2013.07.01 Monday

2013年6月のアクセス記録

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     いやぁ、普段になく忙しい6月が終わった。

    いろいろ、イベントが目白押しであった。5月からではあったが。まぁ、今月は、「福音の再発見」発売イベント、CLCBooksお茶の水でのトークライブ。まぁ、これが疲れもピークでした。

    今月のアクセス数は18107(平均603)とはねぇ。明らかにアクセスが変わったのが、リチャード・ボウカム先生の講演会を即日記録に載せた17日あたりから。

    ということで、今月の人気コンテンツ上位5位は以下の通り。

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    こうみると、「福音の再発見」の書籍の出発点になった記事のうち3つが上位に入っているし、発売イベントも、4位でした。いやぁ、この本の出発点になったコメントいただいたカレドニアさん、お元気かなぁ?

     「福音の発見」第2刷も順調に出ているようですが、群馬県下の書店では未入荷だよって、ご連絡いただいこともございます。

     キリスト教書の流通業者の方がお詫びするのが筋、だと思うのですが、流通業者に成り代わり、この場をお借りして、お詫び申し上げます。今しばらくのご辛抱を。第2刷も1000冊印刷しましたので。

     お茶の水のCLCとか、大阪のオアシスでは、最近も店頭にも並んでいたので、大きいところがガバッと在庫抑えちゃったのかもしれません。出版する側としては、返品の山が怖いですけど。なんかねぇ、こういうの見ていると、映画「幸せのちから」の在庫の山抱えた主人公を思い出す。あの主人公みたいにならないといいのだけど・・・。



    評価:
    ---
    ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
    ¥ 918
    (2011-01-12)
    コメント:まぁ、よくあるアメリカンドリームを描いた作品だが、アメリカの社会の現実が描かれていて、ホームレス直前にまで至った時に直面するアメリカ社会の厳しさを見るべきかもね。ストーリー的には、2点だけど、背景はよく描けているので、5点。

    2013.07.03 Wednesday

    神経症的なキリスト者についてぼーっと考えた

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       ある方と、ネット上で「福音の発見」についてのお話をしているときに、「時々、自分が救われているかどうか気になるというクリスチャンの方に時々出会うのだけれども、なぜ、そのように自分が救われているかどうか、そんなに気になるのかは自分には理解できない」という話があったので、この背景を少し考えてみた。

      神経症的なキリスト者の存在

       こういう、神経症的なキリスト者というのか、救われるために頑張らなければならない、自分をより清く保たなければ、という概念に取りつかれた方って、時々おられる。特別の伝道集会とか、宣教キャンプとかで信じた人々のうちにも見られるように思う。べつに、それは、宣教キャンプがカルト的だとか、伝道集会がカルト的だとか悪だ、問題だ、言うのではない。一時点の決心を重視する決心主義的な聖書理解を引きずっていて、神と共にいま、ここで、ずぅぅっと継続的に神と共に生きるという生き方への理解の不足、また、そのことについて普段、教会で案外触れていない、あるいは信徒側が理解していないことにあるのかもしれないと思うので、少し書いてみようかと。

      一時的であっても回心を重視する背景

       以前、このブログで取り上げた、福音派の歴史の中に登場する人物たちの中で、巡回伝道師たちと呼ばれる特殊な働きをした、そしてリバイバルを起こしていった人々にふれた。

      例えば、

       ジョナサン・エドワーズたん



      などである。まぁ、伝統みたいなもので、ある説教者の方法が流行ると、なかなか廃らない。また、こういう人たちの説教録が残ったりすると、それを真似する人が出てくるようだ。先人たちに倣えば、いいのかと思って真似する人もいるかもしれない。そんな物まねして、済ませてよいものでもないだろう、とは思うのだけれども。

      一時的な決心主義とリバイバル運動
       リバイバルそのものが問題なのではなくて、リバイバル運動の方法論というかアプローチの中に、一時的な決心主義ということの問題と思う。もう少しいうと、今、ここで、この地上で神と共に生きる、神と共に神の民と生きるという生活(弟子としての生活 巷で話題の弟子訓練とは似て非なる概念)について、神と共に神の民と共に生きるということを一緒に実践していこうとすることへの余裕のなさがあるのではないか、と思うのだね。そもそも巡回伝道だと、1週間ばかりそこにいて、次の町から次の町へと、サーカスの興行みたいに、伝道しまくるのであるからして、しょせん無理ゲーだと思う。

       この方、現代アメリカにおける巡回伝道者みたいな感じ。詳しく見たい方はこちら
          What Would Jesus Buy. 
        ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは、ディズニーランドやウォールマートでも
        そのほかの場所でも、悪魔祓いや悪魔祓いの祈りをした経験はない。


       リバイバル主義のある特定の傾向の雰囲気の詳しい話を見たい方は、こちら
           (Jesus Camp)。
        ちなみに、全てのリバイバル主義集団が、Jesus Campのようではないことは確か。


       巡回伝道者のように旅から旅へのロードムービーのような、ノマドのような生活になると、信徒の生活を育てようとか、じっくり信徒と向き合って信徒と一緒に成長しようとする余裕もなくなる。

       リバイバル運動のアプローチの影響下(その影響の強弱は別として)にある教会だと、例えば定期的にしている伝道集会で、「福音」(神が愛している+【その他もろもろ】)というお話を聞いて、納得して、「はい、神様信じたい人」って聞いたときに手をあげたりすると、もうそれで、前に出さされます。そして、その時お話した人に祈ってもらって、「はい、あなたは救われました。」と言われて、一同、88888、ばんざーい(ハレルヤ〜)ってなるようだ。そして、そこに参加している人々は、「ををを、今日も失われた人が神のもとに戻りました(罪人が救われました)。主よ、感謝します」って感じになるんだろうと思う。Bruce Brothersでは、このことを揶揄したシーンがあったように思う。

       いや、確かに、神のもとに神と関係がなかった人が立ち戻ったところはよいとは思う。そこには問題ない。いや、むしろ、それこそ、神が、イーウアンゲリオン(福音)として宣言していることで、旧約以来、一貫して、神がご主張になっておられる、「神のもとに戻れ」ということでもあり、イエスの一貫したご主張であると思うのだ。

      【その他もろもろ】を巡る問題

       しかし、時と場合によっては、「神様信じたい人」といって、話を聞いて手を挙げた人の内実は、その時聴いたお話にだけ「なるほどそうか」と思っただけだったり、神の愛ではなく、特に【その他もろもろ】について、「そうなのか、これはまずいぞ。これはなんとかせねば」と思っただけで、福音の全体像まで納得したわけでなくて、手を挙げている可能性がある。
       
       とくに、問題となるのは、【その他もろもろ】の部分のような気がする。例えば、【地獄がある】とか【死後に永遠の裁きがある】とか、【罪を犯したものは、犯すものは、神から受け入れられない】が聞き手の中で誤解されて【倫理的な規則やコードに違反するものは、神から受け入れられず、永遠の裁きの中に陥る】という間違って変換されてしまうことがあるような気がする。

       聖書が言う『罪』は、その人が『神と共に生きていないこと、少なくとも生きようとしないこと』であって、【罪=倫理的な規則やコードに違反するもの】ではないのだけれども、【罪=倫理的な規則やコードに違反するもの】と理解されていることが日本では少なくないと思うのだな。これが。残念であるが。

       しかし、人間は完全でないので、完全に倫理的に生きられないし、無矛盾では生きられない。それが人間だというのが聖書の人間理解なはずなのですが、その部分の理解までは、巡回説教者がしゃべっている余裕がないため、それは省略されてしまう。

      罪の理解と贖罪について 
       そのことは、本来イスラエルの民を見、また、イスラエルの民に贖いの規定が与えられた背景やら、贖いの規定をモーセ5書の中でよく読んでみれば、人間がいかにくだらなくとも、ひどかろうとも神は許したもうというのか、神はわれらと和解したもう、という理解が生まれてもいいはずなんだとおもうのだな。

       しかし、もし、この神が赦したもうという理解が十分伝わってないとすると、自分自身の努力で究極の『無菌培養』を自分自身で目指しちゃう。我々人間は神の目から見たとき、『かびルンルン』か『バイキンマン』のようなもの、あるいは菌みたいなものであって、菌のようなものとして生きるように召されているのに、無菌培養しようとするもんだから菌のようなものである自分自身が死んじゃうか、あまりに自分の力で清くなろうとしてもなれないので、自殺でもしたくなっちゃう。

       自己を徹底的に否定して、無菌培養する生き方に対して、自分自身を十字架につけた、と言い放たれる方たちもおられますが、「そうなんすか?神が与え給うた自己を否定しすぎるのも神の主権を侵すことになるのでよろしくないのでは?」とミーちゃんはーちゃんとしては、思ってしまっています。旧約以来延々と続く神との和解(たぶんこれが、イエスが述べようとしたイワンゲリオン(福音))の概念がないことが、神経症的信仰者に端的にみられる問題なんでないか?って思います。

      具体的な神経症を起こすきっかけ

       たとえば、いろんなことがあって、ちょっと教会に行けなかったり、問題発言(牧会者とかそのキリスト者集団の聖書理解への疑問を口にするとか)すると、教会の人とか、先輩信者とか、周りの人から、「あなたのそういう部分は、不信仰だ、信仰が足らない」とか、「あなたはまだ罪人だ」とか、ひどい場合には、「あなたは悪霊につかれている(これは最近、ミーちゃんはーちゃんも個人的に一度リアルにこのような手紙をいただいたことがあります。それもつい最近)」なんてことを教会の人は、気軽に言っちゃうし、本人にしてみれば、言われちゃう。

       何回か仕事とかでやむなく教会を休んだりしたら、「あなたの信仰は大丈夫ですか」とか、教会に来なくなると「信仰の破船にあった」とか「悪魔の手に落ちた」とか言われちゃう場合もある。(まぁ、一応似たような表現は聖書の中にありますから)

      クリーンルーム化した信仰生活と
      神の力の認識不足
       すると、「自分の信仰がだめなのだ」「もっとしっかりした信仰者にならなければ、イエスに対する信仰が足らない」なんて思っちゃって完膚なきまでのクリーンルーム張りの無菌培養を自力で目指して、頑張っちゃうんじゃないかなぁ。

       また、教会生活が長くなると、HACCP仕様(あ、これ食品の衛生管理基準)の完全無欠のクリーンルーム張りの無菌培養までいかないとしても、他の人たちへの「悪魔の手に落ちた」とか、「あの人は不信仰だ」とか、「聖書的でない」とかいった評価、つまり、教会の中で他の信徒の人に向けて言われているのを聞いちゃうとね。そりゃ、「私もあのように悪しざまにいわれはすまいか」と不信感持っちゃう。これで神経症にならなければ、それこそマザーテレサ級の鈍感力ですわ。

       しかし、こういった生き方、それはね、神の力の認識不足なんだと思うのですよ。そして、このような神の力の認識不足の結果、何が起きるか?それが神経症的なキリスト者の姿ではないかなぁ、と。自分の力への失望と、疲れ切ってぼろぼろになったキリスト者の姿の出現なんではないか、と思います。

      放蕩息子の帰郷


       神のずぶずぶの愛、赦したもう神が抜けて、裁き主の側面ばかりが強くなっちゃうとね。こうなりかねないと思いますよ。この辺ジョナサン・エドワーズとその後継者の影響の強い教会群(別に特定の教派ではなく、福音派に多いような印象がないわけではない。あくまで印象の話ですけど、統計とったわけではないので。)では、福音派と呼ばれる人々の一部や、そのほかの一部では、裁きを意識してしまうので、神経症的になっちゃうんだと思います。そういう目に合われた方は、本当にかわいそうに思います。

       しかし、イエスのたとえ話である放蕩息子の帰郷を思い出してみると、ぼろぼろになり、それこそなりふり構わずに帰ってきた、悪の権化、悪の枢軸、悪の帝国のような息子を赦して和解しようとしている父の姿がでてくるのである。放蕩息子さんはクリーンルームのような信仰を持ちえなかったし、持っていなかった。彼は自分自身ボロボロであるという認識だけで、父のもとに帰ったのではないだろうかと思うのですね。彼は変えること、それ以外何もなしえなかったのではないだろうか。つまり、彼は単に自宅に帰っただけ、と思うのです。またしても、ミーちゃんはーちゃんの読み間違いかもしれません。皆様がお持ちの聖書と違って、あるいはミーちゃんはーちゃんの持っている聖書が不良品なのかもしれませんけど。

      なりふり構わず受け入れたもう神
       ある方が、ツイッターでこんなことを書いていた。

      あなたがいたから、どんなことでも、なりふりかまわず、あるいてきたの、、って感じだなぁ

      これを見て、思わずミーちゃんはーちゃんが思ってしまったのが、次のことば。

       なりふり構わず生きる私を、
       なりふり構わず受け入れたもう神。


      あるいは

       なりふり構わず生きる私を、
       なりふり構わず受け止めたもう神

       これが神の姿ではないだろうか、と思うのですね。神は、決してキリスト者を神経衰弱させ、神経症にすることを願っておられない方だと思うのだが、ちがうかなぁ。





      評価:
      ---
      アニプレックス
      ¥ 2,623
      (2011-01-26)
      コメント:リバイバル主義の行き着いた先の映画。これに、ジム・ウォリスが出てくくる。

      評価:
      ヘンリ・ナウエン
      あめんどう
      ¥ 2,100
      (2003-05-20)
      コメント:もう、この本最高。ナウエンの最高傑作のひとつ。

      2013.07.04 Thursday

      イデアリストとリアリスト

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        評価:
        価格: ¥1,995
        ショップ: CD&DVD NEOWING
        コメント:いいんだな。この本。イエスの息づかひ、弟子たちの息づかひが聞こえるような印象を受けた。

         イデアリストといっても上の写真に出てくる、エスティローダーの化粧品のシリーズの話ではない。正確には、アイディアリストと英米人が発音する理想主義者のことである。フランス人は、イデアリストとかイデアリステと発音するのだろう(カタカナでは、発音を正確に表現できないのは仕方がたない)。

        理想主義とアメリカ
         理想主義が悪いわけではない。理想を高く掲げ、理想を言い募る人々が社会を変えてきた部分もないわけではない。しかし、その裏側には、多くの悲劇と血が流されてきたことも忘れてはならないが。理想主義は、時期を読み間違うと、時代から早過ぎるために変な奴だといわれ(場合によっては火あぶりなどで殺害される)、時期が遅すぎると、社会の方が先行しているので、時代遅れの茶番劇になってしまう。

         アメリカ人はヒーローが大好きで、理想主義を語るのが大好きな人たちだと思う。また、Pax Americanaと呼ばれるようになってからは、民主主義という理想や理念系としての自由主義経済、資本主義経済、技術の標準化、はたまた、彼らが理想とする商慣行を他人に押し付けてきたようにも思う。そして、様々な流行を世界中に撒き散らしてきたというようにおもう。多分、日本の神学の世界もその影響をダイレクトに受けてきたんじゃね?とはたから一信徒として傍観者としてみている限りは思う。まぁ、フォーマルな日本の大学の宗教学では、以前として戦前来、ドイツ系の神学の世界が主流派ではあるようだが。

         尊敬してやまない方のおひとりである「のらくら者の日記」をお書きになっておられる先生が、最近、不実のアルビオンというタイトルのもと、重要なことを書いておられた。ミーハーなお調子者のミーちゃんはーちゃんへのお気遣いとして受け止めつつ、そして個人としては自戒として受け止めたい。皆様にも上記リンクの「不実のアルビオン」是非お読みいただきたい。

        リアリストが多い連合王国のリーダー
         ヨーロッパ最西端にある小国として、他国からの侵略に悩みつつ、また、大陸での争いを見つつ、時代の時勢を見つめつつ、その国力をつけていき、国際政治という中での生き残りをかけたのが連合王国のリーダーたちにリアリスト的性格を持つ人々が多く見られた。先の不実のアルビオンという記事は、Pax Britanicaを謳歌したものの、しかし現在はじわじわと落日を迎えつつある大英帝国へのオマージュでもあるともお受け止めした。

         まぁ、英国のリーダーとは言え、無謬ではないし理想化できないことは、近代史におけるチェンバレンの大陸への対応が明らかにしているといえよう。人間は、限界の中でさまざまなことを決めざるを得ないのではなかろうか。

        不実である人間と読書
         英国をとらえたうえで、我々が受け止める、あるいはさらされる神学的理解と聖書理解いや、もっと言うと自分たちの生き方に、批判意識を持ちつつそのポテンシャルと限界を見極めることの大切さについて触れておられる。

         確かに、ミーちゃんはーちゃんは、NTライトの書いたものも好きだし、その聖書理解の広さにも、驚きをもって受け止めた。ボウカム先生の本からも、イエスを息使いを福音書からどう感じるのか、ということを学んだ。スコットマクナイトの本も限界があるなぁ、とは思いつつも邦訳を出したい程よい、とも思ったし、その出版企画やその他もろもろも行った。

         ところで、そもそも人は誰しもどっかこっか不実なのだと思う。不実であるがゆえに、自分自身を批判的に見る必要があり、それこそ哲学的反省が必要だし、神が必要だ、と思うのだ。だからこそ、イエスは姦淫の場でとらえられた女の時に、「罪のない(神に不実でなかったことのない)ものから石を投げよ」といわれたのではないかと思う。

        不実の徒としての
        ミーちゃんはーちゃん
         しかし、ミーちゃんはーちゃんにはNTライトであれ、スコットマクナイトであれ、ボウカムであれ、それをネ申(ねもうす)にする気もない。神格化し、それらの優れた方々が提唱する聖書理解を絶対視する気もまったくない。その意味で、ミーちゃんはーちゃんも不実のアルビオン系の徒ではある。まぁ、私の信仰の源流がアイルランド国教会の分離派に起源をもつこともあるのだろう。その意味で、国教会自体への批判意識とイングランド王朝への批判意識を持つ人々のアジアの片隅の日本で咲いたあだ花にすぎないと思って思っている。

         ミーちゃんはーちゃんは自派の理解に対してこれまで批判的に、あるいは哲学的反省をもって考えることは少なかったし今でも少ないかもしれない。他者への批判はするけれども。この辺が不実な人間としての黒歴史を形成している。

        さまざまなものを紹介する理由
         そこまで絶対視しないのに、なぜ、このブログでNTライトのセミナーやボウカム先生の講演会、スコットマクナイトの著書を邦訳までして紹介するのか?

        とおっしゃるかもしれない。

         ある面、英米の図書や文献をお読みになっておられるキリスト者の皆さんが限られることから、どうしても自分たちの価値が基準になり、自分の聖書理解そのものが偶像としてのネ申としてときに反省され、認識されるならまだしも、絶対の価値(もうこうなると完全な偶像崇拝の神になっているように思いますが)を持っているのではないか、というケースに時々であうからではある。
         
         自己を相対化することを、ご自分一人だけでできる人は限られる。いや、聖書があるではないか、とおっしゃる方もおられるだろう。しかし、もしその聖書の読み方がある特定の考え方に凝り固まってしまった場合、ある特定のメガネだけしかかけられてしか読めなくなった場合、人間は限界があるものだから、聖書との対話も凝り固まってしまうのではないか、と思うからなのだなぁ。まぁ、そのような黒歴史を実際にやってきたものとしてそのように思う。
         
        間接対話としての読書
         より幅広い人々との直接対話やさまざまな人々との書籍を通した間接的な対話を通してしかできない自己の相対化もあるからのではないか、と思う。聖書からのメッセージをする際の参考書(下敷き)としてではなく。そして、他者の聖書理解を受け止め、消化し、自分自身を見直し相対化するのが読書の役割だと思う。

         自分の理解を相対的に認識するために読書が必要だと思うのだ。最近は、携帯電話とGoogleMapsがあれば、GPSが測位して地図上の自分の位置を表示してくれるので、紙地図はそんなには必要ない。しかし、これらのお便利ツールがない時には、自分の位置を知るためには、地図上に記された目標点(たとえば山頂とか、河川や海岸線の位置)から特定していく必要がある。

         地図がない場合には、とりあえず手じかな稜線をたどり、できれば峰の頂上にのぼり、他の山の形やら目標点を探し、目標と自分との相対位置を特定しないと、迷ってしまう。この迷いを避けるために、とりあえず他人が到達した山に立って見てみて、さまざまな本の著者や自分や他の人々の相対位置がどのあたりか、ということを考えるのが、読書だと思う。

         できれば、この作業はより多くの人でして、多様な見方を共有するような読書会してみるというのは面白い作業だと、実際にしているものとしては思う。

         一人で読みにくい本でも、みんなで読むとね。

        以下ステマ
         福音の再発見のサイト、移動しました。最近では、Taka牧師が真面目に福音の再発見のサイトのサイバースペース上での反応を拾ってくださっています(Taka先生、先生のからだにGoogleのボットとか、埋め込まれていませんか?本当に頭が下がります)。最近の福音の再発見のほかの皆さんの反応をご覧いただきたい方はこちらへ。他の日本の仲間が何と言っているか、わかりますよ。

        ということで、今日は、Pax Britanicaの終わりの始まり、Pax Americanaの始まりの始まりになったUnited States of Americaの独立記念日でもありましたということで。ちゅどーんちゅどーんちゅどーん(この日はど派手な花火がアメリカのあちこちで上がる日でもある)

         今日は、通常の日ではないが、アメリカ独立記念日ということで、書いてみますた。

        2013.07.06 Saturday

        福音派と聖書 米国の場合 その3(1)

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          さて、福音派と聖書について、ゴンビス先生がお書きになっておられるものの日本語変換を載せながら、少し思うところを書いてみようかと。今回はオリジナルの3つ目の投稿の前半部分から。小見出しは、ミーちゃんはーちゃんが付けました。



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          恨みや苦情のようにして押し寄せる質問
           これまでの数日にわたって、私が福音派の人々から時々聞いてきたコメントについて思ったことを宣べてきた。指摘してきたように、これらのコメントの背景には、様々な角度や様々な態度があり、それらから出てきたもののようだ。表現されるとき、ある時には苦情のようであり、別の時には恨み節(哀歌)の様相を帯びる。

           地元の教会の夜のクラスの後、話しているときに、不満そうなご意見をお伺いすることがある。「えぇぇ、私は、人生のほとんどを福音派の教会で過ごしてきたのですが、こんな話は聞いたことが…」

          知らないことを悪と思っていたある女子学生
           以前、ある女子学生から、教室の中で受肉についていくつもの角度から話し合った後、彼女から私宛に電子メールが届いた。彼女は感謝しつつ、書いていたというものの、その最後のことばは非常に衝撃的なものであった。彼女は、彼女自身救い主をもっとよく知らなかったことを悪いなぁ、と思っていたらしい。彼女自身にとって、聖書がイエスの人間の側面を言っていることに精通していなかったことを後悔していると感じていたのであった。

           彼女に、「自分たちが、熱心な学び手であること、すなわち、我々が常に学ぶ姿であることを神が喜ばれること、我々が知らないことがあっても別に問題がないよ」と返事をしたのだった。

          福音派の聖書理解とそのひずみとその背景
           そして、私自身、このことは、福音派の人々が聖書について思っていることのどこかが、なんかひずんでいるのではないかと思うようになった。

           現代の文化の中での我々の役割についての福音派的なレトリックと、この世界に対する福音派的な態度が、聖書に対する私たちの姿勢を変質させているのではないだろうか、と今思うのだ。

           教会外に外に出るうえで準備(武装)ができているように、そして、世を変える準備のために影響力を与えるようにと教えられてきた。私たち自身が最大限効果を発生するように訓練されているべきとも。

           なぜ、これが関係するのか。できる限りの聖書の知識持っていることが求められ、情報をうまく活用でき、すべてのことを知り、様々な挑戦的な疑問に対して、聖書から正しい答えをすることができるように求められているのだ。

          知らないことは悪いことではないかもね
           私に聖書を読むように計画を立ててくれるように頼まれるとき、その依頼が聖書を効果的かつ効率的に聖書を知ろうとする思いから来ていることがわかる。

           私たちはそれまで知らなかった何かに出会ったときや、聖書の中で慣れ親しんでいないことに出会った時、この種の衝動とそれに伴うレトリックは、我々を不安にし、落ち着かない気持ちにする。知っているべきことについて知らないことについて、まずいことをしてしまったように感じるかもしれない。実際、私は、つい最近、ほとんど嘆願に近い哀願として「新しいことを学ぶことは、不公正だ」というかのようなコメントを聞いたのである。そして、「わかってらっしゃるとは思いますが、私は真剣に努力してきたのです。実際に一生懸命だったんです。」

           こういう人たちは、ちょっと落ち着く必要がある。


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          ミーちゃんはーちゃんの感想
           日本語変換結果を書きながら、福音派の人々が聖書とその理解に非常に熱心である、ということは間違いないことだとは思う。「聖書66巻」の部分と「その理解」に熱心なあまり、本来見落としている部分がある、ということに気付かないほど、熱心なのでだと思うし、それだけに「自分たちは聖書を熟知している」と思い込んでいるのだろうと思う。聖書を熟知している、それは間違いではない。しかし、その前に、『自分たちの理解に沿った方法で』聖書を熟知している、のではないか、と最近は思うのだ。

          福音派の人々の熱心さとひずみの背景
           福音派の人々の熱心さというのは、本当に敬服すべきものがある。まぁ、その片隅に隠棲するものがいうのも何だが。しかし、それと同時に、聖書のある言葉も思い浮かんだのだ。「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」という表現である。つまり、福音派的な聖書理解への熱心さが、聖書本文を食い尽くしてしまって、神の領分まで気がつかないうちに踏み込んでしまったのかもしれない。ミーちゃんはーちゃんにもその黒歴史があるので、この辺の感覚はよくわかる。

          何でも聖書から持ち出せばよいという厨2病設定
           もう少しいうと、何かすべてのことについて、聖書からの一家言を持たなければならないような気になっている人々や、聖書からすべてのことが対応できるという究極のハンディマニュアルとして聖書を理解したり、あたかも聖書があれば人間が全知全能であるかのごとくふるまうその振る舞いをしてはいないだろうか。もう、こうなれば完全無敵の厨2病設定である。

           まぁ、究極のハンディ軍事マニュアルとして聖書を使う人々に関しては、以下を参照。


          聖書は人間の自分自身に対する取り扱いマニュアルであって、自動車のマニュアルでもなければ、科学の教科書でもなく、Corei7プロセッサのテクニカルマニュアルやシスコのネットワーク機器のマニュアルでないと思うのだな。Raidサーバーがダウンした時にサーバーのマニュアルやらテクニカルノートではなく、黒革金文字の本を取り出して、その本から解決策が導かれるのを待つ技術者がいたら、困るのではないだろうか。

          福音派の背景
           福音派自体が、アメリカ文化というか、科学最重要視されてきた20世紀のアメリカ文化・文明の中で形成されてきた歴史背景のなかで考えるとき、文化や文明に対して敵対的な態度をとり、護教あるいは自己正当化のため必死になって、対抗してきた部分があるように思う。その意味で、福音派は、起こられることを覚悟で言うならば、そもそもアメリカ文化の中ではサブカルチャーの一種であったといえよう。(福音派すべてがおかしいということを意味していないことを読者はよく読み取るように)その結果として、アメリカでは一応1980年ごろまでは社会の共通用語というか概念としての聖書のことばを元に対話をしようとしているうちに、聖書のことばが武器として用いられるようになったのだろうと思う。

          サブカルチャーとしての日本でのキリスト教
          日本でのキリスト教の中のサブカルチャーとしての福音派 
           現実問題として、そもそも、日本の文化の中では、キリスト教界自体がサブカルでしかないとは思う。だって、人口の1%以下でしょう。そのうえに、日本における福音派は、日本社会におけるサブカルであるキリスト教界の中で、その一部をなすという意味で、サブカルでしかないのではないだろうか。それが自分自身を必死になって聖書から理解したことを開示しようとしている、とはいえ、その行動や聖書理解を正当化するということは、社会全体からみてみれば、「ふふ〜〜ん」と鼻で笑われても仕方がない存在なのではないか。いや、「ふふ〜〜ん」と笑われるからといって、「イエスを語る(宣言する、イワンゲロー)のをやめたらいい」とは、ミーちゃんはーちゃんもキリスト教界の片隅で隠棲させてもらっている身なので、言わない。「自分はこう思う」というだけしか所詮できないのだ。

           大体、初代教会は、サブカルもサブカル、いい加減ローマ帝国もそれも超辺境扱いされたユダヤというローマの属国の中で生まれた新興宗教のサブカル集団だったのだ。

           しかし、初代教会の人々は、それでもサブカルの道を歩み、自らが目撃したイエスの十字架上での死と復活を述べ伝え続けたのだから、それは、神と共に生きる民として我々も見習うべきだと思う。しかし、それは、彼らが神の民として武闘派的にギリシア人やローマ人を論破したからでないことについても認知しておくべきであろう。

          神のことばの宣言に力があるんじゃね
           時間はかかる。気が遠くなるほどの時間がかかる。しかし、それでもローマ帝国にかなり変な形の様々なグループも形成しながらではあったけれども、まぁ定着したし、また、定着していく中で繰り返し繰り返し規模の大小は別として聖書に立ち戻ろう、聖書に帰ろうという運動がなされてきた。そして、神のことばの宣言(イワンゲリオン:福音)を語り続けてきたのである。それが最初のころの目撃者の語った文脈から多少ひずんでいたり、外れていたとしても。

          聖書の中の知らなかった人たち
           知らないことに驚く必要はない。そもそも、イザヤ書1章の中で、「来たれともに語り合おう」といったのが神ご自身であるし、ヨブ記の38章あたりで、ヨブにあなたはどこまで知っているのか、と問いかけられ、「ヨブ、あんたなんも知らないから、プッゲラ」とはされなかったのが神ではないだろうか。

          完璧な人間という不幸な想定
           ただ、困るのはねぇ。知らないことについて、知っている振りする人なんだよねぇ。知らないものは、知らないと素直に言えばいいのにさ、とミーちゃんはーちゃんは思うのだな。無理に聖書的知識を持ち出したりせず、無理な論理展開せずにさぁ。
           この背景には、近代が持っていた完璧な人間という想定があるのだと思う。そもそも、人間は完璧ではない。だから神がいるのだけどさ。完璧なら、その人間は神になるのではないかとおもう。しかし、人間には欠けがある存在、贖いのイエスを常に必要とし続ける存在という理解が大切だと思うのだ。

           ゴンビス先生に一票。こういう人たちは落ち着く必要がある。「どうどう」

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           Evangelicals & the Bible, Pt. 3
          By timgombis
          Over the last few days, I’ve been reflecting on an occasional comment I’ve heard from evangelical people.  I indicated that it comes from different angles, with different attitudes.  Sometimes it’s a complaint or something of a lament.

          Talking with people after an evening class in a local church, I’ve heard the wistful comment, “Wow, I’ve been in an evangelical church my whole life and never heard this before . . .”

          I once received an email from a student after discussing several aspects of the incarnation in class.  She wrote with gratitude but shocked me with her closing comment.  She said she felt badly about not knowing her Savior better―that she wasn’t more conversant with what the Bible said about Jesus’ humanity.

          I wrote her that we please God when we are diligent students, which implies that we are always learning and that it’s okay (and normal) that there are things we don’t know!

          Again, I think this indicates something warped about how evangelicals regard the Bible.

          I wonder if much of our evangelical rhetoric about our role in culture and an evangelical posture toward the world perverts our posture toward the Bible.

          We’re told to “get equipped” to get out there and “make an impact,” to be prepared to change the world.  We need to get trained so we can be maximally effective.

          And what does this involve?   Well, we need to get all the Bible knowledge we can, master the information, know all the facts, and be prepared to respond to various challenges with all the right answers.

          When I’ve been asked about developing a plan to get to know the Bible, I can tell that it’s often coming from an anxiety to master the Bible efficiently and effectively.

          This sort of impulse, and its accompanying rhetoric, can make us very anxious and uneasy when we find out there’s something we don’t know, or when we encounter unfamiliar material in the Bible.  We may feel guilty for not knowing what we should know.  In fact, I recently heard the comment as a lament or almost as a plea, as if learning something new was unfair.  “Look, I really am making the effort, you know!  I’m really trying!”

          Such folks need to relax.

          2013.07.10 Wednesday

          福音派と聖書 米国の場合 その3(2)

          0
             さて、引き続き、福音派と聖書について、ゴンビス先生がお書きになっておられるものの日本語変換を載せながら、少し思うところを書いてみようかと。今回はオリジナルの3つ目の投稿の後半部分から。

            この前を読まれたい方は、こちらから。

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            時間をかけて学んでいく聖書
             私のアドバイスは、聖書を時間をかけて知っていくことだ。何十年もをかけて。聖書の知識を簡単に知るために5つの段階というものはない。これまで学生には、5年間ごとに聖書の知識の増加を考えるように言ってきた。そのことを言った時、ほっとした声を聴いてきた。

              聖書を知る目的は、教会外に出て戦うための装備を身につけるためでも、影響力を与えるためでもない。

            時間をかけて
            聖書を読む目的・知る目的
              聖書を知る目的は、神をより誠実に愛することと神を知ることができるように聖書に基づく精神を育て、また、ほかの人々をより創造的に愛することができるように変容されるためである。聖書知識の目的は、良い点をより豊かにするためのものである。そして、その豊かにするプロセスは、かなりの時間をかける中でのみ起きる何かなのだ。

             学ぶというプロセスそのものが我々を変化させるのだ。だからこそ、我々は、我々がある段階に達することで、完成されたものとか、社会に出て証しをし、我々の知識を効果的にするための完全装備状態であるとか、考えるべきではないのだ。

            福音派であることと聖書
             福音派であることの美点は、聖書のテキストの前に謙虚であるということであり、必ずしも、一般のことについて、答えるための準備が完全にできているということを意味していない。

             我々は、生涯をかけて学び、探し求めるものとして、聖書の前に座り、学ぶものではないだろうか。我々が謙虚に学び、我々に生き生きと喜びをもって聖書の主張を自分自身のものとするときに、神に栄光が帰されるのだ。


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            ミーちゃんはーちゃん的感想

             前回、かなり、書きたいことは書いたのであるけれども、今回も少しだけ書いておこうかと。

            わかったふりをしないことの大切さ

             聖書は簡単にわかるものではないし、わかるものではないから、長い時間をかけて、そして、毎日思いをめぐらすものだと思う。もし、簡単にわかってしまうのだとしたら、その程度のものである、ということでしかないのだと思う。だとすれば、わかったふりをしないで、様々な理解の可能性に目を広げ、より深い理解に達することは大事ではないだろうか。

             聖書は非常に複雑な内容と表現を持った書である。聖書のことば自体はあまり変わらないが、受け取り手の側が時間の経過とともに変わるし、受け取り手である読み手が置かれた社会、経済、自然環境によって受け取られる内容が変わってくる。

            音読に聴く聖書のことば
             別の話になるが、近代になって、文字が普及した社会において、聖書の音読の伝統、音読を聴くことによる味わう伝統は消えてしまって、文字だけに頼る習慣ができてしまったのは、少し残念な気もする。いったん、文字を離れて、語られた言葉、宣言された言葉として聖書を聴く、聖書に聴く、ということは、時々でよいから、試みられても悪くないと思う。そうすることで、見えてなかったものが見えてくることもあるように思うのだ。自分以外の声で、聖書のことばを聴くことを通して。

            米国的現象としての福音派
             福音主義がその活躍の場を北米を中心とした関係で、この前の福音主義神学者についての神学者トレカ遊びでも、ドイツ人0、イギリス人2、アメリカ人14であった。もちろん、この神学者トレカ(下欄リンク参照)が米国Zondervanから発行されている、という側面はあるだろうけれども、この数字を見る限り、アメリカ固有の現象であったと思う。

             アメリカ人的なプラグマティズムと、マニュフェストディスティニーの考え方、また、回心主義が流行ったこともあり、一種の折伏的な福音伝道が行われたと思う。そして、Jesus Campに出てくる子供のように(映像はこちらから。)、だれかれ構わず、押し売りのように福音を語って、それで、よかったよかったといっている精神性があるのだと思う。この厚かましさというのか、暑苦しさというのか、押し売りみたいなところが、かなわないなぁ、と思うところである。

            まとめ
             いつしか、聖書を語ることに熱心なあまり、ク○セード(だってこれは十○軍のメタファーじゃん)戦闘的なキリスト者集団としての性格ができてしまい、本来のものと離れてしまったことをゴンビス先生は、「おれたちこのままで、大丈夫かな?」といっておられるようでもある。血の気を失った死体のような色の顔面塗装をした上で戦場に臨むスコットランド戦士(詳しくは、Braveheartで動画を検索!!)のようではなく、神の前で生き生きと生きるキリスト者でありたいとミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。



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            My advice is to get to know the Bible over time―like, over decades.  There aren’t five easy steps to Bible knowledge.  I’ve told students in the past to measure their knowledge of the Bible in 5-year increments.  And when I’ve said that, I could hear sighs of relief.


            Remember that the aim of getting to know Scripture is not to be equipped to get out there and have “impact.”


            The purpose of knowing the Bible is to develop Scripture-shaped minds so that we get to know and love God more faithfully, being transformed so that we love and serve others more creatively.  The goal of Bible knowledge is the cultivation of virtue.  And this is something that only happens over time.


            And the learning process itself transforms us, so we shouldn’t think that at some point we’ll be finished, “fully equipped” to get out there and put our knowledge to effective use.


            Evangelicals are at our best when we’re humble students before the text, not necessarily when we’re out there giving well-prepared answers to common objections.

            We sit before the Bible, then, as students-for-life, always learning, always searching.  And we honor God when we humbly learn and resolve to embody what Scripture says creatively and joyfully.
            2013.07.13 Saturday

            続 リベラルと聖書原理主義 クレジット社会アメリカの背景を踏まえて

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               アメリカにおける福音派とリベラル派の関係がこの前ちょっこし出てきたので、いろんなことを思いついたので、書いておこうかと。

               基本、この愚ログ(ブログじゃなくて、愚ログ、愚かな思いつきのログ)で取り上げる話題は、居酒屋でおっさんが管巻いている時のしゃべりと変わらないので、愚ログですから。一応ご理解を。

               アメリカという国は、基本クレジット社会である。なんでも、クレジットカードで買っちゃう人たちが多い国なのである。そして、アメリカ社会におけるこのクレジット問題(マックスアウトと呼ばれる与信枠ギリギリまでの借金、債務不履行・自己破産予備軍)を抱える人の人数は、深刻な数でており、中には、金銭教育やその指導を信徒にしている教会もあるらしい。そういや、ホーマー・シンプソン氏もアニメの世界では、中産階級の破産予備軍の一人となっている。設定上ではあるが。

              大草原の小さな家での
              クレジット社会の原型


               何でこうなるのか、ということをあまり考えてみたことはなかったが、この前福音派の歴史がらみの話を書いたときに、なんとなく大草原の小さな家の話を思い出し、そこに出てくるオルソン夫人と、インガルス家のことを思い出したときに思いついたので、書いておこうかと。

               そのヒントは、つけ払い(on my account)でしたの。on my accountというのは、口座に負債を記載するくらいの意味なんですね。

               そーいや、いまから10年くらい前に、ミーちゃんはーちゃんが住まいいたす某県の県北の農村地帯で、お年をお召しになった女性からお母さんくらいまでの皆様相手に金融自由化にかけて金融の変化と消費者ということで某機関(日銀がかんでる機関だからあんまりやばくないところ)から講演頼まれて、講演したことがある。その講演の冒頭に、その町の助役さんが挨拶していたときに、つけ払いがどうのこうのとお話になっておられるのを聞いて、そうか、農家は基本つけ払いなんだなぁ、と思ったことがあった。そりゃそうだよね。収穫は、年1回(特に日本海側での稲作では)だし、裏作やったとしても年2回。そりゃ、つけ払いになるわ。ところで、いま、日本のかなりの、特に稲作農家は、金銭収支的には、ほとんどボランティアのような形で農業をしているという大変残念な実態があったりして。笑いごとではないが。あんまりマスコミも言わないので、ちょっこし、いっておこう。

              日本の決済手段としての現金取引

               それにしても、日本では、ちょっと前までは、現金通貨としての日本銀行券での決済が異様に分厚い国なのだった。クレジットカードの普及、そして最近の電子マネーの普及で現金通貨量が減り、金融機関によるデジタル処理が中心になってきたとはいうものの、いまだに日本銀行券の信認が非常に厚い。

              キャンディから自家用ジェットまで

               ところで、話を元に戻すと、アメリカは大農業国でもあるために、信用払いがいまだに有効ですの。キャンディーやミント、飲み物一つから、大は、トラクタ・コンバイン・自家用ジェットまでつけ払いする習慣がある。

               アメリカでは、逆に個人の信用(account ちなみにアカウンタビティという言葉の語源)の方が強くて、連邦銀行券の信認が非常に薄いときている。なにせ、アメリカの空港の売店でドル札使うと、確か黄色のマーカーで偽札判定されるときている。しょうがないなぁ。スーパーKと呼ばれる某国製の紙幣が出回っているという話もあるし。

               では、アメリカの決済はどうなっているかというと、基本チェック(個人小切手)か、デビット(借方)カード、クレジットカードなのである。日本だと、企業間取引では小切手決済や手形決済が普通であるけれども、企業個人間取引では、小切手決済はほとんどない。おそらく、日本で小切手がサラリーマン家庭で使われるのは、海外に行くときにトラベラーズチェックとしてだけ、ということだと思う。米国入国時には、たとえトラベラーズチェックでも、1万ドル以上持ち込む場合には、税関での申告が必要である。もし、1万ドル以上申告せずに持ち込むと、税関で犯罪者扱いの視線を受け、根掘り葉掘り聞かれるかもしれない。

               現在でも、おそらく、個人小切手かチェックカード、またはデビットカードがアメリカの支払い手段として主流のはずである。チェックというのは、個人が個人の信用において発行する通貨に近いのだね。つまり、「つけ」なのだ。取引相手の帳簿に負債を記載しているのではなく、銀行への負債として記載した借用証書の発行をしていることと同じなのだね。

               つまり、クレジットカードとして、信用販売(クレジット)会社に負債をいったん預ける(したがって、アメリカでは通常、銀行より高い利子が付加 される)か、小切手(あるいは手形)として銀行に負債をいったん預けるかが違うだけで、信用買いがいまだに行われているという形では変わらない。アメリカ で中産階級の支払いは基本、この個人小切手か、チェックカードか、デビットカード、またはクレジットカードである。


              国家発行のつけ証文としての国債

               日本政府の国民経済(というよりは国民)に対する「つけ」が国債であり、信用証書なのだ。これを野放図に発行し続けると、借用証書としての国債の価値がなくなる(銀行保険会社等の金融機関や機関投資家間の国債を中心とした取引価格が下がることを通して、実効金利が上がる)ばかりでなく、その国家の通貨への信用そのものがなくなる。

              クレジット社会の原型としての
              西部開拓時代


               中西部でのみなさんが農業者中心だとすると、それはもう、クレジット社会になるのだね。収穫期か先物契約をしたとき以外は現金収入がないため、つけ、クレジットで取引することになる。その文化背景があるように思う。ちなみに先物取引は大阪の堂島コメ取引所が世界で最も早く歴史的に登場する取引所である、江戸時代の話だけど。神戸には、六甲山系の中の旗振り山という旗信号を使った通信拠点の一つだった山がある。

               では、銀行やクレジット会社がないところでは、だれがクレジット(信用)を発行するか、といえば商(工)業者である。大草原の小さな家で言えば、オルソン夫人や、オルソンさんのおじさんがクレジットを発行する人(与信者)となる。インガルスさんが収穫した後、支払ってくれると思うから、オルソンのおじさんは、インガルスさんに信用を与え、つけ払いで購入させるのだ。

              セブン銀行というの理の当然
               これが、商業者による信用発行である。つまり、商業者と信用取引というのか金融取引というのは、本来近いのである。手形が典型的。商社は、企業間取引において与信者になっているのと同様に、最近は、コンビニ運営会社や流通事業者が、金融事業、特に銀行業を行う事例が増えているが、これは、非常に理の当然なのだと思う。日本では、これまであまりなかったが故に違和感を持つ一般の方は多いと思うが。
               決済をする方法を販売者の方でしてしまおうということだからである。その意味で、古のヨーロッパのユダヤ系市民による親族システムの上に則った金融信用取引、古き良きアメリカの金融環境、室町から江戸期における商取引慣行が(モダンなコンピュータ活用型の大福帳システムとして)我が国に実現したようにも思う。また、それが、米国出身で日本で化けたコンビニが稼ぎ頭の会社だというのが面白い。

              リベラル派と資本家 VS 福音派と農業者
               ここ数回のゴンビス先生の記事のご紹介記事での福音派へのリベラル派への否定的視線の話をしてきたが、それ以前の記事で、東部エスタブリッシュメントと資本家、彼らが背景としたリベラル派のキリスト教信仰ということを考え、この資本家に金を借りざるを得なかった農業者、中小商工業者と、彼らのかなりの部分が持っていた福音派的信仰という話をしたが、福音派で頑固者が多かった(そうならざるを得なかった)のは、頭脳労働よりは肉体労働者が多かったことに加え、自分たちを借金や低賃金という形で、苦しめる資本家系の人々となじめず、その結果の資本家への反感を含めた、経済的に豊かな層、資本家層が多いリベラル派への反感へとつながり、それが福音派がリベラル派に負けるものか、という精神性へとつながり、より頑固にしていった部分もあるように思う。

               人は、借金をすると、借金をした人に頭が上がらなくなる。金を貸した方は何とも思っていなくても、金を借りた方はどうしても引け目を感じやすく、卑屈になりやすい。それがルサンチマンとして、福音派を形成する一部の人の中に渦巻き、金貸したち、資本家たちという印象があるリベラル派との不幸な対決姿勢になっていったと思うのだね。大変残念だが。

               そんな不幸な対立の背景が、リベラル派を支えた社会の皆さんと福音派を支えた社会の皆さんとの間にあったようにも思うのだよね。ほんとかどうかはよくわからんが、こういう部分もないわけではないように思うのだね。現代において、社会階層論で議論するのもどうか、とは思うけど。でも、影響を与えていたようにも思うけどなぁ。

               基本、神学論争上の見解の相違、という部分もあるだろうが、実は福音派とリベラル派の反目というのは、その背景にアメリカ的な社会階級闘争の宗教的焼き直しという側面もあるように思えてならない。
               

               なお、下のリンクの本には、あまりに上品で、地に足の裏をつけられないほどであるからか、残念ながらこれらのことは書かれていない。

              評価:
              価格: ¥5,040
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:福音派側から見た、福音派を中心としたアメリカの宗教史の一断面代わりと丁寧に書かれた本。再販は出ないと思うので、あるうちに手に入れておいた方がよい本。

              2013.07.17 Wednesday

              「恐怖」はお金儲けの道具になるけれども・・・

              0
                 この前、テレビを見ていたら、この時期だからかどうかは知らないけれども、お化け屋敷の話をしていた。この時期から、旧盆の8月中旬にかけては、お化け屋敷だの怪談などが取り上げられるのが日本の定番のように思われる。

                 遊園地でも、これをやるとはやるらしい。人はわざわざお金を払って、恐怖というサービスを買うという、ちょっと奇妙な現象があるようだ。ホラー映画も、この関係でいうと、流行るらしい。まぁ、人を引き付ける魅力くらいはあるようにおもう。ちなみにミーちゃんはーちゃんはホラー映画が嫌い。大嫌い。

                 そういえば、カリフォルニアにいた10年ちょっと前、ちょうど911事件のから1年たたないころ、たまたまテレビのニュースショーを見ていると、ビルから飛び降りても大丈夫なようなパラシュートを市井の発明家のおじさんらしき方が販売しているというニュースを思い出す。簡単に装着できて、安心だという売りこみであったが、デモしているのを見ていると簡単どころではなく、パニックを起こしているときにあのややこしいものを体につけるのは、いかにいっても厳しかろう、ということを思ったのであった。アメリカでは強盗除けのシェルターやら個人用の核シェルターに至るまで、様々な恐怖に対抗というのか、対応しようとする商品はやたらとあったような気がする。

                 しかし、お化け屋敷にしても、ホラー映画にしても、また、せまりくる危険と呼ばれるものにしても、恐怖は人の関心の焦点となりやすい。そして、自分だけ、恐怖の原因から逃れられているという妙な安心感が、「恐怖から逃れられる自分(と自分たち)とほかの人」という構造を生み出すからかもしれない。そして、ちょっぴり助かったという感じというか優越感というのか、何かちょっとだけでも特別な存在と感じられる、というようなこともあるのだろう。

                 恐怖に自分の愛する者、知り合いが巻き込まれてほしくない、というのは、人の自然な感情だろうとも思う。自分が嫌なものには、自分の知り合いもそのいやなものに巻き込まれて欲しくない、というのも自然な感情だろうと思う。そこが、神への信仰、イエスへの信仰の出発点になるのも悪くはないとは思う。

                 問題なのは、その出発点の理解のみが焦点となり、それ以外の本来豊かにあるものが見えなくなり、その焦点となった理解だけで自分自身の信仰を塗りつぶしてしまいかねない点だと思う。同じようなメッセージを繰り返し、繰り返し聴くことで。話すほうは、受けがいい(多くの人が聞いてくれていると思う)と同じ話を無意識に繰り返し繰り返してしまいかねない部分があるし。

                 苦難とともに神を味わい、不幸も不安もともに神と味わい、その中でも自らとともにおられる神を味わうという神の国を体験していくこと、つまり、神の国がこの地上で自分自身と、神とともに生きるすべての人に来ているという福音を味わうことが、福音なのかもしれないなぁ、と素朴に思う。

                2013.07.20 Saturday

                替え歌シリーズ 第3弾 時には昔の話をしよう イエスとその弟子バージョン

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                   最近、またジブリの新作が公開されるということなので、あちこちでジブリ作品の話が話題になっている。個人的にはジブリ作品には好きな作品がいくつかあるが、「紅の豚」は、ミーちゃんはーちゃんが最も好きな作品の一つである。その背景には、ミーちゃんはーちゃんがまごうことなき飛行機ヲタクであるという理由もある。

                  『紅の豚』の背景

                   空と人が近かった時代、ノスタルジックでよろしい。しかし、確実に悲惨さを背負った時代でもあった。

                   当時のヨーロッパには不幸があり、労働者は賃金や雇用条件に不満を持ち、社会は慢性的に不安定、数週間でカタがつくとだれもが思ってた第1次世界大戦は延々と続き、塹壕戦の結果、兵士は慢性的に泥まみれ、悲惨な化学兵器(化学ガス兵器も実戦投入された)や巨大な砲弾、新型兵器と呼ばれた大量破壊兵器などによるそれまで経験したことのないほどの傷病兵が大量に母国に送り返された戦争でもあった。また、PTSD 患者が大量に出る。そういう近代戦の悲惨な状況をヨーロッパが体験的に知った時代でもある。

                  そして第2次世界大戦へ

                   しかし、その厳しさを忘れて、ドイツとフランスは資源獲得戦争、植民地獲得戦争を始めてしまう。そして、日本は資源獲得のために満州国を作り始める。その時代の直前の話である。

                   ところで、「紅の豚」で使われていた加藤登紀子嬢の歌「時には昔の話を」を何気なく聴いていたら、不謹慎にも、ある替え歌を思いついてしまった。聞きながら、イエスと弟子たちの時代を思ってしまったので、ちょっと書いておこうかと。

                  加藤登紀子嬢の歌を聞きながら、文字を追ってもらえればと思う。


                   時には昔の話を
                  (イエスとその弟子エマオの途上 バージョン)

                  替え歌:みーちゃんはーちゃん 作曲:加藤登紀子

                  時には昔の話をしようか
                  通いなれた なじみのあの井戸
                  ナツメヤシ並木が窓辺に見えてた
                  イエスに聞くだけで一日
                  見えない明日をむやみにさがして
                  だれもが希望を託した

                  揺れていた時代の熱い風に吹かれて
                  体中で神を感じた イエスだね

                  みちばたでねむったこともあったね
                  麦の穂をバリバリ みんなで
                  お金はなくても 何とか生きてた
                  アドナイが明日を運んだ
                  ペテロの漁師屋に幾人も押しかけ
                  朝までしゃべって眠った

                  嵐のように毎日が燃えていた
                  息が切れるまで走った イエスだね

                  唯一残ったうわさをおききよ
                  うわさの話題はかれだね
                  どこにいるのか今ではわからない
                  弟子達もいく人かいたけど
                  福音のすべてがむなしいものだと
                  それは誰にも言えない

                  今でも同じように豊かな福音語って
                  走り続けているよね どこでも

                  原曲も好きなので、リスペクトの証拠としてご紹介しておこうかと。

                  元歌詞はこちらをご覧いただきたい。

                  http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND14428/index.html

                  YouTubeでの動画はこちらを
                  http://www.youtube.com/watch?v=rIePRLjn8gs


                  今年は、この種の替え歌を、軽井沢のキャンプ場でちょっこしご披露しようかと。
                  2013.07.20 Saturday

                  明日は選挙だからだったのか・・・

                  0
                     昨日、ちょっとブログのアクセス見てたら、予想外の古い記事が結構、アクセス数が多いので、ちょっとびっくりした。

                    アクセス数が多いのが、

                     アメリカ大統領選挙も終わったことだし

                    という記事であった。何で、多いのか、とよく考えてみたら、明日参議院議員の投票日だからかもしれない。
                     この記事の大半は、まぁどうでもいい与太話とよもやま話なのだが、自分でもう一度読み直してみて、最後の部分は、大事だと思う部分があるので、少し再掲しておこう。

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                     政治家は、平和を希求し平和に言及するが、平和をもたらすものとは限らない。それは、彼らが神ではなく、人であるからだ。所詮人であるものに神と等しい倫理や神とおなじことを求めるのは、どだい無理だろう。それこそ、偶像崇拝であり、皇帝崇拝と同じだと、思う。そこを分かったうえで、どうリアルな社会の現実と取り組んでいくのかが重要なんじゃなかろうか。

                     誰しも、自分の信念システムを大事にしたいのは、わかる。それは大事にすればよいと思う。しかし、それに惑わされて、政治のリアリティを忘れてはならん、自己の信念システム(faith system)にこだわるあまり、自己の信念に惑わされて、政治のリアリティを見失ってはならん、と個人的に思うのだが。

                     政治のリアリティは、できるだけ公正で、できるだけ多くの人の幸福を求めることではなかろうか。政治家個人が、モルモン教徒であろうと、キリスト教徒だろうと、ユダヤ教徒だろうと、それは政治のリアリティからいうと、あまり関係ないのではないだろうか。投票することで政治にかかわるということは、自分自身の幸せと他人の幸福を決める行為である、ということを忘れてはなるまい。そして、それぞれがおかれた場で、そのための投票という行為を通して発言すべきことを。

                     自分たちの思い通りの候補に今回ならないからといって、失望する必要もないし、落胆したり、嘆いたりする必要もないだろう。それよりは、現実のリアリティをどう変えていくのか、そのために、どう考えるのか、手じかなところから始めることが重要ではないだろうか。そして、考えることが。

                    --------------------------------

                     まともな候補(あるいは政党)がない、という印象をお持ちの方も少なくなく、選挙に行く気がしないという方も少なくないかもしれないけれども、しょせん選挙とは、悪いものから最悪でないものを選ぶしかない(そもそも完璧な候補や政党などは存在しない)のだから、せっかく選挙権が与えられているのなら、手近なところで、手近な候補者から、比較してみてだれに投票するか、ということを少しでも悩んでみる、少し考えてみる、その過程で一人の市民としてどう考えるのか、投票用紙を使ってどう発言するのか、ということを考えてみるだけでもよいと思うのだけれども。

                     明日はだれに投票するかよくお考えになってから、選挙に行っていただけたら、と思う。


                    2013.07.22 Monday

                    NHK ETV こころの時代 内村鑑三 第4回「真理と寛容」視聴記

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                       今週も、NHK ETV のこころの時代 内村鑑三のシリーズ第4回「真理と寛容」を見たのであるが、なかなか良かったので視聴ノートを公開しようかなぁ、と。今回も無意味に長いです。ほぼ、発言の通りを拾っているはずなので。

                       なお、今週末、2013年7月27日(土曜日)にEテレで午後1時から再放送の予定。

                      無教会の興り
                       内村は東京独立雑誌を廃刊後、夏期講談会を開始し、そしてのちの聖書研究会、聖書講義に若者が集まりはじめる。そして、1901年雑誌「無教会」を発行し始める。その発刊意図は、「一人で教会にも行けないキリスト者のための雑誌、寄る辺のないものの教会」としての無教会であった。
                       破壊主義でない無教会であり、無教会派の無は、「無視」や「無にする」という意味での「無」ではない。少女と老人の友になりたい、教派的な理解に関係なく、こころの中を探るものを通して無教会という大教会を作りたい、ということであった。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想
                       老人や少女の友になりたいというあたりがナイーブな内村先生らしくって素敵ですなぁ。まぁ、本来、お一人様キリスト教徒のための運動としての無教会だったんですね。今も昔も変わらないんですね。まぁ、従来の枠組みにとらわれてない教会づくり、ってことなんだと理解しました。枠は便利なものだけど、枠だけにとらわれたんでは仕方ないよね、ってところなんでしょう。

                      無教会の原点
                       無教会の原点は、札幌農学校にクラークの影響を強く受け、学校の中でも、キリスト教の集会(牧師なし)がもたれた。当時の札幌は、片田舎だった札幌であり、宣教師も文化も新しいものは函館からやってくるのが札幌だった。宣教師も月1回函館から来るという状態であり、生徒が自分たちだけでやっていた札幌で、説教壇も何かの廃物利用で、説教なんかも自分たちでやっていたらしい。まさに、原始キリスト教に近い集まりをしていた。これが原点じゃないか。
                       純粋なものとしての思いがあると同時に、現実に直面した時の最大の疑問が生じる。それは、学生たちが卒業して教派の集会に出ていくことになったときに、札幌農学校の時一つだったものが割かれることだった。教派が囲い込んじゃうのがどうも具合が悪い。信じる者は一つなのに、どうして分派するのか。教派に関係ない教会を作る、ということになり、今の単立教会のような形で、札幌の地に作った札幌教会であり、信徒主義の教会が形成される。サクラメントの儀式の中で重要とする洗礼とか聖餐の執行ができる宣教師がない。でも、それを強行し、そして、それが、既存の教会から大問題視されたところが無教会の原点ではなかったろうか。当時の函館にあったのは、聖公会とメソジスト教会らしい。

                       そして内村が、アメリカ行ったら、もっといっぱい教派があって、まぁいろいろある。ユニテリアン(奇跡、キリストの復活とか神とは認めない合理主義に徹していた教派)や、スウェーデンボルグ主義、クエーカー主義(内なる光。自主的に信者が集まってきて聖書について話をするグループ、新渡戸先生がこれにのちに関与する)などと出会う。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想
                       しかし、本来的なキリストのからだとしての教会が一つのはずなのに、なぜわかれるのか、怪しからん、というのが無教会の出発だったわけね。この辺、ブラザレン運動の出発点とも共通しているし、一種の内村の生きた時代のロマン主義の影響もちょっと考えておいた方がいいかもしれない。何、無教会運動が、ブラザレンの影響受けてるなんて言いません。内村が米国に行ったあとの札幌独立教会と英国で始まったブラザレン運動が時期的にもモティベーションが似てるってだけの話で。ただ、その背景には、啓蒙主義と19世紀的なロマン主義があるように思うのだなぁ。これが。

                      なぜ内村が、無教会に踏み出したのか
                       日本に帰ってきてしばらくして一高での不敬事件が起きる。不敬事件に際して対峙した近代日本という国家像(黒い雲見たいに現われてきた近代の大日本帝国)と対峙する。そして、その中で、体制に寄り添っていった日本人の宗教としての仏教、国家神道なども内村を攻撃していくらしい。(この辺が二つのJとか言っていた内村を苦しめたのだろう)

                       日本のキリスト教が西欧化の中で、キリスト教が歓迎され始めた時期に不敬事件が起きたことで、せっかくいいイメージに転換したキリスト教を逆コースにしたとの日本キリスト教界からかなりの批判を浴びることになる。そして、現実に日本の教会も近代国家大日本帝国の中でしだいに変質していく、実際に、○○男爵だの、○○侯爵夫人などのセレブが来ていることを誇る日本の教会の牧師がいたり、同時に教会と労働者の問題があり、ある牧師は、あるインタビューで「資本家によって成り立っている教会であることもあり、労働者は来てほしくない。」と言ったという話もあった。
                       貧しい人々とほぼ同義語であった労働者は、教会に行くことができない状況であった。現実に存在したそういう人々、教会におられない人々が多くいたという現実の存在があり、現実の日本のキリスト教界の教会に行きたくても行けない人が多数いる状況で無教会の必要を認めたことから、内村の無教会主義が始まっているのではないか。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想
                       しかし、貧しい奴らは来るなという体質。どうなんでしょうね。聖書理解として。でも、これも、類似の状況が当時のイギリスにもあったらしく、そのことに反発を覚えた人々は、勝手連的に孤児院を作ったりしていく。Faith Missionという概念に乗って。それがGeorge Mullerにつながり、ハドソン・テイラーにつながり、中国インランドミッションにつながり、後のOMFにつながっていく。
                       さすがに今は、貧乏人お断りの教会はないと思うが、当時って身分社会である江戸時代の残渣が残る時代であっただけに、結構あったのだろうということは想像に難くない。そういう意味で言うと、同信会の基礎を生んだブラントさんたちの運動が当時において画期的であったことは想像に難くない。

                      教派の違いを超えた宗教的寛容

                       内村が真理観を考えたある出会いが、エルウィンの擁護院での経験であって、カーリン夫妻とその孤児院で出会いである。カーリン夫人は、ユニテリアン派なのだけれども、日本に帰国した内村へのクリスマスプレゼントを贈り続けたらしい。異端視されていたユニテリアンのカーリン夫人が、日本から来た見ず知らずの貧しい青年内村を世話したことで、内村のユニテリアンへの偏見への反省へとつながっていく。不敬事件の直後の最悪の時にもカーリン夫人から届けられたクリスマスプレゼントからかなり励まされたらしく、正統主義や真理は一つとかへの疑問へとつながる。真理は多様にみえるのであり、わかる真理はその一端にしか過ぎないという思想を作り上げていく。

                       真の寛容は、自分自身の信仰にゆるぎない確信を持ちつつも、他者を受け入れていく寛容であり、それが平和の源泉であるというふうに考えていただろう。

                       レッシング(ドイツ)の啓蒙哲学者のことばを引用している内村の文章があり、その引用の概要はこんなものだったらしい。「もしもカミが右手に真理を、左手に耐えることがなき迷いがあるにせよ真理を求める心を提示されたとしたら、耐えることのなき迷いがありつつも、真理を求める心を神に願う。」このようなG.E.レッシングの思想にひかれた内村がいたようである。右手を選ぶこと(真理を持つこと)は、神の座を簒奪することになる。自己神化へとつながる。

                       お雇い外国人のケーベルがレッシングの真理観を広めたようで、この東大のケーベル先生を内村は高く評価していたらしい。

                       絶対的なものでない真理。絶対的な真理は人間は持ちえず、その一部をもつのみである。そして、ニュートンの表現を引用して、自分は大きな一部の真理をもちえているにすぎない。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想
                       内村先生御意。禿同。我々は真理を持っている、とご主張の向きもあるが、それって、自分たちないし自分が神になっている、ってことなんだねぇ。なるほど。 

                      内村先生の楕円での真理理解と寛容
                       真理とはどのようなものと考えていたのか。唯一の中心を持つ真円ではなく、楕円のようなものではないか。真理は、2個の中心をもつ楕円形だろう。人は円形を欲するが自然は楕円形で形成されているのではないだろうか。この話が、「楕円形の話」という文章の中で描かれている。
                       この理解は、考えたうえで得たものというよりはむしろ、実生活から得たものではないか。具体例の中で考えた内村がいたようだ。
                       自己のこころの在り方を見ると楕円の思想になる。なぜなら、信仰における自分と他者の関係が存在するからであり、完全なる信仰は円ではなく楕円。自己と他者を中心とするのが、完全な信仰ではないだろうか。
                       「人類の救拯」という文章の中で、内村は、「信仰は楕円。自己も中心、他もまた中心ということを言っており、他者の救いもなければ、自己の救いもないのではないか。二つの中心は関係性のあるつながっている中心」という理解である。また、愛と義についても楕円であるととらえていたらしい。慈愛と審判という形でとらえている。それが一体としてひとつであると考えられる。義だけれであれば、簡単。愛であるのもまた簡単。宗教が難しいのはこの二つがあるから、ということなのではないか。
                       義と愛の両方が必要で、慈愛(他者のことを考える)も大切だろう。キリシタンは、愛という語に御大切(ごたいせつ)とあてたが、近代の日本語訳の愛という語よりは、本来の意味により近いと理解できよう。
                       自分自身を責めること、克服することが義と理解していたがどうもそうではないのではないか。要するに愛と義のバランスの問題の中で行われるのがキリスト教だという理解であろう。

                       無教会と教会が楕円形の二つ焦点であり、そもそも、無教会(一つの体としての教会)自体が楕円であり、地上に存在する運動としての無教会と地上に存在する運動体としての教会を含む無教会の楕円だという理解ではないだろうか。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                       まぁ、この楕円というたとえは面白いたとえだと思った。ある面、信仰共同体という側面を実際にやってみて考えた内村先生らしい表現だったようだ。中心というよりは焦点を一つに無理やりしてしまうキリスト教徒の問題なのだろうと思う。そして、焦点を一つに無理やりにしてしまっていたキリスト教徒の皆さんに「他者として、異分子として」排除されてきた内村先生ならではの、表現だと思う。
                       要するに「無教会」は、キリストの体という、様々な教会の集合体の総称のことを言いたかったのだろう。それを「無教会」とかいうから誤解を生んだし、のちに極端な理解を生んだのだろう。

                      無教会に内村が至るサクラメントの位置づけ

                       教会の破壊と生ける教会の建築だと「無教会主義の前進」であると内村はいっている。作っては壊し、壊しては作るのが教会だろう。ルターの宗教改革でも、必ずどこかでこれまであるものをつぶさないといけないと理解しているようである。絶えざる要求としての改革であり、その改革の結果としての無教会であるだろう。
                       こんな話をする内村も揺れていたが聞く方はもっと揺れただろう。
                       無教会運動に傾倒していく経過に、無資格者とされた信徒によるサクラメントの実施がある。洗礼、聖餐がプロテスタントにおけるサクラメントであるが、カトリックはサクラメント7つある。その両方とも、必ずしも必要なものと内村は、認めてない。「洗礼がいるなら、夕立に飛び込め、聖餐したいなら、野葡萄のしるしぼって飲んだらいい」といっている。
                       この背景に札幌教会が苦しい経験をしたことがあるだろう。大島さんという牧師のような役割をした人が、無資格者であったが洗礼をしてしまったために、既存教会から抗議と批判が起きた。その結果、大島は、牧師の前での試験を受けて、資格を取りに行った。この件に関して、有島武雄が内村のところに聞きに来た。その結果、生まれたのが、洗礼聖餐廃止論であり、聖餐も必ず必要なものと内村はみてない。
                       しかし、実質的な洗礼や聖餐はやるべきである、といっている。札幌独立教会では、内村が洗礼をしている。これを当時の教会は、受け入れがたいものがあったのではないだろうか。
                       実際、YMCAが作った東京基督教青年会館での講演をしていたが、キリスト教界側から排撃を受ける形で、講演の場が失われる。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                       ミーちゃんはーちゃんがいる教会では、無資格者によって聖餐、バプテスマを授ける平信徒主義に立つので、無資格で、仮免許も持たずこれらの聖餐やバプティスマを行ってきたし、今も行っている。いまだに無資格者が説教している。ある面でかなり無茶をしてきている。まぁ、たいていのことはそれで何とかなっているので、そのままである。その意味で、無教会的なのだ。
                       内村先生が目立たなければ、こういうアンダーグラウンドな動きは何とも言われなかったろうに、とは思う。うちは、あんまり目立ってないので、目くじらは立てられていないように思う。
                       また、「洗礼聖餐廃止論」を唱えながらも、洗礼したり、聖餐してみたりするから、余計に周りは訳が分からないだろうし、説明を求めても、そんなもの面倒なので、噛んで含めるように説明もしなかったのが内村先生なのかもしれない。まぁ、ちゃんと著作を読めば、その意図は取れるはずだ、それを読んでくれ、というのはその通りだと思う。

                      超教派を目指していたのかもしれない無教会

                       人生の終わりのころに書かれた、「教会の方々に申す」という文章の中で、教会の人々にお互いに敬意をもって、相互に受け入れ会おうではないか、といっている。
                       内村の聖書研究会のメンバーからは教会関係者が開催している全国平信徒修養会へ行った内村に、抗議があったらしい。その意味で、カチカチの無教会という過激派の存在があったらしい。

                       また、社会問題として、なぜ、秀才が内村の聖書研究会に行くのか、みたいなことが問題になり、新聞記事になった。官僚がなぜ氏素性のわからない内村が主宰する聖書研究会の伝道者になるのかが新聞種になったらしい。そのうちの優秀な人物の一人に、塚本虎二がいて、内村の後継者になるのではないか、と目され、強硬な無教会主義を強調していた。

                       塚本は、「内村先生の付箋つき無教会論(聖書知識5号)」の中で、内村が塚本に、以下の内容が付箋としてつけられて帰ってきた記事の中での内村の注記が紹介されていた。

                       全部の教会が敵ではない。
                       教会の友となって
                       無教会主義を第2問題として扱ってきた。

                       牧師の間にも内村の雑誌を読んでいることを知っていた内村が過激な弟子塚本をたしなめたようだ。

                       無教会主義は、信仰のための主義であり、人が救われるのは、信仰の帰結による。罪の悔い改めのあるものは、受け入れた。無教会主義は、教会攻撃のための主義ではなく、信仰唱道のための主義であり、十字架が第一主義であって、無教会は第2、第3主義であった。という趣旨を書いた文章があるらしい。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                       主義、というのではなく運動、って言った方が良かったかもしれないし、無教会という名前が誤解を生んだのかと思った。しかし、無教会でもがちがちの無教会原理主義者という過激派を生んだし、その過激派が、当初の主唱者の意図を超え、主唱者の意図とずれかねない話を広げていくのは、いずこも同じだし、歴史は繰り返されているように思う。キリスト教界がこの2000年繰り返したことを日本でも繰り返したのだろう。その意味で、キリスト者が歴史を知り、歴史観を持ち、広めの歴史観に立って、自派を冷静に、そして冷徹に見つめていくことは重要なのだと思う。 

                      晩年、十字架教を目指した内村の無教会主義

                       晩年、内村は、無教会主義というのをやめて、十字架主義とか十字架教と言っている。イエスの十字架の業を信じる信仰であり、人生における失敗者の信仰であるといっている。自分の力で正しいものになろうということには失敗したが、失敗者のために与えられたのは、キリストが十字架にかかって死んだ意味だと理解したことの反映だろう。

                       道徳的な自己努力に失敗したものの宗教が十字架教であり、敗者、失敗者、弱者のためのイエスであるという主張である。忘れられた佐幕藩のお武家さん崩れ、田舎のアーマストで学び、不敬事件を起こした内村は、在野の道で生きていく視点を持ったし、また、それが無教会主義の精神につながっていくのだろう。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                       内村先生も神経症的なキリスト教徒であった自分を反省し、自己を見つめるのではなく、神を見つめ、神と人の和解がそこで成立した十字架を見つめ、そして、そこに神を見るべきだというのがどうも晩年の内村先生の思想らしい。まぁ、結局原点回帰をしたんだよなぁ。

                      引いてみることの大切さについて
                       中心から遠いところにいて見えてきた真理を見ている内村がいるような感じがする。楕円のもう一つの極を見る視点、ちょっと引いてみていく視点の重要性をいっている。
                       多元主義とか安易に言うべきではなく、内村自身は抑えるところはきちんとしている。あるところでしっかりしながら、複眼である思想を説いたのではないか。個を確立しながら他者を受け入れていく複眼、自己を確立しながら多元を説いたと思われる。

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                       実は今回の「こころの時代」での1時間の中で、一番、気に入ったのは、この最後の部分なのだった。要するに、自分自身の確固たる理解の確立をめざしつつ、相手への尊敬をもって相手に接し、そして完成されたものとしての自己ではなく、自己の確固たる理解の一層の確立、充実を目指すものとしての自己を考えたうえで他者と接するのは、傾聴の思想にもつながるし、共同体としての教会理解につながるのだなぁ、と改めて確認しつつ、禿同と叫びそうになった。


                      次回、死者との対話が内村にもたらしたもの。ということについてだそうです。

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