2014.08.02 Saturday

上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2

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     前回に引き続き、上智大学大阪サテライトキャンパスの公開講座川村教授後担当分の参加記の後半をご紹介いたします。今回は、カトリック学校での教育とコンフラリア・ミゼリコルディアとの関係についてでした。


    19世紀初頭の横浜での活動

     横浜開港150年ということで、昨年講演を頼まれたが、この横浜に来たのは、ジラール神父、プチジャン神父と5人のシスターたちで、マチルダたちを呼びよせている。そして、孤児院を建設始め、仁慈堂となずけて初等教育的なことをした。同様の仁慈堂という建物が、マカオに存在した。マカオの広場の隣に仁慈堂が存在している。実は、この仁慈堂そこ、ミゼリコルディアである
     明治時代の教会のあり方のひとつとして、仁慈堂を考えてきた。最近、アジアのイエズス会系の大学が集まって、カトリック教会と教育を取り扱い、理解を討議する場があったが、それを機会に、教育面から宣教を再検討する作業を試みた。日本をロバート・オゴーマンという教育学者の教育と社会とのかかわりを考えるフレームワークを援用すると、カトリックと日本社会の関係は次の3期に分けられよう。

    近代日本のカトリック教育にみる
    伝道アプローチ
    第1期    明治初期 個人の魂の救い
    第2期    社会に近づく
    第3期    社会の中で

     カトリック教育の分岐点 1890年 明治30年 大日本帝国憲法制定の翌年が第1期と第2期の境界線とできよう。

     第1期は邪宗教というものが日本社会に入っていく時代であろう。1873年に高札の撤廃がなされたが、これは、高札によるキリスト教邪教という布告をやめただけである。それが証拠に、五カ条のご誓文では、キリシタン禁制は続いている。

     秀吉以降、為政者は民衆に対する影響力を恐れ、宗教は困るという立場を取り続けてきた。日本では希少性の高い、欧米の文物は欲しいけれども、キリスト教はいらない、ということになる。その結果、明治期は神道中心の宗教政策へとなり、廃仏毀釈運動なども見られる。明治の初期には、寺院が相当破壊されている。その意味で、皇道思想は、反キリスト教思想であり、キリスト教を受け入れない思想でもあった。

     ところで、横浜の外国人墓地には、3種類の系統の人の墓があり、その一つはフリーメイソン(文化やビジネス・技術)であり、文化やビジネスを持ってくる西洋人のみ受け入れ
    その中で、シスターマチルダたちは、国家に対抗できない、個人的な魂の救いと底辺層への浸透を目指して活動していく。

    パリミッションとコンフラリア的特徴

     第1バチカン公会議では、人間中心主義に反対し、その結果もあり、聖俗2元論的な考え方が強かったフランスの宣教師たちがやってきている。このタイプの聖族2元論的な立場の人々は、聖と俗とを分けたいという傾向をもつ人たちであり、非常に厳しい規律をもつと同時に、社会に対して閉鎖的な教会運営をした。

     そのなかで、目の前にいる人たちの魂の救いを示そうとして、慈善事業に向かったのだろう。しかし、その教育は、初等教育レベルであり、パリミッションは学校を作らなかった。マリア会が最初に学校を造ったし、フランス系の神父たちは、魂の救いしか考えてない側面がある。慈悲のわざを中国インドで実践している。

     オペラ・ミゼリコルディア(慈悲の心の実践)として、孤児やハンセン病者の世話をしている。しかし、その活動範囲は、居留地から40キロの範囲であり、その範囲内を黒服を着てを歩き回った。その意味で、パリミッションは、ミゼリコルディアと同じものを目指し、長崎や大分など九州で行われていたミゼリコルディアと同様の動きをした。そもそも修道会自体が、コンフラリアと同じ側面をもつ。

     シスター山上カク(横浜)は日本のマザーテレサ友呼ばれるが、その活動により洗礼したものは568名であったし、シャルトルの聖パウロ会は函館で孤児院運営をしている。幼きイエズス会は、神戸で孤児院運営をしているし、男子トラピストは、一般教区をするか、観想修道会、孤児院するかでいろいろ議論があったものの、最初は孤児院していた。

     その面で第1期の大日本帝国憲法、私立学校令が出るまでのカトリック学校は貧者や孤児のイメージと直結していた。

    国粋主義化する日本の中で

    第2期(1890年以降 教育勅語 訓令12号(私立学校令)の時期)
     1887年条約改正がうまくいかなくなり社会としては国粋主義に向かう。
     公立私立を問わず、宗教教育と宗教儀式を禁止している。多くの学校は社会への迎合しているが、明治学院と青山学院は抵抗したものの、それ以外は抵抗せしなかった。

     カトリックを見れば、第1バチカン公会議でローマ教会の中央集権化の徹底が図られ、その結果としてヒエラルキーの重視が進められていく。ヨーロッパ式の教会を日本に造るということで、社会に出ていくというよりは、復古的、教会に立てこもる傾向があった。

     長崎の教会群は、1890年以降の建物で、ちゃんとした教会建築に乗っ取った教会を作れ、ということになってできたものであり、それ以前は民家で実施し、民家の共同体をつくっていった。洗礼志願時期を希望者には求め、儀式が重視されて行くことになる。

     1889年以降、カトリック系の学校の生徒の総数が伸び悩む。カトリック学校の生徒の出身家庭の中上流化が進んで行き、学生層が変わっていく(伸び悩むから)。ある面、キリスト教のイメージをどうするか、ということで、後期キリシタン期に、大名や有力者への伝道が行われて行く16世紀と同じことの繰り返しが起きているのではないか。

    高等教育機関を中心とした動きへ

     カトリックのインテリ中心の運動、思想的な運動は、この後、上智大学とイエズス会、聖心会が高等教育機関を造る気で日本に来て以来であり、そもそも、貧しい人たちのために来たわけではない。その面でこの時期はコンフラリア・ミゼリコルディアの精神は失われていたといえよう。

     正攻法(弱者への伝道)をしつつ、現実社会における影響力を持つということは両立が難しい。16世紀、20世紀でも弱者から社会の上層へという伝道のブレを繰り返した。そうならざるを得ないものがあった。その意味で、キリシタン時代と同じような歴史が繰り返されている。要はバランスかもしれない。現代のミッション学校の中にも貧者救済をもたないといけないのではないか。そういうのを歴史が教えてくれるのではないか。

     カトリック信仰としては、最も小さいものに何かすることが最大のこと。それを往々に放棄しないといけないことがあり、それは、ある面、質的拡大なのか、量的拡大なのか問題とも関係している。


     第3期(太平洋戦争以降)
    高等教育を中心に社会の中に入っていくことを模索している。ミッションが大衆の中に入っていく一つの方法としての教育があるだろう。(時間不足なので、また別の機会にということでした)

    質疑応答の時間
    Q 周辺の社会的なところに入って行って伝道するというのは、賀川豊彦的な大衆伝道との相似性や類似性はあるのだろうか。
    A. 精神としては共通性はある程度あるだろう。

    Q.現在の行き詰まりがあるとおかんがえでしょうか。
    A. 行き詰まりがあるとしても、貧しい人への伝道と、社会に影響力のある人への伝道と両方やってないとだめだろう。そうでないという人たちもいてその辺のバランスが難しい。両方あるなど、社会の中に出ていく方法として、是かあれかではなく、いろんなものがあっていいのではないだろうか。

    Q. 教会の高齢化があるが、そのなかでなにをすればいいのだろうか。

    A. まず、自分たちで何ができるかを考える。必ずしも司祭にべったりでなく、グループでなにかできればいいかなぁ。と思う。そもそもコンフラリアには司祭は入っていなかった。コンフラリアとして、葬儀屋を手伝うグループ等もできているところもある。そこでは、自由になる時間で、手伝いをする発想的にはミゼリコルディアに近いものがあるようだ。
    コンフラリアから17世紀18世紀になると、敬虔な女性たちがコンフラリアのまねしたっくなって、修道会を造っている。フランスの女子修道会等で多いのだが、そもそもは信徒の共同体なので、シスターたちから取り戻してみればいいのではないのだろうか。フランスで修道会がやたらとできているのは、もともと信徒がやってたものが、修道会を造る格好になっている。シスターも高齢化しているのでいまがチャンスかもしれない。信徒ができる範囲でやっていくことでいいのではないだろうか。東日本大震災のボランティア、あれは信徒運動で現代のコンフラリアなのではないか。こういうあたりのことを忘れないでほしい。

     戦後のイエズス会の特徴として、エリート養成をしないといけないので、優秀な人を入れましょうというノリで教育していた。そもそも、宗教学校を造るとも思ってないいなかったようである。信者でなくてもいい。キリスト者を増やすのが学校の目的ではない、それでよしとしていた。一流の学校にはなるけど、信者が一人もでないという学校になっている学校も多い。その面で、教育という面では成功した、とは言えるかもしれない。

    ミーちゃんはーちゃん的感想
     いやぁ、カトリックはカトリックで、お悩みが深いというのが受け取れたように思います。貧者・困窮者への伝道なのか、社会的エリートへの伝道なのか。この種の路線対立、カトリックの中でもあるんだ、ふーん。とは思った。

     ミーちゃんはーちゃんは福音派の片隅で、それもこれまで、特に15年戦争後は、貧者・困窮者への伝道を中心としてきて、植村正久先生からは、来るなと言われた人たちが中心になって、そういう人たちを中心に伝道してきたため、ちっと学のある人たちは、居心地が悪くなっていつのまにかいなくなったことの多い(多分、学歴へのやっかみやら、信仰は学問と違うとか、学のないのが信仰的だとか、言って、否定的なことなどをいろいろと言われたりすることが多かったのではないかと思う)集団にいるので、そもそも、社会的エリートと呼ばれる皆さんへの伝道はあまり考えることなくきた。少数派だったしね。そういう人が。その結果、某旧約聖書学者で、うちの関係者だった人(今は別のグループでご活躍中)はいる。

     イギリスだと、F.F.Bruceは、珍しく最後まで、うちのキリスト者グループに残った珍しい人物である。

     その辺、学術というものを以て、社会のいわゆるエリート層への伝道が構想できたのは、カトリックならではなんだろうなぁ。とは思った。うちなんか、構想すら無理に近い。ちなみに、アメリカのハーバードにしても、イェールにしても、もともと牧師養成学校がその運営母体でもあるのだなぁ。

     それでも、上智大学を作り、様々の高等教育機関や進学校を運営しても信徒はあまり増えない。上智大学やら○○学園からを運営して宗教教育は一応はするけど、学校卒業や大学卒業とともに、宗教教育の影響は極めて薄くなっていく。それでも運営し続けるのか、という意見も浴びながらだから、まぁ、これらの学校も大変だわね。

     今回で、重要だなぁ、って思ったのは、貧者への伝道、社会的エリートへの伝道、どっちが大事か、ということではなくて、両方とも、バランスを取りながら進めていくことが大事、カトリックもこの両方の間を振り子のように触れてきたという側面、そして、これから、貧者・困窮者、そして社会の指導者層ともに、という両にらみ大作戦の重要性が日本のカトリック教会の歴史学者としての川村先生からお聞きできたことは何よりであった。ま、イエスは、すべての人の隔たりをはずすために地上に来られたんだしね。



    2014.08.04 Monday

    献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(1)

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       以前の「教会が私を愛してくれない症候群」シリーズで、Moonlightingに出てきたワンシーンで、Bruce WillisがCybill Shepherdをかばいながら、「これから、あまり負担のなく、加盟にそれほど時間がかからない西洋型の宗教に参加する」といっているシーンの話を書きながら思ったことがある。それは日本人の若者(だけとは限らないが)宗教とそこに関与する行為に伴う負担、宗教的な施設と金銭にかかわる問題を考えてみたい。

      日本人と宗教施設とのかかわり

       日本人のかなりの部分の若者や一般の皆様が、神社、仏閣といった伝統的宗教団体の施設とかかわるのは、年に1回から2回程度ではなかろうか。まぁ、学校に通い、通勤しながら、阿舎利のように密教的な千日回峰をするエキストリーム通勤やエキストリーム通学をしている人はいないだろう。ちなみに、京大の北東の隅の百万遍の角からちょっとはいったところにある和菓子屋の阿舎利餅はうまい。

       その意味で、1月1日に初詣に神社や仏閣(仏閣が入るというのも神仏混淆がすすんでいる日本ならではかもしれないが)に行く時、旅行で旅先で訪れるとき、親類の七五三(なお、同志社の創始者 「新島襄」として知られる人の幼名は、「新島七五三太(しめた)」というのは有名な話)で神社に行く時か、神道式の結婚式に呼ばれた時や、恋愛祈願や合格祈願で神社に行く時ぐらいだろう。

      東京神学大学
      合格祈願絵馬の謎ww

       以前、「東京神学大学に受かりますように」と書かれた絵馬をネット上で見たときには、衝撃(笑撃ww)を受けたなぁ。絵馬は神社に奉納するもの、という感覚のない方が、東京神学大学をご受験なさる。そもそも、万軍の主(YHWH)により頼む人が行く学校じゃないのかなぁ、東京神学大学って、正直思うてしもうた。

       神社に行き、YHWHならぬスサノオノミコトとか、ヤマトタケルノミコトとか、タケミカツチノオオカミとか、菅原道真公に祈願するって、おい。

       こないだツイッター見てたら、「YHWH=アマテラスオオミカミ」説でてたしなぁ。いちお、アマテラスオオミカミは女性神のハズです。www 古事記をよく読みましょう。

      葬式すらお寺でしなくなった日本人

       昨年、いのフェスでであったお寺さん(仏教僧)の方々とお話ししているときに、「いやぁ、最近、お寺でのご葬儀、少ないんですよ。○○会館とかでやっちゃう。葬儀のために貸してください、と言ってくれたら、どうぞどうぞ、というのに」というお話をお伺いした。

       そう、近代の日本では、葬儀すら、商品化され、脱宗教化しているところで(なぜか会館と呼ばれるところで)行われる。こういう葬儀業者(そーいえば、『おくり人』という映画がはやりましたなぁ)が運営する会館で行われる葬儀には、なぜか、お寺さんが呼ばれていることが多い。まぁ、今日では、家族葬とか、友人葬とか、無宗教式葬儀(正確には、仏教式もどきの汎宗教式)も増えつつあるが。

       まさしく、こうなってしまえば、誠に「縁なき衆生は度し難し。」がことば通り実現しかねないいることになる。AEONさんも、誠心誠意御取組みのようですし。なお、このことばを知ったのは、下記の「日本人とすまい」という本であった。もう、30年以上も前の話だけれども。

       なお、いのフェスでお会いした仏教僧の方々は、「坊主丸儲け」なんてことはなく、結構大変な思いをしておられるとのことであった。実感がこもってたなぁ。

       ちょっと前のNHKのクローズアップ現代で、出家詐欺と非活動宗教法人の話が出ていたが、この背景にも、お寺と日本人の関係が薄くなったことの影響も大きいのだろう。

      合格祈願、恋愛祈願、初詣
       さて、こうなってしまうと、日本人(特に若者)と宗教施設としてのお寺、神社とのかかわりで、金銭がかかわるのが、いわゆる祈願もの(合格祈願、恋愛祈願)と初詣になりそうだ。

       無論、千日回峰する人もいるだろうし、滝に打たれる人もいるだろう。あるいは修験道の山伏の道を究めようとする人も。しかし、人口50%以上の人々は、年に一回、初詣に行き、賽銭チャリーン。パンパンパン。おみくじガチャガチャ、とするくらいだろう。また、受験期の前に合格祈願、婚期に合わせて恋愛(良縁)祈願に行くくらいが関の山、というところだろう。まぁ、相撲は神事であるから、大相撲に行くのも、宗教行事とも言えなくはないが。

       これが標準的な人々の行動となり、日本の人口のかなりの部分を占める皆さんの宗教施設や宗教とのかかわり方だろう。

       となるとすると、こういう人たちの中で育ち、このような文化的、精神的背景を持った多くの若者が教会にもお越しになる、ということを前提に、教会は取り組みを始めたほうがよいのではないだろうか。なんとなくフラットで気軽でお手軽な関与を求めた人々が教会に来る、そこに昭和的暑苦しさをもった説教アプローチというのはどうなのだろうか。

      次回へと続く







      評価:
      上田 篤
      中央公論社
      ---
      (1996-09)
      コメント:日本の都市論の一つの視点

      2014.08.06 Wednesday

      献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(2)

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         前回の記事では、日本の若者を中心とした宗教施設とのかかわり、多くの人々にとっての宗教元体験について、触れた。そして、それが非常にカジュアルなものであることもお話した。


         YHWHの愛と神仏との
        日本的かかわりかたの違い
          「教会が私を愛してくれない」シリーズでもふれたがキリスト教の愛は、神と人がもうちょっと相互に深く関与することと深く結び付いている。いまの日本の人口のかなりの部分を占める皆様の神社仏閣とのあっさりとしたかかわりよりも、はるかに濃密なのだ。悪く言えば、バタ臭いほど濃密な関係なのだ。

          もちろん、ミーちゃんはーちゃんがお付き合いのある仏教僧の皆さんや、ムスリムの皆さん、何らかの形で社会との関係性(おりあい)の悪い宗教関係者集団 (特に新宗教、新新宗教に多いらしい)の信者さん、そして、キリスト教徒のかなりの部分では、大多数の日本にお住まいの皆様の神社仏閣とのかかわりより、 より真剣なかかわり方をしてこられているはずである。大多数の日本にお住まいの皆様の対応がおかしいと主張しているのではない。上記のミーちゃんはーちゃんがお付き合いのある仏教僧、ムスリム、新宗教関係者、キリスト教の皆様方の多くは、真剣にかかわっておられる方が多い。

        多くの日本の方にとってどうでもいい宗教世界

         しかし、多くの日本人にとって、信仰とは、日常生活とは割と直結してない「どうでもいいこと」であり、どれかの世界観というか、信仰と正面切って取り組んで、精根尽き果てるまで取り組む人はさほど多くないのではないだろうか。

        賽銭感覚の献金

         そうなってくると、おおむね人口の50%以上を占めるとおもわれる(敬虔な仏教僧、ムスリム、新宗教関係者、キリスト教の皆様方を除く)日本人と宗教的施設とのかかわりは、非常にカジュアルで、一時的なもので、気軽なもの、になってしまう。

         お願い事があると、チャリン、パンパン、初詣でチャリンパンパンである。(なんか「きゃりーぱみゅぱみゅ」みたいだ。そうか、彼女は、すでにアイドル(≒偶像)だし、「ネ申」かもしれない。Cawaiiガールズにとってのではあるが)

          この程度の気軽さでの宗教体験が多くの日本の若者の宗教原体験である以上、「毎日聖書を読め」、「毎日お祈りしましょう」「暗証聖句を覚えましょう」、「献金は定期的にしましょう」、「聖潔が大事」とか、神との関与(聖書でいう「愛」とか「義」と深い関係にある)を求めたり、結構めんどくさいことをいうキリスト教会は、教会に行っていることで、かっこよく見せたいだけの若者にとっては、暑苦しい存在に見えるだろう。だからこそ、教会を3年で卒業は当たり前なのかもしれない。所詮、多くの人々にとって、宗教施設と のかかわりは、カジュアルで、一時的で、お気楽なもの、ファッションや麻疹の一種と理解されているのではなかろうか。そのような人が、賽銭感覚で、キリスト教会での献金をとらえても、だれが それを責められようぞ。

        加持祈祷と献金、
        そして聖書を用いた祈り

         密教的な「加持祈祷」と聖書の言う「祈り」を混乱しておられたキリスト者の方と以前お会いしたことがあるが(mjd)、まともに、聖書の言う「祈り」に深く思いを巡らしたり、下記に紹介する目からウロコ 聖書の読み方―レクチオ・ディヴィナ入門 もあまりプロテスタントではご存知ないご様子の信徒の方も見受けられる。

         教会で暗唱させられたりはするものの、「主の祈り」の詳細な説明を受けたり(受けているが寝ている場合も…)することもあまりないかもしれない。

         こうなると、プロテスタントの一部では、「病気のために祈ってください」とか、「知り合いの受験のために祈ってください」、「信者じゃないけど、よい伴侶が与えられますように祈ってください」とか、加持祈祷もどきの祈りのリクエストが牧師に寄せられるのも無理のない話。

         あー、どうせなら、教会の中に護摩壇作って、うる星やつらのさくら先生か、錯乱坊のコスプレして御幣もって「怨敵退散、怨敵退散」ってやります?(しかし、例示が古い・・・ そんなもん、するわけがないし、ミーちゃんはーちゃんは絶対にしない)

         

              錯乱坊      サクラ先生


          しかし、加持祈祷的な要素を牧師とか宣教師に求めて、教会に来る人もいなくはない、という現実を知ってしまうとねぇ。実は、「聖書の神は、全知全能のもの すごい神なんでしょ。毎週教会行く人のお祈りなら、神様も聴いて下さるに違いない。だから、祈ってもらえませんか」とミーちゃんはーちゃんは頼まれたことがあります。個人的な聖書理解との一致がないので、やんわりと お断り申し上げましたけれど。牧師とか宣教師は、皆さんのYHWH様への伝言取次人、あるいは代理人ではありません。

         その挙句の果てに、「先生、この前お祈りしていただいたおかげで…」お礼としての献金を持ってこられる方もいらっしゃる、らしい。お礼詣り(お金も、暴力も)は、結構です。熨斗を付けて御返奉候。

         このあたりのカジュアルさでの素朴な信仰とのかかわりの持ち方が続いているところに、聖書やキリスト教の誤解が加わってさらにパワーアップして変質しているケースが多いんだろう、と思うと、頭を抱えたくなる。

        カジュアルでない聖書の神の愛

         さて、ここで、もう一度聖書の言う神の愛に戻ろう。先にも述べたように、神の愛は、カジュアルなものではないのだ。神が真剣勝負であられる以上、真剣勝負なのだ。人間は、カジュアルにしか神を愛せないとしても、神の愛は真剣勝負なのだ。

         その意味で、キリスト教は暑苦しいほどの(あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。(新共同訳 出エジプト 34:14)口語訳や新改訳は『ねたみ』と訳出している)の愛をもって我々を愛されるということは、もう少しきちんと我々は理解したほうがよいのかもしれない。

         神の愛に応えるとは、倫理的に生きるでもなく、そのまま愛されて生きるでもなく、もっともっと真剣勝負なのでもあるということを、もう少しキリスト教会はきちんと言った方がよいかもしれませんねぇ。

        次回最終回へと続く






        評価:
        価格: ¥810
        ショップ: LAWSONほっとステーション
        コメント:ポイントを押さえて読める本。カトリックにあり、プロテスタントにない霊性をもう一度見直してみることができるかも。

        2014.08.09 Saturday

        教会が言うべき8つのこと

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           今日はシリーズ途中ですが、いつも愛読しているソジャーナーズのブログに大変面白い記事があったので、載せておこうかと。【】内はミーちゃんはーちゃんの突込み。

          読んでみた感想
           まず、お詫び申し上げます。調子が狂って、播州方言で変換してしまいました。何で播州弁で書く気になったのか、もう忘れてしまいました。まぁ、参考までに播州弁(最下部に載せてあるよ)にしたので、標準語のお好きな方は以下の要約のみにて。
           
           これまで、本来やるべき事でないことを教会がし続けてきたことを批判しておられる。教会が語るべきことは、本来あんまり多くなくて、本来のイエスの言葉に立ち返り、それを述べることだとしておられる。

           イエスを述べること
           他者を受容し、他者を受容する心をもつこと
           神がわれらにして下さった経験
           他者への傾聴
           現実社会への視点
           聖書の神、即ちわれらの神
           神とともにいる喜悦と苦しみ

           
           あと、キリスト者として地上の問題と積極的にかかわっていくことが重要であるのではないか。制度をいじるよりは、われらのありさまを見直すほうがよいのではないか。神から来るものは、あるいはイエスのことばによって、われらはきよいものとして(本当はきよくないけど)、一つにされたのではないか。本来人間を神の中にあって一つとする、キリストの体にするものが神からすでに来ている(神の支配、すなわち『神の国』が到来している)のはずではないか。

          ミーちゃんはーちゃん的感想
           こざかしい方法論とか、小賢しい聖書理解の多寡とか、自分たちが聖霊に満たされている程度といった自分たちが神としているもの(本来であれば神としてはならないもの)を捨ててきちんと聖書を読んで、われらがどう考えるのか、ということをともに教会の中で分かち合う場であるだろうし、そして、そのことを考え、そもそも自分たちが、それぞれの場所(一か所ではなくて、数多くあるいわゆる目に見える教会群)に集められているだけであることを認識し、そもそもこのようにわれらを集めた人とは誰なんだ、それはイエスだ、っていう場が教会なのではないだろうか。
           
           NTライトの読書会で、今読んでいるところでは、これまで、我々は、ペテロが漁師をやめた直後の時代にしてきたこと、すなわち伝道(人を魚のように捕まえる)ことばかりしか考えてこなかったが、イエスが上方に帰還する前に最後にペテロに言ったことは、牧会するものになりなさい(人をきちんと世話しろ、イエスの羊を飼え)、ということであったことが指摘されていたが、日本の多くのキリスト教会での不協和音、信徒さんたちの嘆き、不満、つぶやきを考えるとき、我々は、魚のように人を集めてそれで終わってないだろうか。そして、腐らせている人、逃げ出す人、いなくなる人、カラスやトンビやカモメに取られちゃった人なんかを大量に生みだしているのではないか、と思うのだ。

           それ、私たちの仕事ではなく、牧師の親分であるペテロさんに言ったこと、牧師さんに言ってくだされ、と言うかもしれない。本当にそうだろうか。それでいいのだろうか。もし、そういうのであれば、カトリックに改宗したほうがいいかもしれない。いまだにローマ教皇様は、ペテロの正統な後継者でいらっしゃるそうなので。もし、あなたがプロテスタントだとおっしゃるのなら、信徒でも、その飼うもの(というよりは、他人をケアするもの)としての役割も神からちょっぴりだけだけど委ねられているのではないかなぁ。違うかなぁ。
           

           

          8 Things the Church Needs to Say

           

          If Christians stopped bickering about church, presenting sex as a first-order concern, telling other people how to lead their lives, and lending our name to minor-league politicians, what would we have to say?


          We need to figure that out, because we are wearing out our welcome as tax-avoiding, sex-obsessed moral scolds and amateur politicians.

          In fact, I think we are getting tired of ourselves. Who wants to devote life and loyalty to a religion that debates trifles and bullies the outsider?

          So what would we say and do? No one thing, of course, because we are an extraordinarily diverse assembly of believers. But I think there are a few common words we would say.

          1. We would say the name “Jesus.” We might mean different things by that name, but he is the center, the reason we exist.
          2. Allowing ample room for our diversity, we would say what we mean by faith in God. Not how right we are and how wrong others are, but an I-message: Here’s why I believe in God.
          3. We would tell stories about God’s impact on our lives. Not grand doctrines, not airtight theories, not definitions of who’s inside the circle and who’s outside, but stories of personal encounter.
          4. We would listen to other stories, respectfully, not defensively, eager to hear what our fellow Christian has to say.
          5. We would each tell as honestly as we can how we are trying to lead our lives in the light of our encounters and stories. We would sketch the bridge between faith and action.
          6. We would tell what we see in the world ― not in the woe-is-me, sky-is-falling, Satan-is-winning manner people expect from us, but just what we see and how we think God cares about it.
          7. We would speak of hope, a durable, solid-rock hope that God is God, and God can use us to make a difference.
          8. We would talk of joy. Not giddiness, not even happiness, as the world understands happiness, but that deeper response to God that feels whole and peaceful.

          Personally, I think these eight things are what we ache to say. They are why we walked in the door of a church in the first place. They are why we stay, despite abundant reasons for leaving.

          Everyone has a theory about “why people are leaving the church,” “why millennials don’t come to church,” “why churches are dying,” and “what’s wrong with society.”

          Personally, I think we should stop worrying about institutional outcomes ― especially outcomes that we hope will prove we were right all along ― and try instead just to be hopeful, joyful, active people of faith.

          I think we should take our parts in the great political debates ― power and wealth, after all, were Jesus’ primary concern ― but then agree that, whether X or Y gets elected, God will still grieve our cruelties and sufferings, and we will all have much work to do as believers.

          Whatever the label ― progressive or conservative, contemporary or traditional, denominational or nondenominational ― we will each have something unique and necessary to contribute.

          There is more binding us than dividing us. For division comes from our small and selfish places. Binding comes from God.

          Tom Ehrich is a writer, church consultant and Episcopal priest based in New York. He is the president of Morning Walk Media and publisher of Fresh Day online magazine. Get the new Fresh Day mobile app here. His website is www.morningwalkmedia.com. Via RNS.



          播州方言バージョンでの日本語変換(方言が、ごっつうきっついので読まんでええよ)

          8つの教会について言ったほうがええこと
           キリスト者が、性行為がごっつい重要でみんな関心があるんや、とゆうたりすることや【さすがアメリカ】、ほかの人々へ、どないして人生を生きたらええんか【ハウツー的なことかな 後で出てくるよ】というてみたり、地方議会の政治家(minor-league politicians)を後援したりするために名義貸ししてみたり【特定の候補の支援はやめたほうがいいと思うよ、どうせどっかで人間なので誰でも、どっかで、ドジ踏むから】や教会についてとやかく言うのをやめるとしたら、何を言うたらええんやろか。

           こういうことは、きちんとわかっといたほうがええ、と思うんやね。なんでかというたら、税金逃れをしたり、性的なことやらをめっちゃ批判し、倫理的になんたら、とかがみがみいう人や、素人の政治家にかかわることで、うっとこ(自分たち)、いままで、もう滅入ってしまっとおんと、ちゃうん?

           今、なんか教会って疲れ切っとおんと、ちゃうかなぁ。そんなねぇ、外部の人をぶちのめしたりするようなことや、くだらんこと【個人的には日ユ同祖論もこのひとつ】なんかを話す宗教というのか信仰なんかにねぇ、何で人生費やさにゃいかんの?と思うんやけどなぁ。

          何を言うたらええんやろか?
           じゃ何言えば、何すればいいかって?そんな一つとちゃいますやんか。なんでかって言うと、教会っちゅうのはなぁ、むちゃくちゃいろんな人がおられるところでっしゃろ。大事なこと、一つやあらへんこと、きまっとりますやんか。というても、いくつかの共通のことくらいおまっしゃろ。それ書いてみますわ。

          イエスについて言うこと
          1.イエスっちゅう名前くらいは言えまっしゃろ。いろんなお考えもおまっしゃろけど、イエスこそ教会の芯柱やし、イエスこそ教会がおます理由ちゃいますのん?

          広い心をもつべきこと
          2.いろいろなキリスト者がいてはることを、受け入れる広い心を持ったらええんちゃいますのん?それこそ、神を信じるってことちゃいますか。そんなね、だれが正しいのとか、だれがまちがっとうのとか、いうよりも、これ(イエス)がね、うちらが神を信じる理由がおますのや、ということが大事なんちゃいますか?

          神の影響について
          3.あとはなぁ、神さんがどんだけ自分の人生に影響しはったかを言うこととちゃいますか?めっちゃごつい教義やら、完璧な教理やら、誰が、教会の範囲内にあるとかないとか、どおでもよろしいんちゃいますの?そんなんより、うちらが経験したことは言えるんちゃいますのん【これには、ちょっとそうかなぁ、とも思う。というのは、経験が中心になりすぎ、経験が神の言葉より優先する場合もあるから。その例はどうぶつ社の悪霊と聖霊の舞台―沖縄の民衆キリスト教に見る救済世界 で紹介されている】

          他の人の意見への傾聴
          4.ほかの人のお話をちゃんと聞くことがええんちゃいますか?決めつけたりせずに素直に聞くことが。ほかのキリスト者の人が何言うてはるか、聞くのは大事や思いますけどなぁ【特に自分の教派以外の伝統に耳を傾けてみる、というのは大事だと思う。カトリックの人はすべて悪魔みたいなことは言わんと】。

          イエスと生きていることを話す
          5.イエスさんとの出会いとイエスさんと一緒に過ごしとうときに、出会ったお話を見ながら、どう自分たちが生きようとしとうのかを正直に言い合ったらええんちゃいますのん?そんでもって、信仰と実際の生活がどうつながっとうかってことがざっと考えれたら、ええかなぁ、と思うんですけど?

          現実社会への視点
          6.世界をどう見とおのかって言った方がええんちゃいます?私こそ悲哀の人だ、とか、空が割れて落ちてくる【ウルトラ怪獣パキシム襲来か?】とか、悪魔が勝利するとかいう人が聞きたがっていそうな話ではなく、むしろ、ただうちらがこの地上をどう見ているのか、そして、神がこの地をどのように関心を持っておられると、うっとこが表ますのかを言うほうがええんちゃいますか?

          聖書の神がわれらの神であること
          7.神さんがうっとこの神さんやていう、めっちゃごつい希望を言うたらええですやん。この地上になんかええこと生み出すために神さんが、うっとこを関与させてくれはるんとちゃいますか【たとえ、どんなにうちらが、あほくそうても、ボケなすやったかても】、っていうたらええですやん。

          神とともにいる喜び
          8.喜んでますねん、っていうたらよろしいやん。そんなな、くらくらするようなことでもなく、いろんな人がゆうてはるように、ごっついしあわわせ、というんでもなく、神さんのこと思うだけで、あー神さまうちらと一緒にいてくれてますのや、アーなんちゅう穏やかなことなんやろうということ言うたらええんちゃいますのん。【この辺、ナウエンの
          いのちのしるし キリスト教の視点から見た親しさ、豊かさ、喜悦 がよい。】

          わてが思いますにはなぁ、この8つのことが、うちらが言いとうて、言いとうてしゃあないことちゃいまっしゃろか。この8つのことが、教会のドアを最初にとおった時にごっついほしかったことちゃいますやろか。この8つのことが今うちらが教会におる理由っちゅうもんちゃいますやろか。そらな、教会やめたい理由なんて仰山そら、おまっせ。

          そら、だれかて、教会から人がおらんくなる理由とか、教会に千年紀がいつまでたっても来ん理由とか、なんで、教会が死んでしまいよるんやろか、社会がおかしいからちゃいますか、とかなぁ、ってことはみんな思とりますけどな。

          制度ではなく変えるべきは我ら
          せやけどな、そんな制度がどうとかこうとか、うちらがやっとることは、ええことやったとか、結果が全部明らかにしとうとか、そんなこと考えるのやめましてな、まぁ、神さんがどないぞしてくれやろし、なんかおもろいわぁ、とか、まぁ、聖書の言う神さん信じて前向きに生きてまんねん、みたいな生き方でええんとちゃいますか?

          社会への関心
           思いますにな、うちら、そうでありつつも、もうちょっと政治的なことにも関心持ったらええんちゃいます。権力と富っちゅうのは、結局それをどないぞしようかということは、イエスさんが関心持っとったんとちゃいますか?【権力と富を掌握することには関心はなかったが、それ自体がどう用いられるかには関心があった模様。参照、ルカ 断食】どんな政策がとられようとも、神さんが、この地上にある残虐さと苦しみを見て悲しまれるっちゅうことと、うちらが信徒としてなんかしてみてもええんちゃうか、ということには同意してもらえるんちゃうやろか。

           プログレッシブやとか、保守的やら、コンテンポラリーやら、伝統的やら、教派的やら、非教派的やら、どんなラベルをどう貼ってもええんやけど、うちら一人一人、特別なもんとして創造されとるし、なんか貢献できることがおますのちゃいますやろか。

           うっとこをばっらばらにするもん以外に、教会にはなんか一緒にできるようにするものがおますのちゃいますやろか。ばらっばらにするのは、うっとこの精神的な狭隘さと自分勝手からとちゃいますやろか。でもな、YHWHとナザレのイエスの神さんからはな、一緒にできることが来てますのちゃいますやらろか。

          Tom Ehrichはニューヨーク在住の著述家で、教会コンサルタントで、米国聖公会の司祭である。Morning Walk MediaとFresh Dayというオンラインマガジンの発行社の代表やし、Fresh Dayのモバイルアプリは以下からダウンロード可能できまっせ。

           
          評価:
          池上 良正
          どうぶつ社
          ---
          (1991-09)
          コメント:ええと思うよ。参考になった。個人的経験が中心になるとここまで、と思う。でも、これ、ブラザレン派の分家筋なんだよなぁ。

          2014.08.11 Monday

          献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(3)

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             さて、これまでの2回で、第1回は、現代の若者(というよりは一般の皆様)の宗教事情で、軽く宗教施設と、等距離外交でお付き合いになっておられるさま)について触れ、続く第2階は、キリスト教(あるいはユダヤ教・キリスト教)の神と人間の付き合い方、一般に思う献金意識とキリスト教徒の献金意識の違い、祈りに関する違い、カジュアルでない神の愛について触れた。

             これまでの2回は、こちらから。

            献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(1)(2014.08.04)


            献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(2)(2014.08.06)



             賽銭というのは、こういう文化の中で生きてきたわけではないので、あまりよくわからないが、寺社にお参りをした時、あるいは寺社に対して、何らかの祈願をお願いをした時にチャランチャランと賽銭箱に入れていくものなのだろう。本来は祈願成就の御礼という側面が強いらしいが。

             今回は、これらの現代日本人(の若者)の賽銭意識と大分違うキリスト教にとっての献金とは何なのか、ということについて、触れてみたい。

            献金はお願いの手付金ではありません
             キリスト教会における献金とは、祈願の保障というのか、手付金として出すものではなく、また、祈願成就の御礼として出すものですらなく、みんなのもの(自分が通っている教会とは限らない)にするために自分が受けたものの中から、主体的に神の前にある共同体に対して、お渡ししていくものなのだろうと思う。ミーちゃんはーちゃん個人としては、別に、十分の一献金を絶対にしないとキリスト者だとは思わない。その意味で、十分の一献金は、一種のガイドラインであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。その意味で、十分の一献金原理主義者ではない。また、1コドラントを投げ入れたやもめの例に倣い、全財産をささげるべきだ言う主張には同意できないし、健康を害するほど無理なことをして献金をすべきだとも思わない。また、たくさん献金をしたら神様からの祝福があるとも思わない。奉仕も、これまた同様。一生懸命、いっぱい奉仕したからと言って、経済的な祝福があるとか、霊的な祝福があるなどということは微塵も思っていない。

             確かに、人情として、献金として、これだけ努力したし、誠意見せたのだから、ちっとは祝福(ご利益)があっても…、と思いたい気持ちはすごくよくわかる。しかし、それは、神をドラえもんにし、自らをのび太にすることに等しいと思うのだ。ねぇ。これだけのこと(献金)してあげたんだから、なんかいいこと起してくれ、って。それ、自分が中心であり、神のお心が中心になってないんじゃん。

            キリスト教会と献金
            神の民の共同体のための資金として

             むしろ、キリスト者の献金は、神への祈願の実現のための先払いや着手金ではなく、神から受けたもののごく一部を神の民のコミュニティ(神の民としての集団)のものにすることでしかないのだと思う。もちろん、自分が通っている教会への預金や先払いでもない。その時々に応じて、自分たちのものである教会(目に見える教会だけでなく幅ひろいキリストの体)を支えるためのものとして、用いてくれそうなところに自分の意思で主体的にお渡しするものだと思う。

             使徒の働き(使徒行伝)の最初の状態における献金の扱いを見ていると、神の民のコミュニティと献金の関係が非常によくわかると思う。また、共同体全体の存続を支えるために献金が集まったがゆえに、当時の社会的弱者であるやもめたちが集まったのでもあろうし、そのやもめの中にいろいろ混じっていた、という事実も、忘れてはならないだろう。


            献金は牧師のためだけではない
            ”はず”です

             献金は、もちろん、一部牧師にわたる。それは、牧者とはいえ、かすみ食って生きるわけにいかないからである。牧師もある面、神のコミュニティの一部であり、その一部を形成するものとして、教会を支援していて、教会の諸々にほぼフルタイムで携わっておられるし、また、手直におられるので、その分割り当てられる金額が多いということなのだろうと思う。 このあたりのことについては、次回、ソジャーナーズの記事を紹介した後、次々回に触れてみようと思う。

             一度コメントいただいた方の中には、牧師が自分の趣味に走って献金を持ち逃げ、ドロンしたような悲惨な状況をご紹介くださった方があるが(その牧師と呼ばれた方は自分の関心のために多額の資金が必要であったのであろう。そのため、高額の献金を会衆に要求したのかもしれない)、そういう牧師を名乗っておられた方は、献金すると「祝福があります、家庭円満になります、子育てがうまくいきます」とかわけわからんキリスト教を装ったご利益誘導型新興宗教を形成されているのだろうと思う。まぁ、それもキリスト教の枠組みの中にあるのあれば、キリスト教なんだろうけど。

            祝福を目的化するのってどうよ

             神の民に祝福があるのはその通りであるが、その祝福とは、我等の譲りの地としての神のご臨在、聖霊のご臨在そのものではないだろうか。もちろん、この地上のことで祝福を受けることは大事なことだし、悪いことではないと思う。 しかし、それが目的となってしまって、それのみにとらわれ、われらの本来のヴィジョンであり、目的地(テロス 極まったところ、そもそもの目的地、終着地、完成があるところ)であり、目標でもある(あるいは神が我等と共におられることが最終目標である「はず」の)神を忘れるのどうかと思う。キリスト者って、われらのために神の愛の関係の回復を成し遂げるためにこの地上に十字架にかかられ呪われしものとなるために、そして、その十字架の上で全地の王、王の王、主の主、としての王座に着座するために地上に来られしイエスキリストを覚える人々のことではないのだろうか。

             それを忘れ、この地上の現実的な解決のみを求め、神をドラえもんにし、我らをノビタ状態をすることを求めることをよしとするって、どうなのかなぁ、と思う。

             もちろん、聖書に癒しが書いてあり、またイエスが痛みを持った人々のところに向かわれ、慰めを与えようとされたことは否定しない。しかし、イエスが、

            口語訳聖書 ヨハネ  14:27
            わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
            といわれたことも忘れてはならないと思うのだ。それが、我らがキリスト教がキリスト教であるゆえんであることも、忘れてはならないと思うのだ。

             次回、この話題に関係しているフルタイムでの牧師を持つ意味についてのソジャーナーズの関連記事を紹介し、そして、次々回に日本における献金と牧師(海外からの宣教師)との関係などに触れて、このシリーズを終えたい。


            2014.08.13 Wednesday

            二足のわらじをはく兼業牧師の牧会の危険性

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               ここん所、世俗の仕事の関係での、プログラム開発とプログラム走らした結果のデータチェックが忙しいので、ちょっと公開が遅れました。本日は、ソジャーナーズの記事の日本語変換を紹介しながら、職業を持ちながらの牧会(二足のわらじをはく兼業牧師による牧会)の危険性について触れてみたい。

              もともとの記事は、こちらから。
              http://sojo.net/blogs/2014/07/30/dangers-bi-vocational-ministry

               この記事は、基本的に、何らかの仕事との掛け持ちをするパートタイム牧師に関する記事である。まずは、ミーちゃんはーちゃん的な要約だけを述べてみよう。

              ミーちゃんはーちゃん的要約


              ご自身の背景

               この方はソジャーナーズという(かなり左巻きの)超教派組織で働きながら、パートタイムで、日曜牧師のようなことをしておられるらしい。それぞれの働きが違うので、それらがそれぞれに対するリフレッシュ効果をもっておられるようであるし、そういう奉仕の仕方が気に入っておられるようである。

              パートタイム牧師の厳しさ

               とはいうものの、アメリカの現状を見ていると、パートタイムでの、あるいはボランティアの無給ベースでの牧会者が経済的な困難性から発生しているようである。「無い袖を振れ」、「乾いたぞうきんからも絞り取れ(どっかの自動車会社はこう揶揄されることもあるらしい)」みたいなものすごいことをこれらのパートタイム牧師に求めてないか、ってご指摘のようである。 

               牧会者と教会員が直面する社会が社会の多様化、高学歴化、多元主義化などを迎え、複雑さを増し、スピリチュアリティと伝統的な信仰の良さを求めて、教会に来ているのに、それにこたえられているのか、という問題意識をまずご指摘である。
               
               二足のわらじをはく兼業牧師の場合、牧師のプロフェッション(医師、弁護士、牧師等個人の機微情報を扱う専門職としての職能)としての充実が実に危ういことである。

              金銭的な牧師の厳しさと神学校

               それと、牧師になるための学費の大きさである。将来の収入が見込めないのに牧師になることの経済的なリスクの大きさがあり、有能で、神と人とに仕えたいという情熱を持つ人たちでも、医療関係者とか弁護士、学者などの別の職業へのコース転換してしまうのだ。まぁ、医師とか弁護士の持つ専門技能は教会に役に立つけど、教会の土台をやせ衰えさえてしまうのではないか、とご指摘である。

               教会予算が限られており、牧師一人すら雇えない教会が増えているため、牧師がおらず、信徒が様々の形で参加するなどの形態が増えている、らしい。アメリカでも。

              じゃ、どうすりゃいいの?

               とはいうものの、現状を嘆いたり、ユーミン見たいに「あの日に帰りたい」とか「昔はよかった」節を歌わずに、たとえ効果がすぐに出なくても、現実を見据え、どういう理想を描くかによるんじゃないかなぁ、というご指摘で、そんな、あきらめずに神の力を信じて、この時代にふさわしい牧会方法を考えていくべきじゃないの、ってお書きである。そのためには、神学校の学費負担の軽減や、牧師がこの複雑な時代に耐えられる方法を示してみたり、ってことが必要なんじゃないかなぁ、ってお書きである。


                 ユーミンさんのあの日に帰りたい


               あと、教会一人牧師ではなくて、それぞれの才能を生かした、共同牧会の可能性って、検討してもいいかもしれない、ってことはご指摘である。牧師だって、牧師一人で何でもできるランボーのような牧師ではなく(この前、Expendables3のプレミアでのスタローンをテレビでみたが、爺様になっていた)、ケアされることや、教えられることが必要なのだ、ってお書きであった。その面で、経済的な基盤がないと何も始まらない教会にあって、自分たちがどうするのか、ってのを考えたら、ってご指摘されたいようである。


              まぁ、みんな爺様になっちゃってwww
               

              ミーちゃんはーちゃん的感想など

               この話最初に読んだ時、これ、日本におけるキリスト教業界の話?と思ってしもうた。

              経済的に悲惨な多くの牧師さんの現状

               まぁ、開拓伝道を良しとし、神が養われるとの信仰のもと、二足のわらじを履く兼業牧師も日本では確かに少なくない。タクシーの運転手しながら、牧師しているとか、新聞少年ならぬ、新聞中年しながら牧会しているとか、給料ものすごく少なくて、牧師だけでは食べていけぬため、牧師しているけど、本給は奥様のほうがかなり多いとか、結婚式場での司式で糊口をしのぐとか、年金頼りに牧師してます、とか、まぁ、悲惨な状況に置かれている先生方をちらほらお見かけする。まぁ、直接、本人がそうおっしゃるわけではないが、何となく、そこはそれ。お察ししてしまふ。諸賢も、お察し下さり度。


              上は新聞少年の歌。懐かしの昭和歌謡でしょ。

               まぁ、結局牧師は、確かに目立つのは、日曜日の説教ではあるとは思うが、説教というサービスを提供するというよりも、説教以外のさまざまな人格などから間接的に受ける個人的に牧会と一般に称されるものを与えて下さったりしているのである。もうちょっと言うと、聖書理解のデータベースにアクセスする指針というか、も与えておられるのである。こちらが気がつかなくても。

               そういう聖書理解のデータベースというものは、データしてあるだけでは不十分で、データベースとそこにあるデータを使いこなすノウハウとか、そこ必要な理解を取りだすことに際に醸し出される信頼感とか、そこから出てくる聖書理解の体系の息吹とかからの総合的なものを受け取っているはずなのだ。それを作り出すには、聖書学校や神学校に行っただけではだめで、おそらく牧師としての生活を始めてからも、様々の書物にあたるなどの自己研さんも必要とされるとは思うのだ。神学校とか聖書学校は、路上に出る免許のようなもので、若葉マークから脱皮するためには、実際の路上で、ノウハウやら何やらを蓄積していく必要があると思うのだ。

              商店街の商店がはやってなくても
              経営できているわけ

               地方の商店街がさびれていても、零細商業者が、良くこれで経営しているなぁ、と商店街に行くたびに思うのであるが、そういう焦点さんは、もうだいぶ以前から、実態としてはアパート経営業、マンション経営業や、不動産関連業が主で、そっちからの収入が本業での大赤字を補てんしているケースもあるやに聞く。教会がマンション経営とか、アパート経営するわけにもいかんからねぇ。それが本業になって、とりあえず気のせい程度教会やってますって教会もねぇ、どうかとは思うけど。多分、そういう教会は日本にはないと思うなぁ。

               ま、宗教法人でも、営業行為(駐車場経営など)をした際には、利益が出れば、課税申告すればいいだけの話ではある。とはいえ、こういうことができない教会ってのは、資金集めが献金だけとなるので、厳しいかもしれない。

              参加者が減り続けているアメリカの教会

               キリスト教国、アメリカでも参加者の減少問題は、結構深刻らしい。日本ではもっと深刻だとおもうけど。スコット・マクナイト先生だったか誰だったかも引用しておられたが、アメリカの教会に参加する人数が減っているって問題が認識されているらしい。

               それは、教会員の総数が無神論とか、仏教とか、ムスリムへの転換が起きて減っているのではなくて、クリスチャンはクリスチャンなんだが、そのクリスチャンの中でも日曜日の礼拝に参加する人の参加頻度が減っているから、見かけ上減ってんじゃないの、ってことらしい。その意味で、日本の仏教界と日本人との関係と似たようなものかもしれない。もともと、初七日法要や49日法要さぼったり、○○回忌をしなくなったり、そこに参加しなくなったり、盆暮れしか用事がなくなったりと、っていう日本人とお寺との関係と似たようになったものなのだろう。アメリカ人にしても、考えてみれば、教会が縁遠くなったよね、って話だったようだ。ミーちゃんはーちゃんが思うに、アメリカのキリスト教会自体の日本仏教化が進んでいったというだけではないか、というご指摘だったと思う。アメリカでも、毎週日曜日に行く人は確かに極端に少ないんだろうし、そういう熱心に教会に足しげく通う層は高齢者に多いのだろう。ま、産業社会が24時間、週7日、365日運用が求められる中で、日曜日は絶対とは言いにくいのはよくわかる。

               このことへの対応として、日曜日以外の礼拝や聖書研究を開催したり、通常の教会以外に、もっと信者間の密接な人間的紐帯やネットワークの構築もできるスモールグループ運動なんかも積極的に取り組む教会も米国では、ある模様。

              二足のわらじをはく兼業牧会の問題

               第2種兼業農家(兼業農家のうち、農業所得ではなく兼業している職から主な所得を得ている農家)ならぬ第2種兼業牧師もどき(平日は、通常通りの勤務があり、牧師収入みたいなものは、ほぼ0)のことをしているミーちゃんはーちゃん(キリスト教内でも、うちは極端な平信徒主義牧会の原理原則を貫いている少数派なので、完全にボランティアベースでの説教奉仕を実施している。毎週説教をしている訳ではないが、大体月3回ペース)としては、この問題はよくわかる。

               御用繁多(平常業務が繁多)になると、牧会的配慮はどうしてもおろそかになるし、聖書も落ち着いて読めないし、聖書関連の書物を読む暇がなくなる(ここ数週間がそう)。そうなると、どうしても説教内容がおろそかになるのは否めない。それでもある程度の内容は確保しようと鋭意努力中、奮闘努力中ではある。

              神学教育の役割

               さらに、うちの場合、聖書学校とか神学校とか、神学部というだけで、そんなものに行かなくても聖書は読める(確かに日本文字で聖書に書かれた字は読めますし、日本語の聖書は読んできましたよwww)ということで、神学教育にものすごい否定的な視線を向けていた(一部では、いまも向けているといううわさはある)集団の中で育った。

               こういう状況の中で聖書から語るといってお伺いするお話の場合、ある程度の割合で、聖書そのものからのお話しが9割を占めるのではなく、聖書以外のお話(たとえば自慢話とか、心温まる話とか、悲惨な経験の話とか、社会批判とか、新聞や週刊誌であるネタとか、最近では大河ドラマの話とか)が半分以上を占め、聖書の話はつけたりになるお話しもみられる。

               それって、聖書の話って言ったら、カンバンに偽りあり、になるのではないか、と思うが。ま、ミーちゃんはーちゃんの聖書からのお話も、それに近いといううわさもないわけでもないので、人様のことを言えた義理ではない。

               どうしても、日本語で聖書を読むので、翻訳されたテキストの表面的な表現に引きずられてしまい、そこから、わけわからない聖書理解のようなものが生み出される例もないように思うのだなぁ。そう言う怪しげな解釈を、まぁ、一応防いでくれて、なんかやばそうな聖書理解を思いついたら、過去2000年のキリスト教の歴史のデータベースを参照し、オリジナルのギリシア語、ヘブライ語テキストへのアクセス方法と、そのテキストの解釈方法から、聖書を理解してみたときに、日本語聖書のこの解釈から導き出したこの考え方は、このタイプの異端とおなんなじだから、あるいは、原典のテキストの検証からは支持されないから、これ、行き過ぎないようにしないとなぁ、というやばそうな聖書理解へ猪突猛進することへのブレーキを踏む役割を神学教育は与えてくれるものだと思うのだ。

               神学教育を受けたから、一般の人々に向かって、聖書からわかりやすく語れるようなものでもない、とは思う(こういう側面もあるので、我がキリスト者グループは神学教育へのアクセスは否定的だったものと思われる)。

               個人的には、上にも書いた理由で神学教育は重要だと思っているが、もうジジイになっているし、神学教育に関してむちゃくちゃ否定的な視線がある以上、いま以上に否定的な視線を向けられることは分かっているので、あえて今更神学校や、神学部に入学しようとも思わない。しかし、もう少し若いときに、神学校・聖書学校・神学部に行っときゃよかったなぁ、とは思っている。

              ちゃんと勉強した人の価値
               なぜなら、自分もあることを専門とする学問の世界の隅っこにいるのでわかるのであるが、ちゃんとした人の価値は、大体どういう風にその学問分野がなっていて、どの人がどういうタイプの研究をしていて、その人の研究がどういう味わい、あるいは、雰囲気で、どういう手法が得意なのか、ということがきちんとわかるところ、何か調べたいときに、何を読めばいいのか、誰に聞けば一番答えが返ってそうか、が分かるところなのだ。シロートが趣味で勉強する場合、誰に聞けばいいのかがわからないので、とりあえず手近にある本やら、売っている本やらで勉強することになる。これが、実は、ものすごく遠回りでなのだ。まぁ、最近はツイッターでつぶやいたり、ヤフー知恵袋で聞くとかなりの確率でまともに答えてくれるらしいけど。

               ヤフー知恵袋には、こんな質問「私はキリスト教の牧師です。」ってのもあって、息子が教えてくれて、ワロタ。

               牧師は日曜とかそのほかの曜日の決められた日に話すのが仕事ではない。それ以外の日は、ちゃんと勉強しておられるのだ(はずなのだ)。そう期待したい。しかし、多元化して、単純でなくなった社会を抱える現代に生きる人々が聖書理解をもとに生きるための牧師先生方の格闘の価値が、自分が見てないから、自分には見えないから、自分にはわからないから、と言って、牧師の給料が高すぎる、とか、何とかいうのはなんだかなぁ、と思う。そして、わけわからん無料の牧師でお願いして、わけわからないことになるのだけは、愚策だから、そして、後で取り返しのつかないことになるからおやめなさい、とだけ言っておこう。なんせ、世の中ただほど高くつくものはないことが多いのですよぉ。

               後、この記事読みながら、複数牧会って、個性の違う牧師の複数の方が共同で牧会しておられて、それでうまく機能している限りにおいては、面白いかもね。ただ、牧師同士がけんかして、仲間割れしたりすると、そういう教会の会衆の皆さんは悲惨かもしれないけど。

              -----------------------------ソジャーナーズの記事-----------------------
               

              The Dangers of Bi-Vocational Ministry


              I eat, sleep, and breathe faith and politics; it is my passion and calling. From 9-5 each weekday, I direct communications and advocacy for Sojourners, moving around Washington, D.C. for various meetings, engaging with reporters and the media, and planning advocacy strategies around pressing justice issues. Then I turn off my computer and walk out the door. But instead of going home, I’m usually off to another meeting that has little to do with politics and everything to do with faith.

              I’m a bi-vocational pastor, and I spend 15-20 additional hours working in a local congregation alongside several clergy colleagues, who themselves are a mix of full-time and part-time ministers. Serving in a church keeps me rooted. It provides perspective when the dysfunctions of Washington threaten to consume me. Helping people discover faith and integrate it into their lives renews and enlivens my soul.

              Part of me pretends that I’d be spending this much time worshiping on Sunday morning and hanging out with my fellow young adults anyway, so I might as well be polishing my ministerial skills. But when I’m honest, I know it isn’t close to the same thing. I am way more invested in people’s lives – their joys and concerns – and the life of a particular community than I otherwise would be as “just a member of the congregation.” It is a demanding role that can be emotional, mentally and spiritually draining at times, but I love every minute of it. This is what I was made to do. Being a pastor is my identity. This calling is fundamental to who I am and how I understand myself in the world.

              The number of bi-vocational ministers is increasing rapidly. Many pastors who work full-time jobs and serve in congregations part-time receive little or no pay for their church service. This trend has been described as “the future of the church” and extolled because the model is a return to “the original church” that will “enliven congregations.”

              Such thinking appears to be nothing more than trying to put an extremely positive theological spin on a very dire ecclesiastical reality. There are two very significant reasons I’m skeptical of such rosy claims about bi-vocational ministry.

              First, ministry is growing more complex. Our society is becoming both more religiously pluralistic and secular (in the sense that religious is often relegated to issues of private belief). The financial and demographic pressures facing congregations are greater than ever. Technological and medical advances have made the moral questions that individuals and families must answer around end-of-life issues even more complicated. The effects of globalization and public policy choices have increased income inequality and economic insecurity for millions of Americans, which contributes to personal and family crises. Educational levels are rising, which both encourages religious literacy but also fosters a culture of critical questioning of established orthodoxy that requires well-developed, thoughtful responses and guidance from faith leaders. All of these factors and so many others result in a spiritually anxious age where people are hungry for meaning but not finding through traditional religious channels.

              Second, the growth of bi-vocational ministry degrades ministry as a profession. For better or worse, ministers in our society have come to be perceived by others – and to understand themselves – as religious professionals. Becoming a pastor requires a certification process (usually established by denominations) that involves a formal period of discernment, years of education, and substantial training. There are many aspects of this process that are wieldy and far from ideal. There are reforms that may be needed to expand opportunities and remove obstacles for non-traditional ministry candidates. There are many ministers across the country that have not undergone this type of rigorous vetting and formally submitted themselves to the oversight of a larger religious body. But on the whole, I believe the complexity of ministry and the accountability required of leaders charged with caring for vulnerable people warrants understanding ministry as a profession.

              As more and more seminary graduates are unable to find full-time, paying jobs, ministry as a profession will become increasingly unattractive to the most talented, passionate, and dedicated leaders within the church. They’ll become lawyers, doctors, engineers, academics, and everything else under the sun instead of taking the risk of ordination. The church may benefit from their gifts in other ways but the profession of ministry ― and thus congregations ― will undeniably suffer.

              There’s an obvious rejoinder to my argument. How we feel about the situation is irrelevant because basic facts and financial realities dictate it be so. Many churches would love to have five full-time ministers, but their budgets rarely allow for more than one. We can – and should – lament the trend towards bi-vocational ministry as the norm, but there’s no escaping it. All we can do is accept the situation as it is, while looking for ways to make some really good spiritual lemonade out of these lemons. We can improve lay leadership, strengthen communal bonds, and think of new ways to conduct worship that are less dependent on professional clergy.

              All of this is true but I don’t think we should take it as the final word.

              Our lives are shaped by stories. The narratives we tell about who we are – about the goals we have, the ideals we hold, and the visions we cast – guide and transform us. If we acquiesce to the dominant narrative that bi-vocational ministry is a future we must live into, then it will become a future that cannot be avoided. We should continue to dream about what leadership in healthy, vital congregations looks like and imagine innovative ways of realizing it. These aspirations can help breathe new life into dying churches who have long forgotten how to place hope in the future because they spent too much time reminiscing about the past and lamenting the present.

              We profess faith in a God who makes all things possible. When we apathetically accept the status quo as unchangeable, we implicitly demonstrate a lack of faith that tomorrow might be different than today. God should not be mocked in this way. Our faith should be much more steadfast.

              Of course imaging and working towards a better future doesn’t immediately alter the present. We must face the challenges of today, even if transformation and revitalization is our ultimate goal. I’m encouraged by innovative forms of ministry where leadership shared is among a group of pastors, especially when each minister has different gifts and talents that can benefit a congregation. Denominations need to focus on equipping pastors for ministry in challenging times, and the financial burdens of obtaining a seminary education need to be addressed for clergy who have little hope of paying back those costs.

              But we must not fool ourselves into believing the narratives of decline and scarcity that have dominated too many church conversations of late. The future is undetermined, and God’s ways are not ours.

              For myself, bi-vocational ministry is a choice. I'm grateful for the chance to serve in a congregation on a part-time basis while pursuing my work at Sojourners. I've also been blessed to learn from mentors and teaching pastors who also choose bi-vocational ministry. They have taught me ways of establishing boundaries and routines that can make it this form of ministry work for both pastors and congregations. But far too many bi-vocational pastors do not a choice about the direction their career has taken, the wisdom of elders who have gone before, or the luxury of working in a congregation with multiple pastors.

              Bi-vocational pastors deserve our support for the incredible work they do in service to God, neighbor, and church but I suspect few would claim this form of ministry was the career they dreamed about when first sensing God's call. I hope there is a way to imagine a future that allows them to realize that dream.

              Beau Underwood is Senior Director of Advocacy and Communications for Sojourners.


              日本語変換 見出しはミーちゃんはーちゃんが適当につけました。

               食べて、休んで、そして信仰と政策立案に生きている。そして、このことが私の心を動かしているものだし、そして、私の役割なのだと思っている。毎日午前9時から夕方5時まで、ワシントンDC周辺での様々な会議に出たり、記者たちやメディアの人と会い、社会正義の実現の問題に関する、ソジャーナーズの広報戦略を練り、ソジャーナーズの組織内の調整を図り、そして、その団体のための広報にかかわっている。これらの仕事が終わると、コンピュータを消して、そして家に向かって帰る。家に帰らずに、割と頻繁に、政治とは直接関係の内容なミーティングに出たり、信仰の問題と密接にかかわるような問題のミーティングに出たりするのだ。

              掛け持ち牧師として
               私自身、世俗の仕事と掛け持ちをしている牧会者である。そして、私自身、15-20時間ほど、ほかの数人の教職者(フルタイムもいれば、パートタイムもいる)と共に地元の教会での牧会にあたっている。地域の教会で奉仕することは、私自身が何らかのことに根差すことに有益である。ワシントンでの機能不全のため、私自身が消耗しそうになるときにも視点を与えてくれるのだ。人々を支援することは信仰を見出し、そして、信仰を見出すことと信仰者の生活が一つになるとき、私自身のたましいを新たにし、そして、たましいの活性化につながるのだ。

               ある面、私自身、日曜日の礼拝にもっと時間を割きいと思っているし、若い信徒と一緒に時間を過ごしたりしたいと思っていて、そして、それと同時に、私自身の牧会上のスキルをよりよくしたいとも思っているのだ。しかし、正直言えば、それらのことは時間を過ごしたりすることと渤海上のスキルを向上させることは、同じでないことは自分自身よくわかっている。とはいえ、私は、人々の人生に深くかかわっており、それは、彼らの喜びなどへの関与があることであり、特定のコミュニティでの生活そのものにかかわっているということなのだ。教会での私のかかわりは私自身がある教会員の一員としてのものよりもより深いかかわりである。このような牧会は、非常に労力を要する役割であり、そして、感情的にも、精神的にも霊的にも時に消耗する働きであるものの、その一瞬一瞬を私は愛しているのだ。それこそ私がしたくてしたくてたまらないことなのだ。牧会者であることは私の一部であるし、私が何者であり、私がこの世界をどのようにみているのかということに関する根源的な召命(あるいは職業観)と深くかかわっているのだ。

              急速に増加するパートタイム牧師
               別に仕事を持ちながら、牧師をしている人数は急速に増えている。フルタイムで奉仕していて、パートタイムで教会に奉仕してる多くの牧師たちは、教会での奉仕の対価として、まったく給与を受け取っていないか、ごく僅かばかりをもらっている。このような傾向は、将来の教会の形、そして、非常に交渉されている。なぜならば、このモデルは、教会の原点(使徒時代の教会)に回帰する形であり、それは、会衆の活性化につながるからである。

              パートタイマー牧師の問題
               このような考え方は、非常に悲惨な教会論的な現実の上で非常に積極的な神学的スピンを加えるようなもの以外の何物でもないように思われる。というのは、私が別に仕事を持ちがながらの牧会に関するこのバラ色の主張に懐疑的な二つの理由があるからである。

              複雑な現代に耐えきれるか?
               第1に牧会そのものが、その複雑さを増しているからである。我々の社会は、宗教的な多源性に向かいつつあり、より世俗的になりつつあるからである(とくに宗教は個人的な信念システムの問題として)。財政的・人口構成によるプレッシャーは、これまでにないほど大きなものになっている。技術的な進歩や、医療の進歩は、死を迎えるにあたっての個人や家族の疑問をもっと複雑なものにしている。グローバリせ―ションと政策の影響は、所得の不平等さを増し、何百万人ものアメリカ人の経済的な不確実さを増しており、そして、その経済的な不確実さは、個人や家庭の個人や家庭に危機的な影響をもたらしている。教育水準は上昇し、その結果、宗教的なリテラシーのみでなく、構築された伝統的な正統教理に対するクリティカル(批判的な)質疑に対応する能力も求められているし、信仰的な平信徒のリーダからのガイダンスや応答についても、思慮深いものが求められている。これらすべてのものとまた、それに関連するもは、この時代が、スピリチュアル(霊性)を求める時代であり、その時代において、人々は、何かすることに対して何らかの意味を見出すことに熱心でるばかりでなく、それを伝統的な宗教的なもの(channel)の中に見出したいと思っているのだ。

              牧師になるにもお金かかるし、
              収入少ないし

               第2に、二足のわらじをはく牧師は、職能(Profession:個人の守秘義務を扱う特殊な職能、医師、弁護士、牧師・司祭)としての牧会を劣悪なものにする。多かれ少なかれ、現代社会の中における司牧は、現代社会の中において、他者から、また自分たちもそう理解しているとは思うが、宗教的な専門家として見られている。牧師になるためには、その正当さを保証するためのプロセス(通常の場合、教派によって決まっている)が必要であり、そのプロセスとは、一定の期間、適正等のふさわしさの判断(discernment)がなされ、一定期間の教育がなされ、実際の現場に出ての訓練が必要とされる。とは言ってもこのプロセスには、その多くの側面で簡便化され、理想からは遠くはずれた部分がある。牧師志願者にとっての非伝統的な出自をもつ人々への障害を取り除き、門戸を広げるための多くの改善が必要な部分があることは確かではある。この国の中で、多くの司牧の人々が、この種の可能性を熱心に模索してはこなかったし、より広い宗教的な対象に関する調査をしてきたわけではない。しかし、全体としては、牧会上の複雑さとケアが必要な社会的に弱さをもつ人たちへの配慮の責任ある立場にある指導者たちへの説明責任は、プロフェッションとしての牧会が理解されべきことを示しているのではないだろうか。

               神学校の卒業生がフルタイムの給与付きの仕事がどんどん見つけられなくなればなるほど、プロフェッションとしての牧会にかかわる仕事は、賜物があり、情熱的で熱心な指導者たちをどんどん教会の働きへとひきつけなくなる。そういう優秀な人々は、法曹関係者、医師、技術者、大学関係者、その他のところを目指し、牧師となるリスクを避けることになるだろう。無論、こういう世俗的な社会で有効な能力から、教会は、益を得るだろうが、それと同時に、牧会というプロフェッションも、また、その会衆も、被害をこうむることは避けがたいだろう。

              教会の財政的な厳しさが生み出す貧困
               もちろんこの議論に関して、明らかな反対のご意見はあるだろう。私たちがどう考えているかが問題なのではない。なぜならば、現在の財政時的な現象が、そう仕向けているのだ。多くの教会は、フルタイムで奉仕してくれる牧師を求めているものの、彼らの予算は、一人雇う以上のことはほぼできていないのだ。我々は、二足のわらじをはいた牧会への方向性を嘆いているものの、それを抜け出す方向性がないのだ。我々にできることはあるがままの現状を受け入れ、レモンからレモネードを取りだすように霊的によい何らかのものを生み出す方法を見つけることのみなのだ。平信徒のリーダーシップを改善したり、地域との連携を強化したり、讃美にしても専門的な聖職者により依存しない形の賛美を目指すしかないのだ。

               これらのことはすべて真実だとは思うが、しかし、これが最後通牒のようなものだとは思ってはいない。

              まず、神の計画を
              思うべきなんでないか?

               我々のいのちは、物語によって形づくられている。我々が何者であるかという『ものがたり(Narrative)』それは、我々の目標がどのようなものであるか、我々が抱く理想がどのようなものであるか、我々が描くビジョンがどのようなものであるかであり、それらが我等の変容を導くのである。われらが、二足のわらじをはいた牧会が将来に我々が取らなければならないものだという支配的な物語に唯々諾々として従うならば、将来に足のわらじをはいた様な渤海が将来となることは避けられない。我々は将来どのような牧会の在り方が望ましいのか、会衆を生き生きとさせるのか、そして、それを行うための創造的な方法とは何かを考え続けないとけない。将来への希望をおくことを忘れた死滅質すある教会に新しい生命を宿らせるために、これらを考えることは重要ではないか。過去に思い入れてみたり、現在を嘆くことに時間を費やし過ぎてはいないだろうか。

               われらは、全てのことを可能とされる神への信仰を告白するものである。われらが現状の安定状態を変えられないものとして受け入れるとき、われらは、将来は今日とは違ったものになるというわれらの信仰不足を暗に告白しているようなものだ。このような方法で、神がバカにされてはならないのだ。

               よりよい将来に向けて想像力を働かせたり、そのための努力したりすることはすぐさま現状は変えない。教会の変化や教会が再び活気づくことが我々の究極の目的であるとしても、今日の変化に我々は、真正面から向き合わなければならない。私自身、複数の牧師のグループで、牧会されて行く創造的な方法から励まされてきたし、牧師たちの異なる賜物と才能が会衆に多くの祝福を与えるのを見て、励まされてきた。教団は、この変化の激しい時代にあって牧師たちの牧会能力に資することにもっと焦点を上げるべきであり、これらの神学教育費用を返済することへの希望を持てない司牧に対して、神学教育を受けるための財政的負担にももっと関心を向けるべきだ。


               我々は近年の多くの教会で非常に多くみられる会話のように、希少性と信徒数の減少という物語を信じ込むほど愚かであってはならないだろう。将来は決まったものではないし、我等の方法ではなく、神が定められる進路があるのではないだろうか。

              一つの選択としてのパートタイム牧師と
              複数牧師によるティーム牧会の可能性
               私自身、二足のわらじをはいた牧会というのは、一つの選択ではあると思う。私はその方法を取ることで、ソジャーナーズでの働きを追求するとともに、パートタイムで会衆に仕えるチャンスを得ているからである。二足のわらじをはく牧会をすることを選んだ牧師たちから教えられたり、メンターとなってもらったりすることで、豊かな経験をしてきた。これらの牧師たちは、私に、会衆と牧師の両方での牧会の働きのかたちとなるバウンダリー(境界線)を持つ方法を教えてくれた。しかし、あまりにも多くの二足のわらじをはく牧師たちが牧師という仕事に関する指導や世を既に去った年長の人々からの知恵、複数の牧師と共に会衆の中で奉仕するというを得らるという贅沢を選ぶことができていないのだ。

               二足のわらじをはく牧師が神のために、隣人のために、教会のために、なしている働きへの我々のサポートはもっと必要なのではないだろうか。しかし、何人かの人しか、神の召命を感じた時から、この様な働きこの種の牧会の在り方を夢見た、という人はいないのではないか。この種の夢の実現を目指す為の方法が教会にあればいいのに、とは思っている。

              Beau Underwoodはソジャーナーズの広報広聴担当部長である。





              評価:
              アリスター E.マクグラス
              キリスト新聞社
              ¥ 2,376
              (2010-03)
              コメント:イギリスの進学教育を知るための資料。少し古くなりつつあるが、視点は重要。

              評価:
              今橋 朗
              キリスト新聞社
              ---
              (2008-09)
              コメント:よいよぉ。牧師さんの悲哀が…

              2014.08.16 Saturday

              献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(4) 最終回

              0
                 さて、これまでの3回で、日本の現代の若者の宗教施設と献金とか賽銭にまつわる問題を触れ、日本人の若者と宗教施設に対する金銭的支出の問題を考えてきた。本日最終回として、日本における牧師とそれを支える献金について触れ、この稿を終わりたい。

                 これまでの3回は、こちらから。

                献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(1)(2014.08.04)


                献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(2)(2014.08.06
                )

                献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(3) (2014.08.11)

                 

                これまでのキリスト教ブームと
                海外からの支援

                 日本には、これまで、3回から4回くらいのキリスト教ブームが起きている。まず、初回は、いま、放送法で特別に位置づけられた日本放送協会の大河ドラマでやっている「軍師 官兵衛」の時代、織豊政権期とそれに引き続いた江戸初期である。

                織豊政権期のキリスト教ブーム

                 上智大学の川村先生のご講演をお聞きする限り、最初は、コンフラリア・ミゼリコルディア的(救済共同体を形成しての相互扶助的、弱者への愛に基づく行為を良しとする)な貧者救済から入り、その後、大名クラスへの伝道に切り替え、殿さまがそうなら、我等も、って感じで、お武家さまから領民に至るまで、キリシタンに宗旨替え、ってことも起きた模様である。これを豊臣秀吉が、「けしからん」ってことで、伴天連追放令を出したってとこらしい。この辺りの背景は、こちらから。ちなみに、コンフラリア・ミゼリコルディア時代には、既存の農家とか元浄土真宗(九州では、ここからの宗旨替えが多かったらしい)の会所を徹底的に再利用したらしいし、もともと、毛坊主(門徒衆の代表者)が司祭職の代わりへとなったケースが多いらしいので、あまりコストはかからなかった模様。

                明治期のキリスト教ブーム

                 第2回目のブームは、明治維新直後のころで、要するに明治維新で、失業しかけて、字は読めて、ある程度学才があるにもかかわらず、明治新政府の支配下で冷や飯を食ったお武家(下級藩士)の皆様が英学(外国語や外国そのもの)などに興味を持ったために、陽明学(儒教思想の一つ)のような漢籍を読む感覚で聖書を読んで、キリスト教に転回し、それが広がって言ったケースである。この時期の有名人としては、新島襄(大河ドラマ『八重の桜』で有名になった同志社大学の初代学長)、内村鑑三(無教会で有名)、新渡戸稲造(武士道を海外に紹介)、植村正久(キリスト教会では無茶有名)って感じで、官吏(警察官僚)にはなれず、軍人にもなれず、商売はダメで、学校の教員にもなれず、って人たちが、キリスト教会で牧師って働きをはじめちゃう。

                 この時期でも、マイクロファンディング見たいな形で集められた、アメリカ人の献金に支えられて、アメリカからの支援(同志社なんかもアメリカからの支援でできている部分もある模様)でキリスト教会運営がなされ、神学教育がなされて行く。

                 なんか、日本放送協会の朝の連続ドラマ「花子とアン」で女子教育をしていたのも、自立組織というよりは、アメリカからの献金で運営される学校だったのだろう。当時、女性の社会進出と言えば、ヨーロッパでも、北米でも、日本でも、女性伝道師(日曜学校主担当)になるか、カトリックのシスターになるか、学校の教員しかなかったわけで、なんかやりたい女性たちは、宣教師になるか、カトリックのシスターになるか、または、学校(女学校)の教員を目指すのが一般的であったというのが現実なので、そういう側面もあったと思われる。

                 第3番目は、大正リバイバルと呼ばれる時代の話で、プチブームのような形で大正期に起きたキリスト教ブームが入るかもしれないが、このころは、割と国内的な要因であったと思われる。とはいえ、外国の見慣れるものへのあこがれ、という側面も強いだろう。

                昭和期のキリスト教ブーム

                 第4番目は、15年戦争直後すぐのGHQの占領下での日本キリスト教化方針に沿って、各地にアメリカを中心として、大量に宣教師が到来してきた時期である。敗戦国日本で、負けるはずがない日本という国家が戦争に負け、それまでの信念システムが崩壊したところに、キリスト教の宣教師たちが陸続とやってきて日本で宣教を開始する。一部には、中国共産化が進み、中国本土にいられなくなった、中国インランドミッションの関係者も日本や台湾へと展開していく。昭和30年代まで、日本は中心国であったので、貧乏国家であり、戦災孤児や、バターを取った後のスキムミルクを飲ませてもらわなければならない(ララ物資)ほど、日本の状況は悲惨だったのである。

                海外からの支援に支えられてきた
                日本のキリスト教界
                 その意味で、戦後も、基本的に救貧対策や社会的弱者の救済、救援という側面が強いキリスト教であり、もちろん、教会堂購入の原資も大概の場合、アメリカやイギリスから来たし、日本でキリスト教を伝える宣教師たちの人件費や給料、年金まで、海外の教会群からの資金に頼り、お願いできたのである気楽な時代が、1970年代1980年代前半まで続いた。まぁ、1950年代ごろにキリスト教に触れた人のキリスト教界3年残存率や10年残存率がどの程度であったかは分からないが、GDPとかが、中心国程度だったものから、先進国に仲間入りをすることになり、世界での経済的なプレゼンスが大きくなって、プラザ合意のころから華々しく世界に出て、ニューヨークやロンドン、オーストラリアの土地を買いあさっていたころもあった。そうしていたら、その10年後くらいに

                ♪ドングリころころ、ドングリこ、
                バブルが崩壊して、さぁ大変
                リーマンショックが出てきたら、
                ぼっちゃん就職できません。♪


                ってことになってしまったのである。

                自主自立を求められている
                現在の日本のキリスト教界
                 そして、外国の資金や援助に大きく依拠した日本のキリスト教会は、宣教師も激減するし、自主自立を求められて、自分たちで金ずる見つけるしか、方策なくなっているのが現在の状態かな。

                 まぁ、教会堂はあるけど、教会に年金生活者の皆さんは多いけど、収入のある献金してくれそうな財布的にも肉体的にも元気そうな若者少ないないし、いたらいるで、割とマイペース君が多くって、教会のために献金しますぞ、献身しますぞ、って継続的にしてくれそうな人いないし、ということで教会のため何かをしようとする人は意外と限られるのではなかろうか。

                 これまで、割と海外援助型の教会があったということは、日本にキリスト教を伝える拠点があったという意味では、それはそれでよかったことなのであるが、いま、海外のこれまで援助していただいた皆さんから、もはやこちらからの援助で、という時期じゃなくて、先進国になってさぁ、もう30年以上たつんだからさ、自分でバンバンやってよ、って言われているのが現状ではないか、って思うのだ。

                 そして、いろんな面での自立を日本の教会は模索していく状況の中にあるんだろう。よそ様からのモデルをそのまま適用するのでもなく。

                その中での牧師の役割

                 その意味で、金銭的な面でも、実際的な面でも、自分たちがどうキリスト教にかかわっていくのか、そして、どう自分たちに聖書理解の体系のガイダンス役として、幅広い見識と教養への身近なアクセス窓口として、そして、幅ひろい知の体系の基礎となりうる(ありていに逝ってしまえば基礎となるはずの)「聖書のことば」あるいは「聖書理解」の身近なガイド役としての牧師さんたちを自分たちでどう支えていくのか、そして、我らがその牧師によりどう支えられていくのか、という相互性の問題の中に自分たちの問題として向き合うことになったのが、現在の日本の教会なのではないだろうか。

                日本での神学の肩身の狭さ

                 ところで、本来、キリスト教学とか、神学とか、哲学とかは、諸学の知の根本をなすものであり、その基礎となるインフラ部分なのだが、日本では高等教育機関としてもその扱いは、国立大学法人や公立大学法人では、文学部哲学科の片隅に置くとか、文学部宗教学科の片隅に置くとかして、日陰者の身として細々と生かされている感じがある(これに関しては、次回に書いてみよう)。

                 これで、一般の人々に牧師が説教準備としてなしておられることが、実は非常に高度な知的作業をしていることを理解してくれ、といっても無理だろう。普通の大学の教室で学部生相手にしていることよりも、はるかに複雑で高度なことをしているのだ。しかし、科学万能時代の啓蒙主義を経て、近代を経た西欧諸外国においても、なおさら日本においては、大学からして、神学は周辺の学のような扱い、まま子扱い、村八分状態にしている現状があるので、大学卒業者からして、哲学や神学の意味とか、牧師がしていることの意味とは、ほぼ理解されない。なんか趣味で、聖書から、適当なことをしゃべっているのが、牧師、としか思ってもらえない可能英は高いと思う。

                 ワシらもそれ位しゃべれるぞ、と恥ずかしげもなく思う人々も出てくるのだと思う。その背景にあるキリスト教2000年の伝統もそこで培われたデータベースのデータとそのデータベースへのアクセス方法も知らず。

                確かに福音の表面は
                日本語聖書で語れるけど

                 確かに、「ナザレのイエス君が神です、ナザレのイエス君は、神であり、その神はすべての人を愛しています、全ての人が神とともに生きることが神の計画です」ってことは、別にラテン語や、ギリシア語、ヘブライ語が読めなくても、また、学がなくても、だれでも言える。それはそれで重要である。そして、ほぼ素人が、翻訳聖書のみを読み、素人でも言えることだけを「ワシらもそれくらいしゃべれるぞ」と言い続けてきた神学教育を十分評価しないミーちゃんはーちゃんがいるキリスト者集団がいる。自分たちのキリスト者集団のいわゆる「聖書理解」と称して語られるものを拝聴しながら、時に、個人的には、「どうなんかなぁ」とは、思っているが。

                知的作業への
                わが国での経済的評価の低さ
                 本題に戻そう。

                 現代の日本では、高度な知的作業である牧師の説教準備とかの評価は異様に低い。日本では、肉体を酷使しない、書斎型の知的作業に関する経済的評価が低いというのもあるだろう。それは無償だ、と思ってきた人々が多いからだろうと思う。ある面、書斎型の知的作業は、江戸期には用心棒代として年貢をお召し上げしておられたお武家さまや皆様からのご浄財で支えられていたお坊様がしていたからこそ、無償であったのであり、本来無償ではなかったとは思うのだ。その背景には、移転(コピペ)のしやすさ、移転による再現可能性の高さと劣化の低さもあるとは思う(確実に劣化はするけれど)。

                 牧師先生方の説教準備とその大変さは、会衆の目からは隠れているからだし、牧師先生は多くの場合、ある面、慎みをもって隠しておられる部分もあるからだと思う。しかし、会衆からの評価が低い、会衆が評価できないからといって、それを経済的に支援しなくてもいいとか、そのことを感謝しなくてよいとか、そうは思わない。近代の資本主義、市場主義が支配する経済社会の中では、人の生存のためには、経済的な資源である金銭、すなわち献金での支援が必要だからである。

                司牧を支えるということと
                司牧に支えられる我ら
                 我らは司牧に支えられ、司牧は我らに支えられる、という関係性をどう築いていくのか、それをどう考えるのか、ということが問われているのだと思う。自分たちの評価や事情だけでその司牧の支え方を決めてよいのか、と思う。そして、もちろん、職業としての司牧職にある方は、それにふさわしい矜持をもって、司牧としての職務に扱っておられる方が大半であると思う。もちろん、司牧の中にも例外的な存在がおられることも、確かである。それは、選良と呼ばれる人々の中にも、例外的な存在がおられるし、それを選出した選挙民の方々もおられるように。下記の、元県議の方のように。


                記者会見中のののちゃん県議


                ののちゃん県議の選挙ポスター


                 司牧を経済的に支えることは、それは、自分たち自身を支えることになるのだろうと思うし、また、それは我らを霊的に、聖書理解の面で、豊穣にすることなのではないかと思う。そのために、牧師先生に司牧職の矜持をもって、多くの先生方はこれまでそうされてきたのと同様に、引き続きの研さんをお勤めいただきたいし、我らは、信徒としての矜持をもって、経済的にも適切に、かつ祈りの面でも積極的に、司牧の方々をお支える必要があるのではないか、と思うのだねぇ。

                 そして、その豊かさを味わい、その豊饒さに我らが支えられることを心から、こころから神の支配に期待し、そして主日に臨むのがよいのではないか、と思う。

                 そして、この記事をお読みの諸賢には、明日の日曜日、神の豊かさを味わい、神の支配に期待する気持をもって教会に列席いただき、教会において、相互に支え合うとは何か、ということを改めて味わっていただきたいし、ミーちゃんはーちゃんも味わいたい。


                  



                評価:
                マーティン・ロイドジョンズ
                いのちのことば社
                ---
                (1992)
                コメント:よい。絶賛である。この本が、現在入手困難のが日本のキリスト教会の残念さでもある、とは思う。教会員にも、司牧を目指す人にも、ぜひ読んでもらいたい本の一つ。

                2014.08.18 Monday

                大学教育と神学 日本の大学を考える その1

                0
                   この記事は、これまでの教会と献金シリーズのはみ出し部分である。本当は第4回に書くつもりだったのだが、内容的に多すぎるので、別記事仕立てにしました。

                   前回の記事、前々回の記事で、牧師が話すことは、実は2000年のキリスト教の体系と豊かな知の体系に基づくものになっているはずだという話をした。何にでも例外はあるので、そうでない事例もあることはまず、認めておきたい。

                   その2000年のキリスト教の体系、聖書理解の体系と、それにアプローチする知の体系の教育機関というか、教養教育をするためのその修養機関が本来大学の出発点ではあったし、現在もそうであってほしい、という話をしておきたい。国公立大学ではそういう宗教教育的な教育は、そもそも、そういうことはしないということになっているので、無理だけど。

                   しかし、知の体系化というか、卒業生が社会の中で生きていくための基礎となる知的作業をどのように構築するか、という方法論の訓練をすることが、多分、本来の大学の価値ではないか、と思うのだ。某国総理大臣は、企業にとって役立つ教育を、って言っておられるが、それなら、大学を専門学校や大学を就職準備学校にするのではなくて、専門学校を強化すればよろしい。その方がよほど企業にとって役に立つ。

                  日本の大学と日本の教養

                    日本にも確かに大学があるし、日本の大学はそこそこではないか、というかもしれない。そうなのだ、そこそこなのだ。日本にも、日本特有の教養があるし、学校で教養教育を中等教育でもしているではないか、とおっしゃるだろう。しかし、それは聖書理解をするための教養教育ではなく、明治のころからの漢籍や日本の平安鎌倉期ごろの典籍をかじる程度の教養教育なのだ。すべからく生徒(中学校、高等学校の生徒を示す)に一般教養として与えるためには、かじる程度の、あるいは入門の入り口程度のものしか時間的制約、教える側の制約がある以上、できないことは確かであるし、それで十分だろう。

                   日本の大学教育が日本型の教養依存になっていて、それのどこが悪い、という方もおられるだろう。ここは日本だ、って。そして、我々だって、聖書理解ができるではないか、日本の漢籍だって、古典だって、教養として多少は役立つではないか、とおっしゃるかもしれない。そうかもしれない。

                  欧州の教養と聖書理解

                   しかし、英国(そして米国では、一部のエリート教育を施す学校)や欧州の教養人は、キケロやユリウス・カエサルを8歳ころ(当初は読みやすいもので教育される)からラテン文で学び、ラテン作文をさせられ、ギリシア語を15歳くらいには素で読んで意味がわかる教育を受けているのだ。それと同時に人前で話すという教育訓練を受けていく。アメリカでも、そのことがされている証拠が、つい最近亡くなったロビン・ウィリアムスが出てきていた、Dead Poet Societyで見られる。


                  故 ロビン・ウィリアムス出演のDead Poet Society(邦題 いまを生きる)

                   何、ラテン語やギリシア語が読めるから偉いと言っているわけではない。

                   聖書と聖書の教育へのアクセシビリティ(近接性)が日本よりはるかに良い環境の中にいる人たちがいる、ということなのだ。そもそも、後進国として先進国に追いつくために大学を明治のころから設けていった我が国と、欧州とでは根本的にその成り立ちとうか、根本が両者で違うだけのことである。

                  日本の大学モデルの変容

                   戦前は、欧州の中でも後発で、当時、やたらと勢いのよかったドイツから学問の体系と学問の方法論を大学教育とセットで国立大学を中心に移植しようとした。なので、昔の大卒はフリだけでも、単語くらいは使える程度にドイツ語を解するもの、という暗黙の理解があった(なお、ミーちゃんはーちゃんは昔から変わりものだったのでフランス語族)。医学の世界なんか特にそうだったが、最近の医学生に聞くと、ドイツ語は残念ながら、日本の医学教育の中で死滅した模様。ところで、昔の大学院の試験には、第2外国語があった。ところで、いまだに、旧帝大系では、第2外国語の試験が一応ある模様。

                   2回の世界大戦を経て、ドイツも戦争に負けたし、アメリカが日本に進駐してしまった関係もあり、アメリカの学制をモデルにし始めて、中等教育から高等教育まで、アメリカの大学のモデルをセットもので移植がこころみられたため、完全に米国型モデルに移行できてないものもあるが、かなりアメリカの教育モデルに近いものに変って行っているように思う。
                   特に、世俗化が進み、神学を重視しない風潮だったアメリカの高等教育制度での大学や、神学部抜きでの高等教育を行う州立大学などをモデルにした大学のテンプレートが持ち込まれて行き、高等教育が進められていく。そして、それが、大学というものなのだ、ということになっていったとおもう。

                   だが、ちょっと待ってほしい。

                  ヨーロッパ系大学の伝統

                   本来、欧州での大学は、司祭(神父)養成所、牧師養成所として始まったところが大半なのである。イギリスでも、古い大学であるオックスフォード、ケンブリッジはそうである。アメリカでも、名門校と呼ばれる、ハーバード、イェール、プリンストンあたりは、確実に牧師養成所を背景としているからこその、神学を扱っているからこその総合大学(University)らしいという印象がミーちゃんはーちゃんにはあるのだ。

                  日本の大学はどう見えるか

                   同じ大学、って日本語で表示されるけど、実はかなり中身や雰囲気が違うような気がする。諸学を扱う大学っていう意味では、神学を扱って初めて、ユニバーシティであるはずなのだけれども、神学抜きの州立大学などをモデルにした日本の大学は、実は、なんちゃってユニバーシティに見えると思うのだ。アメリカの州立大学もなんちゃってユニバーシティだと思うけど。その意味では、東京大学以下日本の国公立大学は、州立大学クラスであり、なんちゃってユニバーシティで、実態としては専門的な、あるいは、技術的な深化を目指したタコつぼ型の教育を行うカレッジの寄せ集めに近いように思うのだ。失礼な物言いになっていることはお詫びするが、総合、っていう観点は、全部そろっているから、総合であって、それが、総合というか、シンセシスSynthesisされているか、とか、統合されているかって言うとかなり・・・な気がする。ただ、東京大学以下の旧帝大系の国立大学生に優秀な学生が多いのは確かであるけど、まぁ、中にはそうでないのもいないわけではない。

                   この辺、詳しく考えたい向きには、この記事の下部に紹介した、ヨベルから出ているキリスト教系の哲学者の方の書かれた本を読まれるとよろしい(まだ、半分くらいしか読んでないけど、かなりいい、翻訳は大学の先生が訳しました、って本になっている)と思う。

                   そもそも、大学(universityユニバーシティとか、universitasウニベルシタス)って、結局全部のことを何となく全体として突っ込んであったはずだし、それぞれの諸学が横のつながりを見ながら考えましょう、ってのが基本大学だったはずだし、いろいろな立場から物事を考えるってのが、哲学のはずだったし、それを考えた偉い人がもらえるのが、本来、Ph D.(哲学博士って訳されることもあるけど、博士様)のはずだと思うのだがなぁ。

                   そいう言う意味で、ミーちゃんはーちゃんのようなハンパものが言うのは、口はばったいことではあるが、ある面、思想を突き詰めながら、学の体系を統合化(シンセシス)するのが、本来の学の役割だったのだろう、とはおもう。そして、個人の中である程度体系化された形で統合化できるようにし、複雑な社会に向かって、自分たちの聖書理解や、自分たちの信仰理解の上で、聖書に基づきつづ、どのように生きるのか、を牧師先生方が、この世界に生きる普通の人々に提示するための学問の体系を提示するための基礎教育機関が、現在の大学と呼ばれるものの原型であったのではないか、とは思うのだ。

                   次回へと続く。



                  評価:
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                  コメント:あまり有名でない神学部で何が学べるかを外から知るには、悪くないけど、それ以上のことはない。

                  2014.08.20 Wednesday

                  大学教育と神学 日本の大学を考える その2(この項終わり)

                  0
                     前回の記事では、そもそも、大学はアメリカやイギリスの名門大学と呼ばれるところは、神学教育機関であった、ということをお話しした。

                      大学教育と神学 日本の大学を考える その1

                     今回は、前回書ききれなかった諸学の一部が実は神学と深い関係にあることをお話しして終わりたい。

                    政治経済学って神学校での科目だった?
                     最近になるまで、というよりは、はじめてのジョナサン・エドワーズを読むまでは、気がつかなかったのだが、経済学という学問分野は、もともと政治経済学(political economy)といい、ジョナサン・エドワーズの時代には神学教育の中で、最終学年に、神学校の学長クラスが、世の中の仕組みをどう見るのか、人々がどう動いて社会がどうなるのか、ということを解説した科目だったらしい。この辺ことは、経済学の授業でも触れないし、自分が教えた時も触れなかった。あんまり入門的な本にはこういうことが書いていない。

                     そんな政治経済学の分野でも、いろんなイギリスやフランスの人々を中心とした経済学者の皆さんが、経済学だ、とは思わずに書いたりしているうちに、アダム・スミスが国富論(諸国民の富)を書いたり、ベンサムがいろんなこと書いたりして、現代の経済学の基礎なんかがなんとなく造られて行って、そういうのを専門に教える人が出てきたり、政治経済学が独立して、経済学という学問体系ができていき、マルクス君が資本論などを書き、専門化が進み、細分化が進み、数学が経済学を解析するツールとして使われるようになって、ことばでやる経済学が割と隅っこにおかれて行ったりする。とはいえ、Journal of Political Economy という経済学ではものすごく権威のある1892創刊の雑誌が今も継続出版中ではある。

                    科学も、もともとは自然神学が出発点
                     社会科学だけでなく、自然科学だってマクグラスの下記の本で書いてあったと思うのだが、啓蒙時代、近代に幅を利かせた科学そのものだって、もともとは、自然の中にあらわされた神のわざを明らかにしたいという立場の学問、すなわち自然神学という立場から出てきたわけで、本来は対立的なものではなかったのだが、科学が学問分野として自立し、独立して自分たちの論理を持ち始めるとそれはそれで、もともとあったところの立ち位置とはかなり別なものになっていく。

                    ギリシアの科学哲学が
                    一度崩壊した西ヨーロッパ
                     いや、ヨーロッパの学問の基礎にはギリシアの自然哲学があるのでは、というご指摘をされる向きもあろう。もちろんそれはそうなのだ。しかし、それはヨーロッパが連綿として保存していたのではなく、ヨーロッパでは、ゲルピョン民族がやってきたり、ゴート人の御一行様がご到着になったりして、ローマがそれまで保存していた文化や文物がてんでんばらばら、ちりじりになっていく。そして、肉体派の前では頭を使う人の価値はほとんどないので、ペンより重いものをもったことのない学者とか、学問の体系をいじる人たちはその価値がなくなり、そんなことをしている余裕がなくなって、異民族の中に浮かぶ孤島のようなローマにかろうじてその一部は残るものの、いわゆる西ヨーロッパを中心とした世界は、学問って何それおいしいの状態、哲学って何よ、って状態になる。そして、学問と学者は、東ローマ帝国、とりわけコンスタンチノープル、コンスタノポリスを目指して、学者の皆さん走り出す。しかし、トルコ陸軍に責められて、コンスタンチノープルが陥落した後、そこにあった知的遺産は、結局イスラム学者が引き継ぎ、保存されて行くことになる。

                    イスラムとヨーロッパの科学
                     その後、イスラム世界との交流の中で、リザーブされていたギリシア哲学が、印刷物の普及や植物性の原料による紙の作成法などと同時にヨーロッパを席巻していく。それまでは、動物の皮(特に羊の皮)を素材とした用紙だった。その意味で、近代ヨーロッパの科学を支えたギリシアの自然科学、自然哲学、数学はいったん西ヨーロッパで端に耐えて、ルネッサンスの種のような役割を果たしたらしい。その意味で、ヨーロッパ人も、その学問成果のお世話になっている日本人も、基本、イスラムの皆様にはお世話になっているんだけどなぁ。

                    放蕩息子になりやすい諸学問
                    放蕩息子の兄になりかけた神学の一部
                     経済学にしてもそうだし、科学にしてもそんなものだが、もともとはキリスト教の中で、育まれていたものが、勝手に分離して行って、放蕩息子のように勝手な道に進んでいったのだろう、と思うのだ。神学の中でも、似たようなことは起きる。もともと、神のことばとな何か、を考えているうちに、どこまでがオリジナルテキストなのか、っていうことで、批判的にテキスト批評して行ったら、放蕩息子の兄みたいに、キリスト教としての信仰の基礎となる聖書そのものを、ばらばらにしちゃいそうになった人たちもいる。

                     出発点がよくても、でてくるものはろくでもないものが出てくる、それが所詮人間のしてきたこと、人間がしていることかもしれない。我々は、出発点やその最初の出発点があれば、もたらす結果もよいものであると思いたいし、信じたい。そうは問屋がおろさないのが人間というものだし、そうさせないのが、神の不在を起こしやすい人間なのだろうと思う。キリスト者は神の不在とも言える罪がないのではなくて、神の共存が常態ではない罪あるものではあるが、それをとりあえず共存しているものとみなしてもらっているに過ぎない存在なのだけど、自分が一番になってしまって神が一番でなくなって、勝手に自分の思いを神の御思いと取り換えちゃって、
                    本来の神の御思いと違うことをはじめちゃって、戦闘民族化しちゃうのがねぇ。そもそも、それは偶像崇拝だと思うし、罪だと思うのだなぁ。

                     余談に言ったので、本論にもどすと、大学とかで学問(真剣に考えること)をする際に覚えておいた方がいいと思うのは、自分たちの不完全さであり、自分たちの限界である。人間は神でない、ということであり、自らが神でない、ということを知った上での神の存在への「恐れ」というか、「自らの残念さの自覚」を持つというなのだろうと思う。

                    大学は何をする「はず」のところか
                     本来、大学ということろで教育というか、教員と学生が共生している中で、実施している「はず」のことは、単なる知識の切れっぱしを板書したり、知識の切れっぱしが書かれた本に書かれたものを与えるようなものではなく、それぞれの専門分野を素材にとりながら、それに向かっていくとはどういうことか、教員と学生が人格的交流の中で、人生で生きる上で考えなければならない際の考え方、自分たちが完全でないことへの気付きをもつ中での「自らの残念さの自覚」をもつものとして、どう現実に向き合っていくのか、ってことを考えるときに、堂物事を見るか、どう考えるかということの考え方のアプローチを教員と一緒に体験的に自らのものにしていくこと、なのだと思う。つまり、人格的交流の場のはずなのだとおもうのだがなぁ。まぁ、カッコよく言えば、教員と学生からなる学習する共同体、Learning Communityであり、その成員として過ごすことに意味があるところではないか、と思うのだ。

                     遊学という良いことばが以前はあったが、本来、大学ってのは、遊学をする場所であり、その中で自分が問題や事象を幅ひろい立場と視点から見る目を養う場所だったのだけど、それを職業人養成所や就職予備校にするのは、ねぇ、どうなんでしょう。

                    諸学の連結の学としての神学
                     どの学問体系でもそうだと思うのだが、その筋の専門家に触れて、自らの不明というか自らの残念さを自覚的に認識するとともに、そうであるがゆえに、その筋の専門家と枠を超えてつながっていくことが重要だと思うし、自分自身の不明さ、そのふがいなさ、残念さを覆う存在として、そして、この地上に存在する様々な枠組みがナンセンスであり、それは大きく見えるけれども、神の前に意味がないことを身をもって示されたイエスとそのイエスを遣わされた神を知ること、そのイエスについて我らに与えられた神についての学が神学だと思うのだが、そして、ふがいない、残念さをうちに持つ、神と一つになれないものが、そして、わずかの期間でも一つの思いになることが人と人との間で実に難しい存在であるものが、生きるという意味を神が与え給いしことばである聖書と取り組み、そこに問い、そこから生み出されるものが神学だと思うんだけれども、違うかなぁ。

                     大学時代にお世話になった、パスカルの研究者でもあられた故湯川先生が、大学での哲学入門の講義でお話しされたことがいまだに忘れられないので、紹介してこの稿を終わろう。

                     君たちは、かんたんに哲学という言葉を使う。テレビや新聞でも、野球哲学とか簡単に使う。そんなものは哲学ではない。生きるということ、そこで、人間として生きるということ、人間として考えるということこそ、そのものが哲学なのであり、それを結晶化しようとするものが哲学者と呼ばれる存在なのだ。思い付きでしゃべること、深い思慮に裏付けけられていないものは哲学でもなんでもない。

                     その時は何とも思わなかったが、いま考えてみると、神のいぶき、霊を受けて生きるのもであるものとして、神のことばに基づき、それを手がかりに神の御思いが何か、それをどのように実現するのかを考え、他の人々と対話しつつ、日常生活の中で真剣に生と取り組み、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、知性を尽くして、神とともに生きるということが、我々平信徒にもできる神学、あるいは、キリスト者としての生き方、かもしれない。
                     
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                    コメント:アメリカの文化と歴史と社会とキリスト教を理解するうえで欠かせない1冊。まず、アメリカ社会を理解しようと思うと、この本読んどいたほうがいい本。

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                    コメント:よいよ。科学や学問と聖書で対立的に考えるのではなく、もともと科学の意味から学問と聖書理解の問題を考えるのに参考になると思う。

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                    コメント:時々、わかりにくい部分もあるけど、イスラムとのかかわりの中でヨーロッパの発展の裏面市を追ったような本。良いと思う。

                    2014.08.23 Saturday

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1)

                    0
                       今回からのシリーズは、かなりハードかもしれません。入口は思いっきり下げてみようかと思いましたが、かなり難解。ミーちゃんはーちゃんの問題というよりは、お化けのような神学者、ジョン・ハワード・ヨーダーの問題かもしれません。

                      Yoda?Yoder?
                      Master Yoda 最近、ジョン・ハワード・ヨーダーに関心を寄せている。面白い御仁らしい。このヨーダーさんなかなか魅力的。

                       ヨーダーと言っても、緑色したスーパーマンとも称される、隣の写真に示すようなMaster Jedi Yodaではない。

                       ちなみに、個人的に、Master Jedi Yodaは嫌いではない。

                       スターウォーズで個人的には、ダース・ベイダーに続いて、好きなキャラクターかも。
                       
                       そうそう、ダースベーダーって、こういう気の抜けたのもいいやね。この栗コーダーカルテットって人たちはやたらと技術レベルが高いのに、こういうことしてくれるのが、いいやね。

                      栗コーダーカルテットによるダースベーダーのテーマ

                      神学者 ジョン・ハワード・ヨーダー

                       このヨーダー(神学者のほうね、左の写真に出てくるYoderさんのほう)さん、結構ファンがいるらしい。このヨーダーさん、後に紹介する本によれば、メノナイト・ブラザレンというかなりマニアックな少数派のキリスト者集団のご出身らしい。

                       それより少数派のプリマス・ブラザレンのミーちゃんはーちゃんがが言うなって?

                       それは御説の通り。

                      ファンの多いジョン・ヨーダーさん

                       ツイッターでミーちゃんはーちゃんがフォロー中のJohn H.Yodaさんの5月4日の投稿が次の画像。JodaとJoderの合成写真、おもろすぎワロタ。ミーハー氏とギャグやらなんやらの感覚が一緒。痛いほど似ているのもね。

                       
                       ところがである。この神学者の方の、John H. Yoderであるが、平和主義・非暴力主義をかなり言った神学者であるものの、セクハラ疑惑・暴行疑惑が付きまとっているらしい。Wkipedia情報。

                       そういう意味で、神学者の方のJohn H. Yoderさんであるが、倫理学関係の研究者でありながら、というあたりが神学者、倫理学者としての取り扱いがどうもいろいろ悩ましい、らしい。いろいろありすぎて、正面切って応援しにくい事情もあるらいい。

                       
                      Yoder入門書?
                       とりあえず、原著に手を出してもいいのだけれども、その前に、という意味で入門書ということで「どこが入門書?」という思いもしなくもない東京ミッション研究所 編のジョン・H・ヨーダーの神学 −平和をつくりだす小羊の戦いー を読んだ。いくつか言いたいことはあるが、何となくヨーダーという巨人の全体像を見るには、非常によい本のような気がする。(新教出版社のステマではなく)この入門書のフリをした論文集、第2章から第5章までが秀逸。(第1章は、まとめのまとめなので、つまらなく見えるだけなので、第1章がよくないという意味ではない。)

                       この本の中からいくつか拾ってみたい。(今回は、第2章 中島真実論文から)

                      ヨーダーの教会論

                       ヨーダーの教会論について、同論文では、次のように紹介されている。
                       
                       ヨーダーは、キリスト者にとって世界の見方と行動の仕方を訓練する共同体とは「イエス・キリストが主」と信仰告白する教会なのであるという事実に注目する。すなわち、イエス・キリストが主であるということは、イエスの出来事において創造主なる神が歴史的に決定的な形で(終末論的に)ご自身をあらわされたということで、そのことを信仰の告白となし、それに基づいて存続する共同体としての教会がキリスト者の生き方を方向づけるのであり、これこそが「神学的」倫理学においてまず注目されるべきことなのである。(p.35)

                      と述べたうえで、同論文では、ヨーダーからの次のような引用をしておられる。
                       教会の自己理解に関いて一貫性を与えている理法は演繹ではなく物語である。(p.36)

                      とか紹介されている。教会が物語として神を語るというのは違和感があるかもしれないが、以下に紹介するように、それはヨーダーの神学においてこの物語という概念要素は、極めて重要な役割を果たすようなのである。

                      物語と教会のアイデンティティ
                       さらに、物語と教会のアイデンティティについて次のように記述されている。
                       
                       ヨーダーが着目するのは教会の特殊な物語とアイデンティティである。しかし、彼はそれらが特殊だからと行って、ある特殊なグループの内部に閉じ込められるようなものとはみなさない。むしろ、後述のようにそもそもそれは表現され、伝達され、継承される性質のものであるし、そのように扱われるべきものである。ただしその手段もやはり一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定することよりはむしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語ることなのである。ところが、こうした物語は一貫した概念や筋道をもっている一方、物語る形式は語り手の時と場所によって多様である。
                       (中略)
                      このように、物語という形式は、統一性と多様性の構造を教会の指針伝達に備えさせるのである。即ち、教会にとってのこの一貫性は自らの特殊な物語を貫くイエスは主と言う信仰告白を通して与えられ、もう一方でこの告白がそれ自体の豊かな内容を教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示するのである。(pp.36-37)

                      というふうにヨーダーの教会理解が紹介される。このなかで、「一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定する」ということで、一般化した形で、教会ってこんなところですよ、と教会を語ることや、そういうものとして教会について語ることがキリスト者にとって多いかもしれないが、そのことの問題点を指摘しておられれる。多くの場合、メタ思考(メタ思考ってのは、問題を一旦はなれてその周辺を見て考えること)ができないので、語られる方も、語るほうもそれで満足してしまう。そして、その問題設定の枠組みから出れなくなってしまう。

                       ところが、メタ思考ができているヨーダーにとってみれば、そんな一般化した議論は無意味であって、それよりも、ヨーダーの諸論によれば、「むしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語る」ことが重要であるらしい。それを、「教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示する」ことにミーちゃんはーちゃんが取り組んでいるか、と聞かれると、非常につらいものがある。これには、こころがグサグサ。

                       ちなみに、メタ思考、本当はもっと複雑なんだけど、わかりやすく示していたサイトがあったのでご紹介。

                      メタ思考では、いったん自分の視点を離れて、もっと自分の頭のうえの高いところに視点を移してみるのです。まるでヘリコプターで上昇するように視界を拡大してみるのです。 

                      眼下には相手である顧客が怒っている姿が見えます。対応に困っている自分の姿が見えます。その後ろには、会社の上司たちの姿も見えます。

                      このように高い視点から俯瞰してみると、今までと違った考えが湧いてくることがあります。 なによりも状況を客観的に眺められるので、それまでの閉鎖的環境から抜け出て余裕ができるのです。新しいアイデアがひらめいたりします。

                      視点を変えてみる、こと


                      概略をつかむうえでは、これでOKではないかと。

                       次回へ続く。


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