2014.10.01 Wednesday

2014年9月のアクセス記録。ご清覧御礼

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     今月も長い記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセスいただきありがとうございます。
     2014年3月  20499アクセス。
     2014年4月  24200アクセス。
     2014年5月  22690アクセス。
     2014年6月  11281アクセス。
     2014年7月  13883アクセス。
     2014年8月  12202アクセス。
     2014年9月  13264アクセス。
     
     割と、おとなしめに推移するも、今月のピークは9月20日775アクセス。この日が大きくなった要因は、NHKこころの時代の福岡県の栄光病院医師 下稲葉先生登場の再放送のご紹介。公開当初はFacebookであまり反応がないものの、放送当日にFBで紹介したところ、68いいね!と一気に広がった模様です。従来型テレビメディア、最強〜〜〜って感じでした。


    それでは、以下、今月の上位5位まで。

    NHKこころの時代の視聴のお勧め  アクセス数 473

    日ユ同祖論というトンデモ理論について その4(最終回)   アクセス数 414

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由   アクセス数 294

    教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由
      アクセス数 274

    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1   アクセス数 249

    なんか、こうやって見ていると、日本のキリスト教会には、若者がいないということの背景を描いた記事ばかりが上位に来るなんて…。そういうつもりで書いているつもりはないんだけど、それだけ日本のキリスト教会の若者不足は深刻というか、しんどい状況にあるのだろう。なんてこった。

     しかし、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 の記事は結構受け、先月、今月と堂々の3位入りとなっているのが、何とも。

     そうこうしているうちに、Nobu牧師のブログでは、ありがたいご応答いただきましたし。しかし、痛いところを突かれてしまった。「やたらと文字数の多いブログ」って。グサグサグサッ。

     短くしてもいいんですが、ある程度まとまって書きたいじゃあな〜〜〜りませんか。



    今日公開の別記事は、「お笑いネタ」なんで本ブログにあるまじき短さですが。

     先月のご愛読を感謝しますとともに、今月もまた、ご清覧のほどを。
    2014.10.01 Wednesday

    教会枯れすすき を作ってみた

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       最近、いのフェスで出会った、ルツさん(バイブルハンターのルツのレイヤーされてた方)が、この手のおふざけ系が好きだとおっしゃってくださったので、ご要望に応じて、調子くれて、一節ご披露申し上げ度候。

       内容は、かなり大げさ。JARO に通報されないようにしないとw。

       そもそもの発端は、最近、ある方のFB上の特売シールつきのお惣菜の画像を見ていて、

      とく〜〜ばいに〜〜〜 まけた〜〜 (特売に まけた)
      いいえ、シールに まけた〜〜   (特売シールに負けた)

      という歌が思い浮かんで、それからの連想である。ふまじめ極まりないネタなので、まじめな方は読まないほうがいいかもしれない。


      ♪同人誌 ばれた
      いぃえ (嵐の)オッカケばれた
      この教会も追われた
      いっそきれいに転会
      力の限り 奉仕したから
      未練などないわ
      牧師さえも手を振る 私はキリスト者♪


      ♪このバルト(の教会教義学)を 捨てろ
      なぜ こんなに好きよ
      いのフェスは一緒と
      あの日決めたじゃないのよ
      教会の風に 冷たさに
      こみあげる涙
      苦しみに耐える 私はコスプレイヤー♪

       まぁ、同人誌が好きだから、教会を追われた人やアイドルオッカケで教会を追われた人、バルトの教会教義学が好きだから、教会を追われた人はまぁ、いないとは思うが、いないわけではなさそうな気もする。

       なお、いのフェスでは、同人誌で教会を追われた方も、追われてない方も、アイドルオッカケばれていずらくなった方も、そうでない方も、バルトの教会教義学を読んで、異端扱いされた方も、そうでない方も、どなたさまのご参加をも歓迎しておられるようです。

       所詮、いのフェス、文化祭・バザーのノリですから。

      下は、さくらと一郎さんで、昭和枯れすすき


       どうもおあとがよろしいようで。

      ♪歌って笑ってホットブラザース♪

      (以下の画像はこれをテーマ曲にしておられる関西のコミックバンド、横山ホットブラザースさんです。)







      2014.10.04 Saturday

      教会やめたい?(その1) 問題の着想

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         教会内迫害、ということについて、シリーズ化してみたい。多分、連載としては長めになるだろうし、結構厳しいネタになると思う。ヨーダーほどわかりにくくはないとはおもうけれども。ヨーダーについては、このリベラルのやつ、わけわからん専門用語、ジャーゴン並べやがって、と思っておられる方も多かったようだ。一応参考図書を推薦しているので、それを読んでいただけると嬉しい。ミーちゃんはーちゃんは、ブログは読者を選ぶ、と思っているので。

        このネタを思いついた背景


         このブログ、キリスト教会大好き人間が書いているブログであるにもかかわらず、このブログに検索語として、このブログに来ていただいている方のうち、かなりの頻度で

        「教会 行きたくない」
        「教会に行きたくない」
        「キリスト教 やめたい」
        「キリスト教やめたい」
        「キリスト教 辞める」
        「教会 離れる」
        「キリスト 教会 行きたくない」


        という非常に悲観的な語で当サイトに検索エンジンから誘導されてこられる方が多い。そういう現象を見ていると、お悩みになっている信徒さんご本人の皆さん方、牧師先生や信徒代表の方の悩みの深さというか、信徒の中でひょっとしたら「やめたい」と思っている潜在層が多いけど、抜けるに抜けられなくて、困っておられる方も多いかもしれない。

        なんてこったい

         ミーちゃんはーちゃんはキリスト教の牧師ではない一介の平信徒ではあるけれども、キリスト教が好きであるし、何より、ナザレのイエスとイエスのことばが気が狂うほど、キリスト基地外(クリスチャンのもとになったクリスティアノスには、このような蔑視的な意味も含まれたらしい)と呼ばれてもいい、と思うほど好きである。ある友人からは、この前、「もう、実質上牧師同様なんだから、”牧師ではないごっこ”はやめたら」、とは言われたけど。まぁ、キリスト者集団(教派)的な縛りがあって、一応『牧師ではない立場』を堅持しておきたい。ふりだけでも。とはいえ、「教派的・・・」とか言うと、「うちは教派ではありません」というおっかない人がいるから、かなわないのだけど。

        なり方は教えてくれるが、やめ方を教えない
        キリスト教会

         キリスト教会では、どうすればクリスチャンになれるか、ということは教えてくれるが、通常そのやめ方まで教えてくれない。

         通常、ある会社の会社員になれば、ある会社の社員のなり方は会社が教えてくれるし、会社のやめ方も新人研修のときにちらっとは教えてくれる。大抵は忘れているから、前例を見習うことになるのだが。なぜ会社がこういうことを説明するかというと、会社員になるということは、「社員」つまり、ある企業というソサエティ(社会)の一員になるという契約を結ぶから、契約解除の仕方も教える必要があるからである。学校だって、一応、生徒手帳やら、大学便覧やらに退学やら休学やらの手続きくらいは簡単に書いてある。

         火災保険にせよ、生命保険にせよ、こういうものにも契約書があり、契約時にはこういう契約書には、どう言う時には保険契約が保険支払い義務を負う組織(つまり、保険を販売した会社)が支払い義務を負う、または、解約できる、あるいは、保険金支払いを受ける個人や企業がどうすれば、解約できるか、そのためには何をしないといけないか、なんてことが見るも無残なほど小さい字でそれも薄めの色の印刷で保険契約のしおりという、「これの、どこがしおりやねん」といいたくなる分厚いしおりには、一応書いてあるし、お客様相談センターに電話して相談することもできる。

         ところで、生命保険会社は通常の株式会社法人の形態をとっておらず、相互会社となっていることが多い。近年は株式会社形態をとる生命保険会社が増えてきたが。建前の上では、生命保険の場合、保険契約者は、株式会社である法人と対立的に契約するのではなく、相互会社の社員となって、相互会社の一部となるという親和神話(ひかる様のご指摘、ありがとうございました)的な契約をすることになっていることを一応触れておく。まぁ、相互扶助の一環としての生命保険を販売する法人が存在すると思った方がよい。

         ところで、キリスト教会の会員のなり方は、むちゃくちゃ荒っぽいことを言うと、

        「私はイエス様のおっしゃっていることが素晴らしいと思います。イエス様が言っていることは正しいと思います。そして、イエスを神であり、私の神の不在の問題を解決される方として受け入れたい(救い主として信じたい)と思います。(そして、付帯契約事項(オマケ)として、この教会の一員となりたいと)思います。」
        ということを牧師とか、教会の人に言うと、あとは、いろいろ聖書のことやそのほかのことを教えてくれて(教会内のお作法とか、教会内外の交友関係、特に男女交際関係を含む割と細かな注意事項が含まれる場合もあるが、ただ、教会側では、暗黙知としてお持ちであるものの、明文化されてない場合もあるため、信徒になってから、「え、そうなの?」ということも少なくない、らしい)、いろいろな手続きが踏まれ、バプテスマとなり、教派によっては別のプロセスがある場合もあるけれども、これでたいていの場合は、信徒になれる。

        信仰を持つことは、付帯契約事項を含むか?

         ところで、問題は、この付帯契約事項の部分ではないか、と思うのである。キリストは好きだけれども、キリストは個人の神の不在の問題を対応してくださる方としてともに生きたいと思うけれども、信仰生活を送るのが、いまいる教会だけと限られるのかに関しては、信仰を持つ際の合意事項に含まれるかどうか問題というのはあるのではないか、と思うのである。

         教会側の暗黙知というのか、一種の明文化されてない知的データベースとそこから派生する教会特有、教派特有の信者としてこういうような行動が望ましいとされているかもしれない行動規範や行動スタイルを尊重することはあっても、それを順守・墨守することまで、キリストとともに生きるということの付帯契約事項に含まれるかどうか、ということ(付帯契約事項まで含めて)まで納得して信徒になっているかどうか、ということは、案外明らかではないのではないか。

         ところで、このような信徒になるための教えてくれることの中に、日本ではキリスト教のやめ方とか、キリスト教界をやめるやめ方とか、キリスト教界のやめ方は含まれていないことが多いように思うし、個人的経験としても、それを説明したことはないなぁ。講壇からも、また、最初は説明しない方なぁ。ただ、バプテスマを受けたいという方とのお話しの中では、バプテスマを受けたいと相談されたら、軽くは説明しているかなあ、うちのキリスト教会の場合。

         なぜやめ方は説明しないだろうか?

         次回へと続く。






        評価:
        D.M. ロイドジョンズ
        いのちのことば社
        ---
        (2005-05)
        コメント:良かったです。Dr.の教会論。これの再販が出ないのが何とも残念。

        2014.10.06 Monday

        教会やめたい?(その2) 教会のやめ方

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            前回の記事で、当ブログに「教会やめたい」、「教会 行きたくない」とか言う検索語で到達されておられる方がかなりおられること、それも検索エンジンのかなり上位でたどりついておられることをご紹介し、会社とかならやめ方を教えてくれるし、契約などでは、その契約の効力停止(つまりやめ方)が明確に書かれていることをご紹介した。

          前回の記事は、こちらから。

            教会やめたい?(その1) 問題の着想

           教会はやめられるのか、というお話しをしたい。

          教会はやめられるか?

           結論から言おう。

           教会はやめられる。

           やめたければ、やめて、無教会という一人教会を実施することもできる。何、心配する必要はない。日本にも先行事例がござる。最下部のリンクの「内村鑑三の人と思想」でご紹介されている内村鑑三先生である。補足で触れたように、今週10月11日 土曜日の午後1時から、E-テレ(NHK−教育TV)で資料から内村鑑三の生涯を再現しようとしておられる鈴木先生のお話が、「こころの時代」であり、内村先生も不敬事件の結果、教会からはじかれるようにして、無教会の思想へいたったあたりの説明をしておられた。おすすめしておく。

           あと、不敬事件とその背景に関する読み物としては、明治期から昭和初期までを含む国家とキリスト教の関係を概観できるマンガでもある。マンガとしては、やたらと文字の多いマンガ(このブログの著者が言うな、というのはあるが)である、「マンガで読む日本キリスト教史 タイムっち」も合わせて推奨しておく。

           ただ、個人的には、よほど聖書を読み込んでいない限り、おひとり様無教会は、お勧めはしない。なぜかというと信仰は共同体性の中ではぐくまれるからだし、内村先生も、うっとうしい教会の「やれこれをしろ」「やれこうでないといかん」「やれこういうことでないといかん」という「しきたり(律法と呼ぶ人もいる)」には辟易して、その挙句の果てに不敬事件で教会から追われるようにして、教会を飛び出しておられるものの、結局は信徒共同体「無教会主義教会」という表現上は実に矛盾した存在を実践なさっておいでであった。

           その意味で、キリスト教会は、個人の信仰を表明するものの総体という側面もあるが、共同体の信仰という側面もある。だから安易にやめない方がいい。これは素直にそう思う。そして、共同体を通してのみ感じられる霊性のダイナミズムもあると思うのだ。

           なお、もう物故者であるが、ミーちゃんはーちゃんのお知り合いにそれをかなり長期間にわたって、野山でのおひとりでの礼拝を実施された、いま生きておられれば、100歳を優に超える方を存じ上げているが、かなりきつかった模様である。

          クリスチャンはやめられるか?
           
           では、クリスチャンはやめられるか?ということを問うてみたい。個人的には、これは無理ゲー、だと思う。あなたが、神とともにいたいと思い、神の前に一度手を伸ばしたのだとすれば、クリスチャンはやめられないと思う。もちろん、自分で、「やめた」という振りをすることはできる。どこぞの教会の信徒から、「あなたは信仰の破船に遭った」とか、「クリスチャンと呼ぶに値しない」、「悪魔の手先」と言われようが、あなたの行動が、キリスト者として(一時的に)ふさわしい状態でなかったとしても、あなたはクリスチャン、ないしは、キリスト者であり続ける、とミーちゃんはーちゃんは思う。

          なぜか?

           神がそのように約束されたからである。もし、私たちが神のもとに立ち返りたい(悔い改めたい)のであるとすれば、辛抱強く神は我々を受け止め抱きとめ、憐れまれる方であるからである。旧約聖書を見られよ。神の民であったイスラエルが、何度裏切り、何度神の前に立ち戻ったことか。異教の神に現を抜かし、遊女に走り、不貞に走り、口寄せや霊媒師に走ろうが、神はそれでも民が神の前に戻るように説得され、戻った時には、受け入れたもうたからである。大体、イエスはこのようにおっしゃっておられる。
           そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
            (口語訳聖書 ヨハネ14:18)
          面白いことに・・・
           「教会 やめたい」、「教会 行きたくない」で検索してくる人はいても、当ブログに来られる方の検索語として、「クリスチャンやめたい」、「クリスチャン やめる」はめったにないのである。どうも、これらのことを考える限りにおいては、内村先生同様、うっとうしい教会での「やれこれをしろ」、「やれこうでないといかん」、「やれこういうことでないといかん」というしきたりに辟易してたり、教会内での人間関係に疲れが来ているだけなのだと思う。

           本来、イエスのことば
          マタイ  11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(口語訳聖書)
          であることばに従って、教会に行けば、こころを休ませるはず、と思ってたら、豈図らんや、かえって心が休まらず、「何だこれは」「これはいったい何!?」になった経験をした人は少なくないのではないだろうか。それで、「教会に行きたくない」になったり、教会 やめたい」という検索語につながるのであろう。



           次回「休ませてあげるのはだれか問題」へ続く


          補足
           無教会に内村先生が向かうことになった経緯に関して、下記のリンクで紹介しているご著書をお書きになられた鈴木範久先生が今週

          土曜日2014年10月11日(土曜日) 午後1時から


          のNHK教育(E-テレ)でお話しになられる。これは、昨日の朝5時から放送された番組の再放送である。非常に参考になると思うので、この連載に関係するので、ご紹介して、御視聴をお奨めしたい。

          http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-10-11/31/12966/

          こころの時代〜宗教・人生〜
          「内村鑑三 その面影をたずねて」




          内村鑑三先生のお写真



          お話しされる鈴木範久先生



          内村先生が発行された雑誌 「聖書之研究」


          幕末から昭和を生きた思想家でキリスト教伝道者の内村鑑三。その思想はいかに生まれたのか。丹念な資料収集や関係者の言葉などから浮かび上がった人間・内村の面影とは。

          立教大学名誉教授の鈴木範久さんは、半世紀以上にわたって内村鑑三を研究してきた。著作の研究だけでなく、内村が生きた時代の資料を収集し、内村の 足跡を実際に訪ねるなどしながら、内村がいかに生きたのか、また、その思想がどのように生まれたのかを明らかにしようとしてきた。厳しい人というイメージ もある内村はどのような人物だったのか。また、その信仰に基づいた生き方はいかに深まっていったのか。その面影をたずねる。

          【出演】立教大学名誉教授…鈴木範久,【語り】石澤典夫




          評価:
          岡田明
          キリスト新聞社
          ¥ 2,160
          (2013-04-25)
          コメント:内村が経験した不敬事件の背景を含め、明治国家とキリスト教、戦前の大日本帝国とキリスト教の概観にはわかりやすくて良いと思う。

          2014.10.07 Tuesday

          これから参加のイベントのご案内

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             ちょっこしご連絡したいことが。

            この週末からの3連休、参加するイベントがいくつかあるので、そのご紹介。


            まず、Love Japan



            John Piperの講演を聞きに行きます。いや、Piperが生でしゃべるのを見に行きます。
            日曜日の2時から7時くらいまでです。最後は、パスします。翌日があるので。
            こちらは締め切られた模様。

            そのあと、John PiperとJustificationで対論したN.T.ライトについての出版事情などが話される模様の第3回N.T.セミナーにおばあちゃんの銀座、巣鴨に行きます。




            こちらは、若干お席に余裕があるようです。当日参加でも構いませんが、一応、事前にメールでこの画像の連絡先まで、ご連絡いただけると嬉しかったりして。

            では、よい一日を。


            2014.10.08 Wednesday

            教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題

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                これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、 教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、 キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会 はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れること、について触れた。過去記事は、こちら。

              教会やめたい?(その1) 問題の着想

              教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


              休ませてあげるのは誰か?

               「休ませてあげるのは教会か?」「休ませてあげるのは教会の牧師か?」「休ませてあげるのは教会の信徒か?」問題であるが、答えは、いずれもNo!である。

               もちろん、そういう役割を果たしておられる教会があることは存じ上げている。それは尊いと思う。そういう役割を果たしておら得る牧師先生が居られることも存じ上げている。そいう牧師先生が居られるところの教会員の方は幸せである。信徒として、そのような神の民の回復の実現のために自ら、自主的に携わっておられる方もおられる。それも本当に尊い。頭が下がる。

               しかし、すべての教会がそうだと思って、教会に行ったり、キリスト者のところにったりすると、ろくでもない目に遭うこともないわけではないことは知っておいた方がよいかもしれない。

              教会は愛を語るところなのでは?

               教会は愛を語るところであるといわれる。もちろん、それはそうだ。しかし、それは人間の間の愛をも語るが、まず第一は、神への愛であるのではないか、と思うのだ。まず、そこが出発点ではなかろうか。神に対する絶対的な依存で神をドラえもんのようにあしらうのではなく、神に信頼を置き、信頼する神が一人一人の生を肯定し、関与しておられるというところから始まっている。そして、その神の愛のあとに続くものとして、被造物たる人への愛となっている。つまり、神への愛を語ることがまず第1で、そして、他者と私への愛の順ではないかと思うのだ。それを誤解している方が多いのではないか、と思うのだ。

               もちろん、キリスト教会には、お若いころの賀川豊彦先生だとか、大都会岡山で孤児伝道した石井十次先生とか、イギリスで孤児伝道したジョージ・ミューラー先生とか中国で孤児伝道した、ハドソン・テーラー先生とか、カトリックではマザー・テレサ等が居られるが、まず、神への愛、そして、人々への愛であったとは思う。ヒューマニスト、ヒューマニズムの方々がおっしゃるように、人の絶対化が先にありき、ではなく、少なくともまず神への愛があるような気がする。

              仏教の慈悲との違い

               ところで、先日、仏教者の方の研鑽会に横入りさせてもらった(こういうことするから、リベラルとか、エキュメニカル活動家というラベルを張っていただけるのであろう。何で参加したかというと、単純によく知らないし、もうちょっと知りたいし、面白そうだから参加しただけなのであるが)ときに聞いた話なのだが、仏教の世界では、「愛」は生への執着を生み、そして、苦を生む存在なので、非常によろしくないとされていたらしい。

               仏教的な背景の中で、善とされるのは、「慈悲」らしい。悲しむ者に対する憐れみ、無条件に生きるがゆえに苦しむ者に対する憐れみのこころらしい。苦しみの中でも、特に死というものに対して、失われることに対して、嘆き悲しむことの離脱ないしは解脱がいわゆる悟りの境地のようだと感じた。この研鑽会で、死とそれに伴う悲しさからの離脱ないし解脱を理想とするのが、どうも仏教的な思想らしいことが改めて感じられて、それはそれで面白かった。

               キリスト教は死の離脱ではなく、死を越えての神とともに生きる生に向かうところであり、生きるにしても愛するにしても、生の消滅そのものに向かうのではなく、神が関与するが故の愛、神が存在するが故の生、と考えるところが仏教とはかなり違うかなぁ、と思った。

              神のみが人を休ませるのではないか?
               根本的に、休ませるのは、人を回復させられるのは、神でしかない、というのがミーちゃんはーちゃんの当座の回答である。牧師でも、人でもなければ、人の集合の教会でもない。牧師や、信徒や、人や、信徒の集合体の教会の後ろ側にいて、それを支配していて、それらを通して個人に関与される神でしかないのではないか、と思うある。カランから出たアブラハムを、エジプトや迫害されれたイスラエルの漂泊する民をも荒野で、導きたもうのは神なのだ。いや、むしろ、神は人は、その居住が定住型であれ、そうでない状態であれ、神を離れては霊的には漂泊する存在ではないか、語っておられるような気がしてならない。

               アブラムは、カランという父祖の地を離れ、放浪の民となることであった。
               イスラエルは、自らをわが父はさすらいのアラム人と呼んだ。
               うまいものがたらふく食えたエジプトの地から出て、
               荒野をさまよう羽目になった。
               王国が建国したと思ったら、バビロンやアッシリアに連れ去られた。
               バビロンから帰ってきたとおもったら、またぞろローマに責められて、
               地中海世界のあちこちに散らばるはめになった。
               イエスはイエスで、人の子には枕するところすらなくといい、
               我らに向かって、「あなた方は世界に出ていき」と言われている。
               パウロは流れ流され、あちこちふらふらしていた。
              というようなことを考えると、漂泊する民となり、その中で、神とその関係を深めることを求めておられるような気がする。そもそも、神というお方は、彷徨うわれらにとって、砂漠のオアシスのような存在なのかもしれない。それは確実に変わらずに存在するが、我々が諸般の事情によりふらふらするし、せざるを得ないから(それは我らが義ではないから)こそ、放浪するものとして存在するのだろう。その時に、立ち戻るべきは、教会でも牧師でもなく、神なのではないか。唯一休むことができるとすれば、不動点でもある、砂漠の中のオアシスのような存在である神ご自身にもどること、すなわち神のもとに戻ることのみにて得られる神と非常に親密な関係なのではないか、と思う。

              おすすめ本

               このあたりのことを読みたい方は、ヘンリー・ナウエン著、工藤信夫訳 わが家への道 
              をご推奨する。お買い物は、こちらのあめんどう直販サイトで。3000円以上で送料無料ですし。この本1年ほど前までは、1年くらい版元切れになっていたので、ある時に買っておかれるとよろしいかと思われます。

               他のナウエン本、特に、ナウエンと読む福音書も、お勧めである。この本の英語版は、Finding My Way Homeであるが、割と平易であり、英文としては読みやすいものの、実に、味わいの深い文章で書かれている名著である。


               愛や休ませてもらうことを、信徒や、教会や、牧師に求めるのは、車のエンジン音がおかしい時に、その根本原因である車の修理をするために、修理工場に行くのではなく、車に関することだから、と自動車用品店に行って買ってきた消臭剤を置いてみたり、その音の不快さの原因を直さずに、その音がききたくないからということで、カーステレオで、大音声のヘビメタをかけまくるという行為と同じなのではないか。


               次回、教会やめたい? 教会内・教会外迫害?ということについて述べていきたい。




              評価:
              価格: ¥1,620
              ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
              コメント:よい。読みやすい。われらが返るべき場所は神しかないことを示すナウエンの名著。

              評価:
              H. Nouwen
              Darton Longman and Todd
              ¥ 1,208
              (2001-10)
              コメント:英語もそう読みにくくはない。平易でありつつ、味わいのある文章でもあり、英語が得意な方にはこちらもお勧めしたい。

              2014.10.11 Saturday

              教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

              0
                 これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れることについて触れた。


                教会やめたい?(その1) 問題の着想

                教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


                教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


                 今現実に教会から陸続と流出している状況を踏まえると、一種、教会内難民みたいな状況が実は発生しているような状況なのではないか、という問題について触れたい。

                教会から脱出し続ける、キリストが好きな人たち

                 「日本人の(福音派)教会滞在期間3年」「教会の賞味期限は3年」説ということがまことしやかに言われていて、日本人が教会に耐えられるのは高々3年であり、3年後にはほぼ教会から人がいなくなるという話がある。例えば、水谷氏のこの記事 マルタ依存体質からマリヤ体質へ福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化 の記事である。もちろん、学生の時に教会に行き、信じたものの、実際に就職し、仕事をし始めてみたところ、仕事が忙しく大変だったり、日曜日に勤務があるなど、仕事と教会の両立に耐えられないという現実もないわけではないだろう。

                 しかし、なんでこれだけ、教会から脱出して行くのか、と考えたら、もはや、「教会外社会や人から教会が迫害されている」、教会外の社会や人から「クリスチャンだから迫害されている」という部分も無論ないわけではなかうが、「教会やめたい?(その1)」の記事でも触れた、ある教会内でその特定の教会の(明文化されてないことが多い)規則に従順なクリスチャンから、その特定の教会の(暗黙の)規則に従順でないと判定されたクリスチャンへの(一種の)迫害というか、威圧圧力が発生していて、「まるで難民のように教会から陸続と脱出中という状況なのではないか、 と思われなくもない。

                同質化圧力の結果、押し出される人たち

                 というのは、ある面教会が内部論理の完結、内部の同質性の重視という性格をもった場合、幅ひろい他者を受け入れ、幅ひろい他者とその考え方を内包するのではなく、ある考えに従っていくようにかなり高圧的に仕向けていく、あるいは、違う考えを持つものを排除していくという特性を持ちかねない。この結果、ある考えを堅持したい信徒がある考えを尊重しないという理由で別の信徒を迫害することになりかねない。そして、あれかこれかの議論に終始したりすることもあるだろう。また、あれもこれもと含められるようなメタ思考ができなかったりする人もいるかもしれない。あるいは、他者を対等な関係でとらえるのではなく、一段低いものと見たりすることがあるのではないか。また、こころない信者の発言や言動に傷ついたりした方もあろう。クリスチャン2世であっても、その一族の中で、一番最初にキリスト者となった第1世代との聖書理解が違ってきてしまったために、教会から居づらくなって、押し出されてしまうように、ひっそりと教会を去る人はいるような気がする。

                 自分と考えの違う立場の人に、「福音派」とラベルを張ったり、「リベラル」とラベルを張ったりすることはないだろうか。実際にそういう言動を取ったりすることで、ある信徒群が他の信徒群を迫害していくことになりかねない。ラベルを張ってしまえば、自分と無関係にできてしまうのだ。そして、放浪者、難民の様にキリスト教界を漂う人々もいなくはないだろう。傷つけた教会だけが悪い、それは教会にあるまじきことだ、とはミーちゃんはーちゃんは言わない。これは、この連載で次回触れる。もちろん、こういう不幸はないほうがいいに決まっているが。

                 何、これはいまに始まったことではない。ちゃんと聖書の中に書いてある。

                使徒
                 6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。(口語訳聖書)

                Iコリント
                 11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。
                 11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
                 11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
                 使徒時代の当時から、物理的に排除されたり、軽んじられたりした人はいたのである。その意味で、この種のことは、いまの日本のキリスト教会に始まったことではない。

                傷ついて行く人々と傷ついた癒し人

                 あるいは、信仰の一環として、と思って捧げてたものが、別の一部の教会関係者のために流用されたりという事例に直面し、きよい人の集まりだと思ったら、とんでもない食わせ物がいたり、という教会の現実に躓き、倒れ、傷を負い、という事例も全くないとはいえないであろう。なお、自慢ではないが、ミーちゃんはーちゃんは食わせものの一人だと思って置いていただけると助かる。

                 クリスチャンではあることは続けたいものの、この種のことの躓いてしまったり、傷ついたキリスト者で教会を離れてしまった人も多いだろう。しかし、待ってほしい。あなたが傷ついた以上に傷ついた人、いまなお傷つき続けている人がいるのだ。

                 それはナザレのイエスなのではないか。あなたのために傷つき、現在のわれわれ一人一人の神の不在の状況と教会のこの現状に傷つき、それでもなおそれをご自身の受苦の一部として受け取っておられる方こそ、ナザレのイエスではないか。そして、ナザレのイエスは、その状況を回復されるとイエスがお約束であるがゆえに、ナザレのイエスは魅力的なのではないのだろうか。

                 このあたりを考えたい方には、英語が読める方だとThe Wounded Healerをお勧めするが、日本語版の傷ついた癒し人をご紹介しておく。非常に読みにくかったけど。

                日本語だと、イエスの御名で、の方がいいかもしれない。お買い物はあめんどう直販サイトで。

                 次回「誰も正しくない」へと続く。

                追記 2014/10/11:午後))
                 上のような例は、『迫害』とは言えないのではないか、というご意見も公開当日の午前中にいただいたが、実際には、やんわりとであれ、正面きってであれ、「出ていけ」と言われたり、「陪餐停止」「破門」を道具に反省を求められたりするケースがみられるキリスト教会などでは、迫害に類似、あるいは相当するケースもあるのではないだろうか。




                評価:
                Henri J. M. Nouwen
                Darton,Longman & Todd Ltd
                ---
                (2014-04-28)
                コメント:英語がよめる人は、これ読んだ方がいいかも。

                評価:
                ヘンリ・ナウエン
                あめんどう
                ¥ 1,026
                (1993-04-01)
                コメント:おすすめである。お買い物はできれば、あめんどうブックスで。

                2014.10.13 Monday

                教会やめたい?(その5) 誰もが正しくない

                0

                   これまで、教会をやめたい人が多いこと(その1)、教会はやめようと思えばやめれるけど、キリスト者はやめられないこと(その2)、休ませてあげるのはだれなのか(その3)、教会内の迫害かも(その4)という話をしてきた。

                  教会やめたい?(その1) 問題の着想

                  教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


                  教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


                  教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

                   ところで教会内における迫害は、正義、正しさの問題とどこかで裏と裏がつながっている、と思う。

                  迫害する側も迫害される側も
                  自分は正しいと思っているという構図

                   なぜなら、神に(真実に)従うが故に迫害されるのだ、という思いが迫害される側にあり、神に真実に従おうとするがゆえに排除(迫害)しなければならないのだ、という思い込みが迫害する側にある。まさしく、パウロなどは、回心前は、神に真実であろうとするが故に片っ端からキリスト者をユダヤ法(律法)に則り、検挙し、捕縛し、刑罰を加えていたのである。

                   しかし、迫害というか、威圧というか、人々を片隅に置くことは、「教会やめたい?その4」で使徒行伝の4章や第1コリントから紹介したように、そこに正義があるから、あるいは、神の義があるから、必ず、それが起きるのではない。いや、後ろ、意外としょうもないところで、しょうもないことを発端にこれが起きるような気がしてならないのである。相互理解の不足というか、誤解から生じる迫害というか、圧迫されたかのようになんとなく不安というか不満な状態に陥る、というのが、意外に大きいようにも思うのだ。

                  不幸な罵り合いじゃないすか?

                   不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いことを、キリスト教会は繰り返してきたように思う。最近では、ミーちゃんはーちゃんは、「福音派はアメリカのお馬鹿な人の集まり」とも揶揄されたし、「リベラル神学は悪魔の手先だ」と福音派の一部の人々からは言われちゃったし。

                   それこそ、ろくでもないキリスト教社会なのかもしれない。しかし、このろくでもないことを起こす人々を、神は愛した給うたのである。


                  Suntory BOSSのCF このろくでもない素晴らしき世界 大相撲篇



                   そして、はたから見れば、その「不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いもの」を迫害と呼んでよいのであろうか、とも思う。しかし、人間は主観に影響されるので、不幸な誤解とその結末を称して、迫害と呼ぶこともあろう。

                   「私自身(ないし、それを支える信念や理解のシステム 神学でも信仰の
                    内容でもよい)が(理不尽に)貶められた」
                      ↓
                   私と私の神が軽んじられた
                      ↓
                   これは私の神と私の信念(システム)が正しいが故の迫害である


                  となる人もいて、そして、このように思うと、お互いに罵り合う結果になりそうである。自分自身にこそ、神の義があると思うし、正しいと思うからこういう理解の図式になるのではないか。傍から見れば、なんと滑稽な図式ではないだろうか。小学生の兄弟同士が「お前の母ちゃん***」と言い合っているようなもんである。だって、同じおかぁちゃんから生まれてきたんだろう。その程度のことである。

                   お互いどっちもどっちなのである。神を除く人間すべてが「そう正しくない」のではないか。それを「どちらが正しい」、「どちらが聖書的だ」と言って張り合っているようにしか見えないのが残念でならない。まぁ、こんなことを書くから、「リベラル」だの「エキュメニカルの徒」だのというありがたい称号を賜るのだろうけど。

                  神はそんなに軽いお方か?

                   所詮、人間が人間に対して罵り合いをしているだけであり、神は、そんなことで貶められるようなそんな軽い存在なのだろうか。ダビデのような不敬虔ものの存在も含めて、神の民として、神はともに歩まれた方ではなかったのか。ふがいないイスラエルの民を、そしてふがいないわれらをも愛したもうた方ではなかったのか。

                  徒党を組む人間をも用いたもう神

                   とはいえ、現実社会において、教会の中で居づらくなることは起きる。それは教会といえども人間の集まりであるし、人間はあつまれば徒党を無意識的にであれ組む存在であるからである。そのことはちゃんと聖書の中で書かれている。党派心をもつもの。しかし、それを追い出せとは言っていないのではないか。パウロ先生は、ピリピ人への手紙で、

                   ピリピ
                  1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
                   1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
                   1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(口語訳聖書)

                  と書いておられ、ま、かなわんなぁ、とおもいつつも、まあ、神のことばが、それまで神のことなぞを知る由もなかった人々に、競争心や見せかけが出発点でも、宣べ伝えらているのなら、一応しんどいけど、OKじゃね、って言われているように思うのですね。ここで苦しめられるはずとされているのは、パウロであって、神ではないし、苦しめられても、まぁ、福音が伝わるなら、ま、OK、喜んでもいいんじゃね、とおっしゃっておられるように聞こえてしょうがない。無理やり、武士は食わねど高楊枝的な殉教者精神ではなく。

                   いや、「分派に関しては除名しろってテトスで言ってんじゃない?」って説もあろうけれども、これ、割と標準的な訳を読み比べて見ると面白い。

                  口語訳聖書
                  テトス  3:10 異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。
                  新改訳聖書第3版
                  テトス 3:10 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。
                  新共同訳聖書
                  テトス  3:10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。


                   まぁ、ミーちゃんはーちゃんには聖書翻訳をうんぬんしようとする能力も気力もないので、3つの翻訳がかなり味わいが違っていて、その違いが面白いなぁ、と思う、とだけはここで記載しておこう。多分、ここでの訓戒って、行政処分の時みたいに、一方的なものではないと思うのだが。むしろ、訓戒ということで、きっちり話せ、ということだろうと思うのだが。


                   次回は、一回軽めのネタを挟んで、次々回にやめたくてもやめさせてくれない教会について




                  2014.10.14 Tuesday

                  第3回ライトセミナーに行ってきた。前半

                  0
                     冒頭、この読書会の世話人代表の小嶋先生から、

                    来年にかけてライト元年になるのではないか。やっとSimply Christian が出版されるというところまできた。日本でライトが広く浸透するまでにかなり時間がかかっているが、翻訳書が出てくると変わるかもしれない。今回は、交流を主体にディスカッションを主体に行いたい。

                    というご挨拶があった後、早速パネルディスカッションの1に移った。

                    ライトの聖書理解、ってどう思う、座談会
                     第一部は、パネルディスカッションというよりは、ライトについて何でもありの一般読者から見たNTライト座談会という感じのセッションであった。20代から30代の神学生の方と男性信徒とと女性信徒の方がパネラーとして話してくださった。

                     まず、1999年ごろから読み始められた司会者の小嶋先生とライトとのかかわりのご説明があり、まだ日本であまり読んでいる人がなく、何となく、イメージ先行、評判先行という側面があるのではないか。ライトの聖書理解に関して誤解があるのでは。無理解がかなりあるのではないか、と問題提起された。
                     
                     以下のおまとめは、ざっとしたまとめなので、以下お読みいただく方は、読者の方はその点お含みおきいただきたい。

                    ライトの名前を聞いたのは、いつ?そして、その印象は

                     読書会のマクグラスのキリスト教神学入門を読む中で、史的イエスとサンダースとの関連で、ライトが言及されていたので知った、という方もおられましたし、NTライトのFacebook上の読書会で、面白そうなことをやっているなぁ、読書会の話が面白いと思って見ているとおっしゃる方もおられましたし、神学校で学んでいる中で、近年の義認論の修正の議論の中で知ったこと、従来語られている福音よりも、ライトの主張ははもっと広いのではないか、という印象を持っている、というお話がありました。

                    ライトって、どんなイメージの人?

                     司会の小嶋先生からは、「欧米のものを翻訳して用いられることは多いが、翻訳が普及し、人気が出るとマクグラスが典型的だが、一挙に著作がまとめて出る傾向がある。英米の神学者でも、翻訳されてない著者も多く、著作が日本語で翻訳されも日本で定着する人は少ない。そんな中での、ライトのイメージはどんな感じでしょうか」という問いかけがありました。

                    パネラーのイメージ
                     「組織神学のクラスで最近の英米系の神学者の議論を読んでいるが、影響力がすごくある人ではないかと思う。義認だけではなくて、聖書の見方を新しくして行こうとしているように感じる。そして、非常に幅広い人ではないか、と思う」というご発言もあった。

                     「別の方からは、これまでキリスト者として持ってきた概念に揺さぶりをかける感じがある。聖書の主張だ、と思いこんでいることに対して、揺さぶりをかけられている感じがする。とはいうものの、普段教会で聴くメッセージとライトの主張は、そこまで大きく違うのか、というと、あんまり変わらない気もする」というご発言もあった。

                     また、「ある方のライトの批評を読んだ印象からでしかないが、ある神学傾向に対して、ライトは聖書神学の立場から聖書から解釈をする場合、このあたりの整理が足らないんじゃないか、と指摘しているような気がする。あと、ライトさんは、特定の聖書理解はお好きではないなんだ、ということは伝わる。」と応答があった

                    ライトの聖書理解の印象ってどんなの?
                    ポイントって何?

                     司会の方から、「ライトの聖書理解は、信用していいのか。ここがポイントではないか。というあたりでどう感じておられますか、義認論以外の部分で、どこがポイントだとおもいますか。ライトの聖書理解はこんな感じではないかというあたりについてはどう考えておられますか」という発題があった。

                    パネラーのイメージ
                     ある方から、「聖書が神のことばという時に、神が示したという側面と、人が書いたという側面があり、その両方を持って聖書を見ているような印象がある。ライトは、(リベラル派の方が否定する)復活の際に、肉体の復活や、超自然的なことも重視し、否定しているわけではない。新約聖書を読んでいく時に、中間時代を重視しており、当時のユダヤ教にこだわっている感じがある。Simply Christianの中に現れた天と地の理解などは、あまり考えたことがなかった。天と地が一つになることが新約聖書に示されているという指摘は非常に印象的であるが、その様な理解にいまだ十分に批判的になれてない」というご発言があった。

                     別の方からは、「所謂無誤性、無謬性には、あまり触れておらず、むしろ、聖書の全体像のナラティブを重視している印象がある。特定の聖書理解では、この世界をネガティブにみる傾向があり、この世界についての神のみこころの実現という側面が抜けやすいのをストップさせてくれるという側面がある、という印象を持っている」というご発言もあった。

                     また別の方からは、「現在消化できていないのは、サンダースの言ったような理解をどうとらえるのか、というあたり。契約の民とユダヤ教文書と新約聖書との取り扱いをどうしたらいいのか、というあたりがよくわからない。サンダースについては、自分としては、少し警戒する部分もゼロではない。NTライトの議論は、すごく参考になると思いつつ、ちょっとだけ警戒心を持っている感じ」という主旨のご発言もあった。

                    NTライトに直接聞いてみたいことは?

                     司会者から「ライトがいたら、これを聞きたいとかいうことはどんなものがありますか。あるいは、ライトの本が来年にかけて、出版されるのだが、これをもっと知りたい、といったことはどんなもの?」という発題があった。

                    パネラーからの質問

                     ある方は、「NTライトは、いろんなことに対して書いていて、いろんなことを書きたい人であることはわかるのだが、ライトにとって何が中心テーマか、ということが聞いてみたいかな?ライト自身の歩みを知りたい。」というお話しがあった。別の方からは、「聖書をどうとらえているのか。聖書論でしょうが聞いてみたいかなぁ。刑罰代償説について、実際そこを聞いてみたい。」というご発言があり、また別の方からは「まず、日本語で読みたい。地に住みながら神の前に誠実に生きる、という生き方について、もっと知りたい。この地の生き方と、将来の永遠のいのちとの連続性について聞いてみたい」という話が出ていた。

                     司会者の小嶋先生から、「フロアからの感想や疑問について、お聞きする前に、ライトの自叙伝はないが、自伝的な文書がNTWright.comにあり、カナダにいたころ、世界観的アプローチをするようになり、この世を大事にしようと主張し始めている。ライトは、自分のことを講演などでは、結構しゃべっている印象がある」と応答があった。

                    フロアからのご発言要旨
                     ある牧師の方から「史的イエス研究では、シュバイツァーが有名であるが、ライトは、その人たちとも対話しようとしている雰囲気がある。聖書を読んでいく時、イエスの主張の中には、王として、イスラエルの王としての側面があるが、これは政治的なメッセージでもあった。イエスはこの地上で、内側から変えていくのかということを説かれた方ではないか。しかし、あるグループでの伝統的なキリスト者理解は、この世にたして預言者的、批判的な立場をとるように教えられてきたが、それ以外の立場の取り方があり得るかもしれないと思うようになっている」というご発言があった。

                     このご発言に対して、小嶋先生からは、「パウロと史的イエスがN.T.ライトにとっての大きなテーマであるとおもう。The New Testament and the People of Godの後に、イエスと神の勝利などがあり、キリスト教と政治の問題を扱っている。政治とキリスト教は分離しているのはまずいのではないか、と思っている節がある。」という趣旨のご発言があった。

                     別の方からは、「ライトを一読者として見ていると、ストーリーやものがたり、Narrativeという要素が強くあると思う。これまで、信仰のみ、といった時に、神の国の関与という側面、特に行いと信仰の一体化というような部分が意識されてないのではないか?とライトが主張している印象がある。」というようなご発言があった。

                     また別の方からは、N.T.ライトという存在を教義学者だろうか、聖書学者と捉えるのが良いのだろうか。」という問いもあった。
                     この問に対して、司会の小嶋先生から「新約聖書学者といえよう。史的イエスとパウロ研究では指導的学者であると同時に、教会人でもあり、キリスト教界の指導者としての側面もある。さらに、専門書を書く教師・学者でもあるが、一般向け著書も多い。現代の脱キリスト教化しつつあるヨーロッパをもう一度、キリスト教の世界に引き寄せようとする印象がある」という応答があった。

                     というあたりが、第1部のおまとめです。第2部については、もうちょっとしてから公開します。

                     ネ、面白そうでしょ。はしょった部分もかなりあるので、それは参加しないと、わかんないかも、です。ぜひ、次回は時間が許せばご参加いただきたく。






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                    コメント:買ったけど、睡眠導入剤になっている。字が小さい、分厚い、重い。日本語訳が出ると嬉しいなぁ。

                    評価:
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                    ショップ: 楽天ブックス
                    コメント:割と読みやすかった気がする。The New Testament and People of Godに比べての話しであるが。キリスト者とはどういう存在か、ということを示した本。

                    2014.10.15 Wednesday

                    離れても好きなイエス またまた不謹慎系替え歌歌ってみた。

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                       ここの所、厳しいネタが続いているので、ちょっとほっこり、にんまりするようなネタも。

                       教会から、追いやられてしまった人、追いやれもなお、イエスが好きな人を覚えて、ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」の替え歌で、「別れても好きなイエス」の不謹慎系の替え歌を作ってみた。曲も、結構シブ好みだが、かなり流行った歌なので、どっかで聞いたことがある、とおっしゃる方もいるだろう。

                      離れても好きなイエス


                      離れた教会入った 離れた渋谷で入った
                      離れたときと同じ 雨の朝だった
                      傘もささずに新宿 思い出語って富士見坂
                      一人の信者にかえって 福音書をよんだ

                      やっぱり忘れられない 変わらぬやさしい言葉で
                      私をつつんでしまう だめよ弱いから
                      離れても好きなイエス 離れても好きなイエス

                      歩きたいのよ高輪 鐘がなっている鐘楼(タワー)
                      おもいがけない日曜の 神との再会ね
                      ちょっぴり寂しい四谷 いつもの新宿通り
                      ここでさよならするわ 雨の朝だから

                      やっぱり忘れられない 変わらぬやさしい言葉で
                      私をつつんでしまう だめよ弱いから
                      離れても好きなイエス 離れても好きなイエス
                      離れても好きなイエス 離れても好きなイエス


                      まぁ、これ、教会やめたい? シリーズの延長ってことで。

                      笑い飛ばしていただけたら幸甚。


                      ロス・インディオス シルビアによる元歌「別れても好きな人」


                      元歌詞はこちらから。
                      http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31944




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