2015.06.01 Monday

2015年5月のアクセス記録とご清覧御礼

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      今月は、適当にいろいろ混じりはしたのですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。18000弱。 平均で、日に600アクセス弱。

     2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
     2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
     2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
     2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)

     2015年4月  18271アクセス
     2015年5月  17612アクセス

     今月のピークは、1334アクセスだった4月30日で「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(1)  を公開した日。


    それでは、以下、今月の上位5位まで。

    緊急公開 神学ALG KOBEクリスチャンライフセミナー ユース:クリスチャンの本音トーク恋愛→結婚→家庭編 水谷潔先生 講演録
      479 アクセス

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
      414 アクセス

    「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(1)  355 アクセス

    緊急公開第2弾 いよいよ来るぞ。本丸の姿が今明らかに!
      315 アクセス

    緊急公開 信仰という人間疎外とその後 その前に
    293 アクセス

     いやぁ、相も変わらず、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由  が2番手に来ているあたりが、日本のキリスト教界の界隈の悲壮感を漂わせるようで、つらいですね。

     あと、なぜ、キリスト教ブログなのに、「仏教思想のゼロポイント」が上がっているか、というと、実は著者の方とは、友人のご紹介でお友達だということと、仏教に関するミーちゃんはーちゃんの誤解を解くのに非常に有効だったので、ブログ記事上げました。それだけです。

     今月もご清覧感謝。また、来月もよろしくご高覧、ご清覧のほどを。来月も、絶賛紹介中である富士山とシナイ山に主に取り組み、日本の霊性をめぐることを中心に考えてみたい。今月でシリーズ終了と致したいと。




    2015.06.01 Monday

    南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(4)聖書と科学2

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       この記事は、前回の記事 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(3)聖書と科学1 (2015/05/30) からの続きである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。

      チャールズ・ホッジ先輩の見解
       チャールズ・ホッジは、「科学は進歩し、宇宙理解は科学によって進展する」と考え、聖書が教えている教えの新しい理解、解釈の可能性を示した。プリンストン神学校の歴史を書いたカルフーンは、ホッジは「地球がさらに古いという理論を作れるなら、私はそれに合意するだろう」としている。1863年にホッジは、「御言葉と科学の間には調和がある。神の啓示が聖書で真実であるように、自然においても真実であり、みことばで解釈すべきであって、科学で聖書を理解するときもそうであるべきである」としている。ホッジによれば、二つの悪を避けるべき、聖書の真理を無視した科学理論を打ち立てる悪と、科学的な真理と矛盾する解釈に固執する悪があるとしている。ホッジに代表される科学に関する理解は、福音主義の科学者に聖書と自然理解の調和を目指すものであった。


      チャールズ・ホッジ先輩

       クリスチャンの地質学者の内、キリスト教理解に立つ地質学は圧倒的立場となって、原理主義的な地質学者(おそらく当時の地質学的知見に固執する地質学者)と立ち向かうことになった。

      ダブニー先輩の見解
        科学理論に合わせるために聖書を再解釈するという傾向には、批判があり、南部の長老教会の神学者は、このような傾向に南側の独立戦争の開始前に警鐘を鳴らしている。代表的な論客は、バージニア人(南部人)のロバート・ダブニーであり、彼はジャクソン将軍の軍事顧問であった。 

       Southern Presbyterian Reviewの1861年の7月号で、ダブニーは、モーセによる記述に敵対的な仮説を出している人こそ、立証責任があるとした。モーセの記述どおりという理解を撤回する必要はなく、それのみが唯一の真理と証明されるまでは、仮説としておいておけばいいということを指摘し、この理論に関して不確実性の可能性を指摘した。なお、彼は、ベーコンすら批判しており、推論は正しさの可能性に依拠しているのではないかと指摘している。

      Robert Lewis Dabney.jpg
      ロバート・ダブニー先輩
      (ミーちゃんはーちゃん的感想
        この辺、推論は全部だめで、証明されなければならない、ということに関して、それは近代の科学的な方法論点から言っていくつかの問題があるのではないか、 という突っ込みをしてみたかったけどやめときました。ご講演者の方は、お立場として語っておられるとして受け止めました。)

        ダブニーは、創造者と創造をみとめるなら、自然との類比における真実性を認めるならば、具体的な創造の方法が特定できなくても問題ないのではないか。論理で推測することは非常に困難であり、そもそも文字による歴史的なことが始まる前のことを類推するのは困難であることを指摘した。ダブニーはJames Woodrow(ウッドロー・ウィルソンの親族)とは、数十年にわたって神学上の議論を交わす相手であった。

      ウッドロー先輩の見解

       彼ら二人は、進化論を巡る議論に引き込まれ、ウッドローは、アダムのからだは進化を遂げたものだ、という論文を公刊した。ウッドローの考え方は、あらゆる科学に影響し、生物学的進化にも影響し、教会と創造論に影響していった。


      ジェームス・ウッドロー先輩

      Woodrow Wilson (Nobel 1919).jpg
      ウッドロー・ウィルソン先輩
      http://www.pankin.com/pleasure/wwbridge.jpg
      ウッドロー・ウィルソン大橋(ワシントンDC)

       このような地質学の議論は、論戦の第1ステージとでもいうべきもので、19世紀には、進化論を巡る議論になる。
       17世紀を通して、長老教会における地質学的関心は高かった。今日も発刊されているクリスチャン・オブザーバーという長老教会の雑誌には、いくつかの論文が掲載されており、これらの論文が掲載されたことから、いくつかの結論が導かれるだろう

        1)地質学は論争の原因を含んだ学問体系である
        2)科学に対する関心は、牧師たちだけでなく、
          一般でも高かった
          相当専門的な記事があり、それが一般紙で議論されていた
          (科学万能時代)
        3)大半の南長老の著者は、かなり古いという点は合意
        4)科学的な発展を無視するのは教会にとって損失であり、
          世間から哄笑の種になると考えていたようである
        5)創世記の前に、創造があったとする説がある。1日の理解を
          どうするか問題、地質学と聖書理解を合致させる傾向が見られた
        6)古い地球を受け入れていたが、進化論を受け入れてはいなかった
        7)地質学上立場を弁証的に理解しようとした努力が見られた


      創世記における一日の長さを
      どう考えるか問題

        20世紀、21世紀に入ると、モダニストとの対論がより激しくなり、内部での理解の対立、教会外の人々との論争が起きた。教会人のうちいくらかの人々は、キリスト教信仰の原理主義的なものを棄てることにもなった。創造における日数、様々な生と死の教理に関する福音そのものに関するものも、色あせたものになってしまう。

       モダニスト、原理主義者との対決の中で、長老主義者たちも、創造に関して、その日数の長さがいかなるものであるかということは、議論はなされなかった。解決積み問題であるとされていたからである。伝統的な長老主義者たちは、1936年にはこの問題は議論にすらならないとしている。

       長老主義者にとって、一日を1世代とする立場もおり、また、一日を一日とする立場のものもあった。OPCのメルディス・クレインは、フレームワーク仮説を主張したが、クラインの主張は、創世記1章における日数は、文字通りの24時間という意味ではなく神の創造のみ業の詩的表現ではないかとした。

       1937年分裂では、Bible Presbyterian ChurchがOPCと分離し、さらに、このBPCも、別れるEvangelical PCと分離し、1956年、この分派の多数派は、1961年EPCと改名する。さらに、この多数派の人々は、1965年にRPCNA General Synod ERCESを形成する。そして、創造理解は、Day Age Viewで理解することになる。カベナント神学校(セントルイス)では、1日を1世代説にに大きく影響されていた。つまり、一日を長い時代(AEON)と見たのである。

       2002年には、RPCNAはウェストミンスター信仰告白における創造の理解の意図は、6日の内にの表現は一日は24時間である想定していることを発表した。しかし、24時間でない説の人々も受け入れるし、それを原因として任職拒否や戒規の対象とはならないこととなっている。

       1973年に、PCUSからPCAの教派的な離脱の意義の一つは、進化論を受け入れるかどうかという点であった。しかし、日の長さを多くの普通の信徒は、6日だとは思っていたし、牧師もかなりの部分、そう理解していた。ある面で、正統性をチェックする基準もない。1982年に南部の長老派から離脱した人々であるRPCESが合併するときにこの理解の正統性が問題とはなったが合併の段階ではDay Age Viewということを言うことに関する議論されなかった。
      NJ中会に対する不満が議論された時、24時間が一日というのが問題視(NJの唯一の解釈ではないとした)、字義通りの24時間1日説を否定したことを問題視された。このことで、定期停会の司法委員会で紛糾し、1日24時間以外の説を唱えたNJ中会の立場を否定しないのが多数派であり、必ずしも、一日としないという理解を受けとめた。多数派レポートと少数派レポートを聞いて、多数派を受け止めた。2:1でNJ中会への非難決議が却下された。

       1998年このことを受け、創造論部会が創設され、創世記1−3章に関する聖書的、解釈的、神学的解釈の研究がすすめられ、ウェストミンスター信条における6日の間の原意を研究し確定する努力が行われた。

       Greenville神学校では、神学研究会議での6日間か?ということが議論になった。
       4つの見方があり、
      1)    文字通り6日説
      2)    1日1世代
      3)    フレームワーク仮説
      4)    アナロジー的な一日理解 Analogical Day
      が述べられた。

       Analogical Dayとは、PCA の St Luisにある神学校のJack Collinsによる、割と新しい理解である。一日とは、神のWorkDayのことであり、文字通りの24時間と限らず、神のリズムの中での区切りの概念である。

       2000年、創造部会が結論を出すが、その結論は、一日の理解に関して、4つの理解があるが、その議論をまとめた情報をすべての人が手に入れられるようにするべきであること、2年間、この議論を留保し、新しい決議をしないこと、とした。

       定例大会は、歴史的には、改革派信仰では、神学者によって主張されたことから、多様性を認めてきた。定例大会はこの立場に立ち、多様性を認め、歴史的な創造の事実を認めている限りは、これ以上の議論は留保するという立場は、きわめて重要である。

        創世記1章は、聖書の最初の章でもあり、聖書理解の根幹をなすものである。神が創造者でないとしたら、福音を評価できなくなってしまう問題が発生するし、神は旧約聖書の時代から真実に啓示しているかという問題となり、聖書の根幹を崩しかねない。歴史的に創世記は正確な表現かを議論し、仮に聖書の記述が歴史的でないとしたら、他も崩れ、何を信頼しているのかということになり泣けない。特別啓示を自然啓示あるいは限界のある科学の視点から解釈されうるかという問題があるし、その妥当性は問われることになるのではないか。

       CRCNA(オランダ系改革派)に起きた神学的崩壊を知っているなら、自然啓示に解釈を認めるのは、合理主義やリベラリズムになってしまいかねないことは理解できよう。 CRCNAが同性愛を認めることや女性教職の按手、異なった聖書解釈によるのではないか。聖書が言う記述から外れることで、重要なことまでもが影響されることになりはしないか。

      (ミーちゃんはーちゃん的感想
       ここまで、オランダ改革派のことを言わんでもいいやんか、とは思った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いみたいなもの云ひのような気がする。)

      いくつかの結論
       長老主義者の科学への興味があった。より具体的には、

      1)    すべての造られたものは、神の働きとその栄光を示す。
      2)    科学は宗教のはしため(弁証学)

        スコットランドのコモンセンス哲学 Common Sense Rationalismになった。このなかでも、Samuel Millerは科学は不十分であるとしたし、Charles Hodgeは、みことばを自然啓示というよりは科学を通して解釈しようとするなど、かなり多様な立場が見られた。

       自然啓示と特別啓示の関係は、地質学の立場で聖書を理解できうるか、という問題である。2001年のPCA定期大会で、北ジョージア中会からの提案を却下している。この提案とは、一般啓示にある科学的証拠を研究することで教会が神の創造に関する統一的理解するための研究をするという提案であった。この提案に対する否定的見解は、一般啓示を用いて理解することは、ウェストミンスターに反するとした。しかしながら、全員が定例大会を支持しているとは言えない。その多様性の中で受け止めるべきものであろう。
      (ミーちゃんはーちゃん的感想
      結局、改革長老派では議論しつつも多様性を認める、そして、これが原因となって、改革長老が離合、分裂、合併ということが多数行われたということだけはわかったが、なんか大山鳴動して、という感じはぬぐえなかった)

       長くてすみません。

      感想
       科学と信仰の関係は、英国や欧州ではあまり議論にならず、米国では社会を二分する大きな政治問題化する。というのは、恐らく、英国や欧州における多元的対話の世界ではなく、そもそもが正しいか誤りかという白黒決着させる議論の方法論が、国民性の中にしみついており、そのことが、教育という分野や医学の問題などで政治問題化しやすいということなのだろうと思う。典型的には、スコープス裁判などは実際には、州の教育プログラムとして進化論のみを扱うのはいかがかという議論であったものが、いつの間にか、議論の論点がずれてしまい、進化論が正しいか創造論が正しいかという議論のすり替えが起きているのである。残念なことではあるが。

       なお、中絶問題は、プロライフ(中絶反対)にせよ、プロチョイス(中絶容認)にせよ、本来的には、一種の医学の可能性と医の倫理問題として始まった議論ではあるが、これが政治問題化するところがアメリカではある。

       こういう法廷における正邪あるいは正しいあるいは間違いを決めていこうとする2元論的な思想がアメリカであり、その中におけるグレーさをあまり認めないがないのが、日本という國であり、裁判で認められたものが全てになってしまうというのが、アメリカという國なんだろうなぁ、と思う。このあたりのことは、深井先生の『神学の起源』や、森本先生の『反知性主義』をお読みいただけると、お分かりいただけると思う。

       18世紀から21世紀は、近代という思想が支配した時代であり、科学の時代であり、ユニバーサルであること、つまり、一様に同質的な普遍性が当てはまるものという前提が支配した時代であった。それが本当に妥当しているかどうかということは議論されることなく、与件、前提あるいは公理として想定され、どうも議論が行われたように思う。

       本来的には、議論は白黒つけるものではなく、より真実と思えるものに接近するためのものであるが、日本でも、米国でも、議論を白黒つけるものとして理解しようとしておられる人々が一定数居られて、裁判で勝ったら何でも正しいのだ、とか、無茶なことをおっしゃる方が案外多いのが実に残念である。それこそ、木を見て森を見ずどころか、落ち葉を見て森を水の義論だと個人的には思っている。



      評価:
      サイモン・ウィンチェスター
      早川書房
      ---
      (2004-07-21)
      コメント:良い。こういう本がずっと出る国であってほしいと思う。

      評価:
      深井智朗
      新教出版社
      ¥ 1,944
      (2013-05-31)
      コメント:良い。ご紹介しております。

      評価:
      森本 あんり
      新潮社
      ¥ 1,404
      (2015-02-20)
      コメント:アメリカ人の言動の背景がよくわかる。

      2015.06.03 Wednesday

      南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1

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         今回も南部の長老教会の関係者のSmithさんという方の講演会に行ってきたので、その方の講演の中から、礼拝についての部分を現場で取ったメモをもとにした、講演会参加記を記してみたい。恐らく、このシリーズは、あと3回続きそう。

        賛美についての規範的原理
         カルバン派の伝統の中伝教理の中でも、礼拝の規定的原理については議論が多かった。改革派の中でもたくさんの文献がこの数十年出ている。賛美の形式に関しても、教会の中で様々ん議論がある。改革派のすべての人々は、礼拝の原理を守っているわけではない。賛美に関する規定的原理とは何か、という改革派の中での概観の前に、賛美の規定的原理とは何か、について触れていきたい。

         改革派以前と改革派以降の信条において、賛美に関する規範的原理という概念は出てこない。この概念は、20世紀なるまで登場しないが、改革派の賛美に関する基本的な原理を要約しているものである。礼拝の規定的原理は単純であり、何が命じられているものであり、それは神の命令とも受け取ることが出来よう。

         カトリックであっても、聖公会、ルター派の人々のように礼拝において、禁じられていること以外ではかなり揺れ動いている。改革派的な賛美の規定的原理は、聖書で明示されたことに制限された礼拝の様式論である。礼拝の規定的原理は、様々な方法で示されているのではない。むしろ、賛美における実際の行動と、様式を規定している。ルター派とは異なり、かなり保守的な姿を守っている。ピューリタン運動中、この原則は確立されたものとなった。

         ウェストミンスター信仰告白での規定にもあるように、賛美の規範的原理は、キリスト者の自由と良心の自由とかかわっている。そのほかの改革派信条の中での規定的原理がある。ハイデルベルグ教理問答集における第96問をもとにあることを考えるべきであろう。

        長老派の信仰の変容

         このような信条や16−17世紀に改革派書信条は確立され、18世紀の改革派は19世紀が始まる頃までにはその妥当性を問われることになった。というのは、ヨーロッパおよび北米での敬虔主義の台頭があり、改革派信仰に影響を受けた「ニューイングランドが丘の上の教会の役割を示す」という主張されたは有名だが、しかし時代の経緯とともに、その確立されてきた信仰そのものが失われていく。特に、スコットランドの分離派の中から、アメリカ長老主義に影響があり、教会論的混乱が生じた。従来の信仰を堅持しようとする動きは起きたが、それと同時に他の従来には見られなかった考えも生まれてきた。

        世俗主義の台頭
         世俗主義の台頭が起き、アメリカの長老主義はウェストミンスターの再解釈による多様性、多源性への寛容が発生してきている。神の統治は全世界における普遍的なものであるが、全世界的に適用されるものは一つであるものと感がられたが、そうであっても、長老教会の礼拝理解の中に有害なものが入ってきた。
        (ミーちゃんはーちゃん的感想
         しかし、有害、とか言わんでもいいじゃないか、と素朴に思った。有害とするかどうかは立場によると思うけれども。ある立場を堅持するという視点からは有害であるが、それについていきかねる人々にとっては、有益なような気がしたが)
         リバイバル運動の影響が改革長老派の中に入ってきた。霊的な高揚を求めていくものが出てきたことの反動として、教理的な原則を崩していく傾向が見られた。合理主義の台頭は聖書中心へのチャレンジでもあり、人間の側に引き寄せるヒューマニズム的な動きへとつながった。
        (ミーちゃんはーちゃん的補足
         リバイバル運動は、一種の庶民における宗教的情熱で、社会の割と上層の社会階層の人が占めた長老派からは、あまりよく思われていなかったふしがある。ある面、18世紀の西部開拓時代に文字が読めるバプティストである、と揶揄されたメソジスト派や靴を履かないメソジスト派と揶揄されたバプティストの人々を中心とした運動でもあり、森本あんり著「反知性主義」の主要なキープレーヤーの人々である。とはいえ、長老派もその出発の段階で、ジョナサン・エドワーズ的な伝道方法をとっているので、反知性主義的な側面を持っていないとは言い切れない可能性が大である。この講師の方は、リバイバルとか大嫌いなことはよくわかった。そこまで言わんでもいいぢゃね?とは思ったけど)



        リバイバル運動の極度の興奮状態を描いた版画

         古典的な長老教会の伝統の中にあっても、合理的理由付けの側面から考える傾向が見られた結果、原理的なことが失われた。詩篇のみの賛美、無楽器派的な賛美は、忘れ去られかけていった。
        (ミーちゃんはーちゃん的補足
         今回、改革長老派の講演会に参加させていただいて、詩篇歌なるものを初体験したのだが、詩篇歌といっても、メロディはどっかで聞いたことのある讃美歌のメロディであり、その歌詞が原則詩篇であり、人間的な表現「我々は天国に行こう」とか、「信仰を保つために何でも捨てるつもりがある」とか言った表現がないだけである。お知り合いのE先生が詩篇歌、詩篇歌というので、よほど特殊な讃美歌だと思っていたが、そうではなかった)

        改革長老派の皆さんの詩篇歌

         長老教会は、他のキリスト者集団や社会から影響されてきた。福音派的なものの影響も受けたし、ロマンティシズムの影響も受けてきたる。ある面では、アングリカニズムの典礼重視志向に向かっていく。北部において、リベラリズムの影響も受けている。保守的な人々は、教派をまたいで活動するが、礼拝の具体的なありようよりも重要なことがあるのである。というのは、様々な影響を教理が弱められていくのである。20世紀の終わりまでに教派内で礼拝の教理の再検証の動きが発生してきた。1940年以降、礼拝の再検証が起きた。また、1940年代までに改革派の教理が弱まっていくという懸念が強く生まれてきた。

        改革長老派の中の多様な礼拝に関する動き

         カルバン派の教えは名目的なものになっていった。保守的な人々は、神学的な根源を探られていくことになった。アメリカ北部の正統的長老教会でこのことはみられた。1920-1930年代はPCUSAは、モダニストとファンダメンタリストの間の論戦に巻き込まれていくことになる。典型的には、メイチェン先輩がその代表的存在である。メイチェンは、リベラル派から教派を追われ、免職され、正統長老教会へ移籍する。このメイチェンの関係者たちは、正確で、厳密かつ注意深いグループであった。OPCは基本的に研究委員会で論争に対応し、考えてきたのである。


        Machen先輩

        キリストの処女降誕 これの前の版を持っている

        Machen先輩の名著 入門者向けギリシア語 これで勉強した


        ジョン・マーレー先輩

         あるいは、ジョン・マーレーがこの派の人の一人である。自由長老教会で育って、礼拝と安息日の順守を重視した。特に、霊感された賛美と無楽器派賛美されるべきとした。このような議論の中で、公的な礼拝の中では、霊感されてない詩篇歌以外の賛美歌も歌ってよいのかという議論が起きる。OPCの委員会が設置され、1946年に礼拝の規定的原理に関する報告書が出た。この礼拝の規定的原理に関する議論に関して委員会が2分され、多数派と少数派の報告書が出た。マーレーとヤングは少数派で、霊感された歌のみに限定すべきだとした。これに反し多数派の代表的存在のマースデン(有名なマースデンの親父殿)は礼拝の中では讃美歌は歌われてよい、とした。この中で、礼拝の規定的原理という語が使われた。少数派は、多数派が前年の委員会の決定をひっくり返すし、この規定的原理を崩していった。しかしながらこの動きは聖書的な根拠を欠いている。数年後マースデンも少数派と同じ結論に達した。

        George M. Marsden
        マースデン先輩(お子さんの方でミーちゃんはーちゃんが読んだ本の著者)

        この本は面白かった。おすすめ。

        賛美と祈祷の関係

         賛美と祈祷は本質的に同じであると講演者は考える。OPCは賛美と祈りを混乱させたのではないだろうか。その結果、礼拝の要素が混乱してきた。ウェストミンスター神学校の学者より、他の信者の理解を優先することになったのではないか。

         PCUSAの中から保守的な人たちが除名された時、この問題と正面切って向かい合うようになる。様々な論文がサザン・プレスビテリアン・ジャーナルの神学論文集の中に見られるようになった。そして、PCUSAと南長老派との合併に反対するような論文がなども出てくるようになった。PCUSAに代表される北長老教会は、ウェストミンスターに関する扱いはかなり緩いものであり、このまま合併すると。南長老が正統的な信仰から離れるのではないかという懸念が表明された。ハフ教授は、儀式に熱心で聖書に示されたより霊的な礼拝をすべきであるとした。このような詩篇歌軽視の傾向は、世の中の動きに巻き込まれていった結果ではないかと指摘している。

         人々に好まれる礼拝へと移行する誘惑に巻き込まれる可能性が出て、より世俗的な動きになり、よいショーのようなものと合致するものにするという危惧がある。


        ショー化した教会が行き着いた先の不祥事がこんなんかな?
        CNNで報道されたテレバンジェリストの皆さん 実に残念である。

        Vos先輩父子

         教会は、公的礼拝を考えるべきだ。神に喜ばれることは何か、という研究をすべきではないか。アハブがしたような奇妙な祭壇を築くのではなく、悪い傾向を捨て去るべきだ。ヨハネスボスは、J.G.VosはプリンストンのVosの息子であり、贖罪の歴史を研究した人物であるが。Vosの立場はメインライン教会から北米改革長老教会へ移るという結果をもたらした。また、ペンシルベニアの北米改革教会のジェノバカレッジへ移籍した。Vosは、アカペラ賛美の代表的人物であり、礼拝における規定的原理の勝ちが人々に確信させられなければ、誤った礼拝、礼拝の習慣なものになるとし、保守的な礼拝の形態を守ろうとした。


        Vos(父)

        http://bluebanner.org/gfx/vos.jpg
        J.G. Vos(息子)

         聖書の偽りの礼拝とは何か?結婚の誓約に反したような旧約聖書の不実な妻のようではないか。J.G. Vossは正しい礼拝のスタイル維持しないと、妥協にいたり、偽りの神に仕えることになると主張した。1950-1960年頃、改革派の正しい礼拝への覚醒が起き、多くの教会人は、カルビニズムに回帰した。

        (ミーちゃんはーちゃん的疑問
         なんで、回帰したのだろうか?聞き忘れた。でもおそらく当時の世俗音楽への反動ではないか、と思う)


        改革派内の復古現象

         イギリス由来のバナーオブトゥルースが登場し、16−17世紀の本を再発行する形で、ピューリタン文章の紹介をしたり、現代の著作家も出版し始める。歴史的なもの、ピューリタ二ズム的な文書や歴史的な文章などを数多く出版し、教会とは何かを示した。そして、この出版以降に伝統が見直されることになる。

         そして、改革派の礼拝と長老派の伝統に関する神学者の研究が推進されていく。ウィリアム・ヤングはOPCでの少数派の意見書の署名人であるが、彼は、ロードアイランドなる大学の哲学の教授であり、クリスチャンオピニオン誌で論文を公表しており、17世紀のジョージ・ギレスピーなどの著作に影響を受けた。神学的著作を引用しながら、礼拝の規定的原理を明らかにした。


        このおじさんがWilliam Young先輩らしい


        ジョージ・ギレスピー先輩
        Rev. George Gillespie

         その中で、彼の主張は、聖書の本質的有線であり、聖書のみが誤りなき基準であること、神の主権が表明されるべきこと、また、人間の全的堕落の結果、人間的なものは神に受け入れられないこと、また、キリストの王権性が賛美されるべきことなどであり、教会統治などを教会は新しい方法としてつくってはならないということである。

         人間的な諸要素は、偶像崇拝の問題へとつながり、出エジプト20章の第2戒に抵触するものである。人間が生み出したものを賛美に用いることは偶像崇拝へとつながる可能性がある。これの類例は、旧約聖書に多数みられ、エレミヤ7:31では、高いところをベンヒノムの谷に作ったという事件がある。このことは、人間の思想に基づく礼拝は、罪の結果、数多くの悲惨を生み出すことを教えてはいないだろうか。人間の思想に基づく礼拝を次々捜索していくことは、神の命じられたことではないし、みこころにかなわないことであろう。ほかにも数多くの事例があり、創世記4章内の、カインとアベル事件、ナダブとアビブ事件、異なる火による祭儀の問題、民数記20章におけるケデシュ事件、第1サムエル13章におけるサウルが勝手に礼拝しちゃった結果、神の前から退けられる事件や、ダビデが神の箱に触っちゃった事件など、非常に多く見られる。


        感想
         まぁ、改革長老派の皆さんは、非常に詩篇による賛美歌がお好きで、それこそ、正しい賛美だとお考えであるいうことは、「参りました」というくらいよくわかりました。

         それと、議論好きというか論争がお好きというか、何かあると委員会作って、論争し、決着がつくかと思えば、それで決着がつかず、レポートという意見書みたいなものを作って、場外乱闘してはるし。いやぁ、議論における場外乱闘がお好きなウェスレー派の牧師先生とお友達(実は一つ下の高校の同窓生w)なんだけど、それ以上に、議論の世界におけるプロレスしてはるなぁ、と改めて感心した。

         まぁ、それと、詩篇歌といっても、グレゴリオ聖歌のような讃美歌ではなくて、ごくごく普通の讃美歌であったので、へぇ、という感じを抱いたのもまた事実。じゃぁ、そのメロディの正統性とかどうやって保証するのかなぁとか思いました。そのうち、ぽにょのメロディとか、「さんぽ」のメロディに乗せた詩篇歌とか、出てきたら、って考えてしまうと、何が伝統的で正統的なのか、って思わず考えてしまう。

         後、聖歌というか、賛美歌なんかで、やたらと戦闘的な讃美歌があるけど、あれを起点に聖書理解をくみ上げる人たちもいるからなぁ。


        Onward Christian Soldiers マライア・ジャクソン(歌) 
        しかし、こういうアフリカ系アメリカンの体格の良いお嬢さん方に囲まれたら、どうもすみませんでした、って言いたくなるよね。

         まぁ、この間、日本国中のあちこちで油まき散らした人の精神性もこれに近いのかもしれない。自分は主の兵士だ、だから、攻撃しまくってやる、って感じだったのかもねぇ。あぁ、頭が痛い。



        Give me oil in my lamp 


         神様からもらった油はご自分でお持ちのランプの中にどうぞ、お止めいただいて。
         油は外でまき散らすものでもないような気がいたします。炎上するなら、どうぞお一人で炎上していただいて、と存じます。

         まぁ、ものは見様ということはあるが、以下の讃美歌の歌詞だって、実はかなりギリギリの線ではないかと思っている。以下の讃美歌から妄想して、「シオンの山にオラ行くだ」といいだす人たちはあんまりいないかもしれないが、この聖歌にインスパイアされて「天国はほら、シオンみたいなところで、そこに向かって登っていくの」とか言いそうな人が居そうな気がするしなぁ。最近の山崎ランサム和彦さまの連載、じゃないけれど。





         詩篇歌でなければならない、というほどに個人的に讃美歌にこだわりはないけど、個人や集団の霊性に対して、讃美歌のもたらす影響は結構重要だなぁ、と改めて思った。まぁ、日本で、以下の3曲に霊性を感じる人って、どのくらいいるのだろうか。国民性もあるしね。


        Swing Low Sweet Chariot
         アフリカ系アメリカンのスピリチュアルソング


        God Bless Africa (Xhosa語だそうで)


        しかし、2曲目(2分30秒あたりから)がすごい。
        もう死もない、って南アフリカのアパルトヘイト時代を考えるとね。




        評価:
        ---
        Oxford University Press, USA
        ---
        (2006-01-13)
        コメント:大変面白かったです。英語も読みにくくはない。アメリカの原理主義とその社会の繁栄を考える上では、重要な1冊ではないか、と。

        2015.06.06 Saturday

        NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その1

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           新連載を始めます。先週NTライト氏の『クリスチャンであるとは』という本が、上沼昌雄さん訳で、あめんどうから、出版された。これから何回かにわたってこの本の中から紹介してみたい。

           今日は第1章 この世界を正しいものに から 途中まで。

          義について

           若者は、義を求める。Justiceを求めるからこそ、ディズニー映画はできるのである。典型的には、Hunchback of Notre Dameというディズニー映画があるが、その中で、ヒロインがJusticeを叫ぶシーンがある。まぁ、ロマ人とヨーロッパの教会の黒歴史を語り始めると終わらなくなるので、詳しくはご自分で調べてほしいが、中世から近代において、ロマ人は流浪の民として社会の片隅に置かれてきた。




           このロマ人少女の叫びと同じように、Justiceは、これまで世界のあちこちで求められてきた。
           正しさ(義 原著 Justice)を願う私たちの情熱も、多くの場合このような(夢に描いて実現したという感じになるような)ものである。世界が正されることを夢見る。ほんの一瞬、世界が一つになって義が行われ、あるべき姿になり、物事がうまく運び、社会は正しく機能し、私たちはな術事を知っているだけでなく実際に行っている、そんな夢を見る。そして目を覚ました時、現実に戻される。(『クリスチャンであるとは』 p.11)

           誰しも、この義が実現しているのは、夢である。アンパンマンも、手裏剣戦隊ニンニンジャーも、水戸黄門も、暴れん坊将軍もある面、「義」を描いた「ものがたり」である。まぁ、世の中には、人間の悪の側面だけを欠いた救いのない映画(Law and Orderでは、時に後味の悪いものがある)もないわけではない。しかし、基本的にはハッピーエンドで終わる映画であることが求められている。

          http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-93/kuruma8art/folder/331985/32/3576232/img_0
          アンパンマンさま

          手裏剣戦隊 ニンニンジャー


          水戸のご老公様ご一行


          Law & Order Season 20 Latinoの女性DA Connie Rubirosaが出てくる

          不幸と義の問題
           社会の中には問題があり、完全に義が成立していない場面がある。そして、人間の力にはどうしようもない不可抗力をもたらす災害のようなものもある。そのことに関して、この本では次のように言っている。
           世界の問題のいくつかは解決できるが、それも一時的であり、簡単に解決できない多くの問題がほかにあること、中には誰も解決しようとしないものまであるのを私たちはよく知っている。
           2004年、クリスマスの直後に起こったスマトラ沖地震とインド洋沿岸の大津波で、一日に亡くなった人の数は、ヴェトナム戦争の戦死者より2倍も多かった。この世界で、この地球で、「それは正しくない」と叫びたくなることが起きたのだ。地殻がプレート運動によって動いたのである。自然の営みである。地震の発生は悪意に満ち満ちた資本主義者によるものでも、最近また復興してきたマルクス主義者によるものでも、宗教原理主義者(ファンダメンタリスト)の爆弾テロによる者でもない。それはただ起こった。その起こったことで世界中が痛みを覚え、歯車が外れたようになり、それに対し私たちはなすすべがない。(同書 p.14)
           ここの所、『仏教との対話』シリーズでご紹介しているニー仏さんこと、魚川さんの『仏教思想のゼロポイント』で述べられていることを考えていくと、ブッダの思想は、この世の中には様々な現象の作用と反作用によって生じる輪廻の中で生まれる苦界と、完全に答えられない、あるいは説明ができない無記の世界があり、そのようなものをじっと見つめていく中で、世の中に対する現実を見つめる中で、現実にとらわれることのないニルヴァーナ(涅槃・極楽)に移るということをしてはどうか、というのが仏陀の思想である。一種のしょうがないものはしょうがないんじゃない?というのがブッダのお立場ではないか、と思うのである。

           福島原発の放射能漏れ事故に際して、「想定外」という語が話題になり、技術がけしからん、原発けしからん、ということを言う象徴的な語として、この想定外という語が用いられたが、それは少し残念だったと技術者としては思う。

           すべての与件を含んだものを作ることは土台無理なのであるし、ある程度の与件の中で、我々は動くしかないのである。技術者は想定の枠内でしか動けないのである。そもそも、すべてのことを想定しなければならない、と言い出すと、地球の空気がなくなった状態でも飛ぶ飛行機を作るみたいなことも考えないといけないが、SF(Sci Fi)小説や映画ではないので、通常の技術与件としてはそういうことを想定しない。技術というのはある程度の常識的な与件の上で動くものなのである。

           要するに、過去知られている(といっても大体技術の世界は10年から100年単位でしかものを考えないのだが)理解の範囲内で物事を考えているという元明にしか過ぎないし、まともな技術屋であれば、技術が完璧だなんてのは、思いもしていないことが多い。立場上、言わされている場合は、この限りではないけれど。技術(これは小山先生によると魔術の一種らしいが)で生きているものは、どこまでそれが維持できるか、ということは別として、少なくとも、出発点では、世の中に貢献したい、世の中をちょっとは良くしたいと思って技術者を志すのであるが、それが実現できないところが、人間の残念さ、というか罪の結果なのだろう、と思う。誰しも悪意を以て、いろんなことをし始めたりはしないのだ。このあたりのことは、第2章の冒頭にも出てくる。それはまた改めて。

          義という感覚とその追求

           個人的には、もう義を自ら実現することは土台無理、とあきらめてしまったので(とはいえ、多少貢献できることの切れっ端くらいはある、と思っているので、その点で社会とはかかわりを持っているが)これは洋の東西を問わず、追及されつつもその夢は中なくつぶされてきたのである。
           義というものが存在する感覚は誰もが持っていて、そればかりか、義に対する情熱、物事があるべきものに正されるべきだという強い願いも持っている。また、何かがおかしいというい感覚は絶えず私たちに付きまとい、時にはこれでもかとばかりに心に訴え、叫びさえする。そのことで過去数千年にわたって、人類が苦闘し、探求し、愛し、希求し、憎しみ、希望し、口論し、哲学的に探求しつづけてきたのに、知りうる最古の社会の人たちとそう変わらない程度にしか義を実現していない。一体どうしてなのか。(同書 p.15)
           この問いは、すべての技術者が抱える問いでもある。一生懸命やればやるほど、新たな問題がどんどん出てくる(だから、技術屋はおまんまの食いっぱぐれがない商売であるが)。世の中をちっとはよく使用などと大それたことはおおっていなくても、今の不便ぐらいはもうちょっと何とかなるかも、とやってきても、ちっともよくなってくれないのだ。困ったことに。それどころか、である。
           何百万のいのちをガス室で奪ったのは、雑多なイデオロギーを混ぜ合わせたカクテルだった。宗教的偏見、悪用された哲学、「異なった人たち」への畏れ、経済的困窮、スケープゴート欲しさの要素を、悪賢い扇動者が調合し、少なくとも、部分的にそれらを信じたい人に語り、「進歩」の代償としての犠牲もやむなしとした。(中略)どうしてそのようなことが起こったのか。義はどこにあり、どうしたらそれを手に入れることができるのか。物事をどのように正すことができるのか。(p.16)
           残念なことに、すべての政治改革とか、すべての構造改革とかみんな義人の顔してやってくる。挙句の果てに、もたらされるのは悲惨と破壊である。すべての戦争は義が勝たれれることで始まる。聖戦が語られることすらある。正義の顔して始まった戦闘の結果は流血と悲惨である事実は、古代以来変わらない。競争ですらそうである。あるいは、オリンピックは、実は血を流さない戦争の一形態であるからこそ、あれだけ盛り上がるのだ。

           もともとオリンピックは、血を流す戦争の代わりに考えられたからこそ、槍投げとか、円盤投げとか、ハンマー投げとか、砲丸投げなどが正式種目であるし、アーチェリーや近代5種で、銃ぶっ放す物騒な競技もある。一種のスナイパーの訓練でもあるのだ。

           サッカーでフーリガンの皆さんが暴れて、流血事件とか、そもそも論で言えば、程度の軽い流血事件で社会に受け入れられる形の戦争がスポーツなのであって、平和の祭典と称するのは個人的には詐欺ではないか、とスポーツが超苦手なものとしては思っている。チェスにしても、将棋にしても、囲碁にしても、結局戦争シミュレータのごくごくクラッシックなバージョンに過ぎないんだなぁ。知的スポーツですら、この状態である。

          差別と義の問題
           我々人類は、国民性を問わず、歴史性を問わず、基本、差別を社会のうちに内包し続けてきた。ダメなことだとは知りつつ必要悪として、悪用とは言わないまでも、それを利用してきたことは確かだと思う。日本でも、差別があった。近時では、朝鮮半島から来た人々への差別(これは関西で結構多いし、ミーちゃんはーちゃんの時代の中学時代の日本人の不良は、朝鮮学校に殴り込みに行くのが、勇気のしるしであった。数年に一度、この種の事件が起きた。今は、ヘイトスピーチが我が国には見られる)などがある。残念なことであるが。あるいは、網野先生の本によれば、漂泊民は差別され続けてきた。また、カムイ外伝ではないがいわゆる障害を持った人は、差別の中で生きることを強いられた。

           そのことに関して、NTライトは、この本でこんな風な形で取り上げている。
           そして、アパルトヘイトがあった。巨大な不正が南アフリカの大半の人々に対して長い間なされてきた。他国でも同じことがあった。(中略)「アメリカ先住民」に対する「特別居留地」のことを考えてみてほしい。
           世界は次第に人種的偏見の事実に目覚めてきた。(中略)アパルトヘイトと戦うために世界は一致団結し、「二度と起こらないように」といった。(中略) 実は、自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。見せかけであるが、深い道徳的満足を得られる。(同書 p.17)
           しかし、『自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。』という指摘は、非常に重要ではないか、と思う。というのは、われわれは自分自身が罪深いものであることを忘れ、自分の目の中の梁を意識せずに他人の眼の中にあるちりをとりたがるしょうがない存在なのである。

           明石で主催しているヘンリーナウエン研究会で時々いうのだが、
           われわれの義など、神の義から比べれば誤差の範囲ほどのものでしかなく、そもそもどちらが正しいだのどちらが正しくないだの、議論しても本来しょうがないことではないか。他人を批判するよりは、神の義に目を向けるべきではないか、
          とは思うのだ。それと同じことをN.T.ライト先輩は言っておられるような気がする。

           第1章のまだ半分も行かない。もう、この段階で長期連載、ほぼ決定である。ぜひお買い上げになられることをお奨めする。お買い物はあめんどうブックスで。

           と新幹線の中から投稿しておこう。w






          2015.06.06 Saturday

          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(6)礼拝論と賛美論 その2

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             この記事は、前回の記事 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1 (2015/05/30) からの続きである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。


            http://commondatastorage.googleapis.com/prpbooks%2Fimages%2Fauthors%2Fweb%2FWilliamson_GI.jpg
            G.I.ウィリアムソン先輩

             G.I.ウィリアムソンは、合同長老教会の人物で、ニュージーランドの改革長老出身の人物であり、ウェストミンスター信仰告白の研究者。礼拝における規定的原理に大きな影響を与えた人物である。
             彼は、要求されている礼拝、要求されてない礼拝の違いについて述べているが、命じられていることのみされている礼拝が重要だと主張した。

             南長老教会は1940年代に長老教会からの分離し、南長老教会ジャーナル、長老教会ジャーナルへと移行した。

             ある面で、1958年という年がエポックメーキングな重要性を持つ年である。1960年代に、実験的な礼拝がもてはやされていく問題への対応が求められることになった。時代は、Weedと呼ばれるような麻薬によるサイケデリックが求められた時代であったのだ。

             モントリオールで、New Ways New Daysということが言われ始めた。(Political Backgroundとして、ベトナム戦争の影響があり、それに対する反対運動とヒッピー文化等のカウンターカルチャーの登場などが影響したものではないか、と思われる。)


            当時はやったヒッピーの皆さんの服装 これが当たり前だった

            「Psychedelic」の画像検索結果
            Counter Culture Movement)

             日曜日の朝礼拝、サイケデリックな集まりが行われ、教会でありながら、聖書的なものが見られない状態もあった。霊とまことによっての礼拝は消えてしまった感じであった。イエスが井戸のそばでサマリアの女と出会ったときに、霊とまことを以て父を礼拝する時代が来るといわれたのに、そうはなっていなかった。様々なイメージやメダルや、ろうそく、自由な表現での祈祷、むち打ちや薬物など非常に多様な人間的な要素が入ってきた。場所に教会は制約されないとはいうものの、ちょうど、ヒンズー教徒が針の上に乗り、巡礼の山に蛇を以て上がような行為ではなかったろうか。つまり、サイケデリックなディスコテーク音楽を礼拝堂に持ち込むことになる。これは、教会の世俗化ではないか。これは神礼拝と言えるのか。ということになる。


            ディスコテークといえば、ご存じ、サタデーナイトフィーバー

             1940年代に改革派グループの中での礼拝の再検証、北部の人たちで形成される主流派が自由主義的な傾向に走ったものの、南部は自由主義型の礼拝論に対抗しようとした。1950−60年代には、神学的下降を経験していったがそれを回復する動きがみられた。礼拝にかかわる教理の理解の整理が進められた。神の教会の豊かさを守るために 神学的リベラリズムへの戦いを行う中で、ピューリタニズムの再検討がなされた。

            (ミーちゃんはーちゃん的感想
             しかし、ここまで戦闘的にしなくてもいいかなぁ、とは思った。戦いだの、という語を使うことは個人的にはいまいちだと思う。)


            混迷の1970年代

             1970年は、不明化と混乱の時代であった。 RPCNAでは、20世紀の様々な動きの中でもアカペラでの詩篇歌賛美が行われた。なぜこの教派が伝統的であったかの理由はあまり明確ではない。1974年には、礼拝の聖書的教理が出版された。この中で礼拝の規範原理が取り上げられることになった。教派内の中で多様な考えがあり、RPCNAとしても讃美歌への考え方が一貫していなかったことが示される。

             フランシス・シェーファーがいるが、1960₋70年ごろにおもに活躍した。ラブリの設立者である。彼は、真実の真実とはなにか、を追求し、相対化された真理への対抗概念を主張するとともに、クリスチャンライフスタイルの問題を取り上げた。このことは彼の主張であるラディカル・ホスピタリティに示されていると言えよう。西側の死に絶えつつある文明に文化の改革を目指しての運動であった。この中で、文化の再構築が目指されることになる。福音長老主義が形成され、福音長老教会、RPCESを経て、改革長老エバンジェリカルシノッドが形成される。彼らは、近代への京あきとしてのかかわりを考えたグループであった。20世紀の終わりに、近代の形式や自由を利用しつつ、絶対的な真理を保とうとした。

            (ミーちゃんはーちゃん的感想
             いやぁ、シェーファー先生改革長老派系だったとは、不明にしてはじめて知りました。前期シェーファーと後期シェーファーはかなり味わいが違うことが、のらくら者の日記で以前指摘されておりましたが、後期シェーファーがアメリカのエヴァンジェリカル・ライトに与えた影響は多いのでねぇ)
            Francis Schaeffer.jpg
            フランシス・シェーファー先輩

             その中で、一定の柔軟性を容認したため。教会の権威に関する混乱が生じた。何が本質的で、状況依存的であるかを誤解したといえるであろう。シェーファーの様な有能な人でも、こういう過ちをやることがあることは留意すべきであろう。しかし、シェーファーたちの動きは、ある意味、時代の産物でもあった。この中で、礼拝の規範原理が再発見され始めたのである。その意味で、フランシス・シェーファーは原理主義的な人物としての礼拝理解の代表者であると言えよう。

            PCAの形成

             1973年、継続する長老教会運動がPCA内に組織された。その結果、南部の長老教会からからこのグループは離脱していくことになる。ミシシッピ州ジャクソンの改革神学校の教員であったモートン・スミス氏がいたが、彼は、元の教派からの離脱の擁護記事を書かせた。PCUSの礼拝論の下降に関して、彼は様々なものを書かせたが、その中で、礼拝は教会のしるしであり、大教理問答集と小教理問答集から規範原理を示した。リタージカルな暦や、教会歴は、安息日の重要性を下げるとして批判した。この教会歴というものは、その根拠もないものであった。リタジーにおける強調に関する不安感が高まっていた。

             1968年には、モントリートでサイケデリック礼拝が教派主導で行われた。実験的な礼拝を総会が批判しなかったことが批判され、サイケデリック礼拝が教派の黙認のもと行われることとなった。真の教会から、この礼拝の部分において離れたものとなった。
            (ミーちゃんはーちゃん的感想
             割とミーちゃんはーちゃんは同じことを繰り返すのは、個人的に性格が飽きっぽいこともあって嫌なのだが、さすがにサイケデリック礼拝を挙行する気力も能力もない。同様に、ラップ礼拝とか、プログレッシブロック賛美とか、ヘビメタ礼拝もできない。そんな根性なしであることを想った。世の中には、ヘビメタ礼拝はあるらしいけど・・・)


            Heavy Metal Worshipで出てきた讃美歌 FYI

            礼拝の堕落

             礼拝の堕落は、画像やシンボルが用いられるうちに始まるのではないか。十字架やキリスト像などが教会堂や日曜学校で見られるようなイエスの画像が登場することとなった。継続する長老教会運動が起きると、純粋な礼拝を守るための希望になった。この純粋な礼拝を求めることは、教会の改革になった。教理における正統性と礼拝における正統性が一致しているものが目指されたと言えよう。これに反して、PCAでは、礼拝に関して一致していないことを示す結果となった。

            (ミーちゃんはーちゃん的感想
             いや、これ言い始めたら、東方教会は堕落しきっていることになる。いやぁ、ピューリタンの皆さんの純粋性へのこだわりは尊敬を覚えるけど、しかし、ロシア正教やギリシア正教の皆さんは、聖書が読めない人々への対応をしてきたからこそ、伝統的に画像の利用やろうそくや様式性の理容をしてきたのであって、その歴史的営為の本質を顧みずに、このように切ってすつるに何がある、とやるのはどうかなぁ、と個人的にはおもう。)
             特に幅広い福音派と一緒に様々なことへの対応をする中で、改革主義や長老主義に立っていない人もいた。(あたりまえである)

            礼拝は何のためにあるのか?

             礼拝は、礼拝自身のためにある。聖書により厳密に規定されている立場であるものの、多くの福音派のかなりの部分はや多数派は、礼拝は伝道の手段としての立場をとっている。

             Smith論文(この講演の著者なので、事実上のステマ)の主張がまとめられており、キリスト像とか画像が教会堂で示されることの否定をしたものである。1973年、ジョージア州アトランタでの歴史的ウェストミンスター長老教会でこの問題にかかわる討議が行われたが、この教会の教会堂には、キリスト像を描いたステンドグラスがあるその前でこれらのことが議論されることになった。

             1970年、ウェストミンスター神学校との関係の中で、ポイスレス教授は、排他的な詩篇利用(詩篇だけを賛美とする)に関する2つの論文を書いたが、礼拝の規範原理を支持しているように見えるものの、実態としてはそれを無形化しているものであった。礼拝の異なる区別性を否定する立場であった。同論文は、リダスカリアの立場のものであり、詩篇のみの賛美をいうものの、祈りや説教と同じような要素であるとし、賛美歌は、祈りや、説教、訓告の別手段だといっている。この立場には問題があり、公的礼拝における朗読と説教の区別が問題となってしまう。

             聖書を礼拝で読むことと、説教をすることの間に連続性が強調されてしまう。神の御言葉の特別性が失われるという面がある。適用される価値があるから特別であると主張されているが、それは完全に逆立ちした議論であり、聖書のみが神のことばであり、そう取り扱われる必要があるといえるだろう。

             この論文では、礼拝における諸要素を否定している。礼拝に諸側面があるといっている。礼拝規範原理が軽んじられると、礼拝の軸がなくなることになるといえるだろう。しかしながら、この議論は、割と広く受け入れられた。

             ウェストミンスターの神学校のジョン・フレームの影響は強くみられた。彼は、1980年以降カリフォルニアのエスコンディアに移って、そこで20年奉仕をした後、フロリダの改革神学校の教員になった。彼の礼拝に関する考え方は奇抜なものであり、異彩を放つようなものであり、いくつかの問題点を含むものであった。

            John Frame.jpg
            John M. Frame先輩

             礼拝の要素は御言葉として規定されているが、それをジョン・フレームは、諸側面であると換言し、定められたものとしてない天が問題である。このため、礼拝における様々な表現の可能性が出てくることになった。

             例えば、御言葉の朗読すら、礼拝の要素であるとは限らない。フレームの理論では、御言葉の説教は規定されてないことになる。説教を歌にしてもいい、となると、説教を謳いながらすることを禁じられないなど問題が出てくる。

            New Lifeの礼拝について
             C.John Millerというフィラデルフィアのペンシルヴァニア正統長老教会の人物がいるが、伝道熱心で知られ、恵み深い人ではあったが、非常に柔軟な礼拝形式を採用し、彼の理解は改革派神学の枠組みではかなり奇妙なものであった。1977年、神学生であったマイケル・ブッシェルは排他的詩篇主義を擁護する論文を書き、1980年に最初に出版され、その後、2011年の改定が最後となるまで3度書き換えられた論文がある。規範的原理が基礎である、と主張した論文である。カルビン主義の子孫は、礼拝の規範的原理を重視すべきであるが、それを軽視する場合、カルバン主義者と言えども実際は名目的なものになっているのではないかと主張している。


            Jack Miller AKA C. John Miller先輩

            Micheall Bushell先輩

             規範原理は、守るか守らないかではなく、礼拝の規範的原理それこそが改革主義の信仰であるといえるのではないだろうか。

            1970年代のまとめ

             教会の中で、PCAが組織されたが、何に対抗してかではなく、何のためにできたかを考えた組織であった。この結果、教派の中での亀裂が生まれた。保守的、伝統的な南長老主義の形式を守る敬虔主義であったが、伝道のための手段として礼拝と考えるグループが見られた。フィラデルフィアは、ウェストミンスター神学校でも実験主義的礼拝論が持ち込まれるなどのことが見られた。

             聖書神学的なアプローチが流行り、組織神学な方法が影を潜め、組織神学なカテゴリカルな研究が困難になる そして、非公式な神学校で、New Life Worshipが入ってくる傾向が見られた。礼拝の中で、リタージカルダンスのような要素が組み込まれもした。
             マイケル・ブッシェルは、ウェストミンスターの信仰基準に立ち戻り、それに忠誠を果たすべきとしたといえるだろう。

            1980年代のまとめ
             ケビン・リードは、長老主義ヘリテージ出版という出版社が発足し、長老主義を擁護をする出版社を設立した。
             1984年にジェームス・ジョーダンへの批判を行った。高教会的な国教会への傾向をカンタベリー物語とまで批判した(胴もあまりにひどい、と言いうことをご主張したかったらしい)。ジェノバ神学校の補助を受けた新聞でタイラーの精神世界が入っている論文が出版されたことを強く批判した。それは、教会活動の堕落であり、見せかけだけでけのもの、腐敗であり堕落であることは、明らかであるとした。改革派の規範原理を否定、教会の中での迷信的不当な行為を導入し、告白に立った長老主義を否定している。(ここまで言わんでも、と正直思った。さすが戦闘○○の血が・・・やはり、ピューリたんは女子キャラがよいなぁ。)


            教派擬人化マンガ の ピューリたん

             1995年にケビン・リードは、聖書的礼拝という本の中で標準的な説明を行っている。聖書は、神が命じられたこと以外の要素を禁止している、とした礼拝における聖書的な定めを陳べている。
             人間的な革新的なものが流入することに抵抗している。1988年にカール・ボーグ(この人初出なんで詳しくは改革長老派の詳しい人に聞いてくれ)という人は、礼拝の聖書的規則という記事を書いた。これが、規範的原理の標準的な擁護論であった。規範的原理を批判することは、ローマカトリックへの魔術的批判力を失う。規範的原理を緩め教会にいろんなことを持ち込むことは、灰の水曜日などカトリックの教会の礼拝、ペテロの祈り、司祭への告解、教皇権の尊重など、教会の悪事があった時代に戻すことになる。(またまた戦闘的な…)

            「Carl W. Bogue」の画像検索結果
            Carl Bogue先輩

             16世紀以前の状態に戻すことになる。カール・ボーグは、PCAにおける伝統主義者の代表的人物であり、伝統主義者は広い意味を持つとした。

             改革長老はないでは、礼拝の規範原理を認める人から、そうでない人まであったことを認めるている。また、楽器を使ったり、賛美のあり方への多用な試みがなされた、しかしながら、改革長老派の伝統は、コンテンポラリーなもの、実験的なものを否定するというの点で一致していた。とはいえ、伝統主義者たち以外のものもあり、別方向への動きもあった。
             たとえば、マルチメディアを利用したものを、いわゆる「礼拝」の中で行うべきであるとした。1983年のインスピレーショナル礼拝という語を用いられ、マルチメディアを利用されたし、スライドショーの中ではイエスの画像が利用された。PCA総会で、マルチメディアプレゼンテーションが実際に行われた。(よほど、講演者のスミス氏にはショックだったのであろう)PCA以外の聖歌隊により、ロック風の賛美が行われた。このことに対して、50人の役員が抗議文に署名した。このようなプレゼンテーション手法によるものが主流になっており、改革派の礼拝理解に反するものであり、非改革派的な伝統の受容であり、聖書的原理とか、改革派の独自の神学を反映してない。

            (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
             いや、改革派を守ることは大事か知らんけどぉ、しかし、それに汲々としておられるんじゃあ~~~りませんかぁ。何のための礼拝か、何を礼拝はするものか、を忘れて、改革長老派の伝統を守れ、ということしか行ってなくて、非改革派的なものを何が何でも絶対排除、改革長老派のスタイル死守ってことになってないかなぁ、と思いました。まぁ、お立場からのご発言とは受け止めたので特にコメントは申し上げませんでしたが。)


            吉本新喜劇 チャーリー浜による「じゃあ〜〜〜りませんか」

             総会では、好意的にリタージカルダンスとかバンゴの採用とかを好意的に受け止めた。そのような行為は、礼拝は、まずもって神への感謝を示すために行われるべきものであるべきではないか。夕方の集会が礼拝を含む限り、聖書的であり、規範的礼拝の原則に沿うべきであろう。伝道中心の集会あれば、これらの方法がとられてもかまわないとは考える。

             しかし、礼拝を大きく変容させることに関しては、本質的な理解に立って和解を得ようとしているという以上の困難性を感じるし、教会員の中の考え方に混乱を生み出すものではないだろうか。

             そういう多様な概念や方法論、音楽携帯の導入という行為の正当化に関して、夕方の集会と礼拝(要するに伝道のための集会を指すらしい)とその他のプログラムとの融合が目的であり、その他のプログラムは宣教命令の実現手段の一つと理解したことが問題であった。

             しかしこのようなものの導入により混乱が生じるのである。礼拝の規範原理が意味を持つなら、礼拝の中にいろいろな人間的なものを含むべきではないだろう。
             1980年代には、ピューリタニズムの再覚醒があったが、それと同時に、カトリック的なハイチャーチ的なものへと向かっていった人もいた。PCAは表面上ウェストミンスター信仰基準を堅持しているとみられたが、歴史的な長老派理解から外れていたようである。過去の歴史を振り返れば、PCAの将来には、わずかな希望しかないのではないか。

             終わってから質問したことの中に、詩篇歌というが、地域や教会によって当てているメロディーは同じか、というと、違うことがある、ということと、メロディはかなり自由に採用されるのか、とお聞きしたら、採用されうる。南部のフォークソング等も讃美歌のメロディとして採用されうる、という話であったので、あぁ、なるほど、そういう世界で、多少はメソジストの巡回伝道師がしたようになじみのある楽曲の利用もないわけではないのだなぁ、だから、なんとなく慣れ親しんだ曲の上に詩篇を載せて詩篇歌として歌っておられるのだ、ということはわかった。

            感想

             個人的に改革長老派の信者じゃないので、別に改革長老派の中で、バトルを繰り広げていただこうが、大激論を繰り広げていただこうが、実に結構なのだけれども(基本関係ないので)、まぁ、実に戦闘民族という言葉がふさわしい、とは思った。その激しさが、アメリカを作り上げたともいえるが。

             上記の紹介文中でも時に触れたが、時間がなかったということもあるのだろうが(それに合わせて、原稿をきれいにまずは整えておいてほしいとは思ったが)、結構いきなり初出でそれまで説明がない人が、ポッポと出てくるのには正直参った。

             あと、改革長老派の伝統を清く正しく美しく守りたい、という講師のSmith氏の情熱はよくよく伝わったが、情熱のあまり、他の人の礼拝形態を過去の因縁も関係性も文脈もなくぶった切るようなご発言がかなりあり、それはどうかなぁ、と思った。

             まぁ、この後、この講演会に誘ってくださったありがたい改革長老派のE先生とFacebookでやり取りしたのだが、恐らく、この詩篇歌をどう維持するか、とりわけ、アメリカにおける多様な民族性の霊性の中で、どのように維持されていくのか問題になりそうだ、ということのやり取りをさせてもらった。

             しかし、ミーちゃんはーちゃんは、ふざけたところのある人間なので、ジブリ音楽のいくつかのメロディに乗せて、詩篇歌を謳う時代がそのうち来るのではないか、と思いながら、一人でニタニタしていた。


            さんぽ


            ポニョ

             この連載も、あと2回で終わり。




            2015.06.08 Monday

            N.T.ライト読書会に行ってきた

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               今回も、NTライト読書会(オフ会というかリアルミーティング)に参加してきたので、ご報告でも。

               今回のリアルなライト読書会は10人くらいの参加者があった。今回のテーマは終末と終末理解という1999年にライトが書いた終末論の論文を読んだ。ちょうど2000年に終末が来るのではないか、コンピュータの2K問題として知られていた問題などをはじめ、社会的混乱や終末の到来が起きるのではないか、という恐怖を人々が口にしていたころの論文である。

               まず、参加者が自己紹介かねながら、終末理解とのかかわりを紹介した上で、実際の論文を読んでいき、最後にディスカッションをした。以下はその要約である。

              イントロ 終末という語の混乱
               まず、冒頭部分は、主催者の小嶋先生が英文を読みながら概略をかいつまんでご紹介して下さることから始まった。

               N.T.ライト先輩がお書きになったものの冒頭に、Redemptionとかatonement(日本語だとミソギに感覚が近い)とかの教会用語が誤用されていることが述べてあり、それと同様に、終末Apocalypticという語が誤解されていることがあるという議論が紹介されていた。実は、このApocalypseという言葉は、もともとは、ヨハネの黙示録(英語ではRevelation)のギリシア語でのタイトルで用いられた語である。

              映画と終末理解

               さらに、これにハリウッドの終末理解が入り、より大がかりに騒がれることになっている。ハリウッドには、この種の終末を描いた映画はかなりあり、例えば、地球最後の日、アルマゲドン、メテオ、イントウ・ザ・ストーム、大地震、ダンテズ・ピーク、デイ・アフター・トゥモローと結構終末物は、夏場のお化け屋敷のように夏場に上映されることが多いような気がする。どうでもいい話であるが。


              ディープインパクト 予告編


              ダンテズ ピーク 予告編


              世界の終わり


              アエロスミスのハルマゲドンの挿入歌 

              日本だと、日本沈没とかあったような気がする。まぁ、パニックムービーははずれがないので、映画会社にとっては一定の観客動員が見込めるという安心できる作品ジャンルである。まぁ、ディズニーランドなど遊園地で、ジェットコースターとかフリーフォールが受けるのと同じである。


              日本沈没 予告編

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               最近、この種の終末論映画をいのちのことば社さんが後援しておられるが、まぁ、大人の事情がおありのようで。例えば、以下の2本)


              いのちのことば社 後援の
              レフト・ビハインド


              リメイニング 予告編
               終末だ、の字幕があるが、正しくは、携挙だ(Rapture)と言っている


              終末論が盛り上がる背景

               そして、2000年というある1000年期末に世の終わりがあるという理解が広がっているが、政治的な事柄の動き、ベルリンの壁、冷戦構造の終焉、温暖化などとが終末に関連付けられている。

               また、日本では五島昇氏が1999年に恐怖の大王が降ってくるというノストラダムスの大予言という本が世間では話題になった(ライトが言っているということは、イングランドでも話題になったらしい)が、今回の参加者の教会の中ではあまりいわれなかった模様。

               週末に備えて準備しているPrepersの人々や、Concerned Christiansと自称するイスラエルで主の再臨を待っていた人々の話が書かれていた。


              Prepersの皆さんに関する動画


              トンデモ本扱いの『ノストラダムスの大予言』

               しかし、これらには、実に聖書的な根拠も、合理的な根拠もないのである、とライト先生がお書きであった。

               大体、2000年で1000年期(ミレニアム)とかけて大騒ぎしているが、そもそも、年代記の決め方自体を決めた暦自体の歴史性を考えてみると、それが成立したのは、そもそも6世紀ではないか、そもそも、キリスト教にとって重要なのは、キリストの降誕ではなく、もっと重要なのは復活なのではないか、1000年の変わり目だといっても、その日は特定の一日に過ぎないのではないかなどの議論が展開されていた。

              Apocalyptic Language
              (終末的・黙示的言語)について
               メタフォリカルな解釈を考えてみたい。現実の人間が住んでいるその時空間のメタファーを使って書かれているはずだし、普段の日常生活でも、ある程度分かって使っていることが多いはずだけど、聖書解釈になると突然文字通りになることもあり、ある個所のテキストで解釈を区別して考えるのはどうなんだろうか、という疑問を投げかけていた。

               このあたりは、N.T.ライトの新刊「クリスチャンであるとは」のp.270~279の「聖書の解釈、文字どおり(字義的)と比喩的」にかなり詳細に展開されていることをご紹介して、ステマいたしました。まだ、お持ちでない方は、キリスト教書店か、あめんどうのサイトへGo!である。

               参加者の中からは、この黙示文書の特殊性は誤解する人がいるぐらい、強烈な表現があり、そのことで何かを読者に伝えようとしているのではないか。黙示録は、神によって見せられた幻をヨハネがパトモス島で文書として残したものであるけれども、ヨハネにとってはかなりリアルな体験だったのであろう。また、メタファーでしか表せないリアリティもあるのではないだろうか。仮に文字通り解釈すべきであっても、筆者の側ではそういう表現でしか表せないこともあるのではないか。このような表現によるインパクトは大事ではないか、というような意見が出された。

               黙示録の中に、バビロンが出てくるが、そのバビロンを経済的な発展性からロンドンとか、ニューヨークとかいろいろ想定されるけれども、文字通りバビロンが崩壊するとは思っている人はいないだろう、とN.T.ライト先輩は書いていた。
              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
              東京は、東映特撮チームのおかげもあって、ゴジラやキングギドラが来て昔は毎年一回壊されたので、終末論的崩壊から免れているのかもしれないと思った。子どものころは、自衛隊は基本的に対怪獣攻撃組織(大抵は踏みつぶされて終わる)だと思っていたのだが、最近は海外に怪獣対策に行くように制度を改正するとかしないとか…)


              ゴジラ 近代兵器を備えた陸海空の精鋭…今見たら…

              TSエリオット詩の話がちょろっと出てきて、いろいろ経験するとは言うものの、その意味が分からないことがあることが紹介され、黙示録というかApocalypticということはそういうことではないか、と様な話し合いがなされた。

              メタフォリカル理解とリタラル理解
              メタフォリカル理解(隠喩、比喩的理解)とリタラル理解(文字通りの理解)は、行ったり来たりする、使い分けをしていきながら、通常解釈しており、どちらか一つで解釈するものではないのではないか、ということをN.T.ライト先輩は書いておられた。この辺に関しては、日本語翻訳されたN.T.ライトの新刊では、「」と書かれている。

               また、主催者の小嶋先生からは、聖書の中にある黙示文書(エゼキエル・ダニエル・マタイの一部、マルコの一部、そして黙示録)の聖書の中の文書系統とその理解のされ方などの説明があった方がいいよなぁ、というお話があった。N.T.ライトの本や文章は、彼が頭が良すぎるためか、この辺のことをブッ飛ばして、いきなり結論に行くことが結構あるので、そこは読み手が補足する必要があることが多いので、つらいところではある。

              End of the world Speculation(終末の予測)
               この辺の終末の予測に偏ってくると、ブランチダビディアンがATF(アルコールタバコ武器火薬取締局)と長期間対峙したWaco事件のように、暴走することがある。こういう偏ったものの見方から、教会や社会集団が機能不全になったりすることがある。(典型的にはオウム真理教である。ヨガ集団で始まったものが、AK47を自分たちで製造しようとしたり、旧ソ連製の軍用ヘリコプター買い込んでみたり、武装革命を起こそうとした中で、20年前にサリン事件を起こしたことが思い起こされる。


              ブランチダビディアンのウェイコ(Waco)事件を伝えるCNN


               このアポカリプティシズム(終末理解主義)が進んでいくと、すぐに、自分たち(だけ)が正しい、他の人は罪びとで、他の人は滅びるという傾向に入りやすくなるのではないだろうか。

               1世紀付近のユダヤ教で、黙示文書のこういう背景や、世界観があったのであろうか、ということに対して、生み出したグループが特定できているのは、死海文書であるが、但し、その文書が集団のものなのか、個人のものなのか、どういう背景なのかまでは歴史的に特定できないのではないだろうか。弾圧されていた人たちがそのような黙示文書作り出したかもしれない。いずれにせよ、歴史的に裏付ける文献史料はないという可能性が高い。

               黙示文書の中で外典として収録されているエノク書が厄介なのは、一時点に誰かが書いたものではなくて、最終的な編纂を経ている可能性が高いということであり、一部には、キリスト教の影響もあると主張する人々もいる。

               世の終わりを考えることで、内と外を分ける境界線が形成されている。行動としてのファンタジーは直接繋がってない。言葉と行動の関連の問題を考える必要がある。

              東方教会にもある終末理解

               ある人の旅行記の中で、東方正教会のガザ地区の荒野にいる司牧が語った携挙の話が紹介されていた。その司牧の話によると、地獄とつながる穴が、死海の中にあき、東方教会以外のプロテスタントもカトリックもみんな地獄に落ちて、その司牧が助けようと思っても助からない、助かるためには東方教会に改宗するしかないと真顔で語ったという話が紹介されており、これが、幅広いキリスト教に広がっていることの証左としてNTライト先輩は紹介しておられた。


              ディスカッション
               リタラル(文字通りの)聖書解釈とメタフォリカル(比喩的)聖書解釈にかかわることを携挙問題から考えてみたい。

               空中と主と出会うという表現の出合うという表現は、都市の外にいて、ローマ皇帝を出迎える、皇帝を市内に引き入れるという表現と共通する語がつかわれているあたりの解釈で、あぁ、なるほど、N.T.ライトはそう理解しているのだ、とわかりやすくなtt面などがあった。

               別の方は、平安末期の末法思想と共通する部分があるかも、実際に末法思想の時には、様々な苦難や、飢えや病気などがあったし、実際に、アフリカで起きていることは末法的出来事のような気がするが、こういうことは直接の関係がなく、避けている部分があるとおもった。

               携挙を話した宣教師がおられ、そのことを固く信じている。老人ホームに入所してもこの宣教師は、語りつづけた。そして、イエスが待っているといって、死去した、固有の信仰なのか、風土背景なのだろうか。

               リメイニングという映画や、レフトビハインドみたいな映画があるが、それを福音的だと思って、紹介した映画関係者のキリスト教徒の方のお話が出てきて、こういうのはどういうことを他者に伝えることになるのかなぁ、当議論が少し交わされた。

               また、死に直面する人々の天に戻るということの希望をどう考えるのか、という論点がナースを支援している方から出され、さらに、この終末論で、自分と他者とを分ける論法が、カルト化につながることを、カルトからの脱会支援をしている方から出された。

              感想

               今回も、非常に面白い論点が出され、実に楽しい読書会でした。いやぁ、こういう機会があるのは、参加できるのは幸せだなぁ。

               ミーちゃんはーちゃんがその片隅で生息しているキリスト者集団では、特殊な終末論というか、ディスペンセイション仮説を生んだ人が初期メンバーの一人である集団であるし、70年代にこれが一世を風靡して、これを語らねば巡回伝道者にあらずという雰囲気もあったし、実際に、この事案に巻き込まれて大学などでの高等教育の機会を失った人々が70年代から80年代までに大量にでたキリスト者集団でもあるので、この終末理解の影響は非常に大きかったのだが、他の皆様が、案外軽い麻疹程度で済んでいるのがある面うらやましかった。

               あ、「Rapture(携挙)って言葉は聖書中にないかもね」って、以下で紹介するバーバラ・ブラウン・テイラーさん書いておられますけど?最後の2つ前の章あたりです。そこだけでも読む価値があるかも。

               解毒剤に、バーバラ・ブラウン・テイラー著『天の国の種』をご清覧いただきたい。




              評価:
              バーバラ・ブラウン テイラー
              キリスト新聞社
              ¥ 2,376
              (2014-03)
              コメント:大絶賛おすすめ中である。

              2015.06.08 Monday

              NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2

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                 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、1章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

                義と世界の関係
                 義と世界の関係をどう考えるのか、に関して、N.T.ライトは次のように書いている。
                 こうした(自分たち自身が義を望みながらも実現していないのはなぜか、おかしいではないか)という声の響きが聞こえてくるかのような感覚、義を追い求める思いと、世界(そしてその中にいる私たち全員)が正されることへの夢を説明するのに、3つの基本的なやり方がある。
                 まず、次のように言うことができるだろう。それは実際のところ単なる夢であって、子供じみたファンタジーの投影に過ぎない。また現状のままの世界に住むのに慣れるしかない。(中略)
                 2つめは、次のように考えることが出来るだろう。その夢は私たちが本来属している世界の事であり、全く違う世界なのだと。そこではすべてが真に正しい状態に置かれている。今の私たちは夢の中でだけそこに逃げ込むことができるが、時が来れば永遠にそこには入れる希望がある。(中略)
                 3つめは、次のように言うことができるだろう。私たちがこのような夢を見るのは、つまり、その声にどこか聞き覚えがあるのは、私たちにかたりかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。(中略)その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。
                (『クリスチャンであるとは』pp.19−20)
                 ここで、3つの対応策が示されている。第1は、超現実主義的な現実追認型の態度であり、第2は、別世界の事としてあきらめてしまうことで将来においての実現のみを希望する態度であり、第3は、正しいことを望んでいることは知っていて、最終的にそのことを神が回復することを期待しながら現実にそれに取り組んでいく態度である。

                 第一の超現実主義的な態度は、義の実現などに関与するのは忘れて、弱肉強食というそのものを受け入れていく立場で、社会に悲惨や不公正や不平等があってもガン無視する態度である。その結果、この悲惨は非常に大きくなる。それは醜悪であり、The Simpson'sでの原発経営者のBurns氏の姿と重なる。


                最近のアメリカ大統領選挙について語るMr.Burns

                 第2の態度は、理想が来ることを夢見て、現実を全く見ず、将来において実現する夢見心地の生き方をする人々であり、このような態度も第1のものと同様に、義に関しては完全に無関心な態度となる。まぁ、ディズニー映画は基本このパターンで、いつか王子様が、という態度である。人呼んで、たなぼた型の幸福到来物語である。結構、この理解はキリスト者の間に多いらしく、このため、結婚適齢期キリスト教女子の方々の一部には、お祈りするだけで、突然、白馬に乗った王子様がやってくる、とまるで、ディズニー映画のEnchantedのような姿を思い描いている人が少なくないらしい。


                いつか王子様が


                Enchanted 『魔法にかけられて』の予告編


                 クリスチャンであるとは、第3の対応をすることではないか、ということがNTライトの主張である。キリスト者は聖書を読みながら、その中に隠されたささやく声を訪ね求め、その声に耳を傾け、そして、現実に取り組みそこに対応していくということが求められるのではないか、ということを主張している。日本では、このあたりのことをしたことで有名なのが、賀川豊彦先輩である。キリスト者として、貧困に窮する被差別部落に乗り込み、資本家からの搾取に泣く工場労働者のため、労働組合を結成し、逮捕投獄され、生活協同組合(現コープこうべ)をつくり、安定的で良心的な良い商品を人々が買えるようにし、ノーベル平和賞の候補になるも、戦後はあまり振り替えられることなく忘れ去られていった人物である。

                 何、賀川豊彦先輩だけではない、矢嶋 楫子先輩もそうであるし、新島襄先輩もそうであるし、内村鑑三先輩もそうである。マザー・テレサ先輩もそうではないか。

                世界の宗教シーンの中で

                 日本では、明治期にキリスト教は西洋哲学というか西洋倫理の一つとして入ってきたため、その時期の誤解がいまだに続いているが、ギリシア哲学や非キリスト教的な西洋哲学とはかなり異質であることに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
                 3つの伝統的宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)には多くの違いがあるが、この点に(将来において、誰かが確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間も正し、ついには世界を救出するという点に)おいては一致していて、他の哲学や宗教と一線を画している。即ち、私たちがその声を聴いたと思うのは、まさにその声を聴いたからだ、という点である。それは夢ではない。そこに立ち戻り、それを実現させることができる。この現実において、私たちの現実の生活において。(同書 pp.20-21)
                 N.T.ライト先輩の文章で重要なのは、キリスト者は、いつか王子様が…のような夢見がちな態度で生き、単に理想状態を追うのではなく、現実にその社会にかかわっていく、それがキリスト者がこの世にある意味である、とラウシェンブッシュ先輩も真っ青なことをご主張なのである。つまり、本来社会をよりよくする存在だ、というご主張が、社会的福音(これに関しては、ラウシェンブッシュ先輩の本がよい。それがいやなら、ボンフェファー先輩の本でもよい)とよく似ているので、「N.T.ライトはリベラル派だ」と御批判の向きもあるようであるが、日本のいわゆる社会派の人々との違いは、人間の力で無理やり正義の回復をがむしゃらに、社会と対立的にある時は暴力的に実現しようとするのではなく、神の手の中にあるその器としてキリスト者が神にその主権をゆだねながら、実現していくこと神の主権に関与していく、という主張なのだろうと思う。そこを見てないと、見間違うことは多いかもしれない。

                本書の目的
                 ライトは、この書を公刊した目的を次のように書いている。実にライトらしい本である。
                 本書はそれらの伝統の一つ、クリスチャンの信仰に説明するために書いた。それは現実の生活にかかわることである。(中略)
                 それは義に関することである。(中略)そして、イエスがなしたこと、イエスの上に起こったことは、この世界を救出し、あるべき姿に正すという創造者の計画をスタートさせたのだと考えるからである。それ故、それは私たちすべてにかかわることである。(p.21)
                 ふしキリ(不思議なキリスト教)という本や、Penのキリスト教特集のような本のような、世の中には、キリスト教とは何かを現象面で描いてみよう、あるいはそれにかんでみようというような本は多い。池上彰のおじさんが語るキリスト教もこの手合いのものである。日本では、概念としてのキリスト教は面白おかしく語られるが、そんな宙に浮いた話でない、地に足をつけたのがキリスト教だ、ということを、まさに”それは現実の生活にかかわることである。”と、この本で明確に語る。

                 キリスト者として生きることは、倫理的に生きるということでも、将来にいわゆる『天国』に行くといった類のことではなくて、この世に正義をもたらす、この世がよいことであることを燃えるように願っている神と共に生き、この世をより望ましい状態に変えていこうとすることとかかわっているということを、N.T.ライトは語るのである。それは、人間であることと深くかかわっている、とN.T.ライトは次のように言う。
                 義を慕い求める情熱、あるいは少なくとも物事が修正されて行くことを願う感覚は、人間としてこの世界に住んでいることの端的なしるしである。(p.21)
                確かに、Justiceというようなことを言う犬や馬はディズニーアニメをはじめ、映画やアニメの中にしかいない。現実に犬が、Justiceを求めてデモ行進したり、猫が、猫の正義を求めて看板を張ったりしたりはしない。ネット業界では、キリスト看板をフォトショして遊んでいる映像はあるけどね。


                キリスト看板のパロディ画像


                イエスとはどんな人物だったか
                 通常の日本人(あるいはクリスチャンであっても)以下の記述は驚くのではないか。
                 イエスはよくパーティーに行った。食べ物も飲み物もいっぱいあって、まさにお祝いをしていたかのようだ。イエスは自分の言いたいことを明瞭にするために、かなり誇張することもあった。(p.22)
                 イエスは、「食いしんぼうの大酒のみ」(マタイ 11:19)とパリサイ派の人々から、あてこすられたのである。当てこすりが有効であるためには、一片の真実が含まれてなければならない。実際にザアカイのパーティ(ルカ 19章)に出たりはしている。
                 イエスの行くところどこでも、人々は熱狂した。神がいよいよ動き出し、救出計画に着手し、物事が正され始めたかと思ったからである。(中略)祝典が始まったのだ。
                 同じように、イエスはどこにいてもどうにもならない人生を背負った人々にいつも出会った。やめる人、悲しんでいる人、疑い深い人、絶望的な人、傲慢に威張り散らして不安を隠している人、イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった。むしろその人の痛みを分かち合った。(中略)物語の終わりで、イエス自身がもだえ苦しんだ。肉体の苦しみと同様、魂の苦しみを味わった。
                 イエスは世界を嘲笑ったのでも、世界を憐れんで涙を流したのでもない。イエスは今生れ出ようとしている新しい世界と共に祝ったのである。それはすべての良いものと麗しいものとが、悪と悲惨に打ち勝つことになる世界である。そして、イエスは世界と共に悲しまれた。それはイエスと出会った人々が、暴力と不正と悲劇に満ちた世界を痛いほど知っていたからである。(同書 p.23)
                 しかし、”イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった”という表現が面白い。ハリー・ポッターでも、ディズニーアニメでも、この魔法の杖が大活躍なのであるが、それらは、結局一時しのぎでしかなく、根源的な解決にならない。しかし、イエスは、あるいは、神は不幸の中でも、幸福の中でも、我らとともにおられるということが根本的に重要なのだが。この共に生きる、というのが極めて重要なのだ。


                シンデレラに出てくる白魔法使いが使う魔法の杖

                http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Xvc8RDaYL.jpg
                ハリー・ポッターのハーマイオニーたんの魔法の杖

                 近代社会を経たキリスト教では、そして、日本のキリスト教では、あまりに神を畏れるという思いが強すぎて、この神と共に生きるということは、案外忘れ去られているような気がする。是非、以下で紹介しているボンフェファーの「共に生きる生活」をお読みいただきたい。これは、大事なことであり、あまりに現代の日本のキリスト教では軽視されている側面だと思う。

                パッション

                 パッションというのは、いくつもの意味を持つ複合語である。情熱という意味もあれば、何年か前に公開された映画パッションのように受難という意味もある。


                メル・ギブソン監督のパッション予告編

                 しかし、実は受難と情熱というパッションは実は一つであるということに関して、ライト先輩は次のように書く。
                 イエスがこの涙を受け止めて、それを自分の身に負い、しかもむごたらしい不正な死を迎えるまで追い続け、それによって神の救いのわざを遂行した。そして、イエスが死者の中からよみがえり神の新しい創造を開始することで世界の喜びを受け止め、それによって新しい誕生をもたらしたのだと。
                 (中略)この二重の主張によってクリスチャン信仰はすべての人が抱く、義をしたい求めるパッション(情熱)と全てが正されることへの憧憬を明白にしている。さらに、神自らがイエスのうちにこのパッション(受難)を共有し、実行に移したのである。そしてついに、すべての涙は渇き、世界は義と喜びで満たされる。(同書 pp.23−24)
                 イエスの復活と神の国の到来は、まるで女性が出産するようなものであるということをライトは時々書いているのであるが、ここではそのメタファーが直接示されてはいないものの、イエスの復活の直前には大きな苦しみがあり、しかし、復活と共に新しい生が生まれるという大きな喜びがあることをここでも書いている。
                 まさに、復活、あるいは、イースターは、出産が新しい生命の家族という世界への生命の到来を祝うように、そのような祝祭の行事であることを、我々はもう少し考えないといけないのではないか。

                 日本でもイースターは、最近でこそ祝われるようになってきたが、本来、その日付も確定的(カレンダー上では、太陽暦では、コロコロ移動するので、ちょっと困った存在なのだが)であり、その素性がはっきりしているので、もっと大事にした方がいいような気がする。

                 その意味で、クリスマスより、イースターの方が、キリスト教にとってはるかに大事だし、イースターの方が、よほどその根拠が明白なのだが、消費がいまいち喚起されないということもあり、アメリカでも、日本でも、あまり大々的に扱われることはない。実に残念なことであるが。

                 1章がまだ終わらない。まだまだ続く。



                 
                ロバート・シルジェン
                新教出版社
                ¥ 4,320
                (2007-05-01)
                コメント:海外の人から見た賀川豊彦

                評価:
                ディートリヒ ボンヘッファー
                新教出版社
                ¥ 1,728
                (2014-06-25)
                コメント:おすすめしています。

                評価:
                ウォルター ラウシェンブッシュ
                新教出版社
                ¥ 6,588
                (2013-01-07)
                コメント:高いけど、読んでおいた方がいい世界に影響を与えた一冊

                2015.06.10 Wednesday

                NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その3

                0
                   
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                   今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。引き続き、1章から紹介したい。義を追い求めているキリスト者の姿(義を慕うクリスチャン)の記述の続きからである。

                  クリスチャンの黒歴史

                   義を慕うクリスチャン の中では、次のような表現が冒頭に見られる。

                   「イエスに従う者たちはそんなに進歩しなかったではないか。十字軍のことはどうか。スペインでの異端審問のことはどうか。教会も不正に加担したことがあったではないか。中絶クリニックに爆弾を仕掛けた人たちはどうか。ハルマゲドンの時がすぐに来るので、それまでに地球が破壊されてもかまわないと思っている原理主義者はどうか。クリスチャンは解決をもたらすというより、問題の一部を担っているのではないか。」
                   その通りだともいえるし、そうでないとも言える。そのとおりと言ったのは、イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。
                   また、そのとおりでもないといったのは、あるクリスチャンたちが、神は自分たちの側にいると主張したとしても、彼らの働いた悪事を見れば、キリスト教とは何であるかについて、彼らが全く思い違いをしていることがわかるからだ。(中略)イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。弟子たちに祈りを教えたとき、神に赦しを求める一説を含めたのは、イエス自身だった。(クリスチャンであるとは pp.24−25)
                   日本にいると、過去のキリスト教とが起こした様々な悲惨な出来事が持ち出され、それがキリスト教とキリスト教徒の問題であり、半面、日本の仏教や神道のような伝統宗教にはそのようなものがない実に平和な宗教や信仰であるとか、わけわからない、過去の歴史をガン無視したような問題を突きつけられることが結構あり、回答に窮することに直面した方もおありであろう。

                   しかし、タイやミャンマーの間では、仏教徒同志が血で血を争う戦争をしてきたし、現在でも様々ないざこざが起きているし、聖徳太子のころには、仏教をかなり強引に導入しようとした蘇我馬子を中大兄皇子というれっきとした皇族で、後に天智天皇となった人物が殺害した歴史はあるし、古事記の中にも殺害の歴史が書かれている。まぁ、人間のやることは、何を信じていようがそんない変わらないようなのである。なぜなら、原罪を抱えているから、のような気がする。

                   確かに、中絶クリニックを爆破してみたり、アイルランド島ではキリスト教徒同士で、カトリッくんと聖公会君にわかれて抗争してみたり、ブリテン島では、ピューリたんと聖公会君でもめてみたりと、まぁ、英国史はこの種のキリスト教黒歴史ネタに満ち溢れてはいる。それと同様に、日本でも、明治期の廃仏毀釈のころには、仏教寺院を国家総がかりでつぶそうとした黒歴史に満ちているような気もするが。
                   ライトの一種のすがすがしさ、というか中世の騎士然というか古武士然としているのは、”イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。”というところなどである。恥じることも、申し訳層にするでもなく、また、隠したり言い訳することもなく、そういうアホな奴は居るんだ、ということをあっさり認めたりするところや、”イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。”と「お見事!」と声をかけたくなるほどの潔い言いきり。実にすがすがしい。それをさ、こないだの油かけ事件を起こしたおぢさんに聞かせてやりたい。われわれは正しくないからこそ、主の祈りで、我らが他者を赦すことを教え、神に赦しを乞うことをイエス教えておられるのではないか。
                   
                  キリスト教は本当に西洋のものか?

                   日本では、未だに、キリスト教は英語圏のものという思い込みが激しい型に時にであう。つい5年ほど前に、英国人の宣教師のところに、キリスト教のオリジナルは英語だから、英語で聖書を勉強したい、と言ってこられた方がおられる。たしかに、18世紀以降大英帝国は七つの海を支配したし、第2次世界大戦以降はアメリカが自由世界の代表格を占めたし、日本のキリスト教は、明治以降、アメリカのキリスト教の影響を受け続けてきたこともあるので、そういう誤解が生まれるのは仕方がない。その意味で、キリスト教の世界は西洋のもの、という思い込みをお持ちの方が案外多い(この種の誤解は、米国でも聞いたことがある)が、既に現実はそうではないことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。

                   今日の世界地図からすれば、ほとんどのクリスチャンは『西洋」に住んでいない。その多くはアフリカ科東南アジアに住んでいる。そして、今やかなりの西洋世界の政府は、イエスの教えを社会に生かそうとしてはいない。多くの場合、そうしていないことを誇りにさえしている。(中略)「西洋」が行ったことのゆえにキリスト教を非難することをなくせるわけではない。いわゆる「キリスト教」世界は、悪い印象を与え続けている。おおよそそう思われても無理はないのだが。
                   じつは、これこそが本書の初めで義を取り上げた理由の一つである。即ちイエスに従おうと決めた人は、イエスが教えた祈りのように、神のみこころが「天で行われるように地でも」行われるよう献身することなど理解し、その王に語ることが重要になる。というのは、義を求める神のパッション(情熱)はイエスに従う人の情熱であるべきだからだ。もし、クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。(同書 p.26)
                   確かに西洋社会はクリステンドム(キリスト教国)で長期間あった経験をした国ばかりである。しかし、フランス革命で、カトリックの世俗への関与の完膚なきまでの排除やロマンティシズム、ヒューマニズムの隆盛等を経て、現在の西洋国家は世俗化が進み、非キリスト教化が進んでいる。その意味で、西洋諸国では、神は神でない一種抽象的な概念になってしまっている。In God We Trustと1セントコインから100ドル札まで、入れておかないと気が済まない米国であっても、市民宗教的な神になってしまっており、聖書の言う神と思ってない人々やその意識をもたない人々も案外多いのである。この辺りのことは、マクグラス先輩の『総説 キリスト教』という分厚い本でも示されている。


                  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/US_One_Cent_Obv.png

                  One cent coin

                  100 ドル札

                  神の義の地での回復とキリスト者

                   ライト先輩は、義(前回の記事でも少し紹介したが)の問題を本書冒頭で取り上げたその原因として、神がものすごい熱意をもって義を回復しようしておられることを主張したいとここで書いておられるが、聖書の義は、日本でこれまで誤解されてきたように、正義でもないし、道徳でも、倫理でもない。美しい状態、とでもいうものであり、聖書における義は愛や(神との)和解と同じことなのである。
                   そして、義への情熱をもつ神と共に生きようとするのがキリスト者であるならば、神と同じように義を求めて、それが不完全であるにせよ、義を求める存在であるはずであることをライト先輩は、示そうとしているのである。しかし、”クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。”とあるように、イエスへの信仰や聖書の記述を口実に、この地上での神の義への関与を避けるという危険に直面しかねないことを指摘しておられる。
                   例えば、選挙や地上の政治にかかわること、地上で生きることを”世のこと”と軽く見て、それはキリスト者がすべきことではないと主張された方が、ミーちゃんはーちゃんの関係者におられた。現在でも、そうお考えの向きもあるかもしれない。
                   以下、その具体的な例として、アパルトヘイトの事例が取り上げられており、その部分をご紹介したい。
                   南アフリカで、人種隔離政策(アパルトヘイト)の政治体制が最も支配的だったとき(異なった人種による異なった生き方を聖書は語っているからと、多くの人がその政策を正当化してきた)、デズモンド・ツツ司教のようなクリスチャン指導者たちの長い間の運動によって、驚くほど流血のすくない形で変化がもたらされた。(同書 p.27)


                  映画 イン・マイ・カントリー
                  ツツ司教が影響を与えた南アフリカの和解と平和のための委員会を扱った映画

                  ツツ元大司教
                  (南アフリカのアングリカンコミュニオン(聖公会君)の元大司教)

                   この写真を見る限り、なかなかお茶目なユーモア感覚にあふれる方の様である。この種のユーモア感覚は余裕の表れであり、こういう余裕を日本のキリスト教界の関係者にも持ってもらいたいものだと思う。

                  殉教の時代であった20世紀
                   キリスト教最大の殉教の時代といえば、ネロ帝によるキリスト教との迫害や、江戸幕府によるキリシタン迫害などを思い起こすかもしれないが、案外今世紀もキリスト教指導者に関して言えば、キリスト教徒によるキリスト教指導者による暗殺が続いた世紀でもあったのである。そのことに関して、ライト先輩は次のように述べる。
                   20世紀は多くの偉大なクリスチャン殉教者を生み出した。それは単に信仰的立場の故でなく、特に彼らの信仰が義の実現をも求める恐れを知らぬ行動に導いたからである。第2次世界大戦の末期にナチスによって殺されたデートリッヒ・ボンフェファー、エルサルバドルで貧困者の側に立って発言し、暗殺されたオスカー・ロメロ、またもう一度、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのことを考えていただきたい。(同書 p.28)
                  共産主義者が、キリスト教の指導者を殺したのではないし、キリスト教徒を殺したのではないのである。キリスト教徒が思い込みによってキリスト教徒を殺したのである。この事実は重い。


                  デートリッヒ・ボンフェファー先輩
                  ナチスドイツ下のドイツにアメリカからわざわざ戻ったという・・

                  オスカー・ロメロ先輩

                  マーティン・ルーサー・キングJr先輩

                   最近手に入れた、工藤信夫著 『真実の福音を求めて 信仰による人間疎外 その後』(この帯がすごい キリスト者は、はたして「福音」を伝えてきたのか とあった。『福音の再発見』も真っ青である)の中に面白い記述があったので以下引用してみたい。
                   (引用者補足 フィリップ・ヤンシーの)『教会ーなぜそれほどまでに大切なのか』の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下(引用者註 つまり人間でない)で教育不可能であり、「奴隷」の人種となるように呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その教派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ聖書学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(同書 pp.115-116)
                  なんか、どっかで聞いた様な話である。スカート丈と信仰がどう関係するのか、ミーちゃんはーちゃんには理解不能だし、強制的読書で信仰が深まるとも思えないのだが。森本あんり先輩に言わせたら、まぁ、これも反知性主義のなせる結果なのであろう。しょうがないなぁ。わけわからないもの、自分にとって気に入らないものを、共産主義者、リベラリスト、リベラル、とラベルを張って一丁上りって、個人的にはドヤさ、と思うねぇ。

                   このことに関しても、ライト先輩は次のように締めくくっている。
                   その(神の義に対する)情熱はこの章で論じてきたように、すべての人の生活の中心にある。それは時に、異なったしかたで表出し、歪められたり、恐ろしいほどの悪を招く場合もある。いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。しかし冷静になれば、私たちが義と呼ぶこの不思議なもの、物事が正されることへの切望は、人間の抱く大きな目標と夢の一つであるとだれもが知っている。(中略)そしてその声(物事が正されるようにというかすかな声)はイエスにおいて人となり、その実現のために必要なことをイエスが行ったとクリスチャンは信じている。(同書 p.29)

                   現実を見れば、

                  いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。

                  という表現通りではないかもしれないが、

                  いまだに、誰かに嫌ごとを言って言論を殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいからネット上で言論封殺して死人に口なし状態にしようとしている。

                  ということは、ネット界隈のキリスト教クラスタを見ればかなり明らかなように思う。

                   確かに幕末のころの人斬り以蔵の様な狂信的な人物や自分に不都合なことがあれば、切って捨てるに何があるとうそぶいた幕末の志士(長州も薩摩も会津も新撰組も似たようなものである)たちはいなくなったものの、違う形で、より陰湿な形で言論封殺することはないだろうか。

                   現在、世俗の仕事の一環として、マーケティング関連の講義の中で紹介した昔のアップルのCFが非常に印象的で、世の中をよりよくしたい、不完全でも少しでもより義(美しい状態)に近い状態であることを求めたいと主張した人たちの映像をうまくCFにしたものがあったので、ご紹介しておく。



                  Apple社の Think DifferentのCF

                  実は、これは某I○Mという会社の社是がThink!であることを揶揄しているw





                  評価:
                  アリスター E.マクグラス
                  キリスト新聞社
                  ---
                  (2008-07)
                  コメント:翻訳を見直して、再販を希望する。

                  評価:
                  工藤 信夫
                  いのちのことば社
                  ¥ 1,296
                  (2015-06-05)
                  コメント:お勧めしている。大変良い。これまでの総集編後日、この本も紹介したい。薄いが重要な本である。

                  2015.06.10 Wednesday

                  ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その1

                  0

                     
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                     先日お伺いした雑誌Ministry主催 ざっくりわかる出張「Ministry」神学講座 in 大阪に参加した。冒頭は、関谷直人(同志社大学神学部教授)さんの45分のご講義だったのだが、これはまぁ、後回しに。今日は、第2番目の講義、水野隆一(関西学院大学神学部教授)さんの「賛美歌学〜神学的作品としての教会音楽」からご紹介したい。

                     何でかって? そら、今、南部の改革長老派の讃美歌学の連載(今一時お休み)ちゅうだからにきまっているじゃ、あ〜〜〜〜りませんか。

                    水野先生の自己紹介

                     水野隆一さんは、普段は旧約学がご専門で、ヘブライ語聖書を教えておられるそうで、本来は、讃美歌学者ではない、ということであった。賛美歌を歌うPractioner、実践をしている実践家として、講義を普段もなさっておられるとのことである。


                    讃美歌学超概観

                     では、日本の中に讃美歌学者がいるかというとかなり難しい、ということらしい。北村宗次先生などが思い浮かぶが、基本礼拝学の一環であろう。その多くは、歴史研究が中心となっている、ということらしい。

                     では、讃美歌学というとどういうことになるかというと、個々の讃美歌の背景を考えることになるのだと思う。最近は、原恵・横坂康彦著、『新版讃美歌 その歴史と背景』という本や、川端純四郎著 「さんびかものがたり I〜V」などがあるらしい。その意味で、賛美歌の背景研究が一方であり、また、賛美歌作家そのものの研究という研究方法もある。
                     さらに言えば、讃美歌集の編纂の背景に関する研究もあり、コラールが最初に出たのは五日という研究や、ジュネーブ詩篇歌の成立研究などもされている。

                     とはいえ、賛美歌を作品と考え、作品そのものを研究する必要があるのではないか、という視点はあるだろう。つまり、讃美歌をどう「読む」か、という研究である。もう少しいえば、賛美歌を味わってみて、その讃美歌が与えている印象を分析的に明らかにする、という方法論である。さらに言えば、詩とメロディの両面に注目して、そこに込められているキリスト教思想の内容を読みだしていくということを試みてみたい。

                     このあたりで、バンドをしている学生が水野先生にある所で賛美歌に関する何か考えさせられることをして、「先生、賛美歌をなめてましたわ」といったとか言わないとか、というエピソードが紹介されていた。

                    讃美歌を作品として考える

                     では、具体的には、どのように分析的に考えていくと、歌詞の面では、どのように構成されているか、言葉やイメージ、その中に含まれる神学的理解、楽譜の面と詩の面では、メロディとリズムやハーモニーを分析してみて、作品について考えてみるということがあるだろう。

                     たいていのキリスト者は、歌は好きだが、作品として分析的に取り組むことが可能だと思っていないことが多いのではないだろうか。歌っているときはあまり考えてないのではないだろうか。(個人的には、賛美歌の歌詞に、ミーちゃんはーちゃんはえり好みが激しく、歌えない讃美歌や歌いたくない節を含む讃美歌がいくつかあるし、英語でしか歌いたくない讃美歌もいくつかある。)

                     讃美歌は芸術作品であると同時に、神学的に構成された一種の作品でもあるといえるのではないか。作品として味わえる人と、そうでない人がいる。

                    あめなる喜び を題材に

                     たとえば、Charles Wesley チャールズ・ウェスレーの超有名な讃美歌、「あめなるよろこび」を簡単に分析的に味わってみよう。チャールズ・ウェスレー牧師の家庭で育てかられ、イングランド教会(英国国教会)の司牧であり、Oxford のChrist Churchで教育を受けた。
                     彼の兄貴は、John Wesleyであり、彼らが新しい回心をした後、新しいキリスト者の生き方の方法Methodがあったと言いまくったので、そこからメソディストMethodistとあだ名をつけられてしまう。彼の息子の Samuel Wesley サミュエル・ウェスレーや同姓同名の息子のCharles Wesleyチャールズ・ウェスレーも、賛美歌と深いかかわりがある。

                    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Charles-Wesley-preaching.jpg
                    Charles Wesley Snr.(親ぢ殿)


                    Charles Wesley Jnr. (息子殿)

                    Samuel Wesley(英国のモーツアルトと呼ばれたらしい)

                    難波のモーツアルト(関学出身)ご存じ、キダタロー先生


                    キダ・タローメロディー


                    Samuel Sebastian Wesley

                     チャールズ・ウェスレーは劇的な回心体験以降に、賛美歌詩を書き始めた。現在のところ、誰にもいくつあるかわからないものであり、大抵の場合、彼の讃美歌のオリジナルの支配用に長いらしい。そして、兄のJohn Wesley(ジョン・ウェスレー)がその讃美歌の中から、いくつか節を選んで、編纂したうえで賛美歌集を出版している。それで、一気に広まった。その意味で、名編纂者を得たことで、名作が残ったといえるだろう。
                     なお、チャールズ・ウェスレーの歌詞には、Loveという語がかなり出てくる。その意味で、チャールズ・ウェスレーはLoveという語が好きであり、チャールズ・ウェスレーがLoveというとき、イエスそのものを描いている。Loveはイエスそのものであり、この地上に点からわざわざ降りてきたまいしLoveがイエスであったという理解をしたうえで、彼の詩を作品としてみるとき別のものが見えてくるのではないか。

                     ウェスレーの詩は、聖書や古典的な祈りのことばからの暗喩が多く、「あめなるよろこび」の原歌詞には、これらが広く拾われている。

                    原歌詞を紹介しておく。

                    Love divine, all loves excelling

                    1.Love divine, all loves excelling,
                    Joy of heaven, to earth come down;
                    fix in us thy humble dwelling;
                    all thy faithful mercies crown!
                    Jesus thou art all compassion,
                    pure, unbounded love thou art;
                    visit us with thy salvation;
                    enter every trembling heart.

                    2.Breathe, O breathe thy loving Spirit
                    into every troubled breast!
                    Let us all in thee inherit;
                    let us find that second rest.
                    Take away our bent to sinning;
                    Alpha and Omega be;
                    end of faith, as its beginning,
                    set our hearts at liberty.

                    3.Come, Almighty to deliver,
                    let us all thy life receive;
                    suddenly return and never,
                    nevermore thy temples leave.
                    Thee we would be always blessing,
                    serve thee as thy hosts above,
                    pray and praise thee without ceasing,
                    glory in thy perfect love.

                    4.Finish, then, thy new creation;
                    pure and spotless let us be.
                    Let us see thy great salvation
                    perfectly restored in thee;
                    changed from glory into glory,
                    till in heaven we take our place,
                    till we cast our crowns before thee,
                    lost in wonder, love, and praise.

                     3節の後半はおそらく賛美の賛歌(テ・デウム)から採られているなど、聖書からの引用に満ち溢れている。詩そのものはある面、激しさを持っている。John Wesleyの著作集、賛美歌集もあり、そのうち或る者には、聖書のどの場所からの引用であるか、ということを推定して示したものもある。

                     この「あめなるよろこび」の賛美は、暗喩(Allusion)が多くみられ、例えば、子(1節)、聖霊(2節、聖霊の憩いを求める祈り)、父(3節、全能者の神殿となることを祈っている)
                    で三位一体を示している。

                     非常に聖書的、神学的、教理的な内容と情緒とがバランスよく歌詞の中に含まれている。ところが、彼の前の時代のIssac Wattsアイザック・ワッツはどちらかといえば、教理重視であり、19世紀アメリカでは、教理がかなり落ち感情の面が強い。


                    Wattsの讃美歌 The Wonderful Cross

                     最後の節は祈りの言葉で締めくくられている。あくまで、どの歌詞にも最後の節に力点が置かれている。

                     ところが、一般に知られている「あめなるよろこび」は、歌詞とメロディがあっていない。特に、メロディーでは、A-A-B-Aという構造になっており、3段目のBの部分に力点がある。その意味で、曲と詩の構造があってない。


                    一般に知られている「あめなるよろこび」

                     まず、曲と歌詞の組み合わせは、地域と時代によって違う。実は、このLove divine, all loves excellingは、極が先にあってつくられた詩であり、以下のパーセル作曲のアーサー王(King Arthur)のFairest Isleに合わせて作られた曲である。


                    パーセルのアーサー王の Fairest Isle これだとまずうたえない。

                     英国で歌われている曲としてはBlaenwern Singing with Faithの中に収録されたものがあり、18世紀のメロディである。


                    最近何かと話題のウィリアム王子の結婚式で歌われた別バージョンBlaenwern


                    Hyrydol版 これだと詩とメロディがフィット感が強い。4節目に強調がある

                    Child of Joy and Peaceを題材に

                     詩と曲の組み合わせは大事で、Child of Joy and PeaceというShirler Erena Murrayという現代の讃美歌作家によるクリスマスの讃美歌を見てみたい。

                     Child of Joy and Peace (Hunger Carol)

                    1.Child of joy and peace,
                        born to every race --
                           by your star, the wise will know you,
                           East and West their homage show you,
                                  look into your face,
                                  child of joy and peace.

                    2.Born among the poor
                        on a stable floor,
                           cold and raw, you know our hunger,
                           weep our tears and cry our anger --
                                  yet you tell us more,
                                  born among the poor:

                    3.Every child needs bread
                       till the world is fed;
                           you give bread, your hands enable
                           all to gather round one table --
                                  Christmas must be shared,
                                  every child needs bread.

                    4.Son of poverty,
                         shame us till we see
                           self-concerned, how we deny you,
                           by our greed we crucify you
                                  on a Christmas tree,
                                  Son of poverty.

                    この讃美歌は、確かにイエスの1節2節の子は、確かにイエスのことであるが、すべての子供のことではないか。しかし、私たちがクリスマスツリーにイエスをかけたという第4節の告発は、すべての富んだキリスト者にとって、豊かさの中にある基督教徒にとってのクリスマスの現状を考えるときに、きわめて厳しいものである。


                    Child of Joy and Peace Carl Browning

                     Carol Browning作曲の作品だと、曲が柔らかく、歌詞をかなりやわらげる役割を持ってしまっている感じがする。中国のガムラン音楽研究科の 駱維道作曲の作品はアジアの音楽という感じが強く、非常に悲惨な雰囲気が出ているのではないだろうか。

                     
                    SMOKEY MOUNTAINバージョン 4分5秒あたりから

                    終わりに

                     讃美歌は、一種の芸術作品(音楽作品)でもあるとともに、神学的な作品作品でもあり、可視に関する精密に釈義が必要ではないだろうか。礼拝の中で歌われたり、歌唱されることが讃美歌の本来の姿であろう。その意味で、礼拝の中で、どのように用いられ、神学的メッセージを考察する必要があるのではないか、と思われる。その意味で、讃美歌学は、礼拝がどのようにあるべきかに目を向ける分野である。

                    質疑応答から
                    Q. 日本語の歌詞で英語から日本語になると、おかしなことが起きるのだが?

                    A. 翻訳讃美歌はある面で、別の作品として作り直すことであり、別言語に翻訳した時に、神学的な意味が付加されることがある。聖歌もよい面があり、ジュネーブ詩篇歌を最初に入れたという点で重要な意味である。(しかし、ミーちゃんはーちゃんはあれを謳ったことがない)

                    Q. 讃美歌は神学作品であるということであるが、もう少し聞かせてほしい。 
                     
                    A. 讃美歌というものは定義できない。個人が賛美できるか、会衆全体として共有できるかが問題であろう。ある時、神学校のチャペルでLet it beを讃美歌とした経験がある。それが、説教ときっちりあって、確かにそれは讃美歌の役割を果たしていた。ある面、体系性の中で賛美歌になるのではないか。その時の説教が、神にあって思い煩いを抱えない、というテーマであり、実にその説教とフィットした賛美だったし、Let it beが讃美歌としての役割をきちんと果たしていたのである。

                    感想
                     あまり、賛美歌そのものを批評の対象にすることはないが、時々歌いながら、この歌詞はまずいなぁ、とか思ったり、わがキリスト者集団では、聖書メッセージをする人が讃美歌を選べない、指定できないこと(司会者の専管事項であることがある)が多いのであるが、これが実に残念であるなぁ、と思うことがある。
                     時に司会者が聖書メッセージの内容とほぼ無関係に讃美歌が選ばれたり、聖書メッセージの内容と逆行するかのような讃美歌が選ばれたりすることがあると、なんか一生懸命取り組んだ聖書メッセージがなんかねぇ、えらい残念なものに終わることが多いのは、非常に残念であるなぁ、と思う。

                     それと、歌われる賛美歌が教会により偏っていたり、岳父ガン無視のメロディおよびリズムの改変がなされていたり、伴奏者の技能に依存して、賛美を選択できる讃美歌が制約されるとか、ろくでもないことが結構ある。

                     若し演奏者の技能の結果、賛美歌の選択肢が制約されるなら、個人的には、無伴奏でよいと思っている。とはいえ、改革長老派の皆さんほど、アカペラによる詩篇賛美歌だけが正しい讃美歌であるといったような神学的の立場やこだわりは全くないが、個人的には説教と讃美歌の関連性はもうちょっと配慮されてもいいかなぁと思う。


                     いやぁ、充実の講義でした。楽しかったです。

                     次回も、この講座から、礼拝に関する講義をご紹介する予定。



                    原 恵,横坂 康彦
                    日本キリスト教団出版局
                    ---
                    (2004-01)
                    コメント:読んでないので、紹介にとどめる。

                    川端 純四郎
                    日本基督教団出版局
                    ¥ 2,592
                    (2009-05)
                    コメント:読んでないので紹介にとどめる

                    2015.06.13 Saturday

                    NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その4

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                       今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

                      霊性の混乱

                       第2章は水源を守る「独裁者」のたとえ話というか物語の話から始まる。この物語は面白いので、ぜひ本書を読んでご自身でお考えいただきたい。

                       書店に行って「霊性(スピリチュアリティ)」と分類されている棚を見れば、同じような結果(引用者註 現代人が知的に洗練されたとしても宗教的なものへの関心は変わらないという結果)に至るだろう。書店側もどう分類したらよいかわかっていないのは、まさにこの時代の状況を物語っている。(『クリスチャンであること』p.37)

                      アメリカの古本屋のSpiritualityコーナー


                       上記の写真は、アメリカの古書店の霊性関連のコーナーの写真である。あるいはアマゾンなりどこかのネット書店で霊性を検索してご覧になるとよい。まぁ、キリスト教から、仏教、新興宗教から、神道、またムーもどきのオカルトまで何でもございである。結局、雰囲気が宗教的なものは、何でも霊性の中にぶちこんでいる感じはアメリカでも日本でも変わらない。

                       ある意味で、現代の日本の社会でも、このスピリチュアリティという語が粗製濫造のように使われ、そして記号として消費されている。


                      一時期話題になりましたなぁ。

                      この方も霊能者としてご活躍という側面も

                      この深見東洲というお方の車内広告がはってあるのが阪神電車クオリティ

                      深見東洲の阪神電車内のポスター
                      最初に阪神電車でこの広告見て、何者?ってビビった。

                       しかし、江原啓之さんにしても、三輪明宏さんにしても、深見東洲さんにしても、みんな音楽、それも結構声量を要請する系の音楽関係者というのが面白い。まぁ、感性と霊性はどっかでつながっているので、この辺りをどう考えるのか、ってのは結構真面目に考えておかないといけないのかもしれない。これは完全に余談である。

                      英国でのケルトの流行

                       日本でもそうであるが、1990年代から2010年頃を中心にケルトが話題になった。ケルトといっても、なんちゃってケルト的なものであるが。その火付け役は、なんといってもエンヤというアイルランド生まれの歌手であり、そのアルバムである。


                      エンヤの音楽 もろケルト風


                      かなりデトックスされたケルト風 Celtic Women

                       まぁ、その後、セルティクスの活躍(中村俊輔というサッカー選手が在籍したらしい)などもあり、大概の日本人はスコットランド高地地方とアイルランドの深い関係を知ることもなく、なんちゃってケルトを楽しんでいるし、その極みは、ケルト的な(というよりドルイド的な精神世界の反映である)ハローウィンである。


                      セルティクス時代の中村俊輔


                      2014年表参道ハロウィンパレード

                      また、コンピュータゲームの古のゲームウィザードリィなどである。1980年代初頭にこのゲームがしたいがためにマックを買いに走った友人が一人いる。まさにヲタクであった。大体マッキントシュという語自体、とてもケルト的である。

                       まぁ、余談に行き過ぎたが、N.T.ライト先輩の本から
                       とくに、私の住んでいるイギリスについて言えば、つい一時代前はケルトに関することが突然注目をを浴びるようになった。「ケルティック」という言葉がつけばそれだけで人々の興味を引いた。音楽にしても、祈祷書にしても、建築物であろうと宝石であろうとTシャツであろうと手当たり次第に西洋文化圏の人々の注目を引き、売れた。それは絶えず心に浮かぶもう一つの世界の可能性を物語っているように思う。(同書 p.38)
                       実は、ケルトの血脈というのはアメリカに結構流れているのだ。まぁ、貧しいアイルランド系の農民たちが、ジャガイモ飢饉の結果、19世紀に新天地としてアメリカに大挙して移民を行い警察官や消防署員、そして軍人として、アメリカ社会に流れ込んでいったのだ。いまだにニューヨーク市警察本部には、なぜかアイルランドの国旗が掲げられる習慣がある。それだけ多いのだろう。まぁ、いずれの三職とも、体力勝負の仕事ではある。


                      アメリカ国旗、アイルランド国旗、NYPD旗(緑はIrish Green)


                      映画「デビル」の予告編

                      IRAのテロリスト(ブラピ)と同居する羽目になる警官(ハリソン・フォード)に示される実に複雑なアイルランドとアメリカのつながりが思い起こされる面白い設定の映画


                      ボストンの有名バスケチーム Boston Celtics


                      なぜ、ケルトにひかれるのか

                       ケルトに英国人がひかれるのは、現代社会の底の浅さ、浅薄さではないか、というのがライトの主張である。この辺、もともと、ライト先輩がスコットランドのセントアンドリュースで教えていることもあるかも、と思っている。いずれにせよ、結局西洋文明が、理性重視社会に偏重してしまった結果、結果的に底の浅い、懐の深さを失った残念な結果になっているかもしれないことに関して以下のようにお書きである。

                       神(どのような神であっても)がもっとリアルに存在する世界、人間と自然環境が最もうまく共存する世界、はるかに深い根源に根ざしている世界、そしてそこで奏であれるさらに豊かな音楽。そこには、現代のテクノロジー、昼ドラ番組、サッカーの監督等、けたたましくそこの浅い世界より、はるかに豊かな世界がある。古代ケルトの世界(中略)は、今日のキリスト教からは百万マイルも離れているように思われる。それこそが教会等西洋の公認宗教に飽き飽きし、怒りさえ抱いている人にとって間違いなく魅力的なのだ。
                       しかし、ケルト・キリスト教の真の中心は、極度の肉体的苦行と熱心な伝道活動をともなった修道生活であり、今日の人が願うものではない。(中略)今日の陽気で熱狂的なケルト愛好者は、そうした肉体的苦行を取り入れる様子はない。(同書 pp.38-39)


                      ケルズの書(ヨハネ福音書)Wikipediaより



                      ケルト十字架



                      アイルランドの聖人 St Patirick



                      アイルランドの祭り St Patric Day

                      真ん中の人物は、レプリコーンという虹のたもとに宝を埋めたとされるアイルランドの妖精のコスプレ


                      Guinness Beerカップが典型的なアイルランドのステレオタイプ


                       今のアイルランド、あるいはケルトは、基本こういったノリの軽さとポップさを含んだものでしかなく、古のアイルランド人、スコットランド人が地を這うように生活し、海藻を岩地にまき、土壌を作り、痩せこけた土地で何とか生き抜こうとしたその情熱と必死さも知らず、お気軽なケルト祭りをしているように思えてならない。

                      日本とケルト

                       日本でも何かと話題となるゴルフは英国風の紳士のスポーツに今はなってしまっているが、そもそもは、スコットランドの遊びであり、非常に古い伝統を持つものなのだ。


                      ゴルフの歴史の映像
                       20秒あたりからライト先輩のいるSt Andrews 大学の映像がある

                       また、アイルランドにしてもスコットランドにしても、土地の生産性が限られるために(だから牧草地になっている)その土地で生活可能な人口が限られるの で、割と早くから海外展開に出ており、海外進出している人々が多い。例えば、トーマス・グラバーは上海のジャーディン・マセソン商会(現在はマンダリンオ リエンタルホテルグループなどで知られる)の日本の相代理人を長崎にて務め、長州と薩摩に当時の最新鋭兵器から一歩落ちた南北戦争で売れ残った銃を大量に売りつけた人物であるが、ジャーディンやマセソン同様、スコットランド人である。結構、幕末のころの一発屋的な外国人商人(冒険商人)にスコットランド人は案外多い。

                      Thomas Blake Glover(グラバー 右)
                      左の日本人は岩崎弥太郎

                       また、スコットランド人の伝道者はかなり多い。第2次世界大戦末期、中国東北部にあった日本軍の捕虜収容所で脳腫瘍のため1945年2月に収容所で病没した元パリオリンピック金メダリスト、エリック・リデルズはスコットランド人の宣教師である。
                       念のため、この人物は炎のランナーで登場する人物である。

                      Eric liddell 1.jpg
                      Eric Eric Henry Liddell


                      映画 炎のランナー 予告編 米国版

                       ことほど左様に、古ケルトの社会は理想郷ではない。非常に陰惨で飢えと苦しみとイングランドによる暴虐に満ちた地であった。しかし、それでもなお、いや、それ故に、大陸やイングランドで失われた神のコミュニティとその伝承が偏狭であるがゆえに比較的きれいに残った地でもあり、神のことばの情熱の声が響いていた地なのかもしれない、とは思う。

                       最近、息子と英米文学の話をするのだが、特に米国文学の理解にあたっては、スコットランド、アイルランドの文化とその特徴の話を抜きに、語ることはできない、ということを感じる。しかし、案外このあたりのことを講義では触れてもらっていないようなのが、実に残念ではあるが、米国や英国にいる訳でないのでしょうがないとは思うけれども。

                       また、なぜかケルト系住民(主にスコットランドやアイルランド系住民)が多いシカゴでは、シカゴ川を緑色に染めることをせんとパトリックの日にしてここ数年遊んでいる模様である。もはや病気である。なお、この緑色の染料は、環境負荷がない染料らしいが、サカナが住んでいるとして、びっくりするかもではある。



                      シカゴは3月のSt Patrick Dayに川を緑に染めて遊ぶ模様w

                       あぁ、あまり関係のない話題で今回は盛り上がってしまった。次回はまともに紹介します。



                      評価:
                      原 聖
                      講談社
                      ---
                      (2007-07-18)
                      コメント:非常に幅広い世界であったことを示す名著だと思うけど継続的に出版されてない模様。

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