2014.06.01 Sunday

ご愛読の感謝と2014年5月の人気記事

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       今月もやや暴投気味の記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセスいただきありがとうございます。

     2014年3月  20499アクセス。に引き続き

     2014年4月  24200アクセス。ときて、

     2014年5月  22690アクセス。

    で今月の上位5位まで。

      (1)詩篇19篇1-3節 
         (ここ1週間アクセス数急減のため、どこぞの学校で説教課題が終わったか?)
               アクセス数 893

      (2)サービス中止しちゃうんだって ブログ移行始めました。
         アクセス数 607

    なぜか詩篇19篇1-3節の講解説教の直後にある二つの記事’(3)と(5)もつられてランクイン

      (3)タイトルなし(ブッシズム等お笑いネタご紹介)
        アクセス数 600

    そして、先月、今月の鉄板だった(1)の後継記事
      (4)アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)
         アクセス数 533

      (5)詩篇19篇4-9節 から 神のことばと人間
         アクセス数 517


    (1)から(3)、(5)は特殊要因ということで、この例外を除くと、

      (6)「篠田麻里子牧師」再考 21世紀の日本キリスト教会とキリシタン
        アクセス数  364

      (7)D.L.Moodyの後方乱気流
        アクセス数   309

      (8)日本のキリスト者の教理的視野狭窄について(3)
        アクセス数     299   

      (9)あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。
        アクセス数    270



    という感じでした。


     先月の御愛読、こころかあ御礼申し上げますとともに、ご清覧お願い申し上げ候。


    2014.06.04 Wednesday

    Solitude 〜ソリチュード超入門〜  ユーミンのBlizzardの替え歌にのせて

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       個人的に、大事だと思っていることの中に、Solitudeということがある。詳しくは、このブログ記事の最下部にある、 静まりから生まれるもの ー信仰生活についての三つの霊想ーをお読みいただきたいが、そのポイントは、以下の替え歌で分かってもらえると思う。今日は、ちょっとは楽しく、静まりを覚えようと思う。非常に短いし、わかりやすいと思う。

      今日のは、ちょっこっとだけ重要なことをうたった替え歌である。

      5分でわかるソリチュードの意味[超入門]である。ちなみに、元歌は、こちら
      40代以上の方なら、どっかで聞いたことがあると思う。


      -----------------------------------------
      SOLITUDE (元歌はBLIZZARD

      Silence Oh Silence 包め世界を
      雨も颯(はやて)も音を立てずに

      激しく舞い翔ぶ天使(エンジェル)たちが
      前をゆくあなたの姿かき消す
      聖書から感じる神の息吹だけが
      私をみちびくの 音の無い国

      Solitude  Oh Solitude 閉ざせ二人を
      流れる距離と時間を消して

      みくにで会おうとスタートきった
      かならずはぐれずについてゆけるわ
      ふいに見失う心細さが
      YHWHへの想いをつのらせるから

      Solitude Oh Solitude 静まれ心よ
      もっとYHWHの近くへゆくわ

      軽いバウンド ギャップを跳び越え
      YHWHの愛 結晶に変わる

      Silence Oh Silence 包め世界を
      雨も颯(はやて)も音を立てずに

      Solitude Oh Solitude 閉ざせ二人を
      流れる距離と時間を消して

      Solitude Oh Solitude 静まれ心よ
      もっとYHWHの近くへゆくわ

      -----------------------------------------

       しかし、Solitudeと真逆の方向性のやかましい楽曲で、ここまで、不敬虔にもSolitudeを語ってしもうてもいいのだろうか。ソリチュードと言うと、結構堅苦しく感じるかもしれないが、実は、この歌詞で言いたいことなんじゃね?と思っているのだが。

       内容的には、上記の歌詞がSolitudeのエッセンスを表していると思うのは、たぶん、ミーちゃんはーちゃんがSolitudeを十分に理解していないことのゆえであろう。






       

      評価:
      ヘンリ・ナウエン
      あめんどう
      ---
      (2004-09-01)
      コメント:ソリチュードの本来的な意味は、こちらで深く学んでいただきたい。

      続きを読む >>
      2014.06.05 Thursday

      2014年5月に芦屋で開かれた上沼昌雄さんの聖書講演会の記録

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         本日は、2014年5月31日に開催された上沼昌雄さんをお招きして開催された聖書講演会の時に撮ったメモをもとにご紹介致そうかと。基本的に宇治で開かれたセミナーと主要部分に関しては同じなので、そちらの記録も兼ねてます。

        理想と現実のギャップ

         まず、冒頭で、ギャップ問題、特に、自分の理想と自分の現実とのずれについて、どう考えるのか、ということの問題提起がなされた。その中で、ギャップとは、「理想とそれにそぐわない自分の現実のずれ」と言えるだろう。ところで、ギャップは埋められるのだろうか。信仰が深まるとともに埋まらるのだおろうか、埋まらないのだろうのか。最終的なところで埋まるのか、埋まらないのか、ということをどう考えるのか、ということを問うてみたい。

        神学研究が有効でないという行き詰まり

         神学校で教えていたころは、聖書から理解したことを考えを巡らし、それを実行すれば大丈夫ではないか、と思っていたが、それで結局上沼先生は、行き詰ってしまわれた。三位一体の神がおられるから大丈夫、とやり過ごそうとしてきたが、それはあまりご自身にとっても有効でなかったし、牧師になっていった卒業生にも、教えたことが役に立ってない現実に直面した。

        理想的なクリスチャンよりは、
        情けなさを抱えて生きる旧約聖書の神の民

         クリスチャンのあるべき姿論(理想的なクリスチャン人生、教会、夫婦関係)が多く議論されるが、それが人々を追い詰めていくのではないだろうか。いま、なやんでいる牧師たちのための会を5月の中旬に宇治で開催しているのだが、このあるべき姿論が人を苦しめているのではないか。しかし、あるべき姿論ではなく、情けなさをあちこちに抱えた旧約聖書の話に現れる神の民こそ、神の民の現実ではないかと思わされた。

        中間時代の出来事

         旧約聖書が終わってから400年(中間時代)の出来事が、想像する以上にユダヤ教に影響した。

        トルコ(小アジア)を出発としたマケドニア帝国
        ギリシア
        ローマ
        スペイン(地の果ての国)

        アレキサンダーのマケドニア帝国は、ギリシア帝国でもあり、地中海世界に一種の共通語としてのギリシア語が広がった。

        その意味で、イエス時代のユダヤは政治体制においては、ローマ帝国であり、文化的には、ギリシア文化が幅を利かせ、宗教的には、ユダヤ教であった。

         その中で、旧約聖書のギリシア語訳が、アレキサンドリアで行われるが、アレキサンドリアは文化的中心(古代の図書館があった)でもあった。アレキサンドリアにいたプトレマイオス朝の王がユダヤ教に関心聖書に関心をもっていた。そしてできたのがおそらく70人訳なのだろう。

        ギリシア哲学と聖書

         ソクラテスの時代は、エズラネヘミアの時代の前であるが、プラトン、アリストテレスは捕囚後の哲学者である。おそらく、ギリシア哲学、少なくともギリシア文化の影響がユダヤ社会の中に入っている。その意味で、プラトンのイディア論や理想郷の概念が、キリスト教に影響していく。その意味で、近代日本でのキリスト教の多くの部分は、プラトンのイディア論をキリスト教として語ってきた部分があるのではないだろうか。つまり、理想を強く掲げる傾向があっただろう。

        旧約聖書における神とのかかわり

         出エジプトの金の子牛事件では、神にくってかかるモーセが記録されているが、それは神を困らせている感じがする。その意味で、誤解を生みやすい表現かもしれないが、旧約聖書は神が困っている物語であり、神の民自体が神が困っている問題の原因になっている。
         また、多くの場合、神が思いなおされている。その意味で、どうやっても到達しえない理想的な世界を建設する、という思いを日本のキリスト者のうちから取り外しせないだろうか、という問題意識をもっている。

        出て行くことにまねかれている信仰者

         創世記15章には、アブラハムの物語がえがかれているが、そこで、神はアブラハムに対して「出て行きなさい」とおっしゃっておられる。その意味で、ユダヤ人の信仰でもあり、クリスチャン信仰でもそうであるはずだが、本来的には、留まらず出ていく信仰であろう。
         そして、天の星を見せて、「この星々のようになる」と神はアブラムに仰せになるが、そんなことを、誰が信じられ要か。しかし、それでもアブラムは波乱から出て行った。その意味で、神は、アブラハムへの契約をいまでも守る神の誠実の神である。

        ギリシア的な理想世界では
        理解不能な旧約聖書

         ギデオンはえいゆうであるが、子供のアビメレクが70人の異母兄弟を殺している。また、士師記の最後では、レビのところにいた女性が、実家に帰っているが、この女性を実家のところに行った時、このレビ人と女性はベニアミン族のところで宿泊する。すると、ベニアミン族のワイルド・ヤンキーの皆さんがレイプして殺してしまう。これはどう考えても宗教書の記述としてはありえない話だろう。

         ところで、ベニアミン族、パウロの出身部族でもある。パウロが、「私たちの不真実があっても、神の真実は変わることがない」というとき、パウロは自民族の過去の歴史を知りぬいていた上での発言ではないだろうか。

        理想通りいかない神の民

         エゼキエル書14章の中にある神の中の正しい人物としては、ノアとダニエルとヨブが描かれているものの、全体としては、とんでもないユダヤ人の状態になっている。 
         異国の民は、天国のイメージで神の民の麗しい姿を期待するが、出エジプト、バビロン捕囚のような情けない状態は避けられないのではないか。そして、旧約聖書は祝福と呪いが並行しているというところに着目したい。

        ホロコーストで地に落ちた
        ヨーロッパのキリスト教

         キリスト教界も状態は似たようなものではないか。既に、ホロコーストを経験したヨーロッパのキリスト教はヲワコン化が進んでいるのではないか。クリステンドムが崩壊している。その背景には、ホロコーストを阻止しなかったどころか、教会は概ね加担した。そして、ヨーロッパは、ポストキリスト教の世界になっている。

         しかし、アメリカはそれを経験していないので、未だ、理想、理念系を追っている。こうすればOK、マニュアル化したキリスト教になってないだろうか。クリスチャンの集まりに行っても私たちの現実は全く変わらないという現実があるのではないか。それを自分たちで変えようとするのは無理なのではないか。むしろ、そのダメさ加減を受け止めること、そして、ダメなものはダメなものであっても、それを、生かそうとしておられる神ではないか。神の慈愛の招きの中でのみ、生きることができるし、そのために生かされているのではないか。

        キリスト教徒とパラレルな
        旧約時代の神の民

         旧約の現実の姿は、我々の姿であるだろう。信じられないことが書いてあるが同じようなことが起きるのではないか。神は神の真実を変えられない。誠実であるがゆえに、別の人を選んで何かをなさしめようとすることをなされない神であるのかもしれない。どんな状態であっても我等を愛し、回復させようとする神であるだろう。

        とはいえ、キリスト者の意義

         イエスご自身が我等を天幕として私たちのうちに住まれるのである。単なる過去からの連続ではなく、イエスを通してあたらいしいわざが与えられるし、新しい望みがかなえられる。キリストと同じように歩むことができるということは重要な側面だろう。

        イエスと旧約聖書

         イエスキリストと新約聖書、旧約聖書を考えてみたい。我々は、モーセの律法は終わったととっているが、イエス自身も律法の一点一角も落ちない、とおっしゃっておられる。むしろ、律法の要求が私たちのうちに実現するとおっしゃっておられる。

         旧約が生きているといっても、儀式とかのすべてではなく、中心的な神の思いが実現するのである。旧約で何が大事か、ということに関しては、「こころを尽くし神を愛せ、自分人を隣人のように愛せ」と言っておられる。マタイの福音書では、イエスに律法学者が尋ねているが、ルカの福音書では、律法の専門家が試そうとしておられる。そこで、律法学者がイエスに「永遠のいのちを自分のものとするためにどうすればいいか」と聞くが、イエスは聞いた律法学者に「あなたはどう考えているのか」と聞き返す。するといえすは、「神を愛すること、隣人を愛することの2つともが大事であり、それをすれば、命を得る」と言っておられる。

         この「隣人を愛せ」はレビ記の中の一か所でしか言われてないことである。在留異国人が決して飢えることのないように、やもめとみなし子が飢えることがないように配慮せよと続いている。その背景には、あなた方ユダヤ人も在留異国人であった。これらの社会的弱者を保護しなければ、神は「殺す」と厳しい言葉で言っておられる。

        旧約律法のユニークさ

         どうしたら、ギリシア人がうまく治められるか、ということで政治哲学が生まれてきたが、しかし、ギリシアの政治哲学には、在留異国人や、やもめの存在が入ってないのである。また、7年目には、「土地を休ませよ。奴隷を解放せよ。」とおっしゃっておられる。また、7年の7倍49年の翌年がヨベルの年。50年目に土地の売買があっても原状回復せよとおっしゃっておられる。これは資産配分の偏りを防ぐためであったのではないか。近年国際債券市場で行われた後発国家への債権放棄は、国連におけるヨベルの実現なのである。

        やもめとイエス 

         この律法における、買い戻しの権利、異国人、やもめが全部出てくるのがルツ記である。このルツからボアズが生まれ、エッサイ、ダビデ、そして、その後継者としてのイエスへとつんがる。
         また、ルツは、モアブの民であり、不品行的な行為で生まれたモアブの出身である。

        出ていくように
        招かれているキリスト者

         「愛することと生きること」と「平気でうそをつく人たち」を書いたスコットペックは、カウンセリングを行った人であるが、彼が指摘していることは、愛するために自分の殻を破りでていったのがイエスであり、精神的に成長するためには、イエスのように外に出ていくことが重要である。自分から外に出ていくことがイエスの行為である。と、スコットペックは、クリスチャンでなかった時に書いた。そして、クリスチャンになって書いたのが、「平気でうそをつく人たち」という本であり、この平気でうそをつくのは自己愛に浸っているからであり、何でも他人が悪いと片づけてしまうナルシストなのである。

        神に手を伸ばして
        出ていくべきキリスト者
         その意味で、自分から神に向かって手を差し伸べていくのがキリスト者であろう。私の現実をみて、ダメだ、ダメだというのではなくて、自分のふがいない現実を通して神のいのちが我々に浸透していくのではないか。

        大体こんな感じのお話しでした。

        まとめとその後の
        ミーちゃんはーちゃんの中での共振

         なんか、これ書きながら、沼田先生の先日の説教を思い出しましたし、また、ヤンキー牧師の中村うさぎさんとの関係で書かれていたピューリタン的な自己を自己努力で霊的な純化というか聖化を進めていこうとすれば、それは、そもそも無理ゲーであるし、その無理ゲーのひずみが、厳格なほぼ無理ゲーの生き方を求める親をもつキリスト者2世を苦しめ、そして、その生き方を求める親であるキリスト者自体をも苦しめるし、結果として、日本のプロテスタント教会関係者における閉そく感をもたらすのだろうなぁ、と思いました。

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        (2002-10-07)
        コメント:翻訳に癖があるが、神に向かって手をひらいていくことが示されている。

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        コメント:旧約聖書的な世界と村上春樹の世界を対比させながら、われらが闇の住民でありつつも、神がそこにイエスとして降りてこられたことの意味をご指摘。名著。

        2014.06.06 Friday

        ピューリタン雑考

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           ブログ緊急更新しました。まぁ、補論ですわ。

           今回は長め。歴史や文化、アメリカ、アメリカ型キリスト教に関心がない人には、面白くない記事かもしれない。

           先日の中村うさぎをめぐる水谷さんのブログ記事を読みながら、これってMJD(まじで)ピューリタンのことか、のことかと思っていたら、津の服部先生がいつもながらの鋭い突っ込みをブログ記事で入れてくださっていたので、このままでもいいかなぁ、と思ったのだが、この対論の背景を書いてみたいと思ったので、ちょっと書いてみよう。

          引っ掛かった
          水谷さんのブログ記事

          水谷さんのブログでミーちゃんはーちゃんが引っ掛かった点は、以下の記述である。
           日本のプロテスタント教会は、全体として非常にピューリタンの影響が強いと言われます。個人的にはそれはよいことだ と思っています。異教的文化の中では、禁酒禁煙などノンクリスチャンとは異なるライフスタイルを際立たせるあり方は、インパクトある証だと思うからです。 私自身も禁酒禁煙主義なので、非常にピューリタン的だと自覚しています。そのこと自体は大変感謝しております。
           禁酒、禁煙や厳格な教育方針、みたいな外形的な部分がピューリタン的、というような外見性に関する部分に着目したピューリタニズムの一側面をもってピューリタンとする点である。無論、それがピューリタン的でないことは同じ記事の中でも水谷さんも以下のように記述して、本来、ピューリタンが目を向けるべき神と神との関係のことであることをご指摘ではある。

           厳格な教育は時に、「親に従うこと=神に従うこと」のように子どもに伝わってしまいます。親に従うことは最終目的ではなく、それを通じて、神を愛し従う(従うのは愛が動機)ことが、最終目的なのに、子どもの中では、本末転倒してしまいます。親の使命は子どもを自分に従わせることでなく、それを通じて神様に従うように育てることですが、子どもの目には、親が自分に子どもを従わせるようにしか見えないことも。これはクリスチャンホームによく起こる親子間の誤解のようです。

           そのことは、思春期以降の教会離れに拍車をかけます。「それゆえ男は父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、思春期以降は、親から離れながらキリストにつながるのが正常かつ健全。しかし、思春期後も、「親に従うこと=神に従うこと」が、続くと、「親への反発=神への反発」となり、「親からの自立」そのまま「教会生活からの卒業」につながってしまいかねません。

           また、親の内側で、信仰が道徳化されていると、子どもには「信仰=道徳規範」として伝達されてしまい、信仰継承の妨げになりかねません。極論すれば「いい子、優等生で、教会に行け」というメッセージばかりが伝達され、「悪い子のまま愛されているから大丈夫、そのままでイエス様信じよう」というメッセージは伝わりません。

           さらに、信仰が道徳化されると、外面的行動が内面より重視されるようになります。たとえば「礼拝、聖書、お祈り、奉仕、献金」の5点セットの実行が、信仰のアイデンティティーとなってしまいます。つまり「行動義認」となり、「信仰義認」の真逆となります。この五つの行動をしていれば、逆にそれをする際の心や動機は問われないのです。動機となるはずの愛は子どもに伝わりません。これは、「仏作って魂入れず」ならぬ「信仰生活作って愛入れず」と言えるでしょう。
          ということで、さらに、津ののらくら者先生の

          文中で指摘のあるピューリタニズムと、ピューリタン神学総説の本とかに見るピューリタン(たち)の姿が大きく違うんですよね。そう言えば、ロイドジョンズ牧師は「最後のピューリタン」と呼ばれてました。

          というご指摘を受けて、水谷さんは次のようにお書きでもある(のらくら者先生、書名入れました。ご容赦を)。
           どうも、佐藤優氏が見抜いたのも、私が論じたのも、いかにもの「日本に出回っているピューリタンのステレオタイプ」のようです。もしかすると、そもそも日本に出回っているピューリタニズムが真正ではなく、ステレオタイプなのが、問題なのかもしれませんね。神学に疎いところへの援護射撃に感謝します。私の見解は、この記事の見解を参考にして、ご検討ください
          という追記を入れておられる。

          こうなった背景

           こういうピューリタン文化的なキリスト教が生まれた背景は、どうもアメリカという国ではないか、と思うのである。

          ピューリタンとは何か

           ピューリタンの発祥の地は、イングランドであり、イングランド国教会及び大英帝国内各国の国教会(日本では聖公会がそれに相当する)からの分離派がそもそもピューリタンである。神に純粋に従おうとした人々であり、それが故に国家と対立するほどに戦った預言者的な人々であったのである。

           この辺の世俗の権力とキリスト者の関係についての議論は、ウォルター・ブルッグマン著 鎌野先生翻訳の「預言者の創造力」がよいのでそちらを参照。

          ピューリタンが建国した神の国アメリカ

           このピューリタン精神をもった人が、移住し、純粋に神とともにあろうとする自分たちのコミュニティを作ろうとしたのが、アメリカ合衆国という国であり、それは建国の精神となっているのである。この辺りに関しては、森本あんり著、『アメリカ・キリスト教史 理念によって建てられた国の軌跡』やリチャード・ニーバーの『アメリカにおける神の国』等を読んでいただくとわかるだろうし、古典ではあるが、トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」等を読んでもらえばよろしい。

          アメリカという国家の二面性

           アメリカでは、裁判所から紙幣、コインに至るまで、「In God We Trust」という政治的声明を書かないと、気分が落ち着かない国なのである。その意味で、ピューリタン・キリスト教的精神とピューリタン的倫理で外面を装うことが幅を利かせている国なのである。その意味で、アメリカは確かにある面で、ピューリタン的キリスト教国ということに間違いはない。アメリカに生まれたから自分はクリスチャンだ、ということを真面目にご主張される向きが出るほど、キリスト教国なのである。

           しかし、忘れてはならないのが、実はアメリカは単なるキリスト教国ではなく、ローマ帝国のご子孫様なのでもある。ローマ皇帝を限りなく求める国家でもあるのだ。とりわけ指導者層も、そして、それはアメリカンドリームとして、指導者層以外の人々も、ミニ皇帝を目指すのである。そんな証拠がどこにある、とおっしゃるかもしれない。いや確かにあるのだ。以下の図を見られよ。


           鷲の紋章は、ローマ皇帝の紋章でもあった。もちろん、強さの象徴としてアメリカンイーグルを示しているという部分もあろう、しかし、ローマ皇帝の紋章でもあるのではないか。別に強さの象徴であれば、National Forest ServiceのマスコットであるSmokeyやカリフォルニア州旗に大書されている熊でもいいとは思うのだが。

          National Forest ServiceのマスコットSmokeyとカリフォルニア州旗

           なお、ナチスドイツもこのローマ皇帝紋章にこだわったのだ。



           こんな動画を紹介したくはない。ミーハー氏はナチスなるものが大嫌いである。しかし、ナチスドイツがローマ帝国を強く意識していることを示したいんで、ご紹介する。上記映像の冒頭部で、やや下方に下げられているナチの標章の先端部分には鷲の像がついている。45秒ごろの階段を登るシーンでそれが確認される。4分30秒ごろに出てくるでっかい鷲の像もローマ皇帝の象徴である。

           その意味で、第2次世界大戦(これは、ヨーロッパでの戦争であるので、15年戦争とは言わない。)における欧州戦線でのドイツ軍と米軍の戦いは、この鷲の紋章の継承者の正統性を武力で証明しようとするた戦いであったともいえる。いや、ヨーロッパのほとんどの戦争は、自国のローマ皇帝の後継者としての正統性をめぐる戦闘であったのだ。

           ナチスドイツもローマ帝国の正統な後継者であろうとしたし、現在のアメリカも、自らローマ帝国の後継者でありたいという意思が表れているように思うのだ。

           そして、近年のロシアも、東ローマ帝国の末であることを、鷲の紋章を使いながら主張しておられる。いまのウクライナ紛争も、そう見ると、ローマの正統な後継者とはだれか問題を武力により答えを出そうとしていると思えてならない。


          ロシア大統領旗

           ところで、アメリカの裁判所にはIn God We Trustと書かれている割に裁判所の前には、こんな正義の女神像 Lady Justiceが置かれているのを皆様ご存知であろうか。



           アメリカは、In God We Trustと裁判所に大書する精神性を保持する国であると同時に、ローマ帝国、そして、その先にある人間が中心であり、人間を崇拝してきたギリシア文化をこよなく愛する国家なのでもある。さらに言えば、アメリカの法体系は、ローマ帝国由来の法体系なのでもある。

          何が言いたいか
           余談が続いたのでわかりにくくて申し訳ないが、要は何が言いたいか、というと、アメリカは、聖書を大事にするピューリタンの国でありながらも、ローマ帝国の末裔でもあるという2重性、複雑な精神性をもつ国だ、と言いたいのである。この二重性が存在する国だと思って見ていないと、誤解するし、アメリカのキリスト教は、この二重性の中で生まれた(発酵した)キリスト教であるということをも忘れてはならない、ということなのだ。

           何、ミーちゃんはーちゃんは、アメリカという国が嫌いではない。好きなのだ。たまらないほど。

           アメリカ人に対しても、一部に「あぁあぁ」と思うことは時にあるけど、基本好きなのだ。

           しかし、アメリカ人が「これが聖書理解だ」と思っていることが必ずしも聖書そのものの主張なのではなく、どこかローマ文化、ギリシア文化の影響を無意識的に受けたキリスト教となっているのだ。それは福音派のアメリカ人、メインラインと呼ばれたりリベラルと呼ばれたりするアメリカ人のいずれでもかなり影響を受けてしまっているのだ。もちろん、人による影響の深刻さの程度は違うが。

          アメリカの二重性が生んだピューリタニズムの誤解

           アメリカ人がローマ帝国、そしてその先にあるギリシア文化への憧憬を含む、その視線の中にギリシアへの憧憬を含むことを指摘したが、その本質はストア哲学なのだろうと思う。昨日紹介した沼先生の講演録でも上沼先生のお考えを軽く紹介したが、キリスト教の中に、すでに新約時代、ギリシア哲学が70人訳聖書(新約時代に多用されたギリシア語訳の旧約聖書)に侵入し、パウロやペテロの聞き手でもあった初代教会の母体となったギリシア世界のユダヤ会堂参加者に浸透しており、そして、それがアメリカという国で、人間賛歌が基調にあるギリシア哲学を理想とする社会におけるキリスト教に影響するとしたらどうであろうか。もともとギリシア哲学と親和性が高いところに初代教会時代に70人訳聖書で持ってこられていたキリスト教の基礎が、さらにアメリカ人のギリシア哲学への傾倒により、人間中心主義的な側面が一層強化されることにならないだろうか。

          誤って理解されたキリスト者像としてのピューリタン概念

           それが、人間的な努力で、禁酒、禁煙、厳格な教育方針、親の人間的努力による信仰の無理やりな押し付けにつながっていないだろうか。そして、それが日本での外見的な目に見える「聖さ」(禁酒、禁煙、勤勉、厳格な教育…)のみを求め、本来の聖性でもあるへき「信仰者への内実としての神への依存、あるいは、神への立ち戻り」ではなく、外面的なものに置き換え、内面の聖性そのものを妨げさせるピューリタン的なキリスト者イメージを作り出すとしたらどうだろうか。勝手に目に見える聖性をおき、すべての人に人間的に生み出されたイメージから導かれる標準を強いるというのは、どう考えても問題なのだと思う。

           人間的な努力により、人間的に見て美しいとされる生き方に従うことを一方的に求めさせるピューリタニズムは、津ののらくら者先生ご指摘の通り、ちょっと違うのである。

           人間が中心になってしまったという意味で、キリスト教ですらなく、もはや人間教あるいはヒューマニズム教になり下がってしまったキリスト教のような異教なのではないか。

           中村うさぎさんは、この誤ったキリスト教のお面をかぶったヒューマニズム教の犠牲者なのだと思う。

           以下余談であるが、そもそも、禁酒が言われたのは20世紀初頭に限ったことであり、婦人参政権運動の一部としての政治的論点の一つであった。禁酒運動以外にも、廃娼運動(日本では婦人矯風会というのができた。矢島さんという方が先頭を走った。)も政治的論点になったのだ。



          当時の婦人参政権運動をほうふつとさせるMary Poppinsの動画

           禁酒運動は、アメリカではMobsとも呼ばれるマフィア排除をも目指したものであったが、それは半面後発でアメリカに到着したイタリア人とアイルランド人差別などの民族差別的なものも含まれていたのだ。つまり、プロテスタント的ピューリタニズムを背景にした集団とカトリックを背景にした集団の国家における社会的分断でもあったようにも思うのだ。禁酒法自体は、イタリア系Mobs(マフィア)を追いこめようとした結果、マフィアは地下に戻り、飲酒自体はなくならず、アルコール飲料の価格を向上させ、そして、イタリア系マフィアの代表格であるアル・カポネをのさばらせ、そして、イタリア系移民によってラスベガスが大きくなるということにつながっていくのだ。

          本来のピューリタン的生き方

           本来のピューリタンは、自分の情けなさを抱えつつも、ふがいなさを抱えつつも、それを日々自らの残念さとふがいなさを自ら見つめ、反省し、神に立ち返るべく神を求めつつ、それでも神はわれを愛したもう、というそこにかけて生きる生き方をする人々のはずであるし、そうだったと思うのだが、水谷さんご指摘のように、「信仰が道徳」化してしまったら、それは信仰ではなく、マニュアル化された「救いの文化」(スコットマクナイト著 福音の再発見から)でしかなく、もはや、福音でもなければ、神の力に頼らないという意味で、信仰でもないのだ。だからこそ、我々は、ウォルター・ブルッグマン著訳鎌野先生翻訳の「預言者の創造力」で指摘されている預言者の想像力をもって、既存のものを疑いつつ、もう一度、本来の神の御思いに立ち戻ろうとするピューリタンとしての生き方を取り戻すべきなのではないか。

           ギリシア哲学や人間中心の哲学、自己による成長という概念に自分のキリストへの信仰を置き換えるのでもなく、自分の力で神のようになるという偶像崇拝をキリスト教と呼ぶのでもなく、神と神の力を求め神と共に歩むということを。



          評価:
          価格: ¥3,024
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:絶賛。ただ、内容的に読みやすくはないし、思考力が用され、かなり背景知識が必要とされるが、重要な指摘がある本。

          評価:
          価格: ¥1,836
          ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
          コメント:神の国を建設するという理念によって建設されたアメリカという国の宗教史。非常にコンパクトにまとまっている。そしてアメリカという国の残念さも。

          2014.06.07 Saturday

          ミーちゃんはーちゃん的福音と世界6月号紹介(その2)最終回

          0
             前回の記事では、全部紹介しきれなかったので、福音と世界6月号(といっているうちに7月号が出る時期が近づいているので、内心焦っている)で面白いと思った記事を少し拾っていこう。今回は異様に短い。これくらいがちょうどいい、といわれそうであるが。

            我らは誰と生きようとするのか

             前回の記事で取り上げ損ねた、海老原晴香 「あなたは誰と共に生きるのか」は、人間とは何か、弱さをもつ人間の尊厳とは何かを問う論文であった。ニュッサのグレゴリウスの主張を背景に、社会の周辺に追いやられた人々共に生きる、病を抱え、飢えを抱え、貧しさを抱えた人とどのように教会が生きるのか、いや、キリスト者が生きるのか、を問うた論文であり、神を愛し、隣人を愛することをどういう実践として実体化していくのか、ということを問うている。
             そして、自分自身の歴史とその記憶に生きるということをどのように考えるか、ということに関してあるハンセン病とかかわった青年と自分自身の記憶の経験を合わせながら、記憶の持つ意味などについて触れておられる。そして、それが人間の本源的な部分にかかわること、そして他社とは何であるのか、隣人とは何であるのか、を問うておられる。その意味で、先日のNHKこころの時代で拝聴した筑豊の伝道者犬養氏のご発言と重なるところが多く、大変興味深かった。

            衛生概念が支配した近代日本社会における
            周辺者と周辺者として生きる

             「サワリ −「在日」と「精神障碍者等」の奏でる音」
            という金永泰論文では、近代日本社会の中で辺境におかれ続けてきた在日韓国人としての立場を踏まえて、精神障碍者等と日常的に過ごされる中で、人間扱いされてこなかった人々も神がつくり給いし人間であり、そもそも、これらの人々の叫びに向かい合いながら生きるということの重要性を示しておられる。その意味で、この論文はジャン・ヴァニエの「人間になる」「小さきものからの光」と非常に重なる部分があった。その意味で、キリスト者として、社会の周縁におかれた人々と向き合う気があるのか、ということを問われた論文でもあった。

            障害のあるいのちの問題をどう考えるのか
            人間が作り出す壁を廃棄したナザレのイエス

             「姿なき「いのち」へのまなざし」では、木田元の技術の正体を引用しつつ、技術自体が技術そのものを目的とする部分があり、
            技術者は、それ(技術がもたらすもの)を実現するとどうなるのかといったことようなことを気にもとめず、ひたすらその実現を図るだけなのだ。
            という部分をよんで、「あーそうだよね。」と技術者として思ってしまった。技術の体系の中からは絶対に何をしてよくて、何をしたらいかんのか、という倫理は出てこないのは、事実なのだ。

             そして、STAP細胞は、小保方ちゃんが取り下げるって言っちゃったんで、結局ややこしい問題を生まなくて済んだのであるが、STAP細胞問題にもつながる、生命工学(というよりは出生前診断)の問題をキリスト者としてどう考えるのか、衛生思想に支配された近代社会の中で働くまともな人間だけが価値があるとする生命の「選別思想」について触れておられる。そして、ご自身の経験に立ちながら、生命をどう考えるのか、障害を持つ子供の生命をどう考えるのか問題を取り上げておられる。これは極めて重要な問題だと思う。

             この論文の中で、しびれたのは、以下のp.42の下段キリスト者共同体制の見出し直後の文章である。
             イエスキリストは、その当時のユダヤ人共同体にあった壁をことごとく壊す革新的な教えを説いた。イエスは当時の共同体の壁の外に堕されていた貧しいもの、障がい者、女性など社会的に排除された人々と共に食卓を囲み、交わりを持った。それによってイエスは、神のかたちとして創造されたすべての人間が家族としてひとつの共同体であることを実践で示したといえよう。
            という部分を見ながら、NTライトと同じことを言っているなぁ、と思ってしもうた。パウロもイエスがユダヤ人と非ユダヤ人との壁を取り去り、神にあって一つとなるという共同体(Holy United CommunityとNTライトは呼んでいる)の重要性を宣べておられた。

             まぁ、連載でもいいものも多いのだが、今月号の紹介は特集があまり良すぎて、ほかの連載物が飛んでしまった感じだったなぁ。皆様、是非お買い上げのご検討を。

             来月号も期待してます。新教さん。




            評価:
            ジャン・バニエ
            あめんどう
            ¥ 1,296
            (2010-08-20)
            コメント:おすすめの1冊。ジャン・ヴァニエの思想と実践の結晶のような本。

            2014.06.10 Tuesday

            世界観、Worldview ウェルタンなんちゃら ピューリタン『的』 そして 聖書『的』

            0
               今日は緊急公開。今日もやけに長いですし、わかりにくいかも。しょうがない、哲学系統の話だから。明日の公開はお休みします。

               何の気なしに(いや、意図的に)水谷先生のピューリタンがどうたらこうたらって、なんかアメリカ人の言う20世紀(1970年代前半のヒッピー文化が生まれるまで)に幅を利かせたアメリカの中産階級キリスト教のキリスト者グループが保持してきた生活倫理とか、ものの見方だよね。だけど、キリスト教って言いながらも、その背景には、ギリシア哲学があって、ピューリタン的と言いつつも、実はストア派に乗っ取られ、聖書理解のカバーで覆われたストア哲学じゃないのって言いたかったことを受けて、もうちょっと、イングランドでの福音派の動き(これはあまり詳しくない)部分について、のらくらもの先生がご教示くださった。その中に最近はやりの『世界観』が出たので、「あれれ」と思ってしもうたのでちょっこし書いておこうかと。

              福音派で当たり前に使われていた『世界観』

               のらくらもの先生は次のようにブログ記事「千年王国後再臨説と世界観」でお書きであった。
               福音派が当たり前のように使う「世界観」

              え?福音派が当たり前のように使っている業界用語だとは知らなんだ。一つ賢くなった。

              福音派の世界観に影響与えた終末論という世界観
               あー、アメリカ経由の福音派がジョン・ネルソン・ダービーが拡散しちゃった終末論であるディスペンセイション主義に影響された原因の一つは、ナイアガラカンファレンスだって、ちゃんと青木先生の「アメリカに福音派の歴史」って本に書いてあるのだなぁ。ま、福音派の多くがディスペンセイション主義に影響されたその背景には、アメリカのオックスフォード大学出版会(イギリス本体ではない)から出たスコフィールド聖書や、ムーデー先生や、東洋のムーデー先生が居られたのは、まず間違いないけど。

              ミーちゃんはーちゃん、学問として世界観に出会う
               しかし、ミーちゃんはーちゃんが「世界観」ちゅう言葉を最初に聞いたのは、岩崎駿介というかなり変わった建築家の先生の都市デザイン論と言う授業であった。ミーちゃんはーちゃんは第2外国語がフランス語だったので、ウェルタンなんちゃら、って覚えてしまってドイツ語では発音できない。ゲマインなんちゃら、とかもあったよなぁ、と、ふと感慨にふける。

               図面描かせると、高速道路で自動車が空を飛んでるようにしか見えないようなデザインしか書けないほどデザイン力が最低で、住宅設計したらアイディア倒れするような破綻したデザインしかできないくせに、デザインを見るのが好きな、始末に負えないミーちゃんはーちゃん。ミーちゃんはーちゃんにデザインの才能がないことを見抜いた先生のお一人がこの岩崎先生でもあった。今では、はっきりそのことを言ってくださって、ありがたく思っている。


               確かその都市デザイン論を受講したのは、1984年だと記憶していて(何で覚えているかというと、今から見ると実に微妙なコスモ星丸で有名になった「つくば科学博覧会」が、イモ畑の上に登場する前年であり、一種わけのわからん熱気に包まれていた年でもあったからである。


              懐かしいコスモ星丸。

              世界観と都市研究、システム理論

               この授業の中で、都市や環境をどう見るのか、世界におけるデザインとは何か、ということを考えるための様々の視点があって、という説明の中で、このウェルタンなんちゃらがどうたらこうたら、何がどう見えるか、どう理解されるかってことが重要だ、という話だ、と説明受けていて、なんか認識論とか、そのあたりの話なのねぇ、という話で済んでいたとおもっていたら、今度は、大学院の1年坊主の時に、別の先生ご紹介の欧米の文献読んでいるときに、Mandara Worldviewとかで、都市内の様々の主体のかかわりがどうたらこうたらとかいう当時未公刊の論文を読まされて、「へぇ〜こんな世界もあるんか」と思っていた。



               それで、ジュリアナ東京でおねー様方が乱舞していて、男女7人夏物語に明石家さんまが出ているころに職場に就職したら、就職したで、システム論の読書会に誘われて、一般システム理論の本を読んでいたらまたぞろこのWorldviewという言葉に振り回されていた。そして、気が付いたらIan Mitroff というシステム理論の研究者の本を学生に読ませて、今度は学生を振り回しながら、現在に至っている。

              世界観がもたらした、いやらしさ
               要は、この世界観(Worldviewやウェルタンなんちゃら)は、ものの見え方で、同じものを見ても同じに見えてない(はずだ)から、自分がある対象が見えている、その見えている姿を認識できたと思っても、それ、違って見えている人が必ずいる可能性があるからね、ということで、間主観的認識がどうたらこうたら、間主観的議論がうんたらかんたら、というややこしい認識論や認識に関する哲学的議論につながっていく話なのである。その結果、心理学なんかにも影響する。その意味で、世界観とは、現代の学問体系が抱えてしまったちょっと何か議論する際にはスルーしにくい一種のややこしさをもった問題の一つでもあるのである。Kuhnのパラダイムシフトとかもそうだけど。

              世界観というメガネ
               もうちょっと平たく言うと、世界観とは物事を見るときに自然と、あるいは無意識的にかかってしまう『メガネ』あるいは、認識における『バイアス(偏向)』なのだと思うのである。これは存在するよって、バラしちゃったのが、認識に関する哲学的考察における世界観問題であり、世界観を言い出した認識論なのだと思う。この辺は技術屋の素人検討なので、正確さはない。

               そもそも、不偏不党の新聞や公正中立な新聞やマスコミなんてものは存在しないということでもあると思うのだなぁ(なので、テレビ局が公共の公器といか、公正中立な報道とかいうたびにまた無理ゲーなことをおっしゃってと思う)。
               国営放送なら公正中立だろうというのは個人的、あるいは集団的幻想にすぎない、ということをばらしちゃったのが「世界観」という危険思想なんじゃないか、と。「世界観」という言葉を用いる、ということは、「私たちは(あるいは私は)偏っています」と宣言することに等しいように思うのだけど、違うかな。

              バイアスはありまっす。(キリッ)
               少しでも科学か科学哲学をかじった人なら習うはずなのだが、バイアスのない観測結果なぞあろうはずがない。どっかこっかでみなバイアスがかかっているのだ。観測機器のバイアス、観測者のバイアスを含めて。
               その意味で、リアルに近眼鏡かけている、遠視用メガネをかけている、老眼鏡かけているにかかわりなく、みんな眼鏡をかけているんじゃないか、って言ったのが「世界観」ってことだと思う。ごくごくわかりやすく言えば。その世界観をドイツの哲学者が言い出したことにあるのだと思う。
               神学だけでなく、18世紀末から20世紀前半までのドイツは、後進国(フランスなどに比較して、の話ではあるが)でもあったために、必死こいて学問したので、哲学なんかもその時代に異様に発達した。こういう勢いのあるドイツをみて、19世紀中葉の後進国であった日本はドイツをお手本するのがよかろう、ということで、デカンショ節(デカルト〔フランス〕、カント〔ドイツ〕、ショーペンハウアー〔ドイツ〕という説もあるがどうなんだろう)にあるようにみんな洋学を勉強したのだ。
               なお、ドイツはフランスに対する戦争機械みたいなところがあったので、旧帝國陸軍はフランスからドイツに兵制のモデルを明治の割と早い段階で切り替えている。日本の大学系の神学も基本ドイツ系が多いのは、後進国であったドイツモデルを学問として輸入したから、というあたりがあるのかもしれないとは思うけど。

              聖書理解でもバイアスはあります。(キリッ)
              (小保方女子風で)
               余談に行ったが、世界観という意味では、聖書理解でもそうだと思う。ミーちゃんはーちゃんは、聖書逐語霊感説で育ち、聖書無謬論で育ったので(のらくらもの先生からは、いまだにそんな人たちがいるとは・・・と驚かせてしまうほどのガチガチのところ)、聖書『』ってことが「錦の御旗」、「葵の御紋」、「御真影」見たいな使われ方をするところで育ったのである。「聖書『」って言葉が出たら、「ははぁ、恐れ入りましてございます」って一応、最敬礼をすることが求められそうな雰囲気のところで育てていただいた。

               それはそれでありがたかった部分もあるとは思っている。うちは、プレミレをいまだに強く主張する人たちの多い絶滅危惧種の方多いですけど。それが何か?w

               ただ、私がお世話になった方は、戦時中大日本帝国憲法下での治安維持法事案に引っかかって、歯科医師免許を取り上げられたあげく、非国民扱いのみならず、広島にあった収容施設に韓国人独立運動関係者(当時韓国と台湾は大日本帝国の一部であった)と一緒に収容され、原爆にあって、山口の施設に移動中にポツダム宣言受託した関係で開放された信徒さんだったもので、その方は完全に、艱難後再臨説でした。

               で、ミーちゃんはーちゃんは何?そんなもん、「聖書に詳しくわかりやすく書いてないんやから、わからんのちゃいますか説」にたっとります。はい。
               議論するだけ無意味、という意味で、プレミレ、ポストミレ、本当にどーでもよくなっていたりします。「わからんもんはわからん。」どうせ、想像の私小説の範囲。というわけで「ハルマゲ丼、マルハゲ丼、丼、 丼、ど〜〜〜〜んちゅど〜〜〜ん」って遊んじゃう不敬虔ものですしぃ。

              アイスクリームで理解する「○○『的』」
               しかし、「聖書『』」ってことが行き過ぎると、聖書『』が『』って分をわきまえずYHWHさまに仕立て上げる方々が居られるのがかなわない。これは、行き過ぎた場合(という前提ではあるが)、ある種の偶像崇拝ではないかと思う。「『文字は殺し、霊は生かす』というパウロのお書きの意味をどうお考えなのかしらん」とはちょっこし思うのだ。『○○』ってのは、『○○のようなもの』ってことで、『○○』そのものではないとおもうのだ。
               いわば、『○○』を乳脂肪分9%くらいあるアイスクリームだとすると、『○○』ってのは、乳脂肪分4%のアイスクリーム風の「アイスミルク」から、もう乳脂肪分0%に近い「ラクトアイス」や「氷菓」まで含まれるみたいに、もう、『○○』ってのは『○○風』と同じで、自称に過ぎず、結局パチモンってことを自ら吐露しているんじゃないですかねぇ、って思ってたりしています。

               「映画『ノア』、聖書的でない」っておっしゃっている向きもあるようですが、別にいいんじゃないでしょうかねぇ。聖書を忠実に再現するために、映画を製作されておられるわけじゃないでしょうし。エンターテイメントとしておつくりなわけで。それなら、それで、よろしいのではないかと。

               「(映画化された)『ノア』は誤解を生むから・・・・」っておっしゃるかもしれないけど、それなら、批判するだけじゃなくて、もう、全世界のキリスト教界をあげてですね、お金集めて、出演者集めて、監督集めて、CGのスタッフ集めて、あれ以上のものをおつくりになられたらよろしいんじゃないですかぁ?まぁ、教派間で理解が違うから、その調整をするなかで、参加者全員聖書理解を深めるって面でも、案外それって面白いかもしれない。

               そりゃさぁ、シェークスピアの「夏の世の夢」とか映画とか劇場でやるけど、英文学者、いちいち目くじら立てて、「あそこの英語の発音がシェークスピア時代の英語と違うからうんたらかんたら」とか「日本語でやるのはうんたらかんたら」ってやらずに楽しむでしょ。それと同じように、「あーこの人たち、こう解釈したんだねぇ」って素朴に楽しめばいいのにねぇ。

               ところで、聖書的にこだわってやったら、何語でノアしゃべるんだろうなぁ。それ考えるだけでも楽しいし。いや、ヘブライ語かな、古アッカド語かな。これでやると、ユダヤ人の皆さんから、ディスられそうだなぁ。ヘブライ語の発音、変って。ww

               まぁ、キリスト教会と映画ということで言えば、カリフォルニアのバプテスト派のキリスト教会が資金援助を受けて、エド・ウッドがカルト映画Plan 9 from Outer Spaceという作品つくっているのもあり、あんまりキリスト教会と映画ってねぇ。変な映画だから、よゐ子のキリスト者はみない方がよいかもね。一応下に、その作品予告はっといたけど。





              そして、ピューリタン『的』

               その意味でも、「ピューリタン『的』」ってのは、ピューリタンでもなんでもなくて、「へたれピューリタン」、「変容したピューリタン」なんじゃないですかねぇ、と思っております。その意味で、「ほんまもんのピューリタン」じゃなくて、「パチもん(関西方言で「いい加減な」、とか、「偽の」という意味がある)ピューリタン」なんじゃないかと。
               なに、根性入ったピューリタンにあらずして、「ヘタレピューリタン」だから、といって心配する必要はござらん。安心召されよ。神は、殺人を犯したカインに対しても、愛をもって見守られ、保護されるようにされたお方でござる。我らも、似たようなもの。ふがいない我らに関しても、それでも神カインも我らも愛される方なれば。

               皆がピューリタンになることを召されているわけではないし、ピューリタンもイングランドという政治的、文化的、宗教的特殊事情の中で生まれた神学的思惟を発展させ、自らそれを自身のものにしたキリスト教界の一部でござるようにおもうのだな。この辺、ごまんあるとキリスト教と聖書理解の世界を知らず、自ら出会ったもののみをキリスト教と考える習慣、ぼちぼちやめていただけると嬉しいかな。

               そして、世界観、世界観っていうのなら、「聖書的だ」とか、「聖書的でない」とか、いちいちちっちゃなことに正義感をもってご自身のお考えの正義とか、ご自身の聖書理解を振り回すのは、もういい加減におやめになられたらよいのではないか、と差し出がましく思っている。

               「じゃ?ミーちゃんはーちゃんは聖書的って言わないの?」って?

               ミーちゃんはーちゃんは、

               「私が聖書を今まで読んで考えた限りには、こう思います。間違ってるかもしれないけど。」

              ってお話しします。基本。

               「これは私の理解なんで。ほかの理解もあっていいと思いますよ。でもどちらが正しいとかって議論って、神の絶対的な公義の前にドングリの背比べじゃございませんこと」

              ってお話しすることにしております。はい。

               「それって逃げてる」って。はいそうですよ。逃げてます。私はYHWH様ではございませんからね。
               




              評価:
              青木 保憲
              明石書店
              ¥ 5,184
              (2012-06-14)
              コメント:アメリカでの福音派の歴史だけをかなり詳細に追った日本語で読める唯一の本だと思う。英語だといっぱいあるけどね。古い部分の記述が弱いと最近の記述がないのが残念。

              評価:
              Ian I. Mitroff
              Berrett-Koehler Pub
              ¥ 10,679
              (1998-01-15)
              コメント:うちに一冊あるけど、こんな金額するんだ。へぇ。

              評価:
              シェイクスピア
              新潮社
              ¥ 529
              (1971-08-03)
              コメント:古典

              2014.06.12 Thursday

              枠を出ることの重要性を示す名著 預言者の想像力 

              0
                 本日の投稿は短め、読みやすいはず、と思う。内容的にはかなりヘビーだけど。

                 本日ご紹介する書籍は 「預言者の創造力」日本キリスト教団出版局 W.ブルッゲマン著 鎌野直人訳 2014年3月)である。

                預言者とは、憐みのこころをもって枠を超えた人

                 基本、この本の主張は、預言者とは、預言者が置かれた当時の社会の問題、特に支配的な諸力(政治体制や宗教体制、聖書理解などの誤解を含む)に対して、著者のことばを使うと、対抗的に(ミーちゃんはーちゃんの用語を使うと、現状の枠を超えたところから眺めてみて、従来の枠組みの中では考えることができない視点から現状を見て、現状を打開する方向性を示すように)思索し、そして現状に対して、対岸にあるか如きものとして、自分とは関係ないこととして単に批判するのではなく、痛みをもって、シンパシーをもって、あるいは、スプラングニッゾマイをもって発言することの大切さを言っているように思う。

                支配的な諸力に「別の生き方があるんじゃない」
                と言っちゃうのが預言者

                 つまり、現状の支配的な諸力(この本の中では主に旧約聖書とイエス自体を扱うので、王制と呼ばれる)に関して、その支配的な諸力が支配的であるがゆえに発生してしまう諸問題を批判するために起こされたのが、預言者であり、「今、この生き方が主流(支配的)だけど、ほかにも生き方があるんじゃないすかねぇ」って無意識に言っちゃう、いえちゃうのが預言者的な存在でもあるのではないか、という問題意識の提起がなされているように思うんですね。

                現状維持を求める王族意識を強化するか
                神が何を求めておられるのかを求めるのか

                 この本を読みながら、王族意識は王族意識を強化し、仮に問題があっても、それを見ない振りし、現実をあまりに重視し、そして自分たちの権力基盤となっている現状の維持を強化する方向にしか働かず、本来のものから次第に遠ざかることを生んでいるのではないか、それを批判することが預言者の役割だろう、とご指摘である。そして、それこそ、神と共に生きる民であれば、現実に振り回されず、神がどのように思っておられるのか、ということに思いをはせ、そして、主の祈りに見られるように神の見思いを求めるべきなのでは中、そのためにメタ思考(現状の思考の枠組みをその枠組みの外から見るような思考法)で眺め、発言すべきなのではないか、ということが、手短にまとめてしまうと本書の主張である。
                 なお、現実に振り回され、王権を強化する方向にのみ動いたのが、復活を否定し、神殿に立てこもったのがサドカイ派であり、イエスが最後まで理解できなかったのではないか、ということも思わされた。

                キリスト教界にはびこる?王族意識

                 この本を読みながら、いま日本のキリスト者の一部に自分たちが神の救いにあずかっているという選民意識(この本で言う王族意識)を持ったり、現状の社会の支配的な概念である豊かさを求めるかのような繁栄の神学に走ったりすることが、本来の神の民がするべきことか、ということを思わされた。
                 そればかりではなく、このことは神学的な枠組みについてもいえるのではないか、と思った。自分たちが受けた神学的な枠組み、それが千年王国主義であれ、ピューリタニズムであれ、ディスペンセイション主義であれ、リベラリズムであれ、何であってもよいのだが、その中にもぐりこみ、それを強化し、防御壁を強固にすることしか考えないような神学的思惟というのか、聖書理解のありようとはいかがなものか、というようなご指摘に聞こえて仕方がなかった。

                預言者はつらいよ

                 もちろん、すべての人が預言者である訳ではない。預言者的役割を持つわけでもない。また、持てるわけでもない。しかし、偉大な学者や芸術家と呼ばれる人は、皆、このような預言者的性格を持っていたのだと思う。神学の分野で言えば、ルターやカルヴァン、もっと近代になれば、ボンフェファーやバルト、ジョン・ヨーダーなどが明らかにこういう思考法持っていた(と思う)。音楽の分野ではモーツアルトやショパン、絵画の分野では、ボッティチェリやツィツィアーノ、ゴヤ、ゴッホ、スーラ―、ブレイク、ピカソ、岡本太郎など、建築で言えば、フランク・ロイド・ライトやル・コルビジェである。それはほかの学問の世界でも同じである。一握りの天才と呼ばれる人のみが、従来の枠を超え、新しいものを生み出していくのだ。それらは、以前にあったもの再発見であるかもしれず、真に新しいものといえないかもしれないけれども。しかし、従来の枠を破ったところに意味があるのだ。

                枠は最初は必要、でもどっぷりつかる人と
                それを抜け出す人の違い

                 ただ、この枠を超えるためには、いったん枠にどっぷりとはまることが必要なのである。そのうえで、枠を超える決断をする一部の勇気あるもの(乱暴者)と枠を超える決断ができない大多数の秀才または普通の人に分かれるのだろうと思う。ただ、勇気あるものの前に称賛が用意されているかといわれると、称賛は用意されておらず、単に不幸が待っているだけ、というのもまた、預言者の一つの側面なのである。ミーちゃんはーちゃんはどっち?って聞かれたら、多分、大多数の普通の人の側だと思う。乱暴者になりたいけれどもなれない自分がいることは知っている。

                日本でこそこの本は売れてほしい

                 ということで、非常に優れた本であると思うが、これが理解できるのは、預言者的な人だけかもしれないと思うと、日本では、この本は売れないだろうなぁ、と思うのだけど、地上の王権に巻き込まれ、長い物には巻かれろという、精神性の強い日本であるからこそ、この本の読者が増えてほしいと思うが、無理かなぁ。

                 


                2014.06.14 Saturday

                上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

                0

                   先日上智大学大阪キャンパスで開催された公開講座、佐久間勤さんの「カインはなぜアベルを殺すのか」の参加記を残しておこう。非常によい講演会であった。 

                  現代社会と暴力
                   現代社会の様々な面においても、理性で話しあうよりは、世界のあちこちで力で自分の主張を通そうとすることがよくみられる。「力には力を」という悪循環が生まれているのではないだろうか。 そのうえで、旧約聖書の物語は、人間を考えるうえで役に立つのではないだろうか。一般的な理解として、旧約聖書の神は暴力やねたみの神であるといわれるが、必ずしも、旧約聖書は暴力の神を描いているわけでもないし、赦しを言ってないわけではないことは案外触れられていないように思う。
                   イエスは、旧約聖書のうえで語っており、それを理解するともっと深いことがわかるのではないか。

                  ミーちゃんはーちゃん的感想
                   NTライトは、完全にこの線で書いているように思う。そして、このご指摘は大事なことだと思う。


                  カインという人物とその子孫

                  創世記4章を読み、暴力の解決の可能性を旧約から考えてみたい。

                  Cain&AbelTiziano
                  ツィツィアーノ作、カインとアベル

                   スライドで上記のツィツィアーノの絵画をお示しになり、カインの顔が影に覆われよく見えないが、アベルの視線をみると、画面右端の天に昇っていく煙を見ているアベルなのではないか。これに対し、煙が斜めに上がっていきカインの捧げものは受け入れられていないことを示しているようだ。そして、アベル自体を殴り殺し、蹴り落とそうとするカインがいる。

                   佐久間先生によると、カインの罪の本質は、「私は弟の番人でしょうか。」という表現にあるらしい。自らの発言で、自分の罪をばらしてしまっている。
                   この殺害事件の結果、カインは、さすらうものとなり、カインの子孫は、街をつくり、家畜を飼うものの先祖になり、芸術家と技術屋の先祖となったのがカインであることを考えると、文明の先祖はカインであるといえるだろう。

                   神から追放される時に人は恐れを感じたのではないか。旧約聖書は、リアリズムはあまり考えていないように思われる。カインは、「人を殺したものは、自分もその目にあう」という暴力の連鎖とそして神からの守りがないことを恐れたのではないだろうか。
                   カインを傷つけるものは7倍が言われているが、カインの子孫レメクは、77倍に拡大している。

                  旧約聖書創世記(口語訳聖書)
                  4:23 レメクはその妻たちに言った、
                   「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
                    レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、
                    受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
                  4:24 カインのための復讐が七倍ならば、
                    レメクのための復讐は七十七倍」

                  この表現に見られるように、暴力が次第に大きくなっている。時代を経て、文明は栄えるものの、暴力を抑えることができない状況がある。カイン自体は、自分の家をもたない根なし草であり、自分の本来の場所をもたない人々となっている。

                  アベルとその後継としてのセト

                   アベルの子孫は、子孫としての記述はないが、セト(シャト)が後を継いでいるようだ。セトの子がエノシュであるが、ヘブライ語でエノシュは、「人」という意味である。彼ははじめて祈っている人物であるが、その意味で、神との結びつきを求めようとするという意味で、本来の神と人間との間の関係をもったという言う意味で人間らしい人物であったのであろう。
                   もちろん、アダァムも人間 (追放されていない) 本来、その段階では、神と人とは結びついており、人間らしい存在として、創世記では描かれている。

                  アベル殺害事件とその結果
                  創世記4章を見れば、
                  1-16 カインの弟殺しとその結果が描かれている。
                    アダムから7代、レメクまでが描かれており、都市居住の始まりが記載されている。
                  17-25 カインの子孫
                  26 アベルの子孫 アダムから数えて3代目のエノシュが記載されている。

                   おそらくは人数的にも、小さなグループだったのだろう。経済力と言った力はエノシュに関しては、でてこない。少数者のグループだったのだろう。

                   現在の世界では、あまりに暴力が当たり前すぎて、考えていないが、人間が暴力を使うその原因を考えたい。
                   兄と弟で違いがあるとしがちだが、実は、年長、年少と言った縦方向の関係性をあまり意識していない聖書があるのではないだろうか。

                  カインとアベルの名と系図表現
                    
                   カインの名は、神によって得た(カーニーティー)にちなんでつけられたと系図のフォーマットに従って描かれているものの、アベルの名には説明がない。アベル=ヘベル(空しい)と同じヘブライ語の語根をもつ言葉である。兄、弟は、生まれた時から、差がついているようである。

                   聖書では名前は重要な情報源であり、その人の人物紹介友なっている。カインに関しては、名前の説明がついていて、系図としての定型句がついている。正式の系図の形式に則って記載されている。
                   ところで、名前には説明がある。重要な人物は説明がきちんとなされている。「○○は○○を生んだ。」12部族の基礎になったのが名前の説明がついているように、重要人物にはその名の由来の説明があるのが旧約聖書のせかいである。

                   カインについては、この子は神からの贈り物である。主によって得たカインということが物語られている。反面、アベルについては、説明もないし、系図としての定型表現もなしである。まるで、おまけみたいな子供だったかもしれない。アベル=ハベル(←ハベル 「空しい」と日本語聖書中のコヘレトで描かれていることを参照)であり、ある面、カインの蔭に隠れたアベルだっただろう。

                  名前の必要性

                   生まれた時から差がある。違うからこそ、個性がある。違うからこそ、名前がある。同じだったら、名前入らないですよね(言われて初めて気付いた。遅い)。違いがあることは、即、優劣に結びつきやすい。
                   しかし、この創世記4章には巧妙なトリックがあり、カインとアベル間で差があるけれども、差を意図的に感じないような表現(同じだということへの強調)を名前を交互に記載する文章表現で示している。
                   一見すると、カインもアベルも平等に扱われるような印象があるのだが、アベルの捧げものは受け入れられ、カインの捧げものは受け入れられない。意図的に神に怒るように仕向けているかのようにも思えなくもない。

                  カイン事件をどう解釈するか
                   様々な解釈の可能性があるだろう。もちろん、カインは悪人だからという解釈もあろうが、これは多分解釈としては、NGだろう。犯した罪に反応し過ぎている。
                   神は遊牧民を偏愛した、という解釈もありうる。とりわけ、古代社会は農民、土地持ちが重要であり、遊牧民は弱い民(預言者も言っている)であり、そこへの神の愛があったというのも、解釈としては弱い。農民かどうかはあまり重要なポイントではないのではないか。
                   弟を偏愛する神だからという説もあり、ダビデは末っ子であり、親からも忘れられたに近い存在であるだろう。これは多少関係するかもしれない。
                   物語から示唆されることとしては、供え物の問題と理解すべきではないか。労働の成果の封建方法と関係しているだろう、収穫の祭りの際の供え物 (申命記12:5-6)では、初穂と指定されている。おそらく、一番いいもの、初穂をささげることを求められているにもかかわらずカインはよく選ばなかったのではないか。捧げものに下院には詳細な記述がない。
                   アベルは律法の規定に従って捧げものをしている。古代人にとって、生命の最初のもの、最初のものは充実しているという古代人の思想があり、それをささげている。カインは、初穂をささげるべきであった。アベルは小さいもの、弱弱しい者でありながら、神の規定を守っている。

                  カインはなぜ、怒ったか
                   神は警告を与えておられる。しかし、怒りにまかせて弟殺しをしているのだが、その背景を考えておきたい。

                  カインの役割
                   アダムの長子として生まれる。そして、アダムと同じく土地を耕すものとなった。
                    人は土から生まれ、土を耕し、土地(地球)守るためにおかれたアダムであった。その意味で、カインは、アダムの跡継ぎ息子であり、家の長となるはずの人間 であった。一族を代表して神とかかわる王、祭司(これが油注がれたもの、メシア(へブライ語)キリスト(ギリシア語)へとつながっていく)としての特権を もったものであった。当時の世界にあっては、家という共同体が神との関係を示すものであった。おそらく当時は、村単位の人口サイズが、70-80人で、家 の人口サイズは60-100人であったであろう。村と家はほぼ同じと考えてよいのではないか。

                  神様からの祭司失格宣言
                   神への捧げものが受け入れられないことは、神から祭司失格、家長失格と言われたと等しいのだろう。そして、アベルに祭司(家長)の権利が移ったことを意味する(まるで、エソウとヤコブの話見たいとミーちゃんはーちゃんは思ったのだった)。

                   カインの怒りは、本来自分のものであるはずのもの、長子の役割を資格のない弟が持っていることにあったのではないか、当時の方法論としては、奪われたと感じたなら、奪い返すのが「正義」であった。そして、それが怒りへとつながっていったのだろう。
                   ところで、殺人=完全な支配、奴隷化の方法ではないだろうか。

                  祭司失格の背景
                   ところで、カインはカインからアベルに祭司の役割が移った背景を考えていないように見える。自分が正しいから、と思っていたのではないか。この正義観から人を殺したりする攻撃性が生まれ、人は攻撃的になっていくのではないか。正義を求めて、結果暴力に訴えるという
                  歪 んだ正義観になっていくのだろう。自分と自分の主張にとって都合のよい正義感が問題だ、ということを示すのではないか。これがアベルとカイン物語の中核で はないだろうか。その意味で、人間は、割と自らを反省せずに他人を悪にしやすい。その意味で、正義を振りかざさないと悪が行えないという性質をもっている と思う。


                  次回へと続く。


                  評価:
                  N. T. Wright
                  HarperOne
                  ¥ 2,208
                  (2008-02-05)
                  コメント:おもしろい。英文も多少読みにくいかもしれないが、こなせなくはないレベルだった。

                  2014.06.17 Tuesday

                  福音主義神学会東部部会 2014春季研究会に参加してきた。

                  0
                     福音主義神学会東部部会2014年春季研究会に参加してきたので、その傘下報告をばまとめておこうかと。参加できなかった皆様のため、途中から参加された方のための多少の参考程度にしかならんと思うけど一応アップ。下記のメモは、大分眠くなりながら、ノートを取ったので、大分くるっているかもしれません。誤謬の責任は、ミーちゃんはーちゃんの責任です。
                     
                    大坂先生 開会あいさつ
                     すぐ書房から出版されたダンの本のご紹介をされながら、いま、聖書学に立脚した聖書理解の重要性があるのではないかと問題提起をされた後、東京キリスト教大学の伊藤先生とインマヌエルの岩上先生のご紹介があり、伊藤先生からは、パウロ研究をめぐる視点を提示されるご予定であり、そのうえで、聖書を読むとしたら釈義がどうなるか問題を岩上先生がお話しされるとのご紹介があった。

                     その後、やおらタブレットと団扇をもって登壇する伊藤先生でした。内輪というのが、伊藤先生的でかわゆい(失敬)。

                    はじめに

                     普段は、大体、10人ぐらいで新約聖書とユダヤ教文献を見ながら話しているので、そうするのが好きなんですが、本日は、前座ということで、特にサプライズはないと思います。皆さんが十分知っていることをお話します。

                    食傷気味のローマ書注解

                     ダンの本が出た時、「ローマ書の注解書、またか?」という形でのダンの本の反応があった。もうローマ書注解は十分じゃないか、そこで、ダンは、新たな視点としたパウロ研究に立ったローマ注解書であるとして、注解書を出した時、一種のアドバルーンを上げた感じであった。

                    ダンの出版時における革新性

                     E.P.サンダースは契約規範主義に立っているが、このユダヤ教理解に沿ったローマ書解釈をダンは述べようとした。他のことでもそうだけれども、何かを解釈して理解しようとする時、その解釈対象がどういう文化的側面をもっているのか、着目して解釈することが重要です。
                     マンソン記念講演でダンは講演しているが、公園日付は1982年11月04日が正しい日付なので、配布テキストの修正をお願いします。
                     World Biblical Commentary(以下WBC)から1988年に出版しているが、2刊本である。WBCは本来一つの書1館で出す予定であったものを、意図的に無視して出したようだ。ダメなら、別の出版社に持ってくぞ、ということでわがままを通したらしい。
                     電子メディアや電書の普及で、注解書が際限なく厚くなる傾向にあるので困っている。ロマ書の注解を全部そろえるという野望をもったが、まともなもので、年に2冊出ている。それに加え、説教集、瞑想録のようなものを含めると10冊以上出ているので、もはや収集は費用面でも、スペース面でも無理であることはすぐに分かった。

                     注解書としては、大成功とは言い難いダンの注解書であった。バウンダリーマーカーとしての律法の存在を示している。つまり、ユダヤ人と非ユダヤ人と間のバウンダリーマーカーという、側面を強調した。律法の規定を割礼、安息日、食物規定に制限は明らかにいいすぎだろうし、無理があった。

                    ダンとその先駆者たち
                     ダンは、必ずしも斬新ではなかった。1982年に講演、出版が1988年なので、決していまから見ると新しくはないし、斬新とは言えないだろう。EPサンダースを受けての議論であるが、サンダースは、シュバイツァーなどの直系であり、ダンも、その中に位置づけられよう。その意味で、先例がないほどダンは斬新ではないのではないだろうか。ある意味、New Perspective on Paul(以下NPP)はオリゲネスに回帰したといえるのではないか。
                     オリゲネスは、パウロは仲立ちをする存在といっており、異邦人とユダヤ人を取り持っているような存在だと言っている。

                    EPサンダースについて
                     サンダースを中心に考えてみたい。サンダースのPaul and Palestinian Judaismという書籍は、1977年に出版され、タイプライターで原稿を作成し、それをもとに活字を組んでいた時代の書籍である。全600ページを超える書籍であり、この後、新約聖書学は様変わりしたといえるでしょう。何かを言おうとする時に無視できない1冊の一つでしょう。
                     このPaul and Palestinian Judaismの序章の中で、パウロとユダヤ教をめぐる新約学を総括しており、ユダヤ教とキリスト教を対立的にみるものの見方を批判している。
                     ラビと律法主義を同一視していることを批判している。ある時期、ラビ文献と新約聖書を併記するやり方で、イエスの研究がすすめられたことがあったが、この方法を批判している。つまり、恵みの福音と律法を対立的にとらえるやり方を批判を批判している。

                    Paul and Palestinian Judaismの基本構造
                     Paul and Palestinian Judaism(パレスティナのユダヤ教)で、全600ページのうちおおよそ2/3にあたる、400ページ分を紀元前200−紀元後200年の時期の記述に割いており、パウロとイエス時代の背景の研究成果を述べている。ただし、フィロンなどは除外されている。
                     その中でも、初期ラビ文献にページを200ページほどを割いており、初期ラビ文献を重視したのがサンダースである。なお、ラビ文献は年代伝承や、そのラビの真正性(存在性を含め)検証しなければならない問題が多数ある。律法のどういう解釈を言っているか、という観点からしか読めないのがラビ文献であり、これに対して、サンダースが主張したことは、律法の根底に隠れている概念が重要であるということであり、律法理解の背景には契約があるという点である。

                    律法規範主義に関する整理
                     サンダースの理解を項目だけで拾っていくと。
                     (1)イスラエル選び
                     (2)契約としての律法
                     (3)神が選びを保持する契約
                     (4)契約の順守の要求
                     (5)従順への報いと不従順への処罰
                     (6)購い(多分、神との関係回復)の手段の提示
                     (7)契約の保持と後進の保証
                     (8)従順と購いと神のあわれにによって保持されるすべてのものは救われる集団に属する

                     初期のラビたちは、違反したことは減点と考え、実施できたことには加点とするような考え方であった。律法には贖いとうものが、そもそも、違反行為に対して用意されており、サンダースは、律法を守ろうとする構成員が救われるとしている。如何に律法に従順であるかが問題であり、悔い改めと贖罪で基本OKであった。その意味で、パレスティナユダヤ社会にとっての救いの条件は、律法と、悔い改めと贖罪であった。その意味での、ノミズムであり、律法主義であったと指摘している。

                     契約規範主義であるが、Nomismであり、Nomosからきている。既存のラビ文書から説得できる理解が得られるのであれば、それを見ていこうという考え方であろう(この辺ミハ氏の記憶が飛んでいるのでアヤシイ)たとえば、死海文書等の利用などもあるだろう。その意味で、初代キリスト教、パウロはユダヤ教会の一分派という方が正確であろう。
                     選びという予定論、罪の性質、ベンシラの書、第1エノク、第4エズラなどを参照して考えるべきではないか。 
                     契約と律法について5項目に分けて結論している。第4エズラは例外的存在である。

                    契約規範主義のポイント
                     契約規範主義の7つのポイントとは、先にも述べたように、
                     1)神のイスラエルの選び
                     2)神はイスラエルに律法を付与
                     3)神が選びを保持する約束
                     4)律法付与の結果、律法順守
                     5)違反は処罰
                     6)違反しても戻る方法としての購いがあり、
                     7)違反した場合でも契約関係が守られる。

                    律法主義と契約規範主義
                     律法主義と契約規範主義は何が違うのかであるが、あまり違わないが、違いがある。律法主義 律法を守った部分は加点、違反には減点。契約によるえらびがあり、棄教とは、契約を意図的に一方的に無視する場合となる。

                    サンダースのPaul and Palestinian Judaismでの
                    パウロ理解
                     パウロの解釈の部分について、読む価値があるだろう。人間の罪という問題に先んじて、律法という解決があったである(つまり神の優先性?)。「まず、問題があって、解決が・・・」と見る向きが多いが、解決が先にあって、そして問題が生まれる、というのが旧約聖書の世界ではないか。二者択一的に考えたり、決めることではないかもしれない。
                     (この間、一部意味不明なノートとなっていたので省略)
                     サンダースの書籍では、パウロの救済論はいろいろな用語がつかわれてるが、その用語間の整合性と関連性と用語の起源を考えることを触れている。ドイツ語圏での神の義をめぐる議論等も触れられており、そのあと、結論14ページ分ある。

                     地上にあって完全な神学はありえない。それぞれの神学的思惟に一長一短がある。批判は容易だけど、それを構成するのは簡単ではない。

                     ところで、この本の用語索引で、究極的真理という箇所が3ページ指示があるが、そのページは白紙になっている。たまたまのミスか、サンダースの立場なのかはよく分からない。どうも、意図的ではないとは思われるけれども。

                     パウロ書簡13通を全部をパウロ書簡としていない。ローマ、コリント、テサロニケ、ピレモンなどの7つだけ新生パウロ書簡としている。

                     評価できる点を指摘しておきたい。1世紀のユダヤ教は契約規範主義だとすると、パウロとユダヤ教の一貫性は明らかであろう。具体的な釈義問題は岩上先生のご講演に御譲りしたい。

                    キリスト教とユダヤ教
                     キリスト教はユダヤ教から始まった。ユダヤ人としてイエスは出発しているし、弟子たちもユダヤ人、ユダヤ教徒であった。イエスは、律法学者と議論したが、論点は、モーセ律法の真意とその順守の仕方、ユダヤ教枠内での議論である。パウロはユダヤ教の会堂の中での話をしているし、ユダヤ教の枠組みで話をしている。

                    パウロとユダヤ教
                     使徒パウロとなった、という表現の適切性を考えることは重要であろう。ダマスコ途上でイエスと出会った後も彼はユダヤ教徒であり続けたし、パウロの自己理解としてはそうであったのではないか。ユダヤ教徒はパウロが裏切った、パウロはスパイに違いない、と思ったに違いない。
                     しかし、ダマスコ途上でのイエスとの直接の邂逅で、神がナザレのイエスをよみがえらせ、メシアであることを受け入れざるを得なかったパウロがいたのだろう。そして、ユダヤ教を完成させるものとしてのナザレのイエスを見ていたのではないだろうか。
                     パウロの福音と福音理解はユダヤ教との強い連続性があった。ある人たちにとってはショッキングな理解かもしれないが。その意味で、ユダヤ教一分派であったキリスト教があり、最初からキリスト教はユダヤ教から独立した宗教ではなかった。ユダヤ教における多様性が容認されていた中で存続していたキリスト教であったであろう。ノンユダヤ人が信じたユダヤ教の一分派である以上、そう考えるのが妥当だろう。

                    ヘレニストシナゴーグの中での
                    ユダヤ教からの分離
                     ガラテヤ諸教会をユダヤ教がかき回すなかにあって、キリスト教徒というか、キリスト教会がユダヤ教にとどまり続けられなくなった、と理解するのが妥当ではないか。ナザレのイエスがユダヤ人である以上、おそらく、パウロは、ユダヤ人がみんなイエスを信じるようになると思っていたのではないだろうか。
                     割礼そのものが神の民を特徴づけるものではない。神の民の定義が相対化されたのが、キリスト教であり、その面で、終わりの時代がやってきた、ということだろう。
                     ユダヤ教にも、ユダヤ教側の問題があった。ユダヤ教は、ユダヤ人であることと同義でもあった。その中で、異邦人宣教が進むとどうなるだろうか?
                     イスラエルでは、紀元66年反乱がはじまり、そして数年後年鎮圧される。そして、神殿の崩壊を迎える。その中で、パリサイ派の伝統を受け継いだ人たちが中心でラビの思想を形成し、亡国の民となったユダヤ人は、流浪の民となったが故に共通性への回帰が起こり、多様性を許容できなかった。多様性を受け入れる、その余地を失ったのだろう。その中でラビのユダヤ教となったのではないか。
                     異邦人がメインのユダヤ教徒やシナゴーグがキリスト教徒やキリスト教会になったと大枠で言えるだろう。その意味で、このように理解すると、ローマ3章などの義認の見直しが必要となってくるだろう。

                    律法か、キリストの真実か

                     この時に、ピスティス・クリストゥをどう理解するか、律法規範として理解するよりは、キリストの忠実のゆえに義認と理解するほうが、パウロの理解を明確化するのではないか。律法義認と信仰義認では対立することになる。その意味で、イエスキリストの忠実のゆえに義とされる、そのように読むほうが自然だろう。契約規範主義と信仰義認で見るほうがいいだろう。対立軸としては、「肉による選びと契約救い」か「信仰義認」と見るほうが自然ではないだろうか。
                     契約規範主義という表現でもよいが、新約聖書だけを読むのではなくユダヤ教の理解に目を通すことが必要だということをサンダースが言っているのではないだろうか。
                     ある研究者(***トセンだとおもう)は、ローマ帝国1世紀のサブカルであったキリスト教ということを指摘しているが、その様な目でもう一度キリスト教の初期段階を見直すことが重要ではないか。

                     ということで、今回のご講演のエッセンスを柔らかくまとめたものが、伊藤明生先生の夏期の本である。未だ入手されていない方は、ぜひとも入手をお奨めする。

                     9月に開かれるといういのフェスでは、この『新約聖書よもやま話』(この本、よもやま話じゃないすよ、先生、この本、タイトル悪すぎ。『信徒のためのNPP』とかって、カバー変えて出したらどうです。)、『福音の再発見』『わが故郷天にあらず』を信徒が読めるNPP関連超重要書籍として販売する予定。



                    評価:
                    スコット・マクナイト
                    キリスト新聞社
                    ¥ 2,160
                    (2013-06-25)
                    コメント:NPPとNPJ(New Perspective on Jesus)みたいな、1世紀キリスト教の背景の中で読むイエスの福音理解についての本。これも強くお勧めする。できたらいのフェスで買ってほしい。

                    評価:
                    ポール マーシャル
                    いのちのことば社
                    ---
                    (2004-12)
                    コメント:NPPのもとで、神とともに生きることを見直し、この世の生活にキリスト者としてどう取り組むのか、ということをわかりやすく触れた本。もう書店では在庫分以外ないハズ。いのフェスで販売します。

                    評価:
                    伊藤明生
                    いのちのことば社
                    ¥ 1,296
                    (2008-09-03)
                    コメント:普通の信徒に向けたNPP超入門、版元切れの模様。いのフェスでブース出して、売る予定。

                    2014.06.18 Wednesday

                    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

                    0
                       今回も前回(上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半)に引き続き、上智大学で行われた佐久間先生による公開講座の記録をシェアいたしたく。

                      オルタナティブを提起する旧約聖書
                       対抗(オルタナティブ)社会という考え方がある。それは、預言者的な問題意識の提示であり、現在幅を利かせている生き方とは別の生き方を示すことである。(出た、ブルッグマンの預言者の想像力、佐久間先生もお読みかな?)このような読み方は聖書には最初からあるのである。
                       旧約聖書は、被害者(アベル)側から見た世界を描く文学という側面がある。カインとその子孫は暴力に走るが、しかしカイン以外の別のもの(将にオルタナティブであるアベルの子孫)に希望があると言っているようだ。


                      暴力を土台としない社会へ

                       神が与える秩序としてそうせいきはえがかれている。その意味で、いのちへの道を本来示すのが創世記であろう。神の国、イエスの神の国は、まさにいのちへの道である。アベルの子孫がイエスの系図である。小さいものとして生きながら、暴力を乗り越える生き方こそ、イエスの主張であないだろうか。

                       ミーちゃんはーちゃん的感想
                        まるでジャン。ヴァニエかナウエンの話しか、と思ってしもうた。

                      Cain&AbelW.Blake
                      ウィリアム・ブレイクのカインとアベル 

                       上の図に示した、ブレイク作カインとアベルは、後ろに太陽が描かれているが、これは、目のイメージであり、神の現存、神が見ているということを、太陽が見ているということで示しているようだ。
                       いのちの領域からさすらうカインの姿が描かれているようだ。そして、逃げ出そうとするカインの姿勢は、アベルの墓穴に片方の足が入らんかのような状態である。いのちの世界から追放され、死の世界へ片足突っ込んでる。そのいみで、暴力は死へとつながる。

                      カインは何をすべきだったのか

                       神は「何ということをしたのだ」とカインに怒っておられる。「血が叫んでいる。」友おっしゃっておられる。カインのどこが悪かったのだろうか。
                       その答えは、カインの応答に隠されている。「弟の番人(見守る ヘブライ語でハシャマァル)でしょうか」と答えている。同じヘブライ語は、父親であるアダムがエデンの園を耕し守る(シャマァル)にも使われている。このマァシャルという語は、ふさわしい世話をする、と理解するのが適切だろう。
                        カインもこの守るという役割を弟の世話を含め、引き継いだはずなのに、それをしていないことを自ら吐露している。地を守るという権能を継ぐべき責任であることをカインは認めているものの、「弟の番人か」と神の前に開き直っている。ほんらいなら、「知りません」ですむはずのところを、逃げじゃなくて、「弟とは関係ない。父から受け継ぐのは、土地なのだ」と言わんばかりの発想である。カインの中に、アダムから利益の根源の土地だけを引き継いだ、という発想があったのではないか。
                       本来、家族の安全を守る、すべての人がうまく生きられるようにするのが家の頭の役割。それを、カインは責任放棄している。そしてそのことを自白している。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。自己の責任放棄を、それ自己弁護して自白してどうする状態ってどっかの教会でもあったように思うけど。ね、カルト化した教会とか・・・・

                       家長の役割は、本来すべきことは正しい供え物をし、家族を治めていくことであったであろう。生まれながらにして、差がついている。差があるけど、兄弟。上下の差。もつ者と持たないものの差。これは避けられないだろう。

                      リーダーとしての責任

                       その意味で先に生まれたものは有利なのである。上に立つものは、神との結びと兄弟の交わりに責任をもつ。差があるものだが、共に生きていけるように弱いものを守る。上のものは力をもち、自らを守るためにさらに力に頼る。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、イエスの時代に神殿をねぐらにして、自己の権威性の強化に走ったサドカイ派を思い出してしもうた。NTライトの読み過ぎかもしらんが・・・・

                       ここに出ている姿を見れば、人間が何をすべきかがわかるかも。暴力のアリ地獄の中に入っていくと結局滅びるのだ。違う生き方をすべきなのではないか。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、ジョン・H・ヨーダーのThe Politics of Jesusとかブルッグマンの「預言者の想像力」を思い出してしもうた。

                      旧約聖書が教えること
                       物語は現実を見せて、現実の本質をえぐることで、何を人間がなすべきかを問いかけているのではないか。このままの世界を放置したままでも、いいですか。何かしなければいけない、ということにまず気付くことが重要なのではないだろうか。

                      解決の可能性 ノア物語に見る回復
                       洪水物語でノアの契約が記載されているが、ノアの洪水物語は、悪の自滅と神の赦しを描いているのではないだろうか。「神が目を止められると地に暴虐と不法が満ち溢れていた。人間は生まれた時から心に悪を思い浮かべる。」と旧約聖書に記載されているように、人間が悪であり、ノアの子孫からリセットされようとしたという記述ではないか。

                       系図からいえば創世記5章はセト、エノシュ、ノアまで(10代目 完全数を示す象徴的な表現)オルタナティブの子孫の系図、その中で最も罪がないのがノアである。ある面、第2のアダムとしてのノアである。

                      神の怒りと悪
                       すべてのことは神から来るという想定があるのが旧約聖書の理解である。暴虐と不法をも用いる方としての神がある。神が単純に人類を滅ぼそうとしているわけではなくて、不法があるからさばきとしての災いが来る。
                       神の怒りと言いながら、自分自身が悪を呼び寄せているがゆえに、神が罰せざるを得ない残念な状況が生まれているのだろう。
                       このノアの物語の中には、神が後悔した、という記述があり、この記述からもわかる通り、神がやりなおそうとした物語である。そこに神のゆるしがはいっているとおもわれる。。
                       もう一度再出発。もう2度と洪水を起こして滅ぼさない。創世記8:21には、「人がこころに思うことは幼い時から悪いのだ。」とされている。洪水の前と後で同じことを繰り返しており、神の目の前に。人間は同じことを延々と繰り返しているのだろう。
                       人間が悪であり、悪を繰り返すことがすでに見ておられる神がおられ、もう2度と滅ぼさないと言っておられる。悪の存在を前提とし、悪に傾く人間を見守りながら、人と付き合う神であるのではないか。それが、契約としてあらわれるといえよう。

                      エデンの園で示されていた神の義と祝福
                        最初のエデンの園での祝福のだんかいでは、穀物が人間であり、動物は青草があたえられていた。その意味で、人間と動物は競合関係にはない。エデンの園を追放されてから、人間と人間の間に争いがおき、肉食はこの時点から始まる。肉食はある面、神から大目に見てもらっている状態だろう。動物の肉食 は仕方がないものとして、そして、本来の姿ではないけど、神からすれば、まぁ、ゆるすって状態なのではないか。
                       律法には、「血を食べてはならない。血を流すものは罰せられる」世界が登場している。そして、それは傷ついた社会であるものの、神は、傷ついた社会の中での回復もイエスを通して備えておられる。

                      苦しみの僕の歌から
                       苦しみのしもべの歌(イザヤ書53章)を考えてみたい。ここでの若えだとは、日本で想像する力強い若枝ではなく、もともと砂地の暑いところに願うわっていて、ひょろっとでた芽そんな弱弱しい枝のこととして理解すべきではないか。だからこそ、その後の節で、風格、輝き、容姿がないといっているのだ。この風格、輝き、容姿とは、本来王が持っている性質であり、それに抵抗する力をもちえない弱い主のしもべの姿で描かれている。
                       
                      )ミーちゃんはーちゃん的感想 えええええ。こんな解釈考えたこともなかった。そうかもしれない。そうすると、イザヤ書53章が別物に見える。

                       義人の苦しみは人々をいやすための苦しみであり、その人が悪いのではないという理解につながる。そして、それは、苦難における連帯・孤独の克服へとつながるのだ。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想 なんか、沼田さんの今年のイースターの説教みたいですねぇ。あれはいい説教でした。

                        孤独を感じ、孤独の中での無力感が、深い井戸の底、闇の中に人間を落としていくんだろう。しかし、その底に人のための苦しみを共有する人物がある。そこに友にいるイエスがいるがゆえに孤独がないのではないか。

                       それこそ、理不尽な苦しみの中でも、そこに共にイエスがおられる以上孤独ではない。一人ではない、人々のために苦しんでいる貫徹されたイエスの苦しみがある。それが十字架の意味ではないだろうか。十字架がオルタナティブとしての悪、暴力の根源をいやすのではないか。死や痛みを前にして孤独の壁を打ち破るものとしてのイエスの存在を伝えることは重要であろう。そして、暴力を取り超える一つの方法ではないか。

                       なんか、ホンマに上沼先生の闇を住みかとする私、闇を隠れ家とする神、ブッゲルマンか、ジョン・H・ヨーダーの本を読んでいるみたいな講演の結末でした。



                      評価:
                      価格: ¥3,024
                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:高いけど、よい。キリスト者が神の思いを知ろうとするものとして、どのように生きるべきなのか、従来の価値概念と違うものとして生きるべきであることを示す名著。

                      評価:
                      価格: ¥1,080
                      ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
                      コメント:薄いけどよい。暴力のはびこる社会にキリスト者としてどう生きるかが問われる本。

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