2016.07.01 Friday

2016年6月のアクセス記録とご清覧感謝

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     皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

     

     先月は、22,523 アクセス、平均で、日に  750.8  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
     2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)

     2016年4月      21,922 アクセス (730.7)   
     2016年5月      22,194 アクセス (683.8) 
       2016年6月      22,523 アクセス (750.8)

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。
    アクセス数 611

     

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

     

    アクセス数 427
    アクセス数 396
     
    アクセス数 350

    でした。しかし、今月はMinistry2016年夏号特集の感じがありましたが、それでも、トップファイブ常連さんの現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が上位2位入りしました。また、これ以外の記事では、京都ユダヤ思想学会のシンポジウムのレポート記事でした。

     ということで、今月もご清覧をばよろしければ、と。
    2016.07.02 Saturday

    『父となる旅路』を読んだ(1)

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      ミーちゃんはーちゃんが、まだ中学生のころ、と言ってももう30年以上前の話になるが、ゴスペルフォークというのが流行っていて、『ともよ歌おう』という歌集の様々な賛美がうたわれてきた。そのうちのいくつかは、いまだに印象的であるし、NHKこころの時代で、下稲葉さんの歌う『忘れないで』がテレビから流れた時には、えぇぇぇ、という印象を持ったのである。

       

      『友よ明日輝こう』の裏側に
      そんな歌の一つに、『友よ明日輝こう』という短調の讃美歌があった。個人的には暗いメロディラインであり、繰り返し歌う愛唱歌というほどには、好きな讃美歌ではなかったし、その頃は神学校のことも、関西聖書神学校のことも、鎌野さんのことなども全く知らない片クリ子の一人でしかなかった。

       

       

      そして、この本を読む前にすでに著者の豊田信行さんとは面識があったのだが、豊田さんのお父様が豊田先生の若い時に亡くなられたこと、それでずいぶんさびしい思いをされたことはお聞きしていたが、豊田さんのお父様がまさかあの、『友よ明日輝こう』の作詞者であるとは全く認識していなかったのであり、本書を読んで、初めて知ったのである。まず、そこにびっくりした。それも、塩谷の神学校のご出身とは…。いろいろつながったので、非常に印象的であった。

       

      この本は、もちろんキリスト者の父性というもの、家庭生活の在り方を考える本でもあるが、それで理解してしまうには惜しい本であるように思った。この本は、むしろ、旧約聖書の中の世界、旧約聖書の人物が織りなす『ものがたり』の中に、どのように人が招かれていくのか、そして、人が聖書を読むということはどういうことを具体的に経験していくのか、を『豊田信行さん』という個人がどのように読んでいったのか、理解していったのか、を描いた物語でもある。その意味で、聖書の『ものがたり』と豊田信行さん個人の『物語』がどのように重なり、どのように聖書の物語の中に招かれていったかを示す本と理解することができよう。そして、どのように信仰者が聖書を自分自身のものとして理解することに重ねていき、取り組むことができるのか、ということを示した本でもある。まぁ、この本は著者の正直さが良くも悪くも出た本である。

       

      以下、本書から、いくつか気に入った部分のみを拾ってみたい。他も面白いので、ぜひお買い上げいただきお読みいただけたら、と思う。

       

      赦しについて

       先にのべたように、この本は、様々な教理を聖書の中に出てくる記述を聖書の中の語義の解析により導出するというよりも、聖書の中に出てくるさまざまな状況や物語として表現されたことから考えていくというタイプの書物である。ここでは、ダビデとの間に常にわり切れない確執に似たものがあったアブシャロムとの関係を取り扱った章から、まず紹介してみたい。

      アブシャロムの死を嘆き、「私がお前に代わって死ねばよかったのに」と悔いるダビデの言葉から、赦すことの難しさを思い知らされる。しかし、人生の苦難を乗り越え、未来に向かって歩き出すためには「赦し」は不可欠となる。いつまでも過去のつらく悲しい出来事に心がつながれたままでは、「赦さない」という自らの選択によって未来の可能性を壊してしまうことになる。(『父となる旅路』p.75)

      この部分を見ながら、ナウエンのWith Open Handsという祈りについての本を思い出した。その本の中では、最初のIntroductionの中で、老女が大事そうに常にギュッと握りしめているコインの話が出ている。その話をこの部分の赦せない、赦さない、という部分を読みながら思い出した。そのコインを握りしめた老婆の話の部分でナウエンが語っていることを引用してみたい。
      But these feeling (bitterness, the hate, the jealousy, the dissapointment, and the desire for revenge) are not just there; you clutch them in your hands as if they were treasures you don't want to let go.  You sit wallowing in all that old sourness as if you couldn't do without them, as if, in giving them up, you would lose your very self.(With Open Hnads, p.22)
      こういった感情(苦々しい思い、憎悪、嫉妬、失意、そして復讐する思い)がそこにあるのではない。あなたは手の中にそれらを手放したくない宝物でもあるかのように、ギュッと握りしめているのだ。それなしでは過ごせないとでもいうかのように、そしてそれを失うとき自分自身をまさになくしてしまうかのように、古い痛みの中で座り込んでその中に沈み込んでいるのだ。(ミーちゃんはーちゃんによる)
      そう、ちょうどナウエンが言うように「赦さない」「赦せない」と言い続けることは、その痛みの経験がなくなるとあたかも自分で亡くなるかのようにギュッとその痛みを握りしめ続けていることなのではないか、と思うのだ。日本で「赦す」といったとき、忘れるということや、思い出さないということが言われるが、そうではない。聖書の解釈の中で、教会で過去聞いた話の中で、このような理解で「赦し」が語られることがあったし、神の「赦し」がそのような日本的なコンテキストで、講壇から語られる場面にも遭遇したことがあるが、それは本来的な神の「赦し」なのだろうか、ということは素朴に考える。どうもそうではないような気がする。完全な記憶の中で(とは現実にはいかないのだが、これは神のみが可能なことである。実際には記憶は作りかえられていくという事実があることは一応言及しておく)、他者の中にある悪の存在があってもその悪ある人と、悪しきことを起こした人と和解していく、そして、その痛みにその人を縛りつけている状態から解放するというのが「罪の赦し」ではないか、と思うのだ。

       

      ある面で、赦し、赦されるという経験は、神の前に自分が握りしめて手放そうとしない怒りや、悪意や失意や復讐の思いを手放していく、あるいは神の配慮の中にゆだねていく作業としての赦し、神の主権があることに信頼し、そして、そこにかけていくというのが信仰なのかもしれない。

       

       

      握りしめること
      神の前に握りしめた手を開いていくこと

       

       

      あと、ここを読みながら思ったのは、「赦さない」ということは、その人をその「苦難」や「痛み」にその人を縛りつけてしまうことでもあるように思う。そして、それが神とその人との関係を歪めてしまう、あるいは神とその人の関係を結ぶうえでの障害をもたらすように思う。旧約聖書が神による、神と人とのコミュニティの良好な状態である状況の回復であることを考えると、「赦さない」という思いは、その人をその痛みに縛りつけ、神のかたちの自由さを奪い、その人が神から与えられた形を歪めてしまうところが問題なのだと思う。

       

      以前紹介したことがある池田裕さんは、授業で、この話題に触れながら、これは、命を長らえた王のもとで王位を求めながら、実力を発揮する機会が与えられないまま、生き続けることを強いられるPrince of Wales(皇太子)の悲劇だ、とおっしゃったことがあったが、そのような確執で歪んでいた側面も、ダビデとアブシャロムとの間でなかったとはいえないようには思う。

       

       

      赦すが忘れない神
       さて、上でも少しふれたが、起きた事実は見つめつつ、記憶しつつ、それでもなおその記憶による痛みを叫びを受け止め、回復をもたらす神が聖書の神であることを少し書いたが、忘れないという側面について、豊田さんは次のように書いておられる。
      しかし、(イスラエル人は)疲労困憊し、無防備であったため、アマレク人たちは離脱した者たちに狙いをつけて襲いかかり、所持品を強奪し、容赦なく県で切り付けて虐殺した。無抵抗な人々を容赦なく虐殺した罪は、神の目に風化することはなかった。過去の出来事として風化させないために、「アマレクがあなたにしたことを忘れない」ようにと命じられた。慈愛の神は、悲劇を一日も早く忘れ、アマレク人を許しなさいとは言わず、アマレクの非道な行為を絶対に忘れてはならないと命じた。神は罪を水に流さない。(同書 p.88)

       

      悪や罪を忘れず、悪をなされたことを忘れず、それをあえて受け止めて、それでもそのことに対して、敢えて自らの手による復讐を目指さないこと、これが赦しかもしれない。それゆえ、次のような表現があるのだろう。

       

      【口語訳聖書】

      ローマ人への手紙12章19節   愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。   

       

      民数記35章12節   これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである。 

       

      基本的に、リンチを防ぎ、律法に従った処分が求められているのであり、私怨による偏った対応をすることを聖書は容認していないようである。

       

       

      スポンジ・ボブのプランクトン・ロボット・リベンジ

       

       

      赦すことは忘れることではない?

      『愛する人を失うとき』という本の引用だと思うのだが、次のような引用があった。

      「許すことは、忘れることではない。苦しみの深刻さを考えると、多くの人にとって忘れることは不可能であるばかりか、不健全でもある。」(p.168)(同書 p.89) 
      日本では、赦すことは、忘れること、記憶から抜き去ること、という理解になっていることが多い。同書の中でもこれが水に流すこととの概念とのかかわりで、この後述べておられるが、基本的に聖書のいう赦すことは、相手のなした悪を見つめつつ、神の前にあって、シャロームであるということをあえて他者である害悪(Trespass)をなしたものに対して主張することである、ということなのではないか。つまり前で触れたように、神の前に害悪をなされた人と害悪をなした人が、その間にある悪をも神の前に差し出し、そしてその間の関係の修復をなしていくということであり、この関係性の中にある以上、悪は神の手の中に存在し、神の手の中に預けらられることで、和解、回復がなされていくことが許しであるという、この理解というか、この概念は極めて大事だと思う。我々が忘れたとしても、神が忘れないし、神の記憶に刻まれるし、構成が神の名のもとにおいて起きることに期待をした上での、人と人の和解ではないか、と思うのである。だからこそ、主の祈りの中に

       

      And forgive us our trespasses,
      As we forgive them that trespass against us.
       
      という一文があり、そして我々がなした悪も神の記憶の中に置くと同時に、我々になされた悪も神の記憶の中に置く(for give)ことでの神との関係の回復と赦しを請うものであり、なのであり、forgetではないのではないか、と思うのだが、日本語では下手をすると、この朱の祈りを日本語から英語に翻訳した場合、

       

      And forget our trespasses,
      As we forget that tresspass against us.

       

       

      となっていて、そもそも罪 tresspass そのものだけが問題になり、そこに集合的な人格的である us や them という語がきちんと入っていない場合があるのではないか、と思うのだ。

       

      そのあたり、赦しが仮にそのように翻訳されるとするならば、日本では赦すことも人格は関係のないことのようだ。この辺、割とかなり厳密に人格という問題を考えていないと、聖書を読んでいながらも、全く違う意味で理解している可能性も少なくないと思う。茨城県あたりで起きた過去の事件にかんするさまざまな発言ではないが、カルト被害者に対して、平然とカルト化した教会で被害を及ぼした牧師が牧師自身を平然と被害者に無条件で赦すよう要求したり、そのように被害者に要求するような発言をするキリスト教の関係者も少なくないようである。このような傾向は、聖書が読まれてはいるがまじめにその中身を考えずに読んでいることを示すわけで、実に残念なことであるようにおもう。また、聖書をきちんと読みこなしているはずの方々の言動が、案外実に聖書を読めていない上での発言ではないか、とも思われる。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      豊田 信行
      いのちのことば社
      ¥ 2,052
      (2016-03-15)
      コメント:なかなかよろしい。

      評価:
      Henri J. M. Nouwen
      Ave Maria Pr
      ¥ 865
      (2006-04)
      コメント:めちゃよい。

      評価:
      アンリ J.M.ヌーエン
      サンパウロ
      ¥ 1,296
      (2002-10-07)
      コメント:ちょっと日本語が…

      2016.07.03 Sunday

      ハリストス正教会の講演会のご案内

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        ハリストス正教会の司祭の方から、講演会のご案内が来ておりました。ご関心のある方はどうぞ。

         

        2016年7月17日(日曜日)の午後、大阪ハリストス正教会(阪急豊津駅が最寄り駅)で開催予定の『山上の垂訓と正教の終末論』には、ミーちゃんはーちゃんも参加する予定です。

        こちらは、京都ハリストス正教会で開催の講演会です。2016年7月18日(月曜日・祝日)午後1時〜3時です。
        2016.07.04 Monday

        『父となる旅路』を読んだ(2)終わり

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          今日も、豊田信行さんの書かれた『父となる旅路』からご紹介したい。

           

          母系社会の我が国における信仰形態と慈悲

           日本社会の宗教シーンというか信仰の特徴として、義認(神との関係の回復)なのか、慈悲に縋る(すがる)ということなのか、という問題に関して豊田さんは次のようにお書きである。


          日本人のキリスト教への入信を妨げている要因の一つは、日本人が宗教の救済に求めるものが、「義と認められること」、神のみ前で正しいものとされることではなく、「慈悲を受け取ること」にある点にある。

           

          (中略)

          「義と認められること」には悔い改めが必要不可欠であるが、「慈悲を受け取ること」に悔い改めの必要はない。しかし、「義と認められること」を救いの条件に限定して語るだけではなく、父なる神の証人、揺るがない自己肯定感を受け取ることで、キリスト者が真の自立した大人となることこそが、母性社会の日本において力強い証となるのではないだろうか。(『父となる旅路』p.133)

           

          キリスト者が真の自立した大人になれば、キリスト教とはこのようなものであり、すべての人にとってキリスト教が必要であるということを指し示す証となるかどうかは別として、「慈悲を一方的に受け取ること」を中心としたことが通い婚を前提とした「母系」社会における宗教的な要素として重要であるという指摘は、非常に重要な視点ではないか、と思った。この辺は、このことに関して、チベット仏教とダライラマを学問的に研究している人と直接話をしながら、社会構造の母系制と慈悲との関係について、聞いてみたいと思った。たぶん浄土宗系の仏教では、阿弥陀如来とその慈悲を受け取ることを願う側面はかなり強いのではないか、と仏教者の皆さんとのうっすらとしたつながりの中では思う。

           

          ところで、日本が母系社会を前提としているのは、「サザエさん」の設定によくあらわれている。長谷川町子という女性漫画家が描いたから母系社会がモデルになっているのかもしれないが、あれを何の違和感もなく多くの日本人が見ているのは、ある種母系社会の理想像が示されており(マスオさんは姓を変えることなく同居している)、子供向けアニメと言いつつも、そこでの主要な登場人物は、サザエさんであり、カツヲ君や、ワカメちゃん、舟さんであって、時々父性の象徴である波平さんが「大声で家人をどなり散らす存在」や時々「失敗を素朴に認める善人としての側面を持った男性の象徴」として出てくるにすぎない。
          その働き方はブラックではなく、どう見ても、リゲインやRed BullやMonsterを飲みながら廃人寸前になるまで土建屋型のシステム開発をやっている多くのSEさんでもあるお父さんたちからは、遠い存在である。あの波平さんノリで勤務してたら、そこの商社はつぶれるのではないだろうか、と思うが、それでつぶれなかったのは、昭和の古き良き護送船団方式が機能していたからかもしれない。この護送船団方式も、これまた、日本の母系社会の反映かもしれないが。

           

          サザエさん http://nuruwota.blog4.fc2.com/blog-entry-2588.html

           

          なお、現代の日本社会は、明治期以降男性系優先社会だと思われているが、それは、江戸以降の日本社会の架空の理想ないし理念(儒教社会の理念や理想)を追っただけで、実体的には、母系優先社会というか、母系社会に儒教という魔法の布をかけただけの偽装男性優位社会、あるいは擬制男性優位社会ではないか、と思うのである。

           

          遺族を苦しめる因果応報の法則とキリスト者
          基督者であっても、因果応報の法則のようなことをいう方々はおられる。特に、不幸の中や悲しみの中にある人々に対する思いやりのない言葉をかけるキリスト者はいる。あまりに思いやりがなさ過ぎて、いやになるほどである。豊田さんのお父様は、山で一人で早朝祈祷中に亡くなられたらしいが、そういう事情であっても、キリスト者の一部には、豊田さんのお父様に何らかの欠けや問題があって、このような不幸が起きたという旨の発言をする人もおられたようである。

          豊田龍彦の死を多くの方々が嘆き悲しんでくださった。しかし、遺族を苦しめたのは、父の突然の死という喪失の苦しみだけではなく、父の死に対する偏見のことばだった。父の死をわざわいであったかのように言う人々のことばに家族のものは深く傷ついた。因果応報、この思想が私たちの心に深くしみついているのではないだろうか。聖書には、「種まきの法則」が教えられている。(同書 p.261)

          いまだに思い出すのは、がんの宣告を受けて余命数カ月の状態にある50代の女性信徒に、励まそうという思いであったとしても、「もうすぐ天国に行ってイエス様に会えるんだから、うらやましいわぁ」といったキリスト者や、お子さんを亡くして悲しんでいる人に対して、「あなたが不信仰であったのではないか」とコメントしたり、「PTL(Praise the Lord 主の御名を賛美します)」というコメントをしているキリスト者や、もう40年以上前に見た、不幸な犯罪事件を起こしたご家庭に行き、 悔い改めよと大声で呼ばわったアメリカ人宣教師の姿を見るとき、この人たちは何を考えておられるのだろうか、と思うことがある。また、そのような事例は、聖書の中にあり、生まれつき盲人とイエスとの対話の前に、弟子たちがその人が盲人に生れついたのは、なぜだろうかと議論する場面がある。

           

          口語訳聖書 ヨハネによる福音書 9章1節から3節

          イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

           

          この部分について、豊田さんは次のように書いておられる。

          弟子たちはその人の苦悩に憐れみを抱かず、興味本位に、苦しみをもたらした犯人について尋ねた。神の摂理の中で苦しみを見つめないと、「犯人探し」が行われる。 (同書 p.263)

          確かに、人は「犯人探し」というかスケープゴート探しが好きなのである。実につまらない原因を結果と結びつけたがる。そして、つまらない原因は卑近なものであればあるほどいいようである。この辺は、テレビの芸能ニュースが嫌というほど教えてくれる。ほっておいてあげればいいものを、わざわざ負いまくり、追いかけ、これでもか、というほどマイクを向ける。ろくでもない商売だと思うが、本人が選ばれた仕事であるので、まぁ、御好きでおやりになるのはいいが、時々いい加減にして差し上げたら、と思うことが多い。そして、本来、神と共にあることで、すべての支配権を神にゆだねたはずのキリスト者であっても、いろいろなことの支配権を握ろうとしておられる、あるいは握っておられる気になっておられるキリスト者が少なくないのも、実に残念なことである。

           

          ヨブの礼拝

          ヨブ記を参照されながら、ヨブの礼拝について次のように書いておられるのが印象的であった。

          最初に心に留めるべきことは、ヨブの礼拝には感情は伴っていないことである。

          詩篇には、情緒豊かな礼拝者の姿が描かれている。しかしヨブは、信仰によって神のみなをほめたたえた。礼拝の本質は、いかなる時も神の御名が誉めたたえられるべきであるとの信仰告白そのものである。感情の伴わない礼拝は偽善ではない。(同書 p.289)

          きよめ派とか、聖霊派の教会では、勢いの良さを感じさせる祈りとか、感情の高まりというのか、感情のほとばしりを感じさせるような感情的な祈りが割と評価する人々が多いように思う。個人的には、そういうのはあまり好きではない。もっと静かで、感情の抑制された世界観が好きである。したがって、個人的には成文祈祷の世界に育ったわけではないのに、その世界の方が、親和性が高い。基本的に成文祈祷では、神の御名が誉めたたえられ、自分の不完全さを神にゆだねる形の祈りが多い。その意味でも、個人的には神の前に静まり、神の思いを探るような祈り、その世界にひかれて仕方がない。

           

          慰めについて
          慰めと関係における位置関係について、豊田さんは、慰めを示すギリシア語のパラクレートスという語義にさかのぼり、次のようにお書きである。

          助け主という言葉には、「慰め」とも訳せるギリシャ語のパラクレートスが用いられている。このパラクレートスという語には「隣に召された者」との意味がある。慰めの本質は悲しむものの隣にいること、悲しみに寄り添うことである。悲しみは、理解され、同情されることによってではなく、寄り添われることで慰めを受ける。助け主なる神は、特別な奇跡によってではなく、寄り添うことで深い慰めを与える。キリスト者も、悲しむ人の隣の場所に召されている。悲しむ人の隣人になるように召されている。 (同書 p.295)

          これを見ながら思ったのは、日本のキリスト教会の姿である。不幸に悲しむ人のところに押しかけ、そして、悔い改めを迫るのは論外としても、助けを求められながら、教会の中にキリスト者が立てこもり、「教会に来てください。そうすれば慰めが得られます」というような物言いをしている部分が全くないと言い切れるだろうか。その意味で、求めに応じて、こちらから出向くというようなことはもう少しあってもいいのかもしれないとは思うことがある。

           

          それともう一つ、もし、教会が信仰共同体であるのであれば、一人で悲しみを抱く人々を抱え込まずに、共同体として隣人になる、という部分はもう少し理解されてもいいのではないか、と思う。一人で、悲しみや苦しみを抱えることは困難だが、一人で、他者でもある悲しみを抱える人の悲しみをともに全部抱えることも困難ではないか、と思うのである。人間には限界があり、その限界があるからこそ、共同体の必要性があるのではないか、と思うのである。

           

           

          人生の長さ、金銭的な豊かさで測る愚
          近代人の悪い癖は、長さや金銭的な豊かさ、友人の多さ、いいねを押してもらった数、リツィートしてもらった数、教会で奉仕した数とか、この5年で”信仰”に導いた人数とか言うような実にくだらない計測可能な測度、ないし尺度で、とらえようとしてしまうところである。人の人生についても、そういうところがある。豊田さんは以下のようにお書きであるが、お父様の司牧としての奉仕期間が短かったことで、いろいろ言われたこともおありになったのであろう。

          神の作品には未完成品はない。時間が足りなくて、未完のまま終わった人生はない。神が途中で投げ出した未完の人生もない。キリスト者の人生は、神の見ての中で形作られた「最高傑作品」となる。キリスト者の人生が神の作品であるなら、寿命の長さは作品の完成度を決定づけない。
          (中略)
          「神の作品」であるキリスト者の人生が完成するのにも、基本的には寿命の長さは関係ない。1年、33年、90年…、寿命の長さは神の作品の完成に反映されない。キリスト者の人生が神の作品であるとは、そういう意味である。(同書 p.313)

          実際、イエスは次のようなたとえをルカの福音書で語っている。
          【口語訳聖書 ルカによる福音書 12章16節〜21節 】
          そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 12:17そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
          現代人は、食糧の多さでないかもしれないが、年齢の多さや、金銭的な豊かさや、友人の多さなどをもとにしながら、自分人を誇り、神の前に貧しい人になっているのかもしれないとは思う。

           

          ここで、大事であると思ったのは、すべての人が神の最高傑作であるということである。以前にも簡単にご紹介したが、オートバーグという人の『神が創られた「最高」の私になる』という書籍でのオートバーグさんの主張は、一言で言うなら、そういう主張である。神の計画の中にあって、その中に招かれた人は、それが世の中の人から見てどうであろうと、その人生は神の「最高傑作」なのである。

           

           

          そもそも、他人の理想を生きる人生に、他人の価値基準に振り回されて、世の中の人がどうとか、教会の中の人がどういっている、とかいわれることで必要以上に振り回される必要はないのである。そもそも、人は好きなことをいうものである。それに必要以上に振り回されて、神との関係が歪むようであれば、他者の意見に振り回される不幸が存在するのではないか、とすら思うのである。まぁ、考え、思いめぐらせてみることは無論必要であるが、それに必要以上に振り回される必要はないように思うが、日本社会は関係が濃いことをよしとすることもあり、この種の他人の基準に従って行動することを求めたり、それは、その人自体を縛りつけ、閉じ込め、本来の神のかたちを歪めることに導くだけではないか、と思うのだが、そういう形で神のかたちを必要以上に縛りつけようとするような人も教会内にはおられるように思うのが残念で仕方がない。

           

           

           

          私は、ほかの人がやっている同じことをしてるんですが…

           

          善き父親像に振り回される不幸

          現代の社会は、なんでも良くなければいけないようだ。よき女性であるためには、若く元気で活動的なければならないようだし(そのため、コエンザイムQ10とか、コンドロイチンとか、水素水やゲルマニウム水が売れるらしい)、映画「フォーエバー・ヤング」の一種のスプラッタギャグ映画の登場人物のような40歳代に見える60歳代の女性が出てくるCMが流れるのだが、それは個人的には少し気色悪い感じがする。

           

          男性でも、加齢臭は嫌われるし、老人であることの良さが評価されず、若造りが評価されるような社会ってどうなんだろうと思う。大体、どこぞの流通業者が提供する若々しいお父さんならまだしも、若々しいおじいさんって、どうなんだろうと思う。若者のような内容のない老人って、気色悪くないだろうか。

           

          「父親」とは何をもって「よし」とされるのか。存在感の大きさか。経済的に甲斐性があることか。(中略)数え上げればキリがない。そのため「よい父親像」は肥大化の一途をたどることになる。そして理想化された父親像は多くの父親に「父親失格」の烙印を押し、自信を奪い、挫折を与えている。 (同書 p.325)

          まぁ、自分自身で自身を喪失するなら、まぁ勝手にやってくださいとしか申し上げようはないし、まだ可愛い。しかし、自分自身の価値観を押し付けた挙句、他人の自信を喪失させて、挫折させるってどいういうことなのだろうかと思う。人それぞれ、家庭それぞれが個別性を持ち、さまざまなバランスの中で形成されており、また、それが時代を超えて一定でないのにもかかわらず、それを一般化し、聖書から逸脱した理想像をぶち上げ、キリスト者の父親たるものかくあるべし、と自説を他者に押し付ける必要があるのか、とも思うのである。それって、基本的にナンセンスだと思う。なぜならば、それぞれの個人が神が個別に作られた最高の神のかたちを持っているはずだし、そのかたちは組み合わせでも変わるので、一概に語れるような簡単なものではない、と思うからである。

           

          キリスト教界でも、家族関係のセミナーが人集めがしやすいということで行われることがあるが、それって、個人的にはどうなんだろうと思う。最近は、エホバたんの皆さまも、このタイプのセミナー型のイベントで人集めにいそしんでおられるようで、我が家にもお誘いがあったようである。まぁ、過去そのような企画した人間が言うな、というのはあることは素朴に認めたい。

           

           

          その意味で、次のような豊田先生の表現には非常に同意するものである。時代が変われば、父親像も変わるし、親子関係も個別性の中で理解されるべきものであり、マクドナルドのハンバーガーのバンズ(パンの部分)とパティ(ひき肉を焼いた部分)で、どのような関係が理想的であるか、なんて様な議論は意味をなさないように思うのである。

           

          成熟期に生きる父親には、成熟期に適合した父親のモデルが必要となる。不正は普遍的なものではあるが、父性の表出が社会的要請と適合することで、新しい革袋としての父親のモデルが構築される。父親や母親のモデルが不適合(システム障害)を起こすと、家族が機能不全に陥る。 (同書 p.326)

          イケイケドンドンの高度経済成長期の家庭環境とそこでの父親モデルと、成熟期の家庭環境とそこでの父親モデルは当然違うし、本来、家族関係それ自体は、個別性が強いものであって、他人のモデルをそのまま持ち込んでも、システム障害を起こして、計算機ではないが暴走したり、システムがハングアップして、うんともすんとも言わない状態で停止してしまうだけすまないのではないかと思うのである。他人の家庭や個人と神のかたちに傷をつけてしまうのではないか、と思うのである。個別性と家族内の人間力学や家族システムとして注目しなければならないものに、ある理想像を無理やり押し付けてはならないことを聖書自体は、とりわけ旧約聖書の登場人物の家族の物語を語ることで、そのことを示しているのではないか、と思うのである。

           

          治める、支配すること
          聖書には、家庭を「治める」とか、地を「支配する」という表現が出てくる。しかし、これほど誤解されている語も少ないのではないか、と思う。教会とのかかわりで、豊田さんは次のようにお書きである。

          教会を治めるには、まず自分の家庭を治めることが前提条件となる。しかし、「模範的な家庭」も「良い父親像」と同じように偶像となってはならない。「模範的な家庭」という概念そのものは健全であるが、「模範的な家庭像」が肥大化した理想、偶像になる時、監督者やその立場を願うものに「失格者」の烙印を押し退けることになる。「家庭をよく治める」とは、父親の威厳によって家庭内の秩序が維持されていることだと言える。 (同書 pp.344-345)

          そもそも、この「治める」という語が、きちんと理解されてないのではないか、と思うのであり、「治める」とか「支配する」という語は、実に日本(とりわけキリスト教界)では不幸な誤解にまみれた語ではないか、と思うのである。「治める」とか「支配する」とは、神から与えられたというか委ねられた尊いものが順調にその神から与えられた機能を果たし、多くの人に益をもたらするように適切な関与を行い、その対象を尊いものとして取り扱うという意味が、聖書の言う「治める」とか「支配する」という意味だと思う。しかし、日本では、支配する側が思い通りにする、支配する側に都合のよいようにシステムを機能させるという側面の意味が強いような気がする。つまり、強者が弱者を支配するという形で治めるという意味として語が理解されているように思うのだ。

           

           

          しかし、聖書の言う治めるは、弱者が弱者でありながらその生を享受し、その弱者を含めて、すべての人の幸福の追求をすることが可能なように使えていくという意味であるように思うのだが、現代の日本での治めるという意味は、強者の思う善を実現するように強者の意思にある意味で従わせる、強制的に強者の理想状態に従わせるということのように理解されていると思えてならない。もし、それが「治める」という意味であれば、神の子供であるキリストは、強制的に人々を信仰をもつようにされたはずであるが、少なくとも福音書に書かれたイエスは、他者である人間が望まないのに、無理やりに奇跡をおこなうことはしておられず、あくまで、本人の意思を大事にしておられるように思えて仕方がないが、私が読んでいる聖書の翻訳がまずいからかもしれない。

           

           

          まとめ

           この本は、ある意味で、聖書の物語の中に自分の人生の物語を重ね、その中から、神のみ思いを尋ね求めた書籍であることはふれたところである。しかし、それと同時に、聖書の言う人間観を現代においてどう考えるのか、という問題とも直結しているのである。ただ、「父親になる旅」としたことで、男性信徒向け父親を聖書理解からどう考えるか、というタイプの書籍と理解されかねないタイトルになってしまっているが、本来は、「人間となる旅」として理解した方がよいと思うし、他人の意見や世論とか、社会の空気に振り回されて生きることの愚を、聖書の中の登場人物を通して示した書籍であり、男性のみならず、すべてのキリスト者に読んでもらいたい本であるが「父親」へのこだわりは、豊田さんならではのことかもしれないと思う。

           

           

           

           

          評価:
          豊田 信行
          いのちのことば社
          ¥ 2,052
          (2016-03-15)
          コメント:おすすめしております。

          評価:
          ジョン・オートバーグ
          地引網出版
          ¥ 2,592
          (2015-11-10)
          コメント:大変興味深かった本の一つ

          2016.07.06 Wednesday

          「正確さ」と「詳細さ」いうこと

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            このところ、関西地方は暑いので、ほとんど「ゆで豚」状態もしくは「蒸し豚」状態であるが、問題は、ミーちゃんはーちゃんは、煮ても焼いても食えないところが、うまくない。

             

            表現の正確さとコミュニケーションの精度

            さて、最近、正確さ、ということを考えている。正確さ、といってもいろいろあるが、基本考えているのは言語における正確さ、あるいは翻訳における正確さと図面(地図)における正確さとコミュニケーションの結果の問題である。

             

            文章、翻訳、地図、コミュニケーション

            文章にせよ、翻訳にせよ、地図にせよ、コミュニケーションあるいは概念の交換、意見の交換のために文書、翻訳文書、翻訳、地図といったこれらのものは、様々なメディアに乗せて利用される。ある場合は、紙に手書きで書いた文章、紙に手書きで書いた略図、紙に印刷され冊子にされた書物、紙に印刷された地図、電子的なファイルとして流通している文書、このブログのように不特定多数に向けて示されたサイト内に表示されている文字列、デジタル化した漫画、様々である。古くは、石碑に刻まれた神聖文字、あるいは、粘土板に刻まれた楔形文字、様々なものが用いられてきた。

             

            140文字(ツィッターの文字数制限)に制限されてて助かった

             

             

            昔のスマートフォン

             

            昔のソーシャルネットワーキングツール

             

             まぁ、上の漫画が示すように、使うツールは、紙の本であった聖書がスマートフォンや、タブレット、キンドルになったり、しているが、結局本質的にやっていることはそう変わらないように思うのである。様々な技術が開発されることであり、コミュニケーションにかかわる制約が変わったり、表現するメディアが変わったり、コミュニケーションでの主要や印象が変わったり、伝達速度が遅かったものが早くなったりということぐらいしか変わらないのではないか、と思うのだ。

             

             ただ、人間は使い慣れたものになじみがあるので、なじみのないものへの抵抗がある。特に年を取ってくれば、大半の人は、自分のなじみのあるものにこだわり、「今の若いものは…」とやる。これは、楔形文字を書いていたころから変わらない習慣というか、伝統なのである。

             

            地図と正確さ

            地図は正確だと思い込んでいる人々がいる。地図は正確ではないのである、と書くと驚かれる方もおられるかもしれない(そして、業界人以外はたいてい驚いてくださる)。しかし、地図は正確無比ではありえない。なぜなら、地図は過去に行われた現実の観測(空中写真調査であれ、現地調査であれ)の結果を反映して、作られているからである。観測が行われ、記録され、地図として作図され(最近はデジタル技術の長足の進歩で過去と比べ物にならないほど早くなったが)、デジタル地図という形であれ、紙に印刷した紙地図であれ、公開されるまで、作図作業のプロセスの時間はかかるのである。デジタル地図のほうが印刷という工程を経ない分だけ早いのは確かだが。最近、国土地理院の紙地図の更新スピードは都市部に関しては数年に一度であるが、ということは、下手をすると紙地図の場合、測量から成果になるまで、10年とはいかないまでも、平均で4から5年の時間差があり、その間に起きたことが反映されていないという意味で、正確さはない。

             

            今ここ と示されて、「なんでしっているんだ?」

             

            あるいは、地図上の海岸線はそもそも正確ではない。一応、東京湾平均海面(東京湾の平均的な潮位を基準とする一種の理論的かつ抽象的な海面)で表現されているが、実際の観測時には、そのような海岸線は微細に見れば見るほど、存在しないことが分かる。現実のほうがよほど複雑であり、その複雑な紙の形を正確にはどうやっても人間は表現できないのである。従って、このようなことでエネルギーを使うのは無駄なことなので、一種の抽象化、理論化、概念化が行われる。モデル化といってもいい。瞬間ごとの波の状態の表現という瞬間瞬間に関する状態に関する瞬間的な精度をある程度見限りながら、概念化しているのである。
             

            さらに、地図には、正確さを優先するもの、しないものがある。どんなに正確な地図を描こうとしても、地図の縮尺が大きくなれば(一枚の地図でより広い範囲にあるたくさんのものを描こうとしたら)、描き切れなくなるのだ。例えば、京都の教会の近所にある自動販売機の位置を示す図は、小さな範囲を示す場合には描けるが、東京と新大阪を結ぶ新幹線の経路を描くような地図をA4の紙一枚に収める地図では書けないし、ある教会の近くにある自動販売機の位置をその地図に誰も書く人はいないだろう。相対性の中で、表現されているということのような気がするのである。

             

            こうやっても僕のおうちが見えなんだけど

             

            以下の図は、地理院タイル(これは実はなかなか優れもの)というのを説明する際に表示されていたサイトから拝借した図であるが、同じ新宿区役所付近の図でも縮尺が違うと表現がかなり違うのはすぐお分かりいただけるだろう。

             

            地理院タイルに見る地図表現の違い

             

             

             地理院タイル の例(マウスホイールを回すと拡大縮小します)

             

            このように表現するルール、あるいは先に述べたように利用しようとする際に必要になる精度に合わせて、適切に省略された表現がなされるのが地図の世界である。ある面目的なくやたらと精度と厳密さを追及するというのはあまり意味がないと思う。また、地図には表現したい領域の大きさに合わせて地図の表現ルール(一種の言語というか方言 凡例)があり、その凡例に制約されざるを得ない。

             

            文章でもある特殊ルール

            文章でも特殊ルールがある。典型的には会社用語だの市役所用語である。その会社でしか通用しない日本語というのがある。一度ある行政機関の技術コンペの審査委員をやらされたことがあるが、まぁ、各社それぞれの会社用語で、質問事項に回答していて面白かった(あ、ちゃんと評価はした)。また、IT技術屋の「技術的には可能ですが…」というのは、「やれといわれりゃ、やるけど、やったことに関する責任は発注側で全部受け止めてほしいし、実際はかなり面倒なので、できる限りやりたくない)」という意味である。役所は変な用語が多いので有名だが「可及的速やかに(=できるだけ早く)」「善処する(=それなりの努力して苦情の出ないように仕事をする)」とかもある。 コミュニケーションとしては、自分の思いや理解の重要なポイントが要は相手、他者に伝わればよいのであって、それをどのように表現するのかは発話者の側に任されているような気がするのだ。

             

            しかし、それでもある規則に従いながら、ある程度正確に意図が伝わるようにしつつ、伝わるようなことをしようと思うと、それはそれなりに面倒なことが起きる。

             

             その辺のことを扱った落語に「若菜」という落語がある。

             

            笑福亭仁鶴師匠による「若菜」

             

            若菜の場合、金持ちで文字の理解のある夫婦間でのコミュニケーションと同様のコミュニケーションを行おうとした、植木屋さんの大将と奥様の珍妙な掛け合いを楽しめることになる。コミュニケーションは前提が共有されてこそ、理解されるのだ。

             

            翻訳でも聖書翻訳でも同じかも

            翻訳は、どうしても翻訳できないことはあるように思う。もともと、語の意味や文法や、言葉遊びの法則が違う以上、正確な翻訳はどうしてもできないし、せいぜい意味がある程度通じている程度とならざるを得ない。また、特にアメリカ映画やアメリカのアニメだと、アメリカ文化にどの程度影響を受けているかによって、味わい方が違ってくる。

             

            The Simpsons での Tune Knight(Tonight)のパロディ

             

             

            オリジナルのTonight  1分18秒くらいから(お友達の服部 弘一郎  さんからのご指摘による差し替えをしました)

             

             

            上で紹介したTune Knightを聞いた時、ミーちゃんはーちゃんは、あぁ、これ、Tonightのパクリだなぁ、と一人ゲラゲラと面白がっていたのだが、ミーちゃんはーちゃんの息子さんは、原曲のTonightを知らないため(もちろんジェット団とシャーク団の抗争など知る由もないし、ウェストサイドストーリーなどなお知らない)、何のことがさっぱりわかっていなかった。こういうことはこういうジョークというかパロディをパロディとして楽しむためにはかなり、重要なのだが、その辺の背景がないとどうしても伝わらないものはある。

             

             

            こういうことは聖書翻訳でも多々起きているのではないだろうか。我々は、2000年の空間と、別の言語形態と、別の時間体系に生きており、その中で理解するしかないのである。翻訳というフィルタを通してしか理解できないのである。そこには、当然、先ほどのパロディ以上の理解の違いがあるのは仕方がないように思うのだ。それでも、翻訳聖書の限界を通しても、聖書のメインのメッセージは何か、ということを様々な聖書翻訳に当たりながら、神のみ思いが何であるのか、ということを探り求めるしか現実的には方法がないし、翻訳者だけを責めるわけにもいかないように思う。まぁ、聖書のもともと持っている意味を考え、それを聖書の中に入れたら、それこそ注釈だらけ、あるいは、やたらと説明調の翻訳となった読むに読めない聖書が出来上がってしまう。

             

            いや、そのためにそういうものが付いた聖書(例えばバイブルナビとか…かったけど)があるではないか、というご意見もあるが、その注釈とても、ある方のある段階でご意見の反映に過ぎず、その注釈だけに頼るのはどうなのか、ということもある。実際にその注釈についても、時々ではあるがちょっとどうかと思うこともある。その意味で、それだけに頼るのは危険かなぁ、と思うことがある。

             

            さらに、ある聖書翻訳のみを絶対の聖書とし、ほかの聖書翻訳を全く顧みない方たちもおられる。あるいは、他の聖書翻訳を見るのを良しとしない人々もいる。まぁ、それはそれでよい。その人がある聖書翻訳を大事にしておられるということは、それはそれで大事なことだと思う。確かにある程度のところまでは一つの聖書翻訳でも行けるように思う。しかし、ある程度であるという限界を知って、こういうことだろうと、そして、この意味はこうかもしれない、と思うのは良いとしても、これ以外の意味はあり得ないとか、これがこの部分の絶対的な意味であると主張することに、どこまでの意味があるのか、とも思う。その意味の含み、意味の多様性があることをどうとっていくのか、ということを考えればよいとは思うのだが、どうも近代人のいけない癖なのか、一つの語には一つの意味という妙な思い込みがあるようで、それ以外の意味を認めない、あるいは、一つの語には一つの翻訳語が対応すべきである(ある程度訳語の統一はあってもよいとは思うが、文脈や真意を曲げてまで同じ語にする必要もないと思うのだが…)とか、かなり無理筋のことを言われる方もおられる。そして、聖書には、こう書いてあると論争的におっしゃられる方もおられる。こうなると、かなわないなぁ、と思う。

             

             

            英語の擬人化聖書(来年から再来年あたり、改定された新しい聖書翻訳が出るので、こんな風な聖書擬人化マンガを期待したいところである)

             

             

            本来、この辺の言葉が持つ意味の多様性を大事にし、実用上有効な利用ができるという意識の中で翻訳聖書がなされていることが、もう少し知られるといいのになぁ、と思うのである。

             

            そもそも、この記事の元発想は、ミーちゃんはーちゃんにFacebook上でご質問を寄せてくださったお知り合いの信徒さんが、メサイアの練習で、そこで引用されているある単語がLice(シラミ)になっているのだが、NIVではgnats(ブヨ、カ)なのはなぜ、聖書翻訳の違いはなぜ出るのか、その意味は何か、という素朴な質問から出発した話題でした。それ言うのに、これだけ、回りくどいとは。自分でも嫌になる。

             

            というわけで、この項、単発。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            2016.07.09 Saturday

            N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(1)

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              まぁ、個人の感想を兼ねて、『新約聖書と神の民』という去年12月に出た本を読みながら思ったことを考えてみたい。まぁ、これまで放置していた理由としては、特に理由はないが、たまたまそうなっただけである。何せ、この本は分厚く、結局書棚に置かれて終わりになるのではないか、と思っているが、それにしては惜しい本なのと、南の国のコメント王子こと久保木さんがネットで記事を書いておられるが、割とあっさりしているので、もうちょっと書きたいかなぁ、と思うことを書いてみたい。

               

              N・T・ライト著「新約聖書と神の民 上巻」を読む1 序論など

              N・T・ライト著「新約聖書と神の民 上巻」を読む2 課題のための方法-知識

              N・T・ライト著「新約聖書と神の民 上巻」を読む3 課題のための方法-「文学」、ストーリー、そして世界観の表明

               

              様々な聖書の向き合い方、書物としてのキリスト教

               この本は、前半部分がかなり評価が分かれる本だと思う。また、この本が書かれたであろう1980年代的なコンテキストで読むべき本だとは思う。英語でこの本が出版されたのが、1992年、日本でこの本が翻訳されたのが、2015年であるから、23年以上の時間間隔があいている。1992年といえば、オウム真理教が日本では、選挙に出ただのの直後であり、この本の出た年には、PKO法が成立し、三菱自動車工業の小型スポーツカーランサー・エボルーションの初号量産型が生産開始し(去年生産が終了した)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まった年である。そして、今年大統領候補として初の女性候補となったヒラリー・クリントンちゃんの旦那のババ・クリントンこと、ビル・クリントンが大統領になった年である。

               

              若かりし頃のババ・クリントンとヒラリーたん(えらいきれいな人で弁の立つ人やと思ってた)

               

              最近2015年のババ・クリントンとヒラリーたん(さすがに25年たつと…)

               

              ということで、このふた昔ほど前に描かれた本がようやく、翻訳されたのが、2015年。まぁ、そういう意味でいうと、鮮度がない本であるといえるだろう。カビが生えているほど、ということではないにせよ、日本での市場が出来上がっていくまで、その市場の土台ができるまで、20年以上かかったということも言えるかもしれない。今でも、この本は劇薬指定している人たちもいるみたいだけれども、南の国のコメント王子のように、「それで何?ずいぶん前から、この世界に慣れていた」とおっしゃる人もおられる。実にその意味で、現実は多様なのであろう。

               

              新約聖書との向き合い方

              書物は、いろんな読まれ方をする。いろんな読まれ方をするのは、書物だけではない。ニュース記事もいろんなみられ方をするし、発言もいろんな使われ方をする。その使い方はかなり自由なのだ。そして、適当に切り貼りをされて、自分の意図と違うことに使われることも起こりうる。そんなことはしょっちゅうである。

              ヒラリー・クリントンの電子メール疑惑

              を取り上げ批判するトランプ側(支援者が勝手にやっているらしい)のネガティブ・キャンペーンCM

               

              ドナルド・トランプを批判するヒラリー側(支援者が勝手にやっているらしい)のネガティブ・キャンペーンCM

               

              しかし、こういう極端な例に近いことも聖書についても行われる。文脈から切り取って読まれる、という方法論である。それは、クリスチャン、ノン・クリスチャンに関係なく、自分を有利にし、自己の主張があたかもまともであることを立証するためだけに、適当に聖書テクストがカット・アンド・ペーストして利用されることも多い。

               

              私たちはどのように新約聖書と向き合うべきだろうか。新約聖書の奪い合いはやめるべきだと誰もが思うだろう。新約聖書という国土の外側に鉄策を打ちたてたところで、哲学者や言語学者、政治家や気ままな旅行者は閉めだせないし、そんな鉄柵は似合わない。(『新約聖書と神の民』 p.29)

               

              ここで、ライトさんは、オープンな使われ方をするものとして、また、オープンな対話を様々な人に求めている書物として、聖書を取り上げている。その意味で、聖書は、そもそも共同体としての教会に与えられ、共同体として読むものではあるものではあるけれども、それにとどまらないことをここで示しているように思うし、そのような多様な利用のされ方が現実にある以上、それがおかしいとか、変だとか言っても意味をなさないような柵や鉄のカーテンのない国境のようなものであり、一種の人類にとってのコモンであるとでも言いたいかのようだ。

               

              このような考え方は、次のように書かれる中で、クリスチャン世界の聖書の扱い方に関して、次のようにも書いている。

               

              新約聖書という国土を受け継ぎ、わがものとしようとしているグループは大きく分けて二つある。現在、イスラエルの領有権をめぐって争う二つのグループのように、新約聖書をめぐって争っている二つのグループにも、相手方を完全に締め出そうと躍起になっている者もいれば、妥協点を見つけ出そうと苦心している者もいる。(同書 pp.29-30)

               

              ここで、大きく聖書の使われ方が、近代という文脈、環境の中で、大きく二つに分かれたこと(いわゆるリベラル的な聖書の読み方と、ある種の福音派的な聖書の読み方)を指摘しながら、まぁ、それが単純に対立して併存しているのではなく、その間での対話の取り組みを行った人々もいたことも、一応は書いておられる。まぁ、妥協点と書いてはいるけれども。リベラル側の聖書理解にしても理性という大きな背景、あるいは前提条件、疑われることのないものとしての定理(というよりは、疑ってはならない公理とされたもの)が置かれており、そこを出発点にしているし、文字通りの聖書理解にしても、それは神が与えられたという大きな背景、あるいは前提条件、疑ってはならない公理がおかれており、そこを出発点にして理解が進められているように思う。

              第1のグループは、ここ1,2世紀の間に指導的な立場にある人々で、多くの重要な拠点(有名な大学の教授職や、よく知られた出版社など)をその傘下に置いている。彼らは、新約聖書は徹頭徹尾、歴史的な方法で読まれるべきで、神学的な規範としてみられるべきではないと主張する。聖書テクストの元来の意味を探し求め、それを注意深く取り出すことが必要となる。

              (中略)
              第2のグループは、第1のグループに負けじと不退転の決意で新しい解釈学の侵略に対抗する人々だ。今でも新約聖書を魔法の本か何かのように見なしている彼らにとって、1世紀の聖書記者たちがテクストに込められた「意味」とは何なのかということはあまり重要ではない。むしろ聖書は彼らの間で親しまれてきたある種の精神世界や生活様式に関するものなのだ。(同書p.30)

              おそらく第1のグループは、リベラルと呼ばれる人たちや、聖書学者の立場にある人々のことを意味しているように思われるが、割と学問的な立場にあったり、牧師先生方のような人がこのグループに当たるのだろう。

               

              第2のグループは、信徒さんなどが中心かもしれない。ミーちゃんはーちゃんなどが育った福音派の信徒さんや一部の牧師さんたちも、こちら側ではないか、と思われる。このような人にとって、聖書が書かれた時代の人にとってのテキストの意味はあまり関係なく、現代に生きる現代人が、現代語の各国語に翻訳された聖書を現代における意味がどうか、そこから何を読み取れるのか、というあたりのことに関心が深い人々のことかもしれない。もちろん、ミーちゃんはーちゃんは、新しいものや知らないものがあると、それにふらふらとよって行くような、おバカなところがあるので、そういう侵略というか侵入は基本的に大歓迎であるが、ただ、新しい解釈が入ってくると、過去の信徒さんにこれまでお話ししてきたことと違うことを言わなければならない、あるいは、それをいうことでこれまでその教会に集まってきた信徒さんがショックを受けてしまうことにもなりかねない場合も起きる。おそらく、「聖書は彼らの間で親しまれてきたある種の精神世界や生活様式に関するもの」という表現は、そこらあたりに関することかもしれない。長らく死んだら天国に行くもの、と教えてきた、教わってきた教会で、ちょっと違うことは話されたりすると、大変ショッキングな経験、ある場合にはスキャンダルとはなるのだろうではないか。

               

              確かに、信仰が時間をかけて形成されていくものである以上、ある面で、保守的な側面を持たざるを得ない。ある信仰者のグループの中で親しまれてきた何かが維持され、時に聖書に優先する人々もおられることは少なくないようにも思う。その結果、新しい解釈に対しては否定的になる傾向をお持ちの方もおられるはずである。そのような聖書記述に優先するような理解を認めていない人々の場合では、その人たちが極めて大事にしている2016年の7月の段階での聖書理解の中には、イエスやパウロが活動していた紀元1世紀には考えられなったような解釈があることも、広く一般にキリスト者の中で知られていないだけのことは多いのではないか。そのようにイエス時代には一般的でなかった聖書の理解は案外多いのではないか、とは思う。

               

              どちらか一つという愚

              これまで、このブログで何度も触れてきたことであるが、ある事象への対処の仕方は一つではないし、様々なアプローチが可能であるにもかかわらず、近代社会では、真理は一つという根拠のない思い込み(このことを導ける公理系をミーちゃんはーちゃんは知らないので、もし、ご存知の方がおられたらご教示賜りたい)が公理の役割を果たしてき、ある方法が正しければ、他の方法は劣るばかりではなく、他の方法は間違いであるとされてきた。そもそも複雑なものを一つの方法論で覆えるというは、そもそも人間が限界があるものであることを考えるとき、土台無理だと思うし、本来異なる見え方ができているというのであれば、自分の見方と、異なるものの見方を相互的に補完することで、欠けを補うこともできるのではないか、とは思うのだが、なかなか、ある物の見方はその人の実存やその人自身の価値の問題とかかわるうえに、さらに、他の見方を認めることは、自分の見方や自分自身が正しくない、ないし欠けがあるもの、欠陥があるもの、間違っているものとなってしまう。このため、案外問題の根は深い。

               

              とはいえ、それは、先ほどご指摘した、真理は一つ、正しいものは一つ、という思い込みにあるような気がするのだが。そのあたりのことに関して、『新約聖書と神の民』出は次のように書いている。

               

              歴史が重要なのは、当時の出来事についての認識に深みや展望を与えてくれるからだという主張は正しい。一方で歴史的な記述だけでは不完全だという主張も同じく正当性を持つ。実際のところ、双方の立場とも現代的な思想潮流を代弁していると言えよう。つまり、啓蒙主義運動に続いて登場した合理主義と、もう一方は反啓蒙主義の超自然主義である。双方の立場の人々が考えなければならないのは、他にも選択肢があるかもしれないということと、そして18世紀的な二者択一の押し付けは間違いかもしれないということである。(同書 p.31)

               

              ここで、ライトさんが反啓蒙主義の超自然主義というのは、一種のロマン主義の影響を受けた、反知性主義的傾向のことだと思う。知性も感性も大事であるにもかかわらず、感性が大事だという人は、感性のみと主張する傾向があり、理性を重視する人は、知性のみであると極端に降る傾向があり、それが不幸な論争と時間の無駄を生み出したように思うのである。

               

              と思っていると、Eugine Petersonのことばとして、面白いツィートがあった。

              Beware of “one answer” solutions, no matter what the problem.
              一つしか解決のための方法がないということには、注意を払うべきである。たとえ、それがどんな問題であっても
              (ミーちゃんはーちゃんによる日本語化)

              まぁ、これはそう思うが、案外、世の中、このような理解のない方々もおられる。つまり、ある解というか方法論へのこだわりの強いある考えについて原理主義的なこだわりを持ち、そのような傾向を持つ方がおられる。別にこういうタイプの方がおられるのは、教会に限らないし、世の中の会社とかでも普通におられる。まぁ、それはそれで個性として受け止めたいとは思うけれども。

               

              不幸な誤解の連鎖はやめたいよね

              キリスト教徒のことを、戦闘民族と呼ぶ人々もいる。確かに、戦闘民族と呼ばれても仕方がないほど、同じキリスト教徒同士で争い、殺し合いに近いこともやってきた。新左翼と呼ばれる人たちの間の内ゲバもどきのことをしてきたのである。

              さて、ここで、私たちはよく気をつけないと別の単純化の罠に落ち込むことになる。(中略)キリスト教は神の奇跡についてなのだと考える人々と、こころの中の問題だと思っている人々との言い争いはいつ果てるともない。同様に、「単純な信仰」を掲げる人たちと、「誓いを求める信仰」を提唱する人々を分け隔てる不信の根も深い。(同書pp.31-32)

              そして、今も、このような不幸な罵り合いというか、不幸な相手へのラベル貼りと相手の存在を遠ざける不幸な現象が行われている。ちょっとある人の気に入らないことをいうと、「お前は福音派か」といわれるし、また、別の人が好まないことをいうと、すぐに「お前はリベラル派か」といわれる。「俺たちどれでもないや」と言いたいなぁ、といいたくなる。まぁ、これは、パウロの時代からあったことが聖書の記述から知られるからである。

               

              【口語訳聖書】第一コリント
               1:11 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
               1:12 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。

              あーあ、人間というのはしょうがないなぁ、とも思うが、そのしょうがない人間に神は共に居たもうのであるから、もう、これは不思議としか言いようがない。

               

               

              複雑に絡み合い、縺れているストーリーの束としての聖書

              聖書は読みやすい書物ではない。ガイドなしにとりあえず「エイや」と読めるようなものではないようにもう。『福音の再発見』という本の中で、著者のスコット・マクナイトはガイドマップなしにあるゴルフクラブでゴルフを始めたら、途中で迷って、えらい目にあったという話を載せているが、聖書も一見、素人が適当に読み始めても問題ないように見えるが、それで対応できるほど、親切な書物ではないのである。新約聖書のマタイの福音書を最初から読み始めると欧州人でも口をかみそうななじみのない名前がだらだらと並ぶ系図が出てきて、読む気を失うようなものが出てくる。

               

              また、ある部分だけ読んでみて、警句集や名言集のようにカット・アンド・ペーストで読んでいいものでもない。案外そういう読み方する人は少なくはないけど。キリスト者の中でも。そんなことをしていたら、御言葉の剣で切りあうという悲惨なことが起きる。

               

              聖書の言葉を絡み合ったストーリーの束の中の流れの中で、読むのではなく、文脈を切り離せば、何でも言えるのだ。

              【口語訳聖書】ルカ福音書
              たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ。

              どっか、イギリスのパブとかには、これが看板に書いてあったという話を聞いたことがあるが、まぁ、こう言うカットアンドペーストで意味が全然違ってくるのは、この場所だけではないと思う。そのあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

              〔新約聖書は〕適切な文脈に沿って、また豊かなニュアンスを注意深く読み取りながら、読んでいく必要がある。できるだけ本文の意味を歪曲せず、また微妙に異なる意味合いによく注意せねばならない。新約聖書はいくつかのストーリーとして、そして一つのストーリーとして読まれるべきだ。新約聖書はとりとめがなくストーリー性もないような「思いつき」の羅列ではない。それはストーリーとして読むことができる。新約聖書の内容はもうわかっているなどときめてかかって読むべきではない。どんなグループの人々も、ある特定の聖句や文書や聖書記者が自分たちだけのために代々引き継がれてきたのだ、などという傲慢さを持ってはいけない。そこに隠されているドラマが十分に引き出されるような読み方が求められている。(同書 p.33)

               

              特に後半部分の「新約聖書の内容はもうわかっているなどときめてかかって読むべきではない」という部分は大事だなぁ、と思うのである。ミーちゃんはーちゃん自身、ある時期まで、先に読まれるべき内容があってそれをなぞるように読むのが習慣であった。ある聖書の場所を読むと、それで思い出す内容が決まっていたというか。この場所は、こういう意味、というようなことを思い出し、それからずれないようにしながらよんでいくようなよみかたであったので、まぁ、Same Old Story Again というような読み方であったのである。同じアニメを飽きずに繰り返し見るような感じの読み方でしかなかった。それでわくわくするなんてことはなかった。聖書を読むたびにワクワクするような読みができるようになったのは、最近のことである。まぁ、そのためにも、聖書の土地勘を身に着けるためにも、Same Old Story Againと言いたくなるような経験が必要だったのかも入れないが。

               

               

              長期連載の予感がひしひしと。

               

               

               

               

               

               

               

              2016.07.11 Monday

              こころの時代 安積力也さんの回を視聴した

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                初放送だった日の日曜日は、見かけたのだがどうも眠たさに勝てずに寝落ちしてしまったので、見ることはなく眠りこけていたが、土曜日の再放送を見た。見たといっても、ところどころ、いろいろとあったので、最初から最後まで見た、ということではないが、この安積さんという方がキリスト教教育機関の中で思春期の生徒やその保護者の皆さん方と向き合う中で、見つけてきたこと、不安、おそれの問題が現実の教育の場でどのように出てくるのか、ということに関して、様々な経験を通し、語られていたことを思い出しながら、ぽつぽつと語るのが、淡々と語られるのが番組になったという感じの番組であった。

                 

                神に殺されることを願う子

                最後にお勤めになった秋田県にある基督教独立学園高等学校の校長時代のこととして語られたことが実に印象的であった。その高校に通う、ある生徒さんが、学級の文集みたいなものに「死にたい、神に殺してくれ」と書いたことがあったようだ。数か月後、その生徒さんが、雪下ろしの事故で突然落ちてきた雪の塊の中で、窒息しそうになり、意識不明になり病院に担ぎ込まれたのだが、翌日には回復したことがあったようだ。その経験を通して、自分が初めて、生きたい、生きる価値があると気づいた生徒さんのことが語られていた。まぁ、死ぬことを願った預言者も多い。エリヤもそんなところがある。もう生きていても仕方がないので、神に命を奪ってくれと頼む場面が聖書に出てくることは来るわけですが。

                【口語訳聖書】列王記 上 19:2〜14
                イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
                 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
                 19:14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。

                 

                エリヤの場合は、基本的にまぁ、お疲れになっていたことが想像されるが、 安積さんが校長をしておられた学校の生徒であった現代っ子の高校生の彼がなぜ、自分の死を神に願ったのかは記憶がいい加減で、何が原因かは思い出せないが、その彼が、希望を失っている状態を経て、雪下ろしの雪の直撃を受け、そして生死の境をさまよった結果、やはり生きたい、と思ったという決意を病院から帰ってすぐ安積さんに伝えた、という事実は重いと思う。多分、彼は、「死んでいたものが生き返り」といった体験、放蕩息子のお話に出てくる弟の体験を自らリアルな生物的な意味での生死をさまよい、そして、命があったという体験したの中で、体得されたのではないか、と思う。まさに、放蕩息子が実は、復活の物語、回復の物語でもあるようにこの青年は、自ら身体的にも体験することになったのかもしれない。

                 

                放蕩息子のステンドグラス サウスカロライナ州チャールストンの教会のステンドグラスらしい(Wikipedia様から)

                 

                他者としての神の名を呼ぶ祈り

                ところで、その雪下ろしの事故で意識不明になりかけた子に付き添って学校の車で病院まで行く途中、寮の同室の生徒さんで呼びかけ続けた先輩にあたる生徒がおられたそうである。そして雪に埋まった結果、意識不明になり、何度呼び掛けても、意識を取り戻さない同室の生徒(呼びかけ続けた生徒さんにとっては後輩)に向かって呼びかけ続けた生徒さんは、どちらかというとミーちゃんはーちゃんのような頭でっかちなほうではなく、体を動かすのがお好きなタイプのどうも朴訥な方のようであったらしい。この意識を取り戻さない生徒さんに呼び掛けている途中、この年長の生徒さんは初めて真剣に祈ったそうである。そして、祈った時にそれまでの人生では、未知の平安があったということで、それで初めて、祈りが分かったというような逸話も安積さんは、話しておられた。まぁ、旧約時代には、神の名を呼ぶ、絶対的な無力さを認め、神の臨在を求め、神の介在を求める行為でも祈りはあったわけで、まず、そこは大事なことではないか、と思うわけである。そして命が失われない環境の中で、その生徒の名前を呼び続け、祈る中で、他者(ここでの意味は、レヴィナスにおける他者の意味合いでの人間の人生に介入し、人間の人生の一シーンに突著他者性を持った存在として現れる神)としての神の存在が直感的に分かった旨の話をしておられた。

                 

                おそれとおそれからの開放

                現代社会の問題として、現代においては、普通の人から、指導者層まで恐れが広がっている。指導してこられた高校生の学生にとっても、これからの人生に対する恐れがあることをご指摘であった。

                 

                まぁ、それはそうだろうと思う。これまでの型にはまることで、そこそこの幸せない人生が送れる社会では、もはやなくなっていて、自分の能力や努力とは無関係に自己責任という言葉の下、経済的不況があると派遣労働者や、パート職員でもなれれば幸せ、できなければニートの道まっしぐら、そして、もはや1990年代までの普通の生き方、親世代にとっての普通の生き方や普通の青年像(そもそも近代日本でよく想定された、万国不変、万代不易、時代普遍的な青年像というものはないと思っているが)というものがすでに崩壊したポストモダン社会に突入しており、全盛期的な常識や知識があまり価値を持たない社会であり、そして、これからは、そのポストモダン社会がさらに変容する社会に向かっていく社会に向かっている事実だけは間違いはないのだ。1980年代までは、トフラーというおじさんの未来学とか、未来予測とかがまだ意味を持った時代であったが(こういうのに世俗の仕事で少し、かかわったこともある)、今やそんな予測がそもそもナンセンスな社会に向かっているのだ。

                 

                トフラーおじさん

                 

                子が親を、親が子を恐れる社会

                そして、その学園のカリキュラムにある教科「聖書」の時間の課題として、さらに、あなたが何を恐れているのか?ということを生徒さんにレポートにまとめるように、ある時に問うてみたとき、案外、生徒さんは子どもとして他者である親を恐れていることが分かったという。そして、そのレポートの代表的なものを取り上げ、先生方と生徒の保護者との懇談会に臨んだ時に、今度は、「親は子を恐れている」ことが懇談会の場で明らかになったという。もう家庭内不信の世界ができている状態であるらしい。

                 

                まぁ、親は親で多忙や仕事などで自信を無くし、子供は子供でモデルとして親を見習ったときに展望が開けているか、というとそれがそうもいかないという状態にあるのかもしれない。この中で相互不信が生まれないほうが不思議なような気もする。ナウエンの本『差し伸べられる手』(女子パウロ会 三保 元訳)にこのような部分がある。この部分は重要だと思うので、少し長くなるが引用してみたい。

                 

                接遇(もてなし)に関して両親と子供の関係を語るのは、そぐわないかもしれない。しかし子供は所有し支配するものではなく、かわいがり面倒を見て育てなければならないということは、キリスト教のメッセージの中心にあることだ。子供とは、一番大切な客人だ。子供たちは家の一員となり、特別に面倒を見なければならず、しばらくの間家にとどまってから自分自身の道を歩むために去っていく。子供は次第に理解していかなければならない外来者なのだ。自分自身の生き方、生活のリズムを持ち、自分なりの善悪の判断をする。親にあったからといって、子供がどういう人間か説明できるわけではない。従って親が子供について『どの子も一人ひとり違って、あんまり違うので、夫婦して驚くことばかり……」というのをよく耳にする。父親、母親のほうが他の家族のものや友人よりも子供たちが両親とも兄弟姉妹とも似てないことをよく知っている。子供は未来を約束されていて、温かい家庭で教育(英語の”education”には、日本語の教育、教え育てる、の意味はなく、人間が持っている能力を引き出す、という意味)を通して次第に明らかにされていく隠れた宝物を持っている。幼い外来者をくつろがせるには時間をかけて忍耐しなければならず、両親は子供を愛することを学ばねばならないというのが現実的だろう。ときには、父親あるいは母親が正直にしかも強制されてではなく、生まれたばかりの子供に特に愛情を感じず、よその子供のように見てしまうとさえいうことがある。それは子供がほしくなかったのにできてしまった、というのではなく、愛情とは、例えば子供ができた時などに自動的に起こる反応ではないからだ。愛情は、育てられ深められる関係から生まれるものなのだ。両親と子供の間での愛は、お互いに手を差し伸べあい、同じ人間なのだと気づけるまでに育ち成熟しなければならないとさえいえる。両親と子供はこうして多くを分かち合わなければならないが、年齢の差や、才能や態度の違いなどは、両者が持っている共通の人間性に比べれば、はるかに重要ではない。(pp.102-103)

                ここでナウエンは、外来者、客人という言葉を使いながら、親子が相互に、他者(ここでも、レヴィナスの言う意味での他者)であり親子という関係の間でも、一種の他者としての関係が成立していることをしている。その意味で、親が偉くて、子は従うべきだ、親は教える存在で、子どもは習う立場だ、という理解ではないように思う。日本の場合は、この水平性が家族関係の中であまりにも弱すぎて、親は無理して自分をよく見せようとして疲れ切っており、子供はその親の期待に合わせるようにして疲れ切っており、その余裕のなさが、相互不信と相互に対する恐怖心を生んでいるのではないか、と思う。

                 

                 特にここで訳者の人があえて、Educationの意味として入れている言葉の内容の理解が、日本では教育関係者の中でももちろん、成人の間で、理解されていないのではないか、と思う。確かに、本人の能力を引き出すためには、ある種の基本を教えることは大事なのであるが、それだけで、その先にある個人の能力を引き出すことに成功していない事例も多いのではないか、と思われる。そして、親としての自分の基準(それは多くの場合恣意的なことが多いが)に達した段階で満足してしまい、その先にまで進めるということまでできていない親や教育者は多いのではないか、と思う。もちろん、自戒を込めて、という意味である。

                 

                その意味で、この高校の名称になっている基督教独立学園の独立という意味は、神の前に回復された自立精神を持つ自律的な神のかたちを取り戻した人間という意味であろうし、その意味で、そのような神のかたちになっていくようにその人を整えていくことが教育であるという理念をある程度実現しているのかなぁ、ということをお話を聞きながら思う。

                 

                後、この安積さんがその保護者会に出席したある保護者の方がシェアしてくださったことが、非常に印象的であった。それは、その保護者の方にとってのキリスト教信仰とは、鎧のようなものであった、と絞り出すように発言されたときのお話が合った。確かに、ある面、パウロは

                 

                【口語訳】エペソ人への手紙
                 6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
                 6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
                 6:15 平和の福音の備えを足にはき、
                 6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
                 6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

                と言っているが、しかし、親子が御霊の剣で、いつ切り合ってもいいように、いつまでも鎧を家庭の中でまとい続けるというのは実にどうなのか、と思う。そんな家庭はつらくて仕方がないだろうし、その人の本来の姿が出せずに終わるだけではないか、と思う。また、先祖代々の鎧兜をつけて、という日本的な美学があるのかもしれないが、合わない鎧兜は困りものなのである。ダビデは体格に合わないサウル王の鎧兜などは必要とせず、あえてバカにされる羊飼いの少年の也で、ゴリアテに向かったのだ。

                 

                大体下の図のようなローマ時代の軍装で家の中にいたら、暑いし、うるさいし、いかつくて仕方がない。まぁ、着用をご希望なら、家庭内でもご着用されておすごしになるのは個人の自由であるが。

                 

                ローマ時代の歩兵軍装

                 

                最後の部分で、安積さんが井戸の底のようなどん底に行ってこそ初めて見える光があることを言っておられたが、この話を聞きながら、上沼昌雄さんの『闇を住処とする私、闇を隠れ家とする神』で触れられている村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の井戸の話について上沼さんが書いておられる内容を思わず思い出してしまった。個人的には、ハルキストでもないし、あまりこの辺の文学作品の良さがわからないのであるが、この安住さんのどん底の中で見える希望と、上沼さんの文章の中にある井戸の話とは、実は、非常に深い関係があるのではないか、と思った。

                 

                今回のこころの時代を安住さんの回を見る中で思ったのは、他者性を持った神のかたちとどう付き合っていくのか、そして、それに手を広げて迎え入れていくのか、ということを改めて考えさせられた。

                 

                次回は、ライトさんの連載に戻します。基本、土曜日、水曜日にライトさんの連載を今後は公開する予定です。 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                評価:
                ヘンリ・J.M.ナウウェン
                女子パウロ会
                ¥ 2,160
                (2002-06)
                コメント:内容はもちろん素晴らしいし、また、翻訳も読みやすい。おすすめの一冊。

                評価:
                上沼昌雄
                いのちのことば社
                ¥ 1,944
                (2008-09-24)
                コメント:おすすめの一冊。

                2016.07.13 Wednesday

                N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(2)

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                  前回の『新約聖書と神の民』のご紹介に続いて、今回も同書の続きをご紹介してみたい。

                   

                  (西洋的現代での) 新約聖書の4つの解釈法

                  ライトさんは、新約聖書の主要な解釈のアプローチを4つに絞っておられるが、実はこれだけでは不十分で、歴史的にはもう少しあるようだが、前近代の中に含まれるからいいだろうということで、その辺はかなり荒っぽい議論というか分類をしておられる。この分類だと正教会系の解釈法の伝統が含まれなくなるので、どうなんだろうと思うが、まぁ、現代の日本を含む西側のキリスト教業界で相変わらず論争をしているのが、この4つなので、まぁ、これでもいいのかもしれない。

                   

                  新約聖書の解釈法は4つ挙げられるが、それらは新約聖書の解釈学の歴史における4つの潮流を示している。これらについて以下で詳しく見ていこう。4種類の方法論(前ー批評学的、「歴史」的、「神学」的、ポストモダン「文学」的解釈)は、大まかに言って過去数百年の西洋文明に登場jした3つの動き(前近代、モダン、ポストモダン)に呼応している。第一の潮流は18世紀の啓蒙思想の登場以前の時代区分に属している。第二の潮流は特に啓蒙主義運動に力点を置いており、「モダニズム」や「近代性」として知られている。第3のものは第2のものを修正する形で現れたものだが、それとても啓蒙主義的世界感から生じた。そして現在に至るまで続く第4の潮流とは、啓蒙主義的な世界観が様々な面で崩壊していく中で「ポストモダン」として知られるようになった。( 『新約聖書と神の民』 p.35)

                   

                  そして、ここで、マルコ福音書12章1−11節のぶどう園のたとえ話を取り上げながら、この解釈法の問題を考えてみる手掛かりにするということのようだ。このぶどう園のたとえ話というのは、自分が所有するぶどう園に自分のところで働いている二人の使用人を送っては殺害され、最後には自分の息子を送ってそれも殺されるという物語について、この4つのそれぞれが解釈するのか、ということを取り上げている。

                   

                  「前ー批評学的解釈」について

                  前ー批評学的解釈というのは、近代が成立する過程の中で、テクスト批評という方法論が成立する前に取られていた、という意味で、批評学の影響を受けていないという意味で前ー批評学的解釈といっているけれども、これは、非ー批評学的解釈というか、アンチー批評学的解釈という用語のほうがよかったのではないか、と思う。個人的には、歴史神学はつまみ食いでしか勉強してないので、批評学が出る前のその昔の文献をよくは知らないのだが、批評学が出る前に、この読み方をしていたかどうかまでは個人的に確信はないが、今、この種の歴史的文脈的理解から切り離して、自分に何が語りかけられるか、という観点から読んできている人々がいたし、どちらかといえば、今もミーちゃんはーちゃんもこの種の聖書読みに近いような部分がある。

                  このたとえ話の第一の解釈法は、聖書を「聖なる書」と信じる人々のものだ。彼らはこのぶどう園の話の歴史的な文脈についてはほとんど考えず、テキストを読む際に聞こえてくる神の声に耳をそばだてようとする。(同書 p.35)

                   

                  この読み方について自分がかなり良くこの立場に近い読みで致し、今も時々この読みに近い読みをするので、よくわかるのだが、確かに以下の批判はある面でいわれても仕方がないなぁ、と思う。いわゆる素朴な自分の感情や過去に教会で聞いた聖書理解を前提としてよんでしまうのである。つまり、その読み方が先に立ってしまい、そのような読み方以外の聖書の読み方を否定しかねない聖書読みの方法である。これに関して、ライトさんは次のような批判を受ける可能性があると主張している。

                   

                  この前ー批評学的アプローチは、聖書の権威を重く受け止めようとして入るが、今日においては少なくとも三つの面からの批判を免れない。その三つは、「歴史」、「神学」、そして「文学」に関する聖書解釈法にそれぞれ対応している。まず、テクストが歴史的文書であることを認識してないこと、次にこのテクストを新約聖書全体の神学に読み込んで読もうとしてないこと、また文学批評の観点からは、テクストを読むにあたっての彼ら自身の予断や独自の視点について無批判なことである。(同書 p.36)

                  確かに、この読み方は聖書の権威を重く受け止めるということには、表面上はなっている。確かに、「聖書は生きている」、「生きた書物としての聖書」、「現代人に語り掛ける聖書」というスローガンがあるキリスト者集団によって時に掲げられることがある。確かに自分に語りかけられてくることを大事にする、というこのタイプの読みができるという側面は否定しがたいが、これをあまりに重視しすぎると、歴史的文書であり、歴史的に形成され、編集され、歴史的に選択されていったことを理解しない、あるいはそのような概念を聞くとショックを受けかねない人々が出ることが困るのだ。

                   

                  そして、ここで指摘されていることは、聖書は生きている書物である、ということを強調するあまり、聖書テキストからある人に語り掛けられたこととおもったこと(聖書テキストが自分がこういうことを言いたいのかもしれないと思ったこと)が聖書の唯一の解釈であると主張されることになりかねないという点である。そしてその解釈以外の解釈を受け入れられなくなりかねない点である。

                   

                  「歴史的」解釈についての観点から(前ー批評学的解釈の場合は、理性ではなく、個人の感覚や感性、素朴な読みに引き付けられる傾向がある)から、どのような視点が出されるのか、ということに関して次のように主張している。

                   

                  啓蒙主義者たちは歴史の重要性を強調し、次のように問う。

                  (1)イエスは本当にこのたとえ話を語ったのか。もしそうなら、彼は何を言おうとしたのか。ユダヤ人たちの間では、農場主と農夫についてこのたとえ話と似たようなストーリーが語られていたのだろうか。(中略)

                  (2)原始教会は、その宣教活動の中でこのたとえ話をどのように用いたのか。大部分のユダヤ人たちがイエスの指針を拒否した理由を説明する必要が生じた際に、このたとえ話が繰り返し語られたのだろうか。新しい状況下で、このたとえ話はどのようなインパクトをもたらしたのか。(中略)

                  (3)福音書記者マルコはこのたとえ話を福音書の中でどのように用いたのか。このたとえ話は物語が展開していく中で、この特定の場所に挿入されることでどんな新たな意味合いを帯びることになったのか。特に、イエスが神殿で衝撃的な宮清めを行い、それ以降十字架に向かう物語のテンポが急速に早まっていく中でこのたとえ話の役割とは何か。(中略)

                   以上の三つはそれぞれ(1)歴史的批評、(2)様式史批評及び文献批評、(3)編集史批評という批評学の分野に対応しているが、これらについては第IV部で詳しく論じる。大部分の研究者はこれらの問題提起はテクストの真摯な分析に必要不可欠だと認めている。(同書 pp.36−37)


                  その意味で、理性を中心として理解しようとしていく場合、ここで触れられているような様式批評、編集史批評ということは考えねばならなくなる。それは、聖書テクストとて、テクストであり、そして、聖典とは何か、という形で聖典性に関する議論をされ、そして多くの筆記者の伝言ゲームのような編纂を経て残っている文書から、おそらくギリシア語テキストのオリジナルはこのようなものでないか、と推定されたテクストという側面があるからである。もし、1世紀の現物が残ってさえいれば、そもそも、このような問題は発生しないのだろうが、写本から、原形を推定する作業があるからこそ、聖書のギリシア語テキストとされるものだけで両手に余る以上の微妙に違うバージョンが存在するように思うのだ。その意味で、聖書とは何を考えるのか、と考えないとまずいように思うが、前ー批評学というのか、非ー批評学というのか、とにかく、聖書は聖典なのであるといい募り、批評学を必要以上に否定する人たちはこのような聖書の成立過程を考えずに、聖書はあたかも与件であり、前提とせねばならないかのように聖書の聖典性を主張される場合がある。そのようなご主張は、あるお立場としては尊重はしたいけれども。

                  字義通り読み取るべきでない
                  サイン付きの部分とメタストーリー

                  実は、字義どおりを主張する人々の中でも、基本的にそのとおりであると信じられていない個所として、たとえ話の話が出てくる。ルカ12章の放蕩息子の話にしても、そういう人が1世紀のパレスティナにいたと信じている人はあまりいないだろうという趣旨の話が、ライトさんの『クリスチャンであるとは』に出てくるが、聖書に出てくるから何でも字義通り、文字通り、ということにはならないだろう例の一つである。まぁ、このように、たとえ話で語られた、というような明確な文字で指示が付いているのであれば、それは簡単だが、そうでない文書も聖書の中には多数存在する。

                  テクストを様々な面から歴史的に探究していくことで、実りある成果が期待できるかもしれない。このマルコのテクストの歴史的文脈を考えずに読んでしまうと、この話をどこか本当らしくないけれど実際に起きた出来事の歴史的、またはそれに類した記述だと受け取ってしまうこともありうる。(中略)歴史学の観点からは、このストーリーは「字義通りに受け取られる」べきではないというシグナルをテクストそのものの中に見つけることができる。このストーリーが「本当らしくない」のは、それが表面的な意味とは別のことを伝えようとしているためだということを暗に示している。このストーリーは物語として理解されるべきだが、特にそれは「たとえ話」というジャンルに分類される。そしてこのたとえ話は、イザヤ書5章1−7節の「ブドウ畑の歌」のようなタイプのたとえ話の伝統に連なるものだということもわかってくる。さらにこのたとえ話はメタストーリーとして読まれるべきで、表面上の意味よりも何か別のことを指示しているのだという結論に落ち着く。こうした議論は、歴史的解釈法(このテキストを、適切な歴史的文脈の中に位置づけようと試みること)の枠組みの中で行われる。(同書 p.37)


                  ここで、メタストーリーという語が出てくるが、これは、直接触れる(読む、または聞く、目にする)物語の奥というのか、その意味階層の上位の意味階層でのストーリーという意味である。

                  そこで、メタ理解の漫画を探したら、こんなのがあった。

                   



                  メタ認知とは、認知をしているということを認知している認識のこと


                  つまり、考えているということは、どのようなことかを考えている脳 というメタ構造になっている。
                   

                  メタ認知とかメタストーリーという世界は、その意味で、より上位の概念体系があり、それが下位においても同様に実現されているという一種の入れ子構造を持った世界であり、メタストーリとは、ストーリの上位のストーリということなのである。例えば、割と知られた浦島太郎のストーリーは、異界からの異人(亀)に対する親切に受け入れることのストーリーと、基本的に自分の理解を超えた、未知のものを扱う際には、その仕様書に従って行動するべき、という二重のメタストーリーを持った物語、と理解することもできるだろう。



                  AUの浦島太郎のメタストーリーとはわりと無関係にパロディをしているCF

                   

                  さて、上記の中に、イザヤ書5章のブドウ畑の歌というストーリーが出てくるが、確かに、ぶどう園のたとえ話とある種の相似形になっているし、同じイスラエルの不信仰というのか、神のみ思いへの反逆、神のみ思いの無理解や無関心(それこそが罪なのであるが)が描かれている。こういう事例は多い。ただ、こういう相似形とか、類型論による理解は、現在の西洋型、とりわけ近代時代を経るなかで、理性がかなり重視されるキリスト教ではあまり好まれないことが多い(というよりはむちゃくちゃ批判的に言われることが多い)ようには思うが、それとても一つの大事な読み方ではないかとは言えるかもしれない。実際に預言では、この種のメタフォリカルな方法論が旧約時代、また、新約時代においても多く用いられたことはある程度知られていると思うし、そのような読み方を捨ててしまうことで、本来大事なものまでも捨てている部分もないわけではないように思う。

                   

                  【口語訳聖書】イザヤ書
                  5:1 わたしはわが愛する者のために、そのぶどう畑についてのわが愛の歌をうたおう。わが愛する者は土肥えた小山の上に、一つのぶどう畑をもっていた。
                   5:2 彼はそれを掘りおこし、石を除き、それに良いぶどうを植え、その中に物見やぐらを建て、またその中に酒ぶねを掘り、良いぶどうの結ぶのを待ち望んだ。ところが結んだものは野ぶどうであった。
                   5:3 それで、エルサレムに住む者とユダの人々よ、どうか、わたしとぶどう畑との間をさばけ。
                   5:4 わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。
                   5:5 それで、わたしが、ぶどう畑になそうとすることを、あなたがたに告げる。わたしはそのまがきを取り去って、食い荒されるにまかせ、そのかきをとりこわして、踏み荒されるにまかせる。
                   5:6 わたしはこれを荒して、刈り込むことも、耕すこともせず、おどろと、いばらとを生えさせ、また雲に命じて、その上に雨を降らさない。
                   5:7 万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。



                  歴史的解釈の限界への批判
                  啓蒙時代を経て、理性重視の時代に向かっていく中で生まれてきた歴史的解釈について、ありうべき批判を次のようにライトさんは書いている。

                  この歴史的解釈については3つの異論がなされるだろう。第1に、テクストがこのように読まれる場合、それが教会にとって、また現在の世界に対して、いったいどのような権威をもちうるだろうか。これは特にそうした権威ある言葉を期待して聖書を読もうとする多くの人々からの問いかけである。第二に、歴史的解釈は各文書の神学的な意味を問うものではないと思われてきたが、神学的な観点からの問いは適切かつ必要だということが近年広く認識されるようになってきた。第3に、「実際に何が起きたのか」を知ることが可能で「客観的な」事実にたどり着くことができると考えるのは楽観的すぎるのではないか。これらの理由から、歴史的批評学は、特にここ1世紀の間にテクストの神学的な意味を検討する方向へと拡大していった。(同書 pp.37−38)

                  歴史的解釈という意味で歴史的な現象性や現実性、歴史的な事実性のみに強調を置いてしまうと、聖書は現代人とは無関係な話になったり、現代人からは、過去に起きた話として理解されかねない。そのあたりについて、前ー批評学的というのか、非ー批評学的理解をする人々や、聖書の権威性を前提として読む人々の目には、聖書の権威性を軽んじているかのように映ってしまう、ということになるのであろう。本当はそうではないのだが。厳密に、現代に無関係な過去の出来事のみとしてみるべきであるとするならば、聖書を読む意味は、歴史的事実を忘れないため、ということでしかなくなる。

                   

                  また、歴史的解釈と神学的理解の独立性というか分離可能性に関しては、実はかなり怪しいのではないか、ということが次回紹介する部分で出てくる、ということを触れるだけに、ここではとどめておきたい。おそらく、実際に旧約時代の人々は、歴史的解釈と神学的解釈を重ねていて読んでいたような気もする。例えば、このあたりは過ぎ越しの祭り規定に関する申命記の記述などにも表れているようにも思う。

                   

                  最後に、聖書テキストから、「実際に何が起こったのか」を知ることの可能性は、過去の歴史学の研究が明らかにするように、現代詩であっても、言語による記述から、おおむねこういうことが起きたのだろうと推測はできたとしても、それが確実に起きたということを記述のみから再現することは実は困難であり、そのあたりの記憶に基づく過去の事実の再現というのがいかに難しいかは、交通事故の検証などで日常茶飯事で起きることらしい。また、戦史研究などで、作戦参加者の軍人の話などを基に戦史研究する場合でも、記憶は作り替えられるのと、とりわけ過去が美化される傾向にあること、さらに、個人的経験の集大成になるので、一次資料としての作戦参加者の軍人のモノローグはかなり重要な資料となりうるという側面を持つものの、現実にそれが起きたのかどうかの可能性の検証や、実際の事象を事後的にこれらの証言のみによって再現することは案外困難なのである。

                   

                  現代のニュース情報や現代史など、映像資料と呼ばれるものが多数残っている社会においても、仮に映像情報が残っていたとしても、それは断片的な映像情報やある意図をもって撮影されたり編集されたりすることが多いため、映像情報に基づいているとはいえ、現実の再現は完全にはできないし、前回紹介した、アメリカ合衆国大統領選挙で行われるネガティブキャンペーンのように、事実関係の映像だけの切り出しをしたとしても、意図をもって編集して、元のコンテキストから切り離しができてしまえば、どんな風にでも映像を用いて誘導することができるのではある。それに似たことが起きたのが、最近の日本では、いくつもあるが、オウム真理教のとばっちりを受けた河野さん事件など、まさにその典型である。テレビだけでなく、映像はうそをつくこともあると思いながら、批判的に見ていかないと、ろくでもないことが起きるのである。 

                   

                  この辺コンピュータ・リテラシー以上に必要な情報リテラシーだと思うが、このあたりのリテラシーは、批判的思考を必要とするので、こういう批判的思考をする人は、日本のキリスト教会では、「鳩のように素直でない」と怒られることはあっても、「蛇のように聡い」と褒められることはまれであるように思う。

                   

                   

                  テッド・クルーズに対するトランプ陣営によるネガティブ・キャンペーンの動画

                  (ここまでやるか、という気はするが、ここまでやるのがアメリカの大統領選挙)

                   

                  次回は今週土曜日公開予定

                   

                   

                   

                   

                   

                  2016.07.16 Saturday

                  N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(3)

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                    今日もまた、ライトさんの『新約聖書と神の民』から読んだ結果をお示ししてみたいと思う。今日は聖書学という観点からの歴史性を重視した聖書の読み方についての方法論からの読み方である。

                     

                    聖書神学という聖書の読み方

                     ライトさんは、ここで、聖書の読みとして、テクストとして、つまり、記録された文字に反映された歴史的対象として聖書を読むという読み方について次のように書く。つまり、テクストとしての新約聖書をイエスが語り、弟子たちが直面し、どう考えたか、ということが記載された内容に重点を置いて、聖書を読むという読み方である。

                     

                    第二のモデルは1950年代から60年代にかけて「聖書神学」学派( the 'bibilical theology' school)によって提唱された。哲学的観点から見れば、この学派はブルトマンに代表される観念論に一種の実在論で対抗しようというものだ。新約聖書は時代を超えた真理を明かししているという理由からではなく、創造主である神の歴史における力強い御業、特にイエスにおける歴史的出来事、それらについて証をしているという理由から権威あるものとされる。テクストは「実物」、つまり歴史上の出来事を明かしする限りで啓示的であり、したがって権威を持つ。このような第二のモデルは、教会の歴史の黎明期は「純粋」であったとする見解と結び付けられ、それゆえ原始キリスト教を規範形成のための研究対象とすることが可能だという見解とも結び付けられる。しかしこれでは、新約聖書はそれ自体が神の啓示なのだというプロテスタントの主張にしっかりと向き合っているとは言い難いだろう。この第2のモデルは、啓示とみなされるべき歴史上の出来事の重要性を強調することにおいても、あるいは出来事を通じての啓示がどのように理解されるべきかについての明確な神学上の説明を提示する点においても成功しているとは言えない。(『新約聖書と神の民』pp.60−61)

                    つまり、考古学や歴史学において重視されるような実在するテクストが何を示しているのかを考えることで、聖書の中身を理解しようというような取り組みを扱ったものであると言えるのかもしれない。つまり、資料ないし史料としての命のない、モノとしてのテクストに着目して、それがどのような意味であるのか、ということを考えようとするときに、どのように読めるのか、という問題を取り扱ったものといえるだろう。その意味で、前回紹介したような、現代にも生きた書物としてのテクストというよりは、現代では死んでしまって固定されたものとしてのテクストとしてみるのがこの見方であるといえるのかもしれない。その意味で、ブルトマンたちの聖書理解がテクストから出発したというものの、テクストの内容が指し示している観念を過剰に重視して、そこを中心に聖書の主張しようとしていることを理解していこうとする一種の上滑りな理解の広がり、といえばかっこいいが、何でもいえてしまうという可能性というか、欠点を含む考え方に対抗して生まれきた立場らしい。ある面、テクストの資料性、テクストが固定であることに価値を置いた解釈、と言えるのかもしれないなぁ、と思った。

                     

                    ある面ブルトマン風の聖書理解が、一種の観念というか概念を抽出し、その抽出した概念からさらに概念を発生させていき、過剰に歴史性を無視し、何を基準としているのか、という固定するポイントを持ちえなくなったことの問題から、イエスの歴史的な実在性とテクストの存在の価値を取り戻そうとするものであったと言えるかもしれない。この辺はブルトマンについて詳しくないのであまりにもいい加減。この辺は、歴史神学ちゃんとやってないので、多分こんなことかもしれないなぁ、とここを読んで思ったことを書いているに過ぎない。

                     

                     

                    テクスト切り貼りの愚

                    聖書は、もともと、高校の数学や物理の教科書や最近の経済学のテキスト(これらは、わかりやすいといっても、分かりにくいという批判は免れない)や学習参考書のようには書いてくれてないし、順を追って読めばわかるというようにはできていない。それどころか、順をおって読んだところで、舌を噛みそうな名前ばかりの羅列が出てくるところや、目を覆いたくなるようなレイプ事件、あるいは、バラバラ遺体にするような遺体損壊事案が平気で聖書には出てくる。それを避けることはできないのだ。

                    研究対象となる文献が多様であることは、これら二つのモデルの更なる問題点を浮き彫りにする。新約聖書から「規範的な」公式見解を導き出すために、ある特定のテクスト箇所だけを強調して、他の箇所には目をつぶるというようなことが実際に起きてしまうのは避けられない。これは研究者にも一般の読者にも等しくみられるが、例えばパウロ神学を「聖典中の聖典」と持ち上げてしまうような、特定の聖書個所を別格扱いしてしまうという現象だ。このような方法論は、聖書の中の難解な個所はわかりやすい箇所を参照して解釈されるべきだという原則論によってしばしば擁護されてきた。こうした原則論があまりにも主観主義に偏っていることを考えると、それがこれほど長い間受け入れられてきたのは驚くべきことだ。(同書 p.61)

                    ここでライトさんが言っているのは、聖書になんらかのあるべき姿「規範的な」公式見解というか理解すべき内容というか、聖書の読み方というものが先にあり、それに合わせて読むというような方法である。例えばより具体的に言えば、男性の(教会内での)優位を規範というか公式見解とするがゆえに、そもそも女預言者アンナを敢えて触れない、アポロに語って聞かせたプリスキラの存在を無視するとまで言わなくてもあえて軽くしか触れない、ミリアムの失敗を根拠に、ミリアムが預言したことに言及しない…といったことはある面、ある特定のテクスト箇所だけを強調して、他の場所には目をつぶるということをしているように思う。

                     

                    聖書の中の難解な個所はわかりやすい箇所を参照して解釈されるべきだという原則論によってしばしば擁護されてきた。こうした原則論があまりにも主観主義に偏っていることを考えると、それがこれほど長い間受け入れられてきたのは驚くべきことだ」とは書かれているが、この問題は深刻で、そもそも聖書を読む人々は明確に意識していたり、明確に意図していないとはいえ重大な聖書理解に関する課題を生みかねない。信仰暦が短い方々には、「理解しにくいところは後回しにしてもいいかも…」とお勧めしたことは何度もあるが、問題は、人は、後回しにした瞬間、完全に後回しどころか、毎度毎度後回しにされ、後回しの無限ループに陥り、結果として、分かりにくいので、後回ししました、といいながら、結局分かりにくい部分が読まれていない、という結果を生む。こういう方に時々出あう。こうなると分かるところだけ読むということにもなりかねので、このようなカットアンドペースト風の聖書の読み方に至るのであろうと思う。それはそれで、ちょっと困ったものではないかなぁ、と思う。

                     

                     

                    ブルトマンたちへの批判

                    個人的には、ブルトマンの本は大昔に僅か2冊ほど、それも翻訳書でしか読んだことがないし、そもそもドイツ語ができないので、原著で読む気にはなれない。結局、ブルトマンの立場というのは、新約聖書テキストから離れ、新約聖書から自分たちが抽出したと思っている概念に優先性を与えて行くという雰囲気なのかなぁ、と思っているが、この概念の優先に関して、ライトさんは次のように批判している。

                     

                    「新約聖書神学」の試み、特にブルトマンによって確立されたパラダイムとその亜流の最大の問題点は、イエスをどのように扱うかという点にある。厳密にいえば、ブルトマンの「新約聖書神学」にはイエスの教え(あるいは彼の生と死と復活という事実)は含まれず、それは単にイエスについての新約聖書記者たちの信仰、または「イエスのストーリー」という観点から神話的に語られる新約聖書記者たちの信仰を扱っているに過ぎない。奇妙なことだが、プロテスタント運動が生み出した基本的なモデルの一つは、聖書釈義とその権威保持という面でイエスその人をほとんど排除してしまっている。(同書 p.62)


                    ここで、ライトさんが言っている「奇妙なことだが、プロテスタント運動が生み出した基本的なモデルの一つは、聖書釈義とその権威保持という面でイエスその人をほとんど排除してしまっている。」という表現には、イギリス人らしいブラックユーモアみたいなものを感じてしまった。要するに、聖書中心で始まったのに、さらにイエスについて語ろうとする学問分野でもある神学であるにもかかわらず、科学が支配した近代人に対して説明的に理解できるようにしようとするあまり、イエスのいったこと、言おうとしたことがカクカクしかじかであるといい、それだけに意味があるのだといってしまったために、結局イエスについて言わないことになってしまっていることは、そもそも論としておかしくないか、ということで批判しておられるようだ。

                     

                    似たようなことは、形を変えて、このようなブルトマン風の聖書理解を取り上げつつ、「神学なるものをすると、ほれ、神を信じなくなる」と若い信徒に言い放つ、福音派の信者さんなんかで起きている場合もないわけではない。こういう方々のある人たちは、聖書が事実であるという前提に立ってご議論をなされる方も少なくないため(全員が全員とは言っていない)、先ほど触れた、聖書をカットアンドペーストした聖書の読み方をし、聖書に書いてあるから、QED(以上証明終わり)、と主張されることも多い。挙句の果てに、対話を拒むようなお話し方でのお話をお聞きすることがある。聖書に書いてあるから、という立場でも、あまりに機械的な聖書の読み方なので、なんだかなぁ、と思うこともある。また、「その議論の立て方は、トートロジー(循環論法)になっていませんか」などということを言おうものなら、血相を変えて、こういうことを言うミーちゃんはーちゃんに対して「不信仰もの」「本物のクリスチャンではないのではないか」とかおっしゃって、怒り出す人たちもいる。そういう意味で、人間の理解ということの限界をどっちにしても感じることは多い。


                    多分、そのあたりについても、ライトさんの本ではこういっている。

                    加えて、第IV部で見ていくように、ブルトマンによってなされた「新約聖書神学」をイエスの評価基準として用いるようなやり方にはどこかおかしなところがある。新約聖書が提示するのは、パウロ、マルコ、ルカ等々のイエスについての神学であって、イエス個人の神学的見解は新約聖書を表面的に読んだだけでは読み取ることができない、という主張は妥当である。(同書 p.63-64)

                    ブルトマンとその後継者たちの問題はさておき、先にも触れたような、一種機械的な聖書読み方(とにかくテクストとして書かれてあることだけを読み、その書かれてある額面上の意味だけとして受け取り、それ以上のことは考えない、あるいは聖書を切り貼りし、それで証明されたというような一部の聖書の読み方や聖書には何でも答えがあると無理やりこじつける様な方法論)には限界があるということは、もう少し考察されてもいいようにも思う。

                     

                    現代人には受け入れにくくても

                    聖書の中心は十字架の死と復活

                    とは言いながら、イエスの生と死と復活という時代の中のイベントの重要性、とりわけ、復活の重要性に関して、それは極めて重要である、ということに関して、ライトさんは次のように言っている。

                    よく言われるように、新約聖書記者たちは、自分たちが『聖書』を執筆しているとは思っていなかった。このような見方は、特に編集史批評の観点からは修正されるべきかもしれない。しかし、新約聖書記者たちにとってイスラエルの神が世界の救済のために決定的な行動をなされた瞬間とは、彼らが福音書を書くために筆をとった時ではなく、彼らの神が血肉を持って十字架の上で死なれた時なのである。彼らの著書はこの事実から派生し、また依存していると考えられてきた。したがって、厳密にいえばイエスと彼の宣教が「本体」(つまり新約聖書学)の陰に隠れて相対的な価値しか持たないということにはならない。 (同書 p.64)

                    共産主義においても重視された科学性が支配した近代という社会の中で、死人の復活というのは、結構受け入れてもらいにくいものであった。唯物論(そもそも唯物論なのか唯心論なのか、という問題の立て方そのものが個人的にはおかしいと思っているし、世の中そんなにどっちか一つで対応で切るほど簡単ではないと思う)に大きな価値を置く共産主義国で、やたらと数学とか物理化学とかが研究されたのは、国威発揚という側面ももちろんあったろうが、それだけ彼らが近代の象徴である科学性を大事にし、西洋近代に伍している(ロシアは、西側のヨーロッパから後進国というか発展途上国扱いされ続けたためか、コンプレックスがあるように思うが)ということを主張したかったのではないか、と思う。そのような共産主義というか科学主義が1960年代まで、多くの若者(いわゆる、大学紛争とかにかかわった人々)の中で一種かっこいいものや、理想とされたものであったことは否めない。実際、ミーちゃんはーちゃんの父親がその死の少し前まで、「十字架の死と復活の意味がわからん。復活という非科学的なことを信じる気にならん」といい続けたから人物であった。案外、今の70代から80代にかけて、このような気分というかノリで信仰を持たない人々が多かったのは事実であるし、イエスの復活という迷信的と見える様なものを信じたくない人々のために、その辺の事実性を争わず、聖書の主張に目を向けましょうよ、聖書が行っているのはこういうことなんです、というブルトマン風の提示の仕方は、ブルトマンでなくても言いたくなるのは、当時の雰囲気のかけらをかろうじて知っているミーちゃんはーちゃんにはなんとなくわかるような気がする。


                    しかし、十字架の死と、その後の復活こそ、我々の希望であるし、ヤンシーが「隠された恵み」の最後の部分で書くように、ロシア正教のおばば様たち(バブーシュカ)が唯物論のみが支配した共産主義下にあっても、神の憐れみを求め、神の恵みを求め、イースターには、ロシア語で、「ハリストス復活!」「実に復活」と非公式にであれ、公式にであれ、いい続けたように、聖書の中心であり、近代人に人気があろうがなかろうが、本質的な重要性を持つ出来事であるということは、もう少し認識されてもいいとは思っている。

                    しかし、元KGBのプーチンが、ロシア正教会にいてろうそくもってイースターに参加している絵柄が面白い

                     

                     

                    神学の必要性
                    ミーちゃんはーちゃんは、神学不要論者というか神学懐疑論者のもとで(そもそもそれをキリスト教といってよいのかという議論はあるが、まぁ、現代神学不要論、ブルトマン風の聖書理解や、テクスト批評を中心とした現代神学に懐疑的な目を向ける人々のもとで)信仰を持ったので、そんな勉強がしたい、神学を勉強してみたい、とか言ったら大慌てでそれだけはやめとけ、と海外から来ていた宣教師から真顔で言われたことがある。しかし、論理的な対話をするためには、やはりある程度、神学は必要であるなぁ、と思っているし、味噌も○ソも一緒にした人たちに対して、私の青春を返して、といいたくなった部分があった。(まぁ、陰でこそこそやったんで、どうでもいいことなんだけど、随分と回り道した気がする)

                     

                    ところで、新約聖書学の必要性とタイトルされた部分で、ライトさんは次のように書いている。

                    なぜそのような神学〔新約聖書学 引用者による補足〕がアカデミックな研究の対象となり、また教会生活、説教、布教活動、そして福音主義の出発点でなければならないのだろうか。その答えは三つあげられる。第一に、この試みが喫緊の課題として続けられていく必要性が最も強いキリスト教会のグループはプロテスタントである。それは、プロテスタントがどのような意味においても新約聖書をキリスト教徒のための「真」の権威であると今もみなしているからだ。第二に、この試みの哲学的背景の奥は観念論に求められるが、観念論は厳密な歴史よりも抽象的な概念との相性が良い。そのため、このような観念から形成される神学には特別の重要性が与えられる。第三に「新約聖書神学」が実際に用いられるのは、真実の神の言葉を教会とより広い世界に宣べ伝えるという教会の果たすべき任務においてである。(同書 pp.64−65)

                    ここで、プロテスタントこそ、聖書の権威性を見なしている以上、現代においてそれも「喫緊の課題」として神学が必要だとライトさんは主張している。まぁ、ミーちゃんはーちゃんに神学するなといった外国人宣教師(故人)が聞いたら、ミーちゃんはーちゃんに何か一言二言、言いたそうな気がするが。

                     

                    個人的にはプロテスタントこそが、神学が必要なのは、正にその通り、と思う。なぜならば、外部者のみならず内部者にに対しても聖書が権威あるものであることをきちんと説明(弁証)できなければいみがないからである。そのためにも、アカデミックなアプローチとしての研究とその立場からは必要ではないか、と思うのだ。

                     

                    では、なぜ、カトリックや正教会といったグループより、プロテスタントで必要かというと、教会の伝統、教会の聖伝(聖なる伝統)、教会の歴史的営為において聖書が重要視されてきた、ということをプロテスタントでは、その出発点において否定することから始めてしまったために、聖書の重要性を何らかの方法で立証すること、ないし担保することが求められるからであろう。なお、教会の伝統の否定、聖伝の否定をするということは、ある面でキリスト教理解として何をやってもいい、何でもいい、ということになりがちで、それが多数の教派の乱立とか、聖書解釈の多様性につながっていて、いったんある考え方で固定してしまうと、それ以外の考え方をある教会が受け入れないのは実に困ったものである。ある面で、分断されたある時点で行われたことが聖伝化していき、教会固有の伝統を生みだし、この教会に影響力の多い○○先生は、カクカクしかじかおっしゃった、とかと言ったような妙な聖伝と化したものが、信徒を縛りあげてしまうこともあるからである。

                     

                    ここで、ライトさんは、「新約聖書神学」が実際に用いられるのは、真実の神の言葉を教会とより広い世界に宣べ伝えるという教会の果たすべき任務において」であるとご指摘であるが、このあたりが、聖書は信仰者個人に与えられたものではなく、教会に与えられたということと絡んで重要なのだと思う。

                     

                    いや、歴史的には聖書を昔制作のが大変であったので、聖書は教会に与えられたのだ、という理解の方もいようが、聖書が個人に与えられ、個人が解釈する義務を追うのであれば(それに近い物言いをなさるキリスト者集団もないわけではないが)、聖書を読めないものはキリスト者として失格とか言いだしかねないし、実際にそう言うことをおっしゃる方々に出会うこともある。それは本当にそうなのだろうか、とも思うのである。その意味で、聖書を読む共同体としての教会、聖書理解の伝統を保持しつつ、それぞれの時代の人々にわかる形で聖書理解を提示するシステムというか、存在としての教会ということは重要なのだと思う。

                     

                    権威の源泉たる神と聖書の関係

                    キリスト教の信仰の中心は、神の権威性(人間に対する超越性や他者性)とその人間の理解を超えた神の人間への関与ということなのではないか、と思う。それをどのような方法で考えるのか、どのように考えるのか、ということでさまざまな流派があり、あまりに違い過ぎて、同じキリスト教であるとは同一視できないような組み合わせも多数存在するけれども。

                    あらゆる伝統的なキリスト教の信仰体系において、すべての権威は究極的には創造主である神に属する。そして、伝統的なキリスト教が主張し続けて来たように、創造主である神が比類ない形で世界に掲示されたのがイエスを通じてであるならば、このイエスもまた彼について書かれたすべての書物を超えた権威を保持していなければならない。(中略)なぜなら、私たちがイエスについて知っていることは、まさに聖書の中に書かれていることだからだ。だが、この伝統的な見解は主流の「新約聖書神学」の中にほとんど見られない。それは今までに論じてきたように、福音書はイエスその人ではなく、単に福音書記者と彼らの後継者の神学を提示しているだけだ、ということが当然視されているからだ。(同書 p.65)

                    ここで、ライトさんは、「この伝統的な見解は主流の「新約聖書神学」の中にほとんど見られない。それは今までに論じてきたように、福音書はイエスその人ではなく、単に福音書記者と彼らの後継者の神学を提示しているだけだ、ということが当然視されているからだ」と書いて居られるが、これまたルネッサンス以降の人間を中心として考えるという西洋思想の影響を受け、神の関与より、手っ取り早く観察可能で、認識しやすい人間の関与を中心としようとした結果なのかもしれない、と思う。そして、人間を超越した存在であり、他者である神は分かりにくいので、手っ取り早くわかりやすい人間のレベルに引き下ろしてくるために、福音書記者と彼らの後継者、あるいは使徒とその後継者がどう考えていたのか、ということを考えるようになったのだろうと思うけれども、わかりやすいものにするための犠牲は大きかったと思うし、仮に福音書記者たち(及びその後継者たち)が何かを持ってたことがあるにせよ、概念である以上、それがどのようなものであるのは言うことは難しい。そして、その概念がカクカクしかじかなものであるかもしれない、ということはできても、それがカクカクしかじかであることを厳密な意味で、解説はできるかもしれないが、証明して見せることはできないのだけれども、実証科学主義が幅を利かせた近代では、それを証明できたことにしないと学問にはならないように思われていたので、不幸にして、それを証明したことにしたことで、混乱を生んだことはあったように思う。そもそも科学でであることを求める必要はないのに、科学で言う証明されたということを言いたいために、ある種の詭弁としか自然科学の召命の厳密性から言えば思えないようなことを書いて証明したことにする、というようなことも皆無ではないように思う。


                    下心が在るかもしれない近代神学
                    近代という時代は、人間が確認できる、人間が確定できることに価値があった。ある面で言うと、人間中心主義が極まった時代であったし、唯物論的な理解が幅を利かせた時代でもあった。その結果として、史的イエス研究という方法論がとられたのであろうし、それと同時に、唯物論、人間中心主義での理解に都合の良い形でのイエス理解が語られることになった面もないわけではないかなぁ、と思う。その様なイエス理解の当否は別として。

                    啓蒙主義者たちの歴史重視の姿勢は、歴史のイエスの探求という方向に向かい、無数の問題を生み出しつつも同時に研究者にも教会にも等しく新たな可能性をもたらした。ブルトマン学派の新約聖書神学への情熱は、何にもましてパウロ神学の研究と福音書の伝承問題についての再検討という二つの方向に向けられた。戦後の「聖書神学運動」においては、何よりも「救済史」論に光が当てられた。新たなアジェンダも登場し始めたが、戦後に登場したこのアジェンダは、キリスト教と新約聖書をホロコーストの共犯の容疑から免れさせたいという下心を持っていた(あるいは、ホロコーストの責めをキリスト教に追わせようという意図の場合もあった)。(同書 p.66)

                    ここで、「戦後に登場したこのアジェンダは、キリスト教と新約聖書をホロコーストの共犯の容疑から免れさせたいという下心を持っていた(あるいは、ホロコーストの責めをキリスト教に追わせようという意図の場合もあった)」というのは、案外重要だと思う。ドイツを中心とした西洋社会でも東側で起きた事件、あるいはヨーロッパの東側に近い資源の面から条件不利地で起きた事件(第2次世界大戦時にナチスドイツがやらかしてくれたユダヤ人やポーランド人など東欧人虐殺事件や、ゲルマン民族中心主義の結果大虐殺事案)は、確かに、西洋型キリスト教が影響していることは間違いはないし、大虐殺やっている本人たち(遠いところで指令を出した人々だけではなく、それに実際に手をくだした人々)は、無自覚であるにせよ、自分たちは神の民として、神の業として、大虐殺をやっているのだ、と思っていたのだと思う。だからこそ、下の図のようなポスターになるのである。

                     

                    ナチスドイツ時代のポスター

                     

                    そして、それは、大きな傷をキリスト教に与えたし、黒歴史であったし(だからといって、言わなくてもいい、無視してよい、ということにはならない)、必死になってその黒歴史から何とかキリスト教を救出したいと思った人々の思いも分からなくはないが、だからといって、その下心を隠して、完全に別の意図から出発したかの様にして、下心を実現するというのは、方法論としてあまりよろしくないのではないか、と思う。まぁ、概して人間の中ではよくあることではあるけれども。


                    下心があるから、だめだ、全否定すべきだ、ということにもならないようにも思う。仮に出発点がある下心によるものであったとしても、その成果は聖化でその下心の部分に配慮しつつ、使わせてもらえばいいのかもしれないとは思っている。まぁ、GPS技術も戦争に行く兵士が迷わないようにする、あるいは兵士を救出するという下心により開発されたものであるが、GPS関係の衛星を止められてしまったら、地図の読めないドライバーが続出し、かえって危険なのではないかとも思う。なお、ミーちゃんはーちゃんは地図屋の沽券にかけて、GPSナビとかいったカーナビは利用しないことにしている紙地図原理主義者であり、天文航法原理主義者(ただし太陽が出ているときだけ運転可能)である。

                    パラダイムシフトしよぉ〜〜

                    ライトさんはめちゃくちゃ多作の人である。ミーちゃんはーちゃんも量が多い、多作といってくださる方がいるが、それどころでない多作の人なのだ。大体ミーちゃんはーちゃんにまとまりはないが、幅広い範囲をカバーしながら、それでなお、まとまりがあって、学術的、そしてキウソウダイ(気宇壮大)であるという意味でお化けみたいな人なのだ。

                     

                    ミーちゃんはーちゃんが、ある田んぼを1日かけて収穫するような2条刈りのコンバインとすれば、ライトさんは、その同じ田んぼを20分余りで収穫するような6条刈りのコンバインのような人ではないか、と思う。あるいは、ミーちゃんはーちゃんを原付バイクとすれば、ライトさんは、時速160キロで平気で疾走する大型トレーラーである。もう、そこに追いつく気も、やる気すら失せる世界である。格が違い過ぎる。

                    究極的な意味で本プロジェクトはもっと大きな課題の一部である。その課題とは、過去2世紀にわたって西洋世界に影響を及ぼし続けてきた世界観が内側から崩壊していくのを目の当たりにして、その基本的な世界観について再考しようという試みである。それは神学者やキリスト教徒にとどまる課題ではない。批判にさらされているこの世界観の一つの側面は、「歴史」と「神学」は異なる範疇に属するという見方そのものものである。私たちにとっての挑戦とは、この有害な二元論に陥らず、また一方が他方の陰に隠れてしまうような疑わしい一元論によってでもなく、考察する題材を正当に扱うことのできる新しいカテゴリーを明確に提示することだ。(同書 pp.66-67)

                    ここでは世界観と書かれているが、人間は、無意識に参照枠に縛られている。いわゆる”なんとかメガネ”というやつである。参照枠は便利なものだが、その世界に人間を閉じ込めてしまうという側面がある。その眼鏡を壊して、新しいより見える眼鏡というか望遠鏡を、あるいは、聖書理解のデバイスを持ちましょう、ということを提案するためのプロジェクトの一環である、とここで書いている。化け物、としか言いようがない。

                     

                    大学時代の作物学関係の授業を担当した先生から聞いた話が忘れられない(たまたま空コマだったんで、面白半分に受講したので、もともとは農業分野が専門ではない)。その先生がある授業の中でこんなことを言ったのが記憶に残っている。

                     

                    学者の中には天才が時々いる。ポンと突拍子もないことを発言し、これから向かっていくべき方向はこっちだ、ということを示すのが天才なのだ。天才としか言いようがない。しかし、多くの学者はそれにあこがれるが、それができずに、現在の研究の標準とされていることからその天才が指し示した場所や方向に向かって、現在の学問理解との差を埋めていく。学問というのは、そういうごく少数の天才的な学者と、多数の平凡な学者から成り立っている。そして、私は、その多数な平凡な学者の一人だ。

                    そんなものなんだろうと思う。それでもいいのだと思う。別に突拍子もないことをポンということだけに価値があるわけでもなく、凡庸な間を埋めていく学者にもそれはそれで価値があると思う。ライトさんは、この作物学関係の先生の言うところの天才の一人だと思う。その意味で、化け者なのだと思う。

                     

                    近代の学問体系は、細分化し、タコツボ化することで、より深くほりさげていくことで、凡百の人間でもある程度努力すれば、ある程度成功することができるように、そして天才が示した場所と自分のいる場所の間をじわじわと埋めていくことでも学問として生存可能な(それでも競争は厳しいし、やたらとODと呼ばれる、仕事待ちをしている若い研究者がやたらと居るのだが)状態にしてきた。そもそも研究対象は、基本的にめんどくさい存在であるので、分割し統治せよ(Divide et impera)でやってきたが、それが相互参入を防止する形で共存共栄を図ってといわれても仕方がない面もある。1970年代くらいから、さすがにそれではまずいので花以下と大学の先生方も思い始め、学際的とかいわれ始め、その学問間の壁に、小さな穴というか窓程度のものを開ける動きが始まったが、なかなかそこから先に進まない。まず、業界単位ごとに用語が違うし、下手をすると発音が違うので、相手の世界をきちんと理解せずには、共通のことを語っていても、そこでコミュニケーションが取れないことが結構多い。実にうっとうしい世界なのである。

                    ここで、ライトさんが言っているのは、そんな壁ぶっ壊してしまえ、鉄のカーテンなんか外してしまえ、ということの様だと思う。その意味で、パラダイムシフトしましょうぜ、塹壕ならまだしも、タコツボにはまってないで、メタ概念から見て、枠組みから再構築しましょうぜ、といいたいようである。

                    まさに気宇壮大という言葉がふさわしいプロジェクトのようだけど、気宇壮大すぎて、ついていくのがやっとになりそう。

                     

                    まぁ、それでもかじりついてみたことをタラタラと書いてみようかと。

                    まだまだ、延々と続きそうな予感・・・
                     

                     

                     

                    評価:
                    N.T. ライト
                    新教出版社
                    ---
                    (2015-12-10)
                    コメント:個人的には面白いと思うんだけど…どれほど理解しているかどうかは別問題…

                    2016.07.18 Monday

                    2016年7月17日の大阪正教会での聖書勉強会 山上の説教と終末論の記録

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                      以下は、大阪正教会で2016年7月17日に行われた講演会の記録である。この日は朝から蒸し暑く、朝4時頃に目が覚めてしまい、シャワーを浴びて、午前中はアングリカンコミュニオンの聖餐式に出て、そのあと大阪に向かったのであるが、待ち合わせの時間がギリギリになったので、駅から駅の間を走って行ったりしたので、暑くてしょうがないこともあり、ちょっと疲労が来ていた。そのせいか、途中意識が飛んだところがある。もし、誤解や無理解に見える表現があるとすれば、その責は、記録者であるミーちゃんはーちゃんにあることをまずお断りしておく。

                       

                       最初は、松島司祭の自己紹介から始まった。

                       

                      山上の説教と文字どおり実施

                       

                       

                      山上の説教の中には、

                      【口語訳聖書】マタイによる福音書
                       5:27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
                       5:28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
                       5:29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
                       5:30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。

                      というような、現実には実現できないような、ことも記載されている。

                       

                      昔、この山上の説教に書いてある「一方の頬を打たれたら、他の頬を打たせよ」を実践しようとして、不良少年を集めて、世話をしようとした人がいて、殴られっぱなしになり、そして、更にその暴行が加速し、若者に襲われてなくなった人がいることが報道された。(どうもこういう文字通り実現しようとする精神性を持つ人は福音派である程度はいそうなような気がする)亡くなった方は、聖書のことばを実現できたとして、自分は信仰を示せたと思われたかもしれないが、結果として、何人かの少年が殺人犯となることになった。このころされた人はその少年の人生が狂ったことに関して、責任が取れていないのではないか。このような人を生んでいるという意味で、人類が持つ文書の中で、最も危険な過激な文書が聖書であるし、イエスのことばであろう。

                       

                      山上の説教についてのさまざまな理解の方法論があるが、冒頭の「罪を犯させるのなら、手を切り捨てよ」といった表現は、神の思いの重要性を主張するための誇張表現として理解できるのかもしれない。とは言いながら、天の父が、完全である様に完全になれ、という表現もあるし、このような点を強調すると、精神的にある意味追い詰められてしまい、精神がおかしくなる場合も出てくる。


                      この人間を追い詰めかねないかのような山上の説教に対する戸惑いは、多くのキリスト者、神学者たちの戸惑いでもあった。この厳しいイエスのことばをどう理解すべきかを考えてみたい。

                       

                      3つの解釈のアプローチ
                      代表的な解釈のアプローチとして3つあるが、それは完全主義的な解釈、実行不可能説的な解釈、中間的倫理的解釈の3つである。以下順次触れていきたい。


                      完全主義的な解釈
                      この解釈は、イエス自身の発言にあるのは、律法学者を排除するためではなく、律法を成就するところに強調を置いた主張となっている。当時のファリサイ派の人々は、教条主義や些末なことにこだわり重箱の隅をつつくような考えにはまり込んでいたようである。そして、彼らの理解とその細目的な行動基準を守らないイエスを批判していた。

                       

                      マタイ23章には、重い荷物を人々の背に乗せるけれども、指一本も貸そうとしない存在としてファリサイ人たちが描かれている。このような言葉は、司祭みたいな仕事していると突き刺さってくる言葉である。ある面、聖書の根本的な理解が忘れ去られているという問題を示しているといえよう。律法とその精神が全うされなければならないと突きつけているかのようである。


                      また、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の義に勝っていなければならない、ともイエスは言う。当時のファリサイ派の人々は、言うだけで実際には実施しない人々であった。

                       

                      ところで、山上の説教の岩の上に家を建てた人のたとえ話は、レビ記の精神と同じであり、

                      【口語訳聖書】レビ記
                      18:5 あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。

                      を言いかえていると考えることもできよう。根本的な神の戒め、神を愛せ、隣人を愛せに尽きるところに根本を置いて、聖書を理解し直せといっているかもしれない。

                       

                      この主張の激しさ故に、聖書や教会に躓いて、こられなくなる人々がいるもしれない。

                       

                      実行不可能説
                      実行不可能説は、この山上の説教を守ることは、普通の人には無理なので、そもそも人間が実行不可能であるので、神に頼るしかないという立場であり、ルターとその後継者の立場であるといえるだろう。

                       

                      イエスは自分が弟子たちを戒めているこの戒めを守れないのはそもそも承知の上で、この峻厳な言葉を説教された、とする立場であり、自力では救われないとする立場である。キリストの救いの必要性を求めるために、人間が人間の罪がわかるための鏡としてこの説教をしたという立場である。つまり、人間の罪の深さの途方もなさを知り、その罪深さについて、全身全霊を以て受け止めるかのような理解のために突きつけられたのがこの解釈であるといえる。

                       

                      律法規定には、安息日は、仕事をしてはいけないとある。当時のユダヤ人は、仕事とは何か、という定義を突き詰める方向で議論していった。その体系がファリサイ派の理解の概要様である。そして、休みの日に休めない人を鼻であざ笑う人も出てくる。イエスは、それに対して、安息日に休めない人たちをあざ笑う者たちに対して、確かにあなた方は安息日の律法をパーフェクトに守っているかもしれないが、それを守れない人々を鼻であざ笑うことは、神の律法の根源である他者を愛することをできているのか、と問うている。

                       

                       

                      そういう面で言うと繁文縟礼的なユダヤの律法は、まだまだ軽く、山上の説教の方が人間を苦しめるというところがある。そして、山上の説教から、自分たちの不完全さに気づいたのか、ということを問い、神にすがるしかできない、という面を問うている。そして、その不完全な人間のために、イエスの十字架と復活が神に近づく道を開いたので、それを信じよう。これはほっとする解釈であるといえるだろう。イエスの教えをローマ帝国に伝えていった使徒パウロは、主を信じる信仰こそが救うのだ、という主張をしている。


                      律法の役割を信仰によって義とされるための養育掛だともパウロはいっている。イエスの完全な信仰が地に表わされた以上、養育掛の下に居る必要はないというのがパウロの主張のように見える。

                       

                      しかし、山上の説教はパウロの信仰義認の片鱗すら見られない。パウロは、律法理解の一面だけを取り上げているのではないか、とも言えるかもしれない。しかし、山上の説教は、神が完全であるようにあなた方も完全であれ、ということも主張していることを考えると、この理解は問題があるように思われる。(このあたり、NPPともかかわる問題だろうと思う。)

                       

                      しかし、実行不可能説の様な神のあわれみによる逆転があるということをイエスがいおうとしたわけではない説がある。

                       

                      中間的倫理的理解
                      シュバイツァー(アフリカに医療伝道に行ったり、史的イエスを提唱したりしているマルチな人物)の解釈が代表的であるが、実際には、この世の終わりが近づいているという中間的な期間の間にだけに当てはまる解釈であるという立場である。イエスが言ったことは、そもそも神の国の福音であるということを考えることは重要であるとしている。マルコ1:15などを見ても、神の国が人間の手に届くところまで来ているという理解ではないだろうか。神の国に入れるように悔い改めて、福音を信じろというのがイエスの主張といえるだろう。その意味で、神の国がすでに来ているという状況であると理解する。

                       

                      さらに、終末は、単なる終わりではなくて、新しい時が始まるための破壊の時であるという理解であり、イエスの死と復活により、現代の悪との全面戦争状態が始まった。最後の決定的な局面での緊急の命令が山上の垂訓であるという理解である。ある面、余裕がない状態であるのだから、死人のことは、死人に任せておけばよい。そして、いろんなものを捨てて、神に従っていけばよいとする立場であり、天国はそこまで来ているのだから、そこに全部のものを捨てて神のもとに行けという理解である。

                       

                      たしかに、パウロは今の危急の時という表現をしている部分はあるが、イエスの表現にはあまり現在は切迫している危機の時だといっていない印象がある。その意味で、この解釈には課題はあるし、おそらく普遍的にどのような状況にあっても、イエスの弟子たち、イエスに従う者たちに与えらえれたものとし、守るべきものとしてこの山上の説教は語られているのではないだろうか。

                       

                      終末と終末論をどう考えるか

                      古代のギリシア文化であるヘレニズムの中で、一種時間や歴史は、夏があり、秋があり、冬があり、そして春があり、また夏が巡ってくるような、永遠に循環し続け繰り返されるものとして理解されていて、これは、ユダヤ的理解以外の社会や文化ではかなり普遍的である。(このあたりは、小山晃佑さんの「富士山とシナイ山」でも触れられている)


                      ところが、ヘブライズムでは、始まりと終わりが基本的にあり、出発点である起源と到着である終わりが明確に存在し、それに向かって行く、一種の直線的(一方向的?)なものとして理解されている。


                      なぜ、ヘブライズムとその影響を受けたキリスト教、ムスリムの世界観では、始まりがあって終わりになる方向に向かっているかというと、それは、神からの啓示があったことによるのであり、神が始まりを設定され、そして終わると告げられたからである。

                       

                      終末とは、聖書の世界では、新しい天と新しい地であるが、そこで実現するのは、人と神が共にいるという状態である。それが、もうすぐそこまで来ている、といったのがイエスである。終末というのは、主の日とも、神の国ともいわれるが、裁きの日といういい方もあり、何かが総決算されるという概念がある。

                       

                      イザヤ書から見る終末

                      例えば、旧約聖書で言えば、預言者イザヤは、

                      【口語訳聖書】イザヤ書
                       11:6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
                       11:7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
                       11:8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
                       11:9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。

                       

                       12:4 その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。
                       12:5 主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。
                       12:6 シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで/大いなる者だから」。

                       


                       2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

                      といったような形で、終末の状態が預言されており、 2章では、武装は姿を変えられて、平和な農具に作り替えることが預言されている。

                       

                       

                      この内容を実際に実現するのが、メシアであり、油(膏)注がれたものであり、それをギリシア語に翻訳すると、キリスト(ハリストス)である。つまり、メシア、キリスト、救い主は同じものである。しかしながら、ユダヤ教の人にとっては、イエスは、キリストではないことになっている。

                       

                      ところが、キリスト教では、イエスの十字架とその死と復活によっていのちをえたことが救いであり、このイエスの死によって、世界と人類は救われたといっているし、死者を復活させるとも言っているが、それが未だに起きている状況がないので、神の国が来ているとは言えない。

                       

                      非常に不完全な例ではあるが、日露戦争のことを考えてもらいたい。日本海海戦でバルチック艦隊は統合艦隊により殲滅状態になり、ロシアは対日本戦益を続ける意識を持たなくなっており、実質的に日本は勝利したが、それが法的に国際的な承認を得るかたちで実現したのは、ポーツマス会談であり、その段階で終戦処理が完全なものとなった。もちろん、そのようなモデルは実に不完全なものであるが、そう考えるとわかりやすいかもしれない。神を信じる者が完全なものとされるのが審判の時である。

                       

                      このことは、聖体礼儀で必ず唱える、ニケア・コンスタンチノープル信仰告白(信経)の最後に出てくる部分である。

                       

                      我、認む、一の洗礼、以て罪の赦《ゆるし》を得《う》る、を、
                      我、望む、死者の復活、
                      並びに来世《らいせい》の生命《いのち》を
                      アミン

                       

                      それはある面で言うと不完全なものが完全になるという理解である。

                       

                      3つの終末理解

                      終末理解にも3つあって、それは未来終末論であり、もう一つは現在終末論であり、もう一つが、終末開始論である。

                       

                      終末未来論

                      最初に取り上げる終末未来論は、自動車で、神の国が来るので、悔い改めよ、という放送をして回る人々が代表的な立場で五、やがてくるものとしての終末としての理解である。つまり、この世の終わりは、まだ来てないこれから来るという理解であるといえよう。

                       

                      (この立場に立つと以下のような絵が描かれることが多い)

                       

                       

                      しかし、こう考えてみると、宮崎アニメには、終末論的な設定が多いような気がする。

                       

                      ラピュタ

                      風立ちぬ

                      ナウシカ

                      未来少年コナン

                       

                       

                      終末現在論

                      終末現在論は、実は終末はすでに実現したものであり、キリストの到来でその受難と死を受け、復活されたことにより、目には見えるかたちではないけれども、現実のものになった、という理解である。


                      マラナタは、一般に主の到来を望むと理解されているが、マラン・ナタ (主は来てくださった)とも理解できることがある。


                      C. H.ドッドの『使徒的宣教とその展開』では、現在終末論に立ってかかれているが、この立場で終末的理解を体験的に表しているのは正教会の聖体礼儀である。と同署の中で指摘されている。新約聖書内には、イエスの到来により、何か全く新しいことが始まったこと(たとえば、闇の中に光が輝いている、など)が示されている。

                       

                      キリストにあって、とキリスト者は手紙の文末に書くことがあるが、それは、ギリシア語でのエン・クリストス、英語だと、In Christであるが、これは、キリストのうちにあって(正教会的には、教会にあって)という意味である。これが起きたのは、イエスの来臨以降からである。

                       

                      開始された終末論

                      最後の開始された終末論であるが、終末としての神の国はすでに始まったのであり、それはキリストにあって開始されて成熟しつつあるという理解である。今は見えてないが、だんだん見えるようになってくる。神の国はパン種のようなものとか、からしだねの木という譬えで語られているのは、そのあたりのことを示しているのだろう。

                       

                      どれか一つでない正教会の終末論

                      ところで、正教会の終末論はどれか、ということであるが、どれは言わないのであり、概念規定することを正教会は極めて回避しようとするところがある。全部の考え方を包含した概念であり、特定のものとしない。様々な聖書理解を排除しない。断定的な教義化をできるだけしないところに特徴がある。それが正教会の神学の特徴であるといえよう。

                       

                      (個人的感想

                       どれか一つにしてしまわないというのは、実にヘブライ的伝統を継承していらっしゃるのではないか、というか、包摂的というか、と思った。なかなかこういうどれか一つに意図的にしないという知恵というのはもう少し近代時代を経て、真理は一つという概念に毒されている日本のキリスト教会で知られていいのではないか、と思った。自分と考えが多少違う人々の話を聞くと、こころのシャッターをがらがら、と下してしまい、「あんた異端、私こそが正統」ということを平気でいう人々には、少し考えてほしいと思う。)

                       

                      比較的最近に生まれた終末議論

                      終末論自体、19世紀の中ごろから使われ出したに西洋で作りだされたことである。正教会では、あなたは救われましたかというような聴き方はしないし、それは、非常に落ちつきが悪い質問となる。正教会側からすれば、救いが約束されているというのは、今も救われ続けているという側面を持っているので、救われたとは言わない。それと同じように、終末も、すでに実現し、今も実現しつつあり、やがて実現しつつある、というのが近似的な答えといえば答えになるかもしれない。

                       

                      (個人的感想

                      この終末理解を巡る問題は、ディスペンセイション説を巡って出現するようになったのではないかと思う。まさしく、ジョン・ネルソン・ダービー君が言いださねば、不幸な終末論理解での教会内対立といえば聞こえがいいが、神学的どつき合いはなかっただろうし、もうちょっと平和だったかもしれないが、まぁ、これが無くても、別の理由で内ゲバしていたかもしれない、とは思う。あの時代に終末論が流行ったのは、西ヨーロッパ各国で王政が崩壊し、アメリカは宗主国に向かって独立戦争を仕掛け、それまでの古い社会システムと社会秩序が崩壊し、世も末状態が西ヨーロッパ諸国で起きたからではないか、と思われる。)

                       

                      メイエンドルフ(アメリカの正教会の神学者)の『ヴィザンティン神学』という本が在るが、その中に、サクラメントに終末の機密は示されている。というような表現がある。永遠の次元の中に移っていることを日々の礼拝(聖餐式、サクラメント)の中で、体験しているという考え方である。とは言いながら、正教としては、世の中を正しくしていくことにはあまり関心はない。信徒として出会う人々(隣人)に愛を注ぎ、奉仕するという概念はあるが、教会が社会変革の担い手になろうという発想はない。(日本基督教団では、社会派というグループが存在し、社会変革の担い手になる方がよいとご主張の向きもあり、戦争責任や社会とのかかわりをめぐって、1960年代には教団の中での闘争により分裂したことがあるらしい。)

                       

                      正教会の終末理解

                      終末は終わりではなく、ある種の完成ではあるけれども、さらなる完成に向けて変わり続けていく世界である。それを、力動的終末といい、ある種ダイナミックに変革があることを想定した終末であり、静的なものであるとは指定はいない。100%の完成から次の100%の完成へと限りなく変容されていくものである。その理解は、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく、といったパウロの言葉などにも表れている。絶えず変化する完成が終末といっていいかもしれない。

                       

                      終末は、正教会の伝統で言えば、無限上昇していく世界であり、人間とすべての被造物との力動的状態、終わることのない愛の力動的上昇、新しい愛の一致を見ていく社会である。そして、永遠のものにここで終わりという限界はないと考え、三位一体のように、限りなく一つになっていく動きが終わらない状態のことを考えている。果てしのない終末へ向けての始められた終末であり、たどり着くことのない終末を考えている。

                       

                      アナフォラ 聖体礼儀の祈りがあるが、その表現の中に、今ここにある終末として、全てのことを行いつくしてくださいました、という表現や、再臨を記憶して問う表現があり、それらのように、これから到来することを記憶するという表現がある。

                      アナフォラの祝文(抜粋)
                      あなたとあなたの獨生子《ひとりご》とあなたの聖神《せいしん:聖霊》は、言い表すことも、思い描くことも、見ることも、把握することもできない永遠不変の神であり、私たちを無から創造し、あなたから離れ落ちた私たちを再び引き上げ、その上に天にまで登らせて、来るべきあなたの王国の到来まで、全てのことを(いま、ここに)行いつくしてくださいました。

                       

                      私たちは救いを与える主の戒め、また渡した著のためになされたすべてのこと、即ち、十字架、墓、3日目の復活、天に上ること、父の右に小指になったこと、そして、その再臨を記憶して、あなたの賜《たまもの》をあなたの僕たちから、全ての民に、一切のためにあなたに捧げます。

                       

                      キリストは、人となった神の姿と正教会では理解している。その人になった神の御姿を見て、伝わり、それを信じた。そして、神の御姿を目に見えるものとして私たちもみた。人の本来の在り方をハリストスにおいてみたと考える。そして、ハリストスご自身がこのような終末に向かっての生き方を生きなさいと戒められたことが山上の説教である。その意味で、山上の説教は、言葉による神の似姿のイコンであると考える。

                      (正教会系で、イコンを作るのは、人としての神であるイエスを見たからであるという理解があるらしい。そのことが書かれている本を当日ほかの方にお貸出ししたので、ここで引用できないのが残念であるが…)

                       

                      とはいえ、ハリストスによって山上の説教が示されても、それを生きるものとして生きる生き方をはじめていない。私たちの古い自分に死に切っていないから、古い人が存在しているために、実行不可能としか思えない。

                       

                      (個人的感想

                      この部分を聞きながら、

                      【口語訳聖書】ローマ書
                       6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
                       6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
                       6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。

                      という場所を思い起こしていた。)

                       

                      神の御言葉通りの、そういう生き方をした聖なる人々の存在に触れていないとどうしても、実行不可能であり、この山上の説教を文字通りに実行するのはまずくて、そのような神のことばに純粋に従っていくような行いを希望する人のためには、正教会では、修道院がある。その修道院の優れた長老たちの姿の中に、実行不可能と思われたことを実際に可能にした人たちの姿を見ることができると考えるし、誇張があるにせよ、聖人伝をみる中に、実際にこういう生き方をした人、即ち山上の説教を実際に生きた人がいたことを示すことによって、信徒はそれに倣うことができるかもしれないという励ましを受けるのである。教会の伝統の中で、そのような人の姿に触れ、こういう人間の聖なるものに触れていないと、山上の説教の姿を見て感じる一種の絶望感からは脱出できないのではないか。

                       

                      洗礼の時に、その道に立たされたのではないだろうか。神が私たちを赦したのにもかかわらず、赦せないのであれば、天の父の赦しを分かっていないことになるのではないか。悪人の上にも善人の上にも同様に神が雨を降らせているのであれば、そのような恵みを示し、神が愛していることに倣って、私たちも敵を愛することができるのではないか。愛するのが無理であっても、せめて敵のためにも祈ることはできないか、ということが問われているのだろう。

                       

                      (個人的感想

                      この理解を聞きながら、次の場所が迫ってきた。

                      【口語訳聖書】マタイによる福音書
                      18:23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
                       18:24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
                       18:25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
                       18:26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
                       18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
                       18:28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
                       18:29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
                       18:30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
                       18:31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
                       18:32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
                       18:33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
                       18:34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
                       18:35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

                       

                      赦し、ということを考えるとき、やはり、この場所は欠かせないのではないか、と思う。また、ここでは、赦すというのは、全て水に流すということではないことは、1万タラントの負債のあった人が後に許されてないことからも分かるのではないか、と思う。ここで祭司を売るという表現があるが、借金を払えなかったら、妻子が奴隷として売られるということを意味し、奴隷というのは、一種借金が返せなかった人への措置とういのもある様だ。もちろん、自分自身も奴隷になるのは当然のことであるが。)

                       

                      山上の説教と終末理解

                      その意味で、山上の説教は終末から読み始めると分かるのではないか。至福、即ち終末で実現する福音の姿として、山上の説教を読む。永遠に終わらない終末において、神が完全であるように、自分も完全なもの(テオシス)なものに神がしてくださり、三位一体の神の似姿にしてくださる。こう読むときに山上の説教は我々を落ち込ませるものではなく、福音になるのではないか。


                      正教会では、三位一体を非常に大事にするが、その三位一体こそが、神の似姿の本質を示すものであり、お互いの中での分かち合いというか、相互内在性を持つものなのだろう。そして、お互いが喜んで生きているのが教会ではないか、ということが言えるだろう。

                       

                      感想とまとめ
                      この勉強会に参加して、一つ分かったことは、正教会では、基本的に人間の不完全さを認めていて(全的堕落というような壊れ方をしているのではなく、回復可能な形で堕落しているという理解だそうだが)、人間の努力だけではどうにもならず、神の力に依存している中で、本来終末において回復することの一部を示す人々が出てくるのであり、修道院という指導者(師父)たちと共に生きるという特殊な社会の中で、これからやってくる終末おける神のかたちが部分的に回復した人々の姿を見ることで、自分たちもその様に終末において完成に向けて動いているということを考えるという意味で、聖人というものを、信仰の先輩としてみている、一つの自分たちの生き方のサンプルになっている、ということで励ましを受けているという理解であることがおぼろげながらわかってきた。

                       

                       

                       

                       

                      ドッド,平井清
                      新教出版社
                      ---
                      (1997-03)
                      コメント:なかなか良いらしい

                      ジョン・メイエンドルフ
                      新教出版社
                      ¥ 5,076
                      (2009-04)
                      コメント:なかなか良いらしい。注文しました。

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