2015.07.01 Wednesday

2015年6月のアクセス記録とご清覧御礼

0
       今月は、NTライト祭り と Ministry祭り と 工藤さん祭りになる予定でしたのですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。22000弱。 平均で、日に700アクセス超。

     2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
     2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)

     2015年4月  18271アクセス
     2015年5月  17612アクセス
     2015年6月  21600アクセス

    今回の、アクセス数の向上は、もう、完璧にLove Wins祭り。アメリカの連邦最高裁が、同性婚の州間にわたる有効性を認めたことをTwitterでにまつわる検索結果である。それでは、先月よく見られた記事をご紹介いたしたく。

    アクセス順は以下の通り

    天国と地獄についてのユニークな本  451 アクセス

    NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その1
      390 アクセス

    NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2
      382 アクセス

    工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その3  377 アクセス

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 
    353 アクセス

     トップは、Love Wins祭りの結果、天国と地獄についてのユニークな本の記事であった。段違いである。あとは、NTライト祭りと、工藤さん祭りであった。”ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた” 祭りになるかと思いきや、相変わらず、2012年10月の記事の現代の日本の若者が教会に行きたくない理由がトップファイブ入り。実に悩ましい状況である。

     今月もご清覧感謝。戻すと言いながらもどせていない、『富士山とシナイ山』やその他の書籍の紹介にも取り組んでいきたい。



    2015.07.01 Wednesday

    工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その6

    0
       
      Pocket

       本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「日本人のメンタリティと疎外」についてである。

      自己の意見表明をしない日本人
       海外に行ってみて思ったのは、自己の意見や意思を表明しておかないと、完全に置いてきぼりされてしまうし、それで苦情を言おうものなら、「あんた、私が聞いた時に、自分の意見を言わんかったじゃないか」と言い返されてしまうのが落ちなのだ。察する、とか、惻隠の情とかいう言葉は問答無用の「主張したかしなかったか」が全ての世界である。

       「自分の感じていることや自分の考えていることを説明するのをタブー視する傾向」、またそれをよしとしない性向が、今日の日本社会のみならず、教会にも厳然とあるのではないだろうか。(p.89)
       もう、自分の思いを言わない、これは平安朝の貴族社会からの伝統ではないかと思うくらい、自分の意見を言わないなのが、日本の社会なのであり、まぁ、非常に長期間維持されているので、仕方のないことなのかもしれない。そのあたりは、以下にお示しした「なんて素敵にジャパネスクでもご覧いただければ、わかりやすいかもしれない。


      院生時代に悪友から読まされたが、読んで良かったと思っている

       アメリカの教育では、基本的に自分たちが思ったことを小学校1年生から、Show and Tellという形で教育する。国語教育としての一環として、Oral Presentationとそれを通した表現力を教育という形で、展開していくのである。


      Show and Tellの重要性に触れた動画


      実際の幼稚園児が魔法の箱のおもちゃを紹介するShow and Tell
      先生の驚きっぷりがとってもアメリカン

       この本心を言わない文化の中にある日本の教会に北アメリカ大陸で自己表現を徹底的に求められる社会の中で教育を受け、そういうものだと思っている帰国者クリスチャンが入ってくるとどうなるか。それは以下の図のようなものではないか。
      http://dg.galman.jp/img/00gr6_86304/%E3%81%A9%E3%82%88%E3%83%BC%E3%82%93.gif

       それを迎え入れた教会の方は教会で、日本社会や自分たちの文化の破壊者となりかねない存在として帰国者クリスチャンを迎え入れることになる。そして、教会内文化不適合が起きかねないようである。

       北アメリカ大陸でものすごいコストをかけ、世話をし、さぁ、これから実を結ぶ稚苗として、日本の地に根を下ろせ、そして、きっと何十倍、何百倍の信徒へと…という思いで北アメリカ大陸の教会から日本に若いキリスト者を送り返すのであるが、大抵の場合、その文化的ギャップに苦しみ、まぁ、教会に行かなくなってしまうし、行っている人はそれなりに大変な思いをされている模様である。いわゆる立ち枯れを起こしてしまっているように思う。

       この日本人の顔した外人は結構日本社会で面倒な存在なのである。実は、ミーちゃんはーちゃんは、この日本人の顔した中身外人なのではある。w敢えて、日本語通じないふりをすることもある。

      口から生まれたアメリカ人
      耳から生まれた日本人
       日本人の多くの方は、聞いて、それで満足し、わかった気になってしまう。しかし、それにはいくつかの問題があるのだ、聞いたことを受け取った側が誤解し理解して再拡大されてしまうことがあるのだ。その意味で、聞いたことについて話すというリパーカッションというか、振り返りが案外重要であるのだ。そのことについて工藤さんは以下のようにお書きである。

      自分の本心を言わない「物言わぬ文化」、これは、アメリカにわたったらすぐに直面する課題である。向こうの大学の講義は、とにかく何か言わないとだめなのである。教授が冒頭短く問題提起すると、すぐ学生はディスカッションを始める。自分の意見を言わない学生は置き去りにされる。また、人と同じようなことを言うと評価されない。斯くして昔からよく言われているように、日本人は何を考えるかわからないという事態が現実のものとなる。つまり、日本人の文化は、その多くが腹芸といわれる世界なのである。何を言うかよりも、何を考えているかの腹の探り合い、人の話は聞いても、自分の意思、感情を言わないのである。
       これは教会の講演会でもよく経験することである。私の場合、午前中に礼拝で話をした後、その内容を深めたり分かち合って広げたりした方が良いと考えて、午後に話し合い、分かち合いの会を設定するのだが、半分以上いや4分の3は帰ってしまう。つまり日本人は話を聞く方に親和性があっても、話す、分かつこと、そしてそれを人に知られることに抵抗がある。しかし自分の感じていることを話す、分かつことは自己確認のためにも大切なことである。(pp.89₋90)
      アメリカワシントン州で教えた経験でいうと、アメリカのかなりの学生は、現地の大学教員をして「奴らは口から生まれてきた」と言わしめるほど、しゃべることに熱心で、人の話を聞くことに慣れてない。大体聞いていない。そして、隙あらば、突っ込んでくる。油断も隙もありはしない。

       まぁ、口から生まれてきたアメリカ人学生の間で鍛えられたので、議論へのカットインの技術だけはついた。All right, All right, you said that, but… ってカットインすれば、議論には割り込めるのだ。ただ、後いう内容を考えてないと自爆する結果に終わるので、きちんと関連性があるように見せながら、カットインすることがコツであるが。


      13分辺りから、アメリカでのディスカッションってこんな感じになる。

       しかし、彼らの人の話を聞いてなくて、勝手に議論する時に、こういう画像を表示したくなるほどである。

      http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/stop-talking-and-let-me-speak.png
      しゃべるのをやめて、私に話させろのポスター

      http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/keep-calm-and-carry-on-8044.png
      パロディされてしまった大英帝国の第2次世界大戦中のポスター(オリジナル)

      そういう大学のシーンは、この映画の中でよく表れている。

      映画「大いなる陰謀」から学生によるクラスディベートのシーン

       日本人は聞いているふりをしているが、案外、コアの部分で聞いていないものである。いや、説教なんか、特にそうかもしれない。そして、おまけに自分の意見を言う機会とその表明方法を知らないからこそ、説教とか、授業とかはほとんど、ひまつぶしと思っているみたいである。試験とかで脅さないと、聞いていないみたいなのだ。

       最近、学部の講義では学生の近くによって、学生の意見を聞きまくりながら授業をするのが習いになっている。まぁ、このメリットは、学生の注意と関心をスマートフォンの画面から講義に向けさせるという側面はある。すると、彼らがいかに聞いてないか、他の授業で習っているはずの知識が、自分自身の中で整理されていないかがわかるので、面白いのだが。w

       日本人の「聞く」ということは、聞いて終わり、得た知識は個人の中で退蔵させて、腐らせて終わり、ってあまりに残念ではないかなぁ。それがあるから、文系学部廃止論とかわけわからんことが声高に主張される背景なんだろうけど。w

      信仰をエンジョイしないキリスト者
       しかし以下の工藤さんの記載は、実に深刻であると思う。
       私の友人がイギリス遊学で得た信仰体験である。彼女は、チェコから来たクリスチャンの友人に、「日本人はとてもpolite(ポライトー丁寧で礼儀正しく、周囲に気配りしながら、自分の行動をとり、発言するという意味)だけれども、私たちから見ると信仰をenjoy(エンジョイ―楽しむ)しているとは思われない…」(今を生きるキリスト者 p.161)といわれたという。
       この発言は、私たち日本人の信仰は同質性、均一性を重んじる文化の上にあると告げる。だから、「一人ひとりが違って当たり前、むしろ違っていることが大切」という、個性を重んじる西洋型キリスト教は、その深いところで容易に日本人には浸透しないのではないだろうか。(pp.92₋93)
       本来、NTライト先輩がお書きのように、本来、福音とは、Simply Good Newsであったはずで、Enjoyableであるはずなのに、いつの間にか、どよ〜〜〜んとした空気感が漂っていて、生き生きとしてないというのか、死体と同居したような信仰のようになっていないだろうか。まぁ、日本では、仏教もそうだが、葬送儀礼と宗教の結びつきが強すぎ、宗教が本来持っている生の側面、生き生きとした側面があまりに軽視されているような気もする。

       これまでの繰言になるのであっさりとすますが、産業革命以降、人間の同質性が洋の東西を問わず、平均値的人間をよしとする(これは、製造の側面、供給サイドからの論理であるが)ことが問われた中で形成されたキリスト教という側面も無視できない。なぜかというと、明治から昭和初年にかけて当時の最先端と思われていた、大量生産、大量消費社会実現のために構想された、社会の均質化のためのシステム(学校、軍隊、産業組織、生産システム…)という欧米文化と一緒に日本国内に流れ込んできたため、キリスト教も、この社会の同質化のシステムの一部と理解された可能性が高く、日本型のキリスト教として定着していったのだと思う。西洋型のキリスト教は、ある面、西洋という土壌に土着したキリスト教であるし、日本型キリスト教も、日本という文化土壌に土着したキリスト教であるから、どっちもどっちであるとは思っていて、真偽論争するだけ、無益であろうと思っている。ただ、日本で、本来福音が持っていたみずみずしさのようなもの、Simply Good News性とでもいうか、とらわれ人からの解放感がなく、解放されるのではなくある概念への閉じ込め感の強いのは、イエスの主張とは真逆だとは思っている。

      徳治政治が支配するキリスト教界

       基本的に中国文化圏の政治論は、政治学の教科書を見れば、徳治政治であることは描かれている。徳治政治とは、儒学に伝統に言う仁徳を有する者が全てを丸く収め、社会の論争を治めていくタイプの政治的伝統の概念である。アジア圏の中国文化圏には、この形態の政治体制が多い。
       今形を成しつつある教会も、そのルーツをさかのぼれば、信仰熱心な信徒の家庭集会からスタートしていることが多い。その場合、長老格の人物は影の実力者という形で教会の実権を握っている。そして若い牧会者もその人の意向にかなっている間は、良き牧師として受け入れられているが、それこそ長老の怒りに触れたら、たちまち左遷の憂き目を見るのである。そのうえ、そこに集う信徒も、義理、人情にまつわるような様々しがらみによって、支配者になかなか逆らえない。同調性と変化の確執である。(pp.94₋95)
       この徳治政治は、日本国内でも昔の自民党(今もだ、という説もあるが)派閥政治、領袖政治などにもみられ、さらに言えば、ご近所の国の将軍様も、基本的にこの形である。方向は違うとはいえ。


      いやぁ、将軍様は実に仁徳に満ちた方の御様子である。

       しかし、最近思うのだが、あまりに西洋型の建物付の教会のイメージがあり、それがあまりにも前提とされること、さらに公共施設がオウム真理教事件を契機に宗教系団体への貸し出しを渋るようになり、建物付でない教会運営は考えることが難しい人々が多いが、本来的にはそんなものではなかったのである。それは以下の使徒行伝の記事に見られる。
      【口語訳聖書】 使徒行伝
       16:13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
       16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
       16:15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
      そもそも、降水量が極端に少なく、気温の温暖な地中海地方では、教会とは、人けのない、町の外側のごみ溜めもどきの川のほとりで行われていたものであって、今みたいに巨大な礼拝堂を持つようになったのは、ローマ帝国の国教化前後であり、特に、北ヨーロッパの冷涼な気候地帯や、北西ヨーロッパの降水量の多い地域に進出するまでは教会堂を持つなどという概念はさらさらなく、ごみ溜めのようなところで集まっていたのである。これなら、だれも文句は言われまい。
       しかし、現在、多くの日本の教会でも、西洋の教会でも、教会員の数が少なく教会がどんどん売りに出され、転用されている。まぁ、それも仕方ないし、それに合わせた教会運営の形も模索されていいと思う。アメリカでちょっと前に話題になったHouse Church運動なんかはこの種のものだろう。

      http://static2.stuff.co.nz/1320953958/902/5948902.jpg
      売り出されたNew Zealandの教会

      http://swipe.swipelife.netdna-cdn.com/wp-content/uploads/2009/06/church-home-northumberland.jpg?aec60b
      住宅に転用された教会(内部映像)

      愛について
       「愛」というラテン語Amorを日本語に最初に訳す時に、神の御大切と16世紀に日本で伝道していたパードレたち(伴天連の皆様)が翻訳していたことはよく知られていることであるが、もともと古代仏教における愛は、愛憎という意味が含まれるため、かなり否定的にとらえられている語である。渇愛、愛は苦の原因と考えられており、美しいものとされていなかったためである。それほど”愛”という感じとそれが指し示すものは、古い日本では情念うずまく世界に関する語なのである。今では、すっかりサニタイズされてしまったが。その”愛”という言葉に関して工藤さんは以下のようにお書きである。
      ところが年齢とともに、時代に日本人には愛という言葉より「慈悲」「慈愛」の方に親和性があるのではないだろうかと思うようになってきた。「石の文化と木の文化」の譬えが適切かどうかはわからないが、日本人の使う「愛」という言葉の中身には柔らかさ温かさが含まれているような気がする。つまり、西洋人の使う「愛」といいう言葉に含まれる明確さ、強さ、激しさが内奥に感じるのである。日本人の使っている「愛」(love)は「好き」(like)というニュアンスに近いのではないだろうか。(同書 pp.95₋96)
       いつのころからか、恐らく、明治のころから、西洋文明とキリスト教の到来とともに、愛はき良いもの、柔らかいもの、温かいものとしての積極的な読み替えが我が国において行われ、そうでなければならないという形で、ギリシア哲学やギリシア思想を背景とするキリスト教というフィルターを通してヒューマニズムでサニタイズされた結果、本来、聖書の持っている愛のどろどろしたような部分が、きれいさっぱりサニタイズされてしまったのではないか、と思っている。

       そもそも、聖四文字YHWHなる方は、ご自身について次のようにイスラエル人にお語りである。
      【口語訳聖書】出エジプト記
       20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
       20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
       20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
       20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
       20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
       20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
       聖書の神は、サニタイズされた愛の神ではなく、激情の方であり、修造とは比較にならない程濃い方なのである。現代の日本人には暑苦しすぎる方であり、まぁ、古代仏教の方からすれば、「だから苦に陥るのである」といわれても仕方がないほど、激情型のご性質をお持ちなのである。まぁ、時につらいことはあるとは思うが。


      シジミをとるために冷たい水の中でちょうどいい感じの修造君

       なお、熱いといっても、個人的には、松岡修造氏的な、こういう根性論は大嫌いである。問題の根本的解決にならないことがあるし、これが特攻作戦というろくでもない計画、精神論で何とか現地でせよという大本営の無謀な作戦参謀の作戦立案につながり、多くの資源と人命を奪ったからであるが。

       また、本省の最後の工藤さんの指摘が痛い。
       私はこの山浦氏の、日本人のメンタリティに「愛という概念はなじまないのではないか」という指摘は、「信仰による人間疎外」というテーマを考えるとき、ないがしろに出来ない視点を提供してくれているように思う。というのは、キリスト教は愛の宗教であると強調されるあまり、愛の共同体と思って近づいたものの、非常な仕打ちを受けて苦々しい思いでそこを去った人々が決してすくなっくないと思うからである。換言すれば、人は愛(love)によって受け入れられると思ってキリスト者、あるいは教会に近づいたのに、そこにあったのは愛とは名ばかりの支配、干渉、さばき、争いの支配する世界であったという悲劇があまたあったのではないだろうか。
       ”愛”という言葉の吟味が必要な気がする。(同書 pp.97₋98)
       キリスト教は、愛の共同体を確かに語る。しかし、日本で一般に普及している愛は、19世紀に日本にアメリカから伝わったヒューマニズムというフィルターを通した愛として普及しているのであり、また、キリスト教はそれを語ってきた部分がある。聖書の言う根本的な愛の理解、とりわけ、ヘブライ的な愛の理解を十分に持たないまま語ってきたのではないか。まぁ、これは、キリスト教側の問題は多いにせよ、同じ語が実に多様な意味を持つ現代社会の問題であるとは思うが。

       しかし、一糸乱れぬ行進を理想とするようなことを教会が言うようになったら個人的にはお終いであると思っている。なぜならば、それは本来人間的な理想という神ならぬものを神としているに近いのではないか、と思っているからであるが。

       まだまだ続く




      評価:
      工藤 信夫
      いのちのことば社
      ¥ 1,296
      (2015-06-05)
      コメント:絶賛おすすめ中

      評価:
      N. T. Wright
      HarperOne
      ¥ 2,414
      (2015-01-06)
      コメント:良い。

      2015.07.01 Wednesday

      公開講座のご案内

      0

        兵庫県立大学公開講座のご案内



        兵庫県立大学の公開講座として、以下の要領で、公開講座が開かれる模様です。



        もし、よろしければ、ご参加されてはいかがでしょうか。
        (↑ ステマw)


        http://prezi.com/lpbvwm54no9p/?utm_campaign=share&utm_medium=copy

        こんな感じのプレゼンがどうも簡単に作れる模様ですよ。


        詳細はこちらからPDFファイルをダウンロードして、熟読していただき、ご検討されてはいかがでしょうか。こちらに細かい情報があるようですよ。

        兵庫県立大学 経営学部向け エリアマーケティング論特設資料室 内

        公開講座のご案内
         をご覧ください。


        先着10名様らしいので、お早めに



        2015.07.04 Saturday

        木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その1

        0


          Pocket

           本日から、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。



          著者らしさがよく現れた本
           基本的にこの本は、著者が弱さを抱える人々との関わりあるいは支援に実務家として、そして研究者としてもあたってきた経験から、キリスト教的な意味で、「弱さ」をどう受け止めるか、ということに関して、学術的ではなく、かなり具体的な日常の視点でまとめた本である。また、本書は、一種著者の自叙伝的な側面を持ちつつ、聖書と社会福祉とのかかわりを、ナウエンなどの所論を下敷きにしながら、弱き人々と共に生きるとはどういうことか、他者を愛するとはどういうことか、をコンパクトにまとめた書物であると言えよう。また、時々に引用されるPopsやJ-Pops(といっても、最近のものというよりは著者らしく、いまやクラッシックになりつつあるPopsであるが)が著者が無類の音楽好きであることを示している。ただ、惜しむらくは、ナウエンをかなり読んだ人をならば、あぁ、これはナウエンのこの辺の思想を受けたものだ、ということは類推がつくが、そうでない人にとっては、もう少し詳しく知りたいと思っても知ることができないという意味では、少し不親切な本ではある。まぁ、ナウエンの研究書に関しては、別の書物があるので、それを読んでくれ、ということであろうが。

           詳細はおいおい、いつものように引用しつつ、紹介していくが、強さを絶対善と暗黙に仮定する現代社会の社会通念の中で、弱さの問題、人間のはかなさの問題をどう考えるかを著者の経験などに基づき、具体的事例なども示しながら、示唆を与える本である。この本は、来年のオフィスふじかけ賞の有力候補ではないか、と思う。

          弱さの逆説
           木原さんは、弱さの問題をパウロの視点から次のように説きおこす。
           私は個人的に、使徒パウロという人物にあこがれる。あんな勇敢で大胆で聡明で、そして強い信仰の人になってみたいと本気で思ってきた。しかしパウロの人生のカギになっているのは、この勇敢さや強さではなく、むしろ「弱さ」そのものであったと気づく様になったのは、実は最近の事である。推測するに、パウロという人が人生をかけて格闘したのが、この「弱さ」であったようである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.15)
           確かに、パウロには、障害ある種の弱さの問題に付きまとわれたといえよう。これは木原さんがご指摘のように、肉体のとげ(それがなんであるかはわからないし、それを詮索することは知的スポーツとしては面白いが、結論が出ない問題の一つである)がその一つであると同時に、パウロ自身が認めるように、イエスと同時代・同一空間を共有しながら、しかし、使徒的役割を果たしながらも、直接的には弟子であることはなかった、あるいは、なれなかったという弱さを抱えつつ生きた人物である。その意味で、パウロは、非常に大きな働きをしつつも、その心のうちにイエスの直接の弟子であった12弟子たちには、常にどこかで引け目を感じ続けて生きていた人物でもある。

          弱さにおいて働く神
           繁栄の神学とか、反知性主義的な社会が生み出した強さの神学はある面で、自己中心的な聖書理解(ミーちゃんはーちゃんの用語で言う「オレ様神学」)になりかねないものがある。その自己中心的な聖書理解は、神の前に自分自身を明け渡していることになっているかどうか問うたほうがよいのではないか、ということに関して、次のように木原さんは書いておられる。
           神の恵みが完全に表れる姿、それはむしろ「弱さ」の中にこそあるという、このパウロのメッセージは、そう簡単に実感できないばかりか、理解すらできないかもしれない。物理的には、人間が無力であると、つまり無力の状態の器であると、それだけ神の力が増しやすい。つまりからの器であればあるほど、神の力が宿りやすいということで、ある面理に適っているともいえる。
          (中略)
           「○○力」の形成・獲得というのは、メディアを通じて我々の中に飛び込んでくる。現代の力や強さへのあこがれは相当のもので、その前提にあるのは、強くなければならないという「まなざし」である。(中略)しかし、強くありたいというのと、強くならねばならないというのは、別問題である。(同書 pp.18-19)
           この部分を読み「○○力」の表現を見ながら、今の大学の置かれた即戦力型の能力開発を重視しようという類の話しを思い出してしまった。結局、パスカルが言うように、人間本来が「考える弱き葦」であることを忘れ、問題に対して、当座5年とか10年位のクイックフィックス(短期的な解決策、安易な解決策)を当てはめる力を持ついわゆる社会にすぐ役に立つ「強い人間」を促成栽培で育てる事ばかりに目が言っているような教育が求められている気がしてならない。「弱き葦でありつつも、柔軟性を持つ人間」を育てることではなく、「堅くて強さをもつ一種融通のきかないコインの様な人間」を育てることが今は大学にすら求められているのかもしれない。まぁ、コインは通貨以外にも使い道がないわけではないが。


          近代の教育システム批判の漫画


          勝ち続ける人生、
          陽のあたるところだけを歩もうとする人生
           個人的には、繁栄の神学、強さの神学が好きではない。正しい間違っているかどうかは知らないが、このブログの中で何度も好きでないことをふれてきた。なぜ、個人的に好きではないかはあまり真面目に考えたことがなかったのだが、その理由が木原さんのお書きになられたもので少し感じるところがあった気がした。
           亡くなられたミュージシャンの尾崎豊さんは、当時の若者にカリスマ的な影響を与えた歌手であるが、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」といった。それは、ある面で、現代社会の風潮や世相を彼なりのことばで反映したものだと思う。自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない。(中略)そういう人にとって弱さを認めることは、自己否定以外の何物でもない。(同書 p.19)
           繁栄の神学、強さの神学は、下手をすると、「自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない」強さこそ正義であり、正義であるが故に、自分の本来の主人であるべき神を忘れ、一人の弱き葦であるべき人間という自分自身が神として正当化されうることにつながりかねない危うさを持っているからである。つまり、自己反省というもののない、反知性主義とつながっているからである。

           そのため、藤掛さんがオフィスブログで触れられた「背伸びした生き方」「強行突破型の生き方」「神が祝福してくださるから何も心配はいらない」という、「塔を建てる前にその費用を考えないような生き方」に突き進んで行きかねないものを持っているからではないか、と思っている。そのことを本書を読みながら感じた。

           個人的には、尾崎豊よりも息子が幼稚園の頃好きだった下側の動画、ジャム・ザ・ハウスネイルの挿入歌「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身、全霊(神が造りたもうた)ボクでありたい」(3分10秒あたりから)と思っている。


          勝続けなければならないと主張した尾崎豊


          ジャム・ザ・ハウスネイル
          猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊ボクでありたい という歌詞が印象的だった

          人間存在の意味
           人間の存在をどう考えるか、というと、近代の社会が産業社会であることを要請されたこともあり、産業社会にどう貢献できるか、ということだけが課題になってきた。その面で、人間の評価は、生産性とそれにどう貢献できるかということで評価されることが大きかった。

           最近はあまりこの分野をしていないのであるが、世俗の仕事で過去教えたこともある、Operations Research(作戦計画に由来する語)や経営科学などは、この生産性をどう企業や組織内であげていくかということに血眼になる学問体系であったし、これらの学問体系は社会から需要されていることもあり、無批判にこの生産における価値を人間の価値のかなり大きな部分であるとして、Presumption(暗黙の前提)やAxiom(公理)としてきた側面があると思う。まぁ、そこに焦点を絞ってのみ、研究をしていた、という位の側面はあると思う。そのあたりの事に関して、木原さんは、次のように書く。
           そもそも生産性のみが役に立つということが、すべてを図るモノサシかというと、これには疑問がある。いや、もしそれしかないというのなら、そこには問題が生じるように思う。役に立つということを考えるには、多様な基準があってしかるべきではないかと思う。
           我々の現代社会は、ただ行動や能力(doingやhaving)で評価してしまう。しかし果たしてそれが絶対の基準なのか。いやむしろ、ただ存在すること(being)を見つめると視点とまなざしを持たなければならないのではないか。これこそ現代社会が最も忘れてしまっている視点ではないだろうか。(同書 p.26)
           経営科学やOperations Researchが日本に初めて入った1960年代は、計数可能な生産性の側面にばかり目が行っていたが、現代では若干、この辺の暗黙の前提に関してかなり緩和されてはいるような気がするが、しかし、これらの学問分野の多くの前提自体は、計量化、定量評価可能なものにかなりウェイトを置いて着目し、その最大化を図るという側面がある。

          計量志向を揶揄するマンガ

           実際には、企業の役割や意味は、こういう社会に対する生産によるアウトプットのみで評価できるわけではない。それは、公害という不幸な経験を通して、企業活動や生産の社会への負の外部性、あるいは、フィランソロピーのような活動による社会への正の外部性なども評価されねばならないと考えられるようになってきたからではあるが。

          多様な価値観・創造の多様性

           ミクロ経済学の生産理論や生産関数論で取り扱われるように、近代は均質性、同質性という大きな前提を置き、人々に関しても、財やサービスという市場で取引されるものも、同質性を前提とした大量生産、大量消費による規模の経済(たくさん作れば、平均生産費用と限界生産費用が減るというメリット)が享受されることにより社会はより豊かなものになってきたし、それが、近代社会発展のからくりでもあった。大雑把に言えば、であるが。

           しかし、それは、リスクの拡大という負の外部経済を社会に残したことは、企業コンプレックスの撤退に伴い財政的にも経済的にも疲弊している地方の企業城下町を見れば明らかである。典型的には、あてにしていた工場が企業の生産物市場の国際化に伴い海外移転した町では、シャッター通りが広がる。あるいは、トヨタの経営状況が悪くなると、税収が一気に激減し、年度途中で予算が回らなくなった事案に直面した、愛知県内の公立教育機関の先生の話をお聞きすると、実にこのようなどこか一つに地域経済が大きく依存しているということの危うさはわかる。もっとわかりやすい例でいえば、何らかの理由で、東海道新幹線が止まると、東京駅がマヒするという日本社会の危うさは、近時もリアルで経験された方もあろう。
           単一な価値観ではなく、多様な価値観が認められる世界、このことは役に立つということ、弱さを考える上でもキーになるように思う。冷静に考えてみると、案外、役に立つと思っていたことは大したことではなく、むしろ役に立たないと考えがちなことが役に立つことは大いにあるのではないだろうか。(同書 p.27)
           その意味で、複線的な社会であることが望ましいにもかかわらず、真理は一つ、解は一つしかなく、自分の持つ理解以外は不正解とする視野狭窄を生み出しかねない近代の概念に我々は毒されているのかもしれない。




          神に出会う場所
           自分自身に自信がある人は、神そのものを必要としないのではないかと思う。そもそも、自分自身では何とかならないことがある、というある種の弱さが認められなければ、神は本来的には必要なくなる。神に出会うためには、この弱さが必要なのかもしれない。

           農業社会から工業社会に変容し、サービス化社会に変容する中で、社会生活がある程度予測可能、制御可能になってきたのであるし、社会に潜むリスクを回避する仕組み(FX市場などや証券および商品先物市場など)や、社会的弱者の救済方策も不十分ながらも、一定程度整備がされてきた結果、昔の人なら、その声を聴きたいと願ったか細い声である神の声の必要がなくなるということである。人間の力ではどうしようもない大きな変動(メタ概念が支配する変動)に対し、「神よ、なぜこのようなことが起きるのですか」と問うのは、ごく自然かつ日常的なことであったであろう。それが、大概のことが予測可能になった、制御可能になったと思い込んでいる社会(本当はそうであると強弁できないことは、技術者としては良く思う)においては、このように自分の弱さを思い至るのは、地震や火山噴火、災害などが発生した時だけ、となりかねない。この結果、この災害や、人間の力を超えた現象に直面し、どうしようもない時にのみ人間にとってもメタ存在である神の名が持ち出される(日常的に人間にとってのメタ存在である神のことを普段考えていないわけだから、持ち出されるという表現がふさわしい)ことになる。

           現在の世俗の仕事では、農業者の方とのおつながりもあるので、農業者の方とお話ししていることも多い。農業者の方は、日常的に、気象など、この自分ではどうにもならない環境に直面しているが故に自分自身の弱さを感じておられるのだなぁ、と思うことが多い。なに、農業者を理想化しているわけではないが、自分を超えたものの存在はより身近に感じる機会は多い、というだけのことではある。

           ナウエンは、With Open Hands(日本語訳では、『両手を開いて』 女子パウロ会)で、人間は、コイン(自分の努力や成果)をしっかり握りしめた状態で、そして神に向かっているという表現がある。如何にそのコインが神の目から見たときに、無きに等しくても、それを手放すことが難しいことを指摘し、本来、神が差しのべた手を受け止めるためには、その握りしめたコインを手放す必要があるにもかかわらず、それを離せないことを指摘した文章がある。それと同じことを、木原さんは、弱くもろい器であることを自ら認める、という表現でご指摘になっているような気がする。
           弱さを通して私たちが学ぶことは、結局は、誰かが弱いというのでなく、私たち人間は、共通に弱くもろい器だということではないかと思う。そして、それは決してマイナスではない。むしろ逆説的ではあるが、「役に立つ」とは何なのか、それ自体にも改めて疑問を持つことで、生命や生きることの神秘を教えられる気がする。弱さに目を向け、ケアし、ケアされ時に、役に立つ、役に立たないということを超越させる存在そのものに目を向ける何かがある。
           そして弱さとは、人間の深さと同様に奥深い。そして、その深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある。私の場合、それは弱さを受け止め担うイエスそのものである。「弱さ」こそ究極の神に出会う深遠な場所、そう思えてならない。(p.29)
           しかし、「深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある」という表現は、最近刊行されたN.T.ライト著「クリスチャンであるとは」(あめんどう刊)の冒頭最初にあるか細い声、声にならない超え、残響としての声を思い出させる。

           人間が様々な方策を弄し、これぞ完璧な社会、問題がない社会を造ろうが造るまいが(個人的には、それは神がなければ、結果的にはバベルの塔と同じことであると思うが)、我々にその残響のような声として、私はここにいる、ということを神は我らに語りかけておられるし、それが十字架の上で見る影も無くなった姿をさらしたナザレのイエスがその弱弱しい姿、そして、裂かれた姿をさらすことで、私はここにいるということをナザレのイエスは神の人間に対して開かれた姿を示しておられるのだと思う。ナウエンと読む福音書のイエスの死と十字架に関する部分は、これらのことを如実に示していると思う。下記リンクで示す、『ナウエンと読む福音書』、『クリスチャンであるとは』も、是非お勧め致します。

           ところで、ここで、木原さんは「井戸」という概念を取り上げておられるが、これは上沼昌雄さんの著書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』で取り上げられているメタファーと通じるものがある。

           続きは来週土曜日公開予定。これまた、長期連載覚悟である。お付き合いいただけたら、これ実に幸甚。



          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ---
          (2008-04-30)
          コメント:絶賛致して居る。

          評価:
          上沼昌雄
          いのちのことば社
          ¥ 1,944
          (2008-09-24)
          コメント:村上春樹の小説などを引用しながら、闇の中にいる我等、そこに訪う神のみ姿で示されている。非常に印象深い。

          評価:
          木原 活信
          いのちのことば社
          ¥ 1,728
          (2015-07-08)
          コメント:お勧めしてます。

          2015.07.04 Saturday

          ある方のコメントへのご回答

          0

             工藤信夫著 真実の福音を求めて その6

            を先日、本ブログで公開いたしましたところ、ツィッターで、ある方から、コメントを頂きました。ツィッターで返すのは、少しどうかと思いましたし、大事な内容が含まれていると思いましたので、記事にしてお返しすることにいたしました。
            とても深く、頷く事ばかりです。はっきり言うと私は孤立心が強く日本には住めない日本人だと理解して日本を出た変な者です。アメリカの教会で救われ、うん十年もメガチャーチでクリスチャンという席に座ってました。
            こういうご指摘をいただいた一番の理由は、工藤さんの視点が深いのだと思います。実務家(精神科医師)ならではの分析力と言葉の選択が適切だと思います。
            8年前かそこを去り、家族で聖書を1行1行読み始めた事からそれまで重荷となっていた偽の宗教から解放されたのです。
            これは大事ですね。基本、私たちにまず直接神ご自身が語りかけられるのは聖書ですから。それを読みやすい得意な言語で、じっくり味わうように、周辺を含めて読む、味読する、あるいは思いをめぐらす、ということはとても大事だと思うのです。
            だからと言ってホームチャーチクルセーダーでもありませんので誤解しないでください。と同時に、この度の最高裁判所の決断により、今後はアンダーグラウンド集会が増える時代は近づいているとも思っています。
            はい。誤解はしていません。まぁ、もともと、パウロは町はずれの川のほとりで祈ってたところから始まっているんですから。それでもいい、と思っています。
            私も外見はすっかり日本人ですが中身はかなりアメリカナイズされてます。元からの変わりモン性質+アメリカ生活25年となるとすっかりアメリカン並に大きく口を開き、こちらに住む日本人からも一歩置かれるんです。
            私は日本に住む日本人ですが、基本頭の中は、すぐWhy Not?って言いたくなるアメリカ人型性格なので、在日日本人にも時にドン引きされますし、海外にいたときも、在留邦人の皆様方とは距離を置きLoneliest Lone Rangerみたいな生活してました。だって、1年しかいる機会ないからこそ、現地情報知りたい訳ですから。
            はっきりと物事を言わない日本人にはイラつきます。 自分の意見を言う事で反対意見を持つ方に失礼だという姿勢をとって黙るのが日本人ですね。だから聞かれるならしっかりと自分の意見を放つ私みたいな人間は、アメリカに住みながらも失礼な人、キリスト用語では愛がない人まで思われてたり。だからと言って日本人の神経質っぽい部分が全て嫌だとは思いません。
            確かに、発言求められても、一言も言わない方には困りますね。学生と対話型で現在講義を行っているのですが、反応がないのが一番困ります。アメリカ人の学生には口から生まれてきたような人(中にはそうでない方もおられますが)が多いのですが、それがないとさびしくって。w

             結局愛がないとか、失礼だ、という方々が、どの程度自分の持つ文化に批判的であるかあるいは他の文化にオープンマインドであるか、ということにかかっているかと思います。あと、どういう社会的状態(短期現地駐在員、短期留学者、長期駐在員、一生そこで住む人・・・)で滞在されているか、によっても態度は少し違う感じがしますが・・・。
            When In Rome…という諺がありますよね。アメリカで日本カルチャーを押し付けようとするのは間違いで、日本でアメリカカルチャーを押し付けようとするのは無理だからアメリカで通用する教会作戦は日本では通用しないで当然かもですね。
             まぁ、基本文化が違うわけですから、それは仕方がないか、と。戦後アメリカの影響は受けましたが、それは割と日本の現代文化の上に載っているだけ、と思うのです。基層文化は、歴然として、以前のまま、変わっていない。そんな感じかと思います。

             しかし、戦勝国で、占領国であったアメリカは、自分たちの論理と手法がユニヴァ―アルに受け入れられるものだと思い込み、日本人は西洋というものをあまり深くとらえた経験がありませんでしたから、アメリカは西洋の代表だと誤解し、それに追随した部分もあろうかと思います。とりわけ、産業界は、アメリカ型生産制度に追随しました。それが、効率的であり、アメリカ軍の物資提供要請と合致しており、朝鮮半島、インドシナ半島での戦役での物資供給にも有効であったからです。

             また、キリスト教会は占領軍の支援もあって、広がった部分もありましたから、基本的にアメリカ型のメソッド(このことばを聞くと、Method Actingを思いますが)を導入することになったわけですが、ほとんどあまりうまくいかなかったかなぁ、と思います。

             コメント、ありがとうございました。長くなりそうなので、記事にしてしまいました。



            2015.07.04 Saturday

            日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

            0


              Pocket

               すみません。この記事は異様に長いです。中身がいいので、切るに忍びないので、今回は一気にご紹介。

              日本宣教学会第10回全国研究会で、本田哲郎さんのお話を聞いてきた。本田哲郎さんは、聖書学者でありながら、釜ヶ崎でホームレスのための奉仕をされた知る人ぞ知る方である。

               では、そのお話をご紹介したい。見出しは、読みやすさのためにミーちゃんはーちゃんが適当にいれたものである。

              -----------

               宣教の途中で、いろいろ野次が飛んでくることは多い。しかし宣教にあたって、皆さん方は、飛んで来る野次に負けないでほしい。本日のお話は、物議をかもすかもしれないけど、一度受け止めてほしい。


              物議をかもす発言連発の本田司祭


              宣教といいつつキリスト教を伝えてませんか?
              本来伝えるべき福音ではなく?

               ところで、宣教というとき、我々は、福音をつたえようとしているのか、キリスト教を伝えようとしているのかを考えるべきではないだろうか。現代において、宗教としてのキリスト教を述べる意味があるのだろうか。イエスが言われたのは、「行って、福音を告げよ」ということである。しかし、キリスト教では、それがいつの間にか、「行って、宗教としてのキリスト教を述べ伝えよ」という具合に転換しているのではないか。

               宣教は種まきだろうか、刈り入れだろうか、を考えると、小さくされている人たちとの連帯し、刈り入れをすることが本来の宣教ではないだろうか。そして、信者にすることだけが宣教なのだろうか?これを考えてみたい。

               現在、聖職から、信徒にゆだねられていく傾向は、広く一般にみられる傾向である。牧師、司祭、宣教師だけが伝道・宣教する人だったものが、現在はそれに信者も関与していくことになっているのではないだろうか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               確かに、Missionalという概念はこれに属するだろう、とおもう)

               しかし、信徒の側にしてみれば、どこからするのか戸惑うばかりであり、いろんなことで心配している。例えば、質問に答えられるだろうか。宣教のために、神学講座を受けるとか、聖書注解を読んだ方がいいのか、どのような聖書注解を読むのか。では、信徒が今から勉強して間に合うか、と聞かれると、それは無理であろう。特に、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語など、基本的には、間に合わないだろう。3年やって、漸く辞書を引きひ聖書が読める程度にしかならない。専門家が行き詰って、どうしようもなくて、アマチュアに渡している感じがある。しかし、専門家が行き詰っているのに、その専門家がやった方法を模倣しようとする信徒たちが多い。これでは息づまるに決まっているのではないか。専門家がやってダメなことをアマチュアがやってもうまくいかないのではないか。

               ところで、イエスが望んだ神の国の実現とはなんだろうか。ローマ書によれば、正義(義)であり、よろこびであり、平和であるはずなのだが、教会内でどこまで浸透しているだろうたか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、NTライト「クリスチャンであるとは」の前半と深いかかわりがありそうである)

               これまでの宣教というのは、一種の教会と他宗教、教会間の一種の陣取り合戦のようなものでしかなく、その結果を自慢げに言うようなものではなかったか。 

               伝道、宣教とは何か。本講演では、それを問いたい。キリスト教を広めること、受洗者を作ることだろうか。そうであるとすると、これまで専門家がやった方法で、失敗した方法論をやればいい。行き詰まりは解決しないし、状況はよりひどくなる。

              搾取する側にいたキリスト教

               ところで、キリスト教が幅を利かせてきた西側の先進諸国は発展途上国を搾取し、現地の文化と社会を破壊しなかっただろうか。銃器を売り渡し、死の商人をし、途上国の民の労働のみを奪ったたのがキリスト者でなかったか。これらのことをやった所謂先進国の指導者はその大半が幼児洗礼受洗者であるキリスト者の一部ではないか。

               先進国は、経済発展と称し、抑圧の経済を教えているが、それでいいのだろうか。

               宣教、伝道とは本来福音を知らせることだろう。では、福音、聖書とは何かを考えてほしい。宗教枠を超えた会衆の救済のことを伝えるものではないか。キリスト教の枠なしでも、人々はわかるのではないか。マルコ福音書15章において、マルコはイエスの肉声とそれを記録しようとしたのではないか。

              【口語訳聖書】
              マルコ
               15:2 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。
               15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
              悔い改めとメタノイア
               ところで、神の国は近づいた、は完了形である。ちょっと手を伸ばしたら、そこにあるのが神の国という理解である。イエスは、神の国はあなた方の間にある、とはいわなかったろうか。福音を受ける唯一の条件はメタノイアである。このメタノイアという語は従来、悔い改めと訳されてきたが、この言葉の語源から考えると、メタは、「こえる」、「かえる」、「うつす」を示す言葉メタに由来しており、ノイアの原型ヌースは、筋道を立てて行動しはじめる始点のとこである。私は、ぬーすを視座と主張したい。これらの語から考えるに、メタノイアとは、低みに身を置き、そこから見つめ直すことではないか。

               つまりメタノイアは、低みに自分自身をおき、その低みからの視座に移ることであり、「悔い改め」としたのはまずかったかもしれない。福音を受けるためには、メタノイアすることが重要である。メタノイアとは、「低みに身を置くこと」であって、悔い改めとして、それまでの信仰を棄てたり、強制的に捨てさせることをするのはまずいのではないか。例えば仏教徒に関しては、仏教の所属教派から他の宗教であるキリスト教に移させるのは、まずいのでないか。本来、その人の過去の履歴は、問わないものが福音というものだろう。

              本当に現在のキリスト教は普遍的か?
               キリスト教が普遍だという説があるが、そんなウソを言うってはならないのではないか。普遍ならば、他の宗教とケンカは起きないはずである。しかし、現実には、これまで喧嘩し続けているではないか。他の宗教と争ってばかりいる。その意味で、キリスト教に普遍性があるわけではない。我々は、キリスト教こそ全世界に広がるという希望を持っているが、イエス自身はそのようなことは求めてない。福音の普遍性を求めているはずなのに。もう一度虚心坦懐に聖書を見直すなら、福音がわかり、それに従って、わかるようになるのではないか。メタノイアを「悔い改めよ」という訳にしてしまったために失ったものがある。実際には、メタノイアが実践されてみて初めて、あることの重要性が見えてくる場合がある。その意味でメタノイアは、物理的な視座の移動を伴っていると言えるだろう。

               洗礼も受けてない民衆を山上の説教で、天国はその人たちのものであるとイエスは言っているものではないか。天国は教会の信徒のものではないだろう。イエスは新しい宗教を起こしたわけではない。あくまで、ユダヤ教徒の自覚のうちで、イエスは神の国を述べたのではなかったであろうか。

              ユダヤ教徒と思っていた初期キリスト者

               クリスチャンの語源のクリスティアノイは、もともとラテン語のギリシア語変換で、そもそも教会外の人が言い出した言葉である。聖霊降臨があっても弟子たちは、ユダヤ教の自覚のままであったであろう。今思っているキリスト教は、コンスタンティヌス期以降のコンスタンティヌス型のキリスト教であり、ローマの国教化以降の話であり、その意味で初代教父もイエスの視線とずいぶんずれた上から目線の話であったのではないだろうか。

               イエスが、ユダヤ教のアブラハムの神、イサク、ヤコブの神の枠組みで律法を守れと言ったイエスがいるのではないか。その意味で、イエスは、ユダヤ人として、ユダヤ教徒としての祈りをしていた。特に、エロイ・エロイ・レマ、サバクタニ、という語は明らかにユダヤ教の線に乗っている。

               使徒たちにしても、使徒言行録をみると、彼らはそのままユダヤ会堂におり、ユダヤ教徒として伝道している。しかし、紹介したのは、従来のユダヤ教を超えた立場であるイエスキリストである。その意味で、明らかにユダヤ教徒のユダヤ教からの改宗をもくろんだわけではなく、宣教したのではないか。つまり、新しい神でも新しい宗教でもなく、彼らが信じている神を説いた。三位一体の説明は、イエスのヨハネ福音書に記載されている、で十分ではないか。

              【口語訳】ヨハネ
               14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
               14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
               14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
               14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
               14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

               イエスご自身は、このようにも言っておられる。
              【口語訳】
              ヨハネ福音書
               10:37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
               10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」
              信仰のみって・・・
               ヤコブを藁の書だとかいう人々もいるが、パウロとヤコブは同じことを言っている。信頼して歩みを起こすことがピスティスである。信仰があると言いながら、困った人々に何も手だてをしないのは本当に信仰といえるのだろうか。パウロは信じるだけで救われるとは言っていない。イエスが歩んだように自分もやってみることを進めているのではないか。歩み始めてみて始めて、そこで、気が付くことがあるのではないか。

               実践してみるとき、その時信仰が分かるのではないか。いうだけ言って、あとはよろしくではわからないものがあるだろう。しかし、この行いも、人間の知恵から出たものではない。神を信頼して歩みを起こすことが大事だろう。ピスティス・ピスティオーとは、体をゆだねるように信頼すると言えるのではないだろうか。

              福音と現代のキリスト教の分離

               福音を今のキリスト教と切り離して考える必要があるのではないか。キリスト教と福音は別物ではないか。今ここでは、少し切り離して考えてほしい。福音そのものとは、世界各地の土着の信仰を切り捨てて、イエス・キリストを出発点とする信仰に切り替えるものとは思えない。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、スコット・マクナイト「福音の再発見」の前半と深いかかわりがありそうである)

               民族の宗教を奪い、そもそもの信仰を切り離し、隠してしまうと、自分のアイデンティティを失うことにもつながる。それぞれの民族宗教を否定することは文化破壊、アイデンティティを失わせることになっているだろう。それはイエスが主張したこととは違うものではないか。ヨーロッパ型キリスト教がアメリカで変容する中で、もともとその地方で信じられていた、地元の宗教からキリスト教へ改宗を求めるようになった、そして、それが宣教と思われるようになったのではないだろうか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと、後に出てくるが、神の種がまかれるということ、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第2章隠された泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

               先進国は、発展途上国を先進国の奴隷状態に陥れただけではないか。主の祈りでは、「私たちが天国に行けますようにと祈れ」と主張していないのではないか。主の祈りのイメージから言えば、御国が地上に来るはずなのに、我々は、天国に行けるようにと、勝手に読み替えている、あるいは、切り替えているのではないか。

              天国理解について

               十字架にかかっているときに、強盗に「今日お前は楽園(パラダイス)にいる」としか言ってない。天国理解にかかわる記述は、それだけではないか。死んでからの事は、よくわかっていないわけであるから、それは、主の御手に任せたらいい。死んだら天国に行く、ということには子どものうちは騙されるが、理性が発達した大人はそうはいかない。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、N.T.ライトのSurprised by Hope(現在翻訳作業中らしい)で触れられた死後理解の話と、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、それが西洋社会でずれているというライトの指摘と重なるものを感じた。)

              臨死体験と死後の世界とは別物じゃね?

               死んでからその世界を見てきた人がいるのか?確かに、臨死体験はあるが、それは臨死であって、死んでない体験である。死ぬ前の話でしかない。コロサイの手紙のキリストにあって( エン クリストゥー)で、天にあるものも、地にあるものも、見えないものも見えるものも、キリストと一体だ、といっているのではないか。
              【口語訳】コロサイ
              1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
               1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
               この御子にあってつくられた、ということが復活ではないか。まさに、この世のいのちで終わりでない。見えない神のかたち(エイコーン)、それがキリストではないだろうか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、スコット・マクナイトの福音の再発見でも出てくる。そして、神のかたちという理解と創世記理解との重なりを考えていくと、終末論は従来のものと違うのかもしれない。)

              異教の民の宗教と信仰とイエス

               イエスは、わざわざ、フェニキア生まれの異教のカナンの女性の中に彼女の信仰を認められたのではないだろうか。彼女はユダヤ教徒ではない。彼女の踏み込んだ行いがあなたを開放した、ということではないだろうか。

               狂気につながられたゲラサ人を開放したのち、ゲラサ人がイエスについていきますと言ったのに、彼に「家に帰れ、そして、異邦人であり、別の信仰を持つ家族のもとに帰れ、そして自分の身に起きたことを話せ」といっている。イエスは自分のところに残り、イエスと一緒にいなくてもいい、とまでおっしゃっておられることの意味は何かあるのではないだろうか。

               ゲラサ人は豚を飼う人々である。つまり、ユダヤとは宗教も異なる人々であり、癒された人をその人が持っていた宗教に返したことは着目すべきであろう。

               家人が病気であった百人隊長に対しては、イエスは言って直してやろうと言ったのに、「お言葉だけで十分ですと」という百人隊長に、これほどの信仰を見たことがない、とイエスは異教徒の信仰を認めている。我々は、キリスト教徒だけが本当の信仰がある、と勘違いしていないか。本来、その人が抱えている問題からの開放、即ち福音を告げ知らせるのが、伝道なのではないか。

              宣教とは小さくされたものへの呼びかけと関与

               宣教とは、宗教としてのキリスト教の伝達ではなく、貧しく、小さくされたものへの呼びかけとそれらの関与と参入が福音であろう。

               皆さんには、虚心坦懐に福音書を読み直してほしい。イエスは、特定の宗教に属する人に呼び掛けているではなく、すべての人に呼び掛けてはいないだろうか。キリスト教は普遍的な真理を語る宗教であるということは、一種のウソといっていいだろう。普遍という言葉の通りやってない。なぜなら、自分と違う考えの人を認めないことをしている以上、普遍ではありえない。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、定義の問題からして、普遍は一部の中の普遍は、特殊でしかなく本来の普遍ではないよなぁ、言葉の定義から行ってそうだよなぁ、と本田司祭のことばの鋭さに、驚いてしまった。それだけ、ミーちゃんはーちゃんは、思い込みで、混乱してしまっているのであろう。)

               福音宣教とか、宣教とかいう、その中身は何か。 福音を知らせることなのか、キリスト教を伝える伝道なのか、ということは考えた方がいい。もう少しいうと、種まきの発想であるのか、収穫の発想であるのかを考えた方がよい。

              種まきの譬えをどう理解するか?

               よく伝道は種まき型の発想をする人がいる。この形の伝道を考えると、芽生えるための種を入れることから始まる。つまり、持っているもが持たないものへという上から目線の構造を持っている。

               この種まき型で、自分が種まく人になっちゃう上から目線の考え方は、キリストの価値観とは大きく違う。福音宣教は種まきです、と我々は聞かされてきた。この考え方では、持っている人は持たない人に憐れみと、御言葉を分け与えることが務めだ、とこれまで理解してきた部分があったし、自分自身そうであった。


              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               この辺、バーバラ・ブラウン・テイラーの「天の国の種」の話を思い起こしてしまった。丁度、このあたりの事に関して、非常に興味深い、また印象深い解釈をバーバーラ・ブラウン・テイラーは述べている。お勧めする。)


               つまり、教える(種をまき)、育てる、守るが教会のしてきたことである。あるいは、学校、幼稚園、福祉施設を作り、囲い込んどいて、しっかり種をぶち込む形が宣教だったのではないか。この囲い込みの枠から出るな、というやり方で宣教をしてきたと言えるのではないか。これで福音が本当に伝わるのだろうか。

               ところが、神の国、神の正義=抑圧からの開放であるはずではないか。ほっと一息、ため息が付ける、ほっとするのが、福音だろう。ローマ書の中現われた福音とは、正義、よろこび、平和として示されているのではないか。

              【口語訳聖書】ローマ書
              14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
              14:18 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。
              14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
               キリストの宣教は種まく人のイメージで語られてきた。ソウワーという聖書協会の雑誌があるが、それが示すように、宣教とは、これまで、種まきすることだ、というがいねんが植えつけられてしまったのではないだろうか。そもそも、この場所のギリシア語では、種に区別がなされていないのである。落ちた場所が違うにも関わらず、原文をきちんと見ると、全く同じになってなっている。

               しかし、このたとえ話では、道とか荒地とか、いばらの中とか、まさかこんなところに、撒くはずがないところに、この種まく人はまいているのである。その意味で、そんなあほなことをする人はいないだろう。そう考えると、この譬えは、農作業の譬えではない。御言葉、神の受肉は、これっぽっちしかないようなところにも、御言葉の種はまかれたことを示しているのではないか。

               イエス、父である神、聖霊なる神が、すでにすべての人に種を撒かれているのではないか。どこにでも撒いておられるのだ。すべての人のところにまかれているのではないだろうか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
                先にも述べたが、この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと深い関係性があり、さらに、NTライトが「クリスチャンであるとは」で主張している、第2章 隠れた泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

               種まきのためにキリスト者は派遣されているのだろうか。正義と平和と喜びということは、普遍的に存在するのではないだろうか。キリスト者がしないと絶対にできないことではないのではないか。釜ヶ崎の新左翼がしていることがすごく、他の労働運動関係団体が来てもらって困るというような新左翼集団が義を実現しようとし、人をものすごく大切にしている。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
                先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1章 この世界を正しいものに Putting the world to rights で主張しているあたりと関係しそうである。)

              愛するとは何か?

               われわれは、愛すると言葉に騙されてきたのではないだろうか。確かに、敵を愛せとイエスは言った。しかし、キリスト者として、それを本当にしてきたことがあるか。自分を愛するという感覚を持っているだろうか。私たちがしているのは、自分を大切にしたい、大切にされたいということではないだろうか。愛すると訳されている語は、大切にされることであり、それが、アガペー、アガパオーの意味であり、16世紀に日本に来た伴天連たちは、聖書の部分訳で、御大切と言い換えた。気仙語訳では、お大事(おでーじ)と訳出されている。山浦さんは「愛」という語があるのをわざわざ知りながら、お大事という語を使ったのだろうか。愛さなきゃダメなんだ、となるから苦しむことになる。愛することなどできないから、苦しみを倍加させる。そして、教会に来て苦しみを抱える。これが福音であるのだろうか。そんなことはないだろう。

               Iコリント13章は、愛に関して書かれているが、愛は耐えることがないと訳されているが、本当に愛は途絶えてないと言えるだろうか?

               人を大切にすることならできるかもしれない。しかし、愛は途絶えることはないと実現不可能な表現に訳し続けてきた教会の責任は大きいかもしれない。愛せないということで悩む必要はないだろう。むしろ、人を、他者を大切にしているか、しようとしているかが問題である。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
                先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第3章 互いのために造られて Made for each other で主張しているあたりと深く関係しそうである。)

               過激とみなされる組合活動の中にも、ザビエル以降の福音の効果が表れているのではないだろうか。日本には、キリスト教や聖書やナザレのイエスと接触することのないまま過ごした人の方が多い。しかしその中でも、良い実があったし、よい実を結び木があったし、今なおあるのである。日本においては、むしろこの方が圧倒的に多いと言えるだろう。神の国は種まきは要らないと言っているわけではない。神が種まきをしてくださっている。

               聖書の中に多種多様な種の譬えば多い。よい種、毒麦の種、からしだね、が出てくる。教会ができるはるか以前から、教会とか宣教師によらず神の国の種は撒かれていたのではないか。種まきとは、神の子が人となった受肉の事であろう。それを種まく人の譬えで語っているのではないだろうか。マタイ福音書では13章の中に出てくるが、この部分は神の国の見えない神秘を語る部分である。マタイ福音書10章が、どう伝道するかの方法論である。

              種とは何か?
              神の受肉したことば、ナザレのイエスではないか?


               種をまく人は神の御言葉を撒くのである。神のみことばとは、聖書のことばというよりは、言葉である方、ホ・ロゴスを撒くのである。

               ヴァチカンの聖書研究所の研究者は、“ことば”というのは、人間となったものであると言っている。わたしたちが目で見てわかる、聞いてわかる、触れてわかるからことば。言葉というからには受肉した存在なのである。受肉しているものが言葉である。“ことば”にあたるギリシア語に対応するヘブライ語は、ダバールであり、ダバールは、できごと、この世界で実現したことであり、歴代誌はダバールから由来する語から来ていて、彼らが実際に体験したことなのである。その意味で、ホ・ロゴス、すなわちダバール、日本語で“ことば”とされるものは、受肉したナザレのイエス以外になく、ヨハネの福音書1章は、はじめにことばである方、受肉した言葉、出来事となった方があった、と理解するのがよいのではないかと思う。即ち、種は、ホ・ロゴスであり、受肉したナザレのイエスで、このお方はどこにでもある方でもあるのではないか。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
                この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1部でも散る表現 声の響き、という語で主張していることは、ナザレのイエスの声でもあるし、ナザレのイエスからの呼びかけであると思う。)


               種まく人の譬えは、受肉の神秘を通して、すべての神秘の中にすべての人の中に種として撒かれている、ということを表しているのだろう。ローマ書の中で、イザヤ書65章を引用しながら、次のように言っている。

              口語訳聖書ローマ書
              10:20 イザヤも大胆に言っている、
              「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
               わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
               
              口語訳聖書イザヤ書65:1
              65:1 わたしはわたしを求めなかった者に
              問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に
              見いだされることを喜んだ。
              わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

              口語訳聖書 エレミヤ
              31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
               31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
              宣教とは何か?
               では、宣教としており組むべきことは何か。それは、連帯であろう。小さくされている人々との連帯ではないか。

               小さくされている人々に関してであるが、努力して小さくされることはないし、努力で小さくは、なれない。周りの人の評価が下がってきて、他者によって小さくされているのである。しかし低くされることで、鋭い感性を持って立ち上がる、しっかりと両足で経って、低みから見直す。何を悔い、何を改めるべきか見出すことが大事ではないか。苦しむ人々に対して連帯し、連帯、差別に対決する人々との連帯をするとき、私たちは、大いなる実りを見るのではないか。彼らとの連帯により、彼らの立ち上がりと彼らが直面する構造についての気づき知らせることが宣教ではないか。神と共に働く働きこそが刈り取りであり、福音宣教といえるのではないか。社会の底辺にいても、すべての人にみのりの時が来ているわけではない。底辺に立つことの理解の深化を認め、平和と喜びと正義を実現することが重要ではないか。

               もちろん、福祉や救済という上からのかかわりにとどまる人もいる。社会正義や人権に関する感覚が研ぎ澄まされておらず、援助によって差別行動を強めることもある。メタノイア(低みに身を置き、視点を移動させること)が徹底していないことも多いかもしれない。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
              この辺、木原活信著 「弱さ」の向こうにあるもの とつながるような気がする。)

               
               このメタノイア(つまり低き所からの視点への異動)を行うために、すでに実りをもたらしている人から学び、実を刈り取ることが重要ではないだろうか。連帯とは相手と同じ立場に立つのではなく、できるだけ歩み寄ることだろう。ただし、絶対に他人と同じ立場にはなりえない。他者の立場には立てないのである。他者の立場に立ったつもりでの言動、これが差別と抑圧を生むのではないか。立ったつもりで寄り添わせてもらうしかないと言える。

               相馬司教という方が、理解するとは、understandingなんだよなぁ、とカラカラ笑っておられた。人の下に立つ、低みに立つことで、理解ができると言えるだろう。同じ水平的な位置のところではダメなのだ。 Stand under othersができて初めて、理解ができ、コミュニケーションが成立すると言えるだろう。




              前方に陣取るキリスト教出版関係者w

               感想は、次回 質疑応答と合わせて掲載予定。


              評価:
              Tom Wright
              SPCK Publishing
              ¥ 1,530
              (2011-05)
              コメント:文句なしにいい。日本語訳が、『クリスチャンであるとは』あめんどう刊

              評価:
              スコット・マクナイト
              キリスト新聞社
              ¥ 2,160
              (2013-06-25)
              コメント:中の人だけど、実に良いと思うから、出版した。

              評価:
              バーバラ・ブラウン テイラー
              キリスト新聞社
              ¥ 2,376
              (2014-03)
              コメント:絶賛である。

              2015.07.06 Monday

              日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

              0
                 この記事では、先日お伺いした日本宣教学会での本田哲郎司祭の基調講演の質疑応答部分をご紹介し、最後に、ミーちゃんはーちゃん的感想をご紹介したい。


                質疑応答

                Q他の宗教世界にも神の種がまかれているとおっしゃったが、もしそうだとして、新約聖書、旧約聖書から新しい視点を得たという個人的経験を大事にしてきたことをどう考えたらよいのか。どこかで聖書に触れて、聖書に出会うことなくして、種は育たない、実らないのではないだろうか。他の宗教でもいいとなると、聖書の意味はどう考えるのか。

                A本田司祭

                 聖書って、神経質に読む必要がないのではないだろうか。それよりもむしろ、目の前にいる人と出会う人との関わり、を考える必要があるのではないだろうか。文字文化に慣れてない先輩(人々)たちも案外おられる。現在原罪の日本でも文字文化に慣れてない人は多い。本を読む勇気がない人たちが結構いるし、本を読みましょう、聖書を一緒に読みましょうと言うことが失礼にあたる場合もあるだろう。また、外国から来られた方で、日本に来て長くないので日本語になじみがないために、牧師とか神父の説教がぱっと理解できない人々もおられる。 
                (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
                 キリストが受肉したいきたことばになったように、われわれがキリストを受けたものとして受肉した生きた言葉になり、そして、聖書の内容をキチンといえば、それが宣教になるのではないでしょうか、ということをおっしゃりたいんだろうなぁ、と思った。聖書を読む読まないが問題ではなく、聖書の主張が、相手に届くことがもっと大事ではないか、ということをおっしゃりたかったんだろうなぁ、と思った)

                 人と人の出会いはもっと大切にした方がいいかもしれない。何を尊重すべきかということをもう少し考えた方がよいかもしれない。教皇フランシスは、泣く人と共に泣き、喜ぶ人ともに喜べ、と通常と順番を変えて敢えて語ったがこれは意外に重要な指摘かもしれない。

                 悲しみに共感できている人であれば、その友人の喜びがわかる。喜ぶ人ともによろこんでいるからといって苦しみがわかるといえるのだろうか。しかし、受難のキリストがあって、復活のキリストがあるのではないだろうか。聖書学者をやってきて、思うことは、聖書は読まなくてもいいかもしれない。自分の到達したところ、到達した理解で十分なのではないだろうか。ローマ書で、パウロは次のように書いている。
                【口語訳聖書】ローマ書
                13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
                13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
                 つまり、自分自身が大切にされたい様に他者を大切にすることが神の戒めを守ることであり、不当な仕打ちをしないことが、律法の完全順守といっているのではないか。イエスも、ヨハネの福音書の記載では次のように言っているだろう。

                口語訳聖書 ヨハネの福音書
                13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
                 13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
                 愛ではなくて、互いに大事にしあいなさい、ということで律法を完全に守ることになるなら、そもそも、聖書がなくてもいいじゃないか。これだけで十分でないか。愛せなくてもいいが、互いに大切にしなさいということが大事なのではないだろうか。

                Qバプテスマを授けることをどう理解するか?

                A本田司祭
                 身を沈めることとは、自らを低みにおくことである。我々は、私を含めて、バプテスマというと、罪を洗うことをばかりを考えていた。そうではなく、ばぷてぃぞーの語源から考えると、水の中に身を沈めることである。ということは、低みに身をおくということであろう。

                 イエスのヨルダン川の洗礼式は、その意味で非常にシンボリックである。ヨルダン川の上流側、川上ではなく、小汚い死海に近いところでイエスは受けておられる。水が汚れているところでのバプテスマであるという理解から、罪を洗うのではなく、身を沈めさせることであり。死ぬことを意味していたのだろう。バプテスマはキリスト教に埋葬される儀式であると考えるとき、あのヨルダン川の泥水をくぐることではないか。洗礼の本来的な意味はそこにあるだろう。実際に低みにいる人、死んだような状態に置かれた人は、洗礼を受けたようなものではないか。こう考えると、洗礼は必ずしも受けなくていいかもしれない。イエスの弟子たちは、イエスが栄光を帯びるその時が来たら、一人は右に一人は左につけるようにと、抜け駆けしようとした。その弟子たちに向かって、私の杯を飲み、洗礼を受けることができるのか、と聞かれたのは、ゲッセマネの園での苦しみと、洗礼(死ぬこと)を共にすることができるか、と聞かれたのではないか。そう考えると、洗礼とは、受難の象徴である。その意味で、ここでいう洗礼とは、自分が受けたような幼児洗礼と比べ物にならない。儀式として思い出すためにすることは否定はしないが、それがないとダメ、ということにはならないのではないだろうか。

                Qイエスご自身が、神を愛し人を愛しなさいとシェマーを引用している部分があるが、神を愛せは当然であり、むしろウェイトは、人を愛せにあるのではないかということを思うがお考えをお聞かせください。

                A本田司祭
                 神は人を通して働かれることを忘れてはならない。父と子と聖霊の関係を大切にしている。シェマーは、申命記6章4節以下の規定である。

                【口語訳聖書】 申命記
                 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
                 6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。
                 6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
                 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
                 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
                 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。
                 6:10 あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、
                 6:11 あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。
                 6:12 その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。

                同じ申命記10章17節では、

                【口語訳聖書】申命記
                 10:17 あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、
                 10:18 みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。
                 10:19 それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。
                と、寄留者を愛すること、大事にすることを言っておられる。そして、神の望みを果たすことが神を愛すること、大切にすることであることを考えるとき、それは別物ではないかもしれない。愛することの具体的記述は申命記10:12節にあり、

                【口語訳聖書】申命記
                10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
                 10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 幸いを得ること、これこそが福音ではないか。)

                Q本田先生は、聖書を読み愛しながら読まなくていい、とおっしゃる。聖書を読むよりよりむしろ大切なのは連帯であるとおっしゃる。そして、神が望んである他人を大切なことをしろとおっしゃっておられる。それでは、普段何しておられるのか。礼拝を守っておられるのか。聖書を毎日読んで心の糧にしているのか。

                Aミサは労働者と一緒に労働者のミサというのをやり、オープンコミュニオンとして実施している。火曜日の晩に、趣味のミサと私が呼ぶシスターたちがやっているミサがあるが、これもできるだけ早くなくしたいと思っている。釜ヶ崎に行った当初、毎日ミサをやっていたのだけれども。
                 ミサは、日曜日のみにしようとしており、火曜日の趣味のミサも早くなしにしたいと考えている。普段は、主に野宿している人の散髪をしており、1日3時間ほどで30人くらいの散髪をしている。ほかにも、反失業連絡会 共同代表 NPO釜ヶ崎支援機構などで働いている。
                (ここで、質問した牧師が、「聖書をお読みになって、こころの糧を得られているのではないですか?」と言質を得ようと食い下がる。この食い下がったことに関して)
                 聖書から今日の指針を読み取ろうなんて、せこいことは考えてない。(会場大爆笑)イエスと会うか会わないかの方がよほど重要であり、人との出会いの方が、もっと大事であると考えている。

                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 幸いを得ること、これこそが福音ではないか。)

                感想
                 いやぁ、すごかった。凄みがあるのだ。それは、応答などの中で、思い付きでしゃべっていることが明らかにわかる感じの発言の中に、ギリシア語、ヘブライ語の意味が空でポンポン出てくる聖書理解の凄みに加えて、現実に貧しい人の中で生きようとして、その人たちの痛みに直接向かい合い、そして共になくということをしている人物の凄みがあり、研究室の中にこもって、ひたすらヘブライ語、ギリシア語原典を紐解き、神学書を紐解いているタイプの人物にはない現実に直面した人物故の凄みみたいなものが伝わるのだ。

                 なんか頭良すぎて、頭おかしい、とでも言いたくなるほどの凄みである。

                 ただ、サクラメントであるバプテスマの軽視、他宗教のままでもよいではないか、聖餐式のオープン・コミュニオン、聖書なんか読む必要があるのか、という実に挑発的な表現などは、本田司祭の文脈を無視すると危険発言になりかねない部分があり、是認できかねる人もいるだろう。それが、質疑応答で、元神学校の教師をしていて牧師をされていた方の一種いらつきすら感じた質問というか、ミーちゃんはーちゃんには完全に詰問にすら聞こえた質問の、「毎日聖書を読むことが大事で、毎日読むことで心の糧を得ておられるのではないですが?」という叫びにも似た質問に現われていたと思う。

                 この講演を聞きながら、これらに関して、少し考えたことを書いてみたい。

                ■サクラメントであるバプテスマの軽視に見える発言
                 カトリックでは堅信献身礼という成人として教会というコミュニティに迎え入れられる儀式をするらしい。しかし、カトリックもルター派も原則バプテスマは、乳児洗礼である。プロテスタント派の一部のように、成人洗礼に対するこだわりはない。あるグループにおいては極端なこだわりがある。殊に日本では、コンスタンティヌス型のキリスト教や国家と一体化したキリスト教国になったことがないため、殊に明治以降衛生環境が急速に改善し、乳幼児死亡率が急激に低下する中でに、洗礼を受けずに死亡する乳幼児が減り、近代の脱宗教化した法制度が成立した前後にキリスト教が日本で復活した為に、教会墓地への埋葬の問題が深刻化しなかったため、ある面、乳児洗礼が必要ではなかったという側面がある。プロテスタント派の一部が成人洗礼の重要性を強硬に主張する人たちからすれば、古代教父が言ったようなとりあえず何でもいいから子どもが生まれたら水に浸けてバプテスマしておけ、といったような態度はとうてい受容できないだろう。しかし、幼児洗礼で、訳も分からず水に漬けられた、あるいは水をかけられた人は本当にバプテスマを受けたと言えるのか、神の前にメタノイア(神自らが低みに身を置かれたこと、この地でのイエスの受肉を含む)をしていると言えるのか、という疑問にいたり、まぁ、そうであるとするならば、イエスに従いたいという思いを持つ人々でありながら、形としてのバプテスマを受けることに抵抗がある人の場合、あえて、それを強いることに意味があるのか問題を考えると、どうなんだろう、ということ位ではないか、と思う。

                 そして、この理解が、本田司祭をして、異端審問官を招くことになることがわかっていても、オープンコミュニオンに踏み切らせたのだろうと思う。まぁ、異端審問官の方もご納得の上で、御帰りになられたようであるから、今なお続けられているのだと思う。

                ■他宗教でもよいではないか発言
                 第二バチカン公会議以降、他宗教への容認がカトリックでは進んでいるやに聞く。ちゃんと追っかけているわけではないので、よくは知らないが。もし、イエスに出会って、イエスが好きで、神が好きであっても、その人が言い出しもしないのに、なかば強制的に、強圧的に説得してキリスト教に改宗させることにどれほどの意味があるのか、という疑問ではないか、と思う。これを読み違うと、本田司祭は万人救済説だ、何もしなくてよいし、他宗教の人でも神の国に登って行って、入れるのだ(聖書をよく読むと天国に上っていって入れるというこの物言いは不正確であることはわかるが、あまりに特定の考え方に慣れ過ぎていると、そのことの不正確さが分からなくなる場合があったし、本田司祭もかつてそうだったと言っていたし、ミーちゃんはーちゃんもつい最近までそう思い込んでいたことはここで告白する)と誤解することになる。もし、信仰を強いることで、その人が価値を置き、その人が属する既存の社会や価値体系から分断し、その人自身を支えるソーシャルネットワークやソーシャルキャピタルを大きく毀損するとするならば、そこまでのことは本当にイエスは求めたか、というと、求めてないのではないか、ということを聖書解釈の中から導き出した結論であると思う。それが、基調講演の冒頭で、本田司祭が我々は、福音を伝えずに、キリスト教というものを伝えてしまったのではないか、という疑念につながっているのだと思う。

                ■聖書を読む必要はない発言
                 これは、近代キリスト教界人の悪弊である「何が何でも文字としての聖書を読むことが大事ではないか」というか暗黙の仮定への異議申し立てであるとミーちゃんはーちゃんは見た。ある種の学習障害がある人(文字操作ができない、文字操作が不得意)という人は必ず存在する。生まれつき障害を神に負わされた人々(Challenged)、高齢のため読めない人、一定の年齢に達し手から視力を失った人、様々な事情と理由で文字としての聖書に触れることができない人々は存在する。文字を読め、聖書を読め、と普通の事のようにそれを強いることは、本当に妥当なのだろうか、と思うことはある。そして、無理強いをして聖書のことば、イエスのことばに触れさせたところで、無理強いをするなら、その受肉した言葉であるはずのイエスのことばは、無理強いをされた人に残らないのではないか、ということをおっしゃりたかったんだろうなぁ、と思う。

                 それよりも、キリスト者が聖書を読み、聖書を理解しているのであれば、そして、それを自分自身の中で受肉しているのであれば、その自分自身を他者にさらすことで、受肉した言葉をあなた自身が示せばよいではないか、それこそがイエスがしたことではないのか、イエスの弟子だとあなたが言うのなら、それをすればよいではないか、といわれたかったのだろう。

                 もし、あなたがイエスのことばを認めるというのであれば、マタイ25章に出てくる、病の人、飢えかわく人、死にそうな人を見る中で、その中におられるイエスと出会い、あなた方が覚えている聖書のことばに照らしてどう行動するのかが問われているのではないか、とおっしゃりたかったんだろうと思う。

                 ところで、薄い本だが、いい本の中に、ジャン・ヴァニエという人の「人と出会うこと」と「小さき者からの光」という本があるが、人と会うことの意味に関してお読みになられたいなら、是非読まれたらよいと思う。良い本である。お勧めする。


                 我々は、現代という学校教育があり、文字教育が進められた結果、誰もが一応は文字が読めることになっている(必ずしもそうとは限らないのだが)ため、聖書が読めるということは当たり前のことになっているが、これは、ついぞ、この100から150年くらいの事である。それ以前の1800年くらいは、ほとんどの人が聖書を読めなかったし、そもそも聖書を手にすることなど思いもよらないことだったのだ。グーテンベルグ聖書なんて、高過ぎで庶民が変えるものではなかった。その背景を考え、それでも神の民であった人々は居たわけである。みんながルターやカルヴァンのようではなく、聖書の文字を自分で読むこともできない無名のキリスト者の存在をどう考えるか問題で、現在もなお、その無名のキリスト者はいるのではないのか、ということをどう考えますか、ということだと思う。

                 自分の母親のことで恐縮であるが、母親が、「最近聖書を読めない、難しすぎて読んでも分からないから、どうしたらいいのか?」と聞かれた。これに対して、「そんなの読まなくていい。気分が収まるなら、そうしてもよいが、読めないのに無理して、読んだ気になるよりは、主の祈りを覚えたらいい。そして、ヨハネ3章16節くらいは暗唱聖句で覚えているだろう。それらをじっくり繰り返し思い出したら、それでいい」といったら、それでも聖書は読まないといけないのではないか?だとしたら、『日本人のための聖書物語』でも読んだらいいのか?」と聞かれたので、「したきゃしたらいいけど、それ聖書と思って読むなら、やめといた方がいい。神学書でも、日本人のための聖書物語でも所詮解説に過ぎないから」と返したことを思い出した。もう、日本人キリスト教界関係者は、「文字としての聖書を読まなければならない強迫神経症」に陥れられている方もおられようである。それから解放することが、本当の福音なのかもしれない。


                 最後の質疑応答の噛み合わなさっぷりったら、パリサイ人とイエスの問答、ニコデモとイエスの問答はさもこのようなものではなかったか、とリアルで再現されたのを見たような気がした。

                全体としての感想
                 ナウエンの本に「光への道、闇への道」というこぐま社から出ている本があるが、あの中に老人しか持ちえないユーモアというのか、ウィットがあること指摘している部分がある。もう何も失うものがない人物、そういう色気のない人物、特に老人だけが持ちうる着飾っていない素の人間の持つ強さとユーモアのセンスを感じた。

                 ケセン語訳の山浦さんも、本田哲郎司祭も実にこの種のユーモアセンス抜群で、質疑応答はめちゃくちゃ面白かった。特にプロテスタント族との質疑応答の噛み合わなさっぷりが面白くかった。あぁ、プロテスタントは現実よりも、聖書の中に文字に拘泥している種族なのだ、と自分自身を含めて思わされた。

                 しかし、本田司祭、これだけ言語センスと解釈センスがすごくいにもかかわらず、自分自身で、ちょっとボケが入っているから、って予防線張るのはちとズルくないですか。今度から、どっかで話す時に、「私はね、若年性ボケ、天然ボケが入ってますから、まぁお許しを」ってやろっかなぁ、と思った。まぁ、このブログの読者の方であれば、ミーちゃんはーちゃんが天然ボケ満載であることはよくご存じの事かとは思うが。w

                後日談

                 前回の記事で、本田司祭とNTライトの聖書読みが似ていることを指摘したところ、南の国のコメント王子(本田司祭の本を読まれたようである)から、鋭い突っ込みが来た。聖書読みが両社で似ているのに、なぜ、小さくされたものという語の「された」ということから一転突破型のように本田司祭はラディカル(ウルトララディカル)であり得るのに、ライトはそこまでラディカルではないのか、というある種当然の疑問を頂いたのである。

                 とりあえず、疲れていたので(すいません。出たその日に記事をアップする必要が諸般の事情であったので)ざらっとしたお答として、
                本田さんの国内向けオンリーでの活動と、NTライト先輩の大西洋の両岸での活動あたりにあるのではないか、と
                とは書いたことに対して、南の国のコメント王子様からは、

                本田神父は以前と変わらない…言い方を変えれば一貫している、とも言えますが、新しさはほとんど感じません) 本田神父は伝統を否定して独自路線(福音の原点への回帰路線?)に進む傾向が強く、NTライトは伝統を問い直しつつも(その意味でリベラル)、伝統への敬意を失わない(その意味で福音派)傾向の中で 福音の原点に立ち返ろうとしているように思えます。そこらへんにライトの美しさを大切にする姿勢を強く感じるのです。(中略)ミーちゃんはーちゃんが言うように、本田神父は局所的であり、それに対しライトは大局的というか欧米を中心に世界のキリスト教と対話しようとしているように思えます。
                といただいた。これはその通りだと思います。昨日放送、土曜日再放送の「こころの時代」を見ていただいても、基本同じことしか言っていなかったですから本田司祭は、ぶれてなかったです。これはいいので、この「こころの時代」は、その主張を丸受けするためだけでなく、実際の自分自身を見直すためにも、必見アイテムだと思う。

                 あと、もう少しいえば、本田司祭は、カトリック教会という枠組みの中での伝統と容認と胴にもならない現実に依拠した普遍(カトリック)が受け入れ可能なある特殊形態としての正義、平和、よろこびを目指していて、ライト先輩そのものは、できるだけ一般化した形の中で、美でもあり、義であり、平和でもあり、霊性でもある、神の完成された姿の意味を、聖書と神の主張(クリスチャンであること)が現代社会においても意味を成すとうことを、護教的に示そうとしているに思う。

                 その意味で、本田司祭には、ナウエンと同様、痛みや弱さへの関心が強く、ライト先輩は美に関する関心が深い、ということだと思います。それでいいのではないかと思う。人それぞれが違って想像されているし、本田司祭に響く人もいるし、ライト先輩により近いものを感じる人もいるのでしょう。

                 個人的には、N.T.ライト先輩には強く惹かれる。しかし、そうであっても、人に過ぎないし、そこでの聖書理解はどうしても限りがあるものになる。それは本田司祭においてもそうである。面白いからといって、その人の主張を全部支持しているわけではないし、そうする必要もないと思っている。一旦受け止め、そして、自分自身が聖書と神とのかかわりの中で自分らしい聖書理解を作ればよいのだと思っている。

                 この前京阪○○神学会(○○は秘密、伏字)で「一信徒から見たライトを語る」というテーマでお話する機会を頂いた時に、中澤啓介先生がわざわざ東京から来られて(当日話始めることの御姿を見たので急にめちゃ緊張した)、「ライトは従来の枠から半歩しか進んでない。半歩だけ進んだものを見せているのではないか」という趣旨のことをご発言であった。このメタファーで言えば、本田司祭は、2歩3歩どころか、100m先か、200m先位、実際にエイや、やっちゃえ、って走っている感じかなぁ、と思った。質疑応答まで聞いていると、我々は案外近視眼的になっていて、従来の枠組みがあり、その枠組みにあまりに拘束されていて、本田司祭みたいに自由に枠組みを離れて行ける人が少ないということかなぁ、と思った。確かに、皆が皆、本田司祭したら、キリスト教界大混乱にもなるとは思う。しかし、このようにいろんなお立場の方があるのが、神の種がいろんなところにまかれている、ということでもあるのかもしれないと思う。ただ、世間から小さくされてしまっている人のところにも、割とのびのび育てる人のところにも。

                 20151128追記 ある方の指摘を受け字句の修正をしました。



                評価:
                ジャン・ヴァニエ
                聖パウロ女子修道会
                ¥ 864
                (2008-10)
                コメント:良い。名作。絶賛

                評価:
                ジャン・バニエ
                あめんどう
                ---
                (2010-08-20)
                コメント:良い。絶賛。おすすめ。

                2015.07.06 Monday

                NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その9

                0


                   
                  Pocket

                   今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、4章から紹介したい。美についての記述からである。

                  美について

                   美について、N.T.ライト先輩は次のように語る。
                   世界は美に満ちている。しかし、その美は不完全である。美とは何であり何を意味しているか。そして〈もしあるとすれば〉何のためにあるのかというなぞは、より大きな全体の一部しか見ていないために生じる不可避な問いである。
                   美とは別な言い方をすれば、もう一つの声の響きである。それは、私たちの前におかれた手がかりを通して、いくつかの異なった事柄の中のあるものを語っているかもしれない。しかし、もし、そのすべてをもれなく聞くことができるなら、いま見、聞き、知り、愛し、「美しい」と呼んでいるものが何なのか、納得することができるだろう。(『クリスチャンであるとは』 p.61)

                   N.T。ライト先輩は、ある種義と美が深い関係にあるもの、とみているようである。エベレスト登山した登山家は、なぜエベレストに上るのか、と問われ、「そこにそれがあるから」と答えたらしいという話は有名な話であるが、我々は何にでも値段をつけたり、価値の有無を詮索してしまう文化に慣れ過ぎているように思う。
                   エベレストが登るためにあるかどうかは別として、エベレスト自身は存在する。目的はあまり関係ないのではないだろうか。
                   ところで、この引用部分の後半で、「美しい」と呼んでいるものが何か、ということはもう少し考えた方がいいかもしれない。と思うのは、創世記1章で次のように言われていることは、その光を見て、「美しい」といわれたとも理解できると、聞いたことがある。その意味で、神は良いもの、あるいは美しいとされた可能性があるらしいのである。
                  【口語訳】創世記
                  1:4 神はその光を見て、良しとされた。
                   美は美そのもののためにあるような気がするがするのだが。

                  保存できない美

                   美というのは、保存できない。どんなメディアがあっても、そして、技術者がいくら頑張っても、美は保存できないのである。空間情報技術者として、画像周りの作業もする。なんたって地図情報屋にとって、地図は美しさと相対的正確さが命だと思っているからである。
                   美は義と同じように、私たちの指の間からすり落ちてしまう。夕日を写真にとっても、その瞬間の記憶をとどめているだけであって、その瞬間そのものではない。音楽を録音したものを買っても、家で聞くのは演奏会と違った感じになる。山に登ってその頂上から眺める景色は実に素晴らしいものだが、もっと素晴らしいものを求めたくなる。たとえ山頂に家を建て、その景色を一日中眺めることができたとしても、その疼きがなくなることはない。(同書 p.61)
                   デジタル技術のこの数年の進歩というのはすさまじい。様々な圧縮、非圧縮、画像加工、画像変換技術がめちゃくちゃに進んできて、Photoshopさえあればポスターなどが簡単に既存画像をちゃっちゃと使いながら、簡単に作れるようになってしまっている。それは本物ではないが。本物を思い出させる縁、あるいは、本物を示す記号に過ぎないものであっても、その記号を介して、あるいはデータを介して、そのデータの奥、データが反映しているリアルに存在するものををであるということを技術屋として思う。以下にシャープの亀山モデルAQUOSが表示する画像が美しかろうと、最新の4Kテレビが美しかろうと、どうやっても現物の美しさにはかなわないのだ。比較的よりまともに見える、という程度差の問題であることは技術者としてよくわかる。


                  今は無き亀山モデル

                  美は変遷する

                   美は一定ではないのである。時代とともに変化するのである。このことに関して、ライト先輩は、次のように書いておられる。
                   このような謎(引用者註 美が移り変わるという)については、時代や地域で最も美しいとされた女性の肖像画を見るたびに思う。ギリシアの壺の絵かポンペイの壁画を見てほしい。古代、その美を称賛されたエジプトの貴婦人を調べてほしい。(中略)トロイのヘレンはその顔立ちゆえに、当時何千という船を闘いに為に出向させたという。今日では一艘のボートも出せないだろう。(p.62)
                   以下で、昔の美人画を紹介致したい。

                  http://www.touregypt.net/images/touregypt/beauty1.jpg
                  古代エジプト

                  https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Pompeii_-_Temple_of_Isis_-_Io_and_Isis_-_MAN.jpg
                  ポンペイの壁画に描かれたイシス(ISIS)


                  トロイ(2004)の予告編



                  女性の理想の体型の変遷


                  古代日本篇 鳥毛立女屏風 部分

                  歌麿の美人画(個人的には3人の美しさの違いがよくわからん)
                   
                   まぁ、上の画像や動画で見てもらったように美は、時代により、社会により、環境により変わるものらしい。

                   その昔、大学の授業で、古代オリエント学を当時非常勤講師をしておられた池田裕さんの講義で学んだ。その時に、古代遺跡の時代考証と時代特定をどうするか、というときにイスラエルの焼き物のポットとか壺のデザインの変遷で確認することもできるというお話を伺ったことがある。というのは、時代によって、デザインや技法が変遷するので、素焼き土器から時代特定ができるということだったと記憶している。
                   その辺に関して、ライト先輩は次のように書いておられる。
                  物事を見る視点と好みの組み合わせは複雑である。個人の好みについては世代間で異なるだけではなく、同じ時期、同じ町、同じ家にいたとしても人それぞれで、属する下位文化(サブカルチャー)によっても変化する。(同書 p.63)

                  美は真理なのか
                   個人的には美が真理かどうかは知らない。しかし、効率の良いものは美しい。例えば、ボーイング787が空中で飛んでいる後ろ姿の翼形は非常に美しい。流体力学を大学時代に少し勉強したが、流体力学の先生が、無理のないものは美しいし、美しい形をしている。その時の例題が、懸垂曲線である。懸垂曲線というと大仰であるが、要するに電柱にぶら下がっている伝染の形状である。これは、実に記冷罵微分方程式で、簡単に表せるのだ。


                  Boeing 787の離陸 この翼形にほれぼれする


                  懸垂曲線

                   ポストモダン環境下で、美の多様性があることになり、また、「美」の並列的存在を認める社会の中で、従来型の「真理」概念は成立しないことになる。
                   「美は真理であり、真理は美である」と詩人キーツは書いている。しかし、私たちがそれまで垣間見てきた謎は、そう簡単にそれらを結び付けさせてはくれない。私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない。(同書 p.64)
                  N.T.ライト先輩のお書きになっておられるように、「私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない」のであるが、これが影響を与え、時に悪魔のようになるからかなわない。このことをうまく描いた映画に、プラダを着た悪魔がある。


                  プラダを着た悪魔 これ見て、あ〜〜〜と思った。

                  神聖なものを表す記号(象徴)としての美
                   神聖なものと美は、つながっている。それは神聖さ、壮大さ、荘厳さを称揚するために美が用いられるからである。歴代誌などで、賛美が出てきているところでもそうだし、我々が讃美歌を謳うときでもそうである。美しいメロディは神を賛美するために用いられる。
                   神聖なものを象徴しようとするものである音楽、美術、芸術作品の美しさと神聖さを醸し出す何かと、神聖さが混乱してしまう人もいるからややこしい。
                   美と真理を同一視することを避けなければならないのと同様、美が、神や「神聖なもの」、あるいは何か超越的な領域への直接的な入口になるという考えは避けねばならない。音楽が、より大きな全体のためにデザインされているという事実も、そのより大きな全体がなんであるかについての何の手がかりも与えてくれない。(中略)
                   先に記したパラドックスは、ある世代の人々が、神と自然界とを安易に同一視してきたことに徹底的に反している。自然界の美は何と言おうが、ある声の響きであっても声そのものでない。(中略)美はここにあるがここにはない。―この鳥、この歌、この夕日。それは美しいが、それが美なのではない。(同書 p.65)


                  夕日が沈むときの自宅近くのJR舞子駅での夕日(友人撮影)

                   そう、夕焼け空のこの微妙な色合いは美しいが、夕焼け空自身は美そのものではないのである。これ以上書けないのが悔しいが、上の写真は美しいと思ったものを撮影してくれたものであるが、美そのものではない。

                   個人的には上にあげた懸垂線が、実に単純な方程式であらわせることを美しいと思う(そんなミーちゃんはーちゃんは病気といわれる)が、懸垂線自身を示す方程式は美そのものではないし、ある人にとっては、吐き気を催すかもしれない。単純で美しい数式だとは思うが。

                  ギリシア哲学と唯一神宗教の違い

                   その昔、データベース論の講義で、講義中にミーちゃんはーちゃんのお師匠さんの一人が「いやぁ、この間哲学の先生と話して、自分は最新技術の話をしたつもりなんだが、そんな概念は、ギリシア哲学にあるって言われてさ、ギリシア哲学ってのはすごいよねぇ」といったことを以下のライトの文章を読みながら、ふっと思い出した。
                   そういうこと思っていたら、My Big Fat Greek Weddingの方で、アメリカに移民しているギリシア人のお父さんが、何でもすべてのものがギリシア語に由来する、ということに困惑する娘のシーンがある。まぁ、これは極端なカリカルチュアとしても、同じようなことは、Full Houseというアメリカのシットコムで時々、ジェシーの親戚のおじさんが言っているので、まぁ、よくある話なのだろう。


                  なんでも語源はギリシア語であると主張するおじさん

                   冗談はさておき、ギリシア哲学と美、そして真理と現代と、聖書を基礎とする一神教とのかかわりについて、ライト先輩は次のように書いておられる。
                   この点に関してある哲学者たちは、(おそらく)プラトンまでに遡れるだろうが、これらの(引用者註 自分の外に引き出すことと自分のうちの奥に入ってくること)両面を結び合わせていた。一方に自然界、もう一方に芸術家によって生み出された自然愛の象徴(シンボル)がある。後者はより高度な世界、時間、空間(特に)物質を超えた世界の反映であるという。この、より高度な世界をプラトンは、形相やイデアの世界と呼んでいるが、その理論によれば、まさに究極の現実なのである。現在の世界のすべてはその世界のコピーであり、陰となる。
                   このことは、この世界のすべてはまさにそれを超えた世界のものを指し示すという身である(中略)単に自然と人間の作った美を、ただそのものとして受け止めるだけなら、とどのつまりは自分自身の主観的感情に過ぎないとしても驚きではない。そこで人は、この世界を離れた異なった世界を指し示すものとなる。
                   この考え方はあるレベルにおいては魅力的である。(中略)しかし、少なくとも主要な3つの唯一神宗教にとって(あるいは、それらの主流派にとって)、それはあまりにも多くのものを手放すことになる。すでによく言われていることだが、この現実世界における美は謎であり、つかの間のものであり、うわべだけのことに見える。そしてその下はすべて虫食いであり、腐っている。
                   しかし、この思想をほんの少しでも深めてみれば、時間と空間と物質のこの世界は本質的に悪であることになってしまう。もしそれが何かを指し示しているなら、それはすでに腐りかけた木でできているようなものだ。(中略)こうした理解はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という主要な伝統にとって、全くの誤りである。唯一神を信じる信仰が公言するものは、一見、それに反する現実を目の前にしながらも、空間と時間と物質からなるこの世界は、昔から善なる神による善き創造であったし、いまでもそうなのである。
                   (中略)これらは事実であり、私たちの外側にあり、単なる想像上の産物ではない。天と地は栄に満ちている。その栄光自体が、それを見る人間の感性に過ぎないという指向を断固拒否している。(pp.66₋68)
                   ライト先輩は、ここで、プラトン哲学のイデア論を出してくることで、理念イデアの世界があり、そのイデアの反映がこの地上だとして2元論で語ってしまうと、結局神が創造の初めに、「よかった」あるいは「美しい」といわれたことは無効になる、あるいは無効にならないまでも、少なくとも被造物と被造物世界は、イデアより劣ったものになることをご指摘である。しかし、この地においては、例え、それが一時的であり、言語や技術や画像を介して保存できなくても問答無用で美しいものは存在するし、思わず笑みをこぼしニッコリとたくなるようなものは存在するのである。たとえ捉えどころがなくて、不完全なものであっても、この地に美も、義も存在するのである。もし、美が存在しないとしたら、芸術家は(日本でも海外でも失職状態であることが多いが)失職するし、義が存在しないとすれば、弁護士などの法曹界は軒並み全員失職であるし、神の義がなければ、神学をされておられる神学校で教え、教会でお話ししておられる先生方は、無意味なことをしておられることになりかねないが、それぞれの時代にあって、神のみ思いをどのように表現するのかと格闘しておられる神学をされておられる非常に多くの牧師先生、先生方の貴重な格闘の営みを考え、それを拝見するとき、そのありがたさを感じている。

                   しかし、日本に伝わってきた段階で、特に19世紀から20世紀前半までに伝わってきたキリスト教、そして、21世紀においてもそうであると思うが、これらの海外から伝わってきたキリスト教はギリシア哲学の部分集合(サブセット)を内包するような形で、分離不可能な形で伝わってきたため、その腑分けにミーちゃんはーちゃんは苦労している。実は、このあたりの腑分けというか、分析する作業がイエス理解をどう理解するかと深く関係しているのではないかと思っているし、また、このギリシア哲学の世界に住んでいた、ギリシア人、ローマ人にパウロが弁証していく中で、ローマ人やギリシア人が受け取っていく中で、パウロなどの主張が変容して理解された可能性があり、それをどう考えていくのか、という膨大な思惟は案外大切ではないか、と思うし、知的遊戯としてそれは重要ではないか、と思う。

                   まだまだ続く。


                  2015.07.08 Wednesday

                  工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その7

                  0

                    Pocket

                     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」についてである。これまでの主張の上に立ち、工藤さんは実務家(医師)としていくつかの提言をしておられる。それを今回と次回でご紹介したい。

                    On the Job Training....日本の職業訓練
                     司牧の訓練に関して、工藤さんは次のようなご指摘をなさっている。
                     牧師にふさわしからざる人々が牧解の現場に出て、そこに混乱に陥れるという問題が出現する。この点カトリックは一人の司祭を育てるのに10年をかけるという話を耳にしたことがある。その間厳しい訓練と学びが課せられるのである。せいぜい2,3年の神学教育を受け、しかもさしたる卒後教育のシステムもなく、在野に放り出された人物が、いくばくかの神学、聖書の知識を積んだからといって、人の一生にかかわる牧会に携わることに大きな限界があるのは目に見えているだろう。(真実の福音を求めて p.101)
                     カトリックの司祭の方何人かとお話しした経験から言えば、カトリックの司祭になろうとされる方の中には、実際にはいろんな方がおられるようである。司祭としての訓練の中で、その人自身を見極め、その人自身も、その周辺の人々もその方の特徴を見極め、かなりの選別がされるようである。そして司祭になってからも、かなりのモニタリングが行われ、その中で選別されていくようである。そのようなスクリーニングと職分の割り当てをしていったとしても、いろいろ不祥事が起きる訳で、実に厄介だと思う。

                     工藤さんが指摘されるように、アメリカや日本などのように、確かに2,3年の神学教育だけでは不十分だと思うし、自己教育、生涯教育と自己研さんをきちんとしておかないと、頭脳と思考の化石化が進み、社会が変化してしまったことに追随できず、不適合を起こすような側面も多いと思う。

                     何、この生涯教育と自己研さんがないことによる問題は、牧師だけで起きる訳ではなく、通常の社会人においても起きる。

                     ご高齢の方が現役を退いてしまって、現場の環境や現場の実際を把握することなく、ご自身が現役であったころの数年前、十数年前、数十年前の前提と状況を前提にお話しされると、実に滑稽なことが起きるのである。アイゼンハワー大統領を推薦するAbraham Simpson氏のように。


                    アイゼンハワー大統領を未だに支持するAbraham Simpson氏

                     要は、牧師の社会人経験の有無に問題があるのではなく、その人が社会人として、社会の現状に関して情報収集し、そのことに思いを巡らせているかどうかの方がよほど重要なのである。そして、その司牧と教会員がおかれた時代の社会や環境状況に思いを巡らせながら、聖書に取り組む、神学するといってもよいかもしれないが、それができるかどうかで、それを牧師の勤労経験の有無にすり替えてはいかんのだろうと思う。

                     大学は数年前から、FDということで、漸く教員についても研修が始まったが、それまでは、研修はなく、関心のある教員個人が個人的にするものであって、全体として質的向上を図るというような取組みは、最近始まったことであると言える。

                     各個別教派でも、このような研修制度をとっておられるところもあるだろうが、案外そういう機会は少ないのかもしれないし、これまで距離が障壁になって、こういう研修制度自体が少ないのかもしれない。そのあたりの事に挑戦されておられるネット時代の前衛となってこられた司牧の方々はおられる。

                     まぁ、ローマ教皇のツィートにはびっくりすることが多いが。カッティングエッジ技術のうまい活用法ではないか、と思っている。 


                    いろんな意味で、Cutting Edge lol

                    教会の失敗学
                     失敗学ということがある。技術は、この失敗学の学問である。過去の失敗に学び、その問題の構造を明らかにし、そして、その問題を防止し、同じ問題が繰り返されないようにするのが、一種の工学的発想である。その意味で、完全ということはないことは、工学は前提として持っていると言えよう。

                     例えば、以下の動画で紹介したタコマ橋(ワシントン州タコマ市)の場合、周波数と橋の共振の問題が発生して落橋した。


                    タコマ橋落橋の決定的瞬間

                    こういう問題が発覚することで、その後の海峡橋や長大橋梁では、周波数帯の違う部材の複数化などいくつかの対策が打たれている。このあたりは明石海峡大橋などでもきちんと反映されている。このあたりは、長大という企業がノウハウをかなりお持ちである。
                     ところが(牧会事例研究会が始まってから)40年たった今でも、こうした方面の研究会はあまり知られていないようであるし、実際的な指導者も皆無といってよいのではないか、と思われる。しかし私が心配するのは何よりもそういう学び会に足を運ぶ牧師、教職が極めて少ないということである。
                     そこで私が思ったことは、牧会者の閉鎖性という問題である。それぞれの牧会者は、日ごとその牧会に悩み苦しんでいるはずであろうから、他に助けを求めてよいはずであるが、どういうわけか、自分の失敗や落ち度をつかれたり、失敗から謙虚に学ぼうとしたりしない傾向があるような気がする。「自己開示性」が乏しいらしいのである。(pp.101₋102)
                     自己開示性が乏しいということの背景に、個人的には繁栄の神学とか、自己義認化が関わっているような気がする。そして、そのかなりかなり先の背景として、義認の教理があるような気がするのである。

                     教会が義の場所である、教会が美しい場所であるべきである、という思い込みがこのような閉鎖性を生むのではないか、と思うのである。そして、牧会者にとっても、義の取次者あるいは紹介者に過ぎない自らが義でなければならないという思い込みが日本という文化コンテキストにおいて、ある面、暗黙の裡に想定されているからかもしれない。

                     その結果、失敗はない、と強弁したり、失敗した時に、うまくいかないから、また今度の機会に、とはならない側面につながったりするのだろうと思う。そして、新しいことに心を閉ざし、精神的な閉鎖性を持つのであろう。このことに関しては、厳しい物言いになるとは思うが(個人的には司牧の方を応援したいとは思っているので)、工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その5で指摘した閉鎖性の問題と深いところではつながりがあると思っている。

                    万能特効薬としての聖句切り取りと祈り

                     確かに聖書には、様々な神の知恵が示されている。しかし、それはコンテキスト(物語)といってもよいとは思うが、中で示されている神の知恵であり、それを切り取り、その一部のみを示してしまうと、もともとの意味をなさなくなるのではないか、と思っている。そのことに関して離婚問題で司牧に相談した人が絶望の淵に陥れられた、というか、唖然として開いた口が塞がらない状態に陥れられた方の例をとりながら、工藤さんはご説明である。

                     私はここ数年、かなり深刻な熟年夫婦の離婚の相談にかかわってきたが、最後の”とりで”と思って相談に行った教会の指導者の多くが、「祈っていますか?主に従うようにご主人に従いなさい」といった内容のアドバイスをくれるだけであったということを耳にした。私のところに来た人はそのおめでたさに「話にもならない」と一笑に付したが、宗教者の現実認識は時代錯誤も甚だしいものが少なくない。(同書 p.104)
                     一つの例を示そう。以下の図1をご覧になって、この絵の良さがわかるであろうか。


                    図1 ある部分の拡大図

                     もちろん、これだけでも、この絵画の画家の技量の確かさは明らかであろう。だって、この画像はツィツィアーノの工房の作品の一部であるから。されこうべを抱える打ちひしがれた女性の画像である。これだけを見たら、基本的には、人生の死にまつわる虚無感を描いた作品であろうと思われるかもしれない。しかし、この部分から、この絵の全体部分の絵を知らずにこのツィツィアーノ工房の作品が何に関して書いた絵画であるのかと想像できるだろうか。

                     しかし、本記事の最下部の図2を見てもらいたい。

                     ツィツィアーノの作品は、幼児から始まり、成人になり、そして、後に死していく姿を描いた、人生というものの構造を描いた作品なのである。そして、誕生付近と死のシーンが近づけられていることで、この両者が案外近いのではないかという中世人の死生観理解が表れている絵になっている。

                     これをもし、上の図1だけで議論したら、どれだけおかしいことになるかはわかるであろう。その意味で、全体性というものが案外重要であるが、我々は、分析的思考に慣れ過ぎて着るために、このような細部だけを取り出して、議論して、全体であると理解する傾向はあると思う。

                     それが悪く出ると、聖書のある部分だけをある状態に当てはめ、あたかもそれだけかのような物言いにつながる可能性が十分にある。つまり、離婚を考えているという人には、この聖句、病気の方には、この聖句、悩みの中にある人にはこの聖句、家族のことで考えている人にはこの聖句と聖句の切り売りをして、あたかもそれが聖書からの教えであるかのように言う人々も中にはおられる。典型的には、我が家にご訪問をくどくいただいているエホバたんの皆さんは、最近それを手書きのメモでくださるから、ご苦労なことで、と感謝しつつ拝読させていただいている。わが身を振り返るのには、非常に良い鏡像を得た感じではある。

                    教会内パワハラ問題
                     教会内パワハラの問題は多数あることは、様々なブログを見れば明らかである。その昔、もう少し真面目にカルト研究をしていた時に、アングリカンコミュニオンの某教区を巡る諸問題やAERAで取り上げられた諸問題、このブログでも何回かご紹介しているI don't know who I amのブログでご紹介されている内容や、いろいろ話題になった茨城県県南にあった教会、京都にあったプロテスタント教会、浜松の方のカルト化した教会の問題、北海道の方のカルト化した教会の問題、沖縄のカルト化した教会の問題、など、いろいろ情報を集め、なぜ、このような問題が起きるのか、ということに思いをめぐらしたこともある。結局、一般化された答えはなく、あるとすれば、キリスト者になったからといって、神の前に書けある存在である問題(罪の問題)からは誰一人としてこの世界にあっては結局のがれえないということ位である。
                     また、ここ3、4年の間に、あちこちでパワーハラスメントの問題が大きな社会問題となってきているが、私の学び会に参加している人が、最近DVのシェルターを立ち上げたところ、宗教者の家庭でもこういう問題が少なくないことを知ったという。ところが困ったことにこうした問題に対応する窓口も相談機関もほとん どないというようなのっである。そしてもっと悩ましいことは、そういう問題があることを教団の外部に知られたくないとの意識が強いらしいということである。「罪の隠避は福音的でない」という発言はキリスト教界の閉鎖性、密室性の欠陥を素直に認めた上での発言であろうし、森和弘氏は第3者機関の指導を提案しておられる。(p.104)
                     皇室もストレスフルな世界であるようだが、それに劣らず、牧会社の課程もストレスフルであることは、Officeふじかけ さまのご指摘やMinistryの特集号などでも指摘されているところであり、そして、その問題は外部に漏れることがなく、内部で処理しそこなった挙句、問題が大きくなって社会的に取り上げられ、AERAで紹介された牧師のハラスメント事案のような形であると言える。カトリックの司祭のパワハラ、セクハラ事案に関しては、アメリカのカトリック教会を大激震させ、大きな影響が、カトリック関係者の中に出た。カリフォルニア州サンタ・バーバラのシスターの一部には、住んでいた修道院の土地を教会が賠償のために売り払ってしまったために、移転された方もおられたほどである。

                     確かに森和弘司祭が「罪の隠避は、福音的でない」というご指摘は、重要だろうと思う。隠避してしまえば、結局罪を抱え続けることになるので、本人も解放されないし、被害者も解放されないからである。このあたりは、告解の伝統を持つキリスト教の一伝統であるが故のこと、と思うし、そういう伝統を持たない福音派の一部が、福音的(どういう意味でか、は別として)であろうとすることにこだわり、宣教論的なコストベネフィット分析の結果、隠避しようとする傾向とはずいぶん違うなぁ、と感じた。まぁ、何でもかんでもあからさまにすればよいというものではないが、内部の問題は内部できちんとカタをつける、というのがまっとうな世間様の感覚だとは思っている。



                    図2 全体画像

                     まだまだ続く。





                    評価:
                    工藤 信夫
                    いのちのことば社
                    ¥ 1,296
                    (2015-06-05)
                    コメント:よい、

                    評価:
                    畑村 洋太郎
                    講談社
                    ¥ 596
                    (2005-04-15)
                    コメント:お勧めする。

                    評価:
                    戸部 良一,寺本 義也,鎌田 伸一,杉之尾 孝生,村井 友秀,野中 郁次郎
                    中央公論社
                    ¥ 823
                    (1991-08)
                    コメント:戦史研究を事例とした失敗学的考察。一読をお勧めする。今だからこそ。ひどい目に合うのは、結局民主主義体制の中で、意思決定にかかわったとされる大衆だったりはする。

                    続きを読む >>
                    2015.07.11 Saturday

                    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (27)

                    0

                      Pocket

                       他の本のご紹介や、他のイベントで面白いことがあり、書きたいことがあったので、ずいぶん後回しになったが、本日は久しぶりに『富士山とシナイ山』学ぶシリーズを再開したい。本ブログの最長連載記録を更新が確実となっている中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から、本日は、同書の15章「富国強兵」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

                      廃仏毀釈運動と明治政府
                       2015年2月に政治学の研究者の集まりで、戦前から現在までのキリスト教史的観点からの日米関係を特に戦後詩部分を中心とした研究発表をしたのだが、その場で、「明治維新は、革命なのか、革命でないのか」ということが話題になった。結論から言えば、政治学の立場から言うと、明治維新は、対外債務、対内債務を旧藩に肩代わりして支払ったので、革命ではないそうだ。徳政令があって初めて、革命とお考えらしい。政治学的には、そうなのかもしれないが、通貨を変え、宗教を変え、政治システムを変革したという現実は個人的には革命と呼ぶに値すると思っている。さて、前回もさらりとふれたが、廃仏毀釈が持った思想性について、触れてみたい。
                       こうした神仏分離の完遂は日本国民の宗教生活全般に大きな動揺を引き起こさずにはすまなかった。こうした国策に対して直ちに強硬な反対が興ったが、既存仏教当局は政府の圧力に抵抗する勇気に欠けていた。1871年10月17日、本願寺(親鸞創始の仏教)は仏教が阿弥陀と呼ばれる仏陀を崇拝することを示す声明を発表した。阿弥陀は別な名前で呼ばれて入るが、皇族の天在の祖先と同一である。知恵深さの視点から見れば、天乃御中主乃神(神道で天の中心にいます神)であるが、慈悲という面からみれば阿弥陀となる!しかし、この妥協的解釈には無理がある。日本の民間宗教研究の泰斗、柳田国男は明治政府には民間宗教に関する理解が欠けている、このため力ずくで宗教生活の総合的体系を人工的に作ろうとしたのだと指摘した。(富士山とシナイ山 p.291)
                       廃仏毀釈が行われた際に、結局、仏を拝んでいるのではなく、それは、神道の神を拝んでいるのだ、というウルトラCを行って、仏教と仏教徒を守ろうとしたといえるだろう。当時のこの選択は非難できないよなぁ。日本のキリスト教も、1940年ごろから、信徒たちを守るために、ということで戦争協力していくし。

                       しかし、まぁ、この連載の前回も紹介したように、聖徳太子(セイトクタコさん?)のころに、もともと仏教側に帰依したはずの当時の天皇ととその関係者と、日本の神々がおられて、葬儀すら仏教スタイルで行ってきて1000年近い年数を経ていたのにもかかわらず、いや、日本の神道的な神の方が偉いし、ということで、ニルヴァーナにいてこういうことと関係のないはずの仏の皆さんが、「天乃御中主乃神は悟りを開いている神であり、その悟りを開いた状態は仏と呼んでよいかも?」という一種の詭弁的な方法論を展開しているかもしれない。その意味で、仏教的には、キリストも悟りを開いた人という意味で、仏の一人として認定される場合もありそうだけど。個人的には、この辺、何がおかしいのか、どこがおかしいのか、ということを個人的でもいいので、一応考えないといけないと思ってはいる。


                      ビリギャル予告編

                       しかし、柳田国男先生は、鋭い。「明治政府には民間宗教に関する理解が欠けている、このため力ずくで宗教生活の総合的体系を人工的に作ろうとしたのだ」とおっしゃっておられる。しかし、民間宗教に関する理解もなければ、あるいは民草(たみくさ)のことを理解せず、上から一方的に民草に新しい国家神道という天皇の周辺にいる方に都合のよい人造宗教を押し付けた、といえるかもしれない。

                       そのために、教育機関がその人造宗教のためにフル活用されたのが、お若い方はご存じないかもしれないが、各学校におかれた御真影と、教育勅語と奉安殿(ないし奉安箱)である。


                      御真影

                      奉安箱 (寺院唐破風風なのが何となく微妙感が漂う)
                      三芳町立歴史博物館様のサイト
                      から拝借

                       しかし、上の唐破風風屋根の付いた奉安箱には笑ってしまった。切妻式の神道寺院の模倣ではなく、仏教寺院風の屋根形式を持っているところが、結局、明治になっても、仏法が民草の中では、結局1000年以上の歴史の中で尊いもの、価値のあるもの、という意味での一種の威力を持っていたということの証左なのであろう。

                      社会改革と社会主義者

                       進歩的仏教徒という表現にちょっとびっくりしたが、明治や大正のころの仏教というのは大変面白い。チベットに仏教のオリジナルを求めていったり、築地の本願寺寺のようなインド様式の仏教寺院を作ったり、と非常に画期的な仏教があった。今で言えば、フリースタイルな僧侶たちを出している方々や、ネットでの布教活動(辻立ち説法)しておられる彼岸寺の皆様も、政治的ではないものの、新しい形の画期的な仏教を目指しておられると思う。


                      築地本願寺




                      フリースタイルな僧侶たち(尼崎で神官、牧師、仏教僧でやっているラジオ放送の特集)


                      彼岸寺のサイト

                       まぁ、上でご紹介した様な、現代の確信的で革新的な仏教徒の皆様は、以下で紹介する小山先鋭がおっしゃる意味での仏教の堕落を批判しておられるわけではないと思う。必ずしも批判しているわけでない、でも新しい試みをしてみたい、というその辺が、ある面、かっこいいと思っている。
                       仏教の堕落を批判し、自分は社会改革に強い関心を持つと明言した進歩的仏教徒たちは、とりわけ天皇制イデオロギーが仏教的な霊的生活にまで侵入してきたことを批判し、社会主義者との友好な関係を確立しようと試みた。政府は直ちに弾圧策を取った。(同書 p.291)
                       このあたりのことを見ていると、明治期ではないが、吉野作造とその周辺の人々のことを思い出した。このあたりのことは、最下部にしめす、キリスト教史学会編の講演録「植民地化・デモクラシー・再臨運動」をご参照になられるのが良かろうと思う。

                       まぁ、社会改革とか、社会の変容を考える場合には、非常に革命思想とのつながりが強い社会主義に走らざるを得なかったというのは、仏教側でもキリスト教側でも致し方ない選択だったようには思うのだ。

                      新興宗教と明治政府
                       基本的に新興宗教は、かなりの面で、日本政府ともめている。宗教弾圧といってよいほどの国家との対峙関係を迫られる。新興宗教でも、金光教や、天理教、大本教のような明治期の社会の歴史的断裂の中で新宗教は生まれてきたように思う。つまり、時代の不安定さに困惑する人々、あるいは民草の自己安定装置として新宗教は出てきたと思うのだ。

                       その意味では、1980年以降マスコミが取り上げるようになってきた新宗教(たとえば、このブログ記事にも時々出没していただく高橋代表の有限会社ライフスペース(あれ、有限会社だったんだ)や、「最高ですか〜」で有名になった福永法源さんの法の華三法行の皆さんやラエリアン・ムーブメント(ラエリズム)や麻原氏のオウム真理教や、大川総裁の幸福の科学などは、1980年代の冷戦構造の崩壊やバブル経済(これは、基本的に経済的構造の変容に伴う一過的な経済現象であったとは思うが)などの影響を受けて生まれたのだと思う。その中で、「清貧の思想」などという本も出された。

                       なお、これらを直撃取材した本に、『「カルト宗教」取材したらこうだった 』という書籍があるが、なかなか面白かった記憶がある。
                       金光教や天理教や大本教のような19世紀に出現した多くの民間宗教は、政府の宗教政策の権力に敢然と抵抗することができた。これらの民衆宗教ー上の三者はそのうち最も有名なものにすぎないーは複数の特性を共有していた。ある種の慈悲に富む「気高い神」への信仰がその一つである。それらは現世の暮らしの重要性を強調していた。個人と社会両面の癒しを目標としていた。それぞれ信じる神から啓示的信託を受けていた。悔い改めと実生活上の規律を要求された。
                       総じてこれらの信仰集団は1945年まで政府から迫害された。(同書 p.291)
                       ここでも小山先生は、「それらは現世の暮らしの重要性を強調していた。個人と社会両面の癒しを目標としていた」とお書きであり、ある意味で、人々の生活にとって極めて重要な現実的な世界の中で必要とされる具体的な癒しないしは救済論を持つ存在として発展してきたようである。その意味では、創価学会も一種そういう側面があるのではないか、と思っている。
                       つまり、この民衆型宗教は、上位下達型で国民にすべからく押し付けようとした明治政府公認の新興宗教(天皇中心的な人工的新興神道システム)に対抗しようとしたため、圧迫されたのだと思う。そして、それは自己正当化するためにも、あるいは自己の正当性を示すためにも用いられたような気がする。この辺が、新興カルトと既存社会の軋轢を考える際に案外難しい問題を生むような気がする。

                      新宗教への政府からの迫害

                       その具体的内容とそれぞれの新宗教側の対応に関して、小山先生は次のようにお書きになっておられる。
                       (金光教の)教祖の農夫、川手文治郎(1814-83)はこういったと伝えられる。「うろたえるな、世界初ねい変わりつつあるのだから。つらい5年間を待て」と。しかし1883年になっても圧迫は続いていた。政府は、金光教の神としてはウソはつかないと証明された神を採用したらどうかと提案した。しかし信者団の指導者たちは「そんな神は我々の神ではない」と拒んだ。天理教の開祖、主婦の中山みき(1798-1888)は生涯に18回投獄された。天理教の布教活動に政府から過酷な圧迫が加えられた。そのころ、みきはこういったと伝えられている。「お前たちが恐れているのは政府か、我々の信じる神か。どっちかを選べ」。大本教の開始、この人も主婦だが、出口ナオ(1836-1919)は現世を悪と見て、己の信じる神をこの悪しき世からわれらを救いだす神と見た。以上の3宗教はいずれも終末論的世界観を持ち、メシア待望の要素が濃かった。(同書 p.292)
                       なんとまぁ、島原の乱を思い起こさせるような対決姿勢である。しかし、「そんな神は我々の神ではない」と政府に言い放てた金光教の人々にしても、天理教の中山みきの「お前たちが恐れているのは政府か、我々の信じる神か。どっちかを選べ」というものいいにしても、結構ぐざぐさ来る。自分自身が圧迫しているときに「みなさんが恐れているのは政府か、我々の信じるシナイ山に降りたもうたYHWHの神か。どっちかを選べ」と、信者の皆さんに言えるかどうかを考えたら、結構しんどいなぁ、と思う。

                       結局、江戸末期から明治の初年に成立したこれらの新宗教は社会の動乱、不安定要因の中で、一種の定常点というか、不動点であるものを指し示し、霊性の安定化の焦点を指し示すことで、そして、社会の動乱、不安定さとを終末とを関連付けることで、信者を獲得していったのではないか、と思う。

                       英神父の2011年7月の「危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた のご講演(動画はこちらから)ではないが、キリシタンが織豊政権期に日本に広がったのもそうであったのであろう。社会の不安定要因から生まれた鎌倉仏教も、江戸末期のおかげ参りも、新宗教も、戦後直後の新宗教やキリスト者の急増(そして、現在の教会が70₋80前後の人がやたらと多い原因となり、キリスト教書が売れなくなり、入手困難だった前週本が中古で出回る近年の傾向につながる)も、1980年前後の新宗教も、キリスト教での再臨ブーム(最近、リーマンショック後の日本でそれが再燃しつつある)も結局、社会の不安定要因に対して、どう折り合いをつけるのか、ということと深くかかわっていることを思う。それがすべてではないにせよ。このブログで、異論を申し上げているディスペンセイション主義的聖書理解も結局は、1800年の(フランス革命の波がヨーロッパを覆っていた時期)後の社会不安の中で、保守的性格の強い辺境でもあるアイルランドで形成されたし、ムーディの活躍も、南北戦争後の分裂したアメリカとアメリカ社会の不安定要因の中で、生まれてきたという側面は忘れてはならないだろうし、ムーディがかなり強い影響を受けているとみられるディスペンセイション主義を採用したのも、アメリカの社会不安を背景とした終末思想がきいているような気がする。こういうことを書くと、われわれの聖書理解に…と怒りだす人たちはいそうだけれども。

                       まだまだ続く。




                      評価:
                      小山 晃佑
                      教文館
                      ¥ 4,104
                      (2014-09-12)
                      コメント:絶賛ご紹介中である。

                      評価:
                      藤倉 善郎
                      宝島社
                      ---
                      (2012-08-10)
                      コメント:なかなか面白かった

                      Calendar
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      262728293031 
                      << July 2015 >>
                      ブクログ
                      G
                      Selected Entries
                      Categories
                      Archives
                      Recent Comment
                      Links
                      Profile
                      Search this site.
                      Others
                      Mobile
                      qrcode
                      Powered by
                      30days Album
                      無料ブログ作成サービス JUGEM