2014.05.01 Thursday

ご愛読の感謝と2014年4月の人気記事

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      今月はやや暴投気味の記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセスいただきありがとうございます。

     2014年3月  20499アクセス。に引き続き

     2014年4月  24200アクセス。

    じ〜〜〜〜ん。

    で今月の上位5位まで。

      (1)詩篇19篇1-3節
               アクセス数 1412

      (2)「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(2) 劇場版
           アクセス数 981

    なぜか詩篇19篇1-3節の講解説教の直後にある二つの記事’(3)と(5)もつられてランクイン

      (3)サービス中止しちゃうんだって ブログ移行始めました。
         アクセス数 757

      (4)D.L.Moodyの後方乱気流
         アクセス数 699

      (5)タイトルなし(ブッシズム等お笑いネタご紹介)
        アクセス数 559

    という感じでした。

     何より驚いたのは、詩篇19篇1-3節のぶっちぎりのランクイン。この記事、2009年5月の記事で、もう書いたのは5年前。昔々の拙い説教記事なのに。お恥ずかしい限り。

     いまだと、こう語るといいなぁ、とか、もっとあるのに。ま、人生は生き恥さらすことと心得るがゆえに、このままでさらすことに。

     しかし、この記事3か月前までは、アクセス0の毎日、それが突然のランクイン、日によっては200近いアクセスがあった日も。まぁ、ロングテールっちゅうのはこういうことかと。おっかない。


     先月の御愛読、こころかあ御礼申し上げますとともに、ご清覧お願い申し上げ候。




    2014.05.03 Saturday

    Caledonia様との往復書簡(1)

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       ここのところ、かなり乱暴な記事が続いたので、ちょっとほっとするような記事も。『福音の再発見』を出版するきっかけになったコメントくださったCaledonia様という方との、コメント欄での対話の転載のご許可をいただいていたので、そちらを公開しておこうかと。

       今回は割と読みやすく短めにしました。初めての方でも安心。
       毒や地雷はあまりないよ。

      ---------------------------------
      Caledonia様

      御無沙汰いたしております。

      >『福音の再発見』がキリスト教本屋大賞にノミネートされたなんてスゴイですね!


      はい。おどろき、もものき、山椒の木状態でございます。


      福音の再発見について

      >これを機に、この本を手にして考えてくれ人や癒される人が増えることを願っています。

       本当は、牧師さんとか、これから牧師を目指す人に、聖書理解をもう一度見直してもらうための本で、いやされるかどうか、そこは、ちょっと疑問です。ただ、 Caledoniaさん同様、私がおかしいんじゃないか、と思い込んでいる人には、あなただけではないですよ、ということをお示しできようかとは思ってお ります。

      >私もまだ手にしてはいませんが(すみません…)ぜひぜひ読んでみようと思っています。

       いえ、ぜひ、ミーちゃんはーちゃんから送らせていただけないでしょうか。もう1冊、お送りしたい本があるので。

      コメントに内緒希望と書いて、送付先ご連絡いただけたら、当方から、お送りいたします。なにせ、このほんは、Caledoniaさんがいなければ、出す気にはならなかった本ですから。ぜひ、御送付させてください。


      救いの文化とそれがもたらす苦しみ

      >そして最近になって私はやっと「自分は救いの文化が理解できずに苦しんできたんだ」ということが客観的に分かってきたように思います。

      それは何よりでございます。

      >私は律法主義、道徳主義に支配されたような生き方(脅迫的に償うように生き、
      >
      抑圧的な不安を増幅させ、そんな自分の弱さを責めてさらに無理する)しか
      >
      知らないために、癒された喜びを味わいつつも無意識のうちに今まで生きて
      >きた方法論に囚われてしまい、今現在また行き詰まってしまっていました…。


      いや、そりゃ、パウロさんだってそうですよ。
      -------
      ロマ書(新共同訳)
      7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
      7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
      7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。


      (中略)

      7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
      7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

      ってお嘆きのパウロさん。おんなじに見えるんですけど。Caledoniaさんと。


      救いの文化とそこからの脱出

      >(でも、じゃあどうすればいいのかということが分からないんですが)

      すみません。このブログは、『問題提起すれど、解決言わず』が信条なので。でも、こっそり、私の考えをお話しします。

      ヒントはですね。この前の雨宮先生のNHK第2放送の宗教の時間で、先生がふれられた最後らへんにあるんですよ。その最後らへんで、マタイ28章の最後を雨宮先生は、お読みになられた。

      マタイ福音書(新共同訳)
      28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
      28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
      28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
      28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
      28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

       雨宮先生のお話をミーちゃんはーちゃん風にするとですね、復活のイエスの姿を見た弟子たちであっても、トマスだけでなく、『疑う者』もいたんです。しか し、その疑う弟子に「しっし、このぉ、不信仰もの、お前なんかあっち行け」とも言われずに、かえって「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とおっしゃった。その「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」という言葉にかけるしかない。その言葉に立つ(立つ、はヘブル語で は、アーメンと語根が同じアモーという言葉だそうですが。確か)しかない。疑いを持ちつつも、自分のこころがイエスに対して揺らぎながらも、自分自身にこの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というのを言い聞かせるしかないのではないか、とも思うのです、ということだったと思いま す。

       つまり、自分自身のふがいなさを認めつつ、「神が我等とともにおられる、インマヌエル」にアーメン(我、この言葉に立つ)と言い聞かせることではないかと。


      ユダに友よ(わが命を預けし戦友よ)と
      呼びかけられ給いしナザレのイエス

       このことを書きながら、ふっと思い出したことがあります。

       イエスは、ユダに向かって、「友よ。」と呼びかけておりますが、あの「友よ。」は「わが戦友よ。」とも読めるようですよ。あの裏切りのユダに向かっても、 裏切るときにも、イエスは、「わが戦友よ」と呼びかけられる方ですし、イエスは、私どもに対しても、「わが戦友よ」とお話しになられる方でもあると思うの です。

       
      神の家に帰ることとソリチュード
       神のもとに戻ること、これって、時間がかかるんです。そして、それを独りでするのは、ものすごくしんどい作業なんです。でも、独り(Solitude)で、しないといけない作業でもあるんです。カトリックの伝統に、レクティオディヴィナというのがございますが、これはある聖書の言葉を繰り返し繰り返し味わって、それを祈りとするものなのですが、15分くらい時間を取ってされてみることをお勧めします。

      補論(この部分、補論を書いておきます)
       神の家に帰ること、ですが、これは時間がかかるプロセスだし、時間をかけるべきプロセスだと思います。旅と言ってもよい。ナウエンは『我が家への旅』とこれを呼びました。マクグラス先生も、『信仰の旅路』って本(これも名著)を書いておられる。放蕩息子はどこでもドアで瞬間移動して父のもとに戻ったのではない。新幹線やリニアモーターカー、飛行機、ヘリコプターで戻ったのではなく、一歩一歩自分の足で、戻っていった。巡礼(カトリック的な意味でのですよ)の旅だったのだろうと思うのです。そこかしこにおられ、そして、自分自身の中にもある弱さと痛みの中におられる神、いや、ナザレのイエスと出会うという巡礼なんですよ。だから時間をかけてほしいし、じっくりと多くの方に取り組んでもらいたい、と思うのです。本来、それは、毎週日曜日の礼拝と呼ばれる時間だし、礼拝説教で取り組まれるべきことだと思います。それをキリスト教漫談やキリスト教放談にするのは、いかがかと思います。フック(導入)としては許されても、それが主客転倒するのは、絶対にまずい。生意気言うようで申し訳ないのですが。

       説教者は聞き手が神のことばを聞くためだから、というかもしれない。しかし、ジョン・H・ヨーダーや多くの説教者が言うように、説教者は預言者でもある。人々の耳に心地よいことを言い、自分に関心を集めるがゆえにそれを語るのであれば、それは、聴衆を偶像とすることであり、自身を偶像崇拝とする偶像崇拝の亜種だと思う。(って毒吐いてるし。いつの間にか。)
       

      目に見える友の重要性
       あと、目に見える友も必要です。もし、お近くでテゼの集い(賛美を通した祈りをするための集い)があるのであれば、それに参加されてみられることをお勧めします。テゼの音楽のサンプルは、こちら。


      https://www.youtube.com/watch?v=hhFV1gVoeUo

      https://www.youtube.com/watch?v=2AVg_uStoVE

       
      立ち戻る民を受け入れし
      YHWH(我等とともにある)の神
       ユダヤ人は、3000年以上、この種のふがいなさ、神から離れること、神に戻ることを延々と繰り返してきた民族でもありますし、また、その立ち戻った民を神はお受け入れなさったように思います。抱きかかえるようにして。

       
      とまぁ、こんな感じ。後半へ、続く。



       
      評価:
      ヘンリ ナウエン
      ¥ 1,620
      (2005-07-20)
      コメント:大絶賛。あるときにお買い求めを

      評価:
      アリスター・E. マクグラス
      いのちのことば社
      ---
      (2003-02)
      コメント:ことはちゃん。この本再販希望。ぜひ、もう一度出してほしい。日本の若者のために。

      2014.05.05 Monday

      福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙

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         今回の記事は、長いけど、読みにくくないと思います。ミーくさんへのコメントへのお返事ですから。コメント欄で書ききれそうにないので、記事に昇格いたしました。

         今回、こどもの日スペシャル、緊急公開でございます。

        meek様

         meekさんも福音の再発見を気にいって頂いたようで本当によかったです。

         あ、ちょっとね、マクナイトさんて乱暴もんなんですよ。その辺ミーちゃんはーちゃんと似ていて、「マクナイトせんせ〜〜〜、もうちょっとまともに書いてくださいよ〜〜〜〜」って思うところ多々あるんですね。

         その点、年内に出てくるはずのNTライトの著作は、かなりリジットに作業している感じはします。

        カレドニア様のコメントに至る
        一件の経緯


        >そこでCaledonia様とのそのそもそもの発端となったコメント欄を読んでみたい
        >と思うのです。こちらのブログは膨大な情報量がございますね。どちら にその
        >Caledonia様とのコメント欄があるのか、自分で見つけることができませんでし
        >た。お手数ですが、どの部分を読めばそのコメント欄にたどりつ けるか教えて
        >いただければうれしいです。

         数量的に膨大なのは、水谷潔さんの方。私のは単にたらたらと書く悪癖があり、一つの記事が長いだけなんですけど。

         では、ご要望にお応えして、Caledoniaさんとの出発点になったのは、

        そもそもの出発点はこの記事で、
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=262
        これに、mさんというわが教派の方がコメントくださったことが遠くの出発点につながっているのです。

        mさんのコメントがあまりに大事な内容を含んだものだったので、
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271
        ↑に、Caledoniaさんが最初にコメントくださったのが始まりです。


        そして、Rob BellのLove Winsで発想が広がり(というよりは拡散して)、
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=275

        さらに、その記事から発展して、
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=277

        それから、また発想が広がり、
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=278

        そして、マクナイトの本の紹介に
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=280

        全体のある段階で以前の整理したものがこちら。
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=284

        晴佐久さんの紹介なども。
        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=292


        律法主義・道徳主義の侵入の要因

        >わからないのは「救い」とは本来、神様の恵みが人に及ぶことなのに、それが
        >人の営みとしての「文化」になる時(確かに矮小化されてしまうかもしれない
        >けど)なぜ律法主義とか、道徳主義が入り込んでしまうのだろう?ということです。

         救いの文化に律法主義や道徳主義が侵入していく、その入り方ですが、救いの文化というのは、パターン化された福音の述べ伝え方の行動パターンのことだと思うのです。つまり、ありていに言えば、「カミ・ツミ・スクイ」の三段論法的な伝道お便利ツールをそのまま無批判に受け入れ、そして、それを繰り返し繰り返し語っているうちに福音の本来の豊かさが、単純化単純化により落ちていき、かなり変質してしまう。そこに、本来の福音とのずれが生じてしまいます。

        チキンカレーによる
        福音の文化への変容の説明


         わかりやすいたとえとして、チキンカレーライスのカレーを考えましょう。日本のチキンカレーライス(福音の文化)は、オリジナルであるはずのインドのチキンカリー(福音そのもの わかりやすくするためにカリーと書きます)の一種異形の発展形だとおもうのです。確かに、日本のカレーにも、香辛料や野菜、チキン(神も罪も救い)も入っているし、もともとのインドのカリーにも、これらのものは入っている。

        インド人から見たらカリーではない日本のカレー
         しかし、インド人に日本のチキンカレーライスは、インドのチキンカリーとおなじものですか?って聞いたら、彼らはこれは私たちの食べているチキンカリーではないというでしょう。似ているけど。下手したら、日本のチキンカレーのほうがおいしいというかもしれない。

         では、どこが違うのですか、って聞けば、

         「日本のチキンカレーには、ジャガイモとかニンジンなんかが入っているし、インドのはもっと辛いしサラサラしている。こんなねっとりはしてないから、違う」

        って言うと思うんです。(実は、インド風カレーフリークなんで)

        日本で独自に発展したカレーのルー
         でも、日本人は、チキンカレーと言えば、ジャワカレー(ジャワって確かインドネシアですよね)とか、バーモントカレー(これにいたっては、アメリカの地名ですよね)にチキンを入れて作るカレーがチキンカレー。彼らのチキンカリーみたいに何種類もの香辛料から作らないから、結構どろどろの小麦粉や増粘剤入りのカレールーで作ったお手軽カレーをカレーと総称してしまう。

        本物見るまでわからないカリー
         この問題と似てると思うんです。インドに行って、インドのレストランに行って、インド人相手に商売しているインドカリーを食べるまでは、チキンカレーってジャワカレーなどのルーと野菜とチキンを煮たものになってしまいます。

        福音の文化というお便利ツールに
        入っている小麦粉や増粘剤にあたるもの

         したがって、本来の福音には含まれていたものの量が相当落ち、含まれていなかったはずのものが含まれているという問題です。カレーのたとえで言えば、含まれているはずの肉や野菜がちょっぴりになり、含まれていなかったはずの小麦粉や増粘剤などに当たるものがふくまれてしまう。例えば、本来含まれていたはずの旧約聖書のメシアや人々の間におられる神にして王としての部分が落ちていく。そして、その代わりにギリシア哲学からの要素やヨーロッパの歴史的経過の中で含まれて行った歴史的経緯から生まれた神学的思惟(たとえば、義認についての代罰説の一部の偏った解釈論やリバイバル神学で語られた地獄概念やディスペンセイション神学から生まれてきた特殊な終末論である携挙論)等がたっぷりと加えられます。これが増粘剤とか小麦粉に当たる部分だと思います。
         そして、その増粘剤や小麦粉の部分が聴衆のウケがよいから、と増粘剤部分を増やしていく。そして肥大化して、増粘剤(聖書の本来的な主張とは、かなり違い神学的理解)だらけのカレールーで神・罪・救い、そして人と共に歩もうとした王としての神をほんのちょこっと申し訳程度に入れたカレーを「これがカレーであるぞよ。控えおろう」という福音の文化が出来上がってしまう。

        代々薄まっていく野菜や肉のエキス
        代々薄まっていく福音のエキス

         そして、その前の代が「これがカレーであるぞよ」と、次の代に言えば、次の代は次の代で「これがカレーというものか」と受け取り、さらに、肉と野菜と香辛料を減らしたものを、「ひかえぃ、控えぃ、控えおろう。このカレーが目に入らんか」と、またまたカリーから遠くなったものを、カレーと称して提示する。つまり、劣化が始まるんですよ。

        聖書のみ、聖書に戻れの重要性

         だから、Sola scriptura(聖書に戻れ、本源に戻れ)を言わないといけないが、それって結構面倒なので、先人の出したカレーにさらに増粘剤と水入れて、「はい、これがカレーです」って、「カレーうろん」のカレーより薄いカレーで作ったカレー汁をご飯にかけたものを、カレーライスだって恥ずかしげもなく出しちゃう。

        とりもろす!福音そのものを
         福音の文化には、福音の要素は確かに入っているのだけれども、本来的な福音でないものまでが含まれて行ってしまうのです。それを引っぺがして、本来の福音を「とりもろそう!」、そして、神が王として人と共に歩まれ用としておられる、という旧約聖書との一貫性を持った神と人が共に生きるという生き方を含めた本来の神の主張をもっと強調しよう、本来の福音を「とりもろそう!」というのが、福音の再発見の面白さ、なんです。出している方が言うのも変だけど。

        繰り返しコピーでの画像の劣化と
        繰り返しコピーによる福音の劣化

         別の例でいえば、コピーしたものをさらにコピーして、またそれをコピーしてって作業を100回くらい繰り返した状態。以下にデジタルコピーの劣化が少ないからって言っても、100回もしたら、劣化して使い物にならなくなる。それとおんなじなんです。

         そういえばね。うちの教派で大阪方面にやたらと若者を中心に影響力の強い巡回伝道者がいるんです。その方がね、北関東の教会でお話になられた。そうしたら、次の週、その教会の若い信徒さんが突然関西弁で、日曜学校だか何だかで、その影響力の強い巡回伝道者そっくりの口調で話し始めたそうで、そこの教会の責任者が、唖然としてあいた口が・・・なったそうです。

         それと同じことが過去にも福音の文化の形成でおきたんだろう、とは思います。

        家電系メーカのおまけのたっぷり付いた家庭用PC
        専業メーカのおまけのないベアボーンPC

         別のたとえを使うと、PC系の用語で言うと、おまけソフト捨てて、ハイスペックのベアボーンPCを作ろう、というのがマクナイトの主張なんです。PCのメーカーだと、Nとか、FとかのPC買うと、いらないおまけソフトがいっぱいいっぱい、初心者の方にも使いやすく、って親切ごかしについてくる。

         プロはそんなものいらんから値段下げてくれ、スペック上げてくれ、なんですよ。こちとら、そんなんあるだけ邪魔。そしてDとかMとかにプロは走るんですよ。

         福音の再発見は、その世界とよく似てますね。親切心で付けたとはいえ、それが、本来のPCを使う上での仕事を邪魔しているとしたら、それは排除して、本来的な目的を達成するために充実したものにしたほうが、よいだろう、ってことだと思うんですよ。

         カレーの場合でも、本来のインディカ米で食べたり、ナンで食べる場合、ねっちょりしたカレーよりもサラサラのカリーのほうが、カリーとしては美味しいハズ。それが、福音の再発見なんです。

        とりもろす!ホンマもんの福音を

         しかし、あのCFが自由民●党から流れた選挙の後、この本の企画会議してたら、間違いなく出してたなぁ。タイトル案として、「福音をとりもろす」 キリ新の担当さん真面目だから却下されただろうけど。



         とりもろす。福音をとりもろす。とりもろす。神のメインの主張をとりもろす。
         とりもろす。生き生きとした信仰者の姿をとりもろす。とりもろす。福音の再発見。


        ってパロディCF作りたいくらい。

        福音の文化にも要素は入ってるんだけど
         先にも書きましたように、マクナイトの議論をごくごく単純化してしまうと、福音の文化にも福音の要素は入っているので、「本来の骨太の福音にいろんなものが1世紀以降に押し込まれているんで、それ外そうよ。そして、本来のすっきりとした福音にしてはどうか。そして、その要素をもっと大きなものとしてみましょうよ」ってことなんですよ。ごくごく概観的に議論してしまえば。

        マクナイトとNTライトの違い
         それをかなり荒っぽい論理構成の方法論で作業した、つまり木工で言うと鉈と斧で作業したのが、マクナイトだと言ってよいと思います。その意味で、ざらざら感があり、どうしてもmeek様のような疑問が残る。同じことをするにしても、のこぎりやら、カンナやら、鑿やら、彫刻刀やらで、十字架時代のナザレのイエスの主張に近づけようと、かなりち密な作業をしたのが、NTライトの書籍だと言えば、あたらずも遠からずや、くらいだと思います。

         でも、マクナイトは、実践的な牧会の現場にどちらかというと関心が強く、NTライトは歴史神学に関心が強い。二人は同じことしなくていいと思っていると思います。それが本での味わいの違いになっている。もちろん、マクナイトがアメリカの福音派のコンテキストで書かれていて、その意味で、アメリカの福音派と神学的味わいの近い日本の福音派で悲しむ人たちには、NTライトの議論は少し遠いような感じがする、というのもあるんですよね。

        恵みについて
        >すくなとも「救い」は「律法主義」や「道徳」とは正反対であるはずの「恵み」によるものなのではないのだろうか?と思いまして。

         救いは、神の一方的な恵みの計画による。そうなんです。でも、その恵みすらも、誤解され、誤用される。

        本日、

        http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=271#commentsno

        コメント欄でお返しした、maririnさんなんかの関係者なんかは、完全に、ゆるしや恵みを誤解し、そのうえで誤用しておられる。

        結局残念さを生む人間の罪
         でもね、これ誰が悪いわけでもないんです。人間が神からどうしても離れざるを得ない、罪ある者だから。神と一つには、この地上ではどうしてもなれないこと、完全な形での神との聖なるコミュニティは形成できない。だから、このような無駄の繰り返しが続くんです。

        それでも受け入れたもうYHWH
         そうであっても、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)の神はそれすら良しとされる。YHWHは荒野で裏切られても、カナン定着前後でイスラエルの民がひよっても、カナン定着後王であるはずのYHWHを捨て、おれたちが目に見える王様が欲しいとサムエルを介してねだらせる。それでも、神はサウルを王として与えたもう。王が与えられた、その挙句にバアルだのアシェラだのに心奪われる。バビロンからやっとの思いで帰ってきても、今度は、トーラーの体系化に現を抜かし、神の御思いの精神を忘れる。イエスが来ても、何それ、おいしいのをする。それでも耐える寛容の神、怒るに遅い神なんですよ。

        神の豊かな慈愛と寛容と忍耐
         昨日私のところの教会で、ローマ書2章の1-4節をお話ししたんですが、われらは、どうしても、「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじ」たいわけじゃないのに、軽んじちゃうんです。どうしようもない罪ある人間であるがゆえに。しかし、神は、その我らに向かって、わが子よ。帰って来い。神のかたちよ、帰って来いとおっしゃる。

        放蕩息子に示されたYHWHの悲愛
         それどころでなく、汝に服を着させ、足に靴を、そして、手の指には、正式な継承者としての指輪まではめようぞ、って方なんですよ。放蕩息子みたいに。もう、絶望的な愛というか、悲しみの愛(悲愛)と憐れみ(スプラングニゾマイ)で圧倒してこられる。もう、ミーちゃんはーちゃん降参です。神様、わかりました。あなた様がそう呼んでいいとおっしゃっておられるので、今日から、あなた様のことをアッバと呼ばせていただきます、としか言えないんです。多分、これが恵みだと私は思うんです。

        我らの言う恵み
        YHWHの圧倒的な恵み

         我等は、それをあまりに軽々しく、どっかの試験に合格した、とか、たまたま、いい仕事が見つかったとか、預金通帳の残高がゼロでないとか、病気が軽くなったとか、本来『恵み』とすら呼んではならないものを実に軽々しく『あ〜恵みですねぇ〜』と呼んじゃう。あまりにことばが軽々しい。そして、繁栄の神学なんて、いい加減なものを作っちゃう。
         そんな神の恵みが真剣に迫ってきたら、恐ろしくて、ミーちゃんはーちゃんなんざには耐えられませんぜ。本気で神の恵みが迫ってきたら、「恐ろしいからおやめ下され〜〜〜、ギブアップです」って叫びたくなっちゃう。

        ラインホルド・ニーバーの祈り
         最後にニーバーの祈りの英文と私訳とを紹介して終わります。前半部分が、アルコールアノニマスなどの自助グループで使われるので、有名ですが、この祈りのピークはどちらかというと後半で、最後の部分に、ニーバーの祈りにおける幸福の理解がよくあらわれていると思うので、ご覧いただければ、幸甚。




        ニーバーの静謐の祈り


        God, give us grace to accept with serenity
        the things that cannot be changed,
        Courage to change the things
        which should be changed,
        and the Wisdom to distinguish
        the one from the other.

        Living one day at a time,
        Enjoying one moment at a time,
        Accepting hardship as a pathway to peace,
        Taking, as Jesus did,
        This sinful world as it is,
        Not as I would have it,
        Trusting that You will make all things right,
        If I surrender to Your will,
        So that I may be reasonably happy in this life,
        And supremely happy with You forever in the next.

        Amen.

        神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
        静穏のうちに変えられないものを受け入れ
        変えるべきものを変える勇気を
        そして、変えられないものと変えるべきものを
        峻別する知恵を私に与えて下さい

        一日を瞬間瞬間生き、
        一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
        平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
        ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
        この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
        私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
        あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
        あなたの御思いに身を委ねることで、
        私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
        そして、あなたの隣に私をおらせ、
        これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。






        2014.05.07 Wednesday

        Caledonia様との往復書簡 (2)

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          前回からの続きです。カレドニアさんとのお話の続き。
          今回は無毒。保証付き。短いよ。読みやすいはず。


          神を本来渇望するはずの人間

          >今は『本来の神や福音なるものが、もしかすると自分が今までずっと渇望してきたものなのかもしれない』というものすごく大きな希望の存在を感じ

           それこそが、神から来る希望らしいです。NTライトさんによれば。未来からこの地上にいる現在の私たちに流れ込んでくる希望らしいです。その意味でCaledoniaさん正解。


          傷と祈りと絶望
          そしてナザレのイエス


          >祈れば祈るだけ傷つき、自己否定して諦めてきた過去に足を引っ張られているような感じです。

           傷つくのは大事なんです。この傷つき、痛みがイエスと自分と会うための呼びかけです。先日、ミーちゃんはーちゃんと遊んでくださる奇特な牧師先生のお一人のお話の最後の部分を引用しておきますね。

          ----------- 沼田牧師 -----------

           誰からも共感されず、ほんとうの仲間は誰もおらず、神から受けた使命を、たったひとりで実行しなければならない。その押し潰されそうな孤独感と、周囲の無理解に対する絶望感・・・・

          わたしはそうやって、あれこれ説明の言葉を重ねることはできます。

          (中略)

            イエスさまは十字架へと向かわれる道のりのなかで、まさにその苦しみを背負われました。あなたの孤独を。あなたがたった独りで、真夜中に、そして白昼に背 負わねばならないものを、イエスさまも、たった独りで。だから、あなたの「たった独り」とイエスさまの「たった独り」とが、今、重なり合う。


          ----------- 沼田牧師 -----------


          http://d.hatena.ne.jp/nobeoka_apostolos_ekklesia/20140413/1397391661


          信仰とは神の愛に
          確信をもって飛び込むこと


          >『本来の神という存在・福音・救い』を味わいたい、今までの生き方をやめて新しく生きていきたいと渇望してしまう自分がとても怖いと思ってしまいます。

            いえ、人間は、その様に作られているし、神は、わが愛のうちに戻れ、私に立ち戻れ(=悔い改めよ)とおっしゃっておられるのですから、その渇望を求められ たらよいのではないでしょうか。心の奥の愛の声(ヘンリー・ナウエン著 女子パウロ会)に素直に従われたらいかがでしょう。イエスご自身もおっしゃってお られるではありませんか。「恐れるな。」と。

          >これから自分の考えがどうなるのかは全く未知の状態ですが、

           神の御心を求めてまいりましょう。神は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と私たちに仰せなのですから。

           お役に立てたのなら、何よりでございます。
          また、応援もありがたくお受けいたします。ありがとうございます。

           Caledoniaさんのうちには、神の国、神の支配があるのですから、それとともにある神との平和のゆたかさを味わう日々をお過ごしになられますよう、心から祈念いたしております。

          補論

           このことを書いた後、カトリック司祭で風の家主催(2014年3月没)の井上洋治司祭が同様のことを主張されていたことを、NHKこころの時代で知り、ちとびっくり。

          ミーちゃんはーちゃんの性格など

          >堅苦しくない分かりやすい説明で、丁寧に教えて下さってありがとうございます。

          いえいえ、わたし、堅苦しいのは苦手で。まぁ、仕事上社会通念に沿ってかたくるしくすることはありますが。だって、ナザレのイエス君は楽しそうだから、みんなついてい行ったわけでしょう。なんせ「大酒のみの食いしん坊」って、パリサイ派からディスられてますし。www



          イエスの苦悩と我らの苦悩
          そして、そこにある神への希望

          >イエスの孤独や苦悩が自分とリンクするなんてことも考えた事がありませんでした。

          これは、トトロの森の沼田牧師やヘンリー・ナウエンのゆたかさではないかと。

          >何かもう、神の希望にかけてみる以外の選択肢がなくなってしまったように思えている今、何故だか以前よりミーはーさんのご説明がすんなり受け入れられるような変な感じがしています。

           あと、Caledonia様との対話で、大分私の方も整理されたというのか、神の御思いを求めることがわかりかけてきたからだと思います。こちらこそ、Caledonia様にありがとうと申し上げたいです。

           勇気をもって、神の愛(カリダアデ カリダアテはこちらを参照)にお飛び込みくださいますように。毎週、毎日、毎秒。その度ごとに、神はCaledonia様を受け入れて、受け止めて、抱きとめてくださいますから。


          不信仰者への共感と
          神の真実(ピスティス・セオウ)


          >聖書に出てくる悪役のような立場の人や不信仰っぽい人達の『どうしてそうなってしまうのか』という気持ちや置かれていた現状に対しては結構共感

           これは、普通そうではないでしょうか。我等は、聖書の悪役連合と何ら変わることなく、神への誠実と申しますか、神への信仰と申しますかは持ちえず、神がお 持ちのピスティス・セオウ(神の誠実、神の真実)に頼るしかないのですから。だから、その真実に飛び込むしかないのではないかなぁ、と思います。


           また、コメント(個人情報除く)と対話を公開ご許可くださいましたこと、こころから御礼申し上げます。八木谷さんのご本の紹介シリーズが終わったら、公開いたしたく存じております。
          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           八木谷さんの「もといき(もっとキリスト教会に行きやすくする本)」書評シリーズ以外にも、いろいろ不謹慎なシリーズ者も含め、ブログ記事が入ってしまったので、大変失礼いたしました。

          ありがとうございました
           堅苦しい表情していることもありますが、こころの中では、冗談めかした顔でニタニタしておりますから。

           Caledonia様、本当に投げかけてくださって、ありがとうございます。あなたの勇気に、キリスト教書出版業界に石を投げるきっかけを与えてくださったことを覚えて、こころからの御礼と賛辞を申し上げたい。そして、おいしいクッキーごちそうさまでした。

           そして、まず、この本を紹介してくださった巣鴨聖泉教会のTaka牧師、翻訳してくださった中村佐知さま、出版の実働をしてくださったキリスト新聞社の松谷様、友川様、コメントをくださったm様、塩屋の舎監先生、ひかる様、HK様、そして多くの皆様、陰になり日向になり応援してくださった津ののらくら者先生、また、祈りによって支えてくださった皆様、そして、このブログ記事を読んでくださったすべての皆様、そして、この本をお買い上げいただいた皆様、そして、この本をこれから手に取る皆様、これは、これらの方すべての方の物語なんです。皆様がこの「福音の再発見」の本を巡る大きな物語の登場人物なんです。そして、その大きな物語に参加して、そして、また、それぞれの方がおられる場所で、皆様の「福音」(神がそれぞれおひとりの方々と共におられる)の物語をお語りいただきたく。
           
           皆さま、神の平和と神の愛の中にどっぷりおつかりいただきたく。


           

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          コメント:絶賛。神の愛を感じる。じぃぃぃ〜〜〜〜〜ん。

          2014.05.10 Saturday

          キリスト者として親であることについて、たらたらと考えた。(1)

          0
             今回は重要なので、短めにし、後日続きを公開予定。
             今回はちょっこしピリ辛の辛子(ハバネロほど辛くないよ)が効いている程度かな。

              この前、Sojournersのブログ記事で、Stephen Mattsonという方が、大変重要なことを記事にして書いておられた。

            The Struggles of Christian Parenting

            主要な論点を拾うと、とこんな感じでせうか。

            サマリー

            Christian parents can easily become obsessed with sin and punishment, continuously blaming and penalizing themselves instead of accepting the grace and freedom of Jesus. Thus, we routinely beat ourselves up, unfairly seek unrealistic goals (like perfection), and become consumed with our mistakes.

             キリスト者の親は、いともたやすく罪と罰に取りつかれてしまい、責め、罰してしまう。イエスの自由と恵みによって受け入れることなく。したがって、我々は繰り返し自分自身によって打ちのめされてしまう。また、完全であることといった非現実的なゴールを不適切に求め、自分自身のその過ち(完全であることと言った非現実的な目標の設定)のために消耗しきってしまう。

            There’s a lot of pressure to succeed ― and for our kids to succeed. But what does “success” actually look like?

             成功するというプレッシャーが多すぎる。特に子供たちを成功させるというプレッシャーが強すぎる。『成功』ということは何を意味するのだろうか。

            This is probably the hardest thing about Christian parenting: wanting our kids to actually live like Christ.

             我々の子供をキリストのように生きる(金儲けもせず、弱いものとともに生き、当時の常識に挑戦し、社会を変えようとする)ことを望むこと、それは、キリスト者の親にとって最も難しいことではなかろか。

            Unfortunately, successful Christian parenting doesn’t look anything like “success.”

             残念なことに、もっとも成功したキリスト者の親業とは、(世の中の一般的な)成功といったものではないのである。

            Christianity isn’t meant to be a form of escapism. Rather, it’s embracing the truth. Realistically, God calls us to help a hurting world. As parents, are we willing to embrace this calling?

             キリスト者であることは、離脱主義的であることを意味しない。いやむしろ、真実をわれらがうちに抱く者こそがキリスト者ではないか。現実的な視点からいえば、神はわれらを痛むこの世界の世話をするために、招き入れられたのではないか?親として、我らはこのCalling(召命)を自分自身のものにしてしっかりと抱きしめているだろうか。

            -----------------------

             さて、紹介はここまでにして、この記事を読みながら思ったことを書いておこうかと。このブログは、キリスト教子育てブログではないが、最近2世や3世の方からコメントをいただくことが多くなっているので、2世、3世問題も重要だとも思うので、このことに関して、ミーちゃんはーちゃん風の見解を述べておこうと思う。
            今回は前半部分から考えたことを。

            罪と罰への依存症

            Stephen Mattsonさんは、

            キリスト者の親は、いともたやすく罪と罰に取りつかれてしまい、責め、罰してしまう。イエスの自由と恵みによって受け入れることなく。

            とご指摘である。この罪と罰に取りつかれること、依存(Obsession)は、非常によくわかる。プロテスタント福音派固有の現象なのか、普遍的な現象なのかはよく分からない。調査したことがないので。しかし、福音派では、この罪と罰への依存はかなり強いのではないか。この罪と罰への依存は、Caledonia様にも、あるいはmaririn様にも起きたように思う。大変不幸な現象だと思う。また、先日お亡くなりになった井上洋治司祭もこのことは感じておられたようだ。

             よいものに子供を導きたいという気持ちはわかる。しかしながら、それを隅と罰、責め、罰するのはどうか、ということがMattsonさんのご主張のようだ。

            罰せず、友となったナザレのイエス

             ナザレのイエスは、「大酒のみの食いしん坊」とディスリまくられようと、「あんな奴らと付き合って」と陰口叩かれようと、当時のユダヤ社会の鼻つまみ者であった、娼婦や酒税人とともにおられたのであるが、その面は、きれいさっぱり忘れられている。

            聖書のカッペ(Cut & Paste)と
            恣意的な見逃しがもたらす「さばき」の問題

             まさしく、こういう恣意的な見逃しは、聖書のカッペ(カットアンドペースト)疑惑ではないだろうか。聖書のカッペ疑惑(かなり恣意 的なカットアンドペースト疑惑)は深刻である。小保方女史のSTAP細胞論文事件どころではない深刻さではないのか。小保方女史の論文作成にカッペがあったとしても、それは、現在のわれわれ の生活そのものにはほとんど影響はない。しかし、聖書のカッペ疑惑は、キリスト者の生活や思考、行動に多大なる影響を及ぼさないだろうか。

             何、売春行為や詐欺など不法行為を推奨するつもりは毛頭ござらんが、そこに陥っている人々を受け入れることまでを拒否する必要はないと思う。そして、良いものに導くという大義名分を掲げ、罪と罰をもってわが子であっても神からお預かりしたいのちである他者を裁くということは、自らを神とする偶像崇拝だとミーちゃんはーちゃんは思うのだ。パウロはこのことに関してローマ2章でこのように書いているのではないだろうか。

             
            口語訳聖書ローマ書
             2:1 だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。
             2:2 わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。
             2:3 ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
             2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。

             これ、親子であっても同じだと思う。親だから、さばいていい、教会の責任者であるからさばいていい、牧師であるからさばいていい、そんなことはないだろう。パウロさんそういう方を次のようにいってるんじゃないかなぁ。 
             
            あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。

            あのぉ、えっと、ミーちゃんはーちゃんが言っているのではなくて、パウロさんが言っておられることだけを一言付記いたします。(^^ゞ  


            完全を求め
            消耗してしまう親子

             
            その結果もたらされる残念な状況について、Stephen Mattsonさんは
            自分自身のその過ち(完全であることと言った非現実的な目標の設定)のために消耗しきってしまう。

            とお書きです。罪と罰で他者を支配することは成功しないようのだ。イエスがなされたように受け入れる必要があるとご指摘のようなのだ。
             もちろん、何でもいいから受け入れよ、とはMattsonさんも言っておられないように思う。親があることをを受け入れられない場合には、その個人や子供の人格を責めたり、裁くのではなく、問題となる行為がなぜ受け入れられないのか、を自分はかくかくしがじかであるがゆえにそのことは受け入れがたい、ということを話すということなのだろうと思う。
             
             それを、軽々しく神の名を持ち出して裁いたり、責めたりすることは望ましくないのだろう。また、カッペした聖書の断片を持ち出したり、ちらつかせるのではなく。これでは、Caledoniaさんがおっしゃるように、家の中は安らぎの場ではなく、神の裁きの場になってしまう。Caledoniaさんはそのことを以下のように表現された。
            日本の文化を始めとするキリスト教以外の文化はもちろん、キリスト教であってもリベラルの様な考え方は罪であり危険だと教えられました。
            両親やその友人たちの考えに反することをすると、聖書の教えを用いて私がどれだけ罪深いか教え込まれました。
            そして「私が見ていない所でもいつも神が見ているから全て隠しておくことは出来ない」
            「私の教えに従えないのなら独りで生きていけ、外の世界では神も助けてはくれない」と言われ続けてきました。
             そして

            私にとって神は主イエス・キリストだけではなく、両親とその友人たちもまた神でした。

            となってしまう。

            やめませんか?
            「くらえ、みことば攻撃」


             もちろん、ミーちゃんはーちゃんは聖書の断片を持ち出すことがNGだとは言っていない。持ち出したいなら、持ち出せばよいと思う。ただ、聖書の断片を持ち出すにしても、この聖書のことばがかくかくしかじかであり、この言葉を他に指示する聖書のことばもかくかくしかじかであると、私は理解するから、したがって、かくかくしかじかと判断する、という丁寧な作業が必要ということなんだろうなぁ。くらえ、みことば攻撃は、いただけないってことで。
             
             聖書のことばは錦の御旗ではござらん。

            また、Stephen Mattsonさんがおっしゃっている
            自分自身のその過ち(完全であることと言った非現実的な目標の設定)のために消耗しきってしまう。
            ということは、このように自分自身の勝手な基準を神とし、その基準を自分自身の努力によって生きることで、達成しようとすることに伴う消耗をご指摘のようである。これは、ある面、キリスト教がストイシズム(ストア派哲学)に乗っ取られた結果かもしれない。

            この小さき者を
            つまづかせるもの

             努力するのが悪い、努力する必要性がない、とミーちゃんはーちゃんは言いたいわけでもないし、言っているのではない。それは必ずしも悪いこととは言えない。しかし、それが、キリスト者の親とそして子供を疲弊させ、精神的に追い詰めるようなことを、ナザレのイエスは本当に言ったのか、ということを問題にしているのだ。いい子に育てよ、とナザレのイエスは言いたもうたのか、というと、必ずしもそうではないと思う。ナザレのイエスは、その辺の鼻たれ小僧を捕まえてきて、マタイ18章(新共同訳)を語られたのではないだろうか。
             18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
             18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
             18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
             18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
             18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
             18:6 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。

            完璧な子供を追い求める

             この鼻たれ小僧について、18章6節で「わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。」とまで言われているのだ。完ぺきなこまっちゃくれた小さな信仰者を求めたあげく、このこまっちゃくれた小さな信仰者が思春期を経てその信仰を失わせる様だと、完璧な小さな信仰者にしようと仕向けたものは、石臼を首につけられて海に沈んだほうがいい、とまるでニューヨークのイタリア人マフィアのようなことをおっしゃっておられる。なお、ニューヨークのイタリア人マフィアは、足をコンクリートで固めてハドソン川にどぼん、らしいけど。

            完璧な子供とナチスの優生学

             完璧を子供に求めようとして、疲れきっている親子もおられるのだ。HK様のように(HK様のところは脱出されたようなので、安心はしているけれども)。そして多くの牧師家庭において。雑誌MinistryのPK特集号を見られるがよい。多くのキリスト者家庭が憔悴しきっておられるのだ。そりゃそうだろう、教会中が小姑ウヨウヨ状態。中高生や大学生になって、そんな教会のどこが楽しいだろうか。

             完ぺきを求めることは、一種どこかでナチスドイツの優生学につながるものではないか。完璧でないものは排除せよ。身体的であれ、精神的であれ、障碍をもつものは生きる価値がない。ナザレのイエスは、その様なことはおっしゃっておられない。ルカ14章12-14節(口語訳)で「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、足のなえた者、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」と話したもうた方なのである。

             ナザレのイエスは、どのような生命、人生であろうとも、その生の喜びを全うすべきではないか、と言いたもうておられるように思えてならない。また有名なヨハネ9章のなかで、生まれつきの盲人について、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言い給いし方ではないだろうか?

             障害をもつ人々とキリスト教、キリスト者として障害をもつ人々と向き合うという問題を考えたい方には、次の2冊をお奨めいたします。ジャン・ヴァニエは後期ナウエンのメンターみたいな役割の人です。

             ジャン・ヴァニエ の 「小さき者からの光」
             ジャン・ヴァニエ の 「人と出会う」
             

            次回へと続く。




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            ジャン・バニエ
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            (2010-08-20)
            コメント:よい。障害を持つ人と向き合うことの重要性を示している。どちらか1冊を、と言われたら、こちらをお奨めする。

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            コメント:薄いけどよい。どちらか一冊と言われたら、小さき者からの光をお奨めする。

            2014.05.13 Tuesday

            「篠田麻里子牧師」再考 21世紀の日本キリスト教会とキリシタン

            0
               今回は、緊急公開。通常は水曜日と土曜日にしか公開しないのだが、今回は特例。

               今回は、短いしわかりやすいはずだけど、毒はかなりあるかも。

               ミーちゃんはーちゃん個人として水谷さんには大変お世話になっているし、尊敬している。その働きは尊いと思っているけれども、今回の記事は、いかがかと思うので、あえて、一言苦言申し上げたい。

               多分、水谷潔さんが本心で思っておられることと、この記事の主張は同じだと思うけれども。

              「篠田麻里子牧師」!?
               水谷潔さんのブログ記事で、

                育てよう健全牧師(57)篠田麻里子牧師

              という記事が挙げられていた。水谷潔さんによると、「篠田真理子牧師」とは

              「潰れるつもりで来ている」牧師のこと。つまり、厳しい昨今の状況を把握しており、牧会現場に遣わされていく際に「潰れるつもりで来ている」牧師


              のことらしい。

              これを読んで、こう思ってしもうた。

              それ、無理ゲー。それ、NGワード

               「 潰れるつもりで来てください」ねぇ。はぁ?

               それ、無理ゲー。
               それ、NGワードではないかと。
               それ、基本、戦艦大和の片道燃料沖縄行きと同じ。
               それ、昭和的発想ではないかと。

               同記事の中でも、ご指摘されておられるが、昭和的な発想に耐えかねている若い牧師、消耗品のように使い捨てられている若い牧師たちがおられる。人材の使い捨てをするブラック企業並みである。

              人材の使い捨て、それ、
              神の教会がすることか?
               人材の使い捨てを前提にすることは、神に愛されている人を愛するはずの教会がすることだろうか。いかに教会の現実が厳しくとも、それは禁じ手ではないだろうか。それこそ、特攻精神であり、人格の無視、神の主権への侵害ではないだろうか。

              確かに厳しい教会の現実
               確かに教会の現実は厳しい。「潰れるつもりで来てください」と呼びかけないといけないほど、確かに教会の現実は厳しいのはわかる。しかし、その教会に悔い改めを求めることの方がよほど重要ではないか。そのことこそ、喫緊の課題ではないだろうか。そのことこそ、旧約聖書の預言者として荒野で叫ぶものとしての召命を受けた牧師のなすべきことではないだろうか。言葉が過ぎるかもしれないが。

               それを召命もないのに、勢いで献身するようにあおるように呼び掛け、そのうえ挙句の果てに、「潰れるつもりで来ている」ことを若者に求めるとすれば、それは人権上問題があろうし、一般の社会通念の上から言っても倫理的に問題があるのではないだろうか。

              昔から厳しかった牧師(司祭)の生活
              それを支えたノブレス・オブリージュ
               確かに牧師の現場は厳しい。それは、18世紀のジェーン・オースティンの時代からそうであり、司祭(牧師)の娘は、はやくから、メアリー・ポピンズのようなナニー(家庭教師)となり、宿飯付の職業婦人として働きに出されるのが英国でごく一般的に見られた姿のようである。それほど、貧しかったのである。しかし、彼らを支えたのは、彼らの社会階層であり、出自であり、わけわからないラテン語が出てくる説教ばかりだ、と揶揄されながらも、一定の尊敬を集めた社会階層であったからだし、一般市民も牧師や司祭、海外伝道者ということで評価をしたからこそ、彼らは貧しくとも、ノブレス・オブリージュ(地位あるものに伴う責務)が彼らを支え、その結果として悲惨な状況にありながらも奉職したのだと思う。このあたりの精神世界は「炎のランナー」に表れている。あの作品が主張しているのは、実はこの部分なのだ。単なるスポーツ映画としてみてはいかんのだ。この辺、多くの日本のキリスト者はわかってあの映画を見ていないように思う。

               しかし、近代の行き着いた先のノブレス・オブリージュが成立しない現代日本という社会の中では、誰も潰れたくないんじゃないですかねぇ。だたでさえ絶滅危惧種のまともな神学生がさらに減るだけではないかと思う。

              なぜあなたは牧師を目指すのかが重要では
               「神からの招き」と「自分勝手な献身」の区別もつかない段階の若者がむやみやたらと勢いで神学校に行くことも問題だけど、また、牧師という職に永久就職するつもりで神学校に行く人も問題だけれども(これ、現実にあったらしい)、牧師を使い捨てにする教会って、どやさ。

              ノブレスであるが故の安息の重要性
               牧師になった後、ノブレスとしての評価のかけらも存在しない、信徒のレベルに議論と基準を無理やり引きずり落とすことを悪としない社会の中で、自己研鑽の時間と機会奪えば、牧師が充電切れ直前の携帯電話状態になるのは当たり前。プロテスタントの牧師には、相談する先すらないのが牧師の現実。

               そうであるとするならば、安息(サバティカル)は、牧会者のための霊的充足のためにあるような気がするなぁ。実に。

              信徒もすなり牧会
               いろいろご高説をお持ちの信徒の方には、一度、司牧職をしていただく方が、よほど健康的な解決策ではないかと、個人的には思う。「そこまで言うならやって見なはれ」と。そのうえでどうするかを検討してみればよいのではないか。

               最近はやりの中学生の就業体験の生徒さんを10年くらい前に職場で受け入れたことがあるのだが、その時、中学生が中学校の教師を軽くバカにしていたので、「そんならお前さんらに大人の前での講師させたるわ」と10人くらいの中学生に、「なぜ、中学生が学校に行くのか」ということを日本国憲法、教育基本法やそのほかの本を読ませ、考えさせたうえでPowerPointのスライドを作らせ、30人くらいの大人の前で20分くらい話させたことがある。彼らは、「二度とこんなことをしたくない」と言っていた。人前で自分の人格をさらしてしゃべることの現実の恐ろしさを味わったようだ。付言しておくと、その中学校からは翌年から私のところの職場に就業体験に来なくなった。

              キリシタンの時代に戻したら?
               キリシタン時代、迫害に耐えたのは、神父なしに教会運営ができたのは、コンフラリアという信徒共同体が存在したかららしい。上智大学の川村先生によると。当時のキリシタン信徒の数に比べて、司祭(神父)の数は極端に少なく、その結果、司祭たちは、日本国中の教会から教会へと(といっても九州中心)を走り回っていたらしい。そして、自分たちで自分たちのためのミサを自分たちでできることを実現できるように、各地に信徒集団であるコンフラリアを形成していったらしい。

               いま、わが国では牧師の数は激減しており、現実的に共同牧会や巡回牧会が地方部では当然になっている。そうであるとすると、それこそコンフラリアをどう形成するのか、そのためにどう司牧たちが動くのか、そのためにどのように信徒のための自立及び自律教育を進めていくのかの具体的な方策を考え、設計図を描く作業が、現在の日本で司牧達に喫緊の課題として求められているのではないだろうか。そして、司牧が司牧の本来の業務に立ち戻り、司牧としての役割をとりもろし(安部ちゃんふうで)、信徒と司牧の共依存関係(信徒は神の代わりに目に見える敬愛の対象として司牧を必要とし、司牧は自分の感情のはけ口、本来の聖書的でない愛や感情を向ける対象としての信徒を必要とするという共依存関係)を脱するために。
               
               目指せ、コンフラリア。



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              コメント:イギリス人のノブレス・オブリージュ観がうまく表現された名作。落日の大英帝国を感じることもできる耽美的作品でもある。

              2014.05.14 Wednesday

              キリスト者として親であることについて、たらたらと考えた。(2)

              0

                 今回は、最後を除いて読みやすいハズ。キリスト者の成功とは何か、ということを問うているので、やや難度は高いかも。最後はかなりきつめの毒入りです。

                --------再掲--------

                 Sojournersのブログ記事で、Stephen Mattsonという方が、大変重要なことを記事にして書いておられた。

                The Struggles of Christian Parenting

                主要な論点を拾うと、とこんな感じでせうか。

                サマリー

                Christian parents can easily become obsessed with sin and punishment, continuously blaming and penalizing themselves instead of accepting the grace and freedom of Jesus. Thus, we routinely beat ourselves up, unfairly seek unrealistic goals (like perfection), and become consumed with our mistakes.

                 キリスト者の親は、いともたやすく罪と罰に取りつかれてしまい、責め、罰してしまう。イエスの自由と恵みによって受け入れることなく。したがって、我々 は繰り返し自分自身によって打ちのめされてしまう。また、完全であることといった非現実的なゴールを不適切に求め、自分自身のその過ち(完全であることと 言った非現実的な目標の設定)のために消耗しきってしまう。

                There’s a lot of pressure to succeed ― and for our kids to succeed. But what does “success” actually look like?

                 成功するというプレッシャーが多すぎる。特に子供たちを成功させるというプレッシャーが強すぎる。『成功』ということは何を意味するのだろうか。

                This is probably the hardest thing about Christian parenting: wanting our kids to actually live like Christ.

                 我々の子供をキリストのように生きる(金儲けもせず、弱いものとともに生き、当時の常識に挑戦し、社会を変えようとする)ことを望むこと、それは、キリスト者の親にとって最も難しいことではなかろか。

                Unfortunately, successful Christian parenting doesn’t look anything like “success.”

                 残念なことに、もっとも成功したキリスト者の親業とは、(世の中の一般的な)成功といったものではないのである。

                Christianity isn’t meant to be a form of escapism. Rather, it’s embracing the truth. Realistically, God calls us to help a hurting world. As parents, are we willing to embrace this calling?

                 キリスト者であることは、離脱主義的であることを意味しない。いやむしろ、真実をわれらがうちに抱く者こそがキリスト者ではないか。現実的な視点からい えば、神はわれらを痛むこの世界の世話をするために、招き入れられたのではないか?親として、我らはこのCalling(召命)を自分自身のものにして しっかりと抱きしめているだろうか。

                -----------------------



                成功という神話


                 成功するというプレッシャーが多すぎる。特に子供たちを成功させるというプレッシャーが強すぎる。『成功』ということは何を意味するのだろうか。



                 ほんとにね。世間的な成功って、ほんとなんなんでしょうね。何かねぇ、アメリカ人だけかと思ってたら、日本でもなんですよね。出方がかなり違うけど。

                小学生から深夜まで塾ってドヤさ
                 一応最高学府ってとこの片隅で生活させてもらってますけど、そこで見ているとね。小学生くらいから、昼は学校、夜は10時まで、サラリーマンの酔っ払いのおじさんのとなりで塾友達と電車で戯れておられる浜G園とかN能研(あ、伏字になってないってしぃぃぃーーーー)のお子様たちっていらっしゃるじゃないですか。あれ見るとね、なんていうのかねぇ、この子たちの何人かの人生の先が少し見えてしまってね。

                進学校での落ちこぼれ
                 たとえば、お受験でうまくN中とかA布中や開S中とか、入るわけですよ。そしてね、そこで一生懸命やるけど、いろんな事情で落ちこぼれて学習意欲を失う子供たちってある程度の割合はどうしてもでちゃう。落ちこぼれないためにみんなわき目もふらず必死で走るけど、必ず一定割合で落ちこぼれちゃう。

                 そうすると、目も当てられない。公立の普通のところにいれば、クラスのトップクラスの成績で自信も持てたはずで、そこそこの大学は入れた生徒さん達が、え?この大学?ってところにしか引っ掛からない。中学高校時代に学習意欲喪失してるから。死んだ魚のような目して一応、最高学府であるはずの大学に入ってくる。大学に来ても、自分は駄目だ駄目だ、この程度の大学(それはその大学に行けない人にとって大変失礼な思いであるにもかかわらず)にしか合格しなかった、って思いを心の闇のように抱えてる。まぁ、どっちみちどの大学の大学1年生の半数程度は、大学に入って2週間後には、既に死んだ魚の目をして教室にやってくる。そんな彼らを見ていると、「『大学を卒業しました』というラベルというレッテルだけがほしくて大学に来てんだから、だから、後は自由に4年間くらい遊ばしてくれよ」なんだろうとは思いますけど。

                世間慣れしてない学生とカルト

                 大学に入るのが目的になってしまったその結果、大学に入ったと同時に息切れを起こして、目的を見失っておかしくなる学生も出てくる。麻雀やパチンコならまだいい(あんまりよくもないけど)。ちょっとかわいい女の子から、「精神世界を一緒に研究しません?」って言われて、「もしかしてだけどォ、もしかしてだけどォ、おいらに惚れちまってんじゃないのォ」と勘違いして、カルトの勧誘とも気付かず、まんまとカルトに引っ掛かって行く学生も出る。昔だったら、女の子と精神世界を探求できると思って、出会ったのが麻原尊師だったって人も一定数いたんじゃないかなぁ。一時期。

                 しょこ〜、しょこ〜、しょこしょこしょこう、麻原しょうこ〜って流行ってたしね。



                 最初に、このニュースクリップ見たり、政見放送聞いた時、ドン引きしたけど。あのグループ異様に名門大学の卒業生が多かったのも事実。なんかこの辺の成功意識と関係しているかもね。

                それでも学校に来ている学生さんと
                 死んだ魚のような目をした学生さんと付きあっていて思うんです。この学生さんたちは、つらい思いをして何を得たんだろう。得たものは、失意と絶望だけじゃないかって。でも、けなげにニートにもならず、引きこもりにもならず、学校に来てくれる。ニートやヒッキーにならないほうが不思議とすら思えるにもかかわらず。ま、卒業しないと、大学卒ってラベルを張ってもらえないというのもあるのだけれども。

                死んだ魚の目をした学生が
                キラキラした生きた目を見せる瞬間

                 でも、そういう学生さんたちがいてくださるからこそ、そこに希望もある。死んだ魚のような目をしながら学期初めに教室にやってきた学生が、講義期間中に一瞬、キラキラと輝く表情を見せてくれる。そこにかけるしかないのかな、という思いがミーちゃんはーちゃんにはあるのですね。

                 200人教室なんかの大教室じゃできませんって。10人くらいの教室で、バカ話も時にしながら、「おい、考えるってのはな、こんなにおもしれえんだぞ」ってやって初めて、この種の表情をごくたまに、チラチラと見せてもらえる感じがする。そんなときに、この仕事をしててよかった、と思うわけですよ。

                教会に侵入してくる
                 Dehumanization
                 

                 我々の子供をキリストのように生きる(金儲けもせず、弱いものとともに生き、当時の常識に挑戦し、社会を変えようとする)ことを望むこと、それは、キリスト者の親にとって最も難しいことではなかろか。


                 そう、資本主義の世の中で、キリストのように、弱者や社会から見捨てられた人と共に生きる、常識に挑戦し、社会を変えようとする、そんな甘っちょろいことしていたんでは豊かさの確保って言う生存競争に生き残れない。確かにそれはそう。でも、それは、下手をすると自分自身が人間でなくなること、自分自身で自分を人間でなくすること Self dehumanization(自己非人間化)なのかもしれないなぁ、とも思うのです。ここでのDehumanizationはジャン・ヴァニエや、NTライトさんが言っている意味で、本来神との関係にあったはじめて人間となることができるはずの人間が、神との関係が切れてしまい、人間でなくなることという意味で使っています。
                 いつのまにか、教会も資本主義の波に飲み込まれ、金銭的な、経済的な成功者であることが神の祝福かのように、他者を搾取してまで豊かであることを含め、神の祝福である、と誤解して語る人々が出てきてしまう。イエスは、本当にそういうSelf dehumanization を神のことばとして語りたもうたのか、と思うのです。しかし、人々が神とともに生きるということは、おそらく、イエスが語りたもうたことは、Self dehumanizationの対極にあるような気がするのだけれども。教会がそれを価値として、生き方として実際に示せているか、ミーちゃんはーちゃんがそれを価値として、そして、生き方として見せているか、というとミーちゃんはーちゃんはこころもとない。しかし、常識を疑ってみている、社会を変えてみようとしている、という一点に関してだけは、やって見せているような気もしなくもない。

                 ま、これは、ミーちゃんはーちゃんがこの世を去り、ミーちゃんはーちゃんの子供たちがこの世での最後の息を引き取るときに、神がご判断されることだと思うので、もう考えるのをやめている。そして、それも信仰の一部を形成するのではないか、と考え続けている。

                 ところで、Self Dehumanizationだけでなく、Dehumanizationが教会内に入ることもあるのではないかと思うのです。昨日緊急アップした記事ではありませんが、教会が人を使い捨てにし、献身者を使い捨てにするとすれば、それこそ、人間でなくする、つまり、Dehumanization ではないかと思うのです。そんなことを考えているときに、昨日緊急アップした「篠田真理子牧師再考」の記事に対応して、水谷さんが応答としての記事を上げてくださり、その記事の中にこのような自己反省についての表現がありました。

                 一先輩クリスチャンとして教会内の青年や学生、子どもたちに、クリスチャンホームの親として、子どもたちにどう接してきたでしょう?弱く未熟なのが当然の者たちを、パウロのように理解し、受け止め、活かしてきたでしょうか?それとも、成長の度合いも考慮せず、過剰な要求を突きつけ、それができなければダメ出しをして、潰すようなことはしてこなかったでしょうか?「聖書的正論」や「あなたのため」という名目で、将来ある者たちを潰すようなことはなかったでしょうか?

                 本来、篠田真理子牧師が狙っていたのは、教会と教会人のSelf Dehumanizationへのこのような視点からの自己反省でしょう。

                 まさに、先週土曜日の記事ではありませんが、人をつぶし、人を神から遠ざけるとしたら、それこそ、Dehumanizationではないかとミーちゃんはーちゃんは思うのです。そのようなDehumanizationされる方は、石臼を首にくくりつけて海の底に投げ込まれたほうがその人のためにとって良い(マタイ 18:6)、とナザレのイエスはおっしゃっておられるのではないかと。

                 その Dehumanization が教会の中でも行われかねない危険性、あるいは可能性、あるいは過去の黒歴史を水谷さんはご指摘なのではないかと思うのです。そのことに気付いている人はそれでよいのです。問題はそのことにすら気がつかない、「それで何か? 私は正しいことをしたまでなのですが…」という皆様方が一番問題のような気がするのですけれども、違うかなぁ。

                キリスト者の親業の成功と
                本当は神に近い人たち

                 残念なことに、もっとも成功したキリスト者の親業とは、(世の中の一般的な)成功といったものではないのである。


                 そうですね。まぁ、キリスト者の成功、すなわち世間的な成功と間違えておられる方も時におられる。神とともに生き、神に抱かれて生きる生き方、それこそが成功だとすれば、近代社会の中で近代社会がある面意図的に周辺に社会的措置として周辺においてしまったがために、周辺におかれてしまった障害者の方のほうが、世間から相手にされておられない方のほうが、よほど成功しておられる方々もおられるのではないか、とも思ってみたりもするのです。ジャン・ヴァニエの書いたものなどを読んでいると。痛みの中にこそおられるナザレのイエスを見出すという意味では、よほど痛む人、悲しむ人の方が成功者となる距離は近いと言えるのではないか。世俗的な意味では、到底成功者とは言えないけれども。そんなことを考えているうちに、イエスの山上の説教を思い出してしまいました。


                マタイ5章3-6節

                 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、
                   天の国はその人たちのものである。
                 5:4 悲しむ人々は、幸いである、
                   その人たちは慰められる。
                 5:5 柔和な人々は、幸いである、
                   その人たちは地を受け継ぐ。
                 5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
                   その人たちは満たされる。


                 まさしく、イエスにとっての成功者を、山上の説教の冒頭部で、ナザレのイエスは語っているように思う。

                 心に痛みを抱えるもの、悲しむもの、義に飢え渇くもの。これがナザレのイエスの言う成功者なのだろう。到底、この地上的な意味での成功者とは言えないが。絶望の中におられるイエスこそ、精神的にも肉体的にもボロボロになり、見る影もない姿で十字架の上で神とのコミュニティからの断絶を経験した時こそ、神の支配の中における成功者となられたことを覚えたい。

                --------------毒入り注意----------------

                ドクロ 毒団子は、用量、用法を守ってお召し上がりください。ピンぽ〜ん。ドクロ 

                ----------------------------------------

                山上の説教はキリスト者に無関係?
                はぁ!?

                 山上の説教で思い出したが、先日ある教会のイベントにお邪魔した時にお久しぶりに会う知人のある信徒の方から尋ねられた。その方から、「山上の説教は、ユダヤ人に語られたから、今を生きる我らキリスト者には関係ないのではないか」というお問い合わせを受けた。

                カッペ聖書理解はやめませう
                 もう、この強烈な聖書カッペ(Cut & Paste)理解(山上の説教はユダヤ人向け、キリスト者には関係ない理解)をお聞きした時には、吐き気がしたし、体がわなわなとふるえた。そのあまりの無謀さに。

                旧約聖書ガン無視の聖書理解ってドヤさ?
                 誰や、こんなアホな聖書理解を広めているやつは。イエスのことばこそ、イエスがことばとしてこの地上に来たことこそ、いのちをかけてこの地に来てお話しになられたことこそ、重要なのではないか。キリスト者にとって重要なのは、ナザレのイエスがことばとして、神がこの地上に来たことではないか?というヨハネの福音書の冒頭部をまるで無視するかのようなカッペ聖書理解体系。旧約聖書ガン無視の聖書理解の体系。そんなカッペ聖書理解に浸っていたら、書割、それも、模造紙に書いた聖書理解になる書割のような薄っぺらい信仰生活になるじゃありませんか。

                 お尋ねいただいた方は朴訥で純粋な方だったので、この理解は、この方の中から出たものではなさそうだったので、「そのような一部のみを切り出すような聖書理解は、聖書全体をひずめますから、お止めになられたほうがよろしいのではないでしょうか」とか、「そもそもイエスご自身は、『律法の一点一角も落ちることはない』とおっしゃっておられるではないですか」、「イエスご自身ですら、『律法と預言者は、神を愛せ、隣人を愛せに要約できる』と旧約聖書の重要性をおっしゃっているではないですか」とか、かなり丁寧にお話ししたんですけれども、しかし、そんな素朴で良心あふれんばかりの人に、こんな聖書理解を流すなんて、もう悪意すら感じてしまった。なんてこったい。

                 また、まいったのが、このお尋ねいただいた方、ドクターと呼ばれたロイドジョンズの『山上の説教』(上下)を読んでおられる、ということなのだ。そのうえでの、山上の説教不要論である。まぁ、ドクターの『山上の説教』をお読みなのに、どこぞの方から、不要論を吹き込まれたので、『???』となっておられたからこそ、このことをミーちゃんはーちゃんにお尋ねになられたのだろう。

                 新約聖書にせよ、旧約聖書にしても、カッペ聖書理解は実にまずいということを思った次第。諸賢、ゆめゆめカッペ聖書理解に御走り召され給わぬことを。

                ------------------------------
                 以上、毒団子部分。以下は安全
                ------------------------------

                次回最終回へと続く。


                 
                評価:
                ジャン・バニエ
                あめんどう
                ¥ 1,296
                (2010-08-20)
                コメント:よい。

                評価:
                ジャン・バニエ
                新教出版社
                ¥ 2,052
                (2005-10)
                コメント:HumanizationとDehumanizationを考えるカギになるかも。

                2014.05.15 Thursday

                今月号のMinistryを読んでみた。

                0

                   今日も定例公開外の緊急公開。今日は毒はないとおもう。中身的にも、雑誌の紹介記事なんで、読みやすいと思う。

                  なかなかの充実の1冊

                    今日の夕方、Ministryを入手して読んでみた。今回も、なかなかの充実っぷり。なかなか元気がある雑誌で御座った。

                  特集 信徒力をはぐくむ

                   まず、特集は信徒力をはぐくむ。

                  信徒が主体的に取り組む教会
                   バプテスト派の教会と日本キリスト教団の教会がどのように教会運営に信徒が主体的に関与しておられ、信徒が教会運営に寛容にするようになったのかの経緯が説明されていた。もともと、わが国(米国と英国では、もう牧師がいるところがかなりある)では無牧を旨とし、無牧を誇りとしてきた(これはいまいちかもしれない)信徒力だけで持っているかのようなわが教派にはほとんど関係ないかな、と思いきや、この中での一番重要だなぁ、と思ったのは、主体的に関与してもらう、という側面である。如何にフラットな組織で自主的・主体的参加できる組織を創り出していくのか、ということとその経緯が紹介されていた。

                  信徒の参画の前にすべきこと

                  教会のミッションステートメントの明確化

                   この中で、重要かな、と思ったのは、教会として目指すべき方向性を共有することを優先した、という点である。これは大事だと思う。就職活動の支援を職場でしているのだが、就職活動にきっちり失敗する学生の問題は、生きる、就職するということにおいて、このミッションステートメントがいい加減なことなのである。(これに関する記事は、こちら)

                   私のいまいる教会は宣教師の方がいわば個人商店のような形での開拓伝道として始まったのだが、宣教師の帰国が現実味を帯びてくる中、規約づくりをした。自分たちの信仰告白は何か、自分たちが伝えようとすることとは何か、サクラメントをどうするのか、サクラメントから漏れる行為をどうするのか、かなり詰めて考えたし、それを法人(一般社団法人)化する際にも、再検討した。

                   こういう作業って、疲れるけど、それに見合うものはあるような気がする。通り一遍の教会規約を流用するのではなく、それを自分たちの言葉に置き換えていく、そして、他者(役所・法務局)にわかる言葉に変換していく作業というのは、非常によい経験となったことを思い出した。

                  「私(イエス)についてきなさい」を楽しもう

                   あと、日本キリスト教団の例で印象的だったのは、「好きだから自主的にやっているの。もう、これが生きがいね」という女性信徒の声や食事の準備係の方の「実は結構アバウトなのよ。だから気楽にできるの!」や「新しいことを試したりしてね」というリアルな声であった。教会の必要な奉仕は係を決めて、担当が淡々と実施、というのが一般的であるが、こういうゆるさと自主的参加をイエスは、「私についてきなさい」という言葉の中で、呼びかけておられるのではないかなぁ、と改めて感じた。

                   必要がある、誰かがしなければならない、係を決める、硬直化する、伝統ができる。これではまるで、お役所であり、大企業病もそりゃ教会で発生するわ。

                  ボランタリー組織論からの教会の視点と具体的ヒント

                   実は、このボランタリー組織論、経営学の組織論的分野でも比較的新しい分野であり、実はいまだにかなりカッティングエッジなのであるが、それを教会版でやって見せたところに今回の特集の美点がある。
                   チームビルディングは、これまた、一般システム理論の守備範囲なんで、ミーちゃんはーちゃんの専門に近いところなんだけれども、この種の方法論に関しては、もうちょっと情報論的な観点もあったほうがよかったと一言苦言。ま、一般向け雑誌だからしょうがないけどね。

                   この特集に関して言えば、あと一言、カトリック教会が信徒中心の教会運営方法の一つの方法論としてキリシタン以来の伝統をもつ「コンフラリア(信徒の組)」を目指そうとしているらしいことを書いておいてほしかった。

                  隠れ特集 地域に生きる 
                  福祉と教会
                   あと、地域に生きるキリスト者として地域とどうかかわっていくのかが隠れ特集になっていて、「教会と福祉のこころ」では高齢者ケア、「牧師たちの日常」では、幼児教育、座談会では、『教会と地域福祉』の未来と題して福祉を解した地域に生きる教会信徒の取り組みをどう考えるのか、ということが取り上げられており、神の国の義をどう地上で不完全な形であっても実現するのか、ということのヒントが得られるかもしれない。

                  今回も充実の連載

                   今回の出色の連載は、越川先生の「ワタシの礼拝論」における「礼拝=説教付き讃美大会」ww から脱出するための聖餐の重要性と聖餐と礼拝論の関係の提示と、説教鑑賞であげられたリチャード・リシャー氏の「誘惑」に関する説教の解説である。

                  説教の中でふれられた福音派あるある

                   特に、リシャー氏の説教では、ファンダな人たちに分類されるファンダメンタリストの一角に隠棲するものとしては、やられた、という感じである。あいさつ言葉がわりに無神経に「『救われましたか?』と聞くのである。」まるで、福音派あるある、を指摘された感じである。ファンダメンタリストは牧師だけじゃなくて、平信徒もこれやるからなぁ、確かに。

                   なお、メインテーマの誘惑に関しては、NTライト読書会でご紹介いただいた、主の祈りの論文の中でNTライトがふれている試みる(ペイラスモス)とのかかわりが非常に強かった。その時の読書会の参加記録はこちら

                   なお、他の連載も充実である。

                  天の国の種、出版記念対談
                  おもしれ~~~
                   最後に一言、特筆すべき記事を。バーバラ・ブラウン・テイラーの『天の国の種』の出版記念対談も、非常によろしい。このバーバラ・ブラウン・テイラーは、ツイートを追っかけているさんから教えてもらった、彼女の名言『人間は、自分たちが神を守っていると思う時以上に互いに対して残虐な行為をすることはありません。』があって気になっている人でした。この特集記事の訳者の古本さんによるとこの本を読むと以下のようなことが理解できるらしい。

                   一言では言えないけれど、言おうとするなら、「説教が生きている」ということで説明できると思います。
                   (中略)
                   会衆が疑問に思うことを素直に神様にぶつけて、「こんなわけないでしょう?」「神様、どういうおつもりなんですか?」とクエスチョンマークをいっぱいつけて、バーバラが代わりに神様に聞いてくれる。その答えが書かれた文章として返ってくるのではなくて、会衆が共感できる彼女自身のいろいろな経験やお話しを通して聴き手の中へ帰ってくる。だから会衆は説教者に教えられたという気はせず、聴く人のイマジネーションから答えが見いだされるというような、そういう不思議な力がある。(p.84)


                   まるで、ドクターと呼ばれたロイドジョンズの説教を読んでいるような感じになるのかもしれない。早速これは買わねば。

                  社運をかけたバイブルハンター?

                   今回のMinistryで一番驚いたのは、バイブルハンターの見開き広告。バイブルハンター、キリスト新聞社さんにとっての社運をかけたプロジェクト?的なのりが見えておもしろかった。遊んでみたけど、なかなか面白かったよ。もう一つ最近某キリスト教系出版社から出たのより、シンプルだけど奥が深いような気がする。

                  のびやかさ、ゆるやかさ、があふれる雑誌
                   あと、この雑誌には、他にも数多くの面白い連載もあるし、「禁じられた遊び」のDVDがついて、1500円となかなか戦略的な価格を狙っているあたりが、この雑誌のよさかなぁ。ね、のびやか、ゆるやか、・・・って広島の女子大で編集長、こないだの講演でも言ってたしね。早くニコ生であんときの爆笑トーク、公開しましょうぜ。

                  お勧めの1冊

                   お勧めの1冊である。もう、この記事を読んだはあなたは1620円(税込)を握りしめて、お近くのキリスト教書店にGoである。あわてなくても、在庫はあるとは思いますが。




                  2014.05.17 Saturday

                  キリスト者として親であることについて、たらたらと考えた。(3)最終回

                  0
                      今回は、割と短くて、読みやすいハズ。とはいえ、キリスト者が神にまねかれているその究極の目的とは何か、ということを問うているので、難度は高いかも。ただし、今回は無毒。ちょっと塩味くらいは効いているかもしれないけど。

                    --------再掲--------

                     Sojournersのブログ記事で、Stephen Mattsonという方が、大変重要なことを記事にして書いておられた。

                    The Struggles of Christian Parenting

                    主要な論点を拾うと、とこんな感じでせうか。

                    サマリー

                    Christian parents can easily become obsessed with sin and punishment, continuously blaming and penalizing themselves instead of accepting the grace and freedom of Jesus. Thus, we routinely beat ourselves up, unfairly seek unrealistic goals (like perfection), and become consumed with our mistakes.

                     キリスト者の親は、いともたやすく罪と罰に取りつかれてしまい、責め、罰してしまう。イエスの自由と恵みによって受け入れることなく。したがって、我々 は繰り返し自分自身によって打ちのめされてしまう。また、完全であることといった非現実的なゴールを不適切に求め、自分自身のその過ち(完全であることと 言った非現実的な目標の設定)のために消耗しきってしまう。

                    There’s a lot of pressure to succeed ― and for our kids to succeed. But what does “success” actually look like?

                     成功するというプレッシャーが多すぎる。特に子供たちを成功させるというプレッシャーが強すぎる。『成功』ということは何を意味するのだろうか。

                    This is probably the hardest thing about Christian parenting: wanting our kids to actually live like Christ.

                     我々の子供をキリストのように生きる(金儲けもせず、弱いものとともに生き、当時の常識に挑戦し、社会を変えようとする)ことを望むこと、それは、キリスト者の親にとって最も難しいことではなかろか。

                    Unfortunately, successful Christian parenting doesn’t look anything like “success.”

                     残念なことに、もっとも成功したキリスト者の親業とは、(世の中の一般的な)成功といったものではないのである。

                    Christianity isn’t meant to be a form of escapism. Rather, it’s embracing the truth. Realistically, God calls us to help a hurting world. As parents, are we willing to embrace this calling?

                     キリスト者であることは、離脱主義的であることを意味しない。いやむしろ、真実をわれらがうちに抱く者こそがキリスト者ではないか。現実的な視点からい えば、神はわれらを痛むこの世界の世話をするために、招き入れられたのではないか?親として、我らはこのCalling(招き)を自分自身のものにしてしっかりと抱きしめているだろうか。

                    -----------------------

                    この地において生きるキリスト者

                     今回は最終回なので、キリスト者像と直結する部分を、少し掘り下げて考えてみたい。特に神のことばにこの地において生きる、という意味で、離脱主義との関係を考えてみたい。

                     キリスト者であることは、離脱主義的であることを意味しない。いやむしろ、真実をわれらがうちに抱く者こそがキリスト者ではないか。現実的な視点からいえば、神はわれらを痛むこの世界の世話をするために、招き入れられたのではないか?親として、我らはこのCalling(招き)を自分自身のものにしてしっかりと抱きしめているだろうか。

                     上記の文章を読みながら、この指摘は存外重要かもしれない、と思ったのだ。というのは、キリスト教会の一部には、「この世」とか「世的」と言って、神が愛したもうた、そのために御子を惜しまずに差し出し給うた世界を、宣教の対象、救済の対象としか見ず、一段格下に見ている部分があるのではないか、と思ったからであった。

                    誰に抱きとめられるか?

                     同志社の神学部ご出身で、筑豊炭鉱地域で伝道しておられた犬養伝道師も、最初の伝道活動のころはそういう理解で伝道していた、ということを先日の放送で述べておられた。しかし、炭鉱地帯の人々とともに生活し、様々な人と出会う中で、犬養伝道師自身が、
                    地の人々に対する「善きサマリア人」になられたのではなく、犬養伝道師の周りにいた産地の人々が犬養伝道師にとっての「善きサマリア人」になっておられ、地の人々の中にナザレのイエスを見た、ということをおっしゃっておられた。この宣教の現場からの厳しい現実に立った人のみが言えるこの指摘は実に大きいなぁ、と先日の「こころの時代」を見ながら思ったのである。

                    「地を従わせよ」とケア

                     ここで、Stephen Mattsonさんが言う、「世話をする」「Careする」というのは、上から目線で世話するのではなく、その場に共にいて、この地上における生きとし生けるものを慰める、包摂する、気にかける、目配りをする、ということなのだろうと思う。それが、新共同訳創世記1章28節

                     1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」


                    における「従わせる」、「支配せよ」って意味だと思います。その意味で、地を慰めよ。地を憐れみをもって接しなさい、Embraceしなさい、抱きとめなさい、って意味なんだろうね。多分。この部分の誤読がひどくって。「どうせ世は捨てられるんだから、やりたか放題やっていいい。私たちがこの地の支配者です」って言うキリスト教徒の方もおられるのがねぇ。新約聖書における神の国は、そもそも神の支配って意味にも取れるらしいんで、それは、神の憐れみによるこの世界への関与、慰めによる回復としてのこの世界の関与ってハズなんだけれども、聖書の意図がどうも伝わってないような気がするのは多分、私だけかもしれない。

                    「ケア」と「抱きとめること」
                    そして「抱きとめられること」

                     マクグラスさんが、下記に紹介する日本での講演の中で、聖餐はEmbracement(抱きとめること、包摂です)っておっしゃっていたのが印象的でした。わたしたちは神によって、Embracement(抱きとめられた)ことを聖餐式によって記念し、神によってEmbracementされた私たち
                    信徒からなる教会は、この地において、いまここで生きておられる神、地に臨在されたもう神が愛したもうたすべての人々に対して、神が憐れんでおられることを以て、この地とその住む人々をEmbracementする、そして、この地にともにすむ方々からEmbracementを受ける、その結果として、人々と共にいる、ともに時間を過ごす、友となる、というその構造をもう少し考えたほうがよいのかもしれませんね。

                     そして、子育てするってのは、子供を抱きとめ、子供に抱きとめられながら、
                    子供と一緒に神の民として歩んでみるってことかもしれません。

                     これにて、このシリーズは終了でございます。


                    犬養 光博
                    日本基督教団出版局
                    ---
                    (1981-05)
                    コメント:凄みのある文章でした。

                    評価:
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                    コメント:この中で、聖餐はEmbraceだというマクグラスさんの主張が聞けます。大絶賛。

                    評価:
                    H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
                    あめんどう
                    ¥ 1,944
                    (1997-09-20)
                    コメント:よいよぉ。ほっとする。

                    2014.05.21 Wednesday

                    NTライト Kansasで語る(1)

                    0
                      結構重要なネタをしていると思うので、メモ代わりにするだけじゃもったいないんで、皆さまにもちょっとシェアしようかと。

                      元ネタは、こちら、から



                      Facebook上で、約ひと月前、NTライトがKansasでの講演を紹介していたので、聞いてみた。聞きとりながら概要をまとめるとこんな感じかも。

                       オープニングは、アメリカのユニテリアンでのイギリス人のアクセントのみが受けたとジョークの話をしていた。

                       パウロが言っている福音の宣教について話す予定であるとまず宣言。

                      福音ってこんな感じだったかも

                      福音とは、ある人にとっては非常に喜べるけど、別の人にはチンプンカンプン。
                      このことを
                      アトランタ滞在中にイングランドがオーストラリアに勝った時の話でしていた。
                      アメリカ人はきょとん、となりにいたオーストラリア人はふしぎそう。大英帝国にいる娘は大喜び。
                      (ラグビーのギャグやや滑り気味かな・・・。イギリス人だったら爆笑だと思うけど。)

                      GoodNews(福音)とはそんなものだ、ということで、福音というのがどういうものかの解説
                      福音の根幹に何があるかの議論
                      福音とはまったく新しいものだった
                      復活はないとした、復活が信じられないドイツ人学者との対話
                      復活が新しい意味を人々に与えた。復活や福音はStrange Gift
                      あまりに素晴らしいので、どこに行けないわからないほどのプレゼントに似ている。
                      新しい神の知り方を与えたものと言える
                      愚かでスキャンダラスだった福音
                      重要な3つのこと

                      神を知ることと天と地がつながるところ、
                      神を指し示すところである教会

                      ◆神とは何か?神を知るとは何か?
                      Godと言うことばは?付きでギリシアでは議論されたものであった
                      ネルソンマンデラとセルフィーする神が描かれたマンガの話で天国とはそんなもんじゃないという話。
                      天と地が結びついている、わかれているわけではない。
                      Unknown Godは現代の存在している。
                      カテドラルに来る刊行客や見物人など多くの現代人は、Unknown Godと同じでは?
                      娘の友人で
                      無神論者がカテドラルを回った後、泣いていた。意味もわからなくても感動していた。それはカテドラル自体がイエスを指示していたから
                      まずイエスを見ることで、神が見えるのではないか。その重要性。
                      天と地が一つになるということの重要性。

                      正義、公義とイエス
                      そして教会

                      ◆正義に対する若者の情熱
                      民主主義と正義との関係
                      アメリカ人いじると受けるアメリカ人
                      イザヤ11章
                      イエスと正義との関係
                      ローマ8章に示されたパウロのビジョン(すべてが新しくの意味)
                      痛みや悲しみがあるところに立ち、祈ること、神の愛と平和を伝えること、それが教会の目的。薄っぺらい勝利主義を伝えるところではなく(禿同)
                      18世紀(啓蒙主義)が変えた神の理解
                      天に行く方法を伝えることもいいけど、正義をどう実現するかも福音なのではないか。
                      Powerの再検討としての福音が存在
                      イエスは、地獄に入れるためのいじめっ子としてきた神ではないよ。

                      西側の教会の危機とアウトリーチ
                      ◆西側の文化の現在の危機と機会

                      Postmodern DentistとPreModern Dentistのギャグ(虫歯を直すのに、近代前の治療方法でも嫌だろうし、どうなるかわかんないような変わったポストモダンの治療を受けるのも嫌だろう。現在の治療を受けたいのではないか)
                      18世紀が世界観を変えたとしているが、そもそも新しい世界が生まれたのは、イエスが復活した時だろう
                      モダニストの問題Progress哲学(エピキュリアン思想)の問題
                      キリスト者の物語は愛の物語であり、権力の物語ではない。
                      どのように世界が変わっていくのか、キリスト教が変えていく世界のものがたり
                      2-3世紀のローマ迫害下でクリスチャンになった普通の人々
                      貧しく病気の人々が教会で教育とケアを人々に与え始めたのが教会。
                      だからこそ、ローマ時代に人々が教会に集まった。
                      Bishopの業務仕様書(聖書)にある病者と貧しい人々のケア
                      愛を求めて人が集まり、そしてそれが教会の外に流れ出ていった。
                      理論に関する議論に勝ったからではない。
                      知恵とヴォケイションを求めて祈ることの重要性
                      これはモダニスト、ポストモダニストが語れない物語、愛の物語を生きるべきではないか。(なんか、ボンフェファーの話を聞くようだ)

                      質問タイム
                       Q復活についてKingdom is still contingentという問題。
                       Aイエスは、復活後、宇宙旅行したのではないミーちゃんはーちゃん 大爆笑)
                       天とは、CEOオフィスのようなものだ。そこに権威が存在し権能をもつ人物がいる
                      (超わかりやすい)

                       神は、戦車を送って解決するのではなく、山上の説教の方法で解決する

                       QNTライトは何をしようとしているのか?
                       A西側の人々はステレオタイプなキリスト教イメージをもっている。
                      それを打破しようとしている。
                      (そうしてください、日本のキリスト者のためにも)


                       Qパウロが律法Torahについていることについて
                       A神の裁きについて 物語がレイヤを重ねるようにパウロは書いている。
                        神の不思議な目的をお持ちの方である。
                       神は悪いことしか律法で言ってないという理解がクリスチャンに蔓延しているのは問題

                        カルバン派とルター派の理解の違いが存在。
                        アブラハムの家族が、問題と解決を両方とも併せ持って生きている。(これ重要)
                        アダムの問題でもある。

                       Q教会と社会的正義について? マーケティング的なキリスト教への対応はどうすべきか?
                       A問題を抱えた地域での学校経営に乗り出した話から得られた知見。
                      あれた地域にある荒れた公立学校を教会立学校に変えたときの経験。
                      教会立になって、授業にきちんと来る教員になったこと。
                       このように社会において様々なキリスト者の生き方を通してインパクトを与える
                      (賀川豊彦みたいだ。)



                      こんな感じでしょうかね。()はミーちゃんはーちゃんによる。

                      感想
                      スケールの大きな聖書理解

                      やはり、復活が軽く扱われることは問題なのだ、と思った。復活こそ、世界の大転換点であり、ノアの洪水のときに天から上の水がどっと流れ込んだように、イエスの十字架の時に点から神の国の一部がどっと流れ込んだんだろうなぁ、と思うてしもうた。スケールでけぇー。

                      天国教だけじゃダメみたい
                      この地上で、神の国と地が結びついたのだろう。だってイエスは、ルカの福音書で、天の国はあなた方のただなかにある、とおっしゃっておられる。そのことの意味を味わいたい。そうか、天国教だけではいかんのだなぁ。内村先生スマソ。内村先生は、御自身のことを天国教だと書いておられるが、それじゃいかんのです。「この地でも神の国」教、『この地における神の国支配」教でないと。

                      教会という建物再考
                      以前にも、「
                      教会という建物について考えた」や「教会とオープンネス ー現代社会における教会」というブログ記事でも既に指摘していることではあるが、教会の建物すら、神の国を指し示すべき、ということは考えるべきかもねぇ。教会堂は西洋建築の華、大輪の薔薇か牡丹みたいな存在なのよ。建築業界では。でも、この西洋建築の華、日本ではあまり大事にされてない気がする。そりゃ、しょうがないんだけどね。よくわからずに使ってきたし、建築してきたから。ソリャ、腐っても2000年近く宣教地であれば、それなりの者ができるんだろうなぁ。形ばかりまねしても仕方がないんだろう。

                      教会は何をする場か?
                      しかし、天国に行くということも語ることも大事だが、
                      それとともに、痛みや悲しみがあるところに立ち、祈ること、神の愛と平和を伝えること、それが教会の目的と解説しているところはいいなぁ、と思った。まるで、ナウエンの本、ジャン・ヴァニエの本を読んでいるみたいだった。教会は、薄っぺらい勝利主義を伝えるところではなく、重厚で、濃厚な神の愛を不完全な形ながらあらわすところである、というように聞こえた。福音の中に地上における正義を含むというところは、非常に重要な視点であると思う。これは、カンポロやSojournersのJim Wallisとの主張と共通性があるように思えてならない。

                      語るなら基礎を抑えて語ってほしい
                      また、最後の部分で、教会は、そしてキリスト者は
                      愛の物語を生きるべきではないか。という部分の解説は、なんか、ボンフェファーの話を聞くとこうだったのかなぁ、というような印象を本気で受けた。

                      このことについて、ある方のツィートをうけて

                       
                      NTライト君によれば、教会ってのは、神の愛が社会の外側に流れ出ていくところなのだそうで。権力のコミュニティではなく、愛のコミュニティであり、神の愛がこの世界を変えていく物語のプレーヤーなのだそうで。キリスト教の愛が世界を変える現実を示す場見たい。」


                      と書いたところ、

                      社会への影響力の達成のために、牧師が政治・経済評論家のように社会情勢を説教することはどの程度効果があると思いますか?」


                      と尋ねられたので、個人の考えとして、

                      あまりないと思う。よほどちゃんと勉強してない限り。教会は愛のコミュニティをまず説くべきで、牧師の経済現象に関わる床屋政談の場にするのは、あかんやろ、と思う。」


                      とつぶやいた。このつぶやきは、牧師が発言してはならん、ということではない。発言するなら、近代経済学、ミクロ、マクロ、(マルクス経済学も一応)、厚生経済学の基礎を抑えたうえで語ってほしいということなのだ。

                      学部の1―2年生でわかる基礎的初歩的な議論を踏まえずに、それらの理論体系を無視して情念で経済現象を語れば、基礎的なことを学んだ、ちょっとまともな学部生からすれば、「この牧師先生の議論は信用ならん、ひょっとして、語っておられる聖書の内容までもおかしいのではあるまいか」とならないだろうか。扇動されやすい人々ならいざ知らず、一応最高学府であることにしてもらっている大学で学んだことになっている以上、批判的思索をするのは当然だと思う。それを「牧師のいうことを聴けないのか」と逆切れするなら、もはやカルト一歩寸前だろう。敬愛するマクグラス先生は、薄いけどいい本で、Doubting(疑うこと)という名著を書いておられる。

                      面白かった質疑応答

                      後、質疑応答が面白かった。イエスは復活後天に昇ったことに関して、宇宙旅行したのではないと言ってみたりするところは面白かった。あと、旧約聖書の「天」、すなわち神がおられるところ、神の御座、をCEOがいるところ(社長室)みたいだ、と言ったのには、うまい、と思ってしまった。

                      あと、パウロの律法理解も面白かった。特に、
                      アブラハムの家系につながる、イスラエル民族自体が神に逆らい続けるという問題と神がそこに臨在するそして、イエスが神として臨在するという解決を両方とも併せ持って生きている、それがモーセ5書の主張という視点は、非常に重要だと思った。

                      しかし、ライトってのは大英帝国人らしい
                      大英帝国人。元ダラム司教だから、当たり前か。ブラックジョーク好きってのがね。しかし、大英帝国人風のジョークはアメリカ人の若者には受けないなぁ。この回の講演では、結構、滑りまくりに滑ってた。笑っていいよ、ここは笑わないと、って突っ込み入れたかったなぁ。




                       
                      評価:
                      Alister E. McGrath
                      IVP Books
                      ¥ 1,415
                      (2007-01-30)
                      コメント:薄いけどよいよぉ。英語もそう難しくはない。

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