Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(2)
この部分の核心は、以下に引用する部分だろう。我々は、社会に役に立つとか立たない とか、本来イエスが言わなかった価値観に対してあまりにも縛られすぎているのかもしれない。事実、ミーちゃんはーちゃんはそうであった。
「役に立たない」こと、つまりそれ自体のためになされることが非常に大切で、死活問題ともいえる理由がここにある。「役に立たないこと」こそが、人生の最 大目的なのだ。もちろん、それは遊びだけではない。私たちが神を礼拝するのに礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく時を過ごすのは、それ自体が 楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何か別の目的達成に役立つからではない。(中略)ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関係しているのがわかるだろう。信仰が必要なのは、休みだけではない。遊びにも信仰がいるのだ。遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。(p.127)
恐らく、ニクソン政権のころが始まりだと思うが、いつのころからか、アメリカ合衆国では宗教的指導者たちが、政治的指導者たちを祈りにより支援するため、と言いながら、具体的政策(特に外交政策)に容喙していると取られかねない言動をとってきたことが、以前のブログポストにも触れた、「核戦争を待望する人々」や「神の国アメリカの論理」という本でも触れられている。それも、いとも安易に容喙していく姿を。そのことに対し て、マーシャルさんは、次のように述べていると思う。
クリスチャンが政治にかかわろうとするとき、何が大切なのだろう?それは「人間が責任をもって下す判断」といえる。旧約聖書の律法や新約の原則を持ってき て、それを、当時とはかけ離れた今の状況にそのまま法律として当てはめる、といった単純なことではない。(p.158)
現代の十字軍
ほとんどの政治上の問題は、聖書を数か所引用すれば解決できるような者ではない。したがって私たちは、政治的な勤めの全体像と、政府の正しい役割を常に話し合うべきである。同時にどのように政治にかかわるかという姿勢にも注意を払わなければならない。だが、残念なことに、クリスチャンが政治にかかわる方法は、大義名分をかざして「悪者」に攻撃を仕掛ける「十字軍」方式が多い。この方法にはいくつもの欠点がある。(以下略 (p.163)
政治にかかわらなくても、他人の人生にかかわる場合でも、「十字軍」方式というのはあるかもしれない。この十字軍方式をとる場合、メサコン一本行っちゃった疑惑のある人(この防止法は、こちら)になっちゃうかも、である。
ファッションについて、マーシャルさんは次のようにおっしゃっている。
ここで一番大切なのは、聖書の精神を見極めることだ。これ見よがしに派手なのでもなければ、着られればよいというさえないものでもない。私たちの生き方、 身づくろい、服の生地や色、形を通して、神の作られた世界の豊かさを祝い、神が与えてくださった想像力を表現し対応あふれるばかりの思いを外に表わす。それが私たちのファッションなのだ。だから、クリスチャンのファッションへの姿勢というのは、浪費的でもなければ、しみったれたものでもない。 (p.178)
確かに、テモテへの手紙でパウロ先生は、着飾る(小林幸子嬢の紅白衣装する 写真はこちら)ことに対しては、苦言を呈しておられるが、要は、限度問題なのではないだろうか。そもそも、日本語で着飾ると訳されている言葉のギリシア語の語源は、コスメティクス(お化粧品)の語源でもあるけれども、そのギリシア語のさらにその語源は、コスモス(宇宙、秩序)に由来することを考えれてみられよ。そも、神はコスモス(宇宙)を秩序だって美しく作られたことすら、よろしくないことになるのではないかな。神が「よい」との宣ひ給ふたにも関わらず。
また、食べ物に関しても、マーシャルさんはすごい。うまいものは悪くはない、「うまいもんはうまい」(これは関西の焼き肉チェーンのCF 動画はこちら。)ということをおっしゃっておられる。ミーちゃんはーちゃんは大学生のころ、所持金が40円だったことがあり、10円で売っている食パ ンの切れ端と水で一夜を過ごしたことがあるが、二度としたくない黒歴史である。過食や過度に過ぎ、食物を無駄にすることや、美食に心奪われるのは問題(これは偶像崇拝)だが、神が与え給ひし食物を過度に無視するのもどうかと思う。
服が、ただ身体を覆うだけのものでないよう に、食べ物も、ただ腹を満すだけのものではない。十分に食べ物があるなら人はおのずとおいしい料理を求め、その歯ざわり味、色合い、香りを楽しむ。料理は 私たちに喜びを与えてくれる。そのような料理には、技術だけでなく、イマジネーションが求められる。(p.179)
食事をおいしく作るのも才能の一つである。また、イエスは、その才能、そして食事をあえて楽しまれたがゆえに、「大酒のみの食いしん坊」とパリサイ派の皆さんからは非難ごうごうで非難と浴びたのではないだろうか。違うかなぁ。結構、福音書を見ていると、食べているシーンが出てくる。食事の重要性を福音書記者は知っていたのではないだろうか。
そういえば、以前のブログ記事(リンクはこちら 最後の方に出てくる)で触れたA Holy Mealは聖餐式論を考える意味でも重要だし、また、食事におけるクオリティの問題を問うた書であるが、日本では、この本は出せないよなぁ。絶対。おっかない皆さんから、聖書の誤読だ、と怒られそうだし。
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評価:
越智 道雄,グレース ハルセル,Grace Halsell 朝日新聞社 --- (1989-09) コメント:アメリカ政府とキリスト教界の関係者に関するルポは、見ておいた方がよいかも。 |
Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(3)
ミーちゃんはーちゃんは工学部崩れなので、テクノロジーにはいまだに愛着と憧憬と気持ちが残っていることは認める。プログラムの開発を必要に応じてすることもあるし、仕事もそれに関係した方ではある。ガジェットも嫌いな方ではない。しかし、 初物買いするためにヨドバシやアッ○ルストアなどには絶対に並ばない。大体、初期不良は機械ものにはつきものなので、初物よりは、少し時間がたったものを 買う方がよいのは、この業界の常識といってよい。
しかし、キリスト教会にはテクノロジー嫌いの方も多い。特に、コンピュータは悪魔の道具、かつ てミーちゃんはーちゃんがブログなどしていると、666扱いに近い表現でミーちゃんはーちゃんのことを表現された方もおられる。まぁ、このブログをお読みの方にはおられないだろうが。教会 内でコンピュータを使うなどはもってのほか、という方もおられる。
まぁ、嫌いなものは嫌いで仕方がない。かくいうミーちゃんはーちゃんも爬虫類が嫌いで ある。しかし、自分が嫌いだからと言って、聖書の箇所を何か所か引用して、好きな人の権利を奪うこともないとは思うのだが。そういうことをすることは、出エジプト記を引用し て、カエル絶滅計画を立案しかけたミーちゃんはーちゃんの黒歴史並みである。
テクノロジーには、発展と破壊、祝福と呪いの両面がある。今この本を読んでくださっている方々は、小作農の身分にはないだろう。現代では労働時間はますます短縮され、人生の選択肢も増えた。同時に社会は巨大になり、人々は阻害され、いま世界が向っている方向が本当に正しいものかどうかさえ確信を持てないの が現状だ。だからと言って、今まで気づきあげてきた技術や作ってきた機械を捨て去ることができると考えるのは幻想でしかない。(中略)テクノロジーを非難 する人々の多くは、本気で昔の生活に戻るつもりはない。テクノロジーがもたらしてくれる恩恵にどっぷりつかりながら、非難しているのに過ぎないのだ。 (p.186)
テクノロジーは正しく使うならば、神からのたまものである。(p.188)
そして、アメリカでは、ホームレスが量産される社会になっていった側面があるのも確か。なかなか報道されないが、実は、アメリカ合衆国の社会では、この ホームレスの問題は、非常に深刻なのだ。住んでいた経験があるものとして、必ずしも望ましい結果ばかりがアメリカで生まれているのでないことは覚えておくべきであろう。
「証し」は生活の目的ではなく、結果
もっと深刻なのは、クリスチャンとは、周りの人を一人の人間とみて接することをしない人種だと思われることだ。実際、多くのノンクリスチャンは、福音派の クリスチャンを疫病神のように避ける。クリスチャンに捕まって長話を聞かされ、個人伝道され、逃げられない囚われの身となるのが嫌なのだ。 (pp.226-227)
福音の再発見をみると、昔1970年代初頭にマクナイト先生も教会の執事と一緒にこれをやったらしい。マク ナイト先生が個人伝道と称する訪問伝道したお相手のオジサマは、とりあえず、若かりし頃のマクナイト先生と長老の前で、「形だけの回心」を口にして、体よ くマクナイト先生と長老を追っ払ったのだが・・・この相手を追い詰めるような伝道方法について、バルト先生は、脅迫だ、といったとか言わないと か・・・・。
リトル・ランボーズ(http://rambows.jp /main/の中のTrailersをクリック。全編見たい方は、レンタルDVDをお借りくださるかお求め下され。)に出てくる福音派の人たちにとっては、映画というのは、悪魔の道具らしいので基本、映画もなければテレビ のない生活も送っていらっしゃる。その信仰はその信仰で尊重するが、それを他者に当てはめないでほしいとはミーちゃんはーちゃんは思う。
クリスチャンは、直接的で大上段に構えるのが好きで、伝えたい内容をはっきりと誤解の余地なく相手にわからせたがる。間接的で、思わせぶりで、暗示的で、 あいまいなものには耐えられない。だらだらと、それとなく伝えるのではなく、ズバリ語りたいのだ。そこで、私たちは映像から遠ざかることになる。その結果私たちは、20世紀最大の伝達手段から身を引いてしまった。パウロは墓の中で嘆いていることだろう。彼は伝道旅行中、話し、書くという、当時では最も効果的なコミュニケーションの手段を用いた。(p.233)
ここで、マーシャル先生は、すばり語りたいのだ、とおっしゃっておられるが、これは、聖書の言葉通り、一言一句過たず引用し、一言一句その通り、語ることと関係していると思う。つまり、物語としての解釈とは、嫌いな方が多いのであろう。物語で語るNTライト先生が一部のキリスト者にディスリスぺクトされるのは、このあたりの聖書の言葉通り、という概念と結びついているのかもしれない、と思われる。
しかし、「パウロは墓の中で嘆いていることだろう。」って、これ、ラウシェンブッシュ先生も、本の中で書いてたよな。あまりに自分が言ったことと、言おうとしたことと、現状がかなり違っている、という。
本書の最後の部分で、このような部分がある。素朴な信仰は素朴な信仰で尊いと思うが、あまりに単純化しすぎて、聖書の表現を切り貼りし、自分の言いたいことに合わせて引用することはどうも間違いであると思うのだが、適当にお好きな聖書の場所をコンテキストを全く無視して引用される方もおられる。そういう方について、マーシャルさんは次のようにお話ししておられる。
キリスト教の原則は、魔法の公式ではない。いつも、簡単で、明確で、単純な解決法を与えてくれるわけではない。それらは、私たちが神の御前でこの世界の世話をするという責任の指針となるものである。だから、私たちは、達成すべき目標を探すのではなく、物事をとどのようになしていくのか、という姿勢を理解する必要がある。(p.270)
し、しかしである。この本を読んだ時、ミーちゃんはーちゃんは、律法学者とイエスの対話を思い出したのである。律法学者が、最も大切な教えとは何か、と問うた時にイエスは、「聞け、イスラエルよ」ではじまる「あなたの神を愛せ」とレビ記の中にある「あなたの隣人をあなた自身のように愛せ」という言葉である。当時の律法学者がしていたのは、まさしく、この表面的な魔法の公式的あてはめであり、それに対して、ナザレのイエスは「聖書の精神、聖書の姿勢を考えよ」とおっしゃったのだろうと思う。しかし、それから2000年前後たった我々はまた、律法学者的な魔法の公式的聖書理解をしていないだろうか。反省すべきかもしれない。
と今回まで、全3回にわたってご紹介してきたこの本、なかなかいいでしょ。是非お求めを。特別価格で購入する方法は、大和郷にある教会ブログのこちらのポストをご参照あれ。
キリスト者 似たりと 見えし 就活生 デジャブかな?
どこが似てるって、それはこれからのお楽しみ。
なお、以下では、黒字は、就活生。青字は、キリスト者だよぉ。
コミュニケーション力について
社会におけるコミュニケーション力は多様な人に対するコミュニケーション力であって、就活生がよく口にする仲間内で楽しく過ごせる能力ではない。(就職活動)
社会におけるコミュニケーション力は多様な人に対するコミュニケーション力であって、教会の人がよく口にする自教派内の人たちとだけ、楽しく過ごせる能力ではない。(キリスト教会)
しかし、こう書いてしまうと、キリスト教界関係者のコミュニケーション力にはなかなか厳しいものがあり、就活生同然かも・・・。内輪でしかうまくコミュニケーションできてない・・・。いや、仲間内でもすぐ分裂するから、それすらもできてない。ま、学生も同じようなものだが。多様な人がいる社会において、キリストのことを伝えようというのなら、この外部の多様な人とのコミュニケーション力というのか、つながる力というのか、アウトリーチする基礎体力は大事かもしれない。
自己評価・自己分析について
自分を知ること、社会を知ること、自分を振り返ること。今の自分をよく見て、それから過去に戻ろう。自己評価はひとりよがりではNG。自分の価値観を明らかにしよう。(就職活動)
自派を知ること、社会を知ること、自派を振り返ること。今の自派の現状をよく見て、それから過去に戻ろう。自己評価はひとりよがりではNG。自派の価値観を多くの人のために明らかにしよう。(キリスト教界)
キリスト教界関係者に聞かせたい。そうかキリスト教会は正しい人の集まりだから、自己評価はしなくていいから、してこなかったといえば言い過ぎか・・・でも、学生さんが就職する際には、これくらいのことはするので、やってもモーセ爺さんは、ほめてくれると思うのだが。だって、「この祭りをなぜするのか、とあなたの子供たちが聞いたなら、それを教えなさい」とちゃんと振り返ることをモーセ爺さんは教えているように思うのだが。
自己分析は仕事や社会にとってどういう意味を持つのか、それを考えてすることが大事。それを具体的に書いて整理することが重要。(就職活動)
自己分析は社会にとって、どういう意味を持つのか、それを考えてすることが大事。それも具体的に書いて整理することが重要。(キリスト教界)
うーん、自己分析したことのある教会がどの程度あるのだろうか。自己認識もなく、去年がどうのこうの、先代の牧師先生はこうだったから、とか、いない人を相手として想定して、いろんなことを決めてないだろうか。それも書いたりすることなく、思い付きでしていないだろうか。
自分の経験とアピールポイント
自分自身の経験を無理やり評価項目につなげてアピール目的で主張しまくる学生。(就職活動)自分自身の経験を無理やり聖書につなげて、アピールポイント目的で、主張しまくるキリスト教界関係者。(キリスト教界)
偏った自己評価
過度の自己肯定か過度の自己否定になりやすい・・・学生さんの評価傾向過度の自己肯定(その先にあるとされている神肯定だが、実は、自己を偶像とする偶像崇拝っぽい)か過度の自己否定(その先にある神肯定)になりやすい・・・キリスト教界関係者の皆さんの評価傾向
そう、就職活動中の学生さんもキリスト教界関係者も、中間がない人が多い。近代の社会を支配したのが、2項対立だからと言って、あまりにもむごすぎる。そして、ほとほと困ってから(いや、正直に言うと、卒業1月前の1月とか2月とかに、どうしようもないほどにこんがらがってから)支援を求めて押し寄せくる学生、という毎年繰り広げられる光景に飽き飽きしているミーちゃんはーちゃん。ちなみに、キリスト教界関係者で支援を求められたことはいまだない。求められても、それに耐えるだけの能力はない。ただ、自分でバンバンしてください、というだけ。一緒に祈ってくれ、と言われたら、喜んでいたしますが。(一応、これでも福音派の亜種くらいの自覚はある)
ゴール志向・プロセス志向
内定はゴールではない。スタートである。就職活動お受洗はゴールではない。スタートである。教会関係者結婚はゴールではない。スタートである。 教会関係者
企業に入ってから、どのように社会にかかわり、どのように生きるのか、どのように社会に貢献するのかが問われるのである。勘違いして入社したものの、こき使われるだけこき使われて、ボロ雑巾にされて、ポイされた悲惨な事例をいくつか知っているだけに、名前や世間体にとらわれず、自分自身がどのように生きるのか、を考えることが大事なのだが、それを理解していない学生の皆様が多い。
そう、キリスト者の社会における生き方というプロセスに関しては、先日ご紹介したポール・マーシャルさんの「わが故郷、天にあらず」が大変よろしいのではないか、と思う。よろしければ、お買い求めを。一部の抜書きは、こちらをどうぞ。
Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(1)
Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(2)
Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(3)
消費者視点からの脱却
消費者視点ではなく、生産者目線での仕事の選択したほうがよい。就職活動旅行が好きではなく、旅行業が好きな学生に受験して欲しい。某旅行会社社長の就活生へのことば。消費者視点ではなく、聖餐者目線で教会に参加したほうがよい。教会関係者キリスト教の結婚式が好きではなく、キリストが好きな人に来てほしい。某教会関係者
仕事をする上では、色んな人とつながりが必要なので、業界地図がお便利。社会での生活は、一人ではできないので、つながりを知っとくのは大事。就職活動宣教をする上では、いろんな人とのつながりが必要なので、いのフェスがお便利。多くの人とつながるためには、一人ではできないので、つながりを知っとくのは大事。キリスト教界
江戸切絵図 明治大学所蔵
詳しくは、
http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=36,25,4,b
竹橋とか水道橋とかが読める。ちょうど南北が逆。今の神田神保町あたり
あるいは、
こんなやつ。
ソースは、http://en.wikipedia.org/wiki/Open_data
絶対精度は求めないからさ、切絵図程度の相対精度でいいんで。だれか、つくってほしい。
評価:
ポール マーシャル いのちのことば社 ¥ 1,680 (2004-12) コメント:「キリスト者としての人生」というプロセスを豊かに生きるためのヒントを与えてくれる本。 |
福音派と聖書 米国の場合 その1
元ネタは、こちらのブログから。なお、元ブログには見出しがないので、青字でつけた見出しはミーちゃんはーちゃんが適当に入れました。
福音派と聖書 Tim Gombis
学生からの気になる反応
過去数年にわたって、いろいろな場面で聖書を教えてきたが、福音派の人々からちょっこし変わった反応があるのに気がついた。あまりにしょっちゅう聞くので、パターンと読んでもよいのではないかと思うのだ。最初にそれを聞いた時、気になって気になって仕方がなかった。そんなことを言い出す精神構造がよくわからないのだ。
この反応を学部の学生をかなり早めのスピードで教えているときに、頻繁にこの種の反応を耳にしはじめたのだ。
ここ数カ月、このような反応はずっと見られるものとなり始めたので、この背景に何があるのだろうかと考え始めた。十分そのことに思いを巡らせているかどうかは自信がないが、しばらくの記事の中で、そのことを真剣に取り組んでみたい。
思うに、気になっているコメントは、福音派が聖書について考えていることから出てきている何かを指示しているように思う。
さて、詳細に入る前に、自分自身のことを少し明らかにしたほうが、この福音派の皆さんからのコメントについて、私がかなり気になるのかの理解してもらえるだろう。
私は聖書的な家族に育った。私たち家族は、毎朝聖書から何説かを読んでいた。時々夜には、母がポップコーンを作ってくれて、姉と私は聖書に関するムーディーの短編映画を見たものだった。幼いころから様々な暗証聖句大会などにも参加してきた。家族が集まると難解な聖書か所やさまざまな教派伝統の違いに関して、話し合ったものだった。私自身は、その意味で、欽定訳聖書の世界に育ったのだ。
ほー、ムーディーの短編映画。25分くらいのやつですよね。それ見るのにポップコーンって。それって、やはりアメリカン。日本では、きちっと座って聖書のお勉強、お勉強って感じで、ありがたがるようにして見せられたけど、さすがに60年代に作られた作品だけあって、ミーちゃんはーちゃんが見た80年代ころには、大分、???になっていた。今見たら、爆笑物、あるいはトンデモ映画ともされかねない黒歴史作品もいくつかあるような気がする。
欽定訳は、日本でいえば、文語訳聖書(大正改訳)ですね。こんな感じ。
太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
いまだに、現役でこの聖書を読んでおられる皆様も日本でもおられるが、北米大陸、英国諸島および連合王国では、これ以外聖書でない、という立場の方もおられる。欽定訳聖書が普通というところから、著者のTimさん、コンサバ系キリスト者のご家庭で育ったことがうかがわれる。欽定訳聖書を使っている教会にNew International Version(これが読みやすかった)持ってった日には、それは聖書ではない、という勢いだったよな。多分、そういう感性なのだと思う。
ということで、このポストの著者は、かなりコンサバ系の背景を持っているらしい。ということで、Timさんの文章を日本語変換したもののご紹介に戻ろう。
知らないということを知った大学時代
大学に入学して間もなく、個人的に信仰を持ち、そして、聖書を学び始めた。聖書を何度も貪欲といってよいほど読み、そして、それに思いを巡らせ、あちこちに印をつけ、そして友人や寮の同室の人と議論をし、聖書理解に役に立つ様々な資料を集め始めた。もちろん、私自身聖書に相当親しんでいることに驚きもしたが、あまりに知らないことも多いことにも驚いたのである。
私は聖書の背景に関するクラスを大学の4年で取ったが、聖書の聖句はよく知っていることはよくわかったが、古代の文化的背景の中でそれを見直した時、まったく新しい知識のレベルに到達したことが分かったのである。見出すべきことの多さに、圧倒されてしまった。
なんか、自分自身のことを思うようだ。大学の図書館に行って、ヨセフスの全集もの(なぜかそんなものが図書館にあった。全学の中央図書館であるが)だの FFBruceのヘブル人への手紙の聖書注解だの、池田裕先生のオリエント史(単位はもらった)だの、古典ギリシア語の授業を受けたりしていたころの日々を思いだす。最初は何の事だか、 さっぱりであったが…。今でも、ギリシア語はそれに近い。いやぁ、大学時代に新約聖書、旧約聖書が新鮮に見えたこと見えたこと。それと同じ経験をTim先生もしておられたとは。閑話休題。
聖書研究、面白いはずなのに・・・
その後聖書について学び、学ぶことに対する愛情を持って神学校に行った。神学校を卒業し、博士課程での研究を始めたとき、聖書理解のさまざまな部分を読み解く、新しい観念的な世界が広がり、衝撃を受けた。
この基本的な延々と続く聖書理解についての新しい発見が面白くってしょうがないということは、ずーっと続いている。そして、この面白く感じることに対する、この数年見聞きし始めた、ある発言が気になり始め、「え、なんで?」という気持ちになってきたのであった。
私が、福音派的な背景を持つ学部生を教え始めて、間もなく、「そんな話は聞いたことがない」という反応が出ているのに気付いたのだ。そして、その反応に対して、「そうだろうとも、いっぱい面白いことがあるよね」とは答えていたのだ。
そうこうするうちに、「こんな話は聞いたことがない。先生の言うことは、聖書的ではない」と返ってくるようになった。
そして、もっと詳しく説明してくれるように頼んだ。その学生が言うには、「えーっと、こんな聖句があったような・・・」と若者向けの讃美歌の一説と聖書の3つの聖書の節をチャンポンにしたようなことをいいだした。
繰り返される「そんな話は聞いたことがない」
この種のことは、若者故の傲慢さゆえに生まれていると理解はしたが、しかし次第に、このことがかなりの頻度で起きることに気づき始めた。セミナーに入って3週目になると、生徒の一人が手を挙げて、「先生、こんな話は聞いたことがありません。」と言い出すのであった。
こういう反応にたびたび接するようになってからは、「あ、そうですか。よかったね。あなたとあなたのご両親は、あなたが知らないことに何千ドルも私に払ってんだから。それこそ”教育”ってもんだよね。そういってもらえるってことはさ、僕がさ、ちゃんと仕事してるってことだよね。」と返すことにし始めた。
挙句の果てに「聖書的でない」
次第に分かり始めたことは、福音派の文化の中に、学生たちがなれ親しんでいないことについて、「それは聖書的でない」といわせる何かがあることに気付いた。
さらに繰り返される「聖書的でない」発言
ここ数年の間、ほかの場面で、同じような反応を別の福音派の人々から聞くようになった。それは、挑みかかるような姿勢で語られることが滅多になく、一種の裏切りのような語感が言葉に含まれるような感じであった。私に悲しみを帯びた口調で最近ある人が言ったことがある。「私はこんなことをこれまで聞いたことがない。私自身、これまでの半生、福音派の中で過ごしてきたが、こんな話は聞いたことがない。」
いま、私自身は福音派的でないところでの講義を担当しているが、私が今感じる反応は、少し違っていて、『この話、面白いですね。」とか「お話、とっても楽しくて、学ぶことができました。ありがとうございます」というものである。
たった一人だけ、私に「こんなことは聞いたことがない」と言ってきた人がいる。あなたが想像する通り、福音派の人であった。
「聞いたことがない」というだけなら、自分は勉強不足です、というのと同じことだからよいのだけども、それを聖書的でないっていい切れる精神性って、ある意味すごい、という感じがするなぁ。
聖書理解に歪んでません?
奇妙なこととして私自身が驚いていることは、私がまさに教えようとしてきたことが、福音派をイライラさせているということだ。私自身は聖書の学びそのものに関与してき、そして、発見とその喜びを含めて経験した。それを教えようとしたのだけれども。
私が先にも述べたとおり、福音派が聖書をどう見ているのか、ということに関して、何か歪んでいるような感じがするのだ。
しかし、モーセの顔覆いではないけれども、勝手に覆いかけてどうするんです?パウロもそうだが、ヨハネもそうだし、イエスご自身もうそうであるが、神に近づけ、とおっしゃっておられるように思うのだが。それなのに、自分で覆いをかけて、その隙間からしか見ないってのもねぇ。これに関しては、また別途ご紹介する予定。
これから、いくつかの記事で、このことについての説明といくつか考えていることをご紹介したい。
ということで、Gombis先生、予告しておられるので、続きは、次回か次次回くらいにご紹介の予定。チャンネルはそのまま、しばしお待ちいただきたく。
押取り刀で・・・出版記念トークライブ
先のCLCBooks様の案内用リンクでもご紹介しますように、
**「福音の再発見」出版記念トークライブ**
日時:2013年6月23日(日)14:00-16:00
場所:お茶の水クリスチャンセンター2F CLCお茶の水店内
特設コーナー
お問合せ:03-3294-0775 (電話番号の間違いにはご注意ください)
が開催されます。
この本を翻訳してくださった中村佐知さんが北米から来てくださいますし、タカ先生も生出演、このプロジェクトの黒幕だったミーちゃんはーちゃんもお呼ばれされちゃいました。www
出演者は、
訳者の中村佐知さん(もちろんです)
中村佐知さんは、境界線(バウンダリーズ) や
クリスチャンの成長を阻む12の誤解
ゲノムと聖書:科学者、〈神〉について考える や
心の刷新を求めて などなどの名翻訳者でいらっしゃいます。
日本での本書の最初の紹介者のタカ牧師
タカ牧師は、牧師のお仕事に加えて、マスコミ関係各社への
キリスト教関係コンサルタント
(Accidental Consultant に近いのですが)も
なさっておられます。
出版社の担当代理のまっちゃん
まっちゃんは、雑誌Ministry 編集長にして、
数々のツィッター炎上事件でも超有名、
いのフェス仕掛け人でいらっしゃいます。
黒幕wwのミーちゃんはーちゃん
ミーちゃんはーちゃんは、このブログの筆記者にして、
ホーマーシンプソン似の関西ノリのおっちゃん。
いのフェスと雑誌Ministryの私設応援団団長ww
で、この本の出た背景、この本の関係者が、実はネットだけでゆるくつながりながら作っていった背景、幻と消えた表紙アイディアなどなど、めったに聞けない本書作成のBack Stage Stories、関連図書のご紹介、教会3年卒業者の大量発生の背景として見え隠れするもの、読者や出版社の立場から見たキリスト教書、キリスト教書とWeb(Web3.0)時代などの話をいたして行こうかと。
あと、会場に来られた方からの質疑応答も少しの時間お受けする予定。当日は、ミーちゃんはーちゃんの能力(体力、技術力 この技術力がまた、ホーマー・シンプソン似なので、これが一番の問題? ネット通信速度などの問題も)にもよりますが、Ust 配信も検討中。
Ust中継決まったら、またあらためてご連絡をば。
まぁ、単に面白がって話すだけですけど、よろしければ是非・・・。
2013年6月に開かれたライト読書会の記録 その1
では、どうぞ。
一音一音大切にして
聖書を読むことについて
今回読んだ講演録は、ずいぶん自己弁護的でPolemical(論争的)な感じがする。アメリカでNTライトさんが、改革派の皆さんから、言われたことがどうも背景にあるみたい、ということでかなり宗教改革にこだわったしゃべりっぷりになっておられたようである。
そして、ことあるごとに、宗教改革原則を持ち出しておられ、ティンダルの話を出しながら、NTライト先生、一シラブルとて、気を使っている、とおっしゃっておられる。また、聖書原典に忠実でないのはいかがか、とおっしゃっておられるが、英訳聖書でも大変だが、日本語聖書ではなお大変ではある。
この辺、聖書翻訳に携わったことがないので、何ともいい難いが、まぁ、どう翻訳しても不満は出て来る訳で、それでもあと数ミクロンでも実態に近づけたい、と思って翻訳しておられる方には頭が下がるし、ヘブライ語や、アラム語、ギリシア語で読まなくてすんでいるのは助かるなぁ、と思いはするが、それと同時に失われている部分は多いのだろうなぁ、とは思った。
その意味で、Kingdom Bibleはよいのだけれども、ある面、意訳しすぎている部分がある。ピレモン書の註解書を読んでいた時、信仰と愛は主イエスキリストと聖徒にかかるとしているようだ。ライト先生は、Kingdom Bibleで語順そのままで訳している部分がある、とのご紹介があった。
Kingdom Bibleがいいかどうかというのは、一概に言えない部分がある。Kingdom Bibleの想定読者層はは教会に来ている人。NTライト先生の聖書翻訳には2バージョンあり、Kingdom BibleとNew Testiment for Everyoneのシリーズがある(ようです)。
NTライトさん、個人訳までしているんだ。へぇぇ。と思ってしまった。まぁ、したくなる気持ちもわからないではない。別の訳を他者が使っていて、えぇぇぇぇ、それ、その翻訳の意味を取り違えてません?そんなご無体な・・・、という解釈を拝聴させていただいたりすることもあるし。また、どう読んでも意味がわからん翻訳とか、意味がわかりにくい翻訳とかの場所もあるしね。さて、新改訳の第4版の改定作業中とも聞くので、まぁ、いい訳のが出ると嬉しいなぁ。ミーちゃんはーちゃんはNTライトオタクにはまだなっていないので、いずれも持っていない。
ユダヤ人と異邦人が一つになることの意味
この辺から、読書会のテーマの文章に戻るが、文脈から言って、ユダヤ人と異邦人共に一つになるという点に強調がある。つまり、食事を一緒にする仲間、というような強調点がある。ここで、ティンデル訳と欽定訳を相手にしているけれども、現代訳では、ライト先生のような理解が普通に反映されているように思う。
ここまで書きながら、思い出したのだが、イエスの弟子たちは、パリサイ人から、「おまえ、やくざや不良と付き合って、なめたまねしてんじゃねぇぜ。そんな馬鹿な奴らとつるんでねぇで、ちゃんとした俺さまたちと付き合え。」といちゃもんつけられていたのであった。まぁ、それと似たようなことかもしれない。サマリアのスカルの井戸のところで、女性に水を求めたイエスに対し、サマリアの女性は、『そんな、私どもみたいな人間には、ユダヤ人様には水を汲んで差し上げる資格すらありませんのに』に近い感覚でしゃべっていたわけだから、ユダヤ人にとって、『異邦人と一緒に食事をする』というのは、今の日本人の感覚でいえば、サルと一緒にご飯を食べる、みたいな感覚だと思う。食事規定も厳しいし。
ここでの信仰者全体としての一体の理解は、福音派の信仰義認、Ordo Salutisではこぼれてしまいやすい面、すなわち、信仰生活の具体的な側面に関しての信仰義認を提示している。救済論ではなくて、具体的な食卓を一緒にする、というポイントを見逃さない方がいいかもしれない。
神の怒りの拡散波動砲のターゲットは
十字架上のイエス?
義認論は、ローマ書の3章で語られていることだが教理の土台。異邦人への怒り、ユダヤ人への怒り、これらすべてが十字架のイエスに向けられた、と理解されるが、ガラテヤ人への手紙だと、神にあるものの平和としての義認として、なるほどと理解されやすいが、ローマ書の場合、信仰義認の理解が少し違うように見えてくる。
なんか、こないだどなたかがツィッターで話しておられたが、義認論では、人類に対する神の怒りが拡散波動砲の用にぶつけられて、それゆえ義とされるという理解があるようである。うーん、スターウォーズ的なコンセプトでいえば、デススターにスーパーレーザー攻撃加えて破壊するようなものであるらしい。まぁ、ジョナサン・エドワーズの説教も、そこに焦点当ててるように聞こえる部分あるなぁ。そりゃ、拡散波動砲撃たれた方はかなわんわ。
ガラテヤでは、ユダヤ人異邦人問題が明らかになってきて、分裂の問題が生まれたがためにこのような形での信仰義認となるのではないか。しかし、ライト先生としてはローマ書の釈義を再検討する、新しい視点を当てる必要がある、そして、義認をどう考えるのか、を再検討した方がよいかも、と言っているようである。
キリスト銀行における
罪のスワップ取引ww
改革派の皆様がライトを攻撃した背景には、2重転化、キリストの義がクリスチャンに転化、クリスチャンのものがキリストに転化されるという一種の相殺取引のような理解部分と齟齬を起こすからかもしれない。むしろ、キリストの義にともに預かるものになるということをライト先生は強調しているように思われる。改革派の皆さんの理解のUnion of Christの中に二重転化がどこかで入り込んじゃったのかもしれない。
ここで、罪のキリスト銀行における神に対するスワップ取引みたいな話が出てきたのが面白かった。へぇ、そんな解釈あるのぉ、という感じだった。そりゃ、スワップ取引に失敗したら大損こくから、恐怖で縛られてしまうよね。
そもそも、罪概念をどう考えるのか、結構重要だと思う。どうしても、キリスト教倫理に反することが罪、みたいな理解の人もいるし。最近だと、これ、話題になってたよーな。多分、完全な誤解だと思う。でも、この手の誤解は、他の人から何回か聞いたし、アメリカ人の高校生がそう言っているのを聞いたのだが…という相談を持ち込まれたこともあるが、もしそれなら、「産めよ、増えよ、地を満たせ」という神の祝福の宣言は無効になるので、多分それは誤解だと思うですけど・・・相手は、クリスチャンとはいえ、高校生ですし…とは答えておいたけれども。
参加型の信仰、観客型の信仰
キリストに起きたことは、すべて、キリスト者に起きる、ということをライト先生はお話になられたいようである。同種のことを、リチャード・ヘイズもいっている。本来の、Union of Christが忘れられているのではないか。
キリストの生き方に参与するというParticipationalist Viewということがかかれているが、これは、 Sandersが言ったことでもあるようにおもう。。
多分、この参加型の信仰の形態ってのが大事なんだろうと思う。どうしても、牧師先生がやっちゃう文化、牧師先生にしてもらうのが大好きな文化ってのが、歴史的に日本のキリスト教界においては醸成されているようなので(ミーちゃんはーちゃんとこは、例外中の例外らしい)、どうしても、ランボー牧師を求めちゃう教会の姿があるのだろう。無益だから、やめればいいのに。相互に神経すり減らしてどうすんです、と思ってしまっているのだな。
ユダヤ人もギリシア人も関係ないは、食卓問題とかかわるだろう。信仰とは行いの反対なのだ、信仰の結果救われるのだ、となるとパウロ書簡は読みにくいものになるのではないか。ライト先生が言っているのは、ヤコブ書みたいな感じで言っていると理解する方がよいだろう。行いを一切含まない、ピュアな信仰のことを言っているのではないだろうか。
あまりに、信仰による義を強調して読んでしまうと、ローマ1−3章で、神の怒りがふれられていて、4章で行いが要らないになって、5章以降はどうもおまけになっちゃうのではないだろうか。
しかし、なんか特定の個所に重きを置く聖書理解って一体・・・と思うよね。せっかくさ、一生懸命パウロじいさんやら、ペテロじいさんやら、ヨハネじいさんやらルカじいさんが書いているのにさ、おれ、気に入らないから、ってさ、ポイポイのポイって捨てていいんだろうか。ゴキブリホイホイ捨てるんじゃないんだからさ、そんなに簡単にポイポイしてよいのだろうか。
新約聖書学の伝統の中では、信仰義認の話が出てくるのは、論争的な背景で出てくるのであって、Polemical Doctrineだとライト先生はおっしゃっている。
律法か信仰か、行いか恵みか、当時は、行為義認ではなかったはずだ。Sandersは当時のユダヤ教は、行為義認の宗教でない。と文献学的に示した。(サンダースは、そうはいっていないという説もある、らしい。)
律法・旧約聖書をどう見るか
これまで、信仰だけを純粋に取り出そうと、従来はしていたのではないか。ライト先生がカリカルチャ的に書いているのは、律法はダメ、ハードルが高い。だから律法ではだめだ。人間はろくでもないから、だから信じるだけ、と新しい信仰義認というシステムが出てきた、とこれまで理解されていた。
そして、旧約聖書を守ることが不可能なことを旧約聖書が示した。簡単な方法を示したのが新しいものに変わった。歴史的にはそういう傾向が出てきた。
しかし、この傾向って、「イエスの言葉を読んでないんですかい。ダンナ、困りますぜ」だよなぁ。どう考えても。だって、「イエスは、この天地がほろびることなんか、律法がほろびることに比べたら、プッ、ゲラだぜ」(ここまでお下品ではないが)って言っているような気がするなぁ(ルカ 16:17)。
信仰と行い
カルバンは、信仰だけでは救われないと言っている。聖歌と行いが必要だといっている。今みたいな、信じたら、はい、あなたは天国です、というような安直な方法論に堕している。
そういう部分が改革派の中にあるものだから、ライトさんに対して、改革派が過剰に反発しているのではないか。これまで、信仰と行いは、一種の対立軸でとらえられ、受け取られてきた。
しかし、一つの神の民として考えると、信仰義認は、神の前に個人が義とされるかではなく、異邦人とユダヤ人が神において一つにされることと関係しているとライトは主張しているのではないか。信仰義認は、神の民が一つにされる。という理解が適切なのかもしれない。
ライトは、教会論主張しているのであってて、救済論を捨ててしまったと批判される場合がある。あるいは、ライトは神の怒りを軽く見ている。神の怒りが言 及されない。と批判する人もいる。また、神の罪に対する怒りが爆発してないのはおかしい。神というのは、100点でないと満足しない神なので、キリストが 100点であり、キリストの転化があってはじめて神の怒りが満足されるという理解が薄いのではないか。
といっても、まぁ、どうも今回のレクチャーの記録(ライトの講演記録のテキスト)を見ている限り、かなり、改革派の一部の方からのうっとうしい論争を挑まれ、どうも、それが一段落して、のころらしいので、かなり改革派の一部の皆さんに気を使ってしゃべっているようだ。別に改革派を否定するとかはしてない感じがしたんだけど、まぁ、誰にでも行きすぎはあるんで、せっかくいいものをお持ちなんだったら、もうちょっと冷静になられたら、って感じではないかなぁ、と読みながら思った。
宣言としての福音
No Other Lordの部分では、福音の定義を考える上で、euangelionが皇帝の就任宣言を意識させるというのは、新約聖書学者では常識になっている。このあたりが、一般の信徒レベルの福音理解とはかけ離れていて、『福音』が独り歩きしている感じがする。新約聖書では、宣言ととらえるべきであるのだけれども、いつの間にか、救いの教理を語るのが福音と誤解されている。一種、福音とは、(神による救いという)裏側を持った宣言であるが、説教ではそういう話をしている人は少ないのではないか。
ライトは、従来型の福音も、否定はしていない。しかし、その後ろ側に、こういう意味や視点もあるのではないか。ライトは決して、救済論やこれまでの福音の内容を否定しているわけではなく、どちらかというと、再定義しているといえるのではないだろうか。
そうか、新約学では、最近、euangelionが宣言と理解するのが一般的なのか。この種の話をミーちゃんはーちゃんが最初に知ったのが、「福音の再発見」である。まぁ、この辺りのある程度詳しい議論は、福音の再発見、福音の再発見をぜひお読みくだされ、と選挙が近いこともあるので、ちょっと連呼しておこう(ステマである)。
ガラテヤ3:8での「異邦人が救われる」とは意味が違うかもしれない。異邦人の聴衆には、宣言という形でのeuangelionであれば、「あぁ、なるほど」とわかる(メイク・センス)するという部分があるのではないか。もちろん、救済は背景としてついてくるが、宣言する、の強調点が外れたのでは福音としては、神の側の主権が外れるので、あまり、意味がないのではないか。ある面、一方的な宣言(アナウンスメント)だけだと理解すべきなのではないだろうか。
神の側の主権、これが意外と重要なのだが、それが抜けると、どうしても自分が何した、かにしたということが重視され、いつのまにか、自分が中心になり、神の位置づけが軽くなり、「神の座に人間があれ、座ってません?」ということにもなるのかもしれない、と思った次第。
ということで、次回、次次回へと続く。あータイミングが悪い。ボーカム先生の講演記録もあるしねぇ。ひょっとしたらボウカム先生を優先するかもしれません。その際はご容赦賜りたく。
ボウカム先生の講演会の記録
ボウカム先生の講演会に行ってきたので、ざっとのお話をおまとめしてみようかと。
座った場所がエアコンの前で聞き取りにくかったのは参ったけど。
ざっとの講演の内容をミーちゃんはーちゃん風にまとめると、こんな感じかな。山口さんという方の翻訳があったので、それを参考にしております。原文は、今後出版される本の一部なので、取扱注意ということで、おまとめしてみました。
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要するに弟子たちが口述したか、書いたのかは別として、基本的に福音書の伝承の正当性の議論についてのことでした。ほかの研究分野(たぶん文化人類学とか文献学)とかでの研究も踏まえて考えてみると、口述伝承の特殊性(後から追加、削除が起きるなど)、様々なことは言えるかもしれないが、新約聖書の記述自体は、かなり詳細な記録として正確性を残したまま、残っているのではないか、という問題提起だったのかなぁ。
例えば、地名だとか、人物名だとか(具体的なペテロとか、クレオパとか)例付きで記載されていたり、かなり真面目に証言者として記録しているのではないかな。
また、口述伝承の継承者というのか、ライブで見てた人たちが、いまだに生き残っているうちに書かれた書物なので、その点は、通常の伝承とはわけが違うだろう。目撃者としての証言を語ったものとして福音書は理解した方がよいのではないか。確かに共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)には微妙な違いはあるが、基本的な一致性が見られるのではないだろうか。
また、地名や人物名など、これらのものがある中で、かなりの具体性を持って語られているわけで、それを考えると、勝手な創作とはいいがたいのではないか。当時の文学作品が学書として書物として著述されたのに比べ、福音書は、かなり物語性というのか口述筆記に近い味わいを持った書物であるといえよう。
実は、同一人物をいくつかの話の両側において、その人物をサンドイッチのパンのようにして、その中にサンドイッチの具に当たるいくつかの話を入れるようなインクルーシオという手法が使われているらしい。これは福音書の中に実例として存在するということを具体的に示しておられた。
ボウカム先生のご結論としては、もう、様式史がどうのこうこうの、って振り回される必要があるの?ということらしい。いろいろやったところで、真実の姿は絶対に再現できないんだからさぁ、そんなことはあきらめて、語られた歴史としてのイエスをそのまま受け入れてはどうかねぇ。だって、目撃者が口述したか書いたかは別として、それに基づいているのだから。ということらしい。
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ミーちゃんはーちゃんの感想
この話を聞きながら、あれれ、と思ったのでした。じつは、あれ、これって、FFBruce先生が、「新約聖書は信頼できるか」や「イエスについての聖書外資料」のご著作でお書きになられていたことと、割とよく似てね?と思ったのだ。100年から60年たって、もとに舞い戻りですか・・・・。完全に同じとは言わないけどね。最近の成果が入ってるから。素人目には、結果はあまり変わらなく見えるような気がするぞ。
歴史学的視点と近代神学的視点のクロスオーバー
まぁ、歴史資料としては、書いた者がない、書いたものにバイアスがかかっていても、資料は資料として扱わざるを得ないし、それを扱うのをやめた瞬間、歴史について、文字資料からは何も言えなくなるという側面はある。たとえ、地震や火山噴火が巨大ナマズが地下で動いたからや神罰であるから、という理由が付けられていても、その資料が残っていたら、その資料が書かれたころに、地震があったとか、火山が爆発したことの証拠になるのと同じなのだが、新約聖書の場合、分析的に細かくやりすぎて、「いやこの話はなかったかも」、「ここにはあるけど、ここにはこの話がないから、この話は創作?」「創作かも?」「いや、創作っぽいよね」「絶対に創作」という人たちがおられたことは承知している。この背景には、近代科学(現代科学ではなく19世紀くらいの科学的な雰囲気、科学そのものではなく、ここでは科学ってなに、の議論に深入りしたくないのでそんな感じと思ってちょうだいませませ)で説明しにくいもの、説明できないものは、排除した方が、現代の人に福音を語る上ではいいかな、という思いというか、善意があったことは間違いないのだが、最初は善意で始まっても、学問という特殊性から、それを極めていくヲタク道が待っているので、洋の東西を問わず、学問は先鋭化する傾向にある。だから面白くもあるし、うっとうしくもあるのではあるけれども。
まぁ、レトリックを競うところが確かにローマ時代の書物にはあるらしい。まぁ、しょうがないやね。当時の作家さんというか、著述業者は、みんな元弁護士(弁護士を経由して政治家が多い。いまだにアメリカ大統領や上院議員もやたらと法曹関係者が多いのもその名残かも)でレトリックで、うーんと大向こうをうならせる伝統がある人たちばっかだからね。この種のレトリックの面白さを味わえる番組に、Law and Order(オリジナルの方、ジャック・マコイが出てくる番組)の法廷の弁論、丁々発止のやり取りに表れている。
さて、閑話休題。
物語として記憶される歴史
歴史というか事実というのは、結局、どうしても、解釈された形で記憶に残る。だから、記憶者の解釈が入り込むのは避けがたい。交通事故の調べは、事故が起きてすぐにするのが一番いいのは、これがあるからのようだ。事故の当事者が、意識しているかしてないかは別として、自己についての物語を作ってしまう前(というよりは記憶が新鮮なうち)に調書を書かないと、結局何が起きたかは藪の中になってしまう。だからこそ、警察官は事件や事故が発生した直後に調書を慌てて、怒涛のように作りたがる習性があるらしい。まぁ、これに伴う問題も確かにあるのではあるけど。正確性をなんとか確保しようと考えるとしょうがないよね。
ミクロとマクロの接合の難しさ
しかし、時代がどの程度かは別として、異なる人が、いくつかの参考資料や口述筆記があったとはいえ、違う見方や、違う人たちからのインタビューを寄せ集めて、一定の蓋然性をもって、共通したことを宣べているのだとすれば、歴史家としては、それを認めるというのが筋なのだろうとはおもう。ただ、神学の側では、言葉を道具に使うという性質もあったのだろうけれども、その言葉の真実性というのか、情報保存性に対してのこだわりから、怪しい聖書表記をポイポイした人もいたらしい。まぁ、木を見て森を見ず、というよりは、葉を見て森を見ず、というよりかは、葉っぱに気を取られるあまり、枝を落とし、ついでに立木も切ってしまい、立木も何本か無くなったようだったような気もするが。
ミクロに行きすぎ、マクロ的視点を失ったのではないか、とでも言っておこう。ちなみに、ミクロ経済学とマクロ経済学は、かなり味わいが違うので、初学者がまず混乱する。ミーちゃんはーちゃんも混乱した。経済原論とか経済学入門ではミクロをやって、マクロをするのだが、マクロに入るとミクロの連結性が一定程度はあるのだが、それが若干弱いので、何のことですろう、となる学生が多いような気がする。
今でもあるぞ、様式としてのインクルーシオ
インクルーシオの話を聞いていて思ったことは、今でも同じじゃん、ということである。現代のテレビ番組でも同じである。同じ商品の違った(同じ場合も多い)CFが番組の前と後ろに使われている。まさに、連続ドラマはインクルーシオである。
で、今回の講演内容を一言でおまとめすると
様式批評は、ヲワコンです。
or
様式批評は、意味ないじゃ〜ん。
--------質疑応答の部分について--------
以下は、あまり正確ではないので、誤りについては、ご勘弁、ご容赦のほどを。
m(_ _)m
質問の要約(のようなもの)
共観福音書の中で、マルコが最も古い。ほか二つはQ資料(マタイ・ルカの福音書の共通項を含む存在するのではないかとされている資料)をもとに、書いたのではないか?だとしたら、。これに今日の話がどう関連するか。
応答の要約(のようなもの)
マタイとルカが主要なソースとしたかであるが、ペテロの口述という認識ができるのではないか。ルカとマタイは残っているけれども、Q資料と呼ばれるものは残ってない。Q資料がどのようなものか、どの使徒と関連したのもわからない。今後の研究が待たれるところではないか。
質問の要約(のようなもの)
目撃者証言で描かれた福音書としたら、福音書の中に、弟子たちがわからなったことが記載されているが、どうやって、生前イエスが語っていてわからなかったことがわかったのか。もし目撃証言者として残す気になったとすれば、いつ、自分たちが目撃者だ、証言しなきゃいけない意識になったのだろうか、どうやって、生前イエスが語っていて弟子たちがわからなかったことを、なぜ証言集でもある福音書になぜ入れたのだろうか。彼らの記憶やメモみたいなものを相互参照したり、比較したのだろうか。
応答の要約(のようなもの)
まず、弟子たちがわからなかったことの意味を悟ったのは、復活の後、この地上を去った後、理解したのではないだろうか。
また、目撃証言者として語ることに関しては、イエス自身が行ったミニストリーの中で、弟子たちを伝道者として、自分が見聞きしたこと、実際に起きた奇跡やイエスの伝えようとしたことを伝えるように、ミッション(宣教師)として訓練したと考えることができるだろう。イエスが語ったたとえ話やメッセージなどを伝えて、メッセージを伝えるように訓練していたと考えられる。伝道をする中で、この記憶を語れる状況になっていた。物語ストーリーについては、復活の後だろう。そして、物語としてイエスを語るようになった。
記憶を書いたノートやメモのようなものがあったかについてはわからない。わからなかったことについてどう比較し、理解したのかについては、イエスの復活後、時間軸上では現代に近い方から、過去を振り返る形で、理解したのではないだろうか。また、その過程の中で、彼らの理解ができなかった部分について話し合ったのではないか。恐らく、エルサレムでそれがされたと思う。そして、いろんなディスカッションをしただろう。イザヤ書などの読み直しをしたのではないか。そしてイエスのわからないような話などを考えたのではないか。
質問の要約(のようなもの)
福音書が目撃証言者が物語として語ったとして、どの言語を目撃証言者は使っていたのだろうか。言語と文化の関係性によるバイアスがあったのではないだろうか。言語の差は文化をまたぐことなので、解釈に影響するのだろうか。その意味で、ある言語から他の言語に移した時に、時代とともにあった生きた記憶としてなかったのではないか。生きた記憶と言えるのだろうか。
応答の要約(のようなもの)
イエスの伝統をどのように考えるかであるが、まず、考えないといけないのは、キリスト教が成立した初期の時代のエルサレムでは、ギリシア語をしゃべる人たちがかなりいた。初期の段階で翻訳されていたのではないか。
エルサレムは、バイリンガルだったイエスのコミュニティがあったと考えられるのではないか。文化的アダプテーションで言えば、屋根から降ろされた中部の人の話で、ほかのところでは屋根について話しているが、タイルの話をルカがしている。それは翻訳の問題ではないのではないか。マタイでは、ユダヤ的な側面は確かに強い。
あるものはヘレニスティック、そうでないものもある。イエスの兄弟ヤコブ(James)はエルサレムで過ごしている。ヤコブ(James)はバイリンガルだったのではないか。バイリンガルクリスチャンだった可能性はある。ペテロはギリシア語を少し理解した。すべtの福音書記者は、バイリンガルではないが、バイリンガルな福音書記者があったと思われる。
弟子たちはアラム語でしゃべっていた。アラム語からギリシア語に変わった時に変質するのではないか、生きた記憶といえるのか。ヘレニスティックなクリスチャンの存在、ヘレニスティックなジューの存在。ルカにとっては、密接な関係にあるとみてよいかもしれない。ヘレニストとクリスチャンの結びつきはルカでかなり強いとかんがえられるが、ほかの福音書では、そのことが言えないのではないか。
多くのギリシア語を話すユダヤ人がいた。文化的な違いはあったかもしれないが、言語がそこまで違いを持たなかったのではないか。ディアスポラのなかにも保守的なユダヤ人、ユダヤ人はエルサレムだからといって、保守的とは限らなかったろうし、かなり多様なアイデンティティを持ったグループがいたかもしれない。
ある学派(チュービンゲン学派)によれば、、アラム語を話すグループ(ユダヤ的イエス理解の色彩が強い)、ギリシア語を話すグループ(ヘレニスティックなイエス理解の色彩が強い)としているが、ヘンゲルによれば、まったく違った福音を語ったわけではないと考えている。アラム語でしゃべったものとギリシア語で話されたもので、さほど変わるわけではなかったのではないか。もともと、多様なグループがエルサレム教会の中にあったと理解すべきかもしれない。
質問の要約(のようなもの)
ルカは、文書を意識しているわけだが、なぜ、マルコ、マタイは、物語として、個人名を多く語っているのか。もし、目撃証言に基づくと書いているのであれば、証言者名がないのはなぜだろうか。ルカ以外は、いきなり物語で始まっている。
応答の要約(のようなもの)
当時の文学上の慣習。単に見た、証言者として書いている。マルコは、・・・を見た、と書いてある。だれが情報源かを明らかにするために名前を挙げている、と考えてよいだろう。福音書記者は、物語として語っていて、自分を語ってない。カギとなった事象(イベント)があり、そのカギとなる事象について、くりかえし、「見た」「見た」という表現が出てくる。このことは重要だと思われる。
ローマのころの記録として、ユリウス・カエサルは、自分の記録をいくつか残している、ルビコン川を渡るときなど。なぜ、こうしたのか、などと書いている。しかし、福音書では、個人の名前を書くことで、人々に、これは証言だということを伝えるとともに、そのことの目撃証人がいることを伝える。当時の文芸上の手法と考えるのがよいだろう。
名前を使うことで、一貫したストリーを形成しているといえるかもしれない。
イエスとその目撃者について福音書を考える時、人為性(アーティフィシャリティ)の水準の問題は意識した方がよいかもしれない。一種の構造がある。また、地理の話(土地勘の話)がある程度見られる。その意味で特筆すべきは、マルコの福音書であり、マルコは地理的なインディケーション(特定できる要素、ミーちゃんはーちゃんが使う用語では、フィーチャ)が多い。6つの旅がストリーとして出ているし、地名がかなり出ている。マルコには、ガリラヤの地名が多い。地図といっても彼らのメンタルマップ(要するに土地勘)の話があって書かれている感じがする。
質問の要約(のようなもの)
イエスのことばは、目撃証言者が記憶したものはスタートであるのはわかるが、だとしたら、物語の構造はどうなのだろうか。行ったり来たりがあるばあいもあり、これらは、目撃証言者に由来するものだろうか、それとも福音書記者に由来するものだろうか。
応答の要約(のようなもの)
ペテロ自身に基づくもの、マルコがそのまま使ったのではないか、ペテロのイエスへの理解が影響したのではないか。物語の構成も、目撃証言者に由来すると考えるのがよいのではないだろうか。
旧約学の先生の
質問の要約(のようなもの)
マルコが一番古く、ペテロの伝承を残しているとして、福音書の中の旧約聖書の言及の妥当性とはどうなのだろうか。マルコの福音書は、イエスの旧約聖書の言及をきれいに残しているのろうか。パリサイ人との対話の中で、律法の中で最も大切なものとして、聴け、イスラエルよ、で始まる申命記6章を取り上げている。神の愛することについて、用いている用語について、二つのパターンがある。どっちがより正確とおかんがえだろうか。特に、神を愛することについて、旧約本文と違っている部分があるし、福音書の間での異同がある。
応答の要約(のようなもの)
これはいい質問であると思う。マルコは神をどのように愛するかに関して、4つある。マタイは3つ。ただし旧約は3つである。また、相互に異同がある。確信はないが、旧約の解釈の幅の中ではないか。必ずしもイエスにさかのぼらないのではないか。それについても確信はない。確かに、マルコは、はみ出しをしているし、マタイは最後の語を変えている。最初の3つはマルコとマタイで一致。ユダヤ人が語るときの基本的な形の影響を受けているのではないか。
質問の要約(のようなもの)
アリマタヤのヨセフをどう考えるのか。これは、作られた話ではないか。よい話であるから作られたのではないか。創作されたものではないか。
応答の要約(のようなもの)
確かによい話は名前を効果的に使うとされているし、実際に使われるべきなのだろう。しかし、聖書は名前の引用が少ない。また、削除された名前がある。もし、よい話だから捏造しようというなら、よりリアリティを増すため、本来名前が増えているはずであるが。しかし、少しの名前だけが、のこっているように思う。
アリマタヤは当時の人が聞いてもわからない名前であり、恐らく荘園の名前ではないだろうか。信頼性の強い記述なのではないか。パレスティナのユダヤ的な名前の付け方と一致している。その意味で信頼性が高いのではないか。
聖書の中にかなりのユダヤ名が出てくる。福音書のテキストにフォーカスを合わせて、ユダヤパレスティナ的なコンテキストに焦点を当てるべきではないだろうか。
質問の要約(のようなもの)
様式史を見直す動きはある。これまで、弁証法神学と結びついていて、歴史の中のイエスを遠ざけてきたケリグマ神学系のものとして、福音書は共同体の中で作られてきたとしてきたが,
それでは、全部でっち上げになりかねない。
少しは変えているようだけれど、ほとんどが目撃証言だとするのは、少し極端ではないだろうか。証言者がいて、それがつみあがるとマルコ福音書ができるのだろうか。70年のイスラエルの崩壊が大きい。偉大なイエスの伝承、十字架の上でボロボロにされて殺されるというわけわかんない運命を背負ったイエスについての目撃証言がどう変形されていくのか。復活のインパクトをどう評価するとおかんがえなのだろうか。ほかの(復活以外の奇跡など?)の話のインパクトと比べてどうなのだろうか。
応答の要約(のようなもの)
イエスの目撃者証言をボウカム先生が書き始めたころ、いろんな調査を始めた。歴史的伝承を集めてみることもした。もちろん、他に新しいパラダイムもあるだろう。しかし、オーセンティシティ(正当性とか妥当性)を考えるとき、個別の部分だけを集めて、個別のユニットを寄せ集めるような形で議論するのではうまくいかない。まず、一般的に基礎とできる蓋然性を福音書は持っているように思う。ただ、個別を見ていくと、オーセンティックだとは言えないかもしれないが、一般的なリライアビリティ(信用性あるいは信頼性)はあるのではないか。
一語一語とは言わない。いくつかのものはパズルのような部分がある。個別を見ると、数多くの違うものがある。イエスは、特殊な存在であり、覚えるべき教師という側面があったのだろう。ほかのラビには、こういう物語は書かれていないない。マルコは分量から言っても、参照点としては、いちばん良かったのだろう。一種それ以外の福音書が書かれる際の参照となる、ティーチングマテリアルだったかもしれない。
復活の影響は、これは重要な質問である。旧約聖書の物語のクライマックス。十字架と復活となっているように思う。復活のインパクトは重要ではあるが、しかし、決定的とは言えないのではないか。イエスの小さなストーリーに戻ってみると解釈として織り込まれたものは、最小限度のものと考えられるのではないか。初期の弟子たちは、イエスの復活を繰り返し繰り返し覚えたのではないか。
様式批評を批判するために極端を言っているのではない。様式批評についても、適切な評価をしたいと思って初めて見たのだが、しかし、やり始めてみると、結論としては廃棄したら、になってしまった。批判する意図はそもそもなかった。総合的に判断した結果、様式批評は廃棄したら、という結論に到達した。様式批評は、一個一個の単語を細かく調べていくあまり、いろんなバリエーションがありすぎ、あまりに多様になっており、何が正しいのかわからなく案っているのではないか。結果として、何も言っていないのと同じではないか。
質問の要約(のようなもの)
全体の信頼性についての議論という方法を新約聖書理解にむすびつけるのは、どうなのだろうか。
応答の要約(のようなもの)
イエスの言葉についてはかなり保存していると考えてよいだろう。かなり忠実に残している。確かに復活のインパクトは大きい、イエスの出来事自体の見方が変わった。イスラエルのクライマックスに歴史のクライマックスとして、イエスの復活があった。イエス伝承を見る視座が復活にかかっていると考えられる。伝承を見るための視座が十字架と復活によって生まれたと考えるのがよいのではないか。
質問の要約(のようなもの)
共同体の記憶が変化したり、その時代の人が預言(神からの理解を受ける)をする状況があったとしたら、過去の記憶と共同体の予言の混乱が起こりうるかもしれないが、それはないといっているおられるが、本当にそう考えてよいのだろうか。
応答の要約(のようなもの)
ヨハネの福音書を見れば、共観福音書と比べるとイエスのことばとは思えないものが出てくる。イエスは自分自身を決してメシアと呼んでいない。ヨハネは共同体が語っていることを載せているのではないようだ。ヨハネは解釈を加えたのではなく、イエスのことばから、解釈できる部分を語ったと考えるべきであり、イエスのことばに起源があるとすべきだろう。ヨハネ福音書では、人の子という言葉が使われている。弟子たちは、イエスは主、イエスはメシアといっている。にもかかわらず人の子という表現が子乗っているのは、過去のイエスが語ったことを正確に保存した結果ではないか。
ヨハネはかなり解釈しているとおもわれるし、深い思索の上で書いている。ヨハネでも、イエスのメッセージをその場で聞きながら、解釈していたのではないか、ヨハネがイエスの言葉に関して深い思索を巡らしたのは、復活後に始まったのではない可能性がある。
イエスを全体としてみているように思われる。イエスを特徴に分けて考え、個別に分割せずに、全体として見た方がいいのではないか。そのような全体的な解釈としてキリストを理解したのではないか。また、そのようにして、イエスのミニストリーを理解したように思われる。
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あー長かった。質疑応答の部分は、英文を聞き取りながら書いた分と、質疑応答部分だけ、通訳者が付いたので、その方の発言を聞きながらタイプを打ったので、正確性にかけます。英語を聞きながら、日本語タイプするのはやめた方がよい、ということに気が付いた3時間でした。
評価:
F. F. ブルース 聖書図書刊行会 --- (1959) コメント:まだ、どこぞの本屋に行ったら残ってたような気が。大阪とか神戸とかに。古いけど良いよ。 |
2013年6月に開かれたライト読書会の参加記 その2
前回の続きでござる。今回とこれの後継記事は、完全に内輪ウケ用(あと、読書会に参加できなかった方向け)の記事ですので、ご関心のない方には、何、コレ?のはずです。しかし、ご関心のある方向けに、ミーちゃんはーちゃんが参加した読書会の記録を残しておこうかと。個人用のメモの意味もござるし。
一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。
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信徒へのEffective Callについて
Effective Callについてであるが、人が信じるのは、Effective Callが神からの感じられるかどうかではないだろうか。しかし、この考え方だと、一般の信徒さんの多くはご不満に感じられるのではないだろうか。
さて、これまでの福音派の場合、政治的なことを言うことをかなり嫌がる側面があり、どうしても、福音の内容を個人の魂とかかわるものととらえがちになる傾向があったように思われる。政治的なものを排除したのは、間違いだったのかもしれないようにもおもわれる。
同盟の何人かの牧師さん達は東日本大震災以降、特に主張され始めている方はいるし、Missio Dei の概念などもこれとかかわる。その意味で、社会派の福音とのオーバーラップも出てきているように思われる。
ローザンヌ会議以降、世俗にかかわることの重要性を考え始めており、キリスト者の責任とは、霊的責任プラス社会的責任を考えるべきではないか、という見解が出始めた。
この部分を聞きながら、ラウシェンブッシュのキリスト教と世界に出てくる評者たちなどが典型的かな・・・と思ってしまった。これまで、ミーちゃんはーちゃんは、キリストを霊的な世界、個人の救いの世界の中だけに閉じ込めてしまっていたような気がする。そして、世間様のこと、社会のことと教会生活の間にものすごく高い塀を立てて、境界線をピシッと線を引いていたような気がする。しかし、おそらくそれではいけないので、社会のことも、教会のことも、それが一貫したものとして考えるべきなのではないか、と迫られている感じがする。
信仰を持つことが
政治的宣言であった使徒時代
救いの条件として、イエスが主(メシア or キリスト)と初代教会の人々は主張したのだが、当時のローマ社会においては、その主張そのものが政治的言明(Political Statement)であったと考えるべきであろう。
その意味で、ライトの啓蒙主義からの回復を目指していると考えることができよう。
現代においては、宗教多元主義の問題と対処しないといけないのであるが、そもそも、寛容さをどう考えるのか、ということは考えるべきであるかもしれない。イエスが主であるということは、一種の政治的表明(ポリティカル・メッセージ)でもあることを、もう一度考えた方がよいかもしれない。
特に、2000年前は、キリストへの信仰をもつことは、相当政治的な決断であったはずである。今はローマ帝国時代と比べ、より世俗主義的なものになっているかもしれない。ガラテヤ書も、そもそもポリティカルな話のコンテキストで考えるべきかもしれない。
キリスト者であることがポリティカルステートメントであった時代というのか、教理の関係で、ポリティカルステートメントにしちゃったキリスト者がいた時代が、日本でも15年戦争中にあった。もう、15年戦争すら忘れられているので、そういう部分は忘れ去られているけれども。
まぁ、キリスト者であることが社会における少数者である以上、現在の日本社会でも、一種のポリティカル・ステートメントになっているはずなのだが、現代の日本社会の背景、思想的底流の中に、キリスト教文化を経て生み出されてきた人権思想や民主主義がながれているので、あるいは、その覆いをかけられているので、ポリティカル・ステートメントにはなってないという実情があるように思う。その辺の社会思想や社会システムとキリスト教について、もう少し考えたいと思う。、
なぜ、ガラテヤの非ユダヤ系の人々がユダヤ教の会堂や会衆にひかれたか、という視点で考えた方がよいかもしれない。紀元70年ごろの政治的自由、市民的自由の関係を考えるとき、当時のローマ市民やギリシア人などが戦争などに、引っ張られた。ライトは、ガラテヤで、ユダヤ人が特権をもっていた可能性を指摘している。
このガラテヤ書だけよむと、純粋に宗教的な問題に聞こえてしまうかもしれないが、パウロだけでなく、多くの市民がかなりひどい目にあっていたようである。しかし、ユリウス・カエサルのころから、ユダヤ人は一定の特権を持っていたようである。たとえば、その特権の中には、安息日に自由に集まれる。お金を輸送してよいとかの特権があった。それに対するやっかみが起きた。ユダヤ人は皇帝に嘆願して、ユダヤ人としての特権を認めてもらったのではないか、というギリシア人側の意識があったかもしれない。
この辺のお話を聞きながら、ローマ社会において、生産資源となった農業用土地という資産を持ちえず、また、その生産資源を取得する方法であった、ローマ軍への兵役に就くことをもしなかったユダヤ人は、流浪する中でもビジネスとして成立する、あるいは流浪するがゆえに成立する金融事業、資金決済事業、商業しか生存するビジネスモデルがなかったのだろう。
まぁ、ローマ帝国領の拡大に伴い、実際の物流、資金流動を担う担い手も必要だったし、ローマ人は民族として、どうもこの種のことがあまり得意ではなかったのかもしれない。この種のことは、フェニキア人とかギリシア人に任せてきていたという側面があったように思う。それは、ローマ人自身が農耕民族として産業の基盤を農業においていた、ということもあるのではないかなぁ、とか思った。
ガラテヤはこれまで、キリストの分裂と理解されてきたことが多かった。特に、律法遵守型のイエルサレム教会と律法を軽視した異邦人教会という対応で理解されてきた(ジェービス・マーティン)。
しかし、歴性的背景を考えてみると、ユダヤ教を信じてきて、すぐさま、律法やめようとはならないだろうし、律法は無効だ、律法をまもることで、呪われよ、とパウロは聖書の中で、言いまくっているだろうか。あるいは、律法の奴隷にとどまり続けよ、と言いまくっているのだろうか。
この辺りを考える際に、NTライトのJesus of Victory of Godは参考になるかもしれない。
従来の代償刑罰ではなく、補囚の裁きのクライマックスとしての十字架があり、そこで神の裁きをキリストが受けたと理解しているようである。従来理解されてきたような代償刑罰とは違うものと考えたほうがよいのかもしれない。十字架で、イスラエルの捕囚が完全に終わった。そして、新しい福音にかわった、と理解するほうがよいのかもしれない。
第2コリント5:21を考えるとき、神の義が我々に転化される、と理解したほうがよいのかもしれない。
この辺の義認論の味わいの違いが、いろんな人から誤解を受けている原因なのかもしれないし、この辺りをこの時の公園でしたかったのかもしれないなぁ、と思った。当時のローマ支配下におけるユダヤの困窮、二重支配(ローマとヘロデ)プラス祭司による宗教的支配などもあり、3重支配を民が受けていて、飼うもののない羊のような状態であったのかなぁ、だから、捕囚(新たな自国における捕囚状態)が続いている、という理解が成立するのかもなどと思った。
Bare the Image Image of God
NTライトさんは、Becoming Human や Dehumanizationについてよく触れるように思う。そして、To Become true Humanということの理解があるようである。ローマ5章ー8章のなかで、万物ということが何度も出てきて、また、完璧な人間を見る、という側面で理解しているのではないか。その意味で、完全な創造のころの人(神と人との間に豊かな関係が回復する)になるのが救い、と理解できるだろう。
うーん、このBecoming Humanという概念は重要なのだと思う。神とともに生きるとならなければ、神を意識し、他者を愛して生きる(まさに、マクナイトの言うJesus Creed)とならなければ、競争社会(ホッブス風にいえば、万人の万人に対する闘争)になってしまうので、意外とこの人間とは何か、という人間論をキリストの発言を考える前に考えたほうがいいのかもしれない、と思った。
神の創造主Creatorの側面を強調すれば、被造物全体を考えざるをえないのではないだろうか。しかし、罪だと人間のことに強調が置かれる。その意味で、ローマ書では、被造物全体の救いのことが語られているのではないだろうか。
その意味で、救済をもっと広い意味でとらえるいるように思われる。
ある面、個人の救済+全被造物の救済として、救済を考えている部分もあり、そういう視点からだと、エコロジーも視野に入ってくるのではないか。クリス・ライトの救済の場合も、エコロジーも含んでいる視点で描いているように思われる。
人間の役割と創世記の最初の3章に示される人間の理解をどう考えるのか、それを古代的なコンテキストだけでなく、現代的コンテキストにおいてどのように考えるのか、ということが問われているのだと思う。それに関して、現実の社会でのキリスト者として生きるということについて、マーシャルさんは、「わが故郷、天にあらず」という書籍の中で、生き方について触れておられたように思う。この辺、おそらく、Gorden T. Smith のBegining Well何かとつながってくると思う。
Participationist View(さまざまなことに主体的に関与していくキリスト者像)と義認論をうまく結び合わせるのが難しい。契約に対する従順さが義認論の背景にあるのではないか。
Faithfulness Rightous とは全く失敗がない人であり、契約に忠実な人だといえよう。旧約聖書において、失敗にはAtonementというリカバリーのためのシステムがある。ところで、Dikaioのなかには、Covenant Membershipという概念はないのではないだろうか。
Rightous(正しい・義)という概念については、 契約概念なしには理解できないだろう。従来は、イデア的な人間をRightousとしてきた。しかし、契約に忠実な人間に対して、Rightous概念が向けられているように思われる。
Rightousは悔い改めのなかで、達成可能と理解できるだろう。例えば、ノアは、欠けがないとされた。神との契約に忠実に歩むそんざいであった。旧約聖書は、イスラエルと神との関係でRightousが語られており、集合的な意味で、議論しているのではないか。
この辺りの議論を聞きながら思ったのだが、この辺、ユダヤ社会における贖罪の儀式や贖罪のいけにえの理解、あるいは、ヨベルということの理解、さらにイエスの『「わたしは憐れみを好むが、いけにえを好まない」ということの意味を行って学んで来い(心に刻んでこい)』という当たりの発言の理解と関係しているのではないかなぁ、と思う。
一方、人間一人一人をみれば、完璧な人がいないので、義とされない。確かに、イスラエルは失敗したが、贖いの手段があった。それにより義とされた。義(ディカイオー)は、みんなから突っ込まれやすいポイントではある。
では、神の栄光と神の義がどうつながっているか?ローマ3:24を見れば、神の怒りがつみあがって、それが十字架上で、爆発して、神の義を満足した、と考える人々もいるが、必ずしも、ルターはそうじゃないといっているように思われる。
ルターは、義に関して、神が人間に無償に与えるステータスだ、といっている。神の義が転化される読み方ではないとしているようだ。神が約束を守る。神の忠実さが、義であるということではないか。
神をストーリーの中心に置くのはわかるのだが、神の栄光は、神の義が(人間側に)受け取られることで、神は栄光をうけられる、と考えるべきであろう。
旧約的な世界の中で、ユダヤ人が十分、神との関係を守れず、本来の祝福された立場を貶めているのであるが、それが、全人類にとってキリストの関係ゆえにもどる、という点での理解があるように思われる。
NTライトが律法について、どういっているか、を考えてみることが重要かもしれない。ライトは、パウロが言うような律法をどうとらえているか、を考えることの重要性を指摘している。
エレミアみたいな形で、心に書かれる律法、聖霊によって実現する律法を指摘しているところがNTライトとしては、重要だと思っているのだろうし、その辺が特徴といってよいだろう。
必ずしも、モーセの律法とは矛盾しないものであり、エレミアが言う律法は文字ではない。自分の生き方自体が律法の成就であると考えているのではないか。パウロが律法を守らなくてよい、とりわけ、食物規定を守らくてよいという理解に関しては、NTライトの理解とダンの聖書理解も類似性がある。異邦人とユダヤ人を分けないような律法はモーセの律法と矛盾しない。
律法の行いは、救われるためにやっているわけではないという意味でも、NTライトとダンとの間に一定の類似性がある。パウロが否定しているのは、教会の一致を妨げるものを批判している。このような主張は、サンダースの主張とも似ている。
キリストに参与することで律法を成就することになるのだろう。キリストによって律法は成就すると考えられる。律法というのは、モーセ律法の内実がキリストの十字架において成就したという理解は重要であるだろう。ローマ書のなかの、信仰の原理による、という表記があるが、その表記は、信仰の律法によると、少なくとも脚注で表記する必要はあるし、英語系の聖書ではそのような対応がなされている。信仰の律法によって、と表記することで意味を持つ。その意味で、エレミアのビジョンが今ここに実現している。
律法とは、あなたの心に書き付けるものであり、パウロは律法を細かく書くことは否定しているようである。
この辺、イエスもパウロ先生も心に刻むということを何回かご指摘のようなので、この辺りもう少し、意識しながら新約聖書と、旧約聖書(申命記あたり)を合わせて読まないといかんのかなぁ、と反省している。
ローマ書の翻訳として、「信仰の原理」を「信仰の律法」とした翻訳を広く受け入れられるかについては、聖書理解を大きく変える可能性があるので、かなり厳しいかもしれない。特に、脚注ではなく本文で入れてしまうと、一般の読者の側が、ついていけないかもしれないが、少なくとも、脚注に入れる必要はあるだろう。NRSVは脚注に入れることを採用している。
この辺は、京都の宇治で開かれたセミナーでも言われていることなので、より詳細については、以下をご覧いただきたく。
第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (1)
第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (2)
第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (3)最終回
Gordon T. Smith
Intervarsity Pr ¥ 1,722 (2001-08) |
2013年6月に開かれたNTライト読書会参加記 その3
一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。
では、ディスカッションの内容をご紹介いたしたく。
キリストの信仰か、キリストに対する信仰か
Faith of Christ, Faith in Christ
信仰を持つことにかんして、福音(euangellion 本来は信仰の布告)を聞いて、その布告を信じたから、永遠の命をもらえる(決心主義)という理解があるが、これだと、信仰の結果として、永遠のいのちとなってしまうことを、暗に皮肉っているように思われる。『救い』に関する理解を、人間の信仰中心から、神中心にNTライトは、戻そうとしているのではないか。
神のことばが述べ伝えられた人に聖霊が働いて、信仰が起きる。効果を持つ役割を果たすもの(Effective Agent)あるいは関係の回復のカギは神の側にあるとしている。信じない人の存在も神の責任になる。
福音の大切さと、個人の覚醒の大切さ、を伝えている。ローマ書の3章28節では、神の誠実さ、神の真実を信じる人に与えられる、すなわち、神の真実を信じる人が義とされるの意味ではないだろうか。
Sola Scriptura, Solus Christus, Soli Deo Gloria, Sola Fideに、Solo Spirituをライトが独自に付け加えているが、福音は、聖霊が与えられることで理解できるようになるから、というライトの考えが反映しているのではないか。
さらに、ローマ8章をクライマックスといっている。
終末論(eschatological)なポイントから見ると、聖霊の働きが重要にかかわってくる。聖霊が勝手に働いて、自動的に変えるのではなく、人間の意志とか努力と聖霊が共に働き、聖霊がそれを認めているという形ではないか。Justificationという本で、そのことについて語っているライトの文章は非常に美しいと思う。
この辺のお話しをお聞きしながら思ったのは、神の一方的な宣言(契約)という概念は、非常に重要だと思うのだが、いつのまにか、個人の関与、参与が「神とともに生きるという」ことを超えて、神のために何かする、神のために何かしたい、という思いに変わっていってしまい、非常にまずい結果を生み出したているように思う。カルト化した教会などでの背景にあるのは、この一方的な神の宣言(人間側には一切関係のない契約)の弱体化であり、Perticipation(参与、関与というよりは、一緒に旅をするというような感じが一番近いかも。その意味で、指輪物語やナルニアのメタファーは極めて大事だと最近気づいた。)がContribution(貢献、具体的な行為による利益提供)という概念に代わってしまうという本当はまずい傾向なのだと思う。
ただ信仰によりて
Sola Fide
Extra nosは私たちの外という意味であるが、これは、自分たちの内側に義がないということであり、外側(神)に義があるということを理解することは大事ではないか。
大切なのは、十字架だけでない。むしろ復活の重要性を言っているように思う。しかし、多くの場合、十字架だけで救いや聖書について、議論している。この辺をライトは皮肉っているように思われる。
個人主義的な救いばっかりを言っているから、という皮肉をNTライトさんは言っているのではないか。特に、西洋の個人主義の上で聖書理解をしている人々について、JustificationばかりいっているひとはMe & My Salvationをいっているに過ぎなくて、コミュニティというか共同体の概念がない。
そうなんだよね。これ、ヘンリーナウエンのナウエンと読む福音書を読んだ時に、ショックを受けて、しばらくナウエンばっかり読んでいた。そのうちジャン・バニエとか手出しをしたが。そして、ナウエンのこの杯が飲めますかとマクグラスの「聖餐」のDVDを見ながら、ほぉ、なるほどと思ったことがある。ミーちゃんはーちゃんは、聖餐式の意味を完全に誤解していたし、誤用していた。ぶどうの木の例えをもう少し考えなおしてみると、確かにイエス(幹)と私(枝)なのだが、実は、幹を介して枝同士がつながっているのだ。そのことをすっかり認識していなかったミーちゃんはーちゃんの黒歴史。
歴史が受容してきたものは、リバイバルにしても、ある種その時代における必要があって醸成されてきたものであるが、そのことが生んだ副産物についても刈り取りをしないといけないのではないだろうか。
キリスト教を大衆に受け入れさせる意味では、リバイバル主義的なこれまでの義認論は意味があったけども、それはFull Gospelではないのではないか。
ここでいうリバイバル主義は、近年流行りらしい第●の波とかとは関係がなくて、北米で見られたジョナサン・エドワーズ以来、現代(典型的にはフ○ンクリン・グ○ハム、あ、かいちゃった)にいたるまでにみられる決心主義的な回心を迫るあのやり方である。確かに、わかりやすさの意味はあったんだけど、そこで、止まっちゃって、大量に回心したのに、気がついたら、あれ、教会堂は翌週ガラガラ、なんてことが起きたのだったのですね。
そして、その影響下に生まれたミーちゃんはーちゃんも、その副産物、ミーちゃんはーちゃんがまいたんじゃねぇんだけどなぁ、とも思いながら、必死に地道に副産物を回収中。しんどいなぁ。
その意味で、神が関与される新天新地におけるNew Creationの強調が重要であろう。特に、イエスの復活(Resurrection)を出発点とする新しい創造をどう考えるのかが問われているのだろう。イエスの復活から出てくる新しい創造であるNew Creationは重要で、そこに基盤を置くから福音が重要になってくる。
E.P.SandersやD.A.Carsonは、ライトの理解に関して、結構えげつない批判している。そこまでいうといいすぎというD.A.Carsonへの批判もあるくらいひどいものであったのではないか(ということらしい)。
その辺のひどさは、のらくら者の日記から、どうぞ。こちらのリンクでございます。 この話を読んだときに、あれ、南部にいるという噂のある白いシーツ来て夜中に火遊びする不良のおじさん達のことみたい、と正直思ったのだな。その映像がこちら。映画ミシシッピーバーニングのTrailerでござる。なお、類似テーマを扱った映画としては、他に、評決のとき(これは若いサンドラブロックが出ている)、なんかもある。
ところで、法廷的義認論を言ったのは、メランヒトンである。さらに言えばNew Creationは改革派の人がよく言うのであり、福音派は人たちはあんまり言わない。
D.A.CarsonのChrist & Cultureを読んでいる限りにおいては、あんまり変な感じはしなかったのだが、まぁ、大学者も賞味期限があるってことで。ま、しょうがないんだよね。人間だから、次第に心の柔らかさが失われて行くってのはさ。さ、体も心もストレッチ体操しとこう。(意味不でスマソ)
NTライトの死生観
天国とは何か。New Creationにしても、死者の復活は終末の終末に起きることが、先行して最後の出来事が起きたのがイエスの復活だろう。新しい創造がイエスの復活から始まった。
単なる死生観は思弁ではない。パウロは、イザヤ書にみられるような聖書理解をしているとNTライトは言っているようである。最終的には、New Heaven and New Earthであるのであり、死後の世界の天国は最終的な目的地ではなく、テンポラリーなものであるという理解であろう。
最終的な死者の復活が起きるまでは、休んでいる、というイメージではないか。キリストにある死者として眠っているということなのだろう。最終的に残ったものはトランスフォームして新天新地に移るということだと思う。そして、全体としての新しい天新しい地における回復があって、死んだ人も新しい創造を楽しめ、被造世界が回復されるというイメージではないか。その意味で、全世界の救いがメインテーマになると考えているのかもしれない。
復活、十字架をどう考えるのか、というのは意外と複雑なんだよね。いや、実は面白い話なんだが。
いつ律法が終息したのか。新しい神の支配が生誕の時点で始まったのか。十字架での死亡の時点を持って始まったのか、いやいやそうではなく、死からの復活したイースターの朝に始まったと考えるのがよいのか、まぁ、いろんな所説があるらしい。まぁ、一平信徒(ま、牧師先生の見よう見まねでたまには説教もどきもするけどさ。あ、The Simpsonsに出てくるフランダースほどひどくはない、と自分では思っている。)としては、そんな神学的遊びも面白いんだけど、何より大事なことは、神とともに生きる新しい生活、神の霊とともに生きる生活が始まったし、今もそれができるし、今ここでそのことがミーちゃんはーちゃんは十分味わってないけれども、その神が共に歩まれるってことを、体験することかも、って思うのだな。(といっても、金粉は降ったためしがない。多分信仰が弱いのだろう。)
死亡をどうとらえるのかは、埋葬や葬儀の形式や様式にもかなり影響を与えるばかりでなく、志望する前の生き方や遺族の生き方そのものにも、大きく影響を与えるので、このことは意外と大事なような気がする。しかし、わからんことはわからんので、当面ほっておくしかないかなぁ、という感じ。
それよりむしろ、今、ここで、「なりふり構わず動く私と、なりふり構わず共にいたもう神」という神とのぐずぐずの生き方をもう少しちまちまと味わうことにいたそうかと。
次回のNTライトセミナーは、10月9日の実施予定で、みんなで盛り上げよう。講演者とリプライをつける形にする予定だそうで。楽しみ。
あまり、ご関係のない皆様には、誠に申し訳ござらん、とお詫び申し上げます。 m(_ _)m
|
Scot McKnight著 『福音の再発見』発売記念イベントに登場するでござるよ。ニンニン
CLCBooksお茶の水店様の特設コーナーで、
スコット・マクナイト著
「福音の再発見」(キリスト新聞社刊)の
発売記念イベント インストア・トークライブに
登場いたすでござるよ。ニンニン。(なぜか、忍者ハットリ君風)
技術担当は、Poorな技術力、能力は、スプリングフィールド原発オペレータのホーマー・シンプソン並のミーちゃんはーちゃんがご対応いたすでござる。そもそも動画中継などは、始めてやるので、間違い、事故等が起きない(というよりは確実に起こす自信がある、パニックに陥るの確実とも自覚しているところが実に怖い。)が、実施いたすがゆえ、ご笑覧頂ければ幸甚でござるよ。ニンニン。
ネットの回線として有線が使えそうにないので、画像はかなり良くできそうですが、音声が・・・、よろしければお付き合いのほどを。
公開用アドレスは、一応このアドレス になるでござる。
http://www.ustream.tv/channel/
(変更があれば、こちらのサイトでご連絡いたすのだそうでござるよ。ニンニン)
登壇者(予定)は依然ご連絡いたした通り、
はちこさん こと 中村佐知さん
(偽名疑惑も…。ウソ らしいです)
タカ牧師 こと 小嶋崇さん
(英米キリスト教書ソムリエ)
松ちゃん こと 松谷さん
(一応立場上出版社担当代理 だけど ・・・)
ミーちゃんはーちゃん
(黒幕ww 笑うせぇるすまん ホーマー・シンプソン)
でございます。ま、松ちゃんのブログで実名さらされちゃったんで(爆!)、毒を食らわば皿まで、ということで。
よろしければどうぞ。待っているでござるよ。ニンニン。
http://www.ustream.tv/channel/
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