2014.07.01 Tuesday

日本でボンフェッファーらのやったような組織的非暴力型抵抗運動が認識されなかったわけについて、たらたら考えた

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     今回も長め。重いネタなので、戦争責任とか、抵抗運動とか、キリスト者と正義とかが、気にになる方向け。

      この前、面白い方が関西に来られたので、知人たちとゆかいな夜ごはんを食べる会をしていた時、たまたま、現在話題の憲法解釈による集団的自衛権がうんたらかんたらという香ばしい話題がたまたま出た。その時、非キリスト者の参加者のお一人が、「なんで、ドイツではナチスドイツに抵抗した人たちが生まれたのに、日本では、それが組織的な運動とならなかったんだろうか」という話になって、ちょっと考え込まされてしまった。


     なんか今日はその辺の香ばしい話題で盛り上がりそうなので、ちょっと書いておこう。

    バルメン宣言から80年

     ドイツでは、バルト(血清を運んだ犬のアニメ映画ではない)先生の学問的功績と言うのか功罪があるにせよ、バルト先生なんかも頑張ったバルメン宣言(この辺は、最下部のリンク参照)なんかが出ているし、ボンフェファ先生は、地下での牧師養成所での活動に走り、最後にヒットラー暗殺計画につるんで、刑死してしまった方である。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは、このボンフェファ先生が好きなのである。好きなものは好きだからしょうがない。基本ミーちゃんはーちゃんが左巻きだから、ではあるからなのだが。

    何で、日本でバルメン宣言が出なかったり、
    そんな活動が認識されないの?という素朴な問い

     「なぜ、日本ではバルメン宣言が出なかったのか、そういう運動があったとしてなぜ認識されなかったのか」というその問いをキリスト教会外の人から投げかけられながら、「そうだよね。確かに、戦争中日本でのキリスト教への弾圧というのか迫害はあったけど」とおもってしまったのだ。

     無教会運動の関係団体も、特高警察(特別高等警察、思想事案、社会事案を扱う警察)の「がさ入れ」にあったようだし、ホーリネス派の皆さんで、牧師先生の何人かは獄中死(たぶん公式見解は、病死など)しているし、私がお世話になった教会の責任者だった歯科医の信徒さんも、治安維持法違反で逮捕され、歯科医師免許はく奪、広島刑務所に収容中に広島で原爆にあって、山口刑務所に移送中に釈放となった経験の持ち主であった。うちの教派の関係者には、アイルランド人宣教師で、戦争開始後日本に残ったがために、獄中というよりかは、松沢病院で不審死した人もいるし。戦争中のキリスト者と社会との関係が詳しいのは、石浜みかるさんの「変わっていくこの国で」や「15年戦争期の天皇制」(下記リンク参照)とキリスト教であり、よければ、ご参照いただきたい。


    戦争中もわりと相互独立だったキリスト教界隈

     いずれにせよ、それぞれ教理的な違いもあり、伝統もあまりなかったり、別々に宣教師が別々に始めてたり、という関係もあるのか、独立の相互にわりと連携のない動きであったような印象がある。その結果として、キリスト集団としてバルメン宣言みたいに、政府に積極的にまとまって何かもの申す、って感じでもの申した、たとえ無効であったとしても、って雰囲気は、戦前はどうもないようなのである。(この辺はよく知らないので何とも言えないが、今手元にある資料を見る限り、あまりないような気がする。)

    抵抗運動に踏み切れない背景

     バルメン宣言みたいに、日本のキリスト教会が、もの申さなかったということを批判したいわけでもない。もの申さなかった方々の信仰やら、人格を否定しているわけでもない。それは、かなり厳しい選択を自ら以上に、日本社会で生きざるを得ない自らとその家族だけでなく、自分の家族以外の関係者に強いるからである。もちろん、キリスト者集団のトップとしては、自分の発言で自分ところのキリスト教会の信徒がことごとく冷や飯を国家総動員体制のもとで食らう、ということに耐えられる指導者はそうはいない。

    逃げ場がなかった日本のキリスト者

     日本人が当時亡命可能なところと言えば、手近かには、当時共産圏であったことになっているスターリンちゅうおっそろしいオッサンがいたソ連しかなく、太平洋戦線でも、東南アジア戦線(南方戦線と言ったらしい)でも破竹の勢いで侵攻していった(相手が日本がまさか無謀なことをやるまいと思っていたために準備不足だったという説もないわけではない。特に東南アジアでは)関係で、亡命先ってほとんど絶望的であったのだ。大体陸続きで逃げられたところはどこもない。
     アメリカに亡命しても、当時黄禍論(モンゴロイドへの差別の原因となったモンゴロイドはろくなことをしないという説)ということがまともに受け取られていた(今の若者には、にわかに信じられがたいだろうが、つい60年くらい前まではカリフォルニアでもそうで、アメリカの南部のごく一部には、その傾向がなお残るところもないわけではない。昔みたいにおおっぴらに言わないだけで。おおっぴらに云ったらFBIに逮捕されるらしい)当時のアメリカであり、スパイを疑われて、カリフォルニアの砂漠の中の収容所行きは確実だったたろうし。

     まぁ、労働運動で財閥相手に一歩も引かなかった賀川豊彦先生も、結果キリスト者の満州開拓団なんかを送り出しておられるという黒歴史が。関西人で、コープこうべやら、様々な生協活動の皆様にお世話になっているものとしたら、あまり悪くも言えない。


    当時のキリスト教の状況、
    そして今のキリスト教の
    状況
     ただ、ドイツのキリスト教にあって日本のキリスト教になかったものが何か、ってことを考えたい、ということなのである。

     ドイツの場合は、カトリック、プロテスタント含め、おおむね1000年以上キリスト教の歴史があり、キリスト教会の中で、過去から現在に至るまで、異端審問とかアホなことをする人たちはいても、社会全体がキリスト教の影響下(いい悪いは別として)にある方が大勢を占めていたし、教会は社会的存在(現在も選択的であるとは言え、ドイツでは教会税があるほど)と認知され、時に馬鹿にされながらも、一定の評価を受けていた社会集団だったのだ。人口でいえば、おそらく、人口に占めるキリスト者の比率は70%以上であったのではないだろうか(それ以外には、ユダヤ教やムスリムもいただろう)。この歴史性とそれの結果としての社会におけるマジョリティという性格がドイツの教会にはあって、日本の教会にはなかった。これは今も日本の教会は持ってないだろう。吹けば飛ぶような将棋の駒同然(いや、そういうと将棋の駒に失礼にあたるかもしれない)で、人口の数%にも満たないマイノリティであり、社会の主要な部分への影響力がないのが、失礼かもしれないが、残念ながら日本のキリスト教会の現状であることは素直に認めねばなるまい。だから、官兵衛がはやると必死になり応援・喧伝し、八重の桜がはやると、八重の桜を応援どころか喧伝し、竜馬伝がはやると竜馬がキリスト教徒かのように扱い、幕末の志士が聖書を読んでいたから、キリスト教徒化のように語る人々が出てくる。聖書を読んでキリスト教徒に近い存在なら、新井白石はキリスト教徒に近い存在になるではないか。ま、そんなことはどうでもいいが。

    キリスト教徒が社会の主軸になっても
    歴史を見る限り、あまり変わらないと思うけど
     「キリスト教徒が社会の主軸となるべき(そしたら社会はよくなる)」とかいうちょっと無謀な意見もあるが、個人的には、そうなってもあまり変わらないんじゃないか、と思うのだ。それは、ジョナサン・エドワーズの時代のニューイングランドを見ればよろしい。あれだけ厳格なピューリタンコミュニティ形成を目指して植民地を作っても、すぐに堕落するいい性格をしているのが人間なのだ。そこらは、わきまえたほうがよろしい。または、ナチスドイツ支配下のドイツを見ればよろしい。われらは、キリスト者とはいえども、カインとアベル(セト)とを生んだアダムの末であることを忘れてはなるまい。

     余談はさておき。

    キリスト教徒がキリスト教徒に
    向けて宣言したバルメン宣言

     つまり、ドイツでのバルメン宣言は、国民のかなり部分であるキリスト者を巻き込んだ宣言であり、国民の大部分のキリスト教徒とキリスト教徒全体の生活の根幹をめぐるキリスト教同士の争いであり、まぁ、ゾウとロバくらいの争いではあったのだ(ゾウとロバはアメリカのコンテキストで書いているからね)。ぞの意味で影響力はおおきかかったのだ。まぁ、バルト先生は超有名人だった、ということも影響しているとは思う。この辺、ドイツの神学事情は疎いので、よくはしらない。

     ところが、日本では、政府から見れば、日本全体という棋面で見れば、キリスト教徒は吹けば飛ぶような将棋のコマ程度(失敬)であり、代表者捕まえて、治安維持法違反で捕まえてしまえば、あとは自滅を待つのみ、と判定された社会集団という政府側の認識と見解だったのだろうし、その読みはある程度当たっていたようにも思う。

    有名神学者がいったが故に
    多少はインパクトがあったバルメン宣言

     その意味で、バルトの現代的評価、神学的評価自体は別にして、世界的に名の通った神学者であったバルト先生等の皆様が、バルメン宣言言いだしたから、ドイツは国民をあげて、とりあえずはバルメン宣言なんか、変だ、という結論に達したということはあるにせよ、ちっとは考えたし、その上で、ドイツ的なるキリスト者像とは合わないものとして、この宣言を無視していくのである。ちなみに、バルト先生は、もともとはドイツ人ではない、ということも微妙な影響を与えているような気がするけど。 

    キリスト教の規模の大きさの違い

     その意味で、ナチスドイツにおける教会内バトル(≒国民的バトル)としてバルメン宣言は存在しえたのだが、日本では、こういう聖書に基づく政体論や政治的決定と信仰との議論は、日本国全体からみれば、所詮、どう頑張っても人口の数%の範囲内のおちょこ、いや、ピペット、いや顕微鏡のパラプレート上の争いでしかなく、日本の政府にとって、へでもなかっただろうし、一般の日本のキリスト教徒にとっても、あまり関係のないよくわからん話でしかなかったであろう。キリスト者における国論を二分するってことにはならなかっただろう(ドイツでもそうはならなかったようだけど)。本心では違うと思いつつも、偽装一億総火の玉になったキリスト者って少なくなかったんじゃないかな。

    結局どの国の人かて
    アカン人間なんとちゃうかなぁ
     ドイツはバルメン宣言出したから「偉い」とか、「すごい」とか、キリスト教国としての伝統と歴史とを持つ社会であるから「偉い」とか、「見習うべきだ」と言いたいわけではない。ドイツだって、ナチスドイツを出しているし、東ドイツは共産主義にひよったし、現在のドイツはムスリム対応の問題やネオナチの問題を抱えているのである。アメリカだって、キリスト教国であるという自負もあるのか、他宗教や他の後発で米国本土に到達した民族への不寛容がないわけではない。日本も言うまでもなくドングリの背比べかのような構造を持っているように思うのだ。

    社会における発言のインパクトが
    あまりない日本の教会
     ただ、社会における教会やキリスト教のインパクトの大きさと言うか、社会とキリスト教というかキリスト教会の密接さが日本とはわけが違う、どんなに優秀で高名な神学者や牧師が何か言ったところで、社会における影響力があまりない、という点が違うんだろうと思う。それは、戦前も、戦後も日本では。だから、社会のことに教会が何か言ってもしょうがないとは言っていない。神の国がある、その視点からはこう思う、ということには社会の一員である以上意味があるとは思うのだ。聞いてもらえないだろうけど。
     ま、それは仏教者の方が真剣に何かを言っても、宗教の話しか、お坊様が何か言っておられる、とかいって、形而上的なことの価値を文化面でしか認めない現在のマスコミが取り上げないので、数の問題ではなく、唯物論や精神世界の重要性を認めない現代社会の風潮がそうさせているようにも思うな。真面目に、わかる気もマスコミはあんまり全体としては、ないんだろうし。

    卒業されてしまうと影響力が
    ほとんどないのが
    大学教会
     その意味でも大衆化した社会で大学の大衆化が進んだところでも、学問という形而上的なものを扱う組織が結構あるはずの大学を出てしまったら、大学との関係や学問との関係が割とあっさりと、なくなることからも、まぁ、現代の日本では、こういうものへの扱いはあまりないのかもしれない。神学だけでなく、他の諸学でも、一般の方が大学や大学人と関係が割とあっさりと切れているというのが、実際ではないか、と思うのですね。

     だからと言って、大学がうれしそうに一般社会に出ていき、わかりやすそうな仮面をかぶって、社会との結びつきを強化しようとする動きもないわけでもないのだなぁ、最近は。しかし、うれしそうに一般社会に大学が出て行こうとしたところで、社会の関心と大学の関心とそのレベルがあまりに普通の日本人の一般的な知識として持っているレベルとかけ離れているので、あまりうまくいきそうにない気がする。それで残念ながら起きたのが小保方事件の背景でもあったようにも思うのですね。もちろん、大学人のうちで分かりやすく話すコミュニケーション能力を豊かに持っている方の少なさも影響しているだろうけど。

     教会にしてもそんなものかと思う。教会に若い間(高校生から大学生の間くらい)は来るけれども、社会人になって、忙しくなれば、教会に来なくなり、教会や聖書とはほとんど関係がなくなってしまっているのと、よく似ているのかもしれない。

    どう社会とコミュニケーションをとるか

     大学も社会とのコミュニケーションが求められているらしいし、教会も同様にコミュニケーションが求められていて、おちょこの中、ピペットの中、パラプレートの中だけの議論ではなくて、もう少しだけでいいので、自分たちと社会の関係や自分たちと社会に関する聖書理解なども、世的だとか言ってガン無視したりせずに考えたらいいのに、と思う。もっと社会とか世の中に関心を持ったらいいのだと思う。伝道対象としてみるだけではなく。我らの生活はこの世のさまざまのシステムに支えられているのだから。
     社会についてマスメディアが言うことをうのみにするのではなく、あるいは、マスメディアへの露出とかいう他人のふんどしで相撲を取るような、せせこましい根性というか心性で生きるのではなく、幅広い社会の人々との日常の関係性と交流をもつ中で、自分たちの関心や主張を押し付ける形でなく、示せればいいなぁ、と思う。

     まぁ、この辺の層の厚みに達するまで、後1000年くらいかかるかなぁ。そんな気がするなぁ。   




    宮田 光雄
    新教出版社
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    (2014-06-20)
    コメント:とりあえず紹介。最近の本なのでまだ入手できてない。

    評価:
    石浜 みかる
    日本基督教団出版局
    ¥ 1,836
    (2007-08)
    コメント:前の15年戦争のことを、ざっと知るには、一番いい本かもしれない。

    評価:
    ---
    新教出版社
    ¥ 6,156
    (2007-05)
    コメント:いままで見た本の中で一番詳しかった。

    2014.07.02 Wednesday

    ミーちゃんはーちゃん的『福音と世界』2014年7月号紹介

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      今月も、また、福音と世界の7月号のご紹介をしてみようかと。

      充実の特集
      今回は、特集が「悪を神学する − それ抜きに語れるのか」であって、非常に面白い特集であった。

       まず、渡辺信夫氏の「悪の実態が見えてくるまでにはずいぶん長い戦いが必要であった」という論文では、ご自身の海軍での従軍経験を通して、見ているようでいてきちんと認識していない人間の残念さを、海防艦における監視員のお話を通して示しておられたのが印象的。そして、悪を制止することを妨げる悪、という小見出しのもとに、書かれている次の一文が気になった。

       問題の焦点は私の信仰のあいまいさにあった。具体的に言うならば、神の定めに逆らう権力の悪に対して抵抗しなかった点である。(p.19)


       では、ミーちゃんはーちゃんは、結構左巻きの人なので、「権力の悪に対して抵抗する」ということが嫌いではないけど、貫徹できるか、となると実に心もとない。これに関しては、バルメン宣言がらみで書いたことがあるので、その記事に譲る。

       三浦望氏の「ヨハネ福音書における「悪」と現代」という論文では、新約聖書の悪の支配という概念がどのような背景から提示されるようになってきたのか、ユダヤ第2神殿期における理解を外典資料なども参考にしながら、この悪の問題と終末思想の問題を概観させてくれる。また、裏切りのユダをどう考えるのかということについて、ヨハネの福音書におけるユダの記述が象徴しているかもしれないこと、ヨハネ福音書の後半における「火」が象徴するものなどについても述べておられる。そして、聖書をナラティブとしてとらえるときに、そこに書かれていることが現代を生きる人々にとって、「悪」がどのような意味を持つ可能性があり得るのかを展望しておられる。そして、現代こそ、「悪」を問い直すことが必要なのではないか、という御提案をしておられる。

       宮本久雄氏の「根源悪からのエクソダス −自由な人格のペルソナーレ(呼びかけ)」は、日本における悪人をどのように考えるのか、ということをまず取り上げ、日本の歴史で「悪人」と呼ばれた足利尊氏という人物の課せられた「悪」という側面が従来「悪」持っていた「あくの強さ」とか「常識から外れた」という意味以外に、「おかみに逆らう逆臣」という意味をもったことを示し、日本語における「悪」は、

      天皇・お上そしてその支配に随順する臣民的世間にそむき逆らうこと(p.30)


      であり、

      そこには、根源的悪や人格的自由の虚無化の思想は見えない。(p.30)


      と日本における悪定義の問題を指摘しておられる。この指摘は重要であり、日本人が自分自身が悪とは思いにくい、自分自身の根源悪を見極めにくい下人が日本語の中に含まれることを示しておられる。このことは、おそらく、現代の女子高生などの援助交際や、女子高生(ないしは、そのふりをした人物)との有償デートサービスが、「人格的自由を金銭的に奪い、女性の人格を虚無化するから悪だ」という西欧型論理を見えにくくしているものと思う。あと、15年戦争当時、キリスト者の大部分が当時の支配体制に抵抗し得なかったのは、キリスト者であり、「義」を追及するという側面もある日本人として(天皇やお上に逆らう、という意味での)「悪」となることができなかったのではないか、ということを、本稿からは考えた。

       そして、宮本論文では、ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン −悪の陳腐さについての報告」を取り上げ、根源悪が計り知れず人間的概念で説明されえぬ虚無であることをP・レーヴィが読んだ「回教徒」(Muselmann)などを引用しながら、次のように述べておられる。

      その無に自由の決断の底知れぬ説明できない無が対応するのではないか。すなわち、そもそも自由を生きない、さらに正邪を判断・選択しないという行為の底には、精神分析学や社会心理学などの説明を越える虚無(ない)が働いていると考えられるであろう。以上から、全体主義的根源悪と悪の陳腐さからうかがわれる自由の虚無との間には、共通の働きとして無用か、虚無化が潜んでいると考えられる。そうした虚無化は、神学的説明や国家やお上の権益を越えるといえる。(p.33)

       
       こういう視点から、援助交際や、女子高生とお散歩問題、集団的自衛権問題から、戦争問題に至るまで、日本社会が垣間見せる一種の虚無さと悪の問題を考えてみるのも面白いかもしれない、とは思った。その意味で、この論文の虚無と悪の関係を考えるというのは大きな補助線をもらった気がした。後日公開するが、直後に宮本先生の大阪での公開講座を受講していたということ(詳細は後日掲載予定)で、本稿と、公開講義の内容がわずかではあったが、つながった場面があったというのもあるであろうが。

       特集の最後「悪法」で高島章氏は法律家の視点から、自然法論と法実証主義の緊張関係の中での悪と悪法(たとえば、戦前の治安維持法など)への順守をどう考えるのか問題という視点での考察を述べておられる。

      トピックス的な記事から
       おもしろかったのは、トマス・C・レーマー教授の「ヘブライ語聖書における暴力、残虐、性 01」であり、創世ものがたりと暴力の問題、アベルとカインの問題を取り上げられたり、ヨシュア記における戦争と暴力をかんがえるなかで、そして、「神がわれらとともにおられる」ということがいかに安易な暴力の解放装置となるかを示しておられる。先日、あるところで、 さんがツイートしてた、面白い英文のツィートを拾ったが、それはこのようなものであった。
      "...Human beings never behave more badly toward one another than when they believe they are protecting God.” ― Barbara Brown Taylor

      人間は、自分たちが神を守っていると思う時に以上に互いに対して残虐な行為をしません。
      それを思い出した。
       なお、このバーバラ・ブラウン・テイラーさんの「天の国の種」はよかったよ。そのうち書評書くけど。


       また、「神の面前にある人々の肖像」は「大いなる沈黙へ」という映画とのタイアップ的な映画監督へのインタビュー記事ではあるが、その映画の見所、なぜ、この映画が可能となったのか、世間と教会との関係、映画内でのインタビューにおいて示された修道士(というよりは信仰者)たちの神との平和の姿など、非常に興味深いものであった。

      連載記事から
       この雑誌の連載記事の中身は目を見張るものがあるのだが、連載記事の中では、詩篇の思想と信仰では、詩篇112篇に関する月本先生の講解が示されており、なかでも、西アジア的な王権の特質と弱者保護の関係が描かれており、これはキリストとは何か、イザヤ預言との関連でどう考えるべきかの補助線をもらったような気がする。旅する教会では、スイス兄弟団の動きが描かれており、ミーちゃんはーちゃんと信仰的に共通する部分多いスイス兄弟団系の人たちの出発点を興味深く感じた。、大正・昭和キリスト教史の周辺12(最終回)が特に印象深かった。この連載記事では、内村鑑三と植村正久の微妙な関係が描かれており、この時代の教会人における武士道と称されるものと、それが当時の福音伝道とキリスト教会人の間での実に微妙な人間関係に影響を強く与えたその形跡を見たような気がする。
       
      今月号も非常に充実した1冊であった、と思う。

       あ、追記ですけど、「ノア −約束の舟」をこれからご覧になられたい方には、2014年6月号と7月号の「福音と世界」(7月号では宮本論文)をお読みいただいてから、ご覧になられることをお奨めする。あと、旧約聖書の解釈に詳しくない方には、以下の拙ブログの記事も参考になるかもしれない。また、映画「ノア」を見た感想の詳細に関しては書くけれども。

      ミーちゃんはーちゃん的福音と世界6月号紹介(その1)
      評価:
      バーバラ・ブラウン テイラー
      キリスト新聞社
      ---
      (2014-03)
      コメント:あれ、これもう売り切れ?いい本でした。いままで読んだ説教集の中でのトップ3の1冊。

      2014.07.03 Thursday

      ノア 約束の舟 をみてきたよぉ。あなたがどんなクリスチャンであるかを問う映画かも?

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         友人と配偶者と一緒に、ノア 約束の舟 を見てきた。今日はその記録を。今日はやや短め、ネタばれは防止しているつもりだけど、ネタばれの際はスマソ。読みやすいとは思うよ。


        ある意味旧約聖書的な映画だったなぁ
         個人的には非常に面白かった映画である。すごいのなんのって、この映画、実に旧約聖書的な映画なのである。一字一句正典にある創世記物語通りではないものの、創世記全体の構造、旧約聖書全体のものがたりをちりばめた非常に優れた映画なのである。

        評価が分かれている映画
         とはいえ、この映画、福音派の皆さんから、特に創造科学関係者の方やその尻馬に乗る人々からは「この映画は害の方が大きい」とか「見ない方がいい」などと、かなりひどいことを言われている映画でもある。しかし、そうであっても、この映画は、実に旧約聖書的なのである。

        確かに正典テキスト通りではないけど
         確かに、新しい地球(この地球を含めて、宇宙全体ができてから1万年未満である)という現在の地球の物理的運動的特性が過去もそうであった、という前提に立たれるようなお立場の方や、日本語及び英語に翻訳聖書に表現された翻訳表現の記述に厳格なまでに忠実であろうとする聖書理解の傾向をもつ人々からは受け入れられない表現(たとえば、生物進化的な記述やノアが正当防衛のためであれ、人を殺害するというような表現、箱船乗船人数や乗船時の年齢の設定、その他登場人物の存在や旧約聖書にはないけれども旧約聖書外典(旧約聖書正典39書以外にも、聖書的価値が全くないわけではない、とされた聖書第2正典にさえ含まれなかった文書群)を基礎としたと思われる表現など、聖書正典中の記述を大きく超えた対象の映像表現の存在など)がやたらとあるのだけれども、実に、旧約聖書的な表現となっている映画なのである。

        旧約全体をモティーフにした映画
         そんな、聖書にない話やら、聖書の話をむちゃくちゃにしといて、何が旧約聖書的か、ってお叱りの声が上がりそうだが、旧約聖書における象徴、記号(シニフィアン)が見えれば、その記号のさすもの(シニフェ)が読み解けるはずなのだ。地面から滲み出る血のイメージは、カインが殺したアベルの血であり、旧約聖書における汚れ、聖でなくなるものであるとか、水というシニフィアンは混乱というシニフェを表しているとか、あるいは、楽園からの追放は、逃れの町、バビロン捕囚、エジプトでの奴隷状態とパラレルというか、入れ子構造というかフラクタル型の構造になっているとかいう構造が至る所に仕掛けられているという意味で、この映画、旧約聖書のストーリーをおもちゃ箱ひっくり返したみたいにあっちこちにちりばめている映画であり、呪いと祝福が裏表である(イエスの十字架の死がそうだし、死と復活がそうだし、女性の出産がそうだし、地を耕す行為がそうではないかなぁ。それぞれ、スケールや意味合いや時間は違うが)ことなどが、歴史は繰り返されるという問題が、これが歴史という時間を介したある種のフラクタル構造になっているぞ、ってことを示しているようである。
         
         なお、フラクタルってのはこんなの。


         また、ユダヤ人が経験したポグロムやホロコーストは、それ以前にも存在した繰り返される歴史の一環の繰り返しの別バージョンとしてとらえるユダヤ人がいるらしいが、その様なものの見方が、以前あったことはいまもあることとするような構造として歴史理解をするような人々が描いた映像作品って理解したら、旧約聖書は全体としてそういう構造をもっているので、実に旧約聖書的な描き方であった映画である、とは思う。

        悪、王、回復
         直前の記事でも紹介した福音の世界の2014年7月号の宮本論文ではないが、実は、この映画、「悪」をどう考えるのか問題を旧約聖書をもとに問うた映画のような気がするのだ。我々は、単純に善と悪という善悪二元論的な立場で考えるか、人間が神とともにいないがゆえに、あるいは神の沈黙に直面している存在(これを罪人というのだ、と思う)であるがゆえに、どのような善なる人物の中にも潜む悪の問題、そしてそこからの回復、汚れからの回復の預言、メシア(=キリスト・王・神)がそれを回復せしめ得るし、そもそもはその傷や汚れがない者として創造され、神との平和をもつものであったことを思いつつ、現実の世俗の王は暴力に走りがちで、王に汚れやかけ、不完全さからの回復を求めることはナンセンスであり、それを求めうるのは、神だけではないのか、真の回復とは何か、この地上においては呪いと祝福が一体化している様々の諸現象から、その呪い(悪・あるいは虚無)から人を解き放ち、祝福とせしむるのが神のみである、ということを語った映画である。

        信仰者のタイプによって
        評価が分かれるかな?

        その意味で、非常にユダヤキリスト教(ユダヤ教的な理解を継承するキリスト教)の映画であるのではなかろうか。
        しかし、これを福音派のような非ユダヤキリスト教の理解で見た場合、あるいは、もっとありていに言えば、グレコ=ローマンキリスト教(ギリシア・ローマの影響を受けた真理や真実追求型のキリスト教)あるいは、新約型キリスト教(新約聖書を中心とするキリスト教であり、記述そのものを額面通り無理に受け取り、合理的理解に無理やり聖書テキストを無理して合わせてしまうような、聖書のもともと持つ大きな構造や、聖書の持つナラティブ性をかなり無視するキリスト教)の立場からみた場合は、映画での話はあちこちで中途半端な状態でほっぽられており、破綻(そもそも、旧約聖書の記述は破たんだらけであり、意味不のものが多いのである)しているし、グレコ=ローマンキリスト教や文字通り表現しなければならず、象徴性の持つ意味を十分解さない新約型キリスト教には、この映画は理解不能で、聖書の話の再解釈したものには見えず、改編、改悪、恣意的な変更、偽造改作に見えるだろう。

        その意味で、この映画を見て、聖書通りでない、と思われた方は、あなたはどちらかというと、新約型キリスト教に近い方かグレゴ=ローマンキリスト教に近い方であり、この映画を見て、おお、面白いじゃん、この話は、ここから由来した話をつけているな、ここはあの聖書の表現のメタファーを借りているな、そして、そういう重層性のもたせ方をするか、20世紀に起きた悪とここではトバルカインの暴虐さを重ねているな、と言う理解に到達できた方は、どちらかというとユダヤキリスト教的なキリスト教に近い方である。新約型キリスト教の方や、グレゴ=ローマン型キリスト教の方がキリスト教徒ではない、ということを意味してはいない。しかし、旧約聖書の世界観を踏まえたうえで、キリストの意味を理解したり、園(パラダイス)とはいかなるものであるのか、ということを、問うている映画かなぁ、と思うのだなぁ。

        ナザレのヨシュアが見たとしたら…
        おそらく、この映画をナザレのヨシュア君が見たら、「ほぉぉ、なかなか分かってんじゃん」「おぉ、そこにその話を重ねますか」、「そうそう、これが言いたかったんだよなぁ」とか言いながら、ニタニタしてみたんではないかと想像して、ニタニタしている不埒なミーちゃんはーちゃんがいる。

        聖書通り表現されないと不満な方
        にはお勧めしません
        「映画であっても、聖書通りでないと、不安だ、不満だ」という人はこの映画は見に行かないほうがいいだろう。おカネをどぶに捨てた、と思うだけだろう。この映画は皆さんが希望する通りの、聖書通りのことを記述しようとした映画ではないしぃ、創造科学の宣伝映画でもなくてぇ、それ以上に悪とは何か、アダムの子とは何か、神の不在とは何か、地で飽くことなく同じようなことを繰り返す残念な人間を登場人物とした神のものがたりを指し示すための映画ではないか、とおもう。

        逆に、聖書から現実の問題をどう考えるのか、という聖書から考える習慣をお持ちの方はお勧めの映画である。ちなみに、福音派の皆さんにも割と評価の高い、ベン・ハーにしろ、十戒にしろ、天地創造にしろ、そもそも、聖書通りではない。英語でしゃべるモーセとか、英語でしゃべるベン・ハーとか、ありえんやろ、とは思う。そもそも。ちなみに、創世記一章の冒頭部のヘブライ語は、「そもそも」っていう意味もあるらしいよ。


         
        2014.07.05 Saturday

        2014年春季上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座 雨宮司祭「主の祈り」によって何を祈っているのか その2

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           前回に引き続き、2014年春季の上智大学大阪サテライトキャンパスでの公開講座 雨宮司祭による口座の記録をのせていきたい。
           
          御名が聖とされますように
           現在利用されている主の祈りの前のバージョンでの主の祈りでは、「み名なの尊まれんことを」という表現だったのが、現在では、「御名が聖とされますように」となっている。
           もともとのギリシア語テキストでは、アオリスト受動形になっている。ヘブル語では、行為者を書かないことも多く、ここでも行為者が誰なのかということが明示的に示されてない。

          聖とするのはだれか問題
           おそらく、行為者は神だと考えるのがよいだろう。アオリストと呼ばれる命令形のかたちとなっている。受動形、アオリスト(時制)の命令法は、Thological Passive神的受動形と考えるのがよいのではないか。動作の主体は神である、とすると、神がご自身の名前を聖とするように祈っている。

           我々が正しく神の名を用いることで、神の名が聖となるということもできるが、この我々が正しく神の名を呼び、我々が神の名を聖別させてくださいますように、という訓戒的な解釈もかのうである。しかし、この祈りは、歴史全体の完成、終末における神の名が賛美されることをさすのではないだろうか。聖書における終末は、この世の終わりが、滅亡という形で終わる終末ではなく、完成したという終末である。
           
           (ミーちゃんはーちゃんの感想 その通り。ミーちゃんはーちゃんは頭が悪いので、終末とは全部爆発してなくなる世界と以前は、考えていたが、最近爆発して終わる世界観ではないのではないか、ということに気付き、そちらで考えてみれば、かなり聖書全体の義認と救済に関する構造が見やすくなったような気がする。)

          御名が聖とされますようにと祈る意味
           つまり、ここでの祈りである御名が聖とされるということは、終末時における神の決定的な介入を求めることであり、それへの賛美であり、御国が来ますようにと同じ祈りになる。

           ここでの受動形が神的受動形であるかという問題は、解釈の問題であり、慰められる。という言葉と同様に、神が慰めるの意であろう。

           人間が神の名を聖とすることができますように、人間が神の名を正しく用いますように、という解釈も可能であるし、神の意志に従順であることを通して、神の名を聖とするという解釈も可能であり、両方解釈として可能であるだろう。

           これまで、カトリックでは、訓戒的解釈の立場になってこの節を長らく読んできていた。その意味で、訓戒的解釈は、人間への期待を語る解釈でもあった。

           訓戒的解釈と終末的解釈では、聖とする主体はだれか、が違うように見えるのであるけれども、これは、一枚の紙の裏表の関係ではないだろうか。人間が聖とするのであれ、神が聖とするのであれ、我々も、紙が聖であることに賛意を示す、あるいは、神の意志に従順であることによって、神が聖とされることに関与することは、どちらでみてもおなじことなのではないだろうか。

           アオリスト命令法、行為を一時点と見る時制であり、行為が完成するという時制であるとされている。そう理解するならば、歴史における継続的に行われる神の介入ではなく、歴史の完成としての終末(における神の回復、または神のわざの完成)を祈っていると理解できるのではないか。この祈りの中に多くのことが込められているように思われる。アラム語にはアオリスト体は存在しないので、イエスが1回限りの介入といっているかどうかは分からないだろう。

          赦しに関して
           マタイ6:12の2行目 「ゆるした」という現在完了形となっていて、ルカの場合は、「ゆるします。」という現在形になっているが、もともとのアラム語には現在完了形はない。

          旧約聖書における
          神の名を聖とすることに関する整理

           旧約では、聖とするのは神か、人かという記述に関しては、いくつかのパターンがある。たとえば、エゼキエル36:22-32は5つのパートからなっている。それを構造的にあらわすと次のような形になるだろう。
           36:22 それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。
           36:23 わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。
           36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。
           
           36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。
           36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。
           36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。
           
           36:28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。
           
           36:29 わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。
           36:30 わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。
           
           36:31 そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。
           36:32 わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。

          ここにわかりやすく構造化して示したが、22-24節と31節にでてくる、お前たちのためでない、という表現は対応関係になっている。また、「すべての汚れ」という表現が25節にも、29節にも出てきており、対応関係をなしている。私たち人間のためではなく、聖なる名のために行う。と主はいわれていることは重要ではないだろうか。24節には、捕囚からの解放が述べられているが、この捕囚からの解放は、神の聖なる名のために行われることとされている。その意味で、全ての汚れ、すべての偶像からユダヤ人をきよめるとしているが、どうするかは24節にかかれていて、そこには、新しいこころ、新しい霊を置くとされており、これらが汚れときよめるとなっている。

           26節に、肉のこころを与えるとなっているが、これの対になっている石は、固まっている生命のないものである。石と表現されるのは、こころがいのちを失って、固まった状態にあることを示すのであろう。ここで、肉は悪い意味で使っていない。むしろ、生き生きとした、という意味で使っており、いのちにあふれた、という意味で、使われている。

           旧約聖書の中で、裁きは秩序の意味で使われている。

           28節は捕囚が前提であり、バビロンで生きている時代ではないか。そして、新しい契約が成就した時、成立するのが、「お前たちは私の民となり、私はお前たちの神となる」が実現する。31節の「そのとき(元義 そして)」という表現は、お前たちのため、お前たちが約束の地に入れられた後、はじめて、自分自身を嫌悪するようになるということではないだろうか。悔い改めたから約束の地に戻るのではなく、約束の地に戻ったことで悔い改める、ということだろう。約束の地に迎え入れられることで、しっかりと目を向けて神を見つめることができる。神にあって救われて(神との和解が成立しているがゆえに)、汚れを安心して認められるようになるということではないだろうか。

           お前たちのため、に出てくる「ため」という表現は、原因と目的を示す語である。しかし、お前たちが原因となって、捕囚からの解放があるのではない。原因は、あくまで、神の名が根拠となって、解放がある、と理解できよう。そして、その解放があり、神が神の大いなる名を聖なるものとする、ということが実現すると理解できるのではないか。

          主の祈りにおける
          あなたの名が聖とされますように 再検討

           エゼキエル書を踏まえると、あなたの名が聖とされる、であり、これを祈りのことばで表現するとすれば、あなたの名が聖となりますように、となるのであろう。その意味で、聖とする行為(具体的には救い)の行為者は神ということになる。主の祈りは、聖とする行為者のその行為が実現しますように、という意味で使っているのではないか。

           イザヤ書29:23 わが手の業(神の手のわざ)という表現が出てくるが、神の名を聖とするの主語は人間となっている。人が神の名を聖とするという用例もある。

           これらの旧約の用例について考えるならば、神の名を聖とするということについての解釈として、神が聖とするのか、あるいは、人が聖とするのか、といった解釈のどちらか一方に特定しないほうがよい、のではないか。神も人もありうる、という理解で十分だろう。祈りのことばとして、簡潔だからどちらとも解釈できる。終末論的解釈が唯一の解釈ともできないし、訓戒的解釈も存在し得るのだろう。解釈が二つある場合は、残しておけばよい。

          御国が来ますように
           御国が来ますように、の部分については、 御国と訳しているが、支配(バシレイヤ)という言葉で取るほうがよい。このバシレイヤとは、 バシレイウス(王)というギリシア語に由来する語であり、バシレイアとは、王の支配が実現している状態、領域のことを指す。ここでは、領域と取らずに、あなたの支配そのものと考えるほうがよいかもしれない。

           国といっても国民国家とは違うということは理解しておいた方がよいだろう。むしろ、神が支配する領域と理解するほうが近い。

           日本国憲法には、諸国民の公正と信義と・・・という表現があるが、中国みたいな国に通用しないから集団的自衛権という議論があるものの、それはキリスト者としてどうなんだろう、というご発言があった。
           ところで、雨宮先生は、「数独」のファンらしく、数独の上級あたりをしておられるらしい。数独では、うまくいくものを探していくのだが、もしうまくいかないとするなら、こうかな、と思いながら、やりなおせば、数独の場合、たいていうまくいく。

           ところで、神の意志をどうしたら知ることができるのだろうか。普通、人間は、神の意志を感じることができないのだと思う。しかし、信仰をもつ者の強みはやり直しがきくところにあるのだろう。数独ではないが、まずいぞ、ダメだと思ったら、変えられる自由さをもつものではないか。これを大事にすべきではないだろうか。

          (ミーちゃんはーちゃん的感想 なんで数独が出てくるのか、と思ったら、そこです、って思わず突っ込みを)
           その意味で、キリスト者はあなたの支配が来ますようにと祈りつつ、どれがあなたの思いなのかを探り求めるしか方法がないのではないだろうか。

           雨宮先生から、終末論的解釈って言葉が出てきたので、帰り道に向かわれる先生にぶら下がるようにお願いして、カトリックの中で、いつごろから終末論的解釈が見られるようになったのですか、ってお尋ねしたら、19世紀に入ってからだということだそうでした。じゃぁ、なぜ、訓戒的解釈でない、終末論的解釈が出てきた背景をご教示願えませんか、とお尋ねしたところ、訓戒的解釈で行くと、どうしても行き詰まりがあるので、その打開のために終末論的解釈が生まれた、ということでございました。雨宮先生、ありがとうございました。


          ミーちゃんはーちゃん的感想

           今回の講座は、以下に主の祈りが旧約聖書とのかかわりでとらえられるのか、ということを神の名を聖とするという表現から学んだ。これは、以前NTライト研究会でNTライトの主の祈りの解説を学んだときには、旧約聖書のかかわりを意識していて、主の名を聖とするということまで、あまり意識していなかったけれども、こうやって丁寧に示されると、旧約聖書におけるメシアとのかかわりで、
          イエス御自身の祈りのことばとして示された主の祈りの中に、神を礼拝することと祈りとの関係があらわされていることが分かったのが面白かった。

           あと、終末に関する理解が垣間見えたところである。本文中にも紹介したが、おバカなミーちゃんはーちゃんは、ついぞ最近まで、週末というのは、この地がボーンと爆発して終わって、別次元の世界が突如生まれて、そこが新しい天新しい地となると、理解していたがどうもそうでないらしいことが分かってきた。神は連続性の中で様々なことを行われる方であることを考えるならば、この連続性の上において、この世界がエデンの園のような神がともにおられる場、神の支配の場としてのこの地と天との回復がなされるのが終末であり、完全な神の義が実現するのが終末であるように思えてきてならない。

           
           そして、神の裁きが、旧約聖書の中で、神の秩序の回復または樹立として語られるという表現がどういうコンテキストで出てきたのかは分からないが、そのことが非常に印象的だったので、今回のメモにも記載しておいたが、神の秩序として神の裁きを考えるということは大事な理解かもしれない。
           ミーちゃんはーちゃんなどは、神の裁きというと、ミーちゃんはーちゃんのような不埒ものがばかなことをしないようにかに怒られることを想像しがちなのだが、どうもそうではないらしい。神が思っておられる秩序、あるいは神の義の回復、またはその確立であり、その秩序や義から人間がどうしても外れるので、これこれと注意されることは裁きに付随する結果であって裁きそのものではないことは、もっとちゃんと言わないといけないのかもしれない、と思った。




           
          2014.07.07 Monday

          上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

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             今回は、上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた、その時の記録を公開しようかと。2回に分けたので、ちと短め(といっても普通のブログよりは長いよ)。

            イエスの譬え話とその特徴 ナラティブとして 
             イエスのたとえ話は、抽象的な神学とは違って、具体的な当時の生活の中から素材を取り上げ、語られた内容である。その意味で、ユダヤ教や当時の生活習慣を念頭に置かないと、理解しにくい部分もある。とは言いつつも、イエスのたとえ話からは、しみじみと感じられるものがあるのではないだろうか。たとえ話は、読む人が置かれた状況に直悦語りかけ、日常生活の中での喜び、悲しみ、夢といったものに応じるのがたとえ話ではないだろうか。

             ところで、昔は手紙を書いた。書かれた手紙には、いろんな受け取られ方があるだろう。ある面、ラブレターが文学として完成するのは、受け手の反応が重要で、受け手の反応そのものがあって初めて成立する文学体系なのが、ラブレターに関する文学体系であろう。

             ところで、たとえ話はたとえ話であるが故に書かれていない部分がたくさんある。ところで、書かれてない部分(余白)を味わうのが日本の絵画である。また、茶道の陶器を考えてみると、陶工曰く、陶工の仕事は半分であり、陶工と用いる人で相まって一つの茶器という作品が完成する。たとえ話も似ている部分があり。法律のような言語体系では語られていない。たとえ話は、高校の現代文の問題のような文章ではない。

             その意味で、たとえ話には、回答がいっぱいあるという性質がある。本日は、善きサマリア人を取り上げる。このたとえ話は、ヴァンゴッホの絵画の善きサマリア人のモティーフにもなっている。

            GoodSamaritan
            ヴァン ゴッホによる「善きサマリア人」

            聖書における文学構造としての特徴
             2点だけ、気をつけておきたいことを申し上げたい。聖書は文学的なある構造をもっていて、ストーリーがある、という構造をもっていることである。これが第1点目。そして、異常と思われる表現、逆説、誇張、繰り返し、非常識な展開があり、そこでメッセージを伝えている部分がある。これを、テキストにおける異化作用と呼んでいる。これが第2点目である

            「善きサマリア人」の譬えに見る構造と異化
             律法の専門家とイエスとの対話がまず最初に来ていて、共通の土台としての律法があることを確認し、イエスが専門家として聞くという形をとっている。律法学者にヒントを与えるために、共通の土台を示したうえで、その共通の土台になる律法における、隣人とは、ということが明確化されていることとなっている。

             この物語は、第1のものがたりのシーンと、第2のものがたりの二つの物語のシーンからなる構造となっている。

            第1シーン律法学者との対話における構造
             それぞれの部分を構造として見ていこう。まず、第1のものがたりのシーンの構造を整理すると、このようになるだろう。

            25 律法学者の試そうとする質問      29 律法学者の正当化する質問
            26 律法(トーラー)を律法学者が出す   30 たとえ話
            26 イエスが質問             36 イエスが質問
            27 律法学者が答える           37 律法学者が答える
            28 実践しなさい             37 実践しなさい

             このように、シンメトリックな関係になっているが、たとえ話が長すぎるので、構造が読み取りにくいという部分はあろう。この譬えを語ることで、イエスと律法学者の中に新しい共通部分が生み出されてくることになる。

            イエス時代の律法と聖性、その背景
             イエスの時代のユダヤ社会においては律法が非常に重要であった。社会構造として、その頂上にサンヘドリンがあり、次の霊やとして大祭司、サドカイ派、ファリサイ派、一般の人々という構造にあった。その中で、ミシュナー(口伝律法)が社会において重要な役割があった。その意味で、律法は人生の全部を扱う原理であった。ユダヤ教としては、このミシュナーを守ることが重要であり、これを守ることによって、イスラエルの民は聖なる民となり、神のためにとっておかれた人とかモノが聖であるという理解である。その意味で、神殿とか祭壇、祭司とか、祭具が聖とされることが重要となる。この聖なるものとして、救われるのはイスラエルの民全体であり、民が聖であるがゆえに、聖なる民であるイスラエル全員が救われる、というコンセプトになっている。

             聖なる民に属していることが救いの条件であり、律法を守ることはイスラエルの聖なる民のその条件となっている。

            隣人とは何か
             さて、第2シーンに入る前に、第1シーンでのイエスと律法学者の対論において、律法の意味は固定されている(おそらく相互理解と共通部分ができている、という意味でのご発言であったと思う)。
             
            第2シーンの背景
             隣人、の定義であるが、当時、とりあえず異邦人は、隣人でない、という理解であった。困っている異邦人には、親切にしなさい、と律法の中には書いてあるものの、「困っている」という条件付きで考えられたのではないか。

             ローマ帝国時代、ローマ帝国には属領に総督を送っていた。総督は軍隊付きで到来し、軍事力をもち、税金の徴収し、属州統治をしていた。ポンテオピラトは、カイサリア駐在しつつ、ローマの意思の象徴として存在していた。年に2回ほどエルサレムに滞在し、エルサレムで反逆などの重大犯罪起きないか、などの仕事をしてたようである。ローマ帝国の反逆としてはいくつかのものがあり、ガリラヤのユダの反乱等がイエスとほぼ同時代などに起きている。この重税逃れのために、メシアを名乗った人物がいた。ユダヤ教の人たちはローマ帝国に反乱をおこすなど、ナショナリズムの強い時代であった。このような背景を持つイエス時代には、同胞というとイスラエル人のみが認められた時代であり、サマリア人は、汚れた存在であった。

            食卓コミュニティとしてのイエスの宣教活動
             ところで、イエスは遊女や取税人などを受け入れた人物であり、食事を一緒にすることで受け入れを示したのである。ユダヤ教では、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りでは、神殿で羊が殺され、それを食することで、家族であり、同じ民族であることが確認された。イエスご自身について、神の子羊というバプテスマのヨハネの呼びかけは、極めて重要なのである。

             この祭事の時の食事は聖なる食事であり、ユダヤ人信徒だけが聖なる食事に味わうものであった。遊女や取税人など罪人は招かないのが当時の常識である。ところが、イエスは、もともとユダヤ教徒の食事に招かれない人々、招き入れるべきでないとされた人々と食事をしたのである。このような状況に関して、福音書では、イエスは大酒のみの食いしん坊、という当時の人からの悪口を拾っている。

             イエスの食事は目的があって、正統ユダヤ社会から追い出された人々とともに食事をし、食卓共同体とでもいうものを形成したのである。神の国運動の中心は食卓であり、そこでは、パンと葡萄酒が提供されたのである。その意味で、食の宗教であった。正統ユダヤのユダヤ人はユダヤ人とだけ祭事の神殿を食事をしていた。

            善きサマリア人の第2シーンの背景

             ある人が、エルサレム(冬雪がふる)からエリコ(世界で最も低い場所で避寒地)に向かって進んでいた。エリコは、当時ヘロデ大王が冬の離宮を造ってた場所でもある。エリコへの道は、左右とも荒れ地、荒野が広がる場所であり、追剥がすんでいるような土地柄でもあった。おそらく、追剥強盗事件は、イエスの時代にこの道路沿線で、実際にあった、よくある話であり人口に膾炙していたのであろう。ところで、この人は、エルサレム神殿に祭儀にあずかって、エリコに向かったのかもしれない。

             このサマリア人に助けられたユダヤ人は、ある程度気合の入ったユダヤ人で、追剥にかなり抵抗したからこそ、半殺しの目に遭ったのではないか。


             次回へと続く。



            2014.07.08 Tuesday

            おすすめの説教集 天の国の種 バーバラ・ブラウン・テイラー著 キリスト新聞社刊 

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               本日ご紹介する本は、「天の国の種」 バーバラ・ブラウン・テイラー著 平野克己、古本みさ訳 キリスト新聞社刊である。

              ナラティブとして聞き手が
              物語の人物となるよう招く説教
               基本的にマタイの福音書の講解であると同時に、聖書を読むとはどういうことか。自分自身の体験に合わせて聖書を語るのではなく、聖書に合わせて、自分自身の経験から反省し、聖書をもう一度自分自身のものがたり(ナラティブ)として読むとはどういうことか、ということを体験的に分らせてくれる本であり、これまで読んだ説教集に収録された説教者の中でも、トップ3の座を占める方の説教集である。一番は、いまだにDrとよばれる(最近、怪しいらしいが)ロイドジョンズ先生のシリーズであり、説教家であるので、多すぎて、どれが一番とは言えないので、上位3位の説教家とした。

              ゴディバのビタースイートチョコ
              のような説教

               この説教集の何がいいかというと、それは表現の柔らかさ、ドルチェともいうべき甘さを説教から感じられるところである。甘さと言っても、突込みどころ満載の甘さではない。しっかりとした釈義に基づきながら、それでいて甘い。まぁ、いわばゴディバのビタースイートチョコレートを食べている感じという感じの本なのである。抑えるべきところはきっちり抑えて、絶妙のハーモニーを感じさせる室内楽のような感じとでもいおうか。絶叫型説教のやかましさや、暑苦しさ、押しつけられた感というか、それでいて中身のなさを感じるというようなものではない。まぁ、そういう説教が好きな方はそれはそれでよいとは思うけどね。

               あるいは、例話ばかりで聖書の言葉がイメージに残らないという感じでもないし、聖書の中に入っていくために適切なコネクションとして例話がうまく用いられる感じなのである。しかし、著者の聖書理解の深さを同時に感じさせ、そして、福音書のたとえを中心とするイエスの言葉への招きが確実に述べられ、そのイエス時代の世界の人々の心情とイエスの主張の世界にすぅーという感じで入って行けるって感じでしょうかね。

              サンプルとして・・・

               この中で、うまいなぁ、と思った部分を引用していか紹介する。どの章もいいのだが、「もう一度心から」と題された13章 マタイ18章21-25節の部分が気に行った。


               (ランチを一緒にする約束をしていたのを2度まですっぽかされた状況を示したのち)
               相手を1回赦すことはあるでしょうが、あなたは本当にもう一度昼食の約束をしようとしますか?本当に、あなたは、この繰り返しを7の70倍、もっと正確に云うと、あと488回耐えようと思うでしょうか?
               とんでもないことです。人間はそのようにできていません。私たちのうちのほとんどは痛い目に遭っても一回は良しとするでしょう。2回目も良しとする人は多いでしょう。それでも、3回目ともなると、引き上げようとするのではないでしょうか。小さな計算機みたいなものが頭の中にあって、自分がこの人の関係のためにどれだけのものを費やしているか、それに対して、自分がこの人との関係からどれだけのものを得ているか、という記録を付けているかのようです。そして、それがマイナス感情であったら、その関係を続行しようとする人は多くはありません。(中略)私たちは、為替レートがよくて、自分が与えるものと得るところがほぼ同等になる、コスト効率のよい人間関係を好みます。これはひどい言い方でしょうが、それが真実であることはあなたにもお分かりでしょう。(p.169) (太字は、オリジナルは傍点)
              と赦し難い状況と赦しの説明をビビッドに示して見せ、現代人の人間関係を描いて見せた後、このたとえ話出てくる、自分は王から返しきれない負債を赦して(借金をチャラにして)もらったのに、この僕はこの僕に比較的少額の金額を借金している人を捕まえて、金を返せと言います。そして、この僕は牢に入れられます。その部分について、
               結末は、皆さんご存じのとおりです。家来は、借金を返済するまで、つまり残された生涯ずっと牢に入れられます。しかし、この投獄は言葉上のものです。不届きな家来は、すでに鉄格子のなかにいたのです。自分で作った鉄格子のなかに。赦されることを拒み、赦すことを拒んだ彼は、既に自分用の小さなアルカトラズ[サンフランシスコ湾内にある島全体を牢獄にした有名な刑務所]を造り、電卓片手に独居房に座り、会計記録を付けていたのです。(p.176)

               ここなんか、もう、しびれるほどの情景描写のうまさである。自分たち人間の姿をこうも客観的に見せられると、まいってしまう。そして、最終場面では、このように結んでいる。
               だって、考えてみてください。あなた自身、何回赦されているのか。何回も、何回も、何回も、あなたが心から赦されるのは、あなたに価値があるからではなく、ただその方があなたを愛して、愛してやまず、もっともっと愛したいからだけなのです。そのことを身にしみて理解したなら、そのことを本当に心の中に納めたら、どうしてあなたにーどうして私たち一人一人にーたった1回だけでも同じことをする機会を逃すことができるでしょうか。(p.178)
              と、赦されるだけでなく、我々が神の愛を受け、他人を赦すように、神のものとして、神の民として、神に従うものとして、イエスの弟子、神の弟子としての赦しの特権をもつことをそっと示している。自分自身の説教の不十分さとこういう招きへの不十分さを感じさせられる説教を見せつけられるとねぇ。参ってしまうが、それとともに、自分自身の説教にこう生かすことができるかもしれないというイマジネーションが広がっていくのである。

              楽しそうに語る雰囲気が
              伝わってくる説教集

               この説教者が、本当に楽しそうに語っている息吹が説教集からも感じられる実に楽しい説教集なのだ。説教するのが楽しくて楽しくてたまらない説教者を故人を含め、何人か存じ上げているが、その系統の説教者の一人である。

               本書の訳文も非常に工夫されていて、読みやすいが、一部気になる表現はないわけではない。たとえば、先ほど述べた169ページの為替レートは、exchange rateの訳語と思われるが、これは「交換比率」とか「貸しと借りのウェイトが自分にとって都合がよくて」とかの方が分かりやすかったのではないだろうか。あるいは、84ページの「天からの幻」と訳されている部分は幻に読み仮名としてヴィジョンとかを付けておいてほしかったな。同訳書中には、Visionをビジョンとしているところもあるので。

              ディスペンセイション史観がお好きな方は
              要領用法を守って…
               あと、この本は、ディスペンセイション主義(天啓史観)に毒されている人々には、最終章を読むことだけは、お勧めしない。もう、気持ちいいくらい、ディスペンセイション主義の根拠が薄弱であることを示してくれているから。

               一応、その問題の部分の直前の部分だけ引用しておこう。
               ダービー氏の信奉者でない私でさえ、この「携挙(Rapture)」という言葉が、聖書に一度も出てこないことを知って驚きましたが、少なくとも彼のシナリオは、副作用として、わが国(紹介者注 アメリカ合衆国)の福音派のキリスト者とイスラエルのリクード[1973年に結党されたイスラエルの右翼政党連合、1977年には労働党連合を破り、政権与党となった]との政治的結びつきをもたらしました。両者に共通するのはー理由はそれぞれ違いますがー、パレスティナ人ではなくイスラエル人の手に聖地がゆだねられることを望んでいる、という点です。(p。199)

               この記述以下の行には、すごいことが書いてある。でも、ミーちゃんはーちゃんが調査した結果では、調査不足のためかもしれないが、このディスペンセイション説の出発点に関して、本書の記載を否定する資料は管見する限りは、見つからなかったので、このテイラーさんの記述は、当たっていると思う。なお、本書の記載を支持する本として、Bass、C.B.,(2005)Backgrounds to Dispensationalism: Its Historical Genesis and Ecclesiastical Implications などがあり、この分野に関心があられる方は、Bass(2005) の一読をお勧めします。

               とは言いながら、ディスペンセイション史観に浸っている方で、心臓の弱い福音派の皆さんは読まないほうがいいですよ。特に、ある特定集団のキリスト者の皆さんにおられる心臓の弱い方は。

              こんな方にお勧め
               イエスにではなく、聖書にでもなく、教会での人間関係に疲れきったり、けつまずいた方、しかしそうであってもイエスが語ったことに興味がある方、教会に行けども聖書がないを言っているのか、わからなくなった方、何が何だか、聖書理解にさまよっている方には、ぜひおすすめしたい。この本が語る神の愛から再出発すればよいと思う。

               この本は、聖書は、神はあなたを招いておられ、あなたを神が愛しているってことがそのメインテーマであることを、実にわかりやすく、すべての読者に示すから。

               しかし、この最終章を含めて、この本は、ほとんどの皆さんに、お勧めいたしたく存じます。是非お買い上げ、ご愛読のほどを。



               
              評価:
              バーバラ・ブラウン テイラー
              キリスト新聞社
              ---
              (2014-03)
              コメント:説教集として今まで読んだ中で3本の指に入る。聖書を読むということが余白を楽しむ、楽しんで余白を埋めてみるという作業であることを見せてくれる本。

              評価:
              Clarence B. Bass
              Wipf & Stock Pub
              ¥ 1,991
              (2005-02-27)
              コメント:ディスペンセイショナリズムをある程度客観的な入門書として、お勧めする。どっかで翻訳中という噂もあるが。

              2014.07.09 Wednesday

              上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄さん イエスの譬え 参加記 後半

              0

                 前回の続きです。上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた記録をのせようか、と、その時の記録を公開しようとおもいます。かと。前回と今回の2回に分けたので、全体としては、ちと短め(といっても、普通の方のブログ記事よりは長いよ)今回はやや短めかと思います。

                前回お読みでない方はこちらから

                 上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

                二重句という構造
                 二重句という当時の文学作品の特徴がある。二重の話であり、重ねて書いておく。ここでは、祭司、レビ人が通り過ぎていく、という部分が二重句の構造になっている。

                 ところで、エルサレムの神殿で祭儀に当たる祭司はエリコに実際に住んでいたケースが多い。イエルサレムでの祭儀の当番が決まっていて、1年の登板スケジュールが決まっていた。

                 二重句で説明したように、祭司とレビ人が下ってきて、道の反対側を通って行った、という構造が同じ構造になっている。

                祭司とイエス
                 必ず、イエスが説教しているときにパリサイ人や祭司たちの手のものが、説教を聞いている。スパイされている状況の中で、イエスは語っている。そのことへの意識もあったのであろう。

                 このたとえ話の中で、祭司はユダヤ人を助けなかったが、これについての解釈は2つあって、息があれば何らか救わないといけない。という律法と、死人に触ると汚れる、という律法の間でどうするかの決断を祭司や律法学者が迫られる形になっている。

                ガリラヤ、サマリア、ユダヤ
                 イエスが活躍したガリラヤは、異邦のガリラヤと呼ばれるほど、ユダヤの正統的な世界からはやや遠い存在であった。同じユダヤ教の中でも、預言者の書書を認める人々が多かったようである。また、サマリアの宗教は、ユダヤの宗教とよく似たものでありながら、別種のもので、経典はトーラー(モーセ5書)、預言書は認めないという点ではユダヤ教と共通であるが、ゲリジム山のてっぺんに神殿があるのが、サマリア教であった。そして、現代にもサマリア教は残ってい る。

                第2神殿期ユダヤの終末思想と汚れ
                 当時のユダヤ人には、終末思想としてのメシアの到来を待望する雰囲気があり、サマリア人から施しを受けると汚れると同時に他の汚れの発生と同 様に、メシアの到来が遅れると信じてたようである。ところで、このものがたりの旅人のサマリア人もサマリア純血の人々からするとちょっと外れた人ではない だろうか。


                サマリア人の憐れみについて
                 彼が、「憐れに思い」と書いてある語は、「スプラングノム」という語であり、母親が理屈抜きで赤ん坊に愛情を注ぐことを示している。このことが、すぐ行動に結びつくような他者との共生に結びつくような生き方へとつながっていく。このあわれみのこころから、サマリア人は直に行動に移っているのだろう。普通はこういう何らかの負債を持つ人物は奴隷に売られてしまう状況なのである。ところが、サマリア人の憐れみは限りがない憐れみであり、ずーっと続いていくような、憐れみを示しているのだ。

                 この話をしたうえで、隣人の定義を律法学者に求めている。ところで、隣人になる、という語について考えてみたい。「なる」という話である。隣人に「なる」ということは、無限の可能性をもっているごではないだろうか。自分の世界の枠組みを超えて、生きるということではないか。この隣人に「なる」という言葉で示された、自分の世界の枠組みを超えて動く姿勢を示されたのが、イエスだ、ということをよく表すたとえ話となっている。ユダヤ人、祭司、レビ人と続いて、その後にサマリア人を出してきたのは異化作用となっており、そこでハッとさせられる、あるいはギョッとさせられるものがユダヤ人にはあったはずである。



                GoodSamaritan2DT
                David Teniers the younger による「善きサマリア人」

                ユダヤ人がサマリア人に介抱されるということ
                 ユダヤ人で筋金入りの人物で半殺しの目に遭った人にとってみれば、サマリア人から介抱、ケアされることはユダヤ人として汚れる、汚れを受ける、ということであったのである。その意味で、ユダヤ人にとって罪を犯すことでもあったのだ。元気であれば、サマリア人が近づいた時に拒否するだろう状況だったのである。

                 しかし、このファイティングスピリットに満ちていたユダヤ人が、なぜ、サマリア人を受け入れたのだろうか。ほっといてくれ、と拒否することもできたかもしれないのに。その際参考になるのが、先にふれた、二重句構造である、祭司やレビ人から見捨てられた、というダブルでショッキングであったところに、異化作用として、サマリア人が出てくる。ある意味で、この半殺しの目に遭ったユダヤ人は、自らが誇りとするユダヤ人の中でも、尊敬する、そして尊敬すべきシンボル的な存在に捨てられたという経験でもあるのだろう。その意味で、ユダヤ人としてのアイデンティティがしぼんでいったのではないだろうか。その意味で、プライドが奪われた存在とな り、本当の傷ついた人になったのではないか。(なんかナウエンの傷ついた癒し人を思い出した)

                受け入れるということの意味 枠を超えること
                 受け入れるとは、どういうことだろうか。受け入れるということは、敵だった人と隣人になる、ということであり、所謂、かわいそうだから、と上から見るような視点に立って、助ける話ではないだろう。両方の立場を超えて、隣人になっていく話であろう。その意味で、いわゆる抽象的な博愛の話ではない。イエスの譬え話はまったく新しい 世界、枠を超えたところへのメッセージとなっているのではないか。

                 ところで、従来の枠組みを突破していかざるを得ない世界の状況が現在もあるのではないか。ここで、宮本先生のおじさまの墓参の話しになり、シンガポール への墓参の時の話となった。日本ではあまり知られていないことであるが、シンガポールの歴史教科書は、第2次世界大戦時の記載に関して、非常に反日的な記載(韓国や中国の歴史教科書以上の記載)がある。しかし、墓参の案内人の方との間との対話を通して、隣人になるということを改めて考えさせられた。

                 世界では、相互に対立している問題があり、一人一人は実に無力な存在ではあるが、個人として、相互に対立している問題について、どう考えたらいいのか、ということを考えたほうがよいかもしれない。

                ミーちゃんはーちゃん的感想
                 以前、日曜学校の教師をしていたこともあるが、そこでの教案書は、「友達に親切にしましょう」とか「困った人は助けてあげましょう」的な解説で満ち溢れていたような気がする。最近の教案書は違うのかもしれないが。しかし、この「善きサマリア人」の譬え話は、そんなギリシア的なヒューマニスト風の甘っちょろい話ではさらさらなく、もっと壮絶な信仰者とは何か、という問いについての譬え話であり、信仰者としての確信をどう乗り越えていくのか問題を含んだものであることが相当部分の示し頂いた様に思う。まぁ、子供の理解力があるとはいえ、やはりこの辺りのことは日曜学校教師は踏まえておく方がよいであろう、とは思った。 まぁ、ギリシア的ヒューマニスト風の甘っちょろいお話を日曜学校でしたらいかん、とは言わんけど。

                 現在もなおパートタイムではあるが、教会の講壇に立つ者として、当時の第2神殿期ユダヤの背景の上で、イエスの言動を理解しなければならないという観点からも、この講座は、非常に参考になったし、実に有益であったと思う。

                 ということで、雨宮先生のご講義に続き、まぁ集団的自衛権の話題など、香ばしい話題が続いている状況下であったためか、このような緊張関係の中で、信仰者として個々人がどう考えるのか、どう生きるのか、を問われたような気がした。充実のご講演であった。

                 このあたりのことを考える際には、おそらく、下記で紹介するジョン・H・ヨーダーの神学とブルッグマンの預言者の想像力とが参考になるだろう。また、雑誌「福音と世界」2014年7月号の宮本先生の論文を読まれることをご推奨する。



                 
                評価:
                価格: ¥2,052
                ショップ: 楽天ブックス
                コメント:悪の問題とキリスト者が対峙する上で読んでおいたほうがよいと思う。補助線を与えてくれるだろう。

                評価:
                ---
                日本キリスト教書販売
                ---
                (2014-06-19)
                コメント:いやぁ、この7月号、6月号の特集はすごく良い。

                2014.07.09 Wednesday

                「業績先行・倫理放棄の法則」ってねぇ。

                0
                   久しぶりに水谷さんのブログ記事「業績先行・倫理放棄の法則」、科学研究も、キリスト教会も・・・に触発されたので、書いてみることにする。今回は超短め。中身的には痛いかも。

                   「業績先行・倫理放棄の法則」というのは、どこの国でも起きるし、どの社会、どの組織でもいつでも起きているし、どの国でも、下手をすると個人レベルで起きているのである。

                   例えば、反社会的勢力に融資する金融機関、反社会的な総会屋さんに静かにしてもらうためにいらないものを買う企業さん、自分たちの売り上げを増加させるためにパーティ券を買う土○屋さん、電○屋さん、造○屋さん、不動産屋さん、・・・・。いちいち挙げればきりがないのである。

                   いわゆるデートと称し有償で自分の自由時間を切り売りする高校生、あるいは高校生もどきの人々。そして、それにたかり、産業化して金儲けをする人々。

                   自分の快楽、幸福追求のため、脱法ハーブを吸引し、人に損害を与える人々、そして、それが違法でないからと、それを誰かれ構わず売りまくる人々。

                   金がもうかればそれでよい、と自分の特性を捨て、自分の夢を捨て、有名企業ばかりを面接して回る学生諸氏。

                   ドラマの制作をしておきながらスポンサーがつかないからと、それを途中で放り投げるテレビ局。スポンサーが嫌いそうな報道をするのをやめるマスコミ業界。

                   正当な価値があるものを正当な価値があるとはいえずに、買い手の親企業のいいなりになり、働く人たちの成果を十分に評価しないまま売り抜ける営業担当者。

                   教会にてもそうである。初期のザビエル伝道時や九州伝道時のコンフラリア・ミゼリコルディアの精神で貧者の救済にあたった初期の憐みの精神を忘れ、武力なども背景にした南米などでの成功事例に目がくらみ、大量改宗を目指し、有名人、大名への伝道へと切り替え伝道する態度。それを秀吉は伴天連追放令で言っている。伴天連追放令は、信仰の自由は否定はしていないのである。

                   豊臣政権末期以降の高札の掲示後、明治の開港時期に来た横浜での伝道は、貧民、孤児、ハンセン氏病者へのケアから出発したはずである。伝道の精神を忘れ、社会のより豊かな層への伝道と切り替え、挙句の果てに植村正久が「吾輩の教会に工員車夫の類はいらぬ」と言ったかどうかは定かではないが、より豊かな層を生むと思われる社会的グループへの伝道へと走り、本来の正攻法的キリスト教の精神を忘れているのはどうかしていると思う。なに、より豊かな層にも神の言葉は必要であるが、貧しい層にも必要なのではないだろうか。

                   最後に口語訳聖書マタイ福音書25章に記載された、イエスの言葉を引用して終わる。これは、神の国に行くため、また、そこで評価を受けるゆえ、善行せよという記事ではないことだけは一言申し述べておく。

                  マタイ
                   25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
                   25:32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
                   25:33 羊を右に、やぎを左におくであろう。
                   25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
                   25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
                   25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
                   25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
                   25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
                   25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
                   25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
                   25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
                   25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
                   25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
                   25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
                   25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
                  神の平和がこの記事を読んだ、あなたとともにあることを祈る。



                  評価:
                  ジャン・バニエ
                  あめんどう
                  ¥ 1,296
                  (2010-08-20)
                  コメント:文句なしに名作。お勧めする。ナウエンの精神の源泉。

                  2014.07.12 Saturday

                  福祉屋と福音派の共通点???

                  0
                     土曜日なので、軽め(中身は軽くないよ)で、短めだけど、強烈な記事をおひとつ。

                    あるツィッターの投稿から
                     
                     ある福祉関係者が、ツィッターで次のように呟いていた。

                    多くの福祉屋って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、クライエントさんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


                    これを見ながら、次のように思ってしまった。


                    多くの福音派って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、信者さんや未信者さんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


                    って変えたら、両者があまりによく似ている。(爆)


                    福音派についての
                    マクグラス先生のご指摘
                     そーいやぁ、A.E.マクグラス先生も、キリスト教の将来と福音主義(いのちのことば社)で次のようにご指摘である。


                    「福音主義者は、自分たちのルーツを知らず、そのルーツが現代の教会に提供できる豊かな宝に気づいていない。」(p.179)

                    「我々は、急を要する問題として、霊性の過去の形態 ー 清教徒と関連して思い描くもの ー をわかりやすく、実現可能にするべきで、それが福音主義に対するのと同時に教会全体に対する責任である。
                    (中略)
                    なくした銀貨を見つけた女の人が喜んだように、我々は先祖が知っていたがその後なくしてしまった霊性を再発見する喜びをともにすることができる。キリスト中心の、聖書に基づいたキリスト者生活の送り方が、ほかにも発見され、育てられるのを待っているはずである。我々の務めは過去を再発見するだけでなく、将来を形作っていくことなのである。」(pp.180-181)


                    ですって。ミーちゃんはーちゃんが言っているんじゃないですからね。マクグラス様がおっしゃっておられる。ちなみに福音主義って、今日的な意味でマクグラス先生おっしゃっておられない可能性がある模様。要注意。


                    ミーちゃんはーちゃんにとって
                    大事だと思うこと

                     ミーちゃんはーちゃんが思うのは、福祉やも福音派、両方にとって実践(伝道)も大事、昔のことも大事。両方大事…って、なんて、Britain風・・・

                    大英帝国United Kingdomについて

                     ところで、大英帝国は、パンクロックとか出すくせに、現代クラッシックも結構面白かったりと、実に両極端を併存・併記させて、バランスとってナンボ、って癖があるよねぇ。2大政党で、極端から極端に政策がぶれているように見えても、なんとなく、それでいて、現実に表れる面での政策はそれなりに一貫してるし、社会にいろんな問題はあるものの、なんとなく連続的に国が運営されている。おまけに英国国教会は、極端から極端までの人を含みながらも、基本Via Media(中道)というのが、エリザベス1世以来の伝統だし。

                     なんとなく社会で、こういう極端から極端までに見事に併存するという、ややこしさを併呑できるブリテン島での特質が維持できる背景には、もちろん、大英帝国時代(いまだに継続中という話もある)にコモンウェルス(共通の豊かさと呼ぶかMJD)と呼ばれる以前植民地にした国や地域からかなりの長期間にわたって分捕ってきた膨大な資産(それ、過去からのプレゼント)で国が持っているという節もあるけど。日本は、将来の若者からぶんどってこれるかもしれない将来からの国債という(それ、将来からの無理にお願いしてのプレゼント)の大量発行による将来資金の先貰い(給料の先払いみたいなもの)をしてもらって、現状での日本という国を運営しているとみると、彼我の違いは大きいかな。また、余談でスマソ。

                    説教者のための祈り

                     それはさておき、明日、教会に新しい来会者がなくても、再来週の日曜日に教会に新しい来会者がなくとも、毎週同じメンバーであっても、明日の説教、再来週の日曜日の説教の時間は、聖書の中にある、我々が見失ってしまった銀貨を探す手がかりを探す時間であり、銀貨そのものが見つかる時間になるはずだと思う。そして、過去にも、そうやって見つけた人がいて、そして、それで過去の霊性が形作られたものだと思うし、それを今日も再発見して人々と分かち合うことは重要ではないかと思う。

                     それが、「福音の再発見」を出そうかと思った理由である。ここに書いてあることは当たり前だ、という批判を恐れずに「福音の再発見」を出した理由でもある。(この段落ステマ)

                     明日の説教、毎週日曜日の説教は、確実に将来の教会を、将来の来会者への神の支配を形作るものとミーちゃんはーちゃんは存ずる。明日、教会で語られる言葉に祝福あらんことを。





                    評価:
                    アリスター・E.マクグラス,島田福安
                    いのちのことば社
                    ---
                    (2003-04)
                    コメント:翻訳の読みにくさを超えて、内容大絶賛!!

                    評価:
                    価格: ¥842
                    ショップ: 楽天ブックス
                    コメント:まぁ、大英帝国の不思議さ、面白おかしさを、日本滞在中の大英帝国ジンが書いた新書。楽しく読めます。

                    スコット・マクナイト
                    キリスト新聞社
                    ¥ 2,160
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                    2014.07.14 Monday

                    日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性

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                       水谷潔さんのいつものブログ記事 察することのできない夫と察しすぎる妻(例外編) を見ていて、はたと気が付いたことがある。日本の男性の行動が、キリスト教界においても、帝国陸軍の思考と行動パターンというのか、幕藩体制下の藩政時代のお武家様の皆さんの思考と行動パターンを見事に踏襲していることなのだ。そして、封建制度の生活文化というか、封建制度そのものを維持しているという現実である。以下引用する。

                      水谷潔氏のブログ記事から

                       地位や序列を察しすぎてしまうあまり、男性たちは、心の深い交わりを失ってしまうのです。

                      男性たちは、サラリーマンだったりすると、宴会でも「無礼講」と言いながら、それは建前に過ぎません。ちゃんと役職順に奥から座ったりします。女性からすれば「どこが無礼講やねん!」と突っ込みたくなるような、矛盾した行為を当たり前にとるのです。言うまでもなく、こうした交わりの中では、本音を出しての心からの交わりなど望みえません。

                       それは、教会でも同様です。男性たちは、主にあるフラットな交わりが困難です。年齢や信仰歴、社会的地位や学歴などにこだわり過ぎて、心を裸にした交わりできないのです。涙を流して祈り合う女性クリスチャンから見ると、男性クリスチャンたちは、恐ろしく貧しい交わりに生きているように見えてしまいます。

                       以上のように、地位と序列については、「察しすぎる男性」と「察する気もない女性」と言えそうです。男性は、「権力関係における地位についての察し」はし過ぎてしまう一方で、「人格関係における心情についての察し」はできないのです。
                      あれ、帝国陸軍と似てないか?
                       とくに、「権力関係における地位についての察し」というのが、実は、旧大本営から、旧帝国陸軍参謀本部から、旧帝国陸軍の末端に至るまで、先任関係(どちらが陸軍入省が早いか)という地位関係が優先されるのである(吉本興業などお笑いの世界でもそうらしい。一日でも入門が早ければ、入門時期の早い弟子が小学生でも、入門時期の遅い大卒の人間が、小学生捕まえて、「兄さん」と呼ばないといかんらしい。一日でも経験が長い人間に徳がある、ってこれ儒教的徳治政治やないですか。あほらしい)。つまり、平たい言葉で言えば、出生順であれ、入門順であれ、入省順であれ、先輩が能力の有無に関係なく偉い、という支配構造が生きているということであったのだ。これは、現在の中学生のクラブでも生きているらしい。なんじゃ、そら。そして、そのうえでの情実人事、情実に基づく判断が横行した模様である。そのあたりのことは失敗の本質に描かれていたように思う。

                      「察し」が原因の226事件かも

                       そして、この「察し」というのは、「権力関係における上位者の意思の察し」なんてことも行われたりするが、その副作用も大きいと思うのだな。例えば、「お上(統帥権を持つことになっていた天皇)はこう思っておられる」 ということで、勝手に自分の思いをお上の思いへと重ねていくことになる。そして、青年将校は、226事件で暴発し、「昭和維新断行・尊皇討奸」と掲げてクーデターをやってみるものの、「勅命下る」で昭和天皇の不興を買ったと分かるや否や自滅へと向かっていく。まさに、神の「みこころ」が自分の「おここころ」に重ねられ、勝手に解釈されて、実行させられていくのは、基本的に帝国陸軍そっくりだし、はっきり語らない殿の「みこころ」が、自分の「おこころ」に重ねられて、家老や年寄、中老などの重臣などによって語られ(あるいは、騙られて)ていく。

                      教会婦人部 大奥説?
                       と思っていたら、この前、面白いツイートでつかまえたブログ「しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」で「あるカトリック教会における無教会クリスチャンの祈り」という記事を見た。

                       わたしの母教会では、ここで幼児洗礼を受け半世紀以上も通い続けている婆さんたちに権力が集中していた。カトリック教会には人事異動があり、長くても十年くらいで神父はよその教会に移るが、信徒は転居しない限り同じ教会に通い続ける。したがって、備品のありかや雑務の段取りなどについては、婆さんたちが いちばんよく知っていて、神父も頭があがらないというわけである。新人クリスチャンのわたしなどは、しばしば上から目線で命令されたものだ。奏楽担当のお嬢さんも、よくいじめられていた。彼女には留学経験があり、外国人の神父や修道士と英語で話したりするのが、無学な婆さんたちの癪に障ったのかもしれない。わたしは引越しを機にこの教会と縁を切ったが、あのお嬢さんはどうしているだろう。聖体拝領のときにまたアメージング・グレイスを弾いて、それはプロテスタントの曲でしょと叱られたりしているのだろうか。
                       まさに、家老や年寄りや中老が権威を持ち、大奥で、上臈御年寄、小上臈、御年寄、中年寄が力を持つ構造と同じではないか。頭が痛い。結局日本の教会では、ミニ江戸城、ミニ○○藩、ミニ大本営、ミニ陸軍参謀本部、ミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているではないか。

                      教団総会、神学校も帝国陸軍の再現中?
                       ところで、神学校の内実や、牧師会がどういうものかはそういうところに出たことがない平信徒のミーちゃんはーちゃんは知らない。また、教団総会とか、教団本部とかの人事がどうなっているかも知らない。しかし、いろいろ聞かせて下さるありがたい方のお話を総合すると、どうも、いずれも結構いろいろあるようであるし、ミニ陸軍参謀本部やミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているという側面が全くないとも言えないようだ。これを書きながら吐き気すら感じてきた。

                       某団体の教団派・社会派闘争(当事者でないのでよくは知らない。知りたい方は、キリスト新聞のバックナンバーをお読みくだされ)だって、下手すると、構造としては、お上の「おおみこころ」をお察し申し上げ、青年将校が暴発した226事件と構造は同じではないか、とすら思えてくる。なんだろう。これは。(ト、トイレ〜〜〜!)

                      繰り返される歴史・歴史に学ぶ必要
                       かくて、帝国陸軍で起きた歴史が、日本の教会でも反省もなく繰り返されているかに見える(同じとは言ってないから、読者は注意されたい)現状を思うとですねぇ、これが実に残念だし、なんだかなぁ、になるのですよ。ミーちゃんはーちゃんとしては。

                       なお、第3帝国末期のドイツでもヒットラー総統のおこころの類推で作戦が繰り出されたことはあったようだし、また、それをうまく使ってヴァルキューレ作戦が行われた形跡もあるので、まぁ、これはどうも日本に限ったことではないようである。どこの国でも、こういうことをする人はいるのだろう、とは思う。

                       我々は、もうちょっと歴史に学んだ方がよいのではないか、と思うのだ。だって、旧約聖書はある程度歴史に学ぶ書でもあると思うし。

                      どっちみち人間は所詮ダメなんじゃね?
                       まぁ、トリス氏の願いと祈りはわからなくはないが、恐らく、トリス氏の願いの通りにはならないだろうとは思う。残念だけど、それは申し上げたい。それは、この地において、人間が神の前に完全に神と共に一体となれないから。ごくごく荒っぽい言い方をすれば、罪ある存在だから。罪ある存在が、神にあって、神の霊にあって一つにまとめられたのが、教会の一断面だから。
                       旧約聖書に繰り返されている歴史は、そもそも論として、人間はダメなんじゃないか、ってことを示しているように思えてならないんだなぁ。映画ノアの監督もそれが言いたかったので、ノアの物語をパロって旧約聖書の物語の幕の内弁当にしてみました、をしただけなんだと思う。このあたりをお考えになられたい方には、拙ブログの以下の記事もあわせて参照たまわりたく。

                      上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半
                      上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

                      ノア 約束の舟 をみてきたよぉ。あなたがどんなクリスチャンであるかを問う映画かも?

                      それでもその教会を愛し給うた「頭」なるイエス
                       一人ひとりは聖でなくとも、そして、如何に残念な人々であろうと、それでも、神は愛したもう、そこが大事だとは思った。そして、ナザレのイエスは、この教会を愛し給うたがゆえに十字架の上でのその神の支配(=神の国)の王座にメシアとして、あるいは、キリストとして、神の子(皇帝)としてご着座され給うたのではないかなぁ。目の前の現実も大事であるが、時に目の前の現実ばかりを見ていると、現実をクイックフィックスとも呼ばれる当面の方策とか関与で何とかしたくなる。その気持ちは、技術者としても生きているものとしては非常によくわかる。しかし、現実ばっか見ていると、現実のその奥にあるものが見えなくなるし、その奥の構造も見えなくなる。それではアカンのではないか、とも思うのだ。最後に口語訳聖書に記載された、マタイの福音書での主の祈りを引用して終わる。

                      天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
                      御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
                      わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
                      わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
                      わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
                       この記事の読者に神との平和、共にあらんことを。そして、神のみこころを勝手に察して、勝手に自分で、自分たちでどうのこうのするのではなく、神の御手にあることを確信しつつ、悪をも用い、アッシリア、バビロンすら用いたもうた神の御手に委ねてまいりたい。ミーちゃんはーちゃんとしては。

                       お立場もあるんでしょうが、このあたりのこと、本当は牧師先生にもわかりやすくお示してほしいなぁ、と。ちょっとおねだり。

                       生々しくって、書けないって? そうでしょうねぇ。多分。 

                       ま、今政権政党の皆さんが、道徳教育の復権とか、「とりもろす」とか、慌てていっているんだけど、まぁ、もう間に合わんと思うので、「権力関係における地位についての察し」や「権力関係における上位者の意思についての察し」ができない人がどんどん増えていけば、多少は教会も変わるんじゃないかと。その前に、自分や自分の考えだけが正しい、と思う人が減ればいいんだけどね。 

                       続編 

                         続 日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性(これで終わり) 

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                      コメント:下士官として前線におかれた山本氏の視点から見た帝国陸軍の姿。

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