2015.08.01 Saturday

2015年7月のアクセス記録とご清覧御礼

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     今月も、NTライト祭り 葉絶賛継続中ですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。今月は24601となり、平均で、日に800アクセスでした。2014年4月に記録した、24200アクセスの記録を更新でした。


     2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
     2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)
     2015年第2四半期(4〜6月)  48073アクセス(631.7)

    今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通り

    日本のクリスチャンがまず”Do”に走るわけ & クリスチャンのこれはアカンやろ発言
     アクセス数は、 511 アクセス

    チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会
     アクセス数は、 532アクセス

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
     アクセス数は、 494アクセス

    「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(5)
     アクセス数は、 438アクセス

    天国と地獄についてのユニークな本

     アクセス数は、 434アクセス

    日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想
     アクセス数は、 434アクセス

    でした。しかし、キリスト教系ブログであるにもかかわらず、仏教との対話をしている記事がベスト5入りというのが、実に微妙ではあるような気がする。何より驚いたのは、上位5位(同率6位を含む)中、4本が先月以前の記事であるあたりが、Webにおけるロングテールという意味を感じざるを得ないですねぇ。

     今月からは、先月復活させた「富士山とシナイ山」(これはあまり、人気がない)をとりあえず完結に向けていきたいかなぁ、と思っております(多分、年内に完結の予定)。

     先月のご清覧感謝。今月もまた、よろしくお願いいたします。


    2015.08.01 Saturday

    孤独と受容を考える映画を2本

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       なんか本の紹介ばかりをするブログになりかけている(本を紹介しながら、本の内容を適当につまみながら自分の言いたいことを欠くブログになっているという方が正確)ので、ちらっと最近考えたことなどを。

      現代社会における孤独
       先日、関西牧会塾に参加して、現代社会における孤独ということを、ちょっこし考えた。最近、このことが頭に響いている。


      https://www.emaze.com/@AOZFTLFZ/Loneliness から

       その中で、ちょうどこのブログで連載している木原活信著『「弱さ」の向こうにあるもの』でもふれた現代の若者の孤独と承認欲求という問題がちらっと話に出した。例えば、秋葉原の通り魔事件で、通り魔事件の犯行直前に被告人である若者は、ネット上で誰かに振り向いてほしそうな悲痛な叫び声をあげていたこと、それをとらえて晴佐久司祭がある本の中で言及していたことなどを話題として提供した。

      現代社会のコミュニティ
       結局、従来の社会コミュニティ、それは会社のコミュニティであったり、地域コミュニティであったり、地域コミュニティと重なる親族コミュニティであったり、家族コミュニティでの承認が得られなくなると、個人は手近にあるコミュニティの代替物に手を出すことになる。若者にとってはラインであったり、暴走族であったり、フェイスブックであったり、ツィッターであったりするかもしれない。あるいは2チャンネルやその他の掲示板サービスであったり、ニコニコ生放送であったりするかもしれない。別に何でもよくて、人にかまってもらえるところであれば、それを提供するメディアであれば、何でもいいと思うのだ。

      映画グラン・トリノに見る孤独
       その中で、孤独、承認欲求やコミュニティの問題を考える映画として、ちょっと前にはやったグラン・トリノという映画を話題の一つとして提供してみた。クリント・イーストウッドが主演も、監督も、プロデューサーもやった映画である。

       この映画には、いくつかの孤独が重なって出てくる。第1は主人公であるイーストウッド扮する老人の孤独である。ウォルト・コワルスキーというUWAが元気だったころにフォードの自動車工であった人物である。ある面アメリカ自動車産業の盛衰を身を持って経験した人物であるといってよいと思う。その頂点だったころのガソリン棄てながら走る車といってよいグラン・トリノがこの映画の隠しテーマになっている。

       まぁ、御託はその辺にしておいて、この中の孤独には、この映画の中に出てくるモン族という少数民族の青年がアメリカ社会にあこがれつつも、そこに収れんされていかない孤独、また、伝統文化を中心に生きる大家族の中での孤独、また、モン族家庭自体のアメリカ多民族文化であってもその中での地域社会からの浮く形での孤立、司牧として会衆の一人であるウォルト・コワルスキーと向き合おうとするも、心が通じ合えないという断絶を感じている若いカトリックの司祭の孤独、さらに言えば、ギャングと呼ばれる若者集団が2種類出てくるが、群れることで、孤独でないように感じている若者たちの孤独、と孤独がこれでもかこれでもか、とアメリカの現代の風景を背景に描かれていく。


      グラン・トリノの日本語版予告編

      日本型の孤立との対応
       こういう状況を考えると、日本のかなりの部分の人々は、地域コミュニティが、とか、町内会が、とか組織を作って解決したがりそうな気がするが、それは本当に解決になるのだろうか、ということを考えている。恐らく、それは、一時的に解決を生むだろうが、それと同時に解決以上の副作用を生むような気がする。個人的にはなかば強制的な地域コミュニティで、なかば強制的に同じことをやることを強いられるのはご免こうむりたいと思っている。なんか、そういう対応は刑務所みたいだ、と思う。

       例えば、ホームレスの方々を行政が対応する際には、シェルターにホームレスの人々を集めて、規則正しい生活を、というような対応をやるらしいのだが、そもそも自由に生きたくて、孤立を恐れていないが故にホームレスになっている人々がいて、そういう人々は収容されたとしても、すぐにそういう施設から脱出してしまう、というタイプの方もいるらしい。みんな同じというのは平等なようでいて、実はある面の人間性を失わせていることなのかもしれない、ということを思う。

       このあたりのことは、月刊「記録」というウェブジャーナルの 
      ホームレス自らを語る をぜひお読みいただきたい。

      現代社会の多様性と孤独とキリスト教会

       キリスト者はこういう弱者への対応を教会が積極的に動いてなんとかすべき、ということを考えがちだと思う。個人的にはそうだろうか、とも思う。このあたり、案外難しいのである。タイミングというか、属人的な集まっている人の特性が形成する場の問題があり、属人的な組み合わせの問題が生む人間的なダイナミクスの問題があるような気がするのである。

       人が単に教会に集まっただけでは、解決がつかない問題がある、ということをもう少し考えないといけないと思うのだ。例えば、釣り好きが集まる教会の中に一人居ろといわれたら、その教会の中でミーちゃんはーちゃんは半端ない疎外感を感じると思うし、童謡などを歌うのが大好きなご妙齢の方々の中あれば、ミーちゃんはーちゃんの疎外感は半端ないと思う。お付き合いはするけれども。阪神タイガースファンだらけの阪神間の教会の中での隠れ読売ジャイアンツ・ファンはつらいだろう。あるいは高齢者だらけの教会の中で、若者が一人、というのも疎外感が半端ないと思うし、ロシア正教会のような儀式性と典礼を重視する教会の礼拝で1時間過ごせと言われたら、ミーちゃんはーちゃんとしては喜んで、「ほうほう、これはなかなか。あぁ、そういう理解をこう表現しているなのね」と楽しめるが、ヒルソングとかが好きな若者は耐えがたいであろう。

       個人的には、どちらかというとビザンチン様式の典礼が好きである。だからといって、ヒルソング系の皆さんに敵意はない。趣味が違う、というだけの事である。


      ビザンチン様式の美しい礼拝


      ノリノリのHillsong型礼拝

       ところで、共同体が形成されるためには核となる何かが必要である。教会の場合、核はキリスト(ハリストス)であるのだが、その核の周辺のもの(文化と呼んでもよいかもしれない)が案外大きくて、それが教会での人間阻害を起こす要因になるのではないか、と思う。例えば、上記に示した典礼というか礼拝のスタイル、伝統への考え方、聖書理解のあり方、伝道をどう考えるか、どう具体化するかなど、そこらが教会での活動の様々な部分に影響を与えることになる、と思う。

       とりわけ、社会が多様化し、分衆化していく中で、核そのものは不変としても、核周辺の何か、文化であったり、テイストであったり、関心領域)であったりすることがなんであるのか、ということで教会の多様性というものと、教会間の相補性ということを考えることができる時代になったのかもしれない。

      あるお話

       ところで、Wounded Healer(日本語版『傷ついた癒し人』)の本の中で、第2章の冒頭部に近い辺りに、面白いお話が出てくる。それはこんな話である。

       ある所に逃亡犯がやってきた村があり、その村は逃亡犯をかくまった。そして、ある日その村に、その難民の捕縛を目指して軍隊の探索チームがやってきて、「その逃亡犯を出さないと村を焼打ちにし、全滅させる」といいはなった。そこで村人はこの村の司牧にどうすべきかを尋ねた。
       この
      逃亡犯をかくまうか、村人を犠牲にするかの間で悩んだ末、司牧は聖書を開き、考え込んだ。夜を徹して何時間も聖書を読んだ後、司祭の目には、「ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだ」という聖書のことばが焼き付いていた。
       そして、この司牧は兵士たちを呼び、逃亡犯の隠れ家を教え、そして、この兵士たちは逃亡犯を殺害した。その後、村人はこの司牧のために感謝の宴を設けた。司牧は単純に喜べず、深い悲しみに打ちのめされ、部屋にこもっていた。その夜、天使が司牧のところを訪れ、「どうしたのかな?」と天使が司牧に尋ねると、司牧は「私は逃亡犯を敵の手に渡してしまいました」と答えた。天使は、「おまいさんは、メシアを敵の手に渡したのが分からなかったのかい?」と尋ねたところ、司牧は「え、そんなこと、わからなかったですよ」と不安げに答えたのであった。すかさず天使は、「おまいさんがね、聖書に鼻突っ込むんじゃなくて、あの若者の目を見てさえいれば、あの若者が誰かが分かったろうに」と言い放ったのであった。
       まぁ、このお話はお話であるので、いかようにも理解が可能である。まぁ、皆さんなりと理解とその解説を作られたらよいと思う。聖書ではないし。
       しかし、このお話は、以下で示すマタイ25章の記述と深い関わらりがあると思う。

      【口語訳聖書】マタイによる福音書
       25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
       25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
       25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
       25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
       25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
       25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
       25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
       25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
       25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
       25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
       25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
       25:46 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
       まぁ、どう考えるかは、皆さんの問題であるが、割と教会で孤独の問題があるとかいうと、聖書に何でも解決があると思い込み、”
      食らえ、みことば攻撃”みたいなことをしてしまうのではないだろうか。「教会でやる以上は、聖書を語らないと気が済まない」というお考えをお持ちの人たちもおられるようである。それが悪いとは言わないが、本当にそうだろうか、という問いを考える余裕があってもよいかもしれない。

      ある個人的エピソードから

       これに関しては、面白い個人的エピソードがある。下記で紹介するポウル・ホワイトという人のジャングルドクターの本があるのだが、この話は、キャンプなどですると大人気である。うちの子供が小学生くらいの時まで、自動車で移動中に、子供たちが退屈すると、この話をせがまれて、適当にアレンジした話を何度も話させられたものである。

       あるクリスチャンの子供向けキャンプで、この話をするのが習いになっていた時期がある。幼稚園児以下から大人までを相手にする時間なのでワクワクドキドキのお話を中心にし、割と聖書の引用やかかわりを短くした時があった。おちいさい方がおられたからである。すると、ある参加者から間接的に苦情が来た。聖書の話がなさすぎる、と。

       翌日からは、旧約聖書物語に切り替えたのは無論言うまでもない。子どもさんたちは日曜学校で聞いた同じ話の繰り返しなので、明らかに退屈しておられたが。苦情をおっしゃった方にとっては受けが良かったらしい。どうも現代の日本のキリスト教会というところは、現代日本社会の一部がそうであるように、そういうところがあるらしい。

      映画Up!(カール爺さんの空飛ぶ家)に見る孤独

       この映画には、孤独な老人が二人と孤独な少年が一人出てくる。この映画に関しては、割と初期のころに触れている。こちら 
      Up(カールじいさんの空飛ぶ家)を見てきた である。

       この映画に出てくる孤独な老人の一人は、一人はカール爺さんで、たいして名前を残すこともなく、社会的に記憶されることもなく、貧しくつましい夫婦二人の生活をし(胴も、子供を失ったことが隠喩としてある)、動物園かどこかで他所の子供たちに囲まれて暮らしていたが、結局妻に先立たれ、孤独と怒りにさいなまれている人物である。

       これと好対照を見せるのが、探検家として有名でありながらも、探検と発見に取りつかれ、孤独な生活に陥り、性格が歪んでしまった老探検家である。

       そして、そのカール爺さんのところに訪れるのが、母子家庭で育ったアジア系の少年であり、あるボーイスカウト類似団体のようなところでの評価(バッジにより評価が数量化される)とそこでの帰属と規則に取りつかれ、なぜ、それをするのかを考えずに、その評価にしか関心がない10歳前後の少年である。それらの人々が起こす冒険物語ではあるが、この中に描かれた三者三様の隠れた孤独とその姿というテーマが面白い、と思う。



      カールじいさんの空飛ぶ家の予告編

       世代が同じ高齢者の孤独の質の違い、世代が違うものの孤独の現れ方の違い、こういうことを考えてみると、孤独は三者三様であり、教会は孤独として一括としてみるのではなくて、それぞれの人物なりの対応が求められそうな気がする。一つの方法論で、すべて解決とはいかないように思われる。

      もてなす、受け入れる、でも距離をとる

       今回のWounded Healerの中で、「もてなす」や「迎え入れる」ということが話題になった時に、それは、「正しい方法を聖書から示す」「正解(と思えること)を教える」「人々をある特定の方向に導いていく」ということではなくて、「その人が歩き出せるようになる場所を一時的に提供する」「一時的に安全な場所を提供する」ということではないか、という話になった。この話を聞きながら思ったことがある。それは、奥田知志さんの活動を紹介した
      NHKこころの時代 「この軒の下で」 視聴記」の番組の事であり、奥田さんの軒の下の教会である。様々な人が立ち上がれるように、一時的に場所を提供する働きである。

       その人にずっと付き添う(あるいは付きまとう)でもなく、その方が再び自分の足で立ち上がれるように、そっと場所を貸し出し、その人と向き合ってみるということが求められているということを奥田さんの事例は示しているように思う。その意味で、適当な距離をとり、あまり押しつけがましくしない、伝道の機会だから何をやってもいい、ということではないし、全部まる画替えしないことの大切さを今回、もう一度思ったような気がする。案外大事なことであろうと思う。


       なお、関西牧会塾は9月にも講座が開催される模様である。詳しくは、こちらのサイト 関西牧会塾のサイト からご確認くだされ度。







      評価:
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      (2013-11-20)
      コメント:やや難解である印象はあるが、のちの作品につながる重要な線がいくつか見られる。

      評価:
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      Christian Focus Publications
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      (2015-01-19)
      コメント:昔も今も子供たちには大人気

      2015.08.03 Monday

      木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その5

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         今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

        罪あるものとして愛せない人間同士
         ついこの間の記事でも、人間同士が共同体形成をすることが困難であり、その中核には、共通項というか共通の対象が必要であることをご紹介した。そもそも、無条件に人間が愛し合えるほど、程度よくできていないのであるし、それが集まったものが教会でもあるともミーちゃんはーちゃんとしては思うのだ。今日は短め。
         神がまず愛をモデルとして示したので、それゆえに私たちもまた互いに愛し合うべきだと言うのが、聖書に教える愛の基本姿勢であり、これは新約聖書全体を貫く一貫した教えであると言っていい。つまり、意外に思われるかもしれないが、聖書は生身の人間同士が無前提に「互いに手を取り合って平和を語り合い、愛し合いましょう」と言うほど、人間が善人同志で、相互の愛が実現できるとは語っていない。逆に人間はとことん自己中心的であり、罪人であり、自分ではそうすることができない動物であるという現実を前提にしている。このようなどうすることもできない罪という課題を背負っているが、それゆえに神に助けてもらう必要があるというのが聖書の人間観である。その結果、神から許されて自由にされた人間が、その赦された愛に感謝し、赦された者同士が今度は、「互いに愛し合いなさい」というのが、聖書の言う愛のメッセージである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.78-79)
         人間は、基本的に悪であり、他者としての神も、他者としての人間も、受け入れがたくできているという意味で、欠陥がある、あるいは、罪がある、というのが聖書の人間観であると思う。信仰を持ったくらいで、この罪があるという状況は改善せず、罪のある状態が依然として続くことは、キリスト教の黒歴史を見ていればある程度類推はつくのではないだろうか。所詮、人間は、鼻で息をするものなのである。

         ここで、木原さんは「神に助けてもらう必要がある」とお書きであるが、個人的にこの地上では、人間が神を迎え入れることができない以上、神の助けを完全のかたちで神の支配(神の国)が完全な形で実現していない段階では、受けることができないので、人と愛し合ったり、平和を語れないように思う。どちらかというと、とりあえず、不幸な黒歴史を生み出しつつも、それらの黒歴史は神からすれば容認できない行為であるのだけれども、「しょうがないなぁ」と神に言わせながら、神に容認してもらう、ということのようなきがする。その意味で、神の温情にかけ、そこにすがる、という感じではないか、と思う。

         そもそも、イエスによれば、モーセの律法は、申命記6章のシェマーと呼ばれる部分と、レビ記19章の中からの部分を引用しながら、次のように要約できるといっておられる。なお、レビ記では、あなた方の中にいる在留異国人を愛せ、といっておられる。
        【口語訳聖書】 マルコ福音書
         12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
         12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
         12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
         人間は、罪のある存在である。神を愛せないどころか、人も完全には、愛せないし、赦せないのである。しかし、神の愛は、そんなケチくさい人間の愛とは違い、問題だらけの人間を愛し、それこそ、スプラングニゾマイ(情熱で胃腸がおかしくなるほどの愛情を以てあわれんで)おられるのである。そうして、どうしようもない生を生きる我らに対しての愛を以て、そこでの人間性の回復と、そのどうにもこうにも仕様がない行き方をせざるを得ないとしても、最終的に神の完全な目的が達成されるとき、人間を神が完全な形へと回復させる、つまり、人間が人間して生きるようになるようになるようにするという約束こそが、聖書が語る福音の本質であり、本来、福祉は、すべての人が、人間が人間として生きるようにするということであることを次のように書いておられる。
         イエスの思いと言うのも、迷子になって入る子供を探し回るような切迫感を以て、あるいはそれ以上の桁外れの情熱をもって、今なお失われた人を探している。これこそが、聖書が語る福音の本質であり、それが福祉の源泉である。(p.83)
        第6章 支援すること から
         幼いころの木原さんが、カブトムシの飼育と脱皮の際、あまりにも早く手を出してしまったがために、そのカブトムシがお亡くなりになってしまった経験が支援のタイミングを考える出発点となったというお話が書いてあり、それに引き続いて、次のような印象的な記述がある。
         困っている人が入れば、すぐに助けてやりたい、こう思うのは、福祉専門家でなくても、誰にも共通のものであろう。しかし、そのタイミングをちょっとでも間違えると、相手は依存的になり過ぎたり、自分で立ちあがろうといているのに結果的にいつまっでもそれを出来なくさせてしまう危険性がある。
         先日のブログ投稿 孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたが、人間が人間として生きるという姿の回復のために、キリスト教の愛というのは、何でもかんでも抱え込むことのない愛ではなくて、その人がその人らしく生きる準備をするために援助を受ける人の主権と意思を尊重しつつ「もてなし」をすることであり、人間が人間に戻っていくためのスペースを提供することだろうと思う。

         日本人の多くの方々は、大変親切である方が多い。時に、親切すぎて困ることがある為か、CMで一世を風靡した「小さな親切大きなお世話」といいたくなることが多すぎる。あまりに気が回りすぎて、時に息苦しく感じるほどである。しかし、この「大きなお世話」といわれる背景には、気を使いすぎていた結果、他人の主権や、他人の自由意思を奪ってしまって、本人の自由な行動の制約になるからではないか、と思う。

         アメリカに行くと、ほとんど助けてくれないことが多い(個人の自由に生きることがよいとみんなが思っているので、どうぞご自由に、ということがその背景にはどうもある様ではある)のであるが、How can I help you?と声をかけてくれることがある。基本的に相手の意思が重要であり、自分が助けが必要だ、と思っても、相手がそれを望んでいない以上助けないというのが原則である。

         学生のプログラム作成の指導をしていて思うことがあるのだが、プログラム的な発想のない学生につい手を出したくなるのである。も度たも度た、ろくでも書いてないコードを欠いているのを見ると、手出しして、書き直して、ほら、きれいでこれで動くでしょ、とやってみたくなる欲望にかられることが多い。しかし、それではいかんのだ。なぜか、というとそれは生徒の技量での成長を奪ってしまい、彼らの生きる能力を身に着ける機会を奪うからなのである。あるいは、プログラムを作成したり、システム設計をするという面で成功できないとしても、別の面で才能を開花させる可能性があるのであるが、そうであるにもかかわらず、その才能を奪ってしまうからであるのだ。じつは、このプログラム作成の納期が決まっていると、彼らが何とかたどりつくということを待つということ、これが結構難しい。特に締め切りが迫っている中で、待ってられないので、手出しをしてしまうことが多々ある。

         こういうことを考えていると、教会とは、人間が、キリストが存在したこと、ナザレのイエスがキリストであったこと、そのイエスが、今も人間と共に生きようとしていることを週に一度覚えることで、「神と共に生きるという人間の姿」をとる機会を提供するおもてなしをするための場所と人間による集まりであり、そして、人間が神と共に生きる人間であるもてなしを十字架の死の前にイエスが提供され、また、復活後エマオへ向かう道の途中で弟子たちにされた聖書の説明、そして、復活のイエスは自分を泊めろとも言わず、相手の希望に応じて相手の主権と意思を尊重し、一緒に泊まることにし、そのクライマックスで弟子たちにパンを裂き、杯を提供することで、もてなしを提供されたと思う。


        Matthias Stomによるエマオでのもてなし Wikipediaからの借用

         まだまだ続く。 



        評価:
        木原 活信
        いのちのことば社
        ¥ 1,728
        (2015-07-08)
        コメント:大変、よろしい、と思います。

        2015.08.05 Wednesday

        工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10

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           本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」から後半についてである。

          自分がキリスト教だと思っているものを
          人はキリスト教と呼ぶ

           このブログでも、何度か紹介してきているが、キリスト教会のありようとは実に多用であり、一つのパターンに収まるものではない。しかし、日本の場合は、キリスト教が少数派であり、地域に多用なキリスト教群が見つからない場合、とりわけ地方部においてはその傾向が強いと思うが、自分が知っているキリスト教だけが、自分が出会ったキリスト教だけがキリスト教と思い込み、キリスト教会という思い込みが生まれやすい。
           今回の以下紹介する部分を読んで、アメリカのキリスト教会の(恐らく1960年代)の雰囲気を改めて感じたのである。
           『教会―なぜそれほどに大切なのか』(引用者註 フィリップ・ヤンシー著)の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下で教育不可能であり、「奴隷」の人種となる様に神に呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その急派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ神学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(『真実の福音を求めて』pp.115-116)
           マルチン・ルーサー・キングJR牧師は共産党員説は、時々聞いていたが、それは世俗社会の話で、教会にまで浸透しているとは知らなかった。まぁ、マルチン・ルーサー・キング牧師は属人的な部分ではいろいろな課題を抱えた人物でもあったことはアメリカでは知られているがその存在は大きいのである。


          Rv. Martin Luther King Jr の有名な演説



          それを小学生が暗唱する場面
          (アメリカの小学校ではキング牧師の誕生日周辺で実施する)


          サニタイズされたバージョンの簡単なキング牧師の伝記

           さてさて、まぁ、マッカーシズムの時代でもあるまいし、キング牧師共産党員説は置いておいて、「スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという」罰ゲームには笑ってしまった。読書したから、スカート丈が長くなるわけではなかろうし、読書したからといって、服装の趣味が改まるわけではないだろうに。それでも、それをしないでは気が済まない人々もおられることを考えるとどうなんだろうと思ってしまう。

           確かに、1960年代のツィギーブームのころには、以下の写真に示すようなミニスカートは衝撃的ですらあったのである。なお、このツィギーという方は、英国籍らしい。英国だったからこその衝撃、というのもあったかもしれない。60年代は、ビートルズといい、ツィギーといいファッションや文化の最先端を走っていたのは、確かに英国であった。


          ツィギー嬢(ご存じないお若い方のために)

          救われたら一人前キリスト者?

           しかし、個人的には、回心経験即ち一人前キリスト者という理解があることに関して、工藤さんは次のようにおっしゃっておられる。
           私たちは救いにあずかったからと言って、決してOKなどであるはずがないのだが、どう言う訳か日本のキリスト教界にはキリストの救いにあずかれば即一人前のクリスチャンという妙な図式が出来上がっているような気がする。そして、即伝道、奉仕となる。かくしてそのキリスト教信仰は自己不在のキリスト教信仰となり、人のための福音になっても自分のための福音になっていないという悲劇が起きる。(同書 p.116)
           しかし、ミーちゃんはーちゃんも14歳でバプテスマ受けたら即一人前扱いで、2歳下の信徒さんのお子さんの日曜学校の教師をやらされたという残念な思い出がある。先週まで、同じ日曜学校の生徒が、2階級特進どころか、5階級特進クラスの勢いで、日曜学校の先生をやらされたのである。うまくいくはずもないのだが、まぁ、できると言われて担当したものの、さんざんであった。そのうち、済し崩し的に日曜学校が崩壊していったのは言うまでもない。

           以前究極のOJTと 続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6でご紹介したが、まさにそんな感じであった。

           そもそも、「一人前のクリスチャンというのは存在しえない」というのがミーちゃんはーちゃんの理解であるし、そもそも人間が欠けある存在(罪ある存在)であることを考えると、一人前のクリスチャンという理解そのものがどっかおかしいと思っている。

           ということで、神のためにすべてを棄てた(ふりをする信仰)が良しとされる、自己不在のキリスト教が理想化される中(それは、そもそも人間の諸般のことによる閉じ込めからの開放をご主張されたイエスの主張とは逆方向にあると、思うのだが)、逆にその型にはめるという閉じ込めが起きているのが残念でならないと思うのだ。

          【新改訳改訂第3版】マルコによる福音書
           8:34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
           8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
           8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
           8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。

          という言葉が十分に考えられることなく、日本的なコンテキストで語られ、一種滅私奉公的な理念系で語られることが多いような気がする。そして、他人に自分の十字架を取らせず、教会や他の教会員が与える十字架を取らせる形の悲劇の拡大再生産が続けられているような気がするが、違うだろうか。ここでのイエスの主張をよく読めば、自分の十字架を負うのであって、他人の十字架を負うのではないような気がするのであるが。ここは人間は、自分自身では何も差し出すことができない、という逆説の論理が効いていると思うのであり、イエスの中心性が出ているはずだと思うのだが、どうも、この部分も、イエスのために全部差し出せ(というよりは、教会のために全部差し出せ)という形で語られることがあり、そのようなカルトチックな理解も少なくないように思う。

          思索を忘れたキリスト教
           先日ご紹介した宣教学会の基調講演の内容や、孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたように、関西牧会塾に参加して思ったことであるが、苦しみに直面して思索するという傾向が案外日本には薄いように思うし、特に勝利主義的なキリスト教の性質をお持ちのキリスト教のグループでは、キリスト者が苦しむというようなことは、伝道熱心ゆえにサタンから攻撃を受ける(いい匂いのする油撒き作戦すると、退散できるらしいが)以外では信仰熱心さが足らなかったり、聖書を読んでいなかったり、祈りが足らなかったりすると怒られることもあるらしい。実は、苦しみの問題や孤独の問題は、神との見直しのよいきっかけであるし、一人静まることの大切さは、『静まりから生まれるもの』でナウエンも書いているところである。

           あるいは、道徳化した日本のキリスト教(西洋道徳として理解されたキリスト教)の場合でも、行為道徳として定着してきた側面もあるので、安易なパターン化されたキリスト教になってしまい、よりダイナミックな神との関係を思索というか、神と人との間で交わされる問いの中で、聖書と格闘し、イスラエルが神と格闘したかのように格闘することの中で、その信仰は深まりを見せるような気もするが、どうだろうか。
           私たちのキリスト教は案外書物から学ぶ事が多くて、実際の苦しみにある人々から学ぶ事が少ないのではないだろうか。そのためか、そのキリスト教は、表面的な思索の浅いものに陥ってしまう。神が与えてくださった問題がその人を深め、豊かにする代わりに、安易なパターン化したキリスト教に変質してしまうのである。この思索の低下に関して安易なキリスト教への警鐘と思われる文章がある。 
          「ある時期から福音派の教会で強調されるようになったものに、積極思想ないしは、”自分を愛する”という考え方、プレイズに代表される賛美、悪霊との対決があります。それ等はそれぞれ意味があるものであることを否定しませんが、ただ、それに閉口して”思索”が不足して来ているように思えてなりません。その結果、力、数、成功、明るさ等が中心におかれた一種の全体主義がみなぎっているようで、ひそかに恐れと不安のようなものを感じます。
          (中略)
           とにかく、思索を忘れた教会は、表面はともかく聖書的な実質を失いかねません。リバイバルの声も、運動とバランスのとれた思索を伴わないものにならないようにと、心から願うのです。」(野田秀「提言・思索が不足してはいないか」クリスチャン新聞 1993年9月5日号)
           (同書pp.118-119)
           時に立ち止って荒野に退かれたイエスの事を思う。

           次回へと続く。

          評価:
          工藤 信夫
          いのちのことば社
          ¥ 1,296
          (2015-06-05)
          コメント:お勧めしてます。

          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ¥ 972
          (2004-09-01)
          コメント:薄い本だが、内容が実によい。

          2015.08.08 Saturday

          NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その11

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             今日からは、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「神」の前半部分を引用しながら、考えたことを述べてみようと思う。

            定義不十分のまま議論される神という語

             この章では、N.T.ライト先輩は「神」とは何か、について、次のように述べて居られる。案外神という語で刺しているものが違ったまま、お互いに違った意味のままこの神という語を使い続けている実態があるのではないか、とご指摘である。
             本書でここまで示した考え方は、迷路の中心に向かってどこまでも続く道の様なものである。確かにゴール近くにまでは導いてくれる。しかし、もう少しのところで目的地に達しそうにない。厚い垣根で隔てられたままである。これらの道筋や他のどんな道筋も、それだけで人間のこころを、無神論と思っているところからクリスチャン信仰に導いてくれるとは思えない。ましてや、神の存在や神の性質を「証明」できるわけではない。だが、私たちを神に導いてくれそうなこうした道筋の全てを試して、そのどれもが無駄だといえるかといえば、そんな単純な話でもない。それ以上のもっと根深い問題がある。「神」という言葉の意味自体が問題となる。(『クリスチャンであるとは』 pp.81-82)
             
             霊性(スピリチュアリティ)、美、義、共同体とそこでの交わりは、確かに神のご性質の一部であり、其の近傍辺りまで導いてくれるちょっと昔のカーナビゲーションシステムみたいなもので(最近のは精度が上がっているので、場合によってはドンピシャな場所に連れて行ってくれるらしいが、こういうろくでもないシステムを使うのは、地図屋として恥だと思っているので使ったことはない)、漸近的な近似でもテイラー展開における1次近似程度での近似であり、2次、3次以上の高次の近似ではない。複雑な曲線を一本の線であらわす、と言ってもいいし、幼稚園児の大半が描くアンパンマンの絵位だと思った方がよい。


            幼稚園児の方がお書きになったアンパンマン


            原作者、故やなせたかし さんがお書きになったアンパンマン

             上の2枚の絵は何とはなく似ているが、同じとするには無理があるのでは、と思う。その意味で、人間が人間的な努力で描こうとする神(幼稚園児のアンパンマン)と本来的には捉えることのできない神の御姿(やなせたかしさんお描きのアンパンマン)との関係において、似ている様な気がしてならない。

             しかし、上記のように人間的な努力によって無神論からキリスト教への移行できるか問題をわざわざ持ち出すところが、ポストモダン社会における信仰の問題に取り組むN.T.ライト先輩の、N.T.ライト先輩らしいところではないか、と思っている。

             結局人間的な努力で神に近づこうなどという行為や努力は無駄じゃないか、ということを言っておられる様な気がする。それは、結局当たり前でもあるように思う。神と人間のスケール感の違いというか、土台無理なことをやろうというのに等しい。本来、上位(メタ)概念であるものをより下位の概念で定義することになるからである。銀河系の大きさを、顕微鏡の精度で測定しようとするに等しい行為とでもいおうか。

            神を信じますか?の意味

             その意味で、N.T.ライト先輩は、日本人の中で、信仰はどの道でも同じなので、同じところに到達できるなんてことはありえない。それは無為な努力ではないか、ときっぱりご指摘である。宗教の普遍性は、普遍性で認めつつも、基本的に唯一神理解に立つ一神教型のアブラハム宗教は汎神論の世界とは明らかに違う、とご指摘であり、エキュメニズムとはずいぶん違うのである。その部分を以下に引用する。
             問題の一部は、私たちの使う用語にある。(中略)
             主要な唯一神論(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の影響下に在る言語圏では、「神」とそれに相当する言葉は、固有名詞、あるいは個人名としていつも使われている。もし西洋世界で「神を信じますか」と尋ねたなら、それは「ユダヤキリスト教の伝統の唯一神」という意味だとわかり、その様に意図していることも伝わる。「多くの神々の中の一つの神を信じますか」という質問とは全く異なる。(同書 p.83)
             『富士山とシナイ山』に学ぶ のシリーズで絶賛紹介中であるモンスーン型地域において形成された神神が多数存在して、その数億単位を優に超えている日本での宗教シーンのような環境では、「神を信じておられますか」というと、「はい、まんまんさま(たぶん太陽のこと)を信じています」とか「神田明神の社中でぇ」とか、「祇園さんとこどすなぁ」などとキチンとお答えくださる方もおられるので、「神」というだけでは不十分で、不十分な表現をしながらも、神を、ナザレのイエスを紹介するしかないのである。

             丁度、自分の母語でないTOEIC400点クラスの英語(いまの大学生だとこのクラスがざららしい)や、数10年前に大学の教養科目で習った程度のフランス語やドイツ語で、ある人を説明する感じとでもいうか。その能力の限界の中でも、誠意を尽くして自らが受け取っている範囲で、言葉のもどかしさを抱えつつ、ナザレのイエスを紹介し、神を愚直に紹介するしかないようなのである。

            クリスチャンが思い描く神

             ウィリアム・ブレイクの絵に関しては、以前にここでも紹介したことがある。
            Cain&AbelW.Blake
            アベルを殺したカインに語り掛けるの図 ウィリアム・ブレイク

             基本、こういう図を描くことは個人的にはNGだと思っているが、まぁ、こういう図を描いてくれといわれる以上、画家としては描かざるを得ない部分がある。しかし、こうやって図像にされると、一種の熱心なムスリムの皆さんは激オコぷんぷん丸状態になり始め、お怒りになりはじめるのである。この辺、イコンの伝統がちらっとでも残っているキリスト教はまだ、激オコぷんぷん丸にならない人もおられる。この辺りが、独特の熱心さをもつ一部のムスリムの皆さんがキリスト教に我慢ならない理由でもあるかもしれない。

            「神を信じる」、「神」をどう現代語で表現するか問題
             案外重要な問題として、聖書理解や信仰理解と直結する語でもある「神」という語が定義されないまま、あるいはその意味が合意されないまま、結構ルーズに使われている側面があるように思う。そして、それが混乱につながっている事例は案外多いと思う。そのあたりの事に関して、ライト先輩は次のようにお書きである。
             もちろん今日の西洋では、多くの人がキリスト教の神について大まかな考えしかもっていない。「神を信じますか」と問われ、一週間考えたとしても、常識的な判断力のある人であれば到底信じれらないイメージしか思い描けないであろう。即ち白髪で長いあごひげの老人(多分ウィリアム・ブレイクの素晴らしい絵の様な)が雲の上に座り、人間が地上でなしている混乱を見て起こっているイメージである。そのような創造は、まともなクリスチャンが思い描く神とは似ても似つかない。しかし注目すべきなのは、それが「神」という用語でクリスチャンが信じていると、多くの人が考えていることである。(同書 p.84)

             
            ウィリアム・ブレイクによるアダムの創造

             この部分を読みながら、結局キリスト者を含め、人間は、自分自身が理解可能な範囲でしか理解できないという人間自体の有界性(有限性というよりはむしろ、定義可能活理解可能な意味空間が有界であるという意味で、有界性)を抱えているのだと思う。であるが故に、即ち、キリスト者は自分よりもより大きな有界でない対象である神を相手にする故に、自己の意味空間、理解可能な空間が有界であるという認識に立ちながらも、それを拡張していく努力が必要な様な気がする。それが神と格闘することであり、神に思いをはせるということであり、神を(人間の側の有界性ゆえに部分的にせよ)知るということなのだと思う。そして、意味空間を拡張した部分と、世間の人々が日常語として用いている「神」という語に関して、誤りや誤解を指摘するのではなく、自らの理解したものを一種の解説装置というか変換装置の様にして、自分自身の言葉に頼りつつ語ることが必要なのかもしれない。

            神は解析あるいは分析できるか

             科学的な検証というか、ギリシア科学哲学の影響を受けた近代科学では、理解可能な単位にばらして、理解しようとする。この方法を分析という。つまり、わけて、割して、理解可能なスケールに分割して、対象を考える(出する)という作業をするのである。であるから、関係性等が分析する際には落ちてしまう部分が必ず生じる。

             析という場合でも、たいがいの場合、入力と出力をわけて体してその中の構造を考えるというのが基本的な解析の方法論である。

             つまり、対象を細かく切り分けたり、入り口と出口だけを固定して、インプットとアウトプットの関係から中身がどうなっているのかを知的に推測することであるので、対象を固定する瞬間が存在することになる。無論、動学(ダイナミクス Dynamics)という分野もあり、偏微分方程式を立てて分析とかいうこともないわけではないが、基本的にはあくまでどこか時間軸を固定しないとうまく対象をわけることができない。神様のようなダイナミックな方(あるいはダイナミクスさを超えた方)を、ある時間軸で固定するという方法論そのものが、ある面神様のダイナミックさを止めてしまう、つまり本来生きた存在であるものを殺してしまうことになると思うのだ。つまり、われわれの理解の限界が、本来の神御自身の性格でもあるダイナミックさを止めてし、我々の意味空間の中で、人間側の能力不足のゆえに、神を殺してまっているに近い事をしているのである。しかし、そういう人間の思索的営為とは無関係に、現実には神は生きて居られるのだが。

             あるいは本来3次元世界での出来事を2次元平面に落とし込んでしまって、分かったつもりになっているということだと思う。まずもって、方法論において無理があるのである。そこらあたりの事に関して、ライト先輩は次のようにお書きである。 
             こうした探求(美や、義などを考える方法による探究)は神を見出せる場に向かう道のりを導いてくれるかもしれないが、そうした仕方で、壁を突破し、神を捕まえたと主張するは出来ないということだ。(中略)人間がどのような議論をしようと、いわば神を片隅に追い込み、抑え込んで、おとなしく人間の精査にしたがわせることなど決してできないということだ。(同書 p.84)
             まぁ、もう少し有体に言ってしまえば、美や義などでも、本来的にそうなのであるが、その様な探求と同じ方法は、対象そのものが神であるというダイナミックな存在そのものを人間の側で止めてしまう(抑え込んでしまう この語には、pinned downが英文では使われていた)ことと同じであり、神をとらえて理解できるという事なぞは土台出来ない相談なのである。
             確かに、イエスは十字架にローマ兵によって、ローマ帝国の権威で釘つけられた(こちらは、Neiled Downされた)のだが、確かに十字架上で、その釘を抜いて十字架から居りるということはされなかったものの(一度完全に死ななければ必ず死を経験する人間と同じになれなかったからだと思うが)、ローマ帝国の権威をあざ笑うように完全に槍を突き刺すことをもって完全に制止させたと思ったわずか数10時間後に復活して神出鬼没にあちこちに出現して、生き生きとした姿を見せてしまうのである。 

             前にもふれたように、次元が人間と神で大分違うのである。より低次元の人間は、そもそも有界であるし有限でもあるので、その有界性と有限性を超え、より高次元の神の存在は自分の次元を超えたものとして存在して居られるという認識は出来ても、その高次元のお方である神を自分の知性の範囲内に収めることなぞは出来ないのである。

             わかりやすいかどうかは分からないが、3次元空間上おける面(地面 亜2次元)に接する様な形でしか移動できない人間にとっては、飛行機などを使わない限り、3次元空間である空中の移動がかなり限られる。そして、ドローンを飛ばしてみて3次元空間での映像(これとても、2次元の(写像)空間で定義されるのであるが)を入手できることで初めて疑似3次元的に自分たちの世界の要素の関係をなんとなく理解できるように、人間の理解の能力は、神に比べてかなり限られると思うのである。

             要するに、人間はだれしもが鼻で息するもの、なのである。

             まだまだ続く。





            評価:
            N.T.ライト
            あめんどう
            ¥ 2,700
            (2015-07)
            コメント:お勧めしとります。

            2015.08.10 Monday

            木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その6

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               今日は、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

               本章の冒頭、使徒の働きに出てくる神殿の門のところにいた障害者とペテロたちとの対話を取り上げながら、次のように木原さんはお書きになる。

              周縁に置かれた病者の人々
               ここで、冒頭、木原さんは障害者とペテロの対話の記述から病者たちが周縁に置かれていたことを説明して居られる。
               神殿の境内(宮)ではなく、「門のそば」、つまり門の外に置かれていたということである。当時のユダヤ教の掟では、ある種の傷害や疾病を欠陥、けがれとみなしていたので、その人は「欠陥」のゆえに差別されて、神殿の中には入れなかった。つまり、今日では自明である、人間として当然持つべきあらゆる権利からはずされて生きざるを得なかった。疎外され、差別をされ、生きるために施しを乞わざるを得ない、中心からはずされた「周縁者」であった。(中略)
               これは今日では考えられない状況であるとは言い切れない面がある。今、世界的にも社会福祉の中でテーマになっているのは、社会的排除(Social Exclusion)の社会問題である。障害者、貧困者、特定の民族、ホームレス、マイノリティなど、マジョリティの社会の中で異質と感じれらた者を、意識的か無意識かは別として、社会から仲間外れにして排除してしまうことを言う。この逆を社会的包摂(Social Inclusion)といい、世界的にそのための対策が講じられている。その点で、日本は大きな課題を抱えている。(同書 p.97)


              美しの門でのペテロたち(金銀はないといいつつ、結構服はゴージャス)

               人間が人間として生きることを許さなかった社会としての当時のユダヤ社会がある。しかし、これは当時のユダヤ社会ではない。つい最近まで、ハンセン病患者は、人間としての権利を失っていたことは、ハンセン氏病の治療施設とという名の強制収容所の歴史を少し紐解いてみればわかる。あるいは、日本では精神医療施設の中では、現在でも非人間的な対応があることを、最近のニュースで我々は知ったばかりではないか。




               ヨーロッパでもこの事は度々起きた。ナチスドイツによる障害者の排除と、その排除の思想に基づく優生保護法と呼ばれていた法律(現在では母体保護法と呼ばれているらしい)であり、我が国において人工中絶を実施可能にする法令の体系の基礎である法律である。

               本ブログで紹介している工藤信夫さんによると、世界中どのような社会にあっても統合失調症患者の出現確率は、学歴、職業、収入、民族、地域、文化に関係なく、一定の割合を維持しているという。一種普遍的な存在であるのだが、我々はその普遍的な存在を自分たちと違うということで排除し、そして、それを内包できない形で社会を形成している。所謂、社会のエクストラ・サニタリゼイション(過剰な衛生化)をしているような気がする。つまり、見たくないものは無視できるように社会の仕組みを作り上げて居り、社会参加の権利を奪っているのである。しかし、通常なのか、通常の範囲内なのかの差は、実にごくわずかしかないのであるが。

               ところで、この部分に関しては、少し説明しておく必要があるかもしれない。当時のユダヤ社会では、このような描写や障害者は先祖や、親、本人の罪の結果であるとされていたらしいことが、福音書の記述からわかる。

              【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
               9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
               9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
               9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
               9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
               9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」
              という記述や、あるいは
              【口語訳聖書】マルコによる福音書
               2:1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
               2:2 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
               2:3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
               2:4 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
               2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
               2:6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
               2:7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
               2:8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。
               2:9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
               2:10 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
               2:11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
               2:12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
              という記述のように、罪の問題と疾病の問題は深くイエスが語っていることの中に反映されているようにユダヤ社会で普通におきていたことであったことは覚えておいた方がよいかもしれない。

              立ちあがりと復活
               自立との関連で、立ちあがるという語を上げておられる。
               「立ちあがり」とあるが、これはギリシア語原文では「よみがえる」「目覚める」という言語と同義である。「立ち上がる」といえば、「自ら立つ」、つまり「自立」のことである。先にふれたように、社会福祉の世界では、近年、「自立と尊厳」が法律で明記されるようになり、それらが重要な柱となっていて、自立は最も重要な概念の一つである。ギリシャ語原文からすると、真の自立の原点はまずは「目覚める事」が必要であるのを暗示している。(同書p.99)
               しかし、たちあがる、というと、おじさん世代にとっては、往年のアニメ、機動戦士ガンダムのオープニングを思い出してしまう。


              この曲の2番に、立ちあがれ、というフレーズが出てくる

               実は、この起き上がるという語、イエスの発言の中では、復活という概念と結びついているようである。そのことは、タリタ、クミ(少女よ、起きなさい)とイエスご自身が呼びかけられたマルコの福音書の表現とつながっている。
              【口語訳聖書】マルコによる福音書
               5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
               5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
               5:43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
              この聖書箇所の類似箇所では、こうなっている。
              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。
               9:24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。
               9:25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。
               9:26 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
               これらによれば、死後眠っているのであるとイエスは考えられ、その眠りからのおきあがり、すなわち、復活を「起きる」という語で示したようである。ところで、復活後のイエスの第1声は、口語訳聖書と、新改訳聖書と、新共同訳聖書では、次のように記されている。

              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

              【新改訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

              【新共同訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
              と訳し方は「おはよう」となっていはいるものが多いが、これは、おそらく挨拶としての「おはよう」として声をかけたというのではなく、”復活をおきあがること”と理解しているイエスからすれば「私は復活した」という物言いではなかったか、とミーちゃんはーちゃんは考える。

               しかし、マルコの福音書は、援助と自立と復活と歩きはじめにおける場所を用意すること、そして自立支援の場所をよくあらわしている。ミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事で言えば、プログラムを書いて、処理システムを作り、クライエントが抱えていた問題に対する当面の課題が解決すれば、それで終わりにしがちである。まぁ、クライエントの内部の仕事の進め方まで手出しができないというのもあるからではあるが。しかしそれではシステムは定着しない。システムが定着するために、安定稼働するために、起こしただけではなく、朝ごはんを食べさせ、歩きはじめることができるようにすることが必要かもしれない。この辺途上国支援などでも案外似た様な問題があると、開発経済学の専門家からお聞きしたことがある。
               
               しかし、イエスも復活の前に完全な安息日を過ごされ、休まれたように、立ちあがる前には、誰かの庇護のうちに安息をもつことが必要なのかもしれない。

              まだまだ、この章が続く



              評価:
              木原 活信
              いのちのことば社
              ¥ 1,728
              (2015-07-08)
              コメント:絶賛ご紹介して居ります。

              2015.08.12 Wednesday

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (30)

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                 本日も引き続き、『富士山とシナイ山』の17章、「神とバアルの間をよろめきつつ踊る」の中からご紹介していきたい。もうすぐ終戦記念日という名の日本がポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦が確定した日も近いことだし。

                歴史的スパンの中で考える

                 我々は、非常に短い時間的範囲内で考えることが多い。問題が発生すると、すわ一大事のように、慌てて間違った問題を一生懸命解いている場合が少なくないように思う。それが悪いとは言わないし、喫緊の課題があるときには、迅速な行動することは重要ではある。
                 しかし、人間は所詮は鼻で息するものである。その栄光は限りがあるのだ。

                 まさにイザヤ書の記者が言うとおりである。
                口語訳聖書 イザヤ書
                 40:6 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
                 40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
                 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は
                  とこしえに変ることはない」。 
                 人間は、こういう限りがある存在であるうえに、神と共に完全に生きられない、欠けがある(罪がある)存在なので、大概の組織は、100年持たないのである。大企業ですら、それほど持つ会社は少ないから、どんどん組織替えをする。三井組(三越の前身である越後屋から始まった日本最大の複合企業体の一つ)ですら、当初の形はもはやない。また、250年持った徳川幕府というのは、結構長命な政体であるとは言いながらも、政権発足機と崩壊期では組織構造と形態は違っている。まぁ、カトリック教会は大体2000年近い歴史がある(どこからがカトリック教会か、何がカトリック教会か、という議論を細かな点まで含めて始めると終わらなくなりそうである)が、カトリック教会は歴史上類例を見ない超長命な組織なのである。ローマ帝国ですら、ローマが主都であったのは、おおむね350年ちょっとである。
                国家的栄光至上主義は日本国民を非理性的な、正しい価値判断をかく、狂信的な国民にした。諸国の指導者た日は再び非理性的で、狂信的な状態に陥りつつあるのだろうか。だが待て、バアルの栄光至上主義を信奉する人々が大多数を占めようとも、ヤハウェは歴史から姿を消していない。ヒトラーのモレク的栄光至上主義が第三帝国を存続させえたのはわずか25年間にすぎなかった。千年は続くと「控えめに見積もった」はずなのに。日本の影響が続いたのはわずかに50年である。我々はバアルの栄光に魅惑されるが、同時にヤハウェによって霊感を注がれる〔正気を取り戻す〕。(『富士山とシナイ山』 p.323)
                 ヒットラーの第3帝国は、25年しかもたなかった。いやいや、日本には天皇家があり長く続いているではないか、とおっしゃる方もおられようが、天皇みずから政治のアルテを行使したのは、あまり長くない。この前もFacebookでその話が内輪で盛り上がったが、基本大臣が輔弼する(お助けする)となっており、実際の下々のことにはほとんど、おかかわりになられなかった。歴史的に考えても、天皇家は政治の実際部分を、貴族の摂関家にお任せしたり、武家政権にお任せしたりと、政治活動といえるほどの活動された期間は実はあまりにも短い。

                 明治帝は英邁であったといわれるが、その実、国家の元勲の方が実際の政治的なアルテを行使しているような気がする。その意味で、日本史における少なくとも平安朝以降において、天皇家という存在が日本での統治主体であったかどうかは、かなり怪しいと思っている。

                 しかし、小山先輩、ヒットラーのモレク的栄光と呼んでおられるあたりがすごい。

                 まぁ、日本の世界進出に関しては、世界進出の挙句の果てに、大東亜共栄圏建設を目指し大陸に出ていったり、南洋に出ていったりはしたが、それでも、それがもったの、がまぁ、わずか50年であったと小山先生ご指摘である。

                 ナチスドイツにしても、日本の大東亜共栄圏構想にしても、今のマスコミの前身である新聞(戦時体制として実質的に国に接収された)にしても、問題の解決者として人々はもてはやし、全ての解決を告げる解放者と思った、あるいは思いたかったのである。だから、バアル的なナチスドイツや日本の大東亜共栄圏とかいう人々の言う栄光に心奪われ、彼らに「乗った」のである。

                 しかし、敗戦という現実に直面し、あれはいったい何だったんだ、ということになり、手のひらを返した様な対応をとる事となる。そして、日本では、教科書に小学生が墨で塗り絵をさせられたらしい。過去教えてきたことは嘘でした、と。

                人間、それは神とバアルの間を
                振り子のように揺らぐ存在
                 人間は揺らぎがあり、神とバアルの間をこの地上では振り子のように触れるのであろう。それは人間が完全でなく、神の欠けという問題、あるいは、神の常時の臨在がないという問題(それが「罪」だと聖書は主張しているように思う)があるがゆえに、イスラエルは、神のもとに戻ってみたり、バアルのもとに行ってみたりと、大抵は、神のもとに戻ってくるのだ。
                ヤハウェとバアルの間を危なっかしそうに飛び跳ねる振る舞いは、私がこれまで見てきた歴史の動きのイメージに近い。この種の不決断は我々の魂の深部に潜んでいる。人間の精神の神秘に潜む不可解な何かの理由で、我々はヤハウェとバアルの間で跳びはねることをやめられない。「私はあなた方の前に生命とし、祝福と呪いをおく。それゆえ生命を選べ」と命じられているのに、迷いの跳びはねをする。「私が来たのは義人を招くためではなく、罪人を招くためだ」とイエスに言われても、不決断の跳びはねをする。霊的なためらいとうろたえを感じる。(同書 p.324)
                 神の招きを知りつつも、それに完全に従えないのが、人間であること位、イエスは御存じであり、それでも、「我がもとに来よ」といわれているような気がする。神への立ち戻りの重要性こそが、聖書の主張ではないか、と最近は思っている。

                 ここで、人間の揺らぎの事を引用部分の最後で述べて居られるが、この揺らぎが人間なのだろうと思う。アブラムもそうであったし、信仰の父アブラハムも在る面左様であった。エリヤにしてもそうであるし、ダビデにしてもそうである。人間確信犯でずっと貫き通せるほど、タフに出来ていないようである。

                他者を攻撃したところで
                 なんかいい匂いのする油を撒いて、きよめたり、祈りによる攻撃をしたところで、偶像や悪霊が動けなくなったり(そもそも、木や石なので動いたりはしないし、鼻で息をしたりすらしない、と思うのだが)、排除されるとお考えの向きがあるが、神の国はそんなものじゃないんじゃないか、というのが、小山先輩のご主張のようである。
                ヤハウェののもとに来るために、我々は「大声で叫び、習わし通り剣や槍で自分の体を傷つける」人々をわれわれの内部と周辺に観察しなければならない。われわれのれ知る歴史が進行している間、偶像崇拝は生じるであろう。エリヤとバアルの預言者は常に我々とともにいる。とすれば、神の国(支配)をどう理解したらよいであろうか。バアルの預言者たちが殲滅された時、神の国は実現するのであろうか。(同書 p.324)
                 個人的には、神の国とは、ここで小山先輩が、わざわざ(支配)と補足してお書きのように、神の支配の事であり、人間がそこには入れるように努力したりするということとは無縁の存在である、と言う側面もあるものであるし、人間の努力や悔い改めではそもそも変わらないものでありどうにもならないものであり、神のみ思いそのものなのではないか、と思う。御国が来ますようにと主の祈りで祈るようにご提案されている内容は、我々の思いが最優先されるのではなく、神の支配のままに神の御思いのとおりに行われますように、というのが主の祈りの意味ではないか、と思う。神の支配と主の祈りにかんしては、山崎ランサム様ののブログの祈りのシリーズで、ご紹介になっておられるところである。個人的には、この一連の記事は非常に優れていると思うので、まだお読み出ない向きの方には、一読をお奨めする。

                 我々は、神が、その支配と関与の内に、我々を置いてくださるという確信しかなく、全てのものを統べ治めるという神の創造者としての性質のうちに、つまり、その支配の内におかれているものにすぎない。まかり間違っても、自分たちで神の国を作ろうなど言う野望は、神の主権の侵犯になると思うのだが。

                神に対する熱情であって、
                敵を倒す熱情じゃないかも

                 キリスト者は、主の我らへの熱情故(愛ともいう)、神と共に生きたいと思い、神への熱情をもつもの、となったものでしかない。神の敵を倒すために、敵を倒すために生かされているのではないし、その敵すらも神が愛し給うておられる、ということをキリストは言われたのではないだろうか。あなたの民を愛せだけではなくて、「あなたの敵を愛し、あなたの敵のために祈れ」といういう態度をイエスは示したはずなのだが、それがどっかで消え落ちているあたりが残念でならない。
                 そのあたりの事に関して、小山先輩は次のようにお書きである。
                進んで、「主に熱情を傾ける」僕となった(列王記19章10−14節)エリヤが神への熱情を濫用することなどあり得るであろうか。神が熱情的になるのは、不忠実で手前勝手な民のためである。しかし我々の神への熱情は、とりわけそれが度を超えると、別なものになるのかもしれない。仏陀なら間違いなく、エリヤの熱情はカルナー(慈悲)、即ち苦しむ他者への思いやりであるよりは〔パーリー語の〕タンハー(渇愛)、即ち隠された征服欲に近いと推測するであろう。度を越した熱情にとらわれたエリヤは対決的となる。
                 熱情的な神は不忠実な民に直面すると悲嘆にくれる。この神の悲嘆は、悲嘆にくれている人々について我々が普段用いるものとは異質である。それは落胆し、絶望し、涙にくれる状態を意味しない。民の不忠実さ、不信仰に対する聖なる反応を意味する。神の苦悩を記述する絵画的方法である。聖なる悲嘆は単なる対決的感情ではない。対決とい言う概念は線状的概念である。繰り返し破られる悲痛な契約の癒しを求める聖なる憐れみは円形を描く感情とイメージを持つ。それとは対照的に、人類史においてどれほど多くの「過剰殺戮」が対決的神学に動機づけられてきたことか!われわれ人類は「全地の審判者」なる主(創世記18章25節)よりも一本調子かつ対決的ではないだろうか。(同書 pp.326−327)
                 ここで書かれている「多くの「過剰殺戮」が対決的神学に動機づけられてきた」というキリスト教の黒歴史がある。このあたりの黒歴史の結果、とりわけ、70年前の戦争のころ、ドイツではキリスト教と呼ばれるものやキリスト者と呼ばれる人々の多くがヒットラーの人種隔離政策に協力し、それを進んでやったという結果、あるいは、実際には経済戦争であるにもかかわらず、それをキリスト教内の教派間争いに置き換えたアイルランドでの悲惨な事件、他者を愛するという律法を尊重する、聖書はそのまま信用すると言いながら、どこかで解釈をずらし、その過剰な思い込みから、特定の人種への優先主義に走った南部の極端な人々、911のテロ事件以降、イスラム教に関する無理解と否定的な意識から、移民、とりわけ中東系の移民を圧迫した人々など、このあたりの黒歴史には事欠かない。


                収容所に向かわせるドイツ軍戦闘服仕様の兵士たち


                大概の人(白の円内のおじさん一人を除く)がヒトラー支持に

                十字架を燃やすKKKの皆様(火遊びはやめましょう、って小学校の時習ったような)


                ミシシッピーは燃えていたそうで(映画Missisippi Burning)から


                神とULSTER(アイルランドのために)って書いたアイコン入りの壁画

                 なお、ネオナチと白人至上主義とは、思想的に相性が良いらしく、結構現在でも問題が多いらしい。アメリカ南部では、未だに、このことが問題となって、ファーガソン事件の背景等にもあるように感じる。実際に、アメリカ新南部あたりには、白人至上主義者でネオナチの方々もおられるようで、所謂黒人差別問題と違った点で焦点化しやすい側面もあるようである。


                警察と市民がもめて挙句の果てに州兵が動員されたというファーガソン事件のCNNの動画
                まさにミーズーリは燃えていた

                裁くのはだれか問題

                 我々は、ちょっこしキリスト教を知っている気になり、ちょっこし日本語で聖書が聖書を読めたりすると、すぐ、人を裁きたくなってしまうという、実に神の存在が欠如した存在(罪深い存在)となるのが人間である。「神が、神が・・・」といいつつ、バアルにふらふらといってしまい、結局何を礼拝しているのか、神を礼拝しているのか、神が下さった豊かさを礼拝しているのだか、神が下さった豊かな感情を礼拝しているのだか、さっぱりわからなくなることも少なくない。

                 そして、神が賜ったものを重視するあまり、他人の欠けをあげつらい、自分の目の中にある梁はさておいて、他人の目の中にある埃をとろうとするのである。

                 「それはやめとけ」とイエスはおっしゃったような気がしている。つまり、聖書は、それは「神がお裁きになる」といっているような気がするが、そこを非常に近視眼的に、どうでもいいことを口実にして他者を排除していくのが人間のようである。
                 歴史の深部にあらゆる種類の偶像崇拝を裁く「激しく動かされる神の心」がある。歴史を裁く神は、歴史に全存在を上げて関わりあう神である。憐れみのあまり断腸の思いとなるこの神こそ、この歴史的時間において神とバアルのはざまをどっちつかずに跳びはねる我々にとっての救済なのである。(同書 p.329)
                 人間はそうする、人間がそうしやすいことをご存じでありながら、熱い憐れみのこころを以て、すなわち、スプラングニゾマイ(あわれみ、と訳されるが、文字どおりには断腸の思い)の思いをもって、我らに救出、脱出、コース転換の道を備えておられるのであり、また、その救出、脱出させてもらって、別コースに行ったはずなのに元のコースに戻ろうとする我らを、「子よ、戻って来い」とおっしゃる方がどうも神のような気がするので、その方にすがって生きることの大切さを考えざるを得ない。
                 
                まだまだ続く  



                  
                評価:
                小山 晃佑
                教文館
                ¥ 4,104
                (2014-09-12)
                コメント:絶賛おすすめしています。

                評価:
                N・T・ライト
                あめんどう
                ¥ 2,700
                (2015-05-30)
                コメント:お勧めしてます。

                2015.08.15 Saturday

                NTライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その12

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                  今日もN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』第5章「天と地と…」からご紹介したい。

                  歴史的な天と地との関係
                   歴史的な天と地との関係に関して、N.T.ライト先輩は、次のように整理して居られる。天(神がおられる場)と地(人間がいる場)にかんしてかこの歴史を振り返ると3種類あるとお書きである。
                   神の場と私たちの場が互いにどうかかわっているかについて、3つの理解(その変形を含む)がある。全ての思想家がユダヤ・キリスト教の伝統の中にいたわけではないが、その多くがそうした3つの仕方でこの問いについて考えてきた。(p.88)
                  では、その3種類とは何かは先になって分かるのであるが、ここで先取りしてみる。

                  ■オプション1 神の世界と地の世界は重なって一体。
                  ■オプション2 神の世界と地の世界は完全に分離。
                  ■オプション3 神の世界と地の世界は様々な方法で重なり合い噛み合っている。

                  とまず、オプションを頭出ししておこう。

                  汎神論の世界
                   オプション1に関しては、N.T.ライト先輩は次のように言っておられる。
                   神の場と私たちの場は基本的に同じである。同じものを二つの仕方で語りあっているともいえる。この考え方は、神は自分のいる領域に隠れることはせず、すべてを自分の存在で満たしている。どこにでもいて ― この点に注意してほしいが ー あらゆるものが神なのである。あるいは、神はすべてであり、すべては神であるといってもよい。
                   この考え方は汎神論として知られている。1世紀の古代ギリシャとローマ世界で主にストア哲学を通して人気があった。(中略)
                   そのような多神教はごたごたして複雑である。そこで古代の多くの思想家が考えたのは、「神聖なるもの」を、すべてに浸透している力としてみなすことだった。(中略)この場合、人間のなすべきことは、ただ自分たちの内側と世界の中で神聖なものに触れ、それに自分を合わせることである。今日、多くの人はこの見解に魅力を感じている。
                   厳密な意味での汎神論は、結構厳しい者が在る。ハチ、蚊、がん細胞、津波、ハリケーンを含め、すべてに神性があると信じるのはかなりの努力が必要である。それも在って、今日、ある思想家は微妙な変化を加え、それを汎内在神論や、汎在神論(panentheism)と呼ぶ。(『クリスチャンであるとは』 pp.88-89)
                   ということで、この地上は神が存在する場であり、神(というよりは)神々が活躍の場で、地上のなんでも神になってしまうというようなことがこの汎神論の世界である。たとえば血液型論争というのがあるが、あれは、血液型がすべてとは言えないまでもある程度の傾向を決めてしまうということで、神の被造物のその特性のうち国わずかな特性を持って、その人の性格から行動まで決めているという血液型を神とする世界であるということを意味するのではないか、と思った。基本ギリシア神話の神々も、結構この地上の人間が住んでいるあたりでふらふらしているし、日本の神々も、人間世界に出没しているという意味では、だいたいでっかい神社はラピュタのように浮いてないし、日本の神概念は実に汎神論的なのである。

                   それに、日本では、街のあちこちに神域であるしるしを見ることができる。いかにその例を示したい。


                  トタン波板に書かれた神域の表示

                  犬猫にはわからんと思うが一応神域であることを主張してみた例

                  日本の神社と神

                   過去地理学の研究関連で、日本の伝統的神社の立地点の特徴を調べたことがある。その時の知見からいえば、神社の設置場所には次のような傾向がみられる。

                  1)泉源地
                   (土砂災害が発生しやすい危険地区の事も多い 石清水八幡宮・上賀茂神社・下諏訪神社などなど)
                  2)河川氾濫原
                   (水害地 下賀茂神社は典型的)
                  3)漁場や行動の目印になる特異な地形を保有する場所
                   (筑波山神社 富士山神社 宇佐八幡神社、金刀比羅神社など)
                  4)災害発生地
                   (木曽神社、浅間神社)
                  5)資源保護が必要な場所

                  位に大別できそうだと思う。その意味で、地そのものがライト先輩で言うところの神がおられるところであるという意味での天というのが日本型の伝統的な神道意識ではないか、と思われる。

                   なお、日本の神は、基本的に祟り神(たたりがみ)であることが多く、ろくでもない事を起こさないように供物を備えるというのが伝統的な意識であろう。

                   典型的には天岩戸で 隠れて民が困窮した事件や出雲のヤマタノオロチ伝承(江川の氾濫対策と思われます)、菅原道真の北野天満宮(雷神伝承)などが典型的かと思われる。

                   このように、日本というのは、実に汎神論的な世界であり、日本国じゅうあらゆるところで存在するのだ。街角にも神がいる世界であるし、アニメファンの中では、アニメの舞台になった街角が聖地となる世界である。


                  けいおんの聖地巡礼なども在るらしい

                  日本では、アイドルも「ネ申」になる、らしい。

                  ちょっと前のAKB 神7 だそうである。

                   しかし、ほとんど全員ご卒業であるが神7が卒業すると何になるのであろうか。いやぁ、実に汎神論的な社会である。

                   しかし、汎神論には問題がある。この汎神論の問題を次のように同書の続きでライト先輩は次のようにご指摘である。
                   最終的な解決は(1世紀の多くのストア派が出した答えであり、今日の西洋世界でますますその数が増えている)自殺である。(同書 p.90)
                   西洋世界でも自殺は増加しているが、それ以上に多いとされる日本の自殺の多さは、案外、この汎神論的な世界観があるのではないか、と思う。Suicide Attackと呼ばれた特攻は、死して祟り神かもしれないが、神になれるという確信があるからこそ発生したという側面はあると思う。Suicide Attackは訓練を受けた練度の高い人間を殺すことで訓練資金と人間をどぶに捨てる様な、実に効率の悪い戦術なのである。

                  Kaiten
                  特攻兵器 人間魚雷 回天
                  (江田島の 旧海軍兵学校 現 海上自衛隊幹部候補生学校 にて展示)

                   ちょうど本日は、日本型仏教における旧暦での盆(関西以西くらいでの盂蘭盆会、関東以東以北では新暦で行うことも多い)であるが(13日から15日がお盆ではなく、本来は15日のみが盆である)
                  、守護霊(守護神)としての祖先霊がもともと住んでいた住宅に一時的に戻ってくるあたりを含めて、日本では、実に汎神論的であると思う。

                   尚、インドでの仏陀が行った仏教的な仏は、魚川さんの説を参照に考える時、この世という輪廻転生でカルマ渦巻く世界から解脱(離脱)した人であるので、大体地上に執着があり、その執着(渇愛)ゆえに、地上の特定の家に戻ってくるということはありえない様な気がすると思うのだが、違うのだろうか。もしそうだとすると、それは、解脱を達していないことになり、仏(=解脱者)でもないような気がするのだが。だから、ありがたいお経を聞かせて、はよ解脱してもらうように毎年しないといけないのかもしれない。

                  神と人が分離した世界観
                   神と人が完全に分離した世界観であるオプション2についてN.T.ライト先輩は次のように言っておられる。
                   神は存在するにしても、天にいる。その点はどこであろうと、またどんなものであろうと、神々はそこで楽しんでいる。(中略)この見解も古代では人気があった。特に詩人であり、哲学者であったルクレティウスによって普及した。彼はイエスより1世紀前に生きていたが、それよりもさらに2世紀前のエピクロスの教えを拡大解釈したものである。
                   この見解に付いてのルクレティウスとエピクロスの結論によれば、人間はこの世界で孤立してた状態になれなければならない。神々は人間とかかわることはない。助けてもくれないし、害も及ぼさない。人間に出来ることは、人生をなるべく快適に過ごすことだけである。そういう意味では、おとなしく、注意深く、穏やかに生きればよいのである。(同書p.90)
                   神と人間が完全に分離している世界観ということは、エピクロス派的な世界観に基づくものとはN.T.ライト先輩に出会うまでは知らなかった。結局、エピクロス派的な世界観では神の世界は、理想状態としての世界、イディアの世界に近いものであるとは思うのだが、そこを理想とし、そこでの快楽を追い求めるという意味で、快楽を重視したのであり、今世間に普及しているエピキュリアン(エピクロス派の人々)という言葉は地上での快楽、この地上での生きている間の快楽を求める人として言われているが、実は、ギリシア時代のエピクロス派の哲学者は、ストア派同様かなり厳格な生活を送ったことで知られている哲学者集団であった。

                   ある意味で、死後の世界のいわゆる『天国』における幸福のみを求め、この地上で困難や艱難や辛苦を求める現代のキリスト者は、ある面、現代のエピクロス派的存在と呼んでもよいのかもしれない。

                  Image illustrative de l'article Bacchus
                  カラバッジョ画伯によるバッカス(デュオニュソス) 葡萄酒の神らしい

                   まぁ、ギリシア神話のバッカスにしても、女性神にしても、まぁ、やりたか放題のところがあるし、それがそのまま地上で実現されたらろくな事にならない。だからこそ、境界線があると設定されているらしい。そのあたりの事に関して、ライト先輩の本では次のように書かれている。
                   神の領域と私たちの領域をエピクロス派の様に区分し、神は遠くかけ離れ、敬われはしても私たちの領域に現れることも何かをすることもないという考え方は、18世紀の西洋世界で(「理神論」と知られる運動)大変人気があった。(同書 p.91)
                   以前にも紹介したが、神が我々の世界とは無縁の世界であり、我々がそこに移行することになっているので、我々の世界は滅ぼされるというキリスト教徒の一部が保有する一種の世界観があるが(以前はこのような概念や世界観の中にミーちゃんはーちゃんもいた)、それはある面で言うと、一種のエピクロス派的な立場であったということは一種衝撃的であった。しかし、アメリカで19世紀にこの理神論が流行り、日本のキリスト教もこの影響からまぬがれることはなく、当初の理神論のかたちから変質して日本のキリスト教の中にもその一部が現在もなお見られる。
                   尚、フランス革命における理神論的な影響は強い。その結果、カフェイン抜きのコーヒーの様な神抜きの人権思想が生まれ、そして、それがアメリカにも、そして、アメリカ経由で日本にも影響するが、そこには現在深入りしないことにしておこう。

                   しかし、神の支配や神御自身は遠くない、と聖書は主張していることを踏まえ、ライト先輩は次のように主張して居られる。
                   実際、西洋世界の多くの人は「神」や「天」を語る時、何らかの存在物や場所であるかのように語り、それが存在するとしても遠くにかけ離れ、私たちとはほとんど直接的な関係のない、あるいは何もできない存在だと思っている。それが、「神を信じている」といいながら教会にもいかず、祈ることもせず、「神についてほとんど考えもしない」と平然と言ってのける理由である。もしそのようなかけ離れた神を信じているなら、日曜日の朝、私だってわざわざ寝床から起き上がりはしないだろう。(同書 p.91-92)
                   このなかで重要だと思ったのは、我々が神とどういう関係に在ると思っているか、ということである。つまり、神のリアリティをどう考えるか、という問題である。もし、神が無関係であるとし、情事ではなくとも折に触れ、神の事を考えないとすれば、それは神をリアリティある存在として考えているか、あるいは、リアリティある存在としてともに生きているのかどうかはかなり怪しくなる。

                   もし、人が神をリアリティある存在として考えないなら、日曜日の朝に朝早く起きて(と言っても9時くらいだろうが)神のリアリティを覚えるために別途から起き上がり、それなりの格好をして教会での礼拝に参加しない事になるのではないだろうか。ライト先輩でも、もし神がリアリティ在る存在でなければ、教会にはいかないし、それが普通の反応だろうと言っておられる。

                   二元論的に理神論が流行った近代の問題は、「自分が何とか出来る」「がんばればなんとかなる」という人間主体の考え方と言えば聞こえが良いが、人間を神とする偶像崇拝をする社会の問題でもある。「人間の力でどうにもならないことはない」という思い込みが人間社会を悲惨さをもたらしたと言えるのではないか、と思うのである。


                   まだまだ続く




                  2015.08.17 Monday

                  木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その7

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                     今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

                    依存と自立
                     木原さんは依存と自立という項で、次のように書いておられる。この後から紹介するが、依存症等からの自立を阻害する要因として、「もの」・「組織」・「人間関係」を上げて居られる。非常に印象的である。以下では、まず第1の「もの」から紹介したい。
                     ところで依存症という病気があるのを知っているであろうか。人があるものに依存し、もし、それがないと生きられないという病である。アルコール依存症などがその一例である。(中略)依存症とまで言えなくて も、人間が頼ってしまって、結局、自立を阻害してしまう代表的なものが、少なくとも三つある。
                     一つは「もの」。例えば金銀。金銀の授与も、与える側、もらう側に主体的な関係や意味をなくしてしまうと、依存関係に陥ってしまう。もちろん金銀は必要不可欠であり、大切なものであることは言うまでもない。(p.100)
                     まず、確かに、謹厳や貯金総額だけではなく、ぬいぐるみや毛布など、人間は様々なものへの依存傾向はある。


                    小さいころに依存していたぬいぐるみが喋ってしまった、という設定のTED
                    このクマがおっさんなこと大爆笑である。



                    The Peanutsの登場人物の一人 ライナス

                    下記で紹介する『スヌーピーたちの聖書の話』の中にも、人間の弱さの象徴としてこのライナスの抱え込んでいる毛布についての言及がある。ナウエンのWith Open Handsではないが、我々は、金や銀(コイン)をライナスが毛布を握りしめるように、しっかりと握りしめ、わずかばかりのコインを手の汗で濡らしながらも、神の前に手を開いて、神の助けを求めない存在であるのかもしれない。

                     無論、近代の資本主義社会(中国の共産主義社会においても)では、資金やお金は大事である。ただ、それに支配され、使われるのではなく、それを使いこなす技術が必要なのであるのだが、そこらの混乱が多くみられるというのが実に残念である。この辺りの事をお考えになりたい方は、『お金と信仰』という高橋秀典さんの書籍をお奨めする。

                    組織への過度の依存
                     人間は、組織への依存を生み出しやすい存在である。以下で木原さんご指摘のように会社人間もそうだし、型が気に依存する人々もいる。ヨーロッパではナチスドイツへ依存した人々もいた。あるいは、教会に依存してしまう人々も少なくはない。カルト化した教会に依存すると、ろくなことが起きない。
                      二つ目は「組織」。組織は我々には不可欠であるし、それを否定できる人は誰もいない。しかし「会社人間」に代表されるように、これも人の組織の関係が主従逆転となると、依存関係を生み出す可能性を帯びて入る。形式上それに同意して組織を機能させる事は必要であるが、手段と目的が転じ、個人の主体的な意思を阻害してしまうまでになると、いわゆる会社人間が形成される。滅私奉公の文化をもつ日本社会は、こういう状況を産み出す温床が多分にある。(同書 p.101)
                     何にせよ、手段と目的の逆転というのは、起きやすい。とりわけ、これまで工藤さんの本の紹介記事の工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10 でご紹介したように思考や思索が停止した状態でそれが起きてしまいやすいと思う。そして、挙句の果てに思考や思惟が停止すると、もうそれは、機械的に突進していくハーメルンの笛吹き男状態、奈落に向かってまっしぐら、となってしまう。


                    ハーメルンの笛吹き男

                     結構、会社人間の方々が退職すると大変なのである。会社での最終ランク(職位)にこだわったり、元々の会社の社格にこだわったりしておられ、「そんなの関係ねぇ」のおばさんたちがメインメンバーである地域社会で浮きまくりんぐになったり、教会に来て役員になりたがったり、なったらなったで、いろいろと困ったことを起こしてくださる困ったチャンになられる方も案外少なくないことが、このブログ記事の一つとして紹介した、工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その9 でも工藤さんは書いておられる。

                     なに、教会に、会社を退職された方が来てもらっては困る、と言っているのではない。教会とは、そういう社会のランクや社格といった様なものとは本来無縁のものであると思う。大体、パウロは、次のようにガラテヤ書の中で
                    【口語訳聖書】ガラテヤ
                     3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
                    ピリピ書には次のようにある。
                    【口語訳聖書】ピリピ
                     3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
                     3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
                     3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
                     3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
                     しかし、数日の前の敗戦記念日(日本では終戦記念日と称する)に思ったことだが、結局日本国という組織を誇りとし、日本国という組織に頼った結果が、1945年以前は国威発揚であり、誇りになり、豊かさであったかもしれないが、1945年に結果的に敗戦という結果を突きつけられるということではないかと思うし、その組織に載らない、ハーメルンの笛吹き男に踊らない人々に1945年以前は「非国民」というラベルを張ったのではないかと思うのである。

                     その意味で、われらは神につながっているという点においてのみ、教会を形成しうるというその中心的な概念をもう一度考えたほうがよいのかもしれない。

                    霊性を見失う教会?

                     個人的には、文章化しにくく、また、理解しにくいとはいえ、この霊性というのは極めて重要であると思っている。しかし、霊性が人間のうちにあるが故の問題もあると思う。つまり、慣習化したり、形骸化してしまう危険性である。霊性のための組織が、組織に過度に依存し、霊性を見失うこともないわけではないようである。この辺りの事に関して、木原さんは次のようにお書きである。
                      最近、スピリチュアリティ研究等の議論では、神との関係や人生の意味探究などを「霊性」と定義し、それを維持し体系だてる組織の総体を宗教と呼んでいる。無論、霊性を生み出し、保つ上で宗教は不可欠である。しかし、歴史的に見て「宗教」はそれ自体が目的になり、本来の目的を離れて巨大化し、やがて習慣的から惰性的になり、そして、形骸化、世俗化してしまうということが、これまで幾多の宗教・教団の中でもあった。個人が「組織」だけに縛られて、「霊的」意味を見いだせなくなったら、危険信号である。(同書 P.101−102)
                     個人的に教団を形成することに関して否定的なキリスト者集団の隅っこにいるが、近年のキリスト教界における暴走(カルト化問題や国粋化問題等)を考えていると、こういうのの防止においては教団の存在という一定の役割もあるかもしれないが、特定の教団に所属し続けながら、教団からの意見に耳を傾けない教会もあるらしいから、その効果というのは限定的かもしれない。しかし、木原さんがご指摘のように、教会等組織に縛られるというのは、イエスがその出身地ナザレで開いたイザヤ書の引用
                    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
                    4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
                    とされているイエスの福音が、解放であったことから考えると、ろくでもないことのように思うのは、私だけかもしれない。

                     霊性に関しては、N.T.ライト先輩も『クリスチャンであるとは』で1章を割いてご紹介して居られる。この本もお勧めである。

                    人間関係への依存

                     人間関係は人間であること、キリスト者であることに関して、極めて重要な要素をもっていることは、先に紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』で示して居られる。その人間関係が依存に行きかねない要素をもっていることを木原さんは次のように書いておられる。
                     三つ目が、意外かもしれないが、「人間関係」そのものである。この依存関係は直接的であり、実に強烈である。人間への依存で、話題になっている恋愛依存・生依存等以外に、最近注目されているのが共依存である。あまり聞きなれない言葉かもしれないが、アルコール依存症などで、その依存症の夫を懸命にケアする妻が、実は依存する夫を助けることと行為自体に依存してしまっているという、皮肉で奇妙な依存関係を言う。(同書 p.102)
                     御自身、あまりに真面目、あまりにストイックであるがあまり、自死された桂氏雀師匠という落語家が居られるが、その桂氏雀師匠が、生前良く言っておられたことの中に「私が居なければ・・・ということは世の中にはほとんどないんで御座います。たいがいの場合は、私がいなくても大抵のことは何とかなるもんで御座います。どないんならんことはほとんどないので御座います」と言って居られたことを思い出すが、ひどい場合は、Münchausen syndrome と呼ばれる症状になったり、木原さんが御指摘のような依存関係になったり、ストーカー事件を起こしたりという問題行動になることがある。その意味で、境界線を引く、ということが案外大事なのである。

                    神に委ね自立を促す必要性

                     案外難しいのは、子離れ、学生離れである。というのは、ある面、手をかけて、一生懸命育てた、という意識があればある程、その成長を喜び、手放ししてやればいいものを、ついそこからのメリットの享受を求めたりして、手放せない、ということが多いとも思う。そのあたりの事に関して、次のように木原さんは書いておられる。
                      パウロも、絶妙な言葉を残している。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Iコリント3:6)。これこそ、教育、福祉の基本原理だと思う。「私が成長させてあげている」のだ、等と考えていると、学生や子供たちやクライエントは、結局いつまでたっても教師やカウンセラーに依存的になり、本当の自立ができない。(同書 p.104)
                     この辺りの手を話すのに、効果的な手法の一つに、物理的に距離をとるという方法がある。物理的な距離が直接的な関与の機械を防止するのである。個人的にも学生との関係では、学生が卒業してくれるので、目が届く範囲にいないことで、適切な距離が取れるし、日本ではあまりそういう対応がない場合もあるらしいが、成人したら、独立して家を構えるという対応がある。アメリカやイギリスあたりだと、25歳を過ぎて親と同居とかしているとそれだけで疑念の目を向けられることもかなりの確率で経験するところではある。以下の動画で示すように、現在のアメリカでも、経済的な不振の故とはいえ、「3割以上の若い世代が親と同居しているなんて…」という論調で議論がなされているほど、子供の自立というのは、聖書における「それで人はその父と母を離れて」ということは案外今だに文化的なものとして定着しているのである。この辺り、日本にはない文化的側面である。


                    ヤングアダルトな男性がニート化し親との同居者が多いことに驚く
                    FOXニュースのニュース動画

                     ところで、日本の家庭は、現在もなお基本的に母系世帯である。母系における母親の地位を父親が簒奪した疑似父性系世帯が理想化されているが、万葉集や、源氏物語などの古代の物語文学にも表れているように、基本母系家族が理想であり、それを続けてきた。父性を重視している「フリ」をし始めたのは、武家政権での儒学の影響が強くなる江戸期以降であり、一般世帯にそれが普及し始めたのは、明治期の天皇制とも相まって、その武家的な世界観が広く普及されて以降であると個人的には、思っている。産業化社会が日本の社会モデルにされる以前から、日本の家庭における父親不在は、かなり明確であるうえに、実質的には母性原理が家庭の原則的な駆動論理として君臨していると思う。その意味で実質的な母性原理の上に外形的な父性原理でコーティングされているように思うのだ。

                     つまり、本音と建前の構造があり、本音(母性原理)で行くのかと思いきや、建前(父性原理)が出、建前(父性原理)で行くのかと思いきや、今度は本音(母性原理)が出るという状況があると思う。社会制度的には父性原理とみえるものを支配論理である、このような社会構造、人間の文化的原則が2重化している点で、日本の家族は非常に複雑なひずみを抱えて居り、日本のキリスト者のうちのある部分には、その現実で観測される家族の中のひずみが聖書理解に影響を及ぼしている部分があるかもしれない。

                    現代の福祉の核にあるエンパワメント

                     エンパワメントという言葉がある。個人が主権をもって、決定できるという側面を強調した語である。この概念が主張されるようになったのは、実はかなり最近の事である。それまでは行政が丸抱えする様な福祉が言われてきたのである。
                     今日、社会福祉の援助では、このような事(引用者註 自立するための能力を付与すること)を専門用語でエンパワメントと読んでいる。それは、援助する側に頼るのではなく、仮にその支えがあっても援助される側自身が自らパワーをもらって、つまり力を付与されて(エンパワーされて)、主体的に立つことを意味する。(同書 p.104)
                     なぜ、従来、エンパワーメントではなく、丸抱え型の福祉が模索されたかというと、その背景は冷戦構造にある。冷戦期には、共産主義とのシステム間競争として宇宙開発競争から経済システム、そして福祉の分野まで様々な分野での優劣が、資本主義的システムと共産主義システムとの間で争われ、共産主義システムが政府による支援というスタイルをとったため、18世紀から19世紀の英国を中心とした西洋社会での産業革命の結果発生した社会的悲惨(孤児の増加、都市の生活環境の劣化など)を改善するために、国家の関与が求められたということに加え、システム間競争における福祉分野での競争でも優位性があることを示す為に、国家が国民に対する父親的存在として扶助するという「大きな政府」が模索されていたこと、優生保護法に見られるような社会の衛生思想に基づくサニタリゼイション(不都合なことがない振りをする、させる)が進んだ結果、国家への依存が強められた側面がある。しかし、それは、人間を無視するという対応であったのである。

                     しかし、1980年代以降の冷戦構造の終焉もあり、レーガノミクスに見られるように社会全体が小さな政府へと動いていくなか、個人と国家、福祉と国家とのかかわりも変化を遂げ、国家が何でもするのではなく、個人に主権を移し、参与を促す方向へと動いており、それが最近で言う、New Public Managementという語に代表され、「新しい公共」と称されている。ところで、個が主体的に公共にかかわっていく在り方を中心として社会を形成していく多元的な世界への移行が進められているのだが、現在の60歳以上、とりわけ70歳以上の方々のご発言(テレビの街頭インタビューで見られれる「政府は何をしているんだ」という発言)などを見る限り、社会の変化とは関係なく、未だにイデオロギー対立時代の国家、大きな国家を目指しているようなご発言に思えてかなわない。

                     これだけの財政赤字を抱える国家としては、「国民の皆さん、もう国家に頼るのはおやめくだされ、ひぇ~~~」と事務方(行政官)としてはとうの昔に悲鳴を上げているのだが、その理解は国民の皆様にはないようで、年金増やせだの、あれもしろ、これもしろ、と財源がない中で「どうしろとおっしゃるので?」と涙目で言いたくなっている、事務方の嘆き節が聞こえそうである。

                     まだまだ、続く。




                    評価:
                    木原 活信
                    いのちのことば社
                    ¥ 1,728
                    (2015-07-08)
                    コメント:お勧めしています。

                    評価:
                    ロバート・L. ショート
                    講談社
                    ---
                    (1999-11)
                    コメント:よい。入手できないのが残念

                    評価:
                    Array
                    Ave Maria Press
                    ---
                    (2006-04-01)
                    コメント:非常に良い

                    2015.08.19 Wednesday

                    工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その11

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                        本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」の後半からについてである。次回で、この連載シリーズは最終回となる。

                      遅すぎたナウエンの紹介
                       ナウエンは、カトリックの学問司祭であったが、イエール、ハーバードなどのアイビーリーグのプロテスタント派の神学校で教えていたのである。そこでの競争と偉大なものであることであることにつかれ、疑問を抱き、その後、ジャン・ヴァニエが構想して運営にあたっていたラルシュ(箱舟)と呼ばれる障碍者施設の中の一つ、デイブレイクで障碍者の人々と共に生きる生活をした人物である。

                       ナウエンの後期の本は、柔らかくて読みやすいが、ナウエンの思想の背景には、やや激しい部分のあるジャン・ヴァニエに多く依拠していると思う。ナウエンは、社会の中で評価される人々であるアイビーリーガーと共に生きる世界から、社会の中で小さくされた人々である障碍者と共に生きる生活を過ごす中で、新たな聖書理解の地平へと視線を広げている部分があると思う。

                       個人的には、勝利主義的な傾向が生まれやすいプロテスタントの聖書理解への一種のアンチテーゼとして重要であると思う。しかし、カトリックの世界の中で、まず、話題になったのではなく、ナウエンの紹介はプロテスタントから始まった紹介ことを工藤さんは次のように書いておられる。
                       実際この遅すぎた理解に関して、先ほどのドン・ボスコ社の本(引用者註 坂井陽介著 『ヘンリー・ナウエン』)の中に次のような記述がある。
                      「北アメリカで彼の著作にであった日本のプロテスタントの人々が、日本の教会に非常に有益な内容だと判断して翻訳を始めた」(p.17)
                       ナウエンと言う鉱脈を探し当てたのが、カトリックで言えばプロテスタントの教職であったと言うのは面白い事であるが、これはおそらく、北アメリカのプロテスタントの教職が自分たちのキリスト教理解に、何か著しく欠いたものがあることに気付いたためということができるであろう。
                       それではいったいそれは何であろうか。私の理解した派に出言えば、その内容は多岐にわたるがここでは、人生の傷つきに対するキリスト者の反応の違いである。
                       ナウエンは、傷つきや痛み、無力体験がキリスト者にむしろ必要なのだと主張する。(『真実の福音を求めて』 p.122)
                       ここで、なぜ、ナウエンが関心を集めたか、ということであるが、一つは共同体性と包括ないし包摂の概念が強かったからと思うのだ。プロテスタント諸派は、それぞれの派が持つその派の固有の聖書理解こそが正しいとして、包摂や包括性の概念が弱く、「神様と私」の関係だけになってしまう部分があると思う。「神様と私たちとその中の私」という概念が18世紀以降に分離したキリスト教では、かなり薄いプロテスタントの諸派が多いような気がする。すべてではないけれども。

                       この、カトリックやアングリカン・コミュニオン、東方正教会系で強調される概念が、プロテスタント派として大きく欠落するがゆえに、ナウエンの本が読まれるのではないか、と思われる。特に、「神様と私たちとその中の私」の問題は、教会論と聖餐論と深いかかわりがあり、正統性うんぬんよりも、日常的な教会でしていることは何か、あるいは教会とは何か、というあたりの事に関しては、その教派の伝統とその由来を考えることなく、そういうものだ、ということで受け入れられている側面があるのではないか、と思う。

                       その意味で、痛みや傷つき、無力体験がありえないものとして語られ、勝利のみが賞賛され、称揚されるキリスト教が、プロテスタント派の一部の中にあるが、実はナザレのイエスはそういう勝利者と共に生きるのではなく、勝利者となるために地上時来たのでもなく、何も持たず、だれからも評価されない人、だれからも避けられるようなザアカイのような人や重篤な皮膚病の人、罪あるものとされた障碍者の人々に自らよっていったのが、福音書に記されたナザレのイエスであったと思うのだ。

                      仮想現実に逃れるキリスト者

                       N.T.ライト先輩のご主張ではないが、聖俗二元論と天地二元論のような二元論的な理解はひょっとしたら本来ナザレのイエスが主張し、あるいはパウロが主張した理解ではないかもしれない。神にあるものとして、神と共に生きるものとして、この地に生きる様にキリスト者は招かれているのかもしれないと思うのである。

                       しかし、聖俗二元論あるいは天地二元論に陥ってしまったキリスト教は、将来のみに希望を置き、この地の生き方を重視しなかったりする部分につながっているようにも思うのだ。あるいは、この地での成功体験を極端に求め、成功した人々は祝福の結果であり、成功していない人は、祈りが足らないとか、敬虔でないとか、聖書の読み(回数)が足らないとか、聖書を大量に理解しているしていないにかかわらず、とにかく量をこなすように読むのが良いとか、司牧や信徒指導者に従うのが良いとか、というキリスト教を自称する集団があることは承知しているが、それもまたキリスト教の一部であることは確かであるものの、個人的には、自分の聖書理解とは少し違うところがあると思っている。
                       もしかしたら、キリスト者に妙な明るい輝きを求めたり、この世的な成功体験を求めたりする人々は、人生の真実より”仮想現実”にのがれている人々と言えるのかもしれない。そして私がこの点を強調したいと思うのは、藤木正三牧師の著作に再三見られるように、安心して悩む、安心して苦しむ、つまり苦しみや悩みを意味あるものとして完全と受け止めて生きるキリスト者の生き方に通じるように思えるからである。
                       ところが多くのキリスト者は、信仰者に悩み、苦しみがあってはならないと教えられ、ある人はそれを吹信仰と決めつけられている。そして、A・W・トウザーの”安易なキリスト教”へと跳躍することになる。こうして宗教は一つの願望充足の手段と化し、ご利益的様相を帯びることとなる。(p.124)
                       しかし、悩みや痛みを無視するキリスト教は影を持たない非常にわかりやすいかもしれないが、それはある面非常に平面的なキリスト教の姿なのかもしれない。イエスは、確かにこのような悩みの中に閉じ込められている状態からの開放を告げたが、それは、その悩みの内に孤独に閉じこもる状態からの開放であり、その悩みそのものがなくなり、その代わりに祝福が来るという単純化された神との関係を告げに来たわけではないのではないか、と思う。
                       苦難の僕と呼ばれる以下の聖書の箇所がある。

                      【口語訳】 イザヤ書

                       53:1 だれがわれわれの聞いたことを
                       信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
                       53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
                       53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
                       53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
                       53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
                       53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
                       53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
                       53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
                       53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
                       53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
                       53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
                       53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
                      物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
                       
                       まさに上の苦難の僕と呼ばれるイザヤ書で示されるように、ナザレのイエスは、現実社会の中で、苦難の中で神と共に生きることが、そして苦難の中にいる人々の中に下ってこられたイエスと共に生きる事がキリスト者ではないか、と思う。

                       ある意味、苦しみの中に降りてくる神、そして共苦する神ということは重要ではないか、と思うのである。まさに以下のスープキッチン(ホームレスの人々に食事を与える教会のキッチンでの給食)に並ぶイエスということの中にあるキリストのような姿である。

                       このような小さくされた人々と接し、視線をかわし出会うことは、社会派がすること、あるいは、リベラルのすることであると、批判し、この小さくされた人々を無視し、ある意味故意に忘れようとしてきたキリスト教が一部にあったのではないか、と思うのである。そして、説教を聞くことこそが、あるいは宣教を聞かせることのみがキリスト教の宣教である、と無批判に考えてきたキリスト教もあったかもしれない。


                      スープキッチンの列に並ぶキリスト

                      教会内暴力と無知

                       無知ゆえの暴力、ということはどの国でも起きる。日本でも、関東大震災後の東京でも無知ゆえの朝鮮半島出身者に対して起きた暴力、アフリカでは、ツチ族とフツ族の中で部族同士で起きた暴力、ドイツでは、ナチスドイツによるユダヤ人に対する暴力、英国でのアイルランド人やスコットランド人に対する暴力、キリスト教の中でも、ユグノーに対する暴力など、数えきれないほどある。
                      無知ゆえの暴力は私たちの日常にはいくらでもあることだが、同じことが信仰の世界において言えるのではないだろうか。私が”信仰による人間疎外”というテーマを考えるときヘンリ・ナウエンのキリスト教理解が甚だ重要であると考える理由の一つはそこにある。(p.125) 
                       あるいは、プロテスタント派の中でのカトリックへの無知に対する批判などが日本でも見られ、霊性の違いを認めず、その違いをことさらに強調し、カトリックを批判したり、あるいはプロテスタントを批判したりする実に無意味な論争があると思う。

                       日本の人口の中でカトリックとプレテスタント合わせても1%以下のキリスト者でありながら、お互いに関する無知から、論争し合い、罵り合い、尊敬もせず、軽蔑し合うというコップの中の嵐というより、猪口の糸底の中での嵐状態ではないか、と思うのである。それってものすごく不幸だと思うのである。


                      猪口とその茶色の糸底

                       個人的には、ナウエンとマクグラス先生がカトリックと正教会、アングリカンコミュニオンの持つ霊性への窓口を最初に開いてくれた人物であっただけに、非常に印象深い。その意味で、プロテスタントの学校で教えた経験を持つナウエンであるがゆえに、プロテスタントとカトリックの間のブリッジとなった人物であるという意味で、非常に重要だと思うのである。

                       また、教会全体として、プロテスタントとカトリックをつなぐブリッジチャーチとしての性格を持つアングリカンコミュニオン(日本では聖公会)の働きは案外重要であるが、あまり日本でその重要性が認識されているとは言えないのが残念である。ただ、マクグラス先生によれば、福音派(マクグラス先生の用法では、教義の福音派ではなくプロテスタント全体をさす模様ですが)における霊性の強調は、正教会やカトリックと霊性の点で共通理解を結べる可能性を持つことをご指摘である。

                       その意味で、東方正教会の霊性の豊かさを知らず、カトリック教会の霊性の幅広さも知らず、アングリカンコミュニオンの歴史も知らず、プロテスタントの歴史的な背景の中で生み出されてきた幅広い教義の豊かさも知らず、というのは、実に残念ではないか、と思うのである。


                       次回最終回に続く




                      評価:
                      工藤 信夫
                      いのちのことば社
                      ¥ 1,296
                      (2015-06-05)
                      コメント:お勧めしています。

                      評価:
                      ジャン・バニエ
                      あめんどう
                      ---
                      (2010-08-20)
                      コメント:ナウエンを理解するためには読んでおいた方が良い本の一つ。これを読まずにナウエンを語るのはやめた方がいいかもしれない。

                      評価:
                      ジャン・バニエ
                      一麦出版社
                      ---
                      (2003-12)
                      コメント:是非読まれることをお勧めする。

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