2015.02.01 Sunday

2015年1月のアクセス記録とご清覧御礼

0
        今月も長いうっとうしい記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。久々の15000越え。 日に500アクセス。

     2014年3月  20499アクセス。
     2014年4月  24200アクセス。
     2014年5月  22690アクセス。
     2014年6月  11281アクセス。
     2014年7月  13883アクセス。
     2014年8月  12202アクセス。
     2014年9月  13264アクセス。
     2014年10月  15282アクセス。
     2014年11月  12853アクセス。
     2014年12月  14424アクセス。
     2015年1月  16502アクセス。


     今月のピークは、901アクセスの1月12日。「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(2)を公開した翌日。


    それでは、以下、今月の上位5位まで。

    日本のキリスト教の一部の残念さ加減
       789

    ブログ緊急公開 歴史に学ぶことの大切さ
      430

    「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(2)
      422

    「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(1)
      409

    婚活・就活の類似性   373


    リンク元アドレスでは、
    Google  776
    http://blog.kiyoshimizutani.com 522
    Facebook 350
    twitter  241
    http://www.feedspot.com 37

    が上位に出ている感じでした。
    2015.02.02 Monday

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

    0


      Pocket

       これまでの連載


      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)


      では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

      国家と国民に関する
      ミーちゃんはーちゃん的理解

       今日から数次にわたり、いよいよ戦争中に起きた問題について触れる。これに関しては、山崎ランサム様が公開しておられるし、伊那谷牧師様もきちんと資料をご提示してくださっている。国策(国家の政策)としての方針があるからと言って、それに国民が粉骨砕身すべきというような理念系は持ち合わせていないので、当時ならば、ミーちゃんはーちゃんは非国民と呼ばれたであろう。国家より大事なのは、個であり、個人であり、個人からなる国民であると思っている。国家を守るために国民があるのではなくて、国民を守るために国家があるのだとおもっているし、それをしない国家は見捨てられる。それが投票による革命であろうと、国外脱出という足による投票であろうと。

       世界史を見てみればわかるが、国民国家なんてのは、この300年くらいのたわごとである。一応、現在社会通念上、与件となっているので、一応の評価はしている。ただ、国家が国民を守る装置というのは、世界史で普遍的にみられる概念だと思う。

      異教的エキュメニズムとしての
      日本の国粋主義イデオロギー

       1931年日本が満州に軍隊を派遣して開戦し〔満州事変〕1945年の敗戦まで続けた15年間、日本の指導者たちはアジアとアジア以外の自国国民及び他の諸民族に対して悪魔的な激越さに達する暴力をふるい続けた。政府の政策に批判的だった日本国民は地位から追放されたり、暗殺すらされた。右翼的指導者たちが絶対権力を掌握し、天皇崇拝の慣例が全国民に強制された。「世界の果てまで及ぶ天皇の御稜威(みいつ)」、つまり異教エキュメニズムの一種が国粋主義イデオロギーの本質であった。その結果、〔国民の〕精神的および身体的諸力のすべてが天皇制の力によって呑み込まれ、後者は傍若無人に勢力を拡大していった。それはまさしく異教的「栄光の神学」であった。(『富士山とシナイ山』 p.34)

       これミーちゃんはーちゃんが書いたわけではないですから。小山先生が書いていらっしゃるのですが、個人的には、痛いほど、あたっていると思います。まさに、小山先生がご指摘のように、キリスト教界が異教的エキュメニズムに飲み込まれたからこそ、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」等という重篤な厨2病患者的言辞に満ち溢れた文書を日本のキリスト教会が、ホイホイとアジア諸国に送るという黒歴史が生まれたのだと思います。

       戦争期にこれらのことの具体的事例を敬愛してやまない、伊那谷牧師先生がここの所ご紹介いただいております。なんとありがたいことか。


      第1回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(1)「大東亜戦争と我等の覚悟」
         土山鉄二
      第2回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(2)「皇道と基督教」
         亀谷凌雲(「仏教からキリストへ」の著者として有名)

      第3回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(3)「海外伝道」
         喜田川 廣

      第4回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(4)「新体制下における日本聖化基督教団の成立とその使命」
         土山鉄次

      第5回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(5)「兵隊さんへ ヨイコドモの慰問文」
        これはきつかった。


        
      日本のキリスト者がした宣言
       こういう文書を読んで、反省するのも面白いのですが、それはまた別の機会に。小山先生の文章に戻りましょう。青山学院に2万人のキリスト教徒がいる前で、次のような宣言がされたらしい。(原文はカタカナ交じり文の句読点なしらしいので、翻訳者の森泉さまが直してくださったものを採録したい。

      神武天皇国を肇めたまひしより茲に2600年皇統連綿として弥弥光輝を宇内(=世界)に放つ。この栄えある歴史を懐うて、吾等転た感激に耐えさる者あり。本日全国にある基督教徒相会し、虔んて天皇陛下の万歳を寿き奉る。惟うに現下の世界情勢は極めて波乱多く、一刻の偸安(=かりそめの安心)を許ささるものあり。
      西に欧州の戦禍あり。東に支那事変ありて、今たその終結を見す。この渦中にありて我が国は能くその針路を謬ることなく国運国力の進展を見つつあり。是れ寔に天佑の然らしむる所にして、一君万民尊厳無比なるわが国体に基くものとして信して疑わす。今や此の世界の変局に処し、国家は体制を新たにし、大東亜秩序の建設にまい進しつつあり。吾等基督教徒も亦之に応し、教会教派の別を棄て、合同一致以て国民精神指導の大業に参加し、進んて大政を翼賛し奉り尽忠報国の誠を致さんとす。
      依て茲に我等は此記念すへき日に方り左の宣言をなす。
      1.吾等は基督の福音を伝へ、救霊の使命を完ふせんことを期す。
      1.吾等は善キリスト教会合同の完成を期す。
      1.吾等は精神の作興、道義の工場、生活の刷新を期す。

      右宣言す。
      昭和15年10月17日
      皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会
      (昭和15年10月24日「キリスト教世界」第2951号)(前掲書 p.37-38)


      でも、これでもわからりにくいでしょうから、ローラ語風に翻訳してみたいと思います。
      神武天皇ってひとがねぇ、なんか日本って国を始めたってことになっている年から、大体今年でさ、2600年になるらしいんだけど、天皇さん家はさ、ずーっと続いているらしくって、それってすごいじゃない。世界でもめったにないことなんで、すごいんだから。こういうすごいことを思っていてると、ネぇ、みんな、感激しない?あのねぇ、今日日本全国のキリスト教の関係者の人があつまってね、天皇陛下さん家がさぁ、長く続くといいなぁ、とお祝いしたいのよ。いろいろ考えてみるとねぇ、よくわかんないけどぉ、今の状態ってのは、いろいろごたごたしてるじゃない。ちょっとの間だってさぁ、安心もできないくらいに。
      西の方見たら、ヨーロッパで戦争してるでしょ。東のほうではさぁ、品事変があって、未だに固唾居ちゃったりしてないじゃない。でも、こんな時でもさぁ、日本の国はうまくやってるんで、國がうまくやれてるじゃない。これは、きっと点が助けてくれているんだけど、その背景には、天皇を中心とした国があって、それがものすごーく立派からで、日本の国のあり方が立派なものだからなんだと思うんだよね。今ね、世の中が変わっているでしょう、だからぁ、國はやり方を変えて、アジアのみんなのための望ましい在り方を作り出そうとしてんじゃん。だから、キリスト教のみんなも、これに合わせて、教会とか、教派とかなんかに関係なく、みんな一緒になって、日本人全体のさぁ、精神的なことをよくすることを一緒にやって、自分自身から天皇を中心とした政治に協力してさぁ、天皇さんたちのために、国のために何かやるために一生懸命してみよっかなぁ、と思うんだよねぇ。

       だから、今この特別のいい日にね、こんな宣言してみよっかなぁ、って思ちゃってね。

      湊川神社で参拝された神戸高商(現神戸大学)の皆さん
      神戸大学様のサイトから


      国家への忠誠とは何か

       この部分に続いて、小山先生は次のように書いておられる。

       カトリックとプロテスタントを含む日本のキリスト教界は、「カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返せ」(マルコ12章17節)というイエスの言葉が突如のっぴきならぬ重大性を帯びるに至る危機的な状況に置かれた。イエス・キリストの名と天皇の名が対立した。日本のキリスト教徒たちは自ら発した宣言に一抹の不安を感じた。国家が国民に天皇への絶対的忠誠を要求するということは、カエサルの名において本来神に属する事柄に対する支配権を簒奪する行為を意味するのではないかと。全ての事柄が国家に属する全体主義の下では、イエス・キリストの御名は日本帝国の栄光をたたえる国家主義的イデオロギーに従属させられる。(前掲書 p.37)

       この部分を読みながら、国家への忠誠ということを考えた。本来、国家に対する忠誠は無条件的忠誠なのだろうか、と。あるいは、キリストあるいはメシアに対する忠誠と何が違うのだろうか、と。そもそも、絶対的忠誠ということがありうるのだろうか、ということを。

       何、国家を転覆してみたい、とか、反逆してみたいというのではない。

       国家が国民を守るための装置であるとするならば、それが国民を守らないことを知りながら、それに無条件に忠誠を果たすことは意味があるのだろうか、ということを考えたいだけである。仕事先に対しても同じことである。

      ブラック企業ならぬブラック国家
       以前、働くことについていくつか書いているが、個人が労働時間と才能を提供してその対価としての賃金(給与という)を得るという対等の関係であるはずのものに、過剰な思い入れをすることを求め、本来以上の関係性を強いて、特定の企業に忠誠を果たすことを求めた企業を、人はブラック企業と呼ぶのだろう。

       その伝でいえば、国家が個人に絶対的忠誠を求めることができるのか問題で言えば、それを求めた瞬間にその国家はブラック国家となるのではないだろうか。

      国家を維持するということ

       諸賢の内には、アメリカで市民権を獲得するときの誓いOath 

      "I hereby declare, on oath, that I absolutely and entirely renounce and abjure all allegiance and fidelity to any foreign prince, potentate, state, or sovereignty, of whom or which I have heretofore been a subject or citizen; that I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same; that I will bear arms on behalf of the United States when required by the law; that I will perform noncombatant service in the Armed Forces of the United States when required by the law; that I will perform work of national importance under civilian direction when required by the law; and that I take this obligation freely, without any mental reservation or purpose of evasion; so help me God."


      の中に I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; とあるではないか、という向きはあろうが、このall enemiesのうちにDomesticが含まれること、また、アメリカ憲法修正第2条には、武装する権利、また、民兵を形成する権利が記載されているが、これは、国民に対して牙をむく国家に対する抑止力という側面もある。大体、アメリカ独立戦争は、国民に対して牙をむく英国という国家からの独立を目指して、国家システムを護持しようとした革命でもあるといってよいのではないだろうか。

      国家システムを何が何でも
      守らないといけない国民は幸せか
       他国のことはよく知らないので、何とも言い難いが、何が何でも国家を守らないといけないとするというのは、本当に国民にとって幸せな国家であろうか、というと、そうでもないように思われる。それが、トウの国家の皆さんにとってお幸せだというなら、そうなのだろう。ミーちゃんはーちゃんはそうは思わないが。

       と書いてきてふと思った。そもそも、全能者である神に絶対的忠誠すら果たせない我らが、他のものに絶対的な忠誠を果たせるという想定そのものが問題だとは思うが。

       余談に行き過ぎた。本論に戻す。

      何に価値を置くか問題
      何を愛するか問題

       問題は国家への忠誠というよりは、何に我々が価値を置くか、というところが問題なのだと思う。キリストが先なのか、日本という国家の栄光が優先なのかが問われたのだと思う。聖書は神を超えて、国家を優先することがよいのか?と言っているような気がする。特に旧約聖書は。次の箇所を思いめぐらしている。皆さんよくご存じの申命記6章である。

       6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
       6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(口語訳聖書申命記から)
      尽すのは、国家ではなく、私の神、主のような気がするが。「主」を「アメリカ合衆国」に変えたり、「日本国」に変えたら、モーセ爺さん大激怒してきそうな気がする。小山先生は、そのことをシナイ山と富士山いう言葉で表彰しておられるような気がする。

      神社参拝は国家的慣習?


       神社参拝令について小山先生は次のように書いておられる。

       神社参拝令の布告は、とりわけ日本の植民地だった朝鮮においてあの対立〔イエス・キリストの名と天皇の名の〕を先鋭化した。日本政府によって提案されたプロテスタント側の指導者層の一部によって受け入れられた解釈は、どちらかといえば単純だった。そもそも神道は宗教の範疇には入らない。国家的慣習であると。即ち天皇の御真影に敬意を払うことを宗教的行為とみなす必要はない。日本国民の国家的慣習の一部であるというのである。こうした解決法は天皇の御真影に頭を垂れながら教会においては神に礼拝をささげるという矛盾を理論上除外する。当時の日本キリスト教団統理、富田満は、はるばる朝鮮にまで足を延ばす全国旅行をして、政府は教会を迫害してはいない、日本人の通常の生活様式の一部であるもの、即ち神社で皇室に対して臣従の例をささげることをキリスト教徒に要請しているにすぎないと説得した。こうした主張は朝鮮では最も無力であった。かの地のキリスト教とは天皇崇拝とイエス・キリストを主として崇めることは両立不可能であると力説してやまなかったからである。この確信ゆえに朝鮮では殉教者の血が流れた。(pp.37-38)

       この部分の記述を見ながら、また、この連載の発端となった「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を見ながら思うことであるが、この人たちは、意図的かどうかは別として、呪文のように「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」「国家神道は宗教的行為ではない」と人々に言い聞かせながら、自分にも言い聞かせることで、自分たちもだまそうとしていたのではないか、と思うのだ。

       ここに朝鮮に富田さんという方が出かけて行った時の話が出ているが、朝鮮半島で「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」と言ったら総スカンを食ったという話が出てくる。

      韓国独立運動とキリスト教

       現在の韓国のキリスト教の隆盛の背景には、もちろん他の要因も多数あることは事実であるが、実は反日独立運動とキリスト教が、国家神道の神社参拝令への反対ということとダイレクトに結びついたからではないか、と思うのだ。朝鮮半島のキリスト者たちが気骨を以て、神社崇拝、宮城遥拝に断固たる態度を示したからこそ、それが反日独立運動ともつながっていったのであろうし、戦後その姿が評価されたようにも思えてならない。ただ、学生時分の大韓民国出身の友人によれば、韓国のキリスト教にも、儒教なのではないかと思われる節が多々あるようにもあるらしい。それは日本のキリスト教でも先祖崇拝のところが出てないだけで、年功序列型の長老(年長者)支配と年長者の思い付きで教会や教団が振り回される姿などは、基本的に同じではないかと思えてならない。

       次回開戦時期をめぐる記述から神と人の関係を考えるへそして、偏狭な神をどう考えるか、ということへと続く。

       
       

      2015.02.04 Wednesday

      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)

      0



        Pocket

          これまでの連載



        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

        では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」 の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神 (仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。そして、戦争がはじまったころ、日本のキリスト者が国家に対してした宣言とそこで抱えた不安、その背景にある神道理解について触れてきた。
         戦争のころ、現人神(あらひとがみ)と呼ばれた方が開戦に関してどのようであったのかということを示した部分から考えてみたい。

        黙って聞く神、その意図を推測し、
        自分に引き寄せ理解する民
         ところで、東條英樹の開戦直前の御前会議を締めくくることばとして、臣民は責任を自覚しており、陛下の開戦のご英慮に従い、戦争での勝利に邁進し、陛下の御心を平安にし奉るべく粉骨砕身する旨の所見を以て締めくくったことが記されている。

         そして、次のような小山先生による表現がある。

          記録によると、その日の会議中「天皇陛下は声明がなされるごとに同意のしるしにうなづかれ、不機嫌そうな表情は見せなかったという。陛下はご機嫌うるわし くあらせられ、我々は畏れ多い気持ちに満たされていた!」出席者は「畏れ戦き」、「恐れ多い気持ちで満たされていた!」神聖な天皇は人の言葉を話さず、黙 してうなずいた!神聖な方であるゆえに、天皇は歴史を超えている。(『富士山とシナイ山』p.39)

         こういう精神があったことを小山先生は伝えておられる。だからこそ、国民に向かって天皇がラジオで終戦の詔勅が流れたとき、あり得ないことが起きたことを国民は悟ったのである。神は人間の言葉をしゃべることはなく、静かに聞き取る存在として想定されていたのだと思われる。丁度、神社の神が、祈る我等の言葉にいちいち反応すると想定していないように。

        国家の責任者の責任回避と御聖断

         その段階での政府担当者たちの態度と責任に関して次のようなことを記載しておられる。かなり激しい言葉ではあるが引用する。

         この危機的瞬間において、国家の指導者たちはまともな人間として持つべき責任感を棄てた。この運命的決断を下すために集まったにもかかわらず、彼らの一人が「人間性を超えた方」であるがゆえにその決断に対して責任を感じたものは一人もいなかったのである。人間の水準を超え、歴史を超え、人間的道徳を超えた存在としての天皇が、決断を下したのだ。指導者たちは必要に応じて自己正当化のためにこの超歴史的人物を引き合いに出すことができた。彼らは「畏れ戦いた」が、同時に同胞国民に対して責任を取る義務から解放されたのである。天皇崇拝を強制されたが自らの福祉のために天皇を用いえぬ国民は苦難にさらされた。(pp.39-40)

         なんだかなぁ、であるが、結局当時の指導者の皆さんは、「おまわりさん、決断したのはこの人です」と天皇のご聖断を持ち出し、自らは責任逃れをし、天皇のご聖断に面倒なことを全部おっかぶせ、そのうえで、適当に自分の思いをビシバシとはめていったということなのではないだろうか。しかし、そういうことのできない人々は割を食ったということなのだろう。とは言いながら、民の中にもうまい汁を吸った人はいたような気がして、そのあたり、指導者と民、みたいな単純な理解はまずいかなぁ、と思う。

        教会における「おこころ」と御聖断

         しかし、私たちも同じことを教会の中でしているかもしれない。天皇を聖書あるいは聖書の神に置き換え、指導者たちを自分(信徒)たちに置き換えれば同じことではないか。聖書の言葉に責任をおっかぶせ、「聖書がこう語っている」と聖書を担ぎ出し、さも信仰深い顔をしながら、自分の利益を誘導するように「神様からのお導きがありました」といい、本来神の前にとるべき責任を放棄し、神を引き合いに出して、自己の責任を回避していないだろうか。正直に言う。ミーちゃんはーちゃんはこれをやったことがある。反省することしかできないが。

         〔見解や視野の狭さを意味する〕parochialism の語源は、人間の現実感が自分の教区の範囲内に限定されていることを意味する地理的な概念であるが、その重大な意味があらわになるのは、その精神的及び知的含意を念頭において理解されるときである。(中略)全ての国家は独善的である。こうした根本的な意味において、すべての国は偏狭な世界観を持っている。(p.43)
         しかし、「parochialismの語が、(中略)精神的及び知的含意を念頭に理解されるところである」というところを見て、これ、今日の日本のキリスト教界を見るように思った。これを現代の日本のキリスト教界に合わせると、キリスト者の現実感が、自分の教会ないし自分の教会を含むキリスト教軍の範囲内に限定されていることを示す概念である。つまり、教会が独善に陥ることの原因が、実は、無知、相対化ができないこと、他者を知らず、他者を尊敬できないところにあるのではないか、と思う。そして、教会は独善的になっているのかもしれない。そうでないところや、そうでない方を存じ上げているが、それがどれほどあるかに関しては、少し疑問。そのいみで、すべてのキリスト教とキリスト者は、偏狭な世界観を持っているのかもしれない。このあたりの反省は非常に重要ではないか、と思う。

        世界の中心でおこころを叫ぶ
        そして他者を断罪する
         最期が、この第2章のタイトル「偏狭な土俗神ー魅力的だが破壊的な神」のイメージと深くかかわる言葉で締めくくられている。

         私は神について二つのイメージを持っている。一つは地方限定の偏狭な神、もう一つは普遍的な公正な神である。どうやら両者には緊張関係があるらしい。この緊張関係はヒロシマ以来私にとって生命をかけた精神的戦いとなり続けた。地方限定の偏狭な神に対する崇拝は、〔日本の場合〕天皇への強制的献身の形式をとった。多神教的日本が一神教的国家となったのである。国民は徐々に自分たちも神聖な民だと感じるようになった。国家神という制度の下では、おのずから日本は世界の中心に位置するようになる。日本のすることはなんであれ「正しき天の御旨」の表現と考えられるようになり、したがってこれを疑う者はだれであれ国賊となった。
         (中略)

        日本の神は日本語しか話せない。国際的経験がないので、当然、視野が狭くなる。指導者たちが日本精神と「正しき天の御旨」とを同一視したとき、この偏狭な自国中心主義が世界誌の地平に姿を現した。ここでは本質的に有限なるものが無限の意義を与えられたのではないだろうか。(p.44)

         一部の方は、地方限定の偏狭な神、とか、「視野が狭い」とか、大激怒を誘発しかねない表現が見られるが、文句があるなら、故小山先生におねがいしたい。ミーちゃんはーちゃんがこれを取り上げているのは、実は、この構造が、現在の日本のキリスト教界に時に見られるように思うからである。というのは、自分自身の御旨(お心)を、神の御心とし、自分は本来全くせいではない罪あるもの、かけあるもの、不完全なものでありながら、「自分たちも神聖な民」であると思い込んでいないだろうか。また、われわれが「本質的に有限なるもの」であることを忘れ、「無限の意義」があると思い込んでいないだろうか。

         そして、自分と自分たちの教会をキリスト教界の中心に位置させてはいないだろうか。挙句の果てに、自分たちや自分の教会がすることはなんであれ、「正しき神の御こころ」の表現と考えこれを疑う者はだれであれ悪魔の手先としていないだろうか。仮に自分の考えを疑うものが牧師や教会のメンバーであっても、牧師やメンバーが不信仰であると責め、悪魔の手先呼ばわり、けがれている呼ばわりしていないだろうか。神の愛の家で。実に残念なことである。

         何、これは、日本だけの特性でないことは、イエスの言葉に明らかである。まぁ、日本ではまだ顕彰碑が立っている人はいないかもしれないが。

        ルカ

         11:47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
         11:48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
         11:49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
         11:50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
         11:51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。

        【口語訳による】

         次々回に第3章にはいるよ予定。しかし、当面終わりそうにないですね。なんか、大連載になりそうな予想。この本は、ジョン・H・ヨーダーの神学を読んで以来の知的興奮状態なんですなぁ。まぁ、それもきっついので、次回は軽めの話題を適当に休み入れようか、と思っています。



        2015.02.07 Saturday

        『植民地化・デモクラシー・再臨運動』を読んだ

        0
           

          Pocket

           さて、ここのところ、戦争中のキリスト教を巡る記事があちこちのブログで掲載されているが、このブログでも『富士山とシナイ山』を取り上げで、記事としてきた。

          昭和のキリスト教への道のりを示す本

           2月11日も近いことなので、戦争に至る道のりで、比較的キリスト教が好意的に受け入れられる素地があった時代(明治末から大正時代)のキリスト教の中に、すでに、1920年から1945年のキリスト教に至る萌芽があったことが、『植民地化・デモクラシー・再臨運動』からかなり明らかになる。その面で、本日は、この本を推薦したい。

           また、本の紹介か、というなかれ。

          朝鮮半島の植民地化と
          日本のキリスト教

           第1章は、植民地化とキリスト教ということで、朝鮮半島における植民地運動とシンクロ化して言ったキリスト教の背景史を、徐正敏氏が主に朝鮮半島側の視点から明らかにしている。

           まず、日韓併合に関するキリスト者の態度は、多数の支持と少数の疑念があったことを挙げ、多数の支持があった根拠として福音新報から「大日本の朝鮮」を引用しておられる。大変興味深いので、ここでも引用されているものの一部をご紹介したい。

          韓国はついに帝国の版図に併合されたり。(中略)我が国の朝鮮における関係は、その由つてくるところ深く且つ久し。実に神がこの国民の「祖先等に与へん」と誓われしものなりと感ぜずんばあらず。(中略)日本は彼の半島を開発し、其の人民を誘掖し、東洋の進歩に貢献し、広く人道を世界に興起せしむべき天職を帯び、その大任を負担するにもっともよく適当せる、即ちすでに神より「先祖等に」朝鮮国を「与へられ」たるものなるが故に、之を併有するの権利有るなり。 福音新報 792号(1910年9月1日) (『植民地化・デモクラシー・再臨運動』 p.47)
          という調子である。自意識過剰気味のような気がする。ミーちゃんはーちゃんは重篤な厨2病患者なので、これくらいのことは言いそうであるが、しかし、昔の人は尊敬できる方がたなので、我々が謹んでお話を拝聴しなければいけないのだとすれば、こういうことも拝聴しなければならないのだらうか・・・・

           「神様から、朝鮮は日本のものといわれているようだ」ほぉ?
           「神様が日本に朝鮮を与えている」?え、まじっすか?

           これを1910年代に正気でキリスト者が書いていたという現実に、実はちょっとびっくりしている。しかし、一部日本国内のキリスト者で反対論を唱えた論者のことを、徐論文では丁寧に拾っておられる。しかし、こういう理解が日本人に潜在的に埋まっている、「脱亜入欧」を言い、「和魂洋才」を言った明治には、こういうことにつながるのだなぁ、という側面もあることを改めて思った。日本を●するキリスト者の会の皆さんは、斯くの如き福音新報の記事について、どう思われるのか、ぜひお聞きしたい。

          韓国独立運動と日本のキリスト教

           3.1運動と呼ばれる韓国独立運動に関しても、当時宣教師として朝鮮半島にいた渡瀬常吉さんがこんなことを書いている。

           若し神にキリストの生命が活躍して居れば、今度の如き騒擾(3.1運動)に関与する筈がないのである、此の点に於いて朝鮮の耶蘇教がいかに不徹底にして、基督の真精神に遠いかがわかる。「朝鮮騒擾事件の真相とその善後策」『新人』1919年4月 (同署 p.53)

           まぁ、ものすごいいいようである。朝鮮半島のキリスト教が本物でなく、日本のキリスト教が本物であるか、のような物言いである。個人的には、そんなことは言えないような気がするのだが。現に、日本の信徒の『神学』で隅谷三喜男さんが、日本の信徒の状況を批判的に論じておられる。

          戦争中の神社崇拝の前景

           ところで、1938年に開催された神道、佛教、キリスト教の三教代表者協議会に呼ばれたことで、日本のキリスト教は、これで国家に認められた、と得意満面になり、ものすごいことを言い出す。そして政府への全面協力に向かっていく。神道、佛教、キリスト教の三教代表者協議会のあたりの記述は、『日本の神学』に詳しい。

           なお、ものすごいこととは、以下に紹介するようなことを言い出しているのだ。

           「神社は宗教にあらず」

           過る3月31日、神、仏、耶の三共代表者協議会の席上、「政府としては神社は宗教に非ざるものとして居る」と稲田宗教課長は確言せられた(連邦時報・169号)。この政府の方針と、吾等日本キリスト者の信仰的態度とは同じである。「然し」と反駁する基督者があるかもしれない。(中略)実に神社崇敬は、預言者の墓を白く塗って建立し、あるいは義人の碑を飾って崇敬したイスラエル人の精神に相通じるものである。而してこれは「父母を敬へ」との御言によって主がわれら日本基督者に命じ給ひし美風として、永久に保存すべきものであると、筆者は確信する。この日本国国民の美風に対する正しい認識と斯る聖書解釈とを、在鮮長老派宣教師諸氏が持っていたならば、朝鮮の宗教教育機関の廃止の如き不幸事は起こりえなかったであらうに 
           山口徳夫「神社崇敬の聖書的解釈」『日本メソジスト時報』第2402号 1938年7月1日
           (同書 p.64)

          とずいぶんない言い様であるようにおもう。メソジスト系統には、お知り合いの信徒の方々が多いので、こういう批判の根拠となりやすい過去の文書をご紹介するのは、実に心苦しいのだが、神社が、預言者の墓を白く塗る行為と同じだとか、「父母を敬え」が「年功序列」というのか、儒教の「長幼の序」と聖書が同じもののようにして語られており、まぁ、開いた口が・・・状態である。

           これをお書きになった方は、マタイの福音書の前後関係をよく読まれてのことなんでしょうねぇ、と聞きたくなってしまう。

          【口語訳聖書】
          マタイ
           23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである
           23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
           23:29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
           23:30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
           23:31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
           23:32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
          なんか預言者の墓を白く塗るのが、神社崇敬と同じなのであれば、「あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。」(マタイ 23:32)が熨斗をつけて帰ってきそうな気がするが。これを我等はどう考えたらよいのであらうか。

          基督教教育機関としての
          当時の同志社について

           ところで、そして、明治期という制約の中で生まれ、国家から公認を受けようと紆余曲折を経た同志社大学について、その存続に関する制約の結果、同論文では、

           時として消極的に、あるいは積極的に帝国主義に加担しながら、戦前の日本のキリスト教徒教育の中枢の一翼を担ったというのが、当時の同志社の姿でありました。
          と書かれてあった。かなり、きつい物言いをしておられる。

           同志社大学そのものを揶揄するつもりはミーちゃんはーちゃんにはない。また、そこで学んでおられる方や教えておられる方を揶揄するつもりもない。今では、当時の雰囲気と現在の同志社はだいぶん違うと思う。それが証拠に、ミーちゃんはーちゃんが尊敬してやまない先生方も同志社にはおられる。

           個人的に反省を求めたいのは、同志社とは縁もゆかりもなく、同志社をめぐるこのようなことをご存じない方で、一昨年、大河ドラマ『八重の桜』で浮かれた方もおられたように記憶している。このあたりのことを考えると、浮かれている場合であったのかどうか、こころに手を当ててじっと哲学的反省をいたしていただきたい方々もおられるような気がする。

          日本の宗教政策と植民地化

           第2章 「日本の宗教政策と植民地化の特殊性」の中で、原誠氏は明治期以降の日本について、次のように記載しておられる。

           近代日本は国内における近代化を装いながら「国家神道」を背景に「神聖国家・日本」が形成されていったということです。そして、この政策を海外の植民地政策にまで適用しようとしたという、私の見解によれば、恐らくは他に類を見ない特殊日本の植民地政策があったという面を指摘したいと思います。(同書 p.80)


           まぁ、ラテンアメリカでも、神聖国家スペインだの神政国家ポルトガルだのをやっているが、そこでは、近代化は装っていなかったように思う。おかげで、ラテンアメリカはいまだに経済的及び産業の進展の状態としては…状態にあるように思う。これらのことを実地で体験したければ、サンディエゴの南のティファナというメキシコのアメリカ国境の町からアメリカ側の町に行くと、そのことがよくわかるかもしれない。

          明治神道国教化と和魂洋才

           和魂洋才は、明治期に広く唱えられた概念であるし、未だにそのことは時に触れ、日常生活のあちこちの断面で、出てくる。

           この間、参加した国際カンファレンスで、インド人の政治学者の明治期日本の特殊性を扱った論文で、この「和魂洋才」と帝国主義の問題が出てきたのには、びっくりした。そして、彼の論文を読みながら、案外この問題は根が深いことを改めて思った。その部分に関して、原氏は次のように触れておられる。

           つまりわたしが強調したいことは、国内的には明治政府は基本政策として中央集権的な統一国家の確立を目指し、その際に徐正敏氏も指摘するように、「和魂洋才」に基づいて神社非宗教論による「天皇制イデオロギー」を民族主義、愛国主義に裏打ちされた民族共同体として確立しようとしたということです。こうして展開された神道国教化政策を以てなされた日本の「近代化」は、後発の帝国主義、植民地主義の政策を推進して「脱亜入欧」を目指したものでした。(p.81)
           日本では、近代化と愛国主義、民族主義、神道国教化が一体となって進められていたようである。これが極められた鹿児島県では、お寺が激減しているという結果になっていることを、日経ビジネスでは「宗教崩壊」という特集の中で、「寺と僧侶が完全消滅した」という記事で取り上げている。なお、この記事は、お知り合いの仏教僧の方に教えてもらった。

          大正デモクラシーとキリスト者

           この本の特徴は、「第2部 デモクラシー」でキリスト者と大正デモクラシーとの関係をとらえているという点だと思う。この視点は案外重要かもしれない。大正デモクラシーとキリスト者のかかわりを考える中において、本書の中では、その代表的人物として、吉野作造とその関係者を取り上げている。特に、吉馴明子氏による第1章 「吉野作造とキリスト教」では吉野作造とその時代が中心的に取り上げられています。

           吉野作造を考えるための前景として、海老名弾正氏の「日本魂の新意義を想ふ」の一部が引用され、次のように吉馴氏は続ける。

           「大日本魂は不可思議なる国家魂なり」。明治の功労者たちは、一見時代のリーダーであるかのようであったが、その実彼らは、大日本魂に導かれ、啓発されていた。「日本魂は由来国家魂なりき、今や大進して世界魂ならんとす」。このような論調でした。
           すでに前年木下尚江は海老名の戦争観を批判していました(「思想界の一瞥」『毎日新聞』1904年4月1-4日、6日)。(中略)
           海老名の国家論い原理的な反対を唱えた木下とは違って、吉野作造は海老名の『国家の神子』を継承しようとしていました。(中略)彼は、ロゴスに淵源するという「国家論」の再定義をしました。(同書 p.96)

           個人的には、吉野作造という人物は、その名を関した政治学の賞があるのは、在学中にその賞を受賞した大学教員の方の授業を受けたことがあるので、大層えらい人物なんだろう、くらいにしか認識がなかった。政治学者としての吉野作造と、日本における聖書に基づく「神の国」と神国日本と疑わない人々が多数派という環境で「国家論」に取り組んだという側面は、非常に重要だと思う。その吉野の国家論の詳細については、ぜひ本をお買い上げいただき、詳細な論述をご覧いただければ、実に幸甚ではないか、と。まぁ、この時期、いろんな人がいろんなメディアで、キリスト者として活発に論議していた、ということは、記憶しておいた方がよいかもしれないなぁ、と個人的には思うた。

          大衆運動としての再臨運動

           大正期見られた中田重治・内村鑑三・木村清松三氏による再臨運動が第3部であるが、ここにも非常に面白い視点がある。例えば、原島正論文「内村鑑三と再臨運動」から見てみよう。

           キリスト教理解が明治期には倫理に重点が置かれたのに対して、大正期には教義に重点が置かれ、教義と倫理がかい離する中でその二つを一つとする視点を見出すことができます。つまり、大正期キリスト教は、一方では「社会化」「倫理化」が見られ、他方では教会の「固定化」「自己目的化」がみられました。再臨運動はそうした状況で、巨魁を含めた世直し運動として位置づけることができます。(p.154)
           特にこの中で、「明治期には倫理に重点が置かれたのに対して、大正期には教義に重点が置かれ」と指摘されていることは重要だと思う。現在でも内村や新渡戸(新渡戸は今では影がなぜか薄い)が読まれ続け、現在のキリスト教が倫理として一般に受け取られているのは、明治期のキリスト教の伝統の影響が色濃く残っているからではないか、と思う。

           もちろん、キリスト教は「倫理」とも深くかかわるが、「倫理」をはるかに超えたものを持っていると思う。「クリスチャンらしくない」ということで、聖書の誤解の故に、苦しめられているキリスト者が現在も多い背景には、この明治期の倫理に重点が置かれたことの影響があるのではないだろうか。もちろん、この倫理に重点が置かれたことで、廃娼運動や性道徳の問題にも一部貢献しているところはあるものの、現在もなお、この倫理的なキリスト教の影響は少なからず、日本ではあるように思われる。

           もちろん、ジョナサン・エドワーズの時代にも、同じようなキリスト者らしさ問題という課題はあったのではあるけど。

          大正期に3000部も出た
          キリスト教雑誌の存在

           また、このシンポジウム全体の質疑応答の中で、原島氏は次のような非常に興味深い回答をしている。

           キリスト再臨運動は、大正デモクラシーの一面もあったという説があります。(赤江達也 『「紙上の教会」と日本近代』p.134)。当時、知的大衆がいろいろな集会に参加しました。吉野作造の講演もありました。内村の再臨運動反対の講演会も開催されました。赤江氏によれば、「キリスト再臨運動は、都会的な文化消費としての側面」を持っていました。知的大衆の出現ということです。
           赤江氏によるメディア氏からの指摘は大事です。1919年雑誌『改造』が刊行されました。『聖書之研究』は3000部も出版されました。大正時代はメディアの役割が大事です。
          (p.201)

           これを見て、驚いてしまった。な、ぬわんですって…。内村先生の「聖書之研究」3000部。うわ〜〜〜。ひょっとして、これに近い発行部数を持つ、キリスト教雑誌となると…現在どれだけあるんかいなぁ、と不安になってきた。

           いやぁ、ちょっとした同人誌並に売れているってことじゃないですか。今のキリスト教書の初版印刷部数が、モノにもよるでしょうが、初版3000なんて、夢のまた夢みたいな気がすることと比べて、すごいなぁ。

           内村たちは当時の最新メディアとしての郵便で配達される雑誌というメディアに果敢に取り組んだのではないかと思うと、現在のキリスト教メディアのネットへの取り組みはあまりに押っ取り刀のやうに見えて、残念でならない。

          都会的な文化消費としての
          内村の再臨運動

           しかし、「赤江氏によれば、「キリスト再臨運動は、都会的な文化消費としての側面」を持って」って、これ、今でもかもしれない。現在でも、「キリスト教は、都会的な文化消費としての側面」を持って」いないだろうか。だからこそ、文化消費としてのキリスト教の接触が終わると3年くらいで食傷して、「もう飽きちゃった」とご卒業、ってなってしまうのではないだろうか。そんな、3年で食傷するとか、飽きちゃうようなものではないと思うのだが、それをあきさせているキリスト教界って、なんだかなぁ、ではあるような気がする。

           なお、この論文であまり触れられていない当時の時代背景、内村の家族(娘ルツ子)との別離などに関しては、黒川知文の『内村鑑三と再臨運動』やNHKこころの時代の鈴木範久先生のテキスト「NHKこころの時代〜宗教・人生〜 道をひらく 内村鑑三のことば」があるので、そちらをご参考に。

           なお、本書の締めくくりとして、明治学院の歴史が大西晴樹氏によって簡単にまとめられていた。なるほど、明治期の横浜バンドを中心とする動きに関しては、斯様な経緯をたどったのか、と改めて思った次第。
           
           と、日本と日本のキリスト者が1945年に至る道と日本のキリスト教とのかかわりを考えたい向きには、非常に参考になる一冊ではないか、と。 お勧めします。ま、2月11日も近いので、戦争だけが原因でないことを含めご紹介いたします。




          評価:
          価格: ¥2,700
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:よい。1930年から1945年の日本のキリスト教が形成されていく経緯がかなり詳細にわかる。

          評価:
          隅谷 三喜男
          日本キリスト教団出版局
          ¥ 2,592
          (2004-06)
          コメント:日本のキリスト教の一般的構造が批判的に論じられている。福音派、メインライン関係なく、この種のことはあるかもしれない。

          評価:
          価格: ¥2,376
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:非常にまとまっていてよい。内村の再臨理解はこの本がまず基本文献と言えよう。

          2015.02.07 Saturday

          やりにくい人とビジョンを共有し組織運営に参画させる方法のセミナーに行ってきた

          0


            Pocket

             今日は、神戸市内にある神学校で「やりにくい人とビジョンを共有し組織運営に参画させる方法」のセミナーに行ってきたので、緊急公開。残念ながらいけなかった方もおられたようなので、ご紹介いたす。これが、功徳というのか御利益でした。O様。


            講師の紹介
             ベンジャミン・プイィーさんのご紹介がまずありました。
             クリスチャンコンサルティング会社の社長。
             OMFの元宣教師(6年半)
             中国の村おこし的な宣教活動をしてきたが、OMFとして、金儲けはドヤさ?ってなったので、OMFから独立。シンガポールで起業。10人くらいのコンサル会社をしておられて、会社としての拠点は、香港とシンガポール 

             日本の教会には、神学を教えるけど、教会内の人間ダイナミズムを教えない。そのことに関する危機感はある。それでお招きしている。

             プイィーさんは、時間と収入の1/3を教会のためにささげている。(まぁ、コンサルは料金高いし。片手間に技術コンサルやっている範囲では、ただ働きやしね。県民のため、ということやから)

            組織ダイナミクスの基礎中の基礎とその対処法

             一言で言うと、教会内人間関係ダイナミクスとそこで生まれる対立と、その対応法の話であった。もうちょっと言うと教会内にいる、やりにくい人々に、壁になる人々とどのように向き合うのか、という話であった。 

            以下、当日のメモから。

            教会におけるリーダーシップと
            こまった方への対処法

             マネジメント、リーダシップについて、聖書に書いてあるだろうか?年長者が文句言うことに若輩の牧師が対応するために適切な聖句があるだろうか。こういう組織を考えるのは、フルーツケーキのようなものである。フルーツケーキの中には果物もあり、特定しやすい。その意味で聖書の中で、ヨセフの様に分かりやすいものもあるし、卵みたいなケーキの中に紛れ込んだものもある。ある聖句のように分かりやすいものもあるが、分かりにくいものもある。実は、紛れ込んだものも大事なのだ。それを見ていく。

             意見が通らないことは多数ある。そのために、キリスト教信仰の実(ガラテヤ5章など)を、霊的なものをもって、謙遜や愛をもって臨んでいく。これは聖書の中にある。

            他人の関与の勝ち取り方 実際編

             これから、周りの人を巻き込んでいくこと、教会、職場、家庭などでその中の人とその周辺の人物を巻き込んでいくことを考えたい。

             ある人に自分の考えを話した時にNoと言われる。そのとき、失望を経験する。他の人から新しい考えにNoといわれたときに、ショックを受けることは多いのではないか。

             個人を取り巻くいくつかの同心円状として、社会における個人を考える。

             どの個人であっても、個人は特定のイメージを持っている。個人のセルフイメージがある。指導者だとか、評価を受けるべきだ、というようなイメージを持っているだろう。そのような個人のセルフイメージがあるだろう。


             コアなセルフイメージ以外に、家族やその人が属している社会や組織の関係性の中での立場などといった、周辺の他者から理解されたいセルフイメージが、個人自身のコアにあるセルフイメージのすぐ外側にあるだろう。例えば、会議の場なので、他の人の手前、他の人にメッセージを伝えたくて発言している場合がある。つまり、個人のイメージではあるのだが、コミュニティの中でのコミュニティにおけるイメージも存在する。

             居る人々だけではなくて、いない人々(将来現れるであろう人)を含めてのイメージも存在する。(以下の図の一番外側)


            図1 人格とイメージとコミュニティ


            実例を通して 
            日本における新規事業の壁

             神戸ルーテル神学校の新しく着任した校長として、M校長にあったとき、いろんな新しいことをやろうと一緒に議論したが、最初は拒否された。その理由としては次のようなものであっただろう。

            1.   日本では、文化として、新しいことができない。継承の方が重要であるからだ。
            2.   特に、前任者もやろうとしたが、失敗したのがあると、前任者を悪く見せないためにも、新しいことをしないことが重要である。
            3.  新しいアイディアは外から来ないといけない。自分以外の人が言っていることが重要な場合がある。日本の文化とも関係あるけど。

             まず、その人の人間的な関係論におけるコンテキストや置かれている立場の認識が重要である。もし反対にあったとしても、個人への(人格的)否定と取らないようにした方がいい。相手からNo!と言われていることを個人が言われていると思わないことが肝要である。

            やりにくい人との共生方法

             どうやってサポートを年長者ややりにくい人から引き出すのか、の方法についてより深く考えてみよう。

             意見が違うと、対立が起きる。それどう思うか。

             Circle of Interestということを考える。円グラフのようなものである。

             Battle of the Sexesの状態を考えよう。夫婦で違う二つのオプションのどちらを取るのかをめぐって考える状態を考える。Battle of Sexに関しては、この記事参照(最もシンプルなゲームの見出し以下の内容)。

             以下の話はBattle of the Sexes の解法を説明しただけであるので、ご存知の方は飛ばしてもよいと思う。

            Battle of the Sexes Revisited

             このCircle of Interest(関心領域)の中には、Common (共通理解 青色)と Conflict(対立する概念 赤色)があるとする。例えば一緒にテレビを見るのに、オペラを見るか、シュワルツェネガーの映画を見るか、のどちらかを選ばないといけない時に、対立している環境を考えようマリッジカウンセラーだとしたら、どういうアドバイスするか?


            Battle of the Sexes こんな感じ?




            図2 Circle of Interest (Start)

             別な例では教会のクリスマスイベントの例で考える。 牧師は、クリスマスコンサートを押し、年若の伝道師は資源や人材がないことから、家でやる簡易なクリスマスパーティーのようなものを考えている中で、意見の対立があるとしよう。

             このようなコンフリクト状態の場合、声の大きい方、影響力のある方、権威者の方が勝つことがままあり、意見が通らなかった方は、ひどく悲しむこともある。


             意見が対立しているかに見えるときには、共通の目的部分に目を向けるということが重要ではないか。そもそも、Battle of the Sexesの場合、共通に時間を過ごすことが目的なので、それが出来る方法(Coexistence 緑色)を考えればよい。異なる意見が違うことがあっても、同じ時間と場所で存立できることもあるのではないか。異なる意見や、矛盾する意見があってもその対立だけに目を向けないことが肝要だろう。

            図3 Circle of Interest Modified(Coexistence Introduced)

             まず、コンフリクトがあるとき、それぞれが、なぜ、そういうことをしたいのか、という理由、背景を明確化し、コモングラウンド(共通利益)を見出すことが重要であり、より小さなコンフリクトが対立している状況に持ち込むことが有益である。図3の赤の部分を出来るだけ小さくするように提案を変更するのがよいだろう。

            NoからYesまでの5つのポジション

             ある問題に対してのNoからYesに5つのポジションがあるだろう。

            Yes 
            1.Champion   完全に同意
            2.Support    ちょっとサポート
            3.Neutral    サポートも反対もしない
            4.Not Support  サポートしないけど止めない
            5.Blocker    完全に不同意

            No

             自分自身が相手に対する恐れなどで、自粛している場合がある。アジア圏では、こういうこともあるだろう。傷つくことを恐れ、自分でやめてしまう場合もあるだろう。この場合、他の人のせいにしていることがあるのではないだろうか。

             サポートしない人との間での信頼がないと、うまくいかないことが多い。賛成してなくても、信頼があれば、それでいいということから始めるべきだろう。

             3.の中立のような場合、サポートしなくても、無理やり積極的に味方になってくれる方に巻き込んでいく必要は必ずしもない。

             何かしたい時に「やっていいですか?」と質問して、ややこしい状況をわざわざ作る(所謂『地雷を踏む』)必要はないのではないか。反対はしていないのであれば、了解を取りやすい形で連携しながら、実態を報告しながら進むのでよいのではないだろうか。
            サポートしてくれる人に対しては、ちょっとだけサポートを求める。使っていいか、やっていいか、という形で聞く。ちょっとした承認を得るだけで十分なことは多い。完全に支援を求める必要はないだろう。

            支援を得るための方法論
             最期に秘策をお教えしようということで、こんなお話しがあった

            Get Support Conversation template 支援を得る方法論
            1.    This is my proposal…    私の提案はこんなのですが
            2.    What are your concerns?  反対しておられる貴方がお考えはどんなこと
            3.    Here are my concerns?   私の思いは、こういうことなんですが
            4.    Here are our common interests(Common/Conflict/Different)
                 共通理解はこの辺じゃないですか?共通理解と対立と異なる意見の共存
            5.    Can you support revised proposal?
                 ご意見に合わせて変えてみたんですが、これではどうでしょう?

             衝突が組織内があるときには、異なる関心があるということであるが、そこでの共通利益を見つけていくことが肝要であろう。

            双方向的な問題解決のアート

             問題の解決法は、一方通行Oneway型ではなく、相互的なものである。自己正当化せずに問題の構造を明らかにすることに心を費やすべきだろう。

             ただ、人へのアプローチは文化的側面もあるので、それぞれの社会文化的に受け入れられる方法で、課題を共有することが重要である。例えば、媒介者を介するとかの方法も考慮すべきだろう。
             ステップ2(反対する人の関心事項の明確化)とステップ3(自分自身の真意を伝える)が結構大事になって行く。
             ターニングポイントは、共通利益を見出すことであり、問題構造を明確化すること、すなわち、もっとも大事なのは、問題を見直し、他の人の関心を含むように問題を作り直すことであろう。その上でオープンマインドな状態で、他の人の関心を受け止め、柔軟に物事を見直すことではないだろうか。

             それでも、先に進めないようであれば、ステップ2に戻り、相手の真意を探り、問題を再定義化していくという再帰的プロセス(recursive process)を行うことができるのではないか。

            いきなりはおやめになったほうが

             人を巻き込んでいくと言っても、いきなり、5.ブロッカーからチャンピオンにする必要はないだろう。段階的に動かしていくのでよしとすべきであろう。絶対反対から反対から、やや反対に、やや反対から中立、中立から支持する・・・へと変化させていく。

            コンフリクトフリーな組織なんかはありえない

             コンフリクトは残っていることが多い。コンフリクト(対立)が、なくなることはないことは覚えておくべきだろう。コンフリクトを内在しつつも、相互が合意可能な新しい解決策を作る。コンフリクトをゼロにすることはあり得ない。その面で、信頼関係を強めることが重要である。われわれは、0か1下で考えがちであるが、実際の社会というのは、グレーなものであり、その観点化で言うと、ゼロコンフリクトにするのはありえない。

             支援を得る方法論は、「あるある」で終わらせるのではなく、実際につかわないと、アカンやろう。その意味で、使うというシーンにこれから取り組んでほしい。なお、この支援を得る方法について、順番は大事である。


            というのがご講演の概要。

            感想

             これを開催した学校の校長先生が、いままでの神学校では、こういうことはおしえてこなかった。これからはこういうことが大事だ、ってお話しされていたが、カトリック教会さまでは、斯様な言う組織運営を2000年近く世界記録のスケールでやってらっしゃるし、まぁ、曲者も過去にはいっぱいいたので、さすがに、こういう処理の仕方をもっておられるが、宗教改革から500年、日本に入ってきて150年クラスでは、こういうことをはじめてやるってのがねえ。

            問題の本質は、
            たいてい本人たちが主張していること、
            ではない

             ITコンサルやっていると、社内の部署対立の問題が、ITの導入問題に形を変えて依頼が舞い込んでくることが多い。そこで、ホイホイ言って、ITを導入したところで、そのプロジェクトはうまくいかないことが多い。だって、問題の本質は違うところにあるから。それよりも、ビジネスプロセスを整理して、組織間の共通部分に着目し、ビジネスプロセスを変えてやることで、コストゼロで解決することもある(コンサルフィーは、もらいたかったけどもらってない)。

             その意味で、問題の焦点と、共通価値が何か、その利益の部門間配分の状態を少し変えてやることで問題の大半は改善することが多い。これは、コンサルタントが日々経験することである。

            心理的”慣性”の法則

             そして、人間には、内的な心理的慣性(Mental or Psychological Inertia いまのままが一番いい、新しいことで失敗するのはいや)の法則があるので、変化の時には、一足飛びにではなく、徐々に、連続的に、本人たちが変えられたと意識しない形で、やるのが一番いい。

             一番いいのは、反対していた人たち、賛成しなかった人たちが、「この方法は、私が考えた、あるいは私が最初に考えたのだ」といい出したら、もうしめたもんである。そのプロジェクトは成功といえよう。

            人間の社会を扱うArt(アルテ)の軽視

             工藤信夫先生ではないが、日本のキリスト教は、人間を扱う分野でありながら、臨床ではないんだなぁ、と感じた。そして、教会でおきる問題に対して、その問題を聖書の問題に置き換え、本来説くべき人間関係論や組織関係論であることに神学的思惟や、聖書の表現を膏薬(バンドエイド)の様に貼ってとりあえずごまかしてきたのが日本の教会ではないか、という感想をもった。まぁ、本部から何年かしたら転任を命じられる集団だと、新任地に言ったらあとは野となれ山となれ式の公務員型のやり方でも問題が表面化しないから、根本的な解決策が図られにくいのかもしれない。ただ泣くのは後任牧師と信徒である。この辺、意識改革しないとまずいかもしれない。



             



            評価:
            価格: ¥2,160
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:システム理論の観点からの人間社会の問題解決法の入門書

            評価:
            価格: ¥3,132
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:コンサルテーションとは、どういうことか。問題を見出すことと、整理するということはどういうことか、を考えるために有効

            2015.02.09 Monday

            説教天国、信徒天国

            0


               ボクシ先生の悲哀を不謹慎系の替え歌にしてみました。

               聞いてください。ユーミンの「スキー天国、サーフ天国」の替え歌で、「説教天国、信徒天国」です。

               お若い方で、原曲をご存じない方は、すいません、ググってっください。一応、まぁぎりぎりわかる範囲での音源はこちら。イメージ崩れるとか言わないの。


              サーフ天国・スキー天国 (コピーバンド版)

              説教天国・信徒天国

              --------------------

              教会のエントランスで しゃべるあなたにくぎづけ
              派手な手振りでころんで ほこりが舞い立つ

              スタイルなんてどうでも あなたらしけりゃ最高
              カトの司祭も司教も 出る幕がないよ

              (教団)○長は理事や役員つれて 説教偵察(きき)に来る
              夕映え 会堂を染めれば
              しばらく地球は止まってる

              スウィングしているクワイヤ High な気分にさせるよ
              つれてゆこうかこれから 説教天国へ

              (間奏)

              シャワー・ルームで着がえて くり出せ熱い本探し
              調べに来たのと本棚で 昼寝し(ね)てるだけじゃだめ

              悩みごとはとりあえず 帰ってからの宿題
              煮詰まるイントロこのさい 明日に置き去り

              役員は 婦人 子供をつれて 苦情を言いに来る
              ステンドグラス 透かして見る空
              しばらく地球は止まってる

              光る講壇に抱かれて High な気分になろうよ
              つれてゆこうかこれから 説教天国へ
              つれてゆこうかこれから 信徒天国へ

              --------------------
               うーん、Highな気分になって説教を神の前に心から楽しんでおられる牧師先生方がどの程度いるかは知らない。

              準備でお苦しみの牧師さん

               多くの牧師の先生方は、頭を悩ませ、それでも必死になって、説教や、講解説教のご準備をされておられるように思う。ミーちゃんはーちゃんのような頭の悪い信徒でも、ちょっとでも神の豊かさを味わう(理解する)ことができるように、心して説教準備をしておられる先生には本当に頭が下がる。

               神の国の不完全な形での地上における実現が教会とするならば、そこは、説教天国や信徒天国なのかもしらん、と不敬虔もののミーちゃんはーちゃんは考えてしもうた。

              スキー天国っておかしくないか?

               ところで、原曲は、「スキー天国、サーフ天国」であるが、これもおかしな表現だ。そもそも、英語圏においても、天国の意味がおかしくなっていると、NTライト先生はSurprised by Hopeでおっしゃっておられるし、日本語における天国の意味がキリスト者の中でも、誤用されているケースが多いように、ミーちゃんはーちゃんには思えてならないのだけれども、それは多分、ミーちゃんはーちゃんの気のせい。

               この辺、山崎ランサムさまの記事 終わりと始まり もご覧いただければ、と。

              説教者へのご支援を

               こんな現実だけど、説教者(牧師)になってくれたりする奇特な人はいないだろうか。

               そして、こんなに悩んで聖書と真剣勝負しているボクシに恋してくれる、かわいい女性はどっかにいないかなぁ。

               原曲が古いって?そりゃしょうがない。牧師先生方の中心層よりちょっとだけ年齢の若い層に合わせたまでのこと。今後、もっと、若い方向けの替え歌やりますって。そのうち。



              評価:
              ---
              HarperCollins e-books
              ---
              (2009-05-05)
              コメント:キリスト教における天国や死生観についてNTライトが書いた本。ふーん、え、英国でもそうなんだ、と思うことが結構書いてあった。神の国理解がおかしいのは、日本だけじゃないんですねぇ。なるほど。

              2015.02.11 Wednesday

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(6)

              0


                Pocket

                 これまでの連載


                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)


                では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

                 そして第4回、第5回では、大日本帝国末期の戦争前後移行から、日本の多神教世界が変質し、日本特有の型の一神教型の信仰となったことを『シナイ山と富士山』からご紹介し、それと同じような自己義認構造が、日本のキリスト教界にあるかもしれない、ということをご指摘した。

                 本日は、『シナイ山と富士山』の第3章「荒地と化した東京」からご紹介したい。

                我が国が経験した二つの超大国との戦争

                まずは本文からのご紹介を致したい。 

                 日本は長い歴史において二度超大国との戦争に従事した。第1は13世紀の蒙古民族との戦争、そして今は20世紀における合衆国との戦争である。前者がアジア内での戦争、文化的には地域内戦争であったのに対して、後者は、文化、宗教、文明のいずれにおいても極めて異なる国同士の戦争であった。(中略)660年を隔ててこれら二つの国際的戦争が起こった時、日本政府は国民に神社と寺院に「敵国の降伏と神国の勝利」を祈願するように要請した。13世紀には国家あげての祈りが応えられたかのように見えた。実を言うと戦後戦士(ミハ氏註 武士)たちの間では神々や仏たちに対する強烈な嫉妬的感情があった。(中略)私は思うにあらゆる戦争的状況は「戦士集団」と「神々」との間にこの種の緊張感を醸し出したのではないだろうか。総国民的祈願は合衆国相手の戦争では功を奏さなかった。「神風」は吹かなかった。皇祖たちの霊は日本国を保護することができなかった。その結果国は滅ぼされた。建国以来初めて日本民族は自分たちの部族的神々への信頼を深刻なほど揺さぶられたのである。(富士山とシナイ山 pp.57₋58)

                古代の神々と戦争

                この部分を読みながら、ダビデとゴリアテの対峙を思い出した。

                サム上【口語訳】
                 17:43 ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
                 17:44 ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
                 17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう
                 17:46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
                 17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。

                 古代の戦闘においては、神の名において戦闘がなされることが多い。古代ローマ帝国においてもそのような側面があったと思う。軍事的勝利は、太字で示したように、即ちその集団が拝する神の勝利であり、軍事的敗北は、即ちその集団が拝する神の敗北であった。このあたりのことは、エリヤとバアル神殿の祭司たちとの対峙(列王上18章参照)にも表れている。

                 恐らく多くの古代人はこのような世界観で生きていたものと思われる。

                嫉妬する武士、手放せない引退牧師?
                 しかし、この部分を読みながら、あれ?と思ったのは、武士たちが抱いたとされる嫉妬的感情のことである。南無八幡大菩薩と言いながら、いざ、それがかなってしまうと、割とあっさりと、自分たちの頑張りはどうしてくれるのだ、という思いにとらわれる姿である。意外とこういうことは多いのではないかなぁと思う。

                 我々も、信仰面で類似のことを感じることがあるかもしれない。例えば、ある人が神との関係との回復があるように(福音派的な物言いをすると「救われる」ように)と祈る。しかし、いざそれが起きてしまうと、「あれ、なんだったんだろう。自分の努力はどうしてくれるのだ」というような思いにとらわれることはないだろうか。

                 もっというと、開拓時代から苦労されて、非常に大きい教会になった教会の開拓牧師がおられるとする。熱心に働かれたであろうし、苦労もされたであろう。そして、熱心に神にその関与というか支配があることを求められただろうと思う。しかし、いざ、ある時期が来てて、その教会から離れる(引退する)べき時期が来ても、なかなか引退できない、様々な手段を使って、院政のように引退牧師として権勢を誇るということはないだろうか。まぁ、多くの教会ではそういうことはないと思うが。

                 こういうような状況は、上記の武士たちの神々への嫉妬と似たようなものではないだろうか。自分自身の評価を気にしていることが背景にあるのではないだろうか。

                自己義認の課題

                 自己義認と偶像崇拝の関係について、戦争中の例をとりながら、小山さんはこのように書いておられる。

                 神聖な神話の専制的支配の下で、国中が麻痺したようになった。日本人学者中最良の人たちの著書が発禁処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、国民は「日本は正義の国、それに敵対する国は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき民というに陣営に分割された。つまり日本人は善良で、合衆国の国民はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する政府によって即座に社会の反愛国的危険分子の仕業として処分された。自分が属する国を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は国家的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

                 すでに指摘したようにユダヤ人もギリシャ人も、すべての人は罪の力の下にあります。いかに記されているように。「義人はいない、一人もいない。〔神意を〕悟るものはなく、神を探し求めるものもいない。みないずれも道に迷い、無益なものとなった。善をなすものはいない。一人もいない。」
                    (ローマの信徒への手紙 3章9-12節)
                                    (同書 p.59)

                 これを見ながら思ったことは、同様なことは教会で起きているのではないか、ということである。こう書き換えれば、ほぼ同じではないだろうか。黒太字部分が書き換えた部分である。

                 神聖な聖書理解という名の神話の専制的支配の下で、キリスト教会中が麻痺したようになった。過去のキリスト者中最良の人たちの著書が禁書処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、教会員は「自分たちの教会群は正義の教会、それに敵対する教会群は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように説教で聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき教会というに陣営に分割された。つまり自分たちの教会群は善良で、他の教会群はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する信徒や牧師たちによって即座に社会の反キリスト的危険分子の仕業として処分された。自分が属する教会群を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は教会的的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

                とすれば、思い当たるキリスト教界の一部の人々はいるのではないか。日本のキリスト教会は3.1運動(日本支配下の韓国における独立運動)が起きた当時、韓国に対して、このようなことを言わなかっただろうか。そのあたりのことを知りたい方は、当ブログの記事を見てほしい。

                 あるいは、ミーちゃんはーちゃんは、上記のように子供時分から、そう教えられていたので、大学に行くまで、このような無知と誤解と、自派に対する偶像崇拝を行っているキリスト者でありながら、素朴に持っていたことは告白したい。一部のキリスト教会群では、似たようなことを教えていないであろうか。

                 自派に対する自信はあってよい、と思う。しかし、それを偶像とするのはいかがなものであろうか。自派だけが完全無欠の信徒とか自派だけが完全無欠のキリスト教とか、思っていないだろうか。

                カルト化とのかかわり

                 これが行き過ぎると、教会はカルト化するのではないか。他者を認めず、他者の声に耳をふさぎ、他者を排除する。自派の教会以外に行けば、間違った教理を含んでいるので行くべきではない、とか、平気で言ってないだろうか。そして、閉鎖性を持った社会を構成してはいないだろうか。

                 また、この話の中に、善か悪か、白か黒か、1か0かという極端な二項対立の中に問題をおしこめ、表面的な理解で、全か悪か、白か黒か、1か0かで考えていることは多いのではないか。Facebookやツィッターで流れてくるニュースとニュースのコメント見ていると、キリスト教クラスターの中で、この種の表面的な親イスラエルか、そうでないか、反現政権かそうでないか、反原発かそうでないか、という2項対立的な表明をする方々はいる。それはそれでその人の立場であるのでかまわないのだが、割と単純な考えだと思うし、そして、こういう単純化された思いが、カルトの教会につながるのではないか、と思う。そういえば、オウム真理教も毒ガスサリン噴霧されたと主張した事件で言っていたような気がする。


                オウム真理教のサリン事件に関する動画


                 なお、オウム真理教事件の終末論は、キリスト教の一部の現存するグループの特殊な終末論の影響を受けていることは、念のため言及しておく。

                 同様の事件は、米国のカルト ブランチダヴィディアンでも起きている。


                ブランチダビディアンに関するCNNの特集プログラムの一部



                 キリスト教が本来禁じる偶像崇拝をしているキリスト教ってどやさ、って感じなのだが、案外こういうこと、結構あるんじゃないかなぁ、とは思う。自分自身に対する自己正当化(自己義認)、それも偶像崇拝、そして、表面的なことで判断して、黒か白かということは本当に考えねばならないことではないか、とこういうことをやりやすいのではないだろうか。
                 政治的な神話によって理性から逸脱する行為が及ぼす破壊的影響は、間もなく倫理が追放されるにいたることである。倫理は個人的及び集団的な人間の行為の理解に関心を有する人間から発生する。人間の行為について批判的に省察することは、隣人の存在を真剣に受け止めることを要求する。他者の存在を無視する倫理即ち人間の道徳性は、何であれ、人類の共通善に逆らう自己中心的な思想体系である。(中略)日本の神話的倫理は、日本国民にとって良いことを有利なことを目指していた。最終段階ではおそらく指導者層にとって都合のよいことのみを目指していた。その結果が日本の道徳的な堕落であった。自己中心的な倫理は ーこれを若し倫理と称しうるとしての話だがー 偶像崇拝的である。(同書 p.59)
                なんか、こういうことを見ていると、カルト化した教会ってのは、指導者層にとって都合のようことを目指すカルト的倫理、ってことではないかと思う。それは 大日本帝国カルトが、道徳的に堕落した、と小山先生がご指摘されていることと似ているのだろう。そして、自己正当化、自己義認が起きることが多いキリスト教カルトが道徳的に堕落しやすいことと深い関係にあるのだろうと思う。

                  カルト的キリスト教が非常に具合が悪いのは、そうなっていく出発点においては、カルト化しようなんぞという悪い意図がまずあるのではなく、まともに福音を一生懸命伝えようとしているうちに、自分たちが持っている信仰や聖書理解が正しいという政治的な神話を集団内に形成されるのであろう。そして、その挙句の果てに隣人の存在を受け止めず、その聖書とのずれが拡大していった結果として、道徳的な堕落に陥っていきやすくなるのではなかろうか。その結果として、カルト教団内に不道徳が、倫理の名のもとに、倫理と誤解されて、広がっていくところにあるのではないか、とも思うのだ。そして、出来上がっていくものは、キリスト教の名を騙る偶像崇拝的な疑似キリスト教的なものを核に据えた、疑似キリスト教的な社会集団になってしまうのかもしれない。

                 何とも残念なことである。


                 次回 「第4章 聖なる神は偶像崇拝を拒否する」 へ続く。



                2015.02.14 Saturday

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (7)

                0


                  Pocket

                   本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                  フェティシズムと偶像崇拝
                   偶像崇拝とフェティシズムの類似性について、小山先生はこのようにお書きである。非常に印象的であるので、ぜひご紹介したい。


                   木や石、銀や金で作られた偶像は、ものでできているがゆえに神ではありえない。イェヘスケル・カウフマンによれば、フェティシズムとしての偶像崇拝は、聖書が偶像崇拝について述べる第一義的見解である。「フェティッシュ」という語は、「巧みに造られた」を意味するポルトガル語「フェティコ」を語源とする。フェティシズムは、ある種の自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与されており、したがって崇拝の対象とされてしかるべきであると考える魔術的な宗教態度である。偶像と偶像崇拝に対するこうした聖書的な位置付けは、複雑な現代世界における複雑を極める社会的及び政治的現象を記述するには、余りにも単純かつ静態的で適合しないと、我々は考えるかもしれない。恐らくティリッヒが偶像崇拝に与えた定義は、この問題の本質を一層明らかにする概念的なイメージを与えてくれるであろう。ティリッヒによれば、すでにみたように、偶像崇拝が生じるのは、「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」。例えば、人間の文化は制約されたものであるが、ある特定の文化が無制約的なものと理解された時、偶像崇拝が発生する。たとえば日本文化が「神」がかりのような振る舞いを始めたときがその一例である。テクノロジーは部分的なものである。(中略)然しながら、テクノロジーへの執着が人間実存の普遍的意味を帯びるに至るや、偶像崇拝が生まれる。我々の心的能力は有限である。そうした限界を退けて、それに無限の意義を付与することが偶像崇拝である。(『富士山とシナイ山』 p.64)
                   意外と印象が深いのが、「自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与」という側面ではないかと思う。聖書は超自然的価値は、人に語り掛ける聖書の「神」のみであるとする。案外、人間は地球上のどこにいるか関係なく、自然的人工的なもの、本来永続性のないものを神としてきたのかもしれない。

                   富士山は、今の富士山と江戸期の富士山では違う。阿蘇山もそうである。これらは比較的安定はしているが。富士山は、江戸期に宝永山という宝永の大噴火でできた山がある。本来、比較的安定的、という程度のものであり、山といっても流動的なものであり、ある時の姿は有界なものなのである。

                   小山先生のティリッヒからの偶像崇拝に関する引用が痛い。

                  「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」
                   こういうことをわれらは、よくやる。もちろん、伝道者や牧師への尊敬の念というのは重要であるし、また、聖書の研究者にも同じことが言える。しかし、それが、限界を越えて、有限(有界)なるものが無限の義をもち、無限の義なる存在となる時、偶像崇拝になるのだ。

                   国家にしてもそうである。この「無限の義」ということは、時間的にも能力的にも関係することである。本来、われらが崇拝すべき神、あるいは畏れるべき神は時間的にも空間的にも能力的にも有限なる存在であるすべての被造物(より正確に言うと、有界である存在)を越えた存在(有界でない存在)であり、有界でない存在であるがゆえに、われらが崇拝するにあたる(畏れる)存在である、というのが現下の個人的な理解である。

                   あるキリスト者グループでは、そのグループ内の指導者的存在に、無限の義が付与される場合や、グループ内の指導者的存在に無限の義を付与しようとする信徒の存在があることが多いらしい。いくらその指導者がすぐれているとしても、その指導者は、神ではないし、キリストでもないし、メシアでもない(基本的にメシアとキリストは、前者がヘブライ語由来であり、後者がギリシア語由来なので、同じことである)。そのようなものに無限なる義を付与しようとする動き(たとえば、絶対的な服従を強いるなど)をすること自体、ナンセンスなのである。

                  技術と偶像崇拝

                   ミーちゃんはーちゃんは、これでも技術者のはしくれ(そうは見えないという意見があるのは承知しております)であるので、技術の限界と技術がもたらす副作用を知っているつもりである。そして、どんどん提唱される技術が、その利用が開始された瞬間に呪いのように副作用を発生させ、その副作用に対応するために新しい技術がさらに開発される、ということになっているので、石川五右衛門の名言「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ではないが、「技術屋や 浜の真砂はつくるとも 世に銭儲けの 種(仕事のネタ)は尽くまじ」である。マッチポンプと言うならお言い。それが技術であり、カイゼンであり、改良なのだろうと技術者のはしくれとしては、思う。


                  また、つまらぬ物を斬ってしまった」で有名な石川五ェ門ではない。

                   とはいえ、先を見ずにいろいろやってしまうのも技術者の一番悪いところ。こういう技術はごまんとあって、ご迷惑をおかけしている部分もあることは、存じ上げている。技術者のはしくれとして、お詫び申し上げたい。

                   先日、ある方とのFBの板で、技術をめぐる話が出たときに、技術者には倫理が必要で、倫理や哲学を教え、技術を倫理や哲学の下に置かないとまずいのだ、ということに似た話になったことがあるが、まさに、それはそう思う。

                  自文化中心主義という偶像崇拝
                   ちなみに、大杉先生がお書きの自文化中心主義に関するあとがきは重要なので、ぜひご覧いただきたい。あえて言おう。自文化中心主義は、フェティシズムであり、偶像崇拝の懸念が濃いと。


                  天皇の永続性、万世一系、君が代
                   天皇の永続性と永遠と聖書のアイオーン(AEONって、イオンかい?そうです)ということについて、小山先生は次のように書いておられる。 

                  天皇の永遠性は皇位継承によって維持される。日本人の理解では、「永遠」は長い継続的時間を意味している。それは「永久不滅」ではない。ギリシア語の単語アイオーン同様、具体的な語感を帯びた語である。アイオーンは元来「生命力」「生涯」を指す。それは人類固有の生物学的時間と関係はない。それゆえギリシア人はアイオーンを「存在者に割り当てられた相対的時間」として理解した。この「永遠」概念は日本人の「永遠」理解と類似している。なぜなら、日本語の「永遠」は生命力が途切れない長い連続的時間を暗示しているからである。この日本的哲学は明治憲法において「行為が連綿と受け継がれる万世一系」という言葉で厳粛に表現されている。
                   無害な日本的永遠性となりえたかもしれないものが、ひとたび天皇に類のない聖の源泉という特権を付与する皇祖皇宗の諸霊の概念と結ばれた時、それは国民にとって有害なものとなった。日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。最も神聖な日本帝国の祭儀の一つは、新たに即位した天皇が即位した季節の間中、穀物の霊と「交霊する」儀式である。日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。(同書 p.84 )

                   日本での永遠概念が永久不滅ではない(むちゃくちゃ長いけど終わりがある時間概念)、というのは初めて知った。素朴に永久不滅のこと(有界性をもたない時間概念)だと思っていたが、そうではなく、一定の有界性をもった言葉だったらしい。しかし、戦争中絶対概念、絶対神聖の概念とこの「永遠」概念がくっつくとき、「万世一系」の「万世」がそもそもの有界性をもった「永遠」が無限性をもった「永遠」に代わってしまったのではないか、と思う。そして、はかなさが暴力性に変わった。その暴力性とはかなさの共存は、自殺型ジェット爆撃機にたおやかな「桜花」ってつけるほどであった。4月になると、必ずこの機体を思い出す。


                  旧日本海軍の航空機 桜花


                  皇祖の諸霊と穀物の霊

                   小山先生は「日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。」ということをご指摘であるが、これは存外重要なことかもしれないが、現在ほぼ忘れられている。
                  下記に動画を張っておいたが、6月ごろにニュースで流れる皇居での田植えの儀式は、実は穀物の霊と酵素の諸例が結ばれていることを示す儀式であろうと思う。



                  日本の伝統文化を表象する皇居における田植の儀式



                  草食系日本男子の原型か?

                    基本的に日本は、肉食系の祭祀制ではなく、草食性、穀物食性の祭祀性なのだということは思う。まぁ、近年の日本青年に草食系ばかりだという御意見もあるかもしれないが、もともとの日本文化が草食系なのであるので、本家帰りしたこととして、日本文化が大好きな全共闘時代の年長者の方には寿いでもらうべきこと かもしれない。

                   いや、明治以降全共闘世代の皆さんが現役でった頃までが、肉食系が日本文化における例外的存在として、存在したのかもしれない。明治期以降、昭和60年代まで日本社会において、肉食系文化が幅を利かせた特異な時代であった時代のような気もする。

                   余談はさておき。

                  神聖帝国と国家神道

                   小山先生のお書きになられた「日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。
                  」という部分に関して読んでいると、本来無垢な草植(草食のもじり)系の神は、聖なる国と万世一系との概念で、突然変異をしてしまったのかもしれない、と思ってしまう。そして、そもそもの多様な自然物崇拝の世界のなかに、一種暴力的な帝国制度が導入され、神聖帝国が構想された結果、神聖性を担保するために無理矢理に国家神道という枠組みのをもちこもうとする中で、その中の最高神を定義せざるを得ず、その最高神としての天皇が構想され、その中で、一種のヨリシロというのか人柱としての中心性までも人間宣言が出るまで、天皇という存在に持たせてしまったのかもしれない。それも、本来の有界性を越えて。

                   これは、しんどいだろうと思う。いかに明治帝や昭和帝が英邁であろうとも、勝手にその役割と中心性をその子孫に割り当てられたら、その子孫は、かなわんだろう、とは思う。

                   そして、勝手に君が代は、千代に八千代位はいいかもしれないが、それを越えた永続性をある一家に求められるのは、その御一家にとってみれば、それは祝福というより、呪いに聞こえているかもしれない、と最近の情勢を見ながら思いたくなってしまう。昔の落語に「厄払い」というのがあるが、そこでの文句を思い出した。

                  君が代と落語「厄払い」

                   君が代の中に千代に八千代にと出てくるが、まぁ、ごろ合わせという部分も大きいが、まぁ、これは昔からの寿ぎの言葉と同じような類似性をもっている。日本における古典学の学識がないミーちゃんはーちゃんが思いつく唯一の例は、落語なので、落語の「厄払い」をご紹介して、日本に伝統的なこういう寿ぎの言葉の紹介としたい。

                  あぁ〜ら目出度や、目出度やな。
                  目出度いことで払おなら、鶴は千年、亀は万年。

                  浦島太郎は三千歳、
                  東方朔 (とぉぼうさく) は九千歳 (くせんざい) 、
                  三浦の大介百六つ。

                  かかる目出度き折からに、
                  如何なる悪魔が来よぉとも、
                  この厄払いが引っ捕え、
                  西の海へさらり、
                  厄払いましょ

                  以下の動画の8分辺りから、上に示した昔の厄払いの口上が出てくる。


                  昔の節分行事などを含む厄払い行事が触れられている桂米朝師匠の落語「厄払い」

                   おあとがよろしいようで。

                   次回、宇宙的生成論およびイデオロギー的中心から ご紹介の予定でございます。




                  2015.02.16 Monday

                  『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (8)

                  0



                    Pocket


                     本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の第7章「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                    日本における富士山信仰と中心性

                     今日は、「富士山とシナイ山」における、宗教的思想の比較における富士講についての小山先生の記事を引用しながら考えてみたい。

                     民間宗教専門の日本人学者宮田登は富士講の豊穣神信仰的性格を指摘している。職業と弟子たちは男女の調和、宇宙世界における男性原理と女性原理との調和の大切さを強調した。(中略)最期に柴田花守(1809-80)は山岳崇拝の教えを国家主義的な皇帝崇拝と結び付けている。彼の説くところによると、富士山は国家の安全の土台であり、全地の脳髄である。花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。富士山な始原の子宮及び全地の脳髄と見られた。この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来するであろう、と富士講の長の一人、伊藤六郎兵衛(1829-94)は言う。
                     富士山は素朴な山岳崇拝から独特な歴史観へ、社会倫理から豊穣信仰へ、さらに政治思想へと展開していく、複雑な宗教的および心理的要素からなる山である。よりによってこの山において、日本民族は彼らの宗教的独自性を表現する機会を見出したのだ。

                     富士山の宗教史は富士山の世界とシナイ山の世界との相違点を浮き彫りにする。富士山は原初の夫婦神、世界の脳髄、両性の調和的関係性が成立する聖所、及び新たな弥勒時代の象徴であるといわれる。富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。シナイ山の「大霊」とか「子宮」とか「脳髄」とかについて云々する人は一人もいない。シナイ山はそれ自体に備わる固有の宗教的価値をもたぬ山である。(富士山とシナイ山 pp.134-135)
                     個人的には山岳修験道については詳しくもないし、富士講についても詳しくはない。茨城県の大学で都市計画の勉強をしていたころにフィールドワークとして都内を回った時や、濃地図をもとに江戸の都市計画をリサーチしていたころに都内にあるいくつかの人造富士山(せいぜい数メートルクラス)を見て、興味をもって富士講の研究のリサーチをちょろっとしたことくらいである。ちなみに、その関連でいうと、ええじゃないかは、伊勢講とちょこっとつながっていて、ということくらいしか知らない。

                     本文から引用した中で(中略)と表示しているところには、かなり性的な事柄が、祭祀制と深い関係をもっていた旨の記述がある。日本における富士信仰は、かなり基本的なところで性交渉と深い関連要素をもっていることは知っていたが、ここまでとは知らなかった。「道祖神」で画像をググってもらうと、まぁ、すごいのが出てくる。これも日本の民俗信仰の一断面ではある。



                    道祖神の例安曇観光タクシー 様のサイトより)


                     まぁ、古代神話はどこまで行っても豊饒性、子孫繁栄とつながっているので、当たり前といえば当たり前であるが。西洋で有名な豊饒神はアフロディテ、ウェヌス(ビーナス)、アシュタトテ(アシュタロテ)、フレイヤーなどがある。まぁ、この種のものには、事欠かない。

                    豊穣神としての筑波山と富士山と江戸

                     まぁ、茨城にいたころの筑波山は、男体山、女体山からなっており、まさにこの山岳信仰を絵にかいたような山である。関東平野は平たいので、これが目印の一つとして、過去利用された。東京の日本橋から北北西に延びるルート(国道6号線 旧水戸街道)は日本橋方向から筑波山が昔はヴィスタ(視線の先にある目標物)として利用された。同じく日本橋から南南西に延びるルート(国道1号線 旧東海道)は、富士山を向いている。


                     茨城県南部で車を運転しているときに迷ったら、とりあえず筑波山を探すことが一つの位置特定の方法であったことを思い出す。時刻と太陽の位置と筑波山さえ分かれば、ほぼ自分の10キロ精度で位置が特定できた(まるで航海術の世界だった)。

                     余談はさておき。

                    日本の天皇崇拝と日本の表象としての富士山
                     富士山と日本の天皇崇拝との関係について、小山先生は先の引用の中で、次のように書いておられる。
                    花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。

                     日本の象徴として富士山が使われ、その先に天皇崇拝があるような童謡というか歌は多い。「1年生になったら」「富士の山」「ま白き富士の嶺(これは替え歌「いつかはしらねど」が聖歌にある)」等、まぁ出るわ出るわ。全部が天皇崇拝とか富士崇拝とは言わないけれど、間接的に、サブリミナル風に天皇崇拝とつながっていなくはなさそうな気がするなぁ。


                    いつかはしらねど(ま白き富士の嶺)by ZouAzarashi さん(FB友 友情出演) 


                     図像学的にも、硬貨ではないけれども、紙幣には、日本の象徴として富士山は使われている。そういえば、現行の5000円札にも(めったにお目にかからないので気がつかなんだ)、現行の1000円札にも、旧500円札(昔、お小遣ひをこれでもらっていた記憶が)にも、大々的に富士山が印刷されていた記憶がある。個人的には陰謀史観をもっていないので、1ドル紙幣に自由石工連合のマークがついているだの、いないだのとか言うことに興味はないが、もし、自由石工連合云々を言うなら、陰謀史観論者は日本と日本銀行は、富士講連合に仕切られているとか言わなければならないだろう。所詮、バンクノート(銀行券)は小切手の代用だと思っているので、個人的には気にならない。


                    昔懐かしの500円C号券(お小遣ひはこの紙幣で提供されていた)

                    富士を通した人類救済理論

                     しかし、

                    この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来する
                    ってのは、結構、大きな影響をもっているような気がする。某オ○ム真理教が、参議院選挙に真理党という名前でご出馬していたころ、富士宮道場(当時総本部)が結構テレビに出ていたが、それもこのへんと関係するのかもしれない。また、3の平方根(富士山麓にオウム鳴く)で一躍有名になった、上九一色村にサティアンを置いた理由もこの富士信仰とつながっているような気がする。多分、関係していると思う。だって、ポアして人類救済とか称しておられたようだから。当時、尊師は。


                    世界の中心としての富士山

                     小山先生は、

                    富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。
                    とご指摘であるが、それはその通りだと思う。日本人にとって、どこか中心は富士山だと思っているところがありそうな気がする。なお、現在日本の人口重心は、岐阜の関市あたりにあるし、国土(土地)の重心は、新潟沖の日本海の中にある。個人的には、富士山が世界の基軸だと思ったことはなかった。

                     中世の地図では、世界の中心はエルサレムとなっている地図が古地図の世界には現存する。世にエルサレム図という。エルサレムは中心だけど、確かにシナイ山が中心になった地図や概念というのは寡聞にして聞いたことがない。ただ、日本人はあこがれで、シナイ山を特別視する向きの方々もおられるかもしれないけど。


                    「イエルサレムは世界の中心!」を主張するイエルサレム図。インドが最果て・・・

                    聖書の中心性は何とかかわりがあるか

                     エレミヤ書7章1-7節の引用があった後、次のように小山先生は続けておられる。

                     エレミヤの見地に立てば、エルサレム神殿の中心性を強調することはうなしい。ユダの民が国の安全を望んでそうしても、「欺きの言葉」出しかない。国に安全を与えるのは社会正義の確立である。ユダヤの民は神殿が象徴しているものの意味、すなわちお互い同士正義を実行しなければならない。ユダの中心的象徴は寄留の外国人、孤児、寡婦など共同体内の弱者に、周縁に押しやられている人々に親切と配慮を尽くすよう要求している。周縁の人々への配慮を示さなければ、中心的なものも「欺瞞的存在」と化す!民に住むべき場所を用意するのは社会的正義の行為である。「聖なる」中心的象徴物の名を唱えることでない。(同書 pp.147-148)
                     聖書の中心である神は、ユダヤ社会の中心もさることながら、社会の周辺も視野に入れて、親切と配慮をつくするように要求している。下記の出エジプト記を一例として紹介しておきたい。
                    【口語訳】出エジプト記
                     22:21 あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。
                     22:22 あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。
                     22:23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。
                     22:24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。
                     22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。
                     22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
                     22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
                     聖書の神とは、神と人との関係を重視されるとともに、人の中での義(Justice)を求めておられることは、極めて重要なことではないか、と思う。神だけ見て隣にいる人を見ない、自分たちだけ、ということを神は望んでおられないようである。人の中でもJustice(公義というか義)と平和が成立することを望んでおられるようである。

                     実際、イエスもこのようにおおせである。

                    【口語訳】マタイ
                     12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
                     12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
                     12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
                     12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
                     12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
                     12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」
                     これらにあるように、神を一方的にあがめるのが大事なのではなくて、神を愛する(神と人とが一致するというか調和的な関係に入る)ことと隣人(含む外国人)を愛することが重要であり、一方的に礼拝することよりも儀式を守ることよりも、何よりも大事であるとおっしゃっておられる。

                     なお、聖書の中に示されている神は単なる義の神ではなく、憐れみの神であることは、もっと認識されるべきことだ、と思っている。

                     しかし、多くのキリスト教国と分類される国家で「神のイエスが福音として宣べたこと、とらわれ人に開放が、貧しいものへの回復が、虐げられた者の回復、といった義が実現」しなかったことは、正直残念ながら認めざるを得ないと思う。実に残念なことだが。しかし、これが神ならぬ人間の現実なのだろうと思う。


                     次回、同章から、中心性とイデオロギーについて触れたい。



                    2015.02.18 Wednesday

                    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (9)

                    0


                      Pocket


                       本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                      中心性と全体性が誘導する偶像崇拝

                       大日本帝国時代、日本は世界の中心であるというのは、これまで何度か触れてきたし、富士は世界の中心であるという概念が天皇制の確立と共にあらわれてきた、ということを前回ふれた。

                       では、世界の中心であるということはどういう意味を持つのだろうか、ということに関して、小山先生は、このようにお書きである。 

                       したがって、「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。(中略)それは己の栄光をいや増す為に他の人々を管理し、操作し、食い物にしてしまう暴力的状況である。リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。「わたしは全体性と完全性を意のままにしている」「わたしは万物の中心に立つ」と主張することは、「私は神を自由に操れる」ひいては、「私は神である」というのと変わらない。端的に言って、これは偶像崇拝そのものである。(『富士山とシナイ山』 p.150)
                       確かに、
                      「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。
                      という部分を読みながら考えてみれば、ある国家が中心になった時代があった。PAX ROMANA、PAX BRITANICA、PAX AMERICANA (ローマ帝国よる平和 大英帝国による平和 アメリカ合衆国による平和)が代表例であるが、これらのいずれにしても PAXの後につく言葉がその世界観の中での中心となってきたことは論を待たない。軍事的にも、政治的にも、経済的にも。そして、PAX ○○が成立している時代には、その中心となる○○に向かって、人とモノとカネが集まってきたような気がする。

                      また、
                      リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。
                      という指摘には、非常に思わされることが大きかった。リベラリズムと訳語があてられているが、人間中心、人間がなんとかできるという思想の危険性であろう。しかし、いくつかの面で教会を自分の手中にしている、意のままにできると思っている人々はいないだろうか。教会を意のままにしたいという思いはなくても、「斯くあるべきだ」と思い込んでいる人々はいないであろうか。それこそ、人間中心に自分の意のままに、自由に扱えるという意味において、これは、一種のリベラリズムではないだろうか。

                      イデオロギーの危険性

                       いかなる場合であっても、人間中心の思想(○○イズム)やイデオロギーが非常に問題を起こすことについて、小山先生は次のようにお話しておられる。

                       人間の存在する所どこでもイデオロギーは存在する。我々は我々自身の生活現実と歴史に関するある種の包括的見解を持つことなしには生きていくことはできないのだ。

                      イデオロギーとは、人間と社会、合法性と権威に関する情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念及び価値体系で、日常的、習慣的強化の結果獲得されるものである。

                       イデオロギーは人生、人間的実存、及び人間共同体に関して最終的発言をする能力を持っていると自負する傾向がある「情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念、価値体系」である。イデオロギーはすさまじく強力な心理的、哲学的衝迫性を帯びている。他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする。(同書 pp.154-155)
                       しかし、小山先生がご指摘のように、我々は、このイデオロギーから解放はされえない。人間であるがゆえに、この種のイデオロギーに束縛されており、閉じ込められているのだ。それこそ、罪の結果と言えよう。大和魂とか、日本精神とか戦時中に世上言われたもの(何を以て大和魂というのかも人によって違うようであるので、留意は必要であるが)も、このイデオロギーの一種ではないか、と思う。

                       そして、イデオロギーが神話性を内在的に持っているという指摘は重要だろうと思う。神話性を持たざるを得ないのは、それが合理的な理性的なものでは、それを理論的に検証したり、その一部を否定することが可能となりやすいからかもしれない。しかし、イデオロギーがかなわないのは、他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする部分である。個人的には、毛主席がお元気で、中国での農産物の生産から、鉄工所までの生産をご指導しておられたころに、毛沢東思想にはまりかけたことがあるので、こういう他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りという部分はよくわかる。あのころは、クメール・ルージュが元気だったし、ソ連は共産主義国だったし、そういう国で何が起きたかを調べれば、イデオロギーがいかに事実を包み込み、同じものを見ながら、違う理解を与え、他者を威圧するか、ということはかなり明らかになるであろう。東西冷戦構造は、イデオロギー対決でもあった。



                      今日のソ連邦の表紙。県立図書館においてあった記憶がある

                      イデオロギーと宗教の類似性

                      イデオロギーと宗教の類似性について、小山先生は次のように述べておられる。
                       イデオロギーは、それが資本主義であろうと、共産主義であろうと、愛国主義であろうと、人種主義であろうと、あるいは皇帝崇拝だろうと、最後の言葉を発したい欲望を有する点で「宗教的」である。無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。モスクワのレーニン廟に群れなすロシア人は、マレーシアのクアラルンプールにある国立モスクに群れなすイスラム教徒に劣らず恭しくふるまう。「無神論的イデオロギー」すら、固有のイデオロギー的体制を厳粛な儀式の様にするそれ自身の「神」(god)を有している。このような文脈において「神」(god)は「中心性コンプレックス」を意味する。(同書 p.157)
                       しかし、「無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。」ということは非常に面白い。社会システムであるはずの(無神論的)共産主義と同じく社会システムである(有神論的)資本主義はいずれもかなり唯物論的な社会システムであるのにもかかわらず、たしかに、宗教のようにふるまっている。政治と宗教の話を食卓でするな(食事がまずくなるので)、という話があるが、まさしく、どちらがよりまともか、という相対的な義でしかないことに関する競争が、自分たちの社会システムのものの見方(世界観)を巡ってそれがあたかも絶対的な義に関する競争として行われるからだろう。この絶対性が、イデオロギーの宗教性でもあると思う。

                       これが、リアルな国際政治の場だと、ミサイルだの戦闘機だの、爆撃機を持ちて行われるからかなわん。最近、政治学関係者のカンファレンスに行くようになって思うのは、結局神学論争や宗教論争のようなことを具体的な政治経済的ツールで表現されている世界観で焼き直しているに過ぎないのではないか、というあたりのことであるのだ。

                      二つの有神論的国家の争いとしての政治的闘争

                       その意味で、1940年代前半に日本がアメリカと向き合った戦争は、クラウセヴィッツ風の表現をすれば、聖書型有神論的資本主義型軍国主義と日本型有神論的資本主義軍国主義の血を流す政治的闘争、あるいは血を流した外交であったといえるかもしれない。その意味で、両者の神の正義性をそれぞれの国民の血を流すことで、証明してみせようとした、壮大な人的・物的資源を浪費行為であったと思えてならない。厨2病が基本、能力の浪費行為であるということを考えると、厨2病患者が戦争ヲタクになりやすいのは、基本浪費行為であるからかもしれないと重篤な厨2病患者であるミーちゃんはーちゃんは思う。

                       東西対立が激しかったころ、丁度モスクワオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、ロサンゼルスオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、があったころの映画として、下記のハドソン川のモスコーという映画を紹介しておく。当時の冷戦期の雰囲気と80年代、ディスコ音楽が流行り始めのころの雰囲気がよくわかる。サタデー・ナイト・フィーバーというジョン・トラボルタが、まだ、やせていて、りりしいころの、ジョン・トラボルタの出世作がつくられていたころを描いた映画である。そういえば、高校時代の体育教官の一人が、故 斉藤仁氏と大学時代同級生だったらしいので、何かというとこのモスクワオリンピックと斉藤仁がウンタラカンタラというお話に付き合わされたことを思いだした。



                      Moscow on the Hudson ロビン・ウィリアムスが若々しい
                      イデオロギー対決が華やかなりしロシアとアメリカの関係を背景に描いた名作

                       次回 第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こす からご紹介したい。





                      Calendar
                      1234567
                      891011121314
                      15161718192021
                      22232425262728
                      << February 2015 >>
                      ブクログ
                      G
                      Selected Entries
                      Categories
                      Archives
                      Recent Comment
                      Links
                      Profile
                      Search this site.
                      Others
                      Mobile
                      qrcode
                      Powered by
                      30days Album
                      無料ブログ作成サービス JUGEM