2014.04.01 Tuesday

ご愛読の感謝と2014年3月の人気記事

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     掌に痺れが走るのがひどかった昨秋より、ブログ更新をやめていたら、ブログへのアクセス数が、昨年11月ごろから次第に下がっていき、

     2014年1月  5782アクセス

    となったものの、2月12日以降、アクセスがなぜか増加し始め、最終的には、

     2014年2月  7495アクセス

    今月はとうとう、月の前半は全く何も書きもしていないのに、一日アクセス数が、500を切ったことがなく、今月の最低アクセス数でも400越え(mjd)(*_*;  
     しかしてそのアクセス数やいかに…。

     2014年3月  20499アクセス。

    じぃ〜〜〜ん。皆さん、ありがとうございます。記録更新でございます。

     なお、過去の最高記録は、2013年6月の記録18107アクセスでしたので、記録更新でございます。ありがたや、ありがたや。


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     D.L.Moodyの後方乱気流                総アクセス数 862 

     よいものを求めることについて、ちょっこし考えてみた。 総アクセス数 555

     「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。        総アクセス数 507

     日本のキリスト者の教理的視野狭窄について(2)     総アクセス数 507

     説明不足な教会用語からたらたら考えた(1)       総アクセス数 494

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    Moodyがぶっちぎりで一番なのが、何となく微妙だなぁ。

    来月も引き続き、ご清覧をお願いいたし度候。
    2014.04.02 Wednesday

    「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(1)

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      はじめに
       少し前の記事、愛をめぐる一断章と題する記事で、教会に来ている人が、「私を愛してくれない」と自己愛の実現として、教会の構成員からの愛を求めるという問題について触れた。そして、教会はまず、神への愛の集合的表現の場としての神への礼拝の場であり、まずもって神への礼拝があり、そしてその次に人への愛があるのではないか、また、神の愛は、一方的で無制限であるとはいうものの、それには、神の愛への応答として、神に立ち戻ることを神が求めておられるということを触れ、この辺りの聖書理解をきちんと教会は構成員に何らかの形で伝え、理解を深めていただくことが必要ではないか、ということを述べた(つもり)。

      こうなる背景

       しかし、それと同時に、少し考えてみると、前回指摘した、教会で語られている、特にキリスト者でない方に語られている聖書からのお話しとして提示される『神の一方的な愛に、無制限の愛』ということに関する受け手(聴きて)の側の誤解、語り手側のミスリーディングな提示の影響もないといえるだろうか。

       非キリスト者である来会者の勘違いも、確かに影響しているものの、非キリスト者の方へのキリスト者側からのアプローチにも課題があるのではないか、とも最近思うようになってきた。そして、この背景には、日本の宣教、とりわけ、15年戦争以降の日本の宣教が経済的に豊かな国、特に、アメリカや大英帝国出身の宣教師による伝道を背景としていることも影響しているのではないか、と思うのだ。これは、また後日改めて記事にする予定なので、今日は、日本の教会のキリスト者の非キリスト者へのアプローチについて触れてみたい。

      背景の一つとしての教会の現状と
      非キリスト者へのアプローチ

       日本の教会は、現在もなお、永遠の宣教地であり続ける日本という国の中での伝道所としての側面が強い。地域に根差した、地域住民のための神への愛の表現としての礼拝の場所という側面よりも。なにせ、カトリック、プロテスタント、正教会合わせても、どうあがいても人口の1%にも達しないし、現実には、教会人口が人口の高齢化とともに減少しつつある。地方部では、教会員の高齢化と減少はその壮絶な現実に目を覆いたくなるほどであるし、都市部であっても、じわじわと、教会員の高齢化と減少が進んでいて、これらは教会の展望をあまり明るいものとさせない部分があるように思う。
       そんな環境の中、新しい来会者(ただし、普通に見える、あるいは一見まともに見える来会者に限ることという条件付きの場合が多いようだが)があった場合、牧師はもちろん、教会員は感動と、神への感謝を覚えてしまうのではないだろうか。素朴な感想として。それは当然だろう。

      努力の実と誤解される来会者

       一生懸命チラシのポスティングや路傍伝道を含め、アウトリーチの努力を手を変え、品を変え、いろいろ努力しても、非キリスト者の来会者がほとんど増えない環境の中で、非キリスト者の来会者がふらっと、あらわれれば、「神様、本当にありがとう」といいたくなる牧師先生の気持ちは本当によくわかる。そして、一見まともに見える新しい非キリスト者が高校生や大学生の若者だったら、もう、テンション・マックス、「梨じるぶしゃー」とふなっしーのまねくらい、したくなるのは、当然ではないか。

       なに、こんな気持ちになるのは牧師先生だけではない。苦節何十年、先代、先々代の牧師時代から、夏は額に汗し、冬は寒さに凍え、篤き祈りをささげる夜を幾夜も繰り返し過ごしてきた年配の信徒や長老などの責任者の方々も、「新しい来会者が参加したのは、自分たちの宣教の努力が実を結んだ(努力したから報われた、というのは発想がおかしいような気がするのは、ミーちゃんはーちゃんの頭が悪いせいだろう。多分)」というようなお気持ちになられ、アルファベット一文字牧師でなくとも、「ハレルヤー」の一言ぐらいとは言いだしたくなる気持ちも理解できなくはない。

       なお、ミーちゃんはーちゃんは、性格がひずんでいて、すぐに斜に構えてしまうので、こういうことは出来ない。

      来会者への「おもてなし」攻撃

       こうなると、教会あげてのおぉ・もぉ・てぇ・なぁ・しぃ、究極の必殺ラブシャワー攻撃が新来会者に向けられる。これらの攻撃は、新来会者が望んでいようが望んでいまいが全く関係なく向けられることになる。手とり足とり、日本人特有のきめ細やかな配慮をもって、様々なお世話をしてしまったり、接遇してしまうのだ。時に過剰なほど。

      愛のメッセージの集中攻撃

       時に過剰なまでの必殺「おぉ・もぉ・てぇ・なぁ・しぃ」攻撃を受けた新来会者は、「おぉぉ、これはこれは・・・」とのぼせあがって、本来の意味とは違う意味で、「ひょっとして、オレって、(神の目にではなく、この教会にとって[この誤解の発生することが重要])高価で貴い」とイザヤ書の記述を誤って受け取ってしまうことをだれが責められよう。

       そして、その上に、「神は無制限の愛をもって、一方的に愛しておられる」や「あなたはそのままで神に愛されているのです」と牧師先生の説教壇からの愛の説教の時間差攻撃を受けて、最後に、「君は愛されるために生まれた」(ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは、この讃美歌の本来の意味が正確に理解される限りにおいて、この讃美歌を批判するつもりも、好悪の気持ちも全くない。)の讃美歌による集中砲火を浴びてしまえば、この誤解は完膚無きものになる。

       そして、このような攻撃を受け、来会者の聖書理解が十分でないまま、この新来会者がめでたく「お受洗(お受験をもじった、水谷先生の造語)」の日を迎え、信徒になってしばらくしたら、ある日突然不幸がこの元新来会者を襲うのだ。


       どのような不幸が襲うのかは、次回にお話しすることにしよう。チャンネルはそのまま、次回を待て。(たぶん、次回は、土曜日)

      2014.04.05 Saturday

      「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(2) 劇場版

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         前回の記事では、「ひょっとして、オレって、(神の目にではなく、この教会にとって)高価で貴い」とイザヤ書の記述を誤読した元新来会者の誤解の背景を触れてきたが、今回は、いよいよ、この元新来会者(かりに、元新来(もとあらたき)君としておこう)がしばらくして経験する不幸について、騙ってみよう。(ちなみに、この話はフィクションです。実在のキリスト教会や団体とは一切関係がありません。なんか、Law and Order のエンディング・シーンみたいだ。)

         なお、以下の文章の赤字部分は、ミーちゃんはーちゃん的突っ込みである。

         まず、その不幸は教会のキッチン内でヒソヒソと広がる女性信徒の噂話から始まる。

        シーン1 キッチン



        女性信徒1「この前お受洗された元新来(もとあらたき: 元新来会者のこと)さん、いつまでも信者さんらしくなられないわねぇ。」

        女性信徒2「ほんとよ。私たちにいつまでも甘えっぱなしで。」

        女性信徒3「もっとしっかりしてもらわないと。いつまでも、受けるばかりで・・・」

        女性信徒2「かんたんな奉仕の一つや二つ、してくれればいいのに・・・」

        女性信徒3「そういえば奥様、ヘブル人への手紙に『まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。』とありませんこと。もう十分私たちからの愛(神との関係でなく、自分たちのお世話を愛と呼んでいるところが問題かも)を経験されたのだから、堅い食物も・・・」
        ・・・・・
        しかし、ここまで言われるとは、この元新来クン、相当ひどい状況であったようだ。

        押尾クリスチャン的要素もあり、子泣き爺クリスチャン的要素もあり、はたまた、ゆっていクリスチャン的要素もあり、さらに、ムーディークリスチャンの疑い濃厚で、結論先行型クリスチャン症候群患者でもあり、真正の鑑定士・予想屋クリスチャン型患者でもありつつも、自己の満足度の最大化を目指す、ブツブツ・ベッタリ・クリスチャンでもあったようだ。ここまで見事な症例を見せると、さすがに、上記のような会話も仕方がないだろう。

         ちなみに、教会の女性信徒の皆さんは、忍耐強く、品の良い方々が多いので、上記のような会話は相当ひどくない限り、交わされることはない(と期待したいが、現実には、結構あるという噂もないわけではない)。

        ・・・・・
        こうして、女性信徒たちの不満の声が高まってくる。そして、その不満の声は、男性信徒たち(そもそもいれば、の話ではあるが…)にも伝染する。

        シーン2 会堂

        男性信徒C 「うちのかみさんがね(お前さんはコロンボ警部か?アダムかい?(神様、エバが、食べようと善悪の知識の木の実をもってきたのです、といったあのアダム)と突っ込みを入れたくなる。これも責任回避行動の一種)、元新来(もとあらたき)君は、悪い子じゃないし、素直なんだが、教会というものがわかってないのではないじゃないだろうか、ってね。どうも、献金もしてないようだし。」

        男性信徒A 「彼は、『受けるより与えるほうが幸いなのです。』という御言葉をどう考えているんだろうか」

        長老B 「これは、もう牧師先生にメッセージの中で、十一献金や、教会を立上げること、奉仕についてのメッセージをきちんとしてもらわねば。」

        男性信徒A 「いやぁ、我々の聖書理解では不十分だし…(と、頭をポリポリとかきながら安易に責任回避、責任放棄に走る男性信徒A)ここは、一つ長老のBさんに牧師先生に話してもらわないと・・・・(とまたしても、責任回避に走る男性信徒A)」

        長老B 「いやぁ、それは気がつかれたAさんから、牧師先生に(と、必死で責任回避に走るB長老)」

        男性信徒A 「こういう重要なことは、やはり、信仰歴の長い長老の方から・・・(と究極の回避行動に走る男性信徒A)」

         と平安朝の公家社会ごろからの伝統と格式を誇る責任回避の会話が続くのである。この辺りのことは、「なんて素敵にジャパネスク(花とゆめコミックス 少女マンガ 最下部のリンク参照)」で学んだ。しかし、何でもかんでもめんどくさいことは牧師任せにするのは、もうお止めにならないかなぁ、と思うのですね。あなたのおられる教会は、あなたがその一部をなす教会であり、牧師の持ちモノではないのですから、とも思うのです。
         しかし、他人について話す際にも、聖書のやや偏った引用が出るあたりが・・・(ミーちゃんはーちゃんは、どうかとは思う。
         小田原評定が続いた揚句、B長老は、

        長老B 「しかたがない。教会員の皆さんだれや、皆さんって。究極の責任回避用語じゃん)が困っておられると、おはなししますが、あまりに直接だとねぇ・・・。まずはボクシフジンにお話ししてみましょう。」

        ボクシフジンのリアルについて知りたい方は、Minitry19号をお買い求めを・・・

        シーン3 牧師館

        ボクシフジン「あなた、B長老から、先日受洗した元新来さんについて、おはなしがあったのよぉ。彼がいつまでも、教会員に甘えてばかりで、教会員の皆さんが困ってらっしゃるって・・・」

        ボクシ「えぇ、そうなのかい?。元新来(もとあらたき)君は素直で、いい子じゃないか。僕の話をうなずきながら聞いてくれる。(先生、そこ行きます?)」

        ボクシフジン「でもね、あなた。彼、受洗以来、聖書も他の信徒さんに開いてもらってばかりだし、聖書を自分で読んでいる雰囲気もないのよ。小学生じゃあるまいし。献金もしていないみたいだし。十一献金は、基本じゃないの。」

        ボクシ「ただねぇ、献金、献金って、僕は言いたくないんだよね。僕らは、『受けるよりは、与えるほうが幸い』、『与えたもう神は取りたもう神』ということも考えないといけないしね。」

        ボクシフジン「でも、ぜひ、信徒の皆さんが先生に神に仕えること(「教会行事や伝道活動に参加すること」を誤解して、「神に仕えること」と言っているように思うのは、ミーちゃんはーちゃんの頭が悪いせいだろう)を聖書から説明してほしい、っておっしゃってるって、A長老もおっしゃってることだし・・・・」

        ボクシ「しょうがないなぁ」

        と引き受けたものの、毎週土曜日の夜の七転八倒の苦しみに、さらに、その週の準備に過剰な負荷がかかるのであった。そして、牧師は、やおらスマホを取り出し、ツイッターで「明日の説教準備が終わんない〜〜。週報作れない。どうするナッシーー」とつぶやくのであった。

        シーン4 教会堂ふたたび

        元新来クン「せ、先生。今日のメッセージは僕への当てこすりですか?先生が、「あなたは高価で貴い」とか、「神の愛は一方的で、絶対的なもの」、「神はあなたを愛している」って講壇から聖書を開きながら、涙(梨汁ではない)を流しながらの説明してくださったから(ここで、元新来君は、責任回避をしていることに気づかない)、僕は洗礼を受けたんです。それを、突然、いまになって神への愛を示せ、献金しろ、奉仕しろ、自分への愛をおいて他人への愛を示せ、って、それって前説明したことと矛盾してるじゃないですか?そんなことなら、僕は洗礼を受けなかった。それって、なんか詐欺っぽくないですか?」

        ボクシ「あーうー、あわわわわ。いや、元新来クン、せ、聖書はそう語っているんだから…」

        元新来クン「なら、いいとこどりさせるような話ばかり、以前の僕みたいな信じてない人たち向けにするのはおかしいんじゃないですか。」

        ボクシ「ほれ、きみはもう洗礼を受けてキリスト者になったのだから…霊的成長も…」

        元新来クン「先生、ボクは、神様からも、教会の皆さんからも、愛されることが、教会の愛だ、と理解してたんです。違うのなら、もっと早く言ってほしかった・・・。先生、これまでありがとうございました。僕は、この教会に失望しました。」

         バタン!!教会堂のドアを荒々しく閉める音)。

         一同、顔をしばらくお見合わせるが、その後何事もなかったかのように、世間話を始める信者たち・・・。

         かくして、この元新来君はお受洗して、3カ月ほどで、見事に彷徨えるキリスト者、Flying DutchmanならぬFlying Churchmanになってしまったのだ。

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         さて、彼(元新来クン)を襲った悲劇とは、新来会クンに「当てこすり」と思わしめた聖書メッセージを牧師先生から聞かされことになったことでも、それで、不愉快な思いをしたことでも、男性信徒たちの小田原評定での御意見でも、教会キッチンでの女性信徒たちの非難がましいお茶飲み話でもない。

         彼を襲った悲劇とは、本来神の民であるはずの教会から離脱したことである。神を礼拝することで、神への愛を示そうとする(それは、実に不十分なものであるが)民からみずから離れてしまったことであり、神を愛する、神のもとに立ち戻る、神のみ思いを探る、ということを知らずに教会生活を過ごしてしまったことなのである。もっと言うならば、悲劇とはキリスト者の生活の重要な部分について思いを巡らすことなく、自分に都合良く聖書を読み飛ばしていたことではないだろうか。

        まとめ

         まぁ、この元新来君のような方は、意外と日本社会に多いのかもしれない。キリスト教の世界とその実態というものが、社会にあまりに知られてないからだ。そうすると、お寺や神社に普段接する感覚で、教会にもアプローチすることになるだろう。キリスト教会に対しても、お寺や神社が提供する地方公共財的側面のみに着目し、公共財が発生せしめる利益を受け取ろうとするような一種のフリーライダー(薩摩守忠度 サツマノカミタダノリ)的アプローチをするのではないか。なお、この辺りのことは、地方公共財をめぐる経済学での議論が参考になるかもしれない。ちょっと古いけど、Wildasinの議論はこちら

         アメリカでは、信仰と負担に関する問題意識が一般にある程度知られているらしく、「こちらブルームーン探偵社(Moonlighting)」のあるストーリー(国防関連企業のサボタージュ行為をしそうな社員を内部調査するストーリー)の中で、若き日のブルース・ウィリス扮する私立探偵が開発中の兵器による砲火を受け、ボス役であるシビル・シェパードをかばいながら(この辺アメリカ人のヒロイズムが象徴的に表現されている)「この襲撃から生き残ったら、戒律がゆるくて、負担のない宗教をためそう(この辺記憶があいまい)」と言っていた。なお、そのシーンはこちらの映像の40分16秒あたりから。

        良くも悪くも、アメリカ人の意識の中で、何らかの宗教組織とかかわりをもつことは、それなりのコトが伴うことが認識されている事例の一つだと思う。

         ところで、教会のメッセージで、「あなたは愛されている」、「神の無償の愛を受け取ってください」という側面ばかりが「神と人と出会っていただく」ということとして語られるものの、実態的には信徒獲得のために語られるような場合や、ラブシャワーとも呼ばれる新来会者への過剰なまでの(時にうっとうしいほどの)親切が向けられるような場合では、「そうか、愛を無償で受け取ればよいのだ」と誤解する人が出るのは避けられないだろうし、それは避けられないのだろううなぁ。なお、このラブシャワーはカルトでもよく用いられる技法らしい。

         キリスト教会側でも、新来会者へのアプローチをどうするのか、ということをぼちぼち考えたほうがよいかもしれない。そして、聖書の愛が、相互的なものであることを、聖書からもっと解き明かしをする必要があるかもしれない。

         なお、新来会者へのアプローチを考える上で、かなり参考になるのが、またまた、キリスト新聞社の本で申し訳ないが、以下の雑誌Ministryの連載から発展した八木谷涼子著「もっと教会を行きやすくする本」(最下部のリンク参照)である。

         このブログは、キリスト新聞社のステマブログでも、キリスト新聞社の御用ブログでもないが、キリスト新聞社とMinistryのファンブログくらいではあるかもしれないけれども。



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        コメント:来会者という教会外からの視点から見た教会論。面白い。

        2014.04.08 Tuesday

        速報! 『福音の再発見』キリスト教本屋大賞にノミネート

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          評価:
          スコット・マクナイト
          キリスト新聞社
          ¥ 2,160
          (2013-06-25)
          コメント:中の人なので。

           皆さま、 大変、嬉しいお知らせでございます。

          このブログが、その出版の出発点の一つとなった本、
          あの、スコット・マクナイト著、中村佐知訳、キリスト新聞社刊『福音の再発見』が、何と

          2014年キリスト教本屋大賞ノミネート作品10点決定!



          されたそうでございます。並みいる名著を押しのけ(個人的には、新教出版のボウカムのイエス入門とラウシェンブッシュのキリスト教と社会の危機: 教会を覚醒させた社会的福音入っていないのが不満。と度量の大きさを見せておこうwww)、キリスト教本屋大賞にノミネートされてござる。

           ホーマー・シンプソンのように
          Woo Hoo!と叫んでおこう。動画をご覧になりたい方は、こちらから。

           この本の出版をミーちゃんはーちゃんが決意したのは、このブログでの記事に対してCaledoniaさんからのコメントをいただいたからでもあります。もう、Caledoniaさんのような苦しみをされる方を一人でも少なくなっていただきたい、という思いからでもあります。その意味で、Caledoniaさんのコメントなくしては、この本はなかったのです。

           Caledoniaさんが、この本の出発点の一つでもあります。


           引き続き、『福音の再発見』ご愛読くだされたく。愛読者のみなさまには、ずずずぃ〜〜〜〜〜っと、心よりの御礼申し上げまする。

          取り急ぎのごあいさつでございまする。

            ミーちゃんはーちゃん 敬白 



            (軽薄、って ? ほんとのこと言っちゃぁ しぃぃぃぃ〜〜〜〜〜) 
          2014.04.09 Wednesday

          「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(3)最終回

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              さて、これまでコント仕掛けを含めて、「教会が私を愛してくれない」症候群の背景を語って(騙って?)きたが、「教会が私を愛してくれない」症候群の背景にある宣教地としての日本におけるキリスト教文化の形成という点から考えてみたい。

            15年戦争後の日本における宣教

             15年戦争後、日本には大量の宣教師の皆さんが、アメリカから、そして大英帝国から、大量に来られた。そして、日本に聖書をもちこみ、イエスの教えとされるもの(もちろん、その大半は聖書に基づくものであったが)を広めようと努力された。

            このあたりは、中村敏著 『日本における福音派の歴史―もう一つの日本キリスト教史』いのちのことば社 が大変参考になる。(ことはちゃん。この本再刷出さないの?)

             1940年代から1950年代、高度経済成長期が離陸する直前まで、日本では圧倒的な資源不足、圧倒的な物資不足の社会であった。日本は、ありていに言ってしまえば、被占領国であり、敗戦国であり、後進国であったのだ。かの福地先生の計量経済学入門(1962)の冒頭には、「日本は中進国である」と福地先生はお書きであった。

            宣教師と
            その憐れみのこころ
             そのような経済状況の日本に強い米国ドルやら、強い英国ポンドやらを背景にした戦勝国からの宣教師の皆様が大量にお越しになられたのである。彼らは、当時の敗戦国でもあり、息も絶え絶えの日本という国の中で、神の福音がこの世に存在し、敗戦国民であっても神に愛されているという希望を伝えようとされるとともに、物質的な信徒の必要をも満たそうとされたのだ。それはそれで尊い愛の行為である。

             その意味で、ナザレのイエスが示された憐れみ(スプラングニゾマイ 飼うもののない羊のように疲れ果てているのをご覧になって憐れまれたイエスのお心は、こう表現されている)に倣おうとされたのだろう、と思う。それは尊い。

             この辺りのことは、水谷先生のブログにコメントしたことを、水谷先生が拾って記事にしてくださった内容をご覧下され。

            キリスト教の原典は英語で書かれている
            という誤解
             しかし、この結果、キリスト教(→アメリカやイギリス人というコーカシア系民族がキリスト教徒に多い → キリスト教はコーカシア系民族の住民が多い外国のもの→コーカシア系民族(白人と呼ばれることも多い)である外国人がホンバモンのホンマモンをもっているはず)とつながり、コーカシア系の外国人宣教師、牧師の存在が本来の価値以上に重要な意味を持つことになったであろうことは、想像に難くない。

             敬愛するH先生も、次のようにおっしゃっておられる。オリジナルはこちら。なお、オリジナルでは、北ヨーロッパのプロテスタント神学のあじわいというか、手触りの違いについて、参考になる文献をご紹介しつつ、ご説明をされておられます。この部分は大事だと思いますが、一番受けたのは、この記事の最後。日本人が「キリスト教がヨーロッパ(というよりはアメリカ)こそ本場」と誤解する傾向について、面白いジョークにまとめておられます。

            かつてこんなジョークがありました。


            神学は、ドイツで興り、イギリスで変容し、
             ついにアメリカで堕落する。


            バルトがビリー・グラハムの伝道方法に嫌悪の念を持った
            理由がわかります。


            ところで、このジョークには落ちがあります。


            「そして堕落したものが、日本に来る(!!)」

            日本の(特に福音派の)教会はこうして形成されたのですね・・。(汗)


            (注記 個人的にオリジナルを知らないもので、H先生のサイトからコピペ(引用だし、引用もとを表記しているので、小保○さんコピペ疑惑とは関係ないよ)したのですが、事情通の方(大英帝国の神学校でお勉強中、ほら、すごい事情通でしょ)から、「神学は、ドイツで興り、イギリスで変容し、ついにアメリカで堕落する。」というよりは、「神学は、ドイツで興り、イギリスで(よりマイルドな穏健・中庸なものに)矯正され、ついにアメリカで堕落する。」とするほうが近いんじゃないかなぁ、というご指摘が入りましたので、この情報を追記しました。いやぁ、イギリス国教会様は、さすが、中道(via media)を目指しておられるし、イギリス人自身が、極端を両論併記することで参照しながら、何となくバランスをとる国民性があるような気もするので、たぶん、こっちの方が正解かも。H先生、お読みで、ミーちゃんはーちゃんがまつがっていましたら、ご指摘いただければ幸甚に存じます。修正いたします)

            (注記の追記 2014/04/12 敬愛してやまないH先生から、次のようなコメントが入りました。
            イギリスでの出来事は、聖書学の立場からは「矯正」でよろしいかと思います。思弁に走りがちなドイツ語圏の聖書学が、(イギリスで)適切に歴史的視座の中に位置づけられるので。ライトフットやウェストコットらの功績です。

            けれども、ドイツ語圏の組織神学(教義学)または弁証学の立場すると、イギリスで起こることは「変容」と映るのではないでしょうか。なぜなら、そこに「自然神学」がブレンドされるからです

            それを拝読しながらのミーちゃんはーちゃんのコメント
            聖書学と教会教義学では、確かに味わいが違うんですね。たしかに、テキスト批評が行き過ぎたドイツ聖書学だと、まぁ、何やってんだかわかんなくなりますもの。

            組織神学だと、確かにルター、カルバン、バルト、ボンフェッファーにマイルドな両論併記的なイギリス風の味付けがされてしまうと、本来ドイツ神学が持っていたようなガッチガチの厳密性や荒ぶる魂が抜け落ちてしまう。

            なるほど。マクグラス先生の歴史神学の視点、ってのは、そのあたりにもあるんでしょうね。

            あ、イギリスの神学校にいる方ってのは、ボウカム先生の元弟子(これ言ったら、答えがわかってまうがな・・・とノリ突っ込み)の方からなんで、聖書学に近い側の方からのコメントでした。それなんで、その方は「矯正」ってコメントくださったんですね。
            以上注記の追記終わり)


             この結果、聖書理解においても、聖書を伝道する資源においても依拠する体制が生まれていき、モンゴロイド系の教役者や日本人教役者への若干の軽視などが生まれたのではないか、と思うのです。(ずいぶんと前、教会に来られたある新来会者の方が、「聖書は英語で書かれたもんだから英語で読みたい」というお話をお伺いし、「・・・」となった記憶がよみがえった・・・聖書の原典に関しては、伊藤先生の 新約聖書よもやま話 いのちのことば社刊をご覧いただきたい。ほらね、Ministryキリスト新聞社のステマブログじゃないでしょ。いのちのことばの本だし。)


            アメリカに生まれたからキリスト者
            という誤解
              日本には、キリスト教後進国であるがゆえに「自分たちの聖書の読み方が本当に正しいのかよくわからないので、不安だ」というわけのわからない劣等感という のかルサンチマンがあるように思われてならない。普通のアメリカ人でキリスト者と自称する人々と付き合ってみればよくわかるが、彼らの聖書理解にもかなり 限界があるように思われる。一番典型的なのは、「おれたちアメリカ人は、アメリカというOne Nation Under Godの国に生まれたから、クリスチャンだ」という人々もおられるのである(だから、わざわざBorn Again Christianというやや奇妙な英単語が生まれ、High BAという組織名につながることとなる)。アメリカ人の聖書理解の課題は、福音派と聖書 米国の場合のシリーズをご覧下され。

            豊かな国の国民による宣教
            に伴う副作用
             先進国と発展途上国での経済格差を前提にする時、出身国では、非常に些少な金額であっても、受け取り側の発展途上国では、莫大な金額になることもしばしば。こうなると、もともと、宣教師の方が持っていた「憐れみのこころ」プラス「(敗戦国日本が経済的に貧しい国家であるが故の)外国人としての経済的豊かさ」を宣教師の皆さんが相持つこととなり、無償の愛という概念から連想される境界線を越えた愛し方(そして、物質的な形での支援の実施)をこれらの宣教師の方々がされることとなる。また、それをありがたく、戦後の信徒は、その貧しさもあり受け取ったこともあったであろう。この結果、キリスト者は来会者に物質的な形での支援も与えることが日本人の信徒において理想化されていく、という経験をした教会群もあったであろう。

             その結果、日本人信徒も「キリスト者は宣教師先生のように、下手をすると境界線を無視した形で新来会者を愛する(彼らの必要に応じる)ことが大事だ」と、ちょっと聖書の基本的な主張から外れたような「愛(依存に導くような愛)」理解が、聖書の言う「愛」と取り換えられてしまった雰囲気を経験した教会群もないとは言えないのではないか。


            貧しい辺境のガリラヤで
            活動が始まったキリスト教

             しかし、本来、キリスト教というよりは、ナザレのイエスのご主張は、経済的に豊かな地方から貧しい地方へと伝わったものでは必ずしもなかった。ナザレ(そこは、ナザレから何のよいものが生まれようといわれた地であった)、ガリラヤからエルサレムへと伝わった。さらに、パウロがローマ 15章26節で書くように

            「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。」

             この聖書の記述を見る限り、キリスト教の本家本元であるはずのエルサレムでは、どうにもこうにもならないほど貧しい人がいた、という現実があったのではないだろうか。

             ローマ・ギリシアを中心とする経済的に豊かな地からすれば、エルサレムは、辺境であり、貧しい人々を含む貧しい地域にみえた、のではないか、と思う。その貧しさを内包するエルサレムにおいてイエスは十字架の上で、メシアとしての王位につき(だって、イエスの罪状書きにそう書いてある)、相対的により豊かな人々を多く含む当時の先進地であるマケドニア(アレキサンダー大王の本拠地だったので、豊かではあったはず)とアカヤ(アテネやスパルタを含む)へと伝わり、そして、極めつけとして当時の世界の首都(CAPUT MUNDI)でもあるローマへと伝わったのである。

             「経済的に貧しいことが(信仰者にとって)よい」と清貧の思想めいたことをいいたいのではない。貧相であるべきだといいたいのでもない。弱者救済をキリスト教は旨とすべし、といいたいわけでもない。ミーちゃんはーちゃんは繁栄の神学は大嫌いであると同時に、社会的福音の徒でもない。

             言いたいのは、キリスト者として、必要以上に翻訳聖書の表面的な字句に縛られ、そして、いまの現実世界の理解に必要以上に縛られ、過去の人々の聖書理解に必要以上に縛られて聖書を理解するのではなく、聖書が書かれた背景や、あることが言われている背景や社会的前提について、もう少し目配りをしたうえで、聖書に書かれていることを創造的に理解することである。翻訳聖書のごくわずかな表現に引きずられてみょうちくりんな聖書解釈を展開するのではなく、聖書全体(旧約聖書から新約聖書までの全体)の主張を通して、聖書を理解するという姿勢、そして、現代的な現実世界への課題を聖書の基本的主張に軸を置いて、取り組む姿勢をもってほしいのだ。

             その上で、過去の人たちが示した行為や聖書理解、翻訳語の字句の解釈に縛られたりすることなく、また、過去に教会において大きな貢献をされた方の行為や聖書理解を必要以上に理想化することなく、「聖書がいう愛とは何か」、「神に愛されるということはどのようなことか」、「教会とは何か」、「イエスとは自分にとって、そして、他者にとって何者か」ということを聖書テキストとその周辺(特に歴史的環境)に目配りしながらも、現代社会という環境の中において真剣に考えることではないか。(この辺りのイエスが生きた時代とイエスの発言の背景とのかかわりの入門書として、新教出版社のボウカム先生のイエス入門は大変よろしい。ボウカム先生の講演会参加記はこちらから。)


             語学ヲタクの方はギリシア語やヘブライ語で聖書をお読みなさればよいが、お読みになる聖書テキストは現地語でもよいから、複数の現地語聖書(我が国においては日本語聖書)に当たりながら、本来のイエスの主張は何か、ということをお考えいただきたいのだ。そして、そのイエスの主張を自分自身がおかれたそれぞれの時代という環境の中で、どのようなものとして具体化していくのがいいか、ということをお考え(神学して)いただきたいのだ。翻訳聖書を通してであっても。


            もし、発展途上国からの宣教師が
            大挙して日本に来ていたら…
             もし、明治維新のころに、日本にキリスト教がアフリカ諸国や中国以外のアジア諸国(その昔AA諸国という分類があったことを思い出した)出身の宣教師や旧大日本帝国政府が植民地とした地域からの大量の宣教師により聖書理解とキリスト教がもたらされたとすれば、日本への宣教と日本でのキリスト教の定着はどのようなものとなっただろうか、と歴史家ではないミーちゃんはーちゃんは、一人妄想してニタニタ笑いながら、遊んでいる。

             一応、この半分ジョーダンの背景シリーズは終わり。なお、今回の記事は、いのちのことば社新教出版社のステマ記事ではありません。次回は、日本語における『愛』再考の予定。岩波書店の本からご紹介する所存です。ちょっと学術のにおひのかけらくらいするかもしれない。期待して、次回更新(土曜日予定)を待たれ度存候。




            評価:
            中村敏
            いのちのことば社
            ---
            (2000-05)
            コメント:もう出版されてないのか…。

            評価:
            価格: ¥1,296
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            コメント:新約聖書原典や翻訳、その背景に関する入門書として、大変読みやすく書かれており、聖書の入門書として、大変よろしいかと。

            評価:
            価格: ¥2,052
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:薄いけれども、大変よい本。史的イエス入門としても、読めるかなぁ。

            2014.04.12 Saturday

            『愛』をめぐる一断章(3・おまけ)永遠の愛のハイパーインフレ

            0
               さて、ここまで、冗談交じりに教会と愛の問題を考えてきたが、この『愛』をめぐるキリスト者社会というか聖書理解の問題と、日本語というか現代の日本社会での理解の問題は、結構重要だと思うので、穂論として、日本語における『愛』を再考してみることにしようかと。

              なお、本シリーズは、以下のような展開を経たものである。

              いつものように水谷さんのブログ記事に触発されて、

              『愛』をめぐる一断章(1)
               
              『愛』をめぐる一断章(2)
              を書いた後、さらにこれを教会の中で考え、

              「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(1)

              「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(2) 劇場版

              「教会が私を愛してくれない」症候群の背景(3)最終回

              を通して、本記事へとつながる。
              なお、

              社会の分断化・分節化と社会を構成する人の疲弊と教会

              も関連記事である。

              以下、本日の記事の本論。

              おまけ(補論) 日本語における『愛』について

              『永遠の愛』超(ハイパー)インフレーションを考える

               先日朝の7時台のニュース番組の枠に一応入れてもらっているらしい娯楽番組(テレ東とか、テレ玉とか、サンテレビとかでファミリーアニメを見ていたわけではなく…)を見ていたら、最近のはやりらしいJPOPの日本人女性歌手が歌っているシーンの字幕に「永遠の愛がうんたらかんたら・・・・」とかあって、驚いてしまった。そのJPOPの歌詞を聞く限り、もう、「永遠の愛」は、どうも、現代の日本語では、若者の恋愛関係、結婚のことを主に示す用語として標準(デフォ、または、デフォルト、または、デファクト・スタンダード)になっているらしい。

              永遠の愛と恋愛、結婚を結びつけさせた
              教会風結婚式とダイヤモンド会社の広告戦略


               多分、『恋愛』とか『結婚』と『永遠の愛』が現代日本人の若者の頭の中で混同している背景の半分ぐらいは、教会での結婚式、ないしは、教会を擬態した教会建築物での教会結婚式(あくまで、教会結婚式であって教会式結婚式ではないことを読者はよく読みとるように)への参加者が増加したことにも関連しているのかもしれない。なお、ミーちゃんはーちゃんの書籍「結婚式教会の誕生」についてのミーちゃんはーちゃんの感想は、こちら

              いわゆるバイト司式者
              (似非神父、似非牧師)問題

               教会擬態型教会風結婚式場(ちなみに、このような擬態教会では、信徒もいなければ、聖餐式もなければ、洗礼式すら開かれることはない)では、バイトのコーカシアン(いわゆる白人に見える人)の司祭だか神父だかに見える司式者による式で、

              アナタハァ エイエンノォ アイヲォ カミノマエニィ チィカイ マスカァ

              と片言の日本語で結婚の誓約の儀式をしてもらうのが、どうもかっこいいと思われているらしい。なお、バイトの司祭だか神父だか牧師のフリをしている人の少なくない部分は、キリスト教徒ですらない場合もあるようだ。まさしく食品偽装事件ならぬ、牧師偽装事件であるし、教会偽装事件でもある。久保木先生も左様ご指摘でござる(久保木先生による記事はコチラ)。久保木先生、正解。

               一度知り合いのホテルマンから、知り合いの退職した白人の伝道師か牧師(『白人の』の限定付き)を紹介してくれ、と泣きつかれたことがある。お断りはしましたが。

              コスプレ大会としての結婚式

               どうせ、教会擬態型教会風結婚式場では、コスプ(つまり、なり切り、であるが故に完全に擬態、フリ)としての結婚式が挙行されるだから、いいっちゃいいんだろうけれども。なんせ、最近は授かり婚(結婚式の時点では妊婦さん)でも、恥ずかしげもなく白のドレス着るのが、普通らしいし。

               どうせだったら、アニキャラ結婚式とか、すればいいのに。

               そうだなぁ、ミーちゃんはーちゃんだったら、ホーマーシンプソンのコスプレ(しなくてもそうなっているという説はあるが)して、Homer SimpsonsのHomer Face(Lady Gaga様のPoker Faceの替え歌)を

              I like my Homer face
              yeah that's what I said


              と歌いながら入場したくなる誘惑にかられそう。Do’oh!

               それとか、花嫁さんは会堂にキャリーぱみゅぱみゅの格好で、「もったいないから」と歌いながら登場とか、花婿さんは、「ふなっしー」とか、尼崎のゆるキャラ「ちっちゃいおっさん」キャラで花嫁をAKB48の「ヘビーローテーション」歌いながら待っているとか、やったらいいのに。どうせコスプレなんだったら。これも楽しいと思うが。
              ちっちゃいおっさん
              上記画像は、「ちっちゃいおっさん」のサイトから転載しています。



              永遠の『愛』と呼ばれるものを
              見せつける背景としての教会

               ということで、結婚式場教会は、結婚式という永遠の「愛」を神の前に誓う場ではなく、人の前に見せびらかす場一時的な舞台(したがって、その教会に毎週日曜日出席する信者がそもそも全くいないという本来の教会とかけ離れた結婚式場教会では、教会の建物は劇場のペラペラの背景画と同じなので、壁は合成木板の上に化粧塗装ということすらあるらしい…)として一般の人は設定するのであろう。

               バイトの牧師や神父に登場人物を演じる役者になってもらいながら司式をさせる結婚式は、神の前に結婚と貞節を誓う場でもなく、列席者に「ドヤ顔」で自分の幸せな状況をアピールする場(有体な「ものいひ」をすれば、見せつける場)あるいは舞台になるのだ。なお、いわゆる結婚式場業者の結婚式場教会の窓や階段は、本来の機能をあまりもっていないことを、『「結婚式場教会」の誕生』で著者は示している。

               教会を「神の前に招かれた人間が立つ場(全能なる神への愛を示し、自分自身がYHWHの言葉を大切にしつつ、そこに立っていることを示す場)」とすることが第一義では到底なく、「神の前に人間として、誠実に結婚の誓約を厳粛に誓う場」でもなく、個人を輝いて見せるための舞台としたのが、結婚式教会なのだ。そこでは、『舞台』としての教会の中で、『主役』としての『花嫁』が自分の一時的な幸福感を見せつけ、見せびらかす場となっているのだ。であるとすれば、その書割(背景画面)としての教会というセットの前で述べられた「いわゆる永遠の『愛』」は、泥沼化する離婚訴訟や離婚調停によってすぐさま紙くず以下(いや、むしろ怒りの原因)になってしまうのは、当然と言ってよいであろう。

              ダイアモンド販売会社の販売戦略としての永遠の愛
               以下の静止画はダイアモンドの卸売業者のDe Beers社の広告写真である。



               あたかもこのダイアモンドの宝飾品を身につける人がいつまでも永遠に若く光り輝くかのようにイメージを重ねており、永遠の愛の象徴としてのうちからダイアモンドを買わなくていいのか、と言わんばかりの広告である。しかし、Bruce Willis 出演の映画『永遠に美しく』ではあるまいし、80過ぎたおばあさんが、小学生見たいだったら気色悪いだろう。ベンジャミン・バトンじゃあるまいし。

               永遠の愛であったはずの結婚が想定外の事象として破たんし、結婚したカップルが離婚したりしてしまえば、永久に美しく、自分たちの永遠の愛を象徴すると思い込んだダイアモンドの指輪や宝飾品は、永遠に不幸を思い起こさせるいらつきを起こさせるものにもなりかねない。その結果、挙句の果てに、質店やリサイクルショップに直行し、ばらされた上で、ダイアモンドだけがインドや中東あたりに輸出されることになるという、残念な現実があるのではないだろうか。

              結婚は聖書のいう永遠の『愛』なのか?

               答えからいってしまうと、「違う」と思う。神の愛は、もっと理解不能でもっと規模の大きなものなのだ。聖書のいう神の永遠の愛とは、人間には、さらに、能力に問題のあるミーちゃんはーちゃんには、そもそも理解不能であり、規模の大きさとその複雑さゆえに説明しろと言われても説明できないし、説明する能力もミーちゃんはーちゃんにはない。答えになっていない、というのであれば、どうぞご自分で、聖書をお読みになってご説明をお考えいただいたうえで、無知蒙昧なミーちゃんはーちゃんにでもわかるようにご高説を解き明かし、お聞かせいただき、ミーちゃんはーちゃんのボンクラ頭をご啓蒙していただければ、是幸甚にて候。

               ただ、神の永遠の愛と結婚ということに垣間見られる人間間の愛と神の愛は無縁ではない。だからこそ、神は結婚を祝福しておられるし、教会は祝福する。なぜ、雅歌が旧約聖書に含まれるか考えて見られよ。

               雅歌は旧約に収録されるかどうか、結構もめた書のひとつらしいが。神のいう永遠の愛と夫婦関係との相似関係について触れた書でもある。これらについてより深く知りたければ、JIPackerの「神について(Knowing God)」上沼昌雄著「夫婦で奏でる霊の歌」を読まれるとよろしい。その意味で、日本人の若者が思う結婚や恋愛が「永遠の『愛』」ではないにせよ、恋愛や結婚は、神と人との関係を考える際の参照できる経験の一つ程度にはなるのではないか、とは言えるだろう。

              日本社会における「永遠の『愛』」の
              ハイパーインフレーションについて
               日本では、芸能人やセレブと呼ばれる人々も、そうでない一般の人々も、彼らが結婚する時や婚約する時には永遠の愛が軽々しく口にされる。さらに、結婚式場や結婚式場併設の宿屋(ホテル)では、普通の人々が永遠の愛を誓うということが実に軽々しく行われる。そして、実に軽々しくその永遠の愛の本質もわからない人間(残念ながら、ミーちゃんはーちゃんもその一人であることは素直に認める)が、「永遠の愛」を称賛する。あるものは、Can you celebrate?



              とアムロナミエの歌を歌いながら。祝祭の本来意味するところを知ることなく。(祝祭の本来意味するところを知りたければ、ジャン・ヴァニエのコミュニティを読まれるとよい。)そして、「永遠の(神からの)『愛』」と「永遠に続くといいなぁと思われる(人間間)の『愛』」が混同され、その結果、聖書のいう「永遠の(神からの『愛』」の価値が減ずるという「永遠の『愛』」ということばについてのインフレーションが発生する。まさに、悪貨が良貨を駆逐する現象が起きるのである。

               さらに追い打ちをかけるように、人間の世界で永遠の愛と称されることが毀損することがある。人間であるがゆえに人間の間の愛が毀損されてしまうことがある。夫婦の間にどうしようもない状態が生まれることもある。たとえキリスト者同士の結婚であっても。神の前に誓ったものであっても。この「永遠の『愛』」と思われるものが、毀損されることで、さらに「永遠の『愛』」とよばれるものの価値が下がり、ハイパーインフレーション状態となる。

               結婚が毀損されたものにならないことを、すなわち離婚という不幸が発生しないことをミーちゃんはーちゃんは願ってやまない。とはいうものの、それは起きるだろう。それは、人間が不完全なものであるが故であり、人間は神ではないし、神が永遠であるという意味で、人間は永遠なる存在ではなく、この地上の生は、高々健やかであっても80年であるからである。我ら人間は、神の実子であるイエス・キリストでなく、人間は神の養子にすぎないからである。そして、イエスの弟子ではあるものの、弟子はその師(イエス)に勝ることはないからである。

              日本語における『愛』について
               『愛』に関しては、以下で紹介した鈴木範久先生の「聖書の日本語」(岩波書店、2006) の209-210ページのの記述が参考になるので、それを引用して終わる。

               」ー「神」に劣らず日本語の意味内容が大きく変化した言葉に「愛」がある。

               宗教辞典の作成にあたり、常に心がけなくてはならない問題は、「愛」という項目の執筆には、必ず仏教とキリスト教徒の両者の説明が居る点である。なぜなら、仏教では「渇愛」と言えば、人間の欲望の根源であり、それを滅ぼすことこそ仏教の眼目である。それに反して、キリスト教はいうまでもなく、「げに信仰と希望(のぞみ)と愛とこの三つの者は限りなく存(のこ)らん、而(しか)して其のうち最も大(おおい)なるは愛なり」(コリント前13章13節)でわかるように最大の教えの一つだからである。

               では、キリスト教以前の日本において「愛」という言葉が、すべて仏教的に使われていたかというと必ずしもそうではない。親の子に対する「愛」のように「いつくしみ」として使われることもあった。その例にもうかがえるように、どちらかといえば本能的な愛情の意味に使われていた。本能性のみが強まると「愛欲」(下線部転記者)という言葉が語るように、どろどろした自己中心的欲情の表現になる。

               したがって第1章「聖書の日本語訳事始め」で見たように、キリシタン時代も『どちりな きりしたん』で使われている「愛」にあたることばcharidadeは「御大切」である。『羅葡日辞書』のAmorはTaixetつまり「大切」と説明されている。

               キリシタン時代の「愛」と「御大切」については、チースリク(Hubert Cieslik)の的確な論究がある(「キリシタン宗教文学の霊性」海老沢有道他編著『キリシタン教理書』教文館、1993)。チースリクは、まず『日葡辞書』によって、当時「愛」という文字の入ったことばが、概して「感情的、肉体的な愛情」に用いられ、ときには、「不潔な快楽」として受け取られていた
              (下線青字は転記者によると述べる。そのために精神的な「愛」に関しては、それを用いず「御大切」が使われた。また、「デウス(転記者註:YHWHの神)」の「愛」には適切なことばがなかったので、ポルトガル語のまま「カリダアデ」が用いられた。すなわち、いわゆるキリシタン文学類には三種の「愛」が見られたという。

                感情的肉体的な愛情   愛・恋
                精神的な相互愛     大切
                超自然的(神的)愛   カリダアデ

               そしてキリシタン文学を分析した結果、その「御大切」も、ただの「大切」を意味するだけでなく独特の「味」をともなって用いられるようになったことが分かるという。
               (中略)
              その最高の表現がチースリクの引用による『どちりな きりしたん』の次のことばに見出せるというのである。

                
              万事にこえて、デウスを御大切に思ひ奉ること、我が身を思うごとくポロシモ(隣人)となる人を大切に思うこと、これなり


               いうまでもなく新約聖書マタイ伝22章37-39節に基づくことばである。ところが日本に再来したキリスト教の聖書では、同じ「愛」の文字を使って「人を愛せよ」という。チースリクが、これをもって「実に大胆な用語改革」と述べたのも無理からぬところである。「人を愛せよ」と説く方も聴く方も、ともに面喰った光景が、やはり山本秀煌によって語られている。(pp.209-210)


               上で紹介した鈴木(2006)にもあるように、そもそも、「愛」という日本語自体が、戦国時代のころから、聖書のいう「超自然的な(神からの/神への)『愛』」では、さらさらなく、「自己中心的で人間的な泥くさい性愛や溺愛」なのだから、いまの日本のキリスト教会に来られる人々が「教会は私の自己愛を満足させてくれるところ」と勘違いするのは無理がないし、「超自然的な(神からの/神への)『愛』」を語る教会に対して「私の自己愛を満足させてくれない」と苦情を申し立てるのは、無理ないことなのだろう。

               むしろ問題は、教会人が、それらの人々に対して、キリシタン時代のパードレの皆様方のようにきちんと、教会とは人間に対する人には理解しがたい超自然的な『神からの永遠の「愛」』(カリダアデ)と人間から『神への永遠の「愛」(御大切)』が共に示されるところ、と説明しきれていないところにあるのではないか、と思う。

              ではどうすれば
               みなさん、こういう課題の指摘とその原因をお話しすると、「では、どうすればよいのでしょう」とミーちゃんはーちゃん風情にもお聞きになられたり、対応策をお聞きになられたそうなお顔をなさる。

               ミーちゃんはーちゃん的には

               「どうぞ、ご自分でお考えくだされ。」


              としか言いようがないし、そうとしか言えない。その個別の教会ごとの特殊性があるからである。誠に申し訳ござらん。

               Quick Fix(弥縫策、とりあえずの解決策)は所詮、一時的な解決でしかない。本格的に解決するためには、聖書を読み、先人の書かれたものを読み、真剣にご自身で考えるしかない。人のことばや理解をそのまま使うのは、可能であるが、それはその人のものではないので、すぐにメッキがはがれる。そんな、すぐにはがれるような金メッキ(下手をするとすぐにさびが浮く「黄銅鋼(真鍮)」メッキ)のパチモンなんて、誰も欲しくないだろう。であるとするならば、他人様のアイディアをパチる、借りモンで語る(世に、「借りモンで語る」を「騙る」といふらしい)のではなく、自分でじっくりと、あわてず騒がず、熟成させるように考え、そして、考えつつ、考えるための知恵を神から受けることを鎮まりの中で待つしかないのではあるまいか。斯様愚考致し候也。

               あー、結局学術のにほひがしたのは、鈴木(2006)の引用だけだったね。wwww



              評価:
              五十嵐 太郎
              春秋社
              ---
              (2007-08)
              コメント:結婚式場の実情がわかります。

              評価:
              上沼 昌雄
              いのちのことば社
              ¥ 1,080
              (2006-09)
              コメント:大変よろしい本です。

              評価:
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              コメント:名著。その一語に尽きる。

              2014.04.16 Wednesday

              神とともに生きてこそ May J.の生きてこそを聞きながら・・・

              0
                 「前回の記事で、さんざっぱら、JPOPをディスっておいて、それでJPOPで替え歌ですかい?」というご批判は甘んじて受ける。しかし、JPOPが一般の皆さまに好まれるのであれば、マキャベリストのミーちゃんはーちゃんとしては、それで神の福音を語ってもよいのではないか。よいものは良い、うまいもんはうまい、と思うのである。

                 先日、May J.というおねーちゃん(ファンの方。いやぁ、失敬、失敬)の曲がNHKのMJという番組で流れた。「生きてこそ」という曲である。どうも元歌は、Kiroroのものらしい。

                 Youtubeを確認したところ、これ、ほぼそのままで、讃美歌になりそうだったので、替え歌(本歌取り、日本の素晴らしき伝統。なんて素敵にジャパネスク。ちなみに、コピペじゃないよ。)にすることにいたした。(May J.とKiroroファンの方にはスマソ)お茶らけ讃美歌もどきはいっぱいあるのだが、今回は受難週にふさわしい、少ししっとりしたものを選ぶことにした。

                原曲のPVは、こちら(Kiroro バージョンのベトナムを背景としたこっちのほうがMayJのPVよりは、よいと思う。ベトナム戦争の悲惨を思い起しながら、この曲を聞くと、余計に感慨深い。このPVのProducerさんは、それを知ってベトナムで撮影したのだろうか)。





                聞いてください。

                アバとともにいきてこそ (替え歌はミーちゃんはーちゃんによる。)

                ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡


                    主よ私が生まれた日の 空はどんな色
                    アバ私が生まれた日の 世界はどうだった?

                    あれから言葉を覚えて 私なりの
                    愛も愛され方も  身体にしみこんだ

                    生きてこそ 生きてこそ 今ここから始まる
                    生きてこそ 生きてこそ 広がってまたつながる

                    主よ私を初めて見る   気持ちはどうだった?
                    アバ私が生まれた日は  平和だった?

                    あれからキセキを重ねて… 私なりの
                    神(あなた)との生き方も 育てていきたい


                    生きてこそ 生きてこそ 
                    無限に羽ばたいていく愛(カリダアデ)
                    生きてこそ 生きてこそ その根は 深く 太く 強く

                    生きてこそ 生きてこそ 今ここから始まる
                    生きてこそ 生きてこそ 広がってまたつながる

                    生きてこそ 生きてこそ
                    無限に羽ばたいていく愛(カリダアデ)
                    生きてこそ 生きてこそ その根は 深く 太く 強く

                    その根は 深く 太く 強く

                    ah- 羽ばたいて
                    生きてこそ

                ♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

                 これは元歌では、父母との関係で書かれているが、父母と子供との愛は、本来、人間にとって、神との関係、すなわち、カリダアデ、御大切の不完全な表れでもある。それゆえ、神との関係、すなわち、カリダアデ、あるいは御大切として、この歌の意味をとらえなおしたうえで、替え歌讃美歌としてミーちゃんはーちゃんは紹介したい。

                 この替え歌の背景には、ヨハネ福音書3章にある、ニコデモとイエスとの対話がある。受難週であるがゆえに、もう一度、この箇所を読まれて、そして、もう一度替え歌をお考えいただければ、幸甚に存じ候わめ。

                 なお、ヨハネ3章前半は、ニコデモがイエスと頓珍漢な対話をしているのではなく、Jedi同士の真剣勝負のような真剣勝負をしているに感じがあると思うんだけど、そういう聖書理解を聞かせてくださる方がほとんどいないので、多分、頭の悪いミーちゃんはーちゃんが勘違いしているのだろうと思う。個人的には、ヨハネ3章16節より、その前のニコデモとの対話の部分の方がよほど大切だと思うが、そんなこと言ったら、また苦情が来るかなぁ。苦情は構わないんですが、無知蒙昧の徒のミーちゃんはーちゃんをきちんと啓蒙していただくように噛んで含めるように、ご教示賜わり度存じ候。

                 なお、この替え歌讃美歌に歌われた内容の背景をより深く知るには、以下に示す本を是非お読みいただきたい。





                評価:
                ヘンリ・ナウエン
                あめんどう
                ¥ 2,160
                (2003-05-20)
                コメント:言葉がない。読んでもらいたい。

                評価:
                H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
                あめんどう
                ¥ 1,944
                (1997-09-20)
                コメント:大絶賛!息苦しい信仰生活を送ってきたすべてのキリスト者に。神とともに、神にあって人とともに生きる意味を考えさせる書。

                評価:
                ヘンリ・ナウエン
                あめんどう
                ---
                (1999-11-18)
                コメント:大絶賛。問・答・無・用。

                2014.04.17 Thursday

                反知性的なキリスト者はあり得るか・・・我らがキリストとするもの

                0
                   先日、ある方がFacebookで中外日報の4月11日付の社説を紹介していた。読まれたい方、読まれてない方は、こちらをクリック

                    宗教界を取り巻く現下の状況とその中に見られる反知性的傾向にどう宗教者が向かうべきなのかの意見が書かれてあった。(主として仏教者に向けてであろうが…)

                   これを読んだ時、ミーちゃんはーちゃんは、この記事をシェアするにあたって、次のようにつぶやいた。

                  これは大事だと思う。

                  ポストモダンに行けない近代人たちが反知性主義に毒されているとしたら・・・

                  ポピュリズムと反知性主義がシンクロしたら・・・

                  聖書を読む民が反知性主義に毒されたとしたら・・


                  怖いよね。ちょっと。いや、だいぶん。


                   さて、このことについて、少し考えたい。今回は、かなりガチの演説調(堅苦しい)である。とはいえ、The Simpsonsの引用はあるけど…。

                  反知性的であるとされる
                  福音派の一員として
                   ところで、アメリカ福音派は、その反知性的な傾向で悪口を言われることが多いことを福音派の教会の教役者でもある青木先生は、ご著書「アメリカ福音派の歴史」の中で書かれている。また、アメリカのアニメ、シンプソンズでも、ネッド・フランダースという福音派的な傾向の持ち主の『熱心な』クリスチャンは、反知性的な言動をする存在として描かれている。


                  ↑↑ハリーポッターを読み聞かせした後焚書するフランダース氏↑↑


                  そのようにカリカルチュア化して描かれるほど、「福音派=反知性的」という理解が米国においては、一般的である。まぁ、多くの福音派の皆様は反知性的ではないが、声の大きな反知性的な福音派はいる。それらの方々の精神世界を詳しく知りたい方は、下部に紹介した、Jesus Camp(左のリンクをクリックしてあらわれる動画は、たぶん、ポルトガル語の字幕つき)をご覧になられるとよい。声の大きな反知性的な方が福音派にもおられること、それは福音派とラヴェルを他の皆さんから張っていただけるグループの一部を形成するものとして素直に認めたい。

                  聖書のみと『知性』
                   本来、聖書を読む(神と対話する)民であり、Sola Scriptura(聖書のみ)という標語を掲げているはずの宗教改革以降のプロテスタント諸派は、反知性的ではありえないはずである。聖書の文言を通して、その文言の裏にある『神の御思い』を深く尋ねる人々であったはずである。

                   しかし、いつのころからか、このSola Scripturaということが、牧師や巡回説教者の講壇から語られる発言に沿って聖書を読むことにとって代わられたのではないか。そして、本来の聖書の読みを丁寧にすることを、聖書の言葉とそこに示された神の御思いを素朴に尋ね求め、静まりの中で神との対話をするという、キリスト者としてのなすべき基本的な作業をキリスト者はしてきただろうか。それを忘れ、牧会者や巡回説教者の語った話のみに耳を傾けたことはなかったろうか。正直に認めよう、ミーちゃんはーちゃんは、かなりの長期間そうしていた。

                  繰り返すことによって強化される
                  特定の聖書理解への依存症
                   牧会者や巡回説教者も日常の時間的制約の中で、その静まりの中で生きることを省略し、安易な道に走り、聴衆に受けのいい聖書理解のみを語り、聴衆が耳を傾ける恐ろしげなる地獄の話、それとコントラストをなす美しく清らかないわゆる『天国』の話を語ったことはなかったか。しかし、それは、神の国を誤って解釈した『天国』に挿げ替えてしまっていたのではないだろうか。まさに、『神の国』偽装事件である。正直に言おう。ミーちゃんはーちゃんはその愚を犯したことがある。

                   偽装事件だからと言っても、あまりに定着しているので、マスコミは『冬の佐村河内祭り』ならぬ『夏の神の国偽装祭り』とか、騒いでくれないけど。ミーちゃんはーちゃんは、神の国偽装事件でマスコミの皆さんを集めた緊急記者会見を開きたくはない。

                   何、特定の牧師が悪いのでもない。特定の巡回説教者が悪いのでもない。彼らとて、犠牲者なのだ。聖書を誤解して読みこなしてしまった人々が作り上げたちょっこしだけ不純なところを含む教義というドグマの犠牲者なのだ。それを責めるのは、あまりにもかわいそうだし、責めたところで何か生まれるわけではない。悲惨な醜い争いを生むだけだから、そういうことはやめた方がよいと思う。

                  依存症的聖書の読み方

                   自ら、特定の読み方に沿って、聖書の字面をなぞる作業を唯々諾々としてするなら、それは聖書を読む行為ではないと思う。聖書の文字を見ているに過ぎず、頭の中は、神と対話するのではなく、説教者が同じことを語る映像の流れる壊れたビデオテープかDVDの映像が脳内で延々と流れているを見ているに等しいのではないか。

                   あまりに同じことを繰り返していると、依存症状が出てしまう。ウソも1億回言ったら、その人の中では事実になるのと同じである。職業的なウソツキは、ウソを数回言うだけで、それが自分の中で真実として記憶されるという話もあるらしい。

                   ある牧師やある説教者、ある神学者がいった内容を、聖書を読むときに毎度毎度「これは・・・・ということだ」と思い出すことを延々繰り返しているならば、それを神と対話する、神と対峙するとは、言わないように思う。それこそ、悪習の中にはまり込んでいるだけに等しいのではないだろうか。言葉が過ぎる、というご批判は甘んじて受けよう。

                   これは、ある聖書理解をわれらのキリスト、メシア、王、支配者とすることではあるまいか?

                  知性を塵芥にした反知性主義 
                   ある牧師やある説教者、ある神学者がいった同じ内容を思い出すだけのことを延々繰り返していること、これは反知性的な行為ではないだろうか。神が与えたもうた、知性というその豊かさを塵芥に等しいものする行為であり、神の与えたもうた人間の権利と神の尊厳を蹂躙する行為ではないだろうか。そもそも、創世記の初めにあるように、われら、人間には、地を治めるための知性を神が与えたもうたのではないだろうか。

                  わからないからと言って
                  対話を停止することとカリダアデ(愛)
                   数学が嫌いな人もいるだろう。科学が嫌いな人もいるだろう。しかし、われらは神が与えたもうた知性の結晶の恩恵にあずかって生きていないだろうか。ガスレンジで湯を沸かし、デジタルテレビを見、自動車やトラクタ、田植機に乗る時、そこに数学的知見や科学的知見が生かされているのだ。

                   聖書の主張と合わないと受け止めざるを得ないことを主張する科学者もいるだろう。聖書を否定的に扱う科学者もいるだろう。我らを怒らせる言葉を発する科学者や神学者もいるだろう。しかし、彼らは、われらの隣人なのではないだろうか。その隣人についてイエスは何と言ったか。その隣人を愛せ(大切にせよ、価値あるものと認めよ)、である。あなたに敵対するものを愛せ(神がカリダアデしている[人間には理解できない神の不思議さをもって価値を認めている])が故に大切にせよ、価値を認めよ)、と言ったのではなかったか。彼らと対話しろと。彼らを抹殺、黙殺、無視するのではなく。そして、われらに敵するもののために祈れといいたまいしは、誰であったか。

                   祈ることは、関心を持つことでもある。マザー・テレサは、愛の反対語は無関心であると言った(らしい)。自分の考えの違う人を排除し、その言説にことさら、耳を傾けないことはキリスト者のいう愛(大切、他者への価値を認めること)と矛盾しないだろうか。それとも、マザー・テレサは、カトリック教会の修道女であるから、我らプロテスタント派は、その言葉に耳を傾ける必要がないのだろうか。我等は、教皇フランシスのことばを必要以上に重視する必要はないが、彼の真意にちらっとでも思いを巡らすことはしなくてよいのだろうか。

                  対話する神
                  対話したイエス
                   われらは、情の赴くまま生きるようにできていない。神は、情の赴くまま生き、悲惨が起きないように我らに知性を与えたもうたのではないか。神は、最初の殺人者カインに警告を与える際に、言葉で語りたもうた(知性的に語りかけられた)のではないか。 
                   
                   にもかかわらず、われらが、もし自分の情、気持ち(とりわけ、好悪の気持ち)、感情を重視するのだとすれば、それは、われらがこれらの感情をわれらの王であり、支配者であり、メシアでもあるキリスト、すなわちが本来万軍の主が座るべき神の御座に、これらの感情といったものを置き、それを拝する(すなわち偶像崇拝する)ことになっていないだろうか?我らは、クーデターを神に対して起こしている反乱の徒になっていないだろうか?自らをキリスト者としながらも・・・。

                   われらは、もう一度、自らのうちにある人間の弱さの一つである、反知性的傾向に向き合うべきかもしれない。そして、対話をすることの重要性をもう一度見つめなおすべきだろう。ヨハネの福音書の冒頭部で、イエスは知性とのかかわりの深いもの、「ことば」として示されるのではないだろうか?イエスは、叱り飛ばしたパリサイ人とも対話したのではなかったか。ザアカイや取税人、姦淫の場でとらえられた女、スカルの井戸で水を汲んでいた重婚の女性や、盲者、障害者、苦しむひとのみと対話したのではなく。

                   そして、そのイエスは、われらと聖書を通して、対話しようとしているのではないだろうか。神は知性的な存在である。パウロも祈りにつぃて、そう述懐している。われもまた、そう愚考する。イザヤ書を引用してこの記事を終わる。

                   主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。(イザヤ書1章18節 口語訳による)



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                  コメント:言いたいことはいっぱいあるが、まぁ、アメリカ福音派の発展史に関して日本語で読める本でこの本より詳しい本は見たことがない。

                  2014.04.19 Saturday

                  書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その1)

                  0
                     さて、本日は、受難週の最終日ですが、ちょっと置いておいて(あかんやろ、静かにしとく一日やろ、という声を気にしつつ)、出版直後に買っていたものの、手の痛みのために長期間放置しておいた本である

                    八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本

                    の書評なぞものしてみようかと。この本は、2014年のキリスト教本屋大賞ノミネート作品である。なんどもいうが、このブログは、Ministryキリスト新聞社のステマブログではござらん。「福音の再発見」のステマブログではあるけれども。「福音の再発見」については、中の人なので。

                    この本の面白さ

                     さて、結論からいえば、この本は、宣教論と教会論を、教会の外側に視座を据えて見たうえで、結果として両者を図らずも融合してしまった本である。

                     何、キリスト教関係の学問領域もご多分にもれず、内部深化を目指そうという方向性を持つ以上、宣教論は、宣教論、教会論は教会論と細分化され、しだいに重箱の隅をつつくような細かな議論に進む傾向は否めないのではないだろうか。正規の神学教育も受けたことがない平信徒の分際で偉そうに何を言うか、というご批判は甘んじて受けよう。でも、いろいろな神学書と呼ばれるものをチラチラと見ていると、細分化・専門化が進むあまり、分野間の連携が薄くなるように見えてならないのは、たぶんミーちゃんはーちゃんの頭が悪いせいだろう。

                    抱腹絶倒のコンテンツ

                     宣教論と教会論の融合とかいうと、頭が痛くなりそうだが、この本は、抱腹絶倒のうちに融合しているからすごいのである。この本の面白さを少し紹介したい。

                     雨でも晴れでも 24時間年中無休
                     掲示板は伝道最前線!
                      
                    (p11 見出し)

                    である。コンビニよりもすごい教会掲示板について触れておられる。

                     それとか、

                    ライバルはお寺の山門掲示板?(p.17コラム見出し)


                    があるが、基本、キリスト教会は、ふまじめな柔らか頭(ミーちゃんはーちゃんは典型的にこの人種)の方が少ないので、少し笑わせ、少し考えさせる《いいことば》は書いたら怒られることが多いのではないか。書くなら聖書のことばを書きなさいと。以下で紹介するようなキリスト看板のような聖書の言葉を書けと言われる。

                     しかし、である。そのページの最後にあるような、

                     信仰者でないと意味が取れない難しい句、罪や地獄を強調した句を使うことで、かえって人を遠ざける可能性も無きにしもあらず。(p.17)


                    という表現にもみられるように、聖書のことばで、少し笑わせ、少し考えさせるのは難しいのもまた事実。

                     これを見る限り、キリスト看板は、やはりNGのようだ。カラーリングもねぇ。

                    地獄は永遠の苦しみ 聖書死後さばきにあう(聖書)
                    キリスト看板のサンプル ほかの事例は、こちらを参照。

                    情弱にも親切なポスターの作り方指南

                      また、大きめサイズの掲示用ポスターの作り方まで、情弱(情報弱者・コンビュータ音痴)が多い日本のキリスト教会向けまでご丁寧に書いていてくださる。

                     なお、雨水に強いポスターを作りたいなら、リコー社製ジェルジェットプリンターがお勧めである。業務用なので、インクはかなり高めだが油がべっとりにも、水でべとべとになってもインクは全くと言ってよいほど流れない。両面印刷がかなり高速にできるので、週報作成にも、強いお味方である。とリコーのジェルジェットの営業マンよろしく書いておこう。なお、NetRicohでは、時々、特価でこのタイプのプリンターを特売することがあるらしい。2月〜4月、8月が狙い目らしい。詳しくは、お近くのリコージャパンへ。なお、ミーちゃんはーちゃんの教会では、ジェルジェットが2台鎮座ましましているし、自宅でも、ジェルジェットプリンタ活躍中である。

                    紹介タイムって…
                     プロテスタント系教会では、新来会者を本人たちは暖かく(新来会者から見れば、時に、暑苦しく感じる)迎えるための行事として、紹介タイムがあるが、これに関しても、

                     紹介タイムは廃止せよ、とは申しません。ただ、その紹介を選択制にしてもらえればありがたいと思います。(p.27)

                    とポイントを押さえたコメントが。

                     また、着席場所についても、

                     以前一度だけ参加した某教会の夕拝では、3、4人しか来ていない信徒が全員講壇から遠く離れた最後列にバラバラに座っていて、何とも異様な雰囲気だったことを思い出します・・・・・(前の方に詰めなさいと言わなかった牧師の態度も不可解でした)。(p.33)

                    という記述もあるが、ボクシ先生は、何度言っても聞かないのであきらめられたのではないだろうか。

                    大学の講義との類似性

                     なに、これは、教会のみではなく、大学の講義では、ままこうなる。ま、もともとイタリア、ドイツ、フランス、大英帝国では、大学(の核となった部分)はほとんど教会から出発しているから、似ているのはしょうがないけど。

                     3−4人しか参加しない講義が100人教室に割り当てられた日には、目も当てられぬ。いやいや代返(出席偽装工作)するために犠牲的精神でやってきた(あるいはじゃんけんで負けた、あるいは人がいい)数名の学生が最後尾に陣取り、授業中ほとんど携帯をいじっている。そして、かろうじて出席している学生諸氏は、最後に出席票だけを出しに来る。ボクシ先生は、こういう艱難に耐える大学教員と同じである。何度言っても、学生は前には出てこないので、痺れを切らして、教員からご訪問、となるが、黒板に板書するために行ったり来たり…

                     しかし、一度なぞは、3-4人しかいないのに、出席票が26人分出たことがあったので、代返とよばれる出席偽装工作を防ぐために、キティちゃんのハンコやら、リラックマのハンコなど毎回違うゴム印を事前に押した出席票を配るようにしたら、突然出席人数が30人台に増えたという実に面白い経験をしたことがある。以上非常勤先の某大学での週刊実話。

                    週報コレクター八木谷さん、
                    って・・・一体?

                     また、週報はミクロコスモスというタイトルのもと、

                     週報こそ、我が国が世界に誇るプロテスタントの文化! 私はまじめにそう思っています。小さな紙面にぎっしり詰まった世界を眺めるのが好きで、旅先でチャンスがあれば、プロテスタント教会をめぐって週報だけ頂いてくることもあるほどです。

                    (中略)

                     その教会の個性を文字にした小さな宇宙。週報に記録あり!歴史あり!
                    (p.36)


                    などとお書きである。ほら、もうほしくなったでしょ。この本。買わないとだめだからねぇ。買わなくても、神罰は下らないよ。www

                     
                    明日、イースターを記念して公開する記事の後に続く、次回へと続く

                    (次週水曜日公開予定)


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                    コメント:ミーちゃんはーちゃん、大絶賛。宣教論と教会論を教会の目に見えるものから考える本。

                    2014.04.20 Sunday

                    祝 復活! もし、コリンパウエルが、イエスが十字架にかかったときのイスラエル駐屯ローマ軍団長だったら・・・

                    0
                      ハンドサインで遊ぶの(例えばこんなの)







                       
                      が流行しているけれども、

                      埋め込み画像への固定リンク

                      で遊ぶのがはやっているようなので、イースターの朝も開けたことだし、ミーちゃんはーちゃんは、コリン・パウエルの画像を使って、「もし、関西弁をしゃべるコリン・パウエルが最初のイースターの日にエルサレムに駐留していたローマ軍団長だったら・・・」というので遊んでみたい。なお、オリジナルは、フガフガラボの村井理子さんによる、ダイエーに買い物に行って、キュウリを買い損ねたおばちゃんコリン・パウエルである。

                      写真の下が、字幕(吹き出し)である。


                      ナザレのイエス、ええ男やったのになぁ、
                      やっぱり、あかなんだか。
                      十字架の上で死んでもたか。
                      エリヤが迎えにくるっちゅうて、
                      ワシ、ちょっと期待しとったんやけど。





                      第1大隊の百人隊長も、
                      「あれは、ホンマに神の子やった」
                      というとったしなぁ。





                      せやせや、イエスの弟子たちが復活するやなんや
                      いうとったから、早いとこ、第2大隊から兵隊派遣して、
                      墓守させとかなんだら、弟子らが死体盗みだして、
                      イエスは復活した言うて、弟子らがアホなこと
                      いいふらかしよったら、あかんしなぁ。

                      だれか第2大隊長呼んできぃ。



                      (安息日(土曜日)の夕方と夜が過ぎ、夜あけて、翌朝に・・・)






                      え、第2大隊長から連絡で、
                      墓が空っぽやって?
                      そんなあほなぁ?





                      またまた、第1大隊長。
                      また、ワシを担ごうとして・・
                      そんなアホなこと言うて・・・
                      ジョーダン、キッツイわぁ・・・


                      え、まじで空なん
                      第1大隊長、ホンマか? 
                      MJD? MJD?




                      あかん。そんなんありえへん。
                      ピラトにワシ怒られるやん。
                      めっちゃ困るやん。
                      ワシ降格されてまうやん。
                      どないしょ〜〜〜

                      さすがに、コリン・パウエル、米軍の元参謀総長だけあって、軍隊関係のことにネタにすると、なんとなくリアリティが出てくるから、すごい。


                      では、皆さん、良いイースターを。 イースターにふさわしい曲 Above Allをのせておこう。


                      >


                      Happy Easter!!

                      参考 Above Allの歌詞

                      Above all powers
                      Above all kings
                      Above all nature
                      And all created things
                      Above all wisdom
                      And all the ways of man
                      You were here
                      Before the world began

                      Above all kingdoms
                      Above all thrones
                      Above all wonders
                      The world has ever known
                      Above all wealth
                      And treasures of the earth
                      There's no way to measure
                      What You're worth

                      Crucified
                      Laid behind a stone
                      You lived to die
                      Rejected and alone
                      Like a rose
                      Trampled on the ground
                      You took the fall
                      And thought of me
                      Above all



                      Above all powers
                      Above all kings
                      Above all nature
                      And all created things
                      Above all wisdom
                      And all the ways of man
                      You were here
                      Before the world began

                      Above all kingdoms
                      Above all thrones
                      Above all wonders
                      The world has ever known
                      Above all wealth
                      And treasures of the earth
                      There's no way to measure
                      What You're worth

                      Crucified
                      Laid behind a stone
                      You lived to die
                      Rejected and alone
                      Like a rose
                      Trampled on the ground
                      You took the fall
                      And thought of me
                      Above all

                      Crucified
                      Laid behind a stone
                      You lived to die
                      Rejected and alone
                      Like a rose
                      Trampled on the ground
                      You took the fall
                      And thought of me
                      Above all

                      Like a rose
                      Trampled on the ground
                      You took the fall
                      And thought of me
                      Above all


                      評価:
                      Various Artists
                      Sony
                      ¥ 2,411
                      (2002-01-22)
                      コメント:いろいろ入って、このお値段。なかなかでした。

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