2016.02.01 Monday

2016年1月のアクセス記録とご清覧感謝

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     皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

     先月は昨年末のようにアクセス集中ということはなく、比較的穏やかで、20059アクセス、平均で、日に647.1アクセスと対前月比半減の状態でございました。ご清覧ありがとうございました。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
     2015年第4四半期(10〜12月)  87926アクセス(955.7)

     2016年1月     20059アクセス (647.1)    
     
    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 
    アクセス数 563
    アクセス数 337

    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(26)
    アクセス数 240

    藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり
    アクセス数 225

    上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(1)
    アクセス数 213

    でした。しかし、今月も、トップファイブ常連さんの現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 がトップに返り咲き、そして、藤本満著 聖書信仰関連の話題で盛り上がりました。

    今月は書き手側からの都合だけで言えば、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』祭りだったわけですが、鼻息の荒く、何をするのにも自派を宣伝しようとする下心が見え隠れする福音派に関する いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(26) のみがランクインで、他のがランキング上位にならなかったのが少し残念です。個人的には、いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(36) などは公開3日で、いいねが66もついていて、良い記事だと思うのですが。

     ということで、今月もご清覧をばよろしければ、と。

     
    2016.02.01 Monday

    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(38)

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      今日もまた、ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介しながら、考えてみたことなどを、たらたらと書いてみたいと思う。

      理想化される過去とその現実
       まぁ、どの世界でも、昔を理想化してさぞ麗しかったかの如く語る皆さんはおられる。現実はそうでないのに。これはどうも洋の東西を問わないらしい。それも自分に都合の良い部分だけを切り取って語る方たちがおられる。実に質が悪いと思う。普通の人は歴史研究家でもないから、昔の現実を知らないことを良い事に、そこに付け込んだかのように強いて、さぞ昔が理想的な社会であったかのごとく語る。実にめんどくさいことである。
       そのあたりに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

      気難しいモラリストのような物言いは避けるが、私が真に疑問に思うのは、現代の世俗主義者たちがなぜ昔ながらの道徳観に反対するのか、ということではなく、どの根拠に基づいて「何らかの」道徳観を擁護するのか、とういことだ。米国の法制度は、女性が妊娠中絶をする権利を積極的に援護しているが、なぜそこどまりなのだろうか。歴史的に、幼児殺害や遺棄は、望まれない子供を処理する手段として認められていた。ローマ人もギリシア人も行ってきた。そして、数世紀前のパリでも赤ん坊の3分の1は、遺棄されていた。しかし今日、母親が赤ん坊をシカゴの裏道に置き去りにしたり、十代の恋人同士が生まれ落ちた赤ん坊をごみ箱に捨てたりしたら、逮捕されて法の裁きを受ける。(隠された恵み p.352)

      日本での昔、子供を遺棄する親はいなかったというかもしれない。しかし、割と最近まで、娘は人身売買の対象にされることが東北などの経済環境の厳しい社会ではごく当たり前に行われたことは案外知られてない。つまり子供はある時代のある地域では現金収入の方法だったのである。嬰児遺棄事件も昔からあったようだし、嬰児殺しも行われていた可能性は高い。

       個人的には以下に示すような写真のポスターが貧しい地域の公共掲示板に掲示されるような、こういう時代が取り戻すべき美しい戦前の日本なのかなぁ、と思ってしまう。
       

      娘身売防止を呼び掛けなければならなかった自治体のポスター

      理想的な社会は現実にも、歴史的にも存在しないかも
       理想郷があるというのは、中国古代からの思想であり、それは夢物語に過ぎないことは、高校の古典の授業で読まされた漢詩で読まされた内容の一つにあったような気がする。まさにただ春の昼寝の時の世の夢の如しなものかもしれない。そのあたりの事を、歴史家のデュランさんの著作を引用しながら、ヤンシー先輩は次のように語る。
      キリスト教指導者たちは、現代のあらなな考えを激しく攻撃しがちだ。「ごらんなさい。社会がキリスト教の根を失うと、こうなるのです。社会が道徳的な指針を私たちに求める時代に戻る必要があるのです。その主張にも一理ある。歴史家ウィル・デュラン、アルエル・デュランによると、「過去の歴史を見ると、宗教の助け無くして道徳的な生活が維持できた社会は、これといってあげられない」。デュラン夫妻は不吉な言葉を付け加えている。現代における最大の問いは、…人間は神なしに生きることができるかである。」(同書 pp.353-354)


      ウィル&アリエル・デュラン夫妻の著書


      ウィル&アリエル・デュラン夫妻

      そもそも、神なき神のかたちである人間が紡ぎだしてきた、あるいはこれから紡ぎだしていくはずの社会に、理想的な状態があると想定する方が、よほど難しいと思うのだ。そんなものはありうるはずがない、と思っている。あるとすれば、神と共にいたいと思う人が、神と共に生きるという神の計画がすべて完成した時だけだ、と思っている。

      ムスカ大佐は、ラピュタの巨大な飛行石さえ手に入れば、全てのものは解決するかのように言ったが、残念ながら、世の中そんなにうまくできていないのである。ラピュタとその中の巨大な飛行石は空のかなたに飛んで行って、良かったのである。


      ムスカ大佐

      美しい昔の時代を取り戻せ
      間違った問題を一生懸命解いている問題解決の第3種の過誤

      まぁ、ヤンシー先輩によれば、アメリカでは「キリスト教が失われると、モラルが崩壊する説」が有力らしいが、日本の保守政治家にとっては、「神道や神社崇拝、あるいは仏教や祖先崇拝が廃れると、今のような状況が生まれるのです。だからこそ、今、神社参拝を・・・、寺院での研修を・・・」となるらしい。理想とされる昔とやらは、現実には理想的な状況ではなかったのにそれを取り戻したところで、理想でない状態が生まれるだけである。その意味で、モラルを取り戻すために、昔に戻れ、というのは、間違った問題を一生懸命説くという無駄をしているという問題解決の第3種の過誤に陥っているのである。

      同じようなことは、キリスト教界や学校社会でも起きる。「牧師や教師に社会経験(勤労経験)がないと、モラルが崩壊する説」がそれである。牧師や教師に民間企業での勤務経験がないから、モラルが崩壊しているので、民間人校長を登用りたり、学校の先生が民間企業での研修をさせられる。教会で、民間企業の研修を指せている例はあるのだろうか。それ、ナンセンスだと思うし、「受け入れ先に迷惑をかけて以上終わり」ではないか、と思うが。

      大体、民間企業に勤めると教員のモラルが上がるという方に、お聞きしたい。そもそも、民間企業のモラルが高いのであれば、期限切れ食品の流用は起きなかったはずだし、東芝は不正経理をしなかったはずだし、山一證券は潰れなかったはずだし、ダイエーはAEONさんに吸収されずに済んだはずである。そもそも、業務内容が違うものを参考にしたところでどうにもならないような気がするが。

       教員や牧師をトヨタ自動車に送り込めば、カンバンシステムが教会に導入されて、効率的に信徒ができるのであれば、誰しも苦労はしないように思うのである。魂のない車と魂の居場所ある人間を同一視するって、「神のかたち」をなんと心得る、と個人的には言いたい。そんなことをして喜ぶ人たちは、献金額の多寡を競うちょっと変わったキリスト教と自称している人たちだけではないか、と思うのだなぁ。あるいは、自衛隊に牧師や教員を送り込めば、気合が入るのだろうか。そこに行かなくても、気合の入った方々は○○教官室におられるのではないだろうか。

      道徳の源泉となりえなくなったキリスト教
       個人的に以下のヤンシー先輩の文章には、違和感がある。キリスト教は道徳ではないし、道徳の基準となる要素を指摘するが、道徳そのものではないからである。イエスの主張を二つにまとめると、「神を愛せ、そして、人を愛せ」以上終わりであると思う。それも限度を超えてとはイエスは言っておられない。限界まででよい、限界を超えよ、とは言っておられない。それが言われたのは、神についてだけであるような気がするが、まぁ、1ミリオン行けと強いるものには、2ミリオンいってやれ、とはおっしゃっておられるが、際限なく無限ミリオンいけともおっしゃっておられないような気がするが、違うだろうか。限界を超えたいチャレンジャーの方は、勝手に超えていただければ、と。
      そのような混乱のただなかで、クリスチャンは、社会に指針を与える立場にあるはずだ。しかし残念だが、率直に言うと、私はクリスチャンにそれができるかどうかを疑っている。私たちは信仰通りに生きることに失敗し、明確な道徳観もかけており、派閥中心の政治活動に巻き込まれている。もはや西洋文化は、キリスト教を道徳のよりどころとしてみていない。(同書 p.354)
      しかし、キリスト教が道徳化したのは、フランス革命を経た時代以降だと思うし、キリスト教のサバイバル方法論として、道徳化した傾向はある。しかし、クリスチャンに対するこの自己批判の言葉は、厳しいが、その批判はある面当然といえよう。「私たちは信仰通りに生きることに失敗し、明確な道徳観もかけており、派閥中心の政治活動に巻き込まれている」って自己批判してらっしゃるが、まぁ、共和党だ、民主党だ、とまぁ、アメリカ人は何でも政治的なフィールド(Political Arena)で考えるのが好きなので、派閥中心の政治活動に信徒を巻き込む傾向はあるような無いような。熱心なクリスチャンなら、共和党支持をすべきだ、とか、中絶に反対すべきだ、とか、同性愛者の配偶関係を認める最高裁判所の判決に異議申し立てをすべきだ、とか、Roe and Wade判決がウンタラカンタラだとか、問題を焦点化して、派閥政治もどきの事を言ってくださる方が多い。そんなん、一色で塗らんといてくれ、といいたい。

      ”悪しき知らせ”を伝道するクリスチャン
       ヤンシー先輩は、米国でよくある保守派の「米国をキリスト教のルーツに回復させる」という延命工作はかえって逆効果をもたらすかもしれないということに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
      「米国をキリスト教のルーツに回復させる」という延命工作は、私たちが渇いている世界に届けるよう求められている恵みの精神を危うくするかもしれない。意気消沈して、米国がキリスト教による一致を享受していた(少なくとも表面上は)1950年時代のアイゼンハワー時代を懐かしんでも何にもならない。むしろ私たちは自らに問うべきなのだ。なぜこれほど多くの人々が難題だらけの世界を助ける”良き知らせ”の運び手としてクリスチャンを見るのではなく、”悪しき知らせ”をもたらすものと見えているのか、と。(同書 pp.354-355)
       「米国をキリスト教のルーツに回復させる」という延命工作がなぜ、福音そのものが持っているはずの恵みの精神を失わせるのか、というあたりの事に関して言えば、実は、米国で科学との対話ではなく対決を行ってきたキリスト教が持つ、対立的な精神構造が大きく影響していると思う。つまり、相手を論争でねじ伏せることで、自分たちの正当性を示そうとしているキリスト教は、18世紀の啓蒙主義、科学主義との対決の中で生まれてきたのである。

       まぁ、それも、結局バアルの神官たちと対決したエリヤ、ゴリアテ(ゴライアス)とマン・ツー・マンで対決したダビデなど、自分たちが勝ったことで正統性を立証しようとする精神性とさして変わらない。議論の勝ち負けと、議論の正当性やことの当否とは基本的に無関係だと思っている。なぜ、そう思うかというと、米国の裁判事案で、優秀な弁護士が付いた方が勝ち、という側面があるからである。

       自分たちの正当性を示そうとして、自分たちの首を絞め、無理して頑張っている姿を見せつけることで、世間をドン引き状態にさせ、自分たちの正当性を示そうとして、社会を批判し、悪の手先のようなことを言い続けているクリスチャンたちを、一体誰が”良き知らせ”あるいは福音の運び手というだろうか。撃墜されて以上終わりになることを分かっていて、敵陣に切り込んでいく精神性を持つ人々くらいは、ひょっとしたらそういう恐ろしい状況の中に自ら飛び込み、Kamikazeをするかもしれないが。通常撃墜されてぼこぼこにされることは悪しき知らせであると思うが。

       とはいえ、クリスチャンたちは、神がこの地に来たということは知っているはずなのである。しかし、自分たちの正しさを振り回すから、普通の人はそれに近づきにくくなるのではないだろうか。まるでエデンの園を神の良き知らせと考えたとき、その善き知らせであるエデンの園の入り口におかれた炎の剣と同様の役割りをクリスチャンが果たしているのではないか、と思うのだ。


      不幸は何でも罪の結果…教会あるある
       わりと大きな災害が起きると、そのたびごとに、神の裁きだ、といいだすキリスト者が出てくる。ヤンシー先輩のお住いの地域が洪水が発生したとき、全く無関係なことを列挙され、他人をその原因と言い募った方がおられたようである。実に残念な傾向であるが、こういう事例は少なくない。
       日本では、東日本大震災の時に、東日本大震災は日本人が罪を悔い改めないから発生したのである、と言ったような言説を伝える外国人が教会に出没したらしい。しかし、地震や火山などの自然現象は人が住んでないところでも起きるのである。災害は、人間が自然現象の結果自分たち人間社会に被害が発生しているから、災害と呼んでいるにすぎないのであり、人間がいなければ、自然現象で片づけられてしまうことなのである。
       人間が罪深いから、とか、そんなことは関係なく人がいるところで、自然現象として起きているだけのような気がするが。
      その敬虔さによって社会をさばき、恵みのメッセージをさらに混乱させているクリスチャンもいる。この章を書いているときに、その最たる例を耳にした。18000戸に被害を与えたコロラド州の大洪水の後、クリスチャンのラジオ・パーソナリティーが、洪水、そして同年夏に発生した山火事は、「敗退的な同性愛を活発にし、できるだけ多くの赤ん坊を殺すことに賛成票を投じ、マリファナのような忌むべき偶像崇拝を是認する法律を通過させる」立法者のせいだと非難した。私は、コロラドの自宅の地下で水位がじわじわ上がってくるのを見つめながら、その言葉を聞いていた。そして、なぜクリスチャンが人々を遠ざけているかを、ありありと理解できた。”世界に恵みをもたらす私たち”どころか、”世界に敵対する私たち”という見方をはぐくんでしまう見解は、枚挙にいとまがない。(同書p.355)
      この種の、人間が悪い(あるいはクリスチャン用語を使えば、罪深い)から災害が起きるという理解は、人が住んでいるところでは、普遍的に存在している。日本でも、災害が起きると人柱として人身御供や、日本酒をはじめ、様々な供え物の供具が行われてきた。日本の神社は、北野天満宮絵巻に見られるように、不吉なものをもたらす崇り神をまつることが多い。このようなことを考えるならば、自然災害の発生は人間が悪しきものであるからである(罪あるものであるからである)、という言説を主張するキリスト教は、構造としては異教、あるいは偶像崇拝の信仰とほとんど変わらない、ということになりそうな気がするのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が不足しているからかもしれない。


      北野天満宮絵巻


      そもそもイエスは次のように言われたのではなかったろうか。
      【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
       9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
       9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
       9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

       論理も聖書根拠もなく、思い付きで、回心あるいは罪の悔い改めに導くためなら何をしてもいいという一種のマキャベリズムのように、人間に起きる不幸の原因を人間の罪に原因を求めることが妥当するのかどうかを、少しは考えた方がよいのではないだろうか。確かに、旧約聖書の中に、神に立ち返るためにイスラエルが不幸に陥ったことが記されている。だからこそ、上記のヨハネの福音書9章の中で、弟子たちがそのように言っているのは、その理解があったということであろう。しかし、イエスのことばに注目したい。「神のみわざが、彼の上に現われるため」といっておられる。イエスは、不幸の背景のその奥にある神の支配を見るように、といっておられるように思う。弟子たちも、また、我々も、あまりに近視眼的、現在の段階の事しか見ていないということなのだろう。その意味で、人間は神にはなれない、ということをわきまえるべきなのだろう、と思う。

      まだまだ続く



       
      評価:
      藤本 満
      いのちのことば社
      ¥ 3,024
      (2015-11-27)
      コメント:お勧めしてます。初版には誤植などがあるようですが、第2刷では修正された模様。科学や他のキリスト教理解の対立の構図の背景が多少わかります。

      2016.02.03 Wednesday

      いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(39)

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        今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介してみようかと思う。キリスト教界の間違いとそれへの対応につい手に関する記述の部分である。

        道徳観の信頼できない伝達者
        としてのキリスト教

        西洋諸国では、キリスト教が普及し、キリスト教国(クリステンドム)が成立した後、西欧諸国の王政とキリスト教が抜き差しならぬ関係になった(これまた、ジョン・H・ヨーダー先輩いわくコンスタンティヌス型キリスト教)後、王政への反対をする革命運動が、フランスを中心になって発生し、そのあおりを食らったフランスでは、キリスト教が西洋道徳と化していった可能性があることを、『神学の起源』という本の中で、深井智朗という方は書いておられる。

        ある意味で、キリスト教から派生した道徳が生まれ、西ヨーロッパ社会での道徳として定着し、それが人権思想などへとつながるとともに、人間中心的な概念の独自の傾向が生まれ、その人間中心的な概念が教会やキリスト教信仰から独立していく中で、基盤が何だったかを考えることなく、教会がいうことは古臭くおかしいのではないか、と攻撃的な目を向けるだけではなく、実際に言論を用いながら攻撃しているというのが現在の実情だろうと思う。まさに、自然神学であった科学がキリスト教を非難するようなものである。また、キリスト教自身も、世俗の人間中心的な概念の影響を受け、変質していったので、同じものから出ているものがそれぞれ独自に変質したもの同士が相争っているような感じを受ける。

         そして、教会は、自分たちの伝統と自分たちの信仰と一見、合致しない問題に対して、時に強硬に反対し、黙殺し、あるいはある時期には悪しざまにののしる、圧殺する、言論封鎖することで、対抗してきたのではないだろうか、というあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。

        キリスト教を批判する人々が言うように、教会は道徳観の信頼できない運び手になってしまった。これまで述べてきたように、教会は確かに過ちを犯してきた。それでも、教会には自らを強制する力が備わっている。それは、より高い権威を信じているからだ。最近、南部バプテストや南アフリカのオランダ改革派教会といったプロテスタントの教派が、奴隷制やアパルトヘイトを支持してきた過去を悔い改めた。カトリック教会は科学に反対してきた過ちを認め、ユダヤ人やイスラム教徒への不当な行為を謝罪した。教皇フランシスコは、教会が同性愛、妊娠中絶、避妊といった問題に固執したことが、神の愛という一番大切なメッセージを妨げてきたことを認めた。
        私たちがは社会の間違いよりも自分たちの間違いに目を向けたら、世界はどれほど違った目でクリスチャンを見ることだろう。新約聖書を読むと、教会は当時の文化の欠点にはほとんど着目していない。(隠された恵み p.356)

        なに、ヤンシー先輩ご指摘のように、社会に対する不都合な事実を抱えてきたのは、南アフリカの改革派教会だけではないし、科学に反対してきて嘲笑的な言辞を弄し、科学者であるキリスト者が教会内に居づらい雰囲気を作り出してきた教会はカトリック教会だけではない。学問的研究をする人々の立場や学問的良心を理解せず、学問として記述した内容の文言の切れっぱしを針小棒大に取り上げ、非難し、自分たちの信仰と相容れないと、批判するような教会は、皆無ではない。


        アフリカオランダ改革派教会の紋章


        南アフリカ国歌


        教皇フランシスコ(この南米出身の教皇様はおっしゃることがかっとんでいるので個人的には好きだ)

        先日あるところで、かなり年配の牧会者の方からお話を聞く機会があったが、その方はそのお話の中で、戦争中の日本のキリスト教界の国家への恭順 の意を示し、宮城遥拝までやったことを真摯に日本のキリスト教界はキチンと反省したのだろうか、ということを問うておられた。まぁ、一応日本キリスト教団 関係では、戦争責任問題に関する文書を出しておられるが、はたしてそれが信徒レベルにまで、なぜ、あれがまずかったのか、という理解が行き渡っているだろ うか、あるいは、「あれは、先輩どもがやった話で、戦後のわしらには関係ない」という態度がないだろうか、あるいは、根源的な信仰にまつわる問題をきちんと理解しているのか、とい うことをお話しして居られたが、基本的に歴史をきちんと把握することは、黒歴史部分を切り捨て、関係ないとし、きれいに衛生化(Sanitalize あ るいは Loundaring)された立派な歴史を知ることではなく、黒歴史を含めて知っておき、それをもとに反省することである、という立場が旧約聖書の立場であるように思うのだが、違うのだろうか。

        まぁ、同性愛の問題にしても、中絶の問題にしても、聖書にダメと書いてあるから駄目である、行為は人と一体であるはずだ、という思い込みで、同性愛者や、中絶経験者、離婚経験者などを教会から排除し、苦しめ、神のかたちである人々をあたかも悪魔のかたちのように言い切り、神に変わって教会が追放し、本来神が願っておられる、神による神のかたちの回復の道を閉ざしたことはなかったろうか。聖書のテーマが、神のかたちの回復(つまり、愛であり、義であり、美である)ことをすっかり忘れ。

        共産主義、核戦争、同性愛、イスラム国…
        個人的には70年代ごろからあるキリスト教会とかかわるようになったので、70年代前半に教会が敵視しているものだと思ったのは共産主義であったし、イスラエルをいじめるアラブ諸国、とりあえずエジプトなんだなぁ、という印象であった。一番最初にそれを思ったのは、10歳ころあまりキリスト教団体と意識することなく通っていたYMCAのプールの入り口の壁に、ベトナム戦争孤児の写真が貼ってあり、確か英語で、Parents Killed by Vietcomとか書いてあったので、あぁ、ベトコンとやらは悪い人たちなんだ、と実情も知らずに思い込んでいた。

        その後1980年代には、核戦争であり、それを仕掛けるソ連(アメリカも仕掛けていたのだが)は、当時うちのキリスト教関係組織で超有名人であった宇野正美氏の講演でエゼキエル書に出てくる、ゴクかマゴクはソ連のことだとまことしやかに当時は言われていた。そして、ソ連はいずれイスラエルに攻めてくるという話も、これまたまことしやかに流れていたが、ソ連はアフガニスタンで、足止めを食らったせいか、この30年ちょっとイスラエル進駐したことはなかったように記憶している。いや、実はひそかにイスラエルにスパイが…ということをご存知の方がおられたら、こっそり、コメント欄でご教示いただけると実に嬉しい。また、イスラエルの隣国シリアに海軍の寄港地があるにもかかわらず、ロシアがイスラエルに未だ流れ込む気配は見せていない。ひょっとしたら、最近のISIS団の占領地域攻撃が、あのエゼキエル預言の予兆だとか、言い出しかねないのが、怖いところだが。

        個人的には、高校生の時、今日のソ連邦というソ連のプロパガンダ日本語雑誌を実家近くにあった県立図書館で見ながら、本当にこの国の人たちがイスラエルを攻めに行くのだろうか、と眺めていたものである。なお、高等学校の時の体育教師が1980年のモスクワオリンピックの柔道の候補選手(補欠の補欠)だったらしく、やたらと山下泰裕や斎藤仁と練習したことを事あるごとに自慢するのに耐えるのが実につらかった。



        その昔のグラフ誌『今日のソ連邦』

        同性愛非難の楽屋裏
        去年は、一時期当ブログも2015年6月末には、Love Wins祭り (Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw)になったことがあった。アメリカ連邦最高裁で同性間の共同生活を営む者たちの権利を認める州法を、他州は尊重しなければならない、という判決が出たからだ。同性婚を積極的に推進する判決ではないことはもう少し知られてよいと思うが、「アメリカ連邦最高裁で同性婚が認められた、キリスト教国アメリカでなんたることだ」と騒がれた方々がおられたが、今は大統領選挙でかまびすしいせいか、このことに対するデモ活動も、連邦最高裁判所前でのデモ活動も、ホワイトハウスの前でのデモ活動もあまりないのか、CNNでもCBSでもあまり放送していない。話題にならないということは、その程度の反対運動であったということなのだろう。「時流に乗って、ちょっと同性婚反対って言ってみた」といった程度の抗議活動に過ぎなかったのかもしれない。

        ところで、同性愛が教会から敵視されるようになった時期と共産主義の崩壊がパラレルな関係に在る傾向があることを説明しながら、実は、教会が外部の仮想的をあげながら、ファンドレイジングというのか、大衆動員的な、そして、かなり政治的な傾向をもっていたし、現在もその政治的な側面をも持っているのではないか、ということをヤンシー先輩は以下のように示唆して居られる。

        今日、クリスチャンが全精力を注いでいるのは、「教会の外にいる人々」を裁くことである。一例をあげると、2000年代において、多くの人が教会に背を向けた理由の一つに教会が同性愛者を声高に批判したことがある。私は大人になるまで、同性愛についてほとんど聞いたことがなかったが、牧師や指導者たちが知っていたことは間違いない。なぜ突然この問題に著名なクリスチャンたちがこだわるようになったのだろう。
        友人の一人が、同性愛を敵視する発言が高まってきたのは共産主義の崩壊と時を同じくしていたと、証拠をあげて論じた。それまでは、テレビ伝道師やキリスト教の圧力団体が、無神論の共産主義という共通のおそれを理由に基金集めをしていた。エリック・フォッファーは『大衆運動』の中でこう書いている。神への信仰抜きに、大衆運動は怒り、広がるかもしれない。しかし、悪への信仰抜きにして、それは起こらない」と。そして私の友人は、同性愛を敵視するような発言は、新しい敵を必要とした資金集めの戦略として出てきた、と推論する。ある行為を「罪」として運び出し、それを他のふるまいよりも強調することは、恵みの必要性を失わせる巧妙な手口となる、ということだ。高尚な道徳主義と手厳しい裁きの宣言は、資金調達に役立つかもしれないが、恵みの福音の効用を損なう。(同書 pp.357-358)

        この指摘を読みながら、この話は昔の話ではなく、教会は仮想的を作り出し、それに対する憎悪と嫌悪を掻き立てることで、自分たちの正当性を示そうとしてきたのではないか、ということを思ったのだ。つまり、目に見える教会の敵を作り出し、それを焦点化することで、自分たちの正当性を示し、それを攻撃している限り、安全であるし、自分たちは正義だと思えたという精神構造があるのではないか、と思うのだ。

        最近、ホワイトハウスのPresident’s Advisory Council on Faith-Based and Neighborhood Partnershipsの一員となった Rachel Held Evansさんは、結局教会の入り口のところに、週の住民投票に関して、同性愛反対の看板がデカデカと掲げる教会の精神性に嫌気がさして、教会を飛び出した御仁であるが、この問題が焦点化したことに関する被害者のお一人でもあるような気がする。

        ところで、同じようなことが1920年代には、進化論裁判で知られるスコープス裁判で、進化論がその象徴的存在であると理解された科学を攻撃した。1940年代からは、アジアの新興国家であり、天皇制を抱えた日本という疑似一神教社会を情熱的に攻撃した。1950年代は、マッカーシズムの波に乗り、共産主義者とソ連と北ベトナム、中国や北朝鮮、キューバを攻撃した。1960年代には、退廃的な側面を持ったヒッピーを攻撃した。このように、これまで他者のおかしさを焦点化し、攻撃することで、自分たちの正当性を示せた、と思い込み(正確には、所詮自己満足に過ぎないのでは、とは思うが)自分たちの活動限にしてきたように思う。どこまでも政治的なアリーナで考えることが好きな米国民らしい在り方ではあるように思う。


        Eric Hofferさん


        大衆運動の原著表紙 メインのタイトルは、The True Believer(真の信仰者)という意味深長なタイトル

        森本あんりさんの著書である反知性主義(非常に面白い本でした)についてのシリーズもの 反知性主義をめぐるもろもろ ですでに書いたので、詳しくはその中をご覧いただきたいが、森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(3) のホイットフィールド先生ご活躍の時代から、アメリカのキリスト教とメディア(といっても新聞)は切っても切り離せない関係にあり、大衆動員的なキリスト教という側面を持っているから、大衆動員的な煽情的な、あるいはプロパガンダ的な社会構造は昔から米国社会には存在し、英国のような階級社会にはなっていない(それは良い効果をもたらす場合も、悪い効果をもたらす場合の両面があるが)ため、何かことがあると昔の某国のように、一億総火の玉状態に簡単になってしまいやすい社会構造を持っている。性格が歪んでいるミーちゃんはーちゃんとしては、こういう一致団結してハーメルンの笛吹についていきましょうぜ的な体質、とかいうのは是非ご免こうむりたいと思っている。非国民といいたきゃ、そうお呼びいただいてよい。



        その昔の某国の大政翼賛会と呼ばれる組織がつくったとされるチラシ


        一億総火の玉になりましょうという歌(まだ、戦闘で勝利を収めてた頃だそうです)

         しかし、ヤンシー先輩、「高尚な道徳主義と手厳しい裁きの宣言は、資金調達に役立つかもしれないが、恵みの福音の効用を損なう」って本質見極めたご発言、実に手厳しい。今風のことばで言えば、「斜め上から対応して、他人を悪しざまに言うことは、金儲けの道具としては効率的だろうけれども、それで、イエスの福音は伝わらねぇんじゃね?」ということだろう。個人的にはそれはそう思うんだなぁ。教会がファンドレイジングとアメリカ人が呼ぶ、資金集めには有効だけど、それは教会の目的か、本来目指すべき場所なのか、ということだろう。ここらを間違えている人たちは案外多いし、この背景には、当ブログ記事で何度もお話しているように、近代という時代が正しいということは一つであると理解し、それが社会の共通理解とされていた、あたりの社会背景があるように思うのだ。

        独善と公共的
         近代社会の中で、多様な価値観のある中で社会として適切な在り方とは何か、を考える語として公共的、ないし公共性という概念がある。従来の公共と違うということで、新しい公共と日本語では呼ばれる。以下では、経済産業省のサイトからお借りした画像を載せておく。

        新しい公共の概念図
        http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/aratana-kou/

        まぁ、左側の図は、従来の社会構造で、どっか指導者やリーダー(共産党は中央委員会、それ以外では政府、特に経済産業省(昔の通産省)や文部科学省(旧文部省))がいて、文書通達で、配下の関係機関を動かしていくスタイルなのである。こういう近代の大量生産、大量消費型でみんなが国民服とか人民服とか着なさいと支持するような、中央集権的な一斉のドンで動かす社会構造のままでは、現在の社会には現実的に対応できず、それぞれが文献的に、適当に動きながら、相互に調整したらいいじゃん、という形に変えていきますね、ということが、政府の方のお取り組みとしても行われている模様である。それぞれが別の立場であるから、それぞれ、直面する現実は同じであってもその見え方は異なり、そこは場面場面で、適切に対応していきましょうぜ、というのがこの新しい公共の概念である。

         この辺のことを聖書理解に当てはめたのが、新教出版から出版されているN.T.ライト先輩の『新約聖書と神の民』の第1部で示されていることであるが、これ、理解できる人がどれくらいいるかとなると、かなりしんどいだろうなぁ、と日本語訳を読みながら思った。しかし、あの本の凄みは、実はあの部分にあるのではないか、と思っている。まさに、ライト先輩が、ガチで、近代思潮や近代を支配した同質性の仮定にガチで4つに組んでおられる感じがする。

        独善性と神との義
         ところで、キリスト教徒は神を信じているということに関して、それから派生する行動や行為や言動が独善的である、と主張されることがあるが、そこらあたりの事に関して、ヤンシー先輩は、ジョン・ストット先輩の言を引用しながら、キリスト教徒は神と共に生きようとしているので独善ではない、むしろ、神を信じていない人は、その人の価値基準の根拠が、「オレ様が嫌いだから、ダメなんだ」と自己が基準になってしまっている可能性があることに関して、以下のようにご主張しておられる。
         
        ストットの主張によると、私たちの善良さは、唯一の義なるお方である神に、ただ謙虚に頼る所から来る。神おひとりだけが義である。対象的に、神を信じていない人々は文字通り善的だ。頼るべき道徳の源が、自分たち以外にないからである。(同書 pp.358-359)

        ところで、先日、義ということが、このブログでの発言から、別のところで話題になった。

        ある方が、義をどう日本語で表現するか問題で、適切さという面も含むのではないか、ということで話題になったのであるが、義とされるということがその関係で取り上げられ、義と見なされるということの話題になり、聖書における義とは何かが、ちょっと話題になった。そこに「義は関係のことである」と鋭くツッコミを入れてくださった方があって、話題が広がったのだが、個人的には、聖書の中の義ということは、このツッコミを入れてくださった方のご主張のように神との関係が成立していること、神と人間との間で平和があるということ、そして、神が人間との関係を一方的に回復しようとしておられる性質のことであると思う。

        それをイエスは次の2つの命令にまとめて、人間にお示しである。
        【口語訳聖書】マタイの福音書
         22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
         22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
         22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
         22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
        恐らく、これが成立している状態が、義であり、美であり、善であるというのが旧約聖書以来の、聖書の一貫した主張であると思うし、そのために、少し前にも書いたが、バプテスマのヨハネがサンダルの紐を解く値打ちもない、と言ったイエス様が足で踏まれたサンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない我々(こういう大げさな言い方が中東では好まれたらしいので、それを真似してみた)と共に居たいということを神自ら示すためにこの地に神が来られたのである。その神が、上のようにおっしゃったのである。ところで、神を愛するという以上、神を愛すためには、神という対象がいる。それぞれが、その関係そのものが、善であり、義であり、美しい、ということなのだろうと思う。そして、それが最終的に回復され、それが満ち溢れるようにするのが、聖書の言う、神の最終的なご計画なのだと思う。

        だたし、我々は、サンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない存在であるのにもかかわらず、神と一つだ、ということで、すぐ神の座を簒奪し、自分自身が神みたいになる所が人間という存在のどうしようもなさであることよ。なんぎなことよのぉ、と思ってしまう。



        まだまだ続く



         
        評価:
        N.T. ライト
        新教出版社
        ¥ 6,912
        (2015-12-10)
        コメント:前半の第1部はかなり手ごわいが、実は現代社会の思想を背景(認識論や認知論、記号論理学…を聖書を読むときにどう考えるのか)を考えるうえでのものすごい手がかりをくれる。おすすめ

        評価:
        Rachel Held Evans
        Thomas Nelson Inc
        ¥ 1,217
        (2015-04-14)
        コメント:ホワイトハウスのスピリチュアルアドバイザーになった方の著書

        2016.02.06 Saturday

        いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(40)

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          今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から紹介し、思ったことを書いてみたいと思う。今日は倫理の基準とキリスト教の問題について考えてみたいと思っている。まず、冒頭には、かなりショッキングな事実が示される。

          優生学の驚くべき支持者たち
          優生学という学問は、劣った遺伝子を持つものを排除し、その上で優秀な遺伝子を残し、その優秀な遺伝子を持つものを残していくことで、社会をよりよいものにしようという一種の社会の純化を図ろうとする概念である。つまり、人為的な努力によって、想定される不幸を人間の目で見る限りのことを通して、またある時代の人間の価値観を通して、不幸と思われる事態を回避しようとすることを目指した概念であり、この概念のもとに、人工中絶が社会において是認されている側面がある。
          その優生学の背景と、支持者たちに関して、ヤンシー先輩は次のように述べておられる。

          チャールズ・ダーウィンのいとこ、フランシス・ゴルトンは、遺伝子プールから「劣った」人間や「欠陥のある」人間を取り除くことで、進化の原理を人間の進歩にも適用しようとした。その結果として出現した優生学運動は、科学者、哲学者、そしてウィンストン・チャーチルやセオドア・ルーズベルトといった政治家たちから熱狂的な支持を得た。(隠された恵み p.360) 

          しかし、この説を支持していたのは、ナチスドイツの政治的指導者ばかりではない。驚いたのは、イギリスの保守派の巨頭であるウィンストン・チャーチルやアメリカの民主党(The Democrats)の政治家、セオドア・ルーズベルトも容認どころか、熱狂的な支持者だ、と指摘されていたからである。つまり、それは、20世紀初頭から中葉にかけての科学であり、理性的な概念の中で容認されるべきことであり、社会的に真理とされていたことであったのである。
           
          まぁ、時代の限界とはいえ、これらを支持した政治家、そして、神学者たちも少なからずいたのであり、それが科学全盛期のキリスト教界の姿でもあったであろう。そして、このような態度は、ハンセン氏病者の対応にも及ぶ。キリスト者とハンセン氏病というは、いろいろ関係がありすぎて、単純化して書くことは困難なほど複雑な要素を持つのであるが、日本で初めてハンセン氏病者の世話をした豊後大分の”みぜりこるじあ”の人々から、明治期のハンセン氏病のケアしたカトリック教徒やそのほかのキリスト者の皆様もおられた。また、ハンセン氏病の根絶を目指して、さらに医学的知見が不十分であったからとはいえ、ハンセン氏病者根絶に向って断種やハンセン氏病者から出生した嬰児殺害も医療行為として行われてきたのである。このあたりのことは、もう少し知られてもよいと思うが、我々鼻で息するものは、見えない病原菌に恐怖し、病気に恐怖し、ろくでもないことを起こしかねない存在であることを頭の片隅にでも覚えておかねばならないのかもしれない。

          人間展示会、ってねぇ
          米国で、理想の家族像を描いたような展示がおこなわれたらしい。それは、人種的、遺伝的純血性を保つための措置であるかららしい、というのは、恐れ入る。
          米国では、価値ある遺伝子を持つ「ふさわしい家族」なるものが、州の博覧会で家畜の陳列場の隣に展示された。南部諸州は異人種間の結婚を禁じる法律を通過させ、遺伝的血統を純血に保とうとした。そして多くの州が犯罪者、未婚の母、精神を病む人に断種を強要し始めた。ある所では、貧しい人々、同性愛者、ふしだらな女性、そして遺伝性の盲目、ろうあ者の人々に、「退化している」や『不適格者」というレッテルがはられた。(同書 p.360)

          似たようなシーンが映画 The Nanny Diary(邦題 私がクマに切れた理由)というラブコメ映画(多分、ラブコメだと思うが)にあった。以下の予告編の最初に出てくるのはアフリカの家族の展示シーンであるが、これと同じようにNYの金持ち家族の構成員をアメリカによくあるNatural History Museum風の展示で出てくるシーンがあるが(それも現代のセレブに対する皮肉たっぷりのナレーションのコメント付きで)まさに、ここで指摘されている「ふさわしい家族」ではないが、「現代のアメリカの金持ち家族」といった感じの金持ち家族の批判を実際にやったのである。この辺がアメリカ人の心性をよくあらわしているように思う。
           

          映画The Nanny Diary『私がクマに切れた理由』の英語版予告編
           
          この部分を読んだ時、以下のPolice Squad!という確か80年代初頭の70年代の警察もののドラマをコメディにしたドラマシリーズのある回のシーンを思い出した。以下の動画像である。そこでは、日本庭園(Japanese Garden)に行こうと青年が女性を誘うと、日本人が突っ立っているなんとなくアジア風のお部屋である、日本人の庭(Japanese Gardern)にいってしまうという、かなりきついコメディシーンである。


          Police SquardのJapanese Gardenシーン


          Police Squard!のオープニング・シーン

          おそらく、この回の作者は経済摩擦が発し始めていた時代でもあり、日本人に対する批判意識もあるだろうが、むしろ、外国の動物や植物を生育環境から切り離し、展示する姿勢についても批判的だったのだろうと思う。まぁ、それにしても、日本人に対するステレオタイプは、今なお、フジヤマ、ゲイシャ、ジュードー、スキヤキ、スシといったアメリカ人の意識の根底を見ることも多い。それだけ、日本人の英語文化圏に対しても発信力あるコンテンツを持ちながらも、その良さを一部の人々に対してしか十分発信できていない日本の現状をこの前、マコト・フジムラさんは次のように、ツイッターで発信して居られた。

          とマコト・フジムラさんはお書きであるが、この辺、アメリカ人があまり地理意識がない(小学校でもほとんどやらない)からなのか、日本人が発信不足なのか、中国人が自慢するのが大好きだからなのか、よくわからないが、アニメで出てくる日本というのは非常によくわからない描き方がされていることが多いし、アメリカでは、まずアジア系は、中国人か、韓国人かって聞かれることが多い。まぁ、Hello Kittyはアメリカ発キャラクターだとか、SonyやSharpはアメリカの会社だと思い込んでいるアメリカ人は、なお多い。

          あぁ、話がまた脱線してしまった。すまんすまん。

          米国における人種意識
          で、このアメリカ人のコーカシア系至上主義というか、混血否定主義は、中西部で激しく、西海岸では緩く、ワシントン州ではめちゃくちゃ緩い。そのあたりの差別意識を告発した映画に、いくつかあるが、ここでは、Mississippi Burningという公民権時代の映画をサンプルとして挙げておく。

          Mississippi Burningは公民権運動華やかなりしころの公民権運動家である学生が、ミシシッピ州で失踪した事件に題材をとった映画である。この時代、白人至上主義者は、アフリカ系市民といわゆるヨーロッパ系市民(ただし、ドイツより西側が中心)とが仲良く同じ車に乗って移動することすら耐えがたく、殺人事件まで起こしてしまったのである。

          未だに、このこのようなAngloSaxon Christian社会であるべきである、とかといった思い込み(個人的には妄想だと思う)でしゃべる人々はいるし、最近話題のドナルド・トランプ君なんかの発言の端々に、それがにじみ出ている感じがする。それがこの前、Iowa州の共和党候補選挙で2位をとったことは、ご同慶の至りとは絶対に言わないけれども、アメリカ市民社会の保守的な人々の御意見の反映なのかもしれない。この動きが過激になると、NeoNaziの動きにつながりかねないのである。
           

          The Mississippi Burning
          Every Single Anglo Saxon Christian という言葉が出てくる。

          以下は、CBSのニュース番組60Minutesの一つからのスピンオフ映像らしいけれども、カリフォルニア(割とリベラルな人たちが多い)にも、こういうネオナチのみなさんがおられる。


          カリフォルニアのネオナチの人々について伝えるCBS60Minutes関連の動画

          経済的合理性と功利主義と米国人と奴隷
          米国人は、経済的合理性とその派生概念である功利主義が非常に発展している国の一つである。日本に来る経済学の大きな主張は、米国発であるので(なお、米国人は基本的に自分たちが国際基準であると思っていることもあり、日本でも国際基準の○○であるためには米国に認めてもらわないといけないという構造になっているが、世の中そうでもない。
          この辺米国人が国際基準だと思っているあたりに関しては、英国人が苦々しく思っていることはあまり知られていない。とはいえ、日本の経済学的な政策も基本的に米国流になっていて、社会の文化的状況(コンテキスト)や、産業組織や勤労者意識といった社会システム的状況(コンテキスト)といった状況も十分わきまえず米国風の政策が持ち込まれている。残念なことだと思うが、為政者の皆様とそのブレーンの皆様がそういうのがお好きなので、「あぁ、めんどくせえなぁ」と思っている。とはいえ、世俗社会で生きるときには、そういうめんどくさいことにも付き合わねばならないとは思っている。

          米国人は、功利主義の観点から道徳の問題を解決することを好む。アリストテレスもその論法で奴隷制を肯定した。ウィリアム・ウィルバーフォースは奴隷制廃止運動の中で、ディヴィッド・ヒュームのような功利主義の哲学者たちに反対しなければならなかった。ヒュームたちは黒人を劣っていると考え、財界の指導者や政治家たちも、奴隷は経済に利益をもたらすと考えていた。クリスチャンたちは、ウィルバーフォースと共に人々の道徳観に訴え、”神に創られた存在”という本質的な人間の尊厳に目を向けさせた。(同書 p.364)

          まぁ、アリストテレスさんは、貴族様がまともなことが考えられるような役割分担として、奴隷が必要だと言ったし、アメリカの金持ちの資産家は、資産家としてより利益を有効活用できるように、肉体労働から解放されることが必要であるため、奴隷制度が必要なのだ、といった。そして、この根拠に聖書内に奴隷という言葉が出てくるからだ、と書いている仲介書も、ちょっと前までいのちのことば社からクラッシックな書籍ということで売られていたような気がする。うちにはあるけど。なんか、これは昔の時代で本なので、とか言い訳が書いてあったなぁ。今なら、それだけでネットで炎上してしまいそうだけど。

          https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/eb/William_wilberforce.jpg
          ウィリアム・ウィルバーフォース先輩

          以前にも 教会やめたい?(その8) 伝統を守りながら変えていく教会(後篇) でもご紹介したところであるが、奴隷制廃止問題が教会でまともに議論されるようになったのは、差別されていたネイティブアメリカンの酋長たちが、教会役員になるにあたって奴隷を保有することが是認されるべきか否か問題に議論の根源があることを2014年の日本基督教学会というところでの東京大学の大学院生の御発表で知ることになったが、世の中、美談ばかりではないのである。

          日本では「クリスチャンは、倫理的な人々である(べき)」という妄想が世の中にはびこっているし、キリスト教の世界ではなおそうである。ヤンシー先輩にもそういうところがちょっこし感じられる。あるいは、「アメリカ人は何においても立派(ただしアフリカ系市民を除く)」とかいう根拠のない妄想を話す人々がおられるが、まぁ、妄想は妄想のままお持ちいただいたらよいのであるが、それらを他人様に触れ歩かないでほしいと思う。

          人間はどうしようもないから、神が必要なのであって、どうしようもあるなら、そもそも神がいらなくなるし、もしクリスチャンが倫理的に生きられるなら、その人は神になってしまうという逆説(パラドックス)が生じてしまう。そもそも、普遍的倫理というのが存在するのか問題が、現状で解決していない以上、個人の信仰と聖書理解に照らし、自分でどう考えるのかをその場その場で考えるしかないのに、こういう普遍的な倫理観があると他人に押しつけてこられる方がおられるからかなわん。

          そもそも、アメリカでは、ネイティブアメリカンは人間ではないとされたし、アフリカ系市民の人々の御先祖様は人間でないという詭弁が弄された挙句、奴隷制度が成立したのである。つまり、動物に対してなら何をしてもよい(これは創世記の最初の3章分に照らすと、かなり怪しい理解であるが)という論理から発生し、アフリカ系市民の皆さんは人間ではなく、神を理解する力がない、としながら、毎週日曜日に聖書を語って聞かせる、というあたりの矛盾があるのだが、そのあたりのことに関して、「それでも夜が明ける」12 YEARS A SLAVEという以下で紹介している映画で示されるのを見たとき、まぁ、聖書のカット・アンド・ペーストしながら自分の都合のよいところを抜き出し、自己都合により理解することのナンセンスを感じるなぁ。



          「それでも夜が明ける」12 YEARS A SLAVEの予告編

          価値のない人はいない
          前にも書いたように、我々は、イエス様のサンダル底にへばりついているごみに付着するアミノ酸の中のDNAを構成する物質の中の一つの電子にも満たない存在かもしれないが、それを神は愛して、大事にしておられるのだ。ありがたいことに。しかし、自分は大事にしてもらいたいけど、他人はどうでもいい、とかいうキリスト者を自称する人たちがあまりに多い。
          前にも書いたけど、くどいけど、いま枚方に居る司祭の方や、大阪のドヤ街で奉仕をしておられる本田司祭は、社会で最も弱い人たちのケアを散髪を通して、実施しておられる。本田司祭いわく、「私は、ホームレスの先輩方の散髪しかしてなくて、後は、シスターたちの趣味のミサ1回と日曜日のミサ1回だけしている」だそうである。詳しくは、「日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 」と「日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 」をご覧下され。
          そういえば、この前1月27日は、国際ホロコースト記念日 であったが、そのことをキリスト教界関係者で教えてくださったのは、立川のT牧師だけであった。この方も、ミーちゃんはーちゃんというややこしい奴と遊んでくださる、実にありがたい方である。ミーちゃんはーちゃんの知り合いで、このことをつぶやいたり、Facebookとやらでお話になられた方はあんまり身の回りにはいなかった。なぜかは知らないけれども。あぁ、そういえば、その関連で、コルベ神父の画像をご紹介して下さった方は居られた。


          コルベ神父

          ナチスドイツ支配下では、少なくとも何人かの司祭、牧師はナチスドイツに反対しなかった、というよりは、反対した司祭、牧師のほうが少なかった。徒手して時代の流れを見ていた人たちが多かったのである。カトリックだから何とか、プロテスタントだから何とか、とか決して一般化できないのである。
           

          「価値のない人間などはいない、と強く主張する大切な役割」が、クリスチャンたちにはある。私たちはその役目を、かつてのドイツでも起こったように勇気ある抗議によって果たすことができる。また、マザーテレサがしたように、溢れる愛をもってこの社会で最も弱い人々をケアすることによって。どちらのやり方であっても、神学ー人が神と人間のいのちについて信じていることーが重要だ。世界はその善き知らせを、切実に必要としている。(同書 pp.364-365)

          ヤンシー先輩が言うのも、また、ジョン・H・ヨーダー先輩が言うのも、以下の図のような白丸の中の人物のようなことも、キリスト者には必要ではないか、ということである。まぁ、こういうことをするのは、非常に勇気がいる。まぁ、白丸の中心にいる人物の後ろの工員風の人たたちはわかてんだかわかってないんだか、わからないが、何に賛成して手を伸ばしているのかを手を伸ばしながらささやき合っているようで面白い。まぁ、この手を挙げている人たちの何割かは、この中心人物の後ろ側の人たちのようであったのであろう。それが大衆社会という社会のありようでもある。


          ヒットラーに媚売らなかった人 の写真

          ヒットラーに媚を売るどころか、キリスト者としてはにわかに信じがたいが、暗殺計画にまで加担して、獄死しちゃったのが、デートリッヒ・ボンフェファ先輩である。戻らなくてもいいアメリカからわざわざドイツにもどり、共同生活を送り、そして、挙句の果てにオペレーション・ワルキューレではないけれども、ヒットラー暗殺計画に加担するという、ろくでもないことにかかわる、って、ちょっとかっこよすぎないか。


          ボン・フェッファ先輩


          オペレーション・ワルキューレ 日本語字幕版予告編

          まぁ、余談はさておき、案外大事なのは、自分たちで自分を守れない人々をどうするのか問題のような気がする。それは、A Few Goodmenという映画の隠された主題になっている。この映画は、基地の司令長官から、同僚兵士を殺すように(Code Redと作品中で呼ばれている)命じられた兵士が、軍法裁判にかけられて、裁判上は、不名誉除隊を命じられるという映画であるが、この中に出てくるトム・クルーズは若いし、G.I.Janeに出る前のデミ・ムーアはまだかわいらしいし(これ、本論とはなんの関係ない)、なかなか話の伏線が面白いのでお勧めなのだが、最後のシーンで、アフリカ系海兵隊軍曹が下級兵士が、「なんで?なんでどす?」というのに対して答えていることが面白いのだ。軍隊組織の本来あるべき姿を語っているからである。


          A Few Goodmenの最終シーンの直前の軍事法廷でのシーン
           
          We suppose to fight for people, who could not fight for themselves.(我々は、自分自身で自分を護るために戦えない人々の為に戦うべきだったのだ)といわせている。これ、案外見逃されているかもしれない。こういうために警察や軍隊組織があるのであり、本来、自分自身が守れない人たちを守ったのが古代キリスト教会であるからこそ、迫害に会いながらもローマ帝国の中で、キリスト教会が生き延びたのだ、ということは、スタークさんという方の「キリスト教とローマ帝国」という本での主要なご主張である。

          この辺、宗教改革のゴダゴタのせいなのか、ミーちゃんはーちゃんのいたキリスト教会の集団の中ではついぞ最近になっても教えてくれる人はいなかった。街角に立って、説教したから、みんなクリスチャンになったんだ(なんとインスタントラーメンのような発想のことか)と信じ切っていた。それで現場に立って、説教したところでなんでクリスチャンにならないんだろうと、この30年余り悩み続けていたのだが、説教したくらいでクリスチャンになってくれる人が少ないのだ、とわかって、ちょっと安心している。まぁ、順番が逆だったのだ、世の人と軽く見ていたのでは、まずかったことに気がついたのである。

          気がつくの遅すぎ!って、その批判は甘んじて受けたい。で、今はこれからどうしようかなぁ、と考えている。

          ところで、この前、母の家ベテルで参加させてもらった研修会でも、これからのキリスト教(というよりは、これからのプロテスタントは何をもう一度考えるか) ということでディスカッションした中で、おもしろかったのは、この辺の小さな人たちに接し、その人たちを神のかたちとして向き合っていくことをきちんと取り戻すことではないか、というお話がちらっとでた。その時、20 ページくらいの論文もどきのものを書いて持っていったのだが、そこの主要部分「こんふらりあ・みぜりこるぢあ」を話す間もなくその部分は話させてもらえなかった。実に残念ではあったが。まぁ、一参加者なので、それはそれでよい、と思っている。その代わりと言っては何だが、熱烈なこのブログの読者の方にお会いできたのは、なかなか思い出深い一日となった。はい、これを読んでいるMKさん、あなたのことです。そして、他の当ブログをご清覧中の方々にも、この場を借りてお礼申し上げます。いつもご清覧、感謝します。

           
          もうちょっと続く





           
          評価:
          ウォルター ラウシェンブッシュ
          新教出版社
          ¥ 6,588
          (2013-01-07)
          コメント:資料としてはめちゃ貴重。図書館で読むのでよいと思う。

          評価:
          ロドニー・スターク
          新教出版社
          ¥ 3,456
          (2014-09-19)
          コメント:高いけどよいよ。手法に問題意識は残るけど。

          2016.02.06 Saturday

          上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1)

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            今回は、上智大学大阪サテライトキャンパスでの川村先生の公開講座に出席してきたので、その記録を2回でお知らせしようか、と。

            高山右近先輩について
            高山右近が今年列福(現在は内定状態)されるが、その生涯を年表風に書いて並べて解説すると面白くないものになってしまう。それは、一般の社会の歴史や戦国時代史とキリシタン史が分かれていて、その関係がよくわからなくなるからである。キリシタン史の研究者は、概してキリシタン史のみを語る傾向にある。実は、高山右近の高槻にいたことが重要であり、畿内のキリシタン全部が高山右近と畿内の政治情勢とがかかわっている。なかでも、河内が畿内のキリシタンの土壌であるが、それは、河川交通が河内では発達していて、非常に便利であり、河内が京都や大阪と密接につながりがある要因が見逃されている。

            高山右近が活躍した時代は、室町幕府が傾いていって、織田信長が登場する時代であり、摂津とはいえ、高槻と河内が関連した動きをしている。高山右近の高槻入城は乗っ取り事件といわれるが、和田惟政から奪い取った形の入場である。この高槻入場は、荒木村重の反乱とパラレルに考える必要があり、高槻の裏には荒木村重の存在がある。荒木の反乱と回心の時期が微妙に重なっている。(この辺の詳細、今回はつまびらかならず)

            高山右近は、本能寺の変で山崎の戦では、大勝利をおさめ、最前線にいた人物であるが、賤ヶ岳では戦わずして逃げている。その意味で、英雄的な側面と、ダメな人が高山右近の中で、併存している。



            この賤ヶ岳の戦いの後、高山右近は明石に転封されるが、加増されているから、栄典だ、とキリシタン史を見ればおもいやすいが、そうでもなさそうである。この時期を一つで考えると、伴天連追放令とのかかわりを考え、秀吉と高山右近との関係をもう少しきちんと追った方がよいのかもしれない。この後、川村先生は、今年教文館 から出る本のステルスマーケティングをこっそりしておられた。

            前半は、フランシスコ・ザビエル の世界史的意義を考えたい。ある意味で、当時のヨーロッパ社会における、日本の情報発信者であり、初めて、ヨーロッパの地図に、日本を載せた人でもあるし、後のオリエンタリズムにつながる、日本への期待を持たせた人ともいえる。(さすが、上智大学の去年のポスターみたいなことをおっしゃる)


            後半は、ヴァリニャーノが日本に西洋からのキリスト教を持ち込むときの障害にどう対応したのか考えたい。


            日本を中心とした交流史
            これまでの交流史はどちらかというと一方向的な交流を想定してきた。つまり中心があって周辺がある形、ある種帝国主義的な形の影響を考えてきたが、実はこの時代というのは、双方向的交流で考えた方がよい。ジョセフ・フレッチャー Joseph Fletcher(1934-84)という西アジア史の専門家がハーバード大学にいたが、彼の説によると、1500年前後は、は世界史的な大きな転換点であり、一種の統合の歴史 Integrated Historical Momentであったとされている。それというのは、様々な自己完結した領域型国家が様々な観点で交差しており、ムガール帝国、明、サファヴィー朝イラン、オスマントルコ、モンゴル周辺諸国、モスクワ公国が交差している。
            その状況の中、ポルトガル領インド(海からアジアに入るヨーロッパ人)を経由して そして日本にザビエルは来ている。

            接続された歴史
            サンチアゴ・スブラフマニヤムというインド史の研究者であり、UCLAの教員が名古屋大学出版会から『接続された歴史 -インドとヨーロッパ-』という本を出しており、その中で、「接続された歴史」という概念を提案している。

            当時の文化は、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調があった。それは、文化の混交、総合ではないと考える方がよく、18-19世紀の帝国主義の時代に起きた文化の総合や混交とは異なる。双方向的な交流が生んだ、文化の併存状況であり、ヨーロッパが中心で支配するという構造ではなく、他の地域へのヨーロッパの影響は、それほど強くない。ヨーロッパにNoといえた時代である。東洋進出でも、1500年前後とその後の18・19世紀の東洋進出は、同じ東洋進出でもかなり違う。

            大航海時代の日本情報
            1502年 「マルコ・ポーロ」のポルトガル語版が出版される。編纂版が出版され ジパングをはじめて認識された。ベネツィア人ニコラオが書いたとされる。
            1543年 エスカランテ報告が存在しているが、一応自己申告で来日経験ありとする記録にある。メキシコ総督メンドーサによるアジア艦隊の一員として到着したとされるが、その後捕虜としてリスボンにいたことがわかっている。

            1548年 ジョルジュ・アルバレスの日本報告がある。ヤジロウをザビエルに紹介したことが書かれており、記録によれば、マラッカでザビエルとヤジロウが出会っている。ザビエルに依頼を受け、日本情報を書いている。
            1548年 ニコラオ・ランチロット(ゴアの聖パウロ学院院長)の日本情報があるが、かなり、日本情報が集まっていた

            1574年 フラン・ロペス・デ・ベラスコ 新大陸の日本記事がある。

            この時期、世界に認識され始めた日本という存在がある。

            地図に存在する日本を追ってみたい。(これは地図マニアの血が騒いだ)


            インド北部と大タタール図
            赤線部分を拡大しました。日本だそうです。
            Tabula superioris Indiae & Tartariae maioris (http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/start/sel=13/)

            半島なのか島なのかはっきりしない。ドイツ語表記

            ボルドーネの世界島嶼集の世界図の極東部分の中にも同じ図があり、書物の中に島国として書いた、ヨーロッパ最初の印刷物の一つとして挙げられる。

            1550年 セバスチャン・ミュンスターのアジア図の中にも表れており、四国が Tonsa 土佐と表記されている。


            ミュンスターのアジア図 http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1550-KB1-1/zoomone/


            拡大図

            この島は銀の島ということが知られている。1540年代には、フィリピンのスペイン商船が太平洋航路を経由して、フィリピンとメキシコを移動している。地図の面白さは情報があればあるほど詳しい地図が書いていかれることになる。その意味で、新しい情報があれば、その情報が書き加えられていくのが地図である。


            1570年 アブラハム・オルテリウスのアジア図
            http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB1/zoomone/より

            Tonsa(とさ) Bungo(ぶんご) Amanguco(やまぐち)の文字が見える。

            なお、石見銀山1533年に精錬された銀輸出が盛んになり、当時の世界の1/3の銀を産した時代があり、それが文字として銀鉱山の存在が地図上に記載されることになる。


            1570年刊行のアジア図 大シャム国(元) 
            http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB2/zoomone/


            1570年刊行のアジア図 大シャム国 日本付近拡大図
            Tonsa Bungo Amanquno(とさ、ぶんご、あまくさ?)がみえる

            Bandumia(坂東が出てくる。恐らく、足利学校のあったあたり)、Meaco(みやこ)Minas da plata(銀鉱山)の文字が読める。


            1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 

            1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 拡大図
            日本国内の地域に関する相対的位置関係の精度は向上している。ただし、朝鮮半島は島として描かれる。


            ゲルハルト・メルカトルアジア図 
            http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1600-KB1-5/zoomone/


            ゲルハルト・メルカトル アジア図 拡大図 
            鹿児島 (Cangoxuma)、 都 (Miaco)、 山口 (Amanguco)、 坂東 (Bandu)、Negru(根来?)等がみられるが、総体にかなりいい加減な配置となっている。(アジア図だから、かなりいい加減だというのはあるかもしれない)


            ポルトガルとスペインの世界
            日本にはポルトガル船でやってくるのは、トルデシリャス条約 1893年であり、これは、ポルトガルスペイン国王間での取り決めである。それ以前に、東漸した地域はポルトガルによる強化圏で、西側は東経38度線までとした。これ以前にポルトガル王スペイン王の了解なく惹かれた、 Line of Pope Alexander VIという世界史的境界線がある。

            とはいえ、現在のフィリピンはスペイン領であるが、ボルネオ島やマラッカ諸島は、スペインがポルトガルと交渉して、支配権を確立した結果である。

            スペイン 地球西廻りで征服し、植民地化を行った。その結果として支配地域のキリスト教国化を反対者がほとんどいない形で、征服が先にあり、そのあと宣教していった。なお、長崎殉教した28人のうち、23人が、フランシスコ会の中でも、最も厳格派の洗足派であった。また、スペインが、レコンキスタを行って領土回復したこともあり、レコンキスタのメンタリティにあふれた国家であった。

            ポルトガルは地球東回り 「抗争」か「順応」かで宣教していった。簡単に崩せなかった、イスラム教徒やインドのヒンドゥー文化、そして中国・日本という、独立して存在している簡単に凌駕できない文化が存在する中で伝道していった。その意味で、白地図の上に線を引くようなことができなかったアジアに対し、中南米は軍隊で、熱したナイフでバターを着るように伝道できたスペイン系のカトリック教会がある。サラゴサ条約(布教保護圏の領域決定に関する条約)では東経133度線が教会なのであるけれども、日本の存在は認識されなかったため、日本に関する宣教地の分断はされていない。

            インドより西側のポルトガルの植民地は、ゴア、カリカット、コーチン、マカオであり、海上基地とその周辺を抑えるような植民地経営をしていた。ところが、アメリカや、アフリカでは、内陸までが領土とされており、かなり経営が違う。
             


            ポルトガル海上帝国 Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_Empire から

            ------個人的感想-----
            この図を見ながら思ったのは、アジアを経営する場合、兵站距離が伸びることなどもあり、拠点型であったのであろう。これと同じようなことした地中海世界の国が過去にあったことを思い出したのだ。それはベネツィアである。詳しくは、塩野七生女史の『海の都の物語』でも読んでもらうことにして、完全に拠点型のアドリア海、地中海、黒海世界の支配をしたのである。まさに本土人口の少ない場合の海洋国家(海軍軍事国家)としてのベスト戦略をアジアで実際に行ったのが、ポルトガルであり、後の大英帝国である。

            ベネツィアの支配領域図 https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Venice
            ------個人的感想-----

            印刷物と宗教改革時代
            ゴアのイエズス会あてのザビエル書簡(1549年11月5日付) ザビエル書簡がトリエント公会議で、多くの司祭が悲嘆にくれた公会議の中で読み上げられることになり、その結果、トリエント公会議の司教団はどうもが善やる気が出たようである。そして、この書簡が、印刷され、1552年に印刷された最初の書簡集がでる。

            AVISI PARTICOLARI delle Indie di Portogallohttps://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk17.htm
            京都外国語大学所蔵


            宗教改革は、当時のIT革命であった印刷文化に支えられた時代であるからこそ、起きたといえる。慶長少年使節団に謁見した教皇は、一つの島(ブリテン)を失った( 英国国教会の成立のこと)がその代わりに一つの島(日本)から人がきた、と痛くお慶びになられたようである。


            トルセリーニにより1594年にザビエル伝が刊行されている。(画像のソースはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/dogstar500ml/12669004.htmlから拝借)  おそらくここの挿絵がそのご教科書に乗る小学生の社会科のヒーロー、ザビエル(小学生男子は禿が好き)の原型になったものと思われる。

            アレッサンドロ・ヴァリニャーノの自筆原稿が残っているが、ヨーロッパの紙とインクだとぼろぼろになっているし、裏移りがひどいが、同じヴァリニャーノの自筆原稿でも、和紙に黒墨で書いたものは、裏移りがしていない。バリニャーノ自筆書簡と書名を比較することで、現在伝ヴァリニャーノの書簡はほぼ真筆であることが確定で来ている。なお、イエズス会員については入会時の自筆のサイン署名が残っているのでそれで参照できる。なお、当時の日本の神(わし)が西洋で高く評価されたことは、江戸期長崎からの輸出品の最大のものの一つが和紙であったことからも分かる。

            歴史資料としての宣教師文書
            フロイスの記述を証明する考古学成果がいくつも存在する、約20年くらい前の1990年代くらいまでは、宣教師の偏見があるかもという説があったが、現在では発掘調査などによりその正確性が確認されている。特に、フロイスはメモ魔であり、岐阜城に関しても、山上とふもとの宮殿があった、とフロイスは記載しており、信長はふもとの宮殿に住んでいたという記事が残っている。岐阜城は稲葉山の山上に位置するという説が有力であったが、近年の発掘結果によれば、ふもとの方が大きい館であることが明らかにされるなど、その信ぴょう性が発掘結果からも確認されている。また、安土城の礎石研究から、宣教師の記載にある空中通路(本丸と天守閣を結ぶ空中廊下)の存在が、確認されている。

            キリシタン大名としての大友宗麟
            豊後の大友宗麟は、なかなか評価が定まらないが、非常に面白い人物である。今、大分は南蛮都市ということで売り出しをかけている。駅前にはザビエルの銅像が立ったりしていて、陶板画の世界地図なんかがあるらしくって、駅前広場が面白いらしい。


            大塚オーミ陶業株式会社様からの借用 https://www.ohmi.co.jp/news/9700/

            戦国時代大名でありながら、キリシタンになって、薩摩に敗北した人という江戸時代の大友宗麟のがた落ちしたイメージのみが伝わっている。それはある面、江戸時代の色眼鏡での見方の影響を現在も尚、受けているといえよう。大友宗麟は、6か国の守護であり、南蛮文化の取入れを行った人物であり、その点では面白い人物であるとは言えるのではないか。

            大友宗麟は豊後府内病院とその周辺を整備し、病院を建てさせた。府内古図といおう大分市内の古都があるが、この子図を見る限り、天守閣が中心ではなく、城下町はないような形となっている。大友館が真ん中にある。府内古図の中にキリスト教施設だいうす堂があり、宣教師がいたとされるし、ミゼルコルディアという組もこの中にあり、そこにもパーデレがいた。なお、この敷地内から、墓の跡地が見つかり、ここから乳幼児の骨が出てくるが、豊後で、戦災孤児が多かったという宣教師の記述に一致し、こういう戦災孤児を教会で世話したことが想定される。

            この教会敷地の中に、貧者の家があったことが知られており、宣教師の医療補助を手伝った12名の信徒がいたことが知られている。五野井隆史 東大史料編纂所 研究紀要14 2004 がその内部構造の研究をしているが、1560年代には病院はなかったんではないかと思う。なお、病院は 重い皮膚病患者のケアをした病棟が別棟であったものと思われる。

            コスメ・デ・トルレスは文化適応主義として、日本宣教の方策をとったが(これに関しては次回分で紹介)、それとともに、この医療による奉仕は、極めて重要であった。ルイス・デ・アルメイダという人物であるが、もともとユダヤ教徒の商人であったが、改宗したのち、イエズス会入会し、彼がささげた試算により、極貧状態にあったイエズス会が豊かになった(そんな過去があったなんて知らなんだ)。そして、豊後で病院での医療にあたる。そして、それを補佐した人々が、日本最初のボランティアとしての存在であり、病院を手伝い、信徒グループを形成した。それが、慈悲の組の形成とつながっており、コンフラリア(友愛会)である。

            『ヨーロッパ中近世の兄弟会』では、その詳細が紹介されており、コンフラリアはその一種で、豊後大分では、死者の埋葬と病院の経営にあたっていたようである。平戸の葬列について、1555年 ルイス・フロイスの記述があるが、これは、ヨーロッパのコンフラリア式の埋葬を完全コピーしたものであり、サカラメンタ提要にある埋葬するときの歌を歌ったことなどが記載されている。なお、高山右近はそれを高槻で完全コピーして再現したようである。その意味で、治療の手立てのない病人の世話 Careと死者の埋葬という役割を担っている。

            死者や病者に関しては、触穢思想との関連、日本にけるタブーの抵触をだれがするか問題と深くかかわっており、死者や病者のケアすることは、直接触穢概念と向かい合うことであった。それをあえてしたのが、慈悲の組(こんふらりあ・みぜりこるぢあ)の活動である。なお、触穢の思想は10世紀にはあったことが知られている。

            こういうことを考えると、キリシタン史をキリシタン史ですることは意味がなく、当時の歴史的環境と接続して考えないといけないのではないか。
             
            -----------今回の個人的感想-----------

            『新しい中世』という本がある。インターネットが出始めのころ、これから情報技術社会がつながることで世界システムがどう変わるのか、ということを書いた本である。つまり、公共圏という言葉を使わずに、公共圏が小規模化し、分散多元的に存在する可能性を示した本である。
            まさに、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調が起きるのではないか、ということが記されていたのであり、それが空間を超え、サイバー空間上に小さな文化コミュニティを形成しながら、文化的にそれぞれのグループが別のグループに影響しあいながら、世界が形成されていくのではないか、という現象を示した本であったように思う。

            ちょうど1500年代の大航海時代の始まりには、このような多様な文化が併存する状況(juxtaposition)で空間に制約される形で併存し、それが大航海時代という時代で実物の人間というメディアを通して触れ合うことを通して、変容もしていくし、他の文化の併存状況を認知していくこと、そして、当時の国際通貨銀という物質のメディアを通して、それぞれの社会構造が変化していくことなどをたらたらと妄想しながらニタニタしていた。(擬音語が多いのはしょうがない。関西人であるからである)

            それはそうと、アメリカという新大陸で、軒並みつぶしてしまえみたいな形で布教したスペイン、その後の多くの信仰集団が併存した市場化したキリスト教社会の原型を作ったアメリカ建国の父たち、そしてそうでありながら、何でもアジア的なもの、日本的なものを否定しまくり、キリスト教プロテスタントならなんでもいいという感じで日本で戦後伝道したキリスト教伝道者たちの姿を考えると、アメリカ南北大陸で、ちょうど温めたバターナイフでバターを切り出すようにして伝道できた過去を持った人たちの精神性が日本の戦後伝道とその副作用を未だに負わされている日本のキリスト教の信者たちというのは、まぁ、ろくでもない罰ゲームの後処理をさせられているような感じがするが、まぁ、聖書主義というのであれば、基本的に個々の信徒が聖書に向かいつつ、誰かから与えられた伝道方法を固守するのではなく、自分でどうしたらいいのか、やりながら考えた方がよほどよいような気がするか、違うだろうか、ということを考えた。
             
            しかし、アメリカ人の都市計画は、対象を何もない原野を切り開いてきた人たちの都市計画であるので、計画の対象地を白地図で、そこに銅線を引いても問題ないと考えるタイプの都市計画であった。自分が暗に大学生のころ理想とした都市計画もそんなもんだったし、どうも、今になって思えば、ミーちゃんはーちゃんの師匠筋の先生方も、お若いころはそういう都市計画をまい進されたのかもしれない(その結果が日本住宅公団、現URのいわゆる団地であるのかもしれない)、と思うようになってきたが、まぁ、日本のように長期居住がされている地域に手出しするには、そうというの構想力と適応的な手法が必要であるが、若者であったミーちゃんはーちゃんにはそんなかったるいことや権利関係の後処理をするなんてめんどくさいことはやりたくなかったのである。今では愚かだったと思うけど。

            なお、この回は、地図屋としてのミハ氏を狂喜乱舞させた。今回は古地図の変遷の歴史でもあったので(メインはそっちではない)、非常に楽しかった。

            そして、今回思ったのは、キリスト教教理史や日本のキリスト教史の資料は随分整備されてきて、日本でも手に入りやすくなったし、資料はそろって来ているけれども、一般の歴史との接続がキリスト教側でも弱いし、逆に政治史や近世史をおやりの方々の宗教音痴は絶望的な気分になる。この辺、もうちょっと適切にやる必要があるようには思う。
             
            この連載は後1回続く。

             
            S.スブラフマニヤム
            名古屋大学出版会
            ¥ 6,048
            (2009-05-25)
            コメント:図書館でどうぞ

            ---
            東京大学出版会
            ¥ 10,584
            (2014-10-06)
            コメント:マニアックな本なんで図書館でどうぞ

            田中 明彦
            日本経済新聞社
            ---
            (2003-04)
            コメント:図書館にはあると思う。かなり1990年代には流行ったので。

            2016.02.08 Monday

            上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2)

            0

              今回も、上智大学の公開講座で川村先生のお話を聞いた記録をご紹介したい。前回 上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1) からの続きである。

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              16世紀 浄土真宗(一向宗)、日蓮宗、キリシタンがかなり人々の間に影響を与えた。こういう民間ネットワークの形成、領域を超えた政治介入を嫌う組織の存在を当時の支配者である織田信長・秀吉がきらった面があるだろう。高山右近を明石に転封したのは、このような民間ネットワークからの切断・分離を狙ってのことではないか。

              ところで、当時のメキシコ・フィリピンの太平洋航路は、スペイン海軍船で運用されたが、ポルトガル人は、スペイン王に戦争しても勝てないと、警告した記録があり、簡単に日本をスペインが南アメリカでやったような形で占領できると思うな、といっている。
              こう思った背景には、日本人をポルトガル人が怖れていた部分があるかもしれない。鉄砲伝来といっているが、彼らは現物の鉄砲を見せはしたが、渡したわけではなかった。ある面、鉄砲を見た日本人が独自に考え出した。19世紀の武器の輸入品とは違うのである。
              -----豆知識------
               実は、鉄砲の製造で難しいのは、爆発力に耐えうる銃身の構成と銃尾にあって黒色火薬の爆圧を受け止める部分である。銃身が爆発に耐えるように、鋳鉄に鋼鉄の帯を巻き付けるかたちで、強度を増すことができた。問題は銃尾である。銃尾を一体形成するためには、よほどまともに鋳造する(青銅砲はこのタイプ)必要がある。このために、西ヨーロッパでは教会の鐘を作る鋳造職人が青銅砲の製造にかかわっていく。ところで小銃の安全確保を確実にするためには、滑空銃内部の保守が必要である。この保守の容易性を考えた際には、銃身と銃尾が解体でき、銃身の内部(当時は銃身に螺旋が切られていない滑空銃であり、ライフル銃ではなかったために命中精度が悪かったことが知られている)を清掃できるようにするために、銃口から銃尾に向けて筒状になっていることが求められる。この時に問題になるのが、尾栓と呼ばれる銃尾のふたの部分である。黒色火薬といっても銃身内での爆圧はかなりなものになるので、この鼻尖をどうするのかが問題となったのである。当時の日本には、摩擦と組み合わせによって部品と本体を固着する「ねじ」という構造が一般に知られておらず、このねじに最初に出会ったのが、火縄銃でなかったか、といわれている。


              マンガに出てくる『日向ねじ』(本文と何の関係もありません)
              -----豆知識------

              文化邂逅のプランナー アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
               現代ヴァリニャーノという人物の存在がほとんど知られていない。マカオにあるセントポール教会の祭壇に葬られたとされている。

              この人物の出生地は Chietiであり、スペイン王国配下のナポリ王国の一部である。その意味で、他文化の中で生きた人であり、1539年 イタリア半島に生まれ、その後、パドバ大学で学び、1566年に、イエズス会に入会する。
              その後の略歴をまとめるとこんな感じである。

              1573年 東インドの巡察師に任命される
              1579年 最初の来日 巡察師として身に来ている。
              1590年 インド総督使節団として来日
              1598年〜1603年まで日本滞在

              ヴァリニャーノの出身地、ナポリ王国は、スペイン王国配下であり、公用語はスペイン語、イタリア語であった。その意味で多言語多文化世界の中で生育する過程を通して、国際人としての素養を身に着けたといえよう。ポルトガル植民帝国の意識とは別種のものがあった人物である。

              ところで、この時代イタリア出身者は、自分の帝国がない状態であり、イタリアという統一国家すらなく、多数の都市国家の集合体であり、その意味でも、この人物には、都市国家民としての出身意識があるのであり、その分だけ帝国で育った人物よりも、相手及び自己のの文化を相対化しやすい立場であったといえるのではないか。

              ヴァリニャーノは、パドヴァ大学、そして、ローマ学院 (当時のイエズス会の学校)で、天文学・数学を学んだイエズス会の人物であり、ザビエルから30年たった、第2世代の会員である。若くして、ローマでの役務につき、修練院の副院長をするなど、かなり出世頭であり今では考えられないほどの大抜擢であるといえるのではないか。彼は、順応 Accomodatioということを考えたが、このヴァリニャーノの順応は、統一化を図ろうとする16世紀の世界における常識ではない概念である。それは、現地民である日本人を現地の指導者とすることを考えたのは、ヴァリニャーノであり、現地人が指導者となるように取り組まれた事例は日本以外にはほとんどなく、本国スペインの征服概念とはずいぶん違う宣教方法である。

              他文化へのアプローチ
               他文化へのアプローチの仕方には、いくつかある。

              同化 Assimilation  
                本国と同じようにしろ。(これは日本帝国時代の朝鮮半島、台湾、南洋支配で取られた方策)
              順応 Accomodation
               相手に合わせて自分の形を変えながら、自己に関する本質的なものは変えない
              適合 Adaptation  
                ある文化体系があってそれに適合する形に相手も自分も変えていく
              文化的変容 Inculturation
               文化の中に含むような形にする

              ヴァリニャーノは、Inculturationをすると、そもそも別の文化になることになるので、これを避け、自己のものっている信仰自体は、変化はしない形をとることで対応しようとしていったと考えられるのではないか。

              この観点からすると、Accomodationの定義は、仮に合わせていく過程であり、妥協や調停などで個人や集団間の緊張を除去して適切で友好的な関係を作りだしていく過程でもある。

              ヴァリニャーノの著作に日本イエズス会士礼法指針という本があり、原題は日本の習俗と気質に関する注意と助言であるが、この書籍の中に、3つのポイントがあり、ヨーロッパからの宣教師が、日本社会のなかで尊敬を受けるか、威厳をいかに保てるか、そうでありながら、親密の情を如何に示せるか、ということが記されている。

              ヴァリニャーノがこの本を書いた過程で、大友宗麟らの宣教師たちがむちゃくちゃしてたことに対する助言が活かされているのではないか。助言としては、日本人のやり方を見ながら行動し、自分たちのやり方で無理やり通すな、ということが言われている。

              とくに、うちとけさせるためには、挨拶をしなさい、杯と魚のやり取り(宴会に出なさい)、Casa(かざ 教会の敷地内)に住む他人たちとの共存の仕方を覚えなさい、とかいている。宣教師の階級制度は、京都の大徳寺の制度に則って、相似的、比喩的理解を促すような制度後世にしている。

              また、茶室の効能を利用するため、教会敷地内には、茶の湯の間を設け、茶の湯について心得のあるものを置けとまでかいているし、日本人は清潔好きなので、教会敷地内を清潔にしろ、といっている。そして、いつでも使えるように、茶道具をイエズス会の家(かざ Casa)においておけ、と書いている。この本をヴァリニャーノは、来て2年目で書いており、恐らく2年で書いたということの裏側には、多くの人の助言を得て書いていると考えられる。

               ミサの所作と茶の湯の所作が似ていることから、千利休はSt. Lukeじゃないか、という方もおられるが、それは、違うだろう。もし、仮に、茶の湯とミサの類似性があるなら、記述があってもいいはずだが、ヴァリニャーノなどの記録には、その記述はなく、別のものとして書いている。共通しているところがあるにしても、同一のところから出発したという具体的証拠は今のところは見つかっていない。

               とはいえ、ヴァリニャーノは、Accomodationとして、日本の尺度に合わられるところは、合わせながら宣教していったといえる。

               ところで、カトリック教会では、中国宣教を1582年以降実施しているが、そこでは日本の宣教の失敗を活かしている。マテオ・リッチ(ヴァリニャーノの弟子) 1582年に伝道を開始しているが当初は、天文学と数学の知識を皇帝から信頼を獲得していった。

               そして、キリスト教徒でありながら、現地化するため、儒者服を着て活動し、中国宣教を孔子の儒学とのかかわりを考えながら、先祖崇拝への配慮しつつ、実施した。それは、中国典礼問題(完全ヨーロッパ式を排して、儒教の儀式にそってやった)ことと重なる。そして、儒者は被り物を被るので、普通の司祭も被り物を被って典礼を実施した(通常、ヨーロッパのカトリックでは高位司祭職のみ)。


              マテオ・リッチ(画像左 http://www.cathoshin.com/2013/05/17/ricci/)カトリック新聞から拝借
              儒者服を着ているマテオ・リッチ

               マテオ・リッチは、儒教は宗教ではなくて、中国人の習慣であり、キリスト教と両立可能とした。とはいえ、この後にやってきたドミニコ会士がこれを見てびっくりすることになる。そこで、中国のキリスト教は全くキリスト教と違うことをしていると、ダメだししたのである。そのうえに、迫害が発生し、その後信徒ががた減りしている。

               なお、中国典礼問題は靖国問題と同じであり、戦争中の上智大学の靖国神社参拝事件と同じ問題を生んでいる。この安く神社参拝問題と絡んで、戦争中、上智大学がお取り潰しになりかけた。そこで、シャンボン司教が文部省に行って、靖国敬礼が宗教ではないと認めたら、上智大学側として何も問題なしにできる。文部省が、靖国参拝が習慣であり、尊敬であるとされたので、解決を付けたことがある。

              ----靖国参拝問題に関して----
               この問題は、結構ギリギリの選択を迫られた結果としての上智大学の選択であったとはいえ、宗教と世俗の信仰や習俗との関係を考えるうえで、かなり微妙な構造を持っている。そして、習俗なのか礼拝なのか問題は、その人の信仰の在り様にかかわる問題であると思うが、個人的には、そのあたりの切り分けは、難しい。非キリスト教であるからといって、他者の理解を切って捨ててよいものであると一方的に自分たちの主張をすることには、慎重である方がよいのかもしれない。個人的には、神社参拝はする気もないし、したくもない。それは、ヒットラーに対しても敬礼する人々の中で、個人的には敬礼したくないのと同じである。
              ----靖国参拝問題に関して----

              日本最初のヨーロッパ式教育機関 セミナリオとコレジョ
              ヨーロッパの初等中等教育の伝統にそって、日本でも教育がされるようになり、
              リナシメントrinascimento・ウマニスタUmanista (ルネッサンスの人文学風)の教育が行われていた。ラテン語教育がおこなわれ、イエズス会の中等教育の始まりであり、スコラ学と人文学の教育規定に従って脅威ックされていたようであり、特に、ラテン語文法が重視された。イエズス会の学事規定に従い、ドリルと反復中心の教育がなされ、さらに、討議の技法に関しても配慮されていた。

               また、習熟度別教育を実施するために、試験をするという現在にも通じる教育方法がとられ、これは、パリ大学でとられた方式でもあった(パリ大学とは、イエズス会の創始者ロヨラとザビエルが学んだ学校でもある)。

              世界に2枚しか現存が知られていないグレゴリウス13世の功績という印刷物の中に、府内コレジョ、有馬セミナリヨ、安土セミナリヨ、臼杵のノヴィシアード などの画像が出てくる。それほど、注目されていた教育機関であると考えられるのではないか。

               ヴァリニャーノは、ラテン語は普遍語として手抜きを許さず、ラテン語を徹底して教育した。この後に、ギリシア語教育を持ってくるのがヨーロッパではふつうである。

              コレジョの教科書は、イエズス会講義要綱に従っており、このイエズス会の講義要綱は手書き版である。その中には、天球論(天文学)とアニマ論(霊の理解:人間論)が含まれている。そして、その後に神学綱要が置かれている。
               これの一部の日本語翻訳版がイギリスのオックスフォード大学のモードリンカレッジ所蔵であることが1996年に発見されている。

              このタイプの天球論はクリストファー・クラヴィウスのもので、マテオ・リッチがヴァリニャーノの弟子の一人であった。そして、このクラヴィウスの翻訳書が渾蓋通憲図説というk立で中国に伝わる。

              アニマ論(霊性論)
              当時の霊性理解に関して、次のように分解されて理解されていた。

              植物的アニマ Anima Vesetativa(生魂)、
              動物的アニマ Anima Sensitiva(覚魂)、
              理性的アニマ Anima Rationalisとして理解され、この理性的アニマが人間を人間たらしめるもの
              と分けて考えられたらしい。

              アニマというラテン語音を使って、ラテン語音を残すことにこだわっているが、その根源は Deus を大日と意訳して問題を起こしたザビエル時代の反省が生きているのであろう。なお、霊魂というと幽霊を想像するのが日本人であるので、魂と使わずアニマと呼んでいるものとかんがえられる。

              ラテン語版と日本語翻訳版は、ほぼ1対1対応しているが、少しだけ日本語版が長く、ラテン語のオリジナルテキストにない部分が付与されている。その付与されている17ページに関しては、書き込みが多い。特に付加がある部分は、アニマの不滅のテーマに関してである。この背景には、日本人の魂論と、キリスト教の魂論が違う事を説明するためであったと思われる。

              人間は、体とアニマからなり、アニマは不滅であるとする。アニマはこの世のすべてを来世に持ち込むことになり、善をなすものはパライソの至福状態へと移され、悪をなすものはインヘルノの永遠の苦しみへとつながる。そこで、アニマの不滅を強調することはすなわち、来世賞罰の強調につながりかねなかったからである。

              なぜこのようなことを日本人に力説するのか、ということは、当時の日本人から、この理解への抵抗感が恐らくあったことではないかと思われる。輪廻転生的な世界観での敗者復活の機械が存在しないことに関する抵抗があったのではないか。魂の不滅論と法華宗の僧侶と対話し、かなり真面目に対論している。ところで、必ず上りがある法華宗的な仏教や六道の考えにどう対応するのか、ということが求められるのだろう。

               その意味で、この追記部分は、日本人の宗教観倫理観に触れる一側面を語っていて、来世の賞罰が現世における勧善懲悪の教えにつながることを説明し、理性的アニマの知性を自由に用いて、善悪を判断し、それを実行する、また、その努力をなすことを教えたのではないか。その意味で、修徳の概念を示そうとしたものと思われる。

               この時代のカトリックの人間理解は、ペラギウス主義(性善説的)ではなく、日本に多く存在したアニミズム的、汎神論的本覚思想(もともと仏である)でいうような、草木国土悉皆成仏との対立があったのではないか。しかし、宣教師たちの修徳的生き方の勧めは、悪そのものが善ともなりかねないような、日本の宗教的理解への反対論として展開された。ある面で、当時のカトリックの理解が、一種の倫理主義だった面があったようにも思われる。その意味で、当時のカトリックの司祭団に日本人から寄せられたの質問の集大成としての講義要綱であり、それに回答してから、キリスト教の教えを伝えようとしたヴァリニャーノがいたようである。

               ところで、どこまで既存の文化や習俗に妥協するか。抵抗がある時にどう対応するのか、の問題であるが、ヴァリニャーノは、既存習俗や宗教の教義自体は取り入れず、融合するつもりは日本への16世紀の宣教師がなかった。

              人間の自発的行為を大事にした宣教師がいたが、主に仏教徒と論争している。しかしながら、神官とか、神道の教義との対話の記録はない。

              学問と合理性の上にのってキリスト教を説明しようとしたのがイエズス会であったが、このような態度をフランシスコ会は、生ぬるいとした。その代わり、単刀直入に殉教して見せることで布教することを試みた、苦行を重視する人たちがメキシコから来た。それに比べると、イエズス会は順応型であったといえるだろう。

              なお、長崎で殉教した26聖人のうち、3聖人はイエズス会関係者であるが、その一部には、イエズス会に直前に入会したものもいた。実際、石田三成は、イエズス会はあえてスルーをしようと考えていた、という記録が残っている。伝道に関する、方法論の違いがあり、フランシスコ会は貧民の場所で、十字架の苦しみの説教をして確信犯で捕まるために来ているので、あのような殉教のかたちをとることになったのではないか。
              後、質疑応答の場面になったが、あるご妙齢(正確にはご高齢)の信徒さんが、延々とキリスト教はどのようにあるべきかということに関する自説をご主張になり、実りある質疑応答にならなかったのが、実に残念であった。

              ----個人的感想----
              宣教論を巡る現地文化の対応ということを考えると、現地化をどう進めていくのか、というのは非常に大きな問題を個々のキリスト者に迫る。強硬に自分の信仰を言い募る方法論もあれば、完全に現地化して、現地の信仰と習合する方法論もあるだろう。あるいは、そのバリエーションはかなり多数あって、どれか一つが絶対に成功する方法論ではないと思うからである。それはなぜかといえば、伝道は、機械が機械に対してするものではなく、人間が生身の人間にするものだからであり、人と人の組み合わせによるので、そのあたりは、それぞれの人で考えながら、適切に対応するしかないのではないか、と思っている。
              ----個人的感想----

              以上、この連載終わり
               
              A.ヴァリニャーノ
              キリシタン文化研究会
              ---
              (1970)
              コメント:参考文献として。図書館で見るので十分かと。

              2016.02.08 Monday

              いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(41)

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                今日もヤンシー先輩の本『隠され恵み』からご紹介してみたい。今日は、キリスト教と文化あるいは政治に関してである。このタイプの問題は、現代でもそうであるが、また、古代から結構めんどくさい問題をキリスト者にもたらしてくれる。
                 
                政府をどう見るか
                政府の問題は、クリステンドム型社会を経験した西ヨーロッパと、アジアやアフリカではずいぶん違うし、キリスト教国家を経験した国でもだいぶん違う。

                新約聖書によると政府は必要であり、神によって定められてもいるが、決して信仰のスポンサーでも友人でもないのである。イエス、パウロ、そして12弟子のほとんどが殉教した。(隠された恵み p.376)

                キリスト教と一体化したコンスタンティヌス型キリスト教、あるいはクリステンドムを経験した社会では、なんとなくみんながキリスト教徒である時期を経験し、国家とキリスト教が抜き差しならない関係にあったことを経験したので、国家を信仰や教会の守護者としてとらえたり、教会を国家の守護者としてとらえたりする傾向は否めない。国教会の政府による設立を否定した米国社会(これが米国型政教分離の原型)にあっても市民宗教としてのキリスト教くらいは経験しているから、なんとなく国家が国民を守るから、国家が信仰を守るべきだ、というあたりの誤解が生じていることは多い。
                 
                信仰者と国家とのかかわりに関しては、個人的にはイエスの「カイザルのものはカイザルに、神の国のものは神のものに」という原則が大事だし、初代教会派、迫害されない為に祈ったのであって、自分たちを応援・支援する存在として国家に対して祈ったわけではない。国家と信仰はある程度緊張関係を持つべきだと思う。この辺があいまいになると、自国政府の反映のために祈ったり、イスラエル国という20世紀の世俗国家の繁栄を祈る人々も出てくる。まぁ、日本の過去のクリスチャンたちの内にも、大日本帝国の反映と武運長久のために祈った人々もいたようだが。個人的に、その方が他のご事情を斟酌するに、それだから駄目だというつもりはないが、緊張関係がないのもなんだかなぁ、と思う。

                国家と共にタンゴを踊った教会
                個人的には、タンゴとかって、結構さっぱりとした性格をしているミーちゃんはーちゃんには、かなり暑苦しくてものすごく苦手なんだが、実は西洋のキリスト教会は、以下に示すようなタンゴを踊ったのではないか、ということをヤンシー先輩はご主張であるので、タンゴの一例を、アントニオ・バンデラスというスペイン系のダンサー上がりの俳優でご覧いただきたい。
                 

                Antonio Banderas主演のレッスン!(Take the Lead)という教育の中にダンスを持ち込んだ人に着想を受けた映画のシーン

                まぁ、かなり、このダンスといっても、社交ダンスの一変形であるというものの、ラテン系の情熱が感じられるダンスであり、かなり性的なイメージが強いのである。まぁ、フラメンコもそんなところはあるけれども。こういうのを好むので、真面目でお堅いアングロサクソンクリスチャンからはラテン系はかなり否定的な視線を向けられることもある。それはまぁ、さておき。
                それから2世紀後、コンスタンティヌス帝がキリスト教に改宗し、クリスチャンたちは感謝をささげ、胸をなでおろした。キリスト教はコンスタンティヌス帝の保護を受け、やがて国教化される。以後2000年、ヨーロッパでは、教会と国家がダンス・パートナーのように時にがっちり抱きあい、特にダンスフロアの向こうに互いを投げ飛ばし合いながら歩んできた。キリスト教が世界中に広まったことで、アフリカや米国などで公開と国家の新しい在り方も見られるようになった。
                1950年代のアイゼンハワー時代、「我らは神を信ずる」という言葉が米国硬貨に刻まれたころ、H・リチャード・ニーバーが名著『キリストと文化』を出版し、宗教と政府、あるいは教会と国家との、5種類の関わり方を描いた。(同書 p.376)

                現在、紙幣だけでなくアメリカ合衆国で流通しているほとんど大半の硬貨には、In God We Trustとは書かれている。

                25セントコインと百円玉

                ところで、このコインの文字が刻まれることになったころの大統領にアイゼンハワー大統領がいる。ある面、福音派の人たちが理想化し、懐かしむのは、Ikeと呼ばれたアイゼンハワー大統領の時代なのであろう。下のエイブ・シンプソン氏(一応団塊世代の親世代という設定)のように。



                Ikeと呼ばれるアイゼンハワー大統領が好きと主張するプラカードを持つAbe Simpson氏
                ヨーロッパ戦線視察中のアイゼンハワー
                http://www.dailymail.co.uk/news/article-2240750/Dogs-War-How-canines-helped-FDR-Patton-Eisenhower-win-Second-World-War.htmlから借用

                キリスト教と国家に関する5種類の類型論がニーバー(弟のリチャードの方)によってまとめられ、それについて詳述してある本が、『キリストと文化』であるが、詳しくは、日本キリスト教団出版局の書籍をご覧いただきたい。アメリカ合衆国では、この30年くらい、キリスト教が国家を突き放すとか、国家がキリスト教を突き放すことはなかったが、お互い手と手をとりながら、時に苦々しく、時に嬉し気に進んできたように思うが、その関係は、結構その時代の政治状況に結構依存しているような気がするのだが、違うだろうか。

                いずれにせよ、国家とキリスト教はアメリカでは抜き差しならない関係にあることだけは確かである。というのは、これまで、キリスト教関係者が社会の多数派であっただけの結果の反映ような気がする。現実にある地域では、政治的に多数派ではなくなる恐怖を感じているからこそ、ヒスパニックの移民や、アジア系移民への反対論が根強いのではないか、とさえ思う。民主主義社会では、結果的には多数を握った側の勝利であり、アメリカ型民主主義の常識では、勝利者が全部取ってしまう部分があるのである。もし、人口比で最大多数を確保できなくなれば、同じGodを用いつつ、指している神が違うということが現実に起こりうるから、その恐怖を多数派が感じており、それ故に、移民お断り、ということになるように思う。このような同じ語を使いつつ自分たちの信仰と異なるものが多数を占めると感じているからこそ、アメリカのAngloSaxon Christianのキリスト教的な価値観を、ということになっているのだろう、と思う。まぁ、ヒスパニック系は、カトリックの人が多いので、同じ神なんだけど、それでも嫌うのは、自分たちの政治的な既得権だけを守りたい、社会的優位を守りたい、という本音が見え隠れするのが、どうなんだか、と思う。だからこそ、後に出てくるケネディーが大統領なる際に、何を信仰しているかは別として、カトリック教会の信徒さんの大統領が出るなんて、って発言につながっていくのである。

                文化、習俗と信仰
                この記事の前に、上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1) と 上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2) とを公開したが、そこでは、キリシタン時代の巡察使ヴァリニャーノとマテオ・リッチといったイエズス会系の布教対応の姿勢とメキシコ・フィリピン系伝道者(フランシスコ会系)の布教対応の姿勢に違いがあることを述べたが、南米では、大規模なエンジンのブルドーザーでえいやと力技をするような伝道が有効であったためか、日本でも、メキシコ系の伝道者は同じような方策をとろうとしたのではないか、という川村先生のご説をご紹介したが、以下で、ヤンシー先輩が書いておられることは、なんとなくそれと似ているように思う。
                神学者ジョン・ハワード・ヨーダーは、クリスチャンは文化を全面的に受け入れることも拒絶することもしない。むしろ、文化の持つ様々な部分を識別しなければならない、と述べた。私たちはある要素を断固として拒否し(ポルノ、独裁政権、人身売買)、またある所は部分的に受け入れ(商業、輸送、税)、新たな動機付け(家庭生活、教育、平和構築)を人々に与える。いくつかの面(音楽、芸術、言語)で文化を用いるが、それも私たちなりに行い、特定の活動(ホスピス、孤児の世話、ホームレスのための宿泊施設、炊き出し)を熱心に推進する。(同書 pp.378-379)
                要するに、前回の表現(上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2))で言えば、Accomodation型の対応をしたらいいんじゃないか、ということなんだろうと思う。使えるものまで他の文化的な背景とつながっているから、ということで切り捨ててしまう必要はなく、ダメなものはだめ、仕えるものは使うという至極当然の選択をすればよいのではないか、という発想だと思う。これは、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)である中で、ある面当然の対応なのではないか、ということが、ヨーダー先輩のご主張なのであろうと思う。まぁ、多元的な社会の中で、どれか一つが優れており、優れたもので全世界を覆うべき的な発想はうまくいかないのはある面理の当然ではないか、と思うのである。

                これまで、日本は宣教地で、”真実の”(それが個人的に自分自身が真実で、これしかないと思っている、という意味であることが少なくないのだが)キリスト教を伝えなければ、という思い込み、あるいは思いで日本に来られる方が多かったように思うが、1950年代や1960年代ならいざ知らず、とっくの昔に真実とよばれるものにしらけきっている日本の若者の受けはあまりよくないだろう。それもなおさら、多元的な生き方がすでに容認されている(もし、容認されていなければ、自家用車という車は、旧共産圏みたいに、車はカローラのシルバーと、センチュリーの黒の2種類でいいはずであるし、どん兵衛の味を関西と関東で変えるなどという芸当は必要ないはずである)社会で生活する人になれた人々には、そもそもうどんどん兵衛の味のあるべき論自体、東日本と西日本で合意ができかねる状態でない社会は想定されないだろう。ゆるキャラは、ハロー・キティ一匹でいいはずで、それが日本国中をご動座なされば済む話である。まぁ、どこぞの市では市内のゆるキャラ数えたら、7〜8種類くらいざらにあるという自治体もあるようであるが。


                大阪市所管のゆるキャラ(なんか所管という語とゆるキャラ合わなすぎ)

                大阪市着ぐるみ経済的活用等委員会マスコットキャラクター一覧 (2010年10月8日現在)
                ジャンプちゃん(市民局市民部男女共同参画担当/(財)大阪市女性協会)
                いっぽくん(健康福祉局健康推進部健康づくり担当) ぴゅあら(水道局総務部総務担当)
                じゃぐ爺(水道局総務部総務担当)
                センキョン(選挙管理委員会事務局選挙担当)
                ゆめまるくん(中央区役所総務担当)
                夢ちゃん(淀川区役所総合企画担当)
                こぶしのみのりちゃん(東淀川区役所市民協働担当)
                つるりっぷ(鶴見区役所区民企画担当)
                あべのん(阿倍野区役所総合企画担当)
                さざぴー(住之江区役所区民企画担当/住之江区商店会連盟)
                すみちゃん(住吉区役所区民企画担当)
                なっぴー(東住吉区役所市民協働担当)
                ひらちゃん(平野区役所地域振興担当)
                あんニャン(平野区役所地域振興担当安全対策/HIRANO CAT隊)
                ぞうすけ(平野区役所地域振興担当/大阪市民共済生活協同組合)
                スーパーポンポコジャガぴー、にしなりくん(西成区役所総務/総合企画担当)


                それだけ関心領域が多様化した中で、それぞれの関心領域を持つ人々が接続しあい、相互に影響を与え合う中で、これこそが”真理”であると真理を振り回すことの意味って何か、ということを考えざるを得ないし、どれか一つが、これが定説だ、というのであれば、「本当にそういえるのか?」という鋭くツッコミが入る社会に生きているのである。その意味で、異なる価値観を尊重しつつ、それと共生するということでさまざまな社会集団がいずれも現状より悪くならなず、多少なりとも全員にとってよい水準を維持することへの対応が、否が応でも求められている時代になっていると思うのだ。


                John H Yodar先輩

                福音派が政治に影響し始めたのは最近…
                今回の大統領選挙でも、福音派(特に右派)の動向が特に保守党である共和党の候補の選出に影響するのではないか、といわれていて、Iowa州の共和党党員大会で、共和党の候補者のトップは誰か問題がつい先ごろまで話題になっていたが、結局テッド・クルーズさんが一位をとった。その中で、キリスト教の福音派右派の動きを気にする向きの報道も無きにしも非ずであったが、今のところ、このグループなら一押しするであろうと考えられた弟ブッシュのJeb君が今一つ有力候補としての波に乗ってないところがある。まぁ、いくら何でも親ブッシュ、兄ブッシュ、弟ブッシュとか、Bush Dynastyとか見たくない、という力学が働いているのかもしれないが。


                2016年の共和党の候補
                http://www.thefederalistpapers.org/politics/get-the-facts-on-all-the-republican-presidential-candidates-chart から拝借

                まぁ、アメリカでは4年に一度の大統領選挙はほぼお祭り騒ぎなので、キリスト教徒の皆さんもそれに便乗してだれを支持するのかに関してお祭り騒ぎをし始めたのが、案外最近の事であることをヤンシー先輩は次のようにご指摘である。
                大統領候補者たちが福音派票の取り込みに熱心だった選挙年の余波の中で、私はこの原稿を書いている。今日、正解では界のことがいろいろ語られているが、福音派の人々が政治に深くかかわっているのが最近の事だと知ったら、若い投票者は驚くかもしれない。私が子供のころ、保守的な教会は政治にほとんど『口出し」せず、個人の生活や来世への準備をしていた。ニーバーのことばによると、私たちは概して「反文化的キリスト」である。そして米国の保守的なキリスト教政治団体「モラル・マジョリティ」が発言しだしたのは、1980年代以降のことである。(同書 p.379)
                まぁ、ヤンシー先輩が子供のころの60年代前半は、恐らく、冷戦構造ががっちりとしていたころで、大統領が誰になろうとも、そっちよりソ連とアメリカの関係がどうなることかの方がよほど気になっていたはずであるし、ほとんどの福音派の人々は、冷戦構造で核戦争がおっ始まって、この世は核戦争後の冬に突入し、ハルマゲドンとそれに引き続く週末に突入することだけが話題になっていた。その結果、『核戦争を待望する人たち』という福音派の信仰について批判的にとらえる人が本までが出版されるほどであったのである。その意味で、もう世の中のことは何とでもなれ、終末がどうなるかがある種の福音派の皆さんの心配な出来事であった。まぁ、オイルショック、イスラエル建国とか、聖書の終末をにおわせかねないことが起きたのであるからとはいえ、これに連動する形で、終末論が流行ったのである。そして、それは日本の福音派にも当然飛び火するし、ミーちゃんはーちゃんにも、ご幼少の砌ではあったがちょっと影響した。そもそも、政治的なことは、当時は、「世俗的なこと」「世のこと」として、福音派クリスチャンは一段下に見たり、そもそも、選挙にすらいかず、政治に関与しないことをよしとした人々もいたのである。

                まぁ、恐らくは、最初に福音派的な態度を選挙戦の中で、前面に出したのは、民主党候補の元原潜乗りのジミー・カーターおじさんのような気がするが(昔のことはわからないので、何とも言えない)、ひょっとして、このカーターの選挙戦術がある程度成功したのを見て、当初は選挙戦術としての保守的な福音派の取り込みを図る、ということから、レーガン政権以降の選挙戦術としてこのもともと不動はそうと見なされていた福音派の皆さんの取り込みが行われたのではないか、と思ってみたりもする。まぁ、どうでもいいけど。
                 
                USS-23 Jimmy Carter   Wikipedia さんから拝借


                President Jimmy Carter(39代大統領)  ホワイトハウスさんから拝借

                教会と政府が手と手を携える、は気持ち悪いかも
                個人的には、国家と教会とが手を携えるのは、反対であり、以下のヤンシー先輩のご主張には、反対であるし、これは正確性のない表現だと思う。
                宗教について合意を得ている国家では、教会と政府が手を携えて、両者の同意する道徳観を押し進めることができる。例えば、かつて宗教が力を持っていた時代、英国国王は「経験と美徳の奨励、悪徳、冒涜、不品行を防ぎ、罰する」ためにお触れを出した。しかし、世界は変わってしまった。多様な社会の中に、今や多くの異なる宗教がある。ユーゴスラヴィアはこの状況に対処できず、7つの国に分裂した。(p.380-381)
                というのは、上で書かれているような、国家と宗教が手と手を結ぶと考えるだけでもぞっとする。大体、近年の世界の歴史で、宗教と国家が手と手を結んだときにろくなことが起きていない。それを、高々70年前の日本でも、ドイツでも経験したのでなかったろうか。日本的なコンテキストで考えたとき、神社本庁と政府が手を携えて両者の同意する道徳観を押し進める という状況など、ミーちゃんはーちゃんにとっては悪夢以外の何物でもないと思う。なに、もと教会とあったところを神社本庁に入れ替えただけである。こう入れ替えてみると、上の言説がいかにまずいことか、ということはご理解いただけると思う。「明治神宮や伊勢神宮は宗教ではありません。道徳です。国家の道徳観に従って、天皇陛下万歳と叫びながら、戦場の露と消えてください。海ゆかば、みずく屍になってください、山行かば草生す屍、オオキミのみそばにこそ死なめ」などとか歌え、といわれると、「あっしはそんなこたぁご免こうむりてぇんでぇ」と言いたいとは思っている。



                そもそも、国家であれ、教会であれ、個人の精神世界に入るのはそもそも論として無理だと思うし、そんなことをされる気はないし、たとえ、そんなお触れが出ても、無視する人は無視したのである。大体、アメリカと1940年代に戦争してた頃に、真面目で素直ないい子ちゃんの皆様や小国民の皆様は国家と呼ばれるものやオオキミと呼ばれるものにお従いになっていらっしゃったのであろうが、世の中の偏固なおじさんのなかには、そういうのを何とも思わなかったおじさんたちは結構いたのである。例えば、永井荷風さん(断腸亭日乗、参照)のように。

                そもそも、道徳問題として始まった禁酒運動やその行きついた先の禁酒法は、あるカポネやイタリア人マフィアが出てきたから、意味がなくなったのではないし、いくら倫理的に間違っていても、国家がいくら倫理を振り回そうとも、こういうものはなくならないのは、昔からのことであり、地下に潜って、より対応がしにくくなることは、割とよく知られている事実なのだが、理想主義者、イデアリストの皆さんには、なかなかそのあたりはご理解いただけない。残念なことであるが。


                もうちょっとつづく。



                 
                評価:
                H.リチャード・ニーバー
                日本キリスト教団出版局
                ¥ 5,508
                (2006-02)
                コメント:非常に良かった。一読をお勧めする。

                評価:
                越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell
                朝日新聞社
                ---
                (1989-09)
                コメント:めちゃ、面白く読みました。読み物として、ですが。

                評価:
                永井 荷風
                岩波書店
                ¥ 929
                (1987-08-17)
                コメント:まぁ、おもしろいです。どうぞ。

                2016.02.10 Wednesday

                いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(42)

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                  今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』の中から紹介し、思ったことを書いてみたいと思う。今日は倫理の基準とキリスト教の問題について考えてみたいと思っている。まず、冒頭には、かなりショッキングな事実が示される。

                  自分たちが持っていた福音をどう表現してきたか
                   本ブログ記事でも、これまで何度かご説明してきたが、米国のキリスト教の世界では、ジョナサン・エドワーズ先輩の存在は大きい。このジョナサン・エドワーズ先輩に関しては、 福音派が生まれたころの世界むかし話(3) でも触れてきたところであるが、この方の「怒れる神の手の中にある罪びとたち」という説教が未だにアメリカでの高等学校での国語のテキストで用いられることもあるらしく、割とこの路線に乗った説教が聞かれる文化もある。まさにそれそのままが語られているわけではないが、論理展開が似ているものは、結構ある。まぁ、それだけ米国文化に浸透した、ということでもあろうが。
                  クリスチャンを称賛していたした米国社会が、今やクリスチャンを怖れ、批判するようになった。その批判は、クリスチャンたちに内省する機会を与えている。自分たちが信じているメッセージをこれまで、どのように表明してきただろうか。もっと恵みに満ちたやり方があったのではないだろうか。(隠された恵み p.381)
                  まぁ、クリスチャンが大半を占める米国社会であるし、聖書を大事にするクリスチャンたちが文化を形成した側面はあるものの、一部の過激なキリスト者が起こす騒動が面白がられて、奇矯であるため報道される中で、本人たちは伝道しているつもりでも、キリスト教の過激さについていけない多くの人たちを生み出していったように思う。

                  日本でも、何か大きな犯罪関係の事件が起きるたびに、その場に行き、悔い改めを解く伝道者たちが過去(たぶん40年くらい前)日本にもおられた。マスコミに注目されることを目的としての行為であったとは思うが、個人的には、完全に悪評を立てただけで終わり、だったような気がする。

                  社会から撤退することが善なのか?
                   社会と信仰生活を分けて考えることの意味について、ヤンシー先輩は、ナチス・ドイツとルター派の関係を例について次のように語っておられる。
                  クリスチャンは常に、社会のどの不正と戦うべきかを見極める必要がある。社会から完全に撤退することは、教会にとっても国家にとっても得策といえない。ルターの「二王国説」にとって、ナチス・ドイツは過酷極まりないテストだった。このテストに、ほとんどの教会が落第した。個人の信仰の実践の身で、国家に反対する歴史を持たなかったドイツの教会指導者たちは、声をあげる時間が遅すぎた。実際、多くのプロテスタント指導者は当初、共産主義にとって代わるものとしてナチスを歓迎し、ある人々は、今では唾棄すべきものに思える「胸にカギ十字を、心に十字架を」というモットーを取り入れた。(同書 p.382-383)
                  要するに、キリスト者が、神の国と国家を分けて2元論的に考え、それを別のものと考えるときに非常にまずいことが起きることを書いておられる。これはドイツだけの問題ではない。アメリカでもそうであるし、イギリスで生じたと考えるのが妥当なディスペンセイション的神学理解でもそうであるし、世は滅びると主張するギリシア正教でもそういう部分がある。

                   世の中の事と、神のこと、と完全に切り分けて、訳知り顔での対応をすることで、結構えげつないことができたり、神の名を騙って、自己を正当化することだってできるのだ。キリスト教の世界の中で、神を持ちだされたら、なかなかそれに反論することは難しいが、それでも反論するのは、ミーちゃんはーちゃんがかなり偏固だから、というのはあるだろう。

                  まぁ、消極的にスイスですねたように「ナチスの皆さん、アカンのちゃいます?」言ってみた、をされたのがバルト先輩のような気がするし、まぁ、命がけで、クーデターを起こしたのが、ボンフェファー先輩だった気がするなぁ。まぁ、どうでもいい話なんだが。
                   
                  要するにこういう世俗と信仰の世界の二分論は、ルター先輩の二王国論だろうが、ディスペンセイション神学だろうが、なんだろうが、非常にまずいような気がするのだなぁ、これが。というのは、この世はこの世、神のことは神のこと、って訳知りを生み出しかねない危うさがどこぞに漂うような気がするのだ。


                  キリスト教のイメージとカギ十字を重ねた図像 http://rexcurry.net/bookchapter3a1d.html から借用

                  しかし、上記の絵はすごい。キリスト教徒なら多頭の蛇であるユダヤ人を排斥してよい、みたいな画面になっている。

                  しかし、「プロテスタント指導者は当初、共産主義にとって代わるものとしてナチスを歓迎し」とあるが、共産主義は神を否定するから駄目だけど、社会主義(ナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党であった)であれば、ちっとはましだと思って、少々のことに目をつぶっていたら、何のことはない、党首が神の座を簒奪した、といういつものことが起きてしまったのである。鼻で息するものとは、実に情けないものよ、と思わざるを得ない。
                   
                  第三帝国と宗教 という本で、ロバート・P・エリクセンという方が、どういう神学者がどういう背景でヒットラーとナチスドイツを支持していったのか、ということをかなり詳細に記載しておられるが、当時の名だたる神学者のかなりの部分がヒットラー支持に回った背景などや当時の時代背景がわかる。
                  イエスは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に、とはおっしゃったが、ローマを無視して生きよ、とか、この世を離れて生きよ、とはおっしゃらなかったように思うし、人々の間で生きられた、歩まれた、ということは忘れてはならないだろう。いきたかみがこの地で人と共に歩まれたのであって、飛行船の中から伝道したわけでもなく、空中にホバリングして伝道したわけではないことは忘れてはならないだろう。

                  人には与えられた神のかたちがあるかも…
                   文化というか、この地でその人らしく生きるという在り方は、実は多様なのではないか、ということについて、ヤンシー先輩は次のような形でお示しである。
                  文化との関わり方には、いろいろなやりかたがある。すわりこみなどをおこない、妊娠中絶反対の意思表示をするクリスチャンもいれば、ホスピスや妊娠カウンセリングセンターでボランティアをするクリスチャンもいる。また「飲酒運転に反対する母親の会」で働く人々や死刑廃止運動に身を投じる人々もいる。学問の世界で倫理的な問題について議論を戦わせる人もいれば、法律を作るという面倒な仕事を引き受ける人々もいる。(同書 p.384-385)
                   実は、この部分にかかわる本として、オートバーグという人の『神がつくられた「最高の私」になる The Me I Want To Be』という本があるが、これは、多分タイトルがあまりよろしくなくて、『神がつくられた「本来の私」となる』くらいのタイトルの方がよかったかなぁ、とは思う。この本の中で、繰り返し述べられているのは、人間は一人ひとり特別な存在として、個別の存在として創造されているのであり、みんな同じではないということと、その本来の姿になることを神が求めておられるというプロセスを人生の中で経験するということではないだろうか、というご主張である。

                   近代社会の中で、みんなが同じであるという根拠のない盲信(言葉がきつすぎれば根拠のない信念)が広がった結果、がんばればなんとかなるし、何とかするように努力するということが強いられてきた。例えば、水泳で100m泳げないといけないとか、体育で逆上がりができなければできるまで学校に残すとか、ということが教育の美名のもとで行われ、実質的な体罰という罰ゲームが行われてきた。みんなが、ピカソのような絵描きでもないし、棟方志功のような版画家でもないし、そうはなれない。逆に皆が、ピカソのような絵描きだったり、棟方志向のような版画家だったら、飽きるだろう。同じような絵しか書かないから。

                  世の中には多様な役割が必要で、多様な人々でできているようである。一人の人が何でもできないようにできているのだ。短距離走選手のバルト君は、どうやったって、マラソンや1万メートル走では優勝できないし、やり投げでもオリンピックで一位になれない。世の中、互いにかけがあり、誰かに補ってもらうようにできているようなのだ。それを自分一人で頑張ってやっちゃおうとするから、無理が生じるし、おかし気なことが起きる。世の中とはうまくできたものである。それを無視してはいかんのではないか、と思うのだ。教会でもそうではないかと思う。何でも、ボクシ先生に、何でもボクシフジンに、なんてしてたら、持つわけがないし、かえって効率が悪い、と思うが…。教会でも、それぞれが与えられた賜物がうまくいかされるようになるといいのになぁ、と妄想を抱いてはミーちゃんはーちゃんはニタニタしながら眺めている。

                  完璧主義、二項対立という悲劇
                   近代社会は、完璧主義あるいは、完全であることにこだわりが強すぎ、それで人間を苦しめているのではないか、と思うことがある。そもそも、人間が鼻で息するいい加減なものであることを忘れ、バベルの塔のようなものを心の中に立ててしまったのではないか、と思うことがある。いい加減さ、というのか、完璧でないことを受け入れる余裕というのは案外大事なものではなかろうか、と思うのである。そうでないと、そもそも人間がそう作られていないのに、本来作られている形でない姿を生きる様に強いられるからであり、神のかたちを歪めてしまうからである。最近は、動物園に展示される動物ですら、その動物が生きている環境で過ごす様に展示環境が大幅に手が入れられているのにもかかわわらず。
                   そして、完璧というのは、案外ある時代の特定の人たちが思っている程度の完璧さであり、それは普遍的なものではないにもかかわらず、普遍的な価値として、他者に強いることは適切なことであるといいきれるのだろうか。その例として、妊娠中絶の道徳性を巡る議論で、妊娠中絶を絶対に否定すべきか、ある程度容認すべきかを巡る議論をあげて以下のように説明しておられる。
                  保守的な人たちは道徳性に関して一切の妥協を許さず、妊娠中絶についても抵抗した。クープは中絶は悪であるという鉄壁の信念を持っていたが、やがてこう結論するようになった。『妊娠中絶反対運動の持つ問題点は、その人たちが中絶を”100%”無くそうとしているところです。1970年や1972年に中絶反対派の人々が、中絶賛成派の人々ひざを交えて話し合っていたら、母親の生命の危険、障害児、レイプや近親相姦を理由とする中絶だけは認める、という同意にこぎつけられていたかもしれません。そうしていれば、その後の中絶の97%は行われずに済んだでしょう。それが歴史の真実です。」中絶反対運動は、絶対を求める戦いに敗れて初めて、中絶の廃止でなく、中絶の制限に作戦を変更した。それ以来、何百という同様の法律が州議会を通過した。(同書 p.385)
                  ここで、保守的な人たちの頭の固さと、手段が目的化することをご批判しておられるが、まぁ、こういうことはまま起きる。特に、道徳とか、正しさとか、正義とか、本来人間が扱うことが極めて難しい問題であるにも拘らず、簡単に手出しして、自分たちの新年システムが正しいという前提に立っているために、妥協ができない、本来、何のためか、というのが忘れられてしまうという最低な結果になることをヤンシー先輩はご指摘しておられる。

                  こういう議論が、本人たちだけの問題や仮想の想定上の問題であれば、それはそれで、閉じたシステムの中で、その中の問題として扱うだけだからいいのだが、社会の問題となると、そうはいかない。議論に関与してない人たち、あるいは議論のとばっちりを受ける人たちを生み出すのである。
                   
                  この話を想いながら、我が国の年金制度のことを問題を思ってしまった。現在の高齢者の人たち(まじめに選挙に行く人たち)のことを考えて、その人たちに都合の良い制度設計にしつづけると、結局問題が先送りにされてしまい、後は野となれ山となれ、に近い状態になっているのではないか、と思う。自分たちが収めた年金は預金でない、ということを理解せずに預金のような意識で語り続けることから、払った年金をもらわないと、ということになるので、ちゃんと返せ、絶対に返せ、ということになるのだろうが、そこを少し年金は現役世代から高齢世帯への所得移転をすることで、社会の経済のパイを大きくする制度であるという理解の上で議論ができたら、ちっとは変わるんでないか、と思うのだが、こういうことは世の評論家という人は、世間からこれを言ったら嫌われることがわかっていて、そのうえで、誰もこういうことを言わないと来ているから、世の評論家と呼ばれる人々もなかなか、である。

                  もうちょっと続く。



                   
                  評価:
                  ロバート・P. エリクセン
                  風行社
                  ---
                  (2000-05)
                  コメント:資料として貴重

                  評価:
                  ジョン・オートバーグ
                  地引網出版
                  ¥ 2,592
                  (2015-11-10)
                  コメント:めちゃくちゃよい。

                  2016.02.13 Saturday

                  いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(43)

                  0


                    Pocket

                    今回も教会と国家とのかかわりをヤンシー先輩がお書きの内容から、少し考えてみたい。今日は米国の政治体制とキリスト教との関係についてである。

                    米国憲法の前提条件
                    ピーター・バーガーという方の宗教の持つ多元的な機能について触れながら、ヤンシー先輩は米国建国理念の前景にキリスト教というか宗教(より正確に言えばキリスト教)の存在があることを次のように書いている。


                    Peter Bergerさん
                     
                    社会学者ピーター・バーガーは、宗教の持つ「世界を維持する」機能と「世界を揺さぶる」機能について書いた。合衆国の建国者たちは、民主主義はトップダウン式の支配より自由によって市民を導き、その土台には宗教が必要であることを認識していた。ジョン・アダムズによれば「合衆国憲法は、道徳的で宗教的な人々のためにだけ作られている。そうでない人々が構成する政府には、まったくもって不十分な憲法である」。国の指導者たちは、世界を維持するための役割を教会に期待した。責任感を持って行動できるよう市民を教育してほしい、と教会に期待したのである。(隠された恵み pp.386-387)

                    このブログでも、くどく書いているが、現在の日本で広く誤解されている政教分離の概念と、米国憲法における政教分離はかなり違う。どう違うか、というと、日本では、国家や政府が宗教行事に玉ぐし料とかを支出しない、とか、国家や政府の代表的人物が靖国神社や伊勢神宮を公式に訪問あるいは参拝しない、とかいうことが政教分離かどうかの議論がわかれる点になっているが、アメリカの憲法修正第1条では、Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.となっているので、Congress shall make no law respecting an establishment of religionであって、法律で、議会が勝手に、宗教団体や組織を作っちゃだめよ、というたぐいの趣旨なのである。

                    とはいえ、米国では、愛唱歌としてGod Bless Americaという歌が、野球の開会時に歌われたり、フットボールの試合の開会時に歌われる国ではある。それぐらい、神とアメリカという世俗国家が結びついている国家なのである。


                    God Bless Americaという愛唱歌

                    宗教には、世界を維持する機能は確かにある。一種重りのような存在であり、社会の暴走を防ぐ役割も無きにしも非ずであるし、一定の方向性を持たせる機能もあることは確かである。であるがゆえに、社会の保守化とキリスト教の関係は、多少ならずとも関係はしているようには思う。しかし、それと同時に、社会自身の価値観とぶつかる場合もあるのである。

                    例えば、神のかたちである人間の尊厳が失われようとするとき、それに異議申し立てをする人々も出てくるし、恐れなく文句を言いに行く無謀さを持つ信仰者もいたのである。そいういう無謀さを持った信仰者はそうは多くなかったろうが。

                    意外と面白かったのは、次の一文である。

                    ジョン・アダムズによれば「合衆国憲法は、道徳的で宗教的な人々のためにだけ作られている。そうでない人々が構成する政府には、まったくもって不十分な憲法である」

                    結局、100ドル札に出てくるアダムスおじさんだけでなく、建国の父たちと呼ばれる人々は、どうも、勝手にさせておくとリバイアサンで描かれたようなろくでもないことが起きるということを良く知っていたリアリストであるということだったのだろうと思う。だからこそ、それにブレーキをかける存在として、道徳や宗教的なものの必要を認めていたからこそ、In God We Trustという合言葉を一応でもいいから唱えることにしたのかもしれないとは思う。


                    Adamsおじさんが出ている100ドル札
                    https://uscurrency.gov/sites/default/files/download-materials/en/--new100--100_education.pdf から拝借

                    教会と政治への関与とその背景
                    教会が政治に積極的にかかわろうとして、世界を揺さぶる仕事の仕方が、これまで適切であったかどうか、ということに関して次のような過去のアメリカの黒歴史であるKnow Nothing運動や、ケネディー選挙の前のアメリカの福音派の動きをご紹介しておられる。
                    しかし、教会が世界を「揺さぶる」仕事をしようとする時は、賢く慎重に行わなければならない。悲しいかな、政治にかかわったクリスチャンは道を踏み外しがちであった。1840年代から50年代に、「ノウ・ナッシング」(訳注:外国人排斥を書掲げたアメリカ合衆国の政治的会派による運動団体)が、カトリック教徒を悪魔よばわりし、人々の間に恐怖を先導した。カトリックの学校では英欽定訳聖書でなく、自分たち(カトリック)の訳の聖書を読ませてほしいといった司祭の要求がきっかけで起こった、1844年の騒動について、歴史家マーク・ノルが書いている。フィラデルフィアの暴徒達は、いくつかのカトリック教会を燃やして10人以上の信徒を殺害した。1960年代後半には、全米福音同盟(NAE)がすべての福音派の教職者に、カトリック教徒の大統領が誕生する危険性を宗教改革記念日に語るように要請した。それは、ジョン・F・ケネディ(カトリック教徒)が出馬する選挙直前のことだった。(同書 p.387)

                    確かに、これまで教会が社会を揺すぶろうとするとき、その戦略は非常に過激で、思慮に欠いたといわれても仕方がないようなものが少なくはなかった。一種、Hate Speach(ヘイト・スピーチ)と呼ばれても仕方がないような発言が教会から出てくることも現在でも少なくない。今はそんなことはないはずだ、とおっしゃる方はおられるかもしれないが、ついぞ最近も、クォーラーンを燃やした牧師さん(自称なのか、公認なのかは定かならず)がアメリカにはおられなかったろうか。

                    コーランを国際的に焚書する日というトラックの前での牧師さん (なぜに、クォラーンを国際的に燃やすのかよくわからんがInternational Burn a Koran Dayとトラックの荷台部分に赤字で大書してある)
                    http://www.dailymail.co.uk/news/article-1310602/Koran-burning-pastor-Terry-Jones-expelled-German-church.htmlさんから


                    Know Nothingに関するマンガ http://history1800s.about.com/od/immigration/a/knownothing01.htm から


                    反ケネディ・キャンペーインの時に制作されたマンガ(スクリーントーンの使い方が素敵)
                    http://www.shaggytexas.com/board/showthread.php/163271-!-storm-has-ignited...Ben-Carson-on-Sharia-law-and-the-Constitution から借用

                    これらの話、Know Nothingのカトリック批判にしても、J.F. ケネディのネガティブ・キャンペーンの時の漫画も、コーランを焚書してしまった牧師さんでもそうであるが、表面は、宗教の顔をしているものの、実質的には、自分たちの既得権益や自分たちの優位性を守るため、という気がする。なぜ、宗教が担ぎ出されるかというと、正義の味方ぶりっ子しやすいから、あるいは、自分以外の権威性を振り回すことがやりやすいからではなかろうか。
                     
                    Know Nothingが出てきた時期というのが面白い。1840-1850年代という時代である。アイルランド系(南アイルランド系)や南欧中央系のカトリック系の人々がアメリカに到達しはじめた時期と重なっているような気がする。つまり、アングロサクソン系の英国本土からの移民がいったん落ち着き、次にジャガイモ飢饉で困窮するアイルランドからの移住民が急増したという環境とパラレルであって、この人口急増に慌てふためいた先着の移住民たちが自分たちの既得権益を守ろうとして、とりあえずわかりやすいラベルとして宗教を持ちだしたのではないか、と思うのである。
                     
                    ところで、J.F.ケネディの問題にしてもそうであるが、基本的にはアイルランド系を2級市民とするアメリカ人の一部の人々の精神性が反映されているのである。ケネディは、アイルランド系であったし、棚ぼたで大統領になったフォードは別として、そのあとを継いだニクソンもアイルランド系なのである。アメリカ社会におけるアイルランド系というのは、ほぼ、軍人、警察官というイメージがダブっている人々なのである。以下のハリソン・フォードとブラッド・ピットが出演した、The Devil's Own(日本語名 デビル)という映画などにも、それは現われる。確かに、消防士、警察官、軍人にアイルランド系は多い。要するに体力勝負の危険な職場が彼らの父祖たちの職場だった事を意味している。なお、Law & Orderの後半の検事補ADA、検事DA役として設定されているJack McCoyは親父さんが警察官、それに嫌気がさした息子のJack McCoyが、反警察的なリベラルな検事補、検事となったという設定でドラマ化されている。


                    The Devil's Own(日本語 Devil)の予告編

                    今回もヤンシー先輩の本を読んで思ったのだが、この辺の政治的や経済的、社会環境にはほとんど触れず、キリスト教や宗教の枠内問題としてのみ考える傾向は少し問題ではないか、と思うのである。実は、宗教的なことが持ちだされる背景には、必ず政治的な動きがあるのである。まぁ、アメリカという国は、選挙が終わってしまうと、そんなことで騒いだことをすっかり忘れて、Our Presidentってやっちゃうところが、アメリカのいいところではある。まぁ、そら、三軍の長であり、まぁ、現代に生きるローマ皇帝のようなところはアメリカ合衆国にはある。

                    文化との対決とキリスト教 禁酒法を例に
                    どうも、アメリカ人だけではないのだが、動機がよければ結果もよいはず、というイデアリストあるいは理想主義者の考え方が世にはびこっているらしい。いいことだからやりましょう、でもそれが数年後にはろくでもないことを引き起こすという人間の世界の理解は案外薄いらしい。

                    似たようなことは、最近の例で言えば、運動会の組体操である。学校の社会的な窓口としての運動会の花として、組体操は全員参加だから適切ではないか、ということで組体操が始まったのだろうが(全員参加とかもそもそも、良い動機とかいうけど、個人にとってはエジプトでの苦役もどきであった)、それを一層見栄えがあるものにしたい、日ごろの教育成果(それを教育の成果というかは別として)を見せびらかせたいということで、意味のない高さにしてみたりとかで、骨折する生徒続出であるにもかかわらず、「先輩方から引き継いだ伝統だ」とかわからないことを言って、継続している事例も少なくないらしい。まるで、先任将校が立てた計画だからとそれ通りやって失敗したインパール作戦等の南方戦線事案と大して変わらない。帝国陸軍は、日本人が帝国陸軍を生む素養を持っていたからこその帝国陸軍的体質を持ったように思うのだ。
                     
                    ところで、本論に戻すと、これはキリスト教会でも例外ではなく、ある価値基準を善とし、それがよいから結果もよいとすることがいかにおかし気なことを生み出すのか、という例としてのキリスト教の黒歴史についてヤンシー先輩は次のように語るのである。
                    合衆国のほとんどの州が、5年間にわたり禁酒法を順守した。やがて酒を飲む人が増え、組織犯罪や腐敗も生じた。この法制化はあまりにも厳しく、適度な飲酒を容認していたユダヤ人やカトリック教徒などの宗教グループを阻害した。歴史家ポール・ジョンソンは最終的な分析でこう判断している。「はじめは米国福音派最大の勝利と見えたものが、最大の敗北に転じた。」この道徳改革運動の失敗により、プロテスタントは政治の世界から追い出され、20世紀に終わりにようやく多数派として返り咲くのである。(同書 p.388)
                    禁酒法は、国家が個人の生活に介入するとろくでもないことが起きることの一つの例を示しているように思う。家庭からの酔ったうえでのDV被害を避け、健全な家庭生活を保障することが目的の一部として、始まった面があるとはいえ、飲酒を全面的に国家(この場合は連邦政府)が禁じたために、酒類販売が地下に潜り、地下経済が生まれることになる。なお、これは婦人参政権運動ともつながっていたと記憶している。そこに目を付けたのが信仰移民のイタリア系などの市民であり、その代表的人物が、歴史的マフィアのボス、アル・カポーネである。イタリア系マフィアは、禁酒法の背景の中で、アルコール飲料を非公式に販売する中で、非合法化された取引を行うことによって発生するリスクをカバーするということとその販売を独占的に行うことで、高値で取引することができ、一種の経済的地代(不労所得)がマフィア側に生まれることになった。そして、その経済的基盤を極めて強力なものにしていったのである。これに対して、FBIは当時は、組織犯罪法Rico法といった法律がない時代であるので、アル・カポーネたちを脱税容疑で立件することになる。

                    こうやって振り返ってみれば、マフィアを大きくし、現在にまで続くアメリカのマフィアの根が生まれたのは、実は禁酒法であった、という一面があるのである。まさに、善意に基づく政策が、巨悪を生んだ一例であると思う。

                    The UntouchableのTrailer


                    Once upon a time in Americaの予告編

                    日本では、禁酒法を生み出した、アメリカ系の福音派の信者さんが多いせいか、クリスチャンは禁酒であると思いこまれている側面が多いが、実は、これは、イングランド、北米大陸だからこそ、の現象でもあるように思う。もともと、水道水の質の悪いヨーロッパ大陸では、ビールや葡萄酒などが大量に消費されており、日常的に利用されていることもあるし、生活文化の中に食事のときのアルコール摂取が一般的であるし、子供用のアルコール度数の低いワインなども販売されている。

                    こういう文化をもったまま、19世紀中葉以降、アメリカに新たに到着した移民の出身者が、これら飲酒文化を水道水の質の悪い地域にお住いであった大陸の人々であり、さらに、それらの人々の宗教的背景がカトリックであったことや、この時期前後に到着した東欧系ユダヤ系の人々がそもそも適度な飲酒の習慣を持っていたこともあり、これらの人々の排除のためのツールとして禁酒法を設けた結果、これらの人々の一部が、マフィア化(ギャングというと、映画の中では、イタリア、アイルランド、ユダヤ系、今では中国系)していったというのは、何とも皮肉なことであったと思う。
                     
                    世の中に無関心だった福音派の人々
                    旧約聖書の中の預言の中でもミーちゃんはーちゃんが最も好きな預言は次の預言であるし、その聖書箇所をもとにしたヘンデルのメサイアは美しいと思う。
                    口語訳聖書 イザヤ書52:7
                    よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と
                    言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

                    ヘンデルのメサイアからHow Beautiful are the feet

                    しかし、ヤンシー先輩は、以下に引用した部分で、上のイザヤ書預言を念頭に置きながらなのであろうが、今の米国福音派のクリスチャンは、
                    悪しきおとずれを伝え、戦闘を告げ、悪しきおとずれを伝え、裁きを告げ、全世界にむかって「私の神だけが私にとっての実王なる方となられた」と
                    言う者の顔は世界にあって、なんと醜いことだろう。
                    とでも言いたそうである。
                     
                    クリスチャンがキリスト教信仰とあまり関係のない問題に焦点を当てれば当てるほど、道徳に関する本当に重要な事柄について意見を求められなくなる。福音派の人たちから、銃の拡散が犯罪に与えている影響を聞くことはほとんどない。ましてや核軍縮のような問題は、さらに聞くことがない。貧しい人々への健康管理や未亡人や孤児の保護、聖書の命令している多くのことがらについても聞くことがない。福音派の人々は最近になって、やっと地球環境について考え始めた。(pp.388-389)
                    ところで、本論に入る前に、『隠された恵み』の編集者の方に憚り乍ら少し苦言を申し上げたい。この部分で健康管理と訳されている語は、Health Careとういのがオリジナルの語だと思うが、これは、米国における高齢者、貧困層に対する無料の医療保険制度のことである。Medi Careともいう。実は、2012年の大統領選挙の時期に、ヒラリー・クリントンはこのHealth Care改革、ないしMedi Care改革を訴えていたのである。今年は、これが焦点化しているという話がアメリカからはいまだ聞こえてこないが、実は、これは非常に深刻なのである。そのことを批判したSickoというマイケル・ムーア監督の映画がある。
                     
                    日本では、救急車は無料だが、アメリカで救急車は有料であり、おちおち救急車に乗ってられないのである。


                    Micheal Moore監督作品 Sicko


                    日本のマイケルムーアと呼ばれるお笑い芸人の方

                    また、Sickoというマイケル・ムーア監督のドキュメンタリーではないが、このHealth Careないし、Medi−Careとよばれる医療保健は、基本民営企業による営利事業として行われており、その中には、実際に結構ろくでもない医療保健を運用した保険会社もあって、Claimという保険請求書をたらいまわしにして、いい加減なことをする会社も時々ある。こういうのは、結構アメリカのドラマなんかで出てくる。それと法廷闘争と家庭内DVについて批判したフランシス・コッポラのレインメーカーという作品もあるくらいである。

                    アメリカでは、本当に病気になれないなぁ、と思う。


                    フランシス・コッポラ監督作 The Rainmaker

                    「こういうことは、政治的なことだから」ということで、80年代後半から90年代くらいまでクリスチャンは口をつぐんできた。ディスペンセイション説由来の2つの世界にアメリカ福音派の皆様は住んできたのである。そして、前回紹介したように、もうすぐやってくる終末を期待し、天国に行くことだけを願っていたのが、1980年代的な福音派のクリスチャンの姿であったし、それは日本にも影響した。

                    ある時期まで、神戸にあるキリスト者の集まりと称しておられるところお伺いして、一度はそこで頼まれてお話をしたことがある。その時に「人間には、この地をケアすることが神から 与えられている役割としてあるのではないか」と創世記からきちんと準備してお話したところ、年上の方から、「どうせこの世は滅びて無くなるんだか ら、何をしてもいいんでしょ」と、まるで「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記」という本の中に出てくるようなご発言をお聞きした。

                    このご発言になられた方は、ある福音派として知られるグループで、そのキリスト者グループの代表の方がミーちゃんはーちゃんとときどき遊んでくださるのであるが、「どうせこの世は滅びて…」と反論を頂戴した方に対して、「あなたがどういうお考えをお持ちなのかは存じ上げませんが、個人的にはそう考えません」と申し上げたところ、それ以降は2度と呼ばれなくなった。お呼びでないところに行くほど、脳天気ではないので、 ちょうどよかったのだが。

                    そして、アメリカの福音派の一部の人々は、銃がもたらす悲劇に目をつぶり、銃を持ち続けることにこだわり続けてきた。これはアメリカ憲法修正第2条で認められたミリシアを形成する権利で保障されている自分たちの権利であると。銃を握りしめてきたのだ。まぁ、もちろん、野獣が多かった西部開発時代ならいざ知らず、自分と自分の仲間以外の人間を野獣として扱い続けているようである。

                    アメリカで、Health Careと呼ばれる医療保険制度(ここでは健康管理と訳されている)は貧しい人々への最低限の医療制度をどう保障するか問題であるのにもかかわらず、個人の医療選択の権利の問題に話がすり替えられ、それで「受ける医療が、一律の規制により一律のものとなるという制約を受けかねないから」と自費で高額な医療費を支払える人々の声高な主張がこだまし、本来の貧しい人が最低限医療をどのように享受されるべきかの議論が別のものにすり替えられてしまい、貧しい人々が医療を受けられないという、そして人間としての尊厳が失われることに口をつぐんできた、のではないか、と思う。MediCareあるいはHealth Careは大統領選挙の度に話題に上るものの、この20年、ほとんどその改革は進んでいない感じがする。

                     アメリカ人のある種の価値観は、映画のセリフなどにも時に表れる。以下のA Few Goodmenの画像の1分過ぎのあたりから、アメリカ海兵隊員が、自分が従うべき順序について、次のように言っている。海兵隊員としての自分の命令の重要度の基準は、

                    Unit(小隊) >> Corp(海兵隊) >> God(神) >> Country(国家)

                    の順で従うべきであり、それが基準であるといっている。In God We Trustという言葉を紙幣に書き込む国家の兵士が、こういうのである。


                    A Few Goodmenでのワンシーン

                    ちょうど、この若い海兵隊員のように、ある一部のアメリカの福音派のキリスト教徒の価値基準は、

                    アメリカ市民 >> 福音派のキリスト教徒 >> 神の国民 >> 公同の教会の構成員 

                    という立場であると頭の中ではなっているのではないか、とも思いたくなるような表現である。

                    なお、日本でも、このタイプのキリスト者の皆さん方が案外おられるのが、非常にかなわないなぁ、と思っているが、残念ながら、このタイプの方はおられる。

                    日本人 >> 日本人福音派キリスト者 >> キリスト者 >> 神の国の国民

                    と思っておられる方も中にはおられるのかもしれない。まぁ、信仰は人それぞれなんで、いいと思っているけど、個人的には、

                    神の支配の内にあるもの >> キリスト者 >> 日本人福音派のキリスト者 >> 日本人

                    という形での価値を大事にしたいと思っている。

                     無論、違う価値観も否定はしないが、ミーちゃんはーちゃんとはその価値観が違う、というだけのことである。いろいろなキリスト者がいる、ということは、多様な聖書的伝統の世界がキリスト教の世界であるとすれば、まぁ、そういう多様な人々が集まったものがキリスト教である、ということなのだろうとは思うが。
                     
                    もう少し続く







                     
                    2016.02.15 Monday

                    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(44)

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                      一部の福音派のマキャベリスティックな行動
                      ヤンシー先輩の福音派の人々の気候に関しては、きわめて手厳しい。以下で紹介されているように確かに、福音派の人々のマキャベリスティックな行動に関しては、極めて厳しい表現をしておられる。
                      神の国の福音を語るため、とは言いながら、電波ジャック(たぶん窃盗とか不法侵入、通信の妨害)という違法行為になっているという矛盾をしている事例を次のような例で紹介しておられる。
                      福音派の人々には、誉められるようなところが見当たらない。キリスト教放送ネットワークに勤務するエンジニアが、衛星放送の伝送装置を使ってプレイボーイ・チャンネルを妨害したことがある。「アメリカン・エクスタシー」の放映中に、「主なる汝の神はこういわれる。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。悔い改めよ、神の国は近づいた!」というメッセージを流したのである(後に連邦大陪審により起訴された)。彼の上司のパット・ロバートソンは、長年にわたって奇妙な発言を繰り返していたが、中でもフェミニストを表現した言葉は有名だ。「夫の元から去り、子供を殺し、魔術を行い、資本主義を破壊してレズビアンになるよう女性を励ます社会主義者であり、反家族政治運動をあおる者たち。」(pp.389-390)

                      この記事を見ながら真っ先に思い付いたのは、以下に示すキリスト看板である。まぁ、恐らく、所有者の許可をとってはっておられるのだろうが、田舎に行くと、結構この手のキリスト看板と称される神のことばを切り取ったものを掲げる事例は散見される。別に言論の自由もあるし、何を書いてもいいし、所有者の許可をとってやっておられる分には、何も文句を言う筋合いはない。

                      しかし、である。プレイボーイ・チャンネルという有償の番組放送網をジャックし、他人の支払った金と設備が技術的に利用でき、個人がその放送内容に不適切さを感じるから、それをハッキングして、その代わりに聖書のことばの切り取りを他人に見せつけることも良いことにはならないと思う。窃盗も、他人の妻に横恋慕することの両方とも、モーセ先輩が山でもらったらしい石の板にやったらあかんこととして書いてあるのではないかと思うのだが。

                      ただ、この放送ジャックする人々の精神構造は、なんとなく以下で掲げるキリスト看板の皆様の精神構造と似ていらっしゃるとは思うのだ。確かにキリスト者にとっては、聖書のことばであり、それの重みがある。

                      しかし、それと無関係な皆様には、その意味も分からず、神の国といっても、明治天皇制のころに主張された神の国だと思って、「おお、聖書では、神国日本になる日は近い」という意味なのだ、と受け取られても仕方がない面もあるのではないか、と思う。だって、書かれた文字と受け取られる理解がかなり違う可能性はあるのだから。

                      幸福の科学出版 大川咲也加著 「神国日本の精神」 
                      神の国が近づいたと聖書にも書いてある、と同書の中で主張されているのかどうかは良く知らない。



                      神の国は近づいた という聖書のことばの切り取りしたものが書いてあるキリスト看板の作品

                      ところで、聖書の中には普通の人々には理解できない異言を語るなら、異言の解説も必要だよ、とパウロ君は諭されたはずである。神の国が近づいたは、日本のかなりの人にとっては理解不能な言説だではないか、と思う。

                      ヤンシー先輩の本の中で出てくる、キリスト教放送ネットワークCBNってなんだと思ってたら、何のことはない、700Clubという放送をやっていた放送局であった。そういえば、PTLクラブという似たような番組を、地元ローカル局の「おっサンテレビ」を自称する神戸新聞系のSun-TVで放映していたような記憶がある。

                      Pat Robertsonさん(ヤンシー先輩いわく「長年にわたって奇妙な発言を繰り返していた」らしい)

                      ところで、以下に掲げる図像は、その「長年にわたって奇妙な発言を繰り返していた」ことの例として取り上げられた一例の恐らくオリジナルの発言を画像にしたもののようである。


                      フェミニズムに関するロバートソンさんのご発言をポスター化したもの
                       
                      しかし、他のものは何となく理由が想像できなくはないが、なんで、フェミニズムが資本主義をぶっ壊すのかの論理がよくわからんが。資本主義自体が実はつい最近の出来事なんだし、それがもたらす弊害があるので、新古典派的経済学が生まれてきて、市場至上主義型資本主義では限界があることを指摘したような気がするのだが。

                      と思って、書いていたら、である。本ブログで紹介した、あの「聖書信仰」(当ブログでは、藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1)藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり  でご紹介)をお書きになった藤本満先輩が、また、やっていただきました。ありがとうございます。こんな素晴らしい記事 聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その7) を山崎ランサム(山崎ハンサムという大頭先輩説在り)先輩のブログで書いてくださったのである。ありがたいことである。

                      キリスト教とユダヤ教の共通部分
                      N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』には、「ユダヤ教とキリスト教という仲たがいした二姉妹(そしてある意味イスラム教も)の基盤になっている世界」(クリスチャンであるとは p.38 オリジナルは、the world that sitll forms the foundation for those two estranged sisters, Judaism and Chrisitianity, and to a lesser extent Islam. )という非常に印象的な表現がある。どうも、以下のラビ、ジョシュア・バーバーマンさんがPolicy Reviewという雑誌でお書きになられたことと、非常に似ているような気がする。
                      ラビのジョシュア・ハーバーマンは、ヒットラーのオーストラリア併合を経験した人で、『ポリシー・レビュー』に次のような記事を書いて大きな議論を巻き起こした。
                       
                      私はユダヤ人として、神学、この国の社会問題、そして公共政策に関して、聖書を信じる様々なクリスチャンとは意見を異にする。キリスト教原理主義過激派の狂信さ、狭量さ、厳格な教条主義の発作に、時々嫌悪感を抱く。しかしこうした違いや反発よりも、私が原理主義者を含めたクリスチャンと共有している共通の道徳、そして霊的枠組みの方がはるかに大きい。聖書はこの国に道徳という視点を与えた。そして、今日、米国のバイブルベルトは安全ベルトであり、私たちの基本的人権と自由を永遠に保障している。
                      (同書p.391)
                      結局、今のこの世の中では、N.T.ライト先輩ご指摘のように、仲たがいする2姉妹のようにユダヤ教とキリスト教は仲が悪いが(まぁ、ドイツでの悲惨な事件に教会も関与しているし、伝統的にユダヤ教徒がイスラム教徒ともビジネスをしていたので、それがもとで嫌われているし、さらに、金融決済事業、今で言うセブン銀行みたいなもの、でヨーロッパでの決済事業をやっていたので嫌われてきた。なぜ、ユダヤ系市民が金融決済が得意かといえば、家族や親類のネットワークを介した信用を生み出す仕掛けを持っていたからなのであるが)、本来聖四文字YHWHを認めるという意味で、本来共通のものがあるはずなのだが、キリスト教原理主義過激派(恐らく今でいうEvangelicalsとも呼ばれる米国型の福音派全体を指すような気がするが)は常時、他民族排他性由来の教条主義の発作状態が続いているからか他の宗教者、他派のキリスト教に対して発作症状が続いているのかもしれず、他者との違いを言い募り、本来見るべき共通のものである神自身というお方を見てないし、その方が与え給うた霊的枠組みすら連続的な発作のために見えなくなっているのかもしれない。

                      ところで、中華人民共和国と米国は大国クラブというか、国連常任理事国クラブでは仲がよいが、「人権」や「自由」という同じ語を使いながら、基本的人権と自由の点で、本来的に違うものを持っているような感じがする(天安門事件のことを考えればよくわかる。自国民に向かって自国民保護のための道具である戦車を突進させかねない国なのである)し、日本は、とりあえずこの基本的人権理解が保証されているはずの国であるが、現実的には、様々の面で、この基本的人権理解が本当に国民や社会や文化の奥まで、しみ込んでいるのかどうか、怪しい事例に時々であう。残念なことであるが。


                      天安門事件のCNNの映像

                      違法と不道徳の混乱
                      文化とかかわる時、クリスチャンは”違法”と”不道徳”を区別するべきである。というタイトルの下、様々な事例が紹介されているが、この最後の部分が秀逸であるので、ご紹介したい。
                      クリスチャンは現在、同性愛者の権利について賛否を問う議論をしている。賛成派も否定はも同意しているように、これは道徳の問題だ。数十年前、英国国教会は離婚について同じように議論していた。聖書は同性愛より、はるかに多くの結婚の神聖さと離婚の誤りに言及している。C.S.ルイスは離婚を支持する意見を表明し、当時多くの人々に衝撃を与えた。社会一般に自分たちの道徳観を押し付ける権利はクリスチャンにはない、というのがその理由だった。道徳的な立場から離婚に反対し続けたルイスであったが、道徳性と合法性は区別すべきだと主張し続けたのである。(同書 p.394)
                      同性愛者の問題は、実に微妙なテーマである。そして、実際の法律(あるいは米国内における法と同等の価値を持つ裁判結果)も、実はかなり解釈が難しく、その本来的意味をとらえるのは、極めて難しい問題を含んでいる。あまり安易に単純化して考えられない問題なのである。Love Wins祭り(Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw)の時にも、その困難性はご説明したが、あの連保最高裁判所の判決は、主権を持つ他州の認めた行政的措置に対して、著しく不当な行政的措置を別の行政府である州政府が、アメリカ市民である個人に対して禁じたものであり、積極的に同性婚を認めるという性質のものではなかったのである。このような場合に、道徳性(同性愛を認めない)と合法性(合衆国憲法が個人に保証した権利を合衆国憲法を超えて州政府ないし他の行政府がその行為により著しく侵害すべきでない)とが混乱した例であろうと思うのだ。

                      あるいは、奴隷制度や差別の問題は、実に微妙なテーマである。これは米国のクリスチャンによくある過誤ではないか、と思う。本来的には、道徳として、自分自身に向けるべきことを他者に向け、法律違反であるかのように、他者を容易にさばいてしまうという側面である。

                      それと、世俗の法律というか、裁判での判決をもとに、様々なことが問題がないということをご主張のキリスト教徒であるとご主張の方々もおられるが、それは少し違うのではないか、と思うのだ。裁判所の判断は司法という法律論の観点からのある時点でのご見識のご公開であって、ある時点の司法判断がすべてを支配するというのはあまりに安易であると思う。考えてみればよろしい。たかだか150年前とか200年前(そこまでいかなくても50年くらい前でも)は、アフリカ系市民の奴隷の方が殺害されても、法の裁きはアフリカ系の市民の方々には及ばなかったのである。Justice for all の all は、一部の限られた人たちについて all という意味であり、全てのアメリカに住む人に及ぶ、という意味ではなかったのである。

                      キリスト者の目的とは何だったのか?
                       イエスが言ったことを二つにまとめると、1)神と共に自分を大事にして生きよ(無理だけど、できる限りでいいので)2)神が創造し給うた他人を大事にして生きよ(嫌なこともいっぱいあるけど)ということになるのではないだろうか。それが、その基本線を忘れ、特に(2)を忘れてしまって、他人の生き方にくちばしを出すということになれば、(2)他人を大事にして生きよ、とういことがどうしてもいい加減になる。そして、使えるものは何でも使って、他人の生き方に介入しようとする。たとえ、それが善意から始まったことであったとしても。

                       そこらあたりの事について、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
                      教会が世俗的文化の改革を目的とすると、私たちは恵みの福音を目立たなくさせ、陰の権力者になってしまう危険性がある。米国のクリスチャンは、今やそうみられている。この世界の多くの人々から、彼らの考えに逆らう法律の通過を画策する”右翼”と見なされている。そして、いつの間にか良き知らせを損なってしまっている。「罪人」を救うためにキリストが死なれ、それによって私たちは罪と恥から解放されて、神が望んでおられる豊かな人生を歩める、という善き知らせを。(同書 p.396)
                      まぁ、米国福音派の人々がこれまでやってきた運動自体のかなりの部分が、ある意味で的外れなことをしてきた側面はあるかもしれない。例えば、特定の宗教が支配的な国家からの移民を排除しようとする法律を通過させようとしてみたり、妊娠中絶を何が何でも禁止しようとする法律を作ってみたり、ある人たちを社会から排除しようとして禁酒法を通過させたり、同性愛者を社会から排除するような法律を成立させることに血眼になってみたりと、まぁ、アメリカを捜せば、こういう事例はやたらと多い。州法や住民投票などの事例では、こういうことをまじめに通している例は結構ある。法律という個々人の生活を全体として規制するものが土足で個人の思想信条の中に入ることは、個人的には、少しまずいのではないか、と思っているし、米国なら、憲法修正第1条の精神に照らして、まずいのではないか、と思っている。

                       こういうのを見ていると、普通の感性の人でも食傷するし、こういう法律を通そうとして必死になっている人々は声高に叫び、自分に反対するものは悪魔の手先とお呼びになられるので、悪魔の手先呼ばわりされたものとしては、もういいやになってしまう。まぁ、ミーちゃんはーちゃんも同じ教会のある人から、悪魔に取りつかれているのではないか、という有難いお手紙を数年前に頂いたことをここに記しておく。こんなブログ読んでいるあなた、悪魔の手先扱いを受けかねませんぞ。ご警戒召されたく。

                       余談に行ってしまったが、福音とは、囚われの身からの開放のことであり、神と共に生きることで、本来の人間に与え給うことを願って与えられしはずの生き生きとした姿(ヤンシー先輩の表現を用いれば、神が望んでおられる豊かな人生を歩める姿)となることであることは、既にふれたところであり、神が与え給うた創造のみわざが、現実的な諸制約のため、制限付きであれ、ある程度実現するということであろう。これこそが、神の国の到来であり、神の支配が近づいた、神の国が近づいた、ということではないだろうか、と思うのだ。あるいは、神と人が制限付きであれ、共に生きるということが可能になったことであるのだと思うのだ。だからこそ、「神が人と共に生きることが今可能になっている。神から離れた姿であることをやめ、神のもとに戻れ」ということが、「神の国は近づいた。悔い改めよ」ということの本来の意味ではないか、と思うのだ。本来の幸せな姿を取り戻すことが、神の願いであると思うし、それをイエスは人々に示せ、告げよ、と弟子たちにいわれたのだと思う。無理して本来の自分でない人間になれ、キリストを信じるものが社会が理想とする人間に頑張ってなれ、とも、教会が立派であるとする人間に無理やりなれ、とはイエスは言っていないように思うのだが。違うだろうか。ただ、イエスに従って、神と共に生きるものとなり、神に立ち返れ、とおっしゃっていることはそのとおりではあるが。
                       
                      もうちょっと続く。(残り2回)







                       
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                      ジョン・オートバーグ
                      地引網出版
                      ¥ 2,592
                      (2015-11-10)
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