2016.10.01 Saturday

2016年9月のアクセス記録とご清覧感謝

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     皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

     

     先月は、20,257 アクセス、平均で、日に  675.2  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
     2016年第1四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)
     2016年7月      23,284 アクセス (751.1)

     2016年8月      22,374 アクセス (721.7)  

     2016年8月      20,257 アクセス (675.2) 
     
    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

    アクセス数 510 

     

    一致とは何か?一体になるとは何か?を考えてみた(2) 

    アクセス数 354

    アクセス数 292
    アクセス数 289

     

    アクセス数 280

     

    6位は、惜しくも

     

    神にも議論を挑む民 Jewishとユダヤ系

    アクセス数 274


    でした。しかし、今月も現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 がトップであった。今月も、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』特集にしようと思っていたのですが、あえなく、古い過去記事が1位に。なんかもう横綱の域に達している。

     

    今月公開のものでは、『Ministry Vol.30』と舟の右側 Vol. 32 を買ってきた、そして、それをちょっとだけ深めた神学的フランケンシュタインの登場は要らないかもとその延長線上の、ある種の某論を承知の上で書いた 一致とは何か?一体になるとは何か?を考えてみた(2) シリーズが堂々の上位入り。このあたりの霊性の問題にどう取り組むか、ということへの関心の高さをうかがわせる結果になっている。

     

    なお、8月半ばは日本伝道会議 JCE6の準備シーズンだったのか(そう思うことにしている)、NTライトの新約聖書と神の民シリーズが佳境に入った時期だったので、アクセス数が減ったのか(そうは思っていないことにしておこう)は、詳らかでないが、一日のアクセスが500アクセス以下という…

     

    2016年9月のアクセス推移

     

     ということで、今月もご清覧をばよろしければ、と。

    2016.10.01 Saturday

    日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語)

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      本来は、ソーシャル・キャピタルとしての教会を考えるために、日本社会と宣教:地域に開かれた教会に向けて というプロジェクト番号2番に出る予定だったのだけど、大頭さんから、強制徴募で、ミーちゃんはーちゃんはプロジェクト1 聖書信仰と物語神学&オープン神論というグループに急きょ参加することになったのでした。

       

      何をオープン神論と物語神学のグループでやったか

      このグループでは、聖書信仰の成熟を求めて、ということで大きなグループだったので、それを8つのサブグループに分け、その中で、サブグループのサブグループに分かれるということだったらしいのだが、M浦のみっちゃん先輩と小嶋先生とでしゃべっていて、入室がギリギリになり、とりあえずテキトーなところに座って、資料をもらってなかったので、資料をもらって、とりあえず、いろんな人がいる中で、なんとなく始まっていった。で、どこ座ったらいいのか、聞いたら、その辺適当に座っておいて、といわれて座ったら、このJCE6に来ておられた昔居たキリスト者グループ(現在、教会的には、荒野で40年の旅行の途中で2年目w)でのお知り合いとお隣同士になりまして…お久しぶりで…とかいう話をしておりました。

       

      チームリーダの突然の変更、そして

      オープン神論と、物語神学の簡単な導入

      本当はS野さんのチームだと思ったら、大Z先輩が直前に担当することになったらしい。大Z先輩が、S野先生のお書きになられた、物語神学とオープン神論のレジュメをもとに、その要点を手短に分かりやすく説明しようとしておられ、ある程度行くたびに、ミーちゃんはーちゃんに確認を入れる始末。要するに、なにを大Z先輩が言いたかったかというと、神の三位一体の様に関係性が大事で、神と我々は(祈りを通して、聖書を通して)対話をしながら、ダイナミックな関係性の中で我々は生きている。

       

      そして、その中で神はそもそもの予定があり、すべてのことをご存じなんだけれども、人間が神から離れていくので、人間を愛するがゆえにその人間が離れていくことを取り戻すために、”はみ出していく”神であって、全知全能だから、コンピュータ・プログラムのように、この段階でこれをして、このことが動き始めたら、このように動くように人間世界を動くような計画をお持ちだとは言えないかもしれない。もっとダイナミックで、関係の中である方向に向かうようにされる神だ、そして、リレーショナルな神との関係を重視するのだ、ということを熱心にお語りだった。

      しかし、大Z先輩ワールドに慣れている人ならいいのだけど、”はみ出していく”ではわからんなぁ(急遽頼まれたらしいのでしょうがないが)、と思ったので、”人間の人生に突然出てきて、関係を持つように人の人生やイスラエルの歴史に貫入される神がおられる”ことや、それはフランスのユダヤ人哲学者レヴィナスいうの他者性を以て、神が関与されることを大Z先輩は言っておられるのだ、と説明をした。

       

      ついでに、西洋型近代の中で、ある種のこれが正で、これが間違いみたいな概念が生まれ、その中で、永遠の真理性、普遍性を持つ真理性が生まれ、それを証拠聖句をもとに組み上げていくタイプの神学が形成され、それが組織神学に大きな影響を与え、そういう理解がある面近代社会の中で幅を利かせてきたし、近代社会の中で教会の中で合理性を強調した聖書理解が幅を利かせてきたところがあるが、ポストモダン時代を迎え、それでは不十分な部分が出てきた中で、本来的に神の予定、神の全能性の中での人間のかかわりということを考えることが、重要になる中で、オープン神論が出てきた、とポイントを紹介された。

       

      中Z御大登場

      補足として、中Z先輩(というよりかは御大)から、ナラティブ、ストーリー、作り話などが同じ物語として議論されやすいので、誤解による混乱が生じかねないが、米国では、これらの議論は1990年代末から21世紀初頭には、その議論は収束していること、さらに、基本的に旧約聖書の時代人や新約時代人については、物語、一連の出来事のシークエンスにおいて、神がどう関与され、どのように当時の人人が受け止め、神が人々と共に生きたことを示す方法論としては、物語しかなかったろうし、それゆえに、物語で語ることを神がなされたのではないか、ということを補足された。


      また、この話に大Z先輩が影響を受けたのは、神の物語というか、オープン神論で考える様になると信仰生活や伝道ということが極めて楽になることや、キリスト者ならみこころを当然ということではあるが、それが行き過ぎると、御心を求めるあまり、御心教のようになってみたり、あるいは御心を求めた結果さばき合ったりすることからの開放された。あるいは伝道がうまくいかないということ等に関しても、神と人との関係に基準を置き、ダイナミックな神の働きを考えれば、それほどしんどくなくなる。もし、我々が間違いをしたとしても、我々が完璧でなくても、神に立ち戻ればよいし、それを神が求めておられることがわかるようになる。ちょうど放蕩息子が父のもとに戻っていったときのようにというところが大事だと思っている。

       

      おまけで混乱させました

      近代を作り出す中で、宗教改革とその中で研ぎ澄まされていった理性による神理解は大きな役割を果たしたし、それは、近代を作り出していくうえで大きな役割を果たしたし、スコットランド常識哲学の成立などにもこの理性的な聖書理解のアプローチは非常に大きな影響を与え、またそれが、このスコットランドでの聖書理解の精緻化に影響を与えている可能性があるということをミーちゃんはーちゃんが口を滑らせたので、混乱した当たりのところで、サブサブグループ(聖書信仰と物語神学&オープン神論というサブグループのサブグループ)に分かれて40分くらいの議論を行った。哲学の歴史を考えるうえでは、この話は結構大事。

       

      ミハ氏のサブサブグループでの話題

      このサブサブグループの中では、改革派系の聖書理解に立つ人もおられて、その方から、物語というのがわからない、ナラティブとかストーリーとかがわからない、といわれたので、ナラティブは、人間視点での一人称語りの傾向が強く、ストーリーというと、物事の並びの中で、特にヘブライ語聖書の中に現われるイスラエルの歴史の中に貫入してくる神の存在として語られるものだ、モーセがどのように、出エジプト記を書いたのかは明らかではないが、その中で、自分が経験したナラティブとして、出エジプト記のあらの物語や、燃える柴事件のことを本来は語ったものが編纂されている中で、現代に伝えられるヘブライ語聖書のかたちになるのではないか、と思うというお話をした。

       

      そして、この話は、霊性の問題と深くかかわっていて、聖書を通しての神の語り掛けや祈りの中で、神と向かい合う中で神と出あっていく、ないし神の御思いを探り求めていくことと関係していることや、改革派の伝統にある人間の艦善悪の問題、絶対的な神からの離れている完全な罪による神との完全な断絶を言うことと完全な神の救済ということがあるのだが、それとどうかかわるのか、という問題に話が行き、物語的な聖書理解では、旧約世紀の創世記の初めから、神との断絶が始まり、完全な救済としてイエスの十字架の死、そして復活がクライマックスとしてあり、そして、それ以降、神が人とともにおられる和解がなされ、そして、将来の終末における完全な回復に向かっていくという理解であるなどというお話が出て、それが福音の再発見で、マクナイトが言っていることなのだが・・・あるいは、NTライトが言っていることとも関連があるのだけど、とちょっとステマをしてしまった。

       

      それと、正教会系の伝統では、人間は完全に壊れているわけでない、回復可能な”神のかたち”であり、一部欠けのある”神のかたち”であるので、完全に打ち捨てられているわけではなく、神ご自身がその欠けのある”神のかたち”を回復させるよう,我が子よ戻ってこよと、おっしゃっておられるところなど、正教会の伝統(東方教会の伝統)との関係性もあるし、その意味で神のかたちをどう感がるか、ということや、三位一体論と神のダイナミズムやシネルギアをどう考えるか、そして、その中に招き入れられようとしている人間などという側面も重要である、というお話をした。

       

      また、ナラティブとストーリーが混乱している、というお話もあって、混乱してしまって、理解がしにくいという話があったので、

      ナラティブは、基本、一人称語りで、個人の視点から語られたものであり、聖書の中で言うと、詩篇とか、ヨブ記とか、出エジプト記は、もともとは、モーセの一人称語りであるナラティブが基礎になっている可能性があるが、そののちの編纂過程で整えられていったことであるし、現代では、祈りとか証とかが、ナラティブであるといえるのではないか。反対に、ストーリー:かなり長い時間軸やかなり広い空間領域で起きた出来事のシーケンスとその中での神の関与を示すことができるであろう。また、ヨナ書は一種のストーリではあるけれども、その中では、神のナラティブもあるし、ヨナのナラティブもある。また、歴代誌、列王記はどちらか東夷とストーリーではある(ただし、ナラティブも一応含まれる)。

       

      祈りを考えるとそれは神との対話だし、リレーションだし、神をどう置くか、と考えることが重要ということになっているわけで、その意味でオープン神論と、改革派神学的な枠組みとは、必ずしも相矛盾するものではなく、相補的な物のような気がする。

       

      そんなこんなを対話していると、あっという間に終わってしまった。

       

      全体会議での話題

      全体分科会の話題神の立場と人の立場があって、物語神学になると、その神の立場としての主権性が危うくなるのではないか、ということが話題に出た感じであった。そして、その話を聞きながら、個人的に思ったこととして、神の神秘は完全に文字化できるのか、あるいは理性で完全に説明できるのか、ということを考えたほうがいいかもしれない。ただし、合理性をもとに神の神秘にどれだけ理性で接近できるのか、ということを考えてみることは大事だが、それで分かったことにはならないかもしれない。しかしながら、合理性で迫れる範囲についてその理解を書こうとしたカルヴァン派があり、それがウェストミンスター振興問答などにまとめられるのだろう。

       

      さらに、大事なこととして、神が50%人間が50%という形ではない。そこに着目するのではなくて、神と人が協力するというのではなくて、神の指示のもとに実現していくのだ、神の御思いがなっていくのだ、という点は変わらない。神のご計画に参与していくのだ、という世界観を持っている。

       

      なんかわかりにくい説明だったので、それをビビッドに説明するために、映画の登場人物をする役者としての一人ひとりのキリスト者を考えてほしい。個別の役者が何をやるのかは、個別の役者に任されており、映画の全体構想を考え、そして撮影者に指示し、そして一つの作品を統合的に取りまとめていく映画監督かプロデューサーのような神がおられ、すべての作品に関する責任を取る役割、まとめ上げていく役割を果たされる神がおられると考えると、なんとなくコンセプトわかってもらえるかもしれない、とご説明した(この辺はN.T.ライト先生のあるところで書かれている五幕劇のパクリ 今回Cライトさんは、それを6幕劇に講演の中で微妙に変更してたけど)。

       

      ミーちゃんはーちゃんが忘れてて、大Z先輩が触れたのは、監督が役者とが時々一緒にご飯を食べたりしたり、 この監督は、映画に出演しちゃう(ミーちゃんはーちゃん注 クリント・イースト監督・主演のグラン・トリノ みたい)。つまり貫入する。その極みが、 人となり十字架にかかられたキリスト、そして、我々への究極的な、クライマックスとしての関心と愛を示される、ということであった。

       

      女性の神学生の方がお話しされていたのですが、声が小さくて何をおっしゃってたか全くではないが、ほとんど単語しか聞こえなくて、総括というのか、おまとめにも反映できませんでした。ごめんなさい。

       

      物語神学とは言うけれども、聖書霊感から言えば、今は見ることのできない聖書原典における聖書記者を導いた神の霊、キリスト者が読むときの神の霊の働きを分けないと、神の主権性が危うくなるのではないか、という至極まっとうなご批判も出た。まぁ、従来の神学の参照枠から言って、その批判は甘んじて受けなければならないが、ただし、もし、我々に働きかける神の例、神の息吹が、同じ霊だとすれば、説明のわかりやすさのため、便宜上そういう分析的な方法論でなされるのはわかるが、それをあえて分ける必要はないかも、というような趣旨の発言もした。

       

      なんか大Z先輩からのご依頼で、大体、本来は別のプロジェクトに行くはずだったのだが、頼まれたので、このプロジェクトに来ることになったのだが、挙句の果てに捕捉とか、日本語通訳とか、モデルの組み換えをその場でしての再提示とか、いろいろやらされた挙句に、突然、何のメモも取ってない状態で、各チームのメモも全く見てない報告して来い、と言われて、そんな何も書いてないんですけど、いいんですか、ほかの人がメモ取って記載しているんじゃないんですか、他のグループの方の議論の情報はなんもないですよ、それでもいいんですか?と聞いたら、それでいいと全体司会の大Z先輩がおっしゃったので、分かりました。じゃ、やります。ただ、知りませんよ、と念押ししたうえで、記憶だけに基づいて、報告した。

       

      すべて、私の不徳の致す処…

      そのため、各サブサブグループの方のご意見の反映が十分でないところがある。それは、まことに

      「すべて、わたくしの不徳の致すところでございます。」

      でしかない。

       

      中村橋之助バージョン

       

       

       

      桂文枝バージョン

       

      とはいえ、何をやるかわからずに、とりあえず来てくれと言われ、いきなり言われて書記でもないのに書記をやらされて、メモを取ることなく、それでも精いっぱい努力して、時間内に収めたのが、あの報告である。ご了承賜りたい。とはいえ、事前の打ち合わせも何もなく、メモも作らずに受けてしまったのは、

       

      私の不徳の致すところ ではあった。この場を借りて、関係各位、ご尽力いただいた関係各位には深くお詫び申し上げる。

       

      なんとなくの感想

       結局、大Z先輩が冒頭に近代という時代にはやった神学や哲学、あるいは西洋の神学世界は分析志向であり、分析して、人間の体をバラバラに分けてそれぞれの部分部分の挙動を細かく記述し、分かったことにするという世界観を持っている。1960年代までのアポロ計画までのシステム理解は、この種の世界観を持っていたし、それは人類を月に送ったといえる。まぁ、本当に月面に行ってなくて、ハリウッド映画の技法で地上で映像を作ったのではないか、という疑念があるが、それはどうでもいいことである。

      しかし、アポロ計画の途中で、一般システム理論がどうも限界を見せているのではないか、これまでの分析的な近代科学思潮的な世界観、パラダイムでは分析だけしていて、それでいいのか、本来分析し対象を研究した後、統合(Synthesis)をして、もう一度全体像の適合性を検討しなければいけないのではないか、という反省が、近代科学、近代哲学の中で生まれてくる。その延長線上に、ホーリスティックなものとして、部分の寄せ集めでないものとしての有機的なもののつながりを見ようとする志向、哲学が生まれてくる。つまり、バラバラにして、部分部分でしてしまうと、部分部分の有機的なつながりが生まれないのであり、その有機的な思考や概念を大事にする点では、霊性の話と関係しているのであって、Open神論や物語神学は、近代という時代を支配した聖書理解のアンチテーゼというよりは、もう一つの可能性を示すものであり、対立概念ではなく、相補的な存在とご理解いただくのが一番なのではないかと思う。近大はあるものをTrue真とするとき別のものをFalse偽とする2項対立的なバイナリ世界が支配した社会でもある。本当は、そのバイナリ(2項的な判定のみでいいのか、ということに関する疑問、あるいは2項判定的な世界観以外の世界観を内包しうる包摂的な世界観が、古代イスラエル的な世界観でもあるし、それがポストモダンにおいて、落ち着きがいい世界なのかも知れないと愚考する。
       

      コミュニケーション理論の観点から

      それと、今回のプロジェクトというものは、一般システム理論の射程の延長線にある、ユルゲン・ハーバーマスの言うコミュニケーション理論に関する壮大な実験でもあった。それに参加できたことは面白かった。参加者間の平等な意見表明を可能にし、それをもとに討議を行う公共圏をどう実現していくのか、ということに関する、神学の世界で宣教をテーマとした公共圏に関する壮大な実験であり、それに参加させてもらえたのは面白かった。しかしながら、公共圏を支えるべきはずのコミュニケーション技術とその討議システムの吸い上げが、基本従来の分割して吸い上げる形の意見集約システムを用いたことと、このサブグループの司会をした大Z先生が意見集約システムとその限界に関するその認識が割と薄かったこともあり、結果としてはうまく集約できずに終わった。それは、真ぁ、今回の大きな反省点であろう。

      次回、名古屋で日本宣教会議をやるとすれば、今度はもうちょっと大きなラウンドテーブルの中での、参加者の公平で平等な意見交換ということに関する意見交換システム、コミュニケーションシステムに関する習熟度を運営側、リーダーやサーバントのみならず、全体の参加者に徹底しておき、比較的新しい概念のコミュニケーション理論と公共圏での討議ということに関する事前の習熟を図っておくべきか、と思う。そもそも、この種の会議体、合意形成システムは、理念系では可能であっても、現実にそれを成立させて行くのは、困難なことは、これまでこの種の実験を何度かしてきたものとしては十分熟知している。

      まぁ、その辺は次回への課題でいいのではないかなぁ、と思った。

       

       

       

      ユルゲン・ハーバーマスさん(最近は宗教に関しても発言が多い)

       

       

      以上報告終わり。

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
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      ワーナー・ホーム・ビデオ
      ¥ 1,640
      (2009-09-16)
      コメント:よろしいかったです。是非ご覧を隠されたキリストを見てください

      2016.10.03 Monday

      「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウム参加の記録(1)

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        本日は、教会と地域福祉 フォーラム21と題され神戸市中央区、兵庫県警葺合警察署の隣の賀川豊彦とかかわりの深い賀川記念館で行われたシンポジウム部分の同時中継した結果をもとに、ある程度再現してみたい。これらのシンポジウムの記録の一部は、過去のMinistry雑誌や関係書籍をご覧いただきたい。おおむね最初は30名ちょっとで始まった。

         

        イベントのポスター画像

         

         

        稲垣さんによるこれまでのシンポジウムの整理

        まず、このシンポジウムの責任者でもある東京基督教大学の稲垣久和さんが、これまでを振り返って説明され、

         

        第1回 キリスト教福祉の現在と未来
        第2回 被災地・変容する家族(児童福祉)
        第3回 地域の悩みを教会の悩みに (浦河ベテルの向谷地さん)
        第4回 死生学と教会
        第5回 居場所を失う若者
        第6回 今日の貧困と向き合う
        第7回(関西第1回) ボランティア 福祉 教会のこれから

         

        というテーマでやってこられたそうだ。今回、初&生で稲垣久和さんのご尊顔を拝見した。しかし、そーいや、昔、マクグラス先生の訳本を結構稲垣さんとその関係者で出しておられたなぁ、と思った。個人的には、そっちの方でマークしている方であった。マクグラスファンなので、それはしょうがない。

         

        自治とボランティアと市民社会

         これからの社会は、自治が大事になるのではないだろうか。特に、「市民が自らやる」、「市民が自ら関与する」ということに関しての用語として 『自治』である。(ミハ氏註:これは、都市計画関係で20年以上前から議論されてきたことであるが、財源配分のこともあり、2割自治とか3割自治とか言われてきた。これが、国の補助金をあまり意識なく事業ができるのが、現在、ほぼ東京都さんだけである。東京都の予算は、某国の国家予算より大きい税収がある。この豊かな税sh数があるのも国の役所、中央省庁の庁舎があるということが最大の原因だと思う。中央省庁の本庁舎があること言う関係から、東京に本社を置きたがる法人さんがおられ、その法人さんからの法人住民税が入ってくるので、東京都は他府県に比べて、自主財源度合いがかなり高いのである。それ故に、東京都独自の政策が実現できるのである)

         

         ところで、市民の参加がないところには自治がないのではないか、あるいは市民参加がないところで、民主主義は機能しないのではないか。(ミハ氏註 これは民主主義の定義から言って当然であるが、その市民社会、民主主義の基盤である投票という革命行為を面白がって参加する人が世の中あまりに多すぎるのがねぇ)

         

        国家と市民社会とボランティア

         これまでは国が何でもするという国家統治社会であって、民主主義が育たない状況にあったし、これまでは自治の能力の涵養を考えてこなかったのである。(ミハ氏註 それは、社会とか教育で涵養するものではなく、本来の社会契約論的理解からすれば、自らこれを考え、政治に主体的に関与するはずなのであるが、日本ではそうなっておらず、お任せ民主主義がはびこっている様な気がするのが残念でならない。その意味で、戦前の英国貴族はある意味、庶民に政治ができるはずがない、主体的に責任をとれるはずがないし、それを求めるのは酷だ、と思っていたようではあるが、それはそれで正しいのかもしれないとは思う。だから投票にもいかず、政治をする権利を自ら放棄しているのである)。自治のトレーニングとしてのボランティアがあるのではないか、という話題を稲垣さんはお出しになった。(ミハ氏註 そもそもは、それは学校民主化の中で、本来クラスの委員会活動、中学生以上の生徒会活動などで、トレーニングされているはずであるのが、それがなされていないということの方が問題としては重要なような気がする。社会教育として、親が学校に行かせる義務を負っている間でもそれはなされているはずだし、よほど高齢の元小国民の方でない限り、自治のトレーニングとしてのボランティア、ってのはおかしいとは思った。よしんば、ご説を認めるとしても、民間企業や民間団体の御勤めの営利企業は、基本自治がなされているのであって、企業や団体での活動は、金銭という対価はつくけれども基本、自治的活動をしておられるように思うのである。)

         

        日本で福祉の起点を形成した教会

        また、もともと、福祉的な活動はキリスト教会が始めていることが多いのだが、戦後の中で、社会福祉は、国のモノ(法律の条文にあるため)となっていったのではないだろうか。そして、制度ができたために、キリスト教会もそれに飲み込まれて、自分の問題にしなかった。(ミハ氏註 個人的には米国からきたメインストリームのキリスト教が、ラウシェンブッシュから始まる社会とのかかわりを重視することになっている。詳細は、 最下部のラウシェンブッシュの本参照されたい。ラウシェンブッシュの主張以降、メインストリームと呼ばれる米国教会群の一部では、社会とのかかわりを積極的に持とうとしたことに対して、戦後日本に多くの海外からの宣教師たちを送り込んできたアメリカの福音派と呼ばれるキリスト教集団があり、日本の福音派形成に大きく影響していると思う。なお、子の福音派はある面、社会に対するかかわりを持とうとはせず、自分たちの関心を他者に伝道すること(ことばと理性を用いた説得により、キリスト教界の一員たる信者にすること)を至上課題としたこと)の影響も少なからずあるだろう。同様の方向性については、カトリック教会でもあり、カトリックの宣教方針は、明治初期のころ、その伝道は救貧対策を含む社会の周縁の人々への伝道という側面を強く持っていたが、後に指導者層とその予備群、具体的には、雙葉学園とか六甲学園とか、ラサールなどを中心拠点とした対する宣教が模索されたことがあった。また、現在ではそれへの反動として、社会的弱者への関与を強めている部分もあるらしい。特に、現教皇フランシスは、南米出身者でもあり、弱者への関心がその発言に垣間見られることが多い。今回の日本電動会議JCE6でのメインスピーカーであったクリス・ライトさんは、聖書を中心とした言葉による宣教では不十分で、社会とかかわる中で地に現実に平和をもたらす善き働き働きが対立するものではなく、共存すべきものであり、それが信徒の中で統合されているべきものだ、とご主張されたように思う。)


        教会が地域活動をするプラットフォームとして戦前は一定の役割りを引き受け、それをもとに日本の福祉制度が始まったことは忘れてはならないだろう。

         

        日本の福祉と仏教

        さて、宗教と社会福祉についてふり返ってみると、日本社会で福祉において大きな役割を果たした仏教がある。(ミハ氏註 たとえば、奈良時代には、悲田院制度があった。)仏教での慈悲の心としての隣人愛の思想があり、様々な福祉的な働きが実現されていったといえる(ミハ氏註 厳密にいうと、輪廻思想ゆえに、慈悲を施す相手が、過去に自分の親族や関係者であるかもしれない、という理解に基づき、功徳を施すことで、悟りを開き、成仏することにつながっていく)。それは共苦という仏教的な慈悲の発想に基づくものであるといえよう。(ミハ氏註 お、共苦、出た。ダライラマ14世出るかなぁ、出なかった。それでは、ニンジェの思想を読んでいることは、無かったかもしれない。この話やるなら、辻村さん召喚したいなぁ。『共苦(二ンジェ)の思想』は非常に良い本です。良い本なのとたまたま持参していたので、岩村さんにも献呈しました)

         

        この建物、賀川記念館は、賀川豊彦を顕彰する建物であるが、賀川豊彦の働きは、もう少し再検証されてもよいのではないか。賀川が1960年に逝去して、概ね55年以上経つが、自治的な福祉を構想した先駆的人物である。(ミハ氏註 但し、これは日本では、の条件付きのことであり、その概ね50年前には、英国などではキリスト教に基づく自発的福祉運動は、理想的社会主義運動の影響などを受けながら始まっているよね)


        スラム街に自ら飛び込んだ賀川豊彦であり、その出発点は、救貧と医療であった。後に、そこから、労働運動、農協運動、生協運動など、 おかみ(政府)に頼らず自分で、自治の精神でやったということは重要である。(ミハ氏註 この背景にある一種のロマン主義の影響を考えなくていいのだろうかと思った。また、後年、日本国政府の満州国開拓に協力しているとはいえ、当初はお尋ね者一歩寸前であり、公(おおやけ)、あるいは、おかみ、当時の政府には頼れなかったろう)そのあたり『自治』の精神を含め、賀川豊彦に関する見方の見直しをした方がいいのではないのか。
         

         

        次回は、シンポジウム登壇者の問題提起 水曜日公開予定

         

         

        ウォルター ラウシェンブッシュ
        新教出版社
        ¥ 6,588
        (2013-01-07)
        コメント:高い本ですが、取り組んでみる価値のある本

        評価:
        A.E.マクグラス
        教文館
        ¥ 1,944
        (2004-06)
        コメント:これが、稲垣さんが変わっていく時期の起点になったのではないか、と思っている。

        評価:
        辻村 優英
        ぷねうま舎
        ¥ 3,024
        (2016-03-23)
        コメント:ダライラマ14世の共苦の思想の形成過程がよくわかる。おすすめの一冊

        2016.10.05 Wednesday

        「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウム参加の記録(2)

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          前回に引き続き、神戸市中央区の兵庫県警察葺合警察署の隣にある賀川記念館で開催された、「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウムについて、パネラーからのご発言を紹介してみたい。
           

          岩村義雄さんからの問題提起

          まず最初は、岩村義雄さんであった。
          今大学などの高等教育機関でも学術研究に没頭(ミハ氏註 それを言われるとみーちゃんはーちゃんはつらい。そもそも一つのことに没頭できないところがあるしw)できず、ガバナンス(統治)に関与することが求められる(ミハ氏註 もっというと、最近は外部資金と呼ばれる予算確保の申請書作成に結構時間がとられる。科研費の申請書書かなくちゃw)


          先ほどの稲垣先生のご指摘にもあるように、ガバナンスなのか自治なのか、が問題となるというところがあるだろう。

           

          岩村さん

           

          もともと、わたくし(岩村さん)は、神社などのある伝統的な日本の古形が息づく環境の中で育ち、イエズス会の教会に行きキリスト教に触れ、そして、改革派の神学校に行って、牧師となった。その意味で、土付きの福音を考えている。それは、アダムの末ということでもあり、アダムの語源となったアダマー(土から採られたもの)が、アダマーになるということでもあった。

           

          被災地の慰霊祭にて・・・天国観
          被災地の支援の中で、その時の被災とその被害者を覚える公式行事で、被災地の市長が、生かされている天国から見られている死者に恥ずかしくない生き方をしよう、といったのだが、その天国(ミハ氏註 キリスト教用語の一つのはず、本来は死語に行くところではなく、神の支配を表すヘブライ的な語)という神官も仏教者(僧侶)も特に抵抗なく受け入れていた(ミハ氏註 神官にしてみれば、お亡くなりになった方は浄闇の中に入ったことでしょうし、浄土宗的には、お浄土でしょうし、冥土でしょうし、ピュアランドのはずなのである。なお、キティちゃんがいるのは、ちなみにピューロランドですけどね。一応、ミハ氏は 以下に出てくる宗教観対話に協力しているので、一応ピュアランドについても画像を載せておく)。

           

          サンリオ ピューロランド

           

          初回と2回目

          冥土喫茶 ぴゅあらんど 次回は10月22日 土曜日 午後開催

          今度、龍岸寺でやるのは、冥土 (メイド) 喫茶ぴゅあらんど まじめな宗教間対話の時間。

          次回はイスラム宗教者との対話

           

          記念すべき冥土喫茶ピュアランド 第1回の画像

           

          冥土喫茶 ぴゅあらんど 名物 ”ニクタン”によるファシリテーション・グラフィクス (第3回 ユダヤ人編)

           

          仏教とヘブライ聖書と福祉
          仏教と福祉とボランティアを考えるとき、行基がロールモデルであったといえるかもしれない(ミハ氏感想 なんや空海みたいな人なんや) 。 民のための慈悲を見せ、様々な福祉事業のようなことを自力で実施した人物である。


          慈悲というのはヘブライ語的にはヘセッドである。ある面、ヘブライ語聖書の世界では、歴史の中に介入する神(ミハ氏註 なんか、オープン神学の話みたいやなぁ、と思った。ちょうど、この直前にやっていた第6回日本伝道会議でそういう議論をした。詳細は 日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語) をご参照いただきたい)が描かれているが、その動機は神の慈悲であるといえるだろう。

           

          哀れみの心とスプラングニッゾマイ
          最近、岩村さんが東京大学でボランティアの講義をした時、 自治、公共性、 無償性、自発性について話をしたが、自発性、無償性、公共性でいいのだろうか。聖書の中での慈悲は、Compassionであり、ともに苦しむであり、そのギリシア語は スプラングニッゾマイである。それははらわたがよじれるような痛みを示す語である。琉球語では、チムグルシイであるもの( ミハ氏註  これは、どっかで聞いたがどこで聞いたか忘れた、たぶん、大阪で開かれた本田司祭の後援会であったと思う)のであり、もっと素朴な苦しむ人を見捨てておけないという人間の素朴な思いに基づくものかもしれないのに、無償性、自発性、公共性というカギ概念のみで理解してもいいのか問題があるのではないだろうか(ミハ氏註 この共苦の思想とコンパッションとあわれみとについては、ダライラマ・共苦の思想の著者辻村さんと議論したことがあるが、実は微妙に違うという結論には達した。)

           

          ある統計によれば、ダウン症児の94%が人工中絶される日本という国をどう考えるのか、ということは考えたほうが良い(ミハ氏 統計のソースはどこかということを調査したほうが良いかもしれない)のではないだろうか。そして、現代的な課題として、尊厳死をどう考えるか問題(延命停止による死)を考えるエートス、精神性を考えたほうがいいだろう。


          また、相模原事件の観点から考えると、あの障碍者を殺害する行為の根拠は優性思想ということになる。ある面、健康思想をもち、健康帝国を目指したドイツ(ミハ氏註 実は日本の体操の起源はドイツの国民体操にある)で生まれた概念として郵政思想があり、それがユダヤ人を抹殺していくことになった。それに対抗して、チムグルシイというの概念が生まれたといっても過言ではないだろう。

           

          沖縄の宗教世界のユニークさ

          禅鑑という人物が、沖縄に仏教を伝えたのが沖縄と仏教のかかわりであるとされている。この時代、熊野から即身仏になろうとして、出向した僧侶が沖縄に漂流したのが、沖縄仏教の原点らしい(ミハ氏註 実に海流的に面白いルートである。通常、黒潮に乗ったのであれば、アラスカあたりか、カリフォルニアなのだが、なぜか逆方向の沖縄に行ったのが面白い。)


          日本には明確な否定の論理がない。(ミハ氏註 肯定の論理しかないので、なんでも受け入れて、ごちゃ混ぜにする傾向はあるような気がする)ちょうど、日本に優生学という概念が入ってきたころに、血液論も優生思想の一部を担っていて、それが現在の日本人の血液型論好きの根拠となっている。また、和辻哲郎の風土とか、砂漠の一神教が云々という概念は、なんとか日本の優秀性を言いたくて、その背景に優生学の影響があったのではないか。その背景に、彼らのヨーロッパ留学経験で、軽くあしらわれ、言いたいことも言えずで劣等感を持ったという側面があるのではないだろうか。強くあらねば、という1930-1940年代、知識層がそのエトス(思想)を持ったといえるだろう(ミハ氏註 日本人は優れた民族であってほしいという願望が変に出たのが、日猶同祖論だとおもう)

           

          沖縄で島津藩は仏教の伝道布教を禁じた。その意味で、(ミハ氏註 その後、ベッテルハイムの沖縄伝道、明治政府の琉球併合と本土の神道システムの教育と一体化した形での輸入、米軍支配下での福音派およびアメリカ型キリスト教風新興宗教の伝道、…)と、沖縄の歴史は宗教を考えるときに参考になるだろう。

           

           その意味で、異なる信仰者間の対話性が重要ではないか。(ミハ氏註 これは、公共圏につながるなぁ。詳しくはコミュニケーション理論と応用参照)

           

          木原活信さんからの問題提起

          つづいて登壇したのは、木原活信さんであり、キリスト教の歴史を踏まえた立場と社会福祉の立場からの問題提起であった。

           

          木原さん

           

          外的カテゴリ類型論のナンセンスさ
          社会福祉の研究者として 一人のキリスト者として、今日は発言してみたい。人は割と、カテゴリ類型を使って他者を理解しようとする。その意味は、どうなんだろうかと思う。同志社で努めているというと、ある種のイメージがつくし、また、福音派的なファンダメンタリストのグループにいると、ファンダメンタリスト風のイメージで見られることもあるが、私は私であり、この種のラベルはその人を表すことができるのだろうか?その意味で、現代の社会は、外形によって付与された肩書とか言ったラベルで判断する社会であり、その個人を見ていない社会である。

           

          教会のミッションとしての福祉と日本のキリスト教史と福祉
          教会のミッションとしては、伝統的なものとして、以下の3つの概念がある。
          ケリグマ(宣教)・ディアコニア(奉仕)・コイノニア(交わり)

           

          木原さんの分野は、社会福祉、 ソーシャルワーク(社会福祉的な援助者)を育成し、研究する立場であるが、そこで時々言われるのが、ボランティアについて、ボランティアであるから無償性であると主張される人々もおられるが、それよりは、ボランタリズム(ミハ氏註 Voluntarism 主体的に取り組むこと、自らの問題として考えること)であり、無償性が中心というわけではない。そこでの主要な課題は、自治や独立性、抵抗という概念になっていく。貧困や抑圧、貧しさに対する抵抗の方法として、福祉が生まれてきた部分もある。(ミハ氏註 ある面、ヘブライ聖書的な世界では、それがそもそも組み込まれていたと思う。律法における落ち穂を拾わない規定とか、外国人保護指示規定とか、このあたりがいわゆる福音派とかでは読み飛ばされていることが多いのではないか、と思う)

           

          教会と福祉、その実際例

          福祉に教会で取り組むことについて、牧師からの批判があることがある。その例としては、福祉実践をせよといわれると責められているような気分になる、福祉は行政の仕事ではないか、伝道・布教がおろそかになるのではないか、教会の聖性が失われ世俗化するかもしれない、もうすぐ再臨が近いのにそんなことをしても無益ではないか、という批判である。(ミハ氏の感想 Lord have Mercy, Christ have Mercy, Lord have Mercy...と唱えるしかなかった。そもそも、聖性を概念的なもの、神学的な理論と深く関わるものとしか信じていないのではないか、と思う。そもそも、「パウロは福音に力がある」といってたような気がするし、日本伝道会議の講演で、C.ライトさんは、このことをかなり繰り返していたように思う。)


          信徒からの声としては、子供が自閉症で騒ぐといけないから、教会に行けない、といった声もあるし、セクマイを告白すると教会がドン引きしてしまい、教会に行けないようなことになってしまった、と言いう事例もあった。教会は、そのようなことが良いとは言うけれども、どう現実にかかわっていいのか、ということについて具体的にかかわり方を教えないという声を思い出した。

           

          (ミハ氏註 これ、日本の現実の教会ならではのあるあるのご意見だと思った。自分で考えず、誰かがこうしろというのを待っているかのような受動的な生き方であり、目の前をよく見たら、そこに何かはあると思う。それに目を背けているような気もする。本来、神とともに、イエスの真実(ピスティス)にたより、他者に向かっていけばいいだけのことなのだとは思うのだ。この話を聞きながら、英国国教会の祈祷文の一節 

           

          Almighty God, our heavenly Father,
          we have sinned against you
          and against our neighbour
          in thought and word and deed,
          through negligence, through weakness,
          through our own deliberate fault.
          We are truly sorry

          and repent of all our sins.
          For the sake of your Son Jesus Christ,
          who died for us,
          forgive us all that is past
          and grant that we may serve you in newness of life
          to the glory of your name.

           

          を思い起こし、その祈祷文を思わず心のなかで唱えた。)

           

          論点として取り出してみたいのは、これまで教会は、社会派(ミハ氏註 教会よりもやや社会に仕えること、使わされていることをやや重視し、社会に積極的にかかわろうとするグループ)と教会派(ミハ氏註 教会の中だけで聖書の理解を考え、社会に対して消極的なグループ)、リベラル派(ミハ氏註 聖書を歴史的な文献と考え、そこに見出すのは理性的なテキスト理解から生まれた認識を重心とし、聖書の分権性をかなり強調するグループ)・・・といった分断があり、教会と社会のかかわりは、そのようなものでいいのだろうか(ミハ氏註 まるで、C.ライトの日本伝道会議の講演の主張の要約のようだ)。まさに、これらの派閥を作る人々は、イエス時代のサドカイ派、パリサイ派、熱心党と分離していたイスラエルの宗教シーンのようだ。また、我々は、教会の中でパッションを喪失してないだろうか。そもそも、先ほど受苦の思想が出てきたが、それこそがコンパッションである。(ミハ氏註 この辺がダライラマのニンジェ、あるいは共苦、というの思想とのつながりがあるが、聖書的なコンパッションとダライラマ14世のニンジェの思想と、微妙な射程の違いがあるような気がする。おそらく、その背景には、創造者としての神の存在と神の平和を地に如何にしてもたらすかどうか、というあたりの意識の有無のような気がする。聖書的なコンパッションについては、最下部のCompassionをおすすめする。日本語では、『コンパッション(あわれみ)―ゆり動かす愛』 女子パウロ会)

           

          市民的公共の時代の福祉と教会の役割

          市民的公共の時代に福祉とどうかかわるか、ということが教会に問われているのではないだろうか。その意味で、地域に使わされたものとして、地域に仕えているだろうか、地域に出かけているのだろうか、ということは問われてもいいかもしれない。隅谷三喜男さんは、ある本の中で、教会が「学校」のようになっているのではないかと指摘している(ミハ氏註 これは、しょうがないと思う。日本の教会のかなりの部分が、アメリカ型の言語や理性に大きく依拠した聖書理解の伝達、アタマ系の伝達方法を主とするという印象の強い教会形成がされてきたわけであり、日本ハリストス正教会などの正教会系の理性以外のものを活用した体験することによる聖書理解の伝達、あるいは、カラダ全体系の聖書理解の伝達が軽んじられる形で、伝道が行われるとともに、教会形成が行われてきた伝統に大きく依拠しているからであろうと思う)

           

          そして、教会は客を迎えるだけの場所になってしまっており、客として新来会者を迎えることが教会の役割になっているのではないか。ところが、イエスは教会やユダヤ会堂の中にいたのではない、イエスの宣教は、出ていった宣教でもあるし、ゲラサの地に行って出会ったのは、有名な人や知られた人ではなく、だれからも相手にされていなかったゲラサの狂人のところに行ったのである。
          (ミハ氏註 なんか、ここんところの日本伝道会議でのCライトの話を聞いている様だ。その意味で、ミッショナル、地に具体的にも神の平和をもたらすような宣教スタイルであること、をどう考えるかということのご主張があるようだ)

           

          日本のキリスト教史と福祉の歴史
          日本の社会福祉と宗教(教会)の関係の変遷の歴史を振り返ってみよう。


          歴史的に見ると、福祉の実践は宗教と不可分で、とりわけ、キリスト教と不可分である。明治以降、福祉の実践に数多くのキリスト者がかかわっている、山室軍平、石井十次、賀川豊彦・・・とかなりいたはずである。とはいえ、戦後、福祉国家成立以降、宗教と福祉は政教分離原則で福祉と教会がどうしても分離していくことなった。ある面、このようにして、協会と福祉の関わりが分断され、教会は福祉の役割を失ったのではないだろうか。ある意味、国家が措置として、”福祉行政”を担おうとして、その中心的な役割を担う存在の主役が、ボランティアから国家に移ったのではないか。その結果、主体的に福祉に取り組むのではなく、国から言われたことをするようになった。自分のやりたいことを自分でや履帯用に、自分で実現する時代から、国家の制度に従うことが中心になり、自主自律の気風が隅におかれることになっていったのではないだろうか。

           

          2000年以降、教会に求められるもの
          ところが、宗教(教会)と福祉との関係はは、2000年の社会福祉基礎構造改革以降、新たなワールドへ突入していくことになる。その中では、教会が持つ市民的公共圏が重要になるだろう。 その意味で、今は教会から公共へ開かれていく社会に向かっていくことになるだろう。ある面、地についた伝道を目指すことになるだろうし、マタイ10章の小さきイエスに水を与えることになるのではないだろうか。

           

          釈徹宗さんの問題提起
          日本の仏教寺院の現状と宗教とについて触れてみたい、ということで切り出されて始まった。

           

          釈さん

           

          居留者コミュニティと宗教施設

          現在、毎日新聞で、異教の隣人という連載があり、外国系の人々が集まる宗教施設を訪問して、連載記事にすることを行っているが、外国人にとって、母国ではメジャーだけど日本ではマイナーとなる宗教施設を回っての随想を書いている。この過程の中で、様々な施設を回っているが、人間には必要とされる施設の一つとして、宗教施設があるということを強く感じる。

           

          ベトナム人は姫路に多いのだが、宗教施設ができてベトナム系住民社会が活性化している例も見られる。ミッション・アポイオは、ブラジル系教会であるが、南米系の礼拝が捧げられている。そこでは、悲しむ人々に、「兄弟たちよ、一人で泣くな」と声をかけつつ、共に泣く姿が見られる。ところが、知識階級者の多いカトリックの日本人教徒が中心の教会では、労働者階層中心の南米カトリック教徒とはどうも合わない感じがする。また、ミサのフォーマットは同じでも、日本語ミサの場合、その意味が理解できない人が生まれる。(ミハ氏註 もともとのラテン語礼拝だったら、その苦労はあまりないと思う。微妙な違いはあるが、ラテン語を由来とする、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などのラテン語圏なら意味の想像がつく。ラテン語ミサにはラテン語ミサの特徴はあったのに、なんだかとっても残念かもしれない。とはいえ、それで典礼遂行できる司祭が何人いるかというときついなぁ、と思う)その意味で、それぞれの民族集団や言語集団、信仰集団に応じた宗教施設が必要であるし、それによって、外国にいる気流者コミュニティが活性化する(ミハ氏註 先日コプト正教会の献堂式に参加したとき、コプト正教会の人々がこれで、日本で自分たちの言語と様式での礼拝が捧げられると素朴に喜んでおられた姿が忘れられない)

           

          民族として大事なのは、食事規定、お墓の問題、教育であろう。特に、出身国文化の文化継承の場としての宗教施設は重要な役割を果たす。神戸には道教寺院があるが、そこでの祝祭を通して、食文化は3世4世にも継続的に継承されている。特に、福建省系のか今日の歴史文化の継承における道教寺院の存在は小さくない。

           

          ソーシャル・キャピタルの要素
          ソーシャル・キャピタルを議論する時に重要になる基礎的文献としてロバート・パットナムの『孤独なボウリング(Bowling Alone)』があり、その中では、BridgingとBondingが含まれているが、宗教施設は宗教的ボンディング(ミハ氏註 宗教的紐帯)の継承と発展に有効である。

           

          日本の寺院と日本社会

          寺院のお話になるが、7万7千のうち2割が現在休眠状態にある。江戸期には、もともと16万くらいあった。(ミハ氏註 地方の人口減で閉鎖されたわけではなく、明治維新直後期の廃仏毀釈運動の嵐に巻き込まれて大量に閉鎖された部分もあるらしい。特に旧薩摩領(鹿児島)では、率先して薩摩が範を垂れなければならないということもあったためか、寺院がほぼ壊滅状態であるらしい。


          地方自治体の閉鎖の先行形態としての寺院消滅があるのではないか。たしかに、マクロで見ると絶望的でしかない。これから到来する縮小社会としての日本を考えると、地域コミュニティに乗って運営指定化ざるを得ない寺院としては、コミュニティが死ぬとお寺も消滅になる。たしかに、マクロはだめだが、ミクロで見るとおもしろい事例も散見される。

           

          家族経営の寺院とその多様性

          日本の寺は家族経営という世界に類を見ない寺院経営の姿である。本来、出家は妻帯しないものであるので、世界の多くの仏教寺院は、仏教僧の集団からなるサンガにより維持されるものであるが、日本では寺院運営は、家族経営のため、いかに家族の構成員のモティベーションの維持が大事担ってくる。その意味で、寺族で取り組むことになるので、その寺族のモティベーションが重要担ってくる。その中で、寺族のモティベーションを維持するためには、外部からの公共的な評価が重要かもしれない。なお、寺院は、多くの場合個々の寺院が独立しているし、その分多様であるし、事情が寺院寺院ごとに違うので、一般化しにくい。

           

          釈さんの取り組み

          今、自分自身が取り組んでいるのは、大阪府池田市での取り組みであり、認知症患者のグループホームを運営して、現在8人の入所者がおられる。この取組は、そもそもお寺の傍にあって、住む人のいなくなったもともと植木育種業者さんの空き家を利用した活動である。この空き家を利用するのは、立ち上げコストが小であるし、もともとのものがあると早いので、方法論としての有効性があるのではないだろうか。このホーム運営を始めると、寺檀制度の一環としての活動として、檀家のメンバーが、できるときだけ協力するという形で、お寺がやるなら檀家もやる、ということに協力が得られることもある。それは、地域に眠っている人的資源、知的資源の活用にもなる。例えば、退職医療者、例えば、医師、看護師などが協力するなどで、対応コストが下げられるものがある。更に、ヘルパーさんなどを含め、13人雇用できている。その意味で、小さいかもしれないが、地域の経済的活性化につながる。もう一つは、阪急曽根駅前の寺子屋(練心庵)で、講座をやっているのと、そこに若者が集まり、法人格を取らずNPOみたいな形でやっているものがある。

           

          市民社会と寺院とボランティア

          このように市民の参画が求められた背景には、まず、阪神大震災があり、ボランティア概念があり、さらに、高齢化に伴った終活ブームが出て、この頃、日本仏教界は葬式仏教ということで大バッシングを受けた。そういういところに、東日本大震災がおき、その中での寺院が避難先として利用される、あるいは、救援事業の拠点となった、ということを行っていったこと、また、臨床宗教師としての働きにも着目され、社会資源の寺、公共性を持つ施設として再認識されることになった。

           

          ソーシャル・キャピタルと宗教

          パットナムの孤独なボウリングでは、内部の信徒集団としてまとまっていくボンディングと他の団体や他の宗教者との対話であるブリッジングがあるが、おそらく、現代において重視されているのは、ブリッジングではないだろうか。

           

          フロアからの質問

          このような社会福祉は、伝道の場と見ているのか、それとも対話の場と見ているのだろうか、という質問が出て、むつみ庵は他宗教的なメンバーからなっている。個人的には、後ろ手に伝道隠すのはどうかと思っている。また、お世話になっている人からの依頼は断れないので、そのへんの塩梅が社会福祉の場を持つと難しい。個人としては、電動と社会的活動を分けたいと考えている。とは言え、宗教は、どうやってもわかれる声質を持つし、もし、そのような別れるほどの強さがないと人々の生きるための力がないものになる。とはいえ、制度化してビジネスモデル化していかないと対応できないものが出てくるし、制度化すると、固定化するし、なかなかうまくいかなくなる。こうなると、なんのためにやっているのかになる。それをどう考えるのかと言うのは永遠の課題である。

           

          (ミハ氏の感想 のっけから、モロ関西のめっちゃお坊さん風しゃべりだったので、思わず笑いがでそうになった。この人の味だなぁ、と思った)


          パネル・ディスカッション

          釈さんが午前中のみ参加、ということであったので、釈さんの発言が中心になるようにしたい、という稲垣さんからの発言で始まった。

           

          パネル・ディスカッションの様子

           

          稲垣さん)

          まず、確認したいことがある、先程、ボンディングとブリッジングが出たが、Bonding(ボンディング)は内部での結束を強める働きである、Bridging(ブリッジング)は他とのつながりのことである。ボンディングという側面では、真宗門徒の近年の信仰離れはどうだったのだろうか、あるいは、強固なボンディング機能が維持できたのだろうか?あるいは、新宗教と比べて伝統宗教とはどう違うのだろうか。


          釈さん)

          強固なコミュニティもあるし、そうでないのもある。寺院に関しては、都市ではそうでもないし、それには、就業形態が影響する事が多い。協力し合わといけない、条件の悪いところではボンディングが強いと言える。そして、みんなで常に何かをやるところでは、ボンディングの存在そのものが、日常生活に直接的に影響をする。ところが、会社勤めになると変わる。就業形態が変わると、それぞれが別々の場面で行動することになるので、紐帯の弱体化が起きするし、それは池田でもそうであった。宝塚から池田にかけてはほぼ植木屋さん、植木を生産するタイプの植木屋さんであり、それなりに仕事で助け合ったり、共同化することで助け合ってきた。ところが、会社勤めが増えると宗教的行事に関して、熱心さが減るかもしれない。

           

          稲垣さん)

          一向宗の自治精神と言うのは、非常に強い物があるときくが、どうなんでしょう。
          釈さん)

          いまだにある。自分たちが寺を運営している感も強くある。特に加賀では、一向一揆で領主を追い出し経験もある。特に浄土真宗の性質もあり、地内町をつくり、都市ごと独立させて、浄土真宗の門徒で運営した実績もあり、そういう気質が残っているところはあり、住職ももんとと基本的に横並びであり、自分たちで、教義を作っていて、若い住職より年配の門徒のほうが、住職に教えたりすることもある。


          稲垣さん)

          自治の精神を持っていたのは大変興味深い。日本の仏教は、お墓を守ることが主眼友いわれてきたが、そのあたりはどうなのだろう。


          釈さん)

          そもそも、浄土真宗では、お盆もお彼岸もしないという、従来の浄土真宗ならではの習慣が失われてきた。バブル時代から急速に変わった印象がある。そもそも、伝統的に地域により、お葬式の仕方が違っていた。ものすごく近い地域でも葬儀の仕方は異なっていたが、バブル期に葬儀のビジネスモデル化が進見、全国ほぼ均質化した葬儀担ってしまい、葬儀の進め方の地域間の際や多様性が消えた。

           

          稲垣さん)
          市場経済の席巻とカネにものを言わせた生き方が中心になってきたのがバブル期であったろう。


          釈さん)
          たしかに、バブル期から、宗教との関わりの中で、消費者体質へと進んだように思う。葬儀のパッケージングとオプション・サービスの購入スタイルへと変更されていき、葬儀事業者からのオブションを選んでおわりということが起きたように思う。これと同様の現象があらゆる場面で起きている。そして、家庭生活、家族の中にまで浸透している。消費社会、消費主義は、経済的合理性を求める行為減速が支配する社会であるので、コストを下げ、満足度を得る事が大事になっており、贈与とか与えるということは、むしろ不要であるかのような生活モデルが提案されている。ところが、贈与とかという感性がもう一度、東日本で揺さぶられ、今そちらの方向に向かっていったように思う。その中で、互酬性が大事になりつつあるのかもしれない。

           

          稲垣さん)
          登壇者の皆さんから釈さんへの質問は?

           

          木原さん)
          教え子の結婚式が先日あったのだが、人前結婚式というスタイルを取っていた。しかし、従来は、結婚式ならキリスト教式でというのがあったはずだが、それに見られるように宗教性を否定する方向に行っている。また、先程、葬式仏教への反乱という話が出たが、木原さんの友人が、お父様の葬儀をお寺に頼んだときに、経文の内容が意味わからんお経で、解説なしにそれが述べられたので、その後の回忌法要は、僧侶なしに自分達でお経を読んで済ませた事例などもある。このように宗教離れが進んでいるように思う。このような点についてどう考えておられるのか?
          ところで、自殺予防に熱心な浄土真宗であるが、浄土真宗だけがこのことに取り組んでいるのか、それとも、仏教界全体で取り組んでいるのか

           

          釈さん)

          現代人は意味がわからん状態が苦手な人たちで、理性優先になっているかもしれない。儀礼性が重要であり、その意味で、感性ということをもう少し考えてほしいとは思う。
          それと自殺予防に取り組んでいるのが目立つのは、どこにでもいる浄土真宗(ミハ氏註 この話を聞きながら、ユビキタス真宗と失礼ながら思ってしまった。)という側面があり、仏教界の中での 最大だから派閥だからかもしれない。しかし、本来、社会活動よりも信仰優先的であり、どちらかと言うと、信心優先である。真宗は、どちらかと言うと、社会活動に熱心な思想ではなく、仏道そのものに関心があり、弱者に布教することで、弱者の信仰と言うか新人を育成する。ただ、普通、弱者はかなり普遍的な現象として、連携を求めるという性質があるので、弱者への保護が志向されるという側面はあるかもしれない。

          木原さん)

          むつみ庵は NPO法人とかの法人格はどうなっているのですか?

           

          釈さん)

          法人格を取るとややこしいので、法人格は取っていない。個人としては、むつみ庵は施設と自宅の隙間であると考えている。これには、自分自身が、すきまと言った中間的な領域が好きであるというのもあるかもしれない。


          木原さん)
          社会福祉法人格をとらないののですか。


          釈さん)
          法人格を取ると、行政が口出ししてきたり、あれはこうしろといったように、制約が大きくなるので法人格はとらない方向で考えているし、行政も、実際に見に来られてお話する中で、なんとなくわかってくれていて、対応してもらっている。

           

          稲垣さん)
          先程、木原さんの話で、聖性が失われていくという話が出たが、聖俗二元論というのがそのあたりはどうでしょうか。

           

          釈さん)

          日常が仏道であり、日常が聖であるという概念がある。その意味では、聖俗一元ではあるが、基本的な軸は聖にある。とは言え、急速に第1次世界大戦から第2次世界対戦にかけて、聖俗二元論になった、という印象がある。


          岩村さん)
          キリスト教の伝統、特にカトリックの伝統の中では、看想会の伝統がある。その中で、聖性の確保がなされてきた部分がある。モティベーションの維持という意味では、弱き人の中で、御仏を見るという側面や、カトリック教会では、貧しき人の中に神を見る。キリストを見るというところがある。また、被災者の中にキリストを見るということもあろう。今、病院や施設からの直葬の時代の中で、痛んだ人共に生きる出発点として、葬儀の問題はあるかもしれない。
          妙好人(浄土真宗の在家信徒)の面白さの中に、真宗の特徴があるのではないか。ひたすら不条理を受け止めるという側面がある。(ミハ氏註 これは、アーミッシュやメノナイト・ブレズレンの伝統の中にある)


          釈さん)

          こういうのはあまりない。いくら奉仕していても不十分という理解がある、善行したとしても、自分の都合ではないかということが常に耳元でささやかれるところがあり、不完全な慈悲だという側面がある。これは、真宗だけの事情が影響しているかもしれない。
          社会活動を分けて考える傾向が強い。善行するときにも、真宗の教えが批判してくる。つまり、いくらやっても偽物だ、と指摘してくる真宗の教えがある。それだからこそ、続けられるという側面があるのではないか。


          フロアから釈さんに)
          先程、疲弊した介護職の話が出てきたが、疲弊した宗教者のケアをどうするのかについてお考えがあるか。

           

          釈さん)

          介護の現場にいると特にそう思います。介護者の言いたいことを言える場が必要ではないだろうかと思います。尼崎で、介護者の言いたいことをいえる場所つくりが進められているが、そう言い場が必要かもしれない。


           

          (ミハ氏註 キリスト教だと、スピリチュアリティ・ディレクションということや、カトリックやアングリカン・コミュニオン、正教会での司祭のメンタリング・システムがある教派が、こういうのがないと、司祭や牧師の暴走とか、燃え尽きとかが起きるんじゃないかなぁ、と個人的には思う。ケアするものは、ケアされてこそ、ケアするものになれる、というのはナウエンも書いているが、実感として今、ケアされるという経験をさせてもらう中で、強く感じる)

           

          午後のグループ・ディスカッションのテーマとしては、ボンディングとブリッジングを考えてほしい。また、他宗教との協力は可能か。どうやったらいいのかを、皆さんで考えてほしい。


           

          昼食後、グループに別れてディスカッションに移ったがが、昼食時に、PCが不調になったので、記録ができなかった。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          ロバート・D. パットナム
          柏書房
          ¥ 7,344
          (2006-04)
          コメント:ソーシャル・キャピタルの出発点になった、非常に良い本。おすすめしています。この本は基礎的文献です。

          評価:
          ---
          法藏館
          ¥ 3,240
          (2016-03-10)
          コメント:仏教宗門の詳細な実態調査や数値調査に基づく人口減少下での仏教寺院とその中での新しい方向性を求めている動きなどについての調査をまとめたもの。これがキリスト教ではできないのが何より残念。

          評価:
          Henri J.M. Nouwen,Donald P. Mcneill,Douglas A. Morrison
          Image
          ¥ 1,281
          (2006-01-17)
          コメント:非常に良い本だと思います。おすすめの一冊です。

          2016.10.08 Saturday

          第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第1回 講演会参加記録

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            日本伝道会議の第6回日本伝道会議の第1日目に行われた、クリストファー・ライトという方の講演会の第1回目の個人的な速記録からの内容を掲載してみたい。かなり真面目に記録を取得する努力をしたので、要約としてはそれほど外れていないと思われるが・・・。書き込みすぎの部分もあるかもしれません。それはミーちゃんはーちゃんがわるい、ってことで、ご容赦をば、ということで。以下速記録からの復元。

             

            ReVisionをどう考えるか

             今回は、神のことばと神のミッションについて考えてみたい。今回のテーマは、Re-Visionということだが、これは、神によって、私の目を開いてほしい(ミハ氏註 この見るということとVision、あるいはRe Vision 再度見直すという言葉が掛詞になっている)ということとも関係が深い概念である。従来の枠組みとは、変わった仕方で目を開いて、ものごとを見ないといけない。世界は従来のものから、すでに変わっているし、教会も変わってきた。しかし、神はすべてを新たにされる方である(ミハ氏註 天の地にあるものすべて… これは神の主権性を表すヘブライ的なものの言い方)。何が変わったのか、どのような見方をしないといけないのかを神に求めていくべきではないだろうか。それは、ある意味で、信仰の目が開かれていくということでもある。

             

             

            Be Thou My Vision(あなたが私のVisionでありますように)

            ゲール語(古アイルランド語)バージョンのBe thou my vision

             

             

             

            信仰の目を持ってみる

             シリアに囲まれたエリシャのしもべが見たもの
            信仰の目によってみる事が大事だろう。神は心の内を見られる方だろう。我々は、ダビデがゴリアテに対面したときのように、そこに巨人を見るかもしれないが、神はそこにある勝利を見ておられたのではないだろうか。ミッションについて、気がついていることを見ていかないといけない。

             

            神は、我々に全貌を明らかにしていく。列王記第2の6章の中に、2つの目が開かれる経験が見られる。エリシャのしもべは神の臨在を見たのである。たしかに、丘が敵の軍隊で埋まっていたし、エリシャのしもべはそしてだめだと思った。人間からしてみれば、そこにいたのは、エリシャとしもべと敵の軍隊だけであった。

             

            【口語訳聖書】列王下
             6:14 王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。
             6:15 神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。
             6:16 エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。
             6:17 そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。
             6:18 スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、「どうぞ、この人々の目をくらましてください」。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。
             6:19 そこでエリシャは彼らに「これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう」と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。
             6:20 彼らがサマリヤにはいったとき、エリシャは言った、「主よ、この人々の目を開いて見させてください」。主は彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、見よ、彼らはサマリヤのうちに来ていた。
             6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか」。
             6:22 エリシャは答えた、「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」。
             6:23 そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった。

             

            エリシャの弟子は自分でしっかりとその現実であるシリア兵団に囲まれていることに直面せずに逃げ出したかったが、実際には、神がエリシャとその弟子の目を開かれたとき、霊的現実(Spiritual Reality)として神は、エリシャとその弟子とに何かを見せた。神の軍勢がその場にいたということをエリシャのしもべは見たのである。そして、彼らは、神の軍勢を見ることを通して、目が開かれて、物事の見方が一度に変わったのである。

             

            エリシャのイコン(こっちのカラスの給食の話のほうがかなり有名)

             

            ヘブライ語聖書内での相似の事例

            この話は、ダビデがゴリアテに向かったときの出来事や、モーセとアロンの時の出来事・・・と重なっている。モーセがファラオ(パロ)の家に向かっていくとき、持ってたのは、羊飼いの杖であり、その杖一本持って、エジプト王のパロ、全世界の王という雰囲気のある人物と対面した。モーセが燃える柴のところで、神と出会ったとき、神はモーセにあなたと共にいる。そして、恐れるな、勝利は私のものだ、とおっしゃったのである。このような重層性が聖書にはある。そして、これらは、ある人の戦いというよりは、イスラエルの神の戦いである、という点で共通している。

             

            福音に対する信頼(神の福音への誠実さ)

            この神がともにおられるということは、我々が福音に対する信頼を持つ、ということへとつながっていく。パウロは福音は神の力である、といっている。神が働いていて、我々の罪からの開放(救済)を成し遂げたのである。なお、このことに関して、次回明日は福音理解の話をしたい(ミハ氏註 この回は途中で、PCが誤動作したので、メモはほとんど取れていない)。

             

            異教の兵士に対する神の大宴会

            さて、列王記第2の6章20節から23節を見てみると、敵は、神の民の憐れみと神の民による神のもてなしを見ることになった。これは、冗談みたいな話でしかない。エリシャを捕縛しに来たのに、捕縛することはできず、その結果、この軍勢は、サマリヤに連れていかれていって、結果としては、敵であるイスラエルのど真ん中にいることになった。この軍勢はおそらくこれから確実に殺されるだろうと思った。大虐殺を覚悟しただろう。しかし、そのような悲劇が実現することはなく、神は、殺してはならないと言われたのみなあらず、神はこのシリア人の人々が空腹だから食事をさせてやれ、そして、彼らシリア人を国に帰らせてやれとお命じになられたのであり、そして、異邦人の異教徒に対するイスラエルによる大祝宴のような食事の会が開かれたのである(ミハ氏註 これ、神による回復の現実世界で一つの表現だと思っている。そして、イエスの神の国は、食事と深いつながりにあるし、それは、聖餐にもつながっていると思う。また、詩篇23篇ともつながっている部分もあろう。口語訳聖書 詩篇23篇5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、…を思い起こさせる。

             

            この出来事の前景としてのナアマン

            外国人が神の非常に大きな憐れみを神の民を通して実現したことを味わうことになる(ミハ氏註 当時の常識で言えば、大虐殺されるか、身代金を要求されるか、身代金が払えないならば、捕縛された兵について、戦利品としての身代金の請求を家族が負担できない場合、その請求金額を付与された奴隷として売り飛ばされるか、自分自身のその身代金相当額を労働の対価として支払うのが常識であった。以前、京都大学の近所の王将では、食事代を払うことのできない学生には、労働により食事代を支払うことができた、という都市伝説がある。王将に関する都市伝説の真偽の程は定かではない)。このようなもてなしを受けたシリア人たちは、この出来事、自分の直接的な経験を通して、イスラエル人とその神について考えたであろうし、考えざるを得なかったであろう。この話は、シリア人が改宗した、というような物語ではない。無理やり敵のスリヤ人(シリア人あるいはアラム人)を強制的に神の民にしたわけではない。似たような話は、同じ列王記下の5章でも起きている。つまり、ナアマンの話であり、シリアの軍団長であったナアマンは、自分の重篤な皮膚病が癒やされることで、イスラエルの神、この方こそ、神であるとナアマンは知った。ナアマンは偉大な人物であったが、神に立ち返るという謙虚さは持っていた人物であった。

             

            ヨルダン川で清められたナアマン


            この列王記の部分は意図的に並べられていると思う。異邦人であるシリア人ナアマンが重篤な皮膚病から開放され、ついで、シリア人の軍勢が戦争を仕掛けてきたのに神の民によって、かえって恵みともてなしを受けている。これらのことを通して、イスラエルとその神を見直した可能性がある。まさに、Revisionが異邦の民シリア人において起きているのである。このような話はヨナやルツの物語と共通の部分である。

             

            異邦人が神を礼拝するという

            ソロモンの神殿奉献の祈り

            これは神が忠実にアブラハムへの約束(あなたによってすべての国民が祝福される)を守っていることの一つの現われであるといえるだろう。すべての国民がアブラハムのその子孫によって祝福されるという約束があるが、これはもちろんイエスの十字架とその後の復活という福音によって与えられていく恵のことではある。しかし、旧約聖書はこのような数多くの類例がある。例えば、ソロモンが神殿を立てたときの祈りがこれにあたる。列王記 上 8章で記載されている祈りである。

             

            口語訳聖書 列王記上

             8:41 またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、
             8:42 ――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、
             8:43 あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。 


            ソロモンが異邦人による神の礼拝を願っている。エルサレムは当時の国際的都市の一つであり、多国籍社会であり、地中海世界から様々な人々が来ていたのであり、ある種の文化都市のようでもあったであろう。

             

            このソロモンは、外国人が望むものを与えていたし、ある麺当時の社会にとって見れば企業家的存在のようなものといっていいだろう。クライアントにこたえたいという点では、一種の企業家(アントレプレナー)としての側面がある。そして、彼らが神殿で、イスラエルの民が礼拝するのを見ることを通して、イスラエルの神殿とそこで礼拝する神の民を見ることを通して、この偉大な神とその神殿について家族に伝えるし、そして、イスラエルに来るだろう(ミハ氏註 当然のことながら、そこの禁制品などを狙いに来た軍隊が後に実際に出現し、完膚なきまでに略奪された)。その結果として、神の名が世の果てまで崇められることになるだろう。この列王記上8章に記載されている表現は、ある種、宣教的な祈りに近いとも考えられるだろう。

             

            他の異教の人々をどう見るか?

            私達が、他の人たちをどう見るか、どう理解するか、という視点は重要である。現代社会において、他国民、自分と違う文化にいる人々を、我々は敵と見るのだろうか。あるいは、他宗教とそこでの信仰をどう見るか、あるいは、無神論者をどう見るか、ということが重要になってくる。その意味で、イエスの主張は、敵対的な人でも愛せ、ではなかったであろうか。イエスも教会の中に居た人ではなかったし、教会外の人をも愛せ、といったのではないだろうか。

             

            教会外の人々からどう見られているのか?

            ところで、今、教会は、他からどう見られているだろうか。イギリスでは、ノンクリスチャンは、キリスト教に否定的な視線を見向けている。なぜ、人々は教会について否定的に見ているのだろうか。

             

            神の民として我々が何者で、現在、今この地で生きていることの理由を考えて見る必要があるだろう。ところで、イスラエルの民、神の民がすべきことは何であったかを、出エジプト記19章のシナイ山の記事から考えてみたい。イスラエルの民は、エジプトから導き出され、シナイ山で十戒が与えられる前のところである。

            【口語訳聖書】出エジプト記
             19:3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
             19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
             19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
             19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

             

            出エジプトを経験したイスラエル人たちは、イスラエルを神が贖ったこと、イスラエルの民に対して神がなしたことを、あなた方イスラエル人は見たこと、そして、それをイスラエル人たちは実地に、経験したことを、思い出させている。神は憐れみによって暗闇から光に、奴隷状態から自由人状態に、そして、死から永遠のいのちへと移すお方であることを思い出させているのである。

             

            先程のソロモンの祈りでもそうであるが、人々を神の前に戻す人が祭司であった事に触れつつ、他国民を神のもとに連れ戻すという役割があることをイスラエルの民に神は言っておられる。このことはペテロ第1の2章9節での、神が選ばれた聖なる祭司とつながっていくる。国々の民にあって神が存在することを、神の愛を指し示す(証する)存在として我々はこの世界に置かれている。それが我々のミッションのなかに含まれていると言えるだろう。

             

            神が神の民に望んでおられること

            イスラエルの神は、神の民が宗教的な民になってほしいと願っているわけではない。Holy、聖であれとは言うが、その中には、宗教的であれとは言うことではない。ただし、他の民とは異なる存在となる、といっておられるのだ。その意味で、Missionという言葉の中にはいかに生きるかも含まれる。ここで、同じようなことをペテロは言っていると言えるだろう。

             

            神の民は、語るべきこと、指し示すべきことが存在するのである。神を指し示すような良き働きに関与しようではないか。良い働きを通して、異邦の民が父なる神のことを崇めるようになることを望んでおられるのだ。出エジプト記のこの場所は、本来あなた方はこういう民であり、生き方への神の希望を語っているのではないか。神の民として、地に平和をもたらし、良きことをもたらし、異邦の略奪に来た兵士らに対して、豊かに与えたイスラエルの民と同じように生きることを望んでおられるのではないか。その意味で、我々は聖書全体の物語を多くの人々、異なる神を礼拝する人々にも語る必要があるだろう。その神の偉大さと豊かさと哀れみを。神の民に敵対している民にも、神の存在と神との関係を伝える必要があるのではないか。そして、イエスを通して、十字架の死と復活を通して異教の民との和解も実現したのではなかったか。

             

            神の民としてのRe-Creation(再創造)

            イエスにより和解が実現し、神の民として生きる様にさせられたのがキリスト者であろう。その意味で、神の再創造であり、つくりかえられたものであり、リクリエーション(Re-Creation)が実現したのだ。ちょうど、エリシャのしもべが目が開かれたように、我々もこのことに目を開かれるよう求めるべきであろう。仮に神との和解が成立し、再創造されたものであることを忘れてしまったら、聖書の本筋から外れてしまっていることになるし、我々が何者なのかを忘れることになろう。我々は神のために、神のミッションのために整えられていく存在なのだ。

             

             このご、ケープタウン宣言 p38が画面に表示され、読まれた。

             

            エリシャの弟子は、目が開かれて、神の存在と力を見た。

            また、そのとき、シリアの兵士たちは神の民の憐れみともてなしを見たのである。
            どうか、私たちの目が、神の王国が広がっていくことを、見ることができるように願おうではないか。
            そして、神が、神に敵対するものを見ておられる如く、我々も、神と同じように神に敵対する人々を見ることができるように願おうではないか。

            そして、自分自身を神が見ておられるように、見ることができるように願おうではないか。神の御思いが実現するために、神は、我々の実存を創造され、そして我々を呼び出されているのではないか。

             

            個人的な感想

            この話を聞きながら、時々唱えるAnglican Communionの祈祷文を思い出していた。将に、地に平和を、神の支配もたらすために関与していくことが、我々がこの地上に置かれていることなのだと改めて思った。まぁ、それは、クリストファー・ライトさんが、どうもAnglican Communionの人だから、なのかもしれない。
            V. Show us your mercy, O Lord;  
              (あなたのあわれみをわれらにお示しください)
            R. And grant us your salvation.  
              (あなたの和解を私たちにお与えください)
            V. Clothe your ministers with righteousness;
              (あなたから権威を授けられたものに、義をまとわせてください)
            R. Let your people sing with joy.  
              (神の民が喜びこもって歌うことができますように)
            V. Give peace, O Lord, in all the world;  
              (主よ、あなたの平和がすべての世界において実現しますように)
            R. For only in you can we live in safety. 
              (あなたの中にある時にのみ、我らは穏やかに過ごせます)

            とか

            V. Let not the needy, O Lord, be forgotten; 

              (主よ、必要のある人々が忘れ去られませんように)
            R. Nor the hope of the poor be taken away. 

              (あるいは、貧しい人々の希望が奪い去られませんように)
            V. Create in us clean hearts, O God;   

              (神よ、我らを聖い心のうちに立てあげてください) 
            R. And sustain us with your Holy Spirit   

              (あなたの聖なる霊により、我らをあなたのうちに保たれますように)

            という祈祷文の内容を思い出しながら、このライトさんが言っていることは上で紹介した祈祷文の内容と殆ど変わらないなぁ、と思ったのである。

             

            また、この話をお聞きしながら、Tim Kellerの『放蕩する神』”Prodigical God”とフィリップ・ヤンシーの『隠された恵み』を思い出し、しばらく頭のなかでぐるぐる回っていた感じがした。要するに、今回のクリストファー・ライトさんの講演は、神が我らに対しても鷹揚なお方ばかりではなく、敵に対しても鷹揚なお方であり、豊かに半端なくその愛と恵みを放蕩しつつ対応されたのにもかかわらず、現在の神の民は、本来、その神の愛とめぐみという神の支配を指し示すべき存在であるべきなのに、それを逆に隠してしまっているのではないか、それでいいのか、ということを問われた気がする。

             

            それを思うとき、自分たちの仲間であるか、否かで考えるのではなく、神がすべての民を愛し給い、それぞれの存在を大事なものとして創造されているものの、神の民を含む全ての民が最終的な形に、作り変えられうる、来るべき後の神の支配の中において、再創造ないし、新創造のうちに置かれるものとされうる(ミハ氏註 なんのなんの、何でもかんでも救済されると言ってはいないことに読者は注意されたい)、ということを覚えることの大切さを思ったのである。神は、細かいことをうじうじ言う風紀委員のような方ではないのだなぁ、と思った次第である。

             

             

            ライトさんの講演の第2回は、神の福音について、であるはずだが、そこはメモが殆ど無いので、飛ばします。したがって次回公開の記事は第3回である。うーん、面白いことが多すぎて、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の連載が進まない。悲しい。

             

             

             

             

             

             


             

            評価:
            ティモシー ケラー
            いのちのことば社
            ¥ 1,404
            (2011-01)
            コメント:めっちゃいい。おすすめ

            評価:
            フィリップ・ヤンシー
            いのちのことば社
            ¥ 2,592
            (2015-11-05)
            コメント:米国の事例付きで、今回のクリストファー・ライトさんの講演の主張を再検討するために有効であろう。蓋し名著。

            2016.10.10 Monday

            第6回日本伝道会議 クリストファー・ライトさん 第3回 講演記録

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              今回は、第6回日本伝道会議でのクリストファー・ライトさんの講演の3回目に参加したときの速記録から書き起こしてみたい。

               

              エレミヤ書29章から
              まず冒頭で、エレミヤ書29章1-14節が読み上げられた。

              【口語訳聖書】エレミヤ書
               
               29:1 これは預言者エレミヤがエルサレムから、かの捕え移された長老たち、およびネブカデネザルによってエルサレムからバビロンに捕え移された祭司と預言者ならびにすべての民に送った手紙に書きしるした言葉である。
               29:2 それはエコニヤ王と太后と宦官およびユダとエルサレムのつかさたち、および工匠と鍛冶とがエルサレムを去ってのちに書かれたものであって、
               29:3 エレミヤはその手紙をシャパンの子エラサおよびヒルキヤの子ゲマリヤの手によって送った。この人々はユダの王ゼデキヤがバビロンに行かせ、バビロンの王ネブカデネザルのもとにつかわしたものであった。その手紙には次のように書いてあった。
               29:4 「万軍の主、イスラエルの神は、すべて捕え移された者、すなわち、わたしがエルサレムから、バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
               29:5 あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
               29:6 妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。
               29:7 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
               29:8 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。
               29:9 それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる。
               29:10 主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。
               29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
               29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
               29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
               29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。


               昨日の講演(ミハ氏註 記録欠損の故公開できず・・・)で、福音を新しい見方で見ることをお話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解を新しい見方で見ることの大切さを述べた。昨日、福音を新しい見方で見ることを話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解の大切さを述べた。本日は、世界について話していきたい。すべての教会が、完全に福音をすべての世界にもたらすことについて考えていきたい。すべての世界にもたらすとはどういうことだろうか?また、聖書は世、或いは世界についてなんといっているか、ということを考えてみたい。

               

              相反する内容が含まれる聖書
              聖書の中には、相反する内容が含まれている。聖書の中で、世界は神を愛されたことが書かれている。イエスを介して、この世界を贖われたのである。キリストの内にあって、神はイエスによって神と私達とが和解がなされたのである。神は世界を愛されたが、一方で、この世界には、神に対する罪、反逆が存在する。その意味においてこの世界を愛してはならないのは当然である。良き創造としてのこの世界が有り、神に対する反逆の世界も、この世界の中に含まれている。この両面について、Missionとのかかわりで、考える必要があるだろう。


              ケープタウン宣言の中でも、この世界に関するいろいろな側面を書いている。例えば、他の宗教、貧しさ、悪がある世界、完全な世界など、世界のあり方、世界に対する視点について、様々な側面が書かれている。このことについて、アナロギア・グループ(ミハ氏註 要するに、より大きなグループで討論するためのグループみなたいなもの、ある種の公共圏と言ってもいいかもしれない)でも、コイノニア(ミハ氏註 一時的、ないし永続的につながっていくより小さな数人程度のグループ、フェイスブックでのグループみたいなもの 限られた人数での親密圏を伴った公共圏)でも、これから、世界の様々な側面について、継続的に対話してもらいたいと思っている。

               

              小さく弱く見える日本の教会と

              捕囚時代のイスラエルの相似性
              特に今回来日して講演を準備する中で思ったことは、以下の内容である。日本の教会は小さく、さらに力もなく、こんな日本の教会が、日々多くの深刻な問題が起こっている日本や社会、そして世界に対し、一体どのようにして仕えることができるのか、という問いを考えてきた。それは、ちょうど、ネブカデネザルによる捕囚の時のイスラエルの状態のようではないか、と考えた。彼らも同じような問いを持ったと言えよう。異教社会の中にある小さく力のない敗北者からなるミュニティで、文化的にも、宗教的にも少数者であったし、異教社会の中に置かれたのである。しかしながら、彼らはイスラエルであったし、あり続けた。


              彼らは、敵対的な偉大な文化や社会システムというバビロンの中で、イスラエルという神を信じる小さなコミュニティが生き延びえたのだろうか。エレミアはそれについて語ったし、いまだにそれが尚イスラエルとして受け継がれ語られているのではないか。

               

              エレミヤ書の引用からのポイント
              エレミヤ書の引用部分のポイントを見てみたい。神は我々を求めておられ、それは何よりも、人間がどのような状況に直面していようと、神の主権の中にあることである(1−4節 参照)。事実関係を考えてみると、ネブカデネザルはイエルサレムを攻撃を攻撃し、人々をバビロン捕囚し、イェルサレムを破壊、その結果として、病気や苦しみ、死があった。これは歴史的事実である。


              ところで、誰が、このような捕囚の責任者は誰だろうか?1節と4節はある種のコントラストを示している。第1節では、ネブカデネザルが捕囚をはじめたとされている。しかし、第4節では、神がイスラエルの民をバビロンにひかせていったとなっている。こうなると、イスラエルを捕囚の民とならせたのは、神なのだろうか、あるいは、ネブカデネザルなのだろうか。


              答えは両方である。これは、見方の次元あるいは視点の違いの問題である。その違いとは、人間のレベルで見るか、神のレベルで見るか、によるともいえるだろう。今、もし映画やテレビがあれば、ネブカデネザルの軍勢がイェルサレムに攻め込み、虐殺し、捕囚されていく様を放映したであろう。そんな状況であった。

               

              しかし、エレミヤは預言者であり、ネブガデネザルによる武力行使、実力行使を神の視点で見たといえるのではないか。イェルサレムは破壊され尽くしてしまい、イスラエルは敗北したとはいうものの、しかし、神は変わらず、その主権を持って神の王座にいまし給われたのである。その意味で、神がイスラエルをバビロンに導かれたといえるのだろう。この捕囚にも神の目的があったといえよう。


              エレミヤが捕囚で、偉大なる大民族の中で少数者として生きるというこの状況を非常にフレッシュな方法で表現していると言えよう。イスラエル人には、状況は希望のないものに見えたであったろうし、現実的にも絶望的だったろうし、エレミヤの手紙は、現状から見れば、逆方向に進んでいるような雰囲気に見えたことだろう。


              このエレミヤの手紙はエルサレムからバビロンへ送られたものであろう。ちょうどビデオの逆再生ボタンのような印象を与えるような手紙であった。バベルの塔からイエルサレムに向かっていく、というのが旧約聖書全体の流れと言えるだろうが、このエレミヤの手紙が書かれた時代は、イエルサレムからバベルに向かっていくような状況の中であった。このような状況下、すなわちバビロン捕囚の中で、ヤーヴェの神の存在を見るのは困難で、神が何をしているのか見出すのは現実的には極めて困難であったであろう。今このバビロン捕囚時代に神が何をしておられたのかを現代から見ることはできるが、現場にいる人はこのような見方は当然理解できなかったろう。

               

              共産化中国とキリスト教
              1950年のころ私が、4歳のことを覚えている。中国において、共産党が宣教師達を国外に次々と追いだしはじめた。そのときのショックを未だに覚えていて、大人たちが中国で何が起きているのだろうか、これからどうなるのだろうかと大人たちが心配していたことを覚えている。世界で最大の国で、世界中で最大の宣教師数がいた国で何が起きているのだろうか、残されたキリスト者たちはどうなるのだろうか、神が何をしておられるのだろうか、と当時大人たちが心配していた。たしかに、その時期の中国本土でのキリスト教徒は少数派で、弱い存在であったということを思ったかもしれないが、60年たってみると、中国の教会で毎週日曜日に礼拝している人々がいる。それは、神がこの世界の中で、主権を握っておられ、今も尚、生きておられることが如実に示されるのではないだろうか。中国で1950年台に起きた迫害の現場で、今日の姿を思うのは困難であっただろう。


              これは、今もなお、中東で起きていることであろう。現在、シリアで大きな困難が起きている。2000年間存続したキリスト教共同体が崩壊しかけていて、シリアからキリスト教共同体が追い出されようとしている。レバノンのアラブ人のクリスチャンに聞いたはなしでは、シリアからイスラム教徒が流れてきており、そのイスラム教徒の人々をレバノンのクリスチャンたちは受け入れ、ケアしている。そして、イスラム教徒として到着したシリア人の人々のうち、多くの人がイエスを信じている。とは言え、悲惨があり、イエスを信じている人がいるから、といって、現状は非常に良い状況であるとは言えないだろう。

               

              歴史において主権を持っておられる神
              人間の悪のはびこるこの世界のただなかにおいて、神は主権を持って立っているということは変わらない。日本において考慮しないといけないことは、日本のキリスト教は、非常に弱々しく、困難に直面しているこの状況の中で、更に、その社会に置かれたキリスト教会の中で、神が何をなしておられるのかに目が開かれていく必要があるだろう。社会的文化的人間的事実として世界をみるのではなくて、神のプランがどのようなものであるのかについて、見ていく必要があるだろう。


              なぜ、神は日本に教会におかれているのだろうか。16世紀に、なぜ、宣教師たちは、福音を携えてきたのだろうか。日本社会の中でキリスト教徒の比率が、1%にとどまっていても、何故、教会がこの国にあるのだろうか、と考えてみることは必要だろう。この国において、神の御手はどのように働いておられるのだろうか、最近の歴史の中で、痛みの中で、例えば、神戸の地震の中で、2011年の東日本大震災の中で、どのように働いておられるのだろうか、ということを考えてみたい。そのような中での教会は、まさにエルサレムの破壊と捕囚のような状態であったといえるであろう。そのような悲惨の中で、どのように神の主権があるのかということを考える必要がある。教会が神の働きをその悲惨のただなかで見ているのではないだろうか。それがエレミヤが示している第1のレッスンと言えるだろう。ある面、我々を励まし、我々の目を開き、宇宙の王座におられる神の御姿と力と主権を見させておられるのかもしれない。

               

              神の宣教と自己の環境のために祈ること
              神の宣教という視点から、自己の置かれた環境と自己の国と世界を見ることは極めて大事である。7節「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。を見て頂きたい。これは驚きを禁じえない箇所である。捕囚の時にこんなその町にとどまり、自分たちを支配するものへの平安を祈るということは誰も語りたくないだろろう。捕囚のときのイスラエルの人々は悲惨な敗者であり、捕虜状態にあったにも関わらず、主である私がひいて言った街の繁栄を主に祈れ、という命令は考えがたい。この、敵の繫栄のために祈れ、という部分に関しては、聖書の文言をバビロニアの人が書き換えたのであろう、と思うかもしれない。


              詩篇には、エルサレムの平和のために祈れ、それが祈るべきことであるとされているのにも関わらず、このエレミヤ書の中では、バビロンのために祈れ、とエレミアは預言していっている。

               

              詩篇137は、 バビロンの川辺で書かれた詩篇とされている。

              口語訳聖書 詩篇
               137:1 われらは/バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
               137:2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
               137:3 われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
               137:4 われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
               137:5 エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
               137:6 もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムを

                  わが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
               137:7 主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と

                  言ったことを覚えてください。
               137:8 破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
               137:9 あなたのみどりごを取って

                  岩になげうつ者はさいわいである。

               

               

              By the rivers of Babylon, painting by Gebhard Fugel, circa 1920 Wikipediaから

               

              自己を圧迫するもののために祈ること
              こちらの詩篇137篇のほうが普通に思えるだろう。しかし、それなのになぜバビロンのために祈るのだろうか。本来、神がバビロンへの反撃をなさるようにと、祈るのが普通だと思うであろう。それなのに、バビロンの繁栄、シャロームのために祈れ、と神はエレミヤを通じて預言され、神殿とイェルサレムの街を破壊したバビロンのために神は祈れといっておられるのだ。


              さらに、新約聖書の中で、イエスは、敵を愛せ、といっておられる。それは、神がアブラハムに与えたもうた祝福とその祝福のうちに示されたミッションを思い出せ、とおっしゃっておられるのではないか。つまり、神がアブラハムに対し、アブラハムによって地上の諸国民は祝福されるという約束をもたらされた。この地上の諸国民の中から、あなたの敵を取り除いて、そのうえであなたを祝福するとは言われなかったのではないだろうか。究極的にエレミアは、神の裁きの中にあることは知っていたが、バビロンに神の民がいるときには、神の民として生きなければならない、と預言したのである。それ故、彼らの的であるバビロンために祈らなければならないし、その敵のために祈ることが神の民に課せられたことであったのである。

               

              世界を祝福するアブラハムの子孫
              アブラハムへの約束は、神の民を通して、世界中に祝福を与えられるということであった。エレミアが語ったことは、ローマ書でパウロが語ったことと等しいだろう。パウロは高い地位の人々のために祈れといっているが、それは、キリスト教的な政府のことではない。あの当時は、キリスト教を圧迫していた異教徒の敵対していた人々のために祈れ、といっているのである。クリスチャンはローマ皇帝のために祈れ、といっている。さらに、ガラテヤ書の中で、よいわざをせよ、ともいっている。特に信仰の家族に対して良き業を励めと行っている。その意味で、教会の中で、互いの必要を満たす必要があるし、それ以上に世の人々に良きことをもたらしなさい、ともいっている。それは、どんな小さなコミュニティでも、それが実現できるだろう。

               

              たとえ、イスラエル人の信仰を基礎としたコミュニティが小さくても、それぞれ人々へのミッションがあったのである。バビロンにおいても、神のために祈ることができる。彼らを嘆き悲しむ捕囚の民から、神を指し示す宣教師に変えていったと言えよう。エレミヤ書29章は、ある面、神の民のミッションにかかわる内容であるとはいえる。

               

              世の中における教会の役割
              世における教会の役割とは何だろうか、と考えてみたい。これらについて、ケープタウンコミットメントは様々な視点から書いてある。福音を中心において、言葉による伝道と実際に善きことを世にもたらすことが両輪であることが示されている。ケープタウンコミットメントの28ページの1−7−Aを見てほしい。

               

              ここで、包括的宣教がふれられているが、以下の3つ宣教の領域があることを示している。


              1)教会をたてあげる(伝道と教育を通して教会を立てあげていく)こと
              2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること(エレミヤがいうように)
              3)被造物世界を正しく治めること

               

              1)教会をたてあげること

              1)教会を立てあげるに関しては、まさに、これが大宣教命令そのものであり、かなり、明らかな内容である。つまり、世界のすべての人を弟子とせよ、洗礼を授け、教えよといわれたのである。良き知らせを語りつつ、教会を立てあげ、そして信徒を教えはぐくむことにより成長させる事も大事であると言っておられるのではないだろうか。それがこの大宣教命令の根本的なところである。それは、キリストを信じたことの応答として起きるはずのことである。まず、この神から与えられたミッションを皆さんに果たしてほしいのである。特に信徒を育てることが大事である。救われることだけを目的とするのではなくて、育てるという側面に着目してほしい。そして、人々を助けることができるように、整えていくことが大事ではないだろうか。そして、その信徒を整えることができるように、指導者が整えられていく必要があるだろう。


              第1コリントのなかでパウロとアポロをとして表されている2つの役割がある。パウロが基礎を置き、アポロが整えていった。この二つの働きはじつは一つであるとも言っている。たしかにパウロは種をまいたが、アポロが整えていったとは言うものの成長させたのは神の働きであったことを示しているのではないだろうか。そのことに関して、今夜の講演では、神の宣教において、神学的教育の話をする(この講演は欠席しました)ので、よろしければお越しください。

               

              2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること
              愛とあわれみの御わざを通して世界に出ていくことが求められているのだ。単に言葉による宣教だけでは頭だけの信仰になるかも
              しれない。そして、知識として知るだけでなく、実践のことばとしてイエスは語っておられるのではないか。義に飢え渇くものは幸いである、また、神の国と義を求めよとイエスはおっしゃっておられるだろう。正義と憐れみと誠実さの大切さをイエスは言っておられるのである。

               

              愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えることにかんしては、イエスは弟子たちに向けて、あなた方は世の光とおっしゃったのである。それは、どのような意味だろうか。

               

              その意味するところは、福音を語り、人々の頭の中に光が届くようにしなさい、とい割れたのだろうか。もちろん、それも含まれていたろう。しかし、人々が神の民の良きわざを通して、光り輝くようにせよ、とも言われたのではないだろうか。そして、人々の生き方が神の民の良き技を見ることで人々が変わるようにしなさいと言われたのではないだろうか。イザヤ書の58章が念頭にあったろう。

               

              【口語訳聖書】イザヤ書
               58:1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。
               58:2 彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。
               58:3 彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。
               58:4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。
               58:5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。
               58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
               58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
               58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
               58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
               58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
               58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
               58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』

                 と呼ぶようになる。
               58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
               58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

               

              ここに紹介したイザヤ書58章8節では、暁の様にさし出るようになる、といっているのではないか。光と正義についてのべているが、世の光とは、このような光である、と言うことを預言されたのではないだろうか。


              イエスは、福音の故にイエスの御名で出ていくように、といわれたのである。ルカの書いたもの(ルカの福音書や使徒行伝)の中を見ていくと、人々は良き技が行われるのを見て、教会に集まり始めたことが記載されている。使徒行伝の11章をみると、飢餓の状況の中で伝道が行われたことが描かれているのを見ることができるだろう。そして、パウロはイェルサレムの教会から異邦人教会に贈り物をもたらすために行ったのではないだろうか。


              ガラテヤ2章10節では、貧しい人々をケアしようとしてたことが読み取れる。ガラテヤ書の2章において宣教と良き働きの両方ともに実施したといっている。1974年のローザンヌ宣言以来、宣教と良き働きの統合をしていくことを考えてきたといえるだろう。イエスを中心として、その両者を統合しようとしてきたといえるのではないだろうか。


              こう考える時に、私たちの国においてできることは相当数あるのではないだろうか。宣教は、宣教師だけのものでなく、イエスに属するすべてのものが実施できることである。それは、仕事場、農業、教育、医療、近所、放送の分野であれ、政治、経済の場であれ、福音と共に生きる。福音を生きる事が重要なのではないか。その意味で、キリスト者の性質をもって、世界に出ていくことが求められていると言えよう。生きている神の善き性質を持って世界の中に出ていく。なぜならば、キリスト者は、イエスを主であり神であると告白するものであるからである。教会の中での伝道と信徒を整える教育をもって、教会が社会に仕えることが求められるのではないか。

               

              3)被造物世界を正しく治めること
              大宣教命令において、主が被造物に関する主権を持っていることが指摘されている。被造物すべて、というものの言い方は、ヘブライ聖書駅なものの言い方である。その意味で、主はこの世界全体の地主のような方であり、我々は店子のような存在であると考えるのが良いのかもしれない。それ故、店子としての借りているものを善意無過失のものとして、問題が起きないように良い状態を保つようにする管理責任があるのではないか。良いケアをする責任があると言えるだろう。例えば、誰かを愛するなら、その愛する人のものは大事にするだろう。あるいは、友達のものを大事にしないと、友情はこわれてしまうだろう。


              イエス・キリストの十字架は和解のためであり、最終的に神とすべての被造物が贖われることが重要ではないか。ここで、ケープタウンコミットメントの1−7−Aを読んでみよう。


              日本のクリスチャン世界で、この両者にどのようにかかわわっていくかをぜひ考えてほしい。人類による破壊によって、非常に傷ついているこの世界は、もともと神のものであり、福音を聞いたことがない人々、また、様々な問題で傷ついた人々に神の福音、神が回復させようとされておられることを神は届けたいと願っておられるのではないか。福音と関わる世界は、非常に広い範囲Scopeを持っているのである。その意味で、神の主権という視点(光)において、自分の置かれている世界を見ていくべきではないか。

               

              死に絶えたかのようなイスラエル人を用い給うた神
              聖書テキストを見ると、当時のイスラエルの民は、捕囚で終わった、もう終わり、死んだも同然だと思ったであろう。イスラエルの民は、神の裁きのゆえにこれが起きたと思ったことであろう。エゼキエルは失望した状態にあったことを、渇いた骨の様に死んでいたと書いたのであり、もう墓の中状態であり、骨がばらばらの状態になっていると思っていたことを表現している。しかし、神は、彼らの目を開き神のみすがたを見せ、神の主権があることを示されたのである。たしかに、バビロンの時は来ていた。しかし、イスラエルは開放されることもしめされている。そして、イスラエル人には将来があることを示し、現在捕囚の民であり、虐げられた被害者の立場であるものが、ビジョンを持った生き方に転換できうることが示されているのである。


              11節において、あなた方についての計画を良く知っていると書かれている。神が繁栄させる約束、希望、将来に関する約束が描かれている。この聖書箇所は、好きな人が大変多いし、最も知られた聖書箇所であり、多くの人から愛された聖書箇所であるだろう。神の素晴らしい約束ではあるが、この言葉が描かれたコンテキストを皆さん方はお考えになったことはあるだろうか。

               

              長期間で取り組まれる神と近視眼的な我ら
              これらの言葉は、神の裁きの中にあった、捕囚の中にあった人々へのことばであり、奴隷状態にあった人々への言葉である。たしかに、非常に気分を良くさせるための言葉ではないのである。この言葉は、クイックフィックス(短期的な弥縫策)があると約束する言葉ではない。神が回復させるまでには、70年かかり、2世代以上回復までにはかかると神はおっしゃっているのである。長い時間をかけ、イスラエルの民の回復についてのヴィジョンをもっておられる神である。たとえ、長い時間がかかっても神は忘れることのない神であり、将来への希望を与えられる神である。エレミヤ書の時代の人々は神がなされた回復の御業を見なかった。しかし、子供、孫、ひ孫へとこの希望は、つながったいたのである。イスラエル人は、彼らの民の将来の希望を持って語ったのである。この回復と同じような回復が、世界中のすべての人にイスラエルを通して起きるのである。神は、アブラハムへの約束を決して忘れてはおられない。イスラエルの捕囚ということを通して、イスラエルに回復を与えようとされたのである。更には、アブラハムの末であるナザレのイエスを究極的に傷つけることで、神の民を回復させようとされたのであり、それをどう信じるかがこの世界にとって問われていくことになったのである。


              しなければならなかったことは、エレミヤ書の29章12-13節の部分である。

               29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
               29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
               29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

               

              この部分にあるように、神を呼び求めることを神はイスラエルに求めた。悔い改め、神のもとに戻ること、神の民族、神の民になることを神はイスラエルに望まれたのである。すなわち、モーセ5書にある、心を尽くして、力を尽くして、魂を尽くして、思いを尽くして神を求めることをのぞまれたし、そうすれば、神を見出すだろうと約束されているのである。


              このエレミヤの手紙が読まれるのを聞いた人はダニエルで少年だったころの時代に人々であろう。ダニエル書9章でエレミヤの手紙が読まれる記述があるが、そのころ、ここでいう70年が終わろうとしていた。バビロンが裁きを受けるということが起きようとしたときである。しかし、そのバビロンで、ダニエルたちは何をしたのだろうか。彼はひざまずいて、神のもとに戻って祈ったのである。


              いま我々が何をしないといけないのだろうか、それは、伝道の方法論や資源を考えるよりも、神への従順を考えることではないだろうか。そして、神の主権に対する思いを明らかにすることを考えてほしい。神のミッションにかかわっていく事、すなわち神の計画へのコミットメントをしてほしい。将来、神がその御名のゆえに、神が崇められるようにしてほしいと思う。


              感想

              時々思うことであるのだが、我々はあまりにマイオピックな(近視眼的な)物の見方をしながら生きているのだなぁ、とこのご講演を聞きながらも、改めて思った。100年とか200年単位や大きなスケールで物事を考えず、目に見える範囲のこと、この1年とか、この3年とか、といった感じでしかものを見ていないなぁ、と思った。そして、ミーちゃんはーちゃんが神への信頼の薄いものであることを思い起こされた。


              Most merciful God,

              we confess that we have sinned against you in thought, word, and deed,

              by what we have done, and by what we have left undone.

              そして、いまミーちゃんはーちゃんはアングリカン・コミュニオンに行くことが多くなり始めて、少しづつ変わり始めているけれども、結局かなり長い間、頭派のキリスト教、言葉で語ってなんぼ、言葉で”福音”と日本語で言われるところの内容を語ることだけがキリスト教、という概念のことだけをやっていたことに思い至った。


              この中で、どう地に平和をもたらし、囚われ人に開放を告げ、悲しむものに喜びをもたらし、神とともに生きていき、神とともに変容していく福音を生きることをどのようにもたらしていくのか、そして、山上の説教の中で、

              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
               5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
               5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
               5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
               5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
               5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
               5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
               5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
               5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

              ということを今一度考えさせられた。

               

              あと、このあとのコイノニアでミーちゃんはーちゃんが喋ったことを思い出してみながら書いてみると以下のようなものになろう。

              おそらくであるが、教会は、必要以上に教会に来た人を抱え込みすぎる傾向があるのではないか、ということを思う。とりあえず、困っている人がいると、(福音を語る対象として、という下心付きで)何でもかんでも際限なく抱え込みたがる傾向があるような気がするので、適当な境界線を設定しておくことが重要かもしれない。さらに、全部教会が抱えられないからと言って自分たちに対して失望する必要はないと思う。困っておられる方に対して、その他の方法、他の団体、行政を含む他の組織を指し示してあげられるポインターの役割、ソーシャル・キャピタル論で言う、ブリッジングの働きを果たすことも重要だと思う。

               

              また、教会はどちらかと言うと、一発逆転ホームランのようになんでも全部、完璧に片付けることを狙いすぎ、あまりに完璧を目指す傾向があるように思う。当たれば、非常に効果的であるが、当たらないと結局は失望してやる気が失せてしまうし、うまく行かなかったりして失望すると、全くやる気がなくなってしまう傾向があるように思う。多分、それが人情というものなのだが。それよりも、バントでいいから、小さい成功例をたくさん積み重ねていって、積み重ねていく方法論もあるのではないかなぁ、と思う。それは、ある面、期待値を小さくし、それでもそこそこの成功の満足感(これ、案外大事)を関与者が持てるようにすることが大事だと思う。その満足感がないと、継続的な運営のためには必要不可欠なのではないか、と思う。

               

              ところで、クリストファー・ライトさんの今回のこの話を聞きながら、以下の聖餐のときの祈祷文を思い出していた。

               

              Blessed are you,
              God of those who hunger and thirst,
              for you give us our food in due season.
              You nourish us with your word,
              which is the bread of life.
              You strengthen us with your Spirit,
              the new wine of your Kingdom.
              In Christ you are food for the hungry,
              refreshment for the weary.
              Blessed are you, our Creator and Redeemer.
              Blessed be God for ever.

               

              次回最終回に続く

               

               

               

               

               

               

              評価:
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              いのちのことば社
              ¥ 972
              (2012-04-05)
              コメント:ぜひ、お買い求めを

              評価:
              フィリップ・ヤンシー
              いのちのことば社
              ¥ 2,592
              (2015-11-05)
              コメント:キリスト者として、神の義を地に具体的にもたらすことを考えさせる本。蓋し名著

              2016.10.10 Monday

              今年もやりますN.T.ライトセミナー

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                えー、ここのところ、日本伝道会議関連の投稿のため、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の記事更新が滞っておりますが、今年の宗教改革記念日に、「いま、福音は」と題して、N.T.ライト・セミナーを御茶ノ水のOCCビル 4回の416室で絶賛実施する予定にしております。N.T.ライトに関しては、日本伝道会議でも、多くの参加者の方がお越しになり、関心も高まっております。

                 

                 

                平日開催なので、お出ましになりにくいかと思いますが(宗教改革記念日は国民の休日にならないかなぁ…)、ぜひともお出ましをば。

                 

                 

                 

                 

                メインスピーカーは、日本各地のさまざまな教会をご訪問しておられ、キリスト教界で関心高まる

                 

                『舟の右側』編集長 谷口 和一郎さん

                 

                パネルディスカッションの参加者は、高橋秀典さん × 谷口和一郎さん × 坂原健司さん と超豪華!!

                 

                ぜひご参加をば。

                 



                 

                2016.10.12 Wednesday

                第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第4回 講演記録

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                  さて、日本伝道会議の最終日の午前主題講演の4回目の速記録に基づきながら、多少は読みやすくしたものと、そこに参加したものとしての感想を書いてみたいと思う。

                   

                  ローマ書から
                  聖書箇所はローマ人への手紙14章1-3 ローマ15章1〜13節でした。

                  【口語訳聖書 ローマ書】
                   14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
                   14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
                   14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

                   

                   15:1 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
                   15:2 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
                   15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
                   15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
                   15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
                   15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
                   15:7 こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。
                   15:8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
                   15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、

                     「それゆえ、わたしは、異邦人の中で

                      あなたにさんびをささげ、

                      また、御名をほめ歌う」

                      と書いてあるとおりである。
                   15:10 また、こう言っている、

                     「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
                   15:11 また、

                     「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
                   15:12 またイザヤは言っている、

                     「エッサイの根から芽が出て、

                      異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。
                   15:13 どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

                   

                  これまでのまとめ
                  今日が最期の日になります。初日については、神によって目が開かれたエライジャのしもべとそのしもべが見た神の臨在のお話をしました。2日目は福音とは何かを考えました。 聖書全体から、スコープについて考えながら、神がなされたことを考えました。そして、昨日は世界について考えました。特にエレミヤ書からバビロンにおけるイスラエルの民の状態について触れ、偉大な国家の中の失意の中にある小さくなっていた人々に神の主権を伝えた手紙のことをおはなししました。そして、アブラハムを通して約束された国々の祝福とミッションについてお話したし、神が完全な約束をお与えになられたことをお話しました。

                   

                  福音が示される機会
                  今日は機会、オポチュニティについて考えてみたいと思います。


                  日本に来て、福島や熊本などでの震災などが神が新たな機会を与えているという非常に驚くべき話を聞いたのです。この機器の中で、教会の働きが見えるようになったのです。この災害の中で、フレッシュな見方と力が与えられ、福音の力が地において実際に起きていることを見られるようになったのではないでしょうか。福音が愛をもって、さらに、憐れみを伴って表され、力を体験するようになってきたのではないでしょうか。それでは、いま必要なことはどのようなことでしょうか?

                   

                  福音と協調行動と一体であること、一貫性
                  今日の聖書、ローマ書の部分からは、協調と一致Unityが重要であると教えられた。そして、希望とUnityの必要があることも、このローマ書の部分の中で書かれている。本日の聖書箇所はまた、希望と一体であること(Hope & Unity)について語っているのではないだろうか。希望(Hope)についてはここ数日間学んできたことであるし、絶望的な状況の中にあって希望を持つことについてであったこともお話した。また、それは真理と現実的で実際的な力についてでもあった。

                   

                  それでは、一体であることと協調(Unity & Cooperation)についてはどう考えればよいだろうか。聖書について、真剣に考えているとき、これらのことは起きるのではないだろうか。一体であること、あるいは一致をもって、協調ないし協力(Cooperation)しなければ何が起きるのだろうか。 それは福音の一貫性、或いは、そのものらしさ、整合性(Integrity)が脅かされ兼ねない。キリスト者の生き方が整合性があるもの Ingegrity となるためローマの最終まとめの部分で、パウロはそのことについて触れている。この整合的であること、一貫性が取れていることIngetrityは、どの世界の人々にとっても重要でもあるが、ここでは大切な事柄である都市適している。そのため、この一貫性があること、つまり、言行不一致でないことでもある整合性Integrityについて今日、考えていきたい。

                   

                  全地中海世界に福音を伝えようとしたパウロ
                  聖書がどういうコンテキストで言われているのかを考えないといけない。パウロはこの書を口述筆記をしていたが、この時点は、彼の宣教師(Missionary)としてのミニストリの転換点でもあった。15章でそれに言及しており、19節からそれを言っている。19節で、エルサレムから始まって、世界中にくまなく伝えたといっている。これは、現在の地中海世界の東半分に伝えたということであり、現在のトルコ、アルバニア、ギリシア地方で伝道したことを示している。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ書】
                   15:18 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
                   15:19 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

                   

                  パウロは、これまで福音を伝えてきた地域(地中海世界の東側)において、その働きがすでに終わったものと感じた。もう、この地域で伝えることはない、と思ったことが、23節に示されていて、イスパニア(スペイン)という語にもあるように、パウロは地中海の西部、すなわち地中海の果てに向かっていたといえる。23〜24節でスペインに行くつもりで、ローマに立ち寄る予定であることが書かれている。その意味で、この手紙は宣教のストラテジーを考える中で書かれた手紙であるといえる。その意味で、西地中海に向かう途中の段階で書いたと考えられるだろう。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ書】
                   15:23 しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、――
                   15:24 その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

                   

                  ローマ教会をベースとして、そこを中心として地中海の西側への宣教のための送り出し教会としようと考えていたようである。その意味で考えてみれば、アンティオキア教会は東半分の送り出し教会として考えていたことがわかるかもしれない。このような伝道の拠点としてのローマが、彼の伝導におけるストラテジーにとって、合致したものであり、そのような伝道を行う際の希望を書いたものであるとも言えよう。

                   

                  ローマ教会の分裂と和解(Reconciliation)
                  このような彼の計画の中で、ローマの教会は分裂してたことを知っていたし、教会のユニティ、一つにされたものの中であっても、
                  ユダヤ人と異邦人の間の分裂があったことは十分承知していた。実際、パウロは宣教が宣教に取り組んでいるその中で、この問題に直面した。それが、ローマ書、ガラテヤ書などにも現われており、下手をすると、宣教に悪影響をもたらしかねないほどの問題でもあった。和解を福音として語らなければならないのに、それができない状態にローマの教会があったことが読み取れるだろう。

                   

                  ローマの使徒たちに、あなたがたは、キリストにあって和解したものではないか、とパウロは言いたかったのであろう。そうであるのに、スペインでキリストにあっての神との和解と人々との和解を語りたかったのに、ローマの教会の状態はそれを言える状態になかったと言える。その意味で、福音の真理が脅威に直面した状態出会ったといえるだろう。さらに言えば、クリスチャンが和解のうちに生きていないなら、福音を生きていることにならないのではないだろうか。


                  福音のインテグリティ統合性、裏腹ななさが危険にさらされていたとも言えるだろう。さらに言えば、パウロの宣教のインテグリティが危機にさらされていたということにもなろう。神にあるユニティをイスパニアに輸出しようとしているのに、分裂を輸出することになりかねない状態でもあったといえるかもしれない。


                  日本には140ほどの教派教団が存在する、と聞いている。しかし、それは残念なことに、送りだしてきた外国の教会でもその分裂が反映されたものになってしまって居て、今の現状となっているのではないだろうか。統合的な一体となった教会(United Church)として送り出せれば、United Churchが宣教先でも起きるはずであったのだろうけれども。


                  このローマ書の手紙のクライマックスに当たる本日紹介した部分で、一体となっていること(Unity)と和解の生き方をパウロはローマの教会の聖徒たちに訴えている。それによって福音の真理性がわかるのではないか、といっているかのようだ。このような一体となっていることと和解の生き方こそが異邦人に対する宣教の唯一の方法であり、また、それこそがローマ教会の人々が神の希望に満たされて生きる方法であったと主張しているかのようだ。

                   


                  この伝道会議の結果として、神が建てられた指導者が真剣に宣教をとらえて、世界に出ていくとしたら、神の機会に対して真剣に従おうとしようとするなら、このパウロが書いたローマの手紙のこの部分の主張を見ることが必要になるだろう。それは教義学的な事柄ではな胃だろう。もちろん、正しい神学を学ぶことも大事だが、実践的なことが指摘されているローマ書の12-15章を真剣に考えるべきではないだろうか。福音に従い、神に従って生きることが大事なことであると、パウロは指摘しているだろうし、特に、この所管のクライマックスであるローマ書の14章から15章が大事であるといえよう。

                   

                  ヴィジョンを持つべき3つのこと
                  これから見るべき3つのことを一緒に見ていきたい。
                  1)福音が創造したものを見ること
                  2)福音が要求していることを見ること
                  3)福音が導く場所を見ること

                  (ミハ氏註 この見ることは、今回のテーマReVisionと掛詞になっている)


                  このようなことを12章から15章を通して見いださないと、意味がないかも知れない。

                   

                  福音が想像したもの、すなわち

                  神が建てようとしている多様な人からなるコミュニティ

                  パウロが言おうとしていることは、教会を神のマルチナショナルコミュニティとして作ろうとしているということではないだろうか。


                  そもそも、神に対する罪とそのもたらす問題をパウロはローマ書1-2章で論じている。つまり、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと関係なく、とパウロは言っている。すなわち、人はすべからく罪を犯しおり、神の前にこの罪という問題があることを指摘している。パウロはユダヤ人の神について、語っており、神はアブラハムを通して、すべての民は祝福をされるということ、その民の祝福はイエスを通して起きていることを語っている。つまり、イエスを通して、永遠のいのち、神の義、祝福があることが語られている。


                  パウロは神のミッションとは、すべての人々、国々に伝え、神の平和を伝えようとしている。アブラハムの模範に従う。神を信じ神に従った。それが起きているとパウロは言っている。アブラハムはすべての国民の父であり、それが実現しているといっているのではないだろうか。


                  また、エペソ書2章では、ユダヤ人と異邦人の差がないといっているのであり、神は、キリストにあって、一つのヒューマニティとしたことが記されており、世界に新たなる人がつくられた、とも言っているのだ。
                  ガラテヤ書では、もしイエスを信じるなら、アブラハムの民の中に入っていくといっている。ガラテヤ書3章26-29を見てみたい。

                   

                  【口語訳聖書 ガラテヤ書】
                   3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
                   3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
                   3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
                   3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

                   

                  つまり、キリストイエスによって神の子供となり、キリストをその身に着るようになったのであり、男も女も、ユダヤ人も異邦人もすべての人は、キリストイエスにあって一つであると主張しているし、キリストのものであれば、アブラハムの子孫であるとも主張している。つまり、福音がこのことを成し遂げたといっているのではないだろうか。つまり、和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人であること(New United Reconcile Humanity)といっているのではないだろうか。


                  日本でも、キリスト者は、この和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人に属しているということであろう。それは、多数の教派があってもそれはある面関係ないことなのではないか。これが我々の生きるべきStoryであるのではないだろうか。我々の神への信頼(Faith)、福音の故にそのような民とされたことをを覚えていないといけないではないだろうか。

                   

                  Reconcileされたキリスト者たち
                  神の物語のただなかにいて、われわれは、その神の物語の一部になっていることを覚えていない。アブラハムにおける人々は罪人ではあるが、神と和解させられ、もともとあった形とに戻った(Reconcile)、神によって和解しもう一度一致させられた(Reconcile)人々であり、相互にReconcileされた人々であったのである。

                   

                  パウロはこの主張、テーマをローマ書、エペソ書において、展開している。そのReconcileということが、神が造られたものはどのようなものか、ということでもあり、福音がつくったものが何かということを言っている。さらには、ローマ書14-15章では、神が要求していることは何か、ということを述べているのである。つまり、キリストを受け入れたものは、キリスト受け入れたものを受け入れるということである。ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、そのような差別に関係なく、受け入れ、受け止め、一体となる(Embracement)しないといけないであろう。それをパウロは言ったのである。

                   

                  強い人としてのローマ人、弱い人としてのユダヤ人
                  例えば、ローマ書の15章の1節に、強い人、弱い人ということが書かれているが、この強い人、あるいは、力ある人は、異邦人のことであり、ローマ人を指してその人々について言ったのである。また、弱い人とは、ユダヤ的な人々について言った。ある面、ローマ人は支配者であり、それ故、ユダヤの民を見くだしていたのである。


                  弱い人ということについてであるが、身体的に弱いというよりは、あるいは、信仰が弱いということではなくて、保守的(コンサバティブ)で、いろんな気遣いをした人人のことである。より正確に言うと、旧約聖書の食事規定のことである。さらに言えば、当時のローマの食肉文化の一端でもあった偶像に捧げられた肉を食することを忌避したのであり、それが故に、彼らは野菜だけを食べていたのである。(ミハ氏註 ダニエルみたいだなぁ、と思った。それと、ローマの肉は、おそらく、モーセ5書に規定されたヘブライ的な食肉処理規定に従った血抜きがされていないので、血による穢れを忌避するヘブライ聖書的理解には相反したから、食べられなかったといえるだろう。現在のムスリムのかなりの部分やユダヤのウルトラ保守派もこの種のことに極めて厳格な部分がある)。また、さらに、安息日を守ることにも触れている。安息日規定は、極めて重要であり、彼らはい今日のローマ社会の中にあって、徹底的にヘブライ聖書による立法規定の一つでもある安息日規定を守った。これは、彼らのユダヤ人としてのアイデンティティとつながっていたと言えよう。その中で最も大事にされたものが、安息日規定と食事規定出会ったと言えよう。

                   

                  それが異邦人キリスト者には理解できなかったようだし、その規定を守る必要はなく、もっと自由に行動してよいのだと思っていたが、もっとそのような制約は関係ないのだ、と思っていたのではないだろうか。自由に行動できるから強いのだ、と思っていたろうし、実際に当時の世界のリーダー的役割を果たしているからこそ、自分たちこそが主導権を握るリーダーであると思っていたとも言えるだろう。(ミハ氏註 なんか、アメリカ人みたいだなぁ。たしかに、自分たちはローマの正当な子孫であるという思い込みと言うか、ロマンがアメリカ人にないわけではない。なお、ロシアはロシアで、自分たちこそ、ローマの正当な子孫であると思っているみたいではあるが)

                   

                  ローマ人たちは、彼らは自由に生きるのだ、と思っていたので、ユダヤ人との間に一致がなかった(ミハ氏註 なんで、劣ったヘブライの民、自分たちから支配を受けている民の律法なぞ、守る必要があろうと思っていたとは思う)。これは小さい事ではない。これは、文化的な違いをどう考えるかということでもあり、神学的には重要なことでもあった。そして、パウロは、重要ではないことことに重きを置かないようにと勧めている。パウロは、クリスチャンでもある点において意見の一致ができないことは十分知っていたし、異なる意見が併存することも知っていたであろう。すべてのことについて、同じであれ、とは言っていないことに注目すべきであろう。しかし、様々なことに関しての意見が違いがあっても、キリストにあって、異なる見解を持つ他者を受け入れ合うべきだ、ということを主張されていたのである。


                  ローマ書の14章1節は、信仰の弱い人を受け入れよといっている。それは、キリストもその進行の弱い人を受け入れたともいっている。また、神に対しての信仰を持つ人々の相互受け入れをどう考えるかについては、ローマ書の14章3節で語っている。それは、食事規定の故に、他者をあなどってはいけないし、その食事規定の故に、他者にたいして軽々に判断を下し、自己と違うものと判定(Judge)してはならない、といっているだろうユダヤ人は、食事規定と安息日規定を守っていることについて、ローマ人はそれを馬鹿にしてからかっていたのであろう。パウロは、ここで、他者を哄笑してはならんといっているのであり、他のクリスチャンをそんな扱いしてはならんといっているのである。


                  逆に、それよりもよい神との関係のあり方を守る(Good Morarity)を持っていない人々でもあるということで、ユダヤ人は異邦人を否定しようとした傾向もあったであろうし、他のクリスチャンたちを見くだしたりしていた部分もあるだろう。その意味で、他のクリスチャンを勝手に気軽に判断し、自己と違うものと軽々に判定(Judge)してはいかんのだ、ということを言っているのであろう。そして、ユダヤ人キリスト者も、キリストが他の民族の人々を受け入れたように、他のキリスト者を受け入れよといっている。
                  誰かを拒否するなら、見下すなら、裁いたり、軽蔑したりするならば、それは非常にまずいことで、神はユダヤ人を受け入れたとは言うものの、他の民族は受け入れないと、何故、神でない我々が言えるのだろうか。

                   

                  福音が要求していること

                  互いに受け入れ合うこと
                  互いに受け入れよ、とここでパウロ言っているが、なぜ、そうするのだろうか。個々に見るように、パウロは、必死に何度も何度も相互に受け入れることについて、書いている。なぜ、受け入れあうべきであるのかの3つの理由があるだろう。


                  1)我らは神に従うものである

                  ローマ書14章1-2節で、神の僕(しもべ)であるキリスト者はお互いに非難しあうことができないとも言っている。なぜ避難し合ったり、難癖をつけ合ったりしてはいけないかというと、それは、同じ主人である神で有る主にともに仕えているものであるからである。同じ神である主の僕(しもべ)であるなら、主のしもべである他者を批判することはできないだろう。なぜならば、神である主が支配者であり、まずもっと神である主に関心を向けるべきであり、さらに、神に向かっていくということを主張しているのであり、何ごとでも、主のために生きておられる神の御前でもまず我らは生きることをが重要であって、他の人がどのようであろうと、他のしもべが生きる生き方はどちらでもいい最重要課題ではないことではないか、と言っているのではないだろうか。

                   

                  また、15章の10節で主張しているのは、あなた方、他の人もそうであるが、なぜ、互いにさばき合う(Condemn だめだと決めつけることをする)のか。いずれ、我らは、神の裁き座の前に立つようになるのだ。今、避難し、だめだと決めつけようとしていることが神の裁きの場で問題になるのだろうか。

                   

                  多くの教派があるが、ペンテコステ派でも、派手な礼拝をするグループでも、改革派でも、保守的な礼拝でもそれぞれははたして問題になるのだろうか。楽器の種類に関しても、オルガンやピアノまではOKで、それ以外の楽器を用いることがNGということで、それが裁きの場で、問題になるのだろうか。あるいは前千年主義だからだめだというのだろうか。それとも、既に千年王国が起きたと考える人もあるが、これらの概念が裁きの聖座の前で関係するのだろうか。それが問題にならないのに、なぜ、それらのごく小さな違いを、過大評価して、互いにさばき合胃、だめだと決めつけようとするのだろうか。このことを念頭に置けば、無益な議論は無くなるかも知れないではないか。であるのに、なぜ、互いに噛みつき合ったり、いがみ合ったりするのだろうか。

                   

                  2)愛による行動のゆえに
                  コリント第1第8章の内容とかさなるのであるが、食事規定とのかかわりで考えてみたい。クリスチャンは律法における食事規定について自由にしているのは、そのとおりだが、自由にしているからと言って、他人を脅かしたり攻撃したりする(Offend)自由はないのである。コリント人の手紙では、罪を犯すなら、キリストに対して罪を犯すことになることが触れられている。そして、それは互いに愛し合うというイエス・キリストの基本的な提示に反するのであり、その互いに愛し合うこと、それがイエスの最後の命令の一つではなかっただのだろうか。


                  愛試合なさいという指示に対して、罪を犯すのは問題である。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ書】
                   14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
                   14:20 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。
                   14:21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

                   

                  この19節で平和に役立つことを追い求めよう、という表現があるが、パウロがここで使っている言葉は非常に厳しい言葉である。すべての徳を高めることを追い求める努力をせよといっている。そして、平和のために働けといっているのである。


                  なお、このことばは、当時のローマの教会に向けられたばかりではなく、あなたとあなたの教会はどうか、を聞かれている。愛することが、教会を立てあげるというミッションにおいて貫ら抜かれているのか、が問われているのだ。ある面、ケープタウン宣言で言っていることは愛を追い求めていくことであると言われている。

                   

                  ここで、ケープタウン宣言のp35-37に記載されている1ー9のところを読んでもらいたい。(本文は省略)

                   

                  3)キリストのゆえに、キリストに倣うもの故に
                  ここで言われているのは、神の民のしもべとなり、互い愛しあうこと、そして行動せよ。そして、キリストに倣うことがを指摘しているのである。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ書 】
                   15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。

                   

                  パウロは、イエスと同じ心、同じ行動せよといっているのではないか。そして、自分自身や他者を喜ばせるような生き方をすべきでないとも言っている。ここで、パウロは詩篇69篇からの引用していることが、興味深い。なぜなら、不正義な人からの不愉快な経験から、不正義や攻撃の中で書かれた詩篇と思われるからである。それは、キリストの経験と同じような経験であったであろう。この詩篇記者は、神の裁きを求めているが、しかし、イエスは神の許しを願っている。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ書 】
                   15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、

                   15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

                  5節では、同じ律法とイエスに似た態度をもて、といってパウロは書いている。もし、キリストのモデルに従うのであれば、キリストとおなじ行動をするなら、おなじ一つの声で歌うことになり、一つの歌を歌うことで、神に栄光をもたらすことができるのだ。この5及び6節は非常にポジティブな態度であることを勧めている。

                   

                  もしキリストの模範に従わなければ、なにが起きるのだろうか。互いに協力しあわないならば、キリストの心を持っていないことになるのではないか。同じ歌を歌わないないならば、相手の人々愚弄(Mock)していることになるのではないだろうか。

                   

                  福音が導こうとしたもの、すなわち

                  神のみもとにすべての国民が戻ること
                  福音がどういうことを成し遂げたかをもう一度考えて見たい。そして福音に属しているものを見たいのである。それはすなわち、神が求めておられるものを見たいということでもあるのだ。神はキリスト者の一致と協力関係を求めているのではないだろうか。パウロがしているような形で講演を終わりたい。

                   

                  【口語訳聖書 ローマ】
                   15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
                     「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
                      あなたにさんびをささげ、
                      また、御名をほめ歌う」
                     と書いてあるとおりである。
                   15:10 また、こう言っている、
                     「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
                   15:11 また、
                     「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
                   15:12 またイザヤは言っている、
                     「エッサイの根から芽が出て、
                      異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。

                   


                  この9-12節での指摘は、どこに福音が私たちを導くのか考える上で極めて重要である。この部分は、何かをすること(Business)のことでは決してない。この部分は、Missionalであるための理由ガキされていると思うのである。そして、この部分がクライマックスである。福音は、旧約預言の成就である。(ミハ氏註 スコット・マクナイトの『福音の再発見』の冒頭部分みたいである)


                  救い主は、イスラエルと、他の民族を神のもとに戻す存在であり、キリストは多くのための犠牲になられた方である。キリストは神の僕(しもべ)としてこの地にきて、そのように死慣れたお方である。父祖たちの約束を実現するため、この地に来られ、イスラエルの僕でもあったが、すべての人の僕となられ、アブラハムの約束の実現された方である。全ての国民が神のもとに戻ることのためにこの地に来られたのである。それがイエスのミッションであった。


                  そして、パウロは、そのミッションを思い起こしなさい、そのイエスのミッションは極めて重要なものであると言っているのではないだろうか。ここでは、聖書の4カ所から引用している。四回も聖書を引用して主張しているのであれば、それは、重要なことではないだろうか。


                  この部分での四つの引用は異邦人が共通項である。預言、律法、詩篇からいんようされているが、全部の中身が、ユダヤ人を通して神のもとにすべての国民が戻るという約束が触れられているのだ。それこそが復活の日に起きることであり、その日、すべての国民が神のもとに戻ることにあるだろう。ルカ24章はそのようなことに関して書かれているし、今週、そういうことについて、学んだのである。


                  旧約聖書のメッセージとはなんであったか 

                  旧約聖書のメッセージ、キリストが来られる、そして、苦しみ、その後、復活する。その十字架と復活を通して、すべての国民に悔い改めと和解が語られ、すべての国民が神のもとに戻っていくるということであったし、これを人々に伝えることが大事であろう。スペインまで行けたかどうかはわからないが、そのスペイン行きにあたってローマ書がパウロによって書かれたのである。その異邦人の回復の故に神にイエスはご自身をささげられたのである。その結果、許し合い、和解し調和(Reconcile)して、相互に受け入れ合うこと(Embrace)することを神は求めておられるのである。


                  パレスティナのクリスチャンに招かれ、そこを訪れたとき時、メシアニック・ジューの方がいたが、この会議の参加者の中に居られた事があった。その会議の中で、ナディーブというパレスティナ人のクリスチャンも居られた。イスラエルが国家として建設した壁でお互いに分離されていることが、いかにひどいことかと言う話をしたことがあった。ちょうどイスラエルが国家として建設した壁の両側にいる分離された状態は、それはここで読んだ、ローマの協会における分離と同様であり、また、ユダヤ人とギリシア人の分離と類似関係にある。


                  サタンは、我々に合うようにいろいろなものをカスタマイズしていく声質を持つものであるが、しかし、神は、我々を神のかたちとして神と一致するようにカスタマイズしたいというご希望をお持ちなのではないだろうか。先に紹介したように、イスラエルとパレスティナのユダヤ人が一致をもたらしえたとするなら、日本においてできないはずはないのではないだろうか。パウロはスペインに行きたかったが、その前にパウロは、ローマの霊的な状態を整えたかったといえるだろう。

                   

                  神のもとに戻る機会が日本でも
                  日本でも、そのような機会(Oppotunity)があるだろう。悔い改めと和解と、互いを受け入れることをし、そして、協力が起きることを期待したい。そして、それは、今この場所でのコイノニアでも起きているだろう。アナロギアとかプロジェクトでもこれから起きるだろう。そして、これからの7年の内に起きることを期待したい。そのなかで、ミッションにおける一致と協力関係がうまれていくことを期待したい。そして、神のHopeがこの様ざなな人々からなるグループの中にあるだろうし、神の霊の力によってのぞみがあるように祈ります。

                   

                  個人的な感想

                  このあたりのおはなしをきいていたときに基本的に頭にあったのは、ヘンリ・ナウエンのHere and Now『今ここに生きる』(あめんどう刊)に出てくる車軸の話を思い出していた。車軸に向かってスポークが車輪から伸びるように、車輪の一部から、まず見るべきものは、車軸の中心部であること、そして、車輪がスポークでつながってないと、車軸にもつながれないこと、などなどのメタファーが浮かんで仕方がなかった。

                   

                   

                   

                  それと、日本の伝道が教団単位というよりは、米国の教団本部からの支援で当初運営されてきたこともあり、新島襄の時代ではないけれど、その米国本部とか、日本に海外からやってきた伝道師達の意向を無視できない状態のまま今日のキリスト教界の状態になっているのであるし、また、聖書無誤論だとか、福音派の一部の方々が、他の一部のキリスト教の教会群とそこの人々にリベラル派といってラベルを張って、その方々の行き過ぎばかりにあまりに目を向けてしまったあまり、対話の口すら失ってしまって、今に至っているなぁ、という気がする。

                   

                  福音派内でのイベントとしての伝道会議

                  その意味で、今回、伝道会議と言いつつ、正教会系の人々もはもちろん、カトリック教会、日本基督教団などなどと思われる方の参加はなかったのは、残念であり、ある面、福音派的な人々の同窓会と言った雰囲気であった感じがする。神戸は、実際面で、様々な教派の間のつながりが日常的にあったはずなのに、今回はそれをあまり活かしきれていなかったのは、どうだったのかなぁ、と思う。

                  ご尽力された人々への感謝
                  とは言え、この準備に携わった神学校の関係の先生方の大変なご苦労、連日連夜の青谷詣を始めとして、非常に大きな負担を追ってくださったのは、傍目に見てて、気の毒なほどであったことをここに記して、深甚なる衷心からの感謝の意を評しておきたい。まぁ、そこまで広げると、収集のつけようもなかったろうし、カオス状態になったと思う。
                  また、このイベントのために、声をからし、腰を痛め、背中を痛め、汗を書いた関西の神学校と呼ばれる学生の皆様にも、感謝の意を評したい。
                  なお、割と早く、この記録を読まれたい、文字でまとめて読みたいとおっしゃるご友人の方のために通常記事に優先してこの記事を着したが、あと1月もすれば、CGNTVで動画で見ることができるはずである。
                  記録は極力最新にメモしたつもりだが、充分でないことも重々ミーちゃんはーちゃんとしては承知している。記録中にMS-IMEの調子が悪くなり、変換文字数が、3文字程度しか表示されない、御動作をする、勝手にアップデートが始まる等々という中での記録であったりしているので、その点はご容赦いただきたい。

                   

                  日本伝道会議に関する記録は以上で終わりである。御清覧を感謝したい。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  評価:
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                  いのちのことば社
                  ---
                  (2012-04-05)
                  コメント:必読書でしょう。

                  評価:
                  H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
                  あめんどう
                  ¥ 1,944
                  (1997-09-20)
                  コメント:大変大事なことが書いてあります。

                  評価:
                  ジャン・バニエ
                  あめんどう
                  ---
                  (2010-08-20)
                  コメント:社会とともに神の平和をもたらすことに関する入門書的存在。

                  2016.10.15 Saturday

                  京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編)

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                    今日は、先週、京都精華大学で行われた中田考さんの講演会のときの速記録をもとに、その公園結果を可能な限り、再現してみようかと。本当は、ペルシャ語専攻の息子殿と行く予定だったのですが、ボランティア先でやんごとなき事情が出たらしく、結局奥さんと二人で行くことに。スクールバスがあるとのことだったのだが、叡山電鉄は乗ったことがない(用事がなかった)ので、出町柳から叡山電鉄で、京都精華大学までいくことになった。なお、三橋はマイルド鉄ちゃんとも呼べないほどの人間である。

                     

                    可愛らしい叡山電鉄に乗って

                    なんと1両のワンマン電車・・・奥様テンション上がりまくり。私、びっくり。電車に乗って、京都の北西方向に進むと岩倉という地名が・・・おお、あの岩倉卿が蟄居召されておられた岩倉じゃございませんか。昔、500円札のおじさんだった。



                    可愛い叡電 復古型361(これだけで動いてた)

                     

                     

                    内部は、阪急電車そっくりw

                     

                    岩倉具視さん(500円札バージョン)

                     

                    学内向けのポスター(食道前)

                     

                    さすが芸術系学部があるだけのことは、実にわかりやすいビラ。

                     

                    以上京都精華大学構内で。

                     

                     

                    最初、マリ出身の学部長さんからのご紹介が軽くあり、どうもこのアセンブリーアワーというのは、この京都精華大学の見学依頼の伝統でもあるらしく、その講師として時代のカッティングエッジな人達を呼んできているというようなかんたんな紹介があったあと、講演者の中田考さんのご登壇であった。

                     

                    のっけから、自分が書いたレジメをもってこない、中田さんであったがある面、それが中田さんなんだなぁ、と思った。ご自身で、自分はマイクの使い方は下手なので、聞こえなかったら言ってほしい。聞いてもらうことが大事なので、それには最大限配慮したい、ということであった。

                     

                    また、レジメを配っているがこれは、メモ程度であり、これに関わりなく思ったことを喋りたいとおもいます。(ミハ氏註 なんてイスラム的なんだ)。1時間位喋るので、終わってから積極的にフロアからの質疑応答をしてみたい。


                    中田氏の研究のバックグラウンド
                    多くの人にとって、ムスリム=イスラムという認識があるだろうし、それは喫緊の現代的な課題の一つでもある。。私は東大のイスラム学科で勉強。思想系(文学部哲学とか、インド哲学、宗教史学の研究 思想を勉強するしてきたが、私の専門は、イスラム神学やイスラム法学などである。

                     

                    イスラム国のこと
                    イスラム国の事から始めたい。イスラムとか、イスラムとなんとかと言った類の本が出ているが、案外本を書いている人で、イスラム学そのものをやっている人はすくなくて、歴史学の先生や国際関係論の関係者の人が多い。その意味で、イスラム思想を真面目にやった人は居ないので、どうしても見方が偏っているところはある。

                     

                    日本の宗教シーンとイスラムの宗教シーンの違い

                    ところで、現在、イスラムに興味を持つ人は多いが、イスラムについて興味を持っているのか、ムスリムに興味があるのか、わからないまま、議論がされている傾向があるだろう。現実に実際的な問題が生じるのは、ほぼ、イスラム教徒との間であり、多くの人にとって、ムスリムと付き合っていくことで知りたいことがある人が多いのではないだろうか。

                     

                    ところで、日本人の多くは仏教徒とか神道の氏子とか、基本自己申告でカウントされているので、その信徒数を合わせると、日本の国民の総数を遥か超えるし、仏教や神道などの信仰を持っている人がそれぞれ、何人いるかはっきりしないという現状がある。また、仏教徒であると言っても、本当に仏教に詳しい人は、それほどは少ないだろう。パーリ語とか、サンスクリット語で仏教典を読んで、仏教典について議論できる人はほとんど居ないのではないだろうか。

                     

                    ところで、タイやミャンマーの上座部仏教は、生活の中で生きている仏教であるが、日本では、仏教とその思想が生活の中で生きていない事が多いだろう。その意味で、仏教徒でも、仏教がわからない人が多いのではないだろうか。しかし、ムスリムは生きていて、イスラム教は生活の中で生きている存在なのだといっていいだろう。


                    今話題になることが多いイスラム国というものができているが、それは、そういう名前の国が新たにできたということであり、そこに行ってきた日本人は2〜3人しかいないだろうし、私はその一人である。そもそも、イスラム国は出入り禁止であるので、イスラム国から来る人は居ない。でも何かあるとあなたはイスラム国から来たの、と日本人は多くのイスラム教徒に聞く事が多いのではないだろうか。

                     

                    では、信仰としてのイスラム教に生きている人で、イスラム国と自らを名乗っていない国や地域は、イスラム教国ではないかと言われると、それは確かにある意味当たっていて、イスラム教徒が多くいる国から来ている人はたくさんいることは確かではある。日本から近いイスラム教徒の多い国には、マレーシアとか、インドネシアがあり、たしかにマレーシアでは、憲法的にイスラム教国であると宣言しているが、これはイスラム国そのものではない。


                    インドネシアは、偉大なる唯一の神を信じるのが憲法上の国民の義務となっているが、ここで言う唯一の神を信じる人のなかには、イスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥ、仏教、も含まれ、儒教が最近その中に含められるようになっている。なお、インドネシアは、イスラム京都が最大数いる国ではある。

                     

                    また、イスラム協力機構と呼ばれるものがあり、このイスラム協力機構は一種の国家機能を果たすが、OCI Organisation of the Islamic Conference → Organisation of Islamic Cooperationと呼び方が変わっており、この組織は国連にも登録されている。もちろん、サウジアラビアなども加盟しているが、ソ連もOCI に入っている。その辺怪しいところがないわけではない。

                     

                    イスラム的な政治体制とイスラム国

                    本来のイスラム的な政治体制は、カリフ制であり、中世の11世紀くらいからそのままである。カリフという国家元首をいただき、それに従うものが、イスラム国家であるということになっているが、カリフそのものがなくなっているので厳密な意味でのイスラム法上のイスラム国家があるかどうかは怪しい。その存在に様々の問題はあるにせよ、カリフを担いでいる国家であるという意味では、イスラム国が結果として、イスラム国家のかたちに近いかなぁ、というくらいの感じであろう。

                     

                    なお、エジプト・トルコとかは、カリフ制を採ってはいないし、イスラムの国ではないのは、学問的に明らかである。このような情勢の中で、世界中には15億人くらいのイスラム教徒がいる。その意味で、イスラムの理念と現実は別のところになっている。

                     

                    正しいイスラムとは?

                    日本にいるとわかりにくいのは、正しいイスラムとは何か、ということである。どうすれば正しいイスラムがわかるのか、というと、正解は実はわからないというのが正解である。正しいイスラムがどのようなものかをわかろうと思えば、どうすればいいかというと、何らかの権威に頼ることを普通の人は考えることだろう。学説が分かれた時に、大学の先生に聞くというのは素人が良くすることではあるが、文部科学省認可の学校で教えてもらえば、何らかのお墨付きの見解は一応は聞かせてもらえるので、その意味ではある面、正しいといえるかもしれない。キリスト教であれば、中でも、カトリックであれば、ローマ教皇が言うところや公会議で決められたものであれば、正しいと言えるだろうし、教会連合のような一種の組織の声明文があれば、その見解は一応は正しいと言えるかもしれない。この公会議に当たるものは、宗教者会議という性質を持つものであり、それが現在の社会の中では一種の権威の源泉となっているのである。

                     

                    ある人が言ったら正しいとか、正しくないとか言うことはできないと言える。その意味で、何が正しく、何が正しくないのかについては、神だけが知っているというのが、イスラムの思想であるといっていいと思う。これを聞くと、なんといい加減なことかと思うのは、それはそれで仕方がないが、単純にそうとも言い切れないのではないだろうか。

                     

                    標準化されたイスラムの宗教儀礼

                    例えば、戒名とかお墓のことに関して、まともに喋れる仏教徒が言えるかというと、それはそんなにおられないのではないだろうか。仏教徒に、礼拝のやり方がどんなものかを聞いても、色々宗派ごとに違いが有りすぎて、決まっていないといえる。しかし、もしイスラムに聞けば、教義の正式の決定機関はないとはいうものの、イスラム教徒なら誰に聞いても、礼拝のやり方は決まっている。

                     

                     時間も決まっている。カーバーの方向に向って、立って、お辞儀をして、地面に膝を付ける形での礼拝をする。唱える言葉も確実に決まっている。イスラム教徒の誰に聞いても概ね同じ答えが返ってくる。イスラム教徒にとっては当たり前だが、仏教やキリスト教徒に聞いても礼拝の仕方も別々。公式の教義を聞いても、バラバラな答えが返ってくるのが、現在の日本の仏教とかキリスト教である。また、服装規定、暦規定が公式の組織がなくてもイスラム教徒にとっては決まっているのである。

                     

                    聖典文書の大切さ

                    なぜ、イスラムは安定的か、といわれれば、それは書かれたテキストとしての聖典があるからであり、それがクルアーンである。また、預言者ムハンマドの言行録、ハディースがあり、それを読めば、何をすべきかがわかるようにできている。したがって、イスラム教徒なら誰に聞いても同じ答えになるし、そうならざるを得ない。これらの聖典を読めば、理解できるようになっているのである。とはいえ、みんなが読めているかというわけではない。その意味で、イスラム教徒にとっては、基本的に正しい教えがあるのである。クルアーンにしてもすべての人が完全に覚えているわけではないものの、何十万単位で、クルアーンを暗唱している人がいて、かなりの教義はこの聖典としてのテキストに従っていると、遡れる人がかなりいるのである。とはいえ、すべてのイスラム教徒は、毎日、常に、教義ばかりを考えるわけではなく、普通に生きている。

                     

                    イスラムと西洋文明の最大の違い

                    では、イスラムと西洋文明の最大の違いは何かを考えてみたい。
                    我々は、現代社会に生きているが、サウディアラヴィアであれ、日本であれ、西洋文明を考え方の基本にしている。ところで、その西洋文明によって、植民地化された地域がある。イスラム教徒が多いムスリム中心の国でもこれらの西洋文明の考え方は、学校教育で教えられていて、現在では、それが主流になりつつあるのである。

                    西洋文明を学校で教えられている国は多く、基本的には、小学校に行ったころから、そのような概念を習っているところが多い。この西洋文明では、自然科学と生活が分離されているのであり、特に科学の世界では、世の中には物質しかない、と分けて教えている。ところが、世の中には、自然科学に含まれえない、人文科学的要素もあるのである。例えば、自然科学には善悪はないし、物理学とか生物学でも人間は対象になるが、人間も単なる物質とその集合であると理解している人が多いのではないか。

                    人間はいずれ死ぬのは決まっているというものの、善も悪もないという概念が西洋文化で支配的であり続けた。もちろん、そうではない価値観も西洋文明の中にあり、ヒューマニズムとか、民主主義とかは存在する。しかし、イスラムによれば、神は物質を作り、善と悪、法とか倫理も神によって定められたと考えている。これがイスラム文明の考え方の特徴である。

                    西洋文明では、心身二元論とか、聖俗二元論などが存在はするが、これは矛盾でしかないのではないか、というのがイスラムの側からの主張である。そして、二元論的な概念構成が諸悪の根源だと思っている。これがわからないとイスラム文明を理解することはできないし、これがわからないとイスラムの異文化性といおうものは、わからないだろう。物質でないもの、自然科学の範囲と人文学の範囲がが分離している。また、はっきり矛盾だ指摘できるものも西洋文明の中にあるのではないか。例えば、国家が勝手に決めた領域国家システムとか、人類の平等という理想などが、その矛盾の例である。

                     

                    領域国家と西洋近代と西洋諸学

                    領域国家に関して言えば、西洋が大航海時代に帝国時代に進出(進出された方は侵略だと思うのだが)する中で作り上げられていった概念であり、状態なのではないだろうか。また、西洋人は、人類の平等を言うものの、他の世界を知った時に、3つの段階に人類を分けた。それは、文明人(西欧のみ)と、劣等民族と未開人であり、その3つのグループに分けて考える習慣がある。文明人の対象の学問が、社会学や経済学であり、西洋人ではないが、高度な文明を持っていて、実際に社会を運用する力もあるが、ちょっと劣っている劣等民族があり、それ対象の学問がオリエンタリズムであり、その範疇に入らないものが、未開人であり、その研究分野が人類学 民族学である(ミハ氏註 これはわかりやすい学問累計の仕方であると思った)

                     

                    西洋文明が最初から進んでいたようにみえるが、インド(ムガール帝国)などや、中国などが、かなりの時期軍事、経済で優勢であった時代もある。(ミハ氏註 西洋文明の自然科学は、ギリシアで始まったが、中世では壊滅的状態になったのであるが、イスラム世界に冷凍保存されたギリシアの哲学や数学や自然科学が、ルネッサンス期に逆輸入されて、西洋でメジャーになったのである。数学などでのアラビア都の関わりは、皆さんが普段計算機でお使いの数字は、アラビア数字と呼ばれてないだろうか)西洋人は、人権とか人類の平等を言ったが、文明人に限った話であって、そうでない人は、人権も与えられないし、西洋人の奴隷として使われただけである。

                     

                    ところで、第1次世界大戦で、西ヨーロッパがお互いに殺し合って自滅したし、ほぼ自壊しても先進国出会ったから、なんとか持ったのであるが、第2次世界対戦後、民族自立ということで、植民地が列強が引いた国境を許に、どんどん独立していくことになッタ。そして、領域国民国家システムはそこに人や民族を閉じ込める牢獄の役割を果たしたのではなかったろうか。


                    その結果、アラブ世界などでは、人が領域国家を超えて移動できなくなっていった。本来、人間は好きなところにいる権利があるはずであり、どこに居ても、どんな人でもどこかに居てもいいはずなんだけど、それが許されない世界が生まれ、それが、第2次世界対戦後固定化され、現在の世界ができたのである。

                     

                    イスラム国と西洋文明の矛盾

                    この矛盾を顕在化させたのが、イスラム国である。そもそも、もともとは、イラクのイスラム国であったものが、シリアとイラクのイスラム国となり、つい、2年前にイスラム国を名乗ったに過ぎない。諸悪の根源は、サイクス・ピコ協定であり、それが、現在の国際秩序の国境を作ったのであるが、それを破壊して、挑戦したのがイスラム国であるといえる。

                     

                    シリアに行くと、確かに国境がある。とはいえなおイスラム国の中の多くの部分では、過去の経緯もありシリア・リラというシリアの通過、イラク・ディナールというイラクの通貨が流通しているが、独自発行している金貨も流通し始めている。

                     

                    難民の流出の構造

                    国境を外して、イスラム国ができたのであり、西欧文明の矛盾を国境を否定することで否定しようとする動きであるといえる。イスラム国が原因で、難民が発生したと主張する向きもあるが、難民の発生は寧ろシリア政府によるものであり、シリアの内戦の結果、30万人が死亡しているが、そのうちの90%がシリア政府による殺害事件(内戦)といって良いだろう。イスラム国の攻撃によって難民が逃げているわけではない。

                     

                    いまイスラム国が空爆されている。ロシアやシリア政府ほど、アメリカ人は非道ではないので、意図的に民間人を殺してないという側面はあるものの、指導者であるムジャヒディーンは民間人と暮らしているので、それだけ攻撃するわけに行かないので、どうしても民間人が犠牲になり、大量に死んでいるという側面はある。その意味で、領域国家制度から脱出しているというのが現在の難民の構造であり、2000万人のうち、シリアから出ているのが、400万人ほどである。

                     

                    逃げらるのであれば、600万人くらいの人が逃げたいと思っているようであり、それを、塀や鉄条網を作ってトルコは防止しようとしている。塀を作って逃げるのが、留められていてなくなっているのが現実だろう。合法的に他国に脱出できないので、漁船や小型船でまともに操船技術のない人が操縦する船で地中海を渡って密入国しようとして、沢山の船が沈んで人が死んでいるのである。こういう非人道的なことが国境があることで隠されているのではないだろうか。


                    人権があるという建前で西洋世界は生きてきたが、シリアとかイラクとか、アジア・アフリカ諸国を西洋諸国が無理矢理に抑圧してきただが、それが制度として機能不全を起こし始めてきたのである。

                     

                    先進国の分裂
                    新自由主義、グローバリゼーションがアメリカを始めとする多国籍企業を利するような流れとして語られ、それに向けての流れが生まれてきたが、一国ではこのグローバリゼーションの流れに太刀打ち出来ないので、地域ブロックで対抗しようとする動きが見られている。

                     

                    対イラク戦争のとき、ブッシュは「テロとの戦い」とよんで参戦国を募ったが、そのアメリカの呼びかけに対して、ヨーロッパは拒否している。それは、ヨーロッパが世界の中心になろう、ということで生まれたのEUであり、ヨーロッパは米国の戦争に巻き込まれることに抵抗した。つまり、テロとの戦いというのは、単にアメリカが攻撃されただけなのに、ヨーロッパ世界がアメリカの戦いに巻き込まれようとしたと見えたのであろう。実際、フランスとドイツは反対しているし、古いヨーロッパは軒並み反対したが、唯一イギリスが巻き込まれて、戦闘することになった。(ミハ氏註 当時のイギリス首相 トニー・ブレアの顔つきからブッシュのプードル Bush's Poodleというあだ名もあったらしい)

                     

                     

                    我々からすれば、西ヨーロッパというと、アメリカと西ヨーロッパは同じ文明圏に属すると考えるが、地理的にも文明圏的にも違うのである。実際、イギリスは、大陸諸国と戦い続けてきたし、その中で、かなり独立を保ってきた。アメリカとイギリスとヨーロッパを合わせた法律の体系は現実に存在しないのである。その意味で、イギリスのEU脱退は大きいかもしれない。

                     

                    ローマ帝国は分裂しているが、欧米と読んでたものは、西洋プラスアメリカであったが、それが2つに別れ始めている綱引きの時代が来ているのではないか。西ヨーロッパの大陸諸国と、英語を話すイギリスおよび北米国家とに二分化しつつあるのではないだろうか。

                     

                    文明の生態史観
                    梅棹さんの歴史の世界観であるが、これによれば今までは、西欧の世界システムが世界を覆ってきた。その生態史観によれば、ロシア帝国が再建されたの形がソ連であろうし、地中海イスラム世界の巨大帝国の再建を考えているのがイスラム国であるとも考えられる。また、これによりイスラム文明系の再生がなされるのではないか。

                     

                    これを世界システムと読み起こしたのが、田中明彦さんの『新しい中世』の理解である。いま、ウェストファリア条約世界の弱体化が起きており、多国籍企業は主権国家を超える時代が起きている。

                     

                    この種を研究したのが、トインビー(歴史家 歴史の研究)であり、そのなかで、これまでの世界では、自分で作ったものの奴隷となり、結果として選択の自由を失うのではないか、ということを指摘している。つまり、システムという偶像を作っているのではないか、これにより、かつてあった文明を滅ぼしたし、そして、その自分が作ったものにより西洋近代が滅ぼされることになるのではないだろうか。

                     

                     

                    次に、国民国家ということについて考えてみたい。キリスト教が西洋の宗教とい割れるものの、キリスト教の神に頼らず、国民国家というものに現在は頼っているのではないか。そもそも、神にも人類にも頼ってないのではないだろうが。言い換えると、現代人は、国家しか信じてないことになろうし、また、教会は信じてもいないのではないだろうか(ミハ氏註 N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』を思い出した)

                     

                    イスラムは、この西洋近代が作り出したものの解毒剤になる可能性がある。トインビーは、現代の人類文化に貢献できるものは、アルコールの撲滅であり、プロレタリアートの生活を壊すものがアルコールであることを考えると、このアルコールの毒と戦うのには、イスラムがいいのではないか、といっている。また、ナショナリズムも、民族や人種による差別を生み出した。これは、イスラムが解決の一つになる可能性があるだろう。そして、ナショナリズムの台頭は現在進行形で世界で起きていることなのではないだろうか。

                     

                    日本からは理解できないイスラム世界

                    日本でも、現在、国家意識が高まっていていて、その主体である国民や個人が国家に集権的に扱われている状況になってきているが、これと戦うためににイスラムがあるように思う。イスラム国は、このコンテキストで考えないとわからないだろう。ウェルベックという人が書いた金未洗い小説がいま、日本語で翻訳されている。そもそもは、フランスで出版された時に、シャルリー・エフドという雑誌が出版された頃に、ムスリム候補がフランス大統領になるという近未来小説を書いたのだが、この本がものすごく売れた。この本は実在の政治家の名前が入った近未来小説であった。

                     

                    そして、政治家になるイスラムが現れるのが、近々、フランスだけでないと指摘している。要するにイスラムの候補が何を考えているかといえば、ローマ帝国の再興、或いは地中海世界の再興を考えているというのがストーリーラインに流れている。


                    今の北アフリカとか中東の領域は、ローマ帝国の領域であった。それらを統一するのは、ヨーロッパだとかんがえられてきたのだが、地中海圏域を作ることをイスラム世界の候補は考えた。地中海世界を作れば、ヨーロッパをもう一度、強くでき、アメリカのグローバリゼーションによルシ杯を、地中海世界という地域でブロック化していって対応する。地中海以外にも、イランからバングラデシュ、マレーシアとかもあるけど、地中海的なイスラム世界の再建を目指していくという考え方である。(ミハ氏註 これをやろうとしたのが、北アフリカ出身のハンニバルである。将に、ハンニバルRevisitedを絵に描いたような近未来小説らしい)

                     

                    カルタゴ(古代北アフリカ)の将軍 ハンニバル

                     

                    一番のインセンティブは経済である。地中海世界を巨大の生産拠点にして、経済が回れば、ロシア&東欧ブロックやアメリカにも対応できる経済圏ができるということをぶち上げるという小説らしい。(ミハ氏註 経済的ハンニバルの再現である)

                     

                    文明の再編
                    文明の再編を考えてみたいヨーロッパと英米に別れるだろう。米を中心とする英語圏がヨーロッパ文化権と対決している構図に見える。アメリカとイスラム世界が対立しているのは、911以来であり、また、現在、アメリカは、ヨーロッパそのものと対抗しているよりも、中国ーロシア連合ととの対立に移りつつりつつあるように思われる。

                     

                    トルコ民族の紐帯

                    新しい対応、世界の動きを考える上では、スンナ派ベルト イランからアジアにかけてのベルトは重要だし、チュルクベルト(トルコ民族の分布地域)は、中国の北部から始まっている。今のトルコは、中国北部からの遊牧民が西に流れ着いて、トルコにいる遠いう状態のナノである。東の領域の境界が、ウィグル族。新疆自治州あたりであるし、このあたりの民族は、チュルク系の言葉を使っている。言語的には、東京、大阪ほどの差しかないげんごであり、相互の言語で、しばらく話していると理解できるようになるレベルである。タジキスタンとかは違うが、トルコ系の民族がつながっているという現状は抑えたほうがいいだろう。その意味で、スンナ派のベルトがある。

                     

                    セルジュク・トルコは、19世紀までは、スンナ派のカリフと一緒にトルコ人がイスラム世界を守ってきたという自負がある。その意味で、トルコ人たちが軍事的に指導的立場につくという概念があって、それがイスラム国と対立しているのである。そして、ウィグル族を始めとする民族問題で、トルコと中国が対立していて、中国の問題は、チュルクベルトにいるトルコ系住民との衝突であることである。

                     

                    また、タタールのくびきということもある。その対立の背景に、オスマン朝とロシアの戦争の継続という側面がある。ある面、ロシア正教文明と中国文明、トルコ系の文明、ヨーロッパ文明、英米文明が現在世界的に綱引きをしている状態であり、その中心部にトルコが有り、その中にシリアと地中海世界があるという構図である。(ミハ氏註 こういうのを地政学というのだと思う)

                     

                    変わる世界と日本
                    これまで、日本はあまり巻き込まれないで済んできたが、いま、安倍政権がトルコに原発を輸出しようとしたり、イスラエルに武器売ろうとしていたりしていて、アメリカにくっつい探湯で、軍事行動する中に日本が巻き込まれていく世界ができつつあるのではないか。日本にいると直感的に理解し難いが、一歩日本を出ると、肌でこの辺りのことを感じている人は多いのではないだろうか。
                     

                     

                     

                    質疑応答と、感想は月曜公開します。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    田中 明彦
                    日本経済新聞社
                    ---
                    (1996-05)
                    コメント:非常によろしかったです。今の技術社会を考えるための基礎となります。今となってはちょっと古い部分もありますが。

                    評価:
                    N・T・ライト
                    あめんどう
                    ¥ 2,700
                    (2015-05-30)
                    コメント:絶賛おすすめ中です。

                    2016.10.17 Monday

                    京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(Q&A編)

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                      さて、前回あまりに長くなったものだから、後回しにした質疑応答の部分から、ご紹介しタイ、と思う。

                       

                      学部長先生からの再確認

                      司会の学部長先生から、本日の中田さんのお話のメインのテーマは、ワールド・ピクチャーのお話であったが、冒頭に取り上げた話に戻って、質問したい。日本人は、イスラムそのものに興味があるのか、ムスリム(イスラムを信仰する人々)に興味があるのか、どちらだろうか。すなわち、イスラムという宗教中心なのか、或いは、ムスリムというイスラム教徒に関心の中心があるのか、を考えてもらいたい。そして、もう一度、中田先生には、これについてお話してほしい。

                       

                      中田)イスラムは宗教ではあるというものの、ユダヤ教、キリスト教とは少し違う。これらのユダヤ教についてもキリスト教についても、固有名詞がついている。キリストは称号だが、イスラムは普通名詞であり、一般名詞である。もともと服従という意味である。それは、神に服従する宗教であるという意味でのイスラムである。


                      キリスト教の場合、キリストという固有名詞、言葉に結びついている信仰形態であるし、仏教は、ブッダと結びついている信仰形態である。しかし、アダムが人類の子孫であり、この点で、キリスト教と、ユダヤ教と、イスラム教とは共通のものを持っている。もう少しいうと、アブラハムの子孫に関する宗教である。この点でははっきりしているが、問題もないわけではなくて、アダムの信仰とは何か、という問題は発生する。イスラムはアダムの以来の宗教であり、ある種の普遍宗教であるとも言える。神に帰依することを中心として理解しているのがイスラムであり、神に服従が建前となっている。

                       

                      では、イスラム教徒は自分は何をしているのか、と常に考えているわけではない。多くの場合、日常生活をただ普通に過ごしている。宗教教義とその実践とは別であり、その意味でどのように具体的に生きるか、については一人ひとりに委ねられているのがイスラム教であるといえる。その意味で、聖職者がいろいろなことをああしろ、こうしろと言ったり、決めてくれるとは限らないのである。

                      これまで、日本ではイスラムは少数派できたが、それが人々の隣にあたる領域で出会うようになってきた。このイスラムから見ると、日本の信仰は、単純に自分が信じる教義体系とは違うとかん替えているのに過ぎず、その意味で、あまり自分とは関係がない、隣の人の信仰体系と考えている。ところで、『隣のイスラム』はなかなかいい本であり、イスラム教徒と付き合っていく上で重要なことが多々書かれている。

                       

                      参加者からのQと中田氏からの回答の要約
                      司会)それでは、フロアからの質問を受け付けていきたい。

                       

                      Q)なぜ、先生はイスラム教徒になったのですか。イスラム教徒の世界観がよくわからないから教えてほしいのですが、全体に漠然としているような思います。その意味で、こういうところが魅力だ、ということについて教えてほしい。イスラムでは、イエス・キリストをどう考えているのでしょうか。


                      A)私(中田さん)の家は普通の日本の仏教であったが、キリスト教会に小学生くらいから通っていた。東大の一般教育課程の時に駒場聖書研究会に参加していた。この駒場の聖書研究会は、聖書を学問的に勉強しようとするサークルであった。その後、東大に最初にイスラム学科ができたことで、イスラムを知って、専門を選ぶ時にイスラム学科を選んだ。そして、イスラム学科で学問的に勉強したのである。その意味で、この時までにも一人の絶対者としての神は信じていたが、そうなると、ユダヤ教か、キリスト教か、イスラムかになるわけであrが、イスラムは教義的にわかりやすい、と思った。

                       

                      この3つから選択する際に、キリスト教は大変だという意識があって、キリスト教会には入らずに、教義的には酒と食べ物を気遣うだけですむので、イスラムもいいかなぁ、と思っていたので、イスラム教にした。イエス・キリストは、十字架で復活した、今も生きていると新約聖書には書いているが、十字架にかかっているし、パウロもペテロはろくでもない方法で死んでいる。これらのことを真面目に考えてみると、キリスト教徒の世界は大変しんどいが、イスラムは、守ることを守ればいいので楽であろう、と思った。


                      また、キリスト教とイスラムでは、そもそも、神の定義が違うし、違う以上、議論しても仕方がない、と考えている。イエスは、クルアーンによれば神の預言者、神の教を伝えるものでありとされていて、イスラム教の世界では、十字架にかからず、身代わりが十字架で死んだ、と理解されている。5大預言者の一人、ムハンマド、ノア、アブラハム、モーセ、イエスとなっているのだが、イエスは偉い預言者でしかないのであり、神ではなく、預言者でしかないという立場である。

                      Q)イスラム国、ダーイッシュではなくて、領域国民国家にしよとしているのか、新しい理念を提示しているのか、知ってたら教えてほしい。また、ラノベ(ライトノベル)作家として有名であるが、その作品「俺の妹がカリフのはずがない」があるが、俺カリ読んで、読者がどう思ったかとかの反応はいかがでしょうか。

                      A)まずイスラム国に関しては、先ほどお話したように、イラクのイスラム国 → イラクとシリアのイスラム国 → イスラム国担っている。個人的には、正しいカリフ制だと思ってないが、現在のイスラム国は、たしかに領域国民国家に近い部分も目指している部分もあるようである。また、ウンマ(イスラム法学者)とその法理解の体系などもあるが、理論的に余り練られたものではないと言えるだろう。確かに領域国民国家を越えようとして側面もあるが、理論的に不完全性な印象を免れない。

                      「俺の妹がカリフのはずがない」は幻の作品であり、なんとか出したいと思っている。もともと、ツイッターで書いていたのだが、ある時鍵アカントにして、そのアカウントの鍵忘れてしまっている。その結果として、読者からの多くの声がないのが実情である。読んだ人が極初期の登録者に限られる幻のライトノベルとなっている。

                       


                      Q)シーア派とスンナ派の対立とその憎しみの根源はなんだろうか。仮に、人々が教学についてさほど詳しくないのであれば、なぜ、そのような対立がおきるのかが理解できない。


                      A)対立の根源は、預言者ムハンマドに関する政治的な対立のほうが強い。ムハンマドは、預言者(掲示を授かるもの)としてクルアーンや言行録を編成しており、それ以降は、新しい経典がないといって良い。例えば、礼拝の回数の一日5回は、言行録から導き出される。こういう啓示は、ムハンマドが最後である。また、泥棒をどうするか、に関してもクルアーンにあるが、そのクルアーンに基づいていて、新しい啓示を受け付けないのは同じことである。

                      質問にあった、スンナ派とシーア派の違いは、スンナ派は、コーランがあれば、自分たちでやっていけばいいという態度であり、自分たちがリーダーを選べば良い、ということである。これは歴史的に、初代カリフのアブ・バクルを選んだことにも見られる。シーア派に関して言うと、法律はできたけど、解釈は多様であるという立場である。シーア派のイスラム法に関する概念も同じであり、クルアーンは確かに最後の聖典ではあるけれども、新しく解釈するか解釈者がいるはず。そして、そこには、神から選ばれた特別な人間の存在を考える。アラブは男系形成社会なので、男の子が継ぐが、ムハンマドには息子が居なかったので、ファティマ(娘)によって、アリ(いとこ)がファティマと結婚して、預言者ムハンマドの後継者となった。そして、アリ・ハサンを名乗る。また、解釈者として、12人のイマムたちで構成されるグループができて。12人目が死亡するその最後の日に、メシアとして現れる存在があるのである。イスラムの中でも、シリアとイラク以外は、憎み合ったり、争いあったりはしてない。お互いが近くにないと対立しないで住んでいるという印象がある。ただ、互いに憎しみ合い、現在殺し合っているのはイラクとシリアである。

                      単純に後継者をめぐるだけなら問題は少なかったが、シーア派のアリ(イマム)であるアブー・バクル、ウマル・ウスマーンに並んでスンナ派でも認められた偉い人であるフセイン、ハッサンなどの正統カリフ時代に殺されている。数十人40人ぐらいの人が大軍団によってなぶり殺しのようにして殺されたことが、混乱の原因である。

                      スンナ派にしたら、ムハンマドから愛された弟子で孫でもあるアリ・ハサンが殺された。その意味で、シーア派のほうが、スンナ派をイスラムと認めていないことに混乱の原因がある。シーア派自体、少数派であったので、それも影響しているだろう。時々、戦争が起きると、それが表に出て来て、混乱が激しくなるのである。

                      Q)トルコの立ち位置がよくわからないのだが、どう考えたら良いのか。そして、内乱があったがいまトルコの内部はどうなっているのかご見解があれば教えてもらいたい。

                       

                      A)実は、複雑すぎて、わからないというのが答えです。こちらに来る前、内藤先生とも話していたがよくわからない、と話しておられた。イスラム世界の中心であったのがオスマン朝1922年に滅亡したのは、これは誰もが認める事実である。1922年に共和国ができて、カリフ制を廃止したのである。ところで、其れまでは、そもそも、トルコという国はなかったのであり、オスマン・カリフ国であった。至高の国としょうしていたし、それが国名であった。それがカリフの国でもあったのである。

                      まだ存命者で、その時代を知っている人がいる。カリフ時代に生きていた人を知っている人々がいる、エルドアンなども知っている人の一人である。その意味で、エルドアンはイスラムの理念が生きていた時代を知っている人である。その意味で、ヨーロッパと比較しても大世界帝国、世界一の帝国だったことをまだ知っている人々がいるのが、トルコの立ち位置といって良いだろう。

                      しかしながら、トルコは、ヨーロッパからしてみれば、ヨーロッパの瀕死の病人同様であり、トルコは、ヨーロッパの一部という認識がある。また、東欧はトルコとも関連が深い。ヨーロッパとアジアを通勤で行き来する人がいるくらいであるほど、近い関係にある。しかしながら、今のエルドアンはおそらくもう既にEUに入る気はなくなっているようにおもう。また、そもそも、今のEUはトルコをEU諸国として入れる気もないし、また、トルコはトルコで、難民を受け入れよとEUが言っていて、難民を受け入れない、とEUに入れてやらないとトルコを脅すことにたいして、トルコは腹立てている感じがする。また、トルコが国を開いてしまって、ヨーロッパに難民が流入してきたら、ヨーロッパは崩壊するのはかなり明らかである。

                       

                      トルコ国境のもよう 

                      http://www.abc.net.au/news/2015-08-06/turkish-soldiers-help-syrian-refugees-as-they-cross-the-turkish/6677032 (オーストラリアのテレビ局のサイトから)


                      これが、10年前であったら、ヨーロッパ型の世俗主義とイスラムの再建の対立という軸で捉えることが可能であったであろう。

                       

                      現在のトルコの反乱騒ぎに関しては、明らかにされたが、ギレンは首謀者であったと言うと証拠はないが、関連があるのは確かだと思われる。軍の中の世俗主義者、極右がやったという説もあるが明らかではない。たしかに、エルドアンに反対する勢力があって、ギレングループが情報を提供したのではないかと思われる。政敵を倒すために、エルドアンがやったという陰謀論があったのは、おそらく可能性としてはほぼないだろう。エルドアンが命を狙われていることを考えると。また、エルドアンがトルコで粛清していると言っている日本のマスコミがあるが、其れは粛清ではなくて、数万人の公務員が解雇されたに過ぎないのである。本当に粛清が起きているのは、どちらかと言うとシリアであると言えよう。

                      欧米の基準で見ると、確かに数万人の公務員の停職や退職はものすごいことかもしれないが、中東の基準やトルコの基準に関してみれば、生ぬるい基準ではないか、と思われる。本当のところはわからないと思う。

                       

                      最後の質問と言いつつ結構幾つか
                      Q)イスラム国、(ISILまたはISIS)がイスラム教とは別なのに、どうして、イスラムを全面に出すのか イスラムを出してしまうとかえって、組織は揺らぐのではないか。


                      A)イスラム国はイスラムではないというは間違いである。イスラム的に適切かどうかというと怪しい。SISはイスラムではないというは間違いである。イスラム的に適切かどうかというと怪しい。すべての人について考えてみるとイスラム的に正しい人間はいないし、正しいとされる人は居ない。すべてのイスラム団体、イスラム国家はイスラムではないが、イスラムと矛盾しているかというと、まだ、イスラム国のほうがまともといえる。マスコミ論調で、人を殺すから、イスラム国はイスラム的でないという議論があるが、一概に人を殺すのは、イスラムではない、とは言えない。例えば、ジハード考えると、戦争の結果殺人を犯しているから、といってイスラムではない、とはいえない。ある面エジプトも、クーデターでたくさん人を殺している。この場合は、国の法律により、殺害者が犯罪者と認めるしかないだろう。ある面、戦闘で敵を殺すのは当然ではあり、正しいかどうかは、別問題だろう。イスラム国は酒を禁じているが、しかし、エジプトは禁じていないなど様々であり、イスラム国のほうが大抵のことは正しいと言える。ただし、やっていることの一部が人道的におかしいので、おかしいとマスコミなどで言う人がいるが、それだから、イスラムとは違うとはいえない必ずしも言えない。また、他のイスラムのルールを守っていない国も同様にイスラムではないと言わないと構成とはいえないのではないだろうか。

                      Q)スーフィズムと神道と哲学的な共通点が多いように感じるし、日本の生活に近いと言われることがあるが、中田先生のご見解はいかがなものだろうか。(アゼルバイジャン出身の学生から)


                      A)そもそもスーフィズムでなくても、日本の神道は、イスラムに近い部分がある。ただし、日本語とイスラムでの神という語の意味とそれが指すものが絶対的に違う。イスラムの教義と多神教とは相互に矛盾しない。日本の神は世界を作ったことはないことになっているし、善悪とは関係のない神々なのであって、人間とちょっと違ったもの、ある種の霊のようなものである。これはイスラムと矛盾せず、イスラム世界でも、精霊の存在を認めている。それは、サラフィーでも同じことである。
                      イスラムの世界観では霊が存在すると信じている。すべてのものに、例えば、机とか椅子とかいったものにも霊がある。それが我々にはわからない世界であるとおもうし、。アニミズムとイスラムは矛盾しない。神道とは矛盾しない。スーフィズムに限る必要はないが、特定の人間だけが神に近いという考え方は、イスラム国の人たちは否定するだろう。寧ろ、世の中に特別な人間は居ないというのがイスラムの考え方であり、そういう人間を礼拝するのは間違いである。

                       

                      スーフィズムの中では、神に近い人間がある、という考え方があり、スーリーは死んだあとも、霊魂は、人間とコンタクトできるという考え方があるし、お墓に詣でるということはある。その意味で、日本型の信仰は、一種のスーフィズムと近いところはある。

                      スーフィズムの動画(英語音声・英語字幕付き)


                      Q)イスラム国に行きたい人の仲介をした経緯について知りたい。


                      A)私自身が行くことそのものを勧めたり、勧誘したわけではない。そういうことは一切していない。ただ、現地に何人も知り合いや、友だちがいて、それぞれ、ヌスラ戦線とか、いろんなグループが居て、それぞれに知り合いがいるので、それを望む方々にご紹介しているだけである。イスラム国については、イスラム教徒だと入れないので、まず、自由シリア軍を勧めたが、行きたがらなかったので、そこで、仕方なく、私の知り合いを教えただけに過ぎない。他のところだろうと、シーア派だろうと、自分自身の友だちがいるので、自分の知っている人を頼まれれば、紹介している、ただ、それだけである。(ミハ氏註 この知り合いシステムは非常に有効に効くらしい。これがなければ、事実上、その社会は閉じたようなもので、中にはいることは極めて困難であり、入れないも同然であるらしい。この辺は、個人主義大国イランをご覧ください。)

                      Q)中東情勢がどう進展していくのか、見解はいかがでしょうか


                      A)世界情勢と中東情勢は、リンクしていて、そして、一緒に動いていて、文明論的に動いている感じがする。現在の衝突は、中国とアメリカというのが環太平洋的な減少であろう。欧州は2度の世界大戦で殺し合いしているので、第2次世界対戦後、一貫して長期凋落傾向であり、ヨーロッパは自滅しつつあるし、どう考えても、人口問題で成長に限界があり、無理があるのではないか。それがイスラム国によって、中東情勢や世界情勢がどう動くかによって、動きが変わってくる。中国、ロシア、英米といったメジャープレイヤーの動きだけでは理解できないのではないか。それ以外のことは詳しくないので、なんとも言えません。ただ、現状で、綱引き状態が起きていて、非常に危険な状態ではないだろうか。第3次世界対戦突入前後というような危機感がある人々もおられるほどです。

                      Q)イスラムへの偏見が強いが、神はアッラーのみといわれていると、学校などで教わったが、アッラーという語の翻訳はどうお考えなのだろうか。

                       

                      A)翻訳論の技術論は難しい、神とイラーハの意味とその中に含まれる範囲が違う。神と訳していいかというと、神と訳してもいいとは思うが、ちゃんと舌それなりの説明は必要だと思う。ある意味で、なににせよ、正確な翻訳はできないとしか言いようがない。ちょっとでも違うとダメだという立場に立つと翻訳はできないことになる。ただ、どうしても一語で表すには、やはり神がいいのではないか、と思う。その上できちんと説明していくのがいいだろう。神をどう訳すのかはキリスト教でもかなり揉めている(ミハ氏註 聖書の日本語 参照)。ペルシャ語では、アッラはアッラであるが、ホダーとも言うこともあるが、ホダーは領主を指す言葉である。トルコ語では天の神、天神というタイプの言葉である。どの言葉でも、どうしても違う表現にならざるをえないものが出てくる。それに注釈をつけるとかしないといけないことになる。背景が日本の場合、多神教であり、一神教では違う事が多い。日本のアニミズムは多神教であり、イスラムの正統教義との関係での問題が生じることになる。

                      Q)日本では、靴をぬいで上がるが、イスラム圏でも、靴を脱ぐ文化があると聞くが、それは、イスラムとの習慣との関係があるのだろうか。

                       

                      A)それはおそらくそのようなことはないだろう。そもそもイスラムは靴を履かない文化であり、遊牧民は靴を履かず、スリッパの・ようなものを履く。革の靴下ににた靴のようなものは履くことがある。その意味で、なんとも言えないというしかないだろう。靴をぬぐことはイスラム教そのものと関係がな異様に思う。もちろん、ムスリムには清潔にするという文化はあるが、絨毯は靴を脱がなくてもOKではあるけれども、礼拝の時とかモスクに入るときには、靴を脱ぐ習慣がある。

                       

                       

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                      遊牧民的生活については、既に2013年6月の記事  遊牧民?テロリスト?マフィア? 1000年単位のスケールで考える文化と文化の衝突 で書いたところであるが、基本、定住型の日本とは大きく異る遊牧民の生活文化習慣を4000年以上平気で続けている人々との間で違いがある上に、西洋型の考え方をしていて、それが無意識に出てくる人々と、アブラハム時代のままの考え方をしていて、それが意識せずにそのままで生きられる人との違いは大きいなぁ、と思う。それは、聖書を読むたびに、特にヘブライ語聖書を読むたびに、自分が読んで理解したことは、日本的な理解になっていないか、それは書いた本人たちが思ったこととどこまで一致しているのか、と思うことがある。結局、日本語聖書を日本語で読むということは、仮にヘブライ語テキスト本文から翻訳されていたとしても、まず翻訳の段階でバイアスが入るし、翻訳されたものを読んだ時にミーちゃんはーちゃんの段階でもバイアスが入る。その意味で、2重、3重の意味でバイアスが入っていて、隔靴掻痒という語が実にぴったりという感じがするなぁ、と思うのである。

                       

                      その意味で、自分が日本語聖書を読む時にどの程度真面目に理解して、どの程度当時の遊牧民的な背景の中で聖書を読めているのだろうか、そもそも、聖書テキストをヘブライ人とはほとんど共有しえてないのではないか、という反省に個人的には立つことが案外多い。

                       

                      領土型国家という枠組みの強さ

                      家人と話していても思うのだが、そもそも、現代の日本人は現状の世界情勢が全てであると思いこんでいて、古代のことはほとんど意識がないし、さらに言えば、国境意識があり過ぎで(これには仕方がない面もある。日本国は海が境界をある程度明確に定義するので)国境を意識しない生活というのはなかなか困難なようだ。アメリカ合衆国に居住していた頃、州の境界があることは、高速道路の最高速度の制限や、買い物に行ったときの消費税の違いが教えてくれた。なお、スピード狂の人は、モンタナ州に行くことをおすすめする。今は変わっているかもしれないが、モンタナ州の一部では、インターステートでの最高速度制限がない。境界によって制度が変わるというのは、実は領域定義型国家なのだ。であるからUnited Statesであり、Stateは法治の規則が変わる独立国という理解がアメリカ合衆国の州の理解である。記憶がさだかでないのだが、国連で多数決原理が有効なので、ソ連時代の今のロシアが、アメリカ合衆国に「お前、そこまで多数は工作するなら、ソ連は配下の共和国を全部国連に加盟させるぞ」と脅したら、アメリカ合衆国は「では我が合衆国は、配下にある各州を個別に国連に加盟させる」と言ったとか言わないとか。これが、領域型国家ということなのだろうなぁ、と思った。

                       

                      領域型国家は、結局戦争で血を流す税金を国民に支払わせて、領土を広げて、領土としてきたという経緯がある。しかし、アフリカとかアジアでは、もともとなんとなくこの辺が自分たちの国、というファジーな認識の世界で生きていた人々に、いやいや、ここからは国境であるから、そこを渡るには、パスポートがないと渡らせてやらない、というような世界がある日突然できてしまったのである。そもそも、ヒューマンな認識で生きるなら、崖とか尾根とか海岸線とか河川が境界を形成するのだが、アフリカ諸国やアジア諸国の一部では、そのようなことになってないところが多い。その意味で、非人間的な制度であるのである。そんな緯度経度で人間は行動を変えないのである。

                       

                      日本をめぐる海上の諸権域に関してもそうで、領海に関してはある程度昔から明確な定義があったが、つい最近までこの辺が日本の実効支配が及ぶ範囲、とかで過ごしてきたのだが、現在は、排他的経済水域とか、200海里条約とかがあって、もともとかなりゆるい運用が起きてきた海上領域に関しても、主権国家、領域国家的な支配で考える方向に進んできていて、それがまた尖閣問題など、実に微妙な問題を生み出している。なんだかつまらないことではないか、と思う。

                       

                      ところでこのようなことは、別に緯度経度で定めた国境でなくても他人が勝手に定めた境界で動かないことは、よくあることではある。例えば、災害にあった時に、自分はどこの市町村だから、どこの避難所に行くとかはしないくて、見覚えのある別の市町村にある避難所を利用したり、ぱっと目についた避難所を利用したりするのではないか、と思うのである。なお、このあたりについては、SFのレンズマンシリーズなんかのスペースオペラが案外、言語と習慣の違う人々とどう付き合っていくのか、の参考になるかもしれない。おすすめである。

                       

                      と、イスラムという名前は、(神或いはアッラーへの)服従ということであるということを聞きながら、キリスト、キリストという奴らという蔑称であったクリスティアノスと呼ばれた人々の後継者としてのキリスト者として、そこまでキリストのみに服従することをしているか、或いは、YHWYあるいは、聖四文字の方なる方の思いを実現するということに関して自分が従っているのだろうか、ということを反省し、神に従っているといいつつも、神の名をみだりに持ち出し結局自分のやりたいことを、現状の枠組みのみを前提にやってきただけかもしれないと思う時に、据えてのものを通して我らの社会に突然顔を出し(といっても見える形ではないことが多いが)、介入し、突然出てこられる神ご自身のみ思いにこころ委ねて、「主のみこころならば、明日はこうしよう」と素朴に言っている遊牧民のほうがよほど幸せではないか、と思ったりもする。そして、限界があるにもかかわらず、正確さ正しさだけに異様にこだわり、自分自身が勝手に決めたルール、或いは他者が決めた勝手なルール(国境とか、領土型国家制度とか、国民国家制度とか、人と会う約束は何が何でも、病気で死にそうでも行くものだ、とか、過労死しても、会社の仕事はするものだ、という非常識な常識というか、他人の意向を気にしすぎる生き方とか、人から笑われるから・・・)は、もうろくでもない、と思っている。

                       

                      質問に関しては、中田さんは預言者ではないし、未来学者ではないと言いたくなるものから、もっと基本的なものを読んで勉強してらっしゃい、と言いたくなるもの、思い込みによるもの(日ム同祖論的なもの)…と玉石混交ではあったが、講師の中田さんがそれなりに答えていらっしゃるのが面白かった。まぁ、それだけ、イスラム教の世界とヘブライ語聖書の世界観と、ムスリムが日本人から遠い、ということなのだなぁ、と思った。

                       

                       

                      前回の京都の龍岸寺で開催された冥土喫茶、ぴゅあらんどでの山森みか先生のご講演ではないが、「誰がなんと言おうと、よしんば神がなんと言おうとやりたいことをやる」という生き方にほぼなりつつあるので、まぁ、笑わば笑え、それも神の手の中にあるのかもしれないのだから、と他人のことはあまり気にせず、過ごす日々になりつつある。「神がどうのこうの・・・・・」とか「キリスト者としてどうのこうの」いってくださる方には、「あんたや私に神がすべてわかるなら、左様ならば、神はあんたや私より小さいことになるはずや。なんのなんの、そこの不信仰の者共よ」とは面と向かって決して言わないが、「なんであなたの基準が全てなんですか」と黙ってそう思うことにしている。

                       

                      気軽にイスラムの世界のお話を伺う会

                       

                       

                      冥土喫茶 ぴゅあらんど 第4回 は、京都 龍岸寺 で

                       

                      2016年10月22日() 15:00−17:00 

                       

                      ナセル永野さんをお迎えして ぜひとも

                       

                       

                      ご予約はこちら  http://ryuganji.jp/events/pureland004 から 

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                      評価:
                      岩崎 葉子
                      平凡社
                      ¥ 907
                      (2015-09-17)
                      コメント:中国とは違う形の人間紹介システムがあるイスラムのある実情を示す本である。

                      評価:
                      鈴木 範久
                      岩波書店
                      ¥ 3,672
                      (2006-02-23)
                      コメント:大変素晴らしいです。ぜひご一読を

                      内藤正典
                      ミシマ社
                      ¥ 1,728
                      (2016-07-17)
                      コメント:中田氏いわく、いい本らしい。買ったがまだ読めてない。

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