2015.09.01 Tuesday

2015年8月のアクセス記録とご清覧御礼

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     今月も、NTライト祭り 葉絶賛継続中ですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。今月は18949となり、平均で、日に611.3アクセスでした。ちょっと、夏枯れの雰囲気が漂っておりました。


     2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
     2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)  48073アクセス(631.7)

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通り

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

        アクセス数 695

    チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会

       アクセス数 442

    あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。

       アクセス数 375

    キリスト教Evangelicals と Fundamentalits が形成されるアメリカの社会背景

       アクセス数 291

    「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(7)

       アクセス数 282

    でした。しかし、ベスト5の内トップ4が相当以前のブログ記事で、今月の記事で唯一トップファイブ入りしたのが、仏教との対話の記事。キリスト教系ブログであるにもかかわらず、仏教との対話をしている記事が先月に続きベスト5入りというのが、実に微妙ではあるような気がするけど、これはある意味重要だと思っております。一応、護教的な意味で。

     何より驚いたのは、上位5位(同率6位を含む)中、2月連続で4本が先月以前の記事であるあたりが、Webにおけるロングテールという意味を感じざるを得ない、と今月も感慨を新たにしました。

     今月も、先々月復活させた「富士山とシナイ山」(これはあまり、人気がない)をとりあえず完結に向けていきたいかなぁ、と思っております(多分、年内に完結の予定)。

     先月のご清覧感謝。今月もまた、よろしくお願いいたします。


    2015.09.02 Wednesday

    情報の非対称性と認知の非対称性 教会を巡る見えないカベ(1)

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        以前のある記事に関するあまり関係のないコメントで、気づいたことがあるので、今日はそれを記事にしてみようか、ということを考えてみた。


      あるコメントから
       そのコメントとは、以下のようなものである。H様という方からのFacebook上でのコメントである。
       垣根を低くして分かりやすいメッセージに努めていたり、賛美コンサートを毎回する所もあります。単なる人集めに終わるのではなく本当に入ってもらうには心から聴く・・・
       これを見て、ふと思ったのだ。というよりかは、のらくら者日記の先生のFacebook上の記事だったと思うのだが、のらくら者先生のところでは、下記で紹介した、八木谷涼子さん著 『もっと教会に行きやすくする本』はいらないし、教会図書においてあるけど誰も読まない、ということであった。一度だけ、所用の途中にのらくら者先生の教会の日曜日にアポなし突撃訪問させてもらったことがあるが(先生、その節はありがとうございます)、確かにこの教会だったら、この本はいらないかも、と今になってみれば思う。しかし、こののらくら者先生のところの現実と、H様からのコメント、両者が合わさって、あることを思ったのである。

      「もといき」が要らない教会
       八木谷涼子さんの「もっと教会を行きやすくする本」が要らない、誰も読まない、というのが本来の教会の姿であるのではないか?というご見解は、その通りであろう。ミーちゃんはーちゃんとしては、すべての教会が個人的にはそうなってほしい、と思っているが、現実には、八木谷さんの本で指摘されている小さな不親切や自分たちが当たり前と思っていることの結果としての行動の積み重ね(本人たちは善意でしてたり、あまりに習い性になっているので意識なしにそれをしているから困るのであるのだが)で意識せずに教会側が新来会者に対して無意識のハードルというか、壁を作っているというか、垣根をあげている例も少なくないのだ。全く初めての教会に一人で参加して見られたら、それが見えることもあるだろう。

       FacebookでコメントをくださったH様のコメントの御主旨は、コンサートとか、わかりやすいメッセージにして垣根を低くしても、傾聴をすると行った精神性がなければ、相も変わらず高いカベを構築したり、垣根が高くなったり、教会のハードルは相も変わらず高いままではないか、ということであり、世間から教会の中身が十分理解されていない、ということをご指摘なのだ、と思うのだ。

      情報の非対称性の存在

       で、何が言いたいか、というと、実は教会内外での情報の非対称性が発生すると同時にその教会に対する認識の非対称性が教会の内外で生じているのではないか、ということなのだ。

       情報の非対称性というのは、ゲーム理論なんかでよく使われる概念で、金融・経済用語辞典と称するサイトのコピペをしておくと、
       情報の非対称性(じょうほうのひたいしょうせい)とは、市場取引における買い手と売り手の当事者同士が保有する情報が不均衡であることを指す。通常買い手は、商品に対する品質等の情報について詳しくは分からないが、対する売り手は詳しく把握している状態を指す。

       情報の非対称性が生じている場合、取引当事者のうち情報が少ない方が不利となる。このため、市場における取引自体が円滑にすすまない場合がある。

       なお、アメリカでは、情報の非対称性が大きい市場として中古車市場が挙げられ、こうした情報の非対称性が生じている市場を「レモン市場」と呼んでいる。

      となっていた。まぁ、大体、これでいいと思う。要するに『あることを言っている人(話し手)』と『あることを聞いている人(聞き手)』との間で共有あるいは共通理解として合意されている情報とその内容が両者の間で違っているために、両者相互の間で誤解が生じやすく、その誤解に乗っかって、どちらか一方が、一方的に不幸(損をしたり、搾取が行われたり)が起きやすくなる環境を指す言葉である。中古車は技術に詳しくない人は、車の問題が見抜けないので、買い手側が損することが多いようである。アメリカでは中古車屋は、仕事上、事実を言わない(いわゆるウソをつくこと)が多いため、死後神と共に生きられない職業の一つであるとされている、という話をアメリカ滞在中、何度か耳にした。

      教会における非対称性

       教会の例でいうと、『教会の中にいる人(教会員・牧師)』と『教会外の人(非教会員、普通の人)』の間で教会を巡って共有、あるいは共通理解として合意されていることが案外少ないために、教会を巡る不祥事や思い込みに基づく不幸、あるいは思い込まされたことから派生する不幸が起きやすいという現象である。

       例えばどんな不幸があるか、というと、
      • 最初に出会った教会が唯一正しいキリスト教だと思う思い込む
      • 最初に出会った教会群から違うかな、と思っても離れられない
      • 牧師の言っていることに疑問があっても、自分はよく知らないと思うので意見ができない
      • カルト化した教会では、牧師が聖書から言及していると言っていることと聖書が言っていることが区別できない
      • 教会内に長期間いる人の支配がある(年功序列やが当然である)
      • 日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性で触れた)先任主義が支配している
      • 変えたくてもなかなか変わらない教会文化が厳然と存在する
      ・・・・
      という不幸ではないだろうか。

       これを不幸というか、悲喜こもごもというかは別として、後発である組織に加入した人は、その組織にいる期間が短いためにどうしても情報の不足気味であり、前からいる人に「この教会ではかくかくしかじかである」といわれると、「そんなものか」と思って黙ってしまうのではないだろうか。それを、「なぜなのだ?」「どうしてなのだ?」「どうしてそんなことを言うのだ?」と子供や、バカボン・パパのように質問したりする人は少ないと思う。しかし、旧約聖書は、過ぎ越しの祭りに関して、それを質問させ、そしてそれを子供たちにこたえてやれ、その理由はかくかくしかじかであると、ときちんと説明せよと言っているように思う。


      こちらのダイハツムーブのCFキャラのように説明しろということではないですが…

       そして、「王様は裸だ」といった裸の王様に出てくる子供のように「教会にはわからないことがある」と正面切って言い放つ人は少ないだろうと思う。個人的には、教会とは何であるのか、ということに関する教会についてのメタ思考につながると思っていて、大事だと思うけど。

      認識の非対称性
       では、「認識の非対称性」とは何か?ということに触れてみたい。これは、あまり言われてないことかもしれないので、少し触れておくと、教会の内部と外部で同じ事象に対する認識が両者の間で同じでないということことなのだ。芸術や、マンガを用いながら、ISOの通信における階層モデルで説明している記事があった。

       実際に即して平たく言うと、情報の発信者や行為の主体としての教会と情報の受信者(受容者)や行為を見ている側の主体としての社会の一般の人々との間に、教会が言ったり、教会で行われたりしていることの個別行為に関する認識や受け取られ方や意味が異なった文脈としてとらえられたり、その後が独り歩きしてしまい、世俗社会と教会の中で、その意味が異なってしまっている、という現実と指摘することができよう。

       いわゆる小説『羅生門』の世界であり、He said, She saidの状況が生まれている状態である。以下の動画は、B級コメディであるが、認知の違いがこれほどまでに生まれるのか、を映画的表現手法で、示したものである。



      He said, she said situationを描いた映画 「He said, She said」

       ものすごく単純化して言うと、両者の間で誤解が生じている、ということでしかない。これをうまく2本の映画作品で映画化してみようとしたのが、Flags of Our FathersLetters from Iwo Jimaである。とはいえ、監督のクリント・イーストウッドはアメリカ人であり、完全に中立性は保証されていない、ということは認識しておくべきであろう。


      父親たちの星条旗 米国本土と戦場での認識の壁を描いた作品にもなっている


      硫黄島からの手紙 これも、一種日本本土と戦場での認識の壁を描いた作品でもある

       この連載の次回では、「認識の非対称性」をもとに、教会のカベを下げる試みとその課題について、少し例をとりながら、書いてみたい。





      評価:
      八木谷 涼子
      キリスト新聞社
      ¥ 1,620
      (2013-11-22)
      コメント:お勧めしています。

      2015.09.05 Saturday

      木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9

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         本日も引き続き、『「弱さ」の向こうにあるもの』の9章、「高齢者と福音」の中からご紹介していきたい。

        認知とは何か?
         この9章の冒頭に、イギリスの認知症の老婦人が書いた詩が紹介されている。非常に印象的な死であるので、是非、この本を手に取っていただいて、読んでいただけたら嬉しいと思う。認知症の老人であっても、その認知のずれは部分的であり、その人全体が認知のずれにあるかのような単純化した他者のある人格的存在への理解が、認知症をもつ人々を苦しめていることを実にうまく描いた詩である。

         我々は若ければ、認知は正常(これまた、問題のある語であるが)と考えがちであるが、若くても、認知に問題のある人は案外多い。それは、前回の記事 情報の非対称性と認知の非対称性 教会を巡る見えないカベ(1) でお示ししたとおりである。ミーちゃんはーちゃんは、その認知が歪んでいる可能性が大きいこと位は知っている。

         個人的には、カーナビゲーションシステムは利用しないので、何とも言えないが、人が使っているのを見ると、基本、カーナビゲーションシステムは認知症であると思う。なんで、認知症のカーナビゲーションに言われにゃならんのかとは思う。カーナビメーカーさんには申し訳ないが。それでも、最近は随分ましになってきたが。




         ところで、認知に関して言えば、この記事を書いているミーちゃんはーちゃんにして、懸垂曲線のシンプルな数式を見て、それが美しいと思うミーちゃんはーちゃんの様な認知は、どっか歪んでいるとは思っているが、しかしながら、個人的には認知が歪んでいない人はいないと思っている。

         余談に行きすぎた。そして、この引用された認知症患者が残した詩について、木原さんは次のようにお書きである。
         この詩は、意図せずして知らず知らずに若者世代が高齢者の思いを誤解していることを暗示している。また同時にケアを担う専門家集団ですら抱いている認知症高齢者に対する偏見や無理解も示しており、この点においては自戒をこめて反省を迫られるところである。このような中では、高齢者がその置かれている現代社会において安寧と長寿を願うことがいかに難しいのかという実態も示している。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.126)
         とお書きであるが、よく考えてみれば、現代は若者も、年寄りも、また中年も、子供も生きにくい時代ではないか、と思う。しかし、それはとりもなおさず、どの時代にあっても、若者も、年寄りも、中年も、子供も、生きやすい時代はあったのだろうか、という疑問につながる。個人的には、そんな誰かにとって生きやすい時代というものはなかったのではないか、ということを確信している。それぞれの人が、それぞれの制約の中で、何らかの苦悩や困難を抱えながら、どの時代にあって生きていったのではないかと思うのである。現代は高齢化時代であるが、そこまで高齢化してない時には、人は病気で死んだのである。治療の手を施されることなく。それを幸せと言えるか、と言われたら、それほど単純ではないとは思うのだが。

        永遠に若さを求める社会の中で
         個人的に、生きることは老いることであり、生きることは病と死に直面することであると思っている。基本、エントロピー増大の法則は物理的な現象を支配している以上、ドラえもんでもいない限り、それに支配されるのである。しかし、人間はエントロピー増大の法則というしごく単純な原理を拒否しているように思うのである。この辺りの事について、木原さんは次のようにお書きである。
         その証拠に、日本では「早くお迎えが来てほしい」と本気で願っている高齢者が以下に多いことか。確かに「老い」とは、「生老病死」としてかつてブッダが述べた「四苦」の一つである。仏陀によると、「老い」とは「生きる」ことそのものと同様に、人には避けることのできない「苦」であるというのである。その限りにおいては、人類は古代より、この課題とと常に向き合ってきたが、今もそれに対する有効な答えを見いだせていないということである。(同書 p.126)
         要するに、物理現象の世界の中にとらわれている我等は、エントロピー増大の法則に物理的に支配されざるを得ないのであるが、しかし、聖書の中に、
        【口語訳聖書】伝道者の書
         3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない
        とあるように、人は不幸にして、エントロピーの増大の法則に支配されざる世界、あるいは永遠の世界、永遠に生きる世界(神の世界)とかかわる存在として作られているために、物理学的にエントロピー増大の法則に支配されるものの、霊的にはエントロピー増大の法則に支配されない世界の存在を知るがために、死や老いという不幸と直面しなければならないのではないか、と思うのである。

         ナウエンは、下記に紹介する 『最大の贈り物ー死と介護についての黙想』という本の中や『闇への道 光への道』の中で、死や老いは手放していくプロセスであると明白に語っている。そして、神と共に生き、神にあって生きる生活のための準備期間としての老いと死をとらえているように思う。これは重要なことではないか、と思うのである。がむしゃらに、自分自身によって生きる生活から、他者の手の中に委ねて、他者の手において生きる生活へと変容するための老年期ということは非常に重要であると思うのである。ある面、われらは、ペテロにイエスが言われた生き方と同じ道をたどるのではないか、と思うのである。
        【口語訳聖書】ヨハネ
         21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
         21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
         21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
         TVのCMみてれば、白髪染めのコマーシャルだの、コエンザイム飲むと若く見えるとかどうのこうのとか、プラセンタが若く生き生きと見えるとかどうのこうのとかいうCMが流れている。ジジイや婆がジジイやババアであることを許してくれないのがどうも洋の東西を問わず現在の世界の状況であるらしい。そして、ジジイやババアがジジイやババアらしく生きることを許さないのが現在の不幸であると思っている。

         そもそも自然、即ちエントロピー増大の法則に逆らってもしょうがないのに、それに逆らおうとする不幸ということを考えてほしい、とは思うのである。個人的には無駄な努力だと思っているし、年相応に生きるのが、一番自然だし無理がなくてよいと思うのだが。

         そういえば、死と甥を考える映画として、以下の動画の予告編で示す In her shoes(イン・ハー・シューズ)という映画はよく出来ていると思う。もちろん、アベルとカイン、あるいは放蕩息子の兄弟関係を下に引いた兄弟姉妹の確執映画としても楽しめるが、老いをめぐる問題を考えるうえでは、非常によいと思う。それから、もう一本、老いと病の問題に関しては、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」も非常に印象的である。


        イン・ハー・シューズ 予告編



        セント・オブ・ウーマン 予告編

         この前蒜山のバイブルキャンプ場で参加した研究会というかリトリートの食事の時に何気なしに出た話として教会における老人学、老年学がもっと必要ではないか、というお話しになった(実は、この会自体、かなりのテーマが司牧の高齢化とそれに伴う問題への対応というテーマに期せずしてなってしまったのであるが 深刻すぎて文章化できそうにない)。これまで、日本のキリスト教会は、若者や中高年層が中心的役割を占めてきたし、そのことへの対応のノウハウを蓄積して、さぁ、これからだ、と思ったころには、教会から若者はいなくなり、中高年層はいなくなり、みんな高齢化して若者が寄り付かない、少なくとも寄り付きにくい教会になってしまって、NHKで以前放送していた「お達者くらぶ」の様な教会になってしまっているところも少なくはないようである。まさしく年齢によるセグリゲーション(社会分化あるいは分節化)が教会でおきているようなのである。これに関しては、別に稿を改めて書いてみたい。

        カイロスとクロノス
         聖書の中で、時という言葉が出てくるが、日本語ではそれを指す語はほぼひとつしかないため、カイロスとクロノスの持つ意味の違いが認識されないまま語られていることが多いが、この語の意味の違いを十分理解せずに聖書に書いてある時は時だから、とお語りの向きも全くないわけではないようである。この違いは、実は非常に重要であると思うのである。
         聖書で、時を刻む言葉には「カイロス」と「クロノス」という二つがあることを思い出した。
         クロノスは、人間に共通に平等に流れる時間。いわゆる普通に流れるときの事である。それは、時計の刻み(時刻)、一日24時間、1年365日を機械的に、例外なく流れていく。これに対してカイロスは「転機となる重大な時」「永遠の時」「神の(介入する)時」である。それは一瞬一瞬のチャンスを意味づけ、それを刻んでいく。聖書によれば、「福音」とはイエスを通じ、人間の時(クロノス)に神が介入して、永遠の時(カイロス)となったことを示唆する。(同書p.129)
         カイロスを永遠の時、とするのは、ギリシア語にはAeonという語もあるので、ちょっと厳しいかなぁ、と思ったが、神の介在する時、それはカイロスであるとは思う。ちょうど、N.T.ライト先輩の用語を用いれば、天と地が交わるとき、ないしは、天と地がかみ合う時のことではないか、と思うのである。

         例えば、「これは私の愛する子」と天から声がした時は、カイロスであるし、「完了した」とイエスが言い、イエスが息を引き取った時もカイロスである。それをクロノスの側面だけでとらえるとまずいのである。クラッシックなディスペンセイション的世界観の理解では、このクロノスの側面における理解が強く、カイロスの側面が若干弱いのではないかと思う。個人的には、異言とか預言とかの問題は否定的であるが、必ず神が介入する時としてのカイロスは現代においてもあると思っている。

         そして、このカイロス・クロノス理解と高齢者の問題に関してニコデモの例をあげながら、木原さんは次のように書いておられる。
         この最も深刻な高齢者問題に対して、聖書が語る「福音」が示していることは、このカイロスとクロノスの理解であろう。ユダヤ人の指導者ニコデモがイエスを訪ねた時の問答(ヨハネ3章)には、カイロスとクロノスの差異が際立っている。地上の時間(クロノス)しか認めることができなかったニコデモに対して、上から(新しく)与えられる永遠のいのち(カイロス)を説くイエスの対比は興味深い。また、復活したイエスがエマオという村へ向かい弟子達に自らをかくして近づき、語りつつ歩んだあの一瞬などは、まさにカイロスの時であり、永遠の喜びの時である。それを地上で一瞬垣間見ることのできた幸いなものであった。(中略)しかし地上では、あくまで垣間見るだけであって、永続しない。(同書 p.130)
         カイロス、クロノスがどうだこうだ論争というよりも、個人的には、神がちらっとこの地上で私たちに啓示なさる御自身の姿がある。それは聖書の一節を通してであることもあるし、本田哲郎司祭がご指摘のように他の人々と出会うことを通しても起きると思う。しかし、日本の多くのプロテスタント派は、本田司祭の講演会の質疑応答の時(日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 でご紹介)の元神学校教師で引退牧師の方のご質問に典型的に表れているように、文字や言語で表現されたことに余りにこだわってきたように思うのである。そして、その文字や言語で表現されたことにこだわることに対して、御自身もご高齢である(認知症がちょっと混じっているから、そこは赦せと冗談めかして言いながら)本田司祭は、「そんなケチくさい考えで自分は聖書は読んでない」といい放たれた。将に、『闇への道、光への道』で、ナウエンが指摘した老人だけが持つユーモアさく裂、という感じのご講演であった。認知症がうんぬんは、ちとずるいなぁ、とは思ったが。

        なお、この本に関しては、拙ブログでも

        お勧めの本

        「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。

        でご紹介しているところであるが、何せ入手困難であるのが何よりつらい。

         余談はさておき、高齢の時は、神に対して手放していく、神に委ねて生きていくというときなのである。ちょうどイエスは、その高齢の時は年齢としては迎えなかったが、その最後の数日は、自らメシア(メサイア・キリスト)として、神の権能をもって状況を変えることが出来つつも、そうはされず、他人の手の中にあって生きることを受け止め、そうされたのである。ローマ兵の手にかかり、更に、ローマ兵が与えるものを口にすることしかできず、その全ての権能や栄光を示すものをまとうことなく、その下着まで奪われるという姿で、死に向かわれたのである。自分であることを捨てる、ということを示されたのが十字架の道行であり、十字架の死であり、そして死後の姿である。イエスは、自分の葬儀を演出するというようなアホなことは一切されずに、人の手にゆだねられ、神の手の中にみずからをおかれた時が将にカイロスであった、ということは、高齢者問題を考える上で、非常に重要であると思う。この辺りの事は、ナウエンと読む福音書のイエスの十字架にかかわる付近でよく示されているので、こちらを読まれることをお奨めしたい。




         まだまだ、この連載も続く。


         
        評価:
        木原 活信
        いのちのことば社
        ¥ 1,728
        (2015-07-08)
        コメント:お勧めしています。

        評価:
        ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
        こぐま社
        ---
        (1991-12)
        コメント:この本はめちゃくちゃいい。こぐま社さん、再刷しませんかねぇ。

        評価:
        ヘンリ・J.M. ナウエン
        聖公会出版
        ---
        (2003-04)
        コメント:めちゃよい。再刷希望中

        2015.09.07 Monday

        NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その13

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           今日からは、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「神」の続きの部分を引用しながら、考えたことを述べてみよう。

          神の側からの働き掛け

           神と人との関係のありように関して、N.T.ライト先輩は、次のように書いておられる。
           イエスがよみがえったことで、すべては新しい光のもとにおかれた。(中略)ここで重要なのは、神は(もし存在するとして]私たちの世界に在る対象物でも、あしてや知的世界の特定のイデアでもなので、その存在を証明しようと人間がどれだけ努力しようが、迷路の中心には決してたどり着けないということである。
           では神が存在するとして、その神がその迷路の真ん中から、自分の方から現れたらどうなるだろうか。それこそがまさに、主要な唯一神論の伝統が伝えてきたことである。(『クリスチャンであるとは』 p.85)
          ある面、イエスのよみがえりは、神と人との関係を変える上で、非常に画期的な事実であり、神と人間に関する世界システムが変わったできごとであった、とご指摘である。つまり、上記引用文の最後の部分にある、神が突然人間の世界に顔を出した瞬間であり、前回のブログ記事 木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9  で言えば、将にカイロスの時であった。そして、それは、Aeon(イオン)の時となったのである。

           しかし、残念なことに、16世紀から17世紀以降の啓蒙思想と科学思想がヨーロッパ社会の中で席巻して以降、本来人間の認知を超えているはずの神も、人間の認知の枠内でとらえようとする動きがキリスト教世界の中でも起きてきた。メタ概念であるものを、サブ概念で理解した気になるという愚を、特にヨーロッパ大陸の北西側の領域に住むキリスト者の多くの人々は犯してきたし、また、そのヨーロッパからアメリカに渡ったキリスト教の関係者の多くの部分の皆様もその愚に巻き込まれてきたし、ヨーロッパ大陸の北西側、および、アメリカ大陸経由のキリスト教として受けてきた日本のキリスト教もその影響を受けてきたように思う。まぁ、それは時代の流れの中で致し方ない現実でもあったと思う。
           なお、ヨーロッパを席巻した科学的な思索は実は、自然神学と呼ばれる神学の分野から分離していき、独自の論理で研究と思索が進められていく中で、客観性の信頼から、神学的なテーマである神の被造物に関する理解という側面が薄れていったように思う。
           
          天とは何か?
           天とは、空とか、大気圏とか、成層圏とか、宇宙とか、天国とか、いろいろな理解ができる語である。我々は、我々の知識の範囲、日常言語に縛られているため、その後の理解の範囲で大賞を理解することが多い。「我らの国籍は天にあり」という語が、キリスト教界の墓石には書いてあることが多いが、その意味がどこまで理解されているのだろうか、という事例も多数ある。
           「神は天におられる」と、聖書記者の一人がきっぱりと断言している。(中略)しかし、これは聖書の伝統が常に主張してきたことを強調しているに過ぎない。即ち、もし神がどこかに「生きている」とすれば、それは「天」として知られている場であるということである。
            二つの誤解を直ちにとかないといけない。第1に、後代の神学者の中には、宇宙を旅すればいつかは神の居る場にたどり着けると想像した人がいたかもしれない。だが聖書の記者たちはそのようには考えなかった。ヘブライ語やギリシャ語では、「天」が「空(そら)」を意味することもある。しかし聖書記者たちは、物質世界での場所を表す意味の「天」と、「地のすみか」としての天とを、現代人よりも容易に識別することができた。それ等は異なる種類の「場」なのである。
           (中略)
            二番目の誤解がある。それは「天(天国)」という言葉が、「神の民が死んだあと、私服の幸せのうちに神とともにいる場所」という意味で頻繁に使われてきたことで生まれた。その結果、天とはクリスチャンが死んだ後に向かう場所、祝福された魂が最終的に行く場として理解されるようになった。そして「天」と反対の場所である「地獄」とセットで理解されうるようになった。だが初期のクリスチャンにとってそれは、購われたものの最終的な終着点という意味ではなく、神が常におられる場を言い表した。その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。(同書 pp.86-87)
          アメリカのアニメ The Simpsonsでは、いくつかの天国概念が戯画化して描かれている。それを以下に紹介したい。アメリカ人のプロテスタントの人々の多くの天国概念は以下の図のようなものかもしれない。死後に行く楽園としての存在である。それが証拠にHomer Simpson氏はバスローブの様な割と楽な服をまとっている。案外こういうイメージがあるかもしれない。


          天国についてのアメリカ人が持っているであろう一般的なイメージ

           まぁ、以下のプロテスタントとカトリックの天国概念の違いを戯画化してみたシンプソンズの画像は少しひどいと思うが、しかし、両者のキリスト者の生き方の違いを概念化しているようで、なるほどなぁ、と思わせる。


          プロテスタントの真面目さ、健全さへのこだわりを戯画化した天国イメージ


          カトリックの多様さ、楽しさの延長線上で戯画化された天国イメージ


          In side Actors Studioの中での名物コーナー 10の質問
          このコーナーの最後で、もし天国が存在したら、何と言われたいのか、を聞くのがお定まり


           さて、ここで、上記引用文中で重要なのは、個人的には次の一文であろう、と思っている。

          その意味で「天(天国)に行く」といういい方に含まれる約束は、「神が居られる場に私たちもいるようになる」ということである。したがって「天」とは単に未来の状態だけでなく、現在のこともあらわす言葉なのである。


           実際イエスも次のように言っておられる。

          【口語訳聖書】マタイ
          4:17 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。

           これは、空の向こうにある天国の事ではないのではないか、ということである。空が近付いたのではなく、神そのものであるイエスがこの地に来たのだ、というのがイエスの主張ということではないか、と思うのである。

           これまでの日本のプロテスタント派のうちかなりの部分のキリスト教は、このような神が地にやって来て、その一部を天(神の御座)とするということを案外軽視してきたかもしれない。将に、出エジプトのあとイスラエル人が放浪中の間、会見の天幕は、神の御座であり続け、天が地において現れていた場所のように思うである。

          古代語文献を現代日本語で読んで理解できるか?

           現代日本語で読める古代語文献は数限りない。しかし、古代語で書かれたものを書いた問う人である古代語著述家の意図を正確に把握できるかどうかは別の問題であると思う。理解のずれが何重にも生じやすい、と思うのだ。日本語翻訳の際のずれ、日本語翻訳を読む現代日本人の受け取り手の理解のずれ、意味のずれ、古代人の世界観のずれ、・・・があると思うのだ。

           特に、聖書関連では、パンや、天やパラダイス理解に関して、そして、神理解に関して、かなりの誤解があると思っている。古代語において、その語の古代人が持っていたイメージを正確に我々はもっているだろうか。
           こうしたこと(引用者註 地と天の旧新約聖書における意味が現在我々が使っている語と違うニュアンスを差していること)を明確にしたうえで、次の基本的な問いにしっかりと向き合うことができる。即ち、天と地、神の場と私たちの場はたがいにどのようにかかわるのだろうか。(同書 p.88)
           われわれは、ステパノが死去する前に言った次の言葉の意味をどの程度、理解しているだろうか。
          【口語訳聖書】使徒行伝
           7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
           7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
           この時、ステパノにとって、天と地が一つにつながるという経験をしたのではないだろうか。あるいは、パウロの次の経験を我々は古代語使用者であったパウロの意味できちんと理解しているだろうか。
          【口語訳聖書】使徒行伝
          9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
           9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
           9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
           9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」
           まさしく、この時、パウロだけが天と地が一つにつながる経験をしたのではないだろうか。もちろん、これはパウロの妄想だ、とおっしゃる方もおられよう。それはそうかもしれない。しかし、現代人と古代人の感性は違うし、古代語で語られた語の意味を、現代語に訳すとこうなるから、こうだ、とする様な非常に荒っぽい議論は、大きな過誤を含むのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

           さらに言えば、日本の古典語である、古典を素読できたり、枕草子や源氏物語を書き手が主張したいとおりにすらすら読めたり、その意味が完全にわかるのであれば、そもそも、中学や高校で古典の授業や入試で(日本語の)古典の科目などないはずだと思うが、違うかなぁ。それ以上に、日本語翻訳されたとはいえ、古代ヘブライ語とコイネーギリシア語で表現された世界はすぐにそして簡単にはわからないのではないか、と思うのだが、違うかなぁ。

           まだまだ続く




          評価:
          N・T・ライト
          あめんどう
          ¥ 2,700
          (2015-05-30)
          コメント:お勧めしています。

          2015.09.09 Wednesday

          「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(8)

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             今回も、前回の投稿以来時間がたったが、魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介しながら、キリスト者として思うところを少し触れてみたい。

            再生は生じないけれども
            生はあると主張する聖書

             世間様の中には、どの宗教も目指すところは同じだから、どれを信じてもよい、とご主張になられる向きの方々がおられる。結果としてどの宗教者のアウトカム(生き方としての結果)も似たもののようになることはあるが、仔細に検討すれば、それはかなり違う、と個人的に思うのである。アウトカムが同じであれば、アウトルックが同じであれば、同じであるとする議論は、子供銀行券の1億円札と1万円札は同じになるが、それは同じではない。なお、コンビニのデジタルコピー機などで、コピーした1万円札と1万円札はほぼアウトルックは同じであるが、コピー機から出た1万円札を使うと、刑法犯になる。同じではないのである。
             テクストの少し前の部分では、同じ涅槃について、地水火風の要素もなく、この世界(loka)でも他の世界でもない様な領域(auatana)が存在し、そこには死も再生も存在しなくて、それこそが苦の終わり(anto dukhassa)であるといわれている。即ち、苦と「世界」の終わりであるとこところの涅槃とは、生ぜず(ajata)、成らず(abhuta)、形成されず(akata)、条件付けられていない(asankhata 無為の)者であり、そこでは縁生の現象が生成消滅しないから死も再生も存在しないというわけだ。
             引用部で言われていることは、このような不生であり無為である涅槃が存在するからこそ、条件づけられた現象を出離することも可能なのだ、ということだが、その理路は先ほど述べたとおりである。有為の現象を越えたところに、無為の領域が存在するから、その覚知によって対象への渇愛は滅尽され、「世界」を終わらせることができるということだ。(『仏教思想のゼロポイント』p.148)
             聖書でいう最終的な終着点(Telos PointやAeonで実現すること)は、確かに苦の消滅であるが、それは、人間側の努力によらない、神の一方的な完全さのうちにおかれることにある、ということであると個人的には考えている。苦の終わりは、思惟の結果の解脱によるのではなく、神から、あたかもナザレのイエスがすべての人類に差し出された如く、神が一方的に提供する神の国、神による支配の結果として実現すると思っている。
             確かに、聖書の黙示録の中に、そこには死も涙もない、とは書いてあるが、そこは生で満ち溢れているかのごとく書かれている。四苦の中の老、病、死の三苦はないのだが、生はあり、その生は苦でなくなった世界が、最終的な終着点、神の御座の前の状態である、というのがキリスト教、並びにユダヤ教の世界観であると思う。
             基本的には縁生の現象が生成消滅したり、渇愛のような現象は存在しないが、それは、個人的な覚知によらず、神の義が完成する、神がそもそもの世界の関係性を含めてすべてを完成することによるという、メタ存在がこの地に突入してくることに、つまり、この地上ではカイロスとしてしか現れえない瞬間的な関係性が、Aeonの関係性、永遠に続く関係性に代わるものとして描かれているように思えてならない。仏教用語を使うならば、覚知によって対象への渇愛が滅尽されるのではなく、キリスト教用語を用いるならば、神がすべてのものを完成させる、すべての人をその囚われから解放するがゆえに、より大きな愛に包括されるがゆえに、個人的な細かな関係において発生するさざ波のような現象論に関しては、神の大波の前にその効力がほとんど無視できてしまうほど小さい、という状況のことをさしているのではないか、と個人的に考えている。

            楽とは何か
             仏教の「楽」とは、無為、寂滅、涅槃であると以下の文章表現で魚川さんは書いておられる。
            「生じては滅して行く、その寂滅が楽である」という無常偈後半の句は、生成消滅の存在しない寂滅境であり、また「最高の楽」であるところの、右に述べた涅槃について詠っているものである。この漢訳で言えば、「寂滅為楽(寂滅を楽と為す)」、即ち、不生であり無為である寂滅・涅槃こそが楽であり、仏弟子であればそれを目指すべきだというのは、ゴーダマ・ブッダの仏教における基本的な価値判断だ。(同書 pp.149-150)
             これは、現代人の考える「楽」とはずいぶん違う。ここのところ、古代語で書かれた文献の内容を現代日本語で読んで、そのまま理解できるか問題ということに取り組んできたが、個人的には、非常に否定的である。そもそも、理解できていないという前提に立って議論したほうがより実り多いことは案外多いのである。
             大体、現代日本語で話す者同士の対話でも共通理解しているかどうかというのはかなり怪しいのに、相手は、時代を隔てた古代語であり、地域も越えているのである。

             さて、ここで、魚川さんによれば、ゴータマ・ブッダの基本的な価値基準を次のようにお書きである。
            不生であり無為である寂滅・涅槃こそが楽であり、仏弟子であればそれを目指すべきだ
             ここを読みながら、あぁ、なるほど、このあたりがキリスト教との違いが基本的に表れているなぁ、と思ったのである。キリスト教は不生を目指さず、神とともにある生を目指すし、無為を目指さず、神にある有為を目指す。生きることに意味を見出すのがキリスト教徒(キリストの弟子)であることだと思うのだ。
             しかし、「キリスト教には天国がある」とご主張の向きもあろう。しかし、キリスト教のいわゆる現代日本語における『天国』理解は、ナザレのイエスが言った天の国、あるいは神の国理解、あるいはパウロの時代くらいのイエスの弟子たちが思っていた天の国理解とは似ても似つかない可能性がある、と思うのである。それを軽々しく、涅槃のような状態、死後の世界を天国と軽々しく言うから、混乱が生じてきているのだと思う。そして、お空の星になって、下界の人間界を眺め、守護聖人のような死後の世界概念がはびこっている。それは、日本に限られたことでないことは、最下部に示すMaria Schriver(シュワちゃんの元嫁)嬢のWhat's Heavenをお読みになれば、お分かりいただけるであろう。

            苦からの解脱を目指す仏教と
            近代の知的フレームワーク
             この本で最もおもしろかったのは、以下ご紹介する魚川さんの記述である。あぁ、キリスト教だけでなく、仏教でも、同じことが起きているのだ、というあたりのことが面白かったのである。
             まず、ゴータマ・ブッダは「すべての現象は苦である」という時、その苦の原因である渇愛を滅尽して、苦なる現状から解脱することを教えた。そして、苦というのは具体的に言えば、生老病死などの八苦である。ここまでは、だれでも承認するゴータマ・ブッタの仏教の基本教理だ。
             さて、苦からの解脱が教えの本質なのであれば、それが達成された境地では、生老病死は存在しなくなっているはずである。だが、現実のゴータマ・ブッタの人生を見てみると、彼は老い、彼は病み、そして八十歳で普通に死んだ。ゴータマ・ブッタの仏教を、何とか近代の知的枠組みに回収しようと試みる人たちは、ここで大きな困難に直面することになる。(同書 p.151)
             何が面白いか?っておっしゃるなかれ。この一文である。
            何とか近代の知的枠組みに回収しようと試みる人たち

             実は、近代の知的枠組みに、仏教を押し込もうとする人々がおられるというご指摘である。実は、キリスト教でも、この問題は起きている。自分が理解できないことを無理やりに理屈をつけて分かった気になる病は、舞狂でも、キリスト教でもあるという側面であり、わからないことをわからないという素朴さと正直さと謙虚さを失った近代人の悪弊を見る思いをしたのである。

             その挙句の果てに、ウルトラCをやり始め、そもそもの仏典の主張や、そもそもの聖書の主張など、聖典文書と呼ばれる文書の本質的主張を読み取らず、これらの聖典文書の改竄のみならず、それにわけわからん解説を付けて牽強付会の中途半端な理解を他人に、これが仏教でござい、これがキリスト教でござい、ということを言い募る善意に満ち溢れている善男善女が繰り広げる悪意に満ちた結果が世界中に満ち溢れているように思うのだ。

             仏教は祖先崇拝ではないが、祖先崇拝だとご教示くださった親類がおられ、祖先を大事にしないとは仏罰が当たるとご教示いただいた方がおられたが、キリスト教徒であるためか、仏罰に当たったためしはないし(ゴータマ・ブッダ様、スルーしてくださって、ありがとうw)、「仏教思想のゼロポイントなぞブログで紹介していたりする」とある教会の方からご指摘を受けたけど、信仰の破船状態にはなってないのはどうしたわけだろう(イエス様、ありがとう)。

             近代人の思想枠の中に無理やり古代思想やキリストを押し込めて、理解した気になる半可通というのは、実に無益だと個人的には思う。

            それ、無理筋ではないか、と
             ブッダは老病死の四苦のうちの3つの苦を経験して入滅したが、それを仏教の主張である、これらの苦からの解脱者であるブッダの離脱、解脱、脱出を前提に、そんなものはなかった、それは弟子たちの誤解ではないのか、という実に奇妙な説をお唱えの方もある模様である。
             ゴータマ・ブッタという歴史上の一個人は、現実において病んで死んだ以上、輪廻転生の世界観や、無為の涅槃の領域を考慮の対象から除外して、現象の枠内だけで、八苦からの解脱という彼の教えを解釈しようとした場合、それはたとえ話であると考えるか、あるいは「見方の変わった彼にとっては、私たちには老病死に見えるものも、もはや老病死ではなかったのだ」と、言い張るしかなくなってしまうのである。(p.152)
             個人的には、無理筋、悪手であると思う。この種の無理筋は、キリスト教でもある。そもそもナザレのイエスは弟子たちの妄想説、弟子たちの希望的観測説、ナザレのイエスは死んでいなかった説、弟子たち集団ヒステリーに罹患していた説、民衆の待望概念を書き記した福音書説、まぁ、この種の無理筋には事欠かない。それも、これも、皆近代という枠組みの中に無理やり聖書理解をぶち込もうとした愚の行き着いた先である、と個人的には思っている。史的イエスの研究というのは、行き着いた先が無理筋になってしまった部分があるが、これは、近代の枠組みの中に無理やりイエスを押し込んで理解したいという欲望の行き着いた先ではなかったか、と思うのである。

             ところで、史的イエスに関しては、日本語では面白いことが起きたことを知っている。英語であれば、Historical Jesusなので、間違いようがないのだが、日本語では、”シテキ”イエスと聞こえるので、”シテキ”に、詩的、私的、という漢字を当ててそれぞれが共通理解をしていると思い込んでいた事例があるらしい。

             厚切りジェイソンではないが、Why Japanese people! と叫びたくなる。同音異義語って、ムズカシイですね。


            厚切りジェイソンさんの持ちネタ

             まだまだ続く。



            評価:
            Maria Shriver,Sandra Speidel
            Golden Books Pub Co (Adult)
            ¥ 2,018
            (1999-02-15)

            評価:
            魚川 祐司
            新潮社
            ¥ 1,728
            (2015-04-24)
            コメント:非常に参考になる。

            2015.09.09 Wednesday

            木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その10

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               本日は、木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第10章からご紹介したい。教会における障害を持つ人々やマイノリティに関する内容を扱った章である。

              我が国に生まれたるの不幸?
               近代日本もそうだし、近世日本もそうであるが、多様性を排除する傾向が強いし、近代の産業化時代に入ってからというもの、社会の中での共同行動をとれない、取らないものに関する風当たりは非常に強い。そのことに関して、精神医学の分野での名言であると思うが、昔の東大医学部の呉先生という方の名言があるらしい。
              日本でも、それぞれに法律・制度があり、一定の施策がなされているが、障害者に対する根拠のない差別や偏見は依然強い。ようやく国連の障害者権利条約を2013年12月に批准して、国家としてもそれに向けた誠意ある対応を迫られることになった。その際、特に注意すべきは生涯をもつ人々への「社会的排除」の問題である。
               かつて精神障害をもつ人々に対して、東京大学の呉秀三氏(精神医学)が「我が国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」(呉秀三『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其基礎的統計』1918年)と嘆いたが、これは日本の社会を象徴している。残念ながら教会も例外ではない。
              (『「弱さ」の向こうにあるもの』p.134)
              閉鎖病棟をはじめとし、日本の精神病院の状態は、どうも、刑務所以下らしい。リハビリとは言うけれども、それは真の意味のリハビリ(社会の中に居場所を見つけることができるようにする)ではなく、社会の中で、ごくごく平均値付近の70%範囲に入る普通の人間として『働ける』、つまり、生産的活動に従事できる人間にすることなのではないか、と思えてしょうがないのである。そもそも、人間が多様である以上、基本的に何らかの形でばらつきがあるので、何らかの意味で跳びはねた存在の人は居られるのである。



              その名も正規分布と標準偏差σとの関係

               あるめん、通常の社会的行動がとれない、あるいは、常識を疑ってかかり、常識を破壊しようとするような傾向をもつ社会に適応、順応する能力がない人々ための施設として、大学院という施設があり、そこに自主的希望入院してから、はや30年余りがたつが、個人的には入院していてよかったと思う。まぁ、日本の精神病院のように強制的拘束とか、強制的監禁はないが、社会にいると何をしでかしていたか、と思うと、自主的入院は正解であったと思う。学問は、基本的に既存のものを疑う傾向があるので、ある意味、「触るな危険」というような傾向をもつ危険な存在なのである。

              異質なものへの排除

               異質なものへの排除は、日本社会だけではないが、日本社会、とりわけその中でもキリスト教会におけるこの大数の法則中心極限定理(多数のデータを集めれば集めるほど、標本平均は、真の母集団の平均値に近づいていくという、統計学をやったことのある人なら知らないはずのないほど超有名な定理、統計学をやったといいながら、大数の法則や中心極限定理は高度なので説明できない、と言ったらその人の統計学の知識は、めちゃくちゃ怪しいと思ったほうがいい)みたいに、キリスト者であれば、一つの型にはまっていると思い込んでいる傾向があるようである。このあたりのことに関して木原さんは次のようにお書きである。
               私に寄せられた声でも、次のような言葉があり、心を痛めた。「息子は自閉症なので、教会に発動ことができません」「性的マイノリティであることを告白したら、態度が豹変しました」「発達障害ゆえに、牧師や教会員に奇異に思われて交流の場に入れてもらえません」「表向きは優しい声をかけてもらえるが、でも深くかかわろうとすると実際は迷惑なようで……」。これが事実とするなら、このことに対して、イエスは何と言われるだろうか。おそらく、その人たちを排除しようとする教会に対して、激しく叱責し、憤るのではないだろうか。あるいはそこで排除された人々のために共に涙を流すのではないか。(同書 p.134)
               案外、この種の概念は教会で多いのである。ある種の人々だけが集まっており、それ以外のタイプの人は排除されるという教会は多いかもしれない。表向きは優しい声をかけてくれる教会はあるだろうが、そんな表向きのことでだまされるほど、人間はお人よしではないと思う。

               基本的に、以前、Love Wins祭り(Rob Bell著 Love Winsという本を紹介したブログ記事に、アメリカ最高裁が、州政府の差別的措置を違憲とする判決を出した日に、アクセスが集中した事件)でもご紹介したが、基本的にアメリカ系のキリスト教では、異性愛者でない人々に対してはかなり厳しい目が向けられる。そして、アメリカ系キリスト教が多いアメリカ社会では、いわゆるセクシャル・マイノリティ(日本ではセク・マイ、米国ではLGBT)と呼ばれる人々は社会から排除されてきたし、今なおその排除の傾向は強い。


              United Church of ChristのCF『用心棒』編


              United Church of Christ のCF 『排出座席』編

               結果的に、この異分子排除の原則というのは、ナチスのユダヤ人排除と同じ概念であり、ネオナチ的なのである。これ以上は触れないが、ナチスに積極的、消極的協力した神学者や牧師も存在したし、大東亜共栄圏に積極的、消極的協力した神学者や牧師もいたのである。まぁ、一応それぞれけじめはお付けであるが。
               一時的な状態だけ見て、うんぬんするというのは、実に非常にまずいと思うのではある。

              キリスト教会はいじめ構造?

               ヘイトスピーチやいじめに関して、木原さんは次のように書いておられる。
               最近耳にするヘイト・スピーチには嫌悪感を超えて憤りを感じる。このような言動には、自分の価値観とは異なる異質な物の排除と言う意識がその根底にあるのであろう。こんなことがまかり通る社会に為って入るのかと思うと悲しい。自分と違うものとは交わらず、それを遠ざけ、排除して、同じ仲間だけで共同体を作るのは、学校などのいじめとも共通している。日本はこの傾向が顕著である。(同書 p.138)
               ある関東地方の教会に行かれた神学生の方が、その教会が属するグループについてレポートされた事例をある方から拝見させていただいたことがある。そのグループの教会では、自分たちと同じ行動をとらないものを絶交する(聖餐の相互認証をしない、聖餐に参加させない、ということではないかと思われる)というのである。まぁ、カトリック教会の皆様からは、プロテスタントのいい加減な信者(ミーちゃんはーちゃんのような信者)は、聖餐にはあずからせてもらえないし、正教会の皆様の聖餐には参加させてもらえない。基本的に洗礼に関する秘跡が共通でないという理解かららしい。しかし、あるプロテスタント派の教会群では、同じグループでありながら、カトリックとプロテスタントとの関係と同じような扱いになる場合があるらしいのだ。しかし、こうなると、もはやBullyingといわれても仕方なさそうであるが、そう思っていると、今通勤時間に読んでいるRacheal Held EvansさんのSearching for Sunday という本の中に、次のような一節があった。

                Fun Fact: more Christians were matryred by one another in the decades after the Reformation than were martyred by the Roman Empire. (Racheal Held Evans, Searching for Sunday, (Thomas Nelson 2015)S

               面白い事実:宗教改革後数十年間には、ローマ帝国で殉教者にされた人々よりも多くの人々が、キリスト者同士の相互迫害によって殉教者になった。 
              出典はフスト・ゴンザレス  Justo Gonzalez, The Story of Christianity, Volume II: The Reformation to the Prezend Day (New York:Harper One, 2010), 71.らしい
               読んだ瞬間、あーぁ、と通勤電車の中で危うく声をあげそうになった。こういう黒歴史を記載すると顔をしかめるキリスト者の方々もおありなのは承知しているが、しかし、キリスト教の黒歴史も、それを無視してはNGではなかろうか、とは思っている。要はけじめと神への立ち返りという意味での悔い改めが必要だと思うのだ。

              聖さと排除
               ペテロが見た幻(籠(カゴ と読む、龍ではない)の中に入った食物を見て、ある食物を聖でないとか言ってはならず、それを食べよと結われた幻)の使徒10章の記述の説明があった後、木原さんは次のように書いている。
               ところが、ペテロは、これ以降、劇的に変化したかと言えば、そうではない。神の意思が示され、頭では分かっていながら、微妙な行動に出る。それは新約聖書のガラテヤ人への手紙2章に詳細に記されている。当時、異邦人とのかかわりを良しとしないエルサレム教会の一部の人たちが巻き返しを図り、ユダヤ主義に回帰して異邦人を排除しようとする。ペテロは、その雰囲気にのまれ、彼らの手前「本心を偽って」再び異邦人をとし、そのかかわりを回避していく。それに対して、パウロは完全と抗議する。ペテロの優柔不断な態度と過ちを会衆の面前で、ずばりと指摘したのである。(同書 p.139-140)
               基本的にキリストが死した時に、ユダヤ人と異邦人の間にある区別、差別、境界は撤廃されたことを、隔ての幕が避けることでこれらの区別や差別や教会の存在が無効であることが示され、ナザレのイエスが全ての人のためのメシアであり、キリストであることが示されたはずなのに、勝手に区別するとは何事か、ということなのである。ガラテヤ書3章には次のようにある。

              【口語訳聖書】ガラテヤ書
               3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
               3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
              この辺りに関しては、既にN.T.ライト先輩が、あるご講演でお語りであるので、コチラ  NTライト Kansasで語る(2)  をご覧いただきたい。
               
               全てのイエスの十字架は隔てをはずされたはずなのに、キリスト教徒の一部は、ユダヤ人を逆差別し、ホロコーストや、ポグロムは起こすは、白いシーツをかぶって、存在が気に入らないからと言って、アフリカ系アメリカ人を木につるすは、自分以外のキリスト教は間違っているからと言って、虐殺しまくるわ、とろくでもないことをしてきたのである。



              白いシーツをかぶってコスプレしているわけでないKKKの皆様


              ビリー・ホリデーの『奇妙な果実』
               まぁ、悲惨。 とはいえ、ぜひ一度お聞きいただきたく


              まだまだ続く


              評価:
              木原 活信
              いのちのことば社
              ¥ 1,728
              (2015-07-08)
              コメント:お勧めしてます。

              評価:
              Rachel Held Evans
              Brilliance Corp
              ¥ 1,888
              (2015-04-14)
              コメント:めちゃ、面白い。

              2015.09.12 Saturday

              NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その14

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                今日もN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「天と地と…」からご紹介したい。 今日も、「天と地は重なり合い、噛み合っている」からご紹介したい。

                歯車の様に嚙み合っている神と人間

                 前回のところ  NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その12 で、天と地に関する選択肢として、Option1として、天と地が一体化している神と人間の世界がシームレスにつながる汎神論的世界があることをご紹介した。Option2として、天と地が完全に分離していて、神の世界が人間に全く影響を及ぼさない2元論的世界がある、というところまでご説明した。では、Option3とは次のようなものである、とN.T.ライト先輩は言う。
                 選択肢3は古典的なユダヤ教とキリスト教にみられる。天と地は完全に一体としてかっさなりあってはいない。しかし、その間に大きな溝があって隔てられているのでもない。その代わり、いろいろ異なった仕方で重なり合い噛み合っている。汎神論や理神論のように二者択一ではっきりしたものと比べると、分かりにくく混乱を起こすかもしれない。しかしその混乱は歓迎すべきことである。(「クリスチャンであるとは」 p.92-93)
                要するに、聖書の世界観における神と人間とのかかわりは、常時べったりでもなく、はたまた、神は人間に無関係に動くのでもなく、時に応じて人間にかかわりがあるが、しかし、その主体的関与は神の側にあるというのが聖書の主張であり、それが神が世界を支配しているということであるようにも思うのだ。ここで、神あっているというのは、Interrockという言葉が原著では使われている。ちょうど時計の歯車のように、それぞれの歯車がかみ合っていて、全体として機能する形とでもいおうか。


                ルパン3世 カリオストロの城の有名なシーン

                 時計でもゆっくり動かない歯車もあれば、早く動く歯車も在るし、歯車といっても一様でなく、神と人との関係もそのようなものかもしれない、と思っている。
                 引用部分の最後で、「しかしその混乱は歓迎すべきことである」とN.T.ライト先輩はお書きであるが、案外、こういう混乱の中で悩み、わけのわからないことだと思いながらも、じっくりと考えることは重要だと思う。

                そもそも複雑な現実

                 近代をという時代を通過した我々は、自分たちが理解可能な形になるように単純化して考え、複雑さを複雑さとして味わうことができないような側面があるように思えてならない。そして、単純化して、分かった気になってしまう側面があるようにも思うのだ。そのあたりの事に関してN.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
                同様なこと(引用者註 人間生活が込み入った多面性をもって、かんたんに理解できない複雑さのために混乱すること)は、非ユダヤ的な古代世界や近代哲学から、旧約聖書の世界、古代イスラエル民族の世界に目を向けるときにおこる。すなわちユダヤ教とキリスト教という仲たがいした二姉妹(そしてある意味イスラム教も)の基礎となっている世界に目を向けるときである。旧約聖書は、神は天に属し、私たちは地に属すると主張している。そうでありながら、この二つの領域が確かに重なり合うことを繰り返して示している。(同書p.93)
                 基本的にシステム理論なんかが典型的だが、インプットとアウトプットを見比べてみて、変換装置やブラックボックスの中身がどのようなものであるのかを推定し、分かった気になるのである。そして、もし、それがわからない時には、自分たちが理解不能だ、の分類に入れてわかった気になっていることが多い。物理的な現象はある程度シンプルであるので、このような理解でも何とかなるが、こと人間が絡む話になると、状況のインプットのパラメータ(変数)が多過ぎ、アウトプットのパラメータ(結果の変数表記)が一意に(何度やっても同じ結果一つだけに)為るとは限らない。又、人間は学習するので、あるインプット(刺激)を与えても、機械とは違って(機械でも相当複雑なことが起きるが)毎度同じアウトプットにならないことが多い。しかし、近代の大前提は同質性を前提とするので、同じインプットを入れれば、同じアウトプットがあることを期待するのである。余りに単純化が過ぎた社会に我々がなれすぎているために、古代世界、とりわけ、ユダヤ教の世界、古代イスラエルの世界に目を向けるときに、近代の単純化された思想で理解されてはならないように思う。

                 その辺の事を、訳者の上沼さんの書かれた本『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』の独語の印象として、若い友人はブログ 朝のうちにあなたの種をまけ の 心の影に眠る闇をみるために非常に注意深く思想の表皮をもちあげる解釈者である私 という記事で、次のように書いていた。ここで紹介したい。
                そして
                読み終えてみて
                思うのは
                「今、読んで良かった」ということ

                おそらく
                神学生時代なら
                その語り口についていけず
                痺れを切らしてしまっていただろう

                そして
                教えられた解釈の原則にこだわって
                著者の読みを受け付けられなかったかもしれない

                けれど
                今なら わかる

                夫たちよ、妻の話を聞こう
                夫婦で奏でる霊の歌』と読み
                著者の見てこられた世界を想像できるので
                意図が理解できる

                また
                後に『クリスチャンであるとは』へと繋がっていく道筋が見えるので
                とても興味深い
                何より
                自分のうちに
                この書で描かれている旅に
                共鳴するものが芽生えてきている

                (中略)

                 一直線に進まない思考も
                 内省的過ぎるように思える信仰理解も
                 「独特な」聖書の読み方も
                その全体的な構成のうちに位置付けていくなら
                それぞれが響き合っていることに 気づく

                そして
                重なり合う言葉と声と物語の中で
                えぐられ
                包まれ
                押し出されるような経験をする
                 実際の現実的な作業をする組織にシステム屋として実験的に支援のためのシステムを入れる作業をしている(ご協力いただいている)と思うのだが、自分自身、あまりに単純化して考えることに慣れ過ぎているかもしれない。世の中のシステムというのは、こちらの想定外の動きをしてしまうのである。

                 一時期、原発事故関連で「想定外」という語が流行ったが、人間はそもそもコントロールできること等は非常に限られているし、コントロールできるものは、基本線形性の強い予測可能性の高いものしかできないのだ。経済評論家が、株価の予想や円ドルレートをはずすのは、当たり前の話でしかない。そもそも、人間の行動も、その習合的な影響を受けて発生することは、基本線形的な予測等が成立しない世界なのだと思う。そのあたりの謙虚さは持ち合わせていたいと思う。

                地を民と共に歩んだ神

                 最近参加させていただいたある聖書講演会に参加させていただいた時、非常に印象深いお話しがあった。モーセが荒野で歩いた時に、モーセと一緒に歩いたイスラエルの民と共に、そもそもそこにいる必要性があまりないにもかかわらず歩かれたとい言う表現をお聞きした。このことをお聞きした時、案外このことは神あるいは天という概念を理解する際に重要なのではないか、ということを感じたのでありました。つまり、人と共に神は歩こうとしている、ということは案外大事だと思うのである。
                 モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した時、昼は雲の柱で、夜は火の柱で神が彼らを先導した。モーセがシナイ山に上ったとき、神はその頂上に現れ、彼に律法を与えた。イスラエルのひどい不品行による反抗に会いながらも、神は約束の地への旅に伴われた。
                 実際、『出エジプト記』のかなりの部分は(驚くほど速いペースで進む前半のナラティブの後ろに)、神が降臨して民の間に住むという移動式の祭壇の記述に費やされている。何ともぴったりしたいい方だが、それは「会見の幕屋」と呼ばれた。そこは、天と地が一つになる場所であった。(同書p.94)
                 会見の幕屋の話は案外重要で、神と人がべったりと常時一つであるのではなく、神と人が一時的に交差する場所としての瞬間的に接する場所としての会見の天幕ということは案外重要な概念ではないか、と思うのである。

                 大体、人間は、神と一緒にずっといるということは出来ない相談なのではないか、と思うのではある。というのは、神は義であり、正義であり、光である存在であるのに対し、人間は闇を内に抱え、不完全であり、義ではなく、闇を住みかとする人間には耐えがたいのだと思う。そのあたりの事は、上でご紹介した友人のブログ記事 『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』 で紹介されている、『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』をお読みいただきたいと思う。

                 つまり、闇を抱え、闇をすみか、常住地とする我らを神が訪問し、瞬間的(と言っても、人間が定義する時間概念の上でのことではないが)に突然、瞬間に神が訪う世界という部分があるのではないか、というのが「クリスチャンであるとは」のご紹介者でもある上沼先生がご指摘の事であると思う。

                 この神との不連続的な共同体性という概念は、非常に重要ではないかと思うのである。我々は0-1の連続か不連続か、いったん紙に従うと決心したらそれ以降は連続的に神に従うものである、といった概念で考えがちであるが、断続という概念も在るのではないか、と思うのである。

                なぜ、意味をなさないと見えるのか?

                 聖書眼鏡とか、進化論眼鏡をはずすとか、表現する人がいるが、個人としての独立した人間は何らかのバイアスがかかっているのと思うのだ。そのバイアスがかかっているということを普段は意識していないので、自分の見え方、バイアスのかかった見え方であったとしても、その見え方があたかもバイアスがかかってなくて、客観的なものと思いこむ習性があると思うのだ。
                 天と地が重なり合い、そうすることで神は点を離れることなく地にいるという意味づけは、ユダヤ教と初期キリスト教神学の中心にあった。多くの混乱はまさにここにある。もしクリスチャンの主要なこの主張を、他の思考の枠(いわゆる選択肢1と2で考えるなら、不可解で変なものになり、おそらく矛盾してさえいえるだろう。しかし、正しい枠に戻してみるならまさに意味が通じるようになる。(同書p.95)
                 科学や学問の世界で、個人の観測、あるいは追試不可能な事実は客観性がないとして排除されるのだ。それが起きたのがオボちゃん事件である。追試をしてみても、再現できない時にはその真実性、事実性が大きく損なわれ、相手にされなくなるのだ。

                 ただ、現実の科学論文では、ピアレビュー(論文査読)の段階で、追試はされなくて、概基本的な文献が挙げられていること、論理性が担保されていること、著者たちが示す資料(結果)が妥当であるかどうかだけが問題にされるのである。

                 なお、Simply Christianには、英語ではWhy Christianity Make Senseというサブタイトルがついている。つまり、クリスチャンであること、キリスト教が意味をなぜ持つのか、という意図が含まれているようなのである。クリスチャンであることが意味をもたない状況が西洋でも近代化の中で歴史的に構成されてきたことによって意味をなさないようになってきたことにN.T.ライト先輩からの反論であり、一般の人々が思い込んでいる仮説や前提は本当に正しいのか?というチャレンジでもある様な気がする。そういう読みで本書を読んでみるのが案外大事なのではないか、と思うのだ。 

                メタ存在としての神
                人間の枠内にとどまらない神

                 神は人間の枠、理解の枠の中でおさまらない方である。例えば、合理性という人間の枠の中で神は捉える事が出来ないし、その中では収まらない方であると思うのだ。近代は、理性とか合理主義の枠内で考えることを良しとする中で、キリスト教もその影響を受けてきたと思うのだ。そのあたりの事に関して、N.T.ライト先輩は次のように書いておられる。
                 この世界を創造した後も神は、世界のそば近くにいて、生き生きとした親密な関わりを保ってこられた。しかも神は世界のうちに閉じ込められてることなく、世界は神のうちに閉じ込められることおない。世界における神の行為を語ること、(別ないい方をすれば)地の上における天の行為を語ることは、すなわちクリスチャンが「主の祈り」を唱えるたびに語っていることは、形而上学的な無様な失敗についてでもないし、異界の力が無作為に地上に侵入する様な「奇跡」を語ることではない。それは、被造物の中における神の愛に満ちた活動を語ることであり、常に神が臨在していることの確かなしるしでもある。実際、その様な愛の行為はある響きを残すことになる。まさにあの声の響きである。(同書 p.96)
                 人間は、自分の理解の範囲に閉じ込められているが、神は人間の理解の枠の中に入る方ではないと思うが、それを近代という時代は無理やり押し込め、また、聖書の記述をその枠内に収めていった部分があったと思う。そして、理性で理解できない部分は切り捨てたり、当時の弟子たちが誤解したのだ、ということで納得しようとしたりした部分があると思う。

                 「クリスチャンが「主の祈り」を唱えるたびに語っていることは、形而上学的な無様な失敗についてでもないし、異界の力が無作為に地上に侵入する様な「奇跡」を語ることではない」とお書きであるが、これは、主の祈りの「御国を来たらせたまえ」や「御思いがなりますように」という主の祈りの表現をどう理解するかである。

                 Ministryの出張講座の参加記録 ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 でも少しふれたが、

                「信徒は基本、主の祈りを唱えながらも、本気で御国が来るとは思いながら唱えていない」

                ということがご講演の中でふれられていたが、そのあたりの時代と地域を隔てた中での言葉が指しているものの違いをどう理解するか、ということが問われているのだろうと思う。

                クリスチャンの信仰の誤解について

                 クリスチャンの信仰は、クリスチャンですら誤った理解をもつ可能性がある以上、キリスト教外の方の責任にすることは案外問題であるかもしれない。キリスト者であっても、自分の信じるキリスト教は語れても、普遍的なキリスト教について語れる人が案外少ないのである。それは信仰歴の長さに関係ない。特に日本ではこの傾向は強いと思う。教派をまたいで、多くのキリスト者の人々とつながっている人は案外少ない方が多いのではないか、と思う。
                 クリスチャンの信仰について広く普及している誤った理解の多くは、この点を現存の理神論の枠に当てはめて理解しようとすることから来る。(同書 p.96-97)
                 特に近代の時代を経る中で、神を人間の合理主義の枠内で議論すること、創造科学の関係者の一部にみられるような、科学の枠組みの中に無理やり神を閉じ込めて、そこで議論しようとすることは大きな問題がある様に個人的に思う。

                 このあたりのことは、

                「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(8)

                NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その13


                の記事でも触れたところである。


                 まだまだ続く。


                Johney Cash版 1960年代的Dixie風のI've been working on the railroad
                線路は続くよどこまでの 「続く」つながりで・・・そこかい?そこです。w





                評価:
                N・T・ライト
                あめんどう
                ¥ 2,700
                (2015-05-30)
                コメント:お勧めしています。

                2015.09.14 Monday

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (33)

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                   本日も引き続き、『富士山とシナイ山』から19章、「「空の空なり」と伝道者は言う」の続きからご紹介していきたい。

                   
                  有名な空の空等概念

                   筆者の友人の尊敬している方のお一人に「空の空」と名乗っておられる方もおられるし、「hakkol habel」というタイトルのブログ(とはいえ、個人のツイッターおまとめサイトに最近はなりつつある)をお持ちの方もおられる。いずれも知恵文学で有名な箴言の冒頭から採られている。
                   この概念は、非常に東洋的な輪廻思想とよく似ている部分もあり、日本仏教的な諦念の概念と類似性が高いこともあり、多くの日本の方になじむ、または、共感を持って受け入れられやすい聖書箇所の一つである。
                   しかしコヘレトは全く歴史への言及なしに思惟を進める。コヘレトに至って、旧約の知恵文書は救済史の視座から考えるという古の慣わしを失い、首尾一貫して、東洋に一般的な循環論的な思惟法に戻っている。唯一の違いはコヘレトではこうした考え方がまったく世俗的な形式で表現されていることである。しかし―実はこの悲劇こそこの文書のテーマである―ヤハウェが歴史に介入して働きかけることのないこの世で、伝道者(引用者補足 コヘレト)は神を求めている。(p347)
                   しかし、小山先生は、神の存在を想定しない循環論的(輪廻的)な思惟法は一種の悲劇である、とご指摘なのである。このあたりは、拙ブログの仏教との対話シリーズで、魚川さんがお書きになられた「仏教思想のゼロポイント」をネタにさせていただいているシリーズでも、キリスト教、あるいは聖書と仏教の違いがあるのではないか、とご指摘申し上げている点と、コヘレトの主張とはパラレルの関係にあるように思う。



                  しかし、仏教的に、これは正しいのだろうか。
                  ニー仏さん的にはお喜びいただけそうだが



                  恋する輪廻の予告編

                   また、ライト先輩の「クリスチャンであるとは」の紹介シリーズのNTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その14 でも触れたし、木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9 でも紹介したが、人間側の営みや希望とは関係なくご自身の独自の論理でこの人間の世界に突っ込んで(介入して)こられるのが、神なのだと思う。常に人間にとって定常的に望ましい状態に調整されるコントローラーのようなタイプの支配ではなく、最終的な責任を丸抱えして、人間の叫びを受け止める存在としての受け止め手としての支配なのだと思う。この辺、古代語で書かれた文書の理解の困難性を感じる。

                  複雑な仏教的な輪廻概念

                   似ているけれども違う概念は、日ユ同祖論シリーズでも触れたところであるが、似ていると同じは違うのである。仏教的な輪廻思想、循環概念とコヘレトが主張する諦念概念は大きく違うことを、そして、仏教的な輪廻思想、循環思想がそう単純でないことを、小山先輩は次のように記述しておられる。
                  伝道者の神は歴史に意味を与えるために歴史に介入することをしない。伝道者の世界観には社会的責任感は皆無である。フォン・ラートはコヘレトを東洋的思惟と関連付けている。なるほど類似は明白だが、南伝経典『スッタニパータ』から引用しよう。通常の東洋的な循環概念に対する仏教のかかわりはもっと複雑であることを示すために。引用文はコヘレトを思わす調べで始まる。

                   人生はいかに短いことか!
                   百年もたたぬうちに
                   人は死ぬ。それより長命な人も
                   腐敗による死を免れぬ。

                   人は「わが物」を思って悲しむ。
                   富が永遠に続くことはなく、
                   運命の糸車は回転するゆえに。
                   この家には宿無しの人が住んでいる!

                   (中略 当ブログの引用者による)

                   賢者はなにものにも信を置かず、
                   何人も友にせず、敵にもしない。
                   水が木の葉を汚さぬように、
                   羨望、嘆きも彼を汚さない。

                   ここに表現されているのは仏陀の人生観である。「人生はいかに短いことか!」しかし仏陀は、この短い一生の間に可能な限り楽しむがよかろう、とは勧めない。それどころか「わが物」という所有概念を捨てよと我々に要求する。人間の抱えるもろもろの問題の根因は何かがわが物(ママイータ)であると決め込むことにある。(中略)スッタニパータには神という語が出てこない。仏陀の世界はこの意味でイスラエルの世界とは根本的に違う。仏陀は全人類を救うために救済史を創造する「神」について考えたことがない。仏陀が強調したのは、「わが物」に貪欲な人々は、羨望、悲哀、嘆きと別れらない。それゆえ、賢者は権利要求〔衝動〕から解き放たれ、先見者は無事に世渡りする。(同書 pp.349−350)
                   ここで、小山先生もブッダの主張は、渇愛を離れる事であり、そのような存在となりうるすべてのものから解脱、離脱することが”楽”である、とご指摘であるように思う。さらに、それを内観というのか、心を尽くし、深く思い巡らすことで実現できるのではないか、そして、人間の苦から離脱するために人間ができることは何かを考え、行きついた先がブッダ本人が主張した仏教であり、その意味で、人間の世界で閉じているのが仏教であるように思う。ある面、本来、自力救済の世界であったはずなのだろうと思うが、それが全ての人にできないので、悟りを開いた人々の存在によって、その功徳によって、救済を得ようとする概念が表れたのではないか、と思うし、その他力による救済論が重視されているのが日本の仏教界のようにも見えてくる。

                   魚川さんは、ツィッターでつぶやいておられたが、基本、テーラワーダ仏教、ヒャッハーのような本をお書きになられたわけではなく、日本の仏教を否定したり批判されたりしたい訳ではなく、そもそもブッダの思想、その原点はどこであるのか、ということを問いたいという思いでお書きになられたようである。

                   ところで、本論に戻ると、聖書の神は、その閉じているはずの人間の世界に人間からすれば、突然にぬっという感じで介入し、そして、突然に、あるいはやや唐突に救済の存在を指し示し、あとは、それに対してどう人間側が反応するかに関しては、人間個々人の問題としてお任せになっている部分があるように思う。その意味で、腕を引っ張って救済に無理やりに人間を引きずり込むタイプの救済ではないように思うのだ。そのあたりを誤解しているキリスト教会人の方に時々出会う。「いいことなんだから、それは無理にでも…」とおっしゃる向きもあるが、神ご自身は、そういう押しつけがましい存在ではないように思うのだ。あくまで、救済の源泉を指示される存在としての神であられ、そして、それぞれの人ごとのアプローチを待っておられるお方という面が強いように思うのだ。

                  類似と照応

                   以前にも触れたが、類似と照応、同一とは違うと思われる。前にも述べたが、キリスト教と仏教とは、同じであるとか、主張は同じであるとか言われることが多いが、それは同じではないことが多い。照応とは、対応関係であり、一部をとって抜き出せば、同じに見えるかもしれないが、一部対応関係にあるということである。
                  仏教のメッセージの偉大さは貪欲の断念の光の下に皮肉な人生観をおいたことである。皮肉な循環的人生観は何世紀もの長きにわたって、「わが物」の断念の思想によって挑戦されてきた。スッタニパータの言葉は仏教の根本的メッセージを指し示している。それらはマタイ福音書に記録されたイエスの言葉と照応している。
                   私に従ってきたいものは、自分を否定し、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分のいのちを救いたいものはそれを失い、私のために命を失うものはそれを得る。(マタイ福音書16章24・25節)
                   私が示唆しているのは、キリスト教の弟子道と仏教のわが物の断念が同一だということではない。両者は相異なる宗教的及び文化的文脈に現れる。しかしどちらも、「私は・・・楽しむよう勧める」というコヘレトの格言とは異質であるという点でたがいに近いということである。(p.350)
                   先にも少し触れたが、仏教の「執着心、渇愛から離脱すること」と、ナザレのイエスが言われた「ナザレのイエスのために命を捨てる」ことはかなり違うのである。また、仏教は生そのものに対してこだわることに対しても否定的な目を向けるが、マタイの福音書の結論部分では、「いのちを得る」と、「神から与えられたいのち」の存在を価値があるものとしている点で、仏教とは根本から異なる可能性が高いことを示しているように思われる。そして、永遠のいのちと涅槃、ニルバーナとは概念としては類似部分があるが、本質的には違うように思われる。

                   ただ、コヘレト(伝道者と訳されることもある)のことばのような世俗的な知恵を含むある種の旧約聖書における知恵文学にちらちらと垣間見られれる、一種現実的な物質主義や物質世界の中での楽しみに溺れることを進めるかのような一種虚無主義的な世界観とはブッダがそもそも行ったとされる仏教徒は必ずしも一致しない、というだけのことである。

                   この辺を十分考えないと、結論はおかしなことになりかねないし、そういう議論に巻き込まれていくことになる。残念なことであるが。









                  評価:
                  小山 晃佑
                  教文館
                  ¥ 4,104
                  (2014-09-12)
                  コメント:お勧めしています。

                  評価:
                  魚川 祐司
                  新潮社
                  ¥ 1,728
                  (2015-04-24)
                  コメント:なかなか参考になります。おすすめ

                  評価:
                  N・T・ライト
                  あめんどう
                  ¥ 2,700
                  (2015-05-30)
                  コメント:お勧めしております。

                  2015.09.16 Wednesday

                  今年の夏のある修養会で…

                  0


                     
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                     断筆宣言されて、「あぁ、さびしいなぁ」と思っていたら、水谷潔さんが、

                     教会の「除名」は、暴力団なら「破門」か「絶縁」か?

                    という面白い記事を書いておられたので、少しご紹介したいことが出てきたので、書いてみたい。

                    この夏の修養会で

                     この夏の後半は、牧師先生方のある修養会に混ぜてもらって、その修養会に参加させていただいたのだが、その修養会でお聞きした内容があまりにすごすぎて、唖然としてしまったのである。ここで紹介する事例は、少数の異常例であり、大半の司牧の方はまともであると信じているし、信じたいが、そうでもない事例にあった方には心からのご同情を申し上げる、としか言いようがない。

                     そういう目にご遭遇なさった方は、一度離れてみるのも方法であると思っている。他所に行ってもあまり変わらないかもしれないが、そういう被害にあわれてなおそこにとどまるというのは、あまりよい策とも思えない。司牧との組み合わせの問題もあるとは思うからである。ある教会が全ての教会ではないし、ある教会に行かなくなったところで、キリスト者でなくなるわけではない、と思うからである。ただ、組み合わせの問題でもあるから、大きく変わるとは約束いたしかねますが。

                    自称「悔い改めた」司牧には
                    破門や絶縁が迫られない?

                     カトリック教会での児童虐待に関しては、ミーちゃんはーちゃんがサンタバーバラにいたときに、ちょうど現地の地元新聞の記事になっていたということもあり、今回お聞きした司牧の方が起こした事例はそれに比べればまだかわいいものであった。しかし、その後の処理があまりにむごすぎるので、そっちの方に唖然としてしまった。どうも、この問題にかかわったそのキリスト者集団で影響力の強い方が、「本人が悔い改めた、と言っている。もうしない、とも言っている」と言われたので、悔い改めたのだから、大丈夫だ、と言いうことで押し切ろうとされた方がいたらしい、ということらしいのだ。

                     アメリカの基準で言えば、今回お聞きした事例はセクハラ・パワハラ案件であり、性犯罪とまで言えるか、と言われれば極めて危ういところはあるが、児童虐待すれすれである。それが司牧によって教会で起きても、「悔い改めた」という言葉により、それでも破門や絶縁を避ける雰囲気があることにまずもって驚いた。

                     同様なことは、関西のある府県の伝統的な某キリスト教会群で発生した事案を知っているので、まぁ、どこでもあるのだなぁ、と思っている。事案に関して大阪高等裁判所で民事として結審し、最高裁で棄却されたらしいから、その判決が出ているはずである。その後はフォローをまじめにしていないので、どうなったかはよくわからない。

                     
                    牧師が勝手に打ち出す
                    破門や絶縁の事例

                     かと思えば、ある教会群の中での出来事らしいが、牧師の関係者が外部の人と起こしたトラブルになりかねない事で、ある信徒の責任ある立場の方が牧師にご意見しお諫めし、さらにその教会群の本部にご相談に及んだところ、その本部にご相談になられた信徒の首根っこをつかんで暴言を発せられた司牧もあられたようだ。そして、その本部にご相談になられたことが気に入らないとして、出席停止処分(いわゆる破門処分)に処された事例もあったとお聞きしている。この事例などは完全にパワーハラスメントであり、まぁ、首根っこつかんだら最後、それは立派な暴行罪の成立である。まぁ、このような応対を受けた信徒さんがよくぞ、牧師を刑事告訴しなかったものだ、と思われる。

                     しかし、この事例はあまりにお手軽に司牧によって破門とか絶縁が持ち出される例であり、教会戒規や教憲戒規とは無縁の、まるで西部劇の保安官のような、「この教会では、オレ様が法律だもんね」というような西部劇もどきの破門とか絶縁の事例である。まぁ、キリスト者の大半が、ミーちゃんはーちゃんのような跳ねっ返りのような方々ではない。この首根っこつかまれた方は、温厚でおとなしい羊のような方だったようである。このようなおとなしい方が黙っているのをいいことに、闇から闇にこのような不祥事の事例が反省もされずに、葬られる事例が少なくはないのかもしれない。



                    上記動画の1分19秒あたりにAround here, I am the lawと言い放ち、
                    家畜を奪おうとする無法者の発言が出てくる

                     ところで、異教徒、即ちムスリムたちとの取引があまりに目に余るため、破門が町全体に対してカトリック教会から宣言され、洗礼から葬儀に至るまでのサクラメントの執行が禁じられたことが何度もあるヴェネツィアでは(何度もある、という時点で、もう実効性が疑わしいということがすぐわかるが)、そんなことは全く意に介せず、粛々と 地元の司祭によってサクラメントが実施されたらしい。塩野七生嬢の「海の都の物語」の中に、その趣旨の記述がある。

                     ちょっと変わった威圧的な司牧から、「おまえ、破門」「おまえ、絶縁」とか言われても、そのことを必要以上に畏れる必要はないかもしれない。神の前に自ら反省すべき点がないかどうかは、よく心を巡らせてみるべきではあろうが、一方的に言われたから、といってあまり気にすることはないかもしれない。

                     牧師から信徒への破門とか絶縁だけではなく、信徒から牧師への破門とか絶縁もあってもいいんじゃないか、と思う。

                    ヤギ牧師?
                     どこぞの教会群から、その牧師の赴任に伴い教会が教会として機能しなくなり、教会が閉鎖されたため、その教会群から牧会をお断りになられた牧師先生が、別の教会群に移っては2つほど教会が閉鎖されたというような一種の教会をつぶしていくような牧師がおられることをお聞きした。世間的には優秀な方らしいが、まさにこの方が歩いた後には草一本も生えないというような、教会アラシのような司牧の方もどうも実在されるらしいが、まるでヤギである。

                     古代の遊牧民はヤギを嫌ったらしい。旧約聖書にも、ヤギはあまり好ましからざる動物として描かれているのは、その辺もあるように思う。というのは、ヤギは根こそぎ植物を食べつくしてしまうので、乾燥地帯の遊牧民にとって、ヤギの群れは居てもらったら困る動物らしい。ハイジの雪ちゃんはかわいいが、アルプスの山岳地帯で、大量に草が生えている地帯なら問題ないのだろうが、乾燥地帯の遊牧民にとっては、イナゴ並みに怖い存在なのかもしれない。草を食いつぶしてしまうので。


                    ヤギの雪ちゃんとハイジ

                     

                    辞めてほしい人に限って辞めない悲劇
                     企業でも政治の世界でもそうだが、やめてほしい人に限っておやめにならない傾向があるように思われる。こういう何かの事にしがみつかれる方はいろんな世界を見ていると、案外多いようである。どうも教会の世界でもそうらしい。ある面、当たり前である。教会の世界が特別である、などという幻想を抱いてはいけないのだろうと思う。所詮鼻で息するもので構成されているのが教会であれば、鼻で息するものの世界と同じことが起きる事は免れえないからである。

                     お辞めになってほしい牧師先生に限ってお辞めてくれず、何かと老婆心か老爺心かは存じ上げないが、何かと介入しようとされる牧師先生もないわけではなさそうだ。長年奉仕した分、愛着が強いとかもあるのかもしれないが、あるいは、ここは私がしなければ、と「オレオレ牧師」(初出例は2008年8月 みんなで育てよう健全牧師(場外乱闘編))まがいに出てこられる方も多いのかもしれない。

                     海外の例であるが、ある長老主義の教会で、その教会の建て上げに尽力された長老の方が、痴呆が入ってまともな判断ができなくなり、信徒の認識すらできなくなっているにもかかわらずお辞めにならずに困ってしまっている例について、過去お伺いしたことがあるが、人の齢が神によって定められているのは、ある面で神の祝福ではないか、と思わないでもない。

                     大学の地方財政学の講義で習った迷言であるが、

                    「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」

                    という名言を残した政治家に昔の自由民主党の大野 伴睦という政治家がいる。このおじさん、戦前の美濃ミッション排撃事件にも積極的にかかわったり、新幹線の岐阜県内唯一の駅の場所選定に関ったりしているという。

                     鼻で息する人間の働きや能力にも賞味期限というのがあるだろうと思う。その意味で、GHQ最高司令官でもあったマッカーサー元帥(この人も謎いところが多く、問題が少なくない人ではあるが)の名言を少し批判的に紹介したい。

                    ”Old soldiers never die, they just fade away”

                    という名文句とされていて、下記に紹介する歌までできているが、死なずにゾンビのように際限なく出現したら怖いではないか。最後の動画で紹介するマイケル・ジャクソンのスリラーではないが。神が定められた命を全うし、死を迎えることも神の御思いに従うことではないか、と思う。

                     スーダラ節ではないが、「わかっちゃいるけど辞められない」というのは、どうなんでしょうね。個人的には、このあたり、恬淡とした末節を迎えたいものだと思う。




                    マッカーサーのことばをもとにした老兵参加


                    ゾンビが大量に群舞するマイケル・ジャクソンのスリラー
                    (背景音楽は、スーダラ節 見事にスーダラ節とシンクロしている)






                    評価:
                    塩野 七生
                    中央公論社
                    ---
                    (1989-08)
                    コメント:読み物として面白かった。おすすめである。

                    評価:
                    塩野 七生
                    中央公論社
                    ---
                    (1989-08)
                    コメント:非常に魅力的な読み物であった。

                    2015.09.19 Saturday

                    コラージュのような2つの本

                    0



                       
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                       面白い本を2冊、出版社のヨベルの社長様よりご恵贈いただいた。ありがとうございました。

                       一つは、聴聞力という東京の教会の役員をされておられる方がお書きになられた説教メモをもとにそれに個人研究の成果を付与した説教聴取録である。

                       もう一つは、塀の中のキリストという刑務所の長期囚の方で、元反社会的勢力の構成員の方がお書きになられた手紙を編集された書簡集として出版された本である。

                       この両者に共通するのは、編集とそれをもとにした世界の広がり、ということであろうと思う。

                      『説教聴聞力』 読後感想
                       まず、最初のものは、キリスト新聞に書評が載っていたので、詳しくはそちらを参照していただきたいが、平たく言うと、毎週日曜日に語られるローマ書の連続講解の礼拝説教のメモを取り、そのメモをもとに著者が独自に聖書の個人研究した成果を付与した説教集をもとに編集して広げちゃったような本であった。非常に印象深い。


                      説教聴聞力

                       プロテスタント教会(聖公会やアンゴリカンコミュニオンを除く)にとって、聖餐式、あるいは礼拝における様式性を、程度の差はあるとはいいつつも、排除しようとしていった結果、説教中心になり、説教こそ教会であるという文化が生まれている面もあるように思う。つまり、教室型でしゃべってナンボという文化が出てきたと思うのである。

                       特にアメリカから来訪し、日本に定着した米国型キリスト教(リベラルと呼ばれるメインライン系のキリスト教会であれ、福音派と呼ばれるアンチ・メインライン系のキリスト教会であれ)の場合、説教の比率は極めて高い。その面で、一般には、説教者は心砕き、多くの時間を費やして(信徒には牧師が説教にかける情熱と根性が理解されないことが多いのだが)、信徒の状況を総合的に勘案しながら、説教が形成されることが多い。そうでない牧師の方の場合もないわけではないとお聞きはするけれども。

                      説教メモを取ったけど見直してる?
                       いくつかのプロテスタント派の教会に行った限られた経験でしかないが、そこの信徒さんたちは牧師の説教を漫然と聞くのではなく、かなり注意を払いつつ、メモを取りつつ、聞いておられる場面に出くわす。非常に熱心な態度で聞いてはおられる。まぁ、そうでない信徒さんもお見かけしたことはあるけれども。ミーちゃんはーちゃんはよほどのことがない限りメモはその場ではとらない。とるとしても、怪し気なところについてのみは取る。

                       しかし、メモを取った方々の大半は、その時はメモは取るものの、メモを取ったことで安心、満足してしまい、それを見返し、そして振り返るということはあまりないのではないだろうか。しかし、『聴聞力』の著者は、それを自らメモを取っただけではなく、それを振り返り、反芻し、そして、さらにそこからより外側に理解の範囲を広げ、ご自身がお聞きになられたことをさらに充実されたノートを作っておられ、それをまとめたものが本書である、らしい。

                       その意味で、非常に印象深いし、ミーちゃんはーちゃんは、その真摯な態度にある面感銘すら覚えたのである。こういうことをしてもらえる司牧というのは幸せであると。一種文章による説教をもとにしたコラージュというか、オマージュのような作品としての書籍であった。

                      聞き流し説教と流し素麺

                       しかし、ある面でこのような流し素麺ならぬ聞き流し説教にしていない信徒側の取り組みは司牧にとって、その人とより密接に直面しているということである。とはいえ、相当数の会衆が消化不良を起こすような説教をすることもできないので、その説教はある程度、この辺かなぁ、と思うあたりに焦点を当てたものになってしまうところはあるだろう。また、一回の説教の時間も、2時間も3時間も、ロシア正教の礼拝の時間のような長さでできる訳でもない。その意味で、限界があるのだ。

                       その限界を埋め合わせるような努力を、まぁ、ここまでしてもらえる司牧は幸せであるとは思う。説教された方は、御嫌だったかもしれないが。まぁ、その意味で、ミーちゃんはーちゃんとしては、ここまで真面目に聞いてないので、ちょっと反省しないとな、とは思った。

                       聖書の事をもっとよく知りたい、と思っているキリスト者には、こちらの本をお勧めするが、この著者の真似は、そう簡単にできるものではないことだけは、確かであるし、恐らく大半の人は、この著者のように取り組みはできないと思うことだけ、念のためご進言申し上げておく。しかし、是非、やって見られるとよい、とお勧めする。

                      堀の中のキリスト

                       今回ご紹介する2冊目のこの本は、長期囚と牧師との交換日記のような手紙のやり取りをコラージュにした本である。面白いのは、本人の視点から長期囚の視点から描かれているところかと思う。ただ、どこまで編者である牧師さんの手が入っているのかがわからないほどのコラージュになっているが、まぁ、二人の共作、ってことで理解するのがいいだろうと思う。


                      塀の中のキリスト

                      人は変わるのか?

                       この本の中でも触れられていたが、「人はキリストに触れて、変われるのか」という問いがあげられていた。この問題は面白い問題だし、キリスト教理解を考えるうえで重要な問いであると思う。

                       「変わる」ということをどう考えるか、ということをきちんと定義しないまま、「変わった」、「変わる」ということを議論していることで、混乱に輪をかけているようにおもう。人はある意味で「変わる」が、ある意味で「変わらない」存在なのだと思う。

                       キリストに向かってなかったものがキリストに向かうという意味では「変わる」とは言えると思うのだが、実際の行為や個人の歴史は基本的に「変わらない」し、外形的に見えるものに関しては「変わらない」と思うのだ。悔い改めたぐらいでは、決心したぐらいでは、人間の習慣や現実世界におけるその人の行動パターンは「変わらない」と思うのだ。

                       この本の中に「変わる」という語が何度か出てくるが、それが、この本の持ち味でもあるし、本人の証言として、直接観察の結果としているところが参考になる。

                       キリスト教的美談(したがって、架空の事や気の迷いの言明の場合も多いのであるが)では、キリスト教と、あるいは、イエスと出会ってその人は人格的に変容し、霊的にも変容し、一瞬にして、聖人君子の仲間入り様な変容、魔法のような変容する、ということが語られることがあるが、個人的にはそういう変容は信じていない。全部が全部嘘っぱちとは言わないが、直前の投稿でも紹介したように、悔い改めて変わったはずの牧師が、セクハラまがいや児童虐待まがいの不祥事を繰り返すという現状を見ていると、人は変わらないと思う。このあたりの事は、ダウトという映画が非常に印象的である。非常に陰鬱な映画ではあるが、このあたりの事を考えたい向きにはおすすめする。


                      ダウト あるカトリック学校で 予告編

                       なお、ダウトは、レッド・ドラゴン、カポーティと並んで、フィリップ・シーモア・ホフマンのキモヲタ的演技が抜群に光る一作であった、と思う。

                      (補足: 上のダウトの静止時の字幕が、「根拠もなく疑うのか!」とホフマンの発言の字幕になっているが、「根拠がないから疑う」あるいは「疑わないための根拠を求めて疑う!」ということは案外大事だと思うのだな。アマリニ疑わないイイ子ちゃんばかりでは、世の中つまらん。実につまらん。)

                      疑う、と言えば

                       山崎ランサム先生のシリーズ      


                      確かさという名の偶像1 
                      確かさという名の偶像2
                       
                      確かさという名の偶像3
                       
                      確かさという名の偶像4 
                      確かさという名の偶像5 
                      確かさという名の偶像6
                      確かさという名の偶像7

                      シリーズではないが、疑うことは大事であり、それは自分自身の信仰が揺れの中にあることを確認するうえでも重要だと思う。

                       「変わる」とは何かを議論せずに、「変わる」とか「変わらないとか」という議論をすることは、実に無益だと個人的には思うのだ。それを定義して、どの次元で「変わる」のか、「変わらない」のか、ということをきちんとやらないといけないといけないのだが、次元の区別をせずに「変わる」とか言っているから、「悔い改め」という語からの発想で、すべての事が全部の次元において「変わる」という妙な検証されえない仮説が生まれていて、それがキリスト教の中で幽霊のように歩いているような気がする。

                       前回の記事 今年の夏のある修養会で…  丁度この前の牧師先生方の修養会で混ぜてもらったときにも、「人は変わるのか」という話題が出たが、個人的には、「行為は変わらない」が、「神と共に生きる、という一点のみにおいてのみ、人は変わる」とは思うのだ。この本は「人は悔い改めで変わるのか?」という結構キリスト教にとって重要な問いを考える際の参考になる一冊ではないか、と思う。

                       後、この本を読んで、反社会的勢力の皆さんが、漢籍に詳しいことには驚いた。まぁ、儒教の最後の砦が、反社会勢力の皆さんなのかもしれないが。その辺、社会秩序を解いた儒教が、反社会勢力の皆様によってその概念が保存されているというのは実に興味深い。

                       個人的には、批判的に考える素材としては、こちらの方がおすすめかも。



                      評価:
                      加賀 乙彦
                      新潮社
                      ¥ 767
                      (2003-03)
                      コメント:一読をお勧めする

                      評価:
                      加賀 乙彦
                      中央公論新社
                      ¥ 734
                      (1980-01-23)
                      コメント:堀の中のキリスト の原型を見る感じ

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