2012.12.01 Saturday

日銀券と神と聖書的のインフレについて

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     最近、某党の党首様が「目標インフレ論」や「日銀による国債の全額受け入れ(一応市中銀行経由という条件付きになった)」が話題になっており、日銀法の改正を含め、インフレに誘導するという政策が話題になっているが、中央銀行の独立性がなぜ重要か、中央銀行券の信任がどのような形で行われるのか、マネタリーフローのことをわかっていてしゃべっているのかな?と思っている。

     最近出るらしい本のことについて、ヤンキー牧師が書かれていたものを読みながら、日本という国では、つくづく神のインフレが進んでいるのだなぁ、と思ったのである。この記事でツイッターから派生したことが記事になったことが「前田敦子はキリストを超えた」をキリスト教会は超えるか?のタイトルのもとで、書かれていたが、実は、ミーちゃんはーちゃんもあのツイートに噛んでいて、身元を明らかにしていなかったので、地雷を踏まずにかろうじてセーフになったのだ。あーよかった。

     キリスト教会は、こういう下劣な販売促進の罠に対しては、一切相手にせず、あっさりスルーするという反応もあるでしょう。でも、やはり、「冒涜的」と受け止められるこのタイトルを見過ごすわけにはいかないでしょう。特に国際社会において、「日本人の劣等性」「宗教的無知」と評価されないかと心配です。

    と書いてありましたが、日本人の宗教音痴はすでに世界的に有名な定説(と某宗教団体のグル風に言ってみた。正しくは著名な他者からの認識)なので、あまり気にしなくてもよいのでは、と思います。食事の話題で、宗教と政治は厳禁ですから。ごはんがまずくなる上に、場が気まずくなるし、なんせ、19世紀くらいのステーキナイフなんかは、殺傷道具になりますから。日本のステーキナイフは、穏やかですが・・・。

     また、その中には、

    宗教には通常、神秘性や癒しが伴います。特に日本人の宗教観には、それがアピールするのです。論理性や倫理道徳性よりも、神秘と癒しなのです。「よく分からないありがたさ」とか「心が癒され慰められる」ことを現代日本人は宗教に優先的に求めます。

    とありましたが、これ、キリスト教界でも他人事ではないかもしれない、と思うのです。こころ静め、神の御座に神に御着座いただいた上で、こころを神に向けていくという手間暇かかる霊性ではなく、お湯を注いで3分待つような安易な霊性に流れているのではないか、と思うのですね。

     このブログの記事「日本での教会を考えるためのお勧めの一冊 第5回」でも、キリスト新聞社さんの「宣教ってなんだ?」から引用しつつ、ご紹介したとおり、その本の中には、次のような記述がある。くどいようだが、このブログは、キリ新の御用ブログではないつもり。

     現代を『脱宗教化』の時代とみる人々もいるようだ。しかし、霊性に関して言えば、 人々は霊性を喪失するのではなく、霊性を個人化し現世化する仕方で霊的なものを求めているのだ。(中略)総合的な世界観に基づく全人格的な霊性とは異な る、個人的で即時的な霊性をもとめている。(p.42)

     キリスト教会自体も、この現代の霊性の求めに応じ、即時的即物的なカップめんのような霊性を提供しているのかもしれない。替え玉が来るような博多トンコツ長浜ラーメンのような本物の霊性ではなく、博多ラーメンと称するカップめんの霊性を提供しているのかもしれない。ラーメンで霊性を語る不謹慎さはこの際認める。

     癒しと称して、霊の癒しでなく感情の癒しを与え、神秘性と称して、神のミステリオンではなく、特殊な説教者の聖書理解や神理解を語ったことはないだろうか。正直に言おう。ミーちゃんはーちゃんは、癒しでしたことはないが、神秘性では、ディスペンセイション説に乗ったがために、それに近いことをしたことが以前はある。深く反省しているが。

     ただ、ヲタ文化では、日本文化がある一面そうであるように、神の乱発が見られる。もともと800万の神様がいるので、少々増えたところで問題ないのかもしれないが、ヲタ社会では、比較的神が軽くつかわれる部分がある。一応、地雷を踏まないように「ネ申」と書いてはいるものの、AKBのみならず、ヲタ文化では、神という語が容易というのか安易に使われる。

    http://nico.xii.jp/doc/?id=%E7%A5%9Eをクリック



    http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%A5%9Eをクリック


    AKB48ネ申テレビという番組まである。


     以上のようなことを、キリスト教関連のブログで書いたり紹介すべきではないかもしれないが、実に軽佻浮薄に神が使われているのだ。これをご教示したところ、K先生をミーちゃんはーちゃんはツイッター上で降参させてしもうた。すみません。K先生。そんなつもりぢゃ・・・。

     そもそも、一番下のリンクで紹介する鈴木範久著「聖書の日本語」でも紹介されるように、英語のGodをどう翻訳するのかは、歴史的に大きく変遷してきた。いい悪いは別として、最初の翻訳のころに「神」を使わないほうがよかったかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思うのだなぁ。日本では、当時からすでに、神という語のインフレ化がもともと進んでいるうえに、最近は、なんでも神にしちゃったり、すぐに神がかったりするので、神のインフレ率は、インフレ率という意味では、某保守系政党の党首さんにとってみれば、うらやましい限りのインフレ率だと思う。多分。
     
     と思って、いたら、いつも拝読しているマクナイト先生のブログで、

    When is Theology Truly “Biblical”

    というタイトルで、聖書的がアメリカでインフレ率が激しいという記事が出ていた。そのまま引用する。

    Everyone claims their theology is biblical. Which means “biblical” is used by everyone and so many different approaches use “biblical” that “biblical” diminishes in value. It becomes, sad to say, little more than a claim to authority.

    What does it take for you to say something is “biblical”? Does biblical theology (as historical description ― below) hold theology hostage to historical discoveries?


     全員が、彼らの神学が聖書的であるということを主張する。それは、『聖書的』がすべての人によって使われており、非常に異なったアプローチがそれぞれ『聖書的である』と主張するあまり、『聖書的』ということの価値が大きく減じているのだ。悲しいことではあるが、聖書的というのは、権威があるということ以上のものを指しているのだ。

     何かが『聖書的』というとき、『聖書的』は、あなたにとって何をもってそういうのだろうか。聖書的神学(歴史的な記述は以下に示す この部分は省略。)は歴史的な発見にたいして、神学を人質にしていないだろうか?


     聖書的が、キリスト者の中で軽くあしらわれている、ということをマクナイト先生はあっさりと認めておられる。あーあ、いっちゃった。そうか、アメリカでもそうなんだな〜。

     特に、うちのキリスト者集団は、自分たちの主張を正当であるというあまり、「聖書的」が多用される傾向にあるように思う。たとえば、教会堂の中でのイスの配置の仕方や、葡萄ジュースかブドウ酒か、それを入れる入れ物や、パンの焼き方まで「聖書的」であることで、時にうれしくない論争が起きる。それこそ、聖書的でないようにミーちゃんはーちゃんは思うのだが。それを見ながら、好きにしてくだされ、私は、イエスが王であることを皆さんとご一緒に覚えたい、ただそれだけですから、と思っているがそうもいかないときもあるのでちーとつらい。

     聖書は、心をつくし、思いをつくし、知性をつくし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せ、というと同時に、あなたの隣人を愛せ、とも言っているし、兄弟でもめ事があるまま、祭壇に出てよいのか?とも言っているのにもかかわらず、こういったことや聖書理解の細かな点で、神学論争を繰り広げるのは、果たして聖書的なのであろうか、とミーちゃんはーちゃんは思っている。うちのキリスト者集団では、相当『聖書的』という語のインフレ率は高いと思う。

     昨日の夜は、わが町で開かれていた『テゼの集い』に参加してきたのだが、聖書の言葉をもとにした短く単純なメロディラインの曲を正教の信徒も、カトリックの信徒も、プロテスタントの信徒もみんなで賛美しながら、レクティオ・ディビナのように味わうように賛美と聖句の意味を覚えていくような集いであった。こういうの、いいなぁ、と思う。神を味わうというか、神に知られ、神を知る、ということの意味を感じた時間を過ごしたように思った。そして、『聖書的』ってなんざんしょ、と思ってしまったのだな。これが。少なくとも、他の人々も受け入れ愛、神と共に歩む民が一体となって神を覚え、祈る(なんか祈祷書で一致しようとする英国国教会と似ているが)も、確かに聖書的っちゃ、聖書的ではあるよな。と思った。

     いろんなもの(日銀券、神、聖書的を含め、なんでもそうだが)を人間のご都合でインフレ率を上げて、価値を下げるのをやめてほしい、と思ったミーちゃんはーちゃんでした。



    評価:
    鈴木 範久
    岩波書店
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    (2006-02-23)
    コメント:非常に良い本。聖書の翻訳語の変遷などを追っていて、今使っている翻訳聖書の可能性と限界を深く知れる1冊。読みやすい。

    評価:
    J.I.パッカー
    いのちのことば社
    ---
    (1978-07)
    コメント:オリジナルは、Knowing God(神を知ること)。名著。一人でも多くの人に読んでほしい本。

    2012.12.02 Sunday

    バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(1)

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       さて、昨日、上智大学公開講座『なぜ秀吉はキリシタンを嫌ったのか。』に参加したが、その公開講座の内容が、非常に印象的だったので、参加報告をしてみようかと。

       まァ、読者の皆さんへのかなり早めのクリスマス・プレゼントのつもりでござる。一応、このシリーズに関しては、毎日連投を予定している。というのは、通常トラックでやると、次の講演が始まるから。

       参加者には、結構シスターとか、高齢者が多かった。平均年齢は、ざっと60歳代くらいだったでしょうか。一番若い人が、30代前半女性ではないかと。ほとんど上智大学のOB/OG会に迷い込んだ、某国公立大学出身者の雰囲気でした。うーん。プロテスタントと社会階層の雰囲気が違うかも。年齢層は同じでも。プロテスタント系の集団と、少しだけだが、集団の『味わひ』が少し違う感じがする。

       川村先生、若い感じがした。年はミーちゃんはーちゃんより、少し若いくらいかな。まず、配布物の確認。年表・講演資料・キリシタンベルト(次回利用)の地図があることを確認した後、本命の公開講座、「秀吉の伴天連追放令 なぜ、キリシタンは迫害を受けるようになったのか」のご講義開始となった。

       12月1日の結論を言ってしまえば、秀吉君がキリシタンにNG出したのは、九州の大村宗麟のところで、浄土真宗の集団と類似性を持つ形で発展した『こんふらりあ』の組織のすさまじさを見てしまったから。この『こんふらりあ』と呼ばれる自主自治共同組織をつぶさないと、将来の政権運営においてやばい事が起きる、と秀吉君が思ったに違いない、ということであった。まぁ、千利休が最初はもてはやされたのに、のちにディスされたのは、茶の湯がゆるく結社的な性格を持つところも影響したかも、と思うてしもうた。


       さて、このご講演の内容をこれから、何回かに分けて、ご紹介していこうと思う。

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       まずは自己紹介で、先生のご専門はキリスト教史 (ヨーロッパのキリスト教史)なのだそうで、アメリカに行って勉強し始めた時、指導教官から民衆史としての『コンフラリア』を勉強するように言われたそうだ。

       日本では、この分野の研究者としては、松田毅一氏や海老沢有道氏がいるらしい。

       そもそも、中世キリシタン研究は、先生によれば、1920年代に京都大学で新村出(広辞苑のおじさん)が、キリシタン語学研究として、16世紀の日葡辞書の研究から始まったらしい。そもそもはこの日葡辞書に、当時の言語が残されていることや、現代では意味が変わってしまった語などが残っているため、それを国語学の見地から、その分野の研究者による研究が行われたようである。

       その後、1940年代に上智大学にキリシタン文化研究会ができ、姉崎正春氏やヨハネス・ラウレスなどにより研究がはじめられ、のちの上智大学『キリシタン文庫』の研究が始まったらしい。

       川村先生は、キリスト教思想史を志望しておられ、西洋思想史を研究しようとされていたとのことだったが、アメリカ留学やイタリア・グレゴリアン大学での研究を通して、キリシタンの組織論・共同体論をされるようになったらしい。

       キリシタンの歴史研究は、不思議な歴史らしくて、ヨーロッパの言語で残った文献資料を当たるため、日本語ではできない研究らしい。日本語資料はほぼないそうだ。

       ルイス・フロイスやヴァリニャーノらの記録がすべてらしい。当時の日本人では残せなかった視点からの記録でもあるらしい。

       例えば、ルイス・フロイスは、めちゃくちゃ観察マニアらしく、ものすごい観察量なのだそうだ。それは、フロイスの日本滞在記を見れば想像がつくが。博覧強記なおじちゃんだったようだ。以前の日本史での扱いでは、ルイス・フロイスの記述は、日本史の分野では、以前相当いい加減だとされていたらしいが、実際に調べてみるとかなり精度のある記述があるそうだ。たとえば、岐阜城については、山麓低地付近の館と山の上の館の記録が残っていたそうだが、実際に発掘してみた結果では、まさにその記述通りの移行が見つかったとか、安土城について、ルイス・フロイスは空中廊下(高いところにある土台なしの渡り廊下)の記述を残しているそうだが、実際にその遺構が安土城遺跡内にあるらしい。こういった意味で、キリシタン研究は、ラテン語、ポルトガル語、スペイン語でするようなかなり特殊な日本史研究となるらしい。

       このキリシタン系文書研究の第一人者であったシュール・ハンマー神父が、日本の城跡を地元の人と本丸を歩いた時に、このあたりに別棟の記録があったはずだが、といったところで、発掘したら、本当にあった、というような話をしておられた。この辺、日本の高山右近をはじめとした研究をするためには、ポルトガル語とスペイン語、ラテン語が必須のようですな。

       本日の御紹介は、ジョージ・エリスンの書籍に沿ったご紹介らしかった。基本、あくまでキリシタンの側から見た時代区分ということで、宣教師側から見た、宣教師としての時代区分として、I初期宣教期・II信徒の急増期・III 充実期・IV禁教と潜伏期 V 嵐の前の静けさVI 徳川禁教期 に分けて考えることができるそうである。

       その意味で、1549年の宣教開始期から1569年の初代宣教師の入れ替わり(カブラル到着)期には、キリシタン人口4万人ほどで推移し、カブラル到着に伴う、初代の宣教師の入れ替わり期には、カブラルの宣教方法により、信徒が急増し、15−20万人に達したとのことである。この時期には、大友領で集団改宗(2万人)が起き1570年代には、キリシタンの最盛期をむかえる。これはカブラルが南米で行われていたその地域のリーダーを改宗させることで、その地域の住民全員を改宗させるという方法などがあったらしい。これをみた、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、カブラルの宣教方法が、日本の文化や精神性に配慮した方法なのだろうか、この方法がおかしいのでは、と言い始め、カブラルの論争をおこなったらしい。

       1587年に、バテレン追放が始まって以来、キリシタンの潜伏活動が開始され、それまでイエズス会の宣教師の派遣に加え、フランシスコ会からも派遣が始まった。もともと、イエズス会は、ポルトガル系の宣教師で、インドを拠点にしていた人たちに加え、中南米を経由した、禁教後、スペイン系のフィリピンを根拠にしたフランシスコ会系の修道士も来るようになったらしい。

       お話を伺っていて、びっくりしたのだが、この1587年以降1599年の潜伏期でも、キリシタン(信者数)は増大したらしい。そんなこともあるのかぁ、と素朴に思ってしまった。

       1599年以後10年ほど、迫害もされないけれども、支援もされないという時期があったらしい。これは知らんかった。この時期に日本にいたらしいセルケーニャによると、一人の強大な独裁的な支配者がいるよりは、キリシタンの生存確率が高まるので、諸侯乱立状態の方がありがたいといった記録があるらしい。そして、この時期、諸説あるもののキリシタンは、およそ22万2千人(イエズス会公式記録)から40万人というあたりらしいが、実際には、30万人から40万人弱だったらしい。

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       というところで、今回はお終い。これで、全体の4分の1くらいである。

       しかし、教科書で聞くのと専門家の川村先生からお話を伺うのでは、ずいぶんイメージが違うと感じた。まぁ、御紹介したのは、川村先生が整理して語ってくださったことで、当日配布された資料と、PCでカチャカチャタイプして取ったノートをもとにしている。

       しかし、ルイス・フロイスが、ミーちゃんはーちゃんと同じような記録ヲタク、博覧強記の御仁であることに驚いてしもうた。ルイス・フロイスは、八木谷涼子さまかミーちゃんはーちゃんかといった感じの御仁であったらしい。なお、八木谷涼子さまも、ミーちゃんはーちゃんも元飛行機ヲタク(というよりは軍用機ヲタク)であることがツイッターで遊んでいるうちに判明してしもうた。ははは。仲間だ、仲間だ。わーい、わーい。

       今回お話をお伺いしながら、キリシタン研究が外国語で書かれた当時の文献を頼りにしなければならないご苦労様な研究であることがよくわかった。どうも、ポルトガル語やスペイン語、ラテン語が読めないと研究ができないらしい。プロテスタントの人間にはハードルが高いなぁ、とおもってしまった。
       
       川村先生 のたまわく、「鏡を見ながら研究するような感じ」ということらしいが、ミーちゃんはーちゃんに言わせれば、ビンチ村のレオナルド君【モナリザの作者として 超有名】の手稿を見ながらレオナルド君の研究成果を研究する研究者のようなものだと思う。ビンチ村のレオナルド君は、超変人なので、左右反転したかがみ文字で手稿を書いているのだ。だから、まともに読みたい人は、鏡を立てて、手稿を読んでいくらしいぞ。暗号化にも、ほどがあると思う。

       さてさて、実は、この後もっと驚くべき事をミーちゃんはーちゃんは発見することになるのであった。それは、次回または、次々回あたりに。




      評価:
      ルイス フロイス
      中央公論新社
      ¥ 1,200
      (2000-01)
      コメント:文庫にしては信じられない金額ですが、研究者にしては、この金額で買えるのがこのシリーズのよいところ。

      評価:
      ルイス フロイス,岡田 章雄
      岩波書店
      ¥ 735
      (1991-06-17)

      2012.12.03 Monday

      バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(2)

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          さて、過日、上智大学公開講座『なぜ秀吉はキリシタンを嫌ったのか。』に参加したが、その公開講座の内容が、非常に印象的だったので、参加報告をしてみようかと。

         今日はその第2回目。

        本日のポイントは、二つのバテレン追放令について。第1のものは、日本史などの教科書に記載されている各藩に送られたとみられる伴天連追放令。第2のものは、神宮文庫にのこっている伴天連追放令である。

         ミーちゃんはーちゃんは、高校時分工学部を目指していて、工学部もどきの学校に行ったので、古文、漢文は超苦手である。古文、漢文より、まだラテン語の方が読みやすい(ただ、辞書ひきひき読めるレベルではあるが)ので、途中ローラ語に機械変換した古文書が出てくるが、その変換精度は保証の限りではない。なお、川村先生によると、この伴天連追放令は意味が取りにくいらしい。

        では、川村先生のご講演の内容の紹介に移そう。

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         ポイントとなるのは、1587年(天正15年)の伴天連追放令だとかんがえられる。松浦の資料館に高札というかお達しがのこっているらしい。このお達しは、全国にまかれたかどうかも以前は、疑問視されていたが、近年の研究によって、これは真実性のあるものであることが日本史学的には、検証されているらしい。そのうえで、各地に配られたらしい。
        一応青字部分はローラ語に機械変換したものなので、正確さはわからない。

        一、日本ハ神國たる処きりしたん國より邪法を授候儀 太以不可然候事

         日本は神国なので、キリシタン国より変な魔法みたいなものをもらってくることは、むちゃくちゃありえないことと考えてね〜。おっけ(なんか、保守系の党首が喜びそうな表現だ。そういえば、森元総理大臣もそんなことを言っていたような気がする)
         
        一、其國郡之者を近付門徒になし 神社佛閣を打破之由 前代未聞候 國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事

         地域の人々を呼びあつめて信者にさせて、神社や仏閣をぶっ壊した破壊工作があったことは前代未聞だよ〜。大名小名といった国や郡などの知行地を任されているサラリーマン社長の皆さんに管理をさせているのは、しばらくの間のことだからさ〜、天皇陛下や関白家から出る命令を守って、その意をくんで適当にうまくやってね
        (なんか日本的だなぁ)。おっけー?普通のいろんなお仕事している皆さんも、変なことはしないようにさせようね。わかったー?

        一、伴天聯其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之佛法を相破事曲事候条 伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰國候 其中に下々伴天聯に不謂族申懸もの在之ハ 曲事たるへき事


         バテレンさんたちはさぁ〜、頭がいい方法を使って、心を操って、だんだん、パトロンのおとーさんをもつんじゃないかと思うんだけど〜、これはさっき書いたみたいに、地域の仏教をとんでもなくすることなので、気をつけてね〜。しちゃーだめだよ〜。あと〜、バテレンさん達が日本にはいることはできなくなっちゃんたんで〜、今日から20日以内に強制退去させるから〜、その用意をさせるからね。わかった〜?その間に、バテレンに普通の人たちが変なことをしてしまったら、それは、ダメだからねー。おっけ〜?

        一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を經諸事賣買いたすへき事


         黒船さんたちは、ビジネスだから、特別だからね〜。これからもずーっといろんなビジネスやってね〜。よろしく〜。


        一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候条 可成其意事


         これから〜、お寺のことを邪魔しない人たちだったり、商人である人たちはもちろんオッケ
        だからね〜。どんなキリシタンの国からきても、行ったり帰ったり、どんどん外国に行ったり、外国から来たりしても全然「オッケ〜」だからね。なるだけみんな頑張ろうね


         ということらしい。この文面の概説(なんとなくミーちゃんはーちゃんはローラ語で書いてみたくなったので、自動変換にかけてみた)があったあと、この文章の意義を川村先生は、これは、秀吉の全国統一の意図が現れた全国メッセージ(ミーちゃんはーちゃん流に表現すると、今でいう大統領就任演説)のようなものだ、と解説された。

         特に着目すべきは、今諸侯に与えている知行(支配地域)の割り当ては、当座のことで、永久のことではない、ということや、常住している民をキリシタンにするということはだめだし、バテレンが20日間内に帰国すべきで、その帰国準備の間、乱暴狼藉は許さない、黒船はビジネスする限りはOKで、案外、これが秀吉の本音ではないか、ということを言っている文章だと説明されたように思う。

         では、この伴天連追放令という文書は、どういうことか、といえば、秀吉にとって、南蛮人の相手することの主目的はビジネスではなかったろうか、そして、この伴天連追放令は、思想的なもののみに対する禁令ではなかろうか、ということであった。というのは、この文書の中に結構寺内という語や、門徒という言葉が出てくるからである。実はこの翌日に発布された形の神宮文庫(伊勢神宮の書庫?)に残っている伴天連追放令があり、それは神官向けのドキュメントだった可能性があるらしい。

         この文書の発令者は不明だそうだ。この文書に関しては、三木清一郎氏は当初にせ文書で後付け説だったそうであるが、大議論の結果、一応三木清一郎氏も、文書の正当性を認められたらしい。

         以下紹介するあまり研究が進んでない方は、覚えと呼ばれるもう一つのバテレン追放令である。実は、この内容を解説した文書がないうえに、論文すらまともにないらしい。

         上がオリジナルのはず、写し間違いタイプミスの段、お許しくだされたく。青字がローラ語に機械変換したものなので、正確さはわからない。

        一 伴天連門徒の儀ハ、其者之可為心次第事


         バテレンの信徒さんのことだけどさぁ〜、その人の「う〜ん、そんな感じぃ〜」っておもうんだったら、なることができるよー。なってもいいんだよ〜


        一 國郡在所を御扶持ニ知行   中之寺諸百姓等巳下を心さしも無之処、押付而給人伴天連門徒可成由申、理不尽に成候段 曲事候事

         サラリーマン社長さんみたいな大名やお役人のみんなはさ~、中の寺のおぼ〜さんたちや、いろんな市民でお仕事している人たちが「そんな感じ~」じゃないのに、無理やりそのサラリーマン社長さんやお役人みたいなひとたちが、「バテレンの信者になれ」とか言ったり、
        勝手に命令するのは、それはむちゃくちゃなので、ダメ〜、ダメ〜だからねぇ。それは、法律違反だからねー。しちゃぁ、ダメだよ~。

        一 其國郡知行之儀、給人ニ披下候事ハ当座之儀ニ、給人は替り候といへ共、百姓ハ不替ものニ候條、理不盡之儀何かに付て於有之ハ、給人を曲事披仰出候間、可成其意事

         サラリーマン社長さんみたいな大名やお役人のみんなはさ~、そこちゃんとやんなよ、と任しているのは、ちょ〜っとの間だけのことだから、サラリーマン社長さんみたいな大名やお役人のみんなはさ~、あっちの町やこっちの田舎にいってね〜とか、言われることがあるんだけど〜、地元のいろんな仕事をしている人たちは場所を変わったりしないので、何かにつけて無理やりさせるってことがあったら、それはめちゃくちゃだから、それは法律違反だとそのサラリーマン社長さんみたいな大名やお役人のみんなに怒っちゃうから~、雰囲気読んでうまくやってねー。おっけ〜?

        一 弐百町弐拾参千貫より上之者伴天連二成候二おゐてハ、奉得 公儀御意次等二成可申候事。


         200町2〜3000貫目より上の給料をいっぱいお給料もらった人でも、バテレンになっても、お仕事できるんだけどさぁ、そういうことしたいなぁと思っているおじさんやおばさんで、お給料いっぱいもらっている人は、事務室の人にちゃ〜んと連絡してね〜。


        一 右の知行より下を取候者ハ八宗九宗之儀候条、其主一人宛ハ心次第可成事。


         200町以下のサラリーマンみたいなおじさんや給料の低いお役人さんで、給料が2〜3000貫以下の人たちは、どんな宗教を信じてもいいけど、それを許可するかどうかは、その人のボスが気分で決めちゃっていいからねー。


        一 伴天連門徒の儀ハ一向宗よりも外に申合候由被聞召候、一向宗其國郡二寺内ヲ立て給人へ年貢を不成、并加賀一国門徒二成候て国主之富樫を追出一向宗之坊主もとへ令知行、其上越前迄取候て、天下之さワりニ成候儀、無其隠候事。


         バテレンの門徒のみんなについて〜、一向宗のみんなよりも、バテレンの門徒の人たちはさぁ〜、中で相談して物を決めるたり、秀吉君の言うことを聞かないと思うんだよね〜。一向宗のみんなはさぁ〜、秀吉君が管理しているはずの地域の中に寺内(自主自治共同管理地)を作り、サラリーマン社長のおじさんみたいな大名なんかに、税金(年貢)を納めもしないし〜、その上、石川県(加賀)全体を門徒にしちゃってさぁ〜、そこの県知事のフガシさん家まで追い出しちゃってさ〜、一向宗のおぼーさんの言うことだけを聞いちゃったりしてるでしょ〜。それだけじゃなくってさ〜、あの〜、富山県までさ〜、勝手に自分たちのものにしちゃってさ、いろんな面で、日本全体で困っちゃうから〜、一向宗とかバテレンのこと、絶対ナイショにしちゃーだめだよー、おっけ〜?

        一 本願寺門徒其坊主、天満二寺を立させ、雖免置候、寺内二如前々二は不披仰付候事。


         本願寺さん家の〜おぼーさん、いるじゃない。天満という場所にお寺を作らしてあげたんだけど〜、そこにいても本当はおっけ〜じゃないんだけどさ〜、寺内(自主自治共同管理地)が昔のまんま、というわけにはいかないからさぁ〜。わかった〜?

        一 國郡ハ在所を持候大名、其家中之者共を伴天連門徒二押付成候事ハ、本願寺門徒の寺内を立て候よりも不可然候義候間、天下之さわり二可成候条、其分別無者ハ可被御成敗候事。


         管理しなさいって、場所が指定されている大名のみなさーん、みんなの家来をバテレンの門徒に無理やりすることは、本願寺の門徒さん達がさぁ〜、寺内(自主自治共同管理地)を作ることよりも全然駄目だからね。このことは日本全体の問題になることだから、そういうわけわかんない事しちゃうみんなは、ローラが秀吉君と一緒に、びしばしやっちゃうからね。わかったー?

        一 伴天連門徒心さし次第に下々成候義ハ、八宗九宗之儀候間不苦事。


         バテレンの門徒さん達に言われちゃってさ〜、フツーのいろんな仕事をしてるおじさんやおばさんがさぁ、バテレンさん達や門徒さんになることは、宗教的なことだから、苦々しく思っちゃ駄目だからねー。


        一 大唐南蛮高麗へ日本仁を売遣候事可為曲事、付日本二をいてハ人之売買停止之事


         中国やさ〜、ヨーロッパやさぁ〜、朝鮮半島にさぁ〜、日本人を派遣労働者みたいに派遣したり人身売買みたいなことしたりすることは法律違反だからね〜。おまけに、日本の国の中でも、人身売買しちゃだめだからね。おっけ〜?

        一 牛馬を売買殺し食事是又可為曲事事。


         牛や馬を売ったり買ったりして、殺したりして食べたりしたら、これは法律違反だからねー。やっちゃダメだよ〜。


        右之条々堅披停止畢、若違犯之族は忽可被処厳科者也。


         これまでに言ったことは、全部やっちゃいけないことだからね。わかった〜?やっちゃいけない事をやった人たちは、びしばしローラと秀吉君が怒っちゃうから、気をつけてね〜。おっけ〜?


        天正十五年六月十八日 御朱印

         大事なのは、この第6項目で、バテレン門徒の儀は・・・という部分で、要するに秀吉は、キリシタンは一向宗以上の寺内(これがキーワードらしい)という自主管理の自治領 を作るので問題にされたと思われる。ということらしい。この中に出てくる、「知行いたし坊主」というのは、信徒リーダーや門徒リーダーで毛坊主と呼ばれる半ば俗人半ば僧侶の人たちがその地域の宗教集団の管轄する寺内を運営したのだけれども、キリシタンは、それよりも手ごわいと聞いている。ということを反映したものらしい、とお話しされていた。

         大阪の天満(今の大阪城のあるあたり)に本願寺を再建することは赦したが、寺内(じない)町にはさせていないらしい。どうも、寺内が結構厄介な存在と秀吉は思ったと考えられるそうだ。当時、門徒自治区があり、一種の自治独立行政区ができていた、と考えられるということであった。

         本願寺派の人たちは寺内町の運営やめていたが、キリシタンが同じことをしているので秀吉君は、危機感を持ったのではないか。
        ---------------------------------------------------------

        ということであった。伴天連追放令に二つの系統があったとは知らなかった。まァ、論文もまともに書かれてないらしいので、これからの研究を待つしかないらしい。ミーちゃんはーちゃんの日本史の知識は、高校2年生の平安朝で終わっているので、この種の話、寺内町などの話はよく知らなかったのだな。

         ちなみに、私は網野先生に私淑しているので、「百姓=農家の皆さん」とは理解しません。「百姓=いろんな職業の市民の皆さん」という理解です。

         堺に見られるように、当時の中世は中小の商工業者が経済力をつけ、それが政治的な発言をし、自由都市に近い形の市民社会を作り出しそうでもあった時期であり、それの対応に当時の指導者は相当苦慮しています。従来の安土桃山時代以前の足利時代までの比較的安定した社会構造から、産業技術や金融技術、物流技術の第変容により、大変革を遂げた先にあったのが、足利政権時代以来続く安土桃山時代であり、その政治的・軍事的トップランナーが実は、誰であったかというと、信長君だったのです。

         つまりなんとなく社会制度が産業界にとって窮屈になってきたところに、信長君が現れ、楽市楽座じゃ、と言い始めたために、「ををを、自由化、規制撤廃、改革開放路線!」となったので一気に産業と国内の社会構造の変容がすすんだのがこの時代じゃなかったかと。それを支える農村社会での一種の自治領としての寺内町というのがあったと考えるのが自然かなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思うのですね。ハイ。

         その意味で、信長君は時代の波に乗っていたし、当時の人としてはカッティング・エッジだったのであるのだろうと思う。そこに乗ったのが、当時のキリシタンだったのかもしれない。

         ただ、お武家階級(もともと、農家のでなのだな。新田義貞は新田開発農業者の末裔なので、新田なのである)の皆さんは、自分で耕作もするものの(今でいう自治体やJA職員の仕事を持ちながら、兼業で農業をする農家のようなもの)それだけでは戦闘集団として生きていけないので、農家から年貢という形で税金をまき上げないと生活できないのだ。それを勝手に寺内町なんか作られてきた日には、仏教の名による合法的脱税(実は荘園制度は宗教組織を活用した合法的な脱税なのだ)を認めることになるので、これの対応をせざるをえなかったので、寺内町は対応に苦慮したのだし、それをいいことに好き勝手やって僧兵までいる比叡山延暦寺を壊したのである。

         しかし、キリシタンだけが神社仏閣打ち壊したわけではないのだが、武家集団による神社仏閣の打ちこわしはおっけ〜なのね。

         とはいえ、この門徒衆の寺内町と同じことをしたのがキリシタンだったので、おまけに話がまともに通じない外国人に率いられている寺内町もどきが日本中にでき、それが武家集団による社会制度の構造を変えることを恐れた、というのが、バテレン追放令のどうも実情だったようだ。

         その意味で、それまでの戦国時代から、織豊政権、徳川政権の確立に合わせて、社会システムの安定化、固定化に向かう中で、寺内制度の持っていた世俗の政権に対する対抗意識というのか、寺内制度の持っていた世俗政権からの独立性と徴税忌避システムとしての役割などが、政権運営システムの根幹を揺るがしかねない問題を持っていたことに端を発する、ということが分かった。

         私の記憶に間違いがなければ、大阪城は、昔天満にあった一向宗の巨大なお寺をぶっ壊して作ったのではなかったかと。

        なお、バテレン追放令に関する北國新聞の記事のご紹介。一応御紹介。

        http://www.hokkoku.co.jp/kagakikou/ukon/ukon19.html

         次回へと続く。


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        コメント:あなたの中世日本史理解に確実に疑問の一隻を投ずる本でしょう。ミーちゃんはーちゃん大絶賛。

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        コメント:海洋国家として日本史を見直してみたときに周辺諸国の交流史の別の側面が見えてくるでしょう。特に北陸方面では、陸上交通より海上交通の方が重要であり、日本は海の都のベネツィア並みに海洋国家であったようです。

        2012.12.03 Monday

        うわぁ。いじょうだぁ〜。ぴーぽーぴーぽ〜。

        0
           敬愛してやまない水谷先生にブログ紹介されてしもうた。

          そしたら、アクセスがいきなり600越え。

          このブログは、マニアックな内容をひたすらマニアックに追及するキリスト教メディアでは怖くてやれない事をやるブログ(キリ新さんは、これに近い事をしてくれるから好き。こんなことを書くから、キリスト新聞社の御用ブログって言われる。でも、Ministry大好き)であるので、常時100−200程度なのだな。そんでもって、200超だと、あー昨日は人数多かったなぁ、と思うのであるが、ここのところ、毎日500アクセスを超えている。うわぁ。い、いじょうだぁ、である。

           御紹介いただいた、水谷先生、ありがとうございますた。ミーちゃんはーちゃんマンモスうれピー(と酒井紀子のまねをして遊んでみる。年甲斐もなく・・・・)


          2012.12.04 Tuesday

          バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(3) 最終回

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             上智大学大阪キャンパスで行われた川村先生による秀吉の伴天連追放令とキリシタンについての講演に関するご紹介の第3回目(多分今回の公演については、最終回)は、公園の公判で行われた寺内町とそれまで日本に存在した組織と、現代のキリスト教会との関係を考えてこの連載を閉じたいとおもうのだな。明日からは、通常の投稿に戻ります。

            なお、この以前の講演内容については、

            バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(1)

            バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(2)

             御講演の後半部分で、川村先生は、いよいよ寺内についての歴史的分析に移る。

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             まず、キリシタンの寺内とはどこだろうか。それは存在したのだろうか。という歴史学的な問いかけに対して、それがあったのが長崎であった、とご紹介された。

             このキリシタンにおける寺内に関しては、実は大村純忠がイエズス会に対しての土地をしたことに始まるらしい。1580年に、イエズス会の教会領として大村純忠によって一種プレゼントの形で、大村領全体が寄進され、イエズス会の所領として認知されている。

             天正8年4月に大村純忠(ドン・バルトロメウ)とその息子(ドン・サンチョ)によって署名された長崎寄進状というのがあり、欧文のスペイン語による証文のみが残っている。ただ、おそらくは、もともと口約束だった可能性があるとのことであった。配布資料としてこの文書の画像が配布されたが、それを見る限り、条文本文の筆跡と両者のサインが同じ筆跡であることから、その可能性が高いと思われる。

             この寄進状によれば、巡回師父のヴァリニャーノに行政権、司法権(死刑を含む)を譲渡している。ただし、関税徴収権だけは大村家が持つことになっている。さらに、茂木(モンギ)をさし上げますとの記述もある。茂木(モンギ)の文字が長崎より先に書いてある。この茂木という地名が重要。次回これを解説してもらえるそうです。もともと、茂木および長崎の寄進状ではあるが、これらの寄進地のうち、宣教師にとっては茂木が重要であったようである。

             次に、寺内とは何か、ということをお話しされた。寺内町の研究は仁木先生という方がしておられるのだが、この寺内というのは、前回も軽く触れたが、信仰者の共同体とそれが実効支配する地域ことである。秀吉が、キリスト教の共同体を寺内とみた根拠とは何だろうか、ということをお話しされた。

             寺内に相当するのが、コンフラリアであり、当時キリシタンの中では、カトリック教会内には、司教制度のようなヒエラルキー制度ではなかった。当時、日本には、司教が存在せず、教会ヒエラルキーが存在しないのがキリシタンの特徴であった。

             イエズス会のミッションがあっただけである。ミッション、布教宣教区が存在していただけだった。教皇がミッションに対して関与する、間接的関与の形であり、当時のキリシタンは、小教区制度ではなかった、とのことであった。

             キリシタンとキリシタンの人数の変容を考えてみると、1593年のイエズス会の統計で、22万5千人であり、そのすべてを宣教師が指導しているわけではない。当時日本にいたのは、40人の宣教師だけ。宣教師一人に5000人の割合であり、この当時は、いま、南米のジャングルの中でジープに乗りながら、神父が巡回しながら1日に5−7回もミサをするのに駆け回っているような宣教状態であり、コンフラリアはフィリピンのベーシック共同体みたいなかもしれない、というお話であった。

             となると、各地の信仰共同体は、神父がいなくても、指導者がいなくても、メンバーだけで自主独立する方法を取り、ときどき、神父がやってきて赦しの秘跡をするような形だっただろうとのことであった。地域の指導者たちが共同体を運営するようなものだろう。

             このような自主運営組織をラテン語で、コンフラテルニタス CONFRATERNITASといい、フランス語で、コンフレール、イタリア語でコンフラテルニタ、ポルトガル語でコンフラリア、英語でブラザフッドと呼ばれる。このコンフラリアは、13世紀出発のヨーロッパ発の信徒共同体であるが、当時の日本の信徒は割と自然に、このコンフラリアというキリスト教世界の社会制度を受け入れたのである。

             ところで、このコンフラリアが日本に移植され、日本で成長した時に同じような花が咲いたのかを検討してみたい。実は、かなり、日本的な変化をした、ということであった。

             実は、このコンフラリアが寺内構造に類似しているそうだ。中世史の池上先生・河原先生などと川村先生はコンフラリアの共同研究をすすめられているそうだが、いま、ヨーロッパではコンフラリア研究が非常に熱心に行われているそうだ。コンフラリア研究は、一種の民衆史研究といえるそうである。

             次に、この概念が、日本に渡来してきている事に焦点をあてて考えたい。日本ではこのコンフラリアの概念は、知られていたが、ヨーロッパのコンフラリアとの違いがみられる。
            コンフラリアは、イタリアの都市コムーネCommune(フランス風に発音すれば、コミューン)に範をとったものであり、キリスト教信心会ともいわれるが、同じ市民共同体でも、ギルドはビジネス向け共同体であり、コンフラリア修道会規則と誓願による信仰者の共同体であるそうだ。なお、コンフラリアは、定員制となっているそうだ。

             このコンフラリア内では、リーダーは自主的に決めることになっている。ラウディシでは、ただ、讃美歌を歌って練り歩くコンフラリアもある。フィレンツェでは、現在もなお、126団体あるらしい。

             フィリピンには、スペイン配下のメキシコから、ルソンへと伝播しているそうだ。このコンフラリアは、日本では組とか、組講とよばれた。なお、信心とは親鸞のことばで、浄土真宗で、キリシタンは、当時信心を用語としては利用せず、ラテン語の音をそのままとりながら、フェーデ Fedeと言っていたらしい。

             スペインでのコンフラリアの一つにセビリアのコンフラリア・ミゼリコルディアがあるそうであるが、この集団では、顔まですっぽりかぶる真っ黒な服着て歩いている団体だそうだ。このミゼリコルディア(慈悲)のコンフラリア(共同体組織)は、主に慈善事業を行っているらしい。具体的には、マタイ25章にある、死者の埋葬。病人の介護、旅人に宿を与え、病人を訪問 それに倣って、同じことをしている集団だそうだ。黒頭巾を頭からすっぽりかぶり、顔を隠すらしいのだが、こうするのは、偽善者だと思われないためだそうだ。そのコンフラリア・ミゼリコルディアの概念が宣教師により日本にもたらされて来ている。


             1552-53年にかけて、コスメ・デ・トレルス、ルイス・デ・アルメイダが、大友領へ移動し、その当時の移籍は、現在発掘調査中だそうだ。このコンフラリア・ミゼリコルディアは、12名の信徒集めて共同体を結成し、病人看護にあたった共同体だそうである。コンフラリア・ミゼリコルディアは12名(12使徒にちなむ)から構成され、大友領内での医療施設の薬局を手伝わせた。この病院施設は、アルメイダにより大拡張され、豊後府内病院として1557年に活動を開始する。この病院には、内科と外科が設置され、リスボンのミゼリコルディア・コンフラリアの基準が豊後府内のコンフラリアに授与されている。

             このコンフラリアのメンバーが病人と行き倒れの死者などの埋葬をおこなった。また、この集団は行き倒れの死者の埋葬で有名になって、このコンフラリア・ミゼリコルディアが提灯行列を出すなど、葬儀を非常にきちんとやった記録が残っている。このため、3000人の周辺の農村から集まったそうだ。

             また、ハンセン病などのターミナル・ケア病棟第3病棟を構築し、慈善院と呼ばれたそうだ。ところで当時の社会では、ハンセン病者のケアとか、一般市民がするものではなかったらしい。

             延喜式が定められた10世紀に穢れという概念が生み出され、触穢の概念が、天皇家を中心に影響したらしい。死体の運送などは、当時の16世紀では、特定の社会集団が専門にやっていたもので、当時の一般の庶民は、絶対やってはいけないこととされていたらしい。それを当時の一般市民(百姓)である彼らが進んでやったので、非常に驚きをもって受け止められたようだ。それで、それに共鳴して、参加する人々が増えてきた。

             一応、当時は、病気や死体(人体、動物を含む)などへの禁忌があり、それに触れたものは1月間穢れるということになっている。ただ、1カ月たつと自動でリセットされるらしい。そして、豊後の12人の共同体の延長が広がっていった。大友宗麟は、自分の館の道を隔てて打破あるものの、其の館の真横にこの慈悲院を家臣団大反対にあいながらも、建設したらしい。

             こんな形で、コンフラリアに対してシンパシーを持つ人々が増えていって、大分市に病院ができると、周辺の村人に伝わり、さらにそれが伝わっていきという形で、拡散していった。この経緯の中で、府内の施設とは別に、周辺の村にも礼拝堂ができたそうだ。その礼拝堂での、50人、100人単位の改宗が起きた。キリスト教集団の拡充が口コミで、なされていった。大分市鶴崎(高田)と呼ばれた地域にある、コンフラリアを看坊と当時呼ばれ、府内などにいた慈悲役と呼ばれる人たちが本部リーダーにあたるらしい。そして、地元では、この看坊と呼ばれる人たちが、数年交代で、後退に支部リーダーを務めるという構造を取った。

             コンフラリア・ミゼリコルディアのシステムは、一種の民間人による相互扶助団体の構築であった。実は府内から、1レグアないし2レグア、(4キロから8キロ)の地点が鶴崎集落であった。

             伴天連追放令、江戸幕府の追放令があったが、このコンフラリア(信徒だけの共同体)であり、非常に幸甚であった。なぜならば、宣教師がいなくても、自主独立であり、宣教師がいなくても、村落共同体として生き延びた。隠れキリシタンの源泉とすごい結束力の根源とノウハウは、キリシタン時代の当初からあった。それが、寺内町という制度であり、それがコンフラリアに化けたということらしい。なお、コンフラリアは、時代時代に応じて、この組の役割を変化させ、そして、自主独立で運営されたらしい。

             ところで、このコンフラリアに加盟した信徒は、もともとのどのような信仰を持って行ったかというと、浄土真宗であった。この豊後の高谷には、1400年代から続く浄土真宗の道場があり、それは厳密な意味で言うとお寺ではないが、道場経営者が経営する一つの民家を仏間にして通っていた。その道場では、民間人、毛坊主が教えていた。半分僧職、半分民間人の立場で、講または組の全員で、お金を出し合って道場を運営していた。この毛坊主は、ある地域では、看坊(コンフラリア)に相当するらしい。つまり、真宗道場との相似性から、コンフラリアが日本に定着していったらしい。 

             日本で戦国時代に、ヨーロッパの組織論をもとにした組織類型が定着したのは、日本でのこの看房(浄土真宗の道場)といった組織論の類型があったから、アナロジーが働いたと考えられる。

             浄土真宗では、光明本尊が信仰の対象となるが、お金かかるから仏像ではなく阿弥陀仏の絵か、南無阿弥陀仏の文字とその背後に書かれた認可状つきのものであり、キリシタンも同じことをしていたのではないかと考えられる。なお、大分市の高田は、本願寺派の九州ナンバーワンの総本山があったらしい。

             このように考えていくと、本願寺派にかぶってキリシタンが広がったという仮説ができる。両社とも、非常によく似た組織であり、キリシタンの組織と道場経営組織の類似性が、非常に高いものであった。

             1630年代迫害期についてのマテウス文書によれば、慈悲役、看坊、総代という真宗の用語が利用されていることからも、キリシタンも真宗道場との類似性を想定してコンフラリアを理解し、それが具体的に構想されている可能性がある。

             その意味で、キリシタンの寺内町とは、外国の影響を受けた強力な自主自治独立共同体としてのキリシタン寺内町という存在は、天下人へのチャレンジだと秀吉は考えたため、このことは、実に赦しがたいと考えた可能性があるのではないか、ということであった。

             実は、伴天連追放令の前の3月に秀吉は、九州を大友家からの救援要請を受けて九州に軍をすすめたが、その際に、実情を把握したのではないかと思われる。これは、実に禁教令の3か月前である。

             長崎を中心としたキリシタン史で、なぜ、危険視したかというと、大分から長崎をつなぐキリシタンンベルトができていたからである。詳細は次回公開講座で、ということであった。


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             ところで、このお話をうかがいながら、寺内という共同体組織というのが、キリシタン理解の核になるということがよくわかった。ミーちゃんはーちゃんのプロテスタンのカスは、最近まで、この共同体ということが分からなかった。ナウエンの冷静の神学を始めて、カトリック的なものを理解する概念として、この共同体制の重要性に気付いたのだ、信仰共同体であると同時に、生活共同体(生活協同組合ではない)の存在こそ、カトリック的な霊性を理解する鍵であることに気付いたのだ。ミーちゃんはーちゃんはお馬鹿であったのだ。この重要性を理解せずにカトリック的な世界観はどうやっても理解できるわけがない。

             あと、よくある誤解に、近代、とくに15年戦争(某保守党党首は、大東亜戦争と呼んでいたが、時代錯誤的だなぁ、と正直ちょっと思った)後の日本のカトリック教会構造として、この時代のキリシタンを理解してはならないのだ。イエズス会によるカトリックの変容を経て成立した近現代のカトリック的なものと、それ以前のきりしたん的なものは大きく違うようだ。司教区がないというのがそれなのだ。

             この話を聞きながら、あれ、キリシタンって、無教会のキリスト者集団とキリスト集会と自称する集団とそっくりじゃないか、と思ってしまったのだな。組織を作らず、ゲリラ的に活動する、アメーバー型組織である。これは、非常に組織構成原理として外部からの耐衝撃性が強いのだ。実は、アルカイダなどのテロリスト組織や米軍がヴェトナムで手を焼いたヴェトコンなんかがこの種の組織であり、のちに海兵隊は、この種のゲリラ戦研究を通して、ゲリラ戦の戦闘技術を自分のものにしていった。

             ヒエラルキー型の組織であれば、組織のトップを暗殺するなり、逮捕するなりしてしまえば、その組織は崩壊する。指導者を殺してしまえばよいのだ。後は、兵隊は我が身かわいさに逃げ出してしまうか、集団投降してしまう。典型的には、中国で項羽が殺されてしまった後の楚軍やゴリアテなきあとは移送したパレスチナ(ペリシテ)兵みたいなものである。

             ところが、アメーバ型組織では、トップがいなくなっても、自律的に運動を再開してしまうので、適当に自律型の柔軟な組織が適当に判断して動いていってしまうので、トップが倒れても大丈夫、になっているのだね。だから、迫害時であっても、地下にもぐりながらデモ活動ができたようだ。ただ、その信仰自体は本質が忘れられ、形式化したみたいだが。数百年後にカトリック教会が長崎にできたときには、カトリック教会から隠れキリシタンの方は、仲間に入れてもらえない、ということもあったようだが・・・・。

             まぁ、今のキリスト集会でも、一部にトップ依存になっていたキリスト集会や、トップ依存になっているキリスト集会もないわけではないけれども、本来、ゲリラはゲリラ組織がいいのだなぁ、と素朴に思ってしまった。

             ミーちゃんはーちゃんが左向きなのは、そうか、コンフラリアという共同体概念に近い概念の親交者集団にいるからなのね、と思ってしもうた。まぁ、共同体概念への志向が強ければ、基本、左向き、フラット型組織志向になるのは理の当然ですな。

             スペインの黒服を着て歩きまわっているコンフラリア・ミゼリコルディアの話を聞きながら、日本だと、ほとんどゴスロリ系のコスプレにしか見えないだろうなぁ、と思っていたが、よく考えてみれば、同じような黒頭巾かぶった黒服集団が、登場した話が、確か、塩野七海の海の都の物語にあったと思う。同書よれば、乞食記をしたベネチアの没落貴族も、この黒一色の服を着て黒頭巾かぶって、だれ変わらないようにして、生活用の金をもらっていた記述があったように記憶している。

             あと、ミゼリコルディアの中で、リーダーが数年交代で変わるというのを聞いて、あー、こういうの、キリスト集会を自称する集団で、こういう交代があるといいのになぁ、と思った。適当に交代させることで、一個人への権力の集中を防ぐことができると同時に、その集団の全体としてのメンバーの能力アップにつながるからである。そうであるからこそ、ゲリラ型組織としての能力の向上につながるからである。内村鑑三だったか誰だったか忘れたが、無教会派では、どうしても教役者が限られることもあり、先生主義がはびこる、というのがどっかに書いてあった記憶があるが、こういう強制的な交代性があれば、それを少しは防ぐことができただろうに。無教会の皆さんやキリスト集会の皆さん、やりませんかねぇ。こういう強制的な指導者の交代制度。真面目な話。

             島津征伐として知られる秀吉とその将兵の九州行が、キリシタン禁令の根拠だと聞いたことはあったが、実はその背景に九州のコンフラリアの存在とその自主独立性、ゲリラ組織のようなものや、寺内と呼ばれる宗教を盾にした自治組織の危険性ということまでは思いいたらなかった。秀吉とその将兵の九州行の段階で、現実のコンフラリアの姿を見たときに、「やっべー」と秀吉君が思ったのではないか、というのが、川村先生の説らしい。なるほどねー。そりゃー税金納めなくていい、神のものだ、みんな共同で生きましょうぜ、という集団には、為政者は手を焼くよねー。

             あと、延喜式と差別の対象になった集落とそこに住んでおられる方々とその共同体関連に関しては、下に紹介した網野先生の本を参考にしてね。本当に参考になるから。

             次回予告、って、川村先生もミーちゃんはーちゃんと同じノリなんだ、とちょっとびっくり。その次回予告として触れられたキリシタンベルトの話を聞きながら、カリフォルニアにある、エル・カミノ・レアル(王の道)という話を思い出した。カリフォルニアの、エル・カミノ・レアルは、メキシコにいたカトリックの宣教師たちがカリフォルニアで伝道(カリフォルニアミッション)した道である。この、エル・カミノレアルは、カリフォルニアの小学生の4年生か5年生で必ず習う話らしい。サンディエゴ起点、サンフランシスコ終点の伝道旅行の道とそこに点在する教会群の話を思い出してしまった。実は、ミーちゃんはーちゃんがレンタルしていた果樹園付きの戸建て住宅は丘の上にあったのだが、丘を降りたところの前の道が、実はエルカミノレアルだったらしい。道々に、鐘の形をしたストリートファニチャーが置いてあった。

             ミーちゃんはーちゃんは、サンタ・バーバラに住んでいたので、このうちいくつかのミッションには行ったことがある。行ったことがあるのは、以下の4つである。

            • ミッション・サンディエゴ・デ・アルカラ (1769年)
            • ミッション・サンルイスオビスポ・デ・トロサ (1772年)
            • ミッション・サンブエナベントゥラ (1782年)
            • ミッション・サンタバーバラ (1786年)
            である。

             なお、サンタ・バーバラの郊外には、サンタクローススレーンというのがミーちゃんはーちゃんが滞在したころには道路として存在した。今はよくわからんです。はい。

            ぜひ大きな地図で見る をクリックして、ズームしてください。


            大きな地図で見る



             最後まで、見てくださった奇特な方にだけ、ご連絡。

             実は、ミーちゃんはーちゃんが今度の日曜日の午後、芦屋恵キリスト集会というところで、バッハのマニフィカットの動画などをつかいながら講演をいたします。詳しくは、『芦屋恵キリスト集会』で検索するか、リンク集のトップにある『芦屋恵キリスト集会』のリンクをクリック、してください。入出場は自由らしいですよ。よろしければ、ぜひ。って、ステマだよね〜。




            2012.12.05 Wednesday

            アメリカ人の福音派の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと

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               とりあえず、アクセスの嵐も落ち着いてきたので、ちょっと、マニアックで気分が悪くなるような話題を。実は、先日来、スコット・マクナイト先生が大変重要なポストをアップしておられたので、ここでちょっこし紹介。

               アドベントの季節にこんなことを書かなくても、という気持ちもわかるが、しかし、ここはひとつ冷徹に、アドベントの時期だからこそ、考えてみたい。

               福音派の皆さんは、気分が悪くなるかもしれませんが、ぜひ最後まで読んでいただきたい。これは、リベラル派の聖書学者が書いたものではなく福音派の新約学者のブログに乗っていて、福音派の聖書学校の教官が書いたものだからである。

               リベラル派の皆さんは、なーるほどー、と思っていただければよろしいかと。

               なお元タイトルは、

              Are American Evangelicals Seduced by Militarism?

              アメリカの福音派の人々は、軍国主義に魅惑されているのだろうか?

              何とも、挑戦的なタイトルである。Seduceという言葉自体、性的な魅力で他者を言いなりにするという意味で、かなりセンセーショナルな語である。要するに若くてきれいなセックスアピールの強い女性の性的魅力に負けて、中年男性がいいなりになる、なんて感じのある言葉である。元アドレスは、こちら


              http://www.patheos.com/blogs/jesuscreed/2012/11/09/are-american-evangelicals-seduced-by-militarism/


              ちょっと、日本語変換しておこうかと。英語が読める人は、オリジナルのテキストを読んでね。一応参考までに最後につけておきますので。

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              (写真は、右がら一人目のピンストライプがレーガン、その隣はだれだっけ?思い出せん)
               

              このポストは、Preston Sprinkleから来たものである。

               アメリカの福音主義は、軍国主義に目がくらんでいるのだろうか。軍国主義はキリスト教信仰と一致点を持つことができるのだろうか。

               アメリカの軍国主義。この言葉は、アメリカの福音的な教会だけでなく、広く一般に意見の不協和音をもたらす言葉である。いくつかの最近出版された書籍がしめすように、アメリカが、次第に軍事的になっていることは間違いない(たとえば、Andrew Bacevichのアメリカの新軍国主義や Rachel Maddowの漂流等がその例である)。福音派には、アメリカの軍事的な手腕について、それも、大規模であればあるほどよいものである、として安易に称賛する人々もあれば、この軍事的な手腕をそれが、偶像崇拝的ではないとしても、危険なものとみなす人々もいる。この投稿と次の投稿で述べる理由により、私は後者ではないかと思っている。アメリカの福音的な教会は、完全ではないというものの、おおむね、軍国主義的な能力に骨抜きにされているのだ。

               軍国主義とは何だろうか。新オクスフォード米語辞典によれば軍国主義とは、

              政府や国民によるその国の軍事的能力が強力な状態であり、国防と国家の権益を拡大するために軍事的能力を積極的に利用できることに関する信念または欲望である。

               軍国主義というときに、私は、軍に対して関与する人々について言っているわけではなく(私(注 Preston Sprinkleだと思われる)の家系は、長らく海兵隊に参加してきた家系である。)、軍国主義とは、国家としての権益、あるいは宗教的な権益を維持し、拡張するために支配的な強い軍事力を持つことに関する「信念または欲望(NOAD の定義を引用)」を持つことである。

               しかし今、私は言いたい。アメリカは次第に軍国化が進んできたと。軍国化が進んでこなかった、ということは困難であろう。また、こうも言いたい。(このブログ記事 で、証明することは時間の制約上無理ではあるが)、アメリカの近年の軍国主義は、もともとあった理想から逸脱したものであると思う。アメリカの歴史におい ては、アメリカは軍国主義に批判的であった。そして軍国主義は、アメリカにおける自由への脅威として見られてきた(このことは、BacevichのThe New American Militarism に詳述されている)。これらの議論は、聖書的な世界観の用語には、存在しないものである。国家は、国家のすることをするものなのである。しかし、近年の軍事主義への傾倒は、たった一つの重要な要素、それも絶望したくなるような要素、によって強化されているものなのである。アメリカの福音主義的な教会が、近年の国家全体として軍事的能力への魅力と信仰と拡大することを引っ張ってきた責任があったということである。

               20世紀の間、アメリカのキリスト者は、軍事的な能力に対してさまざまな反応を示してきた。しかし1980年代初頭から(そして、ある程度、 1970年代中葉から後半にかけても)十分検証されないまま、宗教的な自由の延長線にあるものとしての、アメリカの軍国主義への傾倒が見られた。ベトナム での軍事的失敗は、アメリカの軍国主義への信仰に衝撃を与えたし、カーター政権時代(1977-1981)には、この退潮をもとに何も戻すことはなかっ た。しかし、のちのレーガン政権時代(1981-1989)には、福音的なキリスト者の中では、アメリカの軍事的そしてキリスト教徒的信仰の自由への感覚 が両者が手と手をつなぐかのように増大した(この文章の意味はおそらくこうだろう。確信はない)。1980年代、無神論的な共産主義が、アメリカの自由に対しての脅威をもたらし、 福音主義の人たちは、この共産主義の脅威への解決策として、アメリカの軍事力を考えるようになった。1980年代においては、アメリカの軍事力に対するア メリカの福音主義者の圧倒的な支持が集まった。まさにこの理由としては、軍事力は、無神論的な共産主義への恐怖を突破するための解決策であったからだ。し たがって、レーガンの軍国主義的への強硬路線は、福音主義的な教会から多くの支持を得たのだった。

               ハル・リンゼイティム・ラヘイ (注 英文テキストではコメントでの指摘で間違いを認めている)を例にとれば、『軍事的な弱体化の危機』の中でのアメリカのモラル低下を見定め、彼自身は、『聖書は強力な軍事力を拡張することを支持している』と確信しているのだ。リンゼイ(注 おそらく、ハル・リンゼイだと思う)は、聖書がアメリカに、もう一度力を取り戻すように”と”世界最強の軍事 力となるためにより優れた技術を幅広く用いるべきだ。”と主張している(1980年代という時代:ハルマゲドンへのカウントダウン)。リンゼイの感傷的な 気持ちは、彼の伝統に連なる多くの福音主義者が共有していた。ジェリー・フォルウェルは、アメリカは聖書的価値観に戻るべきだと呼び掛け、その聖書的価値とは、愛国主義と無神論的な共産主義の脅威からの脅威から守るための強力な軍事力までを含むのである(フォルウェルの「アメリカよ、聞け」という本を参照してほしい)。軍の将軍でその友ともいうべき福音主義者でもあるWilliam Boykin(注 退役米陸軍中将・デルタフォースとしても知られる陸軍特殊部隊の元指揮官・海外でのテロ事件での人質救出などの任務を担当する組織らしい。)は『サタンがこの国を滅ぼすことを望んでいる。サタンは、我々キリスト者の軍隊である我々を滅ぼすことを欲している。』彼(William Boykin)によれば、アメリカの軍事力は、悪に対する神の戦いの増補部隊なのである。G. Russell Evans や C. Greg Singer等のような他の保守派のキリスト者は、リベラルな人たちだけが、平和主義や(米軍の)武装放棄と、必要に応じた中絶(人工中絶)を主張してい るのだ。Wayne Grudemは「アメリカの優れた武装兵器群は、世界にとって良いことだ」とみている。結局のところ、「混じりけのない平和は、アメリカの力を通じてやっ てくるのだ」としている。(Grudemの政治学 399-400ページ)-CIAはそれでも攻撃をさぼっていた(注 Grudemのオリジナルが手に入らないので、この部分の変換はかなり怪しい)。

               手短に言えば、1980年代から1990年代において(さらに今日でも)、キリスト教の教会(注 直訳すれば、キリスト者の教会)において戦争に反対することは、リベラリズム(自由主義)への転向を構成する(詳細は、Bacevichの新しい軍国主義122-146ページを参照)。福音主義者であることは、軍に賛成であることを意味したし、反中絶であることを意味したし、家庭的であることを意味したし、国防に賛成で、共和党寄りであることを意味した。共和党レーガンであり、無神論的コミュニズム(注 guns a blazinは意味不明) に反対立ち上がることを躊躇した民主党のカーターではないことを意味したのだ。反対する声を上げることは、リベラルであることを意味し、そして、アメリカ の福音主義のレトリックのカーペットの下にあたかも塵であるかのように掃きこまれていったのだ。(注 あたかも塵であるかのようには変換者による補完。なお、アメリカ人は、チリがあることをごまかすために玄関マットの下に掃きこむことがある。Hanna Barbaraやディスニーアニメ等の昔のアニメによくこういうシーンが出てくる。)聖書が軍事的な力に対して何と言っているかは別とし て。

               では、聖書は軍国主義になんと言っているのであろうか。次の記事では、ここ数十年のアメリカの福音主義者の次第に声高になる意見にもかかわらず、神は、軍事力を高く評価していないことを考えていきたい。実際、神は、軍事力を評価することを偶像崇拝と言っておられるのだ。

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               あー、よかった。左がかったミーちゃんはーちゃんでも、福音派でよかったんだ。安心、安心。

               左がかっているだけで、リベラル派扱いされる(たぶん、日本でもそうかも)ので、福音派から追い出されるか、と思っていた。ま、追い出されたとしも、それはそれでいいんだけどね。

               そう、これは、実は97年に最初に滞米した時にも感じたのだが、なんでこの人たちはこんなに好戦的、米軍大好き、なんだろう、と思ったのだ。一番違和感感じたのは、迷彩服にコンバットブーツ姿の陸軍曹長が教会の大規模なコンファレンスに現れたときだ。ミーちゃんはーちゃんは一瞬白くなった。なお、拳銃は装備していなかった。

               ただ、ちなみに、ミーちゃんはーちゃんは、飛行機、なかでも戦闘機は大好きなのだな。八木谷涼子先生と同じく。なんでか、というと戦闘機には、独自の空力特性を生み出すための一種の機能美があるからなのだなぁ。これが。基本的には、まるっちい飛行機が好きだよ。戦闘機がすることはきらいだが、戦闘機のかたちはきれいだ、と思う。

               それが、民間機になると、どうもどれもこれも、ウィングに丸いどんがら載せた感じで、「つまらん。実につまらん。」ただ、最近、あ、めちゃくちゃきれいだ、と思ったのは、ボーイング787。あの翼端の曲線美には参った。あの設計者は偉い。飛行中の翼形態にはほれぼれする。787には、ポケモンジェットなんかにしないでね。お願いだから。せっかくのきれいな機体だから。

               コホン、コホン。飛行機ヲタクの話は置いておいて。

               上の記事について思うこととしては、アメリカ軍は、確かに第2次世界大戦以降、軍国主義と闘ってきたアメリカという国家の歴史背景がある。ナチスドイツの軍国主義、イタリアンファッショの軍国主義、大日本帝国の軍国主義(小ブッシュによると戦争はなかったらしいが)、ベトナムを中心とする旧共産国の軍国主義、イラクのフセインの軍国主義などとの戦いは、この自由という信念への脅威についての対抗としてとらえられてきた歴史はあると思うし、その意味で、アメリカ軍は自由の擁護者、自由の擁護のための戦士であろうとしたことは認めよう。そこまでいわなくとも、国民を圧政のもとに置く軍事主義国家、国民の自由を奪う国家への政治的軍事的圧迫からの解放と自由の確保は、これらへの国民を圧迫しようとする国家と交戦する際のアメリカ国内向けの口実となっていたことは少なくとも間違いない。あくまで、口実ではあるが。

               その意味で、信教の自由を奪いかねない政権、とりわけ、無神論主義の共産圏に対する戦いをアメリカ軍はしていた、少なくともしているつもりになっていたことは間違いない。いまだに、忘れられないのは、今から40年ほど前に近所にあったYMCAのプールに行っていたときに、壁にかけれ垂れていたコピーのベトナム戦争の孤児の写真であり、それに、ベトコンに殺された、と書いてあって、ベトコンって何かな?と思ってみてた記憶だけがある。

               カーター(コカコーラの故郷!でもあるジョージアのピーナツ農場主しか思い浮かばない方が多いかもしれないが、このおじさんは実は米海軍の潜水艦の艦長していた元民主党のアメリカ合衆国大統領。潜水艦乗りだったので、この人の名前は目立つ空母とかではなく、潜水艦にこの人の名前がつけられた潜水艦がある。まぁ、この人らしいと言えばこの人らしい。なお、ジョージ・H・W・ブッシュは原子力空母にその名を残す。ジミー・カーターおじさん、元サザン・バプティストの関係者でもあった(過去形)。後にあまりにサザン・バプティストが保守的というよりは、原理主義的になったのに嫌気がさしたらしく、離脱しているらしい。CNNの宗教原理主義の特集で本人か話しているインタビュー番組を何年か前見た。)は、平和外交志向だったので、相当批判を浴びた。政権末期にイーグルクロー作戦(最近、映画にもなったらしい)などがあるが、基本、軍事力によるのではなく、話し合い外交での対話をしよう、とした。イスラエルとエジプトの和平交渉してみたり、ソ連と核ミサイルの削減交渉しようとして見たりした。原子炉問題で北朝鮮に行ったのは、有名な話。

               さて、80 年代といえば、それこそ、旧ソビエト連邦(今のロシア)によるアフガン侵攻、イラン ― イラク戦争があり、まぁ、いろんなことがあったが、アメリカではタカ派のレーガン ― ブッシュ(父親のジョージの方)チーム、イギリスでは、鉄の女とも呼ばれた、マーガレット・サッチャー、日本では、レーガンのパシリ扱いされた中曽根康弘と、あたりはおっかないタカ派ばっかだった。アメリカが右傾化していくと同時に、日本も右傾化していったのかもね・・・。このころ、日本ではバブル真っ盛り、の時代を迎える。ジャパン、アズ、ナンバーワンなんて言ってたよな。このころ。

               今は昔、竹取の翁という・・・

               90年代といえば、それはそれは、もう湾岸戦争。父親の方のジョージ(クリントンの前の大統領)でしたね。ガンガン戦争モードでしたから。この時の参謀総長がコリン・パウエル。このおじさん、かわいらしっくってね。(こちらhttp://www.fugafuga.com/bushism/album/powell_1.htmlを参照)

               な、なんですって、「1980年代という時代:ハルマゲドンへのカウントダウン」。しかし、[以下棒読み]ハル・リンゼイ先生はこんな本までお出しになっておられたのか。知らんかった。このブログで、最近まで紹介した気分が悪くなる本(核戦争を期待する人々)やたらと出てきたフォルウェルさんが「アメリカよ、聞け」の本の紹介で、ここでも出てきておられる。あー、有名人はさすが、違いますねぇ。[以上棒読み]あー、頭が痛い。

               しかし、William Boykinさん、すげーなぁ。「悪に対する神の戦いの増補部隊としての米軍 America’s military as an extension of God’s fight against evil.」とまで米軍を称揚しておられる。あー、Evilちゅうと、レーガンは悪の帝国(こっちはなかった)といい、ダボヤと呼ばれるブッシュは悪の枢軸(http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2002/01/20020129-11.html)といった記憶が残っておりますな。(お、さすが、ホワイトハウス。問題発言も消さずに残してある。えらいえらい)

               しかし、このPreston Sprinkleというおにいさん、勇気あるなぁ。アメリカで、この発言するのは、そーとー根性がないとここまで書けないだろう。普通は、石投げられて孤立の道、という方向に向かっていくような気がする・・・・。

               あー、次回が気になるでしょ。それはまた、しばらくしてから。

               ちなみに、以下がオリジナルの原文。私の日本語変換で分かりにくいところはご容赦いただければ幸甚。自分で辞書片手に読んでみておくんなまし。

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              This post comes from Preston Sprinkle.

              Are American Evangelicals Seduced by Militarism? Is militarism consistent with Christian faith?

              American militarism. The very phrase evokes a cacophony of responses from the public, not least from the American Evangelical church. It’s undeniable that America is becoming more and more militarized, as several recent books have pointed out (e.g. Andrew Bacevich, The New American Militarism; Rachel Maddow, Drift). Some Evangelicals are quick to celebrate America’s military prowess―the bigger the better―while others see it as dangerous, if not idolatrous. For reasons state in this post and the next, I believe the latter: the American Evangelical church is largely (not completely) seduced by military might.

              But what is “Militarism?” According to the New Oxford American Dictionary, “Militarism” is:

              [T]he belief or desire of a government or people that a country should maintain a strong military capability and be prepared to use it aggressively to defend or promote national interests.

              By “militarism,” therefore, I do not mean “the people participating in the military” (I myself come from a long line of Marines), but the overarching “belief or desire” of having a strong military to protect or advance national or religious interests. Not every member of the military, as several of my military friends have told me, actually buy into the overarching agenda of militarism.

              Now, I would argue―and it’s hard to argue otherwise―that America is becoming more and more militarized. I would also argue (though no time in this blog to prove it) that America’s recent militarism is an aberration of its original ideals. For much of its history, America has been critical of militarism, seeing it actually as a threat of its own liberty (as thoroughly documented in Bacevich’s book). But such an argument is neither here nor there in terms of a biblical worldview. The nations will do what the nations will do. But the recent push for militarism is augmented by one significant―and quite bewildering―fact: the American Evangelical church has been leading the charge for the nation’s recent fascination and faith in military might.

              Throughout the 20th century, American Christians have shown a varied reaction toward military might. But beginning in 1980 (and to some extent in the mid-late 70’s), there has been an unchecked attraction to (and faith in) American militarism as an extension of religious freedom. The Vietnam debacle stunted America’s faith in militarism, and the Carter administration (1977-1981) did nothing to reverse the tide. But with the Reagan years (1981-1989), there arose―among Evangelical Christians, in particular―a growing sense that America’s military and (Christian) religious freedom when hand in hand. During the 80’s atheistic communism posed a catastrophic threat toward America’s freedom, and Evangelicals turned to America’s military as the solution to the problem. During the 80’s there was an overwhelming support among U.S. Evangelicals of the U.S. military, precisely because the military was the answer to stave off the threat of atheistic communism. Therefore, Reagan’s unyielding promotion of militarism garnered many friends from the Evangelical church.Tim LaHaye, for instance, located the moral degradation of America in the “crisis of military weakness” and he believed that “the Bible supports building a powerful military force. The Bible,” argues Lindsay, “is telling the U.S. to become strong again” and “to use our vast and superior technology to create the world’s strongest military power” (The 1980s: Countdown to Armageddon). Lindsay’s sentiment was shared by many Evangelicals in his tradition. Jerry Fallwell called America back to biblical values, which included patriotism and a strong military to ward off the threat of atheistic communism (see his Listen America!). Military general and fellow Evangelical, William Boykin said that “Satan wants to destroy this nation… and he wants to destroy us as a Christian army.” He therefore saw America’s military as an extension of God’s fight against evil. Other Christian conservatives, such as G. Russell Evans and C. Greg Singer, argued that only liberals promoted “pacifism, disarmament [of the U.S. military], and abortion on demand.” Wayne Grudem sees America’s “superior military weaponry” as “a good thing for the world.” After all, “[g]enuine peace in the world comes through the strength of the United States” (Grudem, Politics, pp. 399-400)―C.I.A. drone strikes notwithstanding.In short, during the 80’s and 90’s (and even today), any protest against war within the Christian church constituted apostasy toward liberalism (see Bacevich, The New Militarism, 122-146). To be Evangelical was synonymous with being pro-military, anti-abortion, pro-family, pro-defense, and pro-republican. It was the republican Reagan and not the democrat Carter who cared to stand against atheistic communism―guns a blazin. All protesting voices were declared liberal and swept under the rug of American Evangelical rhetoric―despite what the Bible says about military might.

              So what does the Bible say about militarism? The next post will show that regardless of the growing opinion of American Evangelicals in the last few decades, God does not think too highly of military might. In fact, He condemns it as idolatry.


              ハル・リンゼイ
              いのちのことば社
              ---
              (1982)

              ティム ラヘイ,ジェリー ジェンキンズ
              いのちのことば社フォレストブックス
              ¥ 1,890
              (2002-03)
              コメント:まァ、資料として、研究素材としては・・・・

              2012.12.08 Saturday

              アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)

              0

                どうも、Preston Sprinkleさんが本を来年あたりお出しになるらしいので、ちょっとステマっぽい記事なのだが、前回のAre American Evangelicals Seduced by Militarism?アメリカの福音派の人々は、軍国主義に魅惑されているのだろうか?に続く第2弾(おそらくこれが最後と思われ)を日本語変換してみたい。

                タイトルは、

                Old Testament, Militarism, and Idolatry

                であり、日本語に変換すると、さしずめ

                旧約聖書と軍国主義そして偶像崇拝

                になるだろうか。

                ちなみに元記事は、こちらをクリック。http://www.patheos.com/blogs/jesuscreed/2012/11/13/old-testament-militarism-and-idolatry/

                この記事がすごいのは、現在アメリカに住んでいて、アメリカ市民でなおかつ福音派の神学校の教育スタッフが、コーユーことを臆面もなく書いているところなのだね。常識的な判断ができない方などに刺されたり、銃で撃たれたり、殺されたりはしないことを期待したいなぁ。アメリカには、ヘイトクライム(人種差別的な犯罪)や狂信者による事件、結構いっぱいあるからね。ハンパなく怖い国ではある。

                以下は、日本語変換しただけですから。問題点があっても責めないでね。もし、不満があるなら、原文を最後に挙げてありますので、Google先生に変換してもらうか、自分で変換してくださいね。

                -------------------------日本語変換-----------------------------------------
                このポストは Preston Sprinkle から寄せられたものである。

                旧約聖書に制裁的な意味を含む暴力と戦争が特定のケースで書かれているのは事実であるものの、旧約聖書自体も、軍事優先主義(militarism)を非難していていることは間違いない。もう一度、軍事中心主義(or 軍国主義)とは、
                政府や国民によるその国の軍事的能力が強力な状態であり、国防と国家の権益を拡大するために軍事的能力を積極的に利用できることに関する信念または欲望である。
                 軍事優先主義を支持する福音主義者グループの多くの人々は、旧約聖書を神の制裁的な軍事力の証拠として用いるだろう。Wayne Grudem は旧約聖書のイスラエルの記事に触れながら、「政府が攻撃する軍事力を持って対抗するような敵を倒すために十分な軍事力を持っているならば、それは望ましいことである(Politics, 388ページ)」と主張している。このようなものの見方は、福音主義のグループの人々の中で継続して支持されてきたが、実際には旧約聖書が軍事優先主義に対して言っていることを無視している。実際、旧約聖書は、それは血まみれのものであり、剣や槍が出てくるとはいうものの、上のオックスフォードアメリカ英語辞典で定義されているような軍事優先主義に対して、非難しているのである。

                 軍事優先主義が聖書の教えに反するだって?


                 まず第一に、(注 多分旧約時代の国家としての)イスラエルが非常に複雑な経済システムを持っていた一方、常設軍を経済的に支えるだけの余裕がなかった。イスラエルの税金から一銭たりとも、専従の軍隊にまわされたことはなかった。他国においては、このような税制は通常のものではあったが。このことは、神がそのような状態(注 税金の剰余の非軍事的使用)であることをまさに望んでおられた通りであった。税の余剰資金は、宗教的な目的に用いられ、主として、貧者救済に回された。以下に見るように常設軍は潜在的に危険な常備軍に資金を投入することは不適切でとされた。

                 第2に、そして第1の要素と関連することだが、神は、イスラエルに戦闘技能に優れ、武装を完備した訓練された兵士からなる専従の常設軍を持つことを許しておられない。イスラエルの軍事的な方針に関する神が直接語られた聖書の箇所(申命記17章20章)を見るなら、イスラエルの軍事力(それを軍事力とよぶならば、であるが)それは義勇兵からなっていたことが分かるだろう。もし、誰かが最近結婚したり、家を買ったり、戦争に行くのを恐れるのであれば、戦闘からの免除が自動的になされたのである。さらに、申命記17章やほかの場所では、優位な戦力、たとえば、戦闘用の馬、戦車、巨大な訓練された歩兵部隊などを過剰に蓄えておくことを禁止しておられる。これらのことは、旧約聖書において、非難されていることなのである。

                 この意図的なイスラエルの軍事力の弱体化は、申命記17章14−20節に示されている。これらの部分は、イスラエルの王に対する神の望みであり、軍事力を背景とした王であるものの意図を意図的に排除するためのものである。主として、王は専従の軍隊を育成することを許されなかったし(変換者注 王は馬を増やしてはならない。申命記 17:16)、他国とも軍事同盟を結ぶことも禁じられていた(17:16-17)(変換者 民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた 王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない 申命記17:16-17)。王のすべての軍事力の武装解除をすることは、王が神への信仰を増すことを推進し、イスラエルが異なる軍隊のモードに入ること(変換者 直訳すれば、異なる軍隊行進のためのドラムを鳴らし行進すること)を示すするものであった。彼らには、天に一人の神がおられ、その神は、彼らを守り導き、そして、守り、そして相手を攻撃される方がいるのである(変換者注 著者はその不変性を示すためか、現在形を用いている)。イスラエル人は、人間の軍事力を伴った補助的な(あるいは取って代わるような)神は必要なかった。そして、実際に彼らが戦うとき、一般市民からなる週末だけ戦うような戦士たち(変換者注 州兵の予備役をさすようだ)を除隊させられたし、そして、彼らが勝利した時(それは彼らが神への信仰を持っていたときであるが)彼らの目にも、そしてだれの目にもイスラエルの神が勝利されたのであり、イスラエルの軍事力によって勝利したではないことが明らかになるのであった。

                 これが、いくつかの事例で、イスラエルが、敵の馬の腱を切ったり、敵の戦車を燃やしたりしたことを命じられた理由である(ヨシュア11;6・9)。馬や戦車は現在の戦車に当たる古代の兵器である。馬や戦車は当時の優れた兵器であった。数多い馬や戦車を持つ方が戦闘に勝つと決まっていたのである。そして、ヨシュア(とほかの人々が)馬の件を切り、戦車を燃やした時、彼は、イスラエル人が将来の戦闘において使えるであろう有益なものを破壊したのである。それは、敵をナイフで無力化するようなものであり、銃で撃つようなものではない。この理由は明らかである。主(YHWH)が戦士であることを信頼していることを示すために、こられのより優れた兵器は無視されたのである。(Lind Warrior, 84ページ)

                 しかしながら、イスラエルは、職業的な軍隊を構築することを常に諦めたわけではなかった。ダビデとソロモンは、彼らの軍事力、馬や戦車や巨大な歩兵隊について、不平をいっていた。そしてある人々は、これらのことが近代の軍事的兵器の蓄積を正当化すると考えているし、他国に対する『正義の戦争』を継続することが正当化できると考えている。しかし、これらの聖書の表現を利用することは非常に重要なポイントを見逃すことになる。ダビデとソロモンは、彼らの軍事力に不平を鳴らしたことで、非難されているのだ。ダビデの人生の悲惨な終末のように、ダビデは、常設軍を所有したことの批判を受けており(例 第2サムエル24章)、人の血を流し過ぎたと批判されているのである。(第1歴代 28章)

                 旧約聖書全体を通して、軍事優先主義は、基本的に、神を信頼していないこととして理解されている。そして、預言者は、このことを有名な単語で避難している。それは偶像崇拝である。(イザヤ22章、詩篇147:10−11、参考詩篇33:16-22・44:4-8)

                 聖書は、一貫して、そして、きわめてビジュアルに、軍事優先主義は国家が追及する何かであり、神の民が当然として求めてはならないものであると明らかにしている。神の民は、何かを達成するために軍事的な力の中に信頼をおくことの誘惑に陥ってはならない、とされている。そして、そのような他の国々のような戦争行為は、預言者によれば、霊的な売春行為と同様であるのだ。エゼキエルは、軍事同盟を『お前はまた、肉欲の強い隣国エジプト人たちと姦淫を行い(16:26)』さらに、『それでも、お前は飽き足らず、アシュルの人々と姦淫を行った。(16:28)』ショックと恐怖は軍事力の象徴として描かれ、地獄(または黄泉の世界)の住民にとって重要であるとされている。(エゼキエル32:23-32)イザヤは、軍事力は、単純に『肉的な』もので、荒々しい人々や不法を行うものどもの性格的特徴であると指摘している。(イザヤ31:2-3・アモス1−2章)大きく、強く、そしてかなり意欲があり、そして恐れられた国々のように戦争に関与することは、性行為に飢えた愛人に合わせてあなた自身が売春することに等しく、そしてそれはやめたくてもやめられない依存的なものに金を払いながら、なのだ。下品な表現だとおっしゃるだろうし、それはその通りであるが、しかしこれが軍事的な勇猛さに対して夢中になることについて、聖書が言っていることなのだ。

                 私は、表面をちょっと引っ掻いただけなのだ。私は、戦争時における戦争と暴力についての近著で(タイトル 戦闘 非暴力についてのキリスト者の場合)これらのことをきちんと詳細に述べる予定だ。(変換者注 この辺、ちょっとステマっぽい)しかし今、私は、もしイスラエルの今日の軍事政策にこれらのことを当てはめると何が起きるのかを考えざるを得ない。聖書を信じる軍人が旧約聖書をある戦争にかかわる政策を支持するために利用することは一般的なことである。もし、彼らが神ご自身の完全な言葉を神からのものとして受け取るならばどのようなことが起きるだろうか?アメリカの軍事力が、たとえば、ボランティア兵(義勇兵)からなり、税を資金源としなければ、そして、アメリカ合衆国が膨大な高性能兵器を蓄積しなければ、戦車もなく、無線操縦兵器もなく、F-22もなく、もちろん核兵器もなければどうであろうか。そして、勝利は軍事力ではなく、神の奇跡的な介入により決まるとしたらどうであろうか。敵に数で勝るよりは、我々は、人間によって、そして、多少の銃によって(マスケット銃(火縄銃のような初期の銃)や何本かの剣で戦うことを選択的に選ぶだろうか。軍事演習もなく、新兵訓練もなく、準備もなく、断食と、祈りと、賛美を歌うことで戦う(第2歴代誌20 ヨシャファトの記事)だろうか。もし、アメリカが『新しいイスラエル』であり、神の聖なる国家(ある人たちはそう思っているようだが、私はそうは思わない)か、それに近いことを思うなら、私たちは、神と神の霊感を受けた軍事的なマニュアル(変換者注 どうも福音派の好戦的な人たちが持っているといううわさがある黒皮表紙に金文字で聖書と書かれたのことらしい。強烈な皮肉。)からその方法論につながるものをとるべきなのだ。しかし、その信念に反して、多くのキリスト者は、聖書の選んだ部分を買って気にカットアンドペーストし、アメリカの世界観に合わせて、宗教的な支持を我々の軍隊に与えようとしているのだ。ある人々は、これを悪質なハーメニューティクス(変換者注 解釈学とも呼ばれる。)と呼ぶ人もいるだろうし、他の人々はシンクレティズム(信仰の習合)と呼ぶだろう。しかし、イスラエルの預言者は、これを偶像礼拝と呼ぶ。

                 それが、旧約聖書である。新約聖書は、ローマ13章において軍事力を賛美しているではないか?というかもしれない。チャンネルはそのまま、次回(最終回)を待て。ローマ13章について解き明かそう。

                -------------------------------日本語変換終わり---------------------------------------

                 確かに、イスラエルは、常設軍を持ったのは、王政が始まって以来であって、それまでヨシュアの時代も、サムソンやデボラやエルバアル AKA ギデオンなどの士師の時代も、常設軍はなかったし、そもそも、専業の軍隊というのはなかったのだな。大体、エリコの城壁だって、攻城機で攻撃したわけではなくて、ぐるぐる回って、角笛鳴らして、鬨の声を上げただけ、であったのである。トマホークもA10も、何もつかわずに崩壊している。確かに、エリコは全滅している・・・。後に再建されたが。

                 民が神を勝手に捨て、王をほしがるまでは(士師記の最後にあった悲惨なレイプ事件とそれに伴うイスラエルの内ゲバ事件とエリのバカ息子どもが好き勝手にした結果とはいえ)、イスラエルは確かに常設軍は持っていなかった。

                 民が王制を求める中で、神は、エリを通して、「あんたたちに王はやるけど、王政に以降したら、あんたたちの息子は軍役にとられるというかたちの血税を払う悲惨な目にあうし、そのうえ金で払う税金もとられるし、あんたたちは、奴隷の生活になるぞ。」と一応警告を発せられた上で、王政に移行するのをお認めになっておられるのだな。本来、イスラエルの民にとって、神は王であった。

                 その中で、イスラエルは王政に移行し、ダビデ、ソロモンで、絶頂期を迎え、あとは衰退と自滅の道をたどっていく。

                 そもそもボーイスカウトとほとんど変わらないような弱体化された軍隊が、近代兵器に勝つところに、神の栄光と神の力が示される、というのが旧約聖書的な発想でいうところの神の勝利であって、新入幕クラスの力士に横綱が相撲を取るような戦い方は、神の戦い方ではない、というのが、そもそもの旧約聖書の発想である。

                 ダビデとゴリアテの話にしたところで、そもそも、イスラエルにとっても、パレスティナ(ペリシテ)人にとっても、犠牲は一人で済むので、結構効率的な闘いなのだ。ダビデは、それこそ、バズーカ砲を持ってフル装備(サウルのを着たが動きにくいので断っている)でゴリアテに臨んだわけでなく、相手からバカにされる服装で臨んだのである。まさしく、今でいえばTシャツ一枚にジーンズ姿で戦闘ヘリのブラックホークかエイブラハム戦車に向かっていったのである。ちょうどこんな感じか。リンクはこちら。http://www.youtube.com/watch?v=mrQqDqOx3KY&feature=fvwrel 基本的に今イスラエル軍に向かっていくパレスティナのインティファーダの人たちみたいなのである。インティファーダの人たちのほうが、よほど現代のイスラエル軍より聖書の意図を知っているのではないか、と思えてしまうほどである。

                 エゼキエル16章の記述は、その通りである。エジプトの軍事力にこびへつらい、アッシリアの武力にこびへつらう様は、まるで、売春婦、といわれても仕方のないイスラエルの姿ではある。国際的な弱小国が国際的な陸上交通の要路で生存するためにはいたしかたがないのかもしれない。日本という国は、神を信頼しない国なので仕方がないが、アメリカにこびへつらう様は、まるで、当時のエジプトにこびへつらうイスラエルとどうしても重なる。現実のリアリティとしては仕方がないことは確かではあるが。とはいえ、東アジアでは、抜群に自衛隊の装備品はいいらしい。そのため、アジア諸国がビビっているというのはあるだろう。

                 あと、一応、エゼキエル32:23-32の口語訳のこの部分を載せておきますね。しかし、おどろおどろしいが、これは、イスラエルに敵するものの記述だけではなく、軍事力に頼ったイスラエル自体の結末でもあるのだね。これが。残念であるけれども。

                お前(イスラエル)は割礼のない者の間に
                剣で殺された者と共に
                打ち砕かれて横たわる。
                とあっさり書かれているけれども。たいていの場合、この部分を見ない、意図的に見ない、読み飛ばしているんだろうなぁ。


                アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり
                その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
                かつて、生ける者の地で恐れられていた。
                そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
                割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが
                穴に下る者と共に恥を負う。
                殺された者たちの間に、床が設けられた
                エラムとそのすべての軍勢のために。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていたが
                穴に下る者と共に恥を負い
                殺された者の間に置かれる。
                そこには、メシェクとトバルと
                そのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周囲にある。皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていた。
                彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に
                横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り
                剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた。これらの勇士は
                生ける者の地で恐れられていた。
                お前は割礼のない者の間に
                剣で殺された者と共に
                打ち砕かれて横たわる。
                そこには、エドムがその王たちと
                すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが
                剣で殺された者と共に置かれ
                割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。
                そこには、北のすべての君主たち
                シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが
                辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と
                共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
                ファラオは彼らを見て
                失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺されたと
                主なる神は言われる。
                まことに、わたしは生ける者の地に
                恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は
                割礼のない者の間に
                剣で殺された者と共に横たわる」と
                主なる神は言われる。
                (口語訳聖書 エゼキエル32:23-32)
                 しかし、このPreston Sprinkle 先生、かっこいい。軍事行動は、霊的な売春行為、と言っておられる。私が言ってんじゃないですからね。おまわりさん。この人(顎髭のほうの人)です。

                 聖書に書いてあるとはいえ、「肉欲の強い隣国エジプト人たちと姦淫を行い」という表現は、えげつないですね。神に対する信仰を捨てられた神からしてみれば、これでもまだ言い方が可愛い方かもしれませんね。

                 強烈な皮肉は、軍事的なマニュアル注 どうも福音派の好戦的な人たちが持っているといううわさがある黒皮表紙に金文字でHoly Bibleと書かれたの本のことかもしれない。強烈な皮肉。)という表現である。聖書の表面は読んでそこから軍事作戦のアイディアでも考えておられる軍事指導者がいるとしたら、それはもう終わっているだろう。

                 軍事的マニュアルとして聖書を利用する人は、聖書の使い方が基本的に間違っている、とミーちゃんはーちゃんは思う。聖書は人間の霊的なマニュアルであり、人と神との関係をどう考えるためのマニュアルでまずあるべきだと思う。いくら聖書に何でも書いてあるからといって、物理の教科書や化学の教科書、生物の教科書にするのは、いかがなものかと思う。このあたり、聖書を大事大事にし過ぎて、本来神が座されるべき場所に聖書を据えてしまって、神の御座から神を押しのけている人間の姿があるのではないだろうか。聖書が聖書であるのは、その聖書を神が語らせたが故、聖書の背景に神がおられるのである、ということを忘れて。

                 あと、軍事力には依存性がある麻薬みたいなものだと言っておられる。麻薬とはよく言ったもので、一度始めてしまうと、それを利用しなくなるのが難しいのは、有名な話。詳しくは、28daysという映画にある。(サンドラブロックのファンとしては紹介は欠かせない)そして、オーバードースになっていくのも。SALT交渉は非常に困難であったのである。両方ともやめたくてもやめられない。チキンゲーム状態が造られてしまったのだね。それこそ、軍事依存症になっている人には、28daysに出てくるRehab(リハビリ施設)に入ってもらって、治療してもらいたいなぁ、と。と書きながら、「肉欲の強い隣国エジプト人たちと姦淫を行い」ということで、Sex Addictionの問題を思い出してしまった。そうか、軍事Addictionは、Sex Addictionと似ているんだなぁ。本当に早く、Rehabに入ってもらいたい。

                 しかし、Preston Sprinkleさんの新刊、Fight: A Christian Case for Non-Violenceは、まかり間違ってもいのちのことば社は出せないだろうなぁ。基本、無理ゲーですよね。ね。いのちのことば社 の ことはちゃん♪。出してくれたらおぢさん、ことはちゃんのことの評価が激変するんだけどね。ヨテンゴ ゴゾ ゴゾ ゴゾ ゴゾ エミゴラソン。(I have the joy, joy joy, joy down in my heart.のスペイン語版)ちなみにミーちゃんはーちゃんは、メキシコ系のカリフォルニアンのお子様からスペイン語を習ったので、ヨーロッパのスペイン語はしゃべれないのだけど、お許しを。

                 さて、ハーメニューティクスという言葉が出てくるが、これは、もとはギリシア語のヘルメネオスに由来する言葉のようですなぁ。これに関連する語としては、新約聖書では、使徒の14章に出て来るリストラで、パウロがガンガンしゃべったので、ヘルメスだ、と呼ばれましたな。そーいえば、あのヘルメスと関連の深い言葉のようです。ヘルメスがフランスに行くとバッグやスカーフなんかの婦人小物メーカーさんのエルメスに化けます。これは、完全に脱線。

                 しかし、 Stay tuned for the next (and last) post だって。アメリカでは、結構連続もののドラマでこれが流れる。典型的には、Close to Home(日本語名女検察官 アナベスチェース)。あー、Preston Sprinkle先生もテレビっ子なのだろう。ここにも、ミーちゃんはーちゃんの仲間発見。それで、Preston Sprinkle先生と、ミーちゃんはーちゃんは思考の周波数が合うのだろうか。

                 実は、すでに、英語では数週間前に次回、最終部分(ローマ人への手紙13章の再解釈)は公開済みですが、これはまた、後日改めて。

                ----------------------------オリジナル原文を掲載-------------------------------------


                 This post is by Preston Sprinkle.

                While it’s true that the Old Testament sanctions violence and warfare in some cases, it condemns militarism. Again, militarism is:

                [T]he belief or desire of a government or people that a country should maintain a strong military capability and be prepared to use it aggressively to defend or promote national interests.

                Most Evangelicals who endorse militarism will turn to the Old Testament to prove that God sanctions military might. “It is a good thing,” writes Wayne Grudem in reference to Israel in the Old Testament, “when a government has enough military power to defeat the enemies who bring its armies to attack” (Politics, p. 388). Such a view, though ubiquitously held by Evangelicals, ignores what the Old Testament actually says about militarism. In fact, the Old Testament―with all its blood and guts, swords and spears―actually condemns militarism as defined by the New Oxford American dictionary above. Here’s how it goes.

                Is militarism contrary to the Bible’s teachings?

                First, while Israel had a very intricate economic system, there was no room to financially support a standing army. Not one ounce of Israel’s taxes went to fund a professional military, even though (or because) such taxation was common among other ANE nations. This was exactly the way God wanted it to be. Excess money should be used for religious purposes, or, primarily, for poverty relief. Not to fund and unnecessary and potentially dangerous (see below) standing army.

                Second, and related, God did not allow Israel to have a professional, standing army―a body of soldiers who were trained, highly skilled, and armed to the teeth. If you look at the two passages that speak directly to Israel’s military policy (Deut 17 and 20), you will see that Israel’s “military” (if we can even call it that), was by volunteer only. If anyone had recently been married, bought a home, or was simply afraid to go to war, they were automatically exempt from fighting. Furthermore, Deut 17 and other passages forbid Israel from stockpiling superior weapons, such as war horses, chariots, and a large trained infantry. All of these are condemned in the Old Testament.

                The intentional weakness of Israel’s army is put on bold display in Deuteronomy 17:14-20. This passage lays out God’s desire for the king of Israel and it deliberately strips the would-be king of all military might. Namely, the king would not be allowed to build a professional army (“he must not acquire many horses for himself”) nor can he make military alliances with other nations (Deut 17:16-17). Depriving the king of all military strength would help ensure his faith in God rather than in military power, and would testify to the nations that Israel marches to the beat of a different military drum. They have a God in the heavens who guides and protects, who defends and delivers. They don’t need to supplement (or supplant) God with a human army. And when they did actually fight, God wanted them to remain a rag-tag group of weekend warriors, so that when they won (if they had faith in God) it would be clear to them and everyone else that victory belongs to Israel’s God, not Israel’s military.

                This is why in several instances Israel was commanded to hamstring their enemies’ horses and burn their chariots (Josh 11:6, 9). Horses and chariots were the ancient version of tanks. They were superior weapons. The army with the most horses and chariots was bound to win the war. So when Joshua (and others) hamstrung horses and burned chariots, he destroyed their potential usefulness by Israel for further battles. It’s like killing an enemy with a knife and not taking his gun. And the reason is clear: “Superior weaponry was rejected, in order to demonstrate trust in Yahweh as warrior” (Lind, Warrior, 84).

                Israel didn’t always reject building a professional army, however. Both David and Solomon beefed up their military might―including horses, chariots, and a massive infantry. And some people think that this justifies a modern stockpiling of military weapons, or waging “just wars” against other nations. But such use of Scripture ignores one very important point: David and Solomon are rebuked for beefing up their military might. Such is the sad ending of David’s life, when he’s criticized for having a standing army (cf. 2 Sam 24) and far being a man of bloodshed (1 Chron 28).

                Throughout the Old Testament, MILITARISM was seen as fundamentally NOT trusting in God. And the prophets have a well-known term for this: idolatry (Isa 22; Ps 147:10-11; cf. Ps 33:16-22; 44:4-8).

                The Bible consistently―and quite graphically―considers militarism as something the nations pursue but something God’s people should never due. God’s people should never be seduced into trusting in military might to achieve anything. And such warfare “like the nations” is tantamount to spiritual prostitution, according to the prophets. Ezekiel considers military alliances as “playing the whore with the Egyptians” (16:26) and “prostitut[ing] yourself with the Assyrians” (16:28 NLT). “Shock and Awe” displays of military power are worthy of inhabitants of Hell (or the “netherworld,” Ezek 32:23-32). Isaiah considers military might to be mere “flesh” and character traits of evildoers and workers of iniquity (Isa 31:2-3; Amos 1-2). Waging war like the surrounding nations―bigger, stronger, more powerful, more fearsome―is equivalent to prostituting yourself out to sex-hungry lovers, while paying your clients for their addictive services. Crude language, I know, but that’s just what the Bible says about such infatuation with military prowess.

                I’ve only scratched the surface, and I’ll fill in the details more thoroughly in my new book on violence and warfare in the Bible (titled: Fight: A Christian Case for Non-Violence). But for now, I can’t help but wonder what would happen if we applied Israel’s military policy to today. It’s common for Bible believing military personnel to use the Old Testament to support a certain warfare policy. But what would happen if they went all the way and took God as His full word? America’s military, for example, would be by volunteer only and would not be funded by taxation. America would not stock pile superior weapons―no tanks, drones, F-22s, and of course no nuclear weapons―and it would make sure its victories were determined by God’s miraculous intervention, not by military might. Rather than outnumbering our enemy, we would deliberately fight out manned and under gunned―perhaps we could use muskets, or maybe just a few swords. There would be no training, no boot camp, no preparation, other than fasting, praying, and singing worship songs (2 Chron 20). If America really was the “new Israel,” God’s holy nation (as some believe; I don’t) or the nearest equivalent, then we need to take our queue from God and his inspired manual for military tactics. But as it stands, many Christians will be content to cut and paste selected verses that align with America’s worldview to give our military some religious backing. Some call this bad hermeneutics, others call it syncretism. The Israelite prophets called it idolatry.

                But that’s the Old Testament. The New Testament actually praises military might in Romans 13; doesn’t it? Stay tuned for the next (and last) post. I’ll offer some thoughts on Romans 13.

                 



                評価:
                ---
                日本基督教団出版局
                ¥ 8,925
                (1998-11)
                コメント:古代オリエント史の碩学であるワイズマン博士による日本では専門書。池田裕先生が翻訳しておられる。安くはないが、あると便利。

                評価:
                並木 浩一
                教文館
                ---
                (1999-03)
                コメント:旧約聖書時代の人間間の一端を知ることができる。

                評価:
                ---
                ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
                ¥ 992
                (2009-11-04)
                コメント:アトム(Astro Boy)のTシャツを着た、サンドラブロックが出てくる。リハッブと呼ばれる依存症センターに出てくる人々の人物模様と現代アメリカ社会を考えさせられる。

                2012.12.12 Wednesday

                アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派の軍国化について語ったこと(3)

                0

                    ようやく最近は、通常ベースに戻ったものの、水谷先生のブログで紹介されてからと言うもの、携帯の利用者の方のアクセスが増えた。このブログは川原泉さんの作品と同じように文字がやたらと多いブログです。ブログと言えないほど文字が多いです。携帯電話の方には、申し訳ないが、今回もいよーに長いです。誠に申し訳ござらん。先にお詫び申し上げ奉る。

                   今回のネタは、非常に重要なので、ミーちゃんはーちゃんは茶々を入れずに真剣に紹介したい。以下の文章は、アメリカのカリフォルニア州の神学校の先生がお書きになられた文書を若干の注を入れながら紹介したものである。まず、以下の文章を静かに読んで、ぜひ考えてもらいたい。できるだけ多くのキリスト者に。そして、戦争だ、とすぐ言うキリスト者たちに。日本にはいないだろうけれども。戦争だ、と言い出すのは福音主義者のみに限られない。ただ、アメリカ国内で福音主義者を自称する人々に多いのではあるが。


                   これ以前の記事は以下のとおりである。これらをお読みでない方は、まず、こちらを読まれた方がよいだろう。

                  アメリカ人の福音派の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(1)

                  アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)

                  ------------------------------------------------


                  福音主義・軍事優先主義そしてローマ13章



                   このポストは、Preston Sprinkleによる3つの投稿のシリーズの3番目である。Preston Sprinkleの詳しい情報は、このポストの最下部に記載している。

                   この前のポストで、旧約聖書が実際には、戦争行為と暴力を(時にではあるものの)認めているとはいうものの、軍事優先主義を非難していることを指摘した。しかし多くの場合、過去、軍拡競争を旧約聖書から擁護してきた人々はローマ13章1-7節を根拠にしてきた。その場所は、変化に富んだもので、また、戦闘的な解釈されてきた歴史を持っている場所である。アドルフ・ヒトラーやロバート・ムガベ(注 ジンバブエの大統領 白人の農場強制収用で知られる  Mugabe and the White Africanここをクリックで映像が見えます。 http://www.dailymotion.com/video/xuz3d6_yy-yyyyyyyyyytv-mugabe-and-the-white-african-yy-2012-11-09_shortfilms#.UKq5JGfPxvk 参照)や他の近年の自称『キリスト者』の独裁者が、この聖句を、彼らが国内での敵とみなすものを合法的に死刑にするために用いられてきた神聖な方法論(  原文はticket)であったのである。1世代前に戻らなくても、ローマ13章は、南アフリカのアパルトヘイトのための特権を与えるものとして用いられてきた。そして、アメリカのキリスト者の指導者たちも、奴隷制の時代や、もっと近くでは、人種隔離的な時代に用いてきた。もし、ある州が黒人が白人と同じ 水道から飲むことができないとするならば、それをすることは神に与えられた当然の権利だとしていたのだ。


                   ローマ13章のようなそのような見方は、今日、少し行き過ぎであるとみなされているが、それにしても、ごくわずかだけ、という理解である。 Wayne Grudem を例にとってみれば、彼は『良い政府の手にある剣は、悪を行う者たちに打ち勝つために、神が与えたまいし兵器である(Politics, 407)』と言っている。さらに、これをアメリカのイラクやアフガニスタンでの戦闘に当てはめている(私は、Grudem を目立たせようとしているのではなく、むしろ、彼のものの見方は、近年の、そして私が見るところによれば、福音派の考え方の代表的なものであると言えそうだと思っている)。実際、ローマ 13章は、Grudem の本の全体を通して引用され、ヨハネ3章16節に近い位置を与えられている。それは、キリスト者が戦争を考えるべきであると、そのレンズを通せば、そう見えるようになる完全無欠なレンズでもある。この前提には、もちろん、アメリカは良い国家であり、イラクやアフガニスタンは悪い国家であるという前提がある。もちろん、イラクやアフガニスタンは悪い国かもしれない。しかし、だれがよいとか悪いとかを決められるのだろうか?それは攻守逆転して、ローマ13章が無人爆撃機で非戦闘員や子供を殺したことの報復として、そして、南カンダハルやハディータ(  南カンダハルの都市)で起きたことの報復として、パキスタンや、イラクのアメリカ侵攻の根拠になるとしたらどうだろう。こう見れば、我々はローマ13章を誤読しているのだ。


                   しかしながら、ローマ13章は暴力礼賛・政府礼賛・正義の戦い理論(あるいは、正義の戦い一般)を擁護するものとして受け止められてきたが、実は、この部分は、実際にはこれらのものを全く含まない。以下にその理由を示そう。

                   まず、ローマ13章は、外国に対するローマの戦争方針について語っているのではなく、ローマの市民に対する法的な行為についての方針について語っているのである。パウロのフレーズ、剣を帯びている(13:4)は、政府の法治管轄権の内部での警察活動を意味しているのであって、領土外での戦争を意味しているわけではない。このテキストを具体的にはアメリカのイラクでの戦争に適用して、この方針を支持するために用いることは、パウロが言おうとしていることをはるかに超えていることだ。他国に対する戦争を行うことは、たとえそれが先制攻撃の名で行われようとも、ローマ13章のパウロの主張を反映するものではない。

                   第2にこの節は、教会が政府の権限に従順に従う(  obey)ように命じるものではなく、そのような政府の権威を受け入れる( submit)ものである。今日、サブミッション(  受け入れること)はオビーディエンス(服従)を含み、オビーディエンス( 服従)は、時にサブミッションを含んでいる。これら両者の間に意味的な重なりがある。しかし、パウロがここで、従うに当たる典型的なギリシア語(ペイターケイン・ペイセースタイ・ウパコーエイン)の一つを使っていないことは重要なこととして認識すべきであろう(注 使われているのはHupotassoフーポタッソォ 服する。従う。自主的な意思で責任ある人と思われる人に協力する、または、自主的に責任を担う)。キリスト者がキリストの法に服する(  obey)とは、彼らの王から与えられた徳律の道を歩むことなのである。もし、世俗の国家の法が、キリストの法と対立しない限り、人々は世俗の国家の法に従うのである。しかしながら、神への忠誠から逸脱しない範囲で国家に忠誠を従うのであって、国家への無批判な忠誠から逸脱することではないのだ。別な表現では、政府への革命行為をしてはならないということだ。それを尊重し、そのために祈り、それがよくなるように働き掛け、政府に対する課税に従うことである。しかし、あなた方は、バビロンやローマや、そしてアメリカのような地における亡命者として、寄留者として生きていることを覚える必要があるだろう。あるいは、高名な新約学者 C.E.B.クランフィールドのことばによれば、国家に従うこととは、国家を尊重し、神の定めたもうた法(注 聖書の主張)に対立しない限り従うという範囲で従うものであり、国家が神の法に反する場合、責任を以て、そして真摯にそれに不服従することである。(Cranfield, ローマ人への手紙注解, 662ページ).

                   第3にパウロの表明は、旧約聖書に広くみられる神が神の御思いを実現するために世俗(注 あるいは世間)の国家を通して働かれるという事実(注 真実)を反映したものである。なぜならは多くの政治家の姿、具体的には、イザヤ書44-45章の中で、ペルシャのキュロス(Cyrus)王、エレミヤ書27章6 節、43勝10節でバビロンのネブカデネザル王、神が、『わが憤りのこん棒(日本語では鞭)』、『わが怒りの杖』と呼ばれた無慈悲で悪意に満ち満ちたアッシリアなどに見られるように、旧約聖書は、これらも含め、『神のしもべ』としてとらえているのだ。『神のしもべ』という語は、イスラエルの神に対して、喜んで仕えたローマ帝国(紀元4世紀以降の帝国)のことを意味していない。むしろ、神がローマを神の手先として用いる神の能力を言及しているのだ。神が世俗の(そして時に悪意に満ちた)組織を神の意志を実現するために用いるからといって、アッシリアが市民を生きたまま皮をはいだりするような非道な行為や、1世紀にローマが無辜の民を 1000人単位で十字架刑で殺害したようなことをなんでも神がお認めになっているということを意味しない。神は、そのような悪をも神の意志の実現のための方法として用いられるのである(創世記50:20・士師記14:4)。このことは、悪そのもの自体を神が承認されておられるということを意味しないのである。

                   第4に、神の主な活動は、悪を懲らしめ、善に報いるような政府を通しておこなわれる。しかし、そのことをパウロはここで言っているだろうか。すべての政府が、いつも悪を正義を以て懲らしめ、そして善に報いるだろうか。あなたは正しい。ローマは、バブテスマのヨハネの首を切ったのと同じ政府であり、そして罪のないイエスを十字架で掛けて殺したのと同じ政府である。実際ローマ13章を書いてから数年のうちに、ネロ帝は、キリスト者をタールに漬け込み、そしてその人々に火をつけ、自分自身の庭園の明かりとして用いたのである。これらのことはすべて、平和と正義を実現するという名のもとに行われたのである。パウロはローマがしたいことは何でもできるという白紙委任状をローマに書いたわけではない。パウロの言明は、ローマは、『あなたに益を与えるための、神のしもべ』であるとともに、『悪を行う人には怒りをもって報い』るものであるということは、神が政府を通して正義の技を働かれるということやそうすることができるということであり、朝刊をちらっと見ればわかるように、政府がすることは、常に正義に値するということではない。ローマ13章は、すべての政府の活動をけがれなきものとするためのものないし、この部分は、政府に関する新約聖書のもっと包括的な理解を得るために、黙示録13章、17-18章とともに読まれるべきものであるのだ。

                   最後のポイントは、もっとも教会にとって重要なものである。もし、このポイントを見のがすなら、ローマ13章でパウロが言っている神の王国の国民としての理解を得ていないことになる。パウロが、ローマを通じて神の報復を実施しているという時、キリスト者が(注 私的)報復をしてはならないこと、あるいは公的報復以上の報復を勧めていないことを意味しているのだ。少ししか離れていない、この二つの言明を見てほしい。

                   愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(口語訳 ローマ 12:19)

                  彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。(口語訳 ローマ 13:4)

                   パウロは、神の怒りとローマ帝国による報復を教会に憤りと報復をしないように命じたすぐ後に書いているのだ。復讐は神の業であり、我々の業ではない。我々は、悪に報いる必要がないのだ。なぜなら、われわれは神の意志を信じているからである。神の意志による復讐の唯一の方法は、政府の権威を通してのみである。パウロの実際の立論のことばによれば、ローマ12章で、彼が言ったことを13章で再確認しているのだ。つまり、あなたを攻め立てるものを祝福せよ、あなたの敵を愛しなさい。そして、政府に協力しなさい。キリスト者が戦争で人を殺すことからは大きく離れているのであり、ローマ13章は、この暴力のみちあふれた世界において、教会がしっかりとした平和な態度をとることを強調したものなのだ。

                   このように、ローマ13章は、神の王国の国民の中での軍事優先的な態度を推進するものではありえないのだ。


                   Preston Sprinkle博士は、カリフォルニア州シミ・バレーにある Eternity Bible Collegeの聖書研究の教授でありベストセラー作家である。これらのポストは、彼の聖書における戦争と暴力に関する研究から派生したものであり、それは、David C.Cookから来年8月に公刊される“Fight: A Christian Case for Non-Violence,”においても書かれている。

                   Sprinkle博士のウェブサイト(prestonsprinkle.com)やツイッターで彼の考えを追うことができる。
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                   これを読みながら、というか日本語変換しながら、思ったのことは、聖書の乱用が多すぎる、ということである。みことばへの敬意が足らないのは、人の事を言えた義理ではないが、自分の都合のよいように聖書のことばを切り刻み、本来の文脈から離して、ほら、こうでしょ、という展開があまりに多すぎる。牽強付会(けんきょうふかい)にもほどがある、と思ったのだ。

                   以前このブログで、神の名を騙る( いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた)という話をしたが、まさしく、聖書のテキストをカットアンドペースとして自分たちのやりたい事に無理やり結び付けるとは、神の名を借りて、神のことばを騙ることにならないだろうか。つまり、軍事的なコンテキストを無理やり聖書から読みこんでいくことは、聖書テキストの誤用を超えて、意図的な読み込みをしてるのではいだろうか。

                   そもそも、神は歴史的なコンテキストの中で、ある特定の時代の特定の環境や状況のものと、特定の方法で、イスラエルに関与をされた、と理解するのがまず当然であろう。それを一般的な真理として拡張するためには相当無理をしなければならないが、黒革表紙に金文字でThe Holy Bibleと書かれた書物を軍事マニュアルにする人々は、一般的な指針として書かれた、そして示された事例を特定の問題に当てはめるような聖書理解上の無理や文脈のコンテキストを全く無視し、聖書にこう書いてあるではないか、だから我々の行為は聖書、すなわち、神のことばによって正当化されうるし、それは神のみ心であるという読み込みをすることがあるようだが、それはもともと無理ゲー(攻略、または最終場面に到達する事がほとんど不可能なコンピュータゲーム)にちかい。聖書は、基本的な行為について、実はどうこうしなさい、という指定はほとんどなく、〜〜してはならない、となっているのだ。禁止事項はなしてならないが、個別の条件でどういう行動をとるのか、は、神の意図を求めながら生きる中で人間の責任において決めることではないか、と思う。それを無理やり神のことばにすり替えるのは、神への責任転嫁ですらあり、非常に無責任な行為だと思う。それは、発言者の座に自らの意思を据えるという意味で、アダムとエバがエデンの園でやったことではないか、と思うのだ。まさに自分の思い、という偶像に対する偶像礼拝なのである。

                   また、この場所で使われている聖書の従うという Hupotassoフーポタッソォについて、ミーちゃんはーちゃんが調べてみたところ、夫人が夫に従う(1 コリント 14:34 エペソ 5:21-22 コロサイ 3:18や第1ペテロ 5:5の長老に従えがこのHupotassoが使われているが、著者の言うとおりだとすれば、従う、というのは、あくまで自己意思で主体的に重荷を負うと いう意味であり、日本語の通常の語感に基づく「従う」という意味とは大幅に違ってくる。問題は、カルト化した教会、あるいはキリスト教カルトや、DVがみられるような家庭の中で、このHupotassoが誤って理解され、無理やり正当化に誤用される点が大きな問題なのだと思う。


                   なるほど。パウロが言う剣を帯びているというのは、警察権の行使の話で、他国との交戦権の話ではない、という指摘は重要だと思う。

                   ただ、アメリカ人は、いまだに自分たちこそが唯一神から世界の警察権の管轄を与えられた民だと思い込んでいる節があるので、やたらと他国に入って行って、自分たちの考える正義を押しつけるのが大好きなのだ。自分たち以外の正義や問題解決法は誤っているとは言わないまでも、問題があるくらいには思っているので、自分たちのルールを押し付ける癖がある。典型的に表れるのが、海外基地での警察権の行使である。なので、あちこちで紛争があると、世界の警察官として出て行きたがる精神構造はある。迷惑な話であるが。個人としてのアメリカ人は好きだが、システムとその背後にあるアメリカ人の精神構造は、大変残念だと言わざるを得ない。

                   さらに、在外米軍基地での警察権は、米軍憲兵隊USMPが持つ。なので、他国の土地をレンタルしていても、無神経にこの基地内での警察権の行使は、米国内国法規による、と大書できるのである。対日本人に対する警察権も米軍基地内では、米軍憲兵隊が持つというのが彼らの感覚なので、何度言っても、彼らはそれを書くのだ。大体、自分勝手にやりたいカウボーイたちに何を言っても、聞く気がないのだ。アメリカ人の素朴さ、単純さが、他国理解をさせなくする際の障害になるのだ。

                   アメリカ人は、自分のルールが世界のルールであると思い込み、そのルールを無批判に他者に強要することを無自覚にする傾向がある。自覚して意図的にやるのもたちが悪いが、それ以上に無自覚にやるのも、余計にたちが悪い。

                   他人に言われても、気づきもしないし、下手に他人が指摘すれば怒りだしてしまうのだ。だから、このPreston Sprinkleというアメリカ人の福音派の聖書学校の教授が、福音派に向かって語ったことに意味があるのだ。日本人が言ったところで、お前らから教わる必然性がどこにあるのか、というだろうし、英国人が言ったところで、わしらの事にくちばし突っ込むな、といわれるのがおちである。だからこそ、アメリカ人がアメリカ人に対して、ホィッスルブローしたところにこのブログの意味がある。若干ステマっぽいのはあるけれども。


                   ところで、日本のキリスト教のかなりの部分は、米国系の宣教師によって日本にもたらされた。その結果として、アメリカ風のキリスト教であることの影響は否定できないと思う。こんなことを書くと、私たちは唯一の正統的な使徒時代以来のユダヤ的なコンテキストも保持しているキリスト者だという人たちもおられるので、その人たちからブーイングを浴びそうであるが、しかし、日本の福音派における、その神学におけるアメリカ的特性は、本当にそう容易に否定できうるものだろうか。そして、自分たちの主張が正しいからという思い込みで、他者にそのルールの強要をしていないだろうか。

                   そして、服従する、服するという言葉が日本社会の中で、かなり誤用されてきたのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思うのだ。日本社会では、年長者や社会的地位が高い、あるいはかなりの人がその能力を認める人には権威性が発生する。そして、その件にある人が、〜〜だ。と言われれば、みんなそう思う、というように社会の構造ができているとしか思えない部分がある。皆がその権威に服すると言うよりは、その権威の言動に盲従する現象が起きるのだ。その最たる例がテレビである。テレビでしゃべったことがある人であれば、だれしもが、本物だろうと思い込むのである。要するにテレビ出演者本位主義がはびこっていることになるのだ。いかにその内容がなかろうと、テレビの言うことは絶対と、ジョージ・オーウェルが1984で厳しく批判した現象が起きているのだ。

                   最近のアップルコンピュータの流行を見ていて、そう思う。私の研究分野では、アップルコンピュータが最近まで使いにくい環境だったので、自慢にもならないが、アップル社の製品は使ったことがない。しかし、今では猫も杓子もアップル社の製品で市場はアップルのパワーに圧倒されている。フリークな人はフリークな人で、アップルフリークしたらよろしい。しかし、わけわからないのにアップルフリークになる人、まさに勝ち馬に乗るためにアップルフリークになる人たちが一番かなわない。

                   それをこの前のシンプソンズでは、ものすごい批判をしていた。アップルコンピュータがIBMのPC市場に殴り込みをかけた時の映像を皮肉って作品にしていた。アップルよ。あなたたちは、1984年に、マッキントシュを出した時には、人々を解放する戦士であったのに、現在は人々をマッキントッシュの世界に縛り付けているではないか、という批判である。なかで、Steve Mobs(悪党たちのスティーブといった感じになる)とまで言っている。

                   1984年のアップルコンピュータによるCM映像がこちら。http://www.youtube.com/watch?v=OH6ZEsYxiT8 

                  それを皮肉ったThe Simpsonsの動画がこちら。http://www.youtube.com/watch?v=CZGIn9bpALo

                   それと同じように、日本では、指導者に従う、ということは、指導者に盲従する、という意味に理解されやすいのだ。そのような、儒教的な文化がそうさせる部分もある。あくまで、指導者に服する、とか指導者に従う、というのは、主体的に指導者の重荷をそっと分担するということであり、何から何まで言うことを聞くということを聖書は言っていないのだ。日本語聖書の表現に縛られてしまっている多くの日本のカルト化した教会を見ているとそう思う。それを利用して、聖書を用いて騙っている牧師や責任者を見るのは、実に残念だ。それを防ぐのが聖書の原点にまで戻った釈義であり、それをしていないのは、非常に残念だと思う。

                   もちろん、指導者だけの責任ではない。カルト化してしまえば、犠牲者が新たな加害者となり、その加害者による犠牲者が、また別の被害者を生み出す加害者になるのだ。被害者と加害者の拡大再生産が起きるのだ。それを防ぐのは牧師の自己批判でもあるが、健全な良識ある信徒の批判もそれを止めうるのだ。正気の沙汰を失った浅野内匠を止めた梶川殿のように、正気の沙汰を失った牧師をお止めし、お諫めするのは、梶川殿のような常識人の信徒の出番なのである。お止めし、お諫めすることの方が、ほんとうの武士の情けではなかろーか。

                   そして、我々が服すべきものは、聖書の文言そのものではなく、それを人に与えたもうた神の御名のではないだろうか。聖書は、その神が我々に与えたもうたゆえに大切であり、聖書を通して、それを与えたもうた神の栄光を考え、求めるために聖書を読むのではないだろうか。回数多く読めば、それが立派という概念はどこかまつがっている(全面的に間違っているとは一概に言えないので)とミーちゃんはーちゃんは思うのだが、それはミーちゃんはーちゃんがまつがっている、からなのだろう。

                   最後の復讐すること、武力の行使は、神の権限であるということは単に戦争を勝手にしてはならないということではない。単に争ってはならないということではないだろう。神の意図を我々が訪ね求めなければならないということであるし、いやしくも神の民であると自己を定義する以上、勝手に武力を用いて神になりかわって、神の怒りだ、とか言って武力を行使するのは、神の権威を侵害し、神の権威を人間が簒奪することに他ならない、ということを思った。セーラームーンは、「月に変わってお仕置きよ」なので、月に変わってお仕置きするだけなので、別に大したことはないのだが、「人間が、神に変わってお仕置きよ」はいただけないのではないだろうか。

                   そんなことを読みながら、思った。今日も長くなってしもーた。スマソ。


                  Evangelicals, Militarism, and Romans 13 (Preston Sprinkle)

                  This post is the 3d in a series of three by Preston Sprinkle, whose information is at the bottom of this post.

                  In my last post, I showed that the Old Testament actually condemns militarism, even though it sanctions (on some occasions) warfare and violence. But most who defend militarism race past the Old Testament and camp out on Romans 13:1-7, a passage with a checkered, and quite frightful, interpretive history. Adolph Hitler, Robert Mugabe, and other recent “Christian” dictators have celebrated the passage as their divine ticket to execute justice on whomever they deemed to be enemies of the state. Not more than a generation ago, Romans 13 was hailed as the charter for apartheid in South Africa, and as did American Christian leaders during the years of slavery and, nearer at hand, the years of segregation. If the state mandates that blacks can’t drink from the same water fountain as whites, they very well have the divine right to say so.

                  Most now would see such a view of Romans 13 as going a bit too far. But only a bit. Wayne Grudem, for instance, says that the “sword in the hand of good government is God’s designate weapon to defeat evildoers” (Politics, 407), and goes on to apply this to America’s wars in Iraq and Afghanistan. (I don’t mean to keep singling out Grudem, but his views are recent and, from what I’ve found, representative of much of Evangelical thinking.) In fact, Romans 13; being ubiquitously cited throughout Grudem’s book, is given a near-John 3:16 status: the definitive lens through which Christians should think about war. The assumption, of course, is that America is the good nation and Iraq and Afghanistan are the bad nations. Maybe they are, but who gets to determine who is good and who is bad? Were it flipped around and Romans 13 was used to validated Pakistan’s or Iraq’s invasion of America as punishment for horrific drone strikes killing civilians and children, or wholesale slaughter of women and children in, for instance, southern Kandahar or Haditha, most would see this as a mis-reading of Romans 13.

                  However, although Romans 13 has been taken to celebrate violence, praise the government, or vindicate Just War Theory (or just warfare in general), the passage actually does none of these. Here’s why.

                  First, Romans 13 does not speak of Rome’s warfare policy against foreign nations, but of its police and judicial action toward its own citizens. Paul’s phrase “bear the sword” (13:4) refers to police action within a government’s jurisdiction, not warfare outside its territory. Using this text to support, for instance, America’s war in Iraq goes beyond what Paul is actually saying. Waging war against another nation―even in the name of preemptive strike―does not reflect Paul’s point in Romans 13.

                  Second, the passage does not tell the church to “obey” governing authorities, but “submit to” such authorities. Now, submission sometimes involves obedience, and obedience sometimes involves submission; there’s an overlap in meaning. But it’s important to note that Paul does not use one of the typical Greek words for “obey” here (peitharkein, peithesthai, and upakouein). The difference is that Christians “obey” the law of Christ, receiving their moral marching orders from their King. And in as much as the laws of the state don’t conflict with the law of Christ, they obey. But they do so out of allegiance to God, not out of an uncritical allegiance to the state. Don’t revolt against the government, in other words. Honor it, pray for it, work for its good and pay the taxes that it demands. But always remember you are aliens living in exile in Babylon, Rome―or America. Or in the words of famed NT scholar, C.E.B. Cranfield: Submission to the state means “respecting them, obeying them so far as such obedience does not conflict with God’s laws, and seriously and responsibly disobeying them when it does” (Cranfield, Romans, 662).

                  Third, Paul’s statement reflects a widespread truth in the Old Testament about God working through secular nations to carry out His will. For instance, the Old Testament calls many political figures “God’s servant,” such as Cyrus king of Persia (Isa 44-45), Nebuchadnezzar king of Babylon (Jer 27:6; 43:10), and the ruthlessly wicked nation of Assyria (Isa 10:5), which God calls the “club of my wrath” and the “rod of my anger.” The phrase “God’s servant” doesn’t refer to Rome’s happy service to Israel’s God, but to God’s ability to use Rome as an instrument in His hands. Just because God uses secular (and sometimes quite evil) institutions to carry out His will, does not mean that God approves of everything they do―whether it be Assyria’s sadistic practice of skinning civilians alive, or Rome’s crucifixion of thousands of innocent people in the first century. God can still channel such evil to carry out His will (Gen 50:20; Judges 14:4). This doesn’t mean that He approves of the evil itself.

                  Fourth, the main activity God does through governments is to punish evil and reward good. But what does Paul mean here? Does every government always justly punish evil and reward good? Ya right. Rome was the same government that beheaded John the Baptist, clubbed Paul on several occasions, and crucified an innocent Jew named Jesus. In fact, just a few years after Paul penned Romans 13; Caesar Nero would dip Christians in tar, light them on fire, and set them up as human illumination for his garden. All in the name of keeping peace and executing justice. So Paul doesn’t write Rome a blank check to do whatever it wants to do. Paul’s statement that Rome is “God’s servant for your good” and “an avenger who carries out wrath on the wrongdoer” must mean that God can and does work justice through governments, but not everything governments do can be labeled justice, as a quick glance at the morning paper will verify. Romans 13 does not sanitized all governing activities and it should be read alongside Revelation 13 and 17-18 to get a more comprehensive NT view on government.

                  The final point is the most significant for the church. If you miss this point, then you won’t understand what Paul is saying to citizens of God’s kingdom in Romans 13. When Paul says that God executes vengeance through Rome, it was to further prohibit, not encourage, Christians from doing so. Compare these two statements, which are only a few verses apart:

                   Beloved, never avenge yourselves, but leave it to the wrath of God, for it is written, “Vengeance is mine, I will repay, says the Lord.” (Rom 12:19)

                  For he is the servant of God, an avenger who carries out the wrath of God on the wrongdoer. (Rom 13:4)

                  Paul makes the claim that God’s wrath and vengeance is carried out through Rome seconds after he commanded the church not to carry out wrath and vengeance. Vengeance is God’s business, not ours. We don’t need to avenge evil, because we believe that God will. And one way that God will avenge is through governing authorities. In terms of Paul’s actual argument, Romans 13 only confirms what he said in Romans 12: Bless those who persecute you, love your enemy, don’t avenge evil, and submit to your governing authorities. Far from encouraging Christians to kill in war, Romans 13 underscores the church’s peaceful posture in a violent world.

                  Romans 13 cannot be used to foster a militaristic spirit among citizens of God’s kingdom.

                  Dr. Preston Sprinkle is a best selling author and professor of Biblical Studies at Eternity Bible College in Simi Valley, CA. These posts stem from his work on warfare and violence in the Bible, which will be published as Fight: A Christian Case for Non-Violence, by David C. Cook in Aug. 2013. You can visit Preston’s website (prestonsprinkle.com) or follow him on Twitter@PrestonSprinkle



                  評価:
                  石浜 みかる
                  日本基督教団出版局
                  ¥ 1,785
                  (2007-08)
                  コメント:15年戦争を経由したキリスト者たちについての読みやすい本。

                  評価:
                  石浜 みかる
                  日本基督教団出版局
                  ¥ 2,625
                  (1999-08)
                  コメント:高いけれども、過去の日本のキリスト者の動きを知ることができるかも。

                  評価:
                  George Orwell
                  Signet Classics
                  ¥ 609
                  (1950-07-01)
                  コメント:言わずと知れたジョージ・オーウェルの名著。

                  2012.12.15 Saturday

                  マニフィカット を 聞きながら

                  0


                     先日の日曜日のプログラムで、バッハのマニフィカットを主に使いながら、マリアの賛歌と旧約聖書の関係について、少し考えた。

                     ミーちゃんはーちゃんは、福音派でも、ゲリラ活動的な単立のゆるく連携したキリスト教会群の中で、これまで生活していたので、使徒信条はおろか、主の祈りすら教会の信徒全体で集合的に唱えたことがない。教会暦などは全く無視である。無原罪の御宿りなどという言葉すらまーったく無関係に能天気にキリスト者生活を過ごしていた。

                     世間様がクリスマス、クリスマスと言うので、仕方なく、世間様並みに12月に入ると、「クリスマス会」と称したイベントを教会ではするが、自慢ではないが、25日にクリスマス祝会などはした事がない。まぁ、日本では仕事日だしね。アメリカにいた時は、24時間364日動いているスーパーでも、24日の4時には店じまいをして、25日は、ガソリンスタンドや警察・消防以外、完全に一日休んでいたが、日本ではそうではないのでねぇ。仕方ないとは言え。今年も出勤日であるが、定時に帰る予定。


                     クリスマス会をするにしても、「これは子供向けだ、子供向けだ」ということをマントラのように唱えながら、自分自身を説得しながら(あるいは騙しながら)、クリスマス会をすることが常であった。

                     そんなこともあるので、この前、テゼの祈りのクリスマス会に参加した時にも、主の祈りが新改訳バージョンでしかいえなくて、ちらっと肩身の狭い思いをした。

                     最近まで、ミーちゃんはーちゃんが主に活動しているキリスト者集団では、イースターすら教会活動の中では全く無視してきた。その中で、うちは無視するが世間様はそうでない、と繰り返しくどくどと説明し、イースターの重要性を説いてきたのだが、「教会内で変な奴」と思われていたようである。

                     ようやく、イースターが認識されるようになったのは、教会員以外の人がイースターの日に来ることが多かった、という実績があってはじめて、認識されはじめた。これまで、ミーちゃんはーちゃんたちの集団では、イースターの主日に総会を入れるほど、これらのものを敵視、あるいは敵視とはいかなくても無視していたのである。ただ、総会している最中に外部の方がこられて、非常に気まずい思いをしたことが何回もあったのではあるが、それでもイースターの主日に総会を開くことは問題がないのでは、といわれる方もおられる。ふしキリやふしふしキリや、Penのキリスト教特集が売れる時代でも、である。それはそれでどうでもよいことだが、イースターは、大事だと思うぞ。ミーちゃんはーちゃん個人としては。


                     そんな教会生活を、かれこれ40年近く (信仰者になってからは30年ほど) 過ごしてきたミーちゃんはーちゃんにとっては、聖書を読むとき、マリアの賛歌や、エリザベツの賛歌、ザカリアの賛歌などは、一応読むのだが、さらっと目で追うだけで、「知ってる、知ってる」以上終わり、と意味を考えずに読み飛ばす習慣が長らく続いてきた。


                     今回、バッハのマニフィカット(ラテン文とドイツ語が混じったもの)を改めて、ラテン語で読み、意味を解釈し、その意味を深く考えたときに、こんな大事なものを単に「マリアの賛歌」として読み飛ばしていたのか、ということを知り愕然とした。聖書を味わっているとは言えないとんでもない読み方だったのだ。

                     あの賛美の中には、エリザベツの賛美に応答する形で、マリアの深い理解と、メシアとしてのイエスが示されているのだ。旧約聖書に預言されていたキリストがいよいよ来るという期待感と紅葉館が旧約聖書的な表現をもちいつつ、その表現がなされているのだ。

                     中でも、ミーちゃんはーちゃんにとって衝撃的であった部分を示してみよう。それは、ルカ1章51−54節である。

                    1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
                    1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
                    1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
                    1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。


                    「心の思いの高ぶっている者を追い散らし」
                    という表現は、

                     高ぶるものは、これまで、自らを神の座に据えるために、神の座から神を追い出してきたのだ。その神の座から神を追い出したもの(自ら)がおいだされることで、神が神の御座に着座されるということが回復されることを示しているのだ。

                    「権力ある者を王位から引き降ろされます。」という表現は、

                     これを理解するためには、イスラエルにおける王権の成立に関する理解が重要になるだろう。もともと、荒野でイスラエルの民が歩み行く中では、民の中央を歩み、民を先導するのは王である神YHWH(ヤファウェー、イェホヴァとか、エフォヴァとかエホバとか、ジェフォヴァと呼ばれる)だったのだ。しかし、カナンの地に定着していく中で、周辺の諸国民が持っていた王制を見てしまい、それに心が奪われる形で、王制というものへの姦淫(激しい言葉だが、この語を使いたい)がイスラエルで行われた結果、YHWHがお認めになられた結果、サムエルによってサウルが立てられ、ダビデ・ソロモンへと引き継がれていった。それらの人間を旧約聖書がある程度評価するかのように理解しているかもしれないが、それは、日曜学校的な聖書理解であり、成熟した大人の旧約理解とは言えないだろう。サムエルにしても、サウルにしても、ダビデにしても、ソロモンにしても、神が選びし器ではあるが、それが神の座を占めることを神は姦淫としてお許しになっておられないようにミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

                     これを現代的なコンテキスト(文脈や環境)の中で解釈するならば、牧師や牧会者は、神の器であるが、神の座を占めてはならないのではないだろうか。そのことをこの個所は教えるのではないだろうか。

                     「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」について

                     これは、弱きものへの心配りがされるという詩篇138篇6節、ヨブ記5:11やエゼキエル21:26で示された預言が実現するということが言われているのではないだろうか。つまり、社会の構造が、神の国では、この地上の国のものと大きく異なり、その価値構造が大きく変わるということを意味しているのではないだろうか。ミーちゃんはーちゃんの言う神の国というのは、死んだあといく天国という意味ではない。神の支配のうちで、という意味である。神の国とは、通常想定される死後の世界の事ではないと思うのだ。神の国とは、神の支配の中でこの地上での生を生き生きと神と共に生活していくことなのではないだろうか。
                     そして、ここでマリアの賛歌の中では、山上の説教の中でのマタイ5章の「幸いなるかな」で始まるイエスの発言の内容が含まれている。これを後世からの理解に立った後世の記載と理解することもできるが、たとえそうであっても、これがマリアの賛歌に含まれている意味は大きいのではないだろうか。

                    「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで」について

                     この部分は、神の性質に関する出エジプト33:19との関連が深く、憐れみにおける神の主権が語られている。さらに、この部分と関係が深いと考えられる申命記32:36では、憐れみが神のわざであることが思い起こされる。そればかりではなく、次の一節へとつづいていく。

                    「そのしもべイスラエルをお助けになりました。」
                    について

                     ここは、申命記33:29やイザヤ41:14、エレミヤ33:26が思い起こされるのだ。そして、イエスによって、ナザレのイエスによって、それがキリストとして十字架の上で殺されることを通して神の王座に就くという逆説(パラドックス)を通してのみ、イスラエルの救済というか、無力なイエスが、神の座にもどることを通してイスラエル自体が助けられるというパラドックスが実現するように思う。

                     ミーちゃんはーちゃんには、これが本当にマリアの賛美として彼女が口にしたものかどうかはよくわからない。たとえマリアが実際にこの通り口にしていなかったとしても、福音書記者ないしは後世の使徒たちが、この賛美を書きたいと思った、書かざるを得ないと思った、あるいは、神が書かしめた、ということの方がよほど重要ではないかとおもう。こんなことを書くから、聖書原理主義者の皆さんからは、リベラルとディスられるのだろうし、ミーちゃんはーちゃんは聖書の権威性を認めてないといわれるかもしれないが、しかし、ミーちゃんはーちゃんは、真正性のみが聖書の権威性や無謬性の保証ではないのではないか?と素朴に思うのだ。まぁ、非難したいならされたらよろしい。本当に大事な問題なのは、ミーちゃんはーちゃんの考え方や思いや立場よりも、このマリアの賛歌が、聖書に記されているということなのだから。

                     以前このブログだったかどこかで、大学時代オリエント史の面白さを教えていただいた、池田裕先生が講義でお語りになったことを今もまた、思い出している。

                     「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。(イザヤ書1章18節)

                     どうか、この神と論じ合ってほしい。ミーちゃんはーちゃんとではなく。まァ、コメントくだされば、お応えしますけど。

                     このクリスマスを神とあなたが聖書テキストと格闘しつつ論じ合う、その時期として欲しい。その入り口として、マリアの賛歌(マニフィカットで知られる)は重要な賛美だと、ミーちゃんはーちゃんは思うぞ。



                    評価:
                    ---
                    Euroarts
                    ¥ 1,495
                    (2004-11-29)
                    コメント:言わずと知れたトン・コープマン指揮によるマニフィカット輸入盤なので、リージョンフリープレイヤーが必要。

                    評価:
                    Scot McKnight
                    Zondervan
                    ¥ 1,367
                    (2011-09-13)
                    コメント:お勧めの一冊。近日中に日本語訳が出るかも、www.kingjesus.jugem.jp 参照。

                    2012.12.16 Sunday

                    アメリカでの小学校、銃乱射事件に寄せて

                    0
                       普段は、主日は、ブログ記事を上げないことにしているのだが、昨日の日本時間早朝起きたコネティカット州の小学校の事件でのことを覚えつつ、アメリカにおける武力と武器の問題について、メモしておく。

                       アメリカで、一気に20人もの子供たちの命が奪われ、大人を含めて6人もなくなったのは、アメリカの銃社会の深刻さを感じずにはおられない。

                       それに関連する記事が、以下の3つの記事である。

                      アメリカ人の福音派の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと

                      アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)

                      アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派の軍国化について語ったこと(3)

                      の三部作である。

                       よりによって、アドベントの時期に、とはミーちゃんはーちゃんも思う。子供たちの将来を全く簡単に奪い去ったのは、耐え難い。オバマ大統領でなくても耐え難い。自分の子供の命が奪われるとしたら、それは耐え難い。

                       しかし、この映像を見ながら、一つ気になった。

                       アメリカ人が他国の子供たちを爆撃で100人単位で殺しても、アメリカ大統領は、このように涙するだろうか、カンダハルの子供たちを爆撃機で殺しても、涙するだろうか、ということである。戦争だから仕方がない。 casualties of war で済ましてしまってよいのだろうか。なんかそんなことを描いた映画があった。マイケル・フォックスの能天気さが典型的なアメリカ人風。

                       この問題を考えたい方に、一番下で紹介する、ボーリング・フォー・コロンバインをお勧めする。アメリカの銃社会の問題を描いた大変重要な指摘をしている作品。おチャラケすぎるマイケル・ムーアが時にウザいけれども。このウザさが、ミーちゃんはーちゃんと同じにおいがするので、結構彼の作品を見てる。アメリカの良心、みたいなメタボのおっさん。シンプソンズファンなら、ぜひ一度。

                       コロンバインは、コロンボの、コロンボの地という意味であり、コロンボの地とは、コロンブスの地という意味である。ピーター・フォーク主演のコロンボ警部は、コロンブス(ラテン語表記)のイタリア語表記。コロンビア(スペースシャトルにあったし、アメリカの大河にコロンビア川ワシントン州の南、オレゴンの北側を流れる川がある)はコロンブスのもの、という位の意味のラテン語のはず。余談だが。おそらく、イタリアでは、コロンボかコロンバと呼ばれたはずである。イタリア語には根強く方言があるのでなぁ。これはつまらん余談。


                      ---
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                      評価:
                      ---
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                      (2003-08-27)
                      コメント:言わずと知れた、突撃インタビュー王のマイケル・ムーア作品。大事なことを言っていると思う。ぜひ。

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