2016年7月のアクセス記録とご清覧感謝
2014年第2四半期(4〜6月) 58171アクセス(639.2)
2014年第3四半期(7〜9月) 39349アクセス(479.9)
2014年第4四半期(10〜12月) 42559アクセス(462.6)
2015年第1四半期(1〜3月) 48073アクセス(534.1)
2015年第2四半期(4〜6月) 48073アクセス(631.7)
2015年第3四半期(7〜9月) 59999アクセス(651.0)
2015年第4四半期(10〜12月) 87926アクセス(955.7)
2016年第1四半期(1〜3月) 61902アクセス(687.8)
2016年第1四半期(4〜6月) 66709アクセス(733.1)
2016年7月 23,284 アクセス (751.1)
今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。
現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
でした。しかし、今月はN.T.ライトの『新約聖書と神の民』特集にしようと思っていたのですが、あえなく、別のものが上位に。まぁ、この本が読者を選ぶ本である以上、仕方がないと思う。
ということで、今月もご清覧をばよろしければ、と。
キリスト教書までのラスト20マイル
最近、『これだけは読んでおきたいキリスト教書100選』という無償の販促パンフレットというのか、本のようなものが出たようだ。それを巡って、ツイッターで遊んでいた時に思ったことが、キリスト教書の場合は、ラスト・ワン・マイルではなくて、少なくとも、ラスト20マイル(キリスト教書に触れるまで30キロ移動しないといけない)人は多いだろうし、場合によってはラスト100マイル(キリスト教書に触れるために160キロ移動しないといけないような)の人もおられるのではないか、と思ったのである。そのことを触れてみたい。
ミーちゃんはーちゃんとラスト・ワン・マイル
ラストワンマイルというとこばがある。これは、個人的に知ったのは、インターネット通信関係の用語として知ったのである。もうだいぶん前のことになるが。10年くらい前だろうか。要は、インターネット全国津々浦々に、とかいうことが政府のアクションプランで決まったのが、1990年代後半だったと思う。自治体に関する業務と、情報通信を管轄する業務をしているお役所に総務省という役所がある。それができたくらいのころだったようにも思うが、だいぶん昔のことで記憶が定かでない。このころは、インターネット博覧会というちょっと変わったネット上の博覧会が開かれたこともある。この時期には、パーソナルコンピュータ(当時はセットで30万円ほどする時代であった)がなくても、ウェブサイトが見えるファックスとか言ったような珍妙な短命の家電製品も生まれた。まぁ、雰囲気はネット元年といっていいような時代であった(もう、この辺になると老人の昔語りである)。
地域情報化とラスト・ワン・マイル
世の中、インターネットが通信手段として一定の役割を果たし始め、地方の自治体まで、LG-WAN(自治体関係の業務用ネットワーク)が来ている時代になっているのにもかかわらず、地方の情報化(これも定義があまり定めにくい、なんとなくわかったようなわからないような役所用語であるが)が進まないのはなぜか、なぜ、個人の自宅で個人がインターネットにつながないのか、地方の小規模の事業者さんたちが業務にインターネットを活用しないのか、といったときに、基幹幹線網から自宅までの最後の1マイルを敷設するコストが高すぎて、という結果であることから、インターネット回線をどう引くのかが問題になったことがある。日本では、Yahoo!ADSL(つい4年くらいまでお世話になっていた)などが機器の駅頭での配布し、安価なネット接続サービスを提供をすることで、家庭に引かれているメタル線(銅線)を利用する形でインターネットを利用する環境を整備していた。スマートフォンでネットを見る現代人からは信じられない時代かもしれない。自宅の海戦は、調子がいい時だと、20Mぐらいは出ていたので、ADSLを割と最近まで使っていたが、家庭内ネットユーザーが増え、特に子供たちが動画を見るとかヘビーな利用が増え始めたので、流石にADSLでは、そのスピードにイラッとすることが増えたので、結局、電力系の光回線に変えた。
昔話をもう一つ、1990年代末にちょっぴりお世話をしたアメリカ人は、ネットがないと困るというので、アメリカの自宅からCATVの端末を持ってきたが、企画が違うので使えなかったり、そもそも、住もうとした地域にCATV事業者がなかったのであきらめてもらって、ADSLを使ってもらったりした。しかし、アメリカの自宅で使えたから、日本でも使えるのではないか、ということで、5キロぐらいするCATVの端末を持ってくるあたりがアメリカ人。
物流業界におけるラスト・ワン・マイル
昔話に行き過ぎたので、元に戻すと、ラスト・ワン・マイルという用語は、物流問題を考える際にもよく用いられる。下の図でそれを表してみたが、1990年代くらいまで、ナショナル店会といったナショナル(現パナソニック 元松下電器産業)ものがあった時代の話二は、このラスト・ワン・マイルはお店の店員さん、ないし、消費者がになっていた。商品は、メーカーから販社に行き、販社から小売に、公理から消費者に行くという流通チェーンが確立され、それが機能していた時代のお話である。この時期は、全国ナショナル店会というナショナルのお店というか、街の電気屋さんがあり、その電気屋さんが購入者のお得意さんのお家を回りながら、家電製品のおすすめから、メンテナンス、簡単な修理、相談ごとに乗っていた時代である。その意味で、この時代は、お店からの言い値(定価)で買う時代であったのであり、ある種の狭い範囲での地域独占が保証されていた時代であった(その分、製造、流通、小売の側の供給者側の余剰は大きく、最終消費者の余剰がかなり小さな時代であった)。
1960年代くらいまでのこの時代、パナソニックの商品のみならず、多くの商品は、メーカから卸に流れ、卸から小売り、小売から消費者へという独特の流れ方をしたのである。なぜならば、情報伝達技術が人(口伝)や郵便そのものであった時代であり、輸送技術が鉄道輸送や船舶輸送といった、大量の商品をゆっくりとではあるが、かなり安価に運べる時代に適していた時代、卸から小売には、牛馬に荷車ひかせたり、自転車牽引型のリヤカーとか人間力により大八車で荷物を輸送していた時代であった。この時代の技術水準には、この方法以外になかったといえようかと思う。
ラスト・ワン・マイルの変遷
大八車 人間ないし馬がひいた
リヤカー 今でも、ごみ収集業の皆様の愛用品
昭和30年の保土ヶ谷 (http://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/58245936.html より)
この時代のラスト・ワン・マイルは、消費者ないし、小売店側が担っていた。サザエさんの三河屋のサブちゃんよろしく、小売店が配送を引き受けるか、サザエさんの様に財布忘れて、街まで(買い物に)出かけたら、財布を忘れて、愉快なサザエさん、みんなが笑ってる〜、子犬も笑ってる〜、る〜るるるる〜、今日もいい天気のように、消費者が配送を引き受けるのが当たり前の時代であったのだ。
1分35秒あたりから、買い物に行くのにサザエさんが財布を忘れた歌詞となる。
御用聞き(懐かしい言葉)をする三河屋のサブちゃん
ところが、ダイエーといった大手商業資本が流通業の中核を担い始め(ダイエーこそ、”こたつ”という商品でナショナル製品をナショナル店会以外で売り始め、家電製品の定価販売に挑戦し始めたころの流通再編の旗手であったが、最近はイオンさんの傘下入りをしてしまったし、福岡ダイエーホークスは、福岡ソフトバンクホークスになってしまった。もともとオークスは南海ホークスだったのだが…)、流通構造が大きく変わり、北関東では、YKK戦争と呼ばれるような台数限定とはいえ、開店セールには テレビを 1円で売るようなビジネスになっていき、その家電量販店も、今やネット通販に取って変わられつつある。
以前は、ネット価格を提示しても、その価格での販売に応じなかった家電量販店運営事業者ですら、今は、ネット価格と同価格を言いだすようになっている。店舗を持って販売しているブリック・アンド・モルタルとも呼ばれる事業形態は、そもそも不利なのだがそうでもしないと、販売量が確保できず、利益が確保できない模様である。
ところが、このような量販店依存の生活になっていると、結局何が起こるか、というと、商品を扱っている地元の小規模商業者が廃業し、そして、大型量販店が撤退してしまい、店舗が近所に存在しなくなると、とたんに自転車、バス、電車に乗って買い物に行かなければならなくなるという現実に直面するのである。例えば、スーパーなどが撤退してしまうようなことが起きると、下手をすると、自動車での行動を前提としなければ、食料品ですら新鮮なものの購入すらできない、という厳しい現実、買い物難民と呼ばれる状態に容易になってしまうのである。
ここからが本論
いつもの様に余談が長すぎで恐縮である。さて、ことの発端は、このツイッターの投稿である。この方とは、いろいろ遊んでもらっているので、このツイートは、単なる情報提供であると思ったが、それでも、「何なん、これ」と思ったことだけは申し述べておきたい。松谷さんにものを申したいわけではなく、キリストの流通業界関係者に対してである。こういうフェアをやってくださるのは、確かにありがたいし、キリスト教がより広く広がり、教会の社会における認知が広まる方策として、そらポケモンGoよりはよほどまともだと思うし、キリスト教にとって良いことだとも思う。
この投稿を見たとき、「なんだぁ、しかし、全部東京で、じゃねぇか」と思ったのである。そして、地方にお住いのキリスト者の皆様のことを思うと、なんだかなぁ、と思ったのである。ミーちゃんはーちゃんは都市郊外に住んでいるので、最寄りのキリスト教書まで、大体20マイルなのである。ラスト・ワン・マイルどころではない。そのこともあり、重たい本を持ち運ぶのはだいぶんしんどいので申し訳ないが自宅まで搬送してくれる、某通販書籍販売サイトを利用させてもらっているが(イスラム社会関係の書籍が必要な家人もいるので、これはキリスト教書以上に一般書店では入手しにくい)、雑誌類は、そこでしか買わない、ということに決めている。
平日に行きにくいキリスト教書店の営業時間
現在は通勤経路から少し離れたところにキリスト教書店があり、まぁ、定期券がその近所までは利用できるので、頻繁に立ち寄るようになったが、そうでなければ、片道数百円、往復で1000円近くの経費をかけて、現物がみられるかどうかがわからない状態で、キリスト教書を捜しに行くことになるし、大体平日の帰宅途中に立ち寄ろうと思うと、年休でもとらないといけない。平日の終業時刻以降に仕事場を出た場合には、どうやっても平日のキリスト教書関係のお店の営業時間に間に合わない。
これで、どうやって、実際に世俗の仕事をしている青年層・壮年層、老年初期層といった人がキリスト教書が買えるというのか、と思う。まだ、ミーちゃんはーちゃんの場合は、出張で出た際に、東京や大阪で現物を見るということが時々可能であるが、そうでもない人はほぼ絶望的である。
休みの日に行くとしたら
交通費だけでも1000円超…
休みの土曜日に、往復数百円から数千円近い経費をかけて、それだけのためにキリスト教書を売っている店舗に訪れるなど、まぁ、ある種論外と思う。同一都府県や、隣接する都府県にキリスト教関連の書店さんがあればいいが、そうでない地域もある。そうなると、絶望的ではないか、と思う。そういう人々にとってみれば、折角の企画があるとお知らせされたところで、「あっしにゃぁ一切かかわりのねぇことで・・・」とこの方の様に言ってみたくもなる。
「あっしには関係のねぇことで…」で有名になった木枯し紋二郎
また、一応、この本がほしい、とわかっていれば、時間をかけてよければ、地元の書店(それがそもそも存続が怪しくなりつつある)経由で注文もできる本もあるが、どうやっても、キリスト教書の書店でなければ入手できない本も少なくない。また、本の広場(キリスト教書の販促雑誌)やいのちのことば(いのちのことば社の本の販促雑誌)なども、地方にいる限り見ることはないかもしれない。教会に送られてきたものにアクセスできれば、いい方である。これで本を買う気になりますか、といわれたら、恐らく買う気にすらならないのではないか、と思う。
どうしても欲しい、という場合、出版社に直接発注するか、大手書籍通販と比較して、それほど使い勝手が御世辞にもよいとはいえない教文館のウェブショップを使うしかない。努力をしておられるのは認めるけど。
その意味で、東京の書店でイベントが行われたとしても、関西居住者には、関係ないなぁ、という気になるし、関西でも、阪急沿線やJR西日本の京都線、神戸線を外れると、さらに関係が遠くなるし、関西でも、日本海側となると、もう何のことやら、山陰地方や四国、九州でも関係するのは、福岡、北九州くらいまでで、それ以外はこういうイベントやってくれる本屋さんを捜すことは、そんなに簡単ではないだろうし、そのようなイベントをしても集客が見込めないので、本屋さんとしても売り上げは見込めないのではないか、と思う。
牧師への神対応、信徒への塩対応
キリスト教書店でも、牧師さんには先ほどの、サザエさんにおける三河屋のサブちゃんのような営業してくれるが、個人の信徒となると、営業してくれないのはある面当然としても、大量に(50冊程)書籍を買ったとしても、教会にしか配送しないので、といって、それを自宅に配送してくれない書店の塩対応を受けたこともある。最近は、京都のキリスト教関係の書店の人と仲良しであることが判明したので、そこから送ってもらうこともある。1万円位まとめて買うと、その書店から直送してくれるようになったので、だいぶ助かるのだが。折角地元にキリスト教書店があるのなら、現物の本が確認できるようなその書店がなくなると嫌だなぁ、と思って、地元のキリスト教書店で発注しようとしても、こんな塩対応をされるようであれば、地元の書店をひいきのお店にする気もなくなる。
何年か前から、某Iのことば社の社員さんとお友達になったのだが、その方の動きを見ていると、大量の書籍を自動車に積んで、日曜日や他の曜日にも移動販売をしておられるようだ。こういうのは、地方の教会員からすればありがたいと思うし、本当にラスト・ワン・マイルとまではいかないかもしれないが、ラスト・ファイブ・マイルズ位にしてくれている感じがする。ただ、それも年に一回というのでは、ちょっと残念であるが。それと、キリスト教書キャラバンでも、I社系のキャラバンでは、自社製品が主力になるため、別の会社の本を読みたいと思っても、それの品ぞろえは十分でない場合も多いだろう。まぁ、一般のキリスト信者での利用者数が少ない別のキリスト教出版社のものは、限られた在庫しか持てないキャラバンでは仕方がないのかもしれない。
出版社との直接取引のめんどくささ
出版者の方は、「出版社との直接取引の方法がある」といわれるかもしれない。しかし、出版社っていう存在は、中間に卸や問屋のような介在事業者が介在するビジネスモデルが当たり前の日本社会において、案外今の日本人の多くの人々に取って、かなり関係は遠い感じがするだろう。また、出版社との取引となった時、注文書を送らないといけないとか、クレジットカード決済ができないことが多いので、その上、別の日に郵便局や銀行に行って、窓口やATMで支払いを済ませるなどということが起きる。この辺の面倒くささを考えると、なかなか直接取引、というのはコンビニ決済とか、クレジットカード決済などになれた多くの人々にとっては面倒なのだ。さらに言えば、決済口座の問題もある。相手方が自分の使っている銀行の口座から無料で決済で切ればいいが、そうでない場合も多いと思う。
都会に住んでいる皆さんには理解できないだろうが、出版社が口座を持っている東北や北海道、九州や四国にメガバンク(都市銀行)の支店は驚くほど少ない。数えるほどしかないのだ。もちろん、今は、大手銀行でもネット支店も解説しており、どこに住んでいる人でも口座を持てるとはいえ、多くの人の資金決済は、地方銀行、信用金庫、信用組合、農業協同組合、漁業協同組合等でしていることが多い。郵政民営化で、ゆうちょ銀行になったとはいうもののの資金決済には手数料がかかるので、その手数料も少額の決済では馬鹿にならないことが多い。
アマゾンも最近出こそ、送料を発注金額の少ない場合には請求するようになったが、送料なしで、決済もクレジットカードでしてくれるというのは、そして、インターネットさえあれば、24時間、365日、いつでもどこでも発注で来て、それが確実に到着するサービスというのは、同じ本を手に入れる方法として、ネット通販事業者と比べ、出版社との直接取引は、比較にならないほどの面倒くささである。この辺何とか改善できないか、と思う。
草の根の教会ブッククラブ活動とか
できないかなぁ
まぁ、流通事業者さんや出版社だけ責めていても仕方がない。買い手の側でも、何とか工夫して、安く本を買うための自衛型組織のような仕組みを考えないといけないのかもしれない。月1回くらいのペースで、買いたい本を集めて、教文館のネット通販での発注や出版社にまとめて発注するとかいうような仕組みを考えないといけないかもしれない。そういう工夫をするためのブッククラブなどを構成するとか、考えないと行けない時期に来ているので派内だろうか。そんなことを妄想している。ただ、現代の日本人は、こういうブッククラブみたいな共同活動はあまり得意ではないので、実際には難しいのかもしれない。
でも、いい本を気軽に実物を手に取ってみて、気軽に買える環境って、キリスト教書であれば、どうやればできるのか、それも特定の出版社の商品だけではなくて、多様な出版社の商品を、地方にいても現物を見ながら、手軽に買える環境がほしいなぁ、と思うことも少なくない。
なぜ、こんなことを書いているかというと、このブログでやたらと書籍の紹介が多いのは、都会からの遠隔地にいるわが友でもある(と、ミーちゃんはーちゃんが思いこんでいる)キリスト教書を読みたいと思っておられるクリスチャンたちと、こんな本は面白いよ、本の広場や、キリスト教雑誌や、キリスト教メディアの紹介だけではわからない、その本の面白さをご紹介したいからである。
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(8)
今日も、N.T.ライトさんの『新約聖書と神の民』からご紹介してみようと思う。今日は諸般の事情から、短めである。
仮説検証と実証
今日は、仮説検証の話である。この話は簡単ではない。実は、学問をするということは、学問的な伝統(それまでの学問の成果)に立脚しながら、それに関する違和感を感じたときに、これまでの理解に問題があるのではないか、という理解に立ったうえで、新しく検証されるべき仮説を立てる(できればそれを実証する)というのが、学問(科学的というよりは、間主観的な学問)の基本的な方法論である。科学ということは、単に自称「科学をやっている」ではなくて、間主観的な議論による検証をして、提案された仮説が妥当かどうかを確認するという作業をしているということで、この間主観的検証は、方法論として付きまとうのである。
「科学的」方法を説明するとき、通常「仮説とその実証/反証」に焦点を合わせるのには正しい理由がある。私たちは心理についての仮説を立て、それについての実験を通じて実証あるいは反証しようとする。では、私たちはどのように仮説を立てるのだろう。また、どうなれば実証または反証されたといえるのか。実証主義のモデルでは、仮説は知覚情報を通じて構築され、そして構築された仮説を確認、修正、廃棄するために、さらに多くの近く情報が求められる。私はこのような記述は誤解を招くものだとみている。優れた作業仮説が知覚情報だけで構築されるというのは事実とは異なる。実際、どの分野の思慮深い思想家もその様には考えていない。(『新約聖書と神の民』 p.84-85)
学問研究するときに、現場に出て考えたことで論文を書く人々がいる。要するに、過去の研究のレビューをしないタイプの研究である。随分前に指導したことが多かった学部生にこのタイプがやたらと多かった。過去の研究のレビューなしに、自分が始めて考えたのだ、といいはって、研究に新規性があるから、この論文の新規性を認めよ、といって卒業論文を出してくるタイプの学生である。
こういう論文が来た時には、こちらで、参考文献をいくつか挙げて、「これらの論文読んでごらん。これらの論文との違いをちゃんといわないとダメだよ。あなたが考えるようなことは同じようなことを考える人はいるもんだよ」といって諭すことにしている。今では、学術論文や書籍が電子データベースで検索で来て、キーワードで検索をかけるとすぐに出してくれる。場合によっては、その論文が読めたりする。ありがたい時代になったものである。しかし、それと同時に、このような論文を事前に検索し、読んでおき、それらとの違いを明確に言うことが必要になったともいえる。昔は、Citation Indexという冊子体の電話帳何冊分にもわたる書籍で検索するとか、関連する分野を研究しておられる先生に、「関連する文献ってどんなものがあるんですかねぇ」と聞いたり、関連する先行論文の参考文献リストから必死になって捜したものである。
仮説の構築には、もっと大きな枠組みが必要とされる。その枠組みとは「ストーリー」である。世界の中で生起する物事についての知識を得るためには、より大きな一連のストーリーが求められる。ここには常に飛躍がある。それは、ある特定の主題についての想像力によって生み出される飛躍であり、現状の無作為な観察から、ある種のパターンについての仮説を立てるに至る飛躍である。また実証とは無作為にデータを拾い上げ、それが仮説と整合するかどうかを確認する作業ではない。むしろ、仮説のある面についての疑問を解消するために、仮説そのものを含むもっと大きなストーリーに基づいた方法論が必要なのだ。しかし、ここで厳しい質問が投げかけられる。どのように大きなストーリーと特定のデータとが「整合」するといえるのか。この点について考察するために、ストーリーそのものについて詳しく見ていく必要がある。(同書 p.85)
ここで言っている仮説の構築とは、現在支配的なストーリー、世界観、物事の見方を跳躍し、メタ理解をしていくということを描いている。ここで言っている仮説の構築とは、一種天才的な人物による仮説の構築である。今の見方をいったん抜け出てみて、もう一度見方を作り直すための仮説の構築である。前にもこのシリーズの記事の中で、農学部の授業を受けていたときに、農学部のある教員が授業でいったような、とびぬけた天才が、これはこうではないか、というような仮説のことである。そして、秀才も凡才も、この仮説が正しいかどうかを検証しているというタイプの仮説のことである。こういう研究ができる人物は少なく、非凡なる才を持ちえない多くの研究者は、うらやましいなぁ、と思いつつも、地道にそのとてつもない仮説を出した人物の仮説に関する研究を追っかけるしかないのであり、そして、天才的な人物の主張が是認できるかどうかを検証(実証)しているに過ぎない。
アメリカ人の世界に関する世界観あるある
ここで、「また実証とは無作為にデータを拾い上げ、それが仮説と整合するかどうかを確認する作業ではない」とライトさんは書いているが、このタイプの実証は、統計学的な研究方法、データ分析的な研究方法で、実証研究と呼ばれる分野のことである。通常、Empirical Studiesと呼ばれるタイプの研究である。母集団から、ランダムに(無作為に)対象を抽出し、概ね母集団がどういう傾向にあるか、を研究するタイプの研究方法である。このような研究方法は、とりあえずどんな結果にせよ、結果は出るので、学生とかが大好きな研究アプローチではあるが、あくまで、自分が集めたデータに制約されるという問題がある。
ところで、実際に調査をするとなると、無作為抽出というのが案外難しいのであるし、その無作為性を担保するのは、現実にはかなり難しい。新聞やテレビの社会調査(たとえば、支持政党の調査や、内閣や大統領の支持率、ある政党の支持率)なんかの調査の場合、いくつかの地域や社会的階層に対象者を分割し、調査をして、結果を出す。しかしながら、そういう工夫をしても、訪問調査の場合、訪問時に対象者がいなければ調査はできないし、電話調査(電話番号にランダムに機械を使って調査のための通話をする)の場合も、電話に出てもらえなければ、調査もできない。その意味で、完全に無作為性を満たす、ということは難しいのだ。
だからといって、新橋駅前で100人に聞きました、とか、新宿駅前で100人に聞きました、というタイプの調査法はテレビでなら、まだお笑い、バラエティですから、で住むが、そのような方法論で論文を書こうとか、レポートをまとめようとか言うのは、調査とその結果としては完全にアウトである。こういう街頭インタビューで論文を書きたい、とかおっしゃる学生の方が案外多いのだが、この調査法にしても、どこで、何時ごろ、どんな格好で調査をして聞いたのか、調査対象者の職業や年齢といった属性はどうなのか、ということはかなり大きな問題になる。この辺の無作為性に影響を及ぼす範囲のことがきちんと処理で来てない限りにおいては、無作為調査とは言えない。なぜ、無作為性が重要かというかというと、無作為性が担保されないと、調査とその結果にバイアスが生じ、結果から何も言えなくなるからである。
おかしな街頭調査(これは、お笑いなら許されるが…)
実証分析やいわゆるアンケート調査は、簡単だと思われているが、そんなに簡単な方法ではないのである。
また、余談に行ってしまったが、ライトさんがここで言っている実証は、単にデータ集めて、それを計算機にぶち込んで、それから考えるといった、ミーちゃんはーちゃんがよく使うようなアプローチを指しているのではなく(それだって、結構大変だが)、もっと、思考的な実証ということを考えている様だ。
それに関して、今週の土曜日以降に公開する記事で、触れていくことになるが、人間が理解するとは何か、人間が思考するとは何か、あるいは人間の思考とストーリー(ないし世界観)がどのような関係あるか、について語っている。
本日ご紹介の部分は、その転換点となる部分であり、本来したくはなかったが、結果として、その節に関して全文引用する形になった(新教出版さん、山口さん、ごめんなさい)。しかし、この部分は、転換のためのピボットのような部分なので、あっさり読み飛ばしそうだが、実は重要な部分なのだ。
ということで、次回、今週土曜日公開予定。
評価:
N.T. ライト 新教出版社 ¥ 6,912 (2015-12-10) コメント:もう、知的興奮がとまりません。 |
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(9)
今日も、一部のコアなファンの皆さん方とともに楽しむため、N.T.ライト著『新約聖書と神の民』を読みながら、考えたことについて少し書いてみたい。
ストーリー、あるいは世界観、そして知識
今日からの部分では、人間の認識に影響を与えると思われるもの、つまり、ストーリー、あるいは世界観と呼ばれるもの(モノの見方である)と、その世界観、あるいはストーリーの中で構築される知識との関係についてである。このあたり、ミーちゃんはーちゃんが大学生のころになる10年から20年くらい前にサイバネティクスという人間の認知に関する議論が流行ったので、その名残がまだ大学の中で渦巻いており、この理論にまつわる話を大学の授業で聞いたことがある。そして、そのことを、世界観、Worldview ウェルタンなんちゃら ピューリタン『的』 そして 聖書『的』という記事で2014年6月に書いていた。これは、時々鋭いコメントをくださり、励ましてくださる「のらくら者の日記」の方の記事からインスパイア受けたものであった。
余談はさておき。
ストーリーに乗って行われる会話
ここで、(i)「ストーリー」と「世界観」と題する部分で、ライトさんは次のように書いている。人間の発言は完全には予見不可能ではあるけれども、会話をしているとき、会話において、ランダムな単語の羅列をしているわけではなく、何らかの共通理解において会話をしているのではないか、ということを述べておられる。どうも、マッキンタイアという人の所説をもとに、書いておられるようだ。
ところで、以下の動画の3分50秒くらいからは、文脈やストーリーを抜きにセンテンスとしては初歩的な文法に従っている文章を、発語内容は、発語までのそれまでの文脈とは無関係に並べるとどうなるか、ということを一人コントとして陣内智則氏が示したコントの動画である。
3分50秒位からの会話になってない会話が秀逸である。これは、ストーリーや世界観抜きに音声言語が述べられているからおかしく感じられるのである。
そのあたりの事を、ライトさんは次のように書いている。
ストーリーは人間生活の最も基本的な在り様の一つである。私たちは行き当たりばったりの行動をして、あとからそれを理屈付けようとはしない。人がそのように振舞えば、彼らは酔っているか、正気を失っていると思われるだろう。マッキンタイアーが論じるように、人間行動一般は、そして特に会話は「演じられる物語」なのだ。この物語が私たちの生活の基本的な枠組みであって、人々の行動や各人物はその文脈の中でのみ理解される。( 『新約聖書と神の民』 pp.85-86)
この本の脚注を見ると、この部分はマッキンタイア―の1985を参照するように指示がある。この本が困るのは、その本が何であるのかが、この本ではわからないところである。引用文献リストが下巻では付いてくるのだろうが(期待したい)、上巻では参考文献リストが見えないのがこの本が一番困るところなのである。恐らく、マッキンタイアーの1985とは、MacIntyre, Alasdair. 1985 [1981a]. After Virtue. A Study in Moral Theory. London: Duckworth. ではないか、と思われる。確証はない。
まぁ、軽いクレームはさておき、ここで重要なのことは、会話は、「演じられる物語」であるという点である。これが電子メールやSNSでいちばんこまる点なのだ。ごくわずかの時間差のみを伴い、空間的、社会的コンテキストにおける断絶の中で(相手に関する現状がわからない中で)、電子メールやSNSという限られた情報伝達手段、より正確に言えば、プアな情報伝達、即ち、必要最小限の情報しか伝達できない手段(このことをメディアという)を介して会話のようなものをしている場合、突然人間関係が崩れることがある。あるいは、炎上と呼ばれる現象が起きる。従って、電子メディアゆえに生じやすい、その人間関係における破たんの回避に気を使うことがネット時代では求められるのだ。ある発話者本人は冗談を言っているつもりなのが、受け取られたメッセージとしては、強烈な批判的文言ととられることがある。この辺の言語表現の落差に伴う感覚が、案外インターネット経由でのコミュニケーションでは難しく、特別な配慮と技法が求められることになる。つまり、この配慮の部分で手を抜くと、下手をすると、お互いコミュニケーションする際の参照枠(世界観とかストーリー)が崩れてしまい、「何が言いたいのかな?」程度ならまだよいかもしれないが、こじらせると「気に食わない人だ」とか、「出入り禁止」とか、ブロック、とかにすぐになってしまう。
ところで、案外福音派の人が、世間一般から煙たがられたり、世間一般から遊離して見えるのは、福音派の一部の方の言語ゲームというのか、演じられる物語が、世間一般の演じられる物語とは、かなり遊離しているという部分があるからではないか、と思う。
もう少しいうならば、伝道がなされる状況なら、少々の無理はしても良い、と土足で人の家の床の間に上がり込むように、人のこころの中やプライベートな部分にずかずか入ってきて、挙句の果てに、「あなたは罪人である」「悔い改めないと裁きに合う」「神を怖れよ」「地球は滅びる」と結構強烈なことを言い始めるからではないだろうか。ちょうど、先の動画の5分0秒あたりの豹変したダニエル君の様な物言いをするからであろう。
ストーリーは実は強力
人間は、暗黙のストーリーとは、たとえば、「英国人らしく生きる」とか、「日本人として生きる」というような生き方や話し方を求められたり、明快に示されたストーリーとは、たとえば、日本で自動車は道路の左側通行とか、アメリカでは、自動車は道路の右側通行とか、日本では、自転車は歩道通行が許されていた時期が長かったが、今では原則自転車は車道通行となった。10年前くらい前には、カリフォルニア州で、日本人の留学生や旅行者が歩道通行するので、結構問題になっていた。
H.M.S. Pinafore: "He is an englishman"
(本日はオリンピック開会式があるらしいが、オリンピックつながりで言うと、この歌が『炎のランナー』でも、パリ・オリンピック大会に向かうときの歌として出てくる。)
The Simpsons の登場人物Sideshow BobによるH.M.S. Pinafore名場面集
人々は暗黙の、または明快に示されたストーリーを土台としており、それによって形成されているといえる。ストーリーは、「人が自分自身について、あるいはお互いについて語り合うため」に必要なものなのだ。「(中略)だが、ストーリーなど使わなくても、言いたいことは伝わるのだ」という一般的な通念とは相いれない。ストーリーはしばしば、「抽象的な真理」や「ありのままの事実」よりも劣るという不当な評価をされて来た。もう一つの不満足な見方は、ストーリーを修辞的な格言やそれに類するもののショーケースと見なすものだ。ストーリーは人間生活の基本的な構成要素である。(同書 pp.86-87)
この部分を見ながら、ストーリーと呼ばれるものは、日本では会話の(非身体的な言語使用における論理世界における)お作法とでもいうものなのかもしれない、と思った。
たとえば、かなり論理的なことを語るためには、順序を追って語ることが必要なのだ。例えば、数学なんかの話をしているときには、ほぼ無関係と思われるようなところから話をはじめないといけない場合がある。
そういえば、私の若い友人がある所で書いていたことに、学者とかオタクとかは、話をはじめるために、相当遠いところから話さないと話せない、という傾向があることを指摘していた。彼曰く、学者とかオタクとかは、遠いところから話し始めて、興が乗ってくることは、大事なことを話し始めるためのスイッチなのではないか、ということを書いていた。
まぁ、これは人によるかもしれない。ある程度教養というか、業界で共有されている前提条件(恐らくそれがストーリーということだと思うのだが)が共有されている場合には、話の確信に行くまでの距離はかなり短縮できる。
例えば、水理学や流体力学を話す際に、ナビエ・ストークスの連立方程式の基本コンセプトを知っているかどうかで、だいぶん話の長さは違ってしまうのだ。但し、ナビエ・ストークの連立方程式がわかるためには、差分方程式ないし微分方程式ということがわかっていないとだめであり、そのため、微分や差分という概念が分かっていないといけないし、また、連立方程式がわかってないと議論ができないことになるのである。一般の文系的な意味とのストーリーとは違うが、理系でも、一種のストーリーは存在する。
ナビエ・ストークスの方程式
しかし、近代という時代において、物語とか、ストーリーというと、荒唐無稽な物語や、冒険活劇のストーリーラインや、神話と同一視する文化ができてしまったので、ライトさんがここでいうように、「 ストーリーはしばしば、「抽象的な真理」や「ありのままの事実」よりも劣るという不当な評価をされて来た 」といってよいと思う。しかし、ここでストーリーといっていることは、議論の前提条件だと思う。例えば、「死後にいのちがある」とか、「神は人間と関係なく存在する」とか、「神は人を愛している」も議論の前提であるという意味でのストーリーである。例えば、日本正教会では、イースターの時に、司祭が「ハリストース、復活」といったことに対して、会衆は「実に復活」と返すのだが、その前提として、「イエスは十字架にかかったが、復活して、今も生きている」というストーリーが共有されているからこそ、この呼びかけと応答が意味を持つのである。
あるいは、もう少し卑近な例で言えば、神社が聖域や神域という概念があればこそ、神社でPokemon GO!をすることを避ける人々がおられるのであって、神社が聖域や神域という概念というか物語、あるいはストーリーが共有されていないからこそ、神社でも、お寺でも、どこでも、Pokemon GO!ができるのである。あるいは、神社が聖域とか神域という概念がない、あるいはその概念を無視して生きているからこそ、ある種の福音派の人々は、初詣でのころに、人での多い神社の前に行って、「悔い改めなさい」、「信じるものは救われる」「死後に裁きがある」とかいう黒背景に白字や黄色の背景に黒字(阪神タイガースカラー)のプラカードを掲げたり、そのような文言を車に大書した車から、ラウドスピーカ―で聖書の中から、ここまでおどろおどろしい表現をよく選んできましたねぇ、と思うほどの聖書のことばを大音量で放送しておられる。
キリスト看板の方々の放送車
価値の連鎖としての世界観
先ほど、Pokemon GO!やキリスト看板の人々を例にして、ストーリーあるいは世界観が共通であるかどうか、前提条件のネットワークに人々がつながっていることや、前提条件として人々の間で共有されているかどうかが結構重要であることをお話してきたが、そのことが人間の精神世界の案外根深いところにあることについて、ライトさんは次のように書いている。
これから見ていくように、人間が現実を認識するためのグリッドとしての世界観は、人間の「信仰」や「目的」 という形で意識に上ってくる。それらの信仰や目的は原則的に議論の対象となる世界観を表明するための役割を果たす。そのため、世界観そのものを特徴づけるストーリーは、人間の知識という地図の上では、神学的信条の様な定式化された信仰よりも、さらに根源的な地点に位置づけられる。(同書 p.87)
差別意識や民族意識、自民族中心主義や、中華思想的なものなどと、ストーリーや価値感はつながっている。あるいは、根拠のない自信、といったものも、ストーリーにかなり近いものだと思う。ちょうど、知識が表層とすると、ストーリーや価値観は岩盤というか、マントルレベルの深さにあるものというようなものである。つまり、人間の認識世界そのものの、基底(Base)を為しているものということなのではないか、と思う。マントルやマグマが、地の底の見えないところで動いていて、つながっていて、それが相互に影響していて、時々、それが、火山の噴火のように吹き出し、極端な場合は、地表のかたちを一瞬にして変えてしまうようなことが時に発生するように思う。そして、このような地表面の変動は、後に地図に表現されることになるが、この地表面の激変により、地表上に独特の地形というか風景を作り出す、ということと似ているかもしれない。
懐かしのマグマ大使(本文とほぼ無関係、日本の特撮の出発点 )
古代のストーリー、現代のストーリー
言うまでもないが、世界観をもっともわかりやすい形で具体的に表しているストーリーは、未開で素朴な世界の住民たちの語る、世界全体や特定の民族の起源について説き起こす創世神話である。(中略)しかし、現代においても似たようなストーリーを見出すことができる。例えば政治論争で物語が活用されている。(中略)テロリズムについてのストーリーは、テロ撲滅を叫ぶ右派政治体制を正当化するために使われる。 (同書 p.87)
たしかに、わかりやすいものとして、神話の世界というのか、自分たちがどこから来たのか、というようなストーリーは、自己の存在の正当性、自分たちがここに住んでいる正当性の根拠として、必要なのであるので、様々な形でそのことが言及されることがある。ただ、その正当性あるいは正統性の歴史をどこまで引き戻るか、が問題になることが多い。
パレスティナの話で考えてみれば、そのことは理解しやすいのではないか、と思う。アブラハムがカランを出て、カナンに来るまでは、アブラハムないしその子孫が、カナンと呼ばれる地に定住していなかったわけで、イスラエル民族の存在の正当性の根拠はかなり怪しくなる。あるいは、根拠としてさかのぼる時間をダビデ・ソロモン王朝期に合わせれば、現代のイスラエル人のカナン定住は一部にかなり無理筋があるとはいえ、根拠があるとも言えるかもしれない。しかし、荒野をモーセとイスラエル人が歩いていたころに照準を合わせれば、イスラエル人のカナン定住は根拠が急に怪しくなる。アブラハム時代に合わせて、神のアブラハムへの約束を考えれば、また、その根拠には一部かなり無理筋があるとはいえ、根拠がなくもない。その意味で、どの時代の状況、あるいは社会的な状況を根拠とするストーリーで考えるのか、ということを考えてみることは、案外大事なのである。
このストーリーの例を近代に求めるなら、アーリア人優等民族説とか、をあげることができるだろう。あるいは、この1年間に起きた大量殺人事件の報道では、大量殺人事件をすぐテロリストと結びつけ、そして人々の恐怖をあおり、新聞や雑誌の売り上げのための道具に使われる。このような報道は、テレビに人をかじりつかせ、テレビでの広告料は跳ね上がる。ある面、意図的にテロといっているのではないか、何でもかんでもテロにしているのではないか、とも思いたくもなる。
イラク開戦なんかは、大量破壊兵器というストーリーに皆さんが関与して言ったことは忘れてはならない。イスラム関係者恐怖症(Islamophobia)は、ある意味で、近年の出来の悪いマスコミ発のストーリーなのではないか、と思われる。
大量破壊兵器があるといったブッシュ君のスピーチ
共同体が生み出し、共同体が強化し、共同体を強化し、
他者を排除しかねないするストーリー
共同体に選択的に、あるいは、機会的に参加することで、世界観は外生的に与えられ、そのコミュニティにいる以上、それを尊重することが求められることが多い。企業内での特定の学校の同窓会などの組織は企業内の利権組織として働くこともあることなどに見られるように、その組織と世界観が、常によいものであるとは言い難い。そして、このような組織や共同体の存在が、すべての人に、良い影響をもたらさないことは、談合組織や業界団体などで見られる現実を思えばかなり明らかではないか、と思う。
それは家族、職場、同好会、またはカレッジにおいて共有されている世界観を体現し、強化し、恐らく修正するものだ。そのため、ストーリーは世界を体験するために不可欠な枠組みを提供する。ストーリーは、世界についての在る見方に疑問を呈するための手段ともなりうる。(同書 p.87)
人は、自分が話している母国語に愛着があることもあり、自国語を優先し、他の国で利用されている自然言語を使うグループに対して差別的な、あるいは区別的な対応をとることがある。もちろん、それは自然言語のみで起きるのではなく、人造言語であるプログラミング言語でも、自分が使うのが得意な言語とか、自分が使っている言語を誇るところがある。マニアックな世界の話で恐縮あるが。古くは、マシン語族や高級言語族が生まれ、高級言語族がさらに細分化され、フォートラン族、Basic族、COBOL族とかが80年代くらいまでは、寡占状態であった。その後、PL/I族、Pascal族、Java族、C++族、C#族、Python族、Ruby族などと多様な高級言語族が生まれ、現在は、情報技術を利用する分野によって使われる言語が異なるほど、分野でのすみわけが行われている。つまりは、高級言語の群雄割拠状態ではある。
この傾向は、OSになるとさらに顕著で、iOS族、DOS族、Windows族(これには、Windows NT族とか、いろいろ支族がある)、マック族、リナックス族、Free BSD族、といった感じで、OSごとにファンがいて、この間の溝は埋めるのは難しい。しかし、多様なOSが存在することで、初めて見るOSが存在することで、自分たちのOSの限界に気が付き、そして、自分たちのストーリーが見直されていって、劣化コピーとか悪口を言い合うこともあるが、どのOSの世界でもグラフィカルな表現能力が向上していることは実に喜ばしい限りではないか、と思っている。
次回、水曜日公開予定。まだまだ続く。
評価:
N.T. ライト 新教出版社 ¥ 6,912 (2015-12-10) コメント:面白い。 |
「もののけ姫」の世界観とN.T.ライトとストーリー(世界観)
先日地上波テレビで、「もののけ姫」をやっていたのだが、前半部分は、作業をしながら見ていたので、あんまり正確な記事ではないが、ご容赦いただきたい。
もののけ姫の最後のシーンが印象的…
まぁ、ちらっと見たのは、最後のシーンである。ちょうど、シシ神様の首が切られて、だいだら法師状になられて、首を捜しまわって、溶けだした科のように見えるからだの一部が、たたらをぶっ壊し、自分の首を持って移動する人間たちを追いまくっていたあたりのシーンだけ、ちょっと見た。
首が伸びていくシシ神様
だいだら法師に変態する前後のシシ神様
切り取られ鉄桶に入れられたシシ神様の首
切り取られた首を捜すだいだら法師(変態後)様
これを見ながら、あぁ、日本の自然理解、日本の神理解がよく表れたアニメだなぁ、と思ったのである。結局だいだら法師様に変態したもの(遺体なのか、死亡後の流動化した遺体の一部なのかは定かではないが)が、地表上を覆い、そして、たたらを壊してしまう。
宮崎アニメにおける回復
ところで、だいだら法師様の遺体の液状化したようなものに触れると、やけど状の傷が身体的には残るとういことのようなのだが、だいだら法師様の遺体の液状化したものを大量に浴びることになる主人公二人は、その液体状のものを大量に浴びた後、その傷が回復するようなのだ。さらに、この液体状の何かが、大地を覆った後、大地に緑を変えていき、もともとたたらの鉱害被害なのか、燃料としての木の切りすぎなのかわからないが、自然破壊されていった大地というか土地が、緑に覆われ、回復されていったところが、実に印象的であった。
破壊されていた自然
だいだら法師の遺体なのか、遺体の液状化したものなのかによって回復された土地
この宮崎アニメで特徴的だったのは、シシ神ないし、だいだら法師の液状の遺体によって覆われることによる回復があるということであった。非常にアジア的な、一種輪廻思想というのか、仏教思想にもどこか通じるものを感じさせるというか、ある種の諸行無常というのか、自然の前では一種人間的な努力や工作物の無力さというか、ほとんど有効でないこと、それを上回る自然の力というか、植生や植物的な生命体を中心とした自然への信仰、がどこかテーマになっている。
ジブリ映画の宮崎アニメのラストシーンでは、緑に覆われた”何か”が出て来ることが多い。天空の城ラビュタの最後のシーン付近で登場する巨神兵は緑に苔むしているし、風の谷のナウシカも自然の回復がテーマであるし、風立ちぬでは、戦争で破壊された航空機が苔むした形で出てくる。紅の豚では、流石にこういう自然が覆う形での回復というモティーフは使われなかったが、回復が隠しテーマになっているようである。回復という意味では、千と千尋の神隠しも回復がメタファーとはなっている。ポニョとかアリエッティとか見てない作品も多いので、どういう傾向にあるのかは、明確に言えないが、最近の作品では回復がテーマになっているものも多いような気がする。
さらに言えば、宮崎アニメの終末観というのか、終末論は、植物的な緑による回復、自然界の力による回復と癒しが語られる。最近の宮崎アニメのラストシーンが植物に半分覆われた人工物が描かれていることからも、その癒しの主体は植生を中心とした植物的な終末であり、植物的な回復である。
しかしながら、聖書全体に通底する終末観というのか、聖書全体に流れる終末論は、神の力、神の主権の回復、神と人との回復であり、神が人と共に住まうということに焦点があるような気がする。その神は、人との対話なく、人の意思とは無関係に、人間とその社会を包み込もうとする植物ではなく、人と対話する人格的な存在である神とその対話に焦点が当たっているような気がする。
宮崎アニメに表現されたストーリー・世界観
その意味で、宮崎作品の背景となっている思想というか宗教思想というか、その背景にある日本型の宗教思想、日本型の信仰は、自然信仰なのかなぁ、と思った。所詮漫画に過ぎないアニメ作品に思想があるか、とおっしゃる方もおられようが、別連載でここのところ取り上げているNTライトの『新約聖書と神の国』の隠しテーマであるストーリー、物語、世界観、ウェルタンなんちゃら、何と呼んでもいいが、それがアニメ作品にも表れているということを言いたいのである。宮崎アニメのストーリー、物語、世界観としては、人間が何をしたところで、結局それを圧倒的な力で回復する自然が存在する、という一種の自然信仰なのだろうと思った。アニミズムとは別種の自然というある種の西洋的言語で表示される概念による救済ということへの確信が表れているのだと思う。
この自然というわけのわからないもの、人間にとって他者性を持っており、生と死を併せ持つ存在のシシ神、時に回復神となり、時に祟り神となる存在による回復というテーマは、キリスト教的な理解とは違う。もちろん、かなりの部分のキリスト教徒にとって、そして、かなりの部分のユダヤ教徒に取って、また、大半のムスリムにとって、神、YHWH、アッラーは回復神である。自然そのものではない。ここが宮崎アニメに表現されている日本的、あるいはアジア的な世界観と聖書における世界観が断絶している点ではないか、と思うのである。
なお、なお、このあたりの事をお考えになりたい向きには、当ブログの記事では、『富士山とシナイ山』に学ぶのエントリーないし、日本人神学者で世界的に評価を受けた存在である小山晃佑さんの『富士山とシナイ山』を直接お読みになることをご推薦する。聖書は西アジアで生まれた宗教的文書であるが、東アジア的な思想と断絶した部分があるのである。
N.T.ライトのいう認識のためのグリッドとしての
世界観の共通ノードがあるのか?
つまり、聖書の世界とそれに関連する世界観を共有する世界(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)におけるストーリーと現代日本アニメである宮崎アニメとの間には、ネットワークが形成しがたい、一種異質なものであるということになる。同じ神の物語であるとはいえ。その意味で、N.T.ライトさんが言う「人間が現実を認識するためのグリッドとしての世界観」として、共通のグリッド、ないし、ネットワーク理論で言う共有ノードがない可能性が高いということであろうと思う。
もちろん、様々なものを包摂する母なる大地ないし地母神という概念については、ヨーロッパや近東の土着型信仰にあるのは知ってはいるが、回復という概念まで含むのかどうかは良くわからない。あることは確かであるが、日本型の包摂と同じかどうかに関しては知らない。しかし、聖書の神は、植物の様に人間と人間が生み出したものを有無を言わさず包摂することはない。人格的な対話を求めていく神である。人間に生きよ、と明治、神との主体的な対話を求める神であるように思う。有無を言わさず、問答無用で「従え」という神ではないような気がする。あくまで、人の意思の存在とその意思を重要視する神であるように思うが、宮崎アニメの世界のシシ神ないしだいだら法師の包摂は、有無をいわさないタイプの包摂観に彩られているように思う。
これらのことを考えると、日本人の宗教理解である、どの道をたどっていっても基本的に同じ(したがって、神道も仏教も、キリスト教も、儒教も、イスラムも、ユダヤ教も同じ)というかなり荒っぽい宗教理解は、かなり無理があるように思う。さらに、だいだら法師が人間の世界の主人公二人を飲み込むかのように包摂していったように、全ての信仰や思想的なものを問答無用で、さらに、有無の言わさない形で、「どの宗教も同じ」と何でもかんでも丸呑みしてしまう、その猛烈さが、最後のシシ神、ないしだいだら法師が地域全体を飲み込んでしまうストーリーにかかわっているのではないか、と思った。
この全てのものを包み込んでしまおうとする論理は、割と新宗教(概ね第2次世界大戦前に成立した日本型宗教)、新新宗教(概ね第2次世界大戦以降に成立した日本型宗教)と呼ばれ、分類される宗教群でも、共通であるが、詳細に眺めてみると、その信仰の前提というか、その信仰の背景となるかなり深い部分でこの論理が破たんしているような気がするが、
ブタが神の表象なのはおかしい?
ちょうどこの映画を見ているときに、バリ・ヒンドゥー教の世界(家庭では、バリ・ヒンドゥー教)と、キリスト教の世界(初等教育では、カトリック学校)で育った長女の友人が一週間ほど、関西観光で宿泊していたのだが、このアニメの乙事主というイノシシないしブタが神の表象(メタファー)となされているのをみて、「え、なんで、ブタが神様?なんか変」とインドネシアなまりの在る英語交じりの日本語でしゃべっていたのが、とても印象的であった。
なぜ、ブタが神様なのがおかしい、と彼女が思ったのか、その理由を聞き忘れた。
言われてみればそのとおりなのだが、特に、ユダヤ教、ムスリムのブタに対する忌避感を考えると、ブタが神であるのは確かにおかしい。まぁ、所詮、日本の物語だから、とミーちゃんはーちゃんは特段、そこまで変だとは思っていなかったものの、どう考えても、おかしいと思う。
その理解の背景にあるのが、それぞれの民族ないし個人、ないし社会が持っているストーリーや世界観であり、これらのものがいかに人間の理解(ミーちゃんはーちゃんの理解を含め)に影響しているのか、ということを感じた。
そして、日本のアニメが世界を席巻する中、宮崎アニメのユダヤ世界の若者や欧米居住のイスラム圏出身の若者における、学問の対象としての受容とか理解とはどうなるのだろう、と思ってしまった。まぁ、これはミーちゃんはーちゃんだけがニタニタしている妄想に過ぎない。
乙事主様
まぁ、この記事は、前回やった「N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(9)」で出てきた、世界観、ないし、ストーリーの強固さを、もののけ姫を見たときに感じたことをやってみたに過ぎない。その意味で、日本人の理解の文脈としての世界観やストーリーがこのもののけ姫に現われているなぁ、と感じたのである。
トトロの英語版予告編
トトロの原型とされるトロール ”こんばんわ! (ヨン・バウエル, 1915) Wikipediaのトロルのサイトより
両者は似ても似つかないなぁ。
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(10)
今日もまた、N.T.ライト著『新約聖書と神の民』から読みながら考えてみたことをお示ししてみたい。だんだん、コアな部分に近づいてきた。要するに、福音書記者の表現の問題、何を表現しようとしてきたのか、その表現様式や、パウロとパウロの主張をどう考えるか、というあたりに近いところをの議論の頭だしみたいな部分になってきている。
物語にまとめていくのが普通だった新約時代
物事には、語り方の様式があるものがある。日本では、伝統芸能にそれが残っている。いわゆる能や狂言では、いわゆる登場人物は自己紹介をする形で始まるものがあるし、落語なども別の形の語り方の様式を持っている。というのは、いわゆる”枕”とか客いじりとか呼ばれる部分である。この幕らと呼ばれる部分で、本論に入る前の観客の緊張を解き、噺家(演者)と、聞き手の距離を詰めていったり、今日の客層の笑いのツボを認識していくことが多いようだ。
別の語りの様式として、大学の授業なんかもある。大学の授業とかの場合には、「はい。これから授業をはじめます。テキストの何ページをお開けください」といきなり本題を切り出すタイプの語り方の様式を持つ場合もある。
大河ドラマでも、前回のおさらいとか、今日の概要をちらっと見せて、主題曲になり、いよいよ本題に入っていくタイプの様式もあれば、いきなり、主題歌を流し、そして、前回のおさらいをやって、その回の本題に入っていくものもある。
ii)「ストーリー」と「ユダヤ人の世界観」と題された部分では、ユダヤ人の世界観に相応しい語り口、表現方法の独自性があることを以下のような文章で示している。
ストーリーが世界観の基本的な特徴だという事実は、ユダヤ人の世界観とその多様な変種に優れた実例を見いだせる。それらは一連の信条には単純化できない。もっともことわざ的で警句的なものでさえ、ユダヤ人の文学は契約の神、世界、そしてイスラエルについてのユダヤ人のストーリーという、根本的な土台の上に成り立っている。1世紀の大部分のユダヤ人にとって、ストーリーという様式は間違いなく彼らの世界観を表明するための自然で至極当たり前の手段だった。(『新約聖書と神の民』 p.88)
ここでの主張は、ポイントにまとめ上げられ、箇条書きのような表現方法をそもそもユダヤ社会で形成されていったキリスト教は持っていたわけではなく、もっと語りに近い形式、物語に近い形式で聞き手や参加者をその世界に引き込んで、その世界では、神の存在と人間のかかわりがある物語の様な世界で語られていた、ということをご指摘になられたいようだ。
つまり、現代のキリスト教の一部のように、自分たちの信じていることの箇条書きのような形で信仰を確認するのではなく、物語のかたちで神と人との関わり合いが語られ、そして、そのストーリーのいろんなところに神が顔を出し、そして、人間と関与し、人間が神に関与してく様な物語として語られたのではないか、というご指摘である。その意味で、神の存在は普遍的存在であり、いつでもどこでもそこにいるかのような存在として語られることが多いのは、そのとおりである。
また、確かに新約聖書のストーリーは、マクナイトが『福音の再発見』でも指摘したように(というよりはライトの見解に沿ってその記述をしているように、という方が正確だと思うが)旧約聖書の世界とユダヤ人の世界に乗っていることは間違いなく、新約聖書と旧約聖書の間の隣接関係は非常に深い。ある面で、旧約聖書がわからねば、当時のユダヤ人の背景がわからねば、新約聖書はわからないといっても過言ではない。
その意味で、新約聖書と旧約聖書の連続性が強いことを考えると、キリスト教徒と呼ばれ始めたころには、ユダヤ教徒とキリスト教徒の両者は、完全に別種のものであった、といいきれるかどうか、ということに関してはかなり検討が必要であろう。もちろん、パウロの語りにはギリシア的な語り口(レトリック)もあるだろうが、それと同時に、ユダヤ的なものでもあったことも忘れてはならない。そもそも、パウロの伝道は、もともとユダヤ会堂で行われていたのであり、街角や路傍で伝道していたわけでもなく、教会でのみ伝道したり、新約聖書のみを解説していたわけではなく、むしろその多くを旧約聖書に依拠して語っていたことを忘れてはなるまい。
みんな大好き、物語?
iii)「ストーリー」の持つ力と題された部分では、ライトさんは学者の間でも、好まれていることを語る。
ストーリーは子供たちや純粋に楽しみのためにそれを読む人々の間では決して人気が衰えないものだが、それは学者の間でも、特に聖書学者たちのギルドの中で近年人気を博するようになった。(p.88)
まぁ、物語が割と愛好されているのは、ディズニーランドやUSJを見てみれば、わかる。ディズニーランドや、ディズニーシー、ディズニーワールドにしても、USJにしても、そこには物語の登場人物が描かれており(たとえ、その舞台の実情は、ほぼ書き割りと薄いベニア板で構成された舞台装置の上での演技であるにしても)、それを大人も子供も楽しんでいるのだ。アメリカでは、大人も割と単純にディズニーランドを楽しむ人々がいる。カリフォルニアに住んでいたころ、ディズニーランドに何度も行ったが、ある時、ゆりやんレトリィバァの様な体型のアリスのコスプレをしたアトラクションのオペレータ(船に乗って進んでいく、物語周遊の様な船の乗務員がたまたまアリスの格好だったが、それがかなり豊満な体系の方で…)に出会ったことがあり、結構ドン引きした記憶がある。いわゆる興ざめしたのである。
ところで、学者も物語が好き、という表記があるが、学者で物語が好きだった人物は多い。古くは、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルは数学者だったし、近代でもC.S.ルイスは『ナルニア物語』を書いているし、『指輪物語』を書いたトールキンは学者であった。いまだに米国では、文筆家というか作家は、基本的に英文学者であることが多い。
学者でない文学者が多い日本とアメリカでは、文学に関する考えが違うことが多いのかなぁ、と思うことが多い。なぜなのかは良く知らないが。
物語と読者の関係
物語は、物語として、解析的に分析され、それを理解可能なように分解し、組み立てられたものとして読むことをここでは、「翻訳する」とライトさんは呼んでいるようであるが、近代という時代は、物語であれ、何であれ、解析して、ばらして、理解できる形に「翻訳する」ことで、一応理解可能にしない限り、納得できないし、納得しない時代であったように思う。しかし、それがいかに無味乾燥であるかは、例えば、桂米朝師匠の話芸をどれだけ分析して、さらにそれを部分に分け、組み立て再現したところで、桂米朝師匠の話芸と同じものができるか、というとできないことからも分かるように思う。その意味で、総合的に味わうことが重要なはずなのだが、それを容認しなかったところが、近代という時代ではなかったか、と思う。
物語を何か別のものに「翻訳する」代わりに、私たちは今こそ物語をあるがままに読み、その者として理解するように促されている。文学的にも神学的にも、これは素晴らしい展開だろう。もちろんある程度のチェック・アンド・バランスは必要だが、大筋ではもろ手を挙げて歓迎すべきだろう。
さらにこの探求において、ストーリーがそれ自体で、また他のストーリーとの関連で、どういう働きをするのかを考察する。ストーリーはその内部に、構造、プロット、登場人物を含んでいる。ストーリーには様々な修辞的技法が用いられるが、それらはナレーション様式(ナレーターは劇中の登場人物の場合もあれば、すべての出来事への特権的洞察を持っている場合もある)、アイロニー、葛藤、「フレーミング」のような異なる物語様式、などなどを含む。ストーリーは「理想的な読者」と呼ばれる読者層を想定している。つまり、ストーリーそのものが読者にある種の適切な読み方をするように促していることになる。これらすべては読者のストーリー理解に特有の影響を及ぼす。(同書 pp.88−89)
ところで、翻訳は内容を解析、分析し、それをくみ上げたものといえるのではないか、ということを引用文の前で紹介したが、如何なる翻訳であれ、翻訳である限り、いかに正確な翻訳を心掛けたとしても、基本的には、バイアスが入る。少なくとも翻訳者のある言語で書かれた作品の解釈の際に紛れ込むバイアス、翻訳者が別言語で翻訳していくうえで生まれるバイアスがはいる。この段階で二段階のバイアスが入っている。さらに、翻訳された文章の読み手の言語の語彙のバイアスももちろんあるし、どのような環境で読むかによっても、読み手の意識が変わるので、そのような意味で、読み手の意識レベルでのバイアスが生じることがある。
理想的な読み手が想定されているという問題に関しては、いきなり聖書では、大変だろうから、まず具体的に、俳句の英訳を考えてみればわかりやすいかもしれない。日本人の心象世界(ストーリー)が共有されていない英語話者のために、俳句を英語でどう表すのか、結構難しいことは少し考えてみればわかるだろう。その意味で、俳句のストーリー、文学的背景、心象世界に取って、日本人は理想的な読者であるし、ジブリアニメの中でも、ベタ塗りをしない日本型アニメ『かぐや姫の物語』にとって、日本人は理想的な鑑賞者であり、それを想定して作られている。
かぐや姫の物語
映画や物語には、劇中劇の構造を持つものや、構造の複雑な入れ子構造、カットバック(実はその5日前に…とか、ストーリーラインを構成するポイントとなるイベントを後出しじゃんけんのように表現することでし)により、現代から過去に話と時代を少し巻き戻しながら、表現をすることがある。
また、「赤頭巾ちゃん」の物語では、おばあさんを食べたおおかみと赤ずきんちゃんが対話するし、「アンパンマン」の世界では、あんパンと人間や、カバや、ウサギや、カレーパンやバイキンや、ガイコツが対話する世界なのであるが、それが完全に共存し対話するのである。昔の漫才師”人生幸朗・生恵幸子”師匠なら、
さて、皆さん、今の世の中、訳の分からんことが多すぎる。ご存じですか?え、アンパンマンという漫画。私は、あれに無性に腹が立つ。
(何いうてんねん、この泥ガメ)
あれね、アンパンやら、カレーパンやら、食パンが空を飛んだり、話をしたり、実にけしからん。ばかもん。
(お話の世界やないの)お話の世界とはいえ、あんなにアンパンやら、カレーパンやら、食パンが空を飛んだり、大声で話をされては、パン屋がうるそうてかなわんなるわ。(子供さん、楽しみにしてはるんやから、そないいわんと。)そんなあほな話がおますか。子どもの教育にようない。どこの世界に声出して話したり、空を飛んだりするパンがございまっか?どないなっとうねん。責任者出てこ〜〜〜い。《この責任者出てこいが、この漫才師の定番のオチ》
人生幸朗・生恵幸子師匠のマンザイ(歌謡曲をくさすのが得意であった)
文化が違うと、同じ作品でもそれが別文化に移植され、作り替えられる中で、かなり変わることがある。
例えば「東映戦隊もの」は米国で「パワーレンジャー」として焼き直されているが、日本の作品では、悪を倒すことに焦点がかなりあっているにもかかわらず(これは時代劇と同じ構造を持ったストーリー)、米国では、人間的成長とか、個人の成長、チームの行動とそこでの友情がテーマとして作り替えられていることが多い。たまたま、幼稚園児だった長男が見たギンガマンを1年後にアメリカでPower Rangers Lost Galaxyとしてリメイクされた作品を見たのだが、かなり解釈が違うのは、文化の違いが表れていてかなり面白かった。
ギンガマン(日本版)
Power Rangers Lost Galaxy(アメリカ版)
アメリカの映画でも、コメディ物は特にアメリカを同時代で体験していないとつらいことがある。例えば、アメリカ映画のコメディ物は、その年の流行言葉やCMなどのオマージュをしていることもあるので、そのオマージュのソースがわからないと、一体何が面白いのやらになってしまう。このブログにも時々登場するシンプソンズもそんなところがあって、アメリカ文化の中で初めて意味を持つギャグというのがないわけではない。その意味で、サブカルであれ、メインストリームの文化であれ、このあたりのストーリーを適切に読み解く能力を求められる作品は案外多いような気がする。
古代人が、古代人のために書いた文書
高等学校時代にミーちゃんはーちゃんが最も嫌いだったのが古文である。同じ日本語のようにみえるのに、意味が通じないし、何でこんなややこしい表現をしないといけないのか、と思ってしまう。しかし、古典は古典としてのレトリックで書いていたので、ミーちゃんはーちゃんにはわからなくとも、古代人には、キチンと意味が通じていたのである。それと同様なことが聖書でも起こりうるはずだとは思う。古代文書である聖書を、現代の基準や感覚で無理に読もうとすると、妙な理解や、無理な理解が生じているのかもしれない。
古代のテクストを扱う際に、古代の修辞学の解説者が物語のもたらしうる様々な効果について完全に把握していたことを私たちは忘れてはならないし、すべての福音書記者がそのような知識について無知であったと考える必要もない。(同書 p.89)
古代社会と現代社会の環境は異なるし、そこで語られるストーリーは当然の如く違う。民族が違えば、語られるストーリー(理解)とその背景にある世界観は当然異なる。経験が同じであっても、所属する社会集団が違う二人の同時代人の中で、そのストーリーの意味は違って語られることがある。
移住者としてヨーロッパに来たアメリカ人は、移住者としてのアメリカ人の視点で西部開拓史を語るし、原住民としてかなり以前から住んでいたアメリカ人(ネイティブ・アメリカ人、昔風の言い方をすると、アメリカ・インディアン)はアメリカ・インディアンの視点で、追いやられた自分たちの歴史として西部開拓史を語る。韓国と日本国の間で懸案となっていた従軍慰安婦問題も、韓国に住む人々は韓国人の視点から大日本帝国による抑圧の一環としてこの問題を語るだろうし、日本人は日本人で、単なる軍に付随した民間の売春事業者の問題として語る人々もおられるし、アメリカ人はアメリカ人で、移動の制限があったということから、Sex Slaveの奴隷問題、あるいは、人身売買という人権問題の一環としてこの問題を見るだろう。その意味で起きたことは一つであっても、実に多様な物語が語られ、真実が何であったかとは別に、それに関する物語がつくりあげられていくのである。最後の例は、以下のライトの文章を理解するうえで、非常に有効な例かもしれない。
ライトは、ストーリーと自己の世界に対する理解(世界観)の関係について、次のように書いている。
ストーリーが他のストーリーとの関連でどのように機能するのかを検討するとき、人間がストーリーを語るのは、私たちがどのように世界を認識し、実際に係わるのかについて語るためだということに気付く。(同書 p.90)
物語と世界観に関して、現代のほかの事例で言えば、日本人に取って明治時代をとるのがよいかもしれない。明治政府は、その上位思想、復古思想、原点回帰の原点としての奈良朝を想定し、明治維新というストーリーを組み立て、その挙句の果てに仏教を排斥しようとした。その結果として、現代でもよく日本で聞かれる誤解であるが、一神教と比べ多神教は平和的である、というストーリーまで、多神教的な日本の古代思想を美化するために持ちだされることがある。そのことが本当か、ということを確認するためには、残存数は少ないとはいえ、風土記の残存部分や、古事記を読んだりすれば、必ずしも古代社会が平和な社会であったということはそう容易ではないことがわかるとは思うのだが。
人は、実経験したことさえ美化するとすれば、その場にいなかった歴史に関しては、もっと美化する傾向があるのではないか、と思うのだ。
ストーリーの基本的構造
ストーリーによく見られる基本構造として、ライトさんは次のように書いている。
ストーリーは「問題と葛藤」、「それを解決するための試み、失敗」、そして「最終的な結末」(それが良いものであれ、悪いものであれ)といったパターンを持っている。(同書 p.90)
物語の構造として、この問題が発生し、解決するための様々なイベントが何やかんやあって(落語家が話しの長さを短縮したい時に使う便利な表現)、最終的な結論が提示されるというパターンはほぼ多くの演劇、大衆演劇から、テレビドラマ、そして、シェークスピアでも、演劇は大体そうなっている。
出エジプト記などは典型的にそうである。大きなストーリーとしては、出エジプト物語がそうである。具体的には、イスラエルの民がエジプトで苦役に苦しむという「問題と葛藤」があり、それを解決するための試みとして、イナゴの害があったり、ナイル川が血の川に変わったり、・・・そして、憂い語が殺される事件があり、紅海を渡ろうとして、間一髪で助かったり、食糧不足があったり、十の戒め(ことば)をもらったり、蛇にかまれたりという「解決するための試みと失敗」(何やかんやで表すこともできる)そして、「最終的な結末」としては、カナンの地に入っていくという形で大団円になるが、その中には、先にも触れたような小さな話(ファラオがエジプトからの脱出を禁じる、ファラオによる追尾が行われる、食用や水を求める・…)入れ子細工の様に入っており、構成されている。その意味で、非常に重層的な物語を構成しているし、イスラエルの歴史全体から見れば、この出エジプト記ですら、その中のサブ集合、あるいは、その中の入れ子の中に入っている物語の一つに過ぎない、という構造をも、もっている。
ストーリーの効能
ストーリーの効能とは、他人に別の現象が存在しえた可能性を提示できる点で、実に極めて有効ではある。ところが、このような物語化は、歴史家には通常許されない。とはいえ、「もし○○だったら」ということを考えさせることができれば、別の可能性が歴史に存在した可能性などを考えさせることができる。ストーリーには、一種の現実世界のシミュレーションをしてみる力があるように思う。
実際にストーリーは、別のストーリーとその世界観を修正し覆すのに際立った威力を発揮する。真っ向からの批判ではらちが明かないところに、たとえ話は鳩のような素直さの陰に蛇のような英知を隠し持って聞き手にすっと忍び込み、普段なら安全に隠されている聞き手の通念に変化をもたらす。(ダビデへのナタンの話があり)ストーリーには比喩的な効果がある。比喩は二つのアイデアの橋渡しをし、聞き手が直感的にそれら二つを結び付けられるようにする。しかしそれら二つのアイデアは重ねあわされることもなく、一方が他方の意味を明らかにするように作用する。そして聞き手の見方が変えられていく。(中略)そして聞き手の意識のすべてが一変させられる。(同書 p.90)
世俗の仕事の一環として、シミュレーション技術を利用したこともあるし、学校でシミュレーション技術を教えたことがあるし、共著だが書籍を出したこともある。
コンピュータ・シミュレーションは、現実に起こすと大きな問題屋被害を生み出しそうなことを計算機という仮想現実(VR:Vertual Reality)を使うことで、実験し、その実験の結果に基づき、現実の仕組みや製造物における対応をさせるために用いられる。良く知られているシミュレーションとしては、自動車事故を計算機の中で意図的に、且つ実験的に発生させ、どのような車体の構造やデザインが望ましいのかを検討し、現在のアイディアと別のアイディアとの比較をすることがある。こうすることで、既存の製造物のデザインや、現状の問題の意味を明らかすることができる技術の一つではある。とはいえ、最終的に安全性を確認するためには、以下のような実際の無人車を使った実験もしているが。
まぁ、実際の首都高速道路でこんな運転をされたのでは、いのちがいくつあっても足らない。
実機を使った衝突実験(衝突シミュレーション)
最近では、エスカレータの歩行を禁止する方が、エスカレータの歩行を認めるよりは、より多くの人数を単位時間に運ぶことができるとかいうシミュレーション結果が出たが、この場合の価値基準は、一定時間にあるエレベータが、どれだけ処理するか、という評価基準(ストーリー)に関するもので、エスカレータ利用者の中で、早く移動したい人の個別の移動速度をどうすれば早くできるか、という評価基準(ストーリー)からの検討がなされてはいない。
これらの両者の比較で、考えるべき価値基準、あるいはストーリーが違っているので、どちらがよい、ということは一概にいえなくはなるが、全体の処理のことを考えると、エスカレーターで歩かない方がいいかもしれない、という意識の変容が起きるかもしれない。とはいえ、関西人はイラチ(速度に関して評価が高く、遅いこと、のんびりとしていることへの寛容度が低い人)が多いので、あのような報道があっても、エスカレータで歩く人は無くなるということはなかった。
まだまだ続く。
評価:
N.T. ライト 新教出版社 ¥ 6,912 (2015-12-10) コメント:ミーちゃんはーちゃんにとっては面白い。 |
評価:
スコット・マクナイト キリスト新聞社 ¥ 2,160 (2013-06-25) コメント:よろしければ。こっちの方が読みやすいかも。 |
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(11)
今日もまた、いつものようにN.T.ライト著『新約聖書と神の民』を読みながら考えたことを、ちょっとばかしシェアしてみようか、と思う。
希望の成就と世界観の表明方法
世俗の仕事で論文や申請書の書き方指導することがある。その中で、時に思うことだが、人によって得意な表現方法が実に異なっている。かなりの違いがあるので、見ているだけで非常に面白い(そう思って添削していないと、やってられない)。
役所的な文章を書くのがものすごく好きな人、やたらと論文でも大言壮語する傾向がみられ、「じゃ、君自身は何やったの」と聞きたくなるような論文、あるいはレポートを書くのが大好きな傾向がかなり見られる中国人留学生諸君、やたらと受動態を使いたがる日本人の英語論文とか論文の英文アブストラクト、学部学生のレポートの一部に、感想文の様な論文とかレポートとかがあり、事実を書くのではなく、自分の感想を書くのがレポートとか思っているとしか思えない答案、レポート、論文とかに出あうことが多い。まぁ、技術系の人間が、経済学とかの文系に分類される学科を教えているのがおかしいのかもしれないが(一応、修士で経済学を何科目か履修し、ちゃんと単位をもらっているし、昔はその系統の論文を書いていたので、文科省の許認可行政的には問題がないはずである)。
日本の国語教育では、感想文を書かせることは多いが、数学2以上(あるいは微積分学)が必要でない学生には、科学的な論文あるいはレポート作成技術を教えず、高校生レベルでは、他人の論文とかの引用の方法や、参考文献リストの作り方も教えないことが多いので、こういうことは大学で教えるしかないのだが、大学でもそいうことに配慮が回らない教員と付き合っていることが多い学生さんだと、こういう教育は受けないまま終わってしまう。
新聞とかでも、どこまでが事実で、どこからが記者の感想なのかが分かりにくい記事も結構多い。テレビは何をかいわんや。そういえば、まぁ、戦争中の大本営発表の提灯記事でも大体そうである。まぁ、日本の文系諸学の教育を受けた人々の世界観の表明方法は、その意味で事実性の追求というよりは、話者の感想というか感情文が尊重される、ということかもしれない。
iv)「ストーリー」、そして「新約聖書」という部分では、初期キリスト教の人々の表現方法と、世界観(世界の解釈の方法論)について、次のように書いて居られる。
つまり新約聖書において、これらのことから得られる結論は以下のようになる。1世紀のユダヤ人グループの一つは、世界観の一つを取り上げ、それを称揚しようと願っていた。彼らが表明しようとしたのは、「私たちの世界観を特徴づける希望は、ある一連の出来事において成就した」という確信だった。彼らがその核心を言い表すために選択した最も自然で、明らかにユダヤ的な方法とは、ストーリーを語ることだった。そうすることで、これまでの世界に見方を覆そうとした。他のすべての人々と同様、1世紀のユダヤ人は世界とそこでの出来事を、「解釈と期待」というグリッドを通じて認識した。彼らのグリッドの中心には、世界は善なる全能の神によって創造され、その神がイスラエルを彼の特別な民として選んだという信仰があった。彼らは、自分たちの歴史や共同体で伝統的なストーリーが世界の中での出来事を認識するためのレンズのような役割をも果たした。(p.91−92)
要するに初代教会の人たちは、自分たちの世界観を価値付け、希望の根源となっているのは、「イエスの十字架の死と復活であり、その一連の出来事を通して完全に旧約聖書に預言されていたメシアによる回復と神の支配(神の国、神の支配、神がおられる天と呼ばれる所からの支配)が成就した」ということであり、これこそが、驚くような、天が鳴り響くような、喜びに満ちた使信、すなわち、福音である、ということを指摘しておられ、そのために、微妙に内容が異なり、微妙が内容に異なることで、天の国の支配とイエスが神であったし、人に見える王としてのキリストであることを示したのではないか、とおっしゃりたいようである。このあたりに関しては、”How God Became King”という本をライトさんは書いている。また、使徒行伝もある面、初期のキリスト者たちが自分自身が何者で、何故、自分自身が信仰しているナザレのイエスを神であるとして信じたのか、それをどのように地中海世界で紹介していったのか(伝道あるいは宣教していったのか)、というあたりを、旧約聖書の歴史書風の記述形式(ストーリー)として紹介したといえよう。ある面、使徒行伝ないし使徒の働きとタイトルが翻訳されている文書は、非常にユダヤ的なあるいは古代の地中海文化で標準的に用いられていた表現方法に則ったものである、といっておられるようである。
四福音書と使徒行伝で描かれた内容は、「(旧約聖書と旧約聖書に基づく出来事の)解釈と(使徒やその弟子たちの)期待」ということは恐らくそのとおりだと思う。彼らが、旧約聖書に基づいて、彼らの目の前で起きた出来事をどのように解釈したのかを物語として語り、そして、彼らが将来について、神の国の到来について、どのような期待を持っていたのか、ということを示しているといえよう。
このような物語による現実の表現方法は、戦争中の日本でも起きたように思う。日本が戦闘で負けそうになると、突然それまでに言うことのなかった「神風」とか言う物語を登場させ、一発逆転の物語が語られることになったりする。その意味で、事実の解釈として、日本でも、ストーリーとして語られることは多いのではないだろうか。高校野球やプロ野球のゲームそのものなども、その中継などでは、誰がどうしたか、という事実だけが語られるのではなく、これまでの努力がどうであったとか、この選手の背景はどうのとか言ったストーリーが語られることが多い。近大、あるいはポストモダンという時代においてもストーリーが用いられているし、説教の中でも、ここで、このような”泣き”があり、次いで”笑い”を誘発するのが通例という、ある特定のパターンが見られるような説教では、それもストーリーをなしているといえるようなきがする。
そして、その昔から慣れ親しんだストーリーを懐かしむ聞き手の信徒の方々がおられるのは事実ではないか、と思われる。そして、自分たちが慣れ親しんだ、ある特定のパターンの説教を聞いて安心する方々もおられるようである。何度聞いても、落語の名人芸のような安定の説教、というのがあるのだろう。
思ってみれば、日本の古代以来続く表現方法とは何だろうか、と考えてみると、それは、5−7−5−7−7といった日本風の音節に導かれた詩形式ではないか、と思うのだ。敢えて全部を埋めようとして語るのではなく、相手に想像の要素をかなり大量に残して、敢えて全部を語らない、理解に関する相手の関与を求めていくタイプの文学形態の様な気がする。随想なんかもそうであるし、考えてみたら、敢えて全部を書かないタイプのラノベは伝統的な文学形態なのかもしれないと思う。まぁ、その辺はミーちゃんはーちゃんの妄想ではある。
イエス時代の多様な物語とひとひねり
キリスト教徒は、キリスト教徒のことだけを考えるという残念な傾向(まぁ、人間一般にそのような傾向があることも確かだが…)があるため、そして、時に自分が属する社会が世界のすべてであると勘違いすることがあるため(日本では、キリスト教徒は少数派なので、そういう人は少ないが、アメリカあたりだと、すべての世界はキリスト教で覆われている、あるいは覆われているべきであるとかいうことをおっしゃる方に時々出あう)、イエス時代ないしその直後の弟子たちの時代には、実際には多様なユダヤ人の物語というかストーリーがあり、実に多様なバリエーションというか変奏曲があったはずなのだが、自分以外の変奏曲は案外無視される傾向にある。
事実、大学生の初年度くらいまではミーちゃんはーちゃんは結構なおバカであったし、そんなことは知らなくてもいいといわれていたので、当時のユダヤ思想の多様性を新約聖書を読みながら、考えることはなかったが、実は、新約聖書を読んでいるだけでも、細部にかなり注視してみれば、イエス様の時代に、また、その弟子たちの原始キリスト教時代に、神について、そして、救い主について多様な考え方があったことがわかる。
あんまり詳しくは書いてないから、分かりにくいが、サドカイ派とか、パリサイ派は有名だし、そこまで行かなくても、熱心党とか、他にもローマに反乱を使用とした人物とか、いったような動きや人々の名前のきれっぱしが出てくる。しかし、これらの人々はこれらの人々なりに、イスラエルの国と神の国との関係を考えていた(それぞれなりに違いがあったけれども)ことはおそらく否定はできないし、また、それぞれ別の物語として、共感する人々が存在したといえるだろう。でなければ、区別される名前として、これらの名前は出てこないし、その一つとしてキリスト者という名前も生まれることはなかったろう。そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように言う。
同胞のユダヤ人に異なる考え方をするように促そうとした人々は、同じストーリーを語りながらも話の末尾に予想外のひねりを加えた。エッセネ派の人々は、新しい契約のひそやかな始まりについての物語を語った。ヨセフスは、ローマ人の側に立ってしまったイスラエルの紙ついてのストーリーを語った。イエスは、農夫たちの不忠実がブドウ園の主人の息子の死と、彼ら自身の地方を招くだろうというストーリーを語った。原始キリスト教徒は神の国とイエスを通じた神の国の始まりのストーリーを語った。しかし、たった一つ、彼らが決してしなかったことがあった。彼らは、自分たちの神が想像された世界や彼の民の運命について無関心だったとか、関与しなかったという世界観を決して表明しなかった。(同書 p.92)
現状を変えたい、現状の仮説あるいはストーリー、ものの見方、世界観、常識とされていることが本当に妥当なのか、ということは、時に問われることがある。例えば、日本の安全神話というのは、だいぶん怪しくなっているし、日本製品の安全神話、職人による技能が支えてきた品質みたいなものは、もはや、過去のものになりつつあるのが、現在の環境のようである。
農業者の皆様とお付き合いさせていただいていると、これまで世帯経営をすることで農業者に代々蓄積されてきた微妙なノウハウが後継者に伝承されなくなりつつある現実を時に垣間見ることがある。特に、定年帰農者が増えつつある現状において、定年帰農者への技術伝承が進んでいないようなのだ。農業は、1年に1回しか、田植えや収穫という農作業ができないことを考えると、このノウハウを確立するためのその機会は案外多いとはいえないのだ。そして、気象条件は毎年違っているし、それを統合化していわゆる知識、ナレッジまで、昇華させるのは案外難しいのである。
基本的に1世紀前後のユダヤ人とユダヤ教徒(異邦人でユダヤ会堂にいた人人)にとっては、旧約聖書が社会にとっても、個人にとっても、信仰の面においても、確かに基本的な土台となっている。旧約聖書をもとに、「あなた方が読んでいる聖書はこのような物語(あるいは主張)を述べていると考えられるのではないか」とイエス様も、また、弟子たちも語っているというのはそのとおりだと思う。
その傾向は、使徒行伝において、かなり明白に見られる。無論、パウロは、アテネの町では、アテネの物語に乗っかかりつつ、知られなかった神にささげられた祭壇を持ちだし、アテネの人々をはじめとするギリシア人にとっては知られなかった神であるYHWHとして紹介し、ギリシア人のストーリー、ものの見方、世界観、常識を疑う概念をぶつけたが、残念ながら、その時には、その試みは成功せず、このおしゃべりは死者の復活のことを話している様だ、とギリシア人からはスルーに近いあしらいを受けて終わっている。
大学生時代にヨセフスのユダヤ古代史(山本書店版)や、ユダヤ戦記などの著作を読んだことがある。それを読んだ時、なるほど、このような旧約理解も可能なのか、と案外旧約聖書そのものを読むよりは、ある面、わかりやすいなぁ、と思った記憶がある。まぁ、一人の人が、旧約聖書をダイジェストしたり、当時のユダヤの近代史(今ではまかり間違いなく古代史だが)をしたのだから、ある面わかりやすいのは当然であった、と思う。ローマ人にユダヤ社会を少しは理解してもらおう、そして、ローマ人の指導者層のユダヤに関する理解やストーリーを変えてもらおう、といったヨセフスの試みが成功したかどうかは知らないが、当時のラテン語話者である人々にとっては、旧約聖書のギリシア語翻訳そのものを渡されるよりは、ヨセフスのイスラエルの歴史の概略を述べるようなユダヤ古代史を読むほうが、多少はましだったのではないだろうか、とは思った。
まだまだ続く。
評価:
--- HarperOne --- (2012-03-13) コメント:めちゃよかった。 |
オリンピックと戦争と国家
本日は、万国博覧会とオリンピックについて思うことを書いてみたい。
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(12)
引き続き、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』を読んだ時に思ったことを書いてみたい。
社会の中で競合するストーリー・仮説・物語
前回の記事で、新約聖書が成立する時代に、神の民だと自分たちが思っている人々の間でさまざまなストーリーが存在し、それに基づく歴史記述がなされ、その中では、神の人間に対する介在の存在、ということが共通してみられたことはお話した。今日のところはもう少し現在の社会に近いところに関する部分になってくる。そこについて、N.T.ライトさんは (v)競合する「ストーリー」 という部分で、次のように書いている。
(v)競合する「ストーリー」
複数のストーリーが互いに衝突しあう理由は、世界観とそれを特徴づけるストーリーが原理的に「規範的」だからである。ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する。すべての人の意見は、まったく正反対の意見ですら等しく正当なものだと信じる相対主義者ですら、現実についての彼らの基本的なストーリーには忠実なのである。(『新約聖書と神の民』p.92)
ポストモダン社会になって、多様な仮定、社会の前提、社会における常識、物語、仮説の併存が認められるような社会になってきた。モダン社会やプレモダン社会では割と社会の仮定や常識とされていたことはかなり強固であり、そレを変えることは、そんなに簡単には行かなかったのだ。役者は、割と洋の東西を問わず公序良俗の維持の名目のもと、女性は役者や舞踊家になれなかった時代は長く続いた(日本では、歌舞伎、能が典型)し、セクシャル・マイノリティや異性装者(これまた演劇と結びついている)はヴィクトリア朝時代の英国では、ほぼ、そのままの姿で生きることはできなかった。その意味で、ライトさんがここで書いている「 世界観とそれを特徴づけるストーリーが原理的に「規範的」だ 」ということがそのまま実現されねばならない社会であったのであり、それだけにその社会に生まれ付いた以上、国境どころか、その生まれ育ったコミュニティからすら移動ができなかった時代であり、当然、そのコミュニティの中での規範に問答無用で従わざるを得なかったし、移動ができない以上、別の概念で生きている人々が存在する、ということは想像もできなかったのである。
ライトさんによれば、「 ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する 」とここで書いて居られるが、それは事実でもあるまい。 「ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する」 とかなり無理筋な主張をする人々が時におられる、ということなのではないか、と思う。
この無理筋の主張との関連で言えば、割と、キリスト教業界でも存在するように思う。時々、「聖書はすべてのことを明らかにする」という主張の方がおられる。しかし、この「聖書はすべての明らかにする」という主張は現実にはあり得ないのではないか、と思う。出題者以外は誰も、来年行われる大学入試センター試験の出題問題を明らかにできないのではないだろうか。もし、聖書はすべてのことを明らかにしてきたのであれば、国公立大学生のキリスト者比率はむちゃくちゃ高いはずであるが、世の中そうはなっていないようである。個のような現実の存在から言って、「聖書はすべてのことを明らかにする」という命題の「すべてのこと」及び「明らかにする」の定義がWell Defined(明確に定義できている)という訳ではないことがわかる。このあたりの日常語を取り巻いているある種のいい加減さ、多義性が混乱を起こしているのである。まぁ、これを避けようと思ったら、ややこしくて仕方がないが。
全世界の公共的なストーリーとしてのキリスト教
多元化した現代社会において、宗教も多元的であり、相対化される傾向にある。その意味で、キリスト教も「あなたがそう信じていること」の一つになるし、仏教も「あなたがそう信じているにすぎないこと」の一つとなってしまう。まぁ、ポストモダン時代のキリスト教にとって、つまり、確固たる規範を持つことを良しとしない、あるいは自己の持つ規範を共通のものだといいきれるだけの無謀さを持たない時代において、個人的な関係の中にキリスト教を押し込める例は少なくないのではないか、と思う。つまり、Christ and Me(というよりは、むしろMe and Christ)のキリスト教になっている例は少なくない。しかし、聖書の主張は、アブラハムとその子孫を通して、全世界のすべての人々、国民への祝福が成就するということである以上、それは、個別的なもの、個人的なものというよりは、むしろ、公共的、全ての人々にかかわるものだということだろう。まぁ、これを言うと万人救済とか言いだす人がいるからかなわないが、一人として失われることを神が望んでないことは確かであろう、とは思うので、やはり、キリスト教は公共性があるとは言えると思う。そのあたりについて、ライトさんは次のように書く。
現代社会の多くの人々は、キリスト教とは個人的な世界観であり、一連の個人的なストーリーだとみなしている。あるキリスト教徒は、明らかにこの罠に陥っている。しかし、キリスト教の本質は全世界のストーリーとしてのストーリーを提供することにある。それは公共的な真理だからだ。さもなければキリスト教はグノーシス主義の亜種と化してしまう。(同書 pp.92−93)
ここで、グノーシス主義の亜種という悪口がかかれているが(このあたりが、ライトさんがブラックジョーク好きなBloody Briton風だなぁ、と思うところであるが)、要するに、Christ and Meのキリスト教にしてしまうと、自分だけ、ないし自分の家族だけ信仰を持てばいい、ということになってしまい、私だけが、私たちだけが真理ないし真の霊的な知識を持っているということを主張してしまったグノーシス派の皆さんと大差なくなるのではないか、というご指摘のようである。案外、この200年間に生まれたキリスト者集団とその周辺には、自分の正統性と正当性を示さねば、信徒獲得ができないという焦りなのかどうかは知らないが、自分たちこそ真理を持っている、他は間違っているというご主張をお持ちの向きもないわけではないように思う。しかし、それを主張した瞬間、「それってグノーシス主義ちゃいますのん?」とのご批判を浴びかねないのかもしれない。
次に、ライトさんはストーリー間の衝突は、よくよく見ていると、結構世の中のあちこちで起きている。典型的には選挙なんかや政治に関して起きる。よくあるのは、世代間のストーリーの違いにおける衝突である。老人世帯は、水戸黄門やその他時代劇(そういえば、新作時代劇をNHK以外では、あまり見ないことから、民放各局はやめたのかもしれない。キッチュな演劇でもある時代劇では、視聴率が稼げないから)のストーリーが好きな方が多いし、若い20代女性(CMのターゲット層)は、ラブストーリーや、オフィスでのOL成長物語(『スチュワーデス物語』という新人CAさんの成長を扱った大映ドラマがその昔あった)が大好きなので、今の9時台から10時台のドラマは、わりとこの手のドラマで占められている。今はテレビが低価格化したことに加え、様々な地上波テレビの視聴方法があるので、この手の番組を巡ってのチャネル権争いはないが、80年代頃家庭内ではまだ、あったと思う。
あるグループの語る世界についてのストーリーが、他のグループの語るストーリーと遭遇するとき何が起きるのだろうか。(中略)その出来事が納得できるものになるために、私は自分が抱いてきた「根幹となるストーリー」(the controlling story)を捨てざるを得ないのかもしれない。この場合、私は現状を説明できるような新しいストーリーを見つけなければならない。そうではなく、目下のところ私を混乱させている出来事についてもっと合点がいくような他の共同体のストーリーを借りてくるのである。(同書 p.93)
天皇の人間宣言という国民に衝撃を与えた事件でも、「国民に開かれた西洋の王室」というストーリーを借りてきて、結局「尊皇」というか国体の護持を図ったともいえるのではないか、と思うのである。
借り物競争以外の方法、ストーリーの前提を疑う方法
ストーリーが競合するのは、現実世界では、関係する人々の間に緊張を走らせ、混乱を生み出すので、実に困るのだ。こうなると何とかしてだまくらかしたくなるのである。その時の対応方法としてよく用いられる方法論について、ライトさんは次のように書いている。
このように二つのストーリーが衝突してしまう場合に、自分を納得させるための別の方法が一つだけある。それは、疑問を投げかけるストーリー(the challenged story)の証拠が実際にはあてにならないことを説明してくれる、別のストーリーを見つけることだ。これは科学(「実験がうまくかない。だから、予期しない変数が手順の中に紛れ込んでいるに違いない」)、歴史(「テクストが事実とうまく符合しない。だから、誰かが歴史的事実をゆがめてしまったのだ」)、そして他の分野でも非常によく見られる手段だ。実際の場合は、この両極端の間のどこかということになろう。私たちの目にする出来事や対象物は、私たちが抱いてきたストーリーに修正を迫ったり、覆したりする。証拠は常に検証されるためにあるが、それについての中立的な、または客観的な立証などは存在しないのだ。私たちの抱く世界についてのストーリーが、他のライバルとなるストーリーとの比較で、全体的にも細部においてもより優れているのかどうか、それが問題なのである。全体像の単純さ、細部においての簡潔さ、ストーリーがすべての情報を含んでいること、目の前の現実を納得ゆくものにしてくれるかどうか、そうしたことが重要になる。(同書 p.94)
個人的には、このような問題解決法を酸っぱいブドウの問題解決と呼んでいる。要するにイソップ童話に出て来る、キツネとブドウの話に代表されるような解決法である。
ブドウを食べたいという現実に生きているキツネが、どうやってもブドウに到達できないという現実に直面した場合、あのブドウは酸っぱかったのだ、と自分を言い聞かせるあのおなじみのお話である。あるいは、大学受験に失敗した人が良くやる方法論である。より具体的には、あの学校は自分にはふさわしくなかったのだ、というかなり無理な論理立て(じゃぁ、初めから受験しなければいいではないか、とミーちゃんはーちゃんのように言い放っては、いけない。実もふたもなくなる)をして、あきらめているふり(そのストーリーに生きている)をしている人たちの解決方法である。そうはいいながら、いつまでもその大学へのこだわりをことあるごとに出す人々がいる。いくら別の解決策を与えるような物語を持ってきたとしても、その物語の破片をその人は隠し持っている例である。こういうことをおっしゃる方は、個人的にはうっとうしいなぁ、とは思う。
とはいえ、生きていると、案外このタイプの人にであうことも確かである。個人的には、そういう方には、仏教にご入門いただいて、大いなる諦念の境地、諸行無常の境地、悟りの境地を開いていただいて、涅槃に到達された方がいいのかもしれない、とも思う。
しかし、ライトさんが面白いなぁ、と思うのは、「中立的な、または客観的な立証などは存在しないのだ」といいきってしまうところである。この辺ヨーロッパの厚みを感じるなぁ。どこぞの国の中立、公正、公平、客観的とか大ウソをいいながら、自分の意見を言いまくっているマスコミの皆さんにお聞かせしたい。 そもそも、そんなものはない。そうではなくて、そもそも、人は「私たちの抱く世界についてのストーリーが、他のライバルとなるストーリーとの比較で、全体的にも細部においてもより優れているのかどうか、それが問題なのである。全体像の単純さ、細部においての簡潔さ、ストーリーがすべての情報を含んでいること、目の前の現実を納得ゆくものにしてくれるかどうか、そうしたことが重要」と判断して生きている生き物なのだ。つまり自分の理解に合うかどうかが重要なのだ。だからこそ、マスコミはある傾向を持った報道しかできないし、所詮そんなものなのだ。放送法では、放送法の免許の条件が、一応、不偏不党ということになっているので、政治家はそのことを言いたがるが、それは、その政治家が、このあたりの世界観やストーリー、人間の理解システムへの考察が足らないだけなのだ。マスコミ人も、その理解が十分とは言えない。
そもそも、テレビは放送法の制約があるが、新聞や書籍に至っては、本来何を書こうとその社の勝手なのである。まぁ、それをしていいかどうか、という倫理的な概念は問われるべきではあるが。気にいらなければ、その本とか新聞とか雑誌とかは買わなければいいのである。それを話題だからといって買う人がいるから、その出版社とか新聞社とか雑誌者がつけあがるだけのことではないか、と思うのである。放送法は日本には確かにあるが、新聞法は日本においては廃止され、国家からの独立を果たし、検閲権を国家は持たなくなったはずである。
まだまだ続く。
N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(13)
今日もまた、N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読みながら、たらたらと考えたことを書いてみたいかなぁ、と思う。
ストーリーとその検証について
凡そ、学問というものは大方の予想に反して、思い付きでするものではない。若い大学生クラスの学生さんの中には、この思い付きだけで勝負をかけようとする猛者がいるが(その一種の無謀さというのか、若者特有の勢いというのは評価はするが)、それは美玖から「無知です」、「勉強が足りません」、ということを暴露したり、吐露するようなものだ。その思いは買うけど、自分が思いつくこと位、大体100年以上前に(あるいは2000年以上前に)誰かが思いついているのだ。
学問が学問である以上、まず、これまでの研究を調べて、自分と同じことを言っている人がいないかどうかを確かめた上で、そのうえで、自ら、多分こうなっているだろうという仮説を立て、その仮説が他者を含めて、立証( そのことが自分以外の他者からも 「同じ認識を持っていた、あるいは、その認識に到達され、その認識が妥当であることが複数の人によって検証された」ということ)されて初めて、仮説が立証された、ということになる。そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように書く。
ここで私たちは、仮説とその検証という概念に戻ってきた。通常仮説が「立証」されたとされるのは、その仮説がある種の単純さですべてのデータを含み、そして目の前の観察対象を超えた広い分野でも有効であることが立証された場合だ。だが、ここまで私たちは、仮説とは実際何かという説明と、立証において何が重要なのかという説明との溝を埋めようとしてきた。十分な説明には、「疑問」、「仮説」、そして「仮説の検証」が含まれる必要がある。
まず初めに「疑問」が生じ、それにこたえられるための仮説が立てられる。疑問は何もないところから突然表れるのではない。それはどんな場合でも自分自身についてのストーリーから浮かび上がってくる。ある人が疑問を抱くのは、その人の現在のストーリーに何かしら不可解な点があるからだ。(『新約聖書と神の民』pp.95-96)
個人的な経験で恐縮だが、例えば、聖書の中で日本語聖書を読んでいるだけで意味がどうしても分かりにくい「裁き」という概念があった。日本語の通常の語の概念(つまりストーリーや仮説)で読んでいると、どうしても「崩壊」とか「滅亡」と強く関連付けて理解してしまいやすい状況があった。このような方向の理解で考えると、どう考えてもしっくりこない部分があったしし、さらに、自分自身が理解している範囲での神の概念や聖書の概念とどうもしっくりこなかったということがあった。
とりあえずこの理解での居心地の悪さというか、落ち着きの悪さ、疑問を放置しながら、それでも聖書を読み、キリスト教徒のはしくれとして生きてきた部分がある。そしてまた、いったんは放置して手も、聖書を読む中で、「裁き」という概念に出会い、また、様々な注解書にあたったり、聖書関連の本にあたったりしていく中で、考え続けてきた。しかし、ある時この本の著者であるライトさんの別の本の中での記述と出会って、「あぁ、なるほどそういうこともあるのか、それに合わせるとうまくフィットするぞ、そして、それ以外の部分も何となくうまく統合的に対応でき、有効かもしれない」と思ったことがある。まぁ、聖書の語の理解でこういう経験をすることはこれまで、案外少なかったのだが、これと似た経験は、F.F.Bruceのへブル人への手紙の注解書を読んだり、ロイドジョンズの「山上の説教」にかんする注解書(説教を書籍にしたもの)を読んだ時にも経験したことがある。この2冊は、ミーちゃんはーちゃんに取って実に衝撃的な本であった。
このように、ある仮説で生きていて、「わかんないなぁ、しっくりしないなぁ」という疑問が生じたときは、実は非常に重要なのである。それで、いくつか仮説を立てたりはするものの、どうもしっくりいかないままであっても、世の中には、それを取り扱うことができるストーリーがある。それがわかれば、他のストーリを用い、どのような視点からアプローチしたらうまく行くのか、といういろいろな方面から確かめてみて、あぁ、このようにアプローチして考えてみれば、ある程度は、うまく行くのもしれない、ということに至ることはよくある。確かに、今持っているアプローチの方法では、解釈がうまくいかないからこそ、別のストーリーが必要だというのはあるかもしれない。その意味で、ある理解への違和感というのか、他の理解との間に齟齬が生じたときは、新しい知見への入り口なので、それを押し殺したりすることなく、それに取り組むよい機会なのかもしれない。
しかしながら、世の中には、最初に出会ったもので満足してしまい、全く疑問を持たない方々や、新しいものを試すことは犯罪行為に等しい、とお考えなのではないか、と思われる方々もおられる。そういう方はそういう方で、一つの生き方であるとは承知申し上げているが、こういう人は、最初のものを大事にして、一切そこから動かないし、疑問を持って生きることはダメな生き方であるとでも思っておられるようにお見受けする。まぁ、素朴な生き方ではあるけれども、ある面、頑固という表現、がある意味相応しいのかもしれない。案外、福音派と呼ばれるキリスト者軍の信徒さんの中に多いような気がする。福音派の極端な人々の中には、牧師とか年長者の言うことを疑ったらダメとかいって居られる牧師さんなんかもどうも一部におられるらしい。ちなみに、そのような生き方はミーちゃんはーちゃんには無理でござる。
乱立するストーリーにどう対応するか
世俗の学問の中で、過去のストーリーに基づいて、研究を進めていても、うまく説明ができない時、まずすることは、これまでにどのような伝統的なストーリーの亜種があるのかを調べ、それを包含するようなシステムがつくれないか、ということを考えていくことがある。
例えば、1次式の連立方程式で解けないことが、より高次の方程式にすることで、割とあっさり解けたり、静学(時間変化がない世界)で解けなかったものが、動学(時間変化がある世界)で微分方程式体系に変化させることで、あっさりと解ける場合がある。大抵の場合、ある理論がうまくいかないときに、処理する次元をあげてやること(メタ概念に立って問題を見直すこと、あるいはライトさんのことばを借りれば、より広い世界を統合的に扱うようにするため、理論の世界を広げること)をすると、うまく行く場合が結構ある。
ところで、本来、ある理論に凝り固まっていて困っておられる人々に、こういう考え方もあるのではないか、と、理解の幅を広げる役割の触媒を果たすのがコンサルタントやカウンセラーの役割であり、その腕の見せ所なのだが、今のコンサルは、そのコンサル企業の特有のコンサル手法(正直言って、コンサルタント先の会社が変わっても勧めてくる内容は別の会社とほぼ同じことが多い)で攻めてくる人が多いから、かなわない。本来コンサルタントは、クライアントのお悩みに対して、別のストーリーを提示し、クライアントをお悩みから脱出させる役割を持つはずの存在なのである。
そのあたりの事を含め、ライトさんは次のように書いている。
疑問を促すストーリーがあり、説明が提供するいくつかの新しいストーリーが表れ、そのうちの一つのストーリーが、全ての関連したデータと明快で単純な枠組みの中に含めるのに成功し、そうして他のストーリーのもっと良い理解に資することになる。(中略)この極めて単純な知識のプロセスの記述は、「仮説と検証」モデルに含まれるものを明示し、それを世界観の特性とその中でのストーリーの位置付けを示す地図(これについては5章でより深く論じる)の上に位置づける。そのことは、特に歴史について論じる際に極めて重要になるのだが(4章参照)、そこでは「検証」プロセスについてのより詳細な問題について論じることにする。(同書 pp.95-96)
ここで、地図という語が出てくるが、この地図という概念は、案外大事だと思う。地図に表現すると、対象間の関係が少なくとも1次元ではなく、2次元表示(ないし3次元表示)が可能になるという意味で、1次元から比べればよりメタな視点を提示しやすいからだ。文章だと、どの言語で、も割と1次元的にならざるを得ない(言葉は前から後ろに向かって流れるという徳性を持つため)が、図ならば、4次元は無理にせよ、3次元くらいは表記可能である。知り合いの数学者は、4次元とか5次元の図を平気で書けるから困ることもあるのだが。
まぁ、今は、Google Earthや下の到達時間動画のような時間を入れた3次元表記もさらに、時間を入れた動学的表現も可能であるし、お金さえかければいろんな表現、視覚かが可能になってきた。
東京からの到達時間
フラクタルの3D表現(長いので、最初の数分見れば十分と思う)
ストーリーの中で生まれる認識
認識したり、理解したり、疑問を持ったり、生活を容易に過ごすためには知識というか、ストーリーが必要な場合は多い。あるいは、不可欠とさえ言えるかもしれない。
例をあげてみよう。大阪・神戸では、エスカレータの歩き追い抜きは左側と決まっている。左側が負い抜きレーンの役割を果たす。ところが、関東では右側がエスカレータの追い抜きと決まっている。あるいは、お正月の雑煮に入れるのは、関西地方では丸餅派が多い。関東では角餅である。なお、徳島県の一部では、雑煮の中に餡入りの餅を使う地域がある。そして、自分と違う習慣を持っている人にあって、時にびっくりすることがあることは皆さんもご経験があるだろう。
ところで、ある地域では、雑煮の餅は丸餅だ、という地域文化の中で、自分が経験してきた範囲の中で、雑煮の餅の形状は、長年をかけて「丸もちである」と実証されてきた人がいるとして、その人の「雑煮には丸もちであるという事実」だという認識はその文化の中で育っていること、つまり、雑煮には丸もちという世界(あるいは文化)があるからこそ、雑煮はすべからく丸餅であるという認識が生まれているのである。時に、テレビ番組とかでそうでないものが紹介されたり、身近な人が違うものを持ってきて初めて、あぁ、そうでない仮説というかストーリーで生きている地域もあるのだ、ということを認識できるのだ。それを格調高くライトさんは次のように書いて居られる。
細かな知覚による認識は、ストーリーの中でのみ生じる。それだけではなく、個々の認識は、ストーリーの中でのみ生じる。それだけではなく、個々の認識はストーリーの中で検証される(それらがストーリーに含まれていればだが)。理解すべき重要な点は、実証主義的な伝統が「事実」だと見なすものは、それに付随する理論と共に現われるということだ。そしてその理論とは、「事実」を含む枠組みとしてのストーリーなのだ。「事実」について言えることは、そのまま「対象物」にも当てはまる。「対象物」もまた、ストーリーを伴って現れる。(同書 p.96)
ひらぱー(ひらかたパーク)をごり押しするV6の岡田君
知識と公共性
ポストモダンに関して言えば、知識ですら、個別化され個人の枠内で語られることが多い。しかし、それではすまない問題がある。世の中には、個別のストーリー、世界、言語に分割されていないものがあるのだ。例えば、数学の世界では、数式の処理と表現方法の共通化が図られており、数学を使い慣れれば、言語よりも数式の表記と論理の展開だけは基本的には共通なので、数式展開で追っかけていき、共通理解に達することができる。
たまたま、経済学関係で今の近代経済学がほぼ数学が必要不可欠な学問体系になっていることをあるきっかけでご存じになり、大変驚いておられたご年配の方がFacebookにコメントしておられた。
たしかに、いまの国公立大学での学部レベルの経済学でも、数学なしには澄ませることは極めて難しい。なぜ、そんなことになったかというと、それは、世界中での普遍性(本来、各国経済は特殊性を持つものであるのだが、それを言っていると普遍的理解を追及する研究ができないので、特殊性はかなり無視され、誤差港のような扱いを受け、世界各国で共通部分だけに縮約して分析することになった)を求めていき、数学モデルが多用されることになったのである。その結果、今の経済学では、数学が欠かせない。その意味で、理論経済学や数理経済学の中では知識の公共性は相当確保されている。
そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように書いている。
西洋知識が知識を「客観的」なものと「主観的」なものとに区別する以前の時代ならば、「公共的」と「個人的(プライベート)」という知識区分の観点から考えることができただろう。ある種の知識の公共性は絶滅に瀕してはいない。それは、ある人々が知っていることを実践しているという事実によって、より強固なものとされる。(同書 pp.97-98)
まぁ、数学や数理経済学・理論経済学の例を持ちだすまでもなく、関西では、「アイスコーヒー」は「レイコー」であり、遊園地といえば「ひらかたパーク」であり、鉄道ヲタクといえば、中川家と相場が決まってる。それまた、物語であり、大阪における知識の公共性なのである。
中川家の鉄道ネタ
このようにある限られた範囲の人々が同じような行動、理解を持つことで、ローカルな公共性を持っているのであるが、それが、より広いグローバルな公共性とぶつかる時、違和感を感じた利居心地の悪い思いをするのである。
評価:
N.T. ライト 新教出版社 ¥ 6,912 (2015-12-10) コメント:お勧めしています。 |
評価:
F.F.ブルース 聖書図書刊行会 --- (1978-10) コメント:最初に衝撃を受けた本 |
評価:
D.M.ロイドジョンズ 聖書図書刊行会 --- (1970-03) コメント:これも名著。最初読んだ時は、自分は山上の説教から何を読んでいたのか、と思った。 |
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