2013.08.01 Thursday

2013年7月の月間アクセス記録

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     皆様、7月のご訪問、心から御礼申し上げます。

    7月の全アクセス数合計は13512アクセスでございました。今月もご愛読とお付き合いいただいておりますことに感謝いたします。


    なお、人気記事上位5つとその個別アクセス数は、以下の通りでした。






     個人的には、まだ、「福音の発見」の出発点になっているあのめちゃくちゃ長い記事がいまだに読み続けられていることに嬉しさを感じる半面、その深刻さになんかめまいがしそうで・・・

    こころから御礼申し上げますとともに、引き続き、今月もご愛読たまりたく。
     ミーちゃんはーちゃん敬白
    2013.08.03 Saturday

    ホーリスティックということなどについて

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        その昔、計画論の授業を大学院で受けていた20数年前や、もうちょっと最近、Mitroffの本を読んでいたころ、ホリスティックな問題意識に立った計画論や問題解決の諸手法が少し視野をかすめてたことがあった。

      分析的な西側的な思考法と近代科学

       基本、西欧文明の中で作られた研究の方向性の概念が、きわめて分析的な視点からのものが多く、細かく分けて、顕微鏡で、超極小メスまでつかいながら、細かく分断して調べていこうとする傾向を持ったことに対して、反動が出たようだ。1980年ごろから。ミーちゃんはーちゃんが読んでいたものは、これらの分析的に、細かくなった計画論とその結果を見たときに、計画論側からの反省とでもいおうか、分析的に調べていって本物がつかめるのか、本来見るべきものを見てないのではないか、見逃した部分を十分評価していないものではないのか、もっと勇気的なつながりに関して再考しながら考えようではないか、というような意識に立った論文や本をいくつか読んだことがある。もう大半は忘れてしまったが。

       対象自体を分析的に理解するのではなく、ブラックボックスはブラックスボックスのままにしておいてインプットとアウトプットを見て、システムとしてとらえ、有機的なシステム全体の挙動を見つつ、対応を考えたり、計画を考えていくような話であったような気がする。もうこの分野の研究に関心がなくなって長くなるので、最近の研究はどうなっているかよくわからないけど。

      ブラックボックスを処理して
      とりあえずわかった気になっちゃう傾向

       ある面、必死になってブラックボックスの中身を手を変え品を変えして調べてきたのが、近代の科学であり学問であり、そこには細分化があり、数式に置き換えたりかなり無理矢理に解析してモデルを作って、ほら、こうなってるから、こうでしょ、というような研究がミーちゃんはーちゃんの周りでも多いような気がする。でも、この手の研究って、現実の一側面しか表せない。対象の全体の動きを追いきれないので、無理やり動きを追い切れる範囲に収めちゃうって、ってやっている部分がどうしてもある。でないと、論文書けないし、限られた時間でやる上では、研究にならないから。

       でも、実体は違う。実体は違っていも、それをミーちゃんはーちゃんみたいにグダグダ書いていたんでは、月日は百代の過客にして・・・で日が暮れてしまう。だから、無理やり収められる範囲に収めちゃまずいってわかってて、それでも無理やり押し込んじゃう。あるいは、問題の枠組みのための境界線をビシバシ何本も線を引いて、「この範囲以外は対象外です」って宣言してやっちゃう。手っ取り早い方法で収めちゃう。その方がわかりやすいし、見た目にきれいなことが多い。だって余分な要素を全部そぎ落としちゃうから。

      実体をきれいにしちゃったら、あれれ?

       でも、ある実体をもとに出発したにもかかわらず、出てきたものは、体系だってきれいだけど、「これって、ほんとに同じ現実からモデル化したもんですかい?」っていうほどに別物になっていることがある。

      それでいいんですかい?

       多分、リベラル派と呼ばれる皆さんの聖書理解にしても、福音派と呼ばれる皆さんの聖書理解にしても、どっかこっかでこのような処理のしやすさ、扱いやすさ、理解のしやすさを目指してしまったが故の単純化がなされたのだと思う。そして、単純化されたものを基礎としての精緻化がなされていて、元の実体とはとんでもなくかけ離れちゃうことがある。

       そんな状況に対して、「え、それでいいんですかい?」ということが最近再検討されているんだろうと思う。この前ご紹介したゴンビス先生やマクナイト先生の福音の再発見なんてのも典型的かも。

       指輪物語のサム君(フロド君の従者のデブの兄ちゃん)みたいな役回りのミーちゃんはーちゃんにとって、灰色のガンダルフみたいな存在のTaka先生は、そのことに現在格闘中でいらっしゃってるので、サム君なるミーちゃんはーちゃんは「旦那様方のような難しい話はあっしゃにや分かりませんが、彷徨うなら一緒にお付き合いいたしますぜ。旦那様」ってノリでぼーっと考えている。

      ホリスティックな考え方で
      聖書を読む動き

       小嶋先生のブログでは、ゴードン・スミスの文章から出発して、ビリー・エイブラハム先生のお話なんかが紹介されている。そこで持ち出された概念が、ホリスティックというか、全体を見てなるほどこうなっているのか、とか理解してみたり、もう細かくみじん切りにメスで分割したり、顕微鏡しながら手術するように分断するのをやめて、物語として聖書全体像を見て有機的なつながりを重視しながら理解しようとする動きにつながっているのかなぁ、と荷物持ち役のサム君としては思う。

       要するに、これまでの分析的なパラダイムできてしまった聖書理解を一度やめて、ちょっと引いてみた目で、素朴にもう一度聖書がどういっているのか考えましょうぜ、味わいましょうぜ、という感じだろう。

      うまいもんは、うまい

       某「料理の鉄人」にでていたグルメ評価者のように、「このお料理のバルサミコ酢の使い方がうんたらかんたら」とか「ちょっとバニラを利かせすぎたかもしれませんね。うんたらかんたら」とかいうのをやめて、もっと素朴に「うまいもんは、うまい」と聖書を味わったらいいんじゃねぇの、ということなんかなぁとも思う。かなり粗っぽく言うと、ホリスティックな研究ってのは、ただ、うまいもんはうまい、って終わっちゃう部分があり、全体像としてとらえようとするため、かなり大味な感じは否めなくなるのかなぁと思う。

       ということでTaka先生の迷い道にちょっこしお付き合いしてみましたとさ。でも、しょせん荷物持ちだからなぁ。アメリカの空港の貨物室に入れる荷物のハンドラー並に扱いが荒いのはしょうがない。(ちなみに、彼らはスーツケースを機体から降ろしたり積み込んだりするときに放り投げる習慣がある。そっちの方がしんどいのではないかと思うのだが。サンフランシスコでもそうするグランドクルーを見たし、サンディエゴでも、LAXは言うに及ばす、SeaTacでも見た。そうでないとやれないらしい。日本では、チェックインした荷物をあそこまで憎たらしげに扱うグランドクルー見たことがないけど)

       というようなことをTaka先生の彷徨にお供しながら、最近は考えている。
      評価:
      ドナルド・C・ゴース,G.M.ワインバーグ
      共立出版
      ¥ 2,100
      (1987-10-01)
      コメント:考える、ということのヒントをくれるかもしれない。

      評価:
      G.M.ワインバーグ,木村 泉,ジェラルド・M・ワインバーグ
      共立出版
      ¥ 2,940
      (1990-12)
      コメント:古い本だが、なかなか味わひがある。

      2013.08.05 Monday

      この夏のイベント第2段のご案内。

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         福音の再発見、発売イベント第2弾を以下の要領で開催したいと思います。もしよろしければ、ぜひご参加のほどを。

         福音の発見ファン感謝デー


         さて、8月の暑いさなか(8月11日、彼岸の入り直前)でありますが、神戸三宮で、「福音の発見」、ファン感謝デーを開催いたすことになりました。

         ファン感謝デーなのに料金を取るのは・・・(この辺、関西は渋いですから)ということもありますので、ファン感謝デー、ご参加無料大解放デー(と言ってもスペースの関係からいって、先着7名様限りになりそうですが)を開催いたしたく思います。
         日曜日の午後の出にくい時間ではありますが、開催いたしますので、エアコンの効いたお部屋で、冷たいものなどを食しながら(と言っても豪華なケーキ類な どは出せませんが)、あーでもない、こーでもないと2時間ほど結論の出ないフリートークというかディスカッションをしていろいろご教示いただければ、と存じます。

         会場の関係で受け入れ人数に上限がございますので、事前にお申し込みの方を優先的にお受けしたいと思います。

        開催会場および時間
        1. 神戸三宮の集い
         とき:   2013年8月11日(日)午後2−4時(時間中出入り自由)
         ところ: 神戸市勤労会館 応接会議室 (10名  残り5)         
                 スコット・マクナイト研究会 名義

               神戸市勤労会館はこちら
                (http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html)
               ミント神戸の東、サンパルの南、中央区役所の隣(三ノ宮駅から徒歩5分)


         なにするの:
           ミニトーク::巣鴨聖泉キリスト教会のタカ牧師、
              タイトル「福音の発見」で大事なのは「どこから始めるか」です。

              ホスト  :ミーちゃんはーちゃん

           お茶飲み話
           その後はお茶を飲みながら自由にフリートーク
              (福音の再発見関連のお茶飲み話)
            お茶と紙コップ類、簡単な冷菓をこちらで用意します。

         ※参加費   一応無料 + 自由献金(箱入れ形式)
         ※お問合せ kawamukaihajime*gmail.com
                   (*マークを半角の@に変えてください)
                  TEL 090-1246-7027 (かわむかい)

        ご参加希望の方はお早めに、メールでご連絡いただけると嬉しいかと。

        ご無理な方はお電話で。

        書籍の展示販売も致します。来場記念お値引き販売の予定。

        どうぞよろしくご検討賜りますように。

        2013.08.07 Wednesday

        一つになろう、について、たらたら再考した ―広島の事件を思いながら―

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           一つになろうというのは美しいか、ということを以前に書いた。思うところがあるので、少し書いてみたいとおもう。

          美しく見える「一つになろう」
           一つになろうってのは、ある面、美しく見える表現である。ある面、一つであることは美しく見える。強く見える。そして危機のときには頼もしく見える。そして理想に見える。

          そこから生まれる醜さ
           しかし、それがもたらすものは、結果として見るに堪えないというか、醜い、米口語でいうuglyで表現したくなるようなものが多いことは世界の歴史を見れば明らかである。これは洋の東西を問わない。

           最近で言えば、911テロ後のアメリカ、ルワンダ、中南米の軍事的独裁、中国の文化大革命、ロシア革命、大政翼賛会、ナチスドイツ、フランス革命、共和政ローマ。まぁ、キリスト教も例外ではない。それなりの黒歴史は持っている。プロテスタント・カトリック問わず。所詮、一つということの魔力、真円の理想化されたものの魔力に引き込まれ、そして理想化された対象が焦点化するあまり、理想から外れたものを排除し、圧迫し、そしてそれでも変わらない場合は、命を奪うという強制的な方法で、言論や存在を圧殺する。

          ナザレのイエスの周りの「一つになろう」

           大体、ナザレのイエスの殺害自体、ユダヤ社会のこのような一つであろうとする動きの結果生まれた部分もないわけではないような気もする。律法学者や祭司長の言動を見る限り、そんなにおいを感じなくもない。

           その筋の研究者ではないので、よくはわからないが。

          バベルの塔じゃね?

           聖書の中にも、一つになろうとして怒られたバベルの塔の話がある。当時は、創世記の表現によれば、一つの国民だと騒ぎ、一つの国語だったので、我々がいつも一つであるように、とバベルの塔を作っちまったような気がする。

           バベルの塔を作っちまった結果、ことばに混乱が起き、人々は全地に散らされて行くことになる。そして、現在に至る。このバベルの塔の理解にはいろいろあるだろうが、個人的に思うのは、散らされることは神の愛あるいは、あわれみのあらわれであったと思うのだな。神が人間が一つであり、神に対抗しようとすることを怒られた、神への反逆を防止され、神が一つであろうとした民に対して怒られて散らされた、というよりは。

           我々は、一つであることを感じ、一つであるようになりたいと感じた結果、結果として非常に醜いものlook uglyを生み出すのかもしれない。であるからこそ、1か所にとどまり、お互いに憎み合うよりも、地に分かれ住むことで、「かけ(罪)」のある人間がかけから生じる不幸を生み出さぬように神の愛や憐れみの結果として、様々な地域に出ていくようにされたのかもしれない、と妄想している。

          自己と他者がもたらす悲劇的構図
           一つであろうとする以上、自己と他者という存在を生んでしまう。人は「かけ(罪)」がある存在なので、どうしても、自分を中心にし、自分が考えていることを無批判によいものと思い込む傾向があるように思う。そして、他者を劣ったものと考え、そして、抹殺しても仕方がないものと考える。ひどい場合は、抹殺されるべきものと考えるようである。時に自分自身を含め、抹殺したくなるようになるのかもしれない。

          ホテル・ルワンダでの自己と他者との関係
           この辺のことで少し考えたい方には、ホテル・ルワンダを見ることをお勧めする。自分以外の民族をゴキブリと呼び、「ゴキブリを殺せ」と叫ぶ人間の「かけ(罪)」がもたらすものを少し考えてほしい。まぁ、このアフリカの不幸と悲惨の背景には、旧宗主国による支配の構造の結果のひずみや、軍事政権、独裁政権下に生まれた社会のひずみももちろんあるのだが。

           まぁ、映画であり、事実ではない、描き方がひずんでいる部分はあろう。しかし、あの映画で描かれた問題のコアの部分は普遍的なことだと思うし、どこでも起きることだと思う。日本でも非国民と人々を呼んだ黒歴史があることを忘れてはなるまい。

          広島で少女が起こした「自己と他者」の構造での悲劇

           当事者ではないので、何とも言えないが、最近広島で16歳の女性(少女)が少年少女たちによって殺害された事件の報道される範囲を見ていると、どうもこういうことが起きたのではないか、と思う。もちろん、水谷先生が記事で指摘されている様な特殊接客業という側面や家庭内での虐待としてのネグレクトがもたらす問題、様々な家族関係の問題もあろう。しかし、それだけに帰すのも問題であると思う。それよりも、人間が一つであろうとし、そして、そうなったときに少数者や自分以外のものをどう対応するのか、そして、排除したいと思う結果、多くの悲劇を生んでいく姿があの時間にも、あの場所で起きたのではないかと想像する。

          前向き信仰と一つになろうのダブルパンチ
           教会内での前向き信仰と合わさったときに一つになろうは、実は非常に恐ろしいのではないか、と思う。ある方向に向かって一つになろうという時に、前向き信仰(反省のない根拠のない自信だけで進むことが『信仰的』とされる信仰形態)が合わさると、冷静な判断や慎重な意見は無視されがちという状況で済めばよいが、そんなことにはならずに、異論をもつ方々に対して、「不信仰」「非クリスチャン的」であるとラベルが貼られ、教会内で居辛いことにならないか、ということを思うのだ。不信仰でもなく、ただ、冷静に考えているだけなのに。

           わが国には、つい60年ほど前に、異論をもつ人々を、異なった信仰をもつ人々を「非国民」だと排除した黒歴史がある。最近、その時代を知るキリスト教徒も少なくなってきた。戦争協力が至上命題とされた時代でもあったようである。同じことをキリスト教界の中で「前向き信仰」を高く評価するあまりに、ある面「一つになろう」ということを強調するあまりに、「互いに愛し合う」ということを教えを聞いているはずのキリスト教会で、60年ほど前の黒歴史を繰り返すのはどうかなぁ、と思う。

           ポツダム宣言受諾記念日も近いことだし。

          2013.08.10 Saturday

          替え歌 「君(イエス)をのせて」

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             夏は暑いですねぇ、ということで、夏休み特集ということで、替え歌シリーズでもお送りしようかと。

             今回は、残念ながら寝落ちしていて参加できなかったバルス祭りにちなんで、天空の城ラピュタから「君をのせて」の替え歌「君(振りがな イエス)を乗せて」をお送りいたしたく

            原曲はこんな感じ  こちらをクリック



            (振りがな イエス)を乗せて

            あの地平線 輝くのは
            どこかにイエスを隠しているから
            たくさんの灯が懐かしいのは
            あのどれをとっても イエスを示すから

            さあ でかけよう ひとつのパン
            ワイン ランプ かばんにつめこんで

            アドナイが残した 熱い思い
            イエスがくれた あのまざなし

            地球はまわる イエスを隠して
            輝くひとみ きらめく光
            地球はまわる イエスをのせて
            いつかきっと出会う 僕らをのせて


             そうなのだな、新しい地でも、この地でも、神がともにおられる。そして、イエスがともにおられる、そのことを思いながら、ちらっと歌ってみる。それもまた楽しからずや。

             ちなみに、50代以下でないと、この元歌と、なぜ、この曲が、ミーちゃんはーちゃんを含めたお子ちゃまをひきつけるのか?は、わからないかもしれない。
            2013.08.14 Wednesday

            「風立ちぬ」を見てきた

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               先週の水曜日、若い友人から誘われて「風立ちぬ」を見てきた。

              形ヲタ・航空機ヲタとしての
              ミーちゃんはーちゃん
               飛行機ヲタク心が騒ぐ映画でもあった。飛行機ヲタクといっても、航空ファンとか、月刊エアラインとか、月刊航空情報とかを毎号取っているという真正飛行機ヲタクではない。

               航空機を見て、特に空を飛ぶ姿を見て、美しいという思いをもちながらも、美しいものを生み出すような設計技師になれなかった人間の憧憬だけからのファンではある。ボーイング787の空を飛ぶ湾曲した翼面形状を背後から見た時、ためいきが出そうなほど美しいと思う程度のヲタクではある。形ヲタクである。

               大学の時分、「形の科学」という面白いリレー講義があって、フラクタル理論の研究者やら、流体力学やっている研究者やら、気象物理やっている研究者や、美術の研究者が来て講義を担当する一風変わった講義があって、合理的な形は美しい。また、合理的な形には法則が隠れている。もし、美しいと感じないなら、それは合理的でなく、どこかに不自然な部分が出ているということを学んだ。そして乱流というものの恐ろしさも。また、美しくない形はたいていどっか設計がまずいということになるらしいことも。

               一応流体力学も勉強したが、ナビエーストークスの微分方程式で挫折した。

               ナビエーストークスの連立微分方程式とまでいかなくても、懸垂曲線という語で検索すれば、実はつり橋とか、電柱上の架線の形状がなぜ美しく見えるか(厨2病だけでなく、形フェチなのは認める)ということの説明ぐらい、どこかのサイトに書いてあるはず。

              創造的な人生の持ち時間への
              世代間の感性の違い

               この映画を30代の若い友人と、ちょっと年上の研究者の方と観て、そのあと少ししゃべったのであるが、映像の美しさ、最終シーンへの違和感、昭和初期への作家としてのレトロな文化へのあこがれ、などは共通認識であったのだが、あの作品の中で、イタリア人設計者のカプローニ君の発言「創造的な人生の持ち時間は10年」という言葉に50前後の研究者の二人が、激しく自分の魂をゆすぶられる経験をした、しかし、30代の若い友人はあまり感じなかった、というのが面白かった。ある面、自分自身のこれまで主にやってきた学問分野でのこれまでのやり方での「創造的な人生の持ち時間10年説」の賞味期限切れが迫っていることはうすうす気付いていて、それはそれで仕方がないと思っている。じいさんがいつまでも若振りをしてするのはおかしいし、そういう年齢でもなくなっているようにも思う。そういう意味でいうと、違う取り組みの方向性を含め、違う創造性が求められる時期が迫っていることをそこはかとなく感じた。

              美しさに魅入られた結果の醜さ

               この作品を見ながら思ったのは、美しいもの、偉大なものに魅入られてしまう人間の悲劇と、魅入られてしまった人間が作り出す美しいものがもたらした結末の醜さである。確かに飛行機は美しい。そして、その美しさに魅入られてきた、飛行機に魅入られた人間、ないし飛行機ヲタクは、掃いて捨てるほどいた。そして、多くの悲劇を生み出してきたのも事実だと、つきつけらた様な気がする。カプローニを取り上げていたが、アメリカには、映画ライト・スタッフで取り上げられた人々以外にも、ハワード・ヒューズという化け物がいる(エビエイターという映画を見られたらよろしい)。

               航空機の世界では、厳しい技術開発のみならず、美しい飛行機で殺りくを繰り返すという愚を繰り返してきた。

              様々な「美しい」ものに
              魅入られてきた人間
               何、魅入られるのは飛行機とは限らない。この作品では、様々な美しいものを描いている。

               アニメとしての美しさとその先、あるいはその手前にある醜さを残酷なまでに示したのではないか。美しいアニメ作品とその背後にある放置される家族、無理な要求にこたえるアニメータや関連の人々の努力。
               大正期の日本の人々のお行儀のよさという美しさ、立ち居振る舞いの美しさ、とその背後あるいは手前にある身分社会。理想化された結核の娘さんとの自由恋愛という美しさ、とその背景にある病院システムや死亡という残酷さ、美しい飛行機の設計と、絶望的な貧しさを抱えた国民という矛盾、新しい美しい飛行機と失敗した機体の無残さ、天空の城ラピュタや未来少年コナンで示された技術の粋を極めた美しさと、それが崩れ去ってしまった後の醜さ、そして、その落差を改めて感じた。

               このブログで触れた、「一つになろうは美しいか?」「一つになろう、について、たらたら再考した ―広島の事件を思いながら―」で言及した美しさと残酷さのテーマをもう一度、突きつけられたような気持になった。

              美しくない存在でありながらも、
              神に愛されたものとして生きるキリスト者として
               これは、聖書理解でも起きてきたように思う。美しさを極めようとした結果、『かけ(罪)』ある人間は、多くの醜い争いをキリスト者同士でも、キリスト者と非キリスト者との間でも生み出してきた。そう考えると、神ではありえない人間は、その美しさを横目で見ながら、「自分自身の醜さ」・「人間の醜さ」・「かけ(罪)」を「自分自身の十字架」として背負いながら、ナザレのイエスがともにくびきとして担いながら、醜い存在でありながら、神に愛されて生きていくしかないのだなぁ、と当たり前のことを再確認しながら、自宅に戻った。

               このアニメは、多分、お子ちゃまには、わからないし、ある程度の文化を共有する人に向けて、美しさと共にその醜さも見よ、というメッセージが強いアニメだなぁ、という感想を持った映画であった。

               まぁ、重篤な厨二病患者の異様に読み込みすぎた感想だろうけれども。




              価格: ¥1,722
              ショップ: Joshin web CD/DVD楽天市場店
              コメント:ハワード・ヒューズという空や清潔さなどに取りつかれた人間の悲劇。

              価格: ¥2,963
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:アメリカの宇宙開発の歴史。個人的にはチャック・イェーガーもっと取り上げてほしかった。

              2013.08.17 Saturday

              日本のキリスト者の教理的視野狭窄について(1)

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                 以前から、考えてきたことであったが、別のところでコメントがあったことや、教会の共同責任者とずいぶん前に話しながら思った『日本のキリスト者の教理的視野狭窄』について、ちらっと考えることがあったので、書いてみていて、公開するかどうかを考えようかどうしようか、と思っていたのだが、いろんなところで自派の中で躓き、どっか他の教会に行きそびれている人がおられるようなので、ちょっと、これは公開しようかなぁ、と思ったのですね。まぁ、似たような話は、これまで、『アメリカ福音派ができたころのむかし話』シリーズでしてきたので、またか、と思われる方はすみませんねぇ。

                キリスト教の多様性が認識されず、
                同質的なのものとして社会から
                受け取られられている、という現実

                 日本では、文化の中にまだまだキリスト教がきっちり塗りこまれるように定着していない現在(クリスマスは、西洋のもの→キリスト教と関係があるらしい、という程度の認識)であるし、キリスト教的にというよりは、聖書のコンテキストを参照しながら、物事を見るというところまで多くの日本の方が至っていないので(布教活動が始まって以来から高々150年の新興宗教だし、キリスト教人口は90年代から右肩下がりだし、まぁ、人口比1%以下のマイノリティだから仕方がない)、日本って、標準的なキリスト教の世界がない世界なので、自分たちがキリスト者になるときに、教派の「あじわひ」やその多様性の中での信仰内容を比較検討しながら、そして十分味わったうえで、自分はこの教派の考え方と親和性があるから、といってそこのキリスト教の教会を訪ねることができるわけではない。

                キリスト教に出会うきっかけ

                 たまたま、最初にもらったトラクト、最初に友人から誘われた教会、たまたま知り合った人から誘われた教会、たまたま近所に言って、楽しそうに日曜学校をやっていた教会、たまたま親がそこの信者で、その信者の親による拉致状態同然で連れ込まれた(まぁ、これは少し言い過ぎだが)教会、たまたま近所にあった教会、たまたまおいしそうなクリスマス会のケーキに引かれて行ってしまった教会などで教会を選ぶことになる。中身がどうか、その教会の評判がどうか、ということまで気が回らないし、外部の人は調べようがないのが実情でしょう。多分。最近はネットがあるから、行ってはいけないそうなところは2ch先生がご教示してくださるので、多少は分かるかもしれないけど。

                 ちなみに、ミーちゃんはーちゃんの場合は、5歳児のころから母親による拉致状態同然(かなりの誇張はある)で今の教会群と出会っている。それが悪いというわけではないし、そのことを母親に感謝してないわけではない。6歳前だったから仕方がない。

                 しかし、多くの場合、そのキリスト者にとって、最初であった教会がその方の、特にキリスト者として生きようとしている方の生き方と聖書理解に関して、大きな影響をもたらすということは、実は非常に深刻なのではなかろうか。日本では、特にそうでないか、と思った。

                 次回へ続く


                評価:
                伊藤明生
                いのちのことば社
                ¥ 1,260
                (2008-09-03)
                コメント:ミーちゃんはーちゃん大絶賛。新約聖書学の先生がお書きになられた超わかりやすい超々入門書。だけど中身的には非常に深い。伊藤先生、書いてくださってありがとう。この種の本は、日本では二度と出版されない(このあたりが日本の不毛さ)ので、あるうちに買っておかれる方がよろしいかと。

                評価:
                アリスター E.マクグラス
                キリスト新聞社
                ---
                (2008-07)
                コメント:翻訳に、一部難ありだが、世界のキリスト教の世界をザックっと眺めるのに一番手っ取り早い本。キリスト新聞社さん、もう一回修正して第2版を出しませんか?

                2013.08.18 Sunday

                Ministry 2013年夏号(Vol.18)がおもしろひ

                0
                    キリスト新聞社刊のMinistry No.18 (2013年夏号)が届いた。

                   これがなかなか面白い。まず、韓国のキリスト教について、韓国人の立場で本音の話が対談で出てくるあたりがこの雑誌の良さ。キーワードの一番目が、祝福のみを祈り求める信仰であることを揶揄した語である「祈福信仰」が取り上げられていたり、「異端」の項目では、「われこそは救世主」と名乗る自称「キリスト」が50人を下らないとか・・・。MJSKと思ってしもうた。

                   主な教派と雑誌のマップ化に関しては、きっちりマップ化してあって面白い。国内では、ミーちゃんはーちゃんも遊んだ経験がある。本ブログでの記事は「メディアとキリスト教会の地図作成の試み(知的スポーツとして)」である。

                   韓国のキリスト教雑誌『基督教新報』の洪さんとの対談の中での、

                   韓国の場合、信徒数は多いですが、キリスト教信仰の本質的な訓練はできていないと思います。シャーマニズム的側面もあり、知的な信者が多くない。ビジネス上の目的で教会に通う人もいますし、伝道がうまいから教会が大きくなったわけでは決してありません。権力とお金があるところには人々が集まります。…

                   というあたりは、韓国人の友人から聞いている話と同じで、なるほどそうか、という風には思った。あと意外だったのは、日本占領時代のキリスト者数の比率であり、洪さんの「日本帝国主義下では1%であった」という指摘はなかなか考えさせられる指摘ではあった。
                   急成長の背後にある構造分析も日本型の原信仰と、韓国型の原信仰との違い等が挙げてあり、大変興味深い。また、「祈福信仰」の実像もかなりリアルに描かれていた。

                   宮崎のN先生の牧会日誌、いやぁ、FB友達の日記なので、大変興味深い。
                   
                   日本キングスガーデンの「常総ふれあいの杜」の紹介の記事も地元との関連なども、描かれていて、大変興味深い。この種のオープンネスというか、敷居の低さ、ということが教会にとっても重要なんだろうなぁ、それが宣教ってことなんだろうなぁ、と思わされたのでした。生身のキリスト者の姿をさらすという宣教ではあるのだけど。

                   いのり★フェスティバル関西の鼎談記事も、なかなか。協力者として、このように形に残ったのは、カンドーものであった。これも、協力者としては、世間様に(といっても来たのは関係者だけという…)生身の今のキリスト者をさらすイベントとして企画したので、「宣教」の枠組みからは離れていないはずなので・・・。

                   ちなみに、今度の直近の「いのフェス」はこちら。今回最大の見ものは、「晴佐久神父×宮台」だと思われ。ちなみに、「福音の発見」も勝手連で出店いたす予定。会場特価価格で販売いたします。

                   韓国での説教が紹介されたのは、なかなか面白い。実はMinistryの一番の興味深い記事は、これだったと思います。今回の号は、宣教が隠しテーマになっているのかも。教会アドミニ研究所は「宣教ってなんだ?」の2回目であるし。まぁ、教会論の根幹なんでしょうね。

                   今回の漫画のキャラは、「いのりん」・「かおりん」に加えて、「ハナレン」や「つまづきん」が出てくる。どうせやるなら、「バテレン」とか「ナザレン」とか「ルーサレン」とか「ブレズレン」とか「ユニテリアン」とか出せば面白いかもしれないのに…もうちょっと涼しければ、「バテレン」のコスプレも考えたかなぁ。

                   あ、ちなみに「かおりん」は関西設定なんで、スカートやや長めなんですが、スカート短か目って言われたのはねぇ。

                   ということで、今回は、Ministry最新号のご紹介。1500円はやすいと思うのだなぁ。全国にお届けされるのは、今度の土曜日あたりではないかと思われ。


                  2013.08.19 Monday

                  こころの時代視聴記 内村鑑三 第5回「死者との対話」 

                  0
                     こころの時代「内村鑑三 第5回 死者との対話」を今回も視聴したので、記事にしておこうかと。 


                     今回は、内村の周辺の人々の死と内村の思想形成について 関東大震災、日清・日露戦争、不敬事件を支えた加寿子との死別とそこから生まれた内村の思想の形成について鈴木範久先生のお話による1時間であった。

                    加寿子の死去が内村にもたらしたもの
                     若くして加寿子を失った内村は、墓参ではなく、「墓を見舞った」と書いているらしい。あたかも、死者と話しに行くような内村がいて、死者と対話し、死者から何か聞こうとしたところに内村の特徴があるのではないか。そして、「罪なき者の死」が内村のテーマになっている。「キリスト者の慰め」の献辞は、加寿子に捧げられている。この「キリスト者の慰め」のなかで、「愛する者のうせし時に、無間地獄に落ちた」と書いている。

                     内村は、加寿子の死後、「私の死を悲しまないように。孤独な老女、身売りされた少女のために尽くすことは私のためにすることだ」という加寿子の声を聴いたような記述があるとご指摘であった。

                    内村と日清戦争・日露戦争
                     内村は日清戦争を最初は肯定していたが後に否定した。こうなったのは、戦争で死んだ罪なき者の死を悼む人の声を聴いたからではないだろうか。また、日清戦争後、勝ち誇る軍部と家族を失って悲しむ遺族たちの姿を見たからであろう。


                    「寡婦の除夜」の詩の朗読

                     日清戦争義戦論説を最初は唱えていたが、終戦後の軍部や勝ち誇る日本社会の雰囲気というか態度を見たときに反省し、義戦と唱えた自分が恥ずかしいと書いている。
                     この詩を書いたころ、名古屋に住んでいた内村は、名古屋の連隊のそばに住んでいて、こういう事例をいくつか見たのではないか、と思われる。
                     内村は、一気に義戦論に傾いたわけではない。万朝報で1903年に「戦争廃止論」で絶対非戦論を説いた。とはいっても、万朝報も開戦に傾いていくなか、万朝報を去ることになる。

                    内村の非戦論の背景

                     内村が非戦論に傾いた理由として4つあげておられた。
                     (1)聖書をよく読んだ。人間の生命を大事にしている。
                      剣によるものは剣によって滅ぼされる。
                     (2)実体験から 
                      山路愛山に殴られたが、反撃しなかった。
                      東京独立雑誌を解散しないといけなくなったが、あえて抵抗しなかった。
                     (3)歴史を見たとき
                      米西戦争をみて、その結果として米国が帝国主義国家となっていく姿を見た
                     (4)スプリングフィールドリパブリカンからの影響
                      まるで聖書を読んでいるような、と内村が評した新聞の影響

                     1901年に開催された第2回聖書講演会 丹波(綾部)から出てきた瓦職人林万之助が日清戦争でなくなってしまう。また、聖書の研究の最初のころからの愛読者だった海軍の軍人も日露戦争で戦死。また、海軍機関学校にキリスト教を教えに言っていた。そこで、何人か内村の弟子になった。そして、戦死してしまう。当時秘書のようなことをしていた小山内薫が内村の講義中にガラスの向こう側に公安が見に来ていたという記述を触れておられた。
                     日露戦争だからといって、トルストイと内村が戦うわけではない。本来戦争屋(軍人)が戦うべきではないか、と内村は言っていたらしい。

                     ロシアとトルコとの戦いにも関心をもっていた。露国兵卒の述懐の紹介があり、その文章の中で、ロシアとトルコの戦争で、友人であったかもしれない人たちが相敵する悲劇に巻き込まれる姿を描いている。

                     内村にとっての問題は、人間の生命が軽いことであった。内村の非戦論の根拠は、死者がどんどん出てしまう。戦争は戦争を生むものになりはしないか、ということを指摘している。1905年に東洋平和のための戦争といわれた日露戦争が日中戦争へとつながっていくことを指摘した文章を残している。

                    ルツの逝去
                     50歳ころに、ルツをなくすのだが、それが、内村にとっての衝撃となっている。

                     内村には、最初の妻の間に女子があった。自分の手元で育てられない欠落感を抱えていたかもしれない。その後に、不敬事件の厳しい時に生まれた女子に、ルツという名を付けた。この時期に、日本最初の聖書注解のルツ記を出している。内村鑑三文庫(北海道大学蔵)の中に所蔵されている、カーライルの本にルツの落書きが書いてあり、「ルツが1年9か月」と内村は書き込みをしている。

                     ルツは女学校を出た後、原因不明の熱を出し、17歳で夭逝する。「ルツは死する前にもう行きます」と挨拶して夭逝した。
                     ルツの死により、現世的な欲望はなかったが、欲望が全部消えたわけではなかった。聖書研究、伝道したいとかのきよい欲はあった。それが、なくなった。ルツの葬儀に立ち会った矢内原が内村聖書研究会のメンバーになった直後にルツの死に出会う。矢内原の記述によれば、内村は、「今日はルツの結婚式である」と葬儀の中で言い出したらしい。矢内原は、雑司ヶ谷についていく。埋葬する際の土を取り、手の上に振り上げ、「ルツさん万歳」といった記述があるらしい。これを聞いた矢内原は、「キリスト教を信じるのはただ事ではない。」と思ったらしい。内村の聖書研究会は和やかなものではなく、所属直後ただ事ではないものを見てしまった。矢内原は信仰に立って、結果として東京大学を追われることになる。

                    関東大震災と内村

                     1923年関東大震災に出会う。軽井沢にいたらしい。川口まで汽車で、そのあと歩いて。家族は無事だったらしい。
                     関東大震災の前に、天災は、神の刑罰ではない、と書いている。しかし、神は天災を神の刑罰の道具として用いる。悪人が天災に遭遇すれば、天罰であり、善人がこれに合うのであれば、善き試練である。とも書いている、主婦の友に寄稿した原稿に天罰説が記載されていることもあり、確かに内村は災害は天罰といっていたことは否定できないが、クールに自然科学者として地震は自然現象だといっている。それをどのように受け取るかの意味に監視しては、人間にとっての問題である。人間が必要とする意味の世界で、地震などにも意味がある。災害では罪なき人が犠牲になる。犠牲者に耳を傾けると、生者への問いかけではないか。そう受け取るしかない。その意味で、どう生きるのか、が問われている。

                    関東大震災後の文章で「災害後に、悔い改めとか新生といっても無意味であるから黙っている」というような文章が紹介された。災害後、物質的強国を作ることに奔走している。という記述がある。生きているものばかりが優先され、経済的側面だけが優先されているような気がする。

                     犠牲になった人たちの思いが本当にそうだったのか、という思いがある。犠牲者の声をどうしたら聴けるかについては、内村自身が女子学院で開催された追悼会での講演記録が残っている。死者追悼のために集まったものの、悼み悲しむものは、生きている我等といえるか。死せる彼らが私たちを支配し、導き教え、慰めるのではないかと問うた、「死の権威」1923年がある。生きているものが慰めるというが、そんなことができるのか、死者が我らを慰めるのではないか。世俗で広く開かれるような追悼会に疑問を持っていた。死者の声を聴き、死者の声に従うべきではないかといいたかったのだろう。

                     死者と生者との交通界としての追悼会。死者は生者にその後の生き方を問うている。豊かさを追求する人間に絶望している。近代人の利己主義、近代文明への激しい疑問を持っていく。

                     次回、最終回。人間中心主義に突き進んだ近代への疑念と、宇宙完成の祈りと救いについて。

                    ---------------ミーちゃんはーちゃん的感想-----------------

                     戦前を生きていった人たち、戦前の文化とかすっている人たちを理解するために、やはり、日清・日露戦争ということ、その後の関東大震災というのは非常にそれぞれの意味を与え、そして、大きな物語の一部になっているし、生き方に影を落としている姿を内村を通して知ることになった。

                     今回、宮崎アニメ「風立ちぬ」を見てきたときにも思った、日清戦争、日露戦争、関東大震災という現象にともなった社会の変容と15年戦争につながっていく日本社会の変容を見るときに、阪神大震災、東日本大震災がどのように社会を変容させていくのか、をキリスト教徒として、少し真面目に考えたほうがよいのかもしれない、そして、内村鑑三という偉大なる日本人を、そして、その思想を、現在であるからこそ、考えたほうがよいかもしれない。
                     


                    2013.08.21 Wednesday

                    日本のキリスト者の教理的視野狭窄について(2)

                    0
                       前回の記事では、日本でキリスト教に出会うきっかけ、ということについててだらだら書いてきたが、今回は、視野狭窄を起こしやすいきっかけのあとの背景について触れてみようかと。

                       前回の記事はこちら。

                      日本のキリスト者のの教理的視野狭窄について(1)

                       最初に出会ったキリスト教が
                      「キリスト教のすべて」
                      になってしまいやすい現実
                       日本のキリスト者の大半は、カトリックとプロテスタントの区別はついても、「私はルター派的慰めに萌えています」とか、「私はカルヴァン派の確立された教理に萌えています」とか、私は、「ペンテコステ派の情熱にあふれた神との関係に萌えています」とか、「私はウエスレー派のきよめに萌えています」、あるいは「私は、ダンカーズとも呼ばれる再洗礼派のバプテスマに萌えています」とか、なんてことは、まーーーーーーったく気にせずに信者になっていくのが普通でしょう。でてこなかった諸集団の皆さん。皆さんも私にとって、大切なキリストの体ですからね、誤解なきように・・・。その意味で「この辺がキリスト教よね」という理解がない方が多いような気がする。カトリックとプロテスタント、神父と牧師の混乱は、ある面当たり前。さすがにプロテスタントの信者さんで、牧師に「○○神父様」と呼ぶ人はいないだろうけれども・・・。

                       まるで、鳥類が最初に出会った動くものと同じ行動様式を取るように、最初に出会ったキリスト教の聖書理解やその行動様式をかなり後まで引きずるというのか、それに縛られやすい傾向があるのではないだろうか。


                      セカンドオプションとしての
                      教会を探すコストの大きさ
                       人々が行動に移す時に情報を調べたり、そのために負担しなければならない心理的、実際的な負担のことをサーチ・コストと言ったりもしますが、実は日本のキリスト教界では、意外とこのサーチ・コストがでかいのではないかと、思うのですね。

                       というのは、見聞を広めたくて、よその教会を見てみようかな、と思っても、その教会の牧師や、年配の信徒、教会の信徒責任者なんかから「この教会にどこか不満でもあるんですか?」とお小言の一つや二つは頂戴いたしかねないし、「どうぞどうぞ、よその教会もお試しくだされ」というような奇特な教会も多くはないだろう。まぁ、それだけ、「自分の教会が信徒に提供しているものがよいものだ」という自信があることはよいことだと思う。ただ、全ての人にとって、その教会が信徒に提供しているものが一番良いものであるかどうかは別として。

                       もう少し言うならば、自分が信仰告白をして、面倒を見てもらった教会なら、なおさら、義理人情なんかで縛られている可能性があったり、これまで努力して(かどうかは別として)確保してきた人間関係やその教会内でのノウハウを捨て、よそに移籍することで発生するコスト(Sunk Cost(サンク・コスト)または埋没費用ともいう)もかなり大きなものとなる。

                       となると、一番良い選択肢は、今のままの教会ないし、関連する団体にとどまる、という選択肢にならざるを得ない。すると、その集団の聖書理解の世界にどっぷりとどんどんとはまり、ほかの理解を受け入れ難くなるだろうし、年をとればとるほど、その特定のキリスト者グループの中での関係性は深くなっていくので、いよいよ、先ほど述べたその教会内での関係性を放棄することに関するサンク・コストはめちゃくちゃ大きくなる。

                       となれば、スヌーピーの漫画(The Peanuts)に出てくるライナス君のように、つまり、慣れ親しんだ『いとしい』毛布から離れられないように、同じキリスト教群にとどまることが一番望ましいことになる。そして、指輪物語に出てくるGollumのように、My precious... とやっていることも少なくない様にも思う。

                       こういう状況の中で、聖書に立ち戻り、そして、真剣に考え、本物に目覚めたとしても、自分の現在いる教会の様々な制約や人間関係を取り除き、より広い範囲のキリスト者と共に生き過ごす中で、多様なキリスト教の姿を受け入れ、視野を広げていくことは、そう容易な話ではないだろう。しかし、ぜひミーちゃんはーちゃんとしては、その様な広い視点をもってもらう人が少しでも増えることを願わずにはおられない。

                       次回最終回に続く。
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