2013.02.01 Friday

1月のアクセス記録はこんな感じでした。

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    ご覧頂いている皆様、ご覧いただき、ありがとうございます。

     1月のアクセス数は、10016アクセス でした。

    なお、上位5位以内の記事は、

     「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本  アクセス数 182

     お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(3)アクセス数 180

     お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(1) アクセス数 174

     お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(2)アクセス数 155

     「大阪のクラブ体罰事件」を考えて思ったこと アクセス数 132

    でした。

    ご愛読、ありがとうございました。引き続き、ご訪問いただけたら、と思います。
    2013.02.02 Saturday

    哀悼の意の表し方と儀式としての葬儀と旗

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       この前、見るともなく朝のニュース番組を見ていたのだが、アルジェリアの事件でなくなられた方々の遺体が日本の政府専用機で帰還された際のシーンを見て、がく然とした。

       何がって。

       遺体を納めた棺が輸送用のゴムバンドにまかれたまま、それも、移動用のトレーラ用の台車にそのまま載せられていたのである。その時の写真がこれ。



       えぇぇぇ。もうちーとまともな搬送方法はなかったのかのぉ、と思うてしもうた。

       遺体に献花するのは悪くはないし、頭を下げるのも、まぁ、日本人の感覚としては当然であろうが、もうちょっと工夫の仕様があったのではないか。少なくとも社旗で包むとか、霊柩車横付けとは言わないが、車両を横付け、という工夫はあったと思うが、輸送用台車の上に輸送時の転落防止ネットで包んだままですかい。

       羽田空港が忙しく、あまり長時間駐機できない、というのもあるだろうが、なら、成田でも、セントレアでもよかっただろう。横田は滑走路が短すぎる。少なくとも急ごしらえの台でもおいて・・・、と思うた。

       この搬送の感覚は、犠牲となった人たちに対して、会社と社会へのその貢献に対して、そして、遺族に対して、あまりにもむごいと思ってしもうたのだな。

       自衛隊のグランドクルーと搭乗クルー(多分)は一応整列しヘルメットや帽子をとっている。また、社長以下お歴々の皆様も正装はしている。しかし、である。余りに、無粋というのか、儀式の持つ意味、文字以上に表現する見た目の持つ意味の感覚がなさすぎるように思う。

       通常の日本人には、確かに、旗(Flag)の使い方の感覚がない人が多い。うちの息子などは、高校生になるまで、なぜ国民の祝日に市バスや鉄道各社が車両に小さな旗を掲げているかはおろか、車両に旗が掲げられていることにすら気がつかなかった。orz Flagは敬意を表するためや、哀悼を表するため、高度な表現儀礼があるのであるが、それが多くの人々に知られていないのが、大変残念である。

       確かに、まぁ、旗の使い方は、大航海時代前後に形成された、いわゆるヨーロッパの海洋諸国の間で形成された洋上の暗黙のルールを基礎においている。そして、ローマ以来の歩兵の伝統も、それの下にある。

       船舶が入港(領海に侵入)するときには、その国に敬意を表して、トップマストにその国の国旗を掲揚する。船舶尾部にあるポールには、その船の船籍保有国の国旗を掲揚し、どの国の船かを明示する(明示しない場合は、非友好国の船舶か海賊とみなされ、攻撃対象にされてもしかたがない可能性がある。ちなみに海賊ですら、どくろマークの海賊旗を掲げる。ちなみに、英国海軍は、一時期海賊とあまり違わない時期があった)。

       半旗(ポールの高さ半分での掲揚)は、哀悼の意の表示である。このように異常な表現をすることで、自分たちの意思の表現をするのである。

       このあたりについて、最下部で示す「告発のとき(In the valley of Elah)」や映画「クイーン(The Queen)」でのダイアナ死亡の際の英国王室の対応が参考になるように思う。そういえば、以前は、献花したり、ぬいぐるみ置いたり、ということはなかったはずだし、あれは確かにちょっと異教的な印象がないわけではない。だれか、書いてたよな。そういえば。

       なお、兵庫県及び兵庫県警は1月17日には、半旗を掲揚し、悲しみの日であることを告げ知らせている(出先は知らない)。皆様、今年の3月11日の警察署の前や都道府県庁、市区町村役場の旗の掲揚方法を覚えていてほしい。

       そして、国旗ないしはその組織の旗を降ろす時は、降伏のしるしであり、脱出のしるしでもあるのだ。これに関しては、『英雄の条件(The rule of Engagement)』などが非常に印象的ではある。

       日本では、本葬というか葬儀の場では、かなり丁寧な対応がなされるが、それ以前は実は意外にかなり残念な対応が多い。つまり、みんなが見る儀式としての葬儀の場では、かなり丁寧な対応がなされるのに、それ以外では、割とざっつい対応のような気がするのは私の気のせいだろうか。

       実の父親が亡くなったときや教会の信者さんが亡くなった時にも、何度が死亡されたときから葬儀までの大半を仕切ったことがあるのだが、へぇ〜と思うことも多かった。葬儀業界の裏側を見たような気がした。葬儀業者の皆さんが悪いわけではないのだが。どうも日本の葬儀は、『お葬式』という儀式に力が入りすぎていて、その『お葬式』という儀式以前の部分とのギャップが大きいような気がする。

       このあたり葬儀前のプロセスをどう考えるのか、ということも、キリスト教会にとって重要かもしれない。この辺については、キリスト新聞社のMinistryの2010年第7号や、水谷先生の過去記事「葬儀を宣教の機会と考えるのは「助平根性」か?」が参考になるような気がする。葬儀は教会のためにあるのではなく、まず第一に遺族のためにあると思うのだが、それは、私の勘違い、なのだろう。






       
      評価:
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      ポニーキャニオン
      ¥ 3,599
      (2009-01-07)
      コメント:もともと、イラク戦争などの帰還兵のPTSD問題を扱ったものであるが、最後の旗の掲揚の仕方についてのトミー・リー・ジョーンズの解説が印象的。確か海兵隊員という設定だったと思う。英語名In the Valley of Elah

      評価:
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      ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
      ¥ 3,700
      (2001-01-26)
      コメント:紛争国におかれた大使館とそこから大使を脱出させるときの交戦規程に関する軍事法廷ドラマ。海兵隊のお仕事と旗を降ろす意味がよくわかる。

      評価:
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      エイベックス・エンタテインメント
      ¥ 1,300
      (2007-10-24)
      コメント:これ、イギリス人の変化とそれに耐えきれない英国王室の感覚の微妙さがおもしろい。もう、チャーチル時代のイギリス人はいないし、英国における葬儀のあり方の伝統をかいま見ることができる。

      2013.02.02 Saturday

      上智大学大阪サテライトキャンパスでの講演会のご案内

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          このブログは、キリスト新聞社や上智大学の御用ブログではないが(キリスト新聞社のMinistryの御用ブログであることは認める)、今回もまた、大変面白そうな講演会が(というよりは、ミーちゃんはーちゃんが追っかけをしている)雨宮先生により、大阪で開催される、ということらしいので、参加することにしようかと。

         場所:上智大学 大阪サテライトキャンパス (サクラ・ファミリア)
         日時:2月16日(土)13:00-14:30
         費用:2500円

        上智大学のサイトからの説明の引用

        第一部「聖書が説く知恵」(雨宮慧)
         聖書の知恵は主に「自然や人間社会を含む世界秩序に関する知恵」を表します。その探求の古い段階では、箴言10章以下の「ソロモンの格言集」のように、体験に基づく知恵が語られましたが、前6世紀の捕囚後になると、秩序の存在への懐疑を特徴とするヨブ記やコヘレトの言葉が現れます。
         しかし、前3世紀以降、人間の限界を認識するまで知的活動を徹底する一方で、その極限において神に出会い、「神を畏れることが知恵の初め」と説くシラ書や知恵の書が現れます。この流れを踏まえて、聖書の知恵の特徴を考えてみたいと思います。


        詳しくはこちらをクリック。

         しかし、雨宮先生のお写真が、大変残念…。もっといい写真があるでしょうに。Ministryなんかで撮影してもらった・・・。(と、Ministryを宣伝しておこう)

         講演会の様子については、後日報告予定。


        雨宮 慧
        カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
        ¥ 1,890
        (2009-08)

        2013.02.04 Monday

        チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会

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           この前、チャーチホッパーの話を

           お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(2)


           お一人様クリスチャンと元クリスチャン問題とブラック教会を考える(3)


          というブログ記事で書いていたら、親切な、そして、敬愛するK先生が以下のブログ記事をご紹介して下された。もともと、ご紹介いただいた記事は、Christianity Todayのサイトではある。大変ありがたい先生である。K先生、ありがとうございます。本当に、キリスト教関連の人間サーチエンジンのような方である(あ、鹿たんもだよぉ)。K先生、ありがとうございます。


           日本語変換しながら、紹介しながら、ミーちゃんはーちゃんの思うところを述べていきたい。赤字部分は、ミーちゃんはーちゃんのコメント。

          -------------------以下日本語変換-----------------------

          チャーチホッパーの弁護として

           チャーチホッパーは、多くの牧師たちをいらいらさせる存在であり、牧師は彼らのことを消費者、と呼ぶ。教会の指導者たちは、彼らを、成長が十分でなく、そこの浅い、そして、霊的な成長にとらえられた極めて深刻なケースの人々で、鳥肌が立つような感覚を求める人たちであるとされる。彼らは、ある自由参加形式の教会のもちよりパーティに参加するかのように、会衆(教会)をより好みするような関与意識に薄い人たちなのだろうか?

           まぁ、確かに、アメリカでは教会数も種類も多いので、消費者的な、いいとこどりをする薩摩の守、いやフリーライダーのような、いいとこどり大好きみたいな人たちがイメージされることが多いみたいですね。アメリカで、チャーチホッパーって聞いたら、そんな感じ。クリスマス・イースター(クリスマスとイースターは教会に行く)クリスチャン、クリスマスクリスチャン(クリスマスだけ教会に行くクリスチャン、イースタークリスチャンはあまり聞かない。)も案外多いしね。ま、これだと、神社に元朝参りに行くのとあまり変わんないかもしれませんね。確かに。(ちなみに、イースターはアメリカではイースターエッグハンティングのイベントがある教会も多く、このイベントをやると子供がやたらといっぱい来るらしい。カリフォルニアで通っていた教会で、このイースターエッグハントの手伝いもした。)

           チャーチホッパーはあらぬ濡れ衣を着せられているのだ。そして、我々は、これらの信者たちについて、真剣に考え、なぜ、彼らが長期的な関係を地域の教会員の人々と長期的な関係を結ぶに困難を覚えているのかを考えるべきであろう。

           これはそうだよね。チャーチホッパーと言え、彼らのすべてが真剣に考えていないというわけではないのはその通りである。チャーチホッパーの皆さまの一部がそうであったとしても。チャーチホッパーの皆様は、彼らが意図的にあっちこっちに動いている場合もあるだろうけど、止むに止まれず、チャーチホッパーになっている人も少なくないのは、その通りであると思う。日本では、これができないところも多いので、そうなるとお一人様クリスチャン化が進む。

           確かに、あるチャーチホッパーの人々は、消費者タイプというパターンに当てはまる人々もいる。彼らは、一つの会衆にこころから関与するのではなく、さまざまな教会を自分自身が必要と思うに従ってがぶ飲みしようとする人々である。神話的ともいえる『完璧な』教会を見つけようとして放浪している多くの人々がいるのだ。

           まぁ、あきらめがつくまでは、完璧な教会を求めて、西へ東へ、流れ流れて、フライング・ダッチマン(さまよえるオランダ人)ならぬフライング・チャーチマンになっちまった人たちが、いるのであろう。それこそ、フライング・チャーチマンという伝説ができるかもしれない。日本では、スーッと消えていくという意味でフライング・チャーチマン化していると言えよう。

           CSルイスの悪魔からの手紙ではこのことについて、信者の生活に関して破壊行為をどのようにするかを悪魔の未熟な手下のコーチする部分で、このことを少しふれている。『もし、人が、教会に行く習慣が抜けないとしたら、次にすることは、彼が教会の評論家や鑑定士になるまで、近所の教会すべてを回るようにすることだ』と。

           専門家は、教会のリーダーにこれらのさまよえる人々をどのように包摂すべきかを提案しているし、ほかの人々は、牧師たちにどのようにしてパラサイト(寄生者)のようなチャーチホッパーたちを避けることを薦めている。何年もの間、私は牧師たちがチャーチホッピングを人格的な欠陥や、キリストの弟子となることに失敗していること、成熟のなさ、信仰の緩みなどを理由とするの聞き続けてきた。

           チャーチホッパー、パラサイト信者説。私が言ってんじゃありませんから。アメリカで、そう言っている人がいて、そういうパラサイト信者を避けるように教えている人たちがいるってことで。水谷潔先生命名による「子泣きジジイ」信徒と似ているかもしれない。でも、チャーチホッパーは少し違うような気がするのだ。一部には、霊的成長の過程にある人々もいて、そのコミュニケーションができなくて、苦しんでいる人々もいないわけではないと思う。一応、もし、そういう読者がいれば、以下に紹介するロイドジョンズ先生の霊的スランプをお勧めする。名著である。

          しかし、興味深いことには、教会の会衆が動いているのではない。多くの研究が、指導的にある牧師の平均在職年数が、2年半から、7年程度であり、牧師がその教会を去る理由は、その教会から出た信徒と同じ理由が反響しているのだ。

           この部分を読んだときは、わが目を疑った。
          おい、まじかよ、と。

           確かに、アメリカの教会での牧師の移動は非常に激しい。教会数が多かったり、開拓しているのもあるとは思っていたのが、牧師もアメリカではこらえ性がない人たちが多いということか。多分。アメリカ人は、基本、こらえ性がない人が多いのは確かである。安易にペインキラーにたよったり、クイックフィックスと呼ばれる安易な解決策が大好きな人たちでもある。だからこそ、マニュアル本が受ける文化なのだね。そして、プラグマティストである彼らは、それをやってしまうのだ。そして、うまくいかないと他のマニュアル本にたよるという。

           そういう意味では、2年半から7年で、辞職というこの数字はアメリカならで、はかも。日本では、3世代にわたって同じ教会の牧会をしている教会というのもあるらしいけど。うーん、お隣の国かと思うてしもうた。この話を聞いたときは・・・。一子相伝もすごいが・・・。いやぁ、アブラハム。イサク、ヤコブ・・・か。

           底の浅いそして、成熟していない確信をもち、教会の分裂や混乱に直面した時、いなくなるような信仰をもった信徒は教会にもいる。身体的生活のストレスがもっとトラブルをうみだすようになり、チャーチホッピングするよりもそれらが価値あるようになると、彼らは混乱をやめ、チャーチホッピングをやめるのだ。

           物理的に電車に乗れなくなる、だれかに依存しなければならなくなる、となると、そりゃ、チャーチホッピングもできなくなりますしねぇ。まぁ、これでよい、と思えるようになるまで、探し続けるのも人の世の常、ですしね。この辺が、『消費者』(スーパーをはしごしてよいものを探し回る人たち)という言葉につながるのかも。

           牧師たちが教会について積極的に関与するよう、会衆に言うことでもあるヘブル10章24-25節の文脈が我々の究極の救いである。『また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。』これは、教会から離れた生活に移行しようとする人々に対して向けられた人であると同時に、私たちが、チャーチホッパーとなっている人々を支援するのを助ける方法も示している。

           教会に集うという関与は、確かに、霊的な成熟のしるしであるかもしれない。しかしながら、多くの教会に定期的に行く人々の多くは、家族や他の社会的な理由から、教会への帰属意識を持っているにすぎないのだ。教会を今なお探し回っている人々の背景には、さまざまな経緯があり、それが、前の教会での対立的な関係であったり、彼らが隠そうとするかもしれない、過去に道を踏み外したことや、他の多くの理由からそうしているのである。

           この聖書の箇所は、わがキリスト者集団でも、それぞれが所属する教会に行くべし、という根拠として用いられることも多いのだが、このヘブル書の表現からそのような解釈をとりだすためには、次の様な操作というのか、内容が意図的でないにせよ、加えられているように思う。

           「
          ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、」の中に勝手に

           「ある人々のように、自分が今いるこの教会(集会あるいは教派・教団)にいっしょに集まることをやめたりしないで、」

          と意識的にあるいは無意識的に太字下線付きの部分の文言が挿入されて語られることが多いような気がする。ま、うちは、基本使徒信条を知らない人が多いので仕方がないが・・・。まぁ、この種の誤解というか、十分な聖書理解が欠如しているが故の誤用(ミーちゃんはーちゃんに言わせると)は、使徒信条を言うところでもあるのかしらん。

           使徒信条の中には、我聖なる公同の教会を・・・信ず、があるはずなのに・・・。聖なる
          公同の教会がいつの間にか、自分とこの教会だけをさすものになっているあたりが・・・

           
          私と夫は、33年間の結婚生活で、チャーチホッピングの時期を過ごしてきた。確かに日曜日の朝、あちこちの教会に行き歩くことやハイキングに行ったりすることは、より楽しい経験であったりしたのだろうが、私たち夫婦のコミュニティを求める気持ちや、意味ある集団的な礼拝は、私たちの新参者としての疲労を毎度打ち負かすものであった。

           私には、現在、何人もの、チャーチホッパーと呼ばれる人々がいる。これらのさまよえる人々は、ある場所に留まりたいと望みながら、彼らは、定着する教会となるとそこを見つけるのに、非常に厳しい困難を考えているのだ。

           そうなんだよね。こういう何処にも属せない信徒さん、フライング・ダッチマンならぬフライング・チャーチマンやフライング・チャーチウーマンの皆さま方が、こちらのブログにもいらっしゃるみたいだし、また、別ブログにも時々いらっしゃって、遊んでいってくださる。

           はい、うちのブログは歓迎してますよ。どなた様も。こういうフライング・ダッチマンならぬフライング・チャーチパーソンの皆さまももちろんでございます。皆様は、下の画像のような状況に不幸にして陥っておられ、そこから、脱出しようともがき苦しんでおられるの方も少なくないことはよく存じ上げておりますので。はい。また、適当に遊んで行ってください。このブログを見ている限りは、『信仰の破船』とか言って、皆様方のことを裁いたりはしませんから。フライングダッチマンは、ちゃんと、水中航行も水上航行もできるスーパーシップですから。ただし、すーっと音もなく現れ、音もなく消えていくという意味でも、日本の場合はフライングチャーチマンかも。詳しくは、ディズニー映画、パイレーツオブカリビアン 三部作をご覧下され。

           それに、個人的に、リアルな環境の中で、そういう方ともお付き合いが何人かございますし。いろいろ、そういう方にお聞きしてますと、でも、フライング・チャーチパーソンとなられてしまった方だけに問題があったわけでもないし、教会や他の教会だけに問題があったわけでもございますまい。不幸な一時的なことだと心得てござるがゆえに、ご安心を。



           上の写真は、映画パイレーツ オブ カリビアンに出てくる、フライング・ダッチマン

          次のような人を考えてほしい。
           以前の教会の中での人々の権力闘争に巻き込まれ、燃え尽きてしまった信徒のリーダー、これまで訪問したほとんどの教会で、悲しみを経験し疑いを抱いた人々、ある人々は一回だけ訪れるであろうし、ある人々はそこにしばらくとどまることもあるだろう。こういう人はあきらめていないのだ。健全な(教会という)コミュニティという中で回復が起きることを知っているからなのだ。

           この話を見ながら、ジャン・ヴァニエの「小さき者からの光」(あめんどう)のp57にある記述

          私たちは、自分自身が愛され、支えられない限り、他者を思いやったり、他者にかかわりを持ち続けたりすることはできません。これは不思議なことですが、人間の現実なのです。

          を思い出してしまった。クリスチャニティ・トゥデイのブログ記事を書いた人が言いたいのも、人は愛されて初めて、愛される存在であることを感じ、そうして初めて、他人を愛する存在になる、ということを言いたいのだろうと思う。
           そして、ミーちゃんはーちゃんは、みなさんがどこかの教会というコミュニティ、それも比較的健全なコミュニティの中で、支えられ、愛され、回復されることを願っておりますです。はい。

           遠方にある郊外の家族的な教会に行った、子供のいない20代のカップルは、二つの教会にいったものの、それらで『新来会者』としてみなされることから逃れられず、それぞれ6か月はとりあえず試してみた。しかし、彼らは、彼らが子供がないという事実から、部外者扱いされたのだ。その場所では、子供こそが、その教会内の会衆の中に入り込んでいくためのくさびであったからなのだ。

           これもあるよね。おばさん信者さんたちが新婚カップルを捕まえては、まだ子供ができないのはおかしい、と言い出したり、好奇や偏見の目で見る人たちもいない訳ではない。さまざまな要因が働いてそうなっているのかもしれないのに、それをそのまま受け止めないのは、どうなんだか、と思う。それこそ、俗悪なうわさ話、ではないだろうか。個人で、俗悪なゴシップを発行するのはおやめくだされ、と申し上げたい。そんなことをする暇があるのなら、神の前に静まり、だれにも言わず、神の前に祈って差し上げてほしい。そのカップルのために。それが、覆う愛というものではないだろうか、とミーちゃんはーちゃんは思うぞ。

           身体的、精神的障害を持つ特別な助けのいる10代のシングルマザーは、彼女が離婚したということから受け入れてもらえる教会がない。彼女が教会探しをやめてしまえば、簡単なことだろう。しかし、彼女は、霊的なサポートを求めているので、できる限り彼女は教会を訪れ続けるのだ。

           これに関して、子供たちがうるさいという理由のために教会に行けなくなったご家庭のことを思い出してしまった。具体的に何例か存じ上げている。非常に残念だと思う。イエスは、この小さきものを、とおっしゃったように思うのだが、それは、ミーちゃんはーちゃんの聖書理解が不足しているのであろう。多分。あと、礼拝をユダヤ教の教会の様にする教会も。子供が騒いでうるさいから、別室にするという。それって、なんなんでしょうね。

           このような害毒を含むような(toxic)教会でのネガティブな経験にも関わらず、孤独にもかからず、受け入れる気持ちや牧会上の配慮が不足する教会にもかかわらず、これらの友人たちは、家となるべき教会を見つけられるという希望を以て、教会巡りをしているのだ。

           ミーちゃんはーちゃんじゃないです。Toxicと書いたりしているのは。おまわりさん、この人です。ぜひ、この人のサイトで確認してください。
           しかし、この部分を読みながら、思い出してしまった。クリスチャニティ・トゥデイのブログ記事を書いた人が言いたいのも次のようなナウエンのことば(ヘンリ・ナウエン 『わが家への道』 工藤信夫訳 あめんどう)ではないだろうか。

           最も狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称してつかわれる力です。「宗教によって傷つけられた」という人のおびたたしい数に私は圧倒されます。牧師や司祭による心ない言葉、あるいは、人を裁くような言葉、ある主のライフスタイルを取る人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けた数知れない心の傷。こうした傷は、この世から拒絶されたことにより、長く人々の心に残ることが多いものです。
           また、別居、あるいは離婚した多くの男女、あるいは大変な数の同性愛者たち、さらには多くのホームレスの人々が、神の家族である教会の兄弟姉妹から歓迎されてないと感じ、神のもとを去って行きました。愛をもって迎えられることを期待したのに、実際は宗教の持つ力にさらされてしまったのです。(pp.27-28)

          うーん。あ、これ、ナウエンが言っておるのですよ。

           彼らは、共に集まるのをやめているのではないのだ。彼らは、1世紀の散らされていたヘブライ人の信者たちに向けられたこれらのことばの精神を完全につかんでいる教会を探しているのだ。

            そう、ナウエンが言う宗教の持つ力に人をさらさない配慮をもった教会を探しているのが、フライングチャーチマンのようなお方たちの一部にはおられるのだろう。

           ルターは、『教会を見つけようとする人は最初に教会を見つけるべきだ。何処にキリストがいるか、そして、どんな信仰が彼の中にあるかを彼がどこにキリストの信者がいるかを知るまで、人は知ることができようか。』ある場合、彼らは教会探しのマラソンを続けていくのだ。

           最後に、チャーチホッパーの皆さん、フライング・チャーチマンの皆さん、フライング・チャーチウィメンの皆さん、フライング・チャーチパーソンの皆さん。良い教会と出会い、みな様の上に神からの平和と神の平和がございますように。
           そして、教会が言葉では神のメッセージを伝えながらも、行動では人のメッセージも伝えるダブルメッセージを伝える場になりませんように。ミーちゃんはーちゃんもそうならないように、とりあえず鎮まろう。

           

          以下、原文。オリジナルはこちら。
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          In Defense of Church Hoppers

          They irritate many pastors, who label them "consumers." Church leaders have characterized them as immature, shallow, goosebump-seekers with a serious case of arrested spiritual development. Are church hoppers people with commitment issues who sample the congregations as if they were visiting one free-range church potluck?

          Church hoppers get a bum rap, and it's time for us to seriously consider these believers and why they struggle to maintain a long-term relationship with a local body.

          Yes, there are some church hoppers who fit the consumer stereotype, imbibing from a variety of different churches according to their felt needs rather than committing themselves wholeheartedly to a single congregation. There are plenty of church hoppers on a quest to find the mythical "perfect" church.

          C.S. Lewis' scribe demon, Screwtape, offers this bit of coaching to his young protégé on how to sabotage the life of a believer: "If a man can't be cured of churchgoing, the next best thing is to send him all over the neighborhood looking for the church that 'suits' him until he becomes a taster or connoisseur of churches."

          Experts offer church leaders advice on how to assimilate these wandering sheep. Others recommend ways pastors can rid themselves of church hopping "parasites." Through the years, I've heard pastors ascribe church hopping to character flaws, discipleship failures, lack of maturity, or flaccid faith.

          But curiously, congregants aren't the only ones moving around. Various studies cite the tenure of the average senior pastor ranging from two and a half years to seven years or more, and the reasons pastors leave their churches frequently echo the reasons given by exiting congregants.

          There are church members with shallow, immature belief whose faith may fade when faced with a church split or disruption. They've decided the mess and stress of body life is more trouble than it's worth, and the hop stops.

          Our perseverance is the context for Hebrews 10:24-25, often used by pastors to challenge members to commit to a church: "And let us consider how we may spur one another on toward love and good deeds, not giving up meeting together, as some are in the habit of doing, but encouraging one another―and all the more as you see the Day approaching." The passage refers to some who have downshifted to church-free lives, but also offers us a helpful way to support other church hoppers.

           The commitment to meet together may be a mark of spiritual maturity; however, plenty of church-goers maintain their affiliation solely for family or social reasons. Those still on the search for a church often have a backstory, whether a conflict at a former congregation, a moral misstep they are trying to hide or any number of reasons.

          My husband and I have been through periods of church hopping during our 33-year marriage. It would have been more pleasant to skip the Sunday morning visitor routine and go out for brunch or take a hike, but our desire for community and meaningful corporate worship trumped our newbie fatigue every time.

          I currently have several friends who might be characterized as church hoppers. These wanderers do long to stay put, but face steep challenges when it comes to finding a church home. Consider:

              A congregational lay leader has become burnt out after years of church politics at his former church. Every new church he visits triggers grief and suspicion; some after just one visit, others after he sojourns there for a few months. He isn't giving up, as he knows that the healing will happen in the context of healthy community.

              After a relocation to a family-centered far-flung suburb, a pair of childless 20-somethings can't seem to get past being the "new people" in the two churches they've tried for about six months each. They've chalked their outsider status up to the fact that they don't have children, which seem to be the key to cracking into these congregations' social circles.

              A single mom of a teen with special needs can't find a church hospitable to both her divorced status and her son's physical and emotional challenges. It would be much simpler if she gave up her church search, but she continues to visit churches when she can because she is longing for spiritual support.

          Despite a negative experience with a toxic church, despite loneliness, despite facing a lack of hospitality or ministry resources, each of these friends continues their hop with the hope of finding a church home.

          They have not "given up on meeting together." Their persistent and prolonged church searches fully capture the spirit of those words penned to the dispersed Hebrew believers in the first century.

          Martin Luther said, "Anyone who is to find Christ must first find the church. How could anyone know where Christ is and what faith is in him unless he knew where his believers are?" Sometimes it takes a marathon of church hopping to find them.


          評価:
          D. M. ロイドジョンズ
          聖書図書刊行会
          ---
          (1983)
          コメント:霊性の成長とその中での苦しみについての古典的名著だと思うのだが。なんと、14000円?リパブックス出んかな。

          評価:
          ジャン・バニエ
          あめんどう
          ¥ 1,260
          (2010-08-20)
          コメント:薄い本だが味わいのある、慰めと憐れみについて味わうことができる本。ナウエンがいたラルシュコミュニティの創始者の書かれた本。

          評価:
          ヘンリ ナウエン
          あめんどう
          ---
          (2005-07-20)
          コメント:良い。極上。すべての教会に傷ついた人々のためのレクイエム。在庫のあるうちにお買い求めを。次はいつ出ることか・・・

          2013.02.06 Wednesday

          人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(1)

          0
             NTライトのセミナーの記事でUgoUgo君とミーちゃんはーちゃんの間で、少し話があってキリ、彼が姿を見せなくなってしまったので、ちーとさびしく思っている。今回は、そのディスカッションを巡る出発点になった、ディスペンセイション説について、最近面白い資料を読んだので、それについて、書いておきたい。

             ある方から紹介されて読んだ本の中に、ディスペンセイション神学研究会の資料集というのがあって、全5冊からなる資料集で、一応、Progressive Dispensation説という時代区分が聖書の預言理解にとって有用ではないか、という考え方に立たれる方から見て、これまでの過去のDispensation説をどう位置付けるのか、ということに関する講究録であった。非常に勉強になった。一番勉強になったのは、第3巻目と第4巻目であった。

             一応、「Dispensation って、何、それ、おいしいの?」という方のために、簡単に説明しておくと、聖書をいくつかの時代に区分して読み解いていく方法のことである。たとえば、創造からいのちの木の実を食べるまで、いのちの木の実を食べるまでからノアの洪水まで、ノアの洪水からバベルの塔事件まで、バベルの塔からモーセまで、モーセからキリストの復活まで、キリストの復活から終末まで、終末以降と分けて、それぞれの時代に神の特定の方法による人間や世界への関与があるとして考えていく考え方である。多少、分類時期や、その名称、あるいはそれぞれの時代における考え方が違うけれども、時系列的な考え方に沿って、時代とそれぞれの時代における神の関与の流れを考えるという意味では、割と分かりやすい、そうかなぁ、と思えるような歴史観なのだね。さらに、この歴史観は、福音派の多くのキリスト者のイスラエル支援やイスラエル支持とも非常に密接に結びついているのは、ユダヤ人の位置づけを考える中で利用されてきた背景があるからなのだと思う。

             この考え方は、上坂昇さんという方の書かれた、ちょっと残念な本でもある「神の国アメリカの論理」でも、現代のアメリカを読み解く意味では、重要な概念として紹介されている。この「神の国アメリカの論理」という本は、便利な本ではあるのだが、ちょっと違うよなぁ、という点がいくつもあるのと、少し残念な本である部分については、後日記事にしていこう。

             さて、これらを読んでわかったのは、まず、ディスペンセイション説は大きく分けて3つの種類に分けられるらしい。今では。一応真鍋孝(2000)にしたがって、まとめてみると、こんな感じらしい。

             その3つとは、Classical Dispensation説(古典的天啓史観論)、Revised Dispensation説(修正天啓史観論)、Progressive Dispensation説(進歩的天啓史観論)の3種類である。

             Classical Dispensation説が、いちばん古く、John Nelson DarbyやC.I.Scofield等が主要な影響を与えた考え方というか聖書の読み方である。わがキリスト者集団は、基本、この読み方の人がやたらと多い。今年の関西の学び会の学び手で2回しゃべった人は、完ぺきにこのお立場であった。あと、この立場は、ダビデの直系のユダヤの王国が再建されるという再建神学へとつながっていく(と思う)。

             Revised Dispensation説は、次に古く、もともとMoody聖書学院にいたC.C.ライリーという方が1965年に書かれたDispensation Todayという本にその考え方が現れているらしい。伝統的なディスペンセイション説が、歴史的なというかクロニカルな時間軸において時代分断的であるのに対し、人類の統治のあり方として理解している点が違うらしい(真鍋(2000)p15)。この立場の特徴は、真鍋(1997)によると、教会の扱いにあるらしい。
            この立場は、教会を挿入された時代と見るところにあるらしい。つまり、新約の教会と旧約の契約との不連続性を強調するらしい。そして、イエスの伝道を初期伝道と後期伝道に分けて考えているらしい。真鍋(1997)によると、

             この立場(修正ディスペンセイション主義)に見られるのは、旧約預言の継続としてのイエスの初期伝道と教会時代のあり方を掲示したイエスの後期伝道との間にある一種の断絶である。旧約と教会時代は「非連続」という関係でとらえられていると言える。このような見方は、ライリーだけではなく、RD(修正ディスペンセイション主義)の立場に立ち神学者のほとんどに見ることができる。(p6)


            ということらしい。こうなると、旧約聖書が軽くなっちゃうよね。旧約読まない信者の増加につながるだろう。一応、日本だと、高木 慶太という方が、この立場の代表的な人物になるらしい。

             で、今のところ一番新しいProgressive Dispensation説ではClassic Dispensation説やRevised Dispensation説での、不連続性について、もう少し配慮して、連続的なものととらえるようにしているという意味で、従来とは説が違っているようです。また、教会の取り扱いの不連続さ(特に教会挿入説 別記事で紹介予定)がおかしいということで、旧約聖書とイエス時代の連携をもっとスムーズにしましょう、という話らしいです。

             また、いわゆる空中携挙を起点として発生するとされているいわゆる『千年王国』にかんしても、もう少し連続性を持たせたい、ということで、一貫したような読み方ができるように設定をしておられるようです。

             おそらく、UgoUgoさんの言うDispensation説はおそらく、このProgressive Dispensation説だろうと思います。多分感覚としては、そうなるのだと思います。これで行けば、NTライトの説明とそう非整合的ではなくなるのですね。印象として。割と相性が良い、というのは、なるほど、と思うた。うちのキリスト者集団の大半の人たちが立脚している視点は、ミーちゃんはーちゃんが思うに、おそらくClassic Dispensation説であり、ごく一部にUgoUgoさんのようにProgressive Dispensation説なのだと思うのだね。

             個人的にはどのディスペンセイション説でもいいのだけれども、あんまり、この種の理解を先験的に持って聖書を読まないほうがいいのではないかなぁ、と思うのだね。

             次回以降、これらの資料集からのご紹介を予定。

            参考文献
            高木 慶太 芦田 拓也(2003), これからの世界情勢と聖書の預言, いのちのことば社 .

            真鍋孝(1997)総括, 第二回 ディスペンセーション神学研究会 資料集,ディスペンセーション神学会(聖書福音神学校).

            真鍋孝(2000)ディスペンセーション神学 at ESB, 第四回 ディスペンセーション神学研究会 資料集, ディスペンセーション神学会(聖書福音神学校).

             
            ---
            Oxford Univ Pr (T)
            ¥ 2,084
            (1999-03-25)
            コメント:ま、Scofieldの解説付きの聖書です。

            チャールズ・C・ライリー
            聖書図書刊行会
            ---
            (1981)
            コメント:修正ディスペンセイション説の立場らしいです。うちにはありますが・・・

            評価:
            高木 慶太,芦田 拓也
            いのちのことば社
            ---
            (2003-02)
            コメント:Revised Dispensation系の聖書理解が割と分かりやすい。個人的にはNGでしたが。

            2013.02.09 Saturday

            人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(2)

            0
               では、お約束通り、今回もディスペンセーション神学研究会の資料集から、面白そうなところを拾っていこうかと。今日は、第1回の資料集から。

               前回、クラッシック・ディスペンセイション神学、リバイスド・ディスペンセイション神学、プログレッシブ・ディスペイセイション神学という3つの分類があることをばお話ししたが、その共通土台として、第1回資料集の中で、真鍋(1996)では、19世紀のブラザレン運動に起源があるとされており、ナイアガラ聖書会議で、20世紀初頭のアメリカのキリスト教会に影響をもたらし、1909年のScofield Reference Bible(いわゆるスコフィールド版聖書と呼ばれる注釈つきの欽定訳聖書)の普及に伴い、スコフィールド版聖書に付された考え方が、ディスペンセイション神学と呼ばれるようになり、根本主義運動(Fundamentalismときに聖書原理主義運動とも呼ばれる)の神学的土台になったとされている。

               さらに、真鍋(1996)では、このディスペンセイション神学の共通要素として、8つの特徴が共通してみられる、ということが指摘されている。


              1.聖書の権威性
              2.ディスペンセイション(神との人類がかかわる方式を明示するある特定の配剤)の存在
              3.教会の独自性(異邦人とユダヤ人の区別のなさなど)
              4.普遍的教会の実際的意義
              5.聖書預言の重要性
              6.艱難期を未来のこととする千年紀前再臨説
              7.キリストの切迫再臨(艱難期後携挙説を含む)
              8.イスラエル民族の国家的回復


              そのうえで、古典的ディスペンセイション説の特徴として

              1.二元論的概念(天的な贖われた人々(教会)と地上的な人類)
              2.ディスペンセイション(神による人類の忠誠のテスト)
              3.教会の性格としての天的性質の強調(組織としての教会の区別と歴史的挿入物としての教会理解)
              4.二元論的聖書理解(世と神のもの)
              5.聖書における契約の分割(アブラハム契約の天的・地上的性質とそれ以外の契約は地上的性質)

              という性質があり、

              さらに、修正ディスペンセイション説の特徴として(同じものは省略)、
              1.二元論的な見方の修正
               天的存在と地上的な人類の区別の緩和とイスラエルと教会という区別の導入
              2.永遠の状態
               イスラエルと教会もともに永遠の命を持つ
              3. 神の国
               霊的な王国(教会)と王国の奥義的な形式(キリスト教界)C.C.ライリー
               教会時代を神の王国の奥義的な形式(教会)ワルバード
               現代の神権王国(D.ペンテコステ)

              という特徴があり、最後にプログレッシブ・ディスペンセイション説の特徴として、

              1.漸進的啓示における善的な贖い
               地上的、国家的、政治的、社会的、霊的などの諸領域からなる包括的な救い
              2.ディスペンセイション
               歴史的に継続して、連続的に変化する神の配剤としての理解
              3.教会の性質
               イザヤ、エレミア、エゼキエルの預言した新しい契約(預言)の成就としての教会。
               ただし一部は未完
              4.聖書理解
               不断に発展し続ける歴史的な字義的解釈と一致した字義的解釈
              5.聖書の契約
               アブラハム契約がすべての契約の基礎であるが、新しい契約はキリストの再臨で完成。
              6.神の国
               神の国と終末的預言は一つであり、神の国と天の御国の区別は存在しない。
               
              とまとめておられる。

               あと、この巻で参考になったのは、もともとこのディスペンセイションは、テルトリアヌスがギリシア語のoikonomiaをdispensatioとラテン語訳したことに端を発するらしい。また、このディスペンセイションという概念の5つの特徴は、

              1.人間の歩みに対する神の主権性
              2.神の目的と全体的な計画
              3.神と人との相互関係性
              4.人の側に責任や要求されていることの存在
              5.ディスペンセイションの推移の存在

              という点があるということとされている。

              あと、プログレッシブ・ディスペンセイション説の最大の特徴は、従来型のクラッシック・ディスペンセイション説やリバイズド・ディスペンセイション説での教会の非連続(断絶)性や教会時代と千年王国時代の断続性への挑戦というのか、変更を聖書から吟味させる点にあるそうだ。

               服部(1996)において、非常に興味深い議論が展開されている。

               
              神は、いつも王としてふるまわれたということも可能である。(p8)

              という指摘や

               
              ダビデの子孫の支配者は全世界の支配者となり、イスラエルばかりでなくすべての民族を治めるようになる。彼にあってダビデの家は回復され永遠に確立される。彼は力強く神のみ玉に満たされており恵深く知恵に富んでいる。しかし、彼について一番良く言われている性格は正義である。彼は正義をもって支配される。
               その王国は世界的な政治的宗教的王国として立てられる。それは地上に建てられ、エルサレムに中心を置き、イスラエルばかりでなくすべての民族が含まれる。(p9)


              という指摘であり、これまでのクラッシック・ディスペンセイション説やリバイスド・ディスペンセイション説とは異なるプログレッシブ・ディスペンセイションの立場である。
               同論文によれば、プログレッシブ・ディスペンセイション説では、終末を終末の王国としてとらえ、それを4段階に分けて考えられているようであり、

               第1段階では、イエスの地上での生活での神の国であり、
               第2段階は異邦人とイスラエル人が同じ神を礼拝するという教会という形での神の国であり、
               第3段階は、千年王国時代を想定している王であり、地上に完全かつ、永遠にまた不滅のものとして完全にあらわれ、
               第4段階ということになるということらしい。

               なるほど、このようなプログレッシブ・ディスペンセイションに立つ見方であれば、NTライトの主要な主張と神の国の理解とはそう齟齬は起こさないだろうなぁ、と思った。

               個人的には、クラッシック・ディスペンセイションを、聖書を読む際の前提として当然かのように受け取っている信徒さんが多い、キリスト者集団にいる。その意味で、プログレッシブ・ディスペンセイション説の変貌ぶりには、ちーと驚き、これが同じディスペンセイション説とされることに驚きを感じたが、まぁ、クラッシックであれ、リバイスドであれ、プログレッシブであれ、一つの聖書理解の仮説にすぎないということを認識しつつ、素朴に聖書を読む努力が欠かせないかなぁ、と思った次第。

               まぁ、これらの前提なしに聖書が読みたい、それに縛られるのではなく、聖書を読みたい、そして、信徒さんにも、ある特定の聖書の読み方が『正しい』と思わずに聖書を読んでいただきたい、と思うのであった。

              参考文献
               真鍋 孝(1996)ブレイシングとボックの立場 前半, 第1回 ディスペンセーション神学研究会 資料集, ディスペンセーション神学会(福音聖書神学校)
               服部 尚(1996)ブレイシングとボックの立場 後半, 第1回 ディスペンセーション神学研究会 資料集, ディスペンセーション神学会(福音聖書神学校)


              2013.02.11 Monday

              皆様、おいでまして、つかーさい。おいでませ、「いのフェス関西」へ

              0
                  間もなく、いのフェス関西開催です。出展者のご紹介などを。

                 みなさま、おいでまして、つかーさい。おいでませ、「いのフェス関西」へ


                なお、以下の出展者は順不同です。

                -----------------------------


                ブルーリボン

                「ブルーリボン」は精神障害を抱える方々を対象にした通所施設です。当事者の方が喫茶店を運営しており、たくさんの人が集まるふれあいの場となっています。コーヒーの出涸らしを使って、染め物の小物作りも行っています。

                出展内容 
                 コーヒー、お菓子、手作り小物の販売
                ウェブサイト
                 http://www.geocities.jp/nozomifukushikai/

                -----------------------------

                Heaven Words

                 創作を中心にイラスト・漫画を描いています。教会でCS向けの聖書紙芝居やみことばカードなどもちまちま作らせていただいています。

                出展内容 
                 創作の漫画本やイラスト本、パンダポストカードなど。

                -----------------------------

                神戸キリスト教超教派青年のつどい

                 神戸には、様々な教派のキリスト教教会が多くあります。教派は違うけれど、みんな同じキリスト教、同じ世代同士仲良くしようじゃないかと6年前から始まった集まりです。クリスチャンの青年以外にも、キリスト教に初めて触れる人、たまたま誘われた人など毎回様々な人が参加しています。

                出展内容 
                 神戸のクリスチャンの青年が中心となって行っている集まりの紹介

                -----------------------------

                キリスト新聞社

                 1946年の「キリスト新聞」創刊以来、毎週キリスト教界のニュースを全国に発信し続ける。特定の教派・教団に偏らないキリスト教メディアとして、聖公会やカトリック教会、正教会も取材対象とし、自由な立場からの報道姿勢を堅持。2009年からは「次世代の教会をゲンキにする応援マガジン」と銘打った総合情報誌「Ministry」(季刊)を創刊した。

                出展内容 
                 出版物、「Ministry」バックナンバーの展示・販売
                ウェブサイト 
                  http://www.kirishin.com/

                -----------------------------

                Guitar Praise for the Lord

                 中学校2年生から現在までギター、ベース、ウクレレを独習。父が持っていた押尾コータローのCDがきっかけで、独学でタッピング奏法を始め、現在も研鑽中。中学生の時より教会賛美チーム。他教会でギター演奏奉仕。また教会ギター教室でも講師として奉仕経験あり。某ジュエリーショップのCM曲も手がけた。

                出展内容 
                 
                ギター演奏・CD頒布。

                -----------------------------

                女子パウロ会

                 講師 片柳師とともに、マザーテレサの写真展の展示会を関西地方で開催してきました。今回も多くの方にご紹介できると嬉しいです。

                出展内容 
                 キリスト教関係の本と絵本・CD・DVD及びキリスト教グッズなど。特に講師片柳師のご著書や女子パウロ会発行のマザーテレサに関する本や絵本、DVDなど多種

                -----------------------------

                キリスト教ネットメディア研究会

                ネット社会と教会を考える。キリスト教日本語コンテンツ電子化事業。

                出展内容 
                 同人誌販売。

                -----------------------------

                エレセンテ

                 版権からオリジナルまで色々なジャンルに手を出しています。

                出展内容 
                 ポストカードの展示・販売
                ウェブサイト
                 http://erist000.blog9.fc2.com/ 

                -----------------------------

                映画「わすれない ふくしま」製作委員会

                 フィリピンの”スモーキーマウンテン”を題材にしたドキュメンタリー映画を撮り続けてきた四ノ宮浩監督の最新作「わすれない ふくしま」共同製作。本作は2011年3月に起こった東日本大震災後、原発事故により全村避難となった福島県飯舘村を中心に撮影された。エンディグテーマ 曲「虹」をこいずみゆりが担当。

                出展内容 
                 四ノ宮浩監督作、映画DVDの販売と新作映画「わすれない ふくしま」映画案内。エンディングテーマ曲「虹」販売。

                ウェブサイト
                 http://wasurenai-fukushima.com/

                -----------------------------

                NORIKO

                 漫画、イラストのほか、エッセイ、写真も手掛ける。イラスト、漫画は筆で手描き。主な連載作品に三浦綾子原作「道ありき〜漫画編〜」、「小さな庭の片隅で」、「聖書の中のオトコたち」(いずれも月刊『百万人の福音』いのちのことば社)。現在『Ministry』で漫画「こちらミニスト編集部」を連載中。

                出展内容 
                 同人誌の無料配布、漫画「こちらミニスト編集部」の原画展示など

                -----------------------------

                関西学院大学院 神学部
                 キリスト教主義による教育を基礎とする「関西学院大学」の神学部。牧師を志す者だけでなく、キリスト教の思想や文化を学び社会に奉仕できる人材を育成している。一学年30人ほどで、他学部に比べて一人一人の距離がとても近いため、充実したキャンパスライフを過ごすことができる。

                出展内容 

                 ゲームコーナー、グッズ配布・販売など

                ウェブサイト
                  http://www.kwansei.ac.jp

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                フリースタイルな僧侶たち

                 2009年8月発足。超宗派の若手僧侶が集まり、現代の人々の心にひびく仏教の形をフリースタイルに探求する旅の途中です。フリーマガジン(偶数月1日/毎号1万部)の発行などを通じて、日本仏教の未来に挑戦し続けています。

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                 「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」「フリーペーパーののさま」配布。お坊さん漫画家によるマンガ販売。真言密教の瞑想中の境地をクリスタルボウルの調べに載せて奏でるアーティストYugiのCD頒布など。

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                Gospel Light Store

                 大阪府和泉市にあるクリスチャン書店です。イスラエル商品やゴスペル関係のCD業界一番です!ネットショップもクレジットカード利用可能でポイントも付くので大人気です!

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                 書籍やCD、DVD等展示販売


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                2013.02.11 Monday

                ディスペンセイション説という終末論について

                0
                   今日は、国民の祝日ということになっている日なので、それに合わせて、ここのところの連載を今回だけ飛ばして、ちょっと軽めの話題(どこがじゃー、というはなしはありますが・・・・)などを・・・


                   歴史的な経緯をたどってみると、ディスペンセイション説(現在連載中)をはじめとした終末論が出てくる背景には、社会不安があるように思われる。クリスチャンは、否定するでしょうが、事実としては符合しているように思う。

                   そもそも、ディスペンセイション説が出てきた背景には、1830年代のフランス革命、1840年代のイギリスの経済的失調などがあり、1860年代、イギリスと密接な関係のあるアメリカでの南北戦争などがあり、それこそ、戦争のうわさが現実のものであった時期にこの終末論の議論は非常に盛んになったことも記憶しておくべきかもしれません。

                   1910年代以降、アメリカではやったのも、南北戦争が起き、社会不安が高まったところに、日本が中国に勝っちゃうは、さらに、日露戦争でロシアに日本が勝っちゃう(これは相当衝撃だったらしい。アジアは馬鹿にされていたので、一応、ロシアはヨーロッパ扱い)、さらにロシアで革命が起きるは、禁酒法時代にマフィアが暗躍するは、都市文化がアメリカで花開き、大恐慌は起きるし、都市に人が集まり始め、農村に人がいなくなり始めるし、ということがアメリカでこの議論がはやった背景としてあったように思う。

                   日本における前回の終末論ブームが起きたのは、世界の経済機構が大変化したちょうどオイルショック・ニクソンショックを背景とた1970年代なのだなぁ。その後、バブル経済で、経済が膨らんだ時期には、前回の終末論ブームのときの予測が外れたこともあり、終末論ブームはどっかにいってしまったような感じを受ける。

                   現在、自分たちは、キリスト集会であり、自分たちは教派ではない、とご主張になる人々の間で、終末論ブームがあるかといわれれば、まだ、ブームと言うほどのブームではないけれども、その兆しが全くないわけではない、と思う。関西の各集会の関係者やHPから情報収集している限りは弱くはあるが、その兆しはややないわけではないよなぁ、という部分がある、と思う。というのは、世界情勢を聖書から説く、という以前どこかで見たようなテーマが繰り返されているから。

                   とはいえ、1970年代末から80年代初頭にかけてほどの勢いはなく、終末を語らねば伝道者にあらず、という雰囲気までにはなっていないように思う。実際に関西にいる信者のうち、火消しに回った人がいた、という情報をかなり確実な筋からつかんでもいるので。

                   もちろん、聖書からも世界情勢は解ける(かなり陰謀論くさくなる香ばしい話題になりかねないけれども)し、そこからかなり無理して、福音と関連付けることも可能である。しかし、世界情勢に関する預言と呼ばれるものが、イエスの主要な主張か、といわれれば、否であると、個人的には答えるだろうなぁ、と思う。終末を語るべきでないとは言わないが・・・。

                   世界情勢の予言についてもイエスは言及したか、といわれれば、答えは、その通り、言及はある。

                   しかし、そのことで人々にわずかでも恐怖心や不安を抱かせ、そのことから神の国の福音をつたえよう、というのは、私自身は間違っていると思うし、私自身はそのようなことはしたくはないし、するつもりもない。

                   特に現在のような経済環境が非常に厳しく、将来の展望が描きにくい若者が大量に増えている時代において。神の『福音』と聖書内における終末と、現在の経済状況や社会状況を関連付けて、危機感をあおるような形で、一部の方がなさるように福音を語るのは、イエスが語り、パウロやペテロが必死に語ろうとした『福音』ではないように思うのだが。

                   まぁ、ジョナサン・エドワーズの後継者のように罪の問題と罪への神の怒りの恐怖を語って人々に改心を迫る人々もいない訳ではない。ジョナサン・エドワーズの後継者とジョナサン・エドワーズ自身の語りっぷりはかなり違うようだが・・・。ミーちゃんはーちゃんの聖書理解は、ジョナサン・エドワーズ的なものではない。神の裁きを語ることが『福音』ではなく、人々を恐怖に落とし込むことが神の民がまず第1にすることではないように思うのだが・・・。このようなビリー・グラハム(2世 フランクリン・グラハムと呼ばれるウィリアム(ビリー)・フランクリン・グラハム3世の父)の態度に対して、バルト先生は、「脅迫です。」とおっしゃっておられたようである。ソースはこちら

                   ヨハネの黙示は、黙示である。どのようにでも解釈できるし、これまでも様々に解釈されてきた。そこを細かく分析し、現在の世界情勢と比定しつつ分析してはならない、というつもりはない。どのように解釈することも自由である。言論の自由は保障されるべきであるし、その人々の考え方をミーちゃんはーちゃんは尊重したいと思うし、ディスって(ディスリスペクトして)終わり、では対話ということにはならないし。

                   しかし、判断力のない人々に、ディスペンセイション説のみが正しいとし、恐怖感をあおりながら、神の『福音』として、このような考え(終末論)を伝えるメリットは、本当によいのだろうか。これからの将来のある子供たちが、空中携挙や、空中再臨といった、厳密に定義されていない業界用語を軽々しく遣うことは望ましくないと思う。彼らには、それより深い世界史とその見方を知って欲しいと思うし、それ以上に、聖書の世界、いや、イエスが語り、ペテロやパウロが必死で伝えようとした、宣言しよう(アンゲロー 宣言する、大声で会衆の前で声を出して伝える、という語。天使と関係の深い語の一つ)とした、『福音(イワンゲリオンアンゲリオン の部分が宣言する、大声で会衆に声を出して伝える、という意味)』を理解して欲しいと思う。そして、ホンモノの『福音』に自分から出会って欲しいと思う。

                   受け売りの知識ではなく。

                   神学についてもそうである。あまりに神学という言葉が定義されずにつかわれている気がする。ことばが上滑りをしていることの恐怖を感じる。

                   そして、とりあえず神学というラベルを貼って、これは危険だから、触れないないように、という指導をしている人たちも、少なくないと聞く。それで良いのだろうか。聖書のことを考え始めた瞬間、そこに神学が始まるといってよいではないか?セオロジーの語源を調べれば明らかだと思う。

                   神(theo)のことば(logos)を対象とする神の学問が神学である。聖書を読むことは、神学的行為以外の何者でもない。神学書を読むことを神学というのではない。手当たり次第に神学書を読むことは、やはり効率が悪い。自分で、やってみていてそう思う。ガイダンスがあるほうが確かに良いし、効率はかなり良い。

                   日本でも、最近、マクグラス先生の翻訳書などが充実し始め、関連書籍さえそろえば、やってやれなくはなくなりつつある。とはいえ、日本と英語圏の文献の厚みというのか、アクセスにしやすさの違いは感じる。また、英文さえ読みこなす気さえあれば、かなりの本がそろえることは可能になり始めている。そこそこお金はかかるが、日本語でそろえるよりは安くてすむ。

                   『福音』をきちんと語るためにも、そして、ディスペンセイション説に大きく依拠せずにパウロやペテロが語った『福音』を神のことばとして声を通して伝えるためにも、丁寧に会話していくこと、相手の言うことをきちんと押さえながら、丁寧な対話することの大切さを感じる。それは、人間相手だけでなく、聖書についてもである。自己の主張だけでなく。聞くことの大切さである。自分の主張を一方的に述べる、自分たちの考えのみが真理として、相手を強圧的に説得することが、『福音』を伝えることでもあるまい。

                   そんなことを考えながら、イエスのことばを伝え発言することの大切さを思う。そして、純朴に、かつ、純粋に聖書を解釈しなおしていくことの大切さを感じる。


                   ね、国民の祝日にふさわしい軽めの話題でしょ。lol
                   

                  評価:
                  ジェイムズ バード
                  教文館
                  ¥ 1,890
                  (2011-03)
                  コメント:リバイバル型の源流の一つがかなり雰囲気が分かるかも。

                  評価:
                  森本 あんり
                  新教出版社
                  ¥ 1,785
                  (2006-05)
                  コメント:アメリカ経由のキリスト教の背景の外観ができます。ある意味で結構便利な本。

                  2013.02.13 Wednesday

                  人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(3)

                  0
                      さて、今回も引き続き、ディスペンセイション神学研究会の資料集からご紹介してみたい。今回は第2回の講究録からご紹介してみんとす(完全に厨二病設定である)。なお、あまりにマニアックなネタなので、パスしたい方は、パスしていただいた方が、よろしいかと思う。

                     今回の講究録では3人の登場人物が出てきて、高木慶太氏、古林三樹夫氏、真鍋孝氏のお三方が登場する。印象で言えば、高木氏が、プログレッシブ・ディスペンセイション説にリバイスド・ディスペンセイションからの疑問をぶつけるメモ、古林氏が解釈論の違いを見るときに門外感から見たほんとにそれでいいんかい?という疑問を含めた論文、真鍋氏がプログレッシブ・ディスペンセイション説側からのポイントを整理した小論文、というノリであったように思う。

                     Bassが触れているような(下記のリンク参照)伝統的なDispensation(Pastor Dispensationalistの理解)でもあるようなClassic Dispensation説は今回は紹介されずであった。

                     いくつか、なるほどねぇ、と思った部分をこの3つの文書から拾ってみたい。あくまで、個人的趣味で、へぇー、ほぉーと思った部分についてであるので、皆さんの関心を満たさないかもしれないが、オリジナルを読まれたい方は、福音聖書神学校にお問い合わせを。全冊セットで、送料込1500円前後のはず。

                     まず、リバイスド・ディスペンセイション説の高木氏のメモから。

                     旧約の神の概念は、ユダヤ人の立場からユダヤ人に対して書かれたものですから、異邦人の立場からすると偏っているように見えても仕方がないでしょうか。教会が神のご計画の中で非常に重要な部分を占めていることは明白ですが、イスラエル中心に書かれた旧約聖書の中では山の峰と峰の間の、見えない谷の合間、すなわち合間になっているのではないでしょうか。(p4

                     これは、リバイスド・ディスペンセイション説が教会挿入説を唱えているという批判を受けての反論であろう。その意味で、高木氏がユダヤ人の視点から聖書をとらえようとしていることが分かる。このあたりが、クリスチャン・シオニズムとの親和性が高い原因なのかもしれない。類似の見解が、

                     教会時代は、「挿入」とか「横道にそれた」とかいうのではなく、ライリーが言うように、神の、イスラエルに対するプログラムにおける「合間」と考えればおいのではないでしょうか。あるいは「イスラエルが一時棚上げされて『イスラエル中心』から『異邦人も含めた教会中心』の時代に移った」といえば問題は少なくなるのではないでしょうか。(p5
                     こういう表現を見ていると、リバイスド・ディスペンセイション説が違う意味で、ユダヤ(イスラエル)人中心に見ていて、幅広く世界全体の諸国民をとらえようとしていないのではないか、という感じがするんですが・・・。まぁ、ユダヤ人中心主義というかシオニズム運動の成立時期にクラッシック・ディスペンセイション説が重なっているので、シオニズムとこのディスペンセイション説は無関係ではないような気がするのは、このあたりなんですね。ディスペンセイション説の人々は、自分が意図せずシオニスト的立場であることを認識しておられないことが多いのが困りもんなんですが。

                     従来のディスペンセーション主義は、千年王国時代には、艱難時代にキリストを信じてキリストの再臨まで生き延びたキリストの再臨まで生き延びたユダヤ人は普通の体をもったまま御国に入り、イスラエルに約束されていたパレスティナの特定の領土で最も祝福された民族として生活すること、同じく艱難時代に救われて再臨まで生き延びた異邦人も普通の体をもったままで、イスラエルの約束の地以外の世界各地に住み、神の祝福にあずかること、また、教会時代の聖徒たちは、キリストの再臨のときにキリストとともに天から地上に来、復活の体をもったままキリストの地上での支配することを信じています。(p7)
                    あと、NTライトの議論との関連では、使徒2:22−36を高木氏は次のように理解しておられることを示しておられる(下線と赤字はミーちゃんはーちゃんによる)。そして、プログレッシブ・ディスペンセイション説について、いくつかの疑問を出しておられる。

                      キリストのことは、ダビデによって預言されていた。ダビデは自分の事をいっていたのではなく、キリストについて預言していたのである。神はキリストをダビデの王座に就かせると予言された。その予言の実現のためには、キリストは死んだままでいてはだめで、復活されねばならない。そして復活されることも預言されていた。神はイエスを復活され、それによって預言されていたキリストであることを証明され、そのあとご自分の右の座に着かせられた。神の右の座に疲れたキリストは、信じた者たちに聖霊をお注ぎになった。そして今はご自分の敵が完全に滅ぼされる時を、神の右の座で待っておられる。
                     したがって、ペテロは「イエスこそ、
                    将来ダビデの王座に着かれるお方である」といっているのであり、(そのためダビデ契約を引用しているのであり)、
                    「キリストは今すでにダビデの王座についておられる」と言っていないのではないでしょうか。(pp.7−8)

                    「王座に着かれた」ということは、その時から「王としての支配がはじまった」ことを意味するのではないでしょうか。もし支配しておられるなら、神の力がこの世界にもっと強力に働いているはずではないでしょうか。(中略)現在、父なる神の右の座で将来サタンを征服し敗北さえる時を待っておられるのではないでしょうか。(p9)

                    王が王座に坐しておられるにもかかわらず「支配されていない」とはどういうことでしょうか。それでは、現在王として何をしておられるのでしょうか。(p9)

                    マタイ19:28「世が改まって人の子がその栄光の座に着くとき、わたしに従ってきたあなた方も12の座について、イスラエルの12の部族をさばくのです」やマタイ25:31の人の子がその栄光を帯びてくるとき人の子はその栄光の位に着きますなどからすると、キリストは、再臨の時に初めて王座に着かれるのであり、今は神の右の座でその時を待っておられるのではないでしょうか。(pp.9−10)

                     このあたりのところが、NTライトの聖書の読み方(Narrative)として聖書を読んでいく読み方と、我がキリスト者集団の大半の人々などや、この高木氏の聖書のあるべき読み方であるとも主張されている字義通りの聖書解釈がぶつかるところなのだろうと思う。特に最後の3つの質問は、字義通りの読み方、特定の場所だけにこだわって読むようなマイオピック(近視眼的)な読み方をする方が多いわがキリスト者集団の人々には、How God Became King(最下部参照)などが読みにくい原因となるだろう。ただ、どんな対論が当日会場でなされたのか、ということはちょっと知りたいように思ったが。

                     次に古林氏の論文(これは完全に論文スタイル)では、個人的な神学理解の変遷を踏まえたうえで、Dispensation 主義の再考をしておられた。面白かったのは、認知とそれが言及するもので触れられている部分で、象徴をどう読み解いていくのか、文脈から象徴をどう解釈していく部分の検討が必要だという部分であったかな。

                     あと、面白い部分を少し引用しておこうかと。以下、赤字はミーちゃんはーちゃんによる補足。

                      我々が提案したいことは、D主義(ディスペンセイション主義)としての一貫した字義的解釈という基本を捨てることは、早まったことだということである。文法的―歴史的解釈は、すべの福音主義者たちによって採用されているが、創世記から黙示録まで一貫してそれを適用するのは、D主義者だけだと、多くの人が認めている。非D主義的福音主義者たちは、文法的―歴史的―神学的解釈用いる傾向にある。(ゆるやかな霊的解釈。なぜなら旧約のイスラエルを彼らの信じる新約神学の基礎にしたがって、教会と置き換えるので。)(p8)
                      (中略)
                     おそらく一貫性ある字義的解釈への批判者たちの中には、古いD的立場をとるともに対して過去とした苛立ちを感じる人々がいるが、それは我々あの現代文化が持つ解釈学的な「前理解」のインパクトによるものではないだろうか。今日の風潮は、自己中心的相対主義のそれであって、絶対真理の概念に基づいた認識論ではない。この発想は、確実性を破壊した人々の中に、煮え切らない態度を創り出すものである。
                     もしも前理解が思考にインパクトを与えるのなら、その通りではあるが、一貫した字義的解釈の拒否は、D主義の発展というより、D主義の外で広く受け入れられている解釈法の採用の反映に他ならなるのである。(p9)
                    という表現が少し目を引いた。古林氏も古林氏のお立場は良く存じ上げないのであるが、字義通りの解釈はすべからくD主義に至らなければならない、という前提があるように感じられてしょうがない。ミーちゃんはーちゃんは、基本キリスト教界におけるゲリラ活動家なんで、別に使えれば何でもよいという工学的発想に立つので、この解釈法しか採用してはらなないとは全く思っていない。そういう立場からすれば、一番最後の部分は、D主義の孤立化を指示すような一種のにほひを感じるのだが。
                     あと、面白かったのは、今後への提言の中で触れられていたことである。赤字部分はミーちゃんはーちゃんによる。

                     「知っていることに基づいて、知らないことを説明する」(From known to unknown)ということが教育学や教授法の常道であるが、今回のレポートをまとめようとして、私自身まだよく走らないことを土台にして、もっと知らないことを説明しなければならないことに気がついた。これはやればやるほど、当人も聴き手もチンプンカンプンなレポートとなる。私の知る限り、わが国ではD主義(ディスペンセイション主義)神学と契約神学の間に、神学論争らしきものがないからであり、論争があってしかるべきだということすら一般教役者に走られてないような気がする。ここに我々日本人神学者の原点があるべきであり、ここからスタートしない限り、PDも他の論争もチンプンカンプンになる。

                    と書かれていたが、しかし、D主義神学と契約神学の間の論争は、この本が出版された1997年以降、現在に至る15年の間になされたのだろうか。だれか教えてー!

                     あと、高木氏と古林氏の意見を受けて、真鍋氏が書いておられることの中に、C.C.ライリーがプログレッシブ・ディスペンセイション説の批判として、C.C.ライリーらのリバイスド・ディスペンセイション説が字義通りの釈義に立つのに比べ、プログレッシブ・ディスペンセイション説はComplementary Hermeneutic(相互補完的解釈)であると批判しているのだけれども、この批判が、正しいのか、ということの検討が必要だ、としておられた。

                     あと、真鍋論文から面白いところを少し引用して、この記事を終ろう。赤字部分はミーちゃんはーちゃんによる。

                    RDの立場 ―Discontinuity(非連続)―
                     この従来の立場は、教会を挿入された時代と見る。旧約聖書の預言の本来の成就ではなく、神の隠されていたご計画がこの時代になってはじめて実現して、神の預言者に明らかにされたとする。このような旧約と新約の教会の関係は、非連続の関係にあると言える。(p5)

                    (中略)

                     ここに見られるライリーの見解
                    (概説新約聖書の神学 聖書図書刊行会(1981)p.92)はイエスの初期伝道と後期伝道を区別して、初期には千年の王国提示の宣教を行い、後期は奥義としての御国の宣教をしたと考える。もちろん、後期伝道は、今教会時代にあって私たちが宣教しているものと同じと考える。彼はマタイの福音書がこのような区別を明確に掲示していると考え、この福音書だけが神学の枠組を与えている福音書としている。この立場に見られるのは、旧約預言の継続としてのイエスの初期伝道と教会時代のあり方を掲示したイエスの後期伝道との間にある一種の断絶である。旧約と教会時代は「非連続」という関係でとらえられていると言える。このような見方は、ライリーだけではなく、RD
                    (リバイスド・ディスペンセイション説)の立場に立つ神学者のほとんどに見ることができる。(p.6)

                    ということであった。この当否は、ミーちゃんはーちゃんにはわかりかねるが、リバイスド・ディスペンセーション論の人々が、マタイの福音書だけを重視するのであれば、ある種のバランスを崩した聖書理解ともなりかねないよなぁ、とは思った。リバイスド・ディスペンセイション説は、クラッシック・ディスペンセイション説に比べて、もうちょっと、ぶつぶつに切られた昔給食で出てきていたスパゲッティを食べている感じなのだろう。個人的には、のど越し重視派なので、長い固ゆでのスパゲッティや長浜ラーメンでも、カタ(ハリガネのちょっと前)が好きなのだが(それはどうでもよい話であるが)。

                     真鍋論文の最後の結語の部分の記述を引用して、今回のものを終ろう。

                     従来のRD
                    (リバイスド・ディスペンセイション説)は教会時代に対する不当な扱いに過激に反応するあまり、教会時代を聖書が指示していることを超えて旧約聖書において過小評価してしまったと思われる。イエス・キリストの教会は、旧約聖書の重要なテーマであるにも拘らず、それがほとんど掲示されていないかのような立場をとってしまった。ここに、教会挿入説とか王国延期説とかいう神学的立場を許してしまうことになったのである。
                     PD
                    (プログレッシブ・ディスペンセイション説)は、このようなRD
                    (リバイスド・ディスペンセイション説)の行き過ぎに気づいて出てきたところがある。最近の福音主義神学研究の中心の一つである新約における旧約の引用の徹底した聖書神学的研究は、新約の著者がいかに全面的に旧約の啓示によっており、そこにイエス・キリストの初臨から再臨に至る人類救済の業が見事に預言されていることを明らかにした。(中略)ここに見るのは、旧約と新約のダイナミックな相関関係である。教会時代が挿入だるという考えからは程遠い密接な関係である。PD(プログレッシブ・ディスペンセイション説)が打ち出したCH「相互補完的解釈」は、このような違いから捉えなければならない。
                     PD
                    (プログレッシブ・ディスペンセイション説)は完全であるとか、問題のない神学体系であるとかいうつもりはない。ただ、契約神学、あるいは置換神学といわれるものの明らかな行きすぎと従来のRD
                    リバイスド・ディスペンセイション説の持つ行き過ぎに気付き、聖書的是正を加えたことだけは確かである。(p.9)

                    なるほど、こうやって説明されてみると、プログレッシブ・ディスペンセイション説に立つUgoUgoコメント王子には、NTライトの議論はあまり違和感がなく、従来型のクラッシック・ディスペンセイション説やリバイスド・ディスペンセイション説では、違和感が強いというのがすっきりとわかった感じがする。

                     しかし、学び手であるミーちゃんはーちゃんがこのあたりをきちんと区別せずに一緒たくれにしてディスペンセイション説というもんだから、混乱が生じたのだね。そもそもうちのキリスト者集団では、ディスペンセイションというと、「何それ、おいしいの?」の人が多いので、その味わひの区別もつかない人が多いかもしれない。それはそれで、幸せなんで、その幸せなままでよい方はそのままの信仰生活をお続けくだされたく・・・。





                    評価:
                    Clarence B. Bass
                    Wipf & Stock Pub
                    ¥ 1,698
                    (2005-02-27)
                    コメント:すこし内容的には古いが、福音聖書神学校に客員としておられたらしいBassの本。Dispensation主義神学の背景について、わかりやすい。ブラザレン史の入門書にもなる。

                    評価:
                    N. T. Wright
                    HarperOne
                    ¥ 1,810
                    (2012-03-13)
                    コメント:FB上での読書会での指定図書。聖書の読み方に偏りがあるだろうなぁ、ということと、ローマ皇帝時代にイエスがいかに画期的な人物であったのかを知ることになった1冊。お勧め。

                    2013.02.16 Saturday

                    人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(4)

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                        さて、今回も引き続き、ディスペンセイション神学研究会の資料集からご紹介してみたい。今回は第3回の講究録からご紹介してみんとす(完全に厨二病設定である)。なお、あまりにマニアックなネタなので、パスしたい方は、パスしていただいた方が、よろしいのではないかと思う。

                       今回は、ダラス神学校のダーレル・ボーク先生の講演録であるが、まぁ、今回も似たところも多いので、いくつか特徴的な部分を拾ってまとめていこう。

                       契約神学が一貫して連続性に強調があるのに対し、ディスペンセイション神学は、非連続性に強調があるということで、2項対立でどちらかをとれ、ということでディスペンセイション神学は迫ったらしいです。何処までも2項対立で考えるのがディスペンセイション神学の特徴といえそうだ、ということらしいです。

                       ただ、これは、クラッシック・ディスペンセイションの特徴のような気がします。

                       また、エーリッヒ・ザウワーは、戦後間もなく日本でも注視されたドイツの神学者(一番下のリンク参照)ですが、彼はすでに、プログレッシブ・ディスペンセイション的な考え方を示した、と考えるのが適切ではないか、ということのようです。ザウワー、一時期、はやったよねー。といっても60年代中心だったような・・・。なぜか、この本、うちにはあります。

                       また、プログレッシブ・ディスペンセイション説では、ダビデ契約の王国はすでに始まっているということらしいです。そしてキリストの支配は今存在して、そして、これからも将来につながっていくものだという立場だ、ということのようです。

                       プログレッシブ・ディスペンセイション説では、救いは、個人的な魂の救い以上のものである包括的多重的な救いであり、共同体の献身、社会的、政治的な側面を含むという立場であるという主張がございました。

                       大事な部分であるので、少し引用しておきます。

                       福音を考えるときにローマ書ほど、この個所に適したところはありません。私が気付くことですが、パウロは福音というものが、いかに旧約聖書に密接に結びついているか、そして何が内容であるかということを語っているのです。(p.31)
                      ということで、このあたりがNTライトの議論と矛盾しないところなんでしょう。

                       あと、旧約聖書に奥義は存在したが、それが隠されていて、なかったというのではない。気付かなかっただけで、存在していた、ということだ、というご主張でした。

                       あと、異邦人とユダヤ人との関係においては、

                      今イスラエルと共に分かち合っている国民性というのは、新しい人として一つの国民に属しているということです。その意味するところは、異邦人がイスラエルの方に移って行って一つの国民になったということではなくて、異邦人もユダヤ人も両者ともにキリストの中に入ってきたということです。そういうわけで、両者がキリストの体と及ばれるようになったのです。(p.36)
                      というのがボーク先生のご主張でした。

                       ルカの福音書の中から、特に冒頭部にある同時代人(マリアのマニフィカット)などの預言等におけるイエスのメシアとしての重要性、ルカ17章の中にある今ここに私たちのただなかにある王国があることの宣言などにもみられるように、神の国が将来のものでないことなどが書かれていた。ま、その通りですね、と思いました。

                       まとめるとこんな感じでしょうか。今日はかなり短めです。ま、主要な内容は、これまでかなりまじめに紹介していたので、ここらで。次回最終回へと続く・・・。乞うご期待。






                      評価:
                      エーリヒ・ザウアー
                      聖書図書刊行会
                      ---
                      (1955)
                      コメント:まぁ、参考程度に。ドイツの聖書学校の先生が書かれた本です。プログレッシブ・ディスペンセイションに近いようです。

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