2015.11.01 Sunday

2015年10月のアクセス記録とご清覧感謝

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    今月も、いつもと同じように、話題がとっ散らかった感じでしたが、一応おまとめしたつも利でございます。アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。今月はアクセス数は、全体で18369となり、平均で、日に592.6アクセスでした。

     2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
     2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
     2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)

     2015年10月     18369アクセス (592.6)      




    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

     若い人しかいない教会で気づいたこと  
       アクセス数 464
     現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 
      アクセス数 431
    若い人しかいない教会で気付いたこと、再訪
      アクセス数 429
    若い人しかいない教会参加記
       アクセス数 427
    若い人しかいなかった教会その後(ケーススタディ)

       アクセス数 318

    でした。しかし、今月は、久しぶりにトップが今月公開した記事という。なんてこったい。とはいえタイトルを見るとわかるとおり、お若い人と教会特集でした。まるで、ある神学ALG

    神学ALG 神学の何がおもろいねん 参加記(1)

    神学ALG 神学の何がおもろいねん 参加記(2)
    神学ALG 神学の何がおもろいねん 参加記(3)完結編


    のための準備記事(こことは無関係に記事を書いております)みたいになってましたね。

    来月もよろしければご清覧をば

    2015.11.02 Monday

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (35)

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       今日もあまり人気がないことを十分承知のうえで、小山先輩の『富士山とシナイ山』から、コヘレトとパウロのつながりについて、記載されている部分を紹介しながら、少し考えたことを述べてみたい。

      腐敗状態に属するという人間観
       近代は、若いということが求められた社会であった。何にもまして、若さとは貴重であり、若さとは価値の源泉であるがゆえに、化粧品会社は、コエンザイムQ10だの、プラセンタだのを販売して利益を確保しようとするのである。それは、我々が、腐敗に向かって進みつつあるという現実から目をそむける綾氏の魔術の一つでしかない、と思っている。認めたくない人が多いのかもしれないが。

       コヘレト(伝道者)は、「人間は鼻で息するかけのある存在でしかない」という理解に立っていて、神の前には、ほとんどその存在は誤差の範囲であるという立場に立ちつつ、その省察を述べているのであるが、そこには単なる皮相的なシニシズムな印象は漂うが、パウロが主張していることはだいぶん違って、神によって、この人間のどうにもならないかけの問題に、最終的な解決がつくというのが、パウロ先輩のご主張ではないか、というのが小山先輩のご指摘のようである。
       コヘレトを省察していて思い出されるのは、ローマのキリスト教徒共同体あてに書かれたパウロのことばである。

      (ローマの信徒への手紙8章18−23節が引用されているが省略)

       コヘレトは「すべて空なり」で始まる。ここでパウロは「被造物は空しさ」(マタイオーテス、言語の直訳=腐敗)に服しています」という。パウロはどうやらコヘレトの世界観を支持しているらしい。詳細に調べてみると、パウロはこの「マタイオーテス」とコヘレトの「ヘヴェル」とは違う神学的文脈に現れる。ローマの信徒への手紙に現れるマタイオーテスはコヘレトのヘヴェルのように絶望的ではない。パウロの空しさには始めと終わりがある。終末論的に限定されている。最終的には将来の約束の成就をもたらすものであろう。全被造物が「共に呻いている」のは、アダムの堕罪を通して「腐敗への隷属」に服しているからである。「霊の初穂」をいただくキリスト者も共に呻いているのは、彼らの体が腐敗に服しているからである。被造物を覆っているマタイオーテス(むなしさ)が最終決定的な言葉ではないのは「希望を持って服せしめた方の意思による」からである。
       パウロが用いる「呻いていする」(ステナーゾ)という語は強烈な言葉である。

       陣痛に苦しむ者のような声が聞こえる、
       初めて子を産む女のような苦悶の声が。
       (エレミヤ書4章31節)

      これらの言葉は、エレミヤがエルサレム破壊の幻を述べるのに用いた言葉である。「苦悶」は「悲鳴」と「呻き」を意味する。
       (富士山とシナイ山 pp.355−356)
       しかし、我々の呻きとイメージする言葉と、旧約聖書の呻きという言葉がここまで違うかと思うと、あまりに唖然とする。あまりにも旧約聖書のうめきは大きく、強く、また、その痛みはあまりに大きいもののようである。この圧倒的な呻きからの解決と回復として、ナザレのイエスがいわれた「神の支配が到来している」があると思うのだなぁ。それが「インマヌエル」神が(人と)ともにおられるの意味なのだろうと思った。


      19世紀の画家によるMemento Mori(死を想え)

       確かに我らは、腐敗の支配の中にあった。それが「神の支配」「永遠の支配」の中に移されるという価値の大転換が、神によって、そしてイエスによって起きるということである。

       つまり、回復というのか、本来の人間の姿になる(神と共に生きるものになる)ことが神と共に生きようとする者に与えられる、というのが聖書の約束である。但し、この部分は気をつけないと、汎神論への入り口となりやすい。ある面、汎神論は、聖書は受け入れておらず、回復は神にしかよらない、というのが大前提であることは一言触れておく。聖書によれば、人間は神にならないし、神ではなりえないし、神ではない、というのがその主張であるように思う。

      ギリシア哲学と仏教と聖書 神の臨在
       近代科学や近代西洋思想の根源には、基本的にギリシア・ローマの哲学や思想が流れている。ある面、中世から解放された近代仁とその走りの人々が、中世的な教会の支配から脱出するために手元にあった(あるいはイスラム世界からもたらされた)自分たちの先祖の思想となった時に、ローマにさかのぼり、それが模倣しようとしたギリシアの哲学や思想に戻るしかなかったのである。ストア派にせよ、エピクロス派にせよ、忍耐や自制をどう位置付け都市国家である社会をどう維持するか、という観点から出てきた思想であるように思う。それを踏まえ、小山先生は歴史と神とのかかわりを述べながら、最終章直前のこの章を次のようにまとめておられるように思う。 
       「呻き」のイメージは「楽しみの勧め」とは違う。前者は歴史への深い関与を示唆するのに対して、後者はしない。実際、世界には「空しさ、不毛」が漂っている。しかし空しさは絶対的なものではない。神によって制御されている。歴史内で響く人間の呻きは見境のない偶発事件ではない。呻き声を上げる人たちがいる所、そこで聖書的信仰は主張する、呻き声を聞く神が実在していると。歴史は静粛な時空であると理解されてはいない。歴史は空しさの力を相手に戦わなければならない危機的な時空である。仏陀は言う、我々は自らの貪欲と戦わねばならないと。〔パウロは言う〕今、被造物は空しさに服しているが、その空しさは最終的な言葉ではない。われらの神の心は、我々への、及び全被造物への愛ゆえに、激しく動かされている。(仏の慈悲を示す)〔苦しむものと共に〕呻き声をあげるという大乗仏教の教えを通して、我々は激しく動かされる神の心を垣間見る。すべてが空しいわけではないと言い切る時、我々は神学的胸騒ぎを覚え始める。東洋と西洋の常識的区別はこうした激しい胸騒ぎを覚えるこころの臨在という視座から再吟味されなければならない。神にとって、すべてが空しくはない。すべては約束に満ちている。それゆえ神の心は激しい胸騒ぎを覚えるのだ。
       (同書 p.357)
       このなかで、印象的であったのは、パウロの主張である、とされている部分である。すなわち「今、被造物は空しさに服しているが、その空しさは最終的な言葉ではない。われらの神の心は、我々への、及び全被造物への愛ゆえに、激しく動かされている。」という部分である。つまり、聖書の概念は、人と人との関係や人と被造物の閉じた世界の中での関係を考え、その中で、人の苦しみの問題を考え、じっと見るということを通して悟りを開き仏になる経験を考えるという仏教的思想と、僧ではなく、神が全てのものへの愛を持ち、激しく突き動かされるように動いているという非常に動的な者として語られるキリスト教は、ある面、この部分で対峙している点において、仏教とキリスト教は基本同じではない、と思うのだ。

       同じ、「空しさ」、「虚しさ」、「虚無」、という語を使いながら、仏教とキリスト教はかなり違うのである。仏教的な「虚しさ」は、世界は所詮虚無の無限ループ(それが輪廻)であるから、それを前提としてお考えになったら、という感じなのだろうし、そこから、救出できるのが、仏の教え、ブッダが言ったメソドロジーで、だからこそ、成仏した仏こそが、衆生を救済できるという構造を持っているのだと思う。


      仏教的輪廻の図 仏教界では、これが相当長期に続くという設定、であるらしい

       しかし、そうではなく、歴史には最終的な終結点(神のすべての創造の御業が完成した後の姿)があるというのが本来の聖書が語る終末論であると思う。それに向かって、らせん状に進んでいき、ある瞬間では神と人が不完全ながら、一つになるという瞬間があり、それが繰り返されているというのが聖書の歴史観のような気がする。この辺に関しては、

      「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(10)

      ですでに書いたところではある。

      このシリーズでは、次回以降、最終章のご紹介を実施する予定。よろしければご笑覧をば。






       
      評価:
      小山 晃佑
      教文館
      ¥ 4,104
      (2014-09-12)
      コメント:お勧めしています。

      2015.11.02 Monday

      なんちゃってモダン、なんちゃってポストモダンと日本の教会(3)最終回

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        モダン社会と大衆社会と全体主義

         ポストモダンは、モダンが行き着いた先に、モダンでは不十分な対応としかなりえなくなった社会において、「どげんかせんといかん」と東国原元知事のようにではなく、自然と対応してい高騰する営為の中で、知的営為の中で、生まれてきたのがポストモダンであった。基本的に田中明彦氏が「新しい中世」と同じ署名の本で呼んでいるものと、パラレルの関係にあると言っていいだろう。

         その意味で、自然に生まれてきたのがポストモダンである。皆が同じように生き、同じように過ごし、同じ経験をするモダン、それは大衆社会であったが、それが分衆化し、空間的な縛りがなくなり(これはモダンのおかげ)、地域的なかかわりとは関係なく分衆化として存立しうる社会、それが、ポストモダンとして実現する社会の特徴である、と思う。

         大衆社会でもあったモダン社会では、個人は、大衆と同じ行動をすることが絶対善であったがゆえに、全体主義を生み、主として、ドイツ、日本で悲惨な経験をする羽目になったのである。イタリアとか、大衆が同一行動しない(というか、そもそも論としてできない可能性が高い)という性格が効いていたので、いち早くファシスト党とムソリーニは政権の座から追い落とされた。


         ある面、モダンという古い革袋が、新しい内容を入れる容器として不適合であるがゆえに、自然に否定されていったのが、ポストモダンの今の姿であるが、相も変わらず、モダンが続いておられる方も結構出あう。

        建築におけるモダンの三題話
         以下に3つのモダニズム的な建築物を示す。

         まず、最初にJTビルであるが、以下の図に示すように、線と曲線、円という非常に合理的な線で建設されている。その意味で、実にモダニズム的な空間設計となっている。


        東京にあるJTビル 

         その意味で、直線構成というのは、モダンの一種の特徴でもあり、以下の図に示すように、御堂筋では、百尺規定があったため、スカイライン(建物上部のヘリで空の高さを示す腺)がそろっている。この種の一致した高さとか、共通性を目指すのが、モダンの特徴でもあるといえる。


        御堂筋

         また、モダンは、効率性や、合理性が追求された。そして、日本人にとっては西洋であった。そのためか、以下に紹介するモダン寺と呼ばれた本願寺神戸別院は鉄筋コンクリートで割と初期に建設された寺である。その意味で、当時の人には、モダンと映ったのためか、モダン寺、と呼ばれている。


        神戸にあったモダン寺(本願寺神戸別院・震災で建て替え)

         これらの建築の例でみるように、モダンを支えたもの、それは科学万能主義だったり、科学的という言葉だったり、合理的という言葉だったりするのである。




        モダンでありながら、
        中世が混在するポストモダンな大阪
         ただし、日本人(大阪人)は、モダニズムだけに染まらない。モダニズムが支配する世界でも、それを破壊し、それを一色で塗りつぶすことを否定してきた。しぶとく、古い世界が生き延びたのである。たとえば、通天閣というモダニスムを代表する世界の周辺は、実は、モダニズムでおさまらない世界が渦巻き続けたのである。



        この実に日本的な画面構成(通天閣というモダニズムとちょうちん・相撲、という古代および中世日本とのコラボ)

        キリスト教とモダン
         キリスト教では、以下の図に示すように、モダニズムの世界の中に神と呼ばれるものを納める一種の努力であることが行われてきた。モダニズムの恐ろしげなる点は、ある面、無理矢理、合理という箱の中に合理的でないものも、または、合理で割り切れないものも、合理で割り切れないものも、合理という枠組みでとらえ、合理という枠組みの中に押し込もうとするものである。まさに下の絵は、合理が万能であった時代の神学の姿を如実に描いている。




         人間は人の手で造った神学なぞという宮にお住まいでもないにもかかわらず、それに押し込めようとしている人間の愚かさを描いた漫画である。こうやって押し込んでしまえば、人間の側は満足だろうが、そうは問屋がおろさないようにできているのである。

        キリスト教とポストモダン
         ポストモダンは、何でもありだ、多元的な世界だ、神が唯一の世界でない、とモダン的な観点からポストモダンを誤解してお語りのキリスト教徒の方もおられる。それが悪いわけではない。言論は自由であると持っている。ただ、自分の思うキリスト教一色で塗りつぶされないと気が済まないというモダン時代のキリスト教の非常にまずい側面がこのご発言には出ているように思う。

         ポストモダンは人間の側の問題であり、神の側の問題ではない。神は、古代だろうが、中世であろうが、近世であろうが、近代であろうが、人が作った宮(枠組み)などには住まわれない、あるいはそれらの枠組みではとらえられない神なのではないか。その意味で、間接的な関係しかポストモダンと神は、関係していない。

         人間の側が、ポストモダンの社会を作り出してしまった、あるいはモダンが破たんしたためにポストモダンに移行していっているその渦中におかれているために、その時代にふさわしい神学を形成し、神学をしなければならないにもかかわらず、相も変わらずモダンの神学をするということはどういうことであろうか。ちょうど、それは、大河ドラマのセットの中にいた登場人物が、その衣装のまま、現代の渋谷の109で買い物をするようなものである。要するに、以下の動画で紹介するような、たかまつなな嬢のように、面白くて、吹き出す状況を自ら作り出しているのである。




        たかまつなな嬢によるお嬢様言葉講座

         もちろん、それをしてはならんとは言っていない。どうぞおやりになればよろしい。ただ、現代社会の中で、お嬢様言葉でしゃべるお笑いタレントがいて、お笑いのコンテンツになるようなことを自らおやりであるだけなのである。


         まぁ、別の言い方をすれば、現代の日本の都市で、日本人が日本人に向かって、英語でしゃべるようなものである。

         以下に紹介する動画は、日清のカップヌードルのCMであるが、こんな感じである。まぁ、これは、近代と近世の戦い(まさに明治維新はこんな感じ)である。



        カップヌードルのCM(モダン対プレモダン)


         基本的に自分は偽預言者的だと思っていて、石打ちにされかねないだろうという覚悟で申し上げると、おそらく、日本はあと30年くらいはモダンの残滓と戦い続けると思う。モダン時代に生きている人が死に絶えるまで、モダンの残党というか残滓は残り続ける。そして、モダンを美化し続けるだろう。また、制度自体、制度ができているということは、制度は自己保存を図るので、あと50年くらいまでは、モダンとしての制度(たとえば、年金とか、社会保険とかいったそんなもろもろ)が残るように思う。とすると、案外しぶとくモダンは残るのである。

         日本社会でもそうだと思うから、もう少し、保守性、信仰とモダン時代のキリスト教的な生き方(正しい生き方が存在し、それがキリスト教である、というモダンな生き方)が結びついているという意味での保守性の強い教会では、30年から、40年は、下手をするとあと100年くらい、このモダンとしてのキリスト教は続くと思われる。その間に、日本の信徒がポストモダン、その後のポストポストモダンに聖書からどういう生き方を考えうるのかを考えることが、実は神学として内生的にこの日本に向けて求められている、という理解に多くの人々の神学理解が変わっていってくれたら、個人的にはうれしいと思う。

        ポストモダンに合致する構造

         おそらく、ポストポストモダンは、そのうちポストモダンが進む中でモダンという構造を壊していくので、新たなるポストモダンにふさわしい構造を模索する時期になると思う。その時に現地化できるか、鎌野さんが語ったように自分たちの中からあふれ出るものとしての頭と心と体が一体化した聖書理解、ないし神学が、これからも神学アナロギアで議論されたことになるのであろうし、来年の神戸伝道会議で語られたらいいなぁ、その模索の端緒が開かれたらいいなぁ、と、思っている(半分、無理だとは分かっているけれども)。

         その時に、西洋の中世や西洋の近世で造られた神学をもう一度リバイバルするのではない、内生的な聖書と日本語聖書の表面表現にこだわらない、原点と聖書全体にまつわる聖書の読みに基づく、日本の神学が生まれたら、と願わずにはおられない。



        この項終わり




        2015.11.04 Wednesday

        いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(1)

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           この本、めちゃくちゃよい。そして、おそらくであるが、N.T.ライト先輩がなぜ、アメリカの福音派にこだわり、なぜ、”Simply Christian”(日本語版『クリスチャンであるとは』)を書いたのかの背景がよくわかる本である。あるいはスコットマクナイト先輩が”King Jesus Gospel” 日本版『福音の再発見』を書いたのかの背景がわかる非常に重要な本だと思うので、読みさしながら、ジワリジワリと紹介していきたい。一通り目を通してから、紹介する、というのが当ブログのポリシーであるが、そのポリシーをガン無視しても紹介したいと思ったので、例外的であるが、ご紹介する。尚、紹介冒頭から、もはや、長期戦になることを覚悟したので、シリーズ化を決定しておいた。

          本書が描かれた背景

           ところで、本書は4部構成になっているが、その構成を紹介しつつ、冒頭の『はじめに』(たぶん英語では、Preface)からこの調子である。現在、第3部に入ったあたりである。
           教会は、恵に乾いている世界に恵みを伝えるという使命を与えられているが、その仕事に失敗しているのではないか。そうした思うから本書を書く決心をした。世論調査によるとクリスチャンは良き知らせを運ぶ人々として見られる傾向がますます強まっている。(第1部)
           恵みを上手に伝えるには、どうすればいいのか。その手本を探りながら、信仰の旅人、活動家、芸術家という三つのモデルに行き着いた。彼らの生き方から、信仰に背を向けている文化に恵みを伝えるすべが見えてくる。(第2部)
           それから一歩引いて、クリスチャンにとって当り前の問い、すなわち「福音は本当に良き知らせなのか」という問いを取り上げる必要を感じた。そして、福音が本当に良き知らせであるなら、科学、ニューエイジ、その他の宗教が提供するものとの違いは何なのだろうか。(第3部)
           最後に、クリスチャンは多様な世界で混乱を招く役も演じており、それが信仰の大きな躓きになっていることに短く振れる。政治に関与しているせいで、クリスチャンはすべての人に向けられた良き知らせのメッセージをかき消してしまった、と多くの人は思っている(以下略)(第4部)
          (『隠された恵み』 いのちのことば社刊 pp.9-10)
           つまり、ポストモダン社会に一足先に突入したことを認識しているアメリカ社会(モダニスムの根源地のひとつであり、モダニズムの中で、国家を大きくし、そして、日本はこの国との関係を明治維新以来続けてきたので、カッコだけはモダニズムを経験した)でのキリスト教に関して、どのような現象が起きているのか、とそれがどこから来たのか、をアメリカという福音派の最大土壌の現場に立ちながら、その問題を紹介している。

           その意味で、本書が指摘することは、現代の日本社会で直面しているはず(そのことをとらえきれていないキリスト者は多いかもしれないが)のことであり、あるいは、これからそれに直面することが求められていくときに、日本のキリスト者(特に福音派のキリスト者)がどのように考えるべきかの、示唆を与える本であるといえよう。

           こういう本やTim Keller本を出すいのちのことば社は、個人的に好きである。その意味で、基本的に変な本もいっぱい出すけど、ときどき、こういうきちんとものを見ている本を日本語で出してくれるのはありがたい。

          アメリカでも嫌われる福音派
           本書執筆の動機として、ヤンシー先輩は次のように書く。

           本書をかこうと思ったのは、宗教専門の世論調査機関ジョージ・バーナグループを見たときに、見過ごし難い統計の数字が目に飛び込んできたからだ。1996年、特定の宗教を持たない米国人のうち、85パーセントがキリスト教を好意的に見ていた。ところが、13年後の2009年になると、キリスト教に供を好印象を持っているのは、16%の若い”アウトサイダー”(宗教に距離を置く人)だけであり、その中で福音派の人々に良い印象を持っているのは、3パーセントにすぎなかった。キリスト教を好ましく思う人の数が、比較的短期間に激減した理由を私は知りたくなった。クリスチャンはなぜ人々の敵意を書きたててしまうのか。そして、それに対して、私たちはどうするべきなのだろうか。(同書 pp.14−15) 
           1996年といえば、エリツィンが大統領選挙に再選され、ビルクリントンが大統領選挙に再選され、モニカ・ルィンスキーと不適切な関係が現大統領候補の一人、ヒラリー・クリントンにばれる前で、イチローががんばろう神戸を掲げ、オリックスブルーウェーブスが優勝し、グリーンスタディアム神戸が満席になったころである。なお、今年は、後半戦グリーンスタディアム神戸は、ガラガラであった。


          優勝した時のイチロー

          ヒラリーたんににらまれるビル・クリンたん

           2009年といえば、バラク・オバマが大統領就任式をし、マイケル・ジャクソンが死去し、新型インフルエンザが大流行した年でもあり、学校や企業ではこの新型インフルエンザで大騒ぎが起きた年でもある。まさか、バラク・オバマが大統領に就任したから、福音派に好意を持つ人が減ったわけでもあるまい。おそらく逆で、ダボヤと呼ばれたG.W.ブッシュ大統領のころに活躍された福音派の皆さんと、オバマが大統領選挙で勝利した選挙で、共和党候補であった、サッカーマム(サッカーを応援に行くような子育てに熱心な母親)と自称した、当時アラスカ州知事サラ・ペイリン(現ティー・パーティの活動家)が選挙戦で大活躍したのが2007年から2008年であったということはあるのかもしれない。


          2008 年の大統領選挙に関するシンプソンズのワンシーン



           また、この間、アメリカで公開された福音派に関する映画も影響しているかもしれない。2006年に公開されたJesus Campという作品や2002年に公開されたReverend Billy & The Church of Stop Shopping、また2007年のWhat Would Jesus Buy?なども多少は影響しているかもしれない。


          Jesus Campの予告編


          What would Jesus buy?の予告編



          本家アメリカでも凋落の危機に瀕する福音派
           いやぁ、以下の記述のような米国で凋落する福音派を描いた本を福音派に読者が多いいのちのことば社が出版したところが、意味がある。いわゆるリベラル層の読者層の多いとされる(あくまでされる、という話であるキリスト新聞社、新教出版社や教文館が出したのなら単なる自分とは違う派の批判と福音派の皆さんから見られてもしょうがないのだが、福音派に読者層の多い出版社がこの本を出したところに意義があると、ミーちゃんはーちゃんとしては思うのだ。なぜかといえば、自己批判であり、自己に正直であるからである。こういう正直な態度は非常に潔いし、とっても良心的、と思う。
          合衆国では、宗教に対する考え方に顕著な変化がみられつつある。クリスチャンは新たな試練に直面している。マーク・ヨーデルというブロガーが、テキサス州(比較的信心深い州)で行った取材に基づいて、「わが子が教会を離れるべき10の理由」を自身のウェブサイトに書いたところ、記事は瞬く間に拡散した。サイトには100やそこらではなく、百万以上のアクセスが集中した。ヨデールのことばは痛いところを突いていた。

           「言いにくいことだが、米国福音派の教会が若者たちを失ったこと、現在も失いつつあり、そしてこれからも失い続けることはほぼ確実だ。」(バーナグループの世論調査によると、若者の61%は重大の一時期教会に通っていたが、今は離れている。)何か手を打たない限り、福音派の数は減り続けるであろう。(同書 pp.18-19)

           マーク・ヨーデルは、まさに、ミーちゃんはーちゃんのブログでも上位常連のような2012年の以下の記事のような記事

          現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

          日本で非キリスト者の若者が教会に行かない6つの理由

          を書いていたころに、同様の記事をお書きになっておられたのだなぁ。さすがにミーちゃんはーちゃんのアクセス数は百万以上はいかないが、過去のを合わせれば、数千アクセス位はあると思う。

           なお、本書に取り上げられているオリジナルの記事10 surprising reasons our kids leave church.htmという2013年2月8日の記事は、オリジナルでは読めないですが、現在こちらで読めます。

           では、失ったクリスチャンの若者たちはどこに行っているのか、ということであるが、当面、クリスチャンであることをやめている場合、自分たちで、ホームチャーチを作っていたり、伝統教派(米国アングリカンコミュニオン、ギリシア正教、カトリック)に戻っている例は多いと思う。

           まぁ、これらのキリスト教の伝統教派の特徴は、個人の生活にああしろ、こうしろ、とは言わず、礼拝だけをさせてくれる、というところがあり、ある面、個人のプライバシーは確実に守られるというところがあるのだろうと思う。あっさりしているというありがたみはある。あと、これらでは聖書の説明というか説教が、5分から長くても10分程度であり、コンパクトであるし、本筋とあまり関係のない、家族の話とか、先週あったことの話とか、世の中の出来事とか、そういうもので増量(上げ底ともいう)されていない聖書の話そのものが提示されるという部分もあると思うし、また、何より、会堂に一種独特の聖なる雰囲気があり、きれいだというのはあると思う(個人的には、古い聖堂にはリズム感があるので、個人的には、お気に入り)。


          ダラム大聖堂の内部


           このことは、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeにも、これまで全く教会に行ったこともない信徒でもないライト先輩の娘さんの友人の若いビジネスウーマンが、会堂の説明を聞きながら泣きだすという話が”Surprised by Hope”の中で、ちらっと出てくるが、こういう美しさ、建物全体が醸し出す雰囲気というものは、確かに東方正教会、カトリック教会、アングリカンコミュニオンのような伝統教派の教会のほうが多いと思う。

           プロテスタント派が、文字依存になり、こういう美しいものを異教的や贅沢だとして否定することで失ってきたものをこれらの伝統教派が保持していることで、文字や音声以外の方法で神を伝えることをしているのかもしれないなぁ、と思うのである。だからといって、プロテスタント諸派の装飾を一切排除した教会堂も、それなりの美しさはあるのだが、醸し出される雰囲気は人がいて初めて、わかるということはある。まぁ、テント伝道大会(それはカトリック教徒の皆さんが永続性のある石造教会に入れるのが、カトリック教会の建物としての教会堂のみであったことへの配慮)をやってきた教派で育ったものが言うことではないかもしれないが。


          次回へと続く







          評価:
          フィリップ・ヤンシー
          いのちのことば社
          ¥ 2,592
          (2015-11-05)
          コメント:超お勧め。特に福音派で傷ついた人々に

          評価:
          N・T・ライト
          あめんどう
          ¥ 2,700
          (2015-05-30)
          コメント:めちゃお勧め

          評価:
          スコット・マクナイト
          キリスト新聞社
          ¥ 2,160
          (2013-06-25)
          コメント:めちゃお勧めしてます。

          2015.11.07 Saturday

          いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)

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             前回に引き続き、いのちのことば社刊 『隠された恵み』からご紹介したい。

            クリスチャンが悪臭を放つ?

             クリスチャンと社会との関係に関して、ヤンシー先輩は次のように書く。ミーちゃんはーちゃんが書いているのではない。
             ジャーナリストという職業がら、私は様々な場所に足を運ぶが、クリスチャンが芳しい香りを放っているところもあれば、悪臭を放っているところもある。(いのちのことば社刊 『隠された恵み』 p.18)
             まぁ、10月31日は、宗教改革記念日であったが、宗教改革前後の欧州では、あまりに悪臭を放つほどのグループがカトリック教会にいたからこそ、ルター先輩はそれに耐えかねて、大学の掲示板(たまたま教会の扉でもあった)に95カ条の堤題をお張り出しになり、カトリック教会の内部では、それとほぼ同時にロヨラ君たちがイエズス会を立ち上げることになった。英司祭の御講演(リンクはこちら)によると、どうも当時はラテン語が読めない司祭たちも結構いたらしい。

             しかし、宗教改革から500年たった現代の米国や日本や世界中のあちこちで、ときどき、クリスチャンが悪臭を放つ場所もないわけではなさそうである。

             いつもスパークリングな記事を紹介してくださるfuminaru_kさんのブログ記事 悔い改め・牧師への信頼度・中国の宗教事情でご紹介されている韓国の事例などもある。韓国に関しては新教出版社から出た最下部で紹介する『市民K、教会を出る』はその背景を示しているようだ。この本は、韓国の社会における韓国のキリスト教会の状況を自己批判的に書いている書籍であるが、『福音と世界』連載中は、この連載を楽しみに読んだものである。とはいえ、こういうことをお書きになられる人がおられるというのが、ある面、韓国キリスト教界が一定の自己批判意識を持っており、極めて穏当な体質をお持ちである、ということの証左であろうと思う。

            相手をロボット扱いするクリスチャンと人間関係
             この本の中で、ある教会スタッフをしていた人の次のような証言が出てくる。福音派のクリスチャンは、人間を人間として見ていない、という彼のバリスタ経験からのある個人が福音派に対して持ったという個人的観察の結論である。 
             福音派の減少傾向の背後にあるのは何か。シカゴ在住の友人ダニエル・ヒルに気づかされたことがある。ヒルは全米最大の教会のひとつ、ウィロークリーク・コミュニティ教会のスタッフとして働きながら、副業として地元のスターバックスでバリスタをしていたことがある。思えば、真の牧会訓練はそこで受けたものだという。
             宗教の話題が出た時、一人の客が言った。クリスチャンはまるで相手が意思のないロボットであるかのようにふるまいます。あらかじめ伝道する意図をもって話しかけ、相手がそれに賛同しないと、もう用がなくなるのです。(同書 p.19)
             結局、(福音派の)クリスチャンは、話す相手を人格的存在として人間として見ているのではなく、あくまで、伝道の対象ならまだしも、救済の対象で会ったり、自己実現のための存在として見ている可能性がある。それが、ヒルさんの顧客がヒルさんに言った『意思のないロボット』という表現は、要するに人間として見ていない、ということなのだろう。


            別にR2D2に伝道しているわけでないレイヤ姫

             これは一種のメサイア・コンプレックスが福音派の中に底流として流れているということであろうし、また、その文化的背景に関しては、Johnathan EdwardsやGreat Awaking(大覚醒運動)以来の滅びに落ちる罪人のイメージが、どこかに凝り固まっているのだと思うし、もう少しいえば、自派のあるいは、自分の所属するキリスト教会、めっちゃサイコー、という一種の視野狭窄が働いている可能性はゼロではない。

             とはいえ、アメリカのキリスト教会(福音派を含む)の中には、超教派的な特性を持つところもあり、自派のみで固まらない柔軟な人々もおられることは確かである。とはいえ、過激な人々は、確かに、伝道しなければ、という思いに取りつかれているような印象を与える人々もいて、特にメサイア・コンプレックスをお持ちの方は、何がなんでも滅びに至る人々を正さねば、何がなんでも伝道しなければ、という思いでお話しになられるので、異論でも一言話そうものなら、こちら側の対話しようとか、こちらがもう少し何考えているかお話してお伺いしようと思っても、取り付く島もなくなられるような感じの方も多い。リアルでは、こういう方に日本でも結構出会う。ツィッターなどでは、もう炎上覚悟である。しかし、このブログをご訪問になる方の大半はそうではないが。


            ポスト・クリスチャンと
            ポスト・クリステンドム
             この本の以下の部分を読んだ瞬間、この本は、N.T.ライト先輩の”Simply Christian”(日本名『クリスチャンであるとは』)とパラレルだ、と感じたのである。
             カフェで働きながらヒルが聞いたのは、信仰に対する明らかに異なる二つのアプローチだった。「プレ・クリスチャン(クリスチャンになる前の人々)」は、宗教の話題に抵抗感がないように見えた。彼らにはキリスト教への敵意がなく、自分たちもいつか教会とつながるだろうと思っていた。対照的に、「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人々)」は、宗教に対して悪い感情を抱えていた。教会の分裂、支配的な親、性的虐待の罪を犯した牧師や神父、教会がうまく対処できなかった泥沼化した離婚など、傷ついた過去の記憶を引きずっている人々もいた。過激な原理主義者やスキャンダルまみれのテレビ伝道師といった、メディアの作った否定的なステレオタイプを信じこんでいるだけの人々もいた。(同書 p.20)
             このポスト・クリスチャンは、ヨーロッパ大陸のその延長にある英国社会でいえば、ポスト・クリステンドムと言い換えることが可能であると思う。つまり、キリスト教(その内実は実に多様であるが、国によって、地域によって、時代によって、宗派によって実は違いがるとはいえ、キリスト教的な何か)が社会に大きな影響力を持っていたし、自分たちはなんとなくではあってもキリスト教徒であるという意識が共有はされていた時代というか社会(映画「戦場のアリア」で、クリスマス休戦の時にヨーロッパの士官クラスの共通言語であったラテン語ミサがささげられる世界というか社会)が、2回目の大戦を経る中で、キリスト教界が変質し、まともなキリスト教徒もおかしくなっていく経験をした後、キリスト教界がヲワコン宣言(意味のない、無意味になってしまってあまり相手にされないコンテンツであるという宣言)されてしまった社会がポストクリステンドムだろうと思う。その中で、キリスト教がなお意味を持つ、というのを説いたのが、N.T.ライト先輩で、そのことを書いた本が、『クリスチャンであるとは』だと思うのである。

             これに対し、個人としての「ポスト・クリスチャン」は個人として、キリスト者であること、クリスチャンであることにヲワコン宣言した人であると言えると思う。つまり、意図的にクリスチャンであることをやめてしまった人であるように思う。あるいは、神との霊性という水道のバルブを自らしめてしまった人であるといってもいいだろう。あるいは、神とのバルブは開いていたいのに、教会や他のキリスト教徒の関係で、神との間のバルブをあけ続けることが困難になり、キリスト教との関係を主体的に切らざるを得ないため、神との関係を主体的に切っていった人々はおられると思う。

             まぁ、マスコミのヲワコン宣言(主として、メディアの作った否定的なステレオタイプ)を信じ込む人々は、どこにでもいる。普段は、カトリックなど目の敵にするキリスト者の人々が民放の番組でカトリックのシスターが取り上げるや否やあたかも旧知の関係のごとく非キリスト者の友人に語る人々や、日本キリスト教団の関係者を蛇蝎の如く目の敵にしながら、国営放送ではないというものの予算が国会で審議されるという実にわけのわからない某放送局で流れるや否や、普段蛇蝎のごとき扱いをしている教団に連続ドラマで取り上げられる主人公が所属していたことは無視して、キリスト者である点だけをもとに話をする人々(時に、それも蛇蝎のようなことをご発言になっておられる教会の中でお話しされる方々)もおられる。こういう方を見れば、メディアを利用しているように見えて、メディアに振り回されている人々と大して変わらない。そんな鼻で息するものに依拠しなければならないほど、われらの神は非力なのか、と思わざるを得ない。

             過去の偉人やテレビで取り上げられた香り良いと思われている人物に依拠することなく、自らの生きるその姿、それがいかに無様なものであろうと、その生きる姿をキリストにあるものとしてお示しになられればよろしいと思うのだが。そのほうがよほど真実味がある、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんの性格が歪み、曲がっていることの証左であろう。

            プレ・クリスチャンと日本人
             以下の文章で、ヤンシー先輩が言っておられるプレ・クリスチャンという概念は、日本のような異教社会の中でのコンテキストではなくて、従来キリスト教世界に神話的であったアメリカ的な文化コンテキストの中でのご発言である。

             同じプレ(前の、とかそれ以前の、という意味がある語)でも、日本の場合は、異教としてのキリシタン史があり、プレでも、キリスト教に一種の偏見つきの地域と歴史が日本という国にあって、また、信仰(あるいは信心)であれば何でも同じジャンルでくくるという精神世界の傾向が日本にはあるかもなので、ヤンシー先輩の議論には、日本のある地域と歴史的時間にあっては不適合を起こすように思う。その部分を引用してみたい。
             一方で、米国南部と中西部には、信仰に偏見を持たない地域が多く、「プレ・クリスチャン」と言える。宗教色の強い南部で育った私は故郷に帰るたびに、宗教に関する温度差を感じている。バイブルベルト〔訳注・キリスト教原理主義者と言われる人々の多い米国南部と中西部〕はおおむね福音の枠組みは受け入れている。神は存在し(米国通貨が「われらは神を信ずる」と宣言しているではないか)、私たち人間は罪を犯した存在である(今でも南部では、納屋や看板に「悔い改めよ」)」や「イエスが救ってくださる」というスローガンを見かけることがある)。(同書 p.20)
             確かに、以下の図で示すように、10ドル札の裏側の建物の上には、In God We Trust(我らが信頼をおく神の名において、〔この通貨を発行する〕)とは書いてあるし、裁判所の入り口や裁判所の法廷内にはたいていこの文字が書いてある。こういうものに触れている社会で、基本キリスト教の信念に基づき建国の父たちが国家の基本設計図を作ったことは影響していて、基本アメリカ人はキリスト教が影響していた時期の遺産を引き継いでおり、キリスト教に対して親和性が高い(だから、アメリカ人に生まれたからキリスト教徒という人が一定の割合を示す)人々である。


            10ドル札、 この札の裏面(下側の図)には、 In God We Trust って書いてあるし



            裁判所の入り口上部に掲げられている In God We Trust


            「イエスは救う」
            という主張をしているアメリカのインターステート付近でよく見る種類の看板

            Repent! Jesus is coming soon
            「悔い改めよ、イエスはすぐ来られる」の看板

             ここで、ヤンシー先輩の構図というか、そこで紹介されているヒルさんの分類のアメリカ型のキリスト教にまつわる分類学的な構図はこんな感じかもしれない。もちろん、その人の背景、つまり、地域や民族的背景によって異なる。

            アメリカ型

             プレ・クリスチャン      
             (なんとなくクリスチャン文化的)
               
             クリスチャン

             (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
             +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
              この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
              おひとり様クリスチャンなども含まれる
               
             ポスト・クリスチャン

             (教会に飽きてしまったり、教会に失望した結果、
              意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
              社会の少数派を自覚的に選択することになる
            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            ところで、これが日本だとどうなるか、ということを考えてみた。



            日本型
             日本型のキリスト教的な構図はこんな感じかもしれない。

             プレ・クリスチャン
             (なんとなくキリスト教的なものに距離や納得できないものを
              根底のところで感じている人が大半の非キリスト教文化的)
              ↓
             クリスチャン
             (個人的な経験や個人として信仰をもったクリスチャン・
              第1世代は確信犯的にキリスト教徒になったという印象が強い)
              この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
              おひとり様クリスチャンなども含まれる
              ↓
             なんとなくポストクリスチャン
             (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
             なんとなく離れているだけの元キリスト教徒)
             社会の多数派を何となく無自覚に選択
              ↓
             ポスト・クリスチャン
             (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
             社会の多数派となり、宗教性をあまり意識しない

            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            日本型(クリスチャン2世)
             日本のクリスチャン2世の場合、こんな感じかもしれない。

             プレ・クリスチャン      
             (なんとなくクリスチャン文化的)
              ↓  
             クリスチャン
             (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
             +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
              この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
              教会嫌いなクリスチャン、おひとり様クリスチャンなども含まれる
              ミーちゃんはーちゃんは今ココ
               ↓
             なんとなくポストクリスチャン
             (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
             なんとなく離れているだけの元クリスチャン、あまりプレクリスチャンと差はない)
              ↓
             ポスト・クリスチャン
             (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々であるがそれほど批判的でもない元キリスト教徒)
             社会においても、教会においても少数者

            ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

             まぁ、単純な図式化や一般化は危険であることは十分承知しているが、そうはずれてもないようにも思う。


             欧米型の場合、どうポストクリスチャンへのアプローチをしていくのか、日本型の場合、何となくポストクリスチャン、元日曜学校や教会学校の生徒、元ミッションスクールの生徒や学生に、特に、教会であまり愉快でない思いを経験した人々にどう対応していくのか、ということが現在のところ、求められているのかもしれない。


             次回へと続く







            評価:
            フィリップ・ヤンシー
            いのちのことば社
            ¥ 2,592
            (2015-11-05)
            コメント:めちゃくちゃいい。

            評価:
            金 鎮虎
            新教出版社
            ¥ 2,592
            (2015-02-20)
            コメント:韓国のキリスト教の韓国人の視点からの解説。

            評価:
            ジェイムズ バード
            教文館
            ¥ 1,944
            (2011-03)
            コメント:翻訳であるが読みやすい。

            2015.11.09 Monday

            いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(3)

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               これまでの過去記事に引き続き、今回のヤンシー先輩の本『隠された恵み』からご紹介していきたい。まず、今回の話は、キリスト者がポスト・クリスチャンの社会の中で、どういう扱いを受ける存在になっているのか、をヤンシー先輩がお書きとめになった部分からである。

              壊れたスピーカーから流れる割れた音楽…
               以下の部分で、ヤンシー先輩は結構厳しいことをお書きである。
              (発展途上国などで非常な過酷な環境の中、人々に仕えている神の民、クリスチャンを訪問する ミーちゃんはーちゃんによる注記)旅から戻ると、自分の国の人々がクリスチャンの悪口を言っていることにショックを受ける。同じ音楽でも「ポスト・クリスチャン」の耳には、壊れたスピーカーから流れてくる割れた音のように聞こえている。(『隠された恵み』p.22)
               これ、あるんだなぁ。たとえば、クラッシック音楽でも、演奏者(あるいは指揮者)によって音楽の解釈が違うし、聞く手段(FMで聴くのか、AMで聴くのか、ネット放送で聴くのか、あるいは、ラウドスピーカーで聴くのか、・・・・)に拠っても印象が異なる。仮に、同じCDやレコードなどの音源でもスピーカーやヘッドフォンなどが変わると違う印象を持つ。それと同じように、聖書が伝えようとしているナザレのイエスが神であり、王であり、キリストである、そして、神はわれらとともに居ようとしておられる、という基本的なメッセージは同じつもりであっても、その表現の仕方によって受け取ってもらえるものも受け取られにくいのかもしれない。

               この部分は、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』(原著 Simply Christian)の第2章の水道のたとえとパラレルであろう。もともと、清らかで人に喜ばれるような泉の新鮮な水を供給していた水道が、メンテナンスの不良やその後付いてしまった様々な不純物の結果、とても飲める水のようでないものになったという記述である。

               ところで、世の中は、パッケージいのちの社会である。パッケージングを間違えれば、売れるものも売れないのである。中身の質とは関係なく、パッケージがものを言うのである。まさに、国際的バイオリニストがNYの地下鉄で、無名の音楽家のふりをして演奏していたら、気がつくのは子供だけである、という事実もある。人間の認知と認識は、パッケージで安易に支配されるのであり、案外余分な知識がその支配を生みだすのである。個人的には、うまいもんはうまい、のであり、あんまりパッケージに惑わされたくはないと思っているが、そういう人は少ないのかもしれない。




              威圧的な人間と理解される福音派
               まぁ、福音派の人々はジョナサン・エドワーズ時代以来(ジョナサン・エドワーズに関してはこちら 福音派が生まれたころの世界むかし話(3))伝統的に罪の裁きを語る人々が多い。まぁ、罪の問題は神の目から見たら許されざることではあるが、それはあくまで神の目においてであって、それを人間が他人のことを云々するのはいかがなものか、とも思う。
               罪を語る福音派の人々は、口やかましい威圧的な人間という印象を与えている。(中略)だいたい何が真実であるかを、だれが断言できるというのか。豊かな国に暮らし、この世を楽しむことに熱中している人々は、死後の世界に無頓着だ。そして、宗教こそが狂信主義や戦争の主な原因であり、すべての宗教を悪い知らせとして非難する新たな無神論者も出てきた。その人たちは、人類がいつか宗教を必要としなくなる日を待ちこがれており、その中には、9.11の暴虐を”信仰に基づいた出来事”と呼ぶ人もいる。(同書 pp.22-23)
               しかし、ここで、ヤンシー先輩がお書きになられたように確かに威圧的な人々もいる。こういう人は、本当に確信犯的に下記の写真のような顔をして自分が好きにさばいていいと思っておられた方もおられるようだが、そのさばいた刀で自分もさばかれて、三枚におろされてしまった方もおられたようである。段平はあまり派手に振り回さぬほうがよいようである。


              確かに威圧的に他人の同性愛を哄笑的にさばいたテッド・ハガード君
              そして、後年、自身の同性愛が暴かれてしまって、困ってしまった模様

               とはいえ、死後の世界に無関心だ、というのは、確かの近代合理主義、観測主義、科学主義の背景にある唯物論がそういう性格を持つので、仕方がない。そもそも、自分自身で両手両足を縛っておいて、その中でしかものを考えないのが、近代合理主義、近代観測主義、近代科学主義であったし、であるがゆえに、クォークとか、量子力学みたいなものは、その概念が主張されたころには哄笑されたし、従来の概念でないものは哄笑された。とはいえ、それが間主観的に確認されれば、その存在を認めるというところは、科学の良さではあると思うが、大概の場合、地震の観測手段に縛られているという意味では、科学には限界があるが、それがその業界の標準なので、致し方のない部分ではある。

               上記の文章で、

              宗教こそが狂信主義や戦争の主な原因であり、すべての宗教を悪い知らせとして非難する新たな無神論者も出てきた。

              という記述があるが、これは、昔からある非難の一つである。ところが、実際の紛争を仔細に見ていると、おおむね、何らかの不平等な扱い(それは、経済的、政治的な扱いの結果であることが多いが)があり、その不平等な扱いを実施するためのわかりやすい識別子として用いられるのが宗教というだけである。その意味で宗教が単に区別する要素として利用されているということだと思う。

               また、すべての狂信主義は宗教由来だということでもない。近代の例でいえば、ナチスドイツは宗教というよりは、自国中心主義が核であったし、明治維新も、神道による狂信というよりは、自国の伝統的思想や天皇中心主義は手段として、現状を変革するためのわかりやすい識別子ということだけであった。そのため、尊王は残すが上位は捨てている。その挙句の果てに、明治維新は、のちにそれは天皇崇拝と自国中心主義として結実する。一種の歪んだ中華思想であったと思う。政治的な主張でも、狂信主義は生まれるように思うのだ。アジア圏における一種の過激な反日思想も、経済的な不振のルサンチマンというか、はけ口としてものであり、宗教的な背景はかなり薄いと思う。

               アメリカに対する戦争状態を生み出した911事案は、アメリカに裏切られたアフガニスタンやその隣接諸国、とりわけ石油などの戦略的資源を産出しえないがゆえに、貧しさを抱えたイスラム諸国圏のなかでも、経済的利益あるいは権益の点で、その配分にあずかれなかった人々のやけっぱちの反動という側面もあるように思うのだ。それを単純に宗教的なものであるとするのは、あまりに短絡的であり、単純化し過ぎであると思う。むろん、宗教的な要素が皆無だとは言わないが、それに帰するのは、あまりに単純化された議論でしかない。

              ポスト・クリスチャン
              ポスト・クリステンドムの西欧

               たまたま、中東に近く、イスラム世界からは地理的な要因(地中海、アドリア海、アルプス、また東欧の地峡帯)で移動が阻まれていたイスラム世界からの移動が制約されていた西側のヨーロッパは確かにヤンシー先輩がお書きのように長らくキリスト教の中心地であることを歴史的には続けてきた。まぁ、クリステンドムが成立・継続していた地域である。

               歴史上長くキリスト教の中心地であったヨーロッパでは、信仰について考えもしない人が多い。フランスと英国で撮ったアンケートによると、神の存在を信じている人は3分の1もいるかどうかだ。フランスを訪れたとき、フロリダで伝道活動をしたことのあるキャンパス・クルセード(現在はCru)のワーカーと話した。クリップボードを片手に、見ず知らずの人に歩み寄ってはこう尋ねたという。「死んだときに神様に、お前はなぜ天国に入れてもらえるのかと聞かれたら、何と答えますか。」フロリダでは様々な答えが返ってきたが、フランスでは空虚なまなざしを向けられたという。フランス人に同様の質問をすることは、ウルドゥ語〔訳注:パキスタンの国語であり、インドのイスラム教徒のことば〕で話すようなものだった。(同書p.23)


               まぁ、ヨーロッパがキリスト教について、また、信仰について考えないで済んでいる背景には、これらの国では文化としてのキリスト教になっている場合と、また、国家を支配したキリスト教や文化の中に入り込んでしまったキリスト教をテロルさえ用いながら否定しようとした背景と、近代を支配した価値観が大きな価値を持った国家とか、さまざまなことがあるかもしれない。

               ここで挙げられているフランスとカトリックを中心としたキリスト教は、実に非常に複雑なのである。そもそも論として、教皇をアヴィニョン捕囚してみたり、政治的な枢機卿(三銃士では敵役)がいたり、フランス国内のみならず、当時のフランス領であったフロリダやルイジアナ(ルイ国王の土地、という意味)といったアメリカでもユグノー(改革派の皆さん)を殺戮しまくったりという黒歴史があるうえに、第1次、第2次世界大戦際の調停役を期待されながらも、うまく機能しないし、個別の例外的な事例はあるにせよ、政権支持に回る気骨のない教会の姿を見せられたら、そらぁ、文化として生き残ってくれるのは構わないけどなぁ、という雰囲気になるのは、わからなくはない。まぁ、これまでのキリスト教がフランスにもたらしたものを考えるとき、冷たい目を向けられても仕方がないところがある。この辺、歴史にしみついたキリスト教の汚点のネガティブさが身体や思想の伝統にしみついている部分があることはいなめないと思う。

               まぁ、アメリカ建国も、こういうめんどくさい過去の黒歴史を清算あるいは決別したくて始まった部分(とはいえ、現代的な観点からは完全に決別ともいえないので、時に問題が宗教的理解にかかわる政治問題として浮上したりもするが)もあり、フランスほど血まみれな歴史(イギリス人曰くBloody History)を経験してない分だけ、こういうことに関する議論が延々と続く部分もアメリカ合衆国ならではのような印象もある。


              非常に政治的でもいらしたリシュリューさま

              米国でのクリスチャン文化と一般社会
               前回の連載で、アメリカ人は、1セントコインから100ドル札まで1955年以降、法律でIn God We Trustと表記することが定まって以来、すべてのコインや通貨にこれが刻まれていたり、裁判所の壁には、In God We Trustはかかれているほどであり、キリスト教が影響を持ち続けている米国社会で、ヤン氏―先輩の次の一文『米国では、クリスチャンと一般社会の文化の隔たりは際立っており、そんな中でもクリスチャンは米国でそれなりの力を持ち続けている』にはちょっとびっくりした。

               米国では、クリスチャンと一般社会の文化の隔たりは際立っており、そんな中でもクリスチャンは米国でそれなりの力を持ち続けている。クリスチャンの中には、自分たちとは異なる人々に厳しい裁きを下すことで、その隔たりに対応している人々もいる―福音派の人々が好ましくない評判を得ている理由の一つである。そのような評判を聞くと私は縮こまり、自分の信仰について大概黙りこくってしまう。そのどちらの態度も健全とは言い難い。
               イエスは弟子たちに、乾いている世界に神の恵みを届けるという途方もない特権を与えた。私はその恵みにたっぷり漬かった一人として、さまよう世界に恵みを差し出したい。私たちはどうすれば背を向けている文化に、真の良き知らせを伝えることができるのだろうか。(同書pp. 23-24)

               たしかに、キリスト教文化は支配的(それなりの力をクリスチャンは持っている状態)であるものの、ユダヤ教徒も一定程度おり、また、キリスト教を意識しない一種無神論的な生き方が許容されているものの、日本よりはよほどメジャーであるからだ。教育から消費社会にいたるまで、よほど影響されているが、しかし、非キリスト教的な伝統もアメリカ社会に入り込んでいることも事実である。

               この部分を読みながら、ある面、あぁ、あるあるだなぁ、と思ったのは、自分たちとは異なる人々に厳しい裁きを下すことで、その隔たりに対応している人々もいる―福音派の人々が好ましくない評判を得ている理由の一つである という部分である。イエスは、ご自身に意見を求める人々に、だれがわたしをあなた方の裁判官や分配者に立てたのか(ルカ12章)でおっしゃって、このようなことを避けたにもかかわらず、異なる理解の人々をさばくことで、聖書と社会の間の隔たりに対応しようとされた方ではなかったようである。このあたりの指摘は極めて重要ではないか、と思った。こういうことを素直に認めることはかなりつらいがヤンシー先輩がしておられるように、個人としても過去から現在に至るまで、こういう好ましくない評判を得かねない言動があったことは、認めざるを得ないとは思う。

               ところで、ここで乾いている社会という記述を見ながら、ナザレのイエスが言った『いけるいのちの水」というメタファーやSimply Christian『クリスチャンであるとは』第2章の水道のたとえなどを思い起こしてしまった。ところが、この渇きが標準とされており、それに耐えることをよしとする近代社会という問題があるように思う。つまり、近代という社会においては、乾いていることを善とし、当然とし、乾いているという認識を持つことすら容認しなかった社会、日本社会も同様な部分があるが、そのことに興味すら、関心すら向けない現代人にどのようにこのいける水を提示するのか、というのは大きな問題かもしれない。


                次回へと続く。





              評価:
              フィリップ・ヤンシー
              いのちのことば社
              ¥ 2,592
              (2015-11-05)
              コメント:絶賛ご推薦いたしております。

              評価:
              ジェイムズ バード
              教文館
              ¥ 1,944
              (2011-03)
              コメント:めちゃめちゃ読みやすくて、面白い。

              2015.11.09 Monday

              近代・西洋・開発あるいは発展という神話と銀座と教会

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                 調子にのって近代にまつわる記事を書いていたら、Bluebelleさまがおもしろい記事をお書きであった。開発、あるいは、発展をどうとらえるのか、そして、それを開発援助や国際協力と呼ばれる問題と含めてどう考えるのか問題として考える論考をBluebelleさまははじめられたらしい。大変面白く拝読している。

                ミーちゃんはーちゃんと開発理論

                 ミーちゃんはーちゃんも、一時期はまじめに、地域経済学というものの関連分野として地域発展の問題に関する経済学的アプローチ(いわゆる開発経済学のごくごく初歩)を勉強したこともあるので、なんとなくでしかないが、勘所は分かる気がする。

                 ある理想状態があり(なぜそれが理想なのかは、経済学は言わない。価値判断を捨てているから、という設定であるし、なぜそれが理想であるかということが言えない背景としては、実はその体系内からは出てこないメタ概念であるから、というのが一番妥当な理由だと思う)、ある理想状態に到達するためには、どのような経済政策をとるべきか、というような学問体系である。もちろん、近代経済学(今考えるとモダンに支配されているなぁw)、あるいは新古典派的経済学(要するに非マルクス経済学の数理経済学位の意味)の体系の枠内で考える研究をしてきた時期がある。こういう研究は60年代から80年代前半にかけて、かなりはやった。

                経済学と発展理論

                 ところで、これらの議論では、世界は一様で、お金と効用、ないし社会的厚生いう用語で社会を分かった顔して説明し、わかったような気分になっていたが、現実にはモデルは、経済モデルであっても、シミュレーションモデルであっても、風洞実験モデルであっても、大なり小なり現実を捨象している部分があるので、モデルで得られた結果をそのまま適用できるほど、甘いものではない。さまざまなモデルが現実を説明するために作られていったが(ちょっとは自分でも作って論文のようなものも書いたが)、現実に近づけようとすればするほど、何が何だかになる(これはすべてのモデルに付きまとう問題である)ので、そういうことをしなくなった阪神大震災以来、20年以上がたった。しなくなった理由は明らかであって、阪神大震災に際し、あまりにそういうモデルそのものの無力さ、無効さを目の前の泥まみれ、煤まみれ、空腹に苦しむ被災者の方々を見て思ってしまったからではある。

                 ところで、特に世界銀行とか、IMFとか(国連を含め)は、金融とかという側面でしかものを見ないので、それぞれの国の経済の問題を矮小化している気がしている。そして、モデルや理論が示すとおりに世の中がならないので、そういう組織やその周辺では、Bluebelle様のお読みになられたと思われる書籍(これは読んでないのでよくわからないが、まぁ、この手の議論はいっぱいあるのでおそらくそうだろうとタイトルを見て見当をつけただけだが)では、その原因を文化に求めたりしてわめいている、ということはあると思う。

                 そもそも、経済学なんかのモデルが完全であろうはずもないから(それはやってたからある程度わかる)、個人的にはモデル自身の問題があるんじゃない、と言いたくはなるが。まぁ、学者の皆さんは、完全であろうと一生懸命頑張って様々のモデルを昔から今も作っていろいろやっているが、社会現象は人が絡むこともあり、そうは単純に動いてくれないとできている。だからこそ、学者の飯のタネは尽きないのであるが。

                発展の目標点と文化
                 ところで、この種の経済発展モデルを考える上で、西欧型社会にキャッチアップしない社会に関して、Bluebelle様は面白いご指摘をして居られる。文化だけを悪者にしてよいのか問題に関するご指摘である。
                西欧社会モデルへと到達しない理由を、文化との整合性の欠如に求めている。そういう面は否定できない。しかし文化と認識されるものの内実は、実はそんなに整合性のあるものとは限らない、とか、文化というものを理想化し過ぎである、とか、文化が記述者によって恣意的に書かれてきた、とか、文化集団の特定の人の 代表性をもって文化を定義している、といった批判が80年代に渦巻き、文化がいかに記述者によって「構築」されているかに意識的にならざるを得なくなった(脱構築
                 確かに、文化とか文明とか、人の理解力はそれまでにその個人、社会が対応してきたことに大きく依存する。一種歴史的過程に依存的であるし、それは、また、自然環境の中でどういう経験をその社会集団がしてきたか、それにどう対応してきたかに依存しているように思う。また、その中の個人や社会の一つ一つの決定がそれ以降の行動に影響してきたともいえ、そうなるとパラメータは複雑で、不可逆性がある(要するに覆水盆に返らず、前から後ろには行けるが、後ろから前には行きにくい)構造をもっているため、モデルとしては非常に扱いづらい。数学や物理の問題よりはるかに複雑なのである。まぁ、西洋人にとって理解し難いものが文化(そもそも、理解する気も体力がない人もいる)だから、これらの解けない問題の責任を文化に押し付けているような気がする。

                 ところで、そもそも論的な問題として、「西欧社会モデルに適応したり、先進地と呼ばれるところも状態に到達した利する必然性って何よ、その根拠って何よ」っていうことはもう少し考えられてもいいかもしれない。そういう疑問や問題意識を容認せず、西洋的な発展を享受することがすべからくよいことだ、とすることがモダンの思想に染みついている根源的にいやな部分であると思っている。これは、理想の万国万人共通の歴史性や時間性を抜いた教会モデルを置き、それがないにもかかわらずそれに向かって突進していく、ということで苦しむ教会は案外多いのではないか、と思うのだ。みんな100点を目指しすぎ。80点や60点でいいではないか、と思う。

                 なお、歴史的には、西洋を理想化する目的の意味は明治のころにはちゃんと理由があったのだ。そうでないと西欧列強から植民地にされてしまう、という危機感があって、西洋化、近代化は日本国民が植民地化されないための絶対善であったのだ。和魂洋才というでたらめなことを言いながらも、いわゆる近代化、西洋に比肩することを目指して突き進んだのだ。近代とは、坂の上の雲のようなものであったのだ。

                 そこでやめときゃよかったのに、近代化が進む中で、日本はお近くの国を植民地化したいなぁ、という野望をもってしまってその不幸の負債を今も負わされているのか自主的に負っているのかは別として、周辺諸国間にややこしい問題の火種をもってしまっている。

                 まぁ、そら、アイルランドを植民地化したイングランドは恨みをいまだにちらっと買っているし、スコットランドはイングランドに併合されたのが気に食わないので、自治政府問題が時に噴出する。ドイツとフランスは、どう見ても未だに仲良くない。お近くの国同士のもめ事はそれこそ普遍的なことかもしれない。


                商業的発展と銀座
                 ところで、開発経済学とか脱構築とか、Social Constructionとか、難しいことは無視して、発展とか、開発を日本国内という枠組みで簡単に考えたければ、銀座という語を考えれば良い。

                 我が国の中には、銀座はいやになるほどあるのだ。○○銀座、あるいは銀天街とか、地方に行けばいくらでもあるし、都内には、戸越銀座(江戸を越えるあたりにある銀座)とか、金町銀座とか、目黒銀座とか、結構あるあるなのである。調べたい人は、こちらをどうぞ。

                 つまり、東京の銀座レンガ街計画(当初は閑古鳥は鳴くは、在庫品は痛むわと散々だったらしい)がもたらしたような経済的繁栄を願って、銀座という名前を冠した商店街はやたらといっぱい全国に出現したのである。その意味で、銀座は商店街にとっての目標点であり、○○銀座という名称は、銀座を目指して、近代化を目指して商業的な発展や開発が目指されたことの象徴なのである。

                 その意味で、各地にある○○銀座という名称は、東京の銀座が先進であり、日本の地方部は後進であるという構造を自ら吐露したようなものである。


                銀座行進曲(銀座後進曲ではない)

                後進国、先進国、厚生経済学
                 今では、後進国という語を用いずに、政治的な正しさ(Political Correctness)から、発展途上国と学校でも教えるようになったが、先進国という語も、この一種のマルクス経済学的な発展史観(ある面で、これは、社会的な進化論に依拠していると思うが)に影響を受けた語であると思う。だからかどうかは知らないが、社会の最先端を行く雑誌としてJR東海の普通車で売られているWedgeという雑誌ではないが、社会の最先端を行っているという気分からか、共産党の機関紙の一つに前衛という雑誌がある。皆さん社会の最先端がお好きなようである。個人的には、めんどくさいだけだと思っているが、それでは評価されないことも確かではある。

                 まぁ、個人的には、先進国とは言わず、なぜか経済的には儲かってる国、経済的に他国から富を奪うことをしてきた国家、と露骨に言えばいいだけのことであるとは思うのだが。あまりに露骨過ぎて、これは失敬。

                 経済学的にいえば、アダム・スミス的な古典派経済学が主張する市場メカニズムでは、富の公正な分配に失敗することが存在することは歴史の示すところ(だから、ガンジー先生はお怒りに…)なので、新古典派経済学が生まれ、厚生経済学(社会全体の構成をどのように考え、それがどうしたらより大きくなるか、つまり、国民とか、世界中の人とかが食べたいと思うようなパイというか、ほしいと思う富というかの大きさをどうやれば増やせるか、そのおいしいパイ(富)を誰にどう切り分けたらいいのか、を考えるタイプの経済学)にそれが影響してきているだけの話なのだが、開発経済学ではモデルで使う単位として、お金という単位でしかパイを測定しないという単純化をしているので、基本的にお金持ちがよいということが暗黙の想定として含まれている。

                近代化と商店街
                 商店街では、いまだに商店街近代化に関する補助金行政が一部にあり、藤岡市に恨みも何もないが、商店街の近代化などにまつわる条例などがある市町村もある。例としてリンクを上げておく。

                 昔は、アーケードとか、商店の電子レジスタ(なんと懐かしい響き 今でいうPOSレジ)の導入や陳列棚とかに利用されたこともあったようだ。そういうのがないのが後進性の象徴とされた時代も日本ではあったのだ。そもそも、今は、その補助金の受け手である商店街そのものがシャッター通りになり、全国どこにでもAEONさん等の流通事業者の皆さんがショッピングモールを作ってくださっているが、基本民間企業の活動としてご運営なので、もうからないとなればとっとと撤退もしてくださる。これまた、一種の近代の経営にまつわるモデルの一つでもある。

                 ところで、未だに地方議員や国会議員は視察というのをやる。なにやら先進地に行って、調査をすることで先進事例を学んで、考える素材を得るために視察することが必要だ、ということで実施されるらしい。その価値は否定しないが、その現地でやっているフォーマットというか、先進的な、あるいは近代的なテンプレート(アイディア)をそのまま持ち込んで(有体に云えば、ぱちって(棒読み))、地域の活性化などできるはずはない。

                 問題は、テンプレートやフォーマットがどのような現地の環境から生み出され、どのような環境であるからあるフォーマットやテンプレートが実施され、ある地域にどのように有益であり、どのような背景から生まれたのか、を見極め、検証し、そのテンプレートやフォーマットの移植条件として、対象がそれに適合的かどうか、どのように対応する地域に適応していくのか、ということを検討することは重要だと思う。

                 これまでのように、単に移植して失敗したできて数十年後には閑古鳥が鳴く全国各地に存在する○○銀座化する愚を防ぐために、かなり重要ではなかろうか、と思っている。大概、成功例の2匹目のドジョウ的なデッドコピー型の移植はうまくいかないのである。

                近代アメリカと巨大科学
                 Bluebelleさんのお書きになったものを拝読していると、どうも以前に参加して居られた教会は「大規模で派手なモデルを目指した目標」を高く掲げて居られた教会であった模様である。

                 これは、ある面、1970年代、アポロ計画で人間を付を送り、巨大な石油コンビナートをつくり、「大きいことはいいことだ」を目指した、アメリカの科学技術万能の時代、近代の思想の極みにおいて、「是」とされた、というよりは「善」とされた概念と符合する。巨大科学というものが賛美された時代であり、このことは、レーガン政権のころまで続く。挙句の果てにスターウォーズ構想というろくでもない構想まで生まれてしまう。


                SDI(通称スターウォーズ計画)概念図

                 レーガン政権、パパブッシュ(ジョージ・H.W.ブッシュ)大統領のころには、双子の赤字や麻薬問題への対応でアメリカ国内は汲々とし、仮想敵であったソ連が勝手に東ヨーロッパ諸国で自滅してしまったためと、その時の戦争が、ロシアのような大国でなく湾岸戦争関係諸国であったがために、結果的には何となくシステム全体が巨大でなくても必ずしもよくなり、それよりも小さい政府でくるくる回しましょうぜ、という機運が高まってしまった。とはいえ、アメリカ人は一種男くさいものをよしとする文化があるので、未だに巨大構造物とか巨大なロボットみたいなものが好きなところはある。

                 その意味で、その前の記事でお書きのように、Bluebelle様が居られた教会は、ある面、1970〜1980年代初頭位までのアメリカを支配した巨大さ、科学中心主義、計数中心主義の中で生まれた教会論であり(ヲワコンになりつつあるとはいえ、未だにアメリカではそれに支配されておられる人々はあるが)、当然のことながら、規模的拡大を求め、大規模なものがよい、という精神構造をもつことになる。


                違いを認めつつ、神の民として生きる神学の模索
                 西洋、中でも、新興国であるアメリカモデルは、普遍性をその暗黙の前提に置く。同じようにやれば同じように野菜が育つ(土壌や土統、微気象や微気候が違っても)という前提でシステムを構成する前に想定するので、その均質性を前提としたモデルが持ち込まれることになる。その結果、うまくいかないと、Bluebelle様ご指摘のように、

                「アメリカになるべく努力しているのにそうならない、おかしいな」

                となるわけである。当たり前である。素材が違うので同じレシピを使っても同じ味にならないことに気がつかない方がどーかしている(以上棒読み)、とミーちゃんはーちゃんとしては思う。

                 その挙句の果てが、Bluebelleさまによれば

                あちらからは伝統文化は危険だと言われ、こちらからは神学は危険だと言われ、ほかの人は非西洋は危険だと言い(失礼な…!)…


                というご発言を拝聴できる模様である。

                 ところで、拝読しながら思ったのは、まぁ、何とBluebelle様は思いやりにあふれた方なのだと思う。だからこそ、

                教会の中核にいる人は立っているだけで精一杯だったのだと思う。

                と、その教会の中核に立たされた方々へのコンパッションというか、シンパシーをもってお書きになっておられるようである。

                 アメリカ型特殊モデルや日本型特殊モデルを様々な環境パラメータ(環境要因、文化的コンテキストや地域の人的、知的資源)を正確に把握せずに単純移植しようとして失敗していった発展途上国援助と同じ構造が、Bluebelle様の日本の教会で起きたことだったのだと思う。その悲劇に巻き込まれたBluebelle様、また、その教会関係者の方には、衷心からご同情申し上げる。案外同様のことは、日本でも起きているのかもしれない。形を変え、姿を変えながら。

                 個人的には、皆様日本語で読める聖書をお持ち(無論、日本語で読んだ結果が聖書の原典の趣旨や意図と同じということは保障されないことは一言申し上げておきたい)なのだから、その聖書が全体としていおうとしていることを、とっとと御自分でお考えになるなり、西洋は腐っても2000年くらい、必死で聖書テキストと身を削る思いをしながら格闘された聖書理解の試みの歴史(神学の歴史)があるので、その中で主張されたことの背景を含め、そのご主張を概観されるなりして、ご自身のモデルの参考程度(あくまで参考でとどめるほうがよいと思う)にしながら、キリスト(メシア)による様々なことからによる捕囚状態からの解放という聖書の中心的テーマに焦点を当てながら、自分たちが神の民としてどう生きるのか、をお考えになればよろしいのではないか、と思う。

                 無味乾燥な(実はかなり無意味な)すべてのものにすべからく当てはまるタイプの普遍的な神学を確立しようとするのではなく、絶えず現代(それは時間がある限り変化が続く)に生きるキリスト者の生き方としての神学を模索し、その神学(というのが大仰ならば、聖書理解とキリスト者の生き方)に常時修正と変革をご自身たちでお加えになりながらお進みになられることを願ってやまない。

                 







                評価:
                司馬 遼太郎
                文藝春秋
                ¥ 5,513
                (2010-07-15)
                コメント:面白かったです。まぁ、司馬先生のファンというのもあるけど。

                2015.11.11 Wednesday

                いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(4)

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                   これまでの過去記事に引き続き、今回もヤンシー先輩の本『隠された恵み』からご紹介していきたい。

                  対話の必要性

                   まず、今回の話は、キリスト者がポスト・クリスチャンの社会の中で、どういう扱いを受ける存在になっているのか、を我々がもう一度きちんと受け止め、ディスって終わりにするのではなく、対話をしていくことの必要性について、ヤンシー先輩がお書きとめになった部分からである。
                  クエーカーにこんなことわざがある。「敵とは、私たちが話を聞いたことがない人のことである。」「ポスト・クリスチャン」と意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知らなければならない。そうした会話から、本書のタイトルが生まれた。神の恵みは驚くほど素晴らしいものだが、クリスチャンとポストクリスチャンが分かれている米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。(隠された恵み pp.24−25)
                  この部分を読みながら、本書のタイトルを『隠された恵み』と訳すのはなぁ、とちょっこし思ってしまった。本書の英文タイトルは、Vanishing Grace、すなわち、Vanishingとは、消滅しつつある、あるいは、絶滅に瀕する、といった感じのことばである。隠されたというよりは、絶滅に瀕する恵みである。とりわけ、隠された恵みと訳してしまうと、この部分は全く意味とインパクトを失ってしまっている。

                   原文を手に入れていないのだが、おそらく「米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。」の日本語の英文は、In US, the needs for grace seems vanishing というくらいの英文だろうと思う。ここの部分は、明らかに表題とひっかけていて、にやにやとして読む部分なのににやにやとして読めなくなっているのは実に残念だ、とは思った。

                   それよりも大事なのは、以上の部分で重要なのは、「意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知」るということである。実は、本連載第2回で紹介した部分いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)でもふれたように、これは、福音派のキリスト者が相手がどう思っているか関係なく、壁に向かっても相手の興味や地域や前提とは全く関係なく壊れたレコードのように同じ言葉で同じように福音を語るように語るという福音派の一部の人々の伝道における柔軟性の欠如をある面お示しなのであろう、と思う。イエスは、必ずしもそうはされなかったことを見れば、福音書の当意絶妙さを見ればかなり明らかであろうと思うが。


                  教会から追い出された人々
                  教会を去った人々

                   教会に失望して去る人は少なくない。日本でも、それはそうであろう。ヨーロッパでも、日本でも教育機関と深くかかわっているキリスト教諸派は多い。その数例を、ヤンシー先輩はあげておられる。
                  厳格なプロテスタントやカトリックの学校、偏屈な聖職者への不満を聞いた ― ジョン・レノンは少年時代、不適切な時に笑ったという理由で教会から追い出されたのではなかったか?スティーブ・ジョブズは、「なぜ神は、飢餓に苦しむアフリカの子供たちを助けないのか」との質問に答えなかった牧師を見て教会を去ったというが、それとよく似た話をする人々もいた。(同書p.25)
                   まぁ、教会に限らず偏屈な人はいるが、それが宗教と化学反応を起こすとき、それは絶大な力を発揮し、暴力を生じることがある。おおむねカルにおいては、この化学反応はかなり見られるようであるが、カルト全般が偏屈な人と宗教というこの化学反応の結果ということではないようにも思う。どちらかというと偏屈な人と宗教の化学変化がめちゃくちゃひどくて、行きつくとこまで行ってしまって、オリジナルの宗教のそもそもの目的(つまり人々の渇きをいやす)という美点を失ったものがカルトなのであろうと思う。

                   伝統教派でも、どこでも、社会の中に偏屈な人がいる程度に偏屈な人はいるし、ミーちゃんはーちゃんは自分自身が偏屈だということくらいは理解しているつもりなので、化学反応を起こし、急な爆発的反応を起こさないように気をつけている(つもり、の範囲は出ないが)。

                   しかし、ジョン・レノンの笑いを受け止めて笑い返すとか、一緒に笑いあうとかいうような司祭や牧師はいなかったのであろうし、スティーブ・ジョブスが「なぜ神は飢餓を許すのか」ということを問うたとき、正直に「わからない。残念だけど。しかし、それを含めて神の支配の中にあると思う」と答える牧師がいれば、禅的な影響の決勝でもある初代のiPhoneは生まれなかったろう。まぁ、基地外の多いAtari社の中でも異彩を放っていたらしい仏教的な天上界(ときどき体から臭いにおいが漂う人がいるらしい)にお住まいだったかもしれないスティーブ・ジョブスにまともに答える気持ちになれなかったという気持ちもわからなくはない。

                  反感の販促活動に勤しむ教会
                   アメリカにいた時以降から感じたことだが、アメリカには意図的に反感を売って歩くようなキリスト教関係者が一部にいることは確かだと思う。本人は自己の正当性、キリスト教の正当性、聖書の主張の正当性を示すためにやっている、とか思ってやっているので始末に負えない。やらなきゃいいのに、やっちゃえって、他者の思想信条のよりどころを焚書したりする。それを見るたびにナチスの焚書事件を連想する人々がいるにもかかわらず。


                  1933年のナチスによる焚書事件


                   そのほかの最近の事例をヤンシー先輩はあげておられる。
                   残念ながら、あちこちの教会が反感の種をまいている。この章を書く手を休めてテレビをつけると、ノースカロライナのある牧師に関するニュースが流れていた、その牧師は、すべての同性愛者を160キロかそこらの巨大な囲いの中に集め、食料を空から落としてやればいいと主張していた。そして、やがて彼らは絶滅するだろう、子孫を残さないのだから、と勝ち誇るように言ってのけた。同じ週に、インディアナ州のある教会では、「ゲイは天国にいかない」という自作の歌をうたった7歳の少年に教会の人々が大喝采を送っていた。またコネティカット州で起きたサンディフック小学校銃乱射事件の時、福音派の有名な広報担当者は、同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ、と言った。
                  ということで、証拠映像を上げておこう。


                  ゲイを社会から排除して囲い込めしたら、と提案した事案



                  子供が同性愛者は天国に行けないと歌ったとされるシーン
                  (映像が酔いそうになるので視聴注意)

                   ちょうどこの記事を書こうかと思っているころ、聖書の中の儀をどう考えるか問題に関する山崎ランサムさまのボイド先輩という方の著書を紹介しながらの記事 確かさという名の偶像(13) があった。

                   同記事では、法律的概念として理解してきた神とのかかわりの中での問題がとらえられてきたことに伴う問題が取り上げられてきたが、おそらく、ヤンシー先輩の記事で取り上げられてきた社会に喧嘩を売るようなご発言の方は、基本神との関係に関して、法律論的な理解に凝り固まっているあまりの御発現だったり、そういう中で育ったために子供にまでそれが影響して、同性愛者は天国に行けないという歌につながったのかもしれない。

                   しかし、「同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ」ということに似た言説はミーちゃんはーちゃんの付近でもお聞きする。他人のせいにして、終わりにするのは、昔から見られたことであり、女性に教育したから碌でもないことが起きたとか、奴隷を解放したから社会に悪がはびこったとか、飲酒があるから社会が荒廃するのだ、とか、まぁ、極端なことをおっしゃる方の例は掃いて捨てるほどある。

                  教会あるある
                  恵みを語る手段としての地獄とさばき

                   二つのものを対比させて(それが妥当なものであっても)議論を単純化することはよくやる方法であるが、これは本来の関係性を見誤らせる。
                   本来、3次元空間で議論すべきものを1次元空間に縮約してしまうものだからである。距離を測定するということは、実は3次元的な関係を距離という1次元空間に落とし込んでしまうこととよく似ているのだ。例を考えてみれば、鉄道で移動する時間距離を考えてみれば、関西から群馬県に行く例では、東京経由のほうが圧倒的に時間は短い(コストはかからるが)。あるいは、Vの字の上側の両端点間距離は、Vの字の形状に沿った線分の長さの総和よりはるかに短い。つまり、距離を測る軸を最短距離で定義することによって失ってしまった部分があるのだ。それと同じように、裁きと恵み(Grace)を対比させた議論に縮約してしまうことは、大きな問題を持っている。その具体的な例とをヤンシー先生はある人からの手紙を紹介しながら、お書きである。
                  母親の葬儀でのクリスチャンの振る舞いに怒りを覚えた不可知論者の友人から、最近手紙をもらった。彼女は、「恐怖を利用して、イエスのもとに来なさい、と言って講壇から布教活動するグレース(皮肉にも恵みの意味)コミュニティ何とかという大きな教会の牧師について書いていた。そして、こう付け加えていた。『ベンチ席を乗り越えて逃げ出さなかったのは、ただ母の信仰を尊重していたからでした。」また、葬儀に参列していた幾人かにこう言われたという。「このお葬式に拠ってキリストを受け入れた人が一人でもいたら、お母さんの死に意味があったことになりますね。」(同書 pp.26-27)
                   個人的にはミーちゃんはーちゃんは、同じような場面に遭遇したことがある。それも、自分の親族の葬儀で。まぁ、キリスト者の親族であっても、あまりにショッキングであって、その親族の死が汚されたような気がした。そのことに関しては、この記事 書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その3)最終回 で書いた。

                   キリスト教的な意味論から言えば、福音宣教に成功したら何でもいい、というのはあるのだろうが、それはろくでもないことだと思う。ちょうど葬儀に関して知りあいのある牧師の方ががFacebookで書いていたら、案の定、そこにこんなコメントが付いていた。

                  牧師は厳粛なご葬儀を伝道のチャンスと考えてはいけないと思う。
                  牧師が伝道のチャンスであると公言して困っている。
                  火葬場で、ハレルヤと大きな声で言い、拍手をしたので、隣の他の火葬をしている家族から、不機嫌そうな顔つきをされたのを、しっかり覚えています。

                   クリスチャンの家族で意味を知っていても、これは嫌だろう。憐れみの心、旧約聖書でいうヘセド
                  d,s,jがないにもほどがある。まぁ、内村先生も愛娘るつ子さんの御葬儀では、ハレルヤと言われたらしいから、まぁ、何ともいい難いところはあるが。拍手や万歳や死後のおどろおどろしい裁きを語る必然性はないだろう。
                   
                  クリスチャン、
                  暴力的で非論理的な帝国を立上げる人
                   しかしまぁ、その極めつきが以下の文中でヤンシー先輩が書いていることである。ある批評家の以下の表現は実に、キリスト者集団の一部のある側面を描いている。「クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い

                  いまや、人々は何よりもこだわらない事を大切にしている。そして、真理を知っているのは自分たちだけだと主張する宗教は、すべて疑いの目で見られている。そのことを、他者の振る舞いをさばいているというクリスチャンの評判とあわせて考えてみれば、反対意見が激化するのももっともだ。ある批評家が言ったように、「私のであったほとんどの人が、クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い」。(同書p.28)
                   確かにアメリカの一部のキリスト教関係者、そしてその影響をたっぷり受けた日本のキリスト教の関係者の一部に、「非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」と呼ぶにふさわしい人はいる。まぁ、同じ保守的でも、まだ、聖書理解において保守的ということまでは個人的には容認できるが、自分たちの生活文化に保守的であるが故に聖書理解をそれに合わせるかのごとき聖書の切り貼りをしてご提示されるようなご発言の皆さんもおられないわけではない。そうなると、「暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」という称号を差し上げたくなるミーちゃんはーちゃんがいる。

                   「クリスチャンはすべての人々を改宗させたがる」人は、時に福音宣教や福音伝道熱心な人として教会内で称賛され(何が福音かが抜けていることはないかという反省も時に入ると思うのだが、それが問われる、それを考えることはまれ)、「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」のであれば、キリスト教国に移転するしかなくなるのだが、日本という特殊事情ではそれは無視されたまま、あたかもアメリカでは主流であり、世界で主流であるが故にそれは正しいという議論が無批判になされることが多い。(そもそもキリスト教が主流であるというのは、嘘である。世界の1/3はムスリムであることを忘れており、また残りの1/3は仏教を含むそれ以外の信仰形態であるし、この連載の冒頭でふれたようにキリスト教国では、すでにポストキリスト教世界に突入しているのである。そのことの証拠として、英国のEvangelical Alliance 福音同盟って感じの組織らしいが作った動画を紹介しておきます。Taka牧師のブログ記事での御紹介、ありがとうございました。)





                   最後の極め付けがこれである。「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」。教会あるあるなのである。結構炎上をしかける体質のややこしい人はキリスト教会内に多い。ミーちゃんはーちゃんもその一人であることは素直に認めておこう。大体、このヤンシー先輩の本を紹介することも、基本的には炎上要因ではある。

                   この前、ある宗教間対話の下働きで参加したときに、参加しておられた方が、プロテスタントって、いろいろあって何がよいのか分からない、というご質問を作業中に受けたのだが、そら御尤も、と思った。プロテスタントは、日本国内だけで少なく見ても、100以上のグループに分かれているのだから。それも同じキリストを一応は信じていると言いながら。大体、同じキリストを信じていると言いながら、それだけ分かれるということは、「同じキリストについての信仰を持っている人でも平和に暮らせない」ということでもあるのだ。それも、同じ、使徒信条、われ、公同の教会を信ず、と言いながら。


                  一応、新聖歌にある使徒信条を上げておく。
                  我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
                  我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
                  主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬ら れ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者と を審(さば)きたまわん。
                  我は聖霊を信ず。
                  聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
                  アーメン
                   尚、このあたりのことについては、山崎ランサムさんのこの記事 小文字のキリスト教 がめちゃよいので、お勧めしておく。

                   まだまだ、この連載は続く





                  評価:
                  フィリップ・ヤンシー
                  いのちのことば社
                  ¥ 2,592
                  (2015-11-05)
                  コメント:大変よろしいか、と思います。

                  2015.11.14 Saturday

                  銀座、郊外、そしてかつてのあこがれの都市計画

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                     Bluebelle様が面白い記事を投稿しておられたので、ちょっと書いてみたくなったので書いてみた。今回も近代を巡る問題を社会と教会について、考えた結果を述べてみたい。
                     
                    郊外とミーちゃんはーちゃん

                     個人的には、今ある仕事に流れ着くように流れついてしまっているのだが、本来的には、都市計画Urban Planningというのを高校から学部の1年坊主のころまでは、やりたかったのだが、学部2年生の時に、図学の才能、設計をコンパクトにまとめてきちんと整理して図面に落とす能力があまりになかったために、指導教員の一人から転身を勧められた。それ以来、おもしろそうだと思うままに、流れ流れて、経済学をやり、情報屋をやり、時に応じてプログラムを書く人になってしまった。図面を描く仕事に就くのを止めた最大のきっかけは、郊外住宅地の設計をしろという課題に耐えかねたからである。一応はしてみたのであるが、あまりに出来がひどかったのである。出したので合格点をもらえたが。それで、数字や数式をいじることや、計算機をいじるほうが性に合っていたので、それを続けている。

                    団地の設計だった都市計画

                     実は、Bluebelle様が挙げて居られるような郊外都市を建築することが日本の都市計画であり続けたのが、1950年代から1990年ごろにかけての都市計画であった。道路計画とか、でかい仕事もあるのだが、日本最大の都市計画や集団を擁したのが、日本住宅公団であり、要するにでっかい集合住宅を作ったり、戸建て住宅群の敷地をつくったり、様々の住宅をどう配置し、銃たち口としてよいものを計画、設計するかを考えることであった。

                     ただし、都心は地価が高いので、おいそれとこういう住宅団地は作れない。銀座開発以外にも、六本木あたりで森ビルさんとかが頑張ってオフィスビルをつくり、こういうオフィスビルに通う人たちの寝る場所を当時の住宅公団(現UR 都市機構)をつくるという構造があったが、都市機構は郊外を作り続けたのはよかったのだが、遠距離通勤が大変、都市部での民間供給による住宅ストックが充実したこと、高度経済成長期に手当てした土地が駅から遠い、家賃が高いなどということから入居者がこの住宅を敬遠して、空き家管理をしなければならない状態に近くなっている団地もないわけではなく、今になって、いろいろ割引制度を設けダンピングをしているが、現在高い家賃を払っている人もいるため、中途半端なダンピングに終わっている。

                     ところで、日本最古の団地の一つが、震災復興を目指して作られた青山(代官山)にあった同潤会アパートである。


                    同潤会アパート 青山

                    同潤会アパート 上野

                    近代的で文化的だった団地

                     しかし、以下の動画にもあるように、今の基準から見たら、「一体これのどこが近代やねん、誰がこんな所に住むねん」という感じの当時近代的で文化的であった住宅団地に応募が殺到し、住宅の入居申し込みの倍率が、20倍とか30倍とかになった団地であったのである。その昔、住宅債権(つみたて君)というのを購入し、適当な金額を支払っていると、住宅都市整備公団の住宅の当選倍率が緩和される(当選確率が上がるなどで優先的に抽選で当たる)等というメリットが、高い利回りとともにメリットがある商品であったが、今は、こういうのの募集もなくなっている。これを原資にして、当時の住宅金融公庫(現住宅金融支援機構))住宅ローンなどの貸し付けが行われていた。その昔、このつみたて君を購入したことがあった。


                    什器や自動車デザインから想像するに昭和30年代初期の大都会岡山に建設された団地

                    日本の家屋に見る近代化
                     住宅の近代化とは、キッチンの家事労働の負担軽減であった。家政学や住宅学は専門でないのでよくわからないが、昔(大体昭和30年代くらいまで)は井戸からポンプまたは釣瓶で水を汲み、竈(関西方言でへっついと呼ばれる)でマキで火をおこし、土間で調理をし、風呂は基本都市部では銭湯で、浴室がある場合は五右衛門ぶろでまきとか練炭で湯を沸かす、という日常がキャンプ場のような生活スタイルであったのである。そして、大家族制や大人数居住はこれらの女性に負担が求められるコストを分散し、一人の主婦に負担が集中することを回避するためにも、有利な仕組みであった。特に水汲みは非常に大きな荷重がかかる家事労働であった。水道がつき、流し台がついた台所、というのは、大正や昭和に入ってからの『近代的な』生活スタイルのあこがれを生み出すものでもあった。地方部の場合は、昭和40年代(場所によっては昭和50年代後半)に入るまで、縄文時代から続く由緒正しき住宅構造としての土間があるのは普通であった。

                     上で紹介した近代的な岡山県営益野住宅の紹介ニュース映画では、いみじくも、モダンで文化的とおっしゃっておられる。上記のような住宅こそが、文化的でモダンな住宅であったのだ。

                     しかし、近代を経る中、縄文時代から続くプライバシーもへったくれもない大家族制は、その理想ははかなくも古臭いということで崩れ、いわゆる核家族が近代的であるともてはやされて、夫婦を中心とした世帯の構造に移行し、現在は若者から高齢者まで単身世帯の数が急増している。老人は死別による単身世帯化であり、若者は結婚できないことによる単身世帯化である。そして、若者も老人もグループホームという新たなる大家族での居住が始まっている。まぁ、この両者とも近代のしっぺ返しを食らった結果であるように思えるのだが。

                     実は、この核家族化、個人化というのは、Bluebelle様ご指摘のように需要の量的拡大に極めて有効なのである。ある個人のお宅の電話を数軒で共有する(ミーちゃんはーちゃんがいたいけなお子ちゃまのころには呼び出し電話というお家もごくまれにあった)時代から、今のように個人が形態を1台のみならず複数台持てば、それだけで需要は数倍になるのである。その意味で近代化と大量生産大量消費(フォーディズム)は裏腹の関係にある。

                    この辺のアメリカの郊外の消費文化のおかしさを指摘した映画に、The Joneses(幸せがおカネで買えるワケ)という映画があるが、マーケティング技術の一断面を示すと同時に、何が幸せなのか、を考えさせる映画であった。


                    幸せがおカネで買えるワケ の予告編(英語版)


                    理想が示されたアメリカのテレビドラマ
                     ところで、昭和30年代から40年代前半までの日本の主婦の理想の生活はアメリカABCテレビのテレビドラマBewitched 『奥様は魔女』の世界であり、家に一台車があり、冷蔵庫があり、テレビがあり、でかい家で暮らす生活であったのだ。

                     日本では一時期、サザエさん地のお茶の間には東芝の新商品が出るたびにおいてあるテレビやアイロン、ポットなんかが新製品に置き換わっていた時期があった。まぁ、これも、奥様は魔女作戦と同じことを狙っていたようである。なお、最近ではサザエさんの時期が昭和40年代から50年代に固定されたので(今や塾にいかないカツオくんのような少年がいたらクラスで浮きまくりだろう)、製品群は固定されている。


                    奥様は魔女 この生活に多くの日本の主婦はあこがれた。


                     なお、こういう生活を理想化したのは日本だけではなく1970年代のカナダのマニトバあたりでも、それが理想とされたということを建築学出身のお師匠の一人から聞いたことがある。なぜ、マニトバかといえば、その先生はマニトバで住宅建築を勉強したからである。

                    近代で文化的な国がもたらしたもの
                     また、進駐軍(古い。在日米軍)のGIはこういう近代的な生活(それはナイロンのストッキングに象徴された)とともにキリスト教の伝道にも貢献したし(それは、彼らの母国で彼らがキリスト教として教えられた内容のものがその大半であったが)、また、それと同時に日本にエリザベス・サンダース・ホームに預けられた孤児たちも大量ではないというものの残した。


                    エリザベス・サンダース・ホームにおられた孤児の皆さん

                     また、日本の学校給食で白米米飯が主食であるにもかかわらず牛乳が出るという給食文化の根源となった、ララ基金で日本の子供たちの劣悪な食事環境を改善した脱脂粉乳(これは飲んだことがない。要するにバターとかアイスクリームに使うクリーム分をアメリカ本土で除いたもの)の配給も学校の近代化であった。パン食を中心とした小麦食の主食としての導入も、給食の西洋化であり、近代化であり、衛生化であったのだ。個人的には、鯨の竜田揚げを給食で食べたおいしかったと思っていた世代ではある。


                    ララ物資で送られてきた粉末ミルク<スキムミルク>

                    鬼畜米英といっていた数年後に小国民の皆さんは、
                    アメリカの友よ、と掲げた看板を持たされました。


                    函館市の小学校で昭和27年に給食で牛乳を配給する模様

                     なお、進化論も当時の最先端と思われた西洋科学の一種であり、それを学校教育に導入することは近代化を進めることであり、それに反対する勢力とみなされた宗教世界は前近代とされたのであったことも付言せねばならない。従って、スコープス裁判というテネシー州で行われた学校教育で進化論を教える是非を巡る議論は本来偉大なる茶番劇であったのだが、近代と前近代とラベルを張られるものの戦いであり、だからこそ、反対を唱える側も、創造科学というわけわからないタイトルをつけることになったのである。個人的には、創造科学を熱心にご主張の方には申し訳ないが、進化論というなんちゃって科学と創造科学論というなんちゃって科学同士の争いに見えて仕方がない。まぁ、議論されたいのなら、議論されたらよろしい。あっしにはかかわりのねぇこって、と木枯し紋次郎のように言ってみる。


                    あっしにはかかわりのねぇこって って動画の最後の部分に出てきます。

                    近代化と排除と分離と衛生
                     日本の近代、とりわけ家庭における近代化とは一種衛生の原則の確立であった。衛生の原則とは、邪魔なものは徹底的に排除するである。つまり、ハエや蚊、病原菌や雑菌類から、ノミ、虱、ネズミからオオカミなどに至るまで、生態系を破壊しようが何だろうが、これら人間に伝染病や不利益をもたらすものを一切排除することを目指し、駆除・排除することを試みたのである。

                     おかげで今は、人間が野生のオオカミに殺される心配は山に入ってもする必要はないが、猪と鹿やサルが増えすぎて農村では、稲などの農産物があらされて、困っているし、ハンターさんを含めた狩猟免許の取得者も高齢化が進んでいるので、なかなか困ったしっぺ返しを食らっているのだ。

                     まぁ、確かに、日本住血吸虫病で死ぬことも、サナダムシで栄養失調になることもなくなった。これらで死亡する人もまれだし、ペストなんかもなくなった。天然痘で死亡する人もなくなったのである。それはそれで、尊い人命が救われたという意味ではよいことではあるが、それですまなかったのである。

                     この排除と分離を首尾一貫してされたのが、ナチスドイツの皆さんであり、精神衛生病患者をまとめて排除したり、ユダヤ人は劣勢民族であるからという優生学という医学の一部で流行った概念なども活用しつつ、ホロコーストまで起こしてくれたのである。ユダヤ人は、ある種社会にとっての病原菌扱いされたのであった。それを神の名の許においてすることにドイツのキリスト教会のかなりの部分が手を貸したのである。

                     まさに、Rachael Held Evansの本ではないが、Lord Have Mercy Christ have mercyと歌いたい心境である。



                    死と病気と仕事と排泄物を衛生の名の下に追い出した近代
                     そして、西洋近代社会は、仕事と病気と死と排泄物を自分の居住スペースから追い出すことに成功した。鉄道を作り仕事場と家とを分離することに成功し、通勤するのが近代的で文化的であるという理解が生まれた。また、効率性という近代を支配した概念では、生産の現場を国外に追い出した。その反作用として、ダウンサイジング・アメリカというしっぺ返しを食らった。


                    アニメ産業をアウトソース化したことを揶揄するシンプソンズのアニメ


                    これに乗ったのが、関東では東急電鉄であったり、関西では阪急電車であった。

                    住宅内に、トイレを作り、水洗トイレにすることで、自分の排せつ物の処理は他人の仕事になった。

                    病気は病院の仕事にすることで他人の仕事となり、老人はElders' Homeと呼ばれる施設を作ることで他人の仕事にすることができたのであるし、

                    死は、葬儀場というところの仕事になった。特に死は、個人と共同体の中から追い出すことに成功したのである。


                    死を畏れるおじいちゃん(Abe Simpson氏)

                     その結果、常に若々しいことが良いという概念が支配し、美容整形が流行り、プラセンタの消費量がうなぎ上りになり、薬品メーカがもうかり、育毛剤メーカや、白髪染めメーカーがもうかる仕組みができたのであり、高齢としわと白髪と薄い髪の毛の部分が存在することは避けるべき項目となっている。まぁ、預言者に禿頭というと熊が出てきて食べられるらしいから、あまり、髪の毛が不自由な方に禿頭と言わない方がいいらしいけど。

                    近代アメリカ型の教会の背景とその結果

                     こう書いていくと、今、連載中のフィリップ・ヤンシー先輩に学んでみた、シリーズでのアメリカでのキリスト教に関する問題や、Bluebelle様が疑問に思い、ついていけないと思ったことを生み出した消費社会を是とするような問題と近代が理想としてきたものとのかかわりが、教会のキリスト教理解と本来関係のないものが、キリスト教の理想になってしまった部分が表れているのではないか、と思う。

                     Bluebelle様、面白い記事をありがとうございました。あまりに面白かったのと、ミーちゃんはーちゃんが考えていることと深い関係性がありそうだったので、記事化しました。










                     
                    評価:
                    ---
                    20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
                    ¥ 500
                    (2011-04-22)
                    コメント:まぁ、歪んだアメリカの消費社会を揶揄した作品。

                    2015.11.14 Saturday

                    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(5)

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                       これまでの過去記事に引き続き、今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介したい。

                      宗教と善行のつながりへの懐疑
                       イギリスでのある討論会のために行われた、2010年の宗教に関する23カ国の調査結果を受けて次のようにお書きである。
                       以下は宗教は善行を促すことができるか?という問いに対する調査結果である。
                       調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた。この調査では、このような反応の背後に何があるかという点は掘り下げていなかったが、例外があるにしても、キリスト教と共に歩んできた歴史のある国々、とくにヨーロッパ諸国において、善行を促す宗教への尊敬の念があまりにも低いことに注目せざるを得ない。対照的に、無心論者の指導者が全盛期に宗教を根絶やしにしようとしたにもかかわらず、ロシアでは宗教を重んじる人々の割合が高かった。またこの調査には、リバイバルを経験しているアフリカや南米諸国が入っていない。(『隠された恵み』 p.29)
                      ここで、こういう文書があるとよくある誤用がある。おおむね半分の人が宗教は善より悪をもたらす、と過去の数字を独り歩きさせる方々がおられるのだ。その辺、ヤンシー先輩は、ちゃんと、これは全世界のすべての人を反映してないと、アフリカや南米諸国が不在であることを示しておられる。詳細なデータは、本書をお買い上げいただきぜひご検討願いたいが。

                       ただ、この部分はどうも翻訳の精度があまり良くなく、非常に分かりにくい表現であった。原文を手に入れてないので何ともいい難いが、「調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた」と訳しているが、善行が問題にされた調査項目なのか、善そのものをもたらすか否かが、これこう訳すと分からなくなる。

                       当初ミーちゃんはーちゃんは、善の問題って、それ以前の文章にみあたらなかったので、だいぶん探したが、どうも、52%の人が、宗教は善行をもたらさない、と回答していた。位の意味らしい。この部分の翻訳は、読んでいて混乱した。後は、p.30の表は、フォントだけがやたらと大きく、表が本文に比べて大きく、さらに言えば表のタイトル(何についての表であるのかを指し示す表記)がないので、読んでいて混乱した。この辺は改訂があるとして、ぜひご検討願いたい。

                       今の教皇フランシスは、南米出身の教皇であるが、その発言は非常に印象深いものがある。おそらく、解放の神学の影響を相当受けているものと思うが、その解放の神学自体は南米という土壌で生まれた神学であり、貧しい人の中にイエスを訪ねる性質を強くもつものであり、その意味で善行と直接結び付きやすいが、その部分を除いてしまって本当にいいのか問題はあるかもしれない。

                      対話が生まれない環境
                       対話が生まれないのは、キリスト教側とリベラルと呼ばれる人々がそれぞれ自分の安全な砲兵陣地に立てこもり、そこから相手を砲撃している感じがあるように思うのだ。


                      第2次世界大戦中の英国軍の野戦砲陣地
                       読書会の仲間たちは、人権、教育、民主主義、社会的弱者への配慮といった大義を支持しているが、それらの大半はキリスト教から出てきたものだ。それなのに彼らは今、そうした大義に対する強力な脅威としてクリスチャンを見ている。(中略)この両方(読書会の側のリベラルな人々もクリスチャン側も)の立場の人々も互いから隔絶し、十分な対話やかかわり合いなしに他者をさばいている。(同書 pp.32-33)
                       確かにリベラルな人々も、人間が失われるのがたまらなく耐えられないし、キリスト教とも基本的には、人が痛むこと、人が失われることは耐えがたいという面はあるのである。ただ、神の名が語られると、この人よりも神を大事にする人々が多くおられるので、このあたりが変わってきて、人の重みが異様に軽くなる場合がある。これは、キリスト教の内部でも同じように思うのだ。なぜならば、相手と話し合うのではなく、野戦砲ならまだしも、自分たちが極力傷つかないように戦略爆撃機やICBMで相手を攻撃するのに似て、相手の人格とは正対というか対面しない方法で相手を攻撃して終わりにしているのではないだろうか。


                      相手から発見されにくいステルス技術満載のB2戦略爆撃機

                       まぁ、情報収集は必要なので書かれたもの(つまり、誰かのバイアスやそれによる誤解が入った情報)を見ながら、相手を攻撃して、自分は正義を行ったような気になっていることはないだろうか。

                       案外、相手に近づいてみると、その人となりや人格が見えることもあるので、あまり無茶なことができにくくなるというのはある。

                       その意味で、アッシジのフランシスコがハンセン氏病者に近づいた時に、ハンセン氏病者に対する恐れがなくなったことや、様々な人々がイエスに近づいていったときに神への恐れが神への喜びに変わっていったことに似ているのかもしれない。恐怖を植え付けることで神に向かって近づけることをイエスはあまりされなかったように思うのである。恐怖を語ることで神に向かわせることは、かえって人を神から遠ざけるのかもしれない、と最近では思っている。

                       最近読んでいるRacheal Hold Evansさんの本 Searching for Sunday(2015) p.82に次のような一節があった。お書きになった人の背景はよくわからないが。恐怖を語るで神に近づけようとすることは、人々を逆に神から遠ざけるように思いこませる場合があるのかもしれない例であると思う。紹介しておく。

                      "I left church because I was taught from a very yound age that I was an abomination and should be put to death. I tried to kill myself twice as a teen because I felt God would not love and accept me as I was born." -Tim
                      一応の日本語変換
                       私が教会を去ったのは、私自身が呪われたもので、死ぬべきだと本当に小さいころから教えられていたからです。10代のころに二回自殺未遂したのですが、それは、生まれたままでは、私自身が神に愛されもせず、受け入れられもしないと感じたからなのです。Tim

                       恐らく生まれたままではというのは、回心(悔い改めと、それに伴う心が温かくなるような経験)がないままだと、神に愛されもせず、受け入れられない、あなたには生まれ変わり、回心が必要だ、ということを必要以上に言われたのだろうと思う。 


                      アッシジのフランシスコ

                      炎上体質のネット社会の中での
                      異なる意見の人への対応

                       ネット社会では炎上しやすい傾向がある。ミーちゃんはーちゃんの友人には、炎上上等でいろいろなことをしておられる方もおられる。とはいえ、ネット上の議論を見ていると、批判といってもある方の発言を読む努力もなく、その背景を考えるべきでもなく、2次ソースにのみ依存した批判をされる方もある。特に炎上の場合は、こういう傾向が多いように思う。

                       このような1次ソースに基づかない表面的な『批判』とよばれるものは、本質的な批判といわれるようなものではさらさらない。十分な調査もなく、言いがかりをつけているに過ぎない。非常に表面的なことでの批判で終わっていたり、他者が批判したその表現をもとに、さらに批判を広げていくという非常に不幸な構造があると思うのだ。

                       本質的な批判というのは、よりよいものを目指いして自分の内から出てくる内発的なものであるはずであり、相互に尊敬を以てよりよくしていこうとする性質を持つものであり、他者の考えを切り捨てるものではないように思う。

                       ヤンシー先輩が体験された炎上について、次のように書いておられる。
                       故アンディ・ルーニーの引用を私のフェイスブックに張り付けたとき、この文化戦争の背後にある激しい感情に直面した。ルーニーはいった。妊娠中絶に反対することにした。殺人だと思うからだ。しかし、中絶反対派より、中絶賛成派の人々のほうがずっと好きだというジレンマを抱えている。夕食を共にするなら、賛成派の人々とがいい。」その発言に反応した人々のコメントで、サイトは軽く炎上した。(中略)
                       こうした反応も、アンディ・ルーニーの主張を裏書きすることになった。私のサイトに火炎放射器のようなコメントを投稿した人々と夕食をともにしたいだろうか。私は答えた − そして、これが本書に繰り返し現れるテーマである − 重要なのは、私がある人に共感できるか否かではなく、自分とは意見の異なる人をどのように扱うかなのだ、と。(p.33)
                       まぁ、炎上する人は何でも炎上するので、仕方がないのだが、しかし、「火炎放射器のようなコメント」ってのが面白いですなぁ。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは基本恬淡とした対応しかしないので、ネット上で炎上はしたことはあまりないが、時々、火炎放射器のようなコメントをくださるからもごくわずかにおられる。対話をしようと思ってこちらからご高説を伺いたい、とお願いしても、どこかのサイトでご高説を述べておられるのをお聞かせいただきたい、とお願いしても、そのご高説を述べられる方は極めて少ないのである。

                       リアルでも火炎放射器のような攻撃というか、十字砲火のような言葉をくださる教会関係者の方もおられるが、基本言いっぱなしだったり、陰口のような対応だったりされるので、なんだかなぁ、と思っている。対話ではなく文句でしかないからである。まぁ、一応お聞きはするが。

                       しかし、多くのアメリカのキリスト者(そして日本のキリスト者)における火炎放射器のような対応をされる方の聖書からは、震源の15章が抜けているかもしれないので、一応、口語訳聖書の箴言15章(旧約聖書の中にある)の冒頭部を転載しておく。
                      【口語訳聖書】箴言
                       15:1 柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。
                       15:2 知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。
                       15:3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。
                       15:4 優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

                       まぁ、自分と異なる意見の人にどう対応するか、ということをヤンシー先輩は議論の一つに挙げておられるが、これもまた、聖書の中にあるように思う。基本、あの旧約聖書の律法の中にも、EmbracementというかInclusionということは言わないまでも、サドカイ派であれ、パリサイ派であれ、その重要性を等しく認めるモーセ5書の中に、次のように書かれているのではないだろうか。
                      【口語訳聖書】レビ記
                       19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
                       19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

                       確かにイエスは、サマリアとガリラヤの境で、サマリヤ人もガリラヤ人も区別なく重篤な皮膚病をいやしたことがルカ福音書17章に記載されている。また、ツロ・シドンで娘をいやしてくれるように願うカナン人の母の願いを聞いておられる。まさに上のレビ記のような現実をもたらす方として、この地を歩まれたようにも思うのだが、それはミーちゃんはーちゃんの勘違いかもしれない。

                       個人的には、違う立場の人の話をきちんと受け止められて、はじめて意味があるとは思っている。

                       まだまだ続く



                       
                      評価:
                      フィリップ・ヤンシー
                      いのちのことば社
                      ¥ 2,592
                      (2015-11-05)
                      コメント:是非お読みいただきたい。

                      評価:
                      Rachel Held Evans
                      Thomas Nelson Inc
                      ¥ 1,554
                      (2015-04-14)
                      コメント:ガチの福音主義者だった著者が教会に違和感を抱き、なぜバイブルベルトで教会にけつまづく人が多いのかに関して書いた本。面白い。

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