2013.09.01 Sunday

2013年8月のアクセスログ

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     皆様、暑い夏でございましたが、つつがなしや。

     8月のご訪問、心から御礼申し上げます。

    8月の全アクセス数合計は14431アクセスでございました。今月もご愛読とお付き合いいただいておりますことに感謝いたします。


    なお、人気記事上位5つとその個別アクセス数は、以下の通りでした。


    日本のキリスト者の視野狭窄について(3)  348アクセス

    Ministry 2013年夏号(Vol.18)がおもしろひ 267アクセス

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
      235アクセス

    ホーリスティックということなどについて
     193アクセス

    日本のキリスト者の視野狭窄について(2)
      191アクセス




    どうも、ご訪問いただき、ありがとうございます。
    2013.09.04 Wednesday

    「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。

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      たまたま、愛読しているブログが二つ、たまたま、「喪失」の問題を取り上げておられた。

      喪失について

       一つは、いつも拝読している水谷先生の記事、老いに伴う喪失とその受入れを巡る記事である。



      であり、もう一つは藤掛先生の海外生活が終わり、そこから切りはなされることの喪失とそれを記憶することを巡る記事である。



      である。上記の水谷先生の記事に関しては、神から強制的に取り上げられることに関する『老化』と『聖化』の問題である。下側の藤掛先生の記事は、切り離されることに対して、それを簡単に捨て去るのではなく、捨て去られると同時に、残されたものを味わうことに関する記事である。

       ある面、失うことは手放すことでもある。あるいは、最下部に示すナウエンの本の表現を借りれば、神を受け入れるために手を開くことである。The Peanutsに出てくるライナス君のように握りしめ続けてきた自分の湿気た毛布を、我々が自ら、あるいは強制的に手放すことであるのかもしれない。ナウエンの本(両手を開いて)では、握りしめた手のなかの汗で湿ったコインの話として出てくるが。


      上記画像は、http://images1.wikia.nocookie.net/__cb20090301044431/peanuts/images/0/07/Meet_linus_big.gif
      から。

      喪失と受け入れ
       そして、そもそも握りしめていた自らが慣れ親しんだ、そして自らの手に握りしめることで湿気た毛布を握る手を放し、握りしめていた手が開かれることで、神の開かれた手に向けていくことでもあるだろう。そして、その開かれた両手に神の手を受け入れることなのかもしれない。それが水谷先生のおっしゃる聖化ということであろう。

       本来、開いた両手は、神の手を受け入れるための場所なのだから。握っていたものを手放し、両手を開くことは、神が主権者として我々とともにおられることをじっくり味わうことなのだから。そして、その開かれた手で新しい生命(人々)を受け入れていき、祝福する、そして、自分が握りしめていたものを、握りしめ続けるようにさせるのでもなく、その人々を迎え入れるために開くことが求められているのではないだろうか。

       だれも、握りこぶしで迎えられたいとは思わないだろうし、迎え入れる相手に対して敵意のある場合は別として、だれも握りこぶしで相手を迎えないだろう。放蕩息子の父は、握りこぶしで息子を迎えただろうか。我々は、神を握りこぶしで迎えるだろうか。

      喪失と引き継ぐこと
       喪失は、他者に引き継ぐことである。あるいは、他者に明け渡していくことでもある。決別するとともにそっと両手を開いて自分の周囲の人々にそっとトラディシオしていくことなのかもしれない。大音声で騒ぐでもなく、わめくでもなく、あじるでもなく。Missioとは、そっと手渡すことなのかもしれない。そっと手渡し、そっと分かち合うということなのかもしれない。

       トラディシオ(引き渡す)ということは、以前のままの形で化石化するように保存することは意味しないように思う。日本の場合、どうしても、伝統というと、昔(といっても、ほとんどそんな昔ではなく、大概は高々20年ほど前)のままをそのまま守る、維持する、保存する、化石化させていくという側面が強いようだが、しかし、手渡されたものをどう生かすのか、どう考えるのかを含めて、それは手渡した側の問題ではなく、手渡された側にとっての問題ではないか、と思う。

       もう少しいうならば、トラディシオとは、そっと楽譜を残すようなものかもしれない。楽譜(精神)はそっと置いておく、あるいは残す(トラディシオする)が、それをどう演奏(どのように現代に提示し、現代に生きる人々の間で共有するか)するかは、演奏者にとっての問題であり、その余地を後世の人々に残すことではないか、考え、思いをめぐらす余地を残すことではないか、と思うのだ。演奏された当時のスタイルの楽器を使って演奏することもできるし、現代の楽器で演奏することも、現代に生きる演奏者に許された裁量の範囲だと思うのだね。

       これらの二つの記事を読みながら、手を開くということ、引き渡すということ、手放すということを含めて、手を開き神と人とを迎えること、手渡しすること、手を放すこと、そして、神を受け入れるとともに、新しい人とともに受け入れることが大事なのかもしれないと思った。

      引き継いでいくこと
       そして、トラディシオされた人たちは、トラディシオされたものをどのように現代に生かせるのか、自分たちに与えられた資産、あるいは遺産としてどのように見るのか、どのように活用するのか、どこが時代の限界であり、どうリノベートしていくのか、ということに関する思いを問われるのかもしれない。特に偉大な指導者が出ると、それをトラディシオされたものではなく、それを後生大事に握りしめ、偉大な指導者の猿真似するようなミーちゃんはーちゃんのようなバカ者が出てくる。関連記事はこちら。


      ちなみに、下の2冊は非常によい。特にこぐま社さんの「闇への道 光への道―年齢(とし)をかさねること」は、一部ちょっと???のところはあるけれども、老いについて考える上では、非常に良い本だと思う。老人だけが醸し出せるユーモアとか・・・。出版社在庫なしなんでねぇ。


      評価:
      アンリ J.M.ヌーエン
      サンパウロ
      ¥ 1,260
      (2002-10-07)

      評価:
      ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
      こぐま社
      ---
      (1991-12)

      2013.09.07 Saturday

      今月の予定

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         さて、いのフェスもいよいよ1週間後。

         何といっても今回の最大の目玉は、本ブログでも何回か取り上げた晴佐久神父と宮台さんとの対談だろう。

         個人的に楽しみなのは、牧師ROCKS×坊主バンドであるかもしれない。まぁ、神戸には、神父バンドがあるらしいから(知り合いの神父様談)次は、関西でやるとしたら、神父バンド×愛$菩薩+釈尊Five(お坊さんのグループらしい 動画見たい方はこちらhttp://www.youtube.com/watch?v=E9agHiNVE9g)があったらおもしろいのに。

         ミーちゃんはーちゃんも、朝一新幹線に乗って当日会場にGo!である。A-9のブースで、「福音の再発見」と「わが故郷、天にあらず」の特価販売(市販価格より少しおやすめ、部数は限定各30部程度)およびNTライトセミナーの情報提供をするでござる。Taka先生もお出ましくださるそうで。

         Aー9のブースが分からなくても、福音の再発見の画像が大書されたブースが目印でござるよ。

         おいでませ、いのフェスへ。



        2013.09.11 Wednesday

        説明不足な教会用語からたらたら考えた(1)

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           ミーちゃんはーちゃんところは、平信徒主義なので、ミーちゃんはーちゃんも説教壇に立つことがある。まぁ、戯言をしゃべっていることが多い、と思う。というよりかはほとんど戯言だろう。

          説明不足だったかもしれない「永遠のいのち」
           ミーちゃんはーちゃんは、できるだけ聖書のテキストから外れずにお話しすることを心がけているつもり(あくまでつもり)であるが、まぁ、基本基礎的な教育を受けたものがしゃべってないので、かなりひどいものを語ってきたし、今も語っているようには思う。しかし、ひどかろうがなんだろうが、語らないことには、始まらないし、「いかに血まみれのようなものであろうとも、来たれ、共に語り合おうぞ」と神ご自身もお話ししてくださっているので、神のご厚情に甘えて語っているだけのことである。

           しかし、先日お話した時に、それを聞いてくださったありがたい方から「聖書のいう『永遠のいのち』というものが何となく初めてわかりかけた」というお言葉をいただいたときは、ある考えですが、とお断りしたうえでお話ししたのではあったが、「お話して、本当によかったなぁ」と思ったのである。

           時々教会に来てくださる方であるので、ある程度のことはよくご存知の方からのお言葉だったのだが、「永遠のいのち」、「永遠のいのち」と教会では連呼されるのだけど、その意味が今でもよくわからいのだが、何となくそういうことか、と理解するきっかけのようなものが今回お話を通して得られたかも、というお話をいただいた。

          お話の概要
           なに、大したことをお話したわけではない。「神を信じる者は永遠のいのちをもつ。」という言葉を、「神を自分の住みかとし、自分の居場所とするもの(信じる者)は、はじめもなく終わりもない方、アルファでありオメガであり、円環のように始点も終点もなく存在し続ける方、すなわち神との関係の中に入れられ、位置づけられ、神(あるいはナザレのイエス)を居場所にすることで、本当に人間らしくなることができるし、その人らしいものとなる(永遠のいのちをもつ)のではないか。そして、人間そのものに存在する神から離れているという「欠け(罪と呼ばれることが多い)」を神と共にいることで、神により埋めてもらえるのだけど…」と聖書のあっちこっちを引っ張りながら、説明しただけなのだが。

          引用箇所の一部とそこからのお話
           ヨハネの手紙第1の5章の一部から出発し、旧約聖書の創世記、イザヤ書、ヨブ記、福音書、黙示録を適当に紹介しながら、ほら、全部「神のもとにもどり、神にあるものとして生き生きと生きよ」につながっているでしょ。「私のところに来なさい」、「私を居場所にしなさい」、「私との関係の中に入りなさい」って言っているじゃないですか。「あなたは不完全だが、私はそれを完全とみる」と言っているではないですか、だから、私たちが神を居場所にして、同じ場所に住むこと、神の家族に受け入れられること、そして、弟子たちのように、イエスが居られたところにいくこと、イエスについていくことが、私たち自身を生き生きとしたものとし、本来の姿に戻すことになるんで、神のもとに戻ることが大事なんじゃないですかねぇ。我々は、イエスのもとに行くときにイエスは、我々をアルファであり、オメガである存在なる方との関係に入れるのだから、とご説明しただけである。

            次回に続く
          2013.09.14 Saturday

          説明不足な教会用語からたらたら考えた(2)

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             前回の記事では、つい最近お話しした「永遠のいのち」の雰囲気の一部がつかめた、と言ってくださるご奇特な方が居られて、どんな話をしたのか、ということの概略をお話した。

             今回はその経験を出発点にして、考えたことをもう少しばかり、たらたら考えてみたい。
             
            教会用語を使わずに考える
             もう30年以上曲りなりに信仰者、キリスト者をいたしているが、永遠のいのちという概念や、キリストという概念、礼拝という概念、その他もろもろの概念にあまりに慣れっこになってしまって、その言葉やその言葉が指し示す概念がすっかり判ったふりをして語っていることが自分自身を振り返っても、多いように思う。わが身をもって反省してみれば、説明もなしにいきなり教会用語を登場させることも少なくない。

             慣れている人々の間では、業界用語、教会用語を使うことで、何となくわかったような気になっているようにも思う。それを使っている人々の間では、同じ語を用いながら、実は指し示している意味合いが相当違うことも少なくないような気がする。

             先に紹介した「永遠のいのち」にしても、ある方は、「死後に永遠に生きるいのち」と理解する方もおありだろうし、「天国に行く切符のようなもの」という理解をする方もおられるだろう。あるいは、「死後の復活」を想定される方もおありだと思う。これらの理解が間違いかと言われれば、間違ってはいないと思う。永遠のいのちの一部を形成するから。しかし、その豊かさを伝えているかなぁ、と言われれば、『ウ”−ム』とぶつくさ言いたくなる部分もないわけではない。この辺がミーちゃんはーちゃんの「欠け(罪)」のある部分ではあるけれども。 

            多様な理解と丁寧な説明
             多様な理解はあってよいと思っている。教会には、保育園児から、高齢者までいる。15年戦争の経験の有無、社会経験の有無、近親者の逝去の有無、年齢も違えば、生活環境も違うものがコミュニティとして、始点も終点もない円環のような存在である神とのコミュニティ、関係性、神との一体化の中に招かれ、入れられているのだから。当然説明は違っていてもよいと思う。そのような環境の中で、業界用語あるいは教会用語を使うと言葉の説明についての話がなくなる分だけ、対話が速くできる半面、誤解も増えるような気がする。

             しかし、聖書のことばのその豊かさを求め、考え続け、その豊かさを説明する言葉、それがいかに不十分なものであっても、その言葉によって紡ぎだされるものを引き渡していく(トラディシオしていく)努力、また、紡ぎだされたものを受け取ったほうは受け取った(トラディシオされちまった)ほうで、それをもとにさらにどのように理解することができるのかを思いめぐらす、味わう、そして、不十分であるけれどもそれを言葉(何書きものだけとは限らない。

             時々、標準的なもの用語に戻ってみて、説明不足になりやすい教会用語を説明していくことは意外と大事なことのように思うのだ。

            どうその説明不足な用語を説明を伝えるのか?
             昔の人は、いかに説明不足とはいえ、その理解について、伝えるためには、人前で話すしかなかった。

             それは、街角や、広場にぶらぶらしている人前で話すことでもあったし、大群衆の前で声高らかに宣言するでもよし、食事をしながら話すということでもあったし、ゴロゴロとゴロ寝をしながら話すこともあったろう。

             現代では、本にして出版するでもよし、ニコ生するでもよし、Ustするでもよし、紙芝居にするでもよし、アニメ作るでもよし、人と対話し、話すこと、当たり前のことを丁寧にテキストである聖書を用いて確認しながら、話してみることは、神から人に与えられた何かではないか?と思うのだなぁ。教会で実施している説教(お話)とは、人に伝えることの一部でしかないと思っているから、かように下らん駄文をブログにせっせと書いている。(お付き合いいただいている皆さんには、この場を借りて深謝いたしておりますことを申し述べます。)

            より豊かな聖書理解、神との関係を求めて
             そして、他者との意見交換を紡ぎながら、より豊かな聖書理解に達していけるのではないか。自分以外の他者を受け止める、抱きとめる、あるいはエンブレイスする(抱きとめ、しっかりとできるようにする)ことで、自分自身の理解の不十分さを知り、他者の理解の豊かさも知り、そして、相互に神理解を深めていく作業を時代を超えた共同体として実施することが、教会の建物ではなくて、バーチャルな存在として存在する教会、あるいは、キリストの体、あるいは、コーパス・クリスティ、内村先生の言う無教会なのかもしれない。

             最近はそんなことを考えている。

             次回、教会でお話を聞いて下さる会衆の皆様へのお願い、へ続く
             
            2013.09.18 Wednesday

            説明不足な教会用語からたらたら考えた(3)

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               前回までの記事で、

              説明不足な教会用語からたらたら考えた(1)

               では、永遠のいのち についてあるところで聖書からと称して語ったこと(騙った、という批判は甘んじて受けたい)について紹介し、

              説明不足な教会用語からたらたら考えた(2)


              では、教会用語を使わずに、当たり前だと思っている概念について、もう一度思いなおしてみたり、考えてみたりすることの大切さ、一つのことばに関しても、多様な理解と多様な説明がありえて、人それぞれが違うので、完全に一つの説明様式で説明することは困難であり、それを様々試みることの多様性もあり得ること、そして、それをいかに不十分であるとしても、言葉に乗せていくこと、そのメディアは現代ではかなりたくさんあること、そして他者の聖書理解の多様性を受け止め、そのうえで、神を味わい、神理解、聖書理解を深めていくことの大切さを述べた。

               今回が最後になる。

               今回は、聴衆の役割を果たす教会における会衆を形成する皆様にお願いしたいことについて書いてみたい。

              聴衆へのお願い

               聴衆として、説教者のお話に反応していただけたら、と思う。おべんちゃらを言ってください、と言うつもりもない。話した内容のどこが分かり、どこが面白いと思われたのか、どこが分かりにくかったのか、どこが誤解を生みそうだったのか、何をもう少し聞きたいと思われたのか、ということを、話し手に伝えていただければ、と思うのですね。

              発言者としての限界

               完全原稿を用意して読み上げるにせよ、ミーちゃんはーちゃんのようにアドリブ連発のばあいにせよ、話しているうちに言葉を発した瞬間に、それは話者のものではなく、話者と聞き手のものになってしまうように思う。話し手と聞き手の間で相互にどのような理解が生まれたのか、はわからなくなってしまいやすいように思う。言葉を発するほうは言葉を発するほうで、たぶんこちらの意図は届いた、ということを前提として言葉を発し続けるしかない部分があるのではないか、と感じている。

               もちろん、聴衆の笑い声、聴衆の視線、聴衆のうなずき、聴衆の首振り、聴衆の無視、聖書をぱらぱらめくる姿、他のものをちらちら見る姿、讃美歌をぱらぱらめくる姿、聖書が落ちる音、讃美歌集が落ちる音、聴衆(わが子)がうとうとし、ボートを漕ぎ始める姿など、見たいものも見たくないものも一応見ながら話しているが、どこぞの講談師のように聴衆が眠っているからと言って、「そこで突然地雷がチュドーン」なんてことは言えない。だって、聖書に地雷は出てこないし。

              反応を聞く機会のない説教者

               もちろん、ある程度、聞き手の方々と対話することで、ある程度の聞き手の方々のご要望とか、聞き手の方々のご理解を、ご反応を聞くことができるし、雑談に耳をそばだてて、必死になって聞き手の方々のご反応を探ろうとしているのだが、なかなかこれを聞くことができないように思う。特に教会の規模が大きくなればなるほど、この直接の声を聞く機会、個別の声を聞く機会はどんどんと少なくなるように思う。

              全体イメージではなく、テーマ・コンテンツへの要望を知りたいかなぁ

               「易しすぎて日曜学校の話見たい」とか「難しすぎて何が何だかちんぷんかんぷん」とか「話が込み入りすぎてわかりにくかった」、「話が長すぎる」と言った漠然とした話ではない。これらはある程度気がつくし、人それぞれ得意不得意があるので、応えられるよう努力はするけど、完全にはお応えしかねる部分もあるのではないか、と思う。説教者もいろいろなのではないだろうか。他の説教者と同じスタイルは無理ではなかろうかと思うし、同じことはできないように思う。その点はご容赦いただきたい。しかし、この「○○○という語についてもう少し説明してほしい」とか「この部分で○○○と言っておられたが、これはこういう話か?」というように、具体的に知りたい内容、具体的にわかりにくかった内容を話し手に伝えていただきたいのだ。苦情をぐちぐちいうのではなく、建設的な内容を伝えていただければ、うれしいように思う。

              修行が足らないミーちゃんはーちゃん
               「ぜいたくを言うな、修行が足らん」というお叱りはもっともであり、それはミーちゃんはーちゃんは重く受け止めたい。しかし、そのためにも、身近な人々の聖書理解と相互理解の推進のため、内容について、対話をお願いできれば、と思う。

              お互いに豊かな時間を過ごすために

               どうせなら、話し手としても、聞き手としても、わずかな時間ではあるが主日をともに有意義な時間できれば、と思う。

               そのためにも、そして話し手にヒントを与えるような、対話や質問や異論を、案外説教者の方は求めておられるのかもしれない。個人的にはそう思っている。

               このシリーズは、以上で終わりになります。お付き合いいただき、ありがとうございました。



              2013.09.21 Saturday

              聖餐式とコミュニティについてまだまだ考えている

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                 聖餐式とコミュニティの問題として、現実的な対応として聖餐式を、そして、信者が参加することによってはじめて成立する儀式としての意味ということを、いまだにしつこく考えている。前回の記事が、

                2010年10月 聖餐式について
                2010年10月 聖餐式、再び
                2010年12月 聖餐式、またまた


                 聖餐式を週のうちに日曜日と日曜日以外を含め複数回する教会は、日本では、まだまだ少数派だと思う。それは、日曜日(主日)が復活の曜日という点で、特別な意味をもつ日であると認識されているからだし、伝統的にこの日に聖餐式をしてきた、という歴史的経緯と伝統から外れることに対する懸念というのがあることはよくわかる。

                 複数回、聖餐式をすることについて、何となく、引っかかりがあるのは、わからなくもない。

                 というのは、一つとなる、ということが唯一(1回こっきり)であるということと、どこかで緩やかにつながっている、そこを崩すことにどこかしらの問題意識があるからではないか、ということを最近、考えている。複数回聖餐式をすることは、一つであるということを無視することにつながるのではないか、という懸念が、複数回の聖餐式を、あるいは週の途中での聖餐式を避ける要因になっているように思う。

                大規模教会での対応
                 以前、ご訪問した日本国内の教会では、あまりに集まる人が多すぎるために、日曜日の朝、早朝部と10時ごろからの時間帯の2部に分けて、聖餐式をしておられた。必要に迫られての2部制の選択であったとお聞きしている。

                 カリフォルニア州で、あるメガチャーチに飛び入り参加した際には、その教会は、日曜日に7回、2種類の会堂を使って、それぞれのプログラムの時間を少しずらせながら、並行して、プログラムを運営していた。理由は、参加者が多く、会堂や駐車場に入りきれないため、ということであった。

                 日曜日や土曜日などに仕事がある人々、パイロットや鉄道関係者、警察関係者などへの配慮からか、金曜日に1回、土曜日にも2回、ほぼ同一のプログラムを走らせている、ということであった。これも、こうなると、教会の存在する場所や敷地は一つでありながら、聖餐式あるいは礼拝と称される活動の時間は複数同時に存在することになる。

                歴史的に形成されてきた多様な表現を
                現代においてどういう意味を提示していくのか問題
                 こういうことを少しひいて考えてみていると、ミーちゃんはーちゃんが教会を考えているとき、自分の行っている特定の教会だけを考えていることが多い。あるいはその教会が何となくつながっているあるいは制度的につながっている教会群の伝統というかそこで形成されたスタイルのみのことを考えていることが多い。

                 しかし、先にも触れたように実に非常に多様なタイプの聖餐式が多様な形で現実には存在することになるのだと思う。そして、それはその併存はある面当然の帰結といえよう。だって、バベルの塔の時のように一か所に集まって住んでいないのだから。

                 そもそも住んでいる場所も違えば、言語も違えば、文化も違う、だどってきた歴史的経緯も違う、そして、参加者の聖書理解も違う。さまざまな違いがあるものが集まって形成され、実施されるのが聖餐式である。礼拝において崇められるべき対象はYHWHのみであるにせよ。

                 賛美の在り方も、本来多様なものであってもよいはずだし、現実には多様なものであるわけである。自分たちの教会、自分たちと関係の深い教会群という枠組みを外せば。

                 そして、神はその多様な存在を地上において少なくともお許しになっておられるわけであるとするならば、多様さというのはもう少し認められてもよいような気がするのは、気のせいだろうか。

                多様性の中でも聖餐式の中心の一つである『神とともにあること』

                 そして、多様化した中において、相も変わらず重視されるもの、それこそが、神の中心性であり、王である神ではないだろうか。それを次の世代へ、多くの世代へ、そして多くの他者へそれぞれが置かれた状況の中での神への礼拝を、伝えていくことが、その意味を多くの他者に提示し、そして、それを多くの他者とともに味わうこと、聖餐式とそのスタイルをおかれた時代にあって再検討し、その意味を説き続けていくことが大事なのかもしれない。

                 さて、明日は主日(日曜日)である。聖餐の有無は別として、その中心の一つとなっている「神とともにあること」、「神とともにあるものとともにあること」にお近くの教会で参加してもらえると嬉しいなぁ。




                評価:
                価格: ¥3,150
                ショップ: HMV ローソンホットステーション R
                コメント:よい。講演も面白いけど、講演後の質疑応答の部分が面白い。

                2013.09.25 Wednesday

                海外伝道者という存在についてたらたら考えてみた(1)

                0
                    この夏、フランス人の短期伝道者(韓国の用語を使えば旅行伝道者らしい。大学受験に失敗して1年ほど日本にいたというケース)やアメリカ人の日本語能力ほぼ皆無の超ド短期伝道者、シンガポール人で、ニュージーランドから来ていた短期伝道者と出会ったり、日本に長期におられて定着しておられる伝道者たちとも時間を過ごす機会があって、いろいろ伝道者という存在とその意味合い、その人生について考えさせられたので、思うところを書いてみようかと。

                  超ド短期伝道(旅行伝道)
                   まず、超ド短期型伝道者の場合の最大の問題は、現地語が喋れないという問題である。まぁ、英語が話せれば、通訳者がどこかにいるので、たいていの場合は何とかなる。

                   日本にも、ハナニム(天地の創造者)という語だけを携えて(それ以外の朝鮮語をしゃべれずに)、韓国併合の直後日本憎しの感情渦巻く朝鮮半島伝道しに行った無謀な人物(乗松雅休 詳しくは日本プロテスタント海外宣教史 参照)もいないわけではないが。

                   先日参加した宣教師キャンプで知り合いになった宣教史(女性宣教史)も、「戦後すぐのころは、結構日本語覚えないまま来て、覚えないまま、帰国したり、他の国で活動を展開した宣教師もいた」という話を聞いて、まあ、その様な不安定な時代も戦後はあったんだなぁ、と実感。朝鮮動乱は、確かに日本に飛び火する可能性もあったし、朝鮮半島全体が火の海に近い状態だった時代もあるし、朝鮮半島全体が中国軍に侵攻される可能性もあったし、日本は日本で,その衛生状態は不衛生極まりなく、結核菌、腸チフス、コレラ、赤痢は当たり前だったのが、つい70年前の日本の姿。まぁ、戦後のよくわけわからん、三鷹事件やら、下川事件やらも日本ではあったしね。そんな中、日本に来られた冒険的な宣教師の皆さんの姿には本当に頭が下がる。

                   ところで、短期伝道者の場合、事前調査という感じでプローブするような形で訪問できるのはよいが、問題は、受け入れ側国の受け入れ態勢であろう。ヴィザの発給の問題、保証人の問題、滞在経費の問題等である。日本では旅行者にホスピタリティはあるのだが、人が宿泊できるスペースがない一般家庭の家屋がないところが多いので、この辺りが問題になるかもしれない。

                  雑魚寝を気にしない欧米の若者
                  完璧を目指す日本側ホストの温度差問題
                   まぁ、1週間ならテント生活よりましで、雑魚寝も苦にしない欧米の若者たちも少なくないように思う。

                   とはいえ日本で迎える側は、お客様をもてなす感覚で、完璧を目指したり、綿密な分単位のプランを立ててしてしまう人たちも、日本人の中には少なからずおられるようで、そういうプラン通りすると海外訪問者が喜ばない、と言って陰で嘆いている方たちもおられるように思う。基本、アメリカ人をはじめとする、ヨーロッパ人は超マイペース、自分の気持最優先ですから、こちらの計画に乗ってくれないというので、文句言っても始まりません。

                   日本人が割と重視している相手の気持ちを慮る(おもんばかる、先読みする)という概念が皆無の人たちがアメリカ人には多いのですね。もちろん、そういう概念をお持ちで、実践される方もおられますが。相手を慮るという概念がほぼない、それがアメリカ人である、と思ってお付き合いするほうがよろしいのではないかと思う。彼らはそう育てられているので、それ以外の生き方ができなかったりするのですね。海外で日本風の彼らを慮る生活をすると、もうヘロヘロになってしまう。

                   この辺の訪問する側と受け入れる側の温度差が、実にあって、海外からのお客を一度迎えると、へろへろになってしまう人たちが日本には、少なくないのかもしれない。日本でホームステイ先を探すのが難しいこともこの辺が一因かなぁ。

                  超ド短期伝道者の問題

                   まぁ、超ド短期伝道者(旅行伝道者)では、伝道より物見遊山が中心になる人たちが出てくるのも致し方ないこと。それを責めても仕方ないだろう。それはそれで、そんなもんだけど、客寄せパンダがやってきたくらいと認識し、ちょっとお手伝いしてもらって、海外との文化交流したつもりになって、そして、どうも来てくれてありがとう、という対応でもよいのではないか。それもMissionのあり方の一つだと思う。

                   日本人が普段居住している地域外にいって旅行伝道者のようなことをやっても、現在では、テレビとインターネットが文化的な障壁と地理的障壁をはずしてしまっているので、ナンセンスになっていることが多い。日本人がほかの地域に行っても、客寄せパンダにならなくなったという大変残念なお知らせがあるのがねぇ。昔は、関西方言での語りが面白いので、それだけでもインパクトがあった時代があったのにねぇ.トラベリング・セールスマン問題ならぬ、トラベリング・プリーチャ問題かもね。現代日本特有の。


                   次回、長期伝道者としての場合、について触れてみたい。 


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                  コメント:日本の海外宣教を黒歴史を含め、書かれているこの分野唯一の本ではないだろうか。

                  2013.09.28 Saturday

                  海外伝道者という存在について考えてみた(2)長期在住型の伝道者(1)

                  0
                     前回の記事では、短期滞在型の海外伝道者という存在とその長所、その問題点を触れたので、今回から、何回かに分けて、長期滞在型の伝道者ということに触れてみたいと思う。

                    長期滞在型の伝道者の特性


                     長期滞在型の伝道者のメリットは、現地語が意思疎通に不自由しない程度にしゃべれるようになり、また、ある程度滞在国の国情というか、国民性というか、文化に習熟できる点は大きいと思う。そして、腰を据えて、ある程度の長期的な計画というかビジョンに基づく伝道ができる点は、非常に大きい、と思う。

                     ただし、長期滞在者による伝道は、本人が伝道しようとする文化と融合して、現地化してしまいそもそもの海外からの伝道者という特性があまり発揮できなくなってしまう点である。これについては、また別途書いてみたい。

                    宣教師たちの集まりを見ながら
                     この夏、自分とのころのキリスト者集団の海外からの宣教師たちが集まる場面に出くわしたので、そこで話を聞いたことから、少し思ったことを書いてみたい。

                     ある面想定されたことであったことではあるが、海外からの宣教師の皆さんの高齢化が進んでいることである。昭和30年代に到着した宣教師の方で、日本に残留されている方でも、ご健在の方も多い。とはいえ、病気を抱え、それでも宣教師としてご活躍中の宣教師の方たちも多い。ある面、日本での宣教というか伝道に尽くされ、なお尽くされようとする、その姿には本当に頭が下がる。

                     昭和40年代中期以降に到着した海外からの宣教師の方の中にも、当初参加予定で参加できなくなった人たちや参加しているものの体調不良の方々も多かった。今回参加された方の中には、宣教師の息子さんで、日本人と結婚したり、日本での仕事を見つけ現地化している人で、宣教師としての働きをしている人もおられたが、それはごく少数であった。今回参加してみたときに、日本に定着した宣教師の子弟以外の方で、これから、日本を活動地を定めようと参加している人で20代の若い方は、シンガポールからの方で、ニュージーランドの神学校を卒業した方のみであった。

                     見掛け、若いかなぁ、と思っても70歳前半、いろいろお話をうかがうと、もうほぼ70歳代後半の人たちが多数なのである。はたで見ていても気の毒なほどの方もおられ、宣教師としては現役でご活躍中とはいうものの、「お体大丈夫ですか?」という感じがして仕方がない状況ではないかとお見受けした方もおられた。とはいえ、その宣教師の方が奉仕している教会にしてみれば、もしこれらの方がご勇退なさったり、お亡くなりになったら、精神的支柱、神学的支柱を一気に失うことにもなりかねないだろうから、その面でも厳しいと思う。

                    宣教師の帰国、不在後に向けて
                     宣教師の方のご勇退、ご帰国、ご逝去に関して、どの程度その準備ができている教会があるのかが少し気になる。

                     実は、この問題、ミーちゃんはーちゃんが考え始めたのは、1980年台末ごろなのだ。直接のきっかけは、鼻水たらしていた子供のころからお世話になったウェールズ人宣教師ご夫妻が帰国されることになったり、お世話になった代表的な信徒さんがご逝去なさったりしていく時期が重なったことがあった。

                     そのころに、そうだよなぁ。海外からの宣教師のみなさんって、いずれおられなくなるし、そうなったとき、自分たちはどうするのか。これまで聖書理解を進めていく上での支柱というかガイドラインを彼ら海外からの宣教師に大きく依存してきた我等はどうするのか、ということを問われたのであった。

                    聖書理解の自立と聖書理解をどう確保するのか
                     いや、確かに日本語訳の聖書は読めるくらいの語学力(というよりは国語力)はかろうじてないわけではない。しかし、日本語に変換した段階での聖書をもとに考える段階でバイアスは入る(これは英訳聖書のみを読む場合でも同様)し、何より時代の変化とともに、日本文化の変容に合わせて変化しかねない日本語である以上に、特定の時代に翻訳される日本語訳聖書であることを踏まえたときに、聖書内で使われている語の読みや理解が変化していく状況を考えざるを得ないだろう。そうであるときに、翻訳聖書の裏にある神の思いをどうくみ取っていくのかということを問われてきた。

                     その中で、神学教育を受けて伝道者になろうとか牧師のようなことをしたいという、大志も野望も特になかったので、まあ、聖書の解釈をまともにするための基礎的な力をつけるのがよかろうもん、ということで、まずは日本語の聖書関係の本を片っ端から読み始め、買いあさり、とりあえず、いろんな人の意見を素朴に聞いたり、日本語で出ている書籍の読書を通して、考えることから始めた。

                    次回へと続く
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