2013.03.01 Friday

2月のアクセス記録とそこから見えてくるもの。

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     月末になってきたので、いつものようにアクセスログを見た結果をまとめておこうかと。

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    2012年12月から2月末までの記事のアクセス上位とアクセス数


    結婚相手としての牧師の厳しさ
    (記事ID:373») 418

    日銀券と神と聖書的のインフレについて (記事ID:375») 373

    「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本 (記事ID:280») 353

    リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(1) (記事ID:385») 341

    アメリカでの小学校、銃乱射事件に寄せて
    (記事ID:385») 333

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    結婚相手としての牧師の厳しさは、毎日のアクセスサマリーでも結構上位(5位以内)に来ることも多いので、やはり人気のある記事なのだろう。まぁ、それだけ悩みが多い牧会者や牧会者の予備層の関係者がおおいのかもしれない。

    意外だったのは、「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本The King Jesus GospelというScot McKnightの本の紹介文が上位に来ていることである。この本は、早ければ3月末を目途に発行される予定と聞いているである。

    リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(1)が上位に位置したのは、水谷先生のご紹介のおかげだと思う。恐るべし「命と性の日記〜日々是命、日々是性」である。

     なお、トップページにアクセスした人で、複数記事をお読みいただいた方のアクセスログは残らないので、実際のビュー数はもうちょっと多いとは思います。

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    2月のアクセス上位5位までの記事とアクセス数

    リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(1)(記事ID:417») 341 

    人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(1) (記事ID:409»)  208

    ディスペンセイション説という終末論について (記事ID:137») 207

    チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会 (記事ID:405») 176

    人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(2)
    (記事ID:410») 159


    今月のアクセス数のみを見ていると、ディスペンセイション説関連の講究録の紹介をしたので、その関連のアクセスが多かったかな。月末に挙げたリベンジ婚関連の記事が水谷先生のブログで紹介されてからというもの、アクセス集中。紹介された日(2/27)は、711アクセスと一日のアクセス記録を更新。

    トップページにアクセスした人で、複数記事をお読みいただいた方のアクセスログは残らないので、実際のビュー数はもうちょっと多いとは思います。

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    2月のアクセス総数は、9665アクセス。28日しかなかった2月にしては、やや多いかな。と思いました。これも、月末の水谷先生のご紹介のおかげ、ではあります。

     みな様、ご訪問、ご愛読感謝。皆様のアクセスとコメントが励みで書いております。よろしければ、また、ご訪問、コメントをいただければ、と。

    2013.03.02 Saturday

    リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(4)

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       リベンジ婚は完全な自分とそれにふさわしい愛情を追い求め、自意識過剰の人々が結婚を手じかなクイックフィックスとして選択し、そして周囲を不幸に追い込んでいくという悲惨な結婚とそれによって広がっていく不幸の拡大再生産を生み出しかねない危険性であり、そのリベンジ婚の背後には、完璧な自分、それにふさわしい完璧な愛、そして、完璧な自分にふさわしい完璧な家族という存在しないものを追い求めていくという偶像崇拝の側面があるような気がするというお話もした。

       さらに、前回、教会の指導者に対する評価の問題から、カルト的な雰囲気が生まれかねないことについて触れた。そして、個人の価値が転換するときに、もともと自己評価や社会的評価の低い人が牧会者として、あるいは指導者として特定の社会集団から高く評価されるようになったときに、指導者の立場に立つ人、あるいは牧会者の立場に立つ人の中には、勘違いする人々も少なくないようである。それまで、自己評価や社会からの評価が低かったのに、突然周囲から評価されるようになったりすることで、「ひょっとして、俺ってスゴイ?」と勘違いして、全能感をもつこともあるのだと思う。

       教会の例ではないが、近代社会では、ヒットラーがそうだった可能性が高いと思う。ちょっとしたことで、社会的評価の低かった人物が突然社会的に高い評価を受けることにより、絶対的な権力をもってしまったし、また、絶対的な権力をもってしまってからというもの、それがさらにヒットラー個人の評価を高らしめたようにも思うのだ。

       ミーちゃんはーちゃんが思う、カルト風の環境は、こんな感じかなぁ、と思うことを少し書いておきたい。 

       まず、間主観的な根拠と関係なく、指導者の言説が異常に高い評価を受ける点である。そして、指導者の周辺の人たちも、批判的に考えることなく、その指導者の言説を高く評価する。そして、指導者の評価はさらに高まりとどまるところがなくなる。その評価の高揚に並行して、その指導者を批判的に評価しようとしたり、諫言したりする人々を批判する、場合によっては排除して、指導者に対する批判がそもそも生じない環境を作り出す。

       その結果、指導者は間違いを起こさないもの、指導者のすることはすべて正しいとされる。また、指導者の評価が過剰に高められた結果、指導者だけが知っている事実が存在するものと推定し、周辺の人物との間に知識差があるという情報の非対称性が想定される。この知識差が、また、指導者の権威をさらに高めていく。そして指導者は、この知識差を利用して、自らの権威を高めていく。そして、指導者とその権威は、結果的に絶対化していくのである。そして、だれもそれを止められない状態が生まれていく。こういうのがカルト的な雰囲気ではないだろうか、とミーちゃんはーちゃんは思うのである。

       こうなると、もう指導者は、無敵であり、やりたい放題である。それこそ、カルト風集団の指導者は、王としての地位を、そして、神の地位を自らのものにする神の御座の簒奪者になっていくのである。ヲタ用語としてのネ申(ネモウス と読みます)ではなく、自らを神とする偶像崇拝者になるし、その周辺の人物を偶像崇拝者もしていくのである。こうなると、指導者は経済的な搾取であれ、時間的な搾取であれ、労働力の搾取であれ、性的な搾取であれ、ありとあらゆるものを搾取することが可能になる。

       カルトがかなわないのは、様々な形で搾取される被害者が出ることもさることながら、被害者が被害者にとどまるのではなく、加害者になる点である。それも、加害者になるときに自分が自信たぁーっぷりに絶対善をおこなっているという美意識のもとで加害者になっていく点である。そして、本人たちは、全く無批判になっており、無批判になっているということすら考えられないことである。そこまで偶像崇拝が進んでいる点である。偶像崇拝は、宗教的な像や画像、他の神々などを礼拝することに限らない。神以外のものを神の御座に据えてしまい、そのことに感覚がなくなることなのである。


       サムエルIでサムエルは、王を欲しがるイスラエル人に向かって、あなた方に神がおられるではないか、なぜに神を王とせず、人間を王として求めるのか、と散々思いとどまるように説得したが、彼らは、王を求め、サウル王を得た、ダビデ王を得た、ソロモン王を得た、そして、多くの残念な王を得た。サムエルが止めようとしたのは、異国の王たちがそうであるようにイスラエルの王も、権力に魅入られ、権力者である自分自身を礼拝する偶像礼拝者になっていくことが見えていたからであろう。権力者カルト風になっていったのではなかったろうか。

       カルト風な雰囲気がキリスト者集団にとって問題なのは、自分たちの聖書理解の伝達が困難になるから困るのではない。それはごく表面的なことであり、自己中心的な発想だと思う。カルト的な雰囲気や関係が問題なのは、回復が非常に困難な被害者が出るということもさることながら、被害者が加害者になってしまう点なのだ。それも、自分は正しいことをしているという立場に自らを置きながら、被害者を増やしてしまうところなのだ。まさに、リベンジ婚の関係者が、自分は素晴らしいことをしていると思いながら(あるいは自分自身を思い込ませながら)、不幸の拡大再生産していくことなのだ。この点で、被害者が加害者になるという点でも、正しいことをしているという思い込みが他者を不幸に落とし込んでいくという意味でも、これらはよく似ていると思うのだが、どうだろうか。

       ミーちゃんはーちゃんが、リベンジ婚の記事を水谷氏のブログで読み、Facebook上でキリスト者同士の結婚サービスをしておらる方のつぶやきというのか、呻きのようなものを見たときに、あ、これ、共通しとるなぁ、と思ったのは、そこだったのだ。正しいことをしようとして、他者を不幸に巻き込んでいく、そのありようがきわめて類似しており、その根底に、偶像崇拝という問題があるんだなぁ、と気づいてしまったのだ。


       次回多分最終回は、以前のブログ記事にコメントをくださった『旅人』さんが下さった福音派になぜ、カルト的な教会や問題を起こす教会が多いのか、ということを触れていきたい。そして、上智大学の雨宮先生の講演記録を挟んだのち、福音派と呼ばれるキリスト者集団の発展の歴史とアメリカ史との不幸な関係、哲学的視聴などについても触れていく一連の記事としてまとめる予定。あくまで、予定は予定。

      評価:
      ティモシー・ケラー
      いのちのことば社
      ¥ 1,470
      (2013-01-17)
      コメント:キリスト者が抱えるこむかもしれないキリスト者特有の偽りの神々について書かれた優れた本。

      評価:
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      Zondervan
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      (2011-09-20)
      コメント:間もなく翻訳書が出るといううわさのある福音を見直すための本。

      評価:
      パスカル ズィヴィー,志村 真,福沢 満雄
      いのちのことば社
      ---
      (2005-04)
      コメント:キリスト教周辺のカルトの問題について触れた本。

      2013.03.04 Monday

      リベンジ婚と完璧な結婚と偶像崇拝とカルト(5)最終回

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         さて、これまで、リベンジ婚の問題と偶像崇拝、完ぺきな結婚と偶像崇拝、カルトと偶像崇拝の問題とそれぞれの類似性、そしてその根にある偶像崇拝の問題を取り扱ってきた。

         最後にこのブログにコメントをくださった『旅人』さんからのコメントをもとに関して考えたことを述べてこのシリーズを終わりたい。つまり、福音派での問題の多さと、その背景にある牧会者の偶像崇拝問題について触れたい。

         偶像崇拝をするつもりで、そして、他者からの搾取をするためだけに牧会者になるような悪質な事例は少ないと思う。しかし、そのような搾取を目的とした牧会者就任するような悪意のある事例もまったくないわけではないだろうが、例外的なケースとしてあり得ないとするわけにもいかないかもしれない。なぜ、このようなことが起きるかというと、いまだに日本が宣教地であり、何がキリスト教であるというスタンダードが存在していない、すなわちクリスティアンドムが存在しない、からでもあるように思う。

         特に、福音派と呼ばれるところでは、単立教会の集まりでもあるので、公共圏が存在せず、公共的な制約や公共的な抑止機構が働かず、個別教会が孤立化して、教会群からなる公共圏から脱出した場合には、外部からの介入はほとんど不可能になる。そもそも、単立教会の世界においては公共圏すら成立してない可能性があるように思う。

         公共圏、相互参照可能な公共圏、間主観的な対話が可能な公共圏が存在しないとなると、その教会は特定の理解に先鋭化していく可能性が高い。そうなると、また、指導者というか牧師の権威はいやがうえにも高まっていくことになる。

         ミーちゃんはーちゃんは、福音派というのか、原理主義者のグループに近いところにいる。ミーちゃんはーちゃんの関係者は、Theologian Trading Cardsのグループ分けでは、Los Angels Knights(Fundamentalists and Evangelists)に含まれる、J.N.Darby, F.F.Bruceなどが含まれるので、基本、ミーちゃんはーちゃんはファンダで福音派の人なのである。リベラル系の人ではない。まぁ、福音派でもリベラルでも、外部から張られたラベルなので、自分でそれを用いて自称するのもどうかと思うが、基本、ミーちゃんはーちゃんは福音派に分類される(一応アイルランド系に出自を持つ福音派であるが)。  

         1900年以降太平洋を渡って入ってきた北米経由で入ってきたキリスト者集団、特に福音派と呼ばれる人々は、聖書理解の中に終末理解に非常に関心があり、終末に関する切望感というか待望感を含むディスペンセイション神学が重要だという理解を含んでいる可能性が高いので、世の中のことに対して世のことと軽く見ている(ウエメセで見ている)部分がある。世間から自分たちを切り離し、自分たちが真理をもっていると暗黙に想定しており、自分たち以外を下に見る考える傾向があるので、他者からの批判を余裕をもって受け入れることが難しく感じる人々が少なくない。外部から、批判を浴びると、烈火の如く怒り始めたり、声のトーンが0.5オクターブから1オクターブ上がる人たちも少なくないらしい。あるいは、無視するとか。それはいかんだろうと思う。わからんことはわからんと認めるべきだろうと思う。

         その意味で、少しカルト化しやすい、自己中心、自己を高い所に置くのではないが、自己の聖書理解を中心に起きやすいという意味で、神の御座の簒奪者、あるいは自分の聖書理解を崇拝する偶像崇拝者になりかねない部分があるようにも思う。

         ミーちゃんはーちゃんがお付き合いいただいている福音派に近い牧師の皆さんとのお付き合いの限られた範囲の経験では、その皆さんは、他者の批判を浴びても、声のトーンがほとんど変わらない方が多いように思う。まぁ、偏固のミーちゃんはーちゃんとお付き合いできる皆さん方だから、それだけ人間的にも余裕がある方々であるからというのもあるかもしれない。

         他者から張られたラベルをそのまま流用するのもなんだが、議論の便利のために福音派の一部にいるものとして、「旅人」さんのコメントである、福音派に潜む問題というのは、公共性の欠如と、自分たちが真理をもっているという思い込みと自分自身への批判意識の欠如による自己と自己が持つ聖書理解に対する、偶像崇拝的な残念な傾向にあるのかもしれない、と思う。

         と思っていたら、上沼先生がご自身のブログで、こう書いておられた。大変ありがたい先生である。詳細は、このブログ記事をご覧いただきたい。
         
        伝統的には日本語訳のように「イエス・キリスト信じる信仰」と  言うことで、信じるこちら側の信仰のことを問題にしている。すな  わち、キリスト信じるこちら側の信仰で神の義が現されたか、  神からの義が私たちに付与されたと理解した。そして、そのよう  にとってきたし、さらに、それに基づいて説教をし、説教を聞いて  きた。ともかく、こちら側の信仰のあり方が大切になってきた。そ  の結果、自分の信仰を絶えず吟味することが信仰者の歩みになって  た。時にはそれは神経衰弱的な意味合いをもって、絶えず信仰の  り様を正し、自分を叱責することにまでなっている。当然他者の  仰をも批判することになる。福音的、聖書的という名のもとに。  しかし、KJがとっているように、神の義は文字通りの意味合い
        で「イエス・キリストの信仰・真実」によって現されたという  理解
        が、その時間的な流れは明確に把握していないが、この数十年  の間で徐々にではあるが、確実に広がってきている。自分なりにキ  リスト論を学んでくるなかで、その主張が折々になされてきたこと  を思い出す。

        という部分を読みながら、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、ということで、救いが自分の行為の結果になることが、実は福音派と呼ばれる人々にとっての偶像崇拝の入り口、いや裏口になっているような気がした。つまり、自分の信仰によって救われる、という聖書理解に高い価値を置くという偶像崇拝の入り口になっている可能性が高いような気がする。

         と思っていると、百姓とんちゃんというG先生が、ご自身のブログで、このようなことを欠いておられた。

         これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から――いや戦後の焼け跡の時代から――何も変わっていないのではないかと思わされます。時代とともに変わったものがあるとすれば、もしかしたら、(これもある種のアメリカの福音派の影響で)かつての敬虔主義的福音派が大切にして来た聖書の福音そのものの理解かもしれません。

        ということを書かれていた。ソースのリンクはこちら。そう、敬虔主義的福音の敬虔が落ちて、敬虔に含まれていた自己批判意識が欠落し、自分自身の聖書理解を神の御座に置き、神の御座を簒奪してきたことが問題なのかもしれない、と思ったのである。

         こういう残念な分析を書きながら、感じることは、人間における神の御座に何かを置かざるを得ない人間の残念な性質であり、それこそが罪なのであるのだと思う。その意味で、この罪の問題を最後まで付き合いながら、なぜだろう?というヨブのように疑問を神にぶつけ続けていくことが信仰であり、祈りなのかなぁ、と思う。

         みなさん、面白いコメント、非常に示唆に富むブログ記事、そして本の紹介、ありがとうございました。そして、偽りの神々を出版してくれた「いのちのことば社」さん、ありがとうございました。

         あ、無事に追われた。よかった。

        評価:
        ティモシー・ケラー
        いのちのことば社
        ¥ 1,470
        (2013-01-17)

        評価:
        ---
        Zondervan
        ¥ 2,050
        (2012-11-20)
        コメント:キリスト教神学者を整理するときに非常に役立つカード。結構コンパクトにまとまっていて、また収録範囲も広い。

        2013.03.05 Tuesday

        上智大学大阪サテライトキャンパスでの雨宮先生講演会の記録

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           2013年2月16日、大阪サクラファミリア併設上智大学大阪サテライトキャンパスにて開催された雨宮慧先生の公開講座についての記録を書いておこうかと。青字部分がミーちゃんはーちゃんの感想。

           雨宮先生は、コンピュータ嫌いだとどこかの本に書いてあったが、まず、配布された資料が縦書きであることに驚いた。縦書きの資料って。すごい久しぶり。A4なのに縦書きって・・・

          肝心のご講演内容ですが、ざっとまとめると、こんな感じかと。

           ダビデはサウル王を殺さずに済ませるが、王権を確立してのち、ある段階から弱いダビデになっていく。

           その弱いダビデになった原因は、バトシェバとの事件である、対アンモン戦をしている最中で、当時は、雨季(冬)は休戦するのが習いであった。
           ところで、ある日ダビデが昼寝から目が覚ますと、女性(ウリヤの奥さん)が水浴びをしているのをみたのだが、この女性が美しかった。もし、バトシェバが人妻でなければ后にすればよいのだが、人妻なので、后にしたのでは姦淫になる。そこで不倫へとつながっていく。

           そして、バトシェバが子供を宿した時にダビデは隠そうとして隠ぺい工作をする。隠す、というのは、自覚的に罪を犯した、という認識があったのだろう。そもそも、隠すというのは、自分では処理ができないから隠すのである。

           ウリヤは軍人(ヨアブの家来)であり、対アンモン戦に参戦している。そこで、ヘト人ウリアを呼び戻して、家に帰そうとする。しかし、ウリアは感づいていたかもしれない。ダビデは、生まれてくる子を、なんとしてもウリアの子供にしたかった。

           ほとほと困り果てたダビデは、ウリヤはヨアブに帰される。ウリヤが託されて帰った手紙は、ウリヤ自分を殺す場所に置かれる、という内容であった。それをもってウリヤは前線に帰っていく。

           この後、弱いダビデに変化する。そして、息子の問題行動に注意を与えることすらできないダビデへとなっていく。

           ダビデは、エルサレムの宮殿と思われる場所のダビデの部屋で過ごすことになる。今から考えれば、なぜ、これが宮殿とわかるのか、ような場所だったであろうが、当時の一般大衆とは違う部屋であった。
           ダビデの過ごした時代、部屋には、ほとんどモノは何もなかった。
           
           いまは、それぞれの部屋に技術的な知恵(エアコン、PC、電話など)が満ち溢れており、これらはダビデ時代とは雲泥の差ではある。

           そこで、バトシェバ事件をもう一度考えてみると、今でいう新聞だね、スキャンダルのような事件であった。確かに、技術的な知恵は進化している・・どう生きるべきかという知恵、分別は進歩していない。退歩しているのでは?とも思われる。


           このように、技術的な知識というのか知恵と分別を分けて考える視点、そのような視点から聖書を読んでいくことは大切だと思う。それこそ、分別だと思う。それを一つの日本語翻訳聖書にたよってしまうと、誤解する人は出るだろうなぁ、と思った。



           確かにIPS細胞が開発され、難病の人たちがその苦しみから解放される可能性があるものの、どう生きたらよいのかに関する知恵はさほど進歩していないのではないか。

           ヨブ記28は、おおむね紀元前5世紀ごろに成立したと考えられる。さらに、28章は後から追記された可能性が高いが、紀元前2世紀よりは古いものと思われる。
          まず、ヨブ記28章の1-11節では、神は技術的知恵について触れておられる。そして、これらの技術的知恵は、どう生きるかと無縁のものであり、宝石や資源がふれられている。

           また、7節では、猛禽、禿鷹、獅子という3種類の動物を並べて記載された上で、「だが人は・・・・」と触れられている。

           さらに、ヨブ記28章12節から、技術的知恵ではない生き方についての知恵あるいは分別について語られていて、宝石よりはるかに高い価値をもつ知恵がどこに供えられたかは人間は知らない。ということが示されている。

           ところで、知恵(分別)はどこから来るのか、ということについて、12節で「知恵はどこに見出されるのか?」と問いかけがされている。

           現在の技術的な知恵は日進月歩で変化しているものの、どう生きるかの分別としての知恵はほとんど進歩していない。この知恵は、人の目には隠されている。その道を知っているのは神である。神を恐れ敬うことがなければ、知恵を知ることがない。というのが旧約聖書の主張であるように思われる。

           では、新約ではどうだろうか。ルカ12:13-21を考えてみると、
          20節で神は、金持ちに対して、愚かな者よ。と述べている。知恵というのは、賢さであり、おろかということは、知恵がない、ということである。

           この金持ちにたいして、「今夜お前のいのちは取り上げられる。」と神が言っておられるが、現在に至るまでも、誰もこれは知らないことではある。

           ルカ12章13-21節のこの部分、一人称単数の表現が多い。「私の・・・・」、「私の・・・」「私の・・・」という所有代名詞が利用されている。これは、自分に対して関心のあり方を示しており、この私のという自分への関心がしつこいほど繰り返されている。

           自分の力によるいのちの獲得。自分のためだけにいのちを使う。ということの問題である。この金持ちは、問題解決能力はあったでしょうが、聖書の言う賢さは頭の関係とは無関係であったのではないでしょうか。

           この金持ちの頭の中には、神の場所がない。他者もない。神の場所を用意しないことが愚かさそのものなのではないでしょうか。

           どう生きるかについての知恵は、神のための場所を用意することであり、それがない限り解決はできないことだと思います。


           そうだよね。これこそ、偶像崇拝。神の座から神を追いだし、神の場所を他者に明け渡す。これこそ、分別としての知恵がないことだ、と旧約の知恵文学とイエスの金持ちのたとえはその通りであるなぁ、と思った次第。今でも、私の、私の、私の、と言い募り、自分が神になっている人は少なからずおられると思うし、キリスト者にもおられるのではないか、まずミーちゃんはーちゃん自身がそうでないか、とちょっと反省。だからこそ、ミーちゃんはーちゃんに派キリストが必要と思った次第。


          また、ヨブ記の28章に戻ると、27-28節での表現は、神のための場所を我々の中に作って生きる生き方を示しているように思う。

           これに関連して、知恵文学について話題が移って行きました。

           知恵文学は箴言・ヨブ記 ・コヘレトの言葉・続編の中では、知恵の書・シラ書(ベンシラの書)断片的に知恵の詩篇も含まれるものであり、今回は、知恵文学の流れを抑えることをしたい。そして、どう生きるかは、問い続けられる問題なのではないか。

           知恵のことばの収集はいつも行われてきたが、その収集が際立つ時があり、時期ごとに特徴がある。
           というのは、イスラエルの社会にとって、社会の在り方が以前と違っているとともに、必要とされる知恵の問題が変わってくるものと考えられる。

          第1期
           経験に基づく法則化から得られた知恵である。このとらえ方の特徴は、ブラックボックスとしての世界でとらえている。こちらであることをするとほかで別の事が起こる。(ミーちゃんはーちゃんは、そーいえば、バタフライエフェクトという映画や言葉があったなぁ、と思ってしまった)。

           典型的には、夕焼けなら、明日は晴れ。といったものである。理由はわからないけれども、経験的な知識としての理解があるものである。
           箴言10章以降がこれにあたる。これは、ソロモンの格言集であり、このような格言が収集された。いわば、ことわざ付き日めくりカレンダーのことわざの羅列みたいなところがある。
           ソロモンの格言集は、ソロモン時代の格言が集められたものであり、箴言10章以下の部分にもっとも古い古層がみられるのではないか。

          第2期
           夕焼けであったが雨が降った。というような、ことわざであっても、常に当てはまるとは限らない、ということをふくんだものである。これは、ある種の格言の崩壊を含む様な格言である。その意味で、ことわざの含む意味の喪失や、社会における共通価値の喪失、秩序の崩壊などを背景にしていると考えられる。典型的には、コヘレトのテーマ、ヨブ記のテーマなのであろう。

           経験則が成り立たない場合がありうる。ヨブ記の中に解決めいたものが書かれているように考えられる。

           社会での事象に意味が見いだせないじだいのものである。典型的には、捕囚時代であろう。紀元前6世紀にユダヤがバビロンにより滅ぼされ、バビロンに移動することになる。587-539  BCの現象の後にヨブ記、コヘレトは書かれている。

           それは、なぜ、こんな(捕囚のような)悲劇が起きるのか、それが関心の中心であったことと深い関係があるだろう。捕囚で、故郷を失う。外国での生活を余儀なくされた中で起きたことであった。

          第3期 シラ書、知恵の書
           人間の限界を認識するまで知的活動の結果得られた知恵文学である。知恵の尽くされたところで神と出会う。
           シラ書、知恵の書、箴言の1-9章 神を恐れることが知恵の始まり、などに知恵を尽くした揚句に神を見るというその信仰の姿が出てきている。

           という話を聞いているときに、どんどんと上階から音がするので、工事でもしているのか、と思いきや、実は上階でフラメンコの練習だったそうで、一時中断。

           外典の中のシラ書2世紀、知恵の書1世紀であり、新約の時代の直前にこれらの文書が書かれたとお話しになっておられた。

           箴言には表題が登場してくる。このように表題があることは、時代の異なる知恵文学が集められていることを示している。おそらく箴言の1章の1節は最も新しいものではないだろうか。というのは、第3期のスローガン、神を恐れることは知恵の肇のようなものが含まれているからである。箴言25章の1節は、この書が、知恵文学の一種のアンソロジーになっていることを示している。

           箴言10章からは、もっとも古い格言集で、ソロモンの格言集で始まる。まるで、日めくりカレンダーのことわざのようである。一種のお説教であり、誰もが聞きたがらない内容に対して、どうやって引き付けるのかの工夫として、イメージを使って聞かせよう、としているように思われる。たとえば、10章の1節2節は論理的な関係性はないし、3節も独立した格言である。ただし、4と5は勤勉という点で共通している。これらのように箴言は、前後の関連が極めて薄い。まさに日めくりカレンダー状態に近い。

           10章の13節では、1−6節と13節以降が対比され、構成をもって書かれている。知恵について触れた7-12節は、日めくりカレンダーよりは聞きやすくなった格言であり、愚かさについて、10節では第3期(紀元前2-1世紀のもの)のスローガンがふくまれており、9章以前は、それ以降に比べずっと手が込んでいる。

          第2期は、知恵文学の中で大変興味深いものであり、この中の代表作としてヨブ記を取り上げる。このヨブ記は、最初と最後に散文があり、真中に韻文があるというサンドイッチ構造をしている。

           散文で書かれた部分のヨブは優等生そのものである。1章の最後は、自らの子供が死ぬ中で、「私は裸で母の胎を出た。与えたもう神は取りたもう神。」といっている。3章から韻文が始まり、神にさけぶ、楯つく、抗議するヨブが出てくる。

           180度違っているが、どう説明すればよいのか。

           可能性の問題として、重病の患者との平行関係を見ることができるかもしれない。信仰深い方で重病になった方が、なぜ苦しまなければならないのか、という声を上げることがある。信仰深さと「なぜか」という問いである。同一人物に併存する信仰深さと神への叫びを見ることができよう。

           何が問題であろうか。韻文の構成は、はっきりしていて、≪ヨブの嘆き≫ −≪3人の友人との討論≫ − ≪ヨブの嘆き≫という構造をとっている
           計3回にわたって行われる、エリファズとヨブの対話の中で、エリファズは、病気になったことに対して、「どうして人は聖くありえよう。」「人間は罪びとだ。」「どこかで罪を行っているからだ。」と原因を言い立てている。
           神が間違うわけがない。罪の告白が、神の慰めを受ける道であり、エリファズは、ヨブに対して、間違いを認めて神の慰めをうけよ。と言っている。

           確かに、エリファズは正しいことを言っているがヨブの耳には届かない。これは、慰めるふりをして苦しめていることになっているのではないか。

           エリファズは慰めようとした。ヨブにとっては慰めになっていない。確かに、エリファズは主張は形式的には正しい。しかし、問題がある。それは、エリファズの考えは、応報主義 罪があれば悪い結果となるという考え方である。
           自分たちの見方の中でしか良しあしをとらえていない味方であり、何が悪いことなのかを常識的に処理している。常識的な見方に終わっている。神にとって悪と、人にとって悪いことを区別していない。

           最後の散文に、主は、エリファズに向かってこのように語る。お前とお前の友人に対して怒っている。あなた方は、正しく語っていない。神の不当性を訴えていたヨブの方が正しく語っていたことが指摘されている。

           この部分を聞きながら、自分たちの聖書に基づく生き方を考えた方がよいかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思ってしもうた。人間には理解できないことのほうが多い。しかしその理解できない人間に神を求める心、思惟を与えたのは神ご自身なのだ、と。

           我々が考えるべきことは、いろんなことについて、人間の常識で納めるのではなく、あくまでも神の思いは何なのか、ということを問い続けることに意味を見出す必要があるだろう。
           
           この前のナウエン研究会で取り上げたFinding Meaning of Our Life and Times(日本語では、あめんどうの『ナウエンと読む福音書』では、「今の生活と時代における意味を見つける」 あめんどうは、今年創業20年を迎えられたそうです。おめでとうございます。)の表現でいえば、不幸な事件(たとえば津波の被害とか地震の被害)に直面した人に対して、その人たちが悪かったからだ、という理解は、律法的な解釈、人間的な知恵での解釈であり、不幸な事件の存在から、神がすべての人に語りかけておられ、自分を含めてすべての人に神が必要なのだ、ということを考えることが、霊的に解釈するということなのだろう。

           マルコ6章で安息日にナザレで教えるイエスの姿がある。「この人はこのようなことをどこから得たのか。このような奇跡は何か。大工ではないか。」と多くの人がイエスにつまづいた。ここでの、 驚きは、からかうような驚きではない。良い意味での驚きである。そして、おどろきがつまづきへと人々を導いた。

           原因は、このことばの中にある。「どこからか、これはなんなのか。」というぶぶんである。この素朴な疑問や疑いを問い続けていれば、イエスの本質にたどり着いたはずではないかと思う。

           「この人は大工ではないか、我々の仲間だ」ということにつまづきの原因がある。自分たちの知識でイエスを理解しようとした。イエスは、もっと深い人であった。神もそうである。何が悪か、何が罪か、を自分で今の常識で処理してしまうと、神について神について正しく語らない。神について、正しく語るためには、何なのか、どこからなのか、を問い続けること、これが重要でないか。だからこそ、最後にヨブは正しく語ったと神は評価しておられる。

           常識の中で終わらせないこと、神をとらえないことが大事。そして、神について、問い続けていくことがだいじではないだろうか。問い続ける勇気が必要であり、常識的なところで処理し、慰めた結果、他者を苦しめるけっかにおわるのではないか、出来合いの答えで済ませないことが大切なのだろう。

           J.I.PackerのKnowing God(神について)という本を思い出してしまった。

           第3期の知恵文学はギリシア的なヘレニズムの快楽主義への批判として生まれた知恵文学であって、ギリシア世界の中でのユダヤ社会における知恵文学の流れがたどり着いた結論であると、そしてそこに含まれる「神を恐れることが知恵のはじめ」の含意の深さがあり、神を恐れることを問い続けることの大切さが示されているのではないか、というご主張が述べられただけで、時間切れで詳細は触れられずじまい。ちょっと残念でした。

          評価:
          J.I.パッカー
          いのちのことば社
          ---
          (1978-07)
          コメント:いい本なんですが…分厚いですが。

          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ¥ 2,415
          (2008-04-30)
          コメント:霊性を深く考えさせられるきっかけをもらった本。この本からミーちゃんはーちゃんのナウエン研究が始まった。

          2013.03.09 Saturday

          福音派が生まれたころの世界むかし話(1)

          0
             福音派の片隅でゲリラ活動のように、『福音』を語っている(私も騙っていることがあるかもしれない)ものが言うのもなんだが、ここのところ『旅人』さんというありがたい方から頂いたご指摘の中で、『なぜ、【福音派】の牧会者及び信徒にはゴチゴチの人が多いのか?』という疑問が寄せられたので、ミーちゃんはーちゃんが思うところを書いてみたい。

             このためには、『旅人』さんが語っておられるようなテキスト高等批評などを中心とした神学的リベラリズムへの批判的視線が含まれ、高等批評的な聖書の読みに対しての批判的視線が福音派の中で家訓のように継承されてきた事実を認めねばなるまい。確かに、福音派的な素朴な聖書の読みと、テキスト高等批評的な聖書の読みは共通点が皆無という訳ではないが、おそらく、相互に相手の聖書の読みはいかがなものか、と思っている部分はあるとは思う。

             こんなことを言うと怒られるかもしれないが、キリスト教の各派(カトリックであれ、プロテスタントのルター派であれ、カルヴァン派であれ、ツィングリ派であれ、福音派であれ、そのほか諸派であれ)その聖書理解は聖書から派生しているというのはあるかもしれないが、その聖書からの聖書理解とそれぞれの行動パターンや行動様式、聖餐式のスタイルなどは、それらが生まれてきた背景、それらが神学的思惟を深めてきた時代の社会環境や状況とは無縁ではない。

             福音派とは何か、もう複雑すぎて、何が何だか分からなくなっている。非常に多くのグループがあり、もうひとくくりにできないほどになっている。聖霊の働きを重要視するところから、かなり異言や癒し等の事象を限定的に考えるところ(ミーちゃんはーちゃんは、このあたり)もあるし、新約聖書にかなり重点を置く教会もあれば、旧約聖書の特定個所(典型的には、幕屋のところ、エゼキエル書、ダニエル書などの特定の個所)のみに関心をもつ人たちもいるし、旧約聖書を全般的に重要と考える人たちもいる。ブログ記事でふれているように、福音派の中でも旧約聖書から好戦的な態度をとる人たちもいるし、フレンド派やそのほかのグループのように戦争反対の立場に立つ人(ミーちゃんはーちゃんは、こちらの立場)たちもいる。

             ローマカトリックの場合であれば、それこそ解放の神学みたいなゲリラ部隊に近い人たちから、儀式性を強調する人たちまでおられるものの、ローマ教皇による一致という共通部分はある。

             しかし、福音派には、教理的な一致もなければ、対象に関する一致もなく、もう何が何だか、もう、ごった煮状態というのか闇鍋状態に近いところがあると思われる。

             ただ、いま日本で活動をするキリスト教福音派は、たいていの場合、アメリカ経由で来ている人たちからの聖書理解を継承している人たちが多いので、アメリカの福音派と呼ばれる聖書に絶対の価値観を置く人々、典型的には、ビリー・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムII世)、フ●ンクリン・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムIII世)、ウィリアム・グ●ハム(ビリー・フ●ンクリン・グ●ハムIV世)やファルウェル牧師、700ク●ブのパッ○・ロバー○ソン)などのテレビ伝道師系の人たちなどが含まれるであろう。

             参考のために、Theologian Trading Cardsで福音派が多く含まれるLos Angels Knights (Fundamentalists and Evangelicals)を紹介してみると、非常にミーちゃんはーちゃんの関係者が多い。歴史的な登場順に書いてみると、こんな感じになる。かれらのTheologian Cardsの記述の概略と共に紹介しよう。

            Edwards, Johnathan(1703-58)
             アメリカ史におけるもっとも重要な哲学者にして神学者、大覚醒と呼ばれるリバイバル運動で知られる。

            Finney, Charles G. (1793-1875)
             コネティカット生まれのアメリカの伝道家1821年のニューヨークでの劇的な回心によって信仰の道に入り、第2次大覚醒運動の中核的人物

            Hodge, Charles(1797-1878)
             19世紀の保守的な長老主義神学の一人、プリンストン大学神学校で奉職。後に学長。

            Darby, John Nelson(1800-82)
             元英国国教会の福音的な司祭。プリマスブラザレンの基礎を作ったグループの中では最も有名。(前千年王国主義)ディスペンセイション神学の父。

            Hodge, A. A.(1820-86)
             高名なCharles Hodgeの息子で19世紀を代表する神学者3年間インドで伝道者として奉仕したのち、プリンストン神学校で神学教育に当たる。

            Moody, D. L.(1837-99)
             19世紀におけるもっとも成功したリバイバル運動の伝道者。貧しいマサチューセッツのユニタリアンの家庭に生まれ、4歳で父をなくす。ボストンで靴の販売人をしている時に回心し、シカゴに移ってのち、伝道を始める。

            Warfield, B. B.(1851-1921)
             ケンタッキー州レキシントンの豊かな家庭に生まれ、のちにプリンストン神学校で教職に当たった中での改革派の影響力の強い神学者となる。

            Torrey, R. A.(1856-1928)
             初期の聖書原理主義の指導的な人物の一人。イェール大学で教育を受け、イェール大学で博士号取得。The Fundamentalsのエディタの一人。

            Seymour, William(1870-1922)
             ホーリネス運動とペンテコステ派の登場時の主要な人物の一人で、テキサス州ヒューストンのParham設立の神学校に学ぶ。Los AngelsのAzusa Street リバイバルで活躍。

            Parham, Charles Fox(1873-1929)
             メソジスト教会の中でのホーリネス運動に関与。アメリカのペンテコステ運動の初期の指導者の一人でその基礎を作った人物。

            Machen, John Gresham(1881-1937)
             長老派の神学者で、プリンストン神学校で新約学の教授。聖書原理主義的と近代主義の議論で保守的な人々の指導的役割を果たす。ミーちゃんはーちゃん家にはこの人のギリシア語の教科書と、キリストの処女降誕(翻訳)があります。

            Bruce, F.F.(1910-90)
             オープン・ブレズレン・チャーチの伝道者を父に持ち、アバディーン大学・ケンブリッジ大学・ウィーン大学で古典学を学ぶ。もっとも高名な新約学者の一人。

            Ockenga, Harold J.(1905-85)
             新福音主義者の指導者の一人、テイラー大学にて学び、のちにプリンストン神学校で学ぶ。その後ウェストミンスター神学校で学ぶ。フラー神学校やゴードンコーンウェル神学校の設立に貢献したことで有名。

            Henry, Carl F.H.(1913-2003)
             20世紀でもっとも高名な福音派の人物の一人。ロングアイランドのドイツ系移民の息子として生まれ、ジャーナリストとして出発するが、のちにWheaton大学で学ぶ。ビリー・グラハムやネルソン・ベルらとChristianity Today設立

            Graham, Billy(1918-)
             20世紀でもっとも影響力のある福音主義者の一人として認識されており、Wheaton大学で教育を受ける。世界的に伝道活動をしており、Christianity Todayの設立者の一人。

             まぁ、20世紀を代表する新約聖書学者(F.F.Bruce)さんの一人から、ペンテコステ派まで、まぁ、実に多種多様というか、ほんとこれだけ見てるだけで、何なんでしょうって、思っちゃいますよね。普通。

            次回、これらの歴史を踏まえて、まず。ジョナサンエドワーズと大覚醒などの背景についてのお話しする予定。


            評価:
            ---
            Zondervan
            ¥ 2,099
            (2012-11-20)
            コメント:神学者とその思想の分類や歴史を知って、整理して遊ぶには面白いかも。

            評価:
            青木 保憲
            明石書店
            ¥ 5,040
            (2012-06-14)
            コメント:いま、日本で一番詳しいアメリカの福音派に関する歴史書。ただし1980年代中葉まで。現代に至る部分がないのが大変残念。

            評価:
            上坂 昇
            明石書店
            ¥ 2,940
            (2008-10-31)
            コメント:基本的に福音派と呼ばれる人たちの概説と、その人たちが起こした政治的ムーブメントに関する本。前半半分読めば外観になるかも。

            2013.03.11 Monday

            「バラバとキリストの両方取り」としての「繁栄の神学」を読みながら考えた。

            0
               敬愛してやまない、水谷先生のブログ記事「バラバとキリストの両方取り」としての「繁栄の神学」を見ながら、少し考えた。福音派の歴史は継続中であるが、この話題、最近の話題と関係しているので、とりあえず、再度まとめておこうかと。

               水谷先生のご主張は先にあげたリンク先をご覧いただければ嬉しいが、それをミーちゃんはーちゃん風におまとめすると、

               「大衆志向型神学」
                 大衆のことを思いながら、大衆でもある信徒が聖書をもとに考えつつ、現在の世界と神とともに切り結んでいく神学

               「大衆迎合型神学」
                 大衆受けだけを狙い、安直、教会の玄関あけたら2分で信者(あ、これは玄関あけたら2分でごはんのCFのパクリですから)、信徒にものを考えさせない神学

              という感じかもしれない。これは、重要だと思う。

               大衆迎合型神学の怖い点は、水谷先生ご指摘のように、大衆社会の怖さでもある。オルテガ先生が大衆社会の怖さを指摘したように、大衆支配型の支配の社会の怖さは、いろんなところで課題として取り上げられている。そして、大衆迎合型神学は、一瞬で、大衆が担いだ指導者を重視し、異分子を排除する神学、すなわち、エリート(教祖・指導者)絶対化型神学に化けるところが怖いのだ。

               たとえば、ジョージ・オーウェルの1984(これ下にひいたマッキントッシュ登場の時のCFを広島弁吹き返したのがこちらwwww その映像を皮肉ったThe Simpsonsの映像がこちら。)や動物農場がある。シンプソンズの映像は、Apple Storeで働く人たちが、Steve Jobsと同等でもないにもかかわらず、自らをSteve Jobsになぞらえ、ウエメセで顧客をあしらっているApple Storeの店員たちに対して、あんたたちも、某国際事務機器会社とおんなじじゃん、と皮肉っているのである。最近のApple Storeの客あしらいはひどいらしい。Mac Userではないのでよくわからんが。その意味で、Apple StoreはSteve Jobs or Mac カルト企業みたいになってるらしい。

               また、大衆支配の恐ろしさを描いた映画でいえば、以下で紹介する、グッドナイト・グッドラッククルーシブルマジェスティック真実の瞬間(デニーロが出ているGuilty by Suspicion)などがある。あと、エルマー・ガントリーなんかもそんな節があるねぇ。

               最近読んだ本で面白かったのは、チウェ著 儀式は何の役に立つのか、であるが、同書ではCFと特定の人気番組(アメリカのスーパーボウル)との関係を分析したり、ベンサムの刑務所デザインの問題を取り上げながら、大衆的視線の集中の問題とそれによる人々の行動の誘導の問題を取り上げた本であった。ちなみに先に紹介した広島弁吹き返したマッキントッシュの吹き替えなしバージョンが最初に放映されたのが、スーパーボウルのCFとしてだったらしい。ちなみに、アメリカでは、どこぞの市警察が犯人逮捕のためにスーパーボウルのチケットが当たったという逮捕作戦に出て犯罪者の逮捕につなげたということもあるほど人気のあるゲーム。
               
               このように大衆的視線の集中によって形成される大衆の熱気というか狂喜が間違いをもたらした例は、オルテガ先生の指摘と同じ問題を生み出す装置の事例でもあり、カルト的なグループで形成される問題を生み出す装置と共通のものではないか、と思った。

               ナチスドイツ(社会主義を標榜。どこがや、という話はあるが)は、ある時期ヒットラーカルトであったし、ソビエト(社会主義を標榜)はスターリンカルトであったり、フルシチョフカルトであったりした。しかしこう考えてみると、第2次世界大戦期の独ソ戦は、イデオロギーの戦いではなく、[一応キリスト教的装いをした]社会主義 対[無神論的装いをした]社会主義だったようだ。wwww。マッカーシズムのころ、アメリカはマッカーシーカルトであったし、反共カルトであったように思う。

               我が国は、寛容な多神教国家であるから、こういうことが起こらなかったかというと、必ずしもそうではない。神国日本とか、神風が吹く一億火の玉撃ちてしやまん日本人ならぜいたくはできないはずだでてこいミニッツ・マッカーサー(といったからかどうかは定かではないが、戦争が終わって勝利者として本当に登場した)、といって、神国日本カルト化した経験が70年くらい前にある。おじいさん、おばあさんに聞いてみよう。近親者に戦争経験を聞ける方がいない方は、永井荷風の断腸亭日乗(一番の彼の名作とは思う)をお読みくだされ。まぁ、日本のキリスト教界もこの時期は黒歴史が少なくない。宗教団体法がらみで。

               とはいえ、大阪のおばちゃん文化は、強いらしい。この時期でも、「そんなん、竹やりでB29なんか打ち落とせるわけないやん。あほらしい。せやかて、非国民やゆうて、配給減らされるん、かなんさかい、お付き合いで、訓練でとこか。」というのりであったそうである。非常に実利的で健康的ではある。

               日本のキリスト教界の黒歴史を知ることももちろん意味がないわけではないが、それよりも、水谷先生がおっしゃるように、

              キリストだけでは不満で、バラバがもたらす自己実現や自分の王国建設に歩もうとしていないだろうか?と。「キリスト教バラバ派」になっていないか?と。オルテガの指摘の如く、聖書を読み自分の頭で考えず、指導者と言い伝えを鵜呑みにして、関心を浮遊させ、教えの風に吹かれながら、聖書が描く「群集」の如く歩んでいないだろうか?と。
              反省してみることは大事だろう。

               ところで、自己実現=自分の王国建設(そもそも、他者がなければ、自己もへったくれもないので、自己実現ということは意味があまりないのだが)は、その通りなのだね。自己実現、自己実現って言っているキリスト者は、他者と共に生きるということを忘れ、中学の卒業文集とか卒業アルバムに「目標は世界制覇!」と書くような厨二病患者とほぼ同じなのだな。これが。なお、ミーちゃんはーちゃんが、重篤な厨二病患者であることはこの際認める。

               つまり、自己実現、自己実現といっている以上、それは自分が中心で世界が回っているという天動説人であり、油注がれたキリスト(メシア)が本来持つべき王権の簒奪をしているのだね。これが。

               この、神、YHWH、油注がれたキリスト、油注がれたものとしてのメシア、油注がれた王としてのキリストの王としての主権の侵害こそが、聖書で言う罪なのではないだろうか。

               しかし、放蕩する神で示されているように、神は、放蕩するようにその愛を尽くし、愛しつくす、等身大で欠点だらけのミーちゃんはーちゃんを、全力で愛されたということなのではないだろうか、と思っている。

               この愛は、一方的なものであったことを忘れてはならないと思う。油注がれしアダムの末はナザレのイエスなのか、それとも自分自身なのか、あるいは、自分が属する信仰者集団の指導者なのか、をどう考えるのか、これこそ、信仰者にとって問われることのような気がする。

               パスカルは、哲学的反省(考えること)ということを説いたらしい。他人の尻馬に乗ることではなく。法政大学にお勤めだった、湯川佳一郎先生は、哲学通論の時間にそれを主張されておられた。
               
               みなさん、哲学的反省に励まれんことを。そして、神とともに、神を王として、神をキリストとして、神をメシアとして生きられんことを。それこそ、知恵文学と呼ばれる、箴言などで取り上げられた、「神を恐れることは知恵(分別)の初め」であり、知恵であり、分別であり、分限であり、自分が絶対者の前で限られたもの、欠点だらけのものでありながらも、神に愛されていることを知ること、なのではなかろうか。
               

              評価:
              ジョージ・クルーニー,グラント・ヘスロヴ
              東北新社
              ¥ 2,420
              (2006-11-22)
              コメント:マッカーシズムの風が吹き荒れたころの報道とは何か、ということを取り扱った作品。ジョージ・クルーニーのおとっつあんは、報道関係者だったらしいし。

              評価:
              ---
              20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
              ¥ 3,000
              (2008-03-19)
              コメント:セイラムの魔女事件に題材をとった名作。大衆支配の発生の恐ろしさを示しつつ、赤狩りへの批判となっていて、アメリカが変わってないことを示す。

              評価:
              ---
              ワーナー・ホーム・ビデオ
              ¥ 1,500
              (2009-07-08)
              コメント:ジム・キャリーがおふざけをさせながら、大衆支配社会となっていったアメリカについて強烈に皮肉った作品。

              2013.03.12 Tuesday

              キリスト教会自虐ネタ 「北の宿から」の替え歌「閉鎖教会から」

              0
                 ある方のFacebookのコメントへの応答を書きながら、キリスト教界自虐ネタを思いついたので、 ちょっと書いておこうかと。非正規投稿である。

                 あの超有名な演歌、【作詞】阿久 悠【作曲】小林亜星、都はるみ嬢の「北の宿から」の替え歌で、「閉鎖(とじた)教会から」。

                --------------------------
                オリジナル版の歌詞
                 『北の宿から』はこちら



                あなた変わりは ないですか

                日毎寒さが つのります

                着てはもらえぬ セーターを

                寒さこらえて 編んでます

                女心の 未練でしょう

                あなた恋しい 北の宿




                吹雪まじりに 汽車の音

                すすり泣くよに 聞こえます

                お酒ならべて ただ一人

                涙唄など 歌います

                女心の 未練でしょう

                あなた恋しい 北の宿



                あなた死んでも いいですか

                胸がしんしん 泣いてます

                窓にうつして 寝化粧を

                しても心は 晴れません

                女心の 未練でしょう

                あなた恋しい 北の宿


                --------------------------------
                かえうたバージョン
                 『閉鎖(とじた)教会から』


                みなさん、かわりはないですか。

                日毎人数 減ってます

                来てはもらえぬ 会衆を

                寒さこらえて まってます。

                牧師心の 未練でしょう

                会衆恋しい 牧師です。



                爆音まじりに 暴走族(ぞく)の音 ※

                意味ねーじゃんと 聞こえます

                聖書ならべて ただ一人

                讃美歌などを 歌います

                牧師心の 未練でしょう

                信徒恋しい 牧師です。

                   ※暴走族の音(ぞくのおと)
                    ぱらりらぱらりらぱらりらりー と聞こえる暴走族の走りながら流す警報音




                神よ閉鎖し(とじ)ても いいですか

                胸がしんしん 泣いてます

                窓をふいたり 床掃除

                しても心は 晴れません

                牧師心の 未練でしょう

                教会恋しい 牧師です。



                ------------------------------------------------

                 こんな演歌の替え歌がジョーダンとして「がははは」と笑い飛ばせるように、こんな替え歌演歌を歌う必要が出る前に対策なんか、考えたほうがいいかもね。まぁ、うちの教会も、実はかなり深刻な問題なのだが。

                 まぁ、前回の記事ではないが、大衆に迎合するのはよろしくないが、大衆に温かな目を向けることは大事だと思うのだな。大体、ナザレのイエスは、「群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって彼らを深くあわれまれた。」(マタイ9章)ともあるように、人々に温かな目を向けることも大事だと思うのだな。
                評価:
                石田 学
                キリスト新聞社
                ¥ 1,680
                (2012-06)
                コメント:「閉鎖教会から」を歌う前に、教会として考えるために手掛かりが得られるかも。

                2013.03.13 Wednesday

                福音派が生まれたころの世界むかし話(2)

                0
                   アメリカ経由のゴチゴチの福音派が生まれた背景を簡単にまとめるのが、このシリーズの記事であるけれども、その前に、このアメリカの福音派の思想に影響を与えた建国の父祖たちの歴史を追わないと、なぜ、この人たちがゴチゴチなのか、ということが分かりにくいと思うので、少し追っかけてみたい。

                   旅人さんのコメントにもあるように、もし、「聖書は、誤りなきことば」とするプロテスタント派であるとするのであれば、かなりのキリスト教の各グループが含まれてしまうので、福音派は、もう何がどうなっているのか、闇鍋状態であることと等しいと思います。その点で、さっぱりわけがわからない状況になっているので、一応、Theologian Trading Cardsに沿って、何回かにわたって、歴史的な背景をある程度わかりやすく書いておいてみようかと。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんはアメリカ史が専門(一応、明石紀雄先生のアメリカ史概説の講義は受けたことがある)でもないし、アメリカキリスト教史が専門でもない、神学校に通ったことすらない技術屋なので、誤りが含まれている可能性が多分にあるが、ご意見をいただいたら、それは都度修正をするということで、ご対応したい次第。お気づきの点はコメントにてお願いしたい次第。

                   福音派の定義は、まぁ、聖書をどう考えるのか、という点であるのでは、という旅人さんの疑問のようであるが、それだけとも言えないので、実は困るのですね。そういうわけで、福音派をとりあえず作業仮説的に定義するために、一番簡単なZondervan発行のTheologian Trading Cardsでの登場人物に限るようにしようかと。

                   まず、Theologian Trading Cardsの中で、福音派で一番古いのは、アメリカの福音派の祖父みたいなJonathan Edwardsである。

                   Jonathan Edwardsはアメリカの改革長老派の牧師兼神学者であるが、彼は、ニューイングランドに入植したピューリタンたちの社会で、その2世、3世、4世が出始めた時代の説教者であり、神学者であり、前回も触れたように、大覚醒と呼ばれるリバイバル運動との関連で知られる人物である。

                   いきなりジョナサン・エドワーズをやってもいいのだが、その背景をまずご説明しないと、なぜ、そうなるのか、ということが分かりにくいと思うので、今回は、ジョナサン・エドワーズ前史をしたいと思う。

                   では、ピューリタン、ピリグリムという人たちがどういう人であったのか、ということを知っておくほうがよいだろう。ピューリタンは、ごくごく荒っぽく言ってしまうと、イングランドの国教会に対して異議を唱え、英国内で肩身の狭い思いをしたカルバン派を中心とする国教会から分離しようとした人々で、その一部が、イギリスを出てアメリカなどに移住していった。この移住していった人々を、アメリカ史では、ピルグリム・ファーザーズと呼ぶことが多いようだ。そもそも、非常に自分たちの信じるキリスト教(カルバン派的なキリスト教)を守ろう、そこに価値を見出した人たちが、その価値を保持できる形でコミュニティ形成を目指したのがニューイングランド入植地なのですね。これが。

                   つまり、もともと、ガチガチの人たちが、ガチガチの人(非常にきよい生活にこだわり、悪(ないし悪魔)が入り込まない様なきよい人)たちだけの社会を作ろうとして、ボストンやマサチューセッツ州を中心とした地域であるニューイングランドと呼ばれるところに希望を求め、キリスト者のみからなるコロニー(植民地)を作ろうとする中で、チャーターと呼ばれる市民憲章をもちながら、生き延びていこうとした、という神話がアメリカ人にしみ込んでいる。つまり、アメリカの国家の成立において、ガチガチである(倫理的に高潔であり、高い道徳律を保持している)ことが特定の価値をもっているみたい、ということなのである。この種の伝統は、旧東部13州でいまだにあるように思う。特に、うそつきは嫌われる。

                   以下の写真は、コロンバイン高校銃乱射事件(よくご存じでない方は、マイケル・ムーア監督作品 ボーリング・フォー・コロンバインをご覧あれ)で有名になったコロンバイン高校の正門にある学校の標語である。Home of the Rebels(反逆者たちの住み家)というのが学校の校是らしい。日本の学校では考えられない標語であるが。最初にこの標語を映画ボーリング・フォー・コロンバインで見たときは、正直ぎょっとした。

                  コロンバイン高校の標語は、こちらを参照。

                   あけっぴろげにHome of the Rebels(反逆者たちの住み家)と普通の高校が校是として書くあたりが、アメリカの建国の歴史と深くかかわっているのだね。つまり、アメリカにメイフラワー号にのって、大西洋を渡ってきた人たちは、大英帝国の圧迫に逆らって、というよりは、当時の英国国教会の堕落に異議を公言し、異議申し立てしたあげくに迫害され、亡命してきた人たちというか、そこを飛び出してきた人たちなのだな。そもそも、この段階で、高潔な精神性ゆえのRebels(反逆者たち)だったのだ。これが。その癖、ニューイングランド(自分たちこそが真の英国精神を体現している場所であるという意図もないわけではなさそうだが…)とか自分たちが住む地域につけるっていう、複雑というよりはむしろ屈折した残念な人たちであること、さらに、自分たちの父祖の国としての大英帝国と独立戦争として武装蜂起することになる。とはいえ、いまだにアメリカ人は、大英帝国に対する微妙な憧憬がどこかにあるように思う。

                   おそらく、この高潔性が、実は、旅人さんがおっしゃる「掟」というか、聖書の文言最優先とつながっているように思う。その意味で、スターウォーズのDeath Starに向かって突入するような無謀さを持つヒロイズムが、アメリカ人としては好まれるように思う。

                   このような無謀さに関して、独立戦争時のことを題材にしたのが、最下部のリンクで紹介するパトリオット(日本では航空自衛隊が運用中のPACIII、パトリオットミサイルのことではない。メル・ギブソン演じる映画。カリフォルニア人だと、ペイトリオットに発音は近い。The Patriot)で理想化された姿で語られていて、アメリカ人は、これが独立戦争の実際だ、と思い込んでいる。ま、アメリカ人のためのアメリカ人による(メル・ギブソンは、一応アメリカ人・オーストラリアで映画デビュー)アメリカの映画であるからしょうがないんだけど。大英帝国側の見方は全く無視された映画である。

                   イギリスを離れた人たちが作ったメイフラワー憲章の精神がニューイングランドの末裔であるアメリカを覆っているという意味で、そして、大英帝国から武装蜂起によって独立を勝ち取ったという意味で、かれらは、Rebels(反逆者たち)なのである。そしてそれを称揚する神話がアメリカ合衆国の精神として存在するように思う。 

                   ちなみに、アメリカの銃社会を支える憲法修正第2条は、人民がミリシアと呼ばれる人民軍を作る権利を保障した条文であるが、それから派生して、人民が武装することの権利保障の背景としてもちいられるが、その背景には、アメリカ独立の際に武装ほう起した人民軍の背景がある。

                   アメリカ建国の神話の一つであるが、11月のThanksgivingのたびに繰り返される合衆国の建国の神話だけにアメリカ人の精神に毎年のように繰り返し繰り返し刷り込まれているように思う。その意味で、自分たちは、ピューリタンであるかも、というような思い込みだけが刷り込まれている可能性が高いように思う。ドイツ系のユダヤ人の知り合いがいるのだが、彼らの不満は、今のアメリカ社会と公教育が非常にプロテスタント的なキリスト教の影響を強く受けている点である、といっておられた。その話を聞きながら、そうだろうなぁ。The Peanuts(スヌーピー)も、The Simpsons(シンプソンズ)でも、繰り返し触れられる。

                   そもそも、亡命したり、武器をもって武装蜂起するほどのゴチゴチの人(他人に対する許容度の低い人)たちが作った国家がアメリカ合衆国の精神とアメリカのキリスト教に還流して流れているように思うのだなぁ、これが。

                   なお、独立戦争の時にフィラデルフィア(クラフト社のクリームチーズではない)であわてて作った、軍旗がアメリカ合衆国人が愛してやまないことになっている国旗(Stars and Stripes)になっている。The Patriotでは、このでかい旗をもって走るシーンが出てきて、なかなか印象的。

                   その意味で、アメリカ人にはそもそもがちがちの人たちというのか、自分たちをRebelsと呼ぶ、思い込みの強い、屈折した人たちが多いのは間違いない。それが高校の看板に掲げるほどの理想なのだから。

                   ということで、ジョナサン・エドワーズが生きていた社会の背景とジョナサン・エドワーズが生きたニューイングランドで醸成されたアメリカの建国の精神について、なぜ、アメリカ人が自称Rebelsと呼び、西部劇やアウトローが大好きなのか、についてのご紹介。この辺、ビリー・グラハム(ウィリアム・フランクリン・グラハムII世)のものいいにも影響しているように思う。

                   このような歴史的背景が、アメリカ経由の福音主義神学に大きな影響を与えているのだが、こういうことをあまり分かりやすく書いたものがないので、ちらっと書いてみようかと思ってます。コメントいただけたら、対応致します。少し、お時間いただくかもしれませんが。



                  評価:
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                  Zondervan
                  ¥ 2,087
                  (2012-11-20)
                  コメント:これまでの神学者やキリスト教関係者の関係が分かるトレカ。並べ替えができたりするので、便利。

                  評価:
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                  ジェネオン エンタテインメント
                  ¥ 1,800
                  (2003-08-27)
                  コメント:コロンバイン高校銃乱射事件とアメリカの住社会の背景について描いたドキュメンタリーの名作。マイケルムーアがうっとうしいっちゃうっとうしいが。

                  評価:
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                  ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
                  ¥ 1,480
                  (2001-02-23)
                  コメント:アメリカ人が見た、アメリカ独立戦争時の一つの理想形としての一家の姿。

                  2013.03.16 Saturday

                  福音派が生まれたころの世界むかし話(3)

                  0
                     さて、いよいよ、アメリカ福音派の人たちががちがちになった歴史的背景をお話ししていこうと思う。まずは、最初の登場人物、ジョナサン・エドワーズである。

                     ジョナサン・エドワーズは、アメリカ史におけるもっとも重要な哲学者にして神学者、大覚醒と呼ばれるリバイバル運動で知られる。

                      あるブログ記事によると、以下のような記述があった。

                      His sermon “Sinners in the Hands of an Angry God” is one of the most famous sermons in American history. In fact most high school students are required to read this sermon in their high school American literature classes.

                     ジョナサン・エドワーズの『怒れる神の御手の中にある罪人』(ををを、ウィキペディアに概略紹介がある。)は、アメリカの説教史でもっとも有名な説教の一つで、実際多くの高校では、高校の英文学のクラスの必読文献になっている。


                    ということだそうで。アメリカでは、高校生があれを読むのか。うーん。まぁ、レトリックとしては、一流だし。

                     ざっとこの人について話していくと、前回お話ししたピューリタンとして、英国から逃げてきた人たち(カルヴァン派)として、真面目に生きてきた人たちで始まったニューイングランドであったのだが、それも2世3世になるとその子孫の内には、ピューリタン的な生き方に耐えられない人たちや、その思想に同調できない人たちが社会に増加していく。ありていに言ってしまえば、カルヴァン派についていけなくて、信仰すらあるのかないのかよくわかんない人たちが出てくるのだね。その人たちを教会員としてどう扱うのか、ということが問題になってくるんだな。これが。

                     日本だと、何で、こんなことが問題になるの?と疑問に持たれる方も多いが、1700年ごろのアメリカには区役所とか市役所とかがないので、地域社会=教会だった時代が長く続いたのだね。出生、死亡などを半ば公的に処理する組織は教会しかなかった。地域社会=教会であるという以上、教会員であることとキリスト者としての適格性が一致しているかどうかが問題になるのだね。教会員(=自分たちのコミュニティの成員)としてのキリスト者としての妥当性が問題になるのだね。地域に住んでいるのだけれども、キリスト者の妥当性(回心の告白が十分でないなどの問題)に関してかなり疑わしい行為をする人たちをどうするのか、ということが問題になってきたのだね。

                     具体的には、回心が怪しい人たちが聖餐式と呼ばれる儀式に参加できるかどうかが問題になる。最近、どっかの日本○○教団でも未洗礼者の陪餐問題を根拠に牧師をやめさせられた、やめさせてない、労働者としての牧師かどうか、ということを問題とした裁判になっていたような気もしないでもない。まぁ、牧師と教団間に雇用関係が生じるか、というと法解釈としてミーちゃんはーちゃんは厳しいと思うが。

                     ジョナサン・エドワーズの母方のおじいさん(牧師)は、まぁ、道徳的にまともで、神学上も正統的で、教会の権威に従うなら、教会の成員(自分たちのコミュニティの成員)にし、教会の社会への影響力を確保できるようにしようとしたらしい。要するに、オープン・コミュニオンと呼ばれる方式を取り、社会通念上まともなら、教会構成員として認めようとしたらしい。それに対して、ジョナサン・エドワーズはどうも不満だったようで、コミュニティの成員は、キチンと回心した人だけにすべきだ、と言い出したようです。

                     その中で、基準を下げ、未回心者の陪餐はちーとまずいんでないか、と言い出したのが、ジョナサン・エドワーズなのだな。なお、ジョナサン・エドワーズは、イェール大学の卒業生で、リバイバルの研究者であったらしい。論文なんかもやたらと書いているらしい。宗教経験の心理学から、社会に及ぼす影響までしていたらしい。(詳しくは、はじめてのジョナサン・エドワーズp56)

                     その結果、リバイバルっちゅーのは、異様な神がかり状態でもないし、宗教的な精神錯乱でもない、ということをジョナサン・エドワーズは言っていきます。ジョナサン・エドワーズのリバイバルの理解は、狂喜乱舞するような情念に基づくリバイバルの理解ではなく、あくまで個々の個人の理性に基づいた神との対話だったようです。

                     ただ、はじめてのジョナサン・エドワーズを見る限り、ジョナサン・エドワーズが活躍する直前には、かなり情熱的、熱狂的なリバイバルのイメージが広く広がっていたようで、また、急速に広がり、急速にしぼむということがあったようです。それをどう考えるのか、に思想家として取り組み、それに関して彼が書いた文書が広くいきわたったということが、ジョナサン・エドワーズをリバイバルの守護者のような位置に置いてしまったようです。

                     また、メソジスト運動の出発点となった(とはいっても、本人は国教会の枠組みにとどまることを選んだ)、ジョン・ウェスレーなどの交流とその影響も『はじめてのジョナサン・エドワーズ」では触れられていました。 

                     このお方、のちにイェール学長になるようです。

                     ハーバードにしてもイェールにしても、プリンストンにしても、アメリカの大学ってのは、もともと牧師養成所を背景に持つところがやたらと多いのですね。もちろん、オックスフォード、ケンブリッジ、世界最古のイタリアのボローニャ大学にしても、神学部が出発の時点で大きな役割を果たしているわけです。今、日本で神学部というのは、あまり相手にされませんが、本来的には、非常に重要な役割をかつてヨーロッパでは担っていたわけです。マクグラス先生のご指摘にもあるように、科学(Science)は自然神学をその起点としているわけで、本来は対話的なのですが。

                     さて、アメリカの建国のその出発の段階で、リバイバルという色が非常に強く、そして、アメリカでもっとも影響力の強い説教者であり、哲学者でもあった、ジョナサン・エドワーズがリバイバル研究者であり、リバイバルを何とか理性的に理解しようとし、多くの好意的な評価をしていった文書を残したことは、アメリカ社会においてのキリスト教に影響を残したように思います。つまり、アメリカのキリスト教の中にリバイバル的な思想がロックインされていってしまったように思うのです。

                     そして、さまざまなアメリカ発というよりかは、アメリカで変容したキリスト教が日本にも訪れました。

                     それらに関しては、北の国の百姓とんちゃん(とんちゃん様、著書名書いたら、名前明らかにしてるような気が・・・)様のブログ記事の福音派キリスト教とフランクリン・グラハム伝道大会やと福音主義の聖書学:R.P.マーチンの訃報に接していう記事や敬愛してやまない上沼先生が「ヴィトゲンシュタイン、再び」という記事でお書きになっておられることを総合すると、アメリカのキリスト教文化の形成の初期の段階で存在したリバイバル概念が大きく影響した福音主義とリバイバルが過去何度も起き、その度に変容したのがアメリカ由来の福音主義でその中にいろんなものが混じっている、そして、ホロコーストの反省を経てかなり大きく変容した西ヨーロッパ系(グレートブリテン島周辺諸島群を含む)福音主義があり、その経験の結果、アメリカ系の福音主義とはかなり味わいが違うもののようなっている、というあたりになるのではないか、と思うのだね。ルター派やカルバン派などの過去の宗教改革を含めてリバイバルといってよいかというと、かなり疑問だが、キリスト教文化を大きく変容させ、神と人々との関係性を人々に再考させたという意味では、ジョナサン・エドワーズ風にいえば、宗教改革そのもの自身、リバイバルといえるのかもしれない。ただし、宗教改革はリバイバル運動の一種だ、という仮説はミーちゃんはーちゃんの作業仮説でしかない(あ、いのフェスもリバイバル運動の亜種くらいだとは思いますよ)。ドイツ語が全くできないミーちゃんはーちゃんとしては、ドイツ系やオランダ系の神学者は、名前は聞いたことがある位なので、「何それ、おいしいの?」と言わない程度の知識しかない。

                     その意味で、アメリカ型のキリスト教の中にロックインされたリバイバル思想(民衆的熱狂を一部に含む)を無視しては、福音派は語れないのかもしれない。これは、意外と見落とされている点であるかもしれない。

                     ミーちゃんはーちゃんは、ウェールズ人の宣教師(元中国インランドミッション宣教師)と仲が良かった関係で、D.M.ロイドジョンズの聖書理解とかなり近しいものがあるが、リバイバルと言いながらも、ドクターと呼ばれたD.M.ロイドジョンズ(元外科医)のリバイバル(最下部参照)と、アメリカ系リバイバルとの違いを感じる。この差は何なんでしょう。

                     アメリカ建国(といっても東部13州)の段階で、ピューリタンというかなりガチガチの頭の人たちによって13植民地が建設され、そして、ニューイングランドができ、そこでガッチガチの人たちの2世3世の生活が変容し、信仰生活が緩んでいく中で、そのたるんだ信仰生活の引き締め運動というのか、反動運動というのか、元に戻れ運動の中で、リバイバルが起きた、そして、それが後世のアメリカ型キリスト教徒そしてその影響を強く受けた日本の福音派にも影響をなお与えているということを認めたほうがよいかもしれませんねぇ。

                     その意味で、アメリカの福音派を考える上で、リバイバルというのは大きな役割を果たし、その運動の分析と大覚醒時代を生きる神学者として置かれたジョナサン・エドワーズが、その後のアメリカの福音派、そして、太平洋戦争後大挙して日本に太平洋を渡ってやってきたアメリカ系の福音派とその影響をたっぷりと受けた日本の福音派に多大なる影響を与えていることを指摘して、今回の記事を閉じたい。

                     はじめてのジョナサン・エドワーズ、森本アンリ先生の訳文もあり、非常に読みやすい本です。このシリーズの日本語版、バルトとアウグスティヌスも持ってますが、いずれも大変よろしいと思います。

                      


                    評価:
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                    コメント:アメリカキリスト教史に多大な影響を今なお与え続け、アメリカ福音派の源流の一人といって過言ではなかろう。その人物と入門的な伝記。森本あんり先生の翻訳も読みやすい。

                    評価:
                    D.M. ロイドジョンズ
                    いのちのことば社
                    ---
                    (2004-10)
                    コメント:大英帝国人(ウェールズ人)が書いたリバイバル感。アメリカ発のリバイバルとは少し雰囲気が違う。ただし、ジョナサン・エドワーズのリバイバル理解と似たものがある。

                    評価:
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                    20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
                    ---
                    (2008-03-19)
                    コメント:セイラムの魔女事件をもとに民衆的熱狂の問題について考えた映画。New Englandの思想的背景がある程度わかりやすく映像として描かれている。

                    2013.03.18 Monday

                    福音派が生まれたころの世界むかし話(4)

                    0
                       さて、ここのところ、福音派が生まれたころの昔話をしてきたが、

                      福音派が生まれたころの世界むかし話(1)
                       主要登場人物の紹介

                      福音派が生まれたころの世界むかし話(2)
                       ジョナサン・エドワーズの前史 アメリカ社会の成立とリバイバル

                      福音派が生まれたころの世界むかし話(3)
                       ジョナサン・エドワーズ アメリカ社会にロックインされたリバイバル思想

                      今日は、第4回目ということで、

                       チャールズ・フィニーというおじさんと、チャールズ・ホッジという二人のチャールズの紹介をしたい。ミーちゃんはーちゃんは、北米系改革派長老主義教会系の友人はいるが、改革派長老主義キリスト教群はあまり詳しくないので、チャールズ・Fことチャールズ・フィニーとチャールズ・HはTheologian Trading Cards程度の紹介にとどめておこうと思う。

                       同カード(発行会社は、Zondervanという会社で、ミーちゃんはーちゃんがお気に入りの本を何冊か、特に、King Jesus Gospelなども出している会社なのだな。聖書も何種類も出している)の情報によれば、チャールズ・Fはこんな感じ。

                      略歴

                       アメリカのエバンジェリスト Charles Grandison Finneyはコネチカット州に生まれ、彼は、法律関係の仕事を始めた。しかし、ニューヨーク西部で1821年の劇的な回心を経験する。そののち、牧師としての道に転向する。Finneyは第2期大覚醒の中心的な役割を果たす。

                      重要性
                       Charles G. Finneyは1824年にニューヨーク州のOneidaにある長老教会から任命を受ける。リバイバリストとしての彼の評価は、米国東岸の数多くの教会を回るうちに確立された。ニューヨーク市のある教会のパスターを数年にわたり務めた後、1832年Oberlin College(日本の桜美林大学と関係があったはず)の神学教授に就任する。1851年同校学長就任。Finneyはカルバン派の神学のもとで教育を受けたものの、それを否定し、会衆派(Congregationalist)の立場へと移る。高名な奴隷解放論の支持者となる。Finneyはinnovator(改良論者)と考えられており、彼のリバイバリストとしての高名なセリフは、新しい基準(new measure)であり、具体的には、Anxious Bench(回心者の場所 回心したことをいう場所。ビリー・グ○ハムなんかが回心したって言わせて前の方に呼び出して座らせるような場所)やProcted Meeting(1週間とか長期間にわたる伝道)燃え上がるように攻撃的な説教壇からのスタイルでの伝道等を含む。

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                       またぞろ、でた、でしょうけれども、ここでもリバイバル運動は、かなりの影響力を持っているのだね。

                       このチャールズFの説教は、松岡修三的な暑苦しさをもった熱のこもった説教スタイルで、また、圧迫面接(新入社員の面接で、相手にガンガン攻めこんで、精神的ストレスをかけ、対応力を見る面接法)のようなスタイルの説教で、回心を迫ったもののようである。この系譜に属するのが、今でいえば、ビリー・グ○ハム(ウィリアム・フ○ンクリン・グ○ハム2世)とか、フ○ンクリン・グ○ハム(ウィリアム・フ○ンクリン・グ○ハム3世)、テッド・ハガードなんかでしょうね。

                       尚、ミーちゃんはーちゃんは、この手の説教を聞くのが大変苦手。暑苦しくって。もっとあっさりできないのか、と思う。この手の暑苦しい説教の伝統、チャールズFにあったのね。ミーちゃんはーちゃんは、この手の暑苦しい説教をほとんどしないので、ミーちゃんはーちゃんの説教はつめたいと言われたり、学校の授業見たい(昨日も司会の人に言われてしまった)と言われたりして、ディスリまくられている。まぁ、暑苦しいものが嫌いなので、しょうがない。

                       最近はめっきり見なくなったが、1週間の連続福音大会とか、昔は良くあったのだが、そのご先祖様もチャールズ・Fだったのね。うちのキリスト者群でも昔は良くあったらしい。巡回説教者が回ってきて、暑苦しい話を連夜するというスタイル。最後にこの手にミーちゃんはーちゃんが参加したのは、タコマ(タクーマに現地人、ワシントニアンの発音は近い)というワシントン州で1997年が最後。日本では、最近ほとんどうちのキリスト集会群(よそ様からはブラザレン派と呼ばれております)でも、3日とか4日連続の夜の福音大会はほとんどなくなったなぁ。そういや、東京都内のキリスト集会でこの2年以内にやっているのを確認したのがミーちゃんはーちゃんが確認したのが最後。

                       なお、チャールズFは原稿持たずに説教したらしい。この原稿持たずに説教する形態は、アメリカではやっているのと同様に、うちのキリスト者群でも、原稿作らずに説教するスタイルをとる人々はおられる。ミーちゃんはーちゃんは、まったくの原稿なし、準備なし、はいかがなものか、と思うが。何を隠そう、ミーちゃんはーちゃんも、原稿持たずに説教した時期はある。これは、事前原稿に縛られずその場の聴衆との関係を見ながら説教ができるという利点がある半面、ともすれば、『内容がいい加減、調査不足、いい加減な物言いが多くなる。床屋政談に近くなる』というのがミーちゃんはーちゃんの経験からの印象なので、今はかなりきちんと準備はする。ミーちゃんはーちゃんのキリスト者集団には、説教原稿なしで聖霊に導かれるままに語る、と豪語する豪のお方もいるが、その方にはできるのかもしれないが、ミーちゃんはーちゃんには無理ゲー。

                       説教原稿のアイディアには、かなりの時間、6-8時間(通勤時間にしていることが多い。3〜4通勤日の往復時間)をかけて、イメージが鮮烈なうちに、プレゼンテーションツールに図として構造を書き込んでおく、というのがいつものパターン。ただ、完全原稿を作り、一言、一句あまさず転記なんてことはしないタイプではありますが。会衆の様子を見ながら、当意即妙の部分を残すためでもあるけれども。

                       それと、原稿読んでるタイプの説教って、どうしても原稿に縛られるので、聴衆の雰囲気がつかめないのと、聞いててライブ感が無くって飽きる、聞き手が眠くなることが多いという残念な事実もあるように思う。文字を必死になって追うあまり、間違えずに読もう、間違えずに話そうという気持ちが先に立って、説教が生きてないってのかなぁ、みているほうがつらくなるような悲壮感が漂う説教、って人もいる。まぁ、説教者もいろいろ、説教もいろいろである。

                       Ministryの以前の剛の説教のDVD、結構よかったんだが、もう一度やらないかなぁ。

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                      また、チャールズ・Hはこんな感じ。

                      略歴

                        19世紀の保守的な長老派の神学者でもっとも有名なひとりであり、チャールズHはプリンストン神学校教授として1822-1878の間奉職。1851年より終生神学校学長を務める。1878年死去。

                      重要性
                       19世紀の合理主義の台頭に反してチャールズHは彼の息子のA.A.HodgeとB.B.Warfieldとともに、保守的な改革派長老主義神学の護教に努める。1825年にPrinceton Reviewを創刊し、同誌は、19世紀における改革派的及び聖書原理主義的な文化的及び神学的な思想に光を当て続けてきた。チャールズHは数多くの論文と書籍を著したが、その著作には、What is Darwinism?(1874)や組織神学、などが含まれる。

                       アメリカ人は機械モノが異様に好きな人である。蒸気機関とか、自動車のエンジンとか、飛行機とかの仕組みが好きな人たちなのだな。個人的にアメリカで出会ったときに、DDayで活躍したP51ムスタングをレストアして個人の趣味として飛ばしているおばさんにカリフォルニアで出会った。こういう機械モノ大好き、機械化・システム化を志向する性格の人が多いアメリカという国家的背景のなかで、19世紀に伝統的な改革派長老主義的な価値を守るために論陣を張ったのが、このチャールズHらしい。プラグマティズム大好き、合理主義大好きなアメリカ人のなかで、カルバン派的な概念を維持しようとしたのが、この方だったらしい。

                       多分、この方の影響などもあり、後のスコープス裁判(創造論と進化論を教育の問題としてすり替えた裁判)へとつながっていくのだろう。詳しくはもうちょっと調べないとわからないが。チャールズ・ホッジの本は、残念ながら読んだことがない。

                       この前、あるキリスト者の友人と話していたのだが、大西洋の西と東で、2項対立的なものの捉え方をするかしないか(特に設問のたて方として、科学か聖書かみたいな設問のたて方をすることにおいて)の違いがあるという話をしていた。そして、なぜ、それが生まれるのか、ということも。

                       よくわかってないのであるが、大西洋の西側のアメリカ合衆国では、2項対立的にとらえがちであり、大西洋の東側のヨーロッパではそこまで2項対立的ではないのはなぜか、その話をしながら思ったこととして話し合ったのは、アメリカ合衆国では、過去の大陸の歴史的な背景を切り捨てたい人たちが建国した建国の経緯が含まれていることに比べ、ヨーロッパは多様な考え方をする人々と共生しなければならなかった歴史的経緯が含まれること、ホロコーストを自分たちの問題として強く経験した欧州人と、ゆるくしか経験し得なかったアメリカ合衆国人などでの違いがあるのではないか、といったことをかなりゆるく話し合ったような気がする。しかし、それを学術的、文書記録に基づいて証明することは非常に困難だが、面白い設問だよね、ということも話し合ったのだね。

                       とはいえ、この一連の記事で紹介しているように、米国系の福音派が米国独自の歴史の中で構築されていった中で、福音派にある諸概念や、そこから派生する内在的な問題をこうして書いていると、なるほどなぁ、と思うことがある。

                       次回は、英国系(というよりはアイルランド系、ついこないだSt Patrick's Dayだったが)福音派で、ミーちゃんはーちゃんとも関係の深いJohn Nelson Darbyという方をご紹介する予定。


                      評価:
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                      Zondervan
                      ¥ 2,099
                      (2012-11-20)
                      コメント:ざーっとキリスト教の歴史を並べながら勉強するのには、とっても便利。自分は興味しんしんだけど、このカード上にない神学者がいても怒らないように。

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