2014.03.19 Wednesday

『愛』をめぐる一断章(1)

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     皆様、ご心配をおかけしました。実は、昨秋より手に障害が発生したため、キーボードを打つと、しびれが手指から手のひらの内側まで走るので、ブログの更新をお休みしていました。日常生活や仕事にも差し障るほどでしたので、突然の休筆になりました。いまだに、日により、時間により症状はひどいのですが(一番ひどい時は、お箸をもつのが憂鬱、聖書のページが痛みのために捲れなかった)、ぼちぼち書いてみようかと。

      最近の水谷先生のブログで、聖書の言う「愛」の語の誤用をする人のお話が出ていた。

    「教会には愛がない」発言者理解のために

     教会には愛がない、といい自分に優しくしてくれることだけを期待する、教会と教会人から甘えと甘やかしを求める皆さんの存在と、そのような方への対処法が示されていたように思う。


    イエスの発言から教会と愛を考える

     そもそも、「愛」とは何かを考えてみる上で、イエスの(旧約)聖書の愛への言及を考えることは重要ではないだろうか。

     そもそもイエスは何と言ったか。

     『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 (口語訳マタイ22章37−40節)

     そうなのだなぁ。神への愛が教会ではまず優先のような気がしてならない。神へのが満ちている場が教会であるはずだろう。私へのが満ちている場ではなく。そして、神への愛が表現される場所と時間が礼拝なのである。それが教会のまず第一の機能ではないだろうか。その意味で、Ministr19号の越川先生の「ワタシの礼拝論」でのご指摘のとおりである。(復帰草々、いきなりMinistryのステマではないです。それだけ、あの論考の指摘は極めて高い重要度を持っていると思う。特に信徒にとって)

     もちろん、イエスは、そして神は、人への愛を説いておられる。しかし、少なくともそれと同等、あるいはそれに優先して、神の愛を言っているような気がしてならない。ただし、よきサマリア人の例にも見られるように、神への愛を口実として神が創造したまいし人への愛の無視は問題視しておられるように思う。

    教会で語られる愛とその誤解


     時に、教会では、聖書のいう愛は、神の愛は一方的な愛だともいわれる。無制限の愛だ、ともいわれる。間違いではないが、こういいきってしまうと、欠けてしまう部分、一般に誤解を生んでしまう部分があると思うのだ。

     聖書の言う愛の最も望ましい形は、双方向的なものであり、一方的な愛を収奪的に受けるだけが愛ではないように思うのだ。聖書の言う愛は、「神に人が愛され、神を人が愛する、神に人が知られ、神を人が知る」状態のことを言っているように思う。これが福音だと思う。(ちなみに、『福音の再発見』もよろしく。なお、こちらは完ぺきなステマ。)

     「神に私が愛される」ということだけを言うのが聖書の愛ではないと思うのだが、時に、キリスト者でない方向けに、「神は一方的な愛をもって私たちを愛しておられる」というメッセージや説教が語られることがある。これは、「神は、私たちが神を愛することを心から望んでいて、神と人との平和な愛の関係の中に入ることを心から期待して、そして、驚愕すべき忍耐をもって、神は一方的な愛をもって私たちを愛しておられる」ということを言いたいのであって、赤字部分の前の太字部分を抜かして切り出すととんでもないことになりかねない。

     というのは、太字部分を抜かして、神は一方的に愛しておられる、という部分だけ抜き出されてしまった場合、神をそもそも愛する気もなく、そんなつもりもない人にも、神は愛を押し売りのように押し付けてしまうことになってしまうからだ。神はそのようなお方ではないように思う。親切の押し売りは、「小さな親切大きなお世話」で済むが、愛の押し売りは、ストーカー行為ですらあるのではなかろーか。

    おまけ 『どぶろっく』風に


     気分が乗ってきたので、どぶろっく風に遊んでみよう。

     「もしかしてだけどぉ〜、もしかしてだけどぉ〜
      それってオイラを愛してるんじゃないのぉ

      ふとひらいた聖書の中に、神は愛ですと書いてあったんだ。
      そういうことばをオイラに向けるなんて

      もしかしてだけどぉ〜、もしかしてだけどぉ〜
      オイラって神様に愛されるほどすごいんじゃないのぉ

      そういうことだろ。」

     ★どぶろっくの「もしかしてだけど」Youtube版はこちらをご覧ください。

    あー、この「(教会)もしかしてだけど」企画、面白そうなので、もう少し遊んでみるつもり。

     ちなみに、神戸で開かれた水谷先生を迎えての読書会にさせていただいた際、この記事の内容の一部をごくさらっとご紹介しました。

     CBMC神戸の皆様、お邪魔いたしました。大変、面白かったです。突然ご訪問したにもかかわらず、温かくお迎えいただき、ありがとうございました。

    次回へ続く。 

    公開予定は、今週の日曜日の夜あたりかな。

    2014.03.23 Sunday

    凡庸なものが、凡庸な人々をあおることについて 笛吹けど踊らず 再考

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       お茶らけネタをしたいのだけれども、ちょっと書いておきたいことがあるので、書いておこうかと。

      「現代のベートーベン」と「リケジョの星」をめぐる
      テレビ報道狂想曲


       復帰早々、気になっていることがある。某現代のベートベンと言われた方と某研究所の女性研究員をめぐる報道関連業界の皆さんの動きである。

       STOP細胞とでも言いたくなるようなSTAP細胞とやらの発見をめぐる騒動である。リケジョとかわけわからんこと言ってもてはやしておいて、不具合(まぁ、個人的には学部のレポートレベルでもしたら怒られるレベルの剽窃をしたのは、なんだかなぁ、と思うが)が見つかると、わけわからんことをひたすら言いつのり、自ら担ぎあげたことをちょっと反省したふりしながら、今度はちょっとうれしそうにその座から引きずり降ろそうとするいわゆるマスコミ関連、特にテレビ業界の人々の姿勢である。報道する前に事実関係を見抜けないということに、取材力の弱さ、取材者能力の残念さを感じる。速報性を要求されるテレビに調査取材と言われても、という声も分からんでもないが、速報性の要求を口実にこの取材能力の残念さが許されるというのもどうか、と思う。それは、大本営発表を垂れ流しにした過去やオウム事件(というよりは河野さん事件)でお懲りなられたのではなかったか。

      科学論文の価値を正当に評価できる人は限られる
      件についての残念なお知らせ
       まぁ、科学の業界なんて、その分野の人でないと分からないことだらけだし、周辺の皆さんはよほど興味と能力がない限り、そんなものかと聞き流すしかないのだけれども。

       私の数学関連分野の師匠筋の一人の先生の「自分の研究成果は、世界で5人わかればいい方だ」と豪語された先生の言葉を思い出した。大なり小なり、科学の分野ってこんなものかもしれない。この先生は、本当に大変優秀な先生でもある(弟子はその師を越えない、というのを身をもって実証しているのがミーちゃんはーちゃん)。

       数学関連分野のような一般に理解不能な研究は報道されることすらめったにない。報道関係の皆さんが理解できないのであれば、ある組織が出したプレスリリースに浮かれて、踊らされて、手出しをしなければよいのだし、特定の個人を必要以上に担がなければよいのだ。

      わからないものに手出しをする危険な火遊び


       この国の報道関連機関の皆さんは過去に大本営発表を垂れ流しにしたことの反省をされたはずだとミーちゃんはーちゃんはおぼろげながら、記憶しているのだが、違ったろうか。確実な周辺の学術関連の調査取材をすることなく、安易な調査取材という名の取材(割烹着云々の調査?)でお茶を濁されたのではないかと思われてならない。その意味で、今回の事件も凡庸さがもたらした悪のように思われてならない。


      <悪>は凡庸さの中に について

      敬愛してやまないH先生のブログに、

      〈悪〉は凡庸さの中に


      http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-1ac6.html

      という記事があった。そこで描かれていることと、今回のマスコミのSTAP細胞の研究者の方を巡る騒動は同じ構造を持っているように思えてならない。

       なに、この構造は、ちーっとも新しくもなんともないのではないだろーか。

       今回だけのことでもないだろう。たぶん。報道関係機関の方々だけの問題でもないようにも思う。旧約聖書の時代からの構造なのではないかと思えてならないのだ。

       「サウルは千人を倒し、ダビデは万人を倒した。」と言って、神から、「やめといたら」と言われつつも、自ら異教の民のように王を欲しがり、王として与えられた油注がれたサウルを引きずり下ろしたのは、イスラエルの民の凡庸さであった。

       イエスの最後の時期にしてももそうだ。「ダビデの子にホサナ」と棕櫚の葉をもって迎えた民が、「十字架につけよ」と騒いだのではなかったろうか。そして、十字架上に「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と大書させたのではなかったか。

       もっとシンプルな例がみたければ、「ノートルダムの鐘」での変顔コンテストで、優勝者に担がれたコジモド君を群衆が引きずり下ろすシーンを見られれば良い。子供でも楽しめ、わかるように描かれている。

       この種の俗悪さは、人間が神から離れてしまった結果(罪の結果)でもあり、神との愛にこの地上で完全に生きられないその人間の不完全さゆえの結果であると思う。

       聖書マタイ11章に、
      『わたしたちが笛を吹いたのに、
      あなたたちは踊ってくれなかった。
      弔いの歌を歌ったのに、
      胸を打ってくれなかった』

      という記述があるが、まさに、人が自分の思うことや期待を勝手に自分の範囲を越えて相手にその役割や期待を押し付けることこそ、凡庸さがもたらす<悪>であろう。それこそイエスが言われる通りであろうと思う。


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      おかわいそうな「リケジョの星」
       しかし、なによりかわいそうなのは、持ち上げられた「リケジョの星」扱いされた方である。一度疑惑がついて回ると、おそらく、今後、彼女の専門分野での仕事の機会はほとんどないだろうし、あと数年は、いろいろと不愉快なことをいう人々や、凡庸さがもたらす悪の結果、町も歩けなくなるであろうし、結婚も転職も難しくなるであろう。

       それを思うと胸が痛いし、報道関係機関に関しては、「責任者出て来い」と人生幸朗・生恵幸子師匠のように言いたい。

       しかし、報道関係機関は言うのだろう。人々が求めたから、と。それこそ、悪〉は凡庸さの中に の構造でしかないように思う。

       この辺のことを見たければ、映画15ミニッツを見られる、よろし。

      凡庸さの中に生きるミーちゃんはーちゃん


       そう思うと、個人的に私淑してやまない後藤先生が

      佐村河内守氏(と新垣隆氏)の一件で思ったこと

      の中で大事なことを語っておられる。それは、自らが8割の人であるということを忘れないことの大切さである。ミーちゃんはーちゃんは、ミーハーであることからもわかるように、きわめて凡庸な人間である。その意味で、ミーちゃんはーちゃんも、自ら凡庸さの中にいる人物であることを忘れないためにも、ミーちゃんはーちゃんは、「ラインホルド・ニーバーの祈り」と呼ばれる祈りを味わいつつ、祈ろう。

      ラインホルド・ニーバーの祈り

      神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
      静穏のうちに変えられないものを受け入れ
      変えるべきものを変える勇気を
      そして、変えられないものと変えるべきものを
      峻別する知恵を私に与えて下さい

      一日を瞬間瞬間生き、
      一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
      平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
      ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
      この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
      私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
      あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
      あなたの御思いに身を委ねることで、
      私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
      そして、あなたの隣に私をおらせ、
      これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。
      (以上 個人的日本語変換)



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      価格: ¥3,072
      ショップ: イーベストCD・DVD館
      コメント:個人的に、(アメリカ人が考え、理想とするところの)人権、自由、権利ということをわかりやすく示したディズニーアニメ。

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      ジョン・ハーツフェルド
      日本ヘラルド映画(PCH)
      ¥ 3,990
      コメント:ロシア・マフィア物語だが、報道、特にテレビ報道のもたらす問題を描いた作品。アメリカにおけるメディア問題を考える上では、見といた方がいいかも。

      2014.03.26 Wednesday

      社会の分断化・分節化と社会を構成する人の疲弊と教会

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         お世話になっているはちこさんが大変重要なことを書いておられる。

        福音のこと、ちょっと(3)

         これを読みながら、特に門○先生のお書きになられた部分を読みながら、思ったことをちょっと書いておこうかと。
        ことば「だけ」を語ることのむなしさと言いますか、いたむ人々と「共に何かをする」ということが、現代の教会に欠けているのではないか。そう思うのです。

        ともにする行為としての礼拝・聖餐

         教会は少なくとも礼拝・聖餐という「共に何かをする」という行為を重視してきていたように思うのですね。しかし、日本におけるキリスト教会の歴史的展開の中で、この「共に何かをする」というキリスト者集団における行為である、礼拝や聖餐の位置づけがどっかずれが生じてしまって、共同体性が抜けてしまったのかもしれないと思うのです。

        日本の教会の地域共同体とのかかわり

         これまで行ったことのある北米のキリスト教会と日本のキリスト教会を見ていて「違うかなぁ」と体験的に思うのが、地域共同体との距離の遠さ、だと思います。日本のキリスト教会は豊臣政権以降のキリシタン弾圧以降、近世にいたるまで『耶蘇(やそ:中国語でナザレのイエス Jesusを漢字表記するとこうなるらしい)』扱いされ、日蔭者扱いでしたから。

         15年戦争中(なんて、左まきな表現www)なんかは、なんせ、美濃ミッション事件なんかがあり、「守れ国体、葬れ邪教」(ちなみに国体とは、国民体育大会ではありません。邪教とは、キリスト教のこと)とうたわれていた事件が戦前にはありますし。(この辺りは、タイムっちで概要はつかめます。)つまり、歴史的経緯の中で、地域共同体とは、距離を取らざるを得ず、自分たちの集団の安全確保と護教に走らなければならなかった時期が長らくあったように思います。

         15年戦争後は、「信仰をもって間もない信徒たちの、信仰を守るため」という側面はあったとはいえ、海外から(特に北米方面から)こられた伝道師や宣教師の皆さんは、地域や家族という共同体からの分離を強く訴えることもあったでしょう(特に福音派教会ではこのようなことは多少はあったかもしれません)。

         その意味で、明治維新のころのプロテスタントの宣教開始期以来、長らく、キリスト教会は、嵐の大海の中の小島というか、「D-dayでドイツ軍からの砲火が雨あられのように降り注ぐ中(この辺、プライベート・ライアンが、やたらとリアル)、身動きとれない小隊状態だった信徒にとっての遮蔽物」の役割を、意識的であるか、無意識的であるかは別として、地域とのかかわりを切り離すことで実現しようとしたのかもしれません。

         いまだに、「地域社会という嵐の大海の中の小島・ドイツ軍の集中砲火に遮蔽物に集まる連合軍兵士」状態なのが、日本のキリスト教会かもしれません。教会は自分たちの信仰を握りしめ、教会生活と信仰とを守るために必死になって地域共同体からなんとか距離を取ろうとする傾向が続いているのかもしれません。近代科学が一応、とりあえずの常識とされる社会において、地域共同体は地域共同体で教会に宗教という非科学的なものに怪訝な目を向けている部分もあるでしょうから。もちろん、カルトの問題も大きいですが。

         まぁ、いまの日本では、仏教寺院も似たようなものらしいようです。フリースタイルな僧侶たち、というフリーペーパーが出るくらいですから。「フリーペーパーからはじまる仏教とのゆるやかな出会い」(うーん。そこ行きますか。お寺さんが・・・)

         なお、我が国の都会地では、地域共同体すら崩壊しているという懸念が大ではあります。

        共同体行為としての礼拝・聖餐

         文字がなくても、学問や論理的な思考能力がなくても、だれでも耳で聞き、口でものを味わうという行為、だれもが直感的に耳で聞き、口で味わい理解できる共同体行為としての礼拝や聖餐の意味や位置づけが、ややぼやけてしまっているかもなぁ、と思うのですね。そんなことを言えるほど、教会史に詳しいわけではないですが。

         「ことば」がなくても、神への共同体的な賛美としての礼拝をささげ、神から提示されたものとしてのパンとカップを共同体として受け取る行為を通して、そして共同体の一員として受け取る行為を通して、神との共同体にあることを覚え、神と共にある人々共にある共同体を覚え、形成することができること、って意外と重要かもしれないですねぇ。なにせ、リアルな共同体作業ですし。このあたりのことは、マクグラス先生の「聖餐」やGordon T. SmithのThe Holy Mealを参照していただくことにして。

         それが、いつの間にか、聖餐を「意味はよくわからないが、しなければならないこと」や「なんかわからずにやっていること」、「キリスト者だし、聖書が参加しろと言っているし、牧師がうるさいので参加することにしていること」にしてしまっているのかもしれないなぁ、と「新約聖書詩篇つきの信仰(上沼先生)」しか持っていない信仰者の一人として思います。

        共同体としての礼拝の崩壊と
        アイドルおっかけ、トラキチに見る一時的共同体性

         何年か前の「福音と世界」誌に平田オリザさんが、教会と劇場の類似性を書いておられたように記憶しているのですが、劇場も教会も本来は「聴くことで参与する」共同体という意味での参与型共同体性(アフリカ系アメリカ人の多いバプティスト系教会はいまだにそうみたい)を持っていたはずの行為がいつのまにか、数多くの聞き手一人ひとりと演者、信徒一人一人の個人と語り手である牧会者という、1対1の人間関係の関係の単なる束というか集まり(なんかこんな表現、孤独なボウリングにもあったような気がする)になってしまったような気がするなぁ。

        オペレッタにおける共同体性
        アイドル追っかけ、トラキチに見る共同体性

         モーツアルト時代の庶民演劇であるオペレッタがどのようなものであったかはよく知らないのだけれども、映画「アマデウス」のワンシーン(字幕はハングルです。)にあるように「聴衆と演者とが一緒になって歌って楽しむ」共同体感覚のあるようなものだったのかもしれない。その意味では、今のモモくろやAKBやジャニーズなどのアイドルグループやそのほかのアイドルの皆さんのコンサートでみんなで盛り上がったり、野球場で盛り上がる野球選手たちとそれを応援する皆さん(特に私設応援団の皆さん:ちなみにミーちゃんはーちゃんが住まいする関西地域には、熱烈なトラキチと呼ばれる皆さんがおられます)なんかと似たものだったかもしれません。(ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは野球場から500m以内に住みながらも、野球を一切見ません)
         これらのコンサートや、野球場、サッカー場などでも、一時的な共同体がそこに生まれるんでしょうね。

        共同体と社会と福音

         そう、共同体と社会と福音の話に戻しましょう。下で紹介している、「孤独なボウリング」では、アメリカ社会における社会と個人の関係の変化、とりわけ、個人をとりまく共同体の弱体化についての研究書でもあるようです。そして、この本の中では、この共同体が生み出すソーシャル・キャピタル(社会資本: 社会をうまく動かすための「のりしろ」というか、冗長性というか、たまっている余力)が存在する社会では、ソーシャル・キャピタルという目には見えない関係性の束(というよりかは網あるいはネットワーク)によって生み出される社会における能力や余力が社会全体において潤滑油のような役割を果たし、社会のパフォーマンスを向上させ、よい状態に保つだけでなく、人間の生活の質を向上させることを示していた本だったように思う。パットナムのほかの本の内容と混同しているかもしれないですけれども。

        教会と共同体

         なお、この孤独なボウリングの第4章で米国においては、プロテスタント、カトリック教会への参加者が減少しており、教会活動を通しての地域における共同体形成に陰りがみられることが示されている。(この本から見た、キリスト教については、改めて書くつもり。)

        教会と社会的福音
         パットナムが明確に書いていないまでも、なんとなく暗黙に想定しているように、本来、アメリカ社会において、教会という共同体は、ソーシャル・キャピタルの蓄積装置として機能し、社会が破たんしている結果、生まれる悲劇的な状況へのセーフティネットというか、その緩衝材としての機能を結果として果たしてきたように思う。それが本来的な教会の役割ではないにせよ。この辺詳しく知りたい人は、社会的福音の出発点になった、ラウシェンブッシュ先生の『キリスト教と社会の危機』(下のリンク)をお読みいただきたく。(ちなみに書評はこちら

        国家や社会の共同体幻想の崩壊後の社会の中で
         ミーちゃんはーちゃん個人は、社会的福音の立場には、立たない(とはいうものの、ひかれる部分はあるけれど。なにせ、ちょっと(かなり、という説もある)左巻きなもんで)。しかし、社会において効率が追求され、結果として余裕を失った現在、そして、分断化、分節化、孤立化が進み(特に個人の生活環境において)、さらに、旧ソ連など共産主義の主張した国家支配という共同体幻想に対抗するため、設定された「大きな政府(それは、個人の生活に口出しする政府という側面をも持つが)と福祉国家」という幻想またはものがたりが崩壊した現在、すべての問題が個人主義的問題に矮小化され、自己責任化する現在(そのお先棒を担いだことがあることは反省している)、を迎えているのかもしれない。

         なお、政府は「新しい公共」ということばを使いながら、『大きな政府(それは、個人の生活に口出しする政府という側面をも持つが)と福祉国家」という幻想またはものがたりが崩壊』したことをすでに吐露している。いくら、「とりもろす」の閣下が取り戻そうとしても、この『大きな政府と福祉国家(とそれに伴う政府による救済)』という物語は財政難のために取り戻せないと思うし、「とりもろす」の閣下はそれを取り戻すおつもりはどうもないように思われる。だいたい、民主党政権下で、「新しい公共」が取りざたされているのだから。

         政府(それが地方政府であれ、国民国家全体を取り扱う政府であれ)と呼ばれるものの支配による救済のものがたりが崩壊したところに発生し、その救済のものがたりが明らかに破たんを見せたのが、東日本大震災であるのだと思う。被災者の視点からすれば、特に原発被害者の視点からすれば、○電は救済されるのに、被災者でもある弱い自分は十分救済されていないように感じるというあたりから発する当惑もあるのではないか、と思うのですね。

        崩壊した社会の中で宣言することの空虚さと
        そうであっても神の国を
        礼拝を通して
        共同体として
        「宣言」する意味

         そのような場におられる方々に「聖書はこう言っています」、「神様がともにおられます」といっても、なかなか理解してもらえず、自分の放つ言葉が空疎に中空にむなしく響いていることに関する何とも言えないうめきというのか悲しみというのかを、被災地、とりわけ、福島において、踏みとどまり、神の言葉を伝えようとしておられる牧師先生はいまなおお持ちなのではないだろうか、と思ってしまうのです。東日本大震災からすれば、はるかに弱められた形であったとはいえ、同様のことを、阪神淡路大震災で経験したものとして。

         阪神淡路大震災の以前から、阪神間の外れにいまだに住んでいるものとして、そのお気持ちの一端には触れているような気がします。ミーちゃんはーちゃん自身、震災から数年間は福音と称されるものを語ることの空虚さにさいなまれましたから。無力さを感じましたから。

        喪失を臨在により埋められる神

         しかし、そうであっても、『喪失』をめぐってたらたら考えたでも触れたように、その「喪失」を「私のもとに帰れ」とおっしゃりながら延ばされた手で、人が喪失してしまった部分をご自身の臨在により埋められ、喪失を埋めるようにともにおられようとされるお方が、神であるんじゃないか、とは思ったりしているのですね。これが。そして、その喪失を埋める過程(神を『知る』という過程でもあるとおもうのですが)は、瞬間的なそして、奇跡的なものではなく、むしろ、だらだらと続いていく過程ではないか?と体験的に思っていたりします。だからこそ、繰り返し繰り返し、あたかも自分自身を納得させるようであっても、その神の国を宣言する意味があるのではないかなぁ、と思ってたりします。

         神の国を宣言することができるのは、主の祈りにあるように、「御旨が地においてもなりますように」と祈るよう、ボロボロになった癒し人となられたナザレのイエスに招かれている信仰者であるが故でしょうし、「神には力がある、神の言葉には力がある」という信仰のゆえでしょうし、信仰者がこの地におかれている意味や役割なんじゃないかなぁ、と思ってたりします。「イエスが神である、信じよ」とことばで説明し、説得すること、自派の信徒を増やすためにすることが伝道ではないと思うのです。神の国を形を通して、礼拝を通して、聖餐を通して共同体を形成しつつ、表現し、そして自ら味わうことも、伝道だし、福音を宣べることだ、とミーちゃんはーちゃんは思うのですね。

        礼拝・聖餐式という共同作業による
        神の国の宣言

         そして、神の国という、幻想ではない、リアルな神との共同体への確信をもつ信仰者であるが故に、礼拝を通しても、聖餐式を通して、「この地上は、世代間格差、経済的格差があり、さらに悲惨と残酷さと無残さに満ちているけれども、いまここに神の国は、確かに目では見えないけれども、私たちのただなかにあります」とリアルな行動を通しても、宣言できるのかなぁ、と思います。そして、神の国の宣言は礼拝や聖餐式を通しても、礼拝や聖餐式という共同体としての体験を通しても、神がそこでなされるものなんだろうなぁ。神と人との共同作業として。キリスト者としての責務であるから、ではなく。

         この辺り、最新号のMinistry20号で同志社の越川先生が「ワタシの礼拝論 「3・11後の礼拝」を考える 」で述べておられる被災地おける礼拝の役割の考察が、大変参考になるのではないか、と思うのです。ちなみに、くどいようだが、このブログは、Ministryとキリスト新聞社のステマブログではない。ちゃんと、新教出版社の本もご紹介している。

        ちなみに、世代間格差(特に勤労関係)にいらついていたのがUgoUgoさん。それを受けて書いた過去記事が以下のシリーズ

        教会との絡みで書いた過去記事が、
          

         もちろん、言葉を述べるとともに、ラウシェンブッシュやその後継者たちが考え実行したように、実質的な必要も満たすことも重要ではないとは言わないですよ。もちろん。だけど、それに振り回されて、神の国の意義を忘れやすいミーちゃんはーちゃんには、ほとほと困って、自らの身を持て余していますけれども。



        評価:
        ロバート・D. パットナム
        柏書房
        ¥ 7,140
        (2006-04)
        コメント:アメリカ社会の変容と社会における共同体制の重要性の分析を行った本。

        評価:
        ウォルター ラウシェンブッシュ
        新教出版社
        ¥ 6,405
        コメント:歴史的限界はあるが、1900年代ごろのアメリカ社会の教会と社会の役割を考える上では欠かせない名著。本文より、現代のキリスト教関係者によるご意見のほうが面白い。

        2014.03.30 Sunday

        『愛』をめぐる一断章(2)

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           書きたい記事があったので、そちらを優先しました。すいません。

            前回の記事では、神に『愛』されること、そして、神を『愛』することについて触れた。

           今回は、聖餐式とか礼拝とのかかわりで、神を愛することを考えてみたい。今日は、気持ち短めです。ご安心を。

          人は、神を愛することができるのか?

           そもそもの疑問だが、我々は、神を「愛」することができるのだろうか。どうも無理のような気がする。神を愛するように、そして、いまここで神と共に生きるように招かれている(このあたり、ナウエンの「いまここに生きる」を参照されたい)。

           これは間違いない。しかし、神が人を愛するように、神を完全に愛することは、そもそも不可能なのではないか、と思う。神を愛するといっても、せいぜい、不完全な形でしか、神を愛せないのである。なぜならば、人間は不完全な存在、欠けある存在(罪ある存在)であり、所詮我々ができることは、主の祈りにあるように、「御国が来ますように。天においてそうであるように、地においてもあなたの御思いがなりますように。御名がほめたたえられますように」と祈ることでしか、神への愛を表明できないのではないだろうか。その意味で、礼拝であれ、聖餐式であれ、不完全な形を通しての神への愛の表明でしかないのである。それでも、神はそれを受け入れてくださるのであろう。

          礼拝再考

           旧約の時代、様々ないけにえがささげられた。それは、神が人に与えたまいし神を覚える方法でもあった。そして、そのいけえにを神は受け入れたもうた。しかし、それと同時に、口語訳聖書詩篇51篇にあるように、

          あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。


          でもあるようなのだ。神は、受け入れておられるが好まれないのだ。

          礼拝を通して示す神への愛

           現代を生きるキリスト者にとってみれば、神の受けられるいけにえ、神への愛の捧げもの、神の愛への応答は砕けた魂を神の前にお持ちする場、十字架の上で砕かれたイエスの魂を、そしてそれと同じように、そもそも元から本来醜く砕けてしまっていて、みる影のないわれらの魂をささげる場が、礼拝なのではないだろうか。それが実現する社会と社会集団が、そもそも教会なのではないだろうか。ローマ12章1節「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」は「十字架の上で砕かれたイエスの魂を、そしてそれと同じように、そもそも本来醜く砕けてしまってみる影のないわれらの魂をささげる」ことを言っているのではないだろうか。それも、毎日、一刻一刻。倫理的に高潔に生きるということよりもむしろ。

           そして、聖餐という形を通して、聖餐におけるパンと杯を直接口で味わうことを通して、神の愛を味わい、そして、神の愛を受けたものが神への愛を示すところが教会という場であり、礼拝という場であり、聖餐という場なのではないだろうか。詳しくは、下にあげた、マクグラス先生の聖餐の本やGordon T. SmithのA Holy Mealをご覧いただきたい。

          聖書理解のひずみと自己愛充足型信仰者の発生

           その神への愛の表明の場である教会を自己愛充足の実現の場にするのは、どこか聖書理解としての妥当性に問題があるのではないだろうか。この辺りのことは、水谷さんが、ブログ記事にしてくださっている。御参考いただきたい。

          続・自己愛性信仰障害の時代(1)〜自己愛充足神話崩壊?

          続・自己愛性信仰障害の時代(2)〜罪の神話化、自己愛の絶対化?

          続・自己愛性信仰障害の時代(3)〜みことばの自己充足・他者操作目的利用

          続・自己愛性信仰障害の時代(4)〜自己愛助長要因としての再臨不在の福音提示

          続・自己愛性信仰障害の時代(5)〜自己愛の最終目的化と成熟拒否

           次回から数回にわたり、自己愛充足系信仰者が生まれる背景(教会側の課題)をお茶らけ系ドラマ仕立てで、書いてみたい。


          評価:
          H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
          あめんどう
          ¥ 1,890
          (1997-09-20)
          コメント:よい。読んでほしい。それしか言えない。

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