2015.04.01 Wednesday

2015年3月のアクセス記録とご清覧御礼

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      今月は、ほとんど反知性主義祭りという感じでございましたが、それにもかかわらず、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。短い期間ながら19000越えまじか。 日に600アクセス。

     2014年3月  20499アクセス。
     2014年4月  24200アクセス。
     2014年5月  22690アクセス。
     2014年6月  11281アクセス。
     2014年7月  13883アクセス。
     2014年8月  12202アクセス。
     2014年9月  13264アクセス。
     2014年10月  15282アクセス。
     2014年11月  12853アクセス。
     2014年12月  14424アクセス。
     2015年1月  16502アクセス。
     2015年2月  12711アクセス。
     2015年3月  18860アクセス。
     今月のピークは、942アクセスの3月13日。Reminder! 明日午後1時からのこころの時代のおすすめ を緊急公開した翌日。


    それでは、以下、今月の上位5位まで。

    NHKこころの時代 「この軒の下で」 視聴記  1063 アクセス

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(1) 437 アクセス 

    日本のクリスチャンがまず”Do”に走るわけ & クリスチャンのこれはアカンやろ発言 395 アクセス

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(2)
     343 アクセス


    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
      334 アクセス

    ということで、結構昔の記事である「現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 」が人気が高いのは、やはり、それだけ、日本のキリスト教界が若者に飢えているといっていいほど、若者がいない社会が見事にキリスト教界において実現されていることの証左なのかもしれない。

     今月もご清覧感謝。また、来月もよろしくご高覧、ご清覧のほどを。来月は、富士山とシナイ山に主に取り組み、日本の霊性をめぐることを中心に考えてみたい。


    2015.04.01 Wednesday

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(14) 最終回直前スペシャル

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       これまでの、連載は、こちら 反知性主義をめぐるもろもろ  をご覧ください。

      延々と15回にわたり、関連情報を含め、お送りしてきた森本あんり先生の「反知性主義」アメリカが生んだ「熱病」の正体 であるが、本日が最終回直前の記事である。今日も関連情報満載でお送りしたい。

      知性とは何か
       まず、「反知性」の反対にある「知性」とは何か、ということに関して、森本先生は以下のようにお書きである。
       
      「知性」とは、単に何かを理解したり分析したりする能力ではなくて、それを自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む、ということだろう。知性は、その能力を行使する行為者、つまり人間という自我の存在を示唆する。知能が高くても知性が低い人はいる。それは知的能力は高いが、その能力が自分という存在のあり方へと振り向けられない人のことである。(反知性主義 p.260)
      「ふりかえり」や「反省」の有無というのが、知性の働きとして極めて重要であるということをご指摘になっておられる。個人的には大学時代の哲学の基礎教養をつけていただいたのが、パスカルの研究者でもあった故湯川佳一郎先生であったので、哲学とは何かを教わった。一言で言うなら、「哲学的反省」のことであり、「自分自身が何者であり、自分自身がどのように生きるべきかを考えること」であるということになろうか、と思う。その意味で、「反省」みずからの「ふりかえり」が哲学の出発点であろう。

      反知性主義と歴史観のなさ

       以前にも触れたが、現在と将来だけがあって、過去のない社会というのは、実はかなり「反知性的」である疑いが強いような気がする。ある面で言うと、現在と将来だけに関心が深く、新約聖書を中心として(中でも、黙示録を中心として)読むキリスト教というのは、「反知性的」である可能性が濃厚である。

       以前、尊敬してやまないアメリカ在住のU先生が「戦後生まれのプロテスタントの信仰」について、新約聖書詩篇付きの信仰と自嘲気味におっしゃったが、それは、ある面で言うと、この反知性的なアメリカ型のキリスト教を直輸入した結果であるがゆえに起きた現象かもしれない。
       しばしばいわれるように、アメリカは中世なき近代であり、宗教改革なきプロテスタンティズムであり、王や貴族の時代を飛び越えていきなり共和制になった国である。こうした伝統的な権威構造が欠如した社会では、知識人の果たす役割も突出していたに違いない。それが本書で辿ったアメリカの歴史であるが、反知性主義はそれと同時に生まれた双子の片割れのような存在である。(中略)他の国で知識人が果たしてきた役割を、アメリカでは反知性主義が果たしてきた、ということだろう。
       本書は最初から最後まで、キリスト教がアメリカにおいて土着化したこと、文脈化したこと、そしてその結果が宗教と道徳の単純なまでの同一視であること、の二点を強調してきた。(pp.262-263)

       要するに、アメリカは、キリスト教の顔をした道徳だった可能性があるような気がする。ごくごく荒っぽくいってしまえば、市民宗教としてのキリスト教だったような気がするのだ。

      Law and OrderのあるEpisodeから
       このことを思い起こさせる話として、Law and OrderのSeason 17 Episode 14で、同性愛者をバッシングする新興キリスト教団体New Promise Churchと自称するキリスト教的な宗教集団の牧師のようなの関係者が同性愛者で男娼の成年男性に対する殺人事件を起こすエピソードがあるのだが、この終わり方がすごいのである。

       この年間に数十億円の献金とグッズの売り上げを誇るキリスト教会のような宗教集団の牧師の関係者が、教会にとって不都合なことが広まらないようにするために黙らせるためにある男娼の成年男性を殺したのだが(同性愛よりも殺人の方が罪が軽いと思うところがそもそもどうかと思うが)、捜査の過程の中で、この殺人を行った牧師の関係者が、過去に性犯罪にかかわっていたことが判明する。

       そして、検事(実際には検事補)が殺人を行った牧師の関係者に、次のように持ちかけるのだ。

      「あなたが過去に売春にかかわった結果の逮捕歴があり、そのため改名(アメリカでは割と簡単に名前を変えられる)したことが裁判になったらその議論の過程の中で明らかになる。しかし、裁判になるとその過去はばれるが、もちろん裁判であるから、無罪となる可能性がある。しかし、もし殺人を認め、司法取引して、刑に服すなら、検察としては裁判の継続は断念し、この不都合な事実は明らかにならないが、どうする?」

      このように聞くシーンがある。すると、この教会関係者は司法取引し、過去が明らかにならないことを選ぶのである。

       これが、市民宗教と化したアメリカの『キリスト教』の一断面を非常にうまく描いているように思うのだ。この場合、自分自身の信仰のありようであるはずの、自分の罪の回心よりも自分の不道徳の過去を葬り去ること、即ち殺人への有罪を告白することで自分が売春婦であることがばれない道を選び、教会のようなところが継続するように図ろうとするのだ。もう、ミーちゃんはちゃんからすれば、「???MJSK」であるけれども。

       しかし、こういう例に近いキリスト教会ってのはアメリカで結構ありそうな気がするだけに怖い。

      進化論との対決の裏側
       反知性的な行動が顕著に表れた例として、反進化論の論調が取り上げられる。アメリカでは、進化論は、アメリカとアメリカ系のキリスト教関係者の間で、ポリティカル・イッシュー(政治的な論点)として炎上しやすいネタであるが、その背後に反知性主義というか、反権威主義が潜んでいることを森本先生は次のようにお書きである。

       ここに言う「政府」とは連邦政府のことであり、それに反対する人々はおもに南部諸州を中心とした「バイブルベルト」の地域の人々である。彼らは、自分の子供たちに何かを教えるべきかということで連邦政府から指令を受けるのを好まない。つまり、家庭における価値観や教育というプライベートな部分に連邦の権力が踏み込んでくることに対して、怒りに満ちた異議を表明しているのである。ムーディやサンデーの時代とは異なり、今日の反対は、科学そのものよりも、科学が権力と結びついていることに向けられている。(同書 p.265)

       森本先生の論旨は非常に明快で、反進化論闘争は表面的には信仰上、神学上の議論の顔をしているが、実態的には、政府と個人の権力闘争であることを非常に明快に指摘しておられる。日本の福音派と呼ばれる人々の一部では、この辺の権力闘争の側面を見落とし、神学的な護教論としてあるいは弁証論として反進化論闘争を日本にも持ち込んで、キリスト者がキリスト者を切ると言ったようなことをしている人々がおられるが、それは無益であろう。

       本来進化論への反対者が向かうべきは、文部科学省と教科書用図書検定審議会だろう。そして、米国では、本来、Establishmentへの反権力志向を持つ、割と反知性主義者と親和性の高い民主党政権に火を吹いて行くことが多い。なんか、こういうのを見ていると、近親憎悪って言葉が浮かんできそうである。

      南部と反知性主義との不幸な出会い

       南部諸州を中心としたバイブルベルトは、東部Establishmentを中心とした、Federal Systemに対抗し、Confederate(南部同盟)を作ってCivil War南北戦争を戦い、敗北する。基本的に連邦政府=Federal System=北軍=東部Establishmentであるような思いを抱いているため、負け惜しみ的にも、連邦政府にFedsと言って嫌う傾向がある。


      南軍The Confederate Statesの旗

       以下に紹介する動画は、上側がCSAという、もし、北軍が勝っていなくて、南軍が勝っていたらどうなったか、という非常に込み入ったドキュメンタリー映画の予告編である。なお、調べたら、それの全編が公開されていたので、予告編の下に貼っておきました。

       まさにバイブルベルトは、敬虔なキリスト者の地でもありますが、反権力、反連邦、反知性の地でもあり、日本人には住む際に細心の注意が求められる場所の一つです。特に、都会地で、南軍のステッカーが貼ってあるピックアップトラックを見たら要注意です。

       

      C.S.A.(南軍が勝っていたらのフェイクテレビ番組として作られた映画、CMまでフェイク)の予告編



      C.S.A 本編 無駄に長いかもしれないのでお好きな方だけ

       以下の動画は、Jesus Campという非常に反知性的傾向を持つアメリカの宗教団体の若者向けキャンプとその周辺を取り上げたドキュメンタリー映画の予告編である。最初、この映画を見た時、私もこのJesus Camp中にいた登場人物のひとりであった、ということを思ったのであった。

       もちろん、18歳からこの方、Fortran 77で異言を語ったり、Visual BasicやJCLやJavaやPythonやC++で異言を語ったことはしょっちゅうあるが(私とコンピュータはその意味がわかるが、他の人がわからないという意味では異言であるし、きちんと解き明かしもできて、聞いた人の徳を高めることもできいる。また、このコンピュータ言語のときあかしも私の生業の一つであるが)、このJesus Camp中に出てくるような異言は語れたためしがない。だからと言って、異言を語る人々をキリスト者でないとは言わないし、異言を語られるという語るグループにおられる方の中にも、尊敬する信仰者の方はおられる。その方の異言をお聞きしたことはないが。言いたいのは、私はそれらの方々と違う形態の信仰者である、というだけのことである。



      Jesus Campの予告編

      マッカーシズムと世界のあちこちでの反知性主義

       リバイバル大会のスタッフが、非常に優れていて、そしてそのままビジネス界で成功して行った経緯が示された後、森本先生は次のようにお書きである。

      かくして、宗教的訓練はビジネスの手段の一つとなる。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰を持ちなさい。それがあなたを道徳的に氏、人格的に氏、そして金持ちにしてくれるーこれが、20世紀以降のリバイバルで繰り返されるレトリックである。信仰はこの世の成功を保証してくれるのである。第2次世界大戦後には、ノーマン・ヴィンセント・ピールの「ポジティブ思考」がアメリカを席巻した。マッカーシー上院議員が知識人や連邦職員を次々に共産党員として告発して血祭りにあげていたまさにそのと同じ頃、ピール牧師の出版した『積極的考え方の力』は、3年続きのベストセラーとなり、多くの言語にも翻訳されて世界中にアメリカ精神の明るさと楽天性を印象づけていたのである。実に奇妙な取り合わせだが、これがまさに反知性主義のアメリカである。(同書 p.267)
       マッカーシズムの問題は、これまでもこのブログで何度となく取り上げてきたが、実にろくでもないことが、70年ほど前のアメリカでおきたのであった。そして、この一端に触れ、チャールズ・チャップリンは、アメリカから追われるようにいなくなる。

       日本では、1940年ごろから1945年ごろキリスト者が非国民と非難され、石を投げられ、社会の隅に追いやられたし、ドイツでは、1930年代後半からナチズムが席巻し非アーリア的という言葉で人々を隅に追いやる状況が世間を席巻し、アメリカでは、一部の知識人が1948年ごろから冷戦の対立構造が激化の中で、非アメリカ人と非難され、石を投げられ、社会から追放されたのであり、それの背景が、実はキリスト教的な背景による反知性主義ということは覚えておいてよかろうかと思う。似たようなことは、クメール・ルージュ支配下の民主カンボジア(その昔、民主カンボヂアの声というラジオ放送があった)でも起きたし、お隣の国中国でも紅小兵の時代に起きた。

       要は集団ヒステリーだと、個人的には思っている。


      時代を感じる紅小兵のポスター


      友人に連れ込まれて中学生ころ聞いていた海外放送を受信していた日立Padisco
       ちゃんとVoice of Americaなぞも聴いていた。

      集団ヒステリーはおっかない

       しかし、巻き込まれていない限り集団ヒステリーを冷静に見ていられるが、その渦の中に巻き込まれたら、ろくでもない運命が待っている。日本とアメリカが戦争している間中、敵性外国人は、日本でも生きにくかったし、アメリカの日系人が多かったカリフォルニア州では、マンザーラ収容所に日系人を収容した黒歴史がある。

       下記の映画は、Julie and Juliaの一部である。この映画は料理研究家で、アメリカの草創期のテレビで料理を紹介しまくったJulia Childさんという方の追っかけをやってブログに料理をのせまくるというおっかけをしたJulieという若い女性の顛末を描いた映画であるが、これ単純なお料理映画としてみてはいけない。このフランス在中中のJuliaのご主人がマッカーシズムの波に巻き込まれ公職追放の憂き目にあうことが物語の隠し味になっている。

       それを理解しなくとも、この映画は楽しむことができるが、大人の隠し味部分はほぼ落ちてしまって、なんかおなかいっぱい、それで終わり、って映画となってしまう。しかし、以下の動画ではJulia役のメリル・ストリープの見事なアメリカ人風のテーブルマナーが炸裂している。


      Julie and Julia

      反知性的な一部のアップルユーザー

       アップルコンピュータの製品のユーザーに喧嘩を売りたいわけではないが、アップルユーザーの一部、とりわけショップ店員にカルトじみたちょっとポジティブ思考に近い反知性的な人々がおられることは確かのようである。以下の動画はシンプソンズでそのことを揶揄した動画である。

       Think DifferentlyをThink Positivelyとすれば、反知性的であることがすぐに御理解いただけよう。
       

      The Simpsonsに取り上げられたアップルへの批判 Think Differently


      Positive志向のおかしさ

       以下の動画は、バーン・アフター・リーディングの予告編動画であるが、実にアメリカ風に問題には解決策、解決策が生み出した問題には、さらに解決策という形で問題を次々複雑化させていくそのアメリカ的なポジティブ思考のナンセンスさを非常にうまく示している。


      Positive Thinkingが行きついた先のこっけいさを描いたBurn after Readingの予告編

       この種の能天気さに関して、森本先生は次のように書いておられる。
       こうした楽観主義的思考は、戦後間もないピール牧師の時代には美徳だったとしても、今日ではもはや一種の病であり、産業破綻が目前にせまっているような経済状況にも目を向けようとしない危険な精神態度である。この面では、「はじめに」でふれた昨今の日本の「反知性主義」理解とも相通づるところがありそうである。(同書 p.268)
       ある面、原発推進派のキリスト教徒は、終末が来てこの地がどうせ滅びるから、原発汚染だろうが環境汚染だろうが、「おれたち関係ねぇ、おれたち関係ねぇ、オパピ〜〜〜」と言っているかどうかは定かではないが、基本、終末で全部清算されるはずであるので関係ない、気にしなくてよい、という極めて無責任で楽観的な生き方に走りがちな方もおられる。しかし、キリスト教徒の中には、神から預かったこの地を大切に生きるべきとする方々もおられる。ミーちゃんはーちゃんはどちらかというと、この地での生活を大切に生きたい方である。

      終末論とPositive 思考

       この辺りで終末理解が、人生の生き方に影響を与え、終末理解がキリスト者としての生き方をどう考えるか問題に深い影響を及ぼすことは、記憶しておいてよいかもしれない。そして、その終末理解とpositive志向というのか強行突破型の生き方がつながった時の恐ろしさは、ハンパないような気がする。

       そして、神様が何とかしてくださるという思い込みで生きる生き方(それはまた反知性的な生き方だと思うが)は、藤掛明氏のおっしゃる強行突破型のキリスト者の人生へとつながっているように思う。この辺りに関心の深い方は、藤掛明氏のおふぃす・ふじかけのなかでも、牧師のストレスとセクハラ問題 (http://fujikake.jugem.jp/?cid=42)という連載の強行突破型の人生とこのポジティブ思考とのかかわりをお考えいただきたい。

       なお、ミーちゃんはーちゃんは、この種のPositive Thinkingや、キリスト教集団の中でも、この現世志向の強い、▽|Pとか○BM○とかの方々は尊敬するが、それらの方々とお付き合いはかなり苦手である。とはいっても、まぁ、お付き合いくらいはしている。先方からのご要望があればではあるが。最近は、御要望がないので、放置している。

       次回最終回、個人的なまとめ。
       


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      コメント:反知性主義の実情が描かれていたような気がする。何より、反知性主義の逆側の立場でソジャーナーズの創始者ジム・ウォリスが喋るシーンがちらっと出てくる。

      2015.04.04 Saturday

      森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(15) 最終回スペシャル

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        前回までの連載はこちら反知性主義をめぐるもろもろ から。

         これまで、長々とアメリカという国家の中で生まれてきたアメリカにおける(そして、日本に多大な影響を与えてきた)アメリカ型キリスト教の精神とその国家の在り方、また、社会のあり方と教会が非常に複雑に関係していることの類例を森本あんり先生の『反知性主義』を手がかりに、関連しそうな映画や動画などの関連資料や個人の経験の中からご紹介しながら、ご紹介してきた。

        感想めいたまとめ
         その中で、現在の日本のキリスト教とそこでおきている事件というのは、なんとアメリカで変容した神学をそのまま直輸入し、社会においてもアメリカ型モデルをあまり深く考えることなくそれを適用してきたことでおきていることか、という思いである。もちろん、あまり考えることなく(だから反知性主義なのだが)適用することそのものが無論アメリカ的ではある。

         だからと言って、日本を●するキリスト者の会の皆様みたいに、海老名弾正先生も真っ青の日本型キリスト教を目指すべきだ、というつもりもない。

         われわれは、日本人というと、何となく一般的に共通性を考えるが、その様なものは存在しない。ちょうど身長、体重、どう回り、左右の眼の間の間隔、腕の長さなどすべての点において平均サイズどんぴしゃりの日本人が日本人全体の母集団に存在しないように、存在しえない。キリスト教徒にしても、そうである。実は多様であり、アメリカ国内でも、実に多様なのだ。ただ、全体の傾向としては、森本先生のご指摘は、あぁ、こういう側面もあるなぁ、ということを理解する補助線としては、きわめて有効である。

        日本という国のキメラ性

         我が国の現在の「かたち」あるいは「なり」に影響を与えた明治維新では、アメリカ型の平等思想と反権力志向に基づき、借り物で討幕したものの、その革命性が天皇制と自分たちの権威性に対してもろぶつかって破壊していく可能性があることに気が付き始めた瞬間、あっさりアメリカ型の社会モデルを捨て、フランスやら、プロイセンやら、ベルギーやらの社会モデルを部分部分につぎはぎつぎはぎしながら作り上げていく。それと同時に、当時の新興国であったことを根拠に、アメリカという近代国家と日本という近代国家は愛憎劇を繰り返しながら、シンクロしつつその関係を進んできた部分もあったと思う。アメリカとの関係の深さは、戦後だけのものではない。


        ルーベンスの描く「ペガサスとキメラ」

         なお、ポケモンは、基本的にキメラであり、極めて日本的なキャラクターである。かわいいのが多いけど。

        日本のキリスト教のねじれ

         しかし、1940年以前、日本は、信徒の信仰レベルではアメリカに依存し、学問レベルの神学レベルではドイツ神学に依拠するというねじれの構造を持ってきたように思うのだ。その意味で、日本のメジャーな(といってもよいと思うが)キリスト教はそもそもねじれの構造をもっていたのである。

         そして、1945年以降、占領時代にアメリカ軍将兵が多かったこともあり、日本はアメリカにそのアメリカ軍の将兵の信仰者レベル(要するに一般のアメリカ人レベル)の聖書理解の一定の部分を彼らに依拠してキリスト教であると受け入れていったのみであり、自らの神学を十分作りえなかったように思う。

         その意味で、日本の多くのキリスト教は、バタ臭いアメリカ型キリスト教、あるいはコカコーラ型のスカッとさわやか型キリスト教を目指してきたと思う。それが日本人にとって受け入れ可能かどうか、うまいものであるのか、ということの理解も反省も、考慮もなく。

         そして、日本の特殊性を支援者であるアメリカという自分たちこそ由緒正しいキリスト教国だと思い込んでいる(だからこそ反知性的なのでもあるが)キリスト者に説明も、説得も、反論もできなかったのである。

         つまり、多くの日本人のキリスト者が、伝える、あるいは討論するための語学としての英語はもちろん、キリスト教とはいかなるものか、その広範な多様性とその諸特性ということが分かっていなくて、アメリカのキリスト者に「それではうまくいかないのではないか?」、「あなた方のキリスト教のみが本当に正当なものであると果たして言えるのか?」と、うまく伝えられなかっただけのことである。

         その結果、隅谷先生が『日本信徒の「神学」』でご指摘の二階建ての神学であり、書き割りのように薄っぺらい聖書理解であった。本家としてきていたアメリカがそもそも薄っぺらいのだから、日本ではもっと薄っぺらであり、これで人口の1%超えられたら、神の豊かな奇跡であると思って、ありがたくそのことは受け止めたい。

        これからのキリスト教

         1945年から70年たったが、この傾向は変わっていないのではないか、と思う。もちろん、日本のキリスト教関連の学会レベルでは多少は変わってきたのではないかと思うが、その様な理解が幅ひろいキリストのからだに行きわたるまでは、つまり牧会の現場で十分認識されるまでは、あと50年から100年、信徒レベルが一致して、「あぁ、キリスト教とはこういうものであるだろうなぁ」と思うようになるまでは、あと100年から200年というタイムスパンが必要とされ、その間、犠牲者(預言者的性格を持つ人々への排除と、信徒で疑問を持つ人々の排除)が続くのではないか、と思っている。

         森本先生は本書の最後で土着化の問題を延べておられた。日本でどう土着化するかは別として、日本がキリスト教徒がメジャーになる国、即ちキリスト教国になることはおそらくないだろうし、仏教の例、儒教の例を見てもそうであるが、日本国内でメジャーになった瞬間にそのオリジナルの思考あるいは思想性が消えて、ヨーダーの言うコンスタンティヌス的キリスト教よりも、もっと変なもの(キリスト教のようなもの)になりそうな気がする。そして、オウムのような日本的キリスト教(もうすでに存在するという説はあるが)が続出しかねない。

         そうならないためにも、改革派の方々ではないけれども、そして、宗教改革ではないけれども、自分たちの時代と自分たちに合った神学を、あるいは、キリスト信仰への見直しを、聖書というテキストとこれまでのキリスト教という非常に膨大な体系を見合せながら、進めていくべきなのではないか、と思うのだ。こうすれば成功するという処方箋はないことにぼちぼち気付くべきだろうし、アメリカやヨーロッパと根源的に違うことの認知したうえで取り組むのが、有効なのではないだろうか。

         そもそも、こうすれば成功する、うまくいくという万能薬的な処方箋は、反知性的な行為であると思う。人生を成功者とすることや、人々がうまく生きられるように導くことそのものがキリスト教ではないのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思っているからである。

        自省するキリスト者でありたいかな

         森本あんり先生は、知性とは、「ふりかえり」する力だとご指摘しておられた。もう少し言うと、哲学的反省する力である。自らを突き放し、客体化し、主体相互間の間主観的なアリーナに引きだし、間主体化したうえで、「この程度のものか」と笑ってみる力である。その余裕である。

         残念ながら、我が国のキリスト者の一部の信徒の方々には、自らを聖とするあまり、聖であろうとするあまり、この種の余裕のない、いっぱいいっぱいの方が多いようにもお見かけする。まぁ、それは仕方がない。

         きちんと司牧が教えてこなかった部分も大きかったし、信徒も「鰯の頭もなんとやら」の感覚で、司牧からいわれたことを丸のみし、考えること、つまり批判的に考えること、哲学的自省を聖書のコンテキスト、理解の中に置きながら考えることをさぼってきていた部分があったのではないだろうか。





         その日本のキリスト教理解への課題の警鐘を鳴らす一書として、本書が、以前この欄でもご紹介した「神学の起源」がこの時点で我が国において出版されたということの意義は大きいと思う。

         読まれるなら、幅広いキリスト教の広がりを知るために「神学の起源」をお読みになり、そののち、「反知性主義」をお読みになることをお奨めする。こまったのは、東方神学やそのほかの所謂異端的聖書理解に関する分かりやすい入門書がないことではある。

         以上連載終わり。 ご清覧、ご高覧、お付き合いいただき、感謝。 

        新潮社さんへのご苦言
         2015年3月29日付 日経の朝刊44面文化の広告、これは何でせうか?キャプションの文字列が売らんかな、の姿勢が見えて見苦しいような気がしなくも御座いません。まぁ、確かに出版社は売って何ぼ、ではありますが。

        こちらをご覧下され。



        気になったのはこの部分です。

        今、世界で最も危険なイデオロギーの根源! 
        アメリカ×キリスト教×自己啓発=反知性主義


        というのは、ちょっと違うのではないでせうか。これでは、アメリカが危険なイデオロギーに満ちた国(確かに存在がでかすぎだし、民衆レベルではかなり厄介な人たちも時におられるので、そういうところもありますが)になってしまうではないでせうか。

         まぁ、視聴率があまり芳しくないといううわさのある「花もゆ」も、危険な米国発の反権力思想に影響を受けた討幕、尊王攘夷という当時とすれば、危険なイデオロギーに満ち満ちた状態から生み出されたことを考えますると、現在の日本国という国も、最も危険なイデオロギーの根源から生まれた国でございます。そして、その戊辰戦争でなくなった官軍の将兵の皆様方を慰霊する施設が、東京招魂社(九段)でございますでしょ。お察しください。

        ----------------

        アメリカ×キリスト教×自己啓発について

        アメリカはそうでしょう。欧州には、確かにこの種のものは内発的出ておりません。

        キリスト教
        でもアメリカには反知性主義が攻撃したリベラル派があるのでキリスト教ひとくくりではまずいのではないでせうか。

        自己啓発は明らかに違っていて、自己実現、反権力、プラグマティズムではないか、と思います。

        まぁ、出しちゃったものはしょうがないですが、先日の日経の朝刊を拝見し驚きました。

         いずれにせよ、この種の本で、3刷が出るのは、おめでたいことなので、おめでとうございます、と申し上げておきましょう。累計2万部は出てないとは思いますが。出たら、狂喜乱舞となっておられるのでは、と思います。

         おしまい。

         次回からもう一つの大河連載、「富士山とシナイ山」に戻りまする。こっちの方がはるかに大河連載になりそうな気がしている。






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        コメント:大絶賛である。ただし、深井氏の神学の起源を読まれてからのご一読を一般の方にはお勧めしたい。

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        コメント:このペアで読まれたい。こちらを先に読んでから、森本あんり氏の本を読まれるとよい。

        評価:
        隅谷 三喜男
        日本キリスト教団出版局
        ¥ 2,592
        (2004-06)
        コメント:よい。

        2015.04.06 Monday

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (13)

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           しばらく森本あんり先生の「反知性主義」を読んだシリーズが延々1付き以上にわたって連載することになって、しばらくお休みをいただいたが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。

           これまでの過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ から参照されたい。本日からは、「第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない」のうち、第12章 「普遍的文明の到来」からご紹介いたしたい。

          17条憲法と公共的討論
           この中で、小山先生がお好きとおっしゃっておられる聖徳太子の17条憲法のご紹介である。そして、17条憲法の第10条から公共的討論のポイントについて記載しておられる。

           憲法の冒頭に出てくる和は、この憲法全体の基本的指向性を表している。憲法は「位低き人々を従属させること」によってではなく、民主的議論を通して調和的な人間的共同体を建設することを目指している。第十条は公共的議論における自己批判の価値を陳べている点で意義深い。

          第十条 忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。人皆心有り、心各(おのおの)執(と)るところ有り。彼是(よみ)とすれば則ち我は非(あしみ)す。われ是(よみ)すれば彼は非(あしみ)す。我必ず聖(ひじり)に非ず。彼必ず愚(おろか)に非ず。共に是(これ)凡夫(ただひと)ならくのみ。 是く(よく)非き(あしき)理(ことわり)、誰か能く定むべけむ。相共に愚なること・・・が如し。是を以て、彼人瞋(いか)ると雖(いえど) も、還りてわが失(あやまち)を恐れよ。我独り得たりと雖も、衆に従ひて同じく挙(おこな)え。
           (以下 現代語訳は省略)
           討論は怒り顔で行われてはならない。自分の意見を絶対に正しいとする態度を拒む「和」の精神をもって行わなければならない。「我々は文句のつけどころがないほど賢くないし、彼らも箸にも棒にも掛からぬ愚者ではない」という通りだ。聖徳太子は力の問題について、力がその所有者に何をなしうるのかについて驚異的なほど沈黙している。また人間の心に宿る破壊的な傲慢(ヒューブリス)についても言及しない。人間の罪深さや限界に対する評価は、アウグスティヌス、ルター、ラインホルド・ニーバーのようなキリスト教徒の思想家の下した評価と比較してはるかに肝要である。「いったい誰が聖者を見分ける基準を定める資格があるというのか」と問う聖徳太子は、聖書的な思想世界とは根本的に異なる思想世界に属している。(『富士山とシナイ山』 pp.231₋232)
           しかし、こういう17条憲法の精神が理想として語られながら、大日本帝国憲法下、また、戦後の日本国憲法下の公教育で、議論が日本国の中でうまくされてこなかったのはどういうことだろうか、と思う。とりわけ、民主主義教育を曲がりなりにも経て、17条憲法も教えらているはずでありながら、戦後70年たった現在でも、討論をしようとするとすぐに怒り顔を向けられるというあたりが、どうなんだろうなぁ、と思う。

           結局日本では公開討論みたいな対話ということができない何かがあるのかもしれない。となると、ハーバマスのいう公共圏の基礎である異なる価値観の間の知性的対話ができない、あるいは限られた人の間でしか存在しえないかもしれない、ということであり、公共圏がそもそも日本では生まれえないのではないか、ということを思う。

           しかし、なぜ、聖徳太子は「和」を語りながら、一方で政治的な問題に必ずまとわりつく力と力の所有者の関係をなぜ語らなかったのだろうか。そこは非常に気になるが、その理由は、ある面、本来個人的な望みではないにもかかわらず、聖徳太子は周囲からの影響で、結果として「力」をもたされてしまった、あたりのことがあるようにも思われる。

           結果として、力を持たされることで、その悲惨さを目の当たりにしたからこそ、力と力の所有者を取り巻く関係を書かなかった、あるいは言及しなかったのかもしれない。


          昔懐かしの日銀券(一万円券)

          徳治政治と日本社会

           日本の統治法を支配し続けている概念である一種の徳治政治が理想されたことに関して、小山先生は次のようにおっしゃっておられる。

           釈迦即ちブッダの教えを通してのみ、悪人のねじまがった根性は正されうる。しかし聖徳太子が仏教的貢献の第一に置くのは儒教的な「和」の精神である。和辻によれば、太子は和の精神を日本の指導者たちの統治法の第1原則とするために、仏教の三宝よりはむしろ「和」を優先させることをよしとしたに違いない。以来、儒教的調和と仏教的慈悲とは日本の政治哲学を支配している。(同書 p.233)
           儒教的な「和」の精神が重要であるとは言え、統治に関する政治哲学だけならいいのだが、日本の場合、それが現代の日本のキリスト教会や日本のキリスト教界を支配している部分は本当にないだろうか。本来、異質なものである儒教にキリスト教とキリスト教界まで支配されたのではかなわないなぁ、と個人的には思ってしまう。

           指導者への盲従する教会群の中に、この種の「和」の精神が持ちおまれ、仏教的調和が霊的な調和とすりかえられたり、仏教的かつ儒教的な「和」が、キリストの平和であると意図的であるなしにかかわらず語られたりはしないだろうか。聖徳太子的な「和」が、神の平和として、あるいは、神の一致として混同されて語られたりはしないだろうか。日本を●するキリスト者の会の皆様あたりのご主張に、この種の危険な香りが漂うのが、すこし気になる。

          生の否定と仏教

           仏教は、生の存在と向き合うことなく、それを考えることもなかった日本社会にとって、仏教以前の日本社会にとってみれば、まったく異質な思想をもたらしたことを小山先生は次のように触れておられる。 
           仏教は日本に生の否定という概念をもたらした。この世の生はただ受け入れるだけであってはならない、もっと高尚な至福の生が達成されるのであれば、今生(こんじょう)は否定されなければならないという考え方は、日本人にとって全く新しい思想であった。日本人は史上初めて弁証法的な思惟に遭遇したのである。生はまず否定され、しかる後にもっと高貴な価値基準に基づいて肯定されうるのだという思想である。(同書 p.235)
           後に小山先生がふれられるように、この「否定」という概念は、これまでにないものを日本社会に持ち込んだという点で非常に特殊であったのであろうと思う。基本的に生を肯定するも否定するもなく、生というものをそのまま受け止めて生そのものを謳歌してきた日本社会の中に、生とは何ぞや、生きるとは何ぞや、それをとらえるよりメタ思想というかそれをメタ構造の一環として理解しようとする思想性を持ち込んだという点で、非常に画期的であったのだろうと思う。
           
          日本人の古代的な死生観と
          仏教の生の否定との邂逅

           小山先生は古代的な死生観と仏教の死生観の違いを次のようにご説明である。

           それ以前は死は生の否定としてみなされるに過ぎなかった。愛するものが息を引き取る光景が悲痛な経験だったことは言うまでもないが、すでにみたように「たま」の生は「かみ」のうちに持続するがゆえに、死すら生の一部と考えられていたのである。今や、生が生存中にすら否定されうると言う深遠な示唆が仏教思想を通して入ってきた。それは死が自然のことであるのと同様な意味で自然のことではない否定であった。この宗教的否定は宗教的瞑想(禅定)の形式で述べられていた。この否定概念は日本の伝統の連続性志向に非連続の可能性を導入し、弁証法的思惟が生まれる道を拓いた。(中略)仏教を通して弁証法的思惟が日本人の思想に導入されたことは、日本人にとって深い意味を帯びる経験となった。普遍的宗教、仏教が否定の創造的価値を教えたのである。(同書 pp.235₋236)
           この部分を読みながら、現在もなお、仏教が入ってきても、生を否定するのではなくて、生を肯定する日本的思想で日本の仏教が毒されているような気がしてならない。つまり、戒名制度にせよ、彼岸思想にせよ、生への執着を断ち切った結果というよりは、「たま」としての生を持続すると考えているとしか思えないのだ。つまり悟りの境地に達したはずの人が、空の上で地上を見下ろしていると安易にテレビでコメントしたりということが起きる。実際に日本で、日本人の方で、犯罪事件や事故に巻き込まれた人のインタビューやコメントとして、この種のコメントがニュース番組で流れるのを何度か拝見している。

          ギリシア神話的な死後世界理解と
          ミーハー氏の理解する死後世界理解
           ちなみに死者が空中、あるいは天から、あるいはお空の星になって地上を見ているというこの概念そのものは、本来的にはキリスト教的でなく、ギリシア神話的でさえもなく、一種の聖書の誤読に近いと個人的に考えていることは一言指摘しておく。また、個人的には、召天であれ、昇天であれこれらの用語を用いることは否定的である。個人的には安息式あるいは過越安息式と呼ぶべきと思っている。なに、これを書いているのが聖土曜日だからではないけれども。他人から召天式を使ってくれと言われたら、否定はしない程度に否定的であるが。


          ギリシア的な世界の死後の世界を描いた「オフィーリアの死」(ドラクロワ)

           そもそも、この種の死者が空中あるいは天からみているという概念そのものが、仏教的なものでもないことから、この理解は、一種異教的、あるいは古代日本の神話的世界の古層の表れのような気がしなくもない。

           初期の仏教的な死後理解であれば、49日経過後には、そこらの蚊や蝿として生きている、あるいは、別の動物や人間に転生して、輪廻の中で生きていて、輪廻の無限ループの世界を生きているか、その輪廻を解脱して、悟りの境地に到達し、四苦八苦の輪廻世界とは無縁の涅槃を生きているという世界観のはずだと理解している。

           地上を見て慈悲をもたらすというような概念は古代仏教の中にはないもののような気がしている。本来的に成仏(釈迦のいう意味で)された方は、一切空の世界との断絶を求め、その断絶した世界にお住まいの(移行されている)はずで、この地上を見ているはずもないと思うのだが、なぜか日本ではこの種の混乱が起きているのは、基本的に釈迦の言った仏教が日本の中で異質化してしまっていて、本来のその思想性を一般の仏教の信徒レベルの中に定着せしめることができていないことにあるのだろう。

           お聞きするところによれば、仏典はあまりに多すぎて、キリスト教でいう旧新約聖書66巻のような形で原則固定されているようには、仏典の固定化がなされていないらしい。

          仏教法話から生まれた落語

           仏教思想の抽象性から、一般人にとって、その仏教思想を理解することが困難であり、だれも仏教者の法話や説法を聞かない、説法を通して庶民レベルで仏教思想を理解したがらないため、このような縁なき衆生に対する思想の伝達方法を極めているうちに、上方落語の原型が生成され、それをかたちにまとめていった一人が初代 露の五郎兵衛 である、と理解している。諸説あるので、よくわからないが。

           しかし、もう、上方落語の重鎮にしてきれい落ちの名人、桂米朝師匠が高座に御姿をおみせになられなくなってから、何年にもなるが、あの米朝落語のような端正な落語も個人的には好きであった。



          2015.04.08 Wednesday

          『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (14)

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             『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確実となっている中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

             本日からは、第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない のうち、第11章 「諸霊の世界」2.阿弥陀如来の下に避難する からご紹介いたしたい。

            日本における仏教の変容とヨーロッパでの宗教改革

             鎌倉時代は、日本で土着化した仏教が急速に変容した時期であり、ある面、極めて特殊な日本型仏教が数多く発生した。そして、日本型仏教の指導者が数多く出現した時期でもあることは、その昔、高校時代に日本史で習った。なお、これ以降の日本の歴史は、工学部を目指した関係でほとんど記憶にない。

             仏教は、6世紀に日本に導入されて以来、日本人の文化的及び宗教的生における形成力であった。そして12,13世紀に板って、仏教は新たな創造性の段階に突入した。鎌倉幕府時代の偉大な宗教的指導者は浄土宗の法然(1133₋1212)、臨済宗の栄西(1141₋1215)、浄土真宗の親鸞(1173₋1262)、曹洞宗の道元(1200₋53)、及び法華宗の日蓮(1222₋82)である。彼らは煩瑣哲学的宗教から実存的信仰へ、制度的宗教生活からカリスマ的人格性の深みへ、貴族階級によって庇護される宗教から民衆へ伝道する宗教への過渡期を代表していた。彼らはまた新たに超越論的価値を強調した。これらの宗教改革者たちはしばしば16世紀ヨーロッパの宗教的指導者たちと比較される。宗教的及び文化的文脈の相違にもかかわらず、こうした比較が正当と認められるのは、彼らによる仏教の再解釈が宗教史における希有な創造性の発露の瞬間を表現しているからである。(富士山とシナイ山 p.241₋242)
             まぁ、時期は違うし、定着してからの時間も違うが、確かに様々な概念が生まれたという意味においては、確かに鎌倉仏教の多様性と、16世紀のヨーロッパの宗教改革はある程度比較可能かもしれない。そして、その動機も民衆レベルを明らかに意図した仏教概念とキリスト教概念の再検討であるという意味においても。

            民衆パワー炸裂の鎌倉時代

             この辺り、宗教の問題と民衆性の問題は重要かもしれない。案外気がついていないことではあったが。鎌倉時代までは、基層文化としての民衆レベルの信仰として神道があり、舶来文化であり、殿上人や豪族クラスを中心とした宗教であった仏教(むろん、奈良朝時代から、祖税逃れのために私渡僧となるものが多いことは知られている。これもまた、聖徳太子の17条憲法の「三宝を・・・」のおかげではあろうが)とがあったものと思われる。平安朝くらいまでは、なんか唐天竺の神が日本にやってきただけだという理解であったと思われる。その意味で、何となくの併存関係が生まれていたのではないか、と思われる。

            武士、それは新田開発業者

             鎌倉時代は、平安期における農業土木を中心とする農業改良技術の高度化により、新興の新田開発業者が実力をつけた時期であり、この新興の新田開発業者(篤農家)が関東平野の利根川とその関連水系の豊かな水利と墾田永年私財法を根拠に新田開発を行い、荘園化し、租税負担を回避しつつ、経済力をつけた時期であり、経済的にもこれらの新興の新田開発業者が重要な役割を占める。そして、この新田開発事業者は、武士の原型となる。要するに、武士とは、新田開発にまつわる諸問題を武力で解決しようとした暴力組織の一つである。江戸期、江戸末期のような文官としての戦闘能力皆無の武士を想定することは、この時期にあって適切ではないだろう。例えば、新田義貞は、新田(だいたい名前からして新田(しんでん)である)の荘の開発業者だったし、北条氏にしてももともとは、筑波山麓の新田開発業者であった。大体、弘法大師こと空海先生だって、満濃池開発に見られるように、農業土木事業者でもあったのだ。


            満濃池 (空海殿が工事をされたという伝承がある)

             その意味で、鎌倉時代の武家政権時代というのは、庶民の時代でもあった。であるからこそ、その庶民に仏教を当時の庶民が受け入れ可能な形で語った、浄土宗の法然、臨済宗の栄西、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、及び法華宗の日蓮は、中学校の教科書ですら、黒ゴチック太字で歴史上重要人物扱いを受けるのである。

             しかし、宗教改革の時代は、欧州において、中世的な世界での商工業者の産業における能力向上とそれに伴う資本蓄積がなされ、庶民パワーがさく裂し始める時代である。その意味で、宗教改革が庶民パワー大衆パワーの炸裂とリンクしているというのは非常に興味深い。

            仏教と現実理解
             現在、個人的な理解の中で、神の永遠性と人間の神からの離脱ということがキリスト教的な現実理解であると思っているのだが、仏教にとっての現実理解について小山先生は次のようにお書きである。

             前期の宗教的指導者たちのすべてが京都郊外の比叡山天台宗総本山、延暦寺で学んだ。そこは9世紀以来もっとも有名な仏教学の研究センターだった。そこで彼らは中国で深遠な宗教的表現を獲得した、大乗仏教の本覚説に遭遇する。我々の世界は変化してやまない不確実な日常的現実と普遍の安定した永遠的実在からなっている。前者がしばしば幻影的、世俗的と呼ばれるのに対して、後者は真にして聖なるものと呼ばれる。田村芳朗によれば、仏教は変化してやまない現実を主として自他、男女、労苦、物心、生死、善悪、苦楽、および美醜等、対照性の見地から理解した。それらは空との関連ゆえ変化してやまないゆえに。こうした仏教的視点は無常説(アニッカ、アニトゥヤ)あるいは縁起説(プラティーティヤ=サムットゥパーダ)と呼ばれる。要するに対照的なものは実在の幻影的外見にすぎなくて、真理の視座から見ればみな同一である。日常的経験の次元では対称性は意味をなすが、永遠性と普遍的実在の視点から見れば、自は他であり、男は女であり、老人は若者であり、物は心であり、などなどである。これは大乗仏教内で展開された本覚思想の基本線である。
             (中略)
             比叡山派は本覚思想を拡張し、この世は仏陀の世界以外の何物でもないという見解を持ち始めた。(同書 pp.242₋243)
             この部分を読みながら、システム論的に、定常的に不安定で不確定な状態として社会システムをいかにとらえるのか、と考えた場合、仏教の「我々の世界は変化してやまない不確実な日常的現実と普遍の安定した永遠的実在からなっている」という世界観に一般システム理論家が引かれて行き、最後にじゃ欧米のシステム理論家が計画論においてMandara Planning System  とかわけわからんことを言い出した背景をみることができる。無論、がちがちの合理主義的な計画論が閉塞感に満ち溢れ、どうにもこうにもならなくなった結果であるとはいえ。

             仏教的包括概念は、「要するに対照的なものは実在の幻影的外見にすぎなくて、真理の視座から見ればみな同一である」という包括概念であるが、聖書における包括概念は、被造物であるという意味での包括概念であるような気がする。この辺りの思想性の違いは混乱しがちであるけれども、キリスト教というよりはキリスト教の中に侵入したプラトン主義と理解が近いような気がする。旧約聖書的なヘブライ的伝統の中における聖書理解とは若干味わいが違うのではないか、と思っている。その意味で、仏教者の方の世界理解は尊重いたしているが、個人的には、仏教的世界理解とヘブライ的聖書理解はその間の基本構造はかなり違っている、と思っている。

             最近思っているのは、神という絶対の他者性を持つ、永遠の存在との関係をキリスト者としてどう考えるのか、ということである。そして、その他者が我々に近づく、という意味をどう考えるのか、そして、そこから我々がどう応答していくのか、どのように神とともに生きるのか、という問題意識である。

            現代の時間概念と仏教的な時間概念 
             現代は、近代における時間概念という時間概念に縛られている。ヨーロッパの中世は教会歴という時間概念と教会の鐘楼が告げる時間に縛られていた。もちろん、このような教会により時間というか暦法が管理されることは、当時の社会に一定のリズムを与えると同時に、それなりの意味が存在がしていたはずであるのだが、しかしながら、いつのころからか、それが社会を支配して行ったという部分もあるように思えてならない。

             日本の仏教の中の本覚思想の中における時間概念について、小山先生は、次のようにいっておられる。

             田村は、この本覚的洞察は時間理解に現われると指摘する。時間性と永遠性の対照的差異のかなたに真の永遠性を見るべきである。即ち永遠は瞬間のうちに把握される。本覚は「永遠の今」と相関的な思想である。この洞察はまた宇宙空間を超越の視座から見るように導く。永遠的世界(浄土)は我々の俗世間を超えた空間である。それゆえに、われわれが生きている俗界が即浄土の世界として肯定されるのである。(中略)真の絶対的仏陀は衆生と仏陀の対照的差異のかなたに見出される。即ち衆生が仏陀と一如であるという地点に見いだされる衆生としてみていることになる。(p.244)

             この話を聞きながら、数学者の元同僚の話を思い出してしもうた。数学の世界ではかなり座標軸に関しても直交性さえ保障されていれば、次元をいくらでも設定でき、抽象のレベルで次元数を上げることができる。まぁ、直交性がなくても、論理的には座標軸をおくことも可能らしいが、そこまで行くと頭の悪いミーちゃんはーちゃんにはついて行けなくなる。この辺の自由さが、永遠が瞬間のうちに理解できあり、宇宙空間を超越の視座(3次元を超越した座標系やら、虚数空間やら)で理解されて行く話と似ているような気がする。
             しかし、衆生が仏陀と一如である、という本覚思想における連続性と人が神に包摂されるという第2神殿期以降のユダヤキリスト教的な包摂性は、大分違うかもしれない、ということを、最近の若い古代仏教の研究者の方とのお話しの中で、考えていた。この包摂概念と聖餐論の関係に関しては、以下のリンクで紹介するマクグラス先生の『聖餐』をご覧いただきたい。これはお勧めである。


             次回へと続く。




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            コメント:お勧めしております。大変よいと思います。宗教観対話をするうえでは参照の視座を与えてくれると思います。

            2015.04.11 Saturday

            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (15)

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               本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない のうち、第12章 「普遍的文明の到来」からご紹介いたしたい。

              否定と恩寵
               ここで、小山先生は案外簡単にさらっと触れておられるが、ここで法然たちが日本の仏教において否定という概念を持ち込んだというご指摘は、非常に重要である。より具体的には、以下のようなご指摘である。  

              法然の普遍的な宗教的意義を理解する重要な方法が一つある。阿弥陀仏の恩寵につて述べた彼の言葉の真義を理解することである。法然の宗教は恩寵宗教である。だが本覚思想の根本的洞察によれば、法然の恩寵宗教が現世即浄土と言っていないことを知ることが大切である。法然の強調点は、「サンサーラ」(煩悩によってけがされた生死輪廻の世界)と「ニルヴァーナ」(生死輪廻を超越した境地、即ち浄土)と一如であるということよりはむしろ、両界と両境地の二元性におかれていた。彼は人々に現世を後にして浄土に移るように求めた。ここにわれわれは恩寵宗教が本覚志向思想に表現されている当時支配的だった東洋的な思想様式とは著しく対象的な考え方を創出しつつある消息を見る。仏教は否定の概念を導入したのだった。法然の出現によって、この「否定」という普遍的な宗教的遺産は、日本人の魂の思想と経験において深遠な表現を与えられた。実に「否定」が「恩寵」を肯定したのだ。(富士山とシナイ山 p.247)
               恩寵といえば、キリスト教でも恩寵という概念が、とくにカトリック教会を中心にあるが、仏教的、というよりはむしろ法然の指摘する恩寵とキリスト教的な恩寵はかなり違うような気がする。それはかなりの紙幅を要するし、現在のミーちゃんはーちゃんにはそれを整理して語るだけの能力が欠落しているので、何となく違うような気がする、ということにとどめたい。

               それよりも、ここで重要だと思うのは、法然によって「否定」が持ち込まれ、東洋的な思想様式と対立させた、つまり仏教のメジャーバージョンアップを法然が行ったということは極めて重要だと思うのだ。つまり、現在の世界での生に関する否定としての恩寵をとらえたということであろう。ということは、それまでは、基本的に現在の世界での生は肯定され続けたし、現実社会と極楽と一如と理解され、対立や断絶をおくことなく、何となく存在が承認されるという形でのあいまいな肯定が「なんとなくキラキラ」が支配する世界の中に、厳然たる断絶概念を持ち込んだのが、法然先生ということらしい。その意味で、玉虫色の決着とか、空気とか、員数主義とか、厳密性をあまり考えない東洋的思想に支配された世界の中に、否定という断絶する概念、断絶されることにつながる概念を明白に持ち込んだという意味において法然は重要なのだろうと思う。

              法然と親鸞とルター

               親鸞がアウグスティヌス同様、自己の性的な衝動、情欲に関する悩みの問題を抱えていたことは、はじめて知った。

               法然の弟子、親鸞は本覚思想に対して根源的挑戦を突き付けた。(中略)親鸞の内的な戦いは、アウグスティヌスと同様、彼自身の性欲、情欲(concupiscentia)に対するものであった。法然は、念仏一筋の僧は独身を通す必要はないという立場をとっていた。人は信仰によってのみ義とされるという教義に決定的意義を見出す西洋人ルターも同様の見地に立っていた。(同書 p.247-248)
               最近、いろいろと教えてもらっている古代仏教の研究者の方から、自分の無知を示され、思索の原点をいただくことが多いのだが、宗教者と性衝動の問題は非常に根が深いし、極めて重要な要素を持っているのではないか、と思う。

              法然さん  と アウグスティヌス先輩 と ルター先輩

               仏教の場合、この世界すなわち「サンサーラ」(煩悩によってけがされた生死輪廻の世界)から、「ニルヴァーナ」(生死輪廻を超越した境地、即ち浄土)への移行の障害となるものの排斥というか、そのことにとらわれること(煩悩)からの離脱、解脱、切断が重要な概念になるらしい。これは、旧約聖書的な世界にはないと思う。基本的に旧約聖書、特に創世記の世界観からすれば、「産めよ、増えよ、地を満たせ」と明らかな生への神の肯定が見られる。この辺りが、仏教とキリスト教の大きな違いであろうと思う。
               いや、カトリックでは司祭や修道者の独身制があるではないか、という議論があるが、あれは聖書的な根拠はつけられるものの、現実的な対応として、独身制が選択されて行ったような気がしてはならない。この辺りは、よくわからないので、ぜひ研究が蓄積された結果を一度拝読したいものだと思っている。

              親鸞と絶対他力とキリスト教
               親鸞の絶対他力に関して、小山先生は次のようにご紹介である。
               親鸞は自力的信仰とは対照的な絶対他力の信仰を説いた。救済は「おのずから」、すなわち仏の本性に従って我々の元に到来するのであって、いかなる人間的努力や計らいを通してくるものでもない。ここで、「おのずから、自然に」とは「他力を通して」を意味する。(同書 p.249)
               思想的にいえば、自らの努力などによって救済に達しえない、という点では確かにパウロがローマ書4章の中で主張する主張と極めて高い類似性を有する。しかし、留意しなければならないのは、神の人への接近は、確かに他者ではあるが、それはおのずから、ではない点であり、そもそも、自主自立と人間と隔絶した存在である絶対他者性があり、人間の存在をそもそも必要としない存在(だからこそ、創造者でありEl Shadai 全能の神、と自己を指し示されることになるのだが)であり、被造物とは本来的には無関係であるところであるが、そうにもかかわらずEl Shadai が接近してくるところが聖書の基本線だと思う。本覚思想にしても、親鸞の思想にしても、仏性の中にこの種の隔絶性、あるいは断絶性が存在しうるのか、という点が気になっている。

               この辺りが、キリスト教的な思想と、仏教的な思想の根源的な出発点の違い(結果としてあるいは表面だけ見れば類似しているように見えても、そもそもの出発点が違うことにもう少し留意すべきではないか、と思っている。軽々しく相似性を扱うのは、統計学に言う見かけの相関と同じことを起こしているような気がするような気がしてならない。

              親鸞の思想の特殊性
               親鸞の思想と本覚思想との間の違いについて、小山先生は次のようにご説明である。それは、どこで超越者が人間を包摂するのか、という点である。親鸞の理解とキリスト教理解の共通性として、どこで、超越者(仏教の場合は仏陀、ユダヤキリスト教の場合は、神ないしキリストないし、メシア)によって包摂されるかということは現在のこの地球上であるという点には変わらないようにみえる。

              本覚思想と親鸞の思想とを隔てる微妙な一線がある。親鸞は罪人即仏陀とは言わない。また、このけがれた世界が浄土だとも言わない。浄土はこの世の彼岸に在る。しかし我々が仏に迎えられ抱擁されるのはこの穢れた世においてである。マルコ福音書の次のような言葉(引用者注 マルコ2章15,16節)は同様な「宗教的」状況を記述している。聖なる神の子イエスが罪人たちと食事をしたのはこの此岸の世においてであった。(同書 pp. 250-251)
              しかし、小山先生のご理解によれば、本覚思想と親鸞の間には違いがあって、親鸞は、浄土をこの地上に設定しない、彼岸にのみ設定しているというご指摘は重要ではないか、と思う。キリスト教の神の国理解を彼岸、死んだら信仰者が行くところとしての天国理解する人々がおられる。別にそれが間違いだというつもりはないが、これらの方々は、彼岸性が非常に強く、キリスト教の指摘する、そして重視する、この地球という此岸が思索が消えてしまうのはどうしたものか、とは思う。そして、神が造り給いしこの地球ということをあまりに軽々しく考えられる方々には、非常に残念であるなぁ、と思っている。







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              小山 晃佑
              教文館
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              (2014-09-12)
              コメント:お勧めしております。

              2015.04.13 Monday

              ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(1)

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                薄いが重要な本

                 若い友人に勧められて、ラッドの『終末論』を読んだ。薄い本であるが、内容は非常に濃く、また重要な内容を示している本である、と思った。アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒の場合、J.N.ダービー J.N.Darby(この記事参照)が言い出し、Scofield Bibleと共にアメリカ中に広がり、また、それにサンキー Sankey と ムーディ Moody(この記事参照)が伝道大会で言及することでお墨付きを与え、この150余年の間広がり続けている特殊な終末論であるDispensationalismを批判的に言及した、そしてそのポイントだけを分かりやすく示した名著であるといってもよいと思う。

                 なお、このブログの読者の大半の方はよく聖書理解のことをご存じなので、ほぼ説明の必要がないと思うが、終末論とは、「この世界の究極の形が神との関係においてどうなるか、神との関係が最終的にどうなるか」に関する理解であるとミーちゃんはーちゃんは思っている。単なる、世界の終わりにどんなことが起きるのか、ということを聖書を無理やりにこじつけ安易に予測する理解のことではない、と思っている。

                 今、日本では、多くの福音派のキリスト者が、聖書を現実に無理やりにこじつけて、これからの世界がどうなるか、ということを予測するという視点で聖書が将来のことを語っていると思っておられる方が少なくはないようであるが。

                 個人的には聖書の主要メッセージは将来の出来事予測ではないと思う。まぁ、それは個人間で理解が違いがあるので、致し方ないところではあるが、終末理解とは、これからの将来の予想や予測だけでは絶対にないと個人的には思っているし、将来予測以上にもっと重要なことが終末論には含まれる、と思っている。


                SEKAI NO OWARI のPV(実に終末論的なバンド名である 本文とは無関係)

                 ただ、先にも触れたように、 アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒(改革派系をのぞく)の場合、ディスペンセイションDispensation理解が聖書理解と分離しがたい形で、あるいは聖書理解そのものとして伝えられているため、この本に対する非難や、訳者に対する批判は非常に苛烈なものがある模様であるが、それは井の中の蛙状態であるからではないか、と思う。かのダラス神学校 Dallas Seminaryも20年近く前にDispensationalismはお棄てである。要は、日本では知られてないだけである、と思う。

                Dispensationalismの背景

                多くの福音主義者は、聖書全巻は神の霊感のもとにある聖書記者により記されたということから、聖書はどの個所もすべて同じ神学的な価値を有するという結論が下されると考える。そして、聖書のうちにある多くの預言はジグゾーパズルの断片の集まりのようなものであり、それらをぴったり組み合わせれば、現在と未来の両方に対する神の贖罪を目的とする巨大なモザイク画が出来上がると考えるのである。(終末論 p.7)
                Dispensation理解の背景として、近代を支配した極端な等価主義(それぞれの個人はすべて同じ価値を持つ、とする反知性主義的な考え方であり、これが聖書に適用されると、それぞれの聖句ごと等しい神学的価値を持ち、それぞれの聖書箇所は確実に一義的(単一の意味をもつものとして)に解釈可能であるとする考え方)をラッド先輩は御批判である。

                 このような字句通りの解釈で、等価主義的な聖書理解をするようなナイーブな仮定を持つ人がいるのか、ということで「のらくら者」先輩からご指摘(そのことが記載された記事はこちら「聖書論って!」)を受けたので、それに関して、個人的には、それに近いかなりナイーブな仮定を持つけれども、実はそこにコミュニケーション論的にはいくつかの課題があることを指摘した拙ブログの記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」を公開しているところである。こういう記事を書くから、リベラル扱いしていただけるし、危険人物扱いしていただける。実にありがたいことである。リベラル派の方々ほどミーちゃんはーちゃんは賢くないし、キケンでもないと思っている。

                聖書をどう理解するか
                 聖書の理解の仕方には、「一つの記事(表記)は、一つの出来事としか対応しない」という一対一対応させる理解の仕方と、「一つの記事(表記)は、複数の出来事と対応可能である」という一対多対応させることができる理解の仕方とがある。個人的には1対多対応すると思っている。図で書くとこんな感じである。


                このことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
                 私たちは二つの物語、つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。このジレンマのように思われる事態をどう扱うべきなのか。
                 これには、二つの根源的に異なった回答が提示されており、預言研究に携わる人は、すべて二者択一を迫られる。第一のものは、神は二つの異なったプログラム、すなわちイスラエルのためのプログラムと、教会のためのプログラムを持っておられると結論する。
                (中略)
                 預言を解釈する第二の方法は、啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈することである。ディスペンセーション主義者は通常これを契約神学と呼ぶ。旧約の契約と新約の契約の統一的な要素を強調しているからである。(同書 pp.8-9)

                 ラッド先輩は、ディスペンセイション神学の系譜で育った方であるとご自身でお書きであったが、基本的には、啓示の漸新的な聖書理解と多義性を前提とした理解に立っておられるので、一つの聖書箇所が、時代と環境の中におかれたユダヤ人やキリスト教徒それぞれにとって、様々な意味を持つもととして理解されうるし、そうであっても聖書は神のことばとして受け取り可能である、ということを示しておられるようである。それを契約神学とディスペンセイション主義者が呼ぶことは、個人的に果たして適切であるのか、という疑念だけはここで提示しておく。

                 あと、ここで、上記の預言の1対1対応に関連して、創造科学の関係者の一部に時に見られる聖書の正当性を示す為に用いられる似非科学手法について触れておきたい。その似非科学とは、「聖書の預言の成就確率がきわめて高い」というご主張である。そもそも、確率はサイコロを振って出た数のように、事象がきちんと定義されている(Well Defined)からこそ計算できるのである。「聖書預言と現実社会の事象が1対1対応する」という前提と、預言の実現という事象空間がきちんと定義可能であって初めて、預言の成就確率が計算できるのである。しかし、ラッド先輩のように預言の内容が多義性を持つ場合、つまり、預言が指し示す事象が複数存在しうる場合、そもそもそういう確率を計算することすら無意味であるというのが古典的な確率論の立場であると思うが、それを超越し、多義的な事象に対して実現確率を明確に定義できる最新理論があるのなら、ぜひともご教示いただきたいところではある。

                苦難の僕をどう理解するか

                 イザヤ書53章は苦難の僕の預言と呼ばれることもある。少し口語訳聖書から冒頭部分だけ、引用しておこう。

                【口語訳聖書】イザヤ書
                 だれがわれわれの聞いたことを
                信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
                彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
                 さて、この部分をどう解釈するか、についてラッド先輩は次のようにお書きである。

                 ここに正に、基本的な解釈法が適用される。イエスとイエスの後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命という視点から再解釈した。『人の子は、栄光をもって到来する前に、地上に現われなければならない。そして人のこの地上における使命は苦難のしもべの役割を果たすことであった(原訳文は傍点)』(同書 p.20)  
                 この表記を見る限り、旧約聖書のメシア(救世主)預言を、イエスという特定の人格を持ちかつ神である極めて独自の対象であるナザレのイエスに当てはめて、イエスの弟子たちがこの旧約聖書の内容と表記を再解釈し直していることをご指摘である。つまり、聖書理解の多義性の前提に弟子たちが立っていたことを示そうとしておられるのである。

                多義的に幅広く旧約を解釈した弟子たち
                 さらに、この多義的な解釈の可能性について、次のようにもラッド先輩はご指摘である。
                私たちは今、キリスト論で見た同じ事象を終末論の領域で見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。旧約聖書では字義通りのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである。(同書 p.29)
                 まぁ、一応ローマ書で指摘されている個所を引用しておくと、こんな感じである。
                 聖書口語訳 ローマ書
                9:25 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
                「わたしは、わたしの民でない者を、
                 わたしの民と呼び、
                 愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
                 こう見ると、パウロ先輩にしても、イエスとともに歩いた時代の弟子たち先輩にしても、実に幅広く聖書を多義的に解釈していることを知ることになる。パウロ先輩がお書きになって新約聖書に残っているお手紙にしても、新約聖書福音書記者先輩にしても、もともと、聖書を多義的にお読みになっておられた形跡は、旧約聖書の引用を見れば、よくわかるであろう。
                 マクナイト先輩は、『福音の再発見』の中で次のような図を使ってご説明である。チャンと旧約聖書全体を読んで理解することが大事なのであって、本来旧約聖書の理解に多義性があることをこの図でお示しになりたかったようである。


                スコットマクナイト著 福音の再発見の図をもとにミーちゃんはーちゃんが作成 

                聖書理解は何を基礎にすべきか?

                 聖書理解の特徴について、ラッド先輩は次のようにお書きである。

                 ディスペンセーション主義者は”霊的”解釈を旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法であるとみなしている。ジョン・ワルブード教授は、これを現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づける解釈であると書いている(The Millennial Kingdom 1959, p.71)しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。なぜなら筆者には、旧約聖書において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。筆者が霊的解釈を採用するのは契約神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である。(同書 pp.31-32)
                 ラッド先輩のご記載されていることの中で、一番大事なのはこの部分、即ち「(ある)神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である」という表現だと思う。しかし、多くの場合、神学理解が先に立ち、聖書テキストが完璧に後回しになるという不幸な事例が福音派の一部の皆様の間で多々見られるが、本当に「これってどうよ」って思うのだなぁ。翻訳聖書の一部の日本語翻訳の表記や欽定訳の表記に縛られて作り上げられた、気宇壮大な神学を聖書のコンテンツだと思って、一部の表記にこだわって生み出されたその気宇壮大な神学をなぞるように、聖書のかなりの部分を無意識的に捨て去りながら(読み飛ばしながら)、自分たちは実に聖書に忠実だ、と思いながら聖書を読んでいないだろうか。まぁ、どう思おうが勝手であるけど。

                 しかし、ワルブード教授とやらがあげておられる”霊的”解釈に関連してあげられているキリスト者集団は、基本、一部の福音派の方々が大嫌いなローマ・カトリック(そのくせテレビに出たマザーテレサは福音派でも言及されることが多い模様。恥ずかしくないか?その態度。個人的には、カトリックにも尊敬に値する方が多いと思っている)、福音派の皆さんから悪魔の手先扱いされているリベラル派(でも、現代のリベラル派、って「現代の」って形容詞がついていることに関して、読者よ悟れ)であるので、またぞろミーちゃんはーちゃんに、カトリック好きとか、リベラル崩れとかラベルが貼られそう。ミーちゃんはーちゃんに適当なラベルを勝手に貼ってもいいけど三位一体の教理はだれが言い出したか、よ〜〜〜く考えよう。

                 しかし、現代の米英の福音派神学では「霊性」が大きな関心を占める中、福音派は「霊性」まで、封じ手にしてしまうのかどうかを、いまミーちゃんはーちゃんはぼ〜〜っと、眺めている。

                大衆レベルでの天国観のおかしさ

                 大衆レベルでの天国観のおかしさについて、ラッド先輩は次のようにお書きである。
                私たちは死んだら「天国に行く」。大衆に普及しているこの考え方によれば、天ごっくは至福の状態―すなわち「永遠にうるわしい世界」―であり、信仰者は真で死の皮をわたると、天国の門をくぐる。信仰者は天国で、肉体を離れた至福の状態にあり、「不死の者たちとともに、そこに住む。」
                 そのような考え方は、どれほど広く普及しているにしても、聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である(pp。40-41)
                 いやぁ、ミーちゃんはーちゃんの周りのキリスト教世界の皆さんは、死んだら即召天されたりして、天国に召喚してもらえるカードを持っている方も結構おられるらしい。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは不信の者であるからか、そういう天国召喚カードは見たことも触ったこともない。しかし、そんなミーちゃんはーちゃんにラッド先輩は、心配しなくていい、とおっしゃってくださっておられる。だって、それは、「聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である」ですって。つまり、「ギリシア的なフォークロアをマジでキリスト教と思ってないか」ってラッド先輩は御批判されておられるようなのである。

                ギリシア的な肉体観と徳概念

                 ギリシア的な肉体観と霊理解について、ラッド先生は次のようにお話である。
                 肉体は現象的な世界に属し、魂は本来的な世界に属する。肉体は、講義グノーシス主義の思想とは異なり、それ自体悪であはないとされるが、魂にとって重荷であり障害である。ソーマ・セーマ、つまり「肉体は魂の墓場」である。賢人とは、肉体の情欲や食欲を鍛錬し服従さえ、魂を養うことを学んだ人である。魂の最高の機能が知性である。そのように「救い」も―ギリシヤ的な概念としてではなく、聖書的な概念としてー死に際して魂が肉体から解放され、本格的な世界への飛翔するものと考えられるようになった。(p.41)
                 しかし、この間ある体格の良い友人が、切り捨て教徒の看護師の方から、「標準体形は神様の御心だから、体重を落とすように言われた」といって憤慨していたが、きっと、その看護師の神様は、ギリシア的なストア哲学風の世界の神様のことをおっしゃっておられたのであろう。ヘブライ的なメシアではなく。なんか、ヘブライ的なメシアは、「あなた方は心配したからといって、すこしでも身長を伸ばすことができますか」って主旨のことを弟子たちにおっしゃてたような気がするけど。多分、これもミーちゃんはーちゃんが持っている日本語聖書にしかない記述なのかもしれない。友人を憤慨させた看護師の方は、きっと別のもっと正確な翻訳聖書を読んでおられたのかもしれない。

                 悪質な冗談はさておき、この肉体観、世界に対する嫌悪感にギリシア哲学世界を経たキリスト教は毒されているので、肉体は、魂にとって重荷であり障害であるとし、肉体を服従させ、鍛錬させることをよしとするストア派的な哲学がどこかに残っていて、これが、キリスト者を苦しめていると思う。聖書の言う徳とギリシアのストア哲学的な徳がどこかで混乱しているのだと思う。

                 アパセイアというギリシア語を尊敬するU先輩のセミナーで習った。スチューデントアパシー(無気力型生徒)の語源となったのが、アパセイアであり、アパシーは無気力を意味する語であり、その語源がアパセイアであるるらしい。

                 ところで、実は、何事があっても驚かない精神性(不動心)のことがアパセイアであり、これはギリシア的な徳目の一つであるが、聖書的な徳ではないのではないか、というのがU先輩のご意見である。個人的には、実にもっともなご意見であると思っている。確かに、うれしさのあまり舞い踊るダビデ(そしてミカル夫人にバカにされる)とか、怒りに任せて、神様からもらった十戒の石の板を割るモーセとか、旧約の人物には、アパセイアと無縁の人物が多い。新約にだってヤコブとヨハネには、ボアネルゲというあだ名が献呈されている。ペテロ君だって、アパセイアと無縁の人物である。

                旧約聖書の世界理解

                 旧約聖書の世界理解は、現代のキリスト教の一部の福音派の方がたのように、世はどうせすたれ、滅びるのだから、という理解でなかったし、誠心誠意こめて向き合っていくべき対象であったことは確かであるが、ラッド先輩はそのことに関して次のようにお書きである。

                旧約聖書は、この世界を異国の地やどうでもよい舞台のようなもので、人間が天国へ迎え入れられることを望みつつ一時的な地上の生を全うする場でしかない、とは見ていない。人間も世界も共に創造の秩序に属しており、言葉の真の意味において、人間の運命に世界は深くかかわっている。(訳書では太線部は傍点)(同書 p.42)

                 個人的には、Sojournersとか福音派左派と呼ばれる人々と聖書理解は近い(左派といってもマルクス主義は厨二病の一環としてのはしかのように、既に罹患したので、もう飽きている)ので、この地にあって神に生かされている存在として生きたいと思っている。その意味で、ラッド先輩の人間も世界の一部として想像の一部にあり、人間の命運に世界は深くかかわっているという表現もそうであると思うし、また、世界の命運に人間は深くかかわっていると思っている。

                旧約聖書の死後理解
                 ついこないだ、京都在住の古代仏教の研究者の方とユダヤキリスト教的な死後理解について、そして、救済論理解について、Facebook上でやり取りする機会があったのだが、キリスト教の死後世界の理解は案外、誤解されて理解されており(それは仕方がない、キリスト教世界でも大衆レベルの理解では天国召喚カード型の理解が支配的であるからである)、本来的な意味での神における終末(Telos)がきちんと表現されていないからである。そのTelosに至る前の死生観の問題について、ラッド先輩は次のようにお書きである。
                 死後の存在についての旧約聖書の概念は、その人間観と密接に関係している。魂あるいは霊は、神の世界への避難しようとして物質界を脱出するのではない。むしろ、人間はシェオールへと下る。シェオールは地の下、地の底にある場所と考えられている。(同書 p.44)
                個人的な理解では、モーセ時代以前の死後に関する理解はいざ知らず、少なくともイエス時代の旧約の死後理解は、上記の「ラッド先輩説に一票!」だと思う。さらに、ラッド先輩は次のようにもお書きである。
                 死についてのへブル人の概念は、いのちは体と一体化してしている確信も証言している。シェオールにおける使者の例において、神との意識のある交わりは失われている。それゆえ、シェオールへ下ることはいのちを意味しない。(同書 p.46)
                 ここで重要なのは、「神との意識のある交わりは失われている」という表現であり、一種眠っているということと理解されうる理解である。このことは、復活理解と非常に深くかかわっている。

                 というのは、イエスにまつわる復活物語で、結構、「寝ている」と表現されている事例が多いのだ。少女に対して、タリタ・クミ(訳すと少女よ起きなさい)とアラム語でおっしゃった事例や、既に眠ったもの、という表現があるのであるし、イエスの復活そのものにしても、日本語では復活した、と訳されているが、ギリシア語表現を見る限り、イエスは、「目を覚まされた」とも理解できる表現のようにも思う。だからこそ、マリアと出会ったとき「おはよう」とイエスは言われた、ということの意味があると思うのだ。

                新約聖書とパウロの死後理解
                 パウロの死後理解に関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。日本に伝わった聖書理解は、基本ギリシア世界を経由しているので、どうしてもギリシア的2元論に支配されているように思う。それを見直した方がよいのではないか、というのが欧米に遅れることふた昔、漸く最近日本でも着目され始めた見解であり、それは我が国の聖書理解にとって喫緊の課題ではないかと思っているけど、こういうことを言うとリベラルの軍門に下ったとかありがたいラベルを張っていただける。
                 肉体を人間の自我が最善の状態に至ることの妨げと考え、肉体を脱ぎ捨てて「霊的」領域に到達することを期待するギリシヤ的二元論に対し、パウロは正反対の位置に立っている。パウロにとって、復活は最も大事なことを意味していた。パウロは死後の死者の状態については、神から何の指針も与えられていなかったようである。パウロが語ることができたのは、「裸」の状態にあるということだけであった。(同書 p.53)
                 特にパウロの死後理解は、ギリシア哲学とギリシア文学及び文化の影響下にある人に伝道する中で、ギリシア語の限界を受けながらも伝えていくため、歪んで誤解されて受け取られて行ったことも少なくなかったのではないか、と思っている。
                要約すると、パウロの証言は、死に瀕していた強盗に対するイエスの言葉と符合している。神の民は死後、イエスと共にいることになる。しかし、新約聖書は中間状態の特徴について詳細な説明をほとんど提供していない。(同書 p.54)
                 これらラッド先輩の二つの記述に見られるように、新約聖書は中間状態の特徴に対して口を閉ざしているのに、我々は、かなり饒舌にああでもない、こうでもない、とごくわずかな表現を手がかりにあらぬ事を言ってきた(それはミーちゃんはーちゃんもやってきたことは認める)のではないか、と思うのだ。本来、わからないことはわからない、というべき時に、神の民の神のことばへの敬虔を見せるべき時に、軽々しく、神の民の神のことばへの軽薄を見せびらかしてきたのではないかとこの本を読んで反省させられた。

                 ミーちゃんはーちゃんは、森本あんり先生のおっしゃる意味で「知性的」、即ち、「振り返りができる」キリスト教徒でありたいと思うし、新潮社編集部さんのおっしゃるような”世界を席巻する危険な「反知性主義」”に毒されたくはない、と思う。それが、如何にキリスト教を自称しようと。

                 続きは原則月曜日公開(多分、あと2回くらい)。それ以外は、しつこく富士山とシナイ山を読んでいく。








                2015.04.15 Wednesday

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (16)

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                   本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない のうち、第12章 「普遍的文明の到来」からご紹介いたしたい。 今日からいよいよ安土桃山期のキリスト教と日本の出会いである。

                  日本とキリスト教の出会い

                   本覚思想や法然や親鸞、さらに禅宗などの基本的な思想世界の充実と高度化の中で、日本の仏教界における宗教改革、大変革期を経たものの、その後の仏教界の低迷があり、また、社会変革の結果、戦国時代に入って行き、市民社会が内戦と混乱、の中に置かれて行く。

                  この民族が法然と親鸞の高度な霊的水準で暮らしていたわけではないことは言うまでもない。その頃になるとこれらの宗教的巨匠の始めた運動も開始当初の鮮烈な霊感を失っていた。16世紀は大名たちが争い合う戦国時代、飢餓と疫病の頻発する時代でもあった。人民の生命は一顧の価値もないものとして扱われていた。彼らは苦しみの極み、絶望的なこの世から救い出してくれるメッセージを待望していた。「神のより大きな栄光のために」(ad majorem Dei gloriam)というイエズス会のモットーは、同会の創設者イグナティウス・ロヨラ(1491-1555)の次のような福音書の2節への献身に由来する。

                   全世界に行き、造られしすべてのものに福音を宣べ伝えよ。(マルコ福音書16:15)
                   たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを失えば何の得があるのか。(マタイ福音書16:28)

                  ザビエルは日本の霊的世界にキリスト教的ヒューマニズムのこの偉大な遺産をもたらしたのである。一人の人間の価値がこの世のもの全てのものに優るという仏教のメッセージに劣らぬ衝撃だった。今や、イエズス会の宣教活動は、いのちのはかなさという概念と人間のいのちの無限の価値という概念との対照という未曽有の差異をもたらしたのであった。(富士山とシナイ山 p.253)
                   戦国時代は、戦役・病疫の時代であり、その中において、人のいのちと生の価値が極めて軽々しく扱われる時代でもあったことは、想像に難くない。その中で、人は神に造られたものであり、その価値が尊いとする、という日本社会において、また東洋思想の中では生み出しえなかったその思想との邂逅は、あるいはその提示は極めて衝撃的であったと思われる。

                   ただ、当初ザビエルが日本において伝道した時に神 Deusを大日、大日として神を紹介したために、非常に誤解を生んだことは想像に難くない。元々、仏教はインド(天竺)から来たのであり、そのインド(天竺)のゴアからきて、天竺から来たというザビエルは、新しい仏教典をもってきた人物としてみなされたとともに、当時の日本語では大日は人体のある部位(詳細を知りたい人は、下記に紹介した『聖書の日本語』をお読みいただきたい)を指示していたからである(この間のNHKの歴史ヒストリアでは一切触れられていなかった)。


                  上智大学ではお誕生日がお休みになるザビエル君

                  仏教的善とキリスト教的善

                   禅宗とキリスト教の共通点との差異について、そして、それが根本的にどこにあるかに関して小山先生は次のように述べておられる。

                   禅仏教は人間的実存の価値を強調したかに見えた。全き無は全き肯定であるという禅固有の逆説は、マタイ福音書16章25節「誰でも自分のいのちを救おうとするものはかえってそれを失う」に近づいている。しかし禅宗はさらに一歩進んでザビエルが日本にもたらした26節の「たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを失えば何の得があるのか」に言及することはなかった。禅宗にとってこのことは望ましくない自己自身への愛着で、究極的解脱の実現を妨げることになるからであろう。なぜなら究極的解脱は自己自身の全面的根絶だから。(中略)仏教にとってはニルヴァーナ達成の究極的妨げとなるからであろう。
                   本覚思想は、際立った東洋的な宗教的弁証法の思想である。ここでは対立は一応強調されるが、その対立は絶対的一神論を形成する統一性に達するのである。かくして生の領域と穢れの領域は明確に区別されるが、かの弁証法はさらに一歩進めて聖即穢れと言い切るのである。イエズス会の宣教活動を通して日本に導入された宗教的方向付けは、日本民族にもう一つの弁証法を与えた。神的なものと人間的なものとの直接的な一元論的統一形式を拒否する弁証法である。(同書 p.254) 
                   仏教の中でも禅宗的な思想は、無を肯定することで、一見イエス・キリストの主張でもある次の言葉との類似性があるように見える。
                  マタイ福音書 【口語訳聖書】
                  16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
                   しかしながら、そこに大きな違いがあることを、「神的なものと人間的なものとの直接的な一元論的統一形式を拒否する弁証法」という形で示しておられる。仏教思想は、どこまでいっても人間、あるいは個人という主体が無であることに気付き、その無である輪廻という無限ループから脱出し、一種の一元論的な統一である輪廻からニルヴァーナ、涅槃の世界に移行するという概念の中での理解であると個人的には考えている。

                   しかし、聖書の理解は、聖書と人間の間に大いなる断絶をおく。それが、新約聖書に言うἁμαρτία( hamartia )、キリスト教における罪である。罪や穢れとは人間の悪や悪行そのものではなく、神の不在、神との断絶そのものであり、穢れや悪行と罪とは根本的に違うというのが聖書の主張であると個人的には思う。しかし、この概念は日本語の中にはないため、この理解までに達している日本人キリスト者がどの程度いるか、と言われるとかなり心もとない、と告白したい。

                   神は穢れを抱く、神と人とは本来別のものであり、人間は神が抱くべきでないもの、即ち ἁμαρτία( hamartia ) である存在の人を神が抱く(とはいえ、一つとなり区別がなくなるということではなく)、ということが究極の救済である、というのが聖書的な主張ではないかと思っており、かなり仏教的な包摂の概念とは違うものだと思っている。

                  仏教とキリスト教の差異

                   仏教とキリスト教の世界理解というか思想的な大きな違いを小山先生は指摘しておられる。これは重要であると思う。

                   ザビエルは自然(嵐)と歴史(海賊)の力を支配する創造者なる神の威力という聖書の偉大なテーマを引き合いに出して説得する。大事なのはすべてのものを支配している神への信仰である、と。この信仰をもって我々も、日本仏教の本覚思想の弁証法に代表される思想世界とは根本的に異質な思想世界へと入って行く。(同書 p.255 太字は小山氏による)


                   ここで重要なのは、キリスト教では、アプリオリに「すべてのものを支配している神」が想定され、その支配の中で生きる人間が、その「神への信仰」を表明することを通して、神との関係性の中に入って行き、関係の中に意味を見出すということであるのだろうと思う。現代の日本の仏教的思想がどうなっているのかはよく分からないが、古代仏教の仏典の世界を見る限りは、この関係性を離脱することに意味を見出しているようである。しかし、現代の日本の所謂自称仏教徒とおっしゃる一般の方々の場合、家だとか、家系だとかそういうことに関心があり、その意味で、輪廻からの解脱という意味での涅槃、ニルヴァーナということをどこまで理解しておられるのだろうか、ということを思わざるを得ない。まぁ、それは一般のキリスト者とご自身でおっしゃる方々の中にも、天国に行くことしか考えていない方々や、神の国に関する誤解が広がっていることを考えると、よそ様のことは言えないなぁ、と思う。





                  評価:
                  小山 晃佑
                  教文館
                  ¥ 4,104
                  (2014-09-12)
                  コメント:お勧めしてます。

                  評価:
                  鈴木 範久
                  岩波書店
                  ¥ 3,672
                  (2006-02-23)
                  コメント:資料としても第一級。日本のキリスト者にとって一冊は必要な書籍である。

                  2015.04.18 Saturday

                  『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (17)

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                     『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確定し、最長記録更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                    ザビエルの仏教理解
                     これまで、日本の鎌倉仏教、法然、親鸞と日本仏教の巨人たちについて触れてきたが、いよいよ今回から、室町末期のキリスト教との邂逅になる。

                     イエズス会伝道団は説教において人間の存在の具体性を肯定している。これは禅宗の徒にとっても瞑想するには容易でない教義であった。彼らにとって「われ」は存在しない。すべては「無」である。天国も地獄も、そして「神」概念すら「無」である。そのため二つの対立概念の間で、日本の魂を自陣に引き寄せようと論戦が行われたらしい。日本人の多くにとって宣教師たちのいう全能の神は、彼らにとってなじみの「無」の神よりも一層残酷な神であるように思われた。日本人は彼ら自身の文化的情緒を通して、本能的に創造神の神学と救済の神学を結びつけた。彼らに言わせれば、もしも神が万物の創造者だとしたら、「無」ではないこうした神は、地獄に閉じ込められている先祖たちを救いだす手立てを講じることができるはずだ。これは禅宗とキリスト教の両方に突き付けられた重大な問いである。(富士山とシナイ山 p.262)
                     ここで印象深いのは、日本人の信仰観と死生観の関係である。基本禅宗は、一切が空という般若心経的な世界観がその背景にあることを考えておられるらしく、空である中での死後の世界をどう考えるのか、ということでいかに涅槃に到達するか、そのための瞑想をどうするのかがその教義の背景にあるといってよいのかもしれない。しかし、キリスト教は、一切は無という概念はない。むしろ、一切は、神の支配のうちに在るという立場であるので、その背後には、どうしようもないほどの存在感、実存といってもよいかもしれないが、実態としての神が存在するといえるのである。

                     ただ、「地獄に閉じ込められている先祖たちを救いだす手立てを講じることができるはず」という疑念に対して、キリスト教側としては、よくわからない、ということしか言えない。また、日本人が考える地獄と、聖書にいうヘブライ的なシェオルの概念が、本当に同一であると考えてよいのか、この辺り、本来的には概念整理をする必要があるが、個人的に地獄概念とシェオルに関しては違うような気がする、という仮説的な限定付きの理解を述べるに留め置きたい。本来、この種のことはミーちゃんはーちゃんのような平信徒の領分ではなく、聖書学者の皆さんにお願いしたいところではある。


                    ザビエル先輩(上智大学はザビエル先輩の誕生日がお休み)

                    最強の対立的二元論と福音理解

                     ザビエル時代から、どうも正邪論争的な二元論が伝道の場において用いられることが多い。個人の信仰の正当性を証明(それは厳密にはできないと思う、出来るのは、護教であり、弁証まででしかないと思っている)するために、正邪論争的手段や論法が用いられたし、それが悲惨な論争や争いを産んだように思う。
                     キリスト教は日本に最強の対立的二元論を持ちこんだことになる。二元論は日本民族にとって未知のものではなかった。とりわけ生と死の二元論は熟知のものだった。しかし今や、自然界の二元論とは対照的な、悪魔と戦う神と、悪魔の力の支配下にある人間との極めて熾烈な二元論が襲ってきたのである。(中略)キリストの福音を提示するために、かくも強烈な対立的二元論の「神学」を必要としなければならないのか。ザビエルの時代このかた、日本民族にとってこの問いはまだ答えられていない。(中略)偶像に対する断罪と対立的二元論を分かつのは紙一重に過ぎない。福音はこの偶像を断罪するが、対立的二元論の枠組みに陥るのを避けている。(同書 p.263)
                     この中の「福音はこの偶像を断罪するが、対立的二元論の枠組みに陥るのを避けているという指摘は実は非常に大事かもしれない。実は、福音派の一部に対立的二元論、偶像であるか、偶像ではないなか、でしか物事を考えられない側面が案外多いのではないだろうか。こういう一種の無知に基づく言動があり、それが今なお根強く、そのことがかえって冷静な宗教間対話と相互理解とを阻んでいて、非常におかしなことを示していることが多いような気がするのは、私だけだろうか。

                     本来、人間が欠けあるものである以上、二元論的な議論に押し込むことはどこかに無理があるのであり、新しいこと、新しいもの、自分と違うもの、自分の理解の相対化を振り返りを通して考えたうえで対応しないといけないのではないか、と思う。

                    キリスト教とニルヴァーナ(涅槃)
                     ニルヴァーナといってもこれではない。

                    シアトル付近発祥のニルヴァーナさんの動画 個人的にこの手は趣味でないけどw

                     前回の「終末論を読んだ (1)」でご紹介した天国に行きたがる大衆レベルのキリスト教の誤解(文句は、もう死亡されているラッド先生にお願いします)があるが、これはある面、日本においては、多くの場合、仏教的なニルヴァーナ志向の思想をキリスト教的なコンテンツとして反映したものであり、それは本来のキリスト教のうちにはないものであるとミーちゃんはーちゃんは考えている。
                     イエズス会に宣教使命の霊感を鼓吹した二つの聖句のうちの一つ「全世界を手に入れたとて、自分の命を失えば、どんな利益があるというのか」がニルヴァーナ志向を示唆していないことに気付くことは重要である。この聖句はイエズス会を導いて、「この世」をこの上なく真剣に引き受けさせたのである。(同書 p.264)
                     小山先生ご指摘のように、イエズス会を日本伝道に駆り立てた言葉は「自分のいのちを失うこと」に目的があるのではなく、「全世界を手に入れること」でもなく、新しい世界に向かわせたのである。特に、「伝道とは「この世」をこの上なく真剣に引き受けることである」という指摘は案外大事なのではないか。伝道っていうことは、ただ、言葉を語ればよいのでもなくて、この地の人々に受け入れられ、また自分以外の他者とのかかわりを引き受けていくことがまず先に在るのではないか、と思うのである。この辺り、ジャン・ヴァニエやナウエンの思想につながる部分があるような気がする。

                    日本の国際的孤立
                     秀吉の伴天連追放令以降、江戸期に国際社会からの離脱について触れられたあと、日本が国際社会から孤立した結果、日本社会は、近代思潮を形成する合理主義や対話のアルテの成熟度の充実、理性に対する信頼の形成、新しいものへのチャレンジ精神、開かれた思考ということが軽んじられ、内部を相互に見るという思考の特性をはぐくんでいったかもしれない。
                     日本の国際的孤立は日本国民にとって重大な結果をもたらした。西欧が理性の批判的自覚と科学的人生観を摂取するのに300年かかった。人間精神の近代化というこの大きな出来事(啓蒙主義の受容)が行われた期間の多くの間、日本は外部の世界から自らを切り離し、己の狭隘な思考法にしがみついていた。占星術に代わる数学の重要性を強調したイエズス会伝道団の未曽有の成功は、日本人の精神もまた近代的な世界観を受け入れるに足る成熟度に達していたことを示している。だが日本はそうせずに直感主義に後退した。和辻によれば、日本を1941年西洋列強との非合理な戦争に追いやった態度こそ直感主義に他ならない。(同書 p.265)
                     個人的には、啓蒙主義思想は、上から目線だし、いくつか困った点を持っている。特に以前の連載 反知性主義をめぐるもろもろ でも触れたように、啓蒙主義思想はアメリカで反知性主義を産んでいくことになるという困った側面も持っている。安土室町末期には、数学的思考も銃砲の製造技術も、非常に短期間でキャッチアップしている。そして、貪欲にヨーロッパからもたらされる技術を貪欲に吸収して行ったのであるが、鎖国と共に、このような貪欲さはなくなって行く(というよりは制度的に禁じられていく)。そして、国内に通用する国内的な論理の枠内での技術開発、銃への象嵌技術のような一見無意味な技術に進んでいく。


                    蒔絵象嵌が施され、実用的改良ではなく装飾が異様に発展した銃
                    メキシコなら、この手の銃があるかも。

                     日本の直感主義の原因を鎖国に和辻は求めているようであるが、それははたしてどうなのか、と思う。というのは、江戸末期、適塾の蘭学の伝統(これは大阪大学に引き継がれていく)や、佐久間象山・大村益次郎らの蘭学研究、のような展開を見せていく(たいていはこれらの人は冷や飯を食わされるのが、日本の習い性であるけれども)を考えると、直感主義といっていいのか、あるいは、和算の伝統なども考えると、直感主義といいきっていいかどうかは疑問である。ただ、ここ数年でも、まともな合理的思考が顔を出すと、それをみんなでよってたかってつぶして回る傾向にはあり、そういう事例がみられるとは思うけど。松本サリン事件の河野さんの不幸な出来事等を振り返りたい。

                    「緒方洪庵」の画像検索結果
                    大阪大学の開祖、緒方洪庵先生

                    キリスト教とは何か?

                     本来、キリスト教が主張することとは、聖書の読み方でも、理解でも、世界観でもなく、もちろん、天国の行き方というようなものではない。本来、キリスト教が主張し続けていることとは、神の存在であり、神との和解であるはずであるが、そこが強調されず、それに伴うもろもろがキリスト教であるとして伝えられることが少なくないのは極めて残念ではないか、と思う。それらのことに関して、小山先生は、このように触れておられる。

                     キリスト教が日本にもたらしたのは、目的意識を持って万物を創造し、至高の人格的愛を持って万物を支配して居る創造者なる神であった。そのことは共同体の生活および個人の生活を解釈するための新たな地平を開いた。それは和解の道を示唆した。イエズス会の宣教師たちが日本民族に届けた神の声は「悔い改めよ」であった。(中略)ここで根本的問題はこの神に対する人間のかかわり方におかれる。このメッセージは、「残酷な神」に関する苦痛を強いる困難な議論にもかかわらず、日本人の心に届いた。「残酷な神」は、それだけで提示されると、日本人にとって極めて心乱す概念だったのだが。
                     日本人は二つの偉大な宗教的視座と接触した。この世の否定とこの世の肯定である。「目覚めよ」と「悔い改めよ」である。この二つの視座を日本人自身の文化的文脈における一つの創造的対話に統合する仕事は、日本民族の霊的、精神的生活にとって大切な任務であった。この仕事は今日ですらなお初期段階にとどまっている。(p.268)
                     小山先生がご指摘の「この二つの視座(「目覚めよ(神とともに生きよ)」と「悔い改めよ(神のもとに立ち返れ)」)を日本人自身の文化的文脈における一つの創造的対話に統合する仕事は、日本民族の霊的、精神的生活にとって大切な任務であった。この仕事は今日ですらなお初期段階にとどまっている」ということ拝読しながら、とんでもない宿題をもらってしまった、と思った。こんな宿題をすべてこたえることはできないが、キリスト者として生きるということは、この世において、日本人の文化的文脈、つまり普通の日本人にとって、「神とともに生きるものとなれ」と「神のもとに立ち返れ」がどういう意味を持つのか、ということを理解可能な形で説明し直さないといけない、ということだと思うのだなぁ。それに、それが、まだ初期段階にとどまっている、つまり、キリスト教いやむしろ、聖書そのものをちゃんとミーちゃんはーちゃんを含むかなり多くの日本人が理解していない、ということなのだろう。

                    見ることと歴史意識

                     地図屋をしていると当たり前なのだが、地図の場合、般化(Generalization)ということをやる。ごく簡単にどういうことかというと、ある程度、えいやって線を引いちゃうことなのである。例えば、海岸線を地図に書く時を考えてみよう。海岸線の波が造る海水と陸地の境界は厳密にいえば、一瞬一瞬ちがう。あるいは国境や自治体の堺は、緯度線とかでパシッときってない限り(アメリカやアフリカではこういう緯度や経度を基準にした国境がある)、実はかなりグネグネしていて、それをいちいち地図の2次元表記では表せないので、ある程度ごまかしてえいやって引いちゃうのである。この辺の議論を知りたい方は、フラクタル理論をフラクタル幾何学 http://www.amazon.co.jp/dp/4480093567/ でご研究になるとよいだろう。

                     それと同じように、歴史的に起きた出来事、●△村の太郎兵衛さんが桜田門外の変があった晩に晩酌にどぶろくを3合飲みました、というのは一種の歴史的事実であるが、それは捨象されてしまう。歴史の全容を終える人はいないのだ。しかし、神は、その歴史の全体を通してこの世界に関与する神がいるというのが、聖書の主要主張の一つである、と思う。このことに関して小山先生がお書きになった部分を紹介して、今日の記事を終わりたい。
                     普遍的文明の到来は日本人のこころの内部で批判的な歴史意識を目覚めさせた。日本人は初めて歴史に関する問いを問うに至った。それに対する答えは複雑で多義的である。(中略)われわれのだれも人類の歴史の全容とその価値を明確にいられるだけの視力をもちえない。人類の歴史は常に我々に明確に見るよう挑戦する。わたしは人類のいかなる文化と文明にとっても、このことは真実であると肯定したい。(同書 p.269)
                     ここで、小山先生は、歴史が人類に挑戦しているとおっしゃっておられるが、個人的には歴史を介して神が人類に挑戦しておられ、人間の限界をそのことでお示しになろうとしておられるのではないか、と思っている。







                    評価:
                    小山 晃佑
                    教文館
                    ¥ 4,104
                    (2014-09-12)
                    コメント:絶賛ご紹介中である。

                    2015.04.20 Monday

                    ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(2)

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                       以下は、個人の感想であり、所属教派、所属キリスト者集団、所属キリスト教会(集会)の主義主張とは必ずしも一致しないものであることはあえて一言触れておく。

                      不幸な論争をもたらした再臨理解
                       キリストの再臨をどう考えるか、という問題は、終末論の一部であるけれども、すべてではない、と思っている。とは言いながら、ラッド先輩がおっしゃるように、この問題は実に悲劇的な論争となってきた。
                       
                       多くの福音主義の教会において悲劇的論争の主題となってきた一つの問題を取り扱わなければならない。第1章で論じたように、ディスペンセーション主義は、キリストの再臨は二つ存在する。もっと正確にいえば、キリストの再臨は2段階で起こる、と教える。ディスペンセーション主義では、神の二つの民ーつまりイスラエルと教会ーが存在し、そして神は二つの異なった計画ーつまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画ーをもっておられる通していることを私たちは見て来た。(終末論 p.73)
                      終末において、イエスキリストの再臨と来臨の区別やその時期がどうか、というのは、個人的にはどうやっても特定できないし、特定したところで何か生まれるか、ということを考えた時に、その細かな論点整理をするよりは、その先に何があるのか、神との和解の実現ということに思いをはせる方が、よほど楽しいのではないか、と思う。本来の神との関係の回復こそ、聖書の主要な主張ではないか、と思っている。

                       しかし、こちらがそうは思っても、この種の議論に御関心の深い方々は、それでは気が済まないらしく、延々と自説をご紹介くださるので、あぁ、そうですか、なるほどなるほど、それはよかったですね、と御回答することにしている。

                       以下、本文中で指摘されている再臨を示す3つのご、パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアについてご紹介。


                      再臨を示す第1の言葉 パルーシア

                       再臨を示す言葉は3つあるとラッド先輩は指摘されており、その第1のものはパルーシアである。主の出現や臨在を示すパルーシアと空中携挙と呼ばれる理解に関しては、ラッド先輩は次のように指摘しておられる。

                       キリストが艱難期の前に再臨し、死んだ聖徒たちをよみがえらせ、生きた聖徒の教会を携挙するという教えは、ディスペンセーション主義者のもっとも特徴的な教理である。私たちは、大艱難前にキリストが再臨されるとする見解を新約聖書が支持しているかどうかを判断するため、新約聖書で使用されている用語を吟味しなければならない。
                       新約聖書において、再臨を描写するために3つの言葉が使用されている。第1に、「到来」「出現」また「臨在(プレゼンス)」を意味する「パルーシア」がある。これは主の再臨に最も頻繁に使用されている用語であり、教会の携挙に関するものとして使用されている。

                      【新改訳改訂第3版】
                       I テサロニケ 4:15−17

                       4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
                       4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
                       4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
                       キリストが秘密のうちに再臨するということを右の箇所の中に見出すことは極めて困難である。(同書 pp.74−75)
                       日本語や英語の翻訳聖書の元となった、聖書のほぼオリジナルに近い(オリジナルは見つかっていないので、時代ごとにその底本とすべきギリシア語底本も時代ごとに代わってきたし、おそらくこれからも変わり続けていくとは思うが)言語底本の用語に基づき、来臨と訳されているパルーシアをどう解釈するのか、ということを述べておられる。

                       ミーちゃんはーちゃんなぞは、つい、4章17節の引き上げられ、という語に引きずられがちであるが、案外重要なのは、4章16節の『主は、(中略)ご自身天から下って来られます。』という部分が大事なのではないか。どの高度に降りてくる、とは明確に書かれていないので、空中とすることも可能であろうし、地上とすることも可能ではないか、と思う。個人的には、地上かなぁ、と最近は思っている。まぁ、現在の日本では、雲は空中に浮かぶと思っている方が多いようであるが、地上にも雲が降りてきた話は出エジプト記に在ったような気がする。それは気のせいだろう。まぁ、あれもこれも想像の域を出ない一種の知的スポーツでしかないように思う。起きてみてわかればそれでいいし、その様な事象が起きる前にかなり長い時間の眠りにミーちゃんはーちゃんはつきそうな気がしてならない。

                      再臨を示す第2の言葉 アポカリュプス
                       このアポカリュプスという語、権限という語であるが、黙示録に関する英語であapocalypticという英語の語源だろうと思う。そもそもアポカリュプスという言葉自体、アポ(離れて、外す)とカリュプテイン(覆う)というギリシア語の合成語である模様である。つまり、覆われたものはずす、という意味である。以下のノーベル物理学賞のメダルのカバーがかけらているものからカバーを取り外されようとしている状況のような感じも持つ語でもある。


                      アインシュタイン先輩が授与されたノーベル賞のメダル

                       この語に関してラッド先輩は次のように書いておられる。なお、黒の太字にしたところは、もともとの本では、傍点が付されていた文章である。

                       主の来臨について使用されている第2のことばは、「顕現」を意味するアポカリュプシスである。艱難期前再臨説の立場の人々は、キリストのアポカリュプシスあるいは顕現を、教会の携挙とは区別し、キリストが審判をもたらすため栄光のうちに到来する艱難期の終わりの出来事として位置付ける。もしこの見解が正しいとしたら、キリストのアポカリュプスは第一義的にクリスチャンにとって祝福された望みではなくなる。顕現が起こる時、聖徒たちは既に携挙されており、肉体にあってなした行為に応じて報いをキリストの手から受け取っていることになる。彼らは既にキリストとのいのちの交わりのまったき喜びに入っている。すなわち、キリストのアポカリュプス(訳注:顕現)は、悪しきものの審判のためであり、教会の救いのためのものでなくなる。(中略)艱難期前再臨説によれば、キリストの秘密裏の再臨における携挙は祝福された望みであり、好ましい待望の的であるが、顕現はそうではないことになる
                       けれども、このような教えを聖書に見出すことはできない。私たちは「熱心に私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:アポカリュプシン)を待っています」(Iコリント1:7)。艱難前再臨説によれば、私たちは顕現などは待ってはいない。携挙を待っているのである。教会はキリストのアポカリュプスの時まで苦難に会わなければならない。(同書 p.79)
                       終末理解と艱難理解の混乱の結果、いろいろな季節、陳節、論理的なウルトラCが各種開発されたのであるが、実は、このことに関しては、別のところ(この記事の最後のあたり)でも触れたが、この理論ができた当時の社会的背景、つまり18世紀末から19世紀初頭にかけての社会不安がその成立の背景にある。つまり、18世紀末から19世紀初頭、ヨーロッパでは革命のあらしが吹き荒れ、血で血を洗う戦争や内戦が起きたのだ。その中で、ディスペンセイション説が形成されたため、終末理解との関連で、艱難理解、つまり、革命的現象の中での流血事件と艱難とが重ね合わされ、様々な理解が生み出されたのではないか、というのはかなりいい線をいっている理解ではないか、と思っている。

                       その地で血を洗う時期に作詞作曲された、現在のフランス国歌でもあるこの曲の歌詞の日本語訳を見ながら、その意味をお考えいただけると嬉しい。イギリス人の大好きな呪いの言葉Bloodyという語がふさわしいほど、血みどろの歌詞である。


                      初音ミクさんで、フランス国家 La Marseillaise (日本語訳詞付き)

                       もう少し、ラッド先輩は、このアポカリュプスについて説明しておられる。より具体的には、この顕現の時は、我々が完全なものとされ、神の養子としての完全な神との関係を取り戻すということである。その部分を引用してみたい。
                       ペテロは同じ表現を使用している。いま私たちはキリストの苦しみを共にするものとされている。それはキリストの栄光が現れる(訳注:アポカリュプセイ)時にも、喜び踊るためです」(Iペテロ4:13)。(中略)さらに、ペテロは私たちの信仰の真実性が「イエス・キリストの現れ(訳注:アポカリュプセイ)の時に賞賛と光栄と栄誉」(Iペテロ1:7)をもたらすと語っている。(中略)しかしこの箇所は、キリストのアポカリュプスの目的の一つは、信仰の忠実さゆえの光栄と栄誉を御自身の民にもたらすことであると断言している。最後にペテロは、私たちが恵において完全なものとされる望みは、イエス・キリストの顕現の時にもたらされると保証している。(p.81)
                       概して、終末理解 eschatology は艱難理解と取り違えて議論されがちであるが、艱難がどの時点でおきるのか、ということの理解は、繰り返し、何度でも、しつこくいうが、個人的には艱難理解や艱難の時期否定理解とは別物であり、最終的な状態として神と人との関係がどうなるかが本命ではないか、と思っている。もし、終末理解が艱難解再臨との時間関係の理解、いつ発生するかの議論と混乱されているとすれば、ことばはすぎるかもしれないが、それはハルマティアと言われても仕方がないかもしれない。この場合のハルマティアは、もともとのハルマティアの語義でもある、的外れという意味で用いている。

                       本来、神に在って完全とされるということが終末理解の際重大事であるべきであると思っている。ただ、ラッド先輩と意見をことに数rのは、個人的には「私たちの信仰の真実性」ではなく、あくまで、「ピスティス・クリストゥー」が賞賛と光栄と栄誉をもたらすとミーちゃんはーちゃんは考えている点である。

                      再臨を示す第3の言葉 エピファネイア
                       再臨を示す最後のギリシア語は、輝き、あるいは、輝くこと、明白にすることという意味を持つエピファネイアである。なお、この語から、公現祭、顕現祭とも呼ばれ、クリスマス直後に東方の博士とイエスが面会した日を祈念する日とされている。

                       キリストの再臨について使用される第3のことばは、エピファネイアである。これは「輝き」を意味し、従って艱難前再臨節の体系によれば、艱難期が開始される時の教会の携挙やキリストの来臨を指しているのではなく、艱難期の終わりにおける、世界に審判をもたらすための、聖徒を伴ったキリストの顕現を指しているのである。キリストは「来臨の輝き(訳注:エピファネイア)」(IIテサロニケ2:8)をもって不法の人を滅ぼしてしまうのであるから、実際にそれは顕現の意味において使用されている。キリストがエピファニー(訳注:輝き)をもって出現するのが艱難期の終わりであることは明らかである。
                       しかしキリストのこのエピファニーは、キリストのアポカリュプスと同じように信仰者の望みの対象である。もし教会が前もって携挙の時に望みの対象を受け取っていたのなら、そうなることはあり得ないからである。パウロは「私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:エピファネイアス)の時まで」(Iテモテ6:14)命令を護り、傷のない、非難されるところのないものであるよう勧告している。生涯の終りにおいて、パウロは「今からは、偽の栄光が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」(IIテモテ4:8)と語り、(中略)パウロが報酬の日として期待している「その日」がキリストのエピファニーの日であるとしか結論できない。従って、それはクリスチャンが愛情を注いでいる日、クリスチャンの望みの対象である。(中略)艱難前再臨説は報酬が与えられう審判を携挙と顕現のに位置付けている。しかしここでは、それは艱難期の終わりのエピファニーの時に位置付けられている。それは顕現と同じ時である。(同書 p.82−83)
                       このように見てくると、ラッド先輩は、艱難前再臨説をご批判であるけれども、我々はそこに目を奪われて、問題を矮小化してはならないと思うのだ。パルーシアであれ、アポカリュプシスであれ、エピファネイアであれ、基本的にこれらすべては最終的な神の終結、神のテロス Telos(実は、終末論をあらわすeschatologyという語は、テロスのラテン語表記に由来していたと思う)に関する語であるとしておられることに目を向けるべきであって、艱難の時期などを焦点化させることは聖書理解に歪みを生じさせるのではないか、と思う。そこに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

                      用語の混乱と終末論の混乱

                       他の部分でもそうだが、我々が普段日本語で読む聖書は翻訳聖書であるという側面を忘れてはならないだろう。聖書翻訳者の方々のご苦労は想像することすらできないが、そこで翻訳された言葉から勝手に自分のお好みの聖書理解をごくわずかな表現をもとに造り出すことには、かなり問題があるのではないか、と思っている。それよりも、全体を通して何が基本的で重要なポイントか、ということを抑えつつ、考えていくということが重要だろうと思っている。
                       教会の携挙とキリストの顕現との区別は、神のことばによってどこにおいても主張されていないし、キリストの再臨に関係する用語によっても要請されていない、と結論できるだけである。(中略)パルーシア、アポカリュプス、エピファニーは単一の出来事である。キリストの再臨を二つの部分に分割することは、立証されえない推測にすぎない。(p.85)
                       まぁ、これまでラッド先輩のおっしゃることをご紹介してきたが、とは言え、それぞれの語を別々のものと理解することも可能であるし、いや、ラッド先輩のおっしゃるように、それは一つだ、とすることも、理屈のうえでは可能である。ただ、いずれのケースにしても、立証されえない推測でしかない、という可能性があるような気がするなぁ。あくまで目を向けるべきは、神と人との関係がどのようになるか、艱難の通貨の有無やその時期よりも最終的に神が実現される完成された世界という聖書のメインテーマに我等の視点を据えるべきで、時間や順序がどうなるか、ということを議論することではないのではないかなぁ、と思っている。

                       最後に、ラッド先輩の言葉を引用して、再臨や来臨を区別することの無意味さを考えたい。
                       この学派の極めて最近の著者たちの一人は、教会のためのキリストの来臨はキリストの再臨ではないと主張している。この見解はキリストの来臨と再臨とを区別する。このような区別は全く立証されていない。キリストの再臨を描写するために使用されている言葉のうちそのことを支持するものを見出すことはできない。「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。言い換えると、それは不自然、かつとてもありえない区別である。キリストのパルーシアはキリストの来臨であり、キリストの来臨はキリストの到来であり、キリストの到来はキリストの再臨である。
                       主の来臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる指示も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であるという見解を立証している。

                      ラッド先輩の「「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。」ということは、非常に重要でないかなぁ、と思う。自分たちがある思い込みで聖書を読んでしまっていて、聖書本文から結構離れているということは意外に多いかもしれない。

                       まぁ、英語の聖書にしても、日本語の聖書でも、翻訳聖書だけにいろんな問題が出てくる。そして、その表現をもとに、様々な解釈が可能であり、その解釈をさらに発展させることも可能である。ギリシア語テキストの聖書でも翻訳聖書でも、解釈が困難なところは、無理に解釈し、決めつけず、こうじゃないかな、くらいで止めておくのが凡人にして平信徒のミーちゃんはーちゃんには適切なのだろうと思っている。










                      評価:
                      価格: ¥1,944
                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:薄い、コンパクトであるが重要なポイントをしてきた名著だと思う。

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