受ける感情、思考、印象に還元されてしまう。(『新約聖書と神の民』p.122−123)

               

              構造主義は、テクストの奥に、あるいはテクストを超えたものを見ようとするテクストと人間の関わり方の一つの方法ではあるが、それは案外難しい。読み手に相当の教養(知識)や感性とがまず持って必要であるし、それらを総合的に用いてテキストの先にある、あるいはテクストを超えたところに構造を見出す力がいるからだろうと思う。構造を見出すことができる人と、できない人がいるだろうことは容易に想像できる。まぁ、たしかに構造が見いだせないから、と言って読書をする意味が無いわけではない。単純に読書を楽しむ、「ナイーブな実在論」風のテクストの読み方は否定されるものではない。しかし、どっちが面白そうか、かっこいいか、というと構造主義的なテクストの読み方となりやすいのではないか、と思う。

               

              ここで、ライトさんが議論を急いでいるなぁ、と思ったのは、「優れた現象論のモデルは、テクストから私が得られるのは私自身の知覚情報にすぎない。」文章がある種唐突に出てくるからである。これではなんのことかわからないかもしれないなぁ、と思う。おそらく、であるが、これは、(テクストを読むということに関する優れた現象論は・・・)ということなんだろう、と思う。結局、テクストを読むということと、そこでテクストから生まれる認識に関して言えば、結局、入力信号としてのテキストが存在していること、入力信号のレセプター(受信機)としての視覚とその入力信号の変換装置としての知性が存在するというのが、基本的な認知論のモデルである、ということあたりをお話になりたいのであろう。であるからこそ、テクストを読むことによって生まれる認識は「テクストから受ける感情、思考、印象に還元される」ということになるのだろう。実は、入力信号としてテクストというのは実にプアなのだ。プアだけに余分なものが入らないといえる。音声信号の場合、テクストに比べて抑揚、ストレス、声の大小、イントネーション等が加わるので、よりリッチな情報伝達手段であるし、現場に居合わせるのは、もっとリッチな情報手段となる。なぜならば、これにボディランゲージとか、無意識下の行動が伝わるからである。

               

              ボディランゲージに現れた意思を読み取る方法をもつ人物が出てくるアメリカドラマ ライ・トゥ・ミー

               

               

              脱構築ってなんだったっけ?

              さて、構造主義やナイーブな実在論などが無意味で、仮に、読書がテクストを読むということが知覚情報の収集行為とう言う点だけが重要であり、複数の読書者の間では何らかの共通部分が存在しない、としてしまったとしたら、私がどういう意味を受け取ったか、知覚したか、だけが重要なものになってしまうのだけが重要であることになる。そのあたりのことと脱構築主義に関して、ライトさんは次のように書いている。

               

              こうして「読書」に就いて無数の可能性が生まれ、しばしば微に入り細に入る際限ない議論につながる。こうして生まれた解釈は、門外漢の人からはひどく懐疑的に見られるものになってしまいかねない。このあらゆる解釈や批評学の死とも思われかねないような見解は、実際は文学批評の新学派にとっては出発点ともなるものであり、彼らにとっては「脱構築主義」こそ唯一の突破口となる。(中略)脱構築派の思想を至極単純化して言えば、テクストを読む上で唯一なすべきことは自分のためにそれを読むということだ。つまり、テクストが自分にとってどんな意味を持つのかを問う必要はあるけれども、テクストの背後に作者の心を見出そうとする必要はない。もしこれが妥当であるなら、あるテクストについて他の誰かと意見交換してもあまり意味は無いことになる。「正しい」、あるいは「間違った 」 読み方などは存在しない。私の読み方、またはあなたの読み方があるだけだ。(pp.123−124)

               

              浅田彰だったか、中沢新一が登場した頃、ニュー・アカデミズムという語がまことしやかに話された時期が1980年台の諸島にあり、従来型の近代構造が崩れ始めたところに、現代思潮をどう捉えるのか、という問題意識があり、批判哲学の影響を受けた近代の西洋思想が日本に紹介された時期があった。これすらも、近代が崩壊し始めた頃の近代哲学という学問側の対応として、新しい哲学をまた新たに輸入しようとして起きた事件だったのだなぁ、とじじいになりかけている今は思う。

               

              個人的には、この頃大学に入ったので、これらの人物がもてはやされているのは知ってはいたが、基本、その頃は構造工学とか、偏微分方程式とか、流体力学とか、統計学とか多変量解析など、数理系の勉強ばかりを面白がっていたので、これらの人物が書いたものを読むことはなかったし、今も読まないまま終わっている。まぁ、就職してから、ハーバーマスとかは触ったので、一応、邦訳されているものや、英文翻訳のものは読んだ。

               

              オウム真理教で考える脱構築

              脱構築は、ミーちゃんはーちゃん個人の中で、オウム真理教と抜き差しならない程、つながっている。オウム真理教は、個人的に従来の日本型の概念的な、儀式的な信仰スタイル、神仏習合的な信仰スタイルを身体性をキー概念にしながらぶち破り(脱構築しようとし)、21世紀型の新しい宗教(新新宗教と表する向きもあったが)をある時期までは作り出そうとしているようには見えた。しかし、結果として、宗教的な観点からは、それは様々な仏教やチベット仏教、キリスト教などの既存の諸宗教のメタファーをまといながら、別の形の日本型の習合宗教を生み出したに過ぎなかったように思う。しかしながら、「新しい日本型の習合宗教を生み出した」で終わればよかったのだが、自己の存在を肯定しよう、肯定してもらおう、とするあまり、事件を起こすことになる。当初、国家体制をも脱構築しようとしたという大掛かりな思想性はそもそもなかったように思う。ところが、オウム真理党の落選を機に、国家体制との対峙、司法制度との対峙を始め、その結果として、長野サリン事件や弁護士殺害事件、地下鉄サリン事件等々の悲惨な事件を起こしていくようになる。

               

              真理党のころのオウム真理教の人々

               

              これらのことを考えたが、あの宗教団体として始まった集団が求めたものは、麻原彰晃という人物が作り出した、身体性についての復権を目指した一つの宗教的思想のようなものであったのかもしれない。近代という理性中心主義の社会の中でホーリスティックな概念や身体性が軽視されてきたことに対するアンチテーゼを出そうとしたのだろうが、それは、変なものに映ったんだろう。しかし、社会からの存在承認や、自分達の存在の重要性について、社会的な認識を求める方法が、恐怖に起点としていたという点で極めてまずい対応であったと言えるだろう。このように見れば、彼らが起こした事件は、社会に対する承認要求だったと思えば、あのような事件を起こした背景も多少はわかるような気もする。

               

              現代と実証主義とニヒリズム

              科学主義・客観主義・実証主義が近代という時代を支配した結果、近代西洋文化は数量化でき、実証できることが重要になり、実証できないことは意味がない、価値がない、という世界観が広がった。その中で多くのものが失われてきたのだが、そのことにあまりに近代社会は無反省だった。方法論とその表現方法の適切さはさておき、アメリカでのヒッピー文化は、それに挑戦しようとしたが、社会のあり方をひっくり返すことには至らなかったように思う。とはいえ、その潮流を多少は変え、ポストモダン社会への敷石の準備位はした感じなのだろう、と思う。

               

              そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書く。

              このような立場が現代人の潜在意識にどんなに強く訴えるかは明らかだろう。私たちは相対主義と多元主義の時代に生きている。そしてこの時代は、自分が満足することが他の人と和合するよりも重要だとされる。もちろん、このような世界に味方に対しては多くの批判が向けられよう。この立場の哲学的、文学的ルーツは、ニヒリズムと、現代文明に根を張り続けている実証主義(私見ではこれはニヒリズムの双生児である)に求められ、特にフーコーやニーチェの著述の中に認められる。(同書 p.124)

               

              現代社会がすでにポストモダン社会に入ったことを、相対主義、多元主義というごで説明しながら、そのポストモダン社会に特徴的な相対主義、多元主義であっても、そのルーツがニヒリズムと実証主義にあるということを、ライトさんはここで書いている。

               

              結局、実証主義ということを考えると、基本的に、観察可能性に依存しており、そこでは数量化ができることしか対象にしていない、ということである。この結果導かれるものは、観測可能でないものは存在しない(例えば、霊的存在とか概念は、測定及び計量不可能なので、存在しないことになる)ことになる。基本的に概念も数値化できない対象なので、その概念自身を議論する哲学は本来問題に直面することになるが、そのあたりは厳密に議論せずに議論するのは問題だとは思うが、その実証主義がこの世界で(そして、ライトさんによれば、その双子の片割れのニヒリズムがこの世界で)大きな顔をしたのが近代という時代であったし、その双子の親は科学思想そのものであるように思う。

               

              そして、その実証主義とニヒリズムとキリスト教の間の子孫が、ほとんど不毛な聖書無誤論や聖書無謬論であるような気がする。ニヒリズムや実証主義に対抗しようとして、相手の言語ゲームであったはずの実証主義とニヒリズムが知らず知らずに紛れ込み、不毛な論争を続けているのではないか、と思うのだ。そして、聖書無誤論と聖書無謬論の子供が創造科学のような気がしてならない。その意味で、この種の議論を続けることに意味は無いのだが、米国から、不幸にしてこの聖書無誤論と聖書無謬論が持ち込まれてしまったために、あまり意味があるとは思えない不毛な論争が続いているのが、基本的に現在の日本の福音派の姿であり、前回書いたように、基本、近似と絶対値を混同しているような気がしてならない。我々の論理の限界を考えると、あくまで近似としてしか近づけないにも拘らず、本来近似値として扱えないはずのものを、その値であると判断してしまったところにボタンの掛け違いの始まりがあるように思えてならない。

               

              ニヒリズム

               

               

              つづく

               

               

               

              2016.11.12 Saturday

              N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(25)

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                自分でも、「このとろい進み方は何だ?」とは思っているが、あんまり早くやっても仕方がないので、たらたらと『新約聖書と神の民』を読みながら考えたことを今日も書いてみたい。

                 

                敬虔主義の読み方と歴史的な読み方

                 個人的には、敬虔主義的な読み方を重視する世界の中で小学生以来生きてきたので、基本的に今でも聖書の読み方は、説教でも頼まれない限り、極力周辺資料を用いない(注解書とか他の翻訳聖書とか・・・・)読み方をしていて、特に、レクティオ・ディヴィナをはじめてからというもの(神秘主義的すぐるという批判は甘んじて受けよう)、敬虔主義的な読みに戻っているし、一日に読む聖書の分量もそう多くはない。ただ、この場合、思い込みによる読み方へのブレーキが利かなくなるので、要注意であり、あれ、と思ったときに、関連資料というか周辺資料を用いる読みに変わる。

                 

                このあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

                 

                保守的な大半の聖書読者は脱構築主義に疑いの目を向けるだろう。しかし、脱構築主義の提唱するモデルは、実のところ敬虔主義の伝統の中で、暗黙のうちに含まれてきた種々のモデルにあまりにも似ている。実際教会はポストモダニズムの流れに奇妙にも似通った聖書の読み方を制度化し、組織化してきた。教会はその誕生からずっと福音書とともに歩んできたが、そうした親密な関係はあまり褒められないような種々の解釈法のモデルを生み出してきた。聖書をもっとも厳密に受け止めていると主張するような人々でさえ、実際にはそうするのを拒否してきた(福音書については特に)。霊感と聖書の権威に基づくとされる聖書の読み方や解釈モデルは様々なグループによって採用されてきた。だが、それらのモデルは聖書を歴史的に読もうと言う試みをしばしば無意味なものにしてきた。(『新約聖書と神の民』 p.125)

                 

                ここで、「霊感と聖書の権威に基づくとされる聖書の読み方や解釈モデルは様々なグループによって採用されてきた。だが、それらのモデルは聖書を歴史的に読もうと言う試みをしばしば無意味なもの」にする傾向があるのはよくわかる。なぜかというと、私が説教したときには、学校の授業を聞いているようだ、というご批判をうけたこともあるからである。まぁ、学校の授業が説教から転じたという部分があることはさておき。

                 

                ここで、「そうした親密な関係はあまり褒められないような種々の解釈法のモデルを生み出してきた」と書いておられるが、たしかにろくでもないような解釈法も見られるし、古代語の文脈としての古代社会をガン無視して、翻訳聖書の時代かそれに近い時代の背景で聖書を読み、適用してみせたような例も少なくない。

                 

                典型的な例としては、新約聖書における「奴隷」という語の例があげられるだろう。先日ある方から、その方が自費出版、より正確に言うとコピー印刷し、手作業で簡易製本された手作り感満載の聖書注解と言うか、その聖書テキストをその方が読んで思ったことが書かれている書籍を頂戴したのだが、そこでの「奴隷」の解釈が少し気になった。ある程度の生活の自由度が確保されたギリシア・ローマ時代の奴隷の概念ではなく、米国で独自に発展した米国南部諸州型奴隷制度における「奴隷」を前提として、聖書の解釈が書かれたものであった。お礼の手紙はお送りしたが、その手紙で、その点の課題をやんわりとご指摘するのを忘れてしまった。この種の誤読は、よくあることである。「奴隷」という語に限らず、この種の誤解は案外多いと思うのである。新約聖書でもそうだが、旧約聖書はもっとだろうなぁ、と思う。そのような書かれた時代の歴史的背景や文脈を無視して読むことを防ぐのが、聖書を歴史的に読むことだとは思う。その意味で、新約聖書が書かれた当時の背景を念頭において、すなわち、もともとパウロが書き送った時代背景を念頭に置きながら解釈するのと、当時の文脈から切り離し、自分の好きなようにテクストに思いを込め、そこから独自な意味を取り出すのとでは、時々理解と言うか解釈の方向性が正反対とは言わないが、かなり向かっている方向が異なっている状況になるような例もないわけではないように思う。

                 

                アメリカ型奴隷を扱ったドラマ Rootsの新作版(最近)

                 

                だからといって、当時の文脈から切り離して、自分にギュギュギュギュギュと(かなり無理矢理に)引き寄せて、ミーちゃんはーちゃんが読んでないか、というと、そういう読み方をしていることもあることは正直に述べねばなるまい。ただ、それもやるけど、それ以外もやる、というところぐらいであろうか。

                まぁ、いろんな読み方はあるかも・・・・

                 

                 

                実際に聖書に向き合う意味

                ここまでは、延々、聖書をどう見るのか、という仕掛けというのか、読み方の理屈についてタラタラとライトさんが書いて居られた部分であるが、それは、畳の上で水泳をするに等しい。水泳がうまくなったりするためには、安全な環境の中で、いきなり水の中にドボンと漬けて泳がせることが必要だろうし、自動車の運転がうまくなるためには、運転の仕方について学ぶ仕方を学ぶよりも、実際の車体に乗せて運転させるほうが確実であるが、そもそも、運転とは何か、を知らずにハンドルを持たせないことも、悲惨で、大きな事故を起こさないためには必要かもしれない。

                 

                 

                 

                教科書で習うことと実際に学ぶこと

                 

                 そのあたりについてライトさんが、ちょっと冗談交じりに書いている部分を紹介してみたい。

                 

                もちろん、聖書を実際に読むことは、聖書読解の理論を単に論じ続けるよりもマシなこともあろう。読者や解釈者がひどく混乱した状態に迷い込んだとしても、彼らの神からの声は聞こえ続けるだろう。神はすべての人に恵み深く、また、多分ユーモアのセンスに富んだ方であるに違いない。だがそのような神の寛容さは、人々が福音書の適切な読み方を見つけ出すことに失敗することのいいわけにはならない。(同書 p.126)

                 

                ここで、ライトさんが「マシなこと」や「彼らの神からの声は聞こえ続けるだろう」と書いてあることに、「こんな不敬虔な表現をして…聖書をなんと心得る」と真面目なキリスト者の一部の人は、怒り心頭になるかもしれない。たしかに、表現としては、かなりきわどい。

                 

                しかし、ここでの意味は、本来向かうべき聖書に向かわず、聖書の解釈法に向かうのはどうか、ということを揶揄しておられるようなきがする。本来聖書を読むための理論、聖書を読むための根拠(それが無誤なのか、無謬なのかは諸説あるが)であっても、聖書を読むことより、聖書を読むことの理解の方法論や聖書が無誤か、無謬であるのかの方に心を奪われるあまり、聖書を読むことを忘れてしまうと、それこそなんのための理論か、ということになる。案外、世の中、方法論に走る人たちは、方法論そのものに心奪われてしまい、「なんのためにやっていたんだっけ?」ということになりかねない。

                 

                こういうことは世俗の学問でも、案外よくおこる。特に精度を極めて行こう系の学問分野では起きる。昔、都市密度の都心からの距離に関する研究をしていたことがあったが、これなんかは典型的で、最初は、都市計画のために密度分布ってどうなっているのかを解析したい、というところから始まり、「負の指数分布系で描ける、すごい」から始まった。いやいや、ここの関数をこう変えたらもうちょっとリアルな関数になるんじゃないでしょうか、そんなら2次関数に変えましょうぞ、いやいや、ここはより高次のより複雑な式で…とやっているうちに結局何が何だかになり、使い物にならなくなったことなどがある。笑い話である。

                 

                どんな読み方をするにしても、基本的に神は我々に関与なさる方である以上、どんな読み方をしても、それなりの語りかけがなされることは確かだと思う。実際に、これまでのキリスト者として生きてきた中で、そのような経験をされた方を何人も見てきた。そして、何人かの方から、意表を突く読み方をご紹介され、「どう思われますか?」と聞かれて、とまどったことも少なくない。その意味で、真面目に必死になって方法論を極めたり、逆に、根性入れてまっすぐ読むだけが聖書の読み方だけではないのだなぁ、と思ったことが何度かある。

                 

                特に、人の特性は様々で、人は様々な才能の観点、指向性などと言った点で独自の特性を持った存在としてユニークに創造されていることを考える時、普遍的な読み方だけを考えるのではなく、その人なりのとなるかもしれないが、読み方を見出すことができるようなきがする。そうであるのに、ある他人の読み方が成功しているからと言って、それを参考にするのはいいのだけれども、他人の読み方に合わせて自分の方法を全く変えてしまうのは、どうなんだろうと思う。まぁ、個人的には愚直にぐるぐると読みつつ、いろんなことに思いをはせながら繋いでいくという大学生以来の読み方からもはや離れられなくなっている。

                 

                聖書がテクストの一つになってしまう社会で

                現代社会はテクスト過多の社会である。それはとりもなおさず情報過多の社会である。ある面情報洪水になってしまっているのだ。その選択するだけで、一苦労である。聖書もあれば、ラノベ(ライトノベル)もあれば、推理小説もあれば、サスペンス小説もあれば、新聞もあれば、このブログのようなくだらないことをダラダラと書くブログもあるし、誰も読まず、捨てられてしまう薬の説明書などもあれば、誰が読むんだというようなPCやソフトウェアのマニュアルもある(ミーちゃんはーちゃんは、明らかにPCとか機械類のマニュアルは必要な時に読むようなものだと思っている派)。30年位前、某国際事務機器の会社のソフトウェアを業務上利用せねばならず、明らかに当時のお馬鹿な機械翻訳しました感あふれるソフトウェア・マニュアル(紙媒体で、おまけに電話帳の比ではない分厚さのマニュアル)と悪戦苦闘し、絶望的な戦いをしたことがあった。あまりにわかんないので、英語のマニュアルを読んだ。すぐにわかった。当時の翻訳ソフトには、「祝福されよ」という気になれなかったのは確かである。なにせ、キーボードを鍵盤と訳し、キー入力するを、打鍵する、と変換するような機械翻訳ソフトの成果物からなるマニュアルであった。

                 

                これだけ、文字情報が普及し、聖書そのものに特別の他から隔絶したような絶対の価値が疑われ、「聖書だって、テキストじゃん?」と言われてしまった場合、ポスト・モダンに入ってしまった時代の人に対して、ある読み方が正しいことを弁証してみせることの意味はほとんどない。それよりも、むしろ、丁寧に「なぜ自分が聖書をこう読むのか、真摯に読むのか、その意味は○○○である」ことを話せるほうがよほどいいがあるように思う。

                 

                以上のように、聖書をポスト・モダン風に読むことに対する抗議は骨抜きにされてしまいがちだ。福音書を真摯に読むことに心を砕いている人たちがより優れたテクストの認識論を明確に示さない限り、それは避けられない。一般にテクストを読むときに何が起きるのか、特に聖なる書物を読むときに何が起きるのか、さらに歴史的な文書である聖なる書を読む場合にはどうなのか、これらの問についての優れた認識論が求められている。そして特に、福音書を読むことについてのもっと良い説明が必要とされている。(同書 p.126)

                 

                この部分を読みながら、思ったことがある。たしかに時代が科学思潮万能、科学的な真理性がどうのこうのということで、ワクワクしていた時代には、無謬性がどうのこうの、無誤性がどうのこうの、という議論は意味があった。それが確かに重要だと一般の人も思ったろうし、一般の人々に聖書の重要性を語る上でとっても意味があったからである。そして、一部のグループの方々にとっては無誤性や無謬性に関して真剣に議論すべき内容があることは否定しない。しかし、それを真面目に議論したところで、もう世の中はその議論の結果に「あぁ、そう。ふ〜〜〜ん。よかったねぇ」といってしまう時代の中にいることは、もう少し考えてもいいような気がする。

                 

                何が来ても「ふ〜〜〜ん、良かったねぇ」で思考停止してしまう冷めた人々(今の50代中盤以下の人々にこのタイプが多い)にとっては、熱く「無誤論がどうの、無謬論がどうの、だから、聖書は神の言葉であり、信頼に足る」と言われたところで、聖書を読む気になるかというと、一部の人にとっては有効かもしれないが、かなりの人にとって「それで、なんでしたっけ。あぁあぁ、あなたにとっては、聖書は読むに足る、ってことだけですよねぇ」で終わってしまうように思うのだ。その意味で、「なぜ、私が読むのか」ということのほうがよほど関心と興味を引く場合もあるとは思うのだ。そして、歴史的な書物(過去の歴史上の偉人たちにどうこういった影響を与えたという意味ではなく、ここでは、出来事の解釈ではなく、出来事の事実性の問題を語る書物として)そして、人間に語りかける書物として、個人としてどうなっているから読んでいるのだ、ということを示す(多分、福音派的用語を使うと”おあかしをする”というらしい。最初この表現を聞いたとき、背中が痒くなった記憶が・・・)しかないんじゃないか、と思うし、まぁ、「無駄かもしれないと思いつつ言ってみる」必要はあるのかもしれない。だって、不正な裁判官に向かって女の人は、なんとかしてくれ、と言い続けたのだから、まぁ、無駄かも、とは心の片隅で思いながらも、神の全能性を信じつつ聞かれたら言うことにしている。大抵は、話のきっかけというのか、要件を直接言うことが億劫なので、場繋ぎで聖書のことを聞いているんだろうなぁ、とは薄々感づいている。w

                 

                 

                こうはならない程度にお示しするほうが・・・

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                評価:
                N.T. ライト
                新教出版社
                ¥ 6,912
                (2015-12-10)
                コメント:おすすめしてます。

                2016.11.14 Monday

                グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(2)

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                  この本は、非常に大事なこと、現代社会において、とりわけ日本型のキリスト教徒にとって大事なことを示してくれている本だと思う。と言うのは、日本型のクリスチャンは「鳩のように素直であること」だけが重視されている傾向があるからである。このことは何度もこのブログで指摘してきたところであるが、聖書のその言葉は、「鳩のように素直であること」のその前に、「蛇のように賢くあること」が書かれているからである。

                   

                  【口語訳聖書】 マタイによる福音書
                  10:16わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。

                   

                   

                  がその根拠聖句として用いられることがあり、教会内での振る舞いについても、この語が用いられているとすれば、その発言者がおられる教会は、狼がいるところ、狼の砦みたいなところだ、と自ら認めている、ということになる。だとすれば、蛇のように賢くなければならないことになる。しかし、狼の巣や虎の穴のような教会に誰が行きたいと思うだろうか。まぁ、行きたいと思う人は行かれたら良いと思うが、ミーちゃんはーちゃんは嫌でござる。

                   

                   

                  狼の砦 ヴォルヴスシャンツェに存在したヒトラーの防空壕 

                  ここで、Operation Valkyrieが行われるはずであったのだ。

                   

                  Operation Valkyrie を題材にした映画 ヴァルキューレ

                   

                  秋葉原にあるコミックとらのあな (ここに行く人ならいそうだが…)

                   

                   

                  昔懐かしのアニメ タイガーマスクの虎の穴 (ここに行きたい人はあまりいないのでは・・・)

                   

                  余談に行き過ぎたので、本論に戻ろう。

                   

                  怒りと攻撃性と暴力性

                  今、韓国では大統領の不正疑惑で、群衆が怒っている。アメリカでは、トランプがかっちゃったので、カリフォルニアのロサンゼルスからサンフランシスコに行くI101 と呼ばれる高速道路(サンタ・バーバラからディズニー・ランドに行くときにはお世話になった)で焚き火をする人々が出た。未だに、ニューヨークの五番街はデモ隊で出歩きならない状況になっているらしい。大統領選挙を1980年代後半から横目でチラチラ見てきたが、選挙後はこれまではあっさり選挙戦の勝者に恥ずかしげもなく、Our Presidentと誇らしげに言っていた国民が、こんなに暴徒化するとは一体どういうことか、と悩ましく思っている。それだけ、アメリカ市民、アメリカ国民に怒りが溜まっているのだろうと思う。

                   

                  ロサンゼルスで起きた反トランプの立場の人が高速道路101号船を選挙した事件の動画

                   

                  ロドニー・キング事件をきっかけに起きたLA暴動のニュース

                   

                  攻撃的になることの背景に関して、グリューンは次のように書いている。それは罪悪感だという。

                   

                  私たちは、常に罪を感じなければと覚悟する一方で、同時に、罪の意識に耐えることができない。なぜなら、罪が私達自身の価値を徐々に破壊するからである。私達が「自分に価値がない」と感じることによって、私達のうちに「怒り」という感情、「攻撃的」な感情、「暴力的」な感情が生じる。この罪悪感は、私達を言いなりにさせる手段として用いられるものなので、私たちは、「本当の罪意識が自分にもたらす責任を引き受けて、自分を開放すること」ができなくなってしまう。(従順という心の病  p.30)

                   

                  この罪悪感、おそらく英語ではGuiltと訳されるはずの感情は、日本だと恥と呼ばれる内容とほぼ同じ意味だと思う。本来できるべきことが、できるはずのことができていない、ということだと思う。つまり、できるはずなのにできていないことは、自分自身の価値を低め、極端にまで自己評価が下がってしまった結果、自分自身に価値が無いものとなってしまう、ということなのだと思う。

                   

                  結局、自分自身に能力が無いことの八つ当たりとして、「怒り」とか「暴力」を他者に向けやすい傾向にある、ということは自分自身の心の動きを見ていても、それはあると思う。自分自身の能力不足が恨みや僻みにつながり、自分の能力以下のもの、能力以下であってほしいと思う人物に対して「怒り」が現れるというのはあるだろうと思う。

                   

                  親子で楽器とか、勉強とか教えないほうがいいというのは、ある面で、そうだろうと思う。自分自身が子供に投影されてしまい、自己の能力不足がより偏った形で子供に現れていることと直面しなければならないので、親が子供に教えるのは、結構問題を生むことが多いようである。自分でもやってみたこともあるが、よほどの非常事態でない限り、やらないほうがいいなぁ、と思っている。客観性がどうしても鈍り、期待が先行するからである。

                   

                  最後のところで、”「本当の罪意識が自分にもたらす責任を引き受けて、自分を開放すること」ができなくなってしまう。”と書かれているが、ナウエン風の書き方をするなら、自分の醜い「神ではない」ものとしての姿を見つめ(罪ある人間という生き方を認め)、本来の回復をもたらす神の憐れみ、神の愛にすがることではないか、と思うのだ。それこそが、不完全さに閉じ込められている人間の救済であり、救いと呼ばれるものであり、N.T.ライトさんが”神のレスキュー・ミッション(God's Rescue Mission)”と呼ぶところの神との関係の回復が、他人を攻撃したり、他人のせいにして、他人に怒りを向けたりしてごまかした結果、神のレスキュー・ミッションに向かい合うことを避けることになるのだろう。

                   

                  嫌いな相手に向ける罵詈雑言

                  嫌いな相手と付き合いたくない理由を正当化するために、相手が悪いのだ、と自分自身に言い聞かせるようなことが時々起きる。それは正当化にすぎないと思うのであるが、生理的に嫌悪感をもたらす、というのは、相手の良さを覆うために非常に強力なツールであると思う。そして、その生理的な嫌悪感を催すようなラベルを貼って終わりにすることがある。そのあたりのことについて、グリューンさんは次のように書いている。

                   

                  両親が「子供特有の性質」であると頻繁にみなすものは、不潔さ、不純さ、欲望、落ち着きの無さ、破壊願望である。子供は――これもまたフロイトの見解でもあるが――、「欲望」が満たされることでなく、常に「快楽の原理」に従っている。

                   まさにこれと同じ性質を、「憎むべき異質者」に対して、例えばユダヤ人、シンティ・ロマの人たち、中国人、カトリック教徒、クロアチア人、セルビア人、共産主義者等……に対して押し付けていないかと、私たちは自らに問わなければならない。(同書 pp.36−37)

                   

                  ここで、「不潔さ、不純さ」という語が非常に近代という時代を反映していると思う。思えば、衛生思想は、ナチスドイツのホロコーストを支えた概念であるし、衛生思想を極めた結果、結果として人類はアレルギー(花粉症やアトピー)などを抱え込むことになってしまったのである。このあたりのことは、近代的な行き過ぎた衛生概念から言えば、家畜と矯正しておられ、ちょっとお世辞にも衛生的と言えない生活を送っている人々でもあるが、彼らにはこの種のアレルギー性の病気はないそうである。

                   

                  行き過ぎた清潔好きに関しては、アビエイターという映画に登場するハワード・ヒューズというアメリカの大富豪で、飛行機キチガイで、清潔好きが講じた挙句、裸で家の中で過ごすしかないほどであったという映画内での挿話があるが、どうもそうであったということは有名な話である。ここまで極端でなくても、現在の社会の過剰に衛生に対する関心は行き過ぎに近いものもあるのではないか、と思う。時々、なんのための過剰な衛生概念なのだろうか、と思うことがある。

                   

                   

                  映画 アビエイターの予告編

                   

                  ここに、ロマ人という表現が出てきているが、これは、昔はジプシーと呼ばれた人々のことである。社会に定着せず、自由に行き、社会的な制度外で生きた人々であるが、定住せず、社会の中で行商やサーカス、見世物小屋などを生活の糧にした人々である。これらの人々は、ディズニーアニメの「ノートルダムの鐘」にも出てくる。エスメラルダとその仲間たちがロマ人の人々である。

                   

                  映画 ノートルダムの鐘での、ロマ人のエスメラルダの印象的なシーン

                   

                   

                  映画 ノートルダムの鐘での、ロマ人のエスメラルダの印象的なシーン 英語版

                   

                   

                  また、ショコラ、というフランス映画でもロマ人の背景を持つ人々が登場し、このロマ人役をジョニー・デップが演じている。このロマ人にしても、ユダヤ人の人々にしても、個人個人が見られるのではなく、十把一からげに扱われ、その十把一からげにした、外部の社会から自分たちを隔絶し、独自のコミュニティと独自の内部ルールを尊重させていた人々である。社会の周縁に自らを置いたのか、他者から社会の周縁に追いやられたのか、それはあまり定かではないが、社会から一種隔絶されることで、さらに孤立していくことになる。そして、挙句の果てに、不潔とか不浄とかいうラベルが社会の主流派の人々から貼られることになる。そして、豚とか犬とか呼ばれることになるのである。

                   

                  映画ショコラ 予告編

                   

                  先日、「紅の豚」というアニメが放送されていたが、豚というメタファーが用いられているのは、あのアニメの主人公が社会に飼いならされず、社会の枠外で生きようとした飛行艇乗りだからかもしれない。

                   

                   

                  映画「紅の豚」の予告編

                   

                   

                  なお、ある方が、このブログの内容について、「良く、ここまで(他人を恐れず)正直に書けますねぇ」といってくださったことがあるが、その時に「うん、ミーちゃんはーちゃんは、王様の耳はロバの耳、と言った子供とおんなじだから、結局ガキなんですよ」と言ったら、得心してくださったことがある。まぁ、ミーちゃんはーちゃんはガキなのである。w

                   

                   

                  鵜呑みと不承認

                  発達心理学は、大学生の頃、空き時間があったので受講した青年心理学でちょこっと齧っただけなのであまり詳しくはない。しかし、家庭が個人の生育やキャラクターに影響をあたえることとして、グリューンさんは次のようなことを指摘する。日本で言えば、しつけと呼ばれることで、日本風に言えば、「三つ子の魂百まで(影響する)」という世界観なのだろう。

                   

                  この同一視は、グスタフ・ビビョヴスキーがイントロジェクト(鵜呑み)と読んだ、子供の発達の初期に、つまり前言語期(0歳から1歳)に形づくられる精神構造を思い起こさせる。「イントロジェクト」とは、誕生したばかりの最初の何ヶ月間に、自分独自の感情を知覚させず、また独自の要求を認めさせない「不承認」のことであり、それが子供の独自な自己の成長を妨げる。自分自身の存在の「不承認」は、母親または父親の願望を、そのまま自分の願望として身につけるように(鵜呑みにするように)と導く。この「不承認」を、乳児は、―あるいは後の大人もまた―「死ぬこと」として体験する。(同書 p.38)

                   

                  ここの論理はちょっとわからなかったのだが、子供が親から全人格的に乳児期に受け止められないことが、かなり影響するのは確かなことなのかもしれない。先程の映画アビエイターで取り上げられていたハワード・ヒューズは、この不承認と戦った人であったのかもしれないと思う。その戦いは、かなり絶望的で無茶苦茶ではあったが。

                   

                  ここで指摘されている母親または父親の願望を、そのまま自分の願望として身につけるように(鵜呑みにするように)ということは、良い面で働けば、社会秩序の安定とか文化の継承であろうが、悪い面で働くと、その人の人格の抑圧になり、本来のその人の姿を歪んだものにしてしまう可能性もあり、社会的な問題行動の原因(全てがそうだとは言わない)になる場合もあるようなきがするように思う。

                   

                   

                  長くなったので、今日はこのあたりで。

                   

                  次回へと続く。
                  ライトさんの新約聖書と神の民は、ちょっとおあずけ。

                   

                  どうせすぐには終わらないし。w

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  アルノ グリューン
                  ヨベル
                  ¥ 864
                  (2016-11)
                  コメント:おすすめしてます。

                  評価:
                  ジョン・ローガン
                  松竹ホームビデオ
                  ¥ 1,157
                  (2007-11-28)
                  コメント:グリューンの本を読む上では、参考になるかも

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                  ワーナー・ホーム・ビデオ
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                  (2012-12-19)
                  コメント:ロマ人とヨーロッパ人の間の微妙な意識がわかるかも

                  2016.11.16 Wednesday

                  グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(3)

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                    音声ファイルのダウンロード先

                    (棒読みちゃんの英語の読みあげる能力は中学1年生1楽器並みなので、吹き出さないように要注意)

                     

                    今日もまた、タラタラとグリューン著『従順という心の病い』から読んで思ったことを書いてみたい。今日は自分自身のアイデンティティ形成と人間らしさにと相手への攻撃性ついてグリューンが書いていることを見てみたい。

                     

                    アイデンティティ間の葛藤

                    文化形態ごとにある程度安定的に身体的規則、あるいは身体的コード、ふるまいの規則ないし振る舞いのコードが存在する。例えば、お葬式のときに白い服を着るとか、お葬式のときに黒い服を着るとか、様々なコードが存在する。今で結婚式のときにしか白い和服を見ないが、どうも昔は、お葬式のときには白の和服を着ていたようだ。そういうものとして、出来上がっている習慣というものがある。日本では当時死者は白装束であるので、その死者と同じ衣装を着ることで、死者と共同体をなしている、ということを示すために白を着ていたのかもしれない。

                     

                    「朝がきた」のワンシーン(葬儀シーン)

                     

                     

                    あるいは、ニュー・オーリンズ地方では、墓地にJazzバンドの先導で行くという習慣を持つ地域があるらしい。映画の中で時々出てくるが、以下の動画はどうも素人さんが取った動画のようなので、実際にもあるらしい。

                     

                    ジャズバンドが先導する葬儀の模様(日本ではありえない)

                     

                    まだ、葬儀の場面での振る舞いへの一定の方向性をもたせることなどは軽い方だが、どのように生きるか、どのようなアイデンティティを持つかは現代社会において、大きな問題を生むことがある。これは異性装者として社会に現れたり、性同一性障害者という形で現れたりする。特にこの問題は西洋型キリスト教社会において、同性愛に対する極めて強い忌避感を持つキリスト教社会において、非常に大きな問題であるとされてきたということもあり、その人達が社会の居場所を失うことになってきた。

                     

                    あるいは親子間で、この確執が見られることがある。親の望む生き方と、子供が望む生き方の違いがあるとき、それは非常な悲劇を生むことがある。それを扱った映画は多いが、Dead Poet Society(日本語タイトルは映画中に引用される Carpe Diem というラテン語から取った 『今を生きる』となっている)などや、映画アマデウスで表されたウルフガング・アマデウス・モーツアルト(このアマデウスという名前が印象的で、神に愛されたものという意味になる)と父、レオポルト・モーツアルトの確執などもその一つの典型であろう。

                     

                    映画 Dead Poet Society(日本語タイトル 今を生きる)の予告編

                     

                     

                    映画アマデウスから父レオポルドとの再会シーン

                     

                    こうやって見ると他者から与えられた(他者によって決定された)アイデンティティとの対決の問題を扱った映画は少なくない。例えば、グッド ウィル ハンティング(Good Will Hunting)などは、労働者階級に生まれ、教育を受けないのが当然とされ、乱暴に生きるという他者から決定されたアイデンティティと、才能との間で格闘する若者の話であるが、この場合もそうであるし、特に、鬼籍に入ってしまったロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)の出演作品には多い。

                     

                    Good Will Huntingの予告編

                     

                    より具体的には、グリューンさんは次のように書いている。

                     

                    人類学者ヴィクター・W・ターナーが述べたように、このことは、子どもを「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」へと導く。鵜呑みによって生じるようなこのような「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」は、もしそのことで疑問が生じるようになると、自分が脅かされていると感じ、両親から自分のものとして組み込まれたものを、引き渡したり、守ろうとしたりするために、あらゆることをするに違いない。(『従順という心の病い』pp.39−40)

                     

                    これと同じことは、個人の生活の中で反抗期という形で起きるのではないか、と思う。ミーちゃんはーちゃんは基本、他人からやいのやいのとと言われるのは嫌なので、基本的に面倒を避けるために形の上では従いつつも、心のなかでは馬鹿くさい、と思うのが常であった。鵜呑みするのが得意なタイプの人と、それが嫌いな人がおられるようにも思われる。

                     

                    ちょうど、さっき講義準備をしていたときに(毎年、このスピーチは講義中で流すのだが)、以下の動画で紹介するスタンフォード大学の卒業式でスティーブ・ジョブズが喋った話が非常に印象的である。

                     

                    人生や社会における死の問題を取り上げたあと、スタンフォードの卒業生にジョブズは次のように語る。

                     

                    Your time is limited,

                    Do not waste it living someone's else life.

                    Don't be trapped dogma,
                    which is living with the results of other people's thinking.
                    Don't let the other's opinions
                    drown out your own inner voice.

                    And most important,

                    have courage to follow your heart and intuition.

                    They somehow already know what you truly become.

                    Everything else is the secondary.  (12分08秒あたりから12分32秒)

                    スタンフォード大学の卒業式でのジョブズのスピーチ動画

                     

                    ジョブズは、仏教思想やインド神秘思想に心酔していて、その文脈で上記の発言は捉えるべきかと思うが、我々が真の自分自身、アイデンティティが自分以外の者から影響されていることをうまく指摘していると思う。まぁ、スピーチライターが書いたに違いない、と思っているが。こういうのを仕事として書いてくれるスピーチライター(スピーチリライター)が職業として成立しているのがアメリカであるためか、アメリカ人のスピーチには、聞くに耐えるスピーチが多いが、日本の政治かと役人のスピーチは極めてつまんないものが多い。

                     

                    思春期は、青年心理学では嵐の時期だということを大学時代に習ったが、まさに、「「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」は、もしそのことで疑問が生じるようになると、自分が脅かされていると感じ、両親から自分のものとして組み込まれたものを、引き渡したり、守ろうとしたりするために、あらゆることをする」結果、尾崎豊の世界ではないが、集団家出をしてみたり、盗んだバイクで走ったりする人も出てくるのであろう。

                     

                    尾崎豊さんの「15の夜」 

                     

                    しかし、日本でみんなで相談して家出をしたら、問題行動と言われるが、みんなで揃って出家したら、家の人はなんというのだろうか。「ありがたいこと」と言ったりはしないのか、と思う。基本的に家出と出家は同じなのではないか、と思うのである。古代仏教的には。

                     

                    こういうくだらないことを書いていたら、尊敬してやまない上智大学の月本先生があるところで、「旧約聖書の世界は、家出の文化である」と、あるご講演の中でおっしゃっておられたのを思い出した。「旧約聖書は、「あなたはその父と母を離れ」と人格の自立というか、その人に組み込まれたものを離れていくことを言っているのではないか」とご指摘されたご講演を聞いたことを思い出した。つまり、家族や他者から与えられた仮の人格を引き渡し、神が与えたもうた人格に戻っていくことなのではないかなぁ、とこのグリューンさんの指摘と月本先生のご指摘を重ね合わせて少し考えた。

                     

                    他者への攻撃性と向き合うこと

                    他者への攻撃的な姿勢の原因として、自分のうちにある嫌悪すべきものがあることをグリューンは次のように指摘している。それは自分自身への攻撃なのだという。もう少し言えば、神が個々人に与えようとしておられるその人の姿、形を殺そうとするときに怒りが発生すると指摘している。

                     

                    なぜ人間が他者を苦しめたり、侮辱するのかを理解するために、私達はまず、「自分が自分自身の何を嫌悪しているのか」を捉えなければならない。私達が相手の中に見出す「敵」は、もともとは私達自身の中に見つけることができる。私達が押し殺そうとするものは、自分達自身の中の一部分である。つまり私たちは、自分自身が人間性への萌芽を持っていたことを思い出させる「自分の中の異質なもの」を消滅させるのである。(同書 p.43)

                     

                    この部分を読んだとき、ナウエンのThe way of the Heartの一節を思い起こした。

                     

                    Pastors are angry at their leaders for not leading and at their followers for not following. They are angry at those who do not come to church for not coming and angry at those who do come for coming without enthusiasm. They are angry at their families, who make them feel guilty, and angry at themselves for not being who they want to be. This is not open, blatant, roaring anger, but an anger hidden behind the smooth word, the smiling face, and the polite handshake. It is a frozen anger, an anger which settles into a biting resentment and slowly paralyzes a generous heart. (The Way of the Heart p.12)

                    私訳
                    牧師たちは、教会の指導者たちが指導していないといって怒り、そして、指導されるべき人々が指導に従っていないと言って怒っている。牧師たちは、教会に来ない人々が教会に来ないことに対して怒っており、人が教会に来たら来たで、情熱を持ってきていないと言って怒っている。牧師たちは家族に対して、家族が牧師に罪悪感を覚えさせると言って怒っており、牧師たちは自分達自身に自分達がなりたい状態になっていないと言って怒っている。これらの怒りは、あけっぴろげなものではなく、あからさまなものではないものの、怒り狂うような怒りであり、これらの怒りは、柔らかな言葉、笑顔、そして礼儀正しさの後ろに隠されたものである。このような凍りついたような怒りは、噛み付くような恨みと一体になっており、そして、鷹揚な心を次第に麻痺させるのだ。

                     

                    この文章を上げたのは牧師の皆さんを批判したいからではない。牧師は我々と同じく鼻で息するものであり、我々の仲間であるということを申し上げたいからである。そして、それらの人々にコンパッションを持って接してほしいからである。位打ちをしたりしないように。特に、(They are) angry at themselves for not being who they want to be.(牧師たちは自分達自身に自分達がなりたい状態になっていないと言って怒っている)という部分は、非常に重要だと思った。

                     

                    ここで、「自分自身が人間性への萌芽を持っていたことを思い出させる「自分の中の異質なもの」を消滅させる」とグリューンが言っていることは大事ではないか、と思うのだ。それは、本来神の創造の御業として、神との関係を持っていたこと、ある面で、神から与えられた同情心や優しさや共同体として生きること、コンパッションといったものを無理やり押し殺しているからなのだろう。それらを見なかったことにするために、それらを考えなくて済むように、相手も神の被造物だということを意識しなくても済むように、自らの中にある神から与えられたものを殺してしまうのだ。ある面、神殺しを我々はやっているということなのだろう。

                     

                    だからこそ、神の憐れみの中で、その自らの姿を見つめ、神との関係の回復と霊的変容(Spritual Transformation)を遂げていく必要があり、神の復活、神から豊かに与えられているものをもう一度取り戻していく必要があるのだろうし、そのためのソリチュードが大切なのであろう。

                     

                    続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    アルノ グリューン
                    ヨベル
                    ¥ 864
                    (2016-11)
                    コメント:非常に良い本だと思います。
                    Amazonランキング: 35568位

                    2016.11.19 Saturday

                    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(4)

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                      今日もまた、たらたらとグリューンの本を読んで考えたことを書いてみよう。今日は、権威にしがみつくことである。権威の場にしがみつく、というよりは、権威がある、とされる人物にしがみつくことである。この問題はカルトの問題を考える上で、きわめて重要であり、カルトの内部の精神力学というか組織構造を考える上で、かなり重要な指摘の部分からご紹介してみたい。

                       

                      権威にしがみつくこと

                      コバンザメ商法というか、腰ぎんちゃく商法というか、茶坊主商法というか、権威者にくっついていい思いをするように取り計らう人々がいる。個人的にはそんな芸当は、ミーちゃんはーチャンがやりたくてもやれないのはよく知っている。まぁ、ミーちゃんはーちゃん自身、基本反骨で拗ねているからなのもよく知っているが。

                       

                      教会内で、牧師とかその教会群の内輪で、やたらと評価の高い人と付き合っていたりすることを吹聴するお方が時にいる。それを見ると、ある面「なんなんだろうなぁ」という素朴な感情を持つ。「そんな人と付き合っていることを自慢するより、あんたの中身やろ。何をなそうとしているのか、のほうがよほどおもろいんちゃうん?」と思うことがある。10年以上前からのお知り合いで、最近は、縁遠くなった方だが、フェイスブック上でそのお知り合いの方が私淑している人とミーちゃんはーちゃんが楽しそうにしゃべっているのを見て、「どういうご関係でお友達になられたのでしょうか・・・」って聞かれて、「いやいやブログを書いているとコメントしてくださって、それからうんたらかんたらで・・・」とご説明したところ、「そんなうらやましい」とかいわれたことがある。そんなうらやましがられるほどのことかしら・・・、とは思うけど。

                       

                      まぁ、基本、この種の有名人フリークの方はおられる。個人的には、有名人(とその肩書き)そのものよりも、中身、あるいはコンテンツのおもしろそうな人のほうが、会って面白い人が多いと思っている。コンテンツが面白いと思うと、それに突撃していくという悪い癖がミーちゃんはーちゃんにはあって、それはいまだに直らない。この10年でミーちゃんはーチャンの突撃の被害にあった人々には深くお詫び申し上げる。突撃といっても、その人のコンテンツとその背景に関心があるのだけれども。

                       

                      基本的に、前回の記事 グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(3) のスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業生への祝辞ではないが、ミーちゃんはーチャンは、誰がなんと言おうと、直感と面白いという自分の気持ちを大事にして生きている変な人なのである。

                       

                      その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本原則となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」ではなく、「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされるのである。(『従順という心の病い』 pp.49−50)

                       

                      まぁ、権威が好きな人の気持ちもわからなくはない。反骨することは、骸骨となることになりかねないからである。反骨精神で生きるならば、冷や飯や左遷は覚悟の上である。しかし、他人の顔にびくびくしながら生きる必要もない。猫みたいだ、といわばいわれたらよろしい。猫は嫌いではない。KYだといわれたらいわれたらよろしい。そもそも、旧約時代のイスラエルはKYな人たちの集まりなところがあるのだから。その意味で、反骨であるというのは、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」を持つということそのものであり、その権威性の根源と権威性そのものを疑い、それに疑問を呈することに他ならない。

                       

                       

                      正義の見方ぶりっ子するつもりはない。権威が個人的に自分の上に正義を振りかざして襲い掛かってくるのが、単純にうっとうしいだけである。そして、もしグリューンの言うことが正しいとすれば、それが、”「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされる”ということの結果であるとするならば、ろくでもないことに加担することになるので、それは嫌でござる、というだけである。

                       

                      こういう憎悪は、世界の歴史の上でいくつもある。関東大震災後に起きた朝鮮半島出身者への排撃事件(関東大震災時、朝鮮半島は日本国の領土であった)や、美濃ミッション排撃事件など枚挙に暇がないし、アフリカでは、ツチ族とフツ族との間で、血で血を洗う構想をしているときに、相手のことを Cockroach (ゴキブリ)といったらしい。どちらも肌の色が黒く見えるので、何がなんだかであるけれども。

                       

                       

                      映画 ホテル・ルワンダの予告編

                       

                       

                      映画 ルワンダの涙 予告編

                       

                       

                      映画ミシシッピ・バーニング アメリカで起きた事件。

                       

                      しがみつくことと握りしめること

                      ところで、しがみつくことに関しては、ヘンリー・ナウエンの「両手を開いて」の中で紹介されているおばあさんのことを思い起こさせる。このおばあさんは、精神に障害が発生しており、手の中に握り締めた小額の硬貨を取り上げられまいとして、必死になっている人物のお話しの一環として登場する。この老女は、自分が握りしめている汗ばんだコインのようなつまらないものがその老女にとって何らかの価値を持つものであるがゆえに、他人が見ればどうといったことのない、そのコインを手離させようとしたり、それを取り上げようとするものに対して、怒り狂うのである。

                       

                      握りしめた手(旧ソ連邦版)

                       

                      握りしめた手

                       

                      そして、多くの人間にとって、この老婆のようにかどうかは別として、案外とつまらないものにしがみついていることはないだろうか、ということをナウエンはその本で問うていた。さらに、同書では、神を迎え入れるに当たり、こぶしを握り締めるように向かうのではなく、握り締めたこぶしを開き、自己以外の他者である神を受け入れるために両手を開いていくことをナウエンは我々に問うている。

                       

                      開かれた手

                       

                      ちょうど、ここで権威にしがみつく人の話が出てくるが、権威にしがみつく人は、ちょうど神に向かって手を開くのではなく、握りこぶしを向けていく人に似ているように思う。しかし、握りこぶしの中でぎちぎちに握っている人は、本来向き合うべき権威である神に向かって手を開くのではなく、あるいは、本来的な権威の源である神である方を迎え入れ、そして神に抱かれるのではなく、人間的な権威を握り締めておられるように思うのだ。

                       

                      しがみつきと支配

                      権威にしがみつく人々、教会内権威にしがみつく人々とカルト化していく教会との関係について少し考えてみたい。

                       

                      カルト化は、指導者だけでは起こらない。なぜならば非常に強力な指導者一人だけの教会であれば、誰も相手にしないので教会はカルト化しようがない。あるいは指導者と教会員との関係がほとんどないのであれば、カルト化しようがない。教会員の中で、その教会の指導者に心酔しているようなフォロワーがいる場合、つまり、教会の指導者の権威を振りかざすために、神の権威ではなく、指導者の持つ権威と思われているものを握り締めているような人がいて、指導者の思いを勝手に斟酌し、指導者の思いであると代言する人の存在が案外いやらしいのだ。ご本人にしたら、指導者に心酔しているので、指導者の心中をお察しした上でのことなのだろうけれども、大概は指導者本人は、そんなふうに思ってないことも案外多かったりするのである。そして、他人に、「指導者はこうお考えである、であるから、あなたはこういうふうにするべきだ」と指導者の権威性を振りかざし、他人に指導者のお取り巻きである自分達の思いを強いていくのである。

                       

                      あれ、ここまで、書いて、「これ、戦争中に日本のあちこちで起きたことじゃんか」と思ってしまった。陛下の心中をお察しして、陛下は斯くの如くお考えのはずである、であるから、「我ら皇国の臣民は…」ってやっちゃったのは、70余年前の我が国の姿であるような気がする。

                       

                      当時の皇国の臣民にさせられた人が、読まされ、言わされたたもの(http://aishoren.exblog.jp/9203713/ より)

                       

                      ところで、今のキリスト教界の一部でも、似たようなことが起きているかもしれない。本来、神ならぬものが、聖書の権威性を握り締め、聖書にないことをあたかも「聖書を書かしめた神の心中は斯くの如くである(はずな)ので」、「キリスト者たるもの…であらねばならぬ。そうでないものは真のキリスト教徒ではないぞ。神罰が下るぞよ。であるから・・・」と、勝手な思い込みで聖書の主張だとして語りだし、他人に強いる人々もいる。これってもうカルトに近いような気がする。

                       

                      先日、大草原の小さな家の再放送を衛星放送で見ていたのだが、ある人里離れた村で、ミス・ピール Miss Peel と呼ばれる女性が信徒代表の形で聖書の権威を持ち出しては支配しているような村に、小学校の教員としてローラ・インガルスの姉のメアリ・インガルスが赴くエピソードがあった。年に数回、その村に行くオルデン牧師がメアリにそのミス・ピールが支配する村では、小学校教育がうまくいかないと言って、オルデン牧師は、メアリにその村での教育を仕事としてしてくれないか、と頼むのである。メアリー・インガルス嬢がその村に行ってみると、どうもミス・ピールが聖書にないことを牧師の代わりに教会で言っているのだけれども、村の人は文字が読めない、従って聖書が読めないので、彼女の言うことを聖書そのものだと信じ込んでいる状態であったということをメアリはみつける。

                       

                      このミス・ピールは文字教育を村人に与えることを妨害することで、自分が聖書が読めないのに、自分だけが読めると言って、自己の権威性を確保しようとした人物であり、村人の生活を守り、ケアすることは、村人の支配することとだ混同し、村人に自分が思っていることを守らせることが良いことだ、と思い込んでしまった残念な人物として描かれている。この人物は、そもそも、村人との生活を支配することを悪意を持ってはじめたわけではないように思うが、村人を襲う不幸(ミス・ピールにしてみれば、神の怒り、ということらしい)から守ろうとするために、Cypherと呼ばれる秘法が聖書の中にあるかのごとく言い、そして勝手なことをはじめたように思う。挙句の果てに、それがバレないよう、村人が教育を受けて聖書を読めるようになり、村人たちが聖書にないことを好みスピールが言っていることをバレないようにするために、メアリや他の人が村人に教育を与えるのを妨害した、ということになっていた。

                       

                       

                      Cypherと言ってもドローンのご先祖のようなものではない

                       

                      このミス・ピールは、自らの権威性を握り締め、それにチャレンジするものが出ないようにするために、彼女は教育を否定しようとした、ということを教会の中でメアリーはこのミス・ピールに突きつけるシーンが出てくる。そして、教会の全員が集まっている礼拝の時間中に教会堂の中で、ミス・ピールに十戒を言ってみろ、出エジプト記の十戒を開けて読んでみろ、とミス・ピールに迫り、結局彼女の権威性を守るためだけに村人に、「教育を受けると悪いことが起きる」、「新しい教師は魔女だ」みたいな話を振りまいて教育を受けさせないようなことをミス・ピールがしていた事を、村人にばらしてしまうのだ。

                       

                      よく考えてみたら、これと似たことは、教会の中で起きているような気もするのが、実に残念である。

                       

                      ミス・ピールのシーンを回顧するメアリ役のメリッサ・ギルバートさんの動画

                       

                       

                       

                      劣等感の裏返しとしての支配と

                      権威にすり寄ることによる救済

                      ここで、グリューンは支配の原則の背景に、劣等感があることを指摘している。もちろん、劣等感もあるだろうが、社会的な不満の捌け口としての支配もあるように思うのだ。不満の背景に劣等感もあるだろう、とは思う。より弱い存在を支配することで、つまり、自分自身が支配者の立場に立つことで、この劣等感が解消するため、支配が行われることがある。これは、DV(ドメスティック・バイオレンス)などでも見られる構図である。

                       

                      結局、人間の背景に隠された劣等感が逆転の構図を見せるとき、そして、それが他者の内にある自らの弱さや痛みや否定的な側面を見つけ、他者への攻撃と言う形で出るのではないか、と思う。金持ちけんかせず、という言葉があるが、金持ちは基本的に喧嘩しないのは、そもそも不満がないので、喧嘩などの暴力的行為に出なくても済む、という側面もあるのだろう。

                       

                      日本でもヘイトスピーチがどうのこうの、って状況になっており、最近はひどくなっているようだが、どうも社会的な立場もなく、社会に不満を抱えた人たちが語るヘイトスピーチが、同様の自らの不遇をかこつ人々にこのヘイトスピーチが受けることがある。不満のはけ口としてヘイトを用いるのだ。劣等感の解決方法として、自らより弱いものに強者として向かっていくことで、弱者を支配することで、自らの社会的立場や社会的な体面を確保しようとする人々がいる。そして、自分たちを縛っている不満からの開放、ないし救済としてそれを用い、それによる救済を無いし的か、意識的かは別として、考える人々がいることは確かなのだ。

                       

                      2016年のアメリカの大統領選挙で、大統領候補のトランプさんが言ったことは、基本的にこういったことであり、自分たちが優秀なのに(Make America Great Again メイク アメリカ グレート アゲイン アメリカを再び偉大に という選挙戦の謳い文句がそれを示している)自分たちは失業している、自信がない、不遇であると、現状に不満を持つ中西部の不満を持つそうにその主張がアピールしたように思うのだ。例えば、「メキシコ国境に壁をおっ立てて、不良メキシコ人がアメリカに流入しないようにする」とか、「ほとんどこのおっさんネオナチか?」と思うほどの言動をしていた。それは、不遇をかこち、劣等感に苛まれている人々に、自分たちは優秀(なはず)だと思いこむことができる口実を与え、自らの劣等感からの開放を与えようとしたからこそ、この種のヘイトスピーチまがいの言動が受けたのだろう。

                       

                      実は、The Simpson's(ザ シンプソンズ)のシーズン20(2009年)のエピソード21にメキシコ国境に壁を作るに類したシーンが有るのである。まぁ、シンプソンズの場合は、作者たちがかなり左寄りの思想を持っているから、それをアニメにして見せたのだろう。それを右派のFOX TVで流すのだから、おかしなものである。時々、制作側はアニメの中で、それをパロディにして、諧謔的関係にあることを明らかにしている。なお以下の動画では、ドアが付いていた、と以下の動画のようなハッピーエンド風の話にしているが、アメリカ人の心の中の閉鎖性を思わせる作品に仕上がっていた。特に911事件以降、この種の無力感というのか、劣等感が蔓延し、アメリカ人が以前の鷹揚さを失ったように2011年を挟んで2回米国に行った中でおもうことがあった。

                       

                      The Simpsonsで壁をおっ立てる話が出てきた回のラストシーン

                       

                      グリューンに戻すと、こんな感じである。

                      「征服すること」や「勝利者の側に立っている、あるいは優秀な民族の一員であるという感覚を持つこと」は、屈服した自分自身の背後に潜む劣等感から、自分を開放するのに役立つ。従って、あらゆる極右的な運動の背後にも、イデオロギーではなく、劣等感が決定的な役割を果たしているという原則が当てはまる。人は、抑圧的な権威による救済を望むので、自らその権威に屈服させてしまう。
                      ユダヤ人、トルコ人、ベトナム人、ポーランド人、中国人に対してであろうと、「障がい者」や「無価値な人」にたいしてであろうと、「他者に対する憎悪」は、常に「自分自身への憎悪」である。つまりそれは服従を要求する権威者のもとで生きるために必要な「権威者との結びつき」を確保するため、「従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪」である。(同書 pp.60-61)

                       

                      特に「従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪」が、他者に憎悪として向けられているということ、そして、それを「権威者と結びつき」を確保するための忠誠の証にしているという指摘は、非常に重要であると思う。でも、この結びつきは、キリスト教界でも実は起きているのだ。形を変えて。

                       

                      キリスト教でも起きる

                      価値の転換
                       この部分の指摘は、キリスト教で、キリストが勝利者であり、我々がその養子(権威者である神との結び付きがあるものである)と言う理解から、我々を勝利者の側に置きやすいという構造とあいまって、問題へとつながることがある。ある種の人々は、自分たちは勝利者であり、自分自身をさいなんできた劣等感から開放するためのキリスト教という側面が、キリスト教に現れることがあると思う。典型的には、先ほど紹介してきたミス・ピールがその事例であるし、「異教徒を殺せ」と叫んだキリスト者もまぁ、そんな感じではないか、と思うのだ。個人的には、繁栄の神学にはその匂いが時にするので、個人的にはどうなんだろう、と思う。正直言って、「繁栄の神学」そのものが嫌いである。

                       

                       つまり、信仰を持つことで、神を信じる世界において、ある逆転現象が起こり、自分は勝利者の側なのだから、と自己正当化に聖書と聖書の権威性を適切ではない方法で用いる人々が出てくる。そして、教会内で「自分たちの考え」により、他者を抑圧していく可能性がある。

                       

                       このコンプレックスの裏返しとして生まれる権威性の問題は、非キリスト教世界でのキリスト教の指導者の世界でも、時々見られる病理であると思う。もともと、ぱっとしない普通の人々であった人々が、一般の多くの人が正確に知らないゆえに、多少他者より聖書のことを知っているというだけで、ある集団の中で、その人の存在と発言の価値が高まることがある。そうなると、人間だから仕方のないことではあるが、天狗になってしまうのだ。

                       

                       その意味で、我が国のようなクリステンドムを経験していない異教社会におけるキリスト教特有の問題(かと言って、クリステンドムを経験したはずの米国でのカルト化の発生はちょっと謎いが…)があるようにおもうのだ。

                       

                       

                      日本における英語喋りの

                      価値の逆転

                      また、このことは英語喋りに時々起きる。日本人の大半は英語がしゃべれない(と言うのは嘘で、下手くそでいいから喋って相手と渡り合うだけの根性がないだけである、と思っている)中で、もともとパッとしない普通の人々が、ワーキングホリデーとかで、数年海外で英語漬けの中で生活したというだけで、日本の中でもてはやされることがある。実力はそんなにないのに。本人はそれを鼻高々で、鼻にかけておられることが案外多いのだ。

                       

                      「アホちゃうか」と関西人としては思う。また、たちが悪いのは、そのようなことを観察していて、ワーキングホリデーに行く人々がいることだ。「それこそ、もっとアホちゃうか」と思う。大体、英語が喋れるかどうかよりも、その人の中に語るべきコンテンツが有るかどうかのほうが大事であり、語るべきコンテンツがない、中身スカスカの人の話などは、英語が喋るか喋れないか、以前の問題である。

                       

                       この秋、ある若い人々の集まりのふたつに出た。一つは、ワーキングホリデーや語学留学した人の集まり、もう一つは別の集まりであったのだが、最初の海外渡航数年組の集まりで、海外の入管窓口についた時のあなたの夢と今の夢を語ることになったのだが、その中の大半は入管到着時には「英語が喋れるようになりたい」であったのでちょっと驚いた。まだ、英語が自己と他者の差別化のツールとして通用すると思っている若い人がこれほどいるのだ、と。その後、「じゃ、今の夢は?」と聞かれて「英語を使って・・・したい」という人が少ないことにも驚いたのだ。もう一つはそういうのと関係ないイスラエルの宗教性に関する集まりだったのだが、そこで、若い女性が「英語が喋れるようになりたい」ということをつぶやいたら、そこにいたイスラエル、エジプト、米国などの海外経験組から一斉に「英語が喋れるようになって何がしたいの?」って突っ込まれてたのが面白かった。海外経験組は語学だけではどうにもならんということを身にしみて知っているからなのだろう。

                       

                       まぁ、以上の事をごくごく平たい日本語でおまとめしてしまえば、「お山の大将をみんなやっているに過ぎないし、人はお山の大将になりたがる」ということではあるが。

                       

                       

                       

                      続く

                       

                       

                       

                       

                       


                       

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