2013.10.01 Tuesday

2013年9月のアクセスログ

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     皆様、漸く秋らしくなりましたが、ご健勝のことと存じます。

     いつものご訪問、心から御礼申し上げます。

     8月の全アクセス数合計は11994アクセスでございました。今月もご愛読とお付き合いいただいておりますことにこころから感謝いたしております。


    なお、人気記事上位5つとその個別アクセス数は、以下の通りでした。



    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 
      261 アクセス


    「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。
       196 アクセス


    説明不足な教会用語からたらたら考えた(1)
       185 アクセス

    聖餐式とコミュニティについてまだまだ考えている

      179 アクセス


    説明不足な教会用語からたらたら考えた(2)
      168 アクセス


     いつもご訪問いただき、ありがとうございます。
    2013.10.02 Wednesday

    海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(3)長期在住型の伝道者(2)

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      さて、これまで、短期伝道者というあり方もありだが、結構日本では厳しいかも、というお話を

      海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(1)


      でふれ、さらに、海外からの長期在住型の伝道者について

      海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(2)長期在住型の伝道者(1)


      で考えてきた。

       今回はその第3回目で長期伝道者の続きを書いていきたい。

      宣教師亡きあとの日本のキリスト教
       ポストコロニアルではありませんが、ポスト宣教師の時代を日本という国においてどう描くのか、その時代におけるキリスト教をどう見るのか、アジアの他国のキリスト教理解をどうとらえるのか、アフリカのキリスト教理解をどうとらえるのか、これらの国で熟成されていく聖書的理解を、日本のコンテキストの中でどう考えていくのか、また、ヨーロッパ大陸、北米大陸や、英国、ドイツで生まれている聖書理解をどう日本の中で取り入れるのか、その思索の根源にあるものは何か、特に考古学的・歴史学の学術的な成果を自分たちのキリスト者集団がこれまでしてきた日本語聖書の素朴な読みと聖書理解、神のことを話し、神を指し示す現場で結びつけていくのかを課題として考えている。そして、 それを行いながら、自分の考え方や、自分たちのキリスト者集団の考え方をちょっとずつ修正していくのか、というのが現在のミーちゃんはーちゃんにとっての当面の課題かなぁ、とたらたらと考えている。

      自分自身の変化とお話すべき方々を取り巻く社会の変化

       世界のキリスト教の様々な動きを横目にみながら、自分の聖書理解をどう見直していくのか、ということは実に面倒な話なわけですが、これを誠実に神の前にしていくしかないのであろう、とたらたら考えている。

       社会も次第に変わっていくし、ミーちゃんはーちゃんもジジイになっていくしね。様々なものが移り変わっていくとはいえども神の介在が確実にあることを確信しつつ、神の言葉をより理解しやすく、より豊かなものとして述べる、あるいは、宣べること、引き継いでいくこと(トラディシオ)していくことを日本において実施していくのだろうなぁ、と思っている。

       もちろん、ミーちゃんはーちゃんのジジイ化も激しいのではあるけれども、社会を取り巻く変化と世界のキリスト教界を取り巻く社会の変化をぼけーーーっと見つめながら、考えていくことは大事かなぁ、と思うし、それを続けていくのだろう。

      宣教師となるということ
       宣教師となるということは、人にもよると思うけれども、宣教地である派遣先の国の派遣期間中の社会や文化とどのような対応をとるのか、それをどう考えるのか、ということを考え続けなければいけない存在であるということなのかも知れない。対抗的な関係をとるのか、自分の聖書の理解がよりすぐれたものであると考えるのか、自分の聖書理解と社会の文化との緊張関係をとるのか、融和的態度をとるのか、ということを普通の信者さんより、より先鋭的に問われるのかもしれない。特に違う文化や背景を持つ社会から派遣された宣教師の場合だと、この問題が二重に問われることになるので、より複雑な問題を抱えるように思う。

      自国社会と他国社会の対応関係

       何が言いたいかというと、異なる文化や背景を持つ社会から派遣された宣教師というのは、自分が育った社会や文化との対応をかなりゆるくとなるかもしれないけれども考えなければならないし、派遣されている先の社会や文化との対応について、より真剣に考えなければならなくなることになるような気がする。

       しかし、長期間にわたる海外宣教師の場合、自国文化との関係について、長期になればなるほど、いくつかの問題を含むように思う。

       次回、この問題について触れていきたい。
      2013.10.05 Saturday

      海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(4)長期在住型の伝道者(3)

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         これまで、短期海外伝道者、

        海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(1)

        長期在住型の伝道者


        海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(2)長期在住型の伝道者(1)


        海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(3)長期在住型の伝道者(2)


        について触れてきた(というか、前置きばかり述べてきた)。いよいよ、本題に入っていきたい。

         海外伝道者、特に長期在住型の海外伝道者は、自国文化とキリスト教の関係の問題と、滞在国文化とキリスト教の関係の問題の2方面での関係性のなかで、その中で自分の聖書理解をどのように考えるのか、というかなり面倒な状況を抱えることになる。


        自国文化と聖書理解
         今回は自国文化と聖書理解の関係について触れてみたい。

        キリスト教的な自国文化の場合
         自国文化がキリスト教的背景を持つ場合、自国文化とキリスト教が不可分になっていたり、自国文化での前提がキリスト教であると思い込んでいる場合もあるだろう。これまでの記事を連載したことに対して、ある方から次のようなコメントを頂いたことがある。(Kさんありがとう)

         その方がお出会いになった海外からのキリスト教の伝道者だったらしいが、その国に来られて初めて、「自分が信仰を持っていないことに気付いた」とご発言になった方があるようで、宣教団体に何とかしてほしい、と思う、というコメントであった。

         宣教地である側からすればある面当然のコメントであるとは思うが、ある特定の文化的背景があまりに長期に続くと、このようなことは起きるだろう。自分は○○国(一応キリスト教国と理解されている)の国民であるがゆえにキリスト者であると、無批判に思っておられる方がお住まいの国もないわけではないからである。特に、スーパーマーケットやデパートで、クリスマスが近いことや、イースターが近いこと、街には教会が1キロ間隔くらいで林立するような国では、このような理解となるのもやむをえない部分もあるだろう。

        文化的な信仰とそれに対する宗教改革やリバイバル運動

         文化の一部としてこびりついてしまっているような環境でのキリスト者の場合、自己が選択的にキリスト者であることを意識することは困難であろう。だからこそ、ルター先生も、カルヴァン先生も、ジョナサン・エドワーズ先生も、ジョン・ウェスレー先生も、そして多くの皆さんもこの問題を対処しようとしたわけであるし、キリスト教国と呼ばれる諸国や諸地域で、宗教改革や、信仰復興リバイバル運動が起きたともいえるのではないか、と考えている。ただ、一種の宗教的熱狂や集団ヒステリーのようなものを伴うことに関してはミーちゃんはーちゃんとしては否定的であるが。性格が素直でないので。

        信仰と文化の区別について

         その意味で、キリスト教国と呼ばれる国からの宣教師の場合、多くの宣教師の場合、かなり意識されている方が多いとは思うが、そうでないと自国文化と自分自身の信仰や聖書理解そのものから導かれるものとは、区別がつかない人がわずかではあるかもしれないが、出てくるように思う。

         この場合、自国文化と聖書理解の緊張関係がないだけ、つらいものがあるのではないだろうか。そして、宣教地に行って初めて、信仰を見直すという人も出てくるのだろう。

        非キリスト教的な自国文化の場合
         逆に、自国文化が非キリスト教的な背景に彩られている場合、文化と化したキリスト教的な影響や自国文化とキリスト教の峻別を巡る課題は少ないけれども、今度は自国文化のコンテキストの中で聖書を読み込んでしまい、聖書理解を自分の文化や倫理に合わせるように寄せ集めて、それを聖書理解としてしまう可能性も全くないように思う。

         宣教師として、一応の教育を受けた人であれば、そのような危険性は少ないと信じたいとはいえ、必ずしも可能性はゼロではないだろう。というのは、人間が思考において言語を利用する以上、固有言語の持つ限界や不十分さは避けられないように思うのだ。

        問われる聖書理解の正統性・普遍性

         そして、宣教師が宣教師として派遣された先の国の人々から、その宣教師の発言の正統性が問われることになる。その宣教師が語ることが、正当性を持つものなのか、宣教師が持つ自国文化の背景や自国言語の特性から出てきたものなのか、そうでないのかが問われることになる。現実にこの種の問題に巻き込まれ、現地文化と衝突的な理解を宣べたことに関して、自国言語からのみ導かれる聖書理解ではないのか、と問われた宣教師がおられた、というお話をお聞きしたことがある。

        身をもって神を指し示す存在としての宣教師

         上記のような限界があっても、自ら他国文化の中に置き、神を伝えようとするその存在は尊いと思う。そして、それは、宣教先となる国の人々に、この不十分な現地語しか話せないかもしれない宣教師の存在は、この現地語を母語としない宣教師のその先というのか、奥にある何か特別なもの(それはキリストの存在であり、神の存在)を目に見える形で分からせ、感じさせることになるからだと思う。

         それはそれで、インパクトがある存在なのだと思う。

        インパクトある存在としての非キリスト教文化の中でのキリスト者

         日本のキリスト者も、ほかの非キリスト教文化の中でのキリスト者も、少数者でありながら、社会との摩擦に直面しながら、なお社会に存在し続けようとする姿は、一種の宣教であり、宣教師のような存在なのかもしれない、と考えている。ただ、やみくもに摩擦を起こしたらよいとは思わないし、意図的に摩擦を起こすように自説を声高に説いておればよいとは、まったく思わないが。日本社会におけるキリスト者として存在することそのものが、一種の宣教のようにも思う。

         その意味で、2011年冬号のMinistryでのウィリアム・ウィリモンのインタビュー記事の一部(Webでは見られないので、ぜひお買い上げを)は、大変参考になると思う。

         次回、自国文化の切り離しと自国文化に対して化石化していくという宣教師固有の問題について触れてこのシリーズをいったん終了とする予定です。


        評価:
        ヘルムート・リチャード ニーバー
        聖学院大学出版会
        ¥ 3,150
        (2008-03)
        コメント:アメリカを背景にした文化とキリスト教

        評価:
        価格: ¥3,990
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:日本的な文化とキリスト教の影響を詳しく考えた一冊。

        評価:
        クリストファー・J・H・ライト
        いのちのことば社
        ---
        コメント:非常に良い。読みやすいと思う。

        2013.10.09 Wednesday

        海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(5)長期在住型の伝道者(4)

        0
           
           これまで、短期海外伝道者、

          海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(1)

          長期在住型の伝道者

          海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(2)長期在住型の伝道者(1)


          海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(3)長期在住型の伝道者(2)

          海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(4)長期在住型の伝道者(3)

          について触れてきた。

           この連載の最後に、長期伝道者が長期間にわたり、母国から切り離されることによる問題ということを述べて一応の終わりにしたい。

          派遣される前の国や文化との断絶

           先の記事で、派遣元の文化や母国語による聖書理解の内容への影響ということについて触れてきたが、実はこれにはさらなる問題があるような気がしてならない。それは何かというと、派遣前に出てきた国や地域の文化との断絶である。派遣される直前までの文化が化石のような形で保存される半面、それ以降変化していった派遣元国家や地域の文化的変化や諸事情に完全に疎くなってしまい、ライブで発生している変化に対応も追随もできかねている宣教師の皆さん方の影響である。

           たとえば、40年前に米国や英国を出発した人々にとっては、讃美歌といえば、伝統的音楽風のタイプの讃美歌のようなものが主流であったであろうが、その一部は現在も教会音楽の正当性をもったクラッシックとして多少の現代風なアレンジをされながらもHill SongsやWorship Songsなどの若い人への普及ということへの対応は相当苦慮するのではないかと思う。ミーちゃんはーちゃんは、これらも好きだが、無批判に全部がよいと、受け入れてるわけではない。無楽器派の詩篇歌などもよいと思う。この辺がちょっと偏屈ものの偏屈ものたるゆえんである。

          派遣先での文化の受容状況と
          文化の分断化の影響

           ところが、現代日本の若いキリスト者は、インターネットやAmazonさんのおかげで、これらの音楽に当たり前に触れており、海外の讃美歌は、Hill Songs やWorship Songsがすべてであると思い込みのある若いキリスト者も少なくない。それはそれで仕方がないと思う。しかし、こういう若者が、何の気なしに米国を離れてウン十年とか、英国を離れて何十年とかいう宣教師に向かって「讃美歌で・・・・とかありますよね。○○国でもよく若いキリスト者の間で歌われているという」とか聞いても、その宣教師はきょとんとするしかないという実情があるのである。文化的にも、空間的にも切り離されている上に、年齢的にも細分化されている現代の教会音楽マーケットの若者セクションの特定セグメントのことを聞かれても、きょとんとするしかないのではないだろうか。そもそも、この種の質問者の母国を離れて数十年という人々に対する質問そのものに無理があるとは思うが。

           とはいいながら、もともとの派遣元文化から切り離された瞬間から、化石化の問題が始まるといえなくもないだろう。これは聖書理解においてもそうかもしれない。今はインターネットが普及してきたゆえに、かえって若い世代であればあるほど、同じ志向を持つ他国の文化グループや他国の文化に乗った商品についての知識は他国出身の宣教師よりはるかに知識があったりする。その意味で、宣教師が母国から切り離されることで、文化的化石化・文化的浦島太郎化が進んでいるのではないか、という懸念もないわけではない。聖書理解の面においてそうではないことを期待したいが。


          化石化することで宣教先での保存や
          独自形態への変容

           その結果、遠隔地である宣教地において、宣教師が訪問したころの宣教師の持っていた聖書理解がきれいな形で保存されたり、その聖書理解からさらに独自に変容した特殊系に移行する場合もあるだろう。このあたりは、宗教学なのか、比較宗教学にとっての大きな課題だろうし、近代日本のキリスト教とアメリカのキリスト教、プロテスタント系キリスト教の日本化についても問題と日本での変容との関係を総合的にぼちぼち考えてもよい時期かもしれない。

           と思っていたら、上沼先生の記事を思い出してしまった。

          「宣教師の子弟たち」2013年7月5日(金)


           日本におけるキリスト教の定着と変容の過程をたどった研究として、下記に紹介したマーク・マリンズの著作は参考になるかもしれない。

           あと、民衆宗教とキリスト教との関係を考える場合には、このサイトのブログ記事としてご紹介した、
           
           上智大学の川村先生のご講演録シリーズ(第1回目がこちら)

          等でも川村先生のご理解をミーちゃんはーちゃん風にご紹介したが、キリシタンが当時の民衆宗教であった一向宗とキリスト教の類似性や、寺内町とコンフラリア・ミゼリコルディアとの関係あたりの研究が今後一層進むと、日本でのキリスト教の定着という問題をより深く考えられるのではないか、と思う。

          短期帰国で取り戻せるものと
          長期一時帰国の必要性

           自分の母国文化の変容や様々な社会グループの文化の変容は、多くの人と出会って、話してようやく理解できることも多く、短期帰国ではつかめないことだと思う。その意味で、数年に1度くらいのタイミングで、母国に1年程度戻って文化を味わい自分自身の聖書理解を見直す時間とか機会とかいうのがあってもよいような気がする。宣教師が派遣された地域で残された人々が自分たちで考える機会にもなるので、それはそれなりのメリットがあるように思う。

          長期滞在に伴う
          宣教師の人間関係ネットワークの変容

           最後に、長期滞在型の最大の問題は、宣教師が母国に帰れなくなってしまう、あるいは帰国した先でのその宣教師を受け入れる人間関係ネットワークの脆弱化・派遣先での人間関係ネットワークの偏重である。

           高齢になって、母国に帰国したとしても、母国ではほとんど知り合いがいない。困った時にちょっとしたことで助けてもらえるような社会基盤がぜい弱化しきってしまっている可能性があるのだ。年を取ると、簡単なことができなくなる。人の助けが必要となる。それができなくなるときに、雑談でいいから話ができるような知り合いがいないということは、かなり恐ろしいことだと思う。母国に帰国したものの、そして、途方に暮れる、という状況が待っているかもしれないのだ。

           また、社会システムも10年単位でかなり変わっていて、以前の常識、現在の非常識になってしまっている可能性があり、それにも戸惑うのではないだろうか。

          宣教師の高齢化とその支援ネットワークの構築

           また、海外にいたときに聞いた話であるが、言語として最後に残るもっとも基盤となる部分は、自分が最初のころに触れた方言であるようである。痴呆症が進んだとして、残る言語は、あとから取得された外国語や、標準的な言語ではなく、生育時の最もなじんだ言語が残るらしい。こうなったとき、どのように対応すべきか、派遣先の国や地域で最後まで対応するというのは意外と難しいのではないだろうか。

           確かに、長期に数十年単位で宣教地で過ごす場合、このような面での宣教師への配慮や社会的ネットワークをどう提供するのかということを含めて考えておくことも必要なのではないだろうか。長い伝統をもつキリスト者集団では、これらの配慮は当たり前になっていることも多いだろうが、今後宣教師、牧師、伝道者が一挙に高齢化するキリスト者集団や単立教会などにおいては、信徒の高齢化対応もさることながら、牧師、宣教師、伝道者などの高齢化への真面目な対応とその能力が問われるのかもしれない。


          ということで、このシリーズおしまい。

           いまからしばらく、更新ペースが落ちるかもしれません。(ただでさえトロイのに、というなかれ)

          評価:
          価格: ¥3,990
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:大変面白い。参考になる。著者は宣教師のお子さんだというのが面白い。

          評価:
          価格: ¥3,150
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:概略を知るには、一番いい本かもしれない。

          評価:
          中村敏
          いのちのことば社
          ---
          コメント:福音派の歴史をめぐる一番詳しい本ではないだろうか。

          2013.10.12 Saturday

          よいものを求めることについて、ちょっこし考えてみた。

          0
            よいものやよいものを追い求めるのは悪くないのだけど
             なんで、こんなことを考えはじめたかは忘れたが、よいものを求めることは、本来的にはそんなに悪いことではない、とは思う。よいものの価値の源泉がどこから来るかは別として、一般によいとされることを求めることにはそう問題はないだろうとも思う。

            よいものを追い求めることの代償
             しかし、よいものそのものは悪くなくても、よいものであるからと言って、それを追い求めることの副次作用があまりに大きいのかもしれない。その辺が、神とはなりえない、人間の人間たるゆえんかもしれない。たとえば、よいものが有限なのかどうかにも関係するが、よいものが有限であるとするとき、それをめぐって独占的にそれを自分のものにしたいということが生まれるようにも思う。

            よいものの用い方と社会
             仮に有限でなくても、よいものを持つことを他人と差別化するために、あるいは他者より有利な立場に立つために、道具的によいものを利用する、ということもあるだろう。そして、自分がよいんものを持つことで、自分自身はよいものでないものないにもかかわらず、自分自身があたかもよいものになったと誤解する人々も出てくるだろう。たとえ、いかによいものであったとしても、それを他人に強要した瞬間にそれは悪(罪ではないかもしれないが)かそれに類似したものになるのではないか。そして、多くの人々にとって、とんでもない悪と不幸を生み出していってしまう。神学などや聖書理解でもこの種のことは起きるのかもしれない。この辺、近代の思想や、啓蒙主義ともつながっているような気がする。そして、これに霊肉二元論的理解が加わった時には、目が当てられない結果になりかねないのかもしれない。

            よいものを追い求めることと偶像崇拝
             また、よいものとされるものの本来的な価値の源泉を求めずに、よいものとされている対象だけを求めるということもあるだろう。そして、それが、本来よいもの(神)が占めるべき場所(神の御座)を不法占拠してしまい、いつの間にか偶像崇拝的な聖書理解や考え方になってしまうこともあるだろう。キリスト者にとって、これが一番怖いのではないかと思う。

             よいものを追い求めた結果、よいものを追い求めることを価値や行動の原動力とし、本来見るべきものが見えなくなっていることが、キリスト者においても時折起きるし、ミーちゃんはーちゃんにとってはしょっちゅう起きることであるし、起こしていることである。よいものそのものを追い求めて、よいものを追い求めることで偶像崇拝になっているという大変残念な結末があるのではないか、と最近思っている。

            ではどうすればよいのか
             答えはまだない。それしか言いようがない。

             しかし、我々が追い求めるべきものは、よい結果やよいことそのものではなく、そのよいものの価値の源泉である神であり、神のみ旨であり、神の支配(神の国)ではないかということを「主の祈り」や、福音書、ヨハネの手紙などを読みながらぼぉーっと考えている。


             
            評価:
            価格: ¥1,470
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:非常により。よいものを追い求めた結果、偶像崇拝となりかねない事例を丁寧に書いている。

            価格: ¥2,448
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:読みかけなので、何とも言えないが、キリスト者であることとはどのようなことであるかを正面からとらえた本であると思う。

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